榊葉の さしてつれなき 世々を経て

 誰かが髪を撫でている。
 柔らかな接触と、その主たる存在の淡い匂いが、立香の意識の片隅に紛れ込む。
 まだ眠っていたいという思いと、目覚めてしまいたい、という欲が交互に行き交った。奥底に沈んでいる本能が緩やかに刺激されて、気持ちとは裏腹に、肉体は覚醒へと向かい始めていた。
「う……」
 窄めた口から吐息を零し、ぶるりと身震いしたのが直接のきっかけだった。
 水面下で藻掻き、暴れる意識を正しい方向に導けば、短い髪を梳く指の存在が益々強く感じられた。
 この手を知っている。
 普段は長い袖の下に隠れ、それ以外でも分厚い手袋に阻まれて、滅多に日の目を見る機会のないものだ。
 それが優しく、立香を擽る。いつもとどこか違う雰囲気がしたが、疑問は形となる前に、朝靄の中に消えていった。
 鼻腔をやんわり擽る匂いに、消毒薬臭さはあまりない。代わりに太陽の温もりを感じると言ったら、彼はきっと嫌な顔をするだろう。
 とても快いもので、大好きだった。だのに教えてあげられないのが、少し寂しかった。
 羊の姿を借りた太陽神を頭から追い出して、立香は飽きることなく人の髪を撫でる男を捜し、瞼を開いた。
 二度、三度と瞬きをして、仄暗い空間にその輪郭を浮き上がらせる。
「起こしたか」
「……ううん。朝?」
 直後、立香の目覚めを察し、アスクレピオスが口を開いた。
 いつものように低い、だが少し遠慮がちな、小声での問いかけだった。自分がこうすることで、眠りを妨害したのでは、と危惧している。その随分小心者な心配を、立香は首を横に振って否定した。
 布団の下でもぞりと身動ぎ、言いながら時計を探すが、角度的に見えない。今一度、伸びをするついでに確認しようと足掻けば、見かねたアスクレピオスが溜め息と共に呟いた。
「六時、……もう少しで二十七分、と言ったところか。お前の後輩が、あと三十分少々で呼びに来る時間だ」
「あふふ」
 蹴られた膝を伸ばしたかと思えば、仕返しなのか、臑を足の指で挟まれた。痛くはない。むしろくすぐったくて、立香は首を竦めて苦笑した。
 自分や、彼が動く度に、被った布団が揺れて、そのさらりとした感触も心地よかった。素肌に直に触れているので、繊維が皮膚に絡み、包み込む感覚は、一枚羽織っている時とはまるで別物だった。
 ベッドは狭いが、暖かくて、居心地が良い。
 枕の上で首を振り、クスクス笑みを漏らしていたら、訝ったアスクレピオスが人の襟足を撫でた。
「わひゃ」
「いい加減、起きろ。準備をしないと、間に合わないぞ」
「うえーい……」
 黒髪をサッと掻き回し、ついでとばかりに脈を測って、離れて行く。
 意地悪な指と、説教臭いひと言に奥歯を噛んで、立香は大きく膨らんだ布団にしがみついた。
 端を捲られた。そこから内に籠もっていた熱が逃げていく。捕まえようとしたけれど、間に合わなかった。
「アスクレピオス」
 隙間から抜け出し、男がベッドサイドに腰を下ろした。背筋を伸ばし、両サイドだけ長い髪を軽く梳いて、忠告に従おうとしない不真面目なマスターを振り返った。
「僕は手伝わないぞ」
 薄明かりの中でも淡く輝く銀の毛先で立香の頬をぺちり、と叩き、呆れ混じりに言い放つ。
 時間ぎりぎりまで自堕落に過ごした結果、大慌てで身支度を調えた為にズボンのファスナーが上がっていなかったとか、シャツの前後が逆になっていたとか。そういう数え切れない失敗談のことを、彼は言っているのだろう。
 先手を打って釘を刺した医神に頬を膨らませ、立香は口を尖らせた。
「いいよ。アスクレピオスは、脱がすのは巧いけど、着せるのは下手だし」
 診療と称して患者の衣服を剥ぎ取ろうとし、抵抗すれば破くのも厭わない。そんな男に手伝って貰っても、きちんと着られるとは思えなかった。
「言ってろ」
 べー、と舌を出しながら抗議しても、アスクレピオスは意に介さなかった。相手をする気が最初からなかったのか、反論せず、前屈みになって床に落ちていたものを拾った。
 彼が何を手にしたのか、寝転んでいる立香からは見えない。ただ俯いたまま手と足をごそごそ動かして、一瞬だけ尻を浮かせたのだけは、辛うじて分かった。
「アスクレピオス?」
 なんだか、奇妙なものを見た。
 違和感を覚えて首を捻ったものの、その正体が掴めない。なにが引っかかっているのか分からないまま、立香は仰向けに姿勢を変えた。
 無機質な天井を見上げて、自分でも枕元の時計を確認した。数字は教えられたものより進んで、間もなく六時半になろうとしていた。
 このまま行けば本当に、マシュが部屋まで起こしに来てしまう。義理堅く、真面目を絵に描いたような少女は、それが自分の勤めだとばかりに毎日、飽きもせず、同じ時間に顔を出した。
 そんないたいけな少女を、あられもない姿で出迎えるわけにはいかなかった。
 だが、動けない。動きたくない。全身が怠いし、なにより肝心な事を忘れている予感がする。
「朝かあー……昨日、戻ったの遅かったのになあ。……あ」
 両手を広げ、大の字になってぼんやりしていたら、空っぽだった思考にふっ、と蘇るものがあった。
 思わず大きな声を出した立香に、余所向いていたアスクレピオスが眉を顰めた。
「どうした?」
「いや……うん。あのさ、来ないよ」
「なにがだ?」
「昨日、オレ、レイシフト先でトラブって、戻りが遅かったじゃない。それで、今日の朝からの予定、午後にずれたんだ」
 想定外の事態からどうにか帰還した立香は、怪我こそなかったものの、心身共にへとへとだった。見かねたゴルドルフ新所長がダ・ヴィンチに進言して、翌日――即ち今日の予定が半日分、繰り下げられた。
 本来得られるはずだった休息時間を、午前に宛がった格好だ。その分、夕方からの自由時間が消えることになるが、不満の声は聞かれなかった。
 ただそんなへとへと状態で、夜中にふたりで何をしていたのか、と言われたら、弁解の余地はなかった。
 癒して欲しいと強請ったのは、立香だ。アスクレピオスは、その愚患者の我が儘に応えたに過ぎない。
「……そうか」
「うん、そうそう」
 再びうつ伏せになり、枕を胸の下に抱き込んで、素っ気ない相槌に頷く。
 しかしワクワクしながら待っていても、期待していた言葉は得られなかった。
「だからと言って、いつまで裸でいるつもりだ」
 思い描いていたのとは百八十度異なる台詞と共に、昨晩穿いていた下着が飛んで来た。掴んで、確かめて、立香はそれをもう一度、床に向かって放り投げた。
 どうせなら、洗濯済みのものを取って欲しかった。
「――知ってた。知ってたけどね、そういう男だって」
「なんだ、さっきから」
 けれどギリシャ神話に名を連ねる医神に、そんな甲斐性が備わっているはずもなく。
 起こしたばかりの上半身を再びドサッ、とベッドに沈めた立香に、アスクレピオスは若干苛立たしげに呟いた。
 肩を竦め、人の顔を睨み付けてきた。
 それに無言で応対していたら、深々とため息を吐かれた。
「風邪を引いても、診てやらんぞ」
「いいよ。台所からネギ、持ってくる」
「……まだ根に持っているのか」
 捨て台詞に言い返して、頭の先まで布団を被った。直後に聞こえたひと言は、明らかに悔恨の色を含んでいたが、自分から視覚をシャットアウトした手前、彼がどんな表情をしていたか、知る術はなかった。
 惜しいことをしたが、後悔先に立たず。
 早計な自分自身に落ち込んで、布団を少しだけ下げれば、意外に逞しい背中が目に飛び込んで来た。
 後ろ髪は短いので、均整の取れた体格を隠すものはなにもない。それほど筋肉質というわけではないけれど、無駄が削ぎ落とされた肉体は、目を見張る程美しかった。
 肌は、白い。さながら乳白色の陶器か、はたまた丁寧に磨かれた大理石か。
 そんな純白の素肌のあちこちに、赤く腫れたひっかき傷や、圧迫され続けた結果のうっ血の痕が散らばっていた。
「うぅ」
 否が応にもそこに目が行ってしまう。
 彼本来の色を穢したのが他ならぬ自分であると、強く意識させられた。
 首の周辺だけでなく、肩甲骨の辺りにまで傷があった。自覚はないが、強く爪を突き立てたのだろう。複数並ぶ小さな痣は、三日月の形をしていた。
 痛かったのではないだろうか。
 今も、痛いのではなかろうか。
 皮膚が裂け、血が出たと分かる箇所もあった。幾分時間が過ぎた瘡蓋に、我知らず手が伸びて、視界に己の指が入り込んだところで、立香はハッとなった。
 艶やかな白い肌に、痛々しい傷の赤みと、もうひとつ。
 違う色が紛れ込んだ。
 日頃、意識することは殆どない。誰も――数居るサーヴァントも、カルデアの職員も、勿論シオンも――立香の出自を揶揄しない。それがこんなタイミングで、他ならぬ立香自身が、己が東洋の島国出身というのを強く認識させられた。
「結構、……違うもんだな」
 天井照明を消した状態の、足元に危険がない程度の明るさでも、差ははっきり現れていた。
 それでなくとも、アスクレピオスは半神だ。完璧とまではいかないが、人間の領域を軽く凌駕した存在なのは、疑う余地がなかった。
 ある種の感動を覚えたが、そもそも何故今、こんなことに気がついたのか。
 彼と肌を重ねたのは、昨晩が初めてではない。正確な回数は覚えていないけれど、少なくとも片手では足りないはずだ。
 だというのに、どうして。
「あれ?」
 触れるか否か、という距離で左手を彷徨わせ、立香はぱちくりと目を丸くした。
 目覚めた直後に覚えた数々の違和感が蘇って、彼は素早く、瞬きを繰り返した。
「なにをしている?」
 その立香の目の前から、精悍な背中が遠ざかった。すくっと立ち上がったアスクレピオスは、肌同様に白いズボンを腰の高さまで持ち上げて、下がっていかないよう固定させた。
 最中にくるりと反転して、珍妙な姿勢で固まっているマスターに首を傾げた。
 上半身は裸のままだった。右の上腕に三センチほどの蚯蚓腫れを残す男は、怪訝な顔で立香の枕元に近付いた。
「アスクレピオスが、服、着てる」
「まだ寝ぼけているのか?」
「えっ」
 思わず口から出た独白を拾われた。心底不思議そうな顔をされて、それで立香は我に返った。
 うっかり声に出してしまったのが恥ずかしければ、これによって得られた事実にも、驚愕を隠せなかった。
 反射的に上体を起こして、被っていた布団をずるりと腰まで落とした。着衣の途中だったアスクレピオスは訳が分からない、という風に眉を顰め、額で交錯する前髪を左右に揺らした。
 その手には、これから着るつもりだろう黒いシャツがあった。
 ゆとりが少なく、身体に密着するタイプのものだ。ズボンも、上着もゆったりとしたデザインのものを着用している彼だから、初めて素の姿を目の当たりにした時は、大いに驚かされた。
 同時に、どれだけ鍛えてもあまり肉が付かない体質の自分が恥ずかしくなり、脱ぐ、脱がないですったもんだの騒動になったのだが。
 どうでも良い記憶を頭から追い出し、立香は瞬きを二度、三度と繰り返した。ぽかんと開いた口を閉じ、乾いた咥内を舐めて、唾を飲み込む。そんな彼からふいっと目を逸らし、アスクレピオスはシャツの左袖に腕を通した。
「人を露出狂みたいに言うんじゃない。僕が服を脱ぐ機会があるとすれば、お前の前くらいだぞ」
 続けて右腕を通して、大きく広げた襟首に頭を潜らせ、長い髪を隙間から引き抜き、言う。
 脇のすぐ下で撓んでいる裾を引っ張り、手早く身なりを整える彼に再度瞬きして、立香は整理がつかない頭を軽く叩いた。
「え、あ……いや、あの。そう、じゃ、なくて」
「なら、なんだ」
 左右に開いた喉元を閉じるべく、銀色のボタンを留める際に、一瞬だけちらりと立香を盗み見る。
 淡々と作業を進める男に首を振って、人類最後のマスターたる青年は、右のこめかみから耳の辺りを掌で覆った。
 僅かに遅れて左手も同じ位置に添えて、ジタバタと、ベッドの上で足を交互に動かした。
「アスクレピオスが、服、着てる」
 迫り上がってくる恥ずかしさと、嬉しさに、他にどうしようもなかった。勝手に緩み、赤く染まる頬を物理的に隠して、元から多かったシーツの皺を倍に増やした。
 喜び、はしゃいで、溢れ出て止まらない感情を爆発させた。
「自分で、服、着てる」
 ひとり身悶える立香に、アスクレピオスは唖然とした様子で立ち尽くした。整えたばかりのシャツの裾を弄って、一瞬だけ遠くを見やり、左手で顎を撫でた。
 なにやら物思いに耽った後、上着は羽織らないままベッドサイドへ戻った。クッション性が良いとは言えない備え付けの寝台に腰掛けて、右人差し指で立香の喉仏を擽った。
 隆起をなぞり、上に転じて、顎をすいっとなぞって、彼の意識を自分に向かわせた。
「僕が服を着て、そんなにおかしいか。立香」
「だって、初めて?」
 空色の瞳にアスクレピオスの顔をいっぱいに映して、立香は小首を傾がせた。語尾が上がり気味で、疑問形になりはしたが、表情は確信を抱いていた。
 これまでにも幾度となく、褥を共にした。熱を分かち合った。時に傷つくのも厭わず、狂おしいまでの感情に身を任せた。
 しかしこれまで一度として、揃って朝を迎えたことはなかった。
 この男はいつだって、先に部屋を出て行く。時間になればマシュが来ると知っているから、立香以外の誰かが此処に居た、という痕跡を極力残さなかった。
 だから一緒に朝を迎えた事はない。目覚めた時、そこに彼がいたのは、これが初めてだった。
 ついでに言えば、サーヴァントが身に着ける衣服は基本、霊基に付随している。これの着脱や変更は、当騎の意思ひとつで可能だった。
 勿論実体化した上で、布製品を着用することも出来る。但し今、アスクレピオスが纏っているそれらは、彼の魔力によって構成されていた。
 それをわざわざ脱いで、実体化させたまま捨て置き、時間が経ってから一枚ずつ着ていく。
 効率的だとは、とても言えない行動だ。それを敢えて、今になって実行に移した彼に、どのような心境の変化があったのか。
 物分かりが良いように見えて、案外察しが悪く、気が利かない朴念仁のくせに。
 違和感の原因が、明らかになった。胸に閊えていたものが取れたと、立香はすっきりした表情で口元を綻ばせた。
「オレが今日、午前の予定、なくなったの。本当は知ってたんじゃない?」
「いいや。それはさっき、初めて聞いた」
「またまた~」
 デミ・サーヴァントのマシュが時間になっても来ないと分かっていたから、今日は長く、一緒に居てくれた。
 そうだと決めつけた立香が、頑なに否定するアスクレピオスを茶化し、肘で小突く真似をする。
 それを溜め息で受け止めて、男は諦めたのか、緩く首を振った。
 寝癖が残る黒髪をくしゃりと押し潰し、掻き混ぜて、手櫛で整えた。横からの圧力に、立香は上半身を斜めにさせて、反対側の腕をベッドに衝き立てた。
「アスクレピオス?」
 憶測が間違っているのをうっすら理解して、顔を顰める。
 わけもなく不安になって、小さな声で名前を呼んだ。僅かに身を乗り出した彼に、アスクレピオスは困った顔で微笑んだ。
「いや、……単に、メディアに言われただけだ」
「メディア?」
「ああ。リリィの方だが」
 告げられた台詞と共に、コルキスの魔女の顔が思い浮かんだ。それを瞬時に打ち消して、立香は嗚呼、と頷いた。
 直後に首をこてん、と右に倒して、唐突な登場人物に疑問符を乱立させる。
 クエスチョンマークを生やしたマスターに目を細め、アスクレピオスは緩く握った手を口元に持って行った。
 クツクツと、喉の奥で笑っていた。
 それも今の立香が面白いのではなく、過去のことを思い出して、だ。
 恐らくは、メディア・リリとの会話を。
 一体全体、彼女は何と告げたのか。大いに気になったが、聞いたら負けのような気分がして、立香はただ無言で頬を膨らませた。
 河豚を真似て威嚇して、猫背になって、膝元に集めた両手を握り締めた。
 その膨れ面を面白がり、アスクレピオスがずい、と顔を寄せた。前髪が交錯し、鼻先が擦れる近さから眼を覗き込んで、戯れに上唇を舐めて離れていった。
「あっ、あのねえ」
 それが誤魔化しに思えて、つい声を荒立てた。腹に力を込め、思い切り叫ぼうとして、寸前で勢いを挫かれた。
「これまでも、お前は。終わった後も、僕と一緒に居たかったのか?」
 真顔で問いかけられて、言葉が返せない。
 至近距離から覗き込んで来る双眸は、新緑萌える大地に、鮮やかな光を宿していた。
 透き通る宝石のような彩は、間違いなく立香だけを映していた。
 その紛れもない事実に、心臓が、一瞬とはいえ、止まりかけた。呼吸は実際に止まった。うぐ、と腹の底で唸って、立香は耐え切れず、両手を伸ばした。
「なにをする、マスター」
「ごめん。でもやっぱ、無理」
 合計十本の指を壁にして、左右に並べた掌でアスクレピオスを押し返した。顔面を潰された男はくぐもった声で非難して来たが、ここで折れるわけにはいかなかった。
 蘭陵王やアーサーや、ギルガメッシュ、それ以外でも、カルデアに集うサーヴァントは大概顔がいい。ここは美男美女の巣窟だ。だから免疫が出来ていると信じていたが、ゼロ距離から見詰められるのは、やはり心臓に悪かった。
 心から謝罪しつつも、拒否行動を止めないでいたら、手首を掴まれた。力技で退けられて、立香は最後の抵抗とばかりに、投げ出していた足を蹴り上げた。
 だがそれも、空振りに終わった。
 キャスターでありながら、こちらの攻撃を見越していた。余裕を持って躱されて、逆に突き飛ばされた。
 片足が宙に浮いた状態で肩を押されて、バランスが崩れた。敢え無くベッドに倒れ込んだ立香の上に覆い被さって、アスクレピオスは一度だけ、忌々しげに舌打ちした。
 その苛立ちは、きっと顔を攻撃されたことによるものだろう。わざとではないのだが、どさくさに紛れて彼の鼻の穴に指が入ってしまったのは、運が悪かったとしか言いようがなかった。
「なにが無理だ。金輪際、僕の顔が見たくないと言うのなら、そうしてやるぞ」
「待って。ごめんて。そうじゃなくって。そんなんじゃなくて。ああ、もう。どうも、すみませんでした!」
 切れて血が流れることもなければ、奥まで入り込むところまで行かなかったけれど、痛かったのは間違いないだろう。
 勇ましい声で罵倒されて、立香も負けじと喚いた。半泣きで吼えて、謝って、ずび、と垂れそうになった鼻水を音立てて啜った。
 咥内の唾を飲み、右腕で顔を隠した。目元から鼻筋を覆って、唇を真一文字に引き結んだ。
「……った、に。決まってる、だろ……」
 そして懸命に声を絞り出したが、前半部分は殆ど音にならなかった。
 胸倉を掴もうにも立香は裸なので、アスクレピオスの手は中途半端なところで泳いでいた。それを解き、広げて、彼はひと呼吸置き、鼻を愚図らせるマスターの黒髪をゆっくりと撫でた。
 前髪の生え際を擽り、薙ぎ倒して、剥き出しになった場所にキスを落とした。優しく、慰めるように数回繰り返して、未だ目元を塞いでいる腕を軽く押した。
 促され、おずおず利き手を退かせたものの、立香はすぐに正面に向き直れなかった。最初は余所を向いて、それから少しずつ瞳を動かした。
「そうか」
 視線が交錯するのを待って、アスクレピオスが感慨深そうに呟いた。ほんの少しだけ口角を持ち上げ、目を細めて、嬉しそうな顔をした。
 面映ゆげに、それでいて照れ臭そうに。
 怒りや呆れ、或いは嘲笑といった感情ははっきり表に出す男だ。喜びや楽しみは、医術に関するものにだけ、極端に特化していた。
 こういう顔もするのだと、立香は目を見開いた。息を呑み、内から湧き起こる震えに全身を竦ませた。
 瞬きする時間さえ惜しんで、網膜に焼き付けた。
 それと同時に、今更が過ぎるが、自分が素っ裸なのを思い出した。長い間遠くを旅していた羞恥心が突如駆け戻って来て、立香は背中の下敷きになっていた布団を掻き集めた。
 嬉しいやら、気恥ずかしいやら、頭がごちゃごちゃで、心が落ち着かない。
「ああああ」
「どうして隠れる」
「恥ずかしいからに決まってるだろ!」
 引き寄せた綿入りの布を頭から被れば、即座に引き剥がされた。尚も顔を覗き込もうとする男に、唾を飛ばして怒鳴りつけて、立香はどっ、どっ、と騒々しい心臓に臍を噛んだ。
 体調が悪いのを隠したり、怪我をしているのを黙っていたりした時は、恐ろしく反応が早いのに、こういう時だけ馬鹿みたいに鈍感だ。
 言わないと分かってくれない相手に腹を立てて、立香は布団の下から、男の膝を蹴り飛ばした。
 不意打ちを食らい、今度は避けられなかったアスクレピオスの体勢がガクン、と下がった。体重を支えきれず、ベッドに沈み込む形になり、必然的に下にいた立香との距離が狭まった。
「ぐ」
 低く呻いて、顎同士が衝突するのだけは回避した。不安定な姿勢から脱し、且つ立香を傷つけないように動くのは、そう難しくないけれど、簡単でもなかった。
 少しずつ、互いの位置を探りながら重心をずらしていく男を見上げて、立香は浅い呼吸を繰り返した。
 三回、四回と回数を重ねて、自身の手元に意識が集中している男に腕を伸ばした。
「えーい」
 小声での掛け声と共に首に絡ませ、ぐいっと引っ張った。
 背中を一瞬だけ浮かせ、体重を利用して、離れようとするアスクレピオスを引きずり戻した。
「こら、なにを」
 戸惑う彼の声が震えていた。
 顔は見えない。アスクレピオスにも見せない。
 幅広の肩にしがみついて、立香は音立てて鼻から息を吸い、止めて、口を開いた。
「一緒に居たい、に、きっ、決まってる、だろ。しゅ、しゅき……好き、なんだから!」
 面と向かってでは絶対に言えない台詞を、一気に捲し立てた。ただ肝心なところで緊張から噛んでしまい、言い直したのが、無念でならなかった。
 なんと格好悪いのだろう。
 穴があったら入りたいとは、まさにこのことだ。カーッと頭から湯気を噴いて、立香は昨晩と同じように、男の肩に爪を立てた。
 自分の失敗に対する感情を、他者にぶつけることで発散させた。覗き込まれずに済むようにと、男の腕の付け根に額を擦りつけた。
 両腕に力を込め、簡単に振り解かれないよう必死に歯を食い縛った。
「く……は。はは、ふははははっ」
 ところがその渾身の抵抗は、さほど意味を持たなかった。
「アスクレピオス?」
 突然声を響かせ、笑い出した彼に驚き、立香の方から拘束を解いた。呆気にとられて目を点にして、両手を広げてベッドに身を委ねた。
 医神は膝立ちになり、ストン、と腰を下ろした。左手で額を覆い、息を整えて、深く頷いた。
「そうだった、な。ああ、そうだ。そうか……なるほど。お前は、メディアリリィと同じで……それは僕も、同じだった、ということか」
「んんん?」
 ひとりで考え込み、ひとりで結論を出してしまった。
 合間に聞こえて来る独白だけでは意味が分からず、置いてけぼりを喰らった立香は不満も露わに眉を顰めた。
 メディア・リリィは絵に描いたような、恋に恋する乙女だ。理想の世界を夢見て、色恋沙汰に花を咲かせ、目を輝かせ、心を時めかせていた。
 そんな彼女が口にする物語は、一部からは失笑を招いていた。しかしアスクレピオスは、彼女が夢見る光景を、ただの絵空事と退けられなかった。
 好きなのだから、片時も離れたくないのは当たり前。眠っている間も、傍に居て欲しい。目覚めた時にひとりなのは寂しいから、ずっと手を抱きしめて、髪を梳いていて欲しい。
 好きな人の仕草は、どんな些細なことでも愛おしい。剣を取り勇ましく戦う姿も良いけれど、日常の、例えば素肌に一枚、一枚衣を重ねて行く瞬間さえも、見ていて心が躍るのだ――と。ましてやそれが、褥から出て、皆の前に戻る為の身支度ならば、尚更に。
 ほかの誰の目にも触れない素の姿から、衣を纏うことで、社会的な立場を有する存在に切り替わっていく。ある種の儀礼的な側面を感じて、特別なのだと、少女はうっとり目を細めて笑っていた。
 そんなものかと、アスクレピオスも当初は半信半疑だった。
 けれど無垢な寝顔を一晩中眺め続けるのは、意外と楽しかった。飽きるのではないかと危惧していたけれど、杞憂だった。
 どんな夢を見ているのか、偶に笑ったり、顔を歪めたりするので、観察のし甲斐があった。戯れに鼻を抓んで、頬を小突いて、反応がないと知りつつも唇を啄み、温かな口腔内を楽しみもした。
 起きやしないかと冷や冷やして、そうならないぎりぎりのところを探った。
 眠っている彼に行ったことの全てが露見したら、嫌われるどころでは済まないかもしれない。柔肌をまさぐり、舐め、味わった。意識がある状態では出来ないくらいに時間を費やし、たっぷりと堪能させてもらった。
 どうしてこれまで実行に移さなかったのか、今では疑問でしかない。
 新たな境地を開くきっかけをくれた少女には、感謝してもしきれなかった。心の中で密かに礼を言って、アスクレピオスは深く息を吸い、吐いた。
 妙にすっきりとした、晴れ晴れとした表情をされた。
 この一瞬の間に医神の心境にどんな変化があったのか、さっぱり読み解けない。首を捻りつつ起き上がり、寒さを覚えた立香は布団を肩に、斜めに引っかけた。
 空調は入っているけれど、長時間裸でいるのを前提とした設定ではない。出掛かったくしゃみを堪え、鼻を啜った彼に目をやって、アスクレピオスは余っていた布団を立香の膝に被せた。
「いつまでも、そんな格好をしているからだ」
 太腿近くに残るうっ血の痕や、赤みを残す肌を物理的に遮断して、他の場所も布でぐるぐる巻きにしながら告げる。
 医者としての側面を強調した発言だったが、簀巻きにされた方は苦笑するばかりだった。
 体調を崩しても、誰かが、なんとかしてくれると無邪気に信じている。そんな顔を見せられて、アスクレピオスは力なく肩を落とした。
 やれやれ、とため息を吐き、上機嫌に布団にくるまっている立香のこめかみに手を伸ばした。瞳で動きを追う彼の黒髪を梳き上げ、額の真ん中を狙って首を伸ばした。
 ち、と小鳥が囀るような音を残し、一瞬だけ触れて、すぐに離れる。
「早く服を着ろ。それとも、そんなにネギがいいのか?」
「遠慮します!」
 直後にゴチン、と額をぶつけられて、立香は大慌てで首を振った。
 本当は口にして欲しかったとか、言える雰囲気ではない。この男ならやりかねない、と別の理由で襲って来た寒気に身震いして、彼は布団の下で畏まった。
 しかしアスクレピオスがベッドを降りようと、身体を捻った瞬間。
「なんだ?」
 その手を、指を、無意識に掴んでいた。左の中指と薬指を捕まえて、弱い力でくい、と引っ張っていた。
 気付いた男が動きを止めて、交差する前髪を左に偏らせた。斜め下から覗き込むように問われて、それで立香ははっとなった。
「あ、いや。……えと、なんだろ」
 咄嗟の行動だったので、なんらかの意図が働いていたわけではない。朝から思いも寄らぬプレゼントを貰ったのだから、これで満足しておくべきなのは分かっていた。
 けれど人間とは、欲深いもの。
 ひとつのことに満足したら、また別のものが欲しくなった。どこまでも、いつまでも続く強慾の鎖を断ち切るのは、容易ではなかった。
 言葉を探し、立香は目を泳がせた。無意味に奥歯をカチカチ鳴らして、手を握り返して来た男にハッと息を呑んだ。
 掌を擽るように撫でられた。甲全体を覆って、ゆっくりと手前へ滑らせたかと思えば、指を互い違いに絡めて束縛された。
 その一挙手一投足を見守っていたら、視界が暗くなった。慌てて顎を引き、正面を向いたら、柔らかなものが顎を掠めた。
「こら、動くな」
「ごめん」
 狙いを定めていたのに、直前で動いたから、位置がずれた。眼前を銀色が通り過ぎ、翡翠の双眸に睨まれて、立香は蛙になった気分を味わった。
 冷静になってみれば、叱責はあまりに理不尽で、自分がさも悪いように扱われたのは不満だった。
 条件反射で謝罪したのは、失敗だった。じっとしていて欲しければ先に言えと、強い気持ちを込めて睨み返せば、どう受け取ったのか、アスクレピオスは嘲笑めいた表情を口の端に浮かべた。
 その人を見下したような、勝ち誇った顔が好きだった。
 それにも増して、この自信ありげなところが崩れる瞬間が、大好きだった。
「ん――――」
 だからキスを企む彼の先手を打ち、立香から首を伸ばした。悪戯な笑みを瞼の裏に隠して、ほんの少し右に角度をつけた。
 むちゅ、と唇の中心に窄めたそれを押しつけて、反応はいかばかりかと、寸前で閉じた目をほんの少しだけ開く。
「っ!」
 直後、不敵に笑いかけられた。否、殆ど見えはしなかったけれど、本能がそう警告を発した。
 全身にビリッとくる痺れが走って、後ろに逃げようとしたが、果たせない。
 先回りした白い腕が蛇のように絡みついて、立香の背中を、腰を、二重に囲い込んだ。
「んぅ~~っ」
 挙げ句力任せに食いつかれ、舌を捩じ込まれた。昨晩散々貪られた場所を舐め、玩ばれ、逃げ惑えばその分しつこく追い回された。
 ちゅくちゅくと、水に濡れた音が頭の中でこだました。耳元で鼓動が弾み、余韻を残す身体が熱を抱いて淡く疼いた。
 無意識にもじ、と膝を捏ねて、立香は咥内を好き放題甚振る舌先に舌を絡ませた。
 一方的な蹂躙を食い止めて、柔らかな微熱に軽く牙を立てた。吸い付き、裏側を捏ねて、表面を擦り合わせた。
「は、っあ……ん」
 息が続かなくて、口を大きく開いた。両者の間に架かる透明な糸を手繰り寄せ、肩を上下に弾ませた。
 跳ねた唾液の冷たさに喘ぎ、布団の端を腿の間へと押し込んだ。気を緩めればすぐ開いてしまう膝を、懸命に閉じて、首筋を舌でなぞる男に頭を振った。
「どうした。誘っているのか?」
 挑発的な台詞を耳元で囁かれて、頭が破裂しそうだった。
 誘っているのは、いったいどちらか。長い指で露出する立香の足首を、土踏まずを、小さな指を撫で回しておいて、どの口が言えた義理か。
 もう片方の手は綿入りの布越しに膝から上、太腿の一帯に添えられていた。指先に強弱を付け、軽く揉んで、明確に立香の欲を煽っていた。
 目的は明白で、何を狙っているのかはバレバレだ。
 言わせたいのだと察して、立香はぐ、と喉の奥に力を込めた。その手には乗らないと、はね除けてやりたい気持ちはあるけれど、いかんせん医神の方が一枚上手だった。
 彼は的確に立香の弱い――これまで気付かれていなかった筈の場所を狙って、舌を這わせた。
「んや、あ……ちょ、ひゃうっ」
 喉の脇、耳の真下近く。太い血管が走るすぐ上を舌先でこちょこちょ擽られて、変なところから、変な声が出た。
 完全に裏返った、甲高い声だった。本当に自分の声帯から発せられたのかと疑いたくなる、俄には信じ難い音域だった。
「立香?」
 それはアスクレピオスも同じだったようで、驚いた声で名前を呼ばれた。一瞬変な間が生まれて、あまりのいたたまれなさに、立香は右手で顔を覆った。
「分かった、から……言う、から。ちょっと待って」
 指の隙間からぼそぼそ言って、浅い呼吸を繰り返した。短い間隔で吸って、吐いてを数回行って、未だ落ち着かない心臓に唇を舐めた。
 ちらりと時計を見れば、午前七時までもう間もなく。起床を促す通信や、眼鏡の後輩の足音は聞こえなかった。
「あの、さ。……オレ、今日。朝は、フリーなわけだよね」
「ああ」
「で、さ。えっと、アスクレピオスは、その」
「ああ」
 必死に言葉を紡ぐ合間に、緩慢な相槌が返された。しかし聞いていないわけではないのは、次第に強まる語気からも明白だった。
 他にどう言えば良いか、彼自身、分からないのだろう。
 そういう不器用な面が可愛いと、内心苦笑して、立香は腿に添えられていた彼の手に、手を重ねた。
 ぎゅっと握り締め、意を決して、口を開いた。
「アスクレピオスは、午前中は、忙し――」
「僕を誰だと思っているんだ。それしきの遅れなど、すぐに取り戻せるに決まっているだろう」
 しかし皆まで言い切る前に、食い気味に言葉を被せられた。一気に捲し立てられて、大声を浴びせられた立香はぽかんとなった。
 目をぱちくりさせて、一瞬思考停止して。
「ぶっ」
 正直に気持ちを吐露した彼に、噴き出さずにはいられない。
「……笑うんじゃない」
 自分が何を、どう言ったか、今になって理解したようだ。気まずそうに目を逸らしたアスクレピオスの顔は、当分忘れられそうになかった。

2019/11/17 脱稿
榊葉のさしてつれなき世々を経て 神も許せるしめのほかかな
風葉和歌集 841

たもとゆたかに 裁てといはましを

 出陣を終え、審神者への報告も済ませた。今回は刀装兵が守りを固めてくれたのもあり、幸いにも負傷せずに済んだ。
 ただ無傷で帰還を果たせたのは、小夜左文字だけ。それを少し口惜しく思いながら、彼は無人の部屋の前を通り過ぎた。
 自室で手早く着替えを済ませ、手拭い一枚を持って廊下へ出る。軽く汗を流そうと井戸を目指し、外に向かう経路を行けば、向かいから見知った顔が近付いて来た。
 以前は目深に被っていた襤褸布を外し、今は肩から背に羽織っている。もう必要無いだろうに、愛着があるのか、彼は未だにそれを手放そうとしなかった。
「小夜」
「山姥切さん?」
 あちらも小夜左文字には当然気付いており、行き違う直前、名前を呼ばれた。そのまま足を止めた彼に小首を傾げれば、彼は少し困った顔をして目を泳がせた。
 打刀が左右を素早く確認した理由が、まるで分からない。このまま通り過ぎるわけにもいかなくて、短刀の付喪神は仕方なく歩みを止めた。
 山姥切国広は周囲を探った後、右手にぶら下げたものをガサガサ揺らした。どことなく落ち着きがなくて、小夜左文字は怪訝に眉を顰めた。
「どうかしましたか」
 黙っていられたら、なにも分からない。
 やむを得ず問いを投げた彼に、山姥切国広はハッと背筋を伸ばした。
「ああ、いや。すまん。江雪を知らないか」
「兄様ですか?」
 猫背を改め、早口に言った。
 聞かれた方は目をぱちくりさせて、長い銀髪の太刀の姿を脳裏に思い描いた。
「いえ。僕は、帰ったばかりですので」
 江雪左文字は、この本丸に三振りある左文字の刀の中で、唯一の太刀だ。戦を厭い、農作業を好む、本来の刀としての在り方に相反する精神性の持ち主だった。
 その彼とは、出陣前に会ったきりだ。無事に戻るよう、頭を撫でてもらった。
 慶長五年の京の町から戻った時、出迎えの中にその姿は無かった。ならば彼はまだ、末の弟が願い通りになったと知らないかもしれない。
 会話の中で思い出して、そういえば、と小夜左文字も目を泳がせた。無意識に太刀の暮らす部屋の方を見れば、それは山姥切国広が歩いてきた方角と一致した。
「そうか。それもそうだったな」
「いないんですか?」
「ああ」
 彼があちらから来たとすれば、江雪左文字の部屋は既に訪れた後。
 推測は正しく、首肯で返された少年は眉を顰めた。
 部屋の配置は刀種ごとに分けられ、太刀は太刀、短刀は短刀ばかりで集められていた。しかし仲間が増えるにつれて、当初の部屋割りでは数が足りなくなり、後から増築された部屋を使う刀剣男士は刀派も、刀種もばらばらだった。
 ただ江雪左文字が本丸に来た時点では、この法則は生きていた。
「畑では」
「先に行って、見て来たが、いなかった」
「そうなんですか」
 短刀たちよりも少し広めの和室を思い出し、他に兄刀が行きそうな場所の筆頭候補を口にする。
 だがそれも否定されて、小夜左文字は嗚呼、とため息を吐いた。
 短刀が思いつく場所なら、この打刀だって分かって当然だ。すでに調べた後と教えられて、ふた振りは揃って天を仰いだ。
「庭でしょうか」
「広いな……」
 となると、次なる候補地はそこしかない。
 広大な敷地を有する本丸の、季節ごとに形を変える庭園を瞼の裏に浮かび上がらせて、山姥切国広は心底嫌そうに呟いた。
 瓢箪型の池を中心に、茶室が設けられた庭も、江雪左文字の行動範囲だ。剪定用の鉄鋏を手に、邪魔な枝を切ったり、雑草を抜いたりと、忙しい。
 冬を前に、松の幹に菰を巻くとも言っていた。その準備をしているのかもしれなかった。
 敷地が広範囲なら、その分やることも多岐に亘る。当てずっぽうで探し回っても、時間を無駄にするだけだ。
「ほかの方に聞いた方が」
 とにかく、小夜左文字には兄刀の所在は分からない。他に知っていそうな刀があれば、そちらを当たる方が賢明だった。
「そうだな。そうするか……っと、そうそう。小夜。時間があるなら、一緒に、どうだ」
「はい?」
 提案にすんなり同意して、山姥切国広が気を取り直して背筋を伸ばした。そのまま行き過ぎようとして、直前に出しかけた足を戻した。
 手にした袋を胸元に持ち上げ、反対の手で底を支えて斜めにする。
 なにが入っているか分からないが、ガサ、と大きなものが傾き、低い方へ流れていく音がした。袋自体も右側だけ膨らんで、打刀の掌からはみ出した。
「なんでしょう」
「いや、な。兄弟とどうかと思って買ったはいいが、行き違いで、どちらも遠征に出てしまって」
「はあ」
「俺だけでは食い切れ……る、とは、思うんだが。折角だ。どうだ?」
 先ほどから仄かに甘い匂いがしていたが、発生源はそれだ。
 食べ物だと暗に伝えられて、小夜左文字は思わず爪先立ちになった。
 もう一度ガサガサ振られて、反射的に頷いた。即答してから、あまりにも早過ぎたかと赤くなるが、山姥切国広は呵々と笑って肩を揺らした。
 しかも上機嫌に、ひとの頭をぽんぽん叩いて来た。顕現したばかりの頃からすれば、考えられないことだった。
 多くの仲間を得て、修行の旅を終えて、彼は変わった。写しであることを卑屈に捉え、内向きで自虐的な思考に染まっていたのが、嘘のようだ。
 今はしっかり前を向いて、胸を張って歩いている。屈託なく笑って、心を許した相手には遠慮がなくなった。
 こうやって親しみを込めて接して貰えて、小夜左文字も嬉しい。
 些か乱暴な手を押し返して、短刀は相好を崩した。
 身長差があるので肩は並ばないが、足並みを揃え、とりあえず庭へ向かうことにした。長い渡り廊を抜けて母家に出れば、丁度玄関で草履を揃えている刀と出くわした。
「蜂須賀。江雪を見なかったか?」
「おや、山姥切。小夜も一緒なんだね。珍しい」
 外から帰ってきたばかりなのだろう、上がり框で膝を突いていた。自身の履き物だけでなく、傍にあった鯰尾藤四郎のものらしき靴も踵を揃え、行儀良く並べ替えていた。
 その彼が話しかけられ、首から上だけで振り返った。傍に立つふた振りを順に見て、あまりない組み合わせと思ったのか、正直な感想を述べた。
「僕は別に、歌仙とばかり居るわけじゃないです」
 それに思わずムッとなり、小夜左文字は言い返した。悪気があったわけではない青年は一瞬きょとんとして、続けてぽん、と着物上から膝を叩いた。
 なにが面白いのか、豪快に笑って、唖然とするふた振りに慌てて右手を振った。
「あっはは。いやあ、すまない。そんなつもりはなかったんだが。ええと、江雪だったね? 残念ながら、昼の後は見てないな」
 まだ笑いが収まらない中、早口に言って、呼吸を整えた。胸に手を添えて、深呼吸を数回繰り返し、開け放たれたままの玄関を指差した。
 夏場は日除けの葦簀が立てかけられていたが、とっくに片付けられた後だ。晩秋の陽射しを受けた石畳が眩しく輝き、吹く風に攫われて、砂埃が舞っているのが見えた。
 教えられて頷いて、小夜左文字は山姥切国広と顔を見合わせた。
「そうか。ありがとう」
「どういたしまして。なんなら、加州に聞いてみると良い。昼餉の片付けで、一緒だったはずだよ」
「分かった」
 昼食の時のやり取りを記憶から呼び出して、蜂須賀虎徹が長い指を引っ込めた。裾を押さえながら立ち上がる所作は優雅で、美しかった。
 歌仙兼定とはまた違う趣に、小夜左文字は小さく頷いた。続けて頭を下げて感謝の代わりにして、名前が出た打刀を探し、来た道を振り返った。
 山姥切国広も、同じことを考えていたようだ。視線は表玄関入ってすぐのところに掲示された、本日の各種当番の案内に向かった。
 畑当番、馬当番の他に、食事当番や、洗濯当番まである。非番の刀が手伝うのは勿論構わないのだが、ここに掲示された刀が主たる部分を請け負うのが、この本丸の決まりだった。
 江雪左文字の名前は、吊された木札には見当たらない。
 ただ加州清光の札は、食事当番のところにぶら下がっていた。
「炊事場だな」
「行きましょう」
 この時間なら、食事当番は夕餉の仕込みに取りかかっている頃だ。
 当て所なく探し回らねばならなかったところに、救いの手が差し伸べられた。笑顔で去って行く蜂須賀虎徹に改めて頭を下げて、小夜左文字は気忙しく歩き出した打刀を追いかけた。
 山姥切国広はそこまで大きい方ではないが、本丸でも小柄な部類に入る短刀にとっては、充分背が高い。歩幅もまるで違っており、一度離されると追い付くのが大変だった。
 小走りに廊下を行って、打刀が押し上げた暖簾の下をするりと駆け抜けた。台所は入ってすぐに一段低くなっており、転ばないよう注意しつつ、背伸びして辺りを見回した。
「加州」
「んー? なにー?」
「おまんら、なにしちゅう。晩飯は、まぁだ先ぜよ」
 飴色に塗られた床は冷たく、容赦なく体温を奪った。そんな中で、明かり取りの窓から差し込む柔らかな光が、夕飯の仕込みをするふた振りを淡く照らしていた。
 そのうちのひと振りに声を掛けた山姥切国広だったが、違う刀からも合いの手が入った。片隅であぐらを掻いて座り、糠床を掻き混ぜていた陸奥守吉行の言葉に、小夜左文字は苦笑交じりに首を振った。
「いえ、そういうわけでは」
「江雪左文字を知らないか?」
 夕食の催促に来たわけではない。勿論冗談だというのは分かっているが、一応否定した彼の向こうで、相手にしなかった山姥切国広が加州清光に問いかけた。
 目的を果たすのを優先させて、それ以外に目が向いていない。
 真面目で不器用な青年に肩を竦め、包丁を手にした加州清光の打刀の返事を待つ。
 進めていた作業を切りの良いところまで進めて、彼は背を仰け反らせ気味に振り返った。
「江雪なら、だいぶ前に、山姥切に呼ばれてったけど?」
 ぬか漬けの香りをたっぷり堪能して、小夜左文字もそちらへと近付いた。
 並んで立つふた振りを順に見た幕末志士の刀は、彼らが江雪左文字を探す理由を聞きもせず、知っていることだけを口にした。
「俺は知らないぞ」
 もたらされた情報で、唐突に名前を出された方は面食らい、声を荒らげる。
 紙袋を握り締め、山姥切国広は動揺を隠さない。さあっと青くなった彼を見上げた短刀は、直後に噴き出した加州清光に、急ぎ視線を戻した。
「あっははは。違うって。あんたじゃなくて、あっちの山姥切」
 余程面白かったのだろう、赤く塗った爪で目尻を擦りながら笑われた。
 冷静に考えれば、すぐに分かりそうな事だ。だのにうっかり失念していた打刀は今度は赤くなり、恥ずかしそうに下を向いた。
 顔を隠そうと空いた手を頭上にやるが、生憎そこに、襤褸布はない。
 修行前の癖が完全に抜けきっていない彼に、陸奥守吉行も衝動を隠さなかった。
「わっ、ひゃっひゃっひゃ」
 豪快な声が背後から響いて、山姥切国広が悔しそうに唇を噛む。
 喧嘩になりはしないかと心配だったが、どうにか堪えてくれた。片足で強く床を蹴るだけに済ませた彼に安堵して、小夜左文字は長兄の太刀が居たらしい空間を見回した。
 山姥切長義は一年ほど前に本丸にやって来た、山姥切国広の本歌だ。
 名前が同じなら、外見もどこか似通っている。自信家で、少々高慢な物言いをする刀だけれど、実際は努力家で、写しに負けないくらい真面目な刀だった。
 江雪左文字とは、北条家で多少ながら縁を結んだと聞いていた。そこの打刀も、同様だ。
 国広の兄弟刀が揃って不在なので、彼は過去に縁を持つ太刀を真っ先に頼った。ところが先を越す形で、山姥切長義に連れて行かれたと知って、金髪の打刀は不満げだった。
「そう、なのか」
「そうそう。なーんか、知らないけど。相談があるとか、ないとか、言ってたよ。終わってなければ、まだ部屋じゃない? あっちの山姥切の、ね」
「そこは繰り返さなくていい」
 小声で相槌を打てば、加州清光がすかさず茶化した。意地悪く口角を持ち上げて、危険が無い程度に、持っていた包丁を揺らした。
 余程気に入ったのか、先ほどの言い回しを繰り返し、山姥切国広の機嫌を損ねても意に介さない。
 愉快だとケラケラ笑い続ける彼を見て、丁度勝手口から入って来た打刀が不思議そうに首を傾げた。
「なになに、どうしたの?」
 大和守安定が、籠いっぱいの野菜を手に土間を駆ける。その足元には、水滴の跡が点々と残された。
 恐らくは外の井戸で、畑で収穫した野菜を洗っていたのだろう。
 夕飯の準備が着々と進む中、長居をして邪魔するのはあまり宜しくなかった。
「いやさあ、聞いてよ」
「助かった。感謝する」
 必要な情報は集まったので、ここにもう、用はない。
 まだ笑い止まない加州清光が喋り出したのを遮って、山姥切国広は背負った襤褸布を翻した。
 生真面目に礼は言って、大股で廊下を目指し、突き進む。
 危うくぶつかるところだった小夜左文字は呆れ混じりに嘆息し、惚けている大和守安定にも頭を下げた。
「お邪魔しました」
「今夜は団子汁だからね」
「楽しみです」
 渡された野菜を俎板に転がした加州清光が、いつも通り飄々と言った。あまり良いとは言えない態度を取られたのに、一切気にしていない。もう年単位での付き合いになるのだから、気難しいところがある刀の相手にも、すっかり慣れているようだった。
 陸奥守吉行にも小さく頭を下げて、小夜左文字は廊下に出た。先ほど通ったばかりの渡り廊に戻れば、一心不乱に前を行く背中が見えた。
 写しと本歌という、簡単ではない間柄の打刀の名前が飛び出して、内心穏やかではないらしい。
 余計な事を考えまいとして、巧くいかない様子が、荒々しい足取りから想像出来た。
「仲が悪いわけでは、ないと、思うけど」
 小夜左文字は短刀なので、打刀たちと行動を共にする機会は、とあるひと振りを除けば、多いようで、意外と少なかった。
 時間が空いた時に共に過ごすのは、兄弟刀や、刀種が同じ短刀がどうしても多かい。部屋がある区画も違うので、彼らが普段、どういう生活を送っているのかも、よく分からなかった。
 ひとつ屋根の下に暮らし始めてから、もうかなり経つのに、だ。
 敢えて触れず、近付かないようにしていたのは、否定しない。下手に刺激して、わざわざ騒動を起こしたくなかったのだ。
 しかしいつまでも、避けて通って過ごすわけにはいかない。
 深々とため息を吐き、小夜左文字は速度を上げた。渡り廊を抜けた先で追い付いて、横に並んで打刀の顔を覗き込めば、彼はキッと眉を吊り上げ、唇を堅く引き結んでいた。
「あの、山姥切長義さんも、……一緒に?」
「それは俺が決めることじゃない」
 江雪左文字に固執しなくても良いのでは無いか、と内心思ったが、言えなかった。台所に戻って、食事当番の刀たちに振る舞うのでも良さそうなのに、山姥切国広は完全に意固地になっていた。
 こうなったら絶対に、あの太刀と食べる、と心に決めてしまっていた。小夜左文字が横からあれこれ言ったところで、耳を貸してくれるとは思えなかった。
 この頑固さは、昔馴染みの打刀と通じるところがある。
 うっかり思い浮かんだ顔を頭から追い出して、短刀は幅が狭くて滑りやすい箱階段を慎重に登った。
 最後の方は両手も使って落ちないよう注意しつつ、天井にぽっかり開いた空間から頭を出す。
 床張りの廊下は広々として、真新しい木材の匂いがした。
 山姥切長義はこの建て増しされた二階分の、奥の方にある部屋を与えられていた。
 四方の壁には各々窓が設けられ、開け放たれて風が通っていた。遙か遠くの山並みでは、頂上付近から紅葉が始まっていた。
 そんな景色を楽しんで、廊下で寛ぐ刀があった。
「王手……です。長義」
「またか。なぜだ。どうしてそうなる」
 往来の邪魔にならないよう窓辺に寄って、ふた振りの刀が将棋盤を挟んで向き合っていた。パチン、と小気味よい音が小夜左文字の耳朶を打ち、直後に聞こえた声で、それが誰なのかを理解した。
 山姥切国広越しに様子を窺えば、案の定、江雪左文字と山姥切長義だ。
「おや? 貴方が、こちらに……。珍しい、ですね……」
「あんたもな」
 加州清光はああ言っていたが、どう考えても相談事をしている雰囲気ではない。
 仲睦まじく将棋に興じる彼らに小夜左文字はぽかんとして、山姥切国広は苛立たしげに吐き捨てた。
 江雪左文字は畑か、庭にいなければ、大体居住区画である離れの一階の、自室にいる。そこで写経に励むか、瞑想に浸るか、はたまた読書に勤しむかのどれかが多かった。
 将棋や碁を嗜んでいるのも知っていたが、二階で、こうやって過ごしているところは初めて見た。
 細身の太刀は薄い座布団の上に行儀良く正座して、敗北を受け入れられずにいる打刀から、立っている弟刀たちへと視線を移した。口元に淡い笑みを浮かべて、大らかにひとつ頷いた。
「随分探したぞ」
「私を、……ですか……?」
「ああ。灯台もと暗しとはよく言ったものだ」
 その後ゆるりと首を傾げた彼は、興味深そうに瞳を眇め、緩く握った手を顎に添えた。考え込む素振りを見せたものの、山姥切国広のひと言の意味は分からなかったようで、すぐに膝上で両手を揃えた。
 一方で山姥切長義は前傾姿勢を維持したまま、腰を捻って振り返った。表情は忌々しげで、敗戦の悔しさから立ち直れていなかった。
「なにか用か、偽物君」
「俺は偽物なんかじゃない。国広随一の傑作だ」
 吐き捨てるように言われて、山姥切国広は淡々と切り返した。
 険悪そうに思えるけれど、このやり取りはいつものことだ。最早挨拶代わりとなっている節もあった。
 とは言っても、目の前で繰り広げられると、穏やかではいられない。
 堪らず緊張で頬を強張らせた小夜左文字は、ここに来た目的を伝えようと、慌てて半歩前に出た。
「あ、あの。兄様。山姥切国広さんが、えっと……その。あれ、……なんでしたか?」
 しかし声を上擦らせながらの訴えは、中途半端な所で途切れざるを得なかった。金髪の打刀と一緒に兄刀を探していたが、そもそもの目的である、一緒に食べようと誘われたものの正体を、短刀はまだ知らされていなかった。
 万屋の印が入った袋の中身は、依然秘されたまま。当の刀にその意図はなかったかもしれないが、なぜか今まで、一度も話題に出なかった。
 小声で戸惑いがちに聞かれて、山姥切国広は虚を衝かれて目を丸くした。ぱちぱち、と瞬きを数回繰り返して、やがてふっと鼻から息を吐いた。
 淡く微笑んで、軽いのか、重いのかも不明な袋を短刀へと差し出した。
「任せる」
「え?」
「退け。江雪、次は俺が相手だ」
「なんなんだ、いったい。急に来て」
 短く言いって押しつけられて、小夜左文字は咄嗟に袋を受け取った。両手を空にした打刀はすかさず銀髪の打刀の肩を突き、将棋盤の前から排除した。
 押し退けられた方は声高に叫び、奪われてなるものか、と山姥切国広に掴みかかる。
 取っ組み合い、とまではいかないものの、猫がじゃれ合うような喧嘩が始まった。状況についていけない短刀は袋を抱きしめ、おろおろするばかりで、助けを求めて長兄の太刀に顔を向けた直後だった。
 それまで静かに座していた男が、ゆらりと、長い髪を揺らめかせて立ち上がった。
「戦いは……」
 普段は物静かで、穏やかで、優しくて、清らかな刀は。
 当然、眼前で繰り広げられるやり取りをよしとしなかった。
「きらい、――――です」
「ぎゃっ」
「ぐあ!」
 左右の手を堅く握ったかと思えば、高く振り上げ、同時に振り下ろす。
 それは互いの頬を抓り合っていた打刀ふた振りの脳天、そのど真ん中に落ちた。
 風が吹けば飛んでいきそうなほどの細腕ながら、ゴンッ、と聞くだけで震えが来る音が響いた。石をも砕きそうな拳骨が言い争う両者を問答無用で黙らせて、傍で見ていた短刀までもが、咄嗟に自分の頭を庇った。
 声もなく悶絶するふた振りの痛みが伝わって来るようで、殴られたわけでもないのに、恐怖が拭えない。
 ぶるっと身震いして、小夜左文字はゆっくり着席した兄刀に、引き攣った笑みを零した。
「失礼。それで、お小夜。用件は、なんでしょう……?」
 対する江雪左文字は平然として、いつもの彼そのままだった。
 コホン、と咳払いをひとつしたものの、まるで直前の行動などなかったかのような態度だ。真向かいでは山姥切ふた振りが揃って頭を抱え、うんうん唸り続けているというのに。
 大人しそうに見えても、太刀は、太刀。
 刀というものの本質を垣間見て、小夜左文字は背中を流れた汗の冷たさに、表情を引き締めた。
「これ、あの。山姥切……国広さんが、一緒に、どうかって」
 兄刀の機嫌を損ねないよう言葉を選び、託された袋の口を開けた。がさがさ言わせながら中に手を入れて、ひとつ選んで取り出せば、現れたのは栗饅頭だった。
 先端が尖った球状で、下部には芥子の実が塗されていた。
 外見からして栗を真似た饅頭を掌に転がし、そうっと兄刀へと差し出す。
 江雪左文字は両手で受け取って、嬉しそうにはにかんだ。
「おや、これは……。ありがとうございます、国広」
 彼は愛おしげに饅頭を撫で、小夜左文字が次々取り出す饅頭に目を細めた。小さく頷きながら数を数えて、拳骨の痛みから復活しつつある打刀らに微笑んだ。
「いっつぅ……、あー……ああ……。その代わり、食べたら、俺と一番、勝負してもらうぞ」
 先に回復した山姥切国広が将棋盤の前を確保して、壁際に追いやられたもうひと振りの肘鉄を躱した。見ていてはらはらする展開に、短刀は隣をちらりと窺って、袋の底に残る饅頭をごろごろ転がした。
 合計で、六つもあった。国広の刀はこの本丸には、全部で三振り在るので、当初はひと振り二個の計算だったのだろう。
 それなりに大きいのに、あの小柄な脇差も、これをぺろりと食べてしまうのだろうか。
 にこやかな笑顔を振りまく堀川国広を思い浮かべていたら、彼の思考を遮るように、太刀が穏やかに言った。
「長義も、どうですか。数はあるようです」
 六個を四振りで分けるとまた喧嘩になりそうだが、江雪左文字はそこまで考えていないようだ。
 この場に在る全振りに行き渡れば良い、という前提での提案に、話を振られた打刀は素っ頓狂な声を上げた。
「はあ? 誰が、偽物君からの施しなど……いや、違う。違うぞ、江雪。そうではなくて、だな。折角だ、有り難くいただこう」
 だが調子に乗って喋るにつれて、江雪左文字の表情が険しくなっていく。
 切れ長の目を一層細く、さながら糸のように眇められて、山姥切長義は慌てて言い直した。
「別に、嫌なら食べなくて良いぞ」
「いやだなあ、偽物君。いつ、誰がそんなことを言ったんだい?」
 横で聞いていた山姥切国広がぼそっと言うのを肘で制して、自分達は仲良しだと主張するべく、その肩を無理矢理引き寄せる。
 嫌がる写しと肩を組み、貼り付いた笑顔を浮かべた。非常にぎこちなく、不格好で、なりふり構わない様子が、いっそ憐れなくらいだった。
 己の矜恃もかなぐり捨てるくらい、痛かったらしい。二発目の拳骨を是が非でも回避しようとしているのが、ありありと伝わって来た。
 山姥切国広の方も、積極的ではないけれど、拒絶はしなかった。若干ふて腐れながらではあったが、受け入れて、江雪左文字に手を差し出した。
「はい、どうぞ」
 その手に栗饅頭をふたつ置き、太刀が口元を綻ばせた。心底嬉しそうな様子に、小夜左文字はホッと息を吐いた。
 余った二個が入った袋は、山姥切国広の脇に置いた。早速一口齧った長兄とは対照的に、打刀は将棋の駒を並べて勝負の準備を進めている。長丁場になりそうな予感を覚えて、短刀は一旦座ったものの、すぐに立ち上がった。
「お茶、持って来ましょうか」
「それは、嬉しいです。頼めますか、お小夜」
「なら、俺も行こう。お前ひとりでは大変だろう」
 自分がここに居続けても良いのか迷い、挙手して、承諾を得た。場所を奪われた打刀がそれに乗っかり、右膝を起こした。
「助かります、長義」
 黙って他者の勝負を眺めるだけは、退屈だったようだ。手持ち無沙汰の解消狙いだったのに、江雪左文字に礼を言われて、手伝いを買って出た彼は一瞬ぽかんとした後、ふいっと顔を背けた。
 照れたのか、銀髪から覗く耳が赤かった。
「ありがとうございます、山姥切長義さん」
 小夜左文字も感謝を述べて、すかさず追い打ちを掛ける。
 連続して謝意を向けられるのには慣れていないのか、焦れた打刀は荒っぽく右腕を振り回した。
「いいから、行くぞ。戻った頃には、偽物君の泣きっ面が拝めるだろうしな」
 早く行くべく急かし、廊下で喚き散らす。
 いかにも捨て台詞臭いひと言に、山姥切国広は聞き捨てならなかったのか、ピクリと眉を吊り上げた。
「俺は江雪に、勝ったこと、あるぞ」
「――なにぃ!」
 小鼻を膨らませ、勝ち誇った表情で立っている打刀に言い返す。
 恐らく初耳だったであろう情報に、山姥切長義は目を丸くし、屋根を突き破る勢いで声を響かせた。
 直後、江雪左文字が堪えきれずに噴き出した。くく、と彼にしては珍しく声を漏らして、楽しそうに目尻を下げた。
「私の、七十五勝……一敗……でしたか?」
 可愛らしく小首を傾げ、ふんぞり返っている打刀に確認を求める。
「……止めろ。その目、気に入らない」
 直後、後方から向けられた眼差しを嫌い、山姥切国広は襤褸布を引っ張りながら俯いた。
 兄弟刀を相手する時とはひと味違う彼らの姿に、小夜左文字は嗚呼、と深く息を吸い、頬を緩めた。

2019/11/10 脱稿

うれしきを何につつまむ唐衣 たもとゆたかに裁てといはましを
古今和歌集 865

寒露

「っくしゅ!」
 そう広くない室内に響いたくしゃみに、雲雀は調子良く進めていたペン先をぴたりと止めた。中途半端なところまで書いた文字を、一瞬の間を挟んで完成させて、素早く瞳を上向かせた。
 くしゃみの主を視界の中心に据えて、無意識に利き手でボールペンをくるりと回転させる。
「寒い?」
 相手は前方のソファに腰掛け、頻りに鼻の下を擦っていた。
 周辺一帯をほんの少し赤くして、話しかけられたと気付いてハッと背筋を伸ばす。両膝を手に添えて仰々しく畏まり、綱吉はゆっくり雲雀を見た。
 表情が些か強張っているのは、仕事の邪魔をしたと分かっているからだ。
 怒られるのを警戒し、緊張している。くしゃみひとつで大袈裟に考えている彼には、呆れざるを得なかった。
 肩を竦め、雲雀は握っていたものを転がした。集中力が切れた途端、やる気も一気に失われた。
 特段急ぐものでもなし、と放置を決めて、綱吉に向き直る。
 もっともあちらは、ギシ、と椅子を軋ませた彼に益々頬を引き攣らせた。
「寒いの?」
「へ? あ、いいえ。いえ、そういうわけじゃ」
 そんなに怯えなくてもいいだろうに。若干傷つきながらも、そういう顔をされると苛めたくなるから困る。
 およそ相容れない感情をひとつの所にまとめ置いて、雲雀は慌てて首を振った少年に目を眇めた。
「ふうん?」
 上半身を机上に寄せて、頬杖をついた。鼻から息を吐いて軽く首を傾げ、僅かながら口角を歪めた。
 意地悪い笑みを浮かべた雲雀に、綱吉はピンと背筋を伸ばし、目を逸らした。なにを考えているのか、ソファの上で落ち着き無く身を捩らせた。
 背の低いテーブルには、彼の宿題が、ほぼ手付かずで置かれていた。ノートに教科書を鞄から出し、広げはしたが、文房具は筆箱の中だった。
 そちらを当て所なく眺めて、突如ぶるっと震えて細く華奢な肩を抱く。
 寒気を覚えたのが雲雀を恐れてか、別の理由かは、当の本人にしか分からないことだった。
 ただこのところ気温が急激に下がり、冬の気配が目に見えて迫っているのは確かだ。早晩の冷え込みは厳しく、ブレザーを羽織って登校する生徒は着実に増えていた。
 けれどそこに座る少年は、薄手の長袖シャツに袖なしのベスト姿。
 何度も上腕を擦って、摩擦熱を誘っている。
 応接室は日当たりの良い場所にあるけれど、直射日光が眩し過ぎるので、窓にはカーテンが引かれていた。それになにより、ぽかぽか陽気の恩恵を受けるのは、その窓を背にしている雲雀だけだった。
 テーブルセットは部屋の中央、やや奥寄りにあるので、そこに陣取る綱吉には陽射しが降り注がない。
「暖房、つけようか」
 少し早い気がしたが、必要ならば使うべきだ。
 掃除は数ヶ月前になるが、済ませてある。なにも問題無い、と天井に設置された空調を見上げながら呟いた雲雀に、綱吉は座ったままソファの上でぴょん、と跳ねた。
「ひえ? いえ、あの。ほんと、気にしないでください。大丈夫です」
 先ほどの比ではないくらいにぶんぶん首を振って、大袈裟に辞退を申し出た。遠慮して、背中を丸めて小さくなって、上目遣いに雲雀を見詰め返した。
 そういう仕草は逆効果だと、早く誰か、指摘してやるべきだ。
 但し自分では絶対に言わないと天に誓って、雲雀はいじらしい少年に深々と溜め息をついた。
「そう。じゃあ」
 机の角に手を置いて、力を加え、キャスター付きの椅子を後ろに押し出す。
 空間を広げ、出来上がった隙間にすくっと立ち上がった彼を目で追って、綱吉は元から大きい目を真ん丸に見開いた。
「ヒバリさん」
「君が断ったんだから、しょうがないね」
 きょとんとしたまま名前を呼ばれて、自然と言葉が零れた。
 責任の所在を放り投げられた少年は不思議そうに首を傾げた後、幅広の机を回り込んだ風紀委員長にヒクリと頬を引き攣らせた。
 急いで場所を空けるべく、ソファの真ん中から端へと退いた。ドタバタと必要以上に物音を響かせて、身体を斜めにして左に避けた。
 そんな彼が直前まで座っていた場所に、雲雀は堂々と、さも当然のように腰を下ろした。
 浅い凹みに尻を据えて、表面に張られた革に残る他者の体温を回収した。両足は肩幅より少し広めに開いて、ほぼ直角になっている膝をトントン、と交互に調子良く叩いた。
「はい。おいで?」
 そうしてすぐ隣で唖然としている綱吉を、明朗な言葉で誘った。
 言われた方は唖然としたまま瞬きを繰り返し、赤くなったり、青くなったり、忙しかった。
 滑稽な百面相を披露されて、雲雀は肩を揺らした。
 但し待ってやったのは、ほんの一分にも満たない間だけ。その後は膝を叩くのを止め、掌を上にして固定させた。
「小動物?」
 なにをしているのかと、低めの声で囁きかける。
 雲雀だけが使う呼び方に息を呑み、綱吉は彷徨う視線を胸元に落とした。
 ベストの裾を掻き集め、もぞもぞさせた。長い躊躇を経て、覚悟を決めて天を仰いだ。
「お、お邪魔……します」
 恐る恐る言って、両手も使って四つん這いで雲雀に近付く。
 直前で姿勢を起こし、どう座ろうか一寸だけ迷って、程よく広げられた腿の間に身を沈めた。
 背凭れの役目を果たすべき男にはあまり体重を掛けず、どちらかといえば前方に身体を傾がせ気味にして。
 行儀良く膝を揃え、その間に緩く握った拳を埋めた彼を、雲雀は素早く、後ろから抱きしめた。
 折角の綱吉の配慮と努力を嘲笑い、薄い背中に貼り付いた。両側から腕を回して、肉付きの悪い腰を拘束した。
「っ!」
 密着されて、オレンジ色の髪の毛が派手に踊った。目の前にあるうなじがみるみる汗ばんで行くのを確かめて、雲雀は知れず口元を綻ばせた。
「どう?」
 こうすれば、暖かかろう。
 耳元で問いかければ、綱吉は堅牢に結ばれた大きな手に、自身の小さな手を重ねた。
 振り解こうとしているのかと想像し、雲雀は警戒したが、そうはならなかった。
 単純に寄り添わせるだけに済ませて、年齢の割に小柄な少年は俯いた。背後にいる男から、赤く染まる耳以外を隠して、指先にほんの少しだけ力を込めた。
「え、……と。熱い、……です……」
 それからどれくらいの時間が過ぎただろう。
 蚊の鳴くような声で呟かれて、雲雀は目を点にした直後、そのふかふかの髪に顔を埋めた。

2019/11/04 脱稿

川霧は 行くべき方を 隔つれど

「トリックオア、トリート!」
 突然勇ましい雄叫びと共にドアが開かれ、中にいたアスクレピオスは思わずビクッと肩を跳ね上げた。
 完全に油断していたのもあり、殊の外驚かされた。手にしていたものを咄嗟に握り潰しそうになって、寸前で思い留まれたのは幸いだった。
 ガラス製の試験管だから、粉々にしていたら危なかった。
 勿論アスクレピオスはサーヴァントなので、この程度で傷を負ったりしない。問題なのは、今し方入って来た存在の方だ。
 声だけで、誰がやって来たのかは分かっている。内心の動揺を溜め息ひとつで落ち着かせて、彼はゆっくり振り返った。
 そして視界に飛び込んできた光景に、剣呑に染まっていた目を丸く見開かせた。
「……なにを、やっている。マスター」
 メディカルルームの入り口に佇んでいるのは、間違いなく人類最後のマスターこと、藤丸立香だ。
 しかしその出で立ちは、およそアスクレピオスが知るものとはかけ離れていた。
 なにをどうすれば、ベッドから剥ぎ取ったと思しきシーツを頭から被り、全身白尽くめにしてやって来られるのだろう。
 覗き見用の穴すらなく、本当に頭からすっぽり、布に覆われていた。
 見た目だけなら簡易ゴーストであるけれど、まったくもって恐ろしさの欠片も見当たらない。丈がまるで足りておらず、隠れているのは上半身のみで、両足は丸出しだった。
 目的も意図も計りかねて、動揺が拭えない。
 唖然としながらの問いかけに、立香はしばし無言だった。上半身をくねらせてリズムを取り、何を考えたのか、前方に突き出した両手を一斉に高く掲げた。
「トリック、オア、トリート!」
 入室時と全く同じ文言を口にして、シーツの裾を激しく波打たせた。
 足だけでなく、腹まで見えた。下はいつもの格好なのに安堵して、アスクレピオスは軽く痛むこめかみに指を添えた。
 右手に持ったままだった試験管を円を描くように振った後、架台に戻し、静かに目を閉じて肩を落とした。気を取り直すべく緩く頭を振り、長い銀糸のもみあげを背中側へ流して、呪文のようなひと言を述べた後は沈黙を保つ青年を、しばらくじっと観察した。
 見えていなくても、雰囲気は伝わっているだろう。
 あまり喜ばしい状況ではないと察して、立香はもぞもぞ身動ぎ、シーツを捲り上げた。
「あのさあ」
「……ハロウィン、とかいう祭、だったか?」
 ようやく顔を出して、下唇を尖らせて文句を言おうとする。
 それを遮ったアスクレピオスに、彼は驚いたのか、目を点にして固まった。
「あれ?」
「そういうことか。分かった。今、思い出した」
 この珍妙極まりないマスターの格好と、謎が過ぎる文言と。
 遙か彼方に置き忘れていた記憶を手繰り寄せて、アスクレピオスは嗚呼、と吐息を零した。
 今朝、偶々遭遇したとあるサーヴァントたちとの会話が、鮮明に蘇った。
「知ってたの?」
「食堂によくいるだろう、あの赤い……アーチャーだったか。今日は騒がしくなるから、菓子のひとつやふたつ、用意しておけ、とな」
 きょとんとしながら首を捻った立香に頷き、ポケットをまさぐる。
 出て来たのはそのアーチャーから譲り受けた、親指大のキャンディだった。
 愛らしい色柄の包み紙に覆われて、両端は強めに捻られ、リボンの形になっていた。中身は透けていないので見えず、どれが何の味かは、食べてみないと分からなかった。
 そのうちのひとつを掌に転がし、残りをポケットに戻した医神に、マスターたる青年は明らかに不満げな顔をした。
「なんだよ、それ。アスクレピオスは初体験だから、絶対知らないと思ったのに」
 余計な事をしてくれたと、己のサーヴァントに対して悪態をつく。ぶすっと頬を膨らませて、余程悔しいのか、地団駄を踏んだ。
 不満を露わにするのは構わないが、埃を立てるのだけは止めて欲しい。
 目にも見えない細かな塵を嫌い、長い袖ごと左手を振って、アスクレピオスは右手に摘まんだキャンディを立香の方へと差し出した。
「僕には馴染みのない習慣だが。確か、ケルトの祭、だったか?」
 もっとも手渡すつもりがあるのか、ないのか、実験器具を並べたテーブル前、という微妙に遠い場所に陣取って、動かない。
 言葉だけが飛んでくる状況に、マスターである青年は苛立たしげに頷いた。
「そうだったと思うけど」
 ハロウィンは毎年お祭り騒ぎで、それに便乗したトラブルも多発していた。
 おおよその歴史や、意味や、目的は知っている。けれどそういった本来の祭事が消し飛ぶほどの、凄まじい大騒ぎの前に、全てが霞んで、消し飛んでしまっていた。
 だから今更真面目に聞かれても答えられないし、真顔でキャンディを渡されても困る。
「いらないのか?」
「なんか、面白くない」
 もっと違う反応を期待していた。驚くなり、笑うなりしてくれると予想していた。
 だからこんな風にきちんと事前に用意され、応対されるのは、立香にとって不本意極まりなかった。
 とはいっても、彼だって真剣に仮装の準備をしていたわけではない。
 可愛らしい衣装に身を包んだ見目幼いサーヴァントたちのような、凝ったものは何ひとつ持ち合わせていなかった。
 せいぜいその日眠っていたベッドから剥いだシーツを抱えて、ドアを開ける直前に、目深に被るのが限界だった。
 他の誰にも、こんな恥ずかしいところは見せられない。
 今日の祭について何も知らない――と思い込んでいた相手を前にしてでなければ、ここまでチープな仮装で挑めるわけがなかった。
 浮かれていたのが急激に冷めて、時間差で羞恥心がカーッと湧き上がって来た。思いつきで行動するのは良くないと悟って、立香は引き寄せたシーツで顔を半分隠した。
「帰る」
 来るのではなかった。
 多くのサーヴァントたちが楽しそうにしているのに引きずられて、調子に乗ってしまった。
 そういうのが通用する相手ではなかった。
 知っていたのに、忘れていた。
 そもそもギリシャ神話はハロウィンと無縁、という事実を嫌という程思い知らされて、すごすご退散を決め込もうとした矢先だ。
「なんだ、要らないのか」
 折角用意したのに、とばかりに、アスクレピオスがつまらなさそうに呟いた。
 高い位置に掲げたキャンディを目立つように踊らせて、顎をしゃくり、立香の視線をそちらに誘導する。
 言われて思い出した青年は嗚呼、と小さく頷いて、どうしようか迷い、その場で足踏みをした。
 なにか言いかけて口を開いて、しかし無言のまま閉ざした。瞳を中央に寄せて顰め面を作り、口をきゅっと引き結んで、ドアの方へ足を向けようとした。
 しかし直前になって、なんら収穫を得ないまま引き下がるのは、己の沽券に関わるとでも思ったようだ。
「ちぇ」
 何に対してなのか分からない舌打ちをひとつして、彼は歩きながら利き腕を伸ばした。
 マントのように羽織ったシーツで床を擦り、掌を上にして、四本の指を横に並べて平らにした。親指だけは少し離れた場所に待機させ、アスクレピオスの僅かに手前で、揃えた指先を軽く曲げた。
 早く寄越せ、とばかりに上下に揺すって、眼差しでも急かす。
 その生意気な双眸に不遜な笑みで応じて、アスクレピオスは長くちらつかせていたキャンディを、すいっと掌中に引っ込めた。
 小さなものを長く垂れた袖の間に隠して、視界から掻き消した。
「アスクレピオス?」
 この期に及んで意地悪をされる理由が分からず、立香が首を捻る。
 ぽかんとしている青年に目を眇めて、彼は握り締めたキャンディをぽーん、と高く弾き飛ばした。
 直後に落ちて来たものを掴んで、試験管が多数並ぶ机に身を寄せた。浅く腰を預けて、興味深そうに飴玉の包み紙に視線を落とした。
 訝しげに見守る立香に口角を歪め、その包装紙の角を唇に添わせた。
 軽く噛んで、反対側を抓んで引っ張る。
「それで。マスター?」
 包み紙の捻れをほんの少しだけ緩めて、口角を歪めた。
 妖しげな笑みを浮かべ、なにかを企んでいると分かる眼差しを向けられて、立香はドキリと四肢を硬直させた。
「僕がハロウィンを知らなかった、として。お前は僕に、どんな悪戯を仕掛けるつもりだったんだ?」
 そのつもりだったのだろう、と眇められた眼が囁きかける。
「え? え、え。あっ」
 はっと我に返って、答えに窮した立香は視線を彷徨わせた。
 肩から垂れ下がるシーツを掻き集めて無数の皺を作り、両手を内側に隠して左右の膝をぶつけ合わせた。俯いて言葉を探し、もじもじ動く姿は、人見知りの小さな子供のようだった。
 この切り返しは、想定していなかったらしい。なにもない場所に目をやっては、落ち着きなく身体を揺らす。そのいじらしい態度に、アスクレピオスはふっ、と鼻から息を吐いた。
「マスター?」
 答えを急かして意地悪く呼びかけ、腰掛けていた机から降りた。
 包装が解け切らないキャンディを見せつけながら進めば、嫌な予感を覚えたのだろう、立香はゆっくり後退した。
「べ、別に。悪戯とか、そういうのは。じゃなくて。えっと、なんだろ。なんていうか、な。そう。アスクレピオスって、ほら、こっちに来たばっかりだし。知らなかったらびっくりするでしょ。やっぱ。だからその前に、さ。先に教えといてあげないと、なー……、なんちゃって?」
 壁際に追い詰められて、苦し紛れに言い返すが、説得力は無いに等しい。
 それは本人が一番よく分かっているようで、言い終えた後の表情は口惜しげだった。
「そうか、なるほど。ご高配、感謝する。マスター」
 現実には、アスクレピオスは必要な知識はすでに得ていた。
 全くもって、台所に陣取っているあの英霊は、良い仕事をする。でなければ、食事中にも拘わらず群がって来たオバケの仮装の集団に、いいように玩ばれていただろう。
 渡されたキャンディを、念の為と何個か残しておいたのも、正解だった。
 更にこのような愉快な現場に遭遇出来たわけだから、まさにハロウィン様々だ。
 抑えきれない笑いを目元に滲ませたアスクレピオスに、立香はぶすっと小鼻を膨らませた。口を尖らせて露骨に拗ねて、ダンダンと激しく床を蹴った。
「なんだよ、その顔は。さては信じてないな」
「まさか。マスターのことは、心の底から敬愛しているとも。さて、ではもうひとつ質問だ」
 到底信じられない、という視線を躱して、医神は開いていた距離を一気に詰めた。顎を引き、怯えた子犬状態のマスターのすぐ前まで進み出て、カツン、とわざとらしく大きな足音を響かせた。
 中身が落ちそうで落ちないキャンディを、唇近くに待機させて。
「trick or treat?」
 流れるような滑らかな発音で、首を竦めて身構える青年に問いかける。
「ほ?」
 それがあまりに流暢すぎたものだから、立香はぽかんと口を開いた。呆気に取られた様子で小首を傾げ、しげしげとアスクレピオスを見詰め返した。
 そして。
「ふあ!」
 数秒間停止して、やおら真っ赤になった。ようやく理解したのか、慌てふためき、右往左往して、現状打破を模索して辺りを見回した。
 しかし医神の研究室と化している室内には、他に誰もいない。背後はすぐ壁で、逃げようにも前は塞がれていた。
 いつの間にか追い詰められていた自分自身に、青くなった。今更慌てふためいている彼を嘲笑って、アスクレピオスはキャンディの包み紙を高く掲げた。
 こめかみよりも僅かに上の辺りで持ち、緩く結ばれた両端を片手で器用に挟み持った。親指と人差し指、反対側は残る三本の指と掌で押さえつけて、捻れを一気に解放した。
 螺旋状に形作られていたものがくるっと回転し、本来の姿を取り戻す。もれなく薄紙に包まれていたものが隙間から零れ落ち、長い舌が素早く絡め取った。
「あ」
「迂闊が過ぎるぞ、マスター」
 直前に囁いて、アスクレピオスが飴玉をコロリと転がした。掬い取った球体を舌で包み、乾いた表面にたっぷりの唾液を塗して、全体に満遍なく熱を与えた。
 体温を吸い、蜜がゆっくり溶け始める。
 口の中いっぱいに広がる甘みと、鼻腔まで流れて来た苺の匂いに苦笑して、彼は緊張でガチガチになっている立香にずいと迫った。
 鼻先を寄せて、衝突する寸前で僅かに角度を付けた。あちらも、これからなにをされるのか、大方の予想は出来ているらしかった。
 逃げられないと悟って覚悟を決めたのは潔いが、他のサーヴァント相手にもこうなのだとしたら、些か腹立たしくもある。
 寸前でサッと瞼を閉ざされたのを、食い入るように見詰めていたら、何も起きないのを怪しんだ立香が、恐る恐る片眼だけを開いた。
「アスクレピオス?」
「菓子がないなら、悪戯されても文句は言えないな。マスター?」
「う、うるさいな。もう。分か……んっ」
 それを意地の悪いひと言で誤魔化して、腹を立てた彼を黙らせた。空になった包み紙を手放し、代わりに掴むものを求め、華奢な顎を指でなぞった。
 俯かれたら、計算が狂う。そうならないよう物理的に封じ込めて、首を伸ばし、少し乾燥気味の唇を強引に奪った。
 かぶりつき、押さえつけた。輪郭を確かめ、その中心に吸い付いた。
 上から覆い被さるように擦りつけて、蜜に濡れた舌先で堅牢な門を擽った。鼻の頭を舐めて、犬歯で軽く噛んだ。
「ひゃっ」
 思わぬ刺激に、可愛い悲鳴があがった。反射的に首を竦めて逃げようとした立香の顎を、アスクレピオスは三本の指で捕らえた。
 きつく閉ざされた歯列を開くよう促し、一旦離れたものを再び重ね合わせるべく、迫る。
「あ、アスク……」
「黙れ」
 間際に名前を呼ばれたが、制した。彼が息継ぎも兼ねて口を開いたのは好機であり、逃す手はなかった。
 短く、鋭く言い放って、舌の真ん中に飴玉を転がした。浅い窪みに据えて、唾液に溶け出した甘い、甘い蜜を周囲に集めた。
 叱責されたと受け取った立香が、四肢に力を込めた。守りに入ろうとしているのを察したアスクレピオスの動きは、それより少しだけ早かった。
「立香」
 その声は、本当に発せられたものだったのか。
 それとも心の中で囁いたものだったのか。
 ただ立香は、微かに反応した。脇に逸れていた瞳が正面に向けられ、澄み渡る空の色の中に鮮やかな新緑が広がった。
「あ……」
 彼の口から零れた吐息を掠め取り、呑み込んだ。
「ンふっ」
 重ね合った唇の隙間から一部が漏れたが、無視して、アスクレピオスは長い舌を存分に伸ばした。
 先ほどは閉ざされていた歯列は、今や閂も外され、全開だった。
 程よい広さを保つ隙間に、溶けて幾分小さくなった飴玉を転がして、押し込む。溶け出た蜜もまとめて流し込んで、ついでとばかりに舌先を擽った。
「んう、っんん」
 途端に口の中が満杯になって、立香は息苦しさに頭を振った。注ぎ込まれた甘い唾液ごと、思いの外大きく感じられる飴玉を押し返そうとしたものの、思うようにいかず、塊はするりと脇へ逸れた。
 無論形を持たない液体をどうこうするのも難しい。諦めて飲み下そうとしたが、アスクレピオスに唇を奪われた状態では、口を閉ざすことさえ叶わなかった。
 呼吸は鼻に頼るしかなく、下手をすれば一緒くたに気道に入ってしまう。そうならないようタイミングを計っていたら、唾液はどんどん量を増していった。
 柔らかな肉を食み、感触を楽しんでいる男もそれが分かっているだろうに、立香を解放する気配は皆無だった。
 ふたり分の体温を受けた液体が、咥内を満たした。一部は口の端から伝い落ち、顎を掴む男の指を濡らした。
 無造作に中を掻き混ぜられて、頭の中で水音が跳ねた。
 くちゅくちゅと、飴玉を挟んで舌が絡み合う度に、粘ついた音が狭い場所でこだまする。
「んふっ、んむ。ぅ……」
 次第に息が荒くなって、比例して体温が上昇を開始した。酸素不足から頭がぼうっとする。肩に羽織る形になっていたシーツが、支えを失い、するする落ちていった。
 行き場を無くした手で胸を掻き毟れば、見咎めた男の手が袖越しに握り締めて来た。立香もその布をがむしゃらに手繰り寄せて、五本ある指の全てを探り当てた。
 合計十本の指を全部使って抱きしめて、どうにか無事に飲み込めた蜜の味に荒い息を吐いた。
「は、あ……んは、んっ」
「立香」
「分かって、る……ん、待って」
 足りない酸素を必死に掻き集めて、軽く噎せた。アスクレピオスは吐息と共に囁いて、立香の下唇に伝う小さな水滴を掬い上げた。
 一度、二度としゃっくりするように横隔膜を震わせた彼を案じてか、顎から離れた指が、迷いのない動きで立香の背後に回された
 脊椎から腰骨の上をなぞり、数回に分けて叩かれた。気遣いのようであり、遠くへ逃げていかないようにとの、新たな束縛のようでもあった。
 狙っての行動ではなかろうが、この男は無意識にこういう仕草を取りがちだ。気付かない訳がないのに、と苦笑して、立香は自分から唇を薄く開き、アスクレピオスを誘い込んだ。
 喉の奥で飴玉を転がして、臼歯の角で軽く噛んだ。
 与えられた直後よりは小さくなっているものの、ひと息に飲み下すにはまだ大きい。噛み砕くのも容易ではなく、圧を加えればするっと逃げていった。
 ならばと外に飛び出さないよう、前歯の裏で堰き止めた。舌で弾き、繰り返しぶつけることで、わざとコロコロ音を響かせた。
 自分にしか聞こえないメロディを楽しんで、窄めた唇からふっと甘い息を吐く。
 キスの再開を求め、近付いたところに微熱を浴びせられた男は眉を顰め、小さく肩を竦めた。
「どこで覚えて来たんだ」
「さあ?」
 小首を傾げて惚けて返し、飴玉を弾ませた。口蓋と舌の間に閉じ込め、唇を閉ざせば、間に合わないと分かっているだろうに、男が上から覆い被さって来た。
 先ほどの仕返しか、寸前にふっ、と息を吹きかけられた。
 鼻先を掠めた微風に首を竦めて、立香はせっつかれる前に自分から口を開いた。
「ふは、……あがっ」
 そして密かに、押しつけられた飴玉の返却を試みたのだが、巧く行かない。
 敢えなく前歯に跳ね返されて、再び生温かな舌先によって奥へと捩じ込まれた。
 ガチっと来た衝撃に気を取られて、易々と侵入を許した。慌てて門戸を閉じて追い出そうとするが時既に遅く、甘く染められた咥内をぐるりと一周された。
 舌の付け根を弄られて、吐き気にも似た衝動に駆られたかと思えば、慰めなのか背中を優しく撫でられた。
「む、う……んむ、ふぐ」
「ふふ、は……ぁ、んっ」
 揃って鼻から息を吸って、吐いた。隙間なく張り合わせた唇を捏ねて、時折離れて、また深く、深く重ね合わせた。
 歯列をなぞり、口蓋を舐めた。邪魔な飴玉を押しつけ合い、一緒になって転がした。
 ゆっくりと時間を掛けて、互いの熱をひとつにした。間に挟まれた球体を愛撫して、じわじわ小さくしていった。
 唇を窄めて吸い付いて、奪ったり、奪われたり。
「はふ、あ……ンく」
 たった今飲み下した唾液がどちらのものかなど、立香に分かるわけがなかった。
 ただ甘く、甘く、蕩けるように甘い。
 次第に昂ぶる感情が更なる熱を引き寄せて、密着させた胸元から響く鼓動はどくん、どくんと嵐のようだった。
 ぴちゃぴちゃと粘りを伴う水音が爆ぜて、呑み込みきれなかったものが唇を越えて溢れていく。
 その大半を舐め取って、アスクレピオスは全て飲み下せとばかりに、改めて立香へと注ぎ込んだ。
「んもっ、は……ぅあ、ちょ、うぅン」
 一層強く、背を掻き抱かれた。立香が握り締めている方の手も、これ幸いとばかりに胸を圧迫した。
 そうやって狭い場所に閉じ込められた状態で、斜め上からのし掛かられた。
 潰れそうだ。もとより蠱惑的な愛撫の連続に、立香の膝は限界だった。
 ガクガク震えて、いつ折れても可笑しくない。
 それを防いでいるのが、アスクレピオスの拘束というのだから、なんとも皮肉な話だった。
 小さくなった飴玉を追いかけて、蛇の舌が立香の咥内を我が物顔で蹂躙する。
 そのうちガクン、と本当に崩れ落ちる恐怖を覚えて、立香は長らく握り締めていたものを手放した。
 もっと大きなものに縋ろうと、思いの外逞しい肩にしがみつく。
「あ、すく……ふぁっ、んん」
「ああ、立香。……りつか、っは、……ふ」
 抱きつかれた男は満足げに瞳を細め、たっぷりの唾液で甘い飴玉を包み込んだ。
 そのまま立香の舌へと擦りつけ、柔らかな肉をくにゅくにゅと揉みしだいた。飴玉が完全に溶けきるまで粘るつもりなのか、最後の辺りは唇を重ね合わせるでもなく、ただ舌を伸ばして立香を擽り続けた。
 けれどさすがに、疲れたのだろう。
「……は……ぁ」
 悔しそうな声と共に、彼は静かに離れていった。
「けふっ」
 ようやく解放されて、立香もたまらず咳き込んだ。咄嗟に口の中に残るものを吐きかけて、慌てて手で蓋をして、喉を大きく上下させた。
 無理矢理呑み込んで、視界の端でキラリと光ったものを目で追いかける。
 細く、長く伸びた透明な糸をアスクレピオスが舌で絡め取るのを見て、立香は反射的に赤くなった。
 蜘蛛の糸かと思われたその正体を悟り、今更ながら自分達が直前までしていた行為に羞恥を覚えた。
「うわっ」
 途端に力が抜けて、視界がガクン、と下がった。
「大丈夫か」
 咄嗟にアスクレピオスが利き腕に力を込めて庇ってくれて、尻餅をつくのだけは回避された。それでも身体に力が入らないのには違いなくて、しがみついた先が全ての元凶という状況が腹立たしかった。
 しかも当の医神に、その自覚がまるでない。
 意外と本気で心配されて、立香は一瞬目を丸くした後、ぶすっと頬を膨らませた。
 辛うじて残っていた小さな、小指の先程もない飴玉を奥歯で噛み砕いて、磨り潰す。
「マスター?」
「――てか、普通に食べさせてくれればいいのに」
 飴玉が何味だったかなど、もう思い出せない。兎に角甘くて、甘ったるくて、歯が溶けてしまいそうなくらい甘かったとしか、覚えていなかった。
 折角菓子を貰ったのに、少しも貰った気が起きない。
 手酷い悪戯を受けた記憶だけが残されたと煙を噴けば、アスクレピオスは惚けた顔で首を傾げた。
「なぜ怒る。この祭では、恋人にはこうやって菓子を与えるのではなかったのか」
 あらゆる医学の知識に精通し、医術を収めた医神が、心底不思議そうに眉を顰める。
「はあ? あ……いや、え? 待って。その話、誰に聞いたの。誰。誰に。ねえ!」
 その唇から放たれた台詞に愕然として、立香は反射的に怒鳴った。
 両手を振り回し、勢い良く捲し立てた彼に瞬きを繰り返し、アスクレピオスが反対側に首を倒した。瞳を左に滑らせて、今朝の記憶を招き寄せた。
「確か、ケルトの女王の……メイヴ、とかいったか?」
「あぁれかぁああああ!」
 偶然食堂で遭遇したと教えられて、立香は今度こそ膝を落とした。ガンッ、とそれなりに良い音を響かせた上で頭を抱え込み、苦悶の声を漏らした。
「本当に大丈夫か、マスター」
 案ずる声が繰り返されるが、殆ど耳に入らない。彼は長い髪をたなびかせ、扇情的なポーズを取る女性の姿を、必死になって頭から追い出した。
「あのね、アスクレピオス。違うから。いや、違うとも言い切れないけど、そういうのは、えっと、つまり……とにかく、メイヴの言うことだけは、そんなに簡単に信じちゃダメだから。ね!」
 恐る恐る手を伸ばして来た彼に叫んで、その指を袖ごと引っ掴んだ。両側から握り締めて、必死の形相で訴えて、訳が分からない様子の医神に縋り付いた。
 こう言われると、実践した方は、良くない事をしたのではないか、と不安になる。
「……嫌だったか」
 一瞬間を置いて、低く掠れた声で問いかけた彼に、息を乱した青年はハッとなった。
 自嘲気味な笑みと共に肩を竦められて、反応が過剰過ぎたと気がついた。あのトラブルメイカーなライダーに、そうと知らずに振り回されていた。
 厄介事ばかり引き起こすその迷惑さに意識が向いて、目の前の男を蔑ろにするところだった。
「ごめん。そういうんじゃ、なくて」
「なら、どういうことだ?」
「だから、えっと……その」
 但し真顔で問い詰められると、巧く答えられない。
 座り込んだまま顔を寄せられて、立香はサッと目を逸らした。胸の前で人差し指をちょんちょん、と突き合わせて、言葉を探し、膝はシーツの海を掻き回した。
 アスクレピオスも立香に合わせて身を屈め、片膝を突いた。答えをくれるまで動かない、と強固な意志を滲ませて、真剣な表情でマスターを窺った。
 こうも熱い眼差しを向けられたら、本当に、正面から見返せない。
 閉じた口の中で舌を動かせば、まだまだ残る飴の甘さが泡のように弾け散る。
 唾液を飲み込む度に薄まっていくはずなのに、いつまでも残って、当分消えてくれそうになかった。
「ええと」
「マスター」
 急かされて、勝手に目尻が潤んだ。鼻の奥がつんと来たのを誤魔化し、大きく息を吸い込んで、彼は懸命に声を絞り出した。
「ら、来年、……も。よろしく、お願いします……」
 メイヴの高笑いが、本当に聞こえるようだった。

2019/11/03 脱稿

川霧は行くべき方を隔つれど 心に通ふ道はたどらず
風葉和歌集 1124

声かすかなる 秋の夕暮れ

 その日の彼は、朝からずっと多忙を極めていた。
 調理当番を引き当ててしまい、起床は日の出前。朝の挨拶もそこそこに急いで食べ終えると、即座に片付けに入り、終えると今度は私室へ戻って出陣の準備。
 仲間たちと一緒に京都へ出向き、活動を活発化させつつある歴史修正主義者を牽制しつつ、これを討伐。本丸へ帰還後は即座に手入れ部屋に入り、傷を癒した。
 一刻足らずで手入れ部屋を後にして、戦装束を脱ぎ、次は昼餉の支度に取りかかる。
 先に台所に入っていた仲間たちは、休む間もなく現れた彼に驚き、手伝いは不要と訴えた。しかし任された以上はやり遂げると言って聞かず、一歩も譲らなかった。
 結局、薬味である葱を刻む役目を任せられ、これに勤しんだ。饂飩に入れるには些か量が多い葱の理由はここにあったのだが、果たして本丸で暮らす刀剣男士のうち、何振りがこの事実に気付いたかは、確かめていないので分からない。
 そうやって朝からずっと働きづめだった彼にも、ようやく休息の時間が訪れる。
「お小夜、入るよ」
「どうぞ」
 襖越しに呼び掛けて、歌仙兼定は返事と同時に襖を開いた。
 丸型の引手に指を掛け、左へと滑らせた。右手には半月型の盆を持って、傾けぬよう神経を注いでいた。
 温かな薄茶に、色鮮やかに彩られた羊羹。
 気に入ってくれるよう心の中で祈って、打刀は短刀の部屋に足を踏み入れた。
 相変わらず物が少なく、整理整頓の必要すらない空間だった。
 箪笥代わりの行李が大小ふたつ並んで、畳んだ布団と、戦装束がその上に。刀は床の間の刀掛けに収納されて、畳の上に塵芥の類は見当たらなかった。
 壁際に折り畳み式の文机が置かれ、座布団の類はひとつもない。縁側に面した障子は解放されていたが、北側に面している為もあり、部屋全体が明るい、とは決して言えなかった。
 小さいながらも立派な中庭が、前方に広がっていた。向かい側には打刀たちが日々を過ごす部屋が並んでいるが、背の低い木々が衝立代わりになって、視界を遮っていた。
 不快にならない配置は、江雪左文字の苦心のたまものだ。
 庭づくりを趣味としている太刀の顔を思い浮かべて、歌仙兼定は後ろ手に襖を閉めた。
「どうかしたんですか?」
「少し早いが、甘味を一緒に、どうかと思ってね」
 狭くもなく、かといって広くもない部屋の主たる少年は、少しでも明るい場所を求め、縁側近くに座していた。
 膝を三角に折り畳み、薄い書物を広げていた。だが振り返り、入って来たのが誰かを知るや否や、見せたくないのか、表紙を閉じてしまった。
 素早い反応に興味を惹かれつつ、気付かなかった振りをして、打刀は運んできたものを両手で持ち直した。一度は顔の高さまで掲げて、それからゆっくり下ろし、座っている短刀に見せた。
 ふたつ並べた湯飲みを揺らさないよう配慮しつつ、自信作の菓子を示す。
 小夜左文字は首を伸ばして覗きこみ、三秒後に我に返ってばつが悪い顔をした。
「気にしなくても良いのに」
 甘味と聞いて、うっかり反応したのを恥じていた。愛想の悪い鉄面皮がほんのり朱に染まっているのを眺め、打刀は数歩の距離を一気に詰めた。
 質素な部屋を縦断して、開けた場所に陣取る少年の傍で膝を突いた。菓子盆を置いて軽く押し、小夜左文字へと差し出す。
「呼ばないと、君は来ないだろう?」
「だからって、わざわざ訪ねてこなくても」
「迷惑だったかな?」
「そういう聞き方は、狡いです」
「おや。そうかい?」
 四角形の平皿に並ぶのは、濃紫色をした羊羹の上に様々な色、形の羊羹細工を散らして寒天で固めた、元は一本の棹のように長い菓子だった。
 今は食べやすいよう小さく切り分けられているけれど、元がどんな姿だったか想像出来るような並びになっていた。
「もみじ」
 赤や黄色に染め、型抜きされた紅葉や銀杏の葉が重なったり、広がったり。澄み渡る川面に散る木の葉を想定しているのか、川底の石らしき粒も散見された。
 見た目からして美しい菓子に、短刀の目は釘づけだった。
 こんなに手の込んだものを、台所に押しかける刀たちに配るのでなく、わざわざ部屋まで運んできた理由。
 予想が付いたのか、藍色の髪の少年はちょっとはにかんだ表情を浮かべた。淡色の空気を醸し出す彼に相好を崩して、歌仙兼定は包み紙から引き抜いた黒文字を皿に添えた。
「どうぞ。この時期に合うものをと、考えてみたんだけれど」
 そう言って皿の縁を押さえ、味見役を依頼する。
 短いひと言で確たる自信を持ったらしく、小夜左文字は嗚呼、と頷いた。
 色艶やかな甘味は、まだまだ色づき出したばかりの外の景色を、一足先に再現していた。本丸に大勢いる食いしん坊な刀たちも、これを見れば即座に食いついたに違いない。
「歌仙が考えたんですか」
「そう。気に入ってくれたかい?」
 感嘆の息を吐き、小夜左文字が呟く。
 ほんの少しの不安を滲ませて、歌仙兼定は目尻を下げた。
 餡を練るところから始めたので、いつ誰が、味見役を申し出てくるか心配だった。幸いにも打刀が誰の為に必死になっているか、察しの多い刀ばかりが台所に陣取っていたので、杞憂に終わってくれたわけだが。
 水屋での苦労を思い返しつつ、返事をそわそわ待っていたら。
「ちょっと、気が早いですね」
「そうかな?」
「そうですよ」
 まだまだ青さが残る葉が大多数を占め、庭の木々が紅色に染まり尽くすのは、当分先のこと。
 季節を先取りしすぎだと笑った小夜左文字は、しかしひと呼吸置いて、首を竦めた。
「でも、いいですね」
「だろう?」
 満足げなひと言に歓喜して、歌仙兼定はぶわっと膨らんだ感情を必死に堰き止めた。
 嬉々としながら目を眇め、仕上がりまで完璧だと、うんうん頷く。そんな丹精込められた菓子を前にして、小夜左文字は口元を綻ばせた。
 賞賛を受けて胸を張り、歌仙兼定が改めてどうぞ、と掌を菓子盆に向ける。外見は合格点をもらったが、味が悪ければ意味がないと言って、評価を欲しがり、手を付けるよう促した。
「ささ、お小夜」
「いただきます」
 再三催促されて、短刀は首を縦に振った。膝に抱いていた書物を脇に置いて、中庭に向いていた身体を打刀に向け直した。
 軽く頭を下げて目礼し、小さな手を合わせてから楊枝を抓んだ。小刀の如く尖った先端を皿に向け、最も手前にあった寒天に突き刺した。
 折角の綺麗な紅葉を真っ二つにするのは惜しかったが、そうも言っていられない。なるべく綺麗に、元の姿を保ったままであるよう心がけて、指先は慎重だった。
 どうにか不格好にせずに済ませて、半分になった片側に切っ先を突き刺す。
「召し上がれ」
「あ~……はむ」
 口に入れやすい大きさにして、まずはひとつ、咥内へ。
 その一挙手一投足を見守って、歌仙兼定は知れず拳を作った。
 この瞬間は、何度繰り返しても緊張した。
 いかに味見を繰り返し、自信を持って供した料理でも、食する者の好みに合わなければお蔵入りだ。彼の作るものは概ね好評なのだが、燭台切光忠に支持者をじわじわ奪われつつあり、なんとか挽回したい気持ちも少なからずあった。
 固唾を飲んで見守って、小夜左文字の口元を注視する。
 突き刺さるような眼差しに苦笑して、少年は楊枝を引き抜き、餡子を奥歯で噛み砕いた。
 大きめの塊を小さく、小さく磨り潰し、破片を舌の上で転がした。口蓋に擦りつけ、または犬歯で切り刻み、一層細かくして、唾液と共に飲みこんだ。
「……どうかな」
 口の中を空っぽにするのに、―分半とかからない。
 ほう、と息を吐いた短刀に恐る恐る問いかけて、藤色の髪の打刀は頬を引き攣らせた。
 緊張のし過ぎで、顔が可笑しなことになっている。
 鏡があれば見せてやりたかったと目を眇め、小夜左文字は小さく頷いた。
「美味しいです」
「本当に?」
「はい」
 楊枝を置かず、残っていたもう半分に突き刺して、続けて口の中へ。
 その合間に囁いた少年に瞠目して、歌仙兼定は握り拳を固くした。
 心の中で勝利の雄叫びを上げ、自然と緩んでいく表情を慌てて引き締めた。緊張から解き放たれて、嬉しさから花を散らした。
 一瞬でにこにこ笑顔になった打刀を盗み見て、小夜左文字は口に含んだ餡を噛み砕いた。抵抗は最初だけで、一度歯が入ってしまえば、後は済し崩しだった。
 程よい固さで、とても食べやすい。見た目の華やかさもさることながら、小豆の甘さが疲れた身体に心地よかった。
「うん」
 これならいくらでも食べられそうだ。
 悪くないと首肯して、彼は幾分温くなった薄茶で喉を潤した。
「……ふう」
「まだあるよ、お小夜」
「良いんですか?」
「君の為に作ったものだからね」
 ひと息つけば、残り半分となった皿を指差された。てっきり打刀と半分ずつと思っていたので、素直に驚きだった。
 小夜左文字は今日、朝からずっと働きづめだ。それを知っているからこそ、味見役も兼ねてもらうべく、歌仙兼定は新作菓子に取り組んだ。
「では、遠慮なく」
 きちんと昼餉を食べたのに、心なしか小腹が空いていたところだった。
 本当に良い頃合いに来てくれたと喜んで、彼は皿ごと引き取り、膝に置いた。
 丁寧に、けれど先ほどよりほんの少し素早い手の動きを確かめて、歌仙兼定は満面の笑みを浮かべた。作って良かった、来て良かったと喜んで、視界の隅で動かない書物に首を捻った。
「ところで、お小夜。それは?」
 彼が入って来た時、小夜左文字はそれを読んでいた。
 わざわざ机ではなく、縁側で広げていたのは、灯明に使う油を惜しんだからだろう。昼のうちは極力自然光を利用するのが、彼の個人的な決め事だった。
 その境遇故か、この短刀には貧乏性な面がある。
 あちこち擦り切れて襤褸布寸前の袈裟をちらりと見て、歌仙兼定は紺色の表紙を指し示した。
「んぐ、ん、んっ……それ、は。ええと、歌仙は、見ない方が良いと思います」
 食べている最中だった少年は、問いかけに慌てて咀嚼回数を増やした。頬張っていた羊羹を急ぎ飲みこんで、喉に詰まり掛けたのか、何度か胸を叩いた。
 無事胃袋へと塊を落とし、ほっと息を吐いてから、唇を舐める。
 いやに意味深な発言を受けて、文系を自称する刀は眉を顰めた。
「なぜ?」
 表紙書きがないということは、万屋で売られているものではない、ということだ。装丁が新しいので、間違って剥がれてしまったとも思えなかった。
 厚みもさほどではないので、本丸で暮らす刀剣男士の誰かが、自分で作ったと考えるのが妥当だろう。
 けれど歌仙兼定の知る中に、書き物をする刀は存在しなかった――自身以外は。
 もし歌集を編むような刀があるなら、是非とも紹介して欲しかった。共に歌について語り合い、四季の移ろいや心の機微について、夜が更けるまで論議したかった。
 小夜左文字も和歌に心得があるけれど、歌仙兼定ほど熱心ではない。前の主が戦国一とも言われる文化人であったというのに、だ。
 なんと勿体ないのだろう。
 才能はあるのだから、存分に発揮すれば良い。互いに切磋琢磨しあえば、歌仙兼定も今以上の歌を詠めるようになるはずだ。
 結局は自分の為なのだが、その辺は考えないことにして、鼻息を荒くする。
 詰め寄られた少年は黒文字を空になった皿に置き、茶で口を漱いで、ほう、と息を吐いて肩を落とした。
「和泉守兼定さんの、です」
「……あれの?」
「はい。自信作を集めたので、論評を頼むと」
 観念して白状して、皿を盆に戻し、空いた膝に歌集を置いた。表紙は捲らず、撫でるに留め、目つきを鋭くした男に頷いて返した。
 和泉守兼定は、この本丸で最も年若い刀だ。外見は好青年だが、性格に若干の幼さが残り、冷静な一面と無鉄砲な一面が混在した。
 正攻法での戦い方ではなく、有利に事を運ぶ為に、時には卑怯な手段をも辞さない。そういう点では戦上手で、少数精鋭での特攻に長けているが、反面馬に乗っての大規模戦闘には不慣れだった。
 歌仙兼定とは同門に当たるが、刀匠は異なる。各々が産み出された時代もかなり隔たっており、他の兄弟刀たちとは幾分趣が異なっていた。
 彼らは決して、仲が悪いわけではない。
 ただ仲良しとも言い切れず、関係は複雑だった。
 兄弟刀の間で思想や理念が乖離しているのは、左文字も同じだ。但しこちらは、無闇矢鱈と相手に食って掛かったりしない。
 一方で歌仙兼定は和泉守兼定をどことなく下に見ている雰囲気があり、和泉守兼定も歌仙兼定に敵愾心を隠さなかった。
 同じ兼定として、自分の方がより優れている、と双方共に心の中で思っている。
 我が強く、強情な面はそっくりだと密かに嘆息して、小夜左文字は不機嫌を露わにした打刀に首を竦めた。
「どうして僕ではなく、お小夜に頼むんだ。あいつは」
 あらかじめ怒号を予想し、身構えていたのが功を奏した。
 案の定拳を振り回して吠えて、歌仙兼定は悔しそうに歯軋りした。
 小鼻を膨らませ、怒りを滲ませて遠くを睨んだ。丁度風が吹き、木々が揺れて、ざあああ、と木立が一斉に音を響かせた。
 首筋を撫でる空気は体温よりも低く、心地よかった。前髪を煽られた打刀は忌々しげに舌打ちすると、反射的に立てた膝を倒し、胡坐を作り直した。
 ぷんすかと煙を噴いて、怒りは当分収まりそうにない。
 子供のように拗ねてしまった男に苦笑して、年嵩の少年は目を細めた。
「歌仙に頼むと、読む前から馬鹿にしてくるから嫌だ、だそうです」
「はあ?」
 記憶を掘り返しながら囁けば、打刀は間髪入れずに反応した。やや音程が外れた声で叫んで、頬杖を解き、意味が分からないとばかりに顰め面になった。
 百面相を目の当たりにして、面白いのだが、笑うわけにはいかない。
 密かに腹筋に力を込めて、小夜左文字は綴じ紐の結び目を弾いた。
 隠せば良いものを、堂々として、大胆な結び目だった。この辺りにあの男の性格が滲み出ており、押し付けて来た時の表情が自然と蘇った。
 対して歌仙兼定はといえば、納得がいかないようで、膨れ面は絶賛継続中だった。
「下手なものを下手と言って、なにが悪いんだ」
 そういうところが、和泉守兼定が小夜左文字を頼った理由なのに、まだ分からないようだ。
 ぶつぶつ文句を言っては頬杖の腕を入れ替えて、窄めた口から息を吐く。同派としての面目を潰されて、面白くない、と態度で語っていた。
 この考え方が改まらない限り、両者が同じ席で歌を詠み合うことはなさそうだ。
 変なところで融通が利かない男に内心呆れながら、左文字の短刀は薄茶の残りを飲み干した。
 濡れた飲み口を親指でなぞって拭い、湿った肌は着衣の裾に擦りつけた。人差し指と重ねて何度か揉むように動かしてから、薄い紙を何枚かまとめて捲った。
「和泉守さんと、歌仙とでは、時代が違いますから」
「……僕が、彼の時代の風流を解せていないとでも?」
「人の考え方も、随分と変わっているでしょうし」
 支配者が度々入れ替わる動乱の時代と、大きな戦が遠い過去となった時代とでは、ものの捉え方も、命に対する価値観も、相当に異なっていた。
 思想が交わらないのも当然だ。そしてこの深い溝を埋める為に、言葉というものが存在しているというのに。
 最初から決めつけて、添削もせず、助言もなく、すべてに等しく零点を付けていくのは、いかがなものか。
 静かに打刀を批判して、小夜左文字は不必要に飾り立てない一文に頬を緩めた。
「午睡して 叩き起こすは蝉の声 怒鳴っても止まず 叫んでも止まず――」
 情景がありありと思い浮かぶ歌に、しかし歌仙兼定は不満げだ。なにが面白いのか、と首を捻って、眉間の皺は深くなる一方だった。
 このままだと癖になると、短刀は手を伸ばした。
「ん?」
 それを避け、仰け反った打刀が目を瞬かせる。空振りした利き腕を膝に落として、小夜左文字は仕方なく自分の眉間を小突いた。
「歌仙は、難しく考え過ぎです」
 皺が出来ていると教えてやり、嘆息に混ぜて囁いた。
 指摘を受けた場所を揉みほぐして、男は気難しい表情で口を尖らせた。
「そうは言っても、お小夜」
「和泉守さんは、自分が良いと思うものを詠んでいるだけです。歌仙も、そうでしょう」
 反論を試みられて、出来の良し悪しは関係ないのだと諭した。
 自分が好むものを、好む通りに作り上げているのに、横からあれこれ茶々を入れられたら、好きだったものも嫌いになってしまう。
 折角仲間が出来かけているのに、自分から潰しに行くのはもったいない。
 淡々と言葉を重ねて、小夜左文字は型に縛られない自由な歌を指で辿った。
「むむむ……」
 横では歌仙兼定が、折角解いた眉間の皺を、前より一本増やしていた。
 腕組みをして唸り、短刀の言葉を懸命に飲みこもうとしていた。風流云々は抜きにして、歌詠み仲間としてまず認めようと必死に努力した。
 しかし、これまでずっと馬鹿にして、鼻で笑って来たのだ。
 そう簡単に出来るわけがなかった。
「今すぐでなくても良いんですよ」
 百面相が一段と酷くなり、最早笑いを堪え切れない。
 我慢するのを諦めた短刀に言われてハッとなって、歌仙兼定がばつが悪い顔でそっぽを向いた。
 笑われたのを恥じて、頬を仄かに朱に染めた。どうして素直に認められないのかも、なんとなくだが想像出来た。
 要は小夜左文字と和泉守兼定が、自分の知らないところで親しくしていたのが、気に食わないのだ。
 雰囲気からして、短刀はこれまでにも何度か、打刀に歌の評定を頼まれているのだろう。そして短刀も、快くそれを引き受けていた。
「お小夜は、あいつの歌が、その……」
「面白いと思います。僕や、歌仙では、きっと詠めないものです」
 隠していたつもりはなかろうが、裏でこそこそされていたみたいで、あまり気分が宜しくない。
 しかもなかなかに高評価で、余計に悔しかった。
「う、ぐ」
「歌仙は、下の句をどうしますか?」
 発想の起点が違うから、歌の趣も、景色も、格段に違ってくる。
 それが面白いのだと言った短刀に指差されて、歌仙兼定は示された紙面に目を走らせた。
 そこには上の句だけが記されていた。途中まで思いついたものの、続かなかったようで、代わりに詠んでくれるよう依頼する一文が小さく添えられていた。
「紅葉着て 峰の奥まで 色気付き」
「ふふ」
「まるで品がない」
「そうは言わずに」
 声に出して読み上げて、渋る打刀を短刀が促す。
 肘で小突かれた男は意地悪く見上げてくる少年を一瞥して、深々とため息を吐いた。
「紅葉、……峰の山。奥深く。緋色一色なのだろう。そして紅葉はいずれ散る、散らぬ……散らすな……」
 秋の山の情景を、率直に描き出した歌だ。回りくどい真似はしない。和泉守兼定は赤一色に染まる山を、色気づいた若い娘に重ねていた。
 ならばそこから続く光景は、なにか。
 実物を目にするのは、もう少し先だ。だから目を瞑り、過去へと意識を遡らせた。
 瞼に焼き付けた記憶を蘇らせて、燃えるような鮮烈な色彩を脳裏に導き出す。
 思いつく限りの言葉を訥々と紡ぎ、これぞ、と輝くひと言を探し出す。もっともそれは簡単な作業ではなく、音を刻まずとも、男の唇は絶えず動き続けた。
 顎を撫で、鼻梁に指を添え、真剣に悩み、考える。
 集中し始めた打刀の横顔に相好を崩して、小夜左文字はすっかり空になった菓子盆を脇へ退けた。
 かちゃかちゃ音を響かせても、歌仙兼定は反応しなかった。時折瞼を閉じて、開いている時も双眸は遠くを見据え、短刀を見ない。生来の負けず嫌いぶりを発揮して、良い句に仕上げようと躍起になっていた。
 それを嬉しく思いつつ、少し寂しさを覚えた。自分が言い出したことなのに、と即座に戒めて、口の端に残る微かな甘さに指を重ねた。
 透明な中に踊る色彩が、とても美しかった。
 雅さを求めるあまり、逆に頭が固くなってしまっている彼に、和泉守兼定の緩さを足せば、良い塩梅になるに違いない。
 けれどやり過ぎると、各々の持ち味を殺してしまうから、注意が必要だ。
「歌仙は、頑張り屋さんですから」
「お小夜?」
「思いつきましたか?」
「……今しばし、猶予を」
「分かりました」
 縁側に向かって足を伸ばし、陽を浴びて輝く緑の木々に目を細める。
 ぽつりと呟いた独り言に、思いがけず反応されたが、内容までは聞き取れていなかったようだ。即座に話題をすり替えられたことに、打刀は気が付かなかった。
 小首を傾げていたら、苦々しい表情で言われて、噴き出しそうになった。
 すんでのところで笑いを封じ込めて、小夜左文字はドクドク鳴る鼓動を数え、自然重くなった瞼を閉じた。
 視界を闇に染めても、真っ暗ではない。薄くだが光を感じて、不思議と安心出来た。
「風よ。散らすな。秋を散らすな。花を、ううん……うん?」
 ほんの僅かな言葉の中に、様々な情景を落とし込むのは簡単で、難しい。
 直感のみで作り上げられた上の句の厄介さに臍を噛んで、歌仙兼定はふとした瞬間、右肩に重みを感じて目を丸くした。
 咄嗟に身体を退きかけて、直前で思い止まった。肘を数寸動かすだけに留めて、軽過ぎて不安になる体重に瞬きを繰り返した。
 小夜左文字が寄り掛かっていた。四肢の力を抜き、両手を膝に転がして、上半身を傾けていた。
 両目は閉ざされ、唇は薄く開いていた。小振りの鼻が膨らんでは窄まって、呼吸は安定し、表情は穏やかだった。
「お小夜?」
 朝から働きづめだった少年は、部屋で静かに、ひとりの時を楽しんでいた。
 腹が膨れて、ひと息ついて、気が抜けたのだろう。
「お小夜……」
 中途半端に浮いた右手を握っては広げ、虚を衝かれた男はやがて肩の力を抜き、微笑んだ。目を細め、破顔一笑して、すよすよ眠る短刀に鼻の下を伸ばした。
 本丸で再会を果たした時、彼は復讐に囚われ、健やかな眠りとは無縁だった。周囲は全て敵と捉え、ちょっとした物音でも目を覚ました。
 熟睡など夢のまた夢で、常に神経を張りつめていた。触れれば壊れる繊細さで、迂闊に近づけない雰囲気があった。
 それが今や、どうだ。
 彼がこんな風に眠れる日が来るなど、想像だにしなかった。
 それも他ならぬ自分の腕に、身を委ねて。
 愛しさが膨らんで、溢れ出そうだった。人が見れば薄気味悪い、と言われそうな笑みを浮かべて、締まりのない表情を左手で覆い隠した。
「参ったな」
 必死に考えていた下の句など、どこかへ飛んで行ってしまった。
 今はただ、この安らかな寝顔だけを見ていたい。他になにも考えず、誰かの――自分の隣で眠れるようになった、哀しい短刀の変化を喜びたかった。
「紅葉着て 峰の奥まで 色気付き 風よ鎮めや 夢を散らすな」
 抱きしめたい気持ちを堪え、そっと囁く。
 評価はいかばかりか、眠る少年が微かに笑った。

篠原や 霧にまがひて 鳴く鹿の 声かすかなる 秋の夕暮れ
山家集 秋  438
2019/10/26 脱稿

うちつけの 契りと人や 思ふらむ

 予感があった。
 気配を感じるだとか、そんな高尚なものではない。ただ令呪を介して繋がった膨大な魔力の糸のうち、一本がピンと伸びたのを感じただけだ。
 カルデアのマスターとして、実に多くのサーヴァントと契約している。その中の一騎の接近を、藤丸立香はブランケットの中で静かに待った。
 薄手の布を頭から被り、身体を横にして、息を殺した。天井の照明は消えており、危険がないよう足下を照らす小さな灯りだけが、室内におぼろげな輪郭を与えていた。
 思ったより早い。いや、遅いか。
 報告を受けて飛んできた、という雰囲気はなかった。
「マスター、いるな?」
 やがてドア越しに、聞き慣れた低い声が響いた。在室の確認からでなく、確信を持っての問いかけだった。
 彼もまた、立香と契約という糸で繋がっている。これだけ近くにいれば、壁などあって無いも同然だった。
 しかし立香は返事をしなかった。訪ねて来たのが想定通りの相手と知って、もぞり、と身動いだくらいだった。
 起き上がって迎え入れてやろう、という意識は皆目ない。どうせ勝手に入ってくる。ドアの前に佇んでいるサーヴァントは、そういう性格だ。
 身勝手で、わがままで、自己主張が激しく、ひとつのことに集中すると周りが見えなくなる。
 それが悪いとは言わないが、限度というものがあるだろうに。
 繰り返されてきた数々の彼の行いを思い返して、立香は浅く下唇を噛んだ。
 鼻から息を吐き、反応を探って、薄暗い室内からドアの方向を伺う。
 待っても返事が得られないと悟ったのか、次の声は先ほどよりも近いところから降ってきた。
「起きているんだろう」
 実体化を解き、霊体化を果たしさえすれば、サーヴァントは壁くらい簡単にすり抜けられる。そうやって無断で人の部屋に入り込んだ男は、今回もまた、確信を持って言い放った。
 傍目から見たら、今の立香は就寝中だ。ブランケットを被り、ベッドに横たわっている。照明を消して、場を照らす灯りは最小限だ。
 音楽の類は流れず、静謐が場を包み込む。
 時間は夜を告げるには早いものの、彼の今の状態を知っている者ならば、もう夢の中に旅立っていてもおかしくない、と納得しただろう。
 そこに立つ、アスクレピオス以外なら。
「体温、心拍数、ともに起床時のそれだ。僕に狸寝入りが通用すると思っているのか」
 呆れたように続けられて、さすがにこれ以上は誤魔化せない。
 下手な芝居を続けても、良い結果は得られないだろう。むしろ逆で、酷い目に遭うのは明らかだった。
 乱暴にブランケットを引っ剥がされて、無理矢理叩き起こされるに決まっている。
 アスクレピオスは怒りの沸点が案外低い。割とすぐに癇癪を起こす。特にとある一点に関しては、頑として譲ろうとしなかった。
 その彼の譲れない一点に、立香は今、晒されていた。
 諦めておずおずとブランケットを下げれば、枕元に立つ男は憤然とした面持ちでこちらを見下ろしていた。
 もっとも顔の下半分は、カラスの嘴に似たマスクで覆われていた。その尖った部位に隠されて、寝転がった状態からでは、右の瞳も見えなかった。
 それでもはっきりと、彼が怒っているのが伝わってきた。ただ腕を組んで立っているだけなのに、だ。
「……なに」
 ブランケットから完全に頭を出し、剣呑な雰囲気に負けないよう、立香も低い声で応じた。寝かかっていたところを邪魔されたという体を装って、主導権を握ろうと試みた。
 横たわったまま睨みつけ、返事を待つ。
 言葉より先に、ため息が聞こえた。
「レイシフト先で、怪我をしたそうだな」
 淡々とした問いかけだが、語気は強い。沈黙は許さないとばかりに、目に見えず、形を持たない言葉から、凄まじい圧力を感じた。
 正直に答えるよう、プレッシャーを与えられた。
 医者として、患者を威圧する態度はどうなのだろう。だが彼がにこやかに診察するところは、どうやっても想像できなかった。
 考えただけで、鳥肌が立った。背中を襲った寒気にぶるっと全身を震わせて、立香は足下から登って来た鈍い痛みに眉を顰めた。
 ごく僅かな変化を、アスクレピオスは見逃さなかった。
「マスター」
 苛立った声で呼んで、問答無用でブランケットを引き剥がそうとする。
 その手を遮って、立香は深く息を吐いた。
「大丈夫。もう、やってもらったんだ」
 奪われないよう柔らかな布を握り締め、声を振り絞った。
 首筋を、生温い汗が伝い落ちる。状況は限りなく不利だと悟りながらも、挫けて投げ出す真似だけはしたくなかった。
 これまで繰り広げて来た数々の冒険を脳裏に巡らせつつ、今回だってなんとかしてみせるとひとり息巻く。
 そんな立香の必死さを嘲笑うかのように、アスクレピオスはブランケットを掴む手に力を込めた。
「うわ」
 立っている者と、横になっている者の差。
 なによりもサーヴァントと、人間の差は大きかった。
 いくら細身に見えても、決して侮れない。寝転んだまま引きずられそうになって、立香は慌てて両手を放した。
 身体の下敷きになっていた分までずるりと引き抜かれ、ベッドの端がほんの少し近くなった。もれなくアスクレピオスの黒いコートも間近に迫り、視界が一層暗くなった。
 その分、頭上から降り注がれる怒りのオーラも強くなった。
 けれど、なぜ。どうして。彼に怒られなければならないのだろう。
 稀少な素材を求め、編成を組んでレイシフトを実行した。魔獣の巣窟近くでの収集作業は順調とはいかず、幾度となく獣の群れに襲われた。
 立香が怪我を負うのは、これが初めてではない。むしろ無傷で帰還した回数の方が少ないくらいだった。
 マスターが身を張らなければならないのが、今の彼らの状況だ。決して褒められたものではない。せめて防御に特化したサーヴァントが傍に在れば良いのだが、人員不足も著しい為、マシュはカルデアに残ってサポートに回る事が多かった。
 あちらを立てれば、こちらが立たず。
 ギリギリのラインで戦況が保たれている中で、軽度の捻挫など、怪我のうちにも入らない。
 それが立香の言い分だった。
 そこに加えて、帰還直後にサンソンの治療を受けた。骨に異常はなく、筋が少々伸びた程度という診断は既に下っていた。
 今は湿布を貼って、外れないよう――そして不用意に動かさないよう、包帯で固定されていた。腫れて来ているのか、ズキズキ痛むけれど、我慢出来ない程ではなかった。
 炎症を抑える効果がある湿布だと、サンソンは言っていた。実際貼り付けられた時はひんやりしており、冷たさで足が凍えるくらいだった。
 今は逆に熱く感じられるものの、人理修復の道程で負った怪我は、こんなものではない。あれらに比べれば屁のようなものだと、立香は自分に言い聞かせた。
 皺だらけのシーツに指先を潜らせ、動いてしまった身体を元の位置まで戻そうと力を込める。一方アスクレピオスは用済みとなったブランケットをあっさり手放し、なにもない床に沈めた。
「ちょっと」
 落とすのなら、ベッドの上にして欲しかった。
 汚れたら、洗濯しなければならない。ただでさえやる事が多いのだから、余計な面倒を増やさないで欲しかった。
 見過ごせず、立香は退くつもりだった身体を前進させた。腕を伸ばし、取ろうと藻掻く。しかし黒衣の男が邪魔で、指先は虚しく空を切った。
「アスクレピオス」
「その包帯は、あの男か」
 一度では諦めず、何度か挑戦したが、掠りもしない。痺れを切らして元凶たる男の名前を呼べば、マスク越しにくぐもった声が響いた。
 およそ期待した返答とは異なる言葉に、立香はカチンとなった。
「誰? ああ、サンソンだよ。誰かさんと違って、すぐに来てくれたから」
 諸々の苛立ちをまとめて吐き出して、取ってくれないのなら退け、とばかりに拳で彼の足を叩いた。左の太腿、腰骨のすぐ下辺りを勢い良く殴りつけたが、アスクレピオスはぴくりとも動かなかった。
 代わりに、腕を振り下ろす際に無意識に踏ん張っていたらしく、包帯を巻かれた利き足がズキッと来た。
 頭の中では水中の魚のように身体が跳ねたが、実際には、そんなことにはならない。せいぜい数ミリ単位で縦に振れた程度。それでも痛いことに違いは無かった。
「くう……」
 自業自得というひと言が脳裏を過ぎったが、悔しさから無視を決めた。鼻を啜って奥歯を噛み締め、苦悶に耐えて突っ伏していたら、またしても盛大な、わざとらしい溜め息が聞こえた。
「なにをしている。治りたくないのか」
「うる、さ、い」
 枕を引き寄せ、顔を埋めて言い返すものの、音ひとつ吐き出すのも一苦労だ。
 最も大きな波が引くのを待ってから深呼吸して、立香は改めて枕元に立つ男を睨み付けた。
「とにかく、分かっただろ。もうアスクレピオスがやることは、ないの。以上、終わり。おしまい。ほら、帰って」
 白い包帯で覆われた素足を指差し、声を高くして吼えた。
 手術といった大袈裟なものは不要であり、ただひたすら時間が過ぎるのを待つより他にない。出来ることはサンソンが全てやってくれている。安静にしていれば明日には腫れも引くというのが、あの医者の見立てだった。
 今更医神が出て来たところで、怪我の治りが早まることはない。それはアスクレピオス自身も、十二分に分かっているはずだ。
 だというのに、手を振って追い払っても、彼は立ち去ろうとしなかった。
 じっとこちらを、睨むように見詰めて、無言を貫く。
 なにか言いたげな眼差しだけれど、生憎と彼の心は伝わってこなかった。
「……なに」
 言ってくれないと、分からない。
 沈黙という重圧に耐えかねて恐る恐る問いかけても、彼は依然、微動だにしなかった。
 我慢比べの様相が強くなり、息苦しい。部屋の空気が二度も、三度も下がった気がして、ブランケットが失われたのもあり、寒くて堪らなかった。
 どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう。ただでさえ退避の判断が遅れて、焦って走っていたら躓いて、転んで、足を挫いて皆に迷惑をかけたばかりだというのに。
 情けない姿を晒してしまった。マスターである自分が足を引っ張ってどうする。
 逃げ遅れた立香を庇い、傷を負ったジークフリートのことも気になった。後で謝りに行こうと思っていたのに、すっかり忘れていた。
 目を閉じれば、レイシフト先の景色が鮮やかに蘇った。もっと早く判断出来ていれば、地面に突き出た木の根を上手に避けられていたらと、今となってはどうにならないことが、次々と浮かんでは消えていった。
 意気消沈して、能面の如く突っ立っている男のことを気に掛ける余裕は失われた。
 深く長い息を吐き、立香は改めて枕に頭を沈めた。瞼を閉ざし、視界を闇一色に塗り替えて、他者の存在を意識から追い出した。
「おやすみ」
 一応の義理としてそれだけ言って、背中を丸め、本気で眠る体勢を作った。
 ブランケットは諦めた。アスクレピオスのことだから、身体を冷やすのは宜しくないと、帰り際に掛けてくれるだろうと、それだけは期待した。
 ところが、掛けられたのは薄手の布ではなかった。
「……ちょっと」
 正確には、覆い被さって来た――包帯で覆われた足に、手が。
 布越しでもはっきりとそう分かる、五本の指を持った男の手が、だ。
 押さえつけるようなものではなかったので、痛みが酷くなることはない。けれど表面をなぞるように動かされて、疼かないはずがなかった。
 咄嗟に足を引っ込めて、逃げた。文句を言うのも忘れず、閉ざした瞼を持ち上げたが、視線は絡まなかった。
 アスクレピオスがどこを見ているかなど、確かめるまでもない。包帯に隠された立香の足首、それ以外に、彼が注視するものがあるだろうか。
 答えは否、と自分の中で勝手に結論づけて、無事な方の足を盾にすべく身動ぐ。
 だが到底、間に合うわけがなかった。
「なにを、怒っている」
「はあ?」
 唐突に問いを投げて来たかと思えば、アスクレピオスは断りもなく、包帯の留め具を外した。長い袖越しだというのに器用で、止める暇もなかった。
 挙げ句の果てに質問内容が、これだ。彼がなにを言っているのか、立香は咄嗟に理解出来なかった。
「なんでだよ。怒ってるのは、アスクレピオスの方だ、ろ……う――――っ!」
 思わず声を大にして、がばりと上半身を起こそうとした。両手をつっかえ棒にして胸から先を持ち上げかけて、動きすぎた足が添えられていた男の手に激突した。
 これぞまさに、自業自得。
 それ以外に今の彼を表現する言葉は、見当たらない。
 枕を抱き潰し、声にならない痛みに悶絶する立香に、アスクレピオスは何度目か知れない溜め息を零した。
 慰めているつもりなのか、人の臑の辺りをぽんぽん、と撫でる。しかしこの気遣いは、少しも嬉しくなかった。
「なんなんだよ、もう」
「お前が帰還した時、すぐに出て行けなかったのは、悪かったと思っている」
 愚痴を零して、出掛かった鼻水を啜っていたら、言われた。雑な音に掻き消される程に小さな声だったので、危うく聞き逃すところだった。
 立香が、これ以上の活動は不可能と判断され、帰還の途に就いた時、アスクレピオスはいつものように、蘇生薬の研究に明け暮れていた。先だって手に入れたとある魔獣の体液の成分が、細胞活性化に繋がる可能性を見出したとかで、その解析に心血を注いでいた。
 お蔭で医務室は使えず、オペレーションルームに備え付けられていた救急箱の中身で対処せざるを得なかった。
 その点は、本気で反省しているのだろう。マスターがレイシフトを敢行する際は、カルデア内の全サーヴァントに連絡がいくのだが、それさえ見ていなかったようだ。
 夢中になるあまり、他に気が回らなかったらしい。
 そんなことだと思っていたので、呆れはしたが、怒ってはいない。そのはずだ。そのつもりだった。
 違うのだろうか。
 同行したサーヴァントの状態を確認もせず、治療を受けてすぐに部屋に引き籠もった。ベッドに倒れ込んで、電気を消して、頭までブランケットを被って、それでも眠らずに過ごしていたのは。
「怒ってない」
「そうか?」
 改めて言葉にして、自分の認識が間違っていないと主張した。だというのにアスクレピオスは喉の奥で笑って、手際よく包帯を解いていった。
「……いや、待って。何してるの」
「念の為だ。確認くらいはさせろ」
「必要ないって、オレ、言ったよね?」
 するすると、極力患部を刺激しないように。慣れた手つきで、至極当然のように外されたので、うっかり反応が遅れた。
 慌てて引き留めようとするけれど、時既に遅し。
 べりっと大判の湿布まで剥がされて、丸められて、ブランケットとは別方向に放り投げられた。
「横暴!」
「うるさい。動くな」
 それを片付けるのは誰だと思っているのだろう。本当に医者なのかと言いたくなる粗雑さに抗議するが、腫れた利き足を人質に取られている手前、どうすることも出来なかった。
 鋭い言葉で釘を刺されて、歯軋りして耐えるしかない。
 青黒く染まった皮膚はぶよぶよして、感触は普段のそれとは大きく違っていた。
「なるほどな」
 さほど大きくはないが、決して小さくもない踵を掌に添えて、持ち上げたり、手前に引き寄せたり。
 抵抗がないのを良い事に、そうやってひと通り観察を終えた男は満足げに頷いて、立香の足をベッドに戻した。
 一方的に動かされていた関節がようやく平穏を取り戻して、ホッとした。自発的ではなく、他者の裁量で操られるのは、何度やっても落ち着かなかった。
「気が済んだなら……って、湿布」
「貼ったまま圧迫させ続けるのも、却って宜しくないとは、言われなかったのか?」
 湿布を長時間貼っていたら、皮膚がかぶれる。
 包帯で圧迫し過ぎると、必要な血液の流れも滞ってしまう。
 サンソンからも時々束縛を緩めるようにと、確かに言われていた。完全に失念していた事実に愕然となって、立香は頭を抱えたくなった。
「ぐう」
 潰れた蛙のような声を漏らしたら、笑われた。尖ったマスクの先が孤を描くように踊って、胸元に垂れる長い髪が左右に揺れていた。
 顔の大半が見えないのが、勿体ない。
 どうして今の彼は、その姿を選んだろう。昨日か一昨日、食堂で見かけた時は、第二再臨の姿だったはずなのに。
 瞳を宙に泳がせ、少し遠くなった日の記憶を振り返り、改めてアスクレピオスを見る。
 今度は気付いてもらえて、空中で視線が交錯した。
 目が合った途端、ふっ、と彼が纏う空気が柔らかくなった。錯覚か、思い過ごしかもしれないが、とにかく立香はそう感じた。
「アスクレピオス」
 気持ちが軽くなって、今なら大丈夫だろうと、身動ぎ、肘を身体に寄せた。二度と失敗しないよう、慎重に、上半身を起こそうとした。
 だのに、許されない。肩の上に左手を翳されて、それ以上行けなくなってしまった。
「分かってはいると思うが、言っておくに越したことはない、か……」
「なんの話?」
 仕方なくベッドに戻って、急に畏まった男に眉を顰めた。枕の下に行き場がなくなった腕を差し込み、頭をほんの少し高くして、暇を持て余した無傷の方の足でシーツを掻き回した。
 それさえも見咎めて、アスクレピオスが上から押さえつけて来た。こちらは傷を負っていないので、容赦がない。遠慮なく体重を掛けて、挙げ句前屈みに身を寄せて来た。
「マスター、……藤丸立香。お前は僕のパトロンであり、お前の役目は、僕の前に珍しい患者を連れてくることだ」
 言いながら腕の位置を変えて、ベッドを軋ませた。圧迫感が失われたのに安堵しつつも、気配がより近くになったのには緊張させられて、立香は落ち着きなく瞳を泳がせた。
 その言い分は、これまで幾度となく聞かされて来たものだ。今更確認されるまでもなかった。
 だというのに、急にここで持ち出してくる意図が分からない。
 戸惑っていたら、彼の右手が素早く動いた。
 毛先に吊り下げた銀の輪を揺らし、首の後ろでごそごそ動かした。かと思えば特徴的なペストマスクの先端がぐっと下がり、そのまま胸元へと滑り落ちた。
 あ、と思う間もなく、それは立香の膝元に転がった。
 こればかりは、床に落とす気になれなかったらしい。
 放置されたままのブランケットを憐れんで、立香は小刻みに肩を震わせた。
 しかし笑っていられたのは、ここまで。直後に足元が大きく撓んで、心臓が飛び出るくらいに驚いた。
「ええ?」
「だが、な。マスター。お前は忘れているかもしれないが」
「ちょっと、待って。いた、あっ」
 何事かと思えば、アスクレピオスが勝手にベッドに腰を下ろしていた。半身を捻り、浅く座って、その分スプリングが沈んだのだ。
 挙げ句に利き足を、攫われた。下から掬い上げるように掲げられて、剥き出しの踝付近が鈍い痛みを訴えた。
 これまでの丁寧さが嘘のように、乱暴だった。
 鎮まりかけていた熱が奥深くから蘇り、伸びてしまった筋を中心に暴れ始める。突き刺さる、というよりは槌かなにかで殴られているような痛みで、立香の目尻には自然と涙が浮かび上がった。
 医者のくせに、患者に狼藉を働くとはいかがなものか。
 治すのではなく、悪化させてどうする。言葉が出ないので、代わりに両手を振り回し、ぽかすか空気を殴っていたら、面白かったらしく、アスクレピオスが口角を歪めて笑った。
 不遜な表情を見せられて、背中にひやりとしたものが流れた。
「ア……」
「お前自身も、僕の患者だ」
「だったら――痛いって。いたい。やだ」
 悲鳴を上げるが、聞いてもらえない。腫れが一番酷い箇所をすり、と親指の腹で擦られて、一粒だった涙は二粒に増えた。
 愛おしむように、慈しむようになぞられても、少しも嬉しくない。
 だったら違う場所に触れてくれ、と心の中で罵っていたら、不意に、彼が怒っていたのを思い出した。
「貴様が負う傷も、罹る病も、言うなればすべて、僕のものだ。それを努々、忘れてくれるな」
 ただ淡々と告げられる言葉からは、その感情が見えづらい。
 しかも些か度が過ぎる台詞を吐かれた気がして、立香は嗚呼、と天を仰いだ。

うちつけの 契りと人や 思ふらむ 心のうちを 知らせてしがな
風葉和歌集 巻十一 765
2019/10/19 脱稿

命だに 世に長らふる ものならば

「脱げ」
 開口一番そう言われて、藤丸立香は呆気にとられて凍り付いた。
 面と向かって、藪から棒に。突然利き腕を掴まれたと思ったら、軽く引っ張られて、以上の発言だ。
 真正面から放たれたひと言に、愕然としたまま動けない。
 思考回路が停止して、悪い夢でも見ている気分になった。
 直前まで一緒に談笑していた仲間達も、前触れなしの闖入者に揃ってぽかんと口を開いていた。
 食堂の一角だった。状況次第では耳に心地よい低い声は、雑然とした空間に思いの外広く響き渡っていた。
「なにをしている。さっさと脱げ」
「え。え、え……えええ? いや、えっ? なんで。ちょ。ちょまっ」
 硬直したままだった立香の耳に、苛立ちを含んだ声が重ねて送りつけられた。背もたれのある椅子に座ったまま、上半身だけを斜め後ろに振り向かせていた彼は、時間の経過と共に機嫌を悪くしていく男にさーっと青くなった。
 我に返った瞬間、肘を引いて囚われた腕を取り返そうとした。けれど叶わない。細身に見えるギリシャ神話の英雄は、案外力が強かった。
 もしくは普段こそ非力ながら、時と場合によっては思いがけない火力を発揮するのか。
 なぜ、今。
 どうして、彼が。
 湧き起こる疑問がぐるぐる頭の中を駆け巡る。首筋に生温い汗が伝った。威圧的な眼差しを斜め上から浴びせられて、立香はたまらず息を呑んだ。
 喉仏が上下に揺れた。もう一度、利き腕を拘束する指を解こうと足掻いたが、乱暴に振り払われて、それで終わりだった。
「アスクレピオス」
「先輩!」
 薄ら寒いものを背中に感じた立香が声を上げるのと、テーブルを挟んで向かい側にいたマシュが立ち上がったのは、ほぼ同時だった。
 ガタン、と椅子が床を擦る音が耳朶を打つ。それに触発されて、立香との間に割り込まれた格好の織田信長が、拳でテーブルを殴った。
「おいおい、なんだなんだ。いきなり出て来て、脱げ、とはどういう魂胆だ?」
 斜向かいに陣取っていた沖田総司も険しい顔つきをして、真っ白い蛇を伴った男を睨み付けた。周辺にいた他のサーヴァントも騒ぎを聞きつけ、一触即発直前の事態を注意深く観察していた。
 キッチンの方ではエミヤやブーディカらが、調理の手を休めることなく、だがトラブルになれば即座に介入出来るよう、聞き耳を立てていた。
 大勢の視線が一点に集まっている。
 突き刺さる複数の思惑にもうひとつ冷や汗を流して、立香は仏頂面を崩さない医神の肘をバシバシ叩いた。
「放してって、アスクレピオス。急にどうしたのさ」
 血気盛んな森長可が、いつでも武器を振りかざせるように構えているのが見えた。彼なら問答無用で飛びかかって来そうなところだが、動線上には織田信長がいる。彼女がさりげなく右腕を翳して牽制しているお蔭で、今はまだ、この場に血の雨が降らずに済んでいた。
 しかしなにかひとつ、きっかけがあれば、どうなるかは分からない。
 目が合った途端、戦闘狂に不敵な笑みを浮かべられて、立香は反射的に首を横に振った。通じるかどうかは賭けだったが、大丈夫だと視線だけで合図を送って、アスクレピオスに向き直った。
 ドクドクと脈打つ鼓動が、それに伴って増大する痛みが、掴まれた場所から向こうに伝わっているようで怖い。
 その恐怖を誤魔化すべく、しれっと笑顔を浮かべて小首を傾げてみせたが、かの医神は微動だにしなかった。
 値踏みするような視線を送りつけ、不満げに口をへの字に曲げていた。彼の沈黙に引きずられてか、直前まで物言いたげだったマシュまでもが押し黙った。
「殿!」
 ただ森長可だけが短気を働かせ、命令を欲しがった。くい、くい、と顎をしゃくって、今すぐにでもアスクレピオスに飛びかかろうと、うずうずしていた。
 このまま放っておいたら、勝手に動き出した彼を基点に、大乱闘が発生する。話が通じるようで通じない、無駄に忠義心が高いバーサーカーの暴走ぶりを思い出して、立香はくらりと来た頭を無事な方の手で押さえた。
「マスター。どうした、とは、心外だな。貴様こそ、どうした。なぜ右足を引きずっている」
「ちょ、うわ」
「なんじゃと?」
 目眩を堪えていたら、心の動揺を見透かしたかのように、アスクレピオスが
淡々と言い放つ。
 ただでさえ導火線だらけのところに突然放り込まれた火種は、言われた当の立香以上に、周りの存在をざわつかせた。
 真っ先に織田信長が右の眉を持ち上げ、マシュは一旦脇にやった視線を瞬時に戻した。それ以外からも無数の視線が向けられて、見えない槍が立香を四方八方から突き刺した。
 全身穴だらけになる自分の姿を空想して、立香は尚も言い募ろうとする男の手首を、がしっと掴んだ。
「なな、な、なんの。なんのこと、かなあ?」
「ふざけているのか?」
 平然を装うとしたけれど、動揺を隠しきれなかった。
 ほんの少し上擦った声で制した立香に、アスクレピオスは眉間に皺を寄せて顰め面を作った。
 元から綺麗な顔をしているから、多少歪んだところで容貌は大きく崩れない。
 なんて羨ましい、などと、余計なことを頭から追い出して、立香は渾身の力を込めて長い袖に隠されたアスクレピオスの手首を握り締めた。
 ただそれでも、彼はピクリともしなかった。痛みを感じないのか、平然と受け流して、深々と溜め息を零した。
「歩いている時に、重心が平時より僅かに傾いていただろう。先ほど振り返る時だって、そうだ。痛みがあるのではないか。あれは庇っている動きだ。いいから僕に見せろ。脱げ」
「うわあああああ!」
 一切空気を読むことなく、言いたい事だけをきっぱり言ってのけた。問答無用で人の服を脱がせようと、自由が利く方の腕を伸ばして来た。
 袖という障害物があるのに、器用に立香の上着を抓んで引っ張った彼に、やられた方はかつてないほど大きな声で悲鳴を上げた。
 椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がって、捲られた部分を強引に隠した。弾みでアスクレピオスの方に倒れかけたのを利用して、身長がほぼ同じ彼の肩を掴んで支えにした。
 突き飛ばされた格好になった医神は、瞬間的に左足を後ろに下がらせ、バランスを取った。必死の形相を浮かべる立香を訝しげに見返して、それからようやく、左右で身構える多くのサーヴァントに意識を傾けた。
「ちょっと。ね? ちょっと、向こうで話そう。ね?」
「先輩、もしかしてさっきのレイシフト先で、なにか」
「大丈夫。アスクレピオスが心配性なだけだって。問題ないから、みんなも安心して」
 己の身に危険が迫っていると、今更になって悟ったらしい。
 ようやく手首を解放されてホッとした矢先、マシュが高い声で訴えかけて来て、立香は早口に捲し立てた。
 彼女だけでなく、注意深く動向を見守っていたサーヴァントたちにも告げて、アスクレピオスの肩をトン、と叩く。
 盛大な溜息が聞こえた。愚か者、と罵る声は、森長可の耳まで届かずに済んだ。
「なんじゃ、驚かせおって。大事ないんじゃな?」
 織田信長が着席し直して、左脚を上にして足を組んだ。マシュはまだ立ったまま、前のめりでこちらを見ている。
 彼女らの目を順番に見詰め返して、立香は肩を竦めて苦笑した。
「アスクレピオスの誤解、解いてくるから。みんなはゆっくりしてて」
 先に歩き出した背中を指差し、その手を広げてひらひら振った。我ながら下手な誤魔化しだと内心冷や汗だらけだったが、追求の声は特に上がって来なかった。
 沖田総司がなにやら複雑な表情を浮かべ、マシュの袖を引いて落ち着くよう諭す。その隙に傾いていた椅子をテーブルの下に戻して、立香はドアを前に待っている男を追いかけた。
 接近する存在を感知して、ドアは自動的に開いた。廊下に出ればひとの気配は一気に激減して、凛と冷えた空気が鼻腔を擽った。
 気温や湿度は管理されているはずだが、人気があると、ないとでは、体感的に大きく違ってくる。
 無意識に指先に息を吹きかけた立香を振り返って、アスクレピオスは右の眉をほんの少し持ち上げた。
「いつも、そうなのか」
「なんのこと?」
「分かっているだろう。辛いなら負ぶってやってもいいが、どうする」
「その気遣い、ちょっと気持ち悪いです」
「そうか。案ずるな、冗談だ」
「…………」
 短いやり取りを済ませて、立香が頬を膨らませたのを確認し、アスクレピオスが右足を前に繰り出した。踵が高い靴で固い床を蹴り、カツカツと調子良くリズムを刻んで歩き始めた。
 ここでもし、自分だけ引き返したら、彼はどうするだろう。
 意地悪な感情がむくりと首を擡げたが、今度こそ大乱闘が勃発しかねない。ただでさえ諸々に不安要素を抱えている現カルデアで、無用なトラブルは避けたかった。
 となれば、行くしかない。
「なんでバレたのかなあ」
 覚悟を決めた途端、隠し通して来たものがぽろりと零れ落ちた。がっくり肩を落とし、項垂れて、額を覆う前髪をくしゃりと握り潰した。
 半分近く塞がれた視界で前方を窺えば、立ち止まったままの立香を気にして、アスクレピオスが首から上だけで振り返った。
「マスター」
「はいはい、今行きますってば」
 長いもみあげが、彼の胸元で軽く弾んだ。毛先だけ色が異なるそれが波打つ様を視界に収めて、観念した立香はのそのそと小幅に足を動かした。
 食堂で、皆の前で披露した歩き方とは、明かに違う。背中は丸まり、左手は自然と右脇腹へ回り込んだ。
 摺り足気味で、少しでも衝撃を減らそうという努力を欠かさない。
 追い付いてくるのを待っていたアスクレピオスは、立香が横に並んだ途端、またしても盛大な溜め息を零した。
「どうして隠す」
「別に、そこまで騒ぐことじゃないし」
「嘘をつくな」
「きゃああ」
 こう何度もやられると、気分が悪い。ついムキになって反論したら、横から伸びてきた手が人の耳朶を抓み、引っ張った。
 満身創痍まではいかないけれど、こちらは一応、怪我人だ。それを手加減無しに捻られて、口から飛び出た悲鳴は甲高かった。
 ただでさえ身体を捩ったら痛いのに、過分な力を加えさせられて、脇腹の疼きが酷くなった。
 ズキズキと、広範囲に亘って棘が突き刺さっているようだ。内側から迸る痛みに耐えていたら、偶々近くにいた少女が、声を聞きつけて走ってきた。
「まあ、マスター。どうかなさって?」
 蹲る一歩手前で堪えていたところに、ナーサリー・ライムが駆けつけた。傍に佇む医神にも顔を向けて、状況が理解出来ないものの、彼女は咄嗟にマスターを守る行動をとった。
 即ちアスクレピオスとの間に小さな身体を割り込ませ、両手を広げて凛と胸を張った。 その健気な姿に感じ入るものがあったのか、医神は険しかった表情を僅かに緩め、絵本の少女に合わせて膝を折った。
 目線の高さを揃えて、長い袖を翻し、ナーサリー・ライムの頭を軽く撫でた。
「お医者様、マスターをいじめるのは良くないわ」
「いじめたわけではない。聞き分けがないのを諭していただけだ。だろう? マスター」
「そうなの? マスター」
 普段とは異なる優しい声色を聞かされて、若干納得がいかない。
「そこでオレに振るの、狡くないですか。お医者様」
 率直な疑問をぶつけてくる無垢な眼差しに、違う、とは言い難い。
 頑張って嫌味を返したつもりだけれど、アスクレピオスはまるで意に介さなかった。医者を医者と呼ぶことの無意味さを痛感させられて、立香は苦虫を噛み潰したような顔を作った。
 愛くるしい少女の手前、弱音を吐くことも出来ない。痛みを我慢して膝を伸ばし、立ち上がって、安心させてやるべく無理に笑顔を作った。
 唇を僅かに開き、口角を左右均等に持ち上げて、目を細め、首にほんの少し角度を持たせる。
 不自然にならないよう心がけていたら、ナーサリー・ライムは一瞬戸惑いを浮かべた後、コクンと一度だけ頷いた。
「お大事に、マスター。お医者様、マスターをよろしくね」
「ああ、任された」
 アスクレピオスに向かっても小さく頭を下げて、行儀良く去って行く。
 パタパタと続く足音が遠ざかるのを待って、立香は相変わらずの冷たい眼差しに小鼻を膨らませた。
「なに」
「そういうのは、止めておけ。癖になるぞ」
「……じゃあ、どうしろっていうのさ」
 軽くねめつけるが、淡々と返されただけで終わった。告げられた的確且つ飾らない意見は、素直に受け止められなかった。
 不満を口にするが、合いの手は返って来ない。結局メディカルルームに到着するまで、アスクレピオスはひと言も喋らなかった。
 愛想を尽かされただろうか。
 そう長くもないが、短くもない距離を行く間、そんなことばかりが頭を過ぎった。
 カルデアの戦力として召喚されたサーヴァントとは、出来得る限り良好な関係を築いておきたい。個性が強く、故に英雄として座に登録された存在を取り纏めるのは大変だが、それが出来るのは立香だけなのだ。
 八方美人と呼ばれようが、構わない。ごく稀に意見が衝突し、互いに譲れなくて声を荒らげることがあっても、最終的には和解して、手を取り合える間柄になるのが理想だった。
 ところがこの医神とは、仲睦まじい関係を維持するイメージが湧かない。王の冠を戴く猛者らには、対等を装いつつ時に自ら謙ったり、道化を演じることでバランスを取っている部分があるけれど、彼にはその手も通じそうになかった。
 会話に困るサーヴァントは、他にも多数在る。そもそも会話が成立しない相手もちらほらと。そんな彼らと過ごして来た日々を糧に、算段を練るものの、妙案が浮かぶ前に医務室のドアは開かれた。
 直前まで密閉されていた空間は、ほんの少しアルコール臭い。
 何百回と嗅いでも慣れない消毒薬の臭いに軽く噎せていたら、診察もまだ済んでいないというのに、気の早い男が保冷庫から冷却パックを取り出した。
「いつまで突っ立っているつもりだ。こちらに来て、患部を見せろ」
「全部お見通しってこと、かぁ」
 青みがかったゲル状のものが詰められた、細長いシート状のものがいくつも連なっているものだ。患部を冷やすなら袋状の氷嚢でも充分だが、それだと幅が足りないと判断されたようだ。
 こんな大判サイズが必要なくらい、冷やすべき範囲が広いと、悟られている。
 最早隠し通すのは不可能と諦めて、立香は診察用の椅子ではなく、その奥にあるベッドに腰を下ろした。
 上着のボタンを外し、袖から腕を引き抜く。下に着込んでいた通気性の良い素材の肌着を、時間をかけて首から引き抜く。
 不要になった衣類を畳みもせず、丸めて枕元に放り投げて、最後にベルトを外し、腰回りを寛げた。
 そうやって露わになった黒ずんだ打撲痕の全容に、アスクレピオスは静かに眉を顰めた。
「呼吸が苦しい、ということはないんだな」
「おかげさまで」
 数少ない資源と、素材を求め、繰り返されるレイシフト。
 魔力保有量が圧倒的に少ない立香は、喩えどれほどの危険が待っているとも知れなくても、戦闘を繰り広げるサーヴァントたちの傍にいる必要があった。
 その驚異的な近さは、彼が率いる英雄達を強化する。
 藤丸立香が成し遂げて来た数々の偉業は、言い換えるなら、彼が己の身の安全を犠牲にして成り立っていた。
 肋骨が折れていないか心配したアスクレピオスに軽口で応じて、立香はズボンのウエスト部を下げた。下着もほんの少し引っ張って、痛々しい黒ずみの下限を表に出した。
 皮下出血は右胸のすぐ脇から始まり、臍付近まで広がって、腰骨の近辺まで続いていた。「というか、帰ってきた時は、そんなに痛くなくて」
「当たり前だ。内出血が止まらなくて、後から腫れて来たんだろう」
 ここまで大事になっていると、立香自身、今になって驚かされた。
 帰還直後は少し気に障る程度で、殊更騒ぎ立てるほどのものではないと信じ切っていた。
 だからアスクレピオスのあの態度は大袈裟だと思っていたし、過保護が過ぎると疑わなかった。
 結果として、医神が正しかった。
「ごめん」
「分かれば良い」
 ようやく受け入れて、反省して頭を垂れる。
 アスクレピオスは素っ気なく言って、冷却シートを薄手の布で包んだ。そうして立香の方へ歩み寄ろうとして、このままでは治療がし辛いと判断したのか、ふう、と深く息を吐いた。
 途端に彼の周囲に淡い光の粒子が湧き上がり、きらきら瞬いたかと思えば、一瞬のうちに霧散した。ふわっと浮き上がっていた細かな粒が四方に散らばって、入れ替わるように黒い靄のようなものが噴出した。
 それが固まり、形を為して、アスクレピオスを包み込む。
 瞬き数回分にも満たない、ごくごく僅かな時間での出来事だった。
 人間もこれくらい素早く着替えられたら、どれだけ楽だろう。痛みを堪えつつ脱ぎ捨てた自身の着衣をちらりと見て、立香は第二再臨の姿を取った医神を前に、両手をもぞもぞさせた。
「少し待て」
 邪魔になる長い髪を後ろに集め、束ねるのは自動的に出来なかったらしい。アスクレピオスは一旦両手を空にして、髪を結ぶための紐を取った。
 手慣れた仕草で、鏡も使わずまとめ上げて、ようやく治療に取り組めると患者である立香に向き直る。
「……どうした」
 その口元には、黒をベースとしたマスクがあった。バンダナは自動で出てこなかったのに、こちらはしっかりと装着されていた。
 どういう基準で選出されているのか、さっぱり分からない。そもそも空調からして厳重に管理されているカルデア内部で、ガスマスクが必要だとは思えなかった。
 湿布や消毒薬の臭いが気になった、という理屈は、いくらなんでもあり得ない。
「いや。それ、今、必要かな? って」
 膝元に転がしていた手を持ち上げ、指差して言えば、アスクレピオスは一寸考える素振りを見せた後、嗚呼、と首を縦に振った。
「これか? 僕はどちらでも構わないが。なんだ、マスターは外している方が良いのか」
「へ? あ、いや。いやいや、べつに。別にね? オレも、別に。どっちでも良いんだけど」
 左右にセットされたキャニスター付近を指し示しながら、逆に訊き返された。それで立香はハッとなって、大慌てで両手を横に振った。
 焦ったお蔭で、声が変なところから飛び出した。ひっくり返ったの自分の声になにより吃驚して、顔が勝手に赤くなる。体温が若干上がったらしく、変な汗が出て腋近辺が生暖かかった。
 彫像のような端正な顔立ちが隠れるのは些か勿体ないと、ほんの少し思ったが、本当に、ほんの少しだけだ。むしろあの綺麗すぎる顔で間近から身体を調べられ、治療される方が心臓に悪かった。
「男なのに」
 どうして神格を有する――有していなくても――サーヴァントの数々は、こうも美形ばかりなのだろう。それに比べて、と鏡の前に立つ度に、己の平々凡々な顔立ちに傷つく身にもなって欲しい。
 およそアスクレピオスには罪がない恨み節を心の中で吐き捨てて、立香はなかなか近付いてこない医神に眉を顰めた。
 彼は先ほどの意見を耳にして、どう受け止めたのか。おもむろに首の後ろに手を回し、顔の下半分を拘束するマスクを取り外した。
 だらんと左手にぶら下げて、長らく放置されている冷却シートの横に転がした。
「うぐ」
「さて、いい加減始めるか」
「どうして、あの。アスクレピオス先生?」
「その方が良かったんだろう?」
「言ってない。言ってない」
 大理石を思わせる白い肌に、先ほどとは打って変わって赤みを帯びた毛先がよく映えていた。不遜な笑みを口元に浮かべられて、立香は反射的に否定の文言を口走った。
 そんな風に聞こえたのなら、不本意だ。一応抗議してみたが、引きつり気味の表情では説得力などありはしない。
 益々口角を歪めた医神に迫られて、及び腰になった立香は後退を試みた。悪足掻きを承知の上でベッドによじ登ろうとしたら、斜め後ろに衝き立てた腕の脇を、なにかがするりと通り抜けた。
「ひいっ」
 冷たいものが走り去ったかと思ったら、楕円の軌道を描いて戻り、手首から駆け上がって来た。さながら蔦が支柱に絡まるように、螺旋を刻んでよじ登って、肩口の辺りからひょっこり顔を覗かせた。
 それはアスクレピオスが連れ回している、あの白い蛇だった。
「な、なんだ……びっくりした」
 艶々した鱗は意外に心地よく、火照った肌を冷やしてくれる。ちろちろ覗かせる舌は細く、小さめの瞳はつぶらで、こちらに危害を加える雰囲気はなかった。
 いきなりだったので驚いたが、正体が分かれば怖くない。
 乱暴に振り払わなくて、良かった。ホッと息を吐いていたら、間近なところからコホン、とわざとらしい咳払いが聞こえた。
 顔を上げれば、どことなく機嫌が悪そうな顔があった。
 直前までの和やかな気配の逃亡先がどこなのか、立香には見当も付かなかった。
「腕はどこまで上がる」
「ええと、これくら……いっ」
「無理はしなくていい。内臓にダメージがなければ、二週間もすれば、内出血の跡も消えるだろう」
「うええ、そんなに?」
 戸惑っていたら質問されて、応じるべく利き腕を持ち上げれば、垂直になるかなり手前が限界だった。出そうになった悲鳴を堪えて歯を食い縛っていたら、先ほどとは打って変わって、優しい声が降ってきた。
 患部を上にして寝転がるよう指示され、大人しく従ったところで、ずしっと重い冷却シートが被せられた。
「あれ、案外……あ、違う。やっぱり冷たい」
 最初はそこまで冷たさを覚えなかった。むしろ意外過ぎる重量と、圧迫感が意識の大半を支配した。
 しかし時間を経るうちに、シートを覆う薄手の布を越えて、ひんやりとしたものが伝わって来た。
「しばらくそうしていろ」
「どれくらい?」
「そうだな。お前達の言う時間で……二十分程度、というところか」
 横になりはしたが、靴を脱いでいなかったので、足首から先は外にはみ出している。
 屈むと痛いので放っておいたものを、気になったのだろう。アスクレピオスがわざわざ脱がせてくれた。
 こういうところだけは、献身的だ。元気な時に顔を合わせれば、やれ珍しい病人を連れて来いだとか、怪我人はいないのだとか、散々なことを口にするくせに。
 一方で立香が少しでも体調を崩そうものなら、鬼の首を取ったかのように、喜び勇んで押しかけて来た。
 今回も、その流れだ。
「というか。……これだけ?」
 てっきり他にも注射や、服薬が待っていると思い込んでいた。
 ところがアスクレピオスは冷却シートがずり落ちないよう安定させると、立香の枕元に白蛇を残し、背もたれのない椅子に腰を下ろした。悠然と足を組んで、こちらの困惑など知らぬ顔で目を細めた。
「ああ。冷やし終えたら、しばらく置いて、もう一度冷やす。凍傷になっては困るからな」
「治療は……」
「しているだろう。患部の冷却も、立派な治療のひとつだ」
 ほんの少し頭を浮かせた立香を咎めてか、蛇がぬるっと背後から顔を出した。
 さりげなく身体に巻き付いて、離れていかない。アスクレピオスの代わりに見張っているのだと、言葉は分からないけれど、行動から推測が可能だった。
 だからといって、ただ寝転がっているのは退屈だ。頭は冴えている。行き場のない左腕を身体の前方に投げ出して、頬杖ついた男を眺めるだけというのは、苦行だった。
「アスクレピオス」
「痛いのなら、痛いと。ちゃんとそう言え。マスター」
「……だから、痛くなかったんだ。最初は」
「分かった。鎮痛剤を注射してやろう。今なら手元が狂って、針がどこに刺さるか分からないぞ」
「ひどい」
 雑談が欲しくて名前を呼べば、もう片付いた筈の話題が提示された。
 懲りない彼に苦情を申し立てた途端、空恐ろしいことを言われた。本当にやりかねなくて震えていたら、顰め面を面白がった男がふっ、と気の抜けた笑みを浮かべた。
 それが思いの外珍しく、且つ意外で、立香はぽかんとなった。目を点にしていたら、気付いたアスクレピオスがすぐに表情を険しくして、頬杖を解き、机に積まれていたファイルの一冊を手に取った。
 表紙に何も書かれていないそれを膝に広げて、何ページか捲って、表面をカツカツと指先で叩く。
 そこに何が記されているのか、立香からは見えない。ただそのファイルがなにを記録したものかについては、辛うじて覚えがあった。
「なあ、マスター」
「なに」
「痛みというものは、我慢すれば消えるものではない。表向き感じなくなったとしても、それはお前の中で蓄積し、肥大し、腐敗し、やがては膿となって溢れ出すぞ」
 同じものを広げて、ダ・ヴィンチやドクター・ロマニ、それに医療行為に通じたサーヴァントなどが渋い顔をしたのを覚えている。今のアスクレピオスは、その時の彼らと同じような表情をしていた。
 またか、と曖昧に微笑んで、立香は伸ばしていた左腕を引っ込めた。枕の代わりに頭の下に敷いて、眉間の皺を深くした男に目尻を下げた。
「大丈夫だよ、オレは。今までも、なんとかなった。だから」
「藤丸立香」
「――――っ!」
 言いかけて、遮られた。
 思いもよらず声に出された己の名前にビクッとなって、立香は咄嗟に起き上がろうとした。
「くうっ」
 しかし、果たせない。口を大きく開いた白蛇が威嚇して牙を覗かせたし、なにより脇腹に走る痛みが、身体の自由を奪っていた。
 僅かに温くなったジェル状の冷却シートが、鉛のように重く感じられた。
 アスクレピオスは両手を使ってファイルを閉じ、荒っぽく机に戻した。勢いのままに立ち上がって、大股でベッドへと迫った。
 一瞬、殴られるのでは、と恐ろしくなった。
 彼は嘘を吐かれるのを何よりも嫌う。健康診断の数値を誤魔化そうものなら、烈火の如く怒り狂い、正確な数値を白状するまで頑として譲らなかった。
 この期に及んで気丈に振る舞おうとする立香を、彼は許すだろうか。
 答えは、否だ。ならばと、ひとり想像を膨らませて怯え、震えていたら、見透かした男から何度目か知れない溜め息を喰らった。
「ここまで来ると、最早病気だな。貴様のそれは」
「……どうも」
「勘違いするな。褒めてなどいない」
 降りてきた拳は直前で解け、ほんの僅かにずれ動いた冷却シートの向きを補正した。一瞬だけ机を振り返り、置かれたデジタル時計がどれだけ進んでいるかを確認して、椅子には戻らず、立香の足元に腰を据えた。
 彼の分の体重を受けて、備え付けの寝台がギシ、と軋んだ。
「『痛い』と言葉にするのは、弱音を吐いたことにはならない。それは純然たる事実でしかなく、それ以上でも、それ以下でもない」
 そこに座られると、彼の顔が見えない。膝から先ならどうにか視界に収まったが、そこから上は、首を擡げなければ難しかった。
 だが少しでも姿勢を変えようとすれば、白蛇の攻撃に晒された。シャー、と険しい顔つきで睨まれては、蛙の如く小さくなるしかなかった。
 そんなだから、アスクレピオスがどんな顔をして喋っているのか、空想するより他になかった。
 顰め面なのか、呆れているのか。
 馬鹿にしているのか、蔑んでいるのか。
 案外、どれも違う気がした。
「言葉にしろ、藤丸立香。でなければ、――僕でも気付けない時が来る」
 憐れまれているのか。
 それもどうやら違っている予感がして、立香は音も無く立ち上がった男の背中を目で追いかけた。
 どうして顔を見せてくれないのだろう。
 わけもなく、無性に寂しくなった。緩んだ唇から悲嘆の言葉が零れ落ちそうになって、すんでのところで押し留めた。
 今、自分はなにを言おうとした。
 無意識に伸びかけていた左肘にも目を向けて、立香はやり場の無い感情を、ぐっ、と力を込めて握り締めた。
 弱音は、吐きたくない。いいや、吐ける状態になかった。
 人理が焼却された時、カルデアに残されたマスター候補者は魔術師とは程遠い彼ひとりだった。
 逃げ出せる状況にはなく、受け入れるしかなかった。偶々運良く事が運んだ後は、トントン拍子だった。
 怖かった。何度も死にそうになった。死にたいとさえ思った。もう止めて欲しいと、もう止めたいと、幾度となく願った。
 それが許される環境ではなかった。
 ありふれた日常に焦がれ、取り戻したいと祈った。それまで自分自身が歩んできた世界が、あって当たり前のものと信じていたから、まだ走れた。
 真っ向から否定された時、足元が音を立てて崩れ落ちた。自分の決断が間違っていると気付かないまま、ずるずると過ごして来たのではないかと、恐怖した。
 それでも、背中を押されたから。
 青空を見たいと純朴に願った少女が、震えながらも懸命に戦っているから、応えなければと己を奮い立たせた。
 上っ面だけ誤魔化して、偽って、隠して。隠し通して。
 言えなくなったのは、いつからだろう。もう思い出せないくらい遠い昔のような錯覚を抱いて、立香は二度、三度と瞬きを繰り返した。
「アスクレピオス」
 ひとつ、分かったことがある。
 背中を向け続ける医神は、怒っている。声に出そうとしない立香にではなく、求められなければ応じることが出来ない、医者としての自身の不甲斐なさに、だ。
 今回は偶々だった。
 次も出来るかどうか、保証はどこにもない。
「ごめん」
 約束は、できない。
 今はそう告げるのが精一杯の自分に苦笑して、立香は気の抜けた笑みを浮かべた。
「謝る前に、改善する努力をしろ」
「がんばります」
 負け惜しみのような反論が、どうしようもなく愛おしい。たまらず噴き出しそうになったのを堪えて呟いて、ふと思いついた意地悪に、立香は頬を緩めた。
 様子を窺い、顔を覗き込んできた蛇の頭を撫でた。
 想像以上に弾力があって、触り心地は悪くない。
 白蛇の方も甘えるように擦り寄って、立香の熱っぽい額を擽った。
「アスクレピオスは、じゃあ。オレが痛いって言ったら、どんなところでも治してくれるんだ?」
「いきなりだな」
 話を振られて、アスクレピオスはようやく振り返った。表情はいつも通り、愛想が無い。ただ雰囲気は、ほんの少し柔らかかった。
 冴えた眼差しが、立香の真意を探って左右を泳ぐ。
 合間に時計を確認する辺りが、どんな状況下でも医者としての矜恃を忘れない彼らしかった。
「で、どこだ。言ってみろ」
 出来る、出来ないはすっ飛ばし、次の治療箇所求めた男がせっつく。
 アスクレピオスは立香をパトロンと定め、医療の進展に心血を注いで、サーヴァントとしての役割を果たすのは二の次な面があった。立香の扱いも自身のマスターとしてのそれではなく、治療対象者として見ている部分が大きかった。
 その辺りが、ほかのサーヴァントとの違いだろうか。
 彼はいつ、いかなる時でも、医者としての立場を貫いている。頑固なほどに。どこかのバーサーカーと比べても、遜色ないほどに。
 だから、ホッとした。気が緩んだ。
 彼になら言っても許されると、そんな気分にさせられた。
「ここ、が。痛い。ずっと」
 半分冗談で、半分本気だった。
 右手の親指でトン、と左胸を小突いた。掠れる小声では伝わらない可能性があったけれど、それならそれで構わなかった。
 心臓が痛むわけではない。持病はない。疾患を有しているのとも違う。
 ただ心の在処を説明しようとしたら、自然とそこに指が向いただけだ。
 治せるものなら、治してみせろ。そんな生意気な想いもあった。出来ないくせに息巻く医者に、赤っ恥を掻かせてやりたい負けん気も、少なからず働いていた。
 怒りから来る哀しみに溺れ、身動きが取れずにいる彼を見たくなかった。
 ごちゃごちゃ混じり合う感情は、ひとつの色では表せない。
 それらをひっくるめて、放り投げた立香に、アスクレピオスは数秒の間を置き、背筋を伸ばした。
 再び光の粒子が舞い散り、彼が二歩進む間にまたも衣装が入れ替わった。
 この早変わりが、どうしようもなく羨ましい。人間には絶対真似出来ないのを悔しがっていたら、白い袖に隠れた彼の右腕が、布を伴って上下に舞い踊った。
 ぽす、と落ちてきた。
 枕もない場所に埋もれた立香の頭を、優しく撫でた。
「はい?」
 わしゃわしゃと髪の毛を掻き混ぜて、絡み合う毛先を解し、押し潰した。ぽんぽん、と軽く叩いて、また撫でて、完全に子供をあやす仕草だった。
 ナーサリー・ライムにしていたのと同じだ。
 予想していたものと違う。いや、そもそもなにも想定していなかった。彼がどんな行動に出るか、一切頭に思い浮かんでいなかった。
 あまりにも普通で、あまりにもありきたりだった。もっと奇を衒った行動に出ると期待していたのに、拍子抜けだった。
「えー……」
 もう少し悩んで、考えて欲しかった。
 贅沢な不満を訴え、むすっと頬を膨らませて身動いで、立香は面白くないと目を閉じた。
 不貞寝を決め込み、視界からアスクレピオスを追い出す。
「よく頑張ったな」
 その耳に、心地よい低音が滑り込んできた。
 思えば誰かに頭を撫でられたのは、いつが最後だっただろう。触れられているだけで眠気を催すほどの仕草は、妙にくすぐったくて、面映ゆかった。
 強張っていたものが、溶けていく。絡まり合っていたものが、綻び、緩んで、解けていく。
「貴様の頑張りを、ここで知らない者はいない。誇って良い。だから、今は休め。立香」
 囁き声が耳をすり抜け、全身に広がっていくのが分かる。これしきのことで、と絆されかけている自分が若干悔しいが、止めようがなかった。
 照れ臭い。
 恥ずかしい。
 嬉しい。
 顔を上げられなくて、ふわりと石鹸が薫るシーツに鼻先を埋めた。本格的に寝入る体勢に入ったのと勘違いした男の手は、ゆるりと離れていった。
 それが訳もなく切なくて、苦しくて、気がつけば白く長い袖を抓んでいた。
 弱い力だったから、軽く引っ張ったところで、すぐに外れた。掴む場所を選んでいる余裕がなかったので、アスクレピオスが気付かない場合も考えられた。
「どうした、マスター」
 彼は露出している身体の、冷やしている場所以外が冷えないようにと、上に掛けるブランケットを用意していたところだった。
 そのまま肩に掛けられて、立香はおずおず目を開けた。半分シーツに埋もれた視界で男の存在を確認するが、面と向かって喋るのは、どうしてだか、できなかった。
 心細さを覚えて、行かないで欲しいと願うなど。
 これでは本当に、子供ではないか。
「ええと、その。……なんでも……」
 理由を説明出来なくて、ごにょごにょ言い訳するけれども、伝わるはずもなく。
 どくどくと脈打つ鼓動が耳元で大きく響くのを聞きながら、立香はシーツの海を指で何度も引っ掻いた。
 皺を作り、溝を深くしては押し潰して、平らにする。辛うじて見えるアスクレピオスの腰元は、しばらく動く気配がなかった。
 ただ、衣擦れの音が微かに聞こえた。白いコートが波打つように揺れて、袖の先がひらひらと視界の端を横切った。
 再び、ぽすん、と頭を撫でられた。何度か左右に揺らされて、停止した後も離れていなかった。
 押し潰されているわけではないので、当然痛くない。
「毒を食らわば皿まで、だ。マスター」
 その状態のまま、アスクレピオスの柔らかな声が、物騒なことを言い放つ。
 思わずピクリと動きかけた立香を低く笑って、声は続いた。
「貴様が地獄に落ちるというのなら、それに付き従うのみだ。それが、お前のサーヴァントとして選ばれたことに対する、僕たちの答えだからな。もっとも――」
 淡々と、抑揚なく。
 けれど確かに、感情は籠められていた。
 落雷に打たれたかのように、立香は動けない。騒然としたままはっ、と短く息を吐けば、止まっていたアスクレピオスの手が緩やかに動き出した。
 そうっと、労るように。ブランケットの上から肩をなぞられた。トントン、と傷を負っていない場所を選んで、軽い力で叩かれた。
 衣擦れの音が大きくなる。一歩を大きく、ベッド側へ踏み出した男が、白蛇が見守る前で身を屈めた。
 立香の限られた視界いっぱいに、白銀の髪が大きく踊った。片腕をベッドに衝き立てた男の体重を受けて、固いスプリングがギィ、と軋んでそこだけ凹んだ。
 声は耳元、すぐのところに響いた。
「僕はお前を、冥府に引き渡す気はないが、な」
 意地悪く、立香ではない別の誰かを嘲る言葉を吐かれた。
 短い前髪を越えて、額に何かが触れたけれど、その正体は掴めない。
 依然肩を撫でる手と、枕元に固定された腕以外で、彼が立香に触れられる手段があるとするならば。
 導き出された答えに、自然と顔を上げそうになって。
「今は休め。それがお前の……お前が今やるべき仕事だ」
 囁かれた事務的なひと言に、急に胸の奥がむず痒くてたまらなくなった。
 結局ベッドに額を埋めた立香の傍を、アスクレピオスはしばらく離れようとしなかった。

命だに 世に長らふる ものならば 君のこころの ほども見えまし
風葉和歌集 937
2019/09/23 脱稿

暁より芽吹くもの、総ての淵源となりしもの

 たった一騎のサーヴァントが、戦況を大きく変動させることは、ままあることだ。
 同じように、たった一騎のサーヴァントが召喚されただけで、マスター周辺の生活環境が様々に変化することも、全くない、とは言い切れない。――否、割と良くあることだった。
 それが良いかどうかは、また別問題。ともあれ今回もまた、藤丸立香の周囲は微妙に騒がしさを増すこととなった。
 アスクレピオスが召喚された。
 医神と称され、異聞帯ではなかなかに苦しめられた相手だ。勿論その地で出会った彼と、カルデアにやって来た彼とは同じであって、異なるもの。わだかまりは無いつもりだった。
 それでも最初は、どうしても緊張した。
 向こうの態度も素っ気なくて、早速医神のお手並み拝見とばかりに医務室を覗けば、軽傷が過ぎると悪態を吐かれもした。
 もっと重傷になるか、もっと稀少な病を持って来いと言われ続け、ならばと必要以上にあちこち連れ回すことにした。もとい、勝手についてきた。共に過ごす時間が少しずつ長くなって、溜め息を吐きながら手当てを受ける回数はこれに比例した。
 そのうちに彼の方から、毎日の健康チェックを提案してきた。マスター当人の自主性に任せていたら、こっそりサボったり、嘘の報告をしかねない、との理屈からだった。
 実際、多少具合が悪かろうと、皆がレイシフトを望むなら、それに応じて来た。カルデアでサーヴァントを使役に出来るのは、自分しかいない。ならば無理をしてでも自分が行くべきであると、微熱を隠して気丈の振る舞うこともあった。
 第一こちらが万全であろうと、なかろうと、トラブルが起きる時は、起きる。
 不測の事態に備えるためにも、アスクレピオスの定期検診の申し出は、些かお節介な気もしたが、有り難かった。ただ特に深く考えることなくこの提案を呑んだのは、今思えば間違いだったのかもしれない。
 その後の己に待ち受ける諸々を事前に察知出来ていれば、絶対に受けなかった。
「ふぁ、あぁ~……んむ」
 目覚めは、あまり良くなかった。熟睡出来た気がしなくて、微妙に怠さが残っている。トレーニングルームで遅くまで励んでいた疲れが抜けきらず、肩を回せばゴキッと結構な音がした。
 骨に異常は無いが、関節のあちこちが軋んでいる感覚がある。大きな欠伸の後、生理的に出た涙を指で拭って、立香はもうひとつ出そうになった欠伸を右手で隠した。
 指の隙間から息を吐き、霞んで見える景色を瞬きで補正した。鈍色の床や廊下は天井のライトを反射して淡く輝き、どこまでも続く廊下から恐怖感を取り除いていた。
 窓のない空間は閉塞感があり、若干落ち着かない。
 閉じ込められている、という感覚をなるべく持たせない配慮を肌で感じながら足を繰り出せば、カツリと硬い音がひとつ響いた。
「ねむ……」
 本当はもう少し眠っていたかったけれど、生憎とこの後の予定が詰まっている。早めに食事を済ませておかないと、十日以上前から決められていたミーティングに間に合わない。
 空腹のままでは、集中力もなにもあったものではない。そんな状態で参加したら、却って皆の迷惑になりかねなかった。
「残ってるかなあ」
 但しこの時間の食堂は、混んでいる。サーヴァントは基本的に睡眠や食事を必要としないのに、カルデアに集う面々は食べるのが大好きで、暇を見付けては大勢で集まっていた。
 人間と同じように料理をして、人間と並んで食事を摂る。
 その姿は生前の彼らを彷彿させて、不可思議で、面白かった。
 とどのつまり、彼らと共に生活する分には、不満はない。ただマスターである自分が朝食を終えていないのに、用意された料理の数々を全て平らげてしまうことがあるのだけは、納得がいかなかった。
 マシュ辺りが気付いて、自分の分を避難させてくれているのを祈るしかない。
 後は、食事の後では血糖値が上がる云々との理由から、この時間帯を狙って現れる医神と遭遇せずに済むか、どうか。
 アスクレピオスがやって来て、立香の周りで一番変わったのは、そこだ。軽率に日々の検診を受ける約束をしたお蔭で、彼は医務室であろうと、なかろうと、兎に角体調に異変がないか調べようとした。
 寝起きを襲撃されたこともある。
 さすがに部屋に忍び込むのは止めるよう言えば、ドアを出たところで待機されていたこともあった。
 あちらにも都合があるから、毎日ではないけれど、廊下に出ようとした瞬間にあの顔とご対面、というのは心臓に悪い。なまじ身長が近いだけあり、ほぼ正面から彼の冷たく、鋭い眼光が迫ってくるのだから、初めの数回は本気で悲鳴を上げてしまった。
 検診の内容は、触診による体温の確認と、目が充血していないかのチェック。睡眠不足でないか調べた後は、肌荒れ具合から栄養が足りているかを探って、最後に喉が腫れていないかを診て、終わり。
 本当はもっと色々調べたいようだけれど、彼の希望に添っていたら、あまりに時間が掛かりすぎる。さすがにそれは、毎日は難しいからと、器具無しでも出来ることだけに絞っていって、残ったのが以上の項目だった。
 ここに至るまで、実に様々な悲劇があった。
 かの医神は医療行為こそが己の責務と信じているから、患者であるマスターの意思や、都合は二の次だ。食事中であろうと、トイレの中であろうとお構いなしに押しかけて来られて、散々だった。
 検診はちゃんと受けるので、時と場所を考慮してくれるよう必死に訴え続けた。廊下で、立ったままでも出来る項目のみで承諾してもらえたのは、割と最近のことだった。
「来ないな?」
 どれだけ進んでも代わり映えのしない廊下を、食堂目指してひたすら突き進む。
 もう少し部屋から近ければいいのに、との不満を呑み込んで、立香は代わりに首を捻った。
 いつもならこの辺りで、アスクレピオスと遭遇する。もっと手前の時もあった。食堂に近過ぎると他のサーヴァントに絡まれ易いので、立香がひとりのタイミングを狙って、待ち構えている場合が殆どだった。
 それなのに、今日は目印となる非常灯の下には誰も佇んでいなかった。
 袖の長い、白い服の男は影も形も見当たらない。
 特徴的な前髪を脳裏に思い浮かべて、立香は無意識に開きそうになった口を力技で閉じた。
 下顎を手で押さえ、ここ最近獲得した、不本意な習性を封じ込めた。
 アスクレピオスによる朝の定期検診は、最後に立香の咽喉をチェックする。口を大きく開けるよう命じられて、きちんと応じたつもりでいたら、舌が邪魔だと指で押さえつけられたことがあった。
 無理矢理、有無を言わさず。
 突然口腔に親指を突っ込まれて、その時は驚いて、噎せた。咳き込んでいるのに解放して貰えず、涎がだらだら溢れて、アスクレピオスの指を濡らし、汚したが、医神はまるで意に介さなかった。
 恥ずかしいし、痛いし、苦しいしと、散々だった。文句を言おうにも舌の自由が奪われており、口を閉じれば彼の指を噛んでしまう。呻き声を上げるのが精一杯で、必死に抵抗したら、至極嫌そうな顔をされた。
 マスターとして大事にされているのではなく、検体として扱われているようで、哀しくなった。
 彼の行動が善意から来ているのは、分かる。自身に課した仕事に真摯に向き合い、役目を果たそうとしているのも、痛いくらい伝わって来た。
 ただ彼はサーヴァントで、人間とは違う。かつて人だったかもしれないが、現代人の立香の感性とは相容れない場所に立っていた。
 絶望的な距離を感じた。
 どうせ言っても通じないと、早々に諦めた。
 以来、立香は自分が傷つかないために、彼の検診を受ける際は、率先して口を開くようになった。ただ開けるだけでは奥が見え難いので、舌も目一杯外に伸ばし、平らに均すよう心がけた。
 その自発的な行動に、アスクレピオスは特に何も言わなかった。当たり前のように受け入れて、それが当然であるかのような振る舞いだった。
 そうしているうちに、彼の顔を見かけると、無意識に口を開けようとする習慣が生まれた。パブロフの犬よろしく、涎ではなく舌を垂らし、背筋を伸ばして首を若干後ろに倒す癖がついた。
 なんとも嬉しくない。
 顎を撫でながらむすっと小鼻を膨らませて、立香は待っていても現れない医神に肩を竦めた。
「……ま、いっか」
 来ないなら来ないで、構わない。あのアスクレピオスだって、たまには寝坊することだってあるのだろう。
 珍しい事態に行き当たって、少し気分が良くなった。空腹を訴える腹をひと撫でして、立香は口角を持ち上げて笑った。
 ぺろりと舌を出して唇を舐め、今日のメニューを想像して、足取りを軽くした。食事中に襲われるのだけは勘弁だが、きっと居合わせた誰かが守ってくれる。期待に胸を弾ませて残る道程を順調に進めば、前方から近付いて来る影に気がついた。
 あちらも立香同様、どこか楽しそうだ。スキップを刻む足取りは軽やかで、見ている方まで不思議と表情が緩んだ。
「あっ」
 間もなくすれ違うというところで、向こうもこちらに気がついた。胸の前で交差させた腕を僅かに緩めて、パリスは満面の笑みを浮かべて頭を下げた。
「おはようございます、マスター」
「おはよう。楽しそうだね。なにか良い事あった?」
 麗しい少年姿のサーヴァントが抱きしめているのは、羊をデフォルメ化したぬいぐるみ、ではない。こんな形をしているけれど、この羊は一応、立派な神様だった。
 アポロン。目下立香の頭を悩ませ続ける、例の医神の父親だ。
 そのアスクレピオスは、この羊を大層毛嫌いしていた。少しでも気配を嗅ぎ取れば、即座に場を離れる徹底ぶりだった。
 是が非でも、接触したくないらしい。そして万が一にも接触を許した場合は、これを切り刻むのも容赦しなかった。
 これまで何度となく、羊の毛が宙を舞う現場に遭遇した。
 物騒な物を構えて息を切らすアスクレピオスを宥めるのは、何故かいつも、立香の役目だった。
「僕ではなく、アポロン様に、とても良い事があったみたいで。それで僕も、なんだか嬉しくて。つい。えへへ」
 弾むようなスキップを見られて、恥ずかしいらしい。赤く染まった顔を羊――もとい、アポロンで隠して、パリスは首を竦めて小さくなった。
 トロイア戦争の英雄は随分と愛くるしい姿で召喚されたが、この仕草を見てしまうと、アポロン神が要らぬ干渉をしたのも分かる気がした。
 カルデア的には、最盛期の姿で現れて欲しかったけれど、致し方ない。
 神の悪戯は、遙か昔から気まぐれなものだと決まっている。およそ神威を感じない姿のアポロンに視線を向けて、立香は頬を緩めた。
「そっか。でもその気持ち、オレも分かるよ」
 気持ちは伝染するものだ。隣に立つ相手が笑顔でいれば、こちらもつられて笑顔になる。逆に暗く落ち込んだ顔をしていれば、引きずられて、なにも無いのに陰鬱な気分になりもする。
 立香では、アポロンが上機嫌かどうかは分からない。白いモコモコした羊は喋らないし、パリスの細腕に抱きしめられているので、殆ど身動き出来ない状態だった。
 だが彼と四六時中一緒にいる少年がそう言うのだから、間違いないのだろう。
 目を細めて頷くと、幼い見た目のサーヴァントは弾ける笑顔を浮かべた。両足を揃えてぴょんぴょん飛び跳ねて、もう一度深くお辞儀をした。
「今日の朝ご飯も、美味しかったですよ」
「ありがとう。またね」
 色々な地域、時代のサーヴァントが混在するカルデアだから、食事の内容は一種類ではない。キッチンを預かるサーヴァントもまた、様々な出自を持つ多国籍部隊だった。
 どれも美味しかったと笑うパリスに手を振って、益々凹んだ腹を抱えて食堂へと急ぐ。
 しかしこういう状態の時ほど、妨害に遭い易いのが世の定め。
「うげ」
 十メートルと進まないうちに、新たな人影を発見して、立香は思わず低い声を零した。
 慌てて口を塞ぐものの、既に遅い。好意的とは到底思えない悲鳴を聞きつけて、前方から来る男がのっそり顔を上げた。
 歴戦の勇士とは違うので、体格はさほど立派なものではない。背は低くもなく、高くもなくて、着痩せするタイプなのかかなり細身に見えた。白い髪はもみあげの部分が長く、後ろは短い。彼が歩く度に胸元で、淡く色づいた毛先がゆらゆら踊った。
 交差した前髪の先に潜む瞳が、立香を捉えるべくすうっと眇められる。
 無意識に開こうとする口腔を手で覆い隠したまま、蛇に睨まれた蛙はたじろぎ、後退を図った。
「ああ、なんだ。マスターか」
「ええ?」
 いつもならここで、逃げ出そうとする立香を鬼の形相で追いかけてくるのが、彼だ。
 逃亡する、イコール自己管理がなっておらず体調不良、という短絡的な結論を導き出すのが、そこにいる医神だった。
 だというのに、今日は突っかかってこない。勢い良く距離を詰め、頭ごなしに説教しても来なかった。
 元気が無い。
 面倒臭そうに吐き捨てられて、戸惑いが否めなかった。
 召喚された直後の、愛想のなかった頃に戻ったようだ。機嫌が悪い雰囲気が、離れていてもひしひし伝わって来た。
 直前に出会ったパリスとは正反対だ。今になって疑問に思ったが、そういえばアポロンの機嫌が良かった理由を聞いていない。
「なにか、……あった? 大丈夫?」
 放置しても良かったのだが、問わずにはいられなかった。損な性分だと自分で自分に苦笑して、立香は具合が悪そうにも見える男に近付いた。
 アスクレピオスは父親であるアポロンを毛嫌いしているが、アポロンはアスクレピオスに構いたがるので、両者の思惑が衝突して、頻繁に騒動が勃発した。
 巻き込まれる側にとっては、迷惑極まりない。
 そっとしておくべきか迷いつつ、老婆心を働かせた立香に、アスクレピオスは力なく首を振った。
「なにもない。……いや、あの男が……いいや、マスターには関係無いことだ」
 白く澄んだ肌も、今は血色が良くないように映る。それでも無理をして、言いかけた言葉を途中で呑み込んだ彼は、必死に苛立ちを収めようとしているようだった。
 単に言いたくないだけかもしれない。この男はアポロンとの間に、ひと言では言い表せない感情を抱いているのを、認めたくないのだ。
「面倒臭いなあ」
「なんだって?」
「いえ、別に。こっちのこと」
 当人は隠しているつもりらしいが、周囲からはバレバレだ。
 虚勢を張りたがる男に失笑を漏らした立香は、急に凄みを利かせられて、慌てて目を逸らした。
 寸前まで落ち込んでいたのに、いきなり復活しないで欲しい。突き刺さる眼差しを、両手を掲げて壁代わりにして避けていたら、その掌に深々と溜め息をぶつけられた。
 ごく僅かな時間でしかなかったが、それで気持ちを切り替えたのだろう。
 暗く沈んでいた表情はみるみる生気を取り戻し、口元は不遜な笑みで彩られた。およそ医者らしくない顔を向けられて、立香はぞわっと背筋を寒くした。
「ではオレは、朝ご飯が待ってるので、これで」
「待て、マスター。今朝の検診が終わっていない」
 身の危険を感じて、反射的にこの場から離れる決断を下した。早口に告げて横並びにしていた手を左右に振り、じりじり距離を広げようとした。
 しかしその努力を踏みにじり、アスクレピオスが手を伸ばしてきた。忘れたままでいれば良いのに、日課を思い出して、白い袖を振り上げた。
 内側に隠れていた手が、咄嗟に払い除けようとした立香の手首を掴んだ。非力なように見えて、さすがはサーヴァントといったところだろう。握る力は存外強かった。
 頑張れば振り解けなくはないけれど、朝食前の空腹が、本来の力の半分も発揮させてくれない。
 肩肘を突っ張らせて一応の抵抗は示したが、容易にねじ伏せられてしまった。
「どこへ行くつもりだ」
「どこって……」
「すぐ済む。口を開けろ」
 正面からの睨み合いに負けて、口籠もったところでもう片方の手が伸びてきた。強い命令口調で告げられて、立香は咄嗟に目を閉じた。
 殴られることはないと分かっていても、数多の旅路からの経験が、どうしても身構えさせた。湧き起こる本能的な恐怖を必死に薙ぎ払い、堪えていたら、まるでそれを慰めるかのように、布越しの手がこめかみのすぐ脇を掠めた。
 つい、と前髪の生え際を擽り、額の中心を目指して緩やかに動く。
 アスクレピオスの指先は、熱を測っているだけ。それ以上でも、それ以下でもない。義務的に、規則的に、数十回と繰り返されて来た行動を執った。
 だというのに、それが立香を安心させた。強張っていた四肢は徐々に緊張を解き、引き攣っていた頬の肉も次第に緩んでいった。
 かくん、と顎が開いた。唇は閉ざされたままながら、歯列が開かれ、弛緩した舌先が前歯の裏に行き当たった。
「ふむ……」
 布越しでも熱が測れるのかは疑問だが、アスクレピオスの指は続いて立香の右目の脇へ移動した。医神自身も半歩前に出て、観察しやすい角度を探りながら立香の顔を覗き込んだ。
 互いの呼気が触れそうな距離だった。
「おい。目を開けろ」
 目を瞑ったままだと、充血しているかどうかが分からない。
 指摘されて思い出して、はっと息を吐くと同時に瞼を持ち上げる。もれなく唇をも紐解いて、舌をべろりと伸ばしたのは、完全に無意識の所業だった。
 そうする習慣が出来ていた。
 廊下を照らすライトの明かりを集め易いよう、首に角度を持たせ、斜め上を向くまでがセットだった。
 もう二度と、口の中に指を突っ込まれたくなかった。乱暴に荒らされて、舌どころか下顎まで潰れる寸前の憂き目に遭いたくなかった。
 結構痛かった。怖かった。自分から口を開き、舌を出し、喉をさらけ出す方がずっとマシだった。
 初めの数回は恥ずかしかったが、もう慣れた。カルデア内を我が物顔で歩き回るサーヴァントから奇異な目を向けられても、気にしなくなった。
 皆も立香が、アスクレピオスからなにかと怒られ、追い回されているのを知っている。そして立香自身、彼らが無茶をしがちなマスターを心の底から心配し、そのストッパー役を引き受けた医神に対して、好意的に解釈しているのにも気付いている。
「んぁ」
 鼻から息を吐き、様子を窺えば、アスクレピオスの視線はスッと脇へ逸れた。袖の中の手が僅かに蠢き、揃えられた四本の指先が、頬骨の上を滑り落ちていった。
 親指がそれを追いかけて、頬骨の隆起を擽った。顎の輪郭をなぞり、喉の下に添えられる。立香はどこに焦点を合わせるかで一瞬迷い、整髪料でも再現が難しそうな医神の前髪に見入った。
 杖に絡む蛇の図が自然と浮かんで、彼はアスクレピオスなのだと、至って当たり前のことを考えた。
「……んーう?」
 顎関節が外れそうなくらいに口を開け続けるのは、なかなかに大変だ。それに舌を出したままでは、口腔が乾く。そうすれば喉を痛めることにも繋がるのに、検診終了の合図が、いつまで経っても聞こえてこなかった。
 勝手に閉じて良いものか、どうなのか。下手を打てばまた怒鳴られ、無理強いされかねない。
 想像したら、ぶるっと震えが来た。首の角度が変えられないので、瞳を動かしてアスクレピオスの動向を探れば、彼は人を前にしてなにやら考え事をしている風だった。
 立香の顔をどことなく虚ろな眼で見詰めているが、視線は絡まなかった。咽喉の異常を探っている気配もなかった。
「あふ……、あふ、く……れ……ふぃおしゅ……?」
 なるべく口を閉じないよう、舌を出したまま名前を呼ぼうとしたが、巧くいかない。
 やはり彼は本調子ではなかった。様子がおかしかったのを思い出し、医務室に行くべきは彼の方と、マスターとしての責務に心を奮い立たせた、その瞬間。
「あの男のせいで」
 ぼそっと掠れた声が聞こえた。
 煌々と明るかった視界がほんの少し暗くなって、風もないのに癖だらけの前髪が額にぶつかった。
 惚けていたら、にゅるっとした感触が、舌の上を走った。
 瞬きを二度繰り返す間に、人肌ほどの熱が、乾きかけた粘膜を擽った。
 なにかに舐められた。
 舌を――、舐められた。
「ほあぁ!?」
 事態が理解出来ず、状況が把握出来ない。頭の天辺から変な声を出して、立香は目の前にある、彫刻のように整った顔立ちに目を白黒させた。
 咄嗟に口を閉じ、両手で二重に鍵をかけた。舌先を口蓋に押しつけて何度も擦るが、たった一瞬横切っただけの感覚が消えることはなかった。
 仰け反り、倒れそうになって、後ろにふらつけば、庇うように腰に腕が回された。余所から力を加えられたお蔭で却ってバランスが崩れ、カクンと膝が折れそうになったけれど、アスクレピオスのお蔭で崩れ落ちるところまでは行かなかった。
「なるほど、こうなるのか」
「な、なに、がっ」
「魔力供給の手段としては、微々たるもの……ないよりは、という程度ではあるが。不思議と気分は悪くないな」
「はあああ?」
 ひとりで勝手に納得して、ひとりで勝手に満足げな顔をしている。こちらは事情がさっぱり分からないというのに、悩みが解決したという体で喋らないで欲しかった。
 素っ頓狂な声を上げ、身体を捩ってアスクレピオスの拘束から逃れた。もともと縛り付けるものではなかったので、振り払うのは容易かった。
 アスクレピオスも追いかけてこなかった。
 全力疾走した直後のような感覚で、息が切れて、胸が苦しい。ぜいぜい音を漏らしながら肩を上下させていたら、先ほどまでとは打って変わって、すっかり元気になった男が不敵に笑った。
「あの男のお蔭で散々だったが、感謝するぞ、マスター。それから、寝不足だろう。朝食は野菜を多めに食え。トレーニングに励むのは構わないが、オーバーワークは却って健康を損ねる。今日は早めに休め。分かったな」
「ちょ、ちょい。ちょお!」
 びしっとこちらに指を向け、息継ぎの間を惜しむかのように捲し立てられた。反論を挟む余地を与えてもらえず、引き留めようとしたけれど、果たせなかった。
 言いたい事だけ言って、アスクレピオスは踵を返した。カツ、カツ、カツ、と硬い音を一定間隔で響かせて、あっという間に行ってしまった。
 呆気にとられて見送って、足音が聞こえなくなってもしばらく動けなかった。愕然としたまま二度、三度と瞬きして、立香は傾いていた体躯を真っ直ぐに直した。
 息を吐き、吸って、また吐いて、微熱を抱え込む唇をそうっと覆い隠した。
「あれ。待って。なに? なんなの? なに自分だけ、機嫌良くなってんの? じゃあ、なに? あれ。あれ、いや、待って。おかしくない? おかしいよな? なんで? どういうこと? あれえ? んじゃ、あれ。ひょっとして。オレって、アスクレピオスがアポロン絡みで機嫌悪くする度に。また同じ事されたり、する、……の?」
 混乱して、状況を整理しようとすればするほど、余計に混乱した。
 これまでにも何度か、魔力供給としてサーヴァントとキスをしたことくらいなら、ある。粘膜接触が最も手っ取り早く済むからと、強引に唇を奪われたりもした。
 だから今回のそれも、似たようなものだ。犬に噛まれた――舐められた程度に思っておけばいい。それなのに、異様に衝撃が大きい。動揺が隠せない。
「うそ。明日から、どうするの」
 これまでは彼に無理矢理口腔を開かされるのが嫌で、自発的に動いていた。しかし今日のような事が今後も続くのであれば、迂闊な真似は出来ない。
 もっとも抵抗しようものなら、あの医者が黙って許してくれるはずもなく。
「どう、すん……の……」
 くぐもった声で呻くが、答えをどれだけ欲しても、誰かが妙案を提供してくれたりはしない。
 思わず頭を抱え、しゃがみこんだマスターの脇を、アレキサンダーたちが不思議そうな顔をして通り過ぎた。

暁より芽吹きしは、総ての淵源となりしもの
2019/09/16 脱稿

心のうちぞ 空に知らるゝ

「暑い」
 思わず、といった感じで言葉が口に出た。
 ただでさえ意識の外に追いやっておきたいものが、声になった途端に余計強く感じられてならない。首筋に纏わり付く湿気にも舌打ちして、歌仙兼定は深々と溜め息をついた。
「雅じゃないな」
 こんな仕草は、己の信条に反する。けれどどうしても出てしまった諸々に臍を噛んで、彼は額に貼り付いた前髪を掻き上げた。
 それでどうにかなるわけではないが、視界は広がり、気持ちは微少ながらも落ち着いた。今度は時間をかけて、肺の中の空気を吐き出して、軒先から覗く陽射しに視線を向けた。
 日の出は徐々にであるが遅くなり、早朝の空気は澄んで心地よかった。
 しかしそれから僅か二刻と経たないうちに、気温はぐんぐん上昇していった。
 夏の盛りはとうに過ぎ、暦の上ではもう秋だ。実際、その訪れを如実に感じる日だってあった。
 ところが、どこを境目にしたのか、気候は一転した。一旦は行き過ぎたはずの夏が、ここ数日、ぶり返していた。
 納戸に収納すべく集めていた団扇を引っ張り出し、いつ片付けるか相談しあっていた葦簀も、今しばらくこのままだ。通行の邪魔だと鴨居近くまで巻き上げられていた簾が降ろされて、室内に差し込む陽気を遮っていた。
 ふと特徴ある匂いを感じ、視線をそちらに向ける。
「やんなっちゃうねー」
「でも、まだ水遊びが出来ると思うと、楽しいです」
「せっかく蚊帳も畳んだのにな」
「幽霊さんも、戻ってきたりするんでしょうか」
「あれは別に、夏も冬も関係なくない?」
 賑やかな話し声も複数聞こえてきて、歌仙兼定は嗚呼、と小さく頷いた。
 進行方向にある広縁で、粟田口の短刀と脇差たちが仲良く談笑していた。その足元には蚊を避けるための蚊遣りが焚かれ、丸々として可愛らしい豚の置物から白い煙が伸びていた。
 暑さが一番厳しかった時期にはぱたっと見かけなくなった蚊も、早晩の涼しさに惹かれたか、この頃は頻繁に姿を現していた。
 奴らもまた、冬を前に最後の稼ぎ時と悟り、活発化していたらしい。だが狙いが外れた。連日の暑さに影響されたのか、憎らしいほどの素早さは幾分衰えていた。
 とはいっても、油断しているとすぐに血を吸われてしまう。音も無く忍び寄る不届き者を退治するのに、蚊遣りは必要不可欠だった。
「おっと」
 そういえば、自分の部屋の蚊遣りは火を消しただろうか。
 この夏に新調したばかりの浴衣を身に纏い、思い思いに過ごしている粟田口派の面々を見て、急に思い出した。
 反射的に胸の前に出た手は、叩き合わせる直前で停止した。行き場の失われた指先を無駄にひらひら踊らせて、歌仙兼定は自分自身に肩を竦めた。
 彼の部屋の蚊遣りは、そこで寡黙に働いている豚のような愛らしいものではない。端が欠けてしまい、使い物にならなくなった底の浅い皿を再利用したものだ。
 間違って倒れることはないだろうが、風で飛ばされた紙類が上に覆い被さったら、どうなる。
 嫌な想像をして、打刀は眉を顰めた。
 目を眇めて記憶を呼び覚ますが、どれだけ繰り返したところで、部屋を出る際に火の始末をした確証が得られない。
「むぅん」
 大丈夫だという気持ちと、万が一という不安が鬩ぎ合い、激しい鍔迫り合いを繰り広げている。
 喉の奥で低く唸って、彼は覚悟を決めて踵を床に叩き付けた。
 さほど音は響かなかったが、敏感な短刀が何振りか、衝撃に驚いて一斉に振り返った。
 その怪訝な眼差しを避けるようにして、歌仙兼定は来た道を戻り始めた。
 気分転換がてらのんびり過ごしていたのに、ちょっとした気付きで全て台無しだ。それもこれも全て、逆行した季節が悪いのだ。
 累積する暑さへの恨みもあり、表情は険しい。赤子が見たら泣き出しそうな顔をして、彼は大股で廊下を進んだ。
 いくつかの角を曲がり、何振りかの仲間とすれ違って、慣れ親しんだ一帯へと出た。
 目を瞑っていても辿り着けそうなくらい、身体に馴染んだ経路だ。今更迷うなどあり得なかった。
「ああ、やっぱり」
 確信はあったが、いざ目の前にすると、落胆は殊の外大きい。
 手垢が付いてやや黒ずんでいる引き手に指を掛け、襖を開いた。途端に先ほど、広縁で嗅いだのと同じ匂いが鼻腔を擽った。
 左右の部屋でも同じものが使われているが、煙は間違いなく、歌仙兼定の私室から流れ出ていた。
 しかも密閉した空間に閉じ込められていたのを抗議するかのように、匂いは濃い。直撃を喰らった打刀は軽く噎せて、飛び出そうになった唾を掌で防いだ。
「けふっ」
 それほど長く放置したつもりはないけれど、空気の流れを遮断していたお蔭で、籠もってしまっていたようだ。
「しばらく使ってなかったからなあ」
 来期まで持ち越すのもどうかと思い、多めに焚いていたのも災いした。素早く室内に入って、襖を閉めて、彼は困り顔で頭を掻いた。
 手始めに向かい側の障子を開けて、風通しを良くした。四方を建物に囲まれた坪庭が目の前に現れて、不機嫌な蚊遣りの煙を一手に引き受けてくれた。
 少しすれば喉に苦い匂いも薄らいで、過ごし易くなった。立ったまま待っていた男はふう、と安堵の息を吐き、まだ煙をくゆらせている皿を両手で抱き上げた。
「……いや、いいか」
 火を消そうとして、一瞬迷った。長い睫毛を瞼の上で数回踊らせて、歌仙兼定はゆるゆる首を振った。
 手にしたものを下ろしかけて、止めて、開けたばかりの障子の手前に移動させた。床に対して水平に置き、手で煽って煙を庭先へと誘導した。
 これでよし、と満足げに口角を持ち上げて、燦々と陽射しを受けて眩しい庭先にも目を細めた。足を伸ばして座り、背筋を伸ばして、夏と秋の狭間に落ちてしまった景色を充分に堪能した。
「これもまた、一興か」
 茹だるような暑さは御免被るが、その暑さを体感できるのも今だけだ。
 冬になって寒さが厳しくなれば、この日を懐かしむことがあるかもしれない。まだ見ぬ未来に想いを馳せて、彼はクツリと喉を鳴らした。
 ただの刀であった頃は、季節の変わり目に遭遇しても、それが暑いだとか、寒いだとか思わなかった。風流を嗜んではいたものの、知識として蓄えていることと、実際に体感するのとでは、雲泥の差だった。
 人の身を得て始めて知った感覚は、鶴丸国永の弁ではないけれど、驚きに満ち溢れていた。
 刀剣男士として顕現して、もう四年の月日が過ぎている。だというのに未だ新発見の連続で、退屈している暇などなかった。
「紙と、筆は……ええと」
 良い歌が詠めそうな予感がして、彼は投げ出していた脚を引き寄せた。膝を立てて部屋の中を見回し、整理出来ているようで、その実物が多い空間に手を伸ばした。
 四つん這いのまま座卓へ近付き、手前に積み上げていた読みかけの書物の障壁に顔を顰めた。
 横に逸れて避けるのは大袈裟だし、かといって立ち上がって、跨ぐのも面倒だ。
「よ、い……と。んわっ」
 結論として、彼はその場から座卓に鎮座する筆を取ろうとした。
 手間を惜しみ、即物的な行動に出た。悲惨な展開が脳裏を過ぎったが無視して、刀を握るのに馴染んだ無骨な手を目一杯伸ばした。
 そうしてもう少しで届きそうというところで、着物の袖が、手前に積まれていた書籍の角に引っかかった。
 遠くへやろうとしていた手が、そのかなり手前で、思わぬ重みに引っ張られた。意識は座卓の筆に集中しており、一尺近い高さがあった書物への対処は遅れた。
 ずどん、とそれなりに良い音が響いた。
「いった、た、た」
 崩れた書物を下敷きにして、歌仙兼定は情けないやら、恥ずかしいやら、ひと言では説明出来ない感情に顔を赤くした。
 急いては事をし損じる、という言葉を聞いた事は無いんですか、と。
 昔馴染みの短刀の声が聞こえるようだった。
 打刀に対してだけやたらと辛辣で、説教臭い小夜左文字の顔が、呼んでもないのに瞼の裏に現れて、これ見よがしにため息を吐いた。細かな仕草ひとつひとつまで再現されて、本当にその場にいるかのようだった。
「お小夜に見られなくて、よかった」
 部屋の真ん中に突っ伏したままぽつりと零し、起き上がるのも億劫に感じて、大の字になったまま数秒間を過ごす。
 指が筆に届かず、座卓ごとひっくり返さなかったのだけは僥倖と、打刀は落ち込む自分を慰めた。
「はあ……」
 決して寝心地が良いとは言えない空間で時を重ね、いい加減飽きてきたと立ち上がる準備に入る。
 まずは両手の平を畳に置いて、上体を起こすところから始めようとした。
 すい、と滑りの良い襖が軽やかに横に開かれたのは、ちょうどそんな時だった。
「なにをやってるんですか?」
「ぎゃっ」
 外から、在室か否かを問う声すらなかった。
 至極当たり前のように室内に顔を覗かせた来訪者に、隙を突かれた男はみっともなく悲鳴を上げた。
 本日二度目の転倒となり、最早簡単には起き上がれない。
 声だけで誰が来たのかも即座に理解出来て、尚更顔が上げられなかった。
 突っ伏したまま身悶えていたら、返事が無いのを訝しみ、向こうから近付いてきた。遠慮のない足取りで距離を詰めて、数秒としないうちに、畳だけだった視界に白い爪先が忍び込んできた。
 小さな指、それよりひとまわり小さな爪。
 冬場でも素足で過ごす少年の親指を、こんなにまじまじ見たのは初めてかもしれない。
 滅多に得られない経験は、しかし嬉しくなかった。もっと違う状況であれば喜べたものをと、悔しさに唇を噛まずにはいられなかった。
「歌仙?」
「……落ち込んでいるところに、塩を塗らないでくれ」
「はあ」
 しゃがんだのだろう、衣擦れの音がした。くぐもった声で訴えられた短刀は分かったような、分からないような緩慢な相槌をひとつ打ち、数秒が経過した辺りでちょん、とひとの頭を小突いて来た。
 旋毛を狙って、指を置いてそのまま動かない。
「お小夜。……その。なにを、して。いるんだい」
 それ以外の反応が皆無で、妙な不安に駆られた。恐怖のようなものまで湧いて出て来て、訊ねずにはいられなかった。
「ああ、いえ。特に意味は、ないんですが。なんていうか。……見えたので」
 対する小夜左文字の返答も、どこかしら戸惑っている雰囲気があった。
 自分でもなにをやっているのだろう、と疑問を抱いている空気が伝わってきて、呆気にとられた打刀は一秒後、噴き出しそうになった。
「んん、んっ」
 勢い良く出て行こうとしたものをすんでの所で封じ込めたが、変な咳き込み方をしたので喉の奥がやや痛い。
 諸々を誤魔化すように急いで起き上がり、わざとらしく喉を撫でさすった。慌てて取り繕ったので、何冊か膝の下に敷いてしまっているけれど、脇に退くのは難しかった。
 下手な気取り方をしているのは、自覚している。小夜左文字もお見通しの筈で、ちらりと様子を窺えば、呆れ混じりの表情が見えた。
「右回り」
「ん?」
「いいえ。なんでもないです」
 その彼がぽろっと意味が掴めないことを口にしたので、首を捻って問い返したが、答えを教えてもらえない。
 首を横に振ってはぐらかされた打刀は、追求すべきか一瞬迷ったが、すぐに諦めて、瞳を宙に泳がせた。
「用件は?」
 杢目が美しい天井を眺めてから、正面に向き直った。凸凹している足場に四苦八苦しつつ、短刀に来訪の理由を尋ねれば、小夜左文字は小さく肩を竦めた。
「ちょっと、かくまってもらおうかと」
「ん?」
 苦笑混じりに言われたが、これもまた意味が読み取れない。
 きょとんと目を丸くした歌仙兼定に、小柄な短刀は一瞬、襖の方を振り返った。
 素早く瞳を巡らせて、接近する気配がないのを確かめて頬を緩めた。安堵から若干猫背になって、左胸に手を添えて軽く上下に揺り動かした。
「篭手切江の、採寸が」
「ああ、そういう。なんだ、まだ諦めてなかったのか」
 追っ手から逃げおおせるのに成功して、力が抜けたようだ。
 いつもより柔らかめの目つきで囁かれた内容に、打刀は大いに納得して頷いた。
 粟田口派の刀たちが揃って浴衣を新調したのに、対抗意識を燃やしたらしい。細川家に所縁を持つ脇差が、このところ嫌になるほど喧しかった。
 着付けを得意とし、己自信ではなく他者を着飾らせるのを喜びにしている篭手切江は、悔しさから周囲に聞こえるほど歯軋りして、負けていられないと盛大に吼えた。自分達ももっと鮮やかに着飾るべきと主張して、同じ江の同胞だけでなく、こちらにも矛先を向けてきた。
 遭遇する度に熱弁をふるわれて、かなり面倒だった。のらりくらりと躱しているうちに夏の気配が過ぎ去って、彼もついに観念したかと思っていた矢先に、季節が舞い戻ってきた。
 広縁に集まっていた乱藤四郎や鯰尾藤四郎たちは、一度は畳んだ浴衣に、再度袖を通していた。あの光景を見て、篭手切江は情熱を再燃させたらしい。
 歌仙兼定もまた、毎日のように着物の新調を促され、是非見立てさせて欲しいと強請られていた。
 自分が着るものは自分で選びたいし、ないなら自分で仕立てる。
 そういう方針でやってきた打刀としては、脇差の申し出は有り難くも、若干迷惑な話だった。
 それにあの大衆向けに特化した歌を好む少年に任せた場合、予想を違えるものを仕上げて来かねない。
 要するにそこにいる短刀と、脇差と、猛牛にも勝る速度を出す二輪車を乗り回す打刀と揃いの、なんだか分からない舞台衣装を出して来そうで――怖い。
 一度でも袖を通そうものなら、既成事実とばかりに仲間扱いされて、望んでもない場に引っ張り出される可能性がある。勿論脇差はひと言もそんなことを口にしていないが、態度から丸分かりだった。
 小夜左文字もそれが分かるから、彼の申し出を断り続けているのだ。
「懲りないねえ、彼も」
「性分なんでしょう」
「そう言ったら聞こえは良いけれど……おっと」
「壁に耳あり、です」
 呆れ混じりにやり取りをしていたら、ギシギシと廊下を行く足音がした。
 襖が閉まっているとはいえ、防音効果はないに等しい。喋り声は簡単に外に漏れ出し、雑談の内容はすぐさま屋敷中に広まった。
 咄嗟に右手で口を塞いだ歌仙兼定に、小夜左文字は首を竦めて笑った。足音が問題無く通り過ぎるのを待ってから目尻を下げて、悪戯っぽく人差し指を口に押し当てた。
 静かに、という合図に黙って頷いて、打刀は藤色の髪を雑に掻き回した。
 たった今廊下を通り過ぎたのは、篭手切江ではない。声がしなかったので推測の域を出ないものの、床の軋みから計算した体重は、脇差のそれではなかった。
 山姥切国広か、山姥切長義辺りではなかろうか。
 一時期、本丸の空気を真っ二つに斬り裂いてくれたふた振りを同時に思い浮かべて、歌仙兼定は足元に散らばる和書の一冊を手に取った。
「しまった。折れてる」
 突き飛ばし、腹で潰した時の角度が悪かったのだろう。表紙の一部が三角に折れ曲がっていた。
 慌てて伸ばしてみたものの、一度出来た皺は戻らない。
 何度か指でなぞって薄くならないか祈っていたら、近場に落ちていた別の本を、小夜左文字が拾い上げた。
「きちんと片付けてないから、こうなるんです」
 つい先ほど聞いた幻聴が、現実となって脳裏に響いた。
 胸に突き刺さる的確な叱責に、咄嗟に身体を硬くして、歌仙兼定は子供のように小さくなった。
「し、仕方が無いじゃないか。片付けたら、その……増えてるんだ……」
「はいはい」
 この小言を聞くのは、これで何度目だろう。
 片手どころか両手を通り過ぎ、千手観音が頭上に降臨するくらいだ。
 なんとか言い訳をしようと試みたものの、ろくな回答にしか導き出せなかった彼に、短刀は諦めた表情で苦笑した。
 彼自身、最早言ったところで治らないと思っているのだろう。
 それでも口にしてしまった自分自身に笑っている、という雰囲気を嗅ぎ取って、歌仙兼定はむすっと口を尖らせた。
 室内は床に物が散乱せず、ある程度片付いてはいるものの、一定の法則に従って整理が出来ているとは言い難い。
 空いたところに適当に詰め込んで行って、棚を満杯にしているだけなので、整然としているのとも違う。必要な物がどこにあるか、即座に見分けるのが不可能な状態なので、ひとたび探し物を始めたら、一帯は足の踏み場もない状態に陥った。
 顕現してから幾度となく繰り返して来た状況が、近日中にも繰り広げられそうだ。
 そう遠く無い未来を想像して肩を震わす少年を軽く睨んで、歌仙兼定はふて腐れた態度でそっぽを向いた。
「悪かったね」
「それが、歌仙ですから」
「褒めてないだろう?」
「もちろんです」
「ぐぬ……」
 ぶっきらぼうに言えば、慰めるような言葉をかけられた。
 もっともそれが彼の本心とも思えない。言葉を重ねれば、予想通りの返答が得られて、二の句を継げなかった。
 どうにもこうにも、この短刀には敵わない。
 古くからの馴染みというのは厄介極まりないと、へし切長谷部と日本号の顔が代表して思い浮かばれた。
 眉間の皺が消えないでいる打刀仲間に同情を寄せて、崩してしまった書籍の回収を今更ながら開始した。小夜左文字も黙って手を動かす彼に倣って、近場で散らかっていたものを集め始めた。
「僕としては、よくもまあ、これだけ集める気になれると」
「お小夜は購買意欲が低すぎるんだ」
「必要無いものまで、欲しいと思わないだけです」
「清貧を気取って、己の心根まで貧しくするよりは、ずっと良いだろう?」
「僕は雅ではない、と」
「……そうは言ってない」
 説教が始まるのを嫌って言い返していたら、機嫌を損ねられた。反論しにくいところに踏み込んで来られて、歌仙兼定は口をへの字に曲げた。
 不満を露わにしつつも、それ以上は声に出さない。
 喉まで出掛かった内容を唾と一緒に呑み込んで、彼は代わりに深々と息を吐いた。
 聞こえようによっては、溜め息と受け止められたかもしれない。
 後から心配になって様子を窺うが、小夜左文字に格段の変化は見受けられなかった。
 もっともかの短刀は、元から表情に乏しい。胸の内を素直に吐露するような刀でないのは、長い付き合いを持つ打刀自身、よく分かっていた。
「いっそ、僕が見立てても良いんだけど」
「なにか?」
「――じきにまた、涼しくなる。篭手切もすぐに諦めるさ」
「だと良いんですが」
 沈黙が嫌で、わざとらしく声を高くした。
 拾った和書を座卓に置く勢いを利用した彼の言葉に、小夜左文字もどこかほっとした表情で口元を綻ばせた。
 彼も密かに、少々言い過ぎたと反省していたようだ。
 引っ張り戻した話題に揃って目を細めて、歌仙兼定はせっせと働く少年を眩しく見詰めた。
「ああ、お小夜。それは、重いから、そのままで」
「これくらい、僕だって」
「無理しないでおくれよ」
 棚の前に置きっぱなしにしていた木箱を退かそうと、華奢な体躯が大股開きで踏ん張る背中がどうにも愛らしくて、たまらない。
 失笑を堪えつつ言えば、小柄なのを気にしている短刀は余計にむきになって、意地でも動かしてみせると意気込んだ。
 こうやって時折顔を覗かせる、子供じみた頑固さもまた、いじらしい。
 口にすれば拳が飛んで来そうな感想を胸の内に留めて、歌仙兼定は額を拭う小夜左文字に頬を緩めた。
「ひと通り片付いたら、休憩にしよう」
「お茶の一杯くらいは、出ますか」
「団子もつけるよ」
「がんばります」
 手伝いを頼まれたわけでもないのに、自発的に打刀の部屋の片付けを行う彼には、毎度頭が下がる。
 礼のひとつもせねばなるまいと、奮発して鼻息を荒くして言えば、意気揚々と頷かれた。
 求められたからと応じたら、思いの外反応が良かった。珍しいこともあると驚いて、もうひとつ垣間見えた短刀らしさに口元が緩んだ。
「そうと決まれば――」
「歌仙、これは?」
「預かろう」
 のんびりしている場合ではなくて、頑張ろうと気合いを入れた途端に、横やりが入った。
 絶妙な嫌がらせだと心の中で苦笑して、差し出された巻物を引き受けた。
 金具を外して広げれば、随分昔に買った絵巻物だった。内容が興味深くて購入を決めたのに、部屋に持ち込んだ途端に行方を見失って、それっきりになっていた。
「お小夜は探し物の天才だな」
「歌仙が片付け下手なだけです」
「……ものは言いよう。うん」
 懐かしい気持ちにさせられて、感嘆の言葉を述べればぴしゃりと言い切られた。
 取り付く島のないひと言に、なんとも言えない表情を浮かべて、歌仙兼定は広げたばかりの巻物を閉じた。
 くるくる捲いて、金具で止めて、その間も忙しなく動き回る少年へと視線を移す。
 小夜左文字は小柄な体躯を生かし、というわけではなかろうが、棚と畳の僅かな隙間を覗き込んでいた。
 そんなところにも紙の一枚や二枚――五枚や六枚も紛れ込んでおり、取り出すのも大変だ。
 猫のように手を出しては引っ込めている短刀を後ろから窺っていた歌仙兼定は、その細い項を流れる汗の雫に気がついた。
 坪庭に面した障子を開けているとはいえ、風は弱い。陽射しは依然強く、太陽を遮る雲は期待出来なかった。
 蚊遣りの煙が、今更ながら鼻腔を刺激した。
 ずっと室内にも漂っていたはずなのに、今になって匂いが戻ってきた。反射的に口と手を左手で覆い隠すものの、露わになったままの瞳は日焼けでやや黒ずんでいる短刀の肌に釘付けだった。
 足の指はあんなに白いのに、項から背に掛かる一帯はよく焼けていた。胸側に比べて赤みが強いのは、ここに来る前に、屋外で日光を浴びて来たからだろう。
 そういえば彼の兄刀のどちらかが、畑当番だった。
 午前中はその手伝いをしていたと推測して、打刀はごくりと息を呑んだ。
 華奢で骨と皮ばかりの体躯ながら、日焼けの恩恵を受けて、短刀の肉体はいつになく健康そうだった。
 その首筋に、透明な汗の粒が浮いていた。蒸し暑さで屋外よりも不快指数が高いのもあり、それはじわじわ大きくなっていった。
 水晶玉のようであり、光を受けて輝く姿は蛋白石のようでもあり。
 初めはとても小さなそれが、時間をかけて成長を遂げて、やがて流れて形を失い崩れ去る。
 誕生から終末までの一連の流れを想像して、歌仙兼定は知らず知らず唇を噛んだ。
 なんて美しい一生だろう。
 そして目の前でこの美しいものが失われることの、なんと惜しいことだろう。
 出来るならば時間を止めて、永遠に閉じ込めてしまいたい。しかし汗の粒はいずれ流れ、潰えるからこそ美しいのだ。
 完璧なのは、ほんの一瞬。
 だからこそ強く惹かれるのは理解しているし、これを無理矢理留め置くのがいかに傲慢であるのかも承知していた。
 それでも、壊したくない。
 壊れて欲しくない。
 だが、叶わないのなら、いっそ。
 まとまりを欠いた意識がぐるぐる回って、目の前が暗く感じられた。
 それが目を瞑った所為だと気付くのに二、三秒必要で、利き手を伸ばしていたのは完全に無意識だった。
 五本ある指のうち、四本までを折り畳み。
「もう、少し……とどか、な……届け。とど――」
 棚の下の奥深くに潜り込んだ書類相手に奮戦していた少年の、首筋に。
 気がついた時には、ぺたりと。
「ひゃうんっ」
 人差し指の先が、成長真っ只中の汗の粒を押し潰していた。
 小夜左文字にしてみれば、不意打ちでつい、と首を後ろから撫でられたのだ。ぬるっとした汗の感触と、ほの温かな人肌の温もりが、快感であるはずがなかった。
 悲鳴は、頭の天辺か裏側から響いたのでは、と思えるものだった。
「な、んな。なんっ。なん、で、すか」
 直後に飛んで来た掌に手首をはたき落とされ、振り返った短刀が顔を真っ赤にして吼えた。
 なぞられたばかりの箇所を庇って棚に背中から突っ込んで行ったのは、些か大袈裟が過ぎる態度だった。
「なにも、そこまで」
「歌仙」
「いや、すまない。その、……なんと……なく……?」
「は?」
 若干傷ついたとは言えず、慌てて取り繕ったが、言い訳にすらならない。
 働かない頭で必死に考えた台詞に、小夜佐文字は憐れみと蔑みが半々に混じった視線を投げかけて来た。
 けれど彼だって、つい先ほど、ひとの旋毛を意味なく触って来たではないか。
 それとどれだけの違いがあるのか。声に出して訴えたかったが、切り出すのが一瞬遅れた所為で、結局言葉に出来なかった。
 斜め下からねめつけられて、どうやって不平不満を訴えられようか。
「団子、二個でお願いします」
「承知した」
 手っ取り早い妥協案を提示されて、呑むしかなかった。
 一も二もなく了承して、歌仙兼定は気を取り直して片付けを再開させた少年をこっそり盗み見た。
 あの瞬間、弾け飛ぶ直前の汗の形は、完璧だった。
 これ以上ない美しさだった。
 至極で、至高で、至宝に等しい輝きだった。
 けれど彼は時を止める術を持たず、その彩りを永遠に閉じ込めるのは不可能だ。
 かといってみすみす崩れ落ちていくのを黙って見送るなど、許せなかった。
 だから、潰した。
 壊した。
 この手で、自ら。
 そうすることで、歌仙兼定は手に入れた。
 彼しか見たことのない、とびきりの彩りを。
 彼だけが壊すことを許された、この上なく美しい玉石を。
「……まったく」
 なにも知らず、気取らずにいる少年にひっそり溜め息を零し、歌仙兼定は短刀に見えないところで唇を舐めた。

2019/09/11 脱稿
待ちつけてうれしかるらん七夕の 心のうちぞ空に知らるゝ
山家集 秋 262

居敷

 処理待ちの書類の山に埋もれて日々を過ごす中、数少ない楽しみは睡眠と食事。
 うち睡眠も、ふかふかのベッドで休める日はごく僅か。残りは執務室に置かれた大きめのソファで、辛うじて身体を横たえる程度だった。
 朝昼晩と、トラブルの報告はこちらの都合など関係ない。マフィアのボスを継ぐと決めた時から覚悟していたとはいえ、こうも頻発されると参ってしまいそうだ。
 連日の激務は心身を蝕み、まだ二十代前半とはいえ、回復が追い付かない。若いのだから大丈夫、というのは詭弁だと、綱吉は心の底から溜め息を零した。
「ちょっと、休憩」
 今日も巨大な執務机の前に陣取り、食事もろくに摂らずに頑張っているが、書類の山はちっとも減らなかった。
 挙げ句、目が霞んできた。すぐに塞がりたがる瞼を頻りに擦っていた彼は、観念して万年筆を手放した。
 情報化社会と言われ、パソコンでの作業が中心とはいえ、重要な報告や決済は未だ紙が用いられていた。
 小柄な青年の手には少々大きい万年筆が卓上をごろり、と転がった。すぐに銀製の文鎮に行き当たり、僅かに跳ね返って停止した。
 その行く末から目を逸らし、綱吉は椅子を引いて立ち上がった。
「ん~~」
 両腕を高く掲げて背筋を伸ばし、凝り固まった筋肉を解し、骨を鳴らした。左右に軽く揺れながら数歩進んで、部屋の中央部で待ち構えていたソファへと向かった。
 革張りのそれは黒く艶を帯び、いつだって綱吉を暖かく迎え入れてくれた。寝室にあるキングサイズのベッドには到底敵わないが、それでも十二分過ぎるくらいの心地よさを与えてくれた。
 ここに横になり、目を閉じれば、五秒としないうちに夢の世界へ旅立てる。
 目覚ましは特に用意していない。どうせ一時間もすれば、様子を見に誰かがやってくるだろう。
 訪ねて来るのが山本や獄寺であれば、こちらの疲労度を推し量り、そっとドアを閉めて帰って行きそうなところだが。
「リボーンだったら、やだなあ」
 容赦なく叩き起こしてくれるかつての家庭教師を思い浮かべて、彼は嫌な未来図を頭から追い出した。
 仮眠する前に、疲れる思いはしたくない。楽しい事だけ考えて、ピカピカに磨かれた靴を脱いだ。
 皺の一本も入っていないそれを無造作に床に並べ、右膝からソファに上がり込んだ。前屈みに倒れそうになった体躯を両手で支え、背凭れに沿って身体を斜めに傾けた。
「ふー」
 肘起きを枕代わりにして、味気ない天井を眺めながら息を吐く。
 大きく膨らみ、すぐに凹んだ腹に手を添えて、綱吉はゆっくり目を閉じた。
 欲を言えば二時間、せめて三十分だけでも、安眠を得たい。
 それくらいは許されるはずと、昨今の己の頑張り具合を持ち上げて、寝息を吐くべく口を窄めた矢先だった。
 どうにもこの男にだけは、超直感が働かない。
「よいしょ、と」
「ぐえっ」
 不法侵入者の声が聞こえたと思ったら、臍の真上に巨大な塊が落ちてきた。
 問答無用で圧迫されて、綱吉は蛙が潰れたような悲鳴を上げた。
 投げ出していた両足と、首から上が反動で跳ね上がり、直後に沈んだ。それでも退かない不届き者を右目で睨み付けて、綱吉は両肘を突っ張らせた。
 上体を起こそうと試みて、力技で退かしにかかるが、叶わない。
「お、も……」
「へえ、この頃のソファは喋るんだね」
「んな訳あるかあ!」
 苦悶に喘いでいたらそんな軽口を叩かれて、思わず声を張り上げていた。
 最後の力を、こんなところで使ってしまった。その後呆気なく沈み、倒れ込んだ綱吉を見て、雲雀はようやく腰を浮かせた。
 ぴくぴく痙攣しているボンゴレ十代目を見下ろし、薄ら笑いを浮かべて肩を竦める。
 誰の所為でこうなった、との思いは呑み込んで、綱吉はまだズキズキ痛む腹を抱え込んだ。
 ソファの上で胎児のポーズを作って、傍らに佇む黒髪の男をねめつけた。涙目なので迫力には欠けるが、抗議のつもりで歯を食い縛っていたら、雲雀は明後日の方角を向いてため息を吐いた。
「そんなところに居るから、悪いんだよ」
「人を踏んでおいて、言うに事欠いてそれですか」
 こちらは昨晩から明け方まで、近隣で発生したいざこざ解決に駆り出されていたのだ。城に戻ってからは溜まっていた事務仕事に専念して、睡眠時間はごく僅か。
 満腹状態だったら、吐いていたに違いない。
 空っぽに近い胃に救われたが、あまり嬉しくなかった。今のやり取りだけでげっそりやつれた気分になって、綱吉は背凭れにしがみつき、身を起こした。
 なんとかソファの真ん中に座って、神出鬼没極まりない雲の守護者を仰ぎ見る。
「はぁー……」
「ちょっと。人の顔見て溜め息、吐かないでくれる?」
「だったら、溜め息吐くようなこと、しないでください」
 雲雀にとっては軽くやったつもりでも、こちらは死ぬ思いをしたのだ。少しくらい愚痴を言っても許されるはずだ。
 いつになく強気で言えば、自由すぎる暴君は機嫌を損ねたのか、むっと口を尖らせた。
 余所を見てしばらく黙り込み、間を置いて再度綱吉の方を盗み見た。時間の経過でこちらの感情が落ち着き、状況が沈静化するのを狙っての行動と思われた。
 その手は食わない。過去に何度、同じような目に遭ってきたと思っているのか。
 今度こそ許してやらない、と心の中で牙を剥いていたら、なにを思ったのか、雲雀は短く切り揃えた前髪を押し潰した。
 本当は、額に掛かる前髪を掻き上げたかったに違いない。しかしほんのひと月前に、鬱陶しいと言ってバッサリ切り落としてしまっていた。
 ところが癖が抜けきらないようで、利き手を空振りさせる寸前だった。
 ちょっとした仕草だが、滑稽だった。うっかり噴き出しそうになったのを堪えて、綱吉は緩みかけた緊張感を奮い立たせた。
 ここで力みを解いたら、相手の思うつぼだ。
 この男のことだから、こういったポーズさえも計算のうちかもしれない。
 疑心暗鬼に陥っている若きドン・ボンゴレに肩を竦めて、雲雀恭弥はおもむろに右手を伸ばした。
 直前まで己の頭上に置いていたものを、綱吉の真上に移した。重力を無視して跳ねている癖毛を軽く押し潰して、くしゃくしゃと掻き混ぜたと思えば、急にすいっと持ち上げた。
「なんなんですか」
「分かったよ」
「なにがですか」
 腰に手を添えて偉そうにふんぞり返り、明後日の方角を見ながら言葉を紡ぐ。
 意味が分からなくて眉を顰めた綱吉は、彼の手の動きから、退くよう言われているのだと理解した。
 肘から先をひらひら横に振られて、彼は渋々尻を浮かせた。横にずれるだけで良いのか、目で問えば、雲雀は尚も手を振り続けた。
 ソファから離れるよう指示されたが、理由は説明されていない。いったいどういうつもりなのか、さっぱり見当が付かないが、逆らって殴られるのも癪だった。
「はいはい」
 苦々しいものを堪えて立ち上がり、言われた通り場所を譲った。すると雲雀は満足そうにひとつ頷き、今し方まで綱吉がいた場所に腰を下ろした。
「ヒバリさん」
 単に自分が座りたかっただけかと、腹が立った。
 そういえば彼は、こちらが寝転がっているのを承知で座ってきた。最初からそのつもりだったのだと分かって、堪忍袋の緒が切れそうだった。
「ちょっと」
 安眠を邪魔された恨みを晴らすべく、拳を硬くした。
 肩を怒らせ、眉を吊り上げて仁王の形相を作ろうとして、摺り足でソファへ躙り寄った。
「ほら」
 そこに軽やかな、男の声が舞い込んだ。
 一旦座り、慣れた調子でソファに横になった男が、やおら綱吉に向かって手を伸ばした。
 足が長すぎて、踵が肘掛けからはみ出していた。残る片足は軽く膝を曲げ、空を抱く格好で両腕を広げていた。
 おいで、とポーズを決められて、一瞬意味が分からなかった。
「なにしてるの」
 惚けていたら、急かされた。早くしろ、と鋭い目つきで睨まれて、綱吉は思わずビクッとなった。
 中学生の頃のような反応を見せられて、雲雀は一瞬固まった後、不意に口元を綻ばせた。
「座りなよ」
「はい?」
「僕が君に座ったから、怒ったんでしょ」
「なんのこと……って、ああ!」
 カラコロと喉を鳴らしながら言われたが、咄嗟に意味が分からない。
 きょとんとしながら小首を傾げた大空の守護者は、ソファに堂々と寝転がる男の全容を視界に収め、ハッと背筋を伸ばした。
 どうすればそんな理屈に到達出来るのか、彼の思考回路が十年経っても掴めない。
 けれどこういう突飛な発想を繰り返してきたからこそ、雲の守護者は今の地位を得たに違いなかった。
 横になっているところに座った侘びとして、今度は自分に座れ、と言っているのだ。
 なんとも恐れ多い勧誘に、綱吉は右の頬を引き攣らせた。
「えええ……」
 碌でもない謝罪に苦笑を禁じ得ず、実行に移すには勇気が要った。
「早くしなよ」
「うわっ」
 戸惑い、躊躇していたら、更なる催促を受けて、宙を泳いでいた男の手が向かってきた。
 右手首を掴まれて、問答無用で引っ張られた。その程度でバランスが崩れることはなかったが、軽くふらついて、爪先がソファにぶつかった。
 咄嗟に左腕を伸ばして背凭れに押しつけ、つっかえ棒代わりにして姿勢を維持する。
 距離が狭まった分だけ鋭い眼光に潜む圧が強まって、綱吉は降参して白旗を振った。
「じゃあ、えっと。失礼します」
 不意打ちで座らなければ意味が無い気がしたが、こうも繰り返し求められたら断れない。
 優柔不断な性格にトホホと肩を落として、彼は開放された右手を太腿に添え、雲雀に尻を向けた。
 ソファになにも置かれていない、という前提で、なるべく重心を後ろにし過ぎないよう、ゆっくり腰を落とした。
 雲雀恭弥の脇腹の、本当に端の端ギリギリのところを狙って、座る。
 不自然極まりないポーズに膝がぷるぷる震えて、太腿が数秒としないうちに悲鳴を上げた。寛ぐどころか、空気椅子に挑んでいる気分だった。
 真顔になって、遠い彼方の壁を見るだけの時間が過ぎていった。どんな苦行なのかと罰ゲーム感覚で耐えていたら、体重を少しも預けてもらえない側から不満が発せられた。
「なにしてるの。そうじゃないよ」
 ぶすっと言って、雲雀が斜め下から手を伸ばして来た。上半身を少しだけ浮かせて、辛うじて姿勢を維持していた綱吉の手首をむんずと掴んだ。
 他者を殴るには向かない細い腕を、強引なやり口で引っ張った。
「わあ」
 それでバランスを崩した綱吉が、雲雀の方へと倒れ込む。
 咄嗟に無事な方の腕を伸ばし、座面の端を掴んで転倒だけは回避するが、それも王様気取りの男にとって不満だったようだ。
 露骨に顔を顰め、口を尖らせたかと思えば、何を思いついたのか拘束を緩めた。開放された綱吉はサッと腕を引いて背後に隠したが、彼の目的は想像と違ったところにあった。
「え」
 今の綱吉は、雲雀の方に向いて腰を捻り、ソファの端に浅く腰掛けた状態だった。
 その太腿に手を添えられて、軽く揉むように撫でられた。
 瞬時に背筋がぞわっとなって、鳥肌が立った。不吉な予感がして、反射的に仰け反って距離を取ろうとしたのが、結果的には失敗だった。
「わわわっ」
「これは、……うん。こっち」
 突然膝頭の辺りをむんずと掴まれたかと思えば、出来た隙間を通って長い指が裏側に滑り込んできた。そのまま水を掬うように持ち上げられて、ただでさえ後ろに傾いていた重心が一層後方に偏った。
 仰向けに倒れかけて、綱吉が慌てふためいている間は、完全に雲雀の独壇場だった。
 ぶつぶつ呟きながら、人の左膝から先を宙に浮かせた。抵抗する暇を与えず、思うままに事を進めていった。
 直前まで前のめりに、その後仰向けを強いられた。腹筋に力を込めて耐えていたところに、下半身を操作されて、今度こそ倒れる、と覚悟した。
 そうならなかったのは、雲雀が掴んでいた足を降ろしたからだ。
「ここだね」
 彼は満足げに言って、綱吉の膝をソファに横たわる自身と背凭れの間に埋めた。動かないよう上から押さえつけ、固定して、それ以上はしてこなかった。
 自分のことに必死だったので、現状がどうなっているのか、即座に理解出来ない。ただようやく終わったと、ホッと息を吐いた綱吉は、背筋を伸ばすついでに改めて己の現在地を俯瞰した。
 太腿の内側に、固くて太いものが当たっていた。
 不安定な状態をどうにかしたくて、無意識に動かした下半身が、分厚くて仄かに温かなものにぶつかった。
 皺だらけのズボンの上から擦られて、ビクッとなった。背中に冷たいものが流れて、斜め下から注がれる視線に頬がヒクリと引き攣った。
「うん」
 今、自分がどういう状態なのか、ようやく把握した。
 口角を持ち上げた雲雀が、心底楽しそうなのが癪でならなかった。
 だがそれ以上に、湧き起こる羞恥心に耐えられなかった。
「な、なっ……ああああ!」
「悪くないね」
 意図せぬうちに、彼を跨いでいた。そうなるよう、仕掛けられた。
 操られた。いいように遊ばれた。
 臍よりも少し下、足の付け根より僅かに上。腰骨を跨ぐ格好で、座らされていた。
 咄嗟に退こうとしたけれど、左膝をがっちり押さえられているので、果たせない。代わりに尻を浮かせれば、追いかけて、突き上げられた。
 なにかを連想させる動きに、かあっと熱が迸った。
「ひひ、ひっ、ひば、ヒバリさ、ん」
「どう? 僕の座り心地」
「まだ昼間です!」
 顔が赤くなるのを抑えられない。もっと早く逃げておけば良かったと思うが、後悔先に立たず。全てが今更だった。
 そこに追い打ちをかけるような台詞を吐かれ、反射的に怒鳴った。
「へえ……?」
 嫌々と子供のように首を振って叫んだ綱吉に、雲雀は一瞬目を丸くして、すぐに意地悪く眇めた。
 不敵に笑い、両側から細腰を捕まえた。本格的に拘束を開始して、ぐり、と腰を軽く右に捻った。
「う」
 その瞬間、墓穴を掘ったと悟ったが、もう遅い。
 腹の中で舌なめずり中の男を前にして、綱吉は一気に青くなった。
「昼間じゃなければ、いいんだ?」
「そういう問題じゃあ」
「ふうん? じゃあ、昼間でも問題無いよね」
「ちがああああう!」
 暖簾に腕押し、馬の耳に念仏。
 そんな慣用句が脳裏を過ぎった。
 懸命に抵抗するものの、本気で殴り飛ばせないのは、相手が雲雀だからに他ならない。
 脇腹を擽られ、背中を撫でられた。ゆっくり身体を起こす男が迫って来ても、追い返す真似はしなかった。
 前髪越しに額で頬を擽られ、機嫌を測るように頬を押しつけられた。吐息が掠める近さで覗き込まれる頃には、言い返す気力もなくなっていた。
「一緒に怒られてくれますか」
「君の頑張り次第かな」
 キスの前のお強請りは、あまり期待出来そうにない。
 それでも良いか、と腹を括って、綱吉は広くて逞しい背中に腕を回した。

2019/06/02 脱稿