Poinsettia

「へっ、ぶしゅ」
 冷たい風が吹く。真冬の夜の只中に佇み、影山は押し寄せて来た寒さに身震いした。
 くしゃみで飛んだ唾を拭おうとして、手首まですっぽり手袋に覆われているのに気づく。顎の下まで持って行った利き腕を諦めて下ろして、彼はもう一度、わざと身体を揺り動かした。
 素肌と着衣の間で摩擦熱を呼び起こし、暖を取ろうと試みるが上手く行かない。凛と突き刺さる冷気は空間に満ち満ちており、彼ひとりではどうする術もなかった。
 頭上は曇っており、月は見えない。空は低く、今にも雪が降り始めそうな雰囲気だった。
「さみー……」
 小さく呟き、首を竦める。マフラーと喉や顎が擦れあい、静電気なのか、皮膚がチクチク痛んだ。
 息を吐けば白く濁った。鼻も耳も赤く染まり、頬もきっと普段より色を強めている。
 コートや手袋で武装しても、顔全体を覆うのは難しい。風邪を引いているわけでもないのにマスクをするのは不自然で、この時期、鼻の頭は毎日がトナカイ模様だった。
 サンタクロースは今年も忙しかろう。明後日に迫る大イベントを思い、影山は深く肩を落とした。
「俺には関係ねーか」
 ぽつりと零し、自嘲気味に笑う。声に反応する人はおらず、代わりに少し間を置いて、後方からどっと笑い声が響いた。
 もう夜も遅い時間だというのに、一般道の真ん中で騒いでいる連中がいる。顔ぶれには想像がついて、影山は足を止めて振り返った。
 街灯に照らされた路上に陣取っていたのは、案の定、見覚えのある面々だった。
 端から端まで、知った顔が並んでいた。正直、見飽きたと言っても過言ではない。けれど口にしたら雷が落ちるのは確実で、影山は黙って嘆息した。
 肩の力を抜き、手を振られたので会釈で返す。その他人行儀的な仕草が気になったのか、集団の中心に居たひとりが首を捻ったのが見えた。
 影山が姿勢を戻すより早く、彼はハンドルを握る手に力を込め、強く地面を蹴り飛ばした。
 自転車には跨らず、押しながら緩い坂を下ってくる。ぶつからないよう少し左に避けた影山の前に、小柄な体は一瞬で滑り込んできた。
「おわっ」
 そしてブレーキのタイミングを誤り、行き過ぎて転びそうになった。
 片足立ちで飛び跳ねたチームメイトが、倒れる寸前でどうにかバランスを立て直した。見ている方がひやひやする危なっかしさは相変わらずで、本人も失敗したと思っているのか、恥ずかしそうに目を細めた。
 顔をくしゃくしゃにして照れ笑いを浮かべた彼に、影山は緊張するのも馬鹿らしいと肩を竦めた。
「ボケ」
「うっさいな」
 いかにも日向らしい。そんな気持ちを込めて言えば、彼は口を尖らせて左手を振り上げた。
 だが、飛びかかっては来ない。自転車を放り出すわけにはいかないので、身動きが取れないのだ。
 勝ち誇った顔で胸を張れば、日向は悔しそうに地団太を踏んだ。
「むっきー」
 だがそれも、三秒と続かなかった。
 自転車のペダルが、彼の足に当たったからだ。
「いって!」
 今度は悲鳴を上げ、痛がって自転車に寄り掛かる。その頃には遅れていたメンバーも一部が追い付き、影山の後ろに貼りついた。
 集団に飲み込まれて、腰を叩かれた彼はつんのめった。
「よう。ひとりだけ先に帰ろうたって、そうはいかねーぞ」
 よろけた体勢を立て直していたら、身を屈めた西谷が右側から顔を覗かせて言った。脇を掻い潜るように出て来られて、影山は反射的に反対を向いた。
 目を逸らして返事をせずにいたら、今度は左側から田中が出て来た。人の肩に肘を乗せて悠々とポーズを作り、なにやら勝手な妄想を働かせて、「分かるぜ……」などと嘯き始める。
「男には、ひとりになりたい時があるってもんよ」
「ああ、成る程な。ハードボルトってやつだ」
 得意げに語り始めた二年生は、坊主頭にニット帽を被っていた。そんな締まりのない姿で偉そうに言われても説得力はないが、西谷は感銘を受けたのか、目を輝かせて早口になった。
「それを言うなら、ハードボイルドなんだけどな」
 後方からは縁下の溜息が聞こえた。頭の悪い同級生に心底困り果てているのが、振り返らずとも感じられた。
 人を挟んで持ち上がられて、若干げんなりしていた時だ。
「王様はいつもぼっちじゃないですか」
「月島ァ!」
 しれっと毒を吐き、背高の男子が西谷を追い越して行った。
 流石にこれは聞き捨てならず、反射的に影山は吠えた。拳を作って震わせるが、手袋の厚みがあって、丸みを帯びた形はあまり迫力がなかった。
 もっともそれがなくとも、月島は鼻で笑って終わらせただろう。すぐに暴力に訴え出る男を嘲って、インテリ眼鏡は口角を持ち上げた。
 彼の耳には大きめのヘッドホンが当てられて、それが防寒具も兼ねていた。音楽は流していないのか、会話に困る様子は無かった。
 ちゃんとこちらの声を拾っている男を睨みつけ、影山はふんっ、と荒っぽく鼻から息を吐いた。
 月島相手に口論で挑むのは、己の無知ぶりを曝け出すだけだ。難しい言葉を連発されると、途端に何も言えなくなってしまう。
 こんな場所で恥を晒すのは避けたくて、早々と勝負を打ち切る事でやり過ごす。あちらもそんな影山に慣れており、憐みを含む眼差しを投げて来た。
 それも無視して放置して、反対側を向いていたら、日向の顔が目に飛び込んできた。
「……ンだよ」
 まじまじ見つめられて、気分が悪い。
 最近でこそ耐性がついて来ているものの、影山は人と面と向かって対峙するのが苦手だった。
 中学時代のチームメイトとの確執が、未だ尾を引いている感じだ。バレーボールをやっている最中なら平気になったが、一度コートを離れると、矢張りどうしても身構えてしまう。
 愛想の悪さはなかなか直らない。だが日向も、影山の性格は承知していた。
 気を悪くした様子もなく、彼は歯を見せて笑った。
 白く煙った息を吐き、笑窪を作った。嬉しそうにされて、意味が分からなかった。
「へへっ」
「だから、なんだよ」
「んー。いつもの影山に戻ったな、って」
 楽しそうに声を漏らした彼に、表情の意味を問い質す。すると彼はあっけらかんと言い放ち、田中に向かって同意を求めた。
「は?」
 けれど影山には、訳が分からない。いつもの自分と何が違っていたのか考えるが、答えは出なかった。
 呆気に取られて惚けていたら、見かねた縁下が助け船を出した。
「部室出た辺りから、なんかピリピリしてただろ?」
「え?」
 月島や西谷はいつの間にか後退して、入れ替わりに縁下が右側に立っていた。
 微妙に眠そうな表情で告げられて、自覚がなかった影山はきょとんとなった。そうだっただろうかと首を捻り、着替えを終えて部室を出た後の自分を振り返るが、思い当たる節は出てこなかった。
 不思議そうにする後輩に、見守っていた西谷と田中が揃って噴き出した。プライベートでも仲が良いふたりは何がツボに入ったのか、げらげら声を響かせて腹を抱え込んでいた。
 あと少しで坂ノ下商店に着く。とっくに帰宅済みのコーチがエプロン姿で飛び出して来る光景が、今から見えるようだった。
 指さしながら笑われる不快感に歯軋りして、影山は助けを求めて新キャプテンを見詰めた。
 もっとも縁下だって、影山の事情に明るくない。頼られても困るだけだ。
 当惑気味に見返されて、彼は前に出した足で砂利を踏み潰した。
 微細な凹凸を靴の裏で受け止めて、やがて彼は嗚呼、と首肯した。
「いえ。その……なんていうか。家帰ったら、ケーキとか、待ってるのかと思うと、ちょっと」
「ケーキぃ!?」
 ピリピリしていたかは分からないが、憂鬱ではあった。その理由を思い出してつらつら述べれば、とある単語にチームメイトが一斉に食いついた。
 あの月島でさえ、興味深そうに目を丸くしていた。
 驚きの顔で見下ろされて、良い気がしない。食いしん坊の西谷や田中に加え、日向までもが自転車ごと身を乗り出して来た。
 一気に詰め寄られ、窮屈さを覚えて背筋を伸ばす。路上で爪先立ちになった彼を囲む集団は、傍から見れば異様だった。
 それを一歩退いたところから眺めて、縁下は頬を引き攣らせた。
「へ、へえ……いいな。でもクリスマスには、まだ早いだろ?」
「あ、いえ。違います。クリスマスじゃないです」
 二学期の終業式と被る年末の一大イベントは、二日後だ。プレゼント交換をしたり、ケーキや鳥の腿肉を食べたりと、あちこちでお祭り騒ぎが繰り広げられる。
 影山たち烏野高校男子排球部も、早めに練習を切り上げる予定でいた。
 だというのに、影山家では今日、ケーキが出されるという。家族揃うのがその日しかないのか、と理由をあれこれ推測していた縁下は、あっさり否定されて面食らった。
 残りのメンバーも、驚いた顔をしていた。日向は眉を顰め、詳細を聞きたがった。
「んじゃ、なんで?」
 下から響いた声に瞬きして、影山は嫌そうに口を噤んだ。
 むすっと拗ねてしまった彼に、盛り上がりかけていた部員たちは顔を見合わせて首を傾げた。
 クリスマスではないのに、ケーキを食べる日。
 余程特別な理由があるのだろうと考えて、ずっと黙って聞いていた山口がぽん、と手を叩いた。
「ああ、ひょっとして誕生日?」
「おう」
「へー。誰の?」
「…………」
「影山?」
 分かった、と目を輝かせたそばかす顔のチームメイトに、影山はどこまでも素っ気なかった。
 肯定はしたものの、その後はだんまりを決め込む。追及を拒んでそっぽを向かれて、心配になった日向が彼の袖を引いた。
 白色の手袋は、親指以外の指がまとめられたミトン型だった。手首にはボアがついており、内部も起毛で温かそうだった。
 ダッフルコートを着て、首には三重巻きにしたマフラーが。イヤーマフは白クマの顔をしており、遠目から見たら女子のようだった。
 着ぶくれでモコモコしている彼を一瞥して、影山は四方から向けられる視線に深く肩を落とした。
「……俺の、だけど」
 観念して呟く。途端に周囲の空気が凍り付き、ぴしっ、とヒビが入る音が聞こえた。
 実際、後ろにいた上級生は固まっていた。
「え?」
「誕生日? 今日?」
「影山が誕生日? って、お前まだ十五歳だったの?」
「――今日で十六歳ですけど」
 露骨に驚かれ、確認を求められて鬱陶しい。こうなるのが分かっていたから言いたくなかったのにと、彼はぶすっとしたまま訂正した。
 身長は百八十センチを越えて、まだ少しずつ伸びている。日々鍛錬を欠かさない身体は引き締まっており、セッターとしての技量は超高校級だ。
 だから皆、てっきり、彼の誕生日はとっくに過ぎたものと、勝手に思い込んでいた。
 たった今知らされた真実を、誰もが巧く消化出来ずにいた。
 月島も、山口もとっくに誕生日を迎えている。一年生で一番偉そうにしている男が最後だったとは、予想外過ぎた。
 呆気に取られて絶句しているチームメイトを眺め、影山は最後に長い溜息を吐いた。
 はあ、と吐息が聞こえて真っ先に我に返ったのは、部のムードメーカーである田中だった。
「はっ。そ、そうだ。そうか。全然知らなかったぜ。こいつは俺としたことが、うっかりしてたぜ。今からでも、なんだ。なんつーか、なんか、お祝いしてやらねーとなあ?」
「そうだな。ってか、なんで言わねーんだよ、お前は」
 最初こそ声が上擦ったが、途中から調子を取り戻して饒舌になった。西谷も同調して頷き、怒りの矛先を影山に向けた。
 ビシッ、と指差されて問い詰められて、対人恐怖症の王様は背を戦慄かせた。
「って、別に、いいですよ。そういうの」
 家に帰ればいつもより少し豪勢な料理がテーブルで待っている。胃袋は空にしておきたいし、人に奢られるのは未だに苦手だった。
 誕生日を家族以外から祝福された事がないので、どう反応して良いのかも分からない。発作的に悲鳴に近い声をあげれば、救いの神ならぬ意地悪な悪魔がぷぷ、と笑い声を響かせた。
「つーか、二十二日って」
 あと三日遅ければ、聖人と同じ誕生日になったのに。
 嫌味たらしく言った月島にキッと目を吊り上げて、影山は三秒してから唇を噛み締めた。
 珍しく怒号が聞こえて来ない。身構えていた月島は、意外な彼の反応に目を瞬かせた。
 肩透かしを食らって惚けていたら、舌打ちした影山が苛立たしげに空を蹴った。
「悪かったな。俺だって、好きで今日生まれたわけじゃねーよ」
「ああ。気にしてるんだ」
 吐き捨てられた台詞を聞き、察した縁下が小声で呟いた。
 これまでにも度々、同じことを言われて来たのだろう。もしかしたらクリスマスと誕生日をセットで祝われた経験も、あるのかもしれない。
 記念日が近いと、何度もやるのが面倒だからという理由で、一度にまとめられる事がある。しかしそれは大人の勝手な都合であって、自分だけの特別な日が失われる事に、子供は密かに傷ついていた。
 最終的には、どうしてこんな日に生まれのかと、自虐的に考えるようにもなる。影山もその典型だと解釈して、縁下は頬を緩めた。
 仏頂面で無神経なところがある彼だが、繊細な部分もちゃんと持ち合わせていた。そんな微妙なところに感心して、縁下は見守る親の感覚でうんうんうなずいた。
 何故か嬉しそうにしている先輩に警戒心を抱き、影山は居心地悪そうに身を捩った。
 斜めに掛けた鞄を弄り、鶏のマークを意味もなく引っ掻き回す。背中を丸めて猫背になって、高いと自慢の身長を低くする。
 そんな自信無さげな態度を叱って、西谷が思い切り彼の腰を叩いた。
「まー、なんにせよ、誕生日おめでとさん」
「これで影山も大人の仲間入りかー」
「いやいや、なってないし」
「王様がまさか一番年下だったとはね。どうりで頭の中がお子様なわけだ」
「ちょっと、ツッキー。あんまりホントの事言ったら可哀想だよ」
「こぉら、テメエら! 騒いでねーで、さっさと帰りやがれ!」
「うわ、やべえ。コーチだ」
「見付かったー!」
 手痛い祝福の言葉を皮切りに、部員たちが次々と勝手なことを言い始めた。月島は皮肉を忘れず、山口はそれに乗っかってシシシ、と笑う。そこへ店の前の集団を解散させるべく、エプロン姿の男が飛び出して来た。
 ジャージにエプロン姿で怒号を上げた烏養に、のんびり歩いていた排球部員が三々五々に駆けだした。蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げ出して、誰とも知らず別れの挨拶を叫ぶ声がこだました。
 影山もいつもと同じ調子で地を蹴って、店の明かりが遠ざかったところでペースを緩めた。
 この展開も、すっかり慣れたものだ。気が付けば半年以上繰り返しているやり取りに相好を崩し、一人に戻った途端に覚えた寒気に身震いする。
 集団の中に居ると暖かくて、冬の気配を感じる暇すらなかった。
 口から息を吐けば、一瞬だけ目の前が白くなった。呆気なく掻き消えていく靄を見送って、彼は鞄のマークをぽんぽん、叩いた。
「……ふは」
 笑みは自然と零れていた。
 不器用な笑い方をして、照れ臭さに身悶える。数年来聞いていなかった祝福の言葉を思い返すと、くすぐったくて仕方がなかった。
 嫌味もあったけれど、今日の分は聞き流せた。家に帰るのが憂鬱で足取りが鈍重だったのも、過去の話になっていた。
「おぉ、影山が笑ってる」
「っ!」
 直後だ。
 感嘆の息が聞こえて、彼は真っ赤になって振り返った。
 素晴らしい反応速度を見せて、右斜め後ろを向く。そこには自転車を押した少年がいて、目をぱちくりさせたまま、羞恥心を必死に堪えるチームメイトを見詰めていた。
 日中はオレンジ色に見える髪色も、夜の空気が暗めの色調に落ち着かせていた。イヤーマフに押し潰された毛先が外向きに跳ねて、動きに合わせてひょこひょこ揺れていた。
 白クマの顔が気になって、そこばかり見てしまう。左と右で表情が若干違うと気付かされて、彼は肩を落として額を覆った。
 高校生にもなって、と思うけれど、似合っているのだからどうしようもない。可愛いと思ってしまったのを一瞬で忘れる事にして、影山は姿勢を正し、偶然か、意図的か、追いかけて来たチームメイトに目で問いかけた。
 すると日向はパッと顔を逸らし、ハンドルを握る手に力を込めた。
「お前、こっちじゃないだろ」
 坂ノ下商店すぐ傍の、三叉路。そこから更に角をひとつ曲がった先にあるのは、影山が暮らす北川町だ。
 勿論、すぐには着かない。本来ならバス通学になる距離だが、影山はトレーニングの一環として、徒歩で往復していた。
 日向の自転車通学と似たようなものだ。もっとも坂道が少ない分、影山の方がコースは遙かに楽だった。
 山越えとは逆方向で、雪ヶ丘町から遠ざかるルートでもある。だというのに何故此処に居るのか尋ねかけるが、明確な返答は得られなかった。
 黙っていては、分かるものも分からない。縁下のように人の機微に敏感ではない影山は、日向の真意を取りあぐね、眉を顰めるしかなかった。
 ほかの部員は別の道を行ったらしく、近くに姿は見当たらなかった。
 辺りを見回し、日向へ視線を戻す。街灯の明かりは遠く、表情は見え辛かった。
 このまま歩き続けて良いのかどうかも判断がつかなくて、影山は困った顔で頭を掻いた。ついでに人差し指で頬も引っ掻いて、髭らしき突起を顎に見付けて爪で抓もうと足掻く。
 短すぎて掴めないものに苛々しているうちに、俯いていた日向がぱっと顔を上げた。
「だってお前、誕生日なのに、なんか、あんま嬉しそうじゃなかったから」
「は?」
 そして勢いよく捲し立てられて、集中していなかった影山は素っ頓狂な声を上げた。
 危うく聞きそびれるところだった。一部だけ赤くなっている肌から手を引き離して、彼は必死の形相のチームメイトに小首を傾げた。
 もしやそれを聞きたいが為に、遠回りを承知で追いかけて来たのだろうか。
 影山が誕生日であろうと、なかろうと、つまらなそうにしていても、日向には何も関係ない。部活動中にミスはなかったし、連携にだって支障を来さなかったはずだ。
 問い詰めたがる理由が分からなくてきょとんとしていたら、日向は深呼吸を三度繰り返し、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「だって、そーじゃん。明後日クリスマスだし、終業式だし。毎日ケーキ食べられんの、嬉しくねーの?」
「毎日は食わねーよ」
「そうじゃなくて」
「わーってるよ」
 訊かれて、影山は憤然と言い返した。揚げ足を取られた少年は瞬時に牙を剥き、標的となった青年は噛まれる前にスッと躱した。
 右腕を腰に当てて背筋を伸ばして、彼は察しの悪いチームメイトに肩を落とした。
 日向の親はきっと、手間を惜しまない人なのだろう。何度か顔を合わせた相手を思い浮かべ、影山は小さく舌打ちした。
「そうじゃなくて、……ちげーよ。うちは、クリスマスやんねーんだよ」
「え? なんで?」
「今日、まとめてすんだろ。分かれよ」
 仏教徒だから、だとかいう言い訳の方がまだ良かった。笑い話で済ませるには少々重い理由を、明確に言葉にするのは勇気が必要だった。
 読解力がまるで足りていない日向を睨んで、歯軋りする。ギリ、と嫌な音を間近で聞いて、少年は真ん丸い目をぱちくりさせた。
 そのままコテン、と首を右に倒されて、そろそろ我慢の限界だった。
「近すぎるから、一緒にしてんだよ。うちは!」
 思い切り地面を蹴り飛ばし、吼える。近所迷惑を考えずに怒鳴って、握り拳を突き付ける。
 真ん丸いグローブをちらつかされて、それでも理解が及ばなかったのか、日向は暫く何も言わなかった。
 何度か瞬きを繰り返して、嗚呼、という風に一度だけ頷いた。ただ呆然とした表情は変わらなかったので、本当に分かったのかは不明だった。
 間がたった一日しかない、誕生日とクリスマス・イブ。
 両方で御馳走を用意するのは経済的ではないし、手間も時間もかかる。プレゼントだって、二個準備するのは大変だ。
 親の考えは良く分かる。だから文句を言ったことはない。けれど不公平感はずっと胸の中にあった。
 ほかの子は誕生日にも、クリスマスにも、プレゼントをもらっている。だのに自分はひとつしかもらえない。小学校時代に所属していた地域のバレーボールチームでも、十二月だけ誕生日会がなかった。
 そういうのが積もり積もって、嫌いになっていった。
 そもそも誕生日など、歳をひとつ重ねるだけの日だ。派手に騒いで祝う方が馬鹿らしい。
 負け惜しみと分かっていても、そうやって心のバランスを保った。
「へ~え? そんで拗ねてたんだ」
「うっせえ、ボケ」
 好物ばかりが並ぶテーブルは魅力的だが、どうせなら七面鳥だって食べてみたい。バレーボール型のデコレーションケーキが悪いわけではないけれど、サンタクロースの砂糖菓子だって、一度くらい齧ってみたかった。
 嬉しさと寂しさが半々の誕生日に、思春期特有の反抗的な態度が重なった。素直に親に感謝出来ない偏屈さを指摘されて、影山は声を荒らげた。
 しかし日向は取り合わず、呵々と笑って溜飲を下げた。ようやく理解出来たと相好を崩し、本来の明るさを取り戻して目尻を下げる。
「んじゃさ。明後日、おれん家来いよ」
「……あ?」
「やるから、クリスマス。そしたら文句ないだろ?」
 あっけらかんと言い放ち、惚ける影山を置いて自転車に跨る。サドルに腰かけて爪先で地面を踏みしめ、万事解決とばかりに白い歯を見せる。
 事はそう単純でないのに、彼には通じない。
 とても簡単に言い切られて、影山は目を点にした。
 その顔を滑稽だとまた笑い飛ばして、日向が地面を蹴った。素早くペダルを踏んで、車体が傾く前にバランスを取って漕ぎ出す。
「じゃーなー」
 影山の前に進んで、そこから左にカーブして、反対側をすり抜けて来た道を戻っていく。すれ違いざまに手を振られて、ハッと我に返った王様は慌てて後ろに向き直った。
 しかし自転車の速度は凄まじく、日向の姿はあっという間に消えてなくなった。
 と、思っていたら。
「……なんだ?」
 猛スピードで坂を下ってくるものがあって、彼は怪訝に眉を顰めた。
 形状に見覚えがある気がした。まさか立ち去ったばかりのものが戻ってくるとは思えず、胡乱げにしながら立ち尽くしていたら、ビュンッと風が突き抜けた。
 冷気が刃となって襲い掛かり、前髪が煽られて、マフラーの端もふわりと浮き上がった。
「――っ!」
 咄嗟に腕で顔を庇い、行方を追って腰を捻る。上半身だけで振り返った彼の前方で、凄まじいブレーキ音がこだました。
 耳を劈く高音を響かせて、挙句靴底でアスファルトを擦った少年が、息も絶え絶えに頬を上気させた。
「わずれでだっ!」
 鼻水を垂らしながら叫ばれて、絶句するしかない。呆気に取られて凍り付いていたら、音立てて鼻を啜った日向が、二カッと白い歯を見せた。
 満面の笑みを浮かべ、背筋を伸ばして。
「影山、誕生日おめでと」
 少しだけ照れ臭そうに、言って。
 返事をする暇を与えてくれなかった。火が点いたように真っ赤になって、彼はハンドルにぶつかるくらい前のめりになると、ペダルを力いっぱい踏み込んだ。
 前よりも速度を上げて、全力で車輪を回して坂を登って行った。再び突風が吹き荒れて、一瞬の出来事に、息さえ出来なかった。
 残されて、影山は開きっ放しだった口を閉じた。じっくり時間をかけて幸せを噛み締めて、緩んでしまったマフラーを捕まえて。
 赤く火照った顔を鼻筋まで隠し、彼はくしゃっと、不細工な笑顔を浮かべた。
 

2014/12/07 脱稿

裏葉柳

 いつから、と訊かれても、絶対に答えられそうになかった。
 少なくとも昨日、今日の出来事ではない。具体的な日付は出ない。もしかしたら最初からかもしれないし、もうちょっと後だったのかもしれない。
 分かるのは、既に手遅れだと言う事くらい。
 胸に芽生えた感情を否定するのは難しく、拒めば余計に勢いを強めた。見ないフリをすればするほど足元は泥沼と化し、大人しく認め、受け入れるよう急かしてきた。
 嵌ってしまった。
 もう抜け出せない。
 ずぷずぷと深みに沈んでいく自分自身を脳裏に描き、影山は深く、長い溜息をついた。
「くっそ」
 悪態をつき、両手で挟み持ったボールに額を叩き付ける。ゴムの感触と臭いが素肌を伝い、そこに汗臭さが紛れ込んだ。
 辺りからはボールが床を打つ音、ゴム製の靴底が滑る音、雄叫びに近い掛け声、など等がひっきりなしに響いていた。
 鼓膜は常に震えて、電気信号に変換された騒音が脳を刺激した。しかし影山は外部からもたらされる情報を全てシャットアウトすると、唇を噛み、抱いたボールを頭上高く放り投げた。
 それを追う形で顔を上げる。緩めた唇を再度引き結び、腹に力を込めて天井ごと球体を睨みつける。
 ゴム底の靴で床を蹴る。スキール音が足元で駆けた。
 もう一歩、大きく足を、前へ。
「はあぁぁぁぁぁ!」
 腹の奥から声を絞り出し、吠えて。
 彼は思い切り地を蹴って、高く跳びあがった。
「――っしゃあ!」
 そうして勢いつけて腕を振り抜き、全体重をボールへと叩き付ける。ずしりと掌から手首一帯に掛かった重圧を跳ね除け、胸に渦巻くもやもやとしたものを悉くそこへと叩き込む。
 空気がうねった。渦を巻き、凄まじい速度で歪んだボールが空を奔った。
 文字通り、弾丸のようだった。
「うひょおっ」
 直後、ネットの向こう側から悲鳴があがった。ボール拾いに精を出していた山口が両手を挙げて飛び跳ねて、折角集めた数個を床に散らしていた。
 コロコロと転がっていく複数の球体に紛れ、影山が放ったボールも壁にぶつかり、跳ね返って止まった。
 ドン、ゴン、ガンッ、と連続した音がひと段落して、一瞬だけ場が静まり返った。誰もが荒れていると分かる男を遠巻きに見つめて、声を掛けるべきかどうか悩み、その役目を押し付け合っていた。
「なんか今日の影山、一段と気合い入ってんな」
「ストレス溜まってんでしょ」
「あの影山が? なにに?」
「……さあ?」
 更にその向こうでは、人を宥める役に不向きな人間が集まり、ひそひそ声で言葉を交わしていた。
 田中の独白に合いの手を挟んだ月島が、西谷から突っ込まれて肩を竦めた。興味がないとでも言いたげな態度で視線を浮かせ、物珍しげな様子で後輩を見詰める二年生にはため息を零す。
 実際、今日の影山はいつにも増して鬼気迫るものがあった。
 見るからに機嫌が悪そうだと分かるから、皆、空気を読んで近付こうとしない。だがわざとなのか、本当に分かっていないのか、約一名だけはいつも通りの姿勢を崩さなかった。
「おー、影山。なんかお前、今日、すっげえな」
 目下、烏野高校男子排球部は、一日の練習の〆とも言えるサーブ練習の真っ最中だった。
 涼を求めて開け放たれた窓の外はまだ僅かに明るいが、それもあと三十分ほどの猶予だ。太陽は地平線にキスしており、照れて隠れてしまうまで幾ばくもなかった。
 西の空は鮮やかな朱色に染まり、明日の快晴を約束していた。風は弱く、流れる空気は湿って重かった。
 日本の夏特有の湿度の高さに、人いきれが混じって、館内は蒸し暑い。何もしなくても汗は流れて、半袖シャツからは饐えた臭いがした。
 一球打ち終えた後の乱れた息を整えて、影山は暢気に話しかけてきた相手を振り返った。
 最早顔を見なくても、声だけで誰だか分かってしまう。すっかり聞き慣れたボーイソプラノは、十六歳の男子高校生らしからぬハイトーンだった。
 本当に声変わり済みかと疑いたくなる高音に肩を上下させ、影山は鼻筋を滴り落ちた汗を振り払った。
 かぶりを振り、口に入ろうとした塩水を弾き飛ばす。つられて湿った黒髪も踊り、襟足が頸部に貼りついた。
「別に。普通だろ」
 暑さを払い除けようとしたのに、却って暑くなった。鬱陶しくて邪魔な髪の毛を掻き上げて、彼は素っ気なく吐き捨てた。
 口調同様、明るく元気に話しかけて来た日向はそんな返答にも挫けず、握り拳を作ると胸の前で振り回した。
「ンなことないって。なあ。おれにもさ、教えてくれよ。ジャンプサーブ」
「はあ?」
 考えながら喋っているのか、彼の言葉は文節が前後して少々分かり辛い。最後まで聞いてから並び順を入れ替えて、影山は本人的には高めの、素っ頓狂な声を上げた。
 同時に首を右に傾がせ、目を丸くする。高い位置から見下ろされても、日向は興奮冷めやらぬ表情を崩さなかった。
 わくわくしながら見つめられて、影山は三秒停止してから頭を垂れた。
「教えたって、出来るワケねーだろ」
「なっ。んなことないぞ」
「ある。大体、テメー、アンダーハンドでも半分くらいミスってんじゃねーか」
「うわ、ったあ」
 心底呆れ果てて呟き、反発されても聞き入れない。逆に練習中でも頻発するミスを指摘してデコピンをおまけしてやれば、日向は後ろ向きにたたらを踏み、両手で額を覆い隠した。
 赤くもなっていない場所を庇って、彼は頬を膨らませて口を尖らせた。
「影山のけちー」
「ケチってねえよ!」
 窄めた口から息を吐き、出し惜しみするチームメイトを正面から詰る。影山は即座に反応して、声を荒らげた。
 唾を散らして怒鳴り、右の拳を振り上げる。だが振り下ろされることはなかった。日向も殴られるとは思っておらず、呵々と笑って踵を返した。
 高らかな笑い声を残し、体育館の端へ駆けていく。中断していた練習を再開しようとカラフルなボールをひとつ持ち、第二体育館の中央に張られたネットへと向き直る。
 呼吸を整え、意識を集中させる。彼もまた外部の音を遮断して、孤独な戦いに踏み出そうとしていた。
 横顔は凛々しく、勇ましく、なにかやってくれそうな雰囲気が漂っていた。
 けれど。
「せぃや!」
 かわいらしい掛け声の後、打ち放たれたボールは敢え無くネットに掴まり、真下へと滑り落ちて行った。
「あー……」
 もし今のがネット上辺ぎりぎりだったなら、上手くいけばネットインで、相手チームの意表を突けていたかもしれない。しかし残念ながら、ボールが当たったのは横に長い網のほぼ真ん中だった。
 あれでは奇襲じみた攻撃も不可能だ。むしろ公式戦でやろうものなら、観客の失笑を買うレベルだった。
 本番中でなくて良かった。近くで見ていた澤村の表情は、まさしくそう語っていた。
 苦笑する主将と目が合って、日向は恥ずかしそうに首を竦めた。
「まあ、……ドンマイ」
 控えめに励まされ、しょんぼりしながら頷く。それを斜め後ろから眺め、影山はハッとして首を振った。
 まただ。自分に向かって舌打ちして、彼はついつい目で追ってしまう相手に臍を噛んだ。
 いつの間にかこの瞳は、自然と日向を探すようになっていた。
 出会い方は最悪で、第一印象はあまり良くなかった。ヘタクソな癖に生意気で、バカな奴だと鼻で笑い飛ばしていた。
 だのに、あの一打で見方が百八十度ひっくり返った。
 急造チームのにわかセッターが上げた、バックトス。明らかなトスミスだというのに、そのボールに追いついた日向。
 瞬き一回分にも満たない、まさに一瞬の出来事だった。
 この時初めて、影山は彼を見失った。以来存在を追い求め、探し回る日々の連続だった。
「くっそぉ……」
 こんなはずではなかった。
 まさかこんな泥沼に落ちるとは、予想だにしていなかった。
 最初は、落ち着きがなくてそそっかしい馬鹿だから、見張っていないと何をしでかすか分からない――と言い訳をした。
 けれどそのうち、違うと気付いてしまった。
 日向が何をしていても、誰と居ても、気になって仕方がなかった。特に自分以外の誰かと談笑しているとモヤっとして、胃の辺りがむかむかした。
 体調が悪いのを真っ先に疑ったけれど、日向がひとりになれば、それはすぐに収まった。また彼に話しかけられると調子が上がって、コート内でのミスは大幅に減った。
 好不調の波が、日向によって大きく左右させられていた。その事実を自覚した時は愕然として、他者の影響を受けてしまう自分に絶句した。
 そんなに弱い人間になったつもりはないと突っぱね、有り得ないと自分に言い聞かせた。しかしこの感情を拒絶すればする程、身体は彼を欲しがった。
 決定打は、悪夢とも言うべき夢を見た事だった。
「なんだって、あんな奴に」
 奥歯を噛み締め、愚痴を零す。鈍痛を訴えるこめかみを軽く叩き、影山は脳裏に蘇ろうとした夢を追い払った。
 しかし一度気を向けてしまうと、もうダメだった。
 すべては手遅れだ。気を取り直してサーブを打ち込もうとする日向の姿に、今朝方に夢で見た、淫らに乱れた姿が重なった。
 直後。
「うわあっ」
 ゴッ! という凄まじい音に驚き、東峰が悲鳴を上げて仰け反った。
 真っ青になり、小心者らしくカタカタ震えて小さくなる。そんな彼の左斜め後ろでは、影山が、何を思ったのか壁に頭突きをお見舞いしていた。
 かなり良い音がした。相当痛かったはずで、彼の額は真っ赤だった。
「なんだ、どうした?」
「影山、大丈夫か?」
 ボールが床に落ちて跳ね返る時の音とは、趣が全く違っていた。周囲にいた部員たちも一斉にざわめいて、突然の暴挙に出た一年生に眉を顰めた。
 自虐的な行動に、誰しも戸惑いを隠せない。不思議そうに見守られる中で、騒動の張本人は徐々に膝を折り、頭を抱えて丸くなった。
「いってぇ……」
 今頃になって己の行動を後悔している彼に、息を潜めていた大半が一斉に噴き出した。
「おいおい、どしたー?」
「しっかりしろよ」
 田中と西谷が揃って腹を抱えて笑い転げ、菅原も困った顔で苦笑した。澤村は最低でも一日一度、問題行動を起こす一年生に頭を掻き、東峰は未だ青い顔で天才セッターを心配そうに見下ろした。
「大丈夫か、影山。なにか嫌な事でもあったか?」
 お節介に質問を投げかけ、蹲ったまま動かない後輩の肩を叩く。だが影山は答えず、じんじん痛む額を撫でて唇を噛み締め続けた。
 こうでもしないと、瞼の裏に焼き付いた映像が消えてくれないのだ。
「へーき、っす」
「なにか悩みがあるなら、聞くぞ? あ、でも俺じゃ、なんの役にも立てないかもだけど……」
「おーい、旭。出来もしないこと言って後輩困らせるんじゃないよー」
「えええ、大地。そりゃないよ~」
 しつこく話しかけてくる東峰をどうにかしようと、大丈夫だと強がるが効果は薄い。ただチーム随一の気弱なエースは、その性格故に勝手に墓穴を掘り、友人に窘められて泣きそうな声を上げた。
 ちくりと突き刺さった嫌味に抗議するが、したたかな主将は笑ってやり過ごした。にこやかに手を振って誤魔化されて、東峰は意識の矛先を澤村に変更した。
 お蔭で深く追及されずに済んだ。内心ほっとして、影山は熱を持った箇所をそうっと撫でた。
 手加減する余裕すらなかったけれど、幸か不幸か、腫れてはいなかった。
 こんなところに瘤が出来ようものなら、目立って仕方がない。五分もすれば痛みも、赤みも消えると判断して、彼は冷たくて硬い壁にため息をついた。
 それもこれも、全部、日向の所為だ。
 いや、現実問題、彼には何の罪もない。ただ影山が、自身の心の奥底に抱いている感情を、上手く消化できずにいるだけで。
 今朝のような夢を見たのも、思春期の熱情を限界まで溜め込んだ結果だった。
 汚れた下着を朝一番に洗面所で洗う生活など、慣れたくなかった。
 誰にも言えず、相談も出来ないまま、鬱憤だけが蓄積されていく。そのうち爆発してしまいそうで、それがなんとも恐ろしかった。
 自分の性格は、自分が一番良く分かっている。積み上げられた不満や鬱屈した感情は、いつか勝手に堰を破り、外へ飛び出して行ってしまうものだ。
 中学時代の二の轍を踏みたくないのに、同じことを繰り返す未来しか見えない。だから余計に憂鬱で、気が滅入って仕方がなかった。
「マジでなんとかしねーと」
「なにを?」
「~~~~~~~っっっ!」
 心底困り果て、ひとり、呟く。
 刹那、ひょっこり横から覗き込まれ、影山は口から心臓を吐きだしそうになった。
 声にならない声で絶叫して、切れ長の目を大きく、丸く見開く。頬を引き攣らせて総毛立って、咄嗟に距離を取ろうとして肩から壁に激突する。
 ドスン、バタンと騒々しい彼に、練習を再開していた上級生は揃って苦笑した。
「今日の影山は、ちょっとおかしいな」
「いやいや、いつもあんな感じですよ」
「それもそっか。あんまり暴れんなよー」
 壁に背中を預けて尻餅をつく一年生に、菅原と月島が爽やかに感想を述べ合った。最後におまけとして一応注意だけして、男子排球部副部長は項垂れる影山にのっこり微笑んだ。
 白い歯を見せながら親指を立てられたが、どういう意味なのか、さっぱり分からない。ただ馬鹿にされたような気がして不貞腐れていたら、眉間に皺を寄せた彼の真正面に、ずい、と日向が割り込んできた。
「うっ」
 視界を埋め尽くすほどの近さに、影山は発作的に息を呑んだ。
 日向の身体が壁となり、光が遮られて辺りが暗くなった。額だけが赤かった顔はいつしか頬や首筋まで色を強め、引きかけていた熱が戻って全身を覆い尽くした。
 湯気さえ出そうな雰囲気に、日向はきょとんとしながら首を傾げた。
「お前、熱でもあんじゃね?」
 異様に赤らんだ顔と、緊張で強張った頬。脂汗が止まらず、首筋は湿って粘ついていた。
 そんなチームメイトを訝しんで、日向は確かめようと手を伸ばした。
「さっ、触んな」
 熱を測るべく触れようとした彼に、影山は慌てて叫んだ。
 同時に小さな手を払い除け、距離を稼ごうと壁に縋りつく。滑る靴底で何度も床を蹴り、叩かれて不満そうな日向に奥歯を噛み締める。
 折角忘れかけていたのに、間近で顔を見た途端、夢の中の彼が蘇ってしまった。
 それは口に出すのも憚られるような、男の願望が形になった、卑猥な光景だった。
 一糸纏わぬ姿でベッドに横たわり、とろんとした目で情欲に喘いでいた。絹のような肌はしっとり汗で湿り、触れればちゃんと温かかった。
 声は聞こえなかったが、口は動いていた。切なげに細められた眼や、何度も同じ形を刻む唇に、心が擽られた。
 全て妄想だ。
 夢の世界の出来事だ。
 しかし妙にリアルすぎて、目覚めた後もすぐに夢だと分からなかった。隣に日向が居ない事に真っ先に驚いて、それからようやく、全ては空想の産物だと理解した。
 下半身もしっかり反応していて、起床早々気が滅入って仕方がなかった。よりにもよって、と自分に呆れ、そうならざるを得ない心境にため息が止まらなかった。
 同時に良心の呵責も覚えて、日向を直視できなかった。
 だというのに目は自然と彼を探し、追いかけて止まない。話しかけられれば心が躍り、手と手が触れようものなら心臓が飛び出しそうになった。
 体温は急上昇して、汗が止まらなかった。火照った身体は甘く痺れ、高速で回転する鼓動はいつ弾け飛んでもおかしくなかった。
 熱を持ち過ぎた脳みそがオーバーヒートして、思考回路は完全に焼き切れていた。
「触らなかったら、熱があるか分かんないだろー」
「熱ならある。俺は平熱だ。気にすんな」
「いや、だから……も~~」
 手を跳ね除けられた日向が不満げに口を尖らせた。それに皮肉めいた台詞で応じれば、何かを言いかけた彼は途中で諦め、ぶすっと頬を膨らませた。
 脱力して床に直接腰を下ろし、日向は立てた膝に顎を置いて影山を睨みつけた。
 三角に折り畳んだ脚を両手で抱いて、背中は丸めて身体は小さく。元からコンパクトな体格を一層縮めて、物言いたげな眼差しで正面からチームメイトをねめつける。
 その愛くるしい態度に戦いて、影山はもう下がれないというのに、尚も後退しようとした。
 壁に背中を押しつけて足掻いている男を見上げ、日向はぶすっとしたまま両手を膝小僧の脇へ移動させた。
 顎の位置は変えず、両サイドから頬を支えるような形に作り替える。猫背は益々酷くなり、可愛らしさは激増した。
 分かっている。全ては贔屓目だ。
 実際、日向はそれほど可愛くない。華奢な体格ではあるが骨格はちゃんとした男子のものだし、贅肉がほぼゼロなので、触れてもさほど柔らかくなかった。
 それでも、惚れた弱みというものは確かに存在した。恋は盲目という言葉もある。たとえ日向がどんな変顔をしても、全て可愛いと思える自信すらあった。
 底なし沼に落ちていく自分を連想して、影山は右手で顔半分を覆い隠した。
「マジで、なんでもねーから」
「そうかあ?」
「しつけーぞ」
「だって、月島が」
 必死に隠しているけれど、理性の箍は今にも外れてしまいそうだった。
 なんとか追い払おうとして、到底信じてもらえそうにない台詞を呟く。当然日向は疑って、首を傾げながら視線を余所向けた。
「あ?」
 彼の口から零れ落ちた不快な音色に、影山は反射的に食いついた。
 今までの人生で一番低い声を出し、こめかみの血管をピクリとさせる。頬は強張り、全身を覆っていた熱は一瞬にして冷めた。氷水を浴びせられたかのように頭はクリアになって、数秒前の狼狽具合が嘘のように落ち着いていた。
 瞳はごく自然に右へ流れ、遠くで意味深に笑っている男を捕えた。
 部内で一番背が高いミドルブロッカー、月島蛍。彼はふたりの視線を敏感に察知し、口角を持ち上げて不敵な表情を作った。
 だが日向は気付かず、すぐに影山へ意識を戻した。
「月島の奴が、お前が、おれの所為でヨッキューフマンになってるから、なんとかしてやれって」
「はいぃ?」
 不遜な笑みに瞠目していた当人は反応が遅れ、話しかけられて我に返った。慌てて日向に向き直り、影山は素っ頓狂な声を体育館内に響かせた。
 練習に励んでいた面々が、突然の大声に一斉に振り返った。ただひとりの例外が月島で、彼は両手でボールを抱え、そこに額を押し当てて肩を震わせていた。
 噴き出したいのを必死で堪えている様子に、影山は再び真っ赤になって右往左往した。
 日向に変なことを教えた月島を怒鳴りたいが、そうすれば影山の感情が皆に知られてしまう。かと言って黙ったままでいたら、変人扱いが酷くなるだけだ。
 にっちもさっちもいかなくて喘いでいたら、日向が気難しい顔をして肩を落とした。
 虚空を掻き毟っていた手を休め、影山は様子が一変したチームメイトに眉を顰めた。
「日向?」
「おれ、……もっと、がんばるな」
「は?」
 神妙な態度で言って、彼は突然ガッツポーズを作った。腹に力を込めて気合いを入れ直し、固い決意を表明して鼻から荒く息を吐いた。
 いったいどこから、もっと頑張る、という結論に至ったのか。影山の欲求不満が日向の決心とどう関係するのか分からずにいたら、彼はニッ、と笑って白い歯を見せた。
 反則的な可愛さに、変な声が出そうになった。
「……っ!」
 反射的に右手で口を塞いだ影山を疑いもせず、日向はきらきらの笑顔で目尻を下げた。
「だーかーらー。おれ、影山がヨッキューフマンにならねーように、お前のトス、もっとちゃんと打てるようになるからさ」
 目下、日向のスパイクには二通りのパターンがあった。
 片方は目を瞑り、思い切り腕を振る日向に対し、影山がピンポイントでトスを合わせるスパイク。
 もう片方が、空中に放られたトスに対し、日向側が合わせるスパイク。
 前者については、影山の集中力が切れない限り、コンビネーションが狂う事はない。しかし後者だと、日向にも一定の力量が求められた。
 今現在の課題は、日向が空中でボールに対応出来るようになること。これが上手くいけば、彼の攻撃の幅は大きく広がるはず。
「な?」
 にこやかに同意を求められて、影山はぽかんとしたまま目を瞬いた。そのまま月島を探して首を左に振り、見つけられなくて一瞬で諦めて、日向に向き直る。
 要するに彼は、影山の欲求不満の原因を、トスワークが上手く行っていないところにあると解釈したのだ。
 自分が同じ失敗を繰り返すので影山が苛々しているのだと、月島の言葉をそんな風に読み解いたのだ。
「お、……おう」
「へへへ~」
 なんという前向きな勘違いだろう。しかしその馬鹿さ加減に、今日は大きく助けられた。
 苦心の末に相槌を打って、影山は赤ら顔で頷いた。日向は嬉しそうに頬を緩め、両手で膝を叩き、背筋を伸ばして立ち上がった。
 汚れてもいないズボンを払って埃を落とし、後方を振り返る姿は凛々しかった。
 彼を見上げる機会は滅多にない。こんな光景も偶には悪くないと思っていた矢先、腰の捻りを戻した日向がおもむろに手を伸ばしてきた。
「やろーぜ、練習。続き」
 早く立つよう促して、起き上がる手助けをしようと手を差し伸べる。
 その小さな掌と、彼の顔とを交互に見比べて、影山は抑えきれない感情を噛み締めた。
「ああ、そうだな」
 声を絞り出し、小さな手を取る。
 今ここで腕を強く引けば、軽い日向は呆気なく倒れ、影山の胸に身を沈めるだろう。その華奢で温かな体躯を、ごく自然に抱きしめられるはずだ。
 日向は怒るだろうが、ちょっとした悪戯と誤魔化すのは容易い。騙され易い彼は、素直に信じるに違いなかった。
 けれどそれをして、歯止めが利かなくなるのが怖かった。
「よーい、しょっ」
 かわいらしい掛け声をあげ、日向が両足で踏ん張った。影山も壁を押して、自分の力で身を起こした。
 出来ない。
 出来るわけがない。
 日向の笑顔を壊してまで、自分の思いを押し通せる筈がない。
「……くそっ」
 どうして彼を好きになったりしたのだろう。
 最早掻き消すなど不可能な感情に歯を食い縛り、影山はチームに合流すべく、大きく足を踏み出した。

2014/12/07 脱稿

赤香

 呼ぶ声が聞こえた。
 大きく、元気な声だった。高校生にしては少々甲高い、女子と間違えてしまいそうなトーンだった。
 影山は目を凝らした。一生懸命人の名前を呼んでいる相手を探し、首を左右に振り回す。爪先立ちになって背伸びもして、障害物が何もない空間を三百六十度、見回す。
 けれど姿がない。声ははっきり響いているのに、肝心の本人が見つからなかった。
 どこにいるのだろう。
 彼が立っているのは、真っ平らな空間だった。
 足元に起伏はなく、かなり遠くまで見通せた。山や谷といったものもなく、邪魔な建物も見つからない。高層ビルの屋上に立っているのかと言えばそうではなくて、本当に、なにもない場所だった。
 こんなところが日本にあったのだと、変なところで感心した。視界は白く濁り、靄がかかっているようだった。
 雲の中に佇んでいる気分だが、足元は硬い。試しに爪先で数回叩いて、彼は天頂に視線を向けた。
 青空は広がっていなかった。そちらも地表部分同様、白一色に覆われていた。
 これはおかしい。
 見える範囲に色らしきものが存在しない事実に、影山は初めて疑問を抱いた。
 人を呼ぶ声は、今も続いていた。
 明るく弾んだトーンの時もあれば、落ち込んでいるのか沈んだ調子の時もあった。一音ずつ間延びさせたり、息を切らせて早口になったりもした。
 甘えた猫なで声に、怒って機嫌が悪そうな声もあった。色々な感情が入り乱れ、ひとつとして同じものはなかった。
 耳を欹て、注意深く辺りを窺う。しかしそれでも、影山はなにも見つけ出せなかった。
 誰もいない。
 何もない。
 ハッとして、彼は慌てて自分の手を握りしめた。
 拳を作り、掌に生じた感触に二秒してから安堵の息を吐く。肩を上下させて温い唾を飲みこんで、影山は額の汗を拭った。
 腕が見えた。足があった。鏡がないので顔は見えないが、目鼻や口、耳も、触れればちゃんとそこにあった。
 頭の左右に貼りついている耳朶を摘んで引っ張って、パッと手放し、彼はトクトク鳴る心臓を撫でた。
 自分は此処に居る。
 ちゃんと存在している。
 紛う事なき事実を再確認して、深呼吸をひとつ。もう一度汗を払い除けて唇を舐め、彼は改めて遠くを見据えた。
 霧が晴れたようだった。
 一面の白い景色に変化はないが、少し明るくなった気がした。新雪とは違う目映さを足の裏で踏みしめて、彼は声の主を求めて歩き出した。
 口を開き、息を吐く。鼻から吸い込む。奥歯を噛んで、喉を引き攣らせる。
 次第にペースが上がって行った。小走りになり、駆け足になり、腕を振って全力疾走して、影山は白い大地を蹴り飛ばした。
 名前を呼ばれた。
 返事をした。
 逆に呼びかけた。
 日向、と。
 息を切らして叫んだ。胸の苦しさを堪え、声を絞り出した。
 雄叫びをあげ、吠えた。
 何処にいる?
 どこに隠れている?
 俺は此処に居る。
 早く出て来い。
 出て来ないならこっちから見付けてやる。
 トスが欲しいなら、好きなだけくれてやる。
 だから姿を見せてくれ。
 名前以外の声を聴かせてくれ。
 いやだ。
 ひとりにするな。
 お前まで俺を置いていくな。
 出て来てくれ。
 行かないでくれ。
 お願いだから、傍にいて。
 一緒にいて。
 ずっと隣で、笑ってくれ。
 足取りは緩やかに鈍った。声に覇気がなくなっていく。汗だくになって、影山は肩を上下に揺らした。
 どれだけの距離を走ったのか、考えたくもなかった。
 白一色の世界に終わりはなく、最果ては見つからなかった。どこまでも平らな空間が続いて、頭が可笑しくなりそうだった。
 孤独に押し潰されて、気が狂いそうだった。
 鼻の奥がツンと来た。目頭が熱くなって、噛み締めた唇はわなわな震えていた。
 こんなことで泣きたくなかった。
 けれどこんな時でもなければ、涙を流す理由が思いつかなかった。
 中学時代には出来なかった事だ。あの頃は自分だけが正しくて、他の連中が間違っていると盲目的に信じていた。
 価値観が百八十度ひっくり返ったのは、日向と出会ってからだった。
 もしあの日、体育館で先輩たちより先に日向と遭遇していなかったら。きっと入部を認めて貰えなかったり、三対三の試合をしたりする事もなかっただろう。
 そうしたら彼は最強の囮になる事もなく、体育館の隅で基礎練習ばかり繰り返す日陰者になっていたはずだ。
 影山自身も王様から脱せず、正セッターの地位は菅原に譲ったまま、ベンチで悶々とする日々を過ごしていたに違い無い。
 勝手に決めつけていたバレーボールのセオリーを、日向は軽々と打ち砕いた。
 常識を覆された。新しい可能性を、彼に見出した。
 なにより、わくわくした。
 初めてバレーボールに触れて、その面白さに心を奪われた瞬間を思い出した。
 北川第一中学で及川の後を継ぎ、セッターとして試合に出るようになった頃には失われていた感情だった。
 一番巧くなりたくて、一番強いチームを自分の手で作ろうとした。けれどそうやって勝利に固執していくうちに、バレーボールを楽しむ、という基本中の基本を忘れていた。
 日向が思い出させてくれた。
 彼がいなかったら、影山は今も暗い水底に沈んだままだ。
 そんな日向が、見付からない。
 声は聞こえるのに、どこを探しても見つからなかった。
 影山も懸命に呼びかけ、答えるのに、声は届いていないのか、彼の言葉に変化はなかった。
 調子を変えて繰り返される呼び声に合わせ、脳裏には様々な彼の姿が蘇った。
 満面の笑み、悔しそうな横顔。涙を堪える表情に、腹痛に耐えて震えている暗い顔。
 全力でジャンプする、流れる水のような滑らかな動き。
 スパイクを決めた心地よさに感情を爆発させ、嬉しそうにはしゃぎ回る無邪気な笑顔。
 ヘタクソと詰られて、拗ねて大きく膨らんだ頬。
 肉まんを奢って貰い、美味しそうに頬張る姿。
 トスを呼ぶ、心奮わせる声。
 全力で影山を信じ、高く跳ぶ気高さ。
 次々に浮かんでは消える映像に、どれだけ手を伸ばしても届かない。
 掴み損ねた手で空を握り潰し、影山は嗚咽を堪えて鼻を啜った。
 日向に会いたい。
 日向に触れたい。
 日向を捕まえて、引き寄せて。
 抱きしめて。
 彼の熱を肌で感じたかった。
 今すぐに。
 今ここで。
 彼が欲しくて仕方がなかった。
 胸の奥で熱い感情が渦巻いていた。思いが炎となって滾り、ちょっとの衝撃で爆発しそうだった。
 止まらない。止められない。
 早く会いたい。
 早く触れたい。
 早くこの手で掴み取り、強く抱きしめたかった。
「……ひな、た……」
 切なさを堪え、名前を口ずさむ。
 絶望の海から引き揚げてくれた感謝を込めて、万感の想いで愛おしげに呼びかける。
「あ、うん」
 返事が、変わった。
 瞬間だった。
「――っ!」
 一気に現実味が押し寄せて来た。どかん、と巨大なハンマーで後頭部を殴られた錯覚を抱き、影山は顔面蒼白になって四肢を戦慄かせた。
 飛び起き、椅子の背凭れに背骨を激突させる。リアルな衝撃が全身に広がって、彼は驚きに目を白黒させた。
 蹴り上げてしまった机が数ミリ浮いて、ガタガタ音を立てた。椅子も後ろの席にぶつかって、この一帯だけ地震に見舞われたようだった。
 総毛立ち、全身から脂汗を流す。一晩降り続けた雪が山となって積み上がる時期だというのに暑さを覚え、影山は限界まで瞠目して奥歯を噛み鳴らした。
 鼻の孔も広げて荒い息を繰り返し、目の前に広がる光景を凝視する。
 そこは教室だった。
 宮城県立烏野高校の、一年三組の教室だった。
 しかもクラスメイトは、誰も居ない。外からは賑やかな声が聞こえてくるというのに、この部屋だけが異様なまでの静けさだった。
 いったい、みんなは何処へ消えたのか。
 訳が分からなくて混乱していたら、影山のひとつ前の席に腰かけた少年が、申し訳なさそうに右手を振った。
「おーい?」
 遠い世界へトリップしているチームメイトを呼び、頭が正常に機能しているか確かめる。
 人差し指を立てて何本に見えるか聞かれ、影山はそれでようやく我に返った。
 けれど状況に理解が追い付かず、頭上にはクエスチョンマークが乱立していた。
「え。……え?」
 ほぼ無人に等しい教室。
 ひとり取り残された影山。
 そして居座る、他クラスの生徒。
 何がどうなっているのか分からなくて、彼は声を裏返し、首を傾げた。
 立ち上がろうとして半端なところにあった腰を落とし、椅子に座り直して息を整える。バクバク言う心臓を宥めて唾を飲みこんで、苦笑している少年に焦点を定める。
 見つめられ、日向は照れ臭そうに首を竦めた。
「やっと起きた」
 そうしてホッとした様子で呟いて、肩の力を抜いて猫背になった。
 彼は椅子の向きを九十度左に変えて、片肘を背凭れに預けて座っていた。影山の席との間に仕切りはなく、楽に机に寄り掛かれるよう工夫されていた。
 その席に元々座っていた男子生徒は、見渡す限りどこにも見えない。どうして日向と入れ替わったのか分からなくて眉目を顰め、影山は寒々しい光景を眺めた。
 照明は点いたままだったが、居るべき生徒がいない為か、心持ち暗く感じられた。
 廊下にも目を向けるが、開けっ放しの戸から入ってくる影はなかった。
 教室の真ん中やや後ろよりの自席で背筋を伸ばし、不思議そうに首を左に倒す。日向は当惑が隠せずにいる彼に目尻を下げて、人の机で頬杖をついた。
「おはよ」
「ああ。……はよ」
 そうして短く挨拶して、白い歯を見せた。
 反射的に挨拶を返した影山は、ちょっとした違和感に眉間の皺を深くした。
 まだ寝ぼけているのだろうか。記憶がどうもあやふやだった。
「えー……っと?」
 そもそも自分は、この挨拶を、とっくに日向にしたはずだ。今朝も七時前から第二体育館に集合して、みっちり朝練を繰り広げたのだから。
 それなのに、今の今まで影山は眠っていた。決して寝心地が良いとはいえない机に突っ伏して、おまけに夢まで見ていた気がする。
 内容までは思い出せないけれど、あまり楽しい話ではなかった。
 思い出そうとしたら、不快感が胸を過ぎった。ざらっとした感触は気持ちが悪くて、無理をして追い求めないよう警告を発していた。
 嫌な感じがするのに、敢えて穿り返そうという気力は沸かない。そちらは無視する事にして、彼は額に手をやって顔を半分隠し、細切れになっている他の記憶を拾い集めていった。
「確か、朝練出て、終わった後は部室で着替えて、教室行って、授業……」
「大丈夫か? 頭悪い?」
 断片を繋ぎ合わせ、大きな地図を作っていく。まるでパズルを組み立てるようだと思いつつ、影山は身を乗り出してきた日向を一瞥した。
 心配してくれているようだが、言葉のチョイスが明らかにおかしかった。
 頭が悪いか訊かれて、頷くわけがなかろうに。こういう時は、具合が悪いだとか、頭が痛いのかとか、そういう風に質問すべきだ。
 ただ馬鹿にしている様子ではなかったので、二つのことを同時に考えていたら、声に出す際に混ざったのだろう。
 それはそれで、どうかと思う。真面目に取り合う気になれなくて、影山は無言を貫いた。
 愛想のない彼に日向はぷっくり頬を膨らませ、不満も露わに頬杖を解いた。
 今度は手首のところで腕を交差させて、机に直接凭れ掛かった。距離が一段と詰まって、影山は肌に感じた吐息に内心ドキッとさせられた。
 視線が自然と彼の唇に向かって、中心に捕えたところでパッと逸らす。勝手に赤くなろうとした頬も手で覆い隠して、彼は怪訝にしているチームメイトを見下ろした。
「ンで、テメーがここに居んだよ」
 ここに至ってやっと、その疑問が転がり落ちた。
 日向と影山は、所属する部活こそ同じだけれど、それ以外は何一つ共通点がなかった。
 最初は衝突してばかりだった。顔を合わせれば罵り合いが始まって、喧嘩をしない日は一日だってなかった。
 もっとも最近は、多少頻度は減っていた。
 ぶっきらぼうに吐き捨てて、影山はこめかみに爪を立てた。軽い痛みで自身を支え、不自然過ぎる状況への説明を求める。
 日向は窄めた口から息を吐き、丸かった頬を凹ませた。
「だって、頼まれたし」
「は?」
「お前、寝てんだもん」
「……はあ?」
 不貞腐れたまま言われて、影山は素っ頓狂な声を上げた。
 皆目意味が分からない。彼こそ頭は大丈夫かと心配していたら、伝わらないのに苛々した日向が座ったまま床を蹴った。
 四本足の机も巻き込んで、下唇を突き出す。ひょっとこのような表情で怒りを露わにするが、迫力はないに等しかった。
 拗ねられても、分からないものは分からない。
 あまりの言葉足らずぶりに困っていたら、深呼吸した日向が太鼓でも叩くかのように、握った手で机の角を叩いた。
 トン、トトン、トン、とリズムを取りながら、彼が見たのは廊下だった。そこでは授業の合間の休憩時間を使い、大勢の生徒が行き交っていた。
 影山も同じ方を向いて、小首を傾げる。そのあまりに大袈裟な仕草に、日向は深々とため息を吐いた。
 どうして理解出来ないのか、とでも言いたげな態度だった。
 成績はどんぐりの背比べなのに、馬鹿にされるのは許容し難い。反射的にムッとしていたら、右手を起こした日向が口元に手を添えた。
「かげやまくーん?」
「あ?」
 そうして人をイラッとさせる口調で、人の名前を呼んだ。
 普段よりずっと高音を発せられて、神経に障った。眉を吊り上げて険を強めた影山に、日向は何故か呵々と笑って同じ台詞を繰り返した。
「かーげやまー、か~げやま。あそれ、かっげっやまっ」
「うぜえ!」
 途中から節をつけ、調子を合わせて手を叩く。
 試合中の声援ならまだ分かるが、学校の教室でやられると、侮辱されているとしか思えなかった。
 腹を立て、影山は机を殴った。大事な商売道具を乱暴に扱って、利き手に生じた痺れに奥歯を噛み締める。
 日向は驚き、口を噤んだ。それからまたもや嘆息して、首の付け根を引っ掻いた。
「だからー、お前起こすように頼まれたんだってば」
「は?」
「三組、次、音楽だろ?」
「――……あああああ!」
 直後。
 影山は絶叫して椅子を蹴り倒した。
 ようやく話が繋がった。穴だらけだった記憶が塞がって、平らな世界が完成した。
 思い出した。
 真っ青になって脂汗を流し、影山は意味もなく両手をワキワキさせた。
 そうだった。
 彼は朝練の後、制服に着替えてこの教室に入った。早起きしてたっぷり運動したのもあり、授業開始直後に眠気に襲われた。
 いけないと思いつつ、舟を漕いでしまった。古典の教師が非常に耳に心地よい声の持ち主だったので、余計だった。
 意識はそこでぷつりと途切れ、日向に起こされたところまで一気に飛んだ。時計を見れば、針はあり得ないところにあった。
 一時間目の開始時点から数えれば、分針は軽く二周していた。
 その上次の授業が始まるまで、あと一分もなかった。しかも音楽。指導を受ける教室は、別棟の最上階だった。
 どうりで誰も居ない筈だ。漸く合点が行って、影山は頬を引き攣らせた。
「だっ、あ……なっ、が!」
 あまりに焦り過ぎて、言葉が出て来ない。意味不明な雄叫びを連発させて、彼は苦笑中の日向に歯軋りした。
 どうしてもっと早く起こしてくれなかったのか。
 喉まで出かかった詰問を飲みこめば、気配で察した彼が肩を竦めた。
「お前って、寝起き最悪だもんなー。クラスの連中、怖がってんぞ」
「んなっ」
「おれが偶々通りかかったから良かったけど、次は気をつけろよー」
 ケラケラ笑いながら言われて、影山は赤くなったり、青くなったりと忙しかった。
 熟睡しているところを叩き起こされたら、誰だって不機嫌になる。ただ影山はその傾向が顕著で、度を越していた。
 夏前にクラスメイトに怒鳴った件が、この時期になっても尾を引いていた。人の親切を足蹴にしたわけで、致し方ないとはいえ、切なさが胸を占めた。
 日向が中学時代の友人に頼まれていなかったら、教室に置き去りにされていたのか。
 孤独な王様だった過去が生々しく蘇って、彼は鳥肌立った身体を抱きしめた。
 ぶるりと身震いして、短く息を吐く。唇を舐めて心を鎮めて、改めて日向を見る。
 彼は少し照れ臭そうにして、椅子を引いて立ち上がった。
「んじゃ、お前、起きたし。早く行けよー?」
 友人からの依頼は完遂させた。この後影山が遅刻するか、しないかは、本人の努力次第だ。
 日向の役目はこれにて終了。晴れ晴れとした表情で手を振って、彼は早速教室を出て行こうとした。
 その手を。
「うん?」
「あ……」
 意識しないうちに掴んでいた。
 引き留められて、日向は眉を顰めた。影山も自分の行動に驚いて絶句し、彼の顔と自分の利き手とを交互に見比べた。
 何故こんなことをしたか、本気で分からない。教室にひとり取り残されるのが嫌だ、という理屈が通用するのは、乳飲み子の間だけだ。
 そんな情けない理由だとは思いたくなくて、影山は赤くなり、奥歯をカチカチ言わせた。
 日向も戸惑いがちの表情を浮かべ、数秒悩んでから空いた手で影山の右手首を掴んだ。
 緩く握り、引き離しにかかる。それを受けて咄嗟に指に力を加えたら、オレンジの髪の少年はしどけなく微笑んだ。
「大丈夫だって。お前のこと、置いてったりしねーから」
 訳知り顔で囁いて、手の甲を叩かれた。虚を衝かれた影山は面食らって目を点にして、半年だけ年上の相手に息を呑んだ。
 霧が晴れた。
 濃い靄に覆われていた、夢の中の出来事が一気に蘇った。
「……っ!」
 ぞわっと来て、影山は腕を引っ込めた。日向を突き飛ばす勢いで距離を取って、彼の体温が残る手で口を塞ぐ。息は荒くなり、心臓は怒涛の勢いで暴れ回った。
 零れ落ちんばかりに目を見開いて、不思議そうにしているチームメイトを睨みつける。
 きょとんとされて、影山は全力で穴を掘って潜りたくなった。
「おま、おっ、俺……あああっ」
「おい。どうしたよ、大丈夫か?」
 出来るものなら地球の裏側まで突き抜けて、そこから宇宙へ逃げ出したかった。
 両手で頭を抱え込み、突然吠えた彼に日向も驚く。動揺して心配そうに話しかけられても、影山はすぐには答えられなかった。
 羞恥の炎に焦がされて、灰になってしまいそうだった。
 夢を見た。
 日向の夢だ。
 名前を呼ぶ彼を探し、見付からなくて途方に暮れる夢だった。
 もしかしたら現実でも、彼は影山を呼んでいたかもしれない。
 早く起きるよう訴えて、繰り返し、繰り返し。
 トーンを高くしたり、低くしたり。一音ずつ伸ばしてみたり、弾むように小刻みに発音したり。
 アクセントの位置を変えて、リズムも変化させて。そうやって何十回と耳元で囁いた声が、夢の中にまで届いていたのだとしたら。
 影山が夢で吼えた言葉も、もしかしたら。
 そうだとしたら。
「もしもーし、影山さーん?」
 可能性を膨らませ、全身汗まみれになって瞠目する。ぜいぜいと息を乱して肩を上下させる彼に、本気で不安を覚えた日向が声を上擦らせた。
 その呼び方も夢で聞いた。
 温くて不味い唾を飲みこんで、彼は胡乱げなチームメイトの袖を掴んだ。
 軽く引っ張り、残る手は顔の中心に叩き付ける。
 こんな顔を見せられるわけがない。火照って赤い肌を極力隠して、影山は鳴り響くチャイムに紛れて問いかけた。
「お、れ……ナンか、言ってた、か?」
 瞬間、早く立ち去りたがっていた少年が、ピクリと震えた。
 と思えば表情は見る間に凍り付き、大粒の目が左右に泳いだ。日向は頬を引き攣らせ、明後日の方向を向いて鼻の頭を引っ掻いた。
「え、えー? なんか、あっ、あったっけ、かなー?」
 口から飛び出した台詞と、態度とが合致しない。すっ呆けてはいるけれど、白々しいポーズは疑惑を認めているに等しかった。
 誤魔化そうとして、まるで出来ていない。嘘が下手過ぎるチームメイトにがっくり項垂れて、影山はその場で膝を折った。
「ちょ、おい。授業。どーすんだよ」
「……いっそ殺してくれ」
「ヘンな事言うなって。別におれ、ヤじゃな……って。だあ! そうじゃなくてえ!」
 落ち込む影山を前に、日向は慰めようと両手を振り回した。そして予期せぬ言葉をぽろっと零し、自分に向かってツッコミを入れた。
 思い切り額を叩いて、彼はずび、と鼻を鳴らした。
 何より音に驚かされ、呆気に取られた影山が顔を上げた。丁度チャイムが鳴り止んで、騒がしかった廊下も静かになった。
 シンとした空気に、じわじわ熱が上がっていく。お互い黙って見詰め合って、先に耐えられなくなったのは日向だった。
「あー、もう。バカ!」
 唐突にキレて叫び、影山目掛けて足を繰り出す。蹴られそうになった青年は慌てて飛び退き、後ろにあった机にぶつかって尻餅をついた。
 ガタゴトと騒音を撒き散らす彼を睥睨して、日向は涙目で地団太を踏んだ。
「影山なんか、知らないっ」
 捨て台詞をひとつ残し、踵を返して駆けていく。
 後ろ姿を茫然と見送って、影山はひとり、頬を抓った。

2014/12/07 脱稿

浩大

 リコッタチーズたっぷりのカンノーロ、色とりどりのジェラート、冷たくて甘いズコットに、大人な雰囲気のタルトゥフォ、天国へ連れていってくれるティラミス。
 イタリアには甘いものがいっぱいだ。魅惑的な味、色、香りに包まれて、ジェラート屋の看板を見るとつい足が向いてしまう。
 いけないと思いつつも、店ごとに違う味を確かめずにいられない。手作りを謳う店はこのご時世でもまだ多く、散策中の楽しみのひとつだった。
 もっとも最近は仕事が重なり、あまり出歩けていない。季節で変わるメニューも多く、食べ損ねたと悔やむ日が増えていた。
 仕事の合間を縫って覗いたインターネットのホームページでは、日々様々な写真がアップされ、更新が続いていた。それらを眺めて気持ちを癒そうと思うものの、逆に自由の利かない身が恨めしくなるだけだった。
 いつ、どこで殺し屋に襲われるかも分からない。
 そんな危うい立場になるなど、十年前は想像すらしなかった。
「アイス食べに行きたい」
 愚痴を零し、机に突っ伏す。もれなく処理中の書類が潰されて、数枚が風圧で飛んで行った。
 クリスマスまで残り一ヶ月を切って、街中は浮かれ調子だった。各地で目に眩しいイルミネーションが飾られて、冬の夜を美しく演出していた。
 巨大な樅の木が駅前の大広場に出現し、子供も大人も笑顔が絶えない。だというのに自分ひとりが仕事に埋没し、腐って骨になろうとしていた。
 年に一度のイベントも、この調子では朝から晩まで仕事で終わりそうだ。不貞腐れずにはいられなくて、綱吉はぶすっと頬を膨らませた。
「そんな顔しても、仕事は減らねーぞ」
「うげ」
 そこへ不意に声が掛かって、彼は反射的に背筋を伸ばした。
 昔からの習慣が、こんなところで生きた。椅子の上で畏まって、綱吉はいつ現れたのか、部屋の真ん中に佇む若者に渋い顔を作った。
 今の独白も聞かれたに違いない。嫌な相手に知られたものだと奥歯を噛み締めていたら、表情から感情を読み取ったリボーンがふっ、と鼻で笑った。
 十年前に呪いから解放されて以来、彼は順調に成長していた。
 身長もぐんぐん伸びて、とうの昔に綱吉を追い越した。そのうち山本に迫るのではないかというくらいで、末恐ろしい逸材だった。
 反面性格は昔のまま変わっておらず、スパルタぶりは今も健在だ。こうして綱吉の仕事ぶりを観察しに現れて、ダメ出しして帰っていくのが定番だった。
 歯に衣着せぬ物言いは直球過ぎて、心にぐっさり突き刺さった。今日も苛められるのだろうと覚悟して、彼は身構えて息を飲んだ。
 そんな緊張ぶりを読み取って、殺し屋出身の家庭教師はニヒルに笑った。
「聞いてた通り、ダメダメだな」
「ほっとけよ。毎日こんなんじゃ、誰だって俺みたいになるって」
 朝起きて、着替えて、食事をした後は執務室に籠りきり。外に出るのはトイレか、会談の時だけだ。
 その会談は、一日二度、三度と繰り返されていた。
 どの相手も気が抜けなくて、終わる度に精神力を持っていかれた。どっと疲れが押し寄せて、食事も喉を通らないくらいだ。
 ここ一ヶ月の彼のスケジュールを見たら、某国の大統領も卒倒するに違いない。会談の相手は名だたる政治家から、経済界の重鎮、または司法界の陰の支配者と様々で、齢二十四歳の若造が対峙するには、荷が重すぎる顔ぶれだった。
 代わってくれる人がいるなら、是非とも譲って差し上げたい。そんな暴言も遠慮なくぶちまけて、綱吉は開き直って口を尖らせた。
 リボーンだから言える文句に鼻息を荒くして、頬を丸く膨らませる。とっくに成人済みとは思えない表情に色白の男は呵々と笑い、被っていたボルサリーノの鍔を弾いた。
「なんだ。元気そうじゃねーか」
「誰の所為だと」
「俺の教育のたまものだな」
「勝手に自慢してろ」
 激励なのか、嘲笑なのか。
 判断が付きかねる台詞を吐かれ、綱吉は悪態で返した。顔を背けてそっぽを向き、机の下では足をじたばた前後に揺らす。
 椅子に座ったまま暴れているドン・ボンゴレに、その家庭教師だった若者は呆れ調子で肩を竦めた。
「それじゃ、俺が用意したプレゼントもあんまり意味ねーな」
「はい?」
 ぼそりと言われ、綱吉の耳がピクリと反応した。
 プレゼント、という単語だけがいやにはっきり聞こえた。都合の良い部分だけを拾って顔を上げ、期待と不安に目を丸くする。
 嫌な予感はするものの、少なからず胸がときめいた。口元が緩んで締まりのない表情になった教え子に、リボーンは愉快だと手を叩いた。
 もしや一杯食わされたのだろうか。
 呵々と笑う彼にムッとして、綱吉は一気に機嫌を悪くした。
 臍を曲げた教え子に、リボーンも腕を下ろした。右手を腰に添えてポーズを作って、不貞腐れている世界的巨大マフィアのボスに肩を竦める。
 見た目は立派になった綱吉に苦笑して、彼は扉を振り返った。
 いったいどんな合図があったのか。なんの言葉もないままに、真鍮製のドアノブがひとりでに回転し、戸が外側に開かれた。
「あ……」
 綱吉は目を見張り、音もなく入って来た男に絶句した。
 紺のスーツに、濃い紫のシャツ。ネクタイは黒一色で、足元も黒光りする革靴。挙句に頭髪も、切っ先鋭い眼までもが、純然たる闇を表す色だった。
 よく知った顔だった。但しここ半年ほどは会話すら碌になく、定時連絡のメールだけが唯一の繋がりになっていた。
 日頃は遠く、東洋の島国を拠点にしているのに。
 いったいどんな魔法を使ったのだろう。にわかには信じられなくて、綱吉は惚けたままリボーンを見た。
 意地の悪い家庭教師はククッ、と笑い、得意げに胸を張った。
「なんだ。本当に元気そうじゃない」
「うぐ」
 その一方で男は静かに歩み寄り、綱吉を見てひと言、呟いた。
 ドアの外で会話を聞いていたのだろう。この城は古くて、防音壁など設置されていなかった。
 内部に侵入するのは大変だが、一度入ってしまえば後はザル警備。ボスの執務室でさえ、鍵は設置されていなかった。
 ハイテクなのか、ローテクなのか分からないと頭を抱え、綱吉は予想外のプレゼントに背中を丸めた。
 どんな顔をして会えば良いと言うのか。なにも知らされていなかったので、覚悟も、準備も、全く出来ていなかった。
 俯いて顔を赤くし、勝ち誇っているリボーンを心の中で罵る。直後に感謝の言葉の雨を降らせて、嬉しいのに嬉しくない状況に臍を噛んだ。
 こんなサプライズ、聞いていないし、全く考えていなかった。
 クリスマスにはまだ早い。
 誕生日はとっくに過ぎた。
 タイミングが可笑し過ぎると火照る頬を隠し、綱吉は机の下に潜り込みたくなった。
 実際、椅子を引いて暗がりを覗き込んだ。身じろいだ彼を見逃さず、部屋の中央まで来た男が涼しい顔で呟いた。
「もっとやつれて、骨と皮になってるって思ってたけど」
「ゲッ」
「というか。君、……ちょっと太った?」
「うわーーーん!」
 ギクリとして、ドキリとして、騒然となった。
 率直過ぎる感想が数少ないプライドを薙ぎ倒し、木っ端微塵に打ち砕いた。
 赤子に戻って大声で泣き叫んで、綱吉は本当に椅子から降りて床に座り込んだ。膝を抱えて小さくなって、ふたりの前から姿を消した。
 いじけて床に「の」の字を書いているボンゴレ十代目に、残された男たちは互いに顔を見合わせた。
 リボーンに肩を竦められ、東洋系の顔立ちの青年もため息を零した。
 足音が一人分だけ響いて、程なくしてドアが閉まる音が続いた。どちらが出て行ったか分からず、綱吉は丸くなったまま暗がりで、床に向かって目を凝らした。
 そんなことをしても見えないと分かっていても、気になって仕方がない。とはいえ背伸びをして辺りを窺う勇気もなくて、困っていたら、ドアをノックするかのようにとんとん、と音がした。
 それも、真上で、だ。
「っ!」
 反射的に仰け反り、バランスを崩して尻餅をつく。みっともなく床に蹲った綱吉の目の前には、不敵に笑う現役の殺し屋の顔があった。
 切れ長の瞳を眇めて、最強の名を戴く雲の守護者が口角を持ち上げた。
「無視されるのは嫌いなんだけど?」
「はっ、はひぃぃぃぃ」
 折角来てやったのに、挨拶もないのはどういうつもりか。
 低く静かな声で問いかけられて、綱吉は完全に裏返った、素っ頓狂な声を上げた。
 歯の根が合わない奥歯をカチカチ言わせ、ぶるぶる震えながら後退を図るが上手く行かない。椅子が邪魔になって身動きが取れずにいる彼を眺め、風紀財団の頭取は小さく頷いた。
 おもむろに後ろに手を回したかと思えば、スーツの裾を捲り、何かを取り出して構えを取る。ジャキッ、という不穏な音も聞こえて来て、綱吉は一気に青くなった。
 首筋を冷たいものが伝った。総毛立って、青年は吹き飛ぶ勢いで首を振った。
「ごごご、ごめっ……ごめんなさい。ごめんなさい、ヒバリさん。お久しぶりです!」
 悲鳴のような謝罪を口走り、両手は胸の前で叩き合わせて強く握りしめる。まるで神様に祈るかのような態度で仰がれて、雲雀恭弥はつまらなそうに視線を外した。
 腕も引いて、トンファーを隠す。素早く畳んで収納を終えた彼を見守って、綱吉はのろのろと起き上がった。
 机を手掛かりに立ち上がり、ズボンの汚れは払って落とす。グレーの縦縞スーツは新品で、素材は一級品だった。
 こんなことで駄目にしたら、財政管理を任せている獄寺が発狂しそうだ。
 昔から計算だけは得意だった男を思い浮かべ、綱吉は胸を叩いて深呼吸を繰り返した。
 肺を凹ませ、膨らませて、を繰り返す間、ほんの少しだけウェストが苦しくなった。腰回りを緩く締め付けられて、布が肉に食い込む感覚がリアルだった。
「ぐぅぅ」
 喉の奥で呻き、凛として佇む男を仰ぐ。
 雲雀は飄々とした態度を崩さず、机を挟んだ先から綱吉を見詰めていた。
 そして。
「うん。やっぱり太ってる」
「うわあああぁぁぁん!」
 先程と同じ台詞を繰り返されて、またしても綱吉は地に沈んだ。
 穴があったら入りたかった。今まで誰に言われても笑って流せたのに、彼に言われるとショックで死にそうだった。
 机に寄り掛かり、項垂れて涙を呑む。そんな露骨すぎる態度が、確信を深める要素になっているとは気づきもしない。
 墓穴を掘っている綱吉に嘆息し、雲雀は卓上を埋める大量の書類と、小ぶりな陶器の壺を眺めた。
 蓋がついているそれは、貝殻を模した入れ物だった。底は浅く、真珠貝を思わせる白さだった。
 試しに突起を摘んで持ち上げれば、中に入っていたのは山盛りのチョコレート。それもナッツ入りだったり、キャラメル入りだったりと、種類は豊富だった。
 色も定番の茶色だけでなく、白もあれば、黄色っぽいものまであった。
 甘ったるいカカオの匂いが立ち込めて、雲雀は即座に蓋を戻した。カツリと音が響いて、綱吉も観念したのか顔を上げた。
 鼻を愚図らせて、若きボンゴレ十代目は恨めし気に雲雀を睨んだ。
「なるほどね」
 視線を感じ、彼は肩を落とした。納得だと首肯して、以前に比べて随分ふっくらした青年を見下ろす。
 意味深な独白を聞いて、綱吉は肉厚の頬を膨らませた。
 多忙を極めて自分の時間が取れず、城下の散策さえままならない状況に陥った綱吉が、かなりストレスを溜め込んでいる。
 このままでは潰れてしまうかもしれないから、一度顔を出して、発破をかけてやってくれ。
 それが雲雀を呼び出した、リボーンの言葉だった。
「あの野郎……」
 彼がどうしてイタリアを訪れたのか。秘されていた事情を教えられて、綱吉は低い声で唸った。
 何年経っても、あの男の掌で踊らされている気がする。昔からそうだったとがっくり肩を落とし、彼は額に手をやってゆるゆる首を振った。
 リボーンの言葉から、雲雀は綱吉がげっそりやつれ、痩せ細っているとイメージしていた。疲労が蓄積して、ただでさえ細い体が、風が吹けば折れる小枝のようになっているのではと危惧した。
 ところが蓋を開けてみれば、逆だった。
「どうりで、説明があまりなかったわけだ」
 ぼそっと零し、雲雀はすっかり肉付きが良くなった青年を上から下まで、じっくり眺めた。
 枯れ枝だった腕には脂肪が付き、骨に直接皮が張り付いていたイメージがなくなった。指も少々太くなり、スーツのウェストが窮屈そうだった。
 丸々と太っているとは言わないが、五キロ以上は体重が増えているだろう。服を脱いだらもっと酷いはずで、このまま行けば成人病コースまっしぐらだ。
 些か前に張り出している腹を重点的に見つめる雲雀に、綱吉は口をもごもごさせて、身を捩った。
「しょうがないじゃないですか。ここんとこ、デスクワークばっかりで、運動不足だったし……」
 城下町の散策は、良い気晴らしだったと同時に、ウォーキングも兼ねていた。石畳の街並みを端から端まで見て回るのは、かなりの運動量だった。
 それがここのところ、全く出来ていないので、身体は鈍るばかり。
 更に各方面の要人との会談ですり減った脳細胞を慰めようと、甘いモノの摂取が自然と多くなった。
 日中は椅子に座ったまま滅多に立ち上がらず、ずっと同じ姿勢のまま。それで食べる量は増えているのだから、太るのは当然だった。
 言い訳を試みるが、雲雀相手に通用するとは思えない。実際、彼は無表情で背中に手を回した。
 片付けたばかりのトンファーを、今度は左右両方とも取り出されて、綱吉は全身に鳥肌を立てた。
「ちょっ、と!」
「太るのが嫌なら、運動すれば良いだけでしょ。相手になるよ」
 本当に彼は、この歳になっても人の話を聞こうとしない。
 焦って竦み上がった綱吉など軽く無視して、雲雀は棘を生やした金属製の武器を身構えた。
 今までで一番生き生きとした、嬉しそうな顔をされて、ため息しか出なかった。
「今の俺に勝って嬉しいですかー?」
 だからやり方を変えて、いつもと違う聞き方をしてみた。
 ほら、とスーツの前ボタンを外して左右に広げて見せてやれば、彼は僅かに身を乗り出し、何も言わずに武器を仕舞った。
「……ふぅん」
「くっ」
 あまりにも潔く退いて貰えて、逆に屈辱だ。悔しさを堪えてぽっこり出た腹を隠し、綱吉は今夜から早速ダイエットしようと心に誓った。
 もしやリボーンは、着実に太りつつある教え子を心配し、予防策として雲雀を呼んだのか。
 何もかも見透かされて、面白くない。結局は彼に操られているようなものだ。もう二十歳を過ぎていい大人なのに、親離れ出来ていない子供に等しい。
 裏であれこれ画策されるのは癪で、悔しい。しかし見事に踊らされている。
 最低で、最高のプレゼントだ。これ以上もなければ、これ以下もない。あとは溜まりに溜まった書類の処理を、少しくらい手伝ってくれれば文句ないのだが。
 気が付けばため息が漏れていた。深く肩を落として項垂れていたら、カツカツ足音響かせた雲雀が机を回り込んできた。
 障害物を避けて近づいた彼に気付き、腰を捻ってそちらを向く。彼は顎を撫でて、思案気味に眉を寄せていた。
 気難しげな表情を見せられ、綱吉は首を捻った。両手をだらりと垂らせば、ボタンを留めていないスーツが緩く左右に広がった。
「ヒバリさん?」
「ちょっと失礼」
 怪訝にしていたら、珍しく断りを入れられた。あまりにも聞き慣れないひと言に驚いていたら、雲雀の右手がスッと伸ばされた。
「あんぎゃっ」
 直後。
 裾を捲って直接脇腹に触れられて、肉を摘まれた綱吉は変な悲鳴を上げた。
 贅肉が集められ、ぷよん、とした感触が自分にまで伝わった。痛みはないけれども脂肪が跳ねる感覚があって、これまで直視してこなかった自身の異変に四肢が凍り付いた。
 毎日鏡の前に立つけれど、日々の変化は微少で、本人では分かり辛い一面があった。しかしこうして雲雀に触られて、短期間で太った現実がはっきり体感出来た。
「ああ、結構……これは」
「言わないでくださいよぉぉぉぉ」
 その上しみじみと呟かれて、穴があったら入りたかった。
 駄目だと思っても、チョコレートに手が伸びた。会談では甘い菓子もテーブルに並ぶ。手土産に持ってこられたら、断れない。
 ディーノも最近腹が出てきたとかで、毎朝のジョギングが欠かせないのだとか。甘いものが特に大好きな骸は全くスタイルが変わらないけれど、彼の場合は幻覚で誤魔化せるので、真実は如何に。
「ボンゴレのボスが豚じゃあ、示しがつかないね」
「だから虐めないでくださいってばー!」
 丸々としたシルエットが三つ並ぶ様を想像して、綱吉は青くなった。悲痛な声で絶叫して後退を試みるが、雲雀が許すわけがなかった。
 逃げようとする身体を追いかけて、彼は両手を広げて左右から囲い込んだ。
「ぶっ」
 胸から体当たりされて、息が詰まった。顔面に圧力を感じて、潰れた鼻がじんわり痛んだ。
 視界が一気に暗くなった。十年の間に体格差は広がって、綱吉の額は雲雀の肩を少し越えた辺りにあった。
 真っ先にネクタイの結び目が見えて、距離の近さを思い知らされた。低めの体温が布越しでも感じられて、ドキッとする間もなく、両側から伸びた手で尻を鷲掴みにされた。
「ひぎゃあああ」
 色気のない悲鳴を上げ、爪先立ちになって竦み上がる。不安定なバランスで頼るのは雲雀しかおらず、両手は逞しい腕を咄嗟に掴んで離さなかった。
 ぶるぶる震える子犬になって、セクハラに耐える。歯を食い縛って我慢していたら、尻だけでなく、太腿や上腕まで撫で回された。
 着衣の上から見るのと、実際に触って確かめるのとでは違う、という事か。
 二重の意味で恥ずかしいと顔を赤くしていたら、ひと通り満足したのか、頭上で雲雀が溜息を吐いた。
「君、誰にでも触らせてないよね」
「はああ?」
 さっきから語尾が伸びてばかりだ。素っ頓狂な声を上げ、綱吉は人を驚かせる天才に目を丸くした。
 こんな事を許すのは、彼だけだ。リボーンは偶に尻を触ってくるが一瞬だけで、他の守護者たちは手を出して来ない。例外は骸だが、彼にはちゃんとやり返している。
 タンコブを三つか四つ重ねた男を思い出して、綱吉は膨れ面で口を尖らせた。
 それをぺしゃんこに凹ませて、雲雀は滑稽な表情を笑った。
 右手で頬を挟まれた。親指と中指で押し潰されて、口の中にあった空気は全部外へ出て行った。
 睨みつけるが、迫力はないに等しい。ひょっとこのようだと言われて、我慢ならなかった綱吉は彼の足に踵を突き刺した。
「いった」
 甲を潰され、男は瞬時に利き足を引いた。綱吉も解放して距離を作り、先程の感触を忘れないようにか、両手の指を蠢かせた。
 見せつけるようにワキワキ動かされて、咄嗟に尻を両手で隠す。過剰反応を見せた綱吉に、雲雀は口元を綻ばせた。
「うん。尻はそのままでいいよ。でも脇腹と、下腹はもうちょっと凹ませてくれると嬉しいかな。太腿も今のサイズで丁度いいかも。二の腕は、……うん。許容範囲」
「何の話ですか」
「勿論、触り心地の話」
 手を動かすのを止めず、しれっと言い切る。
 どこかのスケベ親父のようなひと言を告げられて絶句して、綱吉は顎が外れそうなくらいに口を開いた。
 呆然としている恋人を前にして、雲雀はクスクスと声を漏らした。
「特にズボンのウェストに贅肉が乗っているのは許し難いね。六つに割れ、とは言わないけれど、そこはちゃんと括れておいてもらわないと」
「ぎくっ」
「でもお尻が丁度良くなったから、今は許してあげる。次会った時にまだ二段腹だったら、……どうしようかな」
「ヒバリさんって、尻派だったんですね」
「君に胸は求めてないよ」
 そういう場所の豊満さは欲していない。きっぱり言い切られ、綱吉は雲雀の意外なこだわりに失笑した。
 彼のことは知り尽くしていたつもりだが、盲点だった。
 中学時代の綱吉は、とにかく小さく、細かった。
 なんといっても、同年代の女子より軽かったのだ。身長だって百六十センチに届かず、捻れば簡単に折れそうなほどに頼りなかった。
 高校生になって少しは背が伸びたが、平均身長にはついに届かなかった。
 健康診断では毎回痩せ過ぎと指摘され、もっと食べるよう言われた。だがちゃんと三食、毎日欠かさず食べていてそれなのだ。
 太らないのは、遺伝だと思っていた。
 この歳になってそうでなかったと教えられて、綱吉は天を仰いだ。
 腹を叩けば小気味の良い音がした。狸になった気分でもう一度叩いていたら、脇をすり抜け、雲雀の手が潜り込んだ。
「ぎゃあああ」
「ああ、でもこれはこれで、結構……」
「昼間っから何してくれてんですかあ!」
 しかもウェストに食い込む肉を押し退けて、ズボンの中に指をねじ込んだのだ。
 手首で臍の当たりを擽られ、中指は下着の縁を引っ掻いた。本人に深い意図はなかったのかもしれないけれど、素肌を弄られた綱吉は吃驚させられた。
 慌てて払い除けて、上着のボタンを急いで留める。雲雀は名残惜しそうな顔をして、温もりを残す手を頬に押し当てた。
 弾力があり、揉み応えがある肉は、骨と皮ばかりのごつごつした感触よりも魅力的だ。
 案外悪くないと考えを改めようとしている彼に冷や汗を流し、綱吉は身なりを整えてじりじり後退した。
 嫌な予感しかしなかった。
 仕事は山積みで、今日中に決済しなければならない案件のオンパレード。しかし目の前の男は、そんな事お構いなしだ。
 頬をヒクリと震わせて、綱吉は無理のある笑顔を浮かべた。一方の雲雀もにこやかに微笑んで、またしても両手の指で空を掻きまわした。
「折角だし、どこまで太ったか、もっとじっくり観察させてよ」
「お、お断りします」
「遠慮しなくていいよ。ダイエットにだって協力してあげるから」
「それって、乗馬の動きで腹筋を鍛えるとか、そういう系の話じゃないですよね?」
「へえ。体位のリクエストなんて、珍しく積極的じゃない」
「違いますっ!」
 墓穴を掘った。明後日の方向へ話が飛んで、綱吉は真っ赤になって怒鳴った。
 だがもう手遅れだった。
 なにもかも、後の祭りだった。
「善は急げって言うからね。寝室はこっちだっけ」
「待って。俺は承諾してな……ですから、ヒバリさんってば!」
 雲雀のスイッチはとっくに入った後だった。目的を完遂しない限り、彼のチャンネルは絶対に切り替わらない。
 目の前が暗くなった。腕を掴まれて咄嗟に抵抗するが、多少体重が増えた程度ではびくともしなかった。
 悲痛な叫びがこだまするが、助けはやってこない。
 こんな時に限って部屋が防音仕様になるのは、どうにかならないのか。
 あまりに都合良く出来ている環境に歯軋りして、綱吉は火照って赤い顔を伏した。
 

2014/12/06 脱稿

榛色

 不幸というものは、どうやら群れを成して生活しているらしい。
 ひとつ不運なことが起きたと思えば、ツイていない事が次々と、立て続けに起きる。最初はなんの冗談かと思ったが、こうも頻発されると、誰かに呪われているのでは、と怖くなった。
 広げた弁当箱を前に途方に暮れて、影山は天を仰いだ。
 頭痛を覚えて額を覆い、ゆるゆる首を振って俯くが、見える景色は変わらない。本来そこにある筈のものは見つからず、行方不明なままだった。
 いや、行方は分かっている。
 探すまでもない。居場所は明確だ。
 問題なのは、それが簡単に取りに行けないところ、という一点だった。
「なんでだよ……」
 悔しさに拳を作り、思い切り自分の膝を殴る。弾みで腿の上に置いていた弁当箱が揺れて、傾いて落ちそうになった。
 それを慌てて堰き止めて、彼は再度、溜息を吐いた。
 陰鬱な気持ちが押し寄せて来て、食欲が湧かない。直前まであれだけ楽しみにしていた昼飯が、今は堪らなく不快だった。
 力なく肩を落として、影山は晴れ晴れとした空を憎らしげに睨んだ。
 太陽は植樹に隠され、この位置からは見えない。屋外ではあるが日蔭なので涼しく、寛ぐには快適な場所と言えた。
 しかし吹き付ける穏やかな風も、慰めにはならなかった。
 歯軋りして、鼻から吸った息を口から吐く。胸に渦巻く感情は黒一色に染まり、油断すると外に溢れ出しそうだった。
 子供が見たら泣き出しそうだ。野良猫も尻尾を巻いて逃げていくに違いない。
 凶悪な形相になっている自覚はあったが、影山自身、どうする事も出来なかった。
 顎が砕ける寸前まで力を込めて、最後にがっくり肩を落とし、またもやため息を。視線は足元を這い、無機質なコンクリートを映し出した。
 灰色に染まった世界を眺め、彼は解いたばかりの包み布を撫でた。
 大判のハンカチで包まれた昼食が収まった容器は、弁当箱というよりは、ただのタッパーだった。
 半透明の入れ物は本来惣菜や野菜を保存しておく為のもので、しかも容量は売られている中で最大サイズだった。そこに白米がぎっしり、隙間なく押し込められて、副菜の類はサイズ違いの別のタッパーに入れられていた。
 中学時代から愛用していた弁当箱では量が足りないと言ったら、翌日からこれになった。母親があちこち探し回ってみたものの、あれより大きなものがだったとかで、妥協の末の結論だった。
 影山としても、沢山食べられるのは嬉しい。朝早くから部活で汗を流し、放課後遅くまで居残って練習する高校生は、成長期もあって、胃袋がとにかく巨大だった。
 反面、タッパーは見た目があまり宜しくなかった。
 影山自身はあまり気にしていなかったが、クラスの女子がクスクス笑うのだ。食堂でも似たような経験をさせられて、本人よりも、一緒に箸を動かす相手が嫌がった。
 堂々と飯が食える場所を求め、方々を探し回った結果がここだ。食事を終えてすぐ動けるのも、ふたりにとっては利点だった。
 難点は雨が降ると使えない事か。
 あとは、風が強い日も無理だ。
 今日はその両方に見舞われなかった。それだけが救いだと肩を竦め、影山は背後に迫る第二体育館を振り返った。
 彼が腰かけているのは、体育館入口にある短い階段だった。
 すぐ左には水道があり、右には木製の下駄箱があった。今は誰も使っていないので、中は空っぽだった。
 それらを順に眺め、影山は憂鬱な表情で頬杖をついた。
「食堂行ってくっかなあ」
 ぼそりと独白し、その方角を向く。もっとも食堂は建物に遮られ、この位置からでは見えなかった。
 前を向けば部室棟があるが、そちらは静かなものだった。
 こんな時間まで、汗臭い部屋で過ごしたくないのだろう。備品なども置かれているので、そちらもモノによってはかなり臭うはずだ。
 その匂いが好き、という人も中にはいるけれど、数は少ない。影山はその少数派に分類されるが、あそこに居ると食後に眠ってしまう危険性が高かった。
 それで午後の授業を遅刻したことが、過去に数度、実際にあった。三度目で主将に知られてしまい、こっぴどく怒られた。
 以来、極力避けている。但し雨の日は別だ。
 人の気配が乏しい空間にぽつんと佇み、影山は口を尖らせたまま頭を揺らした。
 いつも昼休みを共に過ごす相手は、直前の授業が体育というのもあり、到着が遅れていた。
「日向の奴が来る前に、戻ってこれっかな」
 今頃大急ぎで階段を駆け下りているだろうチームメイトを思い浮かべ、もう一度食堂の方を見る。けれど度重なる今日の不運を考えると、動く気になれなかった。
 これ以上悪いことは続かないと信じたい。しかし保証はなくて、不安ばかりが足元に居座った。
「はー……」
 本日何度目か知れないため息で空気を掻き混ぜ、影山は頬杖を解いて腕を伸ばした。
 弁当を落とさないよう注意しつつ、背筋を伸ばして骨を鳴らす。もれなく肩の辺りに小気味の良い音が響き、凝り固まった筋肉が弛んだ気がした。
 そのまま座って出来るストレッチをいくつか終えて、最後に肩を回していたら、近付いてくる人影が見えた。
 間違いなく、日向だ。
 遠くからでも分かるオレンジ色の髪を確かめ、影山は重いタッパーを撫でた。
 今日は朝から色々あって、散々だった。
 起床後の習慣で、朝練の前のジョギングに行こうとしたら、結んだ靴紐が突然切れた。
 仕方なく替えの靴で外に出たら、心無い飼い主が放置した犬の糞を踏んだ。
 タイミングの悪さを呪いつつ、当初の目的通り近所を走っていたら、今度は電線にとまっていた鳩の糞が頭に落ちた。
 流石にこれにはキレた。とはいえ、相手は言葉の通じない動物だ。激昂する影山を余所に、粗相をした鳩は悪びれもせず、どこかへと飛んで行った。
 行き場のないやり場を堪え、家に帰った。風呂ではなく洗面台で頭を水洗いして乾かしていたら、着替える時間がなくなってしまった。
 慌てて家を飛び出して、なんとか朝練に間に合ったが、忘れ物が多かった。鞄の中身も昨日の時間割のままで、教科書が足りなかった。
 そしてトドメの、弁当だ。
 これは母の失態だが、苦情を言う気力も残っていない。彼女も毎日早くから起きて、息子の為に頑張ってくれているのだ。
 面と向かっては照れ臭くて言えない、感謝の言葉を小さく呟く。それから息せき切らして現れた、小柄な少年に視線を向けた。
「あれ?」
 肩を上下させて、日向はきょとんと目を丸くした。
 てっきりもう食べ始めていると思っていた。そう言いたげな表情を見せられて、影山はばつが悪い顔でそっぽを向いた。
 首筋に流れる汗を光らせて、日向が眉を顰める。けれど影山は応えず、面白くなさそうに弁当の包みを小突いた。
 注意して見るよう促され、彼は残る距離を詰めて身を屈めた。
 腰を曲げた日向から、ほんのり汗の匂いが漂った。
 直前までグラウンドで、思い切り動き回っていたからだろう。碌に身体を拭きもせずに出て来たらしく、臭気は強めだった。
 日向特有とも言える体臭に顔を赤らめ、影山は不思議そうにしている彼に向け、再度弁当箱を突いた。
 しかし少年は分からないようで、頻りに首を傾げては口を尖らせた。
「なんなんだよ」
 未開封のタッパーには、山盛りの惣菜が詰め込まれていた。梅干が三つ並ぶ白米も見える。相変わらずボリューム満点で、美味しそうだった。
 豪勢な料理を自慢したいのかと腹を立てるが、影山から聞こえてくるのは溜息ばかり。何を考えているのかさっぱり意味不明だと憤っていたら、彼は諦めたのか、両手を広げた。
 何かを持つ仕草をして、肩を竦める。
 一連の動作に思う所があって、日向は眉間の皺を深めた。
「あっ」
 直後。
 オコジョのイラストが描かれた弁当包みを揺らし、彼は手を叩き合わせた。
 雑誌などの巻末に掲載されている、間違いさがしのクイズを思い出した。同じ絵が並んでいるようで、どこかが微妙に違っている。それを全部見つけ出せ、というアレだ。
 この場合は、過去の影山と比較すればすぐに分かった。
 彼の荷物には、ひとつ、大事なものが欠けていた。
「バカだなー」
「うるせえ。俺が悪いんじゃねーぞ」
「そんで拗ねてたんだ?」
「……黙れよ」
 気付いた途端、笑えて来た。声を高くしてケタケタ言えば、影山は膨れ面で小鼻を膨らませた。
 体育館前の階段に腰かけて、背高の青年は機嫌悪そうに猫背になった。
 身長百八十センチでそんな真似をされても、少しも可愛くない。愛嬌が足りない天才セッターを前に苦笑して、日向は背伸びをして食堂の方角を見た。
「取りに行きゃいいのに」
「…………」
 直前まで影山が考えていたことを、彼も声に出した。
 足りていなかったのは、箸だ。弁当箱になら仕切り蓋などに詰めておける空間があるが、タッパーにはそれがない。だから箸箱が別に必要だった。
 ところが影山の手元には、その箸箱が見当たらなかった。
 入れ忘れだろう。日向も、母がたまにやってくれるので、彼の気持ちは分からないでもなかった。
 誰もが思いつくアイデアを述べた少年を一瞥して、影山は不満そうに爪先を揺らした。
 右足を宙に投げ出し、足首をぶらぶらさせる。ぴったりサイズの靴は踵が外れる事もなく、彼に寄り添い続けた。
 長さを自慢しているわけではなかろう。不貞腐れた態度を見下ろし、日向は肩を竦めた。
「大丈夫だって。朝から二回も食らったんだろ?」
「野良猫のが落ちてたらどうすんだ」
「逆にウンがついていいじゃんか」
「縁起でもない事言うな!」
 今朝、彼の身に起きた出来事は、朝練の時点で部内全体に知れ渡っていた。
 誰よりも早く登校してくる彼が、珍しく遅れて来たのだ。皆が理由を知りたがるのは当然だった。
 しかも影山は口下手で、人に説明をするのが苦手だ。隠し通すなど不可能で、言わなくて良いことまで口にして、洗いざらい全部白状させられた。
 みんなに大笑いされた恨みが、少なからず残っているのだろう。不満たらたらに怒鳴られて、日向は苦笑を禁じ得なかった。
 食堂へ割り箸をもらいに行けば、問題は解決だ。往復には五分とかからない。何だったら日向もあちらに出向き、片隅で食事をしても構わなかった。
 だというのに影山は立ち上がらず、動こうとしなかった。
 二度あることは三度ある、という言葉があるように、今朝と同じことがまた起きるのを危惧して、身動きが取れないのだ。
「ばっかでー」
「だったら、テメーが取って来いよ」
「やだよ。なんでおれが」
 臆病風に吹かれている影山を笑い飛ばし、日向は胸を張った。
 箸箱喪失事件は影山家の問題で、日向には関係がない。彼の為に食堂まで走って取って来てやる道理はなく、押し付けられる意味が分からなかった。
 即答で拒否した彼を睨み、影山は腹立たしげに段差の角を蹴った。
「手づかみで食えば?」
「出来るか!」
 犬食いを促されるが、承諾できるはずがない。大声で怒鳴り返された日向は渋面を作り、面倒臭そうに首を振った。
 膝を折って隣に座ると、体格差ははっきり表れた。
 肩の位置が揃わないのに顔を顰め、彼は不貞腐れているチームメイトのこめかみを指の背で叩いた。
「なんだよ」
 それを嫌そうに払い除け、影山が低い声を響かせる。凄味の利いた声色を呵々と笑い飛ばして、少年は飄々としながら弁当の包みを解いた。
 出てきたのは、二段重ねの弁当箱だった。
 縦長の長方形で、ゴムバンドでずれないよう固定されていた。それも外して手首に通して、日向は蓋と一緒に上段を持ち上げた。
「ったく。しょうがない影山君には、おれの箸を貸してあげよう」
 言って、中敷きに収まっていたプラスチック製の箸を取り出す。
 影山は驚き、目を丸くした。
「はあ?」
 自分が何を言っているのか、日向は本当に分かっているのだろうか。
 それがないと、日向だって弁当を食べられない。手持無沙汰で待つつもりかと唖然としていたら、赤い頬がぷっくり丸く膨らんだ。
「勘違いすんなよ。おれが食べ終わってからに決まってんだろ」
「あ、ああ……」
 叱られた。当たり前だろうと責められて、影山は返す言葉がなかった。
 思い上がっていたと反省し、彼は力なく肩を落とした。
 これで昼食を終わらせられる算段はついたが、待たされるのは苦痛だった。意識した途端に腹の虫が鳴いて、聞こえた日向も顔を顰めた。
 白色の箸をぺろりと舐めて、彼は落胆している隣人を盗み見た。
 広げた弁当箱は、影山のものと比べるとサイズは小さめながら、中身は彩に溢れていた。
 自宅で採れた野菜に、新鮮な卵で作った卵焼き。梅干は自家製で、色合いは薄めだった。
 贅沢な品々を前に涎を飲んで、日向はいただきます、と両手を合わせた。
 食事前の儀式を終えて、早速白米へと箸を向ける。
「あーん」
 ぎっしり詰め込まれた塊を解して抓み取り、大きく口を開いて。
 突き刺さる視線は、真横から放たれた。
「……んだよ。大人しく待ってろよ」
「うるせえ」
 一口頬張ってから文句を言えば、睨んでいた影山はぶっきらぼうに吐き捨てた。
 今の彼は、お預けを言い渡された大型犬だった。
 しかも飼い主に反抗的な、生意気な性格に育った犬だ。見た目も中身も凶暴で、巨体に任せてすぐ人を押し倒そうとする。
 どうしてこんな風になってしまったのだろう。
 育て方を間違えたと悔やみかけて、日向はゆるゆる首を振った。
「あほくさ」
 出会ってまだ半年も経っていない相手について、あれこれ日向が思い悩む理由はない。
 第一箸を忘れて来たのは影山の確認不足であり、彼の責任だった。
 自分はなにも悪くない。寛容の心で使い終えた後の箸を貸してやろうとしているのだから、逆に褒め称えられるべきだ。
 胸に渦巻く罪悪感を追い払い、ふた口め、三口目と次々米と、副菜を頬張っていく。ただ食べる速度は、いつもより急ぎ気味だった。
 横からじっと見つめられる中での食事は、かなりやり辛かった。
「んもう。こっち見んな」
「俺の勝手だろうが」
「貸してやんねーぞ」
「ぐ……っ」
 十口目に届くかどうかというところで、痺れが切れた。辛抱堪らなくて癇癪を爆発させて、日向は口答えする影山を黙らせた。
 こちらには、箸という重要なアイテムがある。これを人質にしている限り、彼は日向に逆らえなかった。
 王様を難なくやりこめるなど、初めてかもしれない。悔しそうにしている彼を眺めるのは、なかなか気分が良かった。
 勝ち誇った笑みで鼻を高くして、日向はぐうの音も出ないでいるチームメイトに肩を揺らした。
「さーって、次は何食べよっかな~」
 調子に乗り、歌うように囁く。迷い箸で行儀悪く副菜を選んで、から揚げに標準を定める。
 食べる前から美味しそうだと涎を垂らし、日向は大きく口を開いた。
「あー……」
「くそがっ」
「んぎゃあ!」
 直後だった。
 持ち上げたから揚げを、腕ごと奪い取られた。
 我慢出来なくなった影山が、横から強奪していったのだ。箸を持つ日向の手を握りしめて、大きく身を乗り出したかと思えば、から揚げを丸ごと飲みこんでしまった。
 一瞬の出来事で、防ぐなど不可能だった。
 思ってもなかった展開に唖然とし、日向は吐き出された箸をカチカチ言わせた。抓んでいたものは綺麗さっぱり消え失せて、空気だけがそこに漂っていた。
 呆気に取られ、目が点になった。影山はといえば雑な咀嚼でから揚げを嚥下して、満足げに息を吐いた。
 ゲップが聞こえて我に返り、日向はしたり顔の男に騒然となった。
「ちょおおおぉぉぉぉぉ!」
「ケッ」
 抗議の声を上げるが、影山の態度は生意気だった。偉そうにふんぞり返っており、完全に開き直っていた。
「しっ、信じらんねえ。なにすんだよ。おれのから揚げ、返せ!」
 攫われていったのは、食べるのを楽しみにしていた一品だった。形が歪なのであまり量が詰められず、入っていても二個までの、貴重なおかずだった。
 それを横から持っていかれて、許せるわけがない。激昂して怒鳴り散らした日向だが、影山は何処吹く風と受け流した。
 まるで馬の耳に念仏を唱えているようだ。右から左に抜けていっているのを感じて、彼は力なく肩を落とした。
「なにすんだよ、もー」
「テメーがさっさと食い終わんねーのが悪い」
「はああ?」
 後がっくり項垂れていたら、偉そうに言い切られた。自分の罪を棚に上げて人の所為にする男が信じられなくて、日向は素っ頓狂な声を上げて仰け反った。
 限界まで目を見開き、惚けた顔で影山を見詰める。奇怪なものに向けるのと同じ視線を浴びせられて、彼は不満げに口を尖らせた。
 指は苛立たしげにタッパーの蓋を叩いていた。辛抱が利かないところは王様然としており、日向を呆れさせた。
「嫌なら、食堂行って来いよ」
 こちらはあくまで、善意の申し出だったのだ。それが嫌だと言うのなら、割り箸をもらいに行けばいい。
 誰も止めたりしない。行くも、行かないも、影山の自由だ。
 愛想を尽かし、突き放す。犬猫を追い払う仕草で手を振られて、彼は不満そうに顔を顰めた。
 だがそれでも、影山は腰を浮かせたりしなければ、弁当を片付けようともしなかった。
 梃子でもここを動かないつもりらしい。頑固で融通が利かない男にため息を重ね、日向は一瞬悩み、何も抓んでいない箸を口に咥えた。
「ふぉれ、かふぇ」
 食事を中断させられて、正直いい気分はしない。偏屈で意固地な男を隣に置いたまま、落ち着いて食べ続けるのも無理だ。
 どこまで面倒のかかる男だろう。ランドセルを背負って学校に通っている妹の方が、ずっと大人な気がした。
 ふたりを比較して、危うく噴き出しそうになった。我慢して首を竦めていたら、弁当を指差された青年が怪訝な顔をした。
 良く聞き取れなかったと表情が告げていた。仕方なく日向は箸を外し、掌を上にして左右揃えて差し出した。
「弁当、貸せって」
「はあ?」
「影山、何からいく?」
「なに言ってんだ、日向」
「あ、この出汁巻美味そう。一個もらうな」
「ちょっと待て。誰もお前にやるなんて」
「おれのから揚げ、食っただろ」
「うぐ……」
 それでも理解が追い付かないでいる影山に焦れて、強引にタッパーを奪い取る。副菜が詰められた小さい方だけ確保して、日向は早速蓋を剥がすと、彼が止める前に卵焼きを抓み取った。
 甘目の味付けがじわっと口の中に広がって、柔らかな食感が堪らなく美味しかった。
 反論を封じられて押し黙った影山は、代わりに弁当を取り返そうと手を動かした。しかし予測済みだった日向はさっと躱して、残り一個になった出汁巻を箸で挟んだ。
 柔らかいので、真ん中で切れてしまいそうだ。注意深く力を加減して持ち上げて、彼は虚を衝かれた男に「ほら」と差し出した。
 いきなり黄色い物体を突き出されて、影山は面食らって呆然となった。
 驚いて真ん丸に目を見開き、何度か瞬きをして近くから遠くへ焦点を入れ替える。厚く焼いた卵焼き越しに見つめられて、日向は呵々と笑って肩を揺らした。
 早く食べろと箸を揺らされ、影山はぐっと息を飲んだ。咥内では唾が溢れ、空腹の虫がきゅうきゅう泣き喚いた。
 男のプライドと、食べ物の誘惑が、天秤の上でポジション争いを繰り広げた。激しい鍔迫り合いが暫く続き、勝鬨を上げたのは人間の本能だった。
「あ、……あー」
「ほいっと」
 唇を噛んだ後、恐る恐る口を開く。日向はタイミングを計って箸を操り、卵焼きを押し込んだ。
 喉に引っかかることなく、出汁巻は口腔に落ちた。舌に重みを感じた途端に唇を閉じて、影山は奥歯で磨り潰した。
 細かく、小さく刻んで、ひと息で飲みこむ。馴染んだ味が胃袋に落ちていくのを実感して、ホッと息を吐く。
 唇を舐めていたら、見守っていた日向が声もなく笑った。
「うまい?」
「……ああ」
 嬉しそうにしているのを揶揄し、問いかけられた。影山は弛んでいた表情を引き締めて頷き、日向が持っているタッパーに目を向けた。
 続けて膝元を覗き込んで、びっしり米だけで覆われているタッパーの蓋を外した。
「次、それな」
「はいはい」
 影山はいつも主食である米と、副菜を交互に食べる。幼い頃からそう躾けられて来たのだろうが、日向が指摘するまで、彼はその事実に気付いていなかった。
 今日も変わらず、順番に食べるつもりなのだろう。どんな状況でも譲らない一面を見せられて、日向は手間のかかる男に苦笑した。
「ほれ。あーん」
「んぁ」
 大きな弟が出来たものだ。心の中で呟いて、要望通りに米を掬って差し出してやる。
 影山は照れることなく口を開き、落ちかけた米粒を助けるべく身を乗り出した。
 ぱくりと食べて、もぐもぐ咀嚼して、飲みこんで。
 その間に日向も自分の弁当に箸を寄せ、梅干と一緒にご飯を掬い取った。
「日向、次」
「ちょ、はえーよ。おれにも食わせろ」
 しかしそれを口に運ぶ間もなく、影山がせっついた。肘で小突いて急かされて、彼は仕方なく、我儘な王様に自分の弁当を分けてやった。
 彼の分は別にあるのに、なんだか悔しい。そう思って不満げにしていたら、咀嚼を終えた彼が思案気味に眉を寄せた。
「ん?」
 急に考え込んだ彼に首を傾げ、この隙にとマカロニサラダを貪り食う。リクエストが来る前に胃袋を満たそうとしていたら、うーんと唸った影山が腕組みまでして天を仰いだ。
 仰け反り気味に背筋を伸ばして。
「お前んちと、俺んちの米、味が違うぞ」
「あー、そりゃ、違うの使ってんだし。……そんな違う?」
「ああ。食ってみろよ」
 何を当たり前のことを、と笑い飛ばそうとしたけれど、少なからず心を擽られた。新発見だと目を輝かせる彼に首肯して、物は試しとばかりに、日向も影山のタッパーから米をよそった。
 ひと口頬張り、続けて自分の家の米も口に入れる。舌の感覚を研ぎ澄ませ、微妙な違いを探し出す。
「ホントだ。なんか、影山ん家のがちょっと甘い」
「お前ん家のは、噛み応えがあって美味い」
「それは炊き方じゃねーのかな。帰ったら聞いてみよ」
「俺も……って、おい。勝手に食ってんじゃねえ」
「うはは。バレた」
 米の食べ比べだけのはずが、日向はちゃっかり副菜にも手を出していた。見逃さなかった影山のひと言に、彼は舌を出して誤魔化した。
 全く反省している様子が見えないが、食べさせてもらっている手前、あまり強く文句は言えない。喉まで出かかった言葉を飲みこんで、彼は日向の方へ身を寄せた。
 今のままでは遠すぎて、食べ辛い。だからと肘がぶつかるくらいにぴったり張り付かれて、日向はビクリと身を震わせた。
 息を吸えば、微かに影山の匂いがした。
 汗か、柔軟剤か、シャンプーか。
 色々なものが混じり合って出来た独特の香りに仄かに赤くなり、日向は弁当箱の底を箸で何度も叩いた。
「おい。次、ブロッコリー」
「世話が焼けるなあ」
「ンだよ。悪いか」
「そこ、開き直るな」
 隣では待ちきれなかった影山が、雛鳥宜しく口を開けていた。急かされて日向は笑い、要望通りに緑色の野菜を運んでやった。
 一人分の箸でふたり分を取り分けるのだから、当然、食べる時間も二倍かかった。
 昼休みは半ばを過ぎた。それでも仲睦まじく一緒に食べている彼らの目撃譚は、数日間、学校の一部を賑やかした。
 

2014/11/13 脱稿

Smalt

 馴染みのゲームショップの袋を揺らし、孤爪は部屋に入った。
 背負っていたリュックサックを先に下ろしてベッドに転がし、その横に持っていた袋を落とす。衝撃でカサカサ音を立てるビニールを一瞥して、彼は赤色のジャージを脱ぎに掛かった。
「…………」
 しかしファスナーを中ほどまで下ろしたところで手が止まった。瞳は思案気味に宙を彷徨い、最終的にベッドの上に落ちた。
 朝起きた後、軽く整えた寝台。それでも綺麗とは言い難い空間に横たわるのは、部屋の主たる孤爪ではなかった。
 視線は濃紺色の袋に固定されていた。表面には白文字で、購入した店の名前がでかでかと印刷されていた。
 もっとも彼が注目しているのは、店名でなければ、派手な書体でもない。ほんの少しだけ膨らんだ袋に収められている、購入したばかりのゲームソフトだった。
 ゲーム雑誌でタイトルが発表された段階から期待して、発売日が決まった途端に予約しておいたものだ。美しいグラフィックと軽快な操作性が売りだとかで、派手なアクションが楽しめるらしく、前評判は上々だった。
 ネットワークに接続すればマルチプレイも可能で、対戦モードもあれば、協力し合って難敵に挑むステージも用意されているらしい。もっともそちらは、他人と一緒にゲームをする習慣のない孤爪だから、あまり興味がなかった。
 見ず知らずの相手を信頼して背中を預けるなど無理だし、成功報酬の分配も面倒臭い。複数人でやっと敵を倒しても、手に入るアイテムはひとつだけ、というのはよくある話だ。
 揉めるのが分かっているなら、手を出さない方が良い。もしどうしても欲しければ、ソロプレイを極め、ひとりで挑戦して勝つ道を選ぶ。
 そうやって独自に遊び方を見つけて来た孤爪は、未だ封がされたままの袋を見詰め、もぞもぞと身を捩った。
「ちょっと、だけ」
 我慢出来ない。
 誰に対しての言い訳なのか、呟き、彼は左右を見回してから遠慮がちにショップ袋へ手を伸ばした。
 着替えどころか手洗い、嗽さえ済ませていない状況で、購入したばかりのゲームに手を出そうとしている。もし黒尾がこの場に居ようものなら、呆れ果ててため息をついている事だろう。
 お節介が過ぎる年上の幼馴染みをすぐさま脳裏から追い出して、孤爪はいそいそと、袋に貼られたセロハンテープを剥がしに掛かった。
「よ、……あれ。よし」
 しかし簡単には行かなかった。
 粘着面全体がビニールに貼りついてしまっており、なかなか角が捲れない。仕方なく真ん中で切り裂く事にして、彼は素早く腕を動かした。
 こういうものは、手間取ると余計に切れなくなる。一瞬で勝負を終わらせて、孤爪は満足そうに頷いた。
 珍しく、一回で成功した。鋏を使わずに済んだ幸運に感謝して、続けて袋の底を掴み、潔くひっくり返す。
 もれなく中身が一斉に落ちて行った。支えを失い、専用のケースに収められたソフトがベッドのクッションに倒れ込んだ。
 袋には他にも、色々なゲームのチラシがまとめて押し込まれていた。
「こんなに、要らないのに」
 それらも当然のように袋から飛び出して、風の抵抗を受けてゆらゆら踊りながら床へ沈んでいった。
 一部はベッドから外れ、孤爪の足元に散らばった。放っておいても良い事はなにもなくて、彼は仕方なく膝を折ると、自分でばら撒いたものを集め始めた。
 ゴミ箱にまとめて捨てるつもりで、用済みとなったショップ袋も握り潰す。ぐしゃ、と拉げた音を立てたそれを左手に持ち、五、六枚はある紙切れを取って何気なく眺める。
 どうしてこれを孤爪に渡そうと思ったのか。中には女性向けゲームのチラシまであった。
「これは、……興味ないな」
 恋愛シミュレーションと音楽ゲームの両方の要素を取り入れた、人気作品の新作らしい。しかし食指は動かず、半分に折り畳んだそれは袋同様、くしゃくしゃに潰された。
 続けて出て来たのは、どこかの島を開拓するゲームだった。
 これも昔からよくある作品で、何度かリニューアルを繰り返しているものだ。根強い人気があるらしく、孤爪も昔、遊んだことがあった。
 だが、三ヶ月で飽きてしまった。
 遣り込み要素はあるのだけれど、同じ作業の繰り返しが多く、それが苦痛だった。ゲーム内の時間も実際の時間と連動しており、有利に進めるべくシステム側の時計を動かすとペナルティを受けるのも、人を苛立たせた。
 結局、この手のものには向いていないという結論で落ち着いた。
「そういえば、あれ、どこやっただろ」
 遊ばなくなってから、もうかなりの年数が経っている。ただソフト自体を売った記憶はなくて、探せば部屋のどこかにあるかもしれない。
 だからといって、家探しをしようとは思わないけれど。
 そのうち、出てくるだろう。
 壁際の棚に山積み状態のゲームや攻略本を眺め、孤爪はチラシを丸めてゴミ箱に捨てた。
 片付け第一陣を終えて、空になった両手を特に意味もなく叩く。汚れているわけでもないのに埃を払う仕草をして、ベッド上に残っているチラシも捨てようと腰を捻る。
 踵を返して寝台に歩み寄って、彼は訝しげに眉を寄せた。
 渋面を作った原因は、待望のゲームソフトに寄り添う一枚のカードだった。
「なんでこんなのが」
 邪魔なチラシを押し退け、新作ゲームよりもそちらを先に手に取る。顔の高さまで掲げて睨みつけるが、図柄が変化することはなかった。
 ホログラム加工までされてきらきら光るカードには、最近大流行中のゲームのキャラクターが描かれていた。
 しかし孤爪は、このゲームで遊んだことがない。内容が子供向けという点と、あまりにも爆発的にヒットし過ぎているので、却って興味が湧かなかったのだ。
 ゲームの存在自体、知ったのは人気に火が点いた後だった。完全にノーチェックだった為、今から手を出して、ミーハーだと思われたくない心理も働いていた。
 だからこのカードも、購入などしていない。店員が間違えて入れたのかと訝って、孤爪は口をヘの字に曲げた。
 頑丈な厚紙を裏返して、両目を糸のように細める。
「……ああ、そういえば」
 そして片隅に小さく、非売品の文字があるのを探し出して、彼は納得だと頷いた。
 ゲームソフトを買った店は、彼が中学時代から通う店だ。店員とはとっくに顔見知りで、家族や部のメンバー以外では数少ない、孤爪がちゃんと会話出来る相手だった。
 そんな店員は、贔屓にしてくれているからと、孤爪に色々サービスしてくれた。
 たとえばショップに貼り出す用の非売品ポスターであったり、宣伝用のポストカードであったり。
 もっともそれらをもらっても、孤爪は部屋に飾ったりしない。正直なところ、有難迷惑だったのだが、好意なのだからと言わずにいた。
 このカードも、その好意の賜物だった。
 レジで商品を受け取る際、店員が何かを言っていた。早く帰りたかったので碌に聞きもしなかったのだが、もしかしたらこのカードの事だったのかもしれない。
 綺麗だけれど、使いようがない。処分に困るものを押し付けられて、孤爪は溜息をついて肩を落とした。
「どうしよ」
 膝の力を抜いて崩れるようにベッドに腰かけ、荷物で満載の鞄を避けて寝転がる。右手の中ではトランプサイズのカードが、照明を浴びてキラキラ輝いていた。
 ただの厚紙だったら、ここまで悩まなかった。表面には特殊な印刷が施されており、レア度はそれなりに高そうだった。
 なにかの特典の余りだろうか。肘を立ててうつ伏せに姿勢を変えて、孤爪は可愛いようで不細工なキャラクターをじっと見つめた。
 かなりデフォルメされているけれど、一応、これは猫らしかった。
 ゲーム内でも一番人気のキャラだったはずだ。名前までは知らないが、同じイラストを使った文具や菓子を、コンビニエンスストアで見た覚えがある。
「リエーフにでもあげようか」
 部内で一番背が高い後輩を思い浮かべ、孤爪はぽつりと呟いた。
 男子バレーボール部に、ゲーマーはあまりいなかった。
 勿論全く遊ばない、という人間は少数派だが、孤爪ほどやり込んでいる部員はいなかった。名前が出た後輩も、ゲームは好きだが、さほど巧いわけではない。
 体育会系の部活なだけに、脳みそまで筋肉で出来ていそうな部員ならいた。モヒカン頭が目立つ山本を連想して、彼はカードをひらひら揺らした。
 オークションに出品したら、どれくらいの値がつくだろう。
 ふと邪な考えが頭を過ぎった。急ぎ起き上がって、孤爪はリュックサックからスマートフォンを取り出した。
「ネット、検索……オークション。ゲーム名、なんだっけ」
 しかしインターネットオークションサイトを呼び出したところで行き詰まり、右手の人差し指が宙を泳いだ。
 あれだけ各方面で話題になっているのに、肝心な時に限って思い出せない。自分の記憶力の頼りなさに歯軋りして、孤爪は諦めて画面を消した。
 役目を終えたスマートフォンを枕元に放り投げ、彼はもう一度、しげしげと眩しいカードに見入った。
 このまま捨てても構わない。惜しいとも思わない。
 けれどもしかしたら、欲しいと思う人がいるかもしれない。
 小学生くらいの子供に差し出せば、受け取ってくれるだろうか。しかし不審者扱いされるのは避けたいし、その年代の知り合いなどひとりも居ない。
「はあ」
 八方塞がりだ。
 力なく嘆息して、彼はカードを額に押し当てた。
 明日、学校に持って行って、試しにリエーフ辺りに聞いてみよう。
 彼でなくとも、弟、または妹がいる部員が手を挙げるかもしれない。それに賭けてみることにして、顔を上げた矢先だった。
「あ」
 二度、三度と瞬きを繰り返して、彼はストンと落ちてきた答えに息を呑んだ。
 いた。
 ひとり、これを譲り渡すのに最適な人物が。
 瞼の裏に鮮やかに蘇った姿に相好を崩し、孤爪は力強く頷いた。これほど最適な相手は居ないと勝手に確信を抱いて、彼は急ぎスマートフォンを拾い上げた。
「えーっと、メール、新規作成、添付ファイル……静止画、と」
 次々現れる画面を切り替える度、内容を声に出して確認していく。内蔵されたカメラを無事呼び出して、孤爪はカードを持つ左手を左右に揺らした。
 ホログラムが光を反射して、綺麗に写ってくれないのだ。
 あちこち移動させて、全体が収まった一枚の撮影に成功する。指が入ってしまったのはご愛嬌で、彼は早速、添付写真の内容をメール本文に書きこんだ。
 挨拶も忘れない。久しぶり、の定型句から入って近況を簡単に伝えて、それから本題に突入する。
 小学生の幼い妹がいる友人に宛てて、必要かどうかを問いかける。
「な、んか……押し付けてるみたい、かも」
 しかし送信ボタンを押す直前になって、迷いが生じた。
 躊躇した指がヒクリと震え、孤爪の頬も引き攣った。
 この行為は、あのショップ店員と同じかもしれない。そんな事を、この一瞬で考えてしまった。
 相手は迷惑に感じているとも知らず、喜んでくれていると思い込んで、常連を大事にする自分は素晴らしい、と驕っているのだ。申し出を断られたことがないので、どんどん調子に乗って、親切の押し売りをしているとも気付かない。
 心に隙間風が吹いた。
 要らないものを押し付けようとしている自分を恥じて、当初の予定通り、部に持って行こうと考えを改める。
 しかし。
「……ああっ!」
 気が抜けたからだろうか。
 手の中からスマートフォンが滑り落ちそうになって、慌てて掴み直した孤爪は二秒後、悲痛な叫び声を上げた。
 握った場所が悪かった。
 ケースの角が指の付け根に引っかかり、親指が液晶画面を滑った。
 画面は消えかかっていた。時間で自動的にスリープモードに入る設定にしてあったそれは、衝撃を感知し、即座にバックライトを光らせた。
 と同時に画面が切り替わった。
 メール作成画面が終了し、送信中を知らせる映像が流れたかと思えば、一瞬にして待ち受け画面へと戻ってしまった。
「うそ」
 呆然として、孤爪は目を点にした。
 どうしてさっさと消去してしまわなかったのか。
 送るつもりがなかったメールを送信してしまって、彼は惚けたまま、暫く動けなかった。
 両足の間にスマートフォンを落とし、液晶モニターが暗く濁っていくのをぼうっと見送る。やってしまったと落ち込んで、迂闊な自分を詰らずにはいられなかった。
 なんという凡ミスだろう。
 部活でこんな真似をしようものなら、即座に監督の怒号が飛んでくる筈だ。
 実際に怒鳴られた時を思い出してぶるりと震え、孤爪は沈黙する通信機器を小突いた。
 送ってしまったメールはもう取り戻せない。彼に残された手段は、弁解のメールを送る事くらいだ。
 着信即開封、となっていないのを期待して、先に送った方は間違いだからと、読まずに削除してくれるよう頼んでもいい。ただ文面は、先程よりずっと気を付けなければいけなかった。
 考える時間が欲しかった。だが早くしないと、送信相手がメールの着信に気付いてしまう率が高くなる。
 焦って頭が回らない。あれこれ言葉を捻り出すものの、しっくりくるものが見つからなかった。
「しょう、よう」
 困り果てて奥歯を噛み締め、孤爪は呻くようにその名前を呟いた。
 一行も書けていないメールを前に凍り付き、救いを求めて天を仰ぐ。もっともそこは部屋の中なので、見えるのは白い天井くらいだった。
 窓の外は濃い藍色に染まり、月の姿は見えなかった。
 新月が近いのかもしれない。カーテンの隙間から暗い夜空を一瞥して、彼はスマートフォンを手に途方に暮れた。
 コミュニケーション能力に長けた黒尾や、犬岡なら、もっと上手く立ち回れるだろうに。
 自身の不器用さが歯痒くて、口惜しかった。
「翔陽、まだ起きてるよね」
 時計を見て、針の位置を確認する。遠く宮城の空の下で暮らす友人を思い浮かべ、孤爪は項垂れて丸くなった。
 猫を真似て小さくなり、買って来たばかりのゲームソフトを覗き込むが、帰宅直後の興奮はすっかり萎んでいた。
 封を開けて遊ぼうという気になれない。あれほど楽しみにしていたのに、今は見るのも嫌だった。
 スマートフォンを覗き込むが、画面に変化はなかった。
 当惑を伝える返信が来るのは嫌だが、いつまでも反応がないのは寂しい。二律背反の感情を抱きかかえて、彼は浅く唇を噛んだ。
「……どうしよう」
 こんなものがあるから、心を乱されるのだ。
 掌中の小さなカードを仇のように睨みつけて、彼は床目掛けて放り投げるべく、激情のままに身体を起こした。
 腕を頭上高く掲げ、拉げてしまうのも構わないと、渾身の力を込めて振り下ろそうとして。
 乱暴な真似をする彼を咎めようとしてか。
 沈黙していたスマートフォンが、突然五月蠅く泣き喚いた。
「うわっ!」
 虚を衝かれて驚き、孤爪は目を剥いた。焦って緩んだ指の隙間からはカードが零れ落ちて、布団の柔らかいクッションに沈んだ。
 全身を竦ませて戦く彼を前に、大画面の携帯電話は知らない番号を通知していた。
 固定電話だ。市外局番は、孤爪が見たことのない番号だった。
 いたずら電話だろうか。一瞬詐欺的なものを想像して、彼はふるふる首を振った。
 一抹の不安と、期待を奥歯で噛み締めて、小型端末を掴み取る。音に合わせて震える精密機械を見詰め、孤爪は鳴り続ける電話の画面をスライドさせた。
 違っていても、自分ひとりが恥ずかしいだけだ。
 覚悟を決めて、彼は平たくて薄い機会を右耳に押し当てた。
「も……、もしもし」
 電話帳に登録されていない番号なので、緊張が否めなかった。
 予想が当たってくれることを祈りつつ、外れてしまった時のことを考えて恐怖に耐える。固く目を瞑っての問いかけは控えめで、声は若干上擦った。
 応答はなかった。
 心臓が止まりそうな緊張に支配されていた孤爪は、無音が続く状況に「おや?」と眉を顰め、スマートフォンごと首を傾げた。
 直後だった。
『うわ、あっ。ごめ。ごめん、研磨。もしもーし。えっと、あの。孤爪……さん、の、携帯電話ですか?』
 唐突に耳元で大声が響いて、咄嗟に返事ができなかった。
 反射的にスマートフォンを引き剥がし、呼吸を整えて画面に見入る。暫く反応らしい反応をせず、こちらまで沈黙で応じていたら、焦った声が聞こえて来た。
 自信が持てなくなったのか、トーンは尻窄みに小さくなっていった。
 遠慮がちに、余所余所しい姿勢を見せられて、孤爪は堪らず噴き出した。
「ぶふっ」
 口を閉じて我慢しようとしたが、無理だった。押し潰された空気が変な音を奏でて、高性能なマイクがそれを拾い上げた。
 余計なことをしてくれたものだ。二秒後、我に返った日向の怒鳴り声が鼓膜を震わせた。
『ちょ、お……もう! 研磨ってば、ひどい』
「ごめん。知らない番号だったし」
『あれ? あ、そっか。これ、うちの電話』
 真っ赤になっている姿を想像するだけで楽しかった。瞼を下ろして息遣いを探り当て、孤爪は小さく頷いた。
 そんな事だろうとは思っていた。
 固定電話の市外局番は、北から順に数字が割り振られている。たとえば北海道は「1」で、東京は「3」という具合に。
 そして孤爪が見た番号は、「02」で始まっていた。
 東京より北で、北海道より南。
 その範囲で暮らす友人は、ひとりしかいない。
 仮説は正しかった。自身の推理能力に自信を深め、孤爪は安堵の息を吐いた。
 この通話が終わったら、アドレス帳に追加登録しておこう。次は迷わず着信に出られるように、番号も頭に叩き込んでおこう。
 密かに誓いを立て、背筋を伸ばす。左手は膝元を這い、落ちたカードを手繰り寄せた。
「……翔陽」
 それを本人の代わりに握りしめて、囁く。呼びかけが聞こえたのか、電話口から弾む声が響いた。
『うん。あ、メールありがと。そんで、くっついてた写真の、だけど』
『もー、にいちゃん。まだあ?』
「ん?」
 しかもふたり分だ。ただでさえ高い日向の声の、更に上を行く甲高い叫びに、孤爪は目を点にした。
 台詞からして、今のが日向の妹だろう。一緒に衣擦れの音やら、足を踏み鳴らす音まで聞こえて来て、孤爪の眉間に皺が寄った。
 一定間隔で耳朶を掠めた吐息が聞こえなくなって、代わりに流れて来たのは、誰宛てか分からない日向の怒号だった。
『兄ちゃん、友達と大事な話してんの。夏、ちょっと静かにしてて』
『えー。きらきら、出てこないのー?』
『だから、今その話してんの。もー、邪魔すんなって。母さん、夏連れてってー』
 場所は、台所だろうか。リビングだろうか。妹に付きまとわれている友人は、なかなか想像し難かった。
 母親らしき人の声も遠く聞こえて、賑やかな情景だけが脳裏に浮かんだ。毎日が騒動で、きっと笑い声が絶えないに違いない。
 冷えた空気が漂う静かすぎるドアの向こうを一瞥して、孤爪は左胸に手を添えた。
 心を覆っていた深く重い霧が、緩やかに晴れていくのを感じた。
 魔法をかけられたようだ。道に迷い、立ち尽くしていたのが嘘のようだった。
 口元が自然と綻んだ。勝手に笑みが溢れて、孤爪は二色が混ざり合う髪ごと額を叩いた。
『ごめん、研磨。夏、……あ、妹に聞いたら、欲しいって。言うんだけど。なんか、勘違いしてて。ケータイからすぐ出てくるとか、ヘンなことばっか言うから』
 じゃれ付く妹の攻撃をどうにか防ぎ終えたらしい。息を切らした日向が早口に捲し立てて、ずっと待っていた孤爪は気の抜けた表情で苦笑した。
 彼女もまた、携帯電話に映し出された映像を、魔法かなにかと勘違いしたようだ。孤爪自身も初めてゲームに触れた時、画面からモンスターがいつ飛び出してくるか、ひやひやしたものだ。
 懐かしい感情を蘇らせて、彼は腹筋を引き攣らせた。
 隠し通せなかった笑い声は、宮城の空にも届いた事だろう。しかし日向は、今度は怒らなかった。
『でも、スゲーな。どうやったの? あれって、結構レアなんじゃないの?』
「どうなんだろ。ゲームショップの人がくれた奴だから」
『へー? あ、あれってアニメもやってんだろ。おれ、踊れるよ』
「え?」
 バレーボール馬鹿である彼も、キャラクターくらいは知っていたらしい。流石は全国規模で流行しているだけはある、と感心していたら、不思議なことを言われて面食らった。
 アニメとダンスの繋がりが見えなくて、ぽかんと目を丸くする。
 その表情が、電話の相手にも見えたらしい。呵々と笑い飛ばされて、孤爪は口を尖らせた。
 良く分からないが、好意は喜んで受け取って貰えたようだ。拗ねる気持ちより安堵の方が大きくて、彼はホッと胸を撫で下ろした。
『でも、ホントに貰っちゃっていいの?』
「いいよ。おれが持っててもしょうがないし。喜んでくれる人がいるなら、そっちに送った方が良いと思う」
『そっか。……ありがとな、研磨』
「どういたしまして」
『あ、そうだ。住所、知ってたっけ?』
「前に、暑中見舞いくれたよね。探せばあると思う」
『分かったー。あっ、切手代!』
「それくらい、いいよ。別に」
『でもでも。ダメだって、やっぱ』
「……じゃあ、次会ったら」
『肉まん奢るな?』
「え、それは……ちょっと」
『あれ? きらい?』
「そうじゃないけど」
『じゃー、決まりな!』
 間断なく、機関銃のように連続して声が飛んでくる。それを逐一拾い上げ、打ち返すのは容易ではなかった。
 けれど、嫌な感じはしなかった。むしろ楽しい。彼となら、いつまでも喋り続けられる気がした。
 こんなこと、今まで誰とも起こらなかったのに。
 不思議だった。
 面白かった。
 毎日一緒に居られない遠さが、恨めしかった。
 元気よく宣言されて、孤爪は肩を竦めた。肉まんと切手代とでは釣り合わない気がしたけれど、この場合、好意は素直に受け取るべきだろう。
 明るく活発な彼を真似てみるのも、たまには悪くなかった。
「うん。……はんぶんこ、ね」
『えー? なにー?』
「なんでもない。こっちのこと」
 密かな決意を追加して、聞き取れなかった日向の追及を躱す。あちらも長電話を母に注意されたらしく、深く突っ込んで来なかった。
 会話がひと段落ついた。
 ただ話をしていただけなのに息が切れそうで、孤爪は弾む鼓動を宥めて微笑んだ。
「それじゃあ、明日にでも、送るね」
『うん。待ってる。ありがと、研磨』
「おやすみ、翔陽」
『おやすみー』
 この電話で、何回お礼を言われただろう。その分だけ、胸は幸せで満ちていた。
 オマケで貰った不用品が、より一層輝いて見えた。放り投げなくて良かったと傷のない表面をなぞって、彼はベッドから降り立った。
「封筒、あったかな。切手は……多分、リビングにあったと思う。翔陽にもなにか、送れるものとか」
 考えるだけでわくわくして、気もそぞろに落ち着かなかった。
 彼に食べさせたいお菓子がある。一緒に遊べたら嬉しいゲームがある。見せてあげたい試合の映像がある。ふたりだけの秘密に出来る、ペアの何かが欲しい。
 最初は彼の妹への貢物だったのに、いつの間にかすり替わっていた。
 日向を喜ばせたい。嬉しそうに笑う顔が見たい。だけれど押し付けたくはない。負担を感じさせたいわけではない。
 バランスが難しい。どこまでが善意の範囲かが、ひとりでは判断出来ない。
「……クロに、相談、は」
 浮かんだのは、嫌味たらしく笑う幼馴染みだった。
 彼に頼るのは、正直癪だ。けれど交友関係が広いあの男なら、的確なアドバイスをくれるだろう。
 俯き、眉間に皺を寄せる。けれど四秒後には首を振って、真っ直ぐ前を向いた。
 その辺りは、明日考えよう。
 素早く頭を切り替えて、孤爪は机に向かい、壁に貼られた葉書に手を伸ばした。

2014/11/11 脱稿

Russet

 空は薄く雲が広がり、太陽の光を遮っていた。
 陽射しが届かないのと、時折強く吹く北風が冷たいのとで、気温は昼間になっても一向に上がらなかった。むしろ逆に下がっているようで、下手をすれば明け方の方が暖かかったかもしれない。
 肌寒さを耐えて腕を擦り、影山は白色に霞んだ上空を仰いだ。
「さっむ」
 呟き、視線を逸らす。吐いた息は仄かに色を持ち、瞬く間に消えてなくなった。
 吐息が曇るようになった。もうそんな季節なのかと感嘆して、彼は腕を下ろしてポケットへ押し込んだ。
 夏場は日焼けで真っ黒だった肌も、今は寒さに悴んで、指は雪のように白かった。
 毛細血管が萎縮して、血流が悪くなっているのだ。
 先端から冷えていくのを防ごうと、ポケットの中で拳を強めたり、弱めたり繰り返す。しかしこの程度でどうにかなるものでもなくて、彼は諦め、右手だけを引き抜いた。
「はー……」
 試しに息を吹きかけてみるが、焼け石に水も良いところだった。
 使い捨てのカイロでも持ってくれば良かった。今朝、家を出る直前のドタバタを振り返り、彼は盛大に肩を竦めた。
 布団を出るのが、日に日に遅くなっていた。
 早朝からの練習に参加するだけでなく、起床後、自宅周辺を軽くランニングするのが日課だった。しかし日の出が遅くて外が暗いのと、凍り付くほどの冷え込みが手伝って、最近少々サボり気味だった。
 これではいけないと気合いを入れて寝床に入るのだが、本能が拒絶しているらしい。ここ数日は目覚まし時計のスイッチを、ベルが鳴る前に叩く有様だった。
 しかも眠ったまま、無意識にやっているから始末が悪い。
 今日などは特に酷く、母に叩き起こされてやっと目を覚ます、という稀に見る醜態を晒してしまった。
 見かねた母が、使っていなかった目覚まし時計をひとつ貸してくれた。今晩からはそれに加え、携帯電話のタイマーもセットしておこうと思う。
 お蔭で朝練に遅刻寸前だった。
 思い出してため息を零し、影山は猫背になって渡り廊下を潜った。
 上履きのままコンクリートの通路を渡り、数段しかない階段を登って、隣の棟へと移動を果たす。敷居を跨ぐと同時に背筋を伸ばし、左手もポケットから引き抜いた。
 高い天井から注がれる光は眩しく、内部は人いきれで少しムッとしていた。
 外に比べると、こちらの方がまだ温かい。来て良かったと内心安堵して、彼は辺りを見回した。
 右側にはカウンター台があり、白い割烹着と三角巾姿の女性らが忙しく働いていた。
 食堂は一番混む時間帯を過ぎて、のんびりした空気が漂っていた。
 チャイムが鳴った直後は戦争状態の食券販売機前も、混雑は解消され、順番待ちの列は消えていた。
 人気メニューは売り切れた後なのか、硬貨を入れてもないのにランプが灯っていた。カウンターの方も、購入より、食べ終えた食器を下げる場所が賑わっていた。
 そんな光景を順に眺め、彼は食券販売機の前を素通りした。
「どうすっかなー」
 呟き、影山は後頭部を右手で掻き回した。
 昼飯は食べた後だった。母が持たせてくれた弁当は大きく、ボリュームがあり、食べ盛りな男子高校生でも満腹になれる量だった。
 米粒ひとつ残っていない弁当箱を思い浮かべ、ズボンの後ろポケットを叩く。チャリ、と金属が擦れ合う音が響くのを確かめて、彼は目を泳がせた。
 食堂に足を運んだ理由は、特にない。
 強いて言うなら、暖を求めて、だろうか。
 季節は秋の半ばを過ぎ、冬を目前にしていた。ハロウィン一色だった街並みは早々に衣替えを済ませ、今度はクリスマスカラーで溢れていた。
 地元の商店街も、最近は何かとイベントに精を出している。人出を期待してか電飾であちこちを飾りつけ、夜に通ればぴかぴか眩しかった。
 大きな町の中心部ともなれば、その賑わいはここいらの比ではない。もっとも日夜ボールを追いかけて汗を流す影山には、縁遠い話だった。
 年末最大のイベントが待ち構えているのもあって、クラスメイトもどこか浮足立っていた。
 その前に期末試験があるというのに、そちらには頭が回らないらしい。いや、考えると気が滅入るので、敢えて触れないようにしているだけか。
 影山自身もそのひとりだ。
 脳裏を過ぎった数式を即座に追い払って、彼は温かな飲み物を求めて自動販売機に足を向けた。
 但し彼の視線は、並べられた商品ではなく、何故か上を彷徨った。
「あと二センチ……いや。一センチか?」
 赤色の筐体を睨みつけ、右手を頭上へと掲げる。その高さを比較して唸った彼に、たまたま近くにいた女子生徒は怪訝な顔をした。
 自動販売機の高さは、概ね百八十三センチ。
 それは影山の背丈を、若干ながら上回っていた。
 成長期は終わっていない。まだ伸びると信じて疑わないけれど、その速度は中学時代に比べると、鈍化していると言わざるを得なかった。毎日欠かさず牛乳を飲み、カルシウムを補充しているのに、目標にはなかなか届いてくれなかった。
 悔しい。
 今日も勝てなかったと口を尖らせ、彼は忌々しげに販売機の足元を蹴った。
「いって」
 勿論、その報いは即座に訪れた。爪先に痺れが走り、影山はその場でぴょん、と飛び跳ねた。
 上履きは薄手で、衝撃から足を保護する機能はない。せいぜい滑らないようゴム底になっている程度で、ダメージはダイレクトに骨に達した。
 自業自得で誰も責められず、奥歯を噛んで耐えるしかない。それが余計に腹立たしくて、彼はまだ痛い足で、今度は空を蹴り飛ばした。
 ぶつかる直前に引っ込めて空振りさせて、何をやっているのかと肩を落とす。クスクス笑う声が聞こえて振り返るが、直前にパタリと止んだので、犯人は分からなかった。
 冷静になると、恥ずかしさが膨らんだ。カーッと赤くなって、彼は急ぎ踵を返した。
 結局何をしに此処へ来たのか。
 足だけでなく、行動全体が空回りしている自分に腹を立て、ホットドリンクに手を出す事もなく出口へ向かおうとして、直前で凍り付く。
 足が止まったのは外気の冷たさに怯んだからでなく、券売機前に見知った姿を見つけたからだ。
 あちらは影山に気付くことなく、発券されたチケットを手に、勇み足でカウンターへ向かっていた。
「おばちゃん、カレーうどんひとつ!」
 元気が有り余った大声が、雑多に賑わう空間に響き渡った。
 寝癖が残る頭は目を見張るオレンジ色で、学生服から飛び出たフードが背中でひょこひょこ踊っていた。注文をした後も待ちきれないのかそわそわして、背伸びをしたり、屈んだりと落ち着きがなかった。
 早く出て来い、と調理場へ念を送っている彼に、割烹着の中年女性も苦笑いが隠せなかった。
「なにやってんだ、あいつ」
 一秒とじっとしていないチームメイトの後ろ姿に、影山も呟かずにはいられなかった。
 日向が食事をしに食堂に来たというのは、分かる。問題はタイミングだ。昼休みは既に半分終了しており、後半戦に突入していた。
 壁に掲げられた大きな時計を確認して、彼は眉目を顰めた。
 前方では日向が、盆に載って出されたどんぶりに歓声を上げていた。
「ありがと、おばちゃん!」
 心底嬉しそうに叫び、汁を零さないよう慎重に盆を持ち上げる。礼を言われた女性も顔を綻ばせ、とても楽しそうだった。
 影山には、あんな風に人を和ませ、心を解きほぐす真似は出来ない。明るくて社交的なチームメイトは時に羨ましく、鬱陶しく、妬ましかった。
 彼は教室にいても、暇を持て余すことはない。友人が多く、ひとりで居る方が少ないくらいだ。
 翻って自分はどうかと考えて、軽く落ち込みかけた矢先だ。
「あっれー?」
 素っ頓狂な声が聞こえ、影山は弾かれたように顔を上げた。
 当然と言えば当然の話だが、日向は席へ移動すべく、カレーうどんを手に振り返った。入口手前に突っ立っていた影山の姿が視界に入るのは、自然な流れだった。
 見つかった。一部始終を観察していた後ろめたさが先に立ち、影山は焦って背筋を粟立てた。
「え、あ」
「なにやってんの。めっずらし」
 目が合った。火花は散らなかった。
 話しかけられ、逃げようがなかった。
 挙動不審に左右を見回すが、日向は構わず影山へ近付いた。アツアツの湯気を立てるうどんを抱え、足取りは軽やかだった。
 一メートル弱手前で立ち止まり、返事を待って首を傾げる。表情はにこやかで、機嫌が良いのが窺えた。
「い、や……別に」
 よもやこんな場所で彼に会おうとは、夢にも思わなかった。
 これが月島や山口だったなら、話しかけもせずにすれ違って終わりだっただろう。先輩たちだったら、会釈や挨拶程度はしたはずだ。
 まさか会話を求められるとは。練習中ならまだしも、こういう日常風景の中で語り合う内容など、影山は持ち合わせていなかった。
 そもそも、人と話をする際、どう切り出して良いかが分からない。昔からバレーボール一辺倒だった所為で、同年代に親しい存在があまりいなかったのが災いした。
 なんと返事をすれば良いか分からなくて、ぼそぼそ小声になってしまった。煮え切らない、奥歯に物が挟まったような返答には、自分でも舌打ちしたくなった。
 しかし日向はあまり気にした素振りもなく、「ふーん」と緩慢な相槌を打っただけだった。
「そっか。今日は学食だったんだ?」
「あ、……いや。そうじゃねー、けど」
「そなの?」
 その上で勝手な想像をして、会話を続けようとする。流石に答えないわけにはいかなくなって、影山は小さく首を振った。
 日向は予想と違った回答に目を丸くして、考え込んでいるのか、首を傾げた。
 頭の上にクエスチョンマークを生やして、不思議そうに影山を見上げている。手に持つ盆まで傾き初めており、中身が溢れそうになっていた。
「おい。落ちんぞ」
「おっと、やべえ」
 本人はそれに気付かず、渋面を作っていた。仕方なく影山が教えてやれば、日向はハッとして姿勢を正し、茶色いスープと、チームメイトを見比べた。
 早く食べないと、麺が水分を吸って伸びてしまう。その点も気になってカレーうどんを見詰めていたら、何を勘違いしたのか、日向がサッと腰を捻った。
 身体でどんぶりを隠し、彼は獣のように唸った。
「やんねーからな」
「は?」
 牽制されて、影山は目を点にした。惚けた顔で瞬きを繰り返して、人を疑っているチームメイトにがっくり肩を落とす。
「ンな事、ひとっことも言ってねーだろ」
 前髪を掻き上げながら悪態をつくが、信じられないのか、日向の目つきは緩まなかった。
 笑顔で近づいて来たのが嘘のようだ。どうしてそうなるのかと呆れていたら、空気を読まない腹の虫が、匂いに刺激されてぐぅ、と鳴った。
 カレーは影山の好物だ。特に豚肉を使い、温泉卵を乗せたものが一番のお気に入りだった。
 スパイスの良い香りが嗅覚を刺激して、胃が蠢いたのだろう。満腹なのに音立てた腹を撫でたら、日向がじりじり後退していった。
「これは、おれんだからな」
 視線は影山に固定したまま、忍び足で居並ぶテーブルに向かおうとする。人通りがある中でその歩き方は危険だが、彼にとっては影山の方が、よっぽど警戒すべき存在だった。
 誰も奪うとは言っていないし、そんなつもりもない。だのに信用してもらえないのは、少し寂しかった。
「弁当食ってんだ。入んねーよ」
「ウソだ」
「うそじゃねーって。俺は、その……あったかい飲みモンが欲しかったから来ただけで」
 だから言い訳がましく説明するが、一蹴されて、聞いてもらえなかった。
 頑固に否定に走る日向をどう説得すべきかで迷い、目を泳がせ、影山は見えた自動販売機を指差した。
 先ほど背比べをした機械を示し、残る手でズボンのポケットを叩く。彼を笑った女子はもう食事を終えたのか、近くには誰もいなかった。
「えー?」
 ここまで言っても、日向はまだ疑っていた。悔しさに地団太を踏んだ影山は、仕方なく自動販売機へ大股で接近し、小銭を数枚取り出した。
 細い溝に硬貨を投入し、一瞬悩んでからボタンをひとつ押す。出て来たものを手にどうだ、と振り返るが、元いた場所に日向の姿はなかった。
「はあ?」
 驚き、慌て、辺りを見回す。飲み頃の温度よりずっと熱い缶をお手玉していたら、どこからともなく名前を呼ばれた。
 聞き覚えのある声を頼りに振り向けば、幅広のテーブルに陣取った日向が手を振っていた。
 椅子に座って寛いでいる彼に呆れ、影山は指先からじんわり広がる熱に安堵の表情を浮かべた。
 久方ぶりの暖かさに触れて、心が和らいだ。このまま立ち去るのも気が引けて、彼は日向の向かいに腰かけた。
 一メートル弱の空間を挟んで向き合って、買ったばかりの缶飲料をテーブルに置く。その表面を覆う印刷に目を遣って、日向は一寸驚いた顔をした。
 意外だったらしい。実際、影山もこれを買う日が来るとは思っていなかった。
「お前、甘いの好きだっけ?」
「他になかったんだよ」
 ここ数日は特に冷え込みが厳しくて、温かいドリンクは学内でも人気がうなぎ上りだった。その余波を受けて、自動販売機もいくつかの商品が売り切れていた。
 ブラックコーヒーは残っていたが、影山はその手のものは飲まない。消去法で選んでいったら、これしか残らなかったのだ。
 小豆の写真が眩しいお汁粉を前に、影山は憤然とした面持ちで口を尖らせた。
 この両者の組み合わせが、そんなに面白かったのだろうか。ツボに入った日向は暫く腹を抱えて笑い転げ、テーブルに突っ伏して悶絶した。
「ぶはっ、ふはは、うひゃはっ。影山が、汁粉……似合わねぇ……」
「ほっとけ」
 卓上をバンバン叩くのは迷惑で、周囲も何事かと遠巻きにしていた。集まる視線を気にして影山は耳を赤くし、吐き捨てると同時に缶のプルタブを摘み、起こした。
 カシュ、と軽い音がした。金属片が内側に潜り込んで、甘ったるい匂いが鼻先を漂った。
「あ、やべ。振るの忘れてた」
「ぷひゃーっ!」
 ふと気になって中を覗き込むが、底が見えるわけがない。
 手痛い失敗に顔を顰めた直後、我慢出来なかった日向が有り得ないほど甲高い声を響かせた。
 背凭れのない椅子の上で仰け反り、落ちそうになったところで慌てて体勢を立て直す。一瞬見えなくなった彼が戻って来た時、その表情は真剣そのものだった。
 内心焦り、慌てたのだろう。以後はニコリともせず椅子に鎮座する彼に嘆息し、影山は甘ったるい汁をひと口啜った。
「……ン」
 鼻から息を吐き、歯に貼りついた甘味を舌でこそぎ落とす。間髪入れずにふた口目に行って、三口目の前に熱を冷まそうと息を吹きかける。
 覚悟していたほど甘く感じないのは、汁粉としての重要な部分が底に沈殿しているからだ。
 全部飲み干すのは厳しかろうと肩を竦め、彼は割り箸を割った日向に視線を投げた。
「いただきます」
「飯、食ってねーのか?」
 礼儀正しく一礼して、それから右手に持った箸でうどんを摘む。カレーの汁を飛ばさないようゆっくり麺を咥えた彼に、影山は何気なく問いかけた。
 話しかけられ、日向は視線だけを動かした。ぢゅる、と口にしたものを先に咀嚼して飲みこんで、それからうーん、と頭を揺らした。
「弁当は食ったけど。なんか、足りなかったから」
 一瞬考え、すぐに相好を崩す。あっけらかんと言い放たれて、影山はぽかんと間抜け面を晒した。
 日向はその体格に見合わず、かなりの大食漢だった。
 弁当箱も大きく、それに加えて間食用の握り飯が複数用意されていた。早朝練習後と放課後の練習前、空腹を紛らせる為にそれらを口にしている彼の姿は、烏野高校男子排球部の名物だった。
 菓子も好きだし、肉まんもふたつ、みっつは平気で食べる。その小さな体のどこに、あんなに大量の食べ物が入るのか。これも排球部の七不思議のひとつだった。
 調子よくうどんを啜り、息で冷ました汁を啜る。どんぶりを両手で抱えて傾ける彼に、影山は緩慢に頷き、汁粉の缶を揺らした。
 人が食べているところを見ていたら、自分まで腹が減ってくるから不思議だ。急に凹んだ気がする腹を叩き、彼は甘い飲み物で気分を誤魔化した。
 けれどどうしても目は泳ぎ、カレーうどんに意識が傾いた。
「……やんねーからな」
「言ってねえよ」
 それを日向は見逃さなかった。
 影山の手が届かないところへどんぶり鉢を移動させ、左手で縁を囲う形で庇う。食べづらくないのか、前のめりになった彼に嘆息し、影山は汁粉缶の底でテーブルを叩いた。
 まだ半分以上残っているが、既に濃すぎる味に飽き始めていた。
 矢張りこれを選択したのは失敗だった。自動販売機は他にもあったのだから、じっくり考えて決めればよかった。
 百円ちょっと、損をした。勿体ない真似をしたと後悔しつつ、温くなった缶をゆらゆら揺らす。そうして渋々口元に持って行ったところで、突き刺さるような視線を感じた。
 伏していた眼を持ち上げた影山は、日向が慌てて顔を伏すのを見てしまった。
「……ン?」
 首を傾げるが、理由が分からない。飲むのは止めて、見つめられる要因を考えて、彼は何気なく自分の手元を見た。
 いかにも甘そうな写真が、異様なまでの存在感を放っていた。
「ンー」
 鼻から息を吐き、影山は缶を下ろした。天板に垂直に突き立てて、縁に置いた指で右に、左に軽やかに躍らせる。
 その動きに釣られたのか。日向は瞳だけでなく、首までもリズミカルに揺らし始めた。
 そういえば彼は、甘いものが大好きだった。
 一番好きなのは炊きたての米で、そこに朝採りの新鮮な卵を落として食べるのが最高に美味い、と言って憚らない。しかしそれ以外の食べ物も好きで、先輩に奢って貰ったアイスや肉まんを、よく影山と奪い合っていた。
 放課後恒例のやり取りをふと思い浮かべ、彼は甘ったるくて吐きそうな汁粉を口に含んだ。
 もれなく日向の口が開き、音もなく閉ざされた。唾を飲みこんだらしく、喉仏が上下に動いたのが見て取れた。
 うどんを食べる手は完全に止まっていた。
「伸びんぞ」
「ふぇ? うあああ」
 それを指摘してやれば、きょとんとなった日向が一秒後に叫んだ。
 半分まで減ったカレーうどんを思い出し、急いで箸をつけるがなかなか麺が抓めない。二度、三度と失敗して黄色い雫を大量に散らし、白色のテーブルを汚していった。
 影山の手元にまで飛んできて、彼は迷惑そうに腕を引っ込めた。
 ちらりと盗み見た壁時計は、午後の始業時間まで残り十分のところを指示していた。
 それなのに日向の動きは鈍く、うどんの減りは悪かった。
「……うぐ」
 もしや食べ過ぎて、腹がいっぱいなのだろうか。
 食い意地が張っている彼に、それはあるまじき事態だ。しかし他に考えられなくて、影山は注意深く前方を窺った。
 日向が愛用している弁当箱には、いつだって大量の白米が詰め込まれていた。
 しかも限界までぎゅうぎゅうに押し込まれているので、表面はコンクリートと見紛うばかりに固い。箸を突き刺すのも一苦労で、割り箸だと下手をすれば折れてしまいかねなかった。
 あれだけ食べておいて、カレーうどんも追加となれば、彼の胃袋は相当大きく膨らんでいる事だろう。
 内側から破裂する日向を想像し、影山はクッ、と笑みを殺して顔を伏した。
 肩を震わせて俯いた彼に、事情が分からなかった少年は眉を顰めた。
「ンだよ」
「いや。なんつーか、……飲むか?」
 不満げに訊かれて、影山は首を振った。続ける言葉に一瞬迷って、偶々目に入った缶飲料をおもむろに差し出した。
 いきなり話を振られ、日向は面食らった。驚いて目を見張り、それから渋い顔で唇を引き結んだ。
 背中を丸めて警戒中の猫と化して、少年は苦々しい面持ちで影山を睨んだ。
「なんのつもりだよ」
 日向もだが、影山も食べ物への執着心は相当なものだった。
 だというのに、自ら進んで分け与えようとした。言葉の裏に何らかの策略があると疑われるのは、自然の理だった。
 実際、影山にはひとつの企みがあった。勘を働かせ、あれこれ推測した末の決断には、一定の自信があった。
「別に?」
 要らないのであればそれでいい、と言葉尻に匂わせて、彼は量が残っている缶を顔の高さまで掲げた。
 落とさないよう右手で吊り上げ、嫌味たらしく見せびらかす。すると日向は悔しそうな顔をして、奥歯をぐぎぎ、と噛み締めた。
 小鼻を膨らませて赤くなって、少年は苦悶の末に四角い盆を押し出した。
「ちょっとだけだかんな!」
 胃袋の具合と残り時間を天秤に掛けて、負けず嫌いを爆発させて怒鳴る。この期に及んでまだそんな口を利く彼に苦笑して、影山は盆の横に缶を置いた。
 空いた手でどんぶりだけを引き寄せて、日向が使っていた箸をそのまま口へ運ぶ。垂れた汁をちろりと舐めて、影山は得意げに胸を張った。
「……帰り、肉まん奢れよ」
「一個な」
「二個にしろよ」
「ダメだ」
 勝ち誇った笑みを浮かべる彼を睨み、日向が妥協案を提示した。猫背を強めてテーブルに顎を置いて、要求を突っぱねる影山に頬を膨らませる。
 カレーうどんは四百円足らず。汁粉と肉まんは百円ちょっと。
 うどんの残量を考えれば、対価としては十分だろう。いや、むしろ儲けたか。
 肉まん二個は難しいが、一個半くらいなら許してやってもいい。だが今それを言うと調子に乗るので黙っておいて、影山は伸び気味のうどんに箸を伸ばした。
 人が散々甘噛みし、舐った箸を平気で使う彼を眺め、日向は言いかけた文句を呑み、甘い汁粉に口を着けた。

2014/11/6 脱稿

青磁

 日向翔陽はよく喋る子だった。
 いつでも、どこでも。大きな声で、子犬のように吠えたてて、取り留めないことを次々と捲し立てる。
 口から先に生まれて来たのではないかと思うくらい、彼は多弁だった。しかも身振り手振りも激しくて、感情を込めて話すものだから、聞いていてとにかく面白かった。
 話題は身近なことから、世界規模のものまで。もっとも大半はとても下らない、どうでも良いものが中心だった。
 たとえば、友達と今日、どんな話をしたか。
 明け方に見た夢がどんなだったか。朝食の味噌汁で熱くて、舌を火傷しただとか。学校に出発しようとして自転車に跨ったら、急に腹が痛くなっただとか。
 授業中に眠気に襲われたけれど、頑張って最後まで耐えたとか。
 先生の話が面白くて笑い転げていたら、笑い過ぎだと注意されたとか。
 腹が空いたので早弁をしたら、昼休みに食べるものがなくなった事だったり。
 飲み物を買いに行ったら、自動販売機の前で影山とばったり遭遇して、どちらが先に買うかでちょっとした騒動になっただとか。
 部室で着替えていたら、月島に荷物を棚の一番上に置く、という意地悪をされたり。
 練習後の肉まんは最高に美味しいけれど、ピザまんも捨て難くていつも迷う、とか。
 そういった、知ったところで何の得にもならない話が殆どだった。聞き流したところで格別問題にならなず、適当に相槌を打っていても平気な内容が、話題の大部分を占めていた。
 けれどそんな無駄でしかない彼との会話が、菅原はお気に入りだった。
 いつも聞いていないのに勝手に語り出して、途中で脱線したら行き着くところまで突き進む。元のルートに戻るのは稀で、聞き役に徹していた菅原ですら、最初の話題がなんだったのか思い出せないくらいだった。
 しかも日向の口からは頻繁に擬音が飛び出して、それひとつで説明を終えてしまう事もしばしばだった。
 本人もあまり語彙が多くないので、時々支離滅裂になって、ふたりして首を捻る場合も少なくなかった。
 ともあれ、日向と喋るのは楽しい。明るく元気な彼の日常を垣間見て、日向家での生活を疑似体験するのが菅原のお気に入りだった。
 だというのに、だ。
「うーん……」
 洗面台で手を洗いながら、彼は低い声で唸った。
 個室トイレには鏡があり、店員が拭いたであろう跡が斜めに走っていた。決して汚くはないが、綺麗でもないそれを前に渋面を作って、彼は濡れた手で蛇口を捻った。
 水の流れを止め、そのまま傍らにあったティッシュケースに手を伸ばす。一枚ずつ引き抜ける紙ナプキンを二枚使って水気を吸わせて、用済みのゴミは足元のくず入れへと落とす。
 掃除したばかりなのか、底が見えている筒を一瞥して、菅原は再度、鏡面に向き直った。
 麦の穂色の髪は丁寧に櫛が通され、寝癖のひとつも残っていなかった。泣きホクロが目元に陣取り、小さい割に存在感を放っている。顔色は悪くなく、健康そのものだった。
 但し引き結ばれた唇はヘの字を作り、思案気味の眼は昏く翳っていた。
 左右対称の自分自身を睨みつけて、彼は小さくため息を吐いた。
「どうしたもんかなあ」
 堪らず愚痴を零し、後頭部を掻く。家を出る前に時間をかけて整えた後ろ髪を乱し、菅原は力なく首を振った。
 もれなく鏡の中の菅原も利き腕を高く掲げ、動きを揃えて身を揺らした。
 ベージュ色のセーターは彼の体格よりも少し大きめで、襟刳りは広く、下に着込んだ濃紺のシャツが襟を覗かせていた。袖やウェストもだぼっとしており、身体のラインを隠しながら、同時に彼の穏やかな性格を表していた。
 対してズボンは細身で、ほっそりとした脚に布がぴったり張り付いていた。足元を飾るのはダークブラウンのモカシンで、靴下は踝にも届かない短さだった。
 鞄はテーブルに置いてきたので、今の彼は手ぶらだった。
 学生服、もしくは黒のジャージばかり着ているので、私服で出歩くのはどうも落ち着かない。どこも可笑しなところはないかと腰を捻って確かめて、菅原は最後に前髪を手櫛で整えた。
 清潔感溢れる青年像を見事に作り上げ、腕組みをして自信ありげに頷いてみるが、かなり虚しい。自分なりに頑張ってみたつもりだが、そんなに似合っていないかと、彼は着慣れないセーターの袖を摘んだ。
「なにがダメなんだろ」
 自問自答してみるが、答えは出なかった。
 正解がさっぱり思いつかなくて、落胆に深く肩を落とす。だがいつまでもトイレでこうしてしているわけにいかなくて、彼は気合いを入れ直し、サムターン式の鍵を回した。
 ロックを外し、一段低くなっている通路へと出る。店の一番奥にある扉は壁が邪魔で見通しが悪く、首を伸ばしたところで遠くは窺えなかった。
 後ろ手にドアを閉めて、菅原は心持ち早足で狭い通路を進んだ。
 五歩と数えないうちに広い場所に出て、照明も増えて辺りは明るくなった。軽快なカントリーミュージックがスピーカーから流れ、雑多な賑わいが耳朶を擽った。
 二人掛けのテーブル席が入り口に近い場所に幾つか用意され、トイレに近い奥側にはソファ席も設けられていた。そちらは個室的な使い方が出来るよう仕切り板が置かれ、無愛想にならないように飾り付けが施されていた。
 菅原が向かったのは、ゆったり寛げるテーブル席ではなく、入ってすぐのところにある席だった。
 長方形のテーブルは木製で、艶やかな飴色がクラシック風の店内に見事に溶け込んでいた。椅子も時代を感じさせる構造で、使い込まれている為か、動かすとギシギシ音を立てた。
 そういう軋み音さえ楽しんで、彼はゆっくり腰を下ろした。
 数分前まで座っていた場所に舞い戻って、居住まいを正す。深く腰を据えて身体を安定させて、やや前のめりの姿勢でテーブルに肘を置く。
「ごめんな」
 それから軽い調子で謝罪すれば、真向いに座っていた少年が大慌てで首を振った。
「いえ。ぜんぜっ、だじょぶ、っす」
 明るい茶色の髪を振り回して、日向は早口でまくし立てた。
 呂律が回っておらず、音がいくつか足りていない。明らかに緊張しており、菅原はついつい噴き出してしまった。
「全然大丈夫そうに見えねーけど?」
 カラカラと喉を鳴らして笑い、椅子をテーブルに近づけて楽な体勢を取る。頬杖をついて見詰める相手もまた私服で、菅原以上にラフな格好だった。
 いつも学生服の下に着ている白色のパーカーに、ポケットが沢山ついたカーゴパンツ。足元はスニーカーで、靴下ははっきり見えないけれど、恐らくはバレーボール用のソックスだ。
 華奢な体格をカバーしようとしてか、上下共にサイズは大きめだ。菅原のようにバランスを考えて組み合わせたわけではなく、単純に、そこにあったから着た、という雰囲気が全体から滲み出ていた。
 もっとも、そういう気取らないところがいかにも彼らしくて、菅原は気に入っていた。
 穏やかに微笑み、彼はそう広くない卓上に手を伸ばした。ソーサーの上に置かれたカップに指を掛け、立ち上るコーヒーの香りを存分に楽しむ。
 目を細めて匂いを嗅ぐ彼に、日向は恐縮しきりに頭を垂れた。
「えっと、あの」
「ん?」
「お、おれ……も、ちょっと。トイレ、に」
「ああ。いいよ、いっといで」
 両手は腿の間にでも挟んでいるのか、少々猫背気味になっていた。視線は低い場所を彷徨って、一瞬菅原を窺っただけで、それ以外はずっと伏されていた。
 そうやってもじもじしながら断りを入れられて、菅原は飲もうとしていたコーヒーを皿へ戻した。
 陶器が擦れ合う音がした。カチリと固い音を聞いて首を竦めて、日向は菅原に示された方角を見た。
 扉自体は見えないけれど、案内の矢印が、さりげなく壁に貼りつけられていた。
 タイルに描かれたイラストを見て、少年は身を乗り出した。背を丸めたまま椅子を引き、恐る恐る立ち上がって菅原に頭を下げる。
 そうして日向は駆け足気味に、目隠しの仕切り板が作る通路へと飛び込んだ。
 そそくさとした動きが、実に彼らしくなかった。
「……はあ」
 見送って、菅原は盛大に溜息を吐いた。
 日向がいる間は耐えていたが、表情も見る間に翳った。両肘をテーブルに衝き立てて項垂れて、彼は暗く沈みがちな自分に向けて、懸命に喝を入れた。
 それでも落ち込んだ心はなかなか浮き上がらず、事態を好転させる方法も見つからなかった。
 どうして上手く行かなのだろう。
 お互いよそよそしくなりすぎて、会話が少しも弾まなかった。
「学校じゃ、なんともないのになあ」
 日向は菅原の、可愛い後輩だった。
 烏野高校男子排球部の新星にして、救世主――とは大袈裟だが、一時期は本気でそう思った。天才と呼ばれながらも孤独だった影山を救い、責任感に押し潰されてコートに背を向けていた東峰を、やや強引だったが立ち直らせた。菅原自身も、彼を見ているうちにレギュラーへの欲が湧き、諦めたくないという想いを募らせた。
 手のかかる後輩は、考えるよりも先に行動する馬鹿だった。
 猪突猛進を地で行く日向は、影山と一緒になってなにかと騒動を巻き起こした。部内だけならまだしも、外部にまで迷惑をかける彼らを制御するのは三年生の仕事で、特に日向は、面倒見の良い菅原によく懐いた。
 菅原自身も慕われるのは純粋に嬉しくて、ついつい必要以上に彼を可愛がり、甘やかした。
 そうしているうちに、クラスメイトでもある主将の澤村から、世話を焼き過ぎだと叱られた。自覚がなかった菅原は反発したが、後日二年生の田中からも、日向だけ依怙贔屓しているとの指摘を受けた。
 ひとりだけならまだしも、ふたりから同じようなことを言われて、流石の菅原も考えた。そんなつもりはないし、後輩は皆平等に扱っているつもりでいたが、客観的に振り返ってみると、実際に随分と差がついていた。
 反省して改善を試みるが、日向に冷たく当たってしょんぼりされると心が痛んだ。心を鬼にして頑張ってみたが、良心の呵責に苛まれて長続きしなかった。
 無理だったと澤村に謝罪すれば、そんなに好きなら仕方がないと呆れられた。田中や西谷からも、ホントに日向が好きなんですね、と笑い飛ばされた。
 最初は意味が分からなかった。
 部活を終えてひとりになって、布団に入ってからふと思い出して、頭が爆発した。
 顔から火が出そうだった。恥ずかしさに悶絶して、その日は全く眠れなかった。
 どう考えても、他に答えが出て来ない。あんなにも構っていた理由を他者から教えられて、穴があったら入りたかった。
 しかし一度認めてしまえばすっきりした。あれこれ納得出来たし、原因が分かった分、気分は晴れやかだった。
 翌日には早速気持ちを伝えた。
 驚きながらも日向は頷いてくれた。よろしくお願いします、と頭を下げてくれた。
 それから、数日。
 たまにはどこかへ出かけようと誘った。春高二次予選前の最後の休日だから、買い物ついでにのんびり町を散策しようと声をかけた。
 日向は二つ返事で承諾してくれて、待ち合わせ時間を決めて、今日を迎えたわけだけれど。
 いつもは喧しく、黙るよう注意しなければならないような子が、朝からずっと大人しかった。
 話しかけても上の空で、返事は要領を得なかった。手を繋ごうとしたら大袈裟に驚かれ、逃げられた。
 休憩しようと喫茶店に入っても、ずっと落ち着きがなかった。
「俺、嫌われてんのかな」
 そんな訳がないと思いつつも、考えずにはいられない。
 本日何度目か知れないため息を零して、菅原は砂糖だけ入れたコーヒーを啜った。
 運ばれて来た時は溢れんばかりだった湯気も、すっかり消え失せてしまっていた。慣れない味は苦いだけで、甘味料の気配はどこにも残っていなかった。
「まっず」
 大人びた印象を与えたくて、格好つけたのは失敗だった。
 素直な感想を小声で呟き、舌を伸ばして苦みを追い払う。日向が戻ってくる前にとテーブルの小瓶から砂糖を追加して、彼はスプーンを持ち上げた。
 ぐるぐる回してカップ内に渦を作り、覚悟を決めてひと口含む。しかし却って苦みが増した気がして、とても飲める代物ではなかった。
 普段飲まないものなので、加減が分からない。辛いのは大好きだけれど、この手のものは免疫がなかった。
 大失敗だと項垂れて、菅原は後方を振り返った。
 日向はまだトイレに籠ったままらしく、姿は見えなかった。
「うーん」
 会話の糸口を掴もうとあれこれ話題を振ってみたが、なにひとつ実を結ばなかった。苦し紛れにこの店に誘ったまではいいが、状況はまるで改善されていない。
 沢山歩かせたのがいけなかったのか。買い物であれこれ口出しし過ぎて、鬱陶しがられてしまったか。
 足元に置いた紙袋を靴の側面で叩いて、菅原は普段と様子が違った後輩に肩を落とした。
 いや、もうただの後輩ではないのだった。
「俺と付き合うの、重荷だったかなあ」
 想いを押し付けたつもりはないけれど、上級生から好きと言われて断れなかった、というのは十分有り得そうだった。嫌われているとは思わないが、結局のところ、日向にとっての菅原は、ちょっと他より親しいだけの先輩でしかなかった、ということだ。
 だとしたら、哀しい。
 そしてとてつもなく恥ずかしかった。
 浮足立って、調子に乗っていた。日向が無理をして合わせようとしてくれていたのに、ちっとも気付かなかった。
「参ったなあ……」
 この後、トイレから戻った日向をどんな顔で迎えれば良いのか。
 絶対に笑顔がぎこちなくなる。そんな自信は要らないのに、と苦笑して、菅原は丁寧にセットした髪をくしゃくしゃに掻き毟った。
「あー、もうっ」
「菅原さん?」
 両手を使って、頭を引っ掻き回す。そこへ不思議そうに呼びかけられて、菅原はハッとして凍り付いた。
 癇癪を爆発させていた彼は、いつの間に戻ったのか、傍に立っていた日向に騒然となった。
「あ、あ、いや」
「どうかしたんですか?」
「あは、あはは。あはははは……」
 慌てて弁解に走るが、咄嗟に言葉が出て来ない。代わりに笑ってごまかして、菅原は最後に深くため息を吐いた。
 力なく椅子に寄り掛かり、毛先が跳ねたままなのも放置して俯く。その脇を日向が不思議そうにしながら通り抜け、ちょこん、と椅子に腰かけた。
 部室では足を伸ばしてだらしなく座っているのに、今日はいつになく畏まって、行儀が良かった。
 余所行きの態度は、精神的な距離を感じさせた。
 いつもの馴れ馴れしさはどこへ消えたのだろう。折角の休日なのに少しも楽しんでいる様子が見て取れなくて、それも菅原が凹む要因になっていた。
 買い物ではなく、どこかの市民体育館に行って、ボールを追いかけていた方が良かったのかもしれない。けれどそれではあまりに普段通り過ぎて、新鮮味がなかった。
「あ、えっと。あの、菅原さん」
「んー?」
 もう甘いのか、苦いのかも分からないコーヒーで口を漱ぎ、喉を潤す。真向いでは日向が百面相をして、遠慮がちに話しかけて来た。
 考え事に没頭していたので、生返事になってしまった。鼻から息を吐いた後ではっとして、菅原は急いでカップをテーブルに戻した。
 椅子で小さくなった日向が、今にも泣きそうな顔をしていた。
「え? ちょっ、日向?」
 いったい何が起きたのか、咄嗟に理解出来なかった。
 買い物を終えて、喫茶店に入って。サンドイッチとチキンライスを昼食にして、食べ終えた後にコーヒーで一服して。
 菅原が先にトイレに行き、入れ替わる形で日向が席を立った。戻って来た彼は何故か涙ぐんでおり、苦しげに唇を噛み締めていた。
 辛そうに歪められた口元に息を呑み、菅原は立ち上がろうとして浮かせた腰を戻した。椅子に座り直して左右を見回し、出しっ放しだったシュガーポットをテーブル奥へと押し込める。
 卓上の空きスペースを広くした上で、彼は無理に笑おうとした後輩に苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ひなた……」
 こういう時、どんな言葉を投げかけてやれば良いのだろう。目の前が真っ暗になって、菅原は自分まで泣きたくなった。
 雑誌やインターネットで色々と調べ、参考になりそうな情報は手当たり次第目を通した。けれどいざ実戦となると、想定外の事ばかりだった。
 何をやっても上手く行かない。良かれと思ったことが悉く裏目に出て、いっそ消えてしまいたかった。
 己の不器用さに落ち込み、鼻を愚図らせる。途方に暮れて、力なく椅子にしな垂れかかる。
 顔を伏して前髪を弄っていたら、長い時間を経て、日向が先に口を開いた。
「あの、だから……その。きょ、今日、は……ありがとう、ございました」
 短い指を胸の前で小突き合わせて、必死に言葉を選んでいるのが窺えた。
 尻窄みに小さくなっていく声に反比例し、菅原は顔を上げて目を見張った。しどろもどろの礼は心を激しく震わせると共に、片隅に住み着いた哀しみを膨張させた。
 こんなタイミングで礼を言うという事は、矢張り楽しくなかったのだ。これ以上はもう付き合えないと、店を出たらお開きにしようと、そう伝えたがっているのと同じだ。
 実際、この後の予定は全くの白紙だった。カラオケに繰り出すもよし、ゲームセンターで遊ぶのも良し。そんなことをぼんやり考えていたけれど、具体的な案はこれから決めつるもりでいた。
 時間には余裕があった。タイムリミットである、烏野町への最終バスは当分先だった。
 けれど日向は、もう耐えられないのだろう。好きでもない相手と長時間一緒に居るのは、菅原だって苦痛だ。
「うん」
 分かっている。そういう気持ちも込めて頷く。
 そんな愛想の欠片もない返事に、日向はどうしてか、ホッとしたように相好を崩した。
 予想と違う表情を見せられて、菅原は無意識に背筋を伸ばした。
 テーブルに身を乗り出し、嬉しそうに微笑んだ後輩を見詰める。小柄な一年生は少し照れた素振りで身を捩って、左右の指と指を重ねあわせた。
「あの、おれ、えっと……実は、こーゆーお店、入ったことなくて」
「え、あ、うん?」
「だから菅原さんがぽんぽん決めて、注文してくれるの、すっごいカッコよかったです」
 ふたりが長居している喫茶店は、かなり昔からこの場所で営業していそうな店構えだった。
 何かで有名だとかではなく、地元の人に愛されて長く続いている店だ。客層は様々で、ひとりでゆったり寛いでいる人もいれば、ノートを手に勉強に勤しんでいる人もいた。
 口喧しく喋り倒す人はいない。強いて言うなら、一番騒々しいのがこのテーブルだった。
 店内を見回しながら興奮気味に告げられて、菅原は一瞬、何を言われたか分からなかった。
 日向が暮らす雪ヶ丘町は、学校がある烏野町から山ひとつ越えた先にあった。
 菅原は行ったことがないが、話を聞く限り、結構な田舎だ。長閑な田園風景が広がり、日常の買い物も車がないと不便極まりない。欲しいものは商店街で大体揃うが、飲食店は少なく、ファストフード店は一軒もないらしい。
 そんな穏やかな空気の下で育った日向は、つまるところ、店での買い物や飲食自体、あまり慣れていなかった。
 言われてみれば、五月の合宿でスポーツ用品店に連れて行った時も、異様なまでに緊張し、興奮していた。
 先程の買い物の時だって、そうだ。商品数が多すぎて決められないと助けを求められて、結局菅原が全て選んだのだった。
 世話を焼き過ぎて鬱陶しがられたかと悔やんでいただけに、驚きが隠せない。予想外の言葉の連続に唖然として、彼は目を丸く見開いた。
 合いの手も忘れて惚けていたら、ずっと黙っているのを不思議がられた。
 小首を傾げ、日向が口を噤んだ。何かに気付いたのか臆し気味に身を縮めて、遠慮がちに菅原を呼んだ。
「あの、……おれ、うるさい……ですか?」
「え?」
 慎重に確認されて、彼はハッと背筋を伸ばした。
 目の前で風船が割れたような感じだった。薄い膜が弾け飛び、視界が急に開けた。
「え? え、あ、ああ。そんなこと……うん」
 ただいきなり目の前が明るくなったので、そちらに気を取られて思考が追い付かなかった。
 長く留めていた息を吐き、コーヒー味の唾を飲む。大きく跳ねた心臓をセーターの上から撫でて、菅原は急に変貌した風にも見える後輩に微笑んだ。
「てか、うん。日向、今日、やたら静かだったから」
 てっきり、退屈なのかと思っていた。
 喉まで出かかった言葉を飲みこんで、肩で息を整える。内心ドキドキだったがなるべく表に出ないよう心掛け、半端なところで切った台詞の続きを日向に促す。
 感想という形で問いかけられて、少年は目を瞬き、恥ずかしそうに首を竦めた。
 両手は卓上を這って、既に冷たいココアのカップを抱きしめた。
「だって。おれ、……こういうの、も。初めてだから」
「うん?」
 気のせいか、顔が赤い。耳の先まで朱色一色で、左を向いた瞳は艶めいていた。
 拗ねている表情が底抜けに可愛くて、菅原はもしや、と想像を働かせて興奮に鼻息を荒くした。
 胸がトクトク言っていた。両手両足が痺れて、甘い疼きが背中を駆け上がって行った。
 どうしよう。
 あまりの嬉しさに、困惑が止まらなかった。
 日向が一瞬だけ菅原を見た。上目遣いに睨みつけて、すぐに逸らして、また様子を窺うべくちらちらと視線を投げかけて。
 椅子の上で身動ぎ、少年は真ん丸に頬を膨らませた。
「デート、とか……なに喋っていいか、全然、分かんない」
 小声でぼそぼそ言われたけれど、菅原の耳は一言一句、余すところなく拾い上げていた。
 恥ずかしげで、悔しそうだった。反面菅原は幸せいっぱいで、満ち足りていた。
 すべては杞憂だった。思い過ごしだった。
 それどころか日向は、菅原が思っていた以上に、菅原のことを好いてくれている。
 告白時は明朗な返答をもらえなかった。それから今日までの日数を差し引いても、充分過ぎる回答だった。
 少しでも気を緩めれば、頬がだらしなく綻んだ。我慢していたら筋肉がぴくぴく引き攣って、変な表情になってしまった。
「やっべ……」
 こんなのは反則だ。
 完璧に想定外だった。
 顔がにやけるのを止められない。口元が弛んで、菅原は急ぎ右手で覆い隠した。
 目が泳いだ。まともに日向を見られない。けれど見ておかないと後悔しそうで、何度も盗み見ては、視線が交錯する直前にぱっと逸らした。
 ふたりして真っ赤になって、湯気を立てて黙り込む。下半身はもぞもぞして、揺れ動く足がテーブルの下でぶつかった。
「あっ」
「ごめ!」
 それで揃って顔を上げて、吐いた息がぶつかった。
 暫く呆然と見詰め合って、先に噴き出したのは菅原だった。
「ンな緊張しなくても。いつも通りにしてていいべ?」
「わ、分かってるんですよ。でも、……うぅぅ」
「まあ、そーゆー日向も珍しくて、俺は好きだけどな」
「――っ!」
 ぼふん、と音がした。あっけらかんと言い放った菅原の前で、日向は爆発した頭をふらふら揺らし、耳からは黒い煙を噴いていた。
 そうしているうちに真っ赤になった顔を手で覆い、テーブルに突っ伏した。勢いよく額を打ち付けて、気を失ったわけではなかろうが、一切動かなくなった。
 煙は未だ消えず、焦げているのかぷすぷす言っていた。パーカーから覗く襟足も見事な紅色で、菅原は呵々と笑うと、苦くて甘いコーヒーを飲み干した。
 

2014/10/31 脱稿

丁子色

 窓の外は鮮やかな朱色に染まっていた。
 遠くに広がる稜線は美しく、紅色を帯びた雲のコントラストは眩しかった。太陽は薄雲の中にあっても存在感を示し、教室に長い影を刻んでいた。
 照明の灯らない室内は、廊下に近付くにつれて薄暗くなっていた。明るいのはカーテンで隠れていない窓辺だけで、ガラスで暖められた熱は下がりゆく気温とは裏腹に、そこに居座る者たちに穏やかな眠りを齎した。
 もっとも、舟を漕いでいる余裕はない。机に置かれた一枚の紙切れを睨み、影山は右手に持つシャープペンシルを握りしめた。
「さっさと決めちゃえばいいのに」
 複数の記入欄がある用紙は、どこを見ても真っ白だった。何度か書いては消し、消しては書いた跡が見受けられるものの、今現在そこにこびりついているのは、消しゴムの滓だけだった。
 黒鉛の名残は取り払われて、書かれていた内容を窺うのも難しい。最初に何を書いたか、本人ですら思い出せなくなっている状態だった。
 そんな空白を仇のように見つめていた彼は、不意に降って来た声に顔を歪め、露骨に嫌そうに視線を上げた。
 真っ先に見えたのは、上履きの裏だった。
 ひとつ前の席に座る生徒は、明日の朝、椅子の背凭れに靴跡を見付けて困惑する事だろう。それとも気付かないまま座って、制服で痕跡を消してしまうか。
 可愛そうな女子を頭の中から追い払って、影山はクラスメイトとは似ても似つかない男子生徒に渋面を作った。
「うるせえ」
 悪態をつけば、呵々と笑い飛ばされた。なにが面白いのか分からなくて、彼は不貞腐れて頬を膨らませた。
 使い慣れたペンを手放し、机へと転がす。それは半周もしないうちに停止して、白い紙に黒い影を描き出した。
 投げやりになっている彼を見詰めて、他組の机に腰を据えた少年は困った顔で肩を竦めた。
「つーか、降りろ」
「いいじゃん。たまには見下ろさせろって」
 その態度にも腹を立てて、影山は低い声で怒鳴った。しかし日向は真面目に受け取らず、飄々と受け流して目を細めた。
 白い歯を見せて笑って、頬杖をつく。彼が座っているのは椅子ではなく机で、足の置き場は椅子の背凭れだった。
 緩く曲げた膝に肘を預け、前傾姿勢で影山の手元を覗き込んでいた。明るいオレンジ色の髪は夕日を浴びて、綿帽子のようにキラキラ輝いていた。
 学生服のボタンが西日を反射し、影山の瞳を焼いた。慌てて目を瞑ってダメージを回避して、彼は手放したばかりのシャープペンシルを指で小突いた。
 見たくない文字をそれで隠して、凹凸が残る紙面をそっと撫でる。消しゴムを当て過ぎたのか、四角い欄の内側は、ほんの少しではあるけれど、紙が薄くなっていた。
 指の腹で僅かな差を探り当て、肩を落とす。自然とため息が零れて、眉間には皺が寄った。
 と同時に日向も顰め面を作って、頬杖を解いて身を乗り出してきた。
「ため息」
「……ああ」
 短く、ひと言だけ注意を口にした彼に、影山も即座に応じて首肯した。
 ため息を吐くと幸せが逃げる。そんなことを言っていた先輩は既に卒業し、新天地へと旅立っていた。
 懐かしい人を脳裏に思い浮かべ、気持ちが浮上したのは一瞬だけだった。視線を落とせば稀に見る難題が、早く結論を出すよう急かしてきた。
 進路希望調査票。
 第一希望から、第三希望まである欄を全て埋める人もいれば、ひとつだけの人もいるだろう。影山のように決めかねて、いつまで経っても提出できない生徒も、ひとりやふたりではない。
 だが与えられた猶予は残り少なかった。提出期限は目前に迫り、担任からも、催促の声が頻繁に聞かれるようになっていた。
 けれど、決まらない。
 決められない。
 うだうだ悩んで足踏みしている影山に苦笑して、日向は窓から見える景色に視線を移した。
「もうじき、卒業式だなー」
「まだ一月だぞ」
「あと二か月じゃん」
 冬の日暮れは早い。駆け足で空を渡った太陽は、安らかな眠りを求めて西の地平線に迫っていた。
 夏場だったらまだ明るいのに、あと三十分もすれば暗くなってしまう。月日の流れを実感して、日向は左右の膝を抱き寄せた。
 背凭れの上辺に爪先を預け、板に張り付けていた踵は浮かせてバランスを取る。交差する両手は白く、学生服の袖からは下に着込んだトレーナーがはみ出していた。
 詰襟から出したフードは背中側に垂らして、胸元では二本の紐が揺れていた。学生服のボタンをきちんと留めているので絵柄は見えないが、形状からして、一年の頃から愛用しているもので間違いなかった。
 入学直後からあまり体格が変わらなかったとの愚痴を、今でも時折耳にする。影山や月島は多少伸びたのに、日向や、マネージャーの谷地は、一年前と殆ど同じだった。
 身体測定の結果を見せろと迫られたのが、つい昨日の事のように思い出された。
「俺らも、来年で終わりか」
「まだ終わってねえよ」
 色褪せているようで、色鮮やかな光景を振り返っていたら、日向がしみじみ呟いた。それに思わず噛みついて、影山は言ってから苦々しい表情を作った。
 振り向いた日向は目を細め、満足そうに笑っていた。
「つーか、まだ始まってもねーしな?」
「……おうよ」
 季節は一巡し、間もなく二周目が終わる。影山が烏野高校に入学して、二度目の冬が始まっていた。
 あと少しすれば、春になる。彼らを引っ張ってくれていた心強い先輩たちは卒業し、いなくなってしまう。
 成績面で心配された西谷や田中は、先生方の熱い指導と努力の甲斐あって、ギリギリセーフで留年は回避された。残る三名の方は最初から問題になどならなくて、縁下などは年明け前に、あっさり大学の合格通知を手に入れていた。
 就職する人、進学する人、当面は家業を手伝いながら道を模索する人。
 五人の笑顔を順番に並べて、影山は歯を見せて笑う日向に肩を竦めた。
 彼の言う通り、ふたりの道はまだまだこれからだった。
 高校三年生といえば、最上級生だ。主将でなくとも後輩を指導する立場になるのは変わらないし、頼られる存在でなければいけない。自分たちが後輩だった時の上級生のように、背中で語れて、支えてやれる人間でありたかった。
 とはいえ、言うは易く行うは難し。未だ周囲から問題児扱いのふたりが後輩たちの規範になれているかどうかは、首を捻らなければならなかった。
「もうちょっと、しっかりしないとな。おれら」
「テメーと一緒にすんじゃねえ」
「寝言は寝てる時だけにしような、影山クン?」
 その自覚があるのか、日向がぽつりと言った。ひと括りにされるのを嫌がった影山は反発したが、軽く流されてしまった。
 この一年ちょっとの間に、日向は随分と口が達者になった。
 特に嫌味の切り返し方が、少しだけだが月島に似て来ていた。
 変なところで影響を受けている。気に入らなくて臍を曲げて、影山は会話を終わらせようと手を振った。
 犬猫を追い払う仕草で日向を牽制し、細身のシャープペンシルを拾い上げる。直後に指で弾いてくるりと回せば、苦笑していた日向が背筋をスッと伸ばした。
「おれ、ソレ、出来ねーんだけど」
 長らく背凭れに預けていた足を下ろし、机上から椅子へ移動した彼が面白くなさそうに呟いた。靴跡が残る背板に胸を寄り掛からせて、影山との距離を狭めて口を尖らせる。
 降りろ、との命令に今頃従った彼に嘆息して、影山は握り直したシャープペンシルを持ち上げた。
「知るか、ボケ」
 尖った先端を彼に向け、素っ気なく言い放つ。
 返答が気に入らなかった日向は不満を露わにしたが、影山は相手にせず、引っ込めていた芯を数ミリ押し出した。
 しかし紙面に点をひとつ打っただけで、筆は一向に進まなかった。
 彼らがこの学校に在籍していられるのは、あと一年と数か月。それはとても長いように思えて、恐ろしく短い時間だった。
 入学から今日まで、あっという間だった。毎日練習に汗水流し、試験前には大騒ぎをして、試合では歓喜の雄叫びを上げ、何度も悔し涙を飲んだ。
 充実した日々だった。しかし満たされない。まだ足りないと貪欲な心が吠えて、更に上を目指せと背中を押した。
 階段は雲を突き抜け、天高くまで続いていた。登った段数は半分にも届かず、ゴールは隠れて見えなかった。
 階段は、途中で幾つにも分岐していた。
 登り易そうな道、険しそうな道、色々だ。そしてどのコースを選ぶかは、影山の意志次第だった。
「…………」
 その自分の意志が分からなくなりそうで、影山は書きかけては止め、紙面に点ばかり打ちこんでいった。
 同じ場所で足踏みをして、一向に進もうとしない。普段以上に口数の少ない彼を眺め、日向は猫のように背中を丸めた。
 椅子ごと影山の机に寄り掛かって、首は右に倒して視界を広げる。斜めになった彼を一瞥して、王様と呼ばれた天才セッターは口をヘの字に曲げた。
 こうも注目されると、やり辛くて仕方がなかった。
 日向が此処に居ても、居なくても、きっと結論を出せずに悶々としていた。ただ彼の視線があるお陰で、ただでさえ悪かった進みが一層悪化したのは、ほぼ間違いなかった。
「練習、行けよ」
「山口には言ってある。影山が逃げないように見張ってろ、って武田先生にも言われた」
「そんな信用ねえのか、俺は」
「あと提出してないの、お前だけだかんな」
 なんとか追い払おうとするが、藪蛇だった。顧問の名前まで出されて、影山は拗ねた顔で首を竦めた。
 未提出のまま体育館に行ったら、確実に武田に説教される。出さずにいたら、練習に参加出来ない。
 日向まで巻き込む事になるのは不本意で、嬉しくなかった。
 八つ目の黒点を打ったところで、影山は諦めて右手を広げた。
 握っていたものを倒し、首を振る。盛大にため息をつけば、案の定、日向が絡んできた。
「ンなの、ちゃちゃっと書いて、出しちまえばいいだろ」
「そういうテメーこそ、どうすんだよ!」
 そこまで思い悩む必要などない、とでも言いたげに怒鳴られた。だから影山も声を張り上げ、ついでに拳で机を叩いた。
 ダンッ、と音を響かせた彼に、日向は驚いたのか仰け反って目を丸くした。
 凭れかかっていた椅子から身を剥がし、何度か瞬きをして影山を見詰める。よもや自分に話が振られるとは、夢にも思っていなかった表情だった。
 もっとも、それも無理からぬ事だった。
 日向は早い段階から、就職を希望すると言っていた。大学進学は学力的に難しく、推薦の話が来ない限りは選ばない事を、二年の春には決めていた。
 そして肝心の推薦も、今のところ、話が来る気配はなかった。
 チームの囮役として目覚ましい活躍を見せる彼だけれど、百六十センチ少々の身長は矢張りネックだった。攻撃力はずば抜けているが、守備力が低いという部分も、周囲の評価を悪くしていた。
 オリンピックだなんだのと大層なことを言っていた時期もあるが、自分の実力を知るにつれ、越せない壁を感じるようになったのかもしれない。
 一緒に世界の天辺を目指す約束は、どうやら叶えられそうになかった。
 そんな話を笑いながらされて、影山が怒らないわけがなかった。
 以来、進路の話はタブーになっていた。取っ組み合いの喧嘩をしたのは久しぶりで、日向も反省したのか、進んで話題に乗せようとしなくなった。
 だからこんな風に、茶化しながらせっついてくると思わなかった。
 苛立ち、痺れた手を机に押し付ける。顎が軋むくらいに歯を食い縛る彼を見て、日向は三秒してから四肢の力を抜き、静かに微笑んだ。
「聞きてーの?」
 穏やかに訊ねられて、影山は答えられなかった。
 目を見張り、耐えられなくなって顔を背ける。夕焼けは色を強め、西の空は燃えているかのように真っ赤だった。
 自分たちも少し前までは、あんな風に情熱的に思いを通わせていたのに。
 影山が目指す未来は、昔からずっとひとつだった。
 バレーボールのプロ選手になる。代表チームに選出されて、日の丸を背負ってオリンピックや、世界大会に出場する。
 それしか考えない。
 それしか求めていなかった。
 だというのに、今になって屋台骨が揺らいでいた。幼い頃から描き続けていた青写真が、根底から覆されようとしていた。
 握り拳を解き、影山は腕を伸ばした。もがくように指を動かし、掴んだのは小さな手だった。
 暖かさに触れて、彼は不意に泣きたくなった。
「聞き……たく、ねえ」
 絞り出した声は掠れ、殆ど音になっていなかった。
 けれど日向はしっかり言葉を拾い、緩慢に頷いた。少し照れ臭そうに首を傾けて、「そっか」と短く相槌を打った。
 日向は進学しない。プロは目指せない。地元に残り、烏養がそうだったように、趣味でやっている人を集めて、地域でバレーボールチームを作って、それを生き甲斐にする。
 道は別たれる。二度と交差することはない。
 約束は違えられ、果たされる日は来ない。
 永遠に。
「お前は、行くんだろ。東京」
 静かに囁かれて、影山は顔を伏した。日向の手を掴んだまま俯いて、血が出る寸前まで唇を噛み締めた。
 手と手は重なり合っただけで、握り返されることはなかった。募らせた思いを拒絶されているようで、影山は顔を上げる事が出来なかった。
 高校を卒業して即プロチームに所属する男子選手は、女子に比べると圧倒的に少ない。男性プレイヤーの多くは大学に進学し、プロとしてやっていける肉体を完成させ、技術を磨き、経験を蓄積してから、決して広くない門戸を叩く。
 影山もそれに倣い、関東の強豪校への進学を希望していた。
 偏差値はかなり足りていないが、彼の腕ならば、推薦を勝ち取るのも夢ではない。来年度のインターハイの結果次第では、一校だけでなく、複数の大学から誘いが来る可能性もあった。
 地元の大学へ進学する道もあるけれど、どうせ挑戦するなら、より強いチームがいいに決まっている。影山個人の夢を叶えたければ、迷う必要はなかった。
「俺は、……行かねぇ」
 だのに、決心がつかない。足元がぐらついて、前にも、後ろにすら動けなかった。
「バカ言ってんじゃねーよ。お前は、もっと上に行けんだから」
 絞り出した声をあっさり叩き落し、日向は語気を強めた。今すぐ撤回しろとばかりに早口になって、影山の手の下で指を折って拳を固くした。
 彼の手が丸みを帯びた分、影山は上に押し上げられた。跳ね除けられはしなかったものの、触れ合う事さえ拒まれている気がして、胸が締め付けられるように痛んだ。
 息苦しかった。目に見えない圧力で押し潰されてしまいそうで、呼吸ひとつままならなかった。
 溺れてしまう。
 日向のいない世界に埋没して、二度と起き上がれない。
 景色が歪んで見えた。
 もう限界だった。
「バカ言ってんのはテメーだろうが!」
 叫び、影山は掴んだその手に爪を立てた。
「……イ、つぁっ」
 肉を抉られた日向は悲鳴を上げ、急ぎ逃げようと肘を引いた。しかし影山は許さず、皮膚を突き破る勢いで指先に力を込めた。
 深爪になる寸前まで削られていようとも、十分凶器だ。骨と骨の間に深く食い込んでいる爪甲に歯を食い縛って、日向は小鼻を膨らませた。
 無理に引っ込めれば、逆に表皮を削られてダメージが大きくなる。影山の指を痛めてしまうかもしれない。そんな可能性に思い至って身動きが取れなくて、日向はひたすら耐えるしかなかった。
 そうやって健気な素振りを見せる彼を鼻で笑い飛ばして、影山は身勝手が過ぎる少年を睨みつけた。
 夢を叶える第一歩として大学に進んでも、傍に日向が居なければ意味がない。
 自分が優秀なセッターであればチームは勝てる、という傲慢な思い込みは、とうの昔に打ち砕かれている。ひとりだけ強くても意味がない事は、高校に入って散々思い知らされた。
 もし中学時代の考えのまま高校でプレイを続けていたら、まず間違いなく、どの大学のスカウトの目にも留まらないだろう。自分がチームの為に尽くしていると、胸を張って言えるようになったのは、日向との出会いがあったお蔭だ。
 彼がいなかったらと思うと、心底ぞっとする。日向に巡り会えていなかったら、影山はどこかでバレーボールを辞めていた。
 だからこそ許せなかった。
 認めたくなかった。
「テメーが、先に言ったんだろうが。ずっと一緒だって。俺と、一緒に……世界目指すって、テメーが!」
 それは一年の時のインターハイ予選、初日の朝。
 いつものように部室まで全力で競争して、息を切らしながら交わした約束だった。
 あの日のことを忘れたことはない。記憶は色褪せる事なく、影山の中できらきら眩しく輝いていた。
 日向は違った。
 信じていたのに、そうではなかった。
 それがどうしようもなく悔しくて、哀しかった。
 抗いもせず、簡単に諦めてしまった彼が憎かった。
 こんなにも好きなのに、離れ離れになるのを受け入れている日向が情けなかった。
 荒い息を吐き、影山は肩を上下させた。
 零れそうになった涙を必死に堪え、思い切り鼻を啜る。溢れ出る嗚咽も全て飲み下して、ひとりではどうにもならない感情に奥歯を噛み締める。
 今にも泣きだしそうな影山を仰いで、日向は押し黙り、きゅっ、と口を引き結んだ。
 そして緩んでいく影山の手を追って、初めて彼を握り返した。
「……だな。言った。約束した」
 赤い爪痕が残る手で影山を包み、そっと語り掛ける。声は穏やかで慈愛に満ちていて、嵐に囚われていた彼の心を優しく抱きしめた。
 それで不覚にもひと粒、涙が零れて、彼は頬に落ちる前に慌てて残る手で拭い払った。
 緊張の糸が切れて、なし崩しに壊れてしまいそうだった。
 もう誤魔化しきれないのになだ隠そうとする影山に苦笑して、日向は紙の中央に配された空欄に意識を向けた。
 彼を悩ませ、立ち止まらせている原因がなんなのか、分からないほど馬鹿ではない。てっきり誰よりも早く結論を出すだろうと思っていたのに、今日になってもうじうじしているとは、夢にも思わなかった。
 武田に相談された時は驚いた。
 真剣な眼差しで、本当に良いのかと問われた時は、心臓が止まるかと思った。
 嘘はつかなくていい。
 自分に嘘を吐いたところで、なにひとつ救いにはならない。
 誰も救われない。
 そんな風に言われたら、本心を曝け出すしかないではないか。
 その足で、担任のところに行った。提出済みだった書類を回収して、全部消して、書き直した。
 三つある欄の最上段に、ひとつだけ。
 夢は、あの日武田に語った時のまま。
「だからおれ、大学行く」
 目標は、オリンピック。それもただ出場するだけではない。予選も、本線も全て勝ち進んで、栄光の金メダルをこの手に。
 学力は正直、かなり危うい。けれど諦めない。時間はまだある。必死に食らいついていけば、不可能だって変えられる。
「――は?」
 白い歯を見せて笑い、胸を張る。一方で影山は惚けた顔で目を点にして、ぽかんと口を開いて間抜け面を晒していた。
 呆気に取られ、固まっていた。
 怒涛の展開に凍り付き、思考停止に陥っていた。
 面白い顔だった。携帯電話のカメラを向けて、シャッターを押したくなる表情だった。
「……は?」
 掠れた小声が聞こえて、笑いが止まらない。噴き出しそうになるのを懸命に我慢して、日向は呆然自失としている恋人の手の甲を抓った。
 薄い皮膚を引っ張り、時計回りに捩じる。当然痛くて、影山は慌てて手を引っ込めた。
 これは夢でも、幻でもない。
 それを教えてやって、日向は肩を竦めた。
「どこの大学かは、これから考えるけど。もう月島と山口に、勉強、教えてもらってんだ」
 今から挽回するのはなかなか難しいが、やれる事から始めるしかない。それにここ烏野高校に進学する時だって、日向は死に物狂いで勉強して、念願を叶えたのだ。
 やる前から諦める人生なんて、なにも面白くない。
 夢は大きく、目標は高く。
 目指す未来はぴかぴかの、キラキラだ。
 進学クラスに在籍するチームメイトの名前を出し、照れ臭そうに笑う。そのはにかんだ表情を十秒以上見つめて、影山はハッと我に返って背筋を粟立てた。
 傍から見ていても震えているのが分かる彼に、日向は怒鳴られるのを警戒して僅かに身を引いた。
「っき、き……き」
「ウキキ?」
「聞いてねーぞ!」
 その数秒後。
 案の定、影山は大声を張り上げた。椅子を蹴り飛ばして立ち上がって、両手で机を殴って荒い息を吐いた。
 猿真似で場を和ませようとして失敗した日向は首を竦め、赤いのか、青いのかよく顔色の恋人に口を尖らせた。
「だってお前、聞きたくないつったじゃん」
 頬を膨らませて拗ね、上目遣いに睨みながら呟く。
 少し前のやり取りを振り返って、影山は罠に掛かった気分で騒然となった。
 確かに、日向の言う通りだった。
 前に喧嘩になって以来、この話題は極力避けるようにしていた。触れてはいけないものとして封印して、興味はあったが、関心を持たないようにしていた。
 日向も無駄な口論をしたくなくて、自分から進んで話そうとはしなかった。
 訊かれたら答えるが、質問されない限りは言わない。
 そのスタンスを維持していたら、いつの間にかこんな季節になっていた。
 正論過ぎて、影山はぐうの音も出なかった。瞬きも忘れて茫然と立ち尽くして、彼は握り拳を解くと力なく膝を折り、椅子へ舞い戻った。
 両手で顔を覆い、肩を落として力なく机にしな垂れかかる。明らかに落ち込んでいる姿に苦笑を禁じ得ず、日向は手間のかかる男を愛おしげに見つめた。
「そんで?」
 自分は言った。将来の夢を。
 次は誰の番かと目で尋ねれば、指の隙間から顔を出した影山が、悔しそうに唇を噛み締めた。
 よろめく腕でシャープペンシルを拾い、握り、構える。出したままの芯を紙面に押し当てて、力強い字で己が進む道を書き記す。
 最後、どうだ、と言わんばかりに胸を張られた。あまりにも得意げな表情についに噴き出して、日向は堂々とした悪筆に相好を崩した。

2014/10/29 脱稿

Mystery Train

 青心寮の朝は、早い。
 勿論始業前に練習があるから、という理由なのだけれど、それより早く起き出して、ランニングに勤しむ日もあった。特に夏場は明るくなるのが早いので、四時半頃からひと汗流す部員もちらほらと見受けられた。
 もっとも、血気盛んに意気込んでいる馬鹿ほど、オーバーワークに陥りやすい。
 沢山練習すれば上手くなるわけでないというのに、自分を追い込み、徹底的に痛めつけるのが上達への近道だと勘違いしている。そういう無鉄砲な一年生を窘め、手綱を引いて制御してやるのは、共同生活を送る上級生の仕事だった。
 今日もまた、そんな口だけ達者な後輩を叱って、御幸一也は自室へ急いだ。
 背番号をもらった以上、必死になる気持ちは分かる。一日でも早く一人前になりたいという気概は、痛いくらいに伝わってきた。
 しかしそれで無茶をされて、肩や肘を壊されては元も子もない。
「おのれぇ。御幸一也ぁ~!」
 まだ諦めきれないのか、階下から沢村の喧しい声が響いてきた。それに堪らず苦笑して、御幸は制服に着替えるべくドアに手をかけた。
 朝の練習を終えて軽く汗を拭き、食堂で腹を満たした後は、学校だ。今日は平日なので当然授業がある。大会期間中ではあるが、まだ始まったばかりなので試合の日程には余裕があった。
 初戦の対戦相手はまだ決まっておらず、今は情報収集と分析に忙しい。春の大会でシード権を獲得しておいたのが功を奏して、いきなり強豪チームと当たる率が下がったのは有難かった。
 とはいえ、油断は出来ない。
 グラウンドには魔物が棲んでいる。時として大番狂わせが起こり得るのがトーナメントであり、地方予選の醍醐味でもあった。
 既に他の都道府県で、ジャイアントキリングが起きている。昨夏の代表校が初戦敗退というのも、割とよくある話だ。
 青道高校がそうならない為にも、選手の体調管理は必須。特に今年の一年生投手は、ふたり揃って無茶をしかねない性格だった。
 片方は無口で、片方はお喋り。見た目も中身もまるで違うというのに、野球に対する情熱、マウンドへの執着心は、現エースの丹波にも引けを取らなかった。
 その丹波は怪我で戦線を離脱しており、まだしばらくは安静が必要と言われている。復帰出来るのは早くて数週間後で、彼の夏をこんなところで終わらせるわけにはいかなかった。
 だからこそ余計に、一年生コンビは力んでいるのかもしれない。
 かといって、沢村の主張を簡単に受け入れるわけにはいかなかった。
 ただでさえ投手事情が苦しい中で、彼らまで負傷されたら堪らない。今は降谷と沢村、そして二年生の川上の三人で勝ち上がっていくしかないのだから。
 だというのに、その大事な主戦力がいつまで経っても無茶を止めなかった。
 降谷は関東の夏に身体が上手く対応出来ておらず、最近は少し大人しかった。同時に食欲も減っているのが気がかりで、体重が落ちていないか、別の意味で注意が必要だった。
「朝から元気だねえ」
 まだ騒いでいる馬鹿を笑い、部屋に入って眼鏡を外す。眼球の奥がゴロゴロしている気がして眉間を押さえ、御幸はゆるゆる首を振った。
「目薬、どこやったっけ」
 靴を脱いで部屋に上がり、真っ先に向かったのは自分の机だ。それくらいなら感覚で辿り着けて、心当たりを探して床に向かって手を伸ばす。
 目的の物はすぐ見つかって、彼は開けた鞄を素早く閉じた。
 始業時間まではまだ余裕があり、それほど急がなくても間に合うはずだ。だが油断は禁物と己を戒めて、小瓶の蓋を捩じって開いた。
「んー」
 上を向き、逆さにした瓶から一滴、目玉へと落とす。続けて反対側にも一滴落として姿勢を正せば、必要以上に身体を反らしていたらしい。腰がコキッ、と小さくなった。
 まるで年寄りだ。苦笑して、御幸は目頭から垂れそうになった目薬を慌てて閉じ込めた。
 瞼を下ろして暫くじっとして、全体に浸透していくのを待つ。鼻筋に零れてしまった分はティッシュで拭い取って、瓶には蓋をして、最後に濡れた紙を丸めてゴミ箱へ放り込む。
 だが先客が多すぎて、新入りは敢え無く弾きり飛ばされてしまった。
「あちゃ」
 同室の先輩や後輩と共用のゴミ箱に首を竦め、御幸は眼鏡をかけ直した。
 ゴミを転がしたままでは怒られるし、不衛生で見た目も悪い。仕方なく一歩半の距離を往復して、彼は気になって耳を欹てた。
 先程まで大騒ぎしていた一年生は、いい加減観念したのか、威勢の良い声は聞こえてこなかった。
 恐らくは五号室の倉持が、五月蠅い、とでも叱ったのだろう。口は悪いが面倒見は良い同級生に含み笑いを零し、御幸は部屋が混む前に、と着替えに取り掛かった。
 手早く制服に袖を通し、ネクタイもしっかり結んでから汚れ物は自前の籠へと放り込む。洗濯は夜にしようと決めたところで、食堂で話し込んでいたらしい先輩、後輩が大慌てで帰ってきた。
「お先でーす」
 時間を忘れて熱弁をふるうのは構わないが、遅刻は不味い。急いで身支度を整える彼らに軽く挨拶をして、御幸は鞄を手に部屋を出た。
 通路に出てからきちんと靴を履き直し、手すりから身を乗り出して下を見る。既に何人かの部員が学生服に身を包み、学校に向かうべく門を潜っていた。
「……ん?」
 だがその列が、少しだけ乱れている。手前で小さな集団が出来ており、団子状態になって通行を邪魔していた。
 その中には、遠目からでも目立つピンク色の頭も含まれていた。
「あれは」
 現在、この寮にはあの髪色の生徒がふたりいる。三年生と一年生にひとりずつで、集団に紛れているのは弟の方だった。
 小柄な体で懸命に背伸びをして、前に立つ男子生徒に何かを話しかけていた。傍には次期エース候補である降谷も居て、小湊弟と一緒に輪の中心に佇む人物に意識を傾けていた。
 話し声は聞こえなかった。いつもの騒がしさが嘘のように、ふたりに囲まれた沢村は静かだった。
「なんだ?」
 その沢村は俯いて、ひっきりなしに目元を擦っていた。
 まるで泣いているかのような仕草に、御幸は必要以上に身体を前に出した。
 危うく手摺りから落ちるところで、現在地を思い出して軽く焦る。ひっそり冷や汗を流して自嘲気味に笑い、彼は地上に通じる階段へ急いだ。
 鞄を小脇に抱えて駆け、乾いた地面を靴底で蹴り飛ばす。左右に揺れて邪魔なネクタイを右肩から背中に跳ね除けて息を整え、門から少し離れたところに立つ一年生トリオに眉を顰める。
「どーした、お前ら」
 なるべく平静を装って声を掛ければ、真っ先に気付いたのは小湊だった。
 鼻筋まである長い前髪で、どうやって視界を確保しているのか。毎度ながら不思議ではあるが、プレイに問題がない以上、切るように強制するのは難しかった。
 それに彼の後ろには、敵に回すと厄介な人がいる。
 小湊弟に要らぬちょっかいを出す時は、闇討ちされる覚悟が必要だった。
 背番号四を背負う小柄な三年生を頭から追い出して、御幸は振り返った一年生に首を傾げた。
「御幸先輩」
「なにやってんだ? 遅れんぞ」
 さも、たった今彼らに気付いた体で話しかけ、距離を詰める。脇に挟み持っていた鞄を肩に担ぎ直して近付けば、一瞬躊躇した小湊が左足を退いて道を譲った。
 もっとも、真正面は行き止まりだ。幾分見え易くなった沢村に眉目を顰め、御幸は何をするでもなく、ただ立っているだけの降谷にも視線を投げた。
 今になって気がついたが、速球派投手はその利き手で沢村の左手首を掴み、動かないよう固定していた。
「どした?」
 さっきから質問しているのに、未だ返答が得られない。二年生の手を煩わせる必要はない、とでも思っているのか、小湊は頻りに同級生を気にしていた。
 けれど今更後にも引けなくて、御幸は赤い顔を伏している沢村に半歩、歩み寄った。
「ん?」
「ああ、いえ。栄純君が、目に」
「痛いって、さっきから」
 それでやっと観念したか、小湊が話し始めた矢先、寡黙な降谷も口を開いた。
 ふたりの声が重なって、一瞬、何が何だか分からなかった。
「は?」
 同時に喋らず、順番に聞かせて欲しかった。相変わらずテンポが独特な降谷に肩を竦めて、御幸は詳しい説明を求めて小湊に視線を投げた。
「うぅ~~」
 その脇では沢村が、鼻を愚図らせて唸っていた。
 御幸が傍に居るのは声で分かっているだろうに、顔を上げようともしない。利き腕は降谷が捕まえているので動かせず、なんとか右手で顔を掻こうとするが、鞄を抱えている所為で上手く出来ずにいた。
 それでも悪足掻きを止めない彼に焦れて、小湊がその右腕を押さえこんだ。
 両側から腕を押さえつけられている沢村は、随分昔に世を賑わせた、捕縛された宇宙人の写真を連想させた。
 左右の腕を男たちに吊り上げられた図は、滑稽だった。それを若干ながら再現している沢村も、失笑に足る姿だった。
「なんか入ったのか?」
「たぶん、そうだと思います」
 思わず噴き出してしまい、睨まれる前に慌てて問いかける。ふたりの話を統合した御幸に、小湊は自信なさげに呟いた。
 彼の説明では、五号室を出てきた時から、沢村はこの調子だったらしい。
 もっと投球練習がしたい、付き合え、と御幸に主張していた時の面影は、どこにも残っていなかった。
 散々掻き毟って赤くなった右目とその周囲が痛々しくて、見るに堪えない。しかも、ここまでなってもまだ痛いらしく、掻きたいのに出来ない状況に不満を募らせて唸っていた。
「着替えン時に、ゴミでも入ったのかね」
「さあ……」
 グラウンドで砂埃を浴びたのならまだしも、部屋の中でそれは考えにくい。糸埃でも眼球に貼り付いたかと首を捻った御幸に、小湊は自信なさげに首を振った。
 一方で降谷は呑気なもので、
「ウサギみたい」
「うっせえ、んなわけあるか」
 充血して真っ赤になっている沢村の眼を覗き込み、ピントが外れた感想を述べて嫌がられていた。
 異物を押し流そうとしてか、生理現象で溢れた涙が沢村の目尻に溜まっていた。右目が痛い所為か左目も開け辛そうで、奥歯を噛み締めているのもあり、表情は歪んでいた。
 必死に我慢している様子が窺えて、御幸はどうしたものかと肩を竦めた。
「洗ってくるか?」
「そうですね。それが良いかも」
 いつまでもここで、こうしている訳にはいかない。立ち止まっている彼らの横をすり抜けて、寮にいた部員らが急ぎ足で通り過ぎて行った。
 あまりのんびりとはしていられなかった。様子を気にして視線を送ってくる先輩方もいて、御幸はなんでもないと手を振った。
 もし何か目に貼り付いているだけなら、水で洗えば取り除ける。そうでないなら、医者に行くしかない。
「……注射……」
「いやいや、流石にそれはねーし」
 その言葉に降谷が反応して、ぶるりと震えあがった。すかさず御幸がツッコミを入れて、どうするか沢村に問うた。
「うぅ~~。いてぇ……」
 しかし返答は得られず、代わりに呻き声が返された。
 話にならない。呆れて嘆息して、御幸は肩に引っ掛けたままだったネクタイを胸元に戻した。
 そして位置を調整する中で、ふと思い出した出来事に目を瞬いた。
「そういや俺、目薬持ってるわ」
「え?」
 部屋で自分に使って、その後鞄に入れておいたのだった。
 学校で使いたくなったら困るので、いつでも出せるように持ち歩く習慣が出来ていた。それをすっかり忘れていたと顎を掻いた彼に、小湊は素っ頓狂な声を上げ、それから考え込むかのように下を向いた。
 一方で必死に痛みと戦っている沢村は我慢も限界のようで、友人から腕を奪い返そうと暴れていた。
「なんでもいいから、早くなんとかしてくれよ」
 小湊の手は払い除けたが、降谷の方は難しい。それで余計に腹を立てて、彼は痺れを切らして吠えた。
 その台詞にイラッとしたのかどうかは、分からない。ただ小湊は小さく首肯すると、顎にやっていた手を下ろして沢村の背中を押した――御幸の方へ。
 驚いた降谷が沢村を解放し、不意打ちを食らった変則フォーム左腕はたたらを踏んで仰け反った。
 いきなり距離を詰めて来られ、御幸はぎょっとなって凍り付いた。その隙に小湊は降谷の手を取り、門を潜って舗装された道に出た。
「じゃあ、御幸先輩。栄純君の事、よろしくお願いしますね」
「――はあ?」
「って、おい。春っち!」
 境界線を跨いだ先で振り返り、行儀よく頭を下げて頼み込む。それにハッとして、御幸も、沢村も、揃って声をひっくり返した。
 丁寧な物言いではあったが、結局は全部御幸に押し付け、無責任に放り出したようなものだ。蛙の子は蛙と言うが、小湊弟はあれでしっかり、兄の血を引き継いでいる。
 目薬を持っているというだけで一方的に任せられて、御幸は呆気に取られて立ち尽くした。
「なんだってんだよ、春っちは。あー、くっそ」
「こら、掻くな。余計に酷くなんぞ」
 沢村も呆然として、悪態をついて顔に手を遣った。久しぶりの自由に痛む目を擦ろうとして、直前で御幸に止められ渋い顔をする。
 頬を膨らませて睨まれて、青道高校の正捕手は困った顔で溜息をついた。
「つーか、なんだってンな、痛ぇんだよ」
「俺が知るかよ。なんか、シャツ脱いでたら、急に」
「ちょっと見せてみろ」
 そもそもの原因は、一体なんだったのか。
 異物の混入もあるが、睫毛が逆方向を向いて眼球に接触している可能性も否定できない。それだと点眼で症状が改善しないかもしれなくて、判断は慎重になった。
 思い込みだけで事を運ぶのは危険だ。深く息を吐いて呟いた御幸に、沢村は何故か臆し気味に身を引いた。
「いーって。目薬貸してくれりゃ、もうそれで」
「よくねーから言ってんだろ。先輩の言う事はちゃんと聞け」
「それとこれ、関係なくね?」
「あんだろ。ほら、大人しく観念しろって」
 及び腰になって逃げようとする彼を捕まえて、反論を封じ込める。一気に捲し立てて命じれば、苦虫を噛み潰したような顔の沢村も、最終的には白旗を振った。
 抵抗を諦め、大人しく両腕を脇に垂らす。その上で目を瞑ってしまった彼に、御幸は堪らず苦笑した。
「見えねーんだけど」
「ふおっ、そうだった」
 直立不動で畏まるのは良いが、調べたいのは眼だ。瞼を下ろされたら意味がないとのツッコミに、気が付いていなかったのか、沢村は大袈裟に驚いてみせた。
 相変わらず、救いようのない馬鹿だ。
 腹を抱えたいのを堪え、御幸は沢村の額を指の背で小突いた。調べやすいように上を向くよう促して、充血して痛々しい右目を斜め上から覗き込む。
 沢村の呼気が鼻先を掠めた。緊張しているのか、力んだ唇がタコのように窄められている。閉じないように瞼をぴくぴくさせており、カチコチに固まっている姿は滑稽だった。
 必死に噴き出すのを我慢して、御幸は沢村の下瞼を押さえつけた。
 傷つけないよう注意深く引っ張って、眼球の表面を覗き込む。どこかで血管が切れてしまっているらしく、隠れていた部分にも赤い筋が走っていた。
「こりゃあ、ひでーや」
「ええっ」
「もしかしたら失明するかもな」
「なんですと!」
 思わず呟き、悪戯心を膨らませる。冗談を真顔で囁けば、本気にしたのか、沢村が素っ頓狂な声を上げた。
 呆然としているというのか、頭が真っ白になっているというのか。
 ともかくぽかんと目も口も丸くして、絶句した彼は暫く動かなかった。
 人間、本当に凍り付く事もあるのだ。妙なところで感心して、御幸は鞄のポケットから目薬を取り出した。
 専用のケースに入れてあるそれを引き抜いていたら、今頃恐怖に見舞われたらしい。ガタガタ震えた沢村が、泣きそうな顔で腕に縋りついてきた。
「ままま、まさか。ンなわけねーっすよね。大丈夫っすよね。全然、さっきまでなんともなかったし。だから、先輩。俺、ヘーキ、っすよ、ね……?」
 不安を顔に出し、必死になって問いかけて来るが、敢えて答えない。黙ったままでいると、怖くなったらしい、沢村の顔が一気に青くなった。
 もはや目の痛みなど、すっかり忘れ去っている。バカは騙しやすくて楽だと心の中で笑って、御幸は目薬の蓋を外した。
「はいはい。いーから、黙って上向こうな」
「なあ、ホントに大丈夫なんだろうな。俺、もっと投げられるよな」
「俺としては、お前はもうちょっと投げなくなってくれた方が助かるんだけどな」
「そんなぁぁぁ~~~」
 万が一失明しようものなら、野球は続けられない。悲鳴を上げた彼に切り返した内容は、沢村の恐怖とは別件の本音だった。
 毎日捕手として自主練習に付き合うのは疲れるし、彼にばかり構ってもいられない。必要以上に肘を酷使するのは避けたいし、試合前に疲労を溜め込まれても困る。
 そういう捕手目線での相槌を勘違いして受け止めて、沢村は頭を抱えて絶叫した。
 どこまでも大袈裟な彼に肩を竦めて、御幸は項垂れている後輩の肩を叩いた。
「ほーら。目薬注すぞ」
「……うぅ」
「痛ぇままはヤなんだろ?」
 時間は刻々と過ぎていく。遅刻という文字が頭をちらつき始めた彼の催促に、沢村は渋々頷いた。
 失明の危機に瀕するような状況が、点眼一滴で改善するわけがない。だというのに冗談を真に受けて、バカはきゅっと目を閉じた。
 唇を引き結び、気を付けのポーズで畏まる。その、先程の反省が少しも見えない彼に、笑いが止まらなかった。
「お前さあ」
「う、ぬ?」
「目ぇ瞑ってどーすんの」
 あれから五分と経っていないのに、もう忘れている。鳥頭も大概にするよう言えば、ハッとした沢村が顔を赤くした。
 同じ失敗を繰り返したのを恥ずかしがり、耳の先まで朱に染めるところは初々しくて、可愛かった。
「……ン?」
 思考が若干変な方向に曲がった。鋭い変化球でデッドボールを食らった気分で、御幸は自分に眉を顰めた。
「は、早くしろって」
「おおう」
 その間に沢村は背筋を伸ばし、顎を上げ気味に怒鳴った。今度はちゃんと目を閉じずに耐えているのを確かめて、御幸も小瓶を握り直した。
 ゆっくり近付け、逆さまにした容器の腹を押す。液体が雫型になって溢れ出し、本体から分離しようとぶらぶら揺れた。
 いつ落ちるか分からない薬剤を凝視して、怖くなったのか、沢村の手が宙を泳いだ。
「……おっと」
 空を掻いた指が行き着いたのは、御幸の腕だった。
 日焼けした肌を隠す袖を掴まれて、ぎゅっと握りしめられた。本人は無意識だったろうが身体を揺すぶられ、それが影響して目薬本体も大きく波打った。
 衝撃が伝わり、我慢の限界に至った雫が根本でぷつりと切れた。己の重みに従って、重力に導かれるままに落ちていく――
「っ!」
 瞬間、沢村の眼がぎゅっと閉じられた。
 必要のない左目まで思い切り瞑って、首を竦めて小さくなる。人の腕を掴む指先にも力が込められて、間で潰された袖が皺くちゃになった。
「う~~~~」
「ああ、もう。流れちまってんだろーが」
 慣れていないのか、沢村は俯いて唸った。折角の薬剤を涙と一緒に外へ押し流して、頬には一筋の川が出来上がっていた。
 薬瓶に蓋をして、御幸は小さく舌打ちした。これでは何の意味もないと肩を竦め、鼻を愚図らせる後輩の頬を気まぐれに撫でた。
 拭いてやりたいところだが、ハンカチの類は持ち合わせていない。タオルなら鞄の中にあるが、出すのをサボって指で掬い取ってやっていたら、何処からともなくカシャッ、と固い音がした。
「?」
 機械が放つ電子音に眉を顰め、後ろを向く。そこから左右を見回して、御幸はヒクリと頬を引き攣らせた。
「うぬ?」
 動きを止めた彼をまず怪訝がり、自分で頬を拭った沢村も首を左に傾がせた。
 ふたりが揃って見つめる先には、にこやかにほほ笑む三年生の姿があった。
 御幸に沢村を押し付けた一年生の実の兄の手には、絶賛稼働中の携帯電話が握られていた。
「うん。ナイスアングル」
「ちょ、えっ。亮さん?」
 縦に細長い電子機器には、カメラのレンズが埋め込まれていた。ならば先ほどのあれは、シャッターを押した音に他ならない。
 そして被写体は、間違いなく。
「何してんですか、亮さん!」
 含みのある台詞に総毛立ち、御幸は声を上擦らせた。慌てて詰め寄るが逃げられて、地団太を踏むが意味はなかった。
 小柄な体格をカバーして余りある守備力と打撃センスの持ち主は、小悪魔的な性格も相俟って、部内では非常に恐れられる存在だった。
 そんな彼に見つかった時点で、もう手遅れだ。それでも食い下がって消すよう求めれば、逆に得意げな顔で画面を見せられた。
「上手く撮れたと思わない?」
「誤解を招くような真似は止めてください」
「最初に誤解を招いたのはお前だろ?」
「あれは、沢村の奴が、目が痛いって……ですから、変な言いがかりは止してください」
「……春一にメール添付、送信、っと」
「何してるんですかあああああ」
 それはアングル的に、沢村と御幸が顔の一部を重ねている風に見えなくもない画像だった。
 勿論そんなこと、実際に起きるわけはないのだけれど、知らぬ人間が見たら信じてしまいかねない。特に主将の結城は、そういう面で人を疑うことを知らなかった。
 放課後の練習が始まる頃には、あの一枚は部内全体に広まっていることだろう。もれなく御幸にまつわる話も大袈裟に、尾ひれをつけて広がっているに違いなかった。
 考えるだけで気が滅入り、消えてしまいたくなった。
「沢村、急ぎなよ」
「あ、はいっ」
 御幸が落ち込む傍で、小湊兄が惚けている沢村に声を掛けた。用済みになった携帯電話は鞄に入れて、何も分かっていない可哀想な一年生ににっこり微笑む。
 彼の周囲も、一週間は騒々しかろう。夏の大会期間中という大事な時期だというのに、暫くは集中出来まい。
「あー、まぁ……いいか」
 だがこれで、沢村は当分近付いてこないはずだ。周囲の目が気になって、不用意な接触は控えるだろう。
 それはそれで有難かった。
 もしや小湊兄は、困っていた御幸を助けてやるべく、あんな真似をしたのだろうか。
 少しだけ好意的に解釈して、気持ちを切り替える。
 だが勿論、そんな訳はなかった。
 そして逃げるウサギを逆に追いかけ回しているうちに、気付けば底なし沼に落ちていたと御幸が気付くのは、まだ当分先の話だ。
 

2014/10/26 脱稿