承和色

 影山が訪ねて来たのは、一時間目の授業が始まる少し前だった。
「日向、お客ー」
 入口近くの席にいたクラスメイトに呼ばれ、顔を上げる。何事かと首を傾げて視線を彷徨わせれば、目に飛び込んできたのは意外な人物だった。
 朝練を終えて、部室で汗を拭って制服に着替えた。その後も一緒に本校舎へ移動して、階段を登って、三組の前で別れて。
 次に会うのは、昼休みになる予定だった。
 まさかこんなに早く彼と再会しようとは、想像だにしていなかった。
「影山?」
「よお」
 あちらも、よもや一組まで来なければならなくなると、思っていなかった顔をしていた。不思議そうに首を傾げれば、影山は辺りを気にするように肩を揺らし、ポケットに入れていた手を引き抜いた。
 身長百八十センチの彼は、人の波に揉まれていても目立った。月島も存在感があるけれど、がっしりした体格の彼の方が、遠目からでも見つけ易かった。
 黒い学生服を羽織り、襟のホックまでしっかり閉めている。髪も瞳も黒一色なので、夜中に遭遇したら悲鳴を上げてしまいそうだった。
 そんな彼の来訪を奇異に思うが、呼ばれたからには行かねばならない。
 疑問は本人にぶつけることにして、日向は急ぎ、出入り口へ向かった。
 パンパンに膨らんだ鞄は机に残し、手ぶらで、小走りで。道中すれ違ったクラスメイトを器用に避けて、影山の六十センチ手前で足を止める。
「なに?」
 上背のある彼を見上げて問えば、影山はまたもや廊下を窺い、視線を逸らした。
 誰か居るのだろうか。眉を顰め、日向は隙間から外を覗こうとした。
 その前方を腕で塞いで、影山は緩く首を振った。
「お前さ、袋かなんか、持ってるか?」
 声は低く、音量は小さかった。
 体育館中に響き渡る怒号は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。まるで覇気を感じなくて、日向は目を眇めた。
「ふくろ?」
 朝練中はあんなに元気だったのに、どうしたのだろう。
 台詞の中身も要領を得なくて、彼は鸚鵡返しに呟いた。
 影山は瞬時に首肯して、それから半歩、後退した。廊下と教室を区切る境界線を離れ、くい、と顎をしゃくった。
 ついてこいと、そういう意味だ。
 言葉で説明するより、実際に見せた方が早いと判断したのか。返事も待たずに踵を返されて、日向は慌てて廊下に飛び出した。
 始業のチャイムが鳴るまで、あと少ししかない。折角早めに着替え終えて、遅刻を気にしなくて済むタイミングで教室に入れたというのに。
「待てって。どこ行くんだよ」
「いーから」
 それほど時間は取らせないと、苛立った影山が乱暴に吐き捨てた。偉そうに胸を張って廊下を進んで、立ち入ったのはふたつ隣の教室だった。
 三組だ。大柄な背中はあっという間に見えなくなって、日向は急いで敷居を跨いだ。
「なあ、影山。いったいなに――」
 詳しい説明もないまま、連れてこられた。
 今度こそちゃんと教えるよう声を高くした彼だったが、喋っている途中で目に入った光景に、大雑把ながら事情が把握出来てしまった。
 影山が一組の教室で言った台詞を思い出して、嗚呼、と頷く。
 クラスに戻って来た影山を、数人の生徒が奇異な目で見つめていた。雑談を中断させて、遠巻きに動向を見守っていた。
 男女の比で言えば、男子の方が僅かに多い。不躾な眼差しは日向にも注がれて、あまりいい気はしなかった。
 昨日までは、こんな風ではなかった。
 原因ははっきりしていて、彼は乾いた笑みを浮かべて頬を引き攣らせた。
 影山の机に、小さな塔が出来ていた。
 今にも崩れ落ちそうなそれは、複数のブロック――もとい小箱で構成されていた。
 チョコレートだ。
「豊作じゃねーか」
「いって」
 自慢か、と腹が立って、思わず足が出た。後ろから蹴られた影山は悲鳴を上げて、頭から塔に突っ込んでいきそうになった。
 寸前で机の縁を掴み、どうにか事なきを得る。振り返った彼の眉間には皺が寄り、不機嫌さが全開だった。
 ただ、その顔をしていいのは彼ではない。
 クラスにはチョコレートをひとつももらえない男子がわんさか居て、無条件にモテモテの男に対し、嫉妬が渦を巻いていた。
 日向ももれなくそのひとりで、見せつけられた少年は悔しさに地団太を踏んだ。
「良かったじゃねーか」
「うるせえよ」
 すっかり忘れていたが、今日は二月十四日だ。
 一年に一度の告白デー、バレンタインだった。
 下駄箱に入れるのは、流石に女子も敬遠したらしい。影山の上履きは滅多に洗われないので汚くて、ちょっと嫌な臭いもした。
 だから代わりに、教室の机に置いて行った。
 その結果、大小様々な箱が縦に積み上げられた。
 義理らしきものは少なく、どう見ても本命、という豪華なパッケージが圧倒的多数だった。綺麗にリボンが結ばれて、愛情がたっぷり詰め込まれていた。
 今日の為にあれこれ悩んで、今日の為に一生懸命用意したのだろう。
 影山のことを想って頑張る女子の姿が思い浮かんで、日向は口を尖らせた。
「袋って、それ入れる奴かよ」
「このままにしとけねーだろ」
「いいんじゃねえの?」
「ボケ」
 彼がわざわざ一組を訪ねて来た理由は、良く分かった。確かにこれから授業があるのに、机の上にチョコレートを並べたままにはしておけなかった。
 床に捨てるわけにもいかないから、袋を探したのだろう。合点が行って、日向は肩を竦めた。
 叱られて小さく舌を出し、持っていただろうかと頭を捻る。
「うーん」
「ないなら、良いけど」
「クラスの奴に聞いてこよっか?」
「頼む」
 けれど、思いつかない。流石にシューズ入れは失礼だし、コンビニエンスストアで貰えるような袋も、生憎と持ち合わせていなかった。
 ただ、クラスの友人なら、ひとりくらいは持っている気がした。
「分かった。ちょっと待ってて」
「悪い」
 思案の末に頷いて、日向はひらりと手を振った。影山は淡々と感謝の意を述べて、肩を落として嘆息した。
 下駄箱で何事もなかったから、安心していたのだろう。まさかこちらがこうなっているとは、思っていなかったという横顔だった。
 男子排球部もうひとりのモテ男である月島は、体育館を出たところで早速洗礼を受けていた。西谷や田中からは僻みの声が聞こえ、本人は断るのが面倒臭そうだった。
 ああいうのは貰わない主義だと言い切った月島は、少し格好良かった。と同時に、毎年のように手渡されている現実が羨ましくて仕方がなかった。
「ほら。借りて来てやったぞ」
 日向はといえば、貰えるのはせいぜい十円単位の義理チョコだけだ。女子の友人は多いけれど、お情けと三月のお返しを期待してのプレゼントしか、貰ったことがない。
「サンキュ。マジで助かった」
 一組に戻ってクラスメイトに尋ね、三人目でゲット出来たビニール袋を差し出す。
 今日の昼食が入っていたという白い袋はそれほど大きくなかったが、文句は言われなかった。
 箱の角が当たって破れはしないかと心配したが、影山はそういったことは、一切考えていないようだった。受け取った途端に早速塔を崩しに掛かり、無造作にぽいぽいと、投げ捨てるように放り込み始めた。
 流石にそれはちょっと、と思ったが、日向の物ではないので言えなかった。
「入る?」
 代わりに袋の大きさを気にすれば、影山は黙って首を縦に振った。入ればいいと思っているらしく、並び順も、上下の指定も滅茶苦茶だった。
 天地がひっくり返っている箱を盗み見て、これを贈った女子に少しだけ憐みを覚えた。
「ずるいなあ」
 しかし口を突いて出た言葉はまるで別の意味を持っており、無意識下での呟きに、日向は遅れて気付いて赤くなった。
 カシャカシャと、袋が擦れる音がうるさかった。
 特にすることもなくて、一組に戻れば良いのに、何故か動けなかった。
 ズボンの皺に指を這わせ、襞を潰したり、握ったりしながら太腿を掻き回す。視線は自然と下に向かい、鼻の奥がむずむずした。
 くしゃみが出そうで出ない不快感に臍を噛んでいるうちに、影山は机の上を片付け終えた。最後の一個はほぼ乗っているだけだったが、構う素振りは見られなかった。
「もうちょっと、丁寧に扱ってやれよ」
「いいんだよ、これで」
「失礼だろ」
「……いいんだよ」
 今にも落ちそうな箱を気にしつつ、教室後方のロッカーに運んで行こうとする。それを見咎めて忠告してみたが、予想した通り、返答は素っ気なかった。
 一瞬間があったけれど、日向は気に留めなかった。睨まれたような気もしたけれど、彼は元から目つきが悪いので、おかしいとは思わなかった。
 いつも通り愛想のない影山に肩を竦め、爪先で床を叩く。両手も背中側に回して指を絡めていたら、ようやく始業開始を告げるチャイムが鳴り始めた。
 瞳を浮かせてスピーカーを振り返り、日向は個人用のロッカー前でもたもたしているチームメイトに相好を崩した。
「んじゃ、放課後な」
「袋、あとで返しに行く」
 此処に居ては、遅刻扱いだ。自分は最早用済みと悟り、立ち去ろうと踵を返す。
 直前に一応声を掛ければ、影山は作業を中断させてわざわざ振り向いた。
「いーって。またなー」
 その返答が可笑しくて、日向はカラカラ笑った。
 コンビニエンスストアの袋など、最後はゴミ箱に捨てるものだ。返却の必要はないと、譲ってくれたクラスメイトも言っていた。
 だというのに、律儀過ぎる。勉強は全然出来ないくせに、妙に生真面目な影山に目を細め、日向は急ぎ足で教室を出た。
 二組の前を素通りして、一組に滑り込む。一時間目の担当教諭はまだ来ておらず、室内は相応に賑わっていた。
 日向の机には鞄がぽつんと放置されて、席を離れた時から何も変わっていなかった。
 チョコレートなど、影も形もない。期待していた訳ではないけれど、現実を直視させられて、それなりにがっかりした。
 女子は矢張り、背が高い男の方が良いのだろう。その上月島は成績優秀で、外面だけは非常に良かった。
「影山の、どこがいいんだか」
 それに対して影山の成績は、日向と同レベル。更に付け加えるとしたら、補習中に白目を剥いて眠るような奴だ。
 それでも女子は、春の時点から正セッターの座に就く彼を格好いいと囃し立てた。
 横暴で、乱暴で、口煩く、すぐ怒鳴る。我儘で、いい加減で、人の気持ちなどこれっぽっちも考えない。
 コートの中での横柄さは薄れつつあるけれど、一歩でも外に出れば、王様気質が如実に表れた。一緒にいても苦労するだけで、彼の世話を焼けるのは、相当心が広い人だけだ。
 たとえば、自分のような。
 自画自賛して傷ついた心を慰め、日向は鞄を膝に下ろした。目を閉じれば影山と、チョコレートの山が浮かんで、妙に切なかった。
「いいよなあ」
 あんな風に堂々と、気持ちを表現出来るのは羨ましい。
 自分には絶対無理だと肩を落として、彼はやって来た教師に慌てて授業の仕度を整えた。
 今日は出来るだけ、教室から出たくなかった。
 三組に行けば、影山が女子からチョコレートを渡されるところに遭遇するかもしれない。そういうのは、極力避けたかった。
 胸の奥がもやもやして、どうにも落ち着かなかった。
 肺が締め付けられるようで、息苦しくて仕方がない。授業が始まっても碌に集中出来ず、教師の話は右から左に流れていった。
 ぼうっとしていたら、名指しで怒られた。廊下に立たされる、ということはなかったものの、バレンタインだからと気を緩めないよう叱られた。
 クラスメイトには笑われて、踏んだり蹴ったりだった。
 放課後になって、部室に行ったら、溢れるほどのチョコレートを見せられるのだろう。
 あんな小さな袋ひとつで、到底足りるわけがない。両手で抱えている姿を想像して、日向は嫌な気持ちになった。
 横暴な王様だった男が、モテ王になったのだ。
 それはきっと、喜ばしい事なのだと思う。
 けれど祝えない。良かったな、と嫌味なら言えるのに、おめでとうと賞賛する気にはなれなかった。
「おれって、こんなヤな奴だったのかな」
 足を交互に繰り出し、空を蹴ってぼそりと零す。頬杖をついて視線を脇に流して、時間が過ぎるのを辛抱強く待つ。
 毎日部活が楽しみで学校に来ていたのに、今日ばかりは行くのが憂鬱だった。
 口を開けばため息が漏れた。身体が鉛のように重くて、机から一歩も動く気になれなかった。
 昼休みになっても、気持ちは少しも浮上しなかった。
 クラスメイトと弁当を食べた後、影山の真似をして自席に突っ伏す。珍しいな、と指を差されても無視して、昨日までとそう変わり映えのしない、賑わう教室を何気なく見回す。
「ぎゃっ!」
 刹那、日向はガバッと起き上がって、勢い余って椅子から落ちそうになった。
 目に入った光景に騒然として、ひとりで勝手に暴れ回る。ドンガラガッシャン、と盛大に音を響かせた彼に、教室にいた生徒のほぼ全員が一斉に振り返った。
 注目を浴びて赤くなって、彼は強かに打ち付けた肘を胸に庇った。
「なにやってんだ、お前」
「うるっせ。そっちこそ」
 身悶えていたら、話しかけられた。こうなった元凶である人物の来訪につっけんどんに言い返して、日向は頬を膨らませ、口を尖らせた。
 低い位置から睨まれて、影山は歪な形状の袋を揺らした。
 彼が一日に二度も、一組に来るなんて。滅多にない事に驚いていたら、ガサガサ言うのを聞かされて、日向は眉を顰めた。
「あれ?」
 不思議なことに、中身はかなり減っていた。
 この短期間の間に、開封し、食べたのか。一時間目が始まる前には山盛りだったチョコレートの箱は、知らないうちに半数以下になっていた。
 角が突き刺さったのか、ビニールは一部破れていた。そのうちボロボロになって、使い物にならなくなりそうな袋をぶら下げて、影山はきょとんとしている日向に顎をしゃくった。
 但し今回は、外に出ろだとか、そういう意図は感じられなかった。
「なあ。山崎って奴、このクラスに居るか」
「山崎さん?」
「女子」
「いるけど。なんで?」
「どいつだ?」
 代わりに質問を受け、日向は緩慢に頷いた。更に訊かれて一瞬考え、教室後方の窓際に目を向ける。
 机をふたつ並べた一画に女子が三人集まっていて、そのうちのひとりが異様なくらいに背を丸め、小さくなっていた。
 言わずもがな、彼女がそうだ。残りの二人は影山に戸惑い、どうしていいか分からないといった素振りだった。
 言葉で説明を受けなくても、珍しく状況を見て把握出来たらしい。影山は無言で日向の傍を離れ、粗末な袋に手を差し込んだ。
 赤色の箱を取り出して、静かに彼女に歩み寄る。
 そして。
「あの。悪いんだけど、これ、受け取れないんで。返します」
「ちょっと。アンタ、ひどくない!?」
「なんでよ。フザケんじゃないわよ。この子の気持ち、考えたことあるの?」
「……じゃあ、こういうの貰って迷惑してる俺の気持ちも、少しは考えてくれ」
 ずっと俯いている少女に箱を差し出し、取りつく島を与えなかった。
 両隣にいた女子が一斉に立ち上がって彼を非難したが、そういった攻撃は受け慣れているのか、にべもなかった。
 反論を封じてぴしゃりと言い切って、少女が動かないと知るや、チョコレートの箱は机に置いて踵を返した。余計な言葉は一切語らず、縋る隙すら見せなかった。
 日向でさえ、呆然とするしかなかった。
 教室は騒然となり、ひそひそと耳打ちし合う声が聞こえた。針の筵に座らされているも同然なのに、影山は意に介する気配すらなかった。
 能面の如き無表情で、日向の元へと戻ってくる。けれど彼は黙ったままで、一瞥をくれただけでそのまま通り過ぎようとした。
「え、ちょ」
 影山が真っ直ぐ出口に向かうのを見て、座っていた女子がショックだったのか、ついに泣き出した。両手で顔を覆い、声を殺して肩を震わせた。
 仲の良い友人が必死に宥め、慰めるが、功を奏しているとは言い難かった。
 気まずい空気が流れ、何故か日向まで敵のように睨まれた。男子からは囃す声が聞かれたが、別の女子に怒鳴られていた。
 居辛くなって、彼は左右を見回した。
「待てって。影山」
 あの箱には、薄らながら見覚えがあった。今朝、影山の机の上に詰まれていたもののひとつだ。
 量を減らした袋の中身と、影山のあの態度。
 両者が嫌な感じで繋がって、じっとしていられなかった。
 早足で去って行ったチームメイトを追いかけ、廊下へ出る。彼は雑踏を抜けて真っ直ぐ進み、階段を降りようとしていた。
「影山。おい、待てってば。影山」
 声を高くして引き留め、日向は走った。息を乱して隣に並び、剣呑な目つきの男子生徒に苦虫を噛み潰したような顔をする。
 左右を通り過ぎる生徒は一組での騒動を知らず、誰も彼も呑気で、幸せそうだった。
「お前、どういうつもりだよ」
「どうって?」
「だって、あれって、やっぱ、ちょっと酷いって、言うか」
「好きでもなんでもねえ奴らに、余計な荷物押し付けられんのは、酷くねえのか」
「それは、……」
 そんな中で問い詰めれば、淡々と切り返された。教室で聞いたのと似たような台詞を口にされて、日向は咄嗟に答えられなかった。
 目を泳がせ、遠くを見る。言葉に窮して口をもごもごさせていたら、影山が深く、長い溜息を吐いた。
「貰ったって、嬉しかねえんだよ」
「だからって」
「邪魔くさいだけだろ、こういうの」
 日向が尚も言い募ろうとするけれど、彼の態度は一貫して、変わらなかった。
 ああやって、彼はひとつずつチョコレートを返却して回っていたのだろうか。箱に添えられた手紙を開いて、文面は読まず、クラスや名前だけを探し出して。
 十個近くあったから、かなり手間がかかった筈だ。訪ねて行って、不在の可能性だってある。
 そう思うと、相当に大変な作業だ。昼休みの全てを使っても、きっと追い付かない。
 日向が知らなかっただけで、彼は一時間目が終わってからずっと、全部の休み時間をこの為に使っていたのか。
「どうせ応えてやれねーんだから、早い方がいいだろ」
「……ひとりくらい、いなかったのかよ」
「なにが」
 彼は本当にバレーボール馬鹿で、頭の中はバレーボール一色だ。寝ても覚めてもそればかりで、他のことはどうだっていいと開き直っている節がある。
 対人面でもそれは出ていて、過去に数回告白されているが、すべて断っているという話だった。
 日向も何度か、ラブレターの仲介を頼まれた経験があった。
 可愛い子が多かった。影山の隣に立っても見劣りしない、見目麗しい少女が大半だった。
 だというのに、彼はちっとも靡かない。動じない。譲らない。
 どこまで理想が高いのかと、唾を飛ばして詰ってやりたいくらいだった。
 黙り込んだ日向を見詰め、影山は肩を竦めた。半眼して視線を伏し、空いている方の手を伸ばした。
 くしゃりと髪を掻き回されて、日向はハッと顔を上げた。
「しょうがねえだろ。こういうのって、本命から貰えなきゃ、意味ねーんだから」
「え」
「ったく、後は二年と三年かよ。めんどくせえな」
「え、ちょっと。待てって。影山、今、なんて」
「ああ?」
 腕を引き際、囁かれた。自嘲とも取れる独白に心を掻き乱され、日向は階段を降り始めた彼に身を乗り出した。
 手摺りにしがみつき、落ちそうになる身体を支える。
 慌てふためき、青くなっている彼を振り返って、影山は不貞腐れた表情を作った。
 睨まれた。
 無言で不満を訴えられた。
 四肢が震えて、日向は泣きそうになった。
 影山には、好きな子がいた。
 心に決めた相手が、既に存在していた。
 大量のチョコレートも、愛を込めたラブレターも、熱烈な猛アタックも躱して、拒否して、受け付けなかった理由。
 実に簡単だった。
 好きな人がいるのなら、それ以外の相手から好意を寄せられたところで、嬉しくないのは当然だ。
 面倒だし、鬱陶しいし、邪魔なだけだ。
 知らなかった。
 全然気付かなかった。
「そ、……なんだ?」
「ああ」
 彼はちっともそんな素振りを見せなかったから、恋愛自体に興味がないと思っていた。バレーボール一辺倒で、他人に関心がないものと思い込んでいた。
 違った。
 影山も、あれでちゃんと、男子高校生だった。
「へえ……へー。へええええ……」
「日向」
「なんだよ。だったらもっと早く言えよ。そしたら、お前にラブレターとか、頼まれても持ってかなかったのに。あ、でも、もしかしたらその子が頼みに来るかもしれねーから、やっぱ引き受けた方が良い?」
「ひなた」
「つーか、だったら尚更、あんな返し方したら悪いだろ。好きな相手がいるから無理だって、そう言わなきゃ、あの子だって分かんないし。お前に嫌われたー、って勘違いしちまうだろ」
「おい」
「へー、そうか。そうだったんだ。なんか意外だな。お前って、そういうの関心ないってか、先輩たちにエロ本見せられても無反応だし。なんか安心した。あ、そだ。どんな子? かわいい? おれの知ってる子?」
「ひなた」
 目が合わせられなかった。
 動揺を悟られたくなくて、いつにも増して多弁になっていた。
 影山が何度も遮ろうとしたけれど、無視した。一方的に捲し立てて、気持ちを落ち着かせる猶予を確保しようとした。
 だのに心はざわめき、落ち着かなかった。波は荒くなる一方で、巨大な渦に呑みこまれた気分だった。
 足元がふわふわした。目頭が熱くなって、泣きたくなくて奥歯を噛み締めた。
 告げる前に失恋するなど、格好悪いし、情けない事この上なかった。
 意を決してチョコレートに思いを託した彼女たちよりも、余程愚かしく、惨めだった。
 堪え切れなかった嗚咽を漏らして、手摺りを強く握りしめる。
「……日向」
 影山が降りたばかりの階段に足を置いた。進路を変更して上を目指し、俯いて動かないチームメイトの一段下で足を止めた。
 ガサガサ音が響いた。何をやっているのかと目を向ければ、彼は破れて穴が開いている袋から、残っていたチョコレートを取り出そうとしていた。
 複数の箱を、腕と脇腹も使って抱え持って。
 空になったボロボロのビニール袋を、日向へと差し出した。
「え?」
「俺は、知ってるぞ」
「は?」
 遠い過去、まだ山辺には桜が残っていた時期。
 同じ言葉を第二体育館で、同じ人物から聞かされた。
 但し状況は当時と大きく違っていて、日向は呆気に取られ、目を点にした。
 惚けて立ち尽くしているチームメイトにムッとして、コート上の王様は口を尖らせ、頬を仄かに赤らめた。
「俺は、もう知ってるからな」
「だから、なにが」
「その袋、放課後までに返せ。中身、ちゃんと入れとけよ」
「はあ?」
「俺は、……言ったからな!」
 ぶっきらぼうに吐き捨てて、戸惑う日向に背を向けた。荒っぽい足取りで階段を下って、上級生の教室目指して突き進んでいった。
 後に残されたのは訳が分からないでいる日向と、使い古されてゴミ同然のビニール袋だけ。
 どう考えても使い物にならず、ゴミ箱に放棄するしかないような袋に。
 彼はいったい、何を入れろと言うのだろう。
「なんなの、アイツ」
 意味が分からない。言葉足らず過ぎて、穴だらけのパズルを埋めていく気分だった。
 考えるのはあまり得意ではない。不貞腐れて小鼻を膨らませ、日向はビニール袋に開いた穴に指を入れた。
「大体、アイツ。おれの、なに、知ってるってい――……え?」
 底の破れ目を広げ、ぶつぶつ愚痴を零していたところでハッと顔を上げる。目を瞬いて何もない空間を見詰めて、日向は咄嗟に後ろを振り返り、続けて階下を覗き込んだ。
 手摺りにしがみついて身を乗り出しても、影山の姿はどこにもなかった。
 彼は今、本命以外のチョコレートを返却して回っていた。本当に欲しい相手からのもの以外は、ひとつとして持って帰らない。
 その上で、この袋に何かを入れて寄越せ、と。
 そう、言っていた。
「知って、る、って」
 日向が抱える秘密など、それほど多くない。単純馬鹿は隠し事が苦手で、嘘も下手だった。
 影山が好きだった。
 彼に付きまとう女子を見る度に、そこは自分の居場所だと言いたくなる程度には、彼の隣に執着していた。
 影山は知っているのか。
 気付いていたのか。
 その上で、このボロボロの袋になにかを入れて返せば、受け取ってくれるのか。
「まさ、か」
 そんな訳がない。そんなはずがない。
 そう思う一方で、そうであって欲しいと願わずにはいられなくて。
 足が震えていた。声も、心も、魂さえ震えていた。
「購買、さ、財布。……坂ノ下!」
 穴だらけの袋を握り潰し、日向は転がるように駆け出した。脚がもつれて倒れそうになるのを堪え、一組の教室に飛び込んだ。
 鞄を漁り、財布を持って、クラスメイトが怪訝にする中、泣く少女に目もくれずに駆け出す。
 昼休みが終わるまで、あと少し。
 身勝手な王様にボールを投げ返してやるべく、日向は風を切って走った。
 

2015/02/03 脱稿

やさしきかずに人や思ふと

 青々とした緑に囲われた庭先は、戦う刃を持たない小鳥たちにとって、安心して羽根を休められる場所らしい。
 すぐそこに血濡れたこの身があるというのに、まるで構おうとしない。穏やかに囀り、時に家族か友らしき鳥を追いかけ、楽しそうに遊び耽っていた。
「……僕は、なにをしているんだ」
 濡れ縁に腰かけ、ぼそりと呟く。屋敷の中はひっそり静まり返り、動くものの気配は感じられなかった。
 全ては戦場で、先陣を切って駆けた結果だった。
 厚く、その癖鋭い大太刀に、軽い身体は呆気なく吹き飛ばされた。地に叩きつけられ、転がされ、全身が砕け散るほどの痛みを覚えた。
 派手に傷つき、やっとの思いで帰り着いた。手入れは長引き、つい先ほど終わったところだった。
 その間、他の刀剣たちは個別に役目を与えられ、各地に派遣されて、未だ帰っていなかった。
 お蔭で屋敷は蛻の空だ。ただ広いだけのがらんどうとした空間は、ただでさえ空っぽな心に一層の虚しさを呼び起こした。
 復讐はとうに遂げられているのに、まだ戦場を求めている。
 太刀に勝る強さを手に入れたなら、この空虚さは、少しは埋まるだろうか。簡単に折れることのない強靭な刃を得れば、満たされるのだろうか。
 想像して、小夜左文字は首を振った。縁側から垂らした足を交互に揺らして、地面に着かない爪先で空を撫でた。
 鳥たちは呑気に戯れ、こちらの気持ちになど見向きもしなかった。
「退屈だ」
 審神者から下された指令は、待機だった。
 傷ついた刀身は癒されたが、体力は回復せず、疲労も完全には抜けきっていない。万全の状態に戻るまでは戦場に送らないと、はっきり言われていた。
 けれど戦う事しか出来ないこの身に、ただ時が過ぎるのを待てというのは酷な話だった。
 ぼんやりしていたら、どうしても昔のことを思い出してしまう。復讐に駆られていた記憶をなぞってしまう。
 高く蹴り上げた右足を静かに下ろして、彼は頬に残る傷跡に触れた。
 麻布に軟膏を塗り、張り付けてあるので、直接指でなぞる事は出来ない。剥がさないよう言われているので大人しく従って、小夜左文字は肩を竦めた。
 これから、どうしようか。
 憂鬱な気持ちのまま嘆息して、当て所なく庭を巡ろうかと考え始めた矢先だった。
 何かを気取ったのか。それまで無邪気に遊び回っていた鳥たちが、一斉に翼を広げて飛び立った。
 そして。
「あっそびーましょー!」
「うわっ」
 突如頭上から、大きくて軽いものが落ちて来た。
 屋根から降ってきたものに飛びかかられ、小夜左文字は悲鳴を上げた。勢いのままに濡れ縁から庭先に滑り落ちて、膝を打ってしゃがみ込む。
 背中を丸めて蹲り、彼は激痛に顔を歪めて小鼻を膨らませた。
「なにをしている、離れろ」
「えー? いやですよー。ぼくとあそびましょうよー」
 腹に力を込めて凄むが、圧し掛かる重みは動かない。力任せに追い払おうとすれば、却ってぎゅうぎゅうに締め付けられた。
 舌足らずの口調で強請られて、小夜左文字は頬に頬を押し付ける相手に臍を噛んだ。
「今剣!」
「はーい」
 低い声で叫べば、名前を呼ばれただけと勘違いした今剣が嬉しそうに目を細めた。
 右手を高く挙げて胸を張り、けらけらと楽しそうに笑う。なにがそんなに面白いのかと眉を顰め、小夜左文字は拘束が弛んだ隙に彼を突き飛ばした。
「いつまで、僕に乗っている」
 背中に圧し掛かっていた身体を排除して、沓脱ぎ石の傍まで後退する。たったそれだけの事なのに息が切れて、跳ねた鼓動はしばらく落ち着かなかった。
 不意打ちもいいところだ。驚かされて、肝が冷えた。
 大太刀の一振りに跳ね飛ばされた記憶が蘇り、脂汗が滲んだ。吐き気を催し、気分は最悪で、腹の奥では黒い蛇が蠢いていた。
 泥より濁った感触を内臓に感じ、喉を逆流した酸っぱさを堪える。目尻には勝手に涙が浮いて、鼻が詰まって息苦しかった。
 これが恐怖によるものだと認めたくなくて、叫びたい衝動を懸命に抑える。嵐が過ぎ去るのを待って息を整えていたら、地面に降り立った烏天狗が小首を傾げた。
「どうしたんですかー?」
 不思議そうに見つめられて、小夜左文字は肩を落とした。
 性格も、声も、表情も明るい彼は、物事を深く考えるのが苦手なようだった。いつもその辺を飛び回って、高い場所に登っては、遠くに見える山を眺めるのが日課だった。
 彼もまた、小夜左文字同様に戦場に出て、傷を負って帰って来た。もっとも手入れはずっと前に終わっていたようで、部屋を出た時、そういえば顔を見なかった。
 他の刀剣たちが出払っているので、暇を持て余していたのだろう。それは小夜左文字と同じだ。違うのは、自ら構って貰おうと飛びかかって来た事か。
 遊んで欲しそうにしている守り刀を見上げて、小夜左文字は面倒臭そうに溜息を吐いた。
「他を当たれ」
「あれれー? どうしてですかー?」
 他の短刀たちのようには出来ない。子供の輪に混じって遊行に興じるなど、彼には死ぬより難しかった。
 鍛錬ならばいくらでも応じてやれるが、今剣が求めているのはそんな事ではない。あまり構われるのも迷惑で、てっとり早く追い払いたかった。
 しかし彼は眉を顰めると、頻りに首を捻って飛び跳ねた。
「小夜くんも、たいくつなんでしょう?」
「…………」
 先ほどの独白を、どこかで聞かれていた。
 痛いところを指摘されて、巧く切り返せなかった。
 確かに暇だった。やりたい事はひとつもなく、やるべきことは何もない。この身は復讐から切り離されると、途端に存在意義を失った。
 宙ぶらりんの状態で放置されて、どこに行けばいいのか、どこに居ればいいのかも分からなかった。
「だったら、ぼくとあそびましょうよー」
 残る短剣たちは、遣いに出て不在だった。戦場よりは危険が少ないが、傷を負わずに済む分疲れるし、往復の時間は馬鹿にならなかった。
 同年代の遊び相手がおらず、彼に構ってやる大人も留守。
 他にいないのだと言い張られて、小夜左文字は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「そういう気分じゃない」
 審神者が判断した通り、疲労はまだ抜けきっていなかったようだ。
 甲高い声が頭に響いて、彼は右手でこめかみを押さえ、顎に力を込めた。
 鈍痛に耐えていたら、正面に回り込んだ今剣が膝を折ってしゃがみ込んだ。斜め下から人を覗き込んで、何を考えているのか、思案顔で口を尖らせた。
「小夜くん、げんきないんですか?」
「……あるように見えるのか」
 刀身が砕け散る夢を見た。
 望みを果たせず、目的を遂げることなく朽ち果てる夢を見た。
 主の手に還る事なく、山賊の手に振るわれ続ける夢を見た。
 思い返せば、汗が噴き出た。息が荒くなり、胸が張り裂けそうだった。
 締め付けられるような苦しさに喘ぎ、顔全体を両手で覆い隠す。歯を食い縛り、どれだけ拭っても取れない血の生臭さに四肢を戦慄かせる。
 今剣は相変わらず不思議そうな顔をして、顎に人差し指を衝き立てた。
「うーん」
 喉の奥で唸り、瞳を一周させて、やがて叩かれた手は軽やかな音を発した。
「そうだ」
 すくっと立ち上がり、彼は笑った。妙案を思いついたと顔を綻ばせ、青白い肌を擦っていた小夜左文字に向けて身を乗り出した。
 影が落ち、視界が翳った。何をする気かと警戒して、眉を顰める。
 いやに近い距離に戸惑い、にっこり微笑む今剣に困っていたら。
「げんきのでる、おまじないですよ」
 そう言って、彼は笑顔のまま小夜左文字に触れた。
 唇で。
 右の、頬に。
 柔い感触が、乾いた皮膚に広がった。押し付けられて、ふにゅ、と肉が凹んだ。
 今剣の呼気を感じた。ふふ、と笑う声が耳元で弾けた。
「――っ!」
 直後、小夜左文字は後ろに飛びずさった。前を向いたまま逃げようとして、沓脱ぎ石に躓いて転びそうになった。
 体勢を崩したところで背中が濡れ縁に激突して、尻餅をついて蹲る。二連続の痛みに声も出ず、年寄りみたいに腰を曲げて耐えるしかなかった。
 歯を食い縛っていたら、全ての元凶である今剣が飛び跳ねながら近付いて来た。
「どうですか? げんきでましたか?」
 興味津々に訊ねられても、答えられるわけがない。
 元気になる以前の問題だと腹を立てていたら、返事がないのを訝しみ、彼は可笑しいな、と呟いた。
「へんですねー。よしつねこうは、ごぜんさまにこうしてもらうと、げんきになったのに」
 目を泳がせ、記憶を手繰り寄せながら首を捻る。
 彼がどういう環境下にあったかまでは知らなくて、小夜左文字は深く息を吐いた。濡れている気がする頬をぐい、と擦り、もやもやしっ放しの胸を撫でた。
 もっとも、不快感は一時期よりは薄まっていた。
 今剣の能天気さが、口吸いであちらに移ったのかもしれない。だとしたら彼が言うまじないも、多少は効果があったということだ。
「おっかしいなー」
「どこへ行く」
「ほかのひとでためしてきまーす」
 けれどそれを言わずにいたら、今剣が一本足の下駄を脱いで縁側に上り込んだ。
 屋敷の中に移動した彼に問えば、けらけらと笑われた。試される方はいい迷惑だとは、言ったところで通じそうになかった。
 ぱたぱたと足音を響かせて、今剣は部屋の奥へ消えて行った。
 今、誰が中に残っているのだろう。
「どうでもいいか」
 同じ銘を持つ宗三左文字の顔が脳裏を過ぎったが、あの人はいつも部屋に籠り、滅多に外に出て来なかった。
 審神者が気を利かせ、屋外の、たとえば馬の世話などを任せたりしているが、慣れていないので巧くいかないらしい。稀に一緒にやるよう命じられるが、手伝っている間も会話はなかった。
 兄弟刀とはいえ、共に過ごした時間は皆無。どう接すれば良いか分からないのは、あちらも同じだろう。
「一緒に、出陣したのは」
 彼以外だと、誰が屋敷に居残っていそうなのは、数名。
 傷つき、自力で動けなくなった自分を背負って戦場から連れ出してくれたのは、誰だったか。
 吹き飛ばされた体躯を守るべく、真っ先に駆けつけてくれたのは。
 薄れゆく意識の最中、名を呼んでくれたのは。
「……でも、いないかもしれない」
 藤色の髪が瞳の端を掠めた。緩く首を振り、小夜左文字は誰に言い聞かせているのか、呟いた。
 軽傷であれば、手入れは短時間で済む。戦場に出向いている面々がいつ出立したかは分からないが、その中に混じっていても不思議ではなかった。
 だから、不在にしている方に賭けた。
 薄暗い記憶に起因するものとは異なる不快感を覚え、彼はちりちりする腹を撫でて唇を引き結んだ。
 今のところ、誰の悲鳴も聞こえてこない。
 広い屋敷の見取り図を思い返し、小夜左文字は起き上がった。
 節々の痛みは、時間を経るうちに消え失せた。
「ひどい目に遭った」
 汚れてしまった身体を撫で、土埃を払い落として地面を踏む。草履を取りに行く気も起きず、彼は素足のまま歩き出した。
 騒がしい今剣が居なくなったからか、遠くに避難していた鳥たちは次々に戻ってきていた。
 愛くるしい囀りに耳を澄ませ、当て所なく彷徨い歩く。時間を潰すのが目的なので特に行きたい場所はなく、気の向くまま、適当に道を選んで進んでいく。
 馬小屋が近いのか、嘶きが聞こえた。飼葉をやるのも悪くないと、気まぐれを起こした小夜左文字はそちらに爪先を向けた。
 あまり馬には好かれていないけれど、背に跨ると景色が違って見えるので、乗る事自体は嫌いではない。ただ手綱の操作に慣れていない為、ひとりで乗らないようには言われていた。
 背に担がせる鞍だって、大人の体格に合わせたものしか用意されていない。
 太刀や大太刀ばかりが優先されて、その辺は狡いと思わずにはいられなかった。
「どれが、残ってるんだろう」
 屋敷で飼われている馬は、それほど多くない。気性が激しいものもいれば、優しくおっとりしている馬もいるのは、人間と同じだ。
 無条件で撫でさせてくれる子が居たら、一番嬉しい。
 少なからず期待を胸に、小夜左文字は木組みのあばら家に近づいた。
 獣の臭いが強まり、乾燥した糞が点々と散らばり始めた。まだ新しい物もある。踏まないように注意しつつ、丸太で仕切られた柵から中を覗き込もうとして。
 馬ではない背中を先に見付けてしまい、彼は眉目を顰めた。
「歌仙?」
 馬小屋の少し手前に、見知った後ろ姿があった。屋敷の領地を仕切る土壁の傍でしゃがみ込んで、深く項垂れて動かない。
 いつもの華美な打掛は脱ぎ、白い胴衣で襷を結んでいた。邪魔な前髪も後ろに流して結び、動き易い袴に草履だった。
 農作業や、馬の世話をする時と同じ格好だ。力仕事が嫌いだと公言して憚らず、命じられると仕方なく、嫌々ながらやっているというのは、小夜左文字も知っていた。
 ならば今も、馬の世話の最中だろうか。
 しかしそれにしては、様子がおかしい。
「なにをしているんだ?」
 気になって、僅かしか持ち合わせていない好奇心を擽られた。素通りしても良かったのだが、暇を持て余していたのが決め手になった。
 小石を踏み越え、近付く。距離を詰めてから分かったのだが、彼の足元には緑が眩しい植物が、広範囲に渡って植えられていた。
 どこかで自生していたものを、誰かが移して来たのか。小夜左文字が屋敷に来た当初は、ここにあんな草地はなかった。
 最近はこの辺を歩いていなかったので知らなかったが、犯人はどこぞの雅を愛する者だろう。
 野良作業は嫌いな癖に、なにをやっているのか。
 呆れていたら、踏み折られた小枝の音を聞き、男が振り返った。
 双眸には薄ら涙が浮かんでいた。予想もしていなかった表情に、小夜左文字は唖然と目を見開いた。
「……おや」
 皮肉の一つも口にせず、歌仙兼定はやけに静かだった。
 恥ずかしいところを見られたと、頬が自嘲気味に歪められた。土汚れを払うつもりか、白い肌を擦って逆に汚し、地に着けていた膝を起こして立ち上がる。
 惚けていた小夜左文字は、はっと息を吐いてから、告げる言葉がないと知って奥歯を噛んだ。
 口を閉ざし、ヘの字に曲げる。気の利いた台詞ひとつ浮かばない己に焦れていたら、沈黙を嫌った男から切り出して来た。
「手入れは、終わったようだね」
「ああ」
 その背に負ぶわれ、屋敷へ戻った。
 世話になったというのに無愛想に返事をして、小夜左文字は彼に向き直った。
 普段と比べると地味な格好とはいえ、袂をまとめる襷は紅白と派手だ。袴の裾は土で汚れ、黒ずんでいた。
 良く見れば指先も、白い肌がくすんでいた。刀を握るその手が何に触れていたかは、一目瞭然だった。
「それって」
「そうだよ。撫子だ」
「……そんな名前だったの」
 土壁の際に陣取るのは、郊外に広がる平原で見る花だった。背丈は小夜左文字の膝より低く、葉は細長く、先端は鋭かった。
 薄紅色の花が咲く光景を、過去に何度も目にしていた。だが学がないので、名前までは知らなかった。
 教えられ、素直に頷く。感嘆の息を漏らした彼に、歌仙兼定は間を置いて微笑んだ。
 優しい顔をして、そうしてすぐに顔を伏す。哀しげに睫毛を揺らし、口を開けばため息が漏れた。
 らしからぬ態度に、違和感が募った。
 怪訝にして、首を捻る。疑問が顔に出ていたのか、歌仙兼定は力なく肩を竦めた。
「いや、ね」
 この場に撫子を植えたのは、矢張り彼の仕業だった。
 男所帯で味気ない屋敷に、少しでも彩りを足そうとしたのだろう。雅な景色を手近なところに手に入れて、悦に浸ろうとしたのは楽に想像がついた。
 けれど現在、彼の足元で茎を伸ばす植物には、まるで花がついていなかった。
 季節が外れているのではない。群生地に行けば、薄紅色の花が地表を覆う様が見られるはずだ。
 だというのに撫子の花は数輪を残すのみで、全滅寸前だった。
 よくよく注意してみれば、葉も数を減らしていた。中ほどで無残に引き千切られ、哀れな姿を晒していた。
 言葉を濁した歌仙兼貞を見上げ、小夜左文字は思うところがあって馬小屋に視線を投げた。
 馬当番は席を外しているのか、姿は見えなかった。柵の中では鹿毛の馬が、胸を張って悠々と歩いていた。
 心なしか、得意げな顔をしているように見えた。立ち尽くす歌仙兼定を馬鹿にして、上機嫌に黒い尾を揺らしていた。
 再び花のない撫子を眺めて、小夜左文字は嗚呼、と苦笑した。
「折角、僕が手塩にかけて育てたというのに……」
 事情を見抜かれ、糸が切れたらしい。歌仙兼定は堪え切れずに膝を折り、両手で顔を覆って丸くなった。
 どうやら彼が大事に育てた撫子は、悉くあの馬に食われてしまったらしかった。
 柵の高さは不揃いで、助走をつければ乗り越えられそうな場所があった。脱走した馬が良い餌場を見つけたと喜び、ひと通り貪り食った後、のうのうと戻ったとしても不思議ではなかった。
 慣れない野良仕事をしてまで、頑張ったというのに。
 心から嘆き悲しんでいる歌仙兼定には、同情を禁じ得なかった。
 花を愛でる気持ちは正直よく分からないが、努力が水泡に帰すのは誰だって辛い。いつもは鬱陶しい口上も、いざ聞けないとなると、つまらなかった。
「歌仙」
 黙られるのは、面白くなかった。己の無口ぶりを棚に上げて、小夜左文字は彼の傍らに歩を進めた。
 振り向きもしない男の左隣に腰を据え、膝を揃えてしゃがみ込む。身を低くした一瞬だけ、歌仙兼定は彼を見て、すぐに食いちぎられた痕が残る撫子に意識を戻した。
 何度目か知れないため息を聞かされて、その落胆の深さが推し量れた。
「歌仙は、元気がないのか」
「あるように見えるかい?」
 何気なく問えば、どこかで聞いた台詞が返された。
 切なげに細められた眼といい、力なく身体に添えられているだけの腕といい、文系を謳いつつも頭に血が上り易い男らしくなかった。
 放っておけば、花はまた咲く。植物は存外に強い。人よりも――刀よりも。
 けれど思ったことが声に出だせない。音にする前に潰れてしまって、形を成さなかった。
 語彙の少なさ、言葉足らずさを悔やんで、彼は今剣に言われたことを思い返した。
 まじないなど、信じていない。
 けれどあの馬鹿らしいやり取りで、胸に沈殿していた澱が幾ばくか薄くなった。
 気が紛れる程度でしかないが、いつまでも引きずるよりは、良い。
「歌仙」
「なんだい?」
 他に術を知らないから、これしか分からない。今剣の経験を信じる事にして、彼は歌仙兼定の袖を引いた。
 男は気だるげに答え、顔を上げた。隣で子供が伸びあがっているとも知らず、陰鬱な面持ちのまま、振り返るべく首を巡らせた。
 その頬に。
 鼻梁の脇に。
 ふに、と柔らかなものが押し当てられた。
 掴んだ袖を支えにして、中腰になった小夜左文字は目を閉じた。ぶつかる恐怖に打ち勝って、惚ける男の頬に唇を突き付けた。
 今剣は笑っていたが、いざやってみると思いの外、恥ずかしい。生まれて初めての体験は不慣れさが目立って、いつ終えて良いかも分からなかった。
 息を止めて、苦しくなるのを待って、離れる。
 その間も歌仙兼定はぽかんとして、真ん丸い瞳は瞬きすら忘れていた。
「……え?」
 呆然としながら見つめられて、小夜左文字はふらつくように後ろに下がった。
 白い袖を解放し、藍の袈裟を握りしめる。何故か正面を向くのが憚られ、目と目を合わせられなかった。
「えーっと。さ、よ……?」
 もごもごしながら名前を呼ばれて、もしやこれは違うのか、と思った時には既に遅い。
 恥ずかしさが膨らんで、彼は火が点いたように真っ赤になった。
「げっ、元気が、出る。まじない、だ!」
 今剣はそう言っていた。
 それ以外に意味はなく、理由はなく、意図もない。
 叫び、踵を返した。素足で地面を蹴って、脱兎のごとく逃げ出した。
 取り残されて、歌仙兼定は反対側の頬を叩いた。ぺちりと音を響かせて、軽く抓ってから乾いた笑みを浮かべた。
「え?」
 今のはいったい、何だったのだろう。
 去り際に怒鳴られたけれど、聴覚は麻痺し、なにを言われたか覚えていなかった。
 ちゃんと痛い右頬を撫で、濡れている気がする左頬に触れようとする。しかし寸前ではっとして、彼は汚れた手を袴に擦りつけた。
 ごしごしと痛いくらいに皮膚を削り、綺麗にしたところで、今度こそ触ろうとして。
「ひぃ!」
 背後から突如刃を突き付けられ、首筋に冷たいものを覚えた彼は尻餅をついた。恐怖に顔を引き攣らせ、今にも肉を切り裂きそうな切っ先に騒然となった。
 桜色の髪が柳の如く揺れていた。抜身の刀身は鋭く輝き、獲物を欲して唸っていた。
 温和そうに見える微笑みの下、眇められた目は完全に据わっていた。
「なっ、なにをするんだい。あ、あぶない、だろう!」
「その首、頂戴してもよろしいですか?」
「はやく、それを。しまいたまえっ」
 言葉が通じていないのか。
 甲高い声で叫んで、彼はいつ戻って来たかも分からない男に背筋を粟立てた。
「じっとしていてください。生憎と僕は、戦場には不慣れでしてね。下手に動かれると、違うところを斬ってしまいますよ?」
「だから、その刀を、早く!」
 支配者たちの手を渡り歩いた刀剣を構え、男が淡く微笑む。歌仙兼定は真っ青になって、切れ味良さそうな打刀に首を振った。
 けれど、宗三左文字は聞く耳を持たない。
 妖しい笑みを浮かべ、彼は楽しそうに目尻を下げた。

2015/01/24 脱稿

Pale Orange

 自覚はなかった。
 いつの間にか、そうなっていた。
 気が付けば目で追っていた。教室の前を通り過ぎる時、何気なく中を覗き込んでしまうくらいには、姿を探すようになっていた。
 一組の教室は廊下の一番奥にあり、階段の隣にある三組の前は頻繁に行き来する場所だった。前後の扉は大体いつも開けっ放しで、大柄な体格を見付けるのは簡単だった。
「また寝てる」
 移動教室の時、トイレに行く時。
 昼休み、体育館裏で先輩に自主練習を付き合ってもらう時。
 いつ、どんな時でも、彼は大抵机に突っ伏していた。起きているのか、眠っているのかは、傍目には分からなかった。
 ただ三組の知り合いに聞く限りでは、本当に眠っているようだった。しかも授業中も同様で、先生も呆れ気味という話だった。
 烏野高校には、日向のように雪ヶ丘中学からの進学した生徒は少ない。山越えが面倒だし、バスの路線や本数も限られているからだ。
 だが友人が出来るかという不安は、入学式には解決していた。
 出席番号順で並んだ時に、早速前後の男子に声を掛けた。近隣の中学出身という生徒と親しくなって、芋づる式に交友関係は広がった。
 お蔭で昼飯を一緒に食べる相手も、休憩時間に喋る相手にも事欠かない。遊びに誘って貰う機会も多くて、断るのが申し訳ないくらいだった。
 バレーボール部に入っていなければ、毎日カラオケや、ゲームセンターや、友人の家に入り浸って遊び耽っていたに違いない。日替わりで違う相手とつるんでも、一週間は異なる顔ぶれが揃いそうだった。
 朝から晩まで、賑やかで、楽しい。
 けれど影山は、どうなのだろう。
 バレーボール部で一緒に活動している彼は、北川第一中学の出身だ。
 あまり詳しくは聞いていないけれど、中学時代は部活で横柄に振る舞い、暴君と知られて、嫌われていたらしい。
 王様と蔑まれ、チームメイトからトスを拒まれた。試合中にセッターの任から降ろされて、ベンチで敗北の笛を聞いた。
 けれどそれも、日向に言わせると、贅沢な屈辱だった。
 仲間内でギクシャクしていたとはいえ、きちんとしたチームで戦えていた。決勝戦で敗北はしたものの、言い換えると決勝戦まで戦えた。
 人数が揃わず、指導者もおらず、急ごしらえのチームで辛うじて大会への挑戦権を得た日向には、影山は矢張り贅沢者だった。
 だから最初は、嫌いだった。
 大会初戦で相対して、呆気なく敗北した。
 念願だった試合に出場出来たと、浮足立っていた心に枷を嵌めるくらいには、衝撃的な出来事だった。
 完敗だった。
 悔しいと同時に羨ましくなるくらい、彼のバレーボールは綺麗だった。
 抱いていた反発は、彼を知るにつれて削り取られていった。角ばっていたものが丸くなって、摩擦もなくコロコロ転がるようになっていった。
「おれが、いるのに」
 烏野高校男子排球部主将の計らいによって、どうにか部活への参加権を手に入れた。チームメイトとして正式に認められて、影山との接点は日毎に増えていった。
 彼の、バレーボールへの情熱は、日向でさえ時に圧倒された。
 執念と言っても過言ではない。
 自分にはこれしかないのだと、そういう想いが痛いくらいに伝わって来た。
 かといって、授業中に爆睡して良いわけがない。休憩時間も自席から動かず、突っ伏し、クラスメイトの誰とも交流を持たないのは問題だった。
 友人など不要だと、主張しているようだ。
 他人に理解してもらえなくとも構わないと、そう言っているように感じられた。
 影山との間には、壁がある。
 日向はその壁を乗り越えたいと思っているけれど、影山が拒んでいるのか、登れば上るほど天辺は遠くなった。
 ボールを見ない超速攻を完成させたとはいえ、日向は彼にとって、未だ勝負の駒でしかない。頼り、頼られる仲間になりたいと願うのは、傲慢なのだろうか。
「あーあぁ」
 気が付けばため息が漏れていた。陰鬱な気持ちを抱えたまま昼休みを迎えて、日向は重い足取りで廊下へと出た。
 いつも一緒に昼を食べている友人は、今日に限って別に約束を取り付けていた。
 食堂で、他クラスの友人を交えて、ゴールデンウィークに皆で遊びに行く計画を立てるらしい。同席しても構わないと言われていたが、知らない顔も多いし、自分が参加できないイベントの話を聞かされるのは心苦しかった。
 高校生活の初の大型連休は、バレーボールに捧げると決まっていた。学内の施設に泊まり込んでの練習三昧で、東京の学校との遠征試合も予定されていた。
 それを言うと、クラスメイトは総じて信じられない、と渋い顔をした。一日中体育館でボールと睨めっこなど、絶対に嫌だと言い張られた。
 そういう意見があるのは、勿論承知していた。けれどいざ直接耳にすると、胸に突き刺さって哀しかった。
 物憂げな表情をしたのがバレたのか、言った相手には即謝罪され、話題は余所へ移った。東京の学校については皆食いついて来て、どういう連中だったか報告するよう頼まれた。
 会話の後半は、ちゃんと笑えたと思う。気遣わせて申し訳なかったという気持ちと、どうして彼らは理解しようとしないのか、といいう気持ちが混ざり合って、胸の内は複雑だった。
 そういう事情も相俟って、身体まで鉛のように重かった。
 日向なりにゴールデンウィークは楽しみなのに、それを誰かと共有できないのはつまらない。不満を抱えたまま居続けるのも苦痛で、愚痴を聞いてくれる相手が欲しかった。
 だからか、三組の教室の前で歩くペースが落ちた。のろのろと牛並みの速度になって、視線は自然と室内に向けられた。
「あれ」
 いつもの場所に目を遣って、数回瞬きを繰り返す。頭上には疑問符が浮かんで、僅かに遅れて首が傾いた。
 身を乗り出して改めて中を確認するけれど、あの大柄な男子の姿を見つけられなかった。
 左右を見回し、教室の隅々まで見渡しても、該当する背中はなかった。
 珍しいこともあるもので、驚きを隠せない。唖然としていたら、後ろからぽん、と肩を叩かれた。
「うわっ」
「なにやってんの、日向。なんか用?」
「あ、ああ。なんだ。びっくりした」
 不意打ちだったので、心臓に悪い。心拍数が一気に上昇して、変なところから嫌な汗が出た。
 振り返れば見知った顔がいて、にこやかに笑って手を振っていた。
 影山ではない。高校に入ってから知り合った友人の、友人で、三組に在籍する生徒だった。
 口から出そうになった諸々の物を飲み込んで、胸を撫で下ろして彼に向き合う。するとあちらは目を逸らして、教室内部を覗き込んだ。
「なに。影山?」
「えっ」
 そうして日向が探していた相手をズバリ言い当て、絶句する彼をカラカラ笑い飛ばした。
「べ、別に。そういうんじゃ」
「お前ら、ホント仲良いもんな。飯の約束でもしてたの?」
「だから、そういうんじゃないって」
「あっれ。珍しいな。どこ行ったんだろ」
「聞けって!」
 慌てて言い訳がましく捲し立てるが、まるで相手にしてもらえない。彼は一方的にべらべら喋ると、額に手をかざして眉を顰めた。
 教室に影山が居ないのは、日向もとっくに把握していた。ただ行き先が分からず、ちょっとすれば戻ってくるのかも不明だった。
 少し気がかりだけれど、そこまで固執していない。
 勝手に勘違いされるのは迷惑だと声高に叫んでみはしたが、相変わらず、向こうは聞く耳を持たなかった。
「おーい。影山の奴、どこいったか知ってる?」
 頼んでもいないのに行き先を調べ始めた彼に、日向は騒然となった。
「だから、違うって言ってるのに……」
 日向自身、他人の話を聞かずに勝手に行動を開始する癖があった。お節介だと知っていても、助けになれば、と善意を押し付けたがる節があった。
 影山の行き先は、正直、興味があった。但しこの場に彼が現れて、来訪の理由を聞かれるのは困りものだった。
 たまたま、教室を覗いてみたら姿が見えなかっただけ。
 しかし状況が動いた今、信じてくれる者がいるかどうかは分からなかった。
「影山? あれ、ホントだ。どこいったんだろ」
「あいつならさっき、チャイム鳴った途端にどっか行ったぜ」
 質問を受け、戸口近くに居た男子が数人、口々に言葉を返した。
 彼が机に陣取らず、放課後でもないのに教室の外に出るのは、クラスメイトに言わせても、あまりない事らしい。しかもチャイムと同時に行動を開始するなど、滅多にない珍事だった。
 偶然目撃していた生徒の弁に、日向は咄嗟に時計を見た。
 昼休みが始まってから、そろそろ五分近くが経つ。部室で弁当を食べようと、日向の手には風呂敷包みが握られていた。
 そういう事情もあるから、昼飯を一緒に、と早合点されたのだ。
「だってさ」
 最初に話しかけて来た友人に肩を竦められて、彼は力なく微笑んだ。
「いいんだけどさ」
 元々、影山に用があったわけではない。居ないならそれで構わなくて、不都合は生まれなかった。
 肩を竦め返し、目尻を下げる。その表情が引っかかったのか、友人は眉目を顰めて室内を指差した。
「そのうち戻ってくるかもだし、待ってるか?」
「え? いいよ。てか、なんで」
「だって、そんながっかりした顔されたら、普通思うだろ」
「……え?」
 誘われて、日向は目を丸くした。
 友人としては思ったことを素直に口にしただけかもしれないが、日向には、その自覚がまるでなかった。
 落胆しているように見えたのだろうか。
 人にそう思われてしまうくらい、顔に出ていたのだろうか。
 反射的に頬に触れて、柔い肉を揉み解す。強張っている筋肉を解して無理矢理笑顔を作って、無人の机を一瞥する。
 影山があそこに座っていたら、廊下を素通りしていた。
 またやってる、と呆れるだけで片付いた。ホッとして、少し心配して、彼らしいと笑って終わらせられた。
 だから居ないのが意外で、珍しいと思った。
 ショックを受けて、寂しいと感じているなど、言われなければ気付かなかった。
 そんなはずがない。
 そんな訳がない。
「んな事ないって。変なコト言うなよ、もー」
「あれ。そうかあ?」
「そうだよ。んじゃおれ、もう行くし」
「またなー」
 チリチリと胸の奥が焦げていた。そのうちボッと火が点きそうで、恐れた日向は声を張り上げた。
 左手を振り上げ、友人の背中を乱暴に叩く。誤魔化し、流し、会話を断ち切って三組の前を離れる。
 おかしな素振りはなかったはずだ。妙な勘違いは解消されて、怪しく思われはしなかった筈だ。
 心臓がトクトクと早鐘を打っている事も、微熱を孕んだ頬がほんのり赤くそまっているのも。
 誰にも気づかれていない筈だ。
「だって、アイツ。なんか、変なところで変な事してそうだし。うん。それだけだって」
 誰に向けてか言い訳を口にして、彼を探してしまう理由をこじつける。無意味に力んで拳を作って、日向は今度こそ部室に向かうべく、廊下を歩き出した。
 階段を駆け下り、昇降口へ向かう。第二体育館前にある部室棟と本校舎は繋がっておらず、一度外に出なければならないのが面倒だった。
 上履きのままあちこち移動できたら、どんなに楽だろう。
 どうして校舎を建てる時、そういう気配りをしてくれなかったのか。
 建築家の怠慢だと口を尖らせ、日向は弁当を揺らしつつ、下駄箱に急いだ。
「あれ、日向。今から飯?」
「あ、菅原さん」
 そして靴を履き替えようと簀子に降りようとしたところで、丁度外から帰って来たばかりの上級生とすれ違った。
 反射的に足を止め、腰を曲げて行儀よくお辞儀をする。その仰々しい仕草に苦笑して、菅原はずり落ちそうだった割り箸をカップ麺の中央に戻した。
 どうやら彼は、坂ノ下商店まで行ってきたらしい。
 蓋の隙間からは白い湯気が立ち上り、ツーンと来る匂いがこの距離でも感じられた。
 激辛を謳う商品名に、後ずさりしそうになった。香りだけでこれだから、食べたらどうなるか、想像するだけでも恐ろしかった。
 三年生の中でも一番接し易く、面倒見が良くて優しい菅原であるが、彼の味覚だけはどうしても理解できない。前に酷い目に遭わされた記憶が蘇って、警戒心が顔に出た。
 頬を引き攣らせている後輩に、上級生は呵々と笑って目を細めた。
「影山だったら、部室の方、歩いてったぞ」
「……へ?」
「ん?」
 前置きもなく言われて、ぽかんとするしかなかった。
 間抜け顔できょとんとなって、そんな日向の反応に、菅原も「おや?」と首を傾げた。
 左右を人が通り抜け、昇降口前は賑やかだった。坂ノ下商店で買い物してきた生徒は多く、通路は若干の混雑に見舞われていた。
 そんな雑踏のただ中に立ち尽くして、日向は告げられた台詞をよく噛み砕き、飲み込んだ。
 喉が鳴った。三組前でのやり取りが蘇って、胃の辺りがざらざらした。
「おれ、影山となんにも、約束とか、してませんけど」
 唾が異様に苦かった。飲み下すのに苦慮しつつ、彼は本当のことを口にした。
 だのに菅原は意外そうな顔をして、大仰に頷いた。
「あれ、そうなんだ。俺、てっきり」
 彼が影山を見たのは、カップラーメンを買いに行く時だった。ダッシュで靴を履き替えていたら、傍を無言で通り過ぎて行く男子を見かけた。
 覚えのある背中で、間違えるわけがない。あれは影山だったと、菅原は自信満々に言い切った。
 正面玄関を抜けて、正門には向かわずに角を曲がっていった。その方角にあるのは体育館、並びに部室だけだった。
 食堂は反対側だ。手ぶらで、奇異に思ったから良く覚えていると教えられた。
 求めていたわけでもないのに、何故か影山の情報が手元に集まってくる。
 変な感じだとざわざわする胸を撫で、日向は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「なんで、菅原さんは。おれが、影山と約束してるって思ったんですか」
 三組の友人といい、彼といい、どうして。
 一度きりなら偶々と思えたが、二度も立て続けに起きると、流石に偶然とは言えなかった。
 俯きながら尋ね、最後に思い切って顔を上げる。
 妙に切羽詰まった感のある後輩に、菅原は言われて初めて気が付いたのか、目を丸く見開いた。
 それからひと呼吸間を置いて、不思議そうに首を捻った。
「なんでって、言われてもなあ。なんか日向って、いつも影山のこと、探してる感じだし」
 明確な答えが見つからないようで、自問自答しながら呟かれた。
 それは勝手な思い込みだと、声を大にして叫びたかった。
「そんなこと、ない……です」
 けれど実際には、ぼそぼそと小声になってしまった。
 自信無さげな返答になったのは、思い当たる節がゼロではないからだ。
 放課後の部室で、日向が真っ先に探すのは影山だった。朝練の体育館で、彼が来ていないと不安で、落ち着かなかった。
 田中には、飼い主を待つ犬のようだと笑われた。トスというご褒美をもらおうとして、必死に尻尾を振っていると指摘された。
 その時は、そんな訳がないと怒った。全力で否定した。
 もし今同じ質問をされたとして、間髪入れずに否定出来る自信がなかった。
 顔を背けた日向に、菅原は肩を竦めた。
「んまあ、いいんじゃね? 良いコンビだと思うぞ、お前ら」
 影山はあんな性格だから、自分からぐいぐい行くことはない。日向のような奴が傍にいて、いざという時に背中を押してやれれば、先輩としても安心していられる。
 そんなことを口にして、副主将は歯を見せて笑った。
「おっと。ラーメン伸びちまうから、行くな」
「はい。お疲れ様です」
「また放課後なー」
 そうして手に持ったままのものを思い出し、時間を気にして足をばたつかせた。
 にこやかに挨拶されて、日向は再度頭を下げた。駆け足で階段を登っていく三年生を見送って、疲れ始めている利き腕と、そこに連なる弁当箱に口を尖らせる。
 いつの間にやら、日向と影山はセットで扱われるようになっていた。
 確かに練習中はなにかと衝突して、いがみ合い、それでいながら喧嘩の原因はすぐ忘れる。影山も本気で腹を立てているわけではなくて、凸凹だらけのようで、ふたりは意外に良い組み合わせだった。
 もっとも当人としては、若干認め難いものがあった。
「ちがうのに」
 クラスが違う。住んでいる場所も違う。
 育った環境が違う。家族構成も、交友関係も、まるで違う。
 共通点はバレーボールくらい。そこに人生の全てを注ぎ込む覚悟で、たとえ身体がクタクタになろうとも、手を抜くだとか、そういう考えは一切持ち合わせていない。
 初めて同じ温度で接せられる相手だった。
 中学時代から、高校生になった後も、常に周囲との温度差を感じていた。そこまで熱中できるなんて羨ましい、と言いながら、どこか憐れんでいるような、高い場所から見下されているような視線は不快だった。
 影山だけだ。
 バレーボールが好きだと主張して、「俺の方が好きだ」と返してくれるのは。
「……どうしよっか」
 部室に行けば、きっと影山が居る。
 周囲の悪意なき思惑に乗せられているようで、少し癪だった。
 かと言って、教室に取って返すのはもっと癪だった。
 仕方なく、彼は下駄箱の扉を開けた。履き慣れたスニーカーを取り出して、上履きを脱いで履き替えた。
 途中の自動販売機で飲み物を買い、第二体育館の脇を抜けて部室棟へと足を踏み入れた。
「失礼しあーっす」
 ドアに鍵は掛かっていなかった。
 二階の、左端。他の部屋よりほんの少し広めの部屋は畳敷きで、靴を脱いで入る決まりだった。
 ノブを回し、思い切って扉を押す。若干鼻にかかった声で挨拶をして、薄暗い室内に一歩踏み出す。
 返事はなかった。いる、と聞いていた相手が居ない現実に、日向は困惑を隠しきれなかった。
「あ、れ?」
 電気は点いていなかった。窓から射しこむ光は明るいが、それだけでは内部を照らすには不十分だった。
 湿布の臭いが鼻についた。それ以外にもいろいろなものが混じり合って、饐えた臭いがそこかしこから漂ってきた。
 あまり気分が良いものではない。思わず鼻を塞いで、日向は数回、瞬きを繰り返した。
 明るい場所から暗いところに出たので、焦点が上手く定まらなかった。ほんのりぼやける視界をクリアにすべく、彼は呼吸を整え、唇を舐めた。
「……いるじゃん」
 一秒後、がっくり肩を落とす。
 返事がないのでてっきり無人かと思いきや、壁際に、よくよく見れば大きな体躯が転がっていた。
 右手を腹に乗せ、左手は床に添えて。
 畳の上で、影山が横になっていた。
 目は閉じていた。すぅすぅと寝息が聞こえて、日向は膝から崩れそうになった。
「結局寝てんのかよ」
 なにか用事があったから、わざわざ部室に来たのではなかったのか。
 眠るなら教室でも出来ただろうに、影山の真意がさっぱり読み解けなかった。
 苦笑して、肩を落とす。盛大にため息を吐いて、日向は靴を脱いで上がり込んだ。
 電気も点け、弁当は学校の備品である机に。先に窓を開けて、彼は教室にあるものと同じ椅子に腰かけた。
 顔も名前も知らない卒業生が、どこかから持ち込んで、放置して行ったに違いない。足元の畳には椅子の擦れた痕が目立ち、酷い荒れ具合だった。
「う……んム」
「爆睡してやがる」
 傍を往復したのに、影山は起きる気配がなかった。仰向けに寝転んで、蛍光灯が点いた瞬間だけ眩しそうに顔を歪めた。
 風通しが良くなった室内に、寒そうな身振りも見せた。しかし瞼は閉ざされたままで、黒濡れた瞳は拝めなかった。
 もっとも、その方が有難かった。
 人が食べている時に、あれこれ言われたくなかった。手を出され、貴重な食料を盗み取られるのも嫌だった。
「そういやこいつ、飯食ったのかな」
 菅原が見た彼は、手ぶらだったという話だ。部室にも、食べ物の匂いは残っていなかった。
 彼が愛飲している、乳酸菌飲料のパックも見当たらない。
 今になって気になって、日向は眉を顰めた。
 けれど確かめようにも、本人は眠っている。これしきで叩き起こすのも可哀想で、彼は気にしないよう自分に言い聞かせた。
 影山のことよりも、まずは自分のこと。
 さっさと食べ終えてしまおうと決めて、彼は弁当の包みを開き、箸を取り出した。パック牛乳にストローを挿して、咥内を湿らせて喉を潤した。
「いただきます」
 手を合わせ、目礼する。すべての食材と、調理してくれた母に感謝して、毎日過不足なく食べられる幸福を噛み締めた。
「うま」
 冷凍食品は使わず、すべて手料理なのが母のすごいところだ。朝早くから起きて、準備する手間は、想像を超える大変さに違いなかった。
 母の日の贈り物が、カーネーション一輪では申し訳ないくらいだ。
 妹と相談して、今年はもうちょっと良いものを選ぼう。財布的には厳しいけれど、兄妹の力を合わせれば、少しくらいは贅沢が出来るはずだ。
 ぼんやりしていたら、あっという間に日が来てしまう。気持ちを引き締め、日向は次々に米や野菜を口に運んでいった。
 弁当には肉もたっぷり入っていて、栄養のバランスはばっちりだった。
 これでデザートがあれば、文句なし。
 もっとも流石の母も、そこまでフォローしてくれなかった。
「坂ノ下、いこっかなあ」
 副菜の残りが半分を切ったところで手を休め、窓の外を見る。春の風は心地よく、優しく通り過ぎていった。
 穏やかで、安らかな時間だった。寝こけている影山のことなど、完璧に頭から抜け落ちていた。
 だから。
「行って、どうすんだよ」
「そりゃー、アイスか、肉まんか、……って、お前いつの間に!」
 突然話しかけられて、日向は疑問の思うことなく合いの手を返しそうになった。
 喋っているうちにハッとして、箸を落としそうになった。慌てて右手で握り直して、のっそり起き上がった黒い影に総毛立った。
 知らぬ間に、男が目覚めていた。もぞもぞと身じろいで、重い頭を利き腕で抱え込んでいた。
 足を投げ出し、畳に腰を落とす。表情は見え辛いがかなり険しく、寝起きと相まって相当不機嫌そうだった。
 剣呑に尖った気配を感じとり、警戒した日向は椅子の上で後退した。
 座ったまま壁ににじり寄った彼を睨み、影山は数回瞬きをして、顔を覆っていた手を下ろした。
「ンだよ。人が折角……」
 ぶつぶつと文句を言い、かぶりを振る。動きは鈍く、全体的に怠そうだった。
 調子が悪いのだろうか。朝の練習時を思い返す限り、そんな様子はなかったのだけれど。
 授業を受けているうちに体調を崩し、ここで休んでいたのであれば、悪いことをした。保健室へ行けばいいのに部室に来たのは、保険医から練習禁止を言い渡されたくなかったからだろう。
 あれこれ勝手に考えて、様子を窺う。影山は欠伸をかみ殺し、眠そうな目尻を擦っていた。
 宙をさまよった眼差しは、やがて日向ではなく、机の上に向けられた。
「美味そうな匂いがする」
「そりゃ、……って、いって。なにすんだよ」
 そうしてぼそっと呟いたかと思えば、日向が相槌を打つ邪魔をして、いきなり足を繰り出して来た。
 蹴られ、日向は膝を揃えて持ち上げた。打たれた場所を庇い、座面の裏に踵を貼りつけて影山を睨む。けれど彼も小鼻を膨らませ、苛立ちを隠そうとしなかった。
 突然の暴力に、心優しい日向も堪忍袋の緒が切れそうだった。
 奥歯を噛み締めて眼力を強めれば、いつもなら挑発に乗ってくる影山が先に目を逸らした。後頭部に手をやって、八つ当たりを反省したのか、気まずげに顔を背けた。
「ん?」
 珍しい反応に、日向は目をパチパチさせた。影山はそれを横目で窺って、寝癖を弄っていた手を下ろした。
 肩の力を抜き、溜息を吐かれた。背中を丸めて小さくなって、彼は長い足を引き寄せた。
「影山?」
「…………っう」
 怪訝に名前を呼ぶが、反応は鈍かった。
 その代わりと言ってはアレだが、彼の腹の虫が、ぐぅぅぅぅ、と盛大に音を響かせた。
 日向も大概腹がうるさい方だが、ここまで大きいものはあまりない。両者の間には一メートル近い距離があったのに、はっきり分かるくらいに鳴った音に、影山の顔はみるみる赤くなっていった。
「今の、って」
「うっせえな。ほっとけよ」
 これは本当に、腹の虫なのか。
 少しばかり疑ってかかったら、影山は目を吊り上げて声を張り上げた。
 唾を飛ばしながら吠えられて、日向は緩慢に頷いた。呆気に取られてぽかんとして、自然と手元に集まっていた情報を合算する。
 手ぶらで、昼休み開始直後に教室を出て、部室に引き籠って。
 部屋の中には食べ終えたパンの袋や、弁当の残骸は見えなかった。
 それは、つまり。
「お前、もしかして昼、食ってねーの?」
「そうだよ。悪いかよ」
「なんで」
「忘れたからに決まってんだろ!」
 もしやと思い尋ねれば、逆ギレされた。牙を剥いて怒鳴られて、日向は意外過ぎる事実に唖然となった。
 教室にいなかったのは、皆が食事を楽しむ中、ひとりで空腹に耐える環境が辛かったから。
 部室で眠っていたのも、空っぽの胃袋を宥め、誤魔化す為に違いない。
 だというのに、日向がやって来た。人の気も知らずに弁当を広げ、美味しい料理に舌鼓を打っていた。
 蹴りたくなる気持ちも分かる。合点が行って、頬が自然と引き攣った。
「財布も?」
「今使ったら、練習前に食うモン買えなくなるだろ」
「ははっ」
 念のために訊けば、答えは簡潔だった。
 昼間の耐え難い空腹も、部活動に参加出来ないのに比べれば、大した問題ではない。そうキッパリ断言してみせた彼の潔さには、感嘆すると同時に、笑うしかなかった。
 そして皆が教えてくれた情報に、少しばかり感謝した。
「しょうがないなあ、影山は」
「るっせ」
「そんなしょうがない影山君に、おれの弁当を、ちょこーっとだけ譲ってあげよう」
「マジか!」
 腹の底から笑い、声を響かせる。箸の先を三センチほど広げて囁けば、影山は大仰に反応して身を起こした。
 片膝を立てて伸びあがった男の、過剰なまでの反応ぶりに、日向は益々笑いが止まらなかった。
 影山が気になるのは、目が離せないから。
 放っておくと馬鹿な事をして、取り返しのつかない事になりそうだから。
 でっかい弟が出来たようなものだ。手間のかかる家族が増えて、兄としてしっかり見張っておかなければ、という義務感を抱いているだけだ。
 きっとそうだ。
 そうに違いない。
「言っとくけど、全部はやらねーからな」
「分かってるって。日向、俺、そのから揚げ食いたい」
「これはおれのだから、ダーメ!」
「食って良いって言ったじゃねーか」
「おれが好きな奴は、……って、手づかみで食ってんじゃねーよ!」
 自分に言い聞かせ、伸びて来た手に悲鳴を上げる。サッと潜り込んでパッと掴み、スッと引っ込めた影山に絶叫して、日向は机に寄り掛かって立つ男の足を蹴った。
 しかし影山はびくともせず、この隙に、と次々に惣菜を口に放り込んで行った。
「ああ、あぁあああ!」
「ん、んまい」
「影山のアホー!」
 同情してやったのに、憐れむ気持ちは見事に消え去った。椅子の上で両手両足を振り回して、日向は叩かれてもへこたれない、図々しい王様に蹴りを繰り出した。
 あっさり躱されて、腹立たしいったら、ありはしない。
 憤慨し、煙を噴く。影山は口角を歪めて笑い、癖のある茶色い髪を上から押さえつけた。
 頭を撫でられたところで、ちっとも嬉しくない。
 だというのに途端に力が奪われて、不貞腐れつつも、許してしまいたくなった。影山だから仕方がない、という不条理な理由で、受け入れてしまいそうになった。
 兄として、不出来な弟の世話を見てやらなければいけないから。
 このもやもやした感情はその所為だと言い訳をして、日向は影山の脛を蹴った。

2015/1/29 脱稿

ありへば人や思ひ知るとて

 鳥が囀っていた。
 誰かが庭先に餌を撒いたらしい。艶やかな翼を持つ小鳥が数羽、踏み固められた土の上で戯れていた。
 風切り羽が白い鳥の、細い嘴が何かを抓んだ。どうやら稗か、粟らしく、細かな粒が飲みこまれる様を眺め、小夜左文字は眉間に皺を寄せた。
「そんな顔をするものではないよ」
 あのひと粒があれば、餓える人が一人減るやもしれない。そんな考えがふと脳裏を過ぎった矢先、まるで見透かしていたかのように、高い位置から声が響いた。
 気配は感じていたが、誰か、までは分からなかった。
 おっとりとした口調で囁かれて、漸く正体を知る。振り返り、彼は小さくため息を吐いた。
 淡い藤色の髪を無造作に風に流し、戦場には似つかわしくない派手な衣装で身を固めている。腰に佩く打刀の装飾も、人目を惹く豪華さだった。
 遠くから見ても、その存在が認識出来てしまう。
 それは合戦では不利に働く事もあるだろうに、この男には雅さこそが、命よりも大事らしかった。
 あちこち解れ、破れては修繕を繰り返した粗末な袈裟を好む小夜左文字には、彼の趣向が理解出来ない。己の華美さに酔い痴れていては、いずれ寝首をかかれる事にもなりかねないのに。
 富を一手に集めながら、弱きを虐げ続けた者たちの最期が、どうであったか。
 枚挙に暇がない昔話を脳裏に描き、小夜左文字はゆるりと首を振った。
「僕がどんな顔をしようと、あなたには関係ない」
「おや、つれないことを言う。共に主に仕える身だというのに」
 冷たく言い切れば、彼の口調が僅かに濁った。寂しそうな振りをして、大袈裟な仕草で胸に沁みる切なさを露わにした。
 下手な芝居に、小夜左文字はもうひとつため息を重ねた。肩を落として力を抜き、左手に握る鞘で己の腰を軽く叩く。
 自分たちは偶々、数奇な巡り会いでこの場に導かれただけだ。
 望んで今の主に仕える事になったのではない。
 もっとも、刀剣の分際で主人を選べるわけがなかった。
 嫌な身分だと何もない右手を見詰め、彼は小さな指をきゅっと握りしめた。
 俯いて、何も言わない。
 元から口数の少ない小夜左文字を上から下へと眺め、歌仙兼定は右人差し指を顎に添えた。
「ところで、お出かけかい?」
 訳知り顔で首肯して、明るい口調で尋ねる。
 先ほど素っ気ない態度を取られたというのに、まるでめげた様子がない。数秒前のことを簡単に忘れてしまう彼に呆れて、小夜左文字は愕然となった。
 ぽかんとしながら男を見上げ、やがてふいっ、と顔を背けた。小さな口は真一文字に引き結ばれ、表情は気まずげだった。
 実は今し方、その主に買い物を頼まれたのだ。暇を持て余していたところだったので、二つ返事で承諾したばかりだった。
 しかもひとりで出歩くのは危険なので、ひとりかふたり、供を連れていくよう言われていた。
 自分だけでも大丈夫だと思ったが、主の命には逆らえない。渋々了承して、手が空いている者を探していたところで、彼に会った。
 よりにもよって、と忌々しげに睨みつけるが、歌仙兼定は平然と受け流した。飄々として捉えどころがない男に嘆息を連ね、小夜左文字は背負った笠を頭に被せた。
「地獄耳」
「おや? なにか言ったかな?」
 表情を隠し、ぼそりと言う。
 聞こえただろうに歌仙兼定はとぼけると、物言わずに踵を返した背中を追いかけた。
 行き先は、とっくに知れているのだろう。数歩の距離を保ったままついてくる男を一瞥して、小夜左文字は立派な門を早足に潜り抜けた。
 遮蔽物のない平地は、見晴らしが良い。遠くの畑で鍬を振る農民の姿まで、この位置からでも見通せた。
 天気も良かった。空を仰げば、庭先で見かけたと同じ鳥が東に向かって飛び立っていった。
 行きたい場所へ、自由に飛んで行ける。
 復讐に囚われ、怨嗟の炎に心を焦がし続けるこの身では、到底考えられぬ生き方だった。
 羨ましいのだろうか。
 思わず立ち止まり、惚けていた彼を現実に呼び戻したのは、荒い馬の鼻息と、蹄の音だった。
「乗りたまえ」
「……良いのか」
「許可は得ている。徒歩では夜になってしまうだろう?」
 振り向けば、歌仙兼定が更に高い場所に居た。栗毛の馬には鞍が用意され、手綱を引く手には慣れが感じられた。
 たかが市へいくだけなのに、馬を使うのは気が引けた。盗まれでもしたら一大事だから避けたのに、この男は遠慮というものを持ち合わせていないらしかった。
 馬の管理は当番制だが、誰がどこでどう使うかは、主の裁量ひとつに任されている。
 地獄耳なだけでなく、ちゃっかりしている。
 どこまでも世渡りが上手い男に肩を落とし、小夜左文字は被っていた笠を背中に垂らすと、利き腕を伸ばした。
 躊躇なく掴まれて、引き上げられた。軽い身体は一瞬のうちに地上を離れ、胴回りも立派な栗毛の馬の背に降り立った。
 足台を用いず、鐙の助けも借りなかった。歌仙兼定の力に頼り切らず、地を蹴る勢いを利用して、華奢な体躯を馬上に預けた。
 前脚の付け根を蹴られはしたが、栗毛の馬は暴れなかった。さほど増えなかった重量に満足げな顔をして、鼻から勇ましく息を吐いた。
 その面長の顔をそっと撫でて、小夜左文字は首の紐を解き、手綱を持つ男を振り返った。
「夜になってしまう」
「了解した」
 邪魔な編み笠を胸に抱いて、早く行くよう急かされた。意趣返し的な台詞回しをされて、歌仙兼定は淡く微笑んだ。
 もっと窮屈になるかと思いきや、細い肢体はすんなり収まった。他の短刀たちと比べても遥かに脆弱な手足には筋が浮き、今にも骨が飛び出て来そうだった。
 こんな身体で、戦場を渡り歩いている。
 前だけをじっと見据える白い頸部を眺め、歌仙兼定は馬をゆっくり走らせた。
 少しずつ速度を上げて、すっかり覚えてしまった道のりを辿る。馬に揺られながらの道行きは、お互い喋る事もなく、舌を噛むのも避けたくて、無言だった。
 やがて道幅が幾ばくか広くなり、通行人の数も増えた。目立つ色の幟が立てられ、行李を担いだ男たちと、幾度となくすれ違った。
「さあ、着いた」
 徒歩であったなら、太陽が天頂を通り過ぎてからの到着となった筈だ。しかし馬を使ったお陰で、もっと早く辿り着けた。
 村の入り口で馬を預け、久方ぶりの地上に降り立つ。足元が揺れたのは錯覚で、放っておけばすぐに収まった。
 深呼吸をして、小夜左文字は預かって来た小袋を袈裟の上から握りしめた。
 市が立つ日は決まっており、今日を逃すと十日後になってしまう。
 責任は重大だった。
「主に、何を頼まれたんだい?」
「打粉がじき、無くなりそうだって。それから、炭もあれば買い足して、届けさせて欲しいと言われている」
「それだけ?」
 買い物に行くよう頼まれたと知ってはいても、要望の品までは盗み聞けていなかったようだ。
 歌仙兼定の問いかけに、最初は流暢に答えた小夜左文字だったが、声を潜めて囁かれ、途端に口を噤んで押し黙った。
 ほんのり赤くなった顔は、年相応で可愛らしい。
 恥ずかしがっている様子を楽しんで、歌仙兼定は丸い頭を撫でた。
「駄賃だと思えば良いさ」
「……うるさい」
 硬くて太い毛先を弄り、見えた団子屋の看板に頬を緩める。悪戯な手は即座に叩き落とされ、男は苦笑を禁じ得なかった。
 血腥い世界に落とされようとも、根は子供だ。甘いものが好きで、美味しいものに目がない。
 口を開けば物騒な事ばかり言う子だが、なかなかに可愛らしかった。
 ついて来て良かったと嘯かれ、笠を背に垂らした小夜左文字は小鼻を膨らませた。
「夜が来てしまう」
「おっと。そうだった」
 不満げに吐き捨てれば、のんびりしている暇はないと思い出したようだ。歌仙兼定はぽん、と手を打つと、頼まれ事を済ませるべく、店を探して目を泳がせた。
 額に手を翳し、左右を見回す。
「よし。行こうか」
 やがて両手を腰に移動させ、男は得意満面に胸を張った。
 華美に着飾った歌仙兼定は、戦場だけではなく、市中でも良く目立った。人目を集めて、一緒に居る小夜左文字まで奇異の視線を向けられた。
 公家好みの衣装の傍に、破れた袈裟を羽織る童子がひとり。
 どういう組み合わせかと囁く声が聞こえて、居心地の悪さが腹に響いた。
「言わせておきたまえ」
「……地獄耳」
 歩きながら、段々と機嫌が悪くなる。顰め面が強まって、歌仙兼定に笑われた。
 ぼそりと言い返してみても、呵々と声を響かせるだけ。それで余計に注目が集まって、辟易した小夜左文字は草履の先で小石を蹴り飛ばした。
 ところが、だ。
「待て。どこへ行く」
「折角来たのだから、他にも色々見て歩きたいだろう?」
 主に依頼された品は、目前に迫る店で揃うはずだった。しかし歌仙兼定は歩みを止めず、どんどん先へ進もうとした。
 慌てて引き留めるが、のうのうと言い放たれた。信じ難い提案に唖然として、小夜左文字は即答出来なかった。
 呆然と立ち尽くしていたら、男が大仰な身振りで肩を竦めた。
「掘り出し物があるかもしれない。主の役に立つものを持って帰れば、褒めてもらえるかもしれないだろう?」
 目利きは得意なのだと、自信満々に言い切られた。
 褒めて貰える。
 心を擽る甘い囁きに背筋が粟立ち、頷きそうになった小夜左文字は慌てて己を戒めた。
「金は、どうする」
 渡された資金は、そう多くない。予定外のものを買って、必要なものを買えないのは困る。
 現実に即した返答に、歌仙兼定は胸を張った。
 額に掛かる前髪を指に巻き付け、任せろ、とだけ答えた。大船に乗ったつもりでいろ、と告げられて、小夜左文字はげんなりした顔で首を振った。
「泥船の間違いじゃないの」
「失敬な。君には、僕のこの雅さが分からないのかい」
「残念だけど、興味ない。僕は用事を済ませてくる。勝手にしろ」
 矢張りこの男とは、根本的に分かり合えそうにない。
 冷たく言い捨てて、彼は行き過ぎた店に戻るべく、踵を返した。
 融通が利かず、寄り道さえ拒む。
 闇雲に突き進んだところで、目指す場所に行き着けるかどうかは分からないというのに。
「哀しい子だ」
 背中を見送り、歌仙兼定は呟いた。人混みに呑まれた身体は瞬く間に見えなくなり、目印になる笠も紛れてしまった。
 あの髪色は、哀しみに暮れる夜更け前の空の色に似ている。粗末な身なりも、敢えて険しい道へ己を追い込もうとしているようだった。
 その生き様は醜く、血腥く、それ故に美しい。
 既に遂げられた復讐に固執して、死に場所を探しているかのように彷徨っている。なにかを殺す事でしか生きる術を見いだせない魂は、果たして何色だろうか。
「……そうだ」
 ふと思い立ち、彼は柏手を打った。妙案だと脳裏に浮かんだ内容に頷いて、早速探そうと身体を反転させた。
 醜いものは、美しく飾って。
 美しい物は、更に美しく彩らせる。
 楽しみだと心弾ませ、歌仙兼定は人の間を潜り抜けた。
 戻りは、小夜左文字の方が圧倒的に早かった。
 預けた馬を引き取り、手綱を握って手持無沙汰に時が過ぎるのを待った。重くなるので荷物は後から屋敷へ届けてくれるよう頼み、彼が背負うのはまだ柔らかい団子だけだった。
「やっと来た」
 桶の水を飲む馬を撫でつつ、共に来たもう一人を雑踏に見つけて肩を落とす。
 出来るものなら置いて帰ってやりたかったが、小夜左文字の体格では、この栗毛の馬は大きすぎた。
 まず鐙に足が届かない。鞍も大人の体格に合わせて拵えられており、彼が座ると安定が悪かった。
 間違っても、あの男を慮ったが故に、大人しく待っていてやったのではない。
 あくまでも仕方なかったからだ、と自分に言い訳をして、小夜左文字は上機嫌な足取りの歌仙兼定に嘆息した。
「遅い」
「いやはや、面目ない。なかなかこれ、と思うものが見つからなくてね」
 手短く叱れば、少しも悪びれずに言い返された。反省の色など皆目見えない態度に腹が立ったが、言い争ったところで躱されるのは目に見えていた。
 馬の耳に念仏。或いは、糠に釘。
 手応えのないやり取りは、こちらが疲れるだけだ。
 早々に諦め、小夜左文字は休息を楽しんでいた馬の鼻先を撫でた。
 ぶるりと震えて嘶いた栗毛を宥め、借りていた水桶を返すべく、持ち上げようと膝を折る。身を屈め、前傾姿勢を取って両腕を前に差し出す。
 しゅるり、と音がして、直後にふわりと綿毛が舞った。
 否。
 無造作に集め、結っていた髪が紐解かれたのだ。
 櫛など入れたことはなく、鋏を入れたのがいつだったかも思い出せない。伸びるに任せていた毛先が襟足に当たるのを嫌い、結ぶ位置は年々高くなっていった。
 まるで馬の尾だ。左右に割れて広がる毛先は針のように固く、触れれば肌をちくちく刺した。
 それが、鬼灯の実の如く弾けた。
 解けた髪は空中で広がり、支えを失って緩やかに失速した。大量の空気を含んで広がって、枯れ木のように細く白い襟首を隠した。
「おや。意外に長かったね」
「なにをする!」
 誰が紐を外したかは、声に出して問うまでもない。小夜左文字は咄嗟に利き手を柄に伸ばし、左手で鞘を握りしめた。
 いつでも抜けるように構え、獣と化して吼える。目を吊り上げ、古びて黒ずんだ荒縄を揺らす男を睨む。
 それをいつ、どこで手に入れたかも記憶になかった。今にも真ん中で千切れてしまいそうな草臥れ具合で、手垢にまみれ、顔を寄せれば脂の臭いがした。
 試しに嗅いで、歌仙兼定は嫌そうな顔をした。人差し指と親指だけで抓んで、出来るだけ身体から遠ざけようと肘を伸ばした。
 人の持ち物にけちをつけられて、小夜左文字は憤慨して真っ赤になった。
「返せ」
「これは、雅じゃないねえ」
「どうだっていいだろう。それは僕のものだ」
「生憎だけれど。君はもっと、似合うものがあるよ」
 手を差し出し、返却を求めるが応じて貰えない。それどころかいけしゃあしゃあと言い放ち、男は懐に手を入れた。
 何が出てくるか、判然としない。警戒だけは怠らず、気配を尖らせた小夜左文字だったが。
「――なに」
 歌仙兼定が取り出し、黒ずんだ荒紐の代わりに手渡したのは、目を見張るほどに赤い組紐だった。
 両端には飾り房が付いていた。いかんも貴族の娘が好みそうな品を見せられて、小夜左文字は困惑に眉を顰めた。
 怪訝にしていたら、歌仙兼定にすぐ取られてしまった。彼は小さな掌から紐を摘むと、細い肩を軽く押した。
「後ろを向いて。結んであげよう」
「いったい、何を」
「なに。君はこっちの色の方が似合うと思っただけだよ」
 戸惑う小夜左文字に呑気に言って、男はざんばらの髪を器用に集め始めた。流石に櫛は持ち合わせていなかったようで、指を櫛代わりに使いながら、夜明け前の藍の髪をまとめていった。
 白いうなじを戯れに撫でて、恐々後ろを気にしている小さな子供の髪を結ぶ。簡単に解けないよう根本にしっかり巻きつけて、完成だと手を離す。
 飾り房が襟足を撫でて、くすぐったかった。
「赤、が?」
「そう。うん。やはりこちらの方が、君らしくていい」
 出来栄えを満足げに見下ろし、歌仙兼定は何度も頷いた。表情は心なしか嬉しそうで、とても楽しそうだった。
 人に髪を結って貰う事自体、小夜左文字には初めての経験だった。
 どうしてだか、落ち着かなかった。心がそわそわして、鼻の奥がむず痒かった。
「僕は、別に。……それに、お金」
「なあに、僕が好きで選んで来たものだ。取っておきなさい。とても良く似合っている」
 自分の見立てがぴったり来たので、喜んでいる。代金も要らないと太っ腹なところを示されたが、丁寧に編まれた紐や、ここまで鮮やかな色合いといい、かなりの額を積んだに違いなかった。
 似合っていると言われても、信じられない。
 首を竦めて萎縮して、小夜左文字は言葉が出て来ない唇を浅く噛み締めた。
 左手で触れた飾り房は柔らかく、ふわふわして、気持ちが良かった。
「赤」
 けれど染めつけられた色を意識した途端、肌に広がる感触は濁り、不快なものに変化した。
 赤と言われて真っ先に思い浮かぶのは、血だ。
 戦場を染めるのは、斬られ、斃れた者たちが流す血の赤色だった。
 成る程、似合うわけだ。復讐の怨念に取りつかれ、ただ人を斬る事のみに存在理由を見出す己には、この色が最も相応しかった。
 自虐的な笑みを浮かべ、小夜左文字は実用に則さない、邪魔なだけの房を強く握りしめた。
 俯き、感情を掻き消す。暗く、冷たい闇に身を浸し、心配そうに顔を寄せた馬に無言で寄り掛かる。
 沈み切った表情を眺め、歌仙兼定は妖しく微笑んだ。
「椿の色だよ」
「……え」
「知っているだろう。冬に咲く、あの花だ」
 植物が凍え、死に絶える冬場にあっても、咲く花はある。
 そのひとつが、彼の言う椿だった。
 確かにあれも、鮮やかな赤色だった。雪の白さによく映えて、枝から落ちても尚、その花は美しかった。
 血の赤でなく、花の赤を先に連想する。
 雅を好む男らしい発想に、小夜左文字は呆気に取られた後、堪らずクツリと喉を鳴らした。
 笑いを堪え、額を覆う。
 こうも根底からして違うと思うと、馬鹿と罵る気も起こらなかった。
「気は済んだのか」
「ああ。とてもね」
 肩で息を整え、低く問いかける。歌仙兼定は迷わず頷き、栗毛の手綱を取った。
 帰ろうと囁かれ、逆らう理由はなかった。
 首肯して、小夜左文字は彼の手を掴んだ。行きと同様、引き上げられて、馬の背に跨り、愛用の笠を胸に抱く。
 違うのは土産の団子と、軽くなった懐と、緋色の組紐くらい。
 細い首では揺れに合わせて飾り房が躍り、俯く子供と戯れていた。
 透けるような白と、目にも鮮やかな赤と。
「やっぱり、僕の目に狂いはなかったようだね」
「……なに」
「いいや。なんでも」
 思わず手綱を手放し、触れてみたくなった。
 気配を悟って、小夜左文字が振り返る。問われてゆるゆる首を振り、歌仙兼定は目を眇めた。
 椿は、花弁が基部で繋がったまま、木から落ちる。その様は、まるで人の首が胴から斬り落とされたかのようで。
 白雪に散れば、さぞ美しい光景を拝めよう。
 目を閉じれば、戦場で可憐に咲く花が見えた。
 刀は飾るでなく、実戦に用いてこそ。
 己の嗜虐性を風雅さに隠し、男は穏やかに微笑んだ。

2015/01/21 脱稿

烏の濡羽

 なかなか寝付けない夜だった。
 布団の中で身動ぎ、寝返りを繰り返す。目を瞑って眠気が訪れるのを静かに待つが、神経が高ぶっているのか、その時は一向に訪れなかった。
 壁時計が時を刻む音が五月蠅かった。
 いつもなら気にならないものが、今晩に限って意識に引っかかる。その原因は明白で、理由を探す必要はなかった。
「……はあ」
 照明を消した暗い室内で仰向けになり、孤爪研磨は溜息を吐いた。
 頭まで被っていた薄い掛布団を退け、瞼を開く。もっとも見える景色にそう大差はなく、天井は目を閉じている時と同じ闇色だった。
 けれど瞬きを繰り返しているうちに、次第に目が慣れて来た。光は皆無ではなく、ブルーレイレコーダーの時計や、ゲーム機の充電ランプは明るかった。
 それらのか細い光を集め、平面だった世界を立体に作り替えていく。平らに思われた天井にも凹凸はあって、薄い半円形の蛍光灯カバーが視界の中心に表れた。
 豆電球さえ消している空間に横たわり、孤爪は自分の呼吸を数えた。
「クロも、寝てないだろうなあ」
 灰色の景色に浮かび上がったのは、なにも部屋の造形だけではなかった。
 試合終了の笛が鳴った途端、膝を着いて泣き崩れる者がいた。
 人目を憚ることなく涙を流し、嗚咽を漏らして動けない者もいた。
 呆然と立ち尽くし、眩しい照明に瞼を下ろす者もいた。
 疎らな拍手は、対戦チームの雄叫びに掻き消された。ネットの向こう側では勝利に歓喜するメンバーが飛び回っており、まるで別世界のようだった。
 天国と、地獄。
 喩えるなら、まさにそんな雰囲気だった。
 勝者と敗者、賛辞を送られるのはどちらが多いか。そんな事、子供だって分かるに決まっていた。
 あれからまだ十時間ちょっとしか経っていない。皆で食べた遅めの昼食は、必要以上にしょっぱかった。
 ずどんと重い物が頭の上に落ちて来て、それがまだ取り除けていない感じだった。いつも以上に湯船に浸かって身体を休ませたはずなのに、四肢のだるさは抜けず、全身が鉛になったようだった。
 それなのに意識だけは冴えて、眠るのを拒んでいた。
「ちがう、か」
 自己判断を翻し、孤爪はぽつりと呟いた。
 眠れないのは、覚えていたいからだ。
 一晩眠って、今日の悔しさを忘れてしまうのを恐れているからだ。
 負けた。
 勝てなかった。
 競った試合だった。けれど最後に、流れを掴み損ねた。
 チーム全体の志気は高く、調子だって悪くなかった。それなのに練習なら簡単に決まるサーブが決まらず、連携に細かなミスが出た。
 押し寄せてくる大声援に圧倒されて、ボールの感覚が少しずつ狂わされていった。
 目に留まるような大きな失敗はなかった。それでも掠め取られた流れを呼び戻すのは難しく、勝負は後手に回った。
 第一セットを奪われ、焦っていたのかもしれない。
 脳が狂えば、他の歯車も総じて動きが悪くなった。自覚はなかったけれど、そうとしか言いようがなかった。
 大差はつかなかった。
 けれど、だからこそ、悔しい。
 あと少し、なにか出来ていたら結果は違っていた。そう思わずにはいられない敗戦だった。
「去年とは、違うな」
 一年前は、コートの外で見ているだけだった。
 勝敗にかかわらなかった分、悔し涙を飲む先輩たちを他人事のように眺めていた。何故あんなに人前で泣けるのかと、不思議に思いさえした。
 今なら彼らの気持ちが、ほんの少しではあるが、理解出来る気がした。
 身を捩り、孤爪は利き腕を布団から引き抜いた。
 手を拡げ、掌を見詰める。けれど掲げ続けるのは難しくて、指を折って緩く握ると、中指の関節を額に押し当てた。
 骨がぶつかり、コツリと音が響いた。
 軽い衝撃に目を瞑り、そのまま瞼を下ろし続ける。昼間の熱戦による疲れがやって来るような気がして、微かな期待に胸を高鳴らせた。
 しかし願いは虚しく、眠気は訪れなかった。
 遠くにあるレコーダーのデジタル時計は、午前零時過ぎを告げていた。いつもならもっと遅くまでゲームをしているのに、今日はそんな気分になれなかった。
 ボタンを押す指は動かず、画面に敵が現れても反応出来ない。アイテムを浪費するばかりで、少しも楽しめなかった。
 どう考えても、無駄な時間だった。
 早々に見切りをつけて寝床に潜り込んだが、これが正解だったかは分からない。息苦しさを覚えて寝返りを打ち、孤爪は枕を濡らしているだろうチームメイトを順に思い浮かべた。
 そうして最後に、音駒高校とは違うユニフォームを描き出した。
 オレンジに、黒のライン。背番号は十。
 バレーボール選手としては小柄な部類に入る孤爪よりも五センチ以上背が低いのに、任せられるポジションはミドルブロッカー。そんなちぐはぐさが目立つ華奢な少年も、数日前に眠れない夜を過ごしたひとりだった。
 特に連絡はなかった。けれど想像がつく。並々ならぬ情熱を持ち合わせている彼は、大粒の涙を流して歯を食い縛っていたに違いなかった。
「翔陽」
 彼はもう立ち直っただろうか。
 思いを巡らせて、孤爪は反対側に寝返りを打った。
 壁に向き合い、小さな染みを見つけて指を這わせる。特に意味のない、どうでも良い事で気を紛らせて、昼の余韻を引きずる心を落ち着かせようと試みる。
 深く息を吐いて瞼を閉ざし、もう一度睡魔を招くべく呼吸を鎮めようとして。
「……ン?」
 どこからか、何かが震え、蠢く気配が感じられた。
 夜の帳を巻き上げ、孤爪は音の出どころを探った。ヴヴヴ、ヴヴヴヴ、と繰り返される振動には覚えがあって、ハッとなった彼は急いで掛布団を蹴り飛ばした。
 被っていたものを取り除き、身軽になった身体を床へ降ろす。手は枕元を探り、天井照明のリモコンを引き寄せた。
 ひとつしかないスイッチを押せば、瞬時にライトが反応した。
 ぱっと灯った光に目を眇め、彼は眩しさに慣れてから視線を足元へ這わせた。
 薄い影が伸びていた。愛用のリュックサックが床に放り出されたまま、形を歪めて斜めに傾いていた。
「忘れてた」
 その奇妙な形状を見ているうちに、孤爪はとある事実を思い出した。顔を上げて机を見て、そこにあるべきものが無いと知って肩を竦めた。
 携帯電話の充電用スタンドが空っぽだった。
 先程の振動は、鞄に入れっ放しだったスマートフォンのものに間違いない。そういう基本的な事すら頭から抜け落ちていたと気付き、彼は意外にダメージが大きかった胸を撫でた。
「結構、キてるんだな」
 山本や犬岡のように、涙を流しはしなかった。
 海のようにあっさり結果を受け入れ、清廉としてもいられなかった。
 夜久のように声を殺して唇を噛み締める事も、黒尾のように天を仰いで息を整える真似もしなかった。
 ただ立ち尽くし、悔しがる彼らを眺める事しか出来なかった。
 負けた事実を受け入れるのに、数秒の時間が必要だった。試合終了の笛が鳴った後も、当たり前のようにサーブが来るものと、心のどこかで信じていた。
 リセットしてやり直しの利かないゲームは、存外に心に掛かる負荷が大きかった。
 ベッドに腰を下ろし、鞄を漁る。取り出したスマートフォンは右上のランプが明滅して、着信があったと教えてくれた。
 側面のボタンを押して電源を入れて、内容を確かめる。
「メール……」
 てっきり無料通話が可能な交流系のアプリで、眠れない誰かが愚痴のひとつでも送って来たと思った。しかし表示されたアイコンは、彼の予想していたものと違っていた。
 こんな時間に、誰だろう。
 迷惑メールの類だったら、呪いの言葉を返してやりたいところだ。人の安眠を邪魔する者には鉄槌を、と変なところで意気込んで、彼は複数並ぶアイコンのひとつを押した。
 そうして自動的に特定フォルダに振り分けられたメールを見て、孤爪は大きく目を見開いた。
「なんで」
 思わず壁の時計を確かめて、届いたばかりのメールに愕然となる。この時間、彼ならとっくに夢の中の筈で、真っ先に名を騙った別人の悪戯を疑った。
 だが、そんな手の込んだことをする馬鹿はいない。
 一瞬燃え盛った感情を即座に冷まし、孤爪は冷静になるよう自分に言い聞かせた。
 もしかしたら、なんらかの影響で、受信のタイミングが遅れただけかもしれないではないか。送信すれば即届くメールながら、稀にタイムラグが発生するのは、孤爪も承知していた。
 そういうレアなケースに巻き込まれたのだろう。言い訳がましく自分を納得させ、彼は恐る恐る新着を示すアイコン付きのフォルダを押した。
 指の動きを探知し、四角い機械はパッと画面を切り替えた。
 そのフォルダに収められているメールは、すべて差出人が同じだった。
 振り分けのルールに宛がっているのがひとりだけなのだから、当然の結果だ。画面にずらりと並ぶ同じ名前を黙って見下ろし、孤爪は息を整え、最上段の未読を表す太文字を押した。
 途端にまた画面が変わって、白い背景に短い文章が現れた。
 差出人、受信時間、件名しか表示されていなかったリストから一変し、画面は急に明るくなった。タイトルは特に指定されておらず、空白で、返信を表すアルファベットもなかった。
「翔陽、起きてるの?」
 フォルダのタイトルにもなっている名前を口ずさみ、孤爪は跳ねた心臓に唇を噛んだ。
 ドキリとして、もう一度時間を確認する。時計の針に大きな変動は見られず、神経に触っていたコチコチ言う音も、今は気にならなくなっていた。
 日付が変わった後に届いたメールには、たったひと言。
 電話をしていいか、とだけが記されていた。
 数バイトの文章を十度も読み返し、フォルダ画面にまで戻って、幻ではないのを確かめる。夢かと疑って頬を抓れば、ちゃんと痛かった。
 眩しい画面に見入って、彼は逡巡を経て返信と書かれたボタンを押した。
 唇を舐め、隙間から細く息を吐く。緊張で指が震え、文字を打つのは大変だった。
 もし、不具合で受信が遅れていただけなら、きっと返事は来ない。
 そうであればいいと願いつつ、彼が布団に包まって返信を待っていると期待して、孤爪は覚悟を決めて送信ボタンを押した。
 うん、と。
 たった二文字にあらゆる思いを込めて、送り出す。
 手慣れている事なのに、恐ろしく時間がかかった。こんなにも神経がすり減るメールは、生まれて初めてだった。
 送信完了を見届けて、孤爪はホッと胸を撫で下ろした。寝間着替わりのシャツの袖をたくし上げて、電池残量を気にして眉を顰める。
「充電しとこ」
 乾電池のマークは赤くなるところまで行っていないが、このまま置いておくのは気が引けた。
 今からコンセントに繋いでおけば、朝には満タンに戻っている。専用スタンドに挿し込むだけで済むので、作業自体は楽だった。
 ぼそりと言って、孤爪は立ち上がった。素足で短い距離を歩き、矢張り電波状況が可笑しかっただけと結論付けようとして。
「う、あ」
 縦に持っていたものを横にしようとして、彼は突如震え出したスマートフォンに慌てた。
 思わず落としそうになって、急いで反対の手を底に添えた。再び持ち方を変えて顔の前に掲げ、電話着信を伝えるメッセージに唖然となる。
 そこに表示されていたのは、覚えのない番号だった。
 電話帳に登録されていたら、名前が出てくるはずだ。東京とは大きく異なる市外局番に目を剥いて、孤爪は覚えた躊躇を蹴り飛ばした。
 親指を液晶画面に押し当て、上にスライドさせる。
「もっ、もしもし」
 気張り過ぎて第一声に詰まった彼の応対に、しかし返答は得られなかった。
 その代わり、吐息が聞こえた。緊張している雰囲気が電話口から伝わって来て孤爪は息を潜め、端末を耳に押し当てた。
 このタイミングで悪戯電話がかかってくる確率は、孤爪がバレーボールプレイヤーにならなかった確率よりも低い。見知らぬ番号が誰のものか、確信を深めて、彼はベッドに戻り、腰を下ろした。
「どうしたの、翔陽」
 静かに語り掛け、目を閉じる。意識を研ぎ澄ませて遠い北の大地に思いを飛ばせば、数秒の間を置いて、嗚咽にも似た呻き声が聞こえた。
『けん、むぁ……』
 たどたどしい口調で名前を呼ばれた。鼻を啜る音が後に続いて、笑いを堪えるのが大変だった。
 どうして彼が泣くのだろう。
 逆ではないかと考えて、孤爪は優しく微笑んだ。
「泣いてたら分かんないよ、翔陽」
『う、……ん。ごめっ、おれ、……ねぶれ、なぐで』
 鼻が詰まっているのか、発音が所々おかしい。目尻を擦る音も聞こえて来て、その涙を拭ってやれないのが少し悔しかった。
 代わりに自分の太腿を掻き、孤爪は肩を竦めた。
「翔陽が泣いてたら、おれは、泣けないね」
『ぶぇっ』
 ぽつりと零した言葉は、意地悪だっただろうか。カエルが潰れたような変な音が聞こえて来て、彼は目を眇めた。
 電話口の泣き虫は、どこで情報を聞き付けたのか。恐らくは親しいチームメイトから教えられたであろう試合結果に、こんな反応をされるとは夢にも思わなかった。
 彼には、涙を流す理由などないのに。
 冷めた想いは少なからず存在したけれど、彼の気遣いを嬉しく思う気持ちは、その十倍以上の大きさだった。
 シーツの海を撫でて、孤爪は見つけた皺に爪を立てた。
『ごめ、……音駒、が。月島が、負けたって、言うから』
 詰まりながらの説明は、大方予想通りだった。
 月島というのが誰かまでは分からないけれど、親切に試合結果を教えてくれたらしい。それに衝撃を受けて、今頃になって電話をかけて来た。
 ネットワークが発達した現代では、ちょっと調べるだけで色々な情報を知る事が出来る。たった今終わったばかりの試合のスコアも、あっという間にデーターの海に広まる時代だった。
 孤爪だって、烏野高校がインターハイ予選での敗退を、インターネットで知った。本人からメールで伝えられたのは夜になってからで、短すぎる文面が胸に刺さったのを思い出した。
 彼は結果だけを告げて、最後に謝罪した。
 約束を果たせなくてごめん、と。
 日向翔陽との出会いは、五月の初旬に遡る。道で迷っていたところで偶然顔を合わせ、その後練習試合会場で再会した。
 次は、全国大会で。
 そういう約束を交わして、孤爪は宮城の地を離れた。
 しかし願いは果たされなかった。
 再戦の夢は絶たれ、約束は反故となった。半分冗談の、耳に優しい社交辞令のようなものだったから、孤爪自身はさほど気にしていなかったのだけれど。
 電話口の相手は、本気で叶えるつもりでいた。
 山本の慟哭が蘇った。大勢の観客が見守る中、恥も外聞もなく鼻水を垂らしていた犬岡の顔が浮かんで来た。
 どこか他人事と感じていた。
 負けは負けと素直に認めて、もう上に行けないのだと諦めるしかないと思っていた。
 それなのに。
 全く関係ないはずの日向が、孤爪たちの敗戦を知って泣いていた。
 宮城県の予選は東京よりも早くて、代表校は既に決まっていた。その時点で約束は無しとなったのだから、彼が悔しがる必要はないはずだった。
 もし音駒高校が順当に勝ち上がっていったとしても、烏野高校とは対戦出来ない。ならば予選会の段階で敗退してくれた方が良いと、卑屈な人間ならば考えそうなものだ。
「泣かないで。翔陽」
 ところが彼は、喜ぶどころか悲しんでいた。受話器から漏れ聞こえる嗚咽は次第に胸に迫り、孤爪を圧倒した。
 真綿でゆっくり締め上げられている気分だった。
 試合に負けた事に、あれこれ言うつもりはない。単純に、実力が足りていなかっただけの話だ。
 相手チームだって、死に物狂いでボールに向かっていた。最後まであきらめず、たとえ壁に激突しようとも怯まなかった。
 勝利にしがみつき、離さない。その気持ちの差が、得点となって現れた。
 最終セット。相手側の連続得点で一気に流れを奪われて、どうやっても取り戻せなかった。
 体調は万全で、心は落ち着いていた。
 皆の調子も悪くなかった。
 チームの力量にそれほど差はなかった。ブロックが高くて厄介ではあったけれど、突き崩せない程大きな壁とは感じなかった。
 それでも、負けた。
 ジリ貧に陥って、最後の最後で集中力がぷつりと切れてしまった。
『おれ、っも。負けて、くや……って。ぜんぜ、夜、寝られ……っく、て』
「うん」
『だから、けんま、っも。起きて……と、おもっ、だ、がら』
「うん」
 監督の奢りで昼食を食べて、学校に帰ってミーティングをして。
 いつになく早い時間に帰宅して、長湯をして、ゲームもそこそこに寝床に入った。
 しかし眠れず、悶々としていた。
 目を閉じればチームメイトの顔が浮かんだ。
 そして最後に、彼が現れた。
 声を聴きたいと、どうして思ったのだろう。
 会いたいと願ってしまったのは、何故だろう。
「うん。全然、おれ、眠れないんだ」
 去年はこうではなかった。冷たい奴と蔑まれても意に介さず、淡々と状況を受け入れ、格別悔しいとも思わなかった。
 だのに日向の鼻声を聞いているうちに、目頭が熱を持ち、鼻の奥がツンとした。
 左手で額を押さえ、孤爪は前髪を掻き上げた。いつもは隠れている瞳を曝け出し、歪んで見える景色に奥歯を噛み締めた。
 今頃になって、どうかしていると思う。けれど押し寄せる悔しさの荒波に抗う術を、彼は持ち合わせていなかった。
 涙だけは流すまいと堪え、きつく目を閉じる。前髪を握り潰したまま息を殺し、右手に持ったスマートフォンを床に叩き付けたい衝動を耐える。
 心臓が痛かった。
 四肢が引き裂かれたようだった。
 胸の中で炎が荒れ狂い、内臓が焼け焦げそうなくらい熱かった。血液は沸騰直前で、脳は茹で上がり、耳鳴りが酷かった。
 試合の光景が嫌というほど蘇り、何十回と繰り返された。あの時こうしていれば、ああしていればと後悔が渦巻いて、押し潰されてしまいそうだった。
 勝利は目前だった。
 このまま押し切れると、試合中なのに錯覚した。
 第一セットを奪われ、第二セットで取り返した。第三セットの中盤で嫌な流れになって、食らいついて二度のデュースに持ち込んだ。
 慢心があった。
 信じたくないが、終わってみえばそうとしか考えられなかった。
 全国大会での再戦は、猫又監督が言い出した話だ。五月の遠征最終日に、思いつきで語った彼に全員が乗せられた格好だった。
 黒尾はこの話に拘っていた。
 烏野高校が負けたという報せを受けた後も、自分たちだけでも約束を果たし、全国へ行くと意気込んでいた。
 それが孤爪には理解不能だった。
 音駒高校が勝ち進んで、日向たちは嬉しいのか。逆に己らの力量を悟り、嫉妬の感情を抱きはしないだろうか。
 卑屈に考えすぎていた。
 日向の頭の中はもっとシンプルで、裏表がなかったのを思い出した。
「ごめんね、翔陽」
『けん、ま?』
「約束。守れなかった」
 言葉と言葉の間にひと呼吸置き、一気に吐き出す。根元が黒い頭髪をくしゃくしゃに掻き回して、ベッドに横向きに倒れ込む。
 衝撃は優しくなかった。埃が舞い上がって、視界は灰色に霞んだ。
 思い出したことがあった。
 烏野高校が惜敗したと知った日の夜、日向から届いたメールには続きがあった。
 負けた事実と、再戦の約束が果たせなかった贖罪の他に。
 音駒は頑張れ、と。
 エールが添えられていたのを、今になって思い出した。
 彼の期待を裏切った。一瞬の油断が判断ミスを誘発し、手痛い失点につながった。
 心の弱い部分が出てしまった。
 どうしてこんなに苦しい思いをしてまで、バレーボールをしなければならないのかと、ふとそんな考えが頭を過ぎった。
 頑張る理由なら、いくらでもあったのに。
 勝ちたい。負けたくない。
 強くなりたい。強くありたい。
 皆と喜びを分かち合いたい。悔しい思いをしたくない。
 期待に応えたい。
 応援してくれた人たちを笑顔にしたい。
 遣り切った先にある満足感を得たい。
 心を震わせる快感を、この手に掴みたい。
 勝ったその先に何があるのかを確かめたい。
 知りたい。
 頂から見下ろす光景を、この目に。
 孤爪のプレイが、敗戦の直接の原因ではない。けれどひとつのきっかけになったのは、疑う余地がなかった。
 誰もがミスをする。いつもならほかの選手がそれをカバー出来た。綺麗に噛み合った歯車は美しいが、どれだけ小さな亀裂だろうと、放置すれば致命的な欠陥に繋がった。
 自分の所為ではない。
 誰の所為でもない。
 けれど負けた原因はどこかにある。
 勝ちを焦り、逸ったのもそのひとつ。
 出来ることはもっと沢山あった筈で、実行に移さなかったのは怠慢としか言いようがない。
 全力を出し切れたかと問われたら、一瞬悩んで首を横に振るだろう。もうじき終わる、と終盤に思ってしまった時点で、勝敗は決していた。
「負けるって、……くやしいね」
『うん゛っ!』
 囁けば、全力で同意された。鼻を詰まらせながら首を縦に振る日向の絵が浮かんで、孤爪は一寸笑ってしまった。
 心がスッと軽くなったようだった。涙はいつの間にか引いて、奥深い場所にあった不快感も薄れていた。
 負けた理由は幾らでもあった。数え上げたらきりがなかった。
 もっと全力を出していたら。身体がバラバラになっても構わないと、勝利に食らいついていけたなら。
 それでも、負けていたかもしれないけれど。
 この悔しさは、もっと重くなっていたかもしれないけれど。
 いつだって全力の日向は、孤爪よりもずっと重くて苦い気持ちを味わったのだろう。
 彼のようには泣けない。
 皆のように悔しがれない。
 そんな自分を初めて恥じた。彼らのように負ければ涙を流し、勝てば心から笑いたかった。
 日向に次に会う時は、胸を張っていたかった。
「しょうよう」
 気遣いが嬉しかった。
 遠く離れた場所にいても、気にかけてくれる人がいるのが心強かった。
 幸せだった。
「ありがと」
『研磨?』
 小声でぽつりと言えば、聞こえなかった少年が怪訝に名前を呼んできた。
 流石に二度は言えない。照れ臭さに負けて、孤爪は笑ってごまかした。
『むー』
 なんでもない、と答えれば、不満そうに唸られた。涙はもう乾いたらしく、鼻声も若干解消されていた。
 泣き顔を見てみたかった。勿論、一番見たいのは満面の笑顔だけれど。
「もう、おれ、……負けないから」
『そっか。おれも、うん。負けない』
 あんな疎外感は二度と御免だった。泣き崩れるチームメイトに何も言えず、立ち尽くすしか出来ないのは嫌だった。
 決意を告げれば、同じ言葉を返された。続けてしどけなく笑いかけられて、孤爪は胸に生じた温かなものを握りしめた。
「……ありがとう」
『ふえ?』
「大丈夫だよ、おれは」
『そっか』
 一度は渋った言葉を、思い切って声に出す。今度はちゃんと聞こえたようで、日向は面食らい、そして安堵したように呟いた。
 彼に会えてよかった。
 彼と友達になれて良かった。
『がんばろーな』
「うん」
『負けないからな』
「こっちのセリフ」
『研磨』
「うん?」
『おやすみ』
「……うん。おやすみ、翔陽」
 腹いっぱい食べて、風呂でゆっくり身体を温めた直後のようだった。
 幸福が胸を満たした。ほこほこして、心は穏やかだった。
 声が聞けて嬉しかった。覚えていてくれたのが、嬉しかった。
 言葉にし得ない感情が溢れて、孤爪を包み込んだ。
 通話は静かに途切れた。すっかり暗くなっていた画面を軽く押せば、終話の文字が時の経過を教えてくれた。
「おやすみ、翔陽」
 聞く相手が居ない言葉をまた繰り返して、彼はスマートフォンを手放した。捲れていた掛布団を引き寄せて被り、猫のように丸くなった。
 目を瞑っても、昼間の試合は思い出さなかった。涙にくれるチームメイトの顔は過ぎったものの、後には残らなかった。
 ミーティングを終えて帰路に着く彼らの顔は、悔しさを滲ませながらも前を向き、力強さを取り戻していた。
「負けないよ」
 その言葉は誰に向けて放たれたものか。
 ぼそりと囁き、孤爪は静かに微笑んだ。

2015/1/14 脱稿

潤朱

「ひー、ちっかれたー」
「年寄り臭いぞ、龍」
「なんと!」
 今日も賑やかに、部室のドアが開かれた。どやどやと雑談を交わしながら靴を脱ぎ、他の部屋よりは若干広い空間に、排球部員が雪崩れ込んだ。
 スニーカーがひっくり返っていようとも、誰も気に留めたりしない。踏まれるのが嫌な部員は安全な端に自ら寄せて、額に噴き出た汗をタオルで拭った。
 室内は冷えていたが、人が溢れたお蔭で温まろうとしていた。外では秋風が吹き荒れており、鍵のかかった窓がカタカタ揺れていた。
 暖房という便利なものは、ひとつとして存在しない。誰もが練習で温まった身体を維持しようと必死で、着替えは素早かった。
 足を踏み鳴らして小刻みに身を揺らし、余分な会話は一気に減った。
「あー……もうじき雪が降るよなー……」
「嫌な季節がやってくんぜ、まったく」
 しかし思春期の青少年が、そう長く黙ったままではいられない。ずる、と鼻水を啜って寒さを堪えた田中の弁に、西谷が即座に合いの手を挟んだ。
 いの一番に部室のドアを潜った彼らは、既に着替えの大半を終えていた。後は学生服の上に上着を羽織り、晩秋の風を遮る手段を講じるだけだった。
「どーよ。今年の新作!」
「おぉ、かっちょいい!」
 そんな中で、西谷が真冬でも通用しそうなダウンジャケットで胸を張った。隣にいた田中がすかさず歓声を上げて、手元に集中していた部員らは一斉に彼を振り返った。
 騒ぎを遠巻きに眺め、学生服のボタンを嵌めていた縁下は苦笑した。
「お前、今からそんなんで大丈夫か?」
「へーきじゃね?」
 まだ十一月も半ばを過ぎたところだというのに、気が早いと言わざるを得ない。着膨れしてモコモコになっている西谷に小首を傾げた彼は、あっけらかんと言い返されて小さく肩を竦めた。
 田中も缶バッチ付きの毛糸の帽子を頭に乗せ、耳が隠れるくらいまで引っ張っていた。
「今日は風がつえぇしな」
「ああ、それもそうか」
 飛ばされないようしっかり被った帽子を撫で、視線を受けた彼が呟く。それで縁下も納得して、ガタガタ五月蠅い窓を眺めた。
 太陽はとっくに地平線に沈み、外はすっかり暗くなっていた。
「今から帰ったら、八時過ぎか」
 続けて壁際の古い時計に目をやってぼそりと零す。コチコチと時を刻む針の音に耳を澄ませた彼に、珍しいと田中が目を丸くした。
 十九時半までの放課後練習が終わり、自主練習で居残る生徒も今日は居ない。大柄な男子がひしめき合っている空間で、彼の声は意外に大きく響いた。
「なんか急ぎの用でもあんのか?」
「バーカ」
「ほぉぉぉ?」
「違いますよ。今日は世界大会のテレビ中継、あるじゃないですか」
「ああ!」
 首を傾げながら問うた田中に、縁下の合いの手は手厳しい。当然のように反発して目を吊り上げた彼を宥めたのは、意外にも厄介事を嫌う一年生だった。
 黒い学生服にダブルのダッフルコートを羽織った月島が、襟を整えながら口を挟んだ。それで田中は思い出して、成る程と手を叩いた。
 恐らく彼以外のメンバーは、全員分かっていたに違いない。彼らが毎月購入している専門雑誌にも、日程や対戦カードが早々と掲載されていた。
 世界レベルで活躍するプレイヤーは、彼らにとって憧れの存在だった。
 と同時に、いつかは叩きのめしてみたい存在でもある。それは日本代表としてコートに立っている選手たちも同様だった。
 いずれ、自分も、あの舞台に。
 夢にまで見た眩しい光景に思いを馳せて、彼らはコクリと頷いた。
 試合自体は昼間から行われているが、日本戦だけは夜にテレビで中継される。不必要なコメントやコマーシャルが鬱陶しいが、直接見に行けない分、画面越しでもプレイが見られるのは有難かった。
 だから早く帰って、テレビの前に陣取りたい。そういう意図があった縁下に触発されたか、成田が焦って足を踏み鳴らした。
「やばい。俺、録画してない」
「試合って何時からだっけ」
「七時だろ。もう始まってる」
「急げば、第二セットから間に合うか」
 皆、帰り支度が整い始めたからだろう。先ほどまでの静寂が嘘のように、あちこちから声が響いた。
 各々腕時計や携帯電話を確かめ、中には試合がどうなっているか調べる部員もいた。気が急いた一部のメンバーは、こうしてはいられないと鞄を担いで棚の前を離れた。
 混みあう部室を横断し、靴を履こうと身を屈める。一気にごった返した入口を遠巻きに眺め、月島は呆れた顔で溜息を吐いた。
 彼自身には、急いで帰ろうという気はなかった。
 録画は一週間前から予約してあるので、慌てる必要はない。自宅のレコーダーには追いかけ再生機能がついているので、第二セット終盤というような中途半端なタイミングからでなく、試合開始直後から観戦出来るのも強みだった。
 夕飯を食べながら、ゆっくり、じっくり、ミドルブロッカーたちの動きを観察する。今晩の楽しみを脳裏に思い描き、彼は特にズレてもいなかった眼鏡を押し上げた。
 出入り口の混雑は多少解消されて、開け閉めが繰り返されたドアからは冷たい風が流れ込んでいた。
 室温も急激に下がり、肌寒さを覚えた。ぶるりと震えあがり、彼は襟のホックを慌てて掛けた。
 喉が詰まって若干息苦しいが、寒いよりは良い。これで後は帰るだけ、と鞄に手を伸ばして、肩に担ごうとした時だ。
「……なに」
 くいっと後ろから袖を引かれ、月島は剣呑な表情で振り返った。
 持ち上げていた荷物を棚に戻し、人が減った空間で眉を顰める。メガネの奥で目を眇めた彼の傍らには、しどけなく微笑む少年が立っていた。
 見た目は中学生くらいだが、これでも月島と同学年だ。フード付きのウィンドブレーカーはオレンジ色で、夜間でも目立つ色合いだった。
 ひと山越えた向こう町から自転車通学をしているので、この格好だ。薄着に見えるが意外に暖かく、軽いので動き易いという話だった。
 そんなチームメイトに見上げられて、首を捻る気も起きなかった。
「日向」
「うへへ」
 呼び止めた癖に、用件を言おうとしない。名前を告げれば意味不明な笑みを浮かべられ、月島は口をヘの字に曲げて肩を落とした。
 日向は排球部でも一、二を争うほどのバレーボール好きとして知られていた。
 しかしその好きの度合いは、見る方よりも、自分がプレイする方に大きく傾いていた。だから入部当初は他人のプレイなど意に介さず、プロ選手についても詳しくなかった。
 トスを欲しがり、スパイクを打ちたがった。コンビプレイなどしたことがなく、囮を任された時も、その重要性を理解していなかった。
 憧れの存在は数年前に烏野高校を春高へ導いた、背番号十番の背中だけ。参考にする選手がいないので具体的にどうなりたい、という形を持たず、夏前まではセッターの影山に従うプレイスタイルだった。。
 雛鳥は空を目指し、飛び方を探し始めた。夏合宿に於ける第三体育館での時間は、不本意ながらも有意義な出来事だった。
 あれ以来、日向は色々な選手に興味を持ち始めた。日本国内の選手に限らず、世界レベルで参考になるプレイヤーを追いかけ始めた。
 嫌な予感しかしない。
 歯を見せてにんまり笑う日向から目を逸らし、月島はゆるゆる首を振った。
「……嫌だよ」
「えー!」
 そんな彼が、世界大会に関心を持たないわけがない。
 眼差しだけで目的を悟り、周囲に聞こえないよう小声で囁く。しかし気遣い虚しく、日向は大仰に反応した。
 突如響いた大声に、居残っていた部員が驚かないわけがなかった。
「え、なに?」
 着替えにもたついていた山口が、防寒具を羽織りながら振り返った。靴を履こうとしていた影山も様子を窺い、聞き耳を立てているのが感じられた。
 日向は空気を読む、ということをまるで知らない。鬱陶しい事この上ないチームメイトに嘆息して、月島は右のこめかみを小突いた。
「日向、うるさい」
「ゴメン、ツッキー」
「んん?」
「あれ?」
 定型句とも言える文句を口にすれば、何故か咎められていない山口が反応した。言った月島もまさかそちらから返答が得られるとは思っておらず、変なところから声が出た。
 当の山口は不思議そうに首を傾げ、数秒の間を置いてから赤くなった。勘違いに気付いて恥ずかしそうに身を捩り、そばかすが残る頬を両手で隠した。
「ご、ごめん」
 月島に五月蠅いと言われるのは、大抵の場合、彼の方だ。だから今回も、てっきり自分宛てだとばかり思い込んでしまった。
 そう言いたげな態度を見せられて、惚けていた三人は各々異なる反応を返した。
 影山は興味を失ったのか、靴紐を引き締めて立ち上がった。月島は力なく肩を落として項垂れて、日向はケラケラ笑って床を踏み鳴らした。
「山口、何言ってんの」
「だって、しょうがないだろー」
 脊髄反射で謝ってしまった。癖のようなものだと言い張る彼に再度嘆息して、月島は眼鏡を直して鞄を引っ張った。
 半月型のスクールバッグを左肩に担ぎ上げ、影山が出て行った扉を一瞥する。そのまま古びた畳を蹴って外へ向かおうとして、またも横から手が伸びて来た。
 今度は両手で握られて、咄嗟に払えなかった月島は渋い顔をした。
「日向」
「いーじゃん、別に」
「だから、嫌だって。大体、君の分の夕飯なんてないんだけど?」
「んんん?」
 再開されたふたりの会話に、山口ひとりがついて行けない。蚊帳の外に置かれた彼は眉目を顰め、聞き捨てならないやり取りに目を白黒させた。
 月島の口からから飛び出した「夕飯」という単語にピクリと反応し、慌てて日向を振り返る。小柄なチームメイトは拳を振り回し、心配無用だと胸を張った。
「いいって。おれのは、コンビニでおでんでも買ってくから。な?」
「そういう訳にはいかないでしょ。ちょっとはこっちの身にもなってよ」
 得意げに主張して、即座に却下されて頬を膨らませる。やり取りからは慣れた雰囲気が感じられ、山口は頬を引き攣らせた。
 会話の端々から察するに、日向は月島の家に行きたがり、月島はそれを拒んでいる、という状況らしかった。
 いったいいつの間に、そんなに仲良くなったのだろう。
 初対面時から馬が合わなかった彼らの意外な一面に、驚愕が隠せなかった。
「えーっと、……うん。俺、帰るね」
「あ、なあ。山口からも何か言ってやってよ」
「えええ?」
 このまま此処に居ても、疎外感が強まるだけだ。
 人付き合いが下手な幼馴染みの成長に感動しつつ、退席しようとした彼だが、うっかり別れの挨拶を口にした為に、突如日向に絡まれた。
 唐突に水を向けられ、助けを求められた。しかし援護射撃を求められても、詳しい事情がさっぱり分からないので、何を言えばいいかも分からなかった。
 混乱して左右を見回す山口に、月島は息巻く日向の首根っこを捕まえた。
「僕の家のテレビの方が大きいから、そっちで見たいんだって」
「へ、え。へええええ~~~……」
 困り果てている幼馴染みを救出し、一度も会話に出て来なかった裏事情を手短に説明する。その淡々とした口調と解説に、山口は緩慢に頷くしかなかった。
 たったあれだけのやり取りで、日向の目的や要望をそこまで理解出来るとは。それ以前に、月島家の液晶テレビが超特大サイズだと知っているくらいに、日向が彼の家に通っているのも驚きだった。
 押しが強い日向が、興味本位で行きたがるのは分かる。
 だが他人と深くかかわろうとしない月島が、ただでさえ五月蠅い日向の来訪を許したのは信じ難かった。
 全然知らなかった。
 驚き過ぎて口をぽかんと開いて、山口は吊り上げられて暴れる日向に見入った。
「ンだよ。いいじゃんか。お前ん家の奴、試合の最初っから見られるんだろ。だったらおれも見たい」
「君だって自分で録画してあるんじゃないの。家に帰って大人しくそっちを見なよ」
「やだ。だって気になるじゃん。それに月島のおばさんだって、いつでも来て良いって言ってたし」
「社交辞令ってものを理解しようね、日向?」
「いででででででで」
 しつこく食い下がる日向にキレたのか、月島がにっこり微笑んだ。凍り付くような笑顔で柔らかな紅色の頬を抓み、爪を立てて思い切り捩じった。
 痛がる日向をぱっと解放して、疲れた顔で肩を竦める。立っていられず尻餅をついた少年は、抓られた場所を撫でて涙目で鼻を啜った。
 膨れ面を作り、背高のチームメイトを睨むが効果はない。こう着状態に陥って、山口はどうしたものかと溜息を吐いた。
「じゃあ、俺、帰るね」
「えー!」
 自分がここに居たところで、出来ることはなさそうだ。気疲れは溜まる一方だし、時間も無為に過ぎていく。
 再度退席の言葉を述べて、日向に抗議されたが、今度は耳を貸さなかった。
「お疲れ様。日向、あんまり我儘言わないようにね」
「だってさ」
「む~」
 ひらりと手を振り、駄々を捏ねる友人を優しく諭す。思わぬ味方の登場に、月島はにんまり笑って、救援が得られなかった日向は口を尖らせた。
 未だ床に蹲ったままの彼は、山口が出て行くのを見送ってから再度月島を仰いだ。
「どうしてもダメ?」
「ダメ。そういうのは、もっと早く言ってよね」
 渋々起き上がり、強請るが、取りつく島はなかった。返答の内容は変わらず、新たに注文が付けられた。
 ならば前日のうちに頼んでおけば、承諾してもらえたのか。
 明日も試合があっただろうかと考えて、日向はちらりと傍らを窺った。
「あるよ、明日も」
「え、マジ?」
 何も言っていないのに、話が繋がった。
 テレパシーが通じたと驚嘆して目を丸くして、彼は月島の顔をまじまじと見つめた。
 コロコロと入れ替わる表情は、あらゆる感情が剥き出しだった。考えている事など楽に想像がつき、思考を先読みするのも容易だった。
 こんなに分かり易くてどうするのか。
 単純馬鹿、と心の中で呟いて、月島は頬を紅潮させる日向の額を小突いた。
「あだっ」
「でも、明日もダメ」
「えー、なーんでー」
「だって君、うるさいから」
「ぶーぶーぶー」
 期待の眼差しを向けられても、彼はつれなかった。不貞腐れて文句を言われるが意に介さず、すっかり人気がなくなった部室を眺めて肩を落とす。
 日向は強豪チームが繰り広げる熱戦に、逐一身体を動かして反応した。
 これまでにも数回、月島は日向が興味を持った試合のビデオを見せてやった事があった。東京の黒尾や木兎が何故か月島宛てでディスクを送りつけてきて、孤爪経由で日向もそれを知るものだから、見せろと騒がれて、仕方なく家に招き入れた。
 日向の自宅には、ブルーレイの再生機がないのだそうだ。このご時世、まだビデオテープが大活躍していると聞いた時は、顎が外れるかと思った。
 そういう訳で、日向は数えること十数回、月島の家を訪ねていた。
 観戦中もじっとしておらず、スーパーレシーブが登場すれば目を輝かせ、三枚ブロックをものともしないスパイクには跳び上がった。その動きはまるで子供で、月島は画面に集中出来なかった。
 しかも彼は、世界レベルの選手の名前も、顔も、まるで覚えていなかった。
 日本代表でさえも、名前と顔が一致していない。覚える気すらないらしく、スパイクを決めたのは誰か、と逐一聞いてくるのも、月島を苛立たせた。
 せめてもう少し大人しくしてくれないと、困る。一緒に見なければいい話だが、彼を部屋にひとり残しておくのも癪だった。
 月島の家なのだから、月島が主導権を持つべきだ。それなのに日向はまるで進歩がなく、成長が見られなかった。
「……ど、努力、する。から」
「前もそう言ってなかった?」
「あー、もう。だったら、前みたいに。お前がこう、おれをぎゅーってして、閉じ込めてればいいだろ」
「っ!」
 手痛いところを指摘されて、日向も堪忍袋の緒が切れたらしい。突然伸びあがったと思えば大声で喚き立てて、両手をバッと広げると、自分自身を抱きしめた。
 何かを暗喩する仕草に、月島は一気に青くなって左右を見回した。
 幸い、部屋には他に誰も居ない。外も静かで、風がぴゅうぴゅう言っているだけだった。
 挙動不審になった月島に鼻息を荒くして、日向は腕を交差させたまま頬を膨らませた。
 興奮してか、紅は強まっていた。可愛らしい拗ね顔に口をもごもごさせて、月島は突飛な提案に顔を強張らせた。
 否、それは日向側の突然の思いつきではなかった。
 彼の言葉にあったように、月島が以前、動き回る日向に焦れた末に執った行動だった。
 彼を膝の間に置き、後ろから抱きしめた。狭い場所に閉じ込めて、身動きが取れないよう拘束した。
 三十センチほどある身長差がぴったり来て、日向も嫌がるどころか、悪くない座椅子にご満悦だった。距離感が狭まって、思いの外心地良かった。
 だのに月島は、十五分としないうちに日向を解放した。試合中だというのに部屋を離れ、十分ほど帰ってこなかった。
 トイレに行っていたと本人は言ったが、本当かどうかは分からない。
 当時のやり取りを思い返しながら息巻く日向に、月島は苦々しい面持ちで頭を抱え込んだ。
「……絶対、嫌、だ」
「じゃー、どうすりゃいいんだよ」
 声を絞り出して拒絶するが、日向は聞き入れない。是が非でも月島邸に行く、と言い張り、本来の目的はすっかり忘れ去られていた。
 足を踏み鳴らす彼を盗み見て、月島は重い溜息で掌を湿らせた。
 あの日、苦肉の策で日向を抱きしめた。すると大人しくなったので、良策だったと自分を褒めた矢先だった。
 何気なく下を見れば、うなじが見えた。夏場の日焼けが残る細い首筋が、少し大きめのトレーナーから覗いていた。
 いくら月島が平均より大幅に大きいとはいえ、同学年の男子が胸にすっぽり収まってしまうのは、いかがなものか。女子にだってした事がないのに、恋人にするような真似をチームメイトに行った事実にも、愕然とさせられた。
 触れる体温は心地よかった。もぞもぞと身じろいで、都度状況を思い出して動きを止める日向が面白かった。
 試合を見るどころではなかった。目の前の小さな生き物に視線が集中して、話しかけられてもすぐに気付けなかった。
 苦しい体勢で振り返られて、その呼気が鼻先に触れた。至近距離で見る双眸は真ん丸で、無垢な表情は月島を信頼しきっていた。
 その時、どんな話をしたのだったか。それすらも思い出せないくらいに、月島は浮足立っていた。
 無邪気に微笑まれて、心臓が跳ねた。
 今まで誰にも触れさせなかった領域に踏み込まれ、逆上せた時のように頭がくらくらした。近過ぎる距離感をあっさり受け入れている日向が信じられなくて、それを許す自分に驚嘆した。
 小さくて、温かくて、思ったほど硬くない身体だった。
 一度でも意識してしまったら、もう駄目だった。
 屈辱だった。男としての本能が、よもや同性に――それもよりにもよって日向に働こうとは、一度として考えた事がなかった。
 幸い、日向とは部活動以外では交流が少なかった。早朝練習と放課後と、その時間帯さえ我慢してしまえば、日中は彼のことを考えずに済んだ。
 東京からの郵便物攻撃もここの所は静かだから、襲撃を喰らう危険性は少なかったのに。
 墓穴を掘った。
 田中達の会話に加わらず、さっさと帰れば良かった。
 日向に対して抱く劣情を、向けられている当人は気付いていない。勿論言える訳がないし、言うつもりはさらさらなかった。
 けれどあの日と同じことがまた起きたとして。
 次、耐えられる保証は、どこにもなかった。
「月島の、ケチ」
「ケチで結構」
 黙り込むチームメイトに痺れを切らし、日向がイー、と口を横に引き結んだ。
 これで嫌われたかもしれない。折角縮まった距離が、また遠のくかもしれない。
 それでも良かった。構わなかった。
 金輪際、彼を家に招かない。
 絶対に、部屋には通さない。
「ちぇー」
「いいから、帰るよ」
「なあ、明日さ」
「ダメだって言ってるでしょ。いい加減、しつこい」
 感情に重い鎖を背負わせる。溢れないよう蓋をして、厳重に鍵をかけて海へと沈める。
 軽口を叩きあって、一緒にバレーボールをして。
 それ以上は望まない。
 望んではいけない。
 今の関係が心地いいから、そこから踏み外す愚行に出たくない。
 勇気がなかった。
 諦めたのか、日向は鞄を手に動き出した。靴を履き、手袋を嵌め、防寒対策を整えてドアノブへ手を伸ばす。
 後ろからそれを眺め、月島は華奢な体躯を瞼に焼き付けた。
 直後だった。
「んじゃ、いこっか」
 無邪気に言われ、一緒に外へ出ようと誘われた。
 月島は数秒の間を置いて静かに頷き、泣きたい気持ちを噛み殺した。

2015/1/7 脱稿

菊塵

 太陽は東の稜線に近く、まだ眠そうな顔をしていた。
 夜の気配は西へ追いやられ、空は徐々に白み始めていた。木陰は昼間の暑さが嘘のように涼しく、湿気も少なくて過ごし易かった。
 今の気温のまま、一日が終わればいいのに。
 無い物ねだりを呟いて、影山は小石を蹴り飛ばした。
 二度、三度と跳ねた後に失速した石礫に肩を落とし、ため息を吐いて視線を上げる。前方には大きな建物がどん、と居座り、人が集まってくるのを待っていた。
「今日は俺の負け、か」
 ぽつりと言って、彼は担いだ鞄を揺らした。
 白色のエナメルバッグを肩から外し、腕にぶら下げてゆっくり足を進める。先程の小石を無視して通り過ぎて、見上げたのは第二体育館の入り口だった。
 五段とない階段を越えた先に、頑丈な扉があった。長い間雨風に晒されて来た為か少し錆びついており、開けるのにはコツが必要だった。
 その扉は硬く閉ざされ、沈黙していた。
 腕に巻いた時計を一瞥して、影山は鞄を足元に落とした。一瞬だけ砂埃が巻き起こり、すぐに消えてなくなった。
 スニーカーに降り注がれた砂を払いもせず、彼は緩んでいた口元を引き結び、忌々しげに舌打ちした。
「今日の鍵当番、誰だよ」
 現在時刻は、午前六時半。早朝と言っても差し支えない頃合いで、学生の大半は未だ夢の中だろう。
 そんな時間帯から臨戦態勢を整えた青年は、半袖シャツにハーフパンツ姿だった。
 パンパンに膨らんだ鞄の中には、学校指定の制服が丸めて詰め込まれていた。他には昼食用の弁当と、間食用の握り飯が数個。勉強道具も一応入ってはいるものの、占める割合はかなり低めだった。
 何のために学校に来ているのか。
 訊かれたら、「部活」と即答できる。そういうあまり自慢できない信念を抱いて、彼は毎日校門を潜っていた。
 だというのに、その部活が始められない。
 施錠されているであろう出入り口を前に、影山は苛立ちに地団太を踏んだ。
 空を蹴り、両手は腰に当てて荒い息を吐く。来た道を振り返ってみるが、朝練の開始時間三十分前の為か、人の姿は見えなかった。
 体育館の鍵は、排球部員が交代で管理する事になっていた。担当になったら、他より早く学校に来て、中に入って練習の準備をしなければいけない。
 早起きが面倒で嫌がるメンバーもいるにはいるけれど、不公平にならないようにするための持ち回り制だから、拒否権はなかった。
 もっとも希望者が申し出れば、当番は交代出来た。
 だから最近は影山か、日向が率先してその役目を担うようになっていた。競い合うように本来の担当に手を挙げて、自分が替わると言って譲らなかった。
 すると当然のように部内の空気が、ふたりに任せっきりにすればいい、という方向に流れ始めた。
 これでは日向や影山にばかり負担がいって、他が楽をする事になる。本人は今のままでも文句はなく、構わなかったのだが、規則だからと主将が押し切った。
 結果、鍵の管理方法は元のシステムに戻されて、体育館が開かれる時間はまちまちになった。
 当番が寝坊でもしようものなら、目も当てられない。
 そんな事にならないよう祈りつつ、影山は一足先に到着していた人物に顔を向けた。
 朝の挨拶はなかった。それどころか、視線さえ交錯しなかった。
 いったい彼は、いつからそこに居るのだろう。
 待ち惚けを喰らって暇を持て余したのか、先客は入口前の階段に腰かけ、鞄を抱いて眠っていた。
 俯き、舟を漕いでいた。こっくり、こっくりと首は不安定に揺れて、だらしなく開いた口からは涎まで垂れていた。
「ボケ」
 見事なまでの熟睡ぶりに、呆れて言葉も出ない。そのうち転がり落ちるのではないかと懸念されたが、眠っている最中でも、絶妙なバランス感覚は健在だった。
 彼の運動神経は、影山ですら羨ましく思うくらいだ。だからこそ宝の持ち腐れぶりに腹が立って、その能力全てを操ってやろうと思った。
 眠っている顔は力みが失われ、だらしなかったが、コートの中に居る時の頼もしさは他の比ではない。彼と一緒なら、どんな強敵相手でも負ける気がしなかった。
「あと、二十八分」
 イビキさえ聞こえて来そうな寝姿に肩を竦め、影山は腕を振った。時計の針はなかなか進まず、鍵当番がやってくる気配もなかった。
 昨日の練習後、誰が施錠していたか。
 思い出そうとして頭を悩ませ、影山は黒髪を掻き上げた。
「どうすっかな」
 このまま此処で突っ立っていたところで始まらない。ボールを使った練習は出来ないけれど、屋外でも、ストレッチで身体を解すくらいは可能だった。
 スニーカーではあるが、体育館の外を走るのも悪くない。兎に角こうしてぼんやりしている時間が惜しかった。
 予選大会まで、あまり間がなかった。ゆっくりしている場合ではなく、一秒でも長く練習していたかった。
 気が急き、指先に力が籠った。無意識に拳を作って震わせて、影山はやって来ない鍵の持ち主に呪詛を吐いた。
 気合いが足りていない。
 そんな腑抜けた気持ちで試合に勝てると思っているのか。
 声を大にして叫びたいのを我慢し、行き場のない苛立ちを唾と一緒に飲みこむ。自力では消化出来ないと分かっていても、奥に押し込めるしかなかった。
 一方的な感情を他人に押し付けた所為で、彼は中学時代に孤立した。二の轍は踏みたくなかった。仲間と思っていた連中にそっぽを向かれ、トスを無視された痛みはまだ消えていない。
 癒えない傷を撫でて慰め、影山はゆるゆる首を振った。
 地面に置いた鞄を取り、彼は鈍い足取りで石段を登った。
「よ、と」
 最上段に尻を置き、足はその一段下に。鞄は更にその下に置いて、曲げた膝に両手を置く。
 普段とは違う視線の高さは新鮮で、不思議だった。
 いつも見ているものと同じ光景なのに、かなり違っていた。それが面白くて目を瞬いて、彼は肩に当たった衝撃に背筋を伸ばした。
「うお」
 トン、と軽くぶつかられて、ピクリと反応する。慌てて退こうとしたのをすんでで堪え、影山は自分に凭れ掛かる重みに息を呑んだ。
 先程まで不安定に揺れ動いていた日向が、すぅすぅと、穏やかな寝息を立てていた。
 瞼は硬く閉ざされ、窄められた唇から絶えず息が漏れていた。涎は乾いており、影山の腕に降りかかる事はなかった。
「びびった」
 油断していたから、心臓が跳ねた。驚いてドクドク言う鼓動を宥め、彼は右上腕に圧し掛かる重みに肩を突っぱねた。
 押し返そうとするけれど、動かない。丁度良いところに壁が出来たとでも思っているのか、彼の身体は影山に凭れる形でバランスを取っていた。
 今ここで左に逃げたら、日向は確実に床に激突する。足元の段差は高くはないけれど、低くもなくて、転がり落ちたら相当痛そうだった。
 衝撃を想像してごくりと唾を飲み、彼は深々とため息をついた。
「俺の腕枕は高けぇぞ」
 元々の意味とは異なる使い方をして、諦めて現状維持に入る。ぼやきが伝わったとは思えないが、寝入る日向が顔を綻ばせた。
 タイミング良く笑った彼に、もしや起きているのかと疑問が沸いた。しかし聞こえる寝息は安定しており、変な動きも感じられなかった。
 どうやら本当に、ぐっすり眠っているらしかった。
「いつ来たんだ、こいつ」
 ここまで熟睡出来るくらいだから、相当長い間待っていたのだろう。試しに起こさないよう手に触れてみれば、皮膚は冷たくなっていた。
 初夏の早朝だから、凍えるほど寒くはない。それでも時折強く風が吹き、体温を奪って行った。
 さらりとした手触りを指先に覚え、影山は口をもごもごさせている日向に見入った。
「昨日、俺が完勝したからか?」
 彼が誰も来ないような時間から、張り切って第二体育館に乗り出して来た理由。
 考えるが他に思いつかなくて、影山は首を傾げた。
 昨日は偶々、影山が鍵を管理する当番だった。
 勿論、横から掻っ攫ったわけではない。部員十二人で順番に回していたものが、偶然手元に滑り込んできただけだ。
 これ幸いと六時過ぎには学校に入り込み、皆が来るまで思い切りボールと戯れた。雑音がない中でのサーブ練習は快適で、集中出来て楽しかった。
 それを日向に見つかって、何故か怒られて、拗ねられて。
 それで今日はやり返そうと、鍵当番が来ないと入れないというのも忘れ、早めに学校にやって来たのか。
「あほらし」
 考えなしの行動は、却って時間の無駄だ。意気込みが空回りしている彼に呆れ、影山は呟いた。
「……むが」
「ンだよ。本当のことだろ」
「すー……」
 その独白に、日向が丁度良いタイミングで呻いた。思わず抗議に反論してしまって、後から気付いて彼は赤くなった。
 周りに人が居なくて良かった。
 眠っている人を相手に喋るなど、友達がいない寂しい奴だと思われても仕方がなかった。
「くっそ」
 恥ずかしさに身悶え、悪態をつく。前髪をくしゃくしゃにして首を振り、彼は元凶を睨みつけた。
 日向は相変わらずで、暢気に寝こけていた。
 人の気も知らないで、満面の笑みを浮かべていた。誰に断って肩に寄り掛かっているのかと、わざと身体を前後に揺すってみるが、反応は芳しくなかった。
 日向だって十分我儘なのに、影山より彼の方が、先輩たちから甘やかされている気がすした。
 彼の要望ばかり通って、こちらの意見は通り難い。なにか失敗しても、日向は笑って許された。
 世の理不尽さに口を尖らせ、頬を膨らませる。本当に退いてやろうかと考えつつ、影山は彼から視線を逸らした。
 左方向を眺めるが、依然誰もやって来なかった。
 無人の空間に嘆息し、腕時計を確かめる。
「まだ三十四分かよ」
 かなり時間が過ぎたように感じていたが、実際は二分と経っていなかった。
 がっくり来て、影山は肩を落とした。肩幅に広げた足の間に両手を垂らし、明るさを増していく空を仰ぐ。
 退屈だった。
 暇過ぎて、石になりそうだった。
「くっそ」
 こんなことなら、もっと遅く家を出てくれば良かった。それ以前に、ここに座らなければ良かった。
 日向に凭れ掛かられて、碌に身動きが取れないのも、苛立ちを増幅させていた。
「おら。起きろ」
 腹を立て、怒鳴る。掴みかかるのではなく、肩に寄り掛かる彼をただ揺さぶって、声だけで起こそうと試みる。
 しかし何度やっても無駄で、日向は一向に目を覚まさなかった。
 がくがく震えているのに、どうして覚醒しないのか。
 あまりの反応の悪さに、本当に眠っているだけなのか怖くなった。万が一を想像して背筋を寒くして、影山はカチリと奥歯を鳴らした。
「おい、日向」
 もう一度呼びかけ、寝顔をそっと覗きこむ。
 顎の先に風を感じた。すよすよと眠る寝息が、影山の肌を擽った。
 瞼は閉ざされたままだけれど、生きているなによりの証拠だった。
 ホッとして、影山は緊張を解いた。頬を緩め、安堵してから即座に口元を引き締めた。
「起きろよ」
 彼の生存は確認出来たが、状況に変化はない。再び起こそうと声を荒らげ、影山は小鼻を膨らませた。
 体育館の鍵は開かない。
 人の声も聞こえない。
 日向がすぐそばにいるのに、何も出来ない。
「つまんねーだろ」
 一緒に走る事も、競い合う事も。
 ボールを追いかけ、床に落ちる前にその身で受け止める事も。
 高く跳び上がった彼の為に、トスを繰り出す事も。
 汗を流し、息を弾ませ、共に喜び、興奮を共有する事も。
 なにひとつ、果たせない。
 退屈だった。
 面白くなかった。
 隣にいるのに、ひとりぼっちは寂しかった。
「さっさと起きろって」
 声が聞きたかった。いつもは喧し過ぎて耳障りに思えるあの声が、今はどうしようもなく恋しかった。
 締め付けられるような痛みを覚え、影山は胸を掻き毟った。シャツを握りしめ、爪を立てて皺を作った。
 その動きが良くなかったのかもしれない。
 今まで日向を支えていた壁が形を変えた。寄り掛かる先が一部失われて、バランスを崩した身体が斜めに傾いた。
 人間の頭部は重い。重力に捕まった途端、地面目掛けて落ちるのは当然だった。
「だわっ」
 幸運だったのは、日向が倒れた先にまだ影山が居た事だ。彼は突然ぐらりと揺らぎ、落ちてきた重みに驚いて悲鳴を上げた。
 ドシンと来て、太腿に衝撃が走った。一度だけ弾んで落ち着いた塊に目を瞬き、影山は先ほどにも増して心臓をバクバク言わせた。
 飛び出そうになった唾を飲み、急に軽くなった右肩に戸惑う。空っぽになった空間に目を遣って肩を上下させ、続けて己の膝元に視線を落として頬を引き攣らせる。
「マジかよ」
 これでどうして起きないのか、心底不思議だった。
 愕然としながら、影山は人の膝で眠る少年に苦笑を浮かべた。
 腰を九十度に曲げて、体勢はかなり苦しいものだった。左腕は足元に垂れているが、右肘は影山の膝に引っかかっており、それが窮屈さを助長していた。
 明らかに呼吸がし辛いだろうに、眉間に皺が寄った程度で、瞼は開かれなかった。ぴくぴくと痙攣して、顰め面になりはしたけれど、それ以上の変化は見られなかった。
 驚くべき睡魔だ。幼少期に人形劇で見たおとぎ話を思い出し、影山は力なく肩を落とした。
 肩枕から、膝枕になった。
 日向の行動にはなにかと驚かされて来たけれど、これはまた格別だ。どこまで寝汚いのかと嘆息し、影山は背中を丸めた。
 肩を貸してやっていた時と違って、彼の顔は随分と見え易かった。
 横目でちらちら窺うのも疲れていたので好都合だが、眠る人間の身体は存外に重かった。そのうち血流が滞り、足先が痺れてしまいそうだった。
「どんだけ早起きしたんだ、テメーは」
 呆れてものが言えないとは、まさにこのことだ。
 揺すっても、叩いても目覚めない日向に驚嘆の息を吐き、影山は何気なく彼の髪を抓んで引っ張った。
 痛くない程度の力を込め、オレンジ色の毛先を擽る。いつも四方八方に跳ねているので固いのかと思いきや、手触りは意外に柔らかかった。
 長毛種の猫や犬も、触ったらこんな感じなのだろうか。近づこうとしても毎回逃げられる獣を想像し、彼は指先を引き攣らせた。
 興味が湧いた。
 好奇心が擽られた。
 空中で指を震わせ、彼は慌ただしく左右を見回した。一向にやってこない先輩や同級生に腹を立てつつ、今しばらくは来ないでくれるよう身勝手に願った。
 そうしてゆっくり時間をかけて腕を下ろし、日向の栗色の髪を擽った。
「お、おぉ……」
 思った通り、触り心地は抜群だった。
 少しチクチクするけれど、空気をたっぷり含んで弾力があった。長く陽射しに当たっていたので温かくて、いくらでも撫でていられそうだった。
 長年の夢をこんな形で叶え、感動に打ち震えて頬を紅潮させる。興奮に鼻息を荒くして、影山は何度も、何度も日向の髪を梳いた。
「んむ、ぅ」
 絡まった毛が引っかかるのも構わず、とにかく気が済むまで指を動かす。こんな機会は滅多にないと、十年分くらいの思いを込めて、両手を使って包み込む。
 ひっきりなしに頭を掻き回されて、流石の日向も眉を顰めた。
 けれど突っ伏しているので、影山には彼の顔が見えていない。眉間の皺も、不満げに歪められた唇も、優しい触感に夢中の彼は気付かない。
「……どゆこと、これ」
 気が付いたらこうなっていた。
 状況がさっぱり読めなくて、日向は目を閉じたまま低く唸った。
 声は奥歯で噛み潰し、訳が分からないと頭を悩ませる。その間も影山の手は止まらず、好き放題髪を弄り回した。
 辛うじて見える範囲に、エナメルバッグがあった。黒いスニーカーにも見覚えがあり、日向が乗っている膝の持ち主は影山で間違いなかった。
 朝練への一番乗りを狙って学校に来て、体育館が開いていない事実に呆然となった。仕方なく鍵当番が来るまで待つことにして、入口の前に座ったところまでは覚えている。
 影山がいつ現れたかは、記憶になかった。
 暇を持て余して待ち惚けているうちに、眠ってしまったのだろう。そして彼が現れて、隣に座って。
 この体勢になったのは、偶然か、必然か。
 巨大トランポリンで遊んでいた夢を振り返り、日向は蚤取りする猿と化したチームメイトに半眼した。
 起きていると教えてやるべきだろうか。
 だが彼の性格的に、それは良策と思えなかった。
「どうするよ……」
 今が何時なのかも分からない。変に身じろげば勘付かれるので、時計を見る事すら出来なかった。
 窮屈な体勢でじっとしていることを強いられて、おまけにずっと髪を弄られて、背中の辺りがむずむずした。
 頭を撫でられるのには慣れていた。身長が丁度良いのか、スパイクを決めたりすると、先輩たちは撫でながら褒めてくれた。
 けれど、影山は別だ。彼は何をしたって仏頂面のままで、日向を貶しこそすれ、褒めることはなかった。
 だからこそ、余計に戸惑わされた。
 どうしてこうなったのか、誰か説明して欲しかった。
 まさか本人に訊くわけにもいかず、考えすぎて脳細胞がショートしそうだった。一刻も早くこの状況から抜け出せるよう願って、日向は半泣きでぎゅっと目を閉じた。
「なんか、すげえな。おもしれえ」
 そんな彼の心境を知らず、影山は楽しそうに呟き、寝癖が残る髪を撫でた。
 掌で押し潰し、捏ねて、勢い余った指が頬を掠めた。ぷに、と爪先が一瞬だけ突き刺さって、日向はうっかり声が出そうになった。
「ふぐ」
 慌てて口を閉じ、息を我慢する。影山も急いで手を引っ込めて、数秒停止したかと思えば、何のつもりか本格的に小突いて来た。
 つんつんと突っつかれて、痛くはないが、鬱陶しかった。
 払い除けてやりたい。いい加減にしろ、と怒鳴りたい。
 人の顔を玩具にする馬鹿を許すのも、そろそろ限界だった。
 沸々と湧き起こる怒りに肩を震わせ、怒鳴りつけるタイミングを探す。そうとも知らない影山は徐々に指を置く時間を長くして、ふにふにと日向の頬を捏ねた。
「餅で出来てんのか?」
 ぼそっと独白が聞こえて、それで彼が執着する理由が分かった。
 髪の毛と同じで、感触が面白いのだ。柔らかくて、よく伸びるのが新鮮なのだ。
 そう言えば彼は大抵ぶすっとしており、表情は硬かった。
 常にあんな顔をしていたら、頬の筋肉も固くなるに決まっている。だから自分との違いに驚いて、興味を示したに違いなかった。
 とはいえ、日向からすれば迷惑なだけだ。むにむにと揉まれ、鼻を抓まれ、耳朶を引っ張られるのは耐え難かった。
 口の前に指が来たら、噛んでやろうか。
 物騒なことを想像して内心ほくそ笑んで、驚く彼を想像して頬を緩める。
 それが不自然に見えたのだろうか。影山が首を前に伸ばして、日向の顔を覗き込んだ。
「日向?」
「くすー……ぴー……」
 影が落ちて、暗さが増した。瞼が痙攣するのを必死に押し留め、彼は眠っているフリを続行した。
 ワザとらしいかと思いつつ、口をもごもごさせて、身じろぐ。猫のように背を撓らせて、丁度気になっていた髪を頬から払い除けて、力を抜いて影山に身を任せる。
 ずっと放り出したままだった左腕も回収し、左右揃えて重ねあわせた日向に、影山は神妙な態度を崩さなかった。
 ずっと見つめられてる気配がした。耳を澄ませば他人の呼吸音が聞こえて、影山の存在を強く意識させられた。
 距離が近すぎて、心臓がバクバクした。狸寝入りがいつバレるかヒヤヒヤもので、一秒として落ち着かなかった。
 疑われているのは間違いなかった。
 彼に起きていたと気付かれ、知られたら、どうなる。
 烈火の如く怒り狂うチームメイトを想像したら、背筋が一気に寒くなった。
 ごくりと唾を飲み、窄めた口から息を吐く。緊張を混ぜ込んで外へ追い出そうとするものの、なかなか簡単にはいかなかった。
 荒れ狂う鼓動が、影山に伝わっていなければいい。
 切に願い、日向は意識して全身から力を抜いた。
 注意を余所に向けた途端、身体を預けている場所が思いの外心地良いのに気付かされた。
 固くてゴツゴツしているけれど、温かかった。日向が起きないよう気遣ってなのか、上半身はともかく、下半身はさっきからまるで動いていなかった。
 両手でベタベタ触ってくるくせに、寝床代わりになっている腰から下は微動だにしなかった。高さも丁度良くて、一度は去った眠気が戻って来そうだった。
 影山の指が、恐る恐る日向の耳に触れた。外殻をなぞるように撫でて、ふわふわした綿毛のような髪を擽った。
 最初の頃に比べると、手つきは優しくなった。無理に絡んでいる毛先を引っ張ったりせず、引っ掛かりを覚えたらそこで止まり、脇に逸れていった。
 ぽん、ぽん、と撫でてくるリズムは安定しており、悪くなかった。大きな手で包まれる安心感は、幼少期に母と並んで眠った日を思い出させた。
 これは好きかもしれない。
 影山の意外な一面を垣間見て、日向は安らいだ笑みを浮かべた。
「ふふ」
 鼻から吐息を零し、くすぐったさに首を竦める。
 早く鍵当番が来ないかと、そればかり考えていたけれど、今はこの時間をもう少し楽しんでいたかった。
 気持ち良かった。
 練習中も、試合中でも、これくらい優しく接してくれたら嬉しいのに。
 想像して頬を緩め、どんな顔をしているのか確かめたくなった。
 気取られないよう注意しつつ、そうっと瞼を押し開けようとした直後だった。
「ぴゃあっ」
「おわ」
 首筋が突如冷たさに襲われ、油断していた日向は跳び上がらん勢いで悲鳴を上げた。
 何処から出ているのか、と言われそうな甲高い声をひとつ上げ、一瞬で鳥肌立った身体をぶるぶる震わせ、温める。萎縮して丸くなった彼を見下ろし、影山も反省して右手を顔の高さに掲げた。
 彼が触れたのは、首の付け根。
 脳に繋がる大動脈が通っている、その真上だった。
「冷たかったか?」
 独白し、影山は手首を振った。掌を顔に向けて首を傾げ、試しに自分の頬に押し当てるが、よく分からない。
 日向的には気を抜いていたタイミングで、弱い場所を撫でられて驚いただけだが、勿論起き上がって抗議する訳にはいかなかった。
 今のでさえ、起床済みだと気付かれなかった。最早ただの馬鹿かと内心呆れつつ、巧くやり過ごせたとホッとしていた矢先だ。
 指先に息を吹きかけて温めた影山が、満を持して先程と同じ場所を撫で始めた。
 頭でなく。
 頬でもなく。
 首を。そこから繋がる肩や、うなじを。
 ただ表面を軽く擦るのではなく、しっかり肌と肌を貼り合わせ、包むように。
 揉むように。
「ん……」
 今までと雰囲気が違った。ねっとりと絡みつくような指先にぞわりと来て、日向は漏れ出そうになった呼気を奥歯で噛み潰した。
 それでも堪え切れず、溢れた吐息が悪寒を増幅させた。どこか媚を売っているかのような、濡れて甘い声色に、鳥肌が立った。
 影山の太い指が喉に添えられた。顎の形をなぞり、窪みに指の背を宛がって、脈を測り、熱を掬い取ろうと蠢いた。
 急所を押さえこまれ、一抹の恐怖に背筋がゾクゾクした。腹の中心がきゅう、と窄まり、不穏な気配に神経が尖った。萎縮した心臓が轟音を響かせ、影山の指が向かう先を想像して脂汗が流れた。
 無意識に拳を固くして、日向は乱れる呼吸を懸命に宥めた。
「……は、ぁ」
 数ミリだけ開けた唇から息を吐き、熱を追い払う。いい加減影山にバレていても可笑しくないのに、追及の声は聞こえて来ない。代わりに乾燥し、皮が割れかかっている指が降って来た。
 ちくりと刺さる感触が下唇に添えられた。ゆっくり、ゆっくり動いて、指の腹全体が柔らかな肉に張り付いた。
 隆起を辿り、丘を登って、滑るように下って。
 急峻な渓谷に潜り込まれて、日向は反射的に噛み締めそうになった。
 顎に力を込め、唇を引き結ぼうとした。指ごと咥えて、飲みこみそうになった。
「っ」
 寸前で耐えて、前に出そうになった首を逆向きに引っ張る。影山が押してくる力を利用して、彼が動かした体を装って顎を引いた。
「やらけえ」
 汗が止まらなかった。
 ぽつりと告げられた感想がどういう意図を孕んでいるのか、日向には分からなかった。
 影山は頬を捏ねていた時のように人の唇を弄り、初めて味わう感触に背筋を粟立てた。
 どこもかしこも柔らかくて、温かくて、肌に吸い付くようで、快かった。
 ずっと触れていたくなった。
 もっと触れてみたくなった。
 服で隠れている場所も暴いて、全部。
 全部――
「ひなた」
 眠っていると信じている相手に呼びかけ、影山は首を伸ばした。背中を丸めて前のめりになり、天地逆になった前髪を地表目掛けて垂らした。
 動物的な衝動に突き動かされた。理由も、意味も考えないまま、彼は前傾姿勢を強め、寝入る日向を視界に収めた。
 呼吸を数え、口角を歪めた。舌を出して唇を舐め、甘く色づいている場所を親指で右から左へとなぞる。
 長く押し当てていた所為か、吐息を浴びた肌は湿っていた。微熱を抱き、疼いていた。
 この熱が欲しかった。もっと浴びてみたかった。
 どうすれば良い。想像して、彼は日向に見入った。
 雄の匂いがした。
 汗の香りが鼻腔を掠めた。
 吐息が肌を撫でた。
 間近で、影山を感じた。
 怖くて目を開けられなかった。心臓が破れそうに痛み、駆け回る鼓動が外に飛び出しそうだった。
 何が起きているのか。
 何が起きようとしているのか。
 確かめる術がなかった。思考は麻痺して、全身は居竦んで硬直していた。
 指の一本も動かなかった。押し退け、突き飛ばし、逃げる事は叶わなかった。
「か、っぁ……」
 名前を呼びそうになった。慌てて息を堰き止めるが、一歩遅く、喘ぎ声が零れた。
 唇が戦慄いた。ヒクつき、まるで自分から求めているようだった。
 そんなわけがない。
 有り得ない。
 こんなのはウソに決まっている。
 必死に否定するのに、頭の中では影山と唇を重ねる自分の姿が楽に想像出来た。
「ひなた」
 これは錯覚だ。吊り橋効果という奴だ。
 緊張しすぎてドキドキしているのが、別のものだと勘違いしまう、あの類でしかない筈だ。
 だから違う。
 絶対に違う。
 名前を呼ぶ彼の声に胸が締め付けられるなど、一時の気の迷いでしかない。
 掠れる小声が耳朶を打った。囁きが風を誘い、痙攣する唇を優しく包み込んだ。
 力が抜けるようだった。
 この瞬間を、ずっと待ち侘びていたような気分になった。
 流される。
 飲みこまれる。
 喰われてしまう。
「日向」
 唇に、熱が絡む――
 寸前だった。
「おっはよーっす!」
「っ!!」
「ぎゃああっ」
 傍目には舟を漕いでいる風に見えた影山がガバッと身を起こし、膝を跳ね上げた。そこに横たわっていた日向はもれなく蹴り出され、重心を崩して階段から落ちそうになった。
 咄嗟に目を開ければ、段差の角が目前に迫っていた。大慌てで手前にあった白い鞄に抱きついて、それをクッション替わりに突き出した。
 衝撃を吸収させ、そのまま上半身を下にして階段を滑り落ちる。砂埃が巻き起こり、星が飛び散って暫く息も出来なかった。
「いでっ、って、てぇ……」
「お、おい。大丈夫か、日向」
「ひ、ひ……このボケェ!」
「なんでえ!」
 影山の荷物を下敷きにして、大怪我だけは避けられた。最後の一段を残して停止して、彼は駆け寄ってきた田中と、立ち上がった影山の怒号に泣きそうな顔を作った。
 心配してくれるどころか、怒られた。照れ隠しだとしてもあまりに理不尽で、容赦なかった。
「悪い。寝てたんだな」
「ああ、はぁ。まあ……」
「死ぬかと思った。死ぬかと思った!」
 駆け寄ってきた田中には、影山の膝に寝転んでいた日向が見えなかったのかもしれない。大声で呼びかけたのを反省して謝罪して、話に応じたのは影山だけだった。
 心臓がバクバクする原因がなんなのか、さっぱり訳が分からなかった。癇癪を起して喚き散らして、日向は抱えたままだった影山の鞄を思い切り殴った。
 もう二度と、あんな目に遭うのは御免だった。
「だから、悪かったって、日向。許せ」
「田中さんが、来るの、遅いから!」
「わーるかったって。マジで。後でアイス奢ってやるからよ」
「やったー!」
「現金な奴」
「うるさい。影山のハゲ!」
 全ては、鍵当番である田中の登校が遅かったために起きた事。
 そしてあれは、全て夢の中の出来事。
 現実には何も起こらなかった。影山は日向を撫で回しもしなかったし、日向は彼に触れられて心地良いと思わなかった。
 なにもかも、嘘。
 すべては幻。
 速い鼓動は階段から落ちた衝撃の余波。顔が赤いのも、怖い思いをした所為。
「……アホ」
「うっせえ。ボケ」
 ぼそりと言えば、つっけんどんに返された。
 日向は影山を見なかった。
 影山も日向を見ようとしなかった。
 赤く火照った顔を押さえ、ふたりはしばらく黙って背を向けあった。

2014/12/15 脱稿

利休白茶

 黒い影が床に長く伸びていた。
 斜めに走ったそれは置かれた机や椅子に引っかかり、複雑な形を成していた。時折鳥の影がそこに紛れ込んで、一瞬で彼方へと消え去っていく。敷地を囲む形で植えられた木々は、最上階に位置するこの部屋には届かなかった。
 昼間はさぞや直射日光が眩しかろうが、夕暮れに差し掛かったこの時間帯はとても静かだ。季節も晩秋に差し掛かろうとしているから、余計なのかもしれない。
 秋の夜長とは言うけれど、昨今の若者はあまり読書に惹かれないらしい。司書ひとりしか居ない空間を振り返って、沢田綱吉は小さく肩を竦めた。
 その眼鏡の司書も彼の入室を確かめると、席を外したのか、振り返ればカウンターは無人だった。
 四人が座れる広めの机は寂しげで、早くここに来い、と急かしている風に見えた。
 読書コーナー傍にある背の低い書棚には、最近流行りの作家や、名の知れた文豪の本が並んでいた。当然漫画の部類は置かれていないが、歴史の解説本といったものは例外らしく、厳めしい武将の表紙が何冊か飾られていた。
 それらを順に眺め、彼は腰高の書棚の区画を抜けた。足取りに迷いはない。向かう先は、奥にある背高の書架だった。
 天井に迫る勢いで聳え立つそれらは、規則正しく整列し、静かに佇んでいた。
「はあ……」
 まるで深い森へ迷い込んだようだ。いや、紙は木から作られているので、この表現はあながち間違いでもない。
 活字の密林を前に落胆の息を吐いて、綱吉は重い足取りで狭い通路に踏み出した。
 クラスのその他大勢と同様に、綱吉だってあまり本を読まない。望んで学校の図書室へ近付こうなど、普段の生活を顧みれば到底考えられない事だった。
 しかし、止むに止まれぬ事情があった。
 地域の図書館まで出向く余裕はない。今日中に提出できなければ、更なる地獄が待っている。
 ずっと放置していた課題の提出を再三無視、もとい忘れ続けた結果、ついに国語担当がキレた。これ以上遅れるなら特別にもっと大変な課題を与える、と脅されては、従うより他になかった。
 あの顔は怖かった。普段温厚な人ほど怒らせるとどうなるか、痛いくらい思い知らされた。
 職員室での説教からなんとか逃げ出して、その足で図書室へ来たが、こうも人気がないとやる気が削がれてしまう。両側を埋め尽くす大量の本も、彼の精神を圧迫していた。
 隙間が出来ないくらいにみっちり詰め込まれた本は、年代を感じさせるものから比較的新しいものまで、実に様々だった。
 どういう基準で選ばれたのか、パッと見ただけでは分からない。だが並べ方には一定の法則があって、感覚を頼りに、綱吉は書棚の間を移動した。
「あった。これ、……とか。あとこれも、そうかな」
 遮蔽物がある為、通路は暗い。天井から注ぐ蛍光灯の明かりを寄る辺に、綱吉は紺色の背表紙を引っ張り出した。
 ハードカバーのそれは、とある俳人の作品集だった。
 職員室で聞いたばかりの名前を確かめ、小さく頷く。その隣にあった分もついでだからと取り出して、小脇に抱えて足早に森を抜け出す。
 埃とカビの臭いから解放されて、綱吉は一気に明るくなった視界に安堵の息を吐いた。
 出入り口近くのカウンターには、女性司書が戻っていた。
 足音を響かせた綱吉を一瞥こそすれ、興味はないのかすぐに注意を外す。髪型や目つきの所為で冷たい印象だったが、外見通りの人物像に感じられた。
 図書室では静かに。基本中の基本を思い出して、彼は手近なところにあった机に出して来た本を置いた。続けてずっと背負っていた鞄をおろし、ファスナーを開けて筆記用具、国語のノートを卓上に並べていく。
 ひと通り準備が終わったところで椅子を引き、綱吉は覚悟の面持ちで腰を下ろした。
 国語教師が綱吉に課した命題は、ひとつ。
 本日中に最低でも三本、短歌を作ること。
 それは元々、同じ教室で学ぶクラスメイト全員に出された課題だった。しかし綱吉はこれを忘れ、急かされてもまた忘れ、作ろうとして挫折し、いっそ担当教師が見逃してくれないかと期待した。
 残念ながら、目論見は外れた。これ以上の猶予は与えてやれないと、厳しめに叱られた。
「やるかなあ」
 国語教師の説教が、未だ耳に貼り付いている。頭ごなしに怒られたのに肩を落とし、綱吉は力なく呟いた。
 これが片付かぬ限り、今日は帰れない。タイムリミットは五時半――あと一時間半だ。
 職員室には、国語教師の本気度を表すかのように、綱吉用に見繕われた分厚い書籍が積み上げられていた。
 俳句を三本作るのと、これらを全部読み、読書感想文を一冊当たり十枚以上書くのと、どちらが良いか問われた。そんなもの、答えは決まっている。だがひとりになった途端、気力が抜けて思考は鈍った。
「なんでこんなことに」
 愚痴を零すが、自業自得だ。いい加減諦めるよう自分を慰め、綱吉はハードカバーの本を広げた。
 それは江戸時代に活躍した、有名な俳人の句集だった。
 綱吉ですらその名を聞いた事があるくらいだから、相当な知名度と言っていい。家に帰って聞けば、もしかしたらリボーンも知っているかもしれなかった。
 時代を経ても歴史に名を刻む、偉大な人。平々凡々とした人生を送る綱吉とは、天と地ほどの差があった。
「よいしょ、と」
 真似をするのは良くないが、参考程度に眺めてみるように。彼にそう言ったのも、例の国語教師だ。
 元の文を書き写すのは勿論、一部分を変えて提出するのもダメ。けれど雰囲気は掴めるだろうから、とにかく何作か読むよう言われた。
 綱吉が課題の俳句作成を放置した理由を、あの教師は良く理解していた。いきなり作れと言われても、言葉が頭に浮かんで来ない。思ったままを並べていったら、季語が抜けていてただの川柳になってしまう。
 下手なものを作ってクラスの皆に笑われるのも嫌で、先延ばしにしてこの有様だ。
「えーっと、なになに?」
 参考資料として引っ張り出して来たものは、二百頁近くある本だった。とても最初から目を通している暇はない。だからと適当に捲って、指が停まったページを試しに広げてみる。
 出てきたのは、おおよそ俳句とは関係なさそうな地図だった。
 所々に点が記され、傍には数字が配されていた。地図の下には地名が掛かれ、矢張り数字が割り当てられていた。
「なんか、もうこの時点で挫けそうなんだけど」
 どうやらこれは、どこでどの句が詠まれたか、その説明をしているものらしかった。
 綱吉の目的から大きく外れたページに行き当たり、それだけでやる気が削がれていく。伸ばしていた背筋はみるみる丸くなり、額の位置は下がって、あと少しで机に貼り付きそうだった。
 酷い猫背で紙面を覗けば、己が作り出した陰でなにも見えなかった。
「絶対、無理だっての」
「なにが?」
「俳句、詠むなんて……――」
 愚痴を零せば、思いがけず合いの手が返された。深く考えないままそれに答えて、更なる文句を口ずさもうとした矢先。
 ふと我に返り、綱吉は半分閉じていた瞼を限界まで押し上げた。
 直後、目に見えた光景に。
「うひぃぇぇえぇ!」
「図書室では静かに」
「なっ、んな、ななな、なんっ」
「静かに」
 吃驚仰天して椅子から転げ落ちそうになり、綱吉はホールドアップさながらに万歳のポーズを作って絶叫した。
 にわかには信じがたい状況に目を剥き、場所も忘れて捲し立てる。都度忠告されたが、応じるのは難しかった。
 最後は力尽くで黙らされた。あまり痛くはないけれど、全然痛くないとは言い切れない一撃を頭に食らって、彼は広げていた両手を閉じて頭に被せた。
 椅子の上で再び丸くなった少年を睥睨し、風紀の腕章を身に着けた青年が深く、長い溜息をついた。
 白の長袖シャツに黒い学生服を羽織っているその姿は、綱吉たちの服装とは一線を画している。ここ並盛中学校の制服はブレザーなのだが、とある委員会に属する人だけは、彼と同じ学ランだった。
 それも頂点に立つただひとりを除き、総じて床に付きそうなくらいに裾の長いものを着用していた。
 挙句に髪型はリーゼントで統一されているので、彼らが一堂に会している場面に遭遇すると、それだけで腰を抜かしそうになる。異様な光景は学外にも広く知られており、並盛町では学生服を着ているだけで不良に喧嘩を売られる有様だった。
 そうなってしまった元凶である人物を前にして、驚かないわけがない。顎が外れんばかりの顔になっている綱吉に肩を竦め、その男――雲雀恭弥は無防備な額を指で弾いた。
「アダッ」
「あと、図書室は寝る場所じゃないからね」
 避けようがなかった。まともに食らって呻いていたら、チクリと刺さるひと言が追加された。
 彼の目には、綱吉が机に突っ伏そうとしている風に見えたらしい。違うのだが、傍目からはそう思われても仕方がなかった。
 なにせ綱吉は、試験を受ければ零点ばかりの補習常習犯だ。既に貼られたレッテルを剥がすのは難しく、誤解を受けて当然だった。
 かといって、勘違いされたままでいるのは癪だ。頬を膨らませ、彼は少し赤くなった額から手を下ろした。
「違いますよ」
「へえ?」
 生意気にも反論して来た彼に、雲雀は興味を惹かれたようだった。
 彼が率いる風紀委員会は、文字通り風紀の乱れを取り締まる立場にあった。但し並みの取り締まり方ではなく、逆らう者には暴力も辞さない強硬派だった。
 彼らに喧嘩を売って、無事で済んだ人間は居ない。特に委員長の雲雀は隠し武器のトンファーを愛用し、歯向かう者たちを悉く薙ぎ倒して来た。
 綱吉も過去に数回、酷い目に遭っている。しかし彼に助けられた回数は、それを軽く上回っていた。
 怖いけれど強くて、底抜けに恐ろしいけれど、ある意味義理堅い。
 彼は良く分からない男だ。幾度か拳を交え、時には背中を預けて共闘し、ある時には綱吉を守るかのように前に出たりもする。
 気まぐれで、融通が利かず、傲慢で、不意に優しい。
 知れば知るほど彼のことが分からなくなる。戸惑い、迷い、彼をもっと知りたいと思ってしまう。
 トクリと跳ねた心臓を気取られないよう隠し、綱吉は窄めた口から息を吐いた。
「真面目にやろうと思ってたところです」
 さも話しかけられた所為で集中を乱された風に告げ、机上に広げた本を軽く叩く。雲雀もそちらに目を向けて、何を考えているのか、眉間に浅く皺を寄せた。
 素早い動きで瞳を走らせ、紙面に記されている内容をざっと読み解く。ほんの三秒の間に大まかな状況を把握して、彼は勉強する姿勢ではない少年に肩を竦めた。
「そう。それは失礼したね」
「どうも」
 悪びれた様子はないが謝罪を引き出すのに成功し、綱吉は溜飲を下げて右足を蹴り上げた。
 膝で天板の裏を軽く叩き、ついでとばかりに狭い空間で脚を組む。座ったまま身じろぐ彼を一通り眺めて、雲雀は何を思ったか、斜め前にあった椅子を引っ張り出した。
 背凭れを掴んで斜めに引きずった彼に驚き、綱吉は伏そうとしていた顔を瞬時に跳ね上げた。
「ヒバリさん?」
「勉強するんだろう?」
「いや、そうですけど」
「僕のことは気にしなくていいから」
「ええー?」
 怪訝に名を呼べば、ひらひらと手を振られた。この場から去る気はないらしく、固い木製の椅子に腰かけた青年に、綱吉は堪らず素っ頓狂な声を上げた。
 そして慌てて両手を使い、制御の利かない口を塞いだ。
 図書室では静かに。壁にも貼られている標語を思い出して首を竦めた彼を笑い、雲雀は綱吉が運んできた、もう一冊の本を引き寄せた。
「句集なんて興味あったの」
「いえ、それは……参考になれば、って」
 今度は叱られなかった。
 痛い想いをせずに済んだのは幸運だが、却って薄気味悪い。背中に冷や汗を一筋流して、綱吉はページを捲る雲雀に口籠った。
 右を上にして脚を組むポーズや、少し高くなった膝に背表紙を預けて本を読む姿は、恐ろしく様になっていた。
 まるで著名な画家の手による絵画のようだ。しかし彼は現実に存在し、意志を持ち、自由に動き回れる生きた存在だ。
 変なことを考えた。馬鹿らしいと首を振り、綱吉はペンの一本も出していない筆箱を撫でた。
「あの」
「ん?」
 どうやら彼は、本気でここに居座るつもりらしかった。
 時間的に、放課後遅くまで居残っている生徒が居ないか、学内を見回っている最中だったのだろう。下校時刻はまだ先だが、用もなく居座っている生徒は早めに追い出す、が風紀委員の方針だ。
 雲雀が誤解したままだったら、綱吉も荷物諸共放り出されていた。口答えしたのは正解だったと安堵するが、続けて別の難問が彼の前に立ちふさがった。
 要するに、雲雀にここにいられると、落ち着かない。
「ヒバリさんは、お仕事は……」
「心配はいらないよ。僕は君と違って、優秀だから」
「はあ」
 風紀委員長が何をしているのか、詳しくは知らないが、応接室を訪ねたら彼はいつも机に向かっていた。大量の書類を前に忙しくペンを動かし、草壁を秘書代わりに職務に励んでいた。
 それは良いのかと尋ねれば、自画自賛された。不遜な笑みを見せられた少年は呆気に取られ、やがて脱力して頭を抱え込んだ。
「俳句を参考にするなんて、……ああ、自作しろってことか」
「っく」
「それで? こんな時間に図書室に居るってことは、出来上がるまで帰るなって?」
「うわあぁん!」
 そこへ追い打ちをかけるように、雲雀が意地悪く目を眇めた。
 見方によっては楽しそうな表情で滔々と憶測を告げて、綱吉の腕が飛んできたところで言葉を区切る。攻撃をあっさり躱し、半泣きの形相で睨んでくる少年を愉悦混じりの眼差しで見下ろす。
 これでマフィアの後継者だというのだから、世の中は面白い。口角を歪めて笑う男を前に歯軋りして、ボンゴレ十代目は力尽きたように頭を垂れた。
 雲雀を相手にして、勝てる訳がないと最初から諦めている。不条理な敵には徹底抗戦も辞さない癖に、身近な相手にはあっさり降伏するところが、いかにも彼らしかった。
 苦笑して、雲雀は読み飽きた本を閉じた。
「簡単じゃない。たった十七文字でしょ」
「それが難しいから、こうやって悩んでるんじゃないですか」
 思うままに、リズムに乗せて。
 その気になれば五分で終わりそうだと雲雀が言えば、綱吉は机にぐったり寄り掛かって頬を膨らませた。
「ちゃんと季語も入れろって言われてますし」
「ああ、成る程ね」
 課題を出した教師は、手厳しい。季節に沿った言葉をひとつでも入れておかないと、絶対に認めて貰えない。
 お蔭でハードルが上がった。参考資料にと棚から出して来た本も、役に立ちそうにない。
 お邪魔虫も来てしまった。人の集中を乱す存在をちらりと窺えば、雲雀は顎に手をやって暫く沈黙した後、おもむろに椅子を引いて立ち上がった。
 綱吉の相手に飽きて出て行くのかと思いきや、彼が向かったのは出口とは正反対の方角だった。
 居並ぶ書架の間に潜り込み、ものの三分としないうちに出てくる。手にしているのは、古めかしい一冊の本だった。
「ヒバリさん」
「君には、蕪村や芭蕉より、こっちの方が分かり易いんじゃない?」
「はい?」
 差し出され、思わず受け取ってしまう。表紙に描かれていたのは、着物を着た老齢の男性の絵だった。
 サイズも小さめで、持ち運びやすい大きさだった。紙はやや黄ばんでいる。広げると、細かい文字が目に飛び込んできた。
「小林、いちちゃ……?」
「いっさ」
「小林一茶。誰ですか?」
「説明すると長いけど、聞きたい?」
「……遠慮します」
 知らない名前だ。しかも読み間違えた。雲雀の冷静な訂正に反射的に首を竦めて、綱吉は背を丸めたまま首を振った。
 時間は惜しい。無駄話をしている暇はなかった。
 そして無鉄砲に暗闇を突っ走るよりも、助言してくれる人に従う方が進みが早いのは、自明だった。
 今は雲雀の言葉に耳を傾ける方が得策と判断した。俳人の紹介は省略して貰い、綱吉は偶々目に留まった句に眉を顰めた。
「雀の子、そこのけ、そこのけ、お馬が……なにこれ。これも俳句なんですか?」
「そうだよ」
「でもこれ、季語が」
 文章は簡潔で、熟考されたものには見えなかった。しかも、それらしき季語が見当たらない。こんな安直なもので良いのかと驚き、彼は傍らの青年に問うた。
 雲雀は、この手の質問が来ると承知していたようだ。鷹揚に頷き、彼は綱吉の手元を斜め後ろから覗き込んだ。
 敢えて密着するよう身体を寄せて来られて、不用意に心臓が跳ねた。勝手に赤くなろうとする頬を懸命に隠して、綱吉は平静を装い、奥歯を噛み締めた。
 そんな反抗的な態度に目を細め、雲雀は意図的に耳朶に掛かるよう、息を吐いた。
「あるよ。最初の、雀の子がね」
 雀の雛が卵から孵るのは、春。
 その雛に向かって、馬が来るので避けろと言っているのだから、暦もまた、春。
「へえ、そうなんだ」
 知らなかった。感心して何度も頷き、綱吉は目に見えるような光景に頬を緩めた。
 次に出てきた句も、言葉は平易だった。お蔭で想像しやすい。分かり辛い季語については、雲雀が逐一解説してくれた。
 新しい事を知るのは、楽しい。知識が増えていくのを如実に感じて、綱吉は心を弾ませた。
「すごい。ヒバリさん」
 場所も忘れて興奮し、声を高くして振り返る。
 直後に息をのみ、綱吉はパッと顔を背けた。
「小動物?」
「なんでもないです、すみません」
 一瞬の出来事に、雲雀は眉を顰めた。怪訝に呼ばれて、綱吉は火照って熱い頬を両手で覆い隠した。
 あんな風に穏やかに微笑んでいるところを見せられて、平常心でいられるわけがない。感情に正直な心臓はバクバク五月蠅く跳ねて、頭が破裂しそうだった。
 距離の近さを忘れていた。あと少しで掠めるところだったのも、綱吉に緊張を思い出させた。
 早口に謝罪されて、雲雀は背筋を伸ばした。
 改めて下を向けば、真っ赤に染まったうなじが見える。椅子の上で小さくなり、カタカタ震えている様は可愛らしかった。
 男相手に、という気持ちもあるけれど、実際美味しそうなのだから仕方がない。噛り付きたい本能を抑え、雲雀は羞恥に喘いでいる少年の背中をつい、となぞった。
 瞬間。
「ヒィィィ!」
 裏返った甲高い悲鳴が、図書室内を突き抜けた。
 完全な不意打ちに、綱吉の全身にぞぞぞ、と悪寒が駆け抜けた。四肢は引き攣り、心臓はぎゅっ、と縮まって、全身の血液が凍り付いた。
 もっとも溶けるのは早く、綱吉は直後には我に返り、荒い息を吐いて胸元を撫でた。
「ひ、ひば、り、さん」
 悪戯の犯人を睨むが、琥珀色の瞳は涙で潤み、迫力は皆無だった。
 息も絶え絶えの少年を睥睨して、並盛中学校風紀委員長は意地悪く笑った。
「それで? 君はどんな句を詠むの?」
「まだ、出来てません」
「簡単じゃない、こんなの」
 他人の詠んだ歌に感動しているだけでは、課題は終わらない。お手本は沢山ある。飾らない率直な言葉で紡げば良いと教えられて、綱吉は口籠った。
 小難しく考えて、頭を捏ね繰り回していたから、却ってなにも出て来なかったのだ。
 思考はシンプルに、言葉は簡潔に。
 だが言われていきなり出来るほど、綱吉は器用ではなかった。
 口を尖らせ、彼はならば、と眼力を強めて雲雀に向き直った。
「じゃあ、ヒバリさんなら。どんなの、詠みますか」
 散々苛めてくれた意趣返しだと、語気も荒く問いかける。意外な方向から飛んできた反撃に、男は虚を衝かれたか、目を丸くした。
 そうしてすぐに相好を崩し、意味ありげに目尻を下げた。
「そうだね。僕だったら」
 人を散々煽っておいて、自分が出来ないのは格好悪い。即興で作ってみせるよう求められて、彼は黒い瞳を窓辺に投げた。
 西の空が赤く染まっていた。明日もきっと晴れる。夕焼けは眩しく、美しかった。
「そう、だな。……うん」
 少しの逡巡と、確かな決意と。
 宙を彷徨っていた双眸は、やがて綱吉へと戻された。真っ直ぐに見つめられて、頬がまたかあっと熱くなるのを止められなかった。
 雲雀が肩を竦めた。人差し指を伸ばし、彼は緊張でガチガチになった綱吉の顎を掬った。
 顔を寄せ、琥珀の瞳を覗き込み。
「頬染めて 秋の夕べの 逢瀬かな。……なんてね」
 しっとり濡れた低音で、甘く、囁く。
 何を告げられたのかすぐに分からなくて、綱吉は頭の天辺から湯気を噴き、目を白黒させた。
「あの、あの、ぅあ、ひぇっ」
「次は君の番だよ」
 あと数センチ。ちょっとしたきっかけで触れてしまえる近さに混乱していたら、素早く身を引いた雲雀が、ぽん、と肩を叩いた。
 促され、綱吉はきょとんとなった。左右を見回しても、当然ながら誰も居ない。カウンターにいる筈の司書も、いつの間にか行方を晦ましていた。
 正面に向き直れば、雲雀が不敵な表情で佇んでいた。
 たった十七文字に詰め込まれた、秋の景色。綺麗に切り抜かれた一風景に更に赤くなり、綱吉は底意地の悪い男目掛けて右足を蹴り上げた。
 雲雀は躱さなかった。黙って受け止めて、呵々と喉を鳴らした。
「まだ?」
 返歌を求められても、いきなりは無理だ。ただでさえ鈍い頭が熱暴走を起こしているのだから、思考力は最低レベルを記録していた。
 けれど何も言わずにいるのも癪だ。一方的に負かされるのは悔しくて、綱吉は下唇を噛んだ。
 上目遣いに勝ち誇った顔の男を、精一杯睨みつけて。
 綱吉は深く息を吸い、一気に吐き出した。
「ヒバリさん、意地悪すぎます……俺にだけ」
 どこか甘えた感のある調子でリズムを刻めば、黒髪の男はぽかんとして、直後、腹を抱えて笑い出した。
 図書館では静かに、と言っていたのはどこの誰か。自ら風紀を乱している男を前に、口を窄めて拗ねていたら、腹筋の痛みを堪えた雲雀が深く息を吐いた。
「季語がない。都々逸じゃないんだから」
「じゃあ、ちゃんとしたの作るの、手伝ってください」
 タイムリミットまで、あと一時間ちょっと。
 ひとりでは無理でもふたりなら、と安直に提案した綱吉に、学校を裏で取り仕切る男はやれやれと肩を竦めた。
「今回だけだよ」
 いつの間に、こんなに甘え上手になったのか。
 気が付けば、こちらが手玉に取られている。まったくもって油断ならないと目を眇め、雲雀は可愛くて仕方がない恋人の額を小突いた。

2014/8/7脱稿

紅梅

 他人の家で年を越す日が来るなど、一年前では考えられない事だった。
「……寝たか?」
「うん。寝た」
 座敷に置かれた炬燵に陣取り、ひそひそと言葉を交わす。前方に置かれたテレビからは賑やかな声が響いていたが、ふたりの会話には全く関わり合いがなかった。
 しかしもうひとりについては、その限りではない。間に挟まれて寝転がる少女の為にと、小柄な方の少年はリモコンを取り、テレビの電源を切った。
 途端に部屋は静まり返り、照明まで暗くなった気がした。
「布団、運んでやった方が良いかな」
「だろうな」
 リモコンを卓上に戻した少年の言葉に、影山は鷹揚に頷いた。視線は斜め下に固定され、一瞬だけ上に流れた後も即座に戻された。
 壁に吊るされた古めかしい時計は、とっくに午後十一時を回っていた。
 座布団を枕にした少女はすうすうと寝息を立て、深い眠りに落ちていた。先ほどまで元気にはしゃぎ回っていたのが嘘のようで、寝顔はとても穏やかだった。
 とはいえ、下半身を炬燵に預けたままでは風邪を引く。しかも寝間着ではなく普段着のままなので、着替えさせなければならなかった。
「やっぱ無理だったかー」
 歯だって磨いていない。トイレにも行っていない。
 あれこれ寝支度を整える前に夢の世界へ旅立たれてしまって、少女の兄は苦笑を漏らした。
「だから言ったじゃねえか」
「おれに言うなよ」
 そこへ影山が茶々を入れ、的外れな苦情に日向は肩を竦めた。
 ここは雪ヶ丘町の、日向の自宅の座敷だった。
 部屋の真ん中にはカーペットが敷かれ、炬燵が真ん中にどん、と鎮座していた。窓の外は既に暗く、庭先には先般降った雪が僅かに残されていた。
 男子高校生が面白がって作った不細工な雪だるまが、まるで狛犬のように並んでいた。傍には少女が作った小さな兎が控え、もうじき終わる今年を惜しんでいた。
 炬燵の上には籠が置かれ、ミカンが数個、肩身狭そうにしていた。周辺にはヒトデの形に剥かれた皮が積み上げられ、白い筋が山を成していた。
 陶器製のマグカップはどれも空っぽだった。溶け残ったココアが底で固まり、不可思議な模様を作り上げていた。
 あと少しで今年が終わる。
 そして間髪入れず、次の年が来る。
 大晦日を、そして新年を余所の家で迎える事になるなど、想像すらした事が無かった。改めて自分の居場所を強く意識して、影山は頬杖をついた。
「絶対起きてるって、頑張ってたのにな」
「どう考えたって無理だろ」
「いやまあ、そこは本人の頑張り次第って言うか」
 年の瀬に遊びに来ないかと誘われて、驚いて。
 親の許可を求めたらすんなり認められて、また驚いた。
 そういう訳で、影山は此処に居る。ただのチームメイトではなくなった日向の家で、その妹も交え、今年最後の一日を。
 この後彼らは除夜の鐘を突きに、雪ヶ丘町にある寺に向かう予定だった。
 だからふたりとも、いつでも出かけられる格好をしていた。
 小学校低学年の日向の妹も、その列に加わると意気込んでいた。しかし案の定、押し寄せる睡魔に勝てなかった。
 十時半頃から舟を漕ぎ始め、必死に抵抗したものの、負けてしまった。残すところあと一時間弱だったのに、実に惜しかった。
 きっと明日の朝起きた時、あれこれ恨めしく言われるのだろう。想像して頬を掻き、日向はすやすや眠っている妹の頭を撫でた。
 表情は優しげで、慈愛に溢れていた。その横顔をじっと見つめて、影山は口を尖らせ、ふいっと目を逸らした。
 再度壁時計を確認し、続けて自分の携帯電話を開く。メールも着信もない画面の右上には、現在時刻が表示されていた。
「そろそろ行くんじゃねーの?」
「まだ早いって」
 雪ヶ丘町は広いけれど、寺までは歩いて十分とかからない。早く着いたところで、寒空の下で待たされるだけだ。
 せっかちな恋人に苦笑で返し、日向はほかほかと温かい炬燵から足を引き抜いた。
「母さん呼んでくる」
「ああ」
 どちらにせよ、妹をこのままにしておけない。
 台所にいる筈の家族を呼びに行った彼を目で追って、影山は鷹揚に頷いた。
 襖が横に開かれ、閉じられた。パタパタと響く足音は直ぐに消えて、冬の夜の静けさが一瞬で戻って来た。
 石油ストーブが時折不穏な音を発する以外、話し声すら聞こえてこない。右隣に恋人と良く似た顔立ちの少女を置いて、影山は落ち着かないと身を捩った。
 人の輪に混じるのが怖くなったのは、中学三年生の初夏だった。
 中学生活の総括とも言える試合で、大きなミスをした。自信を持って上げたトスの先には誰もおらず、弧を描いたボールは自陣に落ちた。
 スパイカーが反応出来ないようなトスではなかった。だのにチームメイトはひとりも動かなかった。愕然として振り返れば、仲間と思っていた連中は揃って目を合わせようとしなかった。
 その時初めて理解した。
 仲間などいなかった。最初から、自分が、チームメイトを仲間だと認めていなかったのだと。
 それでもバレーボールを諦めきれず、道を模索した。懸命に足掻いて、もがいて、苦しんで、辿り着いたのが烏野だった。
 運命とは不可思議なもので、人生は皮肉だらけだ。まさか落ちた古豪で嘗ての対戦相手と出会い、チームを組み、過去のチームメイトと対戦することになろうとは。
「烏野で良かった」
 本当は、別の高校でも良かったのだ。本命は白鳥沢高校だったし、青葉城西高校でなければどこだって構わなかった。
 それなのに、敢えて烏野高校を選んだ。名将が復帰するという噂話を信じ、藁にも縋る思いで辿り着いた先で、世界が百八十度ひっくり返る出会いが待っているとは思いもしなかった。
 本人を前にしてはとても言えない台詞に頬が緩んだ。上機嫌に寝入る少女の頬を小突いて、影山は遠くに意識を飛ばした。
 耳を澄ませ、人の気配を探る。目を閉じて呼吸を鎮める中で蘇るのは、数え上げたらキリがない、この一年間の出来事だった。
 受験勉強は大変だった。教科書を丸暗記する覚悟で挑み、ギリギリ合格証を手に入れた。
 逸る気持ちを抑え、入学式に臨んだ。その日のうちに入部届に名前を書き、担任に提出したら思い切り呆れられた。
 翌日、早速第二体育館に出向いた。先輩方が来る前に軽く汗を流そうと思っていた時に、日向が現れた。
 その後は大変だった。挑発に乗って騒動を起こしたら、主将の逆鱗に触れて体育館を追い出された。入部届を突き返され、条件を満たせなければセッターとして認めないと言い放たれた。
 その傲慢さに腹が立った。イザコザを起こしたのは日向であって、自分には非はないと、あの時は本気で思っていた。
 バレーボールに対する熱意と、技術には自信があった。高校でも即戦力として期待されると、勝手に決めつけ、疑わなかった。
 真に傲慢だったのは、他ならぬ自分自身だった。
「あン時、お前と揉めてて良かったのかもな」
 日向を役立たずだと罵り、見下していた。
 羨ましくなるくらいの運動神経と、バレーボールへの情熱に、少しだけ心が揺り動かされた。
 あの日、あのミニゲームで。
 日向が打ち抜いたのは、影山の中にあった壁だった。
 此処に居る、と。
 中学校時代最後の試合からずっと聞けなかった言葉が、そこにあった。
「すげえなあ。お前の兄貴は」
 左を上にして眠る少女の髪に触れて、その柔らかさに目を眇める。起こさない程度に頭を撫でてやって、影山は炬燵に顎を置いた。
 母親と話し込んでいるのか、日向はなかなか戻ってこない。暇を持て余し、彼はリモコンに手を伸ばした。
 ボタンを押せば、テレビに電源が入る。しかし音が響けば、眠ったばかりの少女が起きてしまいかねない。
 実は彼女が一緒に行くと言い出した時、影山は少しイラっとした。
 日向とふたりきりで出かけられると思っていたから、正直な気持ち、彼女は邪魔だった。しかし邪険に扱うと影山の評価が下がってしまいかねず、言い出せなかった。
 だから彼女が眠ってくれたのは、願ったり叶ったりだった。
 起きられて、愚図られたら最悪だ。テレビを点けるのは諦めて、彼はリモコンから指を剥がした。
 分厚い炬燵布団を捲り、用済みになった両手を中へと捻じ込む。内部はオレンジ色の光に溢れ、角に座っていても暖かかった。
 身長百八十センチある影山には、日向家の炬燵は少し小さかった。
 足を伸ばすと、反対側からはみ出てしまう。仕方がないので膝を軽く曲げて、背中も丸めているので姿勢は悪かった。
「戻って来ねえな」
 早くしないと、日付が変わってしまいかねない。そわそわしながら襖を振り返り、影山はぼそりと呟いた。
 除夜の鐘などテレビの中での話しだったので、実際に見るのはこれが初めてだ。話を聞かされた時から密かに楽しみにしていたので、間に合わなかったらかなり悔しい。
 日向は大丈夫だと言っていたけれど、彼の『大丈夫』は時々信用ならなかった。練習中に足首を捻った時だって、平気だと言い張って保健室へ行きたがらなかった。
 捻挫を甘く見るなと叱って、無理矢理連れていったのが遠い昔のようだ。
 あれからまだ一年と経っていないのは、正直驚きだった。
 もう何十年と一緒にいる気がした。気が付けば隣にいるのが当たり前で、近くに居ないと落ち着かなかった。
 最初の頃は、あんなに馬が合わなかったのに。
「変な感じだよなあ」
 日向の存在は、今となっては影山の精神安定剤だった。
 もぞもぞと身動いでは何度も時計を見上げ、背筋を伸ばして廊下を窺う。一秒がやけに長く感じられ、やきもきさせられた。
 もしや影山を置いて、ひとりで先に行ってしまったのか。
 おおよそ有り得ない事を思いつき、慌てふためいて左右を見回す。居ても立ってもいられなくて、影山は大急ぎで炬燵から足を引き抜いた。
「むにゅ……」
 それがあまりに雑な動きだったので、横にいた少女が小さく呻いた。枕代わりの座布団を蹴られ、表情は不機嫌そうに歪められていた。
 小鼻を膨らませて怒られて、影山は焦って変な体勢で固まった。もっとも覚悟したような鋭い眼光は飛んで来ず、瞼は依然閉ざされたままだった。
 覚醒には至らなかった少女に安堵の息を吐き、彼は抜け出した時のまま、穴が開いている炬燵布団を踏んで凹ませた。
「あっぶね」
 内心ドキドキが止まらず、嫌な汗が出た。額を拭って息を整え、彼は健やかに眠る幼女を改めて見下ろした。
 日向の年の離れた妹は、見た目も、性格も、兄にそっくりだった。
 元気が良い。声が大きい。動きがいちいち大袈裟で、反応も過剰。我が強く、融通が利かず、我儘。
 初めて顔を合わせたのは夏休みで、当時はかなり警戒された。大好きな兄を横取りした奴、という認識だったようで、毛嫌いされて、誰も見ていないところで良く蹴られた。
 ここ最近の関係は良好だが、日向とのふたりきりの時間は頻繁に邪魔された。
 今日だって、そうだ。影山と日向が除夜の鐘ついでに初詣に行くと聞いて、連れて行けと五月蠅かった。
 彼女がいると、日向を独占出来ない。だから苦手だったし、嫌いだった。
 しゃしゃり出てくるな。そう思わずにはいられなかった。
 考え方が変わったのは、最近の事だ。
 彼女だって兄を独占したいし、実際今までそうだった。ぽっと出の影山に奪われるのは癪だし、腹が立って当然だと思えるようになった。
 それでも許せない時はあって、たまには隣を譲るよう、呪詛を吐きたくなるのは止められなかった。
 願いは届いた。それなのに自分で望んだ未来を壊していたら、本末転倒甚だしい。
「日向の奴、どこまで行ってんだ」
 トイレに寄っているだとか、そういう頭が働かなかった。置き去りにされたものとばかり思い込み、焦燥感に駆られた彼は足音を忍ばせ襖へ近づいた。
 ちょっと様子を見に行くだけだ。
 誰に向けてなのか言い訳を心の中で繰り返して、廊下へ出ようと手を伸ばす。
 刹那。
「おっまたせー。年越し蕎麦のお届けでーっす」
「――っ!」
 開けようとした襖がひとりでに右へ駆け出し、威勢の良い声が室内に轟いた。
 あまりのタイミングの良さに、心臓が飛び出そうになった。咄嗟に腕を引っ込めて頭上に掲げて、影山は目を真ん丸にして凍り付いた。
 目の前に、日向が居た。両手で四角い盆を持ち、襖を開けたのは彼の右足だった。
 脚で数字の「4」を作り、その体勢のままバランスを保って首を傾げる。怪訝に見つめられた影山は赤くなり、目を泳がせてすごすご後退した。
「どったの?」
「いや……」
 器用なポーズを維持する彼の胸元からは、温かな湯気が立ち上っていた。
 聞かれても答えられず、影山は言葉を濁して炬燵へ戻った。踏みつけたばかりの炬燵布団は避けて誰も居ないスペースに腰を下ろし、日向が運んできたどんぶり鉢に肩を落とす。
 彼は襖を開けたまま中へ入り、汁が零れないよう注意しつつ、ふたつある鉢の片方を影山に差し出した。
「食うよな?」
「……ああ」
 出汁が良い香りを放つ温かい蕎麦を渡されて、彼は躊躇の末に頷いた。
 これを預かっていたから、戻りが遅くなったのだろう。そういえば食べていなかったと思い出して、影山は続けて渡された箸を右手に握った。
 今日が大晦日だというのを、覚えていたのに、忘れていた。
「あらあら。服のまま寝ちゃって」
「ああ、すみません。いただきます」
「どうぞ~。夏、ほら。お布団行くわよ」
 夕飯とは別に用意されていた年越し蕎麦に涎を飲み、手を合わせる。そこへ明るく高い声が紛れ込んで、影山は現れた日向の母に頭を下げた。
 愛娘が眠ってしまったのも、既に聞いていたのだろう。慣れた手つきで少女の頬を叩き、彼女は小さな体を炬燵から引き抜いた。
「むぅ~~」
「まったく、もう。おトイレは済ませたの?」
 無理矢理動かされ、少女が愚図った。しかしまだ眠気が勝っているようで、問いかけに反応はなかった。
 廊下から流れ込む冷気を受け、ストーブがギシギシと音を立てた。早々に蕎麦を食べ始めていた少年は寒いと嫌がり、母に早く出て行くよう促した。
「これ食べたら、おれ、行くから。夏のことお願い」
「はいはい、分かってるわよ。あんまり遅くならないようにね。鍵は持ってくのよ」
「はーい」
 親子の会話を聞かされて、どうにも肩身が狭い。仕方なくアツアツの蕎麦を食べようと箸を動かした影山は、視線を感じて顔を上げた。
 目が合った。にっこり微笑まれ、彼は慌てて蕎麦を掻きこんだ。
「あっふ」
「火傷しないようにね」
 当然、出来たてなので熱かった。噛み千切った麺を口の中ではふはふさせた影山を笑い、日向の母は娘を連れて出て行った。
 襖が外から閉じられた。忠告が間に合わなかった青年は時間をかけて蕎麦を飲みこみ、濡れた唇を手の甲で拭った。
「ぷっ」
 前を盗み見れば、日向が口を押えて笑っていた。華奢な肩を小刻みに震わせ、前髪が汁に浸りそうなくらいに前のめりになっていた。
 それで熱くないのだろうか。大参事の一歩手前にいる彼に口を尖らせ、影山は掬い取った蕎麦に息を吹きかけた。
 早く食べて出かけたいけれど、冷ましながらなのであまり速度が上がらない。かといって粗熱を取らずに食べたら、先程の二の舞だ。
「もっと味わって食えよ」
「うるせえ……あちっ」
 気が急いていると分かる動きで麺を啜り、噛み千切り、咀嚼もそこそこに飲み下す。慌ただしい食べ方を日向は叱ったが、影山は取り合わなかった。
 その罰が下ったのか、跳ねた汁が額に当たった。
 たまらず仰け反って、急いで拭き取り、息を吐く。火傷はしていないかと同じ場所を何度も撫でていたら、真向いに座った日向が肩を竦めて目を細めた。
「あんまり急ぎ過ぎるのも、どうかと思うけどな」
 焦っていては、上手く行くものもいかなくなる。
 落ち着くよう、よりによって彼に諭されて、影山は左手を顎にやったまま渋い顔をした。
「鐘、突くんだろ」
「ん? うん。大丈夫だって。並ばないし」
「そうなのか?」
「お前さあ。どんな立派なの想像してたわけ?」
「いや、あ……うん」
 こんなところでのんびり蕎麦を食べていたら、あっという間に日付が変わってしまう。だというのに平然としている日向に聞かれ、彼は押し黙った。
 頭の中にあったのは、立派な瓦屋根の荘厳な寺と、人がひとりくらい余裕で入れそうな巨大な梵鐘。
 テレビ番組などで目にする混雑を予想していたのだが、日向の口ぶりから判断するに、そこまで盛大なものではないようだった。
 過大な期待を寄せていた自分を恥じて、影山は静かに蕎麦を啜った。飲み頃の温度になった汁で喉を潤し、意外に冷えていた腹の中を温める。
 どこかでゴーン、と音がした気がして、彼は半分まで減った器を置いた。
「今の?」
「始まったみたい」
 海老の天ぷらを齧っていた日向が頷き、窓の方に顔を向けた。影山はまたしても時計を仰ぎ、針が示す時間に眉を顰めた。
「いいのか」
「へーきだって。三十分で百八回叩くんだから」
「あ、そうか」
 こんなにゆっくりしていて、本当に間に合うのか。
 疑ってかかる影山を説き伏せて、日向は音を立てて蕎麦を啜った。
 大量の雫を飛ばし、最後の一滴まで汁を飲み干してから勢いよく手を叩き合わせる。ごちそう様、の言葉を聞いて影山も手を動かし、残っていた麺を箸で掬い取った。
「ごっそさん」
 大胆な食べ方で器を空にして、同じく手を合わせて目礼する。
 そういうところは行儀が良い彼に苦笑して、日向は言われる前に炬燵から出た。
 手は卓上を這い、空になった器を重ねた。箸も回収して盆に並べ、座ったままの影山に暖房を切るよう頼み込む。
「玄関で待ってて」
「おう」
 上着やマフラーといった防寒具は、影山の分も含め、すべて玄関のハンガーに預けられていた。
 持っていくものといえば、財布や携帯電話、鍵と時計くらい。それらは全て、座敷に通された段階から、影山の手元にあった。
 必要な荷物だけを手に、ふたりは廊下へと出た。電気を消し、玄関の手前で二手に別れる。影山は真っ直ぐ玄関へ向かい、外套を羽織ってもうひとりの到着を待った。
「日向と、年越し……か」
 家族以外の誰かと過ごす日が来ると、夢に思い描きはしても、現実になるのはもっと先だと思っていた。
 靴を履き、爪先で三和土を数回叩く。不意に照れ臭さを覚えて頬が緩み、隠そうとマフラーを巻いたら前が見えなくなった。
「お待た……なにやってんの?」
「ほっとけ」
 しかもそれを日向に見られて、碌な言い訳も出来なかった。
 季節外れのミイラ男状態を笑われ、膨れ面を作るが効果はない。日向は冬靴に爪先を押し込むと、マフラーを解いた影山に上着を取るよう要請した。
「あんがと」
「あと二十分」
「わーってるって」
 黄土色のダッフルコートを手渡され、少年は嬉しそうにはにかんだ。そんな眩しい笑顔に歯を食い縛り、感情が露わになるのを堪え、影山はぶっきらぼうに吐き捨てた。
 気を抜くと、変な顔になってしまう。この半年ちょっとですっかり綻んだ表情筋に力を込めて、彼は日向の身支度を手伝い、自分のマフラーも結び直した。
「んじゃ、しゅっぱーつ」
 玄関を開けると、冷たい風が容赦なくふたりに襲い掛かった。
「ひゅう」
「やっぱ夜は冷えんな」
 日向は急いで戸を閉めて、ポケットから鍵を取り出した。寒風に負けるものかと口を窄め、ガタガタ言いながら入口を施錠した。
 影山も白く濁る息を吐き、墨一色で塗り潰された空を仰いだ。
 家の中に居た時よりも、鐘の音はよりはっきり聞こえて来た。長い余韻を残して、いつまでも耳に張り付き、心に染み込むような音色だった。
 寒いけれど、楽しみだった。
 日向とふたりで過ごせる事も、親公認で夜遅くに出掛けられる事も。
 初体験の除夜の鐘も、新年の始まりで日向を独占できる事も。
「そういや、なんで百八なんだ?」
「うん?」
「さっき言ってたろ」
「ああ」
 嬉しさを噛み殺し、無言の時間を嫌って話題を振る。ちゃんと戸が閉まったか確認していた日向は首を傾げ、言い直されて緩慢に頷いた。
 ボア付きのフードを被って冷風を遮断し、ミトンタイプの手袋で頬を挟む。可愛い仕草だが単に考え込んでいるだけで、眉間には浅い皺が寄っていた。
 あまり詳しくないらしく、聞くだけ無駄だったかもしれない。
 自分を棚に上げて彼の馬鹿さ具合に呆れていたら、またもや聞こえて来た鐘を合図に、日向はハッと顔を上げた。
「えーっと、確か……なんだったかな」
「別に良いぞ。無理しなくても」
「違うから。思い出すからちょっと待って」
 あと少しのところまで来ているのに、最後まで絞り出せない。そんなジレンマに陥っている彼に袖を引かれ、歩き出そうとしていた影山は肩を竦めた。
 残された時間はあまり多くない。雪ヶ丘町の地理に疎い彼は案内を求め、日向に先に行くよう促した。
 背中を押された少年は集中を乱され不満顔だったが、影山の顔をじっと見つめた後、突然破顔一笑した。
「だよなー。すっげー楽しみにしてたんだろ?」
「うっせ。ボケ」
 蕎麦を食べる前からそわそわして、落ち着きがなかったのを思い出したのだろう。腹を抱えて愉快だと笑われて、影山は真っ赤になって拳を振り上げた。
 もっとも攻撃は空振りに終わった。日向はステップを踏むように躱し、街灯の少ない道で飛び跳ねた。
 除夜の鐘は厳かに鳴り続けていた。
「今、どれくらいだろ」
「さー。半分くらい?」
 自分が鐘を突くまで、残っているだろうか。
 不安が拭いきれない影山に相槌を打ち、日向は後ろにずり落ちそうだったフードを押さえこんだ。
 両手を頭の上にやり、夜の町並みを眺める。田園風景が広がる空間は闇に覆われ、深い沼のようだった。
 足を取られたら、抜け出せなくなりそうだ。
「どうした?」
「ううん」
 不安に駆られ、足取りが鈍った所為だろう。傍らを行く影山に尋ねられ、日向は静かに首を振った。
 道に迷うことはない。影山と居れば、どこへだって行ける。
 コートを挟んで天敵同士だったのが、まるで嘘のようだった。
「あ、思い出した」
 今年一年間の出来事が走馬灯の如く流れ、通り過ぎて行った。
 高校入学、初めての先輩、チームメイト、練習試合。
 憧れの人と同じ背番号。夢にまで見たユニフォームで出た試合。願い続けて止まなかった、公式戦での初勝利。
 色々なことがあった、密度の濃い時間だった。振り返ればあっという間だけれど、その時々はいっぱいいっぱいで、雲の上を歩いている気分だった。
 来年は、もっと沢山の事が起きるだろう。それが楽しみで、わくわくが止まらなかった。
「日向?」
「除夜の鐘、なんで百八回か。思い出した」
 満面の笑みを浮かべ、影山との日々の間から零れ落ちた記憶を舌に転がす。途絶えていた会話を再開させて、日向は爪先立ちで背伸びした。
 ずい、と迫られ、影山が仰け反った。不思議そうに首を傾げた彼に微笑み、姿勢を戻して両手を叩き合わせた。
「えっと、確か。……煩悩の数だけ鐘をついて、綺麗な心になるため、じゃなかったかな」
「ボンノー?」
「そうそう。えーっと、ヨコシマな気持ち、て意味だったはずだけど」
「横縞?」
「それ多分違うと思うぞ」
 少なくとも三年以上前に、親から聞いた話を諳んじる。すると影山は人差し指を立て、空中に何本か線を描いた。
 勿論そんなわけがなくて、日向に冷たい目で睨まれた。露骨に馬鹿にされてムッとして、彼は更なる説明を求めて顎をしゃくった。
 催促された方は言い渋り、日頃耳にする機会のない単語に頬を膨らませた。
「だから、うー……つまり、えっと」
「はっきりしろよ」
 幼い日、ちゃんと聞いた気がするのだ。けれどあまりにも遠い日の出来事過ぎて、すぐには出て来なかった。
 だというのに急かされて、日向は焦れて地団太を踏んだ。
「よーするに、なんか、……えろいこととか、そういう気持ちってことだろ」
 影山もちょっとくらい考えてくれればいいのに。
 まるで協力的でない彼に拗ねて声を荒らげ、日向はフードを取り払って肩で息を整えた。
 冷たい風が吹いたけれど、少しも寒くなかった。興奮したお蔭で体温が上がったのだろう。心臓もバクバク言って、下着との間には汗が滲んだ。
 このままでいたら、風邪をひきかねない。しかし家に取って返して着替えるのも難しく、自分の体力を信じるしかなかった。
 首を振り、日向は深呼吸を繰り返した。胸に手を当て、動かなくなった影山に眉を顰める。
 鐘の音は順調に数を重ね、終わりに近づこうとしていた。
 あと十分と少ししたら、年が変わる。あれほど寺へ行きたがっていたのに、彼は何故か一歩も前に進もうとしなかった。
「影山?」
「……やっぱ、いい」
「はい?」
 不思議に思い、名前を呼ぶ。顔の前で手を振って、ようやく得られた返事は想定外のものだった。
 素っ頓狂な声を上げ、驚いていたら右手を取られた。握られ、引っ張られて、日向は突然の豹変に全力で抗った。
「ちょ、ちょっと待てって。良いって、なんだよ。鐘突きにいくんじゃねーの?」
 地面に浅い溝を掘り、前方を指差しながら問い質す。だが影山は首を横に振り、同じセリフを繰り返した。
「いい。止める」
「なんでだよ」
 あんなに楽しみにしていたではないか。それなのに急に、どうしてしまったのか。
 理由を説明するよう言って、でなければここから動かないと目力で訴える。生意気で頑固な眼差しを突き付けられて、影山は遠くを見やり、奥歯を噛み締めた後に力なく肩を落とした。
 吐く息が白く濁った。彼は左手で顔を覆うと、黒髪を掻き上げて苦虫を噛み潰したような表情を作った。
「除夜の鐘って、じゃあ、煩悩ってやつを払うんだろ?」
「う、ん?」
 思い返してみれば、影山も過去に聞いたことがあった。
 テレビでアナウンサーが説明していた。噛み砕いた表現ではなかったので聞き流していたが、今の日向の言葉を受けて、どういう意味があるのかようやく理解出来た。
 淡々と語る彼に小首を傾げ、日向は自信無さげに頷いた。
 言っている意味の半分ほどしか理解出来ないが、影山が妙に切羽詰まっているのは十二分に感じられた。
 その原因は、除夜の鐘にあるらしい。年の瀬に百八回鐘を鳴らし、百八つの煩悩を打ち払う。その禊ぎに対し、拒否反応を起こしているようだった。
「みたいだな。それで?」
 両手を広げて訴える彼に同意して、先を促す。しかし影山は苛立たしげに唇を噛むばかりで、なかなか話を続けようとしなかった。
 除夜の鐘を突くのは、大晦日だけの特別なイベントという認識だった。それだけで、それ以上の何かではないと思い込んでいた。
 そこにどういった意味があり、目的があり、願いが込められているのか。
 深く考えた事もなければ、知ろうともしなかった。
 どうして分からないのかと腹を立て、影山は鈍い日向に地団太を踏んだ。ゴーン、と大きな音が響き渡る中、白い息を吐き、小鼻を膨らませて頬を赤らめる。
「俺は、嫌だぞ。俺は、お前に……来年も、エロい事とか、いっぱいしてえ!」
「ぎゃー!!」
 直後に言い放たれた台詞に、日向は煙を噴いて絶叫した。
 夜中で、周囲は田圃ばかりの田舎道ではあるけれど、裏を返せばどこに誰が潜んでいるかも分からない状況だ。そんなところで堂々と宣言することではなくて、彼は目を白黒させて頭を抱え込んだ。
 またひとつ、鐘が鳴った。
 こんな音ひとつでは到底取り払えない煩悩を抱え込んだ男を前にして、日向は膝を折って蹲った。
「影山の、ぼけぇ……」
「ンなこと、ぜってー許さねえからな。聞いてんのか、日向」
「聞こえてるから、もう黙れってば!」
 影山がどうしようもない馬鹿で、愚直で、意外に素直で人の言う事をあっさり信じる性格なのを、すっかり忘れていた。
 除夜の鐘を突いたところで、胸に抱く感情が消えるわけがない。だというのに律儀に信じて、嫌だと言い張って聞かなかった。
 救いようのない、大馬鹿野郎だった。
 あまりにも愚かしくて、恥ずかしいのに嬉しくて、照れくさくて、呆れているのに頬が緩んだ。
「あー、もう。なんだって、影山は、こう」
「なんだよ」
「んーん」
 愛されていると思った。
 彼を好きになって良かったと、心から思えた。
 勝手に笑顔になる顔を隠し、俯いたまま首を横に振る。けれど影山は不満だったらしく、地面を蹴って砂埃を巻き上げると、数秒悩んだ末に日向同様、しゃがみ込んだ。
 コートの裾が地面に着くのも厭わず、視線の高さを揃えて顔を覗き込んできた。
「こっち向けよ」
「あ。影山、今何時?」
「ああ?」
 額をコツンと合わせ、力尽くも辞さないという態度を示された。それでふと思い出した日向は唐突に訊ね、怪訝にする影山に身を乗り出した。
 日向は賽銭程度の小銭と、家の鍵くらいしか持ち合わせていない。対する影山は財布も、携帯電話も、腕時計も標準装備だった。
 現在時刻を知るには、彼に頼るしかない。順調に回数を重ねる除夜の鐘を聞きながら急く日向に、突然水を向けられた青年は怪訝にしながら袖を捲った。
 手袋とコートの隙間から手首を露わにして、文字盤が暗くて見えなかった為に、代替えとして携帯電話を出す。
 縦長の端末を開いた途端、ふたりの間が一寸だけ明るくなった。
 まるで蛍火だ。
 青白い光を浴びせられ、目映さに目を細めた日向は訝しむ影山の手に手を重ねた。
 気が付けば、今年も残すところあと二分になっていた。
 寺の傍へ行けば明るいが、人も多い。
 家に帰るには遠いし、鐘を突いた後に向かう予定でいた神社はもっと遠かった。
 幸い、周囲に人の気配はなかった。家々の灯も遠く、地平線に漁火の如く輝くのみだった。
「日向?」
「ばっかじゃねーの」
 辺りを見回し、ぼそりと呟く。影山にも聞こえたはずだけれど、様子がおかしいと察したか、反論は聞こえてこなかった。
 普段は底抜けに鈍いくせに、時々吃驚するくらいに聡い。そういうギャップに心は蕩かされ、想いはどんどん膨らんでいった。
「……悪かったな」
 俯いていたら、ぼそぼそと言い返された。
 先程の小声に対する返答だと解釈して、日向は首を横に振った。
 悪くない。
 少しも悪くなかった。
「えっと。なんていうか、いろいろあったけど。おれは、お前に会えてよかったと思ってるし、お前とバレー出来て、すげー嬉しかったし、楽しかった」
「日向」
「そんで、だから。その。今年一年、どうも、ありがとう……ございました」
 喋っているうちに、段々と恥ずかしさが強くなっていった。声も尻窄みに小さくなって、最終的に日向は湯気を放ち、膝の間に頭を挟み込んだ。
 影山との出会いは、運命だったとしか思えなかった。
 最初は反発しかなかったけれど、彼を知るうちに、どんどん惹かれていった。今でも彼はすごい奴だと思うし、もっとすごくなると信じている。
 ひとりでは届かない頂も、彼となら目指せる。
 予感ではない。錯覚でもない。
 ふたりなら叶う。絶対に成し遂げられるという、確信があった。
 ただそれを面と向かって言うには照れ臭くて、気恥ずかしかった。正面切って感謝を述べるのもガラではなくて、慣れない事をするものではないと早々に後悔した。
「ひなた」
 パチン、と音がした。
 携帯電話が閉じられる音だ。直後にふっと光が消えて、夜のしじまが訪れた。
 息遣いさえ聞こえて来ない。暗闇に呑まれ、不安に苛まれた日向は顔を上げた。
 直後だった。
 ゴーン、と今までで一番大きな鐘の音が、静寂を打ち破って空を翔けた。
「新年だ」
 不意に影山が言った。彼は薄雲が広がる夜空を仰ぎ、心なしか晴れ晴れとした表情を浮かべていた。
 日付が変わった。
 年が新しくなった。
 けれどそれだけだ。取り立てて何かが変わったわけではない。人が脱皮するわけもなし、顔立ちが変わるなどあり得ない筈だった。
 それなのに影山は、違う人のようだった。
 影山だけれど、彼に間違いないのだけれど、昨日までとはどこか違う影山だった。
「か……っ」
 瞠目し、名前を呼ぼうとして息が詰まった。
 それを笑って、彼は白い歯を見せた。
「今年もよろしくな」
 目を細め、囁かれた。満足そうな顔をして、迷いもなく告げられた。
 ぽん、と頭を叩かれた。手袋のままわしゃわしゃと髪を掻き回された。
 嬉しくて、涙が零れそうで、日向は上唇を噛み締めた。必死に息を堪え、気付かれないよう腹に力を込めた。
「っこ、ことし、だけ、かよ」
 何かを言わなければ怪しまれる。だからと選んだのはそんな悪態で、しどろもどろの受け答えに、影山はくしゃりと相好を崩した。
「来年も、再来年もだな」
「ずっと、って、言えよ」
「言っていいのか?」
 改めて言い直されても、不満は消えない。
 不貞腐れて頬を膨らませていたら、顎を攫われ、無理矢理顔を上げられた。
 近距離で視線が交錯した。真剣な眼差しに心を射抜かれ、ドクリと跳ねた心臓は隠しようがなかった。
 喉元を狙う手は即座に外された。支えを失って俯きたくなるのを押し留め、日向は一瞬だけ影山を窺い、無言で頷いた。
 前髪の隙間から覗く眼に苦笑して、彼は右手を差し出した。
「ずっと、よろしくな」

2014/12/31 脱稿

Mystery Train II

 早朝、登校前の騒動は、瞬く間に部内全体に知れ渡る事となった。写真付きのメールは驚異的な速度で方々に転送され、後輩、先輩、レギュラー、マネージャーの垣根なく広まっていった。
 果ては他校の友人にまで、どういう経緯か、伝わる事となった。御幸の携帯電話は授業中も鳴りっ放しで、新着メールの件数は二桁を余裕で達成した。
 誤解だという旨を伝えるのにも限界があり、途中で疲れてしまった。匙を投げ、昼休みになる前に電源をオフにして、これでようやく静かになると思いきや、今度は教室に押しかけられた。
 徒党を組んでやってくるチームメイトや、全く会話をしたことがない女生徒まで、その範囲は幅広かった。いったいどこまで広まっているのか、考えるのも面倒で、億劫だった。
「ヒャヒャヒャ。大人気だな」
 昼飯を食べたばかりだというのに疲労はマックスで、油断すると口から魂が抜けそうだ。邪魔な眼鏡を外して机に突っ伏していたら声がして、顔を上げずにいたら、後頭部を叩かれた。
 衝撃は軽く、一瞬で終わった。痛くもない一撃は、緩く握った拳でもたらされたものだった。
「うっせえよ」
 本気の二発目は避けたくて、御幸は渋々身を起こした。椅子を引いて座り直し、左手にぶら下げていた黒縁の眼鏡を顔に掛ける。
 濁って霞んでいた視界に光が戻った。何度か瞬きして瞳を慣らし、彼は眉間に指を押し当てた。
「なんっかい、同じ説明をしたと思ってんだ」
「さーな?」
 癖になっている皺を揉み解しつつ、愚痴を零す。だが倉持は真面目に取り合わず、笑みを噛み殺しながら人の机に腰かけた。
 尻を半分ほど卓上に置いて、高い位置から見下ろす顔は楽しげだ。面白くて仕方がない、というのが窺えて、御幸はムッとなった。
 顰め面で睨まれても、倉持は笑うだけだった。
「誤解招くよーな事してんのが悪いんじゃね?」
「誤解を招くような角度で写真を撮る方が、どうかしてると思うがな」
 ズボンのポケットに手を入れて、背中を丸めた彼の弁には賛同出来ない。揶揄されて即座に言い返して、御幸は力を抜いて椅子に凭れかかった。
 決して座り心地が良いとは言えない固い背もたれに身を預けて、彼は見事な快晴が広がる窓に視線を投げた。
 広大なグラウンドの向こうには、住宅地が広がっていた。色とりどりの屋根が並び、人々の営みがこの距離からでも窺えた。
 そんな家々の間に、ぽっかり穴が開いていた。背の高いネットで囲まれた空間には、夜間照明の柱が聳え立っていた。
 あの傍に、彼らが日々生活を送る寮があった。朝から晩まで白球を追いかけ、汗と涙を流す練習場があった。
 その入口で、今朝、御幸は手のかかる後輩の面倒を見てやっていた。
 目にゴミが入ったという一年生投手の為に、手持ちの目薬を貸してやった。ひとりでは注せそうになかったので代わりにやってやり、頻りに目を擦ろうとする手を束縛した。
 それを、ひとりの上級生が写真に収めた。向かい合って立ち、異様に顔を近づけている後輩たちを写した一枚は、まるでくちづけを交わしている風に見えるものだった。
「亮さんを悪く言うんじゃねえ」
「俺は事実を言ったまでだ」
 御幸曰く、諸悪の根源は、青道高校硬式野球部三年生の、小湊亮一だった。
 彼が撮影した写真は、一時間とかからず主力メンバーの目に触れる事となった。更にそこから転送が重ねられ、ネズミ算式にあちこちへ広まった。
 野球部と何ら関係ない人間にまで、話は知られていた。小湊が一切の説明を省き、ただ写真だけを送信したのも、あらぬ妄想を掻き立てる要因となっていた。
 セカンドを守る技巧派選手を知る人間であれば、彼が仕組んだ悪戯として、冗談として流してもらえたかもしれない。だがそうでない相手は厄介で、事情をどれだけ正確に説明しても、一度では信じてくれなかった。
 勝手な想像を繰り広げ、隠したところで無駄だと息巻く女子もいた。いったい何をそんなに興奮しているのか、興味はあるが、聞きたくはなかった。
 後ろに傾いた体勢を維持し、御幸も両手をポケットに押し込んだ。上履きの裏で床を抉り、遠巻きに人を観察している声に耳を澄ます。
「てか、いいのか? 俺と一緒に居たら、お前も誤解されちゃうんじゃね?」
「ケッ。気色悪りぃ事言ってんじゃねーぞ」
 彼女らからすると、一緒に居るのが写真に写っていた一年生でなく、クラスメイトの倉持だというのが意外らしい。あれは誰だ、という囁きが聞こえて来て、御幸は肩を竦めた。
 槍玉に挙げられた方は心底嫌そうに吐き捨て、初めて人目を気にして視線を泳がせた。
 素早く机から降りて、別の机に寄り掛かる。人だかりが出来ている通路に背中を向けて立ち、周囲から見えにくい足が御幸の机を蹴り飛ばした。
 ガタガタ言うのを上から押さえつけて、彼は八つ当たりされた机を慰めた。
「つーか、いいのかよ。あいつらに本当の事、教えてやんなくて」
「面白がってるだけだろ。放っておけば、そのうちみんな忘れるさ」
 夏の大会が開幕して、野球部に関する話題は学校内でも盛んだった。去年はドラフト候補のスラッガーを擁していながら惜しくも敗れ去ったものだから、今年こそはという声は、昨年以上に大きかった。
 無論、野球部員は全員、甲子園へ行くつもりで練習を重ねていた。
 目の前で勝利が零れ落ちていった瞬間は、一年が過ぎても忘れ難いものがあった。その悔しさを糧にして、彼らは日々努力を重ねていた。
 だからつまらない噂話や、人の勝手な想像に振り回されてやる余裕は、御幸にはひと欠片も存在していなかった。
 同じブロックの強豪校も、着々と準備を進めている。余所事に気を取られて、足元を掬われるつもりはなかった。
 それが喩え己の身に関する話だとしても、だ。
 人がどう思おうが、関係ない。野球に青春を賭けると決めた時点で、周囲の雑音は御幸の耳に入らなかった。
 余裕綽々とした態度を崩さず、根拠もないのに自信満々に言い放つ。
 そんな彼の返答を受けて、倉持の顔が急に翳った。
 怒っているのか、目つきが険しい。突然どうしたのかと御幸が背筋を伸ばせば、彼はふいっと顔を背け、投げ出していた足を引っ込めた。
 そして。
「テメーは良いかもしれねえけどな」
 半ば独り言のように呟かれて、御幸は目を丸くした。
 パチパチと数回瞬きを繰り返し、そっぽを向いているチームメイトであり、クラスメイトを見やる。呆然としていたら一瞬だけ倉持が視線を投げて、奥歯を噛んで、また逸らした。
 苛立っている様子に、御幸の心も不意にざわついた。
「あ、ああ」
 彼が何を言いたいのか、恐らくだけれど、理解出来た。
 もわん、と浮き上がった不快な靄を服の上から握り潰して、御幸は緩慢に頷いた。
 例の写真に写っていたのは、御幸だけではない。
 もうひとり、この場に居ない人物が一緒だった。
「沢村、な」
「おう」
 ひとりごちれば、倉持が鷹揚に頷いた。
 憶測は正しかったようで、憤然とした面持ちで睨まれた。彼の両手は拳を作っており、指関節がポケットの内側から布を押し上げて、ズボンは横に膨らんでいた。
 中学時代の彼がヤンキーだったという話を思い出して、御幸は口元を手で覆い隠した。
「過保護」
「ンだと!」
 そのままぼそっと言えば、聞こえた倉持が眉を吊り上げた。
 瞬時にポケットから右手を出し、語気も荒く吠えた。遠くから歓声か、悲鳴だか分からない叫び声が聞こえたが、ふたりは揃ってこれを無視した。
 ただギャラリーが居る前で、変なことは出来ない。この大事な時期に暴力沙汰はご法度で、倉持は数秒経たずに腕を引っ込めた。
 処理し切れない苛立ちは溜息に混ぜて吐き出して、彼は後頭部をガリガリ掻き回した。
 乱暴なように見えて、倉持は人を見る目だけは確かだった。
 周りから腫れもの扱いを受けて来た為か、人のことを良く観察している。信じるに足るかを的確に判断して、気を許した相手にはとことん関わり、大切にする。
 彼と沢村は寮で同室で、その関係性は実の兄弟のようだった。
 だからこそ、気にかけているのだろう。話しかけて来た理由も、御幸をからかうのでなく、大事な後輩を気にかけての結果だ。
 その沢村は、馬鹿で喧しいだけなのに、意外に人の心を掴むのが上手かった。空気に自然と溶け込めるとでも言うのか、彼の周りには常に人の輪が出来ていた。
 きっと今も、話を聞き付けた面々に取り囲まれ、御幸と同じ言い訳を繰り広げているに違いない。
「あー……」
 お喋り好きな癖に語彙が少ない彼だから、話しているうちに誤解を生む発言が飛び出ているかもしれなかった。同時に複数から質問されて、混乱して、事実と異なる説明をしている可能性も否定出来なかった。
 写真を撮られた時、彼は状況をしっかり認識出来ていなかった。御幸とは違い、何が起きているのかを理解していたとは思えない。
 小湊に言われるままに学校へ向かって歩き出してしまって、カメラを向けられていたのにも気付いていない様子だった。きっと登校後に知らされて、寝耳に水で驚いたに違いない。
 光景を想像するのは容易だった。大袈裟に反応して、必死に否定に走る姿は楽に思い描けた。
「変な事、言ってなきゃいいけど」
 額の真ん中に指を遣り、俯いて呟く。こめかみの辺りに鈍痛を覚え、御幸は冷や汗の不快感をやり過ごした。
 背中を伝う生温さに耐えて、緩く首を振り、腕を机に置く。改めて倉持を見上げて、彼は椅子を引いて腰を浮かせた。
「お?」
「そーいや、倉持。お前、部屋の掃除ちゃんとしとけよ。今朝沢村が騒いだんだって、なんか目に入ったって、それでなんだから」
「汚くて悪かったな」
 立ち上がろうとする彼に驚き、倉持が半歩退いた。上から目線の忠告に反発して、悪態をついて床を蹴った。
 地団太を踏んでいるようにも見える彼から顔を上げて、御幸は一瞬ざわついた教室に溜息を吐いた。
 倉持が変なことを言うから、気になって仕方がなかった。
 一年生と二年生とでは、授業を受ける階が違う。他学年の領域には入り辛く、喩え下級生の階であっても少なからず緊張させられた。
「どこ行く気だ?」
「どこでも」
「沢村ンとこか?」
 自分があの独特の空間に足を踏み入れる光景を想像し、起こり得る可能性を頭の中のテーブルに広げる。だがどれを取っても良い結果は得られず、却って問題をややこしくするだけだった。
 もうひとつ嘆息を追加して、御幸は倉持に首を振った。ついてくるつもりでいるチームメイトを一瞥して、クラスメイト以外で賑わう教室の扉に目を向ける。
「行ってどーすんだよ。騒ぎがでっかくなるだけだろ」
「それもそうだな」
 最終的に御幸の出した結論は、なにもせずに放っておくこと。訊かれれば誤解だと説明するが、そうでなければ徹底的に無視し、やり過ごす作戦だった。
 だというのに、藪を突いて蛇を出してどうするのか。
 馬鹿なことを言うなと窘められて、倉持も納得だと頷いた。
 そして次なる疑問を抱いたか、首を左に傾けた。
「んじゃ、どこ行くのさ」
「購買」
 行き先をはぐらかされたのを、もう忘れている。言わないと延々質問されそうなのでここら辺りで正解を口にして、御幸は鞄から財布を取り出した。
 机の横に引っ掛けてあったスクールバッグを開け、教科書を掻き分けて目的の品を探す。今からだと行って、帰って来るのがやっとの時間しか残されていないが、教室で見世物になっているよりはずっとマシだった。
 動物園の動物たちも、こんな気分なのだろうか。
 狭い世界が全てと思い込んでいる獣に同情して、御幸は見付けた財布を掴んだ。
 取り出そうとして、一緒に詰め込んでいたものが巻き込まれて顔を出した。慌てて押し戻そうとして、指に触れた小さな容器に動きが止まった。
「御幸?」
「いや。なんでもない」
 不自然な体勢で硬直した彼に、倉持が眉を寄せた。
 目敏い彼に慌てて首を振って、御幸は飛び出そうだった目薬を鞄に戻した。
 これがあったから、こんな事になった。
 苦い感情を飲みこんで、薄い財布はズボンの後ろポケットへ。パンパンに膨れ上がるのも構わず奥まで捻じ込んで、彼は時計を一瞥してから歩き出した。
 混雑していた出入り口が、一瞬で無人になった。戸口から顔を覗かせていた面々は一斉に脇へ後退して、なんだか偉くなった気分だった。
「王様みたいだな」
「んじゃ、倉持は大臣か」
「やめとけよ。寝首かかれても知らねーぞ」
「ははは。そりゃ怖い」
 何もしていないのに人が避けてくれるのは、案外悪い気はしなかった。
 面白がって軽口を叩き合い、階段を見つけてそれを下った。一階まで出て昇降口前を通過し、磨かれた廊下を大股に進む。
 流石に一年以上通っているだけあって、道に迷う事はなかった。
 四月頃は、教室の場所が分からなくてうろうろする一年生を良く見かけた。青道高校は野球以外のスポーツにも力を入れているので、敷地はかなり広かった。
「しっかし、まあ。なんだろうな、アレは」
「ん?」
「なにが面白いんだか」
「ああ」
 購買はこの時間でも人が多く、それなりに繁盛していた。もっともパンや握り飯といった類はほぼ売り切れており、争奪戦はとっくに終わっていた。
 筆記用具などの文房具を買い足しに来た生徒が殆どで、御幸もその列に加わった。特に用がなかった倉持は入口手前で足を止め、手持無沙汰に辺りを見回した。
 レジの前には数人の生徒が陣取り、会計を待っていた。御幸はカラフルな蛍光ペンに狙いを定め、どれにしようかと目を眇めた。
「んー……」
 それほど勉強熱心でもないくせに、数だけ揃えて何に使うのか。
 スコアブックを色分けするつもりかと苦笑して、倉持はあまり縁のない場所に背を向け、まっすぐ伸びる通路に向き直った。
「ン?」
 そして騒ぎながら近付いてくる集団を見つけ、瞳を真ん中に寄せた。
 ただでさえ悪い目つきをもっと悪くして、首も前に突き出して前傾姿勢を取る。
 両手はポケットの中なので、傍目には凄んでいる風に見えただろう。そんな外見だけ物騒な不良の前方で、男子生徒三人が喧しく騒ぎ立てていた。
 身長が高いのと、中ぐらいのと、低いのと。
 その中でも特に人目を引く桜色の髪には覚えがあって、倉持はハッと息を呑んだ。
「あれ?」
 条件反射で背筋を伸ばし、気を付けのポーズを取ってしまった。しかし現れたのは部で一番敵に回したくない三年生ではなく、その弟である一年生だった。
 長い前髪で瞳を隠した少年は、妙に畏まって佇む二年生を見つけて小首を傾げた。
 先頭にいた彼が立ち止まった所為で、連鎖反応で後ろのふたりも足を止めた。勢い余ってぶつかりそうになって、つんのめって飛び跳ねた少年も、よく知った顔だった。
 更には止まり切れずに前を行く背中に覆い被さったのも、毎日会う顔だった。
 つまるところ、全員が野球部だ。寮生活を共に送っている後輩たちを前にして、倉持はタイミングが良いのか、悪いのか分からなくて頭を抱え込んだ。
「なにやってんだ、お前ら」
「なにって、倉持先輩こそ」
「おお、そこに見えるは我らが倉持先輩ではないですか。ちょっともー、酷いんですよ。聞いてくだせえ」
「うるせーぞ、沢村。騒ぐんじゃねえ」
 最初からぎゃあぎゃあ五月蠅かった彼らだが、倉持と遭遇した途端、もっと喧しくなった。近所迷惑も良いところで、半泣きで飛びかかってきた後輩を制し、彼はどうしたものかと半眼した。
 野球部の陰の支配者とも言うべき小湊亮介の実弟である小湊春一と、倉持と同室の沢村と、未だひと言も喋っていない剛腕投手の降谷。
 寮でも学校でも、クラスが違うのに仲がいい三人組が揃っていた。しかも沢村の口ぶりからして、あの写真騒動にとっくに巻き込まれているのは明白だった。
 ここでもし、御幸が出て来て騒ぎに加わったら。
 嫌な予感を覚えて、彼は後方を窺った。
 だが会計が終わっていないのか、トラブルの種が購買から出てくる気配は、今のところなかった。
 密かにホッとして、それから何故自分がこんなに気を遣わねばならないのかと腹を立てる。頭の中であれこれ目まぐるしく考えているうちに、一喝された沢村が頬を膨らませた。
 ぶすっと口を尖らせて、不機嫌を隠そうともしない。後ろでは小湊弟が、困った顔で笑っていた。
 例の写真の件で、本人のみならず、彼らも朝から大変だったに違いなかった。
「栄純君、ずっとこんな調子で」
「酷いっす。こんなのあんまりです。なんで俺が、あんな陰険眼鏡と付き合ってる事になってんですか。おかしいでしょ。ありえないでしょ」
「あー、はいはい。ソイツは災難だったなー」
 御幸と同じクラスだから、倉持も教室に押しかけてきた聴衆については承知していた。始業前から色々な人間に詰め寄られて、正捕手殿は弁解に必死だった。
 時間が経つにつれて、直接問い質しに来る数は減った。反面、尾ひれがついた噂を耳にした他クラスの女子たちが、面白がって遠巻きに見に来るようになった。
 流石にそういう連中を捕まえて、逐一誤解だと説明して回るのは面倒だ。ムキになって否定すれば、逆に信憑性があると早合点する輩も少なからず存在した。
 御幸が放っておくと決めたのは、一理ある。ただ当事者と学校内で良く一緒にいる所為で、倉持の周囲もずっと騒がしかった。
 沢村が受けた被害は、その比ではない筈だ。
 夜になっても愚痴を聞かされるのは確実だった。それを思うと憂鬱で、必死になって捲し立てた後輩に、やる気が全くない態度で言い返す。同情しているようで、バカにしている風にも取れる口調に鼻を愚図らせ、沢村は握った拳を震わせた。
「人が真面目に困ってんのに、倉持センパイってば、酷い」
「おうおう、悪かったな。なんだったら俺が今から、その喧しい口、塞いでやろうか」
「ヤメテぇ!」
 怒りの矛先を変えて、可愛くない後輩が怒鳴った。面と向かって罵られるのはあまり気分が良いものではなくて、倉持は不遜に笑うと、右手を伸ばして沢村の顎を鷲掴みにした。
 膨らんでいた頬を押し潰し、力任せに引き寄せて囁く。悪い顔で言われた方は一瞬で青くなり、全力で抵抗して倉持を突き飛ばした。
 もっとも大した力は入っておらず、まるで痛くなかった。倉持もあっさり彼を解放して、冗談だと腹を抱えた。
 ちょっと顔を近づけただけなのに、過剰な反応ぶりに呵々と笑う。対する沢村は熱を持った顔を腕で覆い、青から赤に切り替わった表情を隠した。
 購買前でじゃれ合う彼らに、通行人は無関心を装っていた。騒がしいのを嫌って足早に去る生徒もいて、学校全体で考えれば、あの写真を知る学生はそう多くないのが窺えた。
 沢村と御幸に関するありもしない噂も、一週間としないうちに忘れ去られるだろう。けれど当人はそれが分からないのか、激しく狼狽し、後ろに倒れそうになって小湊に支えられていた。
「く、倉持先輩も、そーゆー人だったんスか!」
「はあ? なワケねーだろ」
「真に受ける方がどうかしてると思うよ、栄純君」
「春っちまで!」
 朝から彼は、いったいどんな目に遭って来たのか。
 人間不信に陥っている沢村に呆れて肩を竦めて、倉持は残り時間を気にして腕時計に目を遣った。
 直後だった。
「あれ。お前ら、なにやってんの」
 ようやく買い物を終えたのか、耳に不快な声が響いた。
 買い物を済ませ、黒縁眼鏡の男が購買から出てこようとしていた。入口近くの通路に集っていた集団を見つけて、表情はにこやかだった。
 倉持だけだったのが、いつの間にか人数が増えている。あれだけ騒いでいたのだから声が聞こえていない筈がないのに、白々しい台詞を吐いて、御幸は購入したばかりのペンを胸ポケットに突き刺した。
「げえ!」
 それに当然ながら沢村が反応し、ビクッと竦み上がった。大急ぎで隠れる場所を探し、小柄な小湊ではなく、背だけは高い降谷の後ろへ回り込んだ。
 もっとも、完全に隠れるなど無理だ。横からはみ出ているというのに、これで見つからないとでも思っているのか、まるで赤ん坊のかくれんぼだった。
 壁にされた方も、戸惑いが否めなかった。突然体当たりされた降谷は目を丸くして、困った顔で沢村のうなじと、小湊と、倉持、御幸の顔を順番に眺めた。
「あの……」
 どうすれば良いか訊ね、背後を指差す。けれど誰も動かず、何も言わないので、早々に諦めた彼は黙ってこの状況を受け入れた。
 ため息を吐いて肩を落とす天然一年生に苦笑して、御幸は目で倉持に問うた。
「たまたま会っただけだよ」
「へ~え」
 視線を受け、倉持が顎をしゃくった。輪になっている後輩を示して、あまり面倒を起こさないよう釘を刺す。
 だが鋭い眼差しを敢えて無視して、御幸は震えている後輩に呼びかけた。
「なにしてんのかな、沢村君?」
 人の噂は七十五日。放っておけばそのうち立ち消え、誰も気にしなくなる。
 御幸もそれが分かっているから、教室では傍観すると言っていたのに。
 偶然が引き起こした事態を、完全に面白がっていた。顔を合わせたら騒動が酷くなると知っていながら、自分から厄介事に首を突っ込もうとしていた。
 根性がひん曲がっているチームメイトに、倉持は顔を覆って首を振った。
「マジで性格悪りぃな、コイツ」
 周囲が何をどう評価しようと、自分の心さえ歪まなければそれでいい。面白いと思った事には手を抜かず、全力でやり遂げる。
 野球に支障を来たさなければ他はどうだって良いと、本気で考えている。口さがない人々の立てる噂も、彼にとっては遠くの交差点で鳴っているクラクションと同じだった。
 こちらから会いに行く気はなかったけれど、あちらから近付いて来たのだから、からかってやるのが筋というものだろう。逃げ回られるとばかり思っていたので、当日の昼間からこの展開は意外だった。
 どうやって遊んでやろうか。企んで悪い顔をして、御幸は降谷の方へ迷わず進路を取り、身を屈めて隠れている後輩を覗き込んだ。
 人のシャツを掴んでいた彼は、その状態のまま後ろに下がろうとした。だが引っ張られた降谷は反射的に抵抗し、沢村の願いは叶わなかった。
 縋る物を失った彼の顔は、倉持の位置からでも分かるくらいに真っ赤だった。
「く、来んなって」
「おいおい、冷たいな、沢村。いいじゃねえか。俺とお前の仲だろ?」
「んなっ」
 人が聞けば誤解を呼びそうな発言は、狙っての物だろう。一度広まった噂を回収するのは難しいので、開き直っている感は半端なかった。
 顔を見せるよう囁かれ、簡単に引っかかった沢村が降谷から離れた。ガバッと勢いよく背筋を伸ばして、意地悪く口角を歪めている上級生を睨みつける。
 けれど御幸は呵々と笑うばかりで、真剣に取り合おうとはしなかった。
「な、なに、言って。冗談じゃねーぞ。アンタの所為で、俺がどんな目に遭ったと思って」
「いいじゃねえか。言いたい奴には言わせとけって」
 それでムキになり、沢村は御幸に人差し指を突き付けた。大声で吼えて、登校直後から溜め込んでいた憤りを発散させようと息巻いた。
 しかし馬の耳に念仏、ならぬ御幸の耳に念仏だった。
 逆に諭され、落ち着くよう促された。周囲の雑音に耳を貸す暇があるなら、グラウンド一周分でも多く走り込むよう説き伏せられた。
 御幸の態度は堂々として、自信に溢れていた。他人の下す評価などどうでも良いと、そう言わんばかりだった。
 元々彼は、悪口を言われるのに慣れていた。
 一年生の頃から正捕手として一軍に加わり、先輩たちと肩を並べてプレイしていた。それをやっかむ声は、部内でもちらほら聞かれていた。
 エースである丹波との折り合いの悪さを揶揄し、チームの輪を乱す奴、と言われた事だってある。けれど御幸は取り合わず、相手にしてこなかった。
 だから今回の件も、気にならない。
 暫くは珍獣扱いかもしれないが、それも数日間の我慢だった。
 それなのに、沢村は落ち着かない素振りで距離を取ろうとした。後ろ向きにじりじり後退して、壁に追い詰められて、辺りを気にして視線を左右に流した。
 振り子の如く動き回る彼に、小湊弟が小さくため息を吐く。降谷も通路の昇降口側に顔を向け、何かに気付いたか、目を丸くした。
 一年生ふたりの様子に、倉持も怪訝に眉を顰めた。けれど質問を繰り出す前に、沢村に追い付いた御幸がにっこり目を細めた。
「ってか、あんな写真一枚で、俺らの何が分かるってんだよな?」
 あんなものに騙され、踊らされる方が馬鹿だ。
 良く知りもしない連中にあれこれ囃し立てられても、腹が立って、イラつくだけだ。
 飄々とした体を捨てて苛立ちを露わにし、同意を得ようと沢村に迫る。顔を近づけ、吐息が掠めるほどの距離から相手を覗き込む。
 瞳が揺れていた。
 真っ赤に色付いた頬が、わなわなと震えていた。
 御幸の身体が影を作り、沢村を覆っていた。そんな若干薄暗い空間で、彼は大きな目を潤ませ、唇を噛み締め、何かを必死に耐えていた。
 寮の出口で見たような、ゴミの所為で痛がっている姿とは違っていた。
 初めて見る表情だった。てっきり怒鳴り返してくるかと思いきや、反論はなかなか聞こえてこなかった。
 怪訝に思い、御幸の動きが止まった。
 不思議そうに見つめられ、耳の先まで赤く染めて。
 沢村は。
「お……」
「お?」
「栄純君、まずいよ」
「あ、こっち来る」
 小声で何かを呟いて、興味惹かれた御幸は首を傾げた。小湊弟が何かを気取って声を上擦らせ、降谷が淡々と誰かの動きを報告した。
 何に対して一年生が慌てているのか、訳が分からない倉持が昇降口方面に顔を向けた。制服姿で行き交う生徒が何人か見えたが、特に変わったところは見当たらなかった。
「ん?」
 だというのに、小湊の顔は引き攣っていた。降谷も眉を顰めて身じろいで、珍しく嫌悪感を露わにした。
 倉持が不思議そうにする中で、御幸は押し黙った沢村に続きを強請り、悪戯っ子の顔で耳元に唇を寄せた。
「沢村?」
 低く甘い、少し癖のある掠れた声で囁き。
 一秒後。
「お、……おいしょーっ!」
「へぷしっ」
 キッと意気込んだ沢村の強烈な平手打ちが、眼鏡姿の正捕手の頬を直撃した。
 避けるどころの話ではなかった。場に居合わせた全員が、突然の雄叫びと打撃音に驚き、吹っ飛んだ黒縁眼鏡の行方も追わずに呆然となった。
 完全に油断していた御幸の、珍妙な悲鳴に突っ込む声もなかった。近くにいた通りすがりの一般生徒たちも、白昼の惨劇に絶句して硬直した。
 周囲の音が綺麗に消えた。その中で御幸がふらつき、足をもつれさせて尻餅をつく音だけが、異様に大きく響き渡った。
 全てがスローモーションだった。
 なにが起きたのか、打たれた本人ですら理解出来なかった。
「……へ?」
 ビンタは痛烈だった。御幸の頬は一瞬で赤く染まり、もみじのような痕を浮かび上がらせた。
 落ちた眼鏡は床で跳ね、天地を逆にして停止した。視力を失った男は白い床に蹲り、惚けた顔で目を白黒させた。
「へ? え?」
 呆気に取られ、次の行動に移れない。叩かれた場所を手で覆ってぽかんとしていたら、沢村が肩で息をして、真っ赤になって空を殴った。
「あほ! ぼけ! 御幸一也の、たーくらたー!」
「は?」
 全身で怒りを表し、足を踏み鳴らして捨て台詞を吐く。そしてくるりと反転したかと思えば、一直線に駆け出した。
 用があっただろう購買に背を向け、昇降口へ走っていく。それに慌てた小湊が、驚く降谷を呼んで追いかけ始めた。
 バタバタと三人分の足音がこだまして、停まっていた時間が動き出した。遠巻きに見守っていた野次馬も解散して、後には未だ惚けている御幸と、携帯電話を取り出した倉持だけが残された。
 こんな状況なのに冷静に愛用の小型端末を起動させて、青道高校のリードオフマンはとある機能を呼び出した。一方で御幸はぼやける視界の中、ジンジンする頬を撫でて呆然と口を開いた。
「あいつ……利き手で殴りやがった」
「って、そっちかよ!」
「だってそうだろ。この大事な時期に、利き手に怪我なんかされたらどうすんだよ」
「はいはい。はい、チーズ」
「は?」
 信じられない、とぼやく内容が、倉持からすれば信じ難い。
 恐らくは殴られた理由も分かっていないのだろうと嘆息し、彼は構えた携帯電話のボタンを押した。
 カシャッという、朝も聞いたシャッター音が場に轟いた。
「……あの、倉持さん。何してるんですか」
 今朝と同じ嫌な予感を覚え、御幸の目が丸く見開かれた。しかし彼は答えず、顔の前に構えていた携帯電話を胸元まで下げ、慣れた動きで機械を操った。
 短い文章を入力し、メールに先ほどの写真を添付する。準備が終わったところで送信ボタンを押して、ニヤリと口角を持ち上げる。
 音を立てて携帯電話が閉じられるのを待って、ハッとなった御幸が急ぎ立ち上がった。
「お前、なに勝手なことしてんだよ」
「御幸、沢村にビンタされてフラれる。こいつは良いニュースになりそうだぜ」
「あのなあ!」
 小湊兄の毒が強すぎて霞みがちだが、倉持も大概良い性格をしていた。
 新たな燃料を追加され、沈静に向かっていた騒動が再度勢い良く燃え盛る様が想像出来た。当分このネタでからかわれるのは目に見えていて、焦って声を上擦らせるが、全て後の祭りだった。
 面白がって沢村をからかったのが悪い。
 放っておけばいずれ鎮火すると言っていた癖に、自ら足を突っ込むような真似をするから、手痛いしっぺ返しを食らうのだ。
 嘲り、倉持は早速来た返信に携帯電話を開いた。御幸は頭を垂れて項垂れて、ほんのり赤みを残す肌に手を重ねた。
 まだ熱が宿っていた。すぐ消えると思われた痛みも引かず、ズキズキと来る振動を発し続けていた。
「可愛い後輩を苛めた天罰だな」
「誰が可愛いもんか、あんな奴」
 ちょっとした冗談のつもりだった。
 だというのにあんな顔を見せられて、男の本性が疼かない方がおかしい。
 思いと真逆の感想を述べて悪態をつき、御幸は火照る顔を腕で隠した。
 掴み所のない感情が蠢いていた。苛めたいほど可愛くて、からかわずにはいられなかった自分に歯軋りし、冷静になるようこめかみを叩く。
「なにやってんだ、俺は」
 自問自答の愚痴を零し、御幸は倉持が拾った眼鏡を受け取った。
 掛ける直前目を閉じれば、真っ赤になって眼を潤ませる沢村の顔が瞼に浮かび上がった。
「……たーくらたーって、なんだろうな」
「さあな。あんま良い意味じゃなさそうだったけど」
 彼が残した捨て台詞も気になった。
 ぼそりと言えば、倉持が容赦なく叩き落した。御幸はがっくり項垂れて、チャイムの音にため息を重ねた。

 

2014/12/14 脱稿