石黄

「おつかれさまー」
「おっつかれー」
 練習が終わり、体育館内の掃除も終わった。
 コートの中央に張られたネットは緩められ、明日の朝に向けてポールは立てたまま。ボールは専用の籠に入れられて、掃除用具と共に倉庫へと押し込まれた。
 格子が嵌められた窓の外は既に暗く、昼の明るさは微塵も残っていない。照明が反射したガラスは眩しくて、まるで鏡のようだった。
 この後は梯子を伝って壁を登り、二階部分の窓を閉める。そのついでにカーテンも、しっかり閉めるのがお約束だ。
 早朝練習は相変わらず朝七時の開始だけれど、春先とは違い、日の出はずっと早くなっていた。太陽光を浴びた館内は空気が温められて、真夏ともなれば茹だるような暑さが約束されていた。
 今はまだそこまで酷くないけれど、室温が上がる原因は極力排除したい。烏野高校第二体育館には空調が備わっておらず、冬は寒く、夏は非常に暑かった。
 もっともどれだけ雪が降り積もろうとも、練習が始まりさえすれば、寒さを感じる暇はない。飛んでくるボールに必死になって食らいついて、追いかけていれば、身体は温まり、どの季節でも汗だくになった。
「早く夏がこないかなあ」
「結構きついぞ?」
「楽しみです!」
「おいおい……」
 まだ先は長いバレーボール生活に思いを馳せ、何気なく呟く。
 独り言を偶々隣にいた菅原に拾われて、元気よく握り拳を作れば、先輩に苦笑されてしまった。
 とはいえ、実際に楽しみなのだから仕方がない。
 インターハイ予選では青葉城西高校に惜敗したけれど、そう何度も同じ相手に負けられない。もっと上手くなって、強くなる為なら、なんだってするし、出来る自信があった。
 それにもうじき、東京での遠征合宿が予定されている。
 関東の強豪校を相手に出来るのだから、それも楽しみで仕方がなかった。
 早くその日が来ると良い。興奮に鼻息を荒くした日向に、菅原は目を細めて肩を竦めた。
「でもその前に、期末試験、な」
「うぐ」
 腕を伸ばし、ぽん、と頭を叩かれた。
 忘れないよう釘を刺された日向は途端に口を閉ざし、面白くなさそうに小鼻を膨らませた。
 真ん丸い目が平らになって、瞳は足元を彷徨った。是が非でも視線を合わそうとしない一年生に嘆息して、三年生は手を引っ込めて腰に据えた。
「日向は、やれば出来るんだから。頑張れば大丈夫だろ」
 あと少しで始まる夏休み。
 小学生の頃は、指折り数えて始まるのを待った。しかし高校生になって、一ヶ月を越える長期休暇へのわくわく感は、その手前に設けられた期末テストで悉く掻き消されてしまった。
 中学時代もテストはあったけれど、比ではない。
 なにせ赤点を取れば、補習が決定付けられてしまう。しかもその日取りが、例の東京遠征と重なっていた。
 折角寄付が集まって、顧問の武田が自腹を切らなくても済むようになったというのに。
 肝心の選手が補習授業に駆り出されてしまっては、浄財を寄付してくれた相手にも申し訳が立たない。
「が、がんばって、ます……」
「こら。声が小さいぞ」
「がんばりまひゅ!」
「ははは。なに緊張してんだ、日向」
 目下、その赤点候補の筆頭株が、此処に居る日向翔陽と、同じく一年生セッターの影山だった。
 二年生の田中や西谷も、かなりギリギリだ。際どいライン上に立っている部員は、いずれもが烏野高校男子排球部の主力選手だった。
 三年生は、東峰に若干心許なさが残るものの、菅原も澤村も合格点は余裕で越えられる。二年生の縁下や成田達も、特に問題はない筈だ。
 残る一年生月島と山口も、そう心配は要らない。
 矢張り問題なのは、日向以下四名。
 期末試験の話題になった途端、顔色を悪くした後輩を呵々と笑い飛ばし、菅原が高い声を響かせる。
 背中を無遠慮に叩かれた一年生は不満も露わに口を尖らせ、ひりひりする場所を撫でて頬を膨らませた。
「いいですよね、菅原さんは。頭良いから」
「お?」
 小声で呟き、空を蹴る。
 槍玉に挙げられた菅原は目を丸く見開いて、すぐに表情を崩して微笑んだ。
「言っただろ、日向だってやれば出来るって。真面目に授業受けて、ちゃんとノート取って。分かんないところは放っておかずに、ちゃんと調べれば」
「それ、結構難しいんですけど」
「こらこら」
 四月の頭、日向はレシーブすらまともに出来ない状態だった。
 しかし練習を重ねるうちに少しずつ上達して、今なら余程強烈なものでない限り、なんとか返せるようになっていた。
 サーブだってそうだ。練習試合で影山の後頭部にボールを直撃させたのは、もうかなり昔の話だった。
 今の日向なら、そんな失敗はしない。もしやらかすとしても、百本に一本の確率だろう。
 コースを狙い過ぎて、ネットにぶつけるミスはまだなくならないものの、ちゃんと前には飛んでいる。コートを使える機会が少なくて、距離感が分からなかった故の失態は、着実に減っていた。
 誰よりも練習熱心で、向上心の強い日向は、教えられたことをどんどん吸収していく。
 ならば勉強だって、やる気になれば、いくらでも点数が上がっていく筈だった。
「落第して、留年すんのは嫌だろ」
「えっ」
「何年か前に、ひとり居たって話。恥ずかしいぞー」
「ううぅ」
 あまりにテストの成績が悪すぎると、進級させてくれない場合がある。
 噂でしか聞いたことがないけれど、と前置きして脅した菅原に、日向は首を竦めて震えあがった。
 真に受けて、信じ込んでいる後輩は可愛い。排球部副主将は朗らかに笑み、この時間でもまだ寝癖が残る頭を撫でた。
 くしゃくしゃに掻き回して、最後にぽん、と軽く叩く。
「まあ、うちには五回留年してる、とまで言われてるエースがいるけどな」
「スガ!」
 白い歯を見せた彼の視線の先には東峰がいて、聞こえていたのか、髭面の三年生は瞬時に抗議の声を上げた。
 真っ赤になっている彼に、菅原は腹を抱え込んだ。謂われなき野次を受けた方は涙目で、悔しさに大きな体を震わせていた。
 もっとも怒鳴るだけで、暴力に訴えたりはしない。東峰は見た目こそ厳めしいが、性格はとても臆病で、心優しい青年だった。
 外見で損をしているエースに緩慢に頷いて、日向は一瞬、髭を伸ばそうかと考えた。
 しかし撫でた顎はつるりとしており、髭剃りは未だ活躍したことがない。脛毛や胸毛も殆ど生えておらず、腕のつるつる具合は女子に羨ましがられるくらいだった。
「むぬぬ」
 もう少し男らしくなりたい。
 どうやっても太くならない腕を抓って、彼は目尻を擦っている三年生に意識を戻した。
 勉強が出来て、人当たりが良くて、気遣いが行き届き、見た目だって悪くない。
 入部した時から菅原は排球部に在籍して、当たり前のように日向の前に立っていた。
「うん?」
「菅原さんは、どうして烏野だったんですか?」
 じっと見つめていたら、不思議がられた。
 怪訝に首を傾げられて、日向はふと、思いつくまま彼に問うた。
 まだ入部して間もない頃、田中が影山に投げた質問だ。西谷の烏野高校入学の動機は知っているが、そういえば菅原には、聞いたことがなかった。
 入学してから相応の時が経つのに、一度も話題に出ていない気がする。
 突発的に浮かんだ好奇心に背中を押され、日向は首を右に傾けた。
 問いかけられた方はきょとんとして、それからすぐに我に返り、目尻を下げた。
「また急だな」
 声は、少々戸惑い気味だった。
 顎を引いて仰け反り気味の姿勢を作り、目線は斜め上へと走らせる。視界にカーテンを引いて回っている部長の姿が紛れ込んで、謝罪は心の中で済ませた。
 視線を戻せば、日向は先ほどの状態から動いていなかった。目線が交錯して初めて首を真っ直ぐにして、行き場のない手を背中に回した。
 シューズの踵で床を叩いた後輩を前に、菅原は色の薄い髪を掻き上げた。
 日向が烏野高校を選んだのは、小学生の時にテレビで見た試合の影響だ。背番号十を着けた小柄な選手が活躍する姿に憧れて、小さな巨人になりたくて、この学校の門戸を叩いた。
 その話は部員全員が知るところであり、菅原も勿論承知していた。
 彼自身、あの試合はテレビで見た。地元の高校が全国大会に出場すると聞いて、関係ないのに興奮したのを覚えている。
 だがそれがあったから、烏野高校を選んだわけではなかった。
「んー……」
「何か理由、あったんですよね?」
 言い渋り、顎を掻く。一方で日向は興味を募らせ、拳を作って興奮気味だった。
 期待の眼差しが、キラキラと輝いていた。
 あまりにも眩しい光に顔を背けたくなって、菅原は夢見がちな一年生に苦笑した。
「お前みたいな、、格好いい話じゃないぞ」
「そうなんですか?」
「ああ。俺は、ただ単に、――都合が良かったんだ」
 三年前、自分は何を考えていたか。
 三者面談でのやり取りを振り返って、彼は虚を衝かれた顔の日向に肩を竦めた。
「つごう……?」
「そっ。家からそんなに遠くないし、男子バレー部はあるし」
 バレーボールは中学校三年間、やり通した。結果は全く残せなかったけれど、嫌いではなかったし、出来るなら高校でも続けたいと思っていた。
 しかし県内最強の白鳥沢高校では、偏差値が足りない。推薦などもらえるわけがなく、一般入試でも奇跡に縋るしかなくて、可能性を考える前に諦めていた。
 青葉城西高校という選択肢もあったけれど、私立高校に行きたいとは、親にはなかなか言い難かった。
 父親の稼ぎを考慮して、大学まで行く、という人生設計を考えると、公立高校一本に絞る案しかなかった。そうなると選択肢は一気に狭まって、その中で浮かび上がって来たのが烏野高校だった。
 偏差値は、問題ない。進学クラスを選ぶと少し厳しくなるが、それでも許容範囲だった。
 通学は楽。校風も悪くない。
 男子バレーボール部もあって、しかも全国大会出場の実績がある。
 迷う理由はなかった。
 下手な強豪校に行くよりは、烏野高校で地道に頑張る方が、レギュラーになれる確率はずっと高い、との打算もあった。
 夢見なかったわけではない。
 いずれ再び、自分たちの代でオレンジコートへ。
 そんな目標を、一度も掲げなかったと言えば、嘘になる。
 しかし菅原は、日向ほどまっしぐらではなかった。色々と迷い、悩んだ挙句、教師と親の意向が最大限に生かせる道を、妥協の末に選び取ったに過ぎなかった。
 親は公立で、大学進学率がそれなりに高い学校なら、どこでも良い雰囲気だった。
 中学三年当時の担任も、無謀な挑戦をするよりは堅実に行くよう勧めて来た。
 菅原は冒険をしなかった。
 他人が用意した安全圏で胡坐を掻いて、のうのうと生きてきた。
 挑戦せず、楽な道を選んで来た。そして入学した烏野高校の男子排球部は、既に強豪だった頃の影が薄れ、指導者は不在、主将は明らかに力量不足だった。
 これでいいのかと思いつつ、意見はしなかった。生意気な後輩だと思われたくなかったし、怒鳴りつける大人がいない部活動は、物足りなかったけれど、気持ち的に楽だった。
 けれど、悔しかった。
 大会であっさり負けて、過去の栄光を知る部外者からは冷たい言葉を受けた。どこでボタンを掛け違えたのかと、当時の部長の涙を見ながら思った。
『楽』なのと、『楽しい』は違う。
 本当の『楽しさ』は、『苦しさ』を知った上で得られるものだった。
 惨めだった。
 だから、這い上がろうと思った。
 情けなかったから、もう俯かないと決めた。
 烏野高校に来たのは、偶々だ。特に何かをやりたかったわけではない。入学式を終えた直後は、なんとなくここで三年間を過ごして、なにも遺さずに卒業していくものだと、頭のどこかで考えていた。
 それでは嫌だと、今は思う。
 やるからには、何かを遺していきたい。無駄な足掻きだと鼻で笑われようとも、我武者羅に努力した結果は、必ずどこかで実を結ぶと信じたかった。
「ま、今は烏野にして良かったって、思ってるけどな」
 菅原の言葉がイマイチ理解出来ないのか、日向はぽかんとしていた。
 そこに追加してやれば、少年は目をぱちくりさせてから大きく頷いた。
 鼻の穴を膨らませて、力みながら首を振る。その分かり易さに破顔一笑して、菅原は靴底を床板から引き剥がした。
 進学する先は、いくつか候補があった。
 担任から数校分提示された時、聞いたことのない名前の中に、ひとつだけ、覚えがある学校があった。
 それで、訊ねた覚えがある。学校の場所と、偏差値と、雰囲気といった諸々を。
 勿論、頭の中に名前が残っていた原因は、例の小さな巨人だ。
 全国高等学校バレーボール選抜優勝大会――通称春高に烏野高校が出場する原動力となった、小さなエーススパイカー。
 彼の活躍がなかったら、菅原は烏野高校を知らないままだった。
 菅原だけではない。日向だって、もしかしたら影山も、違う道を進んでいたかもしれない。
「小さな巨人に感謝、だな」
「はい!」
 澤村だって、オレンジと黒のユニフォームに憧れていた。他の誰よりも、彼が一番、地に落ちた名声を悔しがっていた。
 彼が居たからこそ、今のチームがある。熱血漢に引っ張られて、感化されて、部員は減ったが心強い仲間が増えた。
 自己完結で目を細めた菅原に、日向が同意して元気よく返事する。
 言葉足らずの説明は確かに面白みに欠けており、思い描いていたような熱いドラマは存在しなかった。
 それでも、菅原の知らなかった一面を知れた。それが嬉しいのだと顔を綻ばせて、一年生はニコニコと屈託なく笑った。
「あんまり面白くなかったろ」
「いえ、そんなことないです」
 ここまで喜ばれると、却って申し訳なくなる。自嘲気味に呟いた彼に日向は首を振り、遠くから響いた声に視線を泳がせた。
 きょろきょろと見当違いの場所を探している彼に苦笑して、菅原は体育館の入口付近に陣取っているメンバーを示した。
 片付けが終わった体育館はがらんとしており、中央付近にいるのは彼らだけになっていた。
 窓の施錠も終わって、澤村が鍵を手に立っていた。目つきは鋭く、機嫌は少々悪そうだった。
「部室で、月島たちに勉強見てもらうんだろ?」
「ああ、そうだった!」
 あまりのんびりしていたら、怒られる。急ぐよう言えば、思い出した日向がピン、と背筋を伸ばした。
 すっかり忘れていたと手を叩きあわせ、出入り口方面に身体を反転させる。
 と思っていたら更に半回転して菅原へと向き直り、腰を曲げて深々と頭を下げた。
「お疲れ様でした、菅原さん」
「ああ。頑張れよ」
 動きが滑稽で、噴きそうになった。目の前でくるくる回る後輩は可愛らしく、落ち着きのなさが面白かった。
 どうせ行く先は部室で、同じなのに、律儀に挨拶をしてから去ろうとする。中学時代は先輩と呼べる存在が居なかったらしいが、彼の身体には、根っからの体育会系の血が流れていた。
 影山に感化され過ぎだ。なにかと一緒にいる一年生セッターに一瞥をくれて、菅原も体育館を出ようと歩き出した。
 そこへ。
「あれ?」
 タタタ、と足音を響かせて、日向が素足で駆けて来た。
 一旦は扉の向こうに消えたのに、何故か戻って来た。忘れ物でもしたかと眉目を顰めていたら、数歩進んだ菅原の手前で急ブレーキを踏んだ。
 肩で息を整えて、頬を鮮やかに紅潮させて。
 興奮で呼吸は荒く、心臓と同じリズムで身体を揺らしていた。
「どうした?」
 手には脱ぎたてのシューズが握られていた。左右で片方ずつぶら下げるが、右手に持つのは左足分と、配分はちぐはぐだった。
 一度脱いで、履き直すのが面倒だったのだろう。
 白い靴下が黒く汚れるのも構わず、日向は唇を舐め、訝しむ上級生に相好を崩した。
「おれ、烏野にしたの、小さな巨人が居たチームだから、ですけど」
「ん? ああ。知ってる」
 突然語り出した彼に、菅原は怪訝にしつつも応じた。過去に何度か聞かされている思い出話に首肯して、得意げに胸を張る後輩に目を眇めた。
 日向は、眩しい。
 いつだって一生懸命で、熱心で、まっすぐで。
 適当な理由で高校を選び、中学時代にやっていたから、という理由だけでバレーボール部に入った菅原とはまるで違う。
 明確な目標を持ち、信念を掲げ、ひたむきに努力している。
 菅原がまだ彼くらいの頃は足元が覚束なくて、周囲に流され、他者の意見に逆らえなかった。
 これでいいのか。
 このままでいいのか。
 思い悩み悶々としながらも、解決策を真剣に探そうとしなかった。怖気づき、自分に言い訳をして、みんなもそうだから、と目を背けていた。
 少し羨ましかった。
 根拠もない自信に溢れ、辛さを楽しみに変えられる彼が妬ましかった。
 人には見せられないどす黒いものを隠し、卑屈な自分を押し殺して首を捻る。
 日向は深呼吸を三回、四回と繰り返して、最後に不遜な表情で口角を持ち上げた。
 両手を広げ、満面の笑みを浮かべて。
「たまたまでも、偶然でも。おれ、菅原さんが先輩にいてくれて、すっげー、良かったです」
 屈託なく言い放たれて、菅原は突然の告白に目を丸くした。
 全ては偶然だった。
 菅原が烏野高校の近くに住んでいた事も、バレーボールをやっていたことも。公立高校が強豪を破って県大会を勝ち抜いたと耳にしたのも、背番号十が活躍する様をテレビで見たのも。
 全ては必然だった。
 日向がその日、友人と遊びに行ったのも。春高の試合が放送されて、それが電気屋のテレビで映し出されていた事も。
 オレンジと黒のユニフォームが高らかと宙を舞い、その姿に心打たれた事も。
 偶然も、信じれば必然になる。
 気まぐれな運命の女神は、最後の最後で菅原に微笑んだ。
 惚けていた青年は、直後にきゅっ、と唇を引き結んだ。緩みそうになった表情を引き締めて、腹に力を込め、不意に熱を持った目尻を堪えてきつく目を閉じた。
「俺も、日向みたいな後輩が居てくれて、スゲー心強いぞ」
「いやあ、それほどでもー」
「だから赤点取ったら、激辛麻婆豆腐な」
「ヒェッ」
 なにが『だから』なのかは、言った本人でも良く分からなかった。呵々と笑って後輩を脅して、そろそろ我慢が限界の澤村に手を振って合図した。
 震えている日向の肩を叩き、促す。扉を出た先には影山もいて、世話のかかるチームメイトを待っていた。
 コートの中では巧みにボールを操れるセッターも、勉強机の前では形無しだ。赤点危険ラインにあるのは自覚しているようで、気もそぞろに、そわそわ落ち着かなかった。
 早くしないと、月島が帰ってしまう。
 鋭い眼差しがそう告げていて、菅原は苦笑を禁じ得なかった。
 仲良く駆けていく一年生を見送って、一番最後に体育館を出る。直前に照明が消されて真っ暗な館内を振り返れば、澤村のため息が間近から聞こえた。
「なにやってたんだ?」
「いやあ。日向みたいな後輩持つって、幸せだなあ、ってさ」
「は?」
 あんなにも慕ってくれる相手は、後にも先にも日向ひとりかもしれない。
 感慨深く呟いて、菅原は背筋を伸ばした。

2015/4/14 脱稿

弁柄色

 珍しいところで遭遇した。
 それが最初に思った事だった。
「お」
「あれ」
 お互い顔を向き合わせた途端、そんな声が漏れた。うっかり驚いてしまって目を丸くして、日向翔陽は同じタイミングで出した手を引っ込めた。
 相手も空を掻いた手を握り、腕を引いて、回避された正面衝突に安堵の息を吐いた。
 まさかこんなところで会うなどと。
 しかも数ある休憩時間のうちの、この回に、ほぼ同時に。
 奇妙な偶然もあったものだ。開けようとした男子トイレのドアを前にして、日向は呆然と高い位置にある顔を仰いだ。
 向こうも、変な場所で会ったと思っているに違いない。そういう表情を見せられて、彼は暫く惚けた後、肩の力を抜いて嘆息した。
「小?」
「どっちだっていーだろ」
「んじゃ、大」
「小に決まってんだろ、ボゲ」
 同じ部活動に所属しているというだけで、クラスは違うし、生まれ育った環境もまるで違う。
 格別親しくはないけれど、かと言って仲が悪いとも言い切れない相手に軽口を叩けば、本気で怒鳴り返された。至っていつも通りの反応と罵り方に、日向は歯を見せて笑った。
 ちょっとからかっただけなのに、過剰なくらいに反応された。
 それが面白くて腹を抱えていたら、影山も勢いをつけすぎたと反省したか、気まずそうに口を尖らせた。
 不満げな目で睨まれても、今はもう、あまり怖くない。
 烏野高校排球部の天才セッターは、もう独善的で孤独な王様ではなかった。
 ほんのり頬を朱に染めて、身長百八十センチの大男は踵で床を蹴った。
「入んねーの」
「お先どうぞ」
「テメーこそ」
「いやいや、どうぞどうぞ」
 その上で憤然と問いかけられて、日向はどこかのお笑いグループの仕草で影山に道を譲った。
 もっとも、彼には通じない。きょとんとされて、苦笑するより他になかった。
 バレーボールに熱中するあまり、影山はバラエティ番組を殆ど見ない高校生に成長していた。
 放課後、芸能人の話題になった時、そのあまりの無知ぶりに驚かされた。一緒に喋っていた先輩たちも唖然としていて、本人だけが不思議そうに首を傾げていた。
 今を時めく人気女優も、可愛いと評判のアイドルも、彼は全く知らなかった。
 最近流行りのお笑いネタ、ヒットチャートを沸かせる楽曲、など等。
 あらゆる話を振ってみたけれど、聞いたことがない、見たことがないの一点張りだった。
 いったい影山家の食卓で、どんな話題が繰り広げられているのか。
 興味が湧いたが、夕飯は基本ひとりだと言われて、黙るしかなかった。
 日向には小学生の妹が居て、時事ネタはそこから入手することが多い。テレビを見る時も大体彼女と一緒なので、ゲームが原作のアニメにも、いつの間にか詳しくなっていた。
 本当に、寝ても覚めてもバレーボール一辺倒の男だ。
 内心呆れて目尻を下げて、日向は戸惑っているチームメイトに肩を竦めた。
「ちょっと通してー」
「ああ、ごめん」
 そこへ声が掛かって、彼は慌てて半歩下がった。
 トイレに用がある他クラスの生徒に進路を譲って、脇に流れた視線を正面に戻す。
 影山との距離は若干広がったが、誤差の範囲だった。
「なんか知らねーけど、時間なくなんぞ」
「うっせ」
 目が合った直後に嫌味を言われて、日向は相変わらずの態度に苦笑した。
 顎をしゃくり、トイレを示された。そんなことは言われなくても分かっていて、無いと分かっているのに時計を探して視線を泳がせ、手は閉まりかけていたドアを押した。
 再び隙間を広げてやれば、それを待っていたのか、影山がぴったり後ろについてきた。
 両手はズボンのポケットの中で、なんと図々しいのだろう。
 矢張り王様は王様かと悪態をついて、日向は壁際に並ぶ小便器の群れに向かった。
 窓は磨りガラスだが、空気の入れ替えの為か、半分まで開けられていた。
 もっともここは四階であり、建物の傍には背の高い木も植えられていない。外から覗き込むのはほぼ不可能であり、望遠鏡を使ってまで実行しようとする物好きも居ないだろう。
 吹き込む風の涼しさに目を眇めて、日向は気になる臭いを頭から追い出した。
「はー、ビバドンドン」
「それは風呂だろ」
「お、知ってた」
 先客は先ほどのひとりと、個室トイレに籠っている誰かだ。うんうん唸っている声は聞こえて来ないが、あまり長居すると嗅覚がダメージを負う危険があった。
 そうならないよう、早く用を済ませたい。
 手前から二つ目の小便器を選択した日向に、合いの手を入れた影山は三つ目のそれを選択していた。
 なにも真横に来なくて良いものを。
 うっかり見てしまいそうになって、日向は急いで意識を引き剥がした。
 もっとも、一緒に風呂に入った仲だ。合宿中に何度も、嫌になるくらい裸を見せられているわけだから、今更どうこう思うところはなかった。
 耳を塞ぎたい気持ちはあったけれど、流石にそれは難しい。
 我慢して己に集中して、身の丈百六十センチ少々のミドルブロッカーは安堵の息を吐いた。
 今すぐどうこうなるほど切迫していたわけではないが、授業中からずっと我慢していた。ようやく解放されたと心を穏やかにして、彼は洗浄のボタンを力強く押した。
 どうして緊張すると、トイレに行きたくなるのだろう。
 試合の前もそうだし、授業で次に当てられると分かっている時も、そうだ。
 結局巧く答えられなくて、クラス中から笑いを買った。恥ずかしくて消えたくて、穴があったら入りたかった。
「手ぇ、洗えよ」
「洗うに決まってんだろ」
 忘れかけていた記憶が蘇って、一気に憂鬱になった。暗い表情をしていたら隣から声を掛けられて、日向は咄嗟に牙を剥いた。
 荒々しく怒鳴り返して、下がっていたズボンのファスナーを引き上げる。身なりを整え終えたのは、影山の方が早かった。
 一足先に洗面台へ向かう背中を眺めて、日向はふと、首を傾げた。
 もしや彼は、あれで気を利かせてくれたのだろうか。
 話しかけられたお蔭で、落ち込みそうになっていたのが浮上した。下降していた気持ちが急角度で上昇に転じて、なんだかもう、どうでも良くなっていた。
 次は見返してやると心に決めて、三つしかない洗面台へと向かう。便器の数に比べると格段に少ない鏡の前に陣取って、日向は何気なく、傍らを窺った。
 影山は相変わらず何を考えているか分からない顔をして、銀色の蛇口を捻っていた。
「んなワケないよなー」
 ちょっとは良い奴かと思ったが、褒め過ぎだった。
 そこまで人間が出来ている男なら、中学時代にチームメイトから造反されたりしない。考えすぎだったと自分自身を笑い飛ばして、日向も隣に倣って蛇口を捻った。
 センサーなどという上等なものは整備されておらず、水は自動で出て来ない。細い管を通った冷水に指先を浸して、日向は砕け散る水滴に相好を崩した。
 どこかの学校には、ジュースが出てくる蛇口があるそうだ。
 別の学校では、お茶が出てくるところもあるらしい。
 夕飯時に見たニュースでやっていた話を振り返り、彼は思い立って眉間に皺を寄せた。
「烏野だったら、何が出てくんだろ」
「あ?」
「いやさ。うちの学校だったら、水の代わりになにがいいかな、って」
「何言ってんだ?」
 もし、名産品が蛇口から出て来るとして。
 何が一番嬉しいかと考えて、仔細を告げぬまま捲し立てて、不審がられた。
 当然すぎる疑問をぶつけられて、それで我に返った日向は嗚呼、と小さく頷いた。
 確かに、突飛だった。
 心の声は他人に聞こえないのを痛感して、彼は唾を飲み、濡れた手で蛇口を締めた。
 擦り傷の痕が目立つ手の甲には、大粒の雫が張り付いていた。
 指先にも湿り気が残り、このままだと触れるもの全てを濡らしてしまう。少しでも水気を払おうと手首から先を上下に振って、日向は散っていった水滴から目を逸らした。
 鏡を経由して影山を窺えば、彼は中途半端を嫌ってか、話の続きを待っていた。
「いや、さ。前にテレビでやってたんだけど。どっかの小学校で、地元の名産品のジュースが、蛇口捻ったら出てくる、っつう奴をさ」
「へえ……」
 どうやらこの話題は、初耳だったらしい。
 素直に驚いて目を見開いた男は、興味深そうに二度、三度と頷いた。
 ジュースなら、嬉しいに決まっている。味が一種類しかないのが難点だが、休憩時間の度にコップ持参で並んでも惜しくなかった。
 自動販売機で飲み物を買おうとしたら、財布がもれなく軽くなった。
 水ならタダで飲めるが、それで腹を膨らませても空しいだけだ。
「そんで、うちの学校だったら何が出てくるかなー、って」
「それを先に言えよ」
「悪かったって」
 そこまで説明して、ようやく話が繋がった。
 影山に馬鹿にされて頬を膨らませ、日向は中指に残っていた雫を三角形の蛇口に擦り付けた。
 まだ少し湿っているが、最初に比べれば随分マシになった。
 これならポケットに潜ませたハンカチを引っ張り出しても、ズボンはそれほど濡れないだろう。
「しっかし、太っ腹な学校があるもんだな」
「烏野もやってくんないかなー。牛タン、とか」
「固形物かよ」
「駄目か。んじゃ、ずんだ餅」
「それも固形物じゃねーか」
「ずんだシェイク……」
「それなら、まだなんとか」
「あっ、牛タンサイダー」
「炭酸はきつくねえか?」
 思いつくままに呟いて、間髪入れずに合いの手が返されて。
 意外に盛り上がるネタに破顔一笑して、日向は夏服のズボンを弄った。
 ポケットの割れ目に指を入れ、奥の方に詰め込まれていた布の塊を引っ張り出す。ざらざらする表面は歪な形状をしており、布本来の肌触りは失われていた。
 何度も使ううちに湿って、放置されて、固まってしまったのだ。恐らくは一週間近く、それはズボンの中で塊になっていた。
 ただ制服で拭くよりはずっとマシで、他に選択肢はなかった。今日こそ忘れず洗濯しようと誓って、日向はやっと出て来たハンカチに頬を緩めた。
 最初にポケットに入れた時は、アイロンが当てられて、綺麗な正方形をしていた。
 今となっては形は崩れ、真ん中で捻られて、表裏は滅茶苦茶だった。
 何かに似ていると思えば、蝶ネクタイだ。ちょうどこんな形だと笑って、日向は早速、広げようとしても広がらない布を両手で挟んだ。
 直後だった。
 くいっと、後ろから背中を引っ張られた。
「……あの」
「ん?」
 正確には、半袖の制服を、だ。
 飾り気のないシンプルな開襟シャツは、これといった特徴がない反面、私服としても十分通用するレベルだった。
 裾はズボンに入れず、外に出していた。丈はそれほど長くないので、尻の上半分が隠れるかどうか、というところだ。
 そんな地面に対して水平に、真っ直ぐに断ち切られた布が浮いていた。自然にそうなるとは考えにくい形状をして、日向の身動きを封じていた。
 腹の方のゆとりがなくなり、上にずれた衿が喉に食い込む。息苦しくはないが気になって、日向はかぶりを振って後ろに目を向けた。
 鏡越しに見える男は、さながら守護霊か、なにかだった。
 身長差の所為で、まるで日向の肩に首が乗っているようだ。生首を背負うホラーな趣味は持ち合わせていなくて、彼はぶるりと身震いすると、きょとんとしている影山に苦虫を噛み潰したような顔をした。
 下にTシャツを着込んでいるとはいえ、背中がスースーした。別の洗面台では見知らぬ生徒が手を洗っており、縦に並んでいるふたりを見て、必死に笑いを堪えていた。
 話し込んでいるうちに、影山が背後に回り込んでいた。
 気付くのが遅れたのは日向の失態だけれど、警戒していないところを狙った彼は、断罪されるべきではないか。
 湧き起こる怒りを堪え、日向は細い肩を震わせた。
「なにやってんだ、影山!」
 使い込まれたハンカチを握り締め、吼える。
 けれど鏡の中の男はぽかんとして、少しも悪びれる様子がなかった。
「なにって、手ぇ拭いてるだけだろ」
「何で拭いてるか、ってことだろーが」
 しかもいけしゃあしゃあと告げられて、堪忍袋の緒が切れた。
 こめかみに青筋を浮かべて小鼻を膨らませ、日向は勢いつけて身体ごと振り返った。
 もれなく、影山に奪われていたシャツも解放された。トイレに入る前は綺麗な白一色だった制服は、哀れにも皺だらけとなり、濃淡がくっきり表れていた。
 有り得ないところが濡れていた。
 日向が湿らせたわけではない。
 影山がタオル替わりに、丁度良いとそれで手を拭いたのが原因だった。
「おれの制服で、なにしてくれてんだ」
「別にいいじゃねーか。どうせすぐ乾くだろ」
「だったら自分ので拭けばいいじゃねーか」
「俺が濡れるだろうが」
「おれだって嫌に決まってんだろ!」
 怒りに任せて怒鳴るが、まるで話が通じない。影山の理屈は傲慢で、常識外れだというのに、本人にその自覚がないのが問題だった。
 人の服を手拭きの代わりに使うなど、どういう教育を受けて来たのか。
 バレーボール馬鹿、ここに極まれり。そんな事まで分からくなっているのかと、日向は頭を抱えたくなった。
「ふざけんな。ったく、もー……」
 腹が立ったが、哀しくもなって来た。
 あまりにも情けな過ぎて愕然として、彼は言っても聞かない男に肩を落とした。
「ンだよ」
「おれがもし、すんげー高い服着てたらどうすんだよ」
「そんな高級な奴、着ねーだろ?」
 溜息を吐いたら、臍を曲げられた。試しにたとえ話を振ってみれば、大前提を無視してあっけらかんと訊き返された。
「そうだけど。そうじゃなくてだな」
 もしも、の話だ。
 分かり易い例を出したつもりなのに、それすら影山には通用しなかった。
 彼が北川第一中学で仲間から避けられていたのは、プレイスタイル云々ではなく、この曲がりくねった天然な性格が原因ではなかろうか。
 他人の話を聞かず、理解しようとせず、我を押し通そうとしたから嫌われたのだ。
 そう考えると、今は青葉城西高校に在籍している彼の嘗てのチームメイトに同情せざるを得ない。
 さぞや大変だっただろうと肩を落として、日向は力なく首を振った。
 言いたいことは沢山あったが、全部面倒臭くなってしまった。
 どうせ言い聞かせたところで理解して貰えないだろうし、だとすれば無駄な労力だ。こんなところで余計な体力を使いたくない。動けなくなるくらいへとへとになるのは、体育館でだけにしたかった。
 脱力して項垂れた日向に小首を傾げ、影山はすっかり乾いた手をズボンに擦り付けた。
「別にいいだろ。こんくらい」
「お前にとってのこんくらいって、どんくらいだよ」
 今度、意趣返しで同じことをしてやろうか。
 だが影山を誘ってトイレに行くのも、それはそれで嫌だった。
 わざわざ他クラスに顔を出して、トイレに誘うのも馬鹿げている。友人のいない、寂しい奴と誤解されたくもなかった。
「ジュースじゃなかっただけ、マシだろ」
「ジュースでやったら、殴ってるって」
 水は無色透明で、乾けばシャツは元の白さに戻る。寄った皺は流石に消えてくれないが、洗濯をしてアイロンを当てれば、それもなんとかなる。
 オレンジジュースだったら、こうはいかない。
 中断していた会話を再開させた影山に肩を竦め、日向はハンカチをポケットに押し込み、引き抜いた手で彼を殴る真似をした。
 手の甲で空を叩いて、空気を押し出す。影山は一瞥しただけで、本気で殴られるとは最初から思っていなかったようだ。
 脅しにすらならなかった。
 どこまで傲慢なのかと頬を引き攣らせ、日向は彼が取っ手を引いたドアを潜った。
 入った時と逆だ。
 ドアを潜ってから気が付いて、彼は吃驚して目を丸くした。
「影山が、開けてくれた」
「文句あんのか?」
「いや。お前も、ちょっとは気の利く男だったんだな、と」
「喧嘩売ってんのか」
 振り向けば、影山が後ろ手に扉を閉めていた。
 偉い王様なら、絶対にこんなことはしない。素直に感心していたのだが、言い方が悪かったようで、睨みを利かせて凄まれた。
 もっとも、まるで怖くない。
 初めて出会った時から一年近くが過ぎており、彼の険しい目つきにもすっかり慣れてしまっていた。
 最初は気に入らなくて、どうしようもなくムカついて、嫌いだった。
 それが、どうしたことだろう。今となっては彼のいない生活は想像出来ず、彼と出会わなかった未来も思いつかなかった。
 たった数か月だ。同じ学校に入学して、同じ部活に所属するようになってから。
 だというのに既に数年来の付き合いがあるかのように、彼との日々は身体に馴染んでいた。
「金払ってくれんなら、いくらでも売るけど?」
「誰が買うか、ボゲ」
 軽口を叩けば、すかさず突っ込み返された。素っ気なく吐き捨てる様は自然で、だからこそ滑稽だった。
 若干焦り気味の言い方が面白くて、ツボに入った日向は歯を見せて笑った。右手で腹を抱え、廊下の真ん中でけたたましく声を響かせた。
 突然のことに周囲がざわめき、数人の生徒が振り返った。何事かと視線を向けられて、それに驚いた影山が慌てて日向の後頭部を叩いた。
「いでっ」
「チャイム鳴んぞ」
「おおっと。おれ、次、音楽だった」
 前のめりに倒れそうになって、大きくふらついて耐える。苦情を言う前に影山から忠告されて、思い出した日向は声を高くした。
 次が移動教室だから、その前にトイレを済ませておきたかったのだった。急がないと始業時間に間に合わなくて、彼は両手を叩きあわせ、その場で畏まった。
「んじゃ、放課後な」
「ああ」
 特に意味もなく敬礼して、額から手を離す瞬間に告げる。
 影山はいつも通り愛想なく返事して、おもむろに利き手を掲げた。
「ん?」
「居眠りしてんじゃねーぞ」
「お、おう」
 何をするかと警戒し、日向の大きな瞳が宙を泳ぐ。
 その瞬間、緩く握った拳をコツンと当てられて、彼は押し返された右腕を握りしめた。
 ハイタッチ、とは少し違った。
 だがそれ自体を知らなかった彼からすれば、凄まじい進歩だった。
 お前が言うな、と言いたくなる台詞を投げられたが、突っ込むのを忘れていた。惚けたままその場で硬直して、日向は猫背気味に歩き出した男を目で追いかけた。
 自分も急がなければならないのに、それも忘れて立ち尽くす。
「なんか、……変なの」
 影山がか、それとも自身がか。
 それすらも分からないまま呟いて、彼は直後、響き渡ったチャイムに飛び上がった。

2015/4/9 脱稿

おなじかげにてすめる月かな

 使いを頼まれた帰りだった。
 馬上から見下ろした光景に、ふと心を奪われた。何気なく眺めていた景色に一瞬で心を奪われて、前を通り過ぎた後も目で追いかけていた。
 そうしたら共に頼まれ事を終えた男が、唐突に馬の手綱を引き締めた。
 何も言っていないというのに悟られて、少し気まずかった。ばつが悪い顔をしていたら、あちらも同じものに目を向けて、嗚呼、と緩慢に頷いた。
 気になるのなら、摘んでくればいい。
 あれは桔梗の花だ。
 そう背後から囁かれ、構わないのかと目で問うた。返事は聞くまでもなく、にっこり微笑まれただけだった。
 これくらいの道草は、許されて然るべきだ。
 屋敷で待つ主も、そこまで心は狭くはないだろうし。
 勝手な想像で言葉を連ね、背中を押された。小夜左文字は首肯すると、迷いを断ち切るように馬の背から飛び降りた。
 身の丈ほどの高さから平然と着地を果たし、馬の嘶きを背中で聞いて、道端に咲く花へと手を伸ばす。
 蓬や繁縷の合間を縫うように、薄紫の花が咲いていた。
 花は五芒星の形に似て、中心には白っぽい雌蕊があった。それを取り囲むようにして雄蕊が、矢張り星の形を真似て配されていた。
 傍には蕾であろうか、口を塞いだ袋の如く丸く膨らんだ、滑稽な形状のものもあった。
「おもしろい」
 押して潰してみたくなって、小夜左文字は折った左右の膝をぶつけ合わせた。
 もぞもぞと身動ぎ、馬を操って戻って来た男を見上げる。彼は目を眇めて小首を傾げ、困った風に口元を綻ばせた。
「あまり摘み過ぎないようにね」
「分かってる」
「根は乾燥させると、薬になる。場所を覚えておこう。何かの折に、必要になるかもしれない」
「へえ……」
 蕾を潰しても良いものか、返答は得られなかった。代わりに別の知識を与えられて、小夜左文字は桔梗に向き直った。
 それは知らなかった。感心して目を瞬かせて、彼は恐る恐る、緑の茎に手を伸ばした。
 ちらりと馬上を窺えば、男が胸元から地図を取り出し、印を入れようとしていた。
 足で器用に馬を制御して、矢立てから出した筆で紙にくるりと円を描く。仕草には慣れが感じられて、手つきは驚くほど滑らかだった。
 自分では、絶対に無理だ。
 小さな身体、小さな手をじっと見つめて、小夜左文字はぶすっと頬を膨らませた。
「あ」
 不貞腐れながら摘んだ所為だろう。
 優しく手折ろうとしたつもりが、桔梗の茎はぶちっと嫌な音を響かせた。
 乱暴に引き千切ってしまった。細い繊維を垂らし、水気を滲ませたぎざぎざの断面を見下ろして、彼はがっくり肩を落とした。
 こういう手合いは、どうにも苦手だ。
 花を生けるなど、雅を好むそこの男に任せておけばよかったのだ。
 後悔が胸を過ぎるが、仕方がない。再度馬上に目を向ければ、男は作業を終えて両手を手綱に戻し、小夜左文字が戻ってくるのを待っていた。
 先を急ぎたがる馬を宥め、太陽の位置を確認して視線を浮かせる。横顔は秀麗で、偉丈夫という言葉がぴたりと当て嵌まった。
「桔梗、か」
 花の名など、知らなくても困らない。けれどいつの間にか、戦に必要ない知識ばかりが集まっていた。
 きっともう、忘れることはないだろう。
 今にも弾けそうな蕾も含めて五、六輪を摘んで、小夜左文字は立ち上がった。
 膝小僧の土を払い、栗毛の馬へと駆け戻る。そのまま手綱を頼りによじ登ろうとして、小夜左文字は片手が不自由なのを思い出した。
 懐に突っ込めば、花が潰れてしまいかねない。
 それは可哀想だと悩んでいたら、音もなく手が差し伸べられた。
「預かろう」
「頼む」
 空の掌を向けられて、小夜左文字は摘んだばかりの花を彼に手渡した。
 男はにこりと微笑むと、受け取った花を瞬時に反対の手に持ち替えた。そうして再度小夜左文字に向き直り、自由の利く腕を真っ直ぐ伸ばした。
 馬上に上がる手助けをしようと、流れるような動作で示された。これには小夜左文字も渋い顔をして、一瞬の躊躇を挟み、掌ではなく、手首を捕まえた。
「はは」
 鐙に乗せられた男の足も踏んでやり、そこを足場に身体を浮かせる。
 荒っぽい動作だったが無事馬上の人となって、小夜左文字は呵々と笑う男に舌打ちした。
 顔が赤くなったのは、意地悪をしたのにあっさり流されて悔しいからだ。
 自分にそう言い訳をして、彼は肩越しに差し出された紫の花に意識を傾けた。
「頼んだよ」
 後ろから渡されて、彼は首を縦に振った。
 受け取って、両手で大事に抱きしめる。蕾を潰さないよう細心の注意を払い、ゆっくり進み始めた馬の足元から前方へと視線を流す。
 西の空に漂う雲は、木綿の綿のようだった。
「日暮れ前には帰り着けそうだ」
「そうか」
 太陽は天頂を過ぎ、西に傾き始めていた。緑の稜線は光を抱き、空との境界線を曖昧にしていた。
 農作業を終えて家に帰る農夫たちとすれ違って、会釈をされた小夜左文字は桔梗の茎を強く握りしめた。
「それにしても、小夜が花を愛でるとはね」
「悪いか」
「いいや。喜ばしく思うよ」
 以前なら野辺に咲く花になど興味を抱かず、桜や梅にも関心を示さなかっただろう。
 少なからず影響を受けていると自覚して、小夜左文字は摘み立ての花に顔を近づけた。
 残念ながら、甘い香りはしなかった。引き千切ったところから漂う青臭さだけが、ちりちりと鼻についた。
 苦い顔をしていたら、気取った男に笑われた。
「屋敷に戻ったら、生ける器を探さないと」
「このままでは、駄目なのか」
「水を与えてやらないと、萎れてしまうからね」
「……そうか」
 湯飲み茶わんを使ったら、他の刀剣たちから非難を食らいかねない。
 節目に合わせて竹を割れば良いか、とあれこれ考えながら囁かれて、小夜左文字は様相を思い浮かべて息を呑んだ。
 竹の緑と、桔梗の紫。
 悪くない組み合わせだと感嘆して、彼は五つに広がる花弁を撫でた。
「部屋に飾るのかい?」
 少し楽しくなって来た。そこへ問いかけられて、小夜左文字は後ろを振り返った。
 桔梗よりも淡い色の髪を揺らし、男が「ん?」と小首を傾げた。
 目と目を合わせ、数秒の沈黙を挟み、彼は遠慮がちに首を竦めた。
「あに、さま……に」
 声は小さく、今にも消え入りそうな雰囲気だった。
 上空を行く雁の群れが陽の光を遮って、影が一瞬地を駆けた。聞きそびれそうになった男は目を瞬かせ、拾い上げた音を咀嚼し、飲み込んだ。
 誰のことかと考えて、答えが出るのにそう時間はかからなかった。
 小夜左文字は下を向いて、高く結った藍の髪を左右に躍らせていた。
「宗三殿に、かい?」
 静かに問えば、こくりと頷かれた。
 控えめの首肯に半眼し、男は眉間に皺を寄せた。
 彼が険しい表情をしているのは、小夜左文字にも伝わった。振り返らずとも気配で悟って、愛らしい花を握りしめた。
「理由を、聞いてもいいかな。小夜」
 男の声は低く、冴えていた。静かに憤っているのが感じられて、背筋が寒くなった。
 突然、どうして。理由を知りたいのはこちらだ、という思いは呑み込んで、冷たい汗を背中に流し、小夜左文字は浅く唇を噛み締めた。
 彼らが仮初の宿とする屋敷には、複数の刀剣が、付喪神として招かれていた。
 その中には同じ刀工によって生み出された、同じ銘を持つ刀剣も少なからず存在した。
 左文字も、そのひとつ。
 現在確認されているだけで、彼には兄がふたり、いた。
 そのうちのひと振りが、宗三左文字。名だたる名将の手を渡り歩いて来た、知る人ぞ知る打刀だった。
 魔王と呼ばれる男が戦利品としてこれを手にし、記念として名を刻んだ事でも有名だった。その後も戦乱の世を統べんとする男たちに好まれて、所有者は度々入れ替わった。
 ただ本人は、それを決して望んではいなかった。
 次々に入れ替わる主と、途絶えることなく繰り広げられる騒乱。渡り歩いた主の名と数ばかりが持て囃されて、刀剣本来の存在価値は、次第に失われていった。
 審神者に対しても、他の刀剣たち以上に不信感が強い。皮肉や嫌味ばかりを口にして、求められようとも戦場に出たがらなかった。
 日の当たらない屋敷の奥に一日中引き籠り、食事の時間になっても現れない。
 他の刀剣とは区別され、長年別格扱いを受けて来た影響だろう。宗三左文字は他者との接触を拒み、望んで孤独であろうとする傾向が強かった。
 だからいつだってひとりで、冷えた飯をひっそりと食べている。
 実の弟である小夜左文字を相手にする時も、虚ろな瞳に光は宿らない。
「最近は、ずっと、部屋にお籠りになられているし。お誘い、しても。あまり外にお出にならないから。だったら、あにさまに。せめて、外の風景を、と……」
 つたない言葉で、けれど精一杯伝えようとしている少年に、男は静かに目を閉じた。
 多くから求められて来たが故に、望まれる事を厭う刀剣、宗三左文字。
 怨嗟の炎に身を焦がし、戦場を寝床とする小夜左文字。
 兄弟とはいえ、共に在った時間は零とはいかないまでも、とても短い。
 離れ離れになっている間に、それぞれ違う経験を重ね、望まぬ形で主を変えて来た。とうに遂げられた復讐に固執する子供は、騒乱を厭う兄を前にして、何を語れば良いかで苦悩していた。
「あにさまは、血の臭いが染み付いている僕が、お嫌いだろうけれど」
「小夜、花が折れてしまう」
「……あ」
 ぽつり、ぽつりと紡がれる言葉に、男が大きな手を重ねた。
 力が籠り過ぎていた指を紐解いてやって、彼は心細さに震えている子の肩を叩いた。
「屋敷に戻ったら、一輪挿しを拵えよう」
 時間をかけて囁かれた声は優しく、温かだった。
 少し前に感じた冷たい気配は霧散して、いつもの穏やかさが戻って来た。それが何故だか嬉しくて、気遣いに感謝し、小夜左文字は相好を崩した。
「いいのか」
 遠慮がちに訊ねれば、男は鷹揚に頷いた。
「得意だからね」
 武具を拵えるよりは、よっぽど簡単だ。胸を張って断言して、男は嬉しそうな少年に肩を竦めた。
 そうして小夜左文字が前に向き直ったところで、ふと険しい表情を作り、遠くを見据えて嘆息した。
「考えすぎかな」
 少年の手に握られるのは、桔梗の花。
 綺麗に五つに別たれたその花弁は、魔王に弓引いた男の旗印。
「杞憂であればいいんだけどね」
 幼い子の純粋な想いが、正しい形で伝われば良い。
 切に願い、歌仙兼定は頭を垂れた。

 日が暮れる、僅かに前だった。
 太陽は西へ大きく傾き、その半分近くを地平線に隠していた。天頂には気の早い月が既に登り、白くぼんやりとした輪郭を露わにしていた。
 開け放たれた障子戸から差し込む光は弱く、奥に潜ってしまうとほぼ届かない。日中であっても灯明は欠かせず、脂に浸した芯が焦げる臭いが周囲に漂っていた。
 肌を撫でる程度の風にさえ、小さな炎は大袈裟に震えた。
 今にも消えそうな、けれど辛抱強い灯火に瞑目して、宗三左文字はゆるりと首を振った。
「何用ですか」
 問いかけは、低く、静か。
 抑揚のない囁きに驚き、障子戸の影に隠れていた小さな体躯が大きく跳ねた。
 物陰に隠れ、息を潜めていた。気付かれていないと思い込んでいたらしく、恐る恐る顔を出した幼子の表情は酷く不安げだった。
 畏怖を内に隠し、縁側を滑るように進んでくる。そうして奥に座す宗三左文字の前でぴたりと足を止めた。
 左右五本ずつ、合計十本の足指を綺麗に揃えて、藍の袈裟を着崩した小夜左文字は遠慮がちに顔を上げた。
 両手は背中に隠している弟を眺め、宗三左文字は細い眉を中央に寄せた。
 彼は紫紺の座布団に腰を下ろし、肘掛けに腕どころか上半身全体を委ねていた。辺り一面に法衣が広げられて、まるで薄紅の花が咲いているかのようだった。
 長い髪を無造作に背に垂らし、男は鈍い動きで身を起こした。
 兄の気怠げな仕草に目を泳がせ、小夜左文字は訪ねる時期を誤ったかと、顔に後悔を滲ませた。
「お疲れで、あらせられるなら。……改めます」
 遠慮がちに告げて、ぺこりと頭を下げる。高く結われた髪が一部ひっくり返って、蝶々の形を成す緋色の紐も逆向きになった。
 年齢にそぐわぬ畏まった態度を見せられて、宗三左文字は姿勢を正し、畳に散っていた数珠を引き寄せた。
 二重に輪を作り、房を下向きに垂らす。法衣を撫でて形を整え、弟へと向き直る。
 空いた方の手を浮かせて軽く空を撫でてやれば、手招かれた少年は目を真ん丸に見開いた。
「あにさま」
「こちらへ。お入りなさい」
「失礼仕ります」
 驚きを素直に露わにし、言葉でも許しを得て、しずしずと敷居を跨ぐ。
 畳の縁を踏まないように歩みを進めて、彼は三尺ばかり手前で立ち止まった。
 そうしてそわそわと落ち着きなく身動ぎ、右に、左に、と瞳を彷徨わせた。
 松脂の焦げる臭いが鼻腔を刺した。じじじ、と芯が燻る音はまるで羽虫で、目を瞑ると不快感が倍増した。
 なかなか来訪の理由を語らない弟を見上げ、宗三左文字は目を眇めた。
「昼は、どこぞへ出向いておりましたか」
「……歌仙、と。主様に命じられて、少し」
「そう。あの男と」
「なりませぬか」
「いいえ。主様の望みとあらば、我らに拒む権利はありません」
 訥々と交わされる言葉の最後に、自虐を込めて笑みを作る。瞼を落として闇を誘えば、薄明かりに浮かぶのは血に濡れた記憶ばかりだった。
 そういった事を思い返していると、何故か身体が重くなった。心は鉛と化して泥に沈み、死肉は澱となって四肢に絡みついた。
 歴々の主が斬って捨てた者たちの呪詛が、耳を塞いでも聞こえて来た。鎮まるよう経文を唱えたところで自己満足に過ぎず、縋る神仏などありはしない。
 それが刀剣としてこの世に生まれ落ちた宿命だとしても、嘆かわしくてならなかった。
 哀れにも血濡れた手を隠した幼子を前に、宗三左文字は数珠の珠をひとつ、爪で弾いた。
 千切れ、吹き飛んではいかない。指の腹には次の珠が触れて、押し出されるのを待っていた。
 冷たい感触に笑みを零し、彼は両手を背に回したままの弟に小首を傾げた。
「それで、あなたは。何を隠し持っているのです?」
「あ、……の。それは」
「小夜」
「これ、を」
 わざわざ屋敷の奥深くまで訪ねて来た理由は、それだろう。勘を巡らせて囁けば、催促された少年は恐々と、隠していたものを差し出した。
 それはまだ若い竹を使った、緑が眩しい一輪挿しだった。
 節に合わせて首を斜めに切り落とし、縁は磨かれていた。壁に掛けるのにも、卓に置いて飾るにも適するよう形を整えられた、素朴な一品だった。
 そうしてそんな青竹に添えられていたものは。
 薄紫が艶やかな、五角形の野花だった。
「桔梗、と、いうそうです」
 竹の底には水が張られ、彼が動く度に波が砕ける音がした。
 花は既に開いているものが二輪と、蕾のまま膨らんでいるものが一輪。それらが形よく、見栄え良くなるよう、茎の長さや葉の数を計算して、生けられていた。
 粗野な身なりの少年が、独力で出来るものではない。
 後ろに見え隠れする男の影を感じとり、宗三左文字は眉目を顰めた。
「それを、僕に?」
 感情は極力表に出さないよう努め、囁く。僅かに身を乗り出せば、察した弟が一歩、前に出た。
 竹筒の底に左手、側面に右手を添えて持つ小夜左文字の胸元で、桔梗が鮮やかに色付いていた。
 摘んできてそう間がないのか、花も、葉も瑞々しかった。
「使いの、帰り道で。あにさまに、その。見ていただきたく、て」
「そう……ですか」
 受け取るのを躊躇していたら、説明が付け足された。
 言葉が途切れ途切れなのは、緊張しているからだろう。それは表情からも見て取れて、宗三左文字は控えめに肩を竦めた。
 弟は、無条件に愛おしい。
 と同時に、どう扱えばいいか分からない。
 復讐の為に刃を研ぎ、血に濡れることを厭わず、戦場を突き進む。その姿は鬼神の如くであり、止まり木を求めて彷徨う迷い鳥のようでもあった。
 血まみれの、その小さき手を救ってやりたいと思う。
 戦場に出ることなく、平穏な余生を過ごさせてやりたいとも思う。
 けれど彼が望むものは、宗三左文字が欲しいものではない。
 瞼を下ろせば、法螺貝の音が聞こえた。闇を切り裂き、鬨の声を上げる武士たちと、炎に包まれ焼け崩れていく寺の姿が見えた。
 桔梗紋が熱風にはためく。
 夜空を昼のように明るく照らし、義無き怨讐の焔が天を焦がした。
「魔王と共に焼け落ちていれば、このような想いをせずに済んだでしょうに」
「あにさま?」
 織田に奪われ、豊臣に拾われ、徳川に召し上げられて。
 魔王の懐刀であったが故に求められ、物珍しさが手伝って、見世物にさせられた。
 耐え難い日々の記憶を噛み締めて、不安げにしている弟の顔を見る。そうっと手を伸ばして触れた頬は、存外に柔らかく、温かだった。
「ありがとうございます、小夜」
「……っ! い、いいえっ」
 礼を言えば、物憂げだった表情が一気に晴れた。猫のように細かった瞳孔が丸くなり、年相応の、嬉しそうな笑顔が花開いた。
 声を弾ませ、小夜左文字は頬をほんのり赤らめた。もじもじと身動いで、大事に抱えていた一輪挿しを改めて差し出した。
 両手を使って受け取って、宗三左文字は揺れ動く桔梗に目を眇めた。
「明日の朝、水を足しに来てくれますか?」
「勿論に御座います」
 丸々と膨らんでいる蕾を潰さぬように撫で、囁く。
 小夜左文字は一も二もなく頷いて、興奮気味に両手を握りしめた。
 鼻息も、心持ち荒くなっていた。任せろ、と言わんばかりに意気揚々としている姿と、見た目と異なる堅苦しい口調に、宗三左文字は自虐の笑みを浮かべた。
 他の者たちと接し方に差があるのは、特別扱いされているようで誇らしくもあり、距離を置かれているようで切なかった。
 対応に苦慮しているのは、審神者も同様だ。他の刀剣たちも、腫れ物に触れるような態度を見せて、あまり傍に寄りたがらない。
 もう少し自分から歩み寄るよう諭されてはいるけれど、屈折してしまったこの心では、なかなかに難しかった。
 何を語り、何を聞けというのだろう。
 罪なき花を見詰めていた彼は、竹筒に這う黒いものに気が付いた。
「蟻が」
「構いません。彼らにも、命はあります」
「……はい」
 小夜左文字も気付き、紫の花に乗り移った虫を払おうとした。
 あわよくば潰してみせようとした彼を制して、宗三左文字は静かに戒めた。
 子供は素直に聞き入れて、俯いて小さく頷いた。その丸くて愛らしい頭を撫でてやって、彼は何処からか響く声に耳を澄ませた。
 夕餉の時を告げる声だ。
 右目に眼帯を着けた男が、自慢の料理を披露しようとしているのだろう。野太くも良く響く呼びかけに、小夜左文字もそわそわと落ち着かなかった。
「もうお行きなさい」
「あにさま、は」
「僕は、こちらでいただきましょう」
「……承知仕りました。後でお持ち致します」
「小夜」
「はい」
 今日一日、馬上の人であった彼は、相応に疲弊していた。幼子に必要なのは復讐ではなく、豊かな食事であり、穏やかな眠りだった。
 共に行かんと誘おうとして、言い出す前に断られた。目に見えてがっかりしている弟に肩を竦め、宗三左文字は桔梗の花を這い回る蟻の行く先を指で塞いだ。
 意地悪をされた虫は方向を変え、蜜を求めて花弁を彷徨った。
 兄がそんな風に戯れているとも知らず、部屋を辞そうとしていた小夜左文字は、呼ばれて即座に振り返った。
 縁側手前で身体ごと向き直った彼に、宗三左文字は淡く微笑んだ。
「我らは兄弟なのですから、もっと遠慮なく。他の者たちと同様で――慎まなくてもよいのですよ」
 控えめに、けれど優しく。
 静かな口調で告げられて、小夜左文字は一瞬の間を置き、全身で震え始めた。
 空を掻いた指はきゅっと握りしめられ、小さな拳を作った。肩は異様なまでに持ちあがり、力が入っているのが見え見えだった。
 鼻の穴が膨らんで、顔全体が紅潮して真っ赤だった。暗く澱んでいた瞳は光で満たされ、明星のように輝いていた。
「は……――はい!」
 手本にしたくなる返事だった。
 腹の底から声を張り上げ、大仰なまでに腰を曲げて頭を下げた。肩は突っ張ったままだったので見た目の折り合いが悪く、滑稽な動きは笑いを誘った。
 宗三左文字もご多分に漏れず、苦笑を禁じ得なかった。
 足音を響かせながら去って行った弟を見送り、部屋が静まり返ったところで短く息を吐く。体内に残る疲労感を追い出して、彼は室内を見回した。
 影は一層長くなり、世界を闇に塗り替えようとしていた。
「どこに、置きましょうか」
 手元に残る一輪挿しはずっしり重く、抱え続けるのは苦痛だった。
 明日の約束をしてしまったので、その辺に捨て置くわけにもいかなくなった。飾る場所を求めて瞳を漂わせ、彼は軸のひとつも掛けられていない、粗末な床の間に近付いた。
「このようなもので、僕の心が癒せると」
 小夜左文字は、何も知らないようだった。
 無邪気な善意は、時に人を傷つける。けれど口には出さず、宗三左文字は雅さに欠ける一輪挿しを撫でた。
 季節が変わる前に、これを摘んだ場所に弟を誘ってみようか。
 違う景色で上書きすれば、あの忌々しい夜の記憶も、少しは薄れるような気がした。
「……おや」
 過去の惨劇に目を瞑り、おぞましい声に耳を塞ぐ。
 そうして暫く黙り込んでいた彼は、いつの間にか蟻がいなくなっているのに気が付いた。
 花弁を摘む指を解けば、黒い残骸が白い肌にこびりついていた。
 意識しないうちに、握り潰していたらしい。哀れな虫は五分の魂を散らし、体液は花弁に染み込んでいた。
 薄紫の桔梗の花の、五つに別たれた花弁の一部だけが。
 まるで燃え盛る炎の如く、赤く、色を変えていた。
「なんと、罪深い」
 嘯き、彼は顔を覆った。こみあげる笑いを押し殺し、震える肩を骨張った手で抱きしめる。
 全ては浅はかな願いだった。
 決して解けぬ呪縛に身を浸し、宗三左文字は嗚咽を飲んだ。

2015/02/07 脱稿

椎鈍色

 言い出すのは、いつだって日向の方だった。
「なあ、影山。明日、お前ん家、行っていい?」
「はあ?」
 放課後、練習が終わって。
 部室で着替えを済ませた直後に問いかけた途端、影山は怪訝そうに眉を吊り上げた。
 比較的高めの声を上げ、何を言いだすのかと言わんばかりに眉間に皺を寄せる。露骨に不機嫌な顔をして、彼は顎を突き出し気味に日向へと迫った。
「またかよ。先週もだったろ」
 凄味のある低音を響かせ、チームメイトは舌打ちしながら吐き捨てた。視線は瞬時に右に逸れて、天井の方へと流れていった。
 姿勢も改めて、影山は背筋を伸ばした。途端に日向との距離が開いて、圧迫感は急激に薄れた。
 部室の入り口では上級生が靴を履き、外へ出て行こうとしていた。ドアが頻繁に開かれ、閉じられて、空気の流れは活発だった。
 肌寒さを覚えて腕をさすり、日向はつっけんどんな態度の影山に口を尖らせた。
「別に、いーじゃん。先週のヨーロッパ選手権の奴、録画してんだろ。見たい」
「お前なあ。見たけりゃ自分とこで契約しろよ」
「頼んだけど却下されたの。知ってんだろ」
 ぷんすかと煙を吐き、悔し紛れに床を蹴り飛ばす。
 衝撃で古い畳から埃が舞い上がって、部室棟全体が揺れた気がした。
 影山も益々顰め面を強め、声変わりが終わったとは思えないボーイソプラノに溜息を吐いた。
 肩を竦め、黒髪をガシガシ掻き回す。爪先が黒ずんだ靴下で床を数回叩いて、彼はやがて諦めたかのように肩を落とした。
「わーった」
「やっりー。影山、愛してるー」
「おお、お熱いねえ。ひゅーひゅー」
「田中さん、冗談は止めてください。日向も、バカな事言ってねーで。さっさと帰んぞ」
「はーい」
 渋々出された承諾に、日向は諸手を挙げて喜びを表現した。そのまま飛び上がって抱きつこうとすれば、やり取りを眺めていた田中が調子に乗って囃し立てた。
 口笛まで吹いてからかわれて、影山は心底嫌そうに顔を歪めた。にじり寄って来た日向は右手を突き出して全力で拒んで、荒い語気で言い放って鞄を担ぎ上げた。
 ふたりが烏野高校に入学してから、既に五ヶ月近くが経過していた。
 なんだかんだで充実した夏休みを過ごして、一旦は壊れかけた関係も、綺麗過ぎるくらいに修復されていた。
 ひび割れた溝は埋められ、補修されて以前より強固になったかもしれない。元々近かった距離感も更に狭まって、クラスは別々なのに、休み時間もふたりは大抵一緒だった。
 互いの家に行き来して、泊まっていく機会も増えた。もっともこちらは物理的な距離の問題があって、日向が影山邸に押しかけるパターンが、全体の八割近くを占めていた。
 表面上迷惑ぶっていながらも、影山は最終的に日向を許した。認めて、受け入れて、懐へ招き入れてくれた。
 文句は言われるけれど、嫌がられていない。
 それが嬉しくて、日向は何度も彼の元へ通い、居心地の良さを楽しんでいた。
 中学時代の友人でも、ここまで一緒に居て楽しい相手はいなかった。交友は今でも盛んだけれど、メールだけのやり取りよりは、矢張り顔を合わせて喋る方が、何倍も面白かった。
 もっと影山について知りたいし、仲良くなりたかった。
 彼と居ると構えなくて済んだし、とても気が楽で、落ち着けた。
 自宅にいると妹の相手をしなければいけないから、一人っ子である影山の家が静かで過ごし易い、というのも、彼の家に入り浸る要因のひとつだった。妹の夏は嫌いではないし、可愛いけれど、人の都合などお構いなしに襲ってくるので、時々鬱陶しくて不満だった。
 影山の両親は働いていて、ふたりとも遅くまで帰って来ない日は多い。そういう夜を狙って遊びに行きたいと言えば、影山は大抵一度断って、二度目の頼みで首を縦に振った。
 夕飯は帰り道にあるスーパーで惣菜を買うか、弁当屋で。
 財布的には厳しいけれど、好きなものだけを選んで食べられる時間は、ちょっとした贅沢であり、幸せだった。
「茶、要るか」
「飲む」
「持ってくる」
 そう言って、影山が空になった弁当の容器を手に立ち上がった。
 日向の分も回収して、白いビニール袋にまとめて押し込んで、口を縛る。日向はそれを眺めながら、スーパーで買った特売品のプリンの蓋を剥いだ。
 それは夕飯を買った店で、賞味期限が目前に迫っているからと、見切り価格で並べられていたものだ。影山も日向が手に取るのを見て興味を持ったようだったが、暫く悩んだ末に棚に戻していた。
 デザートには、お気に召さなかったらしい。ゴミの分別もせず片付けを簡単に済ませて、影山は踵を返して部屋を出ていった。
 ドアは開けっ放しだったが、足音はじきに聞こえなくなった。二階建ての一軒家はひっそり静まり返り、日向は柔らかなプリンを噛みもせずに飲み込んだ。
 時計を見れば、午後八時を少し回っていた。窓の外は闇に包まれ、時折風が吹いて窓枠がカタカタ音を立てた。
 月は出ていない。星の明かりもかなり遠く、室内を照らすのは天井に設置された蛍光灯だけだった。
 手元に出来た薄い影を指で捏ねて、日向はスプーンを咥えたまま質素極まりない室内を眺めた。
 これまでに何十回と足を踏み入れている場所だけれど、いつ来ても物が少ない部屋だった。
 あるのは間取りの半分近くを埋めるベッド、そして勉強机くらい。テレビは薄型の液晶タイプで、なんと日向家のリビングにあるものより画面が大きかった。
 録画デッキ等を入れたテレビ台は背が低く、ダンベルが無造作に床に転がっていた。衣服などはクローゼットの中に収納されて、ぱっと見た感じ、整理整頓が行き届いていた。
 ベッドの足元には雑誌が積み上げられて、影山の身長をフォローしていた。
 背が高いのは羨ましい限りだけれど、密かに色々苦労があると教えられた。最初に見た時は何の為のものか分からなくて、本人に聞いて深く納得したのを覚えている。
 サイズが合うバレーボールシューズならあるけれど、私服に合わせる靴がない、とも偶に耳にする。月島も地元で扱ってくれていないサイズだとかで、通販に頼る場合が多いと言っていた。
 その点、身長百六十センチ少々の日向は、安売りされているファストファッションでも全く問題がない。着る物にも、履く物にも、苦労した経験がなかった。
「やっぱ、なーんか。寂しいよなあ」
 壁紙は白一色で、家具も落ち着いた色合いのものばかり。カーテンだって無地で面白みがなく、良く言えば調和がとれているけれど、悪く言えばつまらない部屋だ。
 机の上は真っ平らで、鉛筆の一本も転がっていない。片隅に集められたふたり分の鞄がなければ、生活感は無いに等しかった。
 影山が掃除をマメにやっているとは思えないので、彼の母親が、気を利かせて片付けているのだろう。ゴミ箱の中身は少なく、フローリングの床には髪の毛一本落ちていなかった。
 日向の部屋はもっとごちゃごちゃしていて、騒々しかった。子供の頃に買ったおもちゃや人形が棚の上で幅を利かせて、テレビの横にはゲーム機が、埃をかぶった状態で放置されていた。
 母親は息子の部屋に一切手を入れず、自分でやれ、の一点張りだ。
 その辺の取り決めは家族ごとに違うのだと、影山の家を訪ねるようになって、より強く意識させられるようになった。
 別段羨ましいとは思わない。
 むしろ逆だ。彼に対しては、一種の憐みさえ抱いていた。
「ごっそーさまでした」
 いったい何に手間取っているのか、影山が戻ってくる気配はなかった。耳を澄ませて足音を探して、日向は食べ終えたプリンの容器をゴミ箱へと放り投げた。
 蓋とスプーンにも後を追わせ、膝を起こして立ち上がる。背筋を反らして骨を鳴らして、彼は頭上高くに掲げた腕を下ろした。
 軽く肩を回して身体を解して、日向は人間味が薄く思える室内を、改めて眺めた。
 長さが足りないベッドに継ぎ足されているのは、全てバレーボール関係の古雑誌だった。真ん中辺りにあるものを試しに引っ張り出してみれば、発行年は五年ほど前のものだった。
 表紙を飾るプレイヤーを、日向は知らない。
 探せば烏野高校が春高に出た年のものも見つけられそうだが、かなりの時間が必要だ。影山の寝床を勝手に壊せば当然怒られるだろうし、彼が戻ってくる前に発見出来る保証はなかった。
 今度、正式に許可を得てからやろう。
 何か月か前にも思った内容を再度心に刻んで、日向は大量に積み上げられている雑誌の側面を撫でた。
 一冊くらいいやらしい物が紛れていないかとも考えるが、なにせあの影山だ。
 浜辺の砂に興奮して鼻息が荒くなる男が、女性の裸体で内股になるとは、あまり思えなかった。
 そもそも、似合わない。
 同学年の男子を捕まえてこの評価は酷いが、本当にそう思えるのだから、仕方がなかった。
「ないなー」
 みっちり詰め込まれている雑誌の角をぱらぱらやって、小声で嘯く。
「なにがないって?」
「うおっと。びびった」
 そこに合いの手が返されて、油断していた日向は目玉が飛び出しそうになった。
 派手に驚き、戦いて後ずさる。全身の毛を逆立てて仰天していたら、四角い盆を手にした影山が、心持ち頬を膨らませて嫌そうな顔をした。
 反応の大きさに不満を抱き、不機嫌を隠そうともしない。
 あまりにも正直で素直すぎる表情に胸を撫で下ろして、日向は照れ臭そうに微笑んだ。
「わり。サンキュ」
 手を伸ばせば、片手で盆を持ち直した影山から氷入りのグラスが差し出された。注がれていたのは麦茶で、溢れそうなくらいの縁ぎりぎりに水面があった。
 零さないよう受け取って、日向は指に吸い付く水滴に頬を緩めた。
「つべてえ」
「沸騰させた方が良かったか」
「なんでそう、極端なんだよ」
 カレンダーは既に九月。十月の足音は日増しに大きくなっており、日中でも日陰に入ると涼しく感じられる季節だった。
 夜ともなれば、気温はぐっと下がった。長袖のジャージは欠かせず、山越えの道は自転車を漕いでいても少し寒かった。
 とはいっても、湯気を放つ熱い茶が欲しくなるのは、まだ当分先の話だ。
 冷たいか、熱いか。
 振り幅が大きすぎると文句を言って、日向は良く冷えた麦茶で喉を潤した。
 プリンを食べた直後なので、味が混ざって変な感じだった。なんとも言えない違和感をどうにか捻じ伏せて、飲み込んで、彼は人心地ついたと息を吐いた。
 両手でコップを持ち、断りなく影山のベッドに腰掛ける。影山は机に置いていたテレビのリモコンを取り、電源を入れて部屋をもう一段階明るくした。
 ぱっと表示されたのは、大食いタレントを中心とした芸人の集団だった。
「うわ、うまそー」
 どうやら各地にある、美味しい物を食べ歩くツアーの最中らしい。カメラはその店で一番人気のメニューを映し出して、スピーカーからは女性タレントの嬉しそうな悲鳴が聞こえて来た。
 スーパーの弁当を平らげたばかりだというのに、日向の目は画面に釘付けだった。影山もつられてそちらに顔を向けて、納得顔で頷いた。
 確かに美味そうだと呟いた彼に全力で同意して、日向はアップで映し出された海鮮丼に涎を垂らした。舌なめずりを三度も繰り返して唾を飲み、物欲しげな顔をしてベッドの上で身じろいだ。
 そんな様子を横目で眺め、影山はもうひとつあるリモコンのボタンを押した。
「あっ」
 さらにもう一度、テレビ側のリモコンのボタンを押す。
 途端に画面が真っ暗になって、電源を落とされたと思った日向は身を乗り出した。
 手元でコップが揺れた。中身が溢れそうになったのに慌て、彼はスプリングの上でひょこひょこ飛び跳ねた。
 なにかをする度に五月蠅く動き回る姿に苦笑して、影山はレコーダーのリモコンを順番に押していった。
 録画番組一覧を呼び出し、最新のデータを選択して決定ボタンを押す。すると画面は色鮮やかさを取り戻し、心沸き踊るメロディが奏でられた。
 背景には大きな体育館が映し出されていた。ズームアップして、館内に画が切り替わる。ネットを挟んだコート内では選手がアップを開始しており、体格も立派な外国人が順番に紹介されていった。
 それは専用のスポーツチャンネルに契約していないと見られない、海外の大会の光景だった。
 この手の番組は、月割りで結構な金額が必要だ。日向は影山に話を聞いた翌日、母親に直談判してみたが、返答はつれなかった。
 どうせ家に帰って来た後は、飯を食べ、風呂に入り、布団に潜り込んで眠るだけ。そこに勉強を加えたら、テレビ番組など見ている暇はないだろう、と言われて、反論出来なかった。
 だから見たい試合が放送された後、日向は必ずと言っていいほど、影山の家に押しかけていた。
「うおー、すげえ。打点高けぇ」
「お前もあれくらい、余裕で跳ぶだろ」
「……ンふふ」
「パワーは十分の一くらいだろうけどな」
「チッ」
 早速始まった試合に、日向の頬は見る間に紅潮していった。興奮に鼻息を荒くして、影山の相槌に逐一表情を切り替えた。
 喜んだり、拗ねたり。
 百面相を鼻で笑い飛ばして、影山は床に腰かけ、ベッドサイドに背中を預けた。
 日向の脚はすぐ右側にあり、首を後ろに倒せば太腿が見えた。
「結構あるぞ、この試合」
「フルセット?」
「ああ。風呂、どーする。先入るか」
「あー、どうしよっかな。最後まで見てたら、十時、過ぎるか」
 一区切りつくところで終わらせたいけれど、流石に一時間以上テレビの前から動かないのは疲れる。
 壁時計を見ながら呟いた日向に首肯して、影山は引き締まって細い脚に視線を流した。
 無駄な筋肉を持たない脚部は、小鹿のようなしなやかさだった。超人的なバネで高く跳ぶ様は美しく、さながら背中に羽根が生えているようだった。
 プロのプレイを見詰める眼差しは真剣で、美味そうな海鮮丼などもう頭に残っていない顔だ。己の技術を高めるヒントを探し求めて、トッププレイヤーに対しても底抜けに貪欲だった。
 反面、無防備で、隙だらけ。
 触れてみたい欲望を拳で握り潰し、影山は返事を待たずに立ち上がった。
「風呂の準備、してくる」
「ごめん。あんがと」
 いったいどういうつもりで、頻繁に家に押しかけてくるのか。
 単純に見たい番組があるから、という動機のような気はするが、それにしても月に一度や二度ではない。頻度は、正直言って異様に高かった。
 甘えているのか。
 甘く見られているのか。
 家に親が居ない時間が多いから、寂しがっているとでも思っているのか。
 どちらにせよ、深い意図はないに決まっている。期待するだけ無駄だと己を戒めて、影山は裡に秘めた感情に蓋をした。
 これだけ度々家に来たがるのだから、嫌われていないのは確実だった。
 むしろ好かれていると思って良い。
 慕われ、信頼されているのがひしひしと感じられた。
 但し、あくまでも友人として。
 それ以上ではなく、それ以下でもない。境界線を踏み越えた感情は、日向の中には存在していなかった。
「持てよ、俺の理性」
 まるで蛇の生殺しだ。
 剥き出しの脛や太腿があんなに近くにあるのは、目の毒以外の何物でもなかった。
 そして夜は、来客用の布団などありはしないので、ひとつのベッドで折り重なり合うようにして眠るのだ。
 それはご褒美であり、拷問でもあった。
 日向に出会って、再会して、世界は一変した。
 忍耐力がかなり向上した。精神力が鍛えられて、我慢強さが倍増した。
 今宵も、先に風呂に入るのは自分の方だ。扉を開けて湯船に栓をして、影山は深々とため息を吐いた。
「日向の入った後でなんか、入れるかよ」
 そんなことをしたら、箍が吹き飛んでしまう。
 残り湯にさえ興奮するような男には、絶対になりたくなかった。
 準備を済ませ、彼は壁のスイッチを押した。自動で一定量湯を貯める機能を使って、彼は湯船に蓋をした。
 段取りを済ませて二階の部屋に戻った時、テレビは点けっぱなしだった。
 部屋の照明も煌々と照っていたが、肝心の小柄なチームメイトが居ない。トイレにでも行っているのかと首を傾げていたら、部屋の片隅で黒い塊が蠢いた。
 もぞもぞと身動ぎ、首を竦めて丸くなる。
 ベッドの足元に座り込んでいる華奢な少年を見つけ出して、影山は怪訝に眉を顰めた。
「なにやってんだ、お前」
 テレビでは試合が継続中で、点差はじわじわ開きつつあった。最初は一方的な展開になるかと思いきや、終盤に凄まじい粘りを発揮したチームが逆転勝利を収める光景は、手に汗握って面白かったというのに。
 見ないのなら、電源を切っておいて欲しかった。
 チャンネルを戻してグルメ番組の続きを鑑賞することだって、日向には出来た筈だ。
 リモコンの操作方法は、随分前に教えてあった。まさか忘れているのかと首を捻っていたら、萎縮していた少年が恐る恐る首を伸ばした。
「いやあ、ちょっと。探し物を」
「忘れモンでもしてたか?」
 目を泳がせながら言われて、影山は益々顔を顰めた。反射的に聞き返して、指先に残る湿り気をズボンに擦り付けた。
 日向はこれまで何度も遊びに来ており、たまに荷物を置いて、そのままにする事があった。
 歯ブラシのような日常品は、いつの間にか洗面所に彼専用の物が用意されていた。着替えも何着か、母親が気を利かせて準備してくれていた。
 けれど雰囲気的に、そういうものを探している感じではなかった。びくびくと怯えた態度に首を傾げていたら、沈黙が耐えられなくなったのか、日向は降参だと白旗を振った。
「お前って、エロ本とか。持ってねーの?」
「……は?」
 単刀直入に聞かれて、影山は目を丸くした。
 良く見れば日向の足元には、ベッドの長さを足す為の雑誌が何冊か、引き抜かれて散らばっていた。
 どれもこれも、バレーボールに関する本だ。情報が古すぎて役に立たない物も多いけれど、捨てるに捨てられず、丁度良いからとそこに積み上げて再利用していたものだ。
 その塔が若干低くなっていた。探し物とはそういう事か、と納得して、彼は歯を見せて笑っているチームメイトに肩を落とした。
「悪いか?」
 木を隠すなら森の中、という言葉がある。
 親に見られたくない雑誌は、健康的な雑誌の間に挟んでおけば良いと、そんな風に考えたのだろう。
 だが生憎と、影山はその手のモノに関心がなかった。全くないわけではないけれど、今は他に優先すべきことがあるので、二の次だった。
 堂々と胸を張って問い返せば、日向は背筋をピンと伸ばし、直後猫背になって頬杖をついた。
「いやー、別に悪くはない、けど。……ほんと、バレーばっかだな」
「お前だってそうだろ」
「そりゃーね、そうですけどね。でもおれとしては、たまーに、心配になったりするわけですよ」
「なにを」
「だってさー、お前って急にぐわっ、てなって、ぎゅわっ、てなるだろ?」
 熱戦を伝えるアナウンサーの声を押し返し、日向が座ったまま腕を広げた。良く分からない擬音で勢いを表現して、重ねた手を右から左へと走らせた。
 要するに、思い込んだら一直線。
 思い詰めたら突然爆発する。
 そういう趣旨のことを、彼は言いたかったようだ。
 薄ぼんやりと理解して、影山はそうだろうか、と過去を振り返りながら眉間に皺を寄せた。
 思い当たる節がありそうで、ない。
 顎に手をやって真剣に悩んでいる彼を見上げて、日向は肩を竦めて苦笑した。
「だからー、相棒としては、ですね。お前って、ムラッとした時どうしてんのかなー、って、興味があったんですけれど」
 寝ても覚めてもバレーボール一辺倒で、他の事にはまるで興味がない男。それが影山飛雄だった。
 女子からの人気は高いけれど、愛嬌が足りず、常に不機嫌そうに見える。人の気持ちに鈍感で、容赦なく傷口を抉ることを言ったり、塩を塗り込んだり。
 日向も過去に何度か、酷い目に遭っていた。
 けれど最近は慣れて来たし、彼がどういう意図で発言しているのかも、前よりは分かるようになっていた。
 但し私生活は相変わらず謎な部分が多く、性的な関心もそのひとつだ。
 彼の口から、女子の好みを聞いたことがない。
 名前が挙がるのは、プロのプレイヤーばかり。それは顔や体格がどうこうというのではなく、選手として尊敬している、という要素が強かった。
 そういうのではなくて、と説明しても、なかなか伝わらない。そのうちに面倒臭くなって、日向はこの話題を避けるようになった。
 だが今日になって急に、好奇心がむくりと首を擡げた。
「ま、お前の場合、ムラッとくる事とか、なさそうだけど。ボールに興奮するとか、体育館に鼻息荒くするとかは、気持ち悪いからやめとけよ」
 軽口を叩き、日向は広げた雑誌を元の場所に戻した。簡単に崩れないよう角を揃えて形を整え、そのままベッドへ這いあがった。
 膝をスプリングに沈め、敷かれている布団に両手を置く。
 言いたい放題の彼を見詰めて、影山は盛大に舌打ちした。
「俺だって、そういう時もあるし、ムラって来る相手だっているっての」
「え。マジ?」
「しまっ――」
 勢い任せに乱暴に吐き捨て、直後驚いた日向が四つん這いを解いた。膝立ちになってベッドから身を乗り出し、それで我に返った影山は真ん丸に目を見開いた。
 己の失言に今更気づき、青くなるが既に遅い。日向は興味津々に目を輝かせ、立ち尽くす王様然としたチームメイトに声を高くした。
「マジで。嘘じゃねーよな。ホントにいるのかよ。誰。誰? おれの知ってる子? かわいい? つーか、もしかしてもう付き合ってたりする?」
 立て続けに質問を投げかけ、興奮した頬は録画した試合を再生させた時よりも赤かった。左右の拳を胸の高さでぶんぶん振り回して、落ち着きなく動き回った。
 そのうちベッドから落ちそうだ。
 少しもじっとしていない彼に心の中で悪態をついて、影山はとんだ失態に奥歯を噛み締めた。
「うるせえぞ!」
「えー、いいじゃん。教えろよー」
 罵声を上げても、日向は挫けなかった。怒鳴られても平然と受け流して、小柄な少年はしつこく食い下がった。
 まるでスッポンだ。一度噛み付いたら離れないという生き物を思い浮かべ、影山は渋い顔をして口を尖らせた。
 底抜けに無邪気で、自由奔放で、地雷原を全力で駆け抜けて次々に起爆させていく。吹っ飛ばされてもまるでめげず、落ち込まず、悔やまない。
 そうやって彼が無自覚に開けていった穴が、影山の胸には大量に残されていた。
 隙間風が冷たい心を抱きかかえて、彼は小鼻を膨らませた。爛々と輝く双眸を睨みつけて、遠くから聞こえた電子音に歯軋りした。
 風呂が沸いたと知らせるメッセージは、日向の耳には入っていない。今ならまだ言い訳をして、逃げられると、善良な天使が肩の上から囁きかけていた。
 一方反対の肩には悪魔が居座り、我慢するなと唆して来た。
 顎が砕けるまで歯を食い縛って、影山は伸びて来た手を乱暴に突き返した。
「わっ」
「いい加減にしろ、つってんだろ」
 跳ね除けられて、日向が仰け反った。そのままバランスを崩して尻餅をついた彼を追い、影山はベッドに膝から乗り上げた。
 前に出て日向に肉薄し、華奢で薄い胸を突き飛ばす。堪らず倒れ込んだ彼は零れ落ちんばかりに目を見開き、唐突な展開に瞬きを繰り返した。
 上に覆い被さられても、きょとんとした表情は変わらなかった。
 それに一番腹が立ち、またショックで、影山は全く意識されていなかった現実に泣きたくなった。
「かげやま?」
「そんなに知りてーなら、教えてやるよ」
 今まで色々我慢して来たけれど、もう限界だった。
 苦労して培ってきた信頼関係が崩れるだとか、どうでも良くなっていた。
 あらゆることに投げやりになって、彼は鼻を愚図らせた。惚けている日向がどうしても許せなくて、この薄らとんかちに一矢報いてやりたかった。
 荒い息を吐き、左手を下へと這わす。
 途端に太腿を撫でられた日向が戦いて、青くなって竦み上がった。
「ちょ、ちょっ。なに」
 太い指がショートパンツの裾を手繰り、内側に隠れていた肉を擽った。関節をなぞるように動かされて、奥へ進もうとするのを日向は慌てて堰き止めた。
 足を跳ね上げ、そのついでに膝で影山を牽制する。しかし男は怯まず、反対の手を日向の脇腹に押し付けた。
「――っ」
 乱れたシャツの裾ごと擽られ、脆弱な体躯がびくりと跳ねた。発作的に目を閉じた日向は首を右に倒し、強すぎる眼差しを避ける形で荒い息を吐いた。
「っや」
 何が起きているのか。
 何が起きようとしているのか。
 訳が分からないと鼻を啜り上げて涙ぐむ横顔を前にして、はたと我に返った影山の全身が大きく、ぶるりと戦慄いた。
 血の気が引いた。
 慌てて身を引けば、情けなくも尻からへたり込んでしまった。
「わ、わ……りぃ」
 おろおろし過ぎて頭も、舌も回らなかった。あたふたと両手を意味なく振り回して、影山は更に後退を図り、行き過ぎてベッドの端から床に転げ落ちた。
 ズドン、とすごい音がした。
 日向も絶句して飛び起きて、転げるように入口に向かうチームメイトに騒然となった。
「ふ、風呂。行って、くる」
「影山」
「テレビ、見てねーなら消しとけよ!」
 ドアを頼りに立ち上がって、呼び止められても振り返らなかった。あまりにも場違い極まりない捨て台詞を残して廊下へ飛び出して、追加で響いた騒音は、階段を滑り落ちでもしたのだろうか。
 呆気にとられ、日向は着衣を整えもせずに瞬きを繰り返した。
「影山、が……ぐわっ、て」
 圧し掛かられた時、怖かった。
 触れられた時、ぞわりと来た。
 今更ながら鳥肌が立って、日向はトレーナーの上から腕を撫でた。
 心臓がバクバク言っていた。熱が上がり、顔が火照って仕方がなかった。
「ぶわって、来た」
 呟いた瞬間、日向は右腕で顔を覆った。膝は勢いよく閉ざされて、逃げ遅れた左手が太腿に挟まれた。
 内臓がきゅぅ、と窄まった。耳鳴りがして、跳ね上がった肩がなかなか下がらなかった。
 竦み上がったまま凍り付き、彼は垣間見えた獣の顔に背筋を粟立てた。
 もしあのまま、影山が止まらなかったら。
 ちらっと想像しただけで、ベッドの上で膝が弾んだ。益々小さく、丸くなって、日向はカタカタ震える指を唇に押し当てた。
「影山、……好きな奴、いるんだ」
 今まで色々な影山を見て来たけれど、あんな彼は初めてだった。
 知らなかった。
 思いもしなかったし、思いもよらなかった。
 では彼の想い人だけは、ああいう彼を好きな時に、好きなだけ見られるのだろうか。
 それを思うと何故だか少し悔しくて、日向は親指の短い爪を浅く噛んだ。

2015/03/29 脱稿

想思鼠

「ひゃー! 遅れる、遅れるー」
 甲高い悲鳴を上げ、駆け足で床を蹴り、廊下を駆ける。角をほぼ九十度に、減速もなしに突っ込んできた少年に、衝突しかけた通行人は慌てて仰け反って避けた。
 寸前の回避運動でギリギリ防がれた激突に、少年自身も目を見張った。しかし立ち止まったりはせず、すれ違いざまに「ごめんなさい!」と大声で謝っただけだった。
 頭を下げる事も、振り返りもしない。後ろから文句は聞こえてこなかったが、周囲は少しざわついた。
 非難めいた視線を感じて首を竦め、日向翔陽は心の中で謝罪を繰り返した。
「ひぃぃぃぃ、置いてかれるぅぅぅぅぅ」
 けれど反省を上回る恐怖に見舞われて、口を開けば切羽詰まった声が漏れた。
 大粒の瞳を左右に動かして、彼は天井付近に見えた案内板に奥歯を噛み締めた。
 県で一番大きな体育館は、当然ながら内部も広い。構造は単純ながら、慣れない高校生にはさながら巨大迷路だった。
 熱戦が終わった。
 興奮のるつぼにあった館内も、熱気は徐々に冷めつつあった。
 観客席に陣取っていた大量の応援団も、悲喜交々の表情で帰路に就いていた。勝者は胸を張り、敗者も堂々と、アリーナを去る選手の顔はいずれも凛々しかった。
 誰もが頂点を目指し、切磋琢磨を繰り返していた。
 悔いることはない。
 恥じることもない。
 全ては精一杯やった結果で、それでも勝敗が決する瞬間は非情だった。
 負けてコートを去る人々の想いが積み重なり、ユニフォームは日増しに重くなっていく。春先は誰も気に留めなかっただろう黒いジャージに注がれる眼差しも、試合が終わる度に険しく、鋭い物になっていった。
 後で叱られるかもしれない。
 それでも足を緩めず、烏野高校男子排球部の小さなミドルブロッカーは狭い通路を全力で走った。
「こっち、だった。ような!」
 頭の隅に残る記憶を頼りに進路を選び、時々躓いて転びそうになりながら、道を急ぐ。しかし辿り着いた先は全く見覚えのない空間で、少年は急いでブレーキをかけ、肩で息を整えた。
 いったい、正面玄関は何処にあるのだろう。
 一番行き易そうな場所になかなか到達できなくて、日向は地団太を踏んで煙を噴いた。
「あー、もう。どこだよ、ここ!」
 あと少し行けばその出入り口があるというのにも気付かず、大声で喚いて両手を振り回す。
 挙動不審な男子高校生は近寄り難い雰囲気があって、周囲にいた人々も遠巻きに眺めるだけだった。
 試合が終わって、ユニフォームを脱いで。
 軽くミーティングをして、荷物を片付けて。
 烏野高校男子排球部の面々は、これから顧問である武田が運転する小型バスで学校に帰る段取りだった。
 今日の試合は全て終了した。一時期の賑わいは既に遠く、勝利の興奮に滾っていた身体も熱を失いつつあった。
 そんな日向の身体に、入れ替わりに訪れたのが。
 長く忘れ去られていた尿意だった。
 試合中はそれどころではないし、終わった後も暫くはアドレナリンが出たままなので、気にならなかった。
 激しい運動で大量の汗を掻いていたのに、丁寧に拭き取らなかったのも良くなかったのだろう。水分を必要以上に摂取していれば、冷えた身体がトイレへ行きたがるのは、当然の結果だった。
 そういう訳で、日向は集団を離れ、ひとり便所に向かった。
 残りメンバーは荷物を運び、バスへ移動。日向は遅れて合流し、全員が揃ったところで出発、となる筈だった。
 しかし、段取りが狂った。
 最初に出向いたトイレは異様に混み合っていて、我慢出来なかった彼はひとつ先の区画に向かった。それが大きな間違いで、無事に事を済ませはしたものの、ドアを出た瞬間、彼は真っ青になった。
 帰り道が分からない。
 脇目も振らずトイレだけを探し求めていたものだから、スタート地点がどこであるか、すっかり見失ってしまっていた。
「うぇぇぇ。どうしよう、ぜってー怒られる」
 荷物は、皆に預けてあった。ことあるごとにトイレに駆け込む癖がある彼だから、運んでおいてやるから早く行くようにと、チームメイトは快く送り出してくれたというのに。
 今頃バスで待っている仲間は、痺れを切らしているに違いない。苛々している面々を思い浮かべ、日向は下唇を噛み締めた。
 なんとか合流地点に向かおうと頑張っているものの、報われているとは言い難い。走れば走るほどゴール地点は遠ざかり、袋小路から抜け出せなかった。
 いっそ、誰か迎えに来てくれないか。
 淡い希望を抱くけれど、それが幻想でしかないのは日向自身、よく分かっていた。
 連絡を取り合おうにも、携帯電話は鞄の中だ。流石に館内放送を頼るのは恥ずかしいし、そもそも駐車場まで聞こえるかどうかが不明だった。
「どこなんだよ、ほんと」
 通行人に訊けば良いのに、焦る頭はそういう基本的なところを見落としていた。案内表示が途絶えた廊下のただ中で足踏みして、彼は緊張から来る腹痛に背筋を震わせた。
 自分自身を抱きしめて、奥歯をカチカチ噛み鳴らす。
 財布だって鞄に入れたままなので、今の彼は本当に、身一つしかなかった。
 万が一皆に見切りをつけられ、置いていかれたらどうしよう。それは考えるだけでも恐ろしく、最も忌避すべき事案だった。
 大会会場であるこの体育館から烏野町へは、車でも一時間近くかかる距離があった。ましてや日向の家がある雪ヶ丘町は、それよりもっと遠かった。
 歩いて帰れる距離ではない。地図もなく、コンパスもなく、非常食や水さえ持たない状態で峠を越せるほど、自然界は甘くなかった。
 手持ちの資金はゼロだから、公共の交通機関は使えない。タクシーなど論外だ。となればヒッチハイクしかないけれど、その方面に向かう車が捕まえられる確率は、限りなく低そうだった。
 外国人が観光地を旅行するのとは、訳が違う。そもそも停まってくれるかどうかも分からなくて、お手上げだと日向は天を仰いだ。
「どうしよう」
 呆然と立ち尽くし、降り注がれる照明に目を閉じる。
 アリーナで仰ぎ見たのとは明度も、眩しさもまるで違う光を視界から追い出して、彼は深呼吸して気持ちを落ち着かせようとした。
 焦っていたら、とても簡単な事でさえ失敗する。
 ピンチこそ冷静に。バタバタしない。慌てず、騒がず、周りを見る。
 試合中の心構えをひとつずつ振り返って、日向は窄めた口から息を吐いた。
 続けて胸を反らし、鼻から空気を吸い込んで。
「……ン?」
 どこかで嗅いだ覚えがある匂いを鼻腔に感じた、その直後だった。
「なにやってんだ、このボケぇ!」
「――イッ!」
 身体が真っ二つになりそうなくらいの凄まじい衝撃が、頭の天辺に突き刺さった。
 耳を劈く怒号は館内を揺るがすレベルで轟き、耐えきれなかった少年は敢え無く膝を折って蹲った。
 確実に瘤が出来ている頭を抱きかかえ、凄まじい痛みと熱に悶絶する。目尻を濡らす涙は自然と溢れたもので、息を吸えばただの空気が喉を焼いた。
 喋ろうと思っても、ひゅうひゅう息が漏れるだけで音にならない。
 人は本当に痛い時、悲鳴すら上げられないのだと、こんなところで教えられた。けれどそんな知識を持ち合わせたところで、将来役に立つ日が来るとは思えなかった。
 じんじん響く痛みを黙ってひたすら耐えて、ようやく少し楽になったところで視線を浮かせる。
 涙で歪んだ視界には、堂々とした佇まいの、黒ずくめの男が立っていた。
 長い手足、細いが決して脆弱ではない胴体、整った顔立ちと険しい目つき。
 甲冑を着せればさぞや似合いそうな黒髪の男は、百八十センチオーバーの身長をこれでもか、というくらいに堂々と晒して、仁王立ちで日向を見下ろしていた。
 ヘの字に引き結ばれた唇が、彼の不機嫌さがいかほどかを物語っていた。
 鋭い眼光は獲物を狙う獣のそれであり、幼い子が見れば一発で泣き出す迫力だった。
 日向自身、一瞬びくりとしてしまった。
 凄まじい怒気を目の当たりにして、心臓がきゅぅう、と窄まった。
 全身の血管が萎縮して、末端から冷えていく。手足が凍り付いて動かなくて、頭の痛みもいつの間にか消えていた。
 並々ならない恐怖を突き付けられて、膝が震えてカタカタ五月蠅かった。
「ひっ、あ」
「テメエ、ンなトコで何道草食ってんだ。ああ?」
 竦み上がり、頬を引き攣らせる。そこへずい、と身を乗り出した影山に怒鳴られて、日向は大急ぎで目を逸らした。
 まるでカツアゲされた気分だった。
 勿論そんなことはないのだけれど、不良に絡まれる苛められっ子の気分が、ほんの少し理解出来てしまった。
 辺りを見回せば、誰も日向を見ようとしない。絡まれている子がいるから助けよう、という心意気ある勇者は現れず、誰もが見て見ぬフリだった。
 もっとも、助ける必要などない、と思っている人の方が圧倒的多数だろうけれど。
 なにせふたりとも、上から下まで同じ服装なのだから。
 同じ黒い上着、黒いズボン。靴こそ違えど、奇しくも中に着ている学校のロゴ入りシャツまで同じだった。
 どちらも烏野高校の名を記したジャージを着ているのだから、大会運営者も喧嘩とは疑わないだろう。仲裁の声は最後まで聞かれず、近くにいた人の姿はどんどん減って行った。
 後は清掃員や、警備員に、腕章をつけた関係者ばかり。
 大会に出場していた学生も大半が移動した後か、彼らの傍にはひとりも居なかった。
 すっかり人気が失せたロビー近くの廊下に立って、天才セッターは返事をしない日向に苛々と床を蹴った。
 爪先でリズムを取り、胸の前で組んだ腕を人差し指で同時に叩く。
 コートの中で威風堂々とボールを操る大男は、こういう時でも居丈高で、偉そうだった。
「いってぇ。すんげー痛かったぞ。なにしやがる、影山」
「それはこっちの台詞だ。どんなけでっけー糞してやがったんだ。あれから何分経ったと思ってんだ、テメーは」
「まっ、下品。お下劣。影山君の口は臭いです」
「ふざけんじゃねえ!」
 渋々立ち上がり、痛みが戻ってきた頭を指差しながら文句を言う。だが影山は取り合わず、荒っぽい語気で生意気な日向を黙らせた。
 論点をすり替えようとしていたチームメイトを一喝して、彼は圧倒されて表情がなくなった日向に肩を落とした。
「もう出発時間過ぎてんだ。バス、行くぞ」
「お、おう」
 くい、と顎をしゃくって正面玄関を示し、返事を待たずに踵を返す。
 慌てた日向は姿勢を正し、意外に近かった玄関ホールに気付いて唖然となった。
 あと少し立ち止まるのを後にしていたら、影山に殴られずに済んだのに。
「なんだって、おれは、もー」
 焦るあまり、視野が狭くなっていた。
 主将である澤村にも周りをよく見るよう注意されていたというのに、肝心なところで失敗ばかり。
 後悔して落ち込んでいたら、歩調が鈍ったと知った影山が、三メートル先で溜息を吐いた。
「置いてかれてーの」
「今いくし!」
 早くしろと急かされて、感情のやり場がない日向は無駄に大声で吼えた。足を踏み鳴らしてじたばた暴れて、仰々しい足取りでチームメイトを追いかけた。
 見苦しいながらも動き出した彼を鼻で笑い、影山も床から靴底を引き剥がした。慣れた足取りで県内最大の体育館を突き進み、ガラス張りの大きな扉を潜り抜けた。
 外は快晴で、建物を出た直後に強い風がぶわっ、と吹き抜けた。
「うっ」
 砂埃が舞い、咄嗟に腕で顔を庇う。怯んで筋肉が委縮して、塵が入りそうになった目が再び涙を滲ませた。
 聞こえた耳鳴りは、錯覚か。
 一瞬で消えた唸り声に肩で息を整えて、日向は黙々と歩く背中を追いかけた。
 いきなり一発殴って来たけれど、影山は間違いなく、日向を探しに来てくれたのだ。
 他の部員と連絡を取り合う様子はない。ということは、一旦バスに移動してから、体育館に戻って来たのは彼ひとり、ということだ。
「影山だけ、か」
 もしあのまま、彼が探しに来てくれなかったら。
 日向は目的地が目の前だとも知らず、反対方向に駆け出していたかもしれない。
 そんな馬鹿な真似はしないと言いたいところだけれど、自分の事だから否定出来ない。
 遠い目をして、彼は専用駐車場を示す案内板の前を通り抜けた。
 アスファルトに白い線が引かれただけの広い空間は、少し前まではたくさんの車でひしめき合っていたはずだ。しかし今は所々に残っているだけで、賑わいは過去のものと化していた。
 そんな中に一台残った小型のバスに、影山は躊躇なく近付いていった。
 高い位置にある運転席には人影があり、開けっ放しの昇降口近くにも人の姿があった。遠くからでも目立つ二人組が現れたと知って、退屈そうに待っていた小柄な少女は車内に大慌てで駆けて行った。
 焦り過ぎたのだろうか、ステップで躓いて、半ば転ぶような感じだった。離れた場所まで聞こえるくらいに凄い音がして、それまで静かだったバスは急激に騒がしくなった。
「なにやってんだ?」
 倒れた谷地を心配する声が響き、ハンドルに寄り掛かっていた武田も顔を上げた。目が合った日向は反射的に会釈して、影山は怪訝そうに眉を寄せた。
 荷物は積みこまれた後なのか、車体の下方にある収納スペースは既に閉ざされていた。
「日向、おっせーぞ。どこ行ってたんだ」
「すみません。ちょっと、迷いました」
「なんだ。やっぱりか」
 バスの窓からは二年生の田中と西谷が顔を出し、合流が遅れた後輩を高らかに笑い飛ばした。正直に告白した一年生は馬鹿にされて顔を赤くし、一足先にステップに爪先を置いた影山の背中を押した。
 谷地は真っ赤になった額を抱えつつ、清水の隣の席で背中を丸めていた。運転席の武田はふたりが乗車するのを待ち、いつでもドアを閉められるよう、スタンバイしていた。
「影山君、ご苦労様です」
「ッス」
「すまんな、影山。手間を取らせた」
「いえ。割と直ぐ見つかったんで。問題ないです」
「どこにいたんだ、日向」
「入ってすぐの、通路んトコです」
「なんでンなところで迷子になれんだよ。器用だな、おい」
「はいはい。すぐ出発するんだから、お前らも席座れ。シートベルト、全員忘れるなよ」
「はーい」
 武田と烏養に話しかけられ、ステップを上がり切ったところで影山が立ち止まった。更に後方の座席にいた田中にも訊かれて、通路を塞がれた日向を苛立たせた。
 見かねた澤村が仲裁に出て、話は後にするよう手を叩いた。場を取り仕切るのが誰よりも巧い主将の声に、返事だけは全員、行儀が良かった。
 十五人も乗ればいっぱいの小型バスは、その座席の大半がとっくに埋まっていた。
 左後ろの二人掛けの席が、唯一両方とも空いていた。つまりそこが、最後にバスに乗り込んだ一年生コンビの指定席、というわけだった。
 ひとり掛けの席は全て埋まり、入り込む余地はない。
 こんなところまで彼の隣は、出来るなら遠慮したかった。しかし迷子になって皆に迷惑をかけている手前、変わって欲しいと言うのは憚られた。
 小型バスはエンジンが稼働中で、彼らの着席が確認されたら、いつでも発車出来るよう準備されていた。武田は前に向き直っていたが、運転席横に座る烏養が見張り番を買って出ており、問題児二名の動向を注意深く見守っていた。
「つーか、日向。体育館なんか、通路ぐるーっと回ってりゃ、どっかで出入り口に着くだろ」
「なんか、最初のトイレが詰まってて。別のとこ探してるうちに、方向が分かんなくなっちゃったんです」
「けど、次もこんなんだと困るからな。誰か道分かる奴についてってもらう方がいいかもな」
「僕は辞退します」
「おれだって、月島なんかとツレションしたくねーしっ」
「ウォッホ、エッフン」
 そんな大人の視線を余所に、通路のただ中であちこちから話しかけられた。ぽんぽん飛び交う会話に軽く噛み付いていたら、どこからともなく非常にわざとらしい、少々調子崩れの咳払いが聞こえて来た。
 言わずもがな、発生源は澤村だ。
 怒らせると誰よりも怖い主将の無言の訴えに、賑わっていたバス内は途端に静かになった。
 嫌味たらしく笑っていた月島も、さっと顔を背けて窓の外に視線を投げた。隣に座る山口は苦笑して、早く着席するよう手で合図した。
 しかし。
「あのー……」
 いざ残っている席に座ろうとしたところで、日向は思わぬ障害物に立ち竦んだ。
「どうしたんだ、日向。さっさと座れって」
 あと少しというところで動きを止めた彼に、斜め前にいた菅原が不思議そうな顔をする。しかしそれでも一年生は動かず、代わりに両の拳をぎゅっと握りしめた。
 肩もやや吊り上り気味で、小刻みに体を震わせていた。
 菅原の前にいた澤村も怪訝な顔をして、どうしたのかとシートベルトを外して身を乗り出した。
「おい、影山」
 そして何が起きているのかを知って、頼りになる主将は疲れた様子で頭を垂れた。
 こめかみに指を置き、項垂れた澤村が緩く首を振った。菅原も日向の前方を見て、頬を引き攣らせて苦笑した。
 小型バスのほぼ中央に立つ少年の座席は、窓際に用意されていた。
 その真横に着席した影山は、偉そうにふんぞり返り、長い脚を自慢するかのように、高い位置で組んでいた。
「邪魔なんだけど」
 前の座席の背もたれに、膝頭が当たりそうだった。爪先は前方の座席下に潜り込んでおり、さながら簡易的な柵だった。
 奥の席に行く為の通路は完全に塞がれ、蹴破って通るくらいしか術がない。
 もっと深く腰を掛け、脚を組むのもやめてくれれば、楽にすり抜けられる。だというのに抗議の目を向けられても、影山は微動だにしなかった。
 聞こえていないフリを装って、無視を貫こうとしていた。何がそんなに気に入らないのか、一度だけ一瞥をくれただけで、後は全く見向きもしなかった。
「影山、足」
「足がどうしたって?」
 これでは通れない。跨ごうにも彼の膝は日向の太腿ほどの高さがあり、どう考えてもつっかえるのは間違いなかった。
 それでもいざ押し通そうとしたら、動きに合わせてスッと膝の高さを変えられた。一層山が高くなって、影山にここを通す気がないのは歴然だった。
 退いてくれるよう暗に頼むが断られ、逆に聞き返された。いけしゃあしゃあと言い放った彼に我慢が限界で、ふざけるな、と怒鳴ろうとした矢先、ぶっ、と盛大に噴き出す音が聞こえた。
 横を見れば月島が、口元を押さえて背中を丸めていた。
「おい、お前ら。なにやってんだ」
 必死に笑いを堪えている眼鏡が契機になったのか、烏養まで声を荒らげた。
 早くしないと、学校に着くのがどんどん遅くなる。
 今日の試合の反省と、次の試合の対策を練る時間が減るわけだから、コーチとしてもこの状況は見過ごせなかった。
 だというのに影山はつーんとそっぽを向いたまま、日向を席に行かせようとしなかった。
「どこの小学生だよ」
「ツッキー、あんまり笑うと失礼だよ」
「そういう山口だって、笑ってるでしょ」
 背後から同級生のひそひそ話が聞こえて来ても、いつものように噛み付いたりしない。聞こえているだろうに聞こえないフリを突き通して、果てには足の裏を前方座席に擦り付けた。
 本格的に通せんぼ中の彼に、澤村もそろそろ待てなくなったようだ。
「影山、いい加減にしなさい」
 片手で頭を抱え、低い声で凄む。
 だが影山も頑固で、譲ろうとしなかった。
 烏養と澤村両名の苛々が蓄積され、バス内部の空気が一気に暗く濁った。前方では谷地がおろおろしており、後方の東峰も似たような顔で右往左往していた。
 折角試合に勝ったのに、これでは少しも喜べない。
 嫌な雰囲気の中心に立たされて、本当に踏んでやろうかと思い始めた矢先だった。
「日向、こっち座れよ」
「菅原さん?」
 突然副主将である菅原が背筋を伸ばし、ひとり席であるにも関わらず、日向を手招いた。
 そうは言っても、彼の隣にあるのは窓であり、座席ではない。座る場所などないのに、いったいどういうつもりなのか。
 訳が分からなくて首を傾げていたら、泣きホクロの青年は茶目っ気たっぷりに微笑んで、左右揃えた膝を叩いた。
「俺のここ、空いてるぞ」
 そうして高らかと宣言して、どうぞ、とばかりに両手を広げた。
「――はい?」
「ブッ!」
 その提案に、日向はぽかんとなった。
 一方で田中や西谷といった騒々しい二年生は盛大に吹き出して、腹を抱えて笑い転げた。三年生のナイスジョークにげらげらと声を響かせ、足踏みまでして小型バスに地震を起こした。
 足元が軽く揺れて眩暈を起こし、日向は白い歯を見せている上級生を呆然と見つめた。
「菅原さん?」
「シートベルトなら気にすんな。俺が責任持って、抱きしめといてやるからさ」
「あの、いや。そういう問題じゃ」
 屈託なく言い切られ、戸惑いが否めなかった。
 交通ルールには、そんな真似をして大丈夫とは書かれていない。そもそも他人の膝を、それも先輩を椅子代わりにしていいものなのだろうか。
「てめーら、もうなんだっていいからさっさと座れ。出発すんぞ!」
 そこへ痺れを切らした烏養の怒号が飛んで、困って日向は背筋をピンと伸ばした。
 叱られて行儀よく畏まって、それからすぐに首を竦めて小さくなる。
 菅原は相変わらず両手を広げて微笑んでおり、早く飛び込んで来るよう、日向を急かした。
「う~~~……」
 段々と、考えるのが面倒になってきた。
 影山はあの調子だしで、もうなるようになれ、とやけっぱちになりかけていた。
 目を糸のように細め、ふらふら、と上級生の方へ一歩、進み出ようとする。
 直後だ。
「うひゃっ」
 真後ろでダンッ、と凄まじい音がした。振り返れば影山の前の座席で成田が頭を抱えて丸くなっており、そのシートには特大サイズの靴が食い込んでいた。
 言わずもがな、影山の足だ。
 スクールバスを壊す勢いで座席を蹴り飛ばした超高校級セッターは、周囲の注目が集まる中、シンと静まり返った空間でおもむろに足を下ろした。腕を胸の前で組み、まるで何事もなかったかのように居住まいを正して、深くシートに座り直した。
 前だけを見て、頑なに口を開かない。引き結ばれた唇は不機嫌さを表しており、剣呑な目つきがそれを裏付けていた。
 怒りのオーラが、前よりも格段に増していた。圧倒された日向は背筋を寒くして、戦いて身を仰け反らせた。
 一方で月島は笑い過ぎて苦しそうで、必死に息を吸いながら腹筋を引き攣らせていた。
「か、影山?」
 いったいぜんたい、彼はどうしてしまったのだろう。
 迎えに来てくれたかと思えばさっさと行ってしまうし、バスに着いたら着いたで意地悪をするし。
 かと思えば突然癇癪を爆発させて、通せんぼを解除してしまった。
 訳が分からなくて首を捻っていたら、笑いを堪えていた菅原が指先で日向を手招いた。耳を近づけるように囁いて、楽しそうに顔を綻ばせた。
「日向、影山にちゃんとお礼言った?」
「お、れい?」
「そうそう。内緒だけど、お前が戻って来ないの、一番心配してたの、影山だぞ」
 月島程ではないけれど、彼も大概苦しそうだった。目尻には涙まで浮かんでおり、可笑しくて仕方がないと言いたげだった。
 弾んだ口調で教えられて、日向は予想していなかった言葉に目を丸くした。
「え?」
 にわかには信じ難い情報に、驚きが隠せない。
 反射的に伸びあがって、日向はふたり席の片方を占領しているチームメイトを振り返った。
 影山は相変わらず機嫌が悪そうだったが、いつの間にか視線は窓に向かい、日向たちに背を向けていた。
 表情を見せないよう小細工をした青年に、彼は嗚呼、と頷いた。
 そう言えば探しに来てくれた礼を、きちんと告げていなかった。本当は嬉しかったし、ホッとしたのに、出会い頭で殴られたのに腹を立てて、感謝の気持ちをすっかり忘れていた。
 だとしても、それくらいで拗ねるなど。
「ほら、日向。早く座れ」
「うあ。は、い」
 茫然としていたら、菅原に腰を押された。促された少年はつんのめり、踵を浮かせてシート上部に寄り掛かった。
 もれなく影山の頭が下に来て、暗くなった視界を気にした彼と目が合った。
 一瞬だけ交錯した視線は鋭く、針のように尖っていた。
 怯みそうになったが、もたもたしていたらまた怒られる。これ以上烏養の機嫌を損ねるのは得策でなくて、日向は渋々首肯すると、影山と椅子の間に身を滑り込ませた。
 狭い隙間をカニ歩きで通り抜け、ようやくたどり着いた座席にどすん、と腰を落とす。埃が舞い上がり、嫌がった影山の眉が片方、持ち上がった。
「おい」
「あんがとな」
 もっと静かに座れと、そう言いたかったのだろう。
 目を吊り上げて口を開こうとした彼を遮り、日向は掠れるような小声で囁いた。
 影山にだけ聞こえた声に、彼の動きが一瞬で止まった。文字通り凍り付いた男を震わせて、バスのエンジンが回転を開始した。
 日向は歯を見せて笑い、シートベルトを装着した。カチリと音がするまではめ込んで、尻をもぞもぞさせて姿勢を安定させた。
 それを気まずげに見守って、影山は動き出したバスにため息を重ねた。
 深く背凭れに身を預け、右手を太腿の横で蠢かせる。
「……うろちょろ、してんじゃねーぞ」
「でも、影山だったら見つけてくれんだろ」
「俺の傍から離れてんじゃねえよ」
「わがまま」
「心配しなくても、テメーだけだ」
 直後、日向の肩がピクリと跳ねあがった。しかしそれだけで、つっけんどんな台詞も彼にしか聞こえなかった。
 きっぱり言い切られて、白かった肌が見る間に赤らんでいく。
「はずかしー奴」
「るっせ」
 ぼそりと言い返した日向の手を握り直して、影山は俯いてしまった恋人に肩を竦めた。

2015/3/17 脱稿

明日もやあらば 聞かむとすらむ

 未来から来た、という審神者なる者の言葉は、にわかには信じ難いものだった。
 人の呻き声と呪詛が交錯し、血煙が立ち込める戦場は、とうに昔のものになったという。
 骨を断ち、肉を斬り落とす。ただそれのみを求められた刀剣の役目は潰え、最早床の間に飾られるだけの身に落ちた事実は、到底受け入れられるものではなかった。
 しかし、信じざるを得なかった。時が操作され、己が主と共に歩んできた歴史が書き換えられようとしているのは、理解に苦しみながらも、認めるより他になかった。
 事実、刀でしかなかった存在が、こうして肉を持ち、意志を持って自在に動き回れている。
 世は不可思議な事だらけ。
 けれどそれが、面白い。
 頭は追い付かずとも、再び輝ける場を与えられたことは、素直に喜ばしいと言うしかない。大事に守られ、飾られるのも良いが、矢張り刀剣として生まれた以上は、戦場に出られる方が嬉しかった――喩え斬る対象が、人から異形の類に変わろうとも。
 とはいえ、今はまだ、ことは始まったばかり。
 頼みになる仲間はおらず、こちらも得たばかりの身体の扱いに慣れていない。戦に出れば傷を負い、手当てに手間取らされてばかりだった。
 それ故に、だろうか。
 審神者に誘われたのは、刀鍛冶師の庵だった。
 ここで新たな刀剣を召喚すると教えられた。お前もそうだったのだと囁かれて、辺りを見回してみたが、記憶は曖昧だった。
 だが言われてみれば、そうだったように感じた。妙に懐かしいとでも言おうか、覚えがある気がした。
 それでいて、いやに不安を呼び起こさせる場所だった。
 之定によって磨き上げられた場所とは違うからか。片隅に設置されている火炉を一瞥して、歌仙兼定は肩を竦めた。
 依頼札を手に刀工と交渉している審神者は、彼らに委ねる資源をあまり揃えられなかった、と言っていた。だから強い者はあまり期待出来ないが許してくれと、庵を訪ねる前から言われていた。
 許すもなにも、主の命には逆らえない。
 結果がどうであれ、従うだけ。それが武器の務めだった。
 交渉がまとまり、刀工たちの作業が始める前、審神者からひとつだけ手を貸してくれるよう頼まれた。戦列に加わってくれる刀剣を喚び出すのに、既に現れているお前が手引きして欲しい、という話だった。
 無論、断る理由はない。
 快諾した後、審神者はひと言付け足した。
 共に戦うのはお前だから、お前が共に戦いたいと思う相手を、願っておくれ、と。
 随分と融通を利かせてくれる主だとは思ったが、言わずにおいた。その通りになるとは限らないけれどね、と直後に釘を刺されたのにも、一因がある。
 なかなかの食わせ者だ。霞でも食べて生きて来たのか、これまでの主と違い、相当に扱い辛い相手だった。
 苦笑して、考えてみる。仲間に求める条件として真っ先に浮かんだのは、雅を解する者が良い、という願いだった。
 多少弱くても構わない、それは鍛えれば良いだけの話だ。けれど考え方や行動理念は、そう簡単には覆せない。
 共に戦場に出て、背中を預ける事にもなるだろう。どうせなら反目するのではなく、笑いあえる相手であって欲しかった。
「そうだね。……努力しよう」
 具体的な顔は浮かばないが、方向性は見いだせた。
 首肯すると、すぐさま儀式が始まった。槌の音がこだまして、庵は異様な熱気に包まれた。
「僕も、こんな風に生まれたのかな」
 それを遠くから眺め、ぽつりと呟く。
 彼らが具体的に何をやっているかは分からないけれど、あんな風に職人に熱を込められ、真剣に誕生を望まれるのは、案外悪い気はしなかった。
 新しくやってくる子も、己が喚ばれた事に最初は戸惑い、驚き、混乱するだろう。
 それを導くのが、既に喚ばれ、状況を把握出来ている己の仕事だ。
 先輩風を吹かせてやれるのは、存外に心地良い。鉄が打たれる音も慣れれば心地よく、面白かった。
 時間が掛かるので、外を出歩いても構わないとは言われていた。しかし退屈とは思わなかったし、刀剣に意志が降りる瞬間を、この目で見届けてみたかった。
 審神者の傍を離れるのも気が引けた。あちらは真剣な顔をして、刀工達の手元をじっと見詰めていた。
そのうちに、どこからともなくざわめきが生まれた。
 不可思議な光も見えた。外の小鳥に気を取られていた歌仙兼定は慌てて振り返り、足をもつれさせながら審神者の傍へと駆け寄った。
「な、に……――っ」
 桜が散った気がした。
 幽玄の幻を見た。
 光が爆ぜ、目を開けていられなかった。
 堪らず仰け反り、顔を覆う。袂で熱を遮り、恐る恐る瞼を開く。
 沈黙が広がっていた。誰もが息を顰め、事の流れを見守っていた。
 腰を抜かした若い刀工がいた。玄人は流石に肝が据わっていて、重い槌を手に、瞬きひとつしなかった。
 そのうちに、審神者だけが音もなく前に出た。右手を宙に差し出して、何かを掴み取る仕草を取った。
「これは、これは……」
 すると、その手を握り返す手が現れた。
 歌仙兼定自身、驚きを隠せなかった。
 今まさに打ち上がった刀が淡い光を帯びたかと思えば、見る間に形を得て、人の姿となって現れた。白く、細い体躯が現世に招かれて、その足で、広大無辺の大地を踏みしめた。
 それはとても小さく、とても儚げな姿だった。
 そして、なにより。
「随分と、みすぼらしいな」
 思わず自分の格好と、相手の格好とを見比べてしまった。率直な感想は隠す間もなく声に出て、一瞬だけ、大粒の眼が眇められた。
 睨まれた。生意気にも鋭い眼光に反発して、歌仙兼定は口元を歪めた。
 しかしあちらは、応戦して来なかった。興味が失せたのか正面に向き直り、待ち構えていた審神者を胡乱げな眼差しで見上げた。
 背は、低い。栄養が足りていないと分かる脆弱な手足に、解れや破れが目立つ藍の袈裟。背には大きな笠を負い、高く結い上げられた髪は伸び放題だった。
 年の頃は、元服の前。幼い見た目で、手にしているのは反りのない短刀だった。
「いやはや」
 どうやら新たな仲間にと込めた願いは、悉く無視されてしまったようだ。
 こればかりは運が左右するので、審神者や刀工たちを責める気は起きない。済んでしまったことは仕方がないと己を諫め、歌仙兼定は緩く癖付いている前髪を梳き上げた。
 前方では審神者が、藍の髪の少年に事情を説明していた。
 小さい子が相手では、きちんと理解してもらえないと踏んだらしい。重要な部分だけを掻い摘んで、平易な言葉で語られて、やがて短刀の少年は小さく頷いた。
 そして、名を問われ。
「僕は、小夜左文字」
 一瞬だけだが、再度視線を向けられた。こちらを気にする素振りを見せた後、彼は身体の割には低めの声で、感情を抑えこむかのように短く告げた。
 審神者が浅く頷いた。
 だが満足そうに微笑んでいたその顔は、瞬く間に苦悶に歪められた。
「あなたは……誰かに復讐を望むのか……?」
 優しげだった表情が消え、胸の裡を読ませない複雑なものに切り替わった。歌仙兼定も聞こえた言葉に眉目を顰め、粗末な身なりの少年を上から下へと眺めた。
 磨けば愛らしくもなろうが、強張った頬や、剣呑に尖った眼差しが、彼の置かれていた環境を物語っていた。
 良い主に恵まれなかったらしい。全身から滲み出る負の気配は痛烈で、傍に居ると息苦しさを覚えるほどだった。
「まったく。雅さの欠片もない」
 望んでいたものとは、正反対も良いところだ。ここまで当てが外れてしまうとなると、今後審神者には、別の者を連れていってもらうしかあるまい。
 肩を落とし、顎を撫でる。
「いや、だが。……左文字?」
 思案に眉が寄ったのは、危うく聞き逃すところだった彼の名を、心の中で諳んじたが為だった。
 左文字の名なら、耳に覚えがあった。
 今川に由来し、魔王と称した織田の手に渡った打刀に、その銘を持つものがあった筈だ。他にも、北条に所縁を持つ太刀があると聞き及んでいた。
 そして、小夜という名を与えられた短刀。
 ひとつの名をきっかけに、次々に古い記憶が蘇ってくる。流れる景色は悲喜こもごもであり、庭師を手打ちにする男の高笑いでぷつりと切れた。
「なるほど。復讐、か」
 忌々しい血の臭いを嫌い、歌仙兼定は目を眇めた。
 審神者と小夜左文字の会話はまだ続いていたが、審神者が一方的に喋るばかりで、話が通じているのかどうかは謎だった。
 幼子の表情は物憂げであり、陰鬱で、能面のようだった。
 親を奪われた子が成長を遂げ、ついに仇を打ち、形見を取り戻す。
 見方を変えれば、成る程、復讐劇に相違ない。ならばあの子は、長く本来の主の手を離れていたが故に荒み、あのようになったのだろう。望まれて、主を変えて、その後民の為に金に換えられてしまった事も、少なからず影響を与えていると思われた。
 知る限りの来歴を思い浮かべ、歌仙兼定は耳の付け根を掻いた。顎を指でなぞって嘆息し、立ち上がった審神者に合わせて背筋を正した。
 屋敷へ戻る旨を告げられ、同時に世話を任せると小僧を押し付けられた。背を押された小夜左文字は軽くふらつき、小さな足で地面を擦った。
「あ、……」
 これまでは誰かの手に握られ、振るわれるのみの存在だった。
 己の足で立ち、己の足で歩く日が来るなど、考えもしなかったという顔だった。
 ここからどう動けば良いのか。
 何をすれば良いか分からない。そう言いたげに見上げられて、危うく噴き出すところだった。咄嗟に口を塞いで顔を伏し、歌仙兼定は仕方なく左腕を伸ばした。
「おいで」
「……触るな」
「おや、つれないことを言う」
 不慣れだから手を貸してやろうとしたのに、あっさり拒まれた。もっともその返答は、最初から想定していたものだった。
 跳ね返された指先を撫で、彼は踵を返した。ようやく慣れて来た身体で審神者の後を追い、途中でちらりと振り返れば、片付けを開始した刀工たちに取り囲まれた少年が、困惑顔で立ち尽くしていた。
 いざ意識して歩こうとすると、どういう順序でやればいいのか分からないのだろう。人間たちなら特別問題なく果たせる事も、元が刀剣の身では、巧くいかないことだらけだった。
 恐る恐る、擦り足のまま前に出ようとする不格好さだけなら、年相応の子供と変わらない。苦笑を禁じ得ず、歌仙兼定は来たばかりの道を戻った。
「おいで、小夜」
「……くっ」
「怖がらなくて良い。僕は歌仙兼定。君と同じ、審神者に喚ばれた者だよ」
 改めて右手を差し伸べ、掴み取るよう促す。屈辱に歪められた口元を嘲笑い、警戒する必要はないと諭して、左手は胸に添えた。
 簡単な説明を受け、小夜左文字の瞳が揺らいだのが感じられた。
 信じるべきか、否か。
 信じられるか、どうか。
 探られているのを敏感に読み取って、歌仙兼定は頬を緩めた。
 出来得る限りの優しい笑みを浮かべ、子供をあやす。血濡れた刃が器用な真似を、と自虐を心に浮かべながら、長い逡巡を経て、解かれた拳を掬い上げる。
 細い手首は容易く折れそうで、荒れ放題の爪は小さかった。
「復讐が、果たせるのなら……」
「そうだね。その為にも、まずはその身体に慣れなさい」
 誰に対してか言い訳を口にし、頼る理由を模索していた。ならば利用する手はなくて、歌仙兼定は理屈を捏ねて脆弱な身を引き寄せた。
 すっぽり覆い尽くせてしまえそうな手を握り、繋いで、庵を出る。審神者は少し離れたところに立って、こちらの動向を窺っていた。
 そして小夜左文字が歌仙兼定と一緒に出て来たと知ると、即座に歩き始めてしまった。
「つれないお人だ」
 どうやらこの子の世話は、本格的にこちらに任せる気でいるらしい。
 あちらはあちらで大変なようだが、子供の世話を押し付けられる身にもなって貰いたかった。
 肩を竦め、屋敷のある方角を見る。
「では、帰ろうか」
 囁けば、即座に問いが返された。
「どこへ」
「僕たちの、当面の住処だよ」
 空は明るかった。木々の緑が眩しく、鳶らしき鳴き声がした。
 犬の遠吠えが五月蠅い。庵から続く道は細く、曲がりくねっているので、審神者の背中はすぐ見えなくなった。
 どこへ向かおうとしているのか。
 どこへ行けばいいのか。
 不安げな藍の眼差しが、陽の光の下で輝いていた。歌仙兼定は苦笑して、木立の陰に見え隠れする邸宅を指差した。
 もっとも彼では背丈が足りず、見えないかもしれない。教えてやってから思い至って、案の定怪訝にしている小夜左文字に相好を崩した。
 そして。
「……なっ、なにを!」
「不慣れな身体では、動き辛かろう。転んで刃毀れされても困るんでね」
「おろせ。おい。僕に触るな!」
 おもむろに膝を折り、小さな体躯を掬い上げた。
 思った通り、驚くほどの軽さだった。背負われた笠が多少邪魔ではあるが、抱え持つ分には問題なかった。
 暴れられるのも、想定の範囲内だ。こうして行く方が、疲れはするけれど、足元を気にせずに済む分、楽だった。
「君に合わせていたら、夜になってしまう」
「うる、さい」
 屋敷と庵はそれほど離れているわけではないが、彼の歩幅を考えると、結構な時間が必要そうだった。
 ましてや慣れない人の身だ。先ほどの台詞は、嘘偽りない本心だった。
 これから戦場に出て貰わなければいけないのに、何もないところで転んで、刀身に傷が入るのは困る。その強さにさほど期待はしていないけれど、誰も居ないよりはましだった。
 彼の世話は、審神者から正式に任せられている。どう扱おうと、こちらの自由だ。
「暴れると落ちるよ」
「殺してやる」
「出来るものならね」
 赤子を躾けるつもりで接すれば、じゃじゃ馬も少しは大人しくなるだろう。実際、小夜左文字はしばらく手足をばたつかせたが、少し待つうちに息が切れて、すっかり動かなくなった。
 体力の少なさには、問題がありそうだった。
「仕方がない。今晩は腕によりをかけて、食事の用意をしようか」
 刀剣を鍛える素材が少なかろうと、食材には関係ない。野良作業は嫌いだが、野菜や穀物を美味しく仕立てあげるのは得意だった。
 腹が減っては戦が出来ぬ。
 物事を考えるのも、身体を動かすのも、胃袋が満たされていなければ、上手く行くわけがなかった。
 呵々と笑い、歌仙兼定は膨れ面の小夜左文字を抱え直した。
 米俵を担ぐ真似をして肩まで持ち上げ、ずり落ちた笠が背中側で藍色の髪を隠すのに破顔一笑する。
「……殺してやる」
「僕以外の奴らに、よろしく頼むよ」
 物騒な台詞を吐かれたが、意に介さない。軽く受け流して、彼は軽すぎて逆に不安になる体躯を運ぶべく、歩き出した。
 親殺しの仇を討ち果たしたのに、それを復讐と言って憚らない。
 子供らしい部分は姿形だけで、眼差しも、口ぶりも、操る言葉でさえ、見た目から乖離している。
「もっと無邪気であればいいものを」
 どうしてここまで捩れ、曲がってしまったのか。
 垣間見た刀身は短くとも真っ直ぐで、穢れなき輝きを放っていたというのに。
 なんと嘆かわしく、そしてなんとも美しい。
 瞼を下ろせば、蓮の花が思い浮かんだ。
 泥の池の深く根を張って、かの花は水面より出る場所でのみ、可憐に着飾っていた。
 成る程。艶やかで、雅である筈だ。
 思いを巡らせ、悦に入って頬を緩める。直後に力を取り戻したか、無粋な拳が脇腹を打った。
「絶対、殺してやる」
 胴台の上から殴られたので、防具が衝撃を吸収したし、元々小夜左文字の体勢が良く無かったのもあって、あまり痛くなかった。残念ながら姿勢を崩すところまではいかなくて、やり過ごした歌仙兼定は目を眇めた。
 可愛くない事ばかり口にする背をぽんぽんと撫で、獣の如く唸っている子供を宥める。屋敷は間近に迫り、地に馴染んだ足取りは軽やかだった。
 調子よく歩みを刻み、歌仙兼定は通用門を潜って中に入った。軽く前屈みになったついでに小夜左文字を下ろしてやれば、上手く立てなかった子供は尻餅をついて倒れ込んだ。
「おやおや」
「自分で、立てる」
「そうであって貰わないと、困るからね」
 呆れていたら、手を差し出す前に牽制された。強がって威嚇されて、歌仙兼定は笑みを噛み殺した。
 ここまで運んでやったのだから、後は本人次第。
 使えるか否かの判断はこれからだと手を振って、彼は帰還の報告をすべく、審神者が待つ部屋へ向かった。
 面倒を見るよう言われているが、四六時中一緒にいろ、とは頼まれていない。屋敷に連れてくる、という最低限の責務は果たしたのだから、ここに捨て置いても、文句を言われる筋合いはなかった。
 後ろからは、立ち上がろうとして失敗し、転んで膝を打つ音がした。呻き声や鼻を啜る音も聞こえて、悔しさに奥歯を噛む表情が楽に想像出来た。
 ああいう手合いは、構い過ぎると逆に腐る。
 適度に放置して、反骨精神を刺激してやる方が良策だった。
「さて、蓮は咲くかな」
 泥水に突き落として、水面に這いあがってくるかどうかは知らない。けれど蕾をつければ、さぞや美しい、大輪の花が拝めるだろう。
 そうなれば面白い。
 先が楽しみだと嘯き、屋敷へ上がる。後ろは振り返らず、本日の予定の残りを片付ける。
 丹精込めて調理して、三人分用意した食事の場に、けれど彼はついに現れなかった。
 どこかへ逃げ出したか、絶望して自らの命運を終わらせたか。
 審神者は困った顔をしていたが、格別五月蠅くは言ってこなかった。ただもっと大事にするよう諭されて、可愛げが生まれたなら応じる、とだけ返しておいた。
 冷えた飯を膳ひとつに残し、空になった食器は全て片付ける。日が沈んで月が明るく照る時間になっても、小さな獣が現れる気配はなかった。
「まったく。どこで野垂れ死んでいるのやら」
 朝が来たら、探しに行くしかなさそうだ。
 審神者の機嫌を損ねるのは、あまり良い判断ではない。昼間に見た庵の炉が脳裏を掠めて、歌仙兼定は床の支度をしながら嘯いた。
 戦仕度を解き、後は太陽が東から顔を出すまで休むだけだった。
 刀剣風情が就寝とは笑い草だが、人の身体というものは何かと不便だ。定期的に睡眠時間を確保して、一定量の食事を摂らなければ、途端に力が発揮出来なくなる。
 血濡れたまま放置し、手入れを怠った刀剣が錆びるのと同じようなものだ。
 万全の状態を維持するには、手間暇を惜しまない。植物も、動物にも、勿論刀剣にも同じことが言えた。
「面倒臭いのが増えたものだ」
 この先、もっと数が増えたらどうなるのか。
 少しばかり憂鬱になり、歌仙兼定は長燭台の火を吹き消した。
 刹那だった。
「――っ」
 獣の唸り声が聞こえたかと思えば、凄まじい殺気を全身に感じた。咄嗟に左手は枕元に伸びて、寝かせていた打刀を掴み取った。
 鞘から抜くのは間に合わない。
「くっ!」
 黒い影が奔り、縁側と室内を仕切る障子戸が突き破られた。脆い木組みが吹き飛んで、月明かりが歌仙兼定の瞳を貫いた。
 否、それは月光などという優しいものではない。
 冴えた刃の煌めきに総毛立ち、彼は片膝を立てて鞘ごと刀剣を構えた。
「つぅ!」
 衝撃が走った。僅かに鞘から顔を覗かせた刀身に、切っ先鋭い短刀の先端が跳ね返された。
 ギィンッ、と嫌な音が鼓膜を引き裂いた。歌仙兼定は後ろに傾く向く身体を強引に引き戻し、崩れかけた体勢を整えた。
 吹き飛ばされそうになった上半身を留め、肺に蓄積された息を一気に吐く。攻撃に耐えた手首から肘の手前までが痺れ、全身に電流が駆け抜けた。
 歯を食い縛って肩を上下させて、彼は距離を取り、縁側の手前に着地した襲撃者に眉目を顰めた。
 抜身の短刀が異様に眩しく、禍々しく輝いていた。
「これは、……参ったね」
「殺す」
 たったそれだけで、相手が誰なのかが理解出来た。無残に破られた障子戸を素足で踏んで、小夜左文字は短くも分かり易い宣告を発した。
 防御があと少し遅ければ、彼の短刀は歌仙兼定の胸を躊躇なく貫いていた。
 心の臓の位置を、恐ろしいほど正確に把握している。少ない力で確実に相手を仕留める術を、彼はあの齢で熟知していた。
 育てれば恐ろしい獣になる。
 どこが弱いものか。何が願ったものとは正反対だと、歌仙兼定は己の運の無さに唾を吐いた。
「殺す。殺してやる」
「おっと」
 しかし、くよくよしていたところで始まらない。
 殺気立った少年は、とうの昔に臨戦態勢に入っていた。腹の底から絞り出された声で我に返り、歌仙兼定は闇雲に突っ込んできた体躯を右に躱した。
 直線的な攻撃は、当たれば痛いが、反面軌道が読み易い。避けるのは簡単で、矢張り子供だと鼻で笑おうとした矢先だ。
「がぁああ!」
「うお、っと、た、っと」
 細く白い足が畳を削って強引に勢いを殺した上に、無理矢理腰を捻って攻撃に転じて来た。
 予測していなかった場所から刃が突きつけられ、歌仙兼定は慌てて間合いの外へと後退した。しかし追撃は緩まず、銀の閃光が暗闇を、幾重にも切り裂いた。
「殺す。殺す。殺してやる!」
 獣の咆吼が止まない。避ける一方では埒が明かず、抜くべきか否かと躊躇して、歌仙兼定は渾身の一撃を寸前で躱した。
 切っ先が鼻先をすり抜けた。一瞬の逡巡を経て、彼は打刀を手に、長い足を繰り出した。
「ちぃっ!」
 舌打ちが聞こえた。防戦一方だったものが突如攻勢に転じて来て、警戒する気配が感じられた。
 歌仙兼定とて、主導権を奪われたままではいられない。子供相手に本気になるのは大人気ないと思うが、悪さをする子供を叱るのも、大人の務めのひとつだった。
「さあて。どうやって、お仕置きしてあげようか」
「ぐるぁああああああ!」
 とはいえ、狭い屋内で短刀を相手にするのは骨が折れる。下手に反撃して、不用意に傷を付けたら、審神者からの評価もがた落ちだ。
 炉に溶かされるのだけは、遠慮願いたい。そんな事をあれこれ考えているうちに、雄叫びを上げた幼子が刃を手に、突進を開始した。
 馬鹿のひとつ覚えか。
 所詮は子供と、既に見切られている攻撃を繰り出して来た彼に呆れていた矢先だった。
 簡単に避けられると思っていた歌仙兼定の不意を衝き、小さな体躯が突如眼前から消え失せた。
「――うっ」
 直後、足下から月光が湧き起こった。
 猛進してきた事自体が、囮だった。こちらが後ろへ下がると見越して寸前で身体を捻り、前進の勢いを殺して上昇に転じたのだ。
 顎から鼻筋を一直線に切り裂く刃を直前で回避して、歌仙兼定は胴に別れを告げた前髪数本に奥歯を噛んだ。
 暢気に構えている場合ではない。柄に手を添え、彼は短刀を構える少年との距離を一気に詰めた。
「っ!」
 刀が抜かれるものと思い込み、防御に転じようとした小夜左文字が目を見開く。その一瞬の隙を狙い、歌仙兼定は柄を手放して細い手首を横薙ぎに払った。
 武具を取る指先を痺れさせ、攻撃力を削ごうと試みた。しかし小夜左文字は僅かに状態を揺らしただけで、愛刀を握る手は固く閉ざされたままだった。
「もう一度だ」
「ふざけ――っあ!」
 それでも歌仙兼定は懲りず、追撃を仕掛けようとして前に出た。わざわざ次の手を叫んで教えてくれたと感謝して、小夜左文字は刀を守る体勢を作り上げた。
 それを。
 横から繰り出された脚に、敢え無く崩された。
 脹脛を払われ、可愛らしい右足が宙に浮いた。不意打ちで支えを失った体躯は空を泳ぎ、左手が何かを掴もうと蠢いた。
 悪足掻きだと思った。
 腰を大きく捻ったままでは、受け身さえ取れない。床に落ちれば衝撃で息が詰まり、軽い身体は数回跳ねて動きを止める。
 勝負は決したと、気を緩めたのは確かだった。
「ぬあ――!?」
 次の瞬間、歌仙兼定こそが床に転がっていた。
 何が起きたのか、すぐに理解出来なかった。小夜左文字の身体を目で追っていたら、突如薄暗い天井が眼前に突き付けられた。
 ずるりと足元が滑ったのだけは覚えているが、そもそも床が容易く動くわけがない。
「しまった」
 けれど、彼は思い出した。
 部屋には自らが就寝すべく用意した、薄手の布団が敷かれていた事を。
 小夜左文字は落下のどさくさに紛れ、敷布団を掴んだのだ。そして己の身体を庇うと同時に、歌仙兼定の足場を崩すべく、思い切り引っ張った。
 隙を衝かれたのはこちらで、閉鎖空間での戦闘はあちらが一枚上手だった。
「まったく、雅じゃないね!」
 但し、落ち込んでいる暇はない。反省は夜が明けてからたっぷりする事に決めて、彼は悪態をつくと、上段の構えで飛びかかって来た子供の土手っ腹を蹴飛ばした。
「ごふっ」
「悪く、思わないでくれよ」
 大人げないとは思うが、彼を相手に刀を抜くわけにはいかなかった。ありったけの力を込めて弾き飛ばせば、華奢な体躯は毬の如く跳ねて、隣の部屋と繋がる襖に激突した。
 破れはせず、襖ごと後ろへと倒れ込んだ。埃が舞い上がる。月明かりさえ届かない場所に落下されて、歌仙兼定は口元を押さえながら舌打ちした。
 あれしきで諦めてくれる相手なら、人の寝入り端を襲ったりしない。邪魔でしかない布団一式を部屋の隅へと蹴り飛ばして、彼は足の裏に残る柔い感触に臍を噛んだ。
 あばら骨の一本や二本は、折れているかもしれない。あの状況下では、手加減してやる余裕はどこにもなかった。
 気を抜けば、本当にこちらが首を狩られていた。
 警戒を怠ることなく起き上がって、彼はじんじん痛む背中や臀部から意識を引き剥がした。
 吐く息は荒く、熱を帯びていた。鼓動は加速して、心臓が破れてしまいそうだった。
「どこから来る」
 倒れた襖は一枚ではない。光が届かず暗いので、闇を隠れ蓑にするにはにうってつけだった。
 隣室から表に回り込み、縁側から再度襲ってくる可能性も否定出来ない。
 左右を慌ただしく見回し、歌仙兼定は己の呼吸を数えた。
 心を鎮め、落ち着かせようと試みる。打刀は鞘のまま左手に握りしめ、いつでも抜けるよう、一応は身構える。
 けれどあの子は、あれで仲間だ。審神者に喚ばれ、現世に招かれた数少ない同朋だ。
 無用に傷つけるのだけは、是が非でも避けたかった。
 しかし彼の攻撃力の高さや、咄嗟に機転を働かせる知恵は、既に証明されていた。
「いやはや、雅な名に相応しからぬその実力。認めるしかないね」
 流石は左文字の銘を持ち、武芸百般を修めた男の元に在っただけのことはある。
 たとえ短刀であっても、侮ってはいけなかった。
 歓喜とも興奮ともつかぬ感情を漲らせ、歌仙兼定は口角を歪めた。
 傷つけることは出来ない。
 だが許されるなら、是非とも斬ってみたかった。
 血濡れた泥の池に咲く、あの青い蓮を。
 願わくはこの手で、摘み取りたい。
 そして飾り、愛でるのだ。
 これほどに優美で、風流な楽しみは、決して他では味わえない。
 背筋がぞくぞくした。前の主の望みのままに、三十六人もの臣下を手打ちにした記憶が蘇った。
「殺すっ」
「そこだね!」
 武器としての衝動が抑えきれない。呼応するかのように、強い殺意が歌仙兼定に躍りかかった。
 背後から、不意打ちを狙って刃が振り下ろされた。小柄な体躯を逆手に取り、屋内でありながら高く跳び上がって、落下の勢いさえも利用していた。
 全体重を掛けて、重い打撃で頭部を狙って来た。もっとも歌仙兼定とて、簡単に食らったりはしなかった。
「ぐっ」
「がああああああ!」
 即座に反応し、頭上に刀剣を翳す。最初の一撃同様鞘から僅かに抜いた刀身で受けて、力勝負で押し切った。
 ただあちらも反省したようで、簡単には吹き飛ばされてくれなかった。
 一打を受け止められた瞬間、後ろに跳ぶ用意が出来ていた。くるりと空中で一回転したかと思えば、着地と同時にまたも突っ込んできた。
「くそっ」
 たった数時間で、よくぞここまで、自在に動けるようになったものだ。
 最初は歩くのもやっとで、走るなどもっての外、という有様だったというのに。
 凄まじい執念を見た。復讐に囚われた鬼の形相を目の当たりにして、歌仙兼定は上唇を舐めた。
「参ったね。これは、全部を流すのは難しいか」
 気が付けば、頬に、腕に、無数の切り傷が出来ていた。
 皮を一枚削がれただけで、さほど痛くない。そこかしこから血が滲んでいるが、じき止まると思われた。
 こちらがどうやっても刀を抜かないと見越して、攻撃方法を変えて来た。大振りの一撃を減らして、手数で勝負を挑まれた。
「殺す。殺す。ころす!」
 彼の突きには迷いがない。躊躇がない。遠慮がない。
 想いがない。
 うわ言のように繰り返される言葉はこの身すり抜けて、虚空へと吸い込まれていった。
 小夜左文字が殺したいのは、歌仙兼定ではない。
 けれど此処には、歌仙兼定しかいない。
「哀れだね」
 傷口を撫で、拭い取った赤を舐める。噛んだ爪は硬く、味はしなかった。
「殺してやる!」
 腹の底から声を響かせ、雄叫びを上げた子供が短刀を振り翳した。逆手に握り、これが最後の一撃とばかりに突っ込んできた。
 闇雲な突進は、己の命を顧みない捨て身の攻撃だった。
 相討ち本望と目を血走らせ、獣と化して咆哮する。歌仙兼定は奥歯を噛み、腹の奥で息を留めた。
「そういうのは、ちっとも雅じゃないんだよ!」
「ぐがぁああぁ!」
 諦念とも、落胆ともつかない感情が胸に渦巻いた。喉が引き裂かれるような叫びにかぶりを振り、彼は後先考えない一撃に向かって。
 微塵も動かず、正面から睨みつけた。
「っ!」
 死ぬかもしれないというのに、臆する気配はなかった。それどころか生死の分かれ目を面白がり、愉しんでいる雰囲気さえ感じられた。
 狂っていた。
 口角を持ち上げて哂い、鬼気迫る獣を逆に飲み込もうと牙を剥いた。
 瞬き一度にも満たない時間だった。
 怒りに我を失いかけていた小夜左文字ははっとして、目前で見失った男を追いかけ視線を巡らせた。
 心が弛んだ。たたらを踏んで、瞬時に地に叩き落された。
 今度は避けようがなかった。刃が触れるぎりぎりのところで躱されて、首の後ろに打撃を喰らってしまった。
 手刀だった。僅かな時間だったが脳への血流が途絶え、目の前が真っ白に塗り潰された。
「しま……っ」
「子供は、おねんねの時間だよ」
「馬鹿に、するなあ!」
 悔しがっても、手遅れだった。うつ伏せに床に沈められて、抵抗したが無駄だった。
 刀を握る腕を拘束され、関節を逆方向に捩じられた。身動きを封じて背中側に押し付けられて、必死に抗うが、指先が緩むのを止められなかった。
 このままだと、短刀を手放してしまう。
 それは文字通り、負けを意味した。己が半身である武器を失うのは、耐え難い屈辱だった。
「はな、せ」
 歯を食い縛り、小夜左文字は吠えた。鼻の穴を膨らませ、荒い息を吐きながら歌仙兼定を睨みつけた。
 けれど男は聞く耳を持たず、暴れ回る脚をも膝で踏みつけた。四肢の自由を奪われて、残る術は射殺す勢いでねめつける事だけだった。
「まったく……」
 少しでも隙が生まれないかと期待するが、効果は無いに等しかった。
 こうまでしても、反抗的な態度を崩さない。男は呆れ調子で嘆息すると、何を思ったか、不意に束縛を解いて後ろへ離れた。
 意味が分からなかった。けれど、この好機を逃す手はなかった。
 罠だと知っていても、飛び込むしかなかった。
 他に出来ることはなかった。
 目の前の存在を殺す。それが果せたら、この身がどうなろうと構わない。
 憐憫の眼差しが癇に障った。
 仇を追い求め、復讐に全てを捧げた主の生きざまを、単に『美しい』のひと言で片付けられるのが納得いかなかった。
「死ねぇ!」
 気に入らない。
 だから殺す。
 殺して、それで。
 それで――――
「はいはい」
 ぷつりと、音を立てて糸が切れた。
 声はどこまでも穏やかで、冷え切った身体を包む熱は優しかった。
 真っ直ぐ突き出した腕はその状態で凍り付き、短刀を掴む指先はかたかたと震えていた。切り裂いたはずの肉は幻で、皮一枚裂いた程度の切っ先は、虚空を貫き、闇を見据えていた。
 避けられた。
 だが、避け切られはしなかった。
 敢えて受けた。
 甘んじて、小夜左文字を受け止めた。
 打刀を手放した両腕で、背中を大事に抱きしめられた。先ほどのような荒っぽい束縛とは正反対の、母が子を抱く仕草だった。
 世界が揺らいだ。
 訳が分からなかった。
「な、に……を」
「言っただろう。子供は寝る時間だ。勿論、大人もだけどね」
「ふざ、っけ」
「冗談ではないさ。昨日の今日で、君は疲れている。今の君に一番必要なのは、刃を振りかざす事ではなく、ゆっくり休むことだよ」
 柄を握り直し、まっすぐ伸びた腕を返せば、即座にこの男を貫ける。容易い事だ。躊躇する理由はなかった。
 だのに身体が動かなかった。
 関節は膠で固められ、指の一本さえ自由にならなかった。
 歌仙兼定の首は左肩の上にあった。背を丸め、姿勢を低くして、幼い小夜左文字に寄り添うように屈んでいた。
 拘束する力は弱かった。
 抜け出せない強固さはなかった。
 いつでも離れられる。いつでも逃げられる。
 そんな力加減だった。
 すぐ傍に命を掠め取る刃があるというのに、まるで気にする素振りを見せなかった。
 肝が据わっているのか、単に愚かなだけなのか。
 判別がつかなくて、小夜左文字は頬を引き攣らせた。
 膝が震えた。顔を上げ続けるのが辛く、出来なかった。
「……っ」
 自然と指が解けた。獲物を見失った短刀は空を裂き、畳に真っ直ぐ突き刺さった。
 物騒なものを手放したと知って、歌仙兼定は控えめに笑った。
 その衿を握りしめて、小夜左文字は偉丈夫の肩に突っ伏した。
「明日、だ!」
 押し殺すように宣言されて、男は苦笑した。抑えきれなかった声を漏らし、しがみついてきた幼子の背中を数回、優しく叩いてやった。
 突然現世に喚び出され、事情を説明されたところで上手く飲み込めないのは分かる。混乱し、困惑し、何をどうすれば良いのかと、戸惑う気持ちは痛いくらいに理解出来た。
 今までは人の手に命運を握られ、一方的に振り回されて来た。
 突然自分の意志で、立って、歩き、刀を振るえと言われても、簡単に出来るものではなかった。
「困った子だ」
 次から来る刀剣たちも、彼のようだったらどうしようか。
 涙を堪え、嗚咽さえ漏らさぬ小夜左文字を宥めながら、歌仙兼定は四肢の力を抜いて腰を落とした。
 愚痴を零せば、肩を殴られた。拳に力は籠らず、衝撃は驚くほど軽かった。
 呵々と笑えば、今度は首を絞められた。両側から腕を回され、苦しくなるほどに抱きつかれた。
 その間、小夜左文字は一切顔を上げなかった。表情を見せまいとして、覗き込んでも拒まれた。
 可愛げが芽生えたかと思えば、矢張り可愛くない。
 肩を落として首を竦め、歌仙兼定は風通しが良くなった室内に目尻を下げた。
「片付けも、明日だね」
 布団は踏み荒らされ、蹴飛ばされ、元の位置から遠く離れた場所に移動していた。床には障子戸や襖が散乱し、賊にでも入られた後のようだった。
 これではゆっくり休めない。
 しかし膝に乗る小夜左文字は、一向に離れようとしなかった。
 布団を敷き直すのも、よその部屋に移るのも難しかった。どうしたものかと思案して、彼は月明かりに目を眇めた。
「まあ、いいか」
 雑魚寝したところで、少々身体が痛むだけだ。敵に襲われる危険もなくなって、安心して眠れそうだった。
 振り向けば、短刀はまだそこに突き刺さっていた。それだけは引き抜いてやって、彼は見つからない鞘の代わりに、己の打刀を傍に添えた。
 小夜左文字は何も言わなかった。小さな手をぎゅっと握って、顔を伏し、目を閉じていた。
 その拳をそっと解いてやって、歌仙兼定は床を軽く叩き、身を横たえた。
 眠る子は静かで、とても暖かかった。
「明日から、よろしく頼むよ」
 柔らかな頬を擽り、そっと囁く。
 返事はない。朝になればとても言えそうにない台詞に苦笑して、歌仙兼定も目を閉じた。

 審神者が居と定める屋敷は広いが、部屋の数には限りがあった。
 刀剣たちが増えれば、それだけ部屋が必要になる。しかし個々に与える余裕はなく、もし兄弟刀があるようならば、ひとつの部屋を共有するよう定められていた。
 お蔭で藤四郎たちの部屋は大変だ。他より広めの部屋を宛がわれているものの、朝に、昼に、常に大騒ぎだった。
 悠々一人部屋を満喫していた刀剣たちも、次第に肩身が狭くなっていく。危惧していたことが現実となり、歌仙兼定は頭を抱えた。
「兼さん、やったね!」
 堀川国広の上機嫌な声がこだまし、彼の頭痛をより酷くさせた。その前方には大柄の、髪の長い男が居丈高に立っていた。
「待たせちまったようだな、堀川」
「うぅん。きっと来てくれるって、信じてたよ」
 かつては同じ主に仕え、共に戦った身の上だからだろう。戦列に加わって既に長い堀川国広は、底抜けに嬉しそうだった。
 和泉守兼定。
 彼は之定と流れを同じくする刀工の手によって、後の時代に生み出された一振りだった。
 同一人物の作ではないが、義理の兄弟と言えなくもない。そんな男を苦々しい思いで見つめて、歌仙兼定は審神者をちらりと窺った。
 けれど、目が合わない。意図的に逸らされて、なんとも言えない気持ちになった。
「幅を取りそうだなあ」
「うるせえぞ、そこ。文句があるなら、俺に直接言いやがれ」
「声も形も大きくて、ちっとも雅じゃないって言っただけだよ」
「あんだと、てめぇ。良い度胸だ。表に出ろ」
「へえ。この僕に勝負を挑もうっていうの?」
「ちょっと兼さん。短気は損気だよ」
「うるせえ。あんだけ言われといて、黙ってられっかよ」
 愚痴を零せば、地獄耳がここにもいた。挑発されて咄嗟に言い返してしまい、更に言い返されたところで負けず嫌いが発動した。
 堀川国広が止めに入るものの、和泉守兼定は聞く耳を持たない。小柄な体躯を押し退けて、牡丹唐草の鞘をひけらかした。
 睨みあいに発展し、両者の間で火花が散った。居合わせた面々はいがみ合うふたりに困り顔で、審神者を横目で窺う者も少なくなかった。
「仲悪いなあ」
「堀川と違って、一緒に居たわけじゃねーもんなー」
 兄弟刀だからといって、必ずしも親密な関係であるとは言えない。良い例だと周囲は肩を竦め、広い部屋を独占し続ける男に同情と嘲笑を送った。
 審神者に最初に召喚された刀剣だからと、なにかと優遇されているのが気に入らない者もいる。主の愛情に餓えた加州清光など、ここぞとばかりに和泉守兼定に声援を送っていた。
 敵ばかりで、味方がいない。
 いつの間にか針の筵に座らされて、歌仙兼定は顔を引き攣らせた。
「とにかく、僕は絶対、嫌だからね」
「いーじゃねえか。なんか困る事でもあんのか?」
 和泉守兼定はいかにもがさつで、整理整頓が苦手そうな男だった。
 そんな輩を自由にさせていたら、瞬く間に足の踏み場がなくなってしまう。
 汚部屋など、許せるわけがない。
 共同生活を初めてすらいないのに決めつけて、歌仙兼定は問いかけに目を吊り上げた。
 困るに決まっている。
 その叫びは、別のところから放たれた。
「そうですねー。歌仙さんのへやに兼定さんがふたりもいたら、小夜くんがもぐりこむおふとん、まちがえちゃったらこまりますもんねー」
 ぱしん、と両手を叩き合わせて。
 舌足らずな声で言ったのは、今剣だった。
 にこにこと屈託なく笑う彼からは、悪意といったものは一切感じ取れなかった。いつもと変わらぬ無邪気さで、ならば当然と言い放った。
 瞬間、場の空気が凍り付いたのは、歌仙兼定の錯覚ではない。
「……え?」
「え、なに。どゆこと?」
「あれ。あー、あー……そういえば確かに、小夜左文字って、短刀たちの部屋にはいなかったような」
「審神者が歌仙の次に降ろしたのって、あの小童だったよね」
「あ、あの。え、ちょ。待て。待った。ちが、違うぞ。君たち、何を考えている?」
「なるほどねえ。それじゃあ、折角オレが来てやったってーのに、嫌がるのも無理はねーか」
「兼さんは、じゃあ、僕と同じ部屋にいきましょう。ね。いいですよね、主」
「文系、文系ってうるさい奴だと思ってたけど、ふーん。意外にやることはやってんだ」
「ち、がっ、う!」
「はいはい。否定するのが逆に怪しいってね」
「だから、本当に違うんだ。ちゃんと聞いてくれ。あの子とは、だから、そういうんじゃなくてだね」
「でも小夜くん、歌仙さんのおふとんだとよくねむれるって、まえにいってましたよー?」
「今剣、君は、頼むからもう黙ってくれ……」
「えー、なんでですかー?」
 気が付けば寝所に勝手に潜り込み、人の懐に入って眠って、朝になると勝手に出て行くと、言ったところで誰が信じてくれるだろう。
 最初は驚いたものの、懐炉代わりに丁度いいと受け入れて、今まで放置していたのが仇になった。
 歌仙兼定は両手で顔を覆い、膝を折って蹲った。
 その背を叩いて慰める手は、ついぞ最後まで現れなかった。

2015/01/31 脱稿

Peacock Blue

 関東の夏は夜になってもあまり冷え込まないと、勝手な思い付きで信じていた。
 けれど実際には、合宿を行う学校は関東でも山の方にあり、後方には豊かな自然が控えていた。蝉の声は昼間でも喧しく、湿度の高さと相まって、日中の地獄ぶりは予想を遥かに上回っていた。
 日が落ちた後も最初のうちは暖かいが、夕食を終えて風呂が済む頃にはかなり気温が下がっていた。更に宿泊場所が教室というのもあって、隙間風は防ぎようがなかった。
 硬い床、薄い布団。
 耳を澄ませば風の声が聞こえ、敷地に隣接する森のざわめきが絶え間なく響いた。
 不慣れな環境と、全国大会に出場するような強豪チームとの合同練習。期待と興奮が睡魔に齎す影響は大きく、ギンギンに冴えた眼は暗い天井を捕えて放さなかった。
「ちょっと、……うん。トイレ」
 両サイドからは健やかな寝息と、歯軋りを含んだイビキが聞こえた。日向は緩く首を振ると、ゆっくり身を起こした。
 皆の眠りを邪魔せぬよう小声で呟き、薄手の上掛け布団を足元へと集める。脚を伸ばした状態で座せば、伸びた筋肉に引っ張られた腰の骨がボキッ、と良い音を立てた。
 思わずびくりと首を竦め、三秒してから彼は安堵の息を吐いた。
 この程度の音で目覚めるほど、チームメイトの眠りは浅くない。昨日は深夜に宮城県を出発し、到着早々ハードな練習に汗を流したので、彼らの疲れは他校のそれよりずっと上だった。
 梟谷高校を中心として、関東一円の男子排球部を集めたグループの中に入り込めたのは、僥倖だったと言わざるを得ない。それも顧問である武田の熱意と、音駒高校の監督である猫又監督の善意のお陰だった。
 子供たちの為に、大人が陰で頑張っている。
 遠征費だって安くはないのに、快く送り出してくれた親への感謝も、絶対に忘れてはいけなかった。
 だから恩返しの為にも、この一週間の遠征合宿で何かを掴まなければいけない。
 チームメイトの一部とは、相変わらずギスギスしたままだった。だから嫌な空気を打ち砕けるくらいの何かを手に入れて、部内に漂う鬱屈した雰囲気を押し流したかった。
 とはいっても、そう簡単にことは運ばない。
 今日の練習試合は全敗で、結局一セットも取れなかった。
 みんな動きがちぐはぐで、意思疎通が巧く行っていない。けれど失敗を恐れていては何も始まらないと、コーチである烏養は背中を押してくれていた。
「明日は、もっと。がんばろ」
 密かに決意して、日向は布団から足を引き抜いた。右から順に膝を折って、ずり下がり気味だったショートパンツを臍の辺りまで引っ張り上げた。
 捲れあがっていた半袖シャツの裾も整え、薄明かりが照らす教室内を見回す。机や椅子は後方にまとめて片付けられており、掲示板に張られたプリントや時間割が、此処が烏野高校とは違う場所だと教えてくれた。
 森然高校は高台の上にあり、校舎へ行くには長い階段を登らなければならなかった。
 朝早起きして、あの階段を往復しようと決めていた。平地を走るよりも肉体的な負荷は凄まじいが、その分身体は鍛えられるし、なにより学校の敷地内なので、迷子になる危険性が低かった。
 見知らぬ土地でロードワークに出るなど、命取りでしかない。
 特に春の合宿で大失敗をしている日向は、くれぐれも無断で出かけないよう、主将たちから厳しく言い聞かされていた。
 それを他校の選手に目撃されて、笑われたのはかなり恥ずかしかった。もっとも笑っていた張本人が、その学校の主将から「お前だって人のことは言えない」と呟かれていたので、喧嘩両成敗といったところだろうか。
 真っ赤になって狼狽えていた犬岡、そしてリエーフを順に思い浮かべて、日向はそろり、伸ばした足で床を踏んだ。
「つめてっ」
 爪先が数センチ触れただけなのに、一瞬にして体温を奪われた。素足は危険だと震えあがり、彼は脇を締めて左右を見回した。
 上履きは一ヶ所に集められ、パッと見ただけでは自分の物がどれだか分からない。寝入っている皆を踏まないよう慎重に進んで、日向は頼りない月明かりに目を凝らした。
 まさか照明を点すわけにはいかず、目立つように大きく書いた名前を探し出す。十人中十人が汚い、と評する癖字を発見して、いそいそと爪先を捻じ込む。
 踵は潰したままにして、日向はふと後ろを振り返った。
 誰一人として、彼の動きを気取って目覚める様子はなかった。
 日本語になっていない寝言や、布団を侵食されて魘される声が聞こえた。凹凸は辛うじて分かるものの輪郭はおぼろげで、どこで誰が眠っているかさえ、簡単には判別出来なかった。
「おれの布団は、あれ、と」
 消灯時間の前の配置と、一ヶ所だけぼっこり穴が開いている空間を照らし合わせ、指まで差して寝床を確認する。
 しっかり寝る場所を記憶して、日向は倒していた踵を起こすと、足音を立てないように教室を出た。
 ゆっくり扉を横に滑らせて、閉めようとして手が止まった。帰りのことを考えると、開けたままにした方が良い気がしてならなかった。
「うん。ちょっとだけだし」
 戸が開いていたら隙間風も酷くなるが、トイレに行って来るだけだから、それほど時間はかからない。
 短時間ならきっと許してもらえるだろう。誰にも聞かずに勝手に判断して、日向は自分に頷いた。
「よし。トイレ、トイレっと」
 廊下に出てしまえば、忍び足の必要もない。少しは気が楽だと肩の力を抜いて、彼は目的を達成すべく歩き出した。
 しかし教室から五歩もいかないうちに、その歩みは止まってしまった。
「トイレって、どこ」
 愕然と目を見開き、唖然としながら後ろを振り返る。続けて前に向き直っても、彼の視界にはそれらしき設備が入ってこなかった。
 森然高校には体育館が三つもあるのに、専用の合宿所がなかった。女子マネージャーたちでさえ別棟の教室をひとつ使って寝起きしており、それは引率の教員らも同様だった。
 男子部員の宿泊場所として割り振られたのは、この学校に通う生徒らが、普段から使用している教室だ。
 床は板張りで、校舎は年季が入っている。部屋数はかなり多く、一般教室棟の廊下は無駄に細長かった。
 同じ階の、ふたつほど教室を隔てたところでは、別の学校の部員が寝泊まりしていた。今は話し声のひとつもせず、全員が夢の中に旅立った後だと知れた。
 まさか彼らを起こして聞くわけにもいかず、日向は廊下の真ん中で呆然と立ち尽くした。
「なんで確認しとかなかったんだ、おれ」
 トイレは学生生活を送る上で必要不可欠な設備だから、絶対どこかにあるはずだった。
 けれど思い返してみれば、バスで到着後、荷物を置きにここまで移動する道中、トイレらしき扉を一切見かけなかった。
 それは勿論、ただ見落としていただけの可能性は高い。日向はあの時かなり浮かれていて、周りをじっくり眺めたりしていなかった。
 教室にだって、先導してくれる人がいたから辿り着けたようなものだ。夕食や風呂の後だって、山口や菅原の後ろについて行っただけに等しい。
 つまるところ、彼はこの学校の構造を、全くといって良いほど覚えていなかった。
「あ、やばい」
 再び後ろを振り返って、日向はこめかみに汗を流した。
 布団の場所は把握出来ていても、その布団のある部屋がどこかが判然としない。そこまで深く考えていなかったと初めて後悔して、彼は温い唾をひと息に飲み干した。
 心臓がバクバク言って、耳元で騒いでいるようだった。緊張で全身の筋肉が竦み上がり、四方か圧迫された膀胱が心細げに悲鳴を上げた。
「うげ」
 もれなく尿意が強まって、彼は咄嗟に内股になった。
 眠る前、調子に乗って水をがぶがぶ飲まなければ良かった。トイレに行こうと思い立ったのはただの気晴らしで、眠れないのを誤魔化す側面が強かったというのに。
 これでは本当に漏らしてしまう。
 両手で股間を押さえこんで、日向は地団太を踏んで奥歯を噛み締めた。
「えーっと、えっと。こっち!」
 こうなれば、自分の勘を信じるしかない。
 危機回避能力を最大限に発揮して、この難局を乗り切るより他になかった。
 右を見て、左を見て、もう一度右を見てから日向は叫んだ。もぞもぞと身を捩りながら廊下を走って、教室などとは明らかに違うドアを探して瞳を泳がせた。
 この際、女子トイレでも構わない。それくらい切羽詰まった状態に、彼は大きく鼻を愚図らせた。
 夏休み中の、しかもこんな夜更けに出歩く生徒など居ない筈。だったら誰かと鉢合わせする確率はほぼゼロであり、痴漢だ、変態だと咎められる事もなかった。
 そこまで追い詰められて、ようやく辿り着いた空間は、無事男子専用と銘打たれたトイレだった。
 隣に女子トイレはなかったので、通路の反対側がそうなのだろう。
 逆を行っていたらアウトだった。最初に行こうとした方角にそのまま進んでいたら、男の沽券に係わるところだった。
「ふぃ~~」
 勘は鈍っていなかった。電気を点けたトイレで所用を済ませ、日向は安堵に深く肩を落とした。
 手を洗い、湿り気はシャツに押し付けて、忘れないよう照明を消して廊下へ出る。換気扇は回したままにしてドアを閉めれば、全方向から暗闇が押し寄せて来た。
 出すものは出したというのにまたぶるりと来て、彼は己を抱きしめて緩く首を振った。
「さっさと、もどろ」
 時計は見ていないけれど、時刻は日付を越えた辺りだろうか。丑三つ時にはまだ早いが、遠くに聞こえる梟の声が雰囲気たっぷりだった。
 鳥肌立った腕を撫でて慰めて、嫌な予感は首を振って追い払う。
 今なら布団に潜り込んで、三秒で眠りに就けそうだった。
 そんなことを考えて己を鼓舞し、日向は来た道を戻ろうとした。そうして高く掲げた右足を下ろしたところで、彼は微かに聞こえた物音に背筋をぞぞぞ、と粟立てた。
 間違っても、風で窓枠が鳴った、という類のものではない。
 何かが落ちて床で跳ねた、というのとも違う。
 それはこんな夜更けの学校には不釣り合いな、きちんとしたリズム感のあるメロディだった。
 誰かが音楽を聴きながら眠ってしまい、ヘッドホンが外れた、という可能性はあった。しかしそれならもっと早くから聞こえて然るべきだし、扉越しでこうもはっきり響くのだって、奇妙な話だった。
 しかも音楽自体、人々が好んで聴きたがるジャンルから逸脱していた。
 それは昔、友人の家で遊ばせてもらったホラーゲームに使われるような、妙におどろおどろしく、プレイする側に緊張を強いるタイプのものだった。
 もれなく日向も心臓を鷲掴みにされて、不穏な気配にだらだらと汗を流した。
 もしや自分は、いつの間にかゲームの世界に紛れ込んでしまったのか。
 そこの角からゾンビが現れ、後ろからも出現して、逃げ場を失って窓から脱出させられるのか。武器を探しつつ学内を探索して、無事に脱出出来たら目出度くクリアとなるのか。
 一瞬のうちに色々なことを考えて、日向は二秒後、ハッと我に返って頬を叩いた。
「んなわけないっての」
 ぱしん、と乾いた音がして、打たれた場所はちゃんと痛かった。追加で軽く抓ってもみて、彼は想像力豊かな自分に苦笑した。
 しかし出所不明の音楽は相変わらずで、どこからともなく響いていた。
 携帯電話の着信音を疑ってもみたが、それもしっくり来なかった。
「……なんだろ」
 こんな不気味なメロディーで応対するなど、趣味が悪すぎる。鳥肌が落ち着き出している腕を繰り返し撫でて、彼は深呼吸を三度繰り返した。
 恐怖が通り過ぎると、入れ替わりに好奇心が顔を出した。冒険心が擽られて、音の発生源を突きとめたい衝動に駆られた。
 危険は承知であるが、知りたい気持ちが抑えきれなかった。
 もしこのまま部屋に戻ったとしても、気になって眠れないのは目に見えていた。ならば音の出どころを調べて、すっきりしてから就寝したかった。
 乾いた唇を舐め、日向はやんちゃな小学生に戻った気分で胸を高鳴らせた。
 いつもより早い脈動を数え、もう一度頬を叩いて気合いを注入する。その上で握り拳を作って、彼は覚悟を決めてそろりと足を伸ばした。
 音は壁に反響して、具体的にどこから聞こえてくるのかは分からなかった。しかし廊下にそれらしき物は見えず、念のためトイレのドアを押してみたが、音量に変化はなかった。
「こっち、かな?」
 トイレに行くのに必死だった時は、意識しなかっただけかもしれない。
 日向がここに来る前から音が響いていた可能性を考慮すれば、発生源は彼がまだ訪ねていない場所に違いなかった。
 無い頭で懸命に推理して、当てずっぽうで通路を進む。暗い廊下は場所によっては本当に真っ暗で、自分の手さえはっきり見えないレベルだった。
 もし大きな穴がぽっかり開いていても、気付かずにストンと落ちてしまえそうだ。流石に学校の中でそれはないだろうが、階段を踏み外すくらいなら、充分やりかねなかった。
 そして実際、音は辿り着いた階段の下から流れて来ていた。
「うわあ……」
 益々ホラーゲームじみて来た。
 嫌な予感を増幅させて、日向は顔を引き攣らせた。
 一度だけ来た方角を振り返り、戻るかどうかで逡巡する。三秒後に下された結論は、このまま進む、という選択肢だった。
 こんなところで怖気づくのは格好悪い。
 そう高くないプライドを奮い立たせて、彼は握り拳を作るとそろり、爪先をひとつ下の段に降ろした。
 照明は悉く消えており、踊り場は窓さえないので真っ暗だった。そんな中を進むのは大変で、握り締めた手摺りを頼りに、日向は手探りでゆっくり進んで行った。
 まだるっこしい動きにキレそうになるけれど、折角の遠征を怪我で台無しにしたくなかった。
 時間をかけて、慎重に。
 一歩ずつ足場を確かめながら、踊り場で方向転換して。
 直後だった。
「あれ?」
 不意に辺りが静かになって、日向は目を瞬いた。
 それまで聞こえていた音楽が、唐突に止まった。頼りにしていたものが途絶えて、彼は驚きに騒然となった。
「あれ。えええ?」
 秘境を旅する探検家気分だったのに、こんな幕切れは残念過ぎる。
 階段途中で立ち尽くして、日向はがっくり肩を落とした。
 あと少しで正体不明の不気味な音がどこから流れていたのか、突きとめられそうだったのに。
 あまりにも尻切れトンボ過ぎる終幕に落胆は否めず、日向はどうしたものかと足踏みした。
「ま、いっか」
 折角ここまで来たのだ。
 階段を下り切って、そこの角をちょっと覗いてから戻ろう。
 何の成果も得られないとしても、ちゃんと探索は済ませておきたかった。なにもないならないで、残念ではあるけれど、確かめずに戻るよりは気持ちも晴れる。
 一瞬のうちに頭を切り替え、日向は自分を納得させて残り少ない段を駆け下りた。
 正面には大きな窓があり、そこから月の光が紛れ込んでいた。踊り場と比べるとかなり明るく、足元にも薄くだが影が伸びていた。
 なんだか映画のワンシーンのようで、突然踊り出したい衝動に駆られた。日向は右足で着地を決めると、そのままバレエの動きを真似て両腕を水平に広げ、くるりと三百六十度ターンした。
 調子に乗って、誰も見ていないと決め込んで顔を綻ばせる。
 後で思い返して恥ずかしさに赤くなると分かっていても、心の赴くまま、身体は止まらなかった。
 そうして月明かりが明るい窓から、暗い階段に向き直ろうとして。
 寸前、視界の隅に不気味な光を見つけて凍り付いた。
 それはぼうっと青白く輝き、闇の一部を照らして不穏な影を浮き彫りにしていた。
 それはさながら、火の玉で。
 怪談話につきものの淡い光に映し出されるのは、血の気の失せた、不気味極まりない人の顔だった。
 瞬間。
「ひぃぃぃぃぃぃぃっ!」
 日向は恐怖に竦み上がり、四肢を硬直させて悲鳴を上げた。
 予想し得なかった展開に、口から心臓が飛び出しそうだった。足元から力が抜けて、小さな体はへなへなとその場に崩れ落ちた。
 顔を引き攣らせ、瞬きさえ忘れて瞠目する。不気味極まりない光が変わらずそこに彷徨い、突如前触れもなく消え失せた。
「ぎゃあっ」
 それが余計に恐怖を誘って、日向は真っ青になってガタガタ震える身体を抱きしめた。
 膝に力が入らず、立っていられなくなった身体はぺたんと床に張り付いた。廊下の冷たさなど最早気にならず、逃げなければ、と思うのに足は一切動かなかった。
 腰が抜けた。
 あまりの恐ろしさに心臓は停止して、涙と鼻水が同時に出て止まらなかった。
「ひっ、ひぇ、ふぁ、ひゃ」
 口を開いても、出てくるのは言葉にならない声ばかりだった。嫌々と首を振って、彼はぐずぐず鼻を鳴らして赤ん坊のように喘いだ。
 森然高校はそれほど古い学校ではないけれど、決して真新しくもなかった。敷地は無駄に広いが、鬱蒼と茂る森が背後に迫り、夜間は獣の声が五月蠅かった。
 夏場に盛んに耳にする怪談が、こんな時に限って脳裏を過ぎった。
 無残に殺された女が怨霊となり、殺した男に復讐を果たす話。
 女に化けた鬼が旅人を騙し、頭からバリバリ食べてしまう話。
 罪を着せられて無念のうちに死んだ男が、恨みを晴らすべく都を襲う話。
 それ以外にも恐ろしく、無駄に人の恐怖を煽る話が次々に浮かんでは消えていった。小学生の頃、うっかり見てしまった所為で眠れなくなった心霊番組の映像が蘇って、内臓が一斉にきゅっ、と小さくなった。
 全身に鳥肌が立って、異様なくらいに寒かった。一目散に逃げ出したいのに身体は言うことを聞かなくて、此処で死ぬのかと、両親や妹の顔まで立て続けに浮かんで来た。
 これが俗にいう走馬灯かと、感心する余裕などどこにもありはしなかった。
「ふぎゃ、ひぇっ、あ……なっ、な、なむだみだぶつ、なみなみだぬつ!」
「……翔陽?」
 こういう時は、どうすればいいのか。
 せめてもの抵抗にと念仏を間違ったまま唱えて、目を瞑って襲い来る恐怖に必死に耐えていた矢先。
 怪訝な声で名前を呼ばれて、日向はハッとなって茫然と目を見開いた。
 今が現か、幻かも分からないまま、惚けた顔で前を見る。そこには月明かりを浴びた若者がひとり佇み、不思議そうに首を捻っていた。
 白い上履きに、赤色のジャージは長袖長ズボン。全開になったファスナーからは白色のトレーナーが覗いており、手には黒色の携帯ゲーム機が握られていた。
 開閉式のそれは蓋を閉じると自動的にスリープモードに入る仕組みで、日向も妹と共有という形で所持している物だった。
「け、けん……ま?」
「うん」
「研磨?」
「なにしてるの、こんなとこで」
「研磨? ホントに研磨? 幽霊じゃない? お化けじゃない?」
「何言ってるの、翔陽。寝ぼけてる?」
 絶句したまま、日向は何度も瞬きを繰り返した。恐る恐る目の前の少年を指差し、会話が成立しないのもお構いなしに捲し立てた。
 早口の詰問に孤爪研磨は眉間の皺を増やし、片膝を折って身を屈めた。
 しゃがみ込んでいる日向と目線を揃え、猫のような眼でまっすぐに見詰めて来た。
 それでもなかなか信じ難くて、日向はおずおず手を伸ばした。試しにその頬に触れて、軽く撫でて、孤爪が目を眇めたのを待ってようやく安堵の息を吐いた。
「研磨、だ」
 心底ほっとした声で呟き、肩の力を抜いて丸くなる。脱力した身体はふにゃふにゃで、人間でも溶ける事があるのだと、見ていた孤爪は奇妙な感想を抱いた。
 何をそんなに驚いて、慌てふためいていたのかは正直分からない。ただ放っておくわけにもいかなくて、彼はジャージのポケットを探ると、偶々入っていた、いつ使ったかも分からないフェイスタオルを引っ張り出した。
 皺だらけのそれを広げ、みすぼらしく鼻水まで垂らしている日向へと差し出す。そっと顔に被せてやれば、彼は数回口を開閉させ、最後にぎゅっと目を閉じた。
「ンブーッ!」
 そうしてタオルで思い切り鼻を噛んで、布越しの孤爪の手に熱風を浴びせかけた。
「落ち着いた?」
 中心部が過分に湿ったタオルを一度手元に戻し、濡れている面を内側に数回折り畳む。静かに問いかければ、口呼吸中だった日向はコクコク頷いた。
 目元に残っていた涙は手で擦って拭い取り、頬を叩いて気持ちを引き締める。そんな彼にタオルを差し出して、孤爪は立てた膝に肘を突き立てた。
 頬杖を着き、彼は借り受けた布で顔を拭く少年を見詰めた。
「こんな時間に、なにしてたの」
「おれは、その。トイレ。っていうか、研磨こそ。こんなところでなに、してたのさ」
 今思えば、あの青白い炎に見えたのはゲーム機の明かりだった。
 ぼんやり浮かび上がっていたのは、孤爪の顔以外の何物でもなかった。
 すっかり騙されて、気が動転してしまった。醜態をさらしてしまったと顔を赤くして、日向は彼が隠れていたであろう廊下の角を指差した。
 しかし孤爪は淡々とした態度を変えず、振り返って嗚呼、と頷くだけだった。
「眠れなかったし。ゲーム。部屋だとみんなに悪いし」
「…………」
「それにこれ、この前発売したばっかりで。クリアしときたかったから」
 一人っ子で鍵っ子、且つ人見知りで友人が少ない孤爪は、外で遊ぶよりもゲーム機で遊ぶ方が好きなタイプだった。
 それが長じて色々なジャンルのゲームに手を出して、家では攻略本が山積みになっている。期待の新作は発売当日か、或いは前日に手に入れて、誰より早くクリアするのが密かな楽しみだった。
 だというのに合宿に強制参加させられて、プレイする暇がなかった。
 だからこんな夜更けに、布団にも入らず、廊下を照らす月明かりだけを頼りに遊んでいた。
 あの音楽は間違いなく彼のゲーム機から流れていたものであり、音が突然途切れたのも、階段を下りてくる人の気配を察した孤爪が蓋を閉じたからだった。
 種明かしをすれば、何も驚くことはなかった。ただこんな夜も遅い時間に、廊下に蹲ってゲームに興じる人がいるなど、誰だって予想しないに違いない。
 孤爪側も、まさか人が来るとは思っていなかったようだ。一度閉めたゲーム機を開いたのは、やって来たのが誰かを探る為、灯りを必要とした結果だった。
 それがよもや、ここまで日向を驚かす羽目になろうとは。
「おれ、本気でビックリしたんだからな」
「ごめん」
 声高に咎められ、年上の筈の孤爪は殊勝に頭を下げた。
 但し声にはあまり感情が込められておらず、本当に反省しているか、という点には、疑問符を呈さねばならなかった。
 それでも形ばかりの謝罪を受けて、日向は溜飲を下げた。
「あんまり暗いところでやってると、目、悪くなんぞ?」
「分かってる。けど、やり出したら止まらなくて」
 ゲームは平日昼間、一日一時間だけ。
 小学生の頃、そういう約束を母親と交わしていた。今はその限りではないけれど、部活が忙しくなったので、孤爪が持つような携帯ゲーム機はすっかり妹の持ち物になっていた。
 母親から繰り返し注意されたことを告げれば、承知の上だと孤爪は頷いた。そうしてゲーム機の表面をそっと撫でて、何も言わずに蓋を開いた。
 音楽が再開されて、辺りがほんのり明るくなった。
 それは別段恐ろしげでもない、ごく平凡な光だった。
 どうしてこれを火の玉と勘違いしたのか、それ自体が不思議に思えた。不気味なモンスターを駆逐していくゲームは難しそうで、孤爪の軽快な指の動きは目で追うのもやっとだった。
「すげー……」
「ちょっと待ってて。キリの良いところまで進めるから……うん。ここでいいや」
 日向が挑めば、一戦目で呆気なく負けてしまいそうだ。とても真似できない芸当だと感心して、彼は借りっ放しのタオルを握りしめた。
 戦闘中だったのを終わらせて、孤爪は満足げに頷いた。しっかりセーブして記録を残し、膝に手を置いて立ち上がった。
「研磨?」
「部屋に戻る。翔陽も、早く寝ないと明日辛いよ」
「ああ、うん。そだね」
「翔陽?」
 日向の登場により、ゲームを続ける気が削げたのだろう。
 音駒高校が使っている教室に帰る旨を告げた孤爪に、日向は曖昧に返し、そっと目を逸らした。
 それがおおよそ彼らしくなくて、孤爪は眉を顰め、胡乱げな眼差しで年下の友人を見詰めた。
 午前零時をとっくに過ぎたこの時間、布団に入れば即座に眠りに就けるだろう。早く休んで疲労を抜いておかないと、夜明け後のハードな練習に耐えられなくなる。
 だというのに、日向は一向に動き出さない。返事は中途半端で、置いていってくれ、と言わんばかりだった。
「翔陽も、戻らなくていいの?」
「いやあ、うん。帰る、けど。それはまだいいかなあ、なんて。もうちょっとここでこうしてたいなあ、とか。その」
「でも廊下だし、寒くない?」
 明言は避け、のらりくらりと躱そうとする。胸の前で指を小突き合わせ、なかなか孤爪を見ようとしない。
 最終的に黙り込んでしまった彼を前に置いて、孤爪はぺたんと座り込んでいる日向に目を眇めた。
「ねえ、翔陽」
「うっ」
「もしかして、だけど」
 先ほど、彼は激しく狼狽していた。泣きじゃくり、本気で怖がっていた。
 あれから日向は一度も立ち上がっていなかった。今現在もへたり込んだままで、動かすのは上半身ばかり。
 まさか、とは思いつつ声を潜めた孤爪に、日向は苦虫を噛み潰したような顔をして、落胆に溜息を吐いた。
「腰が抜けました」
 最早隠し通すのは無理。
 諦めの境地に陥って、彼は渋々ながら己の状況を認めた。
 降参だと白旗を振り、悔しそうに下唇を噛む。唸り声をあげて羞恥に耐えて、絶句している孤爪の目線から逃げて顔を覆う。
 彼だってまさかこんな結果に陥ろうとは、夢にも思っていなかった。
 しかし実際問題、下半身に力が入らなかった。当初に比べれば感覚は戻ってきているけれど、未だ立ち上がるところまでは至らず、ましてや自力で歩くなど。
 放っておけばいずれ治るとは思うが、情けなくて言いたくなかった。
 鼻を音立てて啜り上げた少年に、孤爪は呆れつつ、困った顔で手持ちのゲーム機を小突いた。
 彼がこうなった原因は、間違いなく孤爪にあった。
 一応責任は感じているらしく、音駒高校の頭脳はプリン色の頭を掻き回し、困った顔で半眼した。
「ちょっと待って、翔陽」
「もー、おれのことはいいから。ほっといて」
 何か妙案はないかと悩むけれど、腰が抜けた状態から回復させる方法など分からない。となれば他人の知恵を借りるしかなく、ポケットを再度探った孤爪に、日向は辛抱堪らなくなって喚いた。
 好奇心で突っ込んで行って、自滅したようなものだ。ゲーム機の明かりを幽霊と勘違いして腰を抜かしたなど、チームメイトに知られたら良い笑い者だった。
 噴飯もののネタを提供してしまった自覚はある。
 いっそこのまま溶けて消えてしまいたいとさえ思っていたら、目の前がまたパッと明るくなった。
 恨みがましく視線を投げた先では、孤爪が取り出したスマートフォンを操作していた。
「研磨?」
「腰、抜ける……回復、と」
「なにしてんの」
「ううん。早く治る方法ってないかな、って」
 左手で端末を持ち、右人差し指を画面に走らせる。日向の位置からでは何をしているかは見えなかったが、彼の口ぶりから、インターネットで情報を検索しているらしかった。
 モニターの光に照らされる友人を眺めながら、日向は両手を床に添え、立ち上がれないかと腹に力を込めた。
「ふんっ、ぬぬぬ」
「ぎっくり腰じゃないし、これは違うか。こっちは?」
「ぬんぐ、ふぐ、ぎぎぎ……ぬおー!」
「翔陽、ちょっと黙って」
「あああ、ダメだああ」
「……翔陽」
 立ち上がろうと躍起になって、他人の声に耳を傾ける余裕がない。
 何度挑戦しても無駄だった日向の落胆ぶりに、孤爪も一緒になって肩を落とした。
 呆れるよりも同情が芽生えて、彼は改めて膝を折った。腰を落としてしゃがみ込んで、悔しそうな年下の友人に苦笑した。
 先ほど見つけた情報を今一度眺めて、側面のボタンを押して電源を落とす。画面が真っ暗になったスマートフォンをポケットに戻して、不貞腐れて膨れ面の日向に微笑みかける。
「ちょっと、じっとしてて」
「研磨?」
「触るよ、翔陽」
 控えめな笑顔で囁かれて、日向は首を傾げて伸びて来た手を見送った。
 あまりスポーツをやる手ではなかった。指は細く、色は白い。爪は短く切られているけれど、傷跡の少ない、とても綺麗な手だった。
 それが人差し指以下四本、顔の両サイドに流れて行ったかと思えば。
「んムっ」
 残った親指二本が、突如日向の唇に押し当てられた。
 下から上へと圧迫されて、思わず仰け反ってしまった。反射的に逃げようと足掻いて、円を描くように動く指に背筋が粟立った。
「んな、なに」
「動かないで」
 マッサージするかのように、そう幅広ではない親指が繰り返し日向の唇を捏ねた。ぐりぐりと力を込めて薄い肉を揉んで、あまり湿ってもいない場所をしつこく擽った。
 加減が出来ていない指は痛くて、下手をすれば噛んでしまいそうだった。慌てて孤爪の手首を掴み取るが、遮ろうとする動きを言葉で牽制された。
 語気の強い叱責に思わずびくりとして、日向は彼の手を掴んだまま、行き場のない瞳を泳がせた。
 どこを見て良いか、全然分からなかった。
「け、ン」
「ねえ、翔陽。どう?」
「なフ、ンに、……っ」
 いったいどういうつもりで孤爪がこんな真似をするのか、そこからして不明だった。説明もなしにいきなり唇に触れられて、繰り返し揉みしだかれた場所は徐々にじんわり熱を持ち、血流が良くなった証拠の痒みを発した。
 そこだけが異様に赤くなっている気がして、落ち着かなかった。かさついた肌はじんじん疼き、落ち着きを欠いた膝がもぞもぞ床の上を這い回った。
 座ったまま足をばたつかせ、日向は神妙な顔で目を覗き込んできた相手に鼻を愚図つかせた。
 距離が縮まって、吐息を鼻先に感じた。
 微風を浴びせられた少年はハッとして、存外に近いところにある猫の眼に騒然となった。
「け、けんま!」
 あと少しで額と額が張り付く。
 揉み解されて熱を帯びた唇がチリチリ痛んで、隙間から潜り込んだ指の形に四肢が戦いた。
 反射的に押し返そうと舌が伸びて、柔くて厚い肉に固い感触が張り付いた。ぞわっと来たのは本能で、吸い付こうとしたのは無意識だった。
 寸前に逃げられて、閉ざした唇に舌先が挟まった。
 その馴染みのある感覚に己の行いを重ねあわせ、日向はカーッと赤くなり、耳から湯気を噴いた。
 孤爪は恥じらっている少年を月明かりに見出し、微かに残る湿り気を己の唇に擦り付けた。
「もう立てるんじゃない?」
 そうしてしっとり囁けば、一瞬言われた内容を理解出来なかった少年が、三度瞬きして下を向いた。
 脚気を調べる要領で膝を叩き、日向は命令通り持ち上がった右足に目を丸くした。
「うそ」
「腰が抜けるのって、放っておいても治るけど。脳がパニック起こしてるだけだから、そこを刺激してやればいいんだって。でも直接は触れないから、唇みたいに脳機能が集中している場所を触って、感覚を取り戻せばいいんだって」
「う、ん……?」
 絶句している日向に肩を竦め、孤爪は姿勢を正すと、インターネットで見た情報を一気に捲し立てた。
 そうして自身の唇を、人差し指で小突いた。
「へ~。へええ~~」
「本当に分かってる?」
「ぜ、全然?」
 念のために訊けば、あっけらかんと言い放たれた。
 なんとも日向らしい返答だ。成る程、と孤爪は小さく頷くと、自力で立ち上がった友人に目尻を下げた。
「もう平気そう?」
「うん。すごいな、覚えとこ」
「……そう」
 足踏みをしたり、ジャンプしてみたり。
 調子が戻ったか確認する日向に苦笑して、孤爪は音もなく右手を差し出した。
 中指の背で頬をなぞられ、少年の動きが止まった。瞳は宙を彷徨い、孤爪を見ようとしなかった。
 恥じらう姿勢が復活して、音駒高校男子排球部の頭脳はしどけなく微笑んだ。
「さっき、翔陽。おれにキスされるとか、思ったりした?」
「っ――!」
 あの時と同様顔を寄せ、前髪が擦れ合う近さで低く囁く。
 妖しげな声色にぞくりと来て、日向はヒクリと指を痙攣させた。
 図星を指摘されて、顔が火を噴きそうだった。
「お、おやすみ!」
「わっ」
 恥ずかしさに耐えきれなくなって、反射的に孤爪を突き飛ばす。余所を見たまま大声で吼えて、少年は身体を反転させて駆け出した。
 下りてきた階段ではなく、通路を一目散に進んで行く。あれでは迷子になりかねないのに、そういう所まで頭が回らないのだろう。
 後ろに軽くふらついて、孤爪はやれやれと肩を竦めた。
「訊く前に、しとけばよかったかな」
 触れた唇は柔らかく、温かかった。
 次は指ではない場所で触れてみたい。そう密かに思いを馳せて、孤爪は感触が残る指先を舐めた。

2015/3/10 脱稿

Buff

 ボールの跳ねる音、人いきれ、シューズが床を擦るスキール音。
 勇ましい雄叫び、掛け声、コーチの怒号に、コートの内外から響き渡る無数の声援。
 荒々しい足音、激しくぶつかるボールの悲鳴。衝撃で転がる身体、対してふわりと浮き上がる白い球体。
 息を吐き、駆け出す。
 追いかける。
 目で、身体で、心――すべてで。
 ボールを落としてはいけない。絶対に、あれを床で弾ませてはいけない。
 その一心で。ただそれだけを望んで、求めて。
 必死になって走って、食らいついて。
「――ぎゃあ!」
 その先にボール以外のものがあることに、直前まで気付けなかった。
「日向!」
「大丈夫か!?」
 腕を伸ばし、跳ぶ。直後に眼前に広がった壁に驚いて、小さな体躯は雄叫びに近い絶叫をあげた。
 第二体育館全体を揺るがしかねない振動を引き起こし、一瞬のうちに床へと沈む。尚悪い事にその落下地点には、部の備品が、黄色いプラスチックケースに収められて置かれていた。
 それに派手に突っ込んで、中身をばら撒きながら横倒しになる。耳を塞ぎたくなるほどの轟音を響かせて、彼は一瞬にして静かになった。
 館内にいた誰もが絶句して、目を丸くして凍り付いた。怖がりで小心者の東峰などは、大柄な身体を抱きしめて真っ青になっていた。
「ひ、ひなた……?」
 かなりスピードが出ていたから、衝突の衝撃は半端なかったはずだ。彼が拾い損ねたボールは明後日の方角に跳ね返り、息を潜める部員らの足元で停止した。
 誰かが唾を飲む音がした。
 額に浮いた汗がこめかみを伝って、顎まで滑り落ちていく感覚がいやにリアルだった。
「お、おい。大丈夫かよ、日向」
「生きてるか? 死んだか?」
「さっ、殺人事件だ!」
「どう考えたって自損事故デショ」
「そこ、不謹慎な事言わない!」
 一秒が過ぎ、三秒が過ぎ、五秒を超えたところで我に返る者が出始めた。ネット際で台に立っていたコーチの烏養がまず声を上げて、それに触発された男子高校生が矢継ぎ早に、物騒極まりない台詞を捲し立てた。
 流石に聞き捨てならないと澤村が怒鳴って、その間に副部長の菅原が日向に駆け寄った。息を弾ませ肩を上下させて、ピクリとも動かない一年生の横で膝を折った。
 周囲にはボールに空気を入れるポンプや、空気圧を計る器具が散乱していた。裏返ったケースには雑巾が引っ掛かり、浮いた角が突っ伏している少年の足に圧し掛かっていた。
「日向、おい。ひなた?」
 揺らしていいかどうかで迷い、菅原は肩に伸ばした手を引っ込めた。行き場を失った指で空を掻き回して、先に意識の有無を確認すべく、顔を覗き込んだ。
 瞼は閉ざされ、唇は弛緩して薄く開いていた。小振りの鼻がヒクヒク震えて、肌は血の気が引いて青褪めていた。
 気を失っているのか、反応が鈍い。
 嫌な予感を覚え、菅原は力なく横たわる体躯を思い切って揺さぶった。
「おい、日向。しっかりしろ。大丈夫か」
 その頃には烏養も近くに来て、様子を窺って息を呑んだ。眉間に皺を寄せて渋い顔をして、日向の脚に被さっているケースを押し退けた。
「う……っ」
 その振動が、きっかけになったのだろうか。
 それまでまるで無反応だった少年が、喉の奥で呻き声をあげた。
「日向!」
 菅原が甲高い声で叫び、残る部員も心配そうに背後から様子を窺い見た。この場で最も年長で、責任者でもある烏養が代表して彼の隣に屈んで、恐る恐る、柔らかくて温かな頬を数回、叩いた。
 覚醒を促し、低い声で呼びかける。それで閉ざされていた瞼も痙攣を開始して、細長い睫毛が風もないのに揺れ動いた。
「うぅ、っ……」
 細い肩が波打ち、伸びきっていた背中が猫のように丸くなった。意識が呼び戻されると同時に痛みが膨らんだのか、穏やかだった表情は一瞬にして苦悶に歪められた。
「ひなた、しっかりしろ」
「きゅっ、救急車。救急車を!」
「落ち着け、旭。マネージャー、タオル濡らして持ってきて」
「分かった」
 後方では東峰がパニックを起こして騒ぎ、澤村が手厳しく叱って清水に指示を出した。男子排球部唯一の女子は深く頷くと、急ぎ踵を返して駆け出した。
 練習は中断されて、あれだけ喧しかった第二体育館はにわかに緊張に包まれた。
 その中心に横たわる少年は、足元から駆け上がってきた激痛に喉を引き攣らせ、思うように動かない身体に奥歯を噛み締めた。
 目の前が真っ暗になったかと思えば、全身引き裂かれそうな痛みが襲いかかってきた。
 それは熱い、としか表現しようのない痛みだった。
「いっ、つぁ」
「大丈夫か、日向」
 声が言葉にならず、喘ぐように息を吐く。燃え盛る炎の中に放り込まれた気分で天を仰げば、館内を照らす蛍光灯が容赦なく網膜を焼いた。
 目を開ける事さえままならず、状況が分からないままただ歯を食い縛る。周囲から必死の呼びかけが聞こえて来たが、返事をするだけの気力など、どこにもありはしなかった。
「澤村、タオル」
「すまん。日向、分かるか」
 喉を通る空気さえ熱を持っており、呼吸する度に体内が焼け爛れていくようだった。唾が呑みこめなくて咳き込んで、噎せていたら耳慣れた声が聞こえて来た。
 直後にひんやりした感触が額に広がって、汗が引いていくのが実感できた。痛みは消えないが幾ばくか楽になって、日向は優しい仕草に頬を緩めた。
 眩しすぎる光にも、目が慣れつつあった。
 瞼を薄く開いて辺りを見回せば、チームメイトが全員集まっているのが見て取れた。
 誰も彼も心配そうな顔をして、血の気のない表情をしていた。嫌味ばかりの月島までもが口元を歪めており、目が合った途端にぱっと逸らされた。
 気にしていると知られるのが、こんな状況でも嫌らしい。
 相変わらずだと苦笑したくて、けれど出来なくて、日向はタオルで額を覆ったまま首を振った。
「いっつ、ぅ」
「こら。無理するな」
 起き上がろうとしたら、澤村に叱られた。しかし無理をして抗い、落ちた布を右手で握りしめた。
 頭を浮かせた瞬間はくらっと来たものの、五秒じっとしていれば落ち着いた。まだ息苦しくはあるけれど、最初に比べればかなりマシになっていた。
 レシーブで弾き飛ばされたボールを追いかけて、走って。
 壁に激突して気を失うなど、なんて格好悪いのだろう。
「だい、じょぶ……です」
「大丈夫な訳があるか」
 途切れていた記憶も蘇って、前後が一直線に繋がった。
 練習を中断させてしまった負い目もあって、もう平気だと言い張ったが、通じなかった。
 床に座り込みはしたものの、まだ立ち上がれずにいる。その部分を鋭く指摘して、主将はぴしゃりと言って首を振った。
「しばらく休んでろ」
「いえ。ほんと、ヘーキなん……ぃでっ」
 意識はある、記憶の障害もない。
 激突の寸前、咄嗟に身体を庇ったので、壁にぶつけたのは頭ではなく左肩だ。落ちたのは右肩からだが、受け身を取ったのでそちらのダメージはあまり酷くない。
 問題は、床にあったケースに当たった脚だ。
 こればかりは、避けきれなかった。硬い角に膝をぶつけて、吹っ飛ばして、吹っ飛ばされた。
 痛みも、そこが一番酷い。ズキン、ズキンと一定の間隔で疼き、周辺の筋肉が痺れ、感覚は麻痺していた。
 大事な右足にダメージを負って、もし骨に何かあったらと考えると寒くなった。折れるか、そこまでいかずともヒビが入っていたら、間近に迫る大会に間違いなく出られない。
 それだけは嫌だった。自分の不注意さに泣きそうになって、日向は花を愚図らせて唇を噛み締めた。
「腫れてんな」
「だっ、だいじょ……です。これくらい、すぐに――あだっ」
 案の定烏養が気付き、赤黒く変色している肌に眉目を顰めた。
 傷口に触ろうとはせず、目つきを険しくして顎を撫でるに留める。そんな彼に日向は声を高くしたが、元気ぶるのは難しかった。
 立ち上がろうとして、膝に力を込めた段階で激痛が走った。骨の中心部に雷撃を喰らったかのような衝撃が突き抜けて、貫かれた少年はみっともなく尻餅をついた。
 その昔、放置した虫歯が酷くなった時の記憶が蘇った。
 あれと似て非なる痛みを利き足に抱いて、日向は生理的に浮いた涙で目尻を濡らした。
 しゃがみ込み、丸く、小さくなる。
 痛ましい姿に烏養は困った顔をして、脱色し過ぎて金色の髪を掻き回した。
「冷やした方がいいな、こりゃ」
「骨とかに、異常はありますかね」
「それは俺の専門じゃねーからなあ。とりあえず一回、保健室で診てもらった方が良いだろうな」
 医者に行くかどうかは、保険医の裁量に任せる。
 素人判断で動くのはよろしくないとの彼の言葉に、一番の懸念を口にした澤村は苦い顔で頷いた。
 日向も涙目で上級生やコーチを仰ぎ、周りを取り囲む友人らにも助けを求める眼差しを投げた。
 しかし彼らに出来る事はなにもない。痛みを肩代わりしてやるなど到底無理な相談で、せいぜい大丈夫だろう、と慰めの言葉を口にする程度だった。
「心配ないって。一晩経ったら腫れも引くって」
「内出血してるだけじゃないの。君、頑丈さだけが自慢でしょ」
「はいはい、お前らは練習に戻る。日向、どうだ。歩けそうか」
 根拠のない台詞を吐いた山口に、月島が普段の調子を取り戻して嘯く。それを澤村が制して手を叩き、保健室行きが決まった日向に問いかけた。
 彼は奥歯を噛み締めて唸ると、数回挑戦した後、哀しそうに首を横に振った。
 巧く力が入らないらしい。膝関節は体重を支える重要な器官であるが、今の彼の足は、見事なまでに青紫に変色していた。
 半月板の右側が膨らんで、月島の言う通り、内出血を起こしていた。表面はぶよぶよしており、見ているだけで背筋が寒くなる有様だった。
 無理をさせると、悪化しかねない。
 愚図る一年生に肩を落とし、主将はコーチと顔を見合わせた。
「影山」
 そして後方にいた一年生を呼び、手招いた。
「あっ、はい」
 練習再開の号令を受け、菅原が皆を率いて動き出していた。しかし副主将の命令を無視し、ひとりだけ惚けて立ち尽くす部員がいた。
 心ここにあらずといった顔をして、呼ばれてハッと我に返る。猫騙しでも食らったかのように瞬きを繰り返して、彼は急ぎ澤村に近付いた。
 長袖を肘の上までたくし上げて、黒のショートパンツから覗く足はしなやかだ。肩幅が広くがっしりした体格で、実際の身長よりも大きく感じさせた。
 恵まれた運動神経とセンスを持ち合わせた天才セッターは、呼ばれた理由を気にしつつ、ちらちらと澤村の背後に視線を投げていた。
 いつにも増して瞬きの回数が多い彼に苦笑して、主将は両手を腰に当てると、顎をしゃくって日向を示した。
「ン?」
 なにかを企む顔で振り向かれて、日向もきょとんと目を丸くした。影山も訳が分からないと目を眇め、答えを探して澤村に向き直った。
 そんな超がつく鈍感馬鹿に肩を竦め、彼は王様と呼ばれている一年生の肩を叩いた。
「それじゃ、日向のこと、宜しく頼むな」
「は……え?」
「保健室、連れていってやってくれ。ひとりじゃ歩けないみたいだし。清水じゃあ、日向を抱えられないだろう?」
 突然言われた影山はぽかんとして、間抜け顔で首を捻った。それを呵々と笑い飛ばして、澤村は傍に居残っていたマネージャーを指差した。
 清水は日向より僅かながら背は高いが、あくまでも女子だ。肩を貸す程度なら可能だろうが、それでは怪我人に負担を強いる事になる。
 その点、影山は腕力も充分で、日向ひとりなら楽々担ぎ上げられた。
「よろしく」
「ちょ、待ってください。なんで俺が」
「それに、うちの部で一番練習量が足りてるのって、お前だしさ」
「うっ」
 その清水にも頼まれて、託された青年は一気に青くなった。
 日向を保健室に運ぶ間、影山は自分の練習が出来ない。それが嫌だと声を上げようとした彼だったが、先手を打った澤村が朗らかに言い放って、反論の導火線は敢え無く断ち切られた。
 影山は誰よりも早く学校にやってきて、誰よりも遅く体育館を出る、練習熱心な部員だった。
 しかも家に帰った後も、自己鍛錬を欠かさないという。これでは逆に潰れやしないかと、心配になるくらいだった。
 保健室への往復は、十分もかからない。
 その程度の休憩で駄目になる男ではないだろう、と言われたら、頷くより他になかった。
 それに日向だって、このまま放っておくわけにはいかない。
 コーチや主将は体育館を離れられないし、顧問の武田は会議で不在だ。清水では日向を支えきれないのも、理屈として通っていた。
「お前だって、日向の怪我の具合、気になるだろ」
「……ッス」
 そこへトドメのひと言を放たれて、影山は渋々ながら頷いた。
 実際、澤村の言う通りだった。
 日向は影山にとって救世主のようなもので、今となってはなくてはならない存在だ。部にとっても、彼は戦術の中心に置かれ、重要な役目を託すプレイヤーだった。
 練習中の怪我くらいで、駄目になってもらっては困るのだ。彼がいなければ、烏野高校男子排球部が大会を勝ち上がって行くのは、ほぼ不可能と言っても過言ではなかった。
 数日で治るのか、それとも月単位で休まなければならないのか。その辺が気になって、練習どころではない。
 そういう面も先回りして察知されて、影山は仄かに顔を赤くし、蹲っている日向へ歩み寄った。
「ごめん」
「謝んな。一番痛ぇの、右足だな」
「ん。あと、左肩も、ちょっと」
 影山が主将と会話している間に、痛み自体は徐々に引き始めていた。しかし右足には相変わらず力が入らず、たとえ立ち上がれても、巧く歩ける保証はなかった。
 下手なことをして転んで、他を怪我するくらいなら、じっとしておいた方が良いに決まっている。だからと大人しく待っていた少年は、つっけんどんな相棒に控えめに答え、舌を出した
 やってしまった、と後悔を滲ませた彼に、影山はむすっとしたまましゃがみ込んだ。
「乗れっか」
「いける」
 背中を向け、両手は腰の後ろに添える。淡々とした問いかけに日向は首肯して、傷を負った右足を庇いつつ、逞しい背中ににじり寄った。
 両手を伸ばし、幅広の肩に寄り掛かる。体重を預け、脱力するより早く、影山が見もせずに日向の体躯を引き寄せた。
 気が急くのか、手つきは荒い。だが怪我が酷い場所にだけは触れないよう、最低限の配慮は為されていた。
「さっすが。王様、手慣れてるね~」
「うるせえ。テメーはさっさと、そのヘタクソなレシーブ、なんとかしやがれ」
 そのまま起き上がり、バランスを調整して日向を背負い直す。それを月島が冷かして、影山は煙を噴いて怒鳴った。
 練習後の自主練習中、疲れ果てて眠ってしまった日向を背負って運ぶのも、大抵彼の仕事だった。自転車通学の日向が半分眠りながら帰るのは危険だからと、徒歩圏内に住む影山が引き取って帰ったのも、一度や二度ではない。
 揶揄されて、日向も赤くなって顔を伏した。あちこちから笑い声が広がって、怪我以外の理由で身体が熱くてならなかった。
「……ごめん」
「うるせえ。いいから、大人しくしてろ」
 小声で謝れば、前を向いたまま怒鳴られた。影山は慎重に足を進めると、一直線に出口を目指した。
「保健室、行ってきます」
「おう。気を付けてな」
 そうして開けっ放しの戸口で一度足を止め、後ろに向かって叫んだ。
 誰も引きとめたりしないし、行き先だって承知している。だというのに律儀に許可を求めて、彼は小さく頭を下げた。
「いっ、いってきます」
 日向も二秒遅れて声を高くし、笑顔で見送る皆に目礼した。頭を下げる分は影山の方向転換に間に合わなくて、慌ててしがみつく有様だった。
 笑い声がまた響いたが、聞こえなかった事にする。影山は短い階段をゆっくり降りて、校舎へ繋がる渡り廊下に爪先を置いた。
 もっともこの先にある建物は、保健室などの主要な施設がある校舎ではない。化学実験室や家庭科室、音楽室といったものが揃う、特別教室棟だった。
 週に数回、足を踏み入れる程度なので、あまり馴染みがない。人通りが少ないので廊下の電気も消えている場合が多く、なんだか陰気な感じがして、近寄りがたい面があった。
 第二体育館へ出向く時は、部室を経由するパターンが殆どだ。だから靴を履き替えることなく、校舎側から体育館へ行くなど、滅多になかった。
 慣れないルートに、ほんの少し緊張した。
 身を固くした日向を気取ったのか、慎重な足取りだった影山が顎を浮かせて頭を振った。
「痛むか」
「ふえ?」
 彼にはその行動が、痛みを堪えている風に感じられたらしい。予期せぬところから話しかけられて、日向は間抜けな声を発し、素早く瞬きを繰り返した。
 小首を傾げるものの、それは影山には見えない。返事がないのに若干苛立って、彼は背負う日向ごと身体を上下に揺さぶった。
 突然荒っぽく扱われ、驚いた少年は咄嗟に掴んだものに爪を立てた。強く握りしめてから、それが影山の肩なのを思い出し、急いで指の力を抜く。
 だらりと垂れ下がった脚もぶらぶら泳いで、シューズの紐は振り子のようだった。
「まあ、……痛い」
 一時期の酷さは過ぎ去ったものの、動かされたら矢張り痛かった。
 内側が熱を持ち、関節の辺りが疼いている。青紫色の痣はじわじわ範囲を広げており、その中心部は鮮やかな赤色に花開き始めていた。
 見ているだけでも、痛い。
 患部を一瞥した影山は、顔を顰めて舌打ちした。
「ボールばっか見てっからだ。ボケ」
「反省してる」
 ボールに集中するあまり、周りが見えなくなっていた。何処に何があるかも忘れて、空間を把握出来ていなかった。
 これではイノシシだ。一点だけを目指して暴走して、その結果がこれでは救われない。
 馬鹿なことをした。
 自分のミスを素直に認めた彼に、影山は叱責を続けられなくて口を噤んだ。
「ボケ」
 辛うじてそれだけを呟いて、後は黙々と廊下を進む。どこからかトランペットらしき音が聞こえて来て、フルートの音がそこに重なった。
 音楽室はこの校舎の最上階にあるから、吹奏楽部が練習しているらしかった。
「体育館にいたら、全然聞こえねーもんなあ」
「そうか? いつも、結構うるせーけど」
「そなの?」
「ああ」
 第二体育館には冷暖房設備がないから、部活中は窓もドアも、全て全開状態だった。
 そこから外の音が紛れ込んでくるけれど、館内だって十分騒がしい。殆ど気にした事がなかった日向は、影山の台詞に意外そうな顔をした。
「集中力、足りてねーんじゃねえの?」
「ふざけんな。俺はテメーみてえに、ボールばっか追いかけてんじゃねーんだよ」
 バレーボールは六人でひとつのボールを繋ぐ球技だから、ボールを目で追うのは当然だ。球体は高速で移動しているから、余所見をしていたら、見失ってしまうではないか。
 そう言いたかった日向だけれど、影山の答えは違っていた。
「俺は、セッターだぞ。アタッカーがどこにいるか、敵チームのブロッカーがどう動くか、リベロがどこにいるか。そういうの、ちゃんと見とかねーとダメだろ」
 試合を左右するのはボールの位置だけれど、それを動かすのは他ならぬプレイヤーだ。
 自分ひとりが動いているのではない。
 ひとりで戦っているわけではない。
「ああ、そっか」
 セッターの上げるトスは、試合を大きく左右する。
 人の位置、ボールの流れ、敵チームの動向を把握した上で、相手の予想を大きく超えるプレイをしなければ、勝利は掴めない。
 言われてみればその通りだと、日向はすんなり納得した。それと同時に、自分には無理だと諦めて、溜息を吐いた。
「やっぱセッターって、むつかしそ~」
「テメーだって、ちゃんと周り見とかねーと、今日みたいな事、またやらかすぞ」
 コートは広いようで、狭い。そんな中を六人が、縦横無尽に駆け回るのだ。
 特に日向は、囮役というのもあって、運動量は他のプレイヤーよりも遥かに多い。しっかり自陣の仲間の位置を把握しておかなければ、正面衝突を引き起こしかねなかった。
 これまでにも何度か、ひやりとするシーンはあった。幸い、避ける側が上手かったので事なきを得て来たけれど、今回は相手が悪かった。
 いくらなんでも、壁は自由に動けない。
 改めて反省するよう諭されて、小柄なミドルブロッカーはぶすっと頬を膨らませた。
「でも、さー。しょうがねーじゃん」
「気持ちは分かっけどな。だからって、毎回青痣作るわけにいかねーだろ」
 集中しすぎて視野が狭くなるのは、日向だけの特性ではない。影山も過去に覚えがあって、痛い失敗は数え上げたらきりがなかった。
 その最たるものが、中学最後の大会での決勝戦だろう。
 当時はセッターとして見なければいけないあらゆるものを、悉く視界から追い出していた。
 気付けたのは、日向のお陰だ。
 それ故に、彼にまで同じ轍を踏ませたくなかった。
「ぐぬぬ……」
 正論を吐かれた日向は唸り、悔しそうに拳を作った。後ろから肩を一発殴られて、影山は痛みを堪えて眉を顰めた。
「暴れんな。落ちっぞ」
「影山は、絶対、落とさないだろ」
「…………」
 暴力が繰り返されるのは許し難いし、避けたかった。だから警告のつもりで言い放てば、日向は平然と言い返し、ふんっ、と鼻息を荒くした。
 何を根拠に、と思うものの、実際その通りだから言い返せなかった。
 たとえば今、この瞬間に校舎にトラックが突っ込んできたとしても、影山は絶対日向を置いて逃げたりしない。そういう密やかな覚悟を見抜かれて、彼は背中で踏ん反り返っているチームメイトに苦虫を噛み潰したような顔をした。
 問題なのは、日向が自身の放った台詞の意味を、深く考えていない事だった。
 殺し文句も良いところなのに、当人にその自覚がない。厄介極まりないと嘆息して、影山は力なく首を振った。
「影山?」
「たまに、だけど。すっげー集中してる時、俺、なんでか、空の上からコート見下ろしてる気分になる」
「はえ?」
 それは数えるほどしか経験していない出来事。
 まるで鳥にでもなったかのように上空に浮かんで、そこから試合を眺めている錯覚を抱かされた。
 チームメイトの位置、敵チームメンバーの位置。ボールの動きさえもが、手に取るように分かってしまった。
 振り向かなくてもレシーブがどこで上がって、どんな軌道でボールが落ちてくるかが想像出来た。
 声援は聞こえたけれど、まるで気にならなかった。心臓の音だけが異様に五月蠅くて、あらゆる動きがスローモーションに感じられた。
 あの感覚を、言葉で説明するのは難しい。
 日向も頭の上に疑問符を並べ立て、何故か影山の額に手を押し当てた。
「熱なんてねーぞ」
「熱がなかったら、死んでんだろ」
「そういう意味じゃねーし」
 頭が可笑しくなったと疑われて、あまり良い気がしなかった。茶化されたのを真面目に言い返して、彼は本校舎に続く渡り廊下に降りた。
 低い段差を跨ぎ、着地と同時に肩を落とす。ため息を吐かれた日向はむすっと口を尖らせ、影山の額に添えていた手を下ろした。
「……っ」
 耳の後ろの髪を掻き上げ、首のラインをなぞりながら肩まで滑らせる。気まぐれな仕草は不意打ちに等しく、ぞわっと来た影山は瞬間、大きく身震いして日向を驚かせた。
「わわっ」
 仰け反られ、もう少しで落ちるところだった。悲鳴を上げて、日向は影山の首に抱きついた。
 下半身は影山の腕が固定してくれているけれど、それより上に支えはない。自分で捕まっておかないと、またもや頭から床に落下だった。
 二度目の転落は避けたかった。体育館での恐怖を思い出して、彼はぎゅうぎゅうに目を閉じた。
 細かく震えて恐怖をやり過ごして、はっと我に返ったのは、影山が静かに歩き出した所為だった。
 保健室へは、あと少しだった。頭上を流れる音楽は時折大きく乱れ、激しく波打っては唐突に途切れた。
 怒号までは聞こえてこないけれど、吹奏楽部の面々も必死に練習をしているのだろう。そんな頑張り屋の皆の顔を見ようともせず、自分だけが努力しているような顔をするのは、今日で終わりにしたかった。
「影山、おれ、自分で歩ける」
「黙ってろ」
 視野は広く、多角的に。
 誰よりも一点だけを見ている男に教えられたのが、少し悔しい。
 もう大丈夫だと突っぱねてみるが、影山は耳を貸そうとしなかった。
 後ろに倒れない程度に背筋を伸ばし、彼に巻きつけていた腕を解く。肩を緩く握って遠くを見て、ゆっくり視線を手前に戻していけば、眼前の男の頸部が、ほんのり紅色付いているのが見て取れた。
「でっかい背中だよなあ」
「あ?」
 肩幅が広く、澤村には負けるものの、背中はどっしりとして大きい。
 見ているだけで安心感を抱かされ、その逞しさが羨ましく、時折妬ましかった。
 体格差だけは、どうしようもない。劣等感を隠してぼそりと言えば、聞こえた影山が反応した。
「別に。影山、重くね?」
「こんくらい、屁でもねーよ」
「でも、なんかお前、赤いし」
 もっとも、ちゃんと音が拾えたわけでないようだ。何かを呟かれた、とだけ把握した彼の態度に、日向は産毛が残る首の付け根を小突いた。
「っ!」
 瞬間、彼はまたもや大袈裟に反応し、日向を担いだまま縦に伸びあがった。
 天井に頭が激突する幻を見た。
 咄嗟に首を竦めて小さくなって、彼は過敏過ぎる男に眉を顰めた。
「影山、だいじょぶか?」
「るっせ。……いいから、大人しくしてろ」
「耳まで真っ赤なんですけど」
「誰の所為だと思ってんだ」
「――おれ?」
 心配そうに問いかければ、最終的に黙られた。否定も肯定もされなくて、日向は目をぱちくりさせると、五秒してから嗚呼、と頷いた。
 じわじわろ迫り上がってくる恥ずかしさは、無自覚で色々ちょっかいを仕掛けていた事に対する、己の不用意さが原因だった。
「……ごめん」
「だから、黙れって」
 深く気にすることなく、深い意図のないまま触っていた。
 それを影山がどう感じているかについて、まるで気に留めていなかった。
 穴があったら入りたかった。ただでさえ心配をさせて、余計な気遣いを強いていたというのに、これでは合わせる顔がないではないか。
 恥じ入っている日向を気配で探って、影山は何度目か知れないため息をついた。
「なんか、馬鹿らしくなってきた」
「ええ?」
「ボールばっか見てんじゃねーよって、言ってやりたかったのによ」
「っ!」
 愚痴も不満もあったのに、全部どうでも良くなって来た。嘯けば日向が甲高い声を発して、直後に人の肩に突っ伏した。
 今頃彼は、どんな顔をしているだろう。
 見られないのが残念だと天を仰ぎ、影山は頭上に掲示された札に目を眇めた。
「着いたけど、どうする」
「……あと一周、お願いします」
 保健室のドアまで、あと一メートル。
 扉を開けるか否かを問えば、ぼそぼそと返された。
 こんな赤い顔を、人に見せられるわけがない――とでも思っているのだろう。
 耳まで茹蛸になっている背後の日向を想像して、影山はざまあみろ、と舌を出した。

2015/2/24 脱稿

麹塵

 どうしてこんなにも違うのだろうと、朝、彼を見る度に日向は思った。
「翔陽、寝癖ひでーぞ」
「さては、また目覚ましで飛び起きたな」
「あっ、おはようございます。そんなこと、ありませんから」
 惚けて立っていたら、西谷と田中に笑われた。頭を下げて挨拶をした日向はぶすっと頬を膨らませ、慌てて学校指定の駐輪場に二輪車を停めに行った。
 所定の場所に愛車を収め、急ぎ足で正門に駆け込む。薄情な上級生の背中はすっかり遠くなり、かなり小さくなっていた。
 その遥か前方にはもうひとつ、黒い背中が見受けられた。
 烏野高校男子排球部のジャージを着て、白いエナメルバッグを肩から斜めに提げている。足取りは軽やかでリズムよく、朝から調子が良いのが窺えた。
 今から走っても、追い付く前に相手が先にゴールしてしまう。
 正門前から部室棟までの距離を考えて、日向は悔しげに唇を噛んだ。
「おはよー、日向。早いねえ」
「早くないです!」
「えっ」
 そうしているうちに、朝練に参加する他のメンバーも脇を通り抜けていく。
 欠伸をかみ殺しつつ話しかけて来た東峰に咄嗟に怒鳴り返してしまって、相手が三年生だと思い出した彼は一瞬にして青くなった。
「す、すみません。旭さん、おはようございます」
「あ……ああ。おはよう。大丈夫?」
 大急ぎで腰を九十度に曲げ、謝罪と朝の挨拶を並べ立てる。東峰も一瞬呆気にとられたものの、すぐに我に返って心配そうに覗き込んできた。
 大柄で、長髪で、髭面。
 制服を着ていても高校生には見えない上級生に見詰められて、中学生にも間違えられる一年生は深く頷いた。
「はい、大丈夫です。おれ、元気です」
 微妙に会話が噛み合っていないが、本人らはあまり気にしていなかった。東峰は「そうか」と緩慢に頷いて、腕に巻いた時計を一瞥した。
 朝練開始まで、あと十分ほど。
 遅刻ではないけれど、決して早い到着とは言えないタイミングだった。
「行こうか。遅れると、また大地が恐いし」
「誰が恐いって~?」
「ヒィィィィイ!」
 見た目は厳めしく、勇猛そうな彼だが、その実かなり小心者。
 そんなすぐに臆病風に吹かれるネガティブ思考の肩をポンと叩いた男の登場に、野太い悲鳴は天高く昇って行った。
「キャプテン、おはようございます」
「うん、おはよう。日向」
 顔面蒼白になって硬直しているエースを余所に、いつの間にか背後に現れた澤村はにっこり目を細めた。隣で東峰が脂汗をだらだら流しているのも無視して、毒気のない爽やかさを演出してみせた。
 それが余計に恐ろしくて、日向も内心肝を冷やした。
 彼だけは、怒らせてはいけない。
 排球部を取り仕切る主将は温厚で優しい人物だが、キレると誰よりも迫力がある、とても怖い人だった。
 勝手をして彼の逆鱗に触れて、日向はバレーボール部への入部を却下されたことがあった。あの時見下ろされた恐怖は他に喩えようがなく、今でも軽いトラウマだった。
 もっとも彼が怒るのには、ちゃんと理由があった。
 どこかの誰かのように、理不尽に怒鳴りつけたりはしない。その辺は流石上級生だと苦笑して、日向は肩に担いだ鞄を揺らした。
 先に部室に向かうべきか、一緒にゆっくり歩いて行くか。
 一瞬悩んで目を泳がせた彼を察して、澤村はまだ凍り付いているエースの脇腹を肘で小突いた。
 そして、ひと言。
「日向、先行って、その頭、どうにかして来た方が良いぞ」
「……う」
 さらりと忠告されて、最強の囮は喉に息を詰まらせた。
 二年生にもからかわれたのを思い出して、咄嗟に両手で頭を庇う。掌に押された髪の毛は途端に凹み、頭の形に寄り添った。
 跳ねていた毛先は根元から沈み、指の隙間から先端だけが顔を出した。淡いオレンジ色の茶髪は陽の光を浴びて、黄金色にキラキラ輝いていた。
 昨晩、よく乾かさないまま布団にもぐりこんだのがいけなかった。
 朝になってみたら、爆発に巻き込まれたかと言わんばかりの状態だった。
 しかし櫛を通し、整えている余裕はなかった。日向だって、自分の頭が常識を超えて酷い有様なのは自覚していた。
 母にまで笑われたのだから、相当だ。髪は重力を無視してあらゆる方向を向き、跳ね、うねり、その形状はさながらウニか何かだった。
 海産物に喩えられてしまうほどの状態を、彼自身だって、良いとは思っていない。
 だが時間がなかったのだ。切羽詰まった状況で、日向は身なりを整えるよりも部活に参加する道を選んだ。
 その姿勢は、評価に値する。
 けれど矢張り、外見もそれなりに大事だ。
「水で濡らすだけでも、違うと思うし。な」
「分かりました……」
 そんな髪型で練習に参加されたら、目に入る度に笑ってしまいそうだ。
 そういう理由は胸の中に収めた澤村の助言に、一年生は唇を尖らせ、渋々頷いた。
 ともあれ、先に行って良いという了解は得られた。
 日向はもう一度上級生に会釈をすると、くるりと踵を返して駆けだした。
 白い布鞄を腰で弾ませ、通い慣れた道を全力で走っていく。言われた通り髪を濡らそうと、部室に行く前に寄ったのは、第二体育館の外に設置された水道だった。
 練習中、暑さに負けて良く水浴びをする場所だ。
 蛇口を全開にして、その真下に頭を潜らせるのだ。良く冷えた水が火照った身体を冷やしてくれて、それが気持ち良くて堪らなかった。
 けれど今日は、あまり楽しくない。徐々に速度を緩めて足を止めて、彼はまだ静かな体育館を仰いだ。
 部室はその向かいにあって、ドアを開けて中に入る田中の後ろ姿が見えた。
「ちぇ」
 日向だって好き好んでこんな癖が付き易い、ぼさぼさ頭に生まれたのではない。手間がかかって仕方がないと、彼は目に入りそうな前髪を抓んで引っ張った。
 手入れが行き届いていないから、髪が荒れて余計に爆発するのだとは考えない。生まれつきのサラサラストレートヘアの持ち主がただひたすら羨ましく、妬ましくて仕方がなかった。
 たとえば今朝、正門前で見かけた男のような。
「なにやってんだ、お前」
「うひゃあ!」
 コンクリート製の水場に手を置き、銀色の蛇口を睨みつける。そんな最中に不意に話しかけられて、完全に油断していた日向は心臓が飛び出しそうになった。
 口から出かかった声以外のものを慌てて飲み込んで、一気に跳ね上がった心拍数に脂汗をだらだら流す。
 少し前の東峰を真似たわけではないが、頬を引き攣らせて、青くなった少年は恐る恐る振り返った。
「なんだ?」
 怯えながら見つめられて、影山は怪訝な顔で首を傾げた。
 まさか彼のことを考えていたとは、口が裂けても言えそうにない。日向は乱れに乱れる鼓動を懸命に押し留め、必死に平静を装って口角を持ち上げた。
「よ、……よぉ」
「おう」
 しかしどう頑張ったところで、笑顔は不自然にしかならない。
 ただ影山は深く気にする様子なく、いつも通りの愛想の無さだった。
 ぶっきらぼうに返されて、日向は内心、ホッとした。肩の力を抜いて強張っていた表情を緩め、不思議そうに佇んでいるチームメイトにゆるゆる首を振る。
「今日は、おれの負けでいい」
「当然だろ」
「うわあ、なんかムカツク」
 ふたりは毎朝、正門から部室棟までの到着時間を競い合う関係だった。
 いつから、どうしてそうなったかも判然としない。ただ気が付いたら、それが習慣になっていた。
 スタートの合図はなく、お互いの姿が見えたら開始、がルールだ。戦績はほぼ五分で、影山が僅かにリードしている状態だった。
 今日でまたひとつ、差が広がった。
 明日は絶対寝坊しないと心に誓って、日向は偉そうに胸を張る男に地団太を踏んだ。
「言ってろ」
 遅れて来たのは日向なのだから、これは勝負云々以前の問題だ。
 負けて当然だと寝癖が酷いチームメイトを嘲り笑い、影山はおもむろに手を伸ばした。
「うっ」
「しっかし、ひでーな、これ」
「う、うるひゃい。触んな」
 アイアンクローを喰らっている記憶が脳裏を過ぎり、反射的に首を竦めて身構えてしまう。
 だが影山は鷲掴みにはせず、広げた手をぽすん、と頭に置いただけだった。
 そのままわしゃわしゃと掻き回されて、述べられた感想は澤村のものと大差なかった。
 これから水で濡らして、手櫛で整えようと思っていたのだ。それなのに触れられて、ただでさえ酷かったものが益々酷くなってしまった。
 止めろと言っても、影山が聞いてくれるわけがない。彼は嫌がっているのを承知しながら、面白がって更に力を込めて来た。
 挙句、左手に持っていたシューズまで水場の端に置いた。そうやって空になった手も使って、日向が逃げられないよう左右から挟み込んだ。
「やめろって、の」
「いいじゃねーか、減るモンじゃなし」
 最初は力加減も緩かったので耐えられたが、段々と痛みが増して来た。
 伸び放題の髪が先端で絡んでいたところを、強引に引き千切られた。色素の薄い毛が数本宙を舞って、チリチリ来る痛みが頭皮に襲い掛かった。
「減る。絶対減ってる。ハゲたらどうしてくれんだよ」
 このままだと、髪を毟り取られかねない。
 十円玉サイズのハゲが出来た自分を想像して、日向は声高に吠えて抗った。
 練習着の影山の胸を、力任せに押し返す。だが彼も簡単には許さず、孫悟空の金冠宜しく、日向の頭をぎゅうぎゅうに締め上げた。
「いたいっ!」
「おっと」
 アイアンクローは片手だが、これは両手だ。
 頭蓋骨を押し潰す痛みはいつもの比ではなくて、本気で頭が破裂しそうだった。
 自然と涙が浮かび、鼻が詰まってぐずぐず音を立てた。奥歯を噛み締めすぎた所為で顎が軋み、喉は火傷したように熱かった。
 影山は悲鳴にすぐに反応し、ぱっと手を離した。
 それでも、すぐに痛みは消えない。彼が掴んでいた通りに凹んだ頭を抱きかかえて、日向は涙目で鼻を愚図らせた。
 顔のパーツを真ん中に集めて睨みつけてくるチームメイトに、影山も自分の軽率さに気付いたらしい。
 表情に後悔を滲ませて、視線は左へと流れた。
「わ、悪い……」
「影山の、ボケェ!」
「あっれー。王様が家臣泣かせてるよー」
「うるっせえぞ、月島!」
 しどろもどろに謝罪したところに、日向の怒号が響き渡った。更に通りがかった月島が嘲笑を過分に含んだコメントを残して、青くなっていた天才セッターは瞬時にヤカンを沸騰させた。
 ぷんすかと煙を噴き、直後にまたおろおろし始める。日向はその間、キリキリ痛む頭を支えて歯を食い縛っていた。
 喉の奥で唸り声を響かせて、横暴が過ぎるチームメイトを眼差しだけで詰り、叱責する。強い眼光を浴びせられた青年は口籠って、困った様子で首の後ろを掻いた。
「だから、悪かったって……」
「影山の、ボケ」
「やりすぎた。俺が悪かった。機嫌直せ」
「ボケ」
 調子に乗って、加減を忘れていた。そこはしっかり反省して、彼は謝罪を受け入れようとしない日向に繰り返した。
 視線は絡まない。影山は上下左右を何度も眺めた後、最後に深く息を吐いて肩を落とした。
「許せ」
 そうして相変わらずの命令口調で、ぽすん、と大きな右手を日向の頭に落とした。
 触れられた瞬間は警戒した日向だが、太い指は待っても動き出さなかった。
 竦めていた首を伸ばし、怪訝に相手を見つめ返す。真ん丸い目を大きく見開いていたら、横目で窺って来た影山が言い難そうに口をもごもごさせた。
「なんていうか、だから、その……」
「影山?」
「別に、俺はお前が、どういう髪型してたって――……いや、お前は、結局お前なんだし」
「うん?」
 途中で言いかけた言葉を呑みこみ、軌道修正してから吐き出す。
 前後が微妙に繋がっていない台詞に眉を顰め、日向は彼の手を頭に乗せたまま、首を右に傾がせた。
 黒水晶の瞳が、高い位置からじっとこちらを窺っていた。
 未だ泳ぎがちの双眸が、なにかを期待して日向を映し出す。けれど彼が何を欲しているのかが分からなくて、小さなミドルブロッカーは眉間の皺を深くした。
 仄かに紅を帯びた頬をして、影山が息を飲む。緊張しているのが感じ取れて、日向は益々表情を険しくした。
 微風が吹き、ふたりの間を通り過ぎて行く。
 さらさらと流れるのは影山の、艶を帯びた黒髪だけだった。
 願わくば、あんな髪質で生まれて来たかった。
 妹の夏も、兄同様の剛毛だ。どうやら父親からの遺伝らしく、毎日櫛を入れて髪を解かす度に、彼女はぶちぶち愚痴を言っていた。
 可愛い髪型にしたくても、母の力量では難しい。最近子供に人気の三つ編みも、日向家の髪質では実現不可能だった。
 影山のような髪の毛だったなら、こんな苦労はしなくて済むだろうに。
 羨ましいし、妬ましい。
 毎朝鏡の前で、派手に爆発した自分の頭を見るのがどれだけ虚しいか。彼はきっと、知らないのだ。
「隙あり!」
「ぬあっ」
 そこまで考えたところで、身体が勝手に動いていた。
 影山の手を振り払い、垂直に飛び上がる。不意を突かれた影山が驚くのに気をよくして、まっすぐ伸ばした腕で彼の黒髪を掻き回す。
 そう長い時間は無理だった。
 一瞬触れただけに等しいが、ジャンプした分、勢いに乗っていた。加減するなど無理な相談で、力技でぐしゃぐしゃっ、と強引に撫で回すだけで精一杯だった。
 もっともそれが功を奏して、影山の頭はあっという間に爆発した。
 日向ほどではないけれど、下を向いていたものが上を向き、左にあったものが右に流れた。強風が彼にだけ吹き付けた後のような有様で、影山自身、何をされたのか分かっていない顔をしていた。
 ぽかんと惚けた眼で見つめられて、日向は我慢出来ずに噴き出した。
「ぶっひゃ!」
 面白い。
 今の彼は、その表情も相俟って、史上稀に見る滑稽さだった。
 こんな間抜けな影山は、見たことがない。
 腹を抱えて笑い転げたいのを我慢して、日向はケタケタ声を響かせた。
 一方で影山はしばらく呆然とした後、笑い過ぎて噎せていたチームメイトに肩を竦めた。
「なにがしてぇんだ、テメーは」
「いって」
 軽く脛を蹴られ、吐き捨てられた。長くてしなやかな左手は空を撫で、黒髪の上に着地した。
 たった数回、それも雑に手櫛で梳いただけで、影山の髪は綺麗な形を取り戻した。さらりと風に靡かせて、自慢するかのように美しい艶を見せつけた。
 彼だって日向と同じように、碌に乾かしもせずに眠っている筈なのに。
 体質の差だと言われればそれまでだが、ここまで差が出るのは納得がいかないし、理解し難かった。
「ンだよ、この野郎」
 腹を立て、蹴り返す。しかし影山は軽々と躱して、日向の爪先は微風を起こしただけだった。
 砂埃すら巻き上がらない一撃に下唇を噛んで、彼は不遜な態度の王様に小鼻を膨らませた。
「なんで、お前ばっかり」
「なに言ってんだ?」
「うっさい。お前なんか、寝癖まみれになっちまえ」
「なってんぞ、いつも」
「嘘だあ!」
 ひとり憤って吼えるが、影山は乗ってこなかった。淡々と切り替えされて、到底信じ難い言葉に、日向の声は益々高くなった。
 ただでさえ高校生離れした高音なのに、それがもっと高くなった。
 至近距離で聞くと耳にキーンと来るボーイソプラノに眉を顰め、影山は依然として頭が爆発状態のチームメイトに嘆息した。
 寝癖など、毎日作っている。頭を乾かしきる前に力尽きてしまって、毎朝鏡の前で絶句しているのは本当だ。
 ただ癖が長持ちしないのも本当で、ちょっと水で濡らせば簡単に元に戻った。
 日向のように、一日中朝の状態が維持されることはない。頑丈な寝癖も、昼を過ぎる頃には消え失せるのが常だった。
 それを不公平と言われても、影山にはどうすることも出来ない。生まれ持っての体質は、他人に分け与えてやれるものではないのだから。
 日向だって、それは重々承知の上だろう。
 それでも尚、悔しさが募るものだから、言わずにいられないだけで。
 ただの八つ当たりだ。責められるいわれはなく、影山は盛大に溜息を吐いた。
「それより、いいのか。練習、始まんぞ」
「げっ」
 第二体育館は目の前だが、影山と日向とでは決定的に違うところがあった。
 大量の荷物を持っているか、どうか。
 練習着に袖を通し、いつでもボールを追いかけられる準備が整っているか、否か。
 先に部室に到着していた影山は、勿論準備万端だった。対する日向はといえば、未だ肩に鞄を担ぎ、頭は寝て起きた時そのままのスタイルだった。
 顔さえ洗っていないのではないか、と危惧したくなる彼に呆れ、影山は親指で、肩越しに後方を指差した。
 澤村や東峰も、とっくに横を通り過ぎていた。先ほど部室に向かった月島も、あと数分としないうちにドアから出てくるだろう。
 どれだけ早く学校に到着していても、練習開始時間に間に合わなければ遅刻と同じ。
 現実を思い出すように囁かれて、日向はすっかり忘れていたと口をパクパクさせた。
「く、くっそ。もー、こうしてやる!」
「つっ、べて」
 そしてヤケクソで吼えると、そこにあった蛇口を思い切り捻った。
 勢いよく吐き出された水が、固いコンクリートに当たって砕けた。飛沫を浴びた影山は慌てて後ろに下がって、激流に頭から突っ込んで行った日向に唖然となった。
「おいおい……」
「ぶはー!」
 日増しに暖かくなってきているとはいえ、カレンダーはまだ五月だ。こんな朝早い時間から、屋外で水浴びをするような季節ではなかった。
 だというのに、何を考えているのか。
 思い込んだら一直線すぎる馬鹿に絶句して、影山は水浸しになったチームメイトに肩を竦めた。
「ちべてえ」
「当たり前だ、ボケ」
 薄茶色の髪からは大粒の雫が次々零れ落ち、乾いた地面さえ濡らしていた。重くなった毛先は一斉に下を向いて、垂れ下がった髪から覗く青白い顔は、ある意味ホラーだった。
 ぼそりと呟いて蛇口を締めた日向には、呆れるより他にない。
 最早笑い飛ばすのも難しいと嘆息して、影山は首にぶら下げていたタオルを引き抜いた。
「おら。風邪ひくぞ」
 少し湿らす程度でよかったのに、こんなにもびしょ濡れになるなど、どうかしている。
 放っておけば水滴は服にも染み込んで、彼から体温を奪うだろう。
 そんな事で熱を出され、体調を崩されたらたまらない。
 大会はもうじきだ。練習を休んでいる暇はない。特に日向は攻撃面はまだしも、守備面ではかなり不安があった。
 それは本人も痛いくらい理解している。頭に被せられたタオルを受け取って、少年は膨れ面で顔を上げた。
「……あんがと」
 それでも一応有難いと思っているのか、不満顔ながら礼を言われた。
 そのギャップが存外面白くて、影山はクッ、と喉を鳴らし、湿り始めたタオルの上から彼を撫でた。
 あのふわふわ具合が良かったのに、濡れた所為でぺしゃんこだ。
 早く乾けばいいと密かに念じて、影山は惚けて立つチームメイトの肩を押した。
「急げよ」
「うおっと。そうだった」
 またしても、その件を忘れていた。
 目の前の事に気を取られ、すぐ頭から抜け落ちてしまうのはどうにかしたい。言われて思い出して、日向はほっかむりのように被ったタオルを引っ張った。
 人の持ち物だと思って、伸びるのもお構いなしだ。影山は僅かにムッとして、頭の丸さが際立つ白いタオルにチョップをお見舞いした。
「だから、急げつってんだろ」
「わーってるって。そんなぼかすか殴んな」
 これ以上背が縮んだら、どうしてくれるのか。
 小鼻を膨らませて抗議の声を上げた日向に、影山は不遜に口角を持ち上げ、シューズが入った袋を引き寄せた。
 滅多に見られない自然な笑顔に目を奪われ、呆気にとられて言葉が出ない。立ち尽くす日向を置いて影山は身体を反転させて、とっくに鍵が外され、開いていた体育館入口を目指した。
 日向は濡れて重くなったタオルを揺らし、遠ざかる背中に目を瞬いた。
「寝癖」
 良くよく注意して見てみれば、彼の後頭部は一部、ぴょこん、と外向きに跳ねていた。
 後れ毛の少し上、正面から見たら分からない場所。艶やかな黒髪がひと房だけ反り返り、彼の歩みに合わせてぶらぶら揺れていた。
 まるで犬の尻尾だ。リズミカルな動きに魅入られて、日向はあれだけ言われていたのに、その場から離れられなかった。
「やべ。かわいい」
 影山だって、寝癖くらい出来る。
 そして彼が手直しするのは、鏡に映っている正面ばかり。
 その跳ね方といい、動き方といい、王様らしからぬ愛らしさだった。あまりの不一致ぶりが面白くて、妙に心擽られた。
 咄嗟に呟いてから口を塞いで、日向は目を泳がせた。誰にも聞かれなかったのを確認して、彼は急ぎ、部室を目指した。
 髪はまだ濡れていたが、二の次だった。一刻も早く荷物を置いて、体育館に駆け込みたかった。
 影山の寝癖の寿命は、昼頃まで。
「触ったら、怒るかな」
 あのぴょこぴょこ踊っている髪を撫でて、抓んで、弄ってみたかった。
 彼はいったい、どんな顔をするだろう。
 想像して笑みを零し、日向は三段飛ばしで階段を駆けた。

2015/2/19 脱稿

藍白

 寒い日だった。
「ぶうぇっくしゅ!」
 冷気が肌を刺し、鼻から入り込んだ寒風が容赦なく粘膜を攻撃した。内臓にまで響く悪寒に身震いして、飛び出たくしゃみは強烈なものだった。
 辺り一帯にこだまする大声に、恥を感じる余裕もなかった。
「ぶぇぇ……」
 呻き、ぶるりと肩を震わせる。無意識に自分自身を抱きしめて、日向は極寒の地に生まれたことを後悔した。
 もっとも、世界を探せばもっと寒い地域はある。これしきで音を上げていたら、北海道や、遠いロシアなどで暮らす人々に申し訳ない。
 テレビで見る北国の、最高気温ですらマイナスが記録される光景を脳裏に描き、彼は奥歯を噛み鳴らした。
 歯の根が合わず、カチカチ五月蠅い。悪寒はまだ立ち去らず、たっぷり着込んで丸くなった身体を揺らし続けた。
 摩擦で温まろうとして、腕をさすったり、貧乏揺すり宜しくもぞもぞ身じろいだり。
 それでもちっとも暖かくならないのに焦れて、日向は渋い顔をした。
「ふふっ」
 それを隣で見ていた男が、堪え切れなくなったのか、小さく噴き出した。
「ム」
 声は日向の耳にも届き、彼は瞬時にムッとした。
 もっとも膨らんだ頬は真っ赤で、まるで餅のようで可愛らしい。鼻の頭も朱に染まり、照れているのか、寒いだけなのか、境界線は曖昧だった。
 そんな愛くるしい後輩を眺め、菅原は口元にやっていた手を横に振った。
「ごめん、ごめん」
 笑ってしまったのを素直に詫びて、機嫌を直してくれるよう取り繕う。
 顔の前で右手を縦に構えた彼の謝罪に、日向は窄めた口から息を吐いた。
「もう」
 フグと化していた顔を凹ませ、逆立てていた棘も引っ込める。ただ不満が全て解消されたわけではなく、表情は依然、拗ねたままだった。
 不貞腐れている後輩を横から眺め、菅原は肩を竦めて苦笑した。
「鼻、垂れてんぞ」
「えっ」
 首に巻いた赤色のマフラーに顎を埋め、呆れ口調で囁かれた。思ってもいなかった日向は驚き、言われてみれば、と微妙に濡れている感じがする鼻の下を撫でた。
 普段なら思い切り息を吸って、啜り上げるところなのだけれど、氷点下に迫る気温でそれは難しい。
 タオルで拭おうかどうかで躊躇していたら、見かねた菅原が先に鞄を漁り出した。
「日向、こっち向いて」
「ふぁい」
 促され、逆らう道理はないので従う。
 彼が手にしていたのは、携帯サイズのティッシュペーパーだった。
 駅前で配っていたものだろうか、チラシらしきものが挟まっていた。その透明なビニールの封を破って、菅原は一枚取り出し、利き手に構えた。
 無料で、しかも大量に配られるものだから、紙の材質はそれほど良くない。ざらざらしているし、固いので、あまり使い心地が良くないのは日向も承知していた。
 けれど、贅沢は言っていられない。折角の好意だからと我慢して、彼は鼻の頭を軽く抓まれ、目を閉じた。
「はい、チーン」
「ぶしゅっ」
 菅原の台詞が、なんだかおかしい。
 聞こえた瞬間噴き出しそうになったのと、くしゃみが重なって、鼻から吐くべき息は口からも大量に漏れてしまった。
 タイミングが良くなかった。菅原の手に唾を飛ばしてしまったと後から気付き、日向はひりひりする鼻をそのままに、先輩に頭を下げた。
「すっ、すみません」
 親切にしてくれた相手に、なんという罰当たりなことをしたのか。
 驚き、慌て、青くなって謝り倒す日向に、菅原はしかし、呵々と笑うだけだった。
「いーべ、いーべ。気にすんな」
「でも」
「こんなの、拭けば終わりだしな」
 怒りもせずに受け流し、もう一枚出したティッシュペーパーで掌や甲を拭っていく。尚も言いつのろうとする日向を制して、人好きのする笑みを浮かべて終わりにする。
 爽やか過ぎる対応を見せられて、感動した日向はぶわっ、と身体を震わせた。
「菅原さん」
「俺も、変な事言ったしな」
 さっきまであんなに寒かったのに、急に温かくなった。
 精神面でこんなにも違うのかと感嘆する彼を余所に、菅原は三枚目の紙で濡れている二枚を包み込んだ。
 彼が何かを語る度に、白い煙が辺りに散った。
 風が吹けば呆気なく霧散する呼気を追いかけ、日向は暗く濁った空を仰いだ。
「降りそう」
「そうだな」
 分厚い雲が隙間なく敷き詰められて、今にも落ちて来そうな雰囲気だった。
 上空は更に風が強いのか、流れは速い。天気予報では降雪の情報も出ており、降り出しはもう間もなく、と思われた。
 菅原も否定しなかった。ふたりで同じものを眺めて、彼が先に視線を外した。
 きょろきょろ辺りを見回す上級生に、日向は小首を傾げ、突然駆け出されて驚いた。
「菅原さん?」
「んー?」
 急にどうしたのかと声を荒らげれば、ゴミ箱に駆け寄った彼が呑気に振り返った。
 用済みとなったちり紙を処分していたのだと、今になって気付かされた。
 あんなものを、ずっと握らせておくつもりだったのか。自分の恥知らずぶりに、日向は赤くなった。
 耳の先どころか裏側まで朱色に染めて、少年は走って戻って来た菅原の背中に隠れた。
「おいおい。どうした?」
「なんでもありません。ありがとう、ございます」
「うん?」
 ひとり恥じ入り、照れて俯く。
 菅原は怪訝にしつつも追及せず、日向の気が済むまで放っておいてくれた。
 彼の背中ではリュックサックが幅を利かせて、頑丈な壁を形成していた。
 中身は硬い。底辺は歪な形を成して膨らんでおり、収められているものの重さや、形を、日向に教えてくれた。
 使い込まれた辞書、付箋だらけの参考書、あれこれ書きこまれたノート。
 正月、部のみんなで一緒に詣でた神社で買った鉛筆は、かなり短くなっていた。
 四角い机の上に広げられた一式を思い浮かべ、日向は口を噤んだ。恐る恐るリュックサックの表面を撫でて、角の出っ張っている部分を緩く掴んだ。
 軽く引っ張られ、菅原は首を捻って振り返った。
「日向?」
「いえ……」
 名前を呼ばれても、何も答えられない。胸に渦巻く感情は複雑な形状を成しており、正しく表現するのは、語彙が少ない日向には難しかった。
 鈍い反応に眉を顰めて、菅原は前に向き直った。
 コートの袖を捲って時計を確認し、右に聳え立つ灰色の建物を一瞥する。どの窓にも光が灯って、外壁を照らす照明も明るかった。
 街灯はオレンジ色の光を放ち、陽が暮れた後の路上を照らしていた。
「バス、もうじきだから」
「はい」
 会話に苦慮し、当たり障りのない台詞で茶を濁す。しかし日向は相変わらずで、返事は簡素で、感情が籠っていなかった。
 淡々と返されて、菅原は目を瞑り、鼻から息を吐いた。
 緩みかけていたマフラーを直し、手袋をしていない両手はコートのポケットへ。
 先ほど使ったポケットティッシュは、もう出番はないだろうからと、濡れてしまった分と一緒に捨ててしまった。
 勿体ないとは思わなかった。
 あれは冬休みの短期講習で、予備校に通っている間に大量に増えたもののひとつだ。
 つい手を伸ばしてしまうのは、貧乏性の証か。無視して素通りしていたクラスメイトの淡泊さを思い返し、菅原は自嘲気味に笑った。
 こうして役に立ったのだから、貧乏性も悪くない。目尻を下げて気持ちを切り替えて、彼は黙っている後輩の爪先を、踵で叩いた。
 彼らの周囲には、ふたりと同じようにバスを待つ人が、ちらほらと集まり始めていた。
「期末、頑張れよ」
「はい」
「影山も来られれば良かったのにな」
「…………ですね」
「日向?」
「いえ、あの」
 停留所の先頭に立つのは菅原で、日向が後ろに並んでいる形になっていた。その後ろに若い女性が立って、高齢の男性がそれに続いた。
 他にもベンチに座っている人や、少し離れた場所で携帯電話を弄っている人もいた。年齢層はバラバラで、男女の比率はほぼ同等だった。
 少し前まで、此処に居るほぼ全員が時を過ごしていたであろう建物を眺め、日向は怪訝にする菅原に首を振った。
 左手も使って彼の鞄を掴んで、少年は出来た空間に頭を埋めた。
 遠くから微かに聞こえて来た放送は、図書館が閉館間際だと告げていた。あと三十分もすれば、窓の明かりも一斉に落とされる事だろう。
 菅原は大学受験対策、日向はかなり気の早い期末試験対策。
 排球部を引退した三年生は、四月からの進路を確定させるべく、日々勉学に励んでいた。
 残された一年生、二年生も、毎日を懸命に過ごしていた。
 けれど矢張り、物足りない。三年生の人数そのものはそれほど多くなかったのに、存在感が大きかった所為か、ぽっかり空いた穴は簡単には埋まらなかった。
 新キャプテンの縁下は頑張っているけれど、澤村ほど上手くチームをまとめられてはいなかった。攻撃力の面でも、東峰が抜けた余波は大きく、ここぞというタイミングでの決定力に欠けていた。
 新チームが結成されてかなり経つのに、未だにどこかギクシャクして、歯車が噛みあわない。
 バレーボールは楽しいものなのに、練習をしていて、時々つまらなかった。
 許されるなら、三年生に戻ってきて欲しい。
 試合が出来なくてもいい、練習だけでも良い。
 また一緒にチームを組んで、共に汗を流したかった。
「どうしたんだ?」
 贅沢な悩みだ。
 そして我儘で、身勝手な願いだった。
 居なくならないで欲しい。
 もっと傍に居たい。居て欲しい。
 ひとりでは処理し切れない薄暗い感情を胸に抱いて、日向は唇を噛み締めた。
 図書館で一緒に勉強を、と言い出したのは菅原だった。
 上手く行っていない部内の空気を感じたのか、気晴らしも兼ねて誘ってくれた。
 手のかかる一年生の面倒を、彼は良く見てくれていた。日向も、勿論影山も彼に懐いていて、断るわけがなかった。
 だが約束の場所に現れたのは、日向ひとりだけ。影山は用事があるとかで、結局来なかった。
 それを残念がっている三年生に、顔を上げられなかった。
 後悔が嵐となって押し寄せていた。
 呑みこまれ、潰されそうで、苦しくて仕方がなかった。
「すみません、菅原さん」
「え?」
 このまま胸に留めていたら、頭がおかしくなりそうだった。
 非難されると分かっていても、告解せずにはいられなかった。
 葛藤の末に、口を開く。早口に謝罪されて、菅原は唐突な展開に目を瞬かせた。
 謝られることなど、どこにあっただろう。
 不思議そうにしている上級生を盗み見て、日向は下唇に牙を立てた。
 菅原の提案を聞いたのは、日向だけだった。
 影山はその時、席を外していた。だから後で伝えておいてくれるよう、菅原に頼まれた。
 つまり影山は、日向が教えてやらなければ、今日の勉強会のことを知らないまま。
 練習も休みで、今頃はやることがない、とふて寝をしているに違いなかった。
「おれ、影山に、……言ってない、です」
「ええ?」
 消え入りそうな声での告白に、菅原は予想外だと目を丸くした。素っ頓狂な声を上げ、日向の手を振り切り、身体ごと振り返った。
 掴んでいたリュックサックがなくなって、少年は腕を下ろした。気まずそうに俯いて、爪先で路面を何度も叩いた。
 彼の後ろに居た女性が、眉を顰めて首を傾げた。マスクで鼻から下は見えないけれど、喧嘩なら余所でやれ、とでも思っているのは間違いなかった。
 他人の視線が気になって、大きな声が出せない。
 詳しく追及する事も出来なくて、菅原は困った顔で瞳を泳がせた。
 ポケットから引き抜いた手で額を覆い、麦の穂色の前髪を手櫛で掻き上げる。白い額を一瞬だけ晒して、もじもじしている後輩に溜息を零す。
「なんだって、そんな真似」
 日向は直情型で、直球タイプで、嘘が苦手で、下手だった。
 自分の感情に素直で、あれこれ悩むのが不得意だった。
 放っておいてもいずれバレると判断した、というよりは、抱え込んだままでいたくなかったのだろう。
 その馬鹿正直さに苦笑して、菅原は落ち込んでいる後輩の頭をぽん、と叩いた。
 そして。
「ていっ」
「いって!」
 驚いた日向が顔を上げるタイミングを狙い、デコピンを一発、お見舞いした。
 不意打ちだった日向は星を散らし、大袈裟に痛がった。両手で打たれた場所を庇い、鼻をずび、と啜り上げた。
 上目遣いに睨みつけても、菅原は少しも怖がらなかった。
 それどころか両手を腰に当てて、居丈高に胸を張った。
「反省した?」
 そうして優しく囁いて、日向を唖然とさせた。
 彼は両腕を下ろすと、項垂れるついでに首肯した。唇を引き結んで後悔を滲ませて、数秒遅れで「はい」と返事をした。
 蚊の鳴くような声だったが、菅原は満足したのか、鷹揚に頷いた。
「よし。じゃーあ、行くべか」
「はい――……はい?」
 この件はこれで終わり。そうキッパリ断言されて、日向は緩慢な返事の末に声をひっくり返した。
 今、おかしな台詞を聞いた。
 訳が分からなくて絶句していたら、白い歯を見せた菅原が惚ける日向の手を取った。
 手のひらを重ねて握って、ぐいっ、と乱暴に引っ張った。
「え、ええ? バスは?」
「いーから、いーから」
 折角座れるように早めに図書館を出て、寒いのを我慢して停留所で待っていたのに。
 自らその列を離れようとした彼に慌て、日向は目を白黒させた。
 後ろの人たちは、前方での騒ぎに怪訝な顔をしていた。日向の次に居た女性は迷惑そうな顔をして、舌打ちも聞こえた。
 左右を見回し、彼は意気揚々と歩き出そうとする上級生に、苦虫を噛み潰したような顔を作った。
「菅原さん」
「ひと駅分、歩くべ」
 バスは定刻通りなら、あと五分ほどでやってくる。空はどんより曇り空で、近いうちに雪が降り始める筈だ。
 風は冷たく、凍えるほど。気温は下がる一方で、吐く息は真っ白だった。
 それなのに呑気に言われて、日向はぽかんとなった。
「歩く、って……」
 次の停留所がどの辺にあるのか、彼は知っているのだろうか。
 今から移動しても、これから来るバスに乗れる保証はない。むしろ間に合わない可能性の方が高い。
 そうなると帰りが遅くなり、家で勉強する時間も減ってしまう。
 それに今日は特に寒いから、長時間外にいたら身体が冷えてしまう。
 体調不良は、受験生には命取りだ。
 いったい何を考えているのか。
 頭のいい人の思考は理解不能だと、日向は鼻を愚図らせた。
「菅原さん」
「嫌か?」
「そういう問題じゃなくて」
 腹に力を込め、必死に抵抗する。菅原は訝しみ、真顔で問われた少年は口籠った。
 本音を言えば、嬉しかった。
 影山を誘わなかったのは、彼を独り占めしたかったから。
 顔を合わせる機会が減る一方だった菅原と、久しぶりにゆっくり過ごしたかったから。
 受験生が大変だというのは、よく分かっていた。日向だって一年前は受験生で、朝に、夜に、過去例集と格闘していた。
 大学受験は高校受験以上に試験範囲が広く、設問だって難しい。図書館で見せてもらった例題も、難解な記号だらけでちんぷんかんぷんだった。
 時間は、いくらあっても足りない。
 大きな大会前と同じくらいの、否、それ以上の焦燥感を抱いていても、不思議ではなかった。
 それなのに。
「嫌じゃないんだったら、問題ないだろ。行こう、日向」
 彼は朗らかに告げて、日向を促した。
 おいで、と手招かれた。
 繋がれた手は大きくて、温かかった。
 冷え切った指先が熱を持ち、赤みを強めていた。さっきまであれだけ悴んでいたのが嘘のように、熱さで痒くて仕方がなかった。
 口をもごもごさせ、日向は火照った顔を隠して下を向いた。
「知りませんよ!」
 次のバスに乗れなくても、座れなくても、日向の所為ではない。
 やけっぱちになって吼えて、少年は誘われるまま列を離れた。
 先頭を譲り、脇へ逸れる。ちらりと後方を窺えば、例の女性が早速隙間を埋めて前に出ていた。
 ちゃっかりしている。心の中で舌打ちして、日向は彼女の存在を頭から追い出した。
 菅原はどんどん先へ進み、赤信号の手前で速度を落とした。
「さあて。どっちだったかな」
「道、知らないんですか?」
「だいじょーぶ、大丈夫。いざとなれば、スマホがある」
 人通りの少ない道を見渡し、心配になることを嘯く。日向は呆れて肩を落としたが、菅原は気にしていないようだった。
 文明の利器に頼れば、ルートなど簡単に分かる。ならば最初からそうすればいいと思ったが、敢えて口には出さなかった。
 立ち止まった後も、手は握られたままだった。
 暗いとはいえ、この辺りは街灯の数は十分だ。足元は明るく、動き回るのに不便なかった。
 このまま彼と、どこまでも歩いて行けたなら。
 叶わないと知りながらも願ってしまって、存外に乙女趣味な自分に日向は赤くなった。
「あ、の。菅原さん。手」
 それもこれも、繋いだままの手が悪い。
 夢見がちな己に必死に言い訳をして、彼は強く握られている右手を揺らした。
「んー?」
 だのに菅原は構おうとせず、左腕をぶらぶらさせるだけだった。
 不思議そうに見つめられて、咄嗟に言葉が出なかった。
 放して欲しいのか、離れたくないのか。
 自分でも判断がつかなくて困っていたら、様子がおかしいと気付いた菅原がふっ、と頬を緩めた。
「実を言うとさ」
 信号はまだ赤のままだ。けれどもうじき切り変わるのか、反対側の青信号は点滅を開始していた。
 横断歩道を小走りで駆ける人が居た。車のエンジン音が闇に蠢き、冷えた風がふたりにぶつかって、砕けた。
「俺も、影山が来なくて良かったって、ちょっと思ってた」
「――――っ」
 明滅していた青信号が赤になった。交差点のどちらもが、一瞬の間だけ時を止めた。
 日向は息を呑み、見開いた目で瞬きを繰り返した。ぱちぱち、と瞼を何度も上下させて、真横を駆け抜けていった車の振動に四肢を戦慄かせた。
 緩みかけた指先を、菅原が強く握りしめた。
 申し訳なさそうに笑いかけられて、なにも言い返せなかった。
 凍り付き、立ち尽くす。
 車のヘッドライトが眩しくて、菅原の姿が見えなかった。
「失望した?」
 騒然としていたら、自嘲気味に囁かれた。あれほど強かった束縛も緩んで、彼の指がすり抜けようとした。
 それでハッと我に返って、日向は自分から、彼の手を掴みに行った。
 完全に別たれる直前、必死の思いで掬い上げる。指を絡ませ、握り直し、その熱を懸命に掻き集める。
 悲壮感は顔にも出ていて、奥歯を軋ませた彼を笑い、菅原が目を眇めた。
「ごめんな」
「なんで、謝るんですか」
「俺、日向が俺のことどう思ってるか、もう知ってるから」
「――……それ、って」
「うん。だからお前が、さっきああ言ってくれたの。嬉しかった」
 小さな声で謝罪して、繋ぎ直された指の腹を軽く掻く。くすぐったくもない愛撫に日向は顔を赤らめ、歓喜と興奮に背を震わせた。
 優しく微笑まれて、心臓が張り裂けそうだった。
 恥ずかしくて、彼の顔が見れなかった。
 耳の先から湯気が出ている気がした。ズルい自分が嫌で、隠し通せなくて告げた真実は、その裏に込められた想いもまとめて、すべて彼に筒抜けだった。
「うそ、でしょう」
「ウソにして良いのか?」
 簡単には信じられず、つい口走ってしまう。すると菅原は瞬時に切り返し、日向に淡々と問い質した。
 狡い言い回しをされて、咄嗟に言い返せない。言葉に詰まった日向は唇を戦慄かせ、逃げるように顔を背けた。
 嬉しいのと、恥ずかしいのと、情けなさが鬩ぎ合い、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
 いったい、いつから気付かれていたのだろう。
 口にしたことなど、一度だってないのに。
 そんなに態度に出ていたのか。上手く隠し通せていたつもりだけれど、本人にさえ見透かされてしまうくらいに、バレバレだったのだとしたら。
「うっそぉ……」
 菅原が知っているなら、他の部員だって当然気付いている筈だ。特に月島などは嫌味なくらいに頭が良く、勘だって鋭い。
 分かっていながら、黙って見過ごされていたのか。だとしたら、そちらの方がよっぽど格好悪く、精神的ダメージも大きかった。
 穴があったら入りたかった。ないなら自分で掘って、埋もれてしまいたかった。
 ぼっ、ぼっ、と煙を噴き、日向は空いた手で顔を覆った。前方では青信号が明滅し、赤に切り替わろうとしていた。
 交差点の角に立ち、菅原は声もなく笑い続けた。
 後方からエンジン音が聞こえて、何かと思えばバスが迫っていた。停留所で見た数人が窓から見えて、彼は意外に早かったと肩を竦めた。
「日向」
「ご、ごめん、なさい!」
「うん?」
 信号を渡らず、道なりに進んだ方が良さそうだ。
 角を曲がったバスを追いかける形で進もうとした菅原は、後輩を促そうとしたところで怪訝に首を傾げた。
 突然頭を下げて謝った日向の真意が読めず、眉間には浅く皺が寄った。
「どうしたんだ?」
 問えば、手を解かれた。抵抗したが、押し通された。
 熱が奪われて一気に冷えていく指先に、菅原は奥歯を噛んだ。逃したくなくて拳を固くして、大粒の目を潤ませる後輩に半眼する。
 日向は鼻を何度も愚図らせて、泣きそうな顔で自身のコートを握りしめた。
「だって、おれ、……こんな、の。きもち、わるい……ですよね?」
 問いかけは掠れて、簡単に風に流されてしまいそうだった。
 霞となって消えてしまいそうなのは、日向も同様だった。心細げな顔をして、辛そうに歯を食い縛っている姿は、試合に負けた時よりももっと儚げで、苦しそうだった。
 どうしてそんな顔をするのだろう。
 困惑し、菅原は数秒の間を置いて苦笑した。
 嗚呼、と小声で呟いて、全身の力を抜いて頬を緩める。
 急に笑った彼に驚き、日向はきゅっ、と唇を引き結んだ。
「おれ、がんばって忘れるようにするんで――」
「好きだよ、日向」
「――だから、今だけ……え?」
 フラれる覚悟はとうに出来ている。そう言わんばかりの表情と台詞を遮り、菅原はさらりと、なんでもない事のように告げた。
 人の話を聞きもせず、一方的に喋っていた日向も呆気に取られ、危うく聞きそびれるところだった告白に目を瞬いた。
 ぽかんとして、開いた口が塞がらない。
 史上稀にみる間抜け顔を目の当たりにして、菅原は意地悪く口角を歪めた。
「日向、鼻真っ赤だぞ」
「うひゃあ」
 トナカイのようだと指摘して、鼻の頭を小突く。
 ハッと我に返った彼は後退して、両手で打たれた場所を庇った。
 可愛らしい仕草に首を竦め、菅原は無意識にポケットに入れた手を、後から気付いて片方引き抜いた。
「ホントはな、受験終わって、卒業したら言おうって思ってたんだけど。お前に諦められるのは、嫌だし、困るもんな」
「菅原、さん」
「もう一回、繋いでくれるか。日向」
 利き手を差し出し、頼み込む。
 日向は明るく、元気で、単純で、バカで、理解力に乏しい、けれど何事にも一生懸命で前向きな、尊敬できる、可愛くて仕方がない後輩だった。
 名前を呼んだ時、ぱっと嬉しそうな顔をするのが気に入っていた。
 犬みたいに寄ってきて、全力で尻尾を振って甘えてくる彼が愛おしくて堪らなかった。
 彼を自分だけのものにしたい。
 誰にも渡したくない。
 彼が自分を好きになってくれたらと、念じるように見つめ続けて来た。
 願いは叶った。
 想いは今度こそ、ちゃんと伝わった筈だ。
 明確な言葉で表されて、日向は目を白黒させた。脳細胞がパンクして、煙の量はさっきよりも格段に増えていた。
 なにがどうして、どうなったのか。
 思考回路はオーバーヒートして、顔から火が噴き出そうだった。
「日向、返事は?」
「こ、こひら、こそ。よろひくお願いしまひゅ!」
「うん。よろしくな」
 催促されて、現実が戻ってきた。緊張しすぎて上手く言えないままお辞儀をすれば、菅原は差し出した手を臆面もなく握りしめた。
 指を互い違いに絡めて。
 簡単に離れないように、しっかりと。
 共有される熱に、心が弾けそうだった。
「ゆっくり帰ろう」
 バスはもう行ってしまった。次のバス停までは、結構な距離がありそうだった。
 けれど苦とは思わない。
「はい」
 ふたりなら、どこまでも歩いて行ける。
 幸せそうに頷いて、日向は一歩を踏み出した。

2015/2/9 脱稿