神もなほ もとの心を かへりみよ

 訪ねて行った先で最初に目に入ったのは、モップを手にした少女だった。
 サーヴァント・ネモの分身体であるネモ・ナースがドアの開く音に反応し、顔を上げた。そうして瞬き一回分の間を置いて、何を気取ったのか、嗚呼という風に頷いた。
「アスクレピオス君、お客様~」
「え、えっ。ちょっと」
 こちらが何か言う前に、訳知り顔で部屋の奥に呼びかけた彼女に、立香は慌てて声を高くした。止めようと右手を伸ばすけれど届くはずもなく、制止の動作は中途半端なところで終わりを迎えた。
 一気に冷えた体温に反し、微妙に熱を含んだ汗が首筋を撫でた。出遅れた呼気を唾液と共に飲み干したところで、呼び声に導かれた白衣のサーヴァントが、物陰からひょっこり顔を出した。
 左上腕から肩に向かって、白蛇が絡みついている。長い舌をチロチロ覗かせる爬虫類の頭を軽く撫でて、アスクレピオスは長い銀のもみあげを背に流した。
「なんだ、マスターか。どうかしたか。怪我、……ではなさそうだな。腹でも下したか」
 鋭い眼光を投げつけ、目視で確認出来る情報から、立香の状態を判断する。口調は淡々としており、どこか近寄りがたい雰囲気に溢れていた。
 機嫌が悪そうに見えるが、アスクレピオスというサーヴァントは、平時からこのような空気を纏っていた。嬉々と声を高くするのは、珍しい病状や治療が困難な重症患者を前にした時くらいだ。
「いや、えっと。まあ、その」
「なんだ。はっきり言え」
 カツカツと詰め寄って来る彼から堪らず目を逸らし、立香は着ていた上着の裾を引っ張った。大きな襞に人差し指を絡ませて、若干ごわごわした布地を親指と共に扱いた。
 泳いだ視線は当て所なく壁際を這い回り、床に置かれたバケツに辿り着いた。半分ほど入った水は、モップを洗ったからなのか、黒く濁っていた。
「えっと。そうそう。掃除、終わった?」
 きちんと順序立てて話せるよう、前もって頭の中でシミュレートしてきたのに、ネモ・ナースの不意打ちで全て吹き飛んでいた。
 それが不意に戻って来て、言葉は思った以上にすらすら出た。
「うん?」
 ただ質問を質問で返された格好のアスクレピオスには、若干意味が分からないものに感じられたらしい。怪訝に眉を顰めた彼に、立香は一歩踏み出した。
 服を弄っていた手を解き、背中に回した。腰に巻き付けたベルトに指を引っかけ、深く息を吐き、胸の高鳴りを意識して抑え込んだ。
 傍らではネモ・ナースが飄々と動き回り、奥から引っ張り出して来たゴミ袋の口を結んだ。棚の上に放置されていた雑巾を回収し、バケツの縁に引っかけて、モップと共に持ち上げた。
「大掃除は、これでおしまいです。マスターも、終わりましたか?」
「うん。オレもさっき終わった。お疲れ様」
 重いだろうに、平然としているのを見ると、彼女も見た目通りの人間ではないと思い知らされる。
 明るい声での問いかけに応じて、立香は目配せして通り過ぎて行く彼女に顔を赤くした。
「ゴミ捨て、お願いしますね~」
「ム? それは僕に言っているのか」
「マリーンズのところまでモップを返しに行くのと、どっちが良いですか?」
 一方でアスクレピオスにも指示を出すのを忘れない。
 反射的に眉を顰めた英霊は、代替案を提示され、沈黙を返事の代わりにした。
 医務室がある生活区画からドックまでは、結構な距離がある。ゴミ捨て場もそこそこ離れているけれど、船渠区画と比べたら、まだ幾らか近かった。
 うら若き少女にあしらわれている英霊の図は、なかなか面白い。
 あまりない光景に思わず噴き出しかけて、立香は緩んだ頬を急ぎ両手で隠した。
「……で?」
「うっ」
 しかし若干、間に合わなかった。
 低い声で短く問われ、息が詰まった。喉の奥で呻き声を漏らし、立香は不機嫌度がワンランク上がったアスクレピオスから半歩後退した。
 額で交差する前髪越しに、翡翠の色をした瞳が鋭く輝く。
 蛇に睨まれた蛙の気分から解放されたのは、数秒後のことだった。
 このまま永遠に固まり続ける可能性に冷や汗を流したが、杞憂に終わった。先に目を逸らしたのは、医神とも称されるサーヴァントの方だった。
 彼が顔を背けたのは、腕に絡ませていた蛇が動いた為だ。空中に器用に身を乗り出して、別の場所に飛び移ろうとしていたのだが、微妙に届かなくて床に落ちてしまったのだ。
 ピカピカに磨かれたばかりの床を這い、鱗を持つ生き物が身をくねらせながら立香に近付いて来る。
「おい、こら」
 飼い主であるアスクレピオスは引き留めようとしたが、白蛇は聞き入れない。
 程なくして立香の足元に到着したそれは、抱き上げろと言わんばかりに、つぶらな眼を上向かせた。先がふたつに割れた舌をひっきりなしに出し入れして、催促のつもりか大きく口を開き、空気を噛み潰した。
「ふふふ。いいよ、おいで」
「あまり甘やかすな」
「どうして? かわいいのに」
 これが身の丈よりも大きければ恐怖だが、このサイズなら愛玩の対象だ。
 すぐさま屈んで、手を伸ばして抱き上げた立香に対し、アスクレピオスは渋面を崩さなかった。
 足元に向かって舌打ちするのが聞こえたが、元凶となった蛇はどこ吹く風だ。差し出された手に躊躇なく頭を乗せて、するすると手首まで進み、緩い力で絡みついて来た。
 締め上げるつもりはないらしく、束縛はそこまで不快ではなかった。
 真っ直ぐ肩まで這い上がって来るのかと思ったが、途中で進路を変え、蛇は背中に向かった。柔らかくなく、しかし硬すぎない何かに後ろから押されているのは分かるけれど、姿が見えないのは、不思議な感覚だった。
「どこ行った~?」
 感覚だけを頼りに行方を追うのは、簡単なようで難しい。
 右肘付近に尾が残っており、下手に動けばそれが外れて、落ちてしまう。それは可哀相だとの気持ちが先立ち、腰を捻ったり、身体を大きく揺すったりするのは出来なかった。
「お前が、どこも痛めていないし、患ってもないのは、よく分かった」
「んん?」
 代わりに見てもらおうと、慎重に身体を半回転させて、アスクレピオスに背中を向ける。
 ただ飛んで来たのは蛇の動向ではなく、溜め息交じりの独白だった。
 そういえば彼に、腹具合を聞かれていた。合間にネモ・ナースとのやり取りもあったので、完璧に失念していた。
「ご明察。さすがはお医者様」
「医者でなくても分かるだろう」
「んふふ。……って、うわ。こんなところから出た」
 照れ隠しも含めて茶化せば、溜め息が追加された。直後に人の背中を撫で回していた蛇が、反対側の腋の下から顔を覗かせる。予期していなかった事態に驚く声に、アスクレピオスは更に嘆息を重ねた。
 猫背気味の姿勢で額を軽く押さえ、数回首を横に振り、腕を降ろした。後頭部を手のひらで撫でて跳ねている毛先を押し潰し、床を爪先で蹴って、腰を捻った。
「座れ。僕に話したいことでもあったんだろう」
 右足を先に繰り出し、進行方向に置かれている診察台を指差す。
 肩越しに振り返った彼の言葉に、立香は間髪入れずに頷いた。
「大掃除、大変だった?」
「ここはノウム・カルデアで、最も清潔な場所だぞ」
 アスクレピオス自身は背もたれのある椅子を引き、そちらに腰を下ろした。横に細長い机の角をさっと撫でて、動き回る蛇に手こずる立香に向かい、口角を持ち上げた。
 得意げな表情と台詞だけれど、メディカルルームの清掃を主に担っているのは、ネモ・ナースだ。そこに婦長ことナイチンゲールが加わって、定期的に洗浄と消毒が施されていた。
 偉そうにふんぞり返っているものの、彼は診察と治療以外は、ほぼノータッチ。
 だというのに不遜な態度を崩さない辺りが、いかにも医神らしかった。
「そういうことに、しておこうかな」
「引っかかる言い方だな」
 他者の功績を横取りして自慢しているのではなく、自分が中心となって舵取りしているからこそ、医務室が清潔に保たれている、と言いたいらしい。
 己が優秀だと認識し、それを微塵も疑わない故の解釈だ。不遜極まりない態度ながら、こうでなくてはアスクレピオスではない、とも言い換えられた。
 どことなく不満げな表情を笑ってやり過ごし、立香は足早に診察台に向かった。纏わり付く蛇を踏まないよう注意しながら、掃除の時にシーツ類を取り外し、そのままになっている質素なベッドに浅く腰かけた。
 体重を預ければ、自身にしか聞こえない程度にギシ、と軋む音がした。
 靴は脱がない。僅かに浮く爪先をぶらぶらさせて、彼は頬杖をつく医神に目を細めた。
「あのさ。今日って、大晦日じゃない」
「らしいな」
「らしい、って?」
「それは僕らのいた時代より、後に出来た暦の話だろう」
「ああ、そっか。そうなるのか」
 現代社会で多く使われているのは、カエサルが定めたユリウス暦を更に改良した、グレゴリウス暦だ。そのカエサルも紀元前一世紀頃の人物なので、古代ギリシャに由来を持つアスクレピオスの関心が薄いのは、ある意味当然だった。
 これまで考えた事もなくて、言われて初めて気がついた。
 英霊は召喚される際に座より必要な情報を与えられるから、当たり前のように現代の暦に対応している。けれど実際は、生前との違いに違和感を覚えている英霊も、中にはいたかもしれなかった。
「それで、大晦日の今日に、わざわざ僕に何の用だ?」
 頬杖を解き、入れ替わりに脚を組んだ医神が話を戻した。前傾姿勢で顔をこちらに近付けるが、表情はあまり興味なさそうだった。
 腹痛や頭痛に悩まされているわけでも、珍しい症例の患者を引っ張ってきたわけでもないのだから、この反応は覚悟の上だ。一週間近く前から散々脳内でシミュレートを繰り返し、対応策を練ってきたのだから、怖れる事は何もなかった。
 左胸に手を添えて、立香は時間をかけて息を吸い、吐いた。肩から首筋を伝い、反対側に行こうとする蛇が若干気になったが、好きにさせて、背筋を伸ばした。
 緩く握った拳を腿に揃え、居住まいを正した。怪訝にしているアスクレピオスに向き直り、眼差しを投げた。
 ただし切り出し方は、大成功とは言い難かった。
「ええと、そう。大晦日、だから。あのさ。今年一年、色々あって……ゾンビはちょっと吃驚し、笑ったけど、アスクレピオスにはオレも、みんなも、いっぱいお世話になって。沢山。ほんとに、うん。やっぱりお医者さんって大事だと思ったし、居てくれて良かったなあって、すごく思うから。だから――」
 口を開いて喋り出した瞬間、頭の中が真っ白になって、短く息を吐いた直後に思い出した。どくんと思い切り跳ねた鼓動に冷や汗が出たが、躊躇を振り切り、ひと息に捲し立てた。
 用意してきた台詞を、練習してきた謝辞を、早口に述べた。途中からは広げた両手を上下に揺らし、最後は勢い余ってベッドから立ち上がった。
 忽ち蛇が体勢を崩し、右上腕にあった重みがふっと消えた。
「ああ、あっ。ごめん。ごめん」
 それで集中力を削がれ、緊張の糸もぷつりと切れた。肩越しに振り返り見れば白蛇が寝台でひっくり返り、不満を表明してか、とぐろを巻き始めた。
 威嚇するかの如く牙を向けられ、謝るが、伝わっているかは分からない。
 両手を顔の前で合わせて頭を下げていたら、後ろから盛大な溜息が聞こえてきた。
「なにを改まって言い出したかと思えば。そんなことか」
 視線を戻せば死者をも甦らせたと伝わる英霊が、椅子を引き、立ち上がるところだった。
「アスクレピオス」
 表情は険しく、眉間に皺が寄っていた。不機嫌が人の形を成して歩いている、と言っても過言ではなかった。
 そこまで気に触ることを言ったつもりはないけれど、彼の沸点がどこにあるか、立香は未だに掴み倦ねていた。
 今度ケイローンかイアソンを捕まえて、じっくり話を聞くべきだろう。
 硬い足音を響かせ近付くアスクレピオスからじりじり後退し、膝裏がベッドの縁に引っかかったところで止まる。バランスを崩して寝台に崩れ落ち、ここからどうするかで逡巡していたら、長い袖越しに、額に指を突きつけられた。
「いいか、マスター。僕は医者だ。医者である以上、患者を診るのは当然だ。なにも特別な事じゃない」
「え……ええ?」
「僕が前線に出るのも、特異点に足を運ぶのも、全ては未知の病原菌、ウイルス、症例を集めるためでしかない。その最中にお前や、他の連中に治療を施すこともあったが、それはあくまで、もののついでだ。それにお前になにかあれば、僕の研究が継続出来なくなるからな」
 軽く小突かれ、頭を後ろに下がらせている間に、怒濤の勢いで吐き捨てられた。興奮しているのかいつになく饒舌で、更に数回、立て続けに額を突かれた。
 白い布が防御壁の役目を果たしてくれているものの、爪先で連打さるのは遠慮したい。五度目を喰らいそうになって、さすがに我慢ならないと払い除ければ、我に返ったのか、アスクレピオスは三度ばかり瞬きを繰り返した。
 自分自身の行動に驚いているらしくぽかんと惚けた顔をして、次の瞬間には素に戻った。出していた右手を瞬時に引っ込め、背中に隠して、照れ隠しの咳払いをした。
「ん、んんっ」
 口を閉ざしたまま息を吐いて誤魔化し、深呼吸を挟んで立香に向き直る。
「……つまり、だ。マスター」
「うん。でもさ」
 彼が言いたいことは、大体分かった。
 キャスター、アスクレピオスは他の英雄とは少し勝手が違う。彼が英霊として座に刻まれたのは、誰かと争い、勝利したからではない。医者として多くの人の命を救い、現代に至るまでの医学の道筋を切り開いたからだ。
 彼の中心には医術があり、医療こそが彼の存在意義でもある。死者蘇生薬の再現を目指しているのも、死の運命に呪われている人間を助けたい、という意識が根底にあるからだ。
 そんな彼にとって、カルデアでの医療行為は研究の片手間にやる、暇潰しに等しい。一方軽い怪我や微熱に対し、文句を言いながらも手当てを施してくれるのだって、それが己の役目であり、すべきことと認識しているからだ。
 やると決めたことを、当たり前にやっただけ。
 そこに感謝される謂われはないというのが、アスクレピオスの理屈だ。
「でも、やっぱり言わせてよ」
 ただ立香にも、立香の主張がある。たとえ要らないと言われようとも、素直に受け取って貰えないとしても、言うと決めて来たのだから、決意を違えたくなかった。
 大人しく引き下がれないし、引き下がるつもりもない。
 こういう時は、粘られる前に、行動に出るが勝ちだ。
「ありがとう、アスクレピオス」
 深く吸った息を一旦胸に止め、万感の想いを込めて囁く。
 告げる直前に逸らした視線を戻し、翡翠の双眸を射貫くつもりで告げた彼に、半神半人の英霊はどこまでも無表情だった。
 いや、ほんの少しだけ眉が寄っただろうか。
 一年分の感謝を捧げられた医神は、瞼をゆっくり降ろし、完全の閉じきる前に左手で鼻筋を覆い隠した。だらりと垂れた袖先がゆらゆらと揺れる様は、風にそよぐ吹き流しのようだった。
「ふふん」
 どんな顔をしているかは見えないけれど、苦悶に歪んでいるわけでないのは、確かだ。
 してやったりとほくそ笑み、得意げに鼻を鳴らした立香を見下ろして、アスクレピオスは俯いたまま首を振った。
「どういたしまして、だ。マスター」
「うわっちゃ」
 勝ち誇った表情が癪に障ったらしく、次の瞬間、彼は額にやっていた手を返し、伸ばした。問答無用で癖が強い黒髪を掻き混ぜて、最後に数回、ぽんぽん、と広げた手のひらで撫でた。
 子供の姿をしたサーヴァントたちを宥め、注射や苦い薬を我慢した際に褒めるような、そんな優しい仕草だった。
「へへへ」
 擦り傷や打撲程度では素っ気ない態度ばかりだし、意識を失う程の重傷を負った時は、そもそも治療されている最中の記憶がない。目が醒めた時にはいつも通りの愛想のない彼に戻ってしまっているので、こんな触り方をされるのは、随分と久しぶりだった。
 くすぐったくて、胸の奥がじんわり暖かくなっていくのを感じた。くしゃみが出そうで出ない、微妙なラインで身を捩っていたら、とぐろを解いた白蛇が太腿に這い上がって来た。
 自分を忘れるなと言いたげな行動だった。けれど蛇は完全に腿に上がりきる前に、アスクレピオスに回収された。
「だが、先にも言ったが。僕に感謝は必要ない、マスター。お前がいなくなれば、この旅はそこで終わる。それは僕の研究を完成させる為にも、是が非でも避けなければならない事態だ」
 勝手をする使い魔を諫め、己の肩に移動させた医神が目を眇めた。
 告げられたのは先ほどと全く同じ主張で、ここで反論すれば、双六で言う振り出しに戻る、だ。堂々巡りのやり取りは時間の浪費であり、双方意固地になって、喧嘩に発展しかねなかった。
「そういえば、前に……いつだっけ。アスクレピオスがぎりぎり間に合って、みんなを回復してくれて、なんとか持ち堪えたことあったよね。あれは凄かったな。その後も、オレが口を挟む暇がないくらいに指示が的確で。さすがはお医者様、て感じだった」
 だから言い返したいのをぐっと我慢して、別の話題に誘導した。今年一年の出来事をざっと振り返りながら、苦しくもあり、楽しくもあった日々を両手一杯に転がした。
 辛くて、哀しい出来事もあったけれど、それらも含めて今がある。
 その全てを大事に抱きしめ、微笑めば、何をどう感じ取ったのか、アスクレピオスは不意に神妙な顔を作った。
「なに?」
「……いや。僕は医者で、患者はお前のような人間や、今はサーヴァントも含まれるが」
 静かに伸ばされた手が、立香の左頬に触れた。
 布越しでも分かる指の感触が、柔らかい。親指以外の四本を揃えて、輪郭をなぞるように包まれた。
 頬骨の上から、顎に向かう一帯を。耳朶に近付いたかと思えば遠ざかり、また戻って、なかなか離れようとしなかった。
 彼の脚が膝に当たった。気がつけば金糸を織り込んだサンダルが、厚底ブーツの内側に潜り込んでいた。
 衝撃に気を取られている間に、アスクレピオスの顔が一気に近付いた。
 白い肌、銀の髪。長い睫毛、草原を閉じ込めたかの如き輝きの瞳。
 長く高い鼻梁、大理石の彫像を思わせる整った顔立ち。唇から漏れ出る吐息が肌を掠めた。柔らかな微風は仄かに熱を持ち、その数倍の熱さが立香の内側に襲い掛かった。
「あ、……アス……っ」
 宝石にも勝る輝きが、すぐそこにあった。鏡と化した眼に自分の顔が写り込む事態に、全身が凍り付いた。
 思考さえも停止して、呂律が回る筈もなく。
 変なところで悲鳴を飲み込んだ立香を軽く笑って、医術を極めんとする英霊は不敵に微笑んだ。
「貴様は人理を修復し、今は白紙化された汎人類史を取り戻そうとしている。それは僕には、成し遂げられないことだ。となれば、マスター。お前はまるで、世界にとってのお医者様、だな」
 合間に息継ぎを幾度か挟み、肩を震わせながら述べられた。
 ふざけているのか、真剣なのか、正直言って良く分からない。ただ茶化すにしても、言葉そのものは軽くなかった。
 労り、慈しんでくれた手が、遠ざかった。心地よかった熱が過ぎ去り、過去のものとなり果てるのを、心が拒んだ。
「っ!」
 咄嗟に転がしていた手を伸ばし、揺らめき踊る袖を掴んだ。必死に指を絡ませ、握り締めて、一度だけの抵抗をねじ伏せた。
 布を縫い止める糸がどこかで切れたような感触があったが、手放さなかった。退くのを諦めた医神を前に頭を垂れて、立香は無我夢中だった自身の行動を省み、顔を赤くした。
「いや、その。えっと」
 デミ・サーヴァントのマシュと契約したのは、事故のようなものだった。
 その後は皆に望まれ、求められるままに、ひた走り続けてきた。アスクレピオスの弁に倣うなら、それが人類最後のマスターとなった立香のすべきことであり、やるべき事だったからだ。
 何度も挫けそうになり、投げ出したくなった。脚の震えが止まらず、逃げ出したいのを必死に我慢して、どうにか今日までやって来た。
 時には自分自身さえも欺いた。或いは今も、そうかもしれない。
 マスターとして失われた世界を取り戻す。
 異星の神によって正常ではない状態に置かれた世界を癒し、在るべき形に治す。
 結局は言葉遊びで、言い換えただけ。辿り着く先は同じだ。
 だというのに、アスクレピオスの総評はいやに心の奥深くに沁み入った。疼くような痛みが、高熱を伴って身体全部に渦巻いた。
 嬉しいのに、不思議と苦しい。
 その苦しさも、息が出来ない時の辛さとは別次元の、言葉では簡単に言い表せない感覚だった。
「ごめ、……ごめん。なんて、いうか。そんな風に言われたこと、なかったから。ちょっと。……ちょっと、びっくりして。ごめん。待って」
 目頭がいつの間にかじんわり湿り気を帯び、視界がぐにゃりと歪んだ。勝手に溢れてくるものを止めようと空いた手で眉間を押さえつけ、天を仰いだ。
 その間もアスクレピオスの袖は離さず、逆に一層力を込めた。みっともなく音を響かせて鼻を啜り、魚を真似て口を開閉させて、荒波に攫われた心を必死に繋ぎ止めた。
 筋張った己の手を一心に見詰め、乱れた呼吸を懸命に整えんと試みるが、なかなか上手くいかない。
 噎せて咳き込み、溢れそうになった唾液を舐めて集め、膝を寄せて身を丸くした。
「構わない。今は好きなだけ、時間を使え。マスター」
 その背を袖の上からなぞり、アスクレピオスが囁いた。
 背骨の隆起を辿ってうなじを擽り、黒髪を梳いて、後頭部の丸みを抱え込んだ。
 引き寄せられた。真っ白い衣に鼻先が触れた瞬間、薬草なのか、薬品なのか、湿った苦い匂いが鼻腔をすり抜けていった。
 美味しくもなく、不快感を増幅させる香りなのに、奇妙にもざわついていた心が一気に和いだ。激しく波打ち、定まらなかった想いが収束して、立香の中心に戻ってきた。
 恐る恐る両の手を彼の背に回したら、意外にも突き放されなかった。
「お前が世界を癒すのに疲れたなら、僕がお前を癒してやる。もっと医者に、甘えていろ」
 耳元で囁かれる言葉は低く、静かだった。穏やかな波打ち際を思わせる優しい声色に、長く奥底で凝っていた澱が解けていくようだった。
 サーヴァントの皆にはいつも助けられているし、充分過ぎるくらい甘えていた。ただ相手が英霊である以上、一定の線引きは必要だった。
 その境界線を飛び越えても、構わないのだろうか。
 サーヴァントである以前に、医者である彼に、これまで以上に甘えても許されるだろうか。
 それとももうとっくの昔に、通り越してしまった後かもしれない。
「来年、も」
「うん?」
「えっと。……よろしく、お願い……しま、す……」
 幾分正気を取り戻して、それでも若干足元がふわふわしたまま、年越しの挨拶を繰り出す。
 束縛を解いた後も後頭部から離れて行かない手を気にしつつ、前方を窺い見れば、涼やかな美丈夫が澄まし顔で佇んでいた。
「ああ。期待していろ」
「その返し方は、ちょっと。なんか……」
 恐らくアスクレピオスは真面目に答えたのだろうが、この状況では違う意味に勘違いしてしまいそうだ。
 自意識過剰だろうかと己に疑念を抱きつつ、立香は火照りが収まらない頬を両手で押さえた。

2020/12/31 脱稿

神もなほもとの心をかへりみよ この世とのみは思はざらなむ
風葉和歌集 481

まことの塵に 成ぬと思へば

 季節の変化を感じるのは、いつだってとても些細なところからだ。
「さむ……」
 地表を抉るように吹いた風が、竹箒を握る両手から熱を奪い、空を目指して駆けて行く。たまらず脇を締めた小夜左文字は、身震いついでに吐息を零した。
 凍えて赤くなっている指先に熱を与えてみるものの、焼け石に水でしかない。三度、四度と呼気をぶつけてみたが、意味はないと五度目は諦めた。
 恨めしげに空を仰げば、細切れの雲が徒党を組んで流れていた。
 地べたに這い蹲るしかない存在には一切関心を寄せず、鰯雲は素知らぬ顔をして、西から東に向かって泳いでいった。
「天気、崩れるのかな」
 澄み渡る青空は美しく、いくらでも眺めていられる。
 ただ上空を流れる風の速度が、少々気がかりだった。
 今のところ悪天候の兆しは見えないけれど、気をつけておくべきだろう。刀剣男士として顕現し、思いのままに動かせる肉体を得た中で学んだ知識を費やして、短刀の付喪神は竹箒を左右に踊らせた。
 ざ、ざっ、と乾いた地面を掻き回し、散らばっていた落ち葉を一箇所に集めていく。しかし一度掃いた場所も、しばらくすれば、見知らぬ落ち葉に占領されていた。
 やっても、やっても、一向に終わる気配がない。しかしこれくらいで挫けていたら、庭掃除などやっていられなかった。
「も~、いやだ。ああ、嫌だ」
 但し、諦観の境地に辿り着いているのは、小夜左文字だけ。
 一緒にやる、と言って聞かなかったもうひと振りの短刀は、気怠げに唸り、力なく竹箒にしなだれかかった。
 やり始めた時は血気盛んで、喜色満面とした表情は、今やすっかり萎びれていた。若々しかった顔付きは皺だらけになり、草臥れた草履の如くと化していた。
「太閤、別にもう、休んでも良いよ」
 最初のうちは張り切って、元気よく箒を振り回していた太閤左文字だが、時間が経つに連れて段々と静かになっていった。
 日向はまだ暖かいけれど、木陰に入ると一気に冷え込む秋の終わり。吐く息が白く濁るのはもうしばらく先だけれど、屋外での肉体労働は、顕現したばかりの刀にはかなり苦痛だった。
 寒風吹き付ける中、終わりが見えない作業を黙々と続けなければならないのだから、仕方がない。後はこちらに任せて、温かな室内に逃げ込むよう諭したのは、あくまでも親切心からだ。
 だというのに、言われた方は何故かムッとして、竹箒を握り直した。
「今、儂のこと、役立たずだって思ったでしょ」
 小鼻を膨らませ、目を吊り上げた太閤が、早口に捲し立てる。
 被害妄想甚だしいひと言に、小夜左文字は一瞬間を置いて、肩を落とした。
「……思ってない」
「うっそだー。ふんだ。儂だって、やれば出来るって証明してやる」
「好きにすれば?」
 正直に弁解したのに、信じてもらえない。八つ当たりにも等しい台詞を吐いて、彼は再び、勇ましく箒を振り回した。
 結果として、やる気を取り戻したのであれば、それで構わない。
 ぶつぶつ文句を言いながら傍に居られるよりは、こちらの方がまだ幾分ましだった。
 山になった黄色や赤、橙に、一部緑が残っている落ち葉をちり取りで掬い取り、籐で編んだ背負い籠へと放り込む。
 焚き火をしても良いけれど、火の始末は面倒だ。芋や栗を持ち込んで焼くのも、時間がかかるし、火力次第では美味しく出来上がらないのが難点だった。
 ああいうものは、もう料理上手の刀に、厨で作ってもらう方が良い。
 数年掛けて悟った事実にも肩を竦めて、小夜左文字は額に浮かんだ汗を拭った。
 気温は低いが、動き続けていたから、少し暑い。ようやく一段落ついた、と言えるところまで辿り着いた彼は、ふと思い出し、左右を見回した。
「太閤?」
 気がつけば、太閤左文字の姿が見えなくなっていた。
 少し前まで、熱心に地面を掃いていた。まるで親の敵であるかのように、庭に降り積もり落ち葉を掻き集めていたのに。
 またしても力尽き、もしくは飽きて、屋内に引っ込んでしまったのか。
「だったら、言ってくれても良いのに」
 これが終わったら、歌仙兼定に頼んでおいた大根餅を一緒に食べようと、誘うつもりだった。
 まだまだ本丸での生活に不慣れな彼のために、気を配るところは多い。人懐っこく、物怖じしない彼なら、心配ないと思ってはいるけれど。
「……捨ててこよう」
 居なくなったのならば、どうしようもない。
 彼自身が下した結果や、行動に深く言及するつもりはなかった。無関心を装い、集めた木の葉を焼却場へ運ぶべく、背負い籠の紐に手を伸ばした。
「おーい、小夜っち~」
 しかし身を屈めようとしたところで、遠くの方から馴れ馴れしく呼ぶ声がした。
 顔を上げて、見て確かめるまでもない。掃除道具はどこへやったのか、空の両手を振り回しながら駆け戻って来たのは、他ならぬ太閤左文字だった。
 黄金色の髪を左右に揺らし、息を弾ませて、表情は楽しげだ。小夜左文字の口角は常に下がり気味だけれど、彼は大抵の場合、それが上に向いていた。
 誰に対しても臆さず、過度に怖れない。初対面の相手にも過剰に謙ることなく、堂々と振る舞って、愛嬌を忘れない。
 前の主の影響を受けた刀は多いが、彼もまた、その典型だった。
「……なに」
 復讐に囚われた短刀とは、正反対の道を辿ってきた刀だ。正直あまり得意な相手とは言い難い。ただ同じ左文字のよしみもあり、無碍には出来なかった。
 その彼に小首を傾げ、木の葉で満杯になった背負い籠の前から離れる。
「こっちこっち~」
「え、ちょっと」
 途端に手を取られ、引っ張られた。たまらず握っていた箒を手放し、爪先立ちで跳ねるように地面を蹴った。
 転びはしなかったけれど、一瞬で息が切れた。目を丸くして前方を凝視すれば、悪戯が成功したと笑う太閤左文字と目が合った。
「いいもの見付けたんだ~」
 白い歯を覗かせ、得意げに言われた。こっちだ、と急かして地を駆る彼に半ば引き摺られる格好で、小夜左文字は仕方なく掃除道具に手を振った。
 距離が開きすぎないよう、かといって近付き過ぎないよう、丁度良い塩梅を保ちながら、握り締められた手首を見た。
 赤く染まった指先は小夜左文字の比ではなく、所々皮がすりむけ、血が滲んだ痕があった。
 痛いのなら、そう言えば良いのに。
 痩せ我慢しがちだった自分自身を棚に上げての感想は、乾いた風に攫われて、どこかへ消えていった。
「じゃーん。ねえ、どう? どう? きれいでしょう?」
 手を引かれて走った時間は、それほど長くない。
 合計で百歩にも届かないうちに辿り着いたのは、屋敷の縁側からでは見え難い、表門に繋がる道の裏手だった。
 冬場でも葉が落ちない常緑樹の茂みが広がり、反対側に目を転じれば、緑の向こう側に茶屋の藁葺き屋根が見えた。
 何振りか集まって話す声がして、馬の嘶きがそれを掻き消す。鹿威しが甲高い音をひとつ響かせて、呼応するかのように鳶の鳴き声が降ってきた。
 艶を帯びた緑の葉に埋もれる格好で咲いていたのは、鮮やかな赤色の花だった。
 一輪だけでなく、両手でも足りない程に咲き乱れていた。上にも、下にも、右にも、左にもだ。
 密集した枝は夏前に剪定され、その際の形を比較的維持していた。小夜左文字や、太閤左文字の背丈ならばすっぽり隠れてしまえる樹高で統一されて、満開の花の他に、蕾や、すでに散ったものが紛れていた。
 足元には真っ赤な花弁が敷き詰められて、さながら毛氈が広げられているようでもある。
「これが、いいもの?」
 上から下へ、そして再び上へと視線を動かし、小夜左文字は胸を撫でて息を整えた。唾を飲み、唇を舐め、傍らで得意げにしている太閤左文字に顔を向けた。
「だって、落ち葉ばっかりじゃ気が滅入るでしょ。綺麗だよね~、椿って」
「ああ……」
 訝しげな視線を受けて、彼は茶目っ気たっぷりに目を細めた。
 秋から冬に向けて木々を鮮やかに染める紅葉は美しいが、軒先で山積みになった落ち葉はただの厄介者だ。濡れれば滑るし、放置すれば景観の悪化に繋がった。
 儚くも美しい反面、煩わしくてならないものに目を向け続けていたら、心が磨り減るというもの。
 だからたまにはちゃんと美しいものを眺めて、心を慰める必要がある。
 両手を大きく広げて顔を綻ばせた太閤一文字の心遣いに、小夜左文字は成る程、と頷いた。
 彼の言い分は、一理ある。
 ただ、全部が全部、肯定は出来なかった。
「でも、太閤」
「うん? なに、小夜っち」
「これ、椿じゃないです」
「……え?」
 間違いは、早いうちに正しておかなければならない。
 満開の花弁を指差し、淡々と告げる。
 途端に太閤一文字の表情が曇り、固まり、瞳が宙を泳いだ。サッと顔色が悪くなり、唇が細かく震え、両手は空を掻き回した後、胸元に集められた。
 あれだけ自信満々に言い放っただけに、信じられないと言いたげな表情だった。
「違うの? だってこれ、どう見たって、椿――」
「これは、山茶花です」
「さざんかあ~?」
 口調も僅かに上擦り、心持ち早口だ。
 小夜左文字と常緑樹の生け垣とを何度も見比べ、首を捻り、目をぱちぱちさせて、最後は仰け反り気味に天を仰いだ。
 衝撃を受け、間違ってしまったのを恥じ入り、両手で顔を隠した。ただ覆いきれなかった耳朶は、先ほどよりずっと赤かった。
 日光東照宮で有名なあの三猿のひとつにそっくり、という感想は胸の内に留めて、小夜左文字は口元を綻ばせた。
「ほんとに? ほんとに、これ、山茶花? 儂を騙してない?」
 密かに笑っていたら、指の隙間から目を出した太閤が、疑わしげに問うて来た。
「だって、ほら。椿は花ごと落ちるけど」
 仕方なく一番分かり易い見比べ方を教えてやれば、思い出したらしく、彼はがっくり項垂れた。
 椿は、花首からぼとりと落ちることで有名だ。その為、首が落ちるのに繋がると、武士には忌避されがちだった。
 一方これに良く似た花を付ける山茶花は、花弁が一枚ずつ落ちて行く。今こうしている間にも、ふた振りの足元を、はらりと落ちた花びらがすり抜けていった。
「あっちゃ~~」
 論より証拠を示されて、太閤左文字は頭を抱えた。恥ずかしそうに身悶え、地団駄を踏み、その場に蹲って小さくなった。
 分かり易く落ち込んで、拗ねて、可愛らしい。
 思わず頭を撫でてやりたくなったが、手を伸ばすより先に、気配を呼んだ向こうが顔を上げた。
「うわ」
「じゃあさ、じゃあさ。あっちは?」
「あっち?」
 慌てて出しかけた右手を引っ込め、背中に隠した。動揺を悟られないよう表情を引き締め、急に元気になった太閤には眉を顰めた。
 立ち上がった彼が彼方を指差すけれど、具体的な説明がないので、よく分からない。
 怪訝に見詰め返していたら、痺れを切らした彼に、またもや腕を引っ張られた。
「こっち!」
 詳細は一切語らず、太閤が駆け出す。
「もう……」
 手首を取られた瞬間、警戒したので、今度は転びそうになることもなかった。勘を働かせ、彼が動くのに合わせて地面を蹴って、速度を揃えた。
 内心呆れつつ、彼が思いの外本丸内を探索し、見聞を広めていたのに驚いた。可能性を考慮し、もしやあそこだろうかと、想像を巡らせる。何箇所か候補地を頭の中に並べ立てて、予想が当たったのは嬉しかった。
 ひとりで悦には入り、にやりとしていたら、振り向いた太閤が訝しげに目を眇めた。
「どったの?」
「……べつに、なにも」
 変な瞬間を見られて、慌てて取り繕った。
 肌が冷えてしまったと誤魔化し、頬を手の甲で乱暴に擦って、小夜左文字は肩を数回上下させた。
 山茶花の生け垣を離れ、藁葺きの茶屋をぐるりと回り込んだ格好だ。瓢箪型をした池に掛かる太鼓橋を望む一帯には、転落を防ぐ目的もあり、竹垣が幅を利かせていた。
 そしてその竹垣は、池から離れた場所にも続いていた。茶室からの景色を調整すべく、後方には背の高い常緑樹が植えられていた。
 色が抜けてくすんだ風合いを出す垣に覆い被さる格好で、山茶花にも似た艶やかな緑が、一心に陽光を集めていた。
 花はまだ咲いていない。ただ蕾は膨らみ始めており、数日中には綻びそうだった。
「これは、椿です。太閤」
「……なにが違う?」
 樹高は、こちらの方がずっと高かった。太刀をも凌ぐ背丈があるが、複数の枝をひとまとめにし、全体として角形になるよう切り揃えている辺りは、山茶花と同様だった。
 ぱっと見ただけでは、両者の違いは目立たない。
 小夜左文字が先ほど教えた見分け方は、花が咲いていない夏場では使えなかった。
「葉の形が、少し」
 椿と山茶花の差など、戦いには関係無い。
 刀剣男士は、歴史修正主義者が目論む歴史改編を阻むために、審神者によって顕現させられた刀の付喪神。その役目は過去へ渡り、時間遡行軍を討伐すること。
 それだけのはずだったのに。
 いつの間にか、闘い以外の日常が、彼らを浸食していた。
 知らなくても良い事に、興味を持つようになった。必要ない知識を蓄え、無駄なことに手を伸ばすようになっていった。
 刀なのに、そうではないもののように振る舞い、時を重ねようとしている。
 だのにこの不要な積み重ねを疑うどころか愛おしみ、慈しむ刀が在った。時の移り変わりを喜び、些細なことにも関心を寄せ、刀らしからぬ行いに全力を尽くす付喪神が在った。
 五年も一緒にいた所為か、すっかり感化されてしまった。
 深く埋もれていた記憶が不意に呼び起こされて、小夜左文字はつい、頬を緩めた。
「……ふ」
「小夜っち?」
「いいえ。僕も、最初は、見分けが付かなかったから」
 自然と笑っていた。噴き出しそうになったのを左手で隠して、隣から注がれる不思議そうな眼差しには首を振った。
 気を取り直し、竹垣の向こうで勢力を保つ椿へ手を伸ばした。背伸びをして、艶を帯びた葉を一枚、引き千切った。
「椿の葉は、縁の鋸歯が浅くて、山茶花は深めで、ぎざぎざしてる。あと、山茶花はちょっと毛深い」
「儂は、毛深くないぞ?」
 説明しながら取った葉を顔の前に持って行き、太閤に示す。裏返して葉脈をなぞりながら続ければ、彼は随分と見当違いなことを口走った。
 猿は尻以外毛深いと、誰もそんなことは思ってもないし、言ってもいないのに、だ。
「知ってる」
 なんでもかんでもそこに繋げようとするのは、彼の悪い癖だ。
 しかし太閤左文字はきっと、永遠に、そこから抜け出せない。小夜左文字が復讐の二文字から逃れられないように。
「へえ~。結構、違うんだ」
「あと、花が咲くのも、山茶花の方が少し早い」
「なるほど。小夜っちの話は、勉強になるなあ」
 あっさり躱されたと知り、太閤左文字は咳払いをひとつした。気を取り直し、小夜左文字の手元を覗き込んで、押しつけられた葉を光に透かした。
 照れることを臆面もなく言い放ち、悪びれようとしない。
 彼の元の主は、そういうところで、多くの人を魅了したのだろう。
「あ、ねえねえ。小夜っち。あれ、なにかな」
 ちょっとした仕草ひとつにも愛嬌が溢れていて、一緒に居て嫌な気分にならない。振り回されてもさほど悪い気がしないのは、彼に宿る天性の素質が故だ。
 手にした葉をくるくる回していたその彼が、なにかを見付け、小夜左文字の袖を引いた。
「今度はなに」
「あれ。あれー。あの、葉っぱの裏の黄色いやつ。ごみ?」
 次は駆け出さないのだと、密かに考えつつ、指し示された場所に目を向けるが、分からない。
 ただ告げられた内容に思い当たる節があり、短刀は息を呑んだ。
「それ、一箇所だけ?」
 ぞわっと来た悪寒を堪え、心を落ち着かせようとするけれど、抑えきれない。早口に、若干大きめの声を響かせれば、太閤左文字は眉を顰め、顎を撫でた。
「えー、どうだろ。待って。……あ、あっちにもある」
 青々とした葉を指し棒代わりにして示された場所には、確かに彼の言うように、ふかふかとした毛玉のような、黄色い塊が存在していた。
 葉の裏に貼り付いて、風に揺れても落ちてこない。それが同じ木に複数箇所、散見していた。
「江雪兄様、呼んで来ます。太閤は絶対、その黄色いの、触らないで」
「へ? なんで江雪っち?」
「それ、茶毒蛾の卵です」
「えええー」
 鳥肌立った腕をなぞり、小夜左文字はかぶりを振った。庭木の手入れを一手に引き受けている長兄の名前を出し、理由を端的に告げれば、最初はきょとんとしていた短刀も一気に顔色を悪くした。
 茶毒蛾は卵にも、幼虫にも、毒がある。勿論成虫になった後もだ。
 直接触れなくても、抜けた毛が当たるだけでも赤く腫れ、痒みを呼び起こす。放置すれば発疹が広がり、熱が出たり、吐き気を覚えたりと、迷惑極まりない毒蛾だ。
 幼虫は食欲旺盛で、除去しなければ木が一本丸裸にされかねない。椿にとって、天敵とも言える存在だった。
「毒があるから、幼虫の駆除は大変だけど。でも卵なら、枝を落とせば済むから。太閤、お手柄です」
「え? ええ、そう? いや~、褒められると照れちゃうな~」
 偶然が偶然を呼んで、見落とされていた害虫駆除の目処が立った。
 行動を起こすのは早いに越した事は無く、今すぐにでも卵のついた枝は全て落とすべきだろう。ただそれには梯子が必要で、毒を浴びずに済む装備も欠かせない。
 太閤左文字のお蔭で、この椿は守られる。
 素直に称賛し、小夜左文字はだらしなく鼻の下を伸ばした短刀の手を取った。ぎゅっと握り、斜め下から覗き込んだ。
 そしてひと呼吸置き、真摯な眼差しで訴えた。
「というわけで、太閤。僕が兄様を呼んでくるまで、他にも卵がないか、調べておいて」
「はい? ちょ、ちょっと~。小夜っち~?」
 どうやら毛深い毒虫の卵は、彼の方が見付け易いらしい。
 そこに猿は関係しないはずだが、ここは上手な側が残るべきだ。力強く言って、即座に手放し、踵を返す。後ろから情けない呼び声が響いたが、小夜左文字は振り返らなかった。

2020/11/29 脱稿
あらし掃く庭の木の葉の惜しきかな まことの塵に成ぬと思へば
山家集 498

光もてなす 菊の白露

 よく手入れされた菊の花が、大輪の花火の如く咲いている。
 黄色、白、赤、それに紫。花弁のほんの一部が色を変えているものもあり、乱雑に思えてしっかり考えて並べられた鉢が、庭先に見事な彩りを添えていた。
 地面に直置きされた後方にひな壇が据えられ、どの花も景色に埋もれることなく、凛と背筋を伸ばしていた。
 ここまで見事に咲かせるのには、大変な手間暇がかかっただろう。
 初年度は失敗して、二年目もあまり巧く行かなかったと、愚痴を零された。簡単なようで難しいと零していた兄刀を思い浮かべて、小夜左文字は口元を綻ばせた。
「綺麗、です」
 己の背丈では、最後方の菊花が見えない。
 全体を視界に収めるには、屋敷の中から眺める方がずっと効率的だ。
 それでも庭先に出ると、ついつい近くに寄ってしまう。江雪左文字が手塩に掛けて育てた花の美しさを愛でて、その技術の進歩ぶりに感嘆の息を吐くのも、弟刀としての役目だろう。
 後で感想を言いに行こう。
 畑で収穫作業を手伝っているはずの太刀に想いを馳せて、彼は乾いた地面を蹴った。
 草履の裏で砂利を踏み、落ちていた橙色の葉を跨いだ。遠くの方では竹箒を手にした秋田藤四郎が、一心不乱に落ち葉を集めていた。
 姿は見えないが、前田藤四郎の声がした。五虎退の虎が日向に寝転がって、のんびり欠伸をしている。足音がして振り返れば、乱藤四郎が縁側を駆け抜けていった。
「お芋、貰ってきたよー」
「では、消火用の水を汲んできますね」
「やったあ。焼き芋、焼き芋」
 菊の花に囲われた小夜左文字に気付くことなく、彼らは楽しそうに歓声を上げ、目的を成し遂げるべく行動を開始した。
 集めた落ち葉で焚き火をして、暖を取りつつ、薩摩芋を焼いて食べようというのだ。
 晩秋の恒例行事と化した賑わいを想像して、小柄な短刀は目を細めた。
「いけない。忘れるところだった」
 時間遡行軍との戦いが始まり、もう何度目か知れない秋が来た。
 歴史修正主義者の全貌は未だ見えず、無益とも思えるこの争乱がいつ終わるかは、誰にも分からない。しかし季節は巡り、暦は着実に前に進んでいた。
 少し前まで、空を仰げば巨大な入道雲が山の峰に寄りかかっていた。
 それが今となっては、陽射しは穏やかで、木陰に立てば肌寒い。日の出は遅くなり、日の入りは早まり、太陽が明るく照る時間は、日毎に短くなっていた。
 足元に落ちる影は長く、それでいて色は夏場に比べて薄い気がする。石灯篭に覆い被さる落ち葉に何気なく目をやって、小夜左文字は歪みが目立つ竹製の門扉を押し開いた。
 部材を固定すべく巻き付けられた縄は黒ずみ、所々解れている。誰かが勢い任せに押し開き続けた結果、足で蹴られ易い場所はひび割れ、他よりも傷みが激しかった。
 そのうち作り替えないといけないと言いつつ、未だ放置されたまま。
 仲間が増え、色々やらねばならない事が多い所為もあり、こういうところは全て後回しになっていた。
 予算はあるし、暇を持て余している刀も、探せば在るだろうに。
「僕がやっても良いんだけど。巧くは、出来ないだろうし」
 離れの茶室に向かう道の道中にある門は、質素ながら、洗練されていた。通好みの細工が施されており、おいそれと真似られるものではなかった。
 そういう事情もあり、長く捨て置かれているのだろう。
 風流な事や物に関しては五月蠅く、凝り性な刀を脳裏に思い浮かべ、藍色の髪の短刀は手水鉢の前を通り抜けた。
 今日の目的地は、茶室ではない。
 毎日のようになにかしら催されている離れだが、今の時間は誰も使っていないようで、ひっそり静まり返っていた。
 雨戸が閉められ、中の様子は窺い知れない。水屋に通じる扉も閉ざされており、動くものの気配はなかった。
 ただその事はあらかじめ知っていたので、驚きはしなかった。
「どこに、いるかな」
 此処に誰か居れば、目当ての刀を探す助言が得られただろうに。
 広すぎる庭園を見渡し、目立つ赤い太鼓橋を視界の中心に据えた。あの刀が行きそうな場所をいくつか候補に挙げて、頭の中の地図に印を刻みつけた。
 どう巡るのが効率的で、合理的か。
 なるべく広範囲を、無駄がないように攻略する経路を模索して、彼は飛び石が並ぶ路地を潜り抜けた。
 丹塗りの太鼓橋は池の水面遙か上を通り、敷地内でも比較的高いところにある。
 まずはそこから周囲を見渡して、逃亡を繰り返している打刀の気配を探ろう。
 訪ねて行った部屋は蛻の殻で、年末までに仕上げなければならない帳簿は真っ白なまま。放っておけば直前まで手を着けないのは、火を見るより明らかだった。
「歌仙、また松井に押しつけるつもりでしょう」
 毎年同じ失敗を繰り返し、いつまで経っても改善しない。反省すらしない初期刀の愚昧さと、それを責める小夜左文字の小言もまた、本丸での恒例行事と化していた。
 ただ昨年は、些か事情が違った。
 顕現したばかりの松井江が、事情も良く分からないまま作業を押しつけられた上、期日までに全て終わらせてしまったのだ。
 彼の辣腕ぶりは、小夜左文字も知っていた。彼なら一定の説明を受ければ、難なくやってのけるのも分かっていた。
 有能な補佐官を得た歌仙兼定が、有頂天になるのも。
「自分でやらなければ、意味がないのに」
 この一年間に万屋で付け払いで購入した物品の合計額を算出し、支払う。
 たったそれだけのことがどうして出来ないのかと、小夜左文字は奥歯を噛み締めた。
 去年はやむを得なかったが、今年も松井江に全てを押しつけるのは、許さない。この本丸の初期刀としての体面を保つためにも、彼にはもっとしっかりしてもらいたいのに。
「いない、か」
 辿り着いた橋の上で前方を見据え、背伸びもしてみるけれど、お目当ての姿は見つからなかった。額に手を翳し、庇代わりにして遠くを凝視するものの、丸裸目前の木々の影にも、それらしき姿は見当たらなかった。
 玄関に草履がなかったので、屋外に出ているのは間違いない。
 万屋に行くには審神者の了解を得ないといけないが、その承諾を受けた形跡はなかった。
 畑で農作業を手伝っているとも思えず、ならばと庭園を散策しているものと踏んで、こちらに足を向けたのだけれど。
「ぐるっと一周して、鍛練場でも覗こうかな」
 何かにつけて風流だ、雅だと口にする刀なので、こちらを優先させたけれど、見誤った。
 可能性がなくなったわけではないので、立ち去るのは早計と己を諫めつつ、小夜左文字は足早に太鼓橋を渡った。
 両足を揃えて橋のたもとに着地して、勢い余って前に出た右足で崩れかけた体躯を支えた。両手を大きく広げ、腰を深く沈めた体勢を素早く立て直して、頭上で吹いた風につられ、高い場所に目を向けた。
 細切れの雲が澄み渡る空を泳ぎ、木々に別れを告げた木の葉がくるくると踊りながら散っていく。
「冬も、近いね」
 日中は程よく空気も温く、水の冷たさもそれほどではない。
 けれど言っている間に雪が降り、氷が張り、布団から抜け出し難くなる。
 琉球の宝刀たちは、総じてこの季節が苦手だ。新たに加わった脇差も、きっと同じに違いない。
「太閤は、どうだろう。冬、大丈夫かな」
 ほかにも何振りか、今年に入ってから本丸にやって来た刀が在る。
 その中のひと振りは、小夜左文字たちに非常に近しい刀だった。
 同じ左文字のひと振りにして、豊臣秀吉に所縁を持つ短刀。賑やかで、華やかで、屈託がなく、小夜左文字が躊躇して越えられなかった数多の壁を、難なく突き破ってしまった刀だ。
「寒い、って。ひっついて来なければいいんだけど」
 誰とでもすぐ仲良くなり、良く笑って、よく喋る。審神者の草履を温めるのが趣味のような太閤左文字は、何かと理由をつけては、べったり貼り付いてくるところがあった。
 こうやってくっついていれば、お互い暖かくて良い。
 そう言い訳して、誰彼構わず抱きつく光景が、楽に想像出来た。
「……べつに、誰とひっついてても、構わないんだけど」
 しかもその想像図に現れたのは、現在進行形で探している相手だ。
 頭の片隅に居座っていたから、もれなく引きずられてしまったらしい。微妙に胸がもやっとして、苛々する妄想を小石と一緒に蹴り飛ばして、彼は尖らせた口を引っ込めた。
 深呼吸をして、程よく冷えた空気を取り込み、頭と身体を冷やす。
 目の前では橙色に染まった桜の葉が、今まさに枝に別れを告げようとしていた。
 少し先に視線を転じれば、驚く程に黄色一色の公孫樹が聳え立っていた。
 樹下に積み上げられた落ち葉の数は凄まじく、そのまま寝台代わりに出来そうなくらいだ。近付けば銀杏の残り香が漂い、さほど快適とは言い難かったが、遠目に眺める分には支障なかった。
 注意深く辺りを探れば、目を見張る光景がそこかしこに広がっている。
 中には、日当たりの影響であろう。半分だけ色が変わり、残り半分は青々とした色を残している木もあった。
 一本の木が、見る方向でまるで違う顔をしている。
 まるで半分だけ秋が来て、残り半分が過ぎ去った季節を惜しんでいるかのような光景に、思わず音を紡ぎたくなった。
「同じ枝を わきて木の葉の うつろうは――」
「西こそ秋の はじめなりけれ」
「っ!」
 その歌の、残り半分を余所に奪われた。
 ビクッと大袈裟に飛び跳ねて、止まり掛けた呼吸を奥歯で噛み砕く。粟立った肌を宥めてバクバク言う鼓動を整えつつ振り向けば、案の定、よく見知った顔がそこにあった。
 落ち葉の海に爪先だけを沈めて、淡く微笑み、悠然と佇んでいた。
「歌仙」
「これは梅の木ではないけれど、ああ、確かに色づき具合が見事だ」
 驚きが拭いきれず、声が掠れた。
 されど歌仙兼定は取り立てて意に介さず、目尻を下げ、小夜左文字の傍らに並んだ。
 櫟の幹に触れ、穏やかな吐息と共に呟く。彼に続けて視線を樹上に巡らせた短刀は、嗚呼、と瞼を閉ざし、肩の力を抜いた。
「どうして、ここに?」
「お小夜がこちらに行くのが、見えたからね」
 探していた相手に見付けられるとは、予想だにしていなかった。
 まだ小刻みに弾んでいる胸を軽く撫で、数回の咳払いで呼吸を整えた。仰ぎ見た打刀は何でもないことのように言って、戻した手を小夜左文字に向かわせた。
 頬か頭を撫でられるつもりでいたら、またも予想が外れた。
 無骨ながらしなやかな指先は藍色の髪を梳るのではなく、そこに引っかかっていたものを抓んで、去って行った。
「いつの間に」
「橋を渡って、桜の枝の下を潜った時かな」
「……どこで見てたんですか」
 木の葉を頭に載せたままでいたのにすら、気付いていなかった。
 注意力散漫だと恥じ入り、随分早い時期からこちらを把握していたらしい刀を睨み付ける。
 もっとも歌仙兼定は少しも怯えず、葉先だけ黄色みが強い木の葉を顔の前で揺らした。
「お小夜が菊を愛でている辺りから、かな?」
 茶目っ気たっぷりに目を細め、愉快だと言わんばかりに教えられた。
「そんなに前から」
 まるで知らなかった事実に愕然として、小夜左文字は唖然とその場に立ち尽くした。
 偵察力はそれなりに――少なくとも打刀よりは一段上回っていると自負していたのに。
 よもや彼に、隠蔽力で負けるとは。長閑な本丸内ということで、警戒心が薄れ、こうも索敵能力が減退するとは。
「傷つきました」
「なぜ」
 衝撃が拭えず、心に負った傷は大きい。
 額に手を当てて項垂れ、深々と溜め息を吐く。一方の歌仙兼定はてんで分からないという風に首を捻り、手にしていた木の葉を風に流した。
 地面に向かってひらり、ひらりと舞い踊る葉をしばらく見詰め、空になった手を腰に当てた。俯いて、頭を左右に数回振って、爪先に落ちた木の葉を散らし、色の濃い土を踏み固めた。
「それで? お小夜こそ、散歩かい?」
「ああ、いえ。歌仙を探してました」
 無事に気持ちを切り替え終えたのだろう。顔を上げた彼は普段通りの冴えた表情を取り戻し、口調も落ち着き払っていた。
 それで小夜左文字も当初の予定を思い出し、自ら出て来てくれた相手を指差した。
「僕を?」
 人差し指を向けられた打刀が、不思議そうに目を丸くする。
 短刀は黙って頷いて、深まる秋に手を振った。
「年末の帳簿の計算、進んでないでしょう」
「ぐっ。あれは、……あれはまだ、期日に余裕があるだろう?」
「去年も、一昨年も、そう言って、ぎりぎりまで手をつけなかったでしょう」
 来た道を戻り始めれば、歌仙兼定も一歩遅れてついてきた。大股で進んで、少し行く間に横に並び、嫌な指摘に苦虫を噛み潰したような顔をした。
 奥歯を噛み締めギリギリ言わせて、広げた右手で鼻筋を隠した。不敵な表情を浮かべる短刀を恨めしげに睨んで、気を取り直したのか、明後日の方向を見た。
「なあに、今年は心配いらないさ。松井がいるんだし、なんとかなるさ」
「そう言って、全部やらせるつもりでしょう。松井だって、自分の仕事があるのに」
 事務仕事が得意というのもあり、彼は本丸全体の運営にも、顕現直後から携わっていた。
 博多藤四郎やへし切長谷部たちと並んで、毎日そろばんを弾き、日々の経費を計算してくれている。山のように積み上がった書類と帳簿を付き合わせて、政府に報告する数字に間違いがないか、目を皿にして調べてくれていた。
 そんな彼に、更なる重労働を強いようなど、許されるものではない。
 厳しい目つきで糾弾すれば、歌仙兼定は口をへの字に曲げ、袖口に手を突っ込み、腕を組んだ。
「そうは言っても、僕は計算ごとが苦手でね。適材適所だと、良く言うだろう?」
 彼方を見ながら言って、まるで悪びれる素振りがない。
 数字を苦手にしている刀がやるより、得意としている松井江にやらせる方が、間違いが少なくて良い。万屋の方も手間が省けるし、万々歳ではないか。
 言外にそう伝えられて、小夜左文字は深く肩を落とした。
「だったら、歌仙こそ、ここで何をしてるんです。適材適所だと言うのなら、歌仙だってなにかしら、役目を果たすべきでは?」
「それは……」
 もっともらしい言い訳に、ため息しか出なかった。
 歌仙兼定のために頑張ってくれている刀があるなら、彼も松井江のために、なにかすべきではないのか。
 無償の奉仕に甘えて、それが当たり前になってはいないか。
 眼光鋭く問われた打刀は途端に口籠もり、嫌そうに口元を歪めた。
「お小夜こそ」
「僕は、自分の分は自分でやります」
 逃げ道を探して巻き込まれそうになったので、先回りしてぴしゃりと断ち切った。
 得意満面に胸を張って断言した短刀を相手に、敵わないとようやく諦めがついたのか、歌仙兼定は両手で顔を覆って天を仰いだ。
「分かった、分かりましたとも。やればいいんだろう、やれば」
「最初から、そう言えば良いんです」
「けどねえ、お小夜。半年以上も前の手形なんか、どこにあるか覚えているわけがないだろう?」
「……どうして整理して、まとめておかないんです」
「仕方が無いじゃないか。気がつけば、どこかに消えてるんだ」
 半ば投げやりに言い放ち、その後は身振りを交えて訴えてくるが、内容はどれも頷き返せないものばかりだ。
 彼が最初に審神者に喚ばれた初期刀であり、この本丸の中心をになう柱である自覚があるのかさえ、怪しくなってきた。
 初年度は色々分からない事だらけだったので、仕方がない面もあった。しかし二年、三年と過ぎる間に、学び、改善する事だって出来ただろうに。
「はあぁ……」
「やめてくれないか、その顔」
「いえ、あまりにも情けなくて」
「傷つく。傷ついた。やる気が失せた。全部お小夜の所為だ」
「そんな、子供みたいなことを言わないでください」
「子供だとも。少なくともお小夜よりは年下だからね、僕は」
「どうしてそこで、開き直るんですか」
 本丸には古刀だけでなく、新刀や、新々刀まで幅広く揃っている。その中で言えば、歌仙兼定は比較的古い時代に当てはまる刀だ。
 今の彼の発言を聞いたら、源清麿や、水心子正秀はどんな顔をするだろう。
 遠征に出ているふた振りを思い浮かべ、ひとり憤慨している打刀に目をやる。その向こうに、兄刀が丹精込めて育てた菊の花が居並んでいるのが見えた。
 ひな壇の最後列は、結構な高さがある。その裏に隠れていたとしたら、小夜左文字には見えなくて当然だ。
「少しくらいなら、手伝ってあげますから」
「本当かい? 約束したからね」
「駄賃は、薩摩芋のぷりんが、良いです」
「く。僕が洋菓子を苦手にしているの、知っているだろう」
 その後列の菊は、白色で統一されていた。しかし昨今の冷え込みの影響を受けてか、真っ白い花弁の一部が、僅かに紫に色を変えていた。
 寒さに花が傷み、萎れていく最中に起きる現象だ。されど平安の人々はこれを尊び、移ろい菊として殊の外心を寄せていた。
 風流なものをこよなく愛し、慈しんでいるこの刀なら、その美しさを間近で鑑賞していても、なんら不思議ではない。
「僕も、まだまだです」
「なんだい、お小夜」
「いいえ。それより、まずは歌仙の部屋の片付けからですね」
 知らなかったことを教えてくれるのも、見落としていたものに気付かせてくれるのも、自分以外の誰か。
 その誰かの中でも、傍に居て際立って楽しい相手と共に居られるのは、紛れもなく幸運だ。
 自分には、不幸ばかりではなかった。
 この本丸に来てからの日々を走馬灯の如く振り返って、小夜左文字は世話の掛かる昔馴染みを見上げ、目を眇めた。
 

今宵はと心えがほに澄む月の 光もてなす菊の白露
山家集 379

2020/11/23 脱稿

あなたふと 枯れたる木にも 花咲くと

 暇潰しと、話し相手が欲しくて訪ねたメディカルルームには、生憎と先客がいた。
 不人気で知られる医務室は、大抵そこを預かる――と自負して憚らない――英霊しかいない。しかし予想が外れて、ドアを潜ったところで見えた景色に戸惑った。
「なんだ、マスター。随分と健康そうだが、医務室に何の用だ」
 足を止めて固まっていたら、部屋の奥から皮肉たっぷりの問いかけが飛んで来た。
 苦笑で応じるしかない詰問に肩を竦めて、汎人類史最後のマスターこと藤丸立香は目を細めた。
「そっちこそ、定期検診サボったら怒るくせに」
 惚けていたのが、たったひと言で引き戻された。
 言われっ放しは癪なので言い返し、半端に出していた右足で床を叩く。同時に踵が浮いていた左足を繰り出し、そのまま数歩進んで、不満顔の医者から手前の椅子の主に視線を移した。
「え、ええ……ええと。あのぉ……」
 自分達のやり取りは、慣れないうちは、仲が悪いのかと思われても仕方がない。
 カルデアに来て日が浅いサーヴァントの困惑に微笑みで返して、立香は椅子の上で縮こまっている少女の頭を軽く撫でた。
 綺麗に結われた亜麻色の髪を崩さぬよう気を配り、緊張しなくて良い旨を暗に伝える。撫でられた少女は数秒かけて表情を和らげ、ホッと息を吐いて背筋を伸ばした。
 その額には、大きな絆創膏が一枚、べったり貼り付けられていた。
「なにかあったの?」
「えと、ちょっと、はい。あの。ウへ、エヘヘ……」
 幅二センチ以上、長さは五センチ以上あるその周囲も、ほんのり赤く染まっている。
 明らかになにかにぶつけたと分かる傷に驚いていたら、要領を得ないゴッホに代わり、アスクレピオスが右袖を軽く振った。
 ノウム・カルデアの医務室を預かる英霊の傍には、治療に使ったと思しき消毒液やガーゼ、絆創膏の剥離紙などが一列に並べられていた。
 銀色の、キャスター付きのワゴンには他にも色々な薬品が揃っており、立香も度々お世話になっている。種類毎にきちんと整頓されている棚にも何気なく目をやって、彼はアスクレピオスに向かって首を傾げた。
「フォーリナーの連中と、絵描きに乗じていたそうだ」
「……うん。それで?」
 視線を受け、古代ギリシャにゆかりを持つ英霊が片付けしつつ、口を開く。
 ただそこからどうして、ゴッホが額に怪我をするのかが、まるで分からない。
 極端に端折られた説明に戸惑っていたら、ズボンの皺を弄っていた少女が照れ臭そうに笑った。
「あの、です。えっと……みなさんと一緒で、楽しくて。……それで、嬉しくなっちゃって。つい。エヘヘ」
 若干不格好な笑みで告げて、広げた掌を胸の前で重ね合わせる。指を互い違いに絡ませ、強く握った少女の言葉は、それでも矢張り、理解に窮するものだった。
 当人は巧く言っているつもりかもしれないが、圧倒的に言葉が足りない。アスクレピオスが先に語った内容を加味しても、彼女が医務室に厄介になった理由には辿り着けなかった。
 困惑が、自覚している以上に顔に出ていたのだろう。
「昂ぶり過ぎて第三再臨姿になり、そのまま部屋を出ようとして、ドアの鴨居にぶつけたそうだ」
 医神が先ほどより大きめの、それでいて若干強めの語調で、ゴッホの後を補った。
「ああ……」
 理解に苦しみ、考え込む表情は、眉間に皺が寄り、不機嫌と捉えられかねない。
 それは人見知りが激しく、ネガティブな思考に支配されがちの少女にとって、決して望ましいものではなかった。
 言外に忠告、且つ叱責されて、立香は深く息を吐いた。四肢の力を意識して抜き、意識して表情を和らげて、その後から追加された情報をもとに小さく頷いた。
 これでようやく、繋がった。
「医務室には、みんなが連れて来てくれたの?」
「え、えへ。えへえ。……それが、その」
「恥ずかしくて、振り切って逃げて来たそうだ」
「あははは……」
 カルデアにはゴッホの他に、北斎の娘であるお栄や、ダ・ヴィンチもいる。刑部姫も絵心がある方だし、最近ではジャンヌ・ダルク・オルタも彼女に興味を示していた――夏に向けて、絶対に負けられないと息巻いていたのは、聞かなかったことにするとして。
 一緒にいたメンバーも、突然のゴッホの再臨と、突飛な行動に、さぞや戸惑ったことだろう。傷の具合からして、相当な勢いでぶつけたと思われた。
 痛みに呻き、蹲る彼女を心配し、四方から声が飛んだはずだ。けれどゴッホの性格的に、素直に心配されて、手当てを施されるとは考え難い。
 気に掛けてもらえる嬉しさ、気を遣わせてしまった申し訳なさ、なにより派手にやらかした己への後悔と羞恥。
 それらがない交ぜとなり、処理出来なくなって、結果として彼女はその場から逃げ出した。
 鴨居に打ち付けた痛みは消えず、かといって飛び出して来た部屋には戻れない。
 来たばかりのカルデアで、彼女と親しい存在はそう多くない。頼るべき相手がすぐに見つからない中で、行く先として選んだのが、このメディカルルームだった、ということだ。
 ただ立香は、彼女をここに案内したことはない。
「それじゃ、自分で来たんだ。医務室の場所、知ってたんだ?」
 必要と思いつつ、ずっと避けていたのは、継ぎ接ぎの霊基の大部分を占めている、水の妖精に遠慮していたからだ。
 一瞬難しい顔をしたくなったのを誤魔化し、わざとらしく声を高くする。
 間近で響いた大きな声にゴッホは目を丸くし、唇を右人差し指でなぞった。
「それは、えっと……はい。マスターさまがお怪我された時とか、そうじゃない時、でも。このお部屋に、よく入っていかれるので、なんとな~く……そうなのかな、って。思ってました」
 きっと彼女も、言葉を探し、選んだ。
 最後に照れ笑いを浮かべた少女の気遣いに硬直していたら、ワゴンを押し退けたアスクレピオスが不遜に口角を歪めた。
「良かったな、マスター。貴様の度重なる無駄足が、役に立ったぞ」
「えええ、もう。まーた、すぐそういう事言う」
 重く、暗くなりかけた空気を一蹴し、両腕を組んでふんぞり返りながら皮肉られた。
 口が減らない医者に小鼻を膨らませ、目を吊り上げる。直後にぷっ、と横で噴き出す声が聞こえて、見ればゴッホが必死に笑いを堪えていた。
 先ほどの遠慮がちな、無理に作り上げられた笑みとは違う。腹を抱えるところまではいかないが、それは貴重な第一歩だった。
 心の奥底で凝っていた懸案が、すーっと薄く、軽くなった。完全に払拭出来たわけではないけれど、少なからず気持ちが楽になった。
 どれだけ時間が掛かろうとも、彼女が此処に馴染んでくれるなら、マスターとしてこれほどの喜びはない。
 嬉しくなって、立香まで頬が緩んだ。喜びに胸を満たし、包み隠さず表に出す。
 満面の、と表現しても遜色ないそれを見たゴッホは更に顔を赤くして、両手で顔面を覆い、皺くちゃになった――かと思えば。
「ああっ」
 それまで安定していた霊基が急変し、少女は甲高い悲鳴を上げた。小さな体躯に収まっていた魔力が突如膨らんで、波打ち、ゴッホを中心に大きく渦巻いた。
 巻き込まれた椅子が倒れ、立香の脇を猛スピードで滑っていった。当たりはしなかったが恐怖を覚え、反射的に横に飛び跳ねたところで、アスクレピオスに受け止められた。
 片足立ちで崩れかけたバランスを、横からの補助でなんとか整え、あんぐり開いていた口を閉ざす。
 立香の肩より低いところにあった筈の亜麻色の髪は、今や見上げなければならない程の高さにあった。
「……霊基の制御については、がんばろうね」
「すみませええん」
 感情の起伏に左右され、姿がころころ入れ替わっていたら、彼女としても不便だろう。
 医務室に駆け込む原因となった失敗を繰り返したゴッホは、恥じ入って、深々と頭を垂れた。
 もっとも立香の視界の大部分は、彼女の足元に位置取る巨大な球体で占められている。仄かに発色する白いレース状のそれは、重力制御を無視し、床すれすれの位置で弾んでいるように見えた。
 海中を漂うクラゲを思わせる部分もあるが、両袖の中に咲く黄色い花と合わさって、袋状の花弁を持つ花をも連想させた。
「謝らなくて良いよ。最初は誰だって不慣れだし、失敗しないことの方が少ないんだから」
 うっかり咲いてしまったのに恐縮する彼女を、このまま放っておくわけにはいかない。外なる神の脅威は取り除かれたが、虚数空間での活動に耐えうる霊基には謎が多く、暴走すればなにが起きるかは、現段階では未知数だった。
 ダ・ヴィンチたちからも、くれぐれも慎重を期すよう釘を刺されていた。
 下手に刺激せず、落ち着かせるにはどうすれば良いだろう。この球状の物体に触れて良いかどうかでも悩み、両手を中空に漂わせ、立香は背伸びした。
「あ、あのさ。そうだ。前から思ってたんだけど。たしか、えっと……そう。ホタルブクロみたいだよね、その姿」
 話題を探して、大きく円を描いた指先を、臍の辺りで重ね合わせた。途端にぽっと、降って湧いた発想に縋って、思いつきに身を委ねた。
 深く考えないまま使った言葉は、この時はまだ、効果的だった。
「……はい?」
 耳慣れない単語に、クリュティエ=ヴァン・ゴッホが高い位置から身を乗り出した。一目で人外と分かる眼をきょとんとさせて、不思議そうに首を傾げた。
「それは、なんですか。マスターさま」
 自虐的で内向的な彼女が、興味を示した。
 少なくとも己の失敗を悔やみ、恥じて、内に引き籠もって悪い方へ、悪い方へ転げ落ちていくのだけは回避出来た。
 ただその後が、巧く続かない。
「え、えっと」
 そんな名前の花があるというのは、記憶の片隅にうっすら残っていた。釣り鐘状で、薄紫色に咲く。蛍を中に入れて光らせる遊びが流行ったからその名前がついたと、教えてくれたのは誰だったか。
 牛若丸や、弁慶の顔が脳裏を過ぎった。けれど理路整然と説明できる自信がなくて、喉の奥で唸っていたら。
「ホタルブクロ。……bell flower……Campanula……?」
 未だ立香の傍らに控え、万が一の事態に備えていた医神が、ぼそっと小さな声で呟いた。
 独り言なのか、はっきり聞き取れない。ただ妙に舌触りの良い、滑らかな発音に反応して、ゴッホが表情を凍り付かせた。
「カンパニュール」
 アスクレピオスの独白を受け、なにを受け取ったのか、言葉を震わせる。
 少女は喉の奥から声を絞り出し、言い終えた後に下唇を噛んだ。遠すぎて良く見えないけれど苦しそうに顔を歪めて、目を瞑り、大仰に首を振った。
「なんで。……なんで? 似てないです。全然、似てないです。私なんか、マスターさま。そんな。そんなわけないのに。なんで、なんでそんなこと言うんですかあ!」
 再び両袖で顔を覆い、声を荒らげて項垂れる少女は、泣いている風に見えた。
「え。なに。なんで。なんで?」
「馬鹿か。カンパニュールは、チッ。耳を貸せ」
 まさかこんな事になると思っていなかった立香は上を向いたまま絶句して、アスクレピオスに引っ張られて我に返った。
 間近で詰られたが、気にもならない。それよりも距離を詰めて来た彼の前髪が耳朶を掠め、吐息で肌を擽られることにぞわっと来た。
「カンパニュールは、オリンポスの果樹園の番人だ。侵入者があったのを伝えようと銀の鈴を鳴らし、殺され、フローラによってカンパニュラの花に変えられた精霊のことだ」
 早口で伝えられた情報が、ただでさえ悪寒が走っていた身体を冷たくさせた。
 鳥肌が立ち、内臓が一気に縮こまる。血の気が引く音が聞こえた。
 何者かが花に変えられる物語が、ギリシャ神話には多い。意図しない言葉の選択の先に、こうも深い落とし穴が待っているとは、夢にも思わなかった。
「ええ、でもオレは、ホタルブクロって。言ったのはアスクレピオスじゃないか」
「そうだな、ああ。その通りだ。貴様が迂闊な事を言わなければ、僕だって無駄な情報を引き出したりはしなかった」
 古代ギリシャの英霊には馴染みがない花の名前を、どうにか理解しようとして、アスクレピオスはあの独白に至った。堪らず彼を責めてしまったけれど、発端は立香にあり、責任の全てを押しつけるのはあまりに不条理だった。
 それでも医神は非を一部認め、それでいて立香を責め返すのも忘れなかった。
 どんな時、どんな状況であっても、一言多い。ぐうの音も出なくて押し黙っていたら、長い袖越しにデコピンが飛んで来た。
「うぎゃ」
「聞いているな、クリュティエ=ヴァン・ゴッホ。確かに貴様は、カンパニュールのように義理堅く、誠実であるとは言い難い。命を賭して黄金の林檎を守ろうとする気概が、かつてのお前にあったとは、到底思えない」
「ちょっと、アスクレピオス」
 唐突の痛みに星を飛ばしていたら、止める暇もなくアスクレピオスが捲し立てた。
 絶望し、落ち込んで、嘆きの海に溺れている少女に追い打ちを掛け、益々深い場所へと蹴り落とす。
 医者として、人間の救済を掲げて来た英霊にあるまじき発言に、立香は益々青くなった。
「そんなの。そんなの……言われなくても、分かって……なんで言うんですかああ~」
 ゴッホの方も碌な反論が出来ず、心が行き詰まったのか、癇癪を起こして両腕を振り回した。一歩間違えれば襲い掛かって来そうな雰囲気なところ、アスクレピオスの傍に立香がいるため、ぎりぎり耐えているのが感じられた。
 幼い少女を追い詰めて、何をしたいのか。
 はらはらしながら横を窺えば、医神と冠される英霊は毅然とした表情を崩さず、真剣な眼差しで、手間の掛かる患者を見詰めていた。
「よく聞け、愚患者。僕たちサーヴァントにとって、ここは――カルデアは、やり直しの場所だ」
 これまでの厳しいだけの口調が、途中から、不意に和らいだ。
 吐息に混ぜ込まれた、自分自身に語りかけるかのような囁き。僅かに掠れ、勢いを失った言葉は、それでもしっかりゴッホの耳にも、立香の耳にも届けられた。
 高いところでひとり暴れていた少女は息を呑み、動きを止めた。散々振り回されて萎れ、項垂れていた黄色い花々が、ゆっくりと頭を上げ、背筋を伸ばした。
「やり直しの、場所」
 自身に向けて発せられた言葉を繰り返し、縋るような眼差しを立香へと向ける。
 見下ろされ、反射的に頷き返したマスターに、少女は目を瞬かせた。
「ああ。そしてそこの馬鹿……もとい、マスターが欲しているのは、己の愚行を悔いて、ただ立ち尽くす花ではない。分かるか。クリュティエたるお前が、今さら、カンパニュールになれないのは自明だが。そうだな。ぼんやりし過ぎて、警戒心の欠片も持ち合わせていないマスターのためにも、今の貴様なら、銀の鈴を鳴らすことくらいは、叶うのではないのか?」
 その横で、アスクレピオスが溜め息と共に吐き出した。癖のある前髪を掻き上げ、途中から若干面倒臭そうに言葉を紡ぎ、右袖を揺らした。
 片やアポロンに恋い焦がれ、心離れした男を取り戻そうと愚行に走り、全てを失った花。
 片や与えられた責務を全うし、役割を果たした花。
 ふたつは、同じにはなれない。
 けれど真似をし、倣い、目標にすることなら。
 マスターが似ていると笑った花を模し、もう一度咲くことが出来るなら。
「……はい。はい。なります。マスターさまの、銀の鈴に。私が、マスター様をお守りして、ウフフ……いっぱい、鈴の音を、響かせます」
 彼の発言を受けて、ゴッホは何度となく頷いた。不安定に揺れていた霊基は次第に収束を見て、医務室の天井に届きそうだった体躯も、一瞬のうちに小さくなった。
 大輪のヒマワリを愛おしげに抱いて、少女は照れ臭そうに目を細めた。
「へへ、エヘヘ……すみません。ご迷惑、いっぱい……」
 額に貼られた絆創膏を気にしつつ、先に立香に、続けてアスクレピオスへ頭を下げる。卑屈な部分が戻ってはいるが、魔力の流れは穏やかで、落ち着いていた。
 今しばらくは、先ほどのような事は起こらないはずだ。
 居心地悪そうにもじもじしている少女に相好を崩して、立香は両手を腰に当てた。
「なんか、随分とこき下ろされた気がするけど。それは置いといて。――迷惑だなんて、思ってないよ。むしろもっと迷惑かけてくるサーヴァント、沢山いるし。それにさ、オレとしては、迷惑かけられる方が、頼られてるって感じがして、うん。嬉しい、かな」
 好んでトラブルを巻き起こす英霊も、このカルデアには少なからず存在する。しかも自身の振るまいを全く反省せず、開き直り、居直る連中までいた。
 それに比べれば、自省出来ているゴッホは、優秀な部類と言えるだろう。
「はうっ。なんと寛容な、マスターさま。えへへ……ゴッホ、もっと頑張りますね」
 そんな存在に何度となく鍛えられているので、ちょっとやそっとではへこたれない。
 得意げに言い切った立香に衝撃を受けたゴッホは、勇気づけられたのか、嬉しそうに破顔した。
 八重歯を覗かせ、はにかむ。
 少女の笑顔を受けて、肩の荷が下りた。安堵に頬を緩め、立香は今回の功労者たる男を横目で盗み見た。
 端正な顔立ちは、どことなく複雑な感情を抱いている風に映った。
「アスクレピオス?」
「やっと見付けた! ゴッホちゃん、こんなところにいたー」
「なんでい、お医者先生のお世話になってたのかい。探し回って損しちまった」
 その表情の正体が掴めなくて、戸惑い、呼びかけようとした矢先。
 医務室のドアが開いて、少女らの声が姦しく響き渡った。
 転がり込んできたのは、刑部姫に、お栄だ。後ろの方にはアビーの姿もあった。
 いずれもゴッホと一緒に絵描きを楽しんでいたメンバーで、恐らくは走って逃げた彼女を案じ、方々探し回っていたのだろう。
 それでも見つからなくて、なんとなく避けていた医務室を最後に訪ねた、といったところか。
「みなさん!」
「いきなり走っていなくなっちゃうんだから。心配したんだからねー」
 現れた三騎の英霊に、ゴッホが慌てて駆け寄る。息せき切らす刑部姫がその手を掴んで、不満も露わに口を尖らせた。
 アビーは無言でぬいぐるみを抱きしめ、お栄はホッとした様子で胸を撫でた。そして今になって立香の存在に気付き、気まずそうに頬を掻いた。照れ笑いを浮かべて左手を意味なく揺らして、嬉しそうにはにかむゴッホを促すように、細い肩を何度か叩いた。
 仲良く連れ立って出て行く四騎を見送って、今度こそ一件落着と、立香は四肢の力を抜いた。アスクレピオスはと視線を巡らせれば、彼は壁際に転がっていた椅子を拾い、元の位置に戻していた。
「なんだ?」
 その背中をじっと見ていたら、怪訝がられた。
 胡乱げな眼差しに臆することなく対峙して、目を眇める。眩しいものを見る顔をしていたら、医神は気味悪そうに顔を歪めた。
「言いたい事があるなら、はっきり言え」
「優しいな、って」
 嫌そうに舌打ちしながら要望されたので、正直に思っていることを述べた。
 今度はどんな嫌味が聞けるだろう。少なからず楽しみに返事を待てば、アスクレピオスは長く押し黙った後、珍しく穏やかな笑みを浮かべ、目尻を下げた。
「……医者だから、な」

2020/11/21 脱稿
あなたふと枯れたる木にも花咲くと 説ける誓ひは今ぞ知らるる
風葉和歌集 494

冬の日の 暮るるも知らず 消え返る

 知らぬうちに、食堂の一部が片付けられていた。
 テーブルと椅子が撤去され、広々とした空間が作られていた。そこにやや厚みのある絨毯を敷き、背の低いテーブルが置かれた。床に腰を下ろして座るタイプのそれには、絨毯より柔らかく、綿がたっぷり入った布団が被せられていた。
 更にその上に天板が置かれ、食事が出来るようになっていた。四人が四方を囲めば満杯になる構造は非常に狭く、入るには靴を脱がねばならない決まりまであり、傍目には不便極まりなかった。
 だというのに日本にルーツを持つ英霊は食事時、決まってそちらに陣取った。一部のサーヴァントも、そこを根城代わりに使っていた。かねてよりあるテーブルと椅子を用いる者が怪訝に見守る中で、彼らはとても寛いだ様子で、幸せそうな表情を浮かべていた。
 結果、長時間居座るのが禁じられているのに、決まりを破り、蜜柑を手に席を譲ろうとしない英霊が現れた。それで度々トラブルが発生し、実力行使に打って出た英霊同士の小競り合いに発展する事態にもなっていた。
「撤去したらどうだ」
 そんな喧嘩が頻発している所為で、ここのところ、医務室まで騒がしい。
 両成敗だとエミヤやブーディカからきつい一発をお見舞いされた当事者が、揃ってメディカルルームに放り込まれれば、どうなる。
 そこでも喧々囂々のやり取りを繰り広げる――という状況は、アスクレピオスにとっても頭痛の種だった。
 現状は問答無用で黙らせているけれど、毎日同じことが起きるのだから、いい加減鬱陶しい。
 事の発端となっている炬燵の設置を提言したのは、マスターだ。故郷の冬の風物詩だとかで、彼のたっての希望だという。
 ならばやむなしとしばらく傍観し、静観していたが、我慢の限界が近い。
 暢気に廊下を歩いている後ろ姿を見付けて、言わずにはいられなかった。
 もっとも汎人類史最後のマスターこと藤丸立香は、突然そう言われても、訳が分からない。きょとんと目を丸くして見詰められて、アスクレピオスは深々と溜め息を吐いた。
「貴様が食堂に置いた、あれだ」
「ああ、炬燵ね。……え、なんで?」
 言葉が足りなかったと反省し、付け足しつつ彼方を指し示せば、不思議そうな顔をしていた青年は嗚呼、と頷いた。直後に首を傾げて声を高くされて、医神とも称される英霊は長い袖越しに額を撫でた。
 交差している前髪を掻き上げ、どう説明したものかと軽く舌打ちする。抑えきれない苛立ちを滲ませながら床を軽く蹴り、サンダルの踵に体重を込めた。
「占有権争いの余波が、こちらに来て、迷惑だ」
 端的に、必要なことだけを抜き取って、声に出す。
 それでハッとなったマスターは口元を緩め、曖昧な笑みを右手で覆い隠した。
「そっか。そうなるか……なるね。ごめん」
 長居する英霊と、順番待ちに飽いた英霊が度々揉めているのは、彼の耳にも当然入っていたはずだ。ようやく話が繋がった、と言わんばかりに数回瞬きして、黒髪の青年は上半身を左右に踊らせた。
 底の厚いブーツで二、三回床を叩き、両手を背に回して結んだ。首を竦めて小さく頭を下げて、思わぬ影響が出ていることを素直に詫びた。
「みんなには、オレからも言っておくし」
 ただこちらが要望している、撤去する、というところには、至らなかった。
「……そうではない。第一、あの炬燵というものは、娯楽室に既にあるだろう」
「あー、うん。そうなんだけど。あっちは刑部姫とか、静御前たちがずっと使ってるやつだし。今さら譲れって言うのもちょっとなー、て思ったから、エミヤに頼んで新調して貰ったんだけど」
 話が噛み合わなくて声を荒らげれば、マスターがぱっと目を逸らした。論点を誤魔化そうとした自覚はあるらしく、結んだばかりの手を解いて、黒手袋を嵌めた指先はズボンの皺を弄り倒した。
 背中が自然と丸まり、姿勢が徐々に低くなっていく。腿に両手を置いて深呼吸する彼の旋毛が、アスクレピオスの視界に飛び込んできた。
 右旋回。
 そんなことをふと考えて、彼は即座に首を振った。
「医務室に傷病者を放り込みたいのなら、もっと治療のし甲斐がある、重傷者を作れ」
 かすり傷や、軽い打ち身程度で医務室に駆け込まれるのは、迷惑だ。全身が複雑骨折し、神経が捻れて蝶々結びになっている、というのであれば、話は別だが。
 面白味があり、それでいて興味深い症状の患者が相手ならやる気も出よう。だが消毒して、湿布を貼って、という程度では、退屈すぎて新鮮味がない。
「えええー。それはそれで、文句言うくせに」
 胸を反らして鼻息も荒く訴えれば、顔を上げたマスターが頬を緩め、目を細めた。からからと喉の奥から笑い声を響かせて、姿勢を正し、臍の辺りを撫でた。
 上唇を舐め、その手をアスクレピオスへと差し出す。
「残念だけど、ちょっとの間だけ、我慢して。それにさ、アスクレピオスも入ってみればいいよ、炬燵。なんでみんな、我先にってなるか、分かると思うし」
 なにかと思って見守っていたら、垂れ下がった袖先を握られた。
「断る。時間の無駄だ」
 それを、一旦は拒絶した。振り払うべく、腕を横薙ぎに動かした。
「まあまあ、そう言わずに。ささっ、どうぞ。どうぞ」
「興味がないと言っているだろう。……くそ、引っ張るんじゃない。マスター。おい、聞いているのか」
 けれどマスターは聞き入れず、長い袖を手首に、二重に巻き付けて、強引に引っ張ってきた。乱暴に同行を促し、一方的な主張で強攻策に打って出た。
 一介の人間でしかない彼の手を解くのは、造作もないことだ。しかし歩きながらそれをやると、勢い余ったマスターが転びかねない。
 軽傷者を出すなと言った手前、実行に移すのは憚られた。
 苦虫を噛み潰したような顔で迷っているうちに、真っ直ぐな廊下を突き進んだ彼は、目当てのドアを見付け、その下を潜り抜けた。
 半ば引き摺られる格好で入った食堂は、意外にも閑散としていた。
 時計を探せば、午後一時半を少し回った辺り。昼食には遅く、間食には早い時間帯だった。
「あれ、マスター。どうしたの。お昼はさっき食べたでしょ?」
「違う、違うって。オレ、まだそこまでボケてないから」
 テーブルを拭いて回っていたブーディカに言われて、マスターが大袈裟に左手を横に振った。朗らかに笑う女性に苦笑で応じて、雑然と並んでいる椅子の間を問答無用ですり抜けた。
 もっと通り易いルートが他にあるだろうに、囚われたままのアスクレピオスは、彼が進んだ道筋を辿るしかない。誰かが使って、そのまま放置して行った椅子が膝に当たり、鈍い痛みが骨を伝った。
「マスター」
 腹の奥底に居座っていた怒りが、じわじわ膨らんでいく。
 いつ爆ぜてもおかしくない感情を持て余し、奥歯を噛み締めたところで、前を行く青年がぴょん、と足を揃えて高く跳んだ。
「やった。ラッキー。空いてる」
「ひとり三十分までだからねー」
「はーい」
 嬉しそうに声を弾ませた彼に、ブーディカが椅子を揃えながら告げる。
 遠くから飛んで来た女性の声に振り向いて、アスクレピオスは苦い唾を飲み込んだ。
 厨房を預かる彼女らにとっても、ここで騒ぎを起こされるのは迷惑だ。故に時間制限を設けているものの、従わない連中がいるから、揉める原因になる。
 ただアスクレピオスには、どうして時間を守らない奴らが出るのか、その理由が分からない。
 無人の炬燵には、誰かが持ち込んだと思しき蜜柑入りの籠があった。ただ残りは少なく、天板には小さく千切れた皮や、白い繊維状のゴミが散らばっていた。
「ちゃんと片付けろって、言ってあるのに」
 それを見咎め、マスターが眉を顰めた。ようやくアスクレピオスの袖を解放したかと思えば、左手をちり取りにして掻き集め、傍にあったゴミ箱にまとめて捨てた。
「帰っていいか」
「ダメ」
 この隙に逃げ出そうと考えたが、実行する前に訊いたのは愚策だった。
 彼にしては厳めしい顔で即答して、マスターは直前まで誰がいたかも分からない布団の端を、大きく捲り上げた。
「どうぞ。入って、入って」
「……チッ」
 一足先にブーツを脱ぎ捨て、炬燵に入るよう手で促す。
 彼の思惑通りに行動するのは、癪だ。しかしここで引き返せば、目撃者もある中、マスターに非礼を働いたとの誹りを受けよう。
 サーヴァントがマスターに絶対服従である必要は無く、意に沿わない命令に反するのも、別に契約違反ではない。ただこのカルデアには、藤丸立香なる存在に心酔する英霊が少なからず存在し、同調圧力めいたものが支配しているのは否めなかった。
 今回のことが禍根となり、後々の診察や、治療に影響を及ぼす可能性を考慮すると、大人しく受け入れるしかあるまい。
 一瞬の間にあれこれ想像し、結論づけて、アスクレピオスは深く長い溜め息を吐いた。
 サンダルから足を抜き、ふかふかの絨毯へと降り立つ。きちんと消毒されているか気になったが口には出さず、先に座り込んだマスターに倣い、捲られた毛布の先に爪先を捩じ込んだ。
「ん?」
「あ、ごめん」
 その先で、何かを蹴った。
 聞くまでもなく、マスターの足だ。左向かいに位置取った青年の伸ばした爪先が、アスクレピオスの進行方向を横切る形になっていた。
「どう、これは……脚は組むべきか」
「好きにしていいよ。合わせるから」
 彼の我が儘に付き合い、初めて炬燵なるものに挑戦してみたが、いざ座ってみると足のやり場に困った。
 助け船を求めても、明朗な答えは返って来なかった。自由にして構わないと言われると、余計にどうすれば良いか分からなかった。
 仕方なく黙って膝を真っ直ぐ伸ばせば、一度は引っ込んだマスターの足がそろり、近付いて来た。
 天板の下、炬燵布団の中だ。ほんのり暖かい空気が占める中、位置を探った爪先が、アスクレピオスの臑を跨いだ。
 数回小突かれ、踵で踏まれた。時折力が抜けて、弛緩した筋肉の感触が降ってきた。
「これで、本当に、いいのか」
 医務室で聞かされる小競り合いの原因でも、誰々の足が当たった、蹴られた、というものが多かった。それ故に交錯しないよう気を遣うものと思っていたが、違うのだろうか。
 訝しげに問えば、天板に頬杖をついたマスターが締まりのない顔で笑った。
「オレと、アスクレピオスだけだし。いや?」
 白い歯を見せつけられて、毒気が抜けた。面映ゆげに問いかけられて、答える気力すら沸いてこなかった。
 テーブルの内側に設置された暖房器具がじんわり空気を暖めて、下半身だけが熱を帯びていく。末端から解され、それが全身に広がっていく感覚が、思いの外心地よかった。
 天板の高さも寄りかかるのに丁度良い位置にあり、一度凭れ掛かってしまうと、背筋を伸ばすのはなかなか至難の業だった。
「なるほど、これは」
「でしょー?」
 多くの英霊が虜になり、夢中になるのも、頷ける。
 直接床に座るというのも久しぶりで、遠い昔を思い出した。寝台に横になり、怠惰に果物を抓む神々の姿が脳裏を過ぎる。
 そこに混ざり込む自分が見えた気がして、ハッとなった。
 緩みきった表情で炬燵を満喫するマスターは、放っておけばこのまま寝入ってしまいそうな雰囲気でもある。
 うっかり流されそうになって、アスクレピオスは天板を叩いた。
「だがな、マスター。この姿勢を長時間維持するのは、腰部や頸椎への負担を考えても、推奨出来ない。身体の一部が温まり、一部が冷えたままの状態が続けば、自律神経の乱れる原因ともなりかねん。脱水症状を自覚しないまま放置すれば、脳梗塞の危険性が上昇する。ああ、やはりこれは、百害あって一利なしと言わざるを得ない。医者として、改めて僕は、この炬燵の撤去を提言する」
「……すっごい寛ぎながら言われても、説得力ないんだけど?」
 握り拳を天板に擦りつけるものの、その手のすぐ傍に己の顎があった。
 背中を丸め、全身で自堕落な温もりを取り込みにに掛かっている状態では、熱弁も本来の効果を発揮しない。
 言動不一致を指摘して、マスターが笑いながら籠の中の蜜柑を小突いた。同時に伸ばしていた足を戻し、狭い空間で膝を折った。
 身体全部を揺らしながら、触感だけを頼りに、爪先で人のズボンの裾を弄って来た。踝まで覆う布を僅かに捲って、ゆったり広い布の内側に、素早く潜り込んだ。
 素肌を、靴下越しに擽られた。何のつもりかと眉を顰めていたら、彼はこれ見よがしに右手を天板から降ろし、炬燵布団の中へ隠した。
 意味ありげな視線を向けられて、アスクレピオスは睫毛を伏した。吐息を零し、彼に続いて、左手を降ろした。邪魔な袖を手繰りながら、誰にも見えない場所に隠せば、待ち構えていた指先が物言わず擦り寄って来た。
 交差した指先が、足首が、内に秘められた想いを伝えて来る。
「三十分したら、どうせ、ブーディカが追い出しに来るんだし。それまでで良いから、さ。もうちょっと、オレの我が儘に付き合ってよ」
 天板に左の頬を押しつけての囁きは、低く掠れて、この距離でなければ聞き取れない。
 照れ臭そうに眇められた眼差しを避けきれず、アスクレピオスは喉の奥で唸った。
「……三十分だけだ、マスター」
「へへ」
 そんな顔をされたら、もう撤去しろだなんだと言えないではないか。
 むしろ逆に囚われてしまった。強く握り返し、絡め取った指先は、たとえ三十分が過ぎ去ろうとも、容易に振り解けそうになかった。

2020/11/15 脱稿
冬の日の暮るるも知らず消え返る あしたの霜に身をやぐへばや
風葉和歌集 388

夕暮は 蓬がもとの 白露に

「あれ?」
 視界の端にキラリと輝くものがあると気付き、立香は足を止めた。
 真っ白に磨かれた廊下には、目立つ汚れや、落下物は存在しない。天井の光が反射しただけかと首を傾げ、彼は該当の場所に注目しつつ、瞬きを繰り返した。
 一度天井を仰いで照明の位置を確かめ、それらしきものが何もない空間に眉を顰める。
「あっ」
 否、あった。
 小さくて見落としていただけと心の中で弁解して、思いの外甲高く上がった声に慌てて口を噤んだ。左右をきょろきょろ見回し、怪訝に見詰めて来る存在がないのに安堵して、ジャケットの上から胸をひと撫でした。
 息を整え、上唇を舐める。たった四歩で到達した場所に落ちていたのは、親指大の石だった。
「宝石、かな」
 淡いオレンジ色をした塊で、楕円の真ん中を軽く潰したような形をしていた。向こう側がうっすら透けており、見た目よりも軽く感じられた。
 掌に転がせば、天井光を受け、影まできらきら輝いた。
「誰かの落とし物?」
 軽く握り締めると、体温を浴びた影響か、ほんのり暖かい。顔の前に掲げてよく見れば、内部には小さな気泡らしきものが入っていた。
 生憎と宝石には詳しくなく、そもそもこれがその分類に含まれるものなのか、判断がつかない。
 ただこういったものに目がないサーヴァントなら知っており、彼女に聞けば、なにか分かる気がした。
「琥珀ね。でも私のじゃないわ。こんな小さいの持ってても、自慢にすらならないもの」
「うわわ」
 案の定、訪ねて行った先で、見目麗しい女神はそう言ってのけた。
 目のやり場に若干困ってしまう衣装も、苦楽を共にする中で、幾分見慣れたものとなった。尊大な口ぶりや、態度にも。ただ突拍子もないことを唐突に始める破天荒ぶりには、未だに閉口させられた。
 鑑定を依頼した宝石を投げて戻されて、落とさないよう慌てて受け取り、ホッと胸を撫で下ろす。床すれすれでキャッチした石が無事なのを確認して、立香は曲げた膝を伸ばした。
「へえ。これが、琥珀かあ」
「昔からお守りや、魔除けに使われて来たものだし。珍しくもないものよ」
「じゃあ、落とし主は今頃、困ってるかな」
「さあ、どうかしらね」
 好みの宝石ではなかったからか、イシュタルは最早興味すらない様子だ。ぞんざいに言うと、己のマスターである立香に向かって、しっしっ、と右手を払った。
 犬猫を追い遣る時と同じ仕草で、表情もあまり好意的なものではない。人間の分際で気安く話しかけるなと、そういう雰囲気だった。
 もっとも心底人間を嫌っているわけではないのは、これまでの経験からも明らかだ。
 見返りを求められなかっただけ良しと笑って、立香はマアンナの上で寛ぐ女神に頭を下げた。
「どうあれ、ありがとう。助かったよ」
「そう? どういたしまして」
 これが何なのか分からなければ、落とし主を探すのも難しい。
 新たな知識を与えてくれた礼を述べるが、イシュタルは面倒臭そうに先ほどの仕草を繰り返した。
 早く行けと催促されて、抗う理由はない。部屋を辞する時に、癖でもうひとつお辞儀をして、立香は手元に残された石を見詰めた。
「琥珀、か」
 その言葉には、聞き覚えがあった。けれどお洒落に関心が強い女子ならまだしも、宝石の類にはまるで縁がなかったので、どうにもピンと来なかった。
 ぼんやり抱いていたイメージでは、もっとずっしり重いもの、という印象だった。だのにこれは、同サイズの小石より軽かった。
 飴玉に、よく似た色合いのものがあった。廊下で見付けて、拾ったものでなければ、美味しそうと口に入れていたかもしれない。
「いや、それはさすがにないか。……うん。ないない」
 そもそも拾い食いは、良くない。
 料理上手の弓兵の怒る顔が何故か脳裏に浮かんで、立香は肩を竦めた。
 今頃キッチンでくしゃみをしているだろうエミヤを想像し、持ち主とはぐれてしまった琥珀を握り締める。イシュタル以外でこういう宝石を好みそうな女性サーヴァントはと考えるが、範囲が広すぎて、逆に誰も思いつかなかった。
 それに装飾具としてではなく、お守りや魔除けとして使うのであれば、性別は関係無い。
「誰に聞くのが、早いかな」
 向こうも探してくれていれば良いが、落とした事自体に気付いていないのなら、面倒だ。
 しげしげと石を眺めつつ、人が多そうな場所を求めて廊下を突き進む。
 お蔭で、前方にあまり注意が向いていなかった。
「うわっ!」
 突き当たりの角を曲がろうとして、反対側からやって来る存在に気付くのが遅れた。
 すんでのところで衝突は回避したものの、お互い驚いて、目を真ん丸にした状態でしばらく固まってしまった。
 普段ならやらないミスは、お互い様だ。
 目深にフードを被ったサーヴァントもあまり見ない表情をして、素早い瞬きの後、取り繕うかのように咳払いをした。
 右腕から肩に向かって巻き付く白い蛇が、なにかの模様のようでもある。黒いコートにペストマスクを合わせた男は、持っていた端末を握り直し、それで人を叩く素振りを見せた。
「気をつけろ、マスター」
「はは。ごめん」
 呆れた調子で言い放ったアスクレピオスだけれど、彼だって、端末に表示されるデータに夢中だったはずだ。
 もっともそれは言わずに済ませて、立香は軽く謝り、額に迫る端末の背を押し返した。
 その時にはもう、手の中に、例の石はなかった。
「あれ?」
「どうした?」
「あれ、ない。あれ? 待って。落とした?」
 違和感を覚え、なにか忘れている気がして、次の瞬間に思い出した。
 広げた右手が空っぽなのに、愕然となった。服に引っかかっていないかと、ジャケットやズボンを何度も叩いて、撫でて、引っ張った。同時にその場で足踏みして、時計回りに三百六十度、ぐるりと一回転した。
 それでも石の感触には辿り着けず、カランコロンと固い物が転がる音も響かない。
「なにをしている、マスター」
 アスクレピオスにしてみれば、マスターが突然不審な行動をとったのだから、変に思うのは当然だ。
 胡乱げな眼差しを向けられたけれど、立香は咄嗟に言葉が出なかった。
「いや、あの。……知らない?」
「なにを」
 説明したいのだけれど、琥珀、という単語が綺麗さっぱり頭から消えていた。
 アスクレピオスだって、そう訊き返すより他にない。だというのに何故伝わらないのかと地団駄を踏んでいるうちに、溜め息を吐いた英霊が軽く膝を折り、屈んだ。
 立香の傍らに手を伸ばし、長い袖で床を擦った。端末は左手で大事に胸に抱え込んで、ゆっくりと姿勢を正した。
「ἤλεκτρον」
「え? なんて?」
 その際彼がぼそっとなにか呟いたが、耳慣れない言語で、音が拾いきれない。
 反射的に声を上げた立香を一瞥して、医神とも称される英霊はあからさまに肩を竦めた。
「エーレクトロン……お前の国では、琥珀、と言われているんだったか」
「えっと、ああ、うん。そう。よくご存知で」
 面倒臭そうに述べて、手を差し出すよう、態度で示す。
 促されて右手を広げた立香は、掌に落ちてきたものが弾まないよう、慌てて残る手で蓋をした。
 指の隙間から石が無事なのを確かめ、もう行きたそうにしているアスクレピオスの前にサッと割り込んだ。
「さっき、これ。廊下に落ちてるの、見付けたんだけど。アスクレピオスのじゃ、ない……よね?」
 先に右足を出し、僅かに遅れて身体ごと移動させた。行く手を塞がれた男は寸前で身体を後ろに引き、マスクの上からでも分かるくらい、露骨に顔を顰めた。
「僕が、そんな不快になるものを持ち歩くはずがないだろう」
「……なんで?」
 可能性があるから訊ねただけなのに、ここまで嫌悪感を露わにされるのは、想定外だ。
 意外過ぎて、逆に気になった。目をぱちくりさせながら首を傾げた立香に、アスクレピオスは盛大に舌打ちして、首筋に寄って来た蛇を押し返した。
 視線はなにもない壁に向かい、苛立たしげに前髪を弄る。特徴的な形状をほんの少し崩して、彼は数秒目を瞑り、長い袖を揺らめかせた。
「エーレクトロン……太陽の輝き、という意味だ」
 立香の手から琥珀を抓み取り、黒い袖の上で転がしながら呟く。
 風が吹けば消し飛びそうな小さな声を掬い上げて、立香は背筋を震わせた。
「え、あっ」
「もっとも由来は、アレではない。太陽神ヘリオスの娘達が、身内の悲劇に流した涙、という話だ」
 しまった、と思ったのが、顔に出たのだろう。アスクレピオスは皮肉を込めて目を眇め、抓んだ石を縦に構えた。
 横にすればピーナッツにも似た形状だったものが、彼の言葉を受け、途端に涙の形となって目に飛び込んできた。
 光を受けて輝く姿は、成る程、小さな太陽のようでもある。それを象徴する太古の神の娘が、家族に起きた不運に涙して産まれた石だというのも、言い得て妙だった。
「そっか」
「東洋では、薬としても用いられていたそうだな」
「へええ。それは知らない」
 同じ太陽神であり、後代にはアポロンと同一視されてしまった存在が語源に関わるから、あまり好きではないのだろう。
 深く触れたくないらしく、早々に話題を変えた彼に、立香も同調して目尻を下げた。
 改めて受け取って、太陽を宿した石を指先で軽く擦った。ほんのり熱を帯びたそれの感触は優しく、見詰めていると心が落ち着いた。
 真夏の鋭い陽射しではなく、水平線に沈もうとする夕日に似た彩だ。
 誰かの落とし物だというのに、色々と聞いているうちに、手放し難くなってくるから困る。
「落とし物なのに、勝手に貰っちゃったら、ダメだよね」
 名残惜しげに呟けば、アスクレピオスは意外だったのか、一瞬だけ目を見開いた。
 しかしそれも、ほんの僅かな時間でしかない。見間違いかと思うくらいの僅かな変化に、立香は首を右に傾がせた。
「気に入ったのか」
 不思議に思って見詰めていたら、不意に真正面から問われた。
 今までにない真剣さで訊かれて、面食らった立香は反射的に半歩下がった。
「そういうんじゃ、ない……けど。いや、やっぱそうなのかな。綺麗だし。なんか、見てて落ち着くっていうか」
 急ぎ言葉を紡ぐものの、気持ちの整理が追い付かず、なかなか思うように喋れない。
 それでも必死に胸の内を述べれば、深く長い息を吐かれた。
「……そうか」
 アスクレピオスは太陽神アポロンの息子であるが、そのアポロンを毛嫌いしていた。彼の母親はかの神の所為で命を落としており、彼自身も神々の横暴によって生涯を終えていた。
 だから太陽の輝きという名を持つ石を立香が愛でるのに、複雑な感情を抱いても無理はない。
「けど、けどね。深い意味はないから。別に、アスクレピオスが気にするような事じゃないから」
 彼を傷つける意図はなく、不快にさせるつもりではなかった。
 そこだけは是が非でも理解して欲しくて、声高に訴えた立香は、二秒後。
「気に入ったのなら、僕がもっと良いものを見繕って、贈ってやる。お前にとっても、丁度良いかもしれんしな」
「はい?」
 思ってもみなかった提案をされて、目を点にした。
 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、言葉を失い、立ち尽くす。それを意に介することなく、アスクレピオスは数回頷いて、擦り寄る白蛇の頭を撫でた。
「指輪よりも、ペンダントの方が良いか。なるべく大きなものを、肌身離さず持っていろ」
 口元がマスクで覆われているので表情が分かり辛いが、眼差しは至って真剣だった。冗談を言っている素振りはなく、本気で行動に移しそうな雰囲気だ。
「待って。なんでまた、急に」
 突然やる気を出されて、驚かない方が可笑しい。
 なぜそんな話になったのかと理由を尋ねれば、アスクレピオスは喋るのに邪魔と感じたのか、カラスの嘴に似たマスクを外した。
「非科学的で、医学的にはナンセンスとしか言いようがないが。呪術的な意味合いでは、宝石にはそれぞれ力が宿っている。エーレクトロンは精神を安定させ、病魔を遠ざけると言われている。魔術師ではないお前にはさしたる効果は期待出来ないが、気休め程度にはなるだろう」
 不遜に胸を張り、月の女神にも通じるところがある容貌を曝け出した。息継ぎを殆ど挟む事なく饒舌に捲し立てて、最後は口角を持ち上げて不敵な笑みを浮かべた。
 言葉で表現するなら『にやり』という擬音がぴったりだが、なにぶん顔が良いのもあり、それも少し違う気がした。
「それは……、どうも」
 一応マスターの身を気遣い、親切で言ってくれているはずだ。
 だというのに若干馬鹿にされている感じがして、心中は複雑だった。
 素直に礼が言えず、声は小さかった。首を竦め、猫背気味になって、上目遣いで様子を窺えば、目が合った男はどこか満足そうに口元を緩めた。
「指輪は、十年したら贈ってやる」
「んん?」
「それまで、せいぜい生き延びることだ。もっとも、僕がいるんだ。簡単には死なせないぞ、マスター」
 そうしていきなり宣言して、こちらが反応する前に、タブレット端末で今度こそ頭を押された。硬い平らな面で黒髪を潰された立香は二の句が継げず、その間にアスクレピオスはさっさと歩き始めた。
 すれ違い様に得意げに告げて、片手で素早くマスクを装着し直し、振り返りもしない。
 取り残された方は意味が分からず、唖然とするしかなかった。惚けたまま立ち尽くし、数分後に歩いて来たマシュに呼びかけられて、それでようやく我に返った。
 手元に残された琥珀の事情を説明し、持ち主捜しの協力を求め、快諾を得る。そうして推理ならばこの人だろう、と頼ったホームズとの会話の中で、期せずして、医神が告げた言葉の意味を教えられた。
「勘弁してよ……」
 結婚十年目に琥珀を贈り合う習慣が、イギリスにあるという。
 思いがけず真意を知らされた立香は、勝手に火照る顔を隠すべく、皆の前で丸くなった。

2020/11/07 脱稿
夕暮は蓬がもとの白露に たれ訪ふべしとまつ虫の声
風葉和歌集 298

知るらめや 恋しとだにも 言へばえに

 指が触れた、それだけだ。
 初めは偶然だと思った。ベッドに腰掛け、左手で本を支えていた。袖越しでも、書物を扱うのには慣れている。背表紙を指四本で囲い、残る親指を紙面に添えて、勝手に閉じていかないように押さえていた。
 右手を使うのは、ページを捲るときだけ。それ以外にはこれといった役目を与えず、ベッド上に投げ出していた。
 その指の背に、何かが触れた。
 布の上から、ちょん、と小突かれた。ただ偶々なにかが当たったものと、その時は気にも留めなかった。
 なにせこの部屋には、自分以外にも人が居る。それも正真正銘、今の時代に産まれ、生きている人間が、だ。
 己は違うのかと言われれば、然り。本来ならこの世からとうに消え失せた筈の存在だが、なんの因果かカルデアに召喚され、こうしてここに存在していた。
 真名は、アスクレピオス。古代ギリシャに所縁を持つサーヴァントだ。
 そして自身が現在進行形で居座っているのは、己を召喚したマスターたる存在の部屋だった。
 数奇な男である。魔術とは一切係わり合いのない環境に育ちながら、今や汎人類史の未来を一手に引き受けていた。
 常に死と隣り合わせの状況にあり、それでなお良く笑い、良く喋る。その姿からは、卑屈なところが何一つ見当たらない。
 故に、奇妙に思わざるを得ない。
 これは稀なる患者だ。その精神性には興味が尽きず、観察のし甲斐があった。
 話がしたい事がある、と招かれたのは、僥倖だった。こちらとしても、聞きたいことが多々あった。ところがいざ指定された時間に訪ねてみたら、肝心のマスターは布団を被って就寝中だった。
 まだ夜中には程遠い、時計を見れば夕方と言って差し支えない時間帯だった。
 もっともこのノウム・カルデアの環境的に、夕暮れは拝めない。自然環境の変化を頼りに、時間の推移を知る術はなかった。
 閉鎖された空間では、体内時計も狂い易い。不規則な生活はいただけないが、昼寝の効果はゼロではなかった。
 初めこそ驚き、体調不良を疑った。だが呼吸は安定し、脈も正常で、平熱の範囲を逸脱していない。単なる午睡だと判断して、大人しく立ち去るかどうかでしばし逡巡した。
 このような機会が次も巡ってくる保証は、どこにもない。
 寝顔を眺める趣味はないが、彼が自然と目覚めるのを待つのは、吝かではなかった。
 図書館からマスターが借りて来たのであろう本が、丁度良い暇潰しになった。寝台で横になる彼の邪魔にならない位置に陣取り、他愛ない童話の類に目を走らせているうちに、指先がまた、なにかに触れた。
 二度目となれば、もはや偶然ではあるまい。こちらは自発的に動かしていないのだから、ベッド上に在るものが触れて来ているのだ。
 こつん、と横から。
 僅かに肌を揺れ動かす程度の力で。
「起きたのか」
 読書に対する集中力が削がれたが、もとよりそこまで没頭していない。それでも紙面から顔を上げることなく問いを投げかければ、返事はなかった。
 代わりに衣擦れの音がして、小さな呻き声が耳を掠めた。
 恐らくは眠っている間に凝り固まった身体を動かし、背筋を伸ばしているのだろう。それらしき仕草を想像しながら肩を竦めていたら、またしてもちょん、と緩く握った拳を突かれた。
 ぶつかってくる形状からして、人差し指か、中指か。それがシーツの上で蟠っている人の袖を手繰り、滑るように動き回っていた。
「マスター?」
 度々ぶつかって、瞬時に離れて行く。何がしたいのか分からず、焦れて、本を閉じた。左手で肩の高さに掲げ持ち、その勢いも利用して腰を捻って振り返ったら、そこにあると信じていた黒髪が、なかった。
 いや、消え失せたわけではない。真っ白いシーツに覆われて、大部分が隠れているだけだ。
 先ほどの衣擦れの音は、これが原因だったらしい。
 薄い枕を壁際に押し退けて、マスターは大きな布にくるまっていた。靴下を履いた爪先が反対側から覗いている。何のリズムかは分からないが、テンポ良くぴょこぴょこ動いていた。
 それ以外でも、布の塊からはみ出ているものがある。
「チッ」
 全体像を観察している隙に、再度右手を弄られて、堪らず舌打ちが出た。急ぎ場所を移し、手近なところに引っ込めた上で、改めて捕まえようと腕を伸ばしたが、彼の利き手はするりとシーツをなぞり、蛇行しながら逃げていった。
「くふっ」
 同時に、笑い声が聞こえた。
 音量は抑え気味で、堪えきれなかったらしい。真っ白い蓑虫自体も、小刻みに震えていた。
 遊ばれている。
 わざわざ呼びつけておいて、やりたかったことがこれなのか。
 そんなはずはない、と頭の中で瞬時に否定した。ただ突拍子がないところがあるマスターだから、絶対とは言い切れなかった。
 苛々して、瞬間的な怒りで目の前が暗くなった。
 気がついた時には、左手を高く掲げていた。勢い任せに本で殴りつけようとしている自分を認識して、慌てて肩肘にブレーキを掛けた。
 それでも完全に止めるのは難しく、結果として、マスターの頭らしき場所を打ち付けたのは間違いない。
「あだっ」
 見苦しい悲鳴がひとつ、響いた。蓑虫は一瞬だけ身体を縮ませて、時間をおいてじわじわ手足を広げていった。
 それでもなお、彼はシーツから抜け出ようとはしなかった。
「マスター」
 呆れて、溜め息が出た。肩を竦めて呼びかけるが、応答は得られなかった。
 代わりではないだろうけれど、幾度目か分からない攻撃があった。
 人差し指と中指を、さも人の足のように操って、ベッドに深く沈めた右手を探り、二度、三度、今度は上から小突かれた。
 長い袖に覆われているので、具体的な在処が、見ただけでは分からないのだろう。少しずつ移動して、無事に探り当てた時は――本当にそうかは断定出来ないが――嬉しそうだった。
 子供の戯れだった。
 なんら経験も、知識も有さずにマスターとなるよう求められ、それを受諾した少年。
 ひとつ違えば、彼は世界と共に白紙化されていた。歴史に埋没し、後世に名が伝わらないその他大勢の中のひとりとして、一切の記録が残らないまま消え失せていただろう、少年。
 利己的な欲望に従い、行動する時間を有していたはずなのに、それが許されなくなった人間。
 憐れな、人の子。
 諦めることを認められず、立ち止まることを、振り返ることを止めてしまった子供。
「捕まえ――くそ」
 胸の内を駆け巡るあらゆる感情を薙ぎ払い、その手を掴もうとした。
 だのに、寸前で避けられた。大人しくしていれば良いものを、狩猟者の気配を察知したマスターは、素早く肘を返した。
 躱されて、素直に悔しい。シーツを被っているお蔭で視界が不自由な筈なのに、それを微塵も感じさせない動きだった。
「逃げるんじゃない」
「っふ、あはは。やーい」
 腹立ち紛れに叫び、追いかけて、身体全部を捻った。膝からベッドに乗り上げて、調子に乗ってはしゃぐマスターに臍を噛んだ。
 逃げ回るネズミ、もとい令呪が刻まれた手を狙って何度も爆撃をお見舞いするけれど、どうやっても捕まえられない。片手だけでなく、左手も使って逃げ道を封じ、追い詰めるべく画策しても、結果は変わらなかった。
 どれだけ繰り返しても、最後はシーツの中という安全地帯に潜られてしまう。
 これは禁じ手だという認識はあったが、最早我慢ならなかった。
 堪忍袋の緒が切れた。
「いい加減に、しろ」
 湧き起こる感情に従って、マスターに対して馬乗りになった。逃げられないよう下半身を拘束した上で、両手を伸ばし、彼を包むシーツを引き剥がした。
「うきゃあ!」
 自ら簀巻きになっていた青年がもれなく姿を現し、真ん丸に目を見開いた。直後、何故か分からないが胸を隠して腕を交差させて、反射的に折り畳んだ膝で、こちらの腰を蹴り飛ばした。
「うっ」
 不意打ちで、避けられない。本人も咄嗟だったからだろう、力加減を制御できず、かなりの勢いでドスっと来た。
 突き飛ばされた形になり、身体がぐらついた。もとよりバランスなど考えなしの、思いつきでの行動だったので、後ろからの圧力に耐えられなかった。
「く、そ……!」
 急いで肘を折り畳み、マスターに当たらない場所に衝き立てて、柱にした。前屈みに倒れ込んだ身体を支え、一歩遅れて降って来たもみあげと、袖を払って、彼の上から退かせた。
 それでも完全ではなく、一部が東洋出身と分かる肌色に掛かった。マスターは呆然とした顔で瞬きを繰り返し、素肌に被さる布や、毛先は放置した。
「まったく。気は済んだか、マスター」
 散々ひとを虚仮にしてくれた礼は、この後考えることにする。
 一先ず何か言わねば、と考えて投げた言葉に、彼は僅かに間を置いて、嗚呼、と小さく頷いた。
 目が合ったのは、最初の数秒だけだった。
 その後、彼の視線は落ち着きなく宙を彷徨った。どれだけ経っても、視線が交錯しない。重力に引かれた前髪が額を掠めるか否か、という近さにありながら、不思議な現象だった。
 それに心なしか、彼の肌は色味を強めていた。ほんの数十秒で赤みが増して、心拍数も、気のせいでなければ加速していた。
「マスター? どうした、こちらを見ろ」
 聞きたいことは、色々あった。
 敢えて私室を指定して、呼び出したこと。だというのに暢気に寝こけていたこと。目覚めてもすぐに反応しなかったこと。人の手で遊んで、すぐに止めなかったこと。
 顔を赤く染めて、目を逸らし続けていることも。
「いや、あの。……なんていうか。えっと。まずは、退いて、くれると……助かるんだけど」
 詰問したら、彼の指が銀のもみあげを撫でた。首筋に当たっている分を払い除け、そのまま遠くへ追いやるのかと思いきや、指先にくるくると巻き付け始めた。
 相変わらず人の顔を見ないで、言い難そうに懇願された。ただその言葉と、行動が合致しない。髪の一部を人質の取られているこの状態で、退いたらどうなるかは自明だ。
 眉を顰め、怪訝に彼を見詰めて、口をへの字に曲げる。
 理解出来ない彼の思考に悩むが、答えは見出せない。仕方なく解放される気配がない髪を解くべく、指を差し向けた。
「う」
 悪戯な手を取った瞬間、マスターは喉の奥で小さく呻いた。
 唇を噛み締め、頬を引き攣らせた。空色の瞳が己の手元を凝視すべく、上から下へ猛スピードで移動するのが、少し面白かった。
 四重にも、五重にも巻き取られた髪を救出するうちに、気付いた事がある。人として平均的な大きさの手には、細かな傷跡が多々残されていた。
 深いもの、浅いもの。年季が入っているもの、そうでないもの。
「……今度こそ、捕まえたぞ。マスター」
 それは彼の歩みそのものであり、彼が内に秘める感情の欠片だ。
 ひとつひとつを辿るには時間が足りないが、猶予が欲しくて、鬼ごっこの続きと偽った。傷だらけの手を握り締める理由を誤魔化し、不遜に笑いかけてみれば、マスターは音を立てて真っ赤になった。
「ひぁあ」
 妙に甲高い声を漏らし、顔のみならず、首や耳の先まで赤く染めた。立てた膝を左右に踊らせながら身を捩り、もう片方の手を、自ら重ねて来た。
 囚われた手を覆う袖の上から、ぎゅっと握り締められた。
 更には首を竦め、一層丸くなり、三重になった拳を額に押しつけた。
「マスター?」
「あああ、もう。なに言いたかったのか、忘れちゃったじゃないか」
 突然恨み言をぶつけられて、意味が分からない。困惑し、首を捻って少し待つが、続きは発せられなかった。
 拘束された手を強引に揺らし、覗き見た顔は相も変わらず赤く、それでいてどこか艶やかだ。
「なら、思い出せ。それくらいは、待ってやる」
 毅然として戦場に立ち、サーヴァントに指示を下す時とは別人の貌だ。
 彼にはこんな表情もあるのかと、新鮮な気持ちになった。
 知らなかった事を知るのは、面白いし、楽しい。底を知らない知識欲が疼いて、自信満々に胸を張る。
 口角を歪めて不遜に言い放った途端、マスターは大きく身震いし、まん丸い目を潤ませた。
「おっ……思い出し、た。けど。悔しいから、言わない!」
 不意に下敷きにしていた身体が暴れ出し、生意気な台詞が返って来た。
「なんだ、それは。どういう理屈だ。説明しろ、マスター」
 勿論そんなことは、認められない。受け入れがたく、訂正を要求した。
 掴んだ手を振り回して、力尽くで押し退けようとするのに抗った。膝で背中や腰をゴンゴン蹴られたが受け流し、距離を詰め、真上から覗き込む格好で迫った矢先だ。
「好きだって、言いたかったけど。絶対に、あ、アスクレピオスには、言ってやらないんだから!」
 火を噴く勢いで赤面したマスターに、唾を飛ばしながら怒鳴られた。
 目をぎゅっと瞑り、固い決意を大声で述べられた。
「……は?」
 言っていることとやっている事が釣り合わない彼が、正直、理解できない。
 惚けた顔で固まっていたら、一秒してからマスターがハッと息を呑んだ。そうしてすぐさま奪い取られるとも知らず、傍に転がっていた枕を掴み、己の顔を隠した。

知るらめや恋しとだにも言へばえに 思へば胸の騒ぐ心を
風葉和歌集 766

忍びにし 声あらはれて ほととぎす

 バカンスも残り僅かとなったが、コテージの周辺では遊び足りないサーヴァントたちの元気な声が絶えない。水鉄砲を武器にはしゃぐ一団を窓越しに眺めて、立香は手にした帽子で顔を扇いだ。
 弱い風を受けた前髪がふわりと浮き上がり、額に蔓延っていた熱がほんの少し遠くなった。生温い唾を飲み込み、深呼吸を二回して、彼はふと目に付いた後ろ姿に首を捻った。
「先輩?」
 それは人理修復を目的として集められたAチーム所属の、マスターとしては立香の先輩格に当たる存在。実際は殺しても死なない吸血鬼という、人ならざる女性。
 更に付け加えるとするなら、愛する男が同行すると思い込み、浮かれ調子で水着に着替えたひと。挙げ句何度となく殺されては、その度に甦るという奇特な経験を繰り返したひと、でもある。
 その虞美人が、リビングのソファに座ってぼんやりしていた。大胆な水着姿で足を組み、頬杖をついて、若干腑抜けた表情で遠くを見ていた。
 項羽がレイシフト先に来ないと聞かされて、激しく落ち込んでいた時に似た雰囲気だ。
 またなにか、意気消沈することがあったのか。
 怪訝に思い、彼女の視線の先を辿って首を巡らせた。それらしきものを探せば、大きな窓の向こうに、ワルキューレたちの姿があった。
 他にも夏仕様のシグルドに、水着に着替えたブリュンヒルデの姿も見えた。
 姦しい三人娘に囲まれた背高の男がなにかを言い、少し離れた場所にいた黒ドレスの美女が顔を赤くした。照れた素振りで身を捩る彼女を振り返り、ヒルドとオルトリンデが再びシグルドに何やら捲し立てた。
 会話の内容は、聞こえてこないので分からない。しかし北欧に由来するあのメンバーにとって、このような光景は日常だった。
 仲が良く、微笑ましい。
 眺めていたら、自ずと頬が緩んだ。パントマイム的なやり取りに、自分勝手な科白を当てはめて楽しんでいたら、割と近い場所から視線を感じた。
 はっと我に返って表情を引き締めるが、一歩遅い。
「なによ」
「いーえ、別に」
 頬杖を解いた虞美人に、不愉快そうに睨まれた。
 ソファの肘掛けに爪を立てて、機嫌は見るからに悪い。咄嗟に首を横に振って否定したが、到底信じてもらえなかった。
 彼女は面白くなさそうに舌打ちを繰り返し、スプリングが硬いソファに深く座り直した。右膝を身体に寄せて、両手で包み込む。細く、長く、しなやかで美しい脚が大胆に晒されたが、当人には恥じらう、という感覚がないようだった。
 彼女にとって、見せるべき相手は項羽ただひとりなのだろう。それ以外の視線は、一切気にならないらしい。
 潔いまでの割り切り方だ。恐らく一生かかっても真似出来ない思考だと、心の中で敬服して、立香は改めてブリュンヒルデたちに視線を戻した。
 彼女達は、夕方から予定されているバーベキューの準備に勤しんでいた。大勢で炭火を囲み、肉に野菜を焼いて食べるイベントは、立香としても楽しみだった。
 だがなにぶん参加者が多いので、網の配置は悩ましい問題だ。ひたすら食べたいサーヴァントと、会話を楽しみながらのんびり食べたいサーヴァントは分けるべきだし、肉ばかり攫っていく連中の皿に野菜を放り込む役も必要だ。
 そういった配分を決めようとしては、シグルドがなにかにつけて惚気て、ブリュンヒルデの手が止まる、といった感じらしい。
 仲睦まじいのは構わないが、少々夏の影響を受けすぎなふたりに、苦笑が止まらなかった。
「相思鳥みたい」
「はい? なんて?」
 先ほどからなにも進んでいない準備係を見ていたら、間近でぼそっと呟かれた。
 瞬時に虞美人に視線をやるが、目は合わない。彼女は解いた手を、今度は頭の後ろにやって、若干仰け反り気味に座っていた。
 天井を仰ぐ眼差しは、ノウム・カルデアに残った男を思い浮かべているに違いない。
 哀愁漂わせた横顔はいじらしく、可愛らしいが、それよりも聞き慣れない単語への好奇心が勝った。
「ソウシチョウ……? て、なんです?」
「はあ? なんでアンタに教えてあげなきゃなんないのよ。自分で調べなさい」
「えええー」
 重ねて聞いてみれば、思いの外横暴な発言が投げ返された。急にガバッと前のめりになり、ソファから腰を浮かせた虞美人に怒鳴られて、立香はあまりの理不尽さに悲鳴を上げた。
 勢いに圧倒されて半歩後退し、首を竦めて、両手は背中に隠した。彼女が親切に教えてくれるとは、実のところあまり期待していなかったけれど、いざその通りになると地味にショックだった。
 仮にもマスターとして、サーヴァントたる彼女と契約している身だというのに。
「どうかなさいましたか?」
 がっくり肩を落として立ち尽くしていたら、虞美人の大声を聞きつけ、キッチンにいた蘭陵王が駆け寄って来た。喧嘩を心配して様子を見に来たらしく、表情はどことなく物憂げだった。
 シグルド同様、夏仕様の出で立ちの青年は、涼しげで、爽やかだ。リビングを見回し、特に問題がなさそうだと胸を撫で下ろして、最後に立香に向かって会釈した。
 朗らかに笑う蘭陵王は、ある意味、虞美人の世話係でもある。なかなかの苦労人だけれど、思うところを存分に吐き出した後などは、非情に晴れ晴れとした表情をしていた。
 彼ならば、知っているかもしれない。
「ねえ。ソウシチョウて、分かる?」
 キッチンとリビングの境界線上に立つ青年に向けて、問いを投げる。
 その瞬間、そっぽを向いていた虞美人がピクリと反応したが、立香は気付かなかった。
「はあ。相思鳥、ですか?」
 数メートル先から質問された蘭陵王は、きょとんとした後、一瞬だけ虞美人を見た。そうして何かを悟った風に微笑み、目を細めて頷いた。
「相思鳥とは、はい。小鳥のことです。嘴が赤くて、小さくて、可愛らしくて。とても美しい声で鳴きます。そういえば今朝も、近くで鳴き声を聞いた気がします」
「へえ」
 左手を胸の高さに掲げ、指先を軽く曲げて大きさを表現しながらの説明に、立香は緩慢に頷いた。どこかで見て、聞いた事があるかもしれないと興味を抱き、無意識に顎を撫でた。
 そんな彼に目尻を下げて、蘭陵王は再び、会話が聞こえているだろうに混じろうとしない女性に視線を送った。
「あとは、そうですね。名前の由来は、つがいのオスとメスを分けると、互いに相手を思い、相手を求めて囀るところから、と言われています」
 若干含みのある顔で言って、立香に向かって深く頷く。
 追加された説明に、汎人類最後のマスターは嗚呼、と息を吐いた。一歩遅れて両手を叩き合わせて、窓の外ではなく、そのずっと手前のソファを振り返った。
「なんだか、先輩みたいですね」
 悪気はなく、思ったままのことを口にしただけだ。
「はああ? なに言ってんの。馬鹿にしてる? 冗談じゃない。どうして私が、そうなるのよ!」
 だというのに、思い切り罵倒された。
 勢いのままに立ち上がり、吼えて、虞美人は握り拳で空を殴った。
 あれが右頬、または腹に当たろうものなら、壁まで軽く吹っ飛んでいた。それくらいの気迫を見せられて、立香は咄嗟に首を竦めて小さくなった。
 そこまで怒るような事を言ったつもりはないのに、逆鱗に触れてしまった。一方で憤懣やる形無い女性は、何度も吼えた所為で居辛くなったのか、淑女たる仕草も忘れて部屋に引っ込んでしまった。
 ドスドスと荒々しく床を踏み鳴らし、肩を怒らせて歩く姿は野生の獣のようだった。
「……今の、オレが悪いの?」
「いいえ、まさか。図星だったので、照れただけですよ」
「なるほど。……なるほど?」
 ドアを閉める音も盛大で、壊れないか心配になるレベルだ。脅威が去った後に恐る恐る訊ねれば、蘭陵王は朗らかに首を振った。
 分かった顔でにこやかに告げて、そこはかとなく嬉しそうだ。彼ほどの境地に辿り着けていない立香は静かになったドアを遠巻きに眺め、顔面真っ赤だった虞美人を思い出し、肩を竦めた。
「来年は、うん。一緒に来られると良いね」
「そうですね。是非、そうであって欲しいです」
 なにが、とは敢えて言わない。蘭陵王も省いた言葉を瞬時に悟り、同意して、深く頷いた。
 夕飯の下拵えに戻る彼を見送り、立香は長く握り締めていた帽子を広げ、浅く被った。この後の予定は、特に決めていない。だが虞美人のように部屋に引き籠もるのは、勿体なくてできなかった。
「探してみよっかな」
 教わったばかりの鳥について、まだ好奇心は薄れていない。新たに得た知識を胸にドアを開け、夏の陽射しが照りつける屋外に出た。
 とはいっても、高所且つ山の中なので、気温はそこまで高くない。日陰を選べば、この時間でも肌寒さを覚えるくらいだった。
「誰か、鳥に詳しいひと、いなかったかな」
 木製のテーブルをひとりで動かしていたシグルドと目が合い、手を振って返す。ヒルドたちが少し騒いだが、遊ぶよりも準備が先だと戒められて、ワルキューレたちはしょんぼりしながら作業へと戻っていった。
 どこもかしこも賑やかで、騒々しく、楽しそうだ。
 見ているだけでも幸せな気分になれて、マスターである立香の頬も自然と緩んだ。
「こんな時間から、どこへ行く。マスター」
 バーべーキューの開始時間はまだ先なのに、待ちきれないのか、一部のサーヴァントが周辺でソワソワしていた。自発的に手伝いに加わる者もあれば、良席を確保して動かない輩もあった。
 それ以外にも、炭火での火傷を期待してか、はたまた肉を巡っての争乱を期待してなのか。珍しい男の姿があった。
「ん? ああ、アスクレピオス。ねえ、鳥のこと、詳しい?」
「なんだ、藪から棒に」
 白衣代わりの白パーカーに、袖には目立つ赤い腕章。医療班所属だと示す証を見せびらかすように歩いて来たのは、ギリシャ神話に連なる英霊だった。
 フードを目深に被っているが、ファスナーを急いで閉めたのか、長いもみあげが半分、服の中に入り込んでいる。だというのにまるで意に介さず、そのままにしている所為で、変なところから毛先がはみ出ていた。
「水分は適時摂取しろ」
「むぐっ?」
 新鮮で、ある意味奇抜な格好に気を取られていたら、いきなり口に固形物が押し込まれた。
 不意を衝かれ、反射的に吐き出そうとしたけれど、舌先と唇に触れた冷たさがそれを押し留めた。急いで突き出ている棒を掴み、引き抜いて、立香は目に飛び込んできたアイスに相好を崩した。
「ありがと。ああ、ソーダ味だ」
 浅く歯形が残る部分を舐めると、ひんやりして心地良い。
 思いがけず、甘味に恵まれた。懐かしくもある味を堪能し、ちびちびと前歯で削っていたら、フードを外して髪を整えたアスクレピオスが口を開いた。
「それで、鳥がどうした。野鳥の死骸でも出たか」
 最初の問いかけは、忘れられていなかった。但し発想が、若干どころか、大幅に特殊な方角に傾いてしまっていたが。
 彼の医学に対する好奇心は、どんな状況下でも色褪せることがない。
 些か不穏な笑みを浮かべられて、苦笑を禁じ得なかった。
「残念だけど、そうじゃなくて。ええっと……ソウシチョウて、分かる? この近くにいるらしいんだけど」
「なんだ、違うのか。つまらない」
 一瞬悪役面になったアスクレピオスだが、否定されて、即座に表情を戻した。心底どうでも良いという雰囲気で吐き捨てて、少々不機嫌になった。
 興味の範囲が、本当に偏っている。
 あまりにも極端な変化に肩を揺らして、立香は汗をかき始めたアイスを舐めた。
 子供の姿をしたサーヴァントのために、薬を色々工夫している、という話も聞いている。もしかしたらこのアイスにも、なにかしら仕込まれている可能性があった。
 ただ彼のやることだから、身体に害が及ぶとは考え難い。
 その辺りは、十二分に信頼している。ふとした拍子に目が合って、微笑み返せば、アスクレピオスは意外だったのか目を丸くした。
「美味しいよ」
「当然だろう」
「ソウシチョウっていうのは、オレもさっき知ったんだけど。嘴が赤い小鳥で、カップルが引き離されると、お互い恋しがって鳴くんだって」
 順調に小さくなっていくアイスを味わいつつ、妙に自信たっぷりな男に早口で語りかける。どうでも良い話を振られて、迷惑がるかと思ったが、アスクレピオスは黙って耳を傾けてくれた。
 だから調子に乗って、虞美人が真っ赤になって怒鳴ったことまで、関係無いのに喋ってしまった。
 その途中でアイスを食べ終えて、立香は唯一残った薄い木の棒を噛んだ。表面にソーダ味が染みついている気がして、捨てるのを惜しんで咥えたままでいたら、伸びて来た白い指に黙って引き抜かれた。
「あ」
 齧っていたものがなくなって、思わず舌で追おうとした。首から上だけを伸ばし、間抜け顔を晒していたら、悪戯の犯人が不遜に笑って奪ったものを揺らした。
 腕を組み、口角を歪めて、アスクレピオスは居丈高に胸を張った。
「そんなもの、探してどうする。今、ここにいるだろうに」
「え、どこ? どこ?」
 言い切られて、立香は愛らしい小鳥の姿を想像した。脳裏に描いたのと似た存在を探し、視線を泳がせ、半身を捻って後ろを振り返りもした。
 慌ただしく左右を見回して、目を凝らすものの、それらしき影も形も見当たらない。鳴き声も当然聞こえなくて、五秒ほど過ぎてから、ようやく一杯食わされたのだと気がついた。
「ちょっと! ……て、なんで離れてくのさ」
 瞬間的に沸いた怒りに背中を押され、叱り飛ばそうとアスクレピオスに向き直れば、肝心の相手は数メートル先にいた。
 何故か距離をとられていた。こちらを見たまま、尚もじりじり後退する彼に、立香は眉を顰めた。
 どうしてアスクレピオスがそんな行動に出たのか、まるで分からない。
 なにかしら理由があるのだろうけれど、皆目見当が付かなかった。
「アスクレピオスってば。ねえ!」
 混乱したまま彼を呼び、声を張り上げる。まるで鳥が羽ばたくように両手を振り回し、爪先立ちになって、声高に叫ぼうとして。
 ようやく足を止めた男が、直前まで立香が咥えていた棒を顔の前に掲げた。
 薄い唇を開き、赤く濡れた蛇の舌を覗かせて、その表面を舐めた。
 見せびらかすように、絡ませて。
 意地悪い顔をして、咥内へと招き入れる。
「な、あ――ああ!」
 一連の仕草をまざまざと見せつけられて、立香は真っ赤になって吼えた。顔から火が出るほどの恥ずかしさに襲われて、膝をガタガタ言わせ、震えが止まらない身体を抱きしめた。
 相思鳥のカップルは、相手を想って甲高く鳴くという。
 アスクレピオスはその鳥が、すでに此処に居ると言った。
「そんなに大声で囀らなくとも、聞こえているぞ。立香」
 とどめとばかりに囁かれて、もう立っていられない。
 火照って熱い顔を両手で隠して、立香はその場で丸くなった。

忍びにし声あらはれてほととぎす 今日ははやめのねにぞ立てつる
風葉和歌集 172

2020/09/13 脱稿

谷深み 思ひ入りにし 道なれど

 向かいから歩いて来た彼は、手にした何かを気にして、視線はそちらに集中していた。
 このままだと真正面からぶつかってしまうが、彼が立香に気付く様子がない。衝突を回避するには、立香が避けてやる必要があった。
 これしきの手間を惜しむつもりはなく、譲ってやらない、という意地悪い感情を抱きもしない。
 至極当然の帰結だ。特段意識することもなく、進路を左にずらせば、そこでようやく、アスクレピオスが顔を上げた。
「ああ、マスターか」
 あと二歩ですれ違うという距離で、やっと存在を認識された。少々意外そうな、どことなく驚いた風に呼びかけられて、立香は肩を竦めて苦笑した。
「どうかした?」
 黙って立ち去っても良かったが、彼がそこまで集中していた理由が気になった。
 興味本位で問いかけてみれば、アスクレピオスは一瞬きょとんとしてから、嗚呼、と合点がいった様子で目を細めた。
「持ち主を探している。心当たりはないか」
 意外にも、話を振られた。いつもなら愚患者には関係無いことだ、などと言って、早々に立ち去ってしまうのに。
 どうやら本当に、困っているらしい。心持ち弱り顔で差し出されたのは、木製の、掌サイズの小物だった。
 半月型をして、直線部分には細かな筋が、横並びに刻まれていた。厚みはさほどなく、半円部の方が若干ふっくらしていた。
 表面は良く磨かれて、筋状になっている部分以外に段差は見られない。
 どこかで見た覚えがある形状に、立香は眉を顰めた。
「これって……」
 何に使うものなのか、ぱっと思いつかない。しかし見た事は、ある。自身で使った記憶ではなく、テレビか、漫画か、ともかくそういった媒体を経由しての知識なのは、間違いなかった。
 戸惑い、返答に窮していたら、アスクレピオスが口角を歪めた。
「くし、だそうだ」
「くし? くし……ああ、櫛か。どうりで」
 即座に名前が出てこなかったのを笑われたが、馬鹿にする空気が薄かったので、気にしないことにした。微妙に異なるイントネーションで告げられたのを修正し、立香はなるほど、と両手を叩き合わせた。
 教えられて、色褪せていた記憶が甦った。パズルのピースがかちりと嵌まった時に似た快感を覚えて、胸がすっとした。
 アスクレピオスが手にしていたのは、シンプルな和櫛だった。
 持ち主を探していると言っていたので、誰かの忘れ物なのだろう。
 立ち話もどうかと思い、立香は踵を返した。なにか知っていそうなサーヴァントがいると期待して、食堂へ行くのを提案すれば、医神と称される男は間を置かずに首肯した。
「先日の、特異点で回収したものだ。看護師に聞いてみたが、所有者は分からないと言われた」
 道すがら事情を端的に説明されて、緩慢に頷く。先日の特異点といえば、あの夏山のことだろう。
 動く屍に興味を抱いたアスクレピオスが騒動を起こしてから、まだ日も浅い。命を狙われた虞美人を含め、全員が無事カルデアに帰還できたのは、幸いとしか言いようがなかった。
「多分、日本の英霊の誰かだと思うんだけど。巴御前か、紫式部かな。あとは沖田さんと、……ノッブは候補に含めていいんだろうか」
 夏休みを満喫したサーヴァントの中で、持ち主らしき存在を指折り数える。その途中で遠い目をした立香に首を捻って、アスクレピオスが先に食堂のドアを潜った。
 広々とした空間は掃除が行き届いており、テーブルはどれもぴかぴかだ。混雑していないが、誰もいないわけではなく、席は何カ所か埋まっていた。
 キッチンカウンターを覗けば、夏山で大活躍だったエミヤの姿があった。留守の間、台所を預かっていたブーディカもいて、夕食の仕込みで忙しそうだった。
「それっぽい人は、いないか」
 ぐるりと見回すけれど、先ほど名を挙げたメンバーは見当たらない。
 当てが外れた立香はどうしたものかと天井を仰ぎ、隣で手持ち無沙汰に佇む男を盗み見た。
「どうしようか」
「紫式部なら、地下だろうが」
「巴御前は、ゲームしてるか、シミュレーターかな?」
 水を向ければ、そもそも訪ねる先を間違えた件を指摘された。立香も愛想笑いで同意して、今一度食堂を見回し、空いていた椅子を引き寄せた。
「エミヤに預けておけば良い気もする」
 浅く腰掛け、アスクレピオスの右手を指差す。提案を受けた男は小さく頷き、未だ所有者不明の品をまじまじと眺めた。
 ただ言われたような、無銘の弓兵に頼みに行く事は無く、立香に向かい合う形で椅子に腰掛けた。綺麗に歯が揃った櫛を袖越しになぞって、何を思ったか、突然腕を伸ばした。
「なに」
 急に櫛を向けられて、驚く暇もなかった。
 前髪を数回、浅くだが梳られた。
 すっと髪の中を行き過ぎた櫛が、同じ場所を何度も、何度も繰り返しなぞる。痛みもなにもなかったのに、立香は反射的に首を下向けた。
「ふむ」
 奇妙な状況に顔を上げられずにいたら、なにを納得したのか、アスクレピオスが感嘆の息を吐いた。
 面白がっているのが丸分かりだ。
「僕の時代にも、似たようなものはあったが。見ろ、マスター。梳いた場所だけ、異様に真っ直ぐになっているぞ」
「……見えないって」
 指差しながら言われたが、生憎と手鏡は持ち合わせていない。丹念に磨かれた銀食器なら、代用品として使えるかもしれないが、わざわざ借りに行くのは手間だった。
 なんとも楽しそうに言われて、立香は呆れ半分で櫛を通された場所を撫でた。すると確かに、普段よりも毛先が艶々して、さらさらになっている気がした。
「そうか。木製だから、静電気が起こりにくいんだな。それにこの匂い……植物性の油を吸わせているのか?」
 アスクレピオスはそうなった理由を探ろうとして、和櫛を鼻に近付けた。微かに漂う匂いの意味を推測して、終始嬉しそうだった。
 さすがは医学に通じ、この分野の発展に強い関心を示すだけのことはある。
 なにかに応用出来るのでは、とまで言い出して、食堂に来た本来の目的を忘れかけていた。
「オレにも、試させてよ」
 放っておけば思索に没頭し、他人の忘れ物なのに、こっそり懐に入れてしまいそうな雰囲気だ。
 それは問題があると考えて、軌道修正すべく手を差し出す。
 集中を邪魔された男はどことなく不機嫌な顔をしたが、立香が諦めないのを悟り、溜め息と共に櫛を手渡した。
 掌に載せられたものを緩く握って、立香は目尻を下げた。
「アスクレピオスの髪の毛、借りるね」
「どうして僕が」
「オレの長さじゃ、見えないんだって」
 膝の裏で椅子を押し、立ち上がって、悪戯っぽく目尻を下げる。
 小首を傾げながら告げれば、先ほどのやり取りを思い出したのか、アスクレピオスは渋々といった態度で頷いた。
 至極嫌そうに顔を歪め、脚を組んで、どこからどう見ても偉そうだ。
 露骨に拗ねている彼を眺めるだけで、自然と頬が緩んだ。ふふ、と肩を揺らして笑って、立香は約束通り、アスクレピオスの長いもみあげに手を伸ばした。
 黒のコート姿の時は編んでいたり、結っていたりして無理だが、今の姿なら毛先まで楽に櫛を通せる。
 先端に向かうに連れてスカイブルーに染まる髪の右側を掬えば、長くしなやかな銀糸がさらさらと零れていった。
 しっかり捕まえておかないと、逃げてしまう。慌てて零れた分を拾うべく、立香は僅かに身を乗り出した。
 床を擦った爪先が、アスクレピオスの座る椅子の脚を掠めた。
 急に目の前が暗くなったのに驚いたのだろう、ふて腐れていた男がもれなく視線を上げた。
「うわ、あ」
 目が合って、思わず声が出た。
 思った以上に近かった。こんなに接近するつもりはなかったのに、髪に触れる距離というものを、存外甘く考えていた。
「どうした」
 甲高い悲鳴を上げた立香を怪訝に見詰め、アスクレピオスが首を傾げた。彼自身は意識していないらしく、早くしろと言わんばかりだった。
 その認識の差が、益々立香の顔を赤くさせた。
「いえ、えっと……あぁあ、アスクレピオスの髪の毛って、綺麗、だよね」
「誰があの羊そっくりだって?」
 言葉に窮し、目を泳がせ、必死に間を繋ごうと繰り出した話題が、思いもよらず地雷だった。
「そんなこと、ひと言も言ってないじゃないか!」
 急に激昂した彼に詰め寄られ、誇大妄想だと反論するが、通じない。
 勢い立ち上がった彼から逃げようと後ろに下がるが、左手が彼の髪を掴んだままだった。咄嗟に力が入った所為で強く握り締めていて、引っ張られたアスクレピオスが痛みに顔を歪めるのを見て、ハッとなった。
 急ぎ指を解こうとするのに、こういう時に限って身体が巧く動かない。
「ちょ、待って……いやあ、こわいいぃ」
「撤回しろ、マスター!」
 重ねて引っ張ってしまい、益々機嫌を損ねたアスクレピオスに詰め寄られた。
 食堂の片隅で言い合うふたりに、仲裁を申し出る親切なサーヴァントはいない。ここでの喧嘩は日常茶飯事なので、下手に間に入ろうものなら、要らぬ面倒を押しつけられると分かっているのだ。
 故に周囲から放置された結果。
 狭い場所でもみくちゃになった所為で、行き場を失った足が椅子を蹴った。傾いて倒れたその椅子にうっかり乗り上げて、バランスを崩して、諸共に床に沈む羽目になった。
「くそっ」
 どんがらがっしゃーん、と盛大な音を轟かせた時だけ、食堂は静かになった。
 立香を押し倒す形になったアスクレピオスは即座に身を起こし、悪態を吐いて、強かに打ち付けた前歯を唇越しに慰めた。
 その彼に跨がられ、床に転がった立香も、また。
 じんじんする歯茎と、咬まれた唇の痛みに、声もなく身悶えた。

2020/09/06 脱稿
谷深み思ひ入りにし道なれど 憂き身はそれも隠れざりけり
風葉和歌集 1405

枝しげみ 露だに漏らぬ 木隠れに

 明け方、あれだけ五月蠅かった蝉の声が、今はまるで聞こえない。
 天頂に輝く太陽は眩しく、燦々と照りつける陽射しは地表を容赦なく焦がした。それでも幾ばくか柔らかな雰囲気を感じるのは、ここが避暑地たるべき場所だからだろう。
 年代物のロッジはどっしりとした外観をして、多少の嵐なら持ち堪えられそうな重厚さだった。家具や調度品はどれも古めかしかったけれど、いずれも立香には馴染みが薄いものばかりで、却って新鮮だった。
 猫が寝床に使いそうな分厚いブラウン管のテレビ、モーター音がやたら騒々しい冷蔵庫。電子レンジはダイヤル式で、一枚だけカバーが違うソファの内側を覗けば、腰掛ける部分が派手に破れていた。
 木製ベッドのスプリングは硬く、乗ればギシギシ言って不安を誘った。紫式部の部屋のテーブルライトは電球が切れていて、しかもスペアがどこを探しても見つからなかったので、最終的にはエミヤが投影することで事なきを得た。
 シャワーの温度調整は水と熱湯のコックを微調整しなければならず、非常に手間取らされた。洗濯機は起動させるとごうん、ごうんと凄まじい音を立てて、横倒しになるのでは、と危惧するくらいに激しく揺れ動いた。しかも洗濯槽と脱水槽が別々で、ひとつの作業が終わる度に、中身を入れ替えなければならなかった。
 ゲームを持参してうきうきだった巴御前も、ケーブルの接続に手間取っていた。差し込み口がどこにもない、とエミヤに泣きついていたので、こちらも投影によって対処したのだろう。
 カルデアのキッチンに棲み着いているのでは、と言いたくなるくらい、台所にしかいないサーヴァントだったので、意外だ。なんでも器用にこなすと聞いてはいたけれど、ここまで多方面に通じているとは思っていなかった。
 そして料理の方も、相変わらず腕が良い。
「ぷは~、生き返る~」
 まだまだ暑い外から帰って、手を洗っていたら、エミヤに声を掛けられた。
 うがいも澄ませてキッチンを覗けば、渡されたのは特製ジンジャーエールだった。
 コップの表面にしゅわしゅわと泡が湧いて、中に入った氷がカラカラと音を立てるのがとても涼やかだ。鼻を近付ければ微かに生姜の匂いがして、ストローで掻き混ぜてからひとくち飲めば、爽やかな味わいが口の中いっぱいに広がった。
 特有の苦みはあまり感じず、蜂蜜が使われているのかほんのり甘い。炭酸が喉の奥で弾ける衝撃が心地よく、ストローがなければ煽って一気に飲み干していた。
「汗はちゃんと拭くんだぞ」
「は~い」
 水面に飾りとして添えられていた色鮮やかな花は、生で食べられるものらしい。
 母親のような事を言われて生返事で応じ、立香は首筋を伝った汗を指で拭った。
 発生した夏の特異点は、虞美人の活躍により、無事に解決した――もとはといえば、彼女が全ての元凶でもあったわけだが。
 あとはこの空間が自然に消滅するまで、残り少ない余暇を楽しむだけだ。
 とはいっても土地に根付いた呪いの類は全て祓い切れておらず、あらゆる脅威が去ったわけではない。実際、まだあちこちでトラブルが発生しており、先日もエミヤが湖で大物を釣り上げたとかで、夕食の席でも非常に楽しそうだった。
 また夏の陽気に浮かれて怪我をしたサーヴァントのために設けていた診療所でも、トラブルは起きていた。もっともそちらは、敵性反応に襲撃を受けたという類ではなく、医療班として配置したスタッフが、職場放棄したのが原因なわけだが。
 連日連夜の騒動を軽く振り返りつつ、残り少なくなったジンジャーエールをちびちび堪能していたら、誰か帰って来たらしい。
「イアソン様の泳ぎ、素晴らしかったですわ。あの天にも届きそうな波飛沫、一生忘れられません」
「ああ、凄かったな。そしてそのまま、鮫に食われてしまえばよかったのに」
「冗談じゃない。だいたいなんで、湖に鮫がいるんだ。おかしいだろう?」
 楽しそうな少女の笑い声に続き、冷静且つ幾ばくかの嘲笑と侮蔑を含んだ女性の声、そして悲壮感と疲労感をたっぷり感じさせる男の声。
 三者三様の感情を伴って現れたのは、メディア・リリィにアタランテ、そしてイアソンだった。
 一本だけ脚が短くてぐらぐらする椅子の上で振り返った立香に、彼女達は軽く頭を下げて挨拶してくれた。最後尾、両腕をだらりと垂らしてぐったりしていたイアソンは、エミヤの怪訝な顔を見るや否や、急に元気を取り戻した。
「俺にも冷たい飲み物をひとつだ!」
「ここは喫茶店ではないんだが……」
 右の人差し指を突きつけられた無銘の英霊は、若干迷惑そうだったが、注文を拒みはしない。呆れた調子で肩を竦めて、すぐに冷蔵庫目指して歩いていった。
 調子が良く、人を使うのが案外巧い古代ギリシャの冒険者は、颯爽と立香の横に近付き、空いていた椅子を引いた。アタランテは部屋に戻ってしまったが、メディア・リリィは残り、愛しい男の横を確保すべく、斜向かいにあった椅子を引っ張った。
「しっ、しっ。くっつくな。暑苦しい」
「大丈夫です。イアソン様は今、とーっても冷たいですから」
「そういう問題じゃない!」
 密着するとそれだけ暑くなるが、メディア・リリィはへこたれない。拒まれてもぐいぐい行って、意中の男にぴったり寄り添った。
「おやおや、仲が宜しいことで」
 傍目から見れば仲睦まじいカップルだけれど、彼らの関係もまた、ひと言では説明出来ないものだ。
 エミヤにからかわれたイアソンは終始仏頂面だったが、愛らしい少女姿のメディアは、至ってご機嫌だ。渡された甘い乳酸菌飲料の礼を言って、ごくごくと半分ほどを一気に飲み干す。湖で水遊びに興じていたのだろう、ふたりとも水着に一枚羽織った格好だった。
 屋内に入る前にある程度水気は拭いてきたらしいが、イアソンの金髪は湿り、ボリュームを欠いていた。先ほどの口ぶりからして、彼は例の親子鮫に追い回されたらしかった。
「怪我は――メディア・リリィがいるなら、心配ないかな」
「はい。もちろんです」
 前線には決して立とうとしない男が、勇敢に鮫に立ち向かっていくとは思わない。
 具体的な説明は一切なかったけれど、様子はある程度想像がついた。その場に居合わせていたら、さぞや面白い、もといハラハラする展開が拝めたのだろうに、残念だ。
 悲惨な経験を思い出しているのか、イアソンは折角のジンジャーエールに一切口を付けていない。にこにこしているメディア・リリィの腕を振り解きもせず、沈痛な面持ちで項垂れていた。
「アスクレピオスの奴がいないのが、悪いんだ。なんだって俺が、こいつに貸しをつくらにゃならんのだ。くそう。全部あいつのせいだ」
 俯いての独り言は聞き取り辛かったけれど、全く聞こえなかったわけではない。
 些か無視出来ない名称が耳に飛び込んで来て、立香は目を丸くした。
「アスクレピオス、いないの?」
 ほぼ空に近いコップをテーブルに戻して、右横を覗き込む。姿勢を低くしたマスターに瞳だけを向けて、イアソンは面倒臭そうに頷いた。
 アスクレピオスは彼らと共に船で旅をしたこともある英霊で、現代では医術の祖として崇められている半神だ。カルデアに召喚された後はメディカルルームを我が物顔で取り仕切り、日々愚患者の治療や、蘇生薬の研究に心血を注いでいた。
 素直な患者相手には親切で、丁寧なのだけれど、そうでない相手には一切の容赦がない。そして自身が死ぬ原因となった蘇生薬の再現も、未だ諦めていなかった。
 その男が特異点に跋扈していた動く屍体、ゾンビの存在を知って、目を輝かせないはずなどない。
 命を失っても動く存在は、死の克服という彼の悲願に、なんらかの助言を与えるものと期待したのだろう。
 だが実際のところ、特異点に現れたゾンビは、そうあるべくして生み出されたものだった。要は『最初から死んでいた』からこその存在であって、死の克服への足がかりになになる部分は少なかった。
 それでも僅かながら可能性を抱き、新たな展望を求め、これを手懐けようとした彼の熱意には頭が下がる。ただ一点のみに固執し、そうすることが人類全体の発展に繋がると信じている辺り、どこぞのバーサーカーにも劣らなかった。
 サンソンから話を聞かされた時は頭が痛くなったが、彼の執着が最終的にどこに至るのか、立香は知っている。
 テーブルに落ちた水滴を指で潰して、人類最後のマスターは立ち上がった。
「放っておけ。どうせ、また怪しい実験でもしてるんだろ」
「それ、放っておいたらダメでしょ」
「平気ですわ、マスター。それに、あの方が怪しい実験をしていない方が、むしろ心配では?」
 ゾンビの飼育が禁じられた医務室に、アスクレピオスはいなかった。
 またもや職場放棄した彼がどこで、何をしているか。ゾンビについてはパラケルススに対処してもらったけれど、一度芽吹いた不安を払拭するのは難しかった。
 引き留めるべく言葉を発したふたりに苦笑を返して、立香はエミヤに軽く手を振った。
「帽子を忘れないように」
「は~い」
 やはり母親のような事を言ったサーヴァントに返事して、色褪せた床を踏みしめる。大股でキッチンを出て、一瞬だけ振り返れば、背凭れに肘を預けたイアソンが、口角を歪めて笑っていた。
 嫌味で、なにか含みのある表情に、立香は反射的に顔を赤くした。
「別に、いいじゃん。マスターなんだから、オレ。サーヴァントがなにか変なことしてないか、ちゃんと把握してないと、後で新所長に怒られるのはオレなんだし」
 慌てて前に向き直り、火照った頬をぺちりと叩いた。早口でひとり捲し立てて、最後に咳払いをひとつして、心を落ち着かせた。
 特になにか言われたわけではないのに、なにを慌てているのだろう。
 バクバク言う心臓を宥め、呼吸を整えて、立香はほんのり苦い唇を舐めた。
 深呼吸を三度、四度と積み重ね、釘付けになっていた足を改めて動かした。小窓付きのドアを開け、外に出れば、屋内では感じなかった湿度に圧倒された。
 むわっとした空気が足元から立ちこめて、全身を包み込んだ。
「あ、帽子。……いっか」
 エミヤに言われたのに、陽射しから頭部を守ってくれるアイテムを忘れた。しかし今さら戻って、ロビーに面して開けているキッチン前を横切るのも、恥ずかしかった。
 キィキィ揺れているドアを窺って、立香は肩を落として溜め息を零した。帽子を諦め、極力日陰を選んでしばらく進めば、湖畔で遊ぶサーヴァントの歓声が、姿は見えずとも聞こえて来た。
 障壁となるものが少ないから、声はよく響く。特に少女や、女性らの甲高い声は、この距離でも割と聞き分けられた。
 皆、思い思いに夏を楽しんでいた。
 立香自身、思わぬ展開に四苦八苦させられもしたが、命を張った分、有意義な時間を過ごせた。
「でも、オレが女になってたっていうの。なんか、変な感じだな」
 マシュたちから聞かされた話では、彼女らと行動を共にしていた偽マスターは、女性だったらしい。陰陽の関係でそうなったと伝えられたが、そう言われてもいまいち実感が湧かなかった。
 直接対面したわけではないので、なんとも表現がし辛い。けれどもし、叶うなら、顔くらい見ておきたかった。
「……あ、いや。今ちょっと、グサッときた、かも」
 脳内で思い描いた、顔のない少女。その横に何故か、これから探しに行こうとしている存在まで現れて、彼は握り拳を胸に押し当てた。
 自分でやっておきながら、傷ついた。
 慌てて別のことを考えようと首を振って、立香は奥歯を噛み、天を仰いだ。
 憎らしいくらい目映い太陽を掌で遮って、それでも防ぎ切れない光に目を眇めた。窄めた口で息を吐き、吸って、不意にくらりと来た頭を片手で抱え込んだ。
「っと。大丈夫、大丈夫」
 よろけたが、なんとか持ち堪えた。靴底で雑草を踏み、砂利を蹴る。内腿に力を込め、姿勢を安定させて、情報を得るべく診療所が設けられているテントへ向かった。
 ひと声掛けてから入った内部には簡素なベッドが複数台並べられて、包帯や消毒液を入れた棚の前に、診察用の椅子が並べられていた。
 ベッドのうち三つが埋まり、ふたつが空。点滴を受けているのが一名、氷枕をして横になっているのが二名、という具合だった。
「おや、マスター。どこか痛めましたか?」
「ううん、そういうんじゃないけど」
 健康な存在が来る場所ではないので、サンソンの問いかけは当然のものだ。ごく自然と体調を聞かれて首を横に振り、立香は改めてテント内を見回した。
 ナイチンゲールは空のベッドを消毒し、シーツを整えていた。手慣れたもので、動きに一切迷いがない。場所が気になるのか、ベッドごと持ち上げて移動させるのも、お手の物だった。
 忙しくしている看護師と、医者兼処刑人。
 立っているのはこのふたり以外は、立香だけだった。
「アスクレピオスは?」
「あの方でしたら、昼前にふらっと」
「行き先は?」
「さあ、そこまでは。心配ですか?」
「えっ。えー……まあ、うん。また、なにかやらかしてないかな、って」
「ふふ」
 イアソンから聞いて知っていたけれど、自分の目で確かめるまでは、僅かに期待していた。
 たまたま席を外していただけ、という希望的観測は外れて、感情が顔に出たらしい。目を泳がせながらの返答に、サンソンは声を殺して笑った。
 暑くないのか、夏でも分厚いコートを脱がずにいるアサシンは楽しげに目を細め、肩を揺らした。睨み返しても平然と受け流されて、立香はぶすっと、赤く染まった頬を膨らませた。
「なにさ」
「いいえ。とてもお可愛らしいと」
「オレ、男なんですけど」
「存じています、もちろん」
 文句を言うが、まるで歯応えがない。
 呵々と笑うでもなく、胸に手を添えて慇懃に頭を下げられて、完全に毒気が抜けてしまった。
 ここで言い合っていても、時間の無駄だ。歯軋りして悔しさを打ち消して、立香は左手で顔を半分覆い隠した。
 苛々して、もやもやして、それでいて照れ臭い。様々な思いが混在する感情に蓋をして、深く長い溜め息で鍵を閉めた。
「アスクレピオスなら、土壌に含まれる呪術的要因の毒素を調べる、と言っていました。この特異点のゾンビは、そうあるべくして現れた存在でしたが、あれらの行動を制御し、誘導する素因が土地の魔力に備わっているのではないか、という話で」
 魂を失って尚動く肉体と、魂がなくても動き回る肉体は、似ているようで意味がまるで異なる。
 結局この不衛生極まりない屍体は、医神が目指す領域に程遠い存在だった。けれど飲食を必要としないゾンビが、どこからその活動エネルギーを確保し、また思考力を備えないくせに人を選別して襲う原因について、好奇心が擽られたらしい。
 ひとつの仮説が頓挫しても、すぐに次に取りかかる。その不屈の精神は、見習うべきだろう。
「……で、サンソンはオレに何が言いたいわけ?」
 些か早口の説明に、立香は眉を顰めた。上目遣いに睨まれた英霊は、満面の笑みを浮かべて、返答を拒んで背を向けた。
「さて、次の患者への準備に取りかかりましょうか」
 わざとらしく話題を逸らし、振り返らなかった。マスターを無視するとは良い度胸だと言わざるを得ないが、彼の意図は簡単に読み解けた。
 土壌の調査だけなら、そう遠くまでは行っていまい。
 さりげなくもないヒントを与えられて、立香は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 イアソンといい、サンソンといい、どうして皆、こうなのだろう。
 既に広く知れ渡っているという現実を突きつけられて、じっとしていられなかった。
「お礼は言わないから!」
 捨て台詞を吐き、踵を返した。見送られることもなくテントを出て、日陰を探して左右を見回し、当てずっぽうで右を選んだ。
 具体的な場所は、教えてもらえなかった。もとい、サンソンも知らないのだろう。
 あとは地道に、歩いて探すしかない。広大な敷地を前にして、再び目眩がしたが、堪えて足を繰り出した。
 山を削って作られた道を行けば、肌に纏わり付く湿気が一段と増えた気がした。ロッジでは聞こえなかった蝉の声が微かに響き、風がないのに樹木が揺れて、ざわざわと空気が波打った。
 木々が陽の光を遮り、昼間だというのに辺りは暗い。手入れされなくなって久しい山道は大きな石が多数転がって、隙間から雑草が伸びていた。
 苔生した岩肌は滑りやすく、足運びを間違うとバランスを取るのさえ難しい。転ばないよう慎重に進んで行けば、清々しい緑が胸を洗ってくれるようだった。
 土地に根付いた呪いの類はまだ残っているが、聖杯が回収されたことにより、少しずつ薄まっているようだ。頭上を埋める緑も心なしか鮮やかさを増して、立香を受け入れてくれている気がした。
「……すー、……はー」
 両手を広げ、深呼吸を二度。未だ姿が見えない医神を求め、目を凝らしては、落胆して。
 同じ事を、かれこれ何十回、繰り返したことだろう。
「やっぱ、帰ろうかな」
 結構な距離を歩き回ったが、アスクレピオスが通った痕跡すら見つからない。それどころか、散歩するサーヴァントも一騎として見かけなかった。
 誰ともすれ違わない。
 誰とも会えない。
 一抹の寂しさは、心に隙間風を呼び込んだ。虚しさが広がって、切なさが足取りを重くさせた。
 ここまで探しても見つからないのだから、どうやっても逢えそうにない。
 足は棒のようになり、はっきり見えないけれど、陽は西に傾きつつある。そろそろ決断しないと、日暮れまでにロッジに帰り着けない。
 皆に無用な心配はかけたくなかった。マスターが行方不明の事態になろうものなら、特異点の消滅を待たず、ここは強制的に閉鎖されてしまうかもしれない。
 せっかくの夏のバカンスを楽しんでいる仲間達に対し、その判断はあまりに非情だ。
「よし。戻ろう」
 結論を出すのは、早かった。
 自分自身の感情と、カルデア全体の利益とを天秤にかければ、そうなるのは自明だった。
 そもそも、両者を比較すること自体が間違っている。立香にその権限はない。彼には汎人類史最後のマスターとして、漂白された世界を取り返す義務が課せられていた。
 緩く握った拳を振って、身体を反転させた。一本道を進んできたので、通って来たルートを辿れば、難なくロッジに戻れるはずだ。
 夕食はなんだろう。そろそろカレーに飽きてきたので、違うものが食べたかった。
 エミヤが釣った魚で、なにか作ってくれないだろうか。出来るだけ楽しいことを想像し、期待に胸を膨らませて、立香は人の頭くらいある石を跨いだ。
「おっと」
 その際距離感を見誤り、踵が石を削った。想定していた通りに身体が動かず、踵が浮いた分だけ前につんのめり、両手をばたばた振り回すことで転倒を回避した。
 姿勢を低くして、そのまま座り込む。
「あ……あれ?」
 立てなかった。
 心なしか、声も嗄れていた。目の前がぼやけて、物の輪郭が二重にぶれて見えた。
 吐き気はしないが、胃の辺りが急にむかむかし始めた。頬に触れれば熱っぽく感じたが、それが平熱の範囲なのか、逸脱しているのかは、判断がつかなかった。
 帽子は被っていないけれど、なるべく直射日光は避けていたのに。
「帰らなきゃ、なの、に」
 膝に両手を置き、腹に力を込めるが、太腿が痙攣を起こしてまともに機能しなかった。無理に立とうとした所為で、却って目眩が酷くなり、頭の中で巨大な鐘がぐわん、ぐわんと鳴り響いた。
 目を瞑っても、気持ち悪さは抜けない。意識だけは手放すまいと歯を食い縛り、内腿を抓って耐えるものの、いつまで保つかは不明だった。
 ここで立ち往生している間にも、どんどん時間は過ぎていく。
「そうだ、通信機……は」
 最後の術として救助要請を出そうとしたが、肝心の通信機を持っていなかった。
 まさかこうなるとは思ってもいなくて、装備は貧弱だ。結果的に仲間達に多大な心配と、迷惑をかけることになって、目の前は真っ暗だった。
 絶望感に打ち拉がれて、ただでさえ残り少ない水分が涙となって消化されていく。一気に心が弱体化して、立香は音立てて鼻を啜り、唇を噛んだ。
 このまま誰にも見付けてもらえず、ひとり憐れに朽ちていくのだろうか。
 あり得ないと分かっていても、想像が止まらない。女性として現れた偽りの自分が、霞む視界の向こうで笑っているようだった。
 幻聴がして、ハッとなって顔を上げて、そこに何もないと知って項垂れる。
 抱え込んだ膝の間に顔を埋めて、小さな子供に戻って丸くなった。
「そこでなにをしている」
 比較的はっきり聞こえた低い声も、きっと幻だ。
 全ては自分が望み、思い込んだ世界の出来事。一夜にして消え去ってしまう、蜃気楼の見せる夢だ。
「なにをしているのか、と聞いているんだ。マスター、返事をしろ」
「あでっ」
 けれど繰り返された問いかけと、一歩遅れて後頭部を直撃した痛みは、どう考えても空想の産物ではない。
 脳髄を激しく揺さぶられ、ただでさえ体力が限界だった立香はその場に膝をついた。剥き出しの素肌に小石が食い込み、尖った部分が皮膚を刺す感触は、紛れもない本物だった。
 両手も地面に置いて、四つん這いを崩したような姿勢で固まった。呆然としたまま乾いた地表を見詰めて、溢れ出かけた唾液を急ぎ飲み込んだ。
 ズキズキする膝の痛みを堪えて振り返れば、視界に入ったのはカラスにも似た漆黒の衣だった。
 だらりと垂れ下がった長い袖先が、当て所なく揺れていた。傍らには機械仕掛けの蛇がいて、首らしき場所には大きな麻袋が括り付けられていた。
 どこを探しても見つからなかったのに、探すのを止めた途端、見つかった。
 古い歌にもある通りの現象に、立香は言葉も出なかった。
「え、あ……え……」
 なにか言おうとするけれど、舌が痺れて声にならない。
 呻くような単音に、カラスを模した嘴を外し、アスクレピオスは眉を顰めた。
「顔色が悪いな。見せろ」
 地面に這い蹲ったまま動かないマスターを怪しみ、医神の名をほしいままにする男が膝を折って屈んだ。小首を傾げ、手を伸ばし、問答無用で立香の顎を掴んで引っ張った。
 袖の上から唇をなぞり、頸部に指先を添えた。首の後ろにも手をやって、耳朶を軽く捏ね、納得したのか、ひとつ頷いた。
「水分を摂取したのは、いつが最後だ。帽子はどうした。……いや、言わなくて良い。黙って大人しくしていろ。足のそれは、今できたものだな」
 さっさと立香の状態に結論を出して、無理に説明は求めない。さりげなく手を添えて、立香が地面に座り直す手助けをした。膝小僧に貼り付いた砂埃をサッと払い、うっすら滲んでいる血に目を留めて、肩を竦めた。
「あの」
「黙っていろと言わなかったか」
「ひゃい」
 食い入るように見詰められて、居心地が悪い。
 喋りかけようとすれば瞬時に愚患者判定を下されて、立香は首を竦めて小さくなった。
 アスクレピオスは露骨が過ぎる溜め息をひとつ零し、機械仕掛けの蛇が地面に降ろした袋を引き寄せた。口を広げ、中を探って、取り出したものを無造作に放り投げた。
 空中で孤を描いたものを受け止め、表面を見れば、経口補水液という文字が大きく印刷されていた。
「飲め」
 採取したサンプルが詰め込まれているのだとばかり思っていたが、違った。唖然としている立香に偉そうに言って、黒衣の医者は短時間で痺れを切らし、人の手からボトルを奪い取った。
 飲めと言ったのに、盗られた。どういう理屈かと困惑していたら、アスクレピオスは荒っぽくボトルの首を捻り、蓋を外したものを、改めて立香に差し出した。
「あ、……ありがとう」
 開けてくれるのなら、そう言ってからやればいいのに。
 肝心なところでひとつ、ふたつ足りていない男に堪らず噴き出して、立香は少々温い液体を喉に流し込んだ。
 味はあまりしない。飲み慣れたジュース類に比べると、甘みはずっと控えめだった。
「美味しい」
「……そうか」
 久しぶりの水分摂取に、身体全体が喜んでいた。
 率直な感想を述べれば、聞いていたアスクレピオスは難しい顔をした。口をへの字に曲げて眉間に浅く皺を刻み、立香の右膝に出来た真新しい傷の脇を撫でた。
 不機嫌な表情から、彼の心の内は読み解けない。なにを考えているか想像を巡らせるけれど、なにひとつ正解に辿り着けずにいたら。
「愚患者が」
 短く吐き捨てた男が、不意に頭を低くした。
「んんっ」
 アスクレピオスは立香に向かって前のめりになり、膝の手前で薄い唇を開いた。中から緋に濡れた舌が零れ落ちるのを見て、立香はペットボトルを咥えたまま、軽く噎せた。
 慌てて利き足を引っ込めようとするけれど、間に合わない。
 チリッとした痛みの後に、むず痒くてならない熱が、擦り傷を中心に広がった。
「んぶっ、げほ。けほっ」
 何をされたか、はっきり見えたわけではない。けれど位置的に、舐められたと思って間違いないだろう。
 消毒のつもりなのか。人間の唾液には大量の細菌がいて、俗信は不衛生で非現実的だなどと、前に言っていなかっただろうか。
 繰り返し噎せて、気道に入った補水液を外へ追い出した。濡れた口元を手の甲で拭いて、息を整え、立香は残り少なくなったボトルの中身を波立たせた。
「これで立てるな」
「たっ……立てる、わけ。ないだろ!」
 姿勢を戻した男にしれっと言われて、反射的に怒鳴り返す。
 顔は、鏡がないので見えないけれど、確実に真っ赤だ。飲み物をもらったお蔭で少しは回復出来たのに、戻って来た体力の全てを、先ほどの罵声で浪費してしまった。
 ぜいぜい言って、くらっと来て、気が遠くなった。
 仰向けに倒れそうになって、力を失った手を、すんでのところでアスクレピオスが掴んだ。
 力任せに引っ張られた。抗う気力すらなくて、立香は促されるまま彼の肩に額を預け、凭れ掛かった。
 ホッとしたのと、嬉しいのと、恥ずかしいのとで、頭が追い付かない。
「ばか」
 どうにか絞り出したひと言は、果たして彼に届いただろうか。
 確証はない。追求する気にもなれない。
 アスクレピオスは黙って立香の背に腕を回し、背骨をなぞるように上から下へと手を動かした。反対の手で後頭部を包み、黒髪をくしゃりと掻いて、赤子をあやす仕草で弱り切った体躯を撫でた。
「お前が、無事で、よかった」
 聞こえた囁きは、蜃気楼が見せた幻ではないと信じたい。
 夢うつつの境界線で微笑んで、立香は恋しい男にしがみついた。
 

枝しげみ露だに漏らぬ木隠れに 人まつ風のはやく吹くかな
風葉和歌集 207

2020/08/29 脱稿