世の常の 言の葉ぞとや いひなさん

 カルデアには、ごく稀に、知らないうちに新しい施設が出来ている、という事があった。
 地下に設けられた図書室も、マスターである藤丸立香には事前になんの相談もなかった。急に読書に励むサーヴァントが増えたのを怪訝に思っていたら、そういうものが出来たと、後になって教えられたくらいだ。
 今回もまた、そう。いつの間にか空間が拡張され、照明や水道、暖房といった設備が整えられて、小さいながらも植物園が開設されていた。
 てっきりフランケンシュタインの希望を、彼女と仲が良いモードレッドが叶えてやったのかと思っていた。しかし詳しい話を聞いてみれば、どうも違うらしかった。
「うわ、あっつ」
 興味本位で訪れた空間は、ほんのりと蒸し暑い。他より湿度が高めに保たれており、むわっとした空気は土臭かった。
 どこか懐かしく、ホッとする匂いだ。
 白紙化された地上では、まず嗅げないものだ。ノウム・カルデア内も基本、清潔に保たれているので、こういったものとは無縁だった。
 レイシフトした先ではトラブルの対処を優先するので、のんびり土を弄る暇もない。そう考えてみると、花々に彩られた空間に理由もなく佇むのは、とても久しぶりだった。
 背筋を伸ばして深呼吸して、ぴったり肌に密着した肌着を引っ張って空間を作る。隙間に風を送りながら辺りを見回せば、そこかしこに花を愛でるサーヴァントの姿があった。
 フランケンシュタインもいた。ベンチに腰掛け、楽しそうにしている。傍ではモリアーティが茶の準備を進めており、立香に気付いて手を振ってくれた。
 遠目なので判断がつかないが、おいで、おいで、と招かれているようにも見えた。
「後でねー」
 両手を口の横に添え、用事を済ませてからと断り、足を繰り出した。
 入り口近くの花壇に植えられた植物は色彩豊かな花が多く、背丈はどれも、そこまで高く無い。だが奥に進むに連れて植生は変化し、紫陽花や夾竹桃が現れ始めた。
 紫陽花は土壌の酸性度によって色が変わるが、ここはどういう仕組みなのか、赤と青色が共存していた。
「凝り性だなあ」
 最初に植物園の構想を打ち立てた男なら、これくらいの事は、造作もなかろう。だけれどこれが、医術とどう関わってくるのか。想像が付かなくて、立香は歩きながら首を捻った。
 もうしばらくレンガの道を進めば、蒸し暑さは幾分和らいだ。だが気温自体はそう変わっておらず、単に身体が慣れただけだろう。
 故郷にいた頃の、梅雨の時期の感覚が、ほんの少し戻って来た感じだ。
「懐かしいなあ」
 咲き乱れる紫陽花を見た所為か、順応は早かった。底の厚いブーツで整備された小径を行き、人影を探す。南洋系の植物が幅を利かせる区画は少し薄暗く、植物の密度も濃かった。
 その中で、背丈が一メートルをゆうに越える植物が目に付いた。
 濃い緑の葉が茂り、長く伸びた茎の先に、赤紫色の花が咲いていた。中には白を基調としたものもあったが、多くは赤い。小さなラッパが密集しているような形状で、遠くからだとスプレーで色づけされたソテツの花のようだった。
「この花は、知らないなあ」
 見覚えがないので、当然花の名前も出てこない。膝を軽く折って覗き込めば、花びらの内側に、黒っぽい斑点が広がっていた。
 外側は無地なのに、どうしてか、中にだけ柄がある。これでは目立たないのではなかろうかと、更に屈んで、顔を寄せた時だ。
「軽率に触るな、マスター」
 匂いを嗅ごうと鼻を近付けた彼を咎めて、どこからともなく声が飛んできた。
「うわ」
 警告されたが、逆にその声に驚かされた。
 若干不安定だったバランスが崩れ、ふらついて、立香は柔らかな地面に右の爪先を突っ込ませた。
 青草を踏んでしまい、そこだけがボコッと凹んだ。幸い花は無事だったが、肩が掠めたのだろう、茎からゆらゆら揺れていた。
 ドキン、と跳ねた心臓を宥め、息を整えながら振り返る。ゆっくり立ち上がる立香を待たず、銀髪の男は早足で近付いて来た。
「ジギタリスには、毒がある。触るんじゃない、この馬鹿患者が」
 言いながら、ぱっと手を掴まれた。軽く引っ張られ、立香は抵抗を諦めて従った。
 踏んでしまった場所を直したかったが、許して貰えそうにない。困った顔をしていたら、空気を読んだアスクレピオスが深々とため息を吐いた。
「注意書きは読まなかったのか」
「注意書き?」
「入り口に掲示してあっただろう。見ていないのか。希望が多かったから、手前の区画は例外にしたが、ここにあるのは、大体が毒を持つ植物だ」
「ん?」
 面倒臭そうに言って、医神の肩書きを持つ男は高い位置で揺った髪を揺らした。
 ガスマスクは装着していないが、少し前までは着けていたのだろう。頬にそれらしき痕が残っていた。
 作業中だったのに、立香の姿が見えたから、出て来たらしい。僅かに遅れて現れた機械仕掛けの蛇は、土に汚れたスコップを身体に巻き付けていた。
「毒、って。オレは、アスクレピオスが植物園を作ったって、そう聞いたから」
「……違う。僕が欲しかったのは薬草園だ」
 物騒な単語に唖然としていたら、苦々しい表情を見せられた。
 彼の思惑と、実際に出来上がったものには、大きな乖離があったようだ。短いやり取りから類推して、立香は嗚呼、と通って来た道程を思い出した。
 腰を捻って振り返れば、小径の入り口はもう見えない。ただ薔薇や、ラベンダー、露草といったものがあちこちで咲き乱れていたのは、記憶に新しかった。
 それらはサーヴァントたちの目を楽しませ、心を穏やかにしてくれる。けれどそういった区画は当初、アスクレピオスの構想にはなかった。
 この医術馬鹿が欲しかったのは、医薬品の原材料となる植物のみ。
「駄目なの?」
「結果的に、ストレス軽減の一助にはなっている。そうでなければ、とっくに潰している」
「あー、はははは。だよねえ」
 想定外の事態にはなったが、副次的効果はあった。
 いかにも医学を突き詰めた男の発想だと苦笑して、立香は美しく咲く花に視線をやった。
 この花もまた、大勢の目に触れる場所に植えられるべきではないのか。
「言っただろう、毒がある。強心剤としても使えるが、分量を間違えれば、死ぬぞ」
「そんなに?」
「お前が思うより、植物が秘める毒性は強い。注意することだ」
 折角綺麗に咲いているのに、勿体ないという思いは消えない。けれど正直に伝えれば、存外に真面目な顔で叱られた。
 甘く考え、軽く見るべきではないと怒られた。緩く握った拳で軽く頭を小突かれて、立香は反射的に首を竦めた。
 小さく舌を出し、忠告を胸に留め、蛇が運んで来た柄付きのスコップを手に取る。
「スズランもだけど、意外と、毒がある花って多いんだね」
「それ以外、防衛手段を持ち合わせていないからな」
「美しい花には、毒がある?」
「似たようなものだが、そこは棘の間違いだ。マスター」
 立香が知らないだけで、植物は見た目以上に逞しい。成る程、と得心しながら茶化せば、アスクレピオスは冷静に訂正してくれた。
 ギリシャ神話の英雄なのに、日本人である立香よりもことわざに詳しいのではないだろうか。
 英霊は召喚の際に現代の知識を与えられるというが、いったいその範囲は、どれくらいなのだろう。机に向かって教科書を開く必要がないのは、正直、羨ましかった。
 ふて腐れていたら、ちょっと遠くを見ていたアスクレピオスが姿勢を戻した。
「ん?」
 目が合って、首を捻る。そうしたら何故か笑われた。
「なに。気味悪い」
 急に噴き出されても、理由が分からない。そういうキャラだったかと怪訝にしていたら、手を横に振られた。
「いいや。マスターという存在も、大概、サーヴァントにとって毒のようなものだと思っただけだ」
「……なにそれ。すごい嫌なんだけど」
 余所を見ながら告げられた内容は、侮辱にも聞こえた。
 そうでないとしても、褒められてはいない。あまり良い気分ではなく、小鼻を膨らませて抗議をしたら、アスクレピオスは再び目を細め、笑った。
 若干自嘲気味な、穏やかで控えめな微笑みだった。
「なに?」
 追加で頬に触れられた。手袋をした指の背で、耳元から顎に向かってひと撫でされた。
 思わず警戒して、スコップを抱きかかえた。肩を跳ね上げ、身を固くして構えていたら、長い指がすい、と空を掻いた。
「遅効性で、且つ依存性が高すぎる。挙げ句治療法は、現時点ではない。僕でさえ、対処不能だ」
 お手上げとばかりに右手を高く掲げ、その動作の中でくるりと背を向けられた。
 捨て台詞を残された立香は目をぱちくりさせて、足元でとぐろを巻いていた蛇を見た。スコップの先で固いレンガをカツンと叩き、五度か、六度か、瞬きを繰り返した。
「なんて?」
 確かに聞いたのに、よく聞こえなかった。
 もう一度言って欲しくて訴えるが、アスクレピオスは振り返らない。
「なんて? ねえ、アスクレピオス。ねえってば」
 しつこく繰り返すけれど、返事は一向に得られなくて。
 痺れを切らした立香はスコップを放り出し、黒衣の背中目掛けて駆け出した。

2020/06/14 脱稿

世の常の言の葉ぞとやいひなさん いかで知らせむ思ふ心を
風葉和歌集 761

たとえば、ある朝食後の出来事として

 隣のテーブルで、小さなサイコロが天を舞った。くるくる回転しながら落ちたそれは、幾度か跳ねて、とある数字を上にして停止した。
 余程良い目が出たのだろう、頬を紅潮させた男が舌なめずりして手を伸ばした。掴んだ駒を意気揚々と六つも進めて、到達したマスを覗き込んだ。
 そこには指示が書かれている。特定のマスに駒を進めたプレイヤーは、何か特別なことをしなければならない。それが彼らの興じている、ボードゲームのルールだった。
「すまない、フジマル。これは、どういう意味なんだろう?」
「えーっと、どれどれ?」
 ただ記されている文章が、上手く理解出来なかったようだ。
 短い文面を繰り返し読んでも分からないと、キリシュタリア・ヴォーダイムはお手上げとばかりに両手を挙げた。
 白旗を振られて、彼の斜め向かいにいた青年が腰を浮かせた。椅子を僅かに後ろに引いて、身を乗り出して盤面を覗き込んだ。
「なになに。あー、キリシュ、残念。ふたマス戻る、だよ」
「戻らないといけないのか? どうして?」
 両手をテーブルに衝き立て、居並ぶ駒を倒さないよう注意しつつ、藤丸立香が肩を竦める。途端に納得がいかないと、キリシュタリアが食いついた。
 折角いの一番にゴールを目指せる場所に陣取ったのに、これでは先にサイコロを振ったペペロンチーノに追い抜かれてしまう。
 そんなオレンジ色の駒を自軍として使用する男は、悔しげに拳を作ったキリシュタリアと、苦笑する藤丸とを見比べ、堪えきれないのかクスクス笑みを漏らした。
「こんなところで揉めないの。キリシュタリア、それがこのゲームのルールなんだから」
 左手をひらひら揺らしながら諭して、勝手に黄色の、キリシュタリアの駒を動かしてしまう。
 容赦なく二マス戻された男は口惜しげに唇を噛んだ後、諦めたのか椅子に深く座り直した。
 怒りを抑え、飲み込んだ彼に安堵して、藤丸も席に戻った。背凭れを掴んで引き寄せて、今度は自分の番だと、サイコロを抓んだ。
 そして。
「カドックもやる?」
 不意にこちらを見て、急に声を高くした。
 背筋を伸ばし、朗らかな笑顔を浮かべていた。サイコロを掌で遊ばせながらも、返事を待っているのか、一向に転がそうとしない。
「は?」
 水を向けられた当人は唖然として、目を点にした。頬杖突いていた顎を僅かに浮かせて、惚けたまま瞬きを二度、三度と繰り返した。
 双六を取り囲んでいた男たちも、彼の言葉に触発され、一斉にカドックを見た。ペペロンチーノはちょっと意外そうに藤丸にも視線をやって、キリシュタリアは嗚呼、と鷹揚に頷いた。
「そうだね。人数は、多い方が良い」
「まあ、さっきからずーっと、こっち見てたし。興味あるんなら、良いんじゃない?」
「じゃあ、カドックの駒は、どれにしようかな。赤にする? それとも緑?」
「待て。勝手に参加者に加えるんじゃない」
 気がつけば、ゲームに参加する前提で話が進められていた。まだ何も言っていないのに、決めつけられて、藤丸などはゲームに使う小道具を入れた小箱をガサゴソ漁っていた。
 出てきたプラスチック製の駒は、頭でっかちな人間の形を模していた。他にも特定のマスで使えるようになるらしい、車や、飛行機といった乗り物を模したものもあった。
 それらは藤丸が、倉庫の片隅で見付けて来たという代物だった。
 既に退職した職員が残していったものらしい。外箱はかなり傷んでいたが、中身は無事だったと、彼は朝食の席で興奮しながら喋っていた。
 その流れで、キリシュタリアやペペロンチーノと、一戦交えることになったようだ。
 カドックは一連のやり取りを、彼らとは別のテーブルで、のそのそ食事をしながら聞いていた。
 それだけだ。混じりたいとは一度も思っていない。変なことをしているなと、感想を求められたら間違いなくそう答えた。
 今も飲み終えたコーヒーを片付け、部屋に帰ろうか、どうしようか悩んでいたところだ。隣のテーブルを眺めていたのは、単に騒がしかったからだ。
 実際、彼らを遠巻きに見ていた人間は、それなりの数になる。ここは食堂だ。食事を済ませても雑談に興じて、なかなか席を譲らない連中は山ほどいた。
 その中で自分だけが彼らに選ばれ、声を掛けられた、という驕りは一切持たない。むしろ迷惑だ。またこいつらに巻き込まれるのは御免だと、頭の片隅で警報が鳴り響いていた。
「僕はやらないぞ、そんなもの」
「ええー、良いじゃない。暇潰しには最適よ」
「僕は暇じゃない」
「そうか。では昨日の課題に取り組むんだね。さすがはカドック、熱心だ」
「あれは、ヴォーダイム。お前がさっさと論理演算を終わらせて、ひと通り仮説が出そろってるだろうが。嫌味か」
 胸の前で横薙ぎに腕を払い、拒否を表明するが、諦めて貰えない。
 話しているうちに段々苛々してきて、いっそ問答無用で立ち去ってやろうかと思い始めた矢先だ。
 手元に集中していた藤丸が、唐突に顔を上げ、笑った。
「うーん、やっぱりカドックは、白かな」
「そこ! 僕の髪は白髪じゃないぞ、藤丸!」
 両手に掲げ持った人形は、白色。ただし手垢が付いて、ほんの少し黒ずんでいた。
 彼がどうしてそれを手に取ったのか、理由がつぶさに読み取れた。思わず椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、噛みついたカドックに、食堂は一瞬騒然となった。
 それなりに広い空間全体に響き渡る怒号をぶつけられ、藤丸はぽかんとしていた。カドック自身もまさかここまで大きな声が出るとは思っていなくて、吼え終えてからハッとなり、気まずさから顔を逸らした。
 出した手を引っ込めることも出来ず、自然と赤くなる頬を隠して俯いていたら。
「煤けているのは可哀相だから、拭いてあげようか。貸してごらん、藤丸」
「おい、待て。どういう意味だ、ヴォーダイム」
 弁解を探している男を捨て置き、話は一方的に進んでいった。
 胸ポケットからハンカチを取り出したキリシュタリアに、藤丸は素直に応じて白色の駒を引き渡した。それがまるで、自分自身が哀れみを受けた気分になって、カドックはつい反発心を抱いた。
 そういう気遣いは嬉しくなくて、妨害すべく隣のテーブルに足を向けた。背後から駒の首を掴んで奪い取れば、椅子の上で仰け反った男が嬉しそうに破顔一笑した。
「じゃあ、カドックは藤丸の次に、サイコロを振ってくれ」
「くそっ」
 自分から歩み寄ってしまった所為で、必然的に参加者にカウントされた。
 良い具合に踊らされた気分で悪態をついたが、左手はごく自然と、無人の椅子の背凭れを掴んでいた。
 床を削りながら引き摺り、隙間を作って、どっかり座って駒を掌に転がす。
 盤上に視線を巡らせれば、スタートらしき大きめのマスに、青色の人形がひとつ、置かれていた。
 どうやらこれが、藤丸の分身らしかった。
「青、なのか」
「ふふっ」
 よく晴れた空と同じ色に目を留めていたら、ペペロンチーノが不意に笑った。頬杖をつき、唇に小指の先を引っかけて、意味ありげな眼差しを投げて来た。
「……なんだよ」
 青色の駒を軽く押し退け、空間を広げて、そこに白い駒を置く。
 隣から刺さるような視線を感じたが無視していたら、ペペロンチーノが再度、斜向かいからいやらしい目線を送り付けて来た。
「誰の影響かしらねえ」
 そうしていきなり言われて、目が点になった。
「なんだって?」
「以前のカドックなら、なにも言わずに帰っちゃいそうなのに」
「そうした方が良かったんなら、そうしてやるよ」
 呆気にとられていたら、数ヶ月前の自身を引き合いに出された。
 確かにその通りかもしれないと認めつつ、椅子に尻が貼り付いたように動けないでいる自分を、否応なしに意識させられた。
「ええ、カドックも一緒にやろうよ。やるよね?」
「そうだとも、カドック。どちらが早くゴールに辿り着けるか、勝負といこうじゃないか」
「……ヴォーダイム。お前、そういう事言うキャラだったか?」
「あらあら。そっちも、誰かさんの影響が出ちゃってるみたい。良い事だわ」
 向かい側からは懇願に近い訴えが投げかけられ、横からは急にライバル心を剥き出しにした発言が聞かれた。
 思えばカルデアに招聘された直後は、チームでの活動が義務づけられている時以外、ほとんどひとりで過ごしていた。
 その頃と比べたら、まさかBチームの最底辺の男も交え、こんな風にボードゲームを囲う日が来るなど、夢にも思わなかった。
 誰の影響かと言われたら、ひとりしか思いつかない。
「なに?」
 元凶たる男をちらりと窺えば、目が合った。
 力みのない、隙だらけの顔で首を傾げられて、カドックは反射的に舌打ちした。
「いいから、さっさと賽を投げろよ。ゲームが進まない」
「そうだった。よーし、やるぞー」
 本音を言えば肯定したくないけれど、ペペロンチーノの仮説には、首を縦に振らざるを得ない。
 騒々しい環境に腹を立てつつ、どこか安らいだものを感じている自分にため息を吐いて、カドックは分身である白い駒ごと、青色の駒を小突いた。

2020/05/31 脱稿

影ばかりだに 逢ひ見てし哉

 ぱたぱたと、足音がした。
 身軽で、可愛らしい音だ。軽快に廊下を駆けて、忙しくしているのが窺えた。
「僕も、行かないと、だけど」
 音のする方向に顔を向け、筆を置いた。朝から掛かりきりだった報告書を完成させて、歌仙兼定はぐーっと背筋を伸ばした。
 腕を頭上にやれば、ボキッと肩の骨が鳴った。長く同じ姿勢で机に向かっていた所為で、ただでさえ疲労が抜けきらない身体が悲鳴を上げていた。
 慶長熊本での任務を終えて、無事に帰還したのが昨日の夜遅く。もう日付が変わろうか、という時間帯だった。
 二度目の呼び出しを受け、ひと振り残って事後処理に当たっていた古今伝授の太刀と合流、これを回収した。彼はそのままこの本丸預かりとなり、今は古くから在る刀たちに、敷地内を案内されていることだろう。
 一足先に来ていた地蔵行平とも、再会を喜び合っていた。
 朝餉の前に、通路でばったり顔を合わせたらしい。互いの手を取り、静かに頭を垂れていたのが印象的だった。
 そんな新参者のふた振りを主賓にして、今宵は宴が催される。その準備で、屋敷内は大わらわだった。
 この五年の間に、所属する刀剣男士の数は大きく増えた。審神者によって歌仙兼定が顕現した直後は、他には小夜左文字しか居なかったというのに。
「この先、まだ増えるんだろうか。そうなると、また、座敷を広くしなければいけないな」
 日増しに賑やかさを増していく本丸は、幾度となく増改築を繰り返した結果、原形を全く留めていなかった。
 ここから更に面積を増やすとなると、中庭を潰さないといけなくなる。
 畑も、最初はふた振りだけでなんとか回せていたものが、このところは十振りでも足りないくらいだった。
 収穫される野菜の種類は多岐に亘り、料理に慣れた刀も多くなってきた。一時期は歌仙兼定と、燭台切光忠に、堀川国広辺りが交代で食事当番を回していたが、ここ最近は彼らが台所に立つ機会も減っていた。
 お蔭で安心して、調査任務に専心出来たのだけれど。
「……春も、終わってしまったなあ」
 気がつけば、暦が進んでいた。
 あれほど見事に咲き誇っていた庭の桜は、綺麗に散った。今は瑞々しい青葉が茂り、目に眩しかった。
 桜花を愛でながらの酒宴は、今年も数回、開かれた。
 そのいくつかに参加したし、一度だけだが主催もしたが、その記憶はすっかり遠くなっていた。
 慶長熊本――それはキリシタン大名が勝利した世界線。
 細川忠興が愛した女が、居るはずのない場所に存在する、時間軸。
 時間遡行軍が跋扈する、時の政府から廃棄処分が下された世界。
「はあ」
 報告書の墨が乾くのを待つ間、己が書き記した文面を読みながら、考える。
 無自覚にため息を吐いて、歌仙兼定は水分を吸って皺の寄った紙をなぞった。
 指で中空に文字を書き、記しきれなかった文面をそこに追加する。審神者は気付くだろうか。そんなことを、頭の片隅で想像した。
「いや、きっと。古今伝授の太刀が報告しているさ」
 地蔵行平の行いは、見逃せるものではない。しかし結果として、彼はガラシャに害された。そこに情状酌量の余地が生まれたのは、疑いようがない。
 彼はガラシャを姉と呼び、守ったつもりでいて、実際に守られていたのは、彼の方だった。
 どうしてそうなったかは、歌仙兼定の知るところではない。推測なら可能だけれど、彼の主観が混じる以上、後に残る書類に書き込むのは、公平性に欠けていた。
 ならば仔細を知る側に、全てを委ねてしまおう。
 無責任な発想だけれど、それくらいのことはして欲しい。和歌を詠むばかりで、会話にならないと訴える一部の刀たちの苦情を脇に捨てて、彼は四肢の力を抜き、仰向けに寝転がった。
 畳の上に横になれば、藺草の爽やかな香りが、鼻腔を擽った。
「この匂いも、久しぶりな気がするな」
 特命調査の任務中にも、本丸には何度か、定期報告も兼ねて戻って来ていた。しかしなにかと慌ただしくて、ゆっくり休んでいられなかった。
 精神的な余裕もなくて、こんな風にのんびり、脱力して過ごせるのは久々だ。
 目を瞑り、風の音に耳を澄ませた。誰かの笑い声が遠くから響いて、小鳥の囀りが心地よかった。
 あの場所には、花など咲いていなかった。
 どこまで行っても暗く、湿っぽく、かび臭い世界だった。
 それに比べて、この本丸は、生き物の宝庫だ。生命が満ち溢れ、どれもこれも瑞々しい。共同生活を送る刀剣男士たちも、生き生きとしていた。
 ぐっすり眠って、美味しいものを食べて、文化的に豊かな生活を、また送れるようになる。
 充実した時間を思い浮かべて、歌仙兼定はにんまり頬を緩めた。
 戦いの日々も、決して悪くはない。けれどそればかりでは、心が荒んでいく。あのような閉ざされた世界の、先行きが見えない環境に長く触れていたら、特に。
「はー……」
 深呼吸して、天井を仰いだ。見慣れた筈の景色が不思議と新鮮に思えて、彼は首を横向きに倒した。
 坪庭に面した障子は開け放っており、風がよく通る。簡素ながら手入れが行き届いた空間では、年中緑が美しい松の木が、優雅に枝を伸ばしていた。
 歓迎会の準備が続いているのか、忙しなく屋敷を行き交う足音は今も止まない。
 背中越しに感じる微かな振動も、悪くなかった。仲間と定めた存在が元気にやっている証拠であり、歌仙兼定の決断が正しかった証だからだ。
 真横に伸ばしていた片腕を引き寄せ、腹に置いた。呼吸の度に上下するのを面白がり、着物の皺をそっと撫でて伸ばして、臍の辺りに掌を転がした。
「僕は、あれで……良かったんだろう。ねえ、忠興……?」
 かつての主に語りかけ、返答を待たずに目を閉じた。このまま眠りたい欲に駆られたけれど、残念ながら意識は冴えたままで、暗がりに沈んでいくのを拒んでいた。
 投げ出したままの指をぴくり、ぴくりと痙攣させて、鼻から吸った息を口から吐いた。瞼越しに感じる光に頬を緩め、また聞こえて来た足音に注意を寄せた。
「そういえば、……お小夜に……まだ……」
 繰り返される足音は、短刀のものが圧倒的に多かった。
 話し声までは聞こえてこない。賑やかな喋り声は、部屋が近い打刀仲間のものが殆どだった。
 ずっと一緒に居て、別れて、この本丸で思いがけず再会した短刀は、朝餉の席でちらりと姿を見かけただけだった。
 彼は兄弟刀と共に、離れた場所に座っていた。
 距離があったけれど、目が合ったと信じている。
 信じているけれど、やはり声が聞きたかった。
「お小夜」
 名前を呼び、顔を思い浮かべれば、会いたい気持ちが急激に膨らんだ。
 たかが数日、立て続けに出陣していただけなのに。地下通路で迷い、出口が分からず手間取らされて、帰れない日もあるにはあったけれど。
 恋しさが募り、留めきれない。
 いっそ探しに行こうか。ようやく落ちて来た睡魔に抗いながら、目の前にぶら下がる選択肢を掴むかどうかで悩んだ。
 うんうん唸り、渋面を作って、胸の上にあった手で額を覆った。前髪を掻き上げ、迷う必要がどこにあるのかと、決心してカッと目を見開いた。
「歌仙?」
「うわあ!」
 そうやって取り戻した視界に、夢想し続けた顔がどん、と現れて。
 あまつさえ怪訝に名前を呼ばれて、歌仙兼定は天地がひっくり返った気分になった。
 不意を衝かれ、悲鳴を上げた。畳を思い切り打って、反動で上半身を浮かせ、その場から飛び退いた。
 これは現実か、夢か、咄嗟に判断がつかなかった。
 驚き、腰が抜けた。身体を支えていた肘が片方、カクン、と折れて、再び畳に横倒しになるまで、数秒とかからなかった。
 唖然としながら瞬きを繰り返し、荒い呼吸と共に小夜左文字を凝視する。
 穴が空きそうな程に見詰められて、短刀は気まずそうに出した手を引っ込めた。
「ごめん。起こすつもりは、なかったんだけど」
「え?」
 中途半端なところにあった右手を背中に隠し、膝をもじもじさせながら謝られた。それできょとんとなって、歌仙兼定は重い体躯を引き摺り、どうにか起き上がった。
 膝を集めてあぐらを掻いて、恐縮して小さくなっている少年に首を捻る。
「寝てた? 僕が?」
「はい」
 自分自身を指差しながら訊ねれば、彼は間髪入れずに首肯した。
 俄には信じられなくて、愕然となった。しかし障子の向こう側を見れば、記憶にあるよりも影の長さや、濃さが違っていた。
 自覚していなかっただけで、実際は少しの間、眠っていた。意識は滞りなく繋がっていたつもりでいたが、知らない間に途切れていた。
 いったいどの時点で、眠ってしまったのだろう。
 まるで身に覚えがない事実に打ち拉がれていたら、沈黙を怪しんだ小夜左文字が僅かに身を乗り出した。
「大丈夫ですか?」
「なにがだい?」
「疲れてるんじゃないですか」
 膝の前に右手を添えて、ほんの少し声を高くする。
 心に響く声色に、打刀は堪らず、頬を緩めた。
「歌仙」
 笑っていたら、咎められた。ほんの少しだけれど、拗ねた顔で詰め寄られて、歌仙兼定は左手を顔の前で振った。
「すまない。心配は要らないさ、お小夜。でも、ありがとう」
 折角案じてくれたのに、失礼な態度を取ってしまった。
 詫びて、礼も述べて、軽く頭を下げた。その上で改めて笑顔を作れば、小夜左文字は溜飲を下げて居住まいを正した。
 彼の膝元には、少し前まで部屋になかったものが置かれていた。
 即ち、湯気を立てる湯飲みと、茶菓子と。
 羊羹は丁度良い大きさに切り分けられ、そのうちの一本に爪楊枝が刺さっていた。
「僕に?」
 それらを見ながら問えば、短刀はこくりと、一度だけ頷いた。
 部屋から出て来ない打刀を心配して、様子を見に来てくれたのだろう。小腹が空いている可能性も考慮して、心憎い限りだった。
 これほど有り難い事は無い。嬉しくてならず、それだけで胸が一杯だった。
「折角だし、お小夜も、どうかな。一緒に」
「え、でも。歌仙の分しか」
「構わないさ。ひとりで食べるより、お小夜と分け合う方が、楽しいしね」
 湯飲みも一個で、短刀が己の分を考慮していなかったのは、明白だ。
 それを押し切り、甘える声を出せば、小夜左文字は目を逸らして俯いた後、仕方がない、とばかりに肩を竦めた。
「話を、聞かせて欲しくて」
 そうして盆を歌仙兼定の方へ押し出し、彼自身も座ったまま移動した。腕の力だけで身体を僅かに浮かせ、滑るようにして前に出て、手を伸ばせば届く位置に陣取った。
 青臭い風が吹き、松の枝を軽く揺らした。鳥の歌声が止んで、間を置かずに羽ばたく音が聞こえて来た。
 つられてそちらに目をやって、打刀は落ち着かない様子の小夜左文字に相好を崩した。
「古今とは、話せたのかい?」
「少し、ですけど。元気そうでなによりと、頭を撫でてくれました」
「そう。……他には?」
 古今伝授の太刀は、歌仙兼定の元の主と縁がある刀だ。それは元々、小夜左文字と同じ場所にあって、短刀だけが親から子へと受け継がれた。
 だから打刀は、実のところ、あの太刀のことを直接には知らない。知らないけれど、話は聞き及んでいた。
 主に、目の前にいる少年の姿をした付喪神の口を経て。
 この拭いようがない事実に、少なからず嫉妬した。懐かしそうに語る少年の目元がほんのり朱を帯び、口元が和らぐのを、黙って見ているしかなかったのが、悔しかった。
 急に言葉数が減った歌仙兼定を仰いで、短刀はふっ、と目を眇めた。
「紫の 色濃き時は めもはるに 野なる草木ぞ わかれざりける」
 そうして滔々と口ずさんで、羊羹に突き刺さった爪楊枝を取った。
 ひとくちで頬張れる大きさに刻まれたそれを持ち上げ、差し出す。
 鼻先に突きつけられた男は面食らったが、すぐに気を取り直し、口を開いた。
「古今が、そう?」
「はい。この本丸は、歌仙が最初に柱となった本丸ですから。そこに根を下ろす多くの刀剣男士たちも、全てが、愛おしいと」
 あの太刀はなにかにつけて、和歌で心情を伝えようとする。時には説明を省略し、少ない情報から状況を推察するよう仕向けてくるので、なかなかに面倒だった。
 戦場でずっとあの調子だったから、本丸でもきっと、同じはずだ。
「加州清光さんたちは、ぽかんとしてましたが」
「なるほど。目に浮かぶようだ」
 歌仙兼定や小夜左文字ならすぐに理解出来るけれど、それ以外の刀は、どうだろう。平安期の刀ならまだしも、新刀と分類される刀たちでは、なかなか難しいかもしれなかった。
 様子を想像したら、自然と笑みがこぼれた。羊羹の程よい甘みも相俟って、幸せな気分が胸に広がった。
「美味しいですか?」
「ああ。お小夜も食べると良い」
 空になった爪楊枝を戻し、短刀が小首を傾げる。
 頷き、彼にも促せば、小夜左文字は迷う事なく大きめのものを選び取った。
 躊躇せず、遠慮もしない。きっと他の刀相手では、こうはいかないだろう。
「これは、万屋で?」
「いいえ。甘いものは疲れを取ると聞いたので、小豆長光さんに教わって……あむ」
「お小夜が作ったのかい?」
 甘過ぎず、かといって味がぼやけることもなく。
 存外自分好みの味付けだと思って訊ねた打刀は、思いがけない返答を得て、反射的に身を乗り出した。
 膝で畳を打ち、前のめりになって距離を詰めた。大きな塊を頬張った少年は一瞬ビクッとなって、爪楊枝を咥えたまま顔を背けた。
「……いけませんか」
 やがてもごもごと、口の中に羊羹を含んだまま、小声で言った。
 不満そうな表情が、なんともいじらしく、愛らしい。
 慶長熊本へ出陣したのは、隊長である歌仙兼定を中心として、脇差と打刀を主体にした編成だった。小夜左文字は彼らと共に戦わせて欲しいと、審神者に直訴したけれど、決定は覆らなかった。
 彼も密かに、悔しい思いをしていたのだろう。
 それと同時に、戦場を駆け巡る打刀の事を愁い、思いやってくれていた。
「そう。これは、お小夜が。どうりで」
「別に、歌仙の為だけじゃないです。それに、退屈だったので。暇潰し、です」
 羊羹とひとくちに言っても、色々だ。
 これまでにも沢山の種類を、本丸で味わってきた。その中でもこれは格別だと感慨深く呟けば、照れたのか、小夜左文字が素っ気なく言い放った。
 ぷいっと明後日の方向を向くけれど、露わになっている耳は茹でられたかのように真っ赤だ。
「ふふ」
 実に愛くるしくて、笑みを隠しきれない。
 左手で口元を覆うが、それで間に合うものではない。直後にキッと睨み付けられたが、まるで怖くなかった。
「そうか。僕は、果報者だな」
 心の底からの感想を述べて、空になった自分の唇をちょいちょい、と小突く。
 早くここに、次の羊羹を運んでくれるよう、頼んだつもりだったのだけれど。
「……ありぬやと」
「お小夜?」
「こころみがてら あひみねば」
 ぼそぼそと小声で歌を口ずさまれて、歌仙兼定は眉を顰めた。
 勿論知っている和歌だ。他ならぬ古今和歌集に収蔵されている、数多ある歌の中の一首であり。
 その語るところは。
「お小夜」
「台所の手伝いがありますから、行きます」
「そんなことを言わないで」
「動けるのなら、歌仙も手伝ってください」
 上の句だけを残し、立ち上がろうとした短刀に手を伸ばして、細く華奢な腕を取った。折らないよう慎重に力を込めて、動きを制し、訴えるが、小夜左文字はつれなかった。
 早口に怒鳴られて、唾まで飛ばされて、彼の心情が上手く理解出来ない。
 熱烈な愛の歌を贈られたのに、素っ気なくされて、困惑していたら。
 首の裏側まで赤く染めた短刀が、奥歯を噛み締めた後、手首に絡まる打刀の指に反対の手を重ねた。
 表面を二度、三度と撫でて、弱い力で束縛を解いた。
「早く、準備して。早く、始められたら。……その分、早く。終わるでしょう……?」
 今宵は、古今伝授の太刀並びに地蔵行平の歓迎会が催される。大量の料理が並べられ、酒が振る舞われ、どんちゃん騒ぎは夜通し続いた。
 参加はこの本丸に所属している以上、半ば強制だ。しかし最初の挨拶と、乾杯が終われば、いつ抜けだそうが自由だった。
 その事を暗に告げられて、歌仙兼定は息を呑んだ。
 思わず庭の方を見て、現在時刻を推測した。ぐりん、と首を回して短刀を見れば、少年は目を逸らさずに頷いた。
「分かった。お小夜のたっての願いだしね」
「うるさいです」
 熱心で、情熱的な眼差しに、ごくりと喉を鳴らした。握り拳を作り、曲げた肘の内側をとん、と叩けば、下世話な言い方を叱られた。
 背中を思い切り打たれたが、あまり痛くない。呵々と笑えば、小夜左文字は益々赤くなり、頭の天辺から湯気を噴いた。

2020/05/16 脱稿

雨雲のわりなき暇を洩る月の 影ばかりだに逢ひ見てし哉
山家集 650

白詰草

 今日は朝から、災難続きだった。
 まずは、寝坊した。絶対に遅刻をしないと決めて寝床に入ったのに、いつもより早めに鳴った目覚まし時計は、寝ぼけたランボによって止められていた。綱吉はその事実に気付くことなく、ぬくぬくと布団に包まれて、惰眠を貪り続けたのだった。
 結局八時を回っても起きてこない息子を案じ、奈々が呼びに来てくれたが、時既に遅し。大慌てで身支度を調え、家を飛び出したものの、結果として鞄の中身は前日の時間割のままだった。
 挙げ句、料理上手の母手製の弁当を、忘れた。
 取りに戻る時間が惜しく、イーピン辺りが届けてくれるのを密かに期待し、そのまま学校へ。けれど正門に辿り着く前に、チャイムは無情にも鳴り響いた。
 だが簡単には諦めない。全力で走っていた綱吉は、直後、風紀委員が見張っている正面玄関ではなく、警戒が手薄な裏口からの侵入を試みた。
 余所の家のゴミ箱を足場にして、コンクリート塀を乗り越え、どうにか無事に着地を決めた。
 ここまでは、良い。最高だった。誰にも見つからず、事を成し遂げられたわけだから、本来なら拳を突き上げ万歳三唱と行きたいところだ。
 しかしコンクリートブロックを跨ぐ際、鋭く尖った出っ張りに、シャツの裾が引っかかっていた。
 怪我がなかったところだけは、幸運だったと言えるかもしれない。しかしシャツが派手に破れた。ちょっと布が解れるどころではなく、それこそ盛大に、脇から袖の付け根に到達する程だった。
 更に悪い事に、下に着込んでいたシャツが、派手な柄物だった。
 動く度に破れたシャツがはためき、隙間からピンク色のキノコという、趣味を疑いたくなる図柄が現れるのだから、赤面ものだ。これでは教室に着いたところで、自由に動き回るなど不可能だった。
 トイレにさえ、気軽に行けない。
 二時間目が始まる前に教室に入り、後は目立たないよう、大人しく過ごすのが理想の一日だった。
 だというのに、そういう日に限って、獄寺が山本と張り合い、トラブルを起こしてくれるのは、どうしてだろう。
 いや、そもそも昼休みに起きた騒動の発端は、綱吉にあったのかもしれない。
 弁当は結局、届かなかった。急いでいたので朝食も碌に食べておらず、空腹に喘ぐ彼に同情した山本が、見かねてパンを一個分けてくれたまでは良かった。獄寺が対抗意識を燃やし、自分の方がもっと上等な物を用意出来る、と息巻くまでは。
 携帯電話を使って彼はどこかに電話をし、昼休みも残り僅かになったところで、教室を出て行った。正門まで走って、戻って来た彼は、どうやらデリバリーで何かを注文したらしかった。
 獄寺が得意げに見せてくれたのは、彼がお気に入りの店の弁当だという。美味いんですよ、と言いながら差し出され、綱吉も深く考えないまま箸を取った。
 蓋を開ければ、確かに見た目は悪くなかった。ただ少し、変な臭いがした。
 嫌な予感を覚えたけれど、周りの目もあるし、なにより獄寺がわくわくしながら感想を待っている。
 大丈夫だと信じて、ひとくち食べた瞬間。
 綱吉は危うく、天国の扉を潜るところだった。
 獄寺が運んで来たのは、彼の電話を盗聴したビアンキが作った弁当だったのだ。
 泡を吹いて倒れて、慌てた友人たちによって、綱吉は保健室へ運ばれた。しかしそこを根城にしているシャマルは、男の面倒など見たくないと言って、ベッドを貸してもくれなかった。
 大量の水を飲み、胃を洗浄して毒を吐き出して、へろへろのまま午後の授業へ。勿論先生の話す内容など全く耳に入って来ず、何をしに学校に行ったのか、分からないくらいだった。
 こんな目に遭うくらいなら、家に引き籠もっていれば良かった。
「なんなんだよ、もう……」
 沢田家に住み込みの家庭教師がやって来てからというもの、騒動が騒動を呼ぶ日々の連続だ。
 命がいくつあっても足りない。悪態を吐きながらひとり歩いていた綱吉は、道端に見付けた手頃な石を蹴り飛ばそうとして、思い切り空振りした。
 爪先に引っかかりもしなかった。六角形に似た小石は変わらずそこにあり、人間をバカにするでもなく、静かだった。
「ちぇ」
 悔しくて、腹立たしいが、もう一度右足を振り上げる気は起きない。
 代わりに思い切り靴底で踏み潰してやれば、思った以上の力で抵抗された。
 薄いゴム底にめり込んで、ぐりぐり攻撃された。土踏まずを容赦なく刺激されて、何故か内臓が痛んだ。
 心の中で舌打ちして、反対の足を前に繰り出した。奇妙な敗北感に猫背を酷くして、昨日とほぼ同じ重さの鞄を肩に担ぎ直した。
 すっかりボロボロになったシャツの裂け目をなんとか隠し、泥汚れが目立つ靴から視線を前方に向ける。
 太陽は西に傾いているものの、日暮れまではまだ時間があった。
 真冬であれば、もう夕暮れも終わりに近かっただろう。しかし足元に伸びる影は、あの頃より短かった。
「今年も、暑いのかな」
 寒いのは嫌だが、暑いのも苦手だ。クーラーが効いた部屋でぐうたら過ごすのは好きだが、最近はリボーンがそれを許してくれない。
 熱中症で倒れたら、どうしてくれる。
 しばらく先の話を持ち出し、恨み言を呟いて、彼は首筋から背中に向かって駆け抜けた、ザワッとした気配に総毛立った。
 不穏な空気を感じて、反射的に背筋を伸ばした。
「なに?」
 風が吹き、河川敷の雑草が一斉にざわめく。ざああ、と川面が軽く波立ち、綱吉の不安を増幅させた。
 時同じくして、アスファルトで舗装された細い道に、黒い影がスッと駆け抜けた――ボトッと、綱吉の頭の上に何かを落として。
「ひええ?」
 ハトか、カラスかは分からない。しかし確実に、嫌な想像しか出来ない僅かな重みに半泣きになって、咄嗟に左手で髪を叩いた。
 ほんのり濡れて、微かに温かい。
 はね除けられて地面に落ちたものを睨み付け、綱吉は激しく肩を上下させた。
 一瞬で心拍数が跳ね上がり、呼吸が荒くなった。ぜいぜいと、全力疾走した後のように息を吸っては吐いて、こみ上げて来る怒りとも、哀しみともつかない感情に、奥歯をカタカタ鳴らした。
「なんなんだよ、もう!」
 雄叫びを上げ、乱暴に地面を蹴りつける。
 ただでさえ不運続きだったのに、最後の最後で、これはあり得ない。
 いったいどういう星の巡り合わせなのか。人生最悪の日がこうも量産されると、元気に明日を迎えよう、という思いも薄れてしまう。
「……泣きたい……」
 ツイてない、というひと言では済まされない。
 まだ頭に、滓が残っている気がしてならなかった。急ぎ鞄を開き、中を探ったけれど、汚れを拭き取れるタオルや、ハンカチといった類のものは、ついに見つからなかった。
 そもそも持ち歩く習慣がなかった。毎朝、母が持っていくよう勧めてくれるけれど、思春期の反発心から、従った試しはなかった。
 奈々の言う事を、素直に聞いておけば良かった。
 後悔に襲われるが、最早どうにもならない。手で拭うにしても、ではその汚れた後の手をどうするのか考えると、ひとつも身動きが取れなかった。
 このまま帰るしかない。自宅までの距離をざっと計算して、綱吉は深々と溜め息を落とした。
「最悪だ、もう」
 どうして自分ばかりが、こんな思いをしなければならないのだろう。すれ違う人は誰も彼も幸せそうで、楽しそうだというのに。
 地球上の全人類が、本来味わうべきであった不幸が、軒並み自分に押し寄せているのではなかろうか。
 そんな非科学的な妄想に取り憑かれ、世界を恨みそうになり、綱吉は天を仰いだ。
 まだ明るさが残る空は眩しく、ぷかぷか泳ぐ雲は暢気だ。
「はあああ…………」
 せめてひとつくらい、良い思いがしたい。
 今日の不幸を帳消しに出来るくらいの幸運など、そう簡単に訪れないと分かってはいるけれど。
 本日何度目か知れない溜め息を零し、綱吉は歩みを再開させた。先ほどより歩幅を狭く、速度も落として、前後左右や頭上にも注意を払いながら。
 過剰過ぎると承知しているけれど、つい、気にしてしまう。
 後ろからスピードを出して走ってくる自転車にビクつき、向かいから犬を連れて散歩中の老人には大袈裟に飛び退き、道を譲った。吼えられて、河川敷の草むらまで逃げて、リードを目一杯伸ばしても届かない安全圏で胸を撫で下ろした。
 幸運は、まだ訪れない。
 夕食が、好物だらけであれば良いのに。そんな可愛らしい願いに縋って、コンクリート製の橋を渡ろうと、斜面に生える草の中から抜け出した。
 傾斜を滑り落ちないよう注意しつつ、腹に力を込め、一歩一歩着実に。
 ここで転ぶと、洒落にならない。踏ん張って、足元に意識を集中させて、ようやく舗装された道に合流したところで。
「ん?」
 目の前に黒い影を見て、綱吉は顔を上げた。
「んげっ」
 その影の正体を目にした瞬間、彼は悲鳴を上げた。反射的に飛び退こうとして、現在地を思い出した。
 後ろに下がったら、傾斜角が三十度は超える斜面を真っ逆さまだ。いくら日中は暖かくなったといえども、川の水はまだ冷たかった。
 嫌すぎる想像に鳥肌を立て、脂汗を流し、ぎりぎりのところで踏み止まった。失礼千万の悲鳴を浴びせられた方はむすっとした表情を崩さず、片膝が半端に折れた不安定な体勢の綱吉を、黙って見下ろし続けた。
 黒の学生服を肩に羽織り、空っぽの袖には臙脂色の腕章が。やや長めの前髪に隠されていても、眼光の鋭さは少しも揺らがなかった。
 貫かれ、抉られた。
 まさに蛇に睨まれた蛙。少しでもバランスが崩れれば川面へ真っ逆さまの状況で、綱吉は一歩も動けなかった。
 指先を震わせることも、生唾を飲むことすら叶わない。
 これからいったい、何が始まるのか。
「裏門からの不法侵入」
「ひえっ」
 ドキドキしながら固まっていたら、不意に呟かれて、心臓が止まりかけた。
 それはまさに、綱吉が今朝犯した罪状のひとつ。風紀委員に遅刻を咎められるのが嫌で、正規ではないルートを使い、学校に潜り込んだ。
 シャツが破れる憂き目には遭ったが、誰にも見られていないと、高を括っていた。
「いや、あれは、その……」
 よもやここで、風紀委員長に指摘されるとは、夢にも思わなかった。
 咄嗟に言い訳しようとしたけれど、言葉が出て来ない。金魚のように口をパクパクさせていたら、黒髪の青年はふっ、と口の端を持ち上げて笑った。
 表情がほんの少し緩んで、許されたのかと、根拠もなくそう思ってしまった矢先。
「あいだっ」
 スッと持ち上がった長い指で、前触れもなく、額を弾かれた。
 ビシッ、と小気味の良い音がしたが、それを聞いたのは綱吉だけかもしれない。短い爪で皮膚を穿ち、抉られて、打たれたところが真っ赤になったのが、鏡を見なくても分かった。
 ただのデコピンなのに、この破壊力はなんだろう。
「ってえええ~~~」
 たまらず両手で額を庇い、その場に蹲った。滑らないよう、膝はアスファルトと地面の境界に押し込んで、爪先を立てて角度を調整した。
 肩からずり落ちた鞄が、膝の上で斜めに転がった。ファスナーを開きっ放しだったので、教科書が何冊か飛び出したが、拾う元気はなかった。
 まだじんじんしている箇所を撫で、生理的な意味で溢れた涙で睫毛を濡らした。鼻を啜り、喉を鳴らして、口をへの字に曲げて嗚咽を堪えた。
「次やったら、見逃してあげない」
 必死に耐えていたら、雲雀も軽く膝を曲げ、屈んだ。綱吉より若干高いところに目線を確保して、右手で頬杖をつき、不遜に言い放った。
 但し彼の言い分は、どこか可笑しい。
「そもそも、見逃してくれてないじゃないですか」
 朝の不法侵入を罰しておきながら、次は見逃さない、とはどういうことか。
 意味が分からないと不満を口にすれば、反論されると思っていなかったらしい男は一瞬目を丸くし、すぐに眇めた。
「あ、いえ。今のは、なんでもない、です……」
 不敵な表情は崩さず、値踏みするような眼差しを向けられた。下手に刺激するのは良くなかったと反省して、慌てて発言の撤回を求めた綱吉だけれど、理屈が通じない男に伝わるはずがなかった。
 デコピンで済むものが、トンファーになったら、最悪だ。
 それだけは回避したいと首を振り、俯いて恐怖に耐えていたら、この時間でも爆発している寝癖越しに、小さな溜め息が聞こえた。
 跳ね放題の髪の毛を揺らし、おずおず顔を上げた先で、雲雀は胸元から何かを取り出そうとしていた。
 白シャツの胸ポケットに指を入れ、引き抜く。
 見慣れた図柄が現れて、綱吉はきょとんとなった。
 黒表紙に金色で印刷されているのは、並盛中学校の校章だ。
 同じ物を、綱吉も持っている。勿論綱吉に限らず、あの学校に在籍する生徒は全員、通学時に携帯が義務づけられていた。
 てっきり没収された自分のものかと勘繰ったが、そうではない。そもそも今日は、風紀委員に手帳を渡してすらいない。
 ならばそれは、雲雀自身の持ち物だろう。
「立てば?」
「ひえっ、え。……はい」
 怪訝に首を傾げていたら、急に言われた。叱られたわけではないのに、大仰にビクついてしまったのを恥じて、綱吉はまだ五月蠅い心臓を服の上から宥めた。
 深呼吸を二回、三回と繰り返して、雲雀に続いて背筋を伸ばした。足元を気にしなくて済む場所まで移動して、手帳を広げた風紀委員長に瞬きを繰り返した。
「ヒバリさん?」
「あげるよ、君に」
「はい?」
 小言が始まるのを覚悟して、急ぎ詰め込んだ教科書で凸凹している鞄を抱きしめていたら。
 またもや前触れもなく言われて、綱吉は素っ頓狂な声を上げた。
 差し出されたのは、緑色の、薄くて、小さな植物だった。
 草だ。
 手帳に挟まれていたので、少々草臥れていた。茎の部分を抓んだら、上部が重くて、真ん中より下側からへにょり、と折れてしまった。
「さすがに、ハトは、面白かったね」
「うぐ」
 どうして彼が、こんなものを持っているのか。訳が分からずにいたら、追加で言われて、綱吉は喉の奥で唸った。
 まさかそんなところから、見られていたとは。
 帰ったら真っ先にシャワーを浴びると心に誓って、彼は右手の平を差し出した。
 真ん中にそっと置かれたのは、クローバーだった。しかも、四つ葉の。
「でも、ヒバリさん。なんで」
 反射的に握り締めようとして、慌てて自制した。ピクリと震えた指先を誤魔化し、飛ばされないよう壁に使って、尽きない疑問に声を高くした。
「そこの川辺で昼寝してたら、たまたま、見付けただけだよ」
 雲雀は興味なさげに言って、視線を遠くに投げた。右手は閉じた手帳を胸ポケットに戻して、動きに迷いは無かった。
 その言葉はきっと、嘘ではない。彼は並盛町の、至る所に出現する。今日は天気が良かったから、屋外の草むらに寝転がっていたとしても、なんら不思議ではなかった。
 けれど偶然目に入ったからと言って、あの泣く子も黙る風紀委員長が、四つ葉のクローバーを摘むだろうか。しかもなくさないよう、大事に、手帳に挟んでまで。
「……たまたま、ですか」
「なに。文句あるの?」
 理解は出来るが、納得は出来ない。
 そういうこともあるのかと、半信半疑のままぼそっと呟いたら、聞き捨てならなかった雲雀の目つきが鋭く尖った。
「いえ。いえ。なんでも!」
 低い声で凄まれて、急ぎ首を横に振った。
 文句など、あるわけがない。懸命に訴えて、綱吉は些か渇き気味の植物に、左手を重ねた。
 両手で挟んで、類い稀な幸運が逃げないよう、閉じ込めた。
「ふへへ」
「早く帰りなよ」
「はーい」
 クローバー自体の感触は、言ってしまえばそこまで良くなかったけれど、不思議と心がぽかぽか温かい。
 無意識に頬が緩み、気がつけば変な笑い声が漏れた。首を竦め、湧き上がるくすぐったさに身悶えていたら、仏頂面で吐き捨てられて、現実が戻って来た。
 いつの間にか、太陽は西への角度を強めていた。
 夕暮れが迫っている。雲雀の顔が赤く見えたのは、きっとその所為だ。
 だとしても。
「大事にします」
「ただの草だよ」
「それでも、です」
「ふうん。変な子」
 朝からずっとモヤモヤしていたものが、急激に晴れていく。
 ようやく心からの笑顔を浮かべた綱吉に、雲雀は相変わらず素っ気なかった。

2020/05/16 脱稿

なでしこを 思ひ出づらん 草むらに

 一世一代の告白だった。
「ま、マスター。マスター!」
 廊下を歩いていた彼を追いかけ、決意を持って呼びかけた。
 ただそれだけなのに、息が切れた。頬を上気させ、小走りに距離を詰めたパリスを振り返り、藤丸立香は一緒にいた数騎のサーヴァントに合図を送った。
「先、行ってて」
 言葉だけでなく、視線であったり、指の動きであったり。
 細かな仕草で連れていた英霊に指示を出し、渋った相手にも繰り返し言い含めて、彼だけがその場に残った。
 一仕事を終え、ようやく身体ごとパリスに向き直った青年は、穏やかに微笑み、首を右に傾がせた。
「ごめん。なに?」
 待たせてしまったことをまず詫びて、視線を合わせるべく軽く膝を折った。角度を持たせた太腿に両手を据えた彼は、数回瞬きを繰り返し、肩で息をするパリスを真っ直ぐに見詰めた。
 迷いの無い眼差しが美しく、神々しくもある。
 雨上がりの澄んだ青空を思わせる双眸に見惚れかけて、パリスはハッと息を呑んだ。
 我に返り、背筋を伸ばした。折角屈んでくれたマスターの好意に反し、ほんの少し背伸びをして、彼よりも目線の高さを上にした。
「あれ、アポロンは?」
「えっと。あの、アポロン様は。ちょっと、お留守番です」
 普段から頭上に戴く羊のぬいぐるみ、もといアポロン神は、今回は席を外して貰っていた。
 お蔭で少々心許ないし、落ち着かない。
 慣れない状況にもじもじしつつ、パリスは緩みそうになる決意を引き留め、拳を硬くした。
 指先にまで力を込めて、足は肩幅に開いた。僅かに重心を低くして、多少のことでは揺らがないよう、姿勢を安定させた。
「マスター、あの。折り入って、お話があります」
「うん?」
「あの、僕。えっと。僕、その……あの。マスター」
「うん」
 しかしいざ口を開くと、弱気が顔を出した。早々と挫けそうになり、言い淀んで、なかなか出て来ない一大決心を喉の奥で捏ね回した。
 幾度となく息継ぎを挟み、何度も詰まりなら、声を震わせた。
 マスターはその間、身じろぎすることもなく、パリスを待ち続けた。
 廊下のど真ん中なので、通り過ぎる人もいる。誰もが彼らに視線を送り、珍しい取り合わせだと言わんばかりの表情を浮かべた。
「僕、マスターのこと、が。えっと。えっと……」
 中には聞き耳を立てる英霊もいたが、大半は立ち止まることなく、そのまま通り過ぎて行った。
 誰かの足音が聞こえる度に、パリスは喋るのを止めた。衆目を浴びるのを出来るだけ避けようとして、お蔭で同じ単語を繰り返す羽目になった。
 早く言えば良いのに。この意気地無し。
 自分自身を罵る声が、内側から聞こえて来る。形のない悪意が忍び寄って、耳元で彼を誹り続けた。
 そこに混じって、完全な善意による、神の囁きが聞こえた。
「僕、あの。マスターのこと、大好き、です!」
 いつも頭の上から騒ぎ立てる、羊の声。
 甘美な誘惑を振り切り、魂を奮い立たせ、パリスは長く胸に詰まっていた感情を吐き出した。
 一気に、大声で。
 握り拳を胸に添え、一思いに叫び、頭を振った。全身を撓らせ、この小柄な体躯ではなく、本来の姿を取り戻した気持ちで、告げた。
 こんなにも腹の底から声を出したのは、いつ以来だろう。
 自分でも驚く程の声量に目をぱちくりさせていたら、思いの丈をぶつけられた方は、もっと驚いた顔をしていた。
「え、……と。ああ、うん」
 圧倒されてきょとんとして、藤丸立香は短く息を吐いた。中途半端な中腰状態を改めて、一瞬遠くを見て、頬を掻いた。
 人差し指で肌を数回小突き、掌を広げ、首筋から肩の一帯を覆い隠した。
「ありがとう。嬉しいよ、パリス」
 余所を向いて、最後に名前を呼ぶ時にだけ視線を合わせ、彼は笑った。
 感謝を伝えられたけれど、そこに深い感情は込められていない。
 照れ臭そうにしてはいるけれど、奥深くまで響いていないのがはっきりと見て取れた。
「ちっ、違います。マスター。僕の気持ちは、あの。そういうんじゃ、なくて」
 親しみを抱いている。仲間として認めている。力を貸すに値する存在だと認識している。一緒に居れば楽しい、等など。
 英霊がこの青年に従う理由は、様々だ。
 中には露骨が過ぎるほど、彼に愛情を向けるサーヴァントも居た。彼ら、彼女らのあまりにも直球なやり方は、見ているだけでも赤面ものだったが、時としてパリスを焦らせた。
 伝えたいことは、伝えなければ、伝わらない。
 胸に秘めるのではなく、実行に移さなければ、意味がない。
 これはただの親愛ではない。友愛では片付かない。だのに言い方が不味かったのか、マスターにきちんと理解して貰えなかった。
「僕は、えっと。あの。もし、この戦いが終わっても。叶うなら、ずっと、マスターのお側で。あなたと一緒に、旅をして。旅を続けて、それで。それで!」
 離れたくない。
 共に在りたい。
 共に生きたい。
 約束が欲しい。
 英霊とマスターという契約ではなく、もっと別の誓約が欲しい。
「パリス」
 分かって欲しくて、気付いて欲しい一心で、必死に捲し立てた。周囲の目など、もう気にならない。拳を振り回し、踵を上げ下げしながら訴えていたら、不意に静かに、突き刺さるような声が耳に届けられた。
 直後に、唇に指が添えられた。
 人差し指、一本だけ。それが縦に、パリスの口を塞いだ。
 静かに、の合図。
 たったそれだけで、背筋がぶるっと震え、熱を持った内臓器官が一気に冷たくなった。
 汗の雫が背中を伝った。呆然と目を見開いて、パリスは怒っているように見える青年を仰ぎ見た。
「ご、……めん、な、さ……」
 今度こそ間違えないと、決めていたのに。
 また自分は、選択を誤った。
 鋭い眼差しは、暗雲に飲まれて黒く澱んだ空の色だ。天井から照らす光を遮り、俯いてパリスを見下ろす男の貌は、険しかった。
 反射的に、謝罪していた。
 摺り足で後退して、頭を下げた。
 奥歯が震えて、カタカタ音を立てる。血の気が引いて、全身が凍えるように寒かった。
 言わなければ良かった。
 言うべきではなかった。
 神に振り回された自分の軽率な行動が、多くを傷つける結果を引き寄せる。その罪深さは身を以て学んでいたはずなのに、どうして。
 己に課せられた宿業を恨み、口惜しさに唇を噛む。
 いっそ消えてしまいたい。座に還る選択肢も含めて、突っ走ろうとした矢先に。
「……謝らないで。顔を上げて、パリス」
 小声で告げられて、パリスは息を止めた。
 ガバッと、直後には姿勢を正していた。潤んだ眼から涙が零れるのを我慢して、唇を引き結んだ。
 小刻みに震える指で服の裾を握り締めて、マスターを見る。
 彼は戸惑い気味に微笑んで、首の後ろに手を当てた。再び明後日の方向を見やった後、すぐに戻して、表情を一新させた。
 いつもの彼に戻って、小さく頭を下げた。
「パリスの気持ちは、うん。嬉しいよ。ありがとう。光栄、て言えば良いのかな。……でもさ、それは、きっと、オレがマスターで、パリスがオレのサーヴァントだから、で」
「違います。あ、いえ。その通りかも知れないけど、でも、それだけじゃないです」
「……うん。けどさ、やっぱり、あると思うんだ。それにオレは、みんなが言う程、大した人間じゃないよ。いつもさ、みんなに助けられてばっかりで。守られて、ばっかりで。パリスみたいな英雄に、こうやって相手してもらえるだけでも、奇跡みたいなものだし」
「ちがいます!」
 恐縮してか、マスターの声が小さくなる。
 心持ち早口になっている彼の弁を否定して、パリスは頭をぶんぶん振った。
 羊のアポロンが頭上に居なくて良かった。定位置に陣取っていたら、きっともの凄い勢いで飛んで行ったことだろう。
 それくらい必死に、自虐的な事ばかり口にするマスターを拒絶して、彼は鼻息を荒くした。
「僕が好きになったのは、マスターが、マスターだったからじゃないです。でも、そんなマスターだから、好きになったんです」
 顔を真っ赤にして吼えて、ふと、自分の発言内容に疑問を持った。
 ありったけの思いを詰め込んだつもりだけれど、これでは何を言っているのか、さっぱり分からないではないか。
 きちんと言語化すべきところが、感情を優先させたが為に、まるで意味不明な発言になった。
「いあ、あの。えっと、これはちがくて。ええと、ちょ、ちょっと。ちょっと待ってくださいいいい」
 整理して言い直そうと試みるが、頭が追い付かない。懸命に考えるものの、逆にどんどんこんがらがって、肝心の部分を見失ってしまった。
 混乱に陥って、目玉をぐるぐるさせていたら、頭を抱え込んで呻くパリスを前に、藤丸立香がぷっ、と噴き出した。
 緩く握った手を口元に当て、反対の手は腹に置いて、軽く身を捩りながら。
 目を瞑り、口元を綻ばせて、頬は可憐な花の如き色合いだった。
「……ありがと」
 最後に添えられた、掠れた声での囁きが胸を打つ。
 惚けた顔で固まって、パリスは二度、三度と瞬きを繰り返した。
「マスター」
「でもさ、やっぱり、ごめん。パリスが悪いんじゃないんだ。オレが、……そう。オレが。胸を張って、自分で、自分を誇れるようになってからじゃないと」
 握り拳をぱっと解いて、駆け寄ろうとしたら、制された。感情を押し殺した口調で続けられて、パリスは嗚呼、と息を吐いた。
 出しかけた足を戻し、凛と佇んで、マスターと向かい合った。
「大丈夫です。待てます。……ううん、待ちます。大丈夫です。その頃にはきっと、僕も、きっと大きくなって、こんなちんちくりんじゃない僕に戻ってますから」
「へえ。それは、楽しみ、かな」
「えへへ。自分で言うのもなんですけど、格好良かったんですからね。アキレウスにだって、負けないんですから」
 袖まくりをして肘を曲げ、力こぶを作ろうとするが、この身体ではぺたんこのままだ。
 それでも言いたい事は通じたようで、マスターは歯を見せて笑った。
 朗らかに、穏やかに。見ていて心が和む姿を眺めて、パリスはホッと胸を撫で下ろした。
「ねえ、マスター。聞いて良いですか」
「なに?」
「僕が、これが僕だと自信を持って言えるくらいの僕になれたら、また、さっきの言葉。言っても良いですか?」
 あれはどう考えても、勢い任せの、先走りたがる子供の言葉だった。
 許されたわけではないけれど、猶予をもらった。けれどそこに甘んじて、無為に時間が過ぎるのを待つのは嫌だった。
 パリス自身、この身体では出来ることが限られている。戦えるけれど、全盛期の肉体を保持している英雄たちには、到底敵わない。
 アポロン神の意向を無碍にするつもりはないけれど、悔しいとは思う。それと同時に、今の姿でだってやれることは沢山あると、可能性に気付かされた。
「それは、……つまり?」
「また、ちゃんと、告白させてください」
「ええと……」
「マスターのお返事は、いつでも構いません。でも、断られない限り、僕は諦めませんから」
 いや。きっと、断られても諦めない。諦めるくらいなら、戦争など起こさない。
 にっ、と頬を緩めて笑い、決意を口にする。マスターは一瞬ぽかんとした後、赤らんだ顔を手で隠した。

2020/05/10 脱稿

なでしこを思ひ出づらん草むらに 露かかりとも知らせてしがな
風葉和歌集 1191

キス習作5

 深夜だった。
 サーヴァントは睡眠を必要としない。故に有り余る時間を有効活用していたアスクレピオスは、一瞬発せられた微かな警告音に、即座に顔を上げた。
 読み耽っていた書物を押し退け、壁に据え付けられているモニターの数値に見入る。何が異常を訴えたのか、既に通り過ぎた後のグラフを素早く引き戻して、理解した途端、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
「チッ」
 画面上に表示されているのは、就寝中のマスターの体調を示すグラフだ。
 センサーを身体に装着しているわけではないので、完璧なデータは得られない。しかし体温、心拍数、血圧、その他諸々は、ベッドや枕、それに室内に密かに仕込んだ機器によって、常時監視下にあった。
 そのうちの一箇所が、異変を察知した。
 反応したのは音声マイクだ。
 睡眠時の寝息や、寝返りを打つ音だけなら、スイッチは入らない。しかし悪夢に魘されての呻き声や、酷い歯軋りなど、ストレスがかかっていると分かるものを拾った時は、稼働するよう設定してあった。
 それがほんの一瞬、作動した。
 普段ならば、気にしないようなレベルだ。声は小さく、しかも一度きり。
「世話の焼ける愚患者めが」
 それでもアスクレピオスは、短く吐き捨て、足早に部屋を出た。根城としているメディカルルームのドアを潜り抜け、真夜中だというのに灯りが眩しい廊下を急いだ。
 多少彩度が落とされているとはいえ、照明は明るく、足元には影が落ちた。
 ノウム・カルデアは密閉空間なので、時計をちゃんと見ていないと、今が昼なのか、夜なのか、分からなくなる時がある。それでいて消灯時間というものがないから、四六時中太陽神に覗き見られている気分になった。
 ふと気になって後ろを確認して、彼はもう一度舌打ちした。嫌なものを思い出したと、瞬時に頭を切り替えて、忌々しい羊の姿を追い払った。
 カツカツと神経質な音を響かせながらしばらく進めば、通路の端に蹲る影を見付けた。
「ん?」
「はっ!」
 怪訝に首を傾げ、よく見ようと目を凝らす。
 向こうもアスクレピオスに気付いたらしく、悲鳴とも、威嚇とも取れる声をひとつ上げ、慌てた様子で走り去った。
「あれは……」
 着物を着た、女性サーヴァントだった。ドアに片方の耳をぴったり貼り付けて、室内の様子を窺っていた。
 明らかに不審な動きだったが、何をしていたか、追いかけて問い質すのは面倒だ。
 それより優先すべき事がある。気を取り直し、彼は問題行動が多数報告されているバーサーカーが居たドアに近付いた。
 しかし、自動的には開かない。さすがに就寝中だからか、中から鍵が掛けられていた。
 霊体化すればサーヴァントは壁もすり抜けられるけれど、下手をするとマスタールーム独自の防御システムに引っかかる。
 昼夜を問わず侵入者が出て、安眠出来ない。マスターが繰り返し訴えた結果、実装された機能は、一定の効果を発揮していた。
 今は兎に角、彼をゆっくり休ませてやりたい。
 英霊たちと親睦を深めるのも大事だけれど、それでマスターが倒れては本末転倒だ。特にここ最近の旅路は、彼の心理面に大きなダメージを与えていた。
 睡眠は、大事だ。しっかり眠って、身体も、心も、存分に癒してもらわないと困る。
 ただ今夜は、少しばかり気になる兆候が確認された。医師としての直感が、見逃すべきではないと囁いていた。
「入るぞ、マスター」
 眠っている男に向かって宣告し、アスクレピオスはドア横に据え付けられているタッチパネルに手を添えた。袖越しでも、霊基パターンを読み解くには問題ない。程なくして、ドアロックは解除された。
 医者という立場から、彼にはマスタールームの鍵を開ける権限が与えられていた。勿論霊体化してすり抜けても、管制室側は問題ないと判断するだろうけれど。
 室内は天井光が消され、ベッドサイドのフットライトのみが点灯していた。
 ドアが閉まれば、そう広くもない空間は、暗闇に包まれた。辛うじて手元は見えるものの、どこまでが床で、どこからが壁なのか、咄嗟に判断がつかなかった。
 それでも少し経てば、多少は目が慣れてくる。
 慎重に足を進め、アスクレピオスは備え付けのベッドへと向かった。
 藤丸立香は右肩を下にして、横向きの姿勢で眠っていた。
 右腕は肘を折り畳んで、左腕は斜め下に向けて伸ばしていた。足は膝で軽く曲げ、右の爪先が掛け布団からはみ出ている。頭は枕の端ギリギリに留まっていた。
 寝顔は健やかだった。
「誤反応だったのか?」
 異常を探知してから数分と経っていないが、呼吸に乱れはなく、脈が安定しない、という風でもない。
 部屋の中で何かが落ちた、その音に隠しマイクが反応した可能性は否定出来なかった。
 音を拾う領域の設定を、もっと細かくすべきかもしれない。ベッドの上の、眠るマスター周辺に限定出来るよう、明日にでも技術顧問と相談しなくては。
 すべきことを定め、アスクレピオスは今一度、藤丸立香の顔を見下ろした。
「ん……すぅ……」
 白紙化された地球と、そこに生きていた存在全ての未来を背負う青年は、窄めた口から息を吐き、寝返りを打った。
 健やかに眠るのであれば、それでいい。本音を言えば、不可思議で面白い症例を見せて欲しいところだが、贅沢は禁物だ。
「問題なし、か」
 無駄足だったとは思わない。こうして直接目で見て、確かめられたのだから、むしろ得をした気分だ。
 穏やかな寝顔に、自然と頬が緩んだ。
 今や人類と呼べる種は、ごく僅かしか存在しない。アスクレピオスが診るべき患者も、数は限られていた。
 だからこそ、なんとしても彼を守り抜かなければならない。医学の発展を、更なる進歩を、こんなところで途絶えさせるなど、絶対に受け入れられなかった。
 無自覚に奥歯を噛み締め、顎が軋む感覚で我に返った。力を緩め、なにも知らず眠る子供に肩を竦め、メディカルルームへ戻ろうと左足を引いた。
「う、……っく……」
 その耳に、微かに。
 喉を引き絞っての呻き声が届けられた。
 本当に小さな、蚊の鳴くような悲鳴だった。懸命になにかを堪え、押し留めているのが感じられる、悲痛な叫びだった。
 極力音に出さず、必死に飲み込んでいる。
 外側に溢れようとするものを抱え込み、閉じ込めている。
「マスター」
 ハッと息を呑み、アスクレピオスは振り返った。早計だった自分を恥じ、枕元からその顔を覗き込んだ。
 寸前までなかった筈の汗の粒が、額にびっしり貼り付いていた。
 息は詰まり気味だが、そこまで荒くはない。正常値の範囲内だ。脈拍も、血圧にも、そこまで大きな変動は現れていなかった。
 それなのに藤丸立香の表情は苦しげで、切なげで、哀しげだった。
「あ、ぁ……あぁ……」
 仰向けの状態から後頭部を枕に押しつけ、大きく口を開いて息を吸い込んだ。目尻にはじんわり涙が滲んで、小さな粒がすうっとこめかみを伝って落ちていった。
 それで終わりだった。
 変容はすぐに収まり、まるで何事も無かったかのように、静寂が場に満ちた。
 もしやこれまでも、毎夜のように、これが繰り返されていたのだろうか。
 センサーだけの監視では、限界がある。モニターを眺めるだけでは、気付けない事がある。
 分かっていた筈だ。だのにマスターのプライバシーに考慮して、深く踏み込むのは避けていた。眠る時くらいはひとり、静かに過ごしたいという彼の意志を尊重し、配慮した結果が、これだ。
 今すぐ彼を叩き起こして、持ち前のスキルを駆使して神殿を構成し、そこに放り込んでしまいたい。己の名を冠する神殿内部で眠ってくれさえすれば、藤丸立香の夢に介入するのも、或いは可能かもしれなかった。
 しかしそれは、アスクレピオスのエゴでもある。
「ちいっ」
 今夜一番の舌打ちをして、医神の名を戴く男は顔を歪めた。右の頬をヒクリと痙攣させて、瞬間的に頭に上った血を、ゆっくりと全身に循環させた。
 勢いのままに実行しようとした自分を反省し、冷静になるよう繰り返し諭した。
 必要とあれば、強攻策も辞さない。だがマスターに断りなく実行に移すのは、藤丸立香の夢の領域に陣取る男が許さないだろう。
 あの男がなんら手出ししてこない状況から鑑みるに、そこまで深刻化している訳ではないはずだ。
「……だからといって、悪化させてみろ。許さないぞ」
 放っておいて良い問題ではないが、下手に藪を突いて蛇を出すのは、避けなければ。
 非常に危ういバランスの上で成立している青年は、今は穏やかに、暢気な寝顔を曝け出していた。
 見ていたら、あまり高くない鼻を抓んでやりたくなった。
 手が疼いたが、我慢した。代わりに顔を寄せ、寝息が落ち着いているかどうか、音を聞いて確認した。
 一定の間隔で上下する胸、そこに添えられた左手。
 暗いのでよく見えないけれど、指先は細かな傷跡でいっぱいだった。
「お前を癒すのは、僕の仕事だからな」
 守るだけなら、力があるサーヴァントであれば、誰でも出来る。しかし治せる者は限られている。人間を治療出来る英霊ともなれば、更に少ない。
 密かな自負と、優越感に笑みを浮かべ、それもすぐに消した。孤独の中で戦っているマスターをどう治療していくかを考えて、途方もない大海原に放り込まれた気分になった。
「マスター」
 口の中で小さく呟いて、アスクレピオスはそうっと、眠る青年の頬に手を添えた。
 完全な自己満足だった。このままでは帰れなくて、勝手すぎる我が儘から出た行動だった。
 藤丸立香は強まった他者の気配に鼻をむずからせ、金魚のように口をパクパクさせた。
 だが、払い除けようとはしなかった。危害を加える意志がないのを嗅ぎ取ったのか、深く息を吐き、添えられた掌の方に首を傾けた。
 頬を預け、擦り寄って、心地良さそうに顔を緩めた。
 眠っている、その筈だ。彼の意識は奥深くへ沈み、此処にはない。
 だというのに、笑った。アスクレピオスの独善的な行為を責めもせず、受け入れ、許した。
「……僕が救われて、どうする」
 自虐的に囁いて、アスクレピオスは膝を軽く曲げた。すよすよ眠る無邪気な子供に一段と近付いて、息を止めた。
 くっ、と顎に力を入れて、唇を引き結んだ。
 けれど結局、直前で緩んだ。無自覚に微笑んで、彼は藤丸立香の無防備な額に、祝福のキスを落とした。
 楽しい夢を見られるように。
 良い目覚めを迎えられるように。
 神として崇められるなど、御免だ。ずっとそう思っていた。しかし今、この瞬間だけは、このか弱き人間を守護する立場でありたかった。
 果たして傲慢な男の願いが、通じたのか。
 マスターのただでさえ締まりない頬が、ふにゃふにゃと揺れた。

2020/05/06 脱稿

思はずに 深山出でしも ほととぎす

「失礼しまーす」
 管制室から押しつけられ、もとい任せられた資料を手に医務室のドアを潜れば、微かに、不思議な匂いがした。
 青臭いような、それでいて清涼で、心地よいような。
 この部屋では、あまり嗅いだ事がない類のものだ。それでいて、どこかしら薬草めいたものにも感じられて、よく分からない。
「アスクレピオス、いるー?」
 ノウム・カルデアに属する人間、並びにサーヴァントの両方を診察する半神半人の英霊は、姿がなかった。いつも気難しそうな顔で座っている椅子は空で、書籍や書類が山積みの机は雑多に散らかっていた。
 黒、もしくは白を基調とした外観の医師に呼びかけてみるが、返事は無い。
「あれえ?」
 四六時中メディカルルームに詰めているような男が、珍しい。
 どこへ行ったのかと首を捻り、藤丸立香はダ・ヴィンチから託された資料に目をやった。
 透明だがガラス素材ではない、頑丈な容器の中身は、真っ赤な液体だ。レイシフト先で採取した素材に、これまでと異なる数値を示すものがあったとかで、詳しい分析を頼みたい、という話だった。
「置いてっちゃって良いのかな」
 どういった外観の、どのような特性を持つ獣のものかは、その場にいたマスターの口から説明するのが手っ取り早い。
 そういう事情もあって頼まれたのだけれど、肝心の相手が不在となれば、出直すべきか。
 悩み、意味もなくその場でくるりと反転して、立香は再び漂って来た匂いに顔を上げた。
「これ、かな?」
 アスクレピオスが戻って来るのを待つ間の、暇潰しを見付けた。
 昨日までは確実になかったものに気がついて、自然とそちらに足が向いた。合計四歩半で辿り着いた先にあったのは、白い可憐な花を咲かせる植物だった。
「スズラン、だっけ」
 大ぶりの花瓶に生けられ、床に直接置かれていた。
 大きな緑の葉に埋もれるようにして、一本の茎に沢山の花が並んでいる。ランプシェードにも似た花弁はどれも俯き加減で、顔を伏して恥ずかしそうにしていた。
 先ほどから鼻腔を擽る匂いは、間違いなくこの花から発せられたものだ。
 膝を折って屈み、顔を近づければ、香りは益々強まった。意識して吸い込めば、すうっと身体の中に溶け込んで、心地よい。
「誰かのお見舞い、ってわけじゃないよね」
 昨日のレイシフトでは、大きな被害は出なかった。留守番組の間で騒ぎがあったとも聞いていない。
 並べられた簡素なベッドはどれも空だし、奥にある重傷者用の治療カプセルも蓋が開いていた。この可愛らしい花を愛でる人は、メディカルルームには存在しなかった。
 残る可能性は、殺風景な室内に彩りを添えようとしたのか。
「だとしても、アスクレピオスの仕業じゃ、ないよね」
 あの治療バカが花など飾るものかと、失礼千万な事を呟いて笑っていた、その真後ろで。
「僕が、なんだって?」
「――うひゃああ!」
 その馬鹿にしていた相手の声が不意に響いて、立香は跳び上がらんばかりに驚いた。
 思わず大事な検体を放り投げ、落とすところだった。孤を描いて戻って来たのを急ぎキャッチし、無事なのを確認して安堵の息を吐いた。
 変な汗が噴き出して、心臓が口から飛び出るかと思った。
 血の気が引いて青くなった顔色を、一瞬のうちに真っ赤に染めて、彼は奥歯を噛み鳴らしながら立ち上がった。
 死者を蘇生するほどに医術に長けたが故に、大神ゼウスの雷霆を受けた男。
 太陽神アポロンと人間の女との間に誕生し、賢者ケイローンに育てられた蛇使い座の英雄。
「アスクレピオス」
「なにか、用があったんじゃないのか?」
 首を竦めて名を呼べば、白蛇を連れた男は立香が握り締めているものをチラリと見て、顎をしゃくった。
 いつ戻って来たのか、全く気付かなかった。霊体化して、最初から部屋に居たのではないかと疑いたくなるくらい、気配を感じなかった。
 止まらない汗を袖に吸わせ、息を整え、言葉を探す。
 アスクレピオスは背もたれのある椅子を引き、腰掛け、サンダルの底で床を叩いた。
「これ、えっと。ダ・ヴィンチちゃんから」
「ああ、聞いている。報告は僕から直接すると、伝えておいてくれ」
「分かった」
 急かされている気がして、若干早口になった。液体入りのボトルを差し出せば、医神は即座に理解して、左手で受け取り、興味深げに顔の高さに持って行った。
 軽く振ったかと思えば、光に透かしてじっと見詰める。
 早速集中モードに突入した彼に、苦笑を禁じ得なかった。
 一応、これで用事は終わりだ。早急に立ち去っても良いのだが、なかなかタイミングが掴めず、切り出せなかった。
「あの」
「ん?」
 黙って出て行っても、文句は言われないだろうけれど、それも若干癪に障る。
 せめて何か言い残そうと、後の事は考えずに声を振り絞ったら、アスクレピオスの意識はあっさり立香に移動した。
 目の前の検体に注目し、余所見などしないと信じていたから、意外だ。
 翡翠の眼を向けられ、思わずドキリとなった。一度だけ大きく跳ねた鼓動に息を呑み、右往左往した後、立香は足元の花瓶を指差した。
「これ、どうしたの」
 飾るのなら床ではなく、テーブルか、棚の上にすれば良いのに。
 爽やかな初夏の匂いを漂わせるスズランを示しながらの問いかけに、アスクレピオスは嗚呼、と頷いた。
「あまり触るな。毒がある」
「え、嘘」
「嘘を言ってどうする。その花瓶の水を飲むだけでも、最悪、心臓が止まるぞ」
「……嘘だあ」
 真顔で告げられたが、俄には信じ難い。
 こんなにも可愛らしい花が有毒だと言われても、簡単には納得出来なかった。
 大袈裟に言っているだけと、一笑に付そうとしたが、アスクレピオスの表情は変わらない。目つきは鋭く、真っ直ぐで、眼圧は凄まじかった。
 ヒヤッとしたものを背中に感じて、たまらず花瓶から離れた。
 先ほどまで快く感じていた匂いまで、毒かもしれないと考えたら、寒気がした。
「なんで、そんなもの」
 両手で鼻を塞ぎながらの呻き声は、掠れて、くぐもっていた。
 恐怖を滲ませた言葉に、アスクレピオスはようやく、ふっ、と気の抜けた笑みを浮かべた。
「心配するな。匂いは問題ない。但し根や葉、花にも毒が含まれている。間違っても口に入れるな。特に葉は、見た目が似ている植物と勘違いしての、誤食が多い。気をつけることだ」
「……覚えとく」
「そうしろ」
 表情は若干和らいだものの、語られる内容は至って真面目だ。注意深くスズランを観察しながら首肯して、立香はその外見を脳裏に焼き付けた。
 今後、レイシフト先で野営をした時に、役に立つかもしれない。
 野草を摘んで食べる程に困窮する事態にならないのが一番だが、知識は蓄えておくべきだ。
「ていうか、アスクレピオス。誰か毒殺したいの?」
「殺して欲しい奴がいるのか、マスター?」
「なんでオレの話になってんの」
「冗談だ。毒は、使いようによっては薬になる。実際、コンヴァラリア・トゥ・マイウから抽出したコンバラトキシン――」
「待って。コン……なに?」
 そんな有毒植物を、医務室に持ち込んだ意味は。
 薄ら寒いものを覚えて質問した立香は、続けられた言葉に眉を顰め、反射的に手を挙げた。
 流暢に喋り続ける男を遮り、あまりにも耳慣れない単語に渋面を作る。
 一方でアスクレピオスも不思議そうな顔をして、少し考え込んだ後、パチパチと目を瞬かせた。
「そうか。お前の国の言葉では、……君影草、もしくは」
「スズラン」
 どことなく辿々しく言われたけれど、生憎、その呼び名にも馴染みがない。
 最も一般的と思われる呼称を口ずさめば、アスクレピオスは鷹揚に頷いた。
「その、スズラン、も。使い方次第では薬になる。扱いは難しいが、強心剤としての効果が期待出来るからな」
 彼にとっては、その呼び方こそが不慣れなのだろう。
 立香ほどスムーズではない発音で言い直されて、なんだかくすぐったかった。
「蘇生薬に、使えそう?」
「どうだかな」
 無意識に、笑みがこぼれた。頬を緩め、心持ち声を高くして訊ねれば、調子を取り戻した医神が肩を竦めた。
 使えそうなものは、なんでも使うつもりらしい。
 研究熱心な男に目を眇めて、立香は毒とは無縁にしか思えない花を見た。
「気になるなら、何輪か、持っていっても良いぞ」
「え。それは、ちょっと……」
「注意して扱えば、そう怯える必要はない。花だって、お前を害そうとして咲いているわけではないからな」
 その視線を勘違いして、アスクレピオスが言う。
 今し方聞かされた話を思い出し、首を横に振ろうとしたら、鼻で笑われた。過剰になる必要はないと諭して、彼はゆっくり立ち上がった。
 立香が躊躇している間に、花瓶に歩み寄った。青々とした葉諸共に、三輪ほど、まとめて抜き取った。
 縦に連なる花々が一斉に揺れ動いた。
 鈴が踊り、透明な音が奏でられた気がして、立香は目を見張った。
「ここにあっても、用が済めば捨てるだけだ。飾ってやれ」
「あ、……うん。うん。ありがとう。大事にする」
 素っ気なく吐き捨て、押しつけられた。
 雫を滴らす花を慌てて抱え込んで、立香はぶっきらぼうな男と、白い花を交互に見比べた。
 照れ臭さに微笑んで、一段と強くなった香りに目尻を下げた。
「お前のような花だな」
「ええー。全然似てないよ。オレ、こんなに可愛くないよ?」
 それを眺めて、何をどう思ったのか。突然言われて、堪らず噴き出した。
 いったいどこに共通点を見出したのだろう。あまりにも突飛な感想に、ケラケラ笑っていたら、気を悪くしたアスクレピオスがむすっと口を尖らせた。
「用が済んだなら、さっさと帰れ。この愚患者が」
「言われなくても、帰りまーす。どこかに花瓶あったかな。マシュなら知ってるかな」
 乱暴に肩を突き飛ばされて、立香はあっかんべー、と舌を出した。素早く気持ちを切り替えて、ドアに向かいつつ、譲られた可憐な花に相好を崩した。
 人の気配を感知し、扉は自動的に開いて、閉ざされる。
 一気に静かになった室内にひとり佇んで、アスクレピオスは僅かに感触が残る指先を、額に持って行った。
「ひ弱そうな見た目で、全体に毒がある。……一方で、一度は止まり掛けた心臓を無理矢理動かす力もある。だというのに、当の花はそれに無自覚か」
 今頃、あの青年は嬉々として、花瓶の行方を尋ねて回っているのだろう。
 聞く相手のない独り言に自嘲して、彼は青臭い匂いを吸い込んだ。

思はずに深山出でしもほととぎす かく語らはん契りとを知れ
風葉和歌集 145

2020/05/03 脱稿

キス習作4

 彼の背中が、好きだ。
 勿論顔も、声も気に入っている。思いの外長い指も、もみあげだけが長い不思議な髪型も、大好きだ。
 ただ一点、文句があるとすれば。特異な患者や見知らぬ病気の話を話を聞けば、どんな状況下であろうともそちらに意識を奪われ、なかなか戻って来ない、というところだろうか。
 けれどひとつのことに集中し、やり遂げようという精神は、嫌いではない。だから結局、彼と、彼に関する事は、一から十まで、愛おしくて仕方がないのだ。
「……ふー……」
 まだ熱いコーヒーに息を吹きかけ、立香は揺れる湯気越しに見えた姿に目を細めた。
 先ほどから、室内に会話はない。それどころか、立香が入室した時点から、彼らはひと言も言葉を発していなかった。
 ドアを開けた瞬間、視線を向けられたから、存在は認識しているはずだ。
 完璧に無視されたのではないし、これが初めてというわけでもない。今さら傷つき、騒ぎ立てて、迷惑を掛けるつもりはなかった。
 彼は単に、机と、モニターに広げている資料を見比べ、精査する方を優先させただけだ。多くのデータを参照し、集めた情報を入力して、より精度の高いものに変換していく作業は、地味な上に、時間を要するものだった。
「いつ終わるかな」
 折角煎れたコーヒーが冷めないうちに、片付いてくれれば良いのだけれど。
 自分にだけ聞こえる音量でぼそっと呟いて、立香は傍らに置いた、もうひとつのマグカップに目をやった。
 カルデアの食堂で使っている、特に目立つ装飾もない、一般的な形のものだ。白一色で、持ち手部分はまるで耳朶のように、中央部で僅かに窪んでいた。
 そこにカーブを作ることで、握り易くしているのだろう。
 僅かな段差に指を引っかけ、底部を左手で支えながら、立香は香りが強いコーヒーを咥内に注ぎ込んだ。
「あち、ち」
 ミルクと砂糖もたっぷり入っているので、苦みは全く感じない。
 ただ熱い。味に関しては、二の次扱いだった。
「教授みたいには、いかないなあ」
 折角教えてもらったのに、まるで活かせていない。
 反省点が多過ぎると肩を竦めて、彼は穏やかに波打つ水面から視線を上げた。
 俯き加減な姿勢はそのまま、瞳だけを動かした。湯気で曇る世界に飛び込んで来たのは、腰を捻り、椅子の背凭れに肘を掛けた男の姿だった。
 白に彩られた背中ではない。
 目映い銀が煌めき、冴えた肌に唇の紅が鮮やかだ。僅かに眇められた眼は、陽光を浴びた沃野の輝きだった。
「ん、んんっ」
「声くらい、かけたらどうだ」
 気付かないうちに見詰められていたと知り、息が止まった。
 予想していなかったので、驚いた。反射的に口の中にあった液体を一気に飲み込み、軽く噎せたら、呆れ半分に叱責された。
 邪魔をしては悪いからと、遠慮していたのに、必要ないと言われた。気遣いが無駄になったのは地味に衝撃的で、哀しかったが、黙って手を伸ばされた途端、沈んだ機嫌は元に戻った。
「熱いよ」
 寄越せ、という仕草に立ち上がって、零さないよう注意しながらマグカップを差し出す。
 アスクレピオスは静かに頷き、持ち手部分に通った立香の指ごと、布越しに握り締めた。
「それじゃあ、下ろせないよ」
「なんだ。飲ませてくれるんじゃないのか」
 これではカップを手放せない。
 せめて反対側の手で底を支えてくれるよう求めれば、彼は小首を傾げつつ、低く笑った。
 茶化して、こちらの反応を楽しんでいる。
「……猫舌だから、やだ」
 その手には乗らないと頬を膨らませ、ふいっと顔を背ければ、諦めたのか、アスクレピオスは手を放した。
 代わりにテーブルに散らばっていた資料を集め、隙間を作った。メモ用紙には英語ではない文字や、複雑怪奇な計算式が多数書き込まれていて、立香にはさっぱり読み解けなかった。
「どうぞ、先生」
 その出来た空間に、淹れ立てではなくなりつつあるコーヒーをコトン、と置く。
 からかわれた腹いせに嫌みたらしく囁けば、むず痒かったのか、アスクレピオスが椅子の上で身動いだ。
 深く座り直し、爪先で床を数回叩いて、立香を仰ぎ見た。
「そちらでは、ないんだな」
「なんで? これは、オレのだよ」
 袖越しに指差しながら言われたけれど、彼の言わんとしていることは、まるで分からなかった。
 人の飲み止しを欲しがるなど、趣味が悪すぎやしないだろうか。温くなり、飲み易さが増したコーヒーを啜りつつ、首を捻っていたら、アスクレピオスはここぞとばかりにため息を吐いた。
「お前の魔力が、多少なりとも、混ざっているだろう」
 渡されたマグカップに手を伸ばした医神の口調は、至って真面目で、真剣そのものだ。
「……やめてよ。冗談でもそういうこと、言うの」
 だが内容は、褒められたものではない。洒落にならなくて、立香はむすっと頬を膨らませた。
 魔術師として産まれたわけでも、教育を受けて来たわけでもない立香に内在する魔力は、極小だ。それでも唾液や、体液には微弱に混じるようで、隙あらば直接摂取を目論むサーヴァントも、実際、何騎か存在した。
 この男は、その類ではないと信じていたのに。
 裏切られた気分で睨み付ければ、悪いと思っていないのか、アスクレピオスは呵々と笑った。
 机に寄りかかり、浅く腰掛けた立香の方を向いて、ミルクも、砂糖も足していないブラックコーヒーに舌鼓を打つ。
「僕だけじゃない。皆、言わないだけだ」
 間際に囁かれて、立香は反射的に目を逸らした。照れも臆面もなくさらりと言われたのが、何故だか無性に恥ずかしかった。
 欲望に忠実で、正直なサーヴァントと、そうではないサーヴァントの違い。
 分かってはいたけれど、認めたくなかった事を明け透けな態度で伝えられて、立香は無意識に身を捩った。
 肩幅に開いていた脚を閉じ、太腿の上に左手を置いて、マグカップを持つ右手に力を込める。
 その横でアスクレピオスは頬杖をつき、口角を持ち上げた。
「どうした、マスター。心拍数が上がっているぞ?」
「うるさいな」
 彼の目には、いったいどんな数値が表示されていると言うのだろう。
 鼓動が加速しているのを正確に指摘されて、思わず悪態を吐いた。誤魔化しにぐい、とマグカップを傾けて、甘くて苦いコーヒーを喉の奥へと押し流した。
 透き通るような爽やかな香りが、遅れて鼻腔を擽った。
「だいたいさ、オレの魔力って、どうなの。美味しいの?」
 人間は食べ物を口から体内に送り込むことで、栄養を摂取する。しかしサーヴァントは、基本的に食事を必要としなかった。
 魔力こそが、彼らを動かすエネルギーだ。しかし数多の英霊と契約する立香は、彼らを満足させるだけの魔力を有していない。もし全英霊に供給しようものなら、この身は一瞬で乾涸らびるそうだ。
 そうならない為の代替品として、カルデアの電力が、彼らとの契約維持に費やされていた。
 つまるところ、皆が欲しがるマスターの魔力だけれど、英霊の大半はそれなしで日々を営んでいた。実際に味わった経験がある者も、さほど多くはない。
 藤丸立香の魔力が如何様な味わいなのか、感想を聞ける相手は、僅かだ。
 その少数に含まれる男に興味本位で訊ねて、空になったカップを膝に置く。
 小首を傾げながらの質問に、アスクレピオスはしばらく無言だった。
「聞いて、どうする」
「べつに、どうもしない。でも、自分のことなのに、知らないのは、ちょっと悔しいかなって」
 やがてぼそっと訊き返されて、真面目に考えて、答えた。
 マスターからサーヴァントへの魔力供給は、非常時の、限定的な行為という考えしかなかった。令呪に頼れない状況で、それ以外に生き延びる術がない時に使う最終手段、という認識だった。
 だから魔力の味云々は考えてこなかったし、想像したこともなかった。
 背筋を伸ばし、天井を仰いでから視線を戻せば、頬杖を解いたアスクレピオスがマグカップを降ろすところだった。
「マスター」
「ん?」
 おいで、と手招かれたので、素直に従った。
 役目を終えたカップは机に譲り渡し、床に降り、二歩にも届かない距離を一秒足らずで詰めた。彼の座る大きめの椅子に右膝を預け、隙間に潜り込ませた。
 肘掛けに両手を置いて、二人分の体重を一脚の椅子に集中させる。
 アスクレピオスが首を僅かに傾がせるのを待って、立香は息を止めた。
 目は閉じない。慎重にタイミングと、角度を調整して、ほんの少し突き出された唇に、唇を寄せた。
「は……ン」
 吸い付いた先はほんのり温かく、ほんのり湿っていた。
 当たり前だろう、直前までコーヒーを飲んでいたのだ。鼻腔を通り過ぎた匂いも、当然の如く、その香りに染まっていた。
 擦り合わせ、軽く食んで、伸ばした舌で互いをなぞって、離れる。
「苦い……」
「甘いな」
 ほぼ同時に放たれた両者の感想は、真逆も良い所だった。
 砂糖とミルク入りを飲んでいた男と、ブラックで飲んでいた男の差だ。前髪が交差する距離から数秒間見つめ合って、先に我に返ったのは、立香だった。
「って。違うって。そうじゃなくて」
 これではただの、飲み物の感想だ。
 知りたいのは、魔力に味があるかどうか、だ。欲しい情報はこれではない、と自分自身に首を振った彼に、アスクレピオスはしどけなく微笑んだ。
「座れ、マスター」
「え、ちょっと。それは」
「魔力を吸わせてくれるんだろう?」
 寄りかかっている椅子から一旦降りるよう告げ、彼自身は椅子に浅く腰掛け直した。左右の制限がなくなった膝に身を委ねるよう促して、躊躇する立香を急かした。
 だらりと垂れ下がる袖を振り、恐らくは足元を指差して、表情はどこか楽しげだ。
 喜悦に染まる眼差しにゾクリとして、立香はここに来て初めて、自分の言動を悔やんだ。
 尻込みして、じりじり後退を図るものの、果たせない。
 二の足を踏んでいたら、焦れた男に腰を攫われた。素早く回り込んだ腕に問答無用で引き寄せられて、衝突を回避しようと踏ん張ったら、上半身だけが前方に傾く羽目になった。
「うっ」
 転ぶ恐怖に負けて咄嗟に目を閉じ、両手を突っ張らせる。
 肘掛けを掴み損ねて、ずりっと滑った。ガリガリ削られる衝撃が、指先から掌に向けて走る。心臓がきゅう、と縮こまり、全身の筋肉が硬直するのが、ありありと感じられた。
 けれど予期していた激痛は来ず、冷たい床との接吻も起こり得ない。
「お前が言い出した事だろう?」
 逃げようとしたのを咎める声が耳のすぐ傍らで響いて、その掠れる低音に、鼓膜がビリビリ震えた。
 脳髄を直接掻き回された感覚に陥って、背筋が粟立つ。
 同時に背中を撫で上げられて、ぞわっ、と鳥肌が走った。
「ひっ」
 喉を引き攣らせて悲鳴を上げれば、立香の身体を難なく受け止めた男がくくっ、と笑った。
「知りたいんじゃなかったのか?」
 左脇に潜り込んだ手と、背に添えられた手が、同時に上下に動き始めた。
 布越しの愛撫は摩擦が激しく、くすぐったいというよりは、若干痛い。繊維に引っ掻き回され、擦られて、触れられた皮膚が熱を持ち、赤く染まっていくのが見なくても分かった。
「アスクレピオス」
「口を開けろ、立香」
 なんとか肘掛けを掴み直したけれど、身体をさすられる度に膝が笑い、力が抜けて行く。
 中途半端な前傾姿勢を維持するのは辛くて、助けを懇願すれば、無情なひと言が放たれた。
 崩れかけの下半身を叱咤して、肩幅以上に足を開き、椅子から突き出た砦へと着地した。ゆっくり腰を下ろし、他者に体重を委ね、安心したところで、強張っていた頬の筋肉は自然と解けた。
 止める暇もなく、勝手に開いた唇に、生温い湿った肉が貼り付いた。
 蛇を真似て舌を伸ばしたアスクレピオスが、恐らくはわざと、たっぷりの唾液を立香へ塗り込めて、弾いた。
「ンぅ」
 ぴちゃっ、と冷えた飛沫が散った。それ以上に、水が砕け、跳ねる音が大きく響いた。
 咄嗟に仰け反り、喉を露わにした立香を追って、半神半人の英霊が両手でその細腰を掻き抱いた。落ちないよう、そして逃げられないよう左右から束縛して、無防備に晒された喉仏に齧り付いた。
 軽く牙を立て、突起を取り巻く皮膚を浅く削る。
 一歩遅れて傷つけた場所に唾液を塗布して、くにゅくにゅと、その一帯を捏ね回した。
「ひ、ゃ、あう……んっ」
 最後にちゅう、と窄めた口で吸い付いて、解き放つ。
 甘い痛みが背中を駆け抜けて、立香は無意識に、彼の腿を膝で蹴り飛ばした。
 手の位置を肘掛けからもっと内側へ移動させ、力の入らない指で白いコートを引っ掻き、握り締めた。
 気を緩めると、縋り付いてしまう。そうしたい衝動を瀬戸際で食い止めて、立香は顎を舐める男に首を振った。
 懸命に遠ざけようと試みるが、この程度で引き下がってくれるのなら、彼は英霊になどならなかっただろう。
 最後まで粘り、足掻き、食らいつき、運命を諦めなかったからこそ、この男は今、此処に在るのだ。
 英霊という存在のしぶとさ、しつこさを、身を以て体感しながら、耳朶まで登って来た舌先に首を竦めた。ぞわぞわっと湧き起こる悪寒に懸命に耐えて、甘噛みからもたらされる淡い疼きに四肢を震わせた。
 自分がどこに座っているかも忘れて、立香は腰をくねらせた。直接的な刺激を自ら生み出そうとして、直後、太腿の内側を這う存在に意識を奪われた。
 いつの間にか、アスクレピオスの右手がそこにあった。左腕は背に回されたままで、変わることなく脊椎の隆起を擽っていた。
「あの、あの……待って。まって」
 黒いズボンに隠された、幾分肉厚な箇所を揉まれて、電流が走る。
 ふにゅふにゅと感触を楽しみながら弄られて、立香は舌足らずに捲し立てた。
「なにを?」
 止まってくれるよう懇願したけれど、伝わらない。
 逆に真意を聞かせるよう求められて、頭が爆発しそうだった。
 火が点いたように真っ赤になって、アワアワしていたら、開けっぱなしの口を塞がれた。問答無用で食い付かれ、前歯を閉じ切る前に、咥内に潜り込まれた。
 にゅるっと柔らかくて、生温かで、ねっとり湿ったものが歯茎をなぞり、粘膜を擦った。時に優しく、時に鋭く、傷つきやすい場所を何度も穿ち、捏ねられた。
 その度にちゅくちゅくと粘り気のある水音が弾け、頭の中に響き渡る。
「んんん~~~!」
 舐られた場所から熱が生まれ、全身へと広がっていった。脳天を貫かれる感覚が空恐ろしくて、鼻から息を吐き、悲鳴の代わりにするけれど、何の効果も得られなかった。
 そうしているうちに肺の中が空になって、頭がくらりと来た。酸欠という言葉が脳裏を過ぎり、灯る危険信号に急かされて口を開けば、それまで脳内だけに轟いていた音が、派手に鼓膜を震わせた。
 ぬちゃりと跳ねて、二重になって耳に飛び込んでくる。
「ひゃっ」
 吃驚して肩を震わせ、身を捩れば、牙を覗かせたアスクレピオスががぶり、と容赦なく噛みついて来た。
 距離を取ろうとした、と解釈したのだろう。
 唇の脇を削られて、じんじんした。血は出なかったし、傷も残らないだろうが、しばらく消えそうにない痛みに耐えていたら、怒りに駆られた行動を反省した男が、そこを執拗に舐め始めた。
 白い肌を丹念に撫で擦り、唾液を塗し、繰り返し擽る。
 一方で置き去りにされた立香の舌は、前歯の裏で行き場をなくしていた。直前までの愛撫の記憶を辿り、忘れられず、欲に喘いでひくり、ひくりと切なげに震えていた。
「やら、ぁ。そこ、ばっ、か」
 口を開けたまま訴えたら、上手に喋れなかった。
 言葉を覚えたての赤子のような哀願に、アスクレピオスは動きを止め、長い睫毛を揺らめかせた。
 肩の付け根付近を引っ掻き回されて、ふ、と力の抜けた笑みを浮かべた。愚図る子供をあやす眼差しをして、立香の目尻に浮かんだ涙を、音立てて吸い取った。
 ちゅう、と甘く響く音を残し、寸前で閉ざされた瞼と、その真下にもくちづけて、鼻筋をなぞって唇へと降りて行く。
「は……ぁ、あふ」
「良い子だ」
 先回りして口を開け、舌を伸ばして待っていたら、褒められた。頭の代わりに太腿を撫でられて、思わず腰が浮きそうになった。
 彼の親指が、深く皺を刻む足の付け根を掠めた。
「んふ、う」
 同時に、立香が無抵抗に差し出した舌を絡め取る。
 狙い澄まし、タイミングを合わせたのだ。悲鳴を上げるのも許さず、全てを自分に委ねるよう促して、普段は奥深い場所に眠っている欲望を曝け出すよう仕向けたのだ。
 表層を捏ね、唾液を啜り、または塗布して、透明な糸を垂らし、千切れないよう引き伸ばした。くちゅ、ぬちゅと淫らな音を幾重にも響かせて、呼吸を乱し、荒ぶる熱を招き寄せた。
 柔らかな肉を絶えず擽られ、舌の付け根が引き攣るように痛い。
 だのにそれさえも快感に置き換えて、立香は荒い息を吐いた。
「あ、っは……あ、す……んぁ」
 名前を呼びたいのに、上手く音を紡げない。
 途中で軽く牙を突き立てられたり、窄めた舌先でぐりぐり擦られたりと、毎回邪魔されて、叶わなかった。
「立香。……ああ、ああ」
 だというのにアスクレピオスは簡単にこちらを呼んで、感極まった声を漏らした。
 くちゃ、と一段と大きな水音の後に囁かれて、耳の奥を直接舐られた気分だった。
 奪われる。
 吸い取られる。
 骨抜きにされて、ぐずぐずに蕩かされる。
 下腹部が疼いて、腰の揺らぎが止められない。貪欲な身体がもっと、もっとと欲しがって、アスクレピオスに縋り付いた。
 彼の肩を掴む手は幾度となく滑り落ち、その度に這い上がった。首に絡めてしまえば楽なのは分かっているけれど、ちっちゃなプライドが邪魔をして、そこまでは至れなかった。
 擦られ過ぎた舌が痺れて、感覚がじわじわ鈍って行くのが分かる。
 頭の芯が熱を帯びて、思考は霞んだ。もたらされる快感と、昂ぶる一方の情欲に全身が支配されて、アスクレピオス以外、なにも目に入らなかった。
 気持ちが良い。
 どうしようもなく、心地良い。
 コーヒーの味など、もうどこにも残っていなかった。微かに燻る彼の体臭に包まれて、その匂いに染まっていく自分を否応なしに意識した。
「っあ、んむ、ン……ぅちゅ……ふふ」
 なんだか嬉しくなって、自分からも吸い付き、齧り付いた。口を窄め、啄んで、ちゅ、ちゅ、と痕には残らないキスマークをいくつも送りつけた。
 髭の無いつるりとした顎を舐めて、咬んで、嫌がられて、したり顔で笑いかけた。
 これまでたっぷり嬲られた仕返しだとほくそ笑んで、やり返しに近付いて来た彼を一度は躱し、見つめ合った上でくちづけた。
「んぅ、は……ぁ、んんっ、んむぅ、う」
 咽喉近くまで潜り込んで来た舌に付け根をぐりぐり捏ねられ、嘔吐くけれど、容赦なく叩き伏せられた。噎せたのに口を塞がれて、咳き込もうにも、出来なかった。
 行き場のない呼気を吸われ、入れ替わりに注がれた。
 唾液共々飲み込むように強要されて、逆らえるわけがなかった。
 口付けあったまま喉仏を二度、三度と上下させ、涙目で睨み付ければ、不遜な眼差しが返って来る。
 悦に入った表情を見せられて、興奮気味の吐息まで浴びせられて、身体が震えた。内側からゾクゾク来て、勝手に緊張した下半身がアスクレピオスの脚を両側から強く挟んだ。
 甘い感覚が湧き起こり、全身を染めていく。
「あまい、な」
 期待に彩られた眼差しを向ければ、ぽつりと呟かれて、立香はハッと息を吐いた。
 遅れて、羞恥心がぶわっ、と膨らんだ。そもそもの始まりを思い出して、鼻を啜り、上唇を噛んだ。
 一瞬で体温が上がった。自然と涙が溢れ、睫毛を濡らした。奥歯を噛み締め、喉をヒクヒク引き攣らせて、無条件で流されようとしていた理性を必死に引き留めた。
「アす、あ、アスクレピオス」
「なんだ? 教えて欲しかったのではないのか?」
 肩で息し、何度も言葉を噛んだ立香を真正面から見据えて、まるで悪びれもせず、医神が告げた。
 その一見涼やかな、しかしどこか余裕を失った彼の表情が、情欲を昂ぶらせた時の目つきを否応なしに想起させた。
 耳の奥深い場所で、彼が過去、暗がりの中で囁いた言葉が甦った。
 甘い。あまくて、甘くて、どうしようもなく甘い。
 蕩けるほどに、芳しい。
 どんな花の蜜にも勝るほど。
 天上の甘露にさえ、引けを取らない。
 これほどに僕を酔わせるものが、他にあるものか。
 どれだけ喰らっても、喰らっても、食い足りない。
 それらは全て、閨の中で、立香を貪り喰らう彼が紡いだことば。夢うつつの中で繰り返された、立香を味わう彼の、心からの想い。
 低く掠れた声色が、一度は止まった震えを呼び覚ました。
「あ、……や、あ、……ああっ!」
 どくりと心臓が嘶き、彼に貫かれる衝撃を再現する。
 追体験させられて、立香は咄嗟に自分自身を抱きしめた。
 熱が荒ぶる。息をするのさえ苦しい。ぞくり、ぞわりと、全身の震えが止まらない。
 俯き、唇を戦慄かせていたら、顎を取られた。指二本で上向かされて、目を逸らすのは許されなかった。
 大胆不敵な眼差しが、立香を捕らえて離さない。
「さて、マスター。次はお前の番だぞ?」
 見せつけるように舌なめずりして、アスクレピオスがにぃ、と笑った。

2020/04/29 脱稿

キス習作3

 消毒を済ませた出血箇所にガーゼを当て、外れないようにテープで固定する。
「いて、て」
 髪の生え際に近いので、粘着面が毛根とその近辺を巻き込んだ。皮膚ごと引っ張られたマスターは嫌がり、顔を顰め、首を振って逃げようとした。
「じっとしていろ」
 それを言葉で制し、アスクレピオスは紙よりも薄いテープを指で引き千切った。
 あと数回、井の字になるようテープを通し、落ちないようしっかり安定させた。無事完了した手当てに、藤丸立香は安堵の息を吐いた。
「酷い目に遭った」
「ぼうっとしているからだ」
「いやいや、これは不慮の事故であって、オレの過失じゃないし」
 傷が出来た箇所に手をやろうとして、彼は寸前で踏み止まった。まだズキズキとした痛みを覚えているのだろう、表情は憂鬱そうだった。
 普段ないものが、右の額に貼り付いているのだ。さぞや鬱陶しかろうが、今は我慢してもらうより他になかった。
「治癒魔法を使っても良いが、それに慣れ過ぎれば、自己修復能力が損なわれる。我慢しろ」
「分かってるって」
 人間には、自分の身体を自分で治そう、という機能が備わっている。無論限界はあるが、額を切って血が出た程度ならば、数日もあれば完治出来るはずだ。
 便利だからといって、その便利さに慢心していたら、いずれ手痛いしっぺ返しを喰らいかねない。
 厳しい戦いが続いているのだから、彼にはしっかりと、自分自身で管理して貰わなければならなかった。
 使った器具や、道具を片付けに入ったアスクレピオスを前に、椅子に座った立香は手持ち無沙汰なのか、足をぶらぶら揺らした。座面の縁を両手で握り締め、態度は幼い子供のようだった。
「あのさ」
「なんだ?」
 そうして何かを言いかけて、アスクレピオスが振り返ると同時に、口を噤んだ。
 目を逸らし、気まずそうな顔をする。閉ざした唇をもごもご揺らして、言うか、言うまいかで悩んでいるようだった。
「マスター?」
 食堂で喧嘩になったサーヴァントたちを止めようとして、逆にはね除けられた彼は、並べられていた机の角で顔を切った。
 傷自体は浅かったが、場所が悪かった所為で、出血が酷い。ただでさえ騒然としていた空間は、一層混乱を招き、大騒動へと発展した。
 大勢に担がれてやって来たマスターは、意識もしっかりしており、だらだら血を流してはいたものの、比較的元気だった。
 ぎゃあぎゃあ五月蠅いサーヴァントを追い出し、傷を洗って、止血をして。
 縫う必要がない程度で済んだのは、幸いだった。頻りにガーゼが貼られた場所を気にする彼に、アスクレピオスは肩を竦めた。
「三時間ほどしたら、交換する。もういいぞ」
 話が始まる気配がないので、こちらから切り出した。今出来ることは終わったと告げ、部屋に戻って構わない旨を伝えるが、立香はぽかんとしただけで、立ち上がろうとしなかった。
 椅子の上で惚けた顔をして、それから間抜けに開いていた口を閉じた。爪の先で頬を数回引っ掻き、目を泳がせた後、無意識なのか四角いガーゼを掌で覆った。
「あちっ」
 そして再発した痛みに悲鳴を上げ、首を竦めた。
 先ほどから、どうにも落ち着きがない。厚底のブーツは床すれすれのところを彷徨い、時折踵や爪先が引っかかって、膝がカクン、と微妙な動きをしていた。
「どうした、マスター。鎮痛剤が必要か?」
 そこまで手酷い怪我ではなかった筈だが、見誤ったか。
 眉を顰めて首を捻ったアスクレピオスに、立香はハッと背筋を伸ばし、すぐに猫背になった。
「いや、それは。そこまで、じゃ。あの」
「うん?」
 奥歯に物が挟まったかのような言い回しで、はっきりしない。
 怪訝に首を傾げていたら、なにか言いたそうな眼差しが向けられた。
 辺りをキョロキョロ窺って、室内には他に誰も居ないというのに、周囲を警戒している。内緒話をしたい雰囲気を気取って、アスクレピオスは苦笑を漏らした。
「なんだ?」
 言い難そうにしているマスターを気遣い、医神はサンダルの底で床を蹴った。カツカツ、と固い足音を数回響かせて、白く長い袖を揺らめかせた。
 患者が座った丸椅子の前に立ち、軽く膝を曲げ、腰を屈めた。距離を詰め、視線が難なく交錯する高さを提供してやれば、立香は少し嬉しそうに、顔を赤らめた。
「笑わない?」
「内容次第だな」
「あれ、やって欲しい。前に、ジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィがやってもらったって、言ってた」
「――――なんのことだ?」
 照れ臭そうに、彼ははにかんだ。途中からクスクス笑って、真顔で惚けたアスクレピオスの肘を小突いた。
 分かっているくせに、と態度が告げている。茶化されているのを嗅ぎ取って、医神は深々とため息を吐いた。
「ダメ?」
 断ろうとした矢先、上目遣いに乞われた。
 甘えた、鼻に掛かった小声に強請られて、アスクレピオスは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「子供か」
「減るものじゃなし。今回だけ。いいでしょ?」
 不満をぶつけるが、立香は譲らない。両手を胸の前で合わせ、可愛らしく小首を傾げて縋られて、さすがに抗い難かった。
 拒絶し続けても、しつこく食い下がってくるだろう。
 無意味な押し問答で時間を潰すのも癪で、医神は己の矜恃にそっと蓋をした。
 ただでさえ近かったマスターとの距離をもう一段階寄せて、黒髪に利き手を伸ばし、袖の上から頭を撫でた。前頭部から後頭部へ数回揺らめかせ、最後に白いガーゼに広がりつつある、赤い染みに鼻筋を寄せた。
「……痛いの、痛いの。飛んで行け――――」
 掠れる小声で囁いて、痛みが響かないよう注意しつつ、未だ塞がりきらない傷口にくちづける。
 サージカルテープの上から、ほんの一瞬だけ。
 直後に唇の裏側で舌を鳴らし、ち、と囀るような音を残した。
「満足か?」
 すぐさま離れ、要求に応じてやった報告を済ませる。
 けれど真正面に座す青年は、どこか不満げだった。
 薄紅色の唇を蛸のように尖らせて、頬は河豚の如く膨らんでいた。
「マスター」
 言葉にはしないけれど、表情が雄弁に語っていた。そうではない、と眼差しで訴えられて、アスクレピオスは肩を落とした。
 言われた通り、ジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィにしてやった事を再現したのだが。
「……子供ではないんだ。して欲しければ、ちゃんと言え」
「うぅ」
「でないと、本当はどうして欲しかったのか、分からないぞ。それで良いのか?」
 意地悪く囁き、口角を歪めた。我が儘なマスターの鼻先をちょん、と弾いて、姿勢を正す素振りを見せれば、立香が慌てて両手を振り回した。
 危うく椅子から転げ落ちそうになったが、どうにか持ち堪えて、アスクレピオスの服を思い切り引っ張る。
「あの!」
 そうして必死の形相で叫ぼうと、口を開いた。
 その彼の手を剥ぎ取り、攫い、握り締めて。
「しょうがない患者だな」
 肩幅に開いた彼の足の間に膝を滑り込ませ、椅子の隙間に半身を預けて、のし掛かる。
 圧迫された立香の身体が、後ろに泳いだ。自動的に背を逸らし、逃げようとする体躯を反対側の腕で遮り、腰を抱いて、引き寄せた。
 目は閉じなかった。
 立香も、驚愕が先に立ち、その余裕がなかったようだ。
「ンむう」
 見つめ合ったまま、食らい付くように、大きく開いた唇で強引に唇を塞いだ。もれなく行き場を失った立香の呼気は、鼻の孔から抜け出て、呻くようなくぐもった音を残した。
 真ん丸に見開かれた瞳を覗き込み、アスクレピオスは意地悪く微笑んだ。隙だらけの相手の攻略は用意で、本能的に奥へ引き籠もろうとした彼の舌を追いかけ、柔らかな微熱を叩き付けた。
 抵抗しようなどという意志を奪い去り、乱暴に、横から払い除けるように撫でつけ、唾液の糸を絡ませる。
「っう、んん~~」
 咽喉近くを刺激され、立香の身体が伸び上がった。睫毛が交錯するほどの距離で捉えた空色の眼は、瞬時に瞼の裏に秘され、見えなくなった。
 入れ替わりに、ちゅぷ、と湿った音がふたりの間だけに響き渡る。粘り気を伴った水音が狭い場所で跳ねて、濡れた肉が絡み合う感触が後に続いた。
 立香は自由が利く方の手をアスクレピオスの肩に置き、最初こそは押し退けようと足掻いた。しかし接触時間が長くなるに連れて力が抜けて、指は布の表面を滑り落ちた。
「……は、ぁう……」
「どうだ? 痛みは、飛んでいったか?」
 そのまましばらく甘い蜜を味わい、戯れた。しっとり濡れた唇を唇で捏ね、ゆっくりと距離を取り、彼の息が整うのを待たずに問いかけた。
 短い息継ぎを繰り返し、立香が僅かに潤んだ眼を、アスクレピオスに投げ返す。
「どうも、おかげさまで」
 自由になった両腕を、改めて医神の首に回して告げた彼の表情は、世界を狂わせたどの女神よりも妖しく艶を帯びていた。

2020/04/12 脱稿

キス習作1

 すいすいと、黒手袋に覆われた指が携帯端末の表面を動き回っていた。
 神話の時代の存在が、近代文明の利器を自在に操っている。カルデアに所属していなければ、そしてマスターとなっていなければお目にかかれなかっただろう光景に、立香はほう、と息を吐いた。
「ねえ」
 その最後の吐息を利用し、呼びかける。
 同時に彼は、よいしょ、とベッドから身体を起こした。
 両手と両足を使って四つん這いになってから、背筋を伸ばした。膝立ちでベッドサイドに腰掛けた男に躙り寄り、右肩にのし、と顎を乗せた。
 寄りかかり、体重を預けた。しかし黒衣の男は意に介することなく、手元に集中し続けた。
「まだ、それ、かかる?」
 持ち運びに便利なサイズの端末には、目が痛くなりそうなほどに細かな数字が、大量に並べられていた。
 立香と契約したサーヴァントたちの、様々なデータらしい。名前と性別が上部に記され、その下方に日付と、何に由来するか分からない数字が、無尽蔵に連なっていた。
 それらを並べ替え、或いは計算するために取り出して、アスクレピオスの指は忙しい。
「聞いてる?」
「聞こえている」
 返事がないのに拗ねて、首を伸ばせば、喉元に微風を受けた男がようやく言葉を発した。
 但し視線は固定されたまま、動かない。一瞥もくれない英霊にむすっと小鼻を膨らませて、立香は顎を浮かせた。
 一旦離れて、だらんと垂らしていた両腕を持ち上げた。これならどうだ、と心の中で鼻息を荒くして、男の背中に向けて、勢い良く倒れ込んだ。
「うっ」
 どすん、とぶつかられて、さすがのアスクレピオスも無視を決め込むのは難しかったらしい。
 両肩に腕を回し、抱きついて来た立香に、ようやく翡翠の瞳を投げかけた。
「マスター」
「やっと、こっち、見た」
「もう少し、待て。良い子だから」
「オレ、そんな子供じゃないんですけどー」
 若干迷惑そうに、眉間に皺を寄せて、端末から浮かせた手で黒髪をわしゃわしゃ撫でて来る。
 猫の子になった気分で首を竦めて、立香は文句を言いつつ、頬を緩めた。
 これしきのことで機嫌を取り戻してしまえるなんて、なんてお手軽なのだろう。そんな自分を悔しく思いつつ、スキンシップを純粋に喜んで、彼はゴロゴロと喉を鳴らした。
 そうすれば甘えん坊な獣と化したマスターに向け、医神が更に手を伸ばした。
 人体の急所である喉仏を撫でられたが、恐怖心は沸いてこない。むしろ信頼して、好きに任せていたら、耳の後ろから後頭部に腕が通された。
「アスクレピオス?」
「もうすぐ終わる」
 緩く力を込め、男が囁く。と同時に、彼は空いた方の手で、装着していたガスマスクを外した。
 隠れていた鼻筋から下のラインが現れて、ギリシャ彫刻にも劣らない流麗な顔立ちが露わになった。額で交差する銀の前髪を軽く揺らして、アスクレピオスはふっ、と鼻から息を吐いた。
 間近で見せつけられた微笑に見惚れ、立香は一瞬、息をするのを忘れた。
「それまで、大人しく待っていろ」
「う、……んっ」
 低い小声で告げられて、ハッと我に返った。
 返事をすべく首を縦に振ろうとしたら、立香の低い鼻に、高い鼻がぶつかった。
 思いがけず遮られ、何事かと思った時にはもう、唇が触れていた。軽く啄むように甘噛みされて、ぬるっとした温かな感触が通り過ぎていった。
 隙間から覗く赤い舌の悪戯に、自然と顔が赤く染まる。
「いきなり、は。やめてよ」
 いつまでも残る微熱が、立香からあらゆる自由を奪い去る。
 甘い色に染まった苦情を鼻で笑い飛ばして、アスクレピオスは朱を帯びた頬を擽った。

 2020/04/05 脱稿