Persimmon

 問いかけは唐突だった。
「ごめん。もう一回言ってくれる?」
 思わず、聞き間違いを疑ってしまった。それくらいに突然の質問で、脳が状況に追い付いていなかった。
 声を潜め、及川は頼んだ。極力表情が出ないよう心掛けて、四人掛けのテーブルを挟んで向き合った相手を見つめる。
 僅かに低い位置にある眼を覗き込んだ彼に、明るい茶髪の少年はコクリと頷いた。
「えっと。だから。大王様って、おれの、どこが好きなんですか?」
 小さな口を開き、やや遠慮がちに呟く。その、先ほど聞いたのとほぼ同じ内容に、及川は軽い眩暈を覚えた。
 実際額に手を置いて頭を抱え込んで、彼はカプチーノのカップに視線を落とした。
 黄土色の泡が縁ぎりぎりのところにこびりつき、乾き始めていた。底の方には液体が僅かに残るものの、量はあまり多くなかった。
 既に冷めているドリンクにため息を落として、及川は真剣な表情の少年を前髪の隙間から盗み見た。
「ええと。チビちゃん」
「はい」
「それって、……どういう意味?」
「言葉通りの意味ですけど?」
 背もたれ付きの白い椅子に座るのは、黒の学生服をまとった可愛らしい男の子だった。
 身長は平均より低い百六十二センチちょっと。線は細く、華奢な部類に入るが、脚力は人並み外れていて、その跳躍力は目を引く物があった。
 体格が優劣を決めると言っても良いバレーボールで、彼はこの身体で果敢に挑み、攻めの姿勢を崩さなかった。他チームでは百八十センチ台が跋扈するミドルブロッカーというポジションで、小柄であることを逆手に取る戦法で、敵陣を翻弄していた。
 囮役という重要なポジションを与えられ、彼はコートの中で輝いていた。最初はその小ささ故に注目されていたが、その奇想天外な動きっぷりに、人々は拍手喝さいを惜しまなかった。
 及川もその一人だった。
 コートの外から眺める分には、彼の動きは面白かった。心底楽しそうにプレイする姿も、賞賛に値した。
 但しそれはあくまでも、観戦者として上から眺めている時だけだ。
 同じコートで、ネットを挟んで対峙する時は、ただの厄介な存在でしかない。徹底的に打ちのめしても、折れるまで叩いても、地中深くに潜り込んだ根はあっという間に成長し、芽吹き、大輪の花を咲かせようとする。
 しつこく食い下がる敵は、面倒だ。正直、嫌いな部類に入る。
 けれど同時に心を擽られ、ぞわぞわして、胸が高鳴って仕方がなかった。
 コートで会う度に成長している姿を見せられて、気が急かないわけがない。その眩しすぎる輝きに目を奪われ、追いかけずにはいられなかった。
 まさに、名は体を表す。暖かくも時に鋭い太陽の如き翼で、彼は空を翔ぶのだ。
 日向翔陽。烏野高校男子排球部の一年生は、現在進行形で市内の某喫茶店で優雅にお茶を嗜んでいた。
 とは言っても、彼の前にあるのは細長いガラスのコップだ。中身は髪よりもずっと明るいオレンジ色で、赤と青のラインが入ったストローが真ん中に突き刺さっていた。
 溶けた氷がカラリと音を立て、凭れかかっていたストローが揺れた。ガラスの表面には大量の水滴が張り付き、テーブルに敷かれた紙製のコースターに吸い込まれていった。
 こちらも、ドリンクの残りはあと少しだった。
 テーブルの隅では注文した料理や飲み物を記した伝票が、銀色の筒の中で退屈そうに丸くなっていた。傍にはナイフ、フォーク等を入れたケースが置かれ、赤色のナプキンがだらしなく裾を広げていた。
 使用済みの食器や、シロップでベタベタに汚れた皿は、とっくに片付けられた後だ。店内に窓は少なく、外を確認出来るのは遠く離れた出入り口くらいだった。
 陽が沈み始めているらしく、辛うじて見える道路は薄暗い。店内に客は少なく、話し声はあまり聞こえてこなかった。
 耳朶を打つのは自身の息遣いと、店側が流している異国の曲だけだった。
 ピアノの優しい音色に心を落ち着かせて、及川は銀色のスプーンで冷めたカプチーノを掻き回した。
 これがテーブルに届けられた時、白い泡の上には鳥の絵が描かれていた。
 翼を広げた、鷲の絵だったはずだ。
 しかし目の前の少年は、あろうことか烏と勘違いした。これには及川も、給仕してくれた店員も、苦笑いを隠せなかった。
 もっとも喜んでくれたのには違いないからと、訂正するような無粋な真似はしなかったのだけれど。
 スプーンで混ぜて絵を消す時、嫌な顔をされたのも思い出した。勿体ない、と言われたけれど、飲み物なのだから飲まない方が失礼だと言えば、納得してもらえた。
 賑やかだったやり取りを振り返り、日向を見つめる。彼は相変わらず真っ直ぐな眼差しで、及川の返事を待っていた。
 そのぷっくりして柔らかそうな唇に視線を遣って、及川はスプーンをカップに残し、徐に手を伸ばした。
「? ……あ、ありがとうございます」
 なにも言わず触れて、親指の腹を使い、日向の頬を数回擦る。付着していたパンケーキの滓を削ぎ落とした及川に、彼は三秒してから礼を言った。
 紙ナプキンを一枚取って指を拭って、及川は椅子の上で大きく身じろいだ。
 腰の位置を奥へ移して深く座り直し、くしゃくしゃに丸めた紙ナプキンはその場に放置する。胸を反らして背筋を伸ばせば、大柄な体躯が一層大きくなった。
 長いと自慢の脚を組んで、彼は両手を椅子の背凭れの後ろに回した。
「なんだってまた、急に聞きたくなったの?」
 宙に浮いた左の爪先をぶらぶら揺らし、一度だけ日向の脚を叩く。それでビクッとした彼は一瞬下を向いて、すぐに視線を戻して首を竦めた。
 猫背になって、元々小さな体が益々小さくなった。萎縮した状態で向けられる上目遣いは、同性とは思えない愛らしさだった。
 かわいい。
 コートの中の勇ましさからは想像がつかない姿に、及川は無意識に緩んだ頬を引き締めた。
 だらしない表情を凛々しく作り替え、日向から投げかけられた質問を脳裏に呼び戻す。同時に発言の真意を訊ねれば、日向は頬を膨らませ、ストローを唇で挟んだ。
 ずずず、と音がした。残り少ないジュースを一気に飲み干して、彼は空になったグラスを両手で包み込んだ。
「……影山が」
「トビオが?」
 そうしてぼそりと呟かれて、及川は堪らず身を乗り出した。
 反射的に前のめりになり、肘がテーブルの角にぶつかった。上に並んだ食器類が一斉にざわめいて、及川の腕にも電流が走った。
「いって」
 良く知る名前が出て来て、大袈裟に反応してしまった。慌てて痺れた場所を抱きかかえて、及川は吃驚している日向に苦笑いで応えた。
 心配いらないと目を細め、白い歯も見せて安心させる。それでホッとしたのか、彼は胸をひと撫でして背筋を伸ばした。
 但しそれも、三秒と持たなかった。
「影山が、大王様の。その……どこが良いんだって、訊いてきたから」
「へ、へええー?」
 猫背になった彼に言われ、及川は上擦った声で相槌を打った。視線は宙を彷徨い、脂汗が首筋を伝った。
 表面上は落ち着いているように見せかけて、その実、心臓はバクバクだった。
 今にも破裂しそうな爆弾を抱え、首筋には温い汗を流す。幸い、日向は及川の動揺に気付いていなかった。頭の中はチームメイトとのやり取りでいっぱいらしく、表情は不満げだった。
 口を尖らせて拗ねる顔も、高校生の男子としては可愛い部類に入った。素直で、元気が良くて、無邪気な彼は、天真爛漫という言葉がぴったりくる存在だった。
 見ているだけで和むし、楽しい。ずっと愛でていたくて、ずっと傍に置いておきたかった。
 久方ぶりの幸せな時間を満喫していた。だというのに、あまり聞きたくない名前を聞いてしまった。
 頬をヒクリと引き攣らせ、及川は脳裏に浮かんだ愛想のない後輩にかぶりを振った。
 目を瞑らなくても、その顔は簡単に蘇った。
 影山飛雄。宮城県でも随一のセッターと言われている及川の、叩き潰したい相手その二。中学時代の二年後輩で、今は日向と同じ烏野高校に通う、正真正銘の天才プレイヤー。
 王様などという大層なあだ名は、チームメイトの嫌味から生まれたものだ。しかし北川第一中学時代の暴君は、新しい環境と仲間を得て、名実ともにコートを支配する王様に生まれ変わった。
 彼もまた、及川が潰したくても潰せなかった相手のひとりだ。そして目の前にいる少年を、目も眩むほどに輝かせた張本人だった。
「それで? チビちゃんは、トビオになんて答えたの」
「えー?」
 及川と日向は、通う学校が違う。家も遠い。会えるのは多くても週に一度で、下手をすれば一ヶ月間音沙汰なし、も充分有り得た。
 対して影山はといえば、それこそ毎日、朝から晩まで日向と一緒だ。学校も、所属する部も同じで、唯一違うとすればクラスくらい。しかしそんな違い、及川に言わせれば、有って無いようなものだった。
 正直、悔しい。
 超絶、羨ましい。
 日向がどうして青葉城西高校ではなく、烏野高校に進学したのか。その問いかけは、何百回となく、及川の中で繰り返されていた。
 表面に浮き上がる焦りを懸命に隠し、彼は平静を装って質問を重ねた。気持ちを落ち着かせようとカプチーノに手を伸ばすが、持ち手に指を潜らせようとして、三度も失敗してしまった。
 カタカタ鳴りっ放しのカップを一瞥して、日向は窄めた口から息を吐いた。
 言いたくなさそうにしているが、ここで聞いておかないと、明日以降、落ち着いて生活を送れる自信がない。地に足が着かず、集中も出来ず、教師の声は右から左に抜けていくだろう。
 練習にも身が入らない。食事だって美味しく食べられない。全てが無味乾燥として、世界から色が抜け落ちていくようだった。
 そもそも及川は、日向が、自分のどこを気に入ってくれているかを知らないままだ。
 告白は、及川からだった。
 日向は面食らって、本気として受け取ってくれなかった。そこをしつこく食い下がって、何度も好きだと伝えて、六度目にしてようやく信じて貰えた。
 デートは多くて、週に一度。青葉城西高校男子排球部の練習が休みの、月曜日が主だった。
 我ながら、よくぞ諦めなかったものだ。当時の自分のしつこさを軽く思い返し、及川は神判を待つ気分で唇を噛み締めた。
 緊張で力み過ぎて、目尻も口元も、あちこち皺だらけだった。そんな強張った表情を正面から見据え、日向はむぅ、と唸った。
「言わなきゃだめですか」
「うん。聞きたい」
 出来るなら隠しておきたいと、沈み気味な口調が告げていた。けれど及川はにっこり笑顔で逃げ道を塞ぎ、正直に告白するよう促した。
 制服の下ではだらだら汗が流れ、腋などは酷い事になっていた。水分を吸ったシャツが肌に貼りついて気持ちが悪いが、白いブレザーを脱ぐわけにはいかなかった。
 作った笑顔で催促して、テーブルの下では足をカタカタ震わせる。貧乏揺すりにならない程度に身体を揺らして、日向の一言一句を聞き逃さないよう、聴覚に全ての神経を注ぎ込む。
 そうやって及川が息を殺しているとも知らず、日向は葛藤に瞳を曇らせ、観念して溜息を吐いた。
「ええっと」
 彼の脳裏には、もしかしたら何度も、何度も繰り返し『好きだ』と告げる及川の姿が浮かんでいたのかもしれなかった。
 今は誤魔化せても、次会った時にきっと追及される。それをまた躱しても、答えを聞くまで絶対諦めない。
 一度決めたら徹底的にやり遂げて、納得するまで譲らない。妥協という言葉を知らない及川に肩を竦め、彼は胸元にやった手を広げた。
 そうして親指を折り曲げて、文章でも読み上げるかのように淡々と呟いた。
「及川さんは、影山みたいに大声で怒鳴ったりしない」
「んんん?」
 その台詞が一寸頭に引っかかって、及川は目を真ん丸に見開いた。
 素早く瞬きして、思い出そうと半眼している日向を見つめる。だが彼は視線に気づかない。残り四本になった右手に意識を集中させて、立てた左人差し指をぶらぶら揺らしていた。
「サーブがスゲー、上手い。影山より、断然。でも、たぶん旭さんのが威力は上……かなあ?」
「は、はぁ……」
「そんで、トスも、上手い。あ、そだ。影山は、いつか絶対追い越す、って言ってました」
「へ、へぇー?」
「あとはー、んと。今日みたいに、美味しいお店いっぱい知ってる事とか。奢ってくれることとか」
「あ~……うん」
「影山より頭良くて、勉強教えてくれるとことか」
「俺、一応チビちゃんより年上だからね?」
「あ、でもすぐおれのこと、そうやってチビって言うとこ、嫌いです」
「………………!」
 そこまで来て、唐突に今思いついたらしきことを声に出された。指折り数えるのを放棄して、前傾姿勢でキッパリ言い切られて、及川は合いの手を挟む事が出来なかった。
 面と向かって断言されて、言葉が心に突き刺さった。ぐっさり深く食い込んだ棘に呆然となり、一瞬だけだが三途の川が見えた気がした。
 白昼夢に急いで首を振り、顔を引き攣らせる。流石にこればかりは隠し通せず、日向も言ってから気付いて口を覆った。
 両手を重ねてバツの字を作った彼に、及川は力なく肩を落とした。
「それって、要するにさ。俺じゃなくても、お金持ちでバレーが上手い奴なら、誰でも良いってコトじゃない?」
 カップに刺さったままのスプーンを引き抜き、雫を落として皿に寝かせる。渇ききった喉を潤すには冷たいカプチーノだけでは足りず、及川は殆ど手を付けていなかった冷や水にも手を伸ばした。
 氷が溶けて、こちらもすっかり温くなっていた。それを半分ほど飲み干して、彼は消え入りそうな声で呟いた。
 自嘲を含んだ囁きに、日向は手を下ろし、ばつが悪い顔をした。
 思ったことをすぐポンポン言ってしまうのは、彼の長所であり、短所だ。物事を狭い視野でしか捉えず、実行する前に一旦停まって熟考するのも苦手で、猪突猛進に突っ走るのは、明らかに欠点だった。
 確かに及川も、体格的なコンプレックスを愛称にする浅慮さは、責められて当然だった。しかしあそこまでキッパリ嫌いだと、目と目を合わせて言われたら、ダメージが大きすぎる。
 反省する以前に、ショックすぎて身動きが取れない。言った相手が相手なだけに、衝撃の強さは並ではなかった。
 露骨に落ち込んでいる彼を見詰め、日向は口をもごもごさせた。
 及川に対して抱いていた小さな不満を、最悪なタイミングで言ってしまった。もっと別の機会に、冗談めかせて言えればよかったのに、うっかり口が滑ってしまった。
 拗ねると長い男にどうしたものかと迷い、何気なく壁を見る。最近出来たばかりという店構えはお洒落で、内装は近未来的なデザインで統一されていた。
 座面から背凭れまで一枚の板を使い、曲面を際立たせた椅子は座り易かった。テーブルも味気ない四角形ではなく、全体的に丸みを帯びていた。
 女性向なカフェだが、派手さはなく、落ち着いた雰囲気が漂っていた。パンケーキが人気だという話で、勧められるままに注文したら、本当に美味しかった。
 最初は遠慮していたのだけれど、及川が自分も食べたいから、と言い出したので、頼み易かった。いつも奢って貰ってばかりで悪いと思ったけれど、美味しそうに食べているところを見るのが好きだと言われて、絆された。
 こんな店、日向ひとりでは絶対入れない。
 及川が一緒だったから、新しいドアを開けられた。
 彼が居なければ、知らなかった世界に足を踏み出す事はなかった。
「別に、そういうわけじゃ」
 だからそんな自虐的なことを言わないで欲しい。だのに喉に力が入らず、否定はするものの、言葉に鋭さが伴わなかった。
 語気の弱い、控えめな発言に、及川はムッスーと頬を膨らませた。
 また選択を誤った。もっとはっきり、明確に否定しておかないと、彼はいつまでも臍を曲げたままだ。
 美味しいものを食べて幸せな気持ちだったのに、一気に萎んでしまった。折角久しぶりに会えたのに、楽しくなくなってしまった。
 重い空気がどん、と圧し掛かってきた。息苦しくて、日向は呼吸をしようと顔を上げた。
「いいよー、いいんだよ~。別にさー、俺だってさー。ホントは分かってんだよね~。チビちゃんが俺なんかの為に会ってくれるのも、お菓子が目当てだって事くらいさ~」
「え」
「分かってるって。チビちゃんは、俺のこと、別になんとも思ってないんだってことくらいさ。でもチビちゃんは優しいから、俺みたいな奴から誘われても、断らずにいてくれるんだ~、って」
「ちょっと」
「そりゃそうだよねー。俺みたいな男から『好き』って言われても、気持ち悪いだけだし。ほーんと、ごめんねー」
「及川さん!」
 リズミカルに、ポンポンと、矢継ぎ早に。
 卑屈なことばかりを次々口にして、及川は日向を見ない。自分で自分を傷つける言葉を並べ立てて、余計に落ち込んで、閉ざされた世界に埋没して勝手に潰れようとしている。
 そうやって耳を塞ぎ、言い訳を聞いてもくれない彼に焦れて、日向は吼えると同時に椅子を蹴り飛ばした。
 大きな音を響かせて立ち上がり、仕上げにテーブルを思い切り叩く。連続した騒音と大声に、店内にいた人たちは騒然となった。
 制服が違う男子高校生ふたり組を窺って、カウンターにいた店員が身を乗り出していた。ひそひそ話す若い女性もいて、居心地は相当悪かった。
 けれどそれ以上に、腹の中がもやもやして、嫌な感覚が渦巻いていた。
 これは絶対、吐き出してもスッキリしない類のものだ。だからといって飲みこむ事も出来なくて、日向は歯痒さに顎を軋ませ、椅子に座るべく腰を落とした。
 真っ直ぐ身を沈めて、その肝心の椅子を、自分で後ろに弾き飛ばしていたのを思い出す。案の定尻が少ししか引っかからなくて、もう少しで床に尻餅をつくところだった。
 ギリギリで格好悪い真似は回避して、日向は恥ずかしさを堪えて椅子を引いた。もぞもぞ身じろいで深く座り直し、長い息を吐いて浮ついている心を落ち着かせる。
 深呼吸をする彼を正面に見て、及川は不貞腐れたまま首を竦めた。
「いーよ。正直に言ってくれても」
 吐き捨てられた台詞からは、さっきまでの明るく、茶化した雰囲気は消えていた。
 本気で拗ねているのが感じられて、日向は困った顔で目を細めた。
 及川の方が二年先に生まれているのに、この態度はまるで小学生のようだった。
 普段は日向の方がなにかと幼く、面倒が掛かると言われていた。影山が加わると尚のこと、先輩方に迷惑を掛けっ放しだった。
 それが、及川を相手に逆転していた。なんだか年長者になった気分で、失礼ながら少しわくわくした。
「じゃ、言わせてもらいますけど」
 改まった口調で言い、咳払いをひとつ。居住まいを正して仰々しく畏まり、とくりと鳴った心臓を撫でる。
 随分と他人行儀になった日向に眉目を顰め、及川も愚痴るのを止めて顔を上げた。
 どこか惚けたような間抜け面で、噴き出しそうになった。なんとか堪えるのに成功して、日向は深く吸った息をゆっくり吐きだした。
「おれ、及川さんのこと、スゲー人だって、思ってます」
「……チビちゃん?」
「だって、おれ、大王様のサーブ、まだ全然綺麗に打ち返せないし。そゆの、ホントはすんげー悔しいけど。事実、だし」
 彼の痛烈なサーブは凄まじい勢いで空を裂き、烏野陣営に襲い掛かった。
 日向は後衛に回った時、リベロの西谷と交代する。守備ではあまり活躍の場がない。レシーブは澤村といった上手い人たち任せっ放しで、そういう面で足を引っ張っている自覚はあった。
 そんな凄まじい及川のジャンプサーブも、一朝一夕で手に入ったスキルでないのは明白だった。
「すげー練習してたって、影山から聞いてます。ノヤさんも、あ、うちのリベロの人なんですけど。中学の時に及川さんのサーブ受けたけど、その時よりずっと上手くなってるって、言ってて。並の努力じゃないって褒めてたし。おれも、そう思うし」
 日向たちは大会で勝ち上がる為に、死に物狂いで練習していた。負けたくなくて、必死にボールに食らいついていた。
 だけれどそれは、他のチームだって同じだ。
 誰だって勝ちたい。上手くなりたい。強くありたいと願っている。
 そこに体格の差だとか、持って生まれた才能の優劣は関係ない。どんな天才だって、持ち合わせた能を正しく使えなければ、宝の持ち腐れだ。
 積み重ねた努力が自信になり、経験を重ねる事で視野は広がる。試合は毎回同じではない。なにが起こるか分からないから、その時どう動くのが最良か、瞬時に判断出来るかが勝敗を左右する。
 インターハイ予選、日向たちは技術も、経験も、どちらも足りていなかった。
 勢いだけではどうにもならないことがある。あと少しで掴みとれた勝利は、直前で指の間からすり抜けていってしまった。
 負けたのは、烏野が弱かったから。
 負けたのは、及川率いる青葉城西の方が強かったから。
「おれは、大王様のこと、最初は恐かったけど。でも、おれよりずっと長い間、努力して、頑張って、いっぱい練習して、強くなったって分かったし。そういうの、おれ、悔しいけど、やっぱ格好良いって、思うし。なんていうか、おれ、大王様と対戦した時、すっごくわくわくして、すっげーぐわああ、ってなって。なんかこ、ぶわって来たって言うか。ネット越しに大王様見て、ぞわってなって、どっかーんてなって。そしたらラッキョ頭にぎゅわんっ、てされて、ずおーんって、なって」
「あ、あの。ごめん、チビちゃん。その、出来ればもうちょっと分かり易く……」
 喋っているうちに興奮してきたのか、日向の口からは頻繁に擬音が飛び出した。それも正直意味が分からないものばかりで、理解が及ばなかった及川は苦笑するしかなかった。
 けれどお蔭で、冷静さが戻ってきた。内容は判然としないながらも、日向が及川について一生懸命考えて、伝えようとしているのは十二分に感じられた。
 それだけで嬉しかった。
 日向が足りない頭をフル稼働させて、つたない言葉で思いを形にしようとしているのが分かる。これまで明確な答えをもらっていなかっただけに、余計に胸に染みて、幸せな気持ちになった。
 だからか、頬が緩んだ。
 しかし。
「だから、大王様は。おれたちより、ずっと強いし、すごいし、かっこいいんだから! 『なんか』とか、『みたいな』だとか。そういう風に、言わないでください!」
 笑顔の意味をはき違えた日向に、唾を飛ばしながら怒鳴られてしまった。
 再度机を乱暴に叩き、店中に響き渡る大声で勇ましく宣言する。
 呼吸は乱れ、細い肩はひっきりなしに上下していた。
 濡れてしまった唇を雑に拭い、日向は最後、キッ、と及川を睨んだ
「分かりましたか?」
 教師が生徒に確認を求めるかのように、低い声で問う。但し語尾は下がり気味で、迫力満点だった。
「は、はい」
 反射的に頷いて、及川は椅子に座ったまま行儀よく背筋を伸ばした。
 お手本のような座り方をして、けれど瞳は左に流れた。思わず首を縦に振ってしまった彼だが、日向の発言内容については、未だ完全に理解出来ていなかった。
 なにが『みたいな』で、どれが『なんか』なのか。
 幼馴染である岩泉が相手なら、言葉数が少なくても、考えている中身はなんとなく通じ合えた。ただ残念な事に、日向に関しては付き合い始めてまだ数か月というのもあり、その域にまで達していなかった。
 通訳が欲しい。切に願い、及川は一秒後に首を振った。
「自力でなんとかしないとねえ」
「はい?」
「うぅん、こっちのこと」
 人に頼っていたら、いつまで経っても日向に近付けない。分かり合えない。
 だから自分で頑張るのだと決めて、及川はにこやかに微笑んだ。
 微妙に含みのある表情に、警戒した日向が眉を顰めた。
 口をヘの字に曲げて、小首を傾げて。気難しげな表情からは、こちらの真意を探っている雰囲気が伝わってきた。
 阿吽の呼吸になるには、相当時間がかかりそうだ。けれどその経過も楽しいと視点を百八十度入れ替えて、彼は訝しげな日向に向けて人差し指を揺らした。
「とりあえず、チビちゃんが俺の事、『カッコいい』って思ってくれてるのだけは、よ~~っく、分かった」
「――…………ぎゃああ!」
 そうして臆面もなくそう言えば、五秒近く固まった後、日向は真っ赤になって悲鳴を上げた。
 直後に両手を顔面に叩きつけて、テーブルに撃沈してしまった。ゴンッ、と威勢の良い音を響かせて突っ伏した後は暫く動かず、頭の天辺からは湯気が立ち上っていた。
 明るめの髪から覗く耳は赤く染まり、日焼けした首筋も朱に色付いていた。
 一足早く紅葉を目に出来たようで、得をした気分だった。
「そっかー。俺って、そんなにかっこいい?」
 少なくとも二回、その台詞を聞いた。
 血気盛んに吠えていた時なので、お世辞で言ったとは考え難い。心から思っているからこそ出た言葉だと解釈して、及川は満面の笑みで自身を指差した。
 くるりと宙に円を描いた男を睨み、日向は涙目で奥歯を噛み締めた。
「ぜんっぜん、かっこよくないです」
「またまた~。チビちゃんの気持ちはよーっく分かった。及川さん、もっと格好よくなれるように、これからも頑張るからね」
「ちっがーう!」
 必死になって否定するが、及川は何処吹く風と取り合わなかった。ケタケタ笑いながら悉く受け流して、ポジティブな方向に話を持って行った。
 そのうちツッコミを入れていた日向の方が息切れして、疲れ果てて力なく肩を落とした。
「そうじゃないのにぃ……」
「うん。分かってる」
「え?」
 もう一度顔を覆い、ぼそりと零す。それを耳聡く拾って、及川はカップに残る唇の痕を消した。
 汚れを拭って輝きを取り戻させて、その眩しさに目を眇める。
 穏やかな微笑みに見入られて、日向は惚けた顔で停止した。
「せいぜい頑張って、追いかけてきてよね」
 青葉城西高校と、及川は、烏野高校と日向にとって、一番近くて、明確な、倒したい存在だった。
 それは壁であり、目標であり、道しるべであり。
 憧れだった。
「……はっ、ぃぁ、あ、かっ、つ……負けませんから!」
 その近いようで遠い相手に宣戦布告されて、日向は大きく目を見開いた。
 何度か息を詰まらせて、最後に勇ましく宣言し返す。瞳はきらきら瞬いて、夜空の星よりも綺麗だった。
 元気とやる気に満ち溢れ、素直で、まっすぐで、何事にも一生懸命で。
 力強くガッツポーズを決めた日向を見詰め、及川は嬉しそうに目尻を下げた。
「うん。やっぱ俺、チビちゃんのそういうトコ、大好き」

2014/10/25 脱稿

藤黄

 着信に気付いたのは、朝の練習を終えて着替えようと部室に戻ってからだった。
 チカチカと明滅するオレンジのランプに、孤爪は静かに眉を顰めた。動揺が表に出ないよう気を付けつつスリープモードを解除すれば、大きな液晶画面にはあまり見る機会がないアイコンが表示されていた。
「翔陽」
 そこに示されていた文字を読み取って、彼は大きく目を見開いた。
 着信があった事だけを伝える文章に、心がざわつき、大きく波立った。ついさっきまで体育館に居たから仕方が無い事とはいえ、どうして気付けなかったのかと激しい後悔に苛まれた。
 口の中でその名前を呟き、下に出ていた時間にも素早く目を通す。続けて壁の時計を仰ぎ見て、孤爪は下唇を噛んだ。
 なんというタイミングの悪さだろうか。あと一分早ければ、声が聞けたのに。
 神様は意地悪だ。信じてもいない存在を罵って、彼は掛け直すべきか否かで逡巡した。
「なにしてんだ、研磨。早く着替えろよ」
「うん……」
 そうしている間に、スマートフォンを手に動かない彼に焦れて、幼馴染が話しかけてきた。
 音駒高校男子排球部の主将でもある黒尾の呼びかけに、孤爪は力なく頷いた。
 言われなくても、それくらい分かっている。一時間目の授業開始時間は刻々と迫っており、のんびりしている余裕はなかった。
 部室から教室までの移動も考えると、今すぐにでもシャツを脱ぎ捨てなければいけない。けれど頭で理解していても、身体はなかなか反応しなかった。
 急かされても止まったままの彼に肩を竦めて、黒尾は手を動かしながら口角を歪めた。
「なんだ。チビちゃんからか?」
「っ!」
 瞬間、孤爪は弾かれたかのように顔を上げた。
 スマートフォンは待機時間が過ぎて、再びスリープモードに入っていた。
 画面は真っ暗だった。しかし直前まで、そこには白抜きで文字が浮き上がっていた。
 まさか見たのかと、細い瞳孔を広げて幼馴染を仰ぐ。そんな愕然とした表情を愉快だと笑い飛ばし、黒尾は孤爪の背中をぽん、と叩いた。
「だって、今日だろ?」
「……別に、そういうんじゃないし」
 含みのある物言いをされて、彼は急ぎ顔を背けた。
 小声で反論するが、聞こえたかどうかは怪しい。ただどうであれ、これ以上この男と会話をする気はなかった。
 黒尾の方も、深く追求してこなかった。もう一度、今度は肩を叩いて呵々と笑って、騒いでいるほかの部員を注意すべく背筋を伸ばす。
 執着心の薄い幼馴染を盗み見て、孤爪はまだ消えずに光っているオレンジのランプに複雑な表情を作った。
 それは『彼』だけの為に設定した色だった。
 我ながら女々しいと思う。そんな気持ちを盗み見られたみたいで、黒尾に上手く受け答え出来なかった。
 悔しいやり取りは忘れる事にして、もう一度画面を明るくする。片手で機械を操作して、残る手は棚に押し込めてあった鞄へ伸ばす。
 慣れない事でもたもたしつつもシャツを引っ張り出して、孤爪は『彼』がメールではなく、わざわざ電話をかけて来た理由に思いを馳せた。
「覚えててくれたのかな」
 ほんの少し期待して、呟く。すると胸がほっこり暖かくなって、自然と笑顔になった。
 頬を緩め、目尻を下げる。誰も見ていないところで微笑んで、孤爪は画面に表示されていた文字を消した。
 本当は今すぐかけ直してやりたいところだけれど、周りの状況がそれを許さなかった。
 黒尾はネクタイを結びつつ、ちらちらと孤爪を観察していた。
 放っておくと動かなくなる、とでも思われているのだろう。心配してくれているのは分かるが、少々鬱陶しかった。
 赤ん坊ではあるまいし、時間がないのだって承知している。過干渉な兄を持った宿命だと嘆息して、孤爪は皺だらけになっていたシャツを広げた。
 スマートフォンは一旦手放し、もそもそと着替えを開始する。その頃には犬岡や山本といったメンバーが教室目指して出て行って、部室はすっかり静かになっていた。
 騒がしい人間ほど、動くのも早い。開いては閉まる繰り返しの戸口を一瞥して、孤爪は脱いだトレーナーを棚へ放り投げた。
 上半身裸になって、軽くタオルで汗を拭い、シャツに袖を通す。とても運動部所属とは言えない肉体を布で覆い隠して、ボタンを下から順に嵌めていく。
「あれ」
 そして次にズボンを履き替えようとしたところで、彼は首を傾げて眉を顰めた。
 先程消したばかりのランプが、また光っていた。
「しょう、よう」
 しかも、色はオレンジだ。七色ほどあるバリエーションの中で、電話でも、メールでも、その色になるのはひとりだけだった。
 いつ光ったのか、全く気が付かなかった。
 着信音は鳴らないように設定してあったが、バイブレーション機能は生きている。振動はスマートフォンを置いていた鞄に吸収され、微小なノイズは部員達の話し声に掻き消されてしまったようだ。
 油断し過ぎだ。もっと注意深く見ておくべきだったと悔やんで、孤爪は薄型の携帯端末に手を伸ばした。
「研磨」
 それを黒尾が見逃さなかった。
「…………」
「せめて着替えてからにしろ」
 後ろから叱責されて、恨めし気に睨みつけるが効果はない。上は制服、下はジャージというアンバランスさの解消を優先させるよう言われ、彼は渋々頷いた。
 確かに膝よりも短いショートパンツで居続けるのは、寒さ的に辛いものがあった。
 カレンダーはかなり薄くなり、今年も残り僅かとなった。街中はオレンジ色で溢れ、月末に控えているイベントに向けて必死のアピールが繰り広げられていた。
 ハロウィンなど、数年前まで話題にすらならなかったのに。
 最近急に持て囃され始めた異国の風習を思い浮かべ、孤爪は急ぎズボンを履き替えた。
 いつもならもっと時間がかかるのに、予定が詰まっているので妙に行動が速い。珍しくテキパキ動く彼を眺め、黒尾は失笑を禁じ得なかった。
「なに」
「いーや。チビちゃんは偉大だな、と」
「なにそれ」
 そんな幼馴染の意味ありげな視線が不快で、孤爪は口を尖らせた。
 ネクタイも雑ながら結んで、ジャケットを羽織る。必要ない荷物は棚に残したまま鞄を担ぎ、その流れでスマートフォンを右手に持つ。
 早速着信内容のチェックに入った彼に苦笑して、辛抱強く待っていた黒尾はアルミサッシの引き戸を引いた。
 幼馴染の為に道を作ってやり、彼が通り過ぎるのを待って閉める。ついでに鍵もかけた黒尾を振り返りもせず、孤爪は俯きながらスマートフォンをなぞった。
「……ったく。チビちゃん、なんだってー?」
「クロには関係ない」
「つれないねえ」
 こんなにも尽くしてやっているのに、なんと素っ気ない事か。予想通りの冷たい反応に肩を竦め、彼は孤爪の背後に取り付いた。
 上から覗き込まれそうになって、孤爪は急ぎ画面を胸に押し付けた。
「クロ」
「いーじゃねーか。減るモンじゃなし」
「ダメ。減る」
「へいへい」
 しつこく食い下がられたが、突っぱね続けていたら最後は諦めたようだ。両手を広げて嫌味たらしいポーズを取られたが、孤爪は妥協しなかった。
 膨らませていた頬を凹ませ、黒尾が離れるのを待ってから画面を顔に向ける。直後に黒尾がスッと背伸びをしたが、あらかじめ読んでいた孤爪は足早に歩き始めた。
 二度目の着信は、メールだった。
 電話が繋がらなかったので、切り替えたのだろう。急いでいたらしく、文面は短かった。
「……覚えててくれたんだ」
 けれどたった一文でも、伝わるものはあった。
 幸せな気持ちになって、表情が緩んだ。すぐに読み終えてしまえる文章を五度も、六度も読み返して、孤爪は照れ臭そうにはにかんだ。
 直後。
「よかったなー」
「……クロはさっさと教室行けば」
「誰かさんが転ばないように見ててやってんだよ」
「うるさい」
 画面が見えないはずの男から茶々を入れられて、孤爪は不機嫌に地団太を踏んだ。
 部室から教室がある棟は、それほど離れていない。正門から昇降口へ向かう人の列は大きく膨らんでおり、俯いていたら誰かにぶつかりかねなかった。
 歩きスマホは危険、となにかと槍玉に挙げられてもいる。気を付けるよう暗に言われて、孤爪は口をヘの字に曲げた。
 この調子だと、二年生の教室に着くまで、本気で追いかけてきそうだ。
 しかもその本当の理由が、幼馴染を気遣ってではなく、からかう材料を探しての事だから、始末が悪い。
 ニヤニヤしている黒尾を見上げて渋面を作り、孤爪は素早く左右を見回した。
 下駄箱がある昇降口は目前に迫っていた。あそこを潜ってしまうと、トイレくらいしかひとりになれる場所がない。
 人目を気にせず、しかも静かな空間を探し求め、彼は覚悟を決めるとぐっと腹に力を込めた。
「あ、おい」
 唐突に走り出されて、置いて行かれた黒尾は呆気に取られてぽかんとなった。
 咄嗟に出した手で空を握りしめて、脱兎の如く駆けていった背中を見送る。その姿は人ごみに紛れ、あっという間に見えなくなった。
 いつもの面倒臭がり屋はどこへ行ったのか、猫にも劣らぬ俊敏さだった。
 練習中も、あれくらい素早く動いてくれればいいのに。あっさり逃げられた黒尾は苦笑して、寝癖が激しい頭を掻いた。
 こうして無事幼馴染を引き剥がすのに成功した孤爪はといえば、二十秒としないうちに息が切れ、破れそうな心臓を抱えて地面にへたり込んでいた。
「っは、は……はあ、っは」
 飲んでも、飲んでも止まらない唾を嚥下して、酷い耳鳴りを耐えてかぶりを振る。足元に伸びる影を踏みしめて呼吸を整え、彼は背後を振り返った。
 臙脂色の煉瓦造りの校舎が視界いっぱいに広がり、雑踏は僅かに遠くなった。
 昇降口に通じる道を横断し、体育館とは反対側へ駆け込んだのだ。目の前には敷地を囲む樹木が枝を伸ばし、防犯目的でやたらと高い壁がその向こうに聳えていた。
 空は狭い。しかも宮城で見上げたものよりずっとくすんだ色をして、お世辞にも綺麗とは言い難かった。
「はあ、は……っ、んく」
 これで最後と五度目の唾を飲み下し、孤爪は汗で張り付いた前髪を脇へ払い除けた。
 時計を盗み見れば、始業時間まであと五分と少しだった。
「ちょっとくらい、なら」
 声が聞きたかった。
 平坦な文章では、満足出来なかった。
 嬉しかったのに、物足りなく感じていた。知らないうちに我儘になった。気付かないうちに、傲慢になっていた。
 けれど、一年に一度しかない今日だけは、贅沢を許して欲しい。
 祈るような気持ちで呼吸を鎮め、彼はすぐ暗くなるスマートフォンを握りしめた。
 緊張で悴む指に息を吹きかけ、六度目、生温い唾を飲みこんで発信画面を睨みつける。折角落ち着きかけていた心臓がまた騒ぎ出して、口から飛び出して来そうだった。
 普段はインターネット回線を介しての通信が主体なので、電話回線で言葉を交わす機会は稀だった。
「出る、……かな」
 連絡があってから、まだ十分と経っていない。あちらの学校が何分から授業開始かは知らないが、チャイムが鳴っていないよう、心から祈る。
 すぐ気付いてくれるようひたすら願って、孤爪は勇気を振り絞って画面のボタンをスライドさせた。
 つるりとした液晶に指を走らせ、即座に耳に押し当てる。反対側の耳は手で塞いで、息を殺し、判定の時を待つ。
 囚人になった気分だった。
 明日はちゃんと自力で起きて、朝ごはんもしっかり食べる。だから願いを叶えてくれますように。そんな事をひたすら頭の中で繰り返して、孤爪は繰り返される呼び出し音に奥歯を噛み締めた。
 一コール、ニコール、三コールと過ぎた。
 五コール目を数えたあたりで、焦りが生まれた。
「しょうよう」
 もしや既に授業が始まっているのか。それとも友人との雑談に夢中で、電話が鳴っていると気付いていないのか。
 この行為が非常識な部類に入る自覚はあった。
 たとえ繋がったとしても、長く喋れないのは承知している。電話料金だって、この時間は安くない。
「……出て」
 留守番電話機能は使われていないのか、切り替わる様子はなかった。
 そろそろ十コール目になる。カチコチに固まっていた四肢も力が抜けて、緊張が緩み出す頃合いだった。
 祈りは届かないのか。黒尾の高笑いが聞こえた気がして、孤爪は額を覆って溜息をついた。
 諦めが胸を過ぎった。時間を変えて改めようと思い始めた矢先だった。
 不意に音が途切れた。
 ぷるるるる、という淡泊なベルが消えて。
 直後。
『もしもし! 研磨!』
 脳天を突き破るけたたましい声が響き渡った。
「っ!」
 完全に油断していた。もうダメだと思い込んでいた。
 そんな中で唐突に叫ばれて、構えていなかった孤爪は咄嗟にスマートフォンを引き剥がした。
 右腕を目一杯伸ばして距離を作り、二秒後に我に返って慌てて元の位置に戻す。聞こえてきたのは幾らかボリュームが下がった、焦がれて止まない少年の声だった。
『あれ? あれれ? おーい。もしもーし。けんまー? けんまさーん?』
 応対に出て、呼びかけて、直ぐに返事がなかったので不思議に思ったのだろう。小さな孔から立て続けに、騒がしい声が流れて来た。
 慌てふためく様子が目に浮かんだ。携帯電話を手に首を傾げている姿を想像して、孤爪は堪らず噴き出した。
「くっ」
 口を閉じ、息を吐く。しかし声が漏れるのを防ぐのは難しかった。
 しかもそれを、スマートフォンがしっかり拾っていた。
 最近の電話回線は、こんな雑音まで相手に届けてしまうらしい。一秒足らずの沈黙があって、電話口から不貞腐れた声が聞こえてきた。
『けーんーまさーん?』
「ごめん、翔陽」
 頬を膨らませて、拗ねている顔が見えるようだった。急いで謝って、孤爪は深く息を吐き出した。
 左胸に手を添えて深呼吸して、唇を舐めて視線は上に。緑の隙間から覗く青空は、先程見た時よりも輝きを増していた。
「その。……ありがと」
 可笑しなものだ。スモッグで霞んでいる筈なのに、光が強すぎて直視出来なかった。
 照れ臭さを押し殺し、まずは礼を述べる。面と向かってだと言えなかっただろう台詞に、電話口の相手も面食らったようだった。
 息を飲む音が聞こえた。孤爪は目を閉じ、遠く離れた場所にいる友人に思いを馳せた。
 朝練を終えた彼を待っていたのは、一件の着信履歴と、一通のメールだった。
 誕生日おめでとう、と。
 たったそれだけを記した文面は、嬉しさと切なさの両方を孤爪にもたらした。
 日向はきっと、直接言いたかったに違いない。だから電話を先に掛けた。けれどタイミングが合わなかったから、メールに切り替えたのだ。
「覚えててくれて、すごく、うれしい」
 憶測を巡らせ、たどたどしく言葉を繋いでいく。
 親にさえ言ったことがない感謝を告げて、孤爪は返事を待って息を潜めた。
 誕生日の話をしたのは、随分前のことだった。
 夏合宿の時に、そんな話題が出た。自分は六月だったから、しばらくは同い年だな、とか、そういう会話をした。
 他愛無いやり取りだった。まさかしっかり記憶され、当日に連絡が来るとは思わなかった。
 こんなに幸せな事が他にあるだろうか。トクトク鳴動する心臓を撫でて唇を舐めて、孤爪は静かに目を閉じた。
『おれ、さ』
 そこへ妙にしんみりとした、哀しそうな声が聞こえてきた。
 小声で呟かれて、孤爪はすぐに瞼を押し上げた。瞬きして近くに誰も居ないのを確認して、両者を隔てる距離を実感して悔しさに臍を噛む。
 何故そんな寂しそうな顔をするのか。
 目には見えないけれど雰囲気が感じられて、意識しないうちに拳を作っていた。
 けれどそれは、すぐに力を失って解かれた。
『おれ、ほんとは。日付が変わってすぐに、電話、しようと思ってたんだ』
「……うん?」
『でも、昨日もずっと、烏養監督のところで練習してて。そしたら帰るの、遅くなっちゃって。お風呂気入ったら、持ち良くて。そんで、えっと』
「寝ちゃった?」
「うん……」
 スマートフォンから聞こえてきた言葉に、孤爪は苦笑した。漂っていた不穏な空気は霧散して、すっきりとした晴れ空が広がった。
 ただ日向のしょんぼりした声は変わらなくて、彼はこみあげてくる笑いを押し留め、校舎の壁に寄り掛かった。
 鳥のさえずりが聞こえた。爽やかな風が吹いて、このまま眠ってしまいたい衝動に駆られた。
 目を瞑り、すっかり聞き慣れた声に耳を傾ける。遠く宮城まで想いを飛ばして、彼は顔を綻ばせた。
「大丈夫だよ、翔陽」
『うぬ?』
「その時間だったら、おれも、寝てた」
 嘘ではない。正直に告白して、孤爪は何気なく鞄を叩いた。
 大会は目前に迫っていた。予選突破を目標に、練習は日々熱を帯びている。
 毎日のように体力を削られ、精神力も搾り取られて、家に帰り付く頃には屍も同然だった。風呂に入るのも億劫で、夕食を摂るのはもっと面倒だった。
 シャワーで汗を流して、髪も乾かさずにベッドに倒れ込んで、気が付けば、朝。最近はその繰り返しだった。
 だからもし午前零時に電話を鳴らされても、まず間違いなく出られなかった。
 メールを送られても、確実に返信出来なかった。
『えー。なーんだー』
 そう言えば、露骨にがっかりされてしまった。
 気に病んで損をしたと、そう言っているようなものだ。非常に分かり易い彼に肩を揺らし、孤爪は先ほどより静かになった昇降口を窺った。
 登校する生徒が減ったのだろう。チャイムが鳴るまで、あと幾ばくもなかった。
「そういえば、翔陽。さっき、出るの、遅かったけど」
『あー。だってさ、教室だったんだもん。いきなり鳴ったから、びっくりした』
「ああ……」
『だからおれ、今、トイレ!』
「自慢することじゃないと思うよ?」
『研磨は時間、大丈夫なの?』
「おれは――あと、ちょっとだけなら」
『そっか。おれも、あとちょびっとだけなら、へーき』
 カラカラ笑う声が頭の中で反響した。
 大慌てで男子トイレに逃げ込む彼をイメージして、申し訳なく思いながらも、可笑しくて仕方がない。口元を手で覆い隠して息を吐いて、孤爪はこの熱が宮城まで届くように祈った。
 幸せだった。
 この時間がずっと続けば良いと、願わずにいられなかった。
『でも、なー。研磨、もう誰かにお祝いしてもらった?』
「クロになら、ちょっと言われたけど。なんで?」
『あー、やっぱり負けたー!』
「翔陽?」
 電話口では日向が一瞬口籠り、突如叫んだ。
 質問の答えになっていない。会話が繋がらなくて、孤爪は怪訝に眉を顰めた。
 黒尾と、知らないところで勝負でもしていたのだろうか。そんな話は一切耳にしていなくて、仲間外れされたようで、気分が悪かった。
 ムッとしていたら、日向のため息が耳朶を掠めた。
『研磨の誕生日、一番にお祝いするの、おれだって決めてたのに』
「…………――っ!」
 それはきっと、独り言なのだろう。けれど電子機器はしっかり音を拾い、伝えてくれた。
 愚痴を呟かれて、孤爪は零れ落ちんばかりに目を見開いた。
 スマートフォンを握る手に力が入った。フレームが指に食い込んだが、緩める気になれなかった。
 背筋がざわめいた。全身に鳥肌が立ち、震えが止まらなかった。
 息をするのさえ忘れていた。瞠目したまま凍り付き、孤爪は唇を戦慄かせた。
 言葉が出なかった。
 凄まじい殺し文句に、何も言い返せなかった。
 東京と宮城の、物理的な距離が恨めしかった。未来から来た猫型ロボットの、不思議ポケットから出てくるあのドアが切実に欲しかった。
「翔陽」
 会いたい。触れたい。抱きしめたい。
 声だけでは足りない。
 我慢出来ない。
 恋しさを募らせ、歯を食い縛る。感情が溢れ出ないよう、必死に押し戻そうと足掻く。
 それでもはみ出てしまった想いが、ひゅう、と吹いた秋の風に乗って天を駆けた。
『……だからさ。来年、がんばるな』
「しょうよう?」
『研磨も。来年は、起きてろよな!』
「え、あ。うん。分かった」
『約束だかんなー。あ、チャイム鳴る。そんじゃ、研磨。誕生日おめでと!』
 それは嵐のようだった。
 一瞬吹き荒れて、あっという間に通り過ぎて行った。通話は呼び止める間もなく切れて、孤爪は惚けたまま暫く動けなかった。
 後ろでは予鈴のベルが、厳かに鳴り響いていた。
 はっとして我に返り、この音が自分の学校のものだと三秒掛かって気付く。未だ夢うつつの状況で昇降口を振り返って、通話に使った時間を伝える画面に見入る。
 それがゆっくり薄れて消えるのを待って、彼は役目を終えたスマートフォンで額を小突いた。
「来年。……後で、何曜日か調べよう」
 次のインターハイが終わったら自分だけ先に引退して良いか、と言ったら、皆は怒るだろうか。
 一度欲しいと思ったら、キリがない。
 こんなに貪欲だった自分の正体を初めて知って、孤爪は自嘲気味に笑った。

2014/10/19 脱稿

観取

 気まずい沈黙が続いていた。
 時折秋風に紛れて鳥のさえずりが聞こえたり、季節柄ヤキイモ販売の声が響いてきた。他に耳に入るのは、グラウンドで駆け回る運動部員の声など。そこに笛の音や、ブラスバンド部の演奏音が紛れ込んだ。
 様々な音が雑多に混じりあい、騒々しいかと思えば意外にそうではない。それほど悪くない雑音を意識の片隅で追いかけながら、雲雀恭弥は身じろいだ。
 応接セットのソファに斜めに腰掛け、肘を片方、背凭れへと衝き立てる。緩く握られた拳は傾いている頭部を支えて、脚は右を上にして優雅に組まれていた。
 モデルがポーズを決めているようで、一般人がやれば不格好で笑える光景だった。しかし彼がやると妙に様になっており、許されるならカメラを構えてみたかった。
 しかしとてもではないが、それが出来る雰囲気ではない。ひっそり悔しさを募らせて、沢田綱吉は膝を抱く手に力を込めた。
 余分な荷重がかかったからだろう。もれなく彼が座る椅子がキィ、と軋み音を立てた。
 その耳障りなノイズに、遠くを見据えていた雲雀も視線を泳がせた。
 数回の瞬きを経て、黒く濡れた眼が綱吉を射た。ソファの上でゆっくり背筋を起こして、彼は疲労を訴える左肩をぐるりと回した。
 長く同じ体勢でいたので、あちこちが凝っているのだろう。盗み見た時計は五時手前を指し示しており、太陽は西の空へ大きく傾いていた。
 ふたりが部屋に揃ってから、既に三十分近くが経過していた。
 その間に交わされた会話は、ほんの僅か。大半の時間は、両者ともに無言だった。
 最初のうちは我を張っているのもあり、沈黙は苦にならなかった。しかし時計の針が進むにつれて辛さが募り、居心地の悪さが勝り始めた。
 真綿で首を絞められているようなものだ。じわり、じわりと追い詰められているのを感じて、綱吉は汗ばんだ手をズボンに擦りつけた。
 肘掛けを持つ椅子に膝を抱いて座るのは、本来の使用方法から逸脱している。上履きはキャスターの傍に転がって、片足分が横を向いていた。
 季節の変わり目で、朝晩はかなり涼しくなった。昼間は日が照っていれば暖かいけれど、日陰に入ると肌寒かった。
 半袖では心許なくて、長袖の生徒が増えつつあった。綱吉もそのひとりで、白いシャツの表面には無数の皺が走っていた。
 姿勢の所為でベージュ色のスラックスは脹脛までしか覆っておらず、丈の短い靴下と、足首は丸見えだった。その無駄毛のない脛を爪で削って、彼はソファで寛ぐ男に口を尖らせた。
 綱吉が籠城を決め込んだので、あちらも長期戦を覚悟したようだ。今度は両腕を背もたれの後ろへ放り出して、投げ出された足はテーブル下に隠れていた。
 そのガラステーブルを挟んだ向かい側には、雲雀が座るのと対になったソファがあった。黒い革張りで、クッション性は抜群に良い。お蔭で横になるとすぐ眠気に襲われて、人をダメにしてくれた。
 どうしてあちらに座らなかったのか、後悔が胸を過ぎった。
 そもそも、どうしてこんな事になったのか。
 悔しさに唇を噛み、綱吉は折れそうになる心を奮い立たせた。
 現在進行形で彼が座っているのは、並盛中学校の応接室にある執務机の椅子だった。
 ソファには負けるけれども抜群の座り心地を誇り、長時間身を委ねていても疲れ難い構造だった。背凭れもふかふかで、油断すると舟を漕ぎそうな勢いだ。
 そんな高級家具に踵を預け、体育座りで陣取っている。かれこれ三十分近く同じ姿勢で、腕はいい加減痺れていた。
 指の力が緩みそうになって、綱吉は慌ててスラックスを握りしめた。裾を掻き集めて爪先に絡め、簡単に外れないよう意識を傾ける。
 そうやって意地を張る彼を横目で観察して、雲雀は面倒臭そうに溜息を吐いた。
「いい加減にしてよね」
 このまま待ち続けても、状況の変化は期待できない。諦めて折れてやることにして、彼は組んでいた脚を解いた。
 靴底で床を蹴り、両手も胸元に集めて重ねあわせる。口調は落ち着いていていたが、穏やかな語りの陰には不穏な気配が見え隠れしていた。
 厳かに告げられた台詞に、綱吉の肩が跳ね上がった。
 びくりとし、右の踵が滑り落ちそうになった。ただでさえ狭い空間に身を寄せているわけで、足の裏全体を椅子に置くスペースはなかった。
 崩れそうになった姿勢を慌てて作り直し、取り繕うが、動揺は明らかだった。ひとりオタオタしている彼に再度ため息を零し、雲雀は背中を丸めて頬杖をついた。
 太腿に肘を突き立てて身を屈め、壁の時計を一瞥する。前進し続ける長針にかぶりを振って、彼は放置されたスクールバッグに視線を投げた。
 向かい側のソファに陣取るそれは、他ならぬ綱吉の持ち物だった。
 勉強道具に弁当箱、体操服。それらが詰められた鞄は丸々と太り、ファスナーがはち切れそうだった。
 学校指定の鞄は全体的に草臥れて、かなりボロボロだった。荒っぽい使い方をしているらしく、印刷された校章は一部が剥がれていた。
 卒業まで持つか分からない鞄に眉目を顰め、持ち主へと視線を戻す。綱吉は幾分落ち着きを取り戻し、椅子の上で畏まっていた。
 その手前に置かれた机には、大量の書類が山積みになっていた。
 風で飛んで行かないように重石代わりのペンや、文鎮がそれぞれに乗せられていた。それでも端がパタパタ言うのは防げず、そのうち吹き飛ばされそうなものもいくつかあった。
 窓から風が吹き込む度に、綱吉はヒヤッとさせられた。そこに雲雀からの威圧が加わって、冷や汗が止まらなかった。
 琥珀色の目を泳がせて、彼は両手をぎゅっと握りしめた。首を竦めて丸くなって、絶対にここから退かないという意志を態度で表現する。
 分かり易い反抗を前に、雲雀は力なく肩を落とした。
 綱吉が陣取っているその椅子、並びに机は、風紀委員長雲雀恭弥の仕事場だ。
 卓上には未決済の書類が山を成し、首を長くして判を待っていた。だが肝心の処理する人間は机に向かわず、ソファで無為な時間を過ごしていた。
 否、そうではない。
 仕事を片付けたくても、出来る状況にないのだ。
 理由は簡単だ。そこに綱吉が居て、梃子でも席を譲らないと言い張っている為だ。
 力尽くで退かせるのは可能だが、暴力に訴えても事態は解決しない。むしろ却ってこじれるだけと分かるので、点火の雲雀も未だ強制排除に乗り出せずにいた。
 必死の形相で睨まれて、二の句が続かない。眼力で脅すのにも限界があって、お手上げだった。
 始末に困って天を仰ぎ、額をぺちりと叩く。軽い音に綱吉は顔を上げ、顔を覆う男に口を尖らせた。
「いつまでそうしてる気?」
「ヒバリさんが、ごめんなさいってするまでです」
「はいはい。ごめん」
「心が籠ってないからダメです」
 質問されて、彼は強気で捲し立てた。軽い調子の謝罪は即座に突き返し、簡単には許さないと決意を表明する。
 いつになく頑固な綱吉に嘆息を追加して、雲雀は首の後ろを引っ掻いた。
 一時は立ち上がろうとするが、寸前で思い直して腰を下ろす。身構えた綱吉は彼が動かないと知り、ホッと胸を撫で下ろした。
 虚勢を張ってはいるものの、内心はびくびくだ。もし彼が強行突破に出た場合、防ぎきれるとはとても思えない。
 死ぬ気になれば対抗は可能ながら、その覚悟が足りていなかった。現状では、瞬発的に力を発動するのは難しかった。
 最強の雲の守護者を前にしたら、大空の守護者も形無しだ。
 それが惚れた弱みからなのか、単純な力比べによるものなのかは、判断を保留せざるを得ない。両者を分割して考えること自体がナンセンスであり、不可能だった。
 恨めし気に雲雀を見つめ、綱吉は膝の間に顎を沈めた。
 頬を膨らませた拗ね顔は可愛いが、同時に憎たらしい。困ったものだと苦笑して、雲雀は湿った指先を袖に擦りつけた。
 左腕には臙脂色の腕章が、安全ピンで固定されていた。
 彼の格好は綱吉たちとは異なり、黒を基調とした学生服だった。
 風紀委員の特徴であり、最大の目印でもあるそれは、並盛中学校の生徒にとって、恐怖の対象でもあった。彼らの横暴な振る舞いは枚挙に暇なく、特に風紀委員長の身勝手さは群を抜いていた。
 そんな横柄な男を相手に、綱吉は譲ものかと必死だった。
 ここで折れたら、雲雀がつけあがるだけだ。たまには思い通りにならない事もあると、彼に教えなければいけない。
 妙な正義感と義務感に気持ちを奮い立たせ、人知れず握り拳を固くする。決意を新たにした綱吉を遠巻きにして、雲雀は呆れ調子に肩を竦めた。
 仕事はまだ沢山残っている。それこそ、今晩一睡もせずに取り組んでも終わらないくらいに。
 だからここでのんびり茶を嗜み、のほほんと過ごしている余裕はない。
 既にかなりの時間を無駄にした。予定が狂った苛立ちをため息と共に吐き出して、彼は腰に当てた手を背中に回した。
 羽織った学生服の内側に潜り込ませ、冷たく硬い感触を指先に与える。身じろいだ彼に綱吉も眼力を強め、反抗的な視線を投げかけた。
 隠し武器であるトンファーを取り出そうとした雲雀を警戒して、彼の全身から不穏な気配が溢れ出した。
 いざとなれば本気で、死ぬ気になって対抗するのも辞さないと、大粒の瞳が告げていた。
 それはそれで楽しそうであるが、生憎と時間が惜しい。急激に揺れ動いた天秤に終止符を打ち、雲雀は忍ばせていた腕を引き抜いた。
 だらりと垂れ下がった右腕に、綱吉は意外だったのか、眉を顰めた。
「ヒバリさん?」
「だったら、いいよ。好きなだけそこに居れば」
「ええ? ちょっと」
 怪訝にしていたら、くるりと踵を返された。武器を取らずにカツカツ歩き出した彼に驚いて、綱吉は場所も忘れて身を乗り出した。
 キャスター付きの椅子が床を滑り、バランスを失った体躯が空中で前後に振れた。慌てて両手を広げて体勢を維持して、転落を回避した彼はホッと胸を撫で下ろした。
 その頃には雲雀も移動を終えて、廊下に通じる扉に手を伸ばした。
 部屋を出て行こうとしていると知り、綱吉は零れんばかりに目を見開いた。
「ヒバリさん」
 急ぎ名前を呼ぶけれど、返事は得られなかった。
 それどころか、振り向きすらしない。あと少しで床に転げ落ちるところだったのに、心配する声も聞かれなかった。
 徹底的に存在を無視し、男は銀色のノブを掴んだ。
「ヒバリさん!」
 今から駆け寄っても、追い付けない。椅子から降りて机を回り込んでいるうちに、ドアは外から閉められてしまうだろう。
 かといって黙って見送ることも出来なくて、綱吉は声を荒らげた。
 切羽詰まった悲鳴を聞いて、男は仕方なく、さも面倒臭そうに振り返った。
「なに」
 そうして不機嫌を隠しもせず、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
 低い声は凄味があり、胸に突き刺さるようだった。
 人を見下していると分かる、接触を拒む声色だった。嫌悪感がそこかしこから滲み出ており、聞いた相手の心を挫かせる効果があった。
 もれなく綱吉も萎縮して、瞬きも忘れて凍り付いた。
 右膝を半端に起こしたポーズで停止して、呼吸も止めて瞠目する。それを冷めた目で見つめて、雲雀はゆるゆる首を振った。
「君が勝手にするなら、僕もそうするよ。好きなだけ居ればいい。居られるのなら、だけど」
「……!」
 綱吉が自発的にそこから動かないのであれば、雲雀にも相応の用意がある。
 即ち、椅子に座って机に向かう以外の仕事を先に片づける、と。
 素っ気ない台詞と仕草から導き出される結論は、綱吉が望んでいたものとはまるで違った。正反対と言っても過言ではない結末に騒然となり、彼は四肢を戦慄かせた。
「そ、……っ」
 咄嗟に口を開くが、喉が引き攣って声が出ない。そもそも自分が何を言おうとしていたのかも分からなくて、綱吉は頬をヒクつかせた。
 全身からさっと血の気が引いて、顔も恐らくは真っ青だろう。土気色になった唇が小刻みに震えて、琥珀色の瞳は光を失い、暗く翳った。
 雲雀がこのまま応接室を出て行ったとして、戻ってくるのはいつか。まず間違いなく、三十分や一時間そこらではないはずだ。
 短くても三時間、長ければ五時間後の可能性だってある。その間に太陽は沈み、月が昇り、星が瞬く夜が訪れる。
 沢田家の夕飯は、日によって若干の変動があるものの、大体午後七時前後に始まった。風呂は八時半頃から順番で、布団に入るのは十一時を過ぎた辺り。
 普段の生活スケジュールを確認して、綱吉は身震いが止まらなかった。
 もしこのまま居座ったとしても、時間には限りがある。空腹を抱えたまま一晩ここで過ごせるかと訊かれたら、首を横に振らざるを得ない。
 最初から勝負にすらなっていなかった。
 綱吉の負けで終わるのは、端っから分かり切っていた。
「――っ!」
 寒気を覚え、自分自身を抱きしめる。見えてしまった結末に奥歯を噛み締めて、泣きそうになるのを必死に耐える。
 それでも涙が滲むのだけは、どうしても止められなかった。
「ずるい!」
 叫んだのは、無意識だった。
 気が付いた時にはもう、吠えていた。大きく口を開いて、肺に残る酸素を全部使い切って。肩で息をして、顔を真っ赤にして。
 乗り出した身体を机に押し付けて、綱吉は歯を食いしばって雲雀を睨みつけた。
 もし眼力で人を攻撃出来たなら、ドアごと吹っ飛ばされていた。それくらいの強い意志を込めた綱吉に、雲雀は思案げに眉を顰めた。
 眉間に皺を寄せ、胡乱な眼差しを投げ返す。意思疎通が叶わない状況に鼻を愚図つかせ、綱吉は唾が散った口元を雑に拭った。
 どうして不利でしかないと分かる籠城戦に打って出たのか、この男はまだ分からないでいるらしい。
 強敵の気配は敏感に察するくせに、闘いとは無縁の事には底抜けに疎い。あまりにも落差が酷すぎると落胆してかぶりを振って、綱吉は下唇を噛み締めた。
「……二週間、経ったんですよ?」
 絞り出した声は掠れて、今にも消えてしまいそうだった。
 恨み言をぶつけられ、雲雀の目が二度、素早く瞬いた。
「ああ」
 緩慢な相槌の後に、切れ長の眼がスッと細められた。瞳は左へと流れ、何もない壁へと向けられた。
 思い返していると分かる表情に、綱吉の小鼻が一層膨らんだ。
 二週間。約半月。十五日弱。言葉は色々あるけれども、ともかくそれくらいの間、綱吉は我慢を強いられてきた。
 暫く忙しいと言われて、大人しく待った。だというのにその『暫く』がいつまで経っても終わらない。夏の暑さが退いて秋の過ごしやすさが巡って来たのに、休みの日にどこかへ出かける計画も、全部潰れてしまった。
 あれこれ情報を集めて楽しみにしていたのに、言い出す事すら出来ずに終わった。
 虚しい連休だった。
 我慢も限界だった。
「……そうだっけ」
「そうですよ!」
 だというのにこの男は、ちっとも反省していない。それどころか、夏休み中に口にした、『秋になったらどこかへ行こうか』という約束も、綺麗さっぱり忘れ去っている。
 あの日、綱吉は天にも昇る気持ちだった。それが今や、奈落よりも暗い場所まで沈んでしまっていた。
 堪忍袋の緒が切れた。一度徹底的に懲らしめないと、雲雀は絶対に分かってくれない。
 分かろうとすらしない。
 彼は綱吉が意地を張る理由を探ろうともせず、面倒だからと相手にしなかった。会話を拒み、出て行こうとした。
 放っておけば綱吉から折れて来ると、甘く思っているのだろう。
 実際、これまではそうだった。
 しかし今回だけは、絶対に譲歩しない。固い決意を表情に込め、綱吉は執務机の角を思い切り握りしめた。
 力み過ぎて血管が浮き、筋張った関節が皮膚を突き破りそうだった。
 必死な形相を遠巻きに眺めて、雲雀恭弥は深々とため息を零した。
「じゃあ、僕は見回りに行くから」
「っ!」
 抑揚に乏しい声で淡々と告げられて、綱吉は愕然となった。
 これだけ懸命に訴えても、なにも届かなかった。彼の心には響かなかった。
 信じられなくて、呆然とするしかない。大粒の目を真ん丸に見開いて、綱吉は口をパクパクさせた後、奥歯を強く噛み締めた。
 顎が軋むくらいに力を込めて、顔を伏す。俯いた綱吉に興味が失せたのか、雲雀は長く握ったままのドアノブを押した。
 既に回されていたらしく、扉は音もなく開かれた。
 道が出来て、窓から吹く風が少しだけ強まった。カーテンがふわりと舞い上がり、白色が応接室を埋め尽くした。
 直後、パタンと音がした。軽快に踊っていた布たちも途端に勢いを失って、申し訳なさそうに引っ込んでいった。
 静寂が訪れて、惚けていた綱吉は力任せに机を殴った。
 痛みで爆発しそうな感情を誤魔化し、たまたまそこにあったボールペンを横薙ぎに払い落とす。机から転がったそれを追いもせず、鼻息荒くした彼は椅子から飛び降りた。
 上履きを履き、大股で向かうのは誰も居ない応接セットだ。そこに長らく放置していた通学鞄を引っ手繰って、前後に大きく振り回しながら踵を返す。
 ドアを開ける音は、学校中に轟きそうなほどに大きかった。
 本当は蹴破ってやりたかったが、死ぬ気でなければ無理だ。学校の備品も壊せない。だから乱暴に突き飛ばすだけにして、勢い勇んで廊下に出て。
 昇降口に向かおうとしたところで、彼は居る筈のない存在に気が付いた。
「え」
 絶句して、固まってしまう。それまでの威勢の良さは何処へ行ったのか、心臓は戦慄き、思考は停止した。
 三度、四度と瞬きをしても、扉の傍らに佇んでいた男は消えなかった。
「……なん、で」
 どうしてそこにいるのか、意味が分からなかった。
 見回りに行くと言っていた。それなのに、雲雀はまるで綱吉を待っていたかのように、壁に寄り掛かって立っていた。
 瞬きすら忘れて凍り付く彼を見下ろし、男はゆっくり壁から離れた。胸元で組んでいた腕も解いて脇に垂らして、首を左右に揺らして骨を鳴らしもする。
 だが近づいてくるかと思いきや、彼はそこで脚を止めた。
 再び腕を組んで、口を開きもしない。無言で見下ろされた綱吉は戸惑い、鞄を抱きしめて眉を顰めた。
「あの?」
「…………」
 何か用かと目で問うが、返答は期待できなかった。感情が読めない鉄面皮は不気味で、空恐ろしかった。
 いったい彼は何を考えているのだろう。訳が分からず、綱吉は恐る恐る後退した。
 左の爪先で床を蹴り、思い切って身体を反転させる。背後を警戒しつつ昇降口へ続く廊下を歩き出せば、真後ろで小さく、足音が響いた。
「っ!」
 大仰にビクついて慌てて振り返れば、棒立ち状態だった雲雀が一歩、足を踏み出したところだった。
 両手はポケットの中に移動していた。親指だけを袋の内側に入れて、残りは外に出して身体のラインに添わせている。学生服の裏地がちらりと覗いて、目の覚めるような緋色が眩しかった。
「……?」
 綱吉が首を竦めて萎縮している間、彼は全く動かなかった。
 何かに似ている。つい最近、居候の子供たちと一緒に公園で遊んだ記憶が脳裏を過ぎった。
 怪訝にしつつ体の向きを戻し、数歩、急ぎ気味に進んでみる。もれなく足音もついて来て、綱吉が立ち止まればピタリと止んだ。
 振り返れば雲雀が、一定の距離を保って立っていた。
「だるまさんが転んだ、だ」
 一連のやり取りを昔からある遊びに結び付けて、綱吉はこみあげる笑いを噛み潰した。
 あんなに不機嫌だったのに、いつの間にやら、ちょっと楽しくなってきた。
「見回り、行かなくていいんですか?」
 どこまでついてくるつもりだろう。試してみたくて階段を駆け下りて、昇降口に至ったところで綱吉は問うた。
 雲雀は答えず、初めて自分から距離を広げて下駄箱に向かった。
 上履きを履き替えるようだから、外へ行く気はあるのだろう。綱吉も彼に遅れまいと下足に爪先を押し込み、日差しが残る外へと飛び出した。
「ダメだなあ、俺」
 先に仕度を済ませた雲雀が正門で待っているのを見るだけで、心が弾み、顔が緩んだ。
 あんなに妥協はしないと決めていたのに、うっかり絆されてしまった。
 自分から折れに行けない彼の不器用さがくすぐったくて、とても暖かかった。
 鞄を肩に担ぎ、大股で正門を潜り抜ける。もれなく雲雀も動き出し、数歩後ろを歩き始めた。
 横に並んで一緒に進めないのは悔しいけれど、振り返れば彼がいる。それだけでも嬉しくて、綱吉は上機嫌に空を仰いだ。

2014/9/17 脱稿

裏柳

 酸っぱい汗の臭い、耳障りな衣擦れの音、騒ぐ声、喧しい足音。
 朝練後の部室には、人を不愉快にさせる要素が過剰なまでに詰め込まれていた。
 ただでさえ時間が押し迫っている中、精神的にピリピリしていた。身体を動かした後は大抵スッキリした気分になるのに、今日に限ってだけは、その前例が当てはまらなかった。
 それも全て、朝の仕上げとばかりに行われたサーブ練習で、得意のジャンプサーブが悉く失敗したのが原因だ。調子が悪かったわけではないのにどうにもタイミングが合わず、ネットに引っかかったり、遠くまで飛び過ぎて反対側の壁にぶつけたり。
 三年生はこういう日もあるから気にするな、と言ってくれたが、同級生の月島には好き放題言われてしまった。王様が情けない、など等、ここぞとばかりに嫌味を連発していた。
 なるべく耳を貸さないようにしていたが、我慢にも限界がある。堪忍袋の緒が切れたところで上級生に制止されてしまい、怒りの矛先を失って消化不良なのも、苛立ちを増幅させていた。
 神経が尖っているから、いつもなら気にならない臭いにも過敏になってしまう。チームメイトが呑気に喋っている声も、不愉快で堪らなかった。
「チッ」
 気が付けば、ごく自然と舌打ちしていた。汗を拭いたタオルを鞄に叩きつけて、影山は二度、三度と肩を上下させた。
 乱れた呼吸を素早く整え、深呼吸で憤りを吐き出そうとするが上手くいかない。胸に渦巻くもやもやした感情は消えず、逆に凝縮され、色を濃くしていた。
 早く吐き出してしまいたいのに、喉につっかえて、いつまでも居座り続けている。不快感ばかりが募り、彼は無意識に胸元を掻き毟った。
 他の部員らはそんな影山に見向きもせず、各々着替えを済ませて部屋を出て行った。
 人が減って、少しだけ風通しが良くなった。首筋を撫でた涼風に、彼はシャツを掴む指を解いた。
 力を失った利き腕を脇に垂らし、もう一度深呼吸する。肺の中で凝り固まっていたものを一緒に追い出して、影山はようやくトレーナーを脱いだ。
 いつの間にか、着替えを終えていないのは彼だけになっていた。
「おっさき~」
 元気のよい声を残し、西谷が靴を引っ掻けて部室を出ていった。少し遅れて東峰が後に続いて、パタン、と扉が閉まる音が響いた。
 あれだけ混みあっていた室内が急にがらんとして、物寂しさが膨らんだ。あれだけ苛立ちでいっぱいだった心も急に空っぽになって、振ればカランコロンと音がしそうだった。
「あ……」
 返事をし損なって、影山は惚けた顔で目を丸くした。
 上半身裸のまま立ち尽くして、数秒かけて手元へ視線を戻す。着ようと思って持ったままだった制服を見下ろして、奥歯を噛んだ彼は急ぎシャツを羽織った。
 袖を潜らせ、襟を合わせてボタンを上から嵌めていく。虚しさを打ち消すかのように手を動かし、気になって壁に掛けられた時計を一瞥する。
 直前、視界に何かが紛れ込んだ。
 オレンジ色の異物を低い位置に見出して、影山はギョッとなって凍り付いた。
「ん?」
 慌てて瞳を右に戻し、顎を引いて下を向く。乳白色のボタンを引っ掻いた末に握りしめて、彼は顔を上げた日向に目を瞬かせた。
 烏野高校男子排球部の小さなミドルブロッカーは、影山のすぐ隣で膝を折り、しゃがみ込んでいた。
 いったい何をしているのかと思えば、制服のズボンを捲り上げていたらしい。五センチ幅で折り返して、踝どころか、脹ら脛まで表に出していた。
 膝小僧は隠して、これではまるで七分丈だ。
「なに?」
「……いや」
 暑さ対策と、動きやすさを追求した結果だろう。コートの中でもちょこまかと動き回る彼を思い出して、影山は言葉を濁した。
 取り立てて話したいことはない。変なところにいたから驚いただけで、用があったわけではなかった。
 気まずげに呟いた彼に日向は首を捻り、立ち上がった。明るい茶髪を左右に揺らして、着替えを再開させるでもなく、棒立ちになっているチームメイトを怪訝に仰ぐ。
 横からじっと見つめられて、影山は居心地の悪さに臍を噛んだ。
 奥歯に力を込め、緊張した頬を引き攣らせる。そんな歪な表情を斜め上に見て、なにを感じたのだろう、日向は不意に半眼した。
「影山君は、ご機嫌斜めですか?」
「あ?」
 突然の質問に、対応がなおざりになった。
 口を開けば、低い声しか出なかった。表情も強張ったままで、傍目には不機嫌と映るのも仕方が無い事だった。
 そうではないのに、否定できない。咄嗟に言葉が出なくて喘いでいたら、勝手に納得した日向がふっ、と鼻から息を吐いた。
「お前さあ、菅原さんも言ってたけど、そういう日もあるんだから、切り替えろって」
 何をやっても上手くいかない日は、確かに存在する。それで気持ちがささくれ立って、行動が雑になり、余計に失敗して苛々が膨らんでいく。
 日向にも覚えがあるのか、宥める言葉には説得力があった。両手を腰に当てて胸を張ったチームメイトに、影山はバツが悪そうに奥歯を噛み締めた。
 その話はもう過ぎたことで、言われなくても切り替えたつもりでいた。だというのに穿り返されて、折角忘れかけていた感情にまた火が点いた。
 灰の下で燻っていた残り火が、風に煽られて威勢を取り戻した。
 放っておけばいずれ鎮火したのに、余計な真似をされて鬱陶しい。爆弾の導火線はいつになく短くて、ちょっとした衝撃で簡単に破裂してしまいそうだった。
 押し殺していた怒りを滲ませて、影山は上唇に牙を立てた。
 対する日向は相変わらずで、偉そうに人を説き伏せようとしていた。
「てかさー、良かったじゃん。調子悪いのが、試合当日じゃなくてさ。そう思っとけよ」
 明るくハキハキした声で言い、目を細めて朗らかに微笑む。最後にぽんぽん、と左肩を叩かれて、影山は耳障りな高音に神経を高ぶらせた。
 頭の血管が切れそうだった。
 自分でも何故こんなにイラついているのか分からない。気付かないうちに蓄積されてきたものが不用意に浮上して、奥底に閉じ込めていた爆弾を水面間際まで押し上げていた。
「……っせえよ」
「うぬ?」
 多分、いや、まず間違いなく、日向に非はない。
 ただ単に、タイミングが悪かっただけだ。心が病んでいたところに余計な燃料を注がれて、制御が利かなくなってしまっただけだ。
 日向はなにも悪くない。
 けれどそれを、影山は受け入れることが出来なかった。
「うっせえよ、ボケェ!」
 気が付けば、大声で怒鳴っていた。
 呆気に取られた日向が息を呑み、ただでさえ大きな目を丸くした。圧倒されたのかその状態で凍り付いて、瞬きすらしなかった。
 そんな惚けた彼を睨みつけて、影山は全身を荒々しく震わせた。
 足元から脳天目掛けて、猛り狂う感情が駆け抜けた。怒りに全身が支配されて、止める事が出来なかった。
「俺のことなんかほっとけよ。テメーにだけは言われたくねえ」
 失敗してもへらへら笑っている奴が嫌いだった。
 ミスをしたのに悪びれず、反省しない奴が許せなかった。
 いつまで経っても上達せず、必死にやっているアピールだけが上手い馬鹿にムカついた。
 足を引っ張られたくなかった。
 その下手糞さが伝染りそうで、視界に入れるのさえ嫌だった。
 だから。
「俺が居なきゃなンも出来ねー奴に、エラそーに言われる筋合いなんかねーよ!」
 止まらなかった。
 止められなかった。
 吠えた瞬間、日向の瞳孔が広がったのが分かった。
 真ん丸い目を零れ落ちそうなくらいに見開いて、色をなくした唇をわなわなと震わせて。
 肩で息をする影山がはっとした頃には、彼の表情からは一切の感情が消え失せていた。
 能面だった。
 ぞっとするほどの静けさに、心臓は一瞬で竦み上がった。
「ひな……っ」
 失言が過ぎたと我に返り、慌てて弁解を口走ろうとするが出来なかった。あらゆる干渉を拒絶する眼を向けられて、影山は真っ青になった。
 身の毛がよだつとは、こういう時に使うのだろう。命の危機に限りなく近い恐怖を覚え、彼は唇を戦慄かせた。
 なにも言えないまま、口をパクパクさせる。餌を食べようとする金魚か鯉になった気分でいたら、日向がふいっ、と顔を背けた。
 もれなく視線が外れた。思わずホッとしてしまって、影山は直後に総毛立った。
「ぉ、あっ」
「分かった」
 咄嗟に声を発しようとするが、今回も失敗に終わった。喉に引っかかった息は意味を伴った音にならず、そんなところに手間取っている間に、日向はぽつりと呟いた。
 下を向いて、腕を伸ばして。鞄を肩に担いだ彼は、一度として影山を見ようとしなかった。
「ごめん」
 淡々と紡がれた謝罪の言葉が何に対してのものなのか、最後まで分からなかった。
 惚けているうちに日向は足を進め、靴を履いてドアに手をかけた。後ろ姿は平然としているようで、そうでないようにも見えた。
 実際、彼は途中で一度躓いた。何もない場所――強いて言うなら古い畳の縁に爪先を引っ掻けて、軽くバランスを崩してふらついた。
 ただ倒れることはなかったし、すぐに体勢を立て直してしまったので、影山の出る幕はなかった。
 呆気に取られたまま見送るしかなかった。扉を開けて出て行く際も、日向は何も言わなかった。
 追いかけるべきだったのかもしれない。
 呼び止めるべきだったかもしれない。
 けれど、いったい何を言えば良かったのか。
 思考は停止して、答えは出なかった。
「……っと、待てよ」
 乾ききった眼球を瞼で隠し、影山は額を利き手で覆った。ふらついて肩から棚にぶつかって行き、身体全体を揺らして愕然と立ち尽くす。
 勢い任せに叫んだ台詞が、今頃現実味を伴って襲い掛かって来た。
 日向が下手なのは、本人も認めていた。けれどそれは、彼の努力が足りない所為ではない。
 むしろ頑張っている方だ。頑張り過ぎて無茶をして、逆に心配になるくらいだった。
 彼に足りていないのは経験、そして時間だ。
 身長も勿論足りていないのだが、それを補って余りある脚力を有しているから、これは差し引きゼロでいい。いや、身体が大きくなればその分動きが愚鈍になるので、今の瞬発力を維持したければ、背丈は伸びない方が良かった。
 彼の必死さは痛いくらいに伝わっていた。身体的な不利を承知でバレーボールを諦めず、懸命に食らいついている姿勢には感動すら覚えた。
 だというのに、酷いことを言った。
 言ってはいけないことを、口にしてしまった。
「なんで、俺、日向に、ンなこと」
 思い返すだけで身体の芯がわなわなと震えた。真ん中でぽっきり折れて、木っ端微塵に砕けてしまいそうだった。
 自分で自分が分からない。あんなことを言うつもりなどなかった。まるで誰かに身体を乗っ取られたかのようだった。
 けれど罵倒を口走ったのは、紛れもなく影山本人だ。それはつまり、あの時は、あれが影山にとっての本音だったということだ。
 理性や知性を掻い潜って飛び出した、純粋な意見。しかし今の影山は、その本心を否定している。
 怒りに身を任せて吐き出した言葉が、日向を深く傷つけた。自らの愚かさを顧みて、彼は嗚咽を噛み潰した。
「くそっ」
 自分自身に悪態をつき、遠くから聞こえてきたチャイムに顔を上げる。二度舌打ちして混乱する頭を叩き、影山はシャツの裾を出したまま鞄を担ぎ上げた。
 そして踵を返し、誰も居ない部室を出ようとしたところで。
「いって」
 落ちていた何かを踏んで、彼は思い切り顰め面を作った。
 子供が見たら泣き出しそうな表情で顎を軋ませ、爪先だけ汚れた靴下を睨みつける。足を後方にずらして畳に下ろして、出てきた物に眉を顰める。
 落ちていたのは鍵だった。それも家や部室などの鍵ではない。
「チャリの、鍵……か?」
 形状から判断し、彼は腰を曲げて腕を伸ばした。取り付けられたキーホルダーを摘めば、一緒にぶら下がっていた小さな鈴がチリン、と鳴った。
 気付かずに全体重を乗せてしまったが、拉げてはいなかった。金属製のそれは本来の形状を保っており、キーホルダーにも異常は見当たらなかった。
 ホッとして、影山は顔の高さまで掲げた鈴に肩を落とした。
「アイツのだよな」
 部室に落ちていたのだから、これはバレーボール部員の誰かの所有物だ。そして十数人のチームメイトで、自転車通学をしているのはひとりしかいない。
 地元駅に着いてからは自転車、という人がもしかしたら居るかもしれないが、着替えをしていた場所からも、他に該当する人物は思いつかなかった。
 姿を脳裏に描き出せば、読み取ったかのように鈴が鳴った。まるで返事をするみたいにちりりん、と軽やかな音を響かせて、惚けていた影山はハッとなった。
 予鈴のチャイムは既に鳴り終えていた。授業が始まるまで、あと五分と残っていない。
「やべえ」
 考えている暇などなかった。影山は日向の落し物である鍵を握りしめると、鞄を抱え直して急ぎ部室を出た。
 乱暴にドアを閉め、外階段を駆け下りて昇降口へ向かう。校門を潜り抜ける生徒は少なく、そのほぼ全員が駆け足だった。
 影山もその列に混じって道を急ぎ、校舎へと飛び込んだ。教室のある四階に到着する間際に始業開始のベルが鳴って、ギリギリセーフで滑り込んだ後も、暫くの間、心臓が五月蠅かった。
 荒い息を吐いて唾を呑み、机についてからずっと握ったままだったものを思い出す。卓上に転がしたそれは、汗を吸って湿っていた。
「どうすっかな……」
 放課後にも、部活動はある。あのまま部屋に捨て置いたとしても、別段問題はなかったはずだ。
 しかし時間が差し迫っていたのもあって、そこまで頭が回らなかった。
 うっかりしていたと自分を責めて、椅子に深く凭れ掛かる。一時間目が始まってからも思考は日向との事にばかり傾いて、教師の声などまるで耳に入ってこなかった。
 酷いことを言ってしまった。いったいどんな顔をして、彼に会いに行けばいいのか分からない。
 当然、謝るべきだろう。あれは本意ではなかった。お前の頑張りは認めていると、きちんと頭を下げて許しを請うべきなのは承知していた。
 ただ、上手く言える自信がなかった。顔を合わせた途端に嫌味を言われようものなら、頭に血が昇ってすべてを台無しにしてしまいかねない。
 短気な性格をしている自覚はある。売り言葉に買い言葉で踊らされて、周囲に迷惑をかけているのも理解していた。
 常に冷静であるよう自分を戒めてはいるけれど、思い通りになった例はない。思い悩んで、思い詰めて、どうにもならなくなって最後に爆発する癖は、そろそろ終わりにしたいのに。
 黒髪をガシガシ掻き回し、己の不甲斐なさに歯軋りする。そうしているうちにチャイムが鳴って、静かだった教室がにわかに騒がしくなった。
 結局ノートに点のひとつも打たないまま、一時間目が終わってしまった。
 全く使わなかった教科書を引き出しに押し込め、その流れで椅子に座ったまま後ろに仰け反る。背凭れが背中に食い込み、視界にはあまり綺麗でない天井が広がった。
 こうしている間も、頭の中には落ち込む日向の後ろ姿が浮かんでは消え、消えては浮かんで、部室でのやり取りが延々と繰り返された。
 目を閉じても消えてくれない。煩悶とするばかりで、朝方とは違う苛立ちが彼を責め立てた。
「あー、クソっ」
 結局どうしたいのかは分からないままだが、こうしていても気が収まらないのは事実だ。ぐだぐだ考えていても始まらなくて、彼は辛抱堪らず椅子を蹴り倒した。
 突然立ち上がった彼に驚き、隣の席の女子がビクッとなった。しかし影山は構うことなく鍵を掴むと、ポケットに押し込んで歩き出した。
 大体、一ヶ所に留まってうじうじするのが性に合わないのだ。
 最早出たとこ勝負で構わない。結果がどうであれ、今のまま悶々とし続けるよりは、何かしら行動を起こした方が百倍マシに思えた。
 行き当たりばったりの思考回路で教室を出て、影山は荒々しい足取りで一組へと向かった。
 この鍵を彼に渡して、落ちていたと軽く茶々を入れ、そのついでに朝の発言を謝罪する。この流れで問題はないはずだと頭の中で繰り返し、彼は開けっ放しの後方扉から広い教室を覗き込んだ。
 一組は三組同様賑やかで、多くの生徒でごった返していた。
 移動教室でなかったのは幸いだ。行き違いになっていたら、折角の決意が無駄になるところだった。
 その点にまずホッとして、彼は次に目立つ頭を探して視線を泳がせた。
 バレーボール部の中では群を抜いて小さい日向だけれど、他の生徒に紛れると、さほど背の低さは感じない。実際、彼を見つけるのに数秒の時間が必要だった。
 第二体育館でなら瞬時に見付けられるのに、何故だか少し悔しい。彼に対する申し訳なさで目が曇っているのかと考えて、影山は額を押さえて首を横に振った。
 チームメイトを罵倒して気まずくなるなど、中学時代には良くあったことだ。
 あの時は自分が絶対に正しいと疑わず、相手が悪いのだと信じきっていた。当然のように贖罪の気持ちなど湧かず、無視をされても平気で居られた。
 けれど、日向はどうだろう。
 既に一時間、彼のことで頭がいっぱいだった。謝って、万が一許されなかったらと考えると悪寒がして、全身から血の気が引いていくのが分かった。
 ようやく得た、本当のチームメイトだからか。
 自分のトスに全力で応えようとしてくれる、唯一無二の存在だからか。
「……なわけ、ないだろ」
 彼を特別扱いしている。他の誰とも置き換えられない、この世でただひとりの人だと認識している。
 これまで考えてもみなかった展開に足を一歩踏み出しかけて、影山はくらっと来た頭を抱え込んだ。
 咄嗟に否定の文言を口走るものの、語気は弱く、説得力は皆無だった。
 青褪めたまま視線を前方に投げれば、日向は彼に気付くことなく、クラスメイトと雑談に興じていた。
 眼鏡の男子と、身振りを交えて、楽しそうに笑っていた。相手も日向に心を許しているのが窺えて、表情は朗らかだった。
 通りすがりの生徒が突然会話に紛れ込んで、横槍を入れられた日向が高い声で不満を訴えた。しかし声のトーンは穏やかで、本気で怒っているのではないと楽に想像出来た。
 影山と喋っている時とは、まるで別人のようだった。
「…………」
 片側に寄せられた引き戸に身を隠し、影山は呆然と光景に見入った。
 呼び出そうとしていた声を喉の奥に押し込め、浅く唇を噛んで顎を引き攣らせる。襲い掛かってきた絶望感に打ちのめされて、足は竦んで動かなかった。
 邪魔出来るわけがなかった。
 圧倒的な壁を感じた。とても近いと思っていたのに、いざ行こうとしたら彼との間には断崖絶壁が広がっていた。
 地の底よりも深い亀裂が延々と横に伸びて、落ちれば一瞬であの世行きだった。
 飛び越えられない距離ではないけれど、失敗した時を思うと動けない。挑戦権は一度きりで、まさに命がけだった。
 脂汗が滲んだ。掌がびっしょり濡れて、白いシャツに汗染みが広がっていくのが感じられた。
 入口で棒立ちになっている影山に、不審の目が向けられた。通行を邪魔された女子が眉を顰めて通り過ぎて行って、彼は力なく肩を落とした。
「別に、今じゃなくてもいいだろ」
 機会はまた巡ってくる。放課後の練習が終わる前に渡せれば、なにも問題ないはずだ。
 意気地なしの、根性なしだと罵り、安全牌を拾おうとする自分に吐き気を覚えた。けれど今、ここから踏み出す勇気がどうしても出なくて、影山は泣きそうになりながら右足を退いた。
 情けない言い訳ですり減ったプライドを慰め、身体を反転させる。休み時間も残り僅かとなり、二時間目の開始が迫っていた。
「なにやってんだ、俺は」
 日向に謝りたくて意気込んできたのに、なにもせずにすごすご引き下がって。
 一方的に彼を傷つけておきながら、笑っている姿を見て勝手に傷ついている。
「馬鹿じゃねーの」
 もやもやした気持ちは消えるどころか膨らんで、今にも溢れ出て来そうだった。
 自分で自分を罵倒して、彼は濡れてもない口元を拭った。ひりひり来る痛みで感情を誤魔化して、急ぎ足で廊下を突き進もうとして。
「影山!」
「っ!」
 不意に放たれた鋭い声に、大袈裟なまでに反応してしまった。
 心臓が止まりかけた。呼吸は本当に止まった。ついでに全身も凍り付いて、指の一本も動かせなかった。
 出しかけた足を戻し、行儀よく背筋を伸ばす。タタタ、と軽い足音が聞こえて、すぐに止まって、乱れ気味の荒い息が耳朶を掠めた。
 内臓が一ヶ所に集まり、萎縮して震えていた。目の奥がぐるぐる回って、歪んだ視界に脳が痛みを訴えた。
 緊張のし過ぎで本当に吐きそうだった。喉を逆流する胃酸の不快さを慌てて閉じ込めて、彼はギギギ、と不器用に首を振り向かせた。
 日向が居た。
 息を切らして頬を上気させて、日向翔陽が影山を見上げていた。
「な……、で」
「んだよ。おれになんか、用があったんじゃねーの?」
 驚きで声が出なかった。何故だと絶句していたら、日向が口火を切って喋り始めた。
 誰かが教えたのか。それとも日向自ら気付いたのかは不明だが、彼は影山が去ろうとしていると知り、追いかけて来た。
 クラスメイトとの会話を放り出してまで、影山を優先させた。
 その事実に背筋が戦慄いた。ぞぞぞ、と悪寒とも言い難いものが足元から駆け上がって、凍えて震えていた心臓に熱を点した。
 ドンッ、と背中から叩かれる錯覚に足をふらつかせ、忘れかけていた呼吸を再開させる。身体中の汗腺が一斉に開いて、温い汗がどっと溢れた。
 腋に汗染みが広がって、肌にべったり張り付いた。掌の湿り気はスラックスに吸わせるが、とても追いつかなかった。
「ひな、た」
「ん? あ、あー……」
 辛うじて掠れた声で名前を呼べば、即座に反応した日向が半眼した。
 丸い瞳が泳ぎ、宙を舞った。彷徨う視線が壁を這って、彼が今朝のことを思い出したのが、影山にも理解出来た。
 今の今まで、忘れていたのだろう。彼の心には、影山が危惧したほど大きなダメージは残らなかったようだ。
 とはいえ、罵倒した事実は消えていない。許されたわけではないと戒めて、影山は臆した心を奮い立たせた。
 早く言わなければ。
 ごめん、とただひと言を口にするだけで、この問題は解決するのだから。
 だというのに。
「あ、……ぇと、その」
 いざ口を開いた途端、決意は尻窄みに小さくなり、弾け飛んでしまった。
 たった三文字を声に出せば終わりなのに、どうしても言い出せない。余計な言葉ばかりが音を成し、肝心の部分が出て来なかった。
 歯切れの悪い影山を見上げて、日向は何を思ったのか。
 ぐるりと一周した瞳を正面に戻し、彼は首を竦めてしどけなく笑った。
「ごめんな」
「――え」
「おれ、もっと頑張るから」
 胸の前で左右の指を合わせ、弄りながら囁かれた。視線は交差せず、伏しがちの表情からは感情が読み出せなかった。
 絶句する影山を見ようとせず、早口に捲し立てる。指の動きは激しく、互いを小突いたり、引っ掻いたりと忙しかった。
 一秒として同じ形状を維持しない指先と、虚空を漂う眼差しと。
 それが彼なりの気遣いであり、傷の深さだった。
 正面切って向き合えない。一歩退いたところからでしか語り合えない。
 これ以上傷つくのを恐れて足踏みして、安全な場所から動こうとしない。
 けれどそれは影山も同じだ。そして猪突猛進な日向をこんな風にしたのは、他ならぬ影山だった。
 昨日まであった無遠慮さや、図々しさが薄れ、よそよそしさが前面に押し出されていた。およそらしくない態度にぞわっと来て、影山は呆然と立ち尽くした。
 こんな日向は見たくない。
 彼は彼らしく、ウザいくらいに元気で、うるさくあって欲しかった。
 電流が駆け抜けた。ビクッと指を痙攣させて、影山は底抜けに愚かだった過去の自分を殴り付けた。
「んじゃ、おれ、教室戻るし」
 尖った気配を感じたか、日向が挙動不審に身をよじった。タイミング良く二時間目のチャイムが鳴って、視線を浮かせた彼は慌てた様子で言い訳を口にした。
 影山が訪ねてきた用件を聞きもせず、一方的に話を切り上げて利き手を振る。そうして身体を反転させて立ち去ろうとした直後。
 背中を向けられて、影山は騒然となった。
「待て!」
 発作的に、手を伸ばしていた。
 叫び、細い手首を捕まえる。折れそうなくらいに思い切り握りしめて、影山は驚いて振り返った彼に顔を歪めた。
 砕ける寸前まで顎を噛み締めて、鼻から吸った息を肺に溜め込む。目を丸くした日向が腕を振り払おうとして、それさえ封じ込めて彼は吠えた。
「悪かった!」
 あんなにも躊躇していたのが嘘のように、言葉はさらりと零れ落ちた。
 教室に戻ろうと急ぐ生徒が数人、彼の声に反応して振り向いた。日向自身も唖然として口をぽかんと開き、まっすぐ射抜いてくる影山の眼を久しぶりに見返した。
 黒い瞳に自分の姿が映っていた。瞬きに合わせて消えたり、現れたりするそれに魅入られて呆然として、三秒後、我に返った影山は激しく動転して顔を赤くした。
 ぶわっと、頭のてっぺんから湯気が出た。耳の先まで急激に赤くなって、まるで角のない赤鬼だった。
 目まぐるしい変化に惚けた顔をして、日向は一度外されかけて、また強く握られた手首に視線を落とした。
 影山の掌は汗ばんで湿り、その上異様に熱かった。
「かげやま?」
 大声の謝罪が何に掛かるのか、予想はつくものの、確証が持てない。不思議そうに見つめられて、影山は目を泳がせて奥歯を噛み締めた。
 臼歯を擦り合わせて表面を削り、やがて諦めがついたのか、深くため息をつく。
 そして日向に向き直り、
「今朝は、言い過ぎた」
 ずっと言いたくて言えなかった台詞を舌に転がした。
 思っていた以上に音はすんなり零れ落ち、サラサラと流れていった。
 思い悩んでぐずぐずしていたのが馬鹿らしくなるくらい、あっさりだった。こんなにも簡単だったのかと妙な感動を覚えて、影山は緩めた指先で日向の手首をなぞった。
 肌を擽られ、握り直されて、彼は惚けたまま顔を上げた。
 目が合った。
 そうやって黙ったまま三秒が過ぎて。
「うひゃ」
 彼は照れ臭そうに、笑った。
 軟体動物でも、こんな間抜けな顔になりはしまい。それくらい力の籠っていない笑顔を見せられて、影山は呆然と息を呑んだ。
 吸い込んだ息が肺ではなく、別の場所に着地した。それまで水面下で燻っていた感情が途端にボッと燃え広がって、炎は瞬く間に全身へと行き渡った。
「!」
 四肢が痙攣し、全身が竦み上がった。心臓が戦慄き、元から赤かった顔が益々赤くなった。
 ビクッとなった彼に小首を傾げ、日向が表情を引き締めた。口角を持ち上げて笑みは維持して、目を細めて恥ずかしそうに腰をくねらせる。
 一旦俯いて、すぐに顔を上げて。
「おれ、も。ごめん。な?」
 面映ゆげに告げられた言葉に、影山は発作的に彼の腕を振り払った。
 押し退けたのではない。利き手を自由にして、その上で左腕も使って、日向を抱きしめようとしたのだ。
 一歩前に出て距離を詰め、迫り、きょとんとしている彼を胸に閉じ込めようと腕を広げる。後のことなど考えていなかった。どうしてそんな衝動に駆られたのか、原因についても頭になかった。
 本能がそう命じたから、としか言い表しようがなかった。理屈でどうこう説明出来る類ではなく、文字通りそうしたかったから、でしかなかった。
「――え?」
 よもや日向も、影山に学校の廊下で、正面から抱きしめられるとは夢にも思っていなかっただろう。彼が何をしようとしているのか分からず、困惑気味に目を泳がせた。
 そんな無防備な姿すら可愛くて、誰にも見せたくなかった。制御が利かない自分に混乱して、影山はあと少しで触れられるところまで彼に近付いた。
 ところが、だ。
「こぉらあ! お前ら、さっさと教室入らんか!」
「げえっ」
 寸前でだみ声で怒鳴られて、ふたりは揃って顔を引き攣らせた。日向などは露骨に嫌そうに悲鳴を上げて、ぴょん、と跳ねて影山から距離を取った。
 空振りした腕が空を掻き、行き場を失った指がヒクヒクと震えていた。温かな熱の代わりに虚しさを抱きしめて、影山は蟹股でやってくるジャージ姿の男に盛大に溜息をついた。
 あれは、格好だけなら体育の授業を率いていそうだが、ただの数学教師だ。
 女生徒ばかり贔屓して、男子生徒には不必要に厳しいとして知られる教師でもある。鏡を見たことがあるのか、と言いたくなる外見をしている癖に、自分は女子から人気があると信じて疑わない、性格に難がある人物でもあった。
 正直な話、日向も影山も、彼が苦手であり、嫌いだった。
「やっべ。んじゃまたな、影山」
 チャイムはとっくに鳴り終わっていた。既に二時間目の授業は始まっており、職員室から階段を登ってきた教師たちが廊下を跋扈していた。
 彼らに掴まったら、面倒臭い。一気に顔色を悪くして、日向は甲高い声で捲し立てた。
 今度こそ、と手を振って、彼は駆け出した。身軽な動きで床を蹴り、あっという間に扉に吸い込まれてしまった。
 取り残されて、一秒してから影山も我に返った。ハッと背筋を伸ばし、無精髭で睨んでくる数学教師から逃げて急ぎ三組を目指す。
「あ、やべ。忘れてた」
 そうしてレールを跨いで教室に入った直後、肝心のことを思い出し、彼はズボンのポケットを叩いた。
 馴染みの薄い凹凸をなぞり、深く息を吸い、吐き出す。
「ま、いいか。次、返しにいけば」
 今日という日はまだ長い。時間は、探せばいくらでも見つけ出せる。
 日向に会いに行く理由がひとつ出来ただけでも嬉しくて、同時にとてもホッとした。肩の力を抜いて呟いて、影山は自分の机へと急いだ。

2014/10/07 脱稿

千歳緑

 合宿の楽しみと言えば、なんと言ってもみんなと同じ屋根の下で眠る事。大きな風呂場で大騒ぎをして、大勢でテーブルを囲んで食事をして、夜遅くまで色々な話で盛り上がる事。
 勿論練習も大事だというのは分かっているが、そればかりではつまらないし、辛い。好奇心旺盛な十代の若者には、適度な休息と刺激が必要不可欠だった。
 そんなわけで陽も沈んだ夜の学校を探索するのも、所謂お約束のひとつだった。
 もっとも、お化けや幽霊といった類を探しに行くわけではない。日中は体育館にカンヅメなので、こんな時間しかうろうろ出来ないだけだ。
 夕飯も終わり、風呂も入った。全身から立ち上っていた湯気は落ち着いて、毛先からぽたぽた垂れていた雫も数をかなり減らしていた。
 念のため首にタオルを巻いて、宮城から持ち込んだ上履きをぺたぺた言わせる。踵を踏み潰している所為で、足を持ち上げる度にゴム底が古びた廊下を叩いた。
 埼玉県にある森然高校は豊かな自然に囲まれた高台にあり、体育館は新旧含めて三つあった。それらは屋根付きの渡り廊下で繋がれて、一筆書きのようなルートを形成していた。
 烏野高校も広い敷地を持ち合わせているが、ここはそれ以上だ。油断すると簡単に迷えてしまえる空間を見回しながら、日向翔陽は何度も目を瞬かせた。
「すげーなー」
 タオルの両端を緩く握って持ち、振り子のように首を揺らしながら廊下を行く。暗闇には月が浮かび、薄墨色の雲が星明りを隠していた。
 学校には森が迫り、両者を区切るのは傾斜も急な坂だった。昼間はそこを何度も往復させられて、脚の筋肉はパンパンに膨らんでいた。
 もっとも夕飯と風呂のお陰でひと心地つけたので、体力は幾分回復していた。チームメイト数人はまだぐったりしていたけれど、一晩眠れば流石に大丈夫だろう。
 たった一日でげっそりやつれてしまった月島を思い出し、リズムよくスキップを刻む。口笛を吹きたくなるがそれは我慢して、日向はひとり、夜の学校に目を凝らした。
 母校とは構造も、配置も、何もかも違っていた。
 たとえば、昇降口の下駄箱の並び。職員室や校長室の位置。食堂に置かれた自動販売機の種類に、掲示板に貼られているチラシやポスターの数、など等。
 数え出したらきりがない。それが面白くて堪らなくて、大粒の眼はずっとキラキラ輝いていた。
「おもしれー」
 校長室近くにはガラスケースが置かれ、中にはトロフィーや楯が収められていた。年代は古いものから、新しいものまで様々で、森然高校の歴史が肌で感じられた。
 烏野高校にも似たようなものがあるが、数はもっと少ない。裏を返せば、いくらでも飾る場所があるわけだ。
 十年後や二十年後まで語り継がれる歴史を自分たちで作るべく、ひとり決意を新たにする。その為にももっと練習を頑張ろうと、気合いを入れ直して腹に力を込める。
「よーし、やるぞー」
 両腕を高く掲げて吼えれば、静かな空間に声が反響し、何重にも重なり合った。
 まるでこだまだ。時間を忘れていたとハッとして、日向は慌てて自分の口を塞いだ。
 まだ眠るには早い時間ながら、余程の体力自慢でない限り、みんな疲れている。生徒らが合宿中に寝起きする部屋はここより階が上ながら、騒げば音は響くだろう。
 それに学校内という環境上、娯楽は殆ど無い。テレビを見る事も叶わず、練習が終われば後は寝るくらいしかない。
 気の早い部員は、早々に布団に潜りこんでいる筈だ。安眠を邪魔される不快感は半端なくて、日向自身、何度も経験があった。
 気持ちよく眠っているところを叩き起こされるのは、非常に腹立たしい。反省して首を竦めて、彼はそろり、ガラスケース前を離れた。
 大きな掲示板の前を通り過ぎ、昇降口へと戻る。烏野高校のメンバーが寝起きしている部屋は、この棟の三階だった。
「どーしよっかなあ」
 照明が消されて暗い階段を見上げて、彼はぽつりと呟いた。
 外に出て下手に迷子になるのは嫌だし、蚊に刺されるのも避けたい。かといってすぐに部屋に戻るのも、勿体ない気がした。
 折角探検に出てきたのに、自慢できる発見がひとつもないのは寂しい。ならばもう一周くらい、学校内を歩き回ってみるのが吉か。
 思い悩み、判断に苦慮して決めかねていたら、突然上からカコン、と物音が降ってきた。
「?」
「あ……」
 何かが床に落ちて跳ねたらしき音に、首は自然と斜め上を向いた。大粒の目を真ん丸にして闇に挑んだ彼の視界には、先程までなかった影が紛れていた。
 人だ。
 それも、日向も良く知る人物だった。
 あちらも驚いた顔をして、萎縮して小さくなった。落としたものを拾おうとして腰を折った状態のまま、暗い踊り場を横歩きで逃げていく。
 何故離れていくのかと首を傾げ、日向は疑問符を生やして口を開いた。
「研磨?」
 いったい彼は、そこで何をしているのだろう。
 折角階段を下りてきたのに、来た道を戻ってまた登ろうとしている。奇妙な行動を執る友人に半眼して、日向は狭い段差に爪先を乗せた。
 一段だけ登って背伸びをすれば、逃げられないと悟ったのか、背筋を起こした孤爪が手摺り側に進み出た。
「……翔陽」
 表情は気まずげで、困っている様子が窺えた。
 どうしてそんな顔をするのか分からなくて、日向は渋面を作った。相変わらず人と目を合わせようとしない友人に眉を顰め、更にもう三段、階段を登って爪先立ちになる。
 じわじわ距離を詰めて来られた孤爪は視線を宙に投げ、観念して溜息を吐いた。
 その細い肩から、背負ったリュックサックの紐が片方、滑り落ちた。
「なにしてんの?」
 なで肩な上に猫背気味なので、簡単にずり下がってしまうのだ。それを急ぎ戻していたら、踊り場まで残り二段となった日向に高い声で問われた。
 声変わり前かと疑いたくなるボーイソプラノに苦笑して、根本は黒く、毛先だけ金色の少年は手の中のものを彼に示した。
 けれど光が遠い所為で、あまりはっきり見えない。
「ん~?」
 パッケージの形状からある程度推察は可能だが、表面に印刷された字が読めなくて、確信が持てない。だからと目を細くして顔を近づけた日向に、孤爪は一瞬間を置いて肩を震わせた。
 必死になって笑いを堪える彼を片目で睨みつけ、日向は背筋を伸ばし、口を尖らせた。
「研磨」
「ごめん」
 拗ねた声で名前を呼べば、あっさり謝罪された。
 この辺りが、チームメイトとは違うところだ。偉そうな影山や月島とは違って、孤爪は日向の感性に近い場所にいた。
 たったこれだけのやり取りで機嫌を直し、彼は差し出された筒状のものを素直に受け取った。
「あ、これ」
「翔陽も食べる?」
「いーの?」
 それを光に透かし、幾らか読みやすくなった文字に目を輝かせる。歓喜の声を響かせた彼に孤爪が続けて、日向は声を弾ませた。
 それはコンビニエンスストアなどで売られている、定番のお菓子だった。
 しかも味が、普通とは違う。最近発売されたばかりなのか、印刷されているイラストは日向の知らないものだった。
 オーソドックスな物しか食べたことがなくて、味の想像がつかない。けれどきっと美味しいに違いなくて、考えるだけで涎が出た。
 夕飯をたっぷり、腹いっぱいになるまで食べたというのに、だ。
 ぐぅ、と腹まで鳴った。底なしの食欲に自分で赤くなって、日向は穏やかに微笑む孤爪に舌を出した。
「いいよ。どうせ、おれひとりだと食べきれるか分かんなかったし」
「えー、そうなの?」
 その彼は馬鹿にすることなく告げて、取り戻した菓子箱を耳元でカタカタ鳴らした。
 円筒状の容器は底よりも蓋の方が大きくなっており、中に納まるのは芋を固く焼いた棒状の菓子だった。歯応えが重視されていて、前歯で砕きながらリズミカルに食べるコマーシャルが人気だった。
 味のバリエーションは多く、そして変遷も早い。気に入っていたのにいつの間には市場で見かけなくなった、というのも良くある話だった。
 内容量は多くもなく、少なくもなく。ただ一度食べ始めると手が止まらなくなるタイプで、気が付けば容器が空になっているのが当たり前だった。
 だからこそ、孤爪の小食ぶりに驚かされた。そういえば夕飯の席でも、あまり箸が進んでいない様子だった。
「でもこんな時間に食べてたら、太るよ?」
「太るほど食べてないから、大丈夫」
 それを前提に言ってみたが、さらりと言い返された。それに今は日向も居る、と珍しく真っ直ぐ目を見ながら訴えられては、誘いを渋るわけにはいかなかった。
 照れ臭さに負けて頬を赤く染めて、日向は階段を降り始めた孤爪を慌てて追いかけた。
「どこいくの?」
「食堂」
 訊けば即答された。菓子を食べるだけなら寝泊まりしている部屋でもよかろうに、わざわざ別の場所を選ぶのには、何か理由があるのだろうか。
 不思議そうにしていたのがバレたのだろう。振り返った孤爪が、きょとんとしていた日向に相好を崩した。
「ホントは、そこでゲームしようって、思ってたんだけど」
 飲み物も欲しかったし、と付け足して、姿勢を戻す。短い説明で事情を把握して、後ろを行く日向は成る程と頷いた。
 孤爪が携帯用ゲームを愛用しているのは、前から承知していた。
 相変わらずな彼に目を細め、日向は白い歯を見せた。歩幅を狭くする代わりに脚を素早く動かして追い付き、横に並んだ後はペースを揃えて廊下を行く。
 食堂は靴を履き替えなくても、渡り廊下を使えば簡単に辿り着けた。
「翔陽は、なにしてたの」
「おれ? おれはね、探検」
「ああ。何か面白いとこ、あった?」
「それがさー、全然。で、もっかいうろうろしようと思ってたら、研磨見つけたから」
「もういいの?」
「うん?」
「探検、しなくても」
 扉は閉まっていたが、鍵はかかっていなかった。少し重いそれを左に滑らせて道を作って、照明は全部ではなく、一部だけに光を点す。
 移動中の他愛無い会話は、食堂に着いてからも続いた。
「いーよ。研磨といる方が楽しそうだし」
「おれ、ゲームするよ?」
「見てるだけでも面白いし。って、あ!」
「翔陽?」
 言葉がポンポン飛び出して、空中を飛び交っていた。いつになく多弁になっている自覚のあった孤爪は、突然叫んだ日向に驚いて首を竦めた。
 ゲーム機の入ったカバンを肩から滑らせ、呆然と立ち尽くしている年下の友人に目を点にする。彼は両の手をわなわな震わせて、顔色悪く唇を開閉させた。
 急にどうしたのかと眉を顰めていたら、泣きそうになった日向が大きく鼻を愚図らせた。
「どーしよう、研磨。おれ、お金持ってない」
 そうしてショックを隠し切れないまま、鼻声で呻いた。
「……え?」
 ただ孤爪は、その事実にそれほど衝撃を受けなかった。むしろ当然ではないかと呆気に取られ、返答も忘れて頬を引き攣らせた。
 通行料を取られるわけでもないし、学校内を探索するだけなら、金は不要だった。
 そもそも、日向は手ぶらだった。後は寝るだけとなっているラフな格好で、財布を持ち歩くのは逆に不自然と言えた。
 孤爪と遭遇し、食堂に来たのは完全なイレギュラー。当初の彼の行動予定にはなかった事なのだから、これは仕方がなかった。
「いいよ。奢ってあげる」
「駄目だって。悪いし」
「じゃあ、おれの、ちょっとあげる」
 ならば買ってやろうと試みるが、強い口調で固辞された。ならばと代替え案を提示すれば、数秒悩んだ末、日向は首肯した。
 一本丸ごとと、ほんの数口に、どれだけ違いがあるのだろう。もっとも孤爪の方も、ペットボトルを購入して、全部飲み切れる自信がなかったので都合が良かった。
 余らせて捨てるのは勿体ないし、部屋に持ち帰っても常温で放置するのは怖い。部のメンバーに見つかって事細かに追及されるのも、それはそれで面倒臭かった。
 もし飲み干せなかったとしても、押し付ける相手が出来た。日向と会えてよかったとはにかんで、孤爪は居並ぶテーブルのひとつに鞄を置いた。
 背凭れのない椅子を引き、腰を下ろす。日向は向かいではなく、左隣に居場所を定めた。
「そこでいいの?」
「ダメ?」
「うぅん。全然」
 てっきり反対側に座るものとばかり思っていたので、意外だった。吃驚していたら不安そうに訊かれて、孤爪は慌てて首を振った。
 嫌がっていると勘違いさせてしまった。そうではないと声にも出して否定して、孤爪は鞄から財布を引き抜いた。
「先に食べてていいよ。翔陽、苦手なのって、ある?」
「えー。研磨が好きなのでいいよ。コーヒー以外で!」
「言ってるじゃない」
「えっへへー」
 ひっそり食べるのを楽しみにしていた菓子はテーブルに残し、席を立つ。自動販売機へ移動しながらのやり取りには、噴き出さずにはいられなかった。
 茶目っ気たっぷりに首を竦めた日向に目を眇め、清涼飲料水を選んで戻る。菓子の蓋は開かれず、そのまま残されていた。
 食べないのかと目で問えば、丸椅子の座面を握った少年は淡く微笑んだ。
「だって、研磨のだし」
 分けてもらう立場の人間が、勝手な真似は出来ない。遠慮しているのだと暗に告げられて、孤爪は少しだけ哀しくなった。
 自分たちにはまだ垣根があると教えられた。友達同士にも一定の気遣いが必要、という考え方には至れなかった。
「いいのに」
 少しだけ機嫌を損ね、声は素っ気なくなった。ぼそりと吐き捨てた台詞を拾った日向は素早く瞬きし、椅子の上から身を乗り出した。
「研磨、なんか怒ってる?」
「ないよ」
 鈍感なフリをして、意外に察しが良い。微細な変化を嗅ぎ取った彼から仰け反って逃げて、孤爪は買ってきたボトルを遮るように置いた。
 青色を主体にしたパッケージは、東北で売られているものと全く同じだった。
 その珍しくもないペットボトルに彼の意識が向いているうちに、孤爪は菓子を引き寄せて、蓋を一気に引き剥がした。
 完全に分離させず、一センチ弱、接点を残して箱を開ける。香りはしなかった。代わりにガサッ、と揺れた中身が飛び出しそうになった。
 勢いが強すぎたのだろう。菓子が浮いた分だけ慌てて箱を持ち上げて、事なきを得た孤爪はホッと胸を撫で下ろした。
 それを見ていた日向が、堪え切れず噴き出した。
「研磨、下手だなー」
「こんなのに、上手いとか、ないと思う」
「じゃー、ヨーグルトの奴、飛ばさないで開けられる?」
「……翔陽はどうなの」
「おれも無理。あれって難しいよねー」
 ケタケタ笑って、脚も交互にばたつかせる。脇道に逸れた話題は本筋に戻ることなく、藪の中に放置された。
 ひとつのテーマに集中せず、話の中心は頻繁に入れ替わった。どこからそんな話が出て来たのかと首を傾げる事もあったが、テンポが良いのであまり気にならなかった。
 一週間分の会話を五分足らずの間で繰り広げて、孤爪は細長い菓子を一本引き抜いた。
「はい」
「いえーい」
 残りを箱ごと押し出せば、日向は両手を挙げて満面の笑みを浮かべた。
 嬉しそうに歓声を上げて、テーブル上を移動した菓子に早速手を伸ばす。最早遠慮はいらないとばかりに二本まとめて頬張って、その美味しさに舌鼓を打つ。
「うんまー」
「良かった」
 率直な感想にホッとして、孤爪も次の一本を口に入れた。サクサクした歯応えを楽しみつつ、指先に残った粉もぺろりと舐める。
 それを横からじっと見られて、彼は怪訝げに首を傾げた。
「なに?」
 食い意地が張っているように思われたなら、心外だ。少し不安になって問いかければ、日向は大きな目を細めて笑窪を作った。
「研磨、猫っぽい」
「……意味分かんない」
 あっけらかんと言い放たれた台詞が理解出来ず、眉間に浅く皺が寄った。それを不機嫌になったと感じたのか、日向は慌てて表情を引き締めた。
 そうして一部だけ明るい食堂内を見回して、白いテーブルに陣取る孤爪の鞄に視線を向けた。
「やんないの?」
「うん?」
「ゲーム」
 短い言葉のやり取りに、孤爪は二度、瞬きを繰り返した。
 ほんの僅かな変化だったが、彼の声には元気がなかった。心細げに呟かれて、一瞬間を置いて、孤爪は肩の力を抜いた。
 伸ばした手はペットボトルを掴んだ。薄い鞄は肘で脇へ押し退け、ふたりから遠ざける。
「うん」
 キャップを捻りながら頷いて、プラスチックの留め具が折れる感触を掌に閉じ込める。
 鼻から息を吐くのに合わせた首肯に、日向はすぐに反応しなかった。
 伝わらなかったのかと心配になり、孤爪は傍らを窺った。恐らくは聞こえなかったのだろう。案の定、彼はぽかんとしていた。
 不思議そうに見つめられて、自然と苦笑が漏れた。
 幼馴染である黒尾や、部のみんなは、付き合いの長さもあるのか、雰囲気で察してくれた。きっとこう思っているのだろう、と独自に解釈をして、間合いを把握してくれていた。
 けれど日向が相手では、そうはいかない。曖昧に濁していては駄目なのだと、人との付き合い方を考え直させられた。
「しないよ」
「なんで?」
 だから言い直し、声に出す。すると日向は即座に口を開き、首をこてん、と右に倒した。
 無垢な瞳に見つめられて、孤爪は答えを躊躇した。
 理由を聞かれるとは思っていなかった。
 そんなもの、存在しない。明確な回答は見当たらず、ただなんとなく、としか言い表しようがなかった。
 そう、なんとなく、だ。
 最初はゲームをする気でいた。誰にも邪魔されず、静かで、菓子を奪われない環境を求めて、食堂へ行こうと決意した。
 その道中に日向と遭遇した。当初の目的を果たそうとするなら、彼とはあの場で別れるべきだった。
 既に計画はとん挫している。日向を食堂に誘ったのは孤爪だ。独り占めするつもりでいた菓子も自ら提供して、それを嫌だと思っていない。
 どうして。
 降って湧いた疑問に、答えはストンと落ちてきた。
「翔陽が、いるから」
 声に出せば、余計にしっくりきた。他に思いつかないと自信を深めて、孤爪はぽかんとしている友人に相好を崩した。
「翔陽と喋ってる方が、楽しいから」
 他に理由などない。
 必要ない。
 これまでずっと、ゲームがあればそれで良かった。いや、ゲームでなくとも別段構わなかったのだ。ひとりで過ごすのに適した暇潰しなら、なんだって。
 他人と関わり合いになるのが、ずっと煩わしかった。ゲームは、周囲から自分を切り離す役目も果たしていた。壁を作り、寄せ付けない為の道具だった。
 そのゲームを、今はやりたいと思わない。
 こんな心境に陥ったのは初めてで、けれど意外にも、心は穏やかだった。
「……えへ」
 真正面から向き合って告げた孤爪に、日向は面映ゆげに微笑んだ。照れているのか頬をほんのり朱に染めて、首を竦めて目尻を下げていた。
 それはいつもの彼の、元気一杯で太陽のような笑顔とは少し違っていた。
 初めて目にする種類の笑みに、孤爪は一寸驚いて目を丸くした。けれど心はすぐに和いで、嬉しさがじわじわ膨らんでいった。
 一緒に居ると、楽しい。嬉しい。
 もっと喋りたい。色々なことを話したい。
 知りたい。知ってほしい。
 分かりたい。分かり合いたい。
 通じ合いたい。
 繋がりたい。
「おれも、研磨といっぱい喋れるの、うれしい」
 気恥ずかしげに日向が告げて、孤爪は頬を緩めた。小さく頷いて返し、軽く身じろぐ。
 座っている椅子ごと日向の方へ近付いて、肘がぶつかる距離まで迫って。
 肩を寄せ合い、そっと息を殺して。
 まずは何から話そうか。
「ねえ、翔陽」
「うん?」
 囁けば、無邪気な瞳が覗き込んでいた。その愛くるしい眼差しに相好を崩し、孤爪はそうっと口を開いた。

 

2014/9/22 脱稿

伯林青

 何事にも熱心なのは良い事だけれど、度が過ぎるのはあまり宜しくない。
 ドタバタ騒ぐチームメイトをちらりと盗み見て、月島は深々とため息をついた。
「急がないと遅刻するよ」
「わーってるよ!」
 一番上まできちんとシャツのボタンを嵌め、身なりを整え終えたところでぼそりと呟く。嫌味な台詞はしっかり聞こえていたようで、大慌てでズボンを脱いでいた日向は声を張り上げた。
 その瞬間、彼はつるっと滑って盛大に尻餅をついた。
「うわあ、痛そう」
 部屋全体が揺れたかのような轟音に、山口が首を竦めて目を瞑った。部室の反対側に居た上級生も何事かと振り返り、服が足に絡まっている後輩を見つけ、一斉に噴き出した。
 どうやら膝までずらしたズボンを脱ごうとして、足を持ち上げるタイミングを誤ったらしい。思い切り布を引っ張たところ、足首に引っかかっていて転んだ、そういう事だ。
 なんという間抜けさだろう。呆れるに呆れられなくて、月島は憐みの目で彼を見下ろした。
 それが気に障ったか、床に蹲る少年が頬を膨らませた。
「なんだよ!」
「別に」
 拗ね顔で睨まれても、生憎と怖くない。二十センチ以上背が低い相手を鼻で笑い飛ばして、月島は鞄を手に踵を返した。
 既に準備を終えていた山口も彼に従い、出入り口を目指して歩き始めた。
「じゃあ、お先に失礼します」
「お先でーす」
 靴を履き、ドアに手を掛ける直前に頭を下げる。一礼した彼らに微笑み、三年生が頷いた。
「また放課後な」
「はい」
 手短に挨拶を済ませ、月島がドアを開けた。隙間からは風が吹き込み、汗を含んで酸っぱい空気を押し流した。
 男臭さも緩んで、呼吸が楽になった気がする。ホッとしながら深呼吸して、菅原はもたついている一年生に肩を竦めた。
「お前らも急げよー」
 黒いスラックスにベルトを通しながら言えば、床の上にいた日向が不貞腐れた顔で口を尖らせた。
「はぁい」
 ようやくズボンを脱ぎ終えて、トランクスと半袖シャツ姿で座り込んでいる。どうしたのかと思えば、一緒に脱げた靴下を履き直しているところだった。
 その手際は、お世辞にも良いとは言えなかった。
 毎日繰り返している事なのにもたもたして、なかなか先に進まない。本人なりに急いでいるつもりらしいが、焦る所為で失敗も多く、結果的に時間がかかっていた。
 そうこうしている間に、田中達も着替えを終えた。大きな荷物を手に部室を出て行く彼らを見送り、菅原は深い溜息をついた。
 ちらりと盗み見た時計は、始業時間五分前に迫ろうとしていた。
 もうじき予鈴が鳴る。部室棟から教室まではそれなりに距離があるので、今からだと走らなければ間に合わなかった。
「日向、影山も。遅れんなよ」
「うス」
「分かってまーす」
 部長である澤村は日直の為、誰よりも早く着替えを済ませて部室を飛び出していた。東峰や西谷もとっくに教室へ向かっており、今や部屋の中に居るのは、菅原を除くと日向、影山のふたりだけだった。
 何度も開閉されたドアを一瞥して、もう一度時計を盗み見る。針は前にだけ進み、巻き戻すのは不可能だった。
 彼らの脚力なら、この残り時間でも間に合うかもしれない。だが菅原には無理だ。
 遠く、予鈴が鳴る音が聞こえてきた。スピーカーから流れるメロディは長閑だが、学生を否応なしに急きたてた。
 これ以上は待てないと腹を括って、彼は鞄に手を伸ばした。
「んじゃ、俺ももう行くから。鍵閉め、忘れないようにな」
 照明のスイッチ横に取り付けられたフック、そこに引っ掛けられた鍵を示しながら言う。促された両名もそちらに目を向けて、当然だとばかりに首肯した。
 あまり大したものは置いていない部室だが、値段が安かろうとも大切な備品だ。なくなったら困るものも多く、盗まれるわけにはいかなかった。
 だから窓も施錠して、部外者が立ち入れないように警戒を怠らない。
 鍵の管理は基本持ち回り制だが、早朝の練習が終わった後に限り、部室を最後に出た人間の仕事だった。
 この場合は、日向か、影山のどちらかだ。
 しっかりしているようで、うっかりしている彼らだ。忘れないよう釘を刺して、菅原は重い鞄を担ぎ上げた。
 英語と漢文の辞書が入っているので、いつも以上にずっしり来た。
「なんで同じ曜日なのかなあ」
 思わず愚痴が出た。ひとりごちて肩を竦め、菅原は鈍い足取りで通路へと出た。
 パタンと音立ててドアが閉められ、急に部屋の中が静かになった。耳を澄ませば登校中の学生の声が聞こえて来て、屋内と外のギャップは凄まじかった。
「急げよ」
 そんなことを気にしていたら、影山にまで急かされた。
「わーってるってば」
「分かってねーだろ」
「うるしゃい」
 生意気に命令されたのが癪で、牙を剥いて吼えるが効果はない。逆に淡々と言い重ねられて、日向はぷいっ、とそっぽを向いた。
 捨て台詞を残して姿勢を正し、脱いだ服をスチール製のラックに放り込む。入れ替わりに引き抜いたズボンを広げて、彼は右足を高く掲げた。
 ついさっき脱ぐのに失敗した記憶が残っているのか、行動は慎重だった。いつにも増して注意深く筒に爪先を入れて、両足をきちんと着地させてから一気に上へと引っ張り上げる。
 ズボッ、という音が聞こえ、影山は呆れて嘆息した。
「ンな事してっから、おせーだんろ」
「別に良いだろ。おれの勝手だ」
 逐一茶々を入れ、突っかかってくる彼が鬱陶しくてならない。真横で述べられる感想に腹を立て、日向は小鼻を膨らませた。
 こうやって影山に構っているから、貴重な時間はどんどん目減りしていった。無視して自分自身を貫けばいいと分かっているのに、反応せずにはいられなかった。
 損な性格に生まれたものだ。お調子者な自分の一面を激しく悔やみ、日向は奥歯を噛み締めた。
 唇は真一文字に引き結び、空気を咥内に溜め込んで頬を膨らませる。その状態のまま汗臭いシャツを頭から引き抜いて、彼は裏返った練習着をくしゃくしゃに丸めた。
 皺になろうが、構いやしない。続けて小さくなったとは言い難いそれも棚に押し込もうとして、放り投げようとした瞬間。
「うあっ」
 身構えた日向の手から、形を失ったTシャツが零れ落ちた。
「ボケ」
「うっせ」
 きちんと握らず、手のひらに載せていただけなのが敗因だ。瞬時に影山がツッコミを入れて来て、日向は歯軋りしながら腰を折った。
 屈んで床に伸びていたシャツを攫い、そのまま棚へと放り込む。埃が舞って、彼は苛立たしげに手を横に振った。
 落ち着いてやれば何も問題は起きないのに、なにかしらトラブルに見舞われて、心が落ち着かない。ささくれ立つ感情を必死に押し留める横顔に、影山は馬鹿らしいと肩を竦めた。
 彼の着替えは順調に進んでおり、後は開襟シャツの裾をズボンにねじ込むだけだった。
 菅原が気にしていた時計を仰ぎ見て、残り時間の少なさに眉間の皺を深くする。だが全力で走り、且つ障害物にぶつからなければ、恐らくは間に合うはずだ。
 前にも似たような事があって、その時はセーフだった。だから今日も大丈夫だと高を括って、彼は目立つ皺を叩いて伸ばした。
 こんなにも遅くなってしまったのには、理由がある。
 単純な話、朝練が長引いた所為だ。
 大会は目前に迫り、練習は日々熱を帯びていた。少しでも上達したくて寝る間も惜しみ、時間が許す限り、体育館に引き籠った。
 そして気が付けば、練習終了予定時刻を大幅にオーバーしていた。
 暴走しがちな部員のストッパー役を兼ねている澤村が、皆より早めに切り上げてしまったのが原因だ。副部長の菅原が気付いてくれて事なきを得たが、あのまま続けていたら、大変なことになっていた。
 バレーボール部が全員遅刻、というのは流石に笑えない。ただでさえ男子排球部は問題児揃いで、教頭からネチネチ言われている。
 これ以上評価を下げる真似は許されなかった。
 そんなわけで急ぎ第二体育館を引き上げ、部室へ駆け込み、制服に着替えた。日頃から物が散乱している室内はいつにも増してぐちゃぐちゃで、棚の中は何がなんだか分からない状態だった。
 後で困ると思いつつも、片付けている時間が惜しい。それは昼休みか放課後にやるとして、日向は折り畳まれたシャツを広げた。
 半袖開襟シャツは綺麗に洗濯され、折り目正しくアイロンが当てられていた。
 母の愛情をしっかり受け止めて、彼は汗も拭かずに袖を通した。肩の位置を整えて羽織り、鏡も見ずにボタンを留めていく。
 だが。
「……んぬ?」
 途中で何かが可笑しい気がして、彼は不思議そうに首を傾げた。
 次に嵌めようと思っていたボタンが空振りしたのだ。
 前身頃を掴もうにも布がなくて、指がスカッ、スカッ、と空を掻いた。本来あるべきものがそこに見当たらないのに怪訝にしていたら、窓を閉めた影山が、心底呆れた顔でため息を吐いた。
「お前さあ」
 情けない、と呟きながら額を覆った彼に、日向の目つきが鋭く尖った。
 だが睨んだところで意味はない。それより先にこの異常事態を解消すべく、彼はすぐさま作業に戻った。
 改めて学校指定の夏服を見れば、前身頃の片方だけが異様に長くなっていた。
 いや、違う。
「うぎゃっ」
 直後に気付き、日向は悲鳴を上げて赤くなった。
 一瞬、制服が変な風に歪んだのかと思った。母がアイロンを当てる際に間違って一部を焦がしてしまい、その分短くなったのかと考えたが、そんなわけがなかった。
 大好きな母親に、無実の罪を着せるところだった。心の中で懺悔して、彼は見事にボタンの位置がずれたシャツを引っ張った。
「ウソだろ~~」
 ただでさえ時間が足りないというのに、こんなところで手間取るなど、有り得ない。信じられないと天を仰いで、日向は悔しそうに鼻を愚図らせた。
 影山が呆れるのも無理はない。もし田中や西谷に知られたら大爆笑されるだろうし、月島だったら一生馬鹿にして来そうだ。
 まだ影山で良かったのかもしれない。そう自分を慰めて、日向は一段ずつズレていたボタンを外していった。
「くそぉぉぉ」
 途中から嵌める穴を間違えていたなら、まだいくらか救いがあった。しかし残念なことに、スタート時点から既に間違っていた。
 焦るあまり、手元を良く見ずに着てしまったのが敗因だ。一度でも確認しておけば、こんな失敗、しなかったのに。
 誰に怒る事も出来ず、迂闊な自分に腹を立てる。文句を言っても始まらなくて、彼は大人しく制服を着直した。
 見た目だけ整っていれば、もう後はどうでもいい。シャツの裾は出しっ放しにして、日向は練習着に埋もれていた鞄を引き抜いた。
 中身が少ないのか、布製のバッグは薄かった。
「まま、待って。待って」
 しかし構っている時間はない。今は始業前に教室に居るのが先決と、彼は転びそうになりながら畳の上を駆けた。
 入口では影山が、今まさに外に出ようとしていた。
 開け放たれたドアの向こう側は、明るい光に溢れていた。
 朝早くから練習に勤しんでいたので、身体は程よく疲れている。腹も幾分減っていた。油断するとぐぅ、と鳴りそうな雰囲気に奥歯を噛んで、日向は履き潰したスニーカーに爪先を押し込んだ。
「お前、それちゃんと入ってんのか」
「ええ?」
 行こうとした瞬間に引き留められた影山が、部屋の電気を切りながら言った。手には流れで掬い取ったのか、黄色いタグ付きの鍵が握られていた。
 照明を消すついでに、取ってくれたらしい。うっかり忘れていた日向は息を弾ませ、影山の質問には首を傾げた。
 何を指して、入っているのか訊いているのだろう。分からなくて怪訝にしていたら、ドアを全開にした彼が力なく肩を落とした。
「なにが?」
 ここから全速力したければ、靴はちゃんと履かないと無理だ。内側に折り畳まれた踵を起こして飛び跳ねて、日向は影山が作った道をすり抜けた。
 ドアを潜れば、即座に扉が閉められた。あらかじめ構えていた影山が鍵を掛けて、きちんと閉まっているか確認してノブを揺らした。
 ガタゴトと音が響く。聞きながら爪先を床に叩き付け、日向は異様に軽い鞄を襷掛けに提げた。
 ぽん、と叩いても、凹凸はあまり感じられなかった。
「……あっ」
「今からじゃ、教科書なくても貸してやれねーぞ」
「ぎゃあ!」
 それでハッとした矢先、影山が渋い顔で呟いた。
 やっと彼の質問が理解出来た。嫌な予感を覚え、日向の顔は一気に青くなった。
 両手を頬に当てて悲鳴を上げるが、既に遅い。咄嗟に後ろを振り返るが、ドアは施錠された後だった。
 それに加え、無情にも鐘の音が鳴り響いた。
「チッ」
 キーンコーン、とのんびり流れていく高音に舌打ちし、影山はドアから引き抜いた鍵をポケットへ押し込んだ。
 こうしてはいられない。今までで一番余裕がない朝になったと歯軋りして、彼は駆け出すべく通路を蹴った。
 しかし。
「ままま、待って、影山。教科書!」
「ぐえっ」
 甲高い悲鳴と共に鞄の紐を引っ張られ、後ろにすっ転びそうになった。
 それだけでなく、あと少しで関節が外れるところだった。痛みを発する肩を慰め、影山は半泣きで右往左往するチームメイトにがっくり肩を落とした。
 排球部の朝は早い。中でも日向、並びに影山は、部で決まっている集合時間より一時間近く前倒しして登校していた。
 少しでも長く練習がしたいから、着替える暇さえ惜しみ、家を出る時点で既に練習着だ。制服は小さく折り畳み、鞄に詰めてくるのが常だった。
 その制服を取り出す際、日向は邪魔だからという理由で一緒に持って来た弁当箱や、教科書を、ごっそり棚の上に移動させた。
 つまり彼が今提げているその鞄には、殆ど荷物が入っていない。授業に必要なテキスト、ノートのみならず、下手をすれば筆箱すら残っていないかもしれなかった。
 そんな状態で教室に行って、彼はいったい何をするのか。
 ただボーっとしながら一時間を無為に過ごすのは、遅刻するよりも始末が悪い。
 潔く遅れて叱られるのを覚悟して、今すぐ影山から鍵を奪って教科書類を取り出すか。
 鞄が空っぽでないことを祈り、このまま走って教室へ向かうか。
 どちらを選択するかで迷い、天秤を左右に揺らし続ける日向に対し。
「知るか、ボケ」
 影山は冷徹に一蹴した。
 取りつく島もなくて愕然とし、日向はぽかんと口を開いた。目も真ん丸に見開いて惚けていたら、痺れを切らした影山が盛大に舌打ちして床を踏み鳴らした。
「テメーが悪いんだろ。諦めろ」
 部室の鍵は、影山のポケットの中。部屋に入りたければ彼の協力が必要不可欠だが、それはたった今、すっぱり断られた。
 トドメの一撃も食らって、反論が出来ない。けれど納得も出来なくて、日向は拳を震わせた。
「いーじゃん。どーせお前だって、今から行っても間に合わねーし」
「ふざけんな。テメーと一緒にすんじゃねえ」
 遅刻するなら道連れだと声を荒らげれば、階段手前まで移動していた彼が高らかと吠えた。
 チャイムの音色が風に流され、空高く吸い込まれていく。そこにカンカンと姦しい金属音を撒き散らして、影山は食い下がる日向を振り切って階段を駆け下りた。
 それを追いかけ、日向も急ぎ地上へ向かった。
「待てよ。せめてシャーペン!」
 筆箱が中に鞄に残っていない確率は、五分五分といったところ。ノートは別教科で代用し、テキストは隣の席の子に見せてもらうとしても、筆記用具まで借りるのは流石に図々しかろう。
 スッポン並のしつこさで叫ぶチームメイトを振り返り、影山は走りながら鞄を叩いた。
 もう時間がないのだ。呑気に立ち止まって荷物を漁る暇など、どこにあると言うのだろう。
 だというのに、日向は諦めない。どれだけ体力が有り余っているのか、ぎゃーぎゃー騒いで癇癪を爆発させた。
 あまりの喧しさに、耳を塞ぎたくなった。
 ただでさえ日向の声は甲高いので、連続して喚かれると耳障りでならない。頭にダイレクトに響く罵声に歯軋りして、影山は打開策を練って深く息を吸い込んだ。
「うっせえ。昼にアイス奢ってやっから、それで我慢しろ!」
 腹から声を絞り出し、怒鳴る。ほぼ真横に並んでいた日向は飛んできた台詞にきょとんとして、元から大きな目を真ん丸に見開いた。
 教科書、文房具、部室の鍵。
 そのどれも、彼に与えてやれそうにない。だから別の物で、と代替え案を示したわけだが、整合性が取れているかと言われたら、首を捻らずにはいられなかった。
 授業が始まる前に教室に滑り込みたい。その一心で、邪魔な日向を排除するのに躍起だった。言ってから自分でも可笑しいと思った影山だが、今更撤回することも出来ず、息を切らせながら脇を一瞥した直後。
「マジでえ?」
 目を爛々に輝かせた日向が、嬉しそうに声を弾ませた。
 今の今まで機嫌を損ねていたのが嘘のようだ。あまりの変わり身の早さに愕然として、影山は足を捻って転びそうになった。
「おわっ、とっと」
「やりぃ。アイス、アイスっ」
 その隙に日向が、スキップしながら追い抜いていった。すれ違いざまに見えた表情は喜びにあふれており、授業のことなど完璧に忘れている様子だった。
 自分は何も悪くないのに、奢らなければならなくなった。迂闊だったと頬を引き攣らせ、影山は昇降口を目前にした日向の真後ろについた。
 そうとは知らず、彼は低い段差を難なく登り、開け放たれたままのドアから中に入ろうとした。
「うん?」
 直後に違和感を覚えて振り返れば、影山が随分近い位置に立っていた。
 中途半端な高さで泳いいでいた指先が、遠慮がちに引込められた。一瞬触れられた気がしたが、錯覚かもしれなくて首を傾げていたら、苦虫を噛み潰したような顔をした影山がゆるゆる首を振った。
「昼にな」
 疲れ果てた様子で言われた。全力疾走した余波か、顔は赤かった。
「ああ、うん」
 後ろに引っ張られた感覚があったのだけれど、気の所為かもしれない。分からなくて眉を顰め、日向は何気なくシャツの襟を撫でた。
 手を後ろに回し、襟足からゆっくり下へと滑らせる。
「あれ?」
 そうして後ろ襟が一寸ばかり歪んでいると気付き、彼は下駄箱に向かった青年に目を見張った。
 影山は靴を脱ぎ、上履きを取り出そうとしていた。日向も慌てて彼に倣って、敷き詰められた簀子に爪先を置いた。
 そして。
「あんがとな」
 背後から不意に礼を言われ、ぎょっとなった影山が背筋を伸ばした。
 手にした下足を誤って落とした彼に白い歯を見せて、日向はうなじを覆っていたであろうシャツの襟をなぞり、顔を綻ばせた。

2014/9/12 脱稿

Bubble gum

 影山飛雄は不機嫌だった。
 目に見えて苛々しているのが分かり、誰も彼に近付こうとしない。真っ黒いオーラを立ち上らせてボールを握り締める様は、地獄の門番も裸足で逃げ出す迫力だった。
 左右から挟み持たれたボールは圧を受け、縦長に変形していた。このままだといつか破裂してしまいそうで、見ている方はハラハラしっ放しだった。
 大体、そのボールはタダではない。僅かな部費から新品を買い足すのも大変なのに、本人はそんな事、欠片も思っていない様子だった。
「いい加減にして欲しいんだけどな」
「ホントだよね、ツッキー」
 そんな彼を遠目に眺め、月島が肩を落として溜息をつく。もれなく隣にいた山口が楽しげに同意して、頭の天辺で跳ねている髪をひょこひょこ揺らした。
 声が弾んでいるのは、状況を面白がっているからだ。含み笑いを零している幼馴染を一瞥して、月島は再度、別の理由から嘆息した。
 ずり落ちそうだった眼鏡を押し上げ、体育館の一画で発生した内戦に肩を落とす。もっとも敵対心を露わにしているのは片方だけで、もう片方には争うつもりなど一切なかった。
 凄い形相で睨んでくる影山に苦笑を浮かべ、烏野高校男子排球部の副部長は困った風に頬を掻いた。
「あー、もう。お前らなあ」
 じりじりにじり寄ってくる影山を牽制して、菅原が声を高くした。両手を胸の高さに掲げて落ち着くように諭し、背後に庇っている相手にもちらりと視線を流す。
 彼に守られる形で立っていた少年は、口をヘの字に曲げ、負けるものかと影山を睨み返していた。
 但しその手は菅原の上着を掴み、しかっと握って離さない。身体は菅原の後ろに隠し、頭だけ出して前方を覗き込む姿は、傍目には滑稽だった。
 練習は先ほどから中断していた。
 とてもではないがみんなで仲良く、わいわいやりながら打ち込める雰囲気ではない。そもそもスパイク練習中だったのに、トスを上げるセッターが両方手を休めてしまったわけだから、練習の継続自体が不可能だった。
 残る部員は月島たち同様、困った顔で騒動を見守っていた。
 中には長引きそうだと独自に判断し、諦めて壁打ちを開始したメンバーもいた。ドン、ドン、ドン、と喧しい音が響き始めたのを受けて、突っ立っていた数人も彼に倣って動き始めた。
 その間も、セッター二名は気まずい空気の中で対峙し続けた。
「あー、もう」
 臨機応変に練習内容を変更した後輩を盗み見て、菅原は額を打って天を仰いだ。
 どうしてこういう時に限って、頼りになる部長が居ないなのか。あまりにもタイミングが悪くて、運命を恨みたくなった。
 第二体育館の出入り口に目を向けるが、誰かが入ってくる気配はない。部長会議が長引いているのだろう。来年度の予算取りも兼ねているので、マネージャーの清水もそちらに参加していた。
 烏養コーチも家の用事があるとかで、顔を出すのが遅くなると言っていた。
 この状況を叱ってくれる二大巨頭が共に不在なのは、痛い。他に頼りになりそうな西谷は率先してボール拾いに回っており、彼らに背中を向けていた。
 残る三年生の東峰は、最初から当てにならないと分かっている。案の定びくびくしながら様子を窺っていて、菅原と目が合うと慌てて顔を背けてしまった。
 彼の臆病さは、どうにかならないものか。見た目とギャップがあり過ぎると頬を引き攣らせ、菅原は力なく肩を落とした。
 今にも破裂しそうなボールを抱き、影山はギリギリ奥歯を噛み締めていた。
「あのさー、影山」
「はい!」
「……日向だって、悪気があったわけじゃないんだし。許してやれよ」
 そのうち悪魔でも召喚しそうな後輩に呼びかけ、勇ましい返事には苦笑する。真後ろで小さくなっていた一年生がピクリと反応したが、敢えて気付かなかったフリをした。
 喧嘩の仲裁役として、なんとかいきり立つ男を宥めようと試みた彼だが、効果があったかどうかは、甚だ怪しかった。
「そ、そうだ。そうだー」
「こら、日向」
 その最大の原因が、今の今まで萎縮していた後輩の雄叫びだった。
 慌てて制止するが、とても間に合わない。右腕を振り上げた日向に渋面を作り、菅原は急ぎ影山に意識を戻した。
 だが、時既に遅し。
「てンめ……ボケぇ! 日向ボケェ!」
「うぎゃああ」
 一瞬だけ引っ込みかけた黒いオーラは倍増し、影山は怒号を上げて突進してきた。
 振り下ろされた腕を避け、日向が悲鳴を上げた。足がもつれる中で菅原の背中から飛び出して、影山の暴挙から全速力で逃げ回る。
 体育館全体を使った追いかけっこが始まって、菅原は疲れた顔で溜息を吐いた。
「なんだって、も~」
「お疲れ様です」
 折角巧く行きそうだったのに、空気の読めない日向の所為で台無しだ。
 疲労感がドッと押し寄せてきた。頭を抱えて呻いていたら、縁下が苦笑しながら慰めてくれた。
 労われ、菅原も苦笑で応じた。背筋を伸ばして深呼吸をし、騒々しい一年生を目で追えば、抵抗の末に掴まった日向が床に引きずり倒されていた。
 もっとも、彼も一方的にやられてはいない。倒れたところで瞬時に起き上がり、勝ち誇っていた男に一撃をお見舞いした。
 蹴られた影山の顔が引き攣り、どす黒いオーラが噴出した。もう暫くは終わりそうにないやり取りに、菅原は引き攣り笑いを浮かべた。
 そもそも、どうしてこんな事になったのか。
 発端は、セッターがスパイカーへトスを上げてのスパイク練習中での、度重なる失敗にあった。
 影山と日向のコンビネーションは非常に特殊で、スパイカーがトスに合わせるのでなく、セッターがスパイカーの手元へピンポイントでトスを持っていく技だ。
 そんな芸当、菅原には当然真似出来ない。恐らく全国レベルの高校でも、彼に勝るコントロール力を持つ選手はいないだろう。
 だが、そんなトスにばかり頼っていたら、日向は影山以外のセッターと組めなくなる。だから手元に来る、或いは落ちるトス以外にも、スパイカー側で合わせる努力は必須だった。
 ところが、だ。
 最近超特殊系トスにばかり慣れ親しんでいた所為か、日向はなんて事もないはずのトスに空振りを連発させた。
 もっとも、これはなにも日向ひとりの責任ではない。影山も感覚を忘れたくない為か、無意識につい手元で落ちるトスを上げそうになって、寸前で思い出して慌てて修正をかけていた。
 それが却って良くなくて、変なスピンがかかったボールは日向の前で失速し、彼の空振りを誘発していた。
 そんな失敗が、合計で五回以上繰り返された時だろうか。
 影山がついに、キレた。
 ただでさえミスが起きれば人はイラつき、上手くいかないと腹を立て易くなる。一年生セッターはその傾向が特に顕著で、しかも日向が相手だとその度合いは一気に酷くなった。
 三年生の東峰や田中が失敗してもあまり臍を曲げないのに、何故か日向にだけ、当たりが厳しい。ああやって取っ組み合いになるのも、決まって日向に限定された。
「そろそろ止めます?」
「そうだなあ」
 彼らの喧嘩は、子犬同士がじゃれ合っているようなものだ。一度だけ本気で拙い時があったが、今のふたりを見る限り、放っておいても関係性に亀裂が入るとは思えない。
 だからといって放置していたら、いつまで経っても練習が再開出来ない。
 顧問、コーチ、主将の三名が席を外している中、次に決定権を持つのは副部長である菅原だ。縁下の言葉に頷き、彼は両手を腰に当てて目尻を下げた。
「あっ」
「あ? ……あー」
 直後に縁下が肩を跳ね上げ、つられた菅原が急ぎ首を回した。その時にはもう、暴れ回っていた一年生コンビは床に正座をして、恐縮した様子で頭を下げていた。
 傍には坊主頭の田中が仁王立ちして、ガミガミ声を張り上げて怒鳴っていた。
「オメーら、いい加減にしとけよ、オラァ!」
 ちょっと目を離した隙に、何が起きたのか。二年生のトラブルメイカーである田中はこめかみに青筋を立て、後輩を頭ごなしに叱っていた。
 傍には彼が練習で使っていたボールと、何故かバレーボールシューズが片方分、セットになって転がっていた。
 よく見れば、日向が左足しか靴を履いていない。いつの間に、と思いながら大声に耳を傾け、菅原は乾いた笑みを浮かべた。
 田中の説教の内容は、要約すればこうだ。
 もっと周囲を見ろ。今は練習中だ。勝手に騒ぐな、暴れるな。
 痛かったんだから、謝れ。
 後半に行くに従って愚痴が混じり、個人的な感情が多く見られるようになっていった。それで大雑把に理解して、菅原と縁下は仲良く肩を竦めて苦笑した。
 つまりは影山が、捕まえた日向を思い切り放り投げたのだ。
 最強の囮は空中で靴がすっぽ抜けた上、山口と並んで壁打ち練習をしていた田中に激突した。吹っ飛ばされた次期エースは当然怒り狂い、問題児両名の首根っこを掴んで黙らせた、と。
 大まかな流れは、これでほぼ間違いないはずだ。
「先にやられちゃいましたね」
「だな。田中が居てくれて良かった」
 副主将が動く前に、田中が事態を収束させてしまった。痛い思いをした彼には申し訳ないが、有難くもあり、菅原はホッと胸を撫で下ろした。
「いいかー、お前ら。大地らが来る前に、さっさとやる事終わらせちまうぞ」
 その流れで両手を叩き、皆の注意を引き付ける。個人練習に入っていたメンバーはその台詞で振り返り、力強く頷いた。
 もしあのまま二人が騒ぎ続けていたところに、部長が会議を終えて顔を出したら、どうなっていたか。
 連帯責任で関係ない部員まで床に正座し、きつい雷を食らっていたことだろう。
 そうならずに済んで良かった。木下などは露骨にホッとして、成田の失笑を買っていた。
 第二体育館に活気が戻ったところで、菅原は手のかかる一年生二名に視線を向けた。
「ほら、お前らも。始めっぞ」
「うス」
「はあーい」
 彼らは田中に説教されていた時のまま、畏まって床に座っていた。
 一応反省はしたようだが、不貞腐れた表情はそのままだ。お互いに肘を出したり、引っ込めたりして牽制し合って、菅原の呼びかけには各々の個性が出た返事をする。
 ようやく立ち上がった日向は吹っ飛んでしまった靴を拾い、紐を結び直すべく再度腰を落とした。その必要がなかった影山は一足先に皆と合流するかと思いきや、足を止め、日向が身なりを整えるのをそこで待ち続けた。
 ネット際にいた菅原の後ろには数人の行列が出来て、反対側にはボール拾い担当の山口と西谷が回った。セッターはふたりいるので列も二手に別れるべきなのだが、影山がなかなか来ない為、どうすべきか迷った東峰がひとりで右往左往していた。
「旭さん、シャキッと!」
 それがあまりに見苦しかったからだろう、見かねた西谷が鋭く吠えた。
 突如走った大声に戦き、小心者の心臓が口から飛び出しそうになった。周囲からは控えめな笑い声が響いて、そこにキュッ、というスキール音が紛れ込んだ。
「すみませんでした」
「ホントにね~」
 やっと戻ってきた影山が、迷惑をかけたと頭を下げた。日向も傍で恐縮しており、数秒遅れてお辞儀した。
 謝罪を茶化したのは月島だ。本当に反省しているか勘繰って、高めの声で嫌味に呟く。
「な、なんだよ。悪かったってば」
 それに反応したのは日向で、彼は頬を膨らませると、拗ねてぷいっとそっぽを向いた。
 態度からして、あまり悪いと思っていないのがバレバレだ。だが今それを言ってもややこしくなるだけで、時間の無駄だった。
 これ以上練習を遅らせるわけにはいかない。刻々と針を進める時計を一瞥し、菅原はもう一度手を叩き合わせた。
「はいはい、やるぞ~」
 日向にとっては、影山がトスミスを繰り返したのが悪い、という理論なのだろう。自分まで叱られるのは割に合わないと、表情が物語っていた。
 ともあれ、これ以上藪を突いて蛇を出す必要はない。議論が再燃する前に手を打って、菅原は彼らを引き離した。
 後は何事もなく順調に、メニューを片付けていくだけ。それがなかなか難しいのだけれど、無用のトラブルが起きないよう、ひたすら胸の中で祈っていた矢先。
「ぶひゃっ」
 カエルが潰れたような悲鳴が、館内に響き渡った。
 そのすぐ後に、床に重いものが落ちる音が続いた。行き場をなくしたボールがポーン、と高く跳ね上がって、沈黙する空間を横断していった。
 多くの部員が自分のことに集中していた中、事件を目撃したメンバーは少ない。その片手で足りる中に含まれていた西谷は、三秒後、腹を抱えて盛大に噴き出した。
「ぶは、うひゃひゃひゃ。翔陽、おい。なんだそれ、スゲーぞ」
 一時は静かになったと思ったのに、これで帳消しだ。右手で頭を抱え込み、菅原はとことんトラブル体質な一年生にがっくり項垂れた。
 ネット際では日向が、真っ赤になった右頬一帯を押さえて蹲っていた。
「あ、……いや。わ、悪い」
 その前には影山が立って、挙動不審に喘いでいた。行き場のない両手はしつこく空を掻き回し、丸くなっているチームメイトに近づいたかと思えば、一瞬で遠ざかって背中に隠されもした。
「日向、大丈夫?」
「なんだ、なんだ。どーした?」
 一方で西谷とボールを集めていた山口が心配そうに駆けつけて、全く見ていなかった田中が説明を求めて声を高くした。
 鼻血が出ているのか、顔の中心を押さえた日向は動かない。影山はおたおたするばかりで、何の役にも立っていなかった。
 こちらも、最初から最後まで見ていたわけではない。だがおおよそで見当がついて、菅原は眉を顰めて嘆息した。
「大人げないぞー、影山」
「そうだ、そうだ。卑怯だぞ」
「やだー。影山君ってば、サイテー」
「ちょ、気色悪りぃ声出してんじゃねーよ!」
 横では木下と成田が笑いながら囃し立て、そこに乗っかった月島が裏声で天才セッターを責めた。一方的に詰られた影山はピントの外れた怒号を上げて、自分ばかりが不利な状況に歯軋りした。
 どうやら、またしても連携ミスが発生したらしい。
 しかも今度は、トスが日向の顔面を直撃した。
 四月の初旬、彼らが入部したての頃を思い出した。あの時も影山は頻繁に日向の横っ面にボールをぶつけ、日向もネットに絡まってジタバタもがいていた。
 もっともあれは出会ったばかりだったので、息が合わなかったのは致し方ない。だが今は、違う。コンビを組むようになってはや数ヶ月。ふたりの連携は、誰にも負けないところまで来ていたはずだった。
 影山の調子が悪いだけと思いたいが、それでギスギスした雰囲気になるのは困る。解決策が見えなくて、菅原は縋る思いで出入り口を見た。
 しかし残念ながら、人影は見当たらない。知れずため息が零れて、彼は力なく項垂れた。
「参ったなあ」
 心の底から呟けば、聞こえたらしく、縁下が何とも言えない表情を浮かべた。
 一緒になって苦笑いして、よろり、起き上がった日向の動向を見守る。彼は依然赤い右頬を手で庇い、ぶつぶつ何かを呟いた後、突如金切声をあげて床を踏み鳴らした。
「もー、ヤだ!」
 まるで癇癪を爆発させた子供だ。ただでさえ耳に響く声をより一層高くして吠えて、日向は鼻を啜ると大きな一歩を踏み出した。
 誰もが影山に反撃するものと予想し、息を呑んだ。
 当の影山も、当然のように自分に向かってくると思っていた。だからこそ警戒して、いつでも応戦できるように身構えていたのだが。
 日向はあろうことかそんな彼を一顧だにせず、脇を通り抜けていった。
 一瞥すらくれてやらず、徹底的に無視して場所を移動する。そうして彼に詰め寄られて、菅原は吃驚して目を丸くした。
「え?」
 よもや彼が、こちらに来るとは夢にも思わなかった。
 完全に読み違えて、頭が追い付かない。呆気に取られてぽかんとしていたら、荒々しく息巻いた日向が口を尖らせ、右手を伸ばした。
 そして。
「菅原さん、おれにトス、上げてください!」
 仰々しく菅原の手を取り、勇ましく叫んだ。
 その頬はボールに当たった以外の理由で赤く染まっており、彼の怒りの度合いを教えていた。
「ええ、……っと。それは、別に。いい、けど……」
 余程腹に据えかねたらしい。彼の本気具合を知り、菅原は言葉を濁して視線を泳がせた。
 向こうの方で、影山が凍り付いていた。指の一本も動かさずに硬直しており、唖然と開かれた顎は今にも落ちそうだった。
 そんなチームメイトに背を向けて、日向は力強く頷いた。
「宜しくお願いしあーっす」
 あれだけ菅原の返事が歯切れ悪かったというのに、全く気にする素振りがない。影山から離れられるのなら何でもいい、という気概が窺えて、見守っていた部員らは揃って苦笑した。
 これに我慢ならなかったのが、ずっと蔑ろにされ続けている男だった。
「テメー、フザケんなよ、ボケェ!」
 ハッと我に返り、影山は握り拳を振り回した。天井を貫く大声を張り上げて、勝手が過ぎるチームメイトを渾身の思いで睨みつける。
 だが日向はまたも菅原の背に隠れ、可愛らしく頬を膨らませた。
「やなこった。影山のトスなんか、もう要らないしー」
 おおよそ本心ではないことを口にして、あっかんべーと舌を出す。まるで小学生の喧嘩で、間に立たされた菅原は笑うしかなかった。
「お前らなあ……」
 最早注意する気も起きない。折角ネット周りに集まった部員らも、呆れ顔で散開していった。
 縁下がボールの入った籠を引きずり、コートのライン際まで移動した。おたおたしている東峰を残してサーブ練習が始まって、対面にいた西谷が嬉しそうに顔を綻ばせた。
 頭の上をボールが行き交う状況に冷や汗を流し、菅原が日向を連れて後退する。それを追いかけ、影山は仁王の形相で彼らに迫った。
「だからな、影山。まずはぶつけたことを日向に謝らないと」
「そーだそーだ、謝れー」
「うっせえ、日向。大体テメーがヘタクソなのが悪いんだろ」
「こら、影山。違うだろ。下手だからいっぱい練習するんだからな」
「そうだー、そうだー」
「すっ、菅原さんは日向に甘すぎなんです。こいつは、もっと思いっきり凹ませとかないと、すぐ調子に乗って――」
「だからって、凹ませたままなのは良くないだろ。そもそもお前は、日向にばっかりキツいんだから、仕方がないだろ」
「そうだー、菅原さんの言うとーりだー」
 正論で反撃され、影山の顔色はどんどん悪くなっていく。日向は心強い味方を得て勢いを取り戻し、彼の手が届かない位置でやいやい囃し立てた。
 何を言っても効果はなく、逆に追い詰められた。歯を食いしばり、影山は鼻の穴を膨らませた。
 茹蛸よりも真っ赤になって、握り拳を震わせる。いよいよ飛びかかってくるかと思いきや、彼は苛立ちを全部ぶつけるかのように、思い切り床を蹴り飛ばした。
「ああ、そうかよ。悪かったな!」
 そうして捨て台詞を残し、大股でコートの外へ出て行った。
 そのまま体育館も去るのかと思いきや、東峰の隣に陣取ってボールをひとつ手に取った。助走をつけて跳びあがった彼のサーブは西谷の真横に落ちて、大きく弾んで転がって行った。
 凄まじい勢いで、あの西谷ですら反応出来なかった。呆気に取られる部員を余所に、彼は次のボールに手を伸ばした。
 日向も日向だが、影山も影山だ。どんぐりの背比べだと肩を竦めていたら、菅原の後ろにいた少年がもぞもぞと身じろいだ。
「日向?」
 どうしたのかと問う前に、オレンジの髪の少年はぴょこん、とそこから飛び出した。そして止める間もなく駆け出して、轟音を連発させているチームメイトへ駆け寄った。
 忍び足で近付いて、手を伸ばし、一球打ち終えて息を吐く男の脇をちょっと小突いて、すぐ飛び退いて。
 向こうの方で影山の怒鳴る声がした。日向の笑う声もした。口論が始まったが険悪な空気は感じられず、怒号も徐々に落ち着いていった。
 日向が彼に何を言ったか分からない。影山がどう答えたかも聞こえなかった。だが青年が頬を朱に染めたのと、少年が嬉しそうに顔を綻ばせたのは見えた。
 影山の背後から黒いオーラは消えて、並びあうふたりが一緒にサーブを打つ姿が景色に馴染んだ。
「人間臭くなったなー」
 入学当初の影山はツンツンして、人を寄せ付けない雰囲気があった。
 今もその傾向は残るものの、昔ほど鋭く尖っていない。なにより針の山をものともしない日向がいる。その存在は彼にとって、どれほどに心強い事か。
 人との出会いが人を変えると言うが、全く以てその通りだ。
 少々年寄り臭い自分に首を竦め、菅原も皆に混じるべく、歩き出した。

2014/9/10 脱稿

鴇鼠

 用事を済ませて教室に戻ると、席がなくなっていた。
「なに、これ」
 唖然とし、がっくり肩を落とす。掛けた眼鏡までずり落ちそうになって、月島蛍は小さく唸った。
 尤も席がなくなった、というのには若干語弊があった。間違っても机や椅子そのものが窓から放り投げられ、グラウンドに捨てられていた訳ではない。
 そんなイジメ行為を受ける謂われはないし、実行する馬鹿もクラスメイトにはいない。曲がりなりにも高校の進学組に所属しているのだから、万が一教員に露見して、評価を下げるような自滅行為はしないはずだ。
 一年四組の教室は雑多に賑わい、昼休みを満喫する生徒で溢れていた。
 見知った顔ばかりが並び、各々楽しそうにしていた。弁当を食べ終わった後も机を隣り合わせたまま雑談に興じ、複数の女子が姦しく騒いでいた。
 耳障りにも思える笑い声を一瞥して、月島は教室後方にある自席に眉を顰めた。
 クラスで最も背が高い月島は、席替えをしても毎回後ろ側に配置される運命にあった。
 万が一背の低い女子が彼の後ろに座ろうものなら、黒板が見えなくなってしまう。それはあまりに可哀想だからという処置だが、それでは毎度最後尾に回される方の人権はどうなるのか。
 目が悪いのだから黒板が見え易い場所に座りたいのに、言い出せる雰囲気でないのが鬱陶しい。望んで百八十八センチになったわけではないのにと、人に羨まれるこの背丈が若干恨めしかった。
 その羨んでくる筆頭を自分の机に見出して、月島は心底げんなりしながら顔を顰めた。
 ただでさえ騒々しい教室を、より一層賑わせている主犯格。
 何故彼がそこに居るのか。あまつさえ人の席に座っているのか。
「なんなの」
 口を開けば愚痴しか出ない。もうひとつ呻くように呟いて、彼は一歩、教室に足を踏み入れた。
 直後だった。
「あっ」
 他よりも縦に大きい机に陣取った少年が、接近する影に気付いて顔を上げた。
 月島が座ると少し窮屈な椅子も、華奢な子が座ると随分大きく感じられた。サイズが合っていないとひと目で分かる状況に苦笑して、彼は両足をじたばたさせたチームメイトに肩を竦めた。
 日向翔陽。一年一組に在籍する小さなミドルブロッカーは、月島の顔を見て嬉しそうに頬を緩めた。
「遅かったなー」
「お帰り、ツッキー」
 そんな彼の真向いには、他人の椅子を拝借したクラスメイトが座っていた。
 小学生の頃からの顔見知りで、金魚の糞宜しく、高校まで一緒になってしまった山口だ。
 その両頬にそばかすが目立つ幼馴染を一瞥して、月島は得意満面に座っている日向に視線を戻した。
「なにしてんの」
「んー?」
 昼食を終え、席を外していたのはほんの五分足らずに過ぎない。その間に訪ねてきたのは容易に想像がついたが、用件に関しては不明なままだった。
 もっとも、ある程度は想像がつく。考えるだけで嫌な気分になって、月島は低い位置にある日向を睨みつけた。
 だが、効果は薄い。むしろ全く無いと言ってもよかった。
 男子バレーボール部に所属する手前、見下ろされるのに慣れているのだろう。部内で身長百六十二センチの彼より背が低いのは、リベロである二年の西谷と、マネージャーの谷地のふたりしかいなかった。
 自分的に迫力を込めたつもりだったのに、暖簾に腕押しも良いところ。落胆は否めず、月島は呑気に微笑んでいるチームメイトにがっくり肩を落とした。
「月島?」
 彼が空気の読めない馬鹿なのは知っていたが、通じなさすぎるのもどうかと思う。呆れてため息を吐いていたら、椅子に座った日向が小首を傾げた。
 当たり前のように他人の席を奪い取って、返却しようとしない。留守にしていた間に入り込まれたのは止む無しとしても、開き直って居座られるのは困る。
 庇を貸して、母屋を取られた。まるで自分が来訪者の気分に陥って、月島は口をヘの字に曲げた。
「まあまあ、ツッキー」
 そこへ山口が、手を揺らしながら割り込んできた。
 僅かな変化だったが、拗ねたのを見抜いたらしい。笑顔で間に入って、彼は月島の机に頬杖をついた。
 少し前まで、彼はここで月島と昼飯を食べていた。
 教室を出る前、山口はまだ箸を動かしていた。だが直後に完食したらしく、弁当箱は片付けられていた。
 大判のハンカチを包み布代わりにし、片隅に寄せられていた。結び目は今にも解けそうな緩さで、急いでいたのが窺えた。
「……で?」
 視線を動かして状況を把握し、不在にしていた間の出来事を推測する。最後に焦点を定めて日向を射抜けば、彼は首を竦めて舌を出した。
 それで確信した。恐縮しながら微笑んだチームメイトに、月島は盛大に嘆息した。
 両手をポケットに押し込み、机の脚を蹴る。勢いはなかったが、上にいた山口を驚かせるには十分だった。
「お断りなんだけど」
「そんな冷たい事言うなって~」
 更に畳み掛けるように言えば、日向が声を高くして抗議した。首を伸ばしてほぼ真上を仰ぎ見て、縋る眼差しで手を伸ばしても来る。
 袖を掴まれそうになり、月島は咄嗟に跳ね返した。
「前にも言ったけど、あれは試験前で、頼まれたから仕方なくだったんだけど」
 鋭く言って、睨み返す。利き腕を宙に彷徨わせ、日向はぽかんとしながら口を開閉させた。
 月島の机の上には、見覚えのないノートが置かれていた。
 今までは日向の腕が上にあったので、あまりはっきり見えなかった。障害物が半分取り除かれた今、表面に書かれた汚い字は丸見えだった。
 まるでミミズがのたくったような文字だ。癖が強すぎて、かなり読み難い。
 それが日向の名前だと理解するのには、十秒近く必要だった。
 小学生でも、もうちょっとマシな字を書く。幼稚園児かと呆れ果て、月島は勝手が過ぎる同級生に鼻息を荒くした。
 その頃には日向も我に返り、一組から持ち込んだノートを引っ掻いた。
「ケチ」
「ケチで結構」
 頬を膨らませ、口を尖らせて悪態をつく。それを揚げ足取って躱して、月島は日向に占領された机をもう一度、蹴った。
 早く立ち去るよう促したつもりだったが、これもまた、彼には通じなかった。
「いーじゃん、減るモンじゃなし」
「そうだよ、ツッキー。俺も手伝うしさ」
 ぶーぶー抗議する馬鹿に加勢して、山口までもが声を上げた。頬杖を崩して背筋を伸ばして、幼馴染は日向に味方した。
 妙に彼に肩入れしているのが窺えて、面白くない。二対一という数的不利にも眉を寄せ、月島は聞こえるように舌打ちした。
「チッ」
 どうして机を不法占拠された挙句、一方的に責められなければならないのか。ルール違反をしたのは日向であり、咎められるべきは彼の方だというのに。
 第一、彼らはいつからこんなに仲良くなったのか。
 さっきも、ふたりは親しげに話していた。月島が戻ってきているのにもなかなか気づかないくらいに、楽しそうに喋っていた。
 傍目にも分かるくらい、随分と盛り上がっていた。内容は聞こえなかったものの、ふたりして腹を抱えて笑い転げ、人の机をバンバン叩いていた。
 月島と居る時、山口はあんなに口を大きく開けて笑わない。日向も同じだ。いつだって会話の内容に困った顔をして、遠慮がちに見上げて来た。
 面白くない。
 なにがどう、具体的につまらないのかは巧く説明出来ないものの、腹立たしくて仕方がなかった。
「い、や、だ」
 断っているのにしつこく食い下がる日向に向かい、一言一句丁寧に区切って申し出を再却下する。
 両手を腰に当てて凄んでみるが、それで諦める彼ではなかった。
「なんでだよ。ちょーっとコツを、ぱぱーっと教えてくれるだけで良いんだって」
 しぶとく食らいつき、身振りを交えて訴えてきた。
 人差し指と親指で何かを摘む仕草をしたかと思えば、突然両手を広げて椅子の上で仰け反りもする。たとえ一秒でもじっとしていない彼に唖然として、月島は笑っている山口を睨んだ。
 右手で口を覆っていた彼は、突き刺さる視線を浴びて顔を上げ、照れ臭そうに首を竦めた。
「日向、ずっと待ってたんだしさ」
「うるさい、山口」
 誰よりも騒々しいチームメイトに味方して、同情的な幼馴染など要らない。人を悪者にする彼を低い声で叱りつけて、月島は右足を退いて腰を捻った。
 チャイムが鳴って昼休みが終われば、いくら彼でも一組に帰るはずだ。
 四組に戻るのは、それからでも遅くない。残り二十分近い昼休みをどこで過ごすかの難題は残るが、ここでふたりから責められ続けるよりはマシと思えた。
 日向は減るものではない、と言った。だが着実に減るものはある。時間と、月島の精神力だ。
 理解力に乏しい相手に説明するのがどれほど大変か、一学期の期末試験前に散々思い知らされた。何度血管が切れそうになり、何度匙を投げようとした事か。
 影山が居ない分、労力は半分になるかと言えばそれもない。ひとり教えるのも、ふたり教えるのも、疲労度は同じだ。
「どこ行くんだよ」
 踵を返そうとしたら、呼び止められた。くいっ、とシャツの背中を引っ張られて、月島は嫌そうに振り返った。
「どこだっていいでしょ。君の居ないところだよ」
 自分の教室なのに、立ちっ放しが癪だった。大きな椅子にちょこんと座る、小さな彼を可愛いとは思えなかった。
 いっそ存在を無視して上から座り、押し潰してやろうか。そんな邪悪な事を考えて、月島は素っ気なく吐き捨てた。
 一緒の空間にいたくない。最上級の拒絶を率直に声に出せば、流石の日向も理解したらしい。表情から笑みが消えた。
 さっと血の気が引いて、唇が戦慄いた。見開かれた眼が月島を映し出して、静かに伏せられた。
「ツッキーってば、なにもそこまで言わなくても」
「だったら君が教えてあげなよ」
 ショックを受けているチームメイトを庇い、山口が口を開いた。しかし月島は取り合わず、冷たく突き放した。
 彼も大学進学組の、四組に在籍している。月島ほどでないにせよ、勉強は出来る方だ。
 赤点常連の馬鹿の教師役くらい、なんでもないだろう。そう揶揄すれば、山口は何故か哀しそうな顔をした。
 それでいてどこか憐みを含む視線を向けられて、気に障った月島が眉を吊り上げた矢先だ。
「あー、ああ。なんだよ。せーっかく、月島に会いに来たのにさー」
 落ち込んでいたのが嘘のように、日向が明るく元気に、嫌味っぽい台詞を吐き出した。
 椅子の背凭れに身を預け、ギシギシ揺らしながら捲し立てる。それにピクリと反応して、月島は口惜しげに奥歯を噛んだ。
 横で山口が小さく噴き出した。音が聞こえて、彼は悔しさから長い脚を繰り出した。
「うわわ」
 山口の座っている椅子を蹴り、驚き慌てる姿で溜飲を下げる。何か言いたげな目で見つめられたが無視して、月島は白い歯を見せて笑う日向に肩を落とした。
 呆れているのは、自分自身に対してだ。
 あんなワザとらしいひと言に喜んでしまった。会いに来たのは課題を手伝って欲しいからなのに、言い方を変えられただけで許してしまいたくなった。
 かなり癪だ。
 掌で踊らされている自覚はある。だからこそ、余計に悔しかった。
「月島?」
「一回しか言わないからね」
 今さっきまで立ち去る雰囲気を醸し出していた男が、一転して日向の後ろへ回り込んだ。急変した態度に戸惑っていたら、やや乱暴に、語気荒く告げられた。
 相変わらず口調は冷たいが、教えてくれる気になったらしい。どういった風の吹き回しかは分からないながらも、日向は嬉しそうに頷いた。
「おう。任せろ」
 自信満々に胸を叩き、男らしく宣言する。だが彼が一度の説明で理解出来た例がないのは、山口も承知していた。
 またもやクスクス笑っている彼に、膨れ面をしたのは日向だった。
「なんだよー。おれだって、やれば出来るんだって」
「ごめん、ごめん」
 馬鹿にするなと怒り、声を高くして喚く。山口は軽い調子で謝って、引き攣って痛い腹を撫でた。
 矢張り彼らは、仲がいい。
 蚊帳の外に置かれた気分だ。面白くなくてムッとして、月島は意味ありげな幼馴染の視線から逃げた。
「それで。なにがどう、分からないって?」
「えーっと、ああ、そうそう。これこれ」
 見ようによってはニヤニヤしている風に映る山口から目を逸らし、日向に話しかける。それで意識を戻した彼は机上のノートを広げ、白地が目立つページを指差した。
 月島は後ろから覗き込み、渋面を作って凍り付いた。
「これは……」
 間違っても、問題が難し過ぎて解けないのではない。
 書き写された問題文そのものが読めなくて、解きようがなかった所為だ。
「うわあ」
 向かいに座る山口も同じものを眺め、感嘆の息を漏らした。
 教科書とノートをセットで持ち込むのを面倒臭がり、書き写して来たのだろう。だがこれでは何の意味もないと頭を抱え、月島は力なく項垂れた。
 前後から聞こえてきた溜息に、日向は予定と違うと右往左往した。
「あれ?」
 てっきり、すらすら解いてくれるものと思っていた。どうして眉間に皺を寄せているのかと月島を振り返り、彼は怪訝そうに首を傾げた。
 これが演技ではなく、本気だというから驚きだ。だから馬鹿を相手にしたくないのだと奥歯を噛み、月島は邪魔なチームメイトの頭を叩いた。
「いって」
「退いて」
「なにすんだよ、月島のアホ」
「君に阿呆呼ばわりされるなんて、すごく笑えてくるんだけど」
 未だ人の椅子に陣取る男を押し退けようとするが、上手くいかなかった。後頭部を庇いながら文句を言われて、彼は張り付いた笑顔で口角を歪めた。
 表情は朗らかながら、目が笑っていない。どす黒いものを感じて総毛立ち、日向は顔色を悪くして仰け反った。
 真後ろに立つ月島から離れようとして、机へと倒れ込む。押し出された勉強机を山口が押さえこんで、この一帯だけ一瞬騒がしくなった。
 ガタゴトと音を立てた彼らに、クラスメイトが数人視線を向けた。集まった注目に月島はまた舌打ちして、邪魔で仕方がない日向の肩を掴んだ。
「いいから、退きなって」
 こんな下手な文字、書いた本人でしか読めない。
 暗号文を解読するところから始めるなど、時間の無駄だ。ならばどうするかと言えば、日向が解いて欲しいという問題を、手持ちのテキストから探し出せばいい。
 その方がよっぽど早いとの判断だったのだが、そこまで理解が至らない日向は不意に身を捩り、甲高く叫んだ。
「きゃー。たすけてー。月島におそわれるー」
「ブフゥッ」
 ただでさえ女子並のボーイソプラノを更に高くして、しなを作って捲し立てる。それがあまりにも真に迫っていたものだから、向かいで見ていた山口は堪らず噴き出した。
 両手で口を覆った彼だけでなく、教室にいた数人も突然の悲鳴に驚き、状況を把握して顔を綻ばせた。
「なっ」
 多数の、それも嘲笑含みの視線を浴びせられ、月島の頬が引き攣った。眼鏡の奥の瞳を大きく見開いて、瞬時に赤くなって真下を覗き込む。
 日向は悪戯っぽく舌を出し、調子に乗って身体をくねらせた。
 胸の前で腕を交差させ、両手は肩に置いてなよなよしたポーズを取り、
「いや~ん、月島のエッチ~~ぃ」
 裏声でそんなことを言うものだから、聞いていたクラスメイトはドッと笑い声を上げ、苦しそうに腹を抱え込んだ。
 嫌味で無愛想という月島のイメージが、見事に崩れ去った瞬間だった。
 おちゃらけて皆の笑いを誘う日向に、月島の中で何かが切れた。ぷちん、と音を立てて、彼は椅子の背凭れを両手で掴んだ。
「馬鹿な事言ってないで、いいから、早く退きなって」
 そうして大きな荷物ごとガタガタ揺らすが、日向は笑うばかりで動かない。ちょっとした冗談に過剰に反応されたのが面白いらしく、息をするのも苦しそうだった。
 折角勉強を教えてやろうとしているのに、親切を無碍にされた。ならばこちらにも考えがあると、月島は歯軋りの末に口角を歪めた。
 不遜な笑みを盗み見て、日向が一瞬身構えた。だが彼が逃げるより早く、月島は椅子を手放し、腕を伸ばした。
「ぎゃーっ」
「言う事を聞かない子には、こうだよ」
「ぶひゃ、うはっ、ぴゃああはははは!」
 前のめりに倒れ込み、日向を押し潰す形で背後から圧し掛かる。脇腹を掴んだ手をバラバラに動かせば、弱い場所を擽られた少年はけたたましく笑い出した。
 両足をバタバタさせるが、月島には届かない。必死に逃げようとするものの両側から挟まれており、身体をくの字に曲げるのが精一杯だった。
 身悶え、喘ぐが、月島は許してくれない。息継ぎひとつもままならなくて、目尻からは自然と涙が溢れた。
「うひぃ、ひゃっ、うひゃひゃ、っあ、は……ダメ。も、もー……くるっ、し……」
 息も絶え絶えに呻いて、乱れた吐息で唇を湿らせる。体温も一気に上昇して、全身が火照って熱かった。
 首筋には薄ら汗が滲み、速まった鼓動が心臓を圧迫した。酸素が足りなくて頭がボーっとする中、日向は懸命に、もう止めてくれるよう頼み込んだ。
「ごめ、って……も、ゆるし……」
 月島の意外にしっかりした腕を掴み、色白の肌に手を重ねる。力の入らない指でなぞって懇願すれば、男は何故かびくりとし、慌てた様子で後ろへ下がった。
 あっさり解放されて安堵して、日向は深く息を吐いて椅子に寄り掛かった。
「はー……」
 脱力し、目を閉じる。後ろで月島が顔を赤くし、なんとも言えない表情で口をもごもごさせている事実も知らず、深呼吸を繰り返して大きな机へとしな垂れかかる。
 卓上に突っ伏した彼に奥歯を噛み、月島は耳に残る喘ぎ声を振り払った。
 指先に残る感触も頭から追い出し、結局退かせられなかった相手の後頭部を軽く叩く。するとネジが一本吹き飛んだのか、日向はケタケタ笑い出した。
「あははは」
 もう脇腹を擽られていないのに、どうして。
 訳が分からず混乱していたら、涙と涎を拭った日向がゆっくり起き上がった。
「お前さー、やれば出来るんじゃん」
「は?」
 そして意味不明なことを突然口にして、月島を余計に戸惑わせた。
 いつもつまらなそうな顔をして、自分は違うんだという風に騒動を遠巻きにして。
 田中や西谷たち先輩達にも冷めた視線を向けて、巻き込まれそうになったらサッと躱して、逃げて。
 それが月島蛍という男ではあるけれど、一緒に馬鹿騒ぎ出来ないのは、チームメイトとして矢張り少し寂しくて。
 ずっと物足りなさを覚えていた日向は、嬉しそうに破顔一笑して散々掻き回された脇腹を撫でた。
 呼吸は相変わらず苦しそうだったけれど、表情はスッキリ晴れやかで、眩しかった。
「……馬鹿じゃない」
「だっておれ、バカだもーん」
 呆気に取られ、月島は悪態をついた。嫌味は相変わらず通用せず、開き直られて溜息しか出なかった。
 自覚のある馬鹿に色々と分からせるには、どうすればいいのだろう。それだったら、犬を躾ける方がまだ簡単な気がした。
「ツッキー、日向、これ」
 肩を落として項垂れていたら、いつの間にか自席に戻った山口が手を振った。急ぎ足で机の間を移動して、帰ってきた彼が差し出したのは数学の教科書だった。
「たぶん、この辺の……あった。日向、これ?」
「あー、うん。そうそう。山口スゲー」
 それを広げ、該当するページを探し出して提示する。覗き込んだ日向は途端に目を輝かせ、賞賛の言葉を口にした。
 褒められて、山口もまんざらではない様子だった。照れ臭そうに頭を掻いて、勝手にテキストが閉じないよう、折り目を押さえながら机に置いた。
 日向に比べ、彼は空気が読め過ぎている。余分とも思える気遣いに肩を落とし、月島は頭を掻いた。
 そうして騒がしい昼休みはあっという間に終わった。チャイムが鳴っても日向はうんうん唸って、懇切丁寧な説明に渋面を作り続けた。
「うわ~ん、わかんな~~い」
「諦めなよ。君の脳みそじゃ、この辺が限界だから」
「やまぐちー。月島が冷たいー」
「はいはい。日向、放課後に俺がもう一回教えてやるから」
「わーん。山口優しー。大好きー」
「…………」
 喚く日向を月島が突き放し、泣きが入った日向が山口に縋りつく。山口は頼られて嬉しいのか甘やかして、日向の歓声に、今度は月島が渋面を作った。
 目の前で繰り広げられる茶番に辟易して、丸めたテキストで後頭部を叩く。パコン、と良い音を響かせて、日向は渋々腰を浮かせた。
 長らく占領していた椅子を退き、机の下に引っ込めもせずに距離を取る。動きを随時見守って、月島はやれやれと息を吐いた。
 あと数分で本鈴が鳴る筈だ。それまでに一組に帰らないと、彼は遅刻扱いだ。
「んじゃ、放課後な」
「うん。またね、日向」
「月島も、あんがとなー」
 立ち去る時も、騒々しい。手を振るだけで済まさなかった彼に嘆息して、月島はやっと静かになったと胸を撫で下ろした。
 けれどこの静かさが、何故かとてもつまらなく思えた。
 耳朶には賑やかな声がこびりつき、なかなか消えてくれなかった。
「ねえ、山口」
「なに、ツッキー」
「僕が戻ってくる前、日向となに話してたの」
「え?」
 パタパタ駆けていく背中を見送って、月島は椅子に座ろうとした。しかし寸前で躊躇して、席に戻ろうとしていた幼馴染を引き留める。
 山口は不思議そうな顔をして、やがて肩を小刻みに震わせた。
 含み笑いで見つめられて、あまり良い気がしない。ムッと眉間に皺を寄せていたら、呼吸を整えた山口がゆるゆる首を振った。
「たいした話じゃないよ?」
 朗らかに微笑んで、丸め癖が付いた教科書を両手で挟み持つ。
 そして。
「ただの、ツッキーの話だよ」
 日向と山口の共通点といえば、バレーボールと月島くらい。
 当たり前だろうと首を傾げながら言われて、呆気に取られた男は暫くその場に立ち尽くした。

2014/9/5 脱稿

梅重

 男子高校生の一日は、意外に忙しい。
 運動部に所属して、レギュラー争いをしているようなら尚更だ。熱心な指導者に恵まれて、練習に勤しめる環境が整っていれば、余計に。
 そんなわけで、今日も朝から晩までバレーボールづくめだ。それ以外では当然授業があって、黒板と睨めっこをする時間が続いた。
 唯一の息抜きと言えば、食事の時くらいか。後は風呂も候補に挙がるが、どちらかを選べと言われたら前者だろう。
 そんな数少ないのんびり出来る時間に微笑み、菅原は熱い湯気を吹き飛ばした。
「ふっフー」
 まるでマグマが煮え滾っているような水面に息を吹きかけ、白く立ち上る細い筋を彼方へと押し退ける。そうして表面を僅かに冷まして、彼は嬉しそうに口元を綻ばせた。
 後は割り箸を半分に割って、辛み成分たっぷりのスープや麺に舌つづみを打つだけ。考えるだけで顔がにやけ、鼻の下が伸びた。
 大好物の激辛カップラーメンを前にして、彼は最高に幸せだと目尻を下げた。
「いっただっきまーす」
 今日一番かもしれない元気な声を張り上げて、勢いよく割り箸を赤いスープへと衝き立てる。ぐるりと回すと先端が麺に絡み、雫が数滴、周囲に飛び散った。
 大半は容器の内側に沈んでいったが、一部は指先に落ちた。だがほんのり朱に染まった右手にも構わず、菅原は熱いスープを喉元へ流し込んだ。
「んぐ、ん……ぷはーっ」
 音を立てて啜り、紅色を強めた唇を舐める。満足だと言わんばかりの表情は、湯上りにビールを煽る成人男性を連想させた。
 烏養が例に出した言葉の意味は良く分からなかったが、恐らくは今の菅原のような気分なのだろう。そんなことをふと思って、真向いで見ていた日向はプラスチックの箸を舐めた。
「好きなんですね、ホントに」
「ん? あー、そうだな」
 ちろりと出した舌をすぐに引っ込め、感嘆混じりに呟く。声はきちんと相手に届き、菅原は鷹揚に頷いた。
 見た目のみならず、立ち上る香りさえ既に辛い。ひと口頬張れば火を噴く事請け合いながら、菅原だけは平然と、しかも美味しそうに食べるのが、日向には不思議だった。
 以前に一度、味見をさせてもらったことがある。あの時は熱さ以外の理由で唇を火傷して、放課後になってもひりひりと痛んだ。
 思いだしていたら、無意識に唇を撫でていた。箸を持ったまま指先を顔に持っていった彼を眺め、畳に胡坐を掻いていた青年が穏やかに微笑んだ。
「食べるか?」
「えっ、遠慮シマッス!」
「ははは」
「あっ……」
 細長い縮れ麺を引き上げながら言われ、思わず声が裏返った。やや詰まり気味に言葉を発したら笑われて、それで我に返った日向は恐縮して頭を垂れた。
 菅原はなんてことない顔をしていたが、好物を貶されたようなものだ。良い気はしないだろう。
 咄嗟だったとはいえ、失礼なことを口走った。反省して項垂れていたら、聡い男が小さく肩を竦めた。
「別にいーべ?」
「菅原さん」
「日向は、辛いの、苦手だもんな」
 のんびりと呟き、気にしなくて良いと目を眇める。そうして箸で掬った麺を啜って、ずるずる音を響かせた。
 辛いモノが好きな人間は案外多いが、菅原の場合はその度合いが桁外れだ。本人も自覚しており、他人になかなか理解してもらえないのも承知済みだった。
 店で売っている一番辛いラーメンを好み、昼休みにも良く食べている。その匂いは強烈で、ドアを閉めていても外から分かるくらいだった。
 お蔭で彼が居る時は、誰も部室に寄りつかない。昼休みだというのに静かな室内を見回して、日向は申し訳なさそうに頷いた。
「すみません」
「なんで謝るんだよ。好き嫌いは人それぞれだろ?」
 そのついでに口を開けば、聞き咎められた。
 万人が辛党でなければならない義理はないし、甘党であるべき理由もない。好きなものを、好きなように食べれば良いのだと胸を張って、菅原はもうひと口、温かな湯気を放つスープを飲んだ。
 器の内側までが毒々しい赤に染まり、血の池地獄を連想させた。それを満面の笑みで頬張る菅原をじっと見つめ、日向は白飯に梅干という自分の弁当箱を小突いた。
 勿論、副菜はちゃんと別にあった。二段重ねだった弁当の下段部分を左手に持って、彼はひと口分の米を掬い上げた。
 器用に箸を動かし、口へと運び入れる。もぐもぐと奥歯で噛んで磨り潰して、唾液と一緒に喉の奥へ押し流す。
「それだけで足りるんですか?」
 その仕草を三度ほど繰り返して、日向は水分を求めて手を泳がせた。
 畳に広げた弁当包みに器を置いて、部室へ来る途中で買った牛乳パックを掴み取る。布の上に箸が転がり落ちたが、彼は別段、気にしなかった。
 だが向かいに座る青年には、それが行儀悪く思えたようだ。
「こら。落ちたぞ」
 一部が赤くなった割り箸をラーメンの器に架けて、菅原が日向の箸を拾った。
 先端を弁当箱の縁に引っ掛けて置き、乗り出した身体を戻す。一瞬近くなった気配に日向は緊張して、すぐに去って行った影に複雑そうな顔をした。
 鼻腔を擽ったのは、唐辛子か、香辛料かも分からない匂いだけ。それを若干不満に思いつつ、彼は微妙に生温い箸を右手に持ち直した。
「ありがとうございます」
「俺はこれで満腹だよ」
「え? あ、ああ」
 短く礼を言い、食事を再開させるべく左手で弁当箱を抱く。そこに突然話しかけられて、一瞬分からなかった日向は数秒遅れて相槌を打った。
 ラーメン一杯で足りるのか、という話だった。
 自分から話題を振っておいて、忘れるとはいかがなものか。そこまで鳥頭だったかと軽い脳みそを左右に振って、華奢なミドルブロッカーはミートボールを抓み取った。
 それは母の得意料理のひとつだった。
 他にもハンバーグと、サラダに、定番の卵焼きの姿も見えた。彩り豊かに詰められており、隙間はほぼゼロだった。
 成長期だから沢山食べるだろうと、母は朝早くから頑張ってくれている。その心遣いに感謝して、彼は箸に残った甘いソースを白米に擦りつけた。
 続けてその白飯を山盛りに掬い取り、大きく開けた口へと放り込む。奥歯で噛み砕けば、淡泊だった米の味にちょっとした変化が生まれた。
 これはこれで、美味しい。試して正解だったと頬を緩め、日向は数回の咀嚼を経て咥内の塊を飲み込んだ。
 あまり目立たない喉仏を上下させて、満足げに息を吐く。ふぅ、と力の抜けた表情がおかしくて、菅原は肩を揺らして相好を崩した。
「ン?」
 もっとも当の日向は、何が面白いのか分からなかった。
 菅原が何故笑っているのか、理由を探すが見つからない。怪訝に首を傾げていたら、ツボに嵌ったのか、彼は声を高くして腹を抱え込んだ。
「ははは、あはっ」
「菅原さん?」
「あー、いや。悪い。ごめん。なんでもないんだけど」
 実際、そこまで笑い転げるようなものではなかった。
 自分でも、どうしてなのかは分からない。ただ妙に琴線に触れて、心が綻んだのは確かだ。
 まだたっぷり残っているスープが零れないよう気にしつつ、彼は畳の縁を避けて容器を置いた。まだ苦しい腹筋を撫でて落ち着かせて、何度か咳き込んでから咥内の唾を飲み下す。
 やたらと辛い唾液を胃袋へと押し流して、彼はやっと、人心地着いたと胸を撫で下ろした。
「うー?」
「ごめんって」
 それから正面で睨んでいる後輩に気付き、片手を掲げて頭を下げた。
 軽い調子で謝られた。日向は膨らませていた頬を凹ませ、小判型のハンバーグを噛み千切った。
 真ん中で真っ二つにして、もぐもぐと大きく口を動かす。まるでどんぐりを溜め込むリスのようで、また笑い出しそうになった菅原は慌てて自制を働かせた。
 口元を拭う仕草で顔の下半分を隠し、深呼吸で心を落ち着かせる。そうしているうちに日向は残りのハンバーグも食べきって、パック牛乳で口を漱いだ。
 噛み潰されたストローを解放した彼の弁当は、残り半分を切っていた。
「野菜も食べろよ」
「別におれ、そこまで甘いモノ、大好きじゃないですけど」
「うん?」
 但しポテトサラダだけは、殆ど手を付けられていなかった。それを見た菅原が眉を顰めていたら、叱責を遮り、日向が口を尖らせた。
 不満げに低い声で言われ、巧く聞き取れなかった。もう一度言ってくれるよう訴えるが、願いは敢え無く却下された。
 不貞腐れた表情で見上げられても、日向の気持ちは分からない。超能力が欲しかったと悔やんでいたら、突然、目の前に何かを突き出された。
「おわっ」
 吃驚して、声が上擦った。なにかと思って目を瞬いていたら、歯軋りした日向が小鼻を膨らませた。
「どうぞ」
「ええ?」
 差し出されたのは、彼の弁当だった。
 二段重ねの上段の方、即ちおかずが詰め込まれている方を、だ。現状サラダが幅を利かせていたが、その隣のブロックにはミートボールが数個、残されていた。
 勢いよく動かした所為で、床を滑っていったらしい。茶色いソースが底面のあちこちにこびりついていた。
 これは一体、どういう事だろう。状況がすぐに把握出来ず、菅原は目をぱちくりさせた。
「日向?」
「だって、菅原さん。それだけだと、ぜってー足りないと思うし」
 きょとんとしていたら、説明が足りなかったと知った日向が間誤付きながら口を開いた。
 段々と覇気を失い小さくなっていく声に、彼の精一杯の気遣いが含まれていた。
 確かに菅原の昼飯はカップ麺ひとつで、握り飯やパンといったものは一切含まれていなかった。食べ盛りの男子高校生としては少ないほうで、これで放課後の、ハードな練習に耐えられるのか、心配になったらしい。
 一度は大丈夫と言われたが、ずっと心に引っかかっていたのだろう。真剣な表情で見つめられて、菅原はあまりのくすぐったさに破顔一笑した。
「ありがとな。でも、大丈夫だって」
「でも」
「それは、日向の分だろ。ちゃんと全部食べろよ?」
 実は午後の授業を終えてから食べようと、ビスケットタイプの栄養調整食品を用意済みだ。でなければ、とてもではないがあのハードな練習を乗り越えられない。
 だが日向は、その事実を知らない。本気で菅原を心配しているのが窺えて、悪いと思う反面、嬉しさに胸がほかほかした。
「むむむ」
「でないと、大きくなれないぞー」
「ふが!」
 それでも彼は諦めず、眼力を強めて睨むのを止めなかった。ならばと茶化して頭を撫でれば、流石にショックだったのか、日向は吼えて仰け反った。
 菅原も自慢できるほどの上背ではないが、日向よりは十センチ以上高い。見上げなければならない後輩ばかりの中、見下ろせる存在は貴重だった。
 空中に残された手を引っ込めて、彼はカップ麺を持ち上げた。冷めつつあるスープを飲んで、伸び気味の麺を啜っていたら、ようやく観念したか、日向も食事を再開させた。
 最初こそもそもそと、面白くなさそうに食べていた彼だけれど、箸を動かす手は順調だった。速度も徐々に上がっていって、美味しそうに頬張る姿は可愛かった。
「ごちそうさま」
 一足先に器を空にした菅原が、両手を合わせて目礼する。つられて日向も会釈して、あと少しとなった自分の弁当と、汁まで飲み干されたカップ麺を見比べた。
 塩分がどうとかで、全部飲むのは身体によくない。そんな話をテレビで見たが、記憶が曖昧過ぎて注意出来ないのがもどかしかった。
「菅原さん、食べるの、速い」
 だからと代わりにそう言って、ぎゅうぎゅうに詰められていた米を箸で掬う。だが突然形を崩したからか、塊がバラけてしまった。
 大部分は弁当箱の中に転がったが、勢いよく弾けた分が縁を越えて外に飛び出した。もれなく彼の靴下に貼り付いて、日向は渋い顔でそれを拾った。
「あー、あ」
 なんと勿体ない事か。慌てなくても大丈夫なのにと笑い、菅原は腕に巻いた時計を盗み見た。
 開けっ放しの窓からは、色々な音が混じって聞こえてきた。
 笑い声、叫ぶ声、廃品回収のトラックもあれば、飛行機だろう轟音も微かに。
 けれど二人きりの室内は概ね静かで、快適だった。
 昼休みは、あと二十分近く残されていた。チャイムが鳴るまで何をしようか考えて、菅原は空の容器を差し出した。
「ほら」
「すみません」
「いーって」
 落ちてしまったものは、もう食べられない。どうせ捨てるものだから一緒に、と誘った彼に甘えて、日向は指に貼り付かせた米粒をこそぎ落とした。
 べたつく指先を捏ねて粘りを取り、弁当箱を膝に並べ直す。朝方持たされた時と比べると、容器は格段に軽くなっていた。
 副菜は残すところデザートの果物だけになり、白米もあと三口というところまで来た。ものの一分もしないうちに食べ終わる量で、菅原はそれを期待して彼を見つめた。
 しかし日向はなかなか箸を動かさず、手を出そうとしなかった。
「日向?」
「おれ、もうお腹、いっぱいかも」
 怪訝に問いかければ、返された台詞は予想を覆すものだった。
「え?」
 驚き、菅原は目を丸くした。誰よりも食い意地が張っており、幾度となく影山と肉まんを奪い合っていた彼の口から飛び出た台詞とは、到底思えない内容だった。
 呆気に取られて絶句して、瞬きばかりを繰り返す。それが気に入らなかったようで、日向は頬を丸く膨らませ、タコのように口を窄めた。
 不満を露わに睨まれて、それで菅原は我に返った。あと二回瞬きを追加して、彼は止まりかけた心臓を撫でた。
 変なところから汗が出た。じっとり湿った腋を気にして、菅原は制服の皺を押し潰した。
「……ホントに?」
 訝しげに尋ねれば、日向はさっと目を逸らし、顔を伏して俯いた。
 緩く握られた拳は、微かに震えていた。それが突然の腹痛によるものか、違う原因があるのかは分からない。顔色はさほど悪くなく、むしろ火照って赤いくらいだった。
 返事がないのを怪しんで、菅原は眉間に皺を寄せた。
「日向」
 ほんの少し、語気を強める。低めの声で凄まれて、それで観念したのだろうか。少年は小さくため息をつき、下唇を突き出した。
 上目遣いの眼差しに、菅原は愁眉を開いた。
「ダメだろ。ちゃんと食べなきゃ」
「だって、菅原さん。いつもおれより、先に食べ終わるし」
「そりゃあ、な」
 満腹なのは嘘だと見抜き、出来る限り優しく諭しかける。だが日向は首を振り、弁当箱を包み布に下ろした。
 その手前には、菅原が食べ終えたラーメンの容器があった。
 二段重ねの弁当箱と、カップ麺ひとつと。どちらの量が多いかは、比べるまでもなかった。
 当然、菅原の方が先に完食する。その後は日向がひとりで箸を動かすことになる。
 そんな五分にも満たない時間が嫌なのだと、彼は言った。
「おいおい」
 まさかの理由に、菅原は肩を落とした。
 一緒に食事を楽しむだけでなく、食べ終わる時間まで揃えて欲しいとは、いったいどんな我儘か。
 もっとも、そういう所が可愛いのだけれど。
 珍しく要望を口に出した彼に、菅原は困った顔で眉を顰めた。
 次からは、おにぎりの一つでも買って来ようか。月島ほどでないにせよ小食で、胃袋がさほど大きくない身には辛い選択だが、日向が望むのなら叶えてやるのが男だろう。
 そんな風に真顔で考え込んだ彼を見つめ、日向はぐっと息を飲み、白米の塊に箸を立てた。
「それに、菅原さん。食べ終わったら、いっつもおれのこと、じっと見てるから。なんか、すごく……」
「えっ」
 持ち上げる段階で崩れる前にと、先にブロックを壊して呟く。危うく聞き逃すところだった菅原は驚き、目を丸くして声を高くした。
 顎にやっていた手を外して背筋を伸ばし、呆気に取られてぽかんとなる。そんな間抜け顔を笑いもせず、日向は黙って米を口にした。
 顎を動かし咀嚼する彼を眺め、菅原は唖然としたまま額を叩いた。
「そ、そう……か?」
「そうです」
 知らなかった。
 絶句して、彼はきっぱり断言した後輩に冷や汗を流した。
 だが、確かにそうかもしれなかった。意識していなかっただけで、美味しそうに食べている日向を、気付けば目で追っていた。
 無自覚だった行動を、相手に気取られていたのが恥ずかしい。堪らずカーッと赤くなって、菅原は怒り心頭に弁当を片付ける日向に肩を竦めた。
 果物まできちんと食べ終えて、空にした容器を積み重ねていく。慣れた手つきに相好を崩し、菅原は照れ臭そうに頭を掻いた。
「俺に見られんの、イヤ?」
「別に、そういうんじゃないですけど」
 もしこんなことで嫌われたら、一生後悔する。念のため確認すれば、日向は口籠り、言い辛そうに目を泳がせた。
 瞳は左右を彷徨い、視線は絡まない。そこで照れる理由が分からないでいたら、会話が途絶えるのを嫌がった日向が小鼻を膨らませた。
「なんか、ずーっと見て来るし。お腹すいてるのかなって思ったけど、菅原さん、違うって言うし」
 物欲しげな眼差しを向けられるのは、落ち着かない。自分だけ沢山食べているのに罪悪感を覚えて、箸を動かし難い。
 だというのに菅原はラーメン一杯で足りると主張して譲らず、訳が分からない。
 理路整然とまではいかないものの、不満点を箇条書きにして並べていく。それで菅原も頭を整理して、やがてストンと落ちてきた答えに目を丸くした。
「ああ」
 思わずぽん、と手を叩いていた。ひとりで勝手に納得している彼をねめつけ、日向は口を尖らせた。
「菅原さん?」
「あー、なんだ。そゆことか」
「はい?」
「日向がいつも、すんげー美味そうに食べるから、さ。それだけで俺、満腹になれるんだわ」
 違う。
 偽善者の仮面を被り、早口に嘘を告げる。綺麗な衣服で飾り立てて、汚い内側を隠し、可愛い後輩には立派な先輩であろうと虚勢を張る。
 笑顔で言って、気付いてしまった気持ちを誤魔化す。九割の嘘に本音を一割だけ混ぜて真実味を持たせ、その奥に潜む淫らな欲望には蓋をする。
 日向の弁当を羨ましく思うし、愛情たっぷりの母の手料理を頬張る彼は可愛い。元気いっぱい、モリモリ食べる姿は愛おしい。
 だから、言わない。言いたくない。言えるわけがない。
 明るく活発で、無邪気で無垢な彼を、どうやって穢せるだろうか。
 美味しそうだと思っていたのは、もっと別のもの。
 食べたいと思ったのは、彼自身。
「やばいなあ、俺」
 こんなに可愛い後輩に好かれているというのに、それだけで満足できなくなっている。思った以上に重症だと頭を抱え、菅原は色の薄い髪を掻き毟った。
 果たして独り言が聞こえたのか、否か。
「食べてもいいのに」
 弁当包みを結んだ日向の言葉に、彼は勢いよく顔を上げた。
 

2014/9/5 脱稿

白練

 部活帰りに食べるアイスは、かなりの確率で、先輩方の奢りだった。
 ごく稀に、コーチである烏養が払ってくれる事がある。但しいずれの場合も、百円硬貨一枚で事足りるような、値段の安いものに限られた。
 だとしても、この配慮は十分有難い。難点があるとすれば、一年後、二年後も、この慣習が続いていくことだ。
 つまり自分たちが進級した後、後輩たちにこれと同じことをしなければいけなくなる。台所事情が厳しい中で果たして可能かと考えたら、今のうちに廃れて欲しい習わしでもあった。
 なんとも悩ましい問題だ。眉間に浅く皺を寄せ、影山飛雄は冷たいアイスに噛り付いた。
 しゃく、と小気味の良い音が響いた。ほんのり甘いソーダ味が口の中いっぱいに広がって、冷たさが舌に突き刺さった。
 もれなく、練習で火照った身体が冷えていく。ようやく人心地つけたと安堵して、影山はもうふた口、急ぎ気味に追加した。
 ザクザクと氷を削り、噛み砕きもせずに飲み込む。咥内に残った分は舌の熱で溶かして、唾液と一緒に胃へ押し流した。
 右手に持つ木の棒の、反対側はまだ見えない。空色をしたアイスは角を二ヵ所も奪われて、すっかり丸くなっていた。
 日中ならまだしも、とっくに日は暮れた後。昼間の熱が周囲に散見していたけれど、アイスをどろどろに溶かすところまではいかなかった。
 それでも表面は汗を掻き、辛そうだ。早く楽にしてやるに越したことはなく、影山は大きく口を開けた。
「んー、んまっ」
 直後に響いた声は、影山のものではなかった。まるで自分の行動を先読みし、アドリブで台詞を合わせた感じになったが、まず間違いなく偶然だろう。
 アイスに噛み付くタイミングを逃して、彼は小さく肩を竦めた。
 緩やかな坂道を並んで歩くのは、片手で自転車を操縦する少年だった。 サドルには跨っていない。必然的に、ペダルを踏んでもいない。ただハンドルを握って、二輪車が変な方へいかないよう制御していた。
 左手に持つのは、影山が食べているものと同じアイスだ。但し味が違う。彼が握っている分は、表面が白かった。
 細かな氷の粒が街灯を反射して、白さが余計に際立っていた。きらきら輝く冷たい菓子は、残り半分以下に減っていた。
 食べる速さが段違いだ。同じ部の先輩に、ふたくちでアイスを食べ切る猛者がいるが、それに近いものがあった。
「美味いのか」
 坂ノ下商店のアイスケースに入っていた、氷菓子。噂は耳にしていたが、初めて目にするそれを選び取るのに躊躇していたら、横から浚っていかれたのが五分ほど前の事だ。
 別にそれを恨めしく思ってはないし、惜しいとも思わない。ただ次に巡り合った機会の為に、情報は集めておきたかった。
 たかだか百円足らずの菓子で、気分を悪くするのも勿体なかった。怒るのにもエネルギーは必要で、残り少ない燃料を帰宅途中で使い果たすわけにはいかないのだ。
 体力がガス欠寸前なのは、練習がハードだったからに他ならない。ほぼ休みなく動き続けていたので、喉はカラカラ、胃袋はスッカラカンだった。
 だからこそ、アイスの差し入れは涙が出るほどありがたかった。
「美味いぜ。影山も、次あったら食ってみろよ」
 その梨味最後の一本を奪い取っておきながら、日向翔陽はいけしゃあしゃあと言い放った。
 好奇心旺盛な大きな眼と、オレンジ色の髪。良く動く手足に、強いのか弱いのかよく分からない心臓。
 影山に劣らず負けず嫌いで勝気な少年は、喋りながら噛み砕いたアイスをひと息に飲みこんだ。
 そうして首を竦めてぶるっと震えあがったのは、一気に食べて身体が冷えた所為だろう。萎縮して丸くなっている背中をぼんやり眺め、影山は表面が溶け始めているアイスを舐めた。
「そうする」
 冷たい氷に熱を押し当て、柔らかくなったところで歯を立てる。山なりになっている天辺を齧れば、前歯が固い異物を掠めた。
 その正体には、心当たりがある。気にせず無視して突き進み、影山はちょっとだけ頭を出した木の棒に肩を竦めた。
 前方に目を向ければ、雑談に興じる上級生の背中が見えた。
 街灯の明かりが夜道を照らし、足場は言うほど悪くない。アスファルトで覆われた地面は歩き易く、躓くほど大きな石も落ちていなかった。
 どこかの家から笑い声が聞こえ、別の家からは犬の吠える声が響いた。驚いて仰け反ったのは東峰だろう。即座に西谷が腹を抱え、澤村が騒々しいのを叱る大声が轟いた。
 静かにするように言うキャプテンの声が、実は一番五月蠅い。だのに誰も突っ込まない事に首を傾げ、影山は何気なく脇に視線を流した。
 並んで歩く日向は相変わらず片手で自転車を支え、もう片手でアイスを堪能していた。
 残りは僅かとなり、あとひと口で食べ終えてしまいそうな雰囲気だ。相変わらず食べるのが速いと肩を竦め、影山は開きつつある前方との距離に眉を顰めた。
 彼らより遅れているのは、そこに日向が居る所為だ。両手でハンドルを握っているならまだしも、片手で操作するのはなにかと厄介だ。ちょっとした段差にすぐタイヤを取られて進路が変わり、傾いた体勢を戻すのにも手間取らされる。
 そうやってもたもたしているうちに、置いていかれてしまう。ただ影山だけがペースを合わせて歩いているから、慌てて皆を追いかけようともしない。
 どうせあと少しすれば三叉路に至り、手を振って別れるのだ。帰る家が違うのだから、最後まで一緒というのは有り得なかった。
 月が沈み、太陽が昇って朝が来れば、また嫌でも顔を合わせる。携帯電話もある。声が聞きたくなったら、いつだって連絡が取れる。
 離れるのは哀しくない。
 ただほんの少し、寂しいだけ。
 手放し難く感じる本能と、彼を休ませなければならないという理性がいがみ合い、喧嘩をしていた。そして大抵、後者が勝つ。みっともない独占欲を押し切って、物分りが良いフリをする。
 簡単に剥がれてしまう薄い仮面を被って踊る様は、傍から見たら滑稽だろう。道化師の素質があったのだと自分を笑って、影山はのんびり道を下る日向をそっと盗み見た。
 その時だった。
「うおっ」
 くん、と後ろから何かに引っ張られた気がした。
 思わず声が出てしまった。日向もすぐに気付き、どうしたのかと不思議そうに見上げて来た。
 その視線を躱して、影山は後方ではなく、己の足元を見下ろした。
「ああ」
 瞬間、何が起きたのかを理解し、彼は緩慢に頷いた。
 スニーカーの、靴ひもが解けていた。
 結び目が緩んで、垂れた端を踏んでしまったのだ。今や蝶々結びは完全に解け、十センチちょっとある紐がバツ印を作っていた。
 蛇行しながら垂れ下がる姿を眺め、小さく肩を竦める。このままでは歩き辛いし、次に同じ事が起きれば、今度こそ転びかねなかった。
 そんな格好悪いことは出来ないし、そもそもこうやって垂らしたままでいるのは十分ダサい。考えるまでもなく、影山は結び直そうと左足を退いた。
「あ」
 膝を折って屈み、手早く済ませようと身体を動かす。だが寸前でとてつもなく邪魔なものがあると気付き、彼は中途半端な体勢で停止した。
「ん?」
 ずっと見ていた日向も、異変を察して眉を顰めた。
 彼はとっくにアイスを食べ終えており、最後に残った棒と一緒にハンドルを握っていた。両手を使って愛機を支え、妙に苦々しい表情のチームメイトに目を丸くする。
 パチパチと瞬きを繰り返す彼をしばし睨みつけ、苦悩を押し殺した影山はスッと背筋を伸ばした。
 しゃがもうとしていたのを諦めた彼に、日向の目が一層大きくなった。
「どした?」
「ちょっと持ってろ」
「あー」
 不思議そうに尋ねられて、影山がぶっきらぼうに言い捨てる。低い声とともに差し出されたものを見て、状況が理解出来たのか、日向は成る程と頷いた。
 預かるよう頼まれたのは、食べかけのアイスだった。
 彼の分はまだ塊が大きく残り、長時間咥え続けるのは大変だ。唇が冷えて氷と皮膚が張り付けば痛いし、間違って噛み砕きでもしたら悲惨なことになる。
 日向も幼いころ、その大惨事に見舞われた経験があった。
 アイスを食べている時に限って、どうして両手が必要になるのだろう。支えるものをなくした氷菓は地面に落ちて、蟻の餌にするほかなかった。
 哀しい出来事を振り返り、影山の意図を汲んで左手を差し伸べる。日向がしっかり棒を掴んだのを確認して、彼は静かに指を解いた。
「影山って食べるの遅い?」
「なわけあるか」
「だよなー。あ、さては好物は、最後にとっておくタイプだな」
「……かもな」
 大事なアイスを受け取って、日向が何気なく呟く。左右の手が空になった影山は早速身を屈め、解けてしまった靴紐を結びにかかった。
 愛想のない返答はいつものことで、日向は肩を竦めて苦笑した。
 目を逸らしたまま呟いた影山が、今どんな顔をしているのかは見えない。代わりに空色のアイスをじっと見つめて、表面を伝う水滴に喉を鳴らした。
 既に一本、食べ終えている。胃袋はまだ冷えたままだ。だが美味しそうな菓子を前にして、涎が止まらなかった。
「くそ。暗いとやりづれーな」
「かげやまあー」
「あ?」
 練習後はいつも空腹で、自宅までの帰り道は苦行だった。ただでさえきつい坂道を登り、下るわけで、必要なカロリーもほかの部員と比べると段違いだ。
 少しでも燃料を補給して、蓄えておきたい。道半ばでガス欠を起こそうものなら、一大事だ。
 アイスの一本や二本でどうにかなる話でもないのだが、追い詰められた精神は、時に予想外の発想を導き出す。舌足らずに呼ばれた青年は怪訝に顔を上げ、物欲しげな顔のチームメイトを見つけて肩を落とした。
「ちょっとくらいなら、いいぞ」
 一瞬目があっただけで、彼が何を言いたいのか理解出来た。他に思いつかないとため息をついて、影山は靴紐を握る手に力を込めた。
 リング状になった紐を左右に引っ張って、簡単に解けないよう結び目をきつく引き締める。垂れ下がった部分も間違って踏まないように長さを調整し、見た目も綺麗に形を整える。
 ついでに反対側の靴もチェックして、案の定緩みかけていたのを見つけた彼はやれやれと首を振った。
 放っておけば、こちらもいつか解けてしまう。そしてそういうタイミングは、得てして急いでいる時に訪れる。
 苛々させられる要素は、早いうちに潰しておきたい。だからとこちらも解いて、手早く結び直した。
 脱げないように、けれど足が窮屈にならないように。適度な締め付けになるよう具合を確かめつつ作業していたら、予想外に時間がかかってしまった。
 預けたアイスも、表面の氷がかなり溶けているだろう。思い出したら急に口寂しくなって、影山は背負った鞄の位置を整えつつ、素早く起き上がった。
「日向、サンキュ」
「ふが。……ん、ほぇ?」
 そうして託した物を返してもらうべく、利き手を差し出したのだが。
 返ってきたのは口をもごもごさせた日向の、意味を理解しかねる相槌だった。
 大きな塊を噛み砕いている最中だったらしい。頬が横に大きく膨らんで、しかもモコモコ動いていた。閉じられた唇は水分を含んで濡れており、涎とは違う雫が端からちょっとだけ垂れていた。
 右手にハンドル、左手に二本の棒。焼印はなく、どちらもハズレだった。
「ん?」
 それがどういう事なのか、影山は一瞬理解出来なかった。
 幅一センチほどの木の棒は薄く、片方だけ湿っていた。アナログ時計の針が十時を示す角度で握られており、やがてゆっくり動いて零時になった。
 綺麗に重なり合った棒は、正面からだと一本に見えた。そこから徐々に視線を上げていけば、日向は明後日の方角を向いて口笛を吹いた。
 下手な誤魔化しに、ぷちん、と何かが切れる音がした。
「テメーなあ!」
「ごごごご、ごめえん!」
 二秒後、影山は雄叫びを上げて彼に掴みかかった。日向も一応は悪いと思っていたらしく、素っ頓狂な声を上げて両手を挙げた。
 もれなく束縛を解かれた自転車が右に傾き、盛大な騒音を撒き散らして地面へと倒れ込んだ。
 当然と言えば当然の結果だが、そこに頭が至らなかった。ドンガラガッシャーン、と尾を引く大音響に、不意を衝かれたふたりは揃って首を竦めた。
「お前ら、あんまり騒ぐなよー」
「近所迷惑だぞー」
「早く帰れよー」
 それは距離が開いていた先行組の耳にも届いて、一斉に振り返った彼らは好き勝手言って笑った。月島と山口は口元を手で覆っており、声は聞こえなかったものの、笑いを堪えているのは窺えた。
 みんなから囃し立てられて、恥ずかしさといったら、ない。瞬く間に顔は赤くなり、日向は誤魔化すように声を荒らげた。
「お、お前の所為だぞ」
 大事な交通手段が、万が一壊れたらどうしてくれるのか。
 自分の足代わりの自転車を急いで助け起こした彼に、詰られた方は憤然として口を尖らせた。
「なんでそーなるんだ。テメーが俺のアイス、食ったのが悪いんだろ」
「うぐぐ」
 人差し指を突き付けて怒鳴れば、正論を突き付けられた方は途端に口籠った。
 反論を封じられ、恨めし気に影山を睨む。コート上の王様も負けるものかと眼力を強め、睨み合いは十秒近く続いた。
 記録が途絶えたのは、日向がふっと息を吐いた直後だった。
「……食べて良いって、言った」
 劣勢を立て直すべく間を作り、ぽつりと言う。目は合わせない。俯いて頬を膨らませた彼の言い訳に、影山は僅かに怯んでから大きくかぶりを振った。
 額に手を当てて、口を開く。言葉より先にため息が漏れて、一緒に怒りが抜け落ちていった。
「全部食って良いとは言ってねーぞ」
 語気は、想像したほど荒くならなかった。
 どちらかというと呆れ、そして諦めが大きい。現にアイスは日向が全部食べてしまった。坂ノ下商店ももう店じまいで、戻って買い直すのは難しかった。
 やっとあり付けると思っていたものが、目の前でするりと逃げていったのだ。やり場のない空腹感と怒りは確かにある。だが意外にも、あまり腹は立たなかった。
 こんなことで喧嘩をして、エネルギーを無駄に使いたくない。食い意地が張っている日向に預けたらこうなると分かっていたのに、安易にアイスを手放してしまった自分も悪い。
 理性的な感情が苛立つ心を薙ぎ倒し、凹凸を均して平坦に作り変えていく。直ぐにカッと熱くなる性格は何処へいったのか、妙な感じだった。
 自分自身ですら違和感を抱くくらいだから、当然、日向はもっと変に思ったようだ。
 覇気に乏しい怒鳴り声に眉を顰め、首を捻る。怪訝に見つめられて、今度は影山が目を逸らす番だった。
 微妙な空気に気まずさを覚え、呼ばれた気がして坂の終わりへ顔を向ける。丁度先輩方が手を振りあって、別れ道を行くところだった。
 後ろを見ても誰もおらず、周囲から一気に人気が失せた。どこかから笑い声が聞こえてくるものの、現実味に乏しく、別世界の出来事のようだった。
 居心地の悪さに身動ぎ、影山は掴むものの無い両手をズボンに擦りつけた。
「怒んねーの?」
「怒ってんだろ」
「どこがだよ」
 それを盗み見て、日向が口を尖らせた。
 短いやり取りの後に悪態をつかれ、ついでとばかりに脛を蹴られた。無論本気でなかったので痛くなかったが、衝撃は走り、影山は右足を引っ込めた。
 結んだばかりの紐が弾み、リボンが踊った。解けはせず、すぐに勢いを失って大人しくなった。
 二撃目を警戒していた影山だが、日向が追ってこないと知って緊張を解いた。怒らせていた肩を落として深呼吸すれば、不満げな顔で思い切り睨まれた。
 勝手にアイスを食べた事を許してやろうとしているのに、何故ねめつけられなければいけないのか。通常は喜ぶところだろうと訝しんでいたら、彼は左のペダルを蹴り、面白くなさそうに息を吐いた。
「怒れよ」
 妙なことを要求された。意味が分からず戸惑っていたら、またもやキッ、と睨まれた。
「チョーシ狂うだろ。いつもみたいに、怒れってば」
 今度は地面を蹴り飛ばし、日向が吠えた。大声を張り上げ、唾まで飛ばして牙を剥く。
 正面から罵声を浴びた影山は面食らい、目を丸くして絶句した。
「はあ?」
「もしかして熱でもあったりする? 具合悪い? どっかに頭ぶつけたりした?」
「よし。歯ぁ食いしばれ」
 驚きすぎて、変なところから声が出た。それが余計に日向を動揺させて、微妙に失礼なことを言われて腹が立った。
 握り拳を作って掲げれば、震えあがった彼が自転車にしがみついた。
「しょ、正気だった」
「ったりめーだ。ボケ」
 声を上擦らせて呟かれて、またもや怒る気が失せた。
 単純に、そういう気分でないだけだ。疲れているし、腹も減っている。日向の行動に逐一反応して、合いの手を返すのが面倒なだけだ。
 だというのに、日向は納得しない。拗ねて頬を膨らませて、今度は力任せに蹴ってきた。
「なにしやがる」
「だって、つまんないじゃん」
 突然の暴挙に声を荒らげれば、不条理も良いところの理屈を押し付けられた。
 本来、優しくされるのは喜ばしい事だ。怒られなければホッとするし、傷つけられなかったと安堵するべきだ。
 ところが日向は、それが気に入らないと言う。世の中の道理に逆らい、影山を怒らせようと躍起になる。
「なんなんだ、さっきから」
「お前がだろ。おかしいって、絶対」
「別にいいだろうが。俺が、どうしようと」
「良くない!」
 機嫌を損ねるのも、臍を曲げるのも、すべて影山個人の裁量だ。時には面倒臭がって、何もかも投げやりになる日だってある。偶々それが今日だっただけだというのに、見過ごせない、と日向は突っかかってきた。
 金切声で怒鳴られて、不意に周囲が静かになった。影山自身も息を呑み、やけに力んでいるチームメイトに眉を顰めた。
 何故こんなにも絡んでくるのだろう。訳が分からないと唖然としていたら、ふいっと目を逸らした日向が踵を地面に擦りつけた。
「日向?」
「だってさ。お前が、優しいと……なんか、こう。この辺がむずむずすんだもん」
 くしゃみが出そうで、出ないような。
 手の届かない場所が痒くて、どうやっても掻き毟れないような。
 喉の奥に小骨が刺さって、気になって仕方がない時のような。
 とにかくそういう気分になって、胸の辺りが落ち着かない。心臓の真上に置いた手でシャツを握りしめ、日向は自分でも分からないといった風情で呟いた。
 火照った頬は赤く染まり、恨みがましく睨んでくる眼は戸惑いに揺れていた。
 顔は背けたまま、彼は瞳だけをこちらに向けていた。上目遣いに見つめられて、影山は危うく後ろに倒れるところだった。
「あ、……ああ、そう」
 ふらつき、よろめき、肩幅以上に足を広げて持ち堪える。辛うじてそれだけを吐き出せば、日向は憤然とした面持ちで大きく頷いた。
「そう!」
 力強く宣言された。握り拳まで作って訴えられて、影山は立ち眩みを堪えて頭を抱え込んだ。
 日向は影山が正気かどうか疑ったが、そのままそっくり返したい。本気なのかと勘繰って、一瞥した少年は真顔だった。
 彼の説明がどんな意味を持つのか、教えてやった方が良いだろうか。だが言えばきっと否定されるだろうし、下手をすれば拒絶されかねない。
 こうやって並んで帰る事すら出来なくなるかと思うと、一歩を踏み出す勇気は出なかった。
「やべえ。……にやける」
 それでも顔が緩むのを止められなくて、急いで口元を手で覆い隠す。日向は相変わらず鼻息を荒くして、影山が怒るのを待ち構えていた。
 どうしようもなく馬鹿で、鈍感で。
 だから、可愛い。
 閉塞感に満ちていた世界が、急に明るく輝き始めた。未来が開け、希望の灯が点った。
 胸に抱く感情が一気に膨らんで、溢れ出そうになった。
 だが、急いてはことを仕損じる。今はまだ我慢と己に言い聞かせ、彼は深呼吸で鼓動を鎮めると、息巻いているチームメイトに手を伸ばした。
 殴られるのを警戒して、日向が首を竦めた。その小動物じみた動きに相好を崩し、影山は彼の手からアイスの棒を引き抜いた。
 きっちり二本分、奪い取られた少年は驚いて目を丸くした。
「あれ?」
「んじゃ、これ、明日はテメーの奢りな」
「えー。おれが食べたの、一本だけだろ」
「罰金だ。利子だ」
「お、横暴だー!」
「うっせえ。もとはといえば、テメーが勝手に食ったのが悪りぃんだろ」
 ピースサインにも似た形で広げて揺らされて、日向は甲高く吠えた。それを正論で押し退けて、影山はすっかり乾いた棒で彼を小突いた。
 額を叩かれ、小さなミドルブロッカーが不貞腐れて口を尖らせる。それもまた可愛いと内心呟いて、影山は甘い匂いの棒にくちづけた。

2014/8/28 脱稿