存記2

 電気が止まり、水道が止まり、都市機能は完全に沈黙していた。
 無事な建物はないに等しく、そこかしこから饐えた臭いが漂った。人間は消えても、それらが残した排泄物までは消滅しなかったらしい。下水から漏れ出る悪臭に眉を顰め、悠仁は捲れ上がったアスファルトを飛び越えた。
「よっ」
 軽い動作で着地して、勢いを殺すことなく前に駆けた。かつては大勢が行き交っていたはずの道路を横切り、明滅を忘れた信号の脇を抜けて、急角度で左に舵を取った。
 無機質なコンクリートの建造物が夥しい数で乱立しているけれど、隙間は至るところに存在する。
「どど、ど……どぶ、どぶ、たた、た、たたた――」
 音は発せども言葉を紡ぐ知能はない呪霊が、そんな空間からぬらりと顔を出し、全力で走る悠仁の前を塞いだ。
 異様に大きな頭部、複数ある口、短い手足は全部で八本。
 のっぺらぼうに子供が落書きしたような異形を目の当たりにしても、彼の速度はまるで緩まなかった。
「邪魔だ」
 短く吐き捨て、拳に力を込める。
 意味不明な音を発しながら近付いて来る呪霊を一撃で霧散させたが、動作の余波で僅かにスピードが落ちた。
「チッ」
 この程度の相手にと、まずは不甲斐ない己に怒りを抱いた。そうして心を乱しかねない感情は瞬時に消し去って、折角だからと、踏み出した足を路面へと強く叩き付けた。
 歩道に敷き詰められていたレンガに亀裂が入り、周辺が微震に襲われた。瞬間、軸足にした踵がガクン、と沈んで、反対側の爪先が浮き上がった。
 太腿の筋肉が膨張し、膝を支える健が負荷を訴えて鈍い痛みを発した。その抗議をあっさりと無視し、悠仁は前に進もうとしていた力を強引に堰き止め、乱暴に身体を反転させた。
 行き場を失ったエネルギーと、新しく生み出したエネルギーとを混ぜ合わせ、鬼ごっこの真っ最中だった一体に狙いを定めた。
「うっとうしい、ん、だ――よ!」
 人の居なくなった東京都心部は、今や呪霊の巣窟だ。そしてそれらは、一応は『人間』に分類される悠仁を見付けると、楽しい玩具を見付けたとばかりに群がってきた。
 廃墟となった街の外がどうなっているか、悠仁は知らない。知る術が無い。
 思い切り蹴り飛ばした呪霊は呆気なく弾け飛び、後方から迫っていたもう一体諸共、路肩に停まっていた車に激突した。
 凄まじい破裂音が辺りにこだまし、遠く、高く、長く響いて、やがて消えた。
「……ふう」
 周辺にあった忌々しい輩の気配は、これでひと通り片付いただろうか。
 自身を餌に引き寄せた呪霊を祓い、次を求めて移動して、また祓う。
 幾度となく繰り返した行いに終わりは見えず、どれだけ消し去ったところで呪霊は次から次に湧いて、留まることを知らない。
 それでも減らさなければ、増える一方だ。
 警戒は解かず、慎重に左右を確認して、頭を掻く。
「俺の出番はなしか、悠仁」
 その後頭部目掛けて飛んで来たひと言に、彼は先ほどまでとは異なる表情を浮かべた。
「助けてくれって、頼んだ覚えはないんだけど」
 意思疎通の叶わない呪霊と向き合っていた時は、ただ鋭く、それでいて底知れぬ悲しみと寂しさを抱えた眼差しだった。
 それが若干緩み、呪術師としてではない素の顔が、ほんの少し零れ落ちた。
 飛び散った破片を踏み、顔の中心部に入れ墨を入れた男が近付いて来る。その手には矢張り異形の、すでに朽ち始めている呪霊の骸が握られていた。
 ずりずりと引き摺り、途中で嫌になったのか、雑巾でも投げ捨てるかのように路傍へと放り出す。
 途端に砂が崩れるように瓦解した呪霊を一瞥して、悠仁は左唇の脇を擦った。
 悲愴的な決意が薄まり、露骨な苛立ちが表面に表れた。ゆったりと、それでいながら着実に距離を詰めてくる男に向かって空を蹴り、威嚇しながらじりじりと後退を図った。
「兄が弟を助けるのは、当然のことだろう」
「だから、やめろって。俺に兄貴はいないし、お前は敵だっただろ」
「確かに一時、敵対した時もあったが、あれは間違いだった。今なら分かる。お前は俺の弟だ。そして兄弟とは、助け合うものだ」
「あー、もう!」
 このやり取りを、もう何十回と繰り返したことだろう。
 まるで会話が噛み合わない。どれだけ説明しても彼は悠仁を弟と呼び、己は兄だと称して、逃げれば追いかけてきた。
 その発言は常軌を逸しており、度し難い。理屈は通用せず、道理は引っ込んだ。
 悠仁は彼に一度、殺されかかっている。悔しいかな、死の寸前まで追い詰められた。お蔭で意識を失い、宿儺に肉体の主導権を奪われた。
 赤の他人を指して頑なに弟だと主張するならば、あの時点で攻撃の手を緩めて欲しかった。そうすれば五条悟の封印こそ回避出来ずとも、今と違った未来があったかもしれないのに。
 キラキラした世界を空想しようとして、なにも浮かんでこなかった。
 真っ黒に塗り潰された、この曇天の空に等しい現実に、悠仁の顔がくしゃりと歪んだ。
「何を怒っている、悠仁」
 不意に涙が溢れそうになって、堪えたら余計に変な顔になった。上唇を噛み、鼻の孔を膨らませて耐えていたら、もう一歩前に出た脹相が右手を伸ばした。
「触んな。おまえみたいな奴と、喋りたくもない」
「お前、ではない。おにいちゃんだ」
「気色悪いこと言わないでくんない?」
 肩に触れようとした指先を払い除け、まるでへこたれずに再度挑んできた男から飛び退いた。背中にぞぞぞ、と湧き起こった寒気から自分自身を抱きしめて、悠仁は小股で距離を稼いだ。
 たとえ万が一、億が一、兄という存在が実在したとしても。
 思春期真っ只中のこの年齢で、相手を「ちゃん」付けで呼ぶのは恥ずかしすぎる。
 鳥肌が立ち、奥歯がカチカチ音を立てた。思い切り鼻を啜ればドブの臭いが嗅覚に突き刺さり、それに加えて頭が痛くなる濁った臭いが漂った。
 先ほど呪霊と衝突し、ひっくり返った車の辺りからだ。
 ガソリンが漏れているのかもしれない。火の気はないので引火して爆発、といったことは考え難いが、下手を打って不味い状況を作りたくなかった。
「ついてくんなよ」
「どこへ行く、悠仁」
「だから、ついてくんなってば」
 同じ場所に長居し続けるのも、愚策だ。近辺は一掃したとはいえ、呪霊がどこから発生し、寄ってくるか分かったものではなかった。
 だからと踵を返した悠仁に驚き、脹相が慌てて声を高くする。すかさず腰を捻って怒鳴るが、言葉は通じているはずなのに、思いは伝わらなかった。
 来るなと言っているのに、案の定追いかけてきた。速度を上げれば、向こうも駆け足になる。無人の建物の、割れたガラスから中に入って別の窓から外に出るが、レーダーでも内蔵しているのか、振り切ろうとしても出来なかった。
 これも昨日、一昨日と繰り返したことだ。
 学習しないのは自分か、向こうか。
 尽きる事を知らない呪霊の相手で肉体的にも、精神的にも疲労は積み重なっている。これ以上消耗するのは避けたいが、意味不明な発言しかしない男と長く一緒に居たくなかった。
「マジで、なんなの。あいつ」
 渋谷駅構内で遭遇した際での、脹相の殺気は本物だった。恐ろしいまでの執念を感じて、だからこそ悠仁は全力でぶつかって、負けた。
 祓えるものなら、祓ってしまった方が楽だ。しかし前に本気で戦って、勝てなかった相手だ。次こそ勝てるという保障も、根拠も、ありはしなかった。
 そもそも今の悠仁がやるべきことは、呪霊の数を減らすこと。その彼の意図を汲み取ってか、脹相は協力を惜しまなかった。
 実力は紛れもなく本物。術式の汎用性は高く、悠仁の直線的な動きに比べればずっと柔軟で、応用が利いた。
 使える駒なのだから、存分に利用すれば良い。頭では分かっている。しかし精神面で追い付かない。突然過ぎる脹相の方針転換が受けいれられないし、自身を指して『おにいちゃん』などと、照れもせずに言い放てる心理が理解不能だった。
 怖くはない。
 単純に気持ちが悪い。
 反面、この広々とした閉鎖空間に在って、あの男との会話に少なからず救われていた。孤独感が薄らぎ、罪悪感から来る心的疲労は薄まる。事実として、非常に認めたくないけれど。
「悠仁は足が速いな」
「……なんで此処に居るって分かった」
「俺はおにいちゃんだからな。そら」
 古びた雑居ビルの裏手、錆び付いた非常階段の四段目に腰掛けて息を潜めていたのに、易々と見付けられた。
 本当にGPSでも仕込まれているかと疑いたくなったが、現在身に着けている服は、無人となった店舗で適当に見繕ったものだ。
 汗と泥と、良く分からない臭いが染みついたシャツを引っ張り、伸ばされた手が握っているものに目を向ける。
 途中でコンビニエンスストアにでも寄って来たのか、渡されたのは透明なボトル入りの水だった。
 電気が来なくなり、まず冷蔵品、冷凍品がダメになった。
 最初のうちはパンや菓子類で飢えを凌いでいたが、この頃は缶詰が中心になりつつあった。飲み物もペットボトル飲料が主で、暖かい食事とはしばらく縁がなかった。
「あんがと」
 ずっと走り回っていたのに、喉の渇きすら忘れていた。
 ボトルの蓋に開封した形跡はなく、異物が混入された様子もない。断る気力はとうに潰えていて、悠仁は小声で礼を言った。
 受け取った水は、気のせいか、ほんのりとだけれど暖かかった。
「なにかした?」
「それから、これも。お前が食えそうなものを、適当に見繕ってきた。周りは俺が見ておくから、ゆっくり、しっかり噛んで食べろ」
 不審に思って問いかけるが、答えは貰えない。代わりにマイペースに喋り続けて、兄貴風を吹かせた男は懐から、袖から、色々なものを取り出した。
 袋に入れるという考えはないらしい。手品ではないが、思いがけないところから出て来た品々に呆気にとられ、悠仁は二度、三度と瞬きを繰り返した。
「……くはっ」
 不意打ち過ぎて、気がつけば声が漏れていた。
「なんだよ、それ。どこに入れ、っ、……どこに入れてんだよ。ははっ、だめだ。頭悪すぎんだろ」
 殊更面白いわけでもなかったのに、緊張で張り詰めていた糸がぷつりと切れた。弱っていた場所が予想し得ない場所から擽られて、悠仁は喉の奥を引き攣らせた。
 息を吐こうとしたのに吸ってしまい、横隔膜がピクピク震えた。腹筋が変な風に攣って鈍い痛みを発し、ひーひー言いながら飲み込んだ空気は不思議と甘く感じられた。
 脹相はなぜ悠仁が笑ったのか分からないようで、両手にガムやら、チョコレートやらを沢山抱えたまま、不思議そうに首を捻った。
 しかし惚けていたのも束の間、彼はふっ、と口元を緩めると、静かに前に出て、膝を曲げた。
 身を屈め、ボトルを握り締めている悠仁の膝元に、運んで来たものをひとつずつ転がした。無人となり、代金を受け取る者もない店から彼が掠め取ってきた商品の中には、クッキータイプの栄養補助食品も含まれていた。
 昨日だったか、一昨日だったか、悠仁がそれを、迷った末に棚から取り、封を切って口に入れたのを覚えていたのだろう。但し出て来るのが同じ味ばかりな辺り、学習能力は微妙に足りていなかった。
「まあ、あんがと」
 助けてくれとは頼んでいないけれど、この差し入れは正直、有り難かった。
 ひとりでいたら、きっと食事を忘れた。睡眠も最低限度で済ませて、体力の限界も巧く見定められなかったに違いない。
 呪いに指摘されるのは癪だけれど、嬉しかった。
 礼を言わない方が気持ち悪いと腹を括って頭を下げれば、両手を空にした脹相はその手をすっと、空に伸ばした。
 行方を追って目を向ければ、無表情な男はやおら悠仁の頭を、ぽすん、と撫でた。
「――え?」
 頭頂部から後頭部にかけて、広げた掌を押しつけられた。不躾に、やや乱暴に。首を折られると咄嗟に警戒したが、与えられた力は思うほど強くなかった。
 タワシみたいだと誰かに言われた毛先を押し潰し、擦り、梳いて、外見にそぐわない優しい指使いが、頭皮を弄った。
「なに。え、なんなの。ちょっと。やめろって、脹相」
 予想し得なかった展開に動揺し、困惑し、振り払うのが遅れた。
「はっ」
 上半身ごと大袈裟に揺らして仰け反り、物理的に脹相の手から離れれば、指に触れるものがなくなった男は短く息を吐き、背筋を伸ばした。
 空の右手を宙に残して、瞬きもせずに悠仁をじっと見詰め、それから己の掌を返した。血腥い指先を小刻みに震わせて、今し方自分がやったことが信じられないのか、複雑怪奇な表情を口元に滲ませた。
 溢れ出る感情を言い表す言葉を持たず、どう説明し、表現すれば良いか分からずに苦悶していた。
「……なんでだよ」
 些か不器用ではあったけれど、頭を撫でられた。
 当の脹相にその認識があったかと言えば、後の反応を見れば明らかだ。だというのにこの男は、悠仁の髪を慈しむ如く梳り、撫でた。
 無自覚に出た行動なのかもしれない。或いはこの男の受肉に用いられた、既にいない『誰か』の記憶が導いたものかもしれなかった。
 家族がいたはずだ。兄弟があったかもしれない。子供がいた可能性も、ゼロではないだろう。
 本来届くはずのない何者かの手が、今、憔悴しきった悠仁の頭を優しく撫でた。
 この世で血肉を得るために、ひとりの人間の命を犠牲にした男の手が、大勢を死に追い遣った悠仁を気遣い、愛おしんでいる。
 はね除ければ良かった。
 撥ね除けられたなら、どんなに良かったか。
「悠仁。俺は今、何をしたんだ?」
 言葉が見つからないのは、悠仁も同じだ。顔がくしゃくしゃに歪むのを耐え、歯を食い縛っていたら、困惑の極みに達した脹相が助けを求めて来た。
 他者の熱を残す手を、反対の指で指し示し、首を捻る。
 本気で分かっていない素振りに唖然とさせられて、降って湧いたのは怒りだった。
「分かんないんだったら、やんなよ!」
 衝動的に怒鳴りつけ、握った拳で階段の手摺りを殴る。
 圧力に屈して僅かに曲がった鋼材と、痛みを覚えてすらいない悠仁を交互に見て、脹相は眉を顰め、頬を掻いた。
「悪かった。悠仁がそこまで嫌がるのなら、もうしない。……しないよう、気をつけよう」
 軽く頭を下げられたが、途中から声の勢いは失われた。自信なさげに目を逸らしながら誓われて、悠仁は再び振り上げた拳の遣りどころを失った。
 肩を怒らせたままふー、ふー、と荒い息を吐き、横目で様子を窺ってくる自称兄を睨み付ける。
 その眼差しをどう解釈したのか、脹相は口の端をほんの少し持ち上げた。
 そうして行き場のない利き手を泳がせている悠仁に向かい、今一度手を差し伸べた。
「やめろって」
 反射的に繰り出された力の籠もらない攻撃を躱し、彼は長く、しなやかで、骨張った大きな指を目一杯広げた。肉厚で広い掌を下に向けて、淡い色合いの毛先に深く押しつけた。
 コシの強い髪質の抵抗をねじ伏せ、根本まで入り込み、掬い上げ、また押し潰した。短いくせに複雑に絡まった先端を丁寧に解きほぐし、引っ張られた分のダメージを慰め、悪戯に擽った。広範囲に亘って撫で回し、時折指の腹でトントンとリズムを刻んで、いきりたつ悠仁を宥め、気勢を殺いだ。
 言ったところで脹相が何ひとつ聞いてくれないのは、これまでのやり取りの中で散々学んでいた。
 どうせ拒んだところで、引き下がってはくれまい。
 早い段階で諦め、悠仁は流れに任せて頭を垂れた。俯き、目を閉じて、大きな手の動きを感覚だけで追いかけた。
 五条にも、こんな風に撫でてもらったことがある。
 脹相と同じで何を考えているかさっぱり分からなかったけれど、頑張った時はちゃんと褒めてくれる先生だった。
「悠仁は、こうされるのが好きか」
「好きじゃねえよ。……嫌いでもねえけど」
「そうか。では折を見て、こうやって撫でてやるとしよう」
「いらねえって。ふざけんな」
 そんな五条がいて、伏黒がいて、釘崎がいて、二年生の先輩達がいて、七海もいる。伊地知もいるし、あまり姿を見る機会はないものの、学長もいる。
 なにかと物騒だったし、嫌な気分にさせられる機会も多かった。それでも毎日が面白くて、楽しくて、退屈とは無縁だった。
 あの日々は、とっくに消えてなくなった。
 二度と手に入らないし、欲してはいけない。その資格は、悠仁の中から失われた。
 切り捨てたはずだった。
 それなのにこの身体は、心は、ひとかたの温もりに餓えていた。
「なあ」
「どうした、弟よ」
「弟じゃねえって。あのさ、あんたの、その、身体の。……その人は」
 尻窄みに声を小さくする悠仁の、脇へ逸れた視線の行方を目で追って、脹相は肘を引いた。余韻を残す指先を食い入るように見詰め、握って、開いてを二度ほど繰り返して、嗚呼と吐息を零した。
「そうか。これは、その記憶か」
 明確な答えは告げられなかったものの、器とされた男の魂はとうに消滅し、残っていないのだろう。
 どこかぼんやりした調子で呟いた脹相が、握り拳を胸に当てた。
 顔を伏し、瞼も閉ざして、まるで祈っているかのような仕草だった。
 もっともそれは犠牲となった存在に対して、ではなかろう。この男にそんな殊勝な心構えがあるとは、到底思えなかった。
「悠仁、食べたら移動しよう。ここは風が防げない」
「命令すんな。あと、触んな」
 ならば、何か。器となった肉体に辛うじて残る、誰かを思いやる行動というものを、絞り出しているとでも言うのか。
 数秒後に顔を上げた脹相が、淡々と言葉を刻む。
 昨日までとは若干異なる気遣いに反発して、悠仁は三度伸ばされた手を、今度こそはじき返した。
 けれど四度目、五度目、その先まで防ぎ切れるかは、分からない。
 からからに乾涸らびてしまった子供の心は、餓えている。たとえ欲するままに伸ばした手が掴んだものが、決して受け入れ難い成り立ちであろうとも。
 その熱を、優しさを。一度でも知ってしまった以上は――

2021/05/09 脱稿

山ほととぎす 今ぞ鳴くなる

 何かに袖を引かれた気がして振り向いたが、その先にはなにも無い。おや、と首を傾げた古今伝授の太刀の鼻先を、ふうっと、柔く吹いた風が通り過ぎて行った。
 芳しい、爽やかな初夏の香りだ。柑橘類の仄かにつんとくる、しかし後には穏やかな心地だけが残る優しい匂いだった。
 この薫香には覚えがある。迷う事なく天頂を仰ぎ、左右を確かめた彼は、間を置かずして目を眇めた。
「ふうむ」
 喉の奥で低く唸るが、挙動不審を見咎める声は聞こえてこない。
 ゆったりとした動作で腕組みをし、その流れで顎をひと撫でした彼は、伸ばした人差し指を困った風に頬に添えた。
 白く可憐な花を咲かせる橘の木が、近くに見当たらないのだ。
「残念です」
 この辺りに咲いていた記憶もないので、気のせいかもしれない。
 だが確かに嗅いだのだ。決して錯覚ではないと己に言い聞かせて、彼は溜め息と共に腕を解いた。
 だらりと垂れた指先が、長い髪の先に触れた。戯れに馬の尾の如きそれを撫で、梳いて、長く留まっていた場所から一歩を踏み出した。
「五月待つ 花橘の 香をかげば――」
 最中にふと口ずさみ、間近で響いた鳥の囀りに再び足を止める。
 またも天頂を仰ぎ見るものの、この度もまた、件の鳥の姿は見つけ出せなかった。
 ただ今回は、幻聴などではない。繰り返される愛らしい歌声は、未だ発展途上にある鳴き方だった。
 これから徐々に巧くなって行くのだろうが、この微妙に外れた音程が、却って愛らしくもある。
「ふふ」
 思わず声に出して微笑み、古今伝授の太刀は小さく頷いた。
「もうそのような季節なのですね」
 少し前まで冬の寒さに打ち震えていたはずなのに、今日は日向に出ると汗ばむほどだ。雪に埋もれていた田畑は瑞々しい青草に覆われて、足元を窺えば小さな花々がそこかしこから顔を覗かせていた。
 春が来て、夏の気配もひたひたと感じる時期だった。
「いつのまに 五月来ぬらむ あしひきの 山ほとどぎす 今ぞ鳴くなる」
 まさにこの歌通りだと諳んじて、閉ざした瞼をゆっくり開いた。
 見えた空は青く澄み、穢れなど知らぬ顔をして太陽を戴いていた。
 歴史改編を目論む者達がいて、時間遡行軍との終わりを知らぬ戦いのただ中だというのに、この本丸は至って平穏だ。今も短刀達の元気で、賑やかな声がそこかしこから響き、誰のものかも分からない稽古の雄叫びが絶えずこだましていた。
 視線を前方斜め先に向ければ、瓦葺きの屋根越しに白い煙が棚引いているのが見える。
 夕餉の支度がとっくに始まっているのを悟り、細面の太刀は肩を竦めた。
 何をするのにも動作がゆっくりで、回りくどい言い方しか出来ない自分が手伝いを申し出ても、邪魔になるだけ。
 かといって暇を持て余し、自分ばかりがのんびり過ごすのも気が引けた。
 もっとも縁側を振り返れば、明石国行が五虎退の虎に枕にされつつ寝転がり、傍らではその五虎退が折り紙に興じていた。非番なのだから堂々と暇を楽しめば良い、と随分前に教えられはしたものの、彼らを真似るのはなかなかに難しかった。
 地蔵行平がいれば少しは時間が潰せるだろうが、肝心の相方は遠征任務で本丸を離れている。
 顔見知りの刀の姿も近くに見えず、散歩にも些か飽きてしまった。
「戻りましょうか」
 部屋に行けば、書を捲るなりなんなり、する事が見つかる。
 小さな可能性に賭けて足を向けた玄関で、彼は靴を脱ごうと身を屈めた。
 肩に掛けた羽織がずり落ちぬよう片手で支え、もう片手を足首に向けて長い指を隙間へと差し入れた。僅かに力を込め、隙間を広げて踵を引き抜こうとしたところで、宙を泳いだ眼がふとした違和感を捉えた。
 これまで幾度となく通り過ぎた場所だ、過去にも目に入っていて不思議ではない。
 それなのに今の今まで、どうしてなのか意識を向けようとすらしなかった。
「これは?」
 過去の自分自身にも首を傾げ、彼は脱げた靴をその場に落とした。反対の足も同じくして、横倒しになったものを揃えもせず、框を踏んで床に上がった。
 大勢が同時に出入り出来るよう広く取られた玄関は、入って右に行けば厨に通じ、左に行けば大広間に出た。正面を進めば居住区画に繋がる渡り廊に至り、その先には二階建ての仰々しい建物が待っていた。
 だが古今伝授の太刀が気に留めたのは、そういった複雑怪奇な本丸の構造についてではない。
 彼が慈しむように撫でたのは、重い屋根を支える頑強な柱だった。
 台所に向かう通路の角に、不自然な傷がいくつも刻まれていた。
 槍や薙刀が本体を掠めたのかと想像するが、それにしては傷がどれも真っ直ぐで、且つ横向きに、一直線に揃えられていた。
 胸元から肩の高さ辺りに密集しているが、たまに外れた位置にもある。しかも最近ついたものではなく、古くからある傷跡に思えた。
 二重、三重につけられた柱の傷は、いずれも刃物で浅く抉られていた。無事な部分とは若干色味が異なっているものの、積み重なる時間の中で柱自体がくすんだ風合いになっており、完全に溶け込んでいた。
 彼自身、この本丸に来てそろそろ一年が経つ。にもかかわらず今日まで見落としていたことが、些か衝撃だった。
「なんでしょうか、これは」
 見た目からして昨日、今日に出来たものではない。往来の多い場所なので、大きなものを通す際にぶつけて窪んだ箇所もあるが、この刀傷は明らかに作為的だった。
 いったい誰が、何の為に。
 意図が読み解けず、繰り返し柱をなぞるがなにも思い浮かんで来ない。
 あれこれひとりで悩むより、古参の刀に聞いた方が早かろう。思案に没頭しかけたのを間際で制して、古今伝授の太刀は背筋を伸ばし、辺りを見回した。
「ただいまー」
「ああ、おかえりなさい」
 万屋に出向いていたのであろう元気良い声がして、そちらに顔を向ける。
 出迎えの言葉を受けてニッと歯を見せた鯰尾藤四郎が、戦利品が入ったと思しき袋を持ち上げた。後ろには兄弟刀である骨喰藤四郎がいて、他にも何振りか、続々と引き戸を潜って玄関内に入ってきた。
 先ほどまでがらんどうだった場所が、一気に渋滞し始めた。忙しなく靴を脱ぎ、履き物を揃えもしないで通り過ぎて行く脇差に、短刀たち。
「あ、あの。すみません」
 彼らはいずれも自分達の事に夢中で、通路の片隅に寄った太刀に気を向けもしなかった。
「じゃあ、俺、いち兄に声掛けてくるな」
「僕は五虎退、呼んで来ますね」
「早く食べたい。ねえ、半分こにしよう?」
「そう言って前に全部食ったの、誰だよ」
 外での会話の続きなのだろう、口々に言い合い、呼びかけも耳に入っていない様子だ。もっとも古今伝授の方もかなりの小声で、控えめな仕草でのことだったので、粟田口の刀たちが悪いわけではない。
 意を決して手を伸ばし、力技で引き留めていれば、なんとかなかっただろう。
 機を逸した太刀は深く肩を落とし、視界に紛れ込んだ長い前髪を指に絡めた。
「ただいま、戻りました」
「おや、古今伝授の太刀じゃないか。そんなところで何を?」
 オロオロしているうちに、脇差たちは行ってしまった。己の不甲斐なさを密やかに嘆き、愁いでいたら、ぱあっと視界が晴れるような声が届き、彼は丸めていた背を伸ばした。
 バッと振り返った太刀の勢いに驚き、履き物を脱ごうとしていた歌仙兼定がよろけた。使い込まれた下駄箱に寄りかかって事なきを得た打刀は怪訝に眉を顰め、彼に半分隠れる格好になった短刀は首を傾がせた。
「どうかしましたか」
 斜めに倒れそうになった打刀をそうっと支え、押し返し、小夜左文字が柿を模した巾着を揺らした。脱いだ草履を手早く端に揃え、上がり框を爪先で踏み、何もない場所に佇む太刀に足早に近付いた。
 彼らもまた、万屋に出向いていたのだろう。丸みを帯びた巾着袋は、華奢な短刀には少々重そうだった。
「いえ、少し気になったもので」
 そういえば彼らも非番だったのだと、今頃になって気がついた。
 どうも厨にいる印象が強い打刀が、ついでとばかりに散らばっている数多の履き物を雑に揃え、屈んだ状態で振り返る。こちらが請わずとも聞き耳を立て、会話に加わろうとしている雰囲気が、今は有り難かった。
「こちらの、この柱。妙な傷が沢山、このように」
「――ああ、それか」
「歌仙」
 それで調子を取り戻し、抱いていた疑念を口にした。
 流れで例の柱に指を添えれば、即座に気取った打刀が立ち上がり、牽制するかのように短刀が声を高くした。
 日頃は穏やかで、控えめで、戦闘中でもなければ声を荒立てる事もあまりない小夜左文字が、珍しい。
 しかも彼は微妙に嫌そうな、苦々しい面持ちをしていた。
 触れられたくない記憶なのかと勘繰って、助けを求めて歌仙兼定に目を向ける。だがこちらは短刀とは打って変わって、底抜けに楽しそうな顔をしていた。
 左手を口元にやりはするが、零れる笑みを隠し切れていない。小夜左文字の反応も含めてなのか、喉を鳴らして呵々と笑って、彼は膨れ面の少年の頭を撫でた。
「時鳥 いたくな鳴きそ 汝が声を」
「……五月の玉に あひ貫くまでに……?」
 その上で軽やかに口ずさまれて、古今伝授の太刀は反射的に下の句を諳んじた。
 万葉集に詠まれた歌だ。
 当時は邪気払いのまじないとして、薬を入れた袋にしょうぶや橘をつけた緒を垂らし、部屋に飾る習慣があった――今は男児の祭となった、五月五日の日に。
 ぷいっとそっぽを向いた短刀が、苛々した調子で打刀の腕を払った。
 古くから交流があり、遠慮をしないで済む関係だからこそのやり取りに相好を崩して、歌仙兼定が打たれた場所を撫でた。
「それはね、僕たちが本丸で生活を初めてまだ日が浅かった頃、短刀達が背比べをしてつけたものだよ。……って、痛い。お小夜、別に蹴らなくてもいいだろう」
 続けて弁慶の泣き所を蹴られ、倒れこそしなかったが、打刀は盛大に悲鳴を上げた。重心を崩されて数歩よろめき、柱に肩からぶつかって止まって、ちょうど指で触れた場所を下から上へとなぞった。
 刀傷は六つ、七つ、それ以上あり、短刀達ではとても届きそうにない場所にもひとつ、残されていた。
「あれは、御手杵のだね。皆が集まっているのを見て、面白がって。でも誰も手が届かなくて、台に上ったりして、大変だったな」
「歌仙は、一回落ちましたね」
「お小夜、それは言わない約束だろう」
「知りません、そんな約束」
 不思議に思って見上げていたら、気取った歌仙兼定が答えをくれた。代わりに短刀からの信用を失って、そっぽを向かれて視線を合わせてすら貰えなくなってしまった。
 とはいっても、小夜左文字の不機嫌はあくまで振りでしかなく、表情は最初に比べると随分と和らいでいた。打刀がみっともなく慌てふためくのを眺めて、気が晴れたのだろう。
 喧嘩は大事にならずに済みそうだ。心の片隅で安堵の息を吐いて、古今伝授の太刀は目を細めた。
「なるほど。でも、傷はどれも古いですね」
「二年ほどで、誰もやらなくなってしまったからね」
「そうなんですか?」
 古今伝授の太刀はまだこの本丸に来て一年だが、歌仙兼定は最初のひと振りだ。時の政府に命じられた審神者が此処を立ち上げてからずっと、流れ行く時を見守り続けてきた刀だ。
 小夜左文字はそんな彼の傍らに在り、同じく賑やかさを増していく本丸を見詰めてきた。
 そのふた振りが、懐かしそうに柱の傷を撫でる。まるで太刀に言われるまで、存在自体を忘れていたと言わんばかりに。
 傷跡そのものはこの場所で、外に向かい、内に戻る刀たちを物言わずに眺めていたのに。
 古びて黒ずんだ傷跡は、人の身を得た刀剣男士の日々の記憶だ。不慣れなりに必死になって、時に傷つき、時に喜び、笑って、泣いて、悔やんで、歯を食い縛った時間の中に刻まれた思い出だ。
「背比べ、だからね。柱の傷は」
「ええ、それは承知していますが」
「だからね、古今伝授の太刀。そういうことなんだ」
 その慈しむべき傷跡を、綺麗さっぱり忘れ去っていた彼らが理解出来ない。
 眉を顰めて目を眇めていたら、俯いた小夜左文字の髪を撫で、歌仙兼定が肩を竦めた。
 分かってくれと、眼差しが告げていた。直接的な言葉で説明すると短刀が傷つくと、そう言いたげな表情だった。
 それでも尚、なにが『そういうこと』なのかを計りかねて、太刀は物言わぬ柱と、打刀の袖を引く短刀とを見比べた。
 似たような位置に並ぶ傷跡の更に下にあるのが、小夜左文字の背を測った痕なのは想像が付いた。
 西行法師の和歌に由来する号を持つ短刀の逸話は、悲しみに濡れている。復讐の為に使われたと伝わりながら、装束や肉体的な特徴は山賊に奪われていた時代を連想させた。
 本丸に在るどの刀よりも小柄で、痩せた体躯。
 共に在る打刀の背にすっぽり隠れてしまえるくらいに小さな、小さな刀。そんな彼を表す、一際低い位置に刻まれた傷跡は、何故かふたつあった。
 大部分が重なっているものの、後から上書きしたと分かる浅い筋が、脇に流れていた。
 先ほど歌仙兼定は、二年ほどしてやらなくなった、と言った。
 注意深く観察しなければ分からない傷跡の違いに瞠目して、古今伝授の太刀はハッと息を呑んだ。
 表情の変化を見て、打刀が目を伏して静かにはにかむ。
 当の刀があまり気にしている素振りなく、言及することもなく、周囲も一部を除いて囃し立てることがないので、考えた事もなかったが。
 小夜左文字だって、次々やって来る刀がどれも己より背が大きいのは、快くなかったに違いない。
 人間の子供は、一年過ぎれば背が伸びる。日を追う毎に大きくなる。その成長ぶりの記録として、柱に背丈を刻む。
 しかし刀剣男士は、刀の付喪神だ。人の身をしながら、人とは異なる存在だ。どれだけ似通っていようとも、根本的な部分が違っていて、交わることはない。
 分かっていた。分かっていても、当たり前すぎて普段は忘れていた。忘れていたから、誰が言い出したか分からない背比べで、一年後の成長を密かに期待してしまった。
 結果は覆らなかった。
「歌仙、行きましょう。兄様たちが待ってる」
 嫌な記憶を掘り起こされて、小夜左文字が早口になった。握っていた打刀の袖を乱暴に引っ張り、話は終わりだとばかりに立ち去ろうとした。
 巾着袋を持つ指には力が籠もり、薄い皮膚を破って骨が飛び出てきそうだった。
「小夜左文字、待って下さい」
 知らなかったとはいえ、彼の心を傷つけた。
 柱に残る以上の深く抉ってしまったと悟って、古今伝授の太刀は声を高くした。
 間に挟まれた形の歌仙兼定が、必死の形相を間近に見て、困惑気味に短刀の手を取った。二度の深呼吸の末に華奢な肩をぽん、と叩き、探るような眼差しで太刀を仰いだ。
 なにか考えがあるのかと言外に問われ、黙って頷いて返す。
 幸か不幸か、小刀は常に持ち歩いていた。他の刀たちだって、そうだろう。道端の花を摘むにしても、邪魔な枝を払うにしても、刃物がある方が便利な機会はなにかと多い。
「せっかくですので、記念に。わたくしも、やってみたいと思うのですが。いかがでしょう」
 その鞘に仕舞った小刀を取り出して、胡乱げな眼差しの短刀に請うた。歌仙兼定は心配そうに小夜左文字を見詰めて、なかなか動こうとしない彼の肩を軽く押した。
 トン、と合図を送られた少年は爪先を僅かに滑らせ、不満げに小鼻を膨らませた。
「あなたを計るのなら、歌仙に頼んだ方が」
 外見にそぐわない低い声で、上目遣いに凄まれた。
「いえ、わたくしの背ではなく。あなたの」
 それを笑顔で受け流し、古今伝授は身を屈めた。
「おい、古今」
「……なんで」
 短刀の目線の高さに合わせてしゃがみ、空の左手を差し出す。
 途端に打刀が悲鳴を上げ、小夜左文字も顔を顰めた。
 今の会話の流れで、なぜこの展開になるのか。そう言いたげな双眸が、古今伝授の太刀に向けられた。
「一年では無理でも、あなたはもう六年も経っているのですから。分からないではありませんか」
 それらを軽く薙ぎ払って、ゆっくり、穏やかに囁く。
 奥歯を噛み締めていた幼子は、あまりにも無邪気な提案に毒気を抜かれたか、ぽかんと口を開いて固まった。
 頭上からは、深く長い溜め息が聞こえた。見れば歌仙兼定が右手で顔を覆い、肩を落としてがっくり項垂れていた。
「どうして、そんな無責任なことが言えるんだい」
「あなたこそ、どうして刀剣男士の背が伸びないと、言い切ってしまえるんです?」
「だってそりゃあ、僕たちは刀だ。人ではない。それに、現に――」
「ええ、ですから。毎年、確かめたわけではないのでしょう?」
 咎められて、即座に言い返した。食い下がられて気を悪くした打刀が腕を横薙ぎに払い、柱の傷を指差そうとするのを寸前で防いで、確認を求めた。
 揚げ足を取られた歌仙兼定は喉に息を詰まらせ、握り拳をわなわな震わせた。荒い呼吸で肩を上下させて、頭に上った血を一気に冷ました。
「それは、その通りだが」
 それでもまだ受け入れきれないのか、歯切れが悪い調子で言って、頭を掻く。
 渋い表情で唇を舐めた彼に笑っていたら、羽織をちょん、と引っ張られた。即座に視線を転じれば、苦虫を噛み潰したような顔の小夜左文字が、溜め息と共に口を開いた。
「めづらしき 声ならなくに ほととぎす」
「……山高み 雲居に見ゆる 桜花」
 聞き飽きる程聞いた時鳥の声は、何年経っても変わることがないと小夜左文字が謳えば、古今伝授の太刀は手が届かずとも心だけは届かせよ、と返す。
 偶々通りかかった肥前忠広が、何をやっているのかという顔をして去って行った。両者の間に立つ歌仙兼定こそ、やり取りを理解している風だが、下手に割って入るとやぶ蛇になると悟り、余計な口を挟まなかった。
 やんわりとやり返された短刀は渋面を深め、根負けしたのか、力なく首を振って柱に背中を預けた。
 かつては同じ主の元にあった刀だ。それ故に小夜左文字は、太刀の諦めの悪さを承知していた。
 放っておけば、延々とこのやり取りが続く。密かに危惧していた展開にならずに済み、歌仙兼定は露骨に安堵の表情を浮かべた。
「ええと、頭の天辺に合わせれば良いのですね?」
「なにか細長い板でもあれば、それを沿わせて計ると良い」
「では、こちらの短冊でも」
 年季が感じられる柱の前に立った短刀に、古今伝授の太刀は満足げに頬を緩めた。打刀の助言を受けて、和歌をしたためる為の短冊を取り出す。一緒に収めていた矢立は置いて、大人しく背筋を伸ばしている短刀の頭上に薄い紙を翳した。
 癖のある髪で膨らんだ分を押さえて潰し、短冊の端を柱に届けた。
「こんなこと、やったって」
 この状況を楽しんでいるのは、太刀だけだ。初めての経験にわくわくが抑えきれず、面白がっているのがそっくりそのまま顔に出ていた。
 肝心の短刀は不満を隠さないが、逃げ出したりはしない。
 ふて腐れた態度で、なぜか打刀を睨み付けて、間近で煌めいた刃の輝きにはびくりと首を竦ませた。
「動かないでください」
「お小夜に傷を付けないでくれたまえよ」
 弾みで頭上の短冊が揺れて、古今伝授の太刀の狙いが狂った。
 切っ先があらぬ方向を向いたのを見咎め、歌仙兼定がはらはらした面持ちで抗議する。そのふた振りのやり取りをどこか他人事のように見上げて、小夜左文字は諦めた風に目を閉じた。
 両手をだらりと垂らし、顎を引き気味に背筋を伸ばして、結った髪ごと後頭部を柱に押しつけた。
 その頭部に短冊を、改めて押しつけて、太刀は切っ先を柱に定めた。
 シャッ、シャッ、と二度往復させて、本丸のあれやこれやを見続けてきた屋敷に新たな傷を刻みつけた。
 役目を終えた短冊を引けば、すかさず打刀が身を乗り出して覗き込んで来た。短刀も恐る恐る振り返って、抉られて広がった柱の傷に目を丸くした。
 古きに混じって新しく削りとられた木粉が、ふわりと風にそよいで舞い上がる。
「短冊の、当て方。おかしかったんじゃないんですか」
 早速使い慣れた品の扱いについて難癖を付けられて、笑みが零れた。
「そうでしょうか。わたくしは、以前どのようにしていたか、皆目見当がつきませんので」
 それを右手で隠し、不満顔を崩さない短刀に囁く。
 歌仙兼定は真新しい柱の傷を指の腹でなぞり、残り滓を取り除いた。縦にも、横にも広くなった傷跡に肩を竦めて、両手を腰に当てた。
「屋敷にわざと傷をつけた件、主には黙っていよう」
「それは助かります」
「兄様たちが待ってるから、僕はもう行きます」
 心持ち嬉しそうな嘆息に安堵して、畳みかけるように告げられた短刀の声に揃って視線を向ける。
「あ、お小夜」
 呼び止めるが、駆け出した少年は止まらない。打刀が咄嗟に手を伸ばすが、当然ながら届くわけもなく。
 文句だけを残して、小さな背中はすぐ見えなくなった。入れ替わるように外から風が吹き込んで、古今伝授の太刀は甘い初夏の匂いに目尻を下げた。

いつのまに五月来ぬらむあしひきの 山ほととぎす今ぞ鳴くなる
古今和歌集 夏 140

2021/05/04 脱稿

たぐひなき 心ばかりを とどめおきて

 特異点が発生していたり、何らかの異常事態に陥っていない時のノウム・カルデアは、平和だ。
 いや、仲の悪い英霊同士がトラブルを起こすくらいは、起きる。ただそれは日常の一コマと化し、そこから更に奇異な状況に発展するのは、最早良くある話だった。
 けれど今日に限っては、そのような騒動を耳にしない。サーヴァントたちは皆穏やかに時を過ごし、管制室のトリスメギストスIIも警告のアラームを発していなかった。ゴルドルフはマシュやホームズたちと優雅に午後の茶会を楽しみ、ダ・ヴィンチは新しい玩具――もとい便利道具の開発に勤しんでいた。
 そして汎人類史最後のマスターである藤丸立香は、甘い菓子の誘惑を断り、自己鍛錬に時間を費やすことを選んだ。
 魔術師としての才能は皆無で、武道に親しんだ過去はない。学業も平均を少し上回る程度でしかなく、天才的な頭脳を持ち合わせた偉人らとは比較にもならない。
 それでも彼は、マスターとして選ばれた。
 焼却された人理を修復し、今は白紙化された世界を取り戻そうと足掻いている。
 諦めないと決めた以上は、前に進むしかない。力を貸してくれる多くの英霊に歩調を合わせてもらうのでなく、自分が合わせられるように、精進は欠かせなかった。
 とはいえ、やり過ぎは毒だ。
 鍛えているつもりで、疲労骨折を起こすのは、本末転倒も良いところ。耳に胼胝が出来るくらい聞かされた忠告を振り返り、立香はマシンを止め、傍にあったタオルを手に取った。
 広げた布を顔に当て、手のひらをぐっと押しつけた。呼吸が辛くないように鼻の孔は避け、その状態で数秒停止し、緩やかに首を振った。
 左腕を引いて仰け反るように背筋を伸ばし、右手は汗で湿った黒髪に移動させた。僅かに重くなったタオルを左の肘に引っかけ、汗が染み出ようとしている額を風に晒した。
「喉、乾いた」
 深く息を吐き、吸って、また吐くついでにぽつりと呟く。
 改めて鼻の頭やその周辺をタオルで拭い、トレーニングルームを見回すけれど、独白に応じる者はいなかった。
 先ほどまでカルナがいたはずだが、いつの間にか姿を消していた。
 少し前にアシュヴァッターマンが入って来るのを見たので、シミュレーションルームにでも誘われて、一緒に向かったのだろう。視界の端で捉えた僅かな情報を頼りに想像し、立香は肩を上下させた。
 トレーニング開始時に持ち込んだペットボトルの水は、残り少ない。一時しのぎにはなるだろうが、肉体が訴えかける渇きを癒すには、到底足りなかった。
「食堂、寄っていこうかな」
 着替えは持って来ていないので、シャワーを浴びるには自室に帰るしかない。その前に寄り道を画策して、彼は小さく頷いた。
 小腹も空いたことだし、夕食の邪魔にならない程度に軽く抓むのも、悪くなかった。
 食堂には昼夜を問わず、誰かしら居る。頼んで何か作ってもらおうと決めた途端、ぐうう、と腹が鳴って、自然と頬が緩んだ。
 喉を伝う汗をタオルに吸い取らせ、そのまま細長い布を首に預けた。一瞬で空になったペットボトルを右手に持ち、熱が宿る吐息だけを残して、足早に歩き出した。
 自動で開いたドアを潜り、廊下に出る。素材が何かは分からないが、硬質の床を交互に踏みつけて、人気のない空間に身を委ねた。
 最初のうちは慣れなくて、何度も迷子になった。目的地になかなか辿り着けず、遠回りを強いられた記憶は数え切れない。
 今は滅多に無くなった出来事を振り返ってひとり笑い、目当ての食堂に繋がる最短ルートに爪先を向けた。運動で火照った身体は徐々に和らぎ、小刻みだった鼓動も緩やかに落ち着きを取り戻した。
 あれだけ大量に溢れていた汗が引いて、一定に保たれた気温が却って寒いくらいだ。
「……うっ」
 堪らず身震いをひとつして、独特の臭いを放つシャツに対して渋面を作った。
 さっさと用事を済ませ、部屋に戻り、熱いシャワーを浴びて着替えよう。
 自分自身の汗臭さに嫌悪して、丸襟を抓んで引っ張った。さすがにここで脱ぐのは憚られて、速度を上げるべく、踵で床を叩いた。
 あと少しで食堂に辿り着く。
 その影響か、廊下を行くサーヴァントの姿もちらほら見かけるようになった。
 満腹だと言わんばかりに腹を撫でるアストルフォと、若干げっそりしているブラダマンテの後ろを、二騎に巻き込まれたらしいジークが遠慮がちに歩いていた。そこにエジソンの雄叫びがこだましたかと思えば、対抗する形でニコラ・ステラが吼えて、仲裁に入ったエレナの甲高い悲鳴が辺りにこだました。
 串団子を頬張る沖田総司とすれ違い、空いた方の手を振られた。たくあんについて滾々と語る土方歳三と、適当に相槌を打つ斉藤一にも遭遇した。
「マスターちゃん、トレーニング帰り? 頑張るねえ。でもやり過ぎは良くないよー?」
「分かってるって。だからこうして、引き上げてきたんだし」
「良い心がけです、マスター。あ、今日のおやつは、三色団子でした。美味しいです」
「おい、聞いてんのか。斉藤」
「あー、はいはい。聞いてますとも、聞いてますって。美味いっすよねえ、細かく刻んで茶漬けにして食べるのも」
 汗臭さを遠慮して距離を取って言葉を交わし、満面の笑みを浮かべた沖田に頷いて返す。途中で空気を読まずに割り込んで来た土方と、渋々付き合う斉藤には、苦笑を禁じ得なかった。
 至っていつも通りで、長閑なカルデアの光景だ。
 毎日こうであれば良いのにと、願わずにはいられない。勿論それが夢物語なのは、百も承知しているけれど。
「ふー」
 苦労が絶えない斉藤に同情しつつ見送って、改めて食堂に繋がる道に視線を向けた。目的地が同じらしい英霊の背中が何騎分か見えて、その中には珍しい後ろ姿も混じっていた。
「あれ?」
 微妙に千鳥足なのにまず気が向いて、注意深く観察してから、それが誰なのかを思い出した。
 右によろよろ、左によろよろ。辛うじて前に進んではいるが、歩みが非常に遅い英霊は、医務室に君臨するサーヴァントに他ならなかった。
 召喚直後から我が物顔でメディカルルームを占領し、勝手に空間を拡張して作った研究室に引き籠もっている、始まりの医者。星にも名を刻まれた古代ギリシャの英雄、アスクレピオス。
 そういえばここ数日、彼の顔を見た覚えがない。
 ひとたび戦闘が始まれば、彼の技能は非常に有用だった。反面、平穏無事な日常では、出番はほぼ皆無だった。
 軽い傷や、腹痛程度で訪ねたら、嫌な顔をされた。もっと珍しく、難しい症状になってから来い、と面倒臭そうに言われるのが常だった。
 とはいえ、手当てはちゃんとしてくれた。指の腹をちょっと切っただけなのに、厳重に消毒され、包帯まで巻かれた時は、笑いを堪えるのが大変だった。
 そんな言動不一致なところがある医者が、いつ転んでも可笑しくない足取りで歩いている。
「アスクレピオスー?」
 あれではまるで、三日連続徹夜で原稿を仕上げた直後の、刑部姫ではないか。
 頭をボサボサにして、壁を支えに虚ろな目をして進むアサシンが、何故か脳裏に浮かんだ。あれとは若干様相が異なるものの、近しいものを感じて、立香は思わず背筋を伸ばした。
 左手を口元に遣り、呼びかけるが返事はない。
 益々もって怪しいと眉を顰め、彼は強く床を蹴った。
 短い距離を駆けて、白衣のキャスターの前に素早く回り込んだ。行く手を阻む格好で停止し、直後に大きくよろめいた英霊に慌てて両腕を伸ばした。
「うわ、とと。っと」
 斜めに崩れゆこうとする体躯を捕まえ、力を込めて胸元へと引き寄せる。若干バランスが悪く、海老反りになって諸共に倒れそうになったが、普段から鍛えていたのが功を奏した。
 ただ弾みで、持っていたペットボトルを落とした。
 拾いに行きたい気持ちはあるものの、ずっしり重いアスクレピオスを放り出すわけにはいかない。爪先立ちの不安定な体勢でぷるぷる震えて困っていたら、肩口に沈んでいた男の首が左右に振れた。
「んん……」
 鼻から息を吐き、唸った末に、アスクレピオスがのっそり顔を上げた。
 銀髪の隙間から覗く肌色はくすんでおり、金混じりの翡翠色をした瞳もまた、暗く濁っていた。
 目の下には隈がはっきりと現れ、傍から見ても分かるくらいの疲労困憊ぶりだ。瞳は絶えず宙を彷徨い、目の前に存在する立香さえきちんと捉えていなかった。
 いったい彼の身に、なにが起きたのか。
 明らかに異常な状態なのに、警報器は鳴らない。見えない敵の侵略ではないかと疑って背筋を寒くするマスターを余所に、通りがかる英霊は一騎たりとも関心を示さなかった。
「え、え? 大丈夫なの。アスクレピオス、ねえ。ちょっと」
 それはそれで危ない状態なのではと青くなり、再びぐったりして俯いた英霊の肩を揺さぶる。
 声を上擦らせて呼びかけ続けていたら、どこかでドアの開く音がして、複数の足音が背後から響いた。
「んあ、なんだあ? ああ、マスターと……アスクレピオスか。つうか、やっと出て来たのか、お前」
「イアソン?」
 慌てふためくマスターと、それに寄りかかっている旧知の存在を見付け、声を高くしたのは金髪のセイバーだ。
 勇敢な冒険者が多数登場する物語の主人公は、その華々しい来歴通り、屈強な戦士と可憐な少女を従えていた。
 訳知り顔のイアソンに、立香はホッと息を吐いた。事情を知っていそうな男の登場に深く安堵して、助けてくれるよう目で訴えた。
 しかし厄介事を嫌い、仕事でも面倒だと判断すれば堂々と拒否する男は、ここでも持ち前の性分を発揮した。
「ほっとけ、マスター。そいつはな、面白い素材を見付けたって、解析と培養で三日三晩を注ぎ込んだってだけだ」
 係わり合いになりたくないと言わんばかりに手をひらひらさせて、イアソンは同意を求めてヘラクレスに顔を向けた。ただ彼に同調し、頷いたのは、筋骨隆々としたバーサーカーではなく、横に控えていたメディア・リリィだった。
「三日じゃなくて、四日だったかもしれませんね」
 可愛らしい笑顔で背筋が寒くなる事を告げ、それとなくイアソンの腕に抱きつこうと身を寄せる。これを寸前で躱し、ヘラクレスの背後に回り込んだ男は、唖然と立ち尽くす立香を鼻で笑った。
 いや、正しくは立香に支えられてどうにか立っているアスクレピオスを、だろう。
 黙っていれば美形なのに、残念な風に口角を持ち上げて、イアソンはここぞとばかりに腕を振り上げた。そして。
「ざまあみろ。人を散々囮に使いやがって」
 およそ平時では言えそうにない台詞と共に、俯いているアスクレピオスの背中をばちん、と叩いた。
「ちょっと」
 弱っている相手になんたる仕打ちかと立香は眉を顰めたが、咎めるよりも、イアソンの逃げ足の方が早い。
 あっという間に小さくなった背中に溜め息を吐いて、立香は慰め代わりにアスクレピオスの肩を撫でた。
「う、ぅ……」
「大丈夫?」
 打たれた方は遅れてダメージが来たのか、ぶるっと身震いした後に低く呻いた。顔を伏したまま首を数回横に振り、荒い息を吐き、垂らしていた腕を持ち上げた。
 捕まるものを探して立香のシャツを手繰り寄せ、タオルの端を掴んで引きずり下ろした。薄手の布ではなく、もっとしっかりしたものを求めて彷徨って、人の脇腹を掴み、つるりと指を滑らせた。
「ひう、ひゃはあ」
 まさかそこを触られるとは、立香としても予想していなかった。
 薄い肉をぐにゅっとやられて、痛いのとくすぐったいの中間の感触に背筋が粟立つ。
 変に高い声が漏れて、顔は自然と赤くなった。一方アスクレピオスの手は止まらず、依然その近辺を探って動き回り、最終的にズボンのベルトに引っかかる形で落ち着いた。
 力を込められたら下着ごとずり下がりそうで冷や冷やだが、振り解くわけにもいかない。そうならないよう、彼の手首をだぶついた袖の上から探り当て、捕まえたところで、のっそり顔を上げたアスクレピオスと目が合った。
 もっとも焦点が定まっただけで、意識は追い付いていないらしい。
 ぼーっとしたまま至近距離で覗き込まれるのは、落ち着かなかった。
「アスクレピオス?」
 特徴的な前髪に目が行きがちだけれど、さすがは太陽神アポロンの血を引くだけあって、顔立ちはかなり整っていた。
 不眠不休で研究に明け暮れていた所為で肌色は優れないが、それを差し引いても、目を見張る造形美だ。ガラテアが彫像のモチーフに彼を選んだのも、納得せざるを得ない。
「……マス、ター……?」
 その美しく形作られた唇が弱々しい声を発し、瞳は胡乱げに眇められた。眉を顰めて首を左右に振って、目の前にいる立香を不思議そうに見詰めた。
 サーヴァントは基本睡眠や、食事を必要としないけれど、かといって休息なしで活動し続けるには限度がある。カルデアでは電力を魔力に転換し、数多在る英霊に配分しているものの、それだって完璧ではない。
 消費が供給を上回れば、魔力の枯渇はどこかの時点で必ず起きる。
 実体化を解けば消費が抑えられるはずだが、この医術オタクは、己の好奇心を優先させた。それでガス欠を起こして、結果がこれ。
 秘密の研究室に引き籠もったまま、ひとりで倒れなかっただけ、まだマシと言うべきだろうか。
 努力は認めるが、褒められたものではない。マスターとして叱るべきか考えていたら、返事が無いのを訝しんだアスクレピオスが距離を詰めて来た。
「りつか?」
 吐息が鼻先を掠め、前髪が絡まった。
 黒に銀が潜り込む近さでの囁きは、不意打ちだった。
「ふわあっ」
 か細い声色は疲れもあって掠れて、いつも以上に低く響いた。褥で交わった直後にも似た、しかし微妙に次元が異なる音色は下腹部を直撃し、危うく膝から崩れ落ちるところだった。
 繊細な指使い、的確に弱い場所を狙う爪先と、脳天を打ち抜く甘い吐息。淫靡に濡れた熱が交錯して、内側からも、外側からも遠慮なく貪り食われ、時に喰らいついた。
 人の身として捨てきれない情欲に溺れながら、果てのない人間愛に満ちた男の感情を一身に引き受けた。
 公衆の面前で碌でもない記憶が甦り、落ち着いていたはずの心臓が銅鑼と太鼓を鉦を同時に打ち鳴らした。トレーニングルームとは比較にならない加速度で爆音を奏でて、連鎖反応で赤面が止まらなかった。
 頭の天辺から湯気が噴いている錯覚に身を震わせ、わざとやっているのかと、初めてアスクレピオスを疑った。
 あまり策略を練るタイプではない男だが、それでも意地悪されたのは、一度や二度ではない。もし狙っての事だったら抓ってやろうと、掴んだ彼の手首に力を込めた。
 骨をギリギリ押さえつけて睨み付けるが、反発的な眼差しは返って来なかった。
 未だぼんやりした双眸に、嘘は見当たらない。
 本気で珍しい事態に唖然となって、立香は怒らせていた肩を落とした。
「なんなんだよ、もう。しっかりしてよ」
 当人にその意識が無いのに、ひとり振り回されて、滑稽だ。
 依然として半分夢の中、という状態の男に深々と溜め息を吐き、顔を伏す。非常にレアな体験が出来たのは嬉しいが、いつまでもこの調子でいられるのは、心臓に悪いどころではなかった。
 ペースが狂う。
 アスクレピオスらしくなくて、嫌だ。
 彼が研究室を出たのは、枯渇寸前の魔力を補給する術を求めてだろう。
 英霊は飲食の必要がないといっても、出来ないわけではない。そしてごく微量ではあるものの、魔力は食事で回復する。
 効率は決して良くない。しかし趣味として、或いは習慣として、生前と同じように食事をする者は多く存在した。
 アスクレピオスが食堂を目指していたのは、ほぼ間違いない。
「連れていってあげるから。さっさと美味しいもの食べて、シャキッとしてくれないかな」
 もう目と鼻の先にあるドアを振り返り、だらしなく寄りかかってくる身体を叱咤した。とんとん、と袖の上から肘、肩と順に叩いて、自力で立つよう促した。
 こんな風になっている彼を見たくない、というわけではない。
 しかし普段通りの、嫌味ばかり口にして、時折過剰なくらい過保護になる彼でないと、落ち着かない。
 小走りでリズムを刻み続ける鼓動を数え、心持ち苦い唾を飲み込んだ。爪先に落ちたタオルを取ろうと膝を持ち上げ、辛うじて靴に引っかかっている布を掴もうと、前屈みにならずに腕だけを伸ばした。
 片足立ちの苦しい態勢で、壁に助けられながらアスクレピオスも支え、歯を食い縛る。
「ああ……」
 もう少しで手が届きそうだというところで、耳元でそよ風が吹き、緩慢な相槌が聞こえた。
 何事かと瞳だけをそちらに向け、夢うつつ状態の男の動向を探った。
 彼は相変わらず何を考えているか分からない顔をして、こくりと頷き、眠そうな眼を立香に向けた。
 とは言っても、視線は交錯しない。正面から向き合っているはずなのに、アスクレピオスはいったいどこを見詰めているのかと怪訝にしていたら。
「あー……」
 古代ギリシャの英霊はおもむろに口を開き、綺麗な歯並びと、ほんのり湿った舌先を露わにした。
 さながら獲物を求める蛇の如く、首を伸ばし、狙いを定めて。
 ばくりと。
「――イッ!」
 惚ける立香の鼻を、咬んだ。
 挙げ句にゴチン、と額同士もぶつかった。
 脳天を揺らす程ではないが、鼻の頭を襲った痛みと相俟って、星がひとつ、ふたつ飛び散った。咄嗟に首を後ろに反らして逃げたが、遠慮なく力が込められていた分、皮膚をゴリゴリ削られた。
 食い千切られるのではと恐怖した。
 実際に噛まれた直後、飲み込む為の動作として、べろっと舌で舐められた。もしあそこで肉が削ぎ落とされていたら、藤丸立香の一部は奪われ、咀嚼され、アスクレピオスの胃の中に転がり込んでいただろう。
 彼にそんな趣味があるとは思いたくない。
 思いたくないが想像してしまい、心の底からゾッとして、冷や汗が出た。
 脇腹を擽られた時とは正反対の理由で鼓動が乱れ、寒気が止まらなかった。
「んな、にっ……なに、し、て。して、くれんのさ!」
 噛みつかれた場所はズキズキ痛み、ぼろっと落ちやしないかと怖くなった。結局拾えなかったタオルを靴底で踏みつけ、顔のパーツがしっかり付いたままなのを触って確認し、指先を見舞った湿り気に四肢を震わせた。
 顔から火が出る勢いで真っ赤になって、未だ虚ろな医神を睨み付けるが、効果は薄い。
 賑わっていないが寂れてもいない廊下を気にして見渡せば、ヘクトールとマンドリカルドが喋りながら歩いていた。
 ただ互いの会話に集中しているようで、別段こちらに意識を向けることはない。それでも冷や汗を流して様子を窺っているうちに、気付かれて、揃って会釈された。
 ゆっくり近付いてくるものの、ふたりはアスクレピオスの奇怪な行動には言及しなかった。
 これだけの往来で、誰にも見られていなかったのは不幸中の幸いか。
「マスター、鼻、どうかしたんスか」
 尚も寄りかかってくる男の肩を軽く突き飛ばし、ミリ単位で距離を取った。何も知らない二騎には愛想笑いで誤魔化すが、部分的に赤くなった箇所を指差し、マンドリカルドが首を捻った。
「え、あ。いや……なんでも……ない、よ」
 指摘されても、答えられない。
 奥歯を噛み締めて喘ぎ、目を泳がせて口籠もる。すると落ちていたボトルを拾ったヘクトールが朗らかに笑い、人の肩をぽん、と叩いた。
「いやあ、若いってのは羨ましいねえ。けど、こういう場所じゃ、ほどほどにしときなよ?」
 その上でアスクレピオスを顎でしゃくり、訳知り顔で囁いた。
 彼はアポロンの加護を受けたパリスの兄であるから、弟経由で、なにかしら話を聞かされているのかもしれない。
 不器用なウインクの理由を察して首の裏まで赤く染めて、立香は発作的に腕を払った。
 狙ったわけではないけれど、その爪先が丁度、突っ立っていたアスクレピオスを掠めそうになった。
「――!」
 だが寸前、手首は拘束された。
 待ち構えていた掌に受け止められて、パシッ、と乾いた音がひとつ響く。
 カラカラ笑うヘクトールたちが行き過ぎて、残された白衣の男が胡乱げに立香を見た。
「なにをする、マスター」
 打たれそうになったと勘違いしたか、剣呑な眼差しが突きつけられた。
 先ほどまでの態度が嘘のように、翡翠の瞳には光が宿り、口調はしっかりしていた。二本の足で体重を支えて立って、全くの別人もいいところだった。
 あれほど不安定な歩き方をしていたのに、一瞬の変化が俄には信じ難い。
 呆気にとられてぽかんとしていたら、訝しんだアスクレピオスが眉を顰めた。
「どうした、マスター。……ふむ、鼻が妙に赤く濡れている」
「うわ」
 気になる事を見付けたら、状況を顧みずに突き進むところが、いかにも彼らしい。
 だが掴んだままの手をぐいと引き、無遠慮に顔を寄せてくるのは止めて欲しかった。
 そもそも、彼の台詞はおかしい。あり得ない。
 崩されそうになった姿勢を堅持し、抵抗して、立香は鼻の孔を膨らませた。奥歯をギリギリ言わせて真正面を睨み付け、鼻ばかりが赤くなっている元凶に牙を剥いた。
「なに言ってるのさ。アスクレピオスが咬んだから、こうなったんだろ」
 腰を退き気味に、囚われの腕を取り返そうと足掻くが、巧く行かない。
 悔しさで目の奥がツンとして、息が詰まった。思い切り鼻を啜り上げて、腹の底から声を絞り出しても、アスクレピオスはピンと来ない様子だった。
 きょとんとしながら見詰め返されて、意味が分からない。
 頭がどうかなってしまったのではと怪しんでいたら、直後にぱっと、腕が解放された。
「うえっ。だあ、った。た。と」
 抵抗を続けていたので、勢い余って後ろに転びかけた。
 両腕を激しく振り回し、壁に掌を叩き付けてなんとか持ち堪えた。ぜいぜい言いながら息を整え、靴跡がくっきり残るタオルに舌打ちして、横から攫うように掬い取った。
 空腹も、喉の渇きも、どこかに消し飛んだ。
 それでも尚残る汗臭さに歯軋りし、立ち尽くしている男をねめつける。
「僕が、お前を。咬んだ? 何故?」
「オレの方が知りたいよ」
 半信半疑といった態度で質問を投げた彼に、腹が立って仕方がない。
 訳が分からないのは、こちらだ。魔力が切れそうで弱っているところを介護してやっていたというのに、急に噛まれたと思ったら、急に元気になった。
 イアソンの助言通り、放っておけばよかった。
 沸き立つ怒りに身を任せ、掴んだタオルを振って空を叩いた立香に、アスクレピオスは瞳を脇へ流した。
 長い袖を揺らして口元を覆い隠し、目の錯覚を疑うレベルで頬を赤く染めた。
 どうやら心当たりが見つかったらしい。
 いきなりソワソワし始めた彼に説明を求め、立香は床を蹴った。
 脅しとしては不十分だったが、意図は伝わった。気がつけば魔力の回復に成功していた男は深く肩を落とし、握り拳を震わせるマスターの前で首を振った。
「よく、覚えてはないんだが」
「はあ?」
「魔力が切れかけて。僕としたことが、迂闊だが」
「ああ、うん」
 実体化が危うくなるレベルで憔悴していた自覚は、一応あるらしい。ただいつ研究室を出て、どうやってここまでやって来たかは、記憶があやふやなのだという。
 だから倒れそうになったところを立香に庇われ、助けられたのも、彼は覚えていない。
 ただマスターと接触したことで、微量の魔力がアスクレピオスに流れ込んだ。
 ゆっくりと浮上する意識の片隅で、彼は誰かの声を聞いた。
「美味いものを、と言われて。それでもし、目の前に、マスター。お前がいたのだとしたら……――」
 尻窄みに小さくなっていく声に合わせ、翠の瞳が宙を泳いだ。
 明後日の方を向いて喋る男の辿々しい言葉に、立香の視線は一旦天を向き、直後に深く沈んだ。
 美味しいものを食べろと囁かれた男は、つまり。
 目の前に『美味』と認識する存在を見付けて、欲望を抑えられなかった、と。
「そ、そう。そう、……そうなんだ?」
 足りなかった巨大なピースがカチリと嵌まって、声が裏返った。一瞬だけ様子を窺い、瞳を浮かせれば、どうしてだか同じタイミングで、向こうも立香を探っていた。
 バチッと火花が散って、その勢いと眩しさに圧倒され、即座に顔を背けた。
 廊下の片隅で背を向け合い、それでいて距離をじりじり詰めるふたりに、食堂から出て来たエリセとボイジャーが不思議そうな顔をする。
「なんだかおもしろいこと、してるねえ」
 純真無垢な少年に指を指して笑われたが、幸か不幸か、近付いて話しかけられることはなかった。
 続いて出て来る存在がないのを確かめて、立香は長く止めていた息を一気に吐いた。
 こっそり後ろを振り向けば、アスクレピオスはまだそこに居た。
「いや、あの。……オレ、この後部屋に戻って、さ。シャワー、浴びようかって、思ってるんだけど」
「そうか」
 話しかければ、相槌が返された。唐突な話題に驚き、不審がっている趣はあったけれど、追求はされなかった。
 お蔭で少し、気持ちが落ち着いた。とはいえ声は上擦ったままで、顔を見合わせて喋る勇気はまだ戻らない。
「それで、あの。あのさ。実はさっき、咬まれたところ、まだ、えっと。ちょっと、まあ、……痛い……かな、なんて?」
「――ああ」
「だから、なんともなってないかどうか、出来ればちゃんと、診てもらいたいなー、…………なんちゃって?」
 胸の前で左右の指を付き合わせ、絡ませ、握り、広げて、重ねた。
 手首に少し角度を持たせ、同じ角度で首も傾がせて、天井の隅を見詰めながら呟く。
 冗談を装わなければ無理だった。面白おかしく、茶化すような素振りでなけいと、誘えなかった。
 後から思えば、シャワーのくだりは必要なかった。しかし言ってしまった以上、取り返せない。
 露骨が過ぎたと耳の裏まで赤くした立香に、アスクレピオスは長く無言だった。
 五秒か、十秒か、はたまた一刹那か。
 さっぱり見当が付かない時間を、息を止めて待った。
 ど、ど、ど、と耳元で騒ぐ鼓動に奥歯を噛み締めて、汚れたタオルごと拳を胸に押し当てた。
「そう、だな。傷口から細菌が入られても、困る、な」
 ぼそぼそと小声で返事があったのは、そのすぐ後のこと。
 聞き間違いかと疑って、立香は反射的に振り返った。驚いて目を見張り、口をパクパクさせていたら、振り向いた男が黙って静かに頷いた。
 ほんのり嬉しそうな顔をして、いつも通り口角をほんの少し持ち上げた。
「それに、魔力補給も必要だしな」
「……もう!」
 不遜に言われ、咄嗟に出た利き手で彼の胸を軽く小突く。アスクレピオスは今度は避けず、逆に満足そうに笑った。

たぐひなき心ばかりをとどめおきて また逢ふまでのしるべともせむ
風葉和歌集 927

2021/04/17 脱稿

思ふより ほかなることの 苦しきは

 故郷に居た頃は、夜を怖いと思ったことがなかった。
 路には街灯が並び、両側に並ぶ建物からは目映い光が漏れ出ていた。多くの営みがその明かりの中に宿り、当たり前のように温もりを、安寧を、湯水の如く消費していた。
 本当の夜はとてつもなく暗く、重いものだと、人理修復の旅路で思い知った。
 地平に沈んだ太陽が、明日も東から登って来ると、どうして信じられる。
 何もかもが根底から覆された中では、疑いもしなかった常識までもが、敵となって牙を剥いた。
 恐ろしかった。
 何も信じられなくなりそうな自分が、怖くなった。
 ただそれを口にしたところで、誰にも解決を委ねられない。己自身の心の問題だから、虚勢を張って、強がって耐えるより他に術が無かった。
 救いだったのは、手を差し伸べてくれた英霊達の存在だった。
 彼らは強い。肉体的だけでなく、精神的にも。
 およそ想像出来ない苦難を乗り越え、悩みを抱きつつも歩みを止めなかった彼らの行く末には、幸福とは程遠いものも多々あった。悲惨な末路、強い絶望の中での憤死も数えきれず、故に復讐を誓う存在もあるにはある。だけれど多くは死しても尚前を向き、笑顔を絶やさなかった。
 揺るぎなき信念、理念、生き様に、励まされた。
 諦めなければ、案外なんとかなる。自分は非力で、何の学も無く、知恵もないけれど、心強い仲間が脇を固めているから、彼らを信じさえすれば、意外とどうにかなる。
 自身の平凡さを認めるのは、本音を言えば癪だ。だが歴史の教科書を華々しく飾る英傑に囲まれていれば、否応なしに受け入れざるを得なかった。
 自分は、恵まれていた。
 幸運だった。
 否、そのひと言で片付けて良いはずがない。差し引きすれば、マイナスだ。天秤は常に片側に傾き、アンバランスな状態で揺らぎ続けていた。
 眠るのは、まだ怖い。
 数え切れない不条理を目の当たりにしてきたから、それがいつ、己の身に降り掛かるかを考えてしまう。最悪の可能性はいつだって頭の片隅に貼り付いて、決して剥がれることがなかった。
 遠くなったかつての日々。
 最早懐かしむことさえ稀な、平穏で、代わり映えの無い貴重な日常。
「睡眠は、生命維持にとって、最重要な必須項目なんだがな」
 ふと心に吹いた隙間風に身震いしていたら、背後から淡々と嫌味が述べられた。
「あ……」
 腰を捻って振り向けば、砂埃を散らし、固い岩盤を踏みしめて近付いて来る影がある。微かな星明かりを頼りに目を凝らして、立香は直後、嗚呼、と頬を緩めた。
 一瞬走った緊張を解き、肩の力を抜いた。しどけなく微笑みかけるものの、相手はムッとした表情を崩さなかった。
 アスクレピオスは踵のあるサンダルで凸凹した足場を越えて、立香が佇む岩の上へと飛び移った。長い袖が優雅に踊り、弱い光を集めた銀髪が蛍火の如く煌めいた。
 曖昧だった輪郭は、距離が狭まるにつれてはっきりと形を持った。砂利を踏む音が大きく響いて、立香は息を呑み、半歩後退した。
 平然と歩いているけれど、彼だって足元は見え難かろう。いくらサーヴァントとはいえ、月のない夜では、昼同然に動き回るのは厳しいものがあった。
 窪んでいた足元にふらつき、右によろめいた彼を支えようと咄嗟に手を伸ばすが、届かない。
 もっともアスクレピオスは自分で姿勢を立て直し、何事も無かったようにやり過ごした。お蔭で行き場を無くした手が宙を彷徨う羽目になり、立香はばつが悪い顔をして横を向いた。
 視線を転じた先にあったのは、泥の海を思わせる暗闇だった。
 日暮れ前に目にしたのは、地平の先に連なる稜々たる山並みだ。大地は荒れ果て、平坦な場所がない。灌木が所々で身を寄せ合うように群れを成し、動物の白骨体が無造作に転がっていた。
 記憶にあるそれらが、今はひとつとして見える範囲にない。
 否、あるにはあるのだ。単に光を浴びていない為に、立香の目に映らないだけで。
 この足元だって、いつ崩れるか分からない。実は在ると錯覚しているだけで、本当は無いのかもしれない。
 一寸先は闇と言うが、まさにそれが具現化していた。
「眠れなくて。ちょっと、気分転換」
「それはさっき聞いた。戻りが遅いと、そう言っている」
 キャンプ地に選んだのは、ここから少し離れたところにある、巨大な樹木の洞だ。
 とうに朽ちて、命尽き果てた古代樹の根元は魔力に満ちていて、日中の戦闘で疲弊した英霊らが休むのにうってつけだった。
 雨風は完全にしのげないが、外敵を警戒して三百六十度、全方位に注意を向けずに済むのも幸いだった。
 だのに臨時の安全圏を抜け出して、最もひ弱で、死に易い人間がひとり、無防備に夜風に当たっている。
 離れた場所でビリー・ザ・キッドが哨戒任務に当たり、焚き火の番をしているジャンヌ・ダルク・オルタは武器である旗を肩に担いで握り締めていた。彼ら、彼女らはいつ、何が起きても不思議ではない環境で、即座に対処出来るよう、構えを解いていなかった。
 裏を返せば、マスターである立香が休まない限り、サーヴァントも休息に入れない。
「アスクレピオスが子守歌、歌ってくれたら、眠れるかもね?」
「それは医者である僕の仕事ではないな」
 まだ戻りたくないとの旨を遠回しに伝えたものの、古代ギリシャの英霊はつれなかった。
 昼の戦闘は敵の数が多く、過酷だった。治癒能力持ちが居たお蔭で長期戦でもなんとかなったが、あんな事が連続して起こったら、いずれじり貧になって終わりだ。
 マスターがしっかりしていなければ、影響は契約した英霊にも及ぶ。
 苦言を呈するのを止めないアスクレピオスに、立香は目を細めた。
 乾き過ぎてヒリヒリする空を蹴り、緩く握っていた手を解いた。腰に据えて深く息を吐き、境界線さえあやふやな夜をぐるりと見回した。
 あるはずのものが見えない不安。
 あると信じ切っていたものが奪われ、失われた恐怖。
 燃え盛る炎の中で聞いた断末魔の叫びが、今でも耳にこびりついて離れない。
 初めてのレイシフトで訪れた炎上する町は、あの瞬間、あの場所で立香に宿った心象風景そのままだった。
「眠りたくないか」
「そんなこと、ないよ。オレだって、それくらい分かってる」
 睡眠の重要性は、改めて語られるまでもない。食事も無論大事だが、休まなければ、――休めなければ、人間は容易く心を折られて、死ぬ。呆気ないほど簡単に、狂う。
 アスクレピオスの懸念は、理解していた。彼の忠告に、納得もしていた。
 だのに足が動かない。眠って、目覚めた先で全てが嘘であり、夢だったと片付けてしまいたい衝動に駆られて、そんな風に逃げたがる自分を心底嫌悪した。
 自分はもうどこにも行けないのだと、目を覚ます度に痛感させられるのが、苦しい。
「道に迷った子供のような顔をしている」
「え?」
 決まりが悪い顔をして、決めきれずにぐずぐずしていたら、不意に言われた。
 相変わらず抑揚に乏しい口調で述べられて、咄嗟に意味が分からなかった。
 確かに聞こえた台詞を脳内で再生して、一音ずつ噛み砕いて、飲み込んだ。遅れて押し寄せて来た感情に顔を赤くし、反射的に両手で頬を覆い隠した
「オレ、別に、そんな。そこまで馬鹿じゃないんだけど」
 まさか帰り道が分からなくなって、途方に暮れていると思われたのか。
 確かに星明かりしかない中では、方向を見失いやすい。目印にも乏しいから、どちらから来たか、うっかり忘れて分からなくなる事は、充分あり得る話だけれど。
 上擦った声で文句を言えば、アスクレピオスはきょとんと目を丸くした。不思議そうに瞬きを繰り返し、小首を傾げ、長い袖ごと指を顎に添えた。
 惚けた顔でしばらく黙り、胡乱げな眼差しを斜め下から投げて来た。
「……ごめん。今のなしで。忘れて」
 それで己の勘違いに思い至り、立香はカーッと顔を赤くした。耳の先まで朱に染めて、湯気立つ頬を手で扇いで冷ました。
 彼の発言は、そちらの意味ではなかったらしい。だというのに勝手に間違えて、吼えたのが、恥ずかしくて堪らなかった。
「ああ、そうか。本当に迷子だったのか」
「だから、違うってば!」
 俯いて背を丸めた立香に思うところがあったのか、アスクレピオスはハッと目を丸くした。続けて成る程、と得心いった態度でうんうん頷かれて、穴があったら入りたかった。
 反射的に怒鳴った声は、障害物のない空間で、思ったよりも遠くまで広がった。
 呼応して、闇に潜んでいた獣が雄叫びを上げた。
 ところが不気味に轟く野獣の囁きは、直後、甲高い悲鳴に取って代わられた。キャイン、と可愛らしくも思える声色は、命の輝きを失う直前の煌めきそのものだった。
「馬鹿が」
 闇に身を潜めていた加藤段蔵が、危機を察知し、素早く処理してくれたのだろう。
 遠くで行われた戦闘に思いを馳せていたら、間近からお叱りの言葉をいただいた。
 物理的なダメージはなかったが、心理的にグサッときた。打たれてもない頭を庇うように撫でて、立香は深く息を吐いた。
「でも今のは、アスクレピオスも悪いんじゃ」
「そうか。では謝ってやるから、具体的にどこがどう悪かったか、言ってみろ」
 なで肩で恨み言を漏らせば、聞き逃さなかった英霊が目を吊り上げた。眼光鋭く睨み付けて、口の端を僅かに持ち上げ、不遜な笑みを形作った。
 穏やかさと、苛烈な怒りが混在して、とてつもなく恐ろしい。
 般若の面とはこういう顔の事かと考えて、立香は頬を引き攣らせた。
「……迷子じゃないよ。本当だって」
 馬鹿にする気が彼になかったのは、分かっている。先ほどの怒号は、己の勘違いを指摘されて、素直に受け入れられなかった故のものだ。
 恥ずかしさを誤魔化そうとして、声を荒らげてしまった。
 後でジャンヌ・ダルク・オルタにも、こっぴどく怒られるだろう。あの綺麗な顔から、口汚く人を罵る言葉が放たれるのかと思うと、それだけで申し訳なくなった。
「ふん」
 誰に対しても悪態を吐く彼女だけれど、心の奥底ではこちらを案じてくれている。本人は決して言葉にしないし、認めたがらないが。
 心配させた分だけ、詫びねばなるまい。いかに艱難辛苦を乗り越え、歴史に名を刻んだ英雄たちであろうとも、元を辿れば多くは人の子だ。立香となんら違わない、迷える子羊だったのだ。
 その意味では、目の前に佇む英霊は、少しばかり勝手が違うか。
「マスター。ああ、……そう、だな……。もし、……そう、こんな風に。地上が見通せない夜は、上を見ろ」
 神の血を受け継ぐ男に目を向ければ、視線が交錯した直後、妙に歯切れも悪く告げられた。
 別のことを言いたかったのを、寸前で取り消し、言い換えたらしい。音にならなかった部分は想像すら出来なくて、立香は言われたものだけを受け取り、緩慢に頷いた。
 瞳は自然と、星がきらめく天頂に向かった。
 但し、満天の星空、とはいかなかった。
 薄く雲が広がり、月は見当たらない。比較的強い光を放つ星が際立って見えるが、それら全てを集めたところで、昼の明るさには遠く及ばなかった。
 全体的にぼやけた星々を眺めていたら、傍らに寄ったアスクレピオスがスッと腕を伸ばした。
 身体のラインに沿って、真っ直ぐ上に。弛んだ袖は重みでずり下がり、隠れていた白い腕が露わになった。
 天へと突き上げられた人差し指は立香の前で前後に揺らぎ、虚空を掻いて、一点に定められた。
「あれが、アルタイル」
 彼が指し示す方角に、一際明るく輝く星が見えた。
 どこかで聞いた覚えがあるものの、どこで聞いたか思い出せない名前だ。確かに知っているはずなのに分からなくて、立香は心の中で繰り返しその音を諳んじ、頷いた。
「そしてあれが、ベガ」
「あ、分かった」
 続けて彼は指先を右上へと滑らせ、空をなぞった。
 天頂付近で青白く照る星に揃って注目して、視線は絡まないが、思いは交錯した。すぐ隣で紡がれる声色は低くも穏やかで、聞いていて心地よかった。
 覚えがある単語が出て来たのに、喜び、立香は無邪気に笑った。古過ぎて凝り固まっていた記憶がいくつか解されて、転がり落ちてきた夏の大三角形という単語に、アスクレピオスは喉を鳴らして笑った。
「なら、残りのひとつ、当ててみろ」
「えー……?」
 意地悪い問いかけに、眉を顰めるが通じない。
 振り向いた英霊は不遜に口角を歪め、戻した手で立香の黒髪を軽く梳いた。
 撓んだ袖の塊が耳朶を掠め、薬草なのか、不思議な匂いがした。埃っぽい空気の中でそれは妙に新鮮に感じられて、足元に視点を落とした少年は、理由が分からぬまま口を尖らせた。
 勝手に熱を帯びる顔を乱暴に擦って、二度の深呼吸を経て、視線を上げた。
 とにかく明るい星を探せば良いのだと意気込むものの、星の配列を真面目に学んだ事はない。オケアノスの海でも、操舵は英霊達に任せきりだった。
 そもそも星の明るさに等級があると知っていても、これらを見分ける方法を持ち合わせていない。
「うぅ」
 眠るよう諭されていたはずなのに、いつの間にか違う話になっていた。
 引き摺ってでもキャンプに連れ戻しそうな性格なのに、どういう風の吹き回しかと隣を窺いつつ、立香は右腕を掲げた。
 教えられた明るい星ふたつを見えない線で繋ぎ、三角形が出来そうな場所にある星を探した。ただ頭上遙かに陣取る雲が邪魔で、簡単そうで、難しかった。
 最初は線の左側を選ぼうとしたものの、そこいらだけ雲が厚く、はっきりしない。
 しばらく悩み、彼は指先を右に滑らせた。
「あれ、とか?」
 アルタイルやベガに比べるとかなり見劣りがするものの、明るめの星を選び、指し示す。
 アスクレピオスは軽く膝を屈め、どれのことか探るべく、立香の肩越しに空を覗き込んだ。
 ふわふわの銀髪が踊り、うなじを擽った。
 笑いそうになったのを堪えて、正否を問おうと視線を向けるが、くだんの英霊は固まったまま動かなかった。
「アスクレピオス?」
 彼はぽかんと口を開けて惚けて、しばらく停止した後、深く長い息を吐いた。額に左手を当てて俯き、項垂れ、露骨なくらいに落胆を表明した。
 ふるふる首を振る仕草も追加されて、呆れられているのは間違いなかった。
「なっ、なんだよ。アスクレピオスが言えって言ったんだろ」
 小馬鹿にされたのを非難して、先ほどのことがあるので声量は抑えつつ、吼える。けれど彼は顔を伏したまま、口を利こうとしなかった。
 立香だって、これが正解だとは思っていない。むしろ間違いだと、自分でも分かっていたつもりだ。
 それでもこうもあからさまな態度を取られたら傷つくし、腹が立った。
「アスクレピオス」
「それは、……その星は、ラサルハグェ」
「なんて? ラサール……ハゲ?」
「ラサルハグェ、だ。……なんだって貴様は、よりによってそれを選ぶ」
 せめてひと言くらい寄越せと手首を掴み、揺さぶれば、ようやく布の隙間から顔を出した男が呻いた。
 立香の酷い聞き間違いを訂正し、嘆息して、渋い顔を作った。目鼻を真ん中に集めて眉間に皺を刻み、口をもごもごさせた末に、溜め息ひとつで片付けた。
「デネブは、あっちだ。お前が言ったのとは、逆だ」
「どれ? あー、そっちだったんだ。雲で見えなかったんだよね、さっきは」
 煩悶を覗かせた横顔をすぐに隠し、正解を指で示して、態度は素っ気ない。
 教えられた星の在処を確かめつつも、心はすぐ隣に向け続ければ、アスクレピオスは鼻筋から右の頬一帯をゴシゴシ擦った。
「ともかく、だ。ユニヴァースだとかいうでたらめな空間でもない限り、お前の頭上には、いつだって星々が存在している。夜に迷った時は、上を見ろ。そうすれば僕たちは、お前に道を示してやれる」
 照れ隠しなのか、いつもより早口だ。心持ち声色も高めで、気恥ずかしく感じているのが透けて見えた。
 昼の陽の下であれば、頬を赤らめているところが見られたかもしれない。
 惜しいことをしたとほんの少しがっかりしつつ、立香は湧き起こる感慨に胸を躍らせた。
「そっか」
 アスクレピオスはこれで、星座として夜を彩る英霊の一騎だ。
 そうなった経緯は、彼にとって決して快いものではなく、逆に神々への恨みを募らせるものであったかもしれない。されどゼウスの采配があったからこそ、彼は歴史だけでなく、星空にも名を刻んだのだ。
 彼だけではない。
 多くの英雄を育てたケイローン、数々の冒険譚に謳われたヘラクレス、双子の英霊ディオスクロイ、勇猛果敢な狩人オリオン、等など。
 カルデアに集った英霊にも、夜を飾る者達が大勢存在した。
 その全員をレイシフト先に連れて行くのは、難しい。けれど空の上から暗き大地を照らし、見守っていると言われたら、その通りだと嬉しくなった。
 いつだって、夜が来るのが怖かった。
 自分の旅路は、果てが知れない暗闇と隣り合わせ。踏み誤れば奈落の底へ一直線の、脆く、細い、不安定な橋を、命綱なしで歩かされているようなものだった。
 一メートルもない視界の、ほんの十センチ足らずでしかない範囲であっても、照らしてくれるものがあるのなら、心強い。
「でもさ。……空から見てるだけ?」
「何が言いたい」
 夜眠れないほどの不安は、きっとこの先も、絶対に消えることはない。
 ただ心に折り合いを付ける助けとなるのは、間違いなかった。
「こういう時は、隣で支えてやる、とかさ。そういう格好いい台詞の出番じゃないかな、と思ったんだけど」
 沈みきっていたものが浮き上がり、軽い調子で弾んでいた。
 調子に乗って笑いながら茶化した立香に、アスクレピオスは口を噤み、背筋を伸ばした。
 突然神妙な顔をされて、おちゃらけた気分でいたのに、水を差された。真剣な目つきで見詰められて、怪訝にしていたら、銀髪の英霊は静かに瞼を伏した。
「言って良いのか?」
 厳かに、粛々と。
 静かな感情を秘めた囁きが夜の風に溶け、立香の鼻先を擽った。
「……え?」
 顔を上げた英霊は相変わらず涼しげな顔をして、されど眼差しだけは、鋭利なナイフのそれに等しかった。
 背を向けるのを許さない。そんな雰囲気に圧倒されて、咄嗟に言葉が紡げなかった。
「言えば、お前は重荷に感じるかもしれない。だから多くの英霊が、言わずに秘めているものを。良いのか? 僕が今、それを言っても」
 立香が呆気にとられ、硬直しているのを良い事に、アスクレピオスは捲し立てた。珍しく饒舌に畳みかけて、戸惑う立香との距離を詰めた。
 まず右手首を取られ、反射的に跳ね上げた左肩を押さえられた。逃げられないよう束縛されて、真正面から覗き込まれた。
 顔が近い。星明かりでも辛うじて見えていた彼の輪郭が、迫る影の所為で曖昧に滲んだ。
 呼気が肌を掠めた。彫像めいた高い鼻が、立香の低い鼻にぶつかった。
 覗き込まれている。それが分かるのに、はっきり見えない。
「アスクレピオス」
 暗闇に呑まれる錯覚を抱き、恐怖した。半ば悲鳴に近い声で名前を呼び、胸を押し返したが、抵抗は呆気なく封じられた。
 知らぬ間に腰に回された腕は細く、膂力もさほどではないはずなのに、振り解くのは至難の業だった。
 冗談めかしたとはいえ、あれは要らぬひと言だった。アスクレピオスがこれから何を言わんとしているのか、おおよそ理解出来たからこそ、焦りが膨らんで、汗が止まらなかった。
 過度な愛情表現を辞さないサーヴァントも、中に居る。ただそうやって普段から表明してくれていたら、ある程度の先読みも可能で、回避は容易かった。
 アスクレピオスは、違う。日頃はとても素っ気ない。軽い怪我や、微熱程度では相手にしてくれない。表向きは、立香にまるで関心を示さなかった。
 不意打ちだ。
 逃げられない。
 捕まった。捕まってしまった。
「待って、アスクレピオス。その、心の準備が」
「うるさい。言わせたのは、マスター、お前だ」
 慌てふためき、爪先立ちから膝蹴りを食らわせるが、掠った程度でダメージにもならなかった。必至に身を捻って暴れるが、全て封じ込められて、耳元での囁きは直接腰に来た。
 メディカルルームでの呆れ口調とも、先ほどまでの指導者然とした語り方とも、昔馴染みの面々を前にした時の砕けた雰囲気とも、まるで違う。
 どこか切羽詰まったような、悲壮感さえ漂わせる決意の声色に、鳥肌が立った。
「改めて誓う、マスター。お前の隣で、お前の道筋を、僕が支え続けることを。お前が目覚めない時は、遠慮なく叩き起こしてやる。その心音が絶えることなく鳴り響き続けるよう、全霊を賭して、お前を生かす。決して死なせない。死したとしても、必ず僕が、この手で甦らせてみせる」
 目の前で紡がれた宣誓に、目眩がした。
 それは契約であり、誓約であり、呪いだ。言葉にすれば形を持ち、色を纏い、行動を左右させる柵を生む劇薬だった。
 故に理性的な英霊は、敢えて口にしなかった。あからさまに態度で示すことはあっても、面と向かって言い放つ愚行には至らなかった。
 しかしアスクレピオスは、その不文律を引き裂いた。立香の冗談を端緒として、胸の内に留めていたものを一気に吐き出した。
 ぶつけられた感情が大きすぎて、とてもではないが一度に処理しきれない。頭がくらくらして、膝が崩れそうになったが、両側から抱きかかえてくる腕が難なく体重を受け止めた。
 支えられて、自分からも縋り付いた。
 包み込んでくる温もりは、夜風に当たってすっかり冷えていた体躯にとって、微睡みをもたらす程に心地よかった。英霊の首元を囲う立て襟を掴み、顔を上げれば、暗がりの中に翠の恒星が瞬いていた。
 その輝きが一瞬、翳った。
「……だが、マスター。もしお前が、真に望むなら。僕はお前を――」
 強く抱きしめて、目を合わせないまま、声を絞り出して告げられた。
 音にならなかった続きは、心の中だけに響いた。
 夜、眠るのが怖かった。二度と目覚めないかもしれないと考えて、楽になれると嬉しがる自分が、心の底から許せなかった。そして自分がいなくなることで皆の旅路が潰えてしまう可能性に、魂が震えた。
 奪われた未来を取り戻すと決めたのは、他ならぬ自分だ。掴み取った手を離したくなかったし、託されたものを捨て去って逃げる男にはなりたくなかった。
 ただ少し、頑張りすぎたかもしれないと、思うことはある。
 預けられた荷物が、重くなってきた。それでも背負うと決めたのに、放り出したい欲求が拭えなくて、苦しかった。
 夜が怖かった。
 眠るのが怖かった。
 生きたいという欲望は、胸の奥底にしがみついていた。楽になりたいという願いを喉元に突きつけられながらも、未だしぶとく、性懲りもなく、みっともなく足掻いていた。
 それが自分だ。汎人類史最後のマスター、藤丸立香という人間だ。
 平凡で、なにも持たない。多くを知らず、勇気と無謀の区別さえつかないような、ちっぽけな存在だ。
 故にこそ、エンドマークを打つのも自分自身でなければならない。他者に――ましてや英霊に委ね、任せてしまったら、それこそ史上最低、最悪のマスターの誹りを受けよう。
「あはっ。その時は、叩き起こしてね」
 医者として数え切れない命を救ってきた相手に、決して言わせてはならない言葉を選ばせた。
 またひとつ芽生えた悔恨に打ちのめされないよう、務めて明るく声を放つ。
 途端に束縛が緩んで、姿勢を正したアスクレピオスがなんとも言えない表情を作った。
 口を真一文字に引き結び、瞳を真ん中に寄せて、頬の筋肉は痙攣してかピクピク震え、鼻から吐いた呼気は荒い。
「……あれ? ――――いだ、だだ。いちゃい、やめ、ちぎれちゃう!」
 冗談で始まったことだから、冗談めかせて終わらせようとしたら、盛大に滑った。
 笑って流そうとしたのは大きな失敗で、次の瞬間、立香の両頬は焼けるような痛みに襲われた。
 思い切り抓られ、引っ張られた。
 肉が千切れるのではと思えるくらい力一杯、爪を立てられた。
 長い袖が緩衝剤代わりになってくれたが、それでも痛いものは痛い。堪えきれず悲鳴を上げて泣き喚けば、状況を知る由もない獣の雄叫びと、断末魔が、立て続けに聞こえた。
 無益な殺生に走らせた仲間を思い、この展開を予想出来なかった自分の軽率さを悔いた。
「ごめん。ごめんて。あひぃ」
 多方面に詫びて、許しを請い、睫毛を涙で濡らした。
 憤然とした面持ちの男は無言を貫いて、まず右の頬を解放し、左の頬をぺちん、と叩いた。
 鏡がないので分からないが、確実に赤く染まっていることだろう。じんじん疼き、熱を抱く箇所を撫で擦って、立香は居丈高に胸を反らして立つ男に向き直った。
「えっと。……なんていうか、なんだろう。ありがとう……かな?」
「知らん」
 こういう場合、どう言うのが正解か、分からない。
 とにかく何か言わねばと急いた結果、出たひと言に、アスクレピオスはつれなかった。
 素っ気なく吐き捨てられて、笑い返す気力も湧かない。がっくり肩を落として頬を引き攣らせていたら、気まずい空気を嫌った英霊がゆるゆる首を振った。
 砂埃に覆われた岩肌を蹴り、問答無用で近付いてきたかと思えば。
「ん?」
 つい先ほど引っぱたかれたばかりの場所を、手のひらで覆われた。労るようになぞられて、何事かと惚けている間に、唇を攫われた。
 表面を掠めただけで、体温も、感触すら残らない。ひょっとしたら寸前で回避しての、キスする素振りだけしてみせたどっきりかと勘違いしたくなるような、一瞬の出来事だった。
 だが実際のところ、しっかり接触があったのは、彼との間にある魔力の流れからも明らかだった。
 その瞬間、確かにパスが強化された。立香の中にあったものが掬い取られ、アスクレピオスに渡ったのは、間違いなかった。
「な、ぬあ……ああ、もう。反則!」
 カルデアのサーヴァントは、基本的にシステム側の電力をリソースとして活用しており、マスターから直接魔力を提供されているわけではない。接触による魔力供給は、あくまでも非常時の最終手段だ。
 しかし今は戦闘中でもなければ、魔力の枯渇が懸念される事態でもない。言い換えるなら今のくちづけは、緊急回避以外の意味合いを、過分に含んでいた。
「オレ、良いって言ってない」
 加藤段蔵をこれ以上働かせないために、声を絞ってひそひそ怒鳴るは良いが、迫力には欠けた。
 マスターとサーヴァントの関係性を越えんとする男を律し、立香は誓約の無効を主張した。承諾していないのに一線を越えるのはルール違反だと訴えて、遅れに遅れてじんわり微熱を孕んだ箇所を右手の甲で隠した。
 令呪に唇が触れたのは、意図したことではない。後で気付いて身震いし、押し退けたところで、涼しい顔をしたアスクレピオスは喜色満面に胸を張った。
「いいや、言ったぞ。だから明日からは、遠慮なく叩き起こしてやる」
「あ……っ!」
 袖の中で人差し指を伸ばし、額に突きつけながら言われた。
 それで思い出して、一度ならず二度も繰り返した失態に、立香は天を仰いだ。
 雲が晴れ、星空が眩しい。
「あ、そうだ」
「なんだ」
「ラサール……なんとかって、結局、なに?」
 今のやり取りも、星座の彼らに見られていたかと思うと、気恥ずかしくある。
 誤魔化してぱちくり見開いた眼をアスクレピオスに投げて、立香は半端なところで放置されていた話題を引っ張り出した。
 立香選出の夏の大三角形で、彼は妙な反応を見せた。その理由がまだ聞けていないのを思い出し、不明瞭な記憶を頼りに問いを投げる。
 途端にアスクレピオスは渋い表情になって、問答無用で人の後頭部を叩いた。
「いたっ。医者の暴力、断固反対!」
 ぱこん、とやられて、前につんのめった。
 転びそうになったのを堪え、首根っこを掴んで引き摺ろうとする男に全力で抵抗した。それを力技でねじ伏せて、アスクレピオスは米俵を運ぶが如く、立香の身体を担ぎ上げた。
 その細身の身体のどこに、こんな力が眠っていたのだろう。
 下手に暴れたら、振り落とされかねない。多少不安定ながらも、ずんずん進む彼に臍を噛んで、立香は諦めて全身の力を抜いた。
 決して心地よくはない振動に身を委ねていたら、不思議と瞼が重くなった。
 散々騒いだし、喋ったので、気が抜けたのかもしれない。或いはあのくちづけの際に、なにかしら盛られたのだとしても、不思議ではなかった。
「目覚めは保証してやる。今は休め」
 うとうとしていたら、子供を宥める口調で言われた。
 素直に従うのは癪だし、目覚めたら何もかもなかったことにされていそうな予感がした。必死に抵抗するものの瞼が閉じるのは防ぎ切れず、意識は次第に重く暗い方へ沈んでいく。
 間違ったまま立香の記憶に刻まれた、星の名前。
 それが他ならぬ蛇使い座のひとつだと彼が知るのは、もう少し先になってからだ。

2021/04/04 脱稿
思ふよりほかなることの苦しきは 今や初めて君も知らるむ
風葉和歌集 979

ひな鶴の 沢辺にしばし 休らふを

 食堂で渡された甘味に、思うところはいくつかあった。
 真っ先に思い浮かんだのは、懐かしい人の顔。好物を手に、嬉しそうに笑う姿が自然と瞼に甦って、鼻の奥がつんとなった。
 年甲斐もなく頬張っていた光景が次々と現れては、消えていく。そんな事情もあって、分かっているというのに、足は自然と医務室に向かっていた。
 カルデアの現在地は、あの頃から大きく変化した。しかし古くからのスタッフに配慮してか、主たる施設の位置は、あの頃を模したものになっていた。
 違う点を挙げたらキリがないけれど、似通っている部分も、数えてみれば両手で足りない。床に薄く、長く伸びる影を踏みしめながら、立香は慣れ親しみつつある道筋を辿った。
 こんなものをもらっても、彼が喜ぶはずがないのは知っている。
 だというのに郷愁を抱いた影響か、一緒に食べたいと願ってしまった。
 嫌な顔をするだろうか。あの人と彼は、まるで違う存在なのだから。
 もとより比べられるのを、快く思ってはいまい。いや、あの男のことだから、歯牙にも掛けず、鼻で笑い飛ばすかもしれないが。
「どっちでも、いい、かな」
 これは自分の我が儘だ。そして目下メディカルルームを支配下に置くサーヴァントには、マスターの命令に従う責務がある。
 いざとなれば、令呪を使えば良い。そんな理由で消費して良いものではないと、周囲から雷を喰らいそうではあるが。
「ふふん」
 だとしても、構わない。
 妙な開き直りの精神で胸を張って、立香は迷う事なく辿り着いたドアを潜った。
「アスクレピオス、入るよー」
 動くものを感知して、扉は自動的に道を譲った。室内に入ってから呼び声をあげた彼に、中に居た男は至って面倒臭そうな顔で振り返った。
 同じく振り向いたネモナースが、立香の顔と、手元を見て、即座にアスクレピオスを仰ぎ直した。胸に抱いたタブレットを素早く操作して、画面を消したかと思えば、ぺこりと頭を下げた。
「続きは、こちらで引き受けますね」
「なんだと? おい、勝手な真似をするんじゃない」
「アスクレピオス君は、朝からずっと作業続きで、お疲れですから。丁度良かったです。休憩、してくださいね」
 言うが早いか、ネモ船長の分身体はパタパタと可愛い足音を響かせた。急な予定変更に驚き、声を荒らげた男の制止も聞かず、立香に向けてはにっこり笑いかけた。
「え?」
 来たばかりなので理解が間に合わず、反応出来ない。ただすれ違い様、ぽん、と軽く腰を叩かれたことで、ピンとくるものがあった。
 ドアが開いて、すぐに閉まった。足早に去って行った背中を見送って、残された青年は、同じく置いていかれた男に肩を竦めた。
「……だってさ」
 メディカルルームを根城にしているのは、アスクレピオスだけではない。看護師としての役目を担うあの子が言うのであれば、この男は本当に、朝からずっと、作業のし通しだったのだ。
 手にした皿を上下に揺らし、立香もまた、彼に休憩を促した。言われた方は終始渋い表情だったが、睨んだところで立香が譲らないと知るや、諦めて肩を落とした。
「僕は、サーヴァントだぞ」
「でも、疲労は溜まるよね。疲れた時には、はい。甘い物」
「サーヴァントに――」
「食べるのも、気分転換のうち。それに、誰かと一緒に食べるのは、余計に美味しいから。ねえ、オレに付き合ってよ」
 苦虫を噛み潰したような顔で呻く男を説得し、手近なところにあった背もたれのない椅子を引き寄せた。先に腰を下ろし、キャスター付きの椅子を爪先で示して、食堂から運んで来たものは机の空いている場所に捩じ込んだ。
 なんだか良く分からない空き瓶や、乾燥した草の束などを押し退け、スペースを作る。その上で改めて皿の上の大福を掌で指し示せば、アスクレピオスは観念したか、鈍い足取りで近付いて来た。
 途中だった作業データを保存して、タブレットは薬品棚の隙間に捩じ込んだ。手前にあったワゴンには、整理中と思しき薬の瓶と、分類に使うラベルなどが並べられていた。
 室内を注意して見回せば、空になった瓶や、箱に入った備品類が大量に積まれていた。
 今は緊急を要するレイシフトもなく、ノウム・カルデア内は落ち着いていた。言い換えれば時間的余裕があるので、滞っていた作業をまとめて進めていたのだ。
「忙しいなら、手伝おうか?」
「お前の手を借りる程のものじゃない。……これは、食べ物なのか?」
 立香も、取り立てて急ぎの用はない。
 親切で言ったのだが、アスクレピオスはにべもなかった。取り付く島を与えず、素早く話題を変え、真っ白い大福に眉を顰ませた。
 怪訝な顔付きで、遠くから皿の上の物体を窺っている。
 立香にとって馴染み深い甘味でも、古代ギリシャに由来する英霊には縁がなかったものだ。奇異に思うのも当然と苦笑して、彼は仲良く並んでいる大福のうち、手前側を軽く小突いた。
 ちょっと押しただけなのに、柔らかな餅はその形の通りに凹んだ。
「美味しいよ」
 無銘の弓兵ことエミヤの自信作だから、味はお墨付きだ。
 アスクレピオスもさっさと座って食べるよう言って、立香は指で凹ませた方を取り、遠慮なく齧り付いた。
 大きく口を開き、中心部手前で前歯を衝き立てる。
「はむ」
 口を閉じる直前、鼻から息を吐いた。幸せを感じながら噛み締めた大福は、完全には千切れず、びよーん、と面白いくらいに長く伸びた。
 中に包まれていた餡子の甘みと、仄かなしょっぱさが心地よい。味付けは絶妙で、最高だった。
 作ってくれた英霊を心の中で称賛し、咀嚼しながら惜しみない拍手を送り続けた。満面の笑みを浮かべてふたくち目を頬張って、立香はふと視線を感じ、前に向き直った。
「食べないの?」
「お前を見ている方が面白い」
「ぶふっ。なにそれ。嫌味?」
 穴が空くほどではないけれど、凝視されていた。あまつさえ、失礼千万なことを言われた。
 軽く噎せ、睨み付けるけれど、アスクレピオスはどこ吹く風だ。飄々と受け流した彼は診療時に使う椅子に座りはしたが、大福には手を出さず、机の角に肘を立てて頬杖をついた。 
 本当に、立香が食べる姿を眺め続けるつもりらしい。
「性格悪いって言われない?」
「今さら、なにを」
 食べているところをじっと見られるのは、正直かなり微妙だ。ひとりだけ食べている状況なのも、良い気がしなかった。
 一緒に食べたくてわざわざ運んで来たのに、これでは意味が無い。
「アスクレピオス」
「なんだ、マスター」
 我慢ならなくて訴えかけるが、伝わらない。ぞんざいに返事した彼は、頬杖をついたまま右手を振り、返事の代わりにした。
 もれなく長い袖が揺れて、細かな刺繍が光を反射した。
 指先は布に覆われて見えず、また袖を捲って曝け出すつもりもないらしい。やる気は感じられず、自発的になにかしよう、という雰囲気も皆無だった。
 本音を言えば、腹立たしい。
 残り少なくなった大福を一気に口に放り込んで、立香はむすっと頬を膨らませた。
 柔らかな塊を雑に噛み砕き、飲み込んで、指にこびりついた粘り気は舐めて、刮ぎ落とした。爪に貼り付いていた餅の残骸も、唾液を吸わせて湿らせて、前歯で削って回収した。
 最後に親指の腹に残る打ち粉に舌を這わせたところで、ハッと息を呑む。
 指を半端に咥えたまま、背筋を伸ばし、アスクレピオスを見た。かの男は依然として横柄な態度を崩さず、悠然と椅子に座ってこちらを眺めていた。
 特徴的な前髪の内側で、僅かに金が混じった緑の瞳が立香に向けられる。 
 これまでもずっとそうだったのに、この時だけ、目が合った途端に気恥ずかしくなった。
 発作的に膝を閉じ、畏まって、立香は濡れた指先を服に擦りつけた。
「手術着っぽい、ほら。あっちの服なら、自分で持てるじゃない?」
「あれはあれで、手袋を外すのが手間だ」
「じゃあ、オレ、食堂からお箸、貰ってくる」
「あの二本の棒は、得意じゃない」
「あああー、もう!」
 他愛ない仕草と無視してやれば良かったのに、気がついてしまった。
 アスクレピオスの今の格好では、大福を手で持てない。柔らかな餅を布越しに握ろうものなら、どうなる。袖にべったり貼り付いて、食べるどころの騒ぎではなかった。
 とはいえ、伝え方の難易度が高すぎやしないだろうか。
 口で説明してくれればこちらとしても楽だし、理解もずっと早かった。だのにわざわざ回りくどく、面倒なやり方をして、いったい何がしたいのか。
「この我が儘。ていうか、ちゃんと言ってよ。分かり難いんですけど」
「だが、お前は理解した」
「はいはい。じゃあ、どうぞ。口開けて」
 ふて腐れて文句を言うものの、話が噛み合わない。真面目に付き合ってやるのも面倒臭くなって、立香は投げやりに言い、皿に残っていた大福を鷲掴みにした。
 もっちりとした感触で、餡子がたっぷりなのもあり、意外と重い。
 たった一個だけでも、充分腹が膨れた。口の中の水分を奪われ、熱い茶が欲しくなる欠点を除けば、概ね満足だった。
 手の掛かるひな鳥の為に、満腹感を堪能しつつ、腕を伸ばす。
 アスクレピオスは返答を受けて一瞬目を見開いた後、すぐに眇め、僅かに身を乗り出した。キャスター付きの椅子を軋ませて、言われた通りに口を開いた。
 ただその隙間は、とても丸齧り出来る広さではなかった。
 まさか捩じ込むわけにもいかなくて、立香は慌ててブレーキを踏んだ。大福を差し出す勢いを微調整して、伏し目がちになっているアスクレピオスの手前で停止させた。
 お蔭で当初より、あらゆる動きがゆっくりになった。
 長く伸びるもみあげが絡まないよう、男は手で髪を掻き上げた。真正面からでは齧りにくいと判断したのか、顎を引いて背筋を伸ばして、斜め上から改めて狙いを定め直した。
 思えば彼がなにかを口にする瞬間というものを、ここまで間近で、じっくり観察したことはない。
 その事実に気がついた途端、緊張に襲われた。大福を握る手にも力が籠もり、綺麗な円形が楕円に歪んだ。
「う、ぅわ……」
 無意識に声が漏れたが、掠れるほどの小声だったので、アスクレピオスは反応しなかった。彼は交差する前髪を静かに揺らし、唇の隙間から舌先を覗かせて、真っ白い大福を探るようにひと舐めした。
 ちろりと舌で表面を擽って、コンマ二秒後に唇を押しつけた。湿らせた箇所に前歯を衝き立て、一部だけを削りとった。
 思い切りの良さはなく、慎重だった。初めて口にするものに興味はあるが、万が一の可能性を考慮して、探りを入れるのを忘れなかった。
 とはいっても、小指の先ほどを味わったところで、大福の美味しさは実感できまい。
「これは、そういうんじゃなくて。もっとこう……がぶっと。いかないと」
 唇に付着した白い打ち粉を舐める姿も面白く、ついつい笑みが零れた。
 このサイズをひと口で食べろとは言わないが、せめて三口で終わらせて欲しい。ちびちび行くのではなく、大胆に挑むよう持ちかけて、立香は手本代わりに口を開閉させた。
 先ほど実践してみせたのを思い出すよう言って、右手で抓み持つ大福を揺らす。
 力説するマスターにひとつ頷いて、アスクレピオスは目を細めた。
「そうか。お前がそう言うのなら……遠慮は不要だな」
「ん?」
 くく、と喉を鳴らしながら囁かれて、なにやら不穏なものを背中に感じた。もしや選択を間違えたかと懸念し、慌てて思考を巡らせるけれど、それより早く、アスクレピオスの手が伸びてきた。
 同時にキャスター付きの椅子が膝の裏で蹴られ、遠くへと飛んで行った。
「え、え。ちょ」
 急にガタッと立ち上がられて、立香は慌てふためいた。床を滑る椅子の行方と、迫る男のどちらを注視すべきか迷っているうちに、手首を取られ、不遜に笑いかけられた。
 映画の中で悪役がやりそうな顔をして、やや乱暴に引っ張られた。
 自由を奪われた腕の先で、大福が不安定に揺れ動く。
 このままでは落としてしまう。しかし焦るこちらの気も知らず、距離を詰めたアスクレピオスは、教わった通りの大胆さで口を開いた。
 それは狙い定めた獲物を喰らう、蛇の如き姿だった。
「う……っ」
 最初の控えめな食べ方は、演技だったのか。
 信じられないと目を丸くする立香の前で、彼は寸胴な大福を半分に噛み千切った。餡子の塊が断面から崩れ落ちそうになっているのを見れば、即座に舌を伸ばし、下から掬い上げる形で救い出した。
 その際勢い余ったのか、脇に逸れた舌先が、大福を支える立香の指を掠めた。
 自分のものとは違う、生暖かい熱と滑りが、一瞬で通り過ぎて行く。
「ひぃぃ」
 たまらず喉を引き攣らせて悲鳴をあげるが、アスクレピオスは意に介さなかった。
 聞こえていないのか、それとも無視しているだけか。もちもちした食感をさほど楽しむことなく飲み込んで、彼は右から左へと、唇を舐めた。
 わざと見せつけるかのように、ゆっくりと。そして頬を引き攣らせる立香に向かって、ニィ、と口角を歪めみせた。
「や、やっぱ。やめ。やめ! 自分で食べて!」
 箸がダメなら、フォークを使えば良い。邪道だが、ナイフで小さく切って食べるのもひとつの手だ。
 とにかく今の、この食べさせ方から逃げたかった。しかしジタバタ暴れても、拘束は一向に解かれなかった。
 クラスはキャスターで、腕力だってたいしたことがないくせに、こういう時だけ規定外の力を発揮してくれる。
 そもそも相手がサーヴァントである時点で、人間である立香に勝ち目はないのだけれど。
「お前が自分で、このやり方を提案したんだろう」
「アスクレピオスが、そうしろって」
「生憎、僕はそんなこと、ひと言も言っていないぞ。マスター?」
「はっ。あああ、もう。この、卑怯者ぉ!」
 もっとも抵抗はまるで無意味ではなく、逃れられないものの、アスクレピオスの再接近は防げた。
 力尽くで抑え込もうとする彼を牽制し、口汚く罵って、同時に掌で転がされていた自分を呪った。彼の指摘は正しくて、全ては立香が勝手に思い込み、決めつけての行動だった。
 己のあまりの軽率さに、恥ずかしくて涙が出そうだ。
「言いたいことは、それで全部か」
 鼻を愚図らせていたら、頭の上から冷たいひと言が降って来た。
 馬鹿にされて、やり返したい気持ちは十二分にあったのだけれど、言葉が追い付かない。
 ごちゃごちゃしてまとまらない頭で見上げた先で、アスクレピオスは思った以上に優しい、柔らかな顔をしていた。
 口ぶりと、表情が一致しない。
 思わず抱いた違和感に戸惑い、混乱しているうちに、隙を見出した男が再度立香の手を引き、その指先に顔を近付けた。
 長く握り締めていた所為で、大福は、最早原形を留めていない。歯形が残る断面は瓢箪型になり、指は深くまで食い込んでいた。ねっとりとした感触が皮膚を包み込んで、滲み出た汗が大福の塩気を増幅させていた。
 そんな甘味に鼻を寄せ、アスクレピオスが一瞬こちらを見た。
 目が合った。
 逃げ場のない距離で、立香はまさに蛇に睨まれた蛙だった。
「あ、あの……」
「もらうぞ」
 言いたい事があったはずなのに、言葉が出ない。
 それに被せる形で短く宣言して、アスクレピオスは淡々と口を開き、立香が持つ大福に舌を伸ばした。
 真上から、唾液を滴らせて。
 生温かな粘膜で全体を包み込んで、くちゅり、と濡れた音を響かせた。
 最初に比べれば格段に小さくなった大福ごと、傷だらけの指をぱくりと咥え、唇で食む。傷つけないよう牙は立てず、ふにふにと捏ねるように動かして、べったり貼り付いていた両者を引き剥がした。
 丁寧に。
 丹念に。
 慎重に、じっくり時間を掛けて。
 舌が同じ場所を何度も往復し、肌を擽った。爪の隙間に潜り込んでいないか一本ずつ確かめて、無数に走る皺を伸ばし、塊を飲み込む際には強く吸い付いた。
 彼がなにかする度に、ぬちゅ、くちゅ、と水が跳ねる音がする。しかもそれは耳殻を通って鼓膜を震わせる類ではなく、立香の骨を伝い、直接脳に届くものだった。
 それが二重にも、三重にもなって、身体の内側を駆け抜けて行く。
 合間に漏れ聞こえる吐息がくすぐったい。微熱を含んだ呼気で濡れた指先をなぞられて、ぞわぞわと悪寒が走った。
「ひや、あ、あの。あの、……ね。もう、ね……?」
 揃えていた踵が、自然と外向きに広がった。膝と爪先は密着させたままもぞもぞ身動ぐけれど、巧く言葉に出来ないせいか、アスクレピオスは止まらなかった。
 一瞬だけ瞳を持ち上げ、立香を窺って、またすぐに伏した。深く咥え込んだ人の指ばかり見詰めて、熱心に、充分過ぎるくらい、その腹を、爪先を、背を、舐め回した。
 最早そこに、大福は欠片すら残っていない。
 なのにまだ満足出来ないのか、あちこち這い回っては、その都度艶めかしい音を響かせた。
 いい加減解放してもらいたいけれど、身動きが取れないまま、時間だけが過ぎていく。
 片腕だけを高く掲げられた姿勢は、苦痛だ。肩や周囲の筋肉には余分な負荷が掛かり、じわじわ煽られ、熱を抱く体躯が余計に体力を削ってくれた。
 内股になって腰をくねらせ、視覚的に訴えてみても、アスクレピオスは察してくれない。絶対に、確実に気付いているだろうに、無視を決め込み、言及を避けていた。
 是が非でも言わせたいらしい。
 患者の具合を、医者の勝手な想像で判断してはならない。それは常々、彼が口にしていることでもある。
「だから、ってぇ」
 半泣きで鼻を愚図らせて、立香は唇を噛んだ。喉の奥で恨み言を呟いて、最後の抵抗とばかりに、奪われた右腕を取り戻すべく、肘を引いた。
 そうすれば、どうなるか。
 咥え込んでいたものが引き抜かれそうになったアスクレピオスが、反射的に立香を噛んだ。
 ずっと意図的に避けていたことを、止められなかった。
 強く、思い切り。
 力任せに。
「ひゃあ、っん!」
 乱暴に削られた。けれどそれは、ある意味立香が求めていた、新しい刺激だった。
 どくりと心臓が高鳴り、衝撃を待ち侘びていた身体が素直過ぎる反応を示した。溢れる声を止められず、殊の外甲高い悲鳴を上げて、本人もよもやの出来事に遅れて目を丸くした。
 小さく跳ねた膝が空中で衝突して、引き摺られた布が深く腿に食い込む。ぎゅう、と上から押さえつけられた肉欲がそれに反発して、明確な形を成し、俯いた立香の視界に飛び込んで来た。
 居たたまれなくて慌てて顔を上げれば、人の指の腹を舐める男の貌が、存外近い場所にあった。
「……!」
 目にした瞬間、顔から火が出そうになった。ぼっ、と音が響くくらい真っ赤になって固まった彼に、アスクレピオスは低く笑った。そうして引き抜かれこそしたけれど、未だそこにある指先に舌を絡ませた。
 たっぷりの唾液を塗し、くにくにと擽った。滴り落ちそうになった水滴は拾い上げて、温かな熱と共に再度擦りつけた。
「さて、マスター」
 低く掠れた声が、耳元で風を起こす。
 ぞくりと来る微熱に身震いして、立香は二度瞬きし、底意地が悪い男を窺った。
 今も囚われ中の手越しに見た彼は、不遜に微笑み、小首を傾げていた。濡れて艶めかしく光る指の背にくちづけて、敢えて舌を空振りさせて、人を試した。
 なにかを期待して蠢いた太腿に、長い袖が降りてくる。
「次は、何を食わせてくれるんだ?」
 甘く濡れた囁きに、胸が弾むのを止められない。
「それ、は」
 布越しになぞられて、息が詰まった。きゅう、と縮こまった身体をゆっくり開いて、立香はふやけて皺くちゃになった指で、アスクレピオスの唇を撫でた。

朝霜の おくれば暮るる 冬の日も

 その日は、寝付きが良くなかった。
 寝台に寝転がり、灯りを消して、目を閉じても睡魔が来ない。幾度も寝返りを打ち、無限に増える羊を数えもしたが、効果は無かった。
「……ダメか」
 もっともそんな事態は、今に始まったことではない。毎夜とはいかないが、三日に一度は起きる現象に、心はすっかり慣れきっていた。
 それはあまり喜ばしいことではないけれど、変に焦って、神経を磨り減らすよりはずっと良かった。
 無理に眠ろうとして、却って目が醒めて眠れなくなるくらいなら、起き上がって気分転換を。
 諦めの境地から潔く開き直って、汎人類史最後のマスターたる藤丸立香は身を起こした。
 人肌に温まった毛布に別れを告げ、揃えておいた靴を履いた。爪先で数回床を叩き、寝間着代わりにしているインナーの上に上着を羽織った。
 袖は通さず、肩に被せるだけでも、空調が効いている屋内は充分暖かかった。
「本当は、もっと寒いはずなんだけどな」
 壁に表示されたデジタル時計は、照明がなくても数字がはっきりと見えた。
 深夜と表現するには少々早い時間帯が表示されて、その下には小さく、今日の日付も記されていた。
 白紙化される以前の地球では、この時期、北半球は冬だ。春の足音に耳を澄ましつつ、まだまだ厳しい寒さに身を震わせている頃だ。
 だが現状、季節の移ろいを感じるのは難しい。
 飾り気の少ない無機質な空間をぼんやり眺めて、立香は緩く首を振った。
 物寂しさを覚え、心に隙間風が吹いた。
 眠りを求めていたはずなのに、睡魔は余計に遠ざかった。代わりに言い表しようのない虚無感が、鍵のないドアをノックした。
「散歩してこよう」
 こんな気分転換は、求めていない。
 絞り出すように呟いて、彼は重い腰を上げた。
 上着がずり落ちないよう襟を掴み、扉を潜った。人の気配を察知してドアは自動的に開き、潜り抜けてすぐ、勝手に閉まった。
 夜間というのもあり、廊下の照明は消えていないけれど、明るさはかなり絞られていた。
 昼に比べて格段に薄暗い通路は、果てが知れない。
 見飽きているはずの景色が不意に不気味に思えて、ぶるっと寒気が来た。
「まあ、でも。何かあったら、ダ・ヴィンチちゃんが反応するはずだし」
 嫌な予感を払拭すべく、わざと声に出し、頼りになる仲間を思い浮かべる。最中に天井を見上げ、再び遠くに目をやれば、恐怖心は幾ばくか弱まった。
 ほっと息を吐き、唇を舐めた。乾いてかさついている指で上着を握り直し、一歩を踏み出した。
 新所長のゴルドルフはもう眠っているだろう。マシュは起きているかもしれないが、夜半に女子の部屋を訪れるのは、要らぬトラブルを招きかねない。管制室には夜でも誰か詰めているはずだが、仕事を邪魔するのは忍びなかった。
 行き先を検討して、あれこれ理屈をつけて候補を減らしていく。
「……怒られるかな」
 そして毎回、残るのはただ一カ所のみ。
 呆れ顔の医者の顔を想像して、立香は首を竦めた。小さく舌を出して苦笑して、足取りも軽く歩き出した。
 真っ直ぐ伸びる廊下を抜けて、いくつか角を曲がり、一気に馴染み深くなった空間へ。
「こんばんはー」
 軽やかに夜の挨拶を述べ、踏み込んだ室内は、廊下と比べると格段に明るかった。
 入って正面に診察用の椅子と、ベッド。左側に幅広の机が置かれ、卓上には複数のモニターが行儀良く並んでいた。
 空のベッド、片隅に追い遣られた点滴スタンドに、消毒薬やガーゼが収められた銀色のワゴン。一定間隔で響く電子音の発生源は、残念ながら見付けられなかった。
「夜中の急患にしては、随分と元気が良いな」
 一見すると無人かと勘違いしたくなるが、そうではない。
 聞こえて来た嫌味に瞬きして、背筋を伸ばした。声がした方に首を向ければ、特徴的な前髪の医者が、壁際に佇んでいた。
 長い袖をだらりと垂らして、表情は不満げだ。眇められた眼は鋭く、姿勢良く立つ立香を値踏みするが如く睨み付けた。
 への字に曲げられた口元は、多くを語らない。全身から発せられるオーラは、全力で不機嫌だと告げていた。
 寝ていたのを叩き起こされた、というわけではなかろう。そもそもサーヴァントは、睡眠を必要としない。彼ら英霊は、ただの人間でしかない立香たちとは、身体の構造から魂の在り方まで、なにもかもが異なっているのだ。
「元気じゃないよ。眠れないんだ」
 彼は単に、医務室にやって来た人間が深刻な病状を抱えていないのが、面白くないだけだ。
 医神との異名を持つギリシャ神話の英霊は、その尊称に偽りない力を有していた。
 反面、思考回路が医学方面に特化しすぎている為、並大抵の症例では満足しない。挙げ句奇病を求めて危険地帯に突進したり、動く屍体を手懐けようとしたりと、常識の範囲からはみ出る行動も厭わなかった。
 そんな男に不眠症を訴えたところで、鼻であしらわれるのは明らか。
 にもかかわらず平然と言い放ち、主張した立香に、アスクレピオスは深々と溜め息を吐いた。
「またか」
 繰り返される夜間の来訪に、彼もすっかり諦め気味だ。
 面倒臭そうに舌打ちして、利き腕に巻き付いていた白蛇の顎を撫でた。好きな場所に座るよう、目線だけで立香に指示を出し、彼自身は踵を返して部屋の奥へと向かった。
 医務室には、水道が引かれていた。ガスもある。冷蔵庫や、冷凍庫といった設備も整えられていた。
 いずれも医療行為に必要なものだから、用意されているだけ。しかしかつてのカルデアで、メディカルルームを拠点にしていた男は、医薬品を保管すべき冷蔵室に、度々甘い物を隠していた。
 誰にも言わないと約束して、ご相伴に与ったこともある。
 不意に甦った記憶に身震いして、立香は強張りかけた頬を撫でた。
 軽く揉み、抓み、押して、力技で表情を緩めた。無人だった丸椅子に腰掛け、羽織っていた上着を膝に広げる。しばらく待っていたら、遠くから物音がした。
 ピー、という甲高い電子音は、湯沸かし器の警告音だ。
「アスクレピオス?」
「砂糖と、蜂蜜と、どっちが良い」
「両方は?」
「ダメだ。どちらかにしろ」
「えー。じゃあ、蜂蜜で」
 耳を澄ませば、カチャカチャと陶器か、金属かが擦れ合う音もした。
 首を伸ばし、様子を窺うけれど、障害物が多くて見通せない。ソワソワしつつ、暇を持て余して貧乏揺すりをしていたら、白蛇が床を這って来るのが見えた。
「おいで」
 手招きし、ついでに姿勢を低くした。左腕を伸ばし、指先を揃えれば、意図を汲んだ蛇がするりと手首に巻き付いた。
 鱗はつるりとして、冷たい。締めつけない程度に絡みついて、肩に到達するまであっという間だった。
「あは。くすぐったいよ」
 細く長い舌をちろちろさせて、頭部を擦りつけられた。首筋を擽られて、思わず声が出る。高らかに笑っていたら、ガチャン、と遠くで不穏な音がした。
 なにかが割れたのではと危惧するけれど、違うかもしれない。
「大丈夫?」
「問題無い」
 姿が見えない相手に呼びかければ、瞬時に返事があった。
 苛立ちが感じられる口調は素っ気なく、語気も荒かった。とても問題無いようには思えなくて、立香は纏わり付く白蛇と顔を見合わせた。
 つぶらな眼を見詰めて小首を傾げても、相手は言葉を発する器官を持たない。ただ人並みに感情はあるようで、気にするなとでも言いたげに、再び首を擡げて頭を擦りつけて来た。
 どういう仕組みなのかは分からないが、アスクレピオスが戦場に立つ際、この蛇は機械の姿へと変わる。戦闘に参加し、果敢に攻めて、医神をサポートした。
 ギリシャ異聞帯の神々は機械の肉体を有していたから、これもまた、その一部なのかもしれない。とすればアポロンの血を引くアスクレピオスの、機械神としての部分が、この蛇に備わっているのかもしれなかった。
「その辺、どうなのかな」
 出生の謂われが尾を引いて、医神と太陽神の関係は最悪だ。彼の前でその名を口にするだけでも、血の雨が降りかねなかった。
 だから聞いたことがないし、聞けたとしても答えが得られるとは限らない。
 危険な好奇心は胸に秘して、立香は喋らない蛇の頭を撫でた。
 そうこうしているうちに、足音が小さく響いた。顔を上げればサンダルの踵で床を蹴り、コートを翻した英霊が間近に迫っていた。
 楕円形のトレイには、大ぶりのマグカップとティーポット。どちらも余計な装飾は一切施されず、極めてシンプルで、実に機能的な食器だった。
 裏を返せば愛想がないが、そこに頓着しないのが、いかにも彼らしい。
「眠る前に、歯を磨き直すのを忘れるな」
「はあい」
 蜂蜜が入っているからと前置きして、トレイに載せたまま差し出された。
 彼の袖は長くて、物を掴む邪魔になる。不用意に持とうとすれば失敗する恐れがあると、それは立香も承知していた。
 だから大人しく自分で引き取って、ほんのり漂う甘い香りに頬を緩めた。
「カモミール」
 微かに林檎のような匂いがしたが、実際に林檎が使われているわけではない。
 これまでにも何度か供されたことがある飲み物に相好を崩し、立香は水面に向かってそっと息を吹きかけた。
 僅かに黄みがかった色の液体を揺らし、表層を泳ぐ小さな花を目で追いかけた。
 どうやら生の花を、そのまま使っているらしい。
 香りだけでなく、目も楽しませてくれる。無愛想ながら、不思議な気遣いを見せた英霊に破顔一笑して、目礼してからひとくち、温かな茶を口に含ませた。
 優しい匂いに、柔らかな味わいが、舌先を通して全身に広がっていった。
「おいしい」
 幸せを噛み締め、目を細める。
 人の肩に居座っていた白蛇を引き取って、アスクレピオスは再び奥へ引っ込んだ。戻ってきた彼は、矢張り白一色の小さな容器を、ティーポットの隣に置いた。
「飲んだら、さっさと帰れ」
 冷めないようポットにはカバーを被せて、蜂蜜もしっかり準備しておいて、告げる言葉は素っ気ない。
 一致しない言動に噴き出しかけたが我慢して、立香は温かなマグカップを両手で包み込んだ。
「は~い」
「返事だけ一人前だな、お前は」
 間延びした声で応じたら、呆れられた。
 ただ表情は来訪直後とは異なり、幾分穏やかだった。
 優しい顔をしていると言ったら、きっと拗ねて、いつもの仏頂面に戻ってしまう。だから指摘せず、胸の内に留めた。
 彼はいつも、夜更けに訪ねて行くと、迷惑そうな顔をする。
 けれど眠れないと言えば理由は聞かず、こうしてお茶を淹れてくれたり、拙い話に付き合ってくれた。
 馬鹿騒ぎには、乗ってきてはくれない。冗談は通じない。不眠症の自分を茶化せば、逆にこっぴどく怒られた。
 治療方法はないと言われていた。最たる原因が、終わりの見えないこの旅路にある以上、根治は不可能と匙を投げられていた。
 立ち向かい続けても、諦めて歩みを止めても。立香がどちらを選んだとしても、きっと穏やかに眠れることはない。
 アスクレピオスは悔しそうだった。腹立たしげに舌打ちを繰り返し、握り拳を震わせていた。
「あったかいや……」
 今となっては懐くもあるやり取りを振り返り、飲みやすい温度になったカモミールティーを啜った。すいすい泳ぐ小さな花を避けて喉を鳴らし、ぷは、と息を吐いた。
 すっかり空になったカップを膝に下ろせば、傍らで見守っていたアスクレピオスがその手を伸ばした。
 袖越しに指が触れた。
 ずっと黙って佇んでいた彼が、何を考えていたか、立香には分からない。
「え、なに?」
 彼の挙動は唐突で、前触れがなかった。断りのひと言もなく、マグカップごと手を握られたのに、驚かずにはいられなかった。
 予期せぬことに声が上擦った。思いの外近くにあった彼の顔は、人に似て人にあらずの、神の血筋にあると瞬時に分かる造詣だった。
 要するに至近距離で直視するのは、目に毒だった。
 わざとではなかろうが、彼の呼気が肌を掠めた。煽られた前髪がふわりと浮き、沈んでいくのがスローモーションで見えた。
「荒れている」
 見詰められて、見詰め返すのが精一杯だった。彼はもう少し、己があのプレイボーイで知られる太陽神の息子だという事実に、自覚を持つべきだ。
 整った顔立ちの英霊が何かを口にしたが、それが意味ある単語として、咄嗟に理解出来ない。
「へ?」
「何をしたら、こんなになるまで放置出来るんだ。乾燥してひび割れた箇所から雑菌が入ったら、どうするつもりだ」
 惚けていたら、布越しに指先を撫で回された。叱責と共に無遠慮に、且つ執念深く、丹念に一本ずつ吟味された。
 時にマグカップに添えられていたものを引き剥がし、指の腹側も確かめた。じっくり、しつこいくらいに検分して、なかなか離れていかなかった。
 その間彼の頭部は立香の目と鼻の先にあり、動きに合わせて揺れる銀髪が眩しかった。息遣いが肌を通して感じられて、触れられた場所は微妙に痒くて堪らなかった。
 局地的に血行が良くなって、引き摺られた心臓がばくばく音を奏でた。唾を飲めば、カモミールティーに混ぜた蜂蜜の影響か、仄かに甘かった。
 直前までリラックスモードだったのに、唐突に心拍数が上がって、首筋にじんわり汗が滲んだ。目の奥がチカチカして、顔が火照って、全体的に熱かった。
「確か、カモミールを使ったクリームがあったな。出してやる。……どうした?」
 振り払いたいのに、どうしてだか動かない。自分の身体なのに自由が利かない状態に固まっていたら、ようやく異常を察知した医神が眉を顰めた。
 悔しいかな、訝しげにする姿も美しく、麗しかった。
「顔が、近い」
 知ってはいたけれど、改めて実感させられた。
 痛感させられた。
 思い知らされた。
「顔?」
 興味があることに対しては情熱的だが、アスクレピオスは己の容姿にまるで関心がない。それひとつでも充分他者を惑わせられるということを、理解していない。
 相手が男だと承知していても、不必要に意識させられて、どぎまぎした。
 綺麗すぎる顔がすぐそこに――下手をすれば深く触れかねない位置にあるのに、平常心でいられるはずがない。
 だというのにアスクレピオスは、立香の動揺と、困惑の原因に首を傾げた。
「手、も。……眠れなく、なる」
 こうしている間も、手は握られたままだ。静かに冷めていくマグカップに代わって、間に挟まれた指先は燃え盛る炎の如き熱さだった。
 喉の奥で絞り出した声は震え、掠れていた。俯いた状態での懇願は小さすぎて、アスクレピオスに無事届いたか分からなかった。
 ちらりと横目で窺えば、彼はきょとんとしながら瞬きを繰り返した。それから数秒して、不意に得心がいった様子で頷いた。
「ああ。お前は僕の顔が、殊更好きだったか」
「か――顔だけ、じゃ、ないし!」
 淡々と呟かれて、立香はボッと火を噴いた。咄嗟に伸び上がって叫んだ台詞は、脳を通ることなく、魂が直接導き出したものだった。
 だから、というわけではないけれど。
 言うつもりが無かった自分自身の発言に、後から恥ずかしくなった。心が掻き乱され、あわあわして青くなったり、赤くなったりしていたら、唾を飛ばされたアスクレピオスが間を置いてククッ、と喉を鳴らして笑った。
「そうだったな」
 いかにも知っていました、という態度で囁いて、袖を翻した。立香の体温を吸った布越しに黒髪を軽く撫で、梳いて、一旦離れたかと思えば、すいっと頬をなぞられた。
 布の所為で見えたいけれど、恐らくは人差し指か中指の背で、唇をさっと擽られた。
 たったそれだけなのに、鼓動が跳ねた。心臓が口から飛び出しそうになって、立香はしゃっくりを真似て、息を呑んだ。
 奥歯を噛み、小刻みに震えながら意地悪く微笑む男を仰ぎ見る。
「ここにも、保湿が必要だな」
 乾燥して手指がささくれ立っていると指摘して、あくまでもその延長線上だと言外に断り、彼は言った。
 どの部位を指しての発言かは、想像に難くない。反射的に唇を舐めて、立香は上目遣いに前方を窺った。
 しばらく待っても、続きは降って来ない。
 こういう時だけ主導権はマスター側に、という建前に即している彼が恨めしかった。こちらから提案しなければ動かないとの態度に臍を噛んで、立香は膝を覆う上着に爪を立てた。
「眠れないのは、……困る。でも、このままじゃ、眠れない」
 目を逸らし、すぐに戻し、また逸らして、しどろもどろに懇願した。
 我ながら何を言っているのかと、頭を抱えたくなる発言を悔いたが、もはやどうしようもない。
 奥歯を噛み締めて、返事を求めた。
 残る力を振り絞った眼差しの先で、アスクレピオスは肩を揺らし、不遜に笑んだ。
「僕の所為で患者が眠れない、というのは沽券に関わる」
 とうに空になっているマグカップを引き取り、彼はそれを机に置いた。邪魔にならないよう奥へと避難させて、息を呑む立香との距離を詰めた。
「まずはどの程度荒れているか、触診から始めるとするか」
「それ、ただの触診?」
 片手を机の角に預け、身を乗り出し、近付いてくる。
 ほんの少し戻ってきた余裕に口角を持ち上げれば、調子づいた立香の問いかけに、アスクレピオスは目を細めた。
「さあ、な」
 

2021/02/11 脱稿
朝霜のおくれば暮るる冬の日も 今日こそ長きものと知りぬれ
風葉和歌集 387

袖のうちに 我が魂や まどふらん

「マスター」
「うわっ、びっくりした」
 真っ直ぐ伸びる廊下を、特になにも考えず、前だけ見て歩いていた時だ。
 右手にも道が分岐するT字路に差し掛かっても、直進することだけを考えていた。目的地に最短距離で到達すべく、余所見もせずに足を動かしていたから、気付くのが遅れた。
 その分岐路の角に隠れる存在があり、しかも待ち構えていたかのように話しかけられた。
 不意打ちも不意打ちの襲撃に、心臓が止まり掛けた。ドキッ、と激しく跳ねた鼓動を抱きしめて、藤丸立香は声を震わせた。
 黒い服を着ているから、余計に発見がし辛かった。
 居るのなら、もっと分かり易い所に立っていて欲しい。心の中で恨み言を吐いて、立香は話しかけて来た相手を睨んだ。
 けれど向こうは、まるで悪びれる様子がない。逆にそんな目で見られる謂われはないとばかりに、不思議そうに小首を傾がせた。
 緩く編んだ長いもみあげを揺らし、カラスの嘴を模したマスクを着けた英霊が一歩前に出る。
「おどかさないでよ、アスクレピオス」
 つられて半歩後退して、立香は口を尖らせた。
 小鼻を膨らませて文句を言うが、己の行動に何一つ疑問を抱かない男は、理解を示さない。
 怪訝にしつつ距離を詰めて、あっという間に立香を壁際へと追い込んだ。
「な、なに」
 詰め寄られるのを拒んで下がっているうちに、逃げ場がなくなった。
 無言で見詰められるのは、危険がない相手と分かっていても、どことなく恐ろしい。そもそも話しかけてきた用件もまだ聞いていなくて、声を上擦らせれば、彼は嗚呼、とマスク越しに吐息を漏らした。
「お前に、これを」
 言われて、思い出したらしい。アスクレピオスは長い袖をだらりと垂らし、コートの内側から小さな瓶を取り出した。
 否、小瓶ではない。透明な漏斗状のガラス細工が、細い首のところで上下に繋がっていた。
 細かな粒子が中に収められ、さらさらと揺れ動く。
 どこかで見た覚えがある形状に、立香は目をぱちぱちさせた。
「なに、これ」
「砂時計だ」
「ああー、どうりで。……でもなんで?」
 小さい頃、家にあった記憶が甦った。しかし名前が出て来なくて、アスクレピオスに言われて、足りなかったピースが綺麗に嵌まった。
 思わず声を高くし、続けてトーンを落とし気味に呟く。
 胡乱げな眼差しを受けて、医神の異名を持つ英霊はふっ、と目を細めた。
「貴様、最近歯磨きをサボっているだろう」
「ええ?」
 マスクで見えないけれど、口元はきっと忌々しげに歪められているに違いない。
 それが分かるくらい低い、淡々とした台詞に、背中が寒くなった。
「そそ、そ、そんなこと、は。ない……ない。ない、ぞう?」
「嘘を吐くな。この愚患者が」
 咄嗟に否定の言葉を口走るものの、動揺があからさまに出てしまい、説得力はないに等しい。
 目を合わせていられず、顔を背けた立香に、アスクレピオスはぴしゃりと言って右手を高くした。
 袖越しに持った砂時計で、あろうことかマスターの額を打ち、そのまま押しつけて来た。突っ返すことも出来ず、仕方なく受け取って、苦々しい表情で彼に向き直った。
 むすっと頬を膨らませ、渡されたものを意味も無く左右に揺らす。
 動きに合わせて流れる砂粒の向こう側で、アスクレピオスは両手を腰に当てた。
「いいか、マスター。最低、三分だ。力を入れ過ぎず、一本ずつ丁寧に磨け。特に歯と歯の隙間には、汚れが残りやすい。歯の裏側もだ。歯ブラシを縦にして、磨き残しが出ないよう、注意しながらやれ」
「はあい、先生」
 途中から左手を泳がせ、袖先をぶらぶらさせながら、説教臭い話を早口で。
 さっさと切り上げたくて良い子を装えば、彼は小さくひとつ頷いた。
「プラークが残れば、虫歯や、歯周病の原因になる。舌で触って、ざらざらしているのがそれだ」
 言いたい事をひと通り伝えられて、満足したらしい。
 確かに彼の言葉通り、試しに舌先で歯の裏側をなぞってみれば、微かだけれど違和感があった。普段なら気に留めないところだけれど、注意深く探れば、本当に触り心地が悪かった。
 思い返してみれば、この頃はアスクレピオスの指摘通り、歯磨きを疎かにしがちだった。
 他のことで忙しかったし、部屋に押しかけてくる英霊達の相手で時間を取られ、歯ブラシを手にする余裕が減っていた。軽く磨きはするけれど、丁寧さとは無縁の有り様だった。
 ただそれでも、今のところ支障はなかったので、問題視してこなかった。
「いいな、最低三分だ。毎日、毎食後、続けろ」
「分かってるって。……あれ、でもなんで」
 己の手抜きぶりを反省し、念押ししてくる彼に肩を竦めて、立香はふと湧いた疑問に目を瞬かせた。
 まん丸い瞳を正面に投げ、ざらつく前歯の裏を無意識に舐めた。
 真新しい砂時計を両手で握り、不遜に目を眇める男を見やる。
 今、このタイミングで彼に口腔衛生の指導を受けるきっかけは、微塵も思い当たらなかった。第一歯磨きをする空間は、マスターである立香の私室内にあって、その回数や頻度も、他者の管理下におかれるものではない。
 だというのにどうやって、アスクレピオスは正確に、ことの事実を突き止めたのか。
「アスクレピオスは、どうしてオレが、この頃、歯磨きサボってるって、知って……――っ!」
 問いかけでもあり、独り言でもある呟きの直後、立香はゾッ、と背中を駆けた悪寒に背筋を震わせた。
 ここ最近の出来事で、心当たりがあるとすれば、ただひとつ。
 昨夜、眠る前、少し話をした。人肌が恋しくて、熱が欲しくて、甘えて、強請った。
 キスをした。唇を重ねるだけでは物足りなくて、歯列を開き、貪り食われるのを望んだ。彼は願いを受け入れて、優しい愛撫で応えてくれた。
 丹念に、丁寧に、歯茎をなぞりながらじっくりと、時間を掛けて舐られた。立香も舌を伸ばし、激しく絡ませて、深く吸って、甘噛みを繰り返した。
 しつこいくらい、咥内を荒らされた。
 ねっとりと蜜が溶け合うくちづけは、心地よかった。
 だけれどもしかしたら、あの時、アスクレピオスは違うことを考えていたのかもしれない。
 想像して、立香は咄嗟に内股になった。背中から壁に激突して、思い返すだけで自然と甦る熱と、欲と、言いようのない羞恥心に慌てて蓋をした。
 唇を戦慄かせ、金を含んだ翡翠の眼差しに息を呑む。
 一瞬で青ざめた彼の内心を知ってか、知らずか、アスクレピオスは不敵に笑って、踵を返した。
「そうそう、マスター。もし自分で無理だと言うなら、いつでも来い。僕が手ずから磨いて、きちんと仕上がっているか、確かめてやる」
 コートの裾を翻し、立ち去り際にちらりと振り返って、意味ありげな視線を投げる。
 惚けていた立香はそれでハッと背筋を伸ばし、みるみる赤くなる顔を砂時計で隠した。

2021/01/31 脱稿
袖のうちに我が魂やまどふらん かへりて生ける心地こそせね
風葉和歌集 928

思ひ余り 人目忘れて 迷へとや

 甘い匂いがした。
 嗅いでいると歯が浮きそうで、口の中がむずむずする。エナメル質を分解するミュータンス菌が反応して、不気味に蠢いている錯覚に襲われた。
 別に痛くもないのに気になって、奥歯がある辺りに手を伸ばした。同時に臼歯の表面を舌でなぞって、違和感がないのを無自覚に確かめた。
 身体に異常は見られない。なにもおかしなところはない。あるのはさっきから鼻先を掠める甘い、胃に重そうな匂いばかりだ。
「バレンタイン、というには早くないか」
 ここカルデアで毎年大々的に開催されているイベントは、カレンダー上では来月の話だ。勿論準備に余念がない輩が勤しんでいる可能性はあるが、それにしたって少々気が早い。
 このお祭り騒ぎの為に、ノウム・カルデアのリソースの多くが割かれているという現実も、アスクレピオスには不思議だった。彼らの時代が終わった後に現れた聖人由来の催しも、本来はもっと違った形で伝えられていたはずだ。
 なにがどうなれば、あんな乱痴気騒ぎに近い行事になるのか。
 もっとも昨年の彼もまた、自身の研究の成果を披露すべく、この祭に最大限に乗っかったわけだけれど。
「そうか。そろそろ僕も、準備に入るべきか」
 人間は基本、甘い物が好きだ。一部例外はあるものの、年齢が下がるにつれて、その傾向は強くなる。
 ならばその甘いものに、健康になれる要素を詰め込めば、手軽に、且つ合理的に心身の充足感が得られるはず。
 この仮定を実証すべく、去年は昼夜を惜しんで実験に励んだ。しかし受け取った時のマスターの反応は微妙で、嬉しそうではあるけれど、満足した風には見えなかった。
 ならば今年こそ、彼をより健康にする為の甘味を完成させなければならない。
 一粒ずつ大事に食べるのではなく、毎日でも大量に摂取したくなるようなものを、実現させるのだ。
「しかし、そうなると材料が……ン? 匂いの発生源は、ここか」
 昨年のレシピを振り返りつつ、新たに見出した数式や要素を取り込んで、足りない材料への懸念に眉を顰めた矢先だ。
 先ほどから漂っていた匂いが一際強くなって、アスクレピオスは立ち止まった。
 ドアは閉まっているが、隙間から空気が漏れている。幼い英霊たちでなくとも惹き付けられる香りは、案の定、食堂から流れ出ていた。
 照明を受けて銀色に光る扉には、時間を区切り、立ち入り禁止と記した紙が貼られていた。下にはマスターである藤丸立香の名前に加え、日頃からキッチンを取り仕切っている英霊の名が、縦に並んで綴られていた。
 およそ常識のある英霊ならば、これを目にした時点で諦めるだろう。
 しかしアスクレピオスには、カルデア全体の健康を守るという義務がある。無駄に虫歯になる患者を増やし、未知のウイルスや奇っ怪な症例に割り当てる時間を減らされるのは、我慢がならなかった。
「ふん」
 警告を無視し、見なかった振りをして、堂々とドアの開閉ボタンを押す。
 契約したサーヴァントらの良識を信じていたのか、食堂の扉に鍵は掛かっていなかった。
「ああ、こらー」
 問答無用で足を踏み入れ、一層強くなった匂いに眉を顰めていたら、前方から鋭い声が飛んできた。
 見ればハンドミキサーを手にした赤髪の女性が、渋い顔で睨みを利かせていた。すぐ傍にはエプロンを着けたマスターの姿があり、横には手ほどき中だったらしい弓兵が立っていた。
 彼もブーディカの声に反応し、困った表情でアスクレピオスに視線を投げた。マスターに至っては数秒固まって、真っ先に隣を窺って、また正面に目をやる有り様だ。
 半端に緩んだ口元は、当惑を隠さない。笑ってはいるものの、対処に苦慮している雰囲気だった。
「もう。今の時間は立ち入り禁止って、外に貼っておいたでしょ。見てないの?」
「ああ。なにやら書いてあったな」
「分かってて入って来たわけ? ちょっとマスター、何か言ってやって」
 言葉が出ないでいる彼に代わり、両手を空にしたブーディカが目を吊り上げた。口をへの字に曲げて煙を噴き、全く悪びれないアスクレピオスに地団駄を踏んだ。
 自分が言っても響かないと悟り、マスターに助力を求める。水を向けられた青年は一瞬ぎょっとした後、肩を竦めて頬を掻いた。
「そう言われても……弱ったな」
「ルールは守った方が、身のためだぞ。来月、自分だけなにも貰えない事になっても、こちらは責任が持てない」
「そうそう。他から聞いてないの?」
 口籠もるマスターに目配せされて、傍らに控えていたエミヤが凛と声を響かせた。
 広々とした空間に、低音が波打ちながら広がっていく。距離があったが聞き取り易い音域に頷いていたら、横からブーディカが割って入ってきた。
 彼の後を継ぐ格好で言葉を紡ぎ、両手を腰に当てた。頬を膨らませ、胡乱げな眼差しを投げ、首を僅かに傾がせた。
「ほか?」
 それに応じて、アスクレピオスは彼女とは反対向きに首を捻った。
 目を眇め、心当たりが浮かばないと態度に出す。するとなかなか進展しない会話に、ブーディカが痺れを切らして捲し立てた。
「マスターから、もらえなくてもいいのー?」
 彼女が言いたいのは、バレンタインデーの贈り物のことだ。
 マスターは毎年律儀に、全てのサーヴァントにささやかな贈り物を用意していた。どれだけ英霊の数が増えようと、方針は変えないつもりらしく、それがまたカルデアのリソース不足を招く要因となっていた。
「ああ、そういうことか」
 彼を敬愛し、信奉し、忠誠を誓う英霊らにとって、その贈り物は他に類を見ない宝物となるだろう。
 けれどアスクレピオスにとって、藤丸立香という存在は、マスターであると同時にパトロンで、患者だ。彼に求めるものがあるとするなら、それは菓子などではなく、常識を覆すほどの症例や、病原菌の方だ。
「安心しろ。つまみ食いを要求しに来たわけじゃない」
 立ちこめる甘い匂いに誘われて、多くの英霊がここを目指したに違いない。
 しかしそのうちの大半は、来月に控える祝祭の日のために、己に我慢を強いたはずだ。
 すべてはマスターから、甘い菓子を受け取るために、と。
「違うの? じゃあ、なにしに入って来たのさ」
 ただアスクレピオスの目的は、そうではない。
 これまでの数年間、マスターの手助けをしてきたブーディカたちにとっても、警告を無視して入って来る輩は、悩みの種だっただろう。
 誰もが味見役に立候補して、一足先に祝祭日の贈答品を堪能したがった。アスクレピオスの来訪もまたその流れと、彼女は解釈した。
 拍子抜けしてぽかんとなったブーディカを鼻で笑い、アスクレピオスはマスターに向けて指を伸ばした。
 長い袖を揺らめかせ、ただひとりに焦点を定めた。
「作るのも、食べるのも、構わない。だが、食後の歯磨きは徹底させろ。無駄に歯痛を訴える奴を増やしてみろ。許さないからな」
「はあ――?」
 尊大に言い放ち、眼力を強める。
 途端にブーディカは素っ頓狂な声を上げて目を丸くし、エミヤは一秒遅れて肩を震わせた。
 マスターも惚けた顔で瞬きを繰り返し、エミヤが笑いを堪える姿を見て、頬を緩めた。ぷっ、と窄めた口から息を吐き、緩く握った手を鼻の下に押し当てた。
「なんだよ、それ。そんなこと言いに、わざわざ?」
 こみ上げて来るものを我慢せず、ケラケラ声を響かせ、笑う。
「そんなこととは、なんだ。マスター」
「あー、はあ。はいはい。確かに大事だわ、歯磨き」
 聞き捨てならない台詞が含まれているのに反応すれば、お節介な女王が大仰に肩を竦め、天に向かって言い放った。
 お蔭で発言の撤回を求めようとしたのに、タイミングを逸した。苦虫を噛み潰したような顔でいたら、一頻り笑ったマスターが目尻を擦り、背筋を伸ばした。
「分かってるよ。ちゃんと磨くから。なんなら、歯磨きチェック、お願いしようかな」
 彼はそう言って口角を持ち上げ、上唇をちょん、と小突いた。隙間から白い歯を覗かせて、無邪気に目を細めた。
 それがツボに入ったのか、エミヤが右手で顔を覆い、そっぽを向いた。ブーディカも呆れ顔で嘆息し、後ろで鳴り出したキッチンタイマーの相手をしに踵を返した。
「……歯垢染色剤なら、後で出してやる」
 向けられていた視線が一気に減って、アスクレピオスもやる気を削がれた。毒気を抜かれて、それだけ言い返すのがやっとだった。
 尻窄みに声が小さくなったものの、普段の賑わいから程遠い静けさのお蔭で、なんとかマスターの耳には届いたらしい。彼はニカッと楽しそうに笑って、一度手元に視線を落とし、カウンター内に置かれていたものを取った。
「そうだ。折角だし、味見してってよ」
「僕の話を聞いていたか?」
「聞いてたよ。そりゃ、勿論」
 彼が顔の高さに掲げたのは、黒っぽい塊が並ぶ白い皿だった。
 得意げに言った青年は、アスクレピオスに駆け寄るべく、横に長いカウンターを回り込んだ。英霊二騎は勝手を始めたマスターに対し、諫めるのを諦めたのか、それぞれの仕事に戻っていた。
 菓子作りの手ほどきの他に、夕食の準備もあるのだろう。先ほどまであんなに喧しかったのが嘘のように、我関せずの姿勢を崩さなかった。
 その変わり身の早さに唖然としているうちに、息を弾ませたマスターが目の前まできた。差し出された皿には不格好な四角い塊が複数、ごろごろと転がっていた。
 表面は凸凹しており、黒に近い焦げ茶色をしていた。ただそれだけでなく、白っぽい塊が所々紛れていた。
 胸焼けを起こしそうな甘い匂いが鼻腔を擽り、無意識に胸の辺りを掻く。
「ブラウニーだよ。オレが焼いたんだ」
「お前が?」
 焦げた塊にも見えるが、食べ物であるらしい。手を伸ばすのを躊躇していたら、焦れたマスターが揃えた踵を浮かせ、すぐに下ろす仕草を数回繰り返した。
 ぴょこぴょこ動きながら、一度厨房を窺って、頬を緩めた。
 小さく首を振った彼に頷き返して、アスクレピオスは聞き覚えがある単語に感嘆の息を漏らした。
 そう言われたら、謎の物体が菓子らしく見えて来た。エウロペが持ってくるものとは若干異なるが、共通点はいくつか発見出来た。
「いや、僕は味見をしにきたんじゃない」
 うっかり流されそうになったが、立ち入り禁止の張り紙を無視したのは、つまみ食いがしたかったからではない。
「それはさっき聞いた。でも、折角だし、感想聞かせてよ。ほら」
 出掛かった右手を制して語気を荒らげた彼に、マスターは屈託なく言って、大きめの塊を選んで抓み持った。
 鼻先に突き出されて、反射的に仰け反った。弾みで垂れ下がる銀の毛先が踊り、ブラウニーを掠めた。
 髪が食べ物に触れるのは、衛生上宜しく無い。殺菌や消毒に五月蠅い婦長を警戒し、咄嗟に後ろを見て、アスクレピオスは安堵の息を吐きながらマスターに向き直った。
 黒髪の青年は不思議そうな顔をしていたが、特になにも言わなかった。ただ黙って菓子を持ち、期待の眼差しを向け続けた。
 断りにくい。
 嫌だと言えば、彼はきっと引き下がる。ただそれを言わせまいとする、後方に控える英霊たちの圧が凄まじかった。
 マスターに贈るチョコレート薬の準備で、彼らに協力を求めることもあるだろう。
 自身の立場を考えると、ここは大人しく従うのが正解だった。
 もっとも美食を謳う英霊の如き感想は、どう足掻いても絞り出せそうにない。
「あまり期待するな」
 栄養価が高く、健康であれるなら、多少不味かろうと気にして来なかった。含まれる成分よりも食感、風味を重要視する風潮には、未だに馴染めずにいた。
 気の利いたことは、言えない。
 あらかじめ断って、アスクレピオスはマスターが持つブラウニーに向かい、首を傾けた。
 咥えやすいよう微調整された角度に従い、口を開いた。小さな空洞が連なる断面を伸ばした舌でちろりと舐めて、ひと呼吸置いて前歯を衝き立てた。
 見た目よりも、柔らかかった。
 だが上下から挟んで断ち切る寸前、何かにぶつかって、邪魔された。
「ン、むぐ」
「あ」
 それでも大部分が塊から分離しており、崩れゆくのを止められない。
 ぼろっと落ちた塊は、皿に委ねた。アスクレピオスは急ぎ閉ざした口腔で、正体不明の塊を磨り潰した。
 舌が蕩ける甘さを裂いて、香ばしさが広がった。砕かれた破片が歯の表面を削りながら転がって、想定していなかった感触を引き出した。
 柔らかな生地に紛れていたのは、ナッツだ。
 アーモンド、胡桃、カシューナッツ。細かく刻まれたそれらが内側に紛れ込み、味わいにアクセントを加えていた。
 黙って顎を動かし、唇に残っていた欠片は舐めて集めた。何も残っていないのにもう数回、舌を動かして、アスクレピオスは飲み込んだ後も残る甘さに吐息を零した。
「あまい」
 マスターの手にある時は固かったのに、口に入れた途端、ブラウニーはほろほろと崩れていった。しっとり濡れた生地は舌に絡まり、焦げたナッツを噛み砕けば、幸せな刺激が咥内に広がった。
 少々焦げがあり、苦みを感じる部分もあったが、不快と断ずる程ではない。ひとくち齧っただけではあるが、及第点と言って良い味だった。
 判定を待つマスターは神妙な顔をしていた。なかなか切り出さないアスクレピオスを窺い、首を竦め、怖々口を開いた。
「……お気に召さない感じ?」
「いや。良いんじゃないか」
 怯えながらの問いかけに、飾らないひと言を返す。途端、彼はぱああ、と顔を輝かせた。
「っし!」
 片手に皿、もう片手にブラウニーを持っているので、動きは限られるが、ガッツポーズに近い仕草で雄叫びを上げた。タンッ、と軽快に床を踏んで音を響かせ、底抜けに嬉しそうに笑った。
 顔をくしゃくしゃにして、喜びを隠そうとしない。ちらりと様子を窺ったキッチンでは、手伝った英霊が満足げに頷いていた。
「やったー。よかったあ……初めて作ったからドキドキだったんだよね。アスクレピオスが言うんなら、みんなに配っても、問題ないかな」
 エプロンの裾をひらひら揺らし、マスターが感慨深げに呟く。
 不安の種が吹き飛び、ホッとしたのが窺えた。味が保証されたのを喜んで、自分の作ったものに自信が持てたと胸を撫で下ろしていた。
 その言葉に、アスクレピオスは残っていたナッツの欠片を噛み損ねた。
 奥歯で挟んでいたものが、磨り潰す直前、カンッ、と外れた。破片は舌の上を点々と跳ねて、それまでとは違う苦みをもたらした。
「いや」
「うん?」
「後味が、……にがい」
「え」
 些細なものだった。そこまで気にならない、全体の甘さに容易く押し流される程度で、敢えて指摘する必要などどこにもなかった。
 だというのに、気がつけば声に出していた。
 左袖で口を覆って、アスクレピオスは襲い来た奇妙な感覚に息を殺した。
 味覚と、思考が巧く繋がらない。言わなくて良いものを述べた自身にも疑問を呈して、彼は混乱する頭を左右に振った。
「焼き過ぎた、かな。そんなに苦い?」
 マスターはにわかに不安げな顔をして、声を潜めた。自信作だったブラウニーを皿に戻して、しょぼくれた態度で頭を垂れた。
 直前までの元気の良さがすっかり薄れて、憐れに思えるくらいだった。
 たったひと言でこうも一喜一憂する彼を前に、罪悪感が否めない。
 同時にこの背徳的な感覚に、密かに興奮したのも確かだった。
 独占欲が湧き起こる。
 これを他の英霊にも食べさせる彼の傲慢ぶりに、怒りさえ覚えた。
 許せない。許さない。
 彼が初めて作り、他の英霊が口にしたことのないものを得た。その紛う事なき事実を捨てて、同等品が他者に振る舞われる事態を看過出来ぬほど、心が狭い自分に気付かされた。
「マスター」
「なに?」
「それを配るのは、止めておけ。他の連中には、去年までと同じものを用意しろ」
「……ん?」
 音量を絞り、彼にしか聞こえない声で囁く。
 告げられた内容にマスターは目をぱちくりさせて、怪訝に首を捻った。
 小動物じみた仕草は愛らしく、愛おしくもある。真っ直ぐ見詰め返してくる空色の瞳に深く首肯して、アスクレピオスは袖の上から、白い皿の縁をなぞった。
 緩やかに描かれる円を辿り、支え持つ彼の手に触れて、包み込む。
「っ」
 咄嗟に逃げようとするのを捕まえて、逃がさない。
「あ、アスクレピオス。え。なに」
 息を呑み、戸惑う彼を間近から覗き込んだ。声を震わせる彼に黙るよう、細く吐いた息で合図して、右の口角を持ち上げた。
 不遜に笑って、じわじわ顔を赤くする彼の手を、指を、皿ごと握り締めた。
「それは、僕だけ、だ」
 強張る指先を揉んで解し、囁く。
 マスターは下を向いて、唇を戦慄かせた。焦げ色のついたブラウニーを凝視して、二度と目を合わせてくれなかった。

思ひ余り人目忘れて迷へとや たれもしのぶの山の通ひ路
風葉和歌集 772

2021/01/24 脱稿

我ながら など思ひけん 目の前に

 ベッドサイドから垂らした足を、ぶらぶらと前後に揺らす。本来なら床に着く高さだけれど、深めに腰掛けることで、踵はギリギリ空中を泳いでいた。
 持て余した時間を両手で包み込み、腿の間に挟んで、立香は視線を上げた。右前方に顔を向ければ、柔らかな銀髪が一定のリズムで踊っていた。
 駒付きの椅子に腰掛けて、アスクレピオスは熱心にペンを動かしていた。
 長い袖越しでも器用に指を操り、左手でたまに端末を操作しては、流れて行く画面を止めたり、動かしたり、忙しない。
 複数並べられたモニターに表示される数式や、グラフは、立香にとって意味不明なものだ。たまに人体を模した図形が現れるけれど、それが具体的になにを示しているのかは、さっぱり見当が付かなかった。
 メディカルルームを陣取る医術系サーヴァントのやることだから、まず間違いなく、医学的発展に帰依する何かだろう。
「分かれば、面白いんだろうけどな」
 ただ内容が、アスクレピオスが生涯を賭して完成させた死者蘇生薬の再現に関するものか、別の病原菌についてかは、判断できない
 知識が、そして情報が圧倒的に足りなかった。
 興味はあった。好奇心が擽られた。とはいえ聞いたところで、彼が教えてくれるとは思えなかった。
 それに詳しく教わったところで、全てを理解出来るわけではない。
 己の頭脳レベルがどの程度かは、さすがに承知していた。
「んふぁ、あ~……」
 凄まじい勢いで内容が入れ替わるモニターから目を逸らし、止められなかった欠伸を零す。手で覆い隠そうかと考えたが、腿の間から引き抜く面倒臭さに負けた。
 猫背のまま大きく口を開き、瞼を閉じて、温くなった息を舌に転がした。「あ」の形から徐々に「い」の形に唇を動かして、自然と浮かんだ涙で睫毛を濡らした。
「んむ、うぅ」
 一度やってしまえば収まるはずが、その後も欠伸は止まなかった。二度、三度と繰り返し、諦めて持ち上げた手で頬を擽って、額に被さる前髪を引っ張った。
 軽い痛みで眠気を追い払おうとするけれど、これくらいでどうにかなるものなら、最初から欠伸など出ない。
 退屈すぎて、身体が刺激を求めていた。心を震わせるような出来事を欲していた。
 力なく垂れ下がっている爪先を気まぐれに蹴り上げて、頬を軽く抓り、何気なく視線を前方に戻す。瞬きを数回続けて、小首を傾がせれば、椅子の背凭れに肘を掛けた男が、剣呑な目つきで立香を睨んだ。
「眠いなら、自分の部屋で寝ろ」
 作業の手を休めたアスクレピオスが、目が合ったと知るや低い声で吐き捨てた。
「ぐぬ」
 いつから見ていたのだろう。素っ気ないひと言より、欠伸の瞬間を見られた可能性が頭を占めて、立香は喉の奥で唸った。
 みっともない、恥ずかしい姿を見られた。
 否、彼には既に身体の隅々まで観察されていた。あんなところや、こんなところまで、余すところなく検分されていた。
 蓋をしていた記憶が前触れもなく、勢い良く噴き出した。かあっと赤く、熱くなる身体を大急ぎで封じ込めて、立香は奥歯を噛み、小鼻を膨らませた。
「ベッド、あるんだから。別に、……いいだろ」
 顎を引き、肩幅に拡げた膝の間に両手を衝き立てた。肩を突っ張らせて抵抗の意志を示し、上目遣い気味に睨み返すが、ほんのり色を含んだ声は迫力に欠けた。
 合間に鼻を啜ったのも、失敗だった。変なところで台詞が途切れてしまい、気力が挫けて、最後の方は小声だった。
 尻窄みに小さくなっていく声に、己の不甲斐なさを痛感した。
 苦い唾を飲んで改めてアスクレピオスを見れば、彼は銀色のタッチペンを手放し、その手で机の角を軽く押した。
 椅子を操作して立香の方に向き直り、左を上に脚を組んだ。その上に両手を重ねて置いて、十字に交差する前髪を泳がせた。
「そのベッドは、診察に使うものだ」
 医務室には治療に使うベッドが複数並べられ、更にその奥には、高度医療を受ける為のポッドが設置されていた。
 ドアを入ってすぐのこの部屋は、簡単な治療や、診察を行う為の空間だ。もっともカルデア内において、医者の手当てが必要になるような怪我人は、そうそうに現れないのだが。
 英霊同士が本気でぶつかれば、腕や足の一本や二本、簡単に吹き飛ぶ。しかし通常空間での戦闘は、禁忌中の禁忌だ。やるとすればシミュレータールームに限定されて、それも設定次第で、負ったダメージは即座にゼロになった。
 つまるところ、ここにやって来る存在は、滅多に居ない。
 故にアスクレピオスは急患に備えつつも、自身の研究に没頭していた。
 立香が診察台を占領しても、困ることはなにもない。いざとなれば退けば良いだけで、今すぐ場を譲らねばならない理由にはならなかった。
「患者、いないのに?」
 ついでに言えば、奥のベッドはいずれも空だ。綺麗に折り畳まれたシーツは片隅に積み上げられ、長く使われていないせいで埃を被っていた。
 極小特異点が発見されるなどして、立香が出向かなければならない事態にでもならなければ、この状況は変わるまい。
 壁越しに静まり返った空間を確かめ、口角を持ち上げた彼に、アスクレピオスは露骨に眉を顰めた。
 不愉快だと言いたげに目を眇め、何か言いたそうに唇を開いたが、出てきたのは小さな溜め息ひとつだけだった。
「今すぐ患者になりたくなければ、部屋に戻れ。研究の邪魔だ」
「それって、つまり、患者になれば居ていいんだ。じゃあ、今からオレ、眠たい病を患います。だからここで寝て良い?」
「それは病気でもなんでもないぞ、マスター」
 凄みを利かせ、脅しにかかったアスクレピオスだけれど、この程度では引き下がれない。
 言葉尻を取って言い返した立香に、彼は益々剣呑な表情を作った。
 苦虫を噛み潰したような顔をして、医神の称号を戴く英霊が深く肩を落とした。
 それを横目にケタケタ笑って、立香は消毒液の匂いが染みついたマットレスに身体を埋めた。ふかふかではないものの、岩場よりはずっと柔らかな感触を楽しみ、撫で回して、手繰り寄せた枕を抱きしめた。
 上半身だけ転がした彼を睥睨し、アスクレピオスが舌打ちを繰り返す。苛立たしげに長いもみあげを弄り、組んでいた脚を解いて、立ち上がった直後に座り直した。
 近付いて来るのを期待したが、そうならなかった。
 衝動的な行動を控え、自制を働かせた医神を見上げて、立香は枕の影で頬を膨らませた。
「そもそも、そこまでして、此処に居る必要がどこにある。眠くなるのは、退屈だからだろう。だったらトレーニングに励むなり、他にすべきことがあるんじゃないのか」
「トレーニング、やり過ぎたら怒るくせに」
「それは、限度を考えないお前が悪い。身体を鍛えるのと、肉体を酷使するのとでは、意味合いがまるで違うと理解しろ」
 時間を無駄に浪費しているのを咎め、アスクレピオスは右の手のひらを上にした。指先で空を掻き混ぜ、緩く握り、人差し指だけを伸ばして立香を指差した。
 医療従事者らしい台詞を吐いて、あくまでも部屋から出て行くよう、促し続ける。
 お蔭で益々意固地になって、立香は身体を起こし、ベッドに座り直した。
 薄い枕を膝に抱え、上から押し潰した。長方形をリボン状に変形させて、放り投げたくなったのを、寸前で我慢した。
「そんなにオレのこと、邪魔?」
「気が散るのは、確かだな」
 医務室は治療を目的とした空間だが、かといって用がなければ来てはいけない決まりはない。
 居座り続けることへの正当性を主張したいが、邪険にされ続けるのは、少々心に堪えた。
 素っ気ない態度を崩さないアスクレピオスをねめつけて、立香は両の拳で枕を叩いた。押し出された内部の空気が舞い上がり、埃が散ったのを横薙ぎに払い除けて、爪先を床で揃えた。
 前屈みになって、中腰から立ち上がる動作に入る。
 直前に視界に入った医神の顔は、それまでと違い、どこか焦っている感じがした。
 目の錯覚か、ただの勘違いか。
「マスター」
 向こうも肘掛けに手をやり、腰を浮かせた。
 お互い中途半端な状態で二秒弱固まって、立香の方が早く姿勢を崩した。
 見つめ合って停止した時間は同じはずなのに、人間とサーヴァントとしての違いなのか、先に膝に負担が来た。微妙な体勢を維持するのは大変で、諦めてベッドに戻れば、アスクレピオスもワンテンポ遅れて椅子に座した。
「じゃあ、さ。こうしない? 賭けようよ。アスクレピオスが勝ったら、オレは帰る。オレが勝ったら、もう少し居て良い?」
 居心地悪そうに数回身を捩った彼を眺め、ふと思いついた案を言葉に並べた。つらつらと述べた立香に彼は右の眉をピクリと持ち上げ、力なく首を振った。
「それでお前は、納得するんだな?」
 嘆息混じりに呟いて、長い脚を組み直した。僅かに高くなった膝に両手を引っかけ、背筋を伸ばした英霊は、呆れているような、楽しんでいるような、よく分からない雰囲気だった。
 不敵に目を眇めて、提案の続きを待つ。
 機嫌を損ねていないのだけは、間違いない。黙って見詰められた立香は一瞬息を呑み、逃げるように目を泳がせた。
 実のところ、じっくり考えていたわけではない。言い負かされない為の手段を探して、たまたま口が滑った感じで出たというのが、正解だった。
 確実に、とまではいかないけれど、勝率が高そうな、それでいて誰が見ても白黒はっきりする賭け事とは、なんだろう。
 たとえばカードを二枚用意して、片方に印を入れて、良くシャッフルした後で一枚ずつ選ぶような。
 ただこれだと、勝率は五分だ。カードに細工すれば百パーセントになるが、公平性を保てないルールを、アスクレピオスが見逃すだろうか。
 自分が損をしない策を必死に考え、立香は瞳を顔の真ん中に集めた。
「どうした。決められないのなら、このまま僕の勝ちで良いか?」
「待って。待って。待った。なんでそうなるのさ。あ、そうだ」
 喉の奥で唸っていたら、勝手極まりない事を言われた。
 さすがにそれは、受け入れられない。慌てて枕を振り上げて、立香は開けた視界に目を輝かせた。
 分かり易く、道具も要らず、且つ立香にとても有利な賭けが見つかった。
「次、ここに来るのが男か、女か。どう? ちなみにオレは、女に賭けるから」
 声を弾ませ、再び枕を抱き潰した。うきうき踊る心を懸命に押し留めるが、表情筋は勝手に緩み、制御が利かなかった。
 勝利を確信し、にんまり笑って胸を張る。
 アスクレピオスは一気に告げられた内容に目をぱちくりさせ、数秒後に額を押さえて顔を伏した。
「勝手な事を……」
 そもそもこの医務室には、滅多に客が来ない。立香が訪ねて来てから今に至るまでも、ふたりの時間を邪魔する存在は現れていなかった。
 このままいけば、勝敗に関係無く、誰かが来るまで立香は医務室に居続けられる。
 もし来訪者があっても、カルデアに在籍する英霊は、女性の方が多いという現実があった。
 中でも一番現れそうなのは、ネモ・ナースと、ナイチンゲール。或いは立香を探しての、マシュ。医者繋がりでサンソンという可能性もゼロではないが、彼は基本、呼ばれなければ医務室には近付かなかった。
 たとえ負けたとしても、夕食までの時間くらいは稼げるだろう。
 我ながらナイスアイデアだと心の中で万歳三唱して、立香は歯を見せて笑った。
「男が来たら、大人しく帰ると約束するんだな」
「勿論、二言はないよ。あ、イアソンとか呼ぶのは、なしだからね」
「……チッ」
 既に勝ったつもりでいるのを見咎め、アスクレピオスが壁のコンソールに触れようとした。それを素早く制すれば、彼は露骨に顔を顰めて舌打ちした。
 そんなに居て欲しくないのだろうか。
 彼の研究を邪魔するつもりはない。ただ近くで、気配を感じて、姿を見ていたいだけなのに。
 この感情を彼に抱くのは、悪いことなのだろうか。
 押しつけるつもりがなくても、迷惑なのだろうか。
「ふん、だ」
 意地でも自分からは、出て行ってやらない。
 強く決意し、念の為にと、誰か来るかもしれないドアに目をやった。
 女が来たら、立香の勝ち。男が来たら、アスクレピオスの勝ち。そして誰も来なければ、立香の狙った通りの展開になる。
 銀色の扉は沈黙しており、予想ではそのまま静かに佇み続ける――はずだった。
「お邪魔するよ」
 だのにものの五分としない間に、前提は覆された。
「はああ?」
 ドアが向こう側から開かれて、あり得ない事態に立香は跳び上がった。
 唖然と目を丸くして、口もぽかんと開いて立ち尽くす。その間抜けな声を聞いたアスクレピオスまでもが、惚けた様子でペンタブを落とした。
 一方、訳が分からないのは、何も知らずにやって来た長髪の英霊だ。
 入室と同時に素っ頓狂な声を上げられて、シンプルな出で立ちのサーヴァントはきょとんと瞬きを繰り返した。整った顔立ちを僅かに歪め、絶句しているマスターと、アスクレピオスを順に見て、怪訝に首を傾げ、顎をぽりぽり掻いた。
「やれやれ。どうしたんだい?」
 比較的低い声は、電子音が不定期に響くだけの室内に反響し、静かに消えていった。
 靴は履かず、素足だ。萌葱色の髪は先に行くに従って緩くカーブし、動きに合わせてリズミカルに揺れた。穏やかな表情はある意味作り物めいており、感情の起伏の少なさがそれに拍車を掛けていた。
 戸惑っている風であるが、取り乱すことはない。
「え、……エルキドゥ」
「そうだよ、マスター。ねえ、目薬をもらいに来たんだ。ギルガメッシュに頼まれてきたんだけど、いいかな」
 むしろ動揺が隠せないのは、立香の方だ。
 呆然と名を呼べば、性別がない英霊はにこやかに微笑んだ。そうしてアスクレピオスに向き直って、用件を手短に伝えた。
「ギルガメッシュ……どっちの」
「キャスターの。アーチャーの彼には、目薬は必要ないって分かるだろう?」
「少し待て、用意する」
 賢王と呼ばれるキャスター・ギルガメッシュは、カルデアに召喚されてからも数多の文献や記録を調査し、異界の神について対策を練ってくれていた。
 彼ならば、眼精疲労を訴えて目薬を欲しがっても、不思議ではない。資料の前から動きたがらず、誰かに取りに行かせるのも、あり得る話だった。
 慌ただしく立ち上がり、アスクレピオスが部屋の奥に向かった。これまでにも似たような依頼があったのか、戻って来た彼の手には特殊な形状の小瓶が握られていた。
 細い首に巻き付けられていた札を外し、ドアの前で待っていたエルキドゥに再度使用者を確認して、手渡す。
「近いうちに、状態に変化がないか、診察したい。それと使用の際の注意事項だが」
「ああ、その辺は大丈夫。彼も無茶な使い方はしないさ。検診のことも伝えておく。感謝するよ。じゃあ、マスター。なにをしていたかは知らないけど、またね」
「うん。また」
 医療者らしいことを口にし、容量や用法を伝えようとしたアスクレピオスを遮って、エルキドゥはひらりと手を振った。
 爽やかに笑って、踵を返した。振り返りもせずドアを開け、あっさり出て行き、戻って来なかった。
 立香たちが驚いていた理由を聞かず、興味も示さなかった。自分の用件だけを済ませて、それ以外一切関わろうとしなかった。
 ただエルキドゥには関係無いことだから、あちらがぐいぐい来なかったのは、むしろ幸いか。
「ねえ。この場合、賭けって、どうなるのかな」
 神が造った兵器であるエルキドゥには、性別がない。
 では来訪者が男女のどちらかで争っていた、この賭けの結果は、どうすればいい。
 力なくベッドに座り込み、問いかけるが、アスクレピオスも困り果てている様子だ。目を泳がせた彼は口元を押さえて黙り込み、一度遠くを見た。
「成立しない、ということになる、か」
 半ば独り言だったが、それほど広くない室内で、声を拾うのは容易かった。
 エルキドゥの来訪は、ノーカウントになるということだ。確かにそれが、最も平和的で妥当な結果だろう。
 けれどアスクレピオスは険しい表情をして、壁の方をちらりと見た後、おもむろに閉まったドアを指差した。
「夕食までまだ時間はあるな。……マスター、部屋へ戻れ」
 突然命令されて、背中に電流が走った。
 到底受け入れられない提案に、息が詰まった。危うく呼吸を忘れそうになり、胸を押さえて声を絞り出した。
「待ってよ。なんでそうなるのさ。オレ、だって、負けてない」
「そうだ。そして僕も負けていない」
 目尻に熱いものがこみ上げて、やり過ごそうと、勢いつけて立ち上がった。乱暴に床を蹴って吐き捨てれば、アスクレピオスが間髪入れずに吼えた。
 噴出した苛立ちを音にして、即座に唇を噛み、自分自身を落ち着かせる目的なのか、首を横に振った。
「負け、ではない……が、勝ち筋もない。そしてお前がここにいては、研究が先に進まない。集中出来ないと言っているだろう。ただ僕としても、お前が他の連中と一緒に居るのは、正直なところ、良い気はしない。ああ、そうだ。まったく、なんて厄介な」
 俯いて、紡がれる声はとても小さかった。心持ち早口で、頑張って耳を欹てたものの、その全ては聞き取れなかった。
 喋っている最中に髪を掻き乱し、舌打ちを二度、三度挟んで、最後は深く長い息を吐く。
「アスクレピオス?」
 らしくない態度を怪訝に見守っていたら、肩を竦めた医神がやおら立香に爪先を向けた。
 数歩の距離を一気に詰めて、近付いてきた。無言で、睨みを利かせながらの接近は若干怖いものがある。堪らず足踏みした立香はバランスを崩し、ベッドに寄りかかるようにして座り込んだ。
「あ、うわ」
 不安定な体勢をどうにかしようと、もたもたしているうちに、白い袖が降ってきた。後頭部にまで長い布が覆い被さって、急に暗くなった視界に騒然となった。
 心の奥がざわついた。萎縮して血の気が引いた身体を慰めるかのように、黒髪を撫でる手は優しかった。
 布越しの指が、右に、左に短い間隔で揺れ動いた後、右の頬へと滑り落ちた。
 頭頂部にあった障害物もずり落ちて、肩に沈んだ。そのはずだ。だのに立香の目の前は、暗いままだった。
 忙しなく瞬きを繰り返し、ぼやけた焦点を合わせ直す。惚けて間抜けに開いていた唇に何かが触れたのは、ほんの一瞬の出来事だった。
「部屋に戻れ、立香。……僕が、そちらに行く」
 柔らかくて、ほんのり暖かくて、微かに薬草の匂いがした。
 甘くない。
 苦い。
 それが気付け薬の代わりとして、遠くに行きかけた意識を引き戻した。
「ひっ!」
 耳元での囁きが全身を擽り、とてもではないがじっとしていられなかった。ゾワゾワと背中を悪寒が駆け抜けて、一歩遅れて高熱が全身に広がった。
 吹きかけられた微風にも驚き、座ったままぴょん、と飛び跳ねる。衝突寸前で退いた男は呵々と笑って、みるみる赤くなる立香の額を小突いた。
「それとも、ここがいいか。また誰かが来るかもしれないが」
 不敵に口角を持ち上げて、アスクレピオスがドアを示した。
 含みのある言い回しに、惚けていた思考が不意に爆発した。
「へ……部屋に。部屋に、帰りゃしぇていただきまふ!」
 指差された場所と、尊大に振る舞う男を交互に見て、立香は打たれた箇所を両手で庇った。勝手に赤くなる顔を晒し、みっともなく声を上擦らせ、叫んだ。
 殆ど悲鳴だった。呂律が回らず、発音が覚束なかったが、意味は通じたはずだ。
「ああ、そうしてくれ」
 実際、返す手で鼻筋を隠した医神とは、きちんと会話が成立していた。
 口元は見えないけれど、雰囲気は朗らかだ。抑えきれない感情が滲み出ているのを嗅ぎ取って、立香はあたふたとベッドから立ち上がった。
 勢い余って転びかけて、ぎりぎりで持ち堪えた。足早で扉の前まで進んで、くるりと身体を反転させた。
「あ、あ。あのさ。えっと。五分、……五分待ってからにして。あっ、あ、いや。やっぱり十分で。十分してから来て。シャワーするから。シャワー浴びるまで、その。待ってて」
 両手を忙しく振り回し、足踏みしながら捲し立てる。
 火照った身体は落ち着きを失い、踏みしめる床はマシュマロのような感触だった。ふわふわした頭を必死に支えながら懇願して、立香は壁のボタンを殴った。
 乱暴な仕打ちに文句も言わず、反応したセンサーがドアに開くよう促した。
「十分だな」
「早くね!」
 念の為と確認して来たアスクレピオスに、矛盾していると分かる台詞を残して、部屋を出る。
 廊下の空気は乾いて、冷えていた。
 一旦落ち着こうと立ち止まり、腹に手を添えて、深呼吸を二回。
「ふー……、はー……」
 そうやって真正面を見据え、しっかりとした足取りで走って行く立香を見送る。
 自動的に閉まったドアをその後もしばらく見詰めて、アスクレピオスは卓上に残った薬液の札に目をやった。
「そういえば、あのキャスターは千里眼……いや、まさかな」
 可能性は否定出来ないが、確かめに行くほど野暮ではない。
 まだ見ぬ未来に想いを馳せて、彼は洗面台に向かうべく、部屋の奥に足を向けた。

我ながらなど思ひけん目の前に かかる心は見せじものぞと
風葉和歌集 966

2021/01/16 脱稿

岩垣や 沼のみごもり 漏らしわび

 こみ上げる眠気を堪え、立香は目尻を擦った。
「ふ、ふぁ、ああ~……んむ」
 けれど欠伸は止めきれず、大きく開いた口から漏れる声には締まりがなかった。
 誰かに見られたら、緊張感がない、と言われてしまいそうだ。慌てて睫毛に引っかかった涙を弾き、表情を引き締めんと試みるが、忍び寄る睡魔を払拭するのは難しかった。
「うぅ、眠い」
 昨晩、ゲーム好きのサーヴァントに誘われて、ちょっとだけ、のつもりで参戦したのが不味かった。徹底的にやりこんでいる彼女らに勝つなど、まぐれ以外ではあり得ない。だというのに敗戦が続いてムキになって、就寝時間を大幅にオーバーしてしまった。
 食事も睡眠も基本的に必要ない英霊と違って、汎人類史最後のマスターである藤丸立香はただの人間だ。健全な肉体と精神を保つ為にも、毎日一定時間の休息を取り、栄養を摂取せねばならなかった。
 深夜の就寝は、ダ・ヴィンチたちには筒抜けだろう。後でバイタルチェックに呼ばれる可能性に思い至って、彼は深々と溜め息を吐いた。
「いや、自業自得なんだけどさ」
 いけないことだと分かっていても、時に欲望に抗えない。
 たまには羽目を外して遊びたい年頃なのだと、新局長であるゴルドルフへの言い訳を考えつつ、忙しく足を動かす。
 目覚まし時計に叩き起こされ、身なりを整え、顔を洗って髪を簡単に整えたその次は、食事だ。
 ゲームをしながらスナック菓子をたんまり抓んだというのに、一眠りしただけで、もう胃袋は空に近かった。
 こういう所だけは至って健常な身体に苦笑して、先ほどから五月蠅い腹を服の上から撫でた。今日の朝食はなんだろうかと想像を巡らせ、確定している後々の苦難から逃避していたら、進行方向に黒っぽい影が見えた。
「お?」
 否、それはゆったりとした足取りで進む背中だ。ただ頭部をすっぽり覆い隠すフードと、裾の長いコートのシルエットが、天井光を受けてぼんやり滲んでいただけで。
 暗がりだと闇に同化し、気付けなかったかもしれない。
 柔らかで、それでいて温かみがある通路の照明をちらりと見て、立香は硬い床を蹴り飛ばした。
「おはよう。アスクレピオスも、食堂?」
 一定のリズムで揺れる背中からは、仄かに朱を帯びたもみあげの先端が見え隠れしていた。大きめのリングが重石代わりになり、それがメトロノームのような動きをしていた。
 駆け寄り、追い付く間際に呼びかけて、横に並ぶ。
「ああ、マスターか。おはよう」
 下から覗き込むように窺えば、古代ギリシャの英雄は、カラスの嘴を模したマスクを装着していなかった。
 普段は隠れている口元が露わになって、端正な顔立ちがいつになく際立って見えた。
 透けるように白い肌が、黒いフードの影響か、もっと白く澄んでいた。額で交差する前髪は相変わらずだけれど、薄い唇や、長い睫毛がバランス良く配置されて、見惚れんばかりの造形美だった。
「……さすがはアポロンの息子」
「今、不快極まりない単語が聞こえた気がするが?」
「なんでもありませんっ」
 美男子、という表現がぴったりくるけれど、その一番の理由であろう太陽神の名前は、アスクレピオスにとって最大の禁句だ。
 うっかり声に出したのを聞き咎められ、立香は大慌てで首を振った。
 心の中に留めたつもりなのに、うっかり呟いてしまった。
 己の迂闊さを反省し、急激に上昇した心拍数と鼓動を宥める。咥内の唾を飲み、深呼吸で心を落ち着かせていたら、眉間の皺を解いた医神が肩を竦めた。
「昨晩は、随分と遅くまで起きていたようだが」
「うっ」
「たまになら構わないが、続くようなら、こちらも考えがある。以後気をつけろ」
「はあい」
 名医との呼び声高い英霊は長い袖を空中に掲げ、淡々と告げながら立香に近付けた。
 まずは布がばさっと頭に覆い被さり、僅かに遅れて硬いものが額をコツンと打った。言わずもがな小突かれたわけだが、その前の挙動が大袈裟なのに反して、衝撃は非常に微弱だった。
 袖の先がぶつかってきた方が、痛かったのではなかろうか。
 引いていく光沢のある黒を目で追いかけて、立香は若干乱れた黒髪を撫でた。
「やっぱり、バレてたか」
「当たり前だ」
「刑部姫たちを怒らないであげてね。オレが、自分でやりたいって言ったんだから」
「それは僕の仕事じゃない。他を当たれ」
 立香の行動はノウム・カルデア内でも、外でも、常に観察され、記録されている。汎人類史にとっての最後の希望なのだから、カルデアの運営管理に携わる面々が神経質になるのも、ある意味仕方が無かった。
 行動には、一定の制限が課せられていた。けれど必要だと分かっているから、立香がサーヴァントらと交流を持つのも、認められていた。
 一緒に遊んでいただけなのに叱られるのは、相手をしてくれた英霊たちに失礼だ。
 非難されるべきは自分。彼女らにはなんら罪はないと弁護に回ろうとしたものの、マスターの健康にのみ関心を寄せるサーヴァントは素っ気なかった。
 ただ確かに、この件をアスクレピオスに依頼するのも妙な話だ。
 弁解すべきは、新所長たちにだろう。
「それもそう、か」
 どうせ叱られるのは間違いないのだから、その時に、ついでに頭を下げるのが正解か。
 瞼を半分閉ざし、小さく頷いた立香に、新たに医務室の主となった英霊は苦笑した。
「先に行くぞ」
「ええ、待って。一緒に行こうよ」
 考え込んでいたら、足取りが鈍った。
 今にも立ち止まりそうだった自分に気付き、ひらりと袖先を振ったアスクレピオスを引き留める。けれど聞き入れず、どんどん進んで行く彼に、立香は小鼻を膨らませた。
 こんなことで令呪を使うのは愚の骨頂で、後で何を言われるか分かったものではない。なのでぐっと我慢して、力強く次の一歩を踏み出した。
 大股で追いかけ、再び横に並んだ。どうだ、と鼻息を荒くしてフードを覗き込んだら、令呪を使わなかったのに、馬鹿にした顔で笑われた。
「ふっ」
「ぬあ。なんだよ、もう」
 癪に障る表情なのに、いやに様になっているのも、腹立たしいったら、ない。
 反射的に拳を作り、振り上げたが、狙ったのは何もない空中だった。
 虚空を殴り、苛立ちは床を蹴ってやり過ごした。人に向けるべきでない感情を、自己の内側で処理して、鼻から吸った息を口から吐き出した。
「今日のメニュー、なんだろ」
「さあな。だが、あの赤いアーチャーはなかなか腕が良い。栄養が偏らないよう、どのメニューもしっかり考えられている。優秀だ」
「へえ」
 話題をまるっと入れ替え、当たり障りのないところで妥協した。すると意外にもアスクレピオスは乗ってきて、前を向いたままつらつらと述べた。
 彼が他者を褒めるのは、珍しい。患者相手であっても、辛辣な言葉を投げるのが常であるのに。
 ここまで手放しの称賛は、滅多に聞けるものではなかった。
 エミヤの料理の上手さは、立香も認めている。だというのに何故だか不思議と、胸の奥がムカムカした。
「むう」
 降って湧いた新しい感情に戸惑い、唸るが、隣を行く相手はそれに気付かない。
「それにしても、朝食だが。あれば豚肉を使ったものを選べ。あと、果物だな。種類はなんでもいいが、ビタミンを多めに摂取しておけ。それから……聞いているのか、マスター」
「え?」
 胃の辺りを押さえて唸っていたら、唐突に声を大にされた。
 なにか喋っていると思っていたが、アスクレピオスの言葉は右から左にすり抜けて、一切残っていなかった。胸の奥の不快感に気を取られていた立香は目をぱちくりさせて、口をパクパクさせた。
 唖然と息を呑み、足も止めた。惚けていたらアスクレピオスも立ち止まり、正面から向き直った。
「寝不足で、疲れが抜け切っていないのか。今日はレイシフトもないのだろう。ならトレーニングもやめて、遊び回らず、部屋で大人しく――」
「あ、おかあさんだ。おかあさん、はっけーん!」
 顔面蒼白で立ち尽くすのを心配し、医神の手が伸ばされる。
 しかしそれが届くより早く、廊下の後方から響いた声が、周囲の音を押し流した。
「ぐふっ」
 数秒後には激しい衝撃が立香の腰を直撃し、容赦なく貫いた。逃さないと臍の手前まで忍び寄り、絡みつく腕は白く、とても細かった。
 アスクレピオスのものとはまた違う肌色に、マスターを母と呼ぶところからして、背後からの襲撃犯は一騎しか思い浮かばない。
「ジャック。危ないから、後ろから急に抱きつくのはやめてって、前も言わなかったっけ?」
「そうだっけ?」
 苦労しながら真後ろを窺い見れば、案の定ジャック・ザ・リッパーが無邪気に小首を傾がせた。
 愛らしい表情や仕草は、子供のそれに相違ない。一方で、彼女は一度戦場に立とうものなら、あらゆる存在を切り刻む容赦なさを持ち合わせていた。
 たとえ小柄で華奢な見た目をしていようとも、この少女もまた、英霊として座に選ばれた存在だ。
「そうだよ。ちゃんと覚えておいてね」
 これまでに何度、こうやって後ろからタックルを喰らい、腰を痛めそうになったことか。
 一向に改めてくれないが、根気よく訴えて、立香はわらわらと寄ってきたほかの英霊たちにも目を向けた。
「おはようございます、マスターさん」
「マスター、おはよう。今日もとっても良い朝ね」
「ねえねえ、マスターは今日はなにするの? 遊べる?」
 立香の胸にも届かない背丈の少女が数騎、群がって一斉に朝の挨拶を口にした。中には朝食も終えていないのに気が早い英霊もいたが、どの顔も元気で、明るく、気力に溢れていた。
 英霊は食事を無理に摂取しなくていいが、彼女らはナイフやフォークを使い、大勢と喋りながら食べる時間を楽しんでいる。
 その賑やかさが嬉しくて、立香は静かに微笑んだ。
「ごめん。今日はちょっと用事があるんだ。今度埋め合わせするよ」
「えー、そうなの。つまんなーい」
「残念だわ。でも仕方がないわね。約束よ、マスター」
「それでは、朝ご飯だけでもご一緒しませんか?」
 実を言えばスタッフらとの打ち合わせや、日課にしているトレーニング以外、今日の予定は決まっていなかった。
 ただ寝不足のまま、元気溢れるお子様サーヴァントらの相手をするのは、いささか骨が折れる仕事だった。
 下手な約束をしたら、そこの医療系サーヴァントのお叱りを受けてしまう。
 ジャンヌ・ダルク・オルタ・サンタ・リリィからの提案にふと目を泳がせれば、アスクレピオスは少し離れた場所で静かに佇んでいた。
 子供たちに囲まれているうちに、知らず知らず距離が開いていた。手を伸ばしても届きそうにない位置に立つ英霊は、淡々として感情を表に出さない反面、どことなく寂しげだった。
 一瞬だけ目が合って、即座にふいっと逸らされた。
「あ……」
「マスター?」
 戸惑っていたら、アスクレピオスは黙って立香に背を向け、来た道を戻り始めた。引き留めようとしたがなぜか咄嗟に声が出ず、足は思うように動かなかった。
 多くの幼い英霊に取り囲まれて、身動きがとれなかったから、だけではない。
 全身が凍り付いたかのように麻痺していた。間抜けに口を開いたまま立ち尽くしていたら、怪訝な顔をする少女らの向こうから、天井高くまで響く拍手が聞こえた。
「はいはい、そこ。マスターをあんまり困らせるんじゃありませんよ、っと」
 胸の前で両手を勢いよく叩き、音で注意を引きつけたのは、緑色のマントを羽織った青年だった。
「ロビン」
 鼓膜を激しく震わせた衝撃音は、停滞していた立香の思考をも揺さぶった。
 我に返り、深く息を吸う。視線を投げた先では、イングランドの義賊が見えている方の目をパチリと閉ざし、口角を片方持ち上げて、いつものニヒルな笑顔を作った。
「早くしないと、朝飯がなくなっちうぞ~?」
「そうだった。おかあさん、行こう?」
 ロビン・フッドは廊下の真ん中に滞留している英霊らを促し、慣れた調子で先に進め始めた。その中で、言われて思い出したジャック・ザ・リッパーが立香の手を取り、軽く引っ張った。
 それを踏ん張って拒めば、少女はきょとんとした顔で振り返った。
「おかあさん?」
 小さくて細い指を一本ずつ解いた立香に、不思議そうに目を眇める。
「ごめんね、ジャック。実は先約があるんだ」
「えー」
 困惑しているジャック・ザ・リッパーに向かって手を合わせ、今は一緒に行ってあげられないと告げる。たちまち不満に頬を膨らませた彼女だけれど、追い縋るのは、ロビン・フッドが阻止してくれた。
 彼は聞き分けが悪い幼子の頭をぽん、と上から押さえて、ぷっくり膨らんだ頬をちょん、と小突いた。
「ほれほれ。だから、マスターにあんまり迷惑かけるもんじゃないの。お前さんだって、先に約束してたの、破られたら嫌だろ」
「ううう~」
「また今度ね、ジャック」
「本当だからね。約束だからね!」
 少々説教臭い台詞を吐いて言い聞かせようとしたロビン・フッドだけれど、ジャック・ザ・リッパーも簡単には引き下がらない。諦めてもらうには、新しい約束を取り付けるしかなかった。
 気安く指切りした立香に、ジャック・ザ・リッパーは何度も念を押してきた。それに逐一頷き返して、踵を返した。
 手間のかかる英霊たちの世話を押しつけてしまったが、かの英霊はその役に慣れている。当人にとっては、不本意かもしれないが。
 後で礼を言いに行こう。
 心の中でそう決めて、立香は来た道を早足で戻り、十字路で目を泳がせた。
 忙しなく左右を確認し、随分と遠くに求めていたフード姿を見つけ、息を切らした。
「アスクレピオス」
 駆け寄りながら呼びかけるけれど、返事もなければ、振り返ってももらえない。
 もう一度大声で呼ぼうか悩んだが、手間が惜しくて、速度を上げる方を優先させた。
 追いつき、追い越し、前に立ち塞がる格好でブレーキをかけた。
「……朝食はどうした」
 通行を邪魔され、アスクレピオスは出しかけた足を降ろした。僅かに首を右に傾けて、翡翠の瞳を鋭く尖らせた。
 問う口調は抑揚に乏しく、フードの陰で表情は見えづらい。サンダルの踵の分だけ嵩上げされた身長は、ブーツを履く立香とほぼ同等だった。
 見下ろされていない分、迫力に欠けるが、それを言ったら刺されそうだ。
「食堂なら、行くよ。これから」
「そうか。なら、寄り道していないで、さっさと」
「アスクレピオスと一緒に、ね。ほら。戻った、戻った」
「――おい」
 露骨に機嫌を損ねている彼の言葉を遮り、長い袖に隠れた彼の腕を取った。両手を使って挟み込んで、逃げられないようしっかり掴み、ぎょっとする英霊に詰め寄った。
 斜め下から目深にフードを彼の顔を覗き込めば、黙って立ち去ったのが気まずいのか、アスクレピオスは再び顔を背けた。
 口元が僅かに歪んで、戸惑っているのがはっきりと伝わって来た。
「あいつらは、どうする気だ」
「心配ないよ」
 横を向いたまま吐き捨てるように聞かれたけれど、その質問は想定の範囲内。
 彼は気を利かせ、遠慮したつもりかもしれない。マスターを慕う気持ちを隠さない少女らに隣を譲って、良いことをしたと思っているかもしれない。
「ロビンに任せて来たから」
 けれど彼は、肝心なことを忘れている。
「だが、マスター」
「オレが先に約束したのは、アスクレピオスだよ」
 なおも言い募ろうとする彼を制して、立香は掴んだ手指に力を込めた。
 布越しで見えないので、手探りで指の在処を調べつつ、握りしめた。絶対振り解かせないとの決意を態度で伝えて、早口に言い切った後は、無言で睨み付けた。
 唇を真一文字に引き結んで、瞬きの回数を減らし、喉の奥で息を留めた。
 真剣な眼差しを投げて、目を逸らすのを許さない。
 沈黙の中、一から順に数を数えた。心の中で折り畳んだ指が、再び開ききる前に、アスクレピオスは力なく肩を落とした。
「僕に拘ったところで、何の得にもならないぞ。マスター」
 ため息混じりに呟いて、深く項垂れて顔を伏した。自由が利く方の手でフードを持ち上げ、外す。音もなく背中側に流れ、落ちていった布の下から現れたのは、口調に反して晴れ晴れとした男の姿だった。
 むすっと不機嫌そうに顔を顰めているわけでも、興味が持てなくてつまらなそうにしているわけでもない。
 心持ち口元が綻んで、微笑んでいるとは決して断言出来ないものの、それに近い表情だった。
 穏やかで、柔らかで、それでいて静か。
「うお、う」
 思いつく限りの表現を用いるなら、そう。彼は今、嬉しそうだった。
 目を見張り、食いつくように見つめ返す。ざわっと心の奥が色めき立って、無意識に内股になった。
 想定していたものと異なる――予想以上の反応に驚き、変な声が漏れた。けれどアスクレピオスは特に追求せず、肩を揺らして聞き流した。
 不意に思い出したのは、先ほどのジャック・ザ・リッパーたちとのやり取りだった。
 一緒にいたい、仲良くしたい。時間の限り喋りたい。存在を独占したい。
 子供特有のわがままは、自己主張の現れだ。そんな風に彼女らに思ってもらえるのは、光栄だし、なればこそ全力で応えてやりたかった。
 ただアスクレピオスが向けてくる感情に対する立香の返答は、それとは少々趣が異なった。
 自分とは別の誰かに意識を向けている相手と、その意識を向けられた先に対するもやもやした感情が、その答えだ。
 アスクレピオスがエミヤの料理の腕を褒めた際の記憶が、脳裏を過ぎった。同時に心を乱される感覚もが再現されて、立香は反射的に胸を押さえた。
「治療時の麻酔を増やせと言うつもりなら、却下だ。薬の配分も、変更しない。僕はほかの奴らと違って、お前を甘やかしたりしないぞ。マスター?」
 先ほどは分からなかったことが、今、不意に分かった気がした。
 呼ばれてはっとなり、顔を上げれば眉を顰めたアスクレピオスと目が合った。瞬間、バチッと火花が散って、立香は堪らず仰け反った。
「ええええ、っと。ごめん。ごめん、なに? 聞いてなかった」
 またもや彼の言葉は、右から左に素通りだった。
 正直に詫びて、声を上擦らせる。勝手に赤みを増していく肌に、どくどくと脈打つ鼓動が五月蠅くて仕方がない。体温が急上昇して汗が滲み、かと思えば足下がふわふわして、自分がしっかり立っているか、急に自信がなくなった。
 ひとり慌てふためき、動揺のままに右の耳を押し潰した。空いた方の手を身体の前でぶんぶん振って、そっとしておいて欲しいと訴えた。
 だがここにいる男は、立香の急変を見逃してくれるような存在ではない。
「どうした、マスター。発熱の症状が見られるぞ。む。よく見れば若干充血しているな」
「それ、違うから。平気だから」
 少しでも患者に異常があれば、調べずにいられないのがアスクレピオスという英霊だ。たとえどれほど些細な変化であろうとも、パトロンと認めた相手には一切妥協しないし、容赦がなかった。
 その執念深さを信頼していたし、有り難いと思ったこともある。
 ただ今は、この状況は歓迎できなかった。
 気づいてしまった。
 気づくべきではなかった。
 契約を結んだサーヴァントたちは、度合いの違いはあれど、マスターである立香を好いてくれていた。そして立香も、盾となり、矛となって戦ってくれる彼ら、彼女らを好いていた。
 けれど先ほど胸に抱いたアスクレピオスへの感情は、そういうのとは別のベクトル上にあった。
 これは、気付いてはいけなかった『好き』だ。
 自覚と共に羞恥心や、これまで積み上げて来たちょっとした嫉妬と、恋情とが一気に押し寄せてきた。彼がイアソンらと談笑している中に潜り込んだり、暇潰しに医務室に押しかけたりしたのも、思い返せば一度や二度では済まない。
 無自覚でやって来たことが、視点を変えれば、全てひとつに繋がった。
「待って。待って、無理。死にそう。やばい。死ぬ」
 もしや一部の英霊は、とっくに気付いていたのだろうか。
 だとしたら恥ずかしすぎて、皆をまともに見られない。先ほどナイスタイミングで現れたロビン・フッドにも、当分礼を言いに行けそうになかった。
 思い当たる節がありすぎて、とても一度に処理しきれない。理解はしたが感情は乱れたままで、頭がまるで追いついてこないのに、惚れた相手は問答無用で突っかかってきた。
「なんだと。馬鹿を言うんじゃない、マスター。お前を死なせるなど、僕が絶対に許しはしない。チッ。ここからだと、医務室の方が近いか。いくぞ、マスター。動けないのなら、担いでいく。腕を寄越せ」
「やだ。やだって。無理。絶対無理。助けて。死ぬって。死ぬ。死んじゃうから」
「死なせないと言っている!」
 耳に心地よかった低音が、緊張と焦りでどんどん大きくなっていく。こちらの発言を勘違いしたまま吠えて、アスクレピオスは立香の肩を掴んだ。
 強く引き寄せられた。いざ抱きかかえられるというタイミングで、本当に心臓が止まりかけた。
 気持ちが微塵も伝わらず、完全にすれ違っているのが若干悔しい。反面、こうも必死になってくれるのは、素直に嬉しかった。
 これは無益な感情だ。あるべきではない、間違った選択だ。
 分かっている。最後に待ち構えているのはある種の虚しさと、絶望という名の断崖だ。
 それでも。
 そうだとしても。
「……ごめん」
 上下に激しく揺れる移動中、ぼそっと呟いた言葉を、医神と評される男は聞き逃さなかった。
「なにを謝る。患者を治すのが、僕の仕事だ」
 ごく当然のように言い切って、アスクレピオスは自信を覗かせた。己が優秀だと知り、出来ないことはないと言いたげな態度だった。
 けれどきっと、治らない。
 彼にしか癒やせないけれど、彼にだけは絶対治せない。
 それが立香の罹った病だとアスクレピオスが知るのは、もうしばらく先のことだ。

岩垣や沼のみごもり漏らしわび 心づからや砕け果てなむ
風葉和歌集 774

2021/01/05 脱稿