夜もすがら 物や思へる ほととぎす

 微かな物音と気配を感じ、蘭陵王は顔を上げた。
 広めのリビングルームを中心に配されたドアがひとつ、開かれようとしていた。読んでいた本に引き摺られがちな記憶を整理し、現実と非現実を区別して、彼は嗚呼、と少し困った風に目を細めた。
 今回の特異点に関して、なにか参考になればと思い、紫式部から借りた本に栞を挟む。それなりに分厚い書籍からぶら下がる紫色の紐の位置は、物語がクライマックスに突入しているのを意味していた。
 名残惜しいが、今はここまで。
 読書に夢中になっていた己を戒めて、蘭陵王はやや古めかしいデザインのソファから立ち上がった。
「マスター、眠れないのですか?」
 手元灯りにしていたランプシェードでは心許なく、壁に寄り、三つ並んだスイッチのひとつを押した。途端に天井の地味なシャンデリアがぱっと明るくなって、足元に薄い影が落ちた。
 急に辺りが眩しくなって、部屋から顔を覗かせた青年が僅かに怯む。
 了解を取ってからすべきだったと軽く悔やんで、蘭陵王は首を横に振った。
「なんか、ね。……うん。ちょっと」
 自虐的な思考を一旦脇へ置き、視線を戻せば、上着を脱いだだけの青年が照れ臭そうに呟いた。
 首を竦めて、俯きがちであり、恐縮しているようにも見える。思考がまとまらず、言葉に窮している風にも感じられて、蘭陵王は細く息を吐いた。
「なにか、お飲み物でも用意しましょうか」
「ええ、いいよ。……いや、ああ、うん。じゃあ、お水、もらえるかな」
 浅い眠りから目覚めたばかりで、意識が完全に回復しているとは言い難い状態らしい。
 手助けのつもりで、胸に手を添えて囁けば、ハッとなったマスターが途中で言い直した。
 喉は渇いていたようだ。だが準備に手間や、時間がかかる大袈裟なものは欲しくない。そういうことらしかった。
 遠慮しているようで、遠回しに強請られた。
 どこか焦っているマスターにふっ、と笑みを零して、蘭陵王は鷹揚に頷いた。
「では、少しお待ち下さい」
 料理上手のアーチャーを手伝い、何度もキッチンに入っているので、飲み物やコップの位置は頭に入っていた。冷蔵庫には、冷えた麦茶の残りがあったはずだ。
 ただの水道水では味気なかろうし、マスターの出身国からして、そちらの方が喜んでくれるに違いない。氷を二個か、三個か入れたところに注げば、寝汗で消費された水分を補うには充分だ。
 数秒先の行動を頭の中に思い描き、蘭陵王はちらりと後方を窺った。無地のタンクトップ姿の青年は、スリッパで床を削るようにして進み、先ほどまで蘭陵王が座っていたソファの向かいに腰を下ろした。
 そうして手持ち無沙汰気味に周囲を見回したものだから、一瞬だけ目があった。にこりと微笑み返せば、ぱっと目を逸らされたのは、自意識過剰かもしれないが、些か寂しかった。
「コップは、……こちらにしましょう」
 気を取り直してキッチンブースに入り、綺麗に洗われたコップをひとつ、手に取った。夕食の際にも使用したもので、丁寧にカットされたガラスが美しかった。
 逆さまに並べられていたものをひっくり返し、続けて年代物の冷蔵庫のドアを開けた。力を入れたつもりはないのに、ガコンと嫌な音がして、扉の内側に整列していた飲料のボトルが大きく波打った。
 麦茶はペットボトルではなく、花柄が愛らしいガラスの入れ物に入っていた。
 持ち運び易いよう、容器の側面には取っ手があり、その分だけ幅を利かせていた。お蔭で余分な隙間が出来て、安定が悪くなっているようだった。
「これは、どうしようもないですね」
 冷蔵庫を開閉する度にガタガタ揺れるものだから、落ち着かない。しかし綿を詰めるわけにもいかなくて、彼は苦笑しながら目当てのボトルを引き抜いた。
 ドアは手で軽く押して閉め、尻で追い打ちを掛けた。油断すると完全に閉まらない、とアーチャーが初日にぼやいていたのが、ふと思い出されたからだ。
 よく冷えた麦茶をひとり分用意してロビーに戻れば、マスターが何かを手に取り、膝で広げていた。
「どうぞ」
「ありがと。これ、読んでたの?」
「はい。前もって知識を蓄えておけば、いざという時、落ち着いて対処ができますから」
 隙間が増えたテーブルにグラスを置き、慌てて本を閉じたマスターの問いに答える。受け取った本の表紙には、おどろおどろしいイラストが描かれていた。
 タイトルも読み手の恐怖を誘う字体が使われていて、内容は言わずもがな。
 なるべく強烈なものが良い、というリクエストに紫式部が応えてくれたわけだが、実際、内容はかなり醜悪だった。
 舞台はここと同じ、山深いコテージ。合宿で訪れた若い男女がとある理由で建物内に閉じ込められ、挙げ句に殺人事件が発生する。恐怖に駆られた登場人物は次第に疑心暗鬼に陥って、更には第二の殺人が発生し、混乱は深まっていく――
 興味深そうにしているマスターの為に、内容を掻い摘まんで説明し、蘭陵王はソファに戻った。先ほどと同じ位置に腰掛けて、一度は書面を開いたが、すぐに閉じた。
「面白い?」
「そう、ですね。興味深くはありますが」
 無実でありながら疑いをかけられ、追い詰められていく登場人物には同情を禁じ得ない。しかしそうせざるを得なかった糾弾者たちの気持ちも、少なからず分かってしまう。
 不可解な現象が頻発して、ジャンルとしてはホラーであるが、人間の深層心理が強く反映された話だ。あまりにも救いがなくて、生前のあれやこれやが度々フラッシュバックするのもあり、正直一度読んだら充分、と感じていた。
 それでも途中で止めることなく、次のページを開き、最後まで読み通すつもりでいるのは、生まれ持った生真面目さが原因とも言えた。
「損な性格してるよね、蘭陵王って」
「言わないでください……」
 現在の心境を包み隠さず吐露すれば、マスターは呵々と笑った。よく冷えた麦茶を取って、軽く頭を下げた後、口をつけた。
「冷たい」
 汗をかき始めていたグラスをなぞって線を残し、ひとくち飲んで呟いて、再びグラスを傾ける。
 ごくごくと、喉仏が上下に動いた。彼自身が思っていた以上に、彼の身体は餓えていたらしかった。
 角が丸くなった氷だけになったグラスを勢い良くテーブルに置いて、マスターは濡れた口元を拭った。顔色は幾ばくか良くなって、肌も艶を取り戻し、瞳には生気が満ちていた。
「おかわり、持ってきましょう」
「いいよ、大丈夫。ありがとう」
 気持ちの良い飲みっぷりに、蘭陵王まで不思議と嬉しくなった。顔を綻ばせ、腰を浮かせたが、マスターに首を振って制された。
 仕方なくソファに腰掛け直せば、斜向かいに座る彼はふっと視線を逸らした。
 この顔が気に入らないのかと不安になって、気付けば自分の頬に手を添えていた。鼻筋を隠し、口元を覆って向かいを窺えば、マスターは依然余所を見たままだった。
 どこを見ているのかと視線の先を確かめて、納得出来る答えを見付けて、安堵する。
「……ああ。もうじき、夜明けですね」
 屋外のウッドデッキに繋がる大きな窓にはカーテンが引かれていたが、隙間から、ほんの僅かに光が差し込んでいた。
 時計を見れば、日の出まであと数分といったところだろうか。
 眠っている時、人は無防備になる。必ず誰かが起きて、警戒に当たることになっており、今宵は蘭陵王がその役目を任されていた。
 眠らないように、そして退屈しないように読み進めていた物語でも、場面はちょうど、このような時間帯に差し掛かっていた。
「太陽が湖面に反射して、綺麗ですよ」
「へえ……」
 人間であるマスターは、普段であれば今のこの時間は、夢の中だ。
 一度だけ目にした光景を口に出せば、彼は興味を示し、深く頷いた。
 しどけなく開いていた口を閉じて、何かを決意したのか、眼光を鋭くした。力強く頷いて、両手で太腿をぽん、と叩き、勢いつけて立ち上がった。
「マスター?」
「ちょっと見て来る」
「ええ? 危険ですよ」
 彼の行動の意図が読み解けず、ぽかんとしていたら、にこやかに告げられた。目を細め、悪戯っぽく歯を見せて笑いかけられて、蘭陵王は咄嗟にソファを蹴り飛ばした。
 ただでさえこの特異点では、奇怪な事ばかりが起きていた。不用意に外に出るのは、命を捨てる行為に直結した。
 慌てて追いかけ、颯爽と歩き出したマスターの手を掴む。引き留め、真顔で叱りつけるが、彼の決意は揺るがなかった。
 それどころか。
「蘭陵王が一緒なら、大丈夫だって」
 臆面もなく言われて、驚きが隠せない。
 満面の笑みで信頼を示され、唖然としてしまい、力が緩んだ。その隙に脱出したマスターは大股でロビーを横切り、止める間もなくドアを開けた。
 風が吹き込み、前髪を揺らした。本来の色を忘れた毛先を押さえつけて、蘭陵王はソファの傍らに据えていた剣を掴んだ。
「お待ちください、マスター」
 早く傍に戻らねば、と気が急いて、声が上擦った。いつでも鞘から抜けるよう構えつつ追いかけ、外に出れば、空色の瞳の青年はポーチを抜けた先の石畳に佇んでいた。
 視線は湖面に固定されていた。その向こうに連なる稜線は、同化していた夜空から分離すべく、僅かに明るく照っていた。
 警戒が必要な敵影は、今のところ見当たらない。息を潜め、注意深く探るものの、それらしき気配は皆無だった。
「霧が、邪魔かな」
 慌ただしく左右を窺う蘭陵王を知らず、前を見据えたまま、マスターが呟く。
 気温差のためか、湖の周辺には薄く霧がかかっていた。輪郭は水で滲ませたかのように揺らいで、ある意味幻想的ではあるけれど、迷い込めば足を掬われかねなかった。
 彼があまり遠くまで行かなかった原因を悟り、蘭陵王は警戒を解かないまま、注意深く歩み寄った。
「へくちっ」
「うん?」
 その耳に、微かに可愛らしい声が響いた。
「マスター?」
 今のくしゃみが、誰によるものか、一瞬分からなかった。
 この場には自身ともうひとりしか存在しないので、答えは自ずと明らかだ。だというのに随分と愛らしい声だったから、本当にそれが彼のものか、疑わずにいられなかった。
「うへへ。うん、なに?」
 半信半疑の呼びかけに、マスターは鼻の下を擦りながら答えた。露骨が過ぎる誤魔化し方は不器用の極みで、持ち合わせた性格や、生き様が垣間見えた気がした。
 頬がほんのり朱に染まっているのは、気恥ずかしさだけが原因ではあるまい。
 咄嗟に左肩に手が伸びたのは、平素の格好であれば、そこに外套を装備していたからだ。
 けれど今の服装は、夏の余暇を楽しむマスターに合わせて選んだもの。且つ涼しさを追い求めた結果であるから、夜明け前の肌寒い空気を防いでくれる装備品は、一切付随していなかった。
 高地なだけあって昼と夜の寒暖差は激しく、日中の感覚で出歩くと、身体を冷やしかねない。
「い、いえ。あの。そう、ですね。やはり、中に入った方が」
「平気だって。それに、次も見られるかどうか、分かんないし」
 提案するが、爽やかに却下された。
 屈託なく笑って告げられた後半部分は、恐らくは独り言だったのだろう。しかし朝の澄んだ空気は、考える以上に音が通った。
 湖に向き直ってしまったマスターの思いは、蘭陵王には分からない。ただ無理矢理連れ戻すと、彼も、自分も、きっと後悔しか残らないというのだけは、理解できた。
 あの物語でも、夜明けが近付く前、主人公は生存者の未来を左右する重要な決断を下していた。
 暖かな毛布を取りに戻れば、マスターをこの場にひとり残すことになる。それは許されない。ならどうするか、考えて、迷って、何気なく見たのは自身の掌だった。
「へ……くしゅっ」
「やはり寒いのではないですか、マスター」
「大丈夫だって、これくら……うわっ」
 剣を持っている手も合わせてぎゅっと握り、拳を前後に振って、彼との距離を詰めた。再びくしゃみをしたマスターに歩み寄り、語りかけ、逃げられる前に捕まえた。
 肩越しに振り向いたマスターは、予想外に近くに居た蘭陵王に驚き、悲鳴を上げた。反射的に仰け反って、彼が離れようとするのを見越して、両腕を伸ばした。
「失礼、します」
 こんなことをすれば嫌われるとか、気味悪がられて今後避けられるかもとか、考えなかったわけではない。けれど現在進行形で身体を冷やしているマスターを放置する方が、どう考えても恐ろしかった。
 遠慮がちに囁いて、縮こまった体躯を引き寄せた。なるべく肌が接する箇所を増やし、隙間を埋めて、想像以上に冷たくなっていた彼の手に手を重ねた。
 真後ろから抱きしめて、息を殺す。
 反応を窺って盗み見たマスターは、顔を背け、余所を向いていた。
「心配ないって、言ってるのに」
「申し訳ありません。これしか思いつかなかったので」
 不満げに文句を言われたが、抵抗して、振り解かれることはない。
 それがなんだか嬉しくて、蘭陵王は湖面を照らし始めた太陽ではなく、日焼けした柔らかな首筋ばかりを瞳に焼き付けた。

夜もすがら物や思へるほととぎす 天の岩戸をあけがたに鳴く
風葉和歌集 152

2020/08/22 脱稿

重ねつる 袖の名残も とまらじな

 じゃあああ、とバケツから溢れた水が砂に溶けていく。
 晴れ渡る空と同じ色をした容器の底には、それより若干色が濃く、艶があるホースの先が沈んでいた。蛇のようにうねるホースはしばし離れた場所にある水道の蛇口と繋がっており、そこから絶えることなく、水が供給され続けていた。
 時折ボコッと大きな泡を立てるバケツの水面は常に波立ち、上空から注がれる光を受けてきらきら輝いていた。乱反射する輝きは宝石の如く美しいが、じっと見詰めていると、眼を焼かれてしまいそうだった。
「まったく」
 ゆらゆら動き続ける水面をぼうっと眺めていたら、頭上から呆れた声が降ってきた。
「アスクレピオス」
 顔を上げれば、すっかり見慣れた顔がそこにあった。但し普段から見慣れた格好ではなくて、景色に馴染む夏向きの出で立ちだった。
 白いパーカーは長袖で、指先だけが辛うじて表に出ていた。反面七分丈のハーフパンツは裾が絞られており、モスグリーンの布から伸びる脚はすらっと長く、程よく引き締まっていた。
 足元はサンダルだが、安物のビーチサンダルとは違っていた。そうと分かり難いものの、踵が少し高くなっている辺り、ユニセックスのものを選んだのだろう。
 移動中に被ったのか、爪先が少し砂で汚れていた。
 水色のバケツ横に立った男をぼんやり仰いで、藤丸立香は軽く首を捻った。
 直後だ。
「砂浜を裸足で歩き回るとは、軽率が過ぎるぞ。マスター」
「冷たっ」
 不意に細長いものを、右の頬に押しつけられた。
 大量に汗を掻いた容器は紙製で、受け取って覗き込めば中に細かな氷が大量に詰められていた。太めのストローが突き刺さり、揺らせばよく冷えた飲み物が波打った。
 指先に貼り付いた水滴が、火照った身体から熱を奪って行く。
 心地よい冷たさにほうっと息を吐いて、立香はバケツに浸した足をばしゃばしゃさせた。
 跳ねた水が辺りに飛び散り、アスクレピオスの足にも掛かった。しかし医神とも呼称されるサーヴァントは気にする様子もなく、被っていたフードを外して膝を折った。
「具合はどうだ」
 邪魔になるホースをバケツから引き抜き、水中を覗き込みながら呟く。
 それが自分に向けての発言と気付くのに、立香は数秒を要した。
「えー……あー……どうだろ……」
 頭の中がふわふわして、思考が定まらないのは、きっとこの暑さの所為だ。
 前方には真っ白に日焼けした砂浜が広がり、遠く波の音がこだましていた。海水浴を楽しむ英霊らのはしゃぎ声があちこちから響き、商魂たくましいサーヴァントが呼び込みをする声がどこからか聞こえて来た。
 答えながら飲み物をひとくち飲めば、喉の奥がすーっとした。
「あ、おいしい」
 当て所なく彷徨っていた意識がふっと一箇所に定まった気がして、立香は無意識に呟き、喉越し爽やかなスポーツドリンク飲み干した。
 ずずず、と喧しく音を立てて、氷ばかりになったのに、しばらく冷えた空気だけを吸い続ける。
「もうひとつ、買って来るべきだったか」
「えー、ああ……ごめん。お代、払うよ」
「必要ない。どうせ、ほかに使い道はないからな。よく冷やしておけ」
 それを見ていたアスクレピオスがぼそっと言って、ホースをバケツに戻し、立ち上がった。
 横向いた視線の先になにがあるか、座っている立香からは見えない。けれどきっと、料理上手なサーヴァントが屋台でも開いているのだろう。
 空腹は感じないが、派手なシャツの上から胸元を撫でて、彼は上からの圧力に首を竦めた。
「ぶは」
 軽く頭を叩かれたが、この衝撃は手によるものではない。
 急激に暗さを増した視界で瞳だけを浮かせれば、視界に飛び込んできたのは木漏れ日だった。
 編み目の粗い麦わら帽子は、マシュの持ち物だったはずだ。
「被っていろ」
「はあい」
 溶けかけの氷だけになった紙コップを託し、立香は花飾りがついた帽子のつばを取った。風で飛ばされないよう、髪型が崩れるのも厭わず目深に被り直せば、満足したのか、長いもみあげをポニーテールのように束ねた男は、足早にビーチパラソルの下から出ていった。
 夏のバカンスを楽しみにしていたけれど、それ故にか、油断した。
 水着ではしゃぎ回るサーヴァントたちに混じってビーチバレーに興じ、勝ち目がないと知りつつビーチ・フラッグスに全力を出していたら、足の裏に火傷をした。
 なんだか可笑しいと思った時には、後の祭り。
 素足で熱い砂浜を走り回った結果が、バケツに浸された両足だ。
 自力で立っていられなくて、臨時で作られたこの救護所に運び込まれた。すぐさま軽度の火傷と診断されて、容赦なく水を張ったバケツに足を突っ込まれた。
 サーヴァントたちが平然としているので、深く気に留めていなかった。そもそも人間と、英霊の頑強さを同一に考えたのが、間違いの始まりだ。
 心配してついてきたマシュも、傷の度合いがそこまで酷くないと知って、ホッとしていた。
 今はどこにいるかと探せば、少し離れた場所で、ジャック・ザ・リッパーやアビゲイルたちと砂遊びに興じていた。
 炎天下で帽子もなく、新調したての水着姿なのに大丈夫かと心配になったが、彼女もまた、一介の人間とは異なる境遇にあるのを思い出した。
「かっこ悪いなあ、オレ」
「なにを、今さら」
「むうう」
 この暑さに負けたのは、自分だけ。
 マスターとしての不甲斐なさを嘆いていたら、独り言だったのに、聞かれていた。
 今度は大きめのボトル入り飲料を差し出され、立香は頬を膨らませつつ、受け取った。アスクレピオスは再度膝を折って屈み、バケツの水を掻き混ぜ、問答無用で冷やされていた足首を取った。
「うわ」
 断りのひと言くらい欲しかったが、いくら注意したところで、どうせ無駄だろう。
 ベタベタ触られるのは得意でないものの、大人しく我慢して、彼はピンク色のボトルの首を捻り、硬い蓋を外した。
 直前まで氷水で冷やされていたのか、水浸しのボトルから大量の水滴が滴り落ちる。
 サーフパンツの裾を湿らせて、ひとくち飲めば、パイナップルにも似た味が口の中に広がった。
 パッションピンクの見た目からは、あまり想像がつかない味だ。爽やかで、いかにも南国という印象を抱かせる飲み物は、熱を蓄えていた身体にすーっと馴染んだ。
「水ぶくれになっているな」
「なんか、感覚、あんまりないかも」
 十分以上流水に浸していたので、足首から先の神経が麻痺したのか、痛みはあまり感じない。
 飲みながら答えて、立香はアスクレピオスの手の上で、足指をぴこぴこ動かした。
「じっとしていろ」
 それを咎めて、医神が眉を顰める。
 物理的に制すべく、残る手で上から押さえ込まれて、立香は若干ムキになった男に肩を竦めた。
「うぷぷ。はぁい」
 折角のバカンスに、水を差されたのだ。これくらいの楽しみは、許されたい。
 口をへの字に曲げたアスクレピオスに睨まれたが、受け流して、半分ほどに減ったペットボトルに蓋をした。色鮮やかなドリンクをちゃぷちゃぷ言わせ、頬から首筋にかかる一帯に押し当てた。
 ひんやりとした感触が心地よく、うっとりと目を細めて、熱い息を吐く。
「あー……気持ちいい」
「酸化亜鉛も、アラントインもない、か。これでは、ここで手当ても出来ないな」
「移動する?」
「そうだな。お前も、その方が良いだろう。熱中症の初期段階だ」
 率直な感想を述べたら、薬箱を漁っていたアスクレピオスが真顔に戻り、タオルを取った。綺麗に折り畳まれていたものを広げ、再び四つに畳んで、立香の額に押し当てた。
 柔らかな布が視界を塞ぎ、そのまま下へ滑り落ちていった。
 意識していなかったが、汗が大量に流れていた。首筋や、ペットボトルを握る手、挙げ句前開きのシャツの内側まで拭われて、更に奥まで行きそうな予感がした立香は、慌てて彼の手首を掴んだ。
「自分でやるから」
 肩や鎖骨までなら許せるけれど、腋や大胸筋の一帯にまで及ぶのは、遠慮したかった。
 咄嗟に声高に叫び、力尽くでタオルを奪い取る。いくらボタンを外し、胸元を全開にしているからといって、軽率に人前で触られるのはお断りだった。
 焦って裏返った声は、思いの外大きく響いた。
 何事かと遠くで様子を窺うマシュらに目配せして、首を横に振り、立香は勝手に赤くなった顔でアスクレピオスを睨んだ。
「ふっ」
 途端に笑われて、余計に恥ずかしい。
 過剰反応を馬鹿にされて、立香は益々顔を赤くした。
 タオルを握り潰して押し黙れば、その間にアスクレピオスはホースの水を止め、新しいタオルで立香の足を丁寧に拭った。先ほど中身を確かめていた救急箱から消毒液を出し、真っ白いガーゼを湿らせた。
 それで水ぶくれの周辺をなぞられて、途端に激痛が走った。
「いた、た。たたっ、た」
「暴れるんじゃない」
 反射的に足を奪い返そうとしたけれど、医神の方が上手だった。踝をぎゅっと掴まれ、引っ張られて、立香は仰け反った姿勢を維持出来ず、ビニールシートの上にばったり倒れ込んだ。
 麦わら帽子や、温くなり始めていたボトルを放り出し、痛みに耐えつつ、それでも涙目で意地悪なアスクレピオスをねめつける。
「…………」
 片足を奪われた状態で転がった立香を見下ろす彼は、しばらく無言だった。
 どこを見ているのか、視線は絡まない。金混じりの翠玉の行方を追えば、珍しく、火傷した足の裏ではない場所に、注意が向いていた。
 他者に支えられ、不自然に浮いた立香の右脚。
 太腿までしかないサーフパンツの裾は広々として、ゆとりがあり、お蔭で風通しが良かった。
「アスクレピオス?」
「どうしてこんなになるまで、放っておいたんだ」
「いたた、いたい。痛いってば」
 怪訝に名を呼べば、ハッとなった彼が誤魔化しに捲し立てた。乱暴に消毒を再開されて、圧迫された水ぶくれが破裂寸前だった。
 みっともなく悲鳴を上げて、握り締めていたタオルを放り投げて、ようやく解放された。
 頭から布を被った男は嫌そうにそれを払い除け、深々と溜め息を吐いた。
「ホテルに戻るぞ」
「ちょっと、待って。オレ、立てないんだけど」
 火傷を負ったのは、右足だけではない。左足の裏側にも、もれなく大きな水ぶくれが出来上がっていた。
 消毒されるだけで、この痛みだ。立ち上がって体重を預けたら、いったいどうなるか。
 想像するだけで寒気がすると訴えた彼に、医学の始祖たるギリシャの英霊は顔を顰めた。
 露骨に嫌そうにされたが、この男が救いを求める患者を放り出すはずがない。
 打算的な要求と共に両手を伸ばした立香に、アスクレピオスはがっくり肩を落とした。
 幸い、ホテルはこのビーチからすぐ目と鼻の先にあった。正面ロビーからでなく、海辺に面したレストラン側からなら、大通りに出なくても出入りが可能だった。
 だから車椅子や、担架といった大袈裟な移動手段に頼らなくても済む。
 へら、と笑って甘えてみせたマスターに、強請られたサーヴァントは目を瞑って首を横に振った。
「暴れるんじゃないぞ」
 渋々要求を受け入れて、彼は腕を天に向かって伸ばして待つ立香に、膝で躙り寄った。
 互いの呼吸が聞こえるところまで近付いて、目と目を合わせて、互いの睫毛の長さを確かめた。先に顔を伏した立香の背に両腕を差し伸べて、キャスターとしては意外に筋肉質な男が、タイミングを計って熱っぽい体躯を引き寄せた。
 横たわる体躯を持ち上げて、左腕は腰よりも低い位置まで滑らせた。脇腹を布越しに掴まれ、ぐっと力を込められて、立香も協力すべく、彼の首に手を回そうとした。
 ところが。
「うえええええっ」
 てっきり横向きに抱き上げられると思っていたのに、予想に反し、立香の体躯はずるっと前方に大きく傾いた。
 白い首に回すはずだった手が空を泳ぎ、咄嗟にアスクレピオスのパーカーを掴んだものの、握り締める前に指が外れた。反対側の手は立ち上がった彼の背中に流れ、指先は地面に向かって真っ直ぐ伸びた。
 担がれた――さながら米俵の如く、肩に。
 何度か膝が砕けそうになったものの、アスクレピオスはしっかり地面に立ち上がった。重さで傾きそうになる体躯を、バランスよく保って、眼を白黒させる立香の尻を、肩の高さでぽんぽん、と叩いた。
「なんで。なんでえ。エッチ!」
「馬鹿を言うな。時と場所くらい、ちゃんと考えている」
「やーだー! なんでー!」
 運んで欲しいと頼みはしたが、こういう運ばれ方は、期待していなかった。
 悲鳴を上げて喚く立香に、周囲もざわざわして、落ち着かない。アスクレピオスは集まる視線に舌打ちして、小刻みに暴れるマスターの身体をしっかり抱え直した。
 落とさないよう束縛して、二本の太腿を左腕と胸で挟んだ。その上で、彼にだけ聞こえるよう、音量を絞った。
「触って欲しいなら、もっとちゃんとした場で、ちゃんと触ってやる。言い出したのはお前だろう」
 足元を気にしつつ、転ばないよう注意しながら歩き出す。
 鼻をグズグズさせた立香はむすっと頬を膨らませ、不本意な運ばれ方への抗議も兼ねて、目の前を泳ぐ銀髪を引っ張った。
「そういう意味で言ったんじゃないし」
「そうか。なら、手当てするだけで良いな。熱中症の傾向もある。ひとりでゆっくり寝ていろ」
 いたずらを咎めず、前を見据えたままアスクレピオスが告げる。
「…………それは、やだ」
 視線が絡まないのを寂しく感じながら、立香は精一杯の感情を込めて、彼の髪を握り締めた。

重ねつる袖の名残もとまらじな 今日立ちかふる蝉の羽衣
風葉和歌集134 

消えぬべき これは思ひの 煙とも

 さざ波が押し寄せては、引いていく。白い細かな泡が一気に打ち寄せては、見る間に消え失せ、後に残るのは水に濡れた砂の粒子だけ。
 波打ち際に、大きな流木が横たわっていた。進路を塞ぐそれは、普段であれば飛び越すのは容易だった。
「おっと」
 しかし今は、簡単ではない。右足を高く持ち上げようとしたら、大腿部周辺に衝撃が走った。
 ズキッとくる痛みに顔が引きつり、転びそうになった。無理矢理跨いで、左足も引き摺るように動かす。些細な動きひとつにも気を遣って、その度に神経が磨り減った。
 ギプスを嵌めた右腕を揺らし、バランスを取りながら腰を捻って振り返る。
 少し失敗したけれど、なんとか無事に越えられた。照れ臭さに頬を掻いて苦笑すれば、流木の向こう側に佇む男が呆れた顔で肩を竦めた。
 口をへの字に曲げて、小さく溜め息を吐いている。額で交差する前髪を軽く揺らして、キャスターことアスクレピオスは目を眇めた。
 眼差しは鋭く、不愉快だと言わんばかりだ。
 こんな状態なのに出歩いている立香に、内心怒っているのだろう。それでも口に出さず、黙ってついてきてくれたのには、感謝しかなかった。
 シミュレーター内に再現された砂浜を、再びゆっくり歩く。足元を中止しながら恐る恐る進んでいたら、つかず離れずのところにいたアスクレピオスの声が響いた。
「マスター」
「ごめん。もうちょっと」
 呼びかけに、咄嗟に返事をしていた。ひと呼吸置いてから首を横に振って、反射的に紡いだ言葉の後を追わせた。
 まだ帰りたくなかった。
 折角ダ・ヴィンチちゃんに頼んで精巧に再現してもらった空間だ。久しぶりに誰の邪魔も受けない環境だから、簡単には手放し難かった。
 波の音が絶えず響き、どこまでも続く砂浜は終わりが見えない。水平線の先に浮かぶ綿雲は穏やかで、どこでもないのに不思議と懐かしい光景が、心に迫った。
 郷愁に揺さぶられた感情は、声に反映された。感傷に浸る立香を案じてか、アスクレピオスは黙ってしまった。
 ただ内心は、医者の言うことを聞かない患者だと、苦々しく思っているに違いない。その上で、マスターとサーヴァントという関係性から、迂闊に逆らえないとでも思っているのだろう。
 こんなことで令呪を使ったりしないのに。
「ふふっ」
 考えが大袈裟だと、つい噴き出した。
 言われなくても、もう少ししたら戻るつもりだ。潮風は身体に優しくなく、包帯の上からでも傷に沁みた。
「なんだ、マスター。なにか面白いものでも見付けたか」
「ううん。なんでもないよ、アスクレピオス」
 先ほどの仕返しのつもりなのか、嫌みたらしい科白が飛んで来た。それに応じて、立香は幾分軽くなった気持ちを抱えながら、振り返った。
 控えめに微笑んで、本当は人間想いの医神に目尻を下げる。
 アスクレピオスは一瞬面食らった顔をして、すぐに表情を取り消した。再びむすっと、いつも通りの仏頂面を作って、不機嫌そうに立香を睨み付けた。
 医者の顔に戻ってしまった。けれどそれも致し方がないことと、立香は立っているだけでもやっとの身体を確認した。
 結果として勝利を得たけれど、それは薄氷を踏むようなものだった。厳しい戦いに挑まざるを得ず、マスターも、サーヴァントも無事では済まなかった。
 首の皮一枚繋がって、生き延びた。頭部からの出血は大量で、ざっくり切れた傷を何針縫ったかは、怖くて聞いていない。利き腕にはヒビが入り、右足も筋が伸びたとかで、思うように動かせなかった。
 本来なら医務室で、絶対安静にしているべき重症度だ。それでも無謀でしかない真似を実行に移したのは、誰にも干渉されない場所に行きたかったからだ。
 ただ矢張り、ひとりきりになるのは許してもらえなかった。
 同伴者の指名が絶対条件と言われて、真っ先に名乗りを挙げたのはマシュだった。けれど彼女に頼んだら、きっと自分は甘えてしまう。自力で歩くのを諦めて、あの少女に縋ってしまう。
 だからアスクレピオスを指名した。彼ならギリギリのラインまで放置してくれるだろうし、医者として譲れない境界線を越えたなら、容赦なく連れ戻してくれるはずだから。
 信頼している。
 期待している。
 ほかのサーヴァントたちとは違う意味で、甘えている。
「マスター」
 呼ばれたけれど、聞こえなかった振りをした。波に素足を浸し、纏った白のガウンや、踝まで覆う包帯にも飛沫を飛ばせば、ひんやりとした感触が心地よかった。
 己の中に宿る熱を知覚して、命のありようを強く意識させられた。
「うひゃ、冷たい」
 反面、純粋に楽しい。
 ばしゃばしゃ波を蹴り、ガウンの裾を閃かせる。足首に纏わり付く布を払って、童心に返ってはしゃいでいたら、じわじわ距離を詰めたアスクレピオスに叱られた。
「転ぶんじゃないぞ」
 やんわりと忠告されて、それがくすぐったかった。
「分かってる。気をつける」
 首を竦めてこみ上げる笑みを堪え、声を弾ませた。
 遠い昔にも、こんな風に水遊びをした。そのはずなのに、あの時誰と一緒だったかは、もう思い出せなかった。
 寄せては引いて、押しては返す波は、日々の営みに埋没した記憶のようだ。
 ふとした拍子に甦り、いつの間にか忘れている。目の前のことに必死で、振り返っている暇などないというのに、気を抜くと囚われてしまう。
 ぱしゃん、ぱしゃんと水音を響かせながら、果てのない砂浜を歩いた。
 点々と刻まれる足跡は、小幅だ。片足を庇いながらなので、体重を多く預かる左足の方が、僅かに深く砂に沈んだ。
 黒く濡れた砂に歩みを残して、何気なく振り返れば、先ほどより離れた所にアスクレピオスがいた。
 不思議に思ったのは、彼の後方に残されている足跡が一人分だったことだ。
 彼の歩き方も、どことなく不自然で、ぎこちない。その理由を探って視線を往復させて、立香は嗚呼、と頬を緩めた。
「どうした?」
 顔を上げたアスクレピオスと、目が合った。またしても噴き出しそうになったのを堪えて、立香は沸き起こった愛おしさに顔を綻ばせた。
 白い歯を覗かせて笑いかけ、答える代わりに姿勢を戻した。ギプスの分だけ重い右腕を前後に振って、調子を良くして、いくらか進んで後ろを窺った。
「なんだ、マスター。さっきから」
 立ち止まれば、彼も歩みを止めた。胡乱げな表情で聞かれたが、またも答えず、立香は一定の距離を保ってついてくる医神に破顔一笑した。
 砂浜に残される足跡は、相変わらず一人分。立香の歩みをなぞるように、アスクレピオスは足を操っていた。
 それが面白いし、可笑しいし、嬉しかった。
 彼の後方と、己の足元と、アスクレピオスの足元と。
 一列に並んだ足跡をなぞるように視線を動かしていたら、眉を顰めた白衣の男がふっと、真顔になった。
 若干猫背だったのを改め、背筋を伸ばした。長い袖を風に靡かせ、真っ直ぐ射貫くようにこちらを見た。
 心の奥底を覗き見るような眼差しに、立香はぶるっと背筋を震わせた。
「そろそろ、……戻る?」
 医者としての矜恃に蓋をして、我が儘に付き合ってもらっていた。これ以上の強要は不可能と考えて、控えめに問いかけた矢先だ。
「消えてはいないぞ、マスター」
 唐突に言われて、ぽかんとなった。
 なんのことだか、さっぱり分からない。説明が一切ないひと言に絶句して、立香は目を丸くした。
「なにが?」
 訊き返したけれど、彼は答えてくれない。一人分だった足跡をふたり分に増やし、問答無用とばかりにずんずん距離を詰めて、立ち尽くす立香の前を塞いだ。
 威圧的に感じる近さでようやく足を止めて、息巻き、声を荒らげた。
「お前がどれだけ傷を負って倒れようとも、お前が歩みを諦めない限りは、僕がお前を立ち上がらせてやる。何度でもな」
 早口で吼えられて、理解が追い付かない。急に暗くなった視界に瞬きを繰り返し、立香は耳朶に貼り付いた宣言に、遅れて顔を赤くした。
 一旦停止した思考を慌ててフル稼働させて、微妙に興奮気味の男を扇ぎ、頬をヒクリと痙攣させた。
「ゾンビにされちゃう?」
「馬鹿者。死なせはしない、と言っているんだ」
 胸の奥がじんわり熱を帯び、鼓動が爆音を奏でるのに、表面上は冷静ぶって皮肉を口にしていた。
 返答が気に入らなかったのだろう。アスクレピオスは間髪入れずに怒鳴って、袖の奥に潜む手で立香の鼻を思い切り抓った。
「あいひゃ」
 摘ままれ、捩られた。痛みで自然と涙が溢れる。立っているのも辛いというのに、顔の中心を持って行かれそうになって、反射的に爪先立ちになっていた。
 潤む瞳を瞼で隠し、息を止めて、暴力的な医者に抗議すべく身体を捻った。
 普段なら、なんら造作ない行動だった。
 しかし体力は限界に近く、一度ふらついた身体を立て直すのは難しい。
「うあ」
 自力で立っていられなくなって、そのままアスクレピオスの胸元に倒れ込んだ。ぼすっと挟まれた空気が左右に散って、鼻先を掠めたのは湿った薬草の匂いだった。
 時間があれば蘇生薬の研究に打ち込む彼の背中を眺めるのが、ここ最近の、立香の日課だった。
「まったく。大丈夫か?」
 その彼に、抱きしめられた。これ以上倒れていかないよう、背中に腕を回され、絶妙な力加減でサポートされた。
 背中をそっと撫でられた。労るような、優しい手つきだった。
「……う、うん、平気。でもちょっと、なんだろ。悔しい」
 距離も近かったし、それほど勢いが出ていたわけではない。ただ体重の半分近くをぶつけたのに、この男はびくともしなかった。
 キャスターで、腕力だってそれほど強いわけではないのに。服の上からでも分かる、案外鍛えられた体躯は、ギリシャ神話に繋がる英霊たちの共通項だ。
「こんな状態で出歩くから、当然だろう」
 負けた気分になって唸ったら、勘違いされた。不思議そうに言われて、立香は俯いたまま首を振った。
「いや、そういう意味じゃなくて。……ううん、いいや。そういう意味にしておいて」
「言っていることが分からないぞ、マスター」
 説明しようとしたけれど、途中で思い止まった。どうせ言ったところで正確には伝わらないだろうし、なにより立香の男としてのプライドが許さなかった。
 もやもやする感情を深呼吸で吐き出して、せめてもの抵抗としてアスクレピオスの胸に額を擦りつけた。ぐりぐり押しつけながら左手で長い袖を手繰り寄せたけれど、支えにするには少し心許なかった。
 ギプスの所為で曲がらない右腕はだらりと垂らし、左手だけで、彼の上腕を握り締める。
「アスクレピオスって、ずるい」
 彼の存在も、強さも、体温も、なにもかもが立香を安心させた。
 彼を知るたびに、自分は確実に弱くなる。ただの医者としてではなく、それ以外のなにかに、彼を定義してしまいたくなる。
 いつかは別れる日が来るのに――あの人のように。
「さっきから、何が言いたい」
「分かんないなら、いいよ。うん。お願いだから、分かんないままでいて」
 心がきゅうっと締めつけられて、痛みからではない涙で瞳が潤んだ。決して外に零したくなくて、歯を食い縛って堪えていたら、頭上から溜め息が降って来た。
 間を置かず、黒髪を撫で、梳かれた。
 手つきはぎこちなく、慣れていないのが丸分かりだ。
 だのにどうしようもなく心地よくて、立香はいよいよ顔を赤くして、アスクレピオスにしがみついた。
 

2020/08/09 脱稿

消えぬべきこれは思ひの煙とも かひなき空にほのめかせとや
風葉和歌集 811

知らじかし ほの見し月の かけてだに

 さざ波が押し寄せては、引いていく。白い細かな泡が一気に打ち寄せては、見る間に消え失せ、後に残るのは水に濡れた砂の粒子だけ。
 流れ着いた流木が行く手を阻むが、跨いで乗り越えるのは容易い。
「おっと」
 それなのに少しふらつくのを見せられて、アスクレピオスは内心、肝を冷やした。
 もっとも転びそうになった張本人はけろりとしており、振り向いて苦笑した。肩を竦め、照れ臭そうに頬を掻き、進行方向に向き直った。
 両腕を左右に広げてバランスを取り、一歩ずつ、慎重に歩みを再開させる。
 その三歩ほど後ろを行きながら、アスクレピオスは先ほど見せられた表情を反芻した。
「マスター」
「ごめん。もうちょっと」
 苦々しいものを覚えて声を上げれば、呼びかけに呼応した立香が前を見たまま首を振った。
 名前を呼んだだけなのに、こちらの心を読み取ったかのような科白だ。先回りして懇願されて、アスクレピオスは小さくため息を吐いた。
 そろそろ戻るべきと提言したかったのだけれど、言えなくなってしまった。
 どこか泣きそうな声で請われては、ダメだと言い出し辛い。医者という立場ならば、縄でぐるぐる巻きにしてでもベッドに連れ戻すべきだろうが、サーヴァントという身の上で、それは容易くなかった。
 益々渋い表情を作っていたら、気取ったらしい。緩やかな足取りの立香が、不意に「ぷっ」と噴き出した。
「なんだ、マスター。なにか面白いものでも見付けたか」
「ううん。なんでもないよ、アスクレピオス」
 今度はこちらが先手を取って、声を高くして話しかける。
 立香は口元を軽く押さえた状態で言って、先ほどよりずっと穏やかな顔付きで振り返った。
 潮風が吹き、伸び気味の黒髪を擽った。けれど柔らかく乱されるのは一部分だけで、側頭部から後頭部の一帯は微動だにしなかった。
 それもそうだろう。藤丸立香の頭部には現在、真っ白い包帯が巻かれていた。
 負傷箇所はそこだけではない。右腕の肘から先にはギプスが巻かれ、手の甲まですっぽり覆われていた。露出するのは指先だけで、その動きも部分的に制限されていた。
 裾の長い、ワンピース状のガウンで見え難いものの、右脹ら脛周辺にも、広範囲に亘って包帯が巻かれていた。骨に異常はなかったが、筋が若干伸びているので、歩き方は非常にぎこちなかった。
 松葉杖か、車椅子を使った方が、移動はずっと楽だ。
 しかし立香はそれを嫌がり、自分の足で歩き回ろうとした。
 挙げ句にダ・ヴィンチに駄々を捏ね、シミュレーションルーム内にこんな景色を再現させた。
 どこまでも続く砂浜、繰り返される波音。時折弱い風が吹き、磯の香りが鼻腔を擽った。
 いくらシミュレーター内であり、彼のバイタルが常時監視されているとはいえ、ひとりきりで散歩をさせるわけにはいかない。
 同伴者をつけるのが条件だと主張したダ・ヴィンチに、立香はならば、とアスクレピオスを指定した。
 てっきりデミ・サーヴァントを選ぶかと思っていただけに、指差された時は面食らった。そして今も、彼が自分を選んだ理由が分からないでいる。
「マスター」
 傷だらけの、ボロボロの身体を引き摺ってまで、どこかで見たかもしれない景色の中に立ちたがった意味。
「うひゃ、冷たい」
 呼び声は聞こえているだろうに、無視して、立香は素足のまま打ち寄せる波に足を浸した。
 子供のようにはしゃいで、歓声を上げるけれど、ばちゃばちゃと水を蹴り上げるような真似はしない。否、今の彼ではそれすら難しかった。
 海水は塩分を含んでおり、あまり衛生的とは言えないのだが、さすがにそこまで再現されてはいないだろう。苦言を呈したい気持ちをぐっと堪えて、アスクレピオスはゆるゆる首を振った。
「転ぶんじゃないぞ」
「分かってる。気をつける」
 真っ白いガウンの裾をちょっとだけたくし上げ、踝まで水に浸かった立香が目を細めた。甘すぎる忠告に嬉しそうに頷いて、大量の泡を踵で踏み潰した。
 遠くを見れば青空に白い綿雲が泳ぎ、水平線は僅かに湾曲していた。右遙か前方に小さな島があり、姿はないものの、カモメらしき鳥の声が響いた。
 頭上を仰げば太陽が燦々と輝き、足元に目を転じれば黒い影が短く伸びている。
 照りつける陽射しを吸った砂はほんのり熱を持っていたが、マスターの体調に配慮してか、飛び跳ねるほどの熱さではなかった。
 サンダルの底で砂を掘っていたら、水音が遠ざかった。
「マスター?」
 直前まで彼が居た場所に、今は誰もいない。
 慌てて視線をずらしていけば、立香はどこか危なっかしい足取りのまま、一歩ずつ前に進んでいた。
 濡れて黒ずんだ砂浜に、彼の足跡がくっきり残されていた。
 それをなぞるように、アスクレピオスは歩き出した。
 素足な分、立香の足形の方が少し小さい。傷を負った左足を庇いながらなので、歩幅は一定せず、踏み込みが強い右足の方が深く沈んでいた。
 こんな足跡ひとつからでも、彼の調子がつぶさに読み解けた。
 無理はしているが、無茶はしていない。ドクターストップをかけるタイミングを探りながら、アスクレピオスは顔を上げた。
「どうした?」
 目が合った。
 数歩先を行く立香が足を止めていたので、距離を保った状態で立ち止まる。問いかければ、彼は答える代わりにしどけなく微笑んだ。
 締まりのない表情を見せて、また歩き出した。追いかけて、一定間隔を維持したまま、アスクレピオスが後ろに続いた。
 補助はしない。自分で歩けると言ったのだから、そうさせている。ただ万が一に備えて、瞬時に駆けつけられるようには心がけていた。
 恐らくそれが、立香がアスクレピオスを指名した一番の理由だろう。
 過保護になりすぎず、かといって突き放すわけでもなく。
 医者としての立場を重んじて、必要な時にだけ、必要な手助けを。
「なんだ、マスター。さっきから」
 ぼんやり考えていたら、また立香が止まった。振り向き、そこにアスクレピオスがいるのを確かめて、訊かれても答えない。
 磯風が吹く中に佇んで、ふいっと視線を逸らすけれど、顔はこちらに向けたまま。
 どこを見ているのか悩んで、医神を崇められる男は腰を捻り、後方を見た。
 波打ち際に点々と続く足跡は、時間が経つにつれて波に洗われ、薄くなり、消えていた。
 跡形も残らない。平らに均され、少し前までそこに在ったものは掻き消された。
 切除された未来、可能性。ただひとつの人類史を選び取る為に、藤丸立香という人間の選択ひとつで滅ぼさなければならなかった、数多の時間軸。
 彼の脳裏に過ぎっているだろう光景を想像して、アスクレピオスは背筋を伸ばした。視線を戻し、空色の瞳を真っ直ぐ見詰め返せば、立香は困った風に首を竦めた。
「そろそろ、戻る?」
 自分から切り出して、作り物の笑顔で安心させようとする。
 風で冷えたと言わんばかりに右腕をさする彼に目を伏して、アスクレピオスは立香が刻みつけた足跡の横に、自らの足を踏み出した。
 ふたりでひとつ分だった足跡が、ふたり分になった。
「消えてはいないぞ、マスター」
「なにが?」
 消滅した世界では、その全ての足跡が消え失せる。残らない。修正された過去でも、それは同じ。
 けれど彼が刻みつけた道筋は、確かに残っている。戦いを共にした仲間の中に、立香の中に、永遠に残り続ける。
 たとえ座に戻る日が来ようとも、長い旅路の記憶を失わせはしない。
 そもそもまだ、旅は途中だ。終わりは当分先の話。ここで立ち止まっている余裕はない。
「お前がどれだけ傷を負って倒れようとも、お前が歩みを諦めない限りは、僕がお前を立ち上がらせてやる。何度でもな」
「……ゾンビにされちゃう?」
「馬鹿者。死なせはしない、と言っているんだ」
「あいひゃ」
 真面目に言っているのに茶化されて、仕返しに低い鼻を抓んで引っ張った。本当は頭を叩くつもりだったけれど、怪我のこともあり控えた結果、振り上げた手のやり場がそこしかなかったのだ。
 鼻を抓られて、立香は小さく悲鳴を上げた。ダメージを軽減すべく、爪先立ちになって前のめりになり、アスクレピオスの方へ身体を傾けた。
「うあ」
「まったく」
 普段なら、なんら問題ない動作だった。しかし片足が不自由で、右手も思うように動かせない状態だ。ふらついた立香は姿勢を戻せず、そのまま医者の身体に体当たりした。
 倒れ込まれて、アスクレピオスは難なく受け止めた。少しも揺らぐことなく、素早く左腕を腰に回して引き寄せ、これ以上立香が崩れないように支えた。
 鼻を苛めていた右手も、左手に追随し、立香の背中をそっとなぞった。
「大丈夫か」
「うん、平気。でもちょっと、なんだろ。悔しい」
「こんな状態で出歩くから、当然だろう」
「いや、そういう意味じゃなくて。……ううん、いいや。そういう意味にしておいて」
「言っていることが分からないぞ、マスター」
 真下に来た黒髪に向かって問いかければ、立香は俯いたまま頷いた。左手で恐る恐るアスクレピオスの袖を手繰り、布だけという不安定感からか、間を置いて上腕を握り締めて来た。
 ギプスで固定された右腕はだらりと垂らして、独り言なのか呟き、顔を合わせようとしない。
「アスクレピオスって、ずるい」
「さっきから、何が言いたい」
「分かんないなら、いいよ。うん。お願いだから、分かんないままでいて」
 ぼそぼそと小声で非難されたが、そう言われる理由が皆目思いつかない。説明を求めてもはぐらかされて、挙げ句の果てには頼み込まれた。
 人間の身体には誰よりも詳しいと自負しているが、藤丸立香という人間の脳内だけは、未だ掴み倦ねている。
 理解不能だと溜め息を吐き、何気なく黒髪を梳いてやる。
 離れようとしないマスターの耳朶は、火が点いたかのように真っ赤だった。

2020/08/02 脱稿
知らじかしほの見し月のかけてだに おぼろけならず恋ふる心を
風葉和歌集 812

ありし世の 今日のみあれを 思ひ出でて

 扉が開く音が聞こえた。
 直後に人らしき呻き声と、ガタガタ喧しい音が続いて、アスクレピオスは眉を顰めた。
 手にしていたペンの尻で顎を軽く小突き、椅子を引いて振り返る。視界に飛び込んできたのは、見知った男の姿だった。
 短く刈り揃えた髪に、もみあげと連結した無精髭。肩幅が広く、重武装にも耐えうる鍛えられた体躯に、やや不釣り合いな眼鏡を掛けている。
「よう、悪いな」
 目が合ったと気付き、アーチャーことウィリアム・テルが軽く右手を挙げた。微かに煙草の臭いが漂ったが、今の彼はなにも咥えていなかった。
 身体に染みついて、剥がれないだけだ。風呂に入り、洗濯し、歯を磨いても、根底に根付いてしまったものが消えることはない。
 硝煙さえも誤魔化してしまえる臭いに眉を顰め、アスクレピオスは椅子の上で身動いだ。立ち上がるか、座ったままでいるか躊躇していたら、前のめり気味だったウィリアム・テルがすくっと背筋を伸ばした。
 同時に両腕を背後に回し、担いでいたものを抱え直した。ついでに少し右に傾けて、前方に居る医神にも見えるよう、角度をずらした。
「うぅ……ひっぐ。ぐず」
 それに呼応するかのように、愚図る声が聞こえた。アーチャーが入って来た時と同じ声色もまた、アスクレピオスには馴染み深いものだった。
 いや、こんな呻き方に遭遇するのは、初めてかもしれないが。
「どうしたんだ、それは」
「あー……。すまん。任せて良いか」
 分厚い背中に負ぶさっていたのは、凡人類史最後のマスターこと、藤丸立香だ。
 魔術師としての素養はまったく持ち合わせていないけれど、数多のサーヴァントと縁を結び、人理を修復してみせた存在。明るく、元気で、素直で、時々悪ふざけも忘れない、十代後半の少年だった。
 厳しく、苛烈な戦いを繰り返し経験し、それでも心折れる事なく前を見据えている。しかしその内面は常に嵐に見舞われて、激しく揺れ動いているのに、誰もが気付いていた。
「や~ら~~!」
「こらこら、首を絞めるな」
 その彼が、現在進行形でウィリアム・テルにしがみついていた。細腕を太い首に巻き付けて、赤ん坊の如く駄々を捏ね、身体を前後左右に揺り動かした。
 顔は真っ赤で、鼻の頭の色が特に濃い。目尻には涙が浮かんで、頬には乾いた痕が残されていた。
「何があった」
 およそ尋常ならざる状況で、アスクレピオスは訊ねると同時に立ち上がった。膝の裏で椅子を蹴飛ばし、絞められながらもマスターをベッドへ運ぶ男を追いかけた。
 余程アーチャーの背中が気に入ったのか、降ろされるのが不満らしい。首絞めが効果無しと判断した青年は、今度は拳を作り、角刈り頭をぽかぽか殴り始めた。
 弾みで眼鏡が傾き、落ちそうになった。だが両手が塞がっているウィリアム・テルは直す事が出来ず、これ以上ずり下がらないよう、頬骨を操作して支えるのが精一杯だった。
「アシュヴァッターマンや、カルナと、ええと……まあ、とにかく。その辺の連中と飲み交わしていたんだがな」
「飲ませたのか」
「いいや、まさか。だが、匂いと雰囲気に、やられちまったらしい」
「…………」
 マスターは、未成年だ。よもや、と勘繰って睨み付ければ、髭の男は呵々と笑って首を振った。
 ひっつき虫と化した青年を引っ剥がすのに成功し、謂われなき暴力から解放されたアーチャーが肩を竦め、眼鏡を直した。拠り所を失った青年は不満げに頬を膨らませ、拗ねてベッドに横になった。
 両足は床に向けて垂らしたまま、両腕を頭上に伸ばして寝転がり、顔を伏す。
「シーツで鼻を拭くんじゃない」
 嫌な予感がして、アスクレピオスがその肩を掴んで揺さぶった。
「ははっ。じゃあな、後は宜しく」
 その隙に、それなりに重い荷物を運んで来た男が、軽快な足取りでベッドサイドを離れた。入室時よりもずっと高い位置で手を振って、任務終了とばかりに医務室を出ていった。
「おい、待て」
 呼び止めたが、勿論止まってくれるはずもなく。
 詳しい事情を聞きたかったのだが、追いかけて連れ戻すのも手間だ。厄介事を持ち込まれた医神は袖の上から後頭部を掻き、シーツに顔を埋めている青年を軽く叩いた。
「起きろ、マスター。これに向かって息を吐け」
 アーチャーの言葉は信用出来るが、万が一の為にも検査は必要だ。
 必要な機器は、スキルを使えば瞬時に作成出来る。魔力を練り、術式を組み込んで完成させた小型の装置を握り締め、アスクレピオスは無理矢理マスターの身体を起こした。
 前方から抱きかかえるようにして、力が抜けてぐらぐらしている体躯を持ち上げる。だが自発的に動こうとしない男は、支えを失うと、途端にゆっくり倒れていった。
「チィッ」
 呼気にアルコールが含まれているか調べたいのに、離れると、寝転がられてしまう。
 自分で座るよう繰り返し促すけれど、雰囲気だけで酔ってしまえる青年は、なかなかしぶとかった。
「マスター、いい加減にしろ」
「アズグデビボズがづべだい」
「そんな名前になった覚えはない」
 酒宴から遠ざけられ、匂いだってしないのに、まだ正気に返らない。
 泣きながら鼻声で文句を言われて、アスクレピオスは反射的に怒鳴った。とろん、と半分瞼が閉じているマスターの額を指で弾いて、強引に酔いを覚まそうとした。
 痛みで我に返ってくれれば良い。そう願ったのだけれど、残念ながら祈りは届かなかった。
 立香は前後に身体をぐらつかせた後、ひっく、と大きくしゃくり上げた。口を真横に引き結んで、奥歯を噛み、空色の瞳にいっぱいの涙を浮かべた。
「ひどおいいいいい~~!」
 成人前とはいえ、彼は十代後半のはずだ。それが大声で喚き、叫び、打たれた場所を両手で庇って泣きじゃくった。
 おいおい声を上げ、大粒の涙をぼろぼろ流す。身体を激しく揺さぶって、肩を上下させ、全身で哀しみを表現した。
 そこまで痛くしたつもりはない。充分手加減した。
 酔って感覚が過敏になっているのかもしれない。どちらにせよ、面倒なのに変わりはなかった。
「落ち着け、マスター。泣くんじゃない。ああ、そうだ。悪かった。僕が悪かったから、いい加減泣き止め」
 折角作ったアルコールチェッカーも、こうなっては使い道がない。
 役立たずの機械をベッドの空いているところ目掛けて放り投げて、アスクレピオスは雑に謝り、両手を広げた。
 胸元に隙間を作ってやれば、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにさせたマスターが、口をへの字に曲げて鼻を啜った。
 小さくしゃっくりして、潤んだ眼を向けて来た。
「どうした」
 促すように二度、三度と垂れた袖ごと腕を振る。それで不信感が除去出来たかどうかは不明だが、マスターは小さく頷いた。
 ぼすっ、と抱きついて来た身体は、意外に小さかった。
 否、そんなはずがない。彼の身長、体重は、しっかり把握している。脈拍、血圧、その他様々な数値も含め、どんな些細な異変でも見逃さないよう、網を張っていた。
 だから彼が小さく感じたのは、物理的な変化ではない。
 心理面、精神面で、随分と弱っているのを実感させられた。
「マスター」
「ふぇっ、うぅ……」
 白を基調としたコートを力任せに握り締め、藤丸立香は立て続けに肩で息をした。
 荒い呼吸が、聞く者の鼓膜を震わせる。溢れるものを止めようという努力を放置して、彼はひたすら涙を流し続けた。
 声にならない音を紡ぎ、喘ぐけれど、言葉として意味を成す音は決して吐こうとしない。
「そうか、分かった。好きにしろ」
 ウィリアム・テルに背負われている時も、そうだった。他者の体温に触れながらも、誰からも顔を見られずに済む状況の間だけ、彼は誰にも聞かせられない想いを涙に変えて、呻いていた。
 彼が泣いているところを見るのは、これで何度目だろう。笑っている時の方が圧倒的に多くて、恐らく片手で余るほどでしかないはずだ。
 けれど人間には、感情がある。怒りや、哀しみといった側面も、当然ながら藤丸立香の中に在って然るべきだ。
 それなのに自分達は、彼のそういう部分を、あまりにも目を向けてこなかった。
 知っていながら、気付いていながら、彼が見せようとしないから、無いものとして扱っていた。
 そもそも自分達は、普段から泣かない――涙を流す暇さえ惜しみ、目的のため、願いのために邁進し続けて来た。表立って弱音を吐かず、胸の内に押し留め、解き放つことをしなかった。
 哀しいかな、英霊とは、そういうものだ。泣くべきところで、泣かない。後ろ向きな感情を押し殺し、前ばかりを見て、自分自身さえ顧みない。
 彼のように泣けていたら、英霊として名を遺さずに済んだ者も、中にはいるだろう。
 この平凡な青年を、英雄にしてはいけない。きっかけは何であれ、こうやって思い切り泣きじゃくる場を、自分達は用意してやらなければいけない。
「お前は、僕たちのようには、なるな」
 酔いを言い訳に泣く憐れな子供の頭を撫で、静かに囁く。
 返事はない。代わりに縋り付く手の力が、ほんの少し強くなった。

2020/07/26 脱稿
ありし世の今日のみあれを思ひ出でて 神の斎垣もあはれ知るらん
風葉和歌集 617

思ふこと なすこと神の かたからめ

 自動ドアは便利だ。両手が塞がっていても、機械がこちらの存在を認識さえしてくれれば、勝手に道が開かれる。
 文明の利器の有り難みをまざまざと感じながら、立香は奥行きがある空間に目を細めた。
 廊下側と天井の高さは変わらない筈なのに、室内の方が少し明るく感じる。照明の数が違うのかとぼんやり考えて、彼は右足で敷居を跨いだ。
 数歩といかないうちに、ドアはまた自動的に閉まった。殆ど音もなく元の位置に戻った扉を振り返り、立香は静まり返った空間を見渡した。
「アスクレピオス、居る?」
 それなりの重さがある盆に並べた品々を傾けないよう注意しつつ、遠くに向かって呼びかけるが、応答はない。
 清潔なシーツに包まれたベッドはどれも空っぽで、診察台の前に並べられたモニターの多くは真っ黒だった。
 スリープモード中を示すランプが点滅し、普段は書類やら、書籍が散らばっている卓上は片付いていた。カルテを記入するのに使われるペンも所定の位置にあり、無音という環境も手伝い、若干不気味だった。
「いない?」
 直前まで誰かが居た気配はなく、慌てて隠れたという雰囲気でもない。
 自分に向かって小首を傾げ、立香は運んで来た荷物を、これ幸いとテーブルに置いた。
「冷めちゃうのに」
 目当てのサーヴァントがどこにいるか、きちんと調べないで訪ねたのは自身の落ち度だ。しかしそれを棚に上げて小鼻を膨らませ、彼は角形の皿の端をちょん、と小突いた。
 どっしりとして厚みがあるそれは、立香の出身国に所縁を持つサーヴァントが手ずから形を作り、焼いたものだ。
 釉薬にも拘ったと説明を受けたが、生憎とその辺の事情には詳しくない。ただ灰色の中にほんのり緑が混じる色合いが綺麗で、光を浴びるとキラキラ輝くのが美しかった。
 惜しむらくは、この皿を彩る料理が若干形の悪い握り飯、というところだろうか。
 ひとくちで頬張るには些か大きくて、三角形にも、俵型にもなりきれない歪み具合。中に具を潜ませるつもりが、うっかりはみ出てしまい、隠すために米を追加した所為で、三つあるどれもがどこかしら飛び出ていた。
 しかも力を込めて握ったので、いずれも密度が素晴らしい。
 これくらい簡単だと息巻いていたのに、悪銭苦闘の連続だった。料理上手のサーヴァントたちに見守られながらの試行錯誤は、楽しい時間だったが、同時に恥も多かった。
 苦心の末どうにか完成を見たおにぎりと、丸のままのゆで卵に、熱いお茶。
 本格的な食事には程遠いが、朝も、昼も、食堂に現れなかった男には、これくらいが丁度良かろう。
 大勢にからかわれながらの時間を軽く振り返り、立香は肩を竦めた。むすっと頬を膨らませ、鼻から息を吐いてしばらく待つが、医務室を占有して久しい医師を名乗るサーヴァントは現れなかった。
「どうしてくれよう」
 頑張ったのに、報われないのは辛いを通り越して、腹立たしい。
 喉の奥で呻いて爪先で床を蹴って、彼は額を覆う前髪を掻き上げた。
 先日発生が確認され、対処した極小特異点では、本来大人しいはずの小動物が凶暴性を増し、立香達に襲いかかって来た。
 詳しく調査した結果、発見されたのがそれらに寄生していた微生物。これがどうも、全ての元凶だったらしい。
 カルデアの精鋭のお蔭で素早く解析がなされ、ワクチンが大量生産されて、事なきを得た。けれどあくまでそれは、応急処置的なものでしかない。完全な無毒化と、詳細な調査はこれからの話だ。
 そしてその研究に手を挙げたのが、アスクレピオス。医学の進歩の為ならばどんなことでもしてしまえる、ギリシャ神話由来のサーヴァントだ。
 彼も珍しい病状に出会えて、大変満足そうだった。実際、あの特異点では一番活躍していた。
 事件が解決を見た後も、解析作業に没頭して、滅多に人前に現れない。
「折角心配して、……いや、心配はしてないけど。たまには顔を見せろって、いうか。違う、ちがう。そうじゃなくて」
 無人の椅子を引き、浅く腰掛けて頬杖をつく。
 愚痴を零すが、どれも恨み言にしかならなくて、最後は溜め息で締めくくった。
「あー、ああ……ん?」
 これでは頑張り損だと首を振り、もう一度床を蹴って、天井を仰いだ。両腕を頭上に掲げて背筋を伸ばせば、等間隔で並んだ埋め込み式ライトの一角に、不可思議な影が見えた。
 細長くて、するする動いている。
 見た瞬間はゴースト系のなにかかと吃驚したが、注意深く観察すれば、それはしっかりとした質量を持つ物体だった。
 天井付近に設置された棚を足がかりにして、落ちないよう、器用に貼り付いていた。最初は影しか捕捉できなかったのは、体躯の白さが保護色になっていた為だ。
「あれ」
 見覚えがある存在に瞬きを繰り返し、立香は姿勢を戻した。
 あちらも立香が勘付いたと察したらしく、まるで頷くかのように首を上下に振って、縄のような身体をうねらせた。
 長い舌をちろちろさせながら、真っ白い蛇は壁を伝い、降りてきた。柔らかく、しなやかな肉体を自由自在に操って、横一列に並ぶ棚から、沈黙中のモニターへと場所を移した。
「こんにちは」
 レイシフト先では機械の身体に変貌し、アスクレピオスの命令を受けて戦闘に参加する蛇も、ノウム・カルデア内ではこの姿だ。
 尾をモニターに絡ませて固定して、首を伸ばし、立香に顔を近付ける。赤い瞳は紅玉の如き輝きを放ち、先が割れた舌はひっきりなしに空を掻いた。
 人語は解しているようだけれど、喋れるわけではない。挨拶をしたところで、返事があるはずもない。ましてや。
「アスクレピオス、知らない?」
 この蛇が医務室に居残っているのなら、飼い主である男も、実は近くにいるかもしれない。
 がらんどうの室内を改めて見回しながら訊ねた彼は、視線を一周させた後、顔を赤くして首を竦めた。
「分かるわけない、か」
 会話が成立しない相手に質問して、どうするのか。
 自虐的に笑って照れを誤魔化した立香に対し、問いを投げられた蛇はバランス良く身体を揺らし、ふいっ、と頭部を彼方に向けた。
 なにもない空間をしばらく見詰めて、長い舌を何度も出し入れさせる。
「どうしたの」
 猫でも、時折こういう仕草をすることがある。人間には見えないものが、あの毛むくじゃらの生物には見えているのかと、疑いたくなる。
 椅子の上で身動いで、立香は怪訝にしながら示された方角に目をやった。
 薬品が入った鍵付きの棚の、横。白一色に塗られた、特に代わり映えのしない壁だ。
「んんー?」
 じっと見詰めたところで、何かが現れることもない。
 身を乗り出し気味に凝視しても、結果は変わらなかった。
「いやいや、蛇に訊いたオレが馬鹿だった」
 見開きすぎて疲れた眼球を労り、は虫類の行動を真に受けた自分に苦笑する。こめかみの辺りを指で揉んで、解して、立香はずり落ちそうになっていた椅子に座り直した。
 身長は若干こちらが高いのに、深く腰掛けると爪先しか床に届かない。
「ギリシャ人、脚長過ぎでしょ」
 第二再臨の姿の時などは、そのスタイルの良さに打ちのめされそうになる。
 胴長短足な自身の体型に臍を噛んで、立香は中身が冷めつつある湯飲みを爪で弾いた。
 こちらも、おにぎりを並べた皿を作ってくれたサーヴァントの作だ。無骨でどこか荒々しいが、同じくらい穏やかで柔らかい風合いが気に入っていた。
 微かに響いた硬い音色に耳を傾け、こちらを振り返っていた蛇越しに、例の白い壁に何気なく視線を送る。
「あ――」
 それが微妙に歪んで見えたのは、錯覚ではない。
 巻き添えを食らった薬品棚の端の変化が、最も顕著だった。
 真っ直ぐだったものが不意に真ん中で拉げ、渦を巻いて反対側に移動した。と思えば瞬時に逆回転を開始して、空中に生じた歪みがぱっと消滅した。
 後に残されたのは、黒いフードを目深に被った、不気味な出で立ちの男だった。
 直前まで、確かにそこには誰もいなかった。その筈だ。大がかりな手品が仕込まれていたのであれば、話は別だが。
「アスクレピオス」
 視認すると同時に、その名前を呟いていた。椅子を軋ませ、背筋を伸ばした立香に、蛇使い座の英霊ことアスクレピオスは 鳥を模した嘴を外し、フードを後ろに落とした。
「なんだ、マスター。お前だったのか」
 一瞥し、さほど興味がない風に応じて、彼は編んだ髪にぶら下げた金の輪を揺らした。
 それなりの重さがありそうなのに、まるで羽のように踊っていた。生え際とは異なる色合いの毛先から視線を上に流して、人類最後のマスターはぶすっと口を尖らせた。
 蛇が意図していたのは、こういうことだったのだ。
 恐らくあの壁の向こう側に、物理的干渉では辿り着けない空間がある。キャスターのスキルを活用して、独自の研究室が創られているのだろう。
 どうりで姿が見当たらないはずだ。
「捗ってる?」
「来客だと言われて出て来たが、……邪魔をしに来たのなら、帰れ」
 嫌味のつもりで訊けば、愛想のないひと言が飛んで来た。ぞんざいに扱われたのが気に入らず、爪先で何度も床を叩いて、立香はふと眉を顰めた。
 突っ慳貪な科白の前に、奇妙な独白がなかったか。
「誰に言われたって?」
 アスクレピオスが創り出した空間は、基本的に閉じている。研究に没入するために、外部との接触も極端に制限していたはずだ。
 電子機器での呼びかけには一切応じてくれない、とダ・ヴィンチも言っていたくらいなのに。
 不思議に思って目を丸くした立香に、アスクレピオスは急に嫌そうに顔を歪めた。失言だったと言わんばかりの態度を取って、ぎろりと鋭い眼光を白蛇に投げた。
 対する蛇はまるで表情を変えず、モニターに絡めていた尾を解いた。
 片付けられた机をゆっくり縦断する姿は悠然としており、堂に入っていた。一方アスクレピオスはまだ苦虫を噛み潰したような顔をして、蛇の行動を睨み付けていた。
 それでピンとくるものがあって、立香は嗚呼、と両手を叩いた。
「そっか。君が呼んでくれたんだ、ありがとう。えっと……蛇、くん?」
 謎が解けたと喜んで、近付いて来た蛇の頭に手を伸ばした。撫でようとして直前で躊躇して、空を指でなぞりながら目を細めた。
 この生き物の性別も、名前も、不明だ。アスクレピオスが蛇に向かって呼びかけているところも、未だかつて見たことがなかった。
 戦闘中でも、特別な意思表示なしでやり取りしている。ならばテレパシーの類が両者の間で成立していても、なんら不思議ではなかった。
 雌雄同体ではなかろうから、飼い主であるアスクレピオスと同性である、と一先ず判断した。疑問符を付けつつ礼を述べ、恐る恐る指を降ろした。
 白蛇は分かっているのか待ち構えて、触れられた瞬間は舌を引っ込めた。
 触り心地は、滑らかだった。少しひんやりして、鱗はそこまで硬くなかった。
 抵抗はなかった。心なしか、気持ち良さそうに受け止めてくれた。勝手にそう感じているだけかもしれないが、嫌がられなかっただけでも満足だった。
「へへ」
 普通に生活していたら、蛇に触れる機会など、そうあるものではない。
 つぶらな眼も愛らしくて、一気に親近感が湧いた。にこやかに笑いかけ、繰り返し撫でていたら、どこかから咳払いが聞こえて来た。
「それで、マスター。用件はなんだ」
 不機嫌に言って、注意を呼び戻す。
 蚊帳の外に置かれたアスクレピオスの露骨な態度に、立香は嗚呼、と頷いてから噴き出しそうになった。
 拗ね方が分かり易い。勝手に緩む口元を左手で覆い隠して、彼はすっかり温くなった茶と、一列に並んだ握り飯を指差した。
「ごはん、持って来たんだ。アスクレピオスは、必要無いって言うかもしれないけど。気分転換に、どうかな」
 こぶし大のおにぎりは、時間が経っても崩れない。仲良く並んでいる三個を一度に見て、ほんの少し疲労が滲んでいる男は肩を竦めた。
「お前が、か?」
 険しかった表情を緩め、先ほどより音量を絞って囁く。
 呆れと嘲笑、それに慈愛のような何かが紛れ込んだ口調に、立香は目尻を下げた。
 白い歯を見せて返事の変わりにして、席を譲るべく、椅子から立ち上がった。アスクレピオスはすぐには応じず、邪魔になると判断した黒いコートを脱いだ。
 長い袖は、食事には不向きだ。下から現れた腕は長く、しなやかで、ほっそりとしていながら筋肉質だった。
「せっかくだ。いただいておこう」
「へえ、珍しい」
「僕が食べなければ、他の誰かの胃袋に収まるのだろう?」
「そりゃ、勿体ないからね」
「だったらこれは、僕が食べるべきじゃないのか?」
 椅子の背もたれを引き、どっかり腰を下ろしたアスクレピオスの足裏は、踵まで床に貼り付いていた。
 これだから、英霊という存在は。
 喉まで出掛かった言葉を飲み込んで、下から問いかけられた立香は困った顔で頬を掻いた。
「オレに訊かれても」
 素直に、自分の為に用意されたものを、他者に譲りたくない、と言えば良いのに。
 遠回しが過ぎる言い分に苦笑して、内心ワクワクしながら、彼の横に回り込んだ。机の空いたスペースに寄りかかって、どれから手に取るか悩んでいる男の一挙手一投足を見守った。
 具はひとつずつ、違うものを用意した。中には馴染みのないものも含まれているから、きっと驚くに違いない。
 梅干しを引き当てたら、どんな顔をするだろう。疲労回復に持って来いだと強がるか、それとも酸っぱさで言葉もなくのたうち回るか。
 楽しみでならず、顔が勝手に緩む。アスクレピオスも立香がなにか企んでいると気取ったらしく、宙を泳ぐ指先はなかなか決断を下さなかった。
 その隙を狙われた、というわけではないだろうが。
 食堂で使用されている銀色の盆の端で蠢く存在を、ふたりはすっかり忘れていた。
 口直しで用意した、殻がついたままのゆで卵。それが突如、思いの外大きく、それこそ顎が外れるくらいの勢いで開かれた口腔に、がぶりと。
「あ」
「なっ!」
 白い握り飯に、白い卵でと、これもまた、保護色だったとは言い過ぎだろうか。
 一瞬の早業で、あの白蛇が殻ごとゆで卵を飲み込んだ。信じられない柔軟さで、顔より大きいものを丸呑みした。
 その一帯だけが異様に膨らんで、奇妙な形になっていた。大丈夫なのかと心配になり、恐怖に駆られてアスクレピオスを窺えば、彼もまた驚いたのか、目を真ん丸に見開いていた。
 そして。
「貴様、それはマスターが、僕の為に用意したものだぞ!」
「えええー。そっちー?」
 ガタッと椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、机を殴って、吼える。
 ゆで卵ひとつに心が狭い英霊の罵倒に、立香は信じられないものを見たと笑い、後から襲い来た感情に顔を赤くした。
 

2020/07/18 脱稿
思ふことなすこと神のかたからめ しばしばぐさむ心つけなん
風葉和歌集 840

明らけく 照らさむこの世 後の世も

 目覚めて最初に見たのは、真っ白い天井だった。
 特にこれといった特徴がある訳ではないけれど、目にした瞬間、自分がどこにいるか分かった。
 それくらい見慣れてしまったと、そういうことだろう。あまり褒められた事ではなくて、自虐的な笑みを浮かべていたら、どこからともなく衣擦れの音が聞こえた。
「起きたか」
「ごめん。迷惑かけた」
 それ以外にも何か、歌声らしきものもある。ただメディカルルームらしからぬリズムであり、立香は無意識に、その音色を思考から除外した。
 若干呆れ混じりの低い声に応じ、起き上がろうと被せられていた厚手の布を退かす。しかし頭の中で展開させた行動と、実際に肉体が起こしたアクションは、随分と乖離していた。
 関節が軋んで、熱を帯びて痛い。吐き出そうとした息は喉の手前で突如爆発し、周辺一帯を焼き焦がした。
「うう」
 堪らず呻き、立香はベッドに戻った。僅かに浮かせた頭を枕に沈め、汗ばんだシーツを指先で引っ掻いた。
 無数の皺を一度に握り締め、荒い息を吐き、瞳に馴染んでしまった天井を仰ぐ。
 生理的な涙で潤んだ眼差しを傍らに投げれば、腕組みをしたアスクレピオスがため息を吐いた。
「倒れた時の状況は、覚えているか」
「え、と……あんまり」
「愚患者めが」
 小首を傾げながら訊ねられ、どこかぼんやりしている記憶を漁るけれど、此処に運ばれる前はどこに居たかすら、思い出せなかった。
 ダ・ヴィンチやホームズを交えて今後の方針を話し合い、意見を求められた。上手く言葉に出来ず、悩んでいるうちに当初予定していた時間が過ぎて、新所長に愚痴を言われながら、場は一旦解散となった。
 それから気晴らしを兼ねてトレーニングルームに行って、自室に戻る前に飲み物を確保しようと食堂に向かって。
「ごめん。心配かけた」
 暗転した視界を掌で覆い、声を絞り出す。
 反省と謝罪を受け入れた医神は小さく肩を竦め、ベッドに寝転がる立香の頭を軽く撫でた。
 案外大きな掌はそのまま黒髪を押し潰し、後頭部を抱き込んだ。彼の意図を察して、立香も膝を軽く曲げ、腹に力を込めた。
 補助を受けて起き上がり、膝を抱えるようにして座った。即座に差し出されたのは、コップに入った水と、白い錠剤だった。
「謝るべきは、僕にじゃないからな」
「うん。分かってる」
 渡されたものを口に含み、疑いもせずに飲み込んだ。一度噎せかけたが我慢して、喉の痛みを冷やすべく、コップの中身を飲み干した。
 身体は思ったほど餓えていない。渇きもさほど酷く無かった。
 眠っている間、アスクレピオスがなんらかの処置を施してくれたのだろう。そう思うことにして、立香は幾分楽になった体躯を揺らした。
 きっとマシュや、カルデアのスタッフ、サーヴァントの皆々も、心配しているだろう。早く元気な姿を見せて安心させてやりたくて、ベッドから降りようとしたのだけれど。
「まだ動くんじゃない」
 頭を上下に振った途端、くらっと来た。
 そのまま前のめりに倒れそうになって、すんでの所でアスクレピオスが支えてくれた。
 彼の腕がなかったら、床に落ちていた。一瞬気が遠くなり、魂が身体から抜け出す錯覚を抱かされた。
「ごめん」
 促されてベッドに戻り、再び横になった。アスクレピオスは空になったコップを片付けるべく場を離れ、ひとりになったところで、立香は先ほどから断続的に聞こえる音楽に眉を顰めた。
 軽快なメロディが、乾いた鼓膜をすり抜けて行く。あまりにも場に似つかわしくない歌声は、確かにメディカルルームの中から響いていた。
 不快にならない程度の音量で、密やかに。しかし意識すればするほど、激しく脳みそを揺さぶられた。
 時に静かで、時に荒々しいリズムは、女性の時もあれば、男性の時もあった。ソロ、デュエット、コーラス、色々な音楽が次々に、間断なく続いた。
「アスクレピオス、これ」
「ああ。直流だか、交流だか騒がしい連中が置いていった。ここは静か過ぎて、逆に病気になりそうだと言ってな」
 視界を巡らせれば、確かにそれらしき機器が追加されていた。立香の枕元、腕を伸ばせばぎりぎり届きそうな棚の上に、それはあった。
 横に長く、ちょっとしたスポーツバッグくらいの大きさだ。方形で、左右に細かな穴が開けられた丸いプレートが取り付けられている。どうやらそれが、スピーカーの役目を果たしているようだ。
 中央部にはやはり横長のパネルが取り付けられ、操作に使うボタンの類は上部に。ただ立香には、機器のほぼ真ん中に陣取る四角いパネルがどんな意味を持つのか、分からなかった。
「変な形」
 音楽を聴くには、あまりに大きすぎる。持ち運びに使うハンドルが取り付けられているけれど、これを抱えて歩き回るのは大変そうだ。
「獅子頭の男は、自信作だと言っていたが」
「そう? あ、思ったよりも薄いんだ。これは……モニターになってるのかな」
 大人しくしているよう命じられたが、気になって、立香は半身を起こした。寝返りを打ち、ミュージックプレイヤーを引き寄せれば、見た目ほど重くなかった。
 黒と銀色で統一されて、角張ったデザインは古めかしい。ただ使われているパーツは最新鋭のものばかりで、正体不明の四角いフレームは、液晶モニターとして機能した。
 試しに指で触れてみれば、収録されている曲名や、歌手名が、ずらっと一覧で表示された。
「知らない歌手ばっかりだ」
 狭い画面を埋めるアルファベットを順に眺めるけれど、残念ながら知っている曲名はひとつも見当たらない。ただ遠い昔にテレビか、親の会話で聞いた気がする名前を発見し、押してみれば、ポップ調だった曲が突如終わり、別の曲に切り替わった。
「そっか、こうするんだ」
 操作方法の説明はなかったけれど、概ね理解した。少し楽しくなって、鼻息を荒くしてベッドに座り込んでいたら、二度目の溜め息と共に、アスクレピオスに水を差し出された。
 叱られはしなかった。呆れた顔をしているけれど、立香の調子が戻って来ていると知って、口出しは控えたらしい。
「音楽療法か。考えもしなかったが、確かに、精神を安定させる一助にはなるかもしれない」
 初めての機械に興奮しているだけなのに、彼の思考は相変わらず、医療に大きく傾いている。
 今度は立香が苦笑して、流れて来た優しい歌声に耳を傾けた。
 英語だけれど、歌詞は聴き取りやすい。男性の声にギター、ピアノの音色が重なり、そこに複数のコーラスが深みを与えていた。同性でも聞き惚れてしまう甘い声は丁寧に言葉を紡ぎ、聞く者達に優しく語りかけているようだった。
「Milky White Way……エルビス・プレスリー……オレが生まれる前の人だ」
 画面を次々タッチしていけば、歌詞や、歌手についての情報まで次々に出てきた。データに記録されていた画像はモノクロで、時代がかった衣装を身に着けた男性は、すらっとしてハンサムだった。
 歌声は神に捧げられ、曲自体はそれほど長くない。ただ翻訳された歌詞は、立香にとってピンと来ないものだった。
「そちらの神は、人間に寄り添えるだけの分別を有しているらしいな」
「ん?」
 一読しただけでは理解出来ず、調べている間はずっと同じ曲がリピートされる。
 だからだろうか、アスクレピオスは不意に言った。
 ギリシャ神話に由来する、人と神の合いの子。自由奔放なアポロン神に誕生前から振り回され、大神ゼウスの雷霆によって生涯を終えた男。
 その境涯からすれば、真摯で、一途に神への愛情を表現するこの歌は、立香とは別の意味で理解し難いはずだ。
「ゼウスも、ハデスも、死んだ人間から苦しみを訴えられたところで、困るだけだろうからな」
「あははは」
 大仰に肩を竦めながら吐き捨てられて、立香は思わず笑った。肩を小刻みに震わせて、美しいけれどどこか哀しいメロディに耳を傾けた。
 モニターに表示されていた文章を消し、俯いて、目を閉じる。
 渡されたコップを両手で抱いて、静かに、ただ呼吸だけを繰り返していたら、急に硬いベッドが撓み、軋んだ。
「うわ」
 薄いマットレットが波打って、強引なやり方で瞑想を邪魔された。振り向けばアスクレピオスが、腕を組み、右を上に脚まで組んで、簡素なベッドに腰かけていた。
「どうしたの」
「死んでから神にあれこれ言ったところで、とうに死んでいるんだ。どうにかなる筈がないだろうに」
 それは立香の問いに対する返答であり、彼の独り言だった。
 何故かは分からないが、憤っている。果たして怒りの矛先は、エジソンがチョイスした曲に対してか、それとも別の誰かに対してか。
 眉を顰めて考えても、結論は導き出せなかった。
「人間は、生きてこそだろう。でなければ、語る口は閉ざされる」
 医者として、人として、彼はずっと人類史に寄り添って来た。
 神という存在は、彼にとって受け入れがたいものかもしれない。ただ時に、人がそれを必要とするのには、理解を示している。
 その上で、彼は怒りを隠さなかった。
「……アスクレピオスらしいなあ」
 ひとり勝手に煙を噴いている彼に目を細め、立香はグラスに付着した水滴を拭った。指先を湿らせ、ガラスに貼り付く感触を楽しんだ。
 再び瞼を伏して、ミーティングでのやり取りを振り返る。
 あの時飲み込んだ言葉や、思いや、願いや、後悔は。
 死後に懺悔する為に、この胸に貯め込んでいるわけではない。
「ねえ、アスクレピオス。聞いてもらっても良いかな」
 幾分温くなった水を煽り、立香は背筋を伸ばした。新しい曲が始まったミュージックプレイヤーを傍らに置いて、ベッドの上で座り直した。
「言ってみろ。時間なら、いくらでもある」
 頼まれたアスクレピオスは不遜に言って、立ち上がった。真正面から向き合えるように椅子を用意して、神ではなく、英霊でもなく、立香と同じ『人』の顔をして、相談を持ちかけて来た患者に目尻を下げた。

明らけく照らさむこの世後の世も 光を見する露や消えなん
風葉和歌集 451

朝霞 かびやが下に 鳴くかはづ

 惨敗だった。
 油断があったわけではない。慢心があったわけでもない。
 けれど、負けた。不意を衝いての攻撃と、予想外の事故が重なって、気がつけば修正不可能なレベルにまで事態が悪化していた。
 撤退を余儀なくされて、ヘラクレスがしんがりを務めてくれたお蔭でどうにか窮地を脱せられた。誰も彼もがボロボロで、霊基はズタズタだった。
 それでも辛うじて、致命的なダメージは避けられた。命の危機に瀕しはしたが、命を失ったわけではない。ならばまた立ち上がれるし、戦える。一度の敗退で心が折れるような英霊は、このカルデアには存在しない。
 治療に入る直前の医者に言われた言葉が、頭の中をぐるぐる回っていた。
 冷たいドアに背中を預け、蹲ってどれだけの時間が過ぎただろう。途中何度か、心配した後輩や、技術顧問や、新局長が声をかけてくれたけれど、顔を上げることが出来なかった。
 どんな面をして話をすればいいか、分からない。なんと言葉を返せば良いかが、分からない。
 どこで判断を誤った。
 どの段階で判断を誤った。
 目の前で繰り広げられた惨劇を、血が滲む思いで反芻する。途中までは上手く立ち回れていたはずで、しかしそれさえも傲りではないかと、一度湧いた疑念は拭いきれない。
「オレ、マスター失格だな」
 三角に折り畳んだ膝を抱き、その天辺に額を埋め、幾度繰り返したか分からない溜め息を吐く。喉の奥から絞り出した悔恨の声は、もし形や色を伴っていたなら、今や堆く積み上げられていることだろう。
 傍らに置かれた飲み物は、氷が溶けて、すっかり温くなっていた。銀色の角盆に出来た小さな水溜まりの中で、透明な硝子容器が光を反射し、そこだけキラキラ輝いていた。
 じっと見詰めていると、目が痛くなってくる。
 あんな風に笑う少女さえも、血まみれだった。真っ先に傷を受けて倒れた男を懸命に治癒して、必死に戦う仲間を鼓舞し、援護していた。
 惨めにも敗北を悟り、退却を決めた自分は、彼ら、彼女らの奮戦を蔑ろにしたのではないか。けれどあのまま戦い続けたところで、勝機を見出すのは困難だった。
 逃げは、負けではない。
 繰り返し自分に言い聞かせ、他者からも投げかけられた事がある言葉。慰めであり、自棄への戒めでもある文言を心に刻むけれど、彫り方が雑だった所為か、刻んだ場所がキリキリと痛んだ。
「悔しいな」
 心臓の真上辺りを服の上から押さえつけ、引き結んでいた唇を解き、呟く。
 長く肺の中に貯め込んでいた呼気は熱を帯び、出来たばかりの瘡蓋に引っかかった。
 宵の口に始まった治療は、まだ終わらない。人数が多いし、どのサーヴァントも一様に傷が深かった。ネモ・ナースが総動員され、ナイチンゲールも手伝っているけれど、医務室のドアはなかなか開かなかった。
 時間の感覚は鈍く、空腹感はない。疲労感よりも焦燥感の方が強くて、身体と心の状態が一致していなかった。
「アスクレピオス、頼むよ。みんなを」
 他に縋るものがなくて、立香は空中に手を伸ばした。腰を捻り、無機質な壁に指を触れて、自信満々に室内に消えた男を思い浮かべた。
 心なしか嬉しそうにしていたのは、嘘ではないだろう。あのヘラクレスでさえ、自力で歩くのが難しいくらいの手傷を負っていた。どこかしらマッドサイエンティスト気質がある男だから、治し甲斐があると思っていても不思議ではない。
 ただ腕は確かだから、彼に任せておけば心配は要らない。
 深く案ずることなく、枕を高くして、ベッドで安眠を貪っておけば良かったのだ。後悔を口にして、痛みに耐える仲間の傍で心を痛めつける必要などなかった。
 きっと手当てを受けているサーヴァントたちだって、喜ばない。逆に怒るだろう。それでもここに居続けるのは、立香が自身に課したエゴだった。
 マスターとして決して出来が良いとは言えない己は、サーヴァントと最も近いところに立っている事しか出来ない。なら、最後までその責を全うすべきである、などと。
 自虐的に笑って、壁に擦りつけた指を滑らせた。力を抜いた途端、自重でカクンと肩から先が沈んで、いつ割れたか覚えていない爪が、泥汚れの目立つブーツの踵に当たった。
「ああ」
 弄ればもっと酷くなると知っていながら、気付いてしまった以上、触らずにはいられない。
 鋭く尖った場所に指の腹を擦りつけ、円を描くように動かしていたら、ふと、なにかが動く気配を感じた。
 微弱な空気の流れを鼻先で受け止めて、顔を上げる。
 ドアは静かに開かれた。一歩遅れて、マスクを外すべく、両手を首の後ろに回した男の姿が目に飛び込んできた。
 額で交差する銀の髪の隙間から、じろりと睨むような眼光が立香を照らす。
「もう朝だぞ、マスター」
「え?」
 子供は寝る時間だ、とでも言いたげな口調で告げられて、ぽかんとなった。
 立香がずっと此処にいたことを、彼は把握していたのだろう。驚きもしなければ、呆れもせず、ただ淡々と、事実のみを口にした。
「そっか。……そんな時間なんだ」
 教えられて初めて理解して、立香は間抜けに頷いた。しみじみ呟いて、認知機能が低下しているのを痛感した。
 長時間座り込んでいただけなのに、予想外に疲弊している。これまで自覚していなかったものを教えられて、苦笑せずにいられなかった。
「みんなは?」
 アスクレピオスの顔を見ただけで、安心した。
 掠れた声で問いかければ、彼はへの字に曲げていた口元を緩め、不敵な表情を浮かべた。
「僕を誰だと思っている?」
 鼻で笑われて、返事が出来なかった。得意満面な医神に愛想笑いを返した立香は、突如、部屋の奥から聞こえて来た大きな音にビクッと首を竦ませた。
「ダメですよ、まだ安静にしていないと」
「うるさい。冗談じゃない。こんなところに、一秒たりとも居てたまるか」
「同感だ。身体は動く。それで充分だ」
「イアソン様が行く、と仰有るのなら、どこまでもお伴します」
「お待ちなさい、あなたたち。大人しくベッドに……邪魔立てするつもりですか。そこをお退きなさい」
 一度に発せられた大量の声は、獣が如きバーサーカーの咆吼に、悉く掻き消された。耳を劈く轟音に堪らず顔を顰めて、立香は立て続けに現れた複数の英霊に目を丸くした。
 向こうもアスクレピオス越しに立香の姿を認識して、医務室を出るべく伸ばした足を引っ込めた。
「なんだ、マスター。その腑抜けた顔は」
「腹でも痛いのか? だがこいつに頼るのは止めておけ、酷い目を見る」
「か弱き乙女に対してあの仕打ち、あんまりです」
「そうだぞ、アスクレピオス。だいたいお前、オレにだけ無駄に沁みる薬を使ってなかったか?」
「ほう、意外だ。気付いていたのか」
「貴様、やっぱりそ……――――だはあっ!」
 まずは満身創痍のイアソンが口角を歪めて笑い、続いてアタランテが包帯の隙間からはみ出た耳をピコピコさせた。杖を支えにしたメディア・リリィが神妙な顔をして、旅の友であった船医が感心した風に目を眇めた。
 直後に悲鳴を上げたイアソンが、他の仲間ごと部屋の外に吹っ飛んだのは、ナイチンゲールと一戦交えたヘラクレスに押し出された為だ。
 彼も本来の力が発揮出来れば、婦長に力負けすることはなかっただろう。
「重い、重い。潰れる」
「なかなか面白い光景だ。しばらくこのまま置いておこう」
 仰向けに廊下に倒れた豪傑の下敷きになったのは、イアソンだけ。すんでの所で被害を免れたアタランテは、頬に貼られた湿布を剥がしつつ、依然座り込んだままの立香を振り返った。
 男勝りな態度を軟化させて、子供達を見る時の優しい目をして、白い歯をちらりと覗かせて。
「気にするな、マスター。次はアイツを置いて、リベンジに行くぞ」
 戦線崩壊のきっかけを作った金髪の男を指差しながら言って、意地悪く囁く。
「あのなあ。司令官を守るのが、お前たちの務めだろうが」
「そうだな。だからお前は、他を投げ打ってでもマスターを守ったんだろう」
「っていうか、ヘラクレス。お前いつまで乗って……メディア、お前なに登っ……ぎゃー! 重いぃぃぃ。死ぬー!」
 ちゃっかり聞いていたイアソンが反論したが、天を向いて沈黙するヘラクレスにメディア・リリィがよじ登った段階で、限界だった。
 両手両足をジタバタさせて、大騒ぎだ。そこにアルゴノーツのメンバーが四方から合いの手を挟んで、医務室前はさながら蛙の大合唱が如き賑わいだった。
 本来静かにすべき場所で、安静にしていなければならない状態なのに騒ぐ彼らを、医神は止めたりしない。
「で、お前はいつまで座っている」
「はは。なんか、腰が抜けちゃったみたいで」
 呆れた様子で肩を竦めた後、ふと言われて、立香は廊下に投げ出したままの脚を指差した。
 大丈夫だと信じていても、自分の目で確かめるまでは、不安だった。
 思ったよりも元気そうな彼らに安心して、気が抜けた。下半身に上手く力が入らないと笑っていたら、深々とため息を吐いたアスクレピオスが、何も言わずに膝を折った。
「ん?」
「愚患者が。じっとしていろ」
 きょとんとしていたら、間際に言われた。
 至近距離から顔を覗き込まれて、口調とは裏腹に、予想外に優しげな眼差しにドキリとした。
「う、わ」
「暴れるな。落とすぞ」
「暴力反対!」
 一瞬身体が重くなったかと思ったら、瞬時に重力から解放された。視界が急激に揺れ動き、最後まで床に残っていた爪先が空を蹴った。
 不本意ながら軽々と、俵の如く担ぎ上げられた立香は叫びつつ、アスクレピオスにしがみついた。
 真っ黒いスクラブに複数の皺を作り、見た目以上に筋肉質な体格が内側に隠れていると知る。
「さて、次はお前だ。特別に、徹底的に治療してやる」
「うぎゃ」
「では、また後でな。マスター」
「おやすみなさいませ」
 固い決意の下に告げられて、ベッドに括り付けられる未来が見えた。
 ヘラクレスに登ったアタランテとメディア・リリィに見送られて、医務室のドアが閉まる。だが中で待ち構えていたネモ・ナースやナイチンゲールの姿を見た記憶は、立香には残されていない。
「ゆっくり休め」
 抱えられたまま、眠りに落ちる寸前。
 アスクレピオスの声を聞いたのは、夢か、それとも幻か。 

2020/07/04 脱稿
朝霞かびやが下に鳴くかはづ 声だに聞かばわれ恋ひめやも
万葉集 巻十

逢ふことの あらば包まむと 思ひしに

 ノウム・カルデアの廊下は至ってシンプルな構造だ。
 無駄が省かれ、過度な装飾は一切見られない。不要なものを悉く切り捨てて、機能美を優先させていた。
 天井に埋め込まれたダウンライトは明るすぎず、かといって暗くもない程よい光度を保っている。通りかかる者を察知して明暗を使い分け、誰も居ない空間を煌々と照らす真似はしなかった。
 不必要な電力消費量を減らし、必要なところにリソースを振り分ける。効率を重視した設計は、逆に言えば、ほんの少し人間的ではなかった。
 かつて神殿を飾った様々なレリーフや、極彩色といったものは、この空間には見当たらない。
「いや、あれは……うん。必要ないものだな」
 それを少し寂しく感じて、けれど即座に否定して、アスクレピオスは硬い床を踏みしめた。
 カツリと高めの音を響かせ、手にしたタブレット端末を操作する。他の者は指で操作しているけれど、彼はタッチペンを愛用していた。
 布越しでは感度が悪いので、仕方がないのだ。手袋越しでも反応が芳しくないので、気がつけばセットで持ち歩く癖が付いていた。
「改良の必要があるな」
 使用するのに別段不便に感じないが、在処を見失った時は困る。
 愛らしい外見の技術顧問に要望を出すことに決めて、彼は先ほど手に入れたばかりのデータを呼び出した。
 経過観察中の患者の記録で、気になる数値をグラフ化する作業に夢中になっていたら。
「なんだ、あれは?」
 九十度に配された角を曲がり、数歩行ったところで、不可解なものを発見した。
 真っ直ぐな廊下に、障害物は本来あり得ない。あるとすれば片付け下手なサーヴァントが、私物を詰め込んだ段ボール箱を積み上げているくらいだ。
 だがそれは、重みで角が潰れた箱でもなければ、どうやって置き忘れるのかと首を傾げたくなる武器の数々や、トレーニングマシンの類でもなかった。
「マスター?」
 転がっていたのは、人だ。しかもアスクレピオスも良く知る顔だった。
 黒を基調とした服に、右手の甲だけが露出した手袋。東洋系の顔立ちだが、特徴的な空色の瞳は瞼の裏に隠れていた。
「マスター!」
 人類最後のマスターにして、凡人類史最後の希望。
 その重要人物が冷たい廊下に突っ伏している事実に、古代より医神と奉じられて来た英雄も、動揺が隠せなかった。
 咄嗟に端末を放り投げ、遅れてタッチペンも投げ捨てた。大股で駆け寄り、膝を折って、右側を下にして倒れている青年へと手を伸ばした。
 本能的に抱き上げたくなったが、そうしなかったのは、転倒時に頭を打っている可能性を考慮した為だ。
 真っ先に呼吸の有無を確認すべく、鼻先に布を垂らした。微かな空気の流れが空調によるものでないと頷いて、左手で長い袖を捲り、露わにした右手指を首筋に添えた。
「脈は、正常か」
 沸き起こる不安や、最悪の予想を無理矢理ねじ伏せて、ひとつずつ重要事項を確認していく。
 生憎と医療用ペンライトは持ち歩いていないが、即座に制作可能だ。
 持ち合わせたスキルをフル動員して、閉ざされた瞼をこじ開け、至近距離から光を当てて反応を確かめた。
「右、異常なし。左は……こちらも異常なし」
 身体の向きを僅かに動かし、あちこち触れられても、藤丸立香は微動だにしない。されるがまま横たわり、至って静かだった。
 苦悶の表情を浮かべたり、どこか痛そうな態度もない。
 考え得る可能性をひとつずつ消去して行って、アスクレピオスは最後に力なく肩を落とした。
「眠っているだけ、だと?」
 噂には聞いていたし、当時のカルテも見たことがある。
 けれど最近はあまり起こらなくなったという話で、油断していた。
 まさか本当に、こんな事態が起こり得るのか。目の当たりにしても俄には信じ難くて、医神は右手で頭を抱え込んだ。
 けれどこの場で出来る診察を全て終えても、結論は変わらなかった。
「ナルコプレシー……マスターの年齢なら、特発性過眠症の方も考慮すべきか」
 すよすよ眠る立香の傍で膝を折り、考え込むが、詳しく調べてみないことには始まらない。
 マスターの眠りにはサーヴァントとの精神的な繋がりが関与していると言うが、単純な病気の線も、未だ捨てきれなかった。
 もし本当に病の兆候があるのなら、なんとかするのが医神の仕事だ。
「……ああ。つまり、良い実験台が手に入った、ということだ」
 実際、この症状を一度診ておきたかった。
 都合が良いと口元を緩め、アスクレピオスは足元を探った。マスターを医務室へ運ぶと決めて、まずは投げ捨ててしまったタブレット端末を回収すべく、どこにやったかと視線を彷徨わせた。
「あんなところに」
 幸いすぐに発見出来たが、手を伸ばしただけでは届きそうにない。
 タッチペンは軽い分、更に遠いところにあって、一旦立ち上がるしかなかった。
 面倒だが、呼んだら来てくれるものではない。蛇を連れてくるべきだったと後悔したが、今さらだ。
「チッ」
 忌々しげに舌打ちして、起き上がろうと腹に力を込める。
「……う」
 折り畳んだ膝に手を置き、背筋を伸ばした。けれど途中で何かが引っかかって、アスクレピオスは眉を顰めた。
 コートの裾でも踏んだかと、真っ先に自分の足の位置を調べた。踵のあるサンダルは良く磨かれた床だけを踏み、異物を間に挟み込んではいなかった。
 ならば、何故。
 怪訝に首を傾げ、数回の瞬きを経て、正解に辿り着いた。
「マスター、お前か」
 彼の服の裾を掴んでいたのは、深い眠りに落ち、意識が無いはずのマスターに他ならなかった。
 いったいどんな夢を見ているのか、この場では調べようもないし、知りようもない。表情は相変わらず穏やかで、健やかだけれど、令呪を刻んだ右手の指はどこか必死だった。
 何者かに縋り、救いを求めているようにも見える。
「……それは、僕の主観でしかないが」
 現実がどうなのかは、後でマスターが目覚めた時に聞くしかない。ただこの手を振り払い、拒むことは、許されない気がした。
 一瞬だけ天を仰ぎ、アスクレピオスは肩を落とした。深く長い息を吐き、裾を握るマスターの手が解けない距離を保って、その場に座り直した。
 誰かが通りかかるまで、もしくはマスターが自力で目覚めるまで、ここでこうしているより他にない。
「お前をじっくり観察する時間が出来たと、思うことにしよう」
 ただ願わくは、しばらく静かな時が過ぎれば良いと。
 沸き起こった身勝手な感情に苦笑して、彼は眠るマスターの髪を梳いた。

2020/06/28 脱稿

逢ふことのあらば包まむと思ひしに 涙ばかりをかくる袖かな
風葉和歌集 790

珍しく 風の調ぶる 琴の音を

「みつけた」
 彼の姿を視界に収めた瞬間、立香は無意識に呟いていた。
 心の中に留めておきたかったのに、出来なかった。但し音量は限りなく絞っていたので、恐らく誰にも聞こえていない。
 弾んだ鼓動を整え、深呼吸を数回繰り返した。調子良くテンポを刻む胸をそうっと撫でて、青草を慎重に踏みしめた。
 目当ての英霊は、シミュレーター内に再現された空間で横になっていた。青々と茂る草原の中、小高い丘に一本だけ枝を茂らせる木の下に、だ。
 地表に顔を出した根を枕にして、大胆に四肢を投げ出していた。整った鼻梁は少しも歪むことがなく、健やかで、穏やかな寝顔だった。
 右手は胸元に、左手は傍らに。青草に埋もれた指が向かう先には、立香には読めそうにない書籍が山を成していた。
 分厚く、重そうで、ほんのりかび臭い。
 図書室にこんな古いものがあったかと首を捻り、立香はすよすよ眠るギルガメッシュの横で膝を折った。
 尻は浮かせたまま、蹲踞の姿勢を作った。爪先だけで器用にバランスを取り、気持ち良さそうに眠る男をぼんやり眺めた。
「なんだって、こんなところに」
 読書の為だけにシミュレーターを稼働させたのだとしたら、とんだ設備の無駄遣いだ。しかし彼のお蔭で越えられた苦難は多く、これくらいの我が儘は許容されるべきだろう。
 しかし探すのには、大変苦労させられた。誰に聞いても所在が分からず、あっちへ行ったり、こっちへ行ったり、どれだけ無駄足を踏まされたことか。
 移動距離を合計すれば、カルデアを余裕で五周はしている。
 結果として足は棒のようだし、喉が渇いて仕方がない。
 熱を持った身体を冷まそうと深く息を吐き、立香は膝を抱く腕に顎を埋めた。
 賢王ギルガメッシュは未だ目覚めず、眠りに就いたまま。この男に限ってそれはなさそうだと、狸寝入りを警戒していたのだが、反応は未だ返って来なかった。
「本当に寝てる?」
 サーヴァントは本来、睡眠を必要としない。食事もそうだ。
 ただ彼の場合は、過剰に働き過ぎる傾向があるので、分かっていても寝てくれ、と思うことがあった。適度に食事を摂って、適時休息を挟んで欲しいと、過労死一直線の生活習慣を常々案じていた。
 それがいざ、ぐっすり眠っている姿を目の当たりにすると、逆に戸惑わされた。
「……生きてる?」
 あまりにも静か過ぎて、不安が胸を過ぎった。
 事実、彼には前科がある。二度目がないと、どうして言い切れるだろうか。
 起こした方が良いだろうか――後で恐ろしい目に遭いそうではあるが。
 懸念と誘惑と葛藤がない交ぜになり、結論が出ない。頭を切り替えようと軽く首を振って、立香は山積みの書籍に目をやった。
 準備万端とでも言おうか。その近くには、ボトルに入った飲み物が用意されていた。
 しかも二本もある。いったい彼はどれくらいの時間を、ここで過ごすつもりだったのだろう。
「もうちょっと、分かり易いところに居てくれたら良かったのに」
 エルキドゥに聞いても要領を得ないし、イシュタルに聞けば『どうして私に訊くのよ』と逆に怒られた。
 数少ない目撃者の証言から、シミュレーター室に当たりを付けるだけで、相当な時間を要した。
 ギルガメッシュ王探索の軌跡を軽く振り返りつつ、恨み言も忘れない。
 同じ姿勢で居続けるのに辛くなって、立香はどっかり尻を降ろして座り直した。輪を作っていた腕を解き、片膝を立ててそこに顎を預けたが、相も変わらずギルガメッシュは大人しかった。
「まさかね」
 不吉な予感がして、慌てて打ち消そうとしたものの、拭いきれない。
 首を横に振るだけでは吹き飛ばせない恐怖に駆られて、立香は咄嗟に膝立ちになり、片腕を伸ばした。
 左腕は地面に突き立てて支えにして、右手を広げ、不敬を承知でギルガメッシュの鼻先に翳した。
 呼吸を確かめ、皮膚を掠める微かな風に、ほっと胸を撫で下ろす。
 深く安堵して、気が抜けた。
「なんだ。寝込みを襲うのではないのか」
「きゃあ!」
 そんなタイミングで不意に話しかけられて、立香は裏返った悲鳴を上げた。
 まるでいたいけな少女のような声が、あろうことかこの口から飛び出した。自分でさえ吃驚する音域の再現に、ぱっちり目を開けたギルガメッシュでさえ、呆然としていた。
 それがじわじわ、喜悦に歪んでいく。
「く……くははは、ははははは。なんだ、今のは。いいぞ、もう一度やってみせろ」
「で、できるわけ、ないでしょうが」
 あれは不意打ちを食らったから出たものであり、容易く再現が叶うものではない。
 豪快に笑いながら起き上がった賢王に小鼻を膨らませ、立香は引っ込めた手で自身の腿を殴った。直後に痛みを訴える場所を自ら撫でて慰めて、苛立ちと安堵両方の感情を整理した。
 それでもまだ気持ちは収まらず、ふて腐れた顔をしていたら。
「ほれ」
 崩れかけていた本の山を整え、ギルガメッシュが当たり前のように、ボトルの片方を立香に差し出した。
 飲み口を眼前に突きつけられて、予想外の事態に目をぱちくりさせていたら。
「見事我を見つけ出してみせた褒美だ、受け取るが良い」
 早く受け取るように急かし、ギルガメッシュが呵々と笑う。
 それでハッとなって、立香は手を差し出しつつ、渋い顔を作った。
「……もしかして、最初から全部、分かってました?」
「はて。なんのことだ?」
 キャスターである彼は、千里眼を有している。あらゆる未来を見通せるのだから、立香がここに来る未来も、彼は当然、予見出来たはずだ。
 だというのにわざとらしく惚けて、真実を明かそうとしない。
「オレを走り回らせて、楽しいです?」
 掌で転がされていた事実に腹を立てて、軽く睨み付けながら不満を口にする。
 同時にボトルの蓋を捻り、ひと口飲んだ水は美味しかった。
「そんな顔をするでない。また振り回したくなるであろうが」
「ほらー、やっぱりー!」
 嬉しいような、悔しいような複雑な顔をしていたら、呵々と笑われた。
 案の定のやり口に憤慨して、声を荒らげるけれど、ギルガメッシュに通じるはずもなく。
「そう怒るでない。で、我に聞きたいことがあったのだろう。特別に聞いてやる。許す。話せ」
 あぐらを掻き、頬杖をついた男が偉そうに言い放つ。
 そういう居丈高な態度が気にくわないが、だからこその賢王だ。
 それで納得している自分にも苦笑して、立香はボトルを置き、居住まいを正した。

2020/06/20 脱稿
珍しく風の調ぶる琴の音を 聞く山人は神もとがめじ
風葉和歌集 1323