かきくらす 空の時雨は しぐれかは

 断末魔の叫びを上げ、人の背丈をゆうに超える魔獣の体躯が大きく震えた。
 天を仰ぎ、牙を剥く。まだ襲って来るかと警戒し、息を殺して身構えた立香の前で、それはゆっくり倒れていった。
 ふらふらと左右に踊ったかと思えば、右に重心を傾け、そのままばったりと。太い四本の足がピクピク痙攣していたが、それもしばらくすると薄らいでいった。
「マスター、ご無事ですか」
 そんな毛むくじゃらのモンスターの脇から、ひょっこり、銀の頭髪が現れた。
 少し前まで死闘を繰り広げていたというのに、涼しい顔をしている。余裕すら感じられて、それで立香は我に返った。
「あ、ああ。うん。大丈夫」
 はっ、と息を吐き、強張っていた筋肉を弛緩させた。
 安堵感が押し寄せて、全身の力が抜ける。膝が笑い、崩れそうになったのを、必死に堪えた。
 そんな懸命の努力が報われたのか、サンソンには気付かれなかった。彼は黒いコートを翻し、素早く刈りとった魔獣の毛を手土産に、ゆっくりこちらに戻って来た。
 胸に手を当て、背筋を伸ばし、立香がそれを出迎える。
 今回の目的であった素材を受け取ろうと、両手を広げ、伸ばした瞬間。
「失礼」
「へわっ」
 短く呟いた男が、素早く身体を捻り、立香の横から腕を繰り出した。
 腋の下から手を入れ、首の後ろに通し、反対側の肩を掴んで引き寄せた。
 流れるようにスムーズに、肩を支えられた。頼んでもないのに倒れないようしっかりと抱えられて、立香はかあっと顔を赤くした。
「おぉ……じぇんとるめん……」
 悟られないよう上手く隠し通せたつもりだったのに、看破されていた。
 どこでボロが出たのか考えるが、全く思いつかなかった。
「お褒めいただき、光栄です」
 横ではサンソンが、しれっとした顔で笑っている。その落ち着き払った態度に頬を引き攣らせ、立香は小さく首を振った。
 流石は医者をやっていただけの事はある、ということか。処刑人としての面が強い彼だけれど、だからこそ人体の構造に詳しく、一寸した変化も見抜けるのだろう。
 数奇な境遇を有する英霊は多数在るが、サンソンもそのひとりと言えた。改めて彼の辿った道筋を振り返り、横顔を眺めていたら、突き刺さる視線を嫌った男が目を細めた。
「なんでしょう、マスター」
 帰還の号令はまだかと、照れ気味の視線が告げている。
 嗚呼、とうっかり忘れかけていた事を思い出し、立香は頬を緩めた。
「ムッシュ・ド・パリって、なんか、美味しそうだよね」
「はい?」
 だがその唇は、およそ誰ひとりとして想像していなかった言葉を発していた。
 カルデアとの通信を繋ごうとしたはずなのに、まるで異なる内容を口ずさんでいた。呟いた本人ですら予想していなかった状況に、立香は目をぱちくりさせた。
「あれ?」
 今喋ったのは本当に自分かと、あろうことかサンソンに訊ねて、首を捻る。
 不思議そうに瞬きする彼を見詰めて、世界でも有数の知名度を誇る死刑執行人は肩を落とした。
 盛大にため息を吐き、目を逸らし、項垂れて。
「もしや空腹ですか、マスターは」
「いやあ、あはははは。分かる?」
「貴方との付き合いも、それなりに長くなっていますから。しかし、ブッシュ・ド・ノエルの親戚のような扱いを受けようとは」
「……ごめん」
「いえ、責めているわけでは」
 サラサラと短い銀髪を風に靡かせながら微笑まれ、立香は恐縮して、首を竦めた。
 語感からの類推だったのと、そもそもの発端となった食べ物まで正確に当てられて、恥じ入るしかない。そこまで分かり易い人間だろうかと、自分を振り返りつつ頬を掻いて、その手で男の脇腹辺りをぽんぽん、と叩いた。
 もう支えなしでも大丈夫、との合図だったのだが、伝わらなかった。
 相変わらずサンソンの腕は立香の肩に回され、がっしり固定していた。
「サンソン?」
「フランスに馴染みが薄い貴方だからこその、発想、……なのでしょうね。もし、よろしければ、ですが。マスターの思い描く、ムッシュ・ド・パリとは、どのようなものでしょう」
「えええ~……まだ引き摺るの、それ」
「ええ、はい。是非に」
 感想を聞かせてくれるよう、至近距離から懇願されて、立香は心の中で後退した。
 コメントを求められたが、そもそも、深い考えがあっての発言ではない。思考が脳を通らなかったような、突発的、且つ偶発的な事故のようなものだ。
 それなのに食いつかれ、食い下がられた。
 サンソンとしては珍しい反応でもあって、立香は仕方なしに彼を見詰め返した。
 口を真一文字に結び、への字に曲げて、鼻から息を吐き、吸い込んで。
「んー……」
 自由が利く範囲で首を捻り、眉を顰め、半眼した。
 最初に思い浮かんだのは、赤だった。
 鮮やかな、緋。それは血の色であり、炎であり、熱であり、命でもある色。
「……マスター」
「真っ赤な、ケーキ。かな」
「ガトー?」
「ん」
 長く黙り込まれて、訝しんだサンソンが軽く身体を揺さぶった。
 それに触発されて口を開いた立香は、訊き返されて、小さく頷いた。
「赤い、ケーキ。甘くて、良い匂いがして、美味しくて」
 艶やかで、鮮やかで、滑らかで、しっとりしていて。
 それはもう、頬が落ちるくらいに甘美で。たったひとくちだけでも、天にも昇るほどの幸福感が得られるような。
「それを食べたら、もう、死んでも後悔ないって、思えるくらいの」
 思い浮かべるだけで涎が出て、涙まで溢れそうになる。それを懸命に押し留め、満面の笑みを浮かべて、囁く。
 黙って聞いていたサンソンは、途中から目を見開き、表情を険しくした。深く息を吸い、全身の毛を逆立てて、怒りにも似た感情を露わにした直後、すうっと何処かへ掻き消した。
 喉の奥で唸っていたのが、静かになった。
 その上で祈るように目を閉じ、顔を伏し、立香の肩に擦り寄った。
「よろしく、サンソン」
「いやです。嫌です。どうして、貴方は、僕に、そんなことを」
「アスクレピオスも、ナイチンゲールも、何があってもオレを助けようとするから。ごめんね」
「マスター!」
 俯く彼の頭を撫でての哀願を振り切り、サンソンは声を荒らげた。
 優しい手を払い除け、唾を飛ばして叫んだ。直後にハッとなって、気まずそうに顔を歪めた。
 歯を食い縛り、憤怒に耐えているのが良く分かる。
 それでも立香は彼に向け、控えめに微笑み続けた。
「……酷い人です」
 やがてサンソンが、ぽつりと、心からの感想を述べた。
 気持ちの整理が付いたのか、それとも無理矢理押し殺したのかは分からない。顔を上げた彼はいつも通りの涼やかな表情で、直前に垣間見た激情は、綺麗さっぱり失われていた。
 続けて彼は腕を下ろし、立香を解放した。靴底で地面を削り、正面に立って、恭しく一礼した。
「僕は貴方のサーヴァントとして、貴方の刃になると誓いました。地獄の底であろうと、天の果てであろうと、……良いでしょう。お付き合いしましょう」
 場所が場所なら、膝を折って恭順の意を示していたに違いない。
 ここが屋外で良かったと、密かに安堵して、立香は目尻を下げた。
「うん。ありがとう」
 謝意を伝え、今度こそカルデアとの通信を開いた。無事に目的が達成された旨を報告し、これから帰還すると早口に告げれば、端末からはマシュの喜ぶ声が聞こえて来た。
「マスター」
「なに?」
「いえ、大した事ではありませんが。戻ったら、マリーたちも誘って、お茶を一緒に。いかがでしょう」
 レイシフトに際しての注意事項が繰り返される中、サンソンがそっと耳打ちしてくる。
「良いね、それ。そうしよう」
 音を拾われないよう配慮しての小声に、思ったよりも大きな声で反応してしまい、慌てて口を塞ぐが後の祭り。
 左手で顔を覆った立香を眺め、マスターにはとことん甘いムッシュ・ド・パリは、嬉しそうに目を眇めた。

かきくらす空の時雨はしぐれかは 身より余れる夜はの涙を
風葉和歌集 1137

2020/04/26 脱稿

忘るるを 驚かすには あらねども

 目映い照明が闇夜を照らし、まるで昼間のようだった。
 建物の屋上や壁面に設置されたネオンサインは、各々が自分を見ろ、と言わんばかりに強烈な光を放っていた。白だけでなく、赤や、黄色、緑といった様々な彩色が施され、文字だけでなく、図柄を表現しているものもあった。
 それぞれに特色があり、設置者の個性が存分に発揮されている。
 どれもこれも悪趣味で、長時間眺めていると網膜を焼かれるどころか、理性まで吹き飛びそうだった。
「気分が悪いな」
 堪らず悪態を吐けば、聞こえたのだろう、斜め後ろを歩いていたマスターが小さく吹き出した。
「好みじゃない?」
「ああ」
 彼が足を止めたので、アスクレピオスも立ち止まった。肩越しに振り返り、周囲を警戒しつつ頷けば、いつもと異なる服装の青年が白い歯を覗かせた。
 レイシフト先の世界観に合わせて、医神もまた、出で立ちを変えていた。いつ、どこで敵に襲われるか分かったものではない。その敵の正体も掴めていない状態だから、尚更目立つわけにはいかなかった。
 もっとも、黒を基調とした衣装なのは変わらない。裾の長いコートに、折り目正しい黒のスラックスと、良く磨かれた光沢のある革靴。中は黒のタートルネックで、口元は黒のマスクで覆われていた。
 裏道に入れば闇と同化出来そうな彼に肩を竦め、白のパーカーに紺のジーンズとスニーカー姿のマスターは目を細めた。
「似合ってるのに」
 口を窄めての、小声での感想は、アスクレピオスの頭の中にあったものとは違っていた。
 そちらの方か、とすぐさま思考を切り替えて、怪しい薬が出回っているという繁華街を見回した。最後にコートのポケットから右手を引き抜いて、手首をゆらゆら揺らした。
 指先を隠す布はなく、爪の一本一本までが人工の光を浴び、艶めいていた。
「動き辛い」
「……いつものの方が、動き難そうなんだけどな?」
「慣れの問題だ」
「じゃあ、慣れよう。格好良いよ」
 舌打ちして、吐き捨てたアスクレピオスに詰め寄って、藤丸立香は両手を後ろに回した。前のめりの体勢から伸び上がり、更に距離を詰めて、斜め下から覗き込むように囁いた。
 最後にふふ、と鼻から息を漏らして笑い、相好を崩す。
 冗談なのか、本気で言っているのか掴めなくて、アスクレピオスは眉を顰めた。
「さっさと行くぞ。情報提供者とやらが、待っているんだろう」
「おっと」
 そのまま腕を絡め取ろうとするのを察知し、寸前で避けた。バランスを崩した立香は二歩、三歩とよろめいて、ぶすっと頬を膨らませた。
 思い通りに行かなかったのが、気に入らないらしい。
 これが人類最後のマスターであり、人理修復の偉業を成し遂げた男なのか。カルデアに蓄積された様々なデータからは想像出来ない青年に嘆息して、アスクレピオスは右手をポケットに押し込んだ。
 その際さりげなく、肘を外向きに、三角形になるよう広げてやれば、直前まで膨れ面だった立香の目が、ぱあっと輝いた。
「えへへ。いただき」
「歩き難い」
「文句ばっかり」
「そもそも、どうして僕が護衛なんだ。荒事専門は、他にもいるだろう」
「荒事専門だから、だよ。情報収集で、騒動は避けたいじゃない?」
 すかさず飛びついて、当たり前のように腕を回された。簡単には放すまいと、力を込めてしがみつかれた。
 これではいざという時、突き飛ばしてでも退避させるのが難しくなる。
 こうなるよう仕向けた訳だが、早くも後悔しているアスクレピオスに対し、マスターはどこまでも楽しそうだった。
 目に毒なネオンカラーが蔓延る街中でも、表情は曇らない。むしろ逆で、嬉しげだった。
 ふと、データの中に見た、彼の生まれ故郷の情報が脳裏を過ぎった。
「懐かしいのか」
「ん? ああ、ちょっとね。だいぶ違うけど、似てるところもあるから」
 すぐ真横に来た頭に問いかければ、一瞬きょとんとなったマスターがはにかんだ。
 改めて左右と、頭上に目を向けて、遠い星空に頬を緩めた。湿った、様々な臭いが混じった空気を吸い込んで、肩の力を抜き、空を蹴った。
 敵地のど真ん中かもしれないのに、気が抜けたのか、数多の英霊を率いる時とは異なる表情を覗かせた。
「……帰りたいか」
 それが寥廓なる空の下、ひとり置き去りにされた子供のように思えてならず、気がつけば問うていた。
 告げてからはっとなったアスクレピオスに、立香は目をパチパチさせた。素早く瞬きを繰り返し、何かを言いかけ、唇を痙攣させた。
 しかし音は紡がれなかった。
 沈黙が場を支配する。
 大通りに佇む彼らの横を、名も知らない誰かが通り過ぎて行った。
 喧噪は止まない。人の流れが滞ることはない。そんな中で、誰も彼も、ふたりを見ない。黒ずくめに銀髪の男と、黒髪に軽装の青年に見向きもせず、注意を払いもしない。
 こんなにも賑やかで、ネオンサインも明るいのに。
 この場所は、どうしようもなく孤独だ。
「帰らないよ」
 やがて、どれだけの時間が過ぎた頃だろう。
 立香がぽつりと、呟いた。
 控えめに微笑んで、無理矢理口角を持ち上げて。
「まだ、やらなきゃいけないことがあるから」
 帰れない、ではなく。
 帰らない。
 一時の郷愁に心揺さぶられたとしても、決意は変わらない。
 約束をしたから。後を託されたから。任されたから。
 全部背負って生きていくと、彼は自分で、自分の為に、決めたのだ。
「そうか」
 その想いを蔑ろにするなど、いかなる英霊であっても、許されない。
 マスターの意志は絶対だ。ならば彼の願いを叶えるために、全力で挑むしかあるまい。
「厄介だな」
 口の中で不満とも、歓喜とも取れない感情を噛み潰していたら、急に調子に乗った立香が声を高くした。
「それにさあ。オレがいなくなったら、アスクレピオスが寂しいでしょー?」
「……ム」
 呵々と笑い、不遜な表情で覗き込んで来た。
 にやにやと、嫌らしい顔つきだ。絡めた腕ごと横から体当たりされて、耐えたアスクレピオスは深々と溜め息をついた。
「いいや。こんな愚患者から解放されるのかと思うと、いっそ清々する」
「ひどい。こんなに愛してるのに!」
 うんざりしながら言えば、突如、およそ洒落にならないことを大声で喚かれた。
 無関心だった通行人や、霊体化して警戒に当たっていた他の英霊までもがザワッとなるのが分かって、背中に冷たいものが流れていく。
「何を言い出すんだ。お前は!」
 反射的に怒鳴り返せば、立香がしてやったり、と不敵に笑った。にんまり、という表現がぴったりくる顔を見せられて、アスクレピオスは総毛立った。
 もう一度、叱り飛ばしたいところだが、これ以上衆目を集めるのは避けたい。
「行くぞ。遅れるわけにはいかないんだろう」
「はあ~い」
 調子が狂わされた。言いたい事の半分も言えなかったし、なにも聞けなかった。
 急かし、人混みを抜け、先導するアスクレピオスに立香は暢気に頷いた。歩調を合わせ、転ばないようにしながら、離れないよう腕の力だけは緩めずに。
「まったく。どこまで厄介な患者なんだ」
 彼の治療は、長丁場になりそうだ。
 嘆息と同時に肩を竦めたアスクレピオスの言葉に頷いて、立香が甘えるように、その肩に寄りかかる。
 そんな彼らを暗がりから守るように、ネオンサインが煌々と輝いた。

2020/04/19 脱稿

忘るるを驚かすにはあらねども 夕べの空はえこそ忍ばね
風葉和歌集 1417

たとえば、ある夜の出来事として

 夜中だった。
 目が覚めた、というよりはずっと起きていた。眠れなかったのだ。
 寝支度すら済ませていなかった。興味深いデータをいくつか発見してしまい、読み耽っているうちに、ベッドに入るタイミングを失ったようなものだ。
 しかしさすがに、根を詰めすぎたらしい。
「ああ……」
 短く息を吐き、キリシュタリアは背筋を伸ばした。
 手袋をした指で眉間の皺を解し、疲労を訴える眼球を慰めた。座ったまま数回深呼吸を繰り返して、わざわざ印刷してもらった資料の表面を撫でた。
 カルデアはどこもかしこも機械化されており、情報の閲覧も、基本的にモニターの上でだ。だけれどキリシュタリアにとっては、眩しい光を放つ画面よりも、白くさらさらした紙に印刷された文字の方が、よほど親しみ易かった。
 それにこちらの方が、知識を吸収しているという実感が、より強く得られた。 
 この天文台は、どうしてここまで無愛想で、無機質な環境を整えたのだろう。
 到底理解の及ばない男の顔を思い浮かべて、彼は椅子を引き、立ち上がった。
 寝食を共にする仲間の多くは、もう夢の中のはずだ。キリシュタリアもこの後はシャワーを軽く浴びて、寝床に入るつもりだった。
 だが長時間読書に集中していたからか、小腹が空いた。喉も渇いている。
「食堂に行けば、なにかあるだろうか」
 ここでの食事は広々とした空間で、上下関係の関係なく、一堂に集まって、というものだ。
 けれどキリシュタリアは、その出自や時計塔での経歴、さらにはAチームの代表という肩書きのお陰で、他人と同席する機会はあまりなかった。
 あったとしても、Aチームの誰か、の場合が多い。付け加えるとすれば、そのチームの中でも、メンバーはほぼ固定されていた。
 カドックにヒナコは、まず近づいてこなかった。話しかけてくるのはオフェリアとペペロンチーノが殆どで、たまにデイビッドが斜向かいに座ってくれるくらいだろうか。
 今宵得た知見も、きっと彼らにしか語る機会は得られまい。
 どこに行っても、自分の周囲はこんなものだ。
 皮肉な笑みを浮かべ、彼は服の上から肩を撫でた。首を回して四肢の緊張を解し、力を抜いて、歩き出した。
 堅い音を響かせて、二十四時間明るさを保つ廊下を行く。窓の外は真っ白で、月どころか、星の光すら見当たらなかった。
「今夜は、一段と吹雪いているね」
 カルデアが建っている位置的に、仕方がないこととはいえ、空が見えないのは少し寂しい。
 鳥の囀りさえ聞こえない環境に在るのを改めて自覚して、彼は小さく首を振った。
 コップ一杯の水をもらって、早く休もう。こんな時間ではあるが、食堂は開いているはずだ。
 交代で働いている職員たちに、心の中で賞賛を送って、吹雪く世界を映し出す窓から視線を外した。
「おや?」
 その彼の前方に、左右を窺いながら進む背中があった。
 Aチームのメンバーが集まっている区画とは、別の区画から出てきたらしい。小走りに進む姿には、辛うじて見覚えがあった。
「あれは、たしか」
 ひとつの目的のために各地から集められた、優秀な魔術師たち。その筆頭格がキリシュタリアなのは、間違いなかった。
 けれどどういうわけか、魔術師とは到底言えない一般人までもが、カルデアに招聘されていた。
 レイシフト適正だけがずば抜けていた、という理由だけで東洋の島国から招かれた青年。
 名前を、なんと言っただろう。
「マウント・フジ、の……そう。フジ、マル」
 候補生の顔と名前、それに大体の経歴は、頭の中に入っている。なぜかマシュと一緒にいる機会が多いので、特に印象に残っていた。
 その彼が、こんな夜更けに、いったいどこに行くのだろう。
 魔術の教養が一切ないものだから、通常の訓練以外にも、様々な課題が出されているという話だ。もしやそれが辛くなって、逃げ出そうとしているのか。
「……」
 だとしたら、引き留める理由はない。本人が続けられないと言うのなら、その気持ちを尊重すべきだ。
 貴重な人材を失うのは惜しいが、やむを得まい。
 もっとも外は極寒の世界だ。不用意に飛び出したら、命に関わる。
 正当な手続きを経なければ帰れないのは、彼だって教えられているだろうに。その行動は、あまりに軽率が過ぎた。
 追いついて忠告し、帰国の助言くらいはしてやろうと、靴音を高く響かせたキリシュタリアだが。
「おや?」
 予想に反したルートを辿る背中に、彼は小首を傾げた。
 眉を顰め、藤丸立香が消えたドアを見上げる。
 閉じたばかりの扉を開けて、足を踏み入れれば、黒髪の青年は規則正しく並べられたテーブルの間を、小走りに駆けていくところだった。
 カウンターを回り込み、無人のキッチンの内側へ潜り込んで。
 行き止まりの空間で、東洋人の青年はひとり、満面の笑みを浮かべた。
 想像していたのとはまるで異なる雰囲気に、呆気に取られて立ち尽くす。
「ん? わあ!」
「うわ」
 惚けていたら、人の気配を感じた藤丸が顔を上げ、悲鳴を上げた。
 入り口に佇むキリシュタリアを見ながら、彼は両手を高く掲げた。恐怖に染まった表情で、化け物でも見たかのような態度だった。
 甚だ失礼な反応ではあるが、向こうがこちらの存在を、全く気取っていなかったのだから当然だ。
 冷静になれば、ずいぶんと滑稽な顔を見せられたものだと、笑いがこみ上げてきた。
「こんな時間に、何をしているんだい?」
 悲観的な予測は、綺麗に外れた。
 果たして正解は何だったのかと興味を引かれ、問いかけつつ距離を詰めれば、腕を下ろした青年はきょとんと目を丸くした。
 不思議そうに見つめられて、なんだかくすぐったい。
 堪えきれずに笑みを漏らせば、はっとなった藤丸は首を竦めて赤くなった。
「帰る、よ。ごめん」
「どうして謝るんだい?」
 手にしたもので顔を隠しつつ、余所を向きながら謝罪されたが、理由が分からない。
「……怒りに来たんじゃないの?」
 率直に聞き返せば、僅かに高い声が飛んできた。
 距離を詰め、カウンターを挟んで向き合って、彼の手元を覗き込む。
 藤丸が大事に抱えていたのは、丼状の容器だった。
 蓋部分に食べ物の画像が印刷され、商品名らしき文字が周囲を埋め尽くしていたが、残念ながら読めない。
 日本語は管轄外だった。もっと勉強しておくべきだったと悔やんでいたら、姿勢を正した藤丸が照れ臭そうにはにかんだ。
「はは、なんだ。んー……君も、お腹空いたの?」
 夜中の外出と、食堂への不法侵入を咎められるわけではないと知り、安心したらしい。
 白い歯を覗かせて笑う彼に、キリシュタリアは面食らった。
「それは、なんだい?」
「はい?」
 失礼ながら、彼は料理上手には見えない。それに色鮮やかな容器も気になって、反射的に問い質せば、今度は藤丸が目を点にした。
 そうして素っ頓狂な声を上げてしばらく固まった後、何かに思い至ったらしく、嗚呼、と頷いた。
「カップラーメン。見たことない?」
「カップ……? ヌードルなら、分かるが」
「そう、それ。そのインスタント版。お湯を入れたら、すぐ出来るよ」
「湯を? これから鍋で調理するのではなく?」
「……ねえ。もしかしてオレのこと、からかってる?」
 透明なビニルで包装された容器を見せながら説明されたが、半分も分からなかった。
 終いには疑われて、キリシュタリアは慌てて首を振った。
 顎に手をやり、真剣に見つめていたら、苦笑した藤丸がカウンターの向こうから手招いた。近くで見ればいい、と仕草で告げて、保温中だったポットのボタンを押した。
 再沸騰を機械に命じた傍らで包装を破り、蓋を半分だけ開けて、中に入っていた袋をいくつか取り出した。
「こんなものが、本当に、食べられるのか?」
「ふふふ」
「藤丸?」
「あ、すごい。オレの名前、知ってたんだ。意外」
 ゴミくずのようなものが入った透明な袋を破き、丼の中にぶちまけた彼に首を捻っていたら、嬉しそうに相好を崩した。
 名前を言い当てられたくらいで、喜んでいる。ぱあっと空色の瞳が輝いたのに、キリシュタリアは眉を顰めた。
「意外? どうして」
「だって、オレなんて、補欠だし。みんなと全然違うし。全然ついていけてないし」
 問いかけに、藤丸は恐縮しながら言った。遠くを見て、やがて自嘲気味に頬を歪め、手元に視線を落とした。
 袋に残っていた小さな欠片まで取り出して、くしゃりと握り潰す。横顔からは苦悩というよりも、悔しさが感じられた。
 それこそ意外で、キリシュタリアは息を呑んだ。
「君は」
「すごいよな、ヴォーダムは。エリートなんでしょ?」
「……ヴォーダイム、だ」
「え。あ、ごめん」
 喋ろうとしたら、遮られた。こちらに何も言わせないつもりなのか、早口に捲し立てられたが、指摘すれば彼は即座に頭を下げた。
 口に手を当て、失言を恥じていた。気まずそうに目を逸らして、失敗した、と言いたげな姿だった。
 自分は正しく名前を記憶してもらえていたのに、その逆が果たせなかった。
 今度こそ怒られるのを覚悟している素振りが、逆にキリシュタリアにとって、新鮮だった。
「私の名前を間違えたのは、君が、初めてかな」
「マジで? うわあ……ほんっと、ごめん」
 千年続く名門の跡取り息子の名を正しく記憶し、呼べない人間など、時計塔にはいなかった。
 本来は怒るべきところかもしれないが、初めての経験に、不思議と心が躍るのを抑えきれなかった。
 そもそも藤丸はきちんと反省し、謝罪した。それで帳消しだと口元を綻ばせれば、猫背になった青年は額を覆ってため息を吐いた。
「ちゃんと覚えたつもりだったんだけどなあ」
「君こそ、私の名前を、覚えようとしていてくれたんだね」
「そりゃあ、嫌でも名前、聞くし。みんな、ヴォー……ダイム、は、すごい、って褒めてるし」
 次は言い間違えないように注意しつつも、自信がないのがそこだけ不自然に間を取った彼は、依然としてキリシュタリアを見ない。
 代わりにゴミを捨てて、保温に切り替わったポットに向かった。半球状の容器に熱湯を注いで、蓋をして、残っていた銀色の袋を重し代わりに蓋の上に置いた。
 ちらりと遠くを見たのは、時計を確認したのだろう。
「私は、そこまで凄い人間ではないよ」
「嘘だあ」
「本当さ。それとも君は、皆が言っていることと、私自らが告げていることと、どちらを信じるんだい?」
「それは――」
 忙しなく動く彼に目を眇め、訂正を求めて、囁く。
 意地悪だったかもしれない質問に、藤丸は口籠もり、俯いた。
 自分がエリートと呼ばれる存在であり、その評価に見合う努力をしてきた自負はある。生まれ持った才能に奢らず、あらゆる知識を追い求め、覇道と信じた道のりを歩んできた自覚はある。
 しかし。
 なにも知らない、知りもしない連中から勝手な評価を下され、レッテルを貼られるのも、癪な話だ。
「……うん。でもやっぱり、ヴォーダイムは、凄いと思う。オレにはさっぱりなことも、すぐに解けちゃうし。みんなが投げ出したくなることにも、正面向いて取り組んでるし。そういうところ、立派だと思う。オレも、見習わなくちゃね。あ、今度、分かんないところ、教えてもらってもいい?」
 重しをしてもめくれ上がろうとする蓋を手で押さえ、やがて自分の中で結論を出したらしい。藤丸は静かに、こちらを向いて微笑んだ。
 本気でそう思っているのが分かる態度に、キリシュタリアは騒然となった。
 ヴォーダイム家の跡取りに気に入られ、取り入ろうとしている訳ではない。Aチームのリーダーだからと、媚びを売っている雰囲気でもない。
 上位の人間相手だからと諂っているわけでもなく、自尊心を抑制して傅いているわけでもなく。
 ちょっと成績が良いくらいの相手、程度の認識で。彼は。
「君は」
「そうだ。ヴォーダイムも食べるよね。だったら箸がもう一個……フォークの方がいいのかな」
「藤丸」
「なに?」
 独特のペースを崩さず行動する彼を引き留めて、思いの外大きな声になったのに、自分自身で驚いて。
 立ち尽くすキリシュタリアに、藤丸は不思議そうに首を傾げた。
 自覚はなかろうが、どこか小動物じみた仕草で、目を細めて口元を緩め、次の言葉を待っている。
 これまで近づいて来た誰とも異なる反応を目の当たりにして、動悸が収まらなかった。
「……キリシュタリア、で。構わない。そう呼んでくれ」
 気がつけば、そう懇願していた。
「そう? じゃあ、キリシュタイア」
「キリシュタリア、だ」
「嘘、言えてない? ええっと……キリシュタイヤ?」
「遠ざかった。どうしてそうなるんだ。もう一度、ちゃんと」
「だから、ちょっと待ってってば」
 血を同じくする一族のひとりとしての名前ではなく、ひとりの人間としての名前で、呼ばれたい。
 生まれて初めての衝動に、突き動かされた。
「三分経ってる。伸びちゃうって」
「藤丸」
「じゃあさ。もう、キリシュ、じゃダメ?」
 急かして、何度も訂正して、焦る彼に妥協案を提示された。
 一瞬息が止まった。上目遣いに訊ねられて、即答出来なかった。
 親にすら、そんな呼び方をされたことがない。ごく一部の人間からは、そう略して呼ばれたことが数回あるが、初対面も良いところの相手からは、初めてだった。
 返答を躊躇していたら、藤丸は待つつもりがないのか、勝手に動き出した。
 蓋を引き剥がして、温められた銀の袋の封を切り、どろっとした液体を湯に注ぎ入れて。
 自分で持ち込んだらしい割り箸で掻き混ぜて、湯を吸った麺を解していく。
 湯気を放つ容器からは、先ほどまではなかった深みがあり、芳醇で、空きっ腹を刺激する匂いが溢れた。
 夕食はしっかり取ったはずだが、それでも尚、食欲をそそられる香りだった。
「本当に、食べものだったのか」
「そう言っただろ。おいしいよ」
「なにかの魔法か? 湯を入れただけだろう?」
「その冗談、キリシュが言うと笑えないなあ」
 あまりにも急激な変化に理解が追いつかず、目を丸くしていたら、笑われた。
 冗談を言っているつもりは皆目ないのだけれど、伝わらなかった。心底びっくりしていたら、取り皿とフォークを出して来た藤丸が、肩を揺らしながら容器の中身を移し替えた。
「イギリスだったっけ。カップラーメン、なかった?」
「分からない。少なくとも、テーブルに出てきたことは、一度も」
「さすがはお貴族様。じゃあ、初体験、どうぞ。あっち行こう」
 ついでに出して来た四角い盆にカップラーメンの容器と、底の浅い食器と、箸とフォークを並べ、無人のテーブルを指差す。
 迷うことなく頷いたキリシュタリアは、無意識に湧き出ていた唾液を、息と共に飲み込んだ。
 目の奥がチカチカした。
 照明が切れかけて、点滅しているわけではない。頭上を仰ぎ、確かめて、彼は左手で口元を覆い隠した。
「藤丸」
「どうしたの? 早くおいでよ。冷めちゃうよ」
 動けずにいたら、呼ばれた。整然と並べられたテーブルのひとつに移動し、椅子を引いて、藤丸は座らずにキリシュタリアを待っていた。
 謙ることもなく、臆するわけでもなく。
 彼にとって――彼が生まれ育った環境では、それは当たり前のことなのだろう。
「私は、君が……ここから、出て行くのだとばかり」
「ええー? そんなことないよ。確かに無茶苦茶大変だけど、面白いし。知らないことだらけで、楽しいよ。世界が変わった、て感じで」
 キリシュタリアが向かい側に来てから着席して、食堂に来た本当の理由を告げても、彼は怒らなかった。
 食べる前に両手を合わせ、黙礼して、それから改めて箸を手に取る。
 これまで気がつかなかったけれど、彼の所作は整っていて、綺麗だった。
「そりゃあ、オレが素人なのを笑って、馬鹿にする奴もいるよ。けど、それは本当のことだし。オレが一番下なのは、オレだって分かってる。でも、やってみなきゃわかんないし。上には行けないかもしれないけど、前になら、進めるだろ? いただきます」
 一方的に喋って、打ち切って、食前の言葉を述べて、麺を抓んで音を立てて啜る。
 突然行儀悪くされて驚いたが、丼を持ち上げてスープを飲む姿は豪快で、堂に入っていた。
 とても美味しそうで、幸せそうで、楽しそうで。
 満ち足りているようで。
「食べないの? 伸びるよ」
「ああ、いただこう」
 見入っていたら聞かれて、キリシュタリアは慌ててフォークを取った。
 だが恐る恐る麺を掬い上げ、口へ運ぼうとしたら、寸前でするりと逃げられた。
「うあちっ」
 しかも落下の衝撃で跳ね返ったスープが額で砕け、反射的に悲鳴を上げた。
「ふっ。ふは、あはははは」
 挙げ句にその瞬間を藤丸に見られて、腹を抱えて笑われた。
 恥ずかしいやら、情けないやら、悔しいやら。ともかく訳が分からない感情が一気に溢れて、止まらない。
「そんなに、笑わなくても良いじゃないか。初めてなんだ」
「ごめん、ごめんって。なんだったら、食べさせてあげようか?」
「君は私を、いくつだと思っているんだ」
「ラーメンに関しては、オレの方が先輩ってことで」
 口を尖らせて抗議すれば、軽口で応じられた。あまりにも不躾な提案で、即座に突っぱねたが、後から思えば、恥を忍んで頼んでおくべきだった。
「一度や二度の失敗くらい――――うっ」
 意気込み、再び挑戦して。
「あー、あー。もう。布巾取ってこようか?」
 今度は無事に口まで運べたが、吸い込む瞬間、麺に絡んだ汁が服や、髪や、テーブルに飛び散った。
 見かねた藤丸の提言に黙って頷き、辛うじて咥内に収まった分を咀嚼して、飲み込む。
「おいしい……」
「よかった」
 ぽろっと零れた感想に、安堵の息が重なった。
 顔を上げた先に見えたのは、久しく忘れていた、澄んだ色の空だった。
 

2020/04/18 脱稿

たとえば、ある日の出来事として

 夜中も、もう良い時間帯だった。
「よし、出来た」
 小さく呟き、カドック・ゼムルプスは椅子の上で背筋を伸ばした。両腕を頭上で組んで、ぐー、と身体を大きく反らし、ギシギシ五月蠅い椅子の抗議は無視した。
 出来上がったばかりのレポートを保存し、念のためにバックアップも作成して、パソコンの電源を切った。これで明日の提出には間に合うと、一仕事終えた安堵感から、深く息を吐いた。
「さて、と。寝るか……ん?」
 今日やるべきことは、すべて片付いた。あとは枕を高くし、朝までベッドで過ごすのみとなった。
 しかし部屋の外からなにやら騒ぐ声がして、彼は疲労感が残る肩を揺らし、眉を顰めた。
 誰かが、こんな時間にも関わらず、暴れている。しかも一人ではなく、複数だ。
 なんと迷惑な話だろう。これではゆっくり休めない。
 気付いた仲間が注意してくれるのを密かに期待したが、生憎と、その気配はなかった。
 お行儀がよく、成績優秀なオフェリア・ファムルソローネが、眠い目を擦りつつ怒鳴り散らす姿は、あまり想像できない。ベリル・ガットや芥ヒナコがしゃしゃり出てくる可能性はゼロであり、スカンジナビア・ペペロンチーノでも半々がいいところだ。
 となれば、自分が行くしかない。
 こんな時間までレポート作成に費やしていた、自分の不運を嘆きたくなった。
「ああ、くそっ」
 悪態をつき、カドックは忌ま忌ましげに机を叩いた。苛々しながら立ち上がり、渋々ドアへ向かおうと、利き足を浮かせた。
 ところが。
「カドック、カドック! 助けて!」
 今まさに開けようとしたドアが、向こうから自動的に開いた。
 それだけではない。甲高い悲鳴を上げながら、小柄ではないが、大柄とも言えない体躯が転がり込んできた。
「待つんだ、藤丸。どうしてカドックに頼むんだ」
 続けて、夜中でも上等な白コートに身を包んだ男が、息せき切らして飛び込んできた。勢い余って床に転がり、這い蹲っている青年の肩を掴んで、必死の形相で激しく揺さぶった。
 彼が動く度に、鮮やかなブロンドの髪がふわふわと宙を泳ぐ。一方で組み敷かれ、振り回されている方は黒髪で、今にも泣きそうな顔をしていた。
 どちらも、カドックには馴染み深い存在だった。
 一方は彼が所属する組織、カルデアに編成されたAチームのリーダーであり、一方は補欠扱いの人間だった。
 遥か東方の島国からやって来た、魔術師ですらない男。単にレイシフト適正が優れているから、という理由だけで招かれた、およそ場違いも良い所の一般人。
 そんな二人が夜更けに、カドックの部屋へ、一度に押し寄せてきた。
「なんなんだ……?」
 さっぱり状況が分からない。キリシュタリア・ヴォーダイムがその優秀さをやっかまれ、無能な一般人に襲われているならまだしも。
 唖然と立ち尽くすカドックに救いの手を求めてきたのは、黒髪の東洋人、藤丸立香だった。
「おい、お前ら。なんだ。なんのつもりだ」」
 廊下の照明は、時間のせいもあるのだろう、昼に比べると薄暗かった。
 ドアは開いたままで、室内から漏れた光がそこだけ明るく照らしている。もし見る存在があれば、騒いでいるのはカドック、と思われかねなかった。
 自分自身の失態で減点を食らうのは致し方がないが、誤解で周囲にマイナス評価を下されるのは、我慢ならない。
「お願い、カドック。助けて」
「待つんだ、藤丸。君は、私の手助けは無用だと言うのか」
「……うるさい。うるさい、黙れ。黙れよ、お前ら!」
 しかし床で揉み合う二人連れは、こちらの迷惑など微塵も感じていない。
 勝手な主張を繰り返す藤丸と、それに追い縋るキリシュタリアに、カドックは耐えられなかった。
 ふたりよりも余程大きな声を響かせ、直後にハッとなった。慌てて邪魔になっている藤丸の足を蹴り飛ばし、ドアを閉めた。
 慌ただしく廊下を伺い見たが、幸か不幸か、誰とも視線は絡まなかった。
 瞬時に空間を断絶したドアに寄りかかり、痛む頭を抱えながら前に向き直れば、怒られて少しは冷静になったのか。ふたりは横一列になり、床に座り込んでいた。
「……ごめん」
「すまなかった、カドック」
 しかも素直に謝罪して、頭まで垂れる始末。
 揃ってしょんぼり落ち込んだ顔を見せられては、これ以上怒鳴りつける気力も失せるというもの。カドックはがっくり肩を落として溜め息を吐き、緩く首を振って、ドアから離れた。
「で、何の用なんだよ。ヴォーダイム、と……フジマルだっけ?」
 まだ自身の体温が残っている椅子に戻り、腰かけて、尋ねる。
 直接床に座しているキリシュタリアより、視線が高いのは、意外に悪くない。重役気分で首を傾げたカドックに、ふたりは顔を見合わせた。
 なにやら不穏な気配を醸し出した後、肘で牽制し合ってから、藤丸の方がおずおず口を開いた。
「あの、さ。カドックって、パソコン、詳しい?」
「別に、普通だけど。壊したのか?」
 一緒に右手も肩の高さまで挙げて、まるで教師に質問する生徒のようだ。
 問われて、ちらりと自分の机のパソコンに目をやって、カドックは頭に浮かんだ疑問を深く考えないまま、口にした。
「うん。壊したんだ、キリシュタリアが。オレのを」
「違うだろう、藤丸。私は、純粋に、君の手助けをしようと」
「でも結果的に壊したじゃん! オレが必死に書き上げた、明日締め切りのレポートのデータ、全部消えちゃったじゃん!」
 途端に、キリシュタリアが声を荒らげた。話に割って入ろうとして、膝立ちになった藤丸に、逆に怒鳴り返された。
 両手を大きく振り回して、藤丸が表情豊かに喚き散らす。鼻を愚図らせ、奥歯を噛んで、涙を流さないよう必死に耐えているのが窺い知れた。
 それを目の当たりにして、さすがのキリシュタリアも言葉を喉に詰まらせた。
「それは……弁解のしようもない。が、だったら、今からでもやり直せば」
「おい、ちょっと待った」
 気まずそうに目を反らし、もぞもぞ身動ぎながら、尚も食い下がって訴えかけるのを止めない。
 放っておけば人の部屋でふたりだけの世界を作り上げそうな空気に、カドックは慌てて腹に力を込めた。
 握り拳で自分の膝を殴って、聞き捨てならないやり取りに牙を剥いた。ふたりを順番に睨み付けて、再び痛み出した頭を右手で抱え込んだ。
「お前たち、えっと……どういう関係なんだ?」
「どういうって?」
「仮にも精鋭中の精鋭であるAチームのリーダー様と、雑用係同然の補欠が。なんで一緒になって、レポート作ってんだって話だよ!」
 自分もそのAチームの一員なので、自画自賛ではあるが、キリシュタリアが誰よりも優れた魔術師なのは否定できない。そんな、逆立ちして世界一周しても追いつけない男が、魔術の素養も、教養も皆無な人間に構っていること自体、あり得なかった。
 けれど現実に、彼らはこうして一緒にいる。
 こちらの知らないところで交流を深め、親しくしていたのは、間違いなさそうだった。
「カドック、君は知らないかもしれないが、藤丸は、素晴らしい人間だ。そんな風に貶めるような表現は、感心しないな」
「ちょっと、キリシュタリア」
 それを証明するかのように、神妙な顔になったキリシュタリアが真面目に言い返す。
 どこか説教臭い、真剣な口ぶりに、隣で座っていた藤丸は顔を赤くし、肘で彼を小突いた。
「なにを恥じることがある、藤丸。全部、本当のことだろう?」
「いつも言ってるだろ。オレのこと、買いかぶりすぎだって」
「おやおや。私の直感を疑うのかい?」
「そうじゃないけど――」
 その攻撃を受け止めて、キリシュタリアが愛おしげな眼差しを藤丸に投げた。受け止めた側も面映ゆげな、まんざらでもない表情で答えて、伸びてきた手に首を竦めた。
 手袋をした男に手首を取られ、両手で挟むように握られて、息を呑む。
 真っ直ぐな視線を上目遣いに探って、耳は真っ赤だった。
「……そういうのは、頼むから、よそでやってくれ」
 どこからどう見てもただ事ではない雰囲気に、カドックは思わず「ケッ」と舌打ちした。行儀悪く足を組んで、その上に肘を突き立てて頬杖を突き、忌ま忌ましげにふたりを見下ろした。
 一瞬とはいえ、完全に存在を忘れ去られた。
 人の部屋で色気づかれる謂われはない。やるなら出ていけ、と顎をしゃくれば、我に返った両者は慌てて居住まいを正した。
 居心地悪そうに恐縮する彼らを待っていたら、落ち着きなく左右を見回した後、藤丸が先に動いた。
「と、いうか。パソコンの話なんだけど」
 そもそも彼が、それほど親しくないカドックを頼ってきた理由。
 一般的に機械に疎いとされる魔術師の中で、比較的現代社会に馴染んでいる、ということで、候補に選ばれてしまったようだ。
 あとは何度か、シミュレーター内での戦闘で、不本意ながらチームを組んだことがある、という繋がりからか。
 本題を思い出した彼の言葉に、カドックは嗚呼、と頷いた。
「データが消えただけなら、状況にもよるだろうけど、復旧は出来るだろ」
「本当?」
 率先して手伝いたいとは思わないが、長々と居座られたら、いつまで経っても眠れない。
 後々恨まれるのも面倒で、助けてやる旨を告げれば、藤丸は目を真ん丸に見開いて、両手を忙しなく叩いた。
 データが戻ってくると決まったわけではないのに、心底嬉しそうな顔をして、無邪気に喜んでいた。反面、キリシュタリアは不満があるのか、口をへの字に曲げていた。
 ただし拗ねているのは、カドックに対してではない。
「藤丸……」
 口惜し気に名前を呟いて、ただひとりだけを見詰めている。
 その熱を感じさせる眼差しは、なんの関係もないカドックでさえ、気恥ずかしさを覚える程だった。
「マジかよ」
 まるで隠す素振りがないのにも驚きで、信じ難い。
 キリシュタリア・ヴォーダイムとは、こんな男だったのか。他人には隙を見せず、気安く話しかけるなど叶わない、恐ろしく遠い存在と認識していたのに。
 たった一人の、およそ優秀とは言い難い相手に対してだけは、こんなにも感情をむき出しにしていた。
 それが少し悔しくて、ほんのちょっぴり、羨ましくて。
 気まぐれに、意地悪をしてみたくなった。
「おい」
 喉の奥で笑いを押し殺し、カドックははしゃぎ回る藤丸を落ち着かせた。
 まずはその、壊れたというパソコンを見てみないことには、始まらない。
 今の彼が所持している様子がないので、部屋にあるのだろう。取りに行かせて、戻ってくるまで待つのは、正直言って時間の無駄だ。
「行くぞ」
 ならばこちらから出向くしかなく、そうすれば機械関係では役に立たない男も、諦めて立ち去るはずだ。
 就寝が多少遅くなるけれど、あのキリシュタリアを出し抜けるのだから、悪い気はしなかった。
 思わぬ弱みも発見したし、気分は上々だ。
 不遜な表情で気落ちする男を睥睨し、椅子を引いて、ゆっくり立ち上がった。カドックの動きを見守っていた藤丸は目をぱちくりさせた後、彼の意図を理解し、諸手を挙げて飛び上がった。
 そして。
「ありがとう、助かる。カドック、大好き!」
「うわっ」
 それがこの男のコミュニケーション方法なのか。歓声を上げ、抱きついてきた。
 日本人はスキンシップが苦手と言われているのに、容赦がなかった。背中に圧し掛かられて、危うく潰されるところで、カドックはすんでのところで、机を頼りに踏み止まった。
「離れろ、この。くそ、こいつ、意外に重い」
 耐え切れずに倒れていたら、藤丸も道連れだった。
 そうしてやればよかった、と内心思いつつ、存外力が強い男を引き剥がし、息を整える。
 深呼吸して、必要になるかもしれない、と自分のノートパソコンを小脇に抱えようとした時。
 凄まじい殺気を感じて、カドックはヒク、と頬を引き攣らせた。
「藤丸。やはり君の集めた資料だけでは、評価を得難いと思うんだ。君が良ければ、私が整理したものの、今回は提出を見合わせた分を提供しても構わない。カドックが無事にデータを復旧させた暁には、どうだろう」
「えー、いいよ。気持ちはうれしいけどさ。それに、それだとズルになっちゃわない?」
「そんな寂しいこと、言わないでくれ」
「だからさ、いいってば。変なところがないかのチェックは、カドックに見てもらうし」
「おい、勝手に決めるな!」
 前言撤回である。彼らとは、関わるべきではなかった。
 人の迷惑など一切気にせず、好き放題言い合うふたりにぎょっとなって、カドックは今度こそ藤丸を払い除けた。
 しかし彼も負けてはおらず、再び、今度は腰にしがみついてきた。
 腕を回し、力を込めて、頭を鷲掴みにされても離れていかない。
「ヴォーダイム、なんとかしてくれ」
「ははは。ふたりは仲が良くて、実に羨ましい限りだね。妬いてしまいそうだ」
「頭おかしいんじゃないのか?」
 なりふり構わずキリシュタリアに助けを求めるけれど、予想とは百八十度違う台詞が返って来た。
 反射的に怒鳴ったが、敢え無く流された。救い主を失ったカドックは、ぐいぐい押してくる力に抗いきれず、じりじりと後退した。
 藤丸に強引に移動を促され、パソコンを落とさないように抱きかかえるのが精一杯だった。
 ここで自分の分まで壊されては、たまったものではない。自尊心と優越感を優先させた結果に脂汗を流し、彼は凄みを利かせた眼差しにも鳥肌を立てた。
「今回は譲るとしても、カドック。藤丸は、渡さないよ」
「別に欲しいと思ったこともないし。要らないし!」
「ええー。レポート手伝ってくれたら、オレのとっておきのカップラーメン、出すよ? カドック、ラーメン嫌い?」
「待った。その話、どこから出て来た?」
 文脈がおかしい。ラーメンのくだりがどこから出てきたのかも、皆目理解出来ない。
 話が噛み合っていない。致命的なレベルでズレている。
 もしや、と嫌な予感を覚えて冷たい汗を流し、カドックは大きく身震いした。
「お前、ヴォーダイムのこと、分かってないのか?」
「うん? パソコン音痴で、オレの夜食のラーメン、いつもつまみ食いに来る奴なのは知ってるけど?」
 キリシュタリアには聞こえないよう音量を絞っての質問に、藤丸は目を真ん丸にして首を傾げた。
 こちらの意図を汲まない彼の声は、特別小さなものではなかった。
 きっとキリシュタリアの耳にも、無事届けられたことだろう。
 悪寒を強め、視線を転じれば、表向きは悪意ゼロでにっこり微笑む男が見えた。
「よし、行こう。善は急げって言うし。カドック、早く。早く」
 腰から腕に手を回し直して、藤丸が勇ましく吠えた。腕を高く掲げ、意気揚々と歩き出す。拘束されたままのカドックはもれなく引きずられ、下手なタップダンスを披露した。
「やめろ、引っ張るな。僕を巻き込むんじゃない」
「手伝ってくれるって言っただろー?」
 苦情を吐き捨てるが、耳を貸してもらえない。訴えが聞き入れられることはなく、無情にも部屋のドアは自動的に開かれた。
 キリシュタリアはひらひら手を振って、見送る姿勢だ。ここが誰の部屋か知っているだろうに、もしやカドックが戻るまで、ずっと待っているつもりなのだろうか。
 空恐ろしい想像をして、血の気が引いた。しかしどういう理屈か、藤丸を振り解くのも難しく。
 明日から始まる地獄の予感に、カドックはただでさえ悪い顔色を、いっそう酷くさせた。 

2020/04/15 脱稿

知らざりき 静心なく 波騒ぐ

 眼鏡の少女が血相を変えて駆け込んできた時は、血の気が引く思いだった。
 その細い肩に担がれ、引き摺られるように運ばれて来たのは、顔面蒼白の青年だった。明るく冴えた空色の瞳は瞼の裏に隠され、見えない。唇は土気色をして、体躯はか細く震えていた。
 トレーニング用のジャージ姿だった。ボクササイズ用のグローブを装着しており、話を聞いたところ、強く打ち込んだパンチングボールが跳ね返って来たのを、うっかり避け損ねたという。
 勢いに乗ったボールをまともに喰らい、仰向けに倒れた際に頭を打った。軽い脳震盪というのが、診断の結果だ。
 けれど詳しく調査したところ、他にも気になる数値がいくつか散見していた。
 ただアスクレピオスは、敢えてその事を口にしなかった。気絶したマスターこと藤丸立香を案ずるマシュ・キリエライトを説得し、業務へと戻らせる。他にもわらわらと、数珠つなぎの如く押しかけて来たサーヴァントの数々を追い出せば、メディカルルームは一気に静かになった。
「……ふう」
 今や室内に在るのは、溜め息を零したアスクレピオスと、ベッドですうすう眠る立香だけだ。
 カルデアに来て、こんなに大声を張り上げたのは、初めてだ。看病を買って出た複数の英霊を迷惑だと怒鳴り、その身勝手さが却ってマスターの療養を邪魔していると糾弾して、もう喉がカラカラだった。
 本来は食事を必要としない立場だが、今は一杯の水が欲しい。黒衣の上から喉仏の周辺を撫でて、彼はもう一度、深々と息を吐いた。
 寝台に目をやれば、点滴に繋がれた青年は、未だ夢の中だ。表情は落ち着いており、苦悶に歪んでいたのは過去の話となった。
「すまなかったな。騒々しかっただろう」
 聞こえていないと知りつつ、語りかけ、謝罪して、アスクレピオスはベッドへ足を向けた。喉の渇きを癒すのは後回しにして、落ち着いた呼吸を繰り返す青年を覗き込んだ。
 黒髪は汗ばんで湿り、額に細い毛先が何本も貼り付いている。枕元に設置したモニターに表示されるグラフはいずれも平常値の範囲内だが、数値として現れない症状というものは、確かに存在した。
「チッ」
 忌々しげに舌打ちして、彼は一旦場を離れた。
 壁際に設置された棚を開け、清潔なガーゼタオルを取り出した。他に必要なものはないかと、周囲を見回してから、すぐさまベッドサイドに取って返した。
 折り畳んだ布を立香の額や、頬に軽く押し当て、小さな粒に成長していた汗を拭い取ってやる。耳朶を包み込み、顎のラインをゆっくりなぞって、やがては首筋へと。
 ベッドに寝かせる際、ジャージの上は脱がせたので、今のマスターは黒のインナー姿だった。身体にぴったり密着したそれは、通気性が良い筈だが、それもほんのり湿っていた。
 一定の間隔で胸が上下に振れており、藤丸立香という人間がちゃんと生きているのを、如実に表していた。
「さすがに、な」
 肌着まで脱がせるか一瞬悩んだが、それだと起こしてしまう。上から拭うのが精々かと思い直して、アスクレピオスは何気なく点滴に繋いだ栄養剤に目をやった。
「……貴様」
 途端に顰め面を作り、医神として奉じられる英霊は、マスクの内側で声を低くした。
 透明な袋の向こう側に、白い塊が見えた。丸い角を生やした不可思議な生き物は、羊の人形のようであって、そうではなかった。
「随分と献身的だね」
 到底生き物とは思えない造詣ながら、それは、喋った。感心したような、それでいて呆れていると分かる調子で呟き、ぴょん、と平らな床の上で跳ねた。
 普段はトロイア戦争の発端となった英霊、パリスの頭上にいるぬいぐるみだ。しかしその実体は、太陽神アポロン。他ならぬアスクレピオスの父親たる存在だった。
 足がない為か、不器用に跳ねながら、少しずつ近付いてくる。時々着地に失敗し、横にコロコロ転がって、見る者が見れば可愛いと言いそうだけれど、生憎とアスクレピオスは全くそうは思わなかった。
 むしろ忌々しく、今すぐにでも蹴り飛ばし,踏み潰し、粉々に切り裂いてしまいたかった。
 けれど五月蠅くすれば、マスターの安眠を阻害する。
 確実に、一撃で仕留めるべく、向こうから間合いに入って来るのを見計らって、彼は背中にメスを構えた。
 魔術で練り上げたそれは、武器としての使用にも耐える鋭さだ。これで串刺しにしてやろう、と目論んでいたのだけれど。
「おっと」
 殺気を読んだのか、アポロンは前進した直後、ぽーん、と後方に跳ねた。
 今まさに足を踏み出そうとしていた医神はタイミングを外され、口惜しげな表情をマスクで隠した。
「こわい、こわい。それは、父に向けるものではないと、思うけどねえ?」
「貴様を親と思ったことは、一度もない」
「やだなあ。父なくして、子はならず。そこを忘れてもらっては、困る」
「黙れ。裂くぞ」
 眼光の鋭さが増した息子を冷静な声で諭しつつ、アポロンは嘲笑うかのように、愛くるしい身体を揺らした。
 脅しても、まるで響かない。その個体が唯一ではないから、破壊されたところで、痛くも痒くもないのだ。
 なんと腹立たしいのだろう。
 なんと傲慢なのだろう。
 人間はただひとつの肉体と、そこに宿る唯一無二の魂を守るのに、必死に生きている。だというのにそこの神は、無限に増殖する端末を有して、使い捨てのように扱っていた。
「僕に壊されに来たのなら、望み通り、そうしてやる。そうでないなら、今すぐ立ち去れ」
「随分と、その人間にご執心のようだけれど」
「出ていけ、と言ったんだ。聞こえなかったのか、この単細胞」
 これ以上、会話をするつもりはない。
 態度でも意思表示し、きらりと輝くメスを見せつける。
 右手だけで合計三本の凶器を構えてみせた彼に、アポロンは首を振ったつもりなのか、身体全体を横に揺らした。
「単細胞どころか、実はこの身体、もの凄く精密なんだけ――――あ」
 躊躇などしなかった。
 ぶちぶち言う羊を黙らせるべく、アスクレピオスは無言でメスを一本、投げ放った。
 それは見事にぬいぐるみの真ん中に突き刺さったが、手応えと言えるものはなかった。鋭利な刃物が深くめり込んでいるというのに、綿のひとつも洩れることなく、それは悠然と床の上に存在し続けた。
「酷いなあ。ぷんぷん」
「警告はした筈だ」
「そんなに、その人間が大事かい?」
 アポロンが可愛らしく文句を言った途端、その右の目らしき場所を狙い、アスクレピオスは二本目のメスを放った。続けて三本目を反対側に突き刺すつもりでいたが、照準が僅かに狂った。
 カツン、と固い音がメディカルルームにこだまし、跳ね返った凶器がくるくる回転しながら床を滑った。
「ちいっ」
 盛大に舌打ちした彼を感情のない眼で見上げて、羊に擬態したアポロンは、丸い身体を薄く、平らにした。
 どうやら肩を竦めているつもりらしい。
「やめておきなさい。人間は、いずれ死ぬ。それが『今』ではないだけだ。お前の献身は、報われない」
「うるさい!」
 どこまで人間の心を抉り、踏み滲み、蔑ろにすれば気が済むのか。
 我慢ならず、激昂した息子を見詰めて、アポロンは、今度は身体を縦に長くした。
 ぽとり、ぽとりと、羊に刺さっていたメスが床に落ちた。クッション性豊かなはずの身体をすり抜けて、アスクレピオスが投じたものは、なにひとつ神に届かなかった。
「忠告はしたよ」
 無傷な身体を取り戻し、飄々と告げて、アポロンがひときわ大きく跳ねた。愛しいパリスのところへ戻るつもりなのか、自動ドアを抜けて、これまでの不器用な動きが嘘のようなスピードだった。
 一瞬で獣が立ち去って、残されたアスクレピオスは原因不明の疲労感に襲われた。力が抜けて、堪らず先客があるベッドに寄りかかった。
 改めて目を向けた立香は、傍らで起きていた一触即発の事態を知る由もなく、穏やかに眠っていた。
 口元が僅かに綻び、微笑んでいるようにも見える。夢の中でだけでも楽しい思いをしていれば良いと願って、アスクレピオスは濡れた黒髪を軽く梳いた。
 傷をつけないよう慎重に、指で額から払い除けてやった。幾ばくか血色が戻った肌を確かめ、首筋に揃えた指を添えれば、とくん、とくん、と確かな血流が感じられた。
「……マスター」
 他の患者には、ここまでしない。献身的かと言われたら、その通りかもしれない。
「お前は僕のマスターであり、パトロンであり、患者であって」
 指摘されるまで、考えもしなかった。
 互いの立場を確認すべく、関係性を声に出し、数えていくが。
 まだあるような気がして、けれど思いつかなくて、アスクレピオスは言葉を喉に詰まらせた。
「お前は、僕の」
 無音で口を開閉させてから、静かに眠る青年の頬に手を添えた。ゆっくりと撫でて、柔らかな耳朶を擽った。
 命の息吹を探って、確かめて、安堵した。反面、意識が無いまま運び込まれた時の事を思うと、胸がざわつき、心臓が締めつけられるように痛んだ。
 空色の瞳が見えないのが、不安を誘った。
 形良い唇が何も告げてくれないのが、心細さを引き寄せた。
 早く目覚めて欲しい。早く自分を見て、その名前を口ずさんで欲しい。
「お前は、僕の……なんだ……?」
 渦巻く感情の波に抗い、アスクレピオスは眠る立香の唇をなぞった。
 

知らざりき静心なく波騒ぐ みぎはに鴛鴦の浮き寝せんとは
風葉和歌集 1144
2020/04/12 脱稿

紅に 匂はざりせば 梅の花

 ブリーフィングを終えて、マシュと一緒に食堂へ向かう途中だった。
 廊下の先に見知った影を見付けて、立香は怪訝に首を捻った。
 彼らの前方に佇んでいたのは、黒いフードを被り、烏の嘴にも似たマスクを装着したひとりの男だ。生物なのか、機械仕掛けなのかも分からない蛇は、連れていない。白い杖も持たず、その身ひとつで待ち構えていた。
「アスクレピオスさん?」
 立香の挙動を見て、マシュも少し先に立つサーヴァントに気付き、その名を口にした。
 アスクレピオス。ギリシャに由来する英霊にして、医療の神として崇められている半人半神の存在。太陽神アポロンの子にして、賢者ケイローンの教え子でもあった。
 表情はマスクとフードに隠れ、殆ど見えない。翡翠色の瞳も隠されて、その感情は読み解けなかった。
「マスター、少し良いか」
「え? ああ、うん。どうかした?」
 カルデアに召喚された彼が真っ先に取り組んだのは、メディカルルームの独占だ。持ち合わせたスキルを最大限活用し、新たな医療器具を量産しては、治療と称して日々研究を重ねていた。
 そちらに多くの時間を割いているので、彼がカルデア内に存在する娯楽室や、食堂といった公共スペースに顔を出すのは稀だ。廊下を歩いている姿さえ、滅多に見る機会はなかった。
 そんな男が、まるでマスターである藤丸立香を待っていたかのように、突っ立っている。
 不思議に思わない方が可笑しかった。
 前回の検査で、なにか引っかかるところがあったのか。それとも研究に必要な素材の確保の為、どこかしらの時代へレイシフトしたいのか。
 思いつく限りの理由を頭の中で並べ、立香はマシュに手を振った。先に食堂に向かうよう、無言で指示を出せば、意図を組んだ彼女は笑顔で頷いた。
「それでは、先輩。お先です」
「うん。すぐ行くから、オレの分もお願い」
「了解です」
 長い旅路を共にしてきたからか、ちょっとした事でも通じ合える。
 相棒感が増して来た彼女に昼食の確保を任せ、立香はアスクレピオスに向き直った。
 黒衣のサーヴァントは残っていた距離を早足で詰め、すれ違ったマシュに一瞬だけ目をやった。振り返らなかった少女の背中を見送って、彼は呆れた感じで右手を腰に当てた。
「あのデミ・サーヴァントは、お前の情人か?」
 そうしてマスク越しに、低めの声で問うて来た。
「じょう……えっと。ごめん、なに?」
 だが彼の発した単語の意味が、立香には上手く理解出来ない。
 分からなくて素直に訊き返せば、アスクレピオスは不機嫌そうに目を眇めた。
「恋人か、と聞いている」
「は?」
 挙げ句、ため息を吐きながら言い直された。
 あまりに直球な質問に、立香は目を丸くした。聞き間違いかと疑って、至って真面目な顔つきの男にさーっと青くなった。
 直後に火が点いたように真っ赤になって、両手をばたばた振り回し、叫んだ。
「ちょっ、はあ? えっ、急に、なに。ちっ、違うよ。マシュとは、えっと、その。そういうんじゃ、なくて」
 廊下には他にも何騎かサーヴァントがいたし、ブリーフィングに参加していたスタッフの姿もあった。
 突然声を張り上げた立香に驚き、多くの視線が一斉に彼に向けられた。思いがけず注目を浴びた青年は恥ずかしそうに地団駄を踏み、遠くを伺い、マシュが戻ってこないのを確かめて、ホッと安堵の息を吐いた。
 心臓がバクバク五月蠅い。体温が上がって、首筋を汗が伝った。
「心拍数が異常な反応を示しているぞ、マスター」
「アスクレピオスが、急に、変なこと聞くからだろ」
 それは医者でもある目の前のサーヴァントにも、しっかり伝わっていた。
 熱を帯びた頬を押さえ、立香は口を尖らせた。
 深呼吸を何度か繰り返し、気持ちを落ち着かせて、改めてアスクレピオスを見やる。彼は相変わらず何を考えているか分からない顔をして、二度、三度と小さく頷いた。
「それで? まさか用件って、それだけ?」
 こんな所で待ち伏せてまで聞きたかった内容が、これなのか。
 咥内の唾を飲み、ジト目で睨み付けながら、嫌味も込めて立香は問い直した。
「いや。マシュ・キリエライトが、マスターの恋人であったとしても、僕としては何の弊害にもならないんだが。お前に渡したいものがある」
 彼は前半と後半で、全く意味が繋がらない言葉を口にし、右手を左手の袖に入れた。
 この半神が何を伝えようとしているのか、はっきり言って、まるで分からない。ただ彼の縁者に当たるアルテミスも、人間には不可解極まりない行動を執る場合があるので、最早驚きもしなかった。
 袖の中に物を収納するスペースがあった事の方が、吃驚だ。
 どういう構造になっているのか謎なコートから出て来たのは、四角い、掌にすっぽり収まるサイズの箱だった。
 中程に一本、筋目が入り、蝶番が見えたので、パカッと蓋が開くタイプのものだろう。大きさ的にも、指輪を入れる為のケースのようだ。
 けれどこの男に、そのようなものは似合わない。恐らく、新しく出来た薬かなにかだろうと高を括っていたら。
「受け取れ、マスター。先日の、お前の言葉に対する答えだ」
「ん?」
 またもや意味不明な事を言いながら、彼は長い袖の上で箱を上下に開いた。
 現れたのは、指輪だった。
 揺れる黒色の布の上で、鮮やかなピンク色が照明を反射し、煌めいた。
「はい?」
 銀の輪に留められた石そのものはそこまで大きくないが、存在感が凄まじかった。光を集め、倍増させて周囲に拡散している。間違いなく高品質で、高価なものだと、宝石に興味がない立香でも、背筋が震えるくらいだった。
 強突く張りの、宝石に目がない女神が見たら、拍手しながら飛び跳ねるのではないか。
 そんなピンク色のダイヤモンドで飾られた指輪を突きつけられて、目が点になった。
「どうした、マスター。嬉しくないのか」
 アスクレピオスは人間の血を半分引いており、まだまともな方だと信じていたけれど、その前提が揺らぎ始めていた。
「なに、……これ……?」
 悪寒がした。
 恐る恐る、掠れる小声で問いかければ、指輪を手にした男は逆に、不思議そうに首を捻った。
「お前が言ったんだろう。僕と、結婚しても良いと」
「言ってないよ!」
 まるで身に覚えが無いことを言われて、声がひっくり返った。先ほどよりずっと大きい声を響かせ、立香は握り拳を作った。
 さすがに殴りつけはしないけれど、それに近い態度にはなった。背筋を伸ばし、己を大きく見せようとした彼に、アスクレピオスは流麗な眉を顰めた。
「その年齢で、痴呆の気があるのは、どうかと思うぞ」
 真剣に心配されて、この医神の頭は本当に大丈夫かと、不安になった。
 冷や汗が止まらない。無理矢理指輪を渡そうとする手を察し、一度は逃げたが、険しい目つきで睨まれて、それ以上は動けなかった。
 神の暴走がどれだけ凄まじいか、身を以て知っている手前、迂闊な事も言えなかった。
「本当、待ってよ。さっぱり分かんないんだけ、ど……ん?」
 いくらアスクレピオスがキャスターで、筋力もセイバーやランサーに比べると劣っているとはいえ、人間である立香よりは圧倒的に強い。
 なるべく機嫌を損ねないよう、注意しつつ、必死に言葉を探していたら。
 抱え込んだ頭の片隅で、キラリと光るものがあった。
 指輪に取り付けられた石のように、綺麗なピンク色をした、そう、パンケーキ。
 数日前のことだ。
 メディア・リリィがイアソンに向かい、甘い苺を山盛りにしたパンケーキを、一緒に食べようと誘っている現場に、遭遇した。
 食堂で、偶々だった。その場にはヘラクレスもいた。メディカルルームで治療中だったのに、無理矢理イアソンが連れて行ったとかで、憤慨しながらヘラクレスの手当てを続行するアスクレピオスも、居合わせていた。
 滅多に無いことだからと、面白がって、傍に行った。イアソンはメディア・リリィの提案を迷惑そうに断ったが、押し切られ、嫌々パンケーキを口にしていた。
 そこでのやり取りだ。
 いたいけな少女が、自分達は結婚を約束した間柄なのに、イアソンはどうしてそんなに自分を邪険に扱うのか、と抗議した。
 イアソンは彼女に、自分達はもう離婚しているからお前など関係無い、と言い返した。
 そんなことはない、とメディア・リリィが声を荒らげる。だがまともに取り合う気がない男は、偶然目が合った立香を指差し、こう言った。
 お前と結婚するくらいなら、マスターと結婚する方がマシだ、と。
 話の流れの上であり、冗談だと誰が聞いても分かるものだ。立香も真に受けなかったが、丁重にお断りした。そうした方が、場が盛り上がると思ったからだ。
 すると、即答で拒絶されると思っていなかったらしい。イアソンは大袈裟に落ち込んで、隣に居たヘラクレスに抱きついた。だったらコイツと結婚する、と言い出して、巻き込まれたヘラクレスもかなり困った様子だった。
 挙げ句にイアソンは、マスターであってもヘラクレスはやらんぞ、とまで言い出した。この話題はいつになれば終わるのか、と半ば呆れていた立香は、別に構わない。どうせなら、自分はアスクレピオスの方が良い、と答えた。
 イアソンからは、本気か? と心配された。
 アスクレピオス当人は、全くのノーリアクションだった。
 他愛ないやり取りの中の、他愛ないジョークだった。
 その筈だ。
 それがまさか数日後、こんなことになろうとは、ゼウス神でも思うまい。
「冗談でしょ。アスクレピオス、あれ、本気にしたの……?」
「どういう意味だ、マスター。まさか、お前、僕に嘘を言ったとでも?」
 首を竦め、小さくなり、後退しながら質問を投げる。
 すかさず右足を大きく前に出して、アスクレピオスは今までにないくらい低い、ドスの利いた声を発した。
「いや! いや、ちが……いや、その……あの……」
 それがあまりに恐ろしくて、まさに蛇に睨まれた蛙だ。その通りです、とはとても言える雰囲気ではなくて、立香は言葉に詰まり、ふるふる首を振った。
 これで通じてくれれば良いが、残念ながらそうはならない。
「ていうか、アスクレピオス。奥さん、居るんじゃ」
 必死に考え、なんとかこの場をやり過ごせる材料を探し、ぽろん、と落ちてきた神話の一幕。
 これで思い直してくれるのでは、と一縷の望みを託し、声に出す。
「それがどうした?」
 箱から取り出した指輪を右手に、残る手で立香の左手を掬い取った男は、間髪入れず、一切悪びれることなく、言い放った。
「恋人は、何人居ようが構わないものだろう?」
「うわ――……」
 流石はあのアポロンの息子、とは口が裂けても言えない。
 いつサイズを測ったのか、ピンクダイヤモンドの指輪は、立香の左薬指にぴったりだった。

紅に匂はざりせば梅の花 深き心をよそへましやは
風葉和歌集 38

2020/04/04 脱稿
 

風の音も よそに聞かせて 花ざかり

 時間になっても、メディカルルームのドアは開かない。誰もやってくる気配が感じられなくて、準備して待ち構えていたアスクレピオスは眉を顰めた。
「間違えたか?」
 定期検診の時間を伝え損ねた可能性を考え、彼は首を傾げたまま、手にしたカルテに目をやった。
 持ち運びに便利な、程よいサイズの端末に表示されたデータの右上には、検診日として今日の日付と、ほんの三分前に通り過ぎたばかりの時刻が記されていた。
 一週間前の検診の際に、次はいつにするか、相談して決めていた。
 昨日も、イレギュラーが発生していないか確認し、問題ないとの結論を得ていた。
 だというのに、どうして彼は来ないのか。
 ここで悶々と悩んでいたところで、正解など得られない。持て余した苛々を発散すべく、アスクレピオスは床を蹴り飛ばした。
 右足の裏がほんのり痛んだが、意に介さない。この程度で悲鳴を上げている場合ではないと己を叱咤して、壁のボタンに手を伸ばした。
 もしかしたら遅れているだけかもしれず、この瞬間もこちらに向かっている最中かもしれない。
 または完全に忘れ去って、食堂で他のサーヴァントたちと談笑しているところかもしれない。
 あれこれ想像するけれど、いずれも決定打に欠けた。念の為、ダ・ヴィンチにマスターの所在を問い合わせてみれば、彼女は小さなモニターの中で、不思議そうにするだけだった。
 その隣に居たマシュ・キリエライトにも問うたが、返答内容はダ・ヴィンチとほぼ同じ。しかし朝食時に、『今日は部屋でのんびりする』と言っていた、との情報が得られたのは、不幸中の幸いだった。
 これで、当てずっぽうでノウム・カルデア内を歩き回らずに済む。
 礼を言って通信を切り、医務室の主と化した男は覚悟を決めて立ち上がった。
 薄型の携帯端末を胸に抱き、足早に部屋を出た。
 廊下を行くサーヴァントに挨拶をされる都度、会釈を返した。カツカツと固い音を響かせる空間は明るく、煌々と照っている。しかしどこまで行っても窓はなく、豊かな自然や、時の移ろいを感じ取るのは難しかった。
 単調で、無機質で、面白味がない。
 こんな時だけ、ふと、故郷たるギリシャの大地が懐かしくなった。山があり、海があり、地形は起伏に富んで、季節に合わせて咲き誇る花々は美しかった。
 冬の間の陰鬱な空気も、夏場に全身を貫く太陽の鋭さも、此処に在る限りは一切得られない。
「僕らしくない」
 感傷に浸るなど、奇妙なことだ。
 緩く首を振り、忘れることにして、アスクレピオスは辿り着いた部屋の前でひとつ咳払いした。
 それで気付いて飛び出して来るなら、許してやろう、と頭の片隅で考えた。もっとも現実は甘くなく、期待したような結果はひとつも得られなかった。
「まったく」
 だがこのドアの向こうにマスターがいるのは、ほぼ確実だ。彼のサーヴァントとして契約した際、両者の間で繋がった魔力の流れが、この距離からだとはっきり感じられた。
 いったい何をしているのやら。
 たっぷり説教してやろうとほくそ笑み、ドアを開ける。
「入るぞ、マスター」
「ぎゃ!」
 入室の許可は取らなかった。足を踏み込んでから胸を張って言って、視線を前方に投げれば、正面の壁際に設置された寝台で何かが大きく飛び跳ねた。
 薄手のタオルケットが宙を舞い、空気を受けて膨らんで、すぐに落ちて沈んだ。ふぁさ、と肩に布を羽織った青年は吃驚した様子で目を丸くして、手にした本を閉じ、視線を左右に泳がせた。
 動揺が垣間見えた。時計を探し求め、表示されている数字をじっと睨み付けた後、数回瞬きを繰り返し、再度小さく悲鳴を上げた。
 一旦俯いて、顔を上げて、頬を引き攣らせながらぎこちない笑みを浮かべる。
 なぜアスクレピオスが訪ねて来たのか、理由が理解出来たらしい。
「さて、マスター。問題だ。今は、何時だ?」
 それを証拠に、低い声での呼びかけに、彼は大仰に首を竦めて小さくなった。
「ごめ、……ごっ、ごめん。ごめんなさい。過ぎてるの、気がつかなかった」
 早口で謝罪して、ベッドの上で丸くなり、両手を叩き合わせ、頭より高く掲げた。土下座、と言われているポーズとは少し違うが、それが許しを請う姿勢だというのは、よく伝わって来た。
 悲痛な形相で拝まれて、アスクレピオスは苦笑を漏らした。
「遅刻は許し難いが、自力で思い出した点は、褒めてやろう。面倒だから、ここで済ませる。良いな?」
「お願いしまっす!」
 検診といっても、大したものではない。身体に異常がないかの問診と、本人が自覚していない異常が現れていないかの触診が、大半だ。
 大がかりな装置を使っての調査は、過剰にやり過ぎると、却って身体に変調を招きかねなかった。
「何を読んでいたんだ?」
 ドア前から離れ、自動でスリープモードに入った端末を起動させながらの質問は、ただの興味本位からだった。
 時間の経過を忘れるくらい、没頭する本だ。さぞや著名な人物による作品だと思い、表紙に目をやれば、記されていた文字はアスクレピオスにとっても馴染みのあるものだった。
「へへへ」
 一瞬目を見張ったのを、マスターは見逃さなかった。彼は悪戯っぽく笑って、膝に転がしていた本を得意げに見せびらかした。
「……選書に難があり過ぎるぞ、マスター」
「そんなことないって。面白いよ、アルゴナウティカ」
 さりげなく毒を吐けば、即座に反論された。頬を膨らませ気味に力説されて、嘗てその旅路に同行した男は、右手で頭を抱え込んだ。
 金色の羊毛を求めて冒険を繰り広げた男もまた、カルデアに召喚されていた。毎日飽きることなく、ヘラクレスの勇猛さを声高に語っては、付き合いで耳を傾ける仲間から失笑を買っていた。
 アスクレピオスも稀に、その輪に無理矢理引きずり込まれ、時間を奪われた。マスターである藤丸立香は、それ以上に巻き込まれていた。
 それこそ耳に胼胝が出来るくらいの頻度で聞かされているだろうに、わざわざ本にまで手を出すなど。
「イアソンに無理強いされたのなら、僕から苦情を伝えておくが」
「まさか。オレが、図書室から、自分で探して、持って来たんだよ。アスクレピオスも出てるし。うん。ちゃんと、知っておきたかったから」
 面倒極まりない船長の顔を頭から追い払い、座っているマスターの正面に立った。
 端末を一旦脇に置き、まずは検温すべく額に手を翳せば、彼は照れ臭そうに微笑み、瞼を閉じた。
 半分は自分自身に言い聞かせているような口ぶりだ。いったいどのような心境から、この本を読もうと決めたのかは、想像するしかないけれど、悲観的な思考から至ったわけではなさそうだった。
「そうか」
 彼が望むのなら、無理矢理取り上げるわけにもいくまい。
 若干複雑な思いを抱きつつ、相槌を打てば、魔力で編んだ体温計が返事代わりにピピッ、と鳴った。
 表示された数字は、平熱の範囲内だった。
「異常なし、だな」
「船の上でも、こんな風に、みんなの体調管理を?」
「ああ。それが、僕に求められた、僕の役割だからな」
 だがあの時代には、直接触れずとも体温が測れる道具など、存在しなかった。器具も発達しておらず、あらゆることが手探りだった。
 問いかけに淡々と返し、端末に今し方得られたデータを入力する。このやり方も、カルデアに召喚されてから学んだことだ。
 医者として、身に着けなければならない事は多い。知識として有していても、実際に活用出来るようになるには、経験を積む以外に近道はなかった。
「でもイアソンは、アスクレピオスだから、船医になって欲しかったんじゃないのかな」
「長旅に、医者は必要だろう。なにを今さら、当たり前のことを言っている」
「いや、そうじゃなくて。たとえばオレも、あのさ、お医者さんだったら誰でも良かったわけじゃないんだ。アスクレピオスが、たまたま、お医者さんだったから……て、ええと……なんて言ったら良いんだろ」
 振られた話題の意味が掴めなくて、真顔で応対すれば、マスターは困った風に眉間に皺を寄せた。口をへの字に曲げてうんうん唸り、言葉を探して目を泳がせた。
 右手の人差し指で頬を掻き、彼方を見詰めて、膝の間に両手を置いた。
 分厚いアルゴナウティカをぎゅっと握り締め、背表紙をトントン、と叩きながら、しばらく黙り込んだ。
 けれど結局、上手い説明が思いつかなかったらしい。彼は溜め息と同時に肩を落とし、ゆるゆる首を振った。
「オレも、みんなみたいに、ドラマティックな旅がしてみたかったな」
 最後にぼそりと、小声で呟く。
 独り言だったに違いない。けれど聞き逃すには、あまりにも傲慢なことばだった。
「お前の旅路がドラマティックでなければ、アルゴー号での船旅など、凡庸の極みではないのか?」
 つい、皮肉を口にしていた。
 人類最後のマスター、藤丸立香の旅路は、苛烈を極めたものだった。アスクレピオスが戦列に加わるよりずっと前から、彼は多くの犠牲を払いながらも、世界を救うべく歩き続けていた。
 その日々の記録は膨大で、全てを読み切れた、とはとても言えない。それでも大筋は理解しており、彼が経験した数多の出会いと別れについても、概ね承知していた。
 無力な存在でしかなかった人間が、人類史を背負って立ち上がる物語だ。これをドラマティックと言わずして、どうする。
「……そだね」
 だがマスターの反応は、予想外に淡泊だった。控えめに笑っての首肯は、アスクレピオスが想像したような、大袈裟な否定や、照れながらの肯定の、どちらにも相当しなかった。
 理由は明白で、単純に、今し方告げた内容が、立香の期待していたものではなかっただけだ。
 間違えた。
 瞬時に察して、彼はこれまでのやり取りを頭の中に甦らせた。
 繰り返し反芻して、表情の変化を振り返りながら、マスターの台詞を一言一句ずつ噛み締めた。
「アスクレピオス?」
 急に黙り込んだ医神に、立香が怪訝そうに目を眇めた。
 検診も中断しており、再開される様子はない。いつもより余分に時間が掛かっているのを気にして、ベッドサイドの時計にちらりと目をやった彼の膝から、赤い表紙のアルゴナウティカがするりと滑り落ちた。
「あっ、と」
 即座に勘付き、彼は手を伸ばし、床に落ちるのを阻止した。横から掬い取り、ホッとした表情を浮かべて、手垢がついた本を愛おしげに撫でた。
 その仕草と、柔らかな目つきに、アスクレピオスは嗚呼、と小さく頷いた。
「アルゴー号は、もう存在しないが」
「うん?」
「あの五月蠅いだけの船長も、アタランテも、ヘラクレスも、なにより僕が、此処に居る。なら、カルデアは第二のアルゴー号でもあり、お前も、……その船の一員だろう」
 得心がいった。答えは音もなく、胸の中に落ちてきた。
 淡々と言葉を紡げば、最初はぽかんとしていたマスターの目が、次第に明るく輝いた。雲ひとつない青空を思わせる双眸を煌めかせて、頬を緩め、ひと呼吸置いてからきゅっと目を閉じ、白い歯を覗かせた。
 声もなく嬉しそうに笑って、顔をくしゃくしゃにして、大きく、深く頷いて。
「……そうだね!」
 先ほどと同じような返事なのに、まるで違う。
 その差異に驚き、実感し、胸が熱くなるのを覚えて、アスクレピオスは口元を緩めた。

風の音もよそに聞かせて花ざかり かくて千年の春をこそ見め
風葉和歌集 1179

2020/03/29 脱稿

契りとて 結ばずもなき 白糸を

「アスクレピオス、これ見て」
「なんだ?」
 カルデアに設置された、メディカルルーム。新たに召喚された医療系サーヴァントが君臨するその部屋を、人類最後のマスターである藤丸立香が訪ねたのは、夜も遅い時間だった。
 壁に据え付けられたデジタル時計は、日付が変わる直前を伝えていた。刻一刻と進む数字は、さながらこの世界が破滅するまでの、タイムリミットを表しているようだった。
 その無機質な線の羅列を一瞥して、アスクレピオスは椅子を引いた。腰を捻り、四つあるキャスターで床を削って、やって来た青年を仰ぎ見た。
 本来なら一部のスタッフを除き、人間は皆、ベッドに寝転がっている時間帯だ。明日も早朝から予定が組まれており、のんびり夜更かしを楽しむ余裕など、どこにもあるはずがなかった。
 だというのに、あらゆる計画の中核に据えられた立香が、此処に居る。
 具合が悪いだとか、痛みがあって眠れないだとか、そういう様子はなさそうだ。顔色は悪くなく、身体のどこかを庇って無理をしている、という風でもなかった。
「もう眠る時間だが、マスター。睡眠薬は、依存性が高い。余程でない限り、僕は出さないぞ」
 とすれば、考え得る中で最も高い可能性は、なにか。
 推測を巡らせて告げた医神に、立香は首を竦めて苦笑した。
「分かってるって。そうじゃなくて」
 胸の前で重ねた両手を揺らし、彼は口元を緩めてはにかんだ。白い歯を覗かせて、目を細め、右手を浮かせて顔の高さまで持ち上げた。
 だらん、と細い紐がその指先から垂れ下がり、先端に結ばれた物が中空を駆けた。重力に引っ張られた紐がピン、と伸びて、真っ直ぐになった瞬間に跳ね返り、繋がれた物体が左右に踊った。
 忙しなく動き回るのは、真ん中に穴が空いた小さな金属片だった。
 最初に彼が見ろ、と言ったのは、どうやらこれの事らしい。医神が知るコインに似て非なる形状に首を捻り、立香を見返せば、彼は椅子から動かないアスクレピオスとの距離を大股に詰めた。
「はーい、よく見てて」
「だから、マスター」
「あなたは段々、眠くなる。眠くな~る、ねむくなる」
「……は?」
 そうして爪先がぶつかる寸前で足を止めると、右手にぶら下げた糸を操り、金属板を左右に揺らし始めた。
 ゆらゆらと、一定のリズムで。
 穏やかに、緩やかに。
 黄金色をしたリング状のコインが、ふたりの間で静かに往来を繰り返した。
 動きは単調で、退屈だ。じっと見詰めていると、欠伸が出そうになる。
 立香は至って真剣な顔つきで、懸命に糸を操作していた。ただこれになんの意味があるのか、アスクレピオスにはさっぱり見当が付かなかった。
「マスター、頭は大丈夫か」
 なにか意味があっての行動だとは思うが、そこに秘められた目的が読み解けない。
 先に言い放たれた台詞も気になって眉を顰めた彼に、立香は途端に渋い顔をした。
 唇をへの字に曲げて、小鼻を膨らませた。ふー、と長い息を吐いて肩を落とし、左手で口元を覆い隠した。
「やっぱりダメかあ」
「なにがだ」
 ため息を吐きながら言われたが、なにが駄目なのかも、まるで理解出来ない。
 いい加減、きちんと説明するよう睨み付ければ、視線を受けた青年は照れたような、それでいて若干ばつが悪そうな顔をした。
 その場で膝を曲げ、尻を浮かせた状態で、座り込む。腿と臑を同時に抱え込んで、今し方アスクレピオスに見せたコインを指で挟み持った。
「催眠術。ほら、アスクレピオスさ、最近ずっと休み無しで働きっ放しだったじゃない? ちゃんと休んでないみたいだったから」
「僕にそうするよう命じたお前が、それを言うのか」
「それは、まあ、その通りなんです、が」
 医務室の後任者となったアスクレピオスの仕事は、多岐に亘った。
 マスター以下、人間であるカルデアのスタッフの健康管理に、各サーヴァントの霊基のメンテナンス。そこに英霊としての戦闘行動が加わり、補助役として駆り出される彼は、ここ数日、ほぼ休み無しだった。
 ノウム・カルデアにいる間は根城としているメディカルルームから全く外に出ず、食事をしに食堂に現れるのは稀。イアソンたちが何かと気に掛け、気分転換に誘っているようだが、素っ気なく断ってばかり、との話だった。
 このままでは皆の健康を守るべき医者が、真っ先に倒れてしまう。
 どうにか無理矢理にでも休ませる方法を模索した結果だと、立香は紐に繋いだコインを小突いた。
「催眠術って、サーヴァントには効果ないんだ。新発見」
 ゆらゆら揺れる硬貨を見詰めているうちに、本当に眠ってはくれまいかと、期待した。
 しかし結果はご覧の通りの、大失敗。
 茶目っ気たっぷりに小さく舌を出したマスターに、アスクレピオスは疲労感を覚えて頭を抱え込んだ。
 深く嘆息して、床に貼り付けていた足を浮かせた。サンダルの先で空を斬り裂けば、蹴られるのを警戒した立香が慌てて立ち上がった。
 後ろに後退しつつ、倒れそうになった体躯を支え、バランスを取った。不機嫌に椅子を軋ませる医神を見下ろし、頬を軽く引っ掻いて、視線を泳がせた。
「僕を気にする前に、まずは自分のことを第一に考えるべきではないのか。マスター?」
「そうかもしれないけど。でも、オレのせいで無理させてるって分かってるんから、なにかしてあげたいって。そう思うのも、ダメなわけ?」
 手厳しい提言を受けて、彼は両手を背中に回して隠し、足を組んだアスクレピオスへと捲し立てた。
 英霊は、眠りを必要としない。食事も本来、必要ではない。立香が思っているほど、アスクレピオスは日々の業務に忙殺され、参っているわけではなかった。
 むしろ楽しい。充実している。人類が進化を続け、病への抵抗を諦めなかったのを実感出来て、何よりも喜びが勝っていた。
 だがマスターの気遣いが迷惑、というわけでもない。カルデアに数多く在る英霊の中の一騎に過ぎない自分に関心を抱き、気に掛けてくれたのもまた、率直に嬉しかった。
 とはいっても英霊としての立場よりも、医者としての視点が上回っているので、素直に善意を受け取るのも難しい。
「マスター」
「分かったよ、分かりました。戻って寝るよ。アスクレピオスは、どうぞご自由に」
「僕はまだ、何も言っていないぞ」
 肩を竦め、呆れ混じりに呼びかければ、触発された青年が握り拳を作って怒鳴った。
 勝手にキレて、一方的に拗ねている。あっかんべー、と赤い舌を伸ばして捨て台詞を吐かれては、苦笑せざるを得なかった。
 随分と子供じみた反応だ。アスクレピオスはクツクツ喉を鳴らして、医務室を出て行くべく、身体を捻った彼を手招いた。
 呼び戻し、頬杖をついて、思いついた悪巧みに口角を持ち上げた。
「……なに」
「マスター自ら、そこまで言うんだ。良い事を教えてやる。僕を休ませたいと思うのなら、そこのベッドに座れ」
「う、うん?」
 もう片手で、具合が悪い者に提供する為のパイプベッドを指し示し、命じれば、立香はきょとんと目を丸くした。
 疑問に思うところはあるけれど、とりあえず従うつもりらしい。怪訝にしながらそちらへ移動し、真っ白いシーツに腰を降ろして、彼は次の指示を待った。
 なにも疑わず、何も怪しまず、他者を容易に信用し、その意志を貫き通す。
 一歩間違えれば奈落の底に落ちて行くのが確実な、あまりに危うい性格を懸念しつつ、アスクレピオスは立ち上がった。
「両手を肩より上で広げて、目を閉じていろ」
「え、……と。こう?」
「ああ、良い子だ」
 気が急くのを必死に留めながら告げて、サンダルの底で床を叩いた。カン、と小さな音を繰り返し響かせて、素直に応じる立香を手放しに称賛した。
 顎を引き、下唇を突き出して、言われた通りのポーズを取った彼が、マスターとしてではなく、人の子として、どうしようもなく愛おしい。
 こんな未熟な子供に、癒されようとしている。それは医療の神として崇められている立場としては、酷く不本意ではあるけれど、英霊としての身分に甘んじれば、致し方がないものと言い訳がついた。
「ねえ、アスクレピオス。このあとは、どう――……わぶっ」
「少し休む。付き合え」
 腕を持ち上げ続けるのは、意外に体力が必要だ。既に肘がプルプル震えているのを見て取って、アスクレピオスは彼の言葉を遮り、無防備な身体に向かって倒れかかった。
 言いながら胸に抱え込み、押さえつけ、諸共にベッドへ転がった。
 立香の悲鳴は、医神の胸に吸い込まれて消えた。仰向けに倒れた衝撃で唇を噛んだらしく、痛みに呻く声がしばらく続いたが、それもじきに消えてなくなった。
 柔らかく、少しだけ消毒薬臭いシーツに横になって、密着したところから流れ込んでくる体温に、深く息を吐いた。
「ああ。一挙両得、だな。これは」
 マスターを休ませられる上に、アスクレピオス自身も休める。少々狭いのが難点だが、居心地は悪くなかった。
 柔らかな黒髪を梳いていたら、だらんと投げ出されていた立香の腕が背に回された。きゅっと細い指同士を絡め、結んで、勝手に逃げ出さないよう、脆弱な束縛の輪を閉じた。
 彼は何も言わないし、顔を上げようともしなかったが、その動きが答えなのだろう。
「眠れ、マスター。お前が眠らなければ、僕の仕事は終わらない」
 耳元で低く囁いた瞬間だけピクリと震えた人間は、小さな身体を一層小さくして、やがて静かに寝息を立てた。

契りとて結ばずもなき白糸を 絶えぬばかりや思ひ乱るる
風葉和歌集 444
2020/03/22 脱稿

待たるゝ花の 咲き始むらん

 日ごとに陽が長くなり、日中は風がなければ充分暖かくなった。綿入りの半纏を着ていると汗ばむくらいで、素足で歩き回っていても、床の冷たさはさほど苦に思わなかった。
 暦が動き、季節が巡ろうとしていた。
 冬から春への過渡期を迎え、三寒四温という言葉そのままの気候が続いていた。
 数日前は急に冷え込み、片付ける直前だった冬物に慌てて袖を通した。かと思えば今日は朝から快晴で、気温は順調に上昇していた。
 庭に植えられた桜も、日増しに蕾を膨らませていた。満開となるにはもうしばらく掛かりそうだが、気の早い分がちらほら、花を咲かせていた。
 菜の花は既に見頃を迎えており、草葉を掻き分ければ菫の花も見つかった。それ以外でも色鮮やかな花がちらほら、庭の各所を彩っていた。
 雪に覆われて、辺り一面真っ白だったのが、もう懐かしい。
 この鮮やかな色の移り変わりが、冬の間にやって来た刀剣男士には奇妙に映るらしい。日頃は寡黙な鬼丸国綱も、数多在る粟田口の短刀たちに連れられて、毎日のように庭を探索していた。
 今もまた、どこかに出向く途中なのだろう。
「こっち、こっちです」
「待て。そんなに急かすんじゃない」
 秋田藤四郎や五虎退に導かれ、大柄の男が庭を横切り、歩いて行く。
 縁側から見送っていたら、振り返った太刀と一瞬だけ目が合って、小夜左文字は反射的にお辞儀した。
 軽く頭を下げ、すぐに目を逸らした。特に会話はなく、新たに戦列に加わった天下五剣は、そのまま去って行った。
 賑やかな一団が見えなくなるのを待って、改めて色彩豊かな庭に目をやった。
「花でも、生けようかな」
 一方、屋内に視線を転じれば、まだまだ冬の名残を残す品々が、雑多に並べられていた。
 男所帯なのもあって、華やかさは薄い。刀剣男士個々の部屋であれば各々の特色が強く表れるが、共用部に関しては、ごった煮も同然だった。
 ここに春を感じさせる花でも飾れば、少しは風景が変わって見えるだろうか。
 そんなことを考え、小夜左文字は胸の辺りを掻いた。
 ただ単に花を生けるといっても、決して簡単ではない。いや、簡単だからこそ難しく、奥行きが深かった。
「歌仙辺りに、相談しよう」
 器ひとつにしても、選択肢の幅は広い。主題に据える花をどれにするかも、未だ定まっていなかった。
 こういうことは、普段から風流に慣れ親しんでいる男に頼るに限る。
 善は急げと踵を返し、打刀を探して目を泳がせれば、ちょうど屋敷へ向かう複数の人影を見付けた。
「歌仙、と。松井?」
 彼らは何やら話をしながら、玄関のある方角に足を運んでいた。万屋に出かけた帰りらしく、半歩先を行く歌仙兼定は、細長い棒状のものを胸に抱えていた。
 松井江は手ぶらで、若干呆れ顔だ。人差し指を立てながら頻りに捲し立てて、彼の言葉を聞く度に、歌仙兼定の表情は陰り、曇り、渋くなった。
 また無駄遣いをしようとして、怒られているらしい。
 去年まで、それは小夜左文字の仕事だった。しかしこのところは、あの打刀に立場を奪われ気味だ。
「なに、買って来たんだろう」
 少し寂しいが、人見知りの刀が交友関係を広げるのは、悪いことではない。
 興味を覚え、先回りすべく、小夜左文字は廊下を駆けた。誰かにぶつかっても迷惑にならない速度を保ち、慣れ親しんだ道順を辿った。
「お帰りなさい、歌仙。松井」
「ああ、お小夜。ただいま」
「小夜様、ただいま戻りました」
 到着したのは、彼らが敷居を跨ぐ直前だった。
 弾む鼓動を宥め、息を整えながら、仲間を迎え入れる。ふた振りは短刀の姿を見るや笑顔を浮かべ、それぞれに帰還を告げる挨拶を口にした。
 松井江は律儀に尊称を忘れず、小夜左文字が途端に小鼻を膨らませても知らん顔だ。勝手に満足げに頷いて、一足先に靴を脱ぎ、膝を折って歌仙の荷物を預かった。 
「それは?」
「桜です」
「折ってきたんですか?」
「いいえ。万屋の軒先で売られていたのを、歌仙様が、どうしてもと仰有るので」
 後ろから肩越しに覗き込んだ短刀に答え、松井江が立ち上がった。油紙で根本を覆った桜の枝は、まだ蕾が多く、その殆どが花開く途上だった。
 本丸の庭に植えられた桜も、このような枝振りのものが多い。それで手折って来たのかと勘繰ったが、本当に、ちゃんと購入したものだった。
 松井江が言うのであれば、嘘ではなかろう。
 そんな風に思ったのが、視線の動きで悟られた。目が合った歌仙兼定は拗ねたのか、口をへの字に曲げて、羽織った外套を翻した。
「花器を探してくる」
「では、こちらはお部屋にお運び致しますね。小夜様も、ご一緒にいかがですか」
「じゃあ、はい。折角なので」
 もとより、花を生けるのに歌仙の力を借りようとしていた。
 まさに願ったり叶ったりで、こちらの機微を読み解かれていた気分にもなる。断る理由などなく、二つ返事で頷いて、小夜左文字は早足で打刀たちを追いかけた。
 途中、歌仙兼定は納屋に寄ると言い、別の道を行った。
 本丸の建物は、大きく二つの区画に別れている。皆が共通して使う設備が集まった母家と、刀剣男士たちの私室が集まった離れとだ。
 度々増改築を繰り返し、今では一部が二階建てとなった離れと母家は、渡り廊で繋がっていた。屋根はあるが、風が通り、左右には美しく整えられた中庭が広がっていた。
 数珠丸恒次とにっかり青江のふた振りが、竹箒を手に掃除をしていた。厚藤四郎と後藤藤四郎が鞠玉を蹴って遊んでおり、信濃藤四郎がその傍で退屈そうに屈んでいた。
 陽射しは麗らかで、心地よい。どこから迷い込んだのか、黒猫が軒下で丸くなり、大きく欠伸をした。
「しかし、このような蕾の枝を生けて、どうするんでしょう」
 つられて口を広げかけて、小夜左文字は斜め前から飛んで来た質問に、ハッと背筋を伸ばした。
 急ぎ顔の下半分を利き手で覆ってから、深呼吸し、小首を傾げて振り返った松井江に目を細めた。
「段々と、花が開いていくので。それを楽しむのも一興だと、多分、歌仙は」
「庭にも、あれほど植えられているのに、ですか?」
「そういうもの、なんだと思います」
「はあ……」
 顕現して日が浅い彼には、歌仙兼定が好む風流がまだ分かり難いらしい。かといって小夜左文字自身も、全てを理解出来ているわけではなかった。
 松井江の疑問はもっともだけれど、敢えて屋内での観賞も、決して悪いものではない。たとえば雨の日に、間近で桜を愛でられるというのは、とても贅沢なことだ。
 大きく頷いた短刀に、打刀は分かったような、分からなかったような顔をした。緩慢な相槌をひとつ打って、割と重い桜の枝に視線を落とし、落とさないよう抱え直した。
「そういうもの、なんですか」
 枝は長いもので、打刀の腕からはみ出るくらい。短いものでも、短刀の肘から指先ほどの長さがあった。
 それほど太くなく、先に向かうに連れて徐々に細くなっていく。花は一箇所に固まっているものがあれば、てんでばらばらに散らばっているものもあった。
 四方八方に好き勝手に伸びており、なにかにぶつかった拍子に折れてしまいかねない。そうならないよう慎重に抱きかかえ、運んでいると、どうしても移動に時間がかかった。
 いつもの倍近くを要して、ようやく歌仙兼定の部屋へと辿り着く。
 物が多く、足の踏み場に困る空間に入って待っていたら、程なくして黒色の花器を手にした部屋の主が姿を見せた。
「おや?」
「ちょっと、お邪魔しますね」
 そこにもうひと振り、脇差がひょっこり顔を出した。篭手切江は驚く小夜左文字らの前で、眼鏡の向こうの目を細め、茶目っ気たっぷりに笑った。
 移動の道中でばったり遭遇した、というわけではなさそうだ。彼の手には、ちょうど四振り分の茶菓子と、湯飲みを並べた盆が握られていた。
「本当は、りいだあたちと分けるつもりでしたが、松井が、こちらにいると聞きましたので」
「良いんですか?」
「ええ。りいだあと、桑名には、また今度で」
 と思っていたら、事実、ばったり出くわしたらしい。準備が良すぎる理由を告白されて、小夜左文字は苦笑を禁じ得なかった。
 松井江と顔を見合わせ、家主である歌仙兼定が頷くのを待って、畳に腰を下ろした。狭い中、場所を融通し合って、互いに楽な姿勢で座り直した。
「さて、と」
「どこに飾るんですか?」
「そうだね。ひとまず、玄関の正面を想定しているが」
「良いですね、華やかになります」
 鋏や剣山は部屋にあり、歌仙兼定がそれらを準備する間に、篭手切江がてきぱき茶を配った。適時話題も振って、会話が途切れない心配りは絶妙だった。
 脇差には世話好きな刀が多いが、御多分に漏れず、彼もそうだ。
 小夜左文字と歌仙兼定だけだった時は、どうにも話が続かず、沈黙の中で時間を過ごす機会が多かった。しかし彼が本丸にやって来て以降は、話題に事欠くこともなく、いつも賑やかだった。
「勝手にやって、怒られませんか?」
 その中で、やり取りを聞いていた松井江が疑問を呈する。
「今のところ、言われたことは、あんまり……なかったはずです」
 それに答えて、小夜左文字は桜を模した饅頭に手を伸ばした。
 ひとくちで齧るには大きく、見た目以上に重い。些か不格好なものも混じっているので、本丸の誰かが作ったものらしかった。
 菓子作りは小豆長光が得意としているけれど、これは彼の手によるものではなかろう。となれば誰、と想像を巡らせていたら、支度を終えた歌仙兼定が、三振りの真ん中にどっかり腰を下ろした。
「さて、と」
 納戸から出して来た花器を前に陣取って、松井江が大事に運んで来た桜の枝をその横に置いた。艶を帯びた黒の器は横に細長く、底は浅い。上から見れば楕円形で、両端は僅かに反り、中央より高くなっていた。
 三日月を横にしたような形状で、長い枝振りの花を生けるのには適しているとは言い難い。
 それは歌仙兼定だって分かっているだろうに、敢えてそれを選んだ理由は何なのか。
 黙って見守っていたら、彼はまず、万屋で買ってきた枝の根元に鋏を入れた。パキン、と硬い音がひとつ響いて、断面の中心に深い溝が刻まれた。
「小夜様、あれは?」
「水を吸う面積を、増やしてやっているんです」
 不思議な事をする、と首を捻った松井江に小声で訊ねられ、小夜左文字は嗚呼、と頷いた。手短に説明してやって、残りの枝も同じようにする打刀を指差した。
 こうして水に接する場所を増やすことで、花の寿命は僅かでも伸びる。蕾が解け、花が咲くまで楽しむ為には、欠かせない手間のひとつだった。
「なるほど……」
 事情を教えられて、松井江は顎に指をやり、何度も頷いた。無駄に思えることでも、ちゃんと意味があるのだと悟り、感心した様子だった。
 顕現してからもう長い小夜左文字たちには、当たり前となっていることでも、人の身を得て半年に満たない刀には面白いのだろう。いつの間にか忘れていた感覚を呼び覚まされて、短刀は知れず、頬を緩めた。
「いいお天気ですねえ」
 一方、真剣な顔つきの打刀を余所に、最も縁側に近い場所に座った篭手切江が、暢気極まりない言葉を口にする。
 両手で湯飲みを抱き、茶を啜る姿は、些か年寄りじみていた。
 外見の年若さとあまりにも差がありすぎて、滑稽だ。ぷっ、と噴き出しそうになったのを堪えていたら、集中力を削がれた歌仙兼定が憤慨し、鋏を持った手を振り回した。
「君たちねえ、邪魔をするなら――」
 軽く暴れながら振り返り、鬱陶しいから出ていけ、と口走ろうとした。
 鋏も刃物の一種であり、当たれば切れる。危ない、と咄嗟に小夜左文字を庇って前に出た松井江の向こう側で、比較的安全圏にいた篭手切江が、何を思ったのか、突然ぱあ、と目を輝かせた。
「そうです、歌仙。思ったんですけど、やはり桜だけでは、物足りないのでは?」
「ああ?」
 誰の所為で打刀が機嫌を損ねたのか、まるで分かっていない。
 湯飲みを置き、妙案だと手を叩いた彼は、言うが早いかそそくさと立ち上がった。
「少し、待っていてください」
「おおい、こら。どこへ行くんだ、篭手切?」
 小夜左文字たちがぽかんと見送る中、脇差は一足飛びに部屋を出た。靴下のまま、縁側から中庭に飛び降りて、左右を忙しく見回したかと思えば、どこかに向かって駆けていった。
 歌仙兼定が引き留めたけれど、まるで耳に入っていない。残された刀たちは状況が理解出来ず、惚けて間抜けに口を開き、本丸最古参の刀の咳払いを合図に背筋を伸ばした。
「篭手切は、どうしたんでしょう」
「さあ」
 松井江に訊かれた小夜左文字だが、こればかりは答えられない。彼のあまりにも唐突な行動は、本当に理解不能だった。
 正直に分からない、と伝えて、場繋ぎに桜を模した饅頭を齧る。
 前歯を差し込み、削り取った。中にたっぷり詰め込まれた白餡がぼろっと崩れ落ちそうになり、慌てて手で拾って、口に入れた。
 行儀が悪いが、食べ物を粗末に出来ない。これくらいなら許されるだろう、との個人的な判断だが、しっかり見ていた松井江の表情は険しかった。
「……いけませんか」
「どうぞ、お使いください」
 睨むというよりは、呆れて、哀しんでいる風にも見えた。
 思わず口を突いて出た不満に、彼は小さく首を振り、胸元から何かを取り出した。
 椿の刺繍が美しい帛紗挟みから紙を一枚抜き取り、渡されて、短刀は喉の奥でぐう、と唸った。
「ありがとう、ございます」
「いいえ。常に携帯しておりますので、ご入り用の際には、いつでもお申し付けください」
 懐紙はちょっとした取り皿にもなれば、鼻を噛むのにも使える万能な品だ。頻繁に鼻血を出している彼には、まさに必要不可欠なものだった。
 だというのに得意げに胸を張って言われて、苦笑を禁じ得ない。彼の準備が良い理由を思い出して、小夜左文字は肩を揺らした。
 有り難く貰い受けて、左の掌に敷き、そこに饅頭を置いた。ふと気になって視線を斜め前方にやれば、気を取り直した打刀が一心不乱に桜と格闘していた。
 不要な蕾を落とし、枝の長さを調整して、配置に思案しつつ、器に生けていく。途中から斜めに曲がっているものを上手く利用して、それを支柱代わりにし、別の枝を縦に配したのは見事と言わざるを得なかった。
 幅を持たせ、高さも確保し、奥行きを演出して、空を目指して咲く桜を小さな世界に再現していた。
 今は蕾ばかりだけれど、これが花開いたら、どうなるのだろう。
 見惚れ、目を瞑り、空想に耽っていたら、どこからともなく犬のような荒い息遣いが聞こえて来た。
「お待たせしました!」
 威勢の良い声と共に、どん、と縁側を蹴る音がした。揃って振り返れば息せき切らした篭手切江が、黄色と薄紫色の花を両手一杯に抱きかかえていた。
 いったいどこへ行っていたのか、頭には緑色の草の切れ端が貼り付いていた。
「びっくりさせないでくれ」
 彼の大声に、歌仙兼定まで作業の手が止まった。憤懣やる形無しの表情で苦情を口にした後、ハッと息を呑んでひとり何かを悟り、額に手をやって肩を落とした。
 小夜左文字は上機嫌に部屋に上がり込んだ彼を見上げ、ひと言言いかけて、口を噤んだ。
「篭手切、その靴下は脱いでください」
「え? あ、はい。すみません」
 代わりに汲み取った松井江が注意して、泥で汚れた足で部屋に上がろうとした脇差を制した。
 言われてやっと、自分が靴下のまま外を走っていたと気付いたらしい。篭手切江は途端に顔を赤くして、摘んできたばかりの、青臭さが残る花を短刀に託した。
 差し出され、思わず受け取って、小夜左文字は色鮮やかな花々にほう、と息を吐いた。
「篭手切。君は、僕の生ける花に不満があるのかい?」
「いいえ、まさか。ただ、彩りが足りないと思ったので」
 彼の意図していることが、なんとなく分かった。
 一足先に理解していた歌仙兼定が文句を言うが、篭手切江はまるで悪びれる様子がない。あくまでも善意からの行動だと主張して、余計なお世話、という認識は皆無だった。
 確かにまだ蕾しかない桜だけでは、華やかさが足りない。枝の茶色ばかりが目立って、非常に地味で、色彩は単調だった。
 脇差がそう感じたのは、仕方がないことだ。
「そう、かも……しれませんね」
「でしょう? ですよね!」
「お小夜まで」
 ぽろっと感想を零せば、聞き逃さなかった篭手切江が急に声を高くした。歌仙兼定は渋面を作って、額の真ん中に爪を立てた。
 周辺を軽く引っ掻いて、苦虫を噛み潰したような表情で俯き、少ししてから顔を上げた。座ったまま後退して、作成途中の生け花を遠巻きに眺め、眉目を顰めた。
「お小夜」
「はい」
 続けて前を見たまま短刀を呼び、手招いた。空の掌を上にして差し出されて、小夜左文字はクスクス笑いながら、花を一輪選び、手渡した。
 黄色が鮮やかな菜の花と、紫色が可愛らしい菫の花と。それ以外にも何輪か、花束の中に紛れていた。
 道具も使わずに手折って来たのだろう、根本の断面は若干痛々しい。
 それを憐れみ、丁寧に鋏を入れて、歌仙兼定はまず菜の花を桜の根元に添えた。
 大半が咲き、蕾は天辺部分に僅かに残るだけとなったそれを混ぜた途端、暗く沈みがちだった部屋の景色が、一気に明るくなった。
「こんなに、変わるものなんですか」
「良いじゃないですか、歌仙」
「……くっ」
 たった一輪、添えただけだというのに、急激に変わった。
 直前までとはまるで異なる印象を抱かされ、松井江は驚き、篭手切江は鼻息を荒くした。
 対する歌仙兼定は自身の美意識の誤りを指摘された感覚に陥り、かなり悔しそうだった。
 奥歯を噛み、眉間に皺を寄せ、ぐっと拳を作って膝に押しつけた。煮えたぎる感情を必死に宥め、説き伏せて、己の中で折り合いをつけているのが、傍目にもはっきり感じ取れた。
 以前なら、辺り構わず怒鳴り散らし、我を押し通そうとしたに違いない。
「……ふふ」
 人の身を得て、経験を積み、仲間とのやり取りを重ねるうちに、随分と成長した。
 口元に手をやり、小夜左文字はこみ上げる笑いを堪えた。
「ねえ、小夜はどうですか。悪くないと思いませんか」
「そうですね。素敵だと、思います」
「お小夜!」
「あの、歌仙様。不躾ながら、僕も、その。花を、選んでも宜しいでしょうか」
「はああ?」
 篭手切江から話を振られ、即座に頷いて返す。最後の頼みの綱だった短刀にまで裏切られ、歌仙兼定は甲高い悲鳴を上げた。更に松井江にまで訴えられて、素っ頓狂な声を出した。
 胸に手を添え、身を乗り出した打刀の顔は、必死だった。篭手切江だけに良い格好はさせられない、というよりも、この花器に自分が見出した花を加えて、仲間に入りたいと、そういう雰囲気だった。
 願いが叶わなければ、血でも吐きそうな勢いだ。部屋の棚には歌仙兼定が集めた書物も多々収蔵されており、それらに飛び散ろうものなら、悲惨な事になるのは目に見えていた。
 ある意味卑怯なやり方に、細川忠興の愛刀は顔を引き攣らせ、やがて天を仰いだ。ふー、と長い息を吐いて肩の力を抜いて、諦めたのか、項垂れて小さくなった。
「好きにしたまえ」
「はい。では、血が滴るような真っ赤な花を、探して参ります」
 本丸を取り巻く庭には、多種多様な花が育てられている。あちこちに花壇があって、それ以外でもそこかしこに植物が根を張り、太陽に向かって翼を広げていた。
 松井江が望むような鮮やかな赤色の花は、表の庭に咲いている鬱金香辺りだろうか。
 あれは粟田口の短刀たちが、球根から大事に育てていたものだから、勝手に摘んだら怒られかねない。だがそうとも知らず、彼は血気盛んに立ち上がると、慌ただしく部屋を出て行った。
「松井、待ってください」
 小夜左文字と同じ事を思ったのか、汚れた靴下を握り締めた篭手切江が、大慌てでその後を追いかけた。
「まったく」
 残された打刀は心底呆れ顔で、正座していた足も崩し、楽な姿勢を作った。立てた膝に肘を置いて頬杖をつき、一瞬で静かになった空間を見回して、最後まで居残った短刀に苦笑した。
「黄色に、紫で、……あとは赤、か」
 日毎につぼみを膨らませ、薄紅色の花を咲かせる過程を楽しみたかった彼にとって、この展開は誤算だったに違いない。
 けれど脇差が置いて行った花を色ごとに分けていく横顔は、どことなく楽しげだった。
「賑やかで、良いですね」
「お小夜は、そう思うんだね」
「はい。なんだか、歌仙みたいです」
「僕?」
 一輪ずつ丁寧に扱う指先を眺め、何気なく話を振った。歌仙兼定はその言葉に意外そうな顔をして、少ししてから口元を綻ばせた。
 彼なりに考え、短刀が伝えたかった思いを模索し、結論を出したらしい。
「それは、至極恐悦」
 菫の花を取り、目を細め、囁く。
 彩りを増していく花器と彼をまとめて視界に収め、小夜左文字は首を竦めると、歯を見せない程度に笑った。

おぼつかないづれの山の峰よりか 待たるゝ花の咲き始むらん
山家集 春 60

2020/03/21 脱稿

よろづ世を かけてにほはす 花なれば

「アスクレピオス、お願い。場所貸して」
 自動ドアが開いた瞬間、飛び込んで来た声に、アスクレピオスは読み込んでいた資料から顔を上げた。紙ではなく、持ち運びが容易なタブレット端末を机上に置いて、彼は医務室に現れた異邦人に眉を顰めた。
 壁に埋め込まれたデジタル時計は、午後八時半を過ぎた辺りを示していた。
 眠るには早過ぎて、かといってトレーニングに励むには少々遅すぎる。そんな微妙な時間帯に姿を見せた青年は、人好きのする笑顔を浮かべ、大人しく返事を待っていた。
「……具合が悪い、という訳ではなさそうだな」
 肌色は良く、瞳には光があった。背筋は凛と伸びており、どこかしら怪我をしたとか、体調不良から治療を申し込みに来た、という風には、とても思えなかった。
「うん」
 質問すれば案の定、元気なひと言が返って来た。深々と頷かれて、アスクレピオスは小さく肩を落とした。
「場所を貸せ、とは?」
 メディカルルームとは本来、なんらかの対処が必要な存在を受け入れる為の場だ。だというのに健康極まりない人間がやって来て、ここで何をするというのだろう。
 入室と同時に発せられた言葉の説明を求めた彼に、人類最後のマスターである藤丸立香はにっ、と白い歯を見せた。
 その手には、食堂から持って来たのであろう、白い盆があった。そして小脇には、アスクレピオスが使っているのと同じ携帯端末が、落ちないよう、しっかり挟み込まれていた。
 カルデアに所属する職員には全員、これが貸与されていた。情報の閲覧も、作成も、提出も、これ一台で完了する優れものだった。
「明日の朝までに提出しなきゃなんないレポート、終わらなくてさ」
 マスターの持ち物をひと通り確認していたら、視線の動きを察した青年が照れ臭そうに言った。小さく舌を出し、首を竦めて、真っ白い床の上を慎重に歩き始めた。
 まだ了解が得られていないのに、勝手に居座るつもりだ。この分だと断っても、きっと出て行かないだろう。
「自分の部屋があるだろう」
 それでも念の為に質問を繰れば、彼は机の空きスペースに盆を置き、首から上だけで振り返った。
「玉藻の前と、清姫が居座っちゃって。逃げて来た」
 藤丸立香に従う数在るサーヴァントのうち、二騎の名前を出された瞬間、彼が置かれた状況が理解出来た。そうなった詳細は不明ながらも、落ち着いて書類をまとめるなど出来ない環境だったのは、間違いなかった。
「それは……災難だったな」
「でしょー?」
 想像して、同情したら、マスターは急に声を高くした。悲惨な目に遭ったとは思えない元気さで、カラカラ笑って、普段は患者が座る丸椅子を引き寄せた。
 床をガリガリ削って音を響かせ、居場所を確定させた。快適とは言えないながらも静かな環境を手にし、横顔は満足そうだった。
「十一時までだぞ」
 ただあまり夜遅くまで、彼を働かせるつもりはない。
 就寝の目安となる時間を提示したアスクレピオスに、マスターは「はあい」と、あまり守るつもりがなさそうな返事をした。
 治ってはすぐに新しい傷を作る指は早速端末に向かい、電源を入れ、画面を明るくした。作成途中らしき書面を呼び出し、一瞬考え込んでから、人差し指を薄い液晶に押し当てた。
 すい、すい、と淀みなく動き回るが、何を記しているのかは、アスクレピオスの位置からでは見えない。
「なんの報告書だ?」
「この前発生した、極小特異点の発生原因と、消滅までの過程。毎回思うんだけど、こういう形式美、もういらなくない?」
「そうでもない。これまでと同じ、という結果が得られるのも、また重要だ」
 興味本位で訊ねれば、間髪入れず返事があった。声の調子は至って面倒臭そうで、実際、喋っている際の彼の足は不機嫌に動き回っていた。
 その気持ちは、分からないでもない。毎回巻き込まれ、ようやく解決したかと思えば、所長以下に仔細を説明する為の報告書を提出しなければならない。
 特異点が発生する度に繰り返される一連の流れに、やる気が削がれるのは、致し方がない事だ。
 けれど万が一があっては困るから、技術顧問も、注意深く状況を観察している。これまで通りではない事が起きないように、これまで通りの経験や、知識を積み重ねて行くのは、地味ではあるが、大切だった。
 淡々と必要性を述べてやれば、マスターは諦めたらしい。口を真一文字に引き結び、深々と溜め息を吐いた後、左手を机上に伸ばした。
 タブレットと一緒に持ち込んだ盆の上には、湯気を立てるマグカップと、白い皿が一枚。並べられていたのは、様々な具を挟んだサンドイッチだ。
 仕事のお供に、食堂で作ってもらったのだろう。
「太るぞ」
「カロリー少なめにしてもらったから、大丈夫」
 医者として、夕食後にも大量に食べるのは、推奨できない。だが彼はこの小言を想定していたらしく、したり顔で親指を立てた。
 実際、サンドイッチの具は野菜が殆どだった。キュウリに、トマトといったものが多くを占め、脂っこい肉類は限られていた。
 あまりしつこく言うと、煙たがられる。医務室をも逃げだし、娯楽ルームへ駆け込まれるくらいなら、黙認してやる方が賢明だ。
「ちゃんと仕事もしろよ」
「分かってるって」
 暇があれば終日ゲームに明け暮れているサーヴァントの中には、お供として大量の菓子を抱え込んでいる者もいる。それらから誘惑されれば、マスターとて抗いきれまい。
 ならばここで、自分が監督役を務めればいい。
 そんな気持ちでいるアスクレピオスなど露知らず、マスターは三角に切られたサンドイッチを一口齧り、上機嫌に笑った。
「あ、そうだ。アスクレピオスも食べる? 沢山作ってもらったから、あるよ」
 新鮮なキュウリに前歯を通す瞬間の、噛み砕く音まで聞こえた。食べながら喋るのは行儀が悪いが、気にする様子もなく、表情は底抜けに嬉しそうだった。
 落ち着いて作業出来る環境が手に入ったのと、夜食を許されたのと、それが思いの外美味しかったのと。
 複数の要因が混じり合った表情に、アスクレピオスは一瞬虚を衝かれ、やや遅れて肩を竦めた。
 この脳天気ぶりこそが、彼が厳しい旅路を潜り抜け、今日まで生き延びて来た原動力なのだろう。
「折角のお誘いだ。いただこうか」
 サーヴァントは本来、食事を必要としない。マスターであれば、知らない筈がない。
 だというのに、彼はアスクレピオスに自身の食べ物を分け与えようとする。食事を共にする機会を作り、時間を共有することは、彼にとって、息をするのと同じくらい当たり前のことなのだ。
「どうぞ、どうぞ」
 背凭れのある椅子を引き、立ち上がれば、マスターは益々嬉しそうに顔を綻ばせた。
 作業途中のタブレット端末を脇へ追いやり、入れ替わりにサンドイッチの皿を引き寄せた。一方で自身は手に持った分を更に一口、齧ろうとした。
 栄養価だけでなく、見た目の華やかさも考慮して作られた、夜食用のサンドイッチの数々。
 けれどアスクレピオスの目に映るのは、歯形が残る不格好なひと切れだけだった。
「もらうぞ」
「え?」
 今まさにマスターが口につけようとしていたものへと身を乗り出し、同時に手も出した。
 肉付きが悪いが骨は太い手首を捕まえ、それ以上動かないよう固定して、瞼を伏した。
 長く伸ばした髪が邪魔で、空いている手で掻き上げる。直前、マスターの惚けた顔が見られたのは、役得と言わざるを得まい。
「あ――――ンム」
「ちょっと、なんで」
 大きく口を開け、半月状に刻まれた歯形に覆い被さった。喉の奥まで押し込んで、ひと息で噛み千切った。
 しっとり柔らかなパンと、瑞々しいキュウリの歯応えの中に、ほんの僅かに漂うマスターの魔力。
 椅子に座ったまま唖然とする青年に不敵に笑いかけ、アスクレピオスは唇に付着したマヨネーズを舐めた。蛇を真似て舌をくねらせれば、一連の動きを見守っていたマスターが、ごくりと音を立てて唾を飲んだ。
 朗らかだった表情が強張り、緊張が窺えた。だらしなく開いていた膝がサッと閉じられ、利き手は太腿に押しつけられた。
「確かに、美味いな。マスター?」
 サーヴァントにとって、マスターの魔力は貴重な活動源であり、最高のご褒美でもある。
 その自覚すらなく、無邪気に差し出されて、どうして食べずにやり過ごせるというのだろう。
「いや、あの、えっと。……そういう、つもりじゃ」
 吐息が掠める近さから覗き込み、囁かれ、マスターが目を泳がせて口籠もる。
 その身体はもぞもぞ動き、床に押し当てられた爪先はひっきりなしに左右に踊っていた。
 彼の脳裏に何が過ぎっているのかは、想像に難くない。けれど。
「分かっている。冗談だ。さっさと終わらせろ」
「あいたっ」
 今がそういう場合でないのは、アスクレピオスも承知していた。ほかに、先に、やるべきことがある。それが終わらなければ、明日の朝、灸を据えられるのはこちらだ。
 すっと退き、顔を赤らめた青年の頭を軽く叩く。力を入れたつもりはなかったが、彼は大袈裟に悲鳴を上げ、恨めしげにアスクレピオスを睨んだ。
「……無事に終わったら、な」
「は~い」
 その眼力には、逆らえない。
 不満を訴える眼差しに降参し、白旗を振る。
 交換条件を提示されたマスターは椅子の上で居住まいを正し、機嫌を取り戻すや否や、手元に残るサンドイッチを舐めた。

2020/03/15 脱稿
よろづ世をかけてにほはす花なれば 今日をも飽かぬ色とこそ見れ
風葉和歌集 127