散りまがふ 花に心の 移りつつ

 麗らかな陽気に、上機嫌な歌声が溶けていく。複数の手拍子が響き渡り、けたたましい笑い声が合間に挟まった。
 吹く風は弱く、温い。
 足元は柔らかな芝に覆われ、頭上を仰げば薄紅色の花びらが視界いっぱいに広がった。青空は遙か上空にあり、白い雲が時折現れては、ゆるりと流れて去って行った。
 長閑で、穏やかで、健やかな時間。
「どうした、マスター。ちっとも箸が進んでおらんぞ」
「そんなことないって」
 こんなことをしている場合ではない、と頭のどこかで思っている。けれど極力考えないようにして、藤丸立香は織田信長の問いかけに首を振った。
 右手に握り締めていた割り箸を一旦置いて、入れ替わりに紙コップを取った。中に残っていた麦茶を一気に飲み干せば、隣に控えていたマシュがすかさず注ぎ足してくれた。
「ありがとう」
「いいえ、先輩」
 礼を言えば、眼鏡の少女は照れ臭そうにはにかんだ。目を細め、口元を綻ばせて、反対側から伸ばされた手にも即座に反応した。
 少女姿のダ・ヴィンチにも茶を注いでやって、最後に自分の分を。
 甲斐甲斐しく動き回る彼女に目尻を下げて、立香は僅かに湯気を立てる茶で喉を潤した。
 それから向かい側でまだ不満そうにしている信長に目配せして、箸を取った。彼らの前方に並べられた重箱には、まだまだ沢山の料理が残されていた。
 卵料理に、魚料理、肉料理。野菜もふんだんに使われて、彩りが実に鮮やかだった。
 見ているだけで溜め息が出るほどの豪勢さで、食べてしまうのが若干惜しくもある。
 カルデアの台所を任されているサーヴァントが、今日のために腕によりを掛けてくれたものだ。美味しくない、などあり得なかった。
「ん。おいひぃ」
 実際、筍の木の芽和えは絶品だった。
 固過ぎず、かといって柔らかすぎることもない絶妙の歯応えに、山椒の風味が絶妙だ。続けて二度、三度と箸を動かし、立香はのんびりと過ぎて行く時間に相好を崩した。
「まったく。ほれほれ、これも美味だぞ。食え、食え」
「ちょっと待って。そんなに一気に、無理だってば」
 調子良く箸を進めていたら、機嫌が直ったらしい。自分が作ったわけでもないのに、信長は得意になって、立香の皿に次から次へと料理を押しつけ始めた。
 手持ちの紙皿はすぐにいっぱいになり、空いていた皿にまで盛り付けられた。山盛りの食べ物を前に苦笑を禁じ得ないが、彼女の善意を蔑ろにする訳にもいかなかった。
「おうおう、どうした、どうした。ちゃあんと食ってっかあ?」
 和洋中なんでもあり、の一枚となった皿を抱え、端から順に攻略していたら、余所から別の声が振って来た。
 先ほどまで花見に浮かれて歌い、踊る沖田総司や長尾景虎と一緒に居たはずの、森長可だ。
「お前はちと飲み過ぎだ。ぶっ倒れても知らんぞ」
「んなことねえって。なあ、茶々様?」
 信長の背後から身を乗り出して来たバーサーカーに、生前から付き合いがある信長がすかさず小言を言う。実際彼は、この距離からでも分かるくらい、吐く息が酒臭かった。
 いったいどれだけの量を飲み、仲間を酔い潰して来たのだろう。
「なになに、なにか言ったー?」
 一方で話を振られた茶々は遠くに居て、質問が聞こえなかったらしく、可愛らしい顔で首を捻った。
 彼女の周囲には、既に脱落済のサーヴァントが何騎か、横になっていた。茶々は気分の悪さから唸っている仲間に声を掛け、水を飲ませ、時に叱って額を叩いたりと、小さな身体で飛び回っていた。
 相手にして貰えなかった森は少々不満げで、それを笑った信長が肘で大柄な狂戦士の脇を小突く。
 仲が良い彼らに相好を崩し、立香は鶏の唐揚げをひとつ口に入れ、咀嚼しながら立ち上がった。
「お医者さん、呼んでこようか?」
「とっくに頼んであるから、だいじょうぶー」
 花見の宴席は賑やかさを増し、雰囲気に呑まれて気が大きくなっているサーヴァントもいる。普段は口にしないアルコールに敗北する英霊は、今後も続出するだろう。
 先手を打ったつもりが、とっくに呼び出した後だった。大声で訊ねた後で、恥ずかしくなり、立香はまだ大きかった塊を飲み込んだ。
 喉に閊えそうになったが、堪え、胸筋の真ん中を二度、三度と叩いた。口の端に残る脂気を舌で舐め取り、座り直すのに躊躇して、半歩後退した。
「先輩?」
「ちょっと散歩。腹ごなしに」
 ばつが悪い顔をして、言い訳を口にした。先ほどより遙かに重くなった体躯を揺らし、腹を撫で、立香は怪訝にするマシュに頷いた。
 それで納得したのか、彼女は特に何も言わなかった。ならば自分も、と言い出しそうな雰囲気だったが、丁度吹き抜けた風に桜の花弁が多数攫われ、誰もがそちらに意識を奪われた。
 立香はその隙に、若草の上に広げられたシートから出た。自分の靴を選んで履き、シミュレーターで再現された桜吹雪に目を向けた。
 それは到底現実とは思えない、どこまでもリアルだからこそ作り物だと分かる光景だった。
 小さな花弁が天を舞い、宙を踊った。細い枝がゆらゆらと揺れて、薄紅色の嵐がそこかしこで繰り広げられていた。
 踏みしめた地面には無数の凸凹があり、足裏で感じる草の柔らかさも、限りなく本物だった。
 全てが真っ白になった世界では、四季を感じるなど不可能だ。しかし時間は絶えず動き、前に、前に進んで行く。だから身体が、心が、それを忘れないようにとの配慮が、今回の花見開催のきっかけだった。
 もっともそれはあくまでも建前であり、実際は数在るサーヴァントたちのガス抜きと、交流会も兼ねて、というのが実情。そこにマスターである立香のストレス軽減目的も加われば、カルデアで反対する者はいない。
 彼の故郷に似せた景色を楽しみながら、皆で食事をし、酒を飲み、大いに語らいあう。
 出身も、時代も、思想も異なる仲間が集まって、和気藹々と。
 歓声に誘われてそちらに目を遣れば、パリスやガレスに、ジャックといったメンバーが輪になって遊んでいた。
 諸葛孔明が木陰に座って本を読み、少し離れた場所で司馬懿とグレイ、それにアストライアがお茶会を楽しんでいた。遙か彼方では、広々とした草原を駆る馬の姿が複数確認出来た。先頭を行くのは赤兎馬のようだが、はっきりとは分からなかった。
 皆が思い思いの時間を過ごし、楽しんでいた。
 だから立香も、彼らの意を汲み、笑顔を浮かべるべきだろう。
 しかし、どうも巧く行かない。僅かに強張りが残る頬をなぞって、彼は深く肩を落とした。
「綺麗、だな」
 呟く声には、力がなかった。
 息抜きは大事だ。人類の存亡が掛かった戦いの真っ最中ではあるが、四六時中緊張していては、魂が疲弊し、磨り減る一方だ。
 だから仲間の気遣いは嬉しい。有り難い。感謝しかない。
 それでも鬱々とした感情が拭いきれないのは、差し迫る決戦を前にしての悲壮感からなのか、それとも故郷を思わせる景色の所為なのか。
 懐かしい、とは思わない。そもそも立香自身、カルデアに来る以前に花見をした経験は、ごく僅かだった。
 幼少期は親に連れられ、出かけたかもしれないが、記憶に残っていない。物心が付いてから、家族以外の誰かと、わざわざ桜を見に行くなど、あまりあることではなかった。
 勉強に、ゲームに、習い事に忙しかったのもある。毎年変わらず咲く花を、人混みを掻き分けながらわざわざ眺める人々の心理は、幼心に理解不能だった。
 桜を見ても、特別な感慨は浮かばない。美しい、それくらいは思うけれど、それ以上の何かは湧き起こってこなかった。
 ただ痛感するだけだ。この景色が現実には存在しないものと化した、という事実を。
「ああ、ダメだ。ダメだ」
 気がつけば、下ばかり見ていた。ハッとして、両手で頬を叩き、立香は無理矢理顔を上げた。
 深呼吸を数回繰り返し、ほんのり赤みを増した頬を撫でた。唾液で咥内を漱ぎ、飲み込んで、爪先立ちで背筋を伸ばした。
 猫背になっていた姿勢を改め、もう一度、右の頬を軽く打った。ぺちん、と痛み以上に大きく響いた音で気合いを入れ直し、思いの外遠くまで来てしまった現実に目を見張った。
 あれほど騒々しかった宴の声も、全く聞こえてこない。
 どこをどう歩いて来たかも、記憶は不明瞭だ。振り返った先に見えたのは枝振りも立派な桜だが、それ自体は特になんの変哲もない、言ってしまえば仮想空間に再現されたオブジェクトでしかなかった。
 だというのに、不思議と目を奪われた。
 気持ちを切り替えたから、だろうか。皆と見上げたのと同じ花なのに、激しく心を揺さぶられた。
「ああ……」
 ため息をひとつ漏らし、立ち尽くす。
 周辺には他にも何本か、桜の木が生えていた。いずれも沢山花を咲かせ、鮮やかな陽射しを受けて、輝いているというのに。
 理由は分からない。過去、己が目にした木と似ているのかと考えたが、あまりしっくりこなかった。
 訳も分からず、呆然と佇み続けた。早く帰らなければと思いつつも、離れ難くて、足に根が生えたようだった。
 鼻から吸った息を口から吐き、幾度か肩を上下させた。胸の奥がじんわり熱くなるのを感じて、無意識にそこに手を添えていた。
「マスター?」
「うわあ!」
 だから不意打ちの呼びかけに、大袈裟なくらい反応してしまった。
 他に全く注意が向いていなかったから、余計だ。怯えた猫のような反応をしてしまって、立香はぴょん、と跳び上がった後に口を塞いだ。
 恥ずかしいくらい、悲鳴が上擦った。人に聞かせるにはあまりにも情けない声色に顔を赤くして、不思議そうにしている男に首を竦めた。
「え。えと、え……あ、あれえ?」
 高速で瞬きを繰り返し、巻き舌気味に呟いて、身を乗り出した。あちらも立香の反応に怪訝な顔をしつつ、五メートル以上あった距離を早足で詰めた。
 さく、さく、と芝を踏む音が聞こえた。僅かに傾斜した道程を抜けて、彼は金糸煌めく長い袖を翻した。
「アスクレピオス」
「ちょうど良い所に居た、マスター。ひとつ訊ねたい。ここはどこだ」
「はい?」
 ギリシャの英霊にして、現代に於いても医神と崇められるアスクレピオス。
 その名を口にした途端、早口で質問を投げかけられた。左右を確認すべく、一瞬だけ瞳を泳がせた男は、至って真剣な表情で返事を待った。
 真っ直ぐな眼差しは、冗談を言っている雰囲気ではない。
「……はい?」
 もう一度、先ほどより大きな声で返事をして、立香は首を捻った。ぱちぱち、と二度ばかり瞬きを繰り返し、召喚後、当然のように医務室の主と化した男を見詰め返した。
 沈黙が続き、ふたりの間にひゅるる、と乾いた風が吹いた。
「マスター」
 やがてアスクレピオスがため息を吐き、袖に隠れた右手を腰に当てた。肩を竦め、真一文字だった唇をへの字に曲げた。
 気分を害され、不機嫌になっている。
 彼の感情の変化を察して、立香は引き攣り気味の笑みを浮かべた。
「ごめん。オレも、うーん……迷子」
 隠し通せるものではないし、隠したところで良いことはひとつもない。
 ならばと意を決し、正直に告白した。
 ただこれまでの反応と、尻窄みに小さくなっていく声とで、アスクレピオス自身も薄々勘付いていたらしい。
「そうか」
 彼はひと言そう呟いただけで、別段驚きもせず、糾弾もしてこなかった。
 それはそれで寂しい反応だが、不条理に怒鳴られ、詰られるよりはずっと良い。
 快晴の空を仰ぎ、視線を戻せば、医神は金色のサンダルで地面に穴を掘っていた。苛立ちは足元にぶつけて、立香には当てないように、との心がけだろう。その分かり難い配慮に笑みを浮かべて、人類最後のマスターは大きく息を吐いた。
「なんとなくは、覚えてるから。一緒に行く?」
「急患だと電信が入ったから、来てみれば」
「ははは」
 あまり自信はないけれど、と前置きして提案すれば、小さく頷いた後、アスクレピオスは深々とため息を吐いた。よもや迎えの一騎も現れないとは、彼も思っていなかったようだ。
 今回、シミュレーター内部に再現された空間は、花見をするだけにしては無駄に広かった。原因はまず間違いなく、颯爽と草原を駆けていた人語を操る馬だろう。
 思い切り走り回っても支障ないように、との希望を叶えた結果が、これだ。思わぬ弊害に遭遇させられて、立香はやれやれ、と首を振った。
「みんな、大丈夫かな」
「死ぬようなことはないだろう。なにせ全員、一度、死んでいる」
「……お医者さんがそれ、言っちゃって良いものなの?」
 赤ら顔で上機嫌にしていた面々と、突っ伏して苦しそうにしていた顔ぶれを思い出していたら、横から辛辣な言葉が発せられた。耳を疑い、質問を投げかけたが、アスクレピオスは返事をしなかった。
 ただ不敵な笑みを浮かべ、鼻で笑っていたから、一応彼自身も、冗談のつもりだったらしい。
 なんとも分かり辛く、笑い難い冗談なのか。
 医者としては非常に優秀ながら、時々扱いが難しくなる辺りが、流石はサーヴァントといったところだろうか。
 ただの人間である立香とは、産まれ方も、育ち方も、死に方すら大きく異なっている。そんな彼らの事を真に分かろうとしても、きっと時間の無駄でしかない。
 協調し、協力し、通じ合えるけれど、互いを本当に理解し合うには、人間の寿命はあまりに短過ぎる。
 何気なく己の掌を見詰め、裏返した。
 甲に刻まれた令呪は、仮想空間に再現された陽の光を受けて、一層黒く、際立って見えた。
「ところで、マスター」
「なに?」
 酔い潰れて大変なことになっているだろう仲間の元へ向かうべく、歩き出そうとした矢先。
 先に一歩を踏み出した立香を呼び止め、アスクレピオスが左腕を伸ばした。
「ここに来る道中にも散々見かけたが、大量に咲いているあの花は、なんだ」
 袖の中で指差しているのかもしれないが、傍目には見えない。ただ雰囲気は伝わって、立香は一度首肯し、続けて首を横に傾けた。
「桜、だけど。え、知らない?」
 英霊はマスターに召喚される際、様々な知識を与えられる。実際アスクレピオスは現代医学に通じており、医療行為に使われる機器を問題無く使いこなしていた。
 だというのに、桜の木を知らないというのは、おかしい。
 怪訝に思って声を高くすれば、アスクレピオスは一瞬黙り、嗚呼、と長い睫毛を上下に震わせた。
「そうか、これがサクラ、というものか。アーモンドではないんだな」
 得心がいったという風に呟いて、枝先で揺れる花に近付いた。顔を寄せ、至近距離から観察する姿は、医療従事者というよりは、科学者のようだった。
 それが少し面白くて、立香も桜の木に足を向けた。短い草が疎らに生える地面で背筋を伸ばし、両手は後ろで組んで、気になったひと言に説明を求めた。
「なんでアーモンド?」
 その単語から連想されるのは、香ばしくローストされたナッツの類だ。それがどうしてこの場に出てくるのか、立香には分からなかった。
 疑問符を頭に生やした彼をちらりと見て、アスクレピオスはすぐに桜の花に視線を戻した。長い袖を揺らめかせ、微風に泳ぐ枝先に目を眇めた。
「花の色と、形状が、似ているな」
「そうなんだ?」
「ギリシャで、春になると真っ先に咲く花だ」
「へえ……」
 過去を懐かしんでいるのか、語る彼の横顔はどこか嬉しげだ。淡々とした口調ながら、踊っているようにも聞こえて、おかしかった。
 新たな知見を得て、立香は緩慢に相槌を打った。知らなかったと目を瞬かせ、改めて大きな桜の木を見上げた。
 四方に枝を伸ばしており、遠くから見たら薄紅色の山のようだ。風が吹けばさああ、と一斉に揺らめいて、小さな花弁が中空を泳ぎ、流れていった。
 立香の手元にも一枚、ゆらゆらと落ちてきた。
「ギリシャって、凄く遠いところだと思ってたけど。そういう話聞いたら、なんか、近く感じる」
 手を広げ、受け止めた。寸前ですい、と逃げようとしたのを指で堰き止め、そのまま爪先で挟んで、目線の高さに掲げた。
 薄い花びら越しにアスクレピオスを見れば、彼は控えめに微笑んだ。
「美しい光景だ。そのうち、見せてやる」
 アポロンを筆頭に、ギリシャの神々には良い感情を持っていない男も、生まれ故郷には親しみを抱いているらしい。
 遙か遠くの大地に想いを馳せての呟きに、立香は頬を緩めた。
「楽しみにしてる。……正直、オレ、あんまり桜って、好きじゃないし」
「珍しいな。お前がそんなことを言うとは」
 約束を交わして、気が緩んだのだろうか。ぽつりと零した独白に、アスクレピオスは右の眉を僅かに持ち上げた。
「そう?」
 声も、心なしか低くなっている。
 彼の変化を悟り、立香は敢えておどけた調子で相槌を打った。しかし黙してじっと見詰められて、受け流すのは難しい、と数秒後に溜め息を零した。
 掴んだ花弁を風に預け、流れ行く花びらの渦を眺めた。どう説明しようか悩み、言葉を選んで、トン、と爪先で桜の根元を打った。
「桜の下には、死体が埋まってる」
「どういう意味だ」
「誰かの命を吸って花開くくらい、桜は綺麗だって意味。本当に埋まってるわけじゃないよ」
 春先になると、誰かがそんな話をしているのを、良く耳にした。裏山の神社の桜などはとても立派だったから、きっとそうに違いないと、怪談話も兼ねて語られていた。
 無論、それは事実ではない。しかし多くの人は、桜の美しさに死の影を重ねた。散り際の潔さや、儚さに、数百年に亘って想像力を巡らせてきた。
 しかし長い旅の中で、立香は多くの命を見た。懸命に生き、懸命に戦った人々に触れて来た。
 桜だって、必死に生きて、毎年花を咲かせている。一年の中でごく僅かな期間の為に、長い時間を耐え忍んで来た事実を、まるでなかった事のようにされるのは、納得がいかなかった。
「オレ、捻くれてるからさ」
 遊び場にしていた公園で、桜が咲く時期だけやって来て、子供達から場所を奪って騒ぐ大人が嫌いだった。普段は静かにしろ、だとか、ゴミを捨てるな、と言いながら、後始末も碌にせずに帰って行く連中が、憎らしかった。
 カルデアに滞在するサーヴァントたちが、そのような愚行を犯すとは思っていない。けれど一瞬、重なった。そして重ねて見てしまった自分に対しても、酷い嫌悪感を抱いた。
 自嘲気味に笑って、立香は頭を掻いた。黒髪をぐしゃぐしゃにして、アスクレピオスの言葉を待った。
 上目遣いに様子を窺えば、目が合った瞬間、彼ははっきりそうだと分かるくらい、立香を鼻で笑い飛ばした。
「ふっ」
「……な! なんで、笑うのさ!」
 こちらは真面目な話をしたつもりだった。罵られる覚悟もしていた。
 それなのに全く反対の反応をされて、驚いて、怒りさえ覚えた。つい声が大きく、高くなり、引き摺られて背筋も伸びた。
 握り拳を真下に突き出して、直後に力を緩めた。今一度アスクレピオスを見やれば、彼は依然不遜な表情を浮かべ、流れ落ちて来た桜の、まだ散る前の花柄を掬い上げた。
 萼の内側に、五枚の花弁が行儀良く並んでいた。まるで機械で測って、並べたかのような、見事なまでの規則正しさだった。
 これが自然の創り出したものだというのだから、驚嘆するしかない。
 そんな儚さと美しさを両立させた花を揺らして、動くギリシャ彫刻は優美に微笑んだ。
「確かにお前に、この花は似合わないな」
「ぐ――」
 真剣な表情で述べられて、傷つかなかった、と言ったら嘘になる。
 そういう話ではなかった筈だが、一気にすっ飛んだ。遠回しどころか直球で貶されて、反論したかったが、咄嗟に言葉が出なかった。
 喉に息を詰まらせ、唸り、顔を真っ赤にして医神を睨み付ける。するとアスクレピオスはぽい、と手にした花をその場に捨てた。代わりに、ではないだろうが、そのまま腕を伸ばし、立ち竦む立香の頬に指先を添えた。
 絹の袖越しに輪郭をなぞり、呆気に取られるマスターに向かって、不敵に口角を持ち上げた。
「お前は、そう、花ではない。幹こそが、お前だ」
「なに、言って……」
「大地に根を下ろし、風が吹こうが、雨が降ろうが、じっと耐え忍び、花を咲かせる。一方でその枝は傷つきやすく、折れれば容易く腐り、弱る。誰かが気を掛け、手を掛け、守ってやらねば簡単に朽ちてしまうような。それがお前だ。お前は、花ではない」
 口調は淡々として、説明は事務的だ。しかし離れて行かない指先が、徐々に触れる面積を増やしていく掌が、アスクレピオスの感情を代弁していた。
 暖かい。
 あたたかい。
「あ、やば」
 胸の内に広がった温もりが、目頭まで伝わって、その周辺がじんわり熱くなる。
 軽率に零れ落ちそうになったものを慌てて堰き止め、蓋をした。瞼を閉ざし、ぎゅっと力を込めて、深く吸った息をゆっくり吐き出した。
 アスクレピオスはその間、じっとして、動かなかった。立香が恐る恐る目を開けるのを待って、掌全体でその頬を包み込んだ。
「二度目の生という花を、僕らサーヴァントに咲かせている。ああ、そうだな。そういう意味でも、お前は、この木に似ているな」
 言って、コツン、と額に額をぶつけられた。それが彼なりの感謝の伝え方なのだと理解して、くすぐったくてならなかった。
 そんな風に言われたことなど、なかった。
 そんな風に考えたことも、なかった。
 暗く澱んでいた視界が、明るい陽射しに照らされ、四方に大きく開かれた気分だった。
「ありがとう」
「礼を言うべきは、こちらだろう」
「じゃあ、んー……どういたしまして?」
 すっと、胸が軽くなった。
 奥底で長く凝っていたものが溶けて、風に散る花びらに紛れて消えていく。心なしか呼吸まで楽になって、立香は口元を綻ばせた。
 茶目っ気たっぷりに右目だけを閉じ、髪の生え際を擽られて、首を竦めた。
「桜まみれだぞ」
「アスクレピオスだって」
 ずっと花の下に居たからか、身体のあちこちに花弁が付着していた。払い除けても、次から次に降ってくるので、ちっとも追い付かなかった。
 互いの肩や、髪に触れて、気がつけば声を出して笑っていた。小さなじゃれ合いが楽しくて、無邪気に花の下を駆け回っていられたあの頃に戻ったようだった。

2020/03/14 脱稿
散りまがふ花に心の移りつつ 家路をさへも忘れぬるかな
風葉和歌集 107

忍び余り 色に出でぬる 袂かな

 その日が近付くにつれて、ノウム・カルデアでは甘い匂いが鼻につくようになった。
 どこもかしこも、胃が溶けそうなくらいに甘い香りで溢れている。初めは食堂とその近辺だけだったのだが、時が過ぎるに連れて範囲を広げて、どこに居ても感じられるようになって行った。
 かくいう立香も、過分にその匂いを纏い、漂わせていた。
「う、う~ん」
 数日かけて試行錯誤を重ね、ようやく完成、と言えるものが出来上がった。
 けれど果たして、気に入ってもらえるだろうか。
 直前になって怖じ気づき、腰が引けた。やはり止めるべきか悩んで、足取りは非常に重かった。
 だが医務室の扉は、もう目と鼻の先だ。今更引き返すなど、往生際が悪過ぎた。
「……そう。日頃お世話になっているお礼。そう、お礼。お礼なんだから。別に他意はない。深い意味も、……ない。ない。ないったら、ないぞ」
 沢山の仲間から助言、助力を受けて、どうにか形になった。ここで諦めてしまっては、彼ら、彼女らの努力を無駄にすることにも繋がった。
 普段から食堂を根城にしている複数のサーヴァントの顔を思い浮かべ、立香は自分に向かって頷いた。臆したがる心を懸命に奮い立たせ、最後の一歩を踏み出した。
 沈黙するドアは硬質で、冷たい印象を与えた。来る者を拒む気配が感じられる。しかし本来ここは、誰でも入室可能な、開かれた場所だった。
 立香が抱いたイメージは、メディカルルームそのものに対してではなく、最近この部屋の主となった存在に対してのもの。
「よし」
 深く息を吸い、吐いて、覚悟を決めた。
 ここまで来たら、突っ切るだけ。これまでの己の旅路を軽く振り返って、人類最後のマスターは小ぶりの包みを胸に抱きしめた。
 高鳴る鼓動を数えつつ、唇を舐めた。奥歯を噛み、顎に力を込め、真剣な眼差しでドアを睨み付けた。
「アスクレピオス、入るよ」
 中にいるだろう男に呼びかけて、返事を待たず、爪先を前に出す。
 動くものに反応し、扉は自動的に開かれた。シュン、と左側へスライドして、一瞬のうちに道を作った。
 敷居を跨ぎ、もう一歩。
 視線を上げた先に広がる飾り気のない空間は、しんと静まり返っていた。
「あれ?」
 あてが外れて、立香は目を丸くした。
 てっきり椅子に腰掛けた男が振り返り、用件を問うてくるものと信じていた。だのに机の前は無人で、情報を呼び出す為の端末が無造作に放置されていた。
 複数並んだモニターには、誰のものかは分からないが、いくつかのデータが表示されていた。ただそれは過去のもののようで、グラフに現れる数値は動かなかった。
 自分の呼吸する音、そして心臓の音だけがいやに大きく、耳に響く。
「いない。……いない、のか」
 ゆっくりと呟いて、ようやく実感が湧いてきた。
 まさか不在だとは思っておらず、この場合どうするかのパターンは想定していなかった。
 アスクレピオスはだいたい、この医務室にいる。戦闘で負傷したサーヴァントの治療や、マスターの定期検診の他に、自身が生涯に亘って続けてきた研究も、ここで行っていた。
 勝手に拡張された奥の部屋には、その研究の為のラボがある。
 そちらかと思って足を伸ばすが、これもまた、外れだった。
「どこ行ったんだろう」
 辺りをぐるりと見回してみるものの、彼が出向いた先のヒントは転がっておらず。
 それどころか整理整頓され、掃除が行き届いた空間には、塵ひとつ落ちていなかった。
 磨かれてピカピカの床は、天井から降り注ぐ光を受けて、眩しく輝いていた。さすがに鏡のように物を写し出したりしないが、透き通った湖面が如き静けさをたたえていた。
 じっと見詰めていたら、目が疲れて来た。
 眉間に寄った皺を解し、立香は深々とため息を吐いた。
「どうしようか」
 無人の椅子の背凭れに手をやり、沈黙するドアを眺めるが、変化は訪れない。
 立っているのにも疲れて、やや高めのスツールに浅く腰掛けた彼は、大事に抱えていたものを顔の前に掲げた。
 半透明の包み紙でラッピングして、天辺には黄金色のリボンを。簡素だが、思いの丈を籠めたつもりだった。
 しかし食べてくれる相手がいなければ、詰め込んだ感情も行き場を失う。
「美味しく出来たのになー」
 立香が直前まで居た食堂に、彼の姿はなかった。管制室に呼ばれた可能性を考えるが、アスクレピオスを必要とする案件なら、マスターにも同時に声が掛かるのが普通だ。
 となればどこかで急患が出たのか、はたまたアルゴノーツの誰かから誘われたのか。
 カルデアには、あの医神の顔なじみが複数存在している。イアソンに絡まれ、迷惑そうにしているところに遭遇したことも、何度かあった。
 今回も昔馴染みと談笑し、楽しい時間を過ごしているのだろうか。
 だとしたら、探し出して、邪魔をするのは心苦しい気がした。
 勝手な想像を巡らせ、立香は椅子をくるりと半回転させた。キャスターで床を削り、転がして、動く度にカサカサ鳴る袋を膝に置いた。
 時間を掛けて結んだリボンの端を抓み、軽く引っ張る。
「オレだって、暇じゃないのに」
 不在の男に向かってぼそりと愚痴を零し、包装を解いた。むすっと膨らんでいた頬を凹ませて、取り出したのは銀色のカップに入った焼き菓子だ。
 表面が焦げ茶色なのは、なにも火力を間違えたわけではない。ココアパウダーをたっぷり混ぜ込んでいるので、元々このような色なのだ。
 作り方は単純で、初心者でも余程のことがなければ失敗しない、と言われて安心していた。けれど蓋を開けてみれば意外と難しく、普段から料理をしている存在の言葉は当てにならない、というのを思い知らされた。
 そうやって多くの協力を得つつ、試行錯誤の末に完成したチョコカップケーキ。
 あまり美味しそうに見えないのが残念だが、試食した感じ、口当たりは悪くなかった。
 もっと凝った物を作りたかったけれど、時間が足りない。今はこれが限界と、男らしく潔く、覚悟を決めて来たというのに。
「食べちゃうぞー」
 頑張って準備したが、渡せないのでは、用意した甲斐がない。
 この後の予定も差し迫っており、ゆっくりしていられる時間は残り僅かだった。
 卓上に置かれたデジタル時計の数字を確かめ、今一度ドアを振り返るが、相も変わらず変化はなかった。両膝を伸ばして空を蹴り、立香は椅子の上で猫背になった。
 返事が無いと分かりきっているのに、合いの手が返されないのに拗ねて、手にしたカップケーキを鼻先へ。
 合計三個包んできたうちの一個を嗅げば、美味しそうな匂いが嗅覚を刺激した。
 そもそも菓子作りに没頭して、昼食を食べ損ねた。
 すっかり忘れていた空腹感が、ひとり芝居の虚しさも手伝ってか、急激に膨らんだ。
「本当に、食べちゃうぞー。知らないもんねー」
 ぐう、と鳴った腹に苦虫を噛み潰したような顔をして、背筋を伸ばした。椅子の上で畏まり、またも不在の男に向かって告げて、口をへの字に曲げた。
 空回りしている自分を痛感し、気恥ずかしさから顔を赤くして、肩を落とす。
「……食べちゃお」
 複数個用意してあるのだから、一個くらいなら、構わないだろう。
 悪いのは、医務室に居ないアスクレピオスだ。折角マスター自ら足を運んでやったのに、なんと間の悪い奴なのだろう。
 会う約束は、していない。だというのに全ての責任を彼に押しつけて、立香は銀色の容器の角をペリ、と剥がした。
 しっとり柔らかな生地が、衝撃でぼろっと崩れた。細かな滓が端から落ちて、立香の膝に散らばった。
「おっと」
 こうなる予感はしていたが、防ぐ手立てはなにも施していなかった。
 こればかりは、致し方がない。大きな粒は指で抓んで、急ぎ口へ運んだが、爪の先にも乗らない小さなものは、諦めるしかなかった。
 黒色のズボンに散った茶色を軽く払い除け、心の中で、カルデア中を掃除をしている誰かに頭を下げた。その一方で立香は、目の前に出現したチョコレート色に頬を緩めた。
「美味しそう」
 自画自賛になるが、心からの感想を口にして、目尻を下げる。
 いかにも甘そうな甘味を前に、空腹は増す一方だ。早く齧り付きたい、という衝動を必死に宥め、彼は手作りケーキに軽く一礼した。
 過不足なく食べ物にありつける境遇に感謝して、ようやく口を開いた。
「あー……ンム」
 幸せいっぱいに顔を綻ばせ、自信作を堪能すべく、頬張る。
 口の端にぶつかったケーキが自壊して、比較的大きな塊が床に落ちるのと、長く静まり返っていたドアがひとりでに開いたのは、ほぼ同時だった。
「ん?」
 慣れた調子で室内に入り、長いもみあげを揺らした男が首を捻る。
 カップケーキを咥えた状態で固まっているマスターを見出して、アスクレピオスは数回、瞬きを繰り返した。
 ふさふさの睫毛を何度も上下させて、形の良い唇を引き結び、顎に手を添えて考え込む素振りを見せる。
 往診に出ていたわけではないようで、彼は手ぶらだった。
 黙り込み、診療室に入ってからひと言も言葉を発しない。その沈黙があまりにも不気味で、空恐ろしく感じられた。
 立香はごくりと、喉に詰まりそうな大きさの塊を無理矢理呑み込んだ。歯形が残るケーキを顔から剥がし、自由の利かない頬の筋肉を、強引に動かした。
「ふ、ふへ。えへ、へへ……」
 しかし言葉が出てこなくて、不自然極まりない笑いが零れ落ちた。
 気まずい空気が流れて、逃げ出したい衝動に駆られたが、動けない。
 あちらの出方がまるで読めず、どうして良いか分からず混乱していたら。
「おい、マスター。ここで何をしている」
 語尾の上がらない問いかけが飛んで来た。
 低い声だった。医者として患者と向き合う時とは趣が異なる、凄みを利かせた声色だった。
 こういう喋り方をする時のアスクレピオスは、大体において、機嫌が悪い。
 交差する前髪の向こうから覗く眼光は鋭く、良く研がれたナイフのようだった。
 思わずぐっと息を詰まらせ、立香は奥歯を噛み鳴らした。
「え、えっと。その」
「お前は、此処がどういう場所か、分かっているのか」
「ええ? え、えっと。保健室、じゃなくて。あの――だわっ」
 質問されて、咄嗟に答えられなかった。時間が経つに連れて増していく怒りのオーラに圧倒されて、椅子の上であたふたしていたら、バランスを崩して落ちそうになった。
 咄嗟に膝上の包みを握り締めたら、つられて右手の指先にも力が入った。ぐしゃ、と柔らかなものが潰れる感触があり、見れば三分の二になったカップケーキが拉げていた。
 脆くなっている咬み痕から、細かな破片が次々落ちて行く。
 全てを拾うなど、出来ない。唖然と見ている前で、甘ったるいケーキはどんどん形を変えていった。
「あああ……」
「マスター、貴様」
「ちょ、ちょ。待って」
「前任者がどうだったかは知らないが、ここは治療を行う場だ。それなのに、お前が持っているものは、なんだ。お前は自分が何をしているのか、分かっているのか。雑菌を増やし、害虫を寄せ付けかねない代物を、ぼろぼろと」
 大股で詰め寄られて、必死に懇願したが聞き入れられなかった。興奮しているのかアスクレピオスはいつもより早口で、カツカツ足音を響かせながら、利き手を振り回した。
 跳ね上がった袖の先が、立香の膝を打った。反射的にそちらに目をやれば、磨かれた床に散らばる菓子屑が嫌というほど目に付いた。
 苦心の末に焼き上げたものが、無惨な姿を晒していた。
 しかしアスクレピオスの目には、それは医務室を汚す不浄な物、として映し出されていた。
 粉々になったケーキを指し示し、ギリシャの英霊が不機嫌に顔を歪めた。
 険しい表情で睨み付けられて、顔を上げた立香は即座に目を逸らした。
 右手に持ったままの菓子の角度を調整し、断面を上にした。散らばっている欠片を踏まないよう注意しつつ椅子から降りて、左手にぶら下げた袋の口を握りしめた。
「ごめん、なさい」
 確かにこの部屋は、患者を治療し、癒すための場所だ。前任者が甘い物好きで、作業をしつつ何かを食べている光景を良く目撃したものだから、ついつい忘れがちだったけれど。
 ここを衛生的に保つのは、大切なことだ。アスクレピオスは間違っていない。彼がナイチンゲールから学んだ新しい考え方は、きちんと理解され、しっかりと根付いていた。
 深く考えなかった立香が悪いのだ。
 反省すべきは、軽率な行動に出た立香の方だ。
 分かっている。だのに傷ついて、哀しくて堪らなかった。
「……ごめんなさい」
 必死に声を絞り出したが、後半は鼻が詰まって、上手く音にならなかった。
 掠れる小声と共に頭を下げ、食べかけの分は欠片が落ちないよう、全てを口に詰め込んだ。袋に収まったままの二個はそのまま、憤然としている男の胸に叩き付けた。
「待て、マスター。これはなんだ。おい。おい!」
 一口で頬張るには大き過ぎた塊を、掌で押さえつけた。噛み砕きながら喉に流し込み、息苦しさを堪えて床を蹴った。
 空気を読んだドアが、立香が体当たりする直前にスッと開いて道を譲った。置き去りにされた男はなにかを繰り返し叫んでいたが、声は途中で聞こえなくなった。
 こみ上げる吐き気に耐えて、味など分からないカップケーキを呑み込んだ。少しも美味しくない。こんなに不味い菓子は初めてだった。
「馬鹿みたいだ」
 全力で自室へ戻って、ドアが閉まると同時にへたり込んだ。糸が切れた人形のように崩れ落ちて、しばらくそこから動けなかった。
 怒られたのがなによりショックだった。もしや彼は、今日が何の日か知らないのでは、という疑問に至ったのは、のろのろと立ち上がり、ベッドに倒れ込んだ後だった。
 口の中に残るチョコレートの甘い匂いを洗い流したかったが、洗面台まで行くのが億劫だった。靴も脱がずに横になり、天井を仰いで、立香は視界に紛れ込んだ前髪を引っ張った。
「だとしても、だよ」
 なにも人の顔を見て、開口一番怒鳴らなくても良いだろうに。
 口の中をいっぱいにしていて、すぐに答えられなかったのも、災いした。なによりタイミングが悪すぎた。あの瞬間に帰って来るなど、未来視の能力があるサーヴァントでもない限り、分かるわけがなかろうに。
「はー……ああ」
 天に向かってため息を吐いて、大の字になった。そこから右を下にして寝返りを打って、ベッドからはみ出た左指で空をなぞった。
 爪先でぐるぐると円を描き、ぐしゃりと握り潰した。悶々とする気持ちを宥めるつもりでシーツの皺を撫で、平らに均した。
 なにをあんなに、一生懸命になっていたのだろう。
 この数日の頑張りを振り返って、残ったのが虚しさだけという現実は、簡単に受け入れられるものではなかった。
 ちゃんと約束を取り付けるべきだった。
 先にバレンタインデーの説明をすべきだった。
 待ちきれなくて、勝手に食べ始めたのがそもそもの間違い。
 目を閉じれば反省点が渦を巻き、立香を呑み込んだ。せめて床に散った分を掃除してから立ち去るべきだったのではと、結果として火に油を注いでしまった自分の行動に、今更ながら青くなった。
 考えれば考えるほど、気が滅入り、起き上がれない。
 気がつけばブリーフィングが予定されていた時間を過ぎていたが、呼び出しのメッセージは無視した。体調不良を心配する複数の声がモニターから聞こえて来たが、応じる気力も湧かなかった。
 申し訳ないと思いつつ、聞こえないフリをした。勝手極まりないとは分かっているけれど、優しくされると余計惨めになるから、放って置いてほしかった。
 人類存続の危機と背中合わせの旅路を送っているのに、こんなことで落ち込んで、哀しんでいる自分が情けない。
 どれくらいの時間が過ぎたのか、数えるのも億劫になった頃、立香はようやくベッドから起き上がった。
 少し眠ったら、幾分気持ちが晴れた。
 寝癖がついた後頭部を掻き混ぜ、目尻に残る涙の痕を拭った。
 マシュや新所長に謝るのは、きちんと顔を洗って、腐抜けた面を整えてからだ。アスクレピオスにも非礼を詫びて、許してもらえるよう頭を下げに行こう。
「よし」
 この後の予定を簡単に組み立てて、両の頬を軽く叩いた。立ち上がるだけでも気合いが必要だったが、少しずつ本来の調子を取り戻していけたら良い。焦りは禁物を自分自身に言い聞かせ、立香は深く息を吐いた。
 煌々と照明が灯る室内では、現在時刻が分かり難い。
 夕飯も食べ損ねたと肩を竦めていたら、部屋の外から呼び出し音が鳴った。
 あまりにもタイミングが良すぎる訪問だが、疑念は生まれなかった。普段からサーヴァントたちは自由気ままに、勝手にマスターの部屋に突撃してくる。今回もそうだと勝手に思い込んで、立香は首を伸ばし、身体を左右に揺らした。
「どうぞー」
 気楽に声を返し、入室を許可する。
 果たして、ヒュン、と壁に収まったドアがあった場所に立っていたのは。
「……うそ」
 右手に盆を掲げ持った、銀髪の英霊だった。
 どことなくむすっとして、不機嫌そうではあるが、怒っている雰囲気ではない。むしろ戸惑っているような、そんな印象を抱かせた。
「体調はどうだ」
 絶句していたら、訊かれた。複数の気配がある廊下から室内に場所を移して、アスクレピオスは凍り付いている立香に目を眇めた。
 一瞬だけ外を気にして、舌打ちした。思わずビクッとなったら、振り返った彼が慌てて首を振った。
「違う。今のは、お前にではない。……そうだな。僕の勉強不足が招いたことだ」
「アスクレピオス」
「知らなかったというのは、言い訳にもなるまい。カルデア全体が浮き足立っているのを感じ取っておきながら、その理由を探ろうともしなかったのは、僕のミスだ」
 言いながらゆっくり歩み寄り、彼はベッドサイドのテーブルに持っていたものを置いた。ガチャン、と一度だけ大きな音がして、視線を向ければ、湯気を立てるマグカップがふたつ、並べられていた。
 そしてその容器に挟まれる格好で、ピンク色の皿が一枚。
 上には銀色の容器に収まった、焦げ茶色の焼き菓子が、ふたつ。
「すまなかった。マスター」
 驚いていたら、両手を空にしたアスクレピオスが小さく頭を下げた。申し訳なく思っていると、誰が聞いても感じられる調子で告げて、溜め息と共に肩を落とした。
「いや、あの。えっと」
 それで益々目を丸くして、立香は声を高くした。だがなにかを言おうとするものの、咄嗟に言葉が出てこなかった。
 無意味に両手を泳がせて、最後は緩く握って膝に落とした。黙ってこちらを窺っている男をじっと見詰めて、緩やかに膨らんでいく感情に合わせ、四肢の強張りを解いた。
「オレも、……うん。ごめん」
 診察室でのアスクレピオスの指摘は、間違っていない。
 軽率だった自分を恥じて、面と向かって謝罪をすれば、緊張気味だった男の貌が綻んだ。
 つっかえていたものが取れたらしい。見るからにホッとした様子だった。
「座っても良いか?」
「どうぞ、どうぞー。狭苦しいところだけど」
 力の抜けた質問に笑顔で返し、座っていたベッドの脇から少しだけ移動した。場所を作り、此処に来るよう手で促して、明らかにアスクレピオスが用意したのではない一式に視線を転じた。
 大きめのマグカップの中身は、気持ちを落ち着かせてくれるホットミルク。
 誰の気遣いかは分からないが、感謝しかなかった。
「オレも食べて良いの?」
 医神が金で模様を描いた皿を引き寄せて、片方を手に取り、残りを差し出してくる。
「折角だからな。それに、僕だけが食べるのは、恨まれそうだ」
「そんなことないのにー」
 軽口を叩かれ、言い返すのに、迷いは生まれなかった。
 悩まなかった。考えなかった。躊躇しなかった。
 ごく自然と、会話が生まれていた。
 嬉しかった。
 幸せだった。
 無意識に微笑んで、立香は銀紙を少しだけ捲った。横ではアスクレピオスが、興味津々にその様子を観察していた。
 ひと通り食べ方をチェックしてから、実践に移るが、すぐに手を止めてしまう。
「難しいな……」
「そう?」
「お前が作ったものだからな。一粒たりとも落とさないためには、どうするのが一番良いのかと」
「大袈裟だなあ」
 悩ましげな横顔が、面白い。
 恐ろしくくだらない事に真剣になっている彼を笑って、立香は大口を開け、自慢のケーキに齧り付いた。
「んー」
 気のせいか、食堂で試食した時よりも、ずっと美味しい。
 幸福感に包まれて、頬は緩みっぱなしだ。皿に欠片をボロボロ零しつつ、豪快に食べ進めていたら、観念したのか、アスクレピオスも白い牙を覗かせた。
 遠慮がちに噛みついて、落ちかけた欠片を舌で拾い、飲み込んで。
「ああ、……美味いな」
 しみじみと呟かれて、立香は噴き出しそうになったのを必死に堪えた。

忍び余り色に出でぬる袂かな 人知れずこそしぼりわびしに
風葉和歌集 785

2020/02/16 脱稿

草緑月

 目が醒めた時、死神が迎えに来たのかと思った。
 気配を感じて、意識が水面下から浮上した。穏やかな波間に漂っていたのを、無理矢理陸に押し上げられた格好だった。
 照明は消えて、室内は暗い。カーテンの隙間から差し込む光が床に伸び、反射して、天井のシャンデリアがキラリと輝いた。
 そんな微かな光の中に、黒装束の男が佇んでいた。
「……殺されるかと思いました」
 吃驚して、飛び起きた。悲鳴を上げたかったが、強張った筋肉がそれを阻止した。
 壁際に後退して、パジャマ姿で身構えて、侵入者の顔を認識したのはその後だった。
 助手席に座り、頬杖をついた綱吉がぼそりと呟く。窓に映し出される彼の表情は苦虫を噛み潰したかのように渋く、眉間には深い皺が刻まれていた。
「君と戦うなら、もっとちゃんとした時間と、場所を用意するよ」
 小声の愚痴は、運転席に座る男の耳にしっかり届いていた。ただ返って来た言葉は若干的を外しており、黙って聞いていた綱吉は深々と溜め息をついた。
 がっくり肩を落とし、そうじゃない、と首を振る。額に手を添えて俯き、前のめりになったが、ハンドルを握る雲雀は全く意に介さなかった。
 楽しそうに口角を歪め、ハンドルを右に回した。カーブする道をそれなりの速度で進んで、直線に戻ったところで僅かにアクセルを踏み込んだ。
 更にスピードを上げて、黒塗りの車が夜明け前の空の下を駆けていく。
 瞬く間に後ろへ流れていく灰色の景色に視線を投げて、綱吉はクッションも充分な座席に身を埋めた。
 身体を固定するシートベルトの表面をなぞり、時折左側を窺って、正面を見据えた。
 なにもないと思われていた空間に、ちらりと、月や星々とは明らかに違う輝きが垣間見えた。
「おお」
 傷ひとつないフロントガラス越しに現れたのは、遙か遠く、なだらかな稜線を染めた朱色の太陽だった。
 日の出だ。
 思わず身を乗り出して、シートベルトに止められた。ゆっくりと、しかし確実に位置を高くする太陽に見惚れていたら、隣から微かな空気の流れを感じた。
 現在地を思い出してはっとなり、そちらに顔を向けた。
 途端に雲雀が口元を引き締め、正面に向き直った。
「ぬぬぬ」
「三文分は、得をした?」
「おかげさまで、どうも」
 盗み見られていたのを自覚し、綱吉は喉の奥で唸った。雲雀はいつも通り飄々として、嫌味を口にする。それに負けじと応戦したが、彼のお蔭でこの光景を見られたのは、間違いなかった。
 ただ約束もなく、唐突に現れるのは、止めて欲しい。
「いきなりなんだもん」
 心臓に悪い目覚めだった。改めて思い出して、綱吉はポケットから引き抜いた携帯端末を撫でた。
 指紋認証で画面を明るくすれば、現在時刻の他に、メールや電話の着信履歴がまとめて表示された。
 もっとも今のところ、この一時間以内に届いたものは見当たらない。
 そろそろ部屋の目覚まし時計が鳴る頃だ。それから三十分もすれば、ボスの右腕を自称する獄寺が部屋へ迎えに来る。
 綱吉の不在が露見するのは、その後だろう。
 どんな言い訳をしようか考えて、一気に憂鬱になった。屋敷のバルコニーからとは違う日の出に感動出来たのは、ほんの僅かな時間だった。
 寝癖が残る前髪を掻き毟り、刻一刻と進んで行く時計を睨み付けた。小さく舌打ちしたら、気に触ったのか、運転席から腕が伸びてきた。
「そんなの見て、楽しいの?」
「楽しくないですよ」
「そう。じゃあ見なければ良いじゃない」
「また、簡単に言っちゃって」
 片手でハンドルを操作しつつ、雲雀が綱吉の手ごと、小型の端末を膝へ降ろさせた。しかも画面が下になるように、力加減と角度を調整する徹底ぶりだった。
 与えられる体温に逆らわず、従って、綱吉はぐーっと背筋を伸ばした。遠いようで、案外近いところにある天井を仰ぎ、一分前とは明るさが違う空に目を向けた。
 ほんの一瞬のうちに、世界が一変していた。
「ヒバリさんに拉致されたって、言いますからね?」
「良いよ」
 予定では、今日は傘下のファミリー代表者との会談の後、ボンゴレが別名義で運営している工場の視察が入っていた。
 資金運営絡みで目を通しておかなければならない書類は、大方決済が完了している。急ぎで整理しなければならない案件がなにもなかったのは、幸いだった。
 だからこそ、狙われたのかもしれない。
 今日も普段通りに始まり、何事も無く終わるものだと思っていた。
 ところが夜明けを待たずして、見通しが良かった空に雲が立ちこめた。
 視界不良、行く先も不明。
 どこへ連れていかれるのか、皆目見当がつかなかった。
 辛うじてパジャマから着替える猶予は貰えたが、服装を選んでいる余裕はなかった。お蔭で靴下が左右で違う。適当に引っ掴んで持って来たネクタイは、ジャケットとのバランスが悪く、結ぶのを諦めた。
 第一ボタンを外して開いた襟元を弄り、そのまま指を顎に添える。
 見慣れない景色が次々現れては、消えて行った。左右に広がる葡萄畑に動くものはなく、市街地が遠いのも手伝って、すれ違う車も殆どなかった。
「どこ、行くんですか?」
「さあ」
「え?」
 このまま行けば、いずれ海に辿り着くだろう。
 ちゃんと屋敷に帰り着けるのなら、それでいい。腹を括って、一からやり直しとなった今日の予定を確認しようとしたが、返って来たのは不思議なひと言だった。
 素っ気なく、淡々と。
 無責任が過ぎる投げやりな合いの手に、綱吉は目を丸くした。
 零れ落ちんばかりに見開いて、運転席の男を凝視する。
 穴が空きそうなくらい見詰められて、雲の守護者は口角を持ち上げた。
「どこに行きたい?」
「はあ?」
 不遜に訊ねられて、素っ頓狂な声が出た。
 日に何度も、驚かせないで欲しい。愕然として口をぽかんと開けた綱吉に嘆息し、雲雀は人差し指でハンドルを叩いた。
 リズムを取り、小さく肩を竦めた。言葉を探しているのか目を泳がせて、やおらブレーキを踏み、速度を落とした。
 後続車の邪魔にならないよう車を端に寄せ、完全に停車させた。明るさを増していく空と、完全に姿を現した太陽を遠くに眺めて、ハンドルに凭れ掛かるように猫背になった。
 その状態で助手席の綱吉を見て、不敵な笑みを浮かべた。
「君が行きたいところ、行ける範囲でなら、連れていってあげる」
 さらりと言われて、顎が外れそうだった。
「えええー……」
 予想外の返答に絶句して、綱吉は顔を覆った。全く以て意味が分からないと、早朝から叩き起こされた己の境遇を振り返った。
 前触れもなく突然やって来て、早く支度をしろ、と急かされた。どうやってセキュリティを掻い潜ったか分からないが、正面玄関から堂々と連れ出された。
 その間、屋敷の人間には誰ひとりとして遭遇しなかった。
 神出鬼没なこの男には、これまでにも散々振り回されて来た。今日もそうなるのか、と彼の身勝手さを恨んでいたら、膝に放置していた携帯端末が突如騒がしく踊り出した。
「うわっ」
「ムッ」
 不意を衝かれ、シートの上で飛び跳ねた。
 雲雀も何が起きているのか察して、露骨に顔を顰めた。
 長らく沈黙していた電話が、華やかな音楽を奏でていた。小刻みに己を震わせて、早く出るよう、持ち主に促した。
 画面上に表示されているのは、獄寺の名前だ。慌てて車に搭載されているデジタル時計を確認すれば、普段の起床時間をとっくに過ぎていた。
「え、あ。あっ、えと、も……もしもーし」
 咄嗟にどうすれば良いか分からず、狼狽して、端末を握り締めた。応答する方法さえ頭から吹き飛んで、鳴り続ける小型の機械に向けてそのまま喋り出そうとした直後。
 ブツッと、音楽が止まった。
 激しい振動も収まって、画面が一気に暗くなった。
 理由は、明白だった。
 綱吉が持つ端末に、雲雀の手が覆い被さっていた。指は側面に添えられており、彼が電源ボタンを押したのは間違いなかった。
「はい?」
「チッ」
 許可した覚えはなく、横から割り込まれた格好だ。
 勝手な事をした彼にきょとんとしていたら、盛大な舌打ちが顰め面と共に飛んで来た。
「君ねえ」
「うわ、まただ」
 露骨に不機嫌になった雲雀の前で、一度は沈黙した電話がまた鳴り始めた。
 一度や二度で、諦める獄寺ではない。ここは大人しく、状況を報告すべきだろう。
 幾ばく冷静さを取り戻して、液晶画面に添えた指を上に滑らせる。その単純な操作をする僅かな間に、雲雀がシートベルトを外したのに、綱吉は気付けなかった。
 逃げ場のない密室で、動きを制限する拘束を解いた男が、大きく身を乗り出した。
「もしもし、もしもし? うん。ごめん。あのね、うん、うん。違うって。オレはだいじょ……」
 通話が繋がった途端、スピーカーから獄寺の声が溢れ出た。正直何を言っているか分からないくらい、発音がめちゃくちゃになっていたが、心配してくれたのは痛いくらい伝わって来た。
 そんな過剰なまでに身を案じる男を宥めていたのを、遮られた。
 力技で綱吉の腕を降ろさせ、膝に縫い付けた。逆らえないよう、斜め前方から覆い被さり、真っ直ぐに見据えたまま顔を近づけてきた。
 鋭い眼光が、綱吉を射貫く。
「ンムー!」
 目を閉じて、という雰囲気ではなかった。色気など皆無だ。これはキスなどではない。噛みつかれ、一歩間違えれば食い千切らかねない代物だった。
 無理矢理口を塞がれて、熱を押しつけられた。鼻息が肌を掠めて、そこから火傷が広がっていく錯覚を抱かされた。
 奥歯を噛み締め、恐怖を堪える。
 至近距離で睨み付けて、綱吉の硬直がいつまでも解けないと知るや、雲雀は意外にもあっさり離れた。微かな衣擦れの音を残して、運転席へ戻っていった。
「…………殺されるかと思った」
 随分と時間が過ぎてからの感想は、紛れもない本心だ。
 息をするのも忘れて、瞬きも殆ど出来なかった。心臓が爆音を刻み、全身が火照って汗が止まらなかった。
 電話は通話状態のままで、獄寺の声がスピーカーからひっきりなしに響いていた。応答してくれるよう懇願して、彼の周囲に人が集まっているのも感じられた。
「出ても?」
「赤ん坊には伝えてある」
「じゃあ、大丈夫かな」
 必死に喚く自称右腕を諭す声もあったので、問題ないだろう。屋敷を出る時、誰とも会わなかった理由を手短に説明されて、納得した綱吉は自分で通話を終了させた。
 ついでに電源も落とした。ふと嫌な予感を覚えて隣を見れば、いつの間に取り出したのか、雲雀がトンファーを構えていた。
 利き手に握り、いつでも振り下ろせるよう、機会を狙っていた。
「ダメですよ、これは。大事な写真とか、いっぱい入ってるんですから」
 もしあそこで電源を切らなければ、彼は強硬手段に出ていた。
 市販品よりも格段に頑丈に出来ている端末だけれど、雲雀の豪腕なら、分からない。壊されないよう胸に庇い、声高に叫んで、綱吉はあからさまに拗ねている男に苦笑した。
 目を細め、口を閉ざした。クツクツと喉の奥で笑って、小刻みに肩を震わせた。
「どうせ、あいつらとのつまらない写真ばかりなんだから、いいじゃない」
 それが気に触ったのか、雲雀がむすっとしたまま言う。
 獄寺や山本たちへの嫌悪を隠さない彼に、綱吉は目を見張り、すぐに頬を緩めた。
「それが、ですねえ。ヒバリさんの写真も、実は、結構入ってたりするんです」
「僕の? そんなの、許した覚え、ないけど」
 自慢げに言って、掌より少し大きい端末を高く掲げた。本物がそこにいるのに、真っ黒になった液晶画面に頬を寄せて、愛おしげに目を閉じた。
 初耳だと雲雀は驚いた様子だが、それもそのはずだ。
 彼は写真を嫌う。カメラを向けた途端、トンファーを手に実力行使で撮影を止めに来た。
 つまるところ彼を撮すには、見つからないよう、こっそりやるしか無い。ただ勘が鋭く、全方位を警戒して緩めない男を隠し撮りするのは、勿論容易ではなくて。
「そりゃあ、そうですよ。だって、ヒバリさんの寝てるところを――――あ」
 大容量を謳う端末に保存されている画像のうち、他とは隔離させた、フォルダの中身。
 そこにたっぷり貯め込んだ写真の出所を、調子に乗って、自分からうっかり暴露してしまい。
 綱吉は本日三度目の、死の予感に背筋を寒くした。
「へえ?」
 淡々として、飄々として、表情の変化から感情は読み取りにくいが。
 雲雀の目が笑っていないのだけは、疑いようがなかった。
「……じょ、冗談。冗談ですってば!」
 自分でも苦しい言い訳だと分かっているが、咄嗟にその言葉が口を突いて出た。命を、そして秘蔵ファイルを守る為に必死に捲し立て、訴えて、この世にひとつしかない携帯端末を強く抱きしめた。
 顔面が腫れるくらい滅多打ちにされても、これだけは絶対手放さない。
 それくらいの強固な意志を表明した綱吉に、雲雀は諦めたのか、ため息を吐いた。
 長くトンファーを掲げ続けるのにも、疲れたらしい。肩を軽く回して骨を鳴らし、手早い仕草で武器を戻した。
 そして代わりと言うべきではないかもしれないが、彼所有の端末を取り出した。
 艶のある黒い外観に、装飾の類は一切ない。起動させた際に表示される画面も、デフォルトで用意された画像そのままだった。
 その潔さが、いかにも彼らしい。
「ヒバリさん?」
「ちょっとこっちに来なよ。確か、これを……ああ、こっちか」
 その端末を慣れない指使いで操作して、なにかのアプリを呼び出し、綱吉を手招く。
 画面は見せて貰えなくて、何をしているかは分からない。だが促されるままにシートベルトを外し、近付けば、同じく肩を寄せて来た雲雀が、やおら左手を前方に伸ばした。
 掴んだ端末の画面には、成人男性ふたりの姿がアップで映し出されていた。
 おや、と綱吉が唖然とした瞬間。
 フラッシュが瞬いた。
「うっ」
 反射的に目を閉じて、顔を庇おうとしたら、ぐいっと肩を掴んで引き寄せられた。
 フラッシュが短い間隔で明滅を繰り返した。瞼越しでも分かる眩しさに顔を歪めていたら、むにゅ、と暖かなものが再び唇に覆い被さった。
「ンん――」
 口から吐くつもりでいた息が、行き場を失い、鼻から漏れた。
 はね除けようとしたら、肩を抱いていた手がするりと離れた。そうして頭を振る直前だった綱吉の顎を抓んで、向きと角度を固定した。
 長い時間重ね合って、名残惜しげにちろりと舐めて、離れて行く。
「ひっ、ひば、ヒっ」
「ああ、今の機種は上手だね。悪くない」
「なにしてくれるんですか! って、写真。写真? 今の? え。嘘。けっ、消して。消してください。なにしてくれてるんですかあ!」
 思いも寄らぬ展開に、頭が追い付かない。
 気が動転したまま喚き散らすけれど、雲雀は不敵に笑うばかりだった。
 今し方撮影した写真は、見せてくれなかった。自分だけで楽しんで、底抜けに上機嫌だった。
「ヒバリさん!」
「だったら君のところの写真、消す?」
「ずるい。卑怯」
 顰め面で、目を閉じたままで、そんな不細工な顔で撮られたのは納得がいかない。
 抗議するが梨の礫で、悪口は意味をなさなかった。
 負け惜しみで睨み付けるものの、効果が無いのは分かりきっている。ぶすっと口を尖らせ、小鼻を膨らませて、綱吉はふっくら柔らかなシートに凭れ掛かった。
 両足を揃えて投げ出し、踵を何度か上下させ、息を吐いた。四肢に蔓延る熱を追い出し、気持ちを落ち着かせて、運転席に戻った雲雀に目を細めた。
「そういえば、さっき思い出したんですけど。今日って、バレンタインデーだったんですね。忘れてました」
「ふうん?」
 頭を切り替え、世間話を振ってみた。
 実際に忘れていたが、端末に表示された日付を見て、思い出した。しかし雲雀はさほど関心を示さず、相槌をひとつ打っただけだった。
 だがそれで、確信を得た。だからなんだ、と訊き返して来ない彼の不器用さに相好を崩し、綱吉はシートベルトを装着し直した。
「行きたいところ、決まりました。ちょっと遠いんですけど、有名なショコラティエのお店があるんです」
「どこ?」
「検索するんで、ヒバリさんのそれ、貸してください」
「嫌だよ」
「消しませんって。むしろ、撮り直させてください。何枚でも」
 明るさが増した車内で早口に言って、地図を見るから寄越せと両手を揃え、差し出した。渋る雲雀を説得し、半ば剥ぎ取るように奪って、独特なアプリの配列に舌を巻いた。
 呆れたような眼差しを投げて来た男も、観念してシートベルトを着け直した。
「じゃあ、行くよ」
「はーい」
 エンジンを再起動させて、少しは通行車が増えた道路に合流する。
 普段と同じ通りに過ぎるはずだった一日は、思いがけないプレゼントに溢れていた。

草緑月
2020/02/11 脱稿

後れじと 空行く月を 慕ふかな

 彼がそこにいる、と分かるまで、かなりの時間が必要だった。
 この辺りにいると教えられて来たのに、気付かずに数回、前を素通りしていた。向こうから声をかけてくれれば良いものを、あちらもあちらで読書に夢中で、立香の姿は一切視界に入っていなかったらしい。
「やっと見付けたあ」
 高く積み上げられた本と、その隙間に埋もれる形で置かれた椅子。
 光を受ければキラキラ輝く髪の毛は、真っ黒いローブで隠れて見えなかった。翡翠色の美しい瞳も、膝に広げた書物に向けられており、目印になりそうなものは巧妙に隠されていた。
 半ば闇に同化していたせいで、発見は容易では無かった。
 あまり通い慣れない場所なだけに、違和感を抱くことすら出来なかった。
 もう少し、注意深くなろう。密かに誓って、目的を成し遂げた立香はホッと胸を撫で下ろした。
「……なにか用か、マスター」
 深く息を吐き、強張っていた四肢の力を抜いて笑ったら、紙面から顔を上げたアスクレピオスが低い声で呟いた。僅かに首を傾がせ、形の良い唇を歪ませて、不機嫌を隠そうとしなかった。
 鴉の嘴のようなペストマスクは、今は除かれていた。本を読むのに、邪魔だったのだろう。確かにあそこに装着していたら、手元の一部が隠れてしまう。
 交差する前髪を左右に踊らせて、剣呑な目つきの医神が小鼻を膨らませる。睨まれて、立香は嗚呼、と姿勢を正した。
 浮かせていた踵を下ろし、背筋を伸ばした。即席の壁と化している本を数冊取って退かし、書架を背にして座っている男との距離を詰めた。
「たいした事じゃないんだけど。医務室に居なかったから」
「患者か?」
「ううん。珍しいから、どこ行ったんだろうって、思っただけ」
「…………」
 喋り出すと同時に屈んで、アスクレピオスの視界に滑り込む。
 分厚い本を膝に置いて笑った立香に、ギリシャ神話の英霊は深々と溜め息をついた。
 はー、とわざと聞こえるようにやられたが、腹は立たない。間違いなくこういう反応をするだろうと、最初から覚悟はしていた。
 本当は切った指を治療してもらいたかったのだが、探し回るうちに血は止まった。痛みももう残っていない。傷口は瘡蓋が覆っており、明日には消えてなくなるだろう。
 消毒も、なにもしていないが、人間の身体とはそういう風に出来ている。
 残念に思うとすれば、アスクレピオスに手当てをして貰えなかった、ということくらいだ。
 この程度で大袈裟だと言いつつ、なんだかんだで丁寧に傷を癒してくれる。そうやって彼と向き合う時間が、立香は殊の外気に入っていた。
 ところが訪ねて行った医務室は空っぽで。
 行き先に心当たりがなく、あちこちに聞いて回っているうちに辿り着いたのが、ここだった。
 紫式部が取り仕切っている図書室の、奥。
 読書スペースの明るさも届かないような空間に、彼は居た。
 相棒の白蛇の姿は、近くに見当たらなかった。けれど恐らく、どこかに居るのだろう。
 医神は背凭れのない椅子に腰掛けており、床に積まれた本の多くは分厚い洋書だった。英語なら多少読めるようになっている立香でも、そこに記されている文字の多くは判読不能だった。
「これ、フランス……いや、違うか。ドイツ語?」
「ああ」
 カルデアには多種多様な英雄が在籍し、マスターである立香と苦楽を共にしてきた。
 そんな多くのサーヴァントの趣向を満たすべく、紫式部が用意した書籍は多岐に亘った。恋愛物の小説が若干幅を取る傾向にあるものの、出版された地域、時代を問わず、あらゆるジャンルが網羅されていた。
 勿論、この医神のお眼鏡に適う典籍も、多々取り揃えられていた。
 その証拠が、ここに積まれた本の数々だ。
 立香にはさっぱり読めないけれど、アスクレピオスには分かるのだろう。マスターが話しかけている間も、彼は本を捲る手を休めようとしなかった。
「面白い?」
 視線を上げていたのも最初だけで、意識は完全に紙面の中だ。
 目の前に居るというのに見向きもされないのは、予想していたとはいえ、不愉快だった。
「アスクレピオス」
「少なくとも、お前と喋っているよりは、よほど有益だ」
「むぅぅ」
 返事が無いのに拗ねて、名前を呼べば、顔を上げないまま言い返された。
 淡々として、揺るがない。彼は完全に、藤丸立香のサーヴァントとしての立ち位置よりも、医者として新たな知見を得るのを優先させていた。
 ここで学んだ知識は、いつか、どこかで役に立つかもしれない。
 役に立たなくても、なんらかのひらめきを得る材料にはなるだろう。
 それが引いては、立香の為になる。そういう考えが、彼の中にあるのだ。
 だとしても、だ。
「面白くない」
 無視されるのは、つまらなかった。
 ぶすっと頬を膨らませて呟けば、一瞬だけアスクレピオスが動いた。長い睫毛の下で翡翠色の瞳を揺らめかせ、再び盛大にため息を吐いた。
「暇なら、片付けて来てくれ」
 読みかけの本を指の背で撫で、おもむろに言われた。
 彼は組んでいた脚の左右を入れ替え、長く同じ姿勢だった身体をゆっくり伸ばした。猫背気味だったのを改めて、被っていたフードを背中に垂らした。
 毛先だけ編んだもみあげもついでに肩から後ろへ移動させ、きょとんとなった立香に眉を顰める。
「片付けるって、なにを?」
「ここがどこだか忘れたのか、マスター」
「あー……ああ、はいはい。……って、これ全部?」
「そうだが?」
 察しが悪いのを眼差しで叱って、アスクレピオスは手前に積んだ本の数々と、背後の書架を順に指差した。
 それで理解した立香は成る程、と頷いた後、ひとつではない本の山に絶句した。
「待って。嘘でしょ。これ、全部読んだの?」
「そっちの分はな。こちらは、これからだ」
 一冊当たり数百ページの本が、ざっと見た限りで、五十冊以上。それが未読分も合わせると、合計三つあった。
 本当に全ページ読んだのかと疑いたくなったが、現世に至っても世界中に名が知れ渡る医神のことだから、嘘ではないはずだ。
「これも、追加だ」
 それを証拠に、膝に広げられていた本が、いつしか最終ページに到達していた。
 分厚い表紙を閉じて、満足げな顔で差し出された。つい受け取って、立香は胡乱げな眼差しを彼に向けた。
「ホントに?」
 ただ、俄には信じ難い。
 しっかり全文読み通して、内容を理解し、記憶出来ているのだろうか。
 あまりにも読了が速過ぎると疑問を呈すれば、アスクレピオスはやおら手を伸ばし、立香の額を小突いた。
「あいた」
 ぴんっ、と弾いた指をぶつけられて、さほど痛みを感じなかったのに、つい声が出た。
 左手で打たれた場所を庇い、顔を上げれば、どこか偉そうで、不遜な表情が視界を埋めた。
「僕の言うことが信じられないのか、マスター」
「信じてるよ。信じてるけど、さあ……」
「なら、適当な数字を言ってみろ。そのページに書かれていることを、今此処で、諳んじてやろう」
 自信に満ち溢れた態度で告げられて、立香は渡されたばかりの本を見た。
 表紙に書かれている文字は、やはり読めない。やたらと長いタイトルだということくらいしか、今の彼には分からなかった。
 さすがにページ数を表す数字くらいは読める。けれど本文が読解不能な時点で、アスクレピオスが提案したクイズは成立し得なかった。
「オレが読めないんじゃ、正解か、不正解かなんて、分かんないよ」
 本を縦に構えて持ち、殴りかかりはしないが、軽く振りかぶった。
 ぶつかる寸前で止めて、元の高さに戻せば、一連の動きを見守っていた医神が、蛇の如く口角を歪めた。
「ああ、それもそうか。僕のマスターは、魔術だけでなく、語学も不得手だったな」
 嫌みたらしく言って、頬杖をついた。どこか楽しげにも見えるその態度にムッとして、立香は本を抱いてそっぽを向いた。
「馬鹿にして」
「事実だろう」
「ぐぬぬ」
 ふて腐れた声を出すが、冷淡且つ的確な指摘に、一切反論出来ない。
 喉の奥で低く唸ったところで、口で勝てる相手ではなかった。
「分かったよ。分かりました。片付けて来ますよー、だ」
 尻尾を巻いて逃げるのは、好きではないが、ほかに選択肢がない。己の無知ぶりに腹を立てつつ立ち上がって、立香は読み終えた分、と示された本をもう数冊、手に取った。
 一度に運べる量は、そう多く無い。移動に不自由しない程度に冊数を絞って、鼻息も荒く踵を返した。
 アスクレピオスに背を向けて、荒々しい足取りで書架の間を抜けた。狭い通路を曲がる直前、様子を窺うべく振り返ったが、医神は既に次の本に取りかかっており、視線は絡まなかった。
「……ちぇ」
 せっかく時間が空いたので、顔を見て話がしたかったのに、叶わない。
 空回りしている感情を持て余して、立香は積み上げた本に顎を乗せた。ぐらぐらしているのを上から押して支えて、一路カウンターを目指した。
「あら、マスター。うふふ、随分と沢山。貸し出しですか?」
 出迎えてくれた紫式部は、どかっと置かれた本を前に目を丸くし、嬉しそうに声を高くした。
 多くのサーヴァントに書物を提供する彼女だけれど、立香はあまり此処に足を向けてこなかった。空き時間はトレーニングを優先させがちで、マシュとは違い、書物の世界に浸るのは稀だった。
 だからこそなのか、彼が現れたのを喜んでいた。その気持ちを裏切った感じがして、言い出しにくかったが、嘘を述べるのはもっと心苦しかった。
「ごめん、違うんだ。アスクレピオスに頼まれて、書棚に戻したいんだけど、場所が分からなくて」
「あらあら、まあまあ。それは申し訳ありません。私ったら、また早とちりをしてしまって……」
「紫式部は悪くないよ。オレが戻しに行くから、場所だけ、教えてもらえるかな」
 正直に謝って、先走りを恥じる女性を宥めた。早口に事情を説明して、両手を合わせて頼み込めば、事情を理解した文豪サーヴァントはそれなら、と目を細めた。
 彼女が白く、長い指で指し示したのは、カウンターに据えられたこの図書室の全体図だった。
「マスターがお持ちになられた本は、全て医術関連の書籍ですね。でしたら、大半はこの一帯に収蔵されていたものでしょう」
 彼女も、異国の文字がすらすら読めているらしい。タイトルをざっと眺めただけで把握して、地図上のとある一帯に円を描いた。
 それは丁度、アスクレピオスがいた場所と重なった。わざわざ読書スペースではなく、あの場所に陣取って居たのは、移動距離を限りなく減らす為だったのだと、今更ながら気付かされた。
「本の背表紙にある、こちらのマークが、書架の番号になります。その下の数字は、何段目の棚かを表しているので、これらを照らし合わせていただけましたら」
「分かった。ありがとう。やってみるよ」
 続けて告げられた内容に、立香は深く頷いた。どこかの医者とは違って、彼女の説明は実に分かり易く、丁寧で、気遣いが感じられた。
 少しは見習って欲しい。そんな愚痴を心の中で繰り返して、立香は運んで来た本を、再び両手で抱え込んだ。
「よ、っと」
「持てますか?」
「大丈夫、大丈夫」
 紫式部の細腕に任せていては、男が廃るというもの。これくらいの重量なら問題無い、と自分にも、彼女にも言って聞かせて、来たばかりの道を戻った。
 二度手間となったが、無駄足ではなかった。
 他者と喋ることで、アスクレピオス相手に抱いていた苛立ちが発散されて、気持ちが上手い具合にリセット出来た。
「読めなくても、これくらいなら」
 自分なりに出来ることが見つかって、嬉しい。
 マスターとしてではなく、人として誰かの役に立てるのを素直に喜んで、足取りも軽く棚の間をすり抜けた。
 戻ってみれば、医神は相変わらずあの場所にいた。
 立香が離れている間に、更に何冊か、追加したらしい。未読の山がいくらか減って、既読の山が僅かばかり高くなっていた。
 彼の医術レベルはかなりのものであり、これ以上極めるところがないように思っていた。しかしアスクレピオスは現状に満足せず、貪欲に求め、追求を止めなかった。
 その熱意は凄まじく、下手に触れれば火傷しそうだ。
 到底真似出来るものではないけれど、この姿勢は見習うべきだろう。熱心にページを手繰る指先を遠巻きに眺めて、立香は肩を竦めた。
 紫式部に教えられた通り、書架に記されたマークと、本に貼られたシールを比較しつつ、手にした本を棚に戻していく。最初のうちはどこに印があるか分からず、手間取らされたが、やっていくうちに段々とコツが掴めて来た。
「これは、ええと……あっちだな」
 調子良く進めて、手元が空になれば、アスクレピオスの元へ戻った。
 初めは読書の邪魔にならないよう慎重に、物音立てないよう気を遣っていた。しかし彼は一切こちらに気をやらず、注意を向けようともしなかった。
 あちらが立香を居ないものとして扱うのなら、こちらも彼をそう扱うだけだ。
 繰り返すうちに、徐々に遠慮がなくなった。多少足音を響かせようとも無反応なので、そのうちどこまでやれば顔を上げるかと、変なチャレンジ精神が湧き起こった。
 たまに紛れ込んだ別ジャンルの本に惑わされつつ、何度も同じ場所を往復した。足よりも腕と肩が先に悲鳴を上げて、ふたつ目の山を半分越えた辺りで、疲労はかなりのものになっていた。
 高い位置に本を戻すのには、特に苦労させられた。もっと背が高かったならと、何度思ったことだろう。
「今、どれくらいだろ」
 どたばた動き回っているうちは、時間の経過を忘れた。
 そうでなくとも、図書室は静かだ。夕食の時間が過ぎていても、誰も騒がなかった。
「お腹減ったな」
 水分の補給もなく、ずっと立ちっ放しだった。ふと気になって、平らになっている腹を撫で、立香は辺りを見回した。
 窓などないと知っていても、つい探してしまう。学校で、放課後、クラスメイトと雑談に花を咲かせて過ごしたのが、遙か遠い過去に思われた。
「あいつら、今も元気にして……ああ……いや。そうだっけ」
 懐かしい顔を思い出そうとしたけれど、どれも輪郭はおぼろげで、判然としない。
 名前すらすぐに出てこない相手のことに想いを馳せかけて、立香は空に投げた手を握り締めた。
 ガラガラと、心の中で何かが崩れていく音がする。
 そのぽっかり空いて出来た場所に慌てて蓋をして、鍵を掛けた。自分はなにも見ていないし、何も思い出してはいないと、急いで暗示を掛けて、目と耳を塞いだ。
 油断すれば漏れそうになる嗚咽を堪え、足元から這い上がって来た悪寒に四肢を戦慄かせた。ともすれば笑いそうになる膝を必死に叱り飛ばして、全身を呑み込まんとする恐怖に抗った。
 息を吸えば苦い物が喉をすり抜け、ひゅう、と乾いた音が鼻腔から漏れた。
 目の前が暗くなる。
 誰でも良い。
 誰でもいいから、どうか。
 助けて。
 声は出ない。出せない。だからひたすら、願った。
 ただ、祈った。
 内側から熱が湧き起こり、藤丸立香という存在が燃やし尽くされる。塵さえ残らず、魂の欠片さえ悉く消え失せる恐怖に、涙さえ流すのを許されない。
 お前は嘆く資格すら持ち得ないと、真っ白い絶望が、天頂から降り注ぐ。
 だが傍から見れば、彼はただ立ち尽くしているだけ、としか受け止められない状況で。
「マスター」
 その声が、止まっていた立香の時間を動かした。
 ほぼ無理矢理に。強引に。
 前触れもなく、唐突に。
「あの本を、どこにやった?」
 まず間違いなく、立香の心情をなにひとつ推察しないまま、自身の都合を最優先させて。
 けれどそれが、結果的に彼を救った。忘れ去られる寸前だった呼吸を取り戻させて、凍り付く寸前だった血流を加速させた。
 投げかけられた質問は、硬直していた立香の頭の中を、瞬時に駆け抜けた。深い靄がかかり、視界不良の状況を刹那のうちに斬り裂いて、白く濁っていた世界を明るく照らし出した。
「…………え?」
「本だ。ここに置いてあった、黒表紙にタイトルが金文字の、上下巻のうちの、上巻の方だ」
 もっとも、発せられた内容がつぶさに理解出来たというわけではなく。
 惚けた顔で振り返った彼の視界に、アスクレピオスの銀髪が眩しく輝いた。長いもみあげを左右にゆらゆら揺らして、表情はいかにも不満げだった。
 芳しくない反応に、苛立ちを隠そうとしない。感情を押し留めるという真似はせず、歪んだ口元は爆発寸前だった。
「マスター、聞いているのか」
 それが至近距離で、実際に爆発した。
 ずいっと身を乗り出し、鼻息が掠める距離で怒鳴られた。いや、実際には怒鳴ると言えるほどの声量ではなかったが、雰囲気はまさにそれだった。
 ここが図書室だというのを、一応、彼も忘れていなかったらしい。周囲には誰もいないが、遠慮して、近くで吼えるに留めたようだ。
「ひえっ、え。え、あ。ああ。うん。うん。分かった……え? なに?」
 ただ本当に、本当に近すぎて、噛みつかれるかと思った。
 唖然として、立香は直後にハッと我に返った。翡翠色の瞳に己が大きく映し出される状況にゾクッと来て、反射的に仰け反った。
 後ろに逃げようとして、腰が書棚にぶつかった。それ以上行けないのを思い知らされて、焦りで思考がストップした。
「なにが分かったんだ? 聞いていなかっただろう」
 慌てふためき、余計になにがなんだか分からない。
 その間も追及の声は止まず、アスクレピオスの呼気が立香の頬をひっきりなしに叩いた。
 唾まで飛んできた。一瞬で冷えて遠くなる熱に、訳もなく手足が震えて止まらなかった。
「ご、ごめん。聞いて、ません……でした」
「チッ。救いがないくらいに使えない男だな、貴様は」
「うう。ごめん……」
 とにかく離れて欲しくて、繰り返し謝罪し、彼との間に両手を差し込んだ。自分が下がれないなら、向こうに退いてもらうしかなくて、無言のアピールを試みたが、通じる相手ではなかった。
 厳しい言葉で責められて、俯く立香を前に、アスクレピオスは動かない。顰め面のままじっと睨むように見詰めて、そのうち諦めたのか、肩を竦めた。
 緩く首を振り、右腕を浮かせた。長い袖に隠れていた手指を露わにして、白く冴えた爪先で立香の首を、つい、と撫でた。
「っ!」
「脈は正常か。呼吸に若干の乱れが見られるが、まあ、許容範囲だろう。……ちゃんと、ここに、居るな? マスター」
「……え?」
 触れられた瞬間、ビクッとなった。緊張で頭が真っ白になりかけたけれど、即座に引き戻された。
 真っ直ぐ目を見ての問いかけに、うまく答えられない。
 言葉もなく固まっていたら、頸部をなぞっていた指が上へと動いた。
「この耳は、なんだ。飾りか」
「いた、いたた。痛いっ」
 きちんと聞こえているかどうかの確認は、乱暴だった。
 これで本当に医者なのかと、疑念を抱かせるのに充分な狼藉に、立香は場所も忘れて悲鳴を上げた。
 掴んで、抓って、捻られた。
 引き千切れられるところだった。急ぎ自由を奪われた左耳を急ぎ取り戻したけれど、じんじんする痛みに、瞳は自然と潤んだ。
 鼻を啜り、奥歯を噛み締めた。唇を引き結んで目を吊り上げた彼に、しかしアスクレピオスは不思議と上機嫌だった。
「ふっ」
 満足そうな顔をして、目を細めた。更なる攻撃を警戒する立香の頭をぽん、と撫でて、わしゃわしゃと髪を掻き回して、半歩後退した。
「なんなんだよ、もう」
 全く以て、意味が分からない。
 突然の彼の暴挙には、混乱させられるばかりだ。良い具合に乱された髪の毛を手櫛で整えて、立香は眉を顰めた。
 神様というものは、どれもこれも気まぐれだ。なにを考えているか、人間側の常識では、到底計りきれなかった。
 考えるだけ、時間の無駄というもの。そこは潔く割り切ることにして、立香は窄めた口から息を吐き、全身の力を抜いた。
「本、探すよ。どれ?」
「あ? それはもう良い。戻るぞ」
「いいの?」
 椅子の方へ戻っていく背中に声を掛け、弾むような足取りで追いかけた。四歩といかないうちに横に並んで、訊ねたら、意外なひと言が返された。
 腰の後ろで結んだ手を踊らせて、立香は首を捻り、理路整然と並べられた書架と書籍を眺めた。
 いったい何冊の本が此処に在るのか、紫式部でも把握出来ていないのではないか。そう思わせる知識の海に漂う彼を、アスクレピオスは強引に掴み、引っ張り上げた。
「構わない。読もうと思えば、いつでも読めるからな」
「そういうもの?」
「そうだ」
 長く身を委ねていた椅子を持ち上げて、残っていた数冊の本は近場の書棚へと押し込む。
 ルール通りに片付けないのはいかがなものかと思ったが、立香は言わなかった。先陣を切って歩き出した医神の背中は、先ほどまでと同様、上機嫌で、どことなく楽しそうだった。
 それが伝播したのか、立香の顔までが勝手に緩んだ。
「ふへへ」
 随分時間が掛かったけれど、読書より自分を優先してくれたのが、どうしようもなく嬉しい。
 だらしなく垂れ下がる頬を両手で押さえ、笑っていたら、立ち止まったアスクレピオスが怪訝な顔をした。
「なにをしている。置いていくぞ」
「待って。あ、ご飯食べよう。一緒に。久しぶりに」
 急かされて、慌てて声を張り上げた。何もない場所で躓いて、転びそうになったのを堪えて、息を弾ませたら笑われた。
「サーヴァントは食事の必要がないんだが、たまには、……そうだな。悪くない」
 静かに目を細め、彼が囁く。
 その声はどうしようもなく優しくて、柔らかかった。

後れじと空行く月を慕ふかな つひにすむべきこの世ならねば
風葉和歌集 640

2020/02/04 脱稿

氷の垢離に 得べき成けり

 呼ばれた気がして、歌仙兼定は筆を走らせる手を止めた。
 中途半端になってしまった文字を、ひと呼吸置いてから完成させて、筆を置いた。コトリ、と微かな音が響いた直後に、閉じていた襖の向こうから声が掛かった。
「歌仙、いいですか?」
 控えめな問いかけは、よく知る相手のもの。
 嗚呼、と己の直感に苦笑して、打刀はゆっくり立ち上がった。
 座布団の凹みを爪先で均し、袴の皺を撫でて伸ばした。
「どうぞ」
 合間に応じて、入室の許可を下した。
 返事を受けて、襖がすい、と開かれた。僅かに横にずれたかと思えば、隙間に白い指先が差し込まれ、一気に奥へと押し込んだ。
 慣れた調子で空間を切り開き、見知った顔が現れた。正面に歌仙兼定の姿を認めた彼はホッとした様子で息を吐き、素早く左右を見回した。
「大丈夫ですか?」
「問題ないよ。入りたまえ」
 遠慮がちに聞き直した彼に首肯して、指先で小さく手招く。しかし小夜左文字は臆してか、敷居の前で足踏みした。
「お小夜?」
「あの。歌仙なら知ってるかと思ったんですけど」
「うん。なんだい?」
 ちらちらと左右も気にしつつ、小さな短刀が早口で捲し立てた。そわそわして、落ち着かない。彼らしくない、珍しい姿だった。
 それを不思議に思いつつ、歌仙兼定は表情を和らげた。
 真剣に書き物に取り組んでいたところを邪魔したと、彼が思っているなら、その心配は不要だ。
 心苦しく感じる必要はどこにもないと微笑み、目を細めた。胸の前で腕を組み、聞く姿勢を作ってやれば、小夜左文字は左胸に手を添えて二度、深呼吸した。
 それからやおら右を見て、なにかに合図を送った。続けて右手を軽く振り、自身は少しだけ左にずれた。
 新たに作られた空間に、緑色を主体とした影が現れた。
 こちらもすっかり見慣れた色だ。しかし真っ先に浮かんだ姿より、背丈はずっと高かった。
「松井江?」
「……ご無礼を。どうか、お許し下さい。歌仙様」
 まさか彼が一緒だとは思っておらず、驚いた。それが声にもはっきり現れて、歌仙兼定は些か高い音を響かせた。
 目を丸くする初期刀に、黒髪の青年は気落ちした様子で俯いた。申し訳なさいっぱいの立ち姿を目の当たりにして、本丸最古参の打刀は堪らず短刀を見た。
 打刀同士の視線は上手く絡まない。互いに戸惑っているのを嗅ぎ取って、小夜左文字は小さくため息を吐いた。
「近々、政府の使者が、ここに、主の就任周年記念の祝賀に来る、と。……聞いてますよね?」
 頻繁に隣を気にしつつ、小柄な少年が訥々と告げる。
 すでに知らされていた情報を再確認されて、歌仙兼定は当然とばかりに頷いた。
 組んでいた腕を解き、脇へ垂らした。右腕を軽く揺らし、腰に据えて、左手で空を撫でた。
「勿論だとも。それで?」
 この本丸は、紆余曲折はあったけれど、設立から無事五年を迎えることが出来た。
 数多在る本丸の中には、詳細は不明ながら、長く保たなかったところもあるらしい。中には強制的に解体されただとか、時の政府に離反する動きがあったので消去処分されただとか、不穏な噂が流れたこともあった。
 しかしここは、幸いにもそういった事象と無縁でいられた。辛く、苦しい戦いを強いられる中で、ひと振りとして欠けることなく走り続けてこられたのは、ひとえに審神者の尽力によるものだった。
 そんな審神者に、政府から直々に使者が立つという話だ。
 これまでの苦労を労い、これからの活躍を期待する。それを伝えるだけだというのに、随分仰々しい扱いだった。
 とはいえ、正式な使者をぞんざいに出迎えるわけにはいかない。屋敷中をくまなく整理し、掃除して、審神者の刀として恥ずかしくない振る舞いでもてなすのだと、へし切長谷部たちが随分張り切っていた。
 かくいう歌仙兼定も、言祝ぎの歌を詠むべく、頭を巡らせていたところだ。
 報せが届いてからこの方、屋敷は大わらわだ。
「それで、主が。……金屏風、知らないか、って」
「金屏風? ああ、なるほど」
 小声で問いかけられて、ようやく話が繋がった。
 右手で空気を握り潰して、初期刀たる刀は視線を動かし、松井江を見た。
 審神者に頼まれたのは、恐らくこの打刀だ。しかし本丸に来てまだ日が浅い彼では、在処が分からなかったのだろう。
 それで小夜左文字に頼ったが、この短刀でも心当たりが思い浮かばなかったらしい。
 本丸で二番目に古い刀が知らないのであれば、最も古くから在る刀に聞くより他に術が無い。そういう判断で、ここを訪れたらしかった。
「ご存知ですか?」
「そういえば、あったねえ。けれど、うん、どこに仕舞ったものか」
 俯きがちだった青年に尋ねられて、歌仙兼定は顎を撫でた。天井を見上げながらしばらく考え込むけれど、その在処は思いつかなかった。
 言われてみれば、確かに金屏風は存在した。見た事があるし、飾るのを手伝ったこともあった。
 けれどあれは、毎日使うものではない。
 祝いの席に引っ張り出した後は、用済みとなって片付けられた。恐らくいくつかある納戸の何処かに押し込められたはずだが、具体的にどこにあるか、までは把握していなかった。
「歌仙でも、分かりませんか」
「こういうのは、へし切長谷部の領分だろう」
「帳簿にも、記載がなかったそうです」
 そもそもあれを最後に使ったのがいつだったか、その記憶すら曖昧だった。
 金一色の屏風は、かなり大きな物だった。畳んで、納戸に収納するにしても、かなり目立つので探しやすい部類に入るはずだ。
 それが見つからず、調度品を管理する帳簿にも記載がない、という。
 屋敷の備品類の管理方法が定まる以前の出来事だとしたら、これはかなり厄介な案件だ。容易い話と高を括っていたが、次第に神妙な顔になって、歌仙兼定は口をへの字に曲げた。
 眉間に皺を寄せて小さく唸るが、それで答えが出て来るものでもなく。
「参ったね」
「やっぱり、新しいものを手配した方がいいのかな」
 率直な感想をぽつりと呟けば、聞き取った松井江が、諦めた様子で言った。
 胸の前で両手を重ね合わせ、かなり落ち込んでいる。審神者に役目を任されたのに、果たせない自分を悔やんでいる風だった。
「待て。本当に、ちゃんと、全部探したのかい?」
「そうです。それに、屋敷に金屏風は、二隻もいりません」
 確かに新調するのが手っ取り早いし、確実だけれど、屋敷中をくまなく探し回ってからでも遅くない。
 早まらないよう声を飛ばせば、横で聞いていた小夜左文字も力強く同意した。
 ただその理由が、未だ抜けきらない貧乏性によるものだというのが、いかにも彼らしく。
「お小夜……」
「なんです?」
「いいや、なんでも」
 うっかり憐れみを抱きそうになって、歌仙兼定は急ぎ首を振った。
 咳払いで誤魔化して、摺り足で畳の上を移動した。ゆっくり彼らに歩み寄って、藤色の髪をわしゃわしゃ掻き回した。
「増改築が繰り返されているからね、ここは。探すのを手伝うよ」
「助かります」
 短い後ろ髪を逆立てて、敷居を跨いだ。
 道を譲って下がった短刀が、安堵した様子で礼を述べた。松井江も照れ臭そうにはにかんで、深々とお辞儀をした。
「ありがとうございます、歌仙様」
「ところで、その。松井。前から言おうと思っていたんだが、止めないか。その呼び方は」
「何故です?」
 背筋を伸ばした後、胸に手を添えて微笑む。
 どことなく寂しげにも見える顔立ちの彼に苦笑して、歌仙兼定はひらひらと手を振った。
 彼らの嘗ての持ち主は、主従の関係にあった。松井江という号の由来でもある男は、細川家の重鎮だった。
 しかしそれはあくまで、前の主同士のこと。刀剣男士となった彼らに、顕現してからの時間の長短こそあれ、上下の関係はないに等しかった。
 だというのに謙られるのは、背中が痒くなる。
「僕も、……いいです。いらないです」
「小夜様も、そんな」
 さらに小夜左文字は、歌仙兼定の元の主の、父親の愛刀だった。
 戦国乱世を駆け抜け、生き延びた家系に仕えた男の刀は、この短刀にも敬意を表して止まなかった。
 ただ篭手切江に対してだけは、ほかのふた振りよりも距離が近い。
 同じ江の刀としての親近感もあるだろう。それに加え、家臣でありながら、年若い主君に対して物言う男の刀だったのが、微弱ながら影響しているようだった。
「扱いに差を持たれるのは、どうもね」
「僕には、そんな価値はありません」
「まあ、どうせ、言っても聞かないのだろうけれど」
 その脇差との違いを思い返して、歌仙兼定は肩を竦めた。
 短刀と顔を見合わせた後、斜め後ろを振り向けば、松井江は彼らの半歩後ろで胸を張った。
「はい。これは、僕が好きで言っていることですので」
 決意めいたものを漂わせ、きっぱりと断言した。
 蜻蛉切も桑名江相手に、手を焼いていると聞き及んでいた。それがまさか、自分の身にも起きるだなんて、あの当時は思いもしなかった。
 困った顔で笑って、三振りは並んで廊下を急いだ。刀剣男士の私室がある離れを出て、長い渡り廊で繋がれた母家へと向かった。
 度重なる増改築で、本丸の屋敷は初期の姿を完全に失っていた。特に離れは、部屋が足りなくなる度に増築が繰り返され、今では一部が二階建てだった。
 それでも近いうちに、また足りなくなるかもしれない。
 記憶の海に埋没したかつての屋敷を振り返りながら、歌仙兼定は傷みが目立ち始めた柱をなぞった。
「さて」
「ここの納戸は、全部、調べたつもりだけれど」
 納戸と廊下を仕切る戸は、襖ではなく、板戸だった。そんな戸の引き手周囲には手垢が付き、そこだけテカテカ光っていた。
 格子窓から差し込む陽光は弱く、廊下は全体的に薄暗い。往来が少ないのもあって空気は冷たく、足元から体温が抜けて行くようだった。
 納戸は何カ所かあるが、使用頻度が高いものは、大座敷に近いこの一帯に収納されている。それ以外だと書庫の片隅や、屋外の蔵が使われていた。
 だが蔵は食料貯蔵庫代わりであり、屋根裏は狭い。細い梯子を使ってまで、打刀の身の丈より大きい金屏風を収納するとは、考え難かった。
 となれば三部屋横並びになっているこの納戸か、書庫か。
「もう一度、確かめてみよう」
 松井江は知識こそあれど、金屏風の実物を見たことがあるのかは謎だ。もし金色に輝くものを想像し、探していたのであれば、決して見つかるはずがなかった。
 あれは全面に金箔が張られているのではなく、光を受けて輝くのは内側だけだ。外側は黒で、折り畳めば金色は一部しか現れない。
 そうとは知らずに見て回っていたら、気付かずに行き過ぎてしまいかねない。
 そんな可能性を頭に置いて、歌仙兼定は最も奥にある納戸に入った。てっきり手前から探して行くと思い込んでいたふた振りは、慌てた様子で彼を追いかけた。
「そっちですか?」
「……ああ、そうか。そうですね」
 声を高くした松井江と違い、小夜左文字は歌仙兼定の意図するところに気付いたようだ。
 なるほど、と納得して、手を叩き合わせた。怪訝にしているひと振りを見上げて、これでいい、と言わんばかりに頷いた。
 ただでさえ物が多い本丸だ。収納場所を確保する為に、使用頻度が低いものは必然的に奥へ、奥へと追いやられた。
 そして少なくともこの一年は、確実に金屏風を使っていない。いや、一年どころでは済まなかった。
 年単位で使わないものを、出入りが激しい場所に仕舞っておくのは効率的ではなかった。
 捨てた、という可能性も完全には否定出来ないが、一応あれはあれで、高価な品だ。片付けたのだって、邪魔になるからではなく、破れたら買い換えるのが大変、という理由が一番だった。
 そうでなくとも騒がしく、常に誰かが座敷、廊下の関係なく走り回っている状態なのだ。弾みで倒して、壊されたら、たまったものではない。
「そうやって、次第に出番が減っていったのだとしたら、ここら辺に……うわっ」
「わふ」
 困惑している松井江に説明しつつ、歌仙兼定が少々立て付けが悪くなっている戸を一気に開いた。
 途端にもわっと煙のような埃が舞い上がって、直撃を喰らった打刀と短刀は悲鳴を上げた。
 慌てて目と口を閉じ、顔の前で両手を振り回した。濛々と立ちこめる埃を払い除けて、しばらく待ってから視界を確保した。
 年末の大掃除で、此処もある程度片付けられたはずだ。
 だのに酷い有り様なのに絶句して、歌仙兼定は頭を抱えた。
「誰だ。ここの掃除を担当していたのは」
 どう考えても、手抜きだ。苛立ちながら吐き捨てるが、心当たりは浮かんで来なかった。
「年末は、みんな、忙しかったので」
「そうだとしても。もうちょっと、やりようがあるだろうに」
 年の瀬は毎年連隊戦の任務があり、審神者は政府に命じられた任務を終えるのに毎回必死だ。刀剣男士も多数引っ張り出され、屋敷の仕事は疎かになりがちだった。
 かくいう歌仙兼定と小夜左文字も、ずっと出ずっぱりだった。居残り組だった松井江が代表として弁解するけれど、それで気が晴れるわけもなく。
 床を荒々しく踏み鳴らし、歌仙兼定は必死に己の不機嫌を宥めた。小夜左文字がその腰を軽く叩いて、彼の努力を労った。
 もっと責められると覚悟していた松井江は、懸命に自分自身を制御する打刀に目を見張り、口元を綻ばせた。
「ああ、しかし」
「歌仙?」
「歌仙様?」
 やがて口を開いた歌仙兼定は、感嘆の息を途中で止めた。
 喋り出したかと思えば、急に黙られて、拍子抜けしたふた振りが同時に首を捻る。
 不思議そうに見詰められて、視線を浴びた男は照れ臭そうに微笑んだ。
「いや、なに。五年ともなると、こうも埃が積もるものなのかと。そう思っただけだよ」
 ものの考え方、捉え方を逆転してみれば、この大量の埃は、それだけの歳月が積み上げたもの。あるはずの物が行方知れずとなり、探さなければならないのも、月日の流れによって生じた現象だ。
 彼らはそれだけの時を、この本丸で過ごして来た。
 改めて実感したと囁いて、風流を愛する刀が鼻の頭を掻く。
「そうですね」
 彼と同じだけの時間を、この地で積み重ねて来た短刀もまた、深く長い息を吐いて同意した。
 ただ顕現してから三月と経っていない打刀だけは、ピンと来ない様子だった。
「僕には、まだ、あなた様と同じ感慨に至れるだけの経験がないので。少し、寂しいですね……」
 しんみりしながら告げて、胸に添えた手を握り締める。
 指先に力を込めた彼に目を眇めて、歌仙兼定は首を横に振った。
「なに、君もすぐに分かるようになる。いや、なってもらわねば困る、かな?」
 顕現したばかりでは、分からないことも多い。慣れないやり取りに戸惑い、苦労する機会も頻出する。
 けれどそれは決して恥じることではないし、哀しむことでもない。
 この本丸に集う刀剣男士全てに、そんな時間があった。歌仙兼定や、小夜左文字だって例外ではなかった。
 心からの笑みを浮かべて告げて、彼は勇ましく袖を捲った。
「そもそも、この埃は、僕らの敵だ。早く金屏風を見付けて、救い出してやらなければ、ね」
 気合いを入れ直し、汚れが目立つ奥納戸に脚を踏み入れた。
「まったくです。埃に埋もれて、忘れられるなんて。復讐しないと」
 続けて小夜左文字も、敵に挑むような険しい表情で意気込み、脇を締めた。
 彼らの勢いに若干気圧されて、出遅れた松井江は廊下でしばらく立ち尽くした。大量に積まれた木箱や、がらくた同然の諸々を押し退けるふた振りを呆然と眺めて、ようやく決心が付いたのか、握り拳を作った。
「ここ、なら。……僕たちが、埃を被る暇は、なさそうだ」
 ひとり呟いて、口元を綻ばせる。
「お手伝いします」
「何を言っている。今の近侍は、君だろう。率先してやるべきと知りたまえ」
「はいっ」
 顔を上げ、宣言してから右足を前に繰り出した。
 途端に内側から飛んで来た叱責にも、彼は何故か、嬉しそうだった。
 

2020/01/19 脱稿
あらたなる 熊野詣での験をば 氷の垢離に得べき成けり
山家集 1530

続:たれかには 物思ふとも なかなかに

 日が暮れて、気温が下がった。
 地獄にも四季はあるのかと考えて、視線を脇へ流すけれど、窓の外に灯りは見当たらなかった。
 なにもない。なにも見えない。
 底の知れない、真っ暗闇がどこまでも続いていた。
「さむ……」
 ぶるりと寒気に襲われて、襲い来た恐怖に抗うように呟いた。身を竦ませ、両手を胸の前で重ね合わせて、指先に息を吹きかけた。
 上着を羽織って来れば良かったと後悔したが、今更だ。寝間着代わりに支給された薄手の浴衣一枚では、どうにも心許なかった。
 深淵を垣間見た気がして、活力が急速に萎んでいく。
「ああ、ダメだ」
 脳裏を過ぎった恐ろしい過去や、足が竦む記憶を振り払って、立香は気持ちを切り替えた。
 この地に生者が紛れ込むのは、稀だという。地上では、稀人とは神を指す言葉だけれど、この場所ではそれが逆になっているのかもしれない。
 ならば自分が訪れたことで、閻魔亭はきっと良い方向に進んで行く。そうであるなら、これほど喜ばしいことはない。
 悪い事を考えていたら、その通りになってしまう。
 だから少しでも、楽しい事、嬉しいことを想像し、これを実践する。
 それが長旅の中で学んだ教訓だ。何事も、前向きに。時に立ち止まり、振り返るのは悪いことではないけれど、後戻りは出来ないのだから、進む時は胸を張って。
 過去に言葉を交わし、想いを共有した仲間たちに、今の自分を誇れるように。
「よし」
 萎縮して頭を垂れている心をそうっと撫でて、背筋を伸ばした。
 時は真夜中、女将である紅閻魔でさえも寝床に入っただろう時間帯だ。そんな誰もが夢の中に旅立った頃合いに、部屋を抜け出した用件は、先ほど済ませた。
「明日もあるし、早く寝ようっと」
 閻魔亭の客室にも、従業員用の宿舎にも、部屋ごとにトイレは設けられていない。したくなったら、各所に作られた設備に駆け込むしかなかった。
 日中、あちこち仕事で動き回っている時は、さほど不便さを感じなかった。しかし今は、もう少し従業員の利便性を高めてくれるよう、女将に直訴したい気持ちでいっぱいだった。
「こういうのって、後回しにされがちなのかなあ」
 閉鎖されていた客室の改装は順調に進み、屋上庭園や、天守閣の改築工事も、もう少しで終わりそうだ。
 客足は確実に伸びている。はた迷惑な来訪者も中には紛れ込んでいるが、今のところ、閻魔亭の立て直し計画は順調に進んでいた。
 明日は、今日以上に忙しくなるに違いない。
 少しでも英気を養い、体力を回復させるためにも、休息は急務だった。
 一刻も早く早く部屋に戻り、布団にくるまって、眠ろう。
 誰も居ない廊下は静かで、窓の向こうの暗闇のお蔭もあり、かなり不気味だ。つい爪先立ちになり、足音を立てないよう慎重になりながら、立香は早歩きで来た道を戻った。
 ここ数日ですっかり通い慣れた空間を進み、ほんの少し明るい場所に出て、ホッと胸を撫で下ろした。
「あれ?」
 このまま進めば、問題無く宛がわれた部屋へ戻れる。
 だというのに、昨日までとは違う明るさに気を取られて、立香はついつい、寄り道を選択した。
 不可思議な感覚に陥って、引き寄せられた。炎に惹かれる虫になったつもりはないが、ちょっとくらいなら、という甘い誘惑に誘われて、そろり、とスリッパを履いた足で床を踏みしめた。
 敷き詰められた絨毯で滑らないよう注意しつつ、点々と灯る光を追いかけて、奥へと進む。
「この先は、ええと。露天風呂……?」
 最終的に、どこに到達するのか。複雑怪奇な閻魔亭の地図を脳裏に描いて、立香は眉を顰めた。
 壁を見れば、予想通り、風呂場はこちら、と書かれた案内板があった。
 矢印が示す方角に顔を向け、首を捻る。どうしてこの一帯だけ照明が、一部だけとはいえ点けられているのか、理由はさっぱり分からなかった。
「消し忘れかなあ」
 臨時に雇われているだけとはいえ、立香たち従業員が皆眠っているのだから、閻魔亭の業務もこの時間は休止だ。風呂場も、当然、閉鎖されていた。
 明日の営業に備え、清姫たちが掃除をしていたはずだ。今日も一生懸命働いたと、遅めの夕飯の席で言っていたのを、確かに聞いた。
 だというのに、なぜ。
 消灯し忘れているのだとしたら、気付いた人間が対処すべきだろう。
 寄り道したのは正しかった。自分で自分を褒めて、立香は照明操作盤がある一画に向かおうとした。
 けれど、そこに至るより前に。
「……なにをしている?」
 思いがけず、呼びかけられた。
「ひえっ」
 予期していなかった問いかけに驚き、変なところから、変な声が出た。
 思わずぴょん、と飛び跳ねた立香の数メートル前方で、淡い光が踊った。唖然としながら見守っていたら、暗がりからスッと現れた影の主が、怪訝そうに眉を顰めた。
「なにをしている、と聞いているんだが」
 額の真ん中で交差する前髪を揺らし、白に近い銀髪の男が口をへの字に曲げた。不機嫌を隠そうとせず、眉間に皺を寄せている。しかし元々の端正な顔立ちは、この程度で崩れたりしなかった。
 長いもみあげを後ろで束ね、毛先は背中に垂らしていた。荷物らしきものはなにも持たず、両手は袖口の中に隠れて見えなかった。
 足元は閻魔亭に常備されているスリッパで、素足。普段なかなか見るのが叶わない足首が、寸足らずな浴衣の裾から覗いていた。
 そう、浴衣だ。
 彼は客室に備え付けられている、些か地味で、味気ない、立香と同じ浴衣を着ていた。
 細い帯を二重に巻き付け、ベルト代わりにし、その上から焦げ茶色の羽織を纏っていた。衿元は緩むことなく、ピシッと整えられているが、合わせ目の隙間からは白い肌と鎖骨がちらりと覗いていた。
「あ、……アスクレピオス?」
「他に誰かいるとでも?」
 あまりにも見慣れない姿に、唖然とさせられた。ぽかんと間抜けに開いた口をゆっくり閉じて、指差しながら確認すれば、アスクレピオスが不満げに首を捻った。
 左右と、後方を確認して、自分達以外この場に居ないのを確認して、頷く。
 再び立香に向き直った彼は、ふんぞり返りながら腕組みをした。
 居丈高に構え、一瞬だけ肩を怒らせ、すぐに戻した。
「で、だ。マスター。貴様は僕の質問に答えず、なにを惚けていた。まさか見惚れていたのか?」
 呆れ混じりに告げて、不遜に口角を持ち上げる。
 不敵な笑みを向けられて、立香は嗚呼、と息を吐いた。
「うん。そう。イケメン、何着ても似合うの、ずるいと思う」
「…………」
 彼にとっては、冗談のつもりだったのだろう。けれど、うっかり真顔で返してしまった。
 褒めているようで、非難してもいる台詞に、アスクレピオスも戸惑った様子だ。即答を避け、苦い顔をして、目を逸らして明後日の方向を向いた。
「この顔に、さして執着はないんだが」
 絞り出すように呟かれて、立香はハッと我に返った。今し方の己の発言を頭の中で繰り返して、勝手に赤くなる頬をペチリと叩いた。
 微かな音に反応し、翡翠色の瞳がこちらに向けられた。
「お前の好みだというのなら、そうだな。悪くはない」
「どう、も。どういたしまして」
 一音ずつ噛み締めながら告げられて、どう切り返して良いか分からない。
 自分でも何故お礼を言っているのか分からないまま答えて、立香は寒さから白くなった指を捏ね合わせた。
 医神として知られるギリシャ神話の英霊は、喚んでもいないのに、気がつけば閻魔亭で勝手に医務室を構えていた。勿論女将である紅閻魔にも許可を取っていなかったが、その有用性から、空き室の無断使用は見逃されていた。
 最初のうちは怪我人の手当てが多く、宿が繁盛し始めた今は、酔客の介護が多いと聞いていた。慣れない水仕事から手荒れが酷い立香も、度々彼の世話になっていた。
 そんな男が、こんな夜分に、どうして此処に。
 格好を見る限り、湯上がりだ。けれど宿の温泉施設は朝まで閉鎖され、夜中は誰も使えない決まりだった。
「アスクレピオスこそ、なにしてるのさ」
「厨房への盗み食いは終わったのか?」
「ちーがーいーまーすー。トイレです!」
 疑問が解けなくて、直接問い質せば、失礼千万な決めつけが投げ返された。
 思わず夜中なのも忘れて声を荒らげてしまい、慌てたが、周辺に客室はひとつもなかった。
 ホッと安堵して、胸を撫で下ろした。心臓の上をトントン、と優しく叩いて、ふてぶてしい顔で佇んでいる男を睨んだ。
「なんだ、違うのか。夜中の飲食が及ぼす影響について、一から説明してやるつもりだったんだが」
 もっともアスクレピオスは飄々として、少しも臆したりしない。淡々と言い放って、楽しそうに目を細めた。
 悪巧みをしている顔だった。立場が弱い患者を苛めて、楽しんでいる悪徳医師の顔だった。
 そんな話が始まったら、あっという間に朝になってしまう。
 夜は休む時間だというのに、安眠を邪魔するのは、医者として正しいのか。
 言い返そうとして、立香は直前で止めた。どうせ口では敵わないのだと諦めて、ため息を吐いてがっくり肩を落とした。
「そんなに、食いしん坊に見えるのかな」
「貴様の場合は、前科がありすぎる」
「うぐぐ。反論出来ないのが、また悔しい」
 深夜に出歩いている理由で、腹を空かせてのつまみ食い、を真っ先に連想されたのが憎らしい。だがそうなったのは、いわば自業自得だ。
 毒入りケーキが致命的だった。あの時、ゴルドルフが居なかったらと思うと、想像するだけで恐ろしかった。
 再び襲い来た寒さにぶるりと震えて、薄手の布の上から腕を擦った。摩擦で熱を招き入れ、少しでも暖を取ろうと試みた。
 その仕草を見たからだろう。アスクレピオスはスッと目を眇め、焦げ茶色の羽織から袖を抜いた。
「着ていろ」
 足早に近付き、脱いだばかりのそれを広げ、差し出した。
「え? いいよ。いい、大丈夫」
「いいから、大人しく着ろ」
 咄嗟にはね除け、拒否したが、押し切られた。このままでは受け取ってもらえないと判断した彼は、厚みがある布地でバサッと風を起こし、立香の肩に無理矢理被せた。
 袖を通さないまでも、羽織るだけで、少しは温かい。
「……ありがと」
「そんな格好で彷徨いているからだ」
「しょうがないじゃん。急いでたんだから」
 生理現象は、時に己の意志ではどうにもならない。
 口を尖らせ不満を述べた立香に、アスクレピオスは一瞬間を置き、深々とため息を吐いた。
 彼が直前まで着ていた羽織は、仄かに石鹸の匂いがした。
「お風呂、入ってたんだ?」
「ああ。酔って階段を落ちた客の手当てをしていたんだが。ひと言で言えば、そうだな。……吐かれた」
「うわああ」
 誰も使っていない――使うのを禁じられている時間帯に、彼が浴場にいた理由。
 とても分かり易い説明で、状況はつぶさに読み解けた。脳内に展開された光景は壮絶で、悲惨で、立香は思わず悲鳴を上げた。
 聞いただけで、酸っぱいものが喉を上がって来る気がした。思わず口を手で塞いで、唾を飲み込んで、やり過ごした。
 飲み過ぎて前後不覚に陥り、転落して怪我をしたのが誰かまでは、分からない。
 そんな愚患者を懸命に治療していた医神に対し、そのお礼はあまりにも不敬だった。
「ご、ご愁傷さま、です」
「まったくだ」
 他になんと言ってやれば良いのだろう。
 同情して、憐憫の言葉を投げかければ、その時のやり取りを思い出してか、アスクレピオスが憤慨して顔を顰めた。
 余所を見ながら忌々しげに舌打ちして、ほんのり湿っている前髪を掻き上げた。苛々を自分の中で消化させて、立香に叩き付ける真似はしなかった。
「そっか。それで」
「雀たちが、責任を感じたらしくてな。風呂を開けてくれた。僕の部屋は、今、あいつらが掃除しているはずだ」
「あー……」
 悪いのは馬鹿をやった宿泊客で、雀の従業員もいわば被害者だ。しかし吐瀉物まみれになった医神を、放っておけなかったようだ。
 機転を利かせ、彼のためだけにこっそり浴場を開放した。その間に雀たちは、大急ぎで汚物を片付け、換気し、布団も入れ替えたに違いなかった。
 終わったら、呼びに来てくれる手はずだ。立香がふらりと現れたのは、そんなタイミングだった。
「そっかあ」
 謎は全て解けた。ストンと落ちてきた答えに頷いて、立香はいそいそと借りた羽織に腕を通した。
 雀は、こんな時間でも働いていた。医務室も兼ねたアスクレピオスの部屋の清掃が終われば、大浴場の片付けもしなければならないのだろう。
 あんな小さな身体で、大変ではなかろうか。
 手伝った方が良いか気にして、暖簾が外されている浴室の入り口に目を向ける。
「お前も入りたかったのか?」
「え?」
「なんだ。違うのか」
 その視線の動きに、なにを想像したのだろう。
 不意に問いかけられて、立香は目を丸くした。
 きょとんとしていたら、アスクレピオスは勝手に納得した。つまらなさそうに呟いて、底なしの暗闇が広がる外に目を向けた。
 その耳は、心なしか赤く染まっていた。
「えー……と。ええ、と……?」
 発言の意図が掴めず、彼が言いたかった事がなかなか理解出来ない。
 アスクレピオスは沈黙し、動かなかった。暇を持て余した立香は首を捻り、思考を巡らせて、やがてひとつの可能性に思い至った。
 要は。
 つまり。
「……はっ、入らないよ。ていうか、もう寝るし。だ、大体。アスクレピオスは、今、入ったばっかりでしょ」
 体温が急激に上がった。
 先ほどまで寒かったのに、今は灼熱地獄に落とされた気分に陥って、立香は声を荒らげた。
「お前が一緒なら、もう一度湯に浸かるのも、やぶさかではないが?」
「変なこと言わないで!」
 拳を作ってぶんぶん振り回し、視線を戻した男の追加攻撃に絶叫した。首の後ろまで真っ赤にして、立香は瞼の裏に浮かび上がろうとした光景を必死に掻き消した。
 湯煙が漂う中に、白い肌を淡い紅に染めた男の裸体がぼんやりと霞んで見えた。
 こんなことで動揺している自分を恥じて、両手で顔を覆ってぶんぶん首を振る。
「ひとで遊ばないでよ……」
 彼ははこちらの反応を見て、楽しんでいるに違いなかった。
 性格が悪すぎる医神に恨み言を吐いて、力なく肩を落とす。
 その間、アスクレピオスが苦虫を噛み潰したような、非常に不満げな表情を浮かべていたのを、立香は知らない。

2020/01/12 脱稿
たれかには 物思ふとも なかなかに 憂きはためしの 有る身ならねば
風葉和歌集 768

たれかには 物思ふとも なかなかに

 閻魔亭の一画にある小部屋が、いつの間にか臨時の医務室になっていた。
 勿論、紅閻魔の許可など取っていない。ギリシャ神話に語られる医神の頭には、丁度良い空き部屋があった、という程度の認識しかなかったはずだ。
 客人として、大玄関から入って来たのではない。文字通り気がつけば、居た。存在していた。当たり前のように、従業員や、逗留客を相手に、医療行為を執り行っていた。
 話を聞かされた時には唖然としたが、同時に納得した。
 なんという執念だろう。彼にとって、怪我人や病人がいる場所こそが、己が赴くべき戦場なのだ。
 そうして実際、この場所は存外に怪我人が多い。魔猿に襲われ易い雀たちが主だが、改築工事で慣れない大工仕事に勤しむディルムッドたちも、そうだ。ゴルドルフに至っては、度々腰を痛めては、湿布を貰いに来ているらしかった。
 これまでも好き勝手し放題のサーヴァントは大勢いたが、こういった方向性で突っ走る英霊は、初めてだ。
 長らく様子を見に行く機会に恵まれなかったが、マスターとして、さすがに顔を出さないわけにはいかない。
「失礼しまーす」
 一緒に働いているマシュたちに許可を取り、休憩時間を利用して、その部屋を訪ねた。
 余った檜の端材で作られた救護室の看板は、思ったよりも立派だ。釘で打ち付けられないので、戸の横に立てかけられているだけだが、遠目からも充分目立つ大きさだった。
 些か立て付けが悪い引き戸を開ければ、内部は改造が施されておらず、間取りはその他の客室と同じだった。
 広縁に置かれている机や椅子は取り除かれ、明るい陽射しが室内を照らしていた。病人を寝かせるための布団が敷かれて、枕元には点滴等を吊すための器具が一式、取りそろえられていた。
 もっとも今は、誰も横になっていなかったが。
 空っぽの空間から視線を左に転じれば、踏込部分を抜けた先に、横幅がある座卓が置かれていた。
「なんだ、貴様か」
「うわ、本当にいた」
 履き物を脱ぎ、畳に上がってすぐの所に、問題のサーヴァントがいた。椅子ではなく、座布団に座っているのだが、恐ろしいほど似合っていなかった。
 違和感しかない。足元で白い蛇がとぐろを巻いているのも、不可思議な感覚だった。
 知っていたけれど、いざ当人を前にすると、やはり驚いた。思わず口を突いて出た言葉を慌てて飲み込むが、全て後の祭りだ。
 ムッとした顔で睨まれて、立香はそそくさと目線を逸らした。
「それで、どうした。頭痛か。腹痛か。それとも……」
「ああ、ううん。違う。ごめん。ちょっと、様子を見に来ただけ」
 不機嫌なまま、早速思いつく限りの症例を並べ出したアスクレピオスに、慌てて首と、手を振った。手当てを頼みに来たのではないと断って、急激に冷え込んだ空気にぶるり、と身震いした。
 マスターに何ら連絡もなく、勝手に閻魔亭で医療任務に就いたのは、叱るべきところだろう。けれど彼の登場は、地味に雀たちから重宝がられていた。
 それがあるから、紅閻魔も見て見ぬ振りを通していた。彼女がアスクレピオスに宿泊費を求めないのは、彼が治療費を受け取っていないからだ。
 追い出すつもりは、今のところ、立香にもない。余計なトラブルを起こしさえしなければ、このまま続けても構わない。それを伝えに来ただけだ。
「なんだ、患者ではないのか。なら、さっさと立ち去れ。邪魔だ」
「患者さん、いないのに?」
 用件を正直に告げれば、彼は案の定、立香から興味を失った。左手を頭より高く掲げ、しっ、しっ、と犬猫を追い払うような仕草を取った。
 けれど手当てを受ける病人はおらず、急患が駆け込んでくる様子もない。
 喜び勇んで特異点に来てみたけれど、思ったよりも戦いが頻繁ではなく、退屈している雰囲気だ。それを証拠に、机の上には多数の書籍が積まれ、広げられていた。
 データベース化されたものを端末で呼び出しているのではなく、紙の本だった。恐らく紫式部の図書館から持って来たのだろう。
「アスクレピオスも、なんだ。慰安旅行気分じゃないか」
「なにを言っている?」
 読書に勤しむには、ゆったりとした環境が必須。
 彼も密かに温泉宿を楽しんでいる、と思いきや、怪訝な顔をされてしまった。
 不思議そうに見上げられて、きょとんとした立香が彼の手元を覗き込めば、書かれている文字はどれも英語ではなかった。当然、日本語ですらなかった。
 開腹手術中らしき患部の写真に、レントゲン写真、なんだか分からないグラフと、数値を記した表も多数あった。別の本には複雑な化学式が、何らかの説明文と共に記載されていた。
 見ただけで目眩がしそうで、実際、長時間眺めていられない。
 くらりと来た頭を押さえた立香に、アスクレピオスは深々とため息を吐いた。
「ここで遊んでいる暇があるなら、珍しい患者を連れてこい」
「アスクレピオス先生は、いつでも、ご熱心であらせられる……」
「医者だからな」
 決まり文句をぶつけられて、皮肉を言おうにも、力が入らない。しかも嫌味を嫌味と受け取らず、堂々と言い返されて、ぐうの音も出なかった。
 この太々しさは、さすがギリシャ神と言ったところか。
「まあ、いいや。大人しくしててよ」
「僕をなんだと思っている」
「お医者サマ、でしょ?」
 あまり長居するのも彼の研究の邪魔だし、立香にも仕事がある。
 言うべきことは言った。用は済んだ。そろそろお暇するべく、最後に忠告して、にっと歯を見せて笑った。
 彼の台詞を茶化して、ひらりと手を振った。早々に立ち去るべく、踵を返して脱いだばかりの履き物に爪先を向けた矢先だ。
「わっ」
 唐突に、右手を掴まれた。軽く引っ張られて、後ろ向きに倒れそうになった。
 急いで左足を引っ込め、バランスを取った。半身を捻り、ど、ど、と跳ね上がった心臓の音を数えながら振り向けば、中腰になったアスクレピオスと目が合った。
「え、……なに。びっくりした」
 生唾を飲んで、掠れ声で呟く。
 深呼吸して心を落ち着かせる間も、彼は手を放そうとしなかった。
 翡翠の目を丸くして、自分自身の行動に驚いている風に見えた。ぽかんと開いた口を、時間を掛けて閉じて、眉間に皺を寄せて顔を背けた。
「指、が」
「うん?」
「指が、荒れている。水仕事が多いのか」
「あー、言われてみればそうかも。カルデアじゃ、床拭きなんてやらないし」
 ぼそりと言って、アスクレピオスはようやく立香を解放した。余所を向いたまま質問を投げて、返答に頷きつつ、最後まで正面を向かなかった。
 左袖で口元を覆い隠し、なにか思いついたのか、すくっと立ち上がった。白蛇をその場に残し、奥にある薬棚へと向かった。
 こちらはカルデアから持ち込んだものではなく、元からこの地にあったものらしい。木製で、年季が入った飴色をしている。十センチ角程度の引き出しが横に四つ、縦に五つ、均等に配置されていた。
 そのうちのひとつを引っ張り出して、中から抜き取ったものを、立香へと放り投げる。
「うわわ、と、っと、と」
 かなり手前で失速したそれを、立香は前のめりになって捕まえた。両手で挟むようにキャッチして、胸元に引き寄せてからそろり、と中を覗き込んだ。
 現れたのは、二枚貝の入れ物だった。蛤だろうか、緩やかな曲線をして、触り心地が良かった。
 蓋を開ければ、出て来たのはとろみのある半固形物だ。
「ハンドクリーム?」
「水仕事の後に、たっぷり塗り込んでおけ。可能な限り、手袋の併用を推薦する。なくなったら、取りに来い。それまでに調合し直しておく」
 どこか見た覚えがあると首を捻るが、正解だったらしい。テキパキと指示を下されて、立香は嗚呼、と頷いた。
 その口ぶりからして、これはアスクレピオスの手製らしい。しかも調合ときた。マスターのために、マスターの肌質に合わせてくれるつもりなのだ。
 態度も、口調も素っ気ないが、医者として、サーヴァントとして、彼なりに考えるところがあるのだろう。
「ふふん」
「なにがおかしい」
「ううん、なにも。ありがとう。助かる。もらっておくね」
 人の事をパロトンだなんだと言い、病気になるか、怪我をするかしなければ関心を持って貰えないのでは、と考えていた。
 けれどこんなものが即座に出て来るくらいには、気を向けてくれていた。
 それが嬉しいと言ったら、彼はどんな顔をするだろう。
「じゃあ、戻るけど」
「なにがあったら、すぐに来い」
「了解。その時は、よろしく。アスクレピオス」
 しかし、言ってやらない。ただ大いに頼りにしていると伝えて、立香は二枚貝を握り締めた。

2020/01/05 脱稿

たれかには 物思ふとも なかなかに 憂きはためしの 有る身ならねば
風葉和歌集 768

賀詞

 新春の風、というものは、ただの錯覚でしかない。風は年がら年中吹いており、それが新春を告げているかどうかは、ただの受け手側の気持ちだ。
 それでも多少、爽やかに感じるのだから、不思議と言わざるを得ない。
 年が変わり、新しい一年のスタートを無難に切れた。
 九代目から引き継いだばかりの年若い十代目として、他組織の代表者との挨拶は無事終えた。老獪且つ狡猾な人生の先輩方とのやり取りも、最近はなんとか、そつなくこなせるようになってきた。
 すべては経験のたまものだ。後継者に指名された直後はドタバタ続きで、マフィアのボスなど絶対に御免だと言い張っていたが、それも遙か昔の話だ。
「ちょっとはゆっくり、出来るかなあ」
 朝から連続していた予定は、これで一段落したはずだ。海に面した断崖の上に建つ屋敷の、風が強く吹き付けるベランダに佇んで、綱吉はホッと安堵の息を吐いた。
 腕を絡めて頭上に伸ばせば、肩の骨がボキリと鳴った。
 ここ数日は会食続きだったので、完全に運動不足だ。体重も増えた気がする。ベルトが若干苦しい腹を撫でて、彼は四肢の力を抜き、首を振った。
 少し動きたいけれど、暇を持て余している仲間は居るだろうか。
 思い浮かべたけれど、出て来た顔のうちの半分は、長期休暇で故郷へ帰っていた。
「獄寺君だと、ちょっと、物足りないしなあ」
 屋敷に残っているのは、忠犬宜しく控えている男だ。しかし獄寺は中距離戦闘を得意としており、肉弾戦を持ち味にしている綱吉とは戦い方が大きく違っていた。
 それでも彼だって、接近戦がまるでダメ、というわけではない。
「よし」
 もとより、軽く身体を温めるだけだ。贅沢は言っていられないと、綱吉は脇を締めて気合いを入れた。
 拳を作って正拳突きを真似て、気配を感じて振り返る。
「あれ?」
 キィ、と物音がしたが、開いたのは部屋とベランダを繋ぐ窓ではなかった。
 室内の、陽射しが届かない場所に誰かが立っていた。黒い服で身を包んでおり、影になっているので顔までは分からなかった。
 一瞬獄寺かと思ったが、彼の場合は、入室の前に必ず一声掛けてくる。
「誰だろ?」
 ひとり首を傾げ、腰を捻った。身体を百八十度回転させて、鍵が掛かっていない窓に歩み寄った。
 先ほど潜ったばかりの場所から室内に戻れば、暖炉で温められた空気が肌を包んだ。
 思ったよりも身体は冷えていた。白くなった指先に息を吹きかけて、綱吉は動かない人影に目を凝らした。
「あれ」
「なんだ、いたの」
 そうして目をぱちくりさせて、その場で立ち尽くす。
 驚いて固まっていたら、居るのを知っていただろうに、雲雀からそんな言葉が返って来た。
 素っ気なく告げて、彼は凭れていた壁から離れた。踵で絨毯の縁を削り、組んでいた腕を解いた。
 短く切り揃えた黒髪に、同じく黒く冴えた眼差し。鋭い眼光は、新年を迎えた後も健在だった。
 彼の瞳が濁ることは、あるのだろうか。
 常に毅然と佇む男を前にして、ハッと我に返った綱吉は慌てて姿勢を正した。
 背筋を伸ばし、雲雀の出方を窺う。彼が訪ねて来るという話は、一切聞かされていなかった。
 もっとも雲の守護者はいつだって気まぐれで、予定通りに行動してくれた試しはない。来いと言った日に現れず、来るなと言った時に限ってやって来るので、扱いが大変だった。
 しかし彼が乱入して来たお蔭で、脱せた窮地があったのも事実。
 雲雀は綱吉たちとは違う視点で、世界を見ている。意思疎通は簡単ではないけれど、今やなくてはならない存在だった。
 そんな男が、正月早々、何の用か。
「帰ってなかったんですか?」
「君こそ」
「オレは、まあ、山本たちが戻って来てからです」
「ふうん?」
 霧の守護者もそうだが、所在が掴みにくい男だ。てっきりホームグラウンドに帰国しているとばかり思っていただけに、ここで顔を合わせるとは予想していなかった。
 訊けば、返される相槌は短い。緩慢に頷き、雲雀は照れ笑いを浮かべた綱吉に近付いた。
 あと数歩の距離まで来て、ゆっくり右手を掲げた。
「鈍ってると思ってね。相手してあげるよ」
「うわあ……」
 人差し指で弛んだ腹を指差され、不敵に笑いかけられた。
 まさにベランダで考えていたことを見抜かれて、綱吉はがっくり肩を落とした。
 俯いて額を押さえ、緩く首を振る。
「不満なの?」
 それを見て、雲雀が拗ねたように言った。顔を上げれば、表情は相変わらず不遜だった。
 戻した右手を腰に当て、挑発的に口角を歪める。断っても、強引に押し切ってやるという、そんな決意が垣間見えた。
 確かに獄寺では物足りないと思っていたが、雲雀が相手となると、軽く、で片付くはずがない。
 お互い本気になって、時間を忘れて暴れ続けるに決まっている。
「夕飯の支度、頼んでおきますね」
「任せるよ」
 ひとり分多く用意してくれるよう、調理長に依頼しておかなければ。
 ついでに客室も整えておくよう伝えるべく、綱吉は連絡用の通信機がある机に向かおうとした。
 それでふと、思い出したことがあって、胸の前で両手を叩き合わせた。
「そうだ、ヒバリさん」
「なに」
 キャスター付きの椅子を引き、回り込んで、数ある引き出しのうち、ひとつを引いた。部屋の中央に陣取る男を手招き、取り出した箱を見せて、蓋を開いた。
 素直に近付いて来た雲雀に、納められていた紙の束を広げて、示す。
「なにこれ」
「ええと、どれだったかな……と。これかな? あ、違う」
 トランプのように横に並べるが、一枚ずつがトランプよりもずっと大きい。
 掌に余るサイズのそれは、経年劣化で色がくすんだハガキだった。
 端が若干黄ばんでおり、物によっては角が折れている。しかし概ね、保存状態は悪くなかった。
 カラフルで、絵柄も色々だ。印刷されたもの、手書きのものもあった。
 手書きに関しては、あまり上手と言えないものばかりだ。子供がマジック片手に、悪銭苦闘しながら描いたと分かるものが大部分を占めていた。
 それらの中から何枚かを引き抜き、見比べて、綱吉は顔を綻ばせた。絵と一緒に記された文章を読んで、楽しそうに目を細めた。
 だが雲雀には、彼が何を笑っているのか、さっぱり分からない。
 放置されるのは気にくわなくて、むすっと小鼻を膨らませた矢先だ。
 不機嫌な気配を察したドン・ボンゴレ十代目が、手にしていたものを一斉に机に降ろした。それから真面目な顔をして、目的のものを探り当てた。
 引き抜かれた一枚には、他のものとは違い、表書きがなかった。
「はい」
 宛名が記されていない面を上にし、綱吉が雲雀に差し出す。
 素直に受け取って、かつての風紀委員長は眉を顰めた。
「なに?」
 怪訝にしつつ、彼はハガキを裏返した。
 出て来たのは、今年の干支だ。鉛筆で下書きをして、色鉛筆で着色されていた。
 お世辞にも上手とは言えず、新年を祝う文字がなければ、正体さえ掴めなかっただろう。手本とした絵があったはずなのに、線はガタガタで、色使いも微妙だった。
「これが?」
 机を挟んで向かい側にいる綱吉と、手元を見比べながら、雲雀は投函されなかっただろう年賀状を揺らした。
 下辺を持ち、顔を扇ぐ。軽く首を捻った彼に苦笑して、綱吉は大量に散らばった年賀状の数々を集めた。
「去年帰った時に、見付けたんで。持って来ちゃいました」
 角を揃え、入っていた箱へと戻す。
 雲雀は残された一枚を改めて見詰めて、下手な絵の脇に添えられた年号に眉を顰めた。
 黒曜石の瞳を中央に寄せて、物言いたげな態度で綱吉を射貫く。
 睨まれたダメツナは小さく舌を出し、先ほどの雲雀を真似て、右人差し指を伸ばした。
「干支、ちょうど一周したんで」
「僕宛だったやつ、てこと?」
「正解」
 空中にくるりと円を描いて、悪戯っぽく笑う。
 得心がいった風に頷き、雲雀は改めて色鮮やかな紙面に視線を落とした。
 十二年前といえば、彼らはまだ中学生だった。綱吉は不登校一歩手前で、雲雀は風紀委員長として学校に君臨していた。
 本来なら交わるはずのないふたりの運命は、とある赤ん坊の出現により、一変した。
「学校宛てにしてたら、届いたのに」
「そう思ったんですけど、ほかの人に見られるの、嫌だったし。だいたいあの頃って、ヒバリさん、オレの名前、ちゃんと把握してました?」
 互いの存在は認識し合っていたけれど、年賀状を出し合うような関係ではなかった。それでも思い立ち、余った一枚で書いてみたものの、そもそも住所を知らない、という難題にぶつかった。
 結局、出さなかった。
 出せなかった。
 直接手渡しに行く、という勇気も、あの頃は持ち合わせていなかった。
 だのに長年捨てなかったのは、単に忘れていただけか、それとも。
 今となっては思い出せない記憶に目尻を下げて、綱吉は肩を竦めた。雲雀は興味深そうに何度か頷いて、古くなった年賀状をくるりと反転させた。
「もらってもいいの?」
「どうぞ。ああ、くじは外れだったはずです」
 不器用なりに頑張って描いた絵を見せられて、はにかむ。
 どうでも良い情報を付け足された男は一瞬きょとんとして、自分の側を向いた紙面の下方を確かめた。
 最初から印刷されていた数字を親指でなぞり、嗚呼、と吐息を零す。
「そう? 当たりじゃない?」
「はい?」
 そうして彼は、不意に笑った。
 低い声で囁かれて、綱吉は目をぱちくりさせた。言っている意味が分からない、と首を傾げて、戻って来た葉書に目を落とした。
 拙い絵をあまりまじまじ見たくなくて、すぐ表に返した。先ほど雲雀が注目していた箇所を勘で探って、六桁の数字を目で追いかけた。
 左から右に視線を走らせ、瞬時に左に戻し、頭の中でひとつずつ読み上げた。
 その上で改めて、声に出した。
「……いち、はち……」
「どう?」
 奇なるかな。今年の西暦の後に、十八が並んでいた。
 まるで仕組まれたかのような、奇跡的な並びだった。
「あ、あはは」
 言われるまで、気付かなかった。勿論十二年前の年の瀬、狙ってこれを選んだわけでもなくて。
 なにもかもが偶然だったのに、こうなるとなにかに導かれていた、としか思えない。
 思わず噴き出して、綱吉は満足げにしている男を見上げた。
「今年も、よろしくお願いします」
「うん。よろしく」
 ほかに言葉が浮かばなくて、仰々しく頭を下げた。
 机に両手を置いてお辞儀をした彼に、雲雀は楽しそうに目を細めた。

2020/01/03 脱稿

神も聞け 藻塩の煙 焦がれても

 シミュレーター室のドアを潜った直後の、アスクレピオスの表情は、一生記憶に残りそうなものだった。
 唖然としたかと思えばハッと息を呑み、惚けていたのがみるみる怒りに切り替わって、衝動のままに振り返った。しかし出て行こうとしたドアは今や周囲の景色に同化して、こちらからは視認できなくなっていた。
 前に進むなど以ての外で、逃げ場がない。
 にっちもさっちもいかない状況に、彼の溢れて止まない感情は、ここまで先導してきた青年に向かった。
「マスター!」
 怒り心頭で怒号を上げ、どういう事かと、説明を求めた。腕を横薙ぎに払い、長い袖をぶん、と振り回して、緑の草原に佇む少年――の腕に抱かれた羊を、恐らくは人差し指で指し示した。
 こめかみに青筋が浮かんでいた。
 ここに来る道程では、さほど興味なさげな顔をしていたが、決して機嫌は悪くなかった。ところがその羊を見た途端、露骨に嫌そうな顔をした。
 不快さを隠さず、少しでも近付けば唾でも吐きそうな勢いだ。
「なぜ、ここに。こいつが。いる!」
「ええ~。俺、言わなかったっけ?」
 腸が煮えくり返った声で凄まれて、人類最後のマスターたる藤丸立香はサッと目を逸らした。真っ白い綿雲がふわふわ浮かぶ青空を眺めつつ、両手は胸の高さに掲げて、激昂するの医神からじりじり距離を取った。
 摺り足で少しずつ後退して、様子を窺い、瞳だけをアスクレピオスへと向けた。
「お前は、サーヴァント同士の交流会だと、そう言うから」
「だから~、サーヴァント同士の交流会だって」
「そいつは! サーヴァントじゃあ! ない!」
 すかさず目が合った男が不満を口にして、反射的に言い返したものの、話が通じる状態ではなかった。
 興奮して、頭に血が上っている。
 右腕を上下に振り回しながら怒鳴られて、立香は困った顔で頬を掻いた。
 直接詰られているわけではないものの、パリスはアスクレピオスの大声に、逐一ビクッ、ビクッ、と反応した。最初こそ笑顔だったのが、次第に落ち込んで、今や萎れた花の如く俯いていた。
 無意識に腕に力がこもっているのだろう、抱きしめている羊も若干潰れていた。
 ただそのモコモコした外見に、痛覚が備わっているかは不明だ。微妙に嬉しそうなのは気のせいかと考えつつ、立香は先ほど自分で広げた距離を、思い切って詰めた。
「まあまあ、そう言わず」
 このままでは、喧嘩になる。それにここに居ては、次に部屋に入って来る存在の邪魔になるかもしれない。
 場所を移すべく提案すれば、それまで黙って固まっていたパリスが、突然顔を上げ、口を開いた。
「そっ、そうです。アポロン様は、僕に勝手についてきちゃったわけですけど、だから、ええと……僕の一部ってわけじゃ、ないけど……あれ。でも、アポロン様も、一応……あれれ? サーヴァント、に、なるの……かな?」
 勇ましく喋り出したかと思えば、途中から自問自答を開始した。羊の外見をした太陽神、アポロンを弁護すべく必死に捲し立てるものの、次第に自信がなくなって、声は尻窄みに小さくなった。
 首を傾げて考え込んで、ぎゅう、と更に強く羊を抱きしめる。
「パリスちゃん、それ、今考えるコト?」
「ひゃああ、ごめんなさい!」
 それが矢張り、少しは苦しかったらしい。
 口がどこにも見当たらない生き物が突如喋って、羊飼いだった少年は悲鳴を上げて跳び上がった。
 ついでにアポロンをぽーん、と空中に放り投げて、大慌てでキャッチした。孤を描いて落ちて来たそれを改めて胸に抱いて、息を切らし、必死の形相でアスクレピオスに向き直った。
「とっ、とにかく。あの、あのの。あの。ぼく、と……僕と一緒に召喚されたってことは、アポロン様も、サーヴァント、だと。いうことで! 親睦会に参加する権利は、あ、あると。僕は思います」
 懸命に訴え、どこから見ても太陽神とは言い難い羊をずい、と前に差し出した。
「そうか。だが生憎、僕はそうは思わない」
「がびーん」
 それを冷たくあしらって、アスクレピオスはヒュッ、と指先で空を斬った。
 袖に隠された彼の指先に、魔力の塊が渦を為した。空間に小さな歪みが生じて、立香は次に起きる事象を想像し、背筋を寒くした。
 ショックを受けてよろめいたパリスのすぐ脇を、高速で何かが駆け抜ける。
「うひゃあ」
「ちょっと、ちょっと。アスクレピオス、待った。ステイ、ステイ!」
「僕は犬じゃないぞ」
「ツッコミどころはそこですか」
 彼が反対側に身体を傾けていたら、直撃だった。
 驚いて尻餅をついたパリスを庇い、割って入って、立香は声を荒らげた。
 それが大いに不満らしく、アスクレピオスが忌々しげに舌打ちした。およそ医者がすべきではない顔になって、続けて放つつもりだった銀色のナイフ――メスをくるりと反転させた。
 道具作成のスキルを、こんなところで発揮しないでいただきたい。
 背中に冷たい汗を流して、立香は真横に広げた腕を折り畳んだ。
 身体を張って止めに入ったまでは良いけれど、これが自分に突き刺さっていたかと思うと、今更ながら心臓がバクバクして来た。
 冷や汗を拭い、荒い息を吐いて、彼は渋々武器を引っ込めた医神に肩を落とした。
「ひ、ひどいですよぉ」
「そうだ、そうだー」
「五月蠅い。黙れ。切り刻んでスープの材料にされたいのか」
「暴力反対!」
 その背中に庇われたパリスが、腰が抜けたのか、座り込んだまま抗議の声を上げる。
 そこにアポロンまでもが調子に乗り、不満げに言い放ったものだから、アスクレピオスの機嫌は治まらなかった。
 一度は撤収させたメスを、再び、しかも今度は両手に構えた。いつでも斬り掛かれるよう構えを取って、間に立つ立香など目に入っていない様子だった。
 このままでは本当に、血みどろの争いが起こりかねない。
 いざとなれば令呪を使ってでも、止めなければ。マスターとしての立場を思い出し、決意を固め、慎重にタイミングを計り、状況の変化を注視して息を殺した。
「あれ? 先輩、なにしてるんですか?」
 ところがそんな緊迫した場面で、あまりにも無防備且つ暢気な声が響いたものだから、全てが台無しだった。
 堪らず膝から崩れ落ちそうになった。立香は愕然としたまま、草原の真っ只中に現れた四角い空間と、そこから入って来た少女に引き攣った笑みを送った。
「はい?」
 たった今到着したばかりのマシュには、状況がさっぱり分からない。進路を塞ぐように立っている彼らに、不思議そうな顔をするのは当然だった。
 憤っていたアスクレピオスはといえば、やって来た集団の姿に興を削がれたらしい。チッ、と聞こえるように舌打ちして、物騒な凶器を袖の中に回収した。
「おやおや、揉め事かい? よくないね~」
「ダ・ヴィンチちゃんまで。いいの?」
「ちょっとくらいはね。ゴルドルフ君にも、たまには働いてもらわないと」
 ともあれ、一触即発の事態は避けられた。ホッと胸を撫で下ろして、立香は大きなバスケットを抱える女性陣に顔を綻ばせた。
 その籠の中には、今日の昼御飯が入っている。ブーディカは飲み物が入った水筒を胸に抱き、最後にシミュレーター室に現れたエミヤは、皆が座るためのシートを担いでいた。
「全員、揃った?」
「まだ何人か、来ると思うよ。台所で準備してたら、見つかっちゃって」
 今日ここに集まったのは、パリス立案によるサーヴァント交流会のためだ。もっとも本当の目的は、アスクレピオスとアポロンの仲を取り持つこと、なのだが。
 食堂を開催地に選ばなかったのは、下手を打った場合、周囲に被害が及ばないように、との配慮だ。無機質な空間よりも――たとえ疑似空間であっても――晴れ渡る空の下であれば、多少心が大らかになるのでは、という無駄な配慮もあった。
 最初のチャレンジは失敗に終わったが、チャンスがこれ一回とは限らない。
 パリスが気を取り直し、準備を手伝うべくエミヤに駆け寄った。アポロンは少年の胸元から頭上に移動して、息子との軋轢は一旦忘れることにしたらしかった。
 一方で収まらないのは、アスクレピオスだ。
「僕は帰るぞ」
 ここで待っていれば、次に来る誰かがドアを開けてくれる。そうすれば外に出られると踏んだようで、奥へ移動するサーヴァントたちに背を向けた。
 どこまでも頑なで、意固地だ。
「そんなこと言わずに、さ」
「アスクレピオスさんは、参加されないんですか?」
「いや、する。するから。マシュ」
「お前の耳には、糞かなにかが詰まっているのか。僕は帰る、と言っているんだ」
「そんなわけないし、マシュの前で汚いこと言わないで。せめてお昼ご飯だけでも、食べて行こう、よっ」
 なんとか彼を引き留めようとして、立香は声を高くした。どこかにナイフが隠れているかもしれないが、思い切って白い袖の上から手を掴めば、予期していなかったのか、細身のサーヴァントは大仰なくらい身を竦ませた。
 ぎょっとなって立香を見て、直後に気まずそうに口元を歪めた。
 やはり先ほどの刃物を隠し持ったまま、いつでも取り出せるよう準備していたらしい。今回はたまたま、運良く無傷で済んだが、掴む場所が違っていたら、今頃立香の手は血まみれだった。
 物騒なものを潜ませていた男は、偶然起こらなかっただけの可能性に、少しは反省したらしい。
「……食べるだけだぞ」
「もちろん」
 サーヴァント交流会とはいっても、大人数ではないし、大した計画も立てていない。草原に設定したシミュレーションルームに昼飯を持ち込んで、雑談したり、気晴らしに運動したりと、のんびりした時間を過ごそう、という程度だ。
 その中でアスクレピオスとアポロンの関係が、少しでも改善されたら御の字。
 望み薄ではあるけれど、なにもしないで放置するよりはいい。パリスから相談を持ちかけられて、悩み抜いた上での行動だから、ここで彼を帰すわけにはいかなかった。
 渋々承諾の意を表明した医神に、立香は満面の笑みを浮かべた。ぱっと両手を広げてアスクレピオスを解放して、先に歩き出したマシュを急いで追いかけた。
 精巧に再現された草原の丘は広々として、緩やかな上り坂が続いたかと思えば、急に下り坂が現れた。時折風が吹き、爽やかな緑の匂いが鼻腔を擽る。遠くを見ればこんもりと木々が生い茂る森が広がり、のんびり草を食む牛の姿まであった。
 あの牛には、触れられるのだろうか。
 好奇心が擽られたが、あそこまで行くのは大変そうだ。ふと気になって後方に目を転じれば、アスクレピオスはちゃんと、立香に続いて歩いていた。
 もっとも足取りは重く、いかにも気が進まない、という風だ。口をへの字に曲げて、不機嫌を隠そうともしなかった。
 一応太陽神の血を継いで、死後には星座にまでなっているのに、威厳らしいものがまるで感じられない。
 ただの我が儘な子供同然だ。アポロンの前では医神としての立場も形無しだと笑って、立香は先を急ぎ、マシュに並んだ。
「持とうか」
「いえ、大丈夫です」
 大人数分の食事が入ったバスケットは、それなりに重い。いくらデミ・サーヴァントとはいえ大変だろうと手助けを申し出たが、あっさり断られた。
 行き場のなくなった右手を握って、開いて、立香は何気なく自分の上腕を見た。むん、と鼻から息を吐いて力瘤を作ってみたが、残念ながら少女の視界には入らなかった。
 人理修復の旅を始めて以降、トレーニングを積んできた。今ならあの時叶えられなかった数々が叶うかも知れないが、過ぎた時間が戻ることはなかった。
 親子の関係というのは、それと同じかもしれない。
 余計なお節介だと分かっていても、見ているだけしか出来ないのは歯痒かった。歩みが遅いアスクレピオスをひとり待って、立香は控えめに笑った。
「行こう」
 この丘を下った先で、エミヤとパリスが水色のシートを敷いていた。別方向からは複数の笑い声がした。ブーディカが言っていた残りの参加者が、シミュレーション室に入ったらしかった。
 依然顰め面の半神に手を差し出せば、彼はその手を取らなかった。直前の事も頭にあるのだろう。はね除けることもせず、完全に無視した。
「……怒ってる?」
「当たり前だ」
 大外回りで避けられて、それはそれで傷つく。
 声を潜めて問いかければ、振り向きもせずに言われた。
 間髪入れず、即答だった。つい笑ってしまうレベルの素早さで、立香は返す言葉が見つからなかった。
 それでもパリスが、なにかと両者の仲を取り持とうとするのは、あの少年自身に決して許されない不和をもたらした過去があるからだろう。
 アスクレピオスとアポロンの不仲さに、彼はなんら関与していない。それでも本来必要の無い責任を感じて、あれこれ骨を折っていた。
 そして徒労に終わるのが目に見えている努力は、これからも続くのだ。
「あんな可愛い子に、涙目で頼まれたら、断れないしなあ」
 その度に、立香は厄介事に巻き込まれる。今回のように。
 出来るものならサーヴァント同士で解決してもらいたいけれど、マスターが出ていった方が早く片付くこともある。何でも屋のお兄さん的存在の自分に苦笑して、立香は斜め前方で立ち止まっていたアスクレピオスに目を向けた。
 一瞬だが、視線が交錯した。独り言を聞かれたらしい。顔を背ける直前、彼はぼそっと呟いた。
「僕の方が、可愛かった」
「……ごめん。聞こえなかったから、もう一回」
「さっさと行くぞ!」
 耳を疑うひと言に、心の底から再度言ってくれるよう懇願した。
 その要望を蹴り飛ばし、アスクレピオスが声を荒らげた。銀髪の隙間から覗く耳を真っ赤にして、荒々しい足取りでずんずん坂を下っていった。
 皆と合流を果たしたマシュが、立香たちに手を振っている。後ろからは騒がしい喋り声が迫っており、追い付かれるのは時間の問題だった。
「やっほーい。おおっと、マスター発見!」
 遠くからでもよく響く声で、誰が来たのかはすぐに分かった。見ればアストルフォに引っ張られたデオンが、そのペースについて行けず、度々転びそうになっていた。
 彼に捕まったら、立香もああなる。運動神経の差からして、デオンのように巧く立ち回れるはずもない。
「よし、行こう。急ごう。そうしよう」
 幸い、アスクレピオスにも先を急かされている。彼を言い訳にすれば、アストルフォから逃げたことにはならないはずだ。
 そうと決まれば、行動は早い方が良い。力強く地面を蹴って、立香は開いていた医神との距離を詰めた。
「お先に」
「なになに、競争? 分かった、いっくよー」
「待て。待ってくれ、アストルフォ。せめて手を。手を、うわっ、放して」
 すれ違いざまにそう言い残せば、駆け出した立香に反応し、アストルフォが元気よく叫んだ。もれなく引きずられていたデオンが悲鳴を上げて、置き去りにされた格好のアスクレピオスが目を丸くした。
 マスターが彼の右側を走り抜けたと思えば、直後に左側をビュン、と駆け抜けて行く影があった。跳ねるように進む二騎のサーヴァントを見送って、医神と称される男は無意識に指を蠢かせた。
 怪我人発生の気配を察知し、本能が疼いた。しかしサーヴァントというものは、存外頑丈に出来ている。多少転んだり、ぶつけたりした程度では、大した傷にはならなかった。
「チイッ」
 外科手術に最適な道具が手元にあるのに、使う機会を完全に逸した。本来のペースを崩されて、彼は苛立ちのままに舌打ちした。
 むしゃくしゃする感情のやり場に困り、頭皮に爪を立てて掻き毟るが、少しも気分は晴れない。やむを得ず天を仰ぎ、力なく息を吐いていたら、前方からキャー、と甲高い悲鳴が上がった。
「おおおっと、羊はっけーん。まっるーい。かっわいーい。よーし、そうれ。アターック!」
「あああ、アポロン様は、ボールじゃありませーん」
 なにがあったか分からないが、断片的に聞こえて来る会話から、あの羊が酷い目に遭っているのは想像がついた。
 それならば、気分が良い。冥府の底よりもずっと深いところにあった気持ちを一気に浮上させて、アスクレピオスは口角を持ち上げた。
 目を凝らせば、羊の姿を借りた太陽神が、鞠玉のように空中を跳ねていた。
 その球体、もとい羊を奪い合い、パリスとアストルフォがなにやらやり合っている。息も絶え絶えのデオンが仲裁に入るが、まるで意味をなしていなかった。
 マスターはといえば、そちらの騒ぎに加わる気はないらしい。柔らかな草を覆う空色のシートに、靴を脱いで上がろうとしていた。
 賑やかなやり取りを眺め、笑っている。心から楽しそうな姿を視界に収めて、アスクレピオスはやれやれ、と肩を竦めた。
 あんな顔を見せられたら、怒っているのが馬鹿らしくなるではないか。
 すっかり絆されている自身を認めて、彼はピクニックの準備が進む空間に急いだ。
「まったく、あの子たちってば」
 近付けば、先行していたメンバー同士の会話が耳に入って来た。
 ブーディカがぎゃあぎゃあ五月蠅い面々を見ながら愚痴を零して、白い獣を肩に乗せたマシュが困った風に目を細めた。エミヤは黙々とシートの端を固定し、我関せずといった雰囲気だった。
「靴は脱いだ方が良いんだな」
 その独特な空気に割り込むのは勇気が要ったが、立ち竦んでいるわけにはいかない。緑と青の境界線上で、思い切って口を開けば、居合わせた全員の視線が一斉に向けられた。
「いらっしゃい。ごめんねー、主役なのに」
 表面にやや光沢があるシートの上には、マシュが運んでいたバスケットを中心に、飲み物を入れたボトルが数種類と、持ち運びし易い薄型の皿や、食器類が雑多に並べられていた。
 それらを手際よく整理して、ブーディカが笑う。
 嫌味ではないだろうが、思わず反応しかけて、アスクレピオスは喉まで出掛かった怒号を飲み込んだ。
「……気遣いは無用だ。僕はマスターの指示に従うだけだ」
 代わりにぶっきらぼうに吐き捨てて、視線を主催者の片割れに向ける。
 軽く睨み付ければ、立香は照れ臭そうに頬を掻いた。
「えっと、うん。脱いでくれると、嬉しいかな」
「分かった」
 ノウム・カルデアでの生活で、靴を脱ぐのはシャワーを浴びるか、ベッドに寝転がる時くらい。食堂でも、医務室でも、無論管制室でも、土足での行動が基本だった。
 だから、立香の行動を見ていなければ、アスクレピオスは靴のまま、シートに上がるところだった。
 そういう風習があると、知識としてなら有していた。しかし頭で分かっていても、それが必要になった時、実際に行動に移すのは、なかなか難しかった。
 確認して、頷いて、彼は右膝を軽く折り曲げた。腰を斜め後ろに向けて捻って、ズボンの裾を払い、金色に輝く靴を脱いだ。
 両足分を揃え、理路整然と並べられたほかの面々の分に倣い、踵をシート側に向けて置いた。振り返ってマスターを窺えば、彼は一瞬きょとんとした後、目を細めて微笑んだ。
 雷撃に貫かれる以前にも経験した覚えがない行動なので、これで合っているか少々不安だった。どうやら間違っていなかったようで、誰からも、特になにも指摘されなかった。
「来てくれて、良かった」
 立香には、露骨にホッとした顔で言われた。横で聞いていた少女は、なにを思い出しているのか、口元に手を当ててクスクス声を漏らした。
「先輩、昨日の夜から、心配で堪らないって様子でしたからね」
「だってさー、……いや、いいや。やめよう、この話題は」
 アスクレピオスがこの催しの話を聞かされたのは、今朝早くだ。けれど計画そのものは、もっと早い段階から進められていた。
 知らなかったのは、医神のみ。
 けれど内実を教えられていたら、絶対に参加しなかった。だからこそ話が外に漏れないよう、彼らは必死に画策したに違いなかった。
 それもこれも、アスクレピオスとアポロンの仲を取り持つ為。
 厄介事ばかり持ちかけられるマスターの気苦労は、いかばかりか。同情はするけれど、正直なところ、腹立たしさは拭えなかった。
 剣呑な目つきになっていたらしい。立香は一瞬だけこちらを見て、笑い止まない少女を手で制した。そのまま頭上に腕を伸ばして、広々とした空間に、どさっと背中から倒れ込んだ。
「あー、良い天気」
「シミュレーターだけどね」
「それは言わない約束でしょ、ダ・ヴィンチちゃん」
 しみじみとした呟きを、更に小柄な少女が茶化した。立香は利き手をひらひら揺らして、大の字になって目を閉じた。
 心の底からリラックスした表情で数回深呼吸し、起き上がってこない。彼自身にとってもも久しぶりの余暇なのだと思い出して、アスクレピオスはその右側に腰を下ろした。
「紅茶と、珈琲と、あとなんだっけ」
「ジンジャーエール」
「そうそう、それ。どれにする?」
 すかさずブーディカが両手に持ったボトルを揺らし、エミヤの助けも借りて、問いかけて来た。
 人数分より多く用意されたコップには、すでに何種類かの飲み物が注がれていた。そのうち、まだ空のものを一緒に差し出されて、アスクレピオスは口籠もった。
 こういう場には、慣れていない。咄嗟にワインは、と言いかけて、マスターが未成年なのを思い出した。
「どしたの?」
「いや、……なんでもない。どれでも構わない」
 宴ではないのだから、アルコール類が用意されるわけがなかった。脳裏に浮かんだアルゴノーツの面々を素早く頭から追い出して、彼は選択を他者に委ねた。
 ブーディカは緩慢に頷き、たわわに実った果実のような胸を揺らした。口をへの字に曲げ、明後日の方向を見やり、しばらく悩んでから赤色のボトルの蓋を外した。
 白い湯気を立てながら注がれたのは、紅茶だった。鼻腔を擽る香りはほんのり甘く、ささくれだった心を慰めるのに充分だった。
「すまない」
「いえいえ~。どういたしまして」
「ねえねえ、マシュ。あっち、なんだか楽しそう。行ってみない?」
 愛想がなかった自分を反省し、謝罪と感謝を伝えれば、ブーディカはにこやかな笑顔で首を振った。その向こうではダ・ヴィンチがマシュの袖を引き、アポロンを中心にした集団を指差した。
 あの白い羊は相変わらずボール扱いを受け、三騎のサーヴァントの間を飛び交っていた。
 アポロンを取り返そうと躍起になっていたはずのパリスまでもが、今では満面の笑みを浮かべ、太陽神を空中に投げ放っている。そして本来は酷い仕打ち、と怒るべき存在は、ボールとしての状況を甘んじて受け入れていた。
 しかも微妙に、嬉しそうに見える。
「あいつ……」
 見目麗しい三騎に取り囲まれて、至って幸せそうだ。そこにダ・ヴィンチにマシュ、ブーディカまで加わったのだから、天下に知れ渡る女好きの神が、喜ばないはずがなかった。
「アポロン様、楽しそうだね」
「お前にもそう見えるなら、そうなんだろう」
 急に近場が静かになって、立香がのっそり起き上がった。両足を投げ出したまま、上半身だけ浮かせて遠くを見やり、真っ先に目に飛び込んできた存在に苦笑した。
 あまりにも率直な感想だが、アスクレピオスも同意見だ。わざわざ否定してやる道理もなかった。
 アポロンの名声が地に落ちようと、どうなろうと、関係無い。
 冷たく吐き捨てた彼に、立香はいそいそと膝を折り畳んで、その天辺に顎を置いた。
「そんなに、嫌い?」
「お前は、なら、自分を殺そうとした相手を――いや、愚問だった」
「ははは」
「笑うんじゃない。お前はもう少し、自分というものを大事にしろ」
 前屈みの姿勢から問いかけられて、反射的に切り返した。だが途中で、喋っている相手が他ならぬ藤丸立香であると悟り、降参だと白旗を振った。
 高らかと笑い飛ばされたのに腹を立て、拳を作って殴る真似だけをする。
 振り上げられた長い袖が降りてこないと知って、立香はカラカラと、先ほどより高らかに笑った。
「でも、俺になにかあったら、アスクレピオスが助けてくれるんでしょ?」
 顎を引いて俯いて、上目遣いの囁きは小声だった。
 とはいえ、障壁などなにもない空間だ。やり取りが、聞きたくなくても聞こえていたエミヤは、深々とため息を吐いて立ち上がった。
「なにもないとは思うが、念の為だ。近くを偵察してくる」
「あー、ごめん。ありがとう」
「気にするな」
 戦闘用に展開された空間ではないが、どこかでバグが生じているかもしれない。万が一を懸念したアーチャーの気遣いを、立香は素直に信じた。
 赤衣の青年はひらひらと手を振ると、マスターに背を向けてさっさと歩き出した。その行く先には森が広がっており、パリスたちが騒いでいるのとは完全に逆方向だった。
 あちらに巻き込まれるのも、巧妙に避けたのだろう。賑わいが増した集団を一瞥して、アスクレピオスは胡座を組んだ膝に肘を衝き立てた。
 猫背になって頬杖をつき、すぐ傍らに視線を戻す。
 間近で目が合った。
 パチッ、と、静電気のような小さな衝撃が走った気がした。
「マスター」
「紅茶、冷めちゃうよ。あと、少し早いけど。お昼にしようか」
 驚き、息を呑んで、咄嗟に彼の方へ身を乗り出した。しかし先手を打つ格好で、立香は素早く身を翻した。
 シートの中心に広げられたバスケットに膝立ちで歩み寄り、大きな籠の片側を持ち上げた。角度を付けて中身をアスクレピオスに示し、こちらへ来るよう、手招いた。
 中は二段組みになっており、隙間なく食べ物が詰め込まれていた。
「サンドイッチ、というものだったか」
「そうそう。ええとね、これが厚焼き卵で、こっちがトマトとベーコン。あとこれが、アボガドと……なんだっけ」
「いい。だいたい分かった」
 どれも厚めに切った食パンに、具材が飛び出す勢いで詰め込まれていた。断面が目立つように切り分けられて、屋外でも食べやすいようにとの配慮から、ひとつずつ紙に包まれていた。
 これならば長い袖に手指を隠していても、汚れを気にせずに済む。
 中身の種類は多岐に亘り、立香でも覚え切れていない。指折り数える途中で言葉に詰まった彼に苦笑して、アスクレピオスは程よく温い紅茶で喉を潤した。
 ほんの少しだけ、砂糖が入っていた。だが嫌になる甘さではない。ホッとするぬくもりに頬を緩め、彼はバスケットの片隅に鎮座するサンドイッチを指し示した。
「これは?」
「え? あ、あー……それは、なんだったっけかな……」
 先ほどの説明でも、これは省かれた。興味を抱き、疑問を呈すれば、彼はあからさまに目を逸らした。
 あまりにも露骨で、白々しい。胸の前で組んだ指をもぞもぞ動かして、言及してくれるなと、態度が物語っていた。
 けれどそういう姿を見せられると、余計に好奇心が擽られるというもの。
「ふむ」
 どれから食べるか悩む仕草を取って、アスクレピオスはバスケットの上空に指を彷徨わせた。
 合間に紅茶を味わって、黄色が眩しい厚焼き卵のサンドイッチを取るべく、行動を起こす。
「あ――」
 途端に立香がホッとした表情を作り、直後に唇を歪めた。見るに堪えない酷い顔になって、寸前で進路を変えた医神を恨めしげに睨み付けた。
 厚焼き卵を選ぶと見せかけて、彼はバスケットの隅に追いやられていたものを掴み取った。英字が印刷された包装紙ごと抜き取り、緑のソースが絡んだ鶏肉のサンドイッチを顔の前へと運んだ。
 バジルの匂いが、仄かに漂って来た。包丁を入れる際、一度に出来ずに何度もやり直したと分かる不器用な断面を眺めていたら、渋い顔のマスターが苛々した様子で口を開いた。
「毒なんか、入ってないよ」
「そんなことは、思っていない」
 しげしげと見詰めるばかりで、なかなか食べようとしないのに痺れを切らしたらしい。拗ねた口調で妙なことを言われて、アスクレピオスは首を傾げた。
 自分から食べるよう促しておいて、どうしてそんなに刺々しいのだろう。選んだサンドイッチが不満なのかもしれないが、一度手にしたものを、元あった場所に戻すのは憚られた。
 彼の顔と、手元とを交互に見比べて、医神は翡翠色の瞳を眇めた。沢山並ぶほかのサンドイッチにも視線をやって、その出来映えの違いに眉を顰めた。
 これが気になったのには、いくつかの理由がある。
 第一に、立香がこれにだけ言及しなかった。第二に、多数ある中でこの種類だけ、少々形が歪だった。
 第三に、単純に心惹かれた。黄色や、赤ではなく、大地に根を下ろす緑の植物と同じ色がメインになっていたからだ。
 バジルソースを細かく裂いた鶏肉に絡め、レタスに包み、パンで挟んであった。切れ目は凸凹している。厚焼き卵は断面が真っ直ぐなので、それとは別存在の手によるものと、簡単に想像が付いた。
 ちらりと前方を窺うが、立香は余所を向いていた。マシュたちを気にしている体を装っているが、意識が別の所にあるのは明らかだった。
「では、いただこう」
 彼がそんな態度を取る理由を探りつつ、厳かに呟く。サンドイッチは結構な厚みがあって、思い切り口を開かなければ、頬張るのは難しかった。
 どうせマスターしか見ていない。
 上品に食べるのを諦め、アスクレピオスは顎が外れるくらいに口を開いた。白く鋭い牙を覗かせて、がぶり、と潔くかぶりついた。
「んむ」
 圧迫され、中に詰められていた鶏肉が飛び出した。鼻の頭を掠めたそれを慌てて避けて、噛み千切った分をもぐもぐと咀嚼した。
 口に入れれば、バジルの香りが一段と強くなった。ソースにヨーグルトが混ぜてあるのか、微かに酸味がある。香草が鶏肉の生臭さを打ち消して、良い具合に調和していた。
 野菜のシャキシャキした歯ごたえと、蒸し鶏の柔らかさが心地よかった。顔にソースが付いていないか、指でなぞって確かめて、アスクレピオスは二口目を頬張った。
 先ほどはみ出た鶏肉を狙って、その周辺に食いついた。続けて三口目、四口目と続けて、あっという間に包み紙の中を空にした。
「悪くないな」
 口の端を伸ばした舌で舐め、ソースが僅かに残る紙を小さく折り畳んだ。最後にぼそっと呟けば、傍らで見ていた立香がぽかんとした様子で頷いた。
「お腹、空いてた?」
「いや?」
 唖然としながらの質問に、言われて気付いたアスクレピオスは自分に首を傾げた。
 特別空腹だったわけではない。。そもそもサーヴァントは、基本的に食事を必要としない。
 カルデア内では、常に魔力が供給されている。なにかを食べてでも補わねばならない、というような切迫した状況下にはなかった。
 いわば「食べる」という行いは、個々の趣味のようなものだ。そしてアスクレピオス自身は、食べることにさほど強い執着を抱いていなかった。
 それでも食堂に行くのは、怪我や病気を隠している愚患者がいないかを探すため。更には食事中の方が口が軽くなる存在もあって、この特性を利用し、患者との円滑なコミュニケーションを図るのが目的だった。
 献立に関しては、栄養価が偏ってさえいなければ、なにを出されても不満なかった。逆を言えば、強いてこれが食べたい、という欲求を抱いても来なかった。
 こんな風にパクパクと、夢中になって齧り付いたのはいつ以来か。
 遠い記憶に想いを馳せたが、あまりにも遠過ぎた。咄嗟に思いつかないくらい昔だ、と自分を納得させて、彼は頬を膨らませている立香に目を細めた。
「もうひとつ、もらうぞ」
「え? え、あ」
 サンドイッチの大半は、食パンを真ん中で二等分にして詰められていた。即ちもう片割れが存在する。別の味を試す気は、全く起こらなかった。
 バジルソースを贅沢に、たっぷり使ったチキンサンドを掴み、躊躇せず食いついた。対する立香は驚き、愕然として、一瞬青くなったかと思えば、すぐに真っ赤になった。
 ひとりで百面相を繰り広げ、尻を浮かせたり、膝を抱えて丸くなったり。
「お前は、食べないのか?」
 忙しなく動き回って、食事を始めようとしない。
 歯形の残るパンを片手に訊けば、彼は何かを言いかけ、ぐっと歯を食い縛った。
「その。……おいしい?」
 怒鳴ろうとしたのを思いとどまり、膝を揃えて座り直した。もぞもぞと身動ぎ、横目でこちらを窺いながら、小声で問いかけてきた。
 照れが過分に混じった質問に、アスクレピオスは手を止めた。唇に貼り付いたソースを舐め取って、断面の凸凹が酷くなったサンドイッチに視線を落とした。
 味付けは、悪くない。
 紅茶との相性も抜群だ。
 けれど本当に、それだけだろうか。
「ああ。なんだろうな。巧く言えないが、なにか……なにか入っているのか?」
 食材はありふれたものばかりで、この為だけに用意されたものはない。それでも強く惹かれた。ひとつ目にこれを選んだのは、見た目と、立香の態度からだったが、再度同じものを食べたいと思ったのは、別の理由があると考えられた。
 しかしその理由がなんなのか、まるで見当が付かない。
 隠し味として、アスクレピオスが知らないものが混ざっているのか。
 つい包み紙の底を覗き込んだ彼に、立香はぎょっとして、一秒後には噴き出した。
「まさか。そんなわけないって」
 食材に中毒性のものが含まれているのを疑った医神に腹を抱え、横に手を振った。若干大袈裟な身振りで否定して、笑い過ぎて目尻に涙を浮かべる程だった。
 そこまで面白い事を言ったつもりはなくて、この反応は些か不満だ。けれど言葉にすれば、余計に笑われかねなかった。
 我慢してぐっと堪えていたら、アポロンでのボール遊びに興じていた少女たちが、休憩だと叫び、ビニールシートに駆け込んできた。
「あー、もう。喉渇いた。お茶ちょうだい、お茶」
「申し訳ないが、マスター。コップを取ってもらえるだろうか」
 ダ・ヴィンチとデオンが一緒くたになって倒れ込み、飲み物を欲して悲鳴を上げた。マシュだけが靴を脱いで、あらかじめ準備されていたコップを両手に持った。
 息も絶え絶えのふたりにまず手渡し、自分の分も取った。フォウは彼女の肩から飛び降りて、底の浅い皿に注がれていた水に舌先を浸した。
 立香が取った分は、僅かに遅れて戻って来たブーディカの手に渡った。パリスはアポロンを抱きしめて、遠慮がちに離れたところに立っていた。
「僕は、混じらないからな」
「でも、大っぴらにアポロンを殴り飛ばせるチャンスかもよ」
 視線が何かを訴えかけてくるが、跳ね返し、取り付く島も与えない。
 そこに立香が、助け船のつもりなのか言って、アポロンを指差した。
「……なるほど。そういう考え方もあるか」
 目から鱗が落ちるとは、こういう事を言うのだろう。
 冗談めかした彼のひと言に、アスクレピオスは感慨深く頷いた。
 拳の隙間に鋭利な刃物を隠し持てば、さぞや良い悲鳴が聞かれるだろう。それで全ての鬱憤が晴れるわけではないが、悪くないアイデアだとほくそ笑んでいたら、己の危機を察した羊がパリスの腕からスポン、と抜け落ちた。
「あれ? アポロン様、待ってください。どこに行くんですか~」
 一瞬だけ身体を小さくして、緩い拘束から脱出した。そのままぽーん、ぽーんと草むらを跳ねて、尻尾を巻いて逃げ出した。
 抱きしめていたものが突然居なくなり、パリスが大慌てで追いかけて行く。
「なになに、今度は鬼ごっこ?」
 それを見て、なにをどう勘違いしたのだろう。アストルフォが目を爛々と輝かせた。
 あれだけ動き回っていたのに、まだ元気だ。BLTサンドを片手にぴょん、と飛び上がって、草原を駆け回る少年に標準を定めた。
「ふははは、負けないぞー」
「私はもうダメ。疲れた」
 高らかと吼えて、広々とした大地を駆け出す。ちょうど森の偵察に出ていたエミヤが戻って来るところで、彼は遠目にも分かるくらい、大仰に身構えた。
 巻き込まれないよう退避していたはずなのに、結局は巻き込まれた。ビニールシートに陣取っていた面々は一様に憐れみの表情を浮かべ、欠落した体力を補充すべく、バスケットの中を覗き込んだ。
「あれ? バジルチキンサンド、もうないんですか?」
 そうしてマシュが、一箇所だけぽっかり空いたスペースを見付け、高い声を響かせた。
 眼鏡の奥の瞳を真ん丸にして、立香を見る。その立香はアスクレピオスの方をちらっと見たが、肝心のバジルチキンサンドは既に医神の胃の中だった。
 残ったのは、ソースで汚れた包み紙がふたつだけ。
 小さく折り畳まれたそれを指先で遊ばせていた彼に、マシュは目に見えてがっくり肩を落とした。
「先輩が作ってくれたの、楽しみにしてたんですよ」
「そうなのか。美味かったぞ」
 落胆を隠さず、言外に二つとも食べてしまったアスクレピオスを責める。それを真正面から受け止めて、彼は淡々と言い返した。
 まだ口の中に残るソースを舌で集め、唾液に混ぜて飲み込んだ。堂々と胸を張っての物言いに、少女は拳を作り、上下にぶんぶん振り回した。
「そりゃあ、そうですよ。だって、先輩の愛情がたーっぷり、入ってたんですから」
「フォウフォウ」
「ちょっと、マシュ。マシュ、やめて!」
 どれだけ自分が楽しみにしていたかを、獣も味方に付けて訴えた。周囲に響く大声で叫んで、立香の赤面を引き出した。
 聞いていたダ・ヴィンチがブーディカと顔を見合わせ、にやにやと不敵な笑みを浮かべた。デオンは紅茶で一服して、無言でにこやかに微笑んだ。
「なるほど、愛情か。……愛情、か」
 急に賑やかになった周囲を見回し、アスクレピオスがしみじみと呟く。
 最後に視線を向けられた立香は、耳の先まで真っ赤だった。
「繰り返さなくて良いから。てか、俺、ソース掻き混ぜてただけだし」
「えー? 自分がやるって、包丁持つ手をぷるぷるさせてたのは、どこの誰だったっけかなー?」
「俺です! すみませんでした!」
 必死に言い訳を捲し立てるが、一緒にキッチンに立っていたブーディカを相手にしたら、太刀打ちできない。
 やけっぱちで認めて、その場で丸くなった。額をシートに擦りつけ、殻に閉じこもって、しばらく出て来なかった。
 一部の女性陣から軽やかな笑い声が発せられて、穏やかに吹く風がそれを攫っていく。
 遠くではパリスとアストルフォの大声が交錯して、見かねたブーディカが立ち上がり、そちらに歩き出した。マシュは喚いて気が済んだらしく、ダ・ヴィンチと一緒に食事を開始した。
 人工的なものとは思えない青空を仰いで、アスクレピオスは俯いて動かない青年の手元に、ばさり、と白い袖を被せた。
 ビクッと、立香の身体が一瞬、大きく跳ねた。
「美味かった」
「……どういたしまして……」
 彼にだけ聞こえる声で囁くが、礼を言うべきはこちらだろう。
 誰にも見えないところで握り締めた手は、太陽よりも温かかった。

2019/12/07 脱稿

神も聞け藻塩の煙焦がれても とがむばかりの思ひありきや
風葉和歌集 1297

心うらやむ 今日の夕暮

 吹く風が冷たい。
 ひと呼吸置いてはらはら舞い落ちる木の葉を見上げて、歌仙兼定はふぅ、と腹の底から息を吐いた。
 唇から解けた吐息は、ほんの一瞬だけ白く濁った。熱を帯びたそれは間もなく空中に霧散して、行き先はようとして知れなかった。
「もう秋も終いか」
 感慨深く呟いて、名残惜しげに後ろを振り返る。彼の視界を染めたのは、散り急ぐ色とりどりの木の葉だった。
 庭園に聳え立つひときわ大きな銀杏の足元は、見事なくらい真っ黄色だった。こんもり丸く膨らんで、見た目だけなら、とても柔らかそうだった。
 けれど実際には、それほど居心地は宜しくない。もとより落ち葉の集合体でしかないのだから、飛び込んだところで、受け止めてくれるわけがなかった。
 何年か前に、外見に騙された短刀が、落ち葉の山に突進したことがあった。そうして顔面から地面に激突して、あまりの痛さに大騒ぎする事態が起きた。
 あれはこの本丸がまだ創建されたばかりの、屋敷が今ほど賑わっていなかった頃の出来事か。
 すっかり遠くなった記憶を手繰り寄せて、この本丸最古参である打刀はふむ、と頷いた。
「風流だねえ」
 あの時、額を赤く腫らして泣きじゃくっていたのは、どの刀だっただろう。
 はっきりと思い出せないのを誤魔化し、呟いて、彼は口元を綻ばせた。
 老齢な思考力と、子供らしい無邪気さとを同居させている短刀たちを一旦頭から追い出し、改めて暮れゆく秋の景色に目を眇めた。風はとっくに通り過ぎたのに、其処此処で木の葉がひらひらと待っていた。
 その一枚に手を伸ばすけれど、指が届くことはなかった。
「おや、嫌われてしまったか」
 横からの干渉を嫌って、真っ赤に色づいたもみじがすい、と脇に逸れた。そのまま斜めに泳ぎつつ、斑模様の地面に落ちて、消えた。
 辛うじて緑を残す下草に、枯れてしまって灰色混じりの一帯が隣接し、赤や黄色の木の葉が隙間を埋めていた。その中に吸い込まれてしまったら、先ほどの一枚がどれなのか、探すのは困難を極めた。
 代わりに小動物が集め損なったどんぐりが一個、落ちているのに気がついた。
 拾おうとして、彼は身を屈めた。しかし膝を軽く曲げ、腕を伸ばしたところで思いとどまり、姿勢を正した。
 これから寒くなる一方だから、この一粒は、どこかの生き物の糧になるべきだ。
 興味本位で手を出して良いものではない。己を戒めて、歌仙兼定は行き場を失った手で前髪を梳いた。
 額を覆う毛先を脇へ流すが、すぐに戻って来たのに苦笑して、肩を竦めた。気を取り直し、冷えた空気をたっぷり吸い込んで、またもや強く吹いた風に向かって吐き出した。
 ほんの小さな抵抗を示したものの、敢え無く敗退して、目を閉じた。ザザッと地面を削りながら走る旋風には抗えず、巻き上げられた塵や砂粒を避けて、利き腕で顔を庇った。
 咄嗟に奥歯を噛み締め、首を竦めて突風をやり過ごした。二秒後には瞼を開いて、一変した、とまではいかないものの、直前とほんの少し趣を変えた景色に瞬きを繰り返した。
 肩の力を抜き、微笑んで、落ち葉が降り積もる地面を踏みしめる。
 夏場は力強く伸びる草葉の抵抗を受けて、ザク、ザク、という感触だった。それが今は柔らかで、ふかふか、ふわふわ、と表現すべきものに変わっていた。 
 もちろん大の字になって突撃するには不向きだけれど、歩くだけなら充分だ。
 風の悪戯で山なりになっている木の葉を蹴散らし、彼はすっかり冷えた肩をそうっと撫でた。
「冬も、じきか」
 朝晩の冷え込みは日に日に厳しさを増して、それに比例し、布団に引き籠もる刀剣男士も増加中だ。特に琉球刀のふた振りや、南泉一文字の寒さへの抵抗は、凄まじいものがあった。
 だからといって、彼らを調理当番から外すわけにはいかない。この本丸に顕現した以上は、皆等しく、交代で役目を果たすのが決まりだった。
 まだ夜が明けきらぬうちから台所に立ち、一番鶏が鳴くより早く朝食の準備を開始しないと、総勢八十振りを越える刀剣男士全員の胃袋を満たすなど、到底無理な相談だ。ひと振りでも寝坊し、遅刻しようものなら、その分作業効率が下がり、食事の時間が後ろ倒しになった。
 そうなると前日までに決まっていた出陣や、遠征の手はず等など、あらゆる予定に狂いが生じる。
 無慈悲だなんだと責められようと、布団でぐるぐる巻きにしてでも連れて行く。それが初期刀として、この本丸を預かる歌仙兼定の仕事だった。
「僕だって、寒いのが平気というわけではないんだけどね」
 そんな仕事を三百六十五日、雨の日も、風の日も繰り返している打刀は、一部の刀から鬼だ、との評価を受けていた。
 けれど彼だって、好き好んでやっているわけではない。ほかに引き受けてくれる刀があるなら、喜んで引退を表明するつもりでいた。
 ところがもうじき五度目の冬を迎えようとしているのに、未だ後釜が現れなかった。
「まったく」
 今朝も謙信景光がなかなか起きてこなくて、迎えに行こうとしたら、小豆長光が代わりに現れた。本来は許されないことなのだが、時間も差し迫っていたので、やむを得ず承諾した。
 お蔭で今朝の卵焼きは、普段以上に甘かった。短刀たちからは好評だったが、これが毎日続くとなると、虫歯になる刀が現れそうだ。
「いや、さすがにそれは……おや?」
 そもそも刀剣男士は、虫歯になるのだろうか。
 ふと湧いた疑問に首を傾げていたら、視界の端に動くものがあった。
 本丸の南側に作られた庭園の、茶室に至るまでの細い道。
 この一帯は綺麗に掃かれて、落ち葉は疎らだ。苔の濃い緑色に、所々散らばる赤いもみじ葉が鮮やかで、先ほどまで彼が居た場所とはまた違う趣があった。
 その片隅に、蹲る影があった。打刀に背を向ける格好で屈んでおり、訪問者があるとは気付いていない様子だった。
 膝元に笊を置き、膝が汚れ、または濡れるのも構わず、せっせとなにかを集めている。慎重に近付き、その手元を覗き込めば、拾っているのは風に飛ばされて来たであろう芥や、枯れ落ち葉だった。
「熱心だねえ」
「はい? ……おや、あなたは……」
 一心不乱に取り組んでいるので、邪魔をするのは悪いかと思った。しかしうっかり声に出してしまい、振り返った江雪左文字には苦笑しきりだった。
 申し訳なさに首を竦めれば、手を休めた太刀が手の甲で頬の汗を拭った。土汚れが移り、焦げ茶色の筋が走ったが、当の刀はまるで意に介さなかった。
 長い髪をひとつに束ね、更に手拭いで頭全体を包み込んでいた。いつもの作務衣姿に素足で、見ている方が寒さを覚える格好だった。
 指先も、足先も、すっかり赤く染まっていた。
「その、平気なのかい?」
「……ああ、いえ。はぁ……今は、……そう、ですね……」
 庭掃除に取り組んでいる間は、周囲のことなど気にならなかったようだ。しかし歌仙兼定の登場で集中力が途切れて、晩秋の寒さを思い出したらしい。
 困った風に眉を寄せられて、歌仙兼定は脱力して肩を落とした。邪魔をした侘びも兼ねて、懐に潜ませていた手拭いを取り出し、中腰の太刀に差し出した。
「ほどほどにするんだよ」
 半ば押しつける格好で握らせて、釘を刺す。
 受け取った刀は少し困ったような、面映ゆい表情を浮かべ、小さく頭を下げた。
「お借り致します」
 些かのんびり過ぎる、ゆっくりとした口調で礼を言われた。
 早口で短気な刀などは、彼と会話していると、調子を崩されがちだ。歌仙兼定も微妙にその傾向がある。しかしこの太刀に、もっと早く喋れと言ったところで、一切が無駄だった。
 この四年あまり、江雪左文字だって耳に胼胝が出来るくらい言われ続けて来ただろう。それでも改まらないのだから、この先も変わることはない。
 修行に出たことで、考え方や、その方向性に変化が現れた刀は何振りも存在した。だがそれだって結局のところ、詭弁を弄して隠していた本質を露わにしたり、己と向き合うことで本来の姿を取り戻しただけ、というのが実情だ。
「それは、そうと。……歌仙殿」
「なんだい?」
 渡された手拭いを頬に押し当てた太刀が、なにかを思い出した風に、話を切り出す。
 立ち去るつもりで居た打刀は思いがけず引き留められ、怪訝な顔で首を傾げた。
 続きを待ち、江雪左文字の顔をじっと見詰めるけれど、なかなか次が出てこない。
「江雪殿?」
 しばらくは耐えたが、限度というものがある。痺れを切らして呼びかければ、彼は嗚呼、という風に頷いた。
「いいえ、……はい」
「うん?」
 なにやら含みのある表情で呟かれたが、さっぱり意味が分からない。益々眉を顰めて首を前に伸ばしたら、江雪左文字が不意に口元を手で覆い隠した。
 どうやら笑ったらしい。彼にしては珍しい動作だが、なにが面白いのか、歌仙兼定には皆目見当が付かなかった。
「その、……なんだい?」
 自身に何か奇妙なことでもあったかと、不安になる。
 答え合わせを求めて声を高くすれば、江雪左文字は残る手を横に振り、屋敷の西側を指差した。
「歌仙殿は、大層、……風流でおられるので。どうぞ……お小夜は、今ならば、おそらく。厩の方かと」
 本丸では複数の馬を飼育している。どれも戦場で共に戦う、貴重な戦力だった。
 だからなのか、その世話も刀剣男士の仕事だった。厩舎の掃除は臭くて、重労働なので人気がないが、中には好んでやりたがる刀も、少数ながら存在した。
 歌仙兼定は最近でこそ慣れたものの、当初は嫌で、嫌で仕方が無かった。話に出て来た短刀も、動物に嫌われるからと、あまりやりたがらなかった。
 ただその、江雪左文字の弟刀に当たる短刀の名が、ここで出た理由が分からない。
「お小夜が、え? なんだい、急に」
「ふふ」
 確かに小夜左文字とは親しくしているけれど、突然言われると驚いてしまう。
 脈絡なく登場した名に面食らったが、江雪左文字は笑う一方で、なにも教えてくれなかった。そのまま話を一方的に切り上げ、庭掃除に戻ってしまって、しつこく追求するのも難しかった。
 言うだけ言って、放り出された。
 無責任な真似はしない太刀だと思っていたが、ほんの少し評価が変わった。眉を顰めて喉の奥で唸り、、歌仙兼定は疑問符を生やしたまま歩き出した。
 だが数歩といかぬうちに、頭は早々に切り替わった。
 分からないものに、いつまでも固執し続けるのは、健康に悪い。太刀も深い意味があったわけではなかろうと、希望的観測から結論づけて、調子を取り戻し、屋敷に向かうべく足を進めた。
 だが気がつけば、道が僅かに逸れていた。
 広々とした母家の玄関前を素通りしかけて、彼は丸めた拳を喉に押しつけた。
「ん、んっ」
 爪先は、厩舎を向いていた。
 間違っても、江雪左文字に言われたからではない。咳払いしつつ、必死にそう自分に言い聞かせて、方向を修正すべく大股で一歩を踏み出す直前だった。
「なにやってるの、歌仙さん」
 ひと振りきりだというのに、やけに大袈裟な身振りを見られた。
 よりにもよって好奇心旺盛な短刀に見つかって、打刀は反射的に身を竦ませた。
 ビクッと肩を震わせて、振り返って存在を確認する。相手が誰なのかは、声を聞いた時点で分かっていたが、視界に飛び込んできたのはそのひと振りだけではなかった。
 ぞろぞろと、万屋帰りなのだろう、複数が連れ立っていた。
 粟田口の短刀が、乱藤四郎を筆頭に、全部で三振り。そこにまだ新参者の部類に入る刀が大小ふた振り、混じっていた。
「おや、お出かけかい?」
「んなわけねーだろ。もうじき日が暮れちまう」
 保護者のように見える眼鏡の打刀が率直な感想を述べて、即座に隣に居た脇差が否定の言葉を口走った。
 実際、日は西に大きく傾き始めていた。日没までそう時間は掛からず、そうなったら空が暗くなるのは一瞬だった。
 これから外出していては、夕食までに戻ってこられない。食事はいつだって争奪戦で、早い者勝ちだから、下手を打つと食べるものがなにも残っていない、という事態になりかねなかった。
 そんな馬鹿な真似を、初期刀である歌仙兼定がするはずがない。
 的外れなことを言った南海太郎朝尊は、肥前忠広の冷静な合いの手に成る程、と深く頷いた。西の空を仰いで神妙な顔つきを作り、それから歌仙兼定に向き直って二度、三度と素早く瞬きを連続させた。
「おやあ?」
「っていうか、あんたさ。その頭」
 ふた振り同時になにかに気付き、肥前忠広が歌仙兼定を右人差し指で指し示した。
「頭?」
「あーっ!」
「わああああ!」
「――ぐわ、いってえ。何しやがる、くそっ」
「なんだい、なんだい? 急に。どうしたんだい?」
 直後に三者三様の叫び声が飛び交って、打刀は目をぱちくりさせた。
 頭上にやろうとした手を引っ込め、突然片足立ちで跳ね出した脇差に絶句する。隣で南海太郎朝尊が興味津々に肥前忠広を覗き込むが、周囲にいた短刀は素知らぬ顔を決め込んでいた。
 だが彼らが脇差の足を、思い切り踏みつけたのは、間違いない。
 いったいぜんたい、どうしたのか。
 訳が分からず混乱していたら、直前の荒っぽい行動などなかったかのように、澄まし顔の乱藤四郎が可愛らしく小首を傾げた。
「歌仙さんは、今日も、とっても風流だよね」
「ですねー」
「ねー?」
 両手は後ろに回して、腰の辺りで結び、上半身を前方に突き出しながら早口で捲し立てた。一緒に前に出た秋田藤四郎が相槌を打って、最後はふた振り同時に声を上げた。
 残る五虎退は慌てふためき、おろおろしていた。やり場のない手を空中に彷徨わせ、地面に座り込んだ肥前忠広を気にしつつ、兄弟刀に加勢すべきか悩んで、ひたすら右往左往していた。
「おい、てめえら。ふざけんじゃねえぞ」
「こらこら、肥前君。そういう荒っぽい言葉遣いは、よくないんじゃないかな」
「いきなり足踏まれて、黙ってろってのかよ。先生は」
 後方では脇差が怒鳴り散らし、打刀がまたも的外れなことを指摘した。それで肥前忠広の怒りの矛先が変わって、罵声を背中で受けていた短刀達は小さく舌を出した。
 歌仙兼定は蚊帳の外に捨て置かれ、状況が理解出来ない。
 呆気に取られていたら、乱藤四郎が更に半歩、近付いて来た。
「ねえ、歌仙さん。小夜さ、まだ馬小屋だと思うし。夕飯もうじきだから、呼んで来てあげたら?」
「そうです。それがいいです。五虎退も、そう思いますよね?」
「えええ? え、えと、……はい……」
 勢い良く捲し立てて、秋田藤四郎が追随した。突然話を振られた五虎退は戸惑いながらも頷いて、最後にくすっ、と控えめに笑った。
 兄弟刀に振り回されて、話を合わせただけではないらしい。
「てめえら、後で覚えてろよ!」
 負け惜しみで肥前忠広が叫ぶものの、誰も聞いていなかった。歌仙兼定は一瞬だけ彼を見たが、近付くのは、一列になった短刀たちに阻まれた。
 脇差がああなる直前、なにか言われたが、もう思い出せない。
 その後の事が強烈過ぎて、記憶が吹き飛んでしまっていた。厩へ行くよう、三振りから促されて、打刀は不承不承に頷いた。
「分かったよ、分かった。お小夜を呼んでくれば良いんだろう?」
 あまりのしつこさに、逆らうのも馬鹿らしくなった。
 降参だと両手を掲げ、若干投げやり気味に言う。すると乱藤四郎を筆頭に、早くから本丸に顕現していた刀たちが、揃って笑顔になった。
「そうそう。分かればよろしい」
「急いでくださいね。あ、でも、走らないでくださいね!」
「いってらっしゃい~」
 各々勝手な事を言って、完全に見送る体勢だ。元気よく手を振られて、歌仙兼定はさっぱり分からない、と首を捻った。
 先ほども、江雪左文字から小夜左文字の名前が出た。
 前触れもなく、唐突だった。それが二度も続いて、頭上の疑問符は増える一方だった。
 いったい小夜左文字に、なにがあると言うのだろう。分からないまま早足で厩への道を急げば、次第に特徴ある獣臭が強くなっていった。
 最初のうちは数頭だった馬も、今では十頭を越えている。それらを順番に馬場に放し、厩舎を掃除して、餌や水を補充して、となると、ほぼ一日仕事だった。
 手際が悪いと、夜になっても終わらない。また庭掃除に拘る江雪左文字のように、凝り出してもきりがないので、適当なところで諦めるのが肝心だった。
 しかしそれが巧く出来ない性分の刀が、中には存在する。
 これから会いに行く刀にも、そんなところがあった。
 直接馬の面倒を見るのは苦手だからと、間接的な部分で関わろうとした。厩舎の隅々まで、丁寧に掃除するのを心がけている短刀だった。
 その心意気や、感心するしかない。けれど時間を費やしすぎて、食事の時間を忘れるのはいただけなかった。
 だから彼を呼びに行くのに、別段不満はない。そうしてやった方が良いのは、歌仙兼定自身も重々承知していた。
「お小夜。お小夜? いるかい?」
 ただやはり、多くの仲間が口を揃え、彼の名前を口にしたのが引っかかった。
 まるで彼のところに行くよう、誘導されているように感じた。否、江雪左文字は微妙だったが、乱藤四郎たちは露骨にそうだった。
 小夜左文字に会えば、疑問は解決するだろうか。
 薄暗い厩の入り口から中を覗き込み、呼びかける。口元に手を添え、腹の底から声を響かせれば、ほんの少し間を置いて、奥から反応があった。
「歌仙ですか?」
「そうだよ。僕だよ」
 訝られて、不必要に声が大きくなった。無駄に強く主張して、聞こえて来たなにかを引きずる音に眉を顰めた。
 現れた小夜左文字は、重そうな三つ叉の鋤を手にしていた。本丸で共有している道具だが、彼の体格にはあまりにも不釣り合いだった。
 遠い昔にもっと小さなものを用意するよう掛け合ったが、予算の都合で見送られて、そのままになっていた。
 今になって思い出したが、ここで切り出す話題でもないだろう。
「んっ」
 喉の奥で咳をして、素早く頭を切り替える。ひと言、夕餉の時間が迫っている旨を告げようと意気込んで、緊張気味に表情を引き締めた。
 そんな歌仙兼定を見上げて、小柄な少年が猫のような目を眇めた。
「歌仙?」
「なんだい?」
「いえ、ああ、ええと……。そうですね。庭は、綺麗でしたか?」
 なにかに気付いたように数回瞬きして、訊き返されて言葉を濁した。一度遠くを見た後、視線を戻し、急に声を高くした。
 唐突な話題の振り方に、打刀は首筋に刃を突きつけられたような感覚に陥った。ぴくっとほんの少し肩を跳ね上げて、何故、と驚愕して息を呑んだ。
 小夜左文字は明らかに、直前まで馬当番の仕事に明け暮れていた。暇を持て余した打刀がどこで、なにをしていたかなど、微塵も頭になかっただろう。
 だというのに、歌仙兼定の行動を言い当てた。こちらは何も言っていないというのに、だ。
 言葉を失い、立ち尽くしていたら、沈黙を嫌った短刀が三叉の鋤を壁に立てかけた。水の入らない桶をその近くに押しやって、雑多に散らばっていたものを一箇所に集めた。
「お小夜」
「少し、屈んでくれますか。歌仙」
 気忙しく動き回る彼に、途方に暮れていたら、肩越しに振り返って頼まれた。逆らう理由もなく、素直に従えば、両手の汚れを内番着に擦りつけ、小夜左文字が目を細めてはにかんだ。
 膝を折って屈んだ男の前に進み出て、困惑する眼差しを真っ直ぐ見返し、頷いた。
「風流が、くっついてます」
 そうしてひと言囁いて、藤色の髪に手を伸ばした。
 獣臭が僅かに残る指で、歌仙兼定の右耳近くに触れた。カサ、と乾いた音を微かに残して、すぐに引っ込めた。
 その細く、水仕事で荒れた指先に抓まれていたのは。
「もみじ」
 赤子の手とも評される、真っ赤に染まったもみじ葉だった。
 端から端まで美しく朱色に染まり、五つに割れた先端はどれも欠けていなかった。均整の取れた姿を保ち、小夜左文字の掌中に収まっていた。
 いつ、どこで貼り付いたのか、皆目見当が付かない。
 反射的にそれがあった場所に手を置いて、歌仙兼定はハッ、と背筋を伸ばした。
 肥前忠広に言われた言葉が、急に脳裏に蘇った。
 秋田藤四郎が別れ際、急げと言いつつ、走らないように忠告したのを思い出した。
 江雪左文字の意味ありげな表情が、瞼に浮かび上がった。
 乱藤四郎が脇差の足を踏んででも、言わせなかった理由が、ようやく明らかになった。
 あの時からずっと、打刀は髪にもみじの葉を貼り付けていたのだ。そして誰ひと振りとして、これを教えてくれなかった。
 代わりに古くから本丸にある刀は、揃ってある刀の名前を告げた。
 小夜左文字の元に行け、と。
「……そういう、こと、か」
 長らく疑問だったものが、解決を見た。謎に対する答えが、ストンと音を立てて在るべき場所に収まった。
 もし江雪左文字に、もみじが髪についていると言われていたら。
 肥前忠広に指摘されていたら。
 果たして歌仙兼定は、巧く取り繕えただろうか。
 落ち葉の存在に一切気付いていなかった現実を、すんなり受け入れられただろうか。無様な言い訳に終始し、羞恥から更なる醜態を招きはしなかったか。
「秋も、終わりですね」
「そうだね。……本当に」
 茜色に染まった木の葉を手に、小夜左文字がしんみりしながら呟いた。
 小声で相槌を打って、打刀は深く頷いた。厩舎に設けられた小さな窓を仰ぎ、じわじわ色を変えつつある空に目を細めた。
「さあ、お小夜。夕餉の時間が近い。戻ろうか」
「ああ、そうですね。そうでした」
「おっと、その前に。お小夜、それを」
「これですか?」
 当初の目的を思い出し、屋敷へ戻ろうと短刀を促す。
 小夜左文字はあらかじめ分かっていたのか、すんなり承諾し、続けて言われて小首を傾げた。
 指し示されたもみじ葉を、顔の高さに掲げた。ほんの数分前まで歌仙兼定の髪を彩っていたそれを引き取って、打刀は不思議そうにする少年に相好を崩した。
 ゆっくり手を伸ばし、高い位置で括られた藍色の髪の根元に、もみじの葉柄を差し込む。
 途中で折れそうになったが、指で押さえて補強して、ぐ、ぐ、と強く捩じ込んだ。最中に握りつぶしかけて、一部折れ目がついてしまったが、そこはご愛敬としか言いようがなかった。
「風流の、お裾分けだ」
 夕焼け色の髪に、沈み行く太陽の色が紛れ込んだ。
 くっきりと浮かび上がる彩に満足げな顔をすれば、頭上に手をやった少年が何をされたか悟り、呆れ混じりに微笑んだ。
「秋が、終わりますね」
 先ほどと殆ど同じ――しかし微妙に趣を異にする口調で告げて、目尻を下げた。
「さあ、行こうか」
 そんな彼に手を差し伸べて、歌仙兼定は静かに立ち上がった。

2019/12/01 脱稿

秋暮るゝ月並分かぬ山賤の 心うらやむ今日の夕暮
山家集 秋 489