苦甘

 コーヒーなど、ただ苦いだけの飲み物だと思っていた。
 口をつけた瞬間に広がる、あの酸っぱい臭いも苦手だった。コップに注がれた際の豊かな香りは好きなのだけれど、冷ましているうちに酸味が増してしまうのは厄介だった。
 猫舌であることに加え、苦みに対する抵抗感が強い。沢田綱吉にとって、長らくコーヒーというものは、好んで飲みたいと思わない飲料のトップスリーに堂々とランクインしていた。
 他に嫌いなものといえば、青汁と、薬。
 子ども向けの甘い味付きのシロップならまだしも、風邪を引いた時などに出される液体タイプのドリンクが駄目だった。身体が辛いのを押して病院まで行ったのに、注射を打たれて痛い思いをして、挙句に不味くて仕方がない薬まで飲まなければならないなど、苦行以外のなにものでもなかった。
 ともあれそういう事情があり、長い間、コーヒーに手を出すことはなかった。
「うげ、まっず」
「まあ、失礼しちゃう」
 それなのにほんの数週間前から、なんとか一杯だけでも飲み干せるように努力している。
 今日もその一杯を食後に求めて、用意してくれた奈々に憤慨されてしまった。
 ミルクや砂糖を入れないブラックコーヒーは、一見すると泥水のようだ。黒く濁り、底が見えない。
 その外見からまず拒否反応が起こって、舌を焼く熱さに二の足を踏まされた。
 市販されているインスタントコーヒーだから駄目なのかと、わざわざ専用のマシンで煎れて貰ったというのに、この有様。
 高かったのに、と最近流行りのマシンを撫でて、二十代にも見える沢田家の大黒柱はぷんすか煙を噴いた。
 自宅でお手軽本格コーヒー、という謳い文句に踊らされ、彼女がこの機械に手を出したのが約三週間前のこと。
 現在沢田家にはイタリア出身者が複数人居候中なので、丁度良いと思ったのだろう。そこにひとり息子である綱吉が興味を示して、苦手を克服すべく、修行が始まった。
「嫌なら、飲まなきゃいいのに」
「でも、折角煎れてくれたんだから、……うぐぐ」
「これくれーで、だらしねえぞ。ツナ」
「うるさいな。ほっとけよ」
 白いカップを前に百面相している息子を眺め、奈々が呆れた顔で溜息を吐く。
 頬に手を添えて呟いた彼女に綱吉は顎を軋ませ、合いの手を挟んできた赤子にはむすっと頬を膨らませた。
 彼の斜め向かいの席には座布団が数枚重ねられて、その天辺にスーツ姿の赤ん坊が座っていた。屋内でありながら帽子を被ったままで、彼の隣には赤い唇が魅力的な女性が控えていた。
 彼らの前にも、綱吉が睨んでいると同じコーヒーが置かれていた。
 もっとも片方は既に飲み干され、もう片方も残りあと僅かだ。ミルクポッドに手が付けられた形跡はなく、ふたりとも何も入れないブラックを愛飲していた。
「とっても美味しいわ、ママン。また腕を上げたんじゃない?」
「あら、そう? ビアンキちゃんに言われると、本当に上達したみたいで嬉しくなっちゃう」
「お世辞じゃないわ。ね、リボーン?」
「ああ、そうだぞ」
「機械が全部やってくれるんだから、誰がやっても同じだろ」
「ツーナー? なにか言った?」
「べっつに~~?」
 褒められて上機嫌になった奈々に小声で悪態をつけば、しっかり音を拾われた。
 瞬時に目を吊り上げて鬼の形相になった母に素っ気なく吐き捨てて、綱吉はとても美味しいとは思えない液体に渋面を作った。
 恐る恐る縁に唇を当て、ほんの少しだけ咥内へと流し込む。
「うっ」
 途端に眉間の皺が深くなり、呻き声に似た音が鼻から飛び出した。
 両目はきつく閉ざされ、見ている方が息苦しくなるくらいだった。だというのに彼は懸命に抗って、我慢の末にコーヒーを喉へと押し流した。
 鼻を抓みたくなるのを堪え、ちびちび飲むから辛いのだと自分に言い聞かせて。
 ひと息のうちに飲み干してしまうのが吉、と己を鼓舞し、急き立てて。
「う、うぅ……んぐ、っはー」
 そうしてごくごくと喉を鳴らし、まるで風呂上りのビールを楽しむ父親の如き声をあげ、カップをテーブルへと叩きつけた。
 ガンッ、とかなり良い音がしたが、本人は意に介さない。
 周囲の三人が揃って呆然としているのも構わず、綱吉はやり遂げた感満載の表情で胸を張った。
 ブラックコーヒーを飲めた程度で何を偉そうに、と言ってしまえばそれまでだが、当人にしてみれば偉大な一歩だ。
 この調子で、いつか得意になれたらいい。そんな風に意気込んで、表情は晴れ晴れとしていた。
「ごちそうさま」
「はいはい、お粗末様でした」
 濡れている口元を拭い、椅子を引いて立ち上がる。
 夕食後の一杯を堪能し終えた息子の言葉に、奈々は肩を竦めて苦笑した。
 リボーンとビアンキも、顔を見合わせて笑っていた。そのやり取りがどうにも意味深であり、艶っぽさを含んでいるのもあって、思春期真っ盛りの十四歳は不満げに口を尖らせた。
「なんだよ」
「いーや?」
「そうよ。ブラックコーヒーが飲める男は格好いい、なんて思ってないわよ?」
「――どうせ、オレはカッコ悪いよ!!」
 直後、からかわれて真っ赤になり、声を荒らげる。
 突然怒鳴り声を上げた少年に、空のコップを片付けていた奈々は吃驚して飛び上がった。
 隣の部屋でテレビを見ていた子供たちも、ドアを開けて様子を窺っていた。何事かと目を丸くして、不思議そうな顔で兄代わりの少年を見詰めた。
 家に居る全員が、台所に集まった。大勢から一斉に視線を向けられて、綱吉は地団太を踏んで奥歯を噛み鳴らした。
「もう寝る!」
「歯、磨きなさいよ。あと、お風呂も」
「分かってるってば」
 ひとり癇癪を爆発させて、騒々しく足音を響かせながら台所を出て行こうとする。
 その背中に奈々が言えば、彼は猫背を酷くして鼻を愚図らせた。
 最後まで格好がつかなかった。どうして家の連中はこうなのか、と心の中で愚痴を零して、彼は口の中に残る苦みをなんとかすべく、唾を飲みこんだ。
 けれどなかなか漱ぎきれず、取り払えない。
 自室へ向かう足取りも自然と鈍って、綱吉は階段の三段目で深く溜息を吐いた。
 左手で手摺りを掴み、憂鬱を振り払おうと首を振る。
 だがその程度で消えてくれる悩みなら、とっくに解決出来ている筈だった。
 どうにもならない感情を抱え、彼はのろのろと残りの階段を登った。半ばを過ぎた辺りで階下を窺えば、話が盛り上がっているのか、台所から楽しげな笑い声が聞こえて来た。
 そこに混じれなかった悔しさと、混ざらなくて良かったという想いが拮抗していた。最終的には後者が辛勝して、少年は鼻の穴を膨らませた。
 荒々しく息を吐き、残っていた階段を一気に駆け上る。
 どうせ今頃、母たちは急にコーヒーを飲み始めた綱吉を笑っているのだろう。これまで見向きもしなかったものに突然関心を寄せて、周囲がどれだけミルクを勧めようと、頑なにブラックに拘る彼に呆れているのだ。
 だが、仕方がないではないか。
 思ってしまったのだ、あんな風に格好よくありたいと。
 放課後、呼び出された応接室で。
 本来は校長が座るべき席に位置取り、書類を処理しつつ悠然とカップを傾ける男を見た。
 忙しく働きながらも時折手を止めて、ごく自然とコーヒーを啜る姿が実に様になっていた。
 映画のワンシーンを見ているようだった。
 武器を握らせれば誰よりも強く、横暴極まりない理論を振り翳す暴君と知っていながらも、見惚れてしまう凛々しさだった。
 同じ男なのに、こんなにも違う。
 憧れを抱くには充分だった。形だけなぞっても無意味なのは承知の上で、真似をせずにはいられなかった。
 匂いは苦手ではないのだから、毎日飲み続けていれば、いつか舌が慣れてくれる。
 そう期待して、今日でそろそろ二十日。
「うげえ、まだ苦い」
 依然として変化が見られない味覚に顰め面を作り、綱吉は頬に感じた風に首を傾げた。
 見れば、部屋のドアが開いていた。それも全開ではなく、中途半端に少しだけ。
 夕食で呼ばれた時、ちゃんと閉めた筈だ。それとも力加減が緩くて、きちんと閉まり切っていなかったのか。
 有り得そうだと鼻の下を擦り、彼は何もない空を蹴った。
 さっきからケチがついてばかりだと床に八つ当たりして、この一時間ほど無人だった部屋へと入る。
 室内は暗く、足元ははっきりしなかった。
 手探りで壁のスイッチを押し、天井の照明を点す。そうして進路を塞いでいた漫画雑誌を拾って、綱吉は食事前との違いに眉を顰めた。
 なにも変わっていない気がするけれど、なにかが違っている気がする。
 直感が働いた、とでもいうのだろうか。しかし泥棒に入られたとは思えず、彼は頼りない感覚に口を尖らせた。
 ひと通り室内を見回し、開けたまま放置した窓のカーテンか、と当たりを付けてそちらへ足を向ける。
 何もなければそれでいいと、臆病な心を奮い立たせて、室外機が置かれている狭いベランダへと手を伸ばす。
「――うわっ」
 直後、白い布が躍った。
 他ならぬカーテンが風に膨らんだだけだが、予想していなかった綱吉は大袈裟に驚いて悲鳴を上げた。
 中身が空気の布に押されて後ろへ倒れそうになり、たたらを踏んで飛び跳ねる。
 手はじたばたと宙を泳ぎ、唐突に動きを束縛されて止まった。
 同時にぐい、と乱暴に引っ張られた。それが却ってバランスを崩す原因となり、後ろから前に姿勢を転じた綱吉は、そのまま膝を折って崩れ落ちた。
 身体を支えきれず、膝頭を思い切り打ちつけた。彼を引っ張っていた力も同時に消えて、右腕はだらりと脇に垂れ下がった。
 視界を塞いでいたカーテンも、浜辺の波のように引いて行った。だがそれは真っ直ぐにはならず、異物を探知して不自然な凹凸を作った。
「……え?」
 シャッ、とカーテンレールに布が走る音がした。
 邪魔だと横に押し退けられ、抗議するかのようにカーテンが激しく波立った。
 綱吉の部屋があるのは、二階だ。南に面しており、眼下にあるのは隣家ではなく、猫の額よりは広い庭だった。
 登ってくる手段など、そう多くない。外階段など当然ないし、梯子が架けられているわけもなく、縄がぶら下がっているわけでもなかった。
 だのにそこに、人がいた。
 開けっ放しの窓から侵入を試みて、片足を窓枠に置き、男がひとり、佇んでいた。
「ひ……ばり、さん!?」
 外はすっかり暗くなり、月のない夜は不気味だった。星の光も殆ど見えず、道路を挟んで向かいの家の灯りが浮き上がっている程度だった。
「やあ、小動物」
「沢田綱吉、です」
 そんな夜闇に乗じて、訪問者があった。
 玄関から来てくれればいいのに、何度言っても耳を貸してくれない。
 そのうち近所の人から通報されかねないと肩を落として、綱吉は悠然としている青年に訂正を試みた。
 もっとも、それで応じて貰えた過去例は存在しない。彼は一度これと決めると、滅多な事では撤回しない強情な男だった。
 綱吉が通う並盛中学校の風紀委員長にして、ボンゴレ十代目の雲の守護者。まだ年若いが既に歴代最強とまで噂されており、その強さはリボーンの折り紙つきだった。
 味方にすれば頼もしく、敵に回せば恐ろしい。
 芯が強く、一本気で、何があっても決して折れない。
 妥協せず、譲歩せず、己を押し通して周囲に媚びない。
 綱吉とは正反対と言っても良い。だからこそ憧れて、隣に並びたいと願った。
 彼に見合う人間になりたくて、不格好な自分を恥じて、近付けるよう頑張っていた。
 雲雀恭弥にはなれずとも、せめて遜色ないように、必死になって。
 だが今のところ、努力が実ったとは言い難い。コーヒーだって気合いを入れ、覚悟を決めないと、飲み干せなかった。
「り、……リボーンなら、まだ下にいますけど」
 それと同じように、雲雀を前にするにも覚悟が必要だった。
 こんな風に突然やって来られたら、心の準備が間に合わない。顔は引き攣って、動揺は声にも表れ、震えて上擦ってしまった。
 緊張して、巧く喋れなかった。思わず握った手を胸に当てて、綱吉は床を蹴った足元を見つめた。
 彼が訪ねてくるなど、聞いていない。
 約束があるなら先に言っておいて欲しかったと、彼は家庭教師役を務める赤ん坊に奥歯を噛み締めた。
 握り拳を作り、恐る恐る前方を窺う。
 雲雀は窓枠の上で器用に身を屈め、百面相する綱吉を面白そうに見つめていた。
「なっ、なんです、か」
「ううん。今日は赤ん坊じゃなくて、君に用があったんだけど」
「オレに?」
「そう」
 頬杖をついて、抜群のバランス感覚を披露していた。綱吉が試せば一秒としないうちに落ちるだろう危うい場所で、彼は淡々と言って頷いた。
 首を縦に振り、もっと近付くよう合図を送る。
 そういえば倒れそうになった時、彼に一度助けられているのを思い出して、綱吉は消えかかっていた感覚に臍を噛んだ。
 手首を掴まれた熱は霧散して、殆ど残っていなかった。
 気付くのがもっと早ければ、違う対処も出来ただろうに。
 まるで役に立たない超直感を足の裏で踏み潰して、綱吉は右膝を起こして立ち上がった。
「なん……でしょう」
「うん。今日はずっと風紀委員の巡回で、歩き回って疲れたからね」
 恐々尋ねれば、雲雀は至って普通に返事をくれた。機嫌が良いのか饒舌で、いつもより口数が多かった。
 もっとも語られる内容は、事情を知っていれば実に血腥い。
 彼に見つかり、粛清された不良はどれくらいの数、いるのだろう。風紀違反者を沢山取り締まれたからこその上機嫌かと、綱吉は内心冷や汗を流した。
 それでも、顔を見せてくれたのは嬉しかった。
 とすれば、これから帰るところだったのか。確かに沢田家は、学校と繁華街の中間に位置しており、立ち寄るのに遠回りする必要はなかった。
 本当は躍り出したいくらいなのに、表に出ないように隠して表情筋に力を込める。その所為で逆に変な顔になっているとも気付かずに、彼は摺り足で窓辺に歩み寄った。
 足元に落ちていた、一昨日着て脱ぎっぱなしだったパジャマを蹴散らし、首を捻って上を向く。
 並盛中学校を支配する暴君は、一応は上司に当たる大空の守護者であり、次期ドン・ボンゴレを眼下に収め、口角を持ち上げて不遜に笑った。
 その意図を計りあぐねて、綱吉はきょとんと目を丸くした。
「ヒバリさん?」
 彼は疲れたと言っていたが、まず間違いなく嘘だ。
 この男の体力は、底が知れない。唯一ガス欠に陥ったのが六道骸との一戦だが、彼はその前に部屋に閉じ込められて、碌に食事も与えられていなかった。
 万全の状態だったなら、勝負は違っていた。
 過信し過ぎている自覚はあるが、ともあれ雲雀は、町の不良を駆逐した程度で倒れたりしない。確実に何かしら裏があると勘繰って、綱吉は警戒を露わにした。
 けれど、既に遅かった。
 この距離は雲雀の間合いであり、一度得物と定められた以上、逃げられるわけがなかった。
「良く言うだろう。疲労回復には、甘い物――だって」
「は、い?」
「だから、はい」
「うわわっ」
 意味ありげに告げられて、その意味するところを知る前に。
 雲雀の手が問答無用で綱吉の手首を縛り、力技で引き寄せた。
 不意をつかれてつんのめり、咄嗟に反抗した身体が後ろへ傾ぐ。だがそれすらも見越した上で、雲雀は仰け反った綱吉の腰に腕を回した。
 くの字になった体躯を招きよせ、再び、今度は壁で膝頭を打った少年の涙は意に介さない。
 あくまでも自分のペースを貫いて、雲雀は苦悶に歪んだ綱吉の顎を掬い上げた。
 避ける暇などなかった。
 目を瞑るのさえ、許してもらえなかった。
「んんんっ!?」
 何が起きたのか、正直なところ、まるで分からなかった。
 口を塞がれた。
 口で塞がれた。
 行き場を失った息が鼻腔から溢れ、ぬるっとした感触が唇の継ぎ目に襲いかかった。
 生暖かくてぬめぬめした物に舐められて、熱は一瞬にして遠ざかった。あまりに近過ぎて視界がぼやけて、瞬きして焦点を定め直した時にはもう、雲雀の顔は遠ざかった後だった。
 夢にまで見たくちづけに、艶っぽさなど微塵もなかった。
 それはむしろ味見であり、獲物に対する舌なめずりの延長だった。
「ひ、ひば、……ひっ?」
「あれ。おかしいね、君。少し苦くない?」
 反射的に突き飛ばそうとしたら、狙ったかのように手を離された。束縛から解き放たれた身体は勢い余って後ろへ向かい、尻餅をつくのは必然だった。
 衝撃は凄まじかった。
 大の字になって転がってから這うように後退を図った綱吉だが、雲雀には動揺の欠片すら見当たらなかった。
 平然としつつ、今しがた人を舐めたばかりの舌で唇を濡らす。
 挙句に不思議そうに問いかけられて、顔を真っ赤にした少年は頬を引き攣らせた。
 ついさっき、コーヒーを飲んだところだ。
 歯は磨いておらず、嗽もしていない。口の中も、唇も、まだ苦くて当然だった。
 言い当てられて、彼は思わず膝を閉じた。背筋を伸ばして床の上で座り直して、綱吉は右手で感触が残る口元を覆い隠した。
「そ、そん……え。ええ? だっ、てか、いいいい、今、いま。おれに、ヒバリさん」
「駄目だよ、小動物。君は甘くないと」
 訳が分からなかった。
 雲雀が何を言っているのか、半分も理解出来なかった。
 頭の天辺から声を放ち、目玉をぐるぐる回しながら考えるが、分からない。体温は一気に四十度近くまで上昇して、心拍数は限界値を大幅に更新した。心臓は今にも破裂しそうで、両耳からは勢いよく湯気が噴き出した。
 パンク寸前に陥っている綱吉を眺め、雲雀は思っていた味と違った少年に肩を竦めた。
「君は、僕のデザートなんだから」
 やっと見つけた、美味しそうな相手。
 最後の楽しみにとっておきたい、蕩けるくらいに甘い子は、予想よりも苦かった。
 つまみ食い、ならぬ味見をして良かった。
 熟し切るには、もう暫くかかりそうだ。
 あれこれ想像して、雲雀は口角を持ち上げた。不敵に笑って綱吉を指差して、宣告と同時に後ろへ跳ぶ。
「ヒバリさん!?」
 慌てた綱吉が窓へ駆け寄ったが、その姿は闇に紛れて見えなかった。但し悲鳴や、嫌な音はなにも聞こえてこなかったので、彼のことだからきっと無事なのだろう。
 近所の犬が、何かに驚いたのか、激しく吼えていた。飼い主に五月蠅いと叱られても止まない声に苦笑して、綱吉はそのままずるずる膝を折った。
 窓を支えに身を沈め、額を冷たい窓枠に擦り付ける。
「なんなんだよ、いったい」
 唇に残る微熱が、夢や幻ではなかったのだと教えてくれた。
 けれど依然、なにがなんだか分からない。
 ただ言えるのは、思っていたよりも柔らかくなかったこと。
 そして。
「ヒバリさんは、苦すぎます」
 綱吉が甘いデザートだとしたら、彼は食後のコーヒーか。
 もう二度と飲めそうにないドリンクに苦虫を噛み潰したような顔をして、彼は頭を抱えて丸くなった。

2015/06/14 脱稿

杜若

 電話が鳴ったのは、夕食を終え、部屋に戻ってのんびりしていた時だった。
 食べ過ぎた腹はパンパンで、身体は重い。死に物狂いの練習と、自転車での帰宅で体力は底を尽いており、横になりでもしたら五秒で夢の世界へ旅立てそうだった。
 但し、ここで休むわけにはいかない。なにより風呂がまだで、試しに腕を顔に近付ければ、悪くなってしまった牛乳のような酸っぱい臭いがした。
 夏が近づくにつれて、この臭いは徐々に酷くなっていた。練習を終えた後の部室などは特に惨憺たるもので、悪臭に殺されるのでは、と危惧するレベルだった。
 どれだけ制汗スプレーを駆使しようと、消臭剤を振りまこうとも。
 結局は付け焼刃にしかならなくて、十分としないうちにフローラルな香りは消え失せてしまった。
 そんなだから、昼休みも部室に人が集まらない。誰かの汗だくのシャツが放置されていようものなら、翌朝には部屋中に香ばしい臭いが充満した。
 少し前まで、朝一番に登校するのが、密かな楽しみだった。
 誰よりも早く到着して、誰よりも早く練習を開始する。他の部員よりもスタート地点が遅かった自覚があるので、ひたすら励むしかないと心に誓っていた。
 けれど最近は、それがかなり苦行だった。
 饐えた臭いに満ち溢れた部屋のドアを開けるのが、どれほど恐ろしいか。完全に罰ゲームだと涙目になった回数は、既に四回を超えていた。
 誰も忘れ物をしなければいいのだけれど、世の中そんなに甘くない。それに日向自身も過去に持ち帰り損ねたことがあるので、おおっぴらに文句が言えなかった。
 早朝からの練習で手を抜きたくないし、けれどあの湿気が籠ってむわっとした空気を浴びるのは嫌だし。
 左右に揺れる天秤を頭上に掲げて、日向翔陽は顰め面で奥歯を噛み締めた。
 そんな時だった。
 床に投げ出した鞄の中から、けたたましい爆音が轟いたのは。
「うおっ」
 ベッドの上で唸っていた身としては、不意打ちも良いところだった。突然のことに驚かされて、小柄なミドルブロッカーは布団の上で飛び跳ねた。
 尻で弧を描き、着地と同時に左右を見回す。挙動不審に狼狽えてから音の発生源に思い至って、着信から五秒以上経った後、彼は鞄から携帯電話を引き抜いた。
 ブブブ、と激しく揺れる小型の端末では、青色のライトが騒々しく明滅していた。喧しい場所でも気付けるよう、音量を最大にしていた着信音も、家の中では邪魔なだけだった。
 帰宅前に、解除しておくのだった。
 軽い後悔に苛まれつつ、日向は歯を食い縛って揺れ動く機械を握りしめた。
「だ、誰、だろ」
 鼻から息を吸い、悩む間もなく折り畳まれている端末を開く。
 親指を隙間に押し込んで上へ滑らせれば、内部に仕込まれているバネでも起動したのか、黒色の機械は一瞬で縦長になった。
 上半分には液晶画面が、下半分には数字や文字が記されたボタンが。
 いまどき珍しい、とまで言われてしまう通話主体のフューチャーフォンを握りしめて、彼は画面にでかでかと現れた文字に目を剥いた。
「もっ、もしもし!」
 脳が認識すると同時に、通話ボタンを押す。
 勢いよく右耳に上部のスピーカーを叩きつけた彼の声は、綺麗にひっくり返っていた。
 とても高校一年生の男子には聞こえない声だった。
 頭の天辺から飛び出して来たのでは、と言いたくなる甲高さにひとり照れて、日向は苦虫を噛み潰したような顔をした。
『大丈夫?』
 気恥ずかしさに次の言葉を躊躇していたら、ハイトーン過ぎる返事を心配された。
 それで余計にいたたまれなくなって、彼は額を押さえて丸くなった。
 着替えなどが散乱している部屋に膝を着き、勉強道具一式が詰め込まれたままの鞄を脇へと追い払う。
 本当は真面目に机に向かい、宿題に勤しまなければならない。だがそういう気分ではなくて、なるべく見ないようにしていた。
 開け放った鞄の上部からはみ出ている物から目を逸らして、日向は膝を揃えると、正座して窓へと向き直った。
 そちらが南だから、つまりは通話相手のいる方角だ。
 正確には南西なのだけれど、細かいことは考えない。ほんの少し鼻息を荒くして、彼は気持ちを切り替えて首を振った。
「だい、ジョーブ。研磨こそ、どうしたの?」
 日本人でありながら若干不安な発音で応じて、背筋はピンと伸ばす。
 畏まったところで相手には見えないけれど、心構えが大事だと自分に言い聞かせ、日向は窓から見えた月明かりに目を細めた。
 孤爪研磨は、不思議な縁で知り合った相手だった。
 ただの練習試合の相手だったはずが、気が付けば深く心に住み着いて、永遠に忘れられない存在になっていた。
 先輩であり、友人であり、ライバル。
 住んでいる場所が離れているのであまり頻繁には会えないけれど、科学文明が発達した昨今、こうやって電話で気軽に話せるし、メールで近況を報告し合うのも簡単だった。
 もっとも電話の方は、通話料が安くないので、それほど頻度は高くない。
 こんな風に前もっての連絡なしに掛かってくるのは、稀だった。
 行き違いがないように、大抵の場合、電話をしても良いか問うメールが先に届いた。もしかしたら見落としていただろうかと気になって、日向は耳にべったり張り付けていた端末を引き離した。
『……うん。なんとなく』
 けれど確かめる前に、あっさり告白された。
 特に理由もなければ、用があったのでもない。そう教えられて、彼は不思議な心持ちで頷いた。
「なんとなく?」
 それは実に曖昧で、漠然とした答えだった。
 気が向いたから、実行に移した。それだけだと言われても、すぐには納得出来なかった。
 本当に、そうだろうか。
 信じていないわけではないけれど、疑問が湧き起って、日向は膝に置いた左手を軽く握りしめた。
 ショートパンツの裾を捏ね、指に絡める。剥き出しの太腿に爪が当たり、白い筋が浮かんで、消えた。
『そう。なんとなく、翔陽の声、聴きたくなった』
 直後、日向の身体がべったり床に張り付いた。足を左右に広げて尻を落とし、上半身も前方に投げ出して腹這いになった。
 まるで五体投地だ。
 遠い昔、なにかのドキュメンタリー番組でやっていた祈りの姿勢を真似て、日向は不意打ちを喰らってくらくらする頭を抱え込んだ。
「けんま~~~」
『なに?』
 起き上がるのも面倒で、そのまま床に横になる。
 仰向けで大の字になって、日向は恨めし気に口を尖らせた。
 元々赤かった顔が更に色味を増して、身体の芯が燃え盛るように熱かった。帰宅直後の体温を取り戻して脂汗を流し、彼は鼻を愚図らせて罪深い男に頬を膨らませた。
 もっとも、そんな顔をしたところで、孤爪には見えない。
 不満を訴えても伝わらなくて、日向は下唇を噛み締めた。
 きっと電話の向こうで、孤爪はきょとんと首を傾げているに違いない。
 今の台詞は、十トン爆弾よりも強烈だった。それなのに言った本人にその自覚がないのだから、どれだけ文句を並べても通用しなかった。
 自分ひとりが恥ずかしがって、嬉しがって、喜んでいる。
 練習の疲れが吹き飛ぶ台詞を耳に閉じ込め、日向はごろん、と寝返りを打った。
 畳敷きであるが、ベッドに比べれば寝心地は悪い。しかも整理整頓が行き届かず、色々なものが落ちているので、予期せぬ痛みを覚える場合もあった。
「いって」
『翔陽?』
「なんでもない」
 先ほど遠ざけた、教科書入りの鞄を蹴ってしまい、小指が痺れた。
 打ち所が悪くて声が出てしまって、日向は慌てて言い訳すると、無事な方の足に痛む指を擦り付けた。
 そんなことをしても傷は癒えないが、何もせずにじっと耐えるなど出来ない。落ち着きなくもぞもぞ身じろいで、彼はなかなか弾まない会話に小鼻を膨らませた。
 そもそも孤爪は、あまり口数が多くない。
 だから電話でも、メールでも、大抵の場合は日向の方が多弁だった。
 自分から話題を提供しないと先に進めないのに、先ほどの余韻もあって、巧く言葉が出て来なかった。
 そっちはどれくらい暑いのか。
 チームの仕上がり具合はどうか。
 リエーフや、犬岡たちは元気にしているか。
 近いうちにまたそちらに行くが、土産は何がいいか。
 聞きたいことは色々あるのに、どれも敢えて声に出すほどのものでもない。後日メールで尋ねても良い内容ばかりで、折角の電話なのに勿体ない、と思ってしまった。
 そうなると益々、何を喋ればいいか分からない。
 眉間に皺を寄せて渋面を作って、日向は天井の染みを睨みつけた。
『翔陽?』
「っは。ごめん。えっと、ぅあ……の」
 悩んでいたら、黙り込んでいた。
 掠れる小声で名前を呼ばれて、彼は弾かれたように身を起こした。
『忙しかった?』
 勢い余って前に倒れそうになったのを耐え、聞こえた質問にはぶんぶん首を振る。
 もっともそれが孤爪に見えるわけもなく、声に出さないと当然伝わらなかった。
「ぜっ、じぇんじぇん!」
『……ぷっ』
 だからと焦っていたら、発音がおかしくなった。
 舌が回り切らない返答に孤爪は噴き出して、しばらくの間、携帯電話からは彼の笑い声だけが聞こえて来た。
 腹でも抱えているのだろうか。
 様子を想像して拗ねた顔をして、日向は胡坐を作って足の裏をぶつけ合わせた。
「研磨、笑い過ぎ」
『ごめん、翔陽。だって』
 文句を言っても、なかなか笑い止んでくれない。
 そこまでツボに入るものだったかと眉目を顰め、彼は首を振って肩の力を抜いた。
 孤爪はゲームが好きで、いつも携帯用のゲーム機で遊んでいた。その腕前は、日向はやらないので良く分からないが、人並み外れたものであるらしい。
 熱中するものがあるのは良い事かもしれないが、小さな画面に夢中になっている彼を見るのは、少し複雑だった。
 自分はここに居るのに、別のところばかり見て、意識を傾けて。
 楽しくお喋りをしたいのに、こちらを見てくれないと、巧く話せない。
 悲しくなって泣きそうになってしまった日もあって、思えばあれ以来、孤爪は日向の前であまりゲームをしなくなった。
 背中を丸めて手元ばかりに集中していた彼が、電話を片手に笑いを堪えている。
 あの頃に比べれば、驚くべき進歩に違いなかった。
「ちぇ」
 仕方がないので、許してやろう。
 舌打ちして愁眉を開いた日向の独白に合わせたかのように、孤爪も幾分落ち着きを取り戻した。
『……一年分くらい、笑った気がする』
「そんなバカな」
『本当』
「だめだって、研磨。もっと笑わないと。健康に良くないって、誰かが言ってた」
 それもまた、大昔にテレビで見た情報だった。
 どういう風に良いのかは難し過ぎて覚えていないものの、笑うのが長寿の秘訣だと、皺くちゃの老人が言っていた。それだけは鮮明に記憶に残っていて、今の発言に繋がった。
 だけれど孤爪からの返答はすぐには得られなくて、妙な沈黙がふたりの間に生まれた。
「研磨?」
『べつに……いいし』
「だめだってー」
「にいちゃん。おふろー」
 催促して、語尾を上げ気味に呼びかける。
 ようやく会話が生まれた。後は水を与えて育んで行くだけ、という時に、後方から甲高い、可愛らしい声が高らかと響いた。
 開けっ放しだった襖を更に横に押し開いて、日向家の長女が敷居の上で仁王立ちしていた。両手は腰に当てて、着ているのは不思議なオコジョ柄のパジャマだった。
 オレンジ色の髪の毛はほんのり湿り、短い毛先がぴょん、と天を向いて跳ねていた。性格は兄に負けず劣らず勝気で、上から目線の表情は生意気だった。
「うげっ」
『翔陽?』
 膝丈のズボンで生足を晒し、日向夏が鼻から息を吐く。
 踏ん反り返った姿は母の生き写しでもあって、ひと回り年上の兄は露骨に顔を顰めた。
 嫌なタイミングで現れた。
 寝支度を終えた妹を振り返って青くなって、日向は電話口から聞こえた声にも奥歯を噛み鳴らした。
「夏、ちょっと待って。黙って」
「はやく、おふろ。にいちゃんが最後」
「分かってるから。うるさい」
「えー。なにそれ。せっかく呼びに来てあげたのにー」
 こちらは大事な電話中で、風呂どころではない。
 用件は分かったからさっさとリビングにでも戻るよう命令するが、言葉の選択を誤り、夏は反発して声を荒らげた。
 ただでさえ甲高いのに、それが一段階上に行った。
 頭に直接響く大声に顰め面を作って、日向はずんずん近付いてくる妹を手で追い払った。
 けれど、それで素直に従ってくれる相手ではない。
『ああ、じゃあ。翔陽、おれ、もう』
「いあ、あ。待って。まだ平気だし」
「にいちゃん、電話?」
 急に慌ただしくなった彼に、孤爪はピンと来るものがあったらしい。
 遠慮して通話を切ろうとした彼を急いで制するが、そちらに気を取られた隙に、妹の接近を許してしまった。
 身を乗り出した夏が、兄の手に握られたものを見て首を捻る。
 そして。
「やだー。にいちゃん、くさあい!」
 突如叫んだかと思えば、両手で鼻を押し潰した。
 顔の中心に手を重ね、その状態で後退された。心底嫌そうな悲鳴は当然、携帯電話も拾ってくれて、日向の耳にはまたしても「ぶっ」と噴き出す声が紛れ込んだ。
 確かにろくに汗を拭かないまま学校を出て、自転車で道を爆走してきた。
 家に着いて夕食を食べて、歯だって磨いていない。
 はっきり言って、不潔だった。放っておいたら閉め切られた部室のような、あんな悪臭がこの部屋にも立ち込めるだろう。
「夏!」
 想像して、ぞぞぞ、と悪寒が走った。妹にはっきり言われたのもショックで、日向は半泣きになって拳を振り上げた。
 孤爪にまで聞かれて、恥をかいた。臭いのが嫌なら近付いてこなければ良かったのだと逆ギレして、彼は逃げた妹の残像を殴り付けた。
 空を切った拳を解いて畳に押し当てて、荒い息を吐くが気が収まらない。
 夏は足音響かせ廊下に逃げて、出ていく直前、あっかんべーと舌を出した。
「にいちゃん、ばっちぃ」
「なつぅぅぅぅ!」
「こら、ふたりとも。なに騒いでるの。翔陽も、早くお風呂入っちゃいなさい」
「あああ、もおおおお!」
 面と向かって罵倒されて、頭に血が上った。
 孤爪との電話のことも一瞬忘れて吼えれば、時間も考えずに騒ぐ兄妹を叱り、母親が割り込んできた。
 階下からでもはっきり聞こえる大音響に、我慢も限界だった。
 癇癪を爆発させて膝を殴って、日向は痛みを堪えて丸くなった。
『にぎやかだね』
「もう、好きなだけ笑えばー?」
 穴があったら入りたかった。
 日向家の日常を知られて、格好がつかない。いつもこの調子なのかと訊かれて頷いて、彼は着ていたシャツの襟を引っ張った。
 そこまで酷いかと嗅ごうとして、鼻先に持って行く前にぷぅん、と香ったのに眉を顰める。
「うぐ」
『そんなに?』
 堪らず呻けば、孤爪に訊かれた。しかもその声は今までより若干音量が大きくて、いやにはっきり耳に響いた。
 まるで身を乗り出して来られた気分だった。現実には遠く離れた場所にいるのに、すぐそこで囁かれた感じだった。
 上下に貼り付いた唇が剥がれる際の微かなノイズ、鼻息、そういったものまで聞こえて来た。目を瞑ればより強く意識させられて、日向は暑さを覚えて胸を掴んだ。
 シャツに爪を立てて掻き毟り、何の役にも立たない制汗剤メーカーへの愚痴を漏らす。
「だ、だって。しょーがないじゃん。体育館、暑いんだし!」
 一回で瓶を空にしても、少しも爽やかになれない。
 上半身裸で喚く田中や西谷を思い返しつつ吼えて、彼はタコのように口を尖らせた。
『宮城、涼しそうなのに』
「動いてたら関係ないし、研磨だって。違うの?」
『うち、……冷房入ってる』
「えー。なーんでー。いーなー!」
 東北の一県とはいえ、夏は相応に暑い。勝手な思い込みで決めるなと声を荒らげ、日向は駄々を捏ねて床を踏み鳴らした。
 踵を交互に上下させて暴れていたら、それも五月蠅かったらしい。
「翔陽、お湯抜いちゃうわよ!」
 またしても母の怒号が家中に響き渡り、彼の動きはピタリと止まった。
 呼吸さえ止めて、五秒してから安堵の息を吐く。
 時計を見れば、もうかなり良い時間だった。
 早く色々済ませないと、今日中に寝床に入れない。床に放り出されたままの鞄も一瞥して、日向は深々とため息を零した。
「音駒、いいな。ずるい」
『翔陽もこっち、来ればいいじゃない』
「もうちょっとしたら行くけど?」
『…………そうだね』
「研磨?」
 首を捻りながら言い返せば、相槌までに随分と間があった。
 声のトーンも幾分下がった孤爪に眉を顰めるものの、彼は二度とこの話題に触れなかった。
 代わりに嘆息をひとつ挟んで、衣擦れの音を響かせた。
 姿勢を変えたのだろう。様子を想像して、日向は皺らだけのシャツを撫でた。
『ね、翔陽』
「うん」
『今度、嗅がせて』
「うん、いいよ。……――って、なにを!?」
 淡々と告げられて、淡々と答える。
 深く考えないまま承諾を伝えて、その直後に我に返った。目を真ん丸に見開いて、日向は信じ難い提案に素っ頓狂な声を上げた。
 携帯電話を耳から引き剥がし、真っ暗になっていた画面にも驚く。まさか通話が切れたかと疑ったが、単に時間が経過して、省電力モードに入っただけだった。
 再度耳に近付ければ、ちゃんと音がした。そこにまずホッとして、直前の言葉を思い出してまた赤くなる。
 頭の中でヤカンが沸騰していた。耳から湯気が出そうになって、彼は熱くて堪らない頬を左手で押さえこんだ。
「研磨、寝ぼけてる?」
『ううん。だって、気になるし』
 念のために訊ねるが、敢え無く否定された。言い間違いでもないと改めて念押しされて、脳みそが茹で上がりそうだった。
 風呂に入る前から、逆上せている。
 変なことを言い出した友人に唖然としていたら、受話口から、すん、と呼吸音とは異なる雑音が流れて来た。
 それがどういう類のものか、一瞬で理解出来た。
 耐えきれなくて身を捩って、日向は半泣きで汗だくのシャツを引っ掻いた。
 片手で脱ごうとしたけれど、巧くいかない。湿った布が肘に引っかかって袖が抜けず、もがいているうちに、何度か音を繰り返した孤爪がため息を吐いた。
『声だけじゃなくて、匂いも繋がればいいのに』
 スマートフォンに鼻を近づけ、臭わないか嗅いでいたのだ。
 そんな機能、実装されているわけがない。試したけれど駄目だったと残念がる彼の真意が、日向にはまるで分からなかった。
 混乱して、頭がぐちゃぐちゃだった。布の塊が鼻先に近付いた分だけ悪臭も強まり、我慢出来なかった日向は脱ぐのを諦めてシャツの裾を引っ張った。
 新鮮な空気を口から集め、ぜいぜい言って、鼻を愚図らせる。
「もう、おれ。風呂いくから。切るな!」
 ついさっきは、電話を切ろうとした孤爪を引き留めたのに。
 撤回して、叫んで、返事も待たずに通話終了のボタンを押す。
 機械が壊れそうなくらいに力を込めて捻じ伏せて、日向は前屈みの体勢のまま、数秒間停止した。
 ぷしゅん、と煙が出た。
 信じられないひと言が、いつまで経っても頭から離れなかった。
「変なこと言わないでよ~~~」
 呻き、喚いて、彼は沈黙する携帯電話を放り投げた。折り畳みもせず床に転がして、自分自身も寝転がって、ジタバタと悶えながら芋虫と化して丸くなる。
 孤爪が鼻を鳴らしているイメージが、どうやっても拭えなかった。
 まだ彼が耳元にいて、汗の匂いを嗅ごうとしている気配が感じられた。
 信じられない。
 どうかしている。
「そんなの、……臭いだけに決まってんじゃん」
 いったい何を求め、彼はあんなことを言ったのか。
 考えれば考えるほどドツボに嵌ってしまって、日向は十分後に母が呼びに来るまで、ずっと床に蹲り続けた。

2015/6/10 脱稿

果てはいかにかならむとすらむ

 目覚めた時、屋敷の中は蛻の空だった。
「誰も、いない」
 手入れ部屋から続く廊下は静まり返り、動くものの気配は皆無だった。耳を澄ましても賑やかな声は聞こえず、演練場で鍛錬に励む掛け声すら響いてこなかった。
 昼間に大勢集まっている縁側の部屋を訪ねても、人の姿は見つからない。更に足を運び、炊事場を覗いても、結果は同じだった。
 人っ子一人、居やしない。
 もっともこの屋敷で暮らす者の数は、未だ二桁に届いていなかった。
 いずれもっと増えるからと、部屋だけは無駄に多い。余り過ぎて掃除が大変だとの弁は、毎日のように耳にしていた。
 嫌ならやらなければいいものを、気になるからと言って聞かない。台所仕事も率先してこなしている男ですら、今は屋敷を離れていた。
 いったい、どこへ行ってしまったのか。
 人に訊ねてみようにも、聞ける相手が居ないのでは手の施しようがない。八方塞がりだと肩を竦め、小夜左文字は土間の水瓶に近付いた。
 茶色い素焼きの甕には、木の蓋が宛がわれていた。その上には中身を掬う為の柄杓が、逆さにして添えられていた。
 いちいち井戸まで汲みに行くのは面倒だからと、煮炊きに使う水は此処に備蓄されていた。
 柄杓ごと蓋を持ち上げれば、中ほどより高い位置に水面があった。覗き込んでも底が見えないのは、甕が小夜左文字の胸程の高さまであるのと、土間自体が薄暗い所為だった。
 即席の鏡となった甕から一旦顔を上げ、彼は視線を彷徨わせた。
 調理場の隅には棚があり、住人である刀剣たちが使う食器類が片付けられていた。並び順については、台所の主たる男の趣向が大きく反映されているのか、器の種類や大きさ別に分類されていた。
「届く、か?」
 そのうち、水を飲むための茶器は棚の中ほどに置かれていた。
 小夜左文字は、自慢ではないが背が低い。他の短刀と比べても、体格はかなり華奢な部類だった。
 大きな笠を背負っているのは、なにもその身長を誤魔化す為ではない。ただ違うのかと問い詰められたら、巧く躱せる自信はなかった。
 炊事場を切り盛りする男は打刀で、相応に筋肉質な体型をしていた。優美な衣装で隠してはいるが、その膂力は太刀に迫るものがあった。
 業物師が鍛え上げた刀剣であるが故に、持ち得た力だろう。
 ついつい自身の小さな手と比較して、小夜左文字は慌てて首を振った。
「足場になりそうな、ものは」
 劣等感を抱き、落ち込んでいる場合ではなかった。
 水を飲むのも一苦労だと肩を落として、彼は見つけた台座を足掛かりに、手に馴染む湯呑みをひとつ、取り出した。
 落として割らないように両手で抱き、台座はその場に残して水瓶へと戻る。覗き込んだ水面に映る姿は幼く、丸みを帯びた頬はふくよかで、柔らかそうだった。
 本当は柄杓で掬ってそのまま飲めれば一番いいのだが、それをすると、料理当番の男が怒るのだ。だから仕方なく、誰も見ていないというのに行儀よく湯飲みに水を移し替えて、小夜左文字は濡れた柄杓を手放した。
 蓋は閉めず、真っ先に喉を潤す。
 冷えた水は一気に体内へと流れ込み、節々に残る痛みや火照りを取り除いてくれた。
「ふは」
 縁ぎりぎりまで注いだものをひと息に飲み干して、小夜左文字は満足だと頷いた。
 ただの井戸水なのに、美味しかった。朝一番に汲んで来てくれた存在に、心の中で感謝を述べて、彼は開けっ放しの勝手口から差し込む光に目を眇めた。
 太陽は高い位置にあり、日差しは暖かだった。
「すぐ、帰ってくるのだろうか」
 この広い屋敷にひとりきりなのは、平気だと強がりたい気持ちはあるけれど、矢張り心細くて不安だった。
 彼らは審神者によって現世に喚び出された、名刀の魂を宿す付喪神。時代を遡る力を悪用し、歴史改変を目論む輩に対抗すべく集められた、戦う為だけの刃だった。
 だが果たして、ただの武器に人の姿を与え、心と言うべきものまで付与する事に、意味はあったのだろうか。
 一介の刃物であれば感じなかっただろう思いを抱かされて、小夜左文字は落ち着きなく身を捩った。
 使い終えた湯呑みを見詰めていたら、不意に叩き割ってやりたい衝動に駆られた。しかし流石に思い止まって、彼はくるりと踵を返し、竈の傍に置かれた調理台に器を置いた。
 背伸びをして台の上を見回すが、食べられそうなものは無かった。食器棚近くの茣蓙には土がこびりついた野菜が並んでいたが、生のまま齧る気にはなれなかった。
 かといって、自分で調理しようとも思わない。
 そもそも小夜左文字は不器用で、細かな作業は苦手だった。
「なにも、ないのか」
 朝餉の残りがないか調べてみるけれど、食欲旺盛な者が多い所為か、ひと粒も見当たらなかった。糒すら用意されておらず、即座に腹を満たせそうな代物は、表には出ていなかった。
 どこかに隠されてしまったか。
「前なら、ここにあったのに」
 ごく最近の記憶を掘り返して、小夜左文字は何も吊るされていない壁を仰いだ。
 以前はこの壁に、天井から干し芋がぶら下がっていた。
 保存食ではあるけれど、柔らかくてもちもちした感触が面白く、しかも仄かに甘くて美味しい。一度食べたら病み付きになってしまって、以来人の目を盗んでは、こっそり頂戴して食べていた。
 そうしたら、保管場所を変えられてしまった。以降、小夜左文字は干し芋にありつけていない。
 もっと少量ずつ、気付かれないようにやれば良かった。
 口惜しさを堪えて唇を引き結び、小夜左文字は薄汚れた土壁を蹴り飛ばした。
 衝撃で剥落した破片を踏みつけ、此処にいても仕方がないと身体を反転させる。甕の蓋を戻さないまま前を通り抜けて、彼は勝手口から外へ出た。
「これから、どうするか」
 屋敷の部屋数は軽く二十を越えており、その全てを確認したわけではない。
 それに現世での主である審神者なら、絶対に何か知っている筈だった。
 但し小夜左文字は審神者がどうにも苦手で、あまり信用していなかった。 その口から語られる内容は不可思議なものが多く、にわかには信じ難いものばかりだからだ。
 戦乱の世は終わり、太平の時代が長く続いた。
 武家社会はとっくに崩壊して、戦道具であった刀剣は美術品として扱われるようになった。
 鋭い刃の輝きは、人を斬るためでなく、人を魅せるものへと変わった。本来の役割は放棄され、存在意義は失われた。
 だというのに、小夜左文字に染みついた呪詛の詞は消えない。痛み、苦しみ、許しを乞う声は消えてくれなかった。
 短時間でも手入れ部屋に居た所為か、古い記憶が生々しく蘇った。
 くらりと来た頭を抱えて、彼は審神者がいる筈の離れに向かうべく、草履の裏で地面を削った。
 鳥の囀りが聞こえた。
 風が吹き、木立が一斉にざわめいた。
 直後だった。
「さよくん、さよくん、さよくーーーーーんっ!」
「ぐぇっ」
 突如甲高い声が轟いたかと思えば、真上にあった楠の枝から巨大な塊が落ちて来た。避ける暇などなかった小夜左文字は敢え無く押し潰されて、両手両足を地面に投げ打って平らになった。
 熨斗鮑になった気分だった。薄く伸ばされ、細かく切られたあの縁起物を頭の隅に思い浮かべて、彼は背中に圧し掛かって暴れている烏天狗に拳を作った。
「お、も……い!」
「うわあんっ」
 腹に力を込め、思い切って上半身を持ち上げる。腕立て伏せの要領で身を起こされて、もれなく背中に乗っていた今剣はごろん、と後ろに転がった。
 緩い坂を高速で滑り落ち、彼は一回転して地面で丸くなった。肩幅に広げた足の間から頭を覗かせて、後頭部を痛打でもしたのか、きゅぅ、と鳴いて暫く動かなかった。
 落ちた衝撃で、頭襟は大きく右にずれていた。鈴懸もひっくり返って裏を向いて、一本足の下駄が空を掻いていた。
 一方で小夜左文字は自由を取り戻し、全身に張り付いた土汚れを叩いて払い落とした。
 笠の紐は緩くなり、今にも解けてしまいそうだった。笠自体も今剣の尻に押し潰されて、膨らみ方が逆になっていた。
「酷い目に遭った」
 それらを順に直していき、最後にぼそりと零す。どこかで聞いた台詞だと嘆息して、紐を結び直して蝶々の形を整える。
 全てが整った頃には今剣も復活し、天地を正しく地面に座り込んでいた。
「ひどいです。さよくん、ひどいですよー」
「僕は酷くない」
「すっごく、いたかったです」
「僕の方が痛かった」
「……うぅぅ」
 そうして一方的に詰り始められて、小夜左文字は肩を落とした。
 最初に飛びかかって来たのは、どこの誰か。緑葉生い茂る樹上に身を潜めているなど、地上にいた小夜左文字に分かるわけがないのに。
 受け身を取る事も出来なかった。潰された際に打った鼻はまだひりひりしており、袈裟の汚れだって完全には払い落とせていなかった。
 元から低かったものが、もっと低くなった気がした。口を尖らせ不満を露わにして、小夜左文字は左手で鼻の頭を撫でた。
 額も激しくぶつけており、熱を持ってじんじん疼いた。
 膝小僧は泥で汚れ、足首に巻き付けた包帯は端が解けそうになっていた。もっともこれは前からなので、今剣が悪いわけではなかったが。
 ぶらりと垂れ下がっている布きれを一瞥して、小夜左文字は涙目で愚図っている短刀に眉を顰めた。
 抗議に逐一反論していたら、黙ってしまった。後はえぐえぐと喘ぐばかりで、まるで会話にならなかった。
「今剣」
「だって、だって。だれもいなかったんですよ~~」
 仕方なく名前を呼んで切り出せば、彼は堪え切れなくなったのか、大粒の涙を流して絶叫した。
 両手で顔を覆い、寂しかったのだと全身で訴える。落ちそうになっている頭襟も直さず、地面の上で足をばたつかせながら吠えられて、小夜左文字は鼻を押さえたまま項垂れた。
「……だからって」
 そういえば隣の手入れ部屋には、彼が居たのだった。
 掠り傷程度の損傷だったのに、主命令で放り込まれて、終わって出てみれば誰もいない。
 だからてっきり、彼は先に終わったものと思い込んでいた。
 違った。
 どうやら今剣の方が、出て来るのが遅かったようだ。
 ひっそり静まり返った空間のもの悲しさと切なさは、小夜左文字にも覚えがある。今剣も不安で、怖かったのだとしたら、あの強烈な体当たりは、喜びの裏返しだったのだろう。
 とはいえ、加減はちゃんとして欲しい。
 溜息を吐き、小夜左文字は泣きじゃくる短刀仲間に愁眉を開いた。
「皆、出払っているらしい」
「あるじさまも、いませんでした」
 あちこち探したが、猫の子一匹居やしない。
 そう嘯けば、今剣も涙を拭って呟いた。
「ふぅん……」
 驚きは、あまり外に出なかった。意外だったがそんな予感はしていたので、思っていたほど驚けなかった。
 緩慢に頷き、小夜左文字は視線を浮かせた。揺れが収まった楠を仰ぎ見て、袖で顔を拭いている今剣に手を差し伸べた。
「立てるか」
「ありがとうございます」
 いつまでも、地面に座り込んでいるわけにはいかない。
 手助けを買って出れば、今剣は素直に応じて右手を持ち上げた。
 強く握り、引っ張り上げてやる。弾みで落ちた頭襟も拾ってやれば、義経公の守り刀は照れ臭そうに笑った。
 何度も擦ったので、頬全体が赤くなっていた。瞳も赤みを強めており、まるで兎だった。
「みんな、どこいっちゃったんでしょう」
「さあ」
「そうだ。あるじさまのおへやに、こんなの、おちてました」
「手紙?」
 審神者も、残りの刀剣たちも不在。
 普通に考えると遠征に出ているか、買い物に出ているか。恐らくはその両方だと予想を立てていたら、今剣が今思い出した顔をして、懐からなにかを取り出した。
 四つに折られた紙切れは、今剣が持ち歩く際に潰れ、皺だらけになっていた。
 破れていないだけでも幸いだ。受け取って、小夜左文字は丁寧に広げた紙を陽の光に晒した。
「なんて、かいてありますか?」
「……汚い」
 主の部屋を訪ねはしたが、今剣は文の中まで見ていなかったようだ。横から興味津々に覗きこまれて、小夜左文字は率直な感想を、隠しもせずに囁いた。
 読めなかった。
 あまりに悪筆が過ぎて、なんと書かれているか、判読は不可能だった。
「なんだか、まるっとしてて、かわいいですね」
「読めなければ、意味がない」
 仮名文字程度しか読めない今剣は、単純に文字の形だけでそう呟いた。そこに小夜左文字が言葉を重ねて、眉間の皺の数を増やした。
 ある程度の知識は持ち合わせていると自負していたのに、打ち砕かれてしまった。
 一行目から解読出来ない難文を提示されて、彼は脂汗をこめかみに流した。
「よめないんですか?」
「こんなの、残されたって……」
 悔しいが事実なので、認めるしかない。目を丸くしている今剣に愚痴を言っても仕方がないが、口にせずにはいられなかった。
 これでは皆がどこへ行ったのか、いつ頃帰ってくるのかも分からない。
 果たして夕餉には間に合うのかと、太陽の位置を気にして顔を上げて、小夜左文字は唇を噛んだ。
 不安を抱いていたら、本当に腹が空いて来た。
 袈裟の上から撫でるが慰めにもならなくて、実際、きゅるるるるる、と可愛らしい音が響いた。
「うへへ」
 そこに今剣の、恥ずかしそうな笑い声が続いた。
「おなか、すいちゃいました」
「……うん」
 偶然か否か、彼もまた、空腹を抱えていた。
 それもその筈で、ふたりは朝餉を終えてから何も食べていなかった。
 食事を済ませた直後に出陣となり、帰還すると同時に手入れ部屋へ放り込まれた。十時の甘味を口にする猶予は与えられず、終わってみれば家人は審神者を含め、総じて不在。
 頼みの綱だった干し芋は数日前に隠されて、未だ発見には至っていなかった。
「なにか、たべるものって、ありましたか?」
 食事は基本的に一日二度、朝と夜だけ。ただ午前と午後には間食の時間が設けられており、戦場に出向く時はこの限りではない。
 気が付けば、もう午後のおやつ時だった。
 小夜左文字が台所から出て来たから、期待したのだろう。縋るような眼差しに、彼は肩の力を抜いて首を横に振った。
「ええええ~~」
 途端に今剣は悲壮感を漂わせ、両手をぶんぶん振り回した。
「なんでですか。どーしてですかー」
「僕に言われても」
「おなかがすきました。おなかすいた。おなかすいたあー!」
「……うるさい」
 抗議の声をあげられても、小夜左文字は食事当番ではない。自分の所為ではないのに責められるのは面白くなくて、彼は喧しい短刀の前で堂々と耳を塞いだ。
 こっちだって、腹が減って苛々しているのだ。八つ当たりしたい気持ちは同じだった。
 なんとか打開策を講じるべく、小夜左文字は手元の紙切れを掲げ持った。顔の高さで広げて、今一度書かれている文章の解読に取り掛かった。
「い……に、……て、ま……」
 しかし仮名文字ならともかく、それ以外はさっぱりだった。
 そもそもどの向きに読んでいいか、そこからして謎だった。
 縦書きで書かれているかと思いきや、文章の下に添えられた罫線は横一列に並んでいる。文字自体も今剣が言ったように丸みを帯びており、崩し方も小夜左文字が慣れ親しんだものとかなり違っていた。
 もしやこれは、暗号か、なにかか。
「これは、市。数字の四で、次は帰……?」
 ひとまず分かるところから拾っていく事にして、彼は目を糸のように眇めた。
 当たりをつけて、字をなぞりながら読み上げていく。左手を顎に当て、真剣に悩んで没頭し始めた矢先だった。
「むー」
 正面で膨れ面を作られて、彼ははっと我に返って赤くなった。
「さよくん、ぼくのこと、わすれてません?」
「そんな、ことは」
「ほんとですかー?」 
「……すまない」
 不満そうに睨まれて、問い詰められて逃げられない。
 解読作業は意外に面白く、楽しかった。素直に認めて謝罪して、小夜左文字は審神者が残した文を折り畳んだ。
 懐に手を入れて、直綴の腰紐に引っ掛ける。軽く揺らして落ちないのを確かめて、彼は不貞腐れている今剣に肩を竦めた。
「歌仙が。なにも用意していないとは、思えない」
 審神者の近侍を務める打刀は、本来の気性の荒さを雅さで巧く隠した男だった。
 昔は冷徹で容赦ない、餓えた獣のような性格をしていたのに。時の流れの中で揉まれるうちに、上手な誤魔化し方を覚えたようだ。
 そうと知らなければ、簡単に騙されてしまう。だから最初は気付けなかったと、小夜左文字は苦笑した。
「でも、なかったんでしょう?」
「まだ探していない場所はある」
 訝しげな今剣に顎をしゃくり、後方の勝手口を示す。実際に棚の中などは調べていないので、手分けして探せば見つけられるはずだった。
 救いはある、絶対に。
 力強く頷けば、不信感丸出しだった今剣の表情もにわかに活気づいた。
「よーっし。じゃあ、どっちがさきにみつけるか、きょうそうですね」
「分かった」
 握り拳を作り、鼻息荒く言い放つ。
 宣戦布告された小夜左文字は瞬時に応じ、先を争って勝手口から台所に駆け込んだ――のだけれど。
「ありませんね~」
 それから四半刻が過ぎても、彼らは目当てのものを見出せずにいた。
 食器棚の上、四角い茶箱、いくつも並んだ水瓶の中。引き出しのついた箪笥も全て、くまなく調べて回ったが、どこにも甘い菓子は隠されていなかった。
 出てくるものといえば主食である麦や米、生のままの野菜、燻されて硬い獣の肉、など等。その中で燻製は薄く切れば食べられない事もなかったが、自らが持つ短刀で捌くのは躊躇させられた。
 桜の香りがほのかに漂って美味しそうだったけれど、小夜左文字の腕より太い塊だったので、そのまま噛り付くのは諦めざるを得なかった。
「もうだめです。ぼく、おなかぺこぺこで、もううごけません」
 先に力尽きたのは今剣で、彼はへなへなと萎れて床に座り込んだ。着衣が汚れるのも構わずに、猫を真似て踏み固められた土の上で小さく、丸くなった。
 小夜左文字も衿に指を入れて喉元を広げ、汗ばんだ額を袖で拭った。
「糒までなくなってるなんて、絶対におかしい」
 これだけ探し回ったのに、なにも見つからないのは明らかに異常だった。
 台所ではない、別の場所に移したとしか考えられない。やるなら徹底的に、という男を思い浮かべて、彼は苦虫を噛み潰した顔で呟いた。
「それって、おこめをほして、かわかしたやつですよね?」
「知っているのか?」
「はい。でも、こっそりたべてたら、かせんさんにみつかっちゃって。つぎのひみたら、なくなっちゃってました」
 それに今剣が反応し、頭を掻いて恥ずかしそうに囁いた。
 彼もまた、隠れてこそこそやっていたようだ。同類が居たと知った小夜左文字はなにも言い返せなくて、相槌も打たずに目を泳がせた。
 短刀というだけで子供扱いされたくないが、それも止むを得ない気がして来た。
 隠してあるものは探したくなるし、美味しそうなものが目の前にあったら食べたくなる。衝動は抑えきれず、歯止めは利かなかった。
 今剣に対して、妙な親近感が生まれた。その彼は膝を交互に拳で叩いて、そもそも一回の食事量が少ないのだと喚き散らしていた。
「あれだけじゃ、たりません」
「僕も、そう思う」
 他の打刀や脇差たちは、あの程度の量で本当に満足出来ているのだろうか。
 否。そもそも彼らの方が、体格に見合った分量ということで、握り飯の数もひとつかふたつ、短刀より多かった。
 あれは狡い。
 差別だ。
 思い出したら腹が立ってきて、小夜左文字は調理台の脚を蹴り飛ばした。
 もれなく上にあった湯呑みがガタガタ揺れて、勢い余って横倒しになった。そうなると円筒形の陶器はころころと転がって、最終的に机の角から外へと飛び出した。
「あっ」
 気付いた時には、もう遅い。
 咄嗟に手を出した小夜左文字だが、間に合う訳がなかった。
「ひゃあ」
 甲高い音を響かせて、素焼きの湯呑みは呆気なく砕け散った。遠くにいた今剣も突然のことに驚き、首を竦めて悲鳴を上げた。
 破片が辺りに散乱して、比較的大きな塊がごろん、と土の上に転がった。底の部分だけは辛うじて無事だったけれど、斜めに罅が入ってふたつ以上に割れた器は、水を入れたところで流れ落ちるだけだった。
 最早使い物にならない。
 小夜左文字は怯えた顔をして、誰もいない勝手口、そして台所から続く廊下を振り返った。
「ど、どうしようか」
 下手に破片に触れたら、尖った先端で指を切りかねない。折角手入れを終えたばかりだというのに、あそこへ逆戻りは嫌だった。
 片付けるのを躊躇し、左右を慌ただしく見回す。助けを求めて今剣を探せば、彼はいつの間にか立ち上がり、すぐ近くまで来ていた。
 そして。
「にげましょう、さよくん」
 なんの解決にもならない案を提示して、狼狽える短刀の手を取った。
 よくよく辺りを見てみれば、台所は惨憺たる有様だった。
 全ての抽斗が引っこ抜かれて転がって、夕餉の材料になるだろう野菜は埃を被っていた。水瓶は蓋が全て外されて、燻製肉の塊はあろうことか床に転がっていた。
 食器棚の配置もすっかり入れ替わり、並び順はばらばらだった。調理道具を入れた箱はひっくり返され、竈の前は穿り返された灰で真っ白だった。
 綺麗に積み上げられていた薪は原形を留めず、麦や米が入った袋は悉く口が開いたままだ。いったい何が起きたのか、知らぬ者が見たら呆気にとられて凍り付くこと請け合いだった。
 賊にでも入られた後のような状況に、小夜左文字自身も惚けた顔で目を瞬いた。
 こんな真似をして、ただで済むとは思えない。
 まず間違いなく雷が落ちて、反省の意味も込めて夕餉は無し、の罰が下されるだろう。
「……よし。逃げよう」
 日頃から文系を気取っている男は、実は怒ると凄まじく怖い。
 食事を一回抜く程度では済まないかもしれなくて、想像した小夜左文字はぶるりと震えあがった。
 片付けようにも、どこに何があったのか、それ自体を覚えていない。覆水盆に返らず、湯呑みだって元通りには戻らない。
 露見すれば、大目玉だ。歌仙兼定はきっと、許してはくれないだろう。
 幸い、屋敷には今、誰もいなかった。このことを知っているのは、当事者である小夜左文字と今剣だけだ。
 こっそり抜け出して、身を隠して。
 ほとぼりが冷めた頃に屋敷に戻り、素知らぬ顔をしていればいい。
 子供らしい、実に幼稚な発想だったが、切羽詰まっているふたりにはそれが分からなかった。
 同意して、小夜左文字は今剣の手を握り返した。ふたり並んで勝手口へと向かって、左右を確認して足並み揃えて駆け出した。
 帰って来た皆と鉢合わせする可能性があるので、進路は正面の門ではなく、背の低い竹垣が並ぶ裏手に定めた。傍には灌木が根を張っており、その枝を伝えば、敷地を囲む柵越えは容易だった。
「どこへ逃げるんだ?」
 問題は、時間を潰す場所だった。
 屋敷の中にも隠れられそうな場所は幾つかあったが、すぐ見つかってしまう可能性も高かった。屋外に出ればその危険は回避出来るが、小夜左文字は屋敷の外にあまり詳しくなかった。
 子供だけで出かけないよう、厳しく言い渡されていた。買い物に出る時だって、審神者か、打刀以上の刀剣が一緒だった。
 身を潜められる安全な場所に、心当たりなどない。
 ふと心配になって問うた彼に、先に柵を飛び越えた今剣は意味ありげに、にんまりと微笑んだ。
「いいところ、あります」
「良いところ、って」
「あそこの、じんじゃ。おっきなごしんぼくと、ちっちゃいおやしろがあって。ひなたぼっこ、きもちいいんですよ」
「こっそり抜け出していたのか」
 彼が指差した先には、こんもりと丸く膨らんだ森が見えた。小高い丘を中心に緑が広がって、その中央には樹齢も高そうな楠が聳えていた。
 村外れに鎮守の杜があるのは、知識としては知っていた。しかし行ったことはなく、近付いたこともなかった。
 まさか今剣が密かに訪れていたとは、夢にも思わなかった。
「えへへ~。みんなには、ないしょ、ですよ」
 もしかしたら、審神者でさえ把握していないのかもしれない。
 飛んだり、跳ねたり。自由気ままな烏天狗は、これまでにも度々行方をくらませて、その所在を他に伝えなかった。
 いつだって笑っている、元気で明るい今剣だけれど、ひとりになりたい時だってあるだろう。
 深く問い詰めたりはせず、小夜左文字は竹垣から飛び降りた。
 無事着地を決めて、地面に落ちそうだった笠を背負い直す。袈裟の形も直していたら、上機嫌にくるくると回り、踊っていた今剣が勢いよく手を叩きあわせた。
「そうだ。じんじゃに、あけび、はえてました」
「っ!」
 今思い出したと声を高くした彼に、小夜左文字の目は真ん丸に見開かれた。
 木通と言えば、この季節、甘い果実がたわわに実っている筈だった。
 蔓草から細長い卵型の実がぶら下がって、見た目は悪いが、皮も実も食べられる。思い浮かべて涎を呑んで、彼は言うのが遅いと小鼻を膨らませた。
「だったら、台所を家探ししなくて済んだのに」
「えへへ。ごめんなさい」
 すっかり忘れていたと、今剣も反省頻りだった。両手の指を弄り倒して、大袈裟な身振りで頭を下げた。
 しかし怒る気は起きなかった。木通の実は、腹を減らした子供たちの間食にぴったりの食べ物だった。
 そうと分かれば、行かないわけにはいかない。空腹は絶頂を迎えており、骨と皮が貼り付きそうだった。
「どっちだ」
「こっちです。はやく、はやくー」
 最早ふたりの頭の中に、台所をぐちゃぐちゃにした、という事実は残っていなかった。
 刀剣だった頃にはなかった欲を最優先させて、小夜左文字は心の赴くままに大地を駆けた。今剣の先導で野道を走って、辿り着いた鎮守の杜の壮麗さに感嘆の息を吐いた。
 天高く枝を伸ばす御神木は樹齢千年に迫ろうという勢いで、地表に降り注ぐ木漏れ日はきらきらと輝いていた。
 小鳥は思い思いに囀り、羽を休め、または戯れ、枝の間を飛び交っていた。頬袋を膨らませた栗鼠が樹上を忙しく駆け回り、闖入者の登場に驚いた野兎は慌てて巣穴へ飛び込んだ。
 入口にあった鳥居は朽ちており、今にも崩れてしまいそうだった。紙垂は千切れて跡形もなく、表面を彩る丹色も殆ど剥げ落ちていた。
 楠の幹に巻きつけられた注連縄も年季が入っていて、かなりの歳月、放置されているのが窺えた。祠そのものも木の根に抱かれ、一部が幹に食い込んでいた。
 もっとも、大樹を祀る人は今でもいるらしい。
 祠の前には簡易の祭壇が設けられ、朝汲んだと思われる水が捧げられていた。
「おおきい」
 屋敷から眺める分には感じなかったが、近くで見ると圧倒させられた。首を真上に向けても天辺は見えず、燦々と降り注ぐ木漏れ日がただ、ただ眩しかった。
 山賊時代に暮らした山にも、樹齢を重ねるだけの大きな木は何本もあった。しかしここまで立派で、自ずと敬服の念を抱きたくなる古木は滅多になかった。
 人々の厚い信仰を受け、大事に慈しまれてきたからこそ、そう感じるのだろう。ちぃちぃと五月蠅い小鳥の声を聴きながら、小夜左文字は暫くそこに立ち尽くした。
 ふと我に返った時、傍に今剣の姿はなかった。
「え?」
 いつの間に、どこへ行ってしまったのか。
 またもやひとり置き去りにされて、彼は慌てて左右を見回した。
「さよくん、こっち。こっちでーす」
「今剣、勝手に動かないでくれ」
「これとか、とってもおいしそうです」
 そこへ声が降ってきて、顔をあげれば今剣が木の上で手を振っていた。
 神木はそれ一本だけが聳えているのではなく、異なる種類の木をいくつか抱き込んでいた。太い枝には蔓草が巻き付き、今剣の足元には楕円形をした紫色の球体がぶら下がっていた。
 そのうちいくつかは表面がぱっくり裂けて、白い綿のような中身が顔を出していた。
「おとしますよー」
「分かった。頼む」
 木通の実を受け取るよう言われ、小夜左文字は迷わず首肯した。急いで枝の真下へ移動して、直後に降ってきた果実に慌てて腕を伸ばした。
「っと、と」
 空中で掴もうとして、一度では出来なかった。目測を誤って叩いてしまい、もう少しで明後日の方向に吹っ飛ばすところだった。
 弾んで浮き上がったところを捕まえて、大事に胸に抱え込む。なんとか上手くいったと安堵していたら、ふたつめが断りなく落ちて来た。
「いった」
「うわあ、だいじょうぶですかー?」
 それが頭に当たったものだから、小夜左文字は星を散らして蹲った。今剣もまさかの事態に驚いて、葉の間から顔を覗かせた。
 枝にぶら下がり、見事な早業で地面へと降り立つ。先に転がっている木通の実を拾って、彼は頭の天辺を押さえ込む少年に近付いた。
「さよくん?」
「……おなか、すいた」
「はい。たべましょー」
 心配そうに話しかけられて、小夜左文字はぐっと腹に力を込めた。喉まで出かかっていた文句は呑みこんで、代わりにひと言呟いた。
 怒るのだって、疲れるのだ。ただでさえ空腹の身、余計なことはしたくなかった。
 そういう意図が働いていると分かっているのか、いないのか。
 今剣はにこやかに笑って、拾った木通の土埃を払い落とした。
 拳よりも大きな実は、見た目は奇怪だけれど、中の白い部分は甘くて美味しい。種が多いのが難点だが、口に入れて吹き飛ばした距離を競う遊びは、殊の外楽しかった。
 森の中には木通の他に、樫の木が沢山生えていた。
 足元には小さな団栗が大量に転がって、落ち葉が布団になっていた。手を加えれば食べられる果実であるが、生食には向かず、もっぱら子供たちの玩具として扱われた。
 拾い集め、石礫の代わりに放り投げる。大きなものを探して地べたを這い蹲るように進んで、前を見ていなかった所為で木の幹に頭から突っ込み、驚いてひっくり返ったりもした。
 今剣のけたたましい笑い声が響き、小夜左文字も負けじと声を張り上げた。彼が背負っていた笠は即席の籠と化して、気が付けば編み目に大量の砂利が紛れ込んでいた。
 西の地平線が赤く染まり、影が長くなるまで、本当にあっという間だった。
 自然の恵みで腹は満たされ、遊び道具にも事欠かない。屋敷に引き籠っていたら体験できなかった事だらけで、帰ろう、と言いだすのには、かなりの時間と勇気が必要だった。
 あとちょっとだけ。
 もう少しだけ。
 そうやってずるずる引き延ばしていくうちに、陽はどんどん沈んで行った。東の空からは濃い藍色が広がって、気の早い星が天頂近くで瞬いた。
 月はまだ出ておらず、辺りはみるみる暗くなっていく。烏の鳴き声が遠くから響いて、あれだけ騒がしかった獣の気配も徐々に薄れていった。
 地表を照らしていた木漏れ日が見えなくなって、小夜左文字は大きな笠で顔を隠した。
「かえりましょっか」
「……分かってる」
 日が完全に暮れてしまったら、帰り道を見失う。杜の周辺に民家はなく、屋敷との間に広がるのは手付かずの野原だけだった。
 ここから先、夜は獰猛な牙をもつ肉食獣、そして盗賊が活動する時間だった。
 野犬の遠吠えは既に聞こえ出していた。梟がホー、ホー、と、高い場所からふたりを見下ろしていた。
 闇はひたひたと音もなく歩み寄り、彼らの背後に迫っていた。
 肩を竦めた今剣に言われ、小さく頷く。笠を背中に回して紐を結んで、小夜左文字は仄明るい西の地平線に目を向けた。
 日が沈み切ってしまう前に、屋敷に帰り着かなければいけなかった。
 夜闇の濃さとその危険性は、彼らも重々承知していた。特に小夜左文字は、暗がりに乗じて人を襲う生業を強いられていただけに、恐怖心は尚更だった。
「いそぎましょう」
「ああ」
 いかに強い力を秘めているとはいえ、彼らの見た目は子供だ。盗賊風情に後れを取らないと自負していても、数で攻められたらひとたまりもなかった。
 今剣に急かされ、小夜左文字はしっかり頷いた。目と目で合図をしあって、彼らは鎮守の杜を駆けだした。
 来た時同様今剣が先に立ち、記憶を頼りに道なき道を突き進む。
 芒が生い茂る野原を横断し、落ちていた石に足を取られて転びそうになりながら。獣の声に怯えつつ、風の音に大袈裟に驚きながら。
 沈む太陽を追いかけて、ひたすら走った。
 屋敷の通用門を潜った時には息も絶え絶えで、これ以上は動けなかった。転んで擦りむいた膝小僧の痛みも忘れて、ふたりはその場に蹲った。
「着い、た」
「つかれました~~」
 もう一歩も歩けない。
 それくらい全力で駆けて、ふたりは真っ暗になった空を並んで仰いだ。
 途中で道に迷った時は、本当にどうなるかと思った。灯りを借りようにも人家は見当たらず、遠くから響く犬の声にびくびくさせられっ放しだった。
 心臓がばくばく音を立て、涼しいのに汗が止まらない。深い安堵に力が抜けて、暫く立ち上がれそうになかった。
 耳鳴りが酷かった。呼吸ひとつするのも大変で、小夜左文字は溢れ出そうだった唾を、苦心の末に飲みこんだ。
 濡れた唇を舐め、眼前に見える屋敷の明かりに胸を撫で下ろす。騒ぐ声は聞こえてこなかったが、昼間にはなかった人の営みが、そこかしこから感じられた。
 皆も、どうやら帰って来ているらしかった。
 彼らがどこへ出向き、何をしていたのか。そんなもの、もう気にもならなかった。
 どうでもよかった。無事に此処へ帰ってこられた事が、今の彼にはなによりも喜びだった。
 己の運命を呪い、復讐に固執していたというのに。
 ほんの少しの時間にもかかわらず、人の形を得て生活をしただけで、こんなにも人と似た存在に変わってしまった。
 目を瞑り、耳を澄ませば怨嗟の声はまだ聞こえた。この身に染みついた人々の恨みが濁流となって押し寄せて、小夜左文字の小さな体を押し流した。
「小夜!」
 けれどそれを遮り、引き留め、引き揚げてくれる存在が居た。
 鋭く尖った声にはっとなり、慌てて瞼を開いた瞬間だった。
「いっ……!」
 目の前で星が散った。昼間に木通で打った時とは段違いの、強烈な拳が彼の脳天を貫いていた。
 脳みそが揺れて、視界が歪んだ。悲鳴ひとつ上げることも出来なくて、小夜左文字は両手で頭を庇って小さくなった。
 生理的に浮いた涙で瞳を濡らし、横を見れば、今剣も同じように頭を抱え、丸くなっていた。
 彼の方が、先に鉄拳をお見舞いされていたらしい。いつの間に現れたのか、視界の隅には二本の脚がそそり立っていた。
 黒塗りの沓の持ち主が誰か、顔を見るまでもない。仁王立ちしている男を恐る恐る仰ぎ見れば、明王にも劣らない怒り顔がそこにあった。
「かせ、ん」
「今、何時だと思っているんだ、君たちは。今剣も、小夜も。今までどこに行ってたんだ」
 たどたどしく名前を呼べば、それを上書きして怒鳴られた。頭ごなしに捲し立てられて、子供ふたりは亀を真似て首を竦めた。
 殴られた場所を両手で庇い、痛みに震えて小さくなる。
 拳を入れられた場所はじんじん疼き、他に比べて僅かながら膨らんでいるようだった。
 瘤になっていた。それくらい痛烈な一発に撃沈させられて、小夜左文字は弁解を聞こうともしない男に頬を膨らませた。
 確かに台所をあのまま放置して逃げたのは、悪かったと思っている。
 けれどなにもそうしたくて、あんな風にしたのではない。
 ちゃんと理由があった。手入れ部屋を出たら誰もいなくて、食べるものも用意されていなかった。置いてけぼりを喰らって放置されて、まるで要らない子として捨てられた気分になった。
 疎外感を覚えた。
 虚しさを覚えた。
 求めておきながら結局は売り飛ばし、望んで得ておきながら最後は手放す。
 お前に帰る場所などないのだと、怨讐の塊が耳元で囁いていた。
 一縷の望みに賭けて戻って来たけれど、此処も安住の地とはなり得なかった。
 小夜左文字に安らぎはない。とうに居ない相手への復讐に固執することでしか己を保てず、そこに縋る事でしか、己の価値を見いだせない。
 呪われている。
 いっそ粉々に消し飛んでしまいたいと、何度願ったことだろう。
「……まったく」
 一方で歌仙兼定はひと通り説教を済ませると、深くため息をついて肩を落とした。
 藤色の髪を掻き上げ、戻した手は腰に当てる。こほんと業とらしい咳払いをひとつして、落ち込む子供たちを順番に見下ろす。
「夕刻には戻るから、大人しく待っているようにと。書き残しておいただろう? 八つ時に用意しておいたのだって、ちゃんと――」
「待て、歌仙」
 あまり叱り過ぎるのは良くないからと、話を切り上げようとした矢先だった。
 訥々と語っていた彼を遮り、唐突に小夜左文字が顔を上げた。
 微妙に焦った声色で制し、瞳を大きく見開く。隣では今剣も、きょとんとしながら首を傾げていた。
「……ん?」
 この反応は、なんだろう。
 顔を見合わせている子供たちに眉目を顰め、歌仙兼定は半眼した。
 小夜左文字は深呼吸を三度繰り返し、それから今剣に向き直って頷いた。烏天狗の少年も深く首を縦に振って、まだ痛む頭を右手で撫でた。
 反省の色は薄れ、不満げな表情で睨まれた。無言の眼差しで責められて、歌仙兼定は不思議そうに眉を寄せた。
「歌仙。その、書置き、とは」
「ああ。主殿が」
「どうりで」
 立ち上がった小夜左文字に問われ、男は手短に答えた。それで全て合点がいって、藍の髪の少年はがっくり肩を落として頭を垂れた。
 今剣も下駄の歯で地面を蹴り、浅い穴を掘って砂を撒き散らした。
「んん?」
 子供たちの態度を見て、歌仙兼定の頭上に疑問符が乱立した。
 混乱している彼に盛大に嘆息して、小夜左文字は懐を弄り、直綴の中に入れておいた四つ折りの紙を引き抜いた。
「その文とは、これのことか」
 散々動き回った後なので、書き置きの紙はすっかり皺だらけだった。今剣に握り潰された後も衣の中でもみくちゃにされて、折れ目には部分的に穴が開いていた。
 そんな丸められた紙を差し出され、歌仙兼定は首を捻りつつ手を伸ばした。
 破らないよう注意深く広げ、後方の屋敷の灯と、細い月明かりに文面を晒す。影が入らないよう何度か持つ角度を変えた男の眉間の皺は、時間が経るにつれて深く、本数も多くなっていった。
 口元を真一文字に引き結んで、歌仙兼定はやがて静かに息を吐いた。
「次からは、僕が代筆しよう」
「そうしてくれると、助かる」
「だが、それとこれとは話が別だ。出かけるのであれば、行き先くらい書き残していきなさい。どれだけ心配したと思っているんだ。なにかあったのでは、と思うだろう」
「嘘だ」
「どうして嘘をつく必要がある。小夜。いいかい? 君たちが勝手に居なくなって、しかも陽が暮れても帰ってこなくて。屋敷でどれだけ騒ぎになったか、ちゃんと考えてごらん」
 全く読めない文を丁寧に折り畳み、歌仙兼定はそっぽを向いた子供の頭を撫でた。少し乱暴な手つきで、瘤になっている場所も構わずに掻き回し、最後にぽん、ぽん、と優しく叩いて手を離した。
 特に深い意味があるわけでもない、気まぐれな仕草だった。しかし却って自然であり、慣れが感じられる所作だった。
 すっかり覚えてしまった感触に、顔が上げられなかった。離れていった指先が何故か無性に名残惜しくて、小夜左文字は胸の中に渦巻く、名前のない感情に唇を噛んだ。
「あと少し戻りが遅ければ、皆で探しに行くところだったんだから」
 歌仙兼定はそれには気付かず、嘆息混じりに囁いた。そして遠くから生じたざわめきを気取って片腕を上げて、提灯を手にぞろぞろ近付いて来た集団に合図を送った。
 先頭には加州清光が立ち、後ろには鯰尾藤四郎の姿があった。白い化け物めいたものが灯明にぼんやり浮かんで驚かされたが、あれは恐らく、山姥切国広だろう。
 五虎退や愛染国俊、乱藤四郎の姿はなかった。そこに集まっているのは脇差、もしくは打刀といった、短刀たちより年嵩の者ばかりだった。
「あっれー。なんだ、帰って来てんじゃん」
「本当だ」
 そんな彼らに話しかけられて、小夜左文字と今剣は落ち着きなく身を捩った。
 蝋燭を入れた提灯が三つ並んで、辺りは昼のような、とまでは言わないけれど、前に比べると一気に明るくなった。
「家出、終わりですか?」
「ちがいます」
 鯰尾藤四郎に興味津々に訊かれ、今剣が頬を膨らませた。しかし結果的にはそういう形になるのだろうかと、小夜左文字は前方に控える屋敷の屋根を仰ぎ見た。
 悪戯をして、露見するのを恐れて逃げた。
 怒られると思ったから、叱られたくなくて断りなく外へ出た。
「ていうかさ、帰って来てんだったら、教えてくんないと。提灯どこに片付けてんのか、知ってんのあんただけなんだし。これ、探すのすっごく大変だったんですけどー」
「ははは。申し訳ない」
「さっきの歌仙さん、すごい勢いでしたからね。血相変えて飛び出して行っちゃうから、驚きました」
「頼むから、それは言わないでくれないか」
 歌仙兼定は加州清光の嫌味に笑って返し、鯰尾藤四郎の弁には顔を覆った。子供の前で暴露するなと愚痴をこぼすが、脇差の少年はきょとんとするだけで、彼が何を嫌がっているのか、分かっていない様子だった。
 思わぬところから飛び出した言葉に、小夜左文字は打刀としては大柄な男に目を丸くした。
 そんな様子は微塵もなかった。
 彼が知る歌仙兼定はいつだって余裕綽々として、腹が立つ程に落ち着き払った男だった。
 じっと見ていたら、目が合った気がした。
 盗み見られ、ぱっと逸らされた。
 気まずい沈黙が流れた。先ほどから胸に陣取る良く分からない感情がもぞもぞ蠢いて、くすぐったいような、温かいような、変な気分だった。
 率先して外へ探しに行こうとした男が黙り込み、会話は途絶えた。黒子が艶っぽい打刀は肩を竦めると提灯を揺らし、騒動を巻き起こした張本人に視線を流した。
「で、そこの餓鬼ども。俺らになにか、言う事は?」
「ごめんなさーい」
「……すまなかった」
 此処に集う面々は、今から屋敷の外に出て、ふたりを探しに行くところだった。夜は灯りなしでは足元が不安だからと、滅多に使う事のない提灯を探し出して、準備をして。
 但し歌仙兼定の手には、それがなかった。
 彼だけが帰ってこない子供たちに痺れを切らし、取るものも取らずに飛び出したのだ。
 その顔が赤いのは、蝋燭の炎が赤いからか。
 迷惑をかけたと三人に詫びてから、小夜左文字は左右の膝をぶつけ合わせ、身をくねらせた。
「まあ、ご無事でなによりです」
「……次からは、考えろ」
「はーい。きをつけます」
 今剣は元気よく手を挙げて、鯰尾藤四郎と山姥切国広の間に割り込んだ。加州兼光も黒髪を掻き回すと、口喧しく言うつもりはないのか、早々に踵を返して歩き出した。
 提灯の明かりが遠くなり、屋敷の中に入って消えた。周囲は再び暗さを取戻し、小夜左文字は寒気を覚えて身震いした。
「入ろうか」
「歌仙」
 己自身を抱きしめた彼に、歌仙兼定が静かに囁く。
 軽く肩を押され、少年は足を踏ん張らせて抵抗した。
「なんだい」
「歌仙、は」
 大きな手は離れていかなかった。そのまま握ることなく添えられて、伝わってくる柔らかな微熱に、小夜左文字は大きく息を吐いた。
 俯き、音もなく口を開閉させる。告げるかどうかを躊躇して、数秒の逡巡を経て拳を固くする。
「歌仙は、もし。僕が……いなく、な――」
「哀しいよ、小夜」
 即答だった。
 最後まで言う前に、間髪入れずに言い返された。
 思わず勢いつけて振り返って、小夜左文字は暗がりに佇む男に瞠目した。
 どれだけ目を凝らしても、今の歌仙兼定の顔が見えない。
 それが良いことなのか、悪い事なのかも分からなくて、彼は上唇を噛み、男の脚を軽く蹴った。

2015/03/02 脱稿

錆浅葱

 初めのうちは、体感だった。
 確証はなにもなかった。けれど頭の中で、ひょっとして、という思いはあった。
 微妙な差だったから、最初は勘違いを疑った。けれどそれが二日、三日と続いて、自分の中で間違いない、と断言できるくらいになっていた。
 但し、ちゃんと調べたわけではない。気の所為ではないのかと笑い飛ばされるのは嫌だったから、なかなか人には言えなかった。
 勿論個人的な楽しみとして、喜びとする道もあった。けれど矢張り、自慢したいではないか。
 頑張った分報われたのだと、努力を評価して欲しいではないか。
 そういうわけで、前日の部活が終わった後、マネージャーに頼んであるものを借りた。部の備品なのだから紛失しないように、何度となく釘を刺されて、絶対に翌日には返却すると約束し、ようやく貸してもらえた。
「んふ、んふふ、んふふふふ」
 そのストップウォッチを手に、日向翔陽は肩を震わせた。駐輪場に到着したと同時にボタンを押してタイマーを止めて、表示された数字にこみあげる笑いを噛み潰した。
 しかし、どうやっても漏れてしまう。
 押し殺しきれない歓喜に四肢を戦慄かせ、自転車に跨ったままだというのに締まりのない顔をする。どどど、と脈打つ心臓は平常値を軽く上回り、全身汗だくのまま、息苦しさも忘れ、彼はだらしなく鼻の下を伸ばした。
 自宅をスタート地点として、学校をゴールと決めていた。
 ストップウォッチを止めるのは、本当なら正門を潜った後が良かったのかもしれない。けれど、知りたかったのは自転車で走った時間だから、この判断はあながち間違いではなかった。
 爪先をアスファルトに擦り付け、前輪だけ境界線を跨いだ体勢で肩をぷるぷる震わせる。若干前のめりになってバランスを維持する姿は、後ろから見るとかなり異様だった。
 別の部に所属する生徒が、日向を見つけて眉を顰めた。一緒に登校してきた仲間とひそひそ耳打ち合って、何をしているのか推測するが、彼らの口から正解は出て来なかった。
「すげー。やった。スゲーぞ。マジでおれってば、超スゲーんじゃねえの?」
 故障していない限り、デジタル機器は嘘をつかない。
 この数日、そんな気がする、という曖昧な感覚でもやもやしていたのが綺麗に吹き飛んだ。顔も名前も知らない相手からの不躾な視線など一切意に介さず、彼は雄叫びを上げて握り拳を作った。
 ガッツポーズして、まだサドルに座ったままだったのを思い出して、慌ててハンドルを掴む。
「うわ、っととと」
 あと少しで自転車ごと倒れるところだった。冷や汗を流し、日向は急に熱を感じて息を吐いた。
 走っている時は風があるので、あまり暑いと思わなかった。
 日差しを遮るものもなく、朝七時前だというのに太陽は既に高い。
 燦々と眩しい直射日光に半眼して、彼は着ているシャツの襟を引っ張った。
「おいてこよ」
 ストップウォッチの数字は消さず、左手に握り直す。右腕一本でハンドルを支えてペダルを踏めば、歯車が噛み合った分だけ車体は前に進んだ。
 始業開始直前には満杯になる駐輪場も、今はまだ空いていた。
 置き場所は、基本的に自由だ。出入り口付近に停めて鍵を外して、日向は今一度、烏野高校排球部と書かれた時計に目を向けた。
「十九分、三十二秒」
 そこに表示された数字を読み上げると、鎮まっていた興奮がにわかに蘇った。
 それは彼が自宅を出て、学校に到着するまでに要した時間だった。
 日向が暮らす雪ヶ丘町は、烏野高校から山ひとつ越えた先にある。電車の便はかなり悪く、しかも相当な遠回りを強いられる。バスも本数が少なくて、一本乗り遅れるとかなり待たされた。
 その点、自転車通学は便利だ。いつでも好きな時に出発できるし、満員ですし詰め状態の車内で苦しい思いをしなくていい。
 反面、体力を消耗する。もっともこれは、自己鍛錬の一部だと考えれば、全く辛くなかった。
 山を越え、急峻な坂を一気に駆け上るのは快感だ。即席のジェットコースターは、一歩間違えればコースアウトしてあの世行きだが、耳元で風が唸るのは楽しく、心地よかった。
「新記録、だ」
 練習が始まる前だというのにシャツを汗で湿らせ、日向は噛み締めるように呟いた。
 どれだけ自制しても勝手に緩む頬を叩いて、軽い足取りで正門へと向かう。
 今日は良い事があるかもしれない。喜びを抑えきれず、満面の笑みを浮かべ、スキップしながら道路に戻った彼の目に映ったのは。
 肩を上下させてリズミカルに走って来る、見覚えのある黒髪の男子だった。
「ゲッ」
 目が合った。
 バチッと火花が散って、それがスタートの合図だった。
「待てやゴルァァァ!」
「ぎゃああああああーっ」
 地鳴りのような低い声で吼え、影山がジョギング程度だった速度を一気に上げた。
 十メートル近かった距離を瞬時に詰められた日向は途端に悲鳴を上げ、脱兎のごとく逃げ出した。
 ただでさえ自転車で数キロ走ってへとへとなのに、この期に及んで全力疾走させられた。いつの間にか恒例と化した徒競走が開始されて、彼は転げるように正門を潜り抜けた。
 そのまま部室棟を目指し、持てる力の限りを振り絞る。
 しかし追いかける方が体力充分であり、気合いも上回っていた。
 雪ヶ丘町から烏野高校へは、通常、自転車で三十分以上の距離があった。それを日向は、十分近く短縮させていた。
 全力でペダルを漕いで、走った。時に乗用車と競争しながら、少しでも早く学校に着こうと頑張って来た。
 そして今日、目出度く二十分の壁を突破した。
 いつも以上にペダルを回して、車の来ない赤信号をいくつか無視したお蔭だが、それでも記録は記録だった。
 結果、そこで力を使い果たした。
 脹脛の筋肉はプルプル痙攣しており、膝の関節はがくがく言って使い物にならなかった。
 辛うじて走れてはいるものの、ペースはかなり遅い。
 影山が追い付き、追い越すなど雑作もなかった。
「オオッシ!」
「ぐあー、負けたあああっ」
 結局、逆転を許してしまった。十メートル以上の距離をつけてゴールされて、勇ましい雄叫びを聞いた日向はその場に崩れ落ちた。
 こちらの体力が尽きかけていたなど、そこで顔を合わせたばかりの影山は知らない。負けるべくして負けたとはいえ悔しくて、彼は顎を伝った汗を拭い、肩で息を整えた。
 万全の状態だったら、絶対に追い付かせたりしなかった。
 負け惜しみを心の中で呟いて、日向は足元に伸びた影に眉を顰めた。
 顔を上げれば、影山がそこにいた。先ほどまでの勝ち誇った表情は薄れて、何故だか不機嫌そうだった。
 眉間に皺が寄って、癖になってしまっている。
 前にも注意したのに直っていないと腹を立てて、日向は汚れを払って立ち上がった。
「ンだよ」
「今の勝負、ナシだ」
「はあ? お前が勝ったんだから、いいじゃねーか」
「そんなボロッカスのテメーに勝ったって、こっちは嬉しくなんかねーんだよ」
 それでも影山は退かず、逆に距離を詰めて来た。
 前方を塞がれた日向は声を荒らげ、言い返されて目を点にした。
 こちらが弱っていたと、勝負を終えてから気付いたらしい。正々堂々、卑怯な真似はしたくないという傲慢さが透けて見えて、茫然とさせられた。
 呆気にとられ、返事が出来なかった。
「はあ……」
 緩慢な相槌をひとつ打てば、影山の顔が歪んだ。露骨に拗ねたチームメイトは年齢以上に子供っぽくて、見た目と違って可愛らしかった。
「とにかく、いいな。今日のはノーカンだ」
「おれは、別に良いけど」
 今のところ、勝負はほぼ五分五分。ただ昨日、一昨日は日向の方が若干早く学校に着いていたのもあり、僅差で勝利を得ていた。
 その結果、たったひとつだけだが、勝ち星は日向の方が上回っていた。
 そこで無駄に正義感を振り翳したりしなければ、勝率は並んでいたというのに。
 悪知恵が働かない馬鹿に苦笑して、日向はもう一度尻を叩いた。
 太腿にも砂埃は付着していたが、汗で湿っている肌を撫でるのは、余計不快になるだけだった。
 今は我慢することにして、彼はいまいち納得がいっていない天才セッターに肩を竦めた。
「じゃじゃーん」
「あ?」
 どうして部活前から疲れていたのか、理由が聞きたいのだろう。
 ただそれをどう尋ねれば良いか分からずにいる彼に、小柄なミドルブロッカーは先回りして左手を掲げた。
 握りっ放しだったストップウォッチを突き出し、影山へと示す。
 良く見えるように高く持ち上げてにんまり笑って、驚嘆の言葉を期待して、自慢する準備に入る。
 だがどれだけ待っても、予想したような反応は得られなかった。
「……それが、どうかしたのか?」
「あ?」
 代わりに怪訝に訊かれて、日向はぶすっと頬を膨らませた。
 察しが悪い影山に口を尖らせ、もっとちゃんと見るように訴える。けれど彼の表情は曇る一方で、困り果てた目は泳いでいた。
 続々やってくる部活仲間に助けを求めるが、ふたりの傍らを通り過ぎた上級生は割り込んで来なかった。
 朝から元気だな、だとか、今日も仲良しだな、とからかう声しか聞こえて来ない。
 興味を抱きつつも介入して来ない先輩たちにため息を零して、影山はほんのり湿っている前髪を掻き上げた。
「今度はシャトルランでもすんのか?」
「はあ? なに言ってんだよ。良く見ろ、よく」
「見てるっての」
「十九分だぞ。新記録なんだぞ。他に言う事あんだろ」
 お互い会話が噛みあわず、相手が何を言っているのか分からない。
 ふたりとも日本語を喋っているのに伝わらなくて、そろそろ何かが可笑しいと思い始めた矢先だ。
 影山が肩を落とし、日向が握る物を小突いた。
「ゼロゼロゼロ、だけど?」
「……へ?」
 数字が表示されている液晶部分を叩き、日向の方へと押し返す。同時に告げられた内容にきょとんとなって、背番号十の少年は慌てて肘を引っ込めた。
 ストップウォッチを自分の方に向け、そこにあるべきものを探して両目を見開く。
 だがどこを見てもあの数字は発見できず、映し出されるのは全てがリセットされた画面だけだった。
 長時間操作されなかったので、自動的に消えたのか。
 それとも影山と競い合っている時に、間違ってボタンを押してしまったのか。
 どちらなのかは不明だが、分かったところで意味などない。
 新記録の証拠は失われ、二度と戻ってくることはないのだから。
「う、そ」
 絶句する日向に眉を顰め、影山は後頭部を掻いた。
 自分が悪いわけではないと思うが、何故か罪悪感を覚えてもやもやして、あまり良い気分ではなかった。
 慰めてやった方が良いか考え、爪先で穴を掘る。しかし言葉は何も思い浮かばず、そもそも彼が何に落胆しているかも不明だった。
「十九分、か」
 それが何の事か、すぐにピンと来なかった。
「折角、二十分切ったのにぃ」
 そこまで言われても、意味が分からなかった。
「ンなショック受ける事か?」
「当たり前だろ。大記録だったんだぞ!」
 だからつい、声に出してしまった。
 率直な疑問をぶつけられて、日向は声を張り上げた。
 まだ遠くにいた月島にも、届いたらしい。突如響いた罵声に、眼鏡のミドルブロッカーがビクッと身構えたのが見えた。
 ちょっと面白かったが、笑っている場合ではない。影山も呆気にとられてぽかんとして、何の記録かと真剣に悩み始めた。
 二十分と、十九分。
 差にして僅か一分だが、それを記録だと言い張る日向をまじまじと見つめて、彼は沈黙するストップウォッチにも視線を投げた。
「……たかが一分だろ」
「けど、その分布団で寝てられんだぞ」
「は? だったらその分早く学校来て、サーブ練でもしとけよ」
「だから、そういう事も出来るってことだろ!」
 まるで通じなかった会話が、変なところで噛み合った。ふたりして相手に負けないよう猛々しく吠えて、それでやっと分かった影山は嗚呼、と緩慢に頷いた。
 そういえば日向は、随分前、学校まで自転車で二十分くらい、と言っていた。
 欠けていたパズルのピースがぴたりと嵌って、彼が部のストップウォッチを持っていた理由も判明した。そういう事か、とすべてが詳らかに明らかとなって、影山はスッキリした顔で首肯した。
 もっとも日向は、その表情が面白くなかった。
 ひとりで勝手に納得して、満足している。彼が何を考えているかは判然としないが、本能が馬鹿にされていると訴えて来て、不機嫌の度合いが高まった。
「見てろよ。明日は、今日より二分早く着いてやっからな」
「だったら俺は、今日より五分早く着く」
「じゃ、じゃあおれは、十分だ」
「なら俺は、三十分な」
「一時間!」
「一時間半だ」
「真似すんな!」
「テメーこそ!」
 倍々ゲームで、言い合う時間が徐々に伸びていく。そもそも何を競い合っていたか、根本的なところは忘れて、ただ単に数字だけを増やしていく。
 最早何を言い争っているのか、当人らも分からなくなっていた。ようやくふたりのところまで来た月島は奇妙な喧嘩に顔を顰め、怪訝そうに首を傾げた。
 彼らが意味不明な喧嘩をするのは、今に始まった事ではない。だが今日は一層訳が分からなくて困惑していたら、部室棟の階段を下りて来た菅原が呵々と声を響かせた。
 泣き黒子の三年生の登場に、いがみ合っていた一年生両名もハッと我に返った。
「っと、とにかく。明日はぜってー、おれが勝つ」
「寝ぼけてんじゃねーぞ。俺が勝つに決まってんだろ」
 こんなことをしている場合ではなかった。
 早く部室に荷物を置いてこないと、朝練に参加出来ない。
 仕切り直しと行こうとして、だが目論見は失敗した。捨て台詞に影山が噛みついて、堂々巡りに陥ろうとしたふたりを制したのは、手を叩きあわせた菅原だった。
「はいはい、そこ。喧嘩すんなー。折角日向が一分時短したのに、その縮めた時間を喧嘩に使ってたら、勿体ないだろ」
「……はい?」
 もっとも、彼の言葉はふたりに通用しなかった。
 問題児コンビに揃って首を傾げられ、菅原も虚を衝かれて目を丸くした。予想を違えて呆気にとられ、叩くつもりでいた手を空中で停止させた。
 ストップウォッチを手に、自転車での通学時間を計っていたのは日向だ。
 たった一分でも時間を縮められたのを喜んで、影山が分かってくれないと腹を立てていたのも彼だ。
 聞き齧った情報で、状況を正しく理解していたつもりだった。
 それなのに不思議そうに見つめられて、大学進学も諦めていない三年生は脂汗を流した。
「俺、なんか間違えたかな」
「あの二人が馬鹿なだけですよ」
 すれ違いざまに月島に訊ね、小声で得られた返答に安堵の息を吐く。
 その一方で日向はストップウォッチを振り回し、影山は瞬時に避けて鼻を高くした。
 今日も相変わらず賑やかで、騒々しい。
 馬鹿な子ほどかわいい、という格言を噛み締めて、菅原はいい加減急ぐよう、一年生の背中を押した。
 

2015/5/27 脱稿

雲ぞ心にまづかかりける

 明るい夜だった。
 薄い雲が東の空を漂い、星々は望月に遠慮して控えめに輝いていた。庭の池では眩しい光が反射して、そこだけ昼のように明るかった。
 足元を照らす光源は十分で、出歩くのに不便なかった。虫の声がそこかしこから響いて、合唱は喧しかった。
「影はまた 数多の水に 映れども すみける月は ふたつともなし」
 天頂に月を見て、足元にその写しを見る。
 どちらがより優れているかの論は他に任せることにして、小夜左文字はさあっ、と吹いた秋風に小さく身を震わせた。
 反射的に脇を締めて、内股気味に膝をぶつけ合わせる。何か羽織ってくれば良かったかと後悔するが、今から取りに戻るのも億劫だった。
「……いいか」
 数秒の逡巡を経て、彼は首を横に振った。自身に言い聞かせるように呟いて、草履の裏で草を踏みしめた。
 夏場の勢いを残し、庭は雑草にまみれていた。
 抜いても、抜いても生えて来るので、そのうち面倒になって放置された所為だ。小夜左文字も何度か手伝ってはみたものの、根が一片でも残っているとそこから茎が生じるので、お手上げだった。
 比較的根気強い刀剣男子も、五度目にして音を上げた。いい加減にしろ、と雑草に向かって怒鳴っていた男を思い出して、彼は薄く笑みを浮かべた。
 あれは面白かった。
 野良仕事など刀のやることではない、と言い張りつつも、命じられたらちゃんとやり遂げるのだから、悪い男ではない。その根性を内心褒め称えて、小夜左文字は夜の散策に意識を戻した。
 頭上に枝を広げる樹木は、未だ青々と葉を茂らせていた。
 これらが色付き、落ちるのは、もっと先の話だ。そうしてその時期が来るということは、冬が訪れる、ということをも意味していた。
「この辺りも、雪は降るのだろうな」
 辺り一面が真っ白に染まる様は美しいが、同時に恐ろしい。雪の重みで屋根が崩れたら一大事だし、なにより寒さの所為で作物が育たない。
 秋のうちにしっかり備蓄して、準備を整えておかなければ。
 幸いにも、ここの所は好天続きだ。恐れていた日照りもなく、雨の日続きで根が腐る事もなかった。
 無事に実り、収穫を迎えられるのは、何よりの喜びだ。次の年もそうなるよう密かに祈り、小夜左文字は進路を邪魔する枝を退かした。
 腕を横に払い、出来上がった隙間を潜り抜ける。屋敷は左手に聳え立ち、灯りは消えて、静かだった。
 夜空を照らす月はこんなにも綺麗なのに、愛でる者は他に居ないらしい。
 なんと勿体ない事だろう。
 戦上手の無骨な者たちは、今宵の快晴がどれほど幸運なのか、知りもしないのだ。
「歌仙が居れば、少しは、まだ」
 口から出たのは、愚痴だ。
 本人も非常に悔しがっていたのを思い出して、小夜左文字は肩を竦めた。
 なにもこんな日に、遠征に出なくても良いものを。
 審神者に向かって堂々と苦情を申し立てていた男は、今頃、旅先の宿で空を見上げているのだろう。
 芒を飾り、餅を並べて、きちんと祝いたかったと言っていた。池に舟を浮かべるのは流石に無理があるけれど、橋の上から水面の月を眺めて、歌を詠みたがっていた。
 彼の代わりに丹塗りの橋を渡って、小夜左文字は開けた頭上に目を眇めた。
「秋の月 むかしを今に うつしても ややすみまさる 宿の池水」
 月にまつわる歌を口ずさみ、ひょいっと段差を飛び越える。
 再び草で埋もれた地表の人となって、彼は襟足を擽った髪に首を振った。
 中秋の名月を愛でる宴は、小夜左文字も楽しみにしていた。しかし審神者は関心がなかったようで、粘る歌仙兼定に素っ気なかった。
 どこで見上げようが、月は月。
 満ち欠けは周期的に訪れるのだから、今を逃しても、次がある。
 確かに、その通りだ。審神者の言い分も分かる。けれど一寸した事で季節の移り変わりを楽しみ、面白おかしく日々を過ごす男にとって、今宵の月には格別の想いがあったに違い無い。
 その落胆ぶりは、凄まじかった。
 明日の朝、遠征より無事戻って来た際は、たっぷり慰めてやる事にしよう。
 嫌味かと言われそうだが、実際にはその通り。
 ただの嫌がらせだと苦笑して、小夜左文字は虫の声を蹴り飛ばした。
 一瞬だけ静かになって、すぐにまた喧しくなる。りりり、りりり、と楽を奏でる小さな虫は、声こそ聞こえども、姿は見えなかった。
 時々草の間を飛び交う物があるが、動きは素早く、捕まえるのは難しい。
 二度挑戦して両方とも失敗して、少年は諦めて肩を落とした。
 深く息を吐き、耳元を飛び交う羽虫を追い払う。そちらは雅でないと叩き落して、彼は長く伸びすぎて先端が垂れている草を押し退けた。
 ガサガサと足元を五月蠅くして、屋敷に続く道へと進路を取る。だが足取りは鈍く、速度は急激に落ちた。
 一旦は前方に投げた足を戻して、小夜左文字は寝間着姿で立ち尽くした。
 髪は解かれ、毛先は肩より下にあった。昼間結い上げている癖が残り、一部不格好に膨らんでいるが、櫛を通す気は起きなかった。
 腰より少し高い位置に巻いた帯代わりの紐は太めで、結び目は斜めに傾いていた。そもそも白の湯帷子は寸足らずで、裾は膝に掛かるかどうか、という位置だった。
 粗末な身なりだが、本人は意に介さない。いつの間にか、草葉で切ったらしい腕の傷を撫でて、小夜左文字は深く、長く、息を吐いた。
「もう少し、巡って来よう」
 陽はとうの昔に地平線へと沈み、本丸の面々はとっくに寝床に入っていた。
 その多くは夢の世界へと旅立ち、明日の訪れを静かに待っていた。庭から望む屋敷は真っ暗で、月影に照らされて輪郭が見える程度だった。
 一部の者は遠征で本陣を離れているものの、十人以上の刀剣男子が此処に居る。だのに話し声ひとつ聞こえず、動く影もなかった。
 日中は、それこそ耳を塞ぎたくなるほどの騒がしさだというのに。
 まるで別世界だった。静謐に包まれた空間に佇んで、小夜左文字は再度襲って来た寒気に己を抱きしめた。
 剥き出しの腕を掴み、撫でさすって熱を起こす。けれどその程度で震えは止まらず、心に芽生えた嫌な感覚も消えなかった。
 風にそよぐ草葉が、足首を擽った。
「……っ!」
 たったそれだけのことにも大仰に竦み上がり、小夜左文字は右足を蹴り上げた。
 月の光が生み出す影の中に、不気味な腕が無数に生えていた。うぞうぞと蠢き、哀れな贄を地中へと引きずりこもうとしていた。
 それは、良く見ればただの雑草だ。しかし夜が明るいが故に生み出された暗がりの不穏さが、少年の眼を曇らせた。
 恐怖に心臓が縮こまり、全身に鳥肌が立つ。
 血濡れた人々の怨嗟の声が耳にこだまして、虫の囀りを掻き消した。
「や、……やめ、ろ。やめろ。来るな」
 己の記憶が創り上げた幻に怯え、小夜左文字は声を震わせた。顔を引き攣らせて頭を振って、少年はよろめき、後退した。
 草履の裏で砂利を踏み、何度か転びそうになりながら、風に踊る枝のさざめきに総毛立つ。
 彼は嘗て、盗賊の掌中に在った。
 望まぬまま多くの命を屠り、その血を浴びて、生き長らえて来た。
 赤子さえ殺した。母親の命乞いに耳を塞いで、冴えた刃で無垢な魂を貫いた。
 その報いが、これだ。
 既に存在しない者への復讐に妄執し、罪滅ぼしとする事で己の存在を保っている。自分は懸命にやっていると、そう主張する事で償っている気になって、赦されようとしている。
 弱い心を必死に隠し、強がって、孤立して。
 本当は独り寝の夜に怯えて、行く宛てもなく彷徨っているだけなのに。
「かせ……っ」
 無意識に名前を呼ぼうとした。
 幼子が見る物は全て幻だと笑い、恐がる必要など何処にもないと軽く言ってのける男に、気が付けば縋ろうとしていた。
 その男の胸には牡丹の花があった。豪奢に、そして優美に咲き誇るこの花は、百花の王とも呼ばれていた。
 可笑しな男だった。
 血腥い謂れを持ちながらも、歌仙兼定は逆にそれを誇っていた。己に相応しい名だと自慢して、修羅の道の真ん中を平然と歩いてみせた。
 彼と居れば、怖くない。
 何故なら彼の方が、死霊などより余程恐ろしいからだ。
 けれど今宵、彼は屋敷に居なかった。時間のかかる遠征に駆り出され、抗議したが通らなかった。
 日を跨ぐ遠征任務は、今回が初めてだった。本丸に早い時期から集っていた他数名も、同じように遠くへと出向いていた。
 大太刀を喚ぶのに成功したと、夕餉が始まる直前に審神者が騒いでいた。
 その影響だろう。十五夜を見ながら歌を詠む歌仙兼定の願いは、一年間持ち越しとなった。
 大の男が、本気で泣きそうな顔をしていた。
 次郎太刀に首根っこを掴まれ、引きずられて旅立つ姿は滑稽だった。
 あの時、引き留めればよかった。もしくは一緒に行くと、手を挙げればよかったか。
 後悔が胸に渦巻き、細い首を締め上げた。吸い込む息と吐く息がぶつかって、呼吸ひとつもままならなかった。
「っあ、……は、ぁぐっ」
 身体中の関節がみしみし音を立て、雑巾の如く絞られる感覚に陥った。頭の先と足の先を掴まれて、それぞれ反対側に捻られている気分だった。
 爪を立て、胸を掻く。ガリガリと素肌に赤い筋を何本も刻み付けて、小夜左文字は自分自身を傷つけながら強く奥歯を噛み締めた。
 顎が砕けそうになるまで、きつく目を瞑ってかぶりを振る。
「いぁ、あ、……あああっ!」
 腹の底から呻き声を上げて、救いのない世を照らす月を仰ぐ。
 その、今にも引き裂かれてしまいそうな背中に。
 ひやりとしたものを感じた。
 冷たい――けれど刺さるほどではない清らかなものが、小夜左文字の震える身体を撫でた。
「くっ」
 直後にぞわっと来て、竦んだ脚がもつれた。立っていられず、ふらつくままに尻から地面に転がって、小柄な短刀は呆然と目を丸くした。
 なにが起きたのか分からなかった。
 しかし彼を呑み込もうとしていた黒々しい気配は瞬く間に途絶え、何処かへと押し流された。風に揺られる草木は凛として、月の輝きは相変わらず冴えていた。
 明るい夜に、子供を怖がらせるものはなにもない。
 何度も瞬きを繰り返して、小夜左文字は恐る恐る辺りを見回した。
 虫の声が戻っていた。りりり、りりり、と響く音は心地よく、穏やかで、優しかった。
「今、なにが」
 景色は何も変わっていない。
 月が眩しい本丸の庭には、なんの異変も起きていなかった。
 小夜左文字が見た幻は、悉く打ち払われた。彼が招き入れた穢れは、突如として清められた。
 瞠目し、少年は荒ぶる鼓動を宥めた。深呼吸を数回繰り返し、尻の汚れもそのままに起き上がった。
 捲れあがっていた寝間着の裾を直し、改めて辺りを見回す。
 波の音にも似た木々のざわめきを頭上に聞いて、彼はふと、呼ばれた気がして屋敷を見た。
「誰か、いる」
 本丸の縁側に、先ほどまでなかった影があった。
 白銀の月光を集め、一部分が妙に明るい。夜闇の中に在りながら、昼の太陽を思わせる輝きは、黄金色の髪が原因だった。
 月の光を集め、彼の周囲だけがいやに神々しかった。
「獅子王」
 それは数日前に、屋敷に至った太刀だった。
 鵺の毛皮を肩に掛け、勇猛果敢に戦陣を突っ走る。やや猪突猛進の傾向があり、世間知らずの様相ではあるが、人柄は良く、短刀たちからは人気だった。
 戦列に加わって、まだ日が浅いからか。
 次郎太刀と違って遠征に加えて貰えなかった彼は、小夜左文字同様、留守番組だった。
 穂先の長い雑草を掻き分けて進めば、物音であちらも気付いたようだ。寝間着姿の青年は顔を上げ、現れた少年に相好を崩した。
「よう。悪い奴だな」
「あなたに言われたくない」
 夜更かしをしているのを、軽く咎められた。けれど獅子王とて、人のことは言えない。
 しかも彼の傍らには、首に縄を結んだ瓶子が置かれていた。
 盃は二口。うちひとつは、太刀の手に握られていた。
「ああ……」
 もうひと口にも、酒が注がれていた。底浅の器に月が映え、美しい彩を形成していた。
 それらを順に見て、小夜左文字は得心顔で頷いた。
 謎は解けた。先ほど己の身に起きた出来事は、すべて彼が原因だった。
「どした?」
「いや。礼を言う」
「なんだそれ。変な奴だな」
 肩の力を抜き、首を竦める。怪訝にする男に感謝の意を示せば、当然意味が分からなかった獅子王は首を傾げた。
 酒には穢れを祓う力がある。
 神前に供えられたものならなおのこと、清めの力も強かろう。
 自分たちが付喪神だということを、時々忘れそうになる。あのような雑兵に食われそうになったことを恥じて、小夜左文字は苦笑した。
 獅子王は依然不思議そうにしていたが、待っても仕方がないと悟ったようだ。五秒が過ぎた辺りで正面に向き直り、盃を高く掲げた。
 満月に乾杯して、ぐい、とひと息で呷る。
「くっ、はー」
 そうして心地良さげにかぶりを振って、嬉しそうに顔を綻ばせた。
 全身で幸福を表現し、濡れた唇を舌で舐める。既に酔っているのか恐ろしいほど上機嫌で、鼻の下はだらしなく伸びていた。
「ひゃー。うっめー」
 歓喜の咆哮を上げ、げらげらと笑い声を響かせる。一瞬で空になった盃を左手に持ち替えて、右手は酒が入った瓶子と伸ばされた。
 それを先に持ち上げて、小夜左文字は彼に半歩、近付いた。
「お?」
「僕がやろう」
「おお、いいのか?」
 空振りした右手を床板に添えて、獅子王は意外な申し出に目を輝かせた。きらきらと眩しい笑顔で頷いて、早速空の盃を差し出した。
 こんな丹塗りの器を、どこで調達してきたのだろう。
 酒だって、台所で見かけるものとは違っていた。
「へへっ。次郎太刀のところから、ちょっと、な」
「……」
 不思議そうにしながら注いでやっていたら、疑問点を見抜かれた。
 鼻の頭を擦って得意げに言われて、小夜左文字は呆れて肩を竦めた。
「神罰が下っても知らないよ」
「大丈夫だろ。ちょっとだけだって」
 どうして本丸に来たる刀剣たちには、こうも怖いもの知らずが多いのだろう。
 神刀でありながら酒浸りの大太刀もどうかと思うが、その懐からひと提拝借して来るのも、度胸があり過ぎだった。
 悪戯っぽく笑い、獅子王は口に人差し指を押し当てた。内緒だと片目を瞑って囁いて、ずっと傍らに据えたままだった盃を空の手で掬い上げた。
「呑めよ」
「……いいのか」
 酒の入った瓶子はひと振、縁側には獅子王と小夜左文字。
 ふた口並んだ盃は、後から来る誰かの為と思っていた。けれど周囲に人気はなく、灯明も見えなかった。
 あるのは眩いばかりの月明かりのみ。
 黄金色の髪に光を集め、太刀にしては小柄な男は目を眇めた。
「ああ。その方が、じっちゃんも喜ぶ」
 訝しむ短刀に朗らかに言い放ち、獅子王は満たされたばかりの酒を呷った。一回で飲み干して、早く受け取るように右手の盃を揺らした。
 月を閉じ込めた酒が、大きく波打った。縁から零れようとしているそれに背筋を粟立て、小夜左文字は慌てて瓶子を置いた。
 両手で盃を受け取って、微かな香りに鼻を鳴らす。
 水のようで、水でないそれは、紛うことなき神酒だった。
「百獣の王、か」
「んー?」
「いいや。こちらのことだ」
 獅子もまた、権威の象徴。
 強さの権化であり、邪を寄せ付けない神力の持ち主だ。
 その名を冠せられた太刀が、月夜に神酒を捧げたのだ。短刀如きが引き寄せた魔など、一発で祓い退けられよう。
 本人の与り知らぬところで、救われた。獅子王にその意図がなかったとしても、感謝の念は自然と溢れた。
 次第に波が引いていく盃を眺め、小夜左文字は縁側に腰を下ろした。
 瓶子を挟み、獅子王と並んで座る。両足が地面から離れ、爪先は中空を漂った。
 膝から先をぶらぶら揺らして、短刀は結局手酌になってしまった太刀を仰いだ。
「僕に酒を勧めるなんて」
「なんだ。飲めねえのか?」
「いいや。でも、あなたが初めてだ」
「別にいいんじゃねえの? 俺は、気にしない」
 ふたりして月の明るい庭を眺め、言葉を繰る。獅子王は頬杖をつき、背中を丸めて盃を口に運んだ。
 横顔は秀麗で、粟田口の短刀と遊び耽る昼の姿とは違っていた。口数は少なく、淡々と酒を飲んでは盃を空にしていた。
 小夜左文字は揺らしていた脚を止め、両手に抱く丹塗りの杯を眺めた。
 酒は、飲めないわけではない。ただこの身体だから、勧められたことはなかった。
 見た目が幼いと、そういう部分で損だ。代わりに甘い菓子を呈されるので、不満は相殺されているけれど。
「これは、……僕が呑んで良い物なのか」
 なにかと人の世話を焼きたがり、口喧しい男を頭の脇へ追い払う。
 想像の世界で文句を言う歌仙兼定に首を振り、小夜左文字は傍らに問うた。
 獅子王は意外そうに目を丸くして、すぐに照れ臭そうに微笑んだ。
「いいんだ。じっちゃんは、もう呑んだだろ」
 気恥ずかしそうに告げて、誤魔化すように杯を呷る。潔い飲みっぷりは、哀しみを紛らせようとしている風にも見えた。
 彼が言う翁とは、源頼政の事だ。
 鵺を討ち取った武勲に加え、従三位にまで登り詰めた公卿であるが、その末路は哀れのひと言に尽きた。齢七十を過ぎて平家に対して決起して、早々に目論見が露見して逆に滅ぼされた。
 あと数年もすれば、穏やかな眠りと共に、西方浄土へと旅立てたかもしれないのに。
 積年の不満が爆発したのか。それとも若気の至りで先走った者を守るべく、重い腰を上げねばならなかったのか。
 真相は、小夜左文字の知るところではない。唯一分かることがあるとすれば、ここにいる獅子王が、かの翁を心から慕っていること、くらいだろう。
 月見酒も、かつての主に捧げたものだった。
 それを譲り受けたとあって、小夜左文字は身が引き締まる思いだった。
「頂戴仕る」
 畏まって呟き、目礼してから盃を口に運ぶ。歯で噛まないよう下唇で受け止めて、薄く開いた隙間から少量ずつ、咥内へと招き入れる。
 隣で獅子王が笑った。
 他人行儀が過ぎると顔を綻ばせ、数回に分けて飲んだ子供に瓶子を掲げた。
「……美味だ」
 仰け反っていた姿勢を戻し、ぽつりと零す。
 即座に新たな酒が注がれて、小夜左文字は首を竦めた。
 獅子王は胡坐を崩した体勢で、右足は縁側から垂らしていた。左の爪先は右太腿の下にあり、色白の肌はほんのり紅に色付いていた。
「良い飲みっぷりじゃねえか」
 愉快だと笑う表情は、次郎太刀に通じるところがあった。
 あまり褒められるべきでないところを褒められて、小夜左文字は頬を緩めた。注がれ過ぎて溢れそうだった酒を慌てて口で引き受けて、喉にするする入って行く神酒の心地よさに目尻を下げた。
 不思議なことに、口に入れた瞬間、果物のような爽やかな香りがした。
 勿論、酒の材料にそのようなものは入っていない。一切の異物を排除して、丁寧に、丹精込めて作られた酒は、見事なまでの透明度だった。
 雑味がなく、爽やかだった。殆ど水のようだが、飲み終えた後に喉の辺りがかーっと熱くなった。舌触りは滑らかのひと言に尽きて、鼻から抜ける清涼感がまたとなく快かった。
 後から来る辛みは強過ぎず、かと言って弱くもない。後に引かず、一瞬で溶けてなくなる加減は絶妙で、職人技としか評しようがなかった。
 美味い。
 これ以上の言葉はなく、これ以外の賞賛もない。
 手放しに褒め称えて、小夜左文字は次々注ぎたがる獅子王を手で制した。
「僕ばかりが呑んでは、悪い」
「ははっ。それもそうだな」
 この酒は、彼が命懸けで盗み出して来たものだ。自分ばかりが譲り受けるのは申し訳なくて、少年は盃を置き、瓶子を受け取った。
 彼の盃に濁りのない酒を注いで、小夜左文字は仄明るい夜空に顔を向けた。
 月は美しく輝いていた。
 雲が晴れて、紫紺の空にぽっかり穴が開いたようだった。
 前方に視線を転じれば、凪の池が見えた。空気は凛と冷えており、虫の声だけが五月蠅かった。
「いにしへの 人は汀に 影たえて 月のみすめる 広沢の池」
「どした? 急に」
 訥々と詠えば、獅子王が怪訝な顔をした。当初に比べれば幾分とろん、とした目をして、不思議そうに首を傾げられた。
 彼の主の歌なのに、覚えが悪いらしい。それとも酔っているから思い出せないだけかと思案して、小夜左文字は首を振った。
「気にするな」
 月の明るい夜に酒など飲むから、感傷的になるのだ。
 自嘲を込めて口角を持ち上げて、小夜左文字は空になっていた獅子王の盃に酒を注いでやった。
「うおっと。へへ、あんがとな」
 その手元は怪しく、覚束なかった。誤って傾け、滑らせようとしたのをどうにか防いで、青年は白い歯を見せた。
 それほど量を飲んだとは思えないのに、かなり酔いが回っている。
 もしや弱いのかと勘繰って、小夜左文字は自分の盃にも酒を足した。
 幾分軽くなった瓶子を置いて、即席の鏡に満月を閉じ込める。口を付けず胸元に掲げたまま、ゆらゆらと揺らめく光に思いを馳せる。
 こうやって誰かと月を眺め、酒を楽しむ夜が来るなど、考えた事もなかった。
 数奇な巡り合わせだ。
 吹く風は冷たいのに、心は温かかった。
「なき人の 面影そへて 月のかほ そぞろに寒き 秋の風かな」
 許されるなら、いつかの主とも、こうやって歌を詠み合い、酒を酌み交わしてみたかった。
 それが果たせぬ願いであるとは分かっていても、思わずにはいられなかった。
 与えられた名は心を縛るものだけれど、そればかりを譲られたのではないと思い出した。嫌な事は多かったけれど、そうでない時もあったと、束の間だけ過去を振り返って、小夜左文字は掲げた盃をひと思いに呷った。
 名付け親に神酒を捧げ、味の薄い水を飲み干す。寝間着の袖で口を拭って息を吐いて、少年は空になった杯の飲み口を擽った。
 水気を指で取り除き、傍らに置く。
 直後にずどん、と大きな音が響いて、尻に振動を感じた彼は目を見張った。
「獅子王」
 気が付けば隣に誰も居なかった。
 否、座っていた者が横倒しに寝転がっていた。
「ぐご、……ふ、んが、……むにゃ」
 挙句、鼾が聞こえた。鼻提灯は流石になかったけれど、だらしなく開いた口からは涎が足れていた。
 瞼は閉ざされ、勝気な眼は見えなかった。両腕を床に投げ出し、片方を枕の代わりにして、縁側で斜めになっていた。
 足は庭先にはみ出たままで、空の盃は脇腹でひっくり返っていた。あと少しで瓶子を吹き飛ばすところで、そうならなかったのは幸いだった。
 唖然としたまま瞬きを繰り返し、小夜左文字は真っ先に瓶子と盃を、安全な場所まで遠ざけた。
「弱すぎるだろう」
 試しに振った酒瓶は、まだちゃぷちゃぷ言っていた。
 釉薬を掛けて焼かれた陶器製のそれは、五合は楽に入る大きさだ。そのうち半分近くが残っており、飲んだ量は若干小夜左文字の方が多い。
 となれば、彼が飲んだのはたった一合少々の計算になる。
 それで酔い潰れられるとは、なんと効率が良いのか。
 まだまだ素面の短刀は肩を竦め、困った顔で嘆息した。
 下戸であるなら、止めておけばよかったのだ。慣れない酒を持ち出したりせず、茶でも啜りながら月を眺めるだけでも、充分だった筈なのに。
 もっともそれでは自身が救われなかったのだが、そこは考えない。小夜左文字はむにゃむにゃ言っている獅子王に嘆息を重ね、どうしようかと額を叩いた。
 縁側に放り出したままなのは、いくらなんでも可哀想だ。とは言っても彼の部屋に連れて行くのは、ここからだと遠すぎる。
 しかも短刀と太刀の体格差は、かなり絶望的だった。
 獅子王はまだ小柄な方だけれど、それでも小夜左文字より遥かに上背があった。骨格もしっかりしており、試しに片腕を取って持ち上げてみたら、意外に引き締まってずっしり重かった。
「ぐ」
 ちゃんと太く、鍛えられている上腕に嫉妬しそうになった。
 痩せて脆弱な己の腕を見比べて、少年は喉の奥で憎しみを噛み潰した。
「むにゃ……ふへ、じっちゃ……月、きれーだなあ……」
 寝こける男は呑気に呟き、光に誘われて庭に顔を向けた。もっとも瞼は閉ざされたままで、起きているわけではなさそうだった。
 実験と称して頬をぺちりと叩いてみたが、めぼしい反応は得られなかった。
 ぽりぽりと打たれた場所を掻いて、獅子王が鼾をかく。しかしよくよく目を凝らしてみれば、その目尻は濡れていた。
 翁に呼びかけ、語り掛け、笑う。
 彼は夢の中で、懐かしい人との邂逅を楽しんでいるようだった。
 それは嬉しいのに、哀しい夢だ。そして小夜左文字にとっては、少し羨ましいことだった。
 獅子王はきっと、悪夢を見ない。辛かったことや、切ない記憶を打ち消してしまえるくらいに、彼の中には穏やかで、幸せだった日々が沢山残されている。
 小夜左文字だって、平穏無事な時がなかったわけではない。けれどそうでなかった時期の記憶があまりに苛烈過ぎて、帳尻が合わないのだ。
 能天気な彼に、あやかりたくなった。
 生まれて初めて他人の涙を拭ってやって、過去に囚われた短刀は淡く微笑んだ。
 触れられたのがくすぐったかったのか、獅子王は目を閉じたままふにゃりと笑った。締まりのない顔をして口元を綻ばせ、寝返りを打って華奢な脚に擦り寄った。
「おい」
 他者の熱が心地よいのか、太腿に頬を押し当てられた。驚いた小夜左文字は反射的に立ち上がろうとして、縋る手に絆されて尻を下ろした。
 中腰を止めて座り直し、何気なく金の髪を撫でてやる。
「ふへ。くすぐってぇよ、……じっちゃ……」
 無造作に結ばれた金糸は意外に柔らかく、指に絡みついた。嫌がった獅子王は嘯いてうつ伏せになり、小夜左文字の腿に額を押し当て、腰に腕を絡みつかせた。
 しがみつかれ、離れない。押し退けようとしても抵抗されて、甘えて余計にくっつかれた。
 予想外に子供な反応に目をぱちくりさせて、短刀は困った顔で肩を竦めた。
「ここだと、……一番近いのは、山姥切国広か」
 こんな真似をされて許すなど、普段なら有り得ない。どうやら自分も酔っているようだと苦笑して、小夜左文字は周囲を見回した。
 屋敷の間取りを思い浮かべ、屋敷に住まう者たちの部屋割りを諳んじる。
 未だ空き部屋が多い本丸ではあるが、この一帯は既に何名かが占有していた。
 打刀たちに配分された区画が、ここからだと最も近い。だが訪ねて叩き起こし、協力を仰ぐのは悪いし、なによりこの男を引き剥がさなければいけなかった。
「起きろ、獅子王」
 肩を軽く叩いてみるが、反応は芳しくなかった。喉をゴロゴロ鳴らして上機嫌に笑う様は、大型の猫を連想させた。
 頭から水でも浴びせない限り、起きてくれそうにない。しかし神酒をぶちまけるのは勿体なくて、小夜左文字は途方に暮れて天を仰いだ。
 額を手で覆い、反対の手は重い獣の頭を撫でる。
「んーふ、ふふんふー」
 獅子王はしどけなく笑い、眠りながら鼻歌を奏でた。それが殊の外可愛らしくて、益々捨て置けなくなった少年は仕方なく、実際に重い腰を持ち上げた。
 短刀たちの団体部屋に連れて行くわけにはいかないし、獅子王の住まう太刀達の部屋は遠い。
 となれば、残る手段はひとつしかなかった。
「お……っも、い!」
 ここから少し行けば、通い慣れた部屋がある。主人は現在遠征で不在だが、布団は既に敷かれていた。
 ひとりで眠ろうとして出来なかったあの部屋に、連れて行くより他にない。
 歌仙兼定は怒るだろうか。
 それとも、呆れるだろうか。
「どう、して……こん、な、こと……にっ」
 奇妙な巡り合わせだった。
 月が明るくて、偶々日を跨いでの遠征が実施されて。
 美味な酒に誘われて。
 悪態をつくが、それほど悪い気分ではなかった。獅子王の腹の下に潜り込んで大きな身体を背負い、小柄な短刀は顔面を真っ赤にして、最初の一歩を踏み出した。
 担ぎ上げるのは無理だから、引きずって行くしかない。
 道中衝撃で目覚めてくれるのを少なからず期待して、小夜左文字は瓶子と盃も抱えあげた。
 獅子王の腕を肩の両側にぶら下げて、ずり、ずり、と少しずつ、されど着実に進んでいく。
 満月は煌々と照り、長い影を縁側に刻んだ。

「これは、……どうすればいいんだろうね」
 長い遠征を終え、ようやく帰り着いた本丸で。
 疲労感を訴える身体を引きずり、戦仕度を解くべく辿り着いた自室で。
 歌仙兼定が障子戸を開けて最初に見たものは、畳に敷かれたひと組の布団。そして丸くなって眠る、二匹の猫――もとい、刀剣男子だった。
 片方は小柄な短刀で、もう片方は年若く見える太刀で。
 いったいどういう組み合わせなのか分からず、細川の打刀は呆然と立ち尽くした。
 持っていた荷物が足元に落ちたのにも気付かず、よろめきながら敷居を跨ぐ。ふらふらとにじり寄って敷布団の端に進めば、到達した直後に膝が折れた。
 堪らずその場にへたり込んで、歌仙兼定は頬を引き攣らせた。
 望月の夜に遠征を強いられ、ただでさえ傷心の身だったというのに。
 疲れ果てて帰ってみれば、待っていたのは人の寝床を占領する不届き者。しかも枕元には瓶子や盃が放置されており、昨晩彼らが何をしていたか、想像に難くなかった。
「僕のいないうちに、月見酒を楽しんで……しかも余所の男と同衾するとは、いい度胸をしているじゃないか」
 悔しさに、頭がどうにかなりそうだった。
 文句を言えば声は震えて、湧きあがる怒りは今にも爆発しそうだった。
 拳を作り、奥歯を噛み締める。
 自分が何に一番怒っているのかも分からぬまま、歌仙兼定は目を吊り上げて顔を真っ赤に染め上げた。
 いっそ殴ってやりたかった。
 気持ちよさそうに眠る小夜左文字と獅子王を交互に見比べて、雅も忘れて鼻息を荒くする。
 人の苦労を知りもせず、高鼾とはいい度胸だ。
 せめて一発くらい叩きこんでやらないと、こちらの気が済まなかった。
 一晩中歩き続けたお陰で、頭は回らなかった。一時の感情に支配されて憤りを募らせて、歌仙兼定は乱暴に床を殴った。
 膝立ちになり、身を乗り出す。
 衝撃は敷布団を飛び越えて、左側に眠っていた少年に覚醒を促した。
 己よりも遥かに大きい太刀を引きずって、苦心の末にここまで来た。そして力尽き、そのまま眠ってしまった短刀は、傍らから襲い来る強い気配に身じろいだ。
 瞼を痙攣させ、口をヘの字に曲げる。薄目を開けて、降りかかる影の正体をぼんやり眺める。
 目が合ったと知った歌仙兼定は振り上げた拳を凍り付かせ、殴りかかる姿勢のまま硬直した。
「さ、よ」
「かせん」
 たどたどしく名を呼べば、少年は舌足らずに応じた。夢うつつなのか双眸はとろんとしており、表情はあどけなかった。
 彼は胸元まで被っていた掛布団から腕を引き抜いて、小さな手を宙に彷徨わせた。
 居ないと分かっていながらも、探さずにはいられなかった。
 独り寝は寂しくて、冷たくて、恐ろしかった。
「かせん」
 やっと帰ってきた男の頬に触れて、小夜左文字は安堵に目元を綻ばせた。力の抜けた笑みを浮かべて、惚ける男の首に腕を絡めた。
 引き寄せる力は弱かった。
 けれど抗う術を持たず、歌仙兼定は膝立ちのまま、上半身を前方に投げ出した。
「小夜?」
「かせん」
 押し潰してしまいそうなのを堪え、腹筋に力を込める。訝しんで名を口ずさめば、少年は甘えるように頬を摺り寄せて来た。
 その吐息からは、微かながら酒の匂いがした。
 猫となって身体を丸め、歌仙兼定にしがみつく。
 素面の時では絶対に見られない姿に騒然となって、男は瞬きを繰り返した。
「……え?」
 これはいったい、どういう事なのだろう。
 事情が全く呑み込めなくて、歌仙兼定は瞳だけを右往左往させた。
 もしや彼は、酔っているのか。
 枕元に放置されている瓶子を一瞥して、男は中空を掻く両腕をもぞもぞさせた。
 この体勢は非常に苦しく、あまり長時間続けると腰が折れてしまいそうだった。かといって、保てなくなって突っ伏してしまうのは格好悪かった。
 となれば、小夜左文字を抱えあげ、己は背筋を伸ばして姿勢を正すしかなかった。
 訳が分からなくて、男は頭をぐるぐるさせた。
 あれこれ考え、悩んでいるうちに、肉体の方が先に限界を訴えた。不自然な体勢に背筋が悲鳴を上げて、残り時間の少なさに焦れた本能が先走り、もがいていた両腕を勢いよく交差させた。
 少年を抱きしめ返し、その胸に閉じ込める。
 仄かな熱は心地よく、軽い身体は己が一部かのようにすんなり馴染んだ。こうであるのが自然な事と感じられて、なにひとつ違和感を覚えなかった。
 怒りはどこかへ消え失せた。
 疲れも一瞬で吹き飛んだ。
 心地いい。
 尻から床に身を沈めて、歌仙兼定は甘える子猫に自らも頬を摺り寄せた。
 驚くほど呆気なかった。
 何故あそこで躊躇し、逡巡しなければならなかったのか。過去の自分を鼻で笑って、男は幸福感に胸を満たした。
「小夜。ただいま」
 口を開けば、言葉は自ずと零れ落ちた。目を細めて囁いて、歌仙兼定は骨張っている華奢な背中を撫でさすった。
 小夜左文字の指先がピクリと跳ねたのは、そんな時だった。
 男の手は細い腰を、背を、後頭部やうなじをひっきりなしに撫でて回った。頬を擦り合わせ、寝癖が酷い頭髪を梳き、嬉しそうに顔を綻ばせた。
 その微熱に総毛立って、小夜左文字は真ん丸い目を零れ落ちんばかりに見開いた。
 何が起きているのか、まるで理解出来なかった。
 獅子王を布団に運んで、その後の記憶は残っていなかった。そのまま眠ってしまったのは辛うじて把握出来たが、今なぜ歌仙兼定に抱きしめられているのかだけは、どうやっても分からなかった。
 しかも愛おしげに頬を撫でられ、身体のあちこちを触られていた。苦しくない程度に力加減されて、膝に座らされていた。
 捲れあがった寝間着の裾から太腿が、かなり際どいところまで覗いていた。跨る脚は丸太のように太く、逞しい腕は獅子王のそれとはまた違っていた。
「小夜、遅くなってすまない」
 歌仙兼定は腕の中の存在が硬直しているとも知らず、夢見心地に囁いた――背骨の隆起を上から下へ辿って、後悔を滲ませながら、低い声で。
 その吐息が左耳を掠めた。一部が耳殻の隙間から潜り込み、直接小夜左文字の脳を擽った。
「――っ!」
 刹那、背を震わせた小夜左文字が右手を高く跳ね上げた。
 男のから己を引き剥がし、勢い良く、一直線に腕を振り下ろす。
「い……っ」
 バリッ、と良い音が響いた。立てた爪で思い切り皮膚を抉られて、あまりの痛みに歌仙兼定は畳の上で仰け反った。
 もんどりうって倒れ、綺麗に三本並んで走った赤い筋を両手で庇う。一方で束縛から抜け出した少年は跳ねて後退し、肩で息をして唇を噛み締めた。
 鼻を愚図つかせ、左耳を押さえこんで。
「く……首落ちて、死ね!」
 最近本丸にやって来た打刀の口癖を諳んじて、小夜左文字は一目散に部屋を飛び出して行った。
 ばたばたと足音を轟かせ、障子戸も開けっ放しにして逃げていく。
 痛みと台詞の衝撃に呆然として、歌仙兼定は隙間風に熱を溶かした。
「はい?」
 惚けたまま、目をパチパチさせる。
 甘えて来たかと思えば酷い仕打ちに愕然として、男は後ろからの物音に振り返った。
「ん、ん~~……?」
 見れば獅子王が仰向けから四つん這いになり、布団から抜け出そうとしていた。眠そうに目を擦って、大きな欠伸を右手で隠した。
「んぁ、あれ。どこだ、ここ」
 未だ完全に目覚めていないのか、不思議そうに辺りをきょろきょろ見回す。顎には涎の痕が残り、瞼は半分閉じていた。
 そもそもどうして、彼は此処に居るのか。
 何も分からない状況で、歌仙兼定は訳もなく泣きたくなった。
「獅子王。君は、小夜といったい、どういう関係なんだ」
「は?」
 不躾ながら直球過ぎる質問は、寝起きの青年には通じなかった。
 事情を知る小夜左文字は真っ赤になって逃げ出して、この場にはもう居ない。
 結局すべての疑問が解かれたのは、丸一日が経ってからだった。

2015/04/26 脱稿

Aroma

 スパイスの香しい匂いが、どこからともなく漂っていた。
 魅力的すぎる芳香に嗅覚が刺激され、自然と咥内に唾が湧いた。音を立てて飲み込めば、今度は胃袋がくぅぅ、と憐みを誘う音を響かせた。
 時計を見れば、午前十一時五十分といったところ。あと少しで正午になって、もれなく楽しいランチタイムの始まりだった。
 きっとこの匂いは、本日の昼食だ。
 となれば、メニューはあれしか考えられない。堪え切れず喉を鳴らして、スマイルはスキップしながら廊下を駆けた。
「カレー、カレー。カレーだネ」
 大好物を声に出し、リズムを取りながら階段を下りる。途中からは面倒になって、緩いカーブを描く手摺りを滑り台代わりにし、一階正面玄関ホールへと見事な着地を果たす。
 誰もいないというのに両手を掲げてポーズを決めて、包帯で全身グルグル巻きにした透明人間は白い歯を見せた。
 ひとり悦に入って高らかと笑い、そのままくるりと回って仰々しく御辞儀をする。まるでダンスを誘うかのような動きだったが、当然ながらペアを組む相手はいなかった。
 誰に申し込んだかといえば、台所で料理されている食材に、だろうか。
 鍋の中でぐつぐつ煮られている野菜や香辛料を思い浮かべ、彼は早く食べたいと身をくねらせた。
 青い髪を躍らせ、隻眼を細める。季節に合わせたラフな服装から覗く手足は、その特性の所為もあり、真っ白い包帯に覆われていた。
「先に洗った方がいいかナ~?」
 そんな布まみれの両手をふと見やって、スマイルは自分に向かって首を傾げた。
 食事前は手を洗え、と散々言われているけれど、彼の場合、水を使おうと思えば包帯を外さなければならない。そうして洗った後に巻き直すのは、本末転倒甚だしかった。
 かと言って巻かず、透明化した手で食器を握れば、空中浮遊しているようで気持ちが悪いと文句を言われた。
 同居人は我儘だ。暴君極まりない吸血鬼を思い浮かべ、彼はせっせと働く料理人にも相好を崩した。
 香りがきつい物は苦手な癖に、頑張ってカレーを作ってくれている。
 少し労ってやることにして、彼は玉ねぎ、そしてニンニク抜きカレーが作られているだろう台所へと歩き出した。
 手を洗う云々は脇に置き、無駄に広すぎるリビングの戸を開ける。窓が解放された空間ではカーテンが揺れており、心地よい風が吹き込んでいた。
 少し行けば不気味な谷が広がっている場所だが、この城の周辺だけは、意外に快適だ。それもこれも城主様のお陰だと肩を竦めて、スマイルは不必要に縦長のテーブル脇をすり抜けた。
 キッチンはこの奥だ。リビングとの区切りがないダイニングを横断し、心持ち早足で一直線に突き進む。
「ヤッホー」
 そうして閉まっていた扉を勢いよく開ければ、スマイルを魅了して止まない、蠱惑的な香りが一気に爆発した。
 まるで香辛料の海に落とされた気分だった。
 堪らない香りに心を震わせ、己自身を抱きしめる。感動で涙まで出そうになって、スマイルは背伸びをしながら四肢を震わせた。
「ああ、スマイルっスか」
 一方で台所の主たる男は、実に淡々としていた。
 一度振り返っただけですぐに視線を戻し、コンロに置いた鍋に意識を集中させる。木べらを持つ手はひっきりなしに動いて、香りの元凶を掻き混ぜていた。
 忙しく動き回る腕は細いながらも筋肉質で、揺れ方はドラムでリズムを取る動きに似ていた。彼もまた音楽人なのだと変なところで感心して、スマイルはふらふらと、右に、左に進路を変えながら短い距離を詰めていった。
 千鳥足でもないのに蛇行しながら、そわそわ落ち着きなく、アッシュの背後に着く。耳も鼻も良い狼男は苦笑して、指を咥えて待っている男に視線を投げた。
「もう少しかかるっスから、テレビでも見て、待っててくださいっス」
「エー」
 コンロとは反対側に置かれた炊飯器も、白い湯気を噴いていた。間もなく炊き上がる合図で、昼食が始まるまでそれほどかからないと教えてくれた。
 けれどスマイルは不満そうに口を尖らせ、子供でもないのに頬を膨らませた。
 年齢不詳ながらも、既に数百年生きている男が、だ。
 随分と可愛らしい拗ね方に、苦笑を禁じ得ない。アッシュはやれやれと肩を竦め、コンロの火を弱くした。
 焦げ付かないよう火力を小さくして、けれど鍋を混ぜる手は緩めない。
 忙しない動きに目を眇めて、スマイルは逞しい背中に張り付いた。
「うひっ」
「あれ。なんだかチガウ」
 脇腹を左右から挟み持ち、それを支えに身を乗り出す。
 いきなり背後から抱きつかれた方は変な声を上げ、両手両足を引き攣らせた。
 もれなく鍋から木べらが浮いて、先端に張り付いていたひき肉が零れ落ちた。ボロボロと呆気なく崩れていく塊はどれも小さくて、スマイルが良く知るカレーとは明らかに違っていた。
 食卓に並ぶカレーは、もっと汁気が多い。肉だって四角いブロックで、ジャガイモやニンジンも大きかった。
「なにコレ」
「吃驚するじゃないっスか、スマイル」
「アッシュ君。これナニ?」
 あと少しで鍋に手を突っ込むか、突き飛ばすところだった。
 急に触られた抗議に脂汗を流したアッシュだったが、肝心のスマイルは鍋の中身に夢中で、反省の色は皆無だった。
 人の話を全く聞いていない。
 究極のマイペースぶりに絶句して、狼男は深々とため息を吐いた。
「カレーっス」
「ウソだあ」
「本当っスよ。初めて作るっスけど」
 落胆しつつ呟くが、スマイルは信じない。隻眼を真ん丸にして言われて、アッシュは鍋の持ち手を軽く小突いた。
 傍にはレシピ本が置かれていた。勝手に閉じないようクリップされたページには、確かにカレーの文字が躍っていた。
「ドライカレー……」
「っス」
 アッシュにしがみついたまま、スマイルはそちらに首を伸ばした。狭い視界で懸命に目を凝らして、細かい調理工程と、書き足されている覚えのある文字の両方に視線を走らせた。
 狼男も、吸血鬼も食べられるものにアレンジしようと、あれこれ頭を捻ったらしい。
 苦難の形跡が垣間見えて、彼は緩慢に頷いた。
「で?」
「……で。とは」
「美味しいノ?」
「さっ、さあ……?」
 その上で、訊ねる。
 鈍い男に言い直せば、アッシュは目を泳がせて遠くを見た。
 初めて作るものだから、味に自信がないらしい。玉ねぎの代わりにセロリを入れてみたり、大幅にアレンジしているのもあって、完成品の味は想像出来ていないようだった。
 目を逸らしたまま手だけを動かす狼男に、スマイルはまたもやぶすっ、と頬を膨らませた。
「不味かったら、許さないヨ」
 ドライカレーは、文字通り水分を少なくしたカレーだ。長く煮込み、味を馴染ませたものとは違う。
 似たようなものばかりだと飽きが来るので、たまには冒険しようと試みた。
 だがスマイルはお気に召さなかったようで、不満そうな表情は直らなかった。
 脅されて、アッシュは顔を引き攣らせた。
「が、がんばる……っス」
 もっともあと少し水気を飛ばせば、カレーは完成する。
 ここからどう頑張れば良いか分からないまま返事をして、彼は疲れた様子で肩を落とした。
 コンロの火を更に弱め、木べらに残っていたひき肉を落としてスプーンに持ち替える。
 中身をほんの少し掬って味を確かめようとした彼は、ふと、突き刺さる視線を感じて眉を顰めた。
 元から細い目をもっと細くして、斜め下に顔を向ける。
 いつの間にかしゃがみ込んだスマイルが、涎を垂らして一点を見詰めていた。
 眼差しの先にあるのは、アッシュが手に持つ銀色のスプーン。
 たったひと匙ではあるけれど、食欲をそそるスパイスの香りが立ち上っており、匂いだけで腹が膨れそうだった。
 なんだかんだ言いつつも、興味があるらしい。
 試しにスプーンを左に泳がせてみれば、スマイルの首も、もれなくそちらに傾いた。
 くっついて、離れない。まるで見えない糸で繋がっているかのようで、面白かった。
「アッシュ君?」
「……ひとくちだけっスよ?」
 そのうち、スマイルも遊ばれているのを自覚した。
 不満たらたらに名前を呼ばれて、狼男は照れ笑いで誤魔化した。
 味見役は、譲るしかあるまい。からかった詫びも込めてスプーンを差し出せば、スマイルは背筋を伸ばして素早く立ち上がった。
 てっきり、銀の匙ごと攫って行くものと思っていた。
 けれど彼はアッシュの前で笑顔を浮かべると、片方だけの目を閉じて、入れ替わりに口を開いた。
「あー」
 歯医者に行った時、丁度こんな感じになる。
 綺麗な歯並びと暗がりから覗く赤い舌にゾワリとして、アッシュは発作的に右手を前に突き出した。
「んグ」
「っは。大丈夫っスか」
 勢いよくやり過ぎた。
 スマイルの呻く声が聞こえて我に返って、彼は慌てて手を引っ込めた。
 しかし思わぬ抵抗を受けた。スプーンを引き抜こうとしたが思うように進まず、逆にぐいぐい引っ張られた。
 口を真一文字に引き結び、スマイルが青い顔を赤くする。
 力が緩んだのはその数秒後で、勢い余ったアッシュはもう少しで倒れるところだった。
 スプーンが飛んでいきそうになった。すんでのところで掴み直して、彼は呑気にもぐもぐやっている男に引き攣り笑いを浮かべた。
「ど、う……っスか?」
 恐る恐る問いかけられて、スマイルは静かに目を閉じ、意識を集中させた。
 細かく切り刻んだ野菜とひき肉が混じり合い、そこにスパイスが絶妙な加減で豊かな香りを放っていた。噛めば噛むほど深い味わいが広がって、それぞれ異なる食感が楽しかった。
 鼻を抜ける香りが心地良く、変化が楽しい。もう少し辛い方が好みではあるけれど、甘党のアッシュが作るものは大体こうだから、文句はなかった。
「ンー……」
 瞑目し、唇をぺろりと舐める。言葉を探して沈黙して、ドキドキしながら待っている男をこっそり窺い見る。
 アッシュは折れそうなくらいにスプーンを握りしめて、神妙な顔をして息を潜めていた。
 彼が作るもので、今まで不味かったものなど、ありはしないのに。
 相変わらず自信が足りないと喉の奥で笑って、スマイルは屈託なく微笑んだ。
「えっと、ネ」
「いけそうっスか」
 首を右に傾けて、感想を述べようと口を開く。
 だがそれより早く、せっかちな男が鼻息荒く捲し立てた。
 一分もかからないのだから、待てばいいのに。
 その辺りも相変わらずだと苦笑して、スマイルは弱火で煮られている鍋と、狼男を見比べた。
「えーっと、スマイル?」
 それで思い出したのか、彼は慌てて火を消した。鍋の底に張り付くカレーを再度木べらで掻き混ぜて、なかなか語ろうとしない透明人間を訝しむ。
 不安げな大男に口角を歪め、スマイルはシシシ、と白い歯を見せた。
「よく分かんなかったカラ、もうひと口」
「うっ、ふ」
 じっくり味わって食べたくせに、ぬけぬけと言い放つ。
 アッシュは堪らずガクリと膝を折り、なんとも図々しいバンド仲間にかぶりを振った。
「スマイルに味見してもらうと、全部食べられちゃうっスね」
「そんなことナイヨー?」
 鍋の中身は、丁度三人分。
 ここで量を減らす真似は、出来るものなら避けたかった。
 本人は否定したが、絶対に起こらないとは言い切れない。つまみ食いが得意な透明人間を一瞥して、アッシュは軽く悩み、鍋の持ち手を叩いた。
 全身でリズムを刻み、最後にフットペダルを踏むかのように床を蹴って、肩を竦める。
「あとひと口だけっスからね?」
 味の感想がまだ聞けていないのを思い出し、渋々承諾する。
 念を押した大甘の彼に相好を崩し、スマイルは深く頷いた。
 そうして再度、大きく口を開く。
 アッシュが匙で掬って、運んでくれると疑うことなく信じている。
 それはさながら餌を待つ雛鳥で、これはこれで悪くないと、アッシュは目尻を下げた。

2015/05/16 脱稿

一斤染

 その桜は、学校や川縁に植えられている桜とは種類が違っていた。
 春になると一斉に花を咲かせるソメイヨシノは、もうとっくに散ってしまった。四月の頭、入学式が終わって暫くは頑張っていたけれど、冷たい雨に数日晒されたのと、風が強く吹いた所為で、その大半は葉桜へと移行していた。
 少し前まで路上には花びらが溢れ、車が走り抜ける度に巻き上げられていた。
 それはとても美しい光景だった。しかしタイヤや、靴底に踏み潰された花弁は次第に茶色く変色して、やがて側溝を詰まらせる原因と化した。
 そうなると、最早ただの邪魔なゴミでしかない。
 花の盛りは一瞬で、人心の移ろいは早い。
 登校前のランニングで通っていた道の桜も、花は殆ど残っていなかった。薄紅色の嵐の中を駆け抜けたのは三日ほどで、夜が明け切らない時間の儚い美しさも、記憶の中から徐々に薄れようとしていた。
 そんな時だ。
 見慣れない形に咲く花を見つけたのは。
 大きくて、まるで毬のようだった。花弁は何重にも重なって、膨らんで、ボリュームがあり、逆に言えば重そうだった。
 だからか、茶色い枝から垂れる花はどれも下を向いていた。お陰で観賞しやすいけれど、雰囲気が違い過ぎて、最初はそれが桜だと分からなかった。
「おっと」
 気が付いたのは、風に散らされた花びらを拾ってから。
 黒髪に絡みついた薄い花弁を手に取れば、色といい、形といい、良く知る桜そのものだった。
 根元が僅かに薄く、先端に向かって仄かに色が濃くなっていく。
 自然が生み出した可憐なグラデーションに目を見張って、影山飛雄は天を仰いだ。
「相変わらず、すげえな」
 その木は河川敷から離れた、あまり目立たないところに植えられていた。
 地元の神社の、本殿の裏。秋になれば紅葉が素晴らしく、近所の人が一斉に押しかけるその場所は、この季節はひっそり静まり返っていた。
 たった一本だけだったけれど、それは堂々とした佇まいを見せていた。外見で樹齢が分かるほど詳しいわけではないけれど、恐らくは百年以上、ここに根を下ろしているに違いなかった。
 見つけたのは偶然だ。
 中学時代より走る距離を伸ばし、コースを変えたことで出会えた奇跡だった。
 西の空が白み始め、太陽が地平線から顔を出す。地表を照らす光は未だ弱く、藍色を背負った桜はどこか現実味に欠けていた。
 絵画から飛び出して来たかのようだ。
 感嘆の息を漏らし、影山は太い根を避けて幹に近付いた。
 美術の点数は散々だが、この光景は歴史に残されるべきだと思う。感慨深く息を吐いて、彼はゴツゴツした樹皮に手を伸ばした。
 まだ明け方も早い時間帯だからか、表面は冷たかった。サッとひと撫でしただけで体温を一部持って行かれ、馴染みの薄い感覚が指先に残された。
 別段汚れたわけではない。掌を返して不思議そうに見つめて、影山は風で揺れる枝と、降り注がれる花びらに目を細めた。
「なんでコイツだけ、違うんだろ」
 それが八重桜と呼ばれるものだとは知らぬまま、影山は紅色が天を埋める様に見入った。
 もっと目立つ場所に植えられていれば、道を行く人だって多く気付くだろうに。
 鳥居を潜って境内を抜けて、拝殿で手を合わせて帰るだけだと、この桜は視界に入らない。
 影山も知らなかった。ジョギングコースに加えられるかと境内を調べていた時に、偶々目に飛び込んで来なければ、今も素通りしていたに違いない。
 日増しに蕾が膨らんでいく様は圧巻で、満開となった時期は暫くその場から動けなかった。
 それで時間を食ってしまって、危うく部活動に遅刻するところだった。
 朝七時からの早朝練習は、一位争いが苛烈だった。
 日の出前に置き出して、軽く胃に食べ物を入れて、家の近所をジョギングして。家に戻った後は着替えて、朝食をしっかり食べて、学校へ行く。
 練習が始まるのは朝七時から。
 但し影山にはライバルがいて、彼と毎朝、どちらが先に第二体育館に入るかで競い合っていた。
 自転車通学している日向には、負けたくない。
 彼が朝、三十分かけて山越えしてくるというのなら、影山はそれ以上の距離を走ってみせる。
 誰かに比較されたからやっているのではない。
 単純に、男の意地の問題だった。
 理由は良く分からないが、彼より劣るところを持ちたくなかった。正門から体育館までの徒競走はいつだって全力で、練習が始まる前から疲れてどうする、と周囲には呆れられていた。
 それでも止める気はないし、終わりそうな雰囲気もなかった。
 日向はいつだって、歯向かってくる。
 誰もが勝ち目はないと思っている状態でも、絶対に諦めたり、折れたりしない。最後まで心を強く保ち、真っ直ぐ、脇目も振らずに突っ走っていた。
 その無謀なまでの一途さが、時々、羨ましかった。
「すげえ、綺麗だ」
 満開を迎えて、花は徐々に散り始めていた。
 昨日よりも、空を舞う花弁の量が多い。足元も落ちた花びらで埋まっており、風が吹く度に巻き上げられていた。
 掌を上にして掲げれば、そこに花びらがするりと滑り込んだ。しかし掴み取る前に通り過ぎられて、握ったのは空気だけだった。
 舞い踊る花弁を捕まえるのは、思った以上に難しい。
 簡単だと高を括っていた影山は目を丸くして、空っぽの両手を何度も握り、開いた。
「よっ、と」
 散る花の美しさを一旦脇に置き、右手を宙に突き出す。しかし今度も失敗で、勢い勇んで広げた掌には、何も乗っていなかった。
 また掴み損ねた。
 ひらひらと踊りながら散る花は、軽い所為か、風の影響を受けやすかった。
 手を伸ばせば、その圧力さえも花弁の軌道を変える材料となり、目標を見失わせる要因となっていた。
 かと言ってじっとして、降ってくるのを待つのは面倒だ。
 短気な性格に歯軋りして、影山はなかなか巧く行かないと小鼻を膨らませた。
 こうなれば、成功するまで試してやりたい。
 時間がそれほどあるわけでもないのに息巻いて、彼は樹下で地団太を踏んだ。
 花びらを掴みとれたところで、何かが変わるわけでもないというのに。
「くっそ。そりゃ!」
 誰も居ない神社の裏で、朝早くからひとり息巻く。勇ましい掛け声を響かせて、その都度落胆の息を吐いて頭を掻きむしる。
 他人が見たら、不審者がいると通報しそうなレベルだ。けれど当人は気付かず、躍起になって散る桜に拳を叩き付けた。
 そのうち、バレーボール選手でありながら、何故かボクシングのようになった。素早くパンチを繰りして、落下のコースを先読みして跳ね飛ばす技術に磨きをかけた。
 誰にも自慢出来ない特技を習得し、得意になって胸を張る。
「ふっ」
 勝ち誇った笑みを浮かべて口角を持ち上げた矢先、桜に無体を働いたのを責めるかのように、強い風が吹き荒れた。
「うおっ」
 足元から突風が吹き抜け、四方に広がる枝が一斉に戦慄いた。
 咄嗟に首を竦めて頭を抱え込んで、影山はびゅうびゅう鳴る旋風から己を守った。
 乾いた地面から埃が舞い上がり、飛ばされた小石がジョギングシューズの側面を叩いた。ジャージから覗く足首にも当たって小さな痛みが走り、彼は深く息を吐いて姿勢を正した。
 煽られた黒髪が一部、あらぬ方角を向いていた。目で見えなくても感覚で察知して、彼は乱れた頭を手櫛で整えた。
 艶を帯びた髪は癖もなく、数回梳くだけで真っ直ぐに戻った。瞳に入りそうになった毛先は脇へ払い除けて、影山は深呼吸を二度、三度と繰り返した。
「……すげ」
 そうして何気なく見た上空に驚嘆し、息を呑んだ。
 今の突風で攫われた花びらが、雨となって地上に降り注がれていた。
 先ほどの比ではなかった。これなら楽勝で捕まえられそうだったが、そのことも忘れ、彼は初めて見る光景に総毛立った。
 桜の花ひとつで大騒ぎして、狭い場所に大挙して押し寄せるのが、影山には理解不能だった。
 だから花見も、したことがなかった。
 小学生の頃に、親に連れられていった記憶はある。しかし観光地だったので人が多すぎて、花を見るどころではなかった。行き帰りの道も混んでいて、渋滞が酷く、無駄に疲れただけだった。
 中学に上がった後はバレーボール一辺倒で、家族で遊びに行く機会は減った。チームメイトから祭に誘われる事もなくて、クラスメイトが花見をした云々と喋っているのを、教室の隅で聞いて満足していた。
 桜に触れる機会があるとすれば、ジョギングの時だけ。
 もっともそれだって、満開の花のトンネルを潜る目的ではなく、いつものコースが偶然桜並木だっただけだ。
 綺麗だけれど、そこまで夢中にさせられるものではない。
 ずっと、そういうスタンスだった。
 それでいいと思っていたし、これからもそのつもりでいた。
「マジで、すげえな」
 だというのに、訂正しなければいけなくなった。
 他に語彙がないのかと笑われそうな感想を述べて、影山は風に巻き上げられた花びらに見入った。
 蝶が躍っているようだった。
 これまでにも河川敷を走っている時、花の嵐に見舞われた事はあった。けれど今日は足を止め、しかも樹齢を重ねた巨木の根本に佇んでいるからか、その迫力は並のものではなかった。
 感嘆の息を吐き、どうせ来ないだろうと思って何気なく手を伸ばす。
 すると緩く曲げた指の隙間から、ひらりと花弁が滑り込んできた。
 そのまま行き過ぎていくかと思いきや、手首に至る手前で失速した。人間には感じ取れない程度で弱風が吹いたのか、押し戻されて掌の皺の上に落ちた。
 ふわふわと揺れながら、やがて勢いを失って完全に停止する。
 反射的に握りしめて、影山は興奮に胸を高鳴らせた。
 訳もなく鼓動が早まり、頬が紅潮した。宝物を見つけたような気分になって、年甲斐もなくワクワクが止まらなかった。
「アイツに、自慢してやろうか」
 ふとそんな事を思って、彼は生意気なチームメイトに口角を持ち上げた。
 不敵に笑い、脳裏に幼い顔を呼び起こす。身長百六十センチ少々のミドルブロッカーはいつも元気で、明るく、ハチャメチャで、驚くほど前向きだった。
 どんな絶望的な状況でも俯かず、勝利を信じて疑わなかった。一心に、ひたむきにボールを追い続け、譲らなかった。
 その純粋さが眩しかった。
 自分と同じくらい、いや、それ以上にバレーボールが好きな奴に出会えたのは、幸運だった。
 もし彼が北川第一中学にいたら、何かが違っていただろうか。
 ありもしない事を想像して、珍しく感傷的になって、影山は利き手を開いた。
「……うげ」
 そこにあったのは、可憐な桜の花びらではなかった。
 熱を吸い、汗に濡れ、丸まって潰れてしまった残骸だった。
 非常に薄く、小さいものだから、もっと丁寧に扱わないといけなかった。こんなにも繊細で、脆いものだったとは知らなくて、彼は愕然としながら筒状に形を変えた花を小突いた。
 柔らかい。が、押した分だけ一段と形が崩れ、頑張って広げてみたが、見事に皺くちゃで、ボロボロだった。
 爪の痕が茶色く変色し、見る影もなかった。これでは持っていても仕方がないと肩を落とし、彼は仕方なくその花びらを地上に還した。
 折角自ら飛び込んできてくれたのに、申し訳ないことをした。
 犬猫にも嫌われて、近付こうとしたら威嚇される。ちょっとくらい撫でさせてくれてもいいのに、願いが叶った例は一度もなかった。
 まさか桜にまで嫌われようとは、夢にも思わなかった。
「そろそろ、行かねーと」
 落胆にかぶりを振り、気を取り直して呟く。
 名残惜しいが、ゆっくり出来る時間は終わった。早く家に戻らないと、朝食を摂る時間がどんどん減って行く。
 それはつまり、部の早朝練習に出遅れる、という事だ。
 昨日は日向に一杯喰わされたので、今日は負けられない。二連敗などという不名誉は、是が非でも避けたかった。
 季節の移り変わりを体感して、今一度桜の大木を仰ぎ見る。
 天辺は見えず、桜の笠を被っているようだった。
「見せてやりてえな」
 ここは、影山の秘密の場所だ。
 来年も、忘れずに通いたい。誰にも教えず、伝えず、ひとり静かに過ごす場所にしたかった。
 けれど、もし、ひとりだけ連れてくるとしたら。
 こういう時、好きな女子を思い浮かべるものなのだろう。しかしずっと排球に熱を上げていた影山には、そんな相手はいなかった。
 代わりに思い浮かんだのは、中学三年時の大会初戦で対戦し、この四月に期せずして再会を果たした相手だった。
 毎日、取っ組み合いまではいかないけれど、喧嘩が絶えなかった。
 文句を言えば言い返して来るし、睨めば睨み返してくる。怯えた顔で視線を外す、嘗てのチームメイトとは大違いだった。
 日向はいつだって、真正面からぶつかって来た。逃げたりしない。臆しもしない。
 簡単には諦めない。
 困難を楽しみ、逆境をチャンスに作り替える力があった。
 彼のバイタリティーに憧れた。羨ましかった。
 もっと早く出会いたかった。
 ない物ねだりと分かっていても、願わずにはいられなかった。
 この木を見たら、日向は何というだろう。驚くだろうか。歓声を上げるだろうか。
 満開の桜の下で、花びらのシャワーを浴びて。
 日向が笑う。
 嬉しそうに笑っている。
 それが見たいと、何故か思った。
「連れて、きてえな」
 散る花は、今日がピークだろうか。天気予報では、明日から雨が降り始めると言っていた。
 日向の家は影山の暮らす町とは逆方向で、しかも峠をひとつ越えなければいけない。朝早くから呼び出して、連れてくるのは難しかった。
 夜は灯りがないので危険だし、暗いと花も良く見えない。
 昼間に学校を抜け出す選択肢はないし、放課後の練習をサボる、というのはもっと有り得なかった。
 どう考えても、打つ手なし。
 一年待つか、諦めるしかない。がっくり肩を落とし、影山は視界に紛れ込んだ桜色を追い払った。
 前髪に花びらが引っかかっていた。
 もしかしたら後頭部や、服にまで張り付いているかもしれなかった。
「……ああ、そうか」
 妙案が浮かんだ。
 ぽつりと呟き、影山はジャージのファスナーを下げた。上着を脱ぎ、薄手のTシャツ一枚になって、白色のウェアを手に広げた。
 その日。
 朝、六時三十分。
 いつも通り早めに学校に到着した日向翔陽は、正門近くに知った顔がないのを確かめて、嬉しいような、少し残念な気持ちになった。
「ちぇ。なーんだ。またおれの勝ちか」
 自転車を駐輪場に置き、荷物で満杯の鞄を肩からぶら下げて道を急ぐ。
 緩やかな坂を登った先にある烏野高校は、小学生の頃から憧れの場所だった。そこに今年の春から通えるようになって、彼の毎日はそれこそバラ色に染まっていた。
 もっとも、場所によっては害虫が出るし、色の悪い花びらだってある。
 その筆頭株を思い浮かべて、日向は荒々しく地面を蹴り飛ばした。
「ったく、さー。あんな古典的な罠に引っかかる方が、馬鹿だってのにさ」
 昨日は、ギリギリの勝利だった。
 朝練前の登校時、彼はいつも影山と競争になった。始まりは些細なやり取りで、距離だってもっと短かった。しかしいつの間にか毎朝の恒例行事となり、正門から体育館前までと、コースも大幅に変わっていた。
 勝率は、ほぼ五分と五分。
 ただ若干、影山の方が勝ちが先行していた。
 一度差が開くと、そのままずるずる行きかねない。そうはなりたくなくて、昨日はちょっと、狡い手を使った。
 走っている途中であらぬ方向を指差して、「あっ!」と大声で叫んだ。
 勿論何もなかったのだが、驚いた影山は余所に気を取られ、足が緩んだ。その隙に日向は彼を追い抜いて、勝利をもぎ取った。
 卑怯な手を使ったと散々責められたが、幼稚な策にまんまと嵌った影山だって、悪い。
 絶対に負けを認めないと言い張る影山は頑固で、救いのない馬鹿だった。
 もっとも、日向だって本当は分かっている。
 いつもは勝ったら嬉しいのに、昨日は全然、喜べなかった。
「ちぇ」
 小石を踏み潰し、誰も居ない学校に口を尖らせる。
 ここの所ほぼ毎日、影山と騒動を引き起こしていた。だから静かすぎるこの時間は何故か不安で、不満でならなかった。
 一日の楽しみが削り取られたようで、面白くない。頬を膨らませて息を吐いて、彼は足を高く蹴り上げた。
 どうして影山は来ないのか。
 考えて、日向は後ろを振り返った。
 朝寝坊でもしたのだろうか。それとも、登校途中でなにかあったのか。
「……まさか」
 嫌な想像をして、瞬時に否定する。しかし一度抱いた懸念は、簡単には払拭出来なかった。
 胸の奥にざらりとした感触が広がって、視界が一瞬暗くなった。ふらついて倒れそうになったのをすんでで堪え、日向は無理に笑おうとして失敗した。
 頬が引き攣り、変な顔になった。
 人が見たら笑われそうな表情を作って、彼は二秒後、ぐっと奥歯を噛み締めた。
「ないない。影山なんか、殺したって死なないって」
 交通事故で車にはねられても、ぴんぴんしていそうだ。
 実際、彼の頑丈さはお墨付きだ。日向も大概な方だが、彼も相当なものだった。
 だから、絶対に大丈夫。
 声には出さずに己を鼓舞して、改めて体育館を目指すべく、姿勢を正す。
 身体の向きを反転させて右足を浮かせたところで、ふと、地鳴りを感じた。
「うん?」
 まさか地震か、と思ったが、そうではない。
 徐々に近づいてくる振動に首筋を冷たくして、日向はヒヤッと来た空気に背筋を粟立てた。
 恐々振り返った彼の視界に。
 土煙を巻き上げて、一直線に走ってくる男の姿があった。
「うぉぉぉぉぉ待てやぁぁぁぁぁ!」
「ひぎゃっ」
 他でもない、影山だ。血走った目を爛々と輝かせて、獲物を見つけた肉食獣の笑顔を浮かべ、猛スピードで近付いて来ていた。
 その勢いは、凄まじい。
 オリンピック金メダリストも真っ青の速度で地を駆ける彼に、流石の日向も思わず総毛立った。
 潰れたカエルのような悲鳴を上げ、急ぎ逃げようと地面を蹴る。しかし慌て過ぎたのか、スニーカーの底が砂の上を滑った。
「ひぃぃぃ!」
 それでもなんとか踏み止まって、エンジンを吹かしてスピードを上げる。ただ完全に油断していたのと、スタートダッシュに失敗した事で、脚は思うように回らなかった。
 必死になればなるほど空回りして、影山との距離がどんどん狭まっていく。
 焦る日向の背中では、黒のジャージの下に着た、パーカーのフードが躍っていた。
 通学時間帯はまだ寒いから、厚着して登校するのが基本だった。
 練習着は鞄の中で、着替えには一分もかからない。きちんと畳むよう、主将から毎回注意されるけれど、そんな僅かな時間でさえ惜しかった。
 缶バッジを沢山取り付けた鞄も大きく弾んで、肩よりも高く跳ねた。
 ぽーん、と舞い上がり、天地がひっくり返る。中身が飛び出る恐怖に負けて、右手が宙に浮くそれを掴み、脇腹へと抱え込む。
 結果的に、それが命取りだった。
「待てつってんだろ、ごるぁ!」
「ぎゃあああっ」
 余計な動きをした所為で、速度が落ちた。影山の怒号が真後ろから轟いて、恐怖に心臓が縮こまった。
 全身に鳥肌が立ち、喉が詰まった。但しそれは精神的な原因から来るものではなく、本当に、物理的に首が絞まっていた。
「ぎゅぇ」
 舌を出し、白目を剥く。なんとパーカーの襟が肉に食い込んで、喉を圧迫していた。
 影山の手が、フードを掴んでいた。後ろから手を伸ばして、引っ張るには丁度いいアイテムだったらしい。己の選択ミスを悟って顔を赤くして、日向は左手で喉を掻き毟った。
 食い込む布を緩め、気道を確保しようと足掻く。だが影山は気付いていないのか、力を弱めようとしなかった。 
 それどころか逆に、フードを真下へと突き落とした。
「ぎゃ」
 ボス、と拳を叩きこまれた。膝がカクリと折れ曲がり、尻が踵よりも後ろに傾いた。
 重心を崩され、立っていられない。両手を首に添えたまま口をパクパクさせて、日向は青空と白い雲のコントラストに涙を流した。
 よもや人生最後に見る光景が、これになろうとは。
 笑顔で送り出してくれた母を思い浮かべて目を瞑って、二秒後。
「おらよ」
「わっ、ぷ」
 唐突に、影山が掴んだフードを日向に被せた。
 視界が暗くなった。同時に喉の圧迫も解除されて、乱暴な手も離れていった。
 酸素不足に陥った脳は、目まぐるしい状況の変化に対応出来なかった。バクバク言う心臓と止まらない汗もあり、日向は目を白黒させた。
 いったい今の、三十秒にも満たない僅かな時間に何が起きたのか。
 全く分からなくて、彼は視界を塞ぐフードと、押し潰されていた前髪を、額の高さまで持ち上げた。
「ん?」
 影山は何も言わず、すたすたと歩きだしていた。
 ペースを極端に落とし、もう走ってはいかない。両手はズボンの中で、黒字に白抜きで記されたアルファベットを自慢していた。
 昨日の仕返しのつもりか。
 力技で人の足を止めた男に首を傾げて、日向は視界を過ぎった、此処に在るはずのないものに眉を顰めた。
 ひらりと舞い落ちたそれは、小さく切り刻まれた紙屑のようだった。
「ちがう」
 けれど良く見れば、それは皆同じ形をしていた。色は淡い桃色で、非常に薄く、風に攫われるほど軽かった。
 宙に舞ったそれを追いかけ、良く確かめようと手を伸ばす。
 瞬間、強めに吹いた風がパーカーのフードを攫った。
「うわっ」
 視界が一気に開けて、空が明るさを取り戻した。耳元でぶわっ、と空気が渦を巻き、押し出された何かが旋回しながら天高く駆け上がった。
 薄紅色の花弁が巨大な花を咲かせ、直後に日向を巻き込んで後方へと奔った。満開の桜は一瞬で掻き消え、幻を追いかけて視線を向けた先にはなにも残らなかった。
「なに、今の」
 茫然と呟き、目を見張る。
 カクリと落ちた肩から鞄の紐が滑って、肘に引っかかって止まった。
 惚けた顔で立ち尽くし、日向は前髪に絡みついていた花弁を払い落とした。
 桜だった。
 平地では既に終わった桜が、何故か彼の頭上で満開になった。
 瞬き一回分の奇跡だった。信じ難い出来事に目をぱちくりさせて、右足を退いて姿勢を戻せば、五メートルほど先に見知った顔があった。
「あっ」
 目が合った、と思ったら、影山は仏頂面を背けた。心持ち顔を赤くして、口を尖らせ、先ほどより若干早足で歩き始めた。
 手品のネタを仕込んでいったのは、彼以外に考えられない。
 喉元に残る薄い痣をなぞって、日向は粋な計らいに頬を緩めた。
「影山、すげーな。むちゃくちゃ綺麗だったぞ!」
 今年は色々あって、ゆっくり桜を見に行けなかった。毎年のように友人らと出掛けていたのに、部活動が忙しく、その余裕が持てなかった。
 そうこうしているうちに全部散ってしまって、悲しかった。山の上の方はまだ蕾だけれど、これもじっくり鑑賞する暇はなさそうだった。
 だから今のが、今年最初で最後の花見だ。
 唐突の狼藉に驚かされたけれど、許してやってもいい。無愛想で馬鹿な影山でも、こんな気の利いたことが出来るのかと笑って、日向は興奮気味に両手を広げた。
 白い歯を見せて、相好を崩す。
「っ!」
 直後、チームメイトの顔がより赤くなった。まるで火が点いたかのように真っ赤になって、何故か狼狽激しく右往左往した後、踵を返して駆けだした。
「なんだ?」
 折角人が礼を言っているのに、あの態度は酷い。
 変な奴だと眉を顰め、日向は遅れて地上に戻ってきた花びらへと手を差し伸べた。

2015/4/15 脱稿

きかずがおにて 又なのらせん

 鳴き声が騒がしかった。
 鳥であろう、それも雛の。甲高くて姦しい、耳障りで頭に響く叫び声だった。
 息切れを起こしもせず、ずっと鳴き続けている。気付いてから暫く経つのに止まなくて、小夜左文字は怪訝に眉を顰めた。
「どこかに、すがあるんですかねー?」
「かもしれない」
 瞳は宙を泳ぎ、彷徨った挙句に手前に戻された。飛んできた毬玉を胸元で受け止めて、彼は今剣の言葉に首肯した。
 乾いた地面には、毬が跳ねた痕がそこかしこに散らばっていた。元は色柄共に鮮やかだった球体も、子供たちの玩具にされて、すっかり泥だらけだった。
 本来は屋内で、女児が遊びに使うものだ。しかし生憎と、屋敷に居るのは粗野で粗暴な男子ばかりだった。
 乱藤四郎も、あれでなかなか性格が荒い。これを見つけて来たのは彼だが、真っ先に蹴って庭の池に沈めたのも、他ならぬ彼だった。
 以来、暇を持て余した子供たちが蹴ったり、投げたりして、原型はすっかり失われた。何度か修繕を繰り返しているので、見た目もかなりぼろぼろだった。
 そんな毬を手に持って、小夜左文字は空を仰いだ。
 鳥の声はまだ消えない。ぴぃぴぃと、まるで誰かを呼んでいるようだった。
 聞いていると、胸を締め付ける切なさに見舞われた。苦しさを覚えて下唇を噛んで、彼は誤魔化しに球体を投げようとした。
 しかし肝心の、投げ返す相手がいなくなっていた。
「今剣。どこへ」
「うーん、こっちですかねー?」
 他の者たちが遠征に出ている今、屋敷は人気が失われて静かだった。そんな中で際立って喧しい鳥の囀りに、遊戯に飽き始めていた子供が興味を持たないわけがなかった。
 断りもなく勝手に場を離れ、探索を開始した今剣にため息しか出ない。
 毬を高く掲げていた小夜左文字は肩を落とし、殴られたり、落とされたりと、苦労性の球体を地面に置いた。
 両手を空にして、汚れは濃紺の袈裟で拭く。行儀が悪いが構うことなく、彼は先行する烏天狗を追いかけた。
 屋敷の庭は広く、まるで迷路のようだった。
 内部も、大勢の刀剣が暮らせるようにと、部屋数はかなり多かった。
 何度か増改築が行われており、廊下を真っ直ぐ進んでいたら突き当りで何もない、という場所もいくつかあった。初めて来た時は軽く迷って、目的の部屋に辿り着けずに途方に暮れた。
 審神者に降ろされたばかりの夜、それで夕餉を食いっぱぐれた。
 ふと思い出して、小夜左文字は瓦屋根の邸宅を振り返った。
 突然現世に喚び出され、人の形を与えられた。簡単な説明は受けたが理解が及ばず、頭が混乱する中で、ひとりきりで放り出された。
 元々は人の手に握られて、振り回されるだけの刀剣の身。それが突然肉体を与えられて、上手く動けるわけがなかった。
 どうすれば良いか分からないのに放置されて、胸に抱き続けた苛立ちや怒りが一気に膨らんだ。本来向けるべきではない相手に憎しみをぶつけ、それで心を落ち着かせようとした。
 お陰で身体は自在に操れるようになった――八つ当たりされた方にしてみれば、迷惑極まり話ではあるけれど。
 そんな寝入り端を襲われた男は、見える範囲には居なかった。
 今の時間から考えるに、台所で、夕餉の支度をしているのだろう。
 料理をするのは好きだから、苦ではないと言っていた。皆が美味しいと言ってくれるなら作った甲斐があると、嬉しそうに笑っていた。
 それが小夜左文字には、どうしても理解出来なかった。
 どれだけ手間暇をかけたところで、食べるのは一瞬で終わってしまう。胃の中に入ってしまえばどれも同じで、不味いのも、旨いのも関係無い。
 それにあの男は、箸の使い方が異様に厳しかった。
 もし手掴みで食べようものなら、即座に叱責の声が飛んで来た。行儀が悪いと頭ごなしに怒鳴って、たとえ食事の途中であっても構う事なく、正しい持ち方の講釈を止めなかった。
 お蔭で元々苦手だったものが、余計苦手になってしまった。
 食事は、生き長らえる為のただの手段でしかない。空腹が癒され、腹が満たされるのであれば、猪の生肉だろうとなんだろうと、平気でかぶりつけた。
 山賊暮らしが長かった所為で、他の刀剣たちのように行儀良く振る舞えない。
 それがあの男には、腹立たしくてならないようだった。
 他人の事だ、放っておけばいい。
 目を瞑れば見えなくなるのだから、顔を背けていればいい。
 だというのに、しつこく構ってくる。昔のよしみで面倒を見ようとしているのなら、甚だ迷惑な話だった。
「みーっけ」
 ぼんやりしていたら、いつの間にか足が止まっていた。
 左手前方から響いた今剣の声ではっとして、彼は慌てて躑躅の枝を押し退けた。
 肉厚の葉を避け、馬酔木を踏まぬよう足を運ぶ。緑濃い一帯を抜けると背の高い木が見えて、今剣はその根本にしゃがみ込んでいた。
 膝を折り、そこに両手を置いて地面を覗き込んでいた。
「今剣?」
 ぴよぴよと、息苦しくなる悲鳴は前に比べると弱くなっていた。
 今にも力尽きてしまいそうな声色に、小夜左文字は渋い顔で半眼した。
「雛か」
「おちちゃったんですかね」
 近付けば、僅かに声が大きくなった。警戒心を抱き、怯える獣のそれだった。
 痛ましい叫びに、眉間の皺が自然と深まった。今剣が顔を上げるのに倣って視線を上向けるが、仰ぎ見た木は互い違いに枝を張り巡らせており、空の光を悉く遮っていた。
 これでは巣があるかどうかも、分からない。
 木漏れ日を額に受けて、小夜左文字は口を尖らせた。
 地面の上ではまだ産毛しか生えていない雛が、必死になって親を呼んでいた。
 つい最近、卵から孵ったばかりなのだろう。骨と皮だけで、これでは空を飛ぶなど無理な相談だった。
 それ以前に、この高さから落ちて生き延びている事が凄い。
 影も形も見えない巣を探して、小夜左文字は猫のように瞳を細めた。
「どうしましょう。このままじゃ、しんじゃいます」
 今剣は蹲ったまま手を伸ばし、弱りつつある雛を掬い上げた。傷つかぬよう大事に抱え持って、困り果てた顔で呟いた。
 あれほど頻りに鳴いていた雛は、今剣の体温に触れたからか、急激に大人しくなった。丸い眼は閉ざされて、開きっ放しの嘴からは小さな舌が覗いていた。
 餌を取りに行った親鳥を探して、足を踏み外してしまったのだろう。家に帰る術を持たない雛鳥を見下ろして、小夜左文字は両の拳を震わせた。
 屋敷に連れていったところで、鳥を育てた経験がある者はいない。
 そもそも此処に居るのは、審神者以外、全員が命を狩る為の道具だった付喪神だ。
 救えるわけがない。
 人を殺す目的で作り出された刀剣が、なにかを救おうとする事自体が間違いだ。
「小夜くん」
 黙り込んで動かない彼に助けを求め、今剣が心細げに名前を呼んだ。
 彼の手の中では、痩せ衰えた雛が、今にも死にそうな姿を晒していた。
 放っておいたら、死ぬ。
 屋敷に招き入れても、いずれ死ぬ。
 ならば彼らが選び得る選択肢は、ひとつしかなかった。
「巣に、帰そう」
 決意を込めて、囁く。
 それしか方法がなかった。儚い命を散らしそうなこの雛を救うには、親元へと届ける以外に道はなかった。
 巣に帰してやれば、親鳥が餌を持ってきてくれる。その温かな羽で震える子を抱きしめて、自力で飛べるようになるまで守ってくれるはずだ。
 この雛には、単独で生き延びる力が備わっていない。
 けれど雛の親は、命を刈り取られたわけでもなければ、帰る場所を失ったわけでもなかった。
 離れ離れになってしまったものを、元の状態に戻してやればいい。
 単純明快な理論だった。そうすればすべて上手く行くと、子供は無邪気に信じ込んだ。
 力強い小夜左文字の声に、泣きそうだった今剣もぱぁっ、と目を輝かせた。野苺のように甘そうな瞳をきらきらさせて、妙案だと深く頷いた。
「そうですね。それがいいです」
 勢いよく立ち上がって同意して、手の中のものを潰しかけて慌てて手を広げる。
 雛は相変わらずぐったりしていたが、ふたりの目には、少しばかり元気になったように映った。
「おかあさんのところに、かえしてあげますからね」
 家族と引き離されるのは、誰だって辛い。
 覚えがあるのか、今剣の声はいつになく優しかった。
 力なく身を横たえている雛を撫で、彼はおもむろに両腕を伸ばした。
「ぼくが、さきにいって、みてきます」
「頼む」
 雛をよろしくと頼み、今剣は天を仰いだ。雛が倒れていたのはこの木の根元だが、近くには同じように幹も立派な木が聳えており、巣がどこにあるかは、ここからでは分からなかった。
 当てずっぽうで登ってみて、別の木だったら大変だ。
 雛の体力は残りわずかなところまで来ており、地上と樹上の往復は、出来る限り減らしたかった。
 子供なりに考えて、小夜左文字は頷いた。おっかなびっくり雛を預かり、身軽さが自慢の烏天狗から数歩分、距離を取った。
 今剣は自由になった両手を握り締めると、力強く樹上を睨み、一本下駄で地面を蹴った。えいやっ、と気合いを入れて飛び上がり、身の丈よりも高い枝へと難なく着地を果たした。
「……すごい」
 小夜左文字では、ああはいかない。
 本当に天狗なのだと感心して、彼はひょいひょい、と枝の間を抜けて行く今剣に目を丸くした。
 彼の身のこなしなら、簡単に頂上まで登れてしまう。
 がさがさ揺れる葉の音を聞いて、小夜左文字は落ちて来た細い枝を慌てて避けた。
「どうだ、今剣」
「うーん、どこでしょう」
 はっきりとは見えないけれど、彼は次々に枝に乗り移り、鳥の巣を探しているようだった。
 絶え間なく響く音に耳を澄ませ、小夜左文字は殆ど動かなくなった雛に下唇を噛み締めた。
「はやく、しないと」
 今剣から渡された時より、ずっと冷たくなっている気がした。産毛だけの体躯はか細く震えて、時折痙攣を起こしてぴく、ぴくと大きく跳ねた。
 その都度大袈裟にびくついて、小夜左文字はなかなか掛からない呼び声に地団太を踏んだ。
「袈裟、邪魔だ」
 このままでは親元に送り届けてやる前に、雛が力尽きてしまう。少しでも時間を縮めるには、今剣が樹上から戻って来るのを待っていては駄目だ。
 小夜左文字は覚悟を決めると、雛を片手で抱えつつ、背負った笠を地面に落とした。
 緋色の紐を解き、裏返った笠の上に濃紺の袈裟を脱ぎ捨てる。黒の直綴姿になって、邪魔な裾は腰紐の内側に潜り込ませた。
 膝小僧を剥き出しにして、草履も脱いで素足になる。全ての準備が終わる頃、空高くから今剣の声が轟いた。
「小夜くん、あった。ありましたー」
「今から行く!」
 降ってきた言葉に即座に返し、小夜左文字は一旦袈裟の上に預けておいた雛を抱き上げた。
 白衣と直綴の間に隙間を作り、即席の雛の宿を用意する。落ちないよう、そして潰してしまわぬよう注意しながら小さな命を懐に収めて、彼は天に挑む面構えで樹上を睨んだ。
 今剣が何処にいるのか、交差する枝が邪魔で分からない。しかし行くしかなくて、彼はざらついた表皮に手を伸ばした。
 とはいえ、そう簡単な話ではない。なにせ最も低いところにある枝でさえ、小夜左文字の頭より上にあった。
 今剣ほど跳躍力がない彼は、他に頼るものがなにもない幹を、滑らないようによじ登るしかなかった。
「……くっ」
 案の定、上手く事は運ばなかった。
 胸元に雛を抱いているので、幹に抱きつくわけにはいかない。かと言ってへっぴり腰では上に行けず、重みに引かれて地面に逆戻りする一方だ。
 誰か――誰でもいい。
 その腕に抱き、或いは肩に担いで、ひとつ目の枝に運んではくれないか。
 何度も失敗を繰り返し、諦めずに挑むが難しい。そうしているうちに無意識に他人に縋ろうとしていた自分に気付いて、小夜左文字は奥歯を噛み締めた。
「僕ひとりで、やるんだ」
 頼れる者など、いやしない。
 復讐を遂げるのも、地べたに這い蹲りながら生き延びるのも。
 結局は、自分ひとりの力だ。
 深く息を吸い、小夜左文字は懸命に腕を伸ばした。
 枝の根元を掴んでしまえば勝ちだと、身体中の筋が引き千切れる覚悟で上を目指す。四肢がばらばらになるのも厭わず、爪先が木の幹に食い込むくらいに力を込める。
「んぐ、……っふ、があぁっ!」
 気合いを込めて雄叫びを上げ、指先が掠めた太い枝に爪を立てる。
 腕の力だけで身体を上へと運び、反対側の腕も伸ばす。しがみつき、絶対に離さないと息巻いて、小夜左文字は斜めに伸びる枝へと身を移した。
 たった五尺にも満たない高さによじ登るだけで、息が切れ、身体のあちこちがぎしぎしと嫌な音を立てた。
 関節が軋み、筋肉が悲鳴を上げた。噛み締めすぎた顎はカタカタ震え、酸素が足りないのか、耳鳴りが酷かった。
 しかしゆっくり休んで回復を待つ暇など、どこにもありはしなかった。
「はやく、いかないと」
 今剣が、木の上で心細さに震えている筈だ。懐に庇う鳥の雛は、もっと怖いに違いない。
 ここで怖気づくわけにはいかなかった。なるべく足元を見ないようにして、小夜左文字は果敢に次の枝を目指した。
 木登りなど、久しくしたことがなかった。
 最後の記憶は、いつになるだろう。まだ付喪神として現世に喚び出されるよりずっと前の、各地で戦乱が繰り返されていたあの時代まで、遡らなければいけないのではなかろうか。
「あの時は、柿だったけど」
 食い意地の張った以前の主は、それで命の危機に晒された。
 懐かしい記憶を巡らせて、小夜左文字はふっ、と頬を緩めた。そしてすぐに表情を引き締めて、次第に細くなっていく枝を器用に伝っていった。
 身体が小さく、軽い事を、今ほど感謝したことはない。
 悔しい思いばかりしてきた過去を振り払い、腕程の太さもない枝を掴んで上へ上る。地上では殆ど感じなかった風も、徐々に強く、冷たくなっていった。
「……いつっ」
 枝や葉も一カ所に密集して、彼の進路を塞いでいた。邪魔だからと押し退けようとすれば、嫌がった細い枝が大きく撓って跳ねた。
 ちりっとした痛みと熱を感じたが、構っていられない。頬の傷口を拭う余裕もなく、歯を食い縛り、小夜左文字は鼻から息を吸い込んだ。
 顔だけでなく腕にも、足にも、そこかしこに擦り傷が出来ていた。
 胸元の雛は、無事だろうか。気になったが覗き込む余裕はなく、ただ天に対して祈りを捧げ、彼は突如響いた轟音に驚いて首を竦めた。
「うっ」
 無数に分岐する枝が一斉に揺れ動き、緑の濁流が小夜左文字に襲いかかった。反射的に目を閉じ、身を丸くして、彼は風がもたらしたのではない振動に息を潜めた。
「小夜くん」
「今剣、巣はどこ」
 頼りない脆弱な枝を足場に、根本の半分もない幹にしがみつく。
 声が聞こえてほっとして、彼は恐る恐る、目を開いた。
 見えたのは、重さを感じさせない今剣の姿と、その背後に広がる雄大な景色だった。
 いつの間にか、屋根よりも遥かに高くまで来ていた。遮るものはなにもなく、彼方の山々まではっきりと見渡せた。
 薄い雲が広がって、穏やかに流れていた。雁の群れが水田の上を駆け、褪せた大地も実は色鮮やかだと教えられた。
 青々と茂る田畑は、場所によって色合いが違った。農夫が汗を流して鍬を操り、同祖神の祠はこんもりとした森の中に隠れていた。
 緋色の鳥居を眼下に見て、小夜左文字は息を呑んだ。
「すごい」
 目を奪われた。心を絡め取られ、意識を奪われた。
 雛の事も忘れ、食い入るように景色に見入る。身を乗り出して、重心が崩れかけて慌てて我に返って、木の幹へと縋りつく。
「あぶなかった」
 一瞬にして跳ね上がった鼓動に冷や汗を流して、小夜左文字は不思議そうにしている烏天狗に向き直った。
「だいじょうぶですか?」
 今剣にとって、こんな景色は見慣れたものなのだろう。
 暇な時間を見つけては、彼はよく屋根や木に登り、遠くばかりを眺めていた。
 前の主とは、山の上で出会ったという。
 だから懐かしいのだと、無邪気な彼は笑っていた。
 その笑顔がどこか寂しげで、辛そうに感じたのは勘違いだろうか。あの時聞けなかった疑問を、今日もまた胸にしまって、小夜左文字は心配そうな彼に小さく頷いた。
「巣は」
「こっちですよー」
 気を取り直し、本来の目的を思い出す。
 短く問えば彼は枝を移り、小夜左文字の隣に並んだ。
 荷重がかかり、枝が大きく傾いた。滑り落ちそうになって急ぎ幹を抱く力を強め、小夜左文字は指差された方角に顔を向けた。
「あった」
 目を凝らし、枝葉の隙間から窺い見る。言われなければ気付けない場所にそれは隠され、確かに存在していた。
 これでは今剣も、すぐには見つけ出せまい。
 雛が天敵に襲われないよう、親鳥が慎重に場所を選んで営巣した結果だ。命を育む事の難しさと、尊さを痛感して、小夜左文字は感嘆の息を漏らした。
 親鳥は不在らしく、姿は見えない。卵から孵ったのも胸元にいる一羽だけのようで、姦しい鳴き声は聞こえなかった。
「小夜くん、ことりさんは」
「ここにいる」
 問われ、彼は顎を引いて己の胸元を示した。
 なんとか無事に、辿り着けた。後は巣に近付いて、雛を戻してやるだけだった。
 まだ成し遂げたわけでもないのに、達成感を覚え、興奮で鼻息が荒くなった。頬を紅潮させて、少年は今剣に分かるように衿を広げた。
 白衣と直綴の隙間、腰紐より上に造り上げられた空間で、鳥の雛は小さく、丸くなっていた。
「任せていいか」
「せきにん、じゅうだいですね」
 今の小夜左文字は、己の身を支えるのに片腕が塞がっていた。
 あまり自由が利かない。だったらより身軽で、樹上での動きに慣れている今剣に任せてしまう方が、弱り切った雛の為でもあった。
 低い声で頼まれて、烏天狗は拳を作った。気合いを入れて唇を引き結んで、彼は恐々、小夜左文字の懐に手を伸ばした。
「そうっと。そうっと……」
 不安定な足場と、いつ吹くか分からない風。
 急ぎつつも、慎重に。今にも切れてしまいそうな命の糸を手繰り寄せて、今剣の表情は真剣だった。
 気を紛らわせるためか、瞬きも忘れた彼は頻りに同じ単語を繰り返した。小夜左文字も必要以上に緊張させられて、少しでも彼がやりやすいように、四肢の関節を固くした。
 指一本とて動かさない。息を殺し、彼は今剣の手が引き抜かれるのをじっと待った。
 狭い隙間に潜り込んだ白い手が、左右で重ねられて表へ出る。
 不意に体が軽くなった気がして、小夜左文字は後ろに倒れそうになった。
「うわっ」
「小夜くん!」
「もん、だい、ない。それより早く」
「わかりました」
 この高さから落ちたら、いくらなんでも無事では済まない。
 吸い寄せられるように近付いた地面に脂汗を流して、彼は脳裏をよぎった恐怖を振り払った。
 邪魔だからと脱ぎ捨てた袈裟や笠は、今や豆粒よりも小さくなっていた。
 ぼろぼろになって、真っ二つに砕け散る幻が脳裏を過ぎった。使い物にならなくなって、焼き直すのも難しいと捨てられた、嘆きの声が耳から離れない。
 それは自分ではない。
 引きずられそうになる他者の過去に抗って、彼は今剣に向かって首を振り、体勢を立て直した。
 大丈夫だと伝え、安心させると同時に役割を思い出させる。乱れた息を整えて、肩を上下させて半眼する。
 ぴりっと来る気配を感じたのは、その直後だった。
「これで、よし……ですね」
「今剣、逃げろ!」
「わあああっ」
 無事に雛を巣に届けた今剣目掛けて、反射的に腕を伸ばす。
 突き飛ばし、入れ替わりに彼が居た場所へ滑り込む。ザザザザ、と枝が擦れあい、折れる音が真下から響いて、そこに鋭い怒号と羽音が重なった。
「うっ」
 甲高い鳥の声が轟き、鋭い爪で左目の脇を削られた。躊躇なく急所を狙って攻撃されて、高く結い上げた髪の根本にも嘴が突き立てられた。
 咄嗟に片腕で顔を庇って、小夜左文字は初めて耳にする、嘶きにも似た鳴き声に眉を顰めた。
 顔を歪め、立て続けに繰り出される攻撃に耐える。左右から交互に鋭い嘴を向けられて、周囲には鼓膜を突き破るほどの絶叫がこだました。
 ばさっ、ばさっ、と風を打つ羽の音がうるさい。
 今剣の悲鳴は聞こえなかった。咄嗟の判断だったので、今は彼の無事を祈るしか出来なかった。
「やめろ。痛い。僕は、違う。お前たちの巣を、壊しに来たんじゃない」
 それよりも、自分の身を守る方が先決だった。
 襲って来た鳥は、全部で二羽。どちらも激しく怒り狂い、荒々しい雄叫びを上げていた。けたたましい声でぎゃあぎゃあと鳴き喚き、小夜左文字を襲い続けた。
 彼らは、まず間違いなくこの巣の主。
 自らの家と、卵を守ろうとする、雛の親に相違なかった。
「違う、僕は。やめてくれ。そうじゃない」
 彼らが何を言っているかは分からないし、言って聞かせたところで通じるとは思えない。
 それでも言葉を繰り返して、小夜左文字は無残に切り裂かれていく腕に歯を食い縛った。
 鳥たちの怒りは収まらない。
 あちらにしてみれば、小夜左文字は雛の命の恩人などではない。
 巣を荒らしに、卵を狙ってやって来た、無法者でしかないのだ。
 罪なき者を襲い、その財産や、命までをも奪い取る。
 汚らわしい山賊と、なにひとつ違わなかった。
 責められ、蔑まれ。
 虐げられ、罵られ。
 血の雨を浴びて、ただ立ち尽くす。
 いっそ砕かれてしまいたいと、何度願ったことだろう。
「やめろ。僕じゃない。僕の所為じゃ――いやだ、やめろ。やめてくれ!」
「小夜くん!」
 痛みが全身に広がって、目頭が熱くなった。
 鼻の奥がツンと来て、なにもかもが真っ白だった。
 今剣の叫びが聞こえた。
 不安定な足場で、いつまでも身を庇い続けられるわけなど、なかった。
 ふわり、身体が浮いた気がした。重力から切り離されて、あらゆる束縛から自由になった錯覚を抱いた。
 心が置き去りにされる。
 身体だけが沈んでいく。
 伸ばした手は、宙を泳いだ。掴むものなど何もなく、この手はなにも掴めなかった。
 空っぽだった。
 なにひとつ、この手に残りはしなかった。
「小夜!」
「――っ」
 刹那だった。
 凄まじい衝撃を背中に感じた。ズオォン、と激しい地響きが耳の奥に轟いて、身体中のあらゆる器官がひっくり返り、罅が入ったかのように激痛を発した。
 肺が圧迫され、息が出来なかった。燃えるような熱さは炉の中にあった鉄の時代を思い起こさせ、固く閉ざされた瞼の向こう、世界がどうなっているかはまるで分からなかった。
 四肢が引き攣り、動かせない。
 まるで別の誰かの身体に、魂だけ放り込まれた気分だった。
「う、……ぐ、っぁ」
 呻き、痙攣を起こす。直後に背中を押されて圧迫された肋骨が広がって、衝撃を受けた心臓が一気に収縮を開始した。
 全身に血が巡り、足りない酸素を欲して脳が強引に指令を下した。狭まっていた気道が無理矢理こじ開けられて、出口を探していた呼気が一斉に外を目指して駆けだした。
「……っか、う、……くはっ。げほ。かは、っが」
 吸い込まれた空気と、出て行こうとする空気とが正面からぶつかり合い、喉の奥で爆発が起こった。呼吸ひとつさえまともに扱えなくて、苦しいばかりの現実に、生理的な涙が目尻を伝った。
 鳥の声はまだ響いていた。遠くまでこだまして、騒がしい気配は要らぬ緊張感を地表にもたらした。
 近くに誰かが居る。
 否、誰かの腕の中に自分がいる。
 くどいくらいに背中を撫でる手が失われかけた心肺機能を回復させて、小夜左文字を現実世界に呼び戻し、引き留めた。
 樹上から落下する直前、耳を劈く怒号を聞いた。
 声の主に思いを巡らせ、彼は数回噎せた後、薄い瞼を僅かに開いた。
 光が見えた。
 眩しかった。
「小夜くん、だいじょうぶですか。いきてますか。いたいですか。こわくなかったですか」
 真っ先に、今剣の顔が見えた。その瞳は涙に濡れて、元々白い肌が一層青白く染まっていた。
 額にかすり傷が見て取れたが、大きな怪我はしていない。心配そうに人を覗き込んで、腕を掴んで頻りに揺さぶって来た。
 それが痛みを誘発して、小夜左文字は仰け反るように身悶えた。
「っう、ぁ……」
「今剣、気持ちは分かるが」
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい。さよくん、いたかったですか。ごめんなさい。おねがいです、しなないで」
 海老反りになり、直後に丸くなって温かな熱に顔を伏す。同時に戒める声が聞こえて、今剣は慌てて手を離した。
 それで少し楽になって、小夜左文字は指先に触れた涅色の袴を握りしめた。
 引き寄せ、無意識に身体を起こそうと動く。けれどままならず、勝手が利かなかった。
「小夜。駄目だ。今は動かないで」
 身動ぎ、奥歯を噛み締める。うつ伏せになって猫の如く丸くなって、意識と肉体が乖離した状態に顎を軋ませる。
 静かな声は真上から降ってきて、とんとん、と背を叩く柔らかな振動が隅々にまで広がっていった。
 次第に弱まっていく苦痛に、小夜左文字は目尻の涙を袴へと擦り付けた。
 突っ伏し、顔を見せない。現実がじわり、じわりと忍び寄ってきて、消し飛んでいた記憶も一部が舞い戻って来た。
 雛を巣に戻した今剣に、親鳥が襲いかかろうとするのが見えた。
 咄嗟に身代わりになって、責め苦に耐えきれずに木から落ちた。
 だというのに、命はある。流石に五体満足とはいかなかったが、この結果は奇跡と言っても過言ではなかった。
 理由は、簡単だ。
「小夜」
 呼ぶ声に、もぞりと身を捩る。
 恐る恐る振り返った先では、藤色の髪の男が険しい表情をしていた。
 良く知った顔だった。
 眇められた眼と、眉間に寄った皺、引き絞られた唇。優しげな声色や手つきとは裏腹に、双眸の奥には底知れぬ怒りが溢れていた。
「君は、何を考えているんだ」
「か、せ……」
「君は愚かだ。鳥の巣に手を出すなど、親鳥が見過ごすとでも思っていたのか。あんな高い場所に登って、こうなると分からなかったわけではないだろう!」
 そんな彼が厳かに口を開いたかと思えば、堰を切ったかのように、言葉の奔流が小夜左文字を呑みこんだ。
 息継ぎを挟まず、一気に捲し立てられた。声はにわかに低くなり、耳にするだけで震えあがるほどの迫力が込められた。
 凄まじい怒りを至近距離からぶつけられて、反論など出来る筈がない。落下の衝撃が完全に抜けきらない中で、叩きつけられた激憤は彼の心を縛り付けた。
 二重になった恐怖に四肢をわなわなと震わせて、小夜左文字はひくりと喘ぎ、瞠目したまま凍り付いた。
「っあ、あ、ぁ……」
 何か言わなければと思うのに、喉は引き付けを起こし、言葉はひとつも出なかった。代わりに涙が目尻から溢れ出し、小ぶりの鼻がひくひくと震えた。
 唇からは血の気が失われ、歯の根が合わない奥歯がカタカタ音を立てた。飲みこむことすら出来ない唾液が喉の手前で溢れ、地上に在りながら溺れ死ぬ未来を覚悟させられた。
 文系を気取って飄々とした佇まいの歌仙兼定が、明王が如き形相で、小夜左文字をねめつけていた。
 動けなかった。
 なにも言い返せなかった。
 怖くて、恐ろしくて、今になって軽率な行動に出た過去の自分を悔やんだ。
 叱られて当然のことをした。
 悪いのは全て自分。責苦を受けるべきは、数多の命を狩ってきた罪深きこの刃。
 苦しかった。
 息が出来なかった。
 ひゅうひゅうと喉から空気が漏れ出でて、空っぽになって、干からびて死んでしまいそうだった。
「分かっているのか。下手を打てば死ぬところだったんだぞ。小夜、返事をしなさい。君は自分の命を、いったいなんだと思っているんだ!」
「ちがいます!」
 叱責が止まず、怒号が空を裂く。それを遮って、甲高い声が天を駆けた。
 一方的に小夜左文字を詰る歌仙兼定に飛びかかり、今剣がその首を締め上げた。真後ろから圧し掛かって、腕に抱く少年から彼を引き剥がそうと試みた。
 もっとも非力な短刀では、打刀相手でも苦戦を強いられる。
 それでも歯を食い縛って唸る今剣にはっとして、前のめりになっていた男は目を瞬いた。
 膝に寝かせた少年は息も絶え絶えで、その細い腕は縋るものを探して虚空を彷徨っていた。
 虚ろな眼差しが宙を漂い、やがて歌仙兼定へと定められた。雪のように白い肌はどこもかしこも赤く爛れ、打撲の痕や、切り傷が全身を覆っていた。
 痛ましい姿に、まるで今初めて気が付いたかのような顔をする。絶句して、歌仙兼定は動揺も露わに頬を引き攣らせた。
「小夜」
「ちがいます。ちがいますー。小夜くんは、とりさんを、すにかえしてあげてただけですー!」
 頭に血が上り、周りが見えなくなっていた。
 目の前の出来事に愕然とさせられて、状況が正しく読み取れていなかった。
 何度も瞬きを繰り返し、歌仙兼定は首を竦めた。今剣の拳が頭のてっぺんにめり込んで、ぽかぽかと殴る手はしばらく止まなかった。
 頭上の木では、相変わらず鳥が騒がしかった。
 地上と、天空と。
 どちらを信じるかと自らに問い質して、歌仙兼定はぼろぼろになっている少年の頬に掌を寄り添わせた。
 傷に障らぬよう包み込み、そっと撫でる。すると小夜左文字は安心したように目を閉じて、それまで乱れに乱れていた呼吸も落ち着きを取り戻した。
「……すまない、小夜。僕が早合点したようだ」
「そうです。小夜くんは、わるいことなんかしてません」
 反省の弁を述べれば、憤っていた今剣も拳を下ろした。偉そうに胸を張って、勘違いも甚だしい歌仙兼貞を責めた。
 もっとしっかり謝るよう目で訴えられて、苦笑を禁じ得ない。
 男は頭を垂れると、無自覚に追い詰めてしまった少年に目を眇めた。
「悪かった。許してくれないか、小夜」
 知らなかったとはいえ、酷いことを言ってしまった。
 正直に詫びて許しを請うた歌仙兼定に、長い間目を閉じていた少年はふるふる首を振った。
「……べつに、いい」
「小夜?」
「小夜くん?」
「いい」
 正直、頭の上でぎゃんぎゃん騒がれる方が迷惑だった。
 今は静かに、ゆっくり過ごしたい。まだあちこち痛くて、ちょっとでも動けば激痛に見舞われた。
 だから、もういいのだ。
 無愛想に言い捨てて、小夜左文字は袴の襞を握り潰した。
 その足元に、草履はなかった。白く綺麗な足袋は真っ黒に汚れて、騒ぎを聞きつけて慌てて飛び出して来たのだと、無言のうちに教えてくれた。
 話を聞きもせずに怒鳴ったのも、心配してくれたから。
 落下する小夜左文字を受け止めて、彼自身だって、無事では済まなかっただろうに。
 尻餅をつき、地面に蹲っているところからも、衝撃の凄まじさが窺えた。
 だというのにおくびにも出さず、人の心配ばかりして。
 どの口が、己の命の価値を語るのか。
 考えていたらおかしくなってきて、小夜左文字は存外にお節介な男に肩を竦めた。
「雛は、巣に」
「だいじょうぶです。ちゃんと、ぼくが、かえしておきました」
 小夜左文字に突き飛ばされる直前、雛はしっかり巣に戻しておいた。
 問いかけに力強く頷いて、今剣は胸の前で握り拳を作った。
 子供たちの話を聞きかじり、歌仙兼定は再度、上空に視線を投げた。
 先ほどまで荒々しく飛び回っていた鳥たちも、落ち着いたのか、姿が消えていた。恐らくは巣に帰り、卵を温める作業に戻ったのだろう。
 柳眉を寄せて、彼は作戦成功だと喜ぶ子供たちに半眼した。
「そう。雛を」
「はい。すから、おっこっちゃったみたいで」
 だから家に戻してやろうとして、彼らは頑張ったのだ。
 自分より弱いものを見つけて、これを守ろうとして。
 傷だらけになりながら、命を救った。
 己らの存在価値とは真逆の行為が、大人には眩しくて仕方がない。子供らしい無邪気さに目尻を下げて、歌仙兼定はゆっくり起き上がった。
 未だ立てない小夜左文字を腕に抱き、地面に転がる荷物は今剣に任せる。
「では、良いことをした君たちの為に、柿でも剥こうか」
「……ぅ、お」
「ほんとですか。やったー!」
 ご褒美だと囁けば、あまり感情が表に出ない小夜左文字も、今回ばかりは目を輝かせた。今剣などは手放しに喜んで、その場でぴょんぴょん飛び跳ねた。
 綺麗に形作られた菓子は高価でなかなか手が出ないが、果物ならある。特に甘い柿は子供たちも大好きで、切って出せば奪い合いが起きるほどだった。
 それがたっぷり味わえるとなれば、嬉しくない筈がない。
 嘘ではないかと目で問われ、歌仙兼定は微笑んだ。
「皆には、内緒だからね」
「はーい!」
 他の短刀の分はないから、これは三人だけの秘密。
 約束だと嘯いた彼に、小夜左文字も首をコクコク縦に振った。
 

 自然界とは調和がとれて美しいけれど、時として驚くほどに残酷で、無慈悲な顔を見せつけた。
 炊事場に立ち、気まぐれに鍋を掻き回す。上機嫌とは言えそうにない陰鬱な横顔に、土間の入り口に立った男は眉を顰めた。
「そんな顔で料理をしていちゃ、美味しいものも、美味しくなくなりそうだよね」
「おや、それは失礼」
 断りもせず敷居を跨ぎ、中へと入る。竈の中では赤々と火が燃え盛り、薪の爆ぜる音が離れていても聞こえて来た。
 話しかけられて、歌仙兼定は飄々と合いの手を返した。瞬時に顔色を入れ替えて、余所行きの仮面を被って感情を隠す。
 巧いものだと密かに感心して、燭台切光忠はそうと分からぬように肩を竦めた。
「そんなにひどい顔をしていたかな」
「まあ、ね」
 どうやら自覚がなかったらしい。聞かれて緩慢に相槌を打ち、彼は歌仙兼定の手元を覗き込んだ。
 鍋の中で、どろりとした液体が渦を巻いていた。傍には出た灰汁を入れる為の器があって、かなり長時間、煮込まれているのが見て取れた。
 辺りに獣の臭いが立ち込めているのは、彼が手ずから捌いた為だろう。珍しい事もあるものだと隻眼を細め、燭台切光忠は調子よく鍋を掻き回す男に小首を傾げた。
「それは?」
「煮凝りをね、作ろうかと思って」
「へえ?」
「丁度良い鳥が、偶然手に入ったんでね。ただ、あまり量がないから、子供たちには内緒だけれど」
「それはそれは。ご相伴に預かれると、嬉しい限りだね」
 朝餉は少し前に終わり、夕餉まではかなり時間がある。昼は基本的に食事をしないので、この時間、台所を使う者は少なかった。
 もっとも歌仙兼定は料理好きなので、暇を見つけてはこうして炊事場に立ち、なにかを拵えては皆に振る舞っていた。
 だから別段、ここで会うのはおかしな話ではない。
 けれど奇妙な違和感を抱かされて、燭台切光忠は眉を顰めた。
「そういえば、鳥と言えば……だけど」
「うん?」
「いや、ね。さっき、子供たちが、庭で騒いでいたような。なんでも、巣がなくなった、とか、なんだとか」
 傍を通った時に見かけただけなので、詳しくは分からない。ただ高い木を仰ぎながら、小夜左文字と今剣がおかしい、おかしいと、他の短刀も巻き込んで騒いでいた。
 歌仙兼定は顔を上げなかった。興味がないのか鍋だけを注視して、眉ひとつ動かさなかった。
 怪訝に見守っていたら、男は不意にクツリと笑った。
「この屋敷は、なにかと物騒だからね。余所へ移ったんじゃないかな」
 何かを知っているのか、言葉の端々から嘲りが覗いていた。もっともらしいことを口にしながら、それは決して真実でないと、鍋を射る冷徹な眼差しが告げていた。
 違和感を強め、隻眼の男は目を眇めた。歌仙兼定の腰を飾る打刀にも視線を投げて、昨日までとの違いに眼力を強めた。
「君って、刀装は、軽騎兵じゃなかったっけ?」
「ん? ああ、変えたのさ。本当は弓が欲しかったんだけど、仕方がないよね」
 小金に輝く投石兵の刀装を指差し、燭台切光忠が問う。
 歌仙兼定はなんでもないことのように言って、匙を置き、鍋を火から外した。
 そして粗熱を取る間にと、水甕の蓋を外し、柄杓で酒杯に水を注いだ。
 掌にすっぽり収まる猪口を満たし、開けっ放しの勝手口から裏へと出る。どこへ行くのかと興味を惹かれ、燭台切光忠はその後ろを追いかけた。
 寸胴の鍋を一瞥し、そう広くない裏庭へ足を進める。
 幅広の背中はすぐ見つかった。何をするのかと思えば、彼は掘り返したばかりと分かる色の濃い地面に向けて、運んできた水を注いでいた。
 苗を植えるにしては、場所が場所だ。
 眉を顰めていたら、人も滅多に立ち寄らない暗がりで、男は自嘲気味に笑った。
「一度巣から落ちた鳥は、二度と戻れやしないのさ」
「……歌仙殿?」
「見つけた時にはもう、冷たくなっていた」
 ひとり、勝手に語り出す。
 意味が分からず、燭台切光忠は胡乱げな眼差しを彼の足元に投げた。
 大振りの石を標として、小さな塚が出来ていた。傍には手向けだろうか、白い野菊が一輪、添えられていた。
 他者の匂いを漂わせた雛を、事情がどうであれ、親鳥は許さない。
 自然界の掟は苛烈で、容赦なかった。
「……成る程。恐いお人だ」
 理解して、燭台切光忠が呟く。
「お褒めいただき、至極恐悦」
 喉を鳴らして静かに笑い、歌仙兼定は自慢の刀をそっと撫でた。 

2015/02/21 脱稿

桔梗鼠

 ちりちりと、産毛に火が点いたようだった。
 緊張に全身は強張り、右手と右足が同時に前に出た。指先までカチンコチンに固まって、一歩進むだけでも大量の汗が流れた。
 息が切れ、胸が苦しい。空気が重く感じられて、肌に張り付く感触が不快だった。
 心臓はさっきからずっと五月蠅かった。朝食べたものが消化されぬまま胃に残り、不意を衝いて食道を逆流した。
 酸っぱい胃酸が喉を焼いて、吐き気が強まる。うえっ、と嘔吐いて口を押さえれば、貰い事故のように、向こうからも呻く声が聞こえた。
 瞳だけを差し向ければ、それは山口だった。彼もまた青白い顔をして、汗だくだった。
 バスで移動して来たのも、少なからず影響しているだろう。
 不安定な振動に長時間晒されて、試合が始まる前から、日向たちはスプラッターな状態だった。
「おいおい。大丈夫か、お前ら」
 今にもトイレに駆け込みそうな一年生に、呵々と笑ったのは二年生の切込み隊長だ。
 田中は気分が悪くなっている後輩の背を遠慮なく叩いて、自分は余裕だと言わんばかりに胸を張る。
「うえっ」
 打たれた瞬間ふらついて、日向は慌てて息を止めた。苦くて不味い唾液を懸命に飲み干して、涙目になって横暴な先輩を睨みつけた。
 もっとも、あまり効果はない。どれだけ眼力を強めようと、日向の怒り顔は迫力がなかった。
 悔しさに打ち震え、その自信を分けて欲しいと切に願う。試合会場はもう目の前で、応援に来たであろう人達が列をなしていた。
 選手たちの入り口は別だが、駐車場は同じだ。体育館前に停車した車から降りて、荷物を分担して運ぶのも、生徒たちの仕事だった。
「あっちのでっけーのは、白鳥沢のバスか」
 黒のジャージの集団は、風が吹けば飛びそうな小ささだった。一方田中が向く方角に見えるものは、団体旅行などで使われそうな大型バスだった。
 備品の搬入も、スタッフが忙しそうにやっていた。或いはそれは、一軍から漏れた生徒かもしれない。ともあれ試合に出るメンバーが荷物運びをする、近くを探しても見られなかった。
 他にも大応援団を乗せて、複数のバスが停車していた。中には白鳥沢高校とはスクールカラーが異なるものもあり、バス運行会社から借り受けて来たものと思われた。
 なにもかも、規模からして違う。
 決勝戦が始まる前から圧倒されて、押し潰されてしまいそうだった。
 教えられたバスの群れに絶望し、吐き気を忘れた日向が灰になる。
「田中さん、足震えてますよ」
「うっせえ。言うんじゃねえ!」
 真っ白に燃え尽きた彼の背後から声を発したのは、いつだって淡々としている月島だった。
 先輩ぶって強気に出ていた田中だが、実際は怖気づいていた。
 図星を冷静に指摘された彼は真っ赤になり、声を荒らげて拳を震わせた。
 折角格好つけていたのに、これでは締まらない。恥ずかしさに煙を噴いた坊主頭だったが、月島は相手にせずに鞄を担ぎ上げた。
 その態度は至っていつも通りで、表情にも緊張は見受けられなかった。
「お前もちょっとは緊張しろよ。テレビに映るんだぞ!」
「そっちかよ」
「ひょわっ」
 それが、気に食わなかったのか。
 湯気を立てて吠えた田中に菅原が苦笑して、我に返ったウィングスパイカーは冷や汗を流した。
 滑稽なやり取りに、場の空気がほんの少しだけ和らぐ。必死に弁解を口にする田中はまさにムードメイカーで、遠くで見ていた武田達もホッとした様子だった。
 烏野高校は今日、これから、県大会の決勝戦に挑む。
 これに勝てば、全国大会行きが決まる戦いだ。相手は常勝、白鳥沢学園。全日本ユースにも選出されるエーススパイカーを中心とした、全国規模で名が知れ渡っている学校だった。
 そんな相手に挑むのは、雑草生い茂るゴミ捨て場出身の烏野高校。
 果たして観戦に来る人々のうち、どれくらいが烏野高校の勝利を信じているだろう。恐らく九割以上の人間が、挑戦者が惨めに負けてコートを去るのを期待して、光景を思い浮かべている筈だ。
 その前提を覆す。
 勝ち上がり、全国大会への切符を手にするのは自分たちだ――とは思うものの。
 息巻いていられたのは学校を発つ前まで。
 会場に到着する直前からバスの中はお通夜ムードで、駐車場を出た段階で陰鬱な雰囲気は最高潮に達していた。
 田中の犠牲があって少しは緊張が解れたが、まだまだ皆の動きは固い。周囲の空気を読まない、もとい読めない影山でさえ、頬が若干引き攣っていた。
 こんなことで、本当に大丈夫なのだろうか。
 控えメンバーである成田や、縁下までもが、脂汗をだらだら流して吐きそうな顔をしていた。主将の澤村や菅原は他より落ち着いていたけれど、頼みのエースである東峰が顔面蒼白で、ただでさえ怖い顔がもっと酷い事になっていた。
「よーっし。いくぞ、お前らー」
 元気が有り余っているのは、西谷くらい。
 小柄ながら頼りになるリベロの号令に、雰囲気に呑まれていた面々は一様に頷いた。
 そんな、試合前から負けている仲間を眺めて、月島は深々とため息を吐いた。
「お前、なんでそんな、落ち着いてられんだよ」
 緩く首を振っていたら、移動を開始した面子に置いて行かれた。出遅れた彼は後を追おうとして、ひとり居残っていた日向に脛を軽く蹴られた。
 痛くはなかったが、不愉快だ。
 鬱陶しい真似をしてきたチームメイトを眼鏡越しに睨めば、小さなミドルブロッカーは臆したのか、及び腰で逃げて行った。
 もっとも足取りは覚束なく、一センチもない段差に器用に引っかかっていた。
「だわっ、とと」
 なんとかバランスを保って転倒は回避したが、後ろから見ているだけでもヒヤヒヤする。
 だから余計、こちらは緊張していられない。
 目も当てられないと肩を竦めて、月島は大股で日向との距離を詰めた。
「試合前に怪我とか、止めてよ」
「しねえし。ンなの」
「今、転んでたくせに」
「うぐ」
 追い越しざまにちくりと言えば、身長差のある同級生は頬を膨らませた。二十センチ以上下にあるオレンジ色の髪を見下ろして、月島は尚も言って生意気な口を黙らせた。
 膝小僧を擦り剥いた程度で跳べなくなることはないが、痛みが残れば支障も出よう。それにもし傷口がサポーターに当たるようなら、最悪だ。
 無事でなにより、と言えればよかったのだが、月島はそこまで優しくない。
 嫌味な台詞で片付けて、彼は先を行くチームメイトを左から順に眺めた。
 先頭は澤村で、その後ろに菅原と東峰。武田は試合運営への挨拶に出向いており、コーチの烏養は少し離れた場所を歩いていた。
 三年生の後ろには二年生がいて、マネージャーのふたりがいて、一年生と続いている。
 しんがりは、日向だ。
「うおっ」
 その日向が突然首を竦め、足を止めた。体育館までのそう長くない距離を歩いていた集団も、突如鳴り響いた大きな音に騒然となった。
 ドンッ、と空気を震わせた衝撃に、恐がりの谷地と東峰が狼狽激しく竦み上がる。日向も似たような反応を見せて、月島を呆れさせた。
「応援団の太鼓でしょ」
「え、え……あー」
 地響きにも似た轟音に、身体を貫かれたようだった。
 頭を抱え込んで小さくなっていた少年は、言われてみれば、と記憶と照らし合わせ、音が飛んできた方角に首を向けた。
 吹奏楽部か、なにかだろうか。
 制服姿の男女が隊列を組み、大小様々な荷物を運んでいた。
「なる、ぽそ」
 その中に、ひとりでは到底抱えきれない太鼓もあった。
 きっと誰かが、面白がって叩いたのだろう。引率らしき大人が怒鳴り声をあげており、数人の女子が迷惑そうな顔をしていた。
 ここに烏野高校の選手が居ると知り、脅かそうとしたわけではなさそうだった。
「こんなんでビビってて、どうするの」
 東峰は菅原と澤村に笑い飛ばされ、谷地は清水に慰められていた。
 日向も月島に鼻で笑われて、面白くなさそうに口を尖らせた。
「べっ、別に。ビビッてなんか、ねーし?」
「はい、嘘」
「嘘じゃねーって!」
 反発して強がるが、声は上擦っていた。見栄っ張りも良いところで、月島はさらりと言い切り、怒鳴り声には耳を塞いだ。
 小指を耳の穴に突き刺して聞こえないフリをして、鼻息荒く力んでいるチームメイトに苦笑する。
 事情はどうであれ、吐き気は治まったらしい。さっきまで真っ青だった日向の血色は、気がつけばかなり良くなっていた。
「白鳥沢は、応援もすごいからね。試合始まったら、もっとひどいよ」
「お前、見た事あんの」
「中学の時、一回ね」
 この程度で心を挫かれていたら、試合に挑むどころではない。
 耳に張り付いている太鼓の音を振り払って、月島は食いついて来た日向に素っ気なく言い放った。
 それは高校に入ってもバレーボールを止めるつもりはなく、けれど真面目に取り組むのも馬鹿らしいと思っていた時期のこと。
 お前の成績なら白鳥沢高校だって行ける、と担任に唆されて、一度だけ、興味本位で大会を覗きに行った。
 結果、好奇心は見事に瓦解して、行くのではなかったと後悔が渦巻いた。それくらいに試合展開は一方的で、圧倒的で、凄まじかった。
 観客席を埋める大観衆のほとんどが白鳥沢高校に声援を送り、相手チームも負けじと応戦するものの、まるで歯が立たなかった。
 ベンチ入り出来なかった選手、チアリーダー、吹奏楽部、在校生や保護者たち。
 これは本当に高校生の試合なのか、と思わされるくらいの大人数が、スタンドを埋め尽くしていた。
 準決勝の試合でも、白鳥沢高校の応援は凄かった。
 だが決勝戦ともなれば、その比ではない。田中が言っていたようにテレビカメラは入るし、雑誌記者や、大学のスカウトだって視察に来ている筈だ。
 もしかしたら牛島の将来性を見越し、社会人チームも顔を出しているかもしれない。
 それくらい、この試合は注目されている。
「多分、誰も僕たちが勝つなんて思ってないよ」
「――ぬあっ」
 きっと観戦者も、白鳥沢高校の選手ですら、決勝に残るのは青葉城西高校と思っていたに違いない。
 烏野高校は一度だけ全国大会に出ているけれど、それ以外の成績はパッとしない中堅校だ。あれは一代限りのマグレだと思っている人は、皆が考えるよりずっと多かろう。
 学校名を聞いて、過去の栄光がすぐに思い浮かぶ人は、関係者ばかりだ。
 ネームバリューも、規模も、実力も。
 なにひとつ、烏野高校は敵わない。
 それでも彼らは勝ち上がり、ここまで来た。
 不遜に笑みを浮かべた月島の隣で、冷静に勝率を分析された日向が肩を震わせる。拳を固く握りしめて、小柄なミドルブロッカーは悔しさに鼻息を荒くした。
「ぜってー、負けねえぞ!」
「うっ」
 そうして決意を込めて吼え猛って、横にいた月島をまず驚かせた。
 不意打ちの大声にダメージを受け、眼鏡のミドルブロッカーが嫌そうに顔を歪めた。ずり落ちたフレームを押し上げて位置を調整して、月島は勝手に落ち込み、勝手に息むチームメイトに嘆息した。
「はいはい」
「なんだよ。月島だって、もうちょっと、こう……えっと。張りきれよ!」
 少しは落ち着くよう諭せば、またしても噛み付かれた。
 その淡々とした態度が気に入らないのだと目を吊り上げて、高校一年生に見えない男子は小鼻を膨らませた。
 可愛らしく拗ねて、睨みを利かせる。
 落ち着き払っているのを何故か抗議された月島は半眼して、小さく首を振った。
 語彙が足りないのは、どうにかならないのだろうか。
 巧く言いたいのに言えなかった同級生の知能指数を心配して、彼は無防備な額を人差し指で弾いた。
「あでっ」
 予想していなかった攻撃を受け、日向は上半身を仰け反らせた。
 たいして痛くなかっただろうに悲鳴を上げて、恨めし気な顔をする。両手で打たれた場所を庇う姿は滑稽で、緊張感に欠けていた。
 ちょっと涙目になっているのを鼻で笑って、月島は緩く握った拳で彼の頭を小突いた。
「今更ジタバタしたって、実力差は埋まらないでしょ」
 白鳥沢高校は県内でも有数の進学校で、設備も充実し、恵まれた環境は他校の比ではなかった。
 練習試合の相手は大学生で、県外への遠征も盛ん。知名度に見合うだけの価値がある学校であり、バレーボールの為に受験する中学生も多かった。
 月島も一時期、考えた。
 けれど試合風景を目の当たりにして、あまりにも不釣り合いだとあっさり諦めた。
 自分の技量では、きっと練習について行けない。唯一の武器とも言えた身長も、あの輪の中に混じれば、平凡なサイズに落ち着いてしまった。
 試合に出るどころか、控えにもなれない。三年間頑張っても、応援席で揃いのTシャツ姿で声援を送るのが関の山だ。
 最初から負ける勝負はしない。
 負け犬になるのだけは、絶対に嫌だった。
「なんか、皮肉」
「うん?」
「こっちのこと」
 惨めな思いはしたくないから、烏野高校を選んだようなものだ。だというのに、気が付けばその惨めな試合結果を予想させる展開に、自ら飛び込もうとしていた。
 いつ、コース変更したのだろう。
 平地を真っ直ぐ進んでいた筈が、知らぬ間に急峻な山道に突入していた。
 けれど不思議と、悪い気はしなかった。
 今から慌てふためいたところで始まらない。だったら心を落ち着かせ、これまで積み重ねて来たものを信じるより他にない。
 一年前、圧倒的勝利を前にして足が竦み、動けなかった頃とは違う。
 後ろに下がるのではなく、前に。
 前に出るのだ。
「くっそ。ムカツク」
「僕に?」
「全部!」
 横ではまだ日向が頬を膨らませ、不平不満をぶちまけていた。
 聞こえた悪態に乗っかれば、彼は腹の底から声を響かせ、肩を怒らせた。
 フー、フー、と獣の如く荒い息を吐き、奥歯を噛み締めて、血走った目をギョロつかせる。右に左に、忙しく往復する眼は体育館へ向かう人ごみに向けられており、小さな耳はそれらの会話を掻き集めているようだった。
 月島も彼に倣い、周囲に意識を拡散した。結果得られたのは、案の定、白鳥沢が圧勝する未来を期待する声だった。
 スコアの予想が聞こえた。
 準決勝までは最大第三セットまでだが、決勝戦は最大第五セットまで競い合う。三セット先取した方が勝ちであり、これまで以上に体力勝負を強いられた。
 無邪気な女子が、ストレート勝ちするだろう、と甲高い声で喋っていた。相手高校が可哀想だ、との声も聞かれた。烏野の文字が読めず、「ちょうの」高校とさえ言われていた。
 言うなれば、自分たち以外が全て敵のようなものだ。
 圧倒的、アウェー。けれど烏野高校は、いつだって不利な状況を跳ね返して来た。
「窮鼠猫を噛む、って言うしね」
 関東遠征を繰り返し、全国レベルのチームとの対戦を繰り返した。
 人に意見を求め、社会人チームに混じって研鑽を積んできた。
 何もしてこなかったわけではない。
 貪欲に勝ちを求め、自分に正直になった。
 不遜に笑い、口角を持ち上げる。日向ほど表に出て来ないだけで、月島だって、本当は勝手なことを言う連中に少なからず腹を立てていた。
 数時間後、彼らは思い知る。
 白と黒、どちらが強いのかを。
「……キューリが、なに?」
「君ねえ」
 だというのに、傍らから間抜けにも程がある質問を投げられた。
 密かに意気込んでいたのを台無しにされて、月島は間が悪すぎるチームメイトにがっくり肩を落とした。
「一回、耳鼻科に行った方がいいんじゃない?」
 どうして窮鼠が胡瓜になるのか。
 聞き間違いも甚だしいが、そもそも彼は、その慣用句自体を知らない可能性が高い。
 影山もそうだが、日向は度々、武田の語る言葉に首を傾げていた。都度菅原辺りがフォローをしているが、本当に分かっているかどうかは謎のままだ。
 武田も国語教師としての性なのか、変に捻った単語を使いたがる傾向にある。
 熱血漢でスパルタでないだけまだいいが、聞いていて恥ずかしくなるポエムは、月島もあまり好きでなかった。
 良いことを言っているのに、寒気を覚えて蕁麻疹が出そうになる。
 そういうところも含め、烏野高校はとても歪で、異彩だった。
 綺麗にまとまっていない分、化学変化が起き易い。必死で食いつく姿は不細工だけれど、形が定まっていないからこそ、自由に動き回れた。
「ンだよ。キューリがどうしたってんだよ」
「胡瓜じゃなくて、窮鼠。追い詰められた鼠は、猫にも勝つ、って事だよ」
「おれら、鼠かよ」
「烏だね」
 しつこく食い下がる日向の間違いを訂正して、不満げな表情には不敵に笑いかける。
 短く告げられた台詞に一瞬目を見開いて、第二の小さな巨人は三秒後、白い歯を見せて首を竦めた。
「おうよ」
 少し照れ臭そうに、けれど誇らしげに。
 面映ゆげに目を眇めた日向を見詰めて、月島は柄にもなく右腕を振り回した。
「頼むよ。ミニマムな巨人」
「うっは」
 隙だらけの小さな背中を思い切り叩き、前に押し出す形で腕を振り抜く。予期していなかった日向は片足立ちで飛び跳ねて、告げられた台詞に不思議そうな顔をした。
 これしきの英単語も分からない馬鹿に頼るなど、中学時代では考えられなかった。
 眩しすぎる輝きに、前は避けて通っていたけれど。
 今なら真正面から、胸を張って向き合える気がした。
「ミニマ……え?」
「お前ら、急げよー」
「はーい」
 聞いたことがあるけれど、咄嗟に意味が出て来ない。日向は当惑してクエスチョンマークを生やしたが、追及は菅原が許してくれなかった。
 体育館前で集合している一団に、月島は背伸びをして答えた。依然首をかしげている日向を再度急かして、先ほどよりは少し優しく背中を叩いた。
 促され、訝しみつつ日向が頷く。
「よーっし。やるぞー」
 運命のホイッスルまで、あと僅か。
 気合を入れ直した少年の声に、月島は満足そうに微笑んだ

2015/05/02 脱稿。

なづさひけりな梅の立枝を

 言い出したのは、審神者だった。
 それはうんざりするほど降り積もっていた雪が溶け、地面が露わになり始めた頃だった。
 刺されば痛そうな氷柱が軒から垂れなくなり、五百羅漢宜しく並べられていた雪だるまが拉げ、異形を成し始めた時期だった。
 緑褐色の羽根を持つ鳥が飛来して、優美な声を響かせていた。野に出れば蕗の薹が顔を出し、山辺から流れる川は雪解け水で嵩を増していた。
 雪はまだ降るが、前ほど積もらない。軒下の日向は暖かく、外を出歩くのも苦でなくなり始めていた。
 年寄りたちは相変わらず火鉢を囲んで動かないが、子供たちは元気だ。残り少なくなった雪を玩具にして遊び、駆け回る短刀たちの声は、いつの日も五月蠅かった。
 冬の間は出陣の回数も減っていた。日が沈むのが早く、不利な戦いを強いられるのを嫌った、というのもある。
 身体が鈍らないよう鍛錬は欠かさなかったが、物足りなさを覚えて鬱憤が溜まっている刀剣も多い。特に大型で、好戦的な薙刀や、血気盛んな太刀にその傾向が強かった。
 だから気晴らしをしよう、という提案が審神者から出されたものの、皆、何をするのかは分からなかった。
 料理当番の男たちが命じられるまま弁当を拵え、大量の食事と水、酒を運んでの行群は、傍目には奇異なものとして映っただろう。
 隊を組んで行動することはあっても、審神者によって降ろされた付喪神全員が一度に動くなど、稀な話だった。そもそも本陣を空にする事自体が、本来あってはならない事だった。
 いったいどこへ連れて行かれるのか。
 遠出を喜ぶのは短刀ばかりで、大半は戦でもない外出を渋った。しかし主には逆らえず、仕方なく大量の荷物を運び、黙々と歩いていた。
 雲行きが変わったのは、里を離れて山辺に近付いてからだった。
「アタシ、分かっちゃったかも」
 自前の酒瓶を手にぶら下げた次郎太刀が、真っ先に嬉しそうに手を叩いた。続けて石切丸も嗚呼、と嘯き、流石は主だ、と穏やかで優しい笑みを浮かべた。
 残る者は分からないのか、互いに顔を見合わせていた。しかし子供たちを先導していた一期一振も訳知り顔で頷いて、知りたがる弟たちに向かい、後の楽しみだと囁いた。
「……ああ、そういう事ですか」
「あにさま?」
「近くまで行けば、小夜にも分かりますよ」
 遅れて宗三左文字も得心がいった様子で首肯して、並んで歩いていた小夜左文字に目を細めた。
 日頃は騒々しいのを嫌い、屋敷に籠ってばかりの彼だけれど、今日ばかりはそれも許されなかった。強制参加だと審神者に命じられて、嫌々ではあったが、集団に加わっていた。
 けれど屋敷を出た時とは違い、今の表情はどこか楽しげだった。
 この先に、何か良い事が待ち受けているのだろうか。
 秘密だと囁かれた小夜左文字は緩慢に頷き、あまり遠くまで見渡せない、己の背の低さに頬を膨らませた。
 太刀や打刀たちの目には、何が映っているのだろう。道の傍らを流れる小川のせせらぎを聞きながら、彼は少し離れた場所に居る男の背中を睨みつけた。
 あちらも、行き先がもう分かっているのだろうか。
 先頭を行く審神者に追随し、なにやら言葉を交わしている。真後ろで加州清光が睨みを利かせているとも知らず、歌仙兼定は至って暢気だった。
 過去に遡って歴史の改変を目論む者たちが居て、これを防ぐために、審神者が派遣された。
 審神者は刀剣の魂を付喪神として降ろし、人の形を与えて、異形の介入者の討伐を命じた。
 だというのに、最近は変異が少ない。敵側も寒いのが苦手だという笑い話は、深く考えると、存外笑えない話だった。
 本格的な春が来れば、忙しくなるのだろうか。
 戦嫌いの長兄の顔を窺って、小夜左文字は首を竦めた。
「どこへ、行くのでしょう」
「戦でなければ、私はどこへでも構いません」
「……っ」
 自問自答を装って囁けば、思いもよらず合いの手が返された。宗三左文字の反対側にいた江雪左文字は、淡々とした口調で抑揚なく呟いた。
 冷淡な返答ではあったが、小夜左文字には十分だった。口数が少なく、刀剣でありながら争乱そのものを厭う男は、血濡れた手を持つ末弟を疎い、忌避している趣があった。
 それが勘違いであればいいと、何度願った事だろう。
 つれない応対とその中身にではなく、反応があった事それ自体を単純に喜んで、少年は少しだけ歩幅を広くした。
 各々がどのような思いを裡に秘めているかなど関係無く、新緑が芽吹き始めた野の道を、行列が進んでいく。
 終着点は唐突に訪れ、皆を驚かせた。
「おぉ、これは見事な」
「すっげー。良い香り~」
 遠くから眺めるのと、間近で目にするのとでは、矢張り違うようだ。
 岩融に並んで大柄な蜻蛉切が感嘆の声をあげ、金の髪が眩しい獅子王も、興奮気味に跳び上がった。
 そこは山裾に造り上げられた、立派な梅林だった。
 人の手が入っているのだろう、下草は綺麗に刈られていた。広々とした空間に枝を広げる梅の木は、花の色も紅や白と、種類が異なるものが多種、見栄え良く植えられていた。
 甘い香りがそこかしこから漂い、目だけでなく、鼻でも人を楽しませてくれる。風が吹けば特に顕著で、長時間歩かされた不満や疲れも、一瞬のうちに消し飛んでしまった。
「こいつはすげえや」
「お外でお弁当、素敵です」
 美しく咲き誇る花に見とれるのは、子供も大人も関係なかった。
 匂い立つ梅の木に圧倒され、大人びた風格漂う薬研藤四郎が感心したように目を細める。普段はおどおどしている五虎退も珍しくはしゃいで、彼が連れている虎たちも無邪気にじゃれ合っていた。
「よーっし、宴会だ!」
「花見か。悪くないね」
 一方で呑兵衛の次郎太刀は嬉しそうに両手を掲げ、朝早くから弁当作りに駆り出されていた燭台切光忠も、これならば、と満足げだった。
 そこかしこから歓声が上がり、庭より広い場所を舞台にして、短刀たちの間では早速追いかけっこが始まった。大人たちは宴の準備を開始して、運んできた茣蓙を花の下に広げていった。
 特に薫り高い木の傍に即席の陣を張り、食べきれるのか心配になる量の食事を並べていく。大きな酒樽も岩融なら苦なく運び込めて、酒飲みたちの嬉しそうな悲鳴が響き渡った。
「嘆かわしい事です」
「花を愛でる心が通じ合えば、争いなど起こらないでしょうに」
 それを少し離れた場所から眺め、宗三左文字と江雪左文字がほぼ同時に呟いた。
 長兄の表情は感情に相変わらず乏しいが、次兄の顔には露骨なまでの嫌悪感が表れていた。
 ああいう騒がしいだけの宴会は、あまり好きではない。
 折角こんなにも美しい花が咲き誇っているのだから、これを眺め、静かに楽しむべきではないだろうか。
 そう嘆く宗三左文字に同意すべきかで迷い、小夜左文字は視線を泳がせた。
 彼自身も、あまり騒がしいのは得意ではなかった。しかし兄ふたりに比べると、審神者に降ろされるのが早かった分、あそこで乱痴気騒ぎを起こしている者たちにも、相応の事情があるのは知っていた。
 あんな風に愚昧を気取っていなければ、心のやりようがない者だっているのだ。
 そんな輪の中に身を置くことで、自分だけが辛いのではないという安心感を抱かされる。少しずつ慣らされ、復讐に駆り立てる恨みや、憎しみを忘れそうになる。
 これではいけないと己を律しようとしても、長兄である江雪左文字は、憎悪を捨て去るよう諭して憚らない。
 争いを好まず、戦わずして終わらせる道を模索したがる男の考えが、小夜左文字には理解不能だった。
 だが兄の言葉には反発し難く、これからどうすれば良いかが分からない。仇を憎む気持ちを捨てれば楽になれるのかといえば、自身の存在価値が失われるようで恐ろしかった。
 一方的に押し付けられて、けれど完全に跳ね除けて嫌う事も出来ない。
 優しくされると嬉しくなるし、顔を見て、目を合わせてもらえるのは幸せだった。
 喩えその眼に映る姿が、哀れな弟を憂うものであったとしても。
 長い時を孤独に過ごして来た小夜左文字にとって、宗三左文字も、江雪左文字も、唯一無二の存在に違い無かった。他のなにものにも代え難い、大切な兄たちだった。
 根本的に理解しあえ無くても、傍にいたい。
 巧く言葉に出来ない感情を胸に溜め込んで、小夜左文字は長い躊躇を経て、小さく頷いた。
「僕も、花は……静かな方が良い、です」
 本当は花など、どうでも良かった。
 甘い匂いも、豪華な食事にも興味がない。子供だからと酒は飲ませてもらえないし、遠出の列に混じったのも、兄ふたりが揃って出かけるからついて来たようなものだ。
 一緒に居る時間が少しでも長くなれば、いつかもっと、ちゃんと分かり合えると期待した。
 今すぐとはいかなくても、彼らと本当の兄弟になりたかった。
 視線を上げ、遠くを見る。最も騒がしい集団の隣では、粟田口の兄弟たちが賑やかに、和やかに過ごしていた。
 一期一振を中心にして、藤四郎たちは皆楽しそうだ。会話も多く、この位置からでも楽しんでいるのが窺えた。
 好物を取り合い、負けた乱藤四郎を長兄が宥め、自分の分を代わりに差し出す。地団太を踏んでいた彼はそれで上機嫌になって、他の弟たちは不公平だと一斉に声を上げた。
 兄は皆に好かれ、兄も弟たちを愛おしんでいる。
 あんな風に、とは流石に言わない。けれど自分だって兄に慈しまれているという証拠が、目に見える形で、ひとつくらいは欲しかった。
 持たされた弁当を広げ、もそもそと箸を動かし、事務的に料理を口に運ぶ。俯いて黙々と食べる小夜左文字に目を眇め、宗三左文字は静かに右手を浮かせた。
「あ……」
 途端に小夜左文字の手が止まり、藍の瞳が大きく見開かれた。
「良く噛んで、食べなさい」
「っは、い」
 頭を撫でられ、箸に抓んだ煮しめが落ちた。慌てて拾って口に入れて、手掴みだった事に後から気付くが、もう遅い。
 左手を唇に押し当てたまま固まって、小夜左文字は視線を彷徨わせた。
 温い汗が背中を伝い、緊張感は半端なかった。行儀が悪いと怒られるのを覚悟して、心臓がきゅっと窄まった。
 箸を使うのは、苦手だった。
 短刀を手に戦場を駆ける分には問題ないのに、別の物を握ると途端に駄目になる。
 箸も、筆だってそうだ。どれだけ練習しようとも、未だ満足に扱えた例がなかった。
 綺麗に食べられないのは雅ではないと言われるが、手掴みで食べる方が早いのだから仕方がない。洗い物も減って効率的だと思うのだが、絶対に駄目だ、と徹底的に躾け直された。
 食事の席で、果たして何度、口論になった事か。
 まだ屋敷に人が少なかった頃を思い出して、彼はごくりと喉を鳴らした。
 里芋の煮しめを碌に噛まずに呑みこんで、左右から浴びせられる眼差しに首を竦める。
 彼らは普段、小夜左文字とは別々に食事をしているので、弟の手癖の悪さは知らない筈だった。
 失望させて、落胆させる事にだってなりかねない。
 油断したと悔やんでいたら、左手から小さなため息が聞こえた。
「小夜、手を」
「あに、うえ」
「次は、落とさぬように」
「半分に切ってからの方が良かったですね。あなたの手では、大きかったのでしょう」
 顔を向ければ、江雪左文字が懐紙を一枚、袱紗挟みから取り出したところだった。
 それで小夜左文字の掌を拭いてやり、短く忠告する。そこへ宗三左文字が、弟を庇う形で合いの手を挟んだ。
 軽く叱られはしたが、厳しく見咎められたりはしなかった。
 指先に残る滑りを綺麗に取り除かれて、小夜左文字は驚嘆に目を丸くした。
「あ、……りがとう、ございます」
 嬉しくて、照れくさくて。
 気恥ずかしくも、誇らしかった。
 最初は気が乗らなかったけれど、来て良かった。心の中で審神者に感謝して、小夜左文字は小さな手を握りしめた。
 宝物をもらった気がして、失いたくなくて大事に抱きしめる。
 頬を紅潮させている弟に、兄ふたりは肩を竦めて苦笑した。
「さーよくーん!」
「おや」
 そこへ不意に呼び声が響いて、宗三左文字が遠くで手を振っている今剣に目尻を下げた。
 義経公の守り刀は、年の頃が近いのもあってか、小夜左文字と殊に仲が良かった。
 単にあちらが一方的に、遊び相手として認定している面は否めない。だが付き合いが他より少し長めの為か、彼に誘われれば、小夜左文字も余程でなければ断らなかった。
 今回も即座に反応して、慌てて左右を見比べた。
「行ってらっしゃい」
「あまり、遠くへは行かないように」
 目で問われ、兄ふたりは止めなかった。逆に背中を押すことを言われて、彼は興奮気味に深く頷いた。
「行って参ります」
 畏まった口調で頭を下げ、立ち上がって素足に草履を引っ掻ける。今剣に真っ直ぐ駆け寄れば、西の方に一本だけ離れて聳える木を指差された。
「あそこまで、きょうそうですよ」
「負けない」
 彼の保護者である岩融は、次郎太刀と飲み比べの真っ最中だった。既にかなり酔いが回っているようで、豪快な笑い声が、耳に痛い音量でこだましていた。
 あそこに近付くと、引きずり込まれかねない。見境がなくなった大人は怖いと、前にもみくちゃにされた経験がある小夜左文字はうんざりした顔を作った。
「それじゃあ、……よーい、どんっ」
「待て。卑怯だぞ、今剣」
「えへへ。ぼくが、いっちばーん」
 その隙に、今剣が勝手に号令を出して駆け出した。意識が脇に逸れていた小夜左文字は完全に出遅れて、大声で詰るが意味はなかった。
 慌てて追いかけるが、一本下駄の癖になかなか早い。もともと身軽さでは群を抜いている彼だから、最初につけられた差を埋めるのは、簡単ではなかった。
 一生懸命走るものの、あと少しというところで梅の木に先に到着されてしまった。ぜいぜいと息を吐いて汗を拭って、小夜左文字は得意げな今剣に口を尖らせた。
「ぼくのかちー」
「ずるをしたのだから、今剣の負けだ」
「そんなことないですよー。ぼくのほうが、ばびゅーんって、はやかったでーす」
「この……っ」
「あっ、やりましたねー?」
 減らず口を叩く今剣に腹を立て、小夜左文字が発作的に彼の肩を突いた。後ろにふらついた少年は瞬時に体勢を立て直して、仕返しだと両手を前に突き出した。
 胸を叩かれ、今度は小夜左文字が姿勢を崩した。右足を半歩分後ろにずらして、倒れそうになった身体を支えて唇を噛み締めた。
「やったな」
「へっへーん。どうだ、まいったかー」
 自分は軽く、だったのに、今剣は思い切り力を込めて来た。
 反発を抱いて眼力を強めるが、得意になっている少年は意に介さない。小夜左文字は益々腹を立てて、生意気な短刀に利き腕を伸ばした。
 掴みかかり、ふんぞり返っていた烏天狗の鈴懸の衿を取る。しかし今剣は斜めに引き倒そうとする力を逆に利用して、受け身を取って自分から地面に転がった。
「よ、っと」
「――くっ」
 そうして前傾姿勢になった小夜左文字を、回転の勢いを用いて投げ飛ばした。
 軽々とした動きで捌かれて、小柄な身体が団子になって地面に転がった。
 もっとも小夜左文字だって、大人しくやられたままでは終わらない。背中から落ちる衝撃は気合いでやり過ごして、右の指先の力を強め、解けそうになった今剣の衿を引き絞った。
 喉を締められた少年は咄嗟にこれを外そうとして、小夜左文字を解放した。その隙に素早く身を起こして、藍の髪の少年は烏天狗に馬乗りになった。
 そして。
「ひゃっ、うひゃっ、あははは。だめです、小夜くん、やめてくださいー」
「負けたって、認めるか」
「まけです。ぼくのまけですー。だからくすぐるの、やめてくださーい!」
 合計十本の指で腋の下や脇腹を擽って、生意気な今剣に降参の白旗を振らせた。
 こんなところで刃物を取り出したら、後で何を言われるか分からない。だから平和的な方法で勝利を獲得して、小夜左文字は満足げに胸を張った。
 鼻から雄々しく息を吐き、笑い過ぎて泣いている今剣の上から退く。
 するとすかさず彼も飛び上がって、油断していた小夜左文字の背中に飛びついた。
「えーい」
「ぐっ」
 首に両腕を回して抱きつき、全体重を預けられた。他より軽いとはいえ相応に体重はあって、押し潰されそうになった彼は呵々と笑う悪戯っ子に奥歯を噛み締めた。
 辛うじて持ち堪えたが、膝はぷるぷる震え、今にも折れそうだった。力み過ぎて肩は突っ張り、肘も外側を向いて、拳は硬かった。
 重さに押し潰されるのを、歯を食い縛って必死に耐える。そんな小夜左文字に甘えるように擦り寄って、今剣は高く結われた髪に顎を置いた。
 両足は宙に浮き、一本下駄が空を掻いた。
 岩融なら楽勝で支えられる体重も、彼と同じ短剣の小夜左文字には、困難極まりない事だった。
「今剣、重い」
「えー? そんなことありませんよー」
 降りるよう言い聞かせるが、勿論聞いてもらえない。それどころか彼は楽しそうに声を響かせ、振り落とそうとする力に抵抗した。
 強くしがみつき、揺らされるのを逆に楽しむ。きゃっ、きゃっ、と笑われて、小夜左文字はいっそ後ろに倒れてやろうかと考えた。
 彼を下にして、仰向けに、後ろへ。
 足元は柔らかな黒土なので、怪我はしない筈だ。
 やられっ放しは性に合わない。擽るくらいでは足りなかったと、意趣返しを狙っていざ実行に移そうとして。
「おやあ? あそこにみえるのは、歌仙さんですね」
「っ!」
「うお、っと」
 不意に頭上の今剣が言って、小夜左文字はずるっ、と足を滑らせた。
 後ろに身体を傾けるつもりが、重心が崩れて前に倒れてしまった。咄嗟に顔を庇って両手を伸ばせば、水気を含んで柔らかな土に指先がめり込んだ。
 結局、今剣の重みに潰される形になってしまった。なにかと人を不機嫌にさせる少年を背負ったまま、彼は泥まみれになった両手に肩を震わせた。
 今剣も突如低くなった視界に目を丸くし、左右色違いの眼をぱちぱちさせた。先ほどまで見えたものが見えなくなって、それで下を向き、項垂れている小夜左文字に気付いて眉を顰める。
「小夜くん?」
「いいから、退いて!」
 あんなに必死に頑張ったのに、一瞬で水の泡になってしまった。
 八つ当たり気味に大声で吼えて、彼は不思議がる今剣ごと身体を振り回した。
 荒っぽいやり方で突き飛ばし、ぐちゃぐちゃになっている両掌に小鼻を膨らませる。折角兄が綺麗に拭いてくれたのに台無しだと、小夜左文字は惚けている短刀の鈴懸を握りしめた。
 そして。
「あー!」
「うるさい」
 今剣の白い衣装で両手を拭いて、抗議の声も叩き落した。
「ひどい。ひどいですー」
「ふん」
 彼の服は、今や胸元から腹の一帯が真っ黒だった。白梅にも負けない白さは失われ、山の烏天狗は一気にみすぼらしくなった。
 泥汚れなど、洗えば落ちる。
 だというのに嘆き悲しむ彼に溜飲を下げて、小夜左文字は満足だと両手を腰に当てた。
 これで、勝った。
 ひとり悦に入って喜んでいたら、鼻を愚図らせた今剣が、汚れた鈴懸を抓んで口を尖らせた。
「……いいつけてやる」
「ん?」
 声は低く、凄味があった。
 いつものお調子者で明るい彼とは一線を画す声色に、小夜左文字が眉を顰めた矢先だった。
「歌仙さんに、いいつけてやるー!」
「あ、待て!」
 突如天に向かって叫んで、今剣は一目散に駆け出した。
 不意をつかれて、またしても出遅れた。何故よりによってその男なのか、という思いが頭を過ぎったが、声に出して問い詰める余裕はなかった。
 思慮深く、何事に対しても控えめな兄たちとは違い、歌仙兼定は小夜左文字に対して異様に厳しいところがあった。
 箸の使い方に加えて、身なりもそうだ。
 髪を結う紐の長さが左右で違っているだけで、五月蠅く小言を言って来た。そんなところ、彼には一切関係ないのに、見てくれが悪いと落ち着かないと言って、櫛を入れて直そうとするから鬱陶しかった。
 そうやって彼に構われて、叱られて、時々褒められて。
 昔も、今も、思えば彼といる時間が、兄と共に過ごした時間よりも圧倒的に長かった。
 だから彼に叱られるのは、他の誰に説教されるよりも気分が落ち込んだ。
 今剣はその辺を分かった上で、あんな風に言ったのだ。
「待て、今剣」
 しかも彼の方が、小夜左文字より口が達者だ。
 どうして服が泥だらけになったのか。経過を省き、結果だけを告げ口されたら、上手く弁解出来る自信がなかった。
 なんとしても彼より先に、歌仙兼定を見つけなければいけない。
 悲壮感を漂わせ、小夜左文字は左右を見回した。
 身軽さが自慢の烏天狗は、既に見える範囲から消えていた。
 花をつけた梅の木が視界を遮り、噎せるような濃い香りが思考の集中を阻害した。どれほど豊かな芳香であろうとも、苛立っている時は神経を逆立てる効力しかないと、小夜左文字は顎を軋ませた。
「たしか……」
 先ほど、今剣はどこかに歌仙兼定がいる、と言っていた。
 あの時、彼はどちらを向いていただろう。覚束ない記憶と目の前の景色とを照らし合わせて、小夜左文字は勢い任せに駆けだした。
 草履で地面を蹴り飛ばし、前後左右に注意しながら前に進む。囀っていた小鳥が驚いて翼を広げげ、どこかの空へと飛び立っていった。
 翡翠色の羽根が踊って、小夜左文字は足を止めて手を伸ばした。
 羽ばたきの直後に抜け落ちたであろう一枚を掴み取ろうとして、失敗した手が空を掻いた。ふわり、ふわりと左右に揺れながら沈んでいく羽は軽やかで、行き先を予知するのは難しかった。
 なにもかも、上手く行かない。
 泥汚れが完全に拭えていない手を見詰めて、彼は深く肩を落とした。
 気が付けば大太刀たちの宴会の声も、殆ど聞こえなくなっていた。
 随分離れてしまったようだ。江雪左文字には遠くに行き過ぎないよう言われていたのに、気付かぬうちに約束を破ってしまった。
 言いつけを守らなかったと知れたら、今度こそ愛想を尽かされてしまう。不出来な弟との烙印を押され、ただでさえ隔たっている心が、一層遠ざかってしまう。
 折角、少しは歩み寄れたと思ったのに。
「あにうえ。あにさま」
 戻った方が良いだろうか。
 不意に不安に襲われて、小夜左文字は辺りを見回した。
 そうはいっても、どちらに行けばいいのか分からない。今剣を探して当てずっぽうに進んだ所為で、完全に方向を見失っていた。
 太陽は出ているが、それを頼りにする方法が、咄嗟に頭に浮かんでこなかった。
 最初に進んだのは西だったから、東に戻れば帰り着ける。だというのにそのことも忘れて、彼はふらふらと、篝火に誘われる羽虫のように、陽の光が明るい南を目指して歩き出した。
 剥き出しの石を踏み、地上に張り出た根を飛び越える。酔いそうな梅の香に時折足を止め、満腹には程遠い腹を撫でる。
 兄たちと共に居る緊張も手伝って、あまり食が進まなかった。
 もっと食べておけばよかった。屋敷では滅多に目にする機会のない料理が並んでいたのに、惜しいことをした。
「このまま、帰れなかったら」
 色とりどりの食べ物を思い返していたら、腹の虫がぐぅ、と鳴った。
 急に虚しくなってきた。嫌な想像を打ち消そうと首を振って、彼は両の頬を思い切り叩いた。
 小気味の良い音を響かせて、ひりひりする痛みで己を鼓舞し、奮起させる。
「よし」
 この程度の事で、へこたれてなるものか。
 意気込んで、小夜左文字は濃い紅色の花をつけた梅の木を回り込んだ。
 太い木を左に避けて、見えた景色に小首を傾げる。水の音が聞こえた気がして、左を向けば小川があった。
 丸太の端は苔生して、川べりには黄色い花が咲いていた。強すぎる芳香は流れる水が薄めてくれて、ここだけ空気が冷えていた。
「つめたい」
 雪解け水か、手を浸せば体温が持っていかれた。透明度は高く、川底の小石まではっきりと見えた。
 小振りの魚が泳いでいた。彼は不幸中の幸いと喉を潤し、濡れた両手を服に押し付けた。
 この川は、梅園の入り口近くで見たものと同じだろう。
 ならばこれを辿って行けば、皆の元へも帰り着ける。
 遠回りになるが、迷うよりはいい。期待を胸に抱いて、小夜左文字は道なき道を進もうとした。
 しかし、歩みは五歩と続かなかった。
「……歌仙?」
 並び立つ木々の影に、見知った影があった。
 一瞬現れ、次の瞬間には消えていた。幻かと疑いそうになったが、錯覚とは思えない事情が彼にはあった。
 今剣の言葉が蘇って、小夜左文字は突発的に駆け出した。
 丸太の橋を飛び越え、南へと突き進む。何度か木の根に躓いて転びそうになって、実際に一度は倒れたものの、痛みに負けずすぐに起き上がった。
 自分がどこへ向かっているかなど、分かるわけがなかった。
 ただここで見失ったら、もう二度と彼に会えない気がした。
 あの時だって、そうだ。
 別れを言う間もなく、引き離された。
「歌仙!」
 ようやく見つけた後ろ姿に、意図せずして吠えていた。必死の形相で叫んで、彼の歩みを鈍らせた。
 突如後方から飛んできた怒号に、あちらもさぞ驚いただろう。
 前につんのめった歌仙兼定は、呆気にとられた顔で振り返った。
「小夜?」
 惚けた様子で名を呼んで、何度も瞬きを繰り返す。ぽかんとした表情は間抜けだったが、笑い飛ばせる余裕などありはしなかった。
 残っていた距離を急いで詰めて、小夜左文字は気が急くまま、後先考えずにその背中にしがみついた。
「……おやおや。どうしたんだい?」
 風に踊っていた外套を捕まえ、そこに顔を埋めて動かない。頭を撫でる手はごく自然と伸ばされて、慣れた調子で髪を梳いた。
 手入れなどしたことのない藍の髪を数本掬い、戯れに指で絡め取る。軽く引っ張られた少年は渋々顔を上げ、大輪の花をあしらう外套の裏地に爪を立てた。
 横幅も十分な布を縦に集めて握りしめられて、動くに動けない歌仙兼定は苦笑を禁じ得なかった。
「それは、そういう風に使うものではないのだけれど」
「知ってる」
「ならば放してくれないかな。苦しいよ、小夜」
 肩で留めているので、後ろから引っ張られると首が辛い。
 仰け反り気味の体勢を強いられていると訴えられて、小夜左文字は仕方なく力を緩めた。
 途端に自由を取戻し、外套が一気に花開いた。風を受けて膨らんで、歌仙兼定に寄り添った。
 派手な色合いを好む男であるけれど、不自然なく着こなしているから癪でもある。歌舞伎者、という言葉が思い浮かんで、小夜左文字は彼に撫でられた頭を空いた手で覆った。
 不格好に歪んでいる赤い紐を気にして、細くなっている輪を引っ張る。しかし鏡もない環境下で、上手く行くわけがなかった。
「それで、どうしたんだい?」
「……べつに」
 突然大声で呼びかけたかと思えば、無言で飛びつかれた。その理由を問うた歌仙兼定に、小夜左文字は視線を外して呟いた。
 実際問題、どうしてあんな真似をしたのか、本人にも良く分かっていなかった。
 焦燥感に駆られ、不安に苛まれていた。
 目に見えないものに恐怖を抱き、胸は引き裂かれそうに痛んだ。
 ところが彼を前にして、大きな手で触れられた途端、元に戻った。何事もなかったかのように、心は落ち着いていた。
 不思議だった。
 訳が分からなかった。
 嵐に見舞われていたはずなのに、気が付けば風は止み、水面は穏やかに凪いでいた。
 どれだけ疲れていても寝床で横になれば安心するし、渇いた喉に水を送ればとても楽になる。食い物を口にすれば幸せな気持ちになれるし、それが甘いものなら尚更だ。
 不可思議な、けれどとても当たり前とも思える現象に見舞われて、小夜左文字は自分に眉を顰めた。うまく言い表せないもやもやを拳の中に閉じ込めて、覚悟を決めて顔を上げる。
「ん?」
「っ」
 歌仙兼定は睨まれても平然として、逆に優しく目で問うた。
 小首を傾げて見つめられて、言うべき言葉が失われた。小夜左文字はうっ、と喉を唸らせると、誤魔化しに足元の小石を蹴り飛ばした。
「今剣、が……逃げる、から」
 再度顔を背け、目を逸らし、ぼそぼそと小声で呟く。
 しどろもどろの言い訳は説明不足も甚だしくて、理解出来なかった歌仙兼定は首を反対側に倒した。
「今剣を探しているのかい?」
 彼なりに憶測を交えて解釈し、質問を改める。だが小夜左文字は首を横に振り、濃紺の袈裟を握り締めた。
 俯いて、口を噤む。これではなにも分からないと、歌仙兼定は苦笑した。
「小夜?」
「歌仙、こそ」
 今剣に意地悪をしたことを、告げ口されたくなかった。
 だから彼より先に、歌仙兼定を見付けようと思った。
 言葉にすれば、とても簡単な事だ。だというのにそれを上手く説明出来なくて、小夜左文字はもじもじと胸の辺りを弄り回した。
 なんとかこの話題から逃げようとして、そっぽを向いて吐き捨てる。
 誤魔化され、強引に話題を変えられて、歌仙兼定は表情から笑みを消した。
 ほんの少し困った顔をして、揺れる瞳を瞼の裏に隠す。
「花を愛でるのに、騒がしいのは似合わないだろう?」
「嘘だ」
「どうしてそう思うんだい?」
 雅を好む彼らしい回答はあまりにも模範的過ぎて、逆に不自然だった。
 本能的に察知して、小夜左文字が瞬時に歯向かう。間髪入れずに否定された男は語気を荒らげ、眉を顰めた。
 いつもの飄々とした態度が薄れ、余裕が失われていくのが感じられた。
 空気が凛と張りつめて、ぴりぴりと肌を刺す緊張感が息苦しい。下手に動けば切り裂かれてしまいそうで、小夜左文字は無意識に喉を庇い、奥歯を噛み締めた。
 押し潰されそうな雰囲気に抗い、圧倒されまいと腹に力を溜めこむ。
 突き刺さる眼差しは冷たく、別人のようだった。
「歌仙、は。……騒がしいのは、だって、嫌いじゃない」
 彼の前の主は、権力者に取り入るのが非常に上手い男だった。
 戦場で命を散らす武将が多々ある中で、誰に味方するかを冷静に見極め、時代の荒波を乗り越えた。その冷徹さは同時代を生きた者たちの中でも群を抜いており、若くして数々の武勲を上げ、長き繁栄の基礎を築いた。
 そんな男の愛刀が、花を愛でる為だけに主の傍を離れるとは思えない。
 言葉を選び、訥々と理由を語る。
 小夜左文字が知る歌仙兼定を思い返しながら紡がれた言葉に、男は暫し息を呑み、沈黙を保った。
 それから、短くも長い時間が過ぎて。
「……やれやれ」
 歌仙兼定は肩を竦め、弱り果てた表情で目を眇めた。
「小夜には、隠し事は出来ないね」
「馬鹿にしているのか」
「褒めているんだよ。おいで」
 降参だと白旗を振り、むっとした少年を手招く。素直に従った小夜左文字は、彼が膝を折って両手を差し伸べるのを見て、ごく自然に肩を浮かせた。
 出来上がった脇腹の隙間に腕を差し入れて、歌仙兼定は当然の如く彼を抱き上げた。
 小さな足が地面に別れを告げた。小夜左文字は左右の脚をぶらぶらさせて、近くなった梅の枝に目を瞬かせた。
 花との距離が狭まったからだろう、香りは一気に強くなった。
 但し、不快とは思わない。少し前までは吐きそうなくらいだったのに、嗅覚は麻痺したのか、可笑しな感じだった。
「前の主が、ね。好きだったんだよ」
 華奢な体躯を胸に抱いて、歌仙兼定が静かに口を開いた。
 見事に花を咲かせる梅にふたりして身を寄せて、揃って同じ花を仰ぐ。木の幹は地面に近い場所で斜めに傾ぎ、不可思議な形を作り上げていた。
 まるで龍が地に伏して、天に昇る瞬間を待っているかのようだった。
 薄紅の花は他の木に比べて大きく、形も整って美しい。香りは豊かで、許されるなら摘んで持って帰りたいくらいだった。
 草木を愛でる趣味のない小夜左文字であっても、樹齢を重ねたこの梅は別格だと分かる。
 喧しい宴会の場に選ばれたまだ若い梅とは、風格からして違っていた。
「歌仙の、前の」
「小夜は、あの方が嫌いかもしれないけれどね」
「……べつに」
 気性が荒く、残虐で、冷酷無比と恐れられた男。
 そんな男を思い返していたら、見透かした歌仙兼定が自嘲気味に笑った。
 彼のそういう笑い方が嫌いで、態度が素っ気なくなってしまう。もっとも歌仙兼定はそれさえ承知しており、愛想のない小夜左文字の背を優しく撫でた。
 ご機嫌取りだと分かっていても、彼の手つきは暖かい。
 梅の花から目を逸らして、小夜左文字は幅広の肩に寄り掛かった。
 落ちぬよう太い首に腕を回し、引き絞る。抱きしめる、というのには少し手荒な真似をされて、歌仙兼定は丸い頭をぽんぽん、と撫でた。
 そうして臥龍梅を仰ぎ見て、懐かしそうに目を閉じた。
「殿がね、自らお植えになられた梅に、少し似ていたんだ」
「僕は、知らない」
「……そうだね」
 今の主の傍を離れ、ご機嫌取りの仕事も忘れ。
 ただ一人、ひっそりと佇む。
 顔を合わさぬまま不満をぶつけられて、彼は歪む世界に首を振った。
 瞼を開けば、見えるものすべてが滲んでいた。深く息を吸い込み、時間をかけて吐き出して、彼は腕の中にある温かくも小さな身体に頬を寄せた。
 藤色の髪ごと擦りつけられて、肩口から押し出された小夜左文字は渋々顔を上げた。
 久方ぶりに目があった男は、控えめながらも嬉しそうに笑っていた。
「歌仙」
「だから、今の主に感謝しないと」
「うん?」
「小夜と、こうして梅を愛でられるのだから」
「……――ああ」
 話を振られ、小夜左文字も頷いた。力の抜けた表情を作って、今までとは少し違った視点で梅の木を仰いだ。
 奇妙な事にその美しさすら前と違って感じられて、爽やかな香りが堪らなく心地良かった。
 胸いっぱいに吸い込んで、彼は近くで咲き誇っていた一輪に手を伸ばした。
 散らしてしまわぬよう注意しつつ、焦げ茶色の枝を引き寄せる。手折ってしまわぬよう軽く押して角度を変え、花が正面を向くよう調整する。
「綺麗だ」
 これより他に形はない、と言い切れるほどに調和が取れた花弁が、五つ並んで円を作っていた。漂う芳香は甘く、小さな花の中には大きな世界が詰まっていた。
 素直に感心して、呟く。
 余分な飾りのない率直な感想を聞いて、歌仙兼定は声を潜めて笑った。
 己の中に宿る美も、そろそろ認めてやってもいいだろうに。血腥さが漂う復讐譚を脳裏に蘇らせて、彼は目を輝かせる少年に見入った。
 こうしていると、ただの子供と同じだった。
「落雁みたいだ」
「……ぶっ!」
 そして弛まぬ食欲も、他の短刀たちと大差なかった。
 正直すぎる意見に、我慢出来なかった。不意打ち過ぎて抑えが利かず、歌仙兼定は思い切り噴き出した。
 こんな笑い方は、雅ではない。
 慌てて咳払いをして取り繕うが、胸に抱く小夜左文字に聞こえなかったわけがない。恐る恐る右に視線を流せば、少年は紅の頬を真ん丸に膨らませていた。
「いや、ね」
「……………………」
「いだっ。いたい、痛い、小夜。止めなさい。引っ張るんじゃない。痛いじゃないか。こら、止めなさい。耳が千切れる!」
 目が合って、笑って誤魔化そうとしたが無理だった。
 拗ねてしまった少年は無言で手を伸ばすと、間近にあった歌仙兼定の右耳を抓んで思い切り引っ張った。
 手加減など一切無かった。渾身の力を込めて、幼子は自分の居場所も忘れて男の耳朶を外向きに捻った。
 歌仙兼定は抗議の声を上げたが、当然聞き入れられるわけがなかった。左右の腕は小夜左文字を抱きかかえるのに使っており、狼藉を働く手を払い除けるのは、無理な相談だった。
 引き千切られる痛みに耐え、生理的に浮かんだ涙で目尻を濡らす。長い睫毛を湿らせて、彼は勝ち誇った顔の少年に頬を引き攣らせた。
 満足そうにしているから、これ以上は言わずに済まそうと思う。
 子供らしくて可愛い感想だとの言い訳は、小夜左文字には通用しない。思い出すと腹筋が震えるので考えないようにして、歌仙兼定は騒動の最中で位置が下がった彼を抱き直した。
 ずり落ちてしまった分を修正し、負担が少なく、且つ安定感のある高さで調整する。小夜左文字も一時的に激しく揺さぶられるのを我慢して、太い腕の上で尻をもぞもぞと動かした。
「……いたい、か」
「うん?」
 そうしてぼそりと呟いて、他に比べて赤くなっている場所を撫でた。
 細い指を耳の付け根を這わせ、尋ねる。歌仙兼定は二秒してから反応して、思案気味に眉を寄せた。
 自分でやっておきながら、盛大に痛がるのを見て怖じ気づいたらしい。声はか細く震えており、後悔が滲んでいた。
「そうだね。小夜は、意外と力があるから」
 存外に可愛らしいところがある。普段の刺々しさが消えた殊勝な態度を見せられて、歌仙兼定は密かに微笑んだ。
 含みのある物言いをして、瞳だけを差し向ける。これくらいの意地悪は許されて然るべきと、男は心細げにしている少年を覗き込んだ。
 短刀の力など、たかが知れている。それを分かった上で告げられた嫌味に、彼はむすっと口を尖らせた。
 だがここで怒っては、歌仙兼定の思う壺だった。
 手玉に取られ、転がされるのは許し難い。ならば彼の想像の域を超えた対応が必要で、一瞬悩んだ挙句、小夜左文字はそれほど古くない記憶を掘り返した。
 あれは少し前、出陣を終えて屋敷に戻った後のこと。
 傷とも言えない傷を負った小夜左文字に、今の主がまじないだ、と囁いた。
「い、……いたい、の。いたい、の。とんで……いけ」
 それを思い出しつつ口ずさみ、審神者がやっていた通り、赤らんでいる患部の上で指を回す。
 くるくる、と円を三つばかり描いた彼に、しかし歌仙兼定は怪訝な顔をした。
「小夜?」
「ど、……どうだ。癒えたか」
「ええと。すまない。今のは、なんだい?」
 名を呼べば、興奮気味に訊ねられた。しかし意味が分からなかった男は首を捻るばかりで、その頭上には疑問符が大量に並べられた。
 期待していたような反応は、ひとつも得られなかった。
 審神者にやって貰った時は、驚くことにこれで痛みが引いた。傷自体は消えなかったものの、患部を覆っていたずきずきする感覚が薄れ、無くなったのだ。
 だというのに、歌仙兼定は怪訝にするだけ。となれば、効果がなかったと思って間違い無いだろう。
「……むぅ」
 これは特別な能力を有する者だけが扱える、特別なまじないなのだろうか。
 やるだけ無駄だったと、小夜左文字は小鼻を膨らませた。
「主が、痛くなくなる、まじないだと」
「へえ。だったら、主だけの力なのかもしれないね」
 一時に比べれば痛みも、痒みも薄れているが、完全に消えたわけではない。
 決して軽くはない体躯を片腕のみで支え持ち、赤みを残す肌を器用に撫でた男の言葉に、少年は面白くなさそうな顔をした。
 猫のように細い目を真ん中に寄せて、落胆も露わに肩を落とす。
 妙案だと思ったのに、完全に空振りだった。
 効力が期待できないのであれば、繰り返したところで意味はない。他に彼を癒す手段がないものかと思案して、小夜左文字は半眼した。
「そう、いえば」
「さあ。そろそろ皆のところへ戻ろうか」
「歌仙、待った」
「なんだい?」
 あの時、審神者は他にもひとこと、ふたこと呟いていた。
 それを思い出して、彼はこのまま歩き出そうとした男の衿を引いた。
 歌仙兼定は即座に足を止め、胸に抱く子供に向き直った。表情はあくまで穏やかで、優しげだった。
 彼には迷惑をかけている自覚があった。
 沢山、世話になっている。心配もかけている。
 ただ感謝の念はあっても、それをはっきり言葉に表したことはなかった。
 伝われば良い。
 彼が痛みを抱いたままでいるのは、嫌だ。
 審神者の言葉を頭の中で繰り返して、小夜左文字は教えられたことを実践すべく、紅の唇を開いた。
 淡色の蕾を花開かせて、緋濡れた舌先を空に投げ放つ。首は左に角度を持たせ、手は男の袖を握りしめた。
 直後。
「小夜――!?」
 ちろりと耳殻を舐められて、歌仙兼定は全身に電流を走らせた。
 驚愕に目を見張り、四肢を大仰に竦ませる。内臓までもが一斉に逆向いて、盛大に跳ねた心の臓が口から飛び出しそうになった。
 反射的に抱きかかえる子供を脇へ押し出し、突き飛ばしそうになったところで踏み止まった。呼吸は一気に荒くなり、あらゆる場所から温い汗が噴き出した。
 目の奥がちかちか明滅し、混乱した頭が銅鑼の音を響かせた。激しい眩暈に襲われて、濡れた右耳だけが別物になった感覚だった。
 己の身に何が起きたのか。
 把握はできているのに、全く理解出来なかった。
 力技で耳朶から引き離された少年は不満げだった。ぶすっと頬を膨らませて、折角のまじないが台無しだと嘯いた。
「まじ、ない……?」
「主が。軽い傷であれば、唾でもつけていれば治る、と」
 それもまた、初耳だった。
 歌仙兼定は目を白黒させて、聞いたこともない話に絶句した。
 審神者は未来からやって来たという。ならばこれは、刀剣たちが戦場を駆けていた、そのずっと後に囁かれ出した説だろう。
 考えてもみなかった事に唖然としていたら、小夜左文字が効果を知りたがって顔を寄せて来た。
 その眼は真剣で、澄み渡っていた。
 一切の穢れの無い、純真な輝きだった。
「どうだ。もう、痛くはないか」
「いや、あ……いや。ええと」
「歌仙」
「だから、いや……これは、その。なんと、いうか」
 追及されて、逃げられない。目を逸らし続けるのにも限界があって、歌仙兼定は心の中で、今の主である審神者に向かって呪詛を吐いた。
 逆心を抱くなど、あってはならない事なのに。
 あの人は、なんということを子供に教え込んだのか。
「痛くない、というか。あまり繰り返されると、違うところ、が……元気に、なりそう、というか」
 最早耳の痛みなど、完全に消し飛んでしまっていた。
 目を泳がせ、しどろもどろに呟く。自分でも何を言っているのかよく分からなくて、歌仙兼定は言葉を口にしてからはっとなった。
 気付いた時にはもう手遅れ。
 大人の男の裏事情など、子供である彼が読み解ける訳が無い。
 言葉の一部分だけを、額面通りに解された。ぺろりと再び舐められて、彼はぞわっと来た悪寒に四肢を戦慄かせた。
「さ、小夜!」
 竦み上がり、声を裏返して叫ぶ。猫のように擦り寄っていた体躯を力技で引き剥がし、惚けている子供を地面へと下ろす。
 荒くなった息を整え、肩を何度も上下させる。顔面どころか身体中が火照って熱く、槌で打たれる前の鉄に戻った気分だった。
 一方、自力で立つよう強要された少年は憤然とした面持ちで、言動不一致の男に地団太を踏んだ。
「元気になるのでは、ないのか」
「……主、恨みます……」
 案の定、彼は分かってなどいなかった。
 舐られる直前の、吹きかけられた吐息の微熱がもたらすものがなにか、彼はまだ知らないのだ。
 艶っぽさなど皆無に等しい姿ながら、濡れた唇の彩は危うい。丸みを帯びた頬、澄み渡る眼に、櫛を通せば美しい髪と、絹の如き白い肌。
 手折ってでも傍に置きたくなる程に愛くるしい、純真無垢なその姿は、艶やかに咲き誇る前の花の蕾に等しくて。
 見詰めていたら、吸い寄せられるようだった。
 穢れを知らぬ無邪気さが崩れ落ち、淫らに乱れ咲く様を不意に思い浮かべそうになって、歌仙兼定は大慌てで首を振った。
「歌仙?」
「いや、……なんでもないよ。なんでも。そう、なんでも。なんでも……」
 挙動不審を怪訝がり、小夜左文字が首を傾げた。それではたと我に返って、男はしつこいくらいに繰り返した。
 心臓は破裂しそうな勢いで鳴動し、餓えた身体は欲望に忠実であるよう囁いた。
 導火線に火が点いて、じわり、じわりと短くなっていくのが分かる。
 付喪神にそんな機能を付与した審神者を罵りながら、彼は近付こうとする少年を制した。
「い、いいかい、小夜。これは、駄目だ。絶対に。しては、いけない。いけないんだ。他の者には、うん。頼まれても、してはいけない」
 無知は罪だと、よく言ったものだ。
 理由が説明出来ないまま言い聞かせ、くどいくらいに念を押す。当然子供は訝しみ、不審がって眉を顰めた。
「……何故だ?」
 疑念を向けられて、歌仙兼定は人生、ならぬ刀生最大かもしれない窮地に冷や汗を流した。
「それは、ね。あれだ、あれ」
「あれ?」
「ええと、だから……昔、一緒にいたことがある相手にしか、効果がないんだ。ほら、言うだろう。傷を舐めあう、だとか、なんとか」
「そうなのか?」
 咄嗟に浮かんだ言葉を諳んじて、歌仙兼定は指でぐるぐる空を掻いた。
 我ながら苦しい言い訳だが、他に言いようがなかった。
 小夜左文字が純真で、知識がないのを良い事に、その場凌ぎの理由を語り聞かせる。その間も歌仙兼定は明後日の方向を向き続け、一切目を合わせなかった。
 後ろ暗いものがあるので、顔を見られない。
 今の彼には、小夜左文字は眩し過ぎた。
「……分かった」
 数秒の沈黙を挟み、少年はこくりと頷いた。
 完全に納得した表情ではなかったが、否定するだけの材料を持ち合わせていなかったようだ。彼なりに考えて出したであろう結論に、歌仙兼定は大袈裟なほどに安堵した。
 深く息を吐き、胸を撫で下ろす。
 額の汗を拭い、当面の危機を脱したと、緊張を解く。
 力なく膝を折って蹲った男に首を捻り、少年はちりりと痺れている舌先で歯の裏を舐めた。
 まるで彼の痛みを自分が引き受けたようで、少し、誇らしかった。
 彼の役に立てた。それが嬉しくて、胸が静かに高鳴った。
「歌仙」
「……なんだい?」
「ならば僕は、歌仙になら、効果があるのだな?」
「――っ!」
 まじないは、通じた。
 効力が確認出来た。
 彼の言葉はそういう意味だと解釈して、小夜左文字は自分に向かって頷いた。小さな拳を胸に当てて、良く分かったと鼻息を荒くした。
 上手く躱せたつもりで、全く出来ていなかった。
 今になって失敗に気付くが、時すでに遅し。最早取り返しがつかない事態になって、歌仙兼定は絶句した。
「いや、小夜。そうじゃなくて」
「小夜君、みーっけ!」
「いたっ」
 慌てて弁解に移ろうとするが、甲高い声がそれを遮った。投げ放たれた小石を頭にぶつけられて、小夜左文字の注意も脇へ逸れた。
 見れば藤四郎たちが木陰に隠れ、声も高らかに笑っていた。
「次は小夜が鬼だからねー」
「悔しかったら、捕まえてみせるのです」
 乱藤四郎が勇ましく宣言し、前田藤四郎が即座に踵を返した。
「捕まえられるもんなら、捕まえてみな!」
「どうしても無理だってんなら、代わってやってもいいんだぜ?」
 厚藤四郎も遠くから小夜左文字を煽り、薬研藤四郎は余裕綽々の表情で参戦を促した。
 そこまで言われて、黙ったままでいられるわけがなかった。
「全員、叩き潰してやる!」
「わー。逃っげろー!」
「鬼が来たぞー」
 子供たちの明るい、元気な、呑気極まりない声が梅園にこだまする。
 笑い声が何重にもなって広がっていって、話の途中で放置された男は呆然と目を瞬いた。
「いや、小夜……?」
 間違った知識が訂正されぬまま、去られてしまった。
 引き留めようとして果たせず、行き場のなくなった手が虚しく空を握り締める。頬をひくひくと引き攣らせ、歌仙兼定は目を点にした。
「ま、まあ、……いい。か?」
 ひとまず他の者たちにはやらぬよう、釘だけは刺した。
 残る誤解はおいおい、ゆっくり解いていけばいい。
 本当は良くはないのだが、今すぐ困る事ではないと自分に言い聞かせる。気を取り直し、汗で湿る前髪を掻き上げる。
 そろそろ宴会の方も、食事や酒が底を突く頃だろう。
 帰り支度が始まっているなら、手伝わなければいけない。
 後で文句を言われるのは困るから、と、歌仙兼定は現実逃避よろしく、ふらふらと起き上がった。
 そして。
「腹をお斬りなさい」
 背後から音もなく突きつけられた刃に、一瞬にして青くなった。
 さーっと血の気が引く音がして、口角が持ち上がった状態で表情が固まった。人間、恐怖が行き過ぎると笑ってしまう現象を体感して、彼は首筋に押し当てられた太刀にだらだらと汗を流した。
 冴えた彩は鋭く、少しの力で楽々肉を引き裂けよう。見事に鍛え上げられた刀身は雪の如き輝きを放ち、硬直する歌仙兼定の顔を映し出した。
 少しでも動けば、首が落ちる。
 明確な殺気を後ろに見出して、彼は降伏の意味を込めて両手を掲げた。
 しかし太刀は退かない。
 代わりに抑揚なく、淡々と、静かに告げ直された。
「今すぐ、腹をお斬りなさい」
 冷酷な台詞を、無感情に言い放つ。
 白銀の髪を靡かせて、袈裟を羽織る男は世を愁いで目を細めた。
 左文字三兄弟の長兄にして、武功高き太刀でありながら、血を流す真似事を厭う男。
 争いごとを毛嫌いして、話し合いでことを解決しようと説く、本丸唯一の存在。
 その男が、歌仙兼定に刃を向けていた。
 抜き差しならぬ状況に、脂汗が止まらなかった。
「こ、江雪殿、は。戦事が、お、お嫌いの、筈では」
 振り返ることも出来ぬまま、彼は必死に捲し立てた。このような真似は彼の本意に反すると、平和的解決を模索して声高に叫んだ。
 願いは、果たして通じたか。
 江雪左文字は低く笑い、薄皮一枚を裂いた刃を数寸、彼から引き離した。
「――っ!」
 安堵出来たのは、一瞬にも満たない時間だった。
 直後に右の耳を下から削がれそうになり、歌仙兼定は顔面蒼白になって奥歯をカタカタ言わせた。
 肝が冷えた。熱は過ぎ去り、極寒の地に裸で放り出された気分だった。
「江雪、どの……?」
「切腹は、武者としての最後の誇りを守ること。違いますか?」
「……お待ち、くだ、さい……」
「せめてもの情けです。介錯は、してさしあげましょう」
「あの、……どうか。お許しを……」
「なにか申されましたか?」
 言葉が一切通じない。
 弁解の余地など、どこにもありはしなかった。
 梅の園に、聞き苦しい悲鳴が響き渡る。
 それは子供たちの歓声に掻き消され、誰の耳にも届かなかった。
 

2015/02/14 脱稿