詭謀

 眠れなくて、寝返りを打つ。
 もぞりと布団が膨らんで、丸い塊からスポン、と茶色い頭が飛び出した。すっぽり包まっていたところから身体の一部を引き抜いて、沢田綱吉は落ち着きなく身じろいだ。
 天井にぶら下がるハンモックからは、すぴー、すぴーというふざけた寝息が聞こえて来た。照明が全部消されているので見えないけれど、ほぼ確実に、鼻提灯が膨らんでいることだろう。
 赤ん坊の呑気な寝顔を思い浮かべて、彼はふるふる首を振った。
「今、何時」
 掠れる小声で呟いて、枕元へ利き手を伸ばす。
 掴み取った目覚まし時計を眼前へ引き寄せるが、頼りになる灯りがない状態では、目を凝らしてもなにも見えなかった。
 一定のリズムを刻む針の音を間近で聞いても、ちっとも楽しくない。諦めて元の場所に戻して、今度はその付近を数回、埃でも払うかのように手を動かした。
 ぽん、ぽん、とパイプベッドの上を探り、敷布団とは異なる感触を見つけて慌てて戻る。
 一旦行き過ぎかけた手を戻して掴み取ったのは、四角くて硬い物体だった。
 指はごく自然と動き、二つ折りの端末を開いていた。パカ、と上下に広げて縦に伸ばせば、反応した画面がパッと明るくなった。
 バックライトの青白い光が、暗闇を裂いて辺りを眩しく照らした。
 暗がりに慣れていた目には、小さくとも鮮烈な輝きだった。慌てて引き離して、瞬きも繰り返して、彼はドキドキしながら画面を覗き込んだ。
 縦長の液晶モニターの、右上にデジタル時計が表示されていた。
「二十三時、五十六分」
 一日を二十四分割して、更に細かく切り刻んだ数字は、間もなくリセットされてゼロに戻る。
 声に出して呟いて、彼はじわじわ沸き起こる実感に胸を高鳴らせた。
 いつもより早めに寝床に入ってみたものの、どうしても寝付けなかった。頭まで布団を被り、羊も三百まで数えてみたものの、睡魔は全くやってこなかった。
 普段なら目を閉じて、三秒で眠れるというのに。
 一年に数回あるか、ないかという状況の原因は、分かっている。
 厚みのある液晶画面を指でなぞって、綱吉は時計の隣にある日付に焦点を移した。
 十月十三日。
 それが間もなく、十四日になろうとしていた。
 去年は散々な一日だったが、今年はきっと、違う。
 期待と不安が入り混じって、頬は紅潮し、目は爛々と輝いた。
「あと、二分」
 ハンモックで眠っているリボーンを起こさないよう、綱吉は頭の天辺まで布団を被り直した。携帯電話の位置も移して、光が外へ漏れないように布で囲った。
 右肩を下にして横向きになり、刻一刻と近づく運命の瞬間を待つ。
 緊張し過ぎか、耳鳴りがした。心落ち着かせるべく、綱吉はふー、と息を吐いた。
 目を閉じて、深呼吸。
 早く来て欲しいような、そうでないようなドキドキ感が極まって、ピクリと震えた足が攣りそうになった。
「いっつ」
 唐突にこむら返りを起こした左足に悲鳴を上げ、携帯電話を持つ指はあらぬボタンを押した。
 暗くなりかけていた画面が、パッと切り替わった。そんなつもりはなかったのに、電話発信の為の表示が現れた。
 先頭に、七の数字が出ていた。
 誤って押してしまったボタンに、ぎゃっとなった。焦り過ぎて足の痛みも忘れて、綱吉は慌ててホーム画面を呼び戻した。
 前に皆で撮った集合写真がパッと現れて、そこに色々なアイコンが覆い被さった。それらを端から順に眺めていて、はたと気づいた彼は急ぎ音量調整のボタンを押そうとした。
 しかし。
「ぎゃっ」
 思い出すのが少し、遅かった。
 目覚まし時計の針がカチリと鳴って、画面上の数字にゼロが並んだ。
 刹那。
 狙い定めていたかのように爆音が耳を劈いて、握っていた携帯電話もぶるぶる震え始めた。
 最大音量、最大振動。
 なにかあってもすぐ気が付けるよう、そういう設定をしてあった。
 但しこんな真夜中では、ただの迷惑な騒音でしかなかった。
「ちょ、え、あっ、待って。待って」
「うるせーぞ!」
「あだっ」
 突然のことに驚き過ぎて、無意識にベッドの上で飛び跳ねていた。被っていた布団を跳ね飛ばして身を起こせば、待っていましたとばかりに、案の定の一撃に見舞われた。
 安眠を邪魔された極悪家庭教師が、愛用している拳銃からゴム弾を発射したのだ。それは暗がりの中でも見事綱吉にヒットして、跳ね返った弾丸は天井、壁、床に当たって跳ね返った。
 最後にもう一回、呻く綱吉の側頭部を直撃して、ようやく止まる。
 トドメを刺された少年はベッド上に突っ伏して、その間も勿論、携帯電話は鳴りっぱなしだった。
 階下にまで届きそうな大音響は、持ち主に気絶することさえ許してくれない。早くしないと二撃目に襲われて、携帯電話そのものを破壊されかねなかった。
 たかがゴム弾と、侮るわけにはいかない。
 なにせ見た目赤ん坊のあの家庭教師は、世界最強を自認する殺し屋なのだから。
 最初のうちは冗談と受け流していた自己紹介も、今となっては信じざるを得ない。彼が家に来てからは騒動が頻発して、息つく暇もなかった。
 ただ平穏を失った代わりに、得たものは沢山あった。
「ツナ」
「いって~~。分かってるよ、もう」
 低い声で凄まれて、綱吉は半泣きで鼻を愚図らせた。鳴り続ける携帯端末を手繰り寄せて、画面に出ている名前を確認してから応答ボタンを押した。
 着信メロディは三周目に突入していたが、かけてきた相手には諦める、という選択肢がないらしい。どこまで忠犬なのかと苦笑して、彼は細長の端末を耳に添えた。
 直後だった。
『お誕生日おめでとうございます、十代目!』
 これまた鼓膜を突き破らんばかりの、傍迷惑な大声が飛んできた。
 音が脳に突き刺さり、キーンと来た。咄嗟に電話を引き離してみるが時既に遅く、ハンモックに揺られる赤ん坊の凄味が増しただけだった。
 スピーカーを通して、離れた場所に居る彼にまで聞こえていた。それくらいのボリュームで祝われるのは、申し訳ないけれど、あまり嬉しくなかった。
 ただ電話の主はそのことに気付いておらず、察する気配もない。
『本当に、おめでとうございます。十代目のお誕生日をお祝いすることが出来て、俺は、すっげー、感激です』
 もしかしなくても彼は、時計の針が天辺で重なり合うタイミングを、電話の前で待ち続けていたのだろうか。
 時報が日付変更を告げると同時に発信ボタンを押して、祝砲を狙ったに違いなかった。
 その根性は、尊敬に値する。
 だが時と場所を、もう少し考慮して欲しかった。
「あ、ありがとう。獄寺君」
 意気込みは充分伝わったし、気持ちは有り難い。
 だから非難するより先に礼を述べたのだが、それが却ってよくなかった。
『はい、十代目。十代目のこの一年が幸多くありますことを、お祈り申し上げます。いえ、この右腕こと、男獄寺が必ず、十代目を幸せにしてみせます。十代目に降りかかる火の子を全て払い、この身に替えても、絶対に、是が非でも、地獄の果てまでお守り致します』
 調子に乗った獄寺が、勢い勇んで捲し立てた。喋っているうちに興奮して来たのか、声も段々ボリュームを増して、握り拳を作っている姿は楽に想像出来た。
 熱く語り出して、終わる様子がない。
 放っておいたらバッテリーが尽きるまで喋り続けそうな雰囲気に、冷や汗が止まらなかった。
 天井付近からは野獣の気配が漂い、こちらも落ち着かない。
「あ、あの。獄寺君、あのね」
『はい、なんでしょう。十代目』
「えっと、ごめん。ありがとう。おやすみ」
 急がなければ、リボーンから手痛い鉄槌が飛んでくる。
 折角の誕生日なのにプレゼントがタンコブなのは嬉しくなくて、強引に話に割って入り、綱吉は短く言って通話を切った。
 遠慮も、躊躇もない。
 申し訳ないとは思ったが、己の命の方がよっぽど大事だった。
「はー……」
 これでやっと、一安心。
 と思ったのは、甘かった。
「びゃっ」
 ホッと息を吐いたのも束の間、またしても掌中で爆音が轟き始めた。
 握りしめていたものを放り投げるくらい驚いて、彼は目を白黒させながら、跳ね放題の頭を抱え込んだ。
 今度は、誰か。
「はい、もしもし!」
 やけっぱちになりながら、発信元を確認せずに応答ボタンを押す。
 獄寺の勢いを引き継ぐ形で怒鳴り付ければ。
『おう、沢田か。今日が誕生日なんだってな。おめでとう!』
 負けず劣らず大きな声が、スピーカーから殴りかかってきた。
 勇ましいジャブを脳天に浴びて、ノックアウト寸前だった。脳髄がぐらっと揺れて眩暈が起きて、本気で泣きたくなってしまった。
 この声には、覚えがある。当たり前だ、良く知っている相手だった。
 山本ではない。彼は天然なところがあるけれど、時間帯に関しては、人としての常識を持ち合わせた男だった。
「お、おにい、さん……」
 自称綱吉の右腕たる獄寺に続き、夜中の零時を過ぎた時点で電話をかけてくる、傍迷惑な人。
 笹川了平の日に焼けた笑顔を思い浮かべて、綱吉は力なく項垂れた。
 思い込んだら一直線、燃える男は他人の都合をまるで考えない。どこで話を聞き付けたのか、これは祝わねば、と思ったに違いなかった。
 情報源は、笹川京子辺りだろう。
 眩い笑顔の兄妹を脳裏に並べて、彼は深々とため息を吐いた。
「はい。どうも、ありがとう……ございます」
 本当なら嬉しい祝辞も、タイミングの所為で素直に受け取れなかった。ゴム弾で撃たれた箇所はまだズキズキしており、脂汗が止まらなかった。
 心待ちにしていた今日がやってきたのに、テンションは下がる一方だ。力なく返事して、一方的に電話を切って、綱吉はがっくり肩を落とした。
「あ、メール」
 液晶モニターを待ち受け画面に戻して、右上に小さなアイコンが増えていると気付く。着信を伝えるランプも点滅を繰り返しており、ふたりと通話している間にも、誰かが電話をかけて来たらしかった。
 何件か、留守番メッセージが入っていた。着信履歴画面を表示させて、リストに並ぶ名前を順に眺めているうちに、初めて笑みがこぼれた。
「えへへ」
 同じ轍は踏むまいと、急いで着信音を切る。その上でメール画面を開けば、こちらもまたずらりと、未開封が並んでいた。
 知らないアドレスもあった。
 さすがに迷惑メールではないと踏んで開封してみれば、送り主は意外や意外、六道骸の名前になっていた。
 内容といえば、いつものあの変な笑い声の後、この一年せいぜい怯えながら過ごせば良いと、要約すればそういう事だった。
 ストレートに祝う気はないらしく、その辺は相変わらずだ。いかにも彼らしいと苦笑して、綱吉は照れ臭そうに目を細めた。
 ずっと、誕生日が嫌いだった。
 父親は長く不在で、家には母親がひとりだけ。兄弟はおらず、生来の不器用さが仇となり、友人らしい存在もいない。
 学校に行けば苛められて、教室の隅の忘れ去られた存在だった。勉強も苦手で、なにひとつ取り柄がなかった。
 そんなだから、誕生日パーティーを開いたところで、来てくれる人はゼロ。母の料理はおいしいけれど、賑やかなのが好きな彼女の性格が、こういう時ほど恨めしかった。
 それが、どうだろう。
「うん」
 まだまだ届くメールの数に頬を緩め、綱吉はほんのり湿った目尻を拭った。
 獄寺や了平に、悪気があったわけではない。一番に祝おうとして、眠い目を擦って待っていてくれたのだ。
「明日、ちゃんとお礼を言おう」
 感謝する気持ちがようやく湧いてきて、彼は力強く頷いた。携帯電話を宝物のように抱きしめて、それからもう一度、ずらっと並んだ名前に相好を崩した。
 電話は、さすがにもう鳴らなかった。こちらが眠っている可能性が考慮されて、遠慮してくれた人が殆どだった。
 海外からではディーノを筆頭に、有り難い事に九代目からも届いていた。ザンザスの名前もあったけれど、これは誰かが代理で書いたものだろう。ハルや京子からも来ていて、山本の分もあった。
 意外どころは、コロネロからも祝辞が届いていた。
 どこぞのヒットマンと違って、礼儀正しく、義理堅い。もう騒がないと察したか、再び寝息を立て始めた赤ん坊を窺って、綱吉は首を竦めた。
 この一年で、彼の生活は大きく変わった。
 マフィアのボスになれと言われて、友人が出来た。交友範囲が広がって、世界がひっくり返ったようだった。
 かつては敵だった相手と手を結んだり、未来へと飛ばされたり。
 目まぐるしい日々の連続だった。痛くて辛い思いも沢山したけれど、総じて悪くない一年だった。
 新たな一年は、どんな出来事が待っているのだろう。
 胸の昂ぶりを抑えて息を吐いて、綱吉は新着メールリストを下までスクロールさせた。
「……だよね」
 波立っていた心にも、やがて凪の時は来る。
 隅から隅まで確認しても、知った名前がひとつ、どこにも見当たらない。それは最初から分かっていたこととはいえ、ショックを隠し切れなかった。
 群れるのが嫌いな人だから、祝ってくれるとは思っていなかった。
 それでも少なからず期待した。もしかしたら、と願わずにいられなかった。
「っ!」
 外から物音が聞こえた気がして、驚いて背筋が伸びた。息を潜ませ気配を窺って、恐る恐る覗いた窓には、暗がりしか映らなかった。
 薄く、綱吉本人の顔が浮き上がっていた。向かいの家の電気は全て消えており、街灯に照らされる影は動かなかった。
 風の悪戯か、ただの空耳か。
 淡く思い描いた展開はやって来なくて、綱吉は四肢の力を抜き、ベッドへ倒れ込んだ。
 掛布団を引き寄せ、携帯電話は閉じて枕元へ。頭まで被ると世界は一層暗くなって、光ひとつ見えなかった。
「寝よう」
 呟き、深く沈んだ心を慰める。
 希望はあった。今日はまだ、始まったばかりなのだ。
 それに朝が来れば、学校にいかなければならない。遅刻は許されず、サボるなどもっての外だ。
 休むわけにはいかなかった。その為には、早く眠ってしまうに越したことはなかった。
 携帯電話は今でもメールを受信して、ぶるる、ぶるると震えていた。
 だが、開こうとは思わなかった。返事を打つのは、朝日が昇ってからだ。
 全員分ともなれば、かなりの量になる。学校に持って行って、没収されないよう気を付けなければいけない。
「おやすみ、なさい」
 だが風紀違反を見咎められるのも、明日に限っては悪くない案に思えた。
 全ては、朝日が昇ってから。
 愉しい一日になる夢を見るべく、綱吉はそっと目を閉じた。
 そうして、数時間が経った後。
 沢田綱吉は、史上稀に見る苛々の頂点にあった。
「十代目、今日のパーティー、楽しみですね」
「そうだね」
「ツナへのプレゼント、奮発したから、期待しててくれよな」
「ありがとう」
 右側に獄寺、左側に山本を従えて廊下を行くも、返事はどれも素っ気なかった。ふたりはあまり気にする様子がなかったが、傍目から見るに、綱吉の態度はかなり悪かった。
 チャイムが鳴って、廊下へ出た。ふたりは何も言わずついて来て、ごく当たり前のように綱吉を挟んで左右に分かれた。
 さっきからひっきりなしに話しかけて来て、鬱陶しい。だが無視すると余計絡んでくるので、相槌を打たないわけにいかなかった。
 歩き方は大股で、いつもに比べてかなり早足だった。それに難なくついてこられるのがまた癪で、ひとりになりたいというのに、なかなか振り払えなかった。
 そういう事情もあってもっと機嫌が悪くなって、誰彼かまわず当り散らしたくなった。折角の誕生日だというのに気分は最悪で、なにもかもが嫌になりそうだった。
 廊下をすれ違う生徒らが、異様な早足の三人連れに揃って変な顔をした。だが走ってはいないので、風紀委員は登場しなかった。
 最低限の規律は守っていると、胸を張りながら口を尖らせる。
 喚き散らしたい衝動を必死に抑えこんで、綱吉は見えた扉に唇を噛んだ。
「トイレ!」
「お供します」
「大きい方!」
 我慢ならなくなって、吼える。
 すかさず獄寺が申し出たが断って、恥も外聞もなく、綱吉は使う人が少ない男子トイレの戸を押した。
 威勢よく宣言したからか、目的地が同じだった見知らぬ生徒が慌てて引き返した。彼には心の中で謝罪して、綱吉は一番奥の、空いていた個室トイレに駆け込んだ。
 勿論、用を足したいわけではない。
 朝からずっと付き纏ってくるふたりからようやく解放されて、出たのは安堵の息だった。
「なんなんだよ……」
 獄寺は朝早く、綱吉を迎えに来た。絶対遅刻しない時間帯に一緒に登校して、以後ずっと離れてくれなかった。
 教室で合流した山本も同様で、なにかにつけて獄寺と張り合っては、綱吉を戸惑わせた。
 どうやらふたりして、どちらが綱吉をより祝えるか、競い合っているらしい。
 獄寺が日付変更と同時に祝いの電話をしたことを、得意げに吹聴したのが発端だ。気を利かせてメールにした山本は露骨に悔しがり、また、綱吉に迷惑をかけたのではないかと彼を責めた。
 勿論獄寺は反発して、そんなことはないだろう、と同意を求めて来た。それに綱吉が返事をしなかったものだから、山本が勝ち誇った顔をして、喧嘩はエスカレートしていった。
 口論は、常に綱吉を真ん中に置いて行われた。お陰でちっとも集中出来ず、お礼のメールはまともに返せていなかった。
 受け取ってばかりで返信出来ていないとポケットを探って、綱吉は冷たい壁に寄り掛かった。
「やっぱり、来てない」
 携帯電話を広げ、顔の前に持って行く。だが開いた画面で最初にしたのは、メール作成ではなかった。
 未読フォルダを開いて、中身が空なのに力なく肩を落とす。祝辞の嵐は午後に入ってひと段落ついており、昼休み以降は一通も届いていなかった。
 今日だけで、二十通近いメールが来た。
 けれどどれだけ待っても、一番欲しい人からの通知は来なかった。
「朝、いたよね」
 並盛中学校の名物とも言える、風紀委員がずらっと並んだ上での登校風景。黒の学生服にリーゼントヘアの男たちが列を成す様は壮観で、威圧感も抜群だった。
 そんな男たちを指揮するのが、風紀委員長こと雲雀恭弥。細身の狂犬はトンファーを自在に操り、並居る強敵を悉く朽ち果たして来た。
 ボンゴレ十代目の、雲の守護者でもある。孤高の浮雲の名の通り、なにものにも囚われない自由人でもあった。
 霧の守護者の六道骸でさえ、コンタクトを取って来た。雷の守護者であるランボは、朝食の席でおめでとう、と言ってくれた。
 嵐、雨、晴れの守護者は例の通り。
 だというのに最後のひとりだけが、未だ何のアクションも起こしていなかった。
 風紀の腕章を腕に着け、学生服を肩に羽織った黒髪の生徒。
 その姿は今朝、確かにこの目で確認した。
 午前中、学内で見回りをしている彼を見かけもした。獄寺や山本が一緒だったので話しかけられなかったが、一瞬だけ目が合った。
 なにも言われなかった。
 視線だって、興味なさげに逸らされてしまった。
 ショックだった。
 どうしようもなく、哀しかった。
「知ってると、思うのに」
 もしや彼だけ、今日がなんの日か知らない可能性を考える。だが三時間目の移動教室時、共に歩いていたふたりは声高に、綱吉の誕生日が今日であると語っていた。
 それがどれだけ目出度いか、力説していた。
 声は大きく、廊下ですれ違った雲雀の耳にも、しっかり届いていたはずだ。それに並盛中学校をこよなく愛する彼のことだ、在籍する生徒の誕生日だって、把握していて可笑しくなかった。
 だというのに、なにも起きない。
 沈黙する画面を孤独に睨みつけて、綱吉はボタンもなにもない場所を爪で掻いた。
 トイレを出れば、獄寺たちが待っている。授業もあとひとつ、残っていた。
 それが終われば家に帰って、賑やかなパーティーの始まりだ。
 雲雀は人と慣れ合うのを嫌がる。沢田家が喧騒に包まれている間は、絶対に近付いてこないだろう。
 学校にいる間が勝負だった。出来るものならトイレの窓から外に出て、応接室に駆け込んでやりたかった。
「無理だよなあ」
 だが生憎と、ここは三階。窓の外に頼りになるものはなく、飛び降りたらただでは済まない。
 死ぬ気になれば話は別だが、こんなところで力を使いたくなかった。学校内では日常生活を満喫するのだと誓って、顔を上げた彼は直後に落胆の息を吐いた。
 俯けば、便器が見えた。
 あまり楽しい環境ではないのを思い出して、綱吉は渋々、壁から身を剥がした。
 待っていたかのように、遠くからチャイムが響いて来た。鳴り終わる前に教室に入らなければ遅刻であり、急ぐ必要があった。
「やば」
 山本達まで巻き込むのは、さすがに申し訳なさすぎる。
 慌てて鍵を外して外に出て、彼はそのままドアへ向かおうとした。
「手くらい、洗いなよ」
「ふえ?」
 それを、余所から引き留められた。
 思ってもなかったひと言にきょとんとなって、綱吉は腕を前後に振ったポーズのまま凍り付いた。
 左手に携帯電話を握り、右手は緩く拳を作って。
 足も広げて踵が浮いた状態で、首だけが声のした方向に向けられた。
「え……」
 いったい、いつの間に。
 いや、いつから、居たのか。
 予想外も良いところの遭遇に騒然となって、彼は一瞬にして青くなり、直後に煙を噴いて真っ赤になった。
「ひあぁぁっ!」
「そんな汚い手で、僕の学校に触らないでくれる?」
 跳び上がって驚いた。声がひっくり返って、まるで女の子のようだった。
 それを淡々と受け流して、男が言った。ポケットから出したハンカチで濡れた手を覆って、丁寧に拭きながら睨みつけて来た。
 鋭い眼光は、猛禽のそれに近い。獲物と定めたものは逃さないと、漆黒の双眸が不遜に告げていた。
 綱吉は腹を下して、トイレに籠っていたわけではない。だから水も流さなかった。てっきり誰もいないと思っていたので、完全に油断していた。
 気が付かなかった。
 物音ひとつ、聞こえなかった。
 入った時、個室の扉は全部開いていた。となれば、後から入って来たとしか思えない。
 門番代わりの獄寺と山本は、どうしたのか。まさか打ち倒されて廊下に転がっているのではと、想像して寒くなった。
「い、え。あの」
「なに」
「なっ、なんでもありません!」
 言いたいことや、聞きたいことは沢山あった。
 今日はオレの誕生日ですだとか、ふたりは無事なのですか、だとか。
 だというのにいざ口を開けば言葉に詰まり、根性なしが顔を出した。
 裏返った声で悲鳴を上げて、注意されたことも忘れて駆けだした。手を洗いもせず扉を開けて、誰も居ない廊下に一瞬虚を衝かれた。
 いると思っていたふたりの姿が見えず、頭の上ではチャイムが余韻を残して消えていく。今日最後の授業は数学で、担当する教師は出席に厳しい人だった。
「ちょ、えっ。もう!」
 パニックに陥って、頭がまともに働かなかった。
 急がないと雲雀が出てくる。会いたかった筈の相手から、今は兎も角逃げたかった。
 あんなのは、不意打ちだ。動揺してしまって、冷静に対処するなど無理な相談だった。
 地団太を踏んで、綱吉は叫んだ。なにを優先させるかで悩みに悩んで、出した結論は良いからここから離れろ、だった。
 獄寺たちの行方が気になったが、己の身の安全も重要だ。悪いが部下は見捨てることにして、彼は一目散に駆けだした。
 一秒でも早く雲雀の前から逃げ出して、安心できる場所に移りたかった。この際教室でも、どこだって良い。ひとりきりにならずに済むなら、ヴァリアーの居城だって大歓迎だ。
 さっきまであれだけ一人になりたかったのに、身勝手も良いところだ。しかし覚悟がないまま雲雀と向き合うには、残念ながら勇気が足りなかった。
 ぎりぎりセーフで教室に滑り込んで、荒い息を吐きながら机へとへたり込む。獄寺や山本は先に席に着いており、後から気付いた綱吉を驚かせた。
 恐らくは、雲雀に追い払われたのだろう。
 それとも変に気を利かせたか、なんなのか。
 彼らが無事で良かったと安堵しつつも、複雑な心境は否めない。巧く行かないことだらけで、穴があったら入りたかった。
 放課後の帰り道は、例の二人に加え、了平や京子が一緒だった。途中からは学校が違うハルが加わって、近所の公園では、にフゥ太やランボたちが列に加わった。
 誰も彼も笑顔で、みんなして嬉しそうだった。
 綱吉とリボーンの合同誕生会開催を心から喜び、盛大に祝う意気込みに溢れていた。美味しいものが食べられるから、騒ぎ立てる正式な理由が出来たから、という理由以外で、本当に嬉しそうだった。
 夢にまで見た光景が、そこに広がっていた。
 一斉に糸が引かれたクラッカー、空中に漂う少量の火薬の匂い、降り注がれる紙吹雪。
 山本の実家から届けられた寿司、生クリームたっぷりの大きなケーキに、テーブルからはみ出るくらいの奈々お手製の大量の料理。
 ビアンキ特製の毒々しい料理も勿論混ざっており、主な被害者は獄寺だった。参加者は順にかくし芸を披露して、プレゼントが山を作り、海外からのメッセージカードが賑わいに花を添えてくれた。
 幸せだった。
 嬉しかった。
 こんなに楽しい日があっていいのかと、泣きそうになるくらいだった。
 だけれど矢張り、物足りなさがあった。チリチリと胸を焦がす感覚が、昼間からずっとそこに留まり続けていた。
 贅沢な悩みだが、どうせなら知り合い全員から祝われたかった。
 おめでとうの言葉ひとつで構わない。数年前なら思いもしなかった欲望が、むくむく膨らんで弾けそうだった。
 敵対していた連中からも、メッセージをもらった。
 だというのに、ファミリーの中から声を上げない輩が出るのは、ボスとして受け入れ難い状況だった。
 他人が勝手に決めた配役ではあるが、嫌な気はしなかった。そんな重責背負えないと反発しているけれど、心のどこかで、彼らと『家族』になるのは悪くないと思っていた。
 はち切れそうな胃袋と、緩みっぱなしで戻らない顔の筋肉。疲労感はほどほどに、目を瞑れば楽に眠れそうだった。
 昨日とは雲泥の差だ。風呂を終えて頭を拭きもせず、綱吉はベッドに四肢を投げ出した。
 雫が首を伝って冷たいが、払い落とす気力が沸かない。もう今日はなにもしたくなくて、早々と終わって欲しかった。
 一年分の幸福を、一日で食べ尽くした。
 この満腹感は、当分の間消えそうにない。丸くぽっこり膨らんでいる場所をパジャマの上から撫でて、綱吉は物憂げな表情をシーツに押し付けた。
 こんなにも満ち足りているのに、まだ欲しい。
 望みが遂げられる甘美さを知ってしまった心は、次々に新たな欲望を産み出し、止め処なかった。
「はあ……」
 あんなに笑ったのは、久しぶりだ。
 愉しかった。日付が変わった瞬間からここまで、振り返れば一瞬だった。
 ちょっと嫌な思いをしたけれど、帳消しにしてもいい。リボーンに撃たれた場所はもう痛まず、触れても腫れは見つからなかった。
 だというのに、ため息が止まらない。
 子供に戻った心が拗ねて、小鼻を膨らませていた。
「ヒバリさんの、馬鹿」
 枕を担ぎ上げ、後頭部に被せる。うつ伏せのまま呻いて丸くなって、綱吉は足首を撫でた風に身を震わせた。
 十月も半ばに入り、秋の色は日増しに濃くなっていた。田畑は収穫のシーズンを迎えており、芋やカボチャを使ったスイーツが店頭を彩っていた。
 ハロウィンが間近で、子供たちは仮装の準備に忙しい。配る菓子の用意もしなければと、考えることは沢山あった。
 これしきで落ち込んでいる暇はない。
 マフィアのボスは忙しいのだと、自分に言い聞かせて慰めようとした。
 その扁平に近い、小さめの足の裏を。
「……ン?」
 またもや涼しい風が悪戯に擽って、綱吉は肌寒さに身を震わせた。
 布団を被っていないから仕方がないとはいえ、少々空気が冷えている。部屋の窓は入浴前に確か閉めたはずで、風の通り道になるドアも、しっかり閉じたつもりだった。
 なにかが可笑しいと、頭の中で警鐘が鳴った。赤いランプがうるさく明滅して、背筋にぞわっと悪寒が走った。
 不発が続く超直感に慌てて、被っていた枕を跳ね除けて身を起こす。
「ぶっ」
 だが腰を捻ろうとした瞬間、顔面が柔らかなものに跳ね返された。
 空中に壁があった。
 クッションも十分な障壁に気付けなくて、綱吉はあっさりベッドへと舞い戻った。
 上半身を不自然に捻った状態で倒れ込み、数回弾んでから鼻の頭を撫でる。かなり低いそれは幸い潰れておらず、どこかが切れて血がにじむ、ということにもなっていなかった。
「な、に」
 実を言えば、あまり痛くなかった。
 それよりも想定していない状況への戸惑いの方が、圧倒的に強かった。
 あるはずのないものに混乱し、目の前が曇った。動揺を抑えきれなくて困惑していたら、壁の向こうから深い溜息が聞こえて来た。
「今ので、君、死んでるよ」
 いくら自室とはいえ油断し過ぎだと責めて、呆れ果てて肩を落とす。
 手にぶら下げたものを膝へ降ろして頬杖をついた青年にも、綱吉はパニックを起こして目を白黒させた。
 いるはずのない人が、いた。
 確かに閉めた筈の窓は全開状態で、白色のカーテンは風を受けてひらひら踊っていた。
 そういえば、閉めはしたが、鍵はかけなかった。
 三十分ほど前の自分を思い返して蒼白になって、彼は口をパクパクさせながら、ベッドの上で竦み上がった。
 慌てて跳び起きて、正座をして、すぐに辛くなって膝を広げた。足首を横向きに寝かせて尻を沈め、頬をぴくぴく引き攣らせた。
 本日二度目の不意打ちだった。
 想像だにしていなかった事態に頭がついて来ず、大きな眼は左右を行き交い、落ち着かなかった。
 濡れた毛先から雫が垂れて、ぽとりとひとつ、首に落ちた。
「うひゃ」
 それに大袈裟に驚いていたら、ベッドサイドに腰かけた男が、これ見よがしに肩を竦めた。
「ほら」
「え、え?」
 もうひとつ嘆息して、手にしていたものを放り投げる。
 綱吉の顔拓が薄く残る紙袋を渡されて、受け取った少年は訳が分からず首を傾げた。
 中身は軽かった。触り心地が柔らかいのは、先ほど正面衝突したので知っている。
 どこかで見た覚えのあるロゴを撫で、袋から顔を上げた。夜だというのに制服姿の風紀委員長と目が合って、不敵な笑みで返された。
「ヒバリさん」
「今日でしょ、誕生日」
「えっ」
 悠然と足を組み、頬杖をついていた。いつでも、どこでも偉そうな態度を崩さず、告げる内容はいつも突飛だった。
 今日だけで何回、彼に驚かされただろう。
 絶句して騒然となっていたら、見込み通りの反応だったのか、雲雀は腕を下ろして腹を抱えた。
 声は聞こえなかったが、肩が震えていた。前のめりになって全身を揺らして、意地悪な青年は口角を持ち上げた。
「でしょ?」
「知って、た……ですか」
「そりゃ、ね」
「じゃあ、なんで」
 唖然としたまま、気が付けば問うていた。
 届かないメールに苛立ち、聞こえない祝辞に耳を澄ませた。誕生日を把握されていない可能性を考えて、なんとか心に折り合いをつけていた。
 騙された。
 遊ばれていた。
 ショックが大きくて、涙が溢れそうになった。
「まだ今日だよ」
「でも」
「君の顔、面白かったよ」
「ぬああ!」
 愕然とする綱吉に、雲雀は手を伸ばした。人差し指で額を小突いて、敢えて近付かなかったのも、話題に出さなかったのもわざとだと教えた。
 期待して、その都度落胆する綱吉を見て愉しんでいた。
 全部計算ずくだったと知って悲鳴を上げて、未来のボンゴレ十代目は掴んだ袋に顔を埋めた。
 振り回された。
 からかわれた。
 誕生日に、弄ばれた。
 こっ恥ずかしくて、生きた心地がしなかった。
「ひどいです、ヒバリさん」
「なにが。ちゃんと今日中に渡したんだから、問題ないでしょ」
「俺の純情をなんだと」
「へえ?」
 半泣きで文句を言えば、興味深げに相槌を打たれた。不遜な表情で距離を詰めて来られて、吐息が掠める近さに息を飲んだ。
 至近距離から覗きこまれ、黒い瞳に吸い込まれそうだ。綺麗過ぎて底が見えない闇にぞわりとして、綱吉は反射的に膝を閉じた。
 鳥肌を立て、萎縮して凍り付く。
 だが雲雀はそれ以上進まず、なにも言わずに下がっていった。
「君が、純情」
「い、けませんか」
「淫乱、の間違いじゃないの?」
「――――っ!」
 綱吉も座ったままじりじり後退して、顔を赤くして呻いた。
 直後放たれた言葉には、衝動的に手にしていたものを振り上げ、放り投げていた。折角のプレゼントを雲雀に叩きつけて、パジャマの裾を限界まで引っ張った。
 紙袋に打たれた男は声もなく笑い、落ちた袋を今一度投げた。綱吉の手前に落ちたそれは弾みもせず、横倒しになって沈黙した。
「決闘なら、いつでも歓迎するよ」
「は?」
「じゃあね。おやすみ」
 言いたいことだけを言って、彼は立ち上がった。呆気にとられる綱吉を放置して、開けっ放しの窓に向かった。
 靴は、窓の下にあった。それを履いてカーテンを横に払って、入ってきた時と逆のルートで出て行った。
 止める暇もない、鮮やかな動きだった。
 泥棒をやったら、さぞや稼げるだろう。妙なところで感心して、綱吉は息を吐き、火照った頬をむにむに捏ねた。
「なんなんだよ、もう」
 あと少しで、唇が触れるところだった。
 不覚にもドキドキしてしまって、胸の鼓動はなかなか鎮まらなかった。
 部屋は寒いのに、汗ばむほどに暑い。相反する状況に臍を噛んで、彼は雲雀が残していったものに手を伸ばした。
 袋を開け、中身を取り出す。
「……どうしよう」
 出て来たのは、手袋だった。
 見るからにお高そうな一品を、綱吉は先ほど、雲雀へと叩き付けた。
 それは西洋では、決闘を申し込む合図だと、なにかで聞いた覚えがある。
 当分雲雀には、色々な意味でドキドキさせられる。誕生日の最後の最後に落とされた爆弾に、少年は真っ赤になって、丸くなった。

2015/10/9 脱稿

蔦のもみぢを 軒に這はせて

 本丸の屋敷は広い。
 その上敵に攻め込まれた時に対処し易いようになっているのか、間取りは異様に複雑だった。
 と言えれば良かったのだが、この奇怪極まりない構造は、実のところ無秩序な増設工事を繰り返した結果だ。遅れて本丸に至った刀剣男士の一部は前者を信じていたが、早い段階で審神者に喚び出された者たちにとって、これは周知の事実だった。
 とはいえ、無駄に言い触らして、無用な騒乱を招くことはない。
 無邪気に審神者を信じ、主と呼び慕うものはそうさせておけばいい。腹に一物も、二物も抱え込んでいるだろう存在を脳裏から追い出して、小夜左文字は朝の屋敷を急いだ。
 とたとたと足音を響かせ、秋の風が涼しい屋敷の廊下を駆ける。右手には小さめの池を抱えた庭があり、ちょろちょろと水が流れる音がした。
 四方を建物に囲まれているその池は、渡り廊の下を潜る形で走る小川と繋がっていた。勿論それも人工的なものであり、屋敷を彩る装飾のひとつだった。
 元は空き地だった場所を使って、最近完成したばかりだ。奥の建物もそうで、歩けば真新しい木の匂いがした。
 渡り廊の屋根を支える柱は檜で、傍を通れば爽やかな香りが鼻腔を擽る。その時だけは少し幸せな気分になれて、小夜左文字は気に入っていた。
 もっとも、その廊を抜けた先は少し苦手だった。
 境界線にもなっている小川を越えた先には、新たに参陣した刀剣のうち、数口に与えられた部屋がある。
 そこの住人は、体格が大きい故に元々あった屋敷では狭すぎた者と、他者との交わりを嫌い、離れて静かに暮らしたがった者たちだ。
 前からあった屋敷の北側に建設されたので、日当たりはあまり宜しくない。こうして大きめの中庭を設ける事で、陽射しを確保しているものの、回廊を抜けてしまうと、昼でも夜並みに薄暗かった。
 その所為か、母屋に比べると少し肌寒い。
 歩調を緩めながら腕を撫でさすって、小夜左文字は風もないのに揺れる芒に目を向けた。
「遅くなってしまった」
 暦は夏が終わり、秋が深まって、もうじき冬に至ろうとしていた。
 昼は日に日に短くなって、気温も徐々に低くなっていた。初雪はまだだけれども、そう遠くないうちに、天から舞う白いものが拝めるだろう。農作業に従事する刀剣たちは、雪がどれくらい積もるかで、気が気でない様子だった。
 食料の備蓄も、既に始まっていた。
 長期間保存が利くよう、生野菜を乾燥させたり、味噌や酢に漬け込んだり。肉は煙で燻し、馬に食わせる飼葉を掻き集めるのも忘れない。
 なにせ、すべてが初めてのことだ。
 知識として持ち合わせていても、実践するとなると難しい。審神者に現世へ喚び出されたばかりの頃、巧く身体を扱えなかったのを思い出して、小夜左文字は右手を握り、すぐに開いた。
 同じ仕草を三度繰り返し、今やすっかり馴染んだ感覚に肩の力を抜く。その間も足は交互に動き続けていて、目的の場所まで残り僅かとなっていた。
「あ」
 しかし傷だらけの脚は、直後に止まった。
 踝に巻き付けた包帯を風に晒して、小夜左文字は藍色の袈裟を握りしめた。
「薬研、藤四郎」
 前方から歩いてくる者があった。
 色白の肌に、黒い髪。黒を基調とした、地味ながら機能的な衣装を身に纏った少年は、同じく前方に佇む存在を見つけて顔を上げた。
「ああ、お前か」
 黒の手袋を嵌めた彼の胸元には、黒漆塗りの膳が掲げられていた。
 そう大きくない、四角い空間に、上物と分かる食器が規則正しく並べられている。椀の蓋は外されており、中身が消え失せた後なのは、見ただけで想像がついた。
 箸置きに添えられた箸にも、使われた後と分かる痕跡があった。四角い皿には魚の骨が居座り、小皿には新香が丸ごとのこされていた。
 誰かに供された食事を引き上げているところだと、言われなくても分かる。
 問題なのは、それが誰の朝食だったか、だ。
 増設されたばかりの区画に住まう刀剣は、そう多く無い。そのひとりである蜻蛉切は、窮屈ながらも皆と同じ部屋で食事を取っていた。背中を丸め、出来る限り身体を小さくして、特注品の箸を器用に扱っていた。
 次郎太刀だって、そうだ。大勢で食べる方が楽しいからと、日中もずっと本丸の方に居座っている。
 つまり、奥座敷に引き籠ってひとりで食事をする存在は、ひとりしか居ない。
 籠の鳥を自認する男を脳裏に思い浮かべ、小夜左文字は大きく目を見開いた。
「それ」
「いやあ、……はは」
 口を開けば、声が震えた。薬研藤四郎は何かを気取って半歩下がり、誤魔化すように笑った。
 だが頬は引き攣り、笑顔は中途半端だった。目は泳いで宙を彷徨い、一周した末に小夜左文字へと戻された。
 最後は溜息だった。
 力なく肩を落として項垂れて、覚悟を決めたのか、背筋を伸ばした。
「そうだ。宗三のだ」
「どうして」
「たまたまだ。近くを通りがかったら、廊に出ていたからな」
 潔く認め、胸を張る。
 しかし本当に偶然かどうかは、なんとも疑わしかった。
 彼の言い分だと、屋敷を歩き回っている時に、偶然宗三左文字の部屋の前を通りがかった事になる。けれど新造されたばかりのこの一画は、使う者も少なく、目立った施設にも繋がっていなかった。
 迷子になったならともかく、ふらふら出歩いて辿り着く場所ではない。それに宗三左文字は他者との接触を嫌う分、他の刀たちからも敬遠されていた。
 扱いあぐねて、放置されているとも言える。審神者がなんとかしようと躍起になっているが、功を奏しているとは言い難かった。
 彼の弟である小夜左文字ですら、滅多な事ではここに来ない。せいぜい食事の膳を運び、一定時間が過ぎた後に下げに行くくらいだ。
 本当は色々話したいのに、話しかけ辛い。何を語り合えばいいのかも分からず、どう切り出せば良いのかも不明だった。
 なにせふたりは兄弟刀ではあるけれど、共に時を過ごした記憶はないに等しい。それなら小夜左文字は歌仙兼定の方がずっと馴染み深いし、宗三左文字も別の刀と縁があった。
 そのうちのひと振りが、此処に居る薬研藤四郎。
 魔王こと、織田の懐刀だった男だ。
「そう。たまたま、近くを」
「……いけないか?」
「別に」
 その数奇な巡り合わせを、どう処理すればいいだろう。
 納得しかねて口を尖らせた小夜左文字に、薬研藤四郎は不遜だった。
 涼しい顔をして嘘を言って、それを押し通そうとする。世慣れた狡さに小鼻を膨らませて、小夜左文字は握ったままの袈裟を手放した。
 無数に刻まれた皺を放置して、腕を伸ばす。
 掌を上にして手を差し出されて、薬研藤四郎は虚を衝かれたか、目を見開いた。
「預かろう」
 孤独に日々を過ごす宗三左文字へ食事を運ぶのは、小夜左文字が請け負った仕事だった。
 傍に行きたいが、傍に居続けるのは難しい。
 ならばせめて、接触の機会を設けよう。
 台所仕事を引き受けている男の気遣いに頬を紅潮させて、早く膳を渡すよう、彼は薬研藤四郎に促した。
 一方、荷物を寄越すよう言われた短刀は困惑をありありと顔に浮かべ、己が手に持つものと、小夜左文字とを見比べた。
「薬研藤四郎」
「……参ったな、こりゃ」
 なかなか動かない彼を急かせば、薬研藤四郎は苦笑した。長めの前髪から覗く目を眇め、降参だと白旗を振った。
 短い時間の中で、己の中で何かに折り合いをつけたらしい。
 疑問が解消したと言わんばかりの表情を浮かべられて、小夜左文字は怪訝に眉を顰めた。
 そんな彼に持っていた膳を押し付けて、薬研藤四郎はぱっと手を離した。
「うっ」
「どうやら、心配いらなかったみたいだな」
「なんの話だ」
 支えを失って落ちていく膳を、小夜左文字が慌てて胸に抱え込む。
 傾いた台座から箸が零れ落ちそうになって、少年は呵々と笑う小刀に小鼻を膨らませた。
 未だ本丸に馴染めず、弟と称する短刀とも関係を築けない。
 望んで籠の鳥を演じている打刀の昔馴染みは不敵に笑い、自由になった両手をぶらぶら揺らした。
「いやあ、なに。俺っちとしては、宗三の奴に黴でも生えてんじゃねーか、ってな」
 ずっと薄暗い、湿っぽい部屋に居たら錆びてしまう。
 本丸に居ながら滅多に顔を見ない相手を嘲笑った少年に、兄を愚弄された弟はムッと頬を膨らませた。
「あにさまは、綺麗だ」
 勝手なことを言われて、腹が立つ。
 語気を強めて咎めた彼に、薬研藤四郎はしたり顔で頷いた。
「ああ。知ってるさ」
「……――――」
 そうして妙にしんみりしながら、はっきりと言い切った。右手は緩く握って腰に当てて、視線は遠く、屋根越しに空へと注がれた。
 鳥の姿は見えないけれど、囀りが聞こえた。
 屋根の上で戯れる獣に意識を飛ばした彼に、小夜左文字は複雑そうな顔をした。
 膳を抱え直し、器に残された食事の量に半眼する。焼き魚は骨だけになっていたけれど、麦や稗を混ぜた雑穀米は、器に半分以上、残されていた。
 すっかり冷えて固くなっている飯は、小鳥の餌にでもするしかない。
 餓えたことがないだろう男の傲慢さに臍を噛み、芽生えかけた賤しい心を抑えこむ。
 形ばかりとはいえ、兄は兄だ。
 憎しみにも似た感情を抱くのは、嫌だった。
 枯れ草さえ残らない荒れ地の光景にかぶりを振って、意を決して自分に頷く。
「あにさま、の。……おきらいなもの、とか。知っているか」
「宗三の、か?」
「ああ」
 葛藤を奥に隠し、小夜左文字は遠慮がちに口を開いた。
 恐る恐る問えば、薬研藤四郎に確認された。相違ないと首肯すれば、彼は思案して顎に手を添えた。
 記憶を手繰っているのか、俯き、視線は交わらない。沈黙が暫く続いて、待つのが退屈だった小夜左文字は汁物の椀に息を吹きかけた。
 底に僅かに残る水分を揺らし、溶け残った味噌の塊に肩を竦める。飯と違ってこちらは綺麗に平らげており、具材に使われた麩も、三つ葉も、なくなっていた。
 恐らくは食材の好き嫌いではなく、単に固さの問題と思われた。新香に一切箸をつけていないのは、匂いに関係がありそうだった。
「そうだな。あいつは……なんか食ってる印象が、まるでないな」
「役立たず」
「そう言うな。俺たちがこうなったのは、つい最近の事だろ」
 ひとり思案していたら、薬研藤四郎が絞り出した答えを口ずさんだ。もっとも内容は無いに等しく、小夜左文字は本音を我慢出来なかった。
 正直に吐露した彼を笑い、薬研藤四郎は意に介さない。自分でも為になる情報を持ち合わせていないと分かっているようで、口調は自虐的だった。
 あっけらかんとしている少年は、色々な意味で肝が据わっている。
 無邪気な他の藤四郎たちと比べると、彼はほんの少しだけ、大人だった。
 付喪神は本来、食事を必要としない。
 彼らが食べるのは、審神者に現世へと喚び出された際に、人と同じ身体を与えられてしまった所為だ。
 そうしないと刀を握れないわけだから、この処置はやむを得ない事だ。しかし何から何まで同じように揃えなくても良いのにと、思わされる機会は多かった。
 一日三食も強要されるのは不便だし、夜になると眠くなるのも厄介だ。
 本来は冷たくあるべき刀が暖かく、切られれば血が流れるのも、不可解極まりなかった。
「ま、面白くはあるけどな」
 だというのに、薬研藤四郎は気にする素振りが見られない。
 日々楽しんでいる様子の彼と古い知り合いとが重なって、小夜左文字は肩を竦めた。
「歌仙と同じことを言う」
「小夜は、違うのか?」
「……よく、分からない」
 細川で世話になっていた頃に一緒だった刀は、人の形を得たのを喜んでいた。身の回りで起きる様々なことを観察して、親しんで、戦場以外では大体笑っているような男だった。
 小夜左文字は、あんな風に振る舞えない。
 復讐の二文字に取りつかれた幼子は、既に居ない仇を探し、それだけに固執していた。
 己が殺した人々の怨嗟に苦しめられて、耳を塞ぎながら過ごしている。穏やかな時間は罪と決めつけて、連日のように戦闘に明け暮れ、他の短刀たちとは一線を画していた。
 酷な質問をしたものと、薬研藤四郎は言ってから気が付いた。俯いてしまった少年に肩を竦め、彼は別の話題を探そうと目を泳がせた。
 鳥が二羽、澄んだ空を飛び去って行った。
 番か、それとも兄弟か。
 想像するより他にない状況に嗚呼、と頷き、彼は膳の脚を掻いている小夜左文字に苦笑した。
「それより、ずっと気になってたんだが」
「なに」
 気落ちする会話は、中途半端ではあるがここで終わりにする。
 話題を変えようと、長い間疑問だったと咳払いの末に嘯かれて、小夜左文字は胡乱げに薬研藤四郎を仰ぎ見た。
 彼は颯爽と足を前に繰り出して、小夜左文字が通ってきたばかりの通路を逆向きに歩き始めた。
 宗三左文字の部屋に出向く用事は、薬研藤四郎が横取りしたお蔭でなくなった。
 いつまでもここに居る道理はなくて、左文字の短刀も渋々踵を返した。
 台所では歌仙兼定が、片付けしながら待っている筈だ。
 この膳が届かないと、彼の仕事も終わらない。働き者の打刀を瞼の裏に呼び出して、小夜左文字は一度だけ兄の部屋を振り返った。
 障子戸は閉められ、誰かが出てくる気配はない。
 前を行く薬研藤四郎は、彼と会話したのだろうか。
 気になったが、問うたところで教えてもらえそうになかった。
「薬研」
 聞きたいことがあると言い出したのは彼なのに、なかなか切り出そうとしない。
 痺れを切らして自分から話しかければ、首から上だけを振り返らせた男が口角を持ち上げた。
「なあ。小夜は、なんで宗三が『あにさま』なんだ?」
 先ほどもそうだが、小夜左文字は宗三左文字をそう呼んでいた。
 けれどそれは、あまり聞かない言葉だ。全くないわけではないけれど、ぱっと頭に思い浮かぶ呼び方ではない。
 歌仙兼定や他の短刀には砕けた言葉遣いをする彼だけれど、他の太刀や打刀には、比較的口調は丁寧だ。それは兄である宗三左文字に対しても同様で、本人が目の前にいなくても、敬語を欠かさなかった。
 遠慮が先走っているのか、それとも本気で謙っているのか。
 恐らくは前者だろうと判断して、薬研藤四郎は彼に向き直った。
 他人行儀が抜けきらない兄弟は、傍から見ていてもぎこちない。最初こそどうなるか、と面白がって傍観していたが、日が経つにつれてやきもきしてならなかった。
 お節介が過ぎるとは思ったが、気になって仕方がない。それでいざ行動を起こしてみれば、この有様だ。
 折角だから訊いてみる気になった粟田口の短刀を見詰め、小夜左文字はきょとんとしながら首を傾げた。
「言っている意味が、よく分からない」
「……おい」
 そのまま不思議そうに呟かれて、薬研藤四郎は思わず空気を叩いた。
 まさか言葉が通じていないのかと勘繰るが、そんな訳がない。冷や汗を流した少年は即座に頭を切り替えて、人差し指でこめかみを叩いた。
「分からないって、そいつは、つまり……なにが、だ?」
 薬研藤四郎が気になったのは、宗三左文字を呼ぶ際の敬称だ。
 通常、兄を呼ぶ時は「兄上」もしくは「兄さん」であり、「兄貴」も当然含まれる。未だ本陣に至ってはいないものの、粟田口には一期一振という太刀が居て、他の藤四郎たちは親しみを込めて彼を「いち兄」と呼んでいた。
 薬研藤四郎には、可笑しなことを聞いたつもりはなかった。だから小夜左文字が何に疑問を感じているのかが、巧く把握出来なかった。
 お互い首を傾げあったまま、数秒間停止する。
 黙り込まれた薬研藤四郎は困った顔で頬を掻き、残る手で中空に円を描いた。
 当惑している彼に小鼻を膨らませて、小夜左文字は宗三左文字が使った箸を並べ直した。
「あにさまは、あにさまだ」
「いや、だから……ああ」
 憤然とした面持ちで吐き捨てられて、弱り果てた薬研藤四郎が一瞬置いて肩を竦めた。すとん、と落ちて来た答えに納得して頷いて、彼は汗で湿った前髪を掻き上げた。
 言葉が足りなかった。
 反省して、織田の短刀は相好を崩した。
「小夜はどうして、宗三の奴を『あにさま』って呼んでんだ?」
 先ほどの質問に、いくつかの言葉を継ぎ足して、再度告げる。
 これで分かってもらえなかったらお手上げだったが、小夜左文字は目を見開き、四肢の力を抜いた。
 そういう意味か、とあちらも納得して貰えたようだ。
 恐らく彼は、宗三左文字はどうして小夜左文字の兄なのか、という風に解釈したのだろう。確かにそう取られても可笑しくない言い回しで、迂闊だった。
 粟田口の弟たちと会話していると、ついつい言葉を省いてしまう。
 しかもそれで通じるものだから、いつの間にか癖になっていた。
 気心の知れた間柄の相手と、そうではない相手と。世の中には二種類あるというのを思い出し、薬研藤四郎は目尻を下げた。
 ただ、それでも返答は得られなかった。
 改めて尋ねられた少年は口を噤むと、眉間に皺を寄せた。唇を真一文字に引き結び、狼狽えながら瞳を彷徨わせた。
「小夜?」
「変、だろうか」
「え?」
 それほど難しい質問ではなかった筈だ。
 だというのに袈裟を掻き毟りながら切羽詰まった貌をされて、薬研藤四郎は意外なひと言に目を点にした。
 いつもより高めの声で、早口に捲し立てられた。爪先立ちになって背伸びまでして、小夜左文字は必死だった。
 なにをそんなに、慌てる必要があるのか。
 事情がさっぱり読み解けなくて、薬研藤四郎は呆気にとられて口をぽかんと開けた。
 その表情を、違う風に解釈したらしい。
 小夜左文字は背中を丸め、漆塗りの膳に爪を立てた。
「あ、いや。別に、変だとか。そういう意味じゃあ、ねえぞ?」
「薬研」
「いや、おかしくない。おかしくねえ。あにさま、結構じゃねえか――俺は絶対、呼ばねえけどな」
 未だ邂逅が叶わない長兄を思い浮かべ、薬研藤四郎が嘯く。
 焦り気味に慰められた少年は疑いの眼差しで彼を見詰め、右の足指をもぞもぞ動かした。
 真新しい床板を捏ねて、踵で叩いて音頭を取る。トントン、トトン、と即席の太鼓で楽を奏でて、小夜左文字は水のせせらぎが聞こえる庭に顔を向けた。
「前に、歌仙が。あにさまが、来たばかりの時に。早く兄上様にも会えるといいね、と、言った」
「あ? ……ああ。それで?」
 横顔は、不安げだった。
 突如会話に出て来た男の名前にまず驚いて、薬研藤四郎は素早く頭を巡らせた。
 小夜左文字には兄がふたりいる。太刀の江雪左文字と、打刀の宗三左文字だ。
 うち、本丸に居るのは次兄と三男だけ。だから歌仙兼定は、早く長兄が本丸へと至り、三兄弟が揃えば良いと言ったのだ。
 けれどそれと、これと、どういう繋がりがあるのか。
 訳が分からないと混乱していたら、視線を戻した小夜左文字が、恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「だから、江雪兄上が、兄上様、なら」
「う、ん?」
「宗三兄上は、兄様、と……」
「はい?」
 今度は薬研藤四郎が、彼の言っている意味を理解出来ない番だった。
 思わず身を乗り出して、素っ頓狂な声を上げる。すると益々小夜左文字はただでさえ小さな身体を小さくして、恥じ入って首を竦めた。
 亀になってしまった彼を上から下まで眺めて、踵を戻した薬研藤四郎は思い切り額を叩いた。
 べちん、と小気味の良い音を響かせて、彼は解釈を試みて瞑目した。
 江雪左文字は、左文字の長兄。
 宗三左文字は、左文字の次兄。
 末っ子は次兄を兄様と呼び、長兄のことは兄上様と言った。
 欠けたのは、「上」のひと文字。
「ん……?」
 そこまで思い至って、薬研藤四郎は瞬きを繰り返した。
 小夜左文字を見れば、膳を楯代わりにしていた。それで隠れているつもりなのか、じりじり後退して距離を広げようともしていた。
 随分と可愛らしい照れ方だ。
 生意気盛りの弟たちにも見習わせたくなって、粟田口の少年は、分かってしまえば至極単純だった解に苦笑した。
「なるほどな。宗三の奴は、一番上じゃあ、ねーもんな」
「う……」
 長兄に「上」を使ったので、ならば次兄に「上」は使うべきでない。
 兄弟というものを良く知らなかった小夜左文字は、そんな風に考えたらしい。
 見た目動揺、随分と可愛らしい理屈に破顔一笑して、薬研藤四郎は糸のように目を細めた。
 気難しく、取っ付きにくい相手だと思っていたが、意外に面白い。
 誰にも訊けなくて、ひとりで必死に頭を悩ませていたのだろう。その涙ぐましい努力を褒め称えて、彼は華奢な肩を力いっぱい叩いた。
「いった」
 堪らず小夜左文字は呻き、身体を斜めに傾けた。もれなく膳の上の食器も片側に偏って、椀の蓋が縁を飛び越えた。
 カン、と床に落ちて跳ねた漆器に、ふたりして青くなった。
「やべ」
 なにより薬研藤四郎が焦り、声を上擦らせて膝を折った。
 裏返っていた蓋を拾い、縁が欠けていないのを確認して安堵する。小夜左文字もほっと息を吐いて、危うかったと汗を拭った。
 傾いていた膳を水平に戻し、疲れて来た腕を労う。薬研藤四郎も蓋を手に立ち上がり、空の椀の隣に置いた。
「ふ……ははっ」
 直後、彼が先に噴き出した。
 腹を抱えて笑い転げる薬研藤四郎に、小夜左文字もつられて相好を崩した。
 なにが面白かったのか、具体的には言えない。
 けれど引きずられる形で頬を緩めて、少年は胸の中にあったもやもやしたものを吐き出した。
 実のところ、最初のうちは薬研藤四郎が嫌いだった。
 彼は小夜左文字が知らない、宗三左文字を知っている。それで得意になって、ひけらかしているように見えた。
 兄弟刀でありながら、弟らしくない自分に引け目があった。思うように関係を築けず、距離がある間に薬研藤四郎が忍び込み、小夜左文字が在るべき場所を奪って行ってしまうように感じた。
 宗三左文字を掠め取られると危惧した。
 自分が出来ない事を軽々とやってのけてしまう彼が、本心では妬ましかった。
「薬研は、あにさまと……親しいのだな」
 ちょっと前までは言えなかった言葉が、今ならすんなり言えた。
 舌の上を滑り落ちた声色が殊の外穏やかで、薬研藤四郎は一瞬間を置いてから微笑んだ。
「どうだろうな。俺っちなんかより、長谷部の方が、よっぽど仲がいいとおもうぜ」
 表情には幾ばくかの自嘲が込められていたが、小夜左文字は気付かなかった。突然湧いて出た打刀の名前に唖然として、何度も瞬きを繰り返した。
「……そうなのか?」
 その情報は、初耳だった。
 確かに宗三左文字は織田にいた頃、彼らと交友を持っている。しかし本丸での接触は皆無に等しく、談笑している姿を見たことはなかった。
 へしきり長谷部は不遜にしているか、仏頂面が多く、宗三左文字も屋敷内を出歩く機会が少ない。ふたりが同席する機会があった事自体、小夜左文字は知らなかった。
 にわかには信じられなくて驚いていたら、薬研藤四郎がにやりと笑った。
「そうだぜ。なにせあの宗三が、声を荒らげる唯一の相手だしな」
「あにさまが?」
 得意げに言い放たれて、小夜左文字の声が裏返った。慌てて口を閉じて後ろを窺って、少年は挙動不審に身を捩った。
 大声に反応する人影はなかった。聞こえなかったのか、宗三左文字が部屋から出てくる気配もない。
 数秒置いてから深く安堵して、彼は声を殺して笑っている短刀に渋い顔をした。
「信じられない」
「だろうな。けど、本当だぜ」
 彼自身、その光景に驚かされたのだろう。ふと遠くを見て口元を綻ばせ、薬研藤四郎は静かに目を閉じた。
 表情が一瞬で変わった。
 穏やかな笑みは一種の諦めを匂わせて、小夜左文字には不思議でならなかった。
「そのうち見られると思うぜ。なにせ、時間だけならたっぷりある」
「……だと、いいけど」
 右手を肩の位置でひらひら揺らした彼の言葉は、微妙な皮肉を含んでいた。
 いつ終わるとも知れない戦いは、裏を返せばこの先延々続く可能性を秘めている。本当に終結を迎える日が来るのかどうか、知っているのは審神者だけだ。
 実際のところ、彼らが敵として認識している者たちがなんなのか、刀剣男士は誰ひとり知らないのだ。歴史修正主義者という話ながら、そう言ったのは審神者であり、それ以外の情報は悉く遮断されていた。
 自分たちが進む道が本当に正しいのか、それとも間違っているのか。
 主に具申し、問い質す権利を、彼らは持ち合わせていない。
 ただの戦道具、人殺しの刀でしかなかった頃と、今と。その部分でのみ考えれば、彼らの立場はなにひとつ変わっていなかった。
 折れれば終わりだが、折れなければ永遠。
 人と違って年老いることがない身体を動かして、小夜左文字は真新しい渡り廊を潜り抜けた。
 真っ直ぐ前だけを見詰める少年は、凛々しくもあり、反面脆さを押し隠そうとしている風にも映る。繋がりの薄い兄弟刀に、それでも必死に縋ろうという痛ましさを盗み見て、薬研藤四郎は遠くなった建物を振り返った。
 次の角を曲がれば、もう見えなくなる。表に面した障子戸は相変わらず固く閉ざされ、人が出入りする様子はなかった。
「不器用者めが」
 彼が部屋を訪ねた時、宗三左文字は一瞬だけ嬉しそうな顔をした。そうして戸を開けたのが想像と違う相手だったと知って、露骨に落胆の表情を浮かべた。
 がっかりしたのと、嫌なところを見られてしまったのと。
 哀しみを押し殺し、虚しさを前面に押し出して。皮肉を口元に浮かべて浅く笑う姿は、滑稽でもあり、蹴り飛ばしたくなる腹立たしさだった。
 逢いたいのであれば、素直に言えばいいのだ。声だけかけて、部屋の前を往復するだけの弟を哀れに思うのなら、招き入れて、抱きしめてやればいいのだ。
 天下人に求められたのは、刀としての価値ではなく、そこに刻まれた魔王の印によるもの。物珍しさだけで持て囃されて、愛でられて、彼はいつしか己自身さえも信じられなくなっていた。
 小夜左文字が純粋に、弟として兄を慕おうとしているのも、心のどこかで疑っている。魔王所縁の刀が兄である事に得意になって、それで箔を付けようとしているのではないかと、勝手に勘ぐり、疑心暗鬼に陥っている。
「どうしようもねえな。あの馬鹿」
「なんだ?」
「――え? あ、ああ。お前の事じゃねえよ」
 自ら立ち上がり、歩き出そうとしない打刀に苛立ち、爪を噛みながら呻く。
 声に出ていたとは気付かなくて、薬研藤四郎は小夜左文字に問われて我に返った。
 慌てて言い繕うが、誤魔化せたとは言い切れない。焦って両手と首を振り回して、彼は怪訝にしている短刀仲間に苦笑した。
 自嘲を浮かべ、目を細める。腕を伸ばせば、戸惑っていた小夜左文字が首を竦めた。
 藍の髪をぽんぽん、と叩いて、薬研藤四郎は手間のかかる兄弟に目尻を下げた。
「小夜。お前、宗三の奴となんかやりたいこととか、あるか」
 噛み過ぎて爪が凸凹になった親指を隠し、訊ねる。
 少年は一瞬虚を衝かれて目を丸くして、思惑を計りあぐねて胡乱げな表情を作った。
 怪訝に見上げられたが、意に介さない。
 妙案を思いついたと目を輝かせた薬研藤四郎に、小夜左文字は戸惑いがちに目を泳がせた。
「やりたい、こと……?」
「ああ。俺っちが、宗三の奴を言い含めてやるよ。なあに、心配いらねえ。口八丁、手八丁てな。何かあるだろ。引っ張り出して来てやるよ」
 困った様子で首を傾げた彼に、薬研藤四郎は畳みかけた。任せろ、と胸を張って右上腕部を叩き、無い力瘤を作って白い歯を見せる。
 少々無理のある笑顔で問い質された。小夜左文字は彼の意図が分からずに躊躇して、食べ残しが目立つ膳に視線を落とした。
「いきなり、言われても」
 宗三左文字は弟である小夜左文字よりも、薬研藤四郎の方が、会話がし易いらしい。
 それに彼は、弁が立つ。口下手な小夜左文字が直接頼み込むよりも、この男を仲介役にした方が、ことは巧く運ぶに決まっていた。
 癪だが、認めるしかない。
 複雑怪奇な胸の裡を黙らせて、小夜左文字は緩みかけた口元を真一文字に引き結んだ。
 兄と一緒に、やりたいこと。
 想像して、思いを巡らせて、小柄な短刀は肩を小刻みに震わせた。
 食事の席を共にしたかった。抱きしめて欲しかった。話を聞かせて欲しかった。
 頭を撫でて欲しかった。髪を梳いて、紐で綺麗に結って欲しかった。
 声を聴かせて欲しい。
 話を聞いて欲しい。
 笑って欲しい。
 怒って欲しい。
 顔を、ちゃんと見て欲しい。
「小夜?」
 どれもこれも、他愛無いものだった。些末で、敢えて願うほどのものではないと、薬研藤四郎に言われそうなものばかりだった。
 粟田口の兄弟にとって当たり前の日常が、左文字にはとてつもなく遠い。
 こうして会えただけでも奇跡なのに、これ以上何を望めば良いと言うのだろう。
「どうした。別にひとつじゃなくてもいいんだぜ」
 長く返事がないのを怪しみ、薬研藤四郎が言い足す。
 小夜左文字は緩く首を振り、時間をかけて息を吐き出した。
 水の匂いがする空気を胸いっぱい吸い込んで、一旦胸に留めて。
「では、薬研。ひとつだけ」
 彼ばかりが愛されて狡いと、少なからず思ってしまった。
 だからこれは、意趣返しだった。
 沸き起こった意地悪を裏に隠して、小夜左文字は静かに告げた。

 その日の、午後。
「まさか、本当に」
「ああ? なんだ、小夜。俺っちに出来ねえことがあるとでも言いたいのか?」
 呆然と立ち尽くす小夜左文字を前にして、苦労の跡が垣間見える薬研藤四郎は声を荒らげた。
 親指で自分自身を指差し、ひっかき傷だらけの貌を示す。それは猫ではなく人の仕業で、犯人もまた呆然と立ち竦んでいた。
「薬研、これはどういうことです。屋敷の中を案内してくれるのではなかったのですか」
「うるせえ。ごちゃごちゃ言ってんじゃねえ!」
 紅色の衣を身に纏い、桜色の髪を結った宗三左文字が狼狽激しく捲し立てる。それを小柄な短刀が一喝して、罵声を浴びた背高の打刀は露骨に動揺し、その場でしゃがみ込んだ。
 武将たちに愛されてきた刀だけに、怒られるのに慣れていないのだ。怯えて小さくなっている次兄を目の当たりにして、小夜左文字は驚きに目を丸くした。
 彼が薬研藤四郎に申し出た願いは、兄と手合わせしてみたい、というものだった。
 膳を並べて共に食事を摂るなど、生易しい。
 次兄との仲をひけらかす男を、困らせてやりたかった。だから到底達成不可能そうな事を言って、出来ませんでした、と言わせて溜飲を下げるつもりでいた。
「口八丁、手八丁……か」
 それなのに、予想は裏切られた。
 あれこれ理由をつけて丸め込み、道場まで引っ張ってきたのだろう。
 その手腕に素直に感嘆して、小夜左文字は喧しく騒いでいるふたりに苦笑した。
 宗三左文字曰く、騙された、だそうだ。
 当然だろう。演練場に弟がいると知っていたら、彼はきっと来なかった。いつも誰かが居て、賑やかな場所が今日に限って人気に乏しいのも、きっと薬研藤四郎の仕組んだ事だろう。
 演練場の常連である同田貫正国や山伏国広がいないのが、その証拠だ。
 この時間なら人に会わずに済むからと、宗三左文字は部屋から連れ出された。また屋敷内が改築されたから、少しは動かないと身体に悪いと急き立てられて、渋々ながら従った。
 そうして訪ねた演練場で、小夜左文字が待ち構えていた。
「何を考えているのですか、薬研。僕と小夜を会わせて、いったい何を企んでいるのです」
 突然のこと過ぎて、気が動転している。珍しく声を荒らげた宗三左文字の言葉に胸をちくりと痛め、藍の袈裟の短刀は居心地悪げに身を捩った。
 会いたかった。
 顔を見たかった。
 兄弟らしいことをしてみたかった。
 兄に甘えて、世話のかかる弟だと言われてみたかった。
 けれど、望んだ世界は訪れない。
 至極迷惑そうにされて、嫌そうに顔を歪められた。傲慢な願いに兄を振り回しただけだと知って、無性に哀しく、消えたくなった。
 これが薬研藤四郎に嫉妬して、嫌がらせめいた事を口走った報いだ。叶えられっこないと高を括り、世間を甘く見ていた証拠だった。
「……どうせ、僕なんか」
 美しく、綺麗な宗三左文字は、こんなにも醜くて血に濡れた刀など、弟に欲しくなかったに違いなかった。
 なにをやっても巧く行かず、求めたところで手に入らない。
 諦めてしまえば楽になれるのに、それでも未練がましく縋ってしまう。
 繋いだ手を振り払われるのには慣れていたのに、現世に喚ばれて以降、与えられる心地良さで感覚が鈍っていた。
 或いは、と期待した。
 もしかしたら、と浮足立った。
「薬研」
 勝手が過ぎた望みだった。
 宗三左文字が拒んでいる以上、小夜左文字からは何も言えない。もう良いのだと口論を止めないふたりを遮ろうとして、少年は恐る恐る、右足を踏み出した。
 直後だった。
「御託は良いから、さっさと始めやがれ!」
 あれやこれやと捲し立てていた宗三左文字を怒鳴りつけ、短気を働かせた薬研藤四郎が腹の底から声を響かせた。
 右腕を横薙ぎに振り回し、驚く打刀の前で木刀を掴む。壁に立てかけられていたそれをビュッ、と唸らせて、世話焼きの短刀は目を吊り上げた。
 喉元に切っ先を突き付けられた男は息を飲み、小夜左文字も圧倒されて目を点にした。
 責任感が強く、情に厚い短刀とはいえ、彼は元々、織田信長の持ち物だ。
 人格形成に多少なりとも元主が影響しているのだとしたら、彼の気も、短くて当然だった。
 薬研藤四郎が黙った途端、演練場は一気に静まり返った。息苦しさを覚える空気の重さに脂汗を流して、小夜左文字は振り返った短刀にびくりと肩を跳ね上げた。
「ほら。小夜も」
「あ、ああ」
 何本かまとめて置かれていた木刀のうち、一本を掴んで差し出された。
 先ほどまでの激しい憤りはどこへ消えたのか、薬研藤四郎は妙に静かで、それが却って不気味だった。
 咥内の唾を飲んで受け取って、小夜左文字は体格に合わない長さに眉を顰めた。それは太刀や打刀の体格に合わせて作られており、短刀には不向きな品だった。
「替えるか」
「……いや」
 短刀たちはあまり、ここを使いたがらない。だから彼ら用の短めで軽い木刀は、別の場所に収納されていた。
 どこにあるかは知っているが、探して取ってくるのも面倒だ。
 不慣れだが頑張れば扱えない事はなくて、小夜左文字は提案に首を振った。
 その横で宗三左文字は蹲ったまま呆然として、短刀たちのやり取りに目を白黒させていた。
「薬研、僕は」
「男だろ、いい加減腹括れ。さっさと立て、ってんだ。この鈍間」
「いたっ。蹴らないでください。なんなんですか。あなた、昔から変に僕の扱いが雑じゃないですか」
「なんだ。姫扱いして欲しいんだったらそう言えよ。抱きかかえてやっからよ」
「やめてください。僕の脚を削る気ですか」
 腕を伸ばして袖を引けば、呼ばれた薬研藤四郎が瞬時に足を出した。腰を蹴られた打刀はすかさず文句を言って、会話は実に滑らかだった。
 小夜左文字が相手だと、こうはならない。
 初めて見る口達者な兄の姿は、新鮮であり、驚きであり、そして矢張り、複雑だった。
 宗三左文字の、自分と薬研藤四郎に対する態度の落差に衝撃は否めない。
「あ、あの。僕は、別に」
「なに言ってんだ、小夜。こんな奴に遠慮する必要なんかねーぞ。思いっきりぶん殴ってやれ」
「薬研!」
 これ以上は、見ていたくない。その一心で辞退を申し出ようとした彼を遮り、粟田口の短刀は自身の喉仏を横になぞった。
 首を撥ねろと、という仕草に、青くなったのは宗三左文字だ。彼は依然床に身を沈めたまま、押し付けられた木刀を抱きしめていた。
 見苦しい姿だった。
 刀ならば刀らしく、強気で、傲慢であればいいものを。
 ここでは誰も、宗三左文字を憐れまない。魔王の刻印を気にするのは一部の者だけで、そこに価値を見出す者は更に少なかった。
 固執しているのは本人だけと、いつになれば気付くのだろう。
 言って聞かせたところでどうせ信じてはもらえなくて、堪忍袋の緒は音を立てて引き千切られた。
「小夜が、お前と手合わせしてみたいんだとよ」
 だが口に出してみれば、声は意外に冷静だった。
 はらわたが煮えくり返っているのに、心は落ち着いていた。淡々と要点だけを告げて顎をしゃくって、薬研藤四郎は小夜左文字を振り返った。
 見つめられて、少年はびくっ、と大袈裟に全身を震わせた。兄同様に細長い木刀を抱きしめて、何に臆したのか、後退を図ろうとした。
 そんな心許なげな弟を仰ぎ見て、左文字の次兄は二度、三度と瞬きを繰り返した。
「小夜が、ですか」
「ああ。おら、いつまで寝転がってんだ。ここは手前の寝床じゃねえぞ」
 初耳の情報に唖然とし、蹴られた瞬間にぴょん、と飛び跳ねる。
 板張りの床の上で正座をして、宗三左文字は零れ落ちんばかりに目を見開いた。
 仰々しい眼差しを向けられて、末の弟は青くなった。顎を引いて背中を丸めて、木刀を抱えて唇を戦慄かせた。
「いえ、あの。僕は、その。あにさま、が……お嫌いで、あらせられるなら」
「黙れ」
「あいたっ」
 瞬間、薬研藤四郎が余っていた木刀で小夜左文字の頭を打った。重さに任せて振り下ろして、脳天へ痛烈な一撃をお見舞いした。
 叩かれた方は予想だにしておらず、不意打ちに負けて首を竦めた。手にしていたものを落として音を響かせて、頭蓋骨に出来たひび割れを左右から押さえこんだ。
「薬研、なにを」
「いいから、さっさと決めろ。やるのか。やらねーのか」
「……あなた、ひょっとして性格変わりました?」
「宗三左文字?」
「分かりました。やります。やればいいんでしょう」
 狼藉を咎めた宗三左文字に凄み、反論を捻じ伏せて、無理矢理同意を取り付ける。籠の鳥を自認する打刀は半ば投げ槍に言い放って、木刀を杖代わりにして立ち上がった。
 やけを起こしているのか、鼻息は荒かった。頬は紅潮しており、珍しく肌の血色が良かった。
 小夜左文字は彼が刀――演練用の木刀ではあるが――を手に持つところも、こうやって息巻いて構えを作るところも、見るのは初めてだった。
 キッと眦を裂き、凛々しい眼差しで他者を射抜くのも。
 真正面から小夜左文字を捉え、逸らさないのも。
「なにをしているのです、小夜。早くお立ちなさい」
 躊躇を踏み越え、弟に対して兄らしい口ぶりで振る舞うのも。
 なにもかも、初めてだった。
 惚けている小夜左文字を促し、宗三左文字は両手で木刀を握りしめた。手に馴染まない感触に苦心しながら間合いを計り、指示通り起き上がった弟と向き合った。
 心此処に在らずの短刀は二本足で立った直後に軽くふらつき、左足を引いて身体を支えた。じわじわと湧きあがる興奮に訳も分からず目を輝かせ、丸みを帯びた頬を赤らめて嬉しそうに唇を引き結んだ。
「よ、……宜しく、御指導、お願い仕ります」
「挨拶なんていりません。さっさと斬り込んできなさい。元大太刀の実力、見せて差し上げましょう」
「はい!」
 他人行儀な一礼を叱り、宗三左文字が不遜に言い放つ。
 三歩下がって壁際に移動した薬研藤四郎は、堪え切れずに噴き出した。しかし小夜左文字は無邪気に返事して、彼には長い木刀を短く構え持った。
 何度か握りを確認して、相手の隙を窺って摺り足で移動を開始する。道場内の空気は一瞬にして引き締まり、静かだが緊張感に満ちた空間へと変貌した。
 もっとも、それも四半刻と続かなかった。
「……あにさま、大丈夫に御座いますか」
 歓喜に逸っていた少年は声を低くし、若干落ち込み気味に問いかけた。
 彼の足元には見事に干物と化した打刀がいて、その髪はざんばらに乱れ、仰向けに倒れる身体はひくひくと痙攣を繰り返した。
 傾国の刀は見る影もなく、全身で息をする男はあちこち痣だらけだった。白かった肌は無残に黒ずみ、着物の裾も乱れに乱れ、衿は大きく開かれていた。
「くっ、なんの……これしき」
「おいおい。無理すんな、宗三」
「無理などしていません! この僕が、一本も取れないまま終われるわけがないでしょう!」
 それでも必死に食い下がり、起き上がろうとする彼を薬研藤四郎が諌める。そのお節介を怒鳴りつけて、宗三左文字は襤褸雑巾のような身体を木刀で支えた。
 立っているのもやっとの状態で吼えられて、ほぼ無傷の小夜左文字は戸惑いがちに目を泳がせた。
 無言で助けを求められ、粟田口の短刀は頭を抱え込んだ。こめかみに指を置いて渋面を作り、予想より遥かに開いていた実力差にため息を零した。
 小夜左文字は本丸に、早い段階から至っていた。
 一方宗三左文字は現世に喚ばれてまだ日が浅く、その上戦場どころか、遠征にさえ出たがらない引き籠りだった。
 実戦経験を積んでいる短刀と、新入り同然の打刀と。
 どちらが勝つかなど、最初から分かり切っていた。
 体格差など、問題にならない。そもそも小夜左文字は手加減が下手で、兄相手でも本気で斬りかかっていく。薬研藤四郎も前に一度手合わせしたことがあるが、その攻撃は鋭く、一撃は非常に重かった。
 短刀でも鍛えれば強くなれると教えられ、心強かった。
 しかしまさか、ここまで圧勝されるとは。
「読みが甘かったか。俺としたことが」
 口元を手で覆い隠して、小声で呟く。前方では宗三左文字が血走った目をしており、小夜左文字は心底困り果てた顔をしていた。
 これ以上やると、木刀相手に折れてしまいかねない。
 そろそろ止めに入るべきかとは思うが、それはそれで、宗三左文字の立場がなかった。
 あれだけ偉そうに啖呵を切っておきながら、短刀相手に一勝も出来ていないのは屈辱だ。いくら二度焼かれて、打ち直されているとはいえ、彼にだって刀としての矜持があった。
 負けっ放しではいられない。
 対戦相手が弟であるなら、尚更に。
 審神者によって現世に喚ばれて初めて、暗く翳っていた瞳に光が宿った。けれど哀しいかな、どう足掻いたところで彼に勝ち目はなかった。
「次にしろ、次に」
「あの、あにうえ。あまり、御無理をなされませぬように」
「何を言っているのです。早くかかって来なさい、小夜。手加減したら許しませんよ」
「う……」
 一旦ここは退いて、実力を蓄えた上で再戦を果たせば良い。だが薬研藤四郎の提案を勇ましく拒絶して、宗三左文字は着乱れた姿のまま弟に切っ先を向けた。
 但し木刀はゆらゆら揺れており、全く安定していなかった。
 万全の状態とは言い難い相手に打ち込むのは、武士の名折れだ。最初は楽しかったのに、段々弱い者いじめをしている気分になってきて、小夜左文字の瞳には迷いが生まれていた。
 宗三左文字はああ言うけれど、手を抜いて、勝ち星を拾わせた方が良いのかもしれない。けれど上手く演技出来る自信はなく、見抜かれた後の事を思うと気が引けた。
 結局勝っても、負けても、兄の尊厳を傷つけてしまう。
 どうして手合わせしたい、などと言い出したのか。何度目か知れない後悔を胸に抱き、小夜左文字は今にも倒れそうな次兄から目を逸らした。
 その視界に。
「まったく、騒がしいから何をしているのかと見に来てみれば」
 開けっ放しの戸口に寄り掛かって立つ、ひとりの男の姿が映し出された。
 陣羽織を模した上着を羽織り、麦色の髪は短い。前髪は真ん中で分けられて、切れ長の眼は不遜だった。
 白い手袋で指先を隠し、一礼してから靴を脱いで演練場へと上り込む。慇懃無礼の言葉が良く似合う男とは、この場に居る全員が顔見知りだった。
「へしきり長谷部」
 声で振り返った宗三左文字が、なにより一番驚いていた。元から悪かった顔色をもっと悪くして、慌てた彼は左手で胸元を隠した。
 着物の衿を掻き集め、露わになっていた刻印を布で覆う。背中も丸めて猫背になった彼の斜め後ろで立ち止まって、現れた男は汗に濡れる木刀を攫った。
「なにを」
 武器を奪われ、宗三左文字が顔を上げた。しかしへしきり長谷部は答えず、彼に代わって木刀を構えた。
 右腕一本で振り回し、空を断ち切って小夜左文字に切っ先を向ける。
 突然の乱入者に、少年はぽかんと目を丸くした。
「おい、長谷部」
 薬研藤四郎も、この展開は想定していなかった。焦って声を荒らげるが、魔王命名の打刀は一瞥をくれただけで、特に何も言わなかった。
 ただ口角を持ち上げて、呆然とする三者に不敵に笑いかけただけだった。
 いったい、何を考えているのか。
 誰もが彼の本心を読みあぐねていた時、へしきり長谷部が肘で宗三左文字の肩を打った。
「うっ」
 体力の限界が近かった彼が、横からの衝撃に耐えられるわけがない。
 呆気なく膝を折って崩れ落ちた宗三左文字を鼻で笑い、へしきり長谷部は改めて小夜左文字に向き直った。
「こんな貧弱な刀では、修練の足しにもならんぞ。黒田でのよしみだ。俺が代わって相手をしてやろう」
 傲岸不遜に言い放ち、早く構えるよう促す。
 なんとも図々しい物言いに、片手であしらわれた宗三左文字は顎が外れそうなくらいに驚いた。
 稀に見る滑稽な表情を作って、瞳を泳がせ、弟を見る。
 戸惑っていた短刀はへしきり長谷部から兄へと視線を移し、緩みかけていた指先に力を込めた。
 落ちそうになったものを握り直しただけなのだが、宗三左文字にはそれが、弟が兄に見切りを付けた風に映った。
 そして、なにより。
「へしきり、あなた、ちょっと。小夜と、あなた」
「長谷部と呼べ。それより、なんだ。知らなかったのか? 奴とは黒田の屋敷で、一時一緒だったぞ」
「……うん」
 へしきり長谷部は織田から黒田へと移り、そこで長い時を過ごした。
 小夜左文字は細川の城を出た後、黒田の屋敷へと渡り、そこで暫くの時を過ごした。
 深い交流があったわけではない。けれどお互い、相手の存在は認識しており、本丸で再会した時は不思議な感じだった。
 得意げに言い切ったへしきり長谷部に同調して、小夜左文字も間違いないと首を縦に振る。そんなふたりを前にして、宗三左文字は愕然としながら頬を掻き毟った。
「なんですか、それは。知りません。知るわけがないでしょう。そんな話、僕は聞いていません!」
「そりゃ、お前が気にしてなかっただけだろ」
「薬研!」
 籠の鳥は狭い場所に自らを閉じ込め、外へ眼を向けなかった。
 激昂する男にやれやれと肩を竦め、薬研藤四郎は手近なところにあった木刀を放り投げた。
 空中で受け止めて、宗三左文字が般若の如き面持ちで振り下ろす。
「何をする、貴様」
「許しません。許しません! 小夜は僕の弟ですよ。それを、貴方は。あなたは!」
 本気の一撃を上段で受け流し、へしきり長谷部が声を荒らげる。だがそれを上回る怒気を放って、魔王の愛刀は立て続けに斬りかかった。
 少し前まで立っているのもやっとの状態だったのに、どこにそんな体力が残っていたのか。しかも斬撃は鋭さを増しており、ぶつかり合う木刀の音は激しく鼓膜を打った。
 凄まじい猛攻に、へしきり長谷部は防戦を強いられた。彼自身も意外だったのか目を丸くしており、形勢を立て直すには暫く時間が必要だった。
「おぉ、すげー」
 そんなふたりを他人事として眺め、薬研藤四郎が頬を引き攣らせる。小夜左文字も肩で息をして、突如始まった乱戦に頬を紅潮させた。
「なにを勘違いしている。俺と左文字には、なんの因果もないぞ」
「そうだとしても、そうだとしてもです。小夜が僕より先に、貴方と知り合っていたなど、許せるわけがないでしょう!」
 硬い木が激しくぶつかって、目に見えない火花が飛び交う。押し合いになれば負けると承知しているのか、宗三左文字はひたすら打撃を積み重ねた。
 己の知らないところで、己に関連あるふたりが交流を持っていた。ひとりだけ蚊帳の外に置かれたのが不満で、面白くなくて、悋気を爆発させていた。
 無粋な勘繰りをへしきり長谷部は否定したが、宗三左文字には関係なかった。そもそも前から気に入らなかったのだと怒鳴りつけて、渾身の一撃を旧友に叩き込んだ。
 胸元が肌蹴けるのも構わず、防御不能の打撃を繰り出す。
 不意をつかれた男は右肩に重い斬撃を食らい、体勢を崩してぐらりと傾いた。
「貴様……容赦はせんぞ!」
 格下と見ていた相手に打ちこまれ、頭に血が上ったか。
 へしきり長谷部も眉を吊り上げ、猛々しく吠えた。
 最早彼らの頭からは、小夜左文字のことなどすっかり失われていた。単純に目の前の相手を屠ろうと躍起になって、丁々発止と斬り結んだ。
 しかし剣劇の音が響きあう中、完全に忘れ去られた少年は、それでも何故か楽しげだった。
 頬を緩め、目を輝かせて、本気でぶつかり合うふたりの演練にうっとりと見入っていた。
「なんで嬉しそうなんだ、お前」
 それを怪訝に思い、歩み寄った薬研藤四郎が訊ねる。
 問われた少年は兄と打ち合った木刀を大事に抱きしめて、照れ臭そうに首を竦めた。

2015/05/16 脱稿

われても末に あはむとぞ思ふ

 いつもは騒々しい庭が、今日はいやに静かだった。
 珍しい事もあるものだ。小鳥が飛び交い、囀りが響き渡る空を眺め、小夜左文字は猫のように細い目を眇めた。
 暇さえあれば遊び耽り、駆け回っている短刀たちの姿が見えない。今日は出陣がなく、遠征部隊も太刀や大太刀が主体なので、彼らの大半は屋敷のどこかにいる筈なのに。
「昼寝でも、しているのか」
 声が全く聞こえないことに、ふと不安になる。言い訳がましく呟いて、小夜左文字はゆるゆる首を振った。
 ひとりだけ除け者にされたなどと、そんな風には思わない。
 間違っても寂しさや、切なさを抱いてなどいない。胸に去来した隙間風の原因を一刀両断して、静かならそれはそれで有難い、と気持ちを改めた。
 ふん、と鼻から荒い息をひとつ吐いて、彼は無駄に広い屋敷の縁側を、外を眺めながら突き進んだ。
 度々増改築が繰り返されている所為で、敷地内は非常に複雑化していた。廊下の突き当りに何もなくて、目的の部屋に到達出来ない事もしばしばだった。
 主が無軌道に手を入れようとするから、暮らしている方は大変だ。見取図などまるで役に立たず、自分の足で歩いて確認するより他になかった。
 耳を澄ませば、槌の音が聞こえた。また部屋を増やすつもりなのかと、小夜左文字はうんざりした顔で肩を竦めた。
 新しい刀剣が増えるかもしれないからと、改修工事の計画を口にする審神者はどこか楽しそうだった。一緒に聞いていた脇侍も、表面上は笑顔だったが、微妙に頬が引き攣っていた。
 あの気まぐれの相手をするのは、かなり大変だ。
 元は短気なくせに、良く我慢している。やり取りを思い返し、小夜左文字はふっ、と鼻白んだ。
「……ん?」
 ともあれ、耳障りな声がしないのは助かる。
 心穏やかでいられるのは悪くない。ただ退屈であるのには違いなく、この後どうしようか考え、比較的広めの部屋の前を通り過ぎようとした時だ。
「はーい、僕の勝ちー」
「くうぅ。また乱にやられたのです」
「前田は坊主ばっかり引くからなあ」
「あそこで姫が出ていれば、俺の勝ちだったんだがなあ」
 外を駆け回っている時とはまた違う、賑やかで、それでいて若干殺伐とした会話が聞こえて来た。
 障子戸は閉じられ、中は見えない。けれど白い紙越しに人影は確認出来て、小夜左文字は耳に飛び込んできた話の内容に眉を顰めた。
 どうやら、今日は室内で遊んでいるらしい。
 藤四郎たちの賑やかなやり取りに、彼の足は自然と止まった。
 太陽は高い位置に陣取り、影は南から北へ伸びていた。
「誰ですか?」
 当然、小夜左文字の影は障子に映った。組子に当たって凹凸が出来ている人影に、中にいた短刀が反応するのは自然だった。
 五虎退の、怯え混じりの問いかけが投げられた。このまま前を通り過ぎるきっかけを失って、彼は嘆息して障子戸の中央へ移動した。
「僕」
「ああ、小夜君ですか」
 完全に立ち止まってから素っ気なく言えば、部屋の中から安堵の息が漏れた。
「どうぞ。入っていいぞ」
 続けて薬研藤四郎の、どことなく偉そうな声が聞こえた。もっとも彼は普段からこういう口調で、誰に対しても態度は変わらなかった。
 なにせ審神者を「大将」と呼ぶくらいだ。体格に似合わぬ豪胆さは、前の主の影響を過分に受けているようだった。
 承諾を得て、小夜左文字は引き手に手を伸ばした。
「失礼する」
 告げて、黒い金属製の金具に指を掛ける。一寸少々の隙間を作り、続けて竪框に手を移動させ、出来上がったばかりの隙間に指を潜らせる。
 そのまま横へ、一気に開く。本当は屈んでやるべき所作なのだが、同年代の短刀らを相手に、そこまで敬意を表する理屈はなかった。
 楽に通れるだけの空間を確保して、小夜左文字は素早く室内を見回した。
 十畳ほどある部屋に、短刀たちが大勢集っていた。ただし全員ではなく、今剣や、愛染国俊の姿は見えなかった。
「小夜もやるか?」
 縁側に立ったまま左右を眺めていたら、輪の中にいた厚藤四郎が右手を振った。
 促され、小夜左文字は訳が分からぬまま中に入った。二段階の所作で障子を閉め、改めて中に居る面々を見比べた。
 彼らは部屋の中央で輪になって座り、或いは寝転がり、裏が濃緑色の札を手元に散らしていた。
 やや縦長の四角形で、近くには札が収められていたのだろう箱があった。蓋は隣に転がっており、中身は半分だけ取り出されていた。
 色鮮やかな化粧箱と、先ほど聞こえた幾つかの単語。
 坊主、姫、と来たなら、導き出される答えはひとつだ。
「坊主めくり」
 嗚呼、と緩慢に頷けば、小声を拾った薬研藤四郎がクツリと笑った。
「お。やっぱ知ってたな」
「そりゃ、――……別に」
 当然だと言い返そうとして、小夜左文字は途中で思いとどまり、言い直した。
 視線を逸らして口を噤み、一瞬得意になりそうになった自分自身を戒める。
 小倉百人一首など、歌を嗜む者にとって、基本中の基本のようなものだった。
 藤原定家が選出した百人の歌人の、代表作とも言うべき歌を揃えたものだ。選出された作品は飛鳥の地に都があった時代から、源氏が武家社会を成立させた時代までと数百年分の幅があり、内容も季節を詠んだものから恋の歌まで、範囲は限りなく広かった。
 これを記した色紙は珍重され、戦乱の時代には一族を滅ぼす一因となったとまで言われている。
 彼らが畳に撒き散らしているものは、それよりも後の時代に作られた、絵入りの歌かるただった。
 詠み手の絵が歌と共に描かれて、別の札には下の句のみが記されている。本来はその下の句側を床に並べて、読まれた札を取り合う遊びだった。
 しかしこれを楽しむ為には、ある程度の知識が必要だった。
 いかに札を速く、正確に取るかが重要なので、当然ながら百首すべての歌を知り、覚えていなければいけない。だが元々武器である彼らに、そのような学は備わっていなかった。
 だからだろう。
 藤四郎たちは下の句の札を放置して、絵札だけを取り合っていた。
「急に、どうしたの」
 色鮮やかに刷られたかるたは、見た目の派手さもあり、かなり高価な品だった。そんなものがこの屋敷にあったこと自体驚きで、興味は尽きなかった。
 いったいどこで手に入れたのか。
 気になって尋ねれば、前田藤四郎が隣の乱藤四郎と顔を見合わせた。
「なんと申しますか、簡単に説明致しますと、つまりいち兄が」
「我らは武器とはいえ、無学では主に示しがつかない。少しでもお役に立てるよう、知識を蓄え、心豊かであるべきだ――なんて言い出すから」
 まどろっこしい説明を遮り、一気にまくしたてた乱藤四郎の台詞は、彼らの長兄に当たる一期一振の真似だろう。微妙に説教くさい言い回しに噴き出しそうになって、小夜左文字は肩を揺らした。
 農民から関白にまで成り上がった男の刀だから、武力だけでなく、知力も重要だと考えたのだろう。
 そこで百人一首を出してくる辺りは、皮肉としか言いようがないけれど。
 状況は、大雑把ながら把握出来た。今剣や愛染国俊が居ない理由も、おおよそ見当がついた。
 あの二人は、こういうのが苦手だろう。坊主めくりとはいえ、一応兄の言いつけを守っている藤四郎たちは、まだいくらか真面目だった。
「で、やってくか?」
「僕は、別に」
 手前にいた薬研藤四郎に訊かれ、小夜左文字は返事を渋って目を泳がせた。
 大勢で何かをするのは、今になっても苦手だった。
 どんな状況下でもひとりになりたがる彼に、なにかと構う相手はかなり増えた。藤四郎たちもその中に入るのだが、肝心の小夜左文字自身が、賑やかな環境に未だ馴染めずにいた。
 自分から部屋に入ったのだから、一戦くらい混じるのが礼儀だろうとは思う。しかし坊主めくりのやり方は、知識として持ち合わせてはいるものの、一度も試したことがなかった。
 第一、百人一首は遊びではない。
 そこに確かに存在した人々の、想いや願いが込められた歌集だ。
 それを姫だ、坊主だ、男だ、などと、絵だけで分類されたくなかった。
 許諾も拒絶もせず、遠くを見たまま動かない彼に、待ちきれなくなった厚藤四郎が散らばっていた札を集め始めた。五虎退も手伝って、百枚の絵札は見る間に巨大な塔へと作り変えられた。
「って言うかさー。こんなの覚えたって、全然面白くないんだけど」
「だよなあ。さっぱり意味分かんねーし」
 早速天辺の一枚を引いて、乱藤四郎が退屈だと嘯いた。厚藤四郎も同調して、隣で平野藤四郎が肩を竦めた。
 早々に坊主の句を引き当てたようで、表に返したそれを塔の横に投げ捨てる。次に引いた薬研藤四郎は、一瞬目を眇めた後、勝ち誇った顔で捨てられたばかりの札を引き寄せた。
 彼の手元には、黒髪を背に垂らした女性の絵があった。
 坊主が出れば手札を全て捨て、姫が出れば捨てられた札をもらえる。最終的に最も手札が多い者が勝ち、というのが坊主めくりの基本的な流れだった。
 出てくる札に一喜一憂して、部屋の中は急に五月蠅くなった。平野藤四郎は全体的に引きが悪くて、勝負は乱藤四郎と薬研藤四郎の一騎打ちになりつつあった。
「ぐあー、ま~った坊主だ」
「あはは。ご愁傷様」
「お、また姫だ。悪いな、厚」
「くっそ~。俺の札だぞ、返せ」
「お生憎様。こいつはもう、俺のモンだ」
 単純な遊びなのに、心から楽しんでいるのが窺えた。仲が良いのが痛いくらいに伝わってきて、小夜左文字はこのまま部屋を辞そうかと考えた。
 相手にされていないのだから、居ても居なくても同じだ。黙ってこっそり出て行っても、文句を言われることはないだろう。
 居心地の悪さに身を捩り、左足を僅かに浮かせる。このまま障子戸まで後退しようと思い始めた矢先、札の束を掴み損ねた薬研藤四郎が、四角いかるたをばら撒いた。
 厚藤四郎が捨てた札を引き取ろうとして、片手で持ちきれなかったようだ。ばらばらと散ったうちの一枚が小夜左文字の足元に滑り込んで、彼は仕方なく、身を屈めてそれを拾った。
「三番」
「うん?」
「柿本人麻呂」
 そうして絵柄と歌を一度に視界に収め、脳裏に浮かび上がった言葉を、そのまま音として諳んじた。
 受け取ろうとした薬研藤四郎が眉を顰め、宙に浮かせた右手を揺らした。それまでずっと黙っていた小夜左文字が突然語り出したので、驚いているのが窺えた。
 残る藤四郎たちも、時が止まったかのような雰囲気に小首を傾げ、眉を顰めた。
「なになに?」
「かきのもと……どなたでしょうか」
「知ってますか?」
「俺に分かるわけないだろ」
 口々に勝手なことを呟き、隣の兄弟と顔を見合わせる。
 分かっていた事とはいえ、彼らの反応には落胆させられた。深く嘆息して、小夜左文字は薬研藤四郎に手渡した札を指差した。
「ああ、確かにそんな名前だな」
 それを覗き込み、色白の少年が小さく頷く。乱藤四郎も身を乗り出して、残る兄弟は不思議そうに小夜左文字を見上げた。
 一斉に見つめられて、口が滑った少年は苦虫を噛み潰したような顔を作った。
「だから、……柿本人麻呂は、歌聖と呼ばれた人のひとりで。僕たちが生まれるより、ずっと前の人。時代としては、確か、天武帝の頃。都は京でなく、飛鳥にあった。その身分ははっきりしないけれど、歌自体はとても素晴らしくて、万葉集にも何首か取り上げられているね。歌風は当時としては独自性に溢れていて、詞の選び方も際立っていて――」
 顔を背け、知っている限りの内容を口ずさむ。
 その声色は最初こそしどろもどろだったものの、次第に熱を帯びて早口になった。聞いている者たちを遥か後方へ置き去りにして、彼らしからぬ多弁ぶりだった。
 審神者によって現世に降ろされて、これだけ一度に喋ったのは初めてかもしれない。
 稀に見る光景に遭遇して、藤四郎たちは呆気にとられて目を点にした。
「ちょ、ちょっと待った。小夜」
 放っておいたら、どこまで続くのか。
 簡単には終わりそうにない講釈に慌てて割り込んで、薬研藤四郎は肩を上下させた。
 ただ聞いていただけなのに、彼の息は切れ切れだった。他の短刀たちも虚ろな瞳をして、消化しきれない情報量に頭は破裂寸前だった。
「そんなに一気に言われても、覚えらんないよ」
「難し過ぎて、さっぱりなのです」
 少し前の賑わいは、綺麗さっぱり消え失せていた。厚藤四郎などは口から魂が抜け出ており、畳に倒れて突っ伏していた。
「お前が詳しいのは、良ぉく、分かった」
 無事なのは、薬研藤四郎くらいだ。その彼に両肩を叩かれて、我に返った小夜左文字は赤くなって首を竦めた。
「す、すまない。つい」
 歌については、それなりに造詣が深いつもりだった。ただ普段は話題に上る事もないので、口に出した事はなかった。
 堰が切れて、止まらなかった。歯止めが利かなかったと恥じ入って、彼は申し訳なさそうに頭を垂れた。
「幽斉殿は、博学であらせられたからな」
 それを馬鹿にするでもなく、薬研藤四郎は逆に褒め称えた。小夜左文字の丸い頭を撫でて、優しい顔で微笑んだ。
 馴染んだ手とも、兄たちの遠慮がちな、不器用な触り方とも微妙に違う。
 それがどうにもくすぐったくて、彼は恥ずかしそうに顔を伏した。
 薬研藤四郎自身も、弟たちと異なる初心な反応が面白かったようだ。くすりと声を漏らして笑うと、引っ込めた手で顎を撫でた。
「多分兄上は、小夜みたいになれ、って言いたかったんだろうな」
「ええええ~~~~」
 瞳を上向かせ、札が入った箱を渡された当時を振り返る。途端に後方から非難めいた声があがって、乱藤四郎までもが畳の上で大の字になった。
 じたばたと両足を振り回して暴れて、蹴られそうになった平野藤四郎が慌てて逃げていく。その騒々しさに苦笑して、薬研藤四郎は手の中の札を小夜左文字に示した。
「全部、覚えてんのか?」
「一応」
「意味も?」
「歌は、短いけれど。だからこそ色々なことが、沢山、込められている。読み解けば、面白い」
「成る程ねえ」
 歌を詠んだ人の境遇、思考、時代背景。
 そういったものを理解した上で、歌の裏側に秘められた想いを探り、解き明かしていく。それが出来なければ和歌はただの言葉の羅列であり、耳をすり抜けていく音でしかなかった。
 ただそれを、どうやって説明すれば、上手に伝わるかが分からない。
 辿々しく告げた小夜左文字に、薬研藤四郎は納得だと首肯して、先ほど話題になった札を掲げた。
「それじゃ、こいつは?」
「山鳥の尾のような、長い夜、を。ひとりきりで過ごさなければならないのは、とても寂しい、と」
 愛する者がいて、けれど理由があって離れなければならなくなった。共に過ごす時間が失われて、独り寝の夜が長く、辛く感じられてならない。
 出来るだけ平易な言葉で、理解してもらえるように伝えるのは難しい。
 苦労しながら言葉を選び取った小夜左文字に、藤四郎たちは姿勢を改め、身を起こした。
「ねえ、小夜。それじゃ、こっちの御姫様は?」
「この坊主、なんか徳が高そうな顔してっけど。こいつって何者?」
「たとえば、この方と、この方とでは、座っておられる台座の色が異なります。これにもなにか、意味があるのでしょうか」
 各々興味深そうに手元の札を覗き込み、ならばこれは、と次々手を挙げていく。
 立て続けに教えてくれと頼まれて、左右を見回した少年は狼狽えて赤くなった。
 先ほどの乱藤四郎の弁ではないが、そんなに一斉に求められても、応えられない。
「待て。お前ら、ちょっと待て。いくら小夜でも、一度には無理だ」
 四方八方から問い詰められても、聖徳太子ではないのだから聞き取れない。困惑して右往左往している小夜左文字に苦笑して、薬研藤四郎は右手を高くした。
 弟たちと彼との間に割って入り、一旦黙るよう促す。その効果は覿面で、藤四郎たちは一瞬で静かになった。
「ひとりずつ、順番だ」
「は~い」
 長兄の一期一振が居ない間は、彼が皆を仕切っていた。
 統制を失いがちな弟たちをしっかり制御して、薬研藤四郎はほっとしている小夜左文字に相好を崩した。
「しっかし、百首もあると、結構な量だよな。そういや小夜は、どれが一番好きなんだ?」
「え?」
 そして唐突に話を転換し、代表者として真っ先に質問を投げかけた。
 虚を衝かれた少年は吃驚して目を丸くして、悪戯っぽく笑っている短刀に遅れて頷いた。
「ああ……」
「ひとつくらい、あるだろ」
 小夜左文字に言わせれば、たかが百首程度。だが馴染みのない彼らにとっては、そうではない。
 膨大過ぎる知識の海に漕ぎ出すには、身を預ける舟が必要で、波を掻き分ける櫂が不可欠だった。
 先導役に、期せずして選ばれた。最初の取っ掛かりを欲する薬研藤四郎の意図を知り、小夜左文字は半眼して眉を顰めた。
 そう言われても、咄嗟になにも思い浮かばない。答えに詰まり、彼は一番から順に、歌を頭に並べていった。
 こういう話題は、どちらかといえば、文系を気取っている男の方が得意そうだった。
 口は達者だし、人との付き合い方もあちらの方が器用だ。子供たちに教えるのも、きっと巧くやるだろう。
 血の気の多さを雅さで上塗りしているが、隠しきれているとは言い難い。短気で冷徹な性格は、どう頑張っても覆せるものではなかろうに。
 無駄な努力を厭わない男を思い浮かべ、小夜左文字は右手を胸に押し当てた。
 数奇な巡り合わせで、再び会い見える事になった。
 一度別たれた道が再び交差して、ひとつの流れに戻るなど、あの頃は思いもしなかった。
 可笑しなものだ。解けた糸は二度と結び合う事もなく、そのまま朽ちて行くと信じていたのに。
「僕は。……そう、だね」
「おっ。どんなだ?」
 並び順を一気に飛ばして、ひとつの歌が脳裏をよぎった。
 これほどしっくりくるものは他にない。密やかに笑みを浮かべ、彼は興味津々な藤四郎たちを見回した。
「七十七番」
 厳かに告げるが、誰一人、成る程と頷く者はいなかった。
 当然だ。ぽかんとしている皆を心の中で笑い飛ばして、小夜左文字は不満を隠そうとしない眼差しに肩を竦めた。
「どなたの、歌でしょう」
 百人一首には、歌ひとつひとつに一から百まで番号が振られている。
 坊主めくりしかしない彼らが、その詳細を知るわけがない。わざと意地悪な言い方を口にした少年は、挙手をした平野藤四郎に意味ありげな視線を投げた。
 口角を持ち上げ、不遜に笑う。
「うっ」
 ひやりとする空気を感じ取り、子供たちは一斉に己自身を抱きしめた。
 背筋を粟立て、不敵な表情の小夜左文字を窺い見る。訝しむ眼差しからは、久しく忘れ去られていた、彼の特異性を思い出している様子が読み取れた。
 小夜左文字は、復讐に餓えた子供。
 無邪気さを捨て、恨みを晴らす一心で刀を振るい続ける、醜く歪んだ心の持ち主。
 愛され、慈しまれて来た刀剣たちとは生まれが違う。
 育ちが違う。
 その手は最初から血に濡れて、抱えきれない罪を背負っていた。
「小夜くん……?」
 嫌な予感を覚え、五虎退が不安げな顔をした。乱藤四郎と手を繋ぎ、告げられる言葉に覚悟して、ごくりと唾を呑み込んだ。
 緊張が滲み出ている面々を見下ろして、小夜左文字はクツリと喉を鳴らした。
「七十七番は、崇徳院」
 それは恨みを抱き、傷心のまま命尽きた男の名前。
 死して後もその怨嗟は空を覆い続け、屈辱を与えた男たちを次々に呪い殺した怨霊に他ならなかった。
「え、えええええー!?」
「なっ、なんでそんな奴のが。ここに入ってんだよ」
 告げられた名を耳にして、少年たちは途端に青くなった。剛毅で勝気な厚藤四郎までもが身を震わせて、歯の根が合わない奥歯をカチカチ噛み鳴らした。
 あまりにも予想通り過ぎる反応が、面白くて仕方がない。
 小夜左文字は満足そうに目を細め、唯一難しい顔をしている薬研藤四郎に向き直った。
 彼らでもその名と略歴くらいは知っている、との推測は、ものの見事に命中した。
 上皇にまで昇り詰めておきながら、讃岐の地に流されて憤死した男。その胸に蓄積された憎しみは、果たしていかばかりだっただろう。
 そこに小夜左文字の境遇を重ねあわせれば、皆が恐れ戦くのは道理だった。
「小夜ってば、やっぱ。そういうのが、いいんだ」
 嫌悪感を露わにして、乱藤四郎が頬を引き攣らせながら呟く。それを冷めた眼で見返して、彼はふっ、と鼻白んだ。
 これで暫く、彼らは近付いて来ない。騒動に巻き込まれ、迷惑を蒙る回数も、幾ばくかは減るだろう。
 静かな生活が戻ってくる。
 それは決して、悪い事ではない。己に言い聞かせ、小夜左文字は悪名高い男の歌を心で諳んじた。
 理解してもらえなくても構わない。
 自分だけが知っていれば、それでいい。
 想いを胸にしまいこんで、彼は納得がいかない様子の薬研藤四郎から離れた。
 肝心の歌については、まだ何も語られていない。
 墓穴を掘るつもりはなくて、小夜左文字は聡い男から距離を取った。
 その背後に。
「失礼。薬研藤四郎殿は居るかな」
「――っ!」
 黒い影がぬっと伸びて、広い部屋が一気に暗くなった。
 障子戸に浮き上がった人影は大柄で、肩幅は広かった。耳慣れた声が響き渡って、油断していた小夜左文字はびくりと背筋を戦慄かせた。
 一瞬にして怯えた猫となり、全身の毛を逆立てる。それまでの悠然としていた態度が吹き飛んで、大袈裟な反応に全員が眉を顰めた。
 ひとりで焦り、慌てている彼に、藤四郎たちが顔を見合わせる。外から名前を呼ばれた短刀も、怪訝にしながら顔を上げた。
「俺なら、ここに」
「そうか。それは良かった。失礼するよ」
「う、うあ、あ」
 薬研藤四郎が在室を告げれば、縁側の男は安堵の声を響かせた。肩の力を抜いて胸を撫で下ろし、障子戸の引き手に手を伸ばした。
 影が連動して動くので、彼の一挙手一投足が手に取るように分かった。小夜左文字は激しく狼狽し、左右を見回して、突然脱兎のごとく駆け出した。
「突然済まない。薬研殿、主がお呼び――うわあっ」
「小夜?」
 歌仙兼定が要旨を告げ、障子を右に滑らせた。直後に地を蹴った少年が、その隙間に強引に割り込んだ。
 入ろうとしたら、外から弾丸が飛び出して来た。
 危うく激突するところだった歌仙兼定は寸前で躱し、後ろに数歩よろめいた。目を白黒させて出て行った背中を見送って、続けて唖然としている粟田口の兄弟に首を捻る。
 いったいここで、何が起きていたのだろう。
 訪ねて来たばかりで状況がさっぱり分からない彼に、短刀たちも意味不明だと首を振った。
 ただひとり、薬研藤四郎だけが、思案気味に眉を顰めた。
「御足労いただき、感謝する」
「いやいや、これくらいはね」
 それでも一応知らせてくれた礼を述べて、歌仙兼定も軽く応じた。続けて異様な雰囲気の室内を眺めて、輪の中心に陣取る絵札に焦点を定めた。
 小夜左文字の行動については、誰にも理由は分からない。だから今は気にしない事にして、彼は珍しいと目を眇めた。
「百人一首とは、雅だね」
「えー。そうかなあ……」
「おや?」
 戦上手が多い中、和歌に通じる者は少ない。刀剣とは戦う為の道具だから当然と言えば当然なのだが、歌仙兼定はそれが常々不満だった。
 だから子供たちが、歌に興味を持ってくれるのは素直に嬉しかった。しかし合いの手は素っ気なくて、彼は右の眉をぴくりと持ち上げた。
 何が気に入らないのだろう。
 見過ごせない状況を嗅ぎ取って、男は静かに半眼した。用は済んだのに立ち去ろうとしない彼を見上げて、薬研藤四郎も席を立たずに肩を竦めた。
「いや、なに。小夜の奴が、崇徳上皇の歌が一番好きだと言い出したんでな」
「小夜が?」
 さっきまで部屋にいた少年は、縁側を飛び下り、庭の奥へと姿を消していた。
 草履も履かず、一目散に駆けて行った。目立つ藍色の髪は緑に紛れ、行方を追うのは不可能だった。
 唐突な豹変で、原因は闇の中。
 意味不明すぎると溜息を吐いた薬研藤四郎に、歌仙兼定は眇めていた目を見開いた。
 右手は宙を泳ぎ、口元を覆い隠した。
「すまない。小夜は、本当にそう言ったのかい?」
 指の隙間から息を吐き、掌を湿らせて訊ねる。
 薬研藤四郎は間髪入れずに首肯して、残る藤四郎たちも彼に倣って頷いた。
 間違いないと、場に居合わせた全員が認めた。
「ああ。七十七番は、崇徳院なんだろう?」
「それは、相違ないんだが」
 歌仙兼定は瞳を彷徨わせると、風のない庭園を振り返った。
「そう。あの子は、そんなことを」
「嬉しそう……だな」
「そうかな。いや、そうだね。光栄だ、とても」
「うん?」
 小夜左文字は恨み辛みなら口にするが、それ以外の感情はあまり声に出さない。想いは常に胸に秘めて、誰にも明かそうとしなかった。
 それが僅かに露見した。
 これを喜ばずして、いつ喜べというのだろう。
 頬を緩めて締まりない顔をする男に、子供たちは頻りに首を捻った。
 小夜左文字の慌てぶりと、歌仙兼定のだらしない顔。
 そして怨霊として知られる崇徳院。
 それらが全く結び合わなくて、彼らは互いの顔を見合わせた。
「まったく。そういう事は、直接、僕に言ってくれないと」
「すまない。話が全く見えないんだが」
「おや。雅の欠片もない言葉だね」
 答えならそこにあると、歌仙兼定は歌かるたの山を指差した。
 知りたければ自分で探せ、ということらしい。端から教える気などない返答を残して、彼は急ぎ踵を返した。
 足をもつれさせながら、小夜左文字が逃げていった庭へと飛び降りる。白い足袋が黒く汚れるのも構わず、一目散に駆けていった。
 彼が常々口にする、雅さはどこへ行ってしまったのだろう。息を切らし走っていった男を見送って、薬研藤四郎は頭を掻いた。
 文系は意味不明だと肩を落とし、呼んでいるという主の元へ出向こうと立ち上がる。
「あ、あった。えーっと、なになに?」
 そこへ、かるたを漁っていた弟の声が響いた。
 高らかと読み上げられたのは、怨念とはまるで無縁な恋の歌。
「……成る程。こいつは、無粋極まりねえな」
 小夜左文字が慌てて出て行った理由と、歌仙兼定が大急ぎで追いかけていった原因。
 その両方を理解して、薬研藤四郎は肩を竦めて苦笑した。

2015/6/7 脱稿

吹裏返す 秋の初風

 本日は、快晴。
 雲ひとつない空の下で行うのは、何故か農作業。
 命じられた当初は困惑した。しかし短刀にも扱えるよう小さめに作られた鍬を手に、汗を流すのは、思いの外心地良かった。
 焦げ茶色の地面を掘り返せば、時折蚯蚓が顔を出した。慌てた様子で逃げていくのを見逃してやり、土を均し、畝を整え、等間隔で掘った穴に種を植えていく。
 単調だが、根気が必要な作業の連続だった。朝早くから開始して、穴すべてに土の布団を被せてやる頃には、陽は西に傾いていた。
「今日はこれまでだね」
 広大な敷地を隅々まで耕すのは、骨が折れる。
 到底時間が足りなくて、どこかで見切りをつけるしかなかった。
 あと少しすれば、太陽は地平線に接しよう。鮮やかな朱色に染まる西の空を仰いで、小夜左文字は呟いた。
「やっとか」
 瞬間、地面にざっくりと鍬の歯が突き立てられた。
 そのままずぶずぶ沈んでいく農具を横目に見て、彼は聞こえた声に苦笑した。
 農耕具を杖代わりにして、男がひとり、疲れた顔で佇んでいた。
 表情は物憂げで、陰鬱。肌色は優れず、猫背で、まるで腰が曲がった翁のようだった。
 強気で勝気な眼差しは見る影もなく、落ち窪んだ眼が疲労の度合いを教えてくれた。白かった胴衣や袴は土で汚れ、特に足袋の汚れ具合が顕著だった。
 素足に草鞋が一番楽なのに、嫌らしい。
 そこだけは譲れないと己の矜持を主張するのは構わないが、それによって引き起こされる苦労に対し、文句を言うのは止めて欲しかった。
 ほぼ一日中、ぶつぶつ愚痴を聞かされる身にもなれ、と言うものだ。
 だがどうせ言ったところで、聞き入れられないのは分かっている。だから小夜左文字は、敢えて口を挟まなかった。
 相槌は返してやらず、再び西の空に目を向ける。
 夕焼けは少しずつ色を強め、遠くに見える山並みは、まるで赤々と燃えているようだった。
「真っ赤だ」
 この調子だと、明日も快晴に恵まれよう。
 少しくらい雨が降ってくれないと困るのだが、種を植えたばかりのこの時期、大雨は土が流れてしまうので、遠慮したかった。
 矛盾している。
 ちくりと胸を刺す感情に首を振り、小夜左文字はまだ鍬に寄り掛かっている男に意識を戻した。
「歌仙、帰ろう」
「承知した」
 農具、種を植えた袋、その他諸々。
 畑仕事に使った道具を左右の手に抱え、囁く。
 それで歌仙兼定もようやく動き出し、荷物の整理に取り掛かった。
 相変わらず不機嫌そうではあるが、これで解放されると喜んでいる節もある。一日土いじりを続けたので、今晩は、夢も見ないくらいに深く眠れそうだった。
「小夜は、疲れていないのか」
「これくらい、どうという事はない」
 屋敷の裏手に広がる農地は、人を雇っても追い付かないほどの広さだった。
 とてもではないが、たったふたりでどうにか出来る規模ではない。しかもこれを耕すのは、門外漢も甚だしい刀剣だった。
 歴史の改変を目論む輩がいる。これを防ぎ、不届き者を罰する為に遣わされたのが、彼ら刀剣男子だった。
 審神者なる者に喚び出された付喪神は、その時点で人の姿と心を与えられた。出陣しない時は本丸に居残り、己や仲間の身の回りの世話をやるよう、言い含められていた。
 そのうちのひとつが、この農作業。
 自分の食い扶持は自分でなんとかしろ、という事らしいが、それにしても話は突飛だった。
 敵を斬り、殺すために産み出された刀剣が、よもや鍬を手に土を掘り返す事になろうとは。
 これほど馬鹿げた話はないと、歌仙兼定の愚痴は当分終わりそうになかった。
「僕に言わないで」
「仕方がないだろう。直接文句を言いに行った結果が、これだ」
 帰り道、細い畔を通り抜けながら、後ろに向かって苦情を送りつける。しかし逆効果で、余計に彼の機嫌を損ねてしまった。
 審神者とのやり取りを思い出したのか、非常に憤慨しているのが、振り返らずとも分かった。
 きっと今の彼は、西の空のように真っ赤だろう。
 ぷんすかと煙を噴いている様を想像して嘆息し、小夜左文字は足取りを速めた。
 触らぬ神に祟りなし。
 要らぬ争いはしたくない。歌仙兼定の気が治まるまで、暫く放っておくのが一番得策だった。
 けれどあちらは、話を聞いて欲しくて仕方がないらしい。
 それのみならず、同意をして欲しがっているものだから、始末が悪かった。
「まったく、何を考えているんだか」
「別に良いじゃない」
 農具を収納する小屋に辿り着き、立てつけの悪い引き戸を横に滑らせる。
 憤懣やるかたなしの声にうっかり合いの手を入れてしまって、気付いた時にはもう遅かった。油断したと自分に首を竦めて、小夜左文字は深々と肩を落とした。
 覚悟を決めて振り返れば、両手に重い農具を抱え持ち、男が憤怒の形相で立っていた。
 戦場で手傷を負わされた時も、彼はこんな顔をする。
 苛烈な性格だった前の主の影響が、過剰なくらいに表に現れていた。
 睨まれて、小夜左文字は嘆息した。運んできた荷物を足元に置いて、困った顔で目を眇めた。
「歌仙」
「だって、そうだろう。僕は刀だぞ」
「僕も、だけど」
「だというのに、あの者は、僕を。この僕を、草刈の鎌か何かと思っているのか」
「鯰尾もそう言っていた」
「だろう!」
 いい加減鞘に納めろと言いたかったが、冷静になるよう諭しても無駄だった。
 喋っているうちに、段々興奮が高まったのか。都合の悪い部分は綺麗に無視して、彼は鼻息を荒くした。
 前のめりになって詰め寄られて、荒い呼気が肌を掠めた。
 藍色の前髪を吹き飛ばされて、小夜左文字は迷惑そうに顔を顰めた。
 鎌扱いされている、と言ったのは、鯰尾藤四郎だ。しかしそこも、聞こえなかった事にされてしまった。
 実に使い勝手が良い耳をお持ちのようだ。内心呆れ、少年は言葉を探して目を泳がせた。
 この調子では、彼の怒りは当分鎮まりそうにない。
 下手なことを言って逆鱗に触れるのだけは、是が非でも回避しなければならなかった。
「面倒だな」
 厄介な相手と組まされてしまった。
 彼らがただの刀剣だった頃。一時期ではあるが縁を結んだことがあると、審神者に言わなければ良かった。
 今となってはもう遅い。
 これなら今剣と一緒にやった方が、格段に楽だった。あちらも農作業などに縁がない日々を送っており、それほど役に立つわけではなかったが、物を知らない分、教えれば面白がってやってくれた。
 無駄に知識だけ豊富な頭でっかちほど、扱いにくいものはない。
 未だ審神者に苛立っている男を見上げ、小夜左文字は両手を腰に当てた。
「片付け、やっておくから。歌仙はもういいよ」
「小夜」
「先に戻って」
「…………」
 胸を張り、告げる。
 高い位置にある顔をじっと見つめながら言えば、その返しが予想外だったのか、男は途端に黙りこんだ。
 思案気味に眉を寄せ、唇は真一文字に引き結ばれた。少し前まであれだけ喧しかったのが嘘のようで、小夜左文字は小首を傾げた。
 農作業が刀の仕事でないのは、皆が思っていることだ。不満を覚えているのは、なにも歌仙兼定ひとりではない。
 けれど大半の刀剣男子が、文句を言わずに働いている。馬の世話だって、そうだ。
 誰かがやらなければ、誰もやらないのだ。
 それでもやりたくないと言うのなら、屋敷に戻ればいい。後は荷物の片付けだけで、それくらいなら小夜左文字だけでも事足りた。
 喋るばかりで動かない者は、いるだけ邪魔。
 だったら居なくなってくれた方が、何倍も良かった。
 そんな気持ちが、少ない言葉から滲み出ていた。気取った男は渋い顔をして、悔しそうに地団太を踏んだ。
「小夜にばかり、やらせるわけにいかないだろう」
「別に、いいのに」
 憤然と言い放ち、一度は下ろした荷物を持ち上げる。
 投げやり気味な台詞と行動に目を丸くして、小夜左文字は肩を竦めた。
 そういえば、彼は負けず嫌いだった。
 やられたら、その三倍はやり返す。だから怒らせたくなかったのだが、意外にも良い方向に転がった。
「覚えておこう」
 次、似たようなことがあったら、この手を使おう。
 ひっそり呟いて記憶に焼き付けて、小夜左文字も甘藍の種の入った袋を抱え持った。
 薄暗い倉庫に道具を片付け、扉を閉めて外へ出る。
 西日は眩しく、夕焼けは天頂近くまで広がっていた。
 細く伸びた雲が鮮やかに色付き、不可思議な彩を作り上げていた。家路を急ぐ鳥が群れを成し、遠く、気の早い梟の声がこだました。
 鎮守の森がある方角に目を向けて、短刀の少年は寒さに身震いした。
「冷えて来たな」
 暦は夏が終わり、秋に至っていた。作付けは今植えているものが最後で、収穫が終わる頃には雪が降り始める計算だった。
 冬場の食糧調達は、どうするのだろう。
 今から保存の利くものを準備して、備蓄を開始しなくていいのだろうか。
 その辺りが、どうにも分からない。審神者に訊くのが一番早いのは分かっているのだが、小夜左文字はどうもあの者が苦手だった。
 あまり信用ならないというか、言っていることが全て胡散臭い。にわかには信じ難い事ばかり口にして、揶揄われている気がして嫌だった。
 どこに本心があるのか、さっぱり読み解けない。
 一介の刀剣に血肉を与えた存在であり、人間的な表現をすれば『親』に相当する相手ではあるが、過剰に信頼を寄せるのは危険だと思えた。
 土で汚れた身体を撫でさすり、小夜左文字は寒気を覚えた身体を慰めた。鳥肌立った腕を宥め、摩擦で熱を呼び起こした。
 それで温かくなりはしないが、じっとしているよりは良い。吐息をふたつ、みっつと並べて、彼は小屋の傍で待っていた男に駆け寄った。
 律儀なもので、待ってくれていた。
 気遣いなど不要だというのに、奇妙なことに、少しほっとした。
 湧き起る感情は、良く分からない。だが不快ではなくて、小夜左文字は胸の中に芽生えた微熱をそっと抱きしめた。
「顔を洗いたいな」
「僕も」
 呟かれ、間髪入れずに同意する。土いじりを一日中やっていたのだから、顔だけでなく、手も、足も、泥だらけだった。
 全身汗だくで、早く着替えたかった。慣れない事をさせられたから、疲労感も相応だった。
 これでようやく、解放される。
 安堵に胸を撫でおろした途端に膝ががくがく震えて、小夜左文字は苦笑した。
 あと少しだからと己を鼓舞し、連れ立って屋敷へと戻る。道中見えた演練場はひっそり静まり返っていて、誰もいないようだった。
「井戸にするか」
「……うん」
 手を洗うだけなら、縁先手水鉢で事足りた。しかしあそこで身体を洗うのは、少々気が引けた。
 そもそも、役目が違う。手水鉢だって、そんな目的で使われたくないだろう。
「手拭いは」
「あるよ」
 同意して、小夜左文字は進路を変えた男に訊ねた。歌仙兼定は瞬時に応対して、襷を解いた懐から折り畳んだ布を取り出した。
 編み目の粗い手拭いを示されて、小さく頷く。
 そういえば仕事中、彼は頻繁にそれで顔を拭いていた。
 あまりにも手が止まる回数が多いので、途中から彼の方を見なくなったのだった。こちらはあくせく働いているのに、何度も休んでいるところを見せられるのは、あまり気分の良いものではないからだ。
 思い出して首肯して、小夜左文字はまたも手拭いを首に押し当てた男に苦笑した。
「ん?」
「いいや」
 それが目に留まったらしく、歌仙兼定に変な顔をされた。慌てて首を振って誤魔化して、短刀の少年は足早に彼を追い越した。
 屋敷の庭には何個所か井戸が設けられ、好きな時に水が汲めるようになっていた。
 台所の傍にもひとつ、煮炊き用の水を汲む為に用意されていた。
 但し彼らが向かったのは、そちらではない。
 演練場に程近い釣瓶井戸には、割った竹を並べて作った覆いがされて、その上に綱に結ばれた桶が置かれていた。綱は斜め上へと伸び、井戸脇の柱に吊るされた滑車へと続いていた。
 小夜左文字がその桶を手に取れば、歌仙兼定がすかさず竹簾を横へ押し退けた。
 風雨に晒されて来たからか、竹簾は茶色に変色していた。互いにぶつかり合ってガラガラ音を立てるが、それも覇気がなく、あまり喧しくなかった。
 適当に畳んで井戸に立てかけて、歌仙兼定が空いた手を差し出した。それだけで理解して、小夜左文字は遠慮なく、乾いた桶を彼に手渡した。
「まったく。釣瓶落としの如くだね」
 そうして底の見えない井戸に桶を放り込み、滑車が騒々しく回転する最中に呟く。
 視線は西へ向かい、暮れゆく空を眺めていた。
 この場所からでは庭木が邪魔をして、太陽自体は見え辛い。ただ棚引く雲の朱色と、影を帯びた樹木は見事に調和がとれており、美しかった。
 歌仙兼定が桶を手放してから随分間を置いて、水の跳ねる音がした。冷えた空気と共に駆け上ってきた音色に耳を澄ませ、彼は男が綱を引き上げるのを大人しく待った。
「手伝うか」
「問題ない」
 念のため助力を申し出るが、敢え無く却下された。この男はいつもこうで、見栄を張っているのか、小夜左文字を子供扱いした。
 刀工の手で鍛え上げられた時代は、小夜左文字の方が幾ばくか早い。外見年齢で騙されそうになるが、産み落とされてからの年数は、歌仙兼定の方が短かった。
 だというのに、彼は自分の方が年上だと言わんばかりの態度だ。年長者として振る舞って、己を中心に物事を進めたがった。
「別に、いいけど」
 それで多少なりとも楽をさせてもらっているのだから、特に不満はない。
 ただあまり度が過ぎるのは、遠慮したかった。
 過保護に守られるほど、弱い存在ではない。見た目が幼かろうとも、小夜左文字は刀だ。
 なにを考えているのかよく分からない代表は審神者だが、歌仙兼定もそうだ。
 冷たく突き放したかと思えば世話を焼いたり、乱暴に扱ったかと思えば、優しく抱き留めたり。
 両極端過ぎて、本心が掴めない。黙々と綱を引く男を眺め、小夜左文字は嘆息した。
 歌仙兼定は中ほどまで水で埋まった桶を囲いの角に置き、早速水面に手を出した。波打っている表面を削って掌で水を掬い、それを右手に振りかけた。
 続けて反対の手を同じように洗って、最後に両手で掬って顔にぶつける。首を振って雫を散らす表情は晴れ晴れとしていて、とても気持ちが良さそうだった。
「ああ、生き返るよ」
 畑に居た頃とは、別人のようだ。
 活力漲る声に失笑して、小夜左文字も桶へと手を差し入れた。
 指先を湿らせ、顔を洗い、袖で拭く。だがそちらも汚れており、土の匂いが一層強まっただけだった。
「ほら、小夜。こっちを向いて」
「いい。問題ない」
「駄目だ。そんな汚い顔で、屋敷には上げられない」
「顔は関係ない」
「いいから」
 もしかしたら、茶色い筋が頬に走ったのかもしれない。見かねた歌仙兼定が手拭いを湿らせて、顎を抓まれそうになった少年はぶすっと口を尖らせた。
 しかし効果はなく、呆気なく囚われた。濡れた布を鼻先に押し当てられて、小夜左文字は咄嗟に目を瞑り、息を止めて固くなった。
 爪先まで緊張でガチガチになって、竦み上がった姿はさぞや滑稽だっただろう。
 実際笑われてしまって、少年は不機嫌に頬を膨らませた。
「うん。綺麗になった」
「歌仙は、汚い」
「おやおや、酷いことを言う。まあ、実際その通りではあるんだけどね」
 この身体を動かすのには、随分と慣れた。けれど他人に――それがたとえ同類であったとしても――触れられるのには、まだそれほど馴染めずにいた。
 自分から触れに行く分は、覚悟が出来た上だから問題なかった。
 困るのは、その逆。
 特に前触れのない接触は恐怖で、不必要なくらいに警戒した。
 夜眠る時も、周囲の音が気になってゆっくり休めない。常に気を張って、木の葉が風で落ちるだけでも敏感に反応させられた。
 そんな中で唯一落ち着けるのが、そこにいる男の寝床だった。
 彼もまた刀剣の端くれであり、戦上手と謳われた男の愛刀だ。勿論歌仙兼定に寝首を掻かれたらそれまでだが、他の者に襲われる危険を考慮すれば、彼の寝所に潜り込む方がまだいくらかましだった。
「まったく、雅じゃないねえ」
 湿った前髪を抓み、捻りながら男が言う。
 半ば口癖になっているその言葉が可笑しくて、小夜左文字は不覚にも噴き出しそうになった。
「おや」
「……なんだ」
「いいや。小夜も、そういう顔をするようになったのか、とね」
 寸前で堪えたが、見破られた。物珍しげに見下ろされて、告げられた言葉は穏やかだった。
 字面が良くない台詞だったのに、口調のお陰で半減だった。馬鹿にするわけではなく、感心している素振りに気まずさが募り、小夜左文字は彼に撫でられた鼻を押さえた。
 いったい、どんな顔だったのだろう。
 自分では見えなくて、彼は背伸びをして桶を覗き込んだ。
「頭からかぶるかい?」
「冗談を」
 それを、どう思ったのか。
 鏡代わりにしたかったのに違うことを言われ、小夜左文字は瞬時に踵を下ろした。
 叱られた男は呵々と笑い、手拭いを広げて桶へと放り込んだ。たっぷり水を含ませて、その間に袖から腕を抜いて衿を広げた。
 袴を履いたまま、上半身を曝け出す。下に着ていた襦袢ごと脱ぎ捨てて、汗と泥で汚れた上着は天地を逆に垂れ下がった。
 勇ましく諸肌を脱いだ男は、肩幅が広く、胸板は厚く、上腕も引き締まって、無駄のない体躯だった。
 程よく鍛えられ、余分なものがない。普段身に着けている華美な衣装は誤魔化しでなく、彼は十分、実戦に足る肉体を備えていた。
「……む」
 対する己はどうかと比較しそうになって、小夜左文字は抓んでも皮しかない腕に小鼻を膨らませた。
「小夜は、どうする。背中を拭いてあげようか」
「自分で出来る」
「そう。なら、良かった」
 そうしている間に、歌仙兼定は濡らした手拭いを絞った。雫が垂れなくなるまできつく捻って、再度広げたそれを真っ先に左腋へと押し当てた。
 肩を少し持ち上げ、腕と脇腹の間に隙間を作る。火照った身体を冷ましつつ、少しずつ布を動かしていく彼を眺め、小夜左文字はもぞもぞと膝をぶつけ合わせた。
 その身体が羨ましかった。
 彼くらいの太い腕があれば、もっと楽に敵を討ち滅ぼせるのに。
 仇を殺すのだって、雑作もないのに。
 暗い影が視界を過ぎった。足元に長く伸びる闇が、深く、深く、小夜左文字を手招いた。
 沼があった。
 血の色をした沼だ。
 一度嵌ったら抜け出せず、二度と浮き上がれない。呪詛の言葉は昼夜を問わず響き渡り、こだまする声は心を蝕んだ。
 足に絡みつくのは、死者の腸で作られた鎖。
 腕を縛り付けるのは、死者の骨で作られた枷。
 無数に積み重ねられたしゃれこうべの、空っぽの眼窩が小夜左文字を見ていた。蛇が牙を剥き、細い舌をくねらせた。
 囚われ、抜け出せない。
 逃げられない。
 喰い滅ばされる――
「っ!」
 ばしゃり、と水の音がした。
 突然だった。頭から浴びせかけられた井戸水は冷たく、大量の雫を纏った少年は目をぱちくりさせて立ち尽くした。
 惚けた顔で瞬きを繰り返す。前方では諸肌脱いだ男が、桶を手に憤然とした面持ちで佇んでいた。
「目は覚めたかい?」
「……お陰様だ」
 淡々と問われ、それだけ返すのが精一杯だった。小夜左文字は濡れた前髪ごと額を覆い、こみあげる笑いを噛み殺した。
 白昼夢に捕まって、抜け出せなくなるところだった。
 まさかの方法で救い出されて、少年は力なく首を振った。
「どうしてくれる、歌仙。着るものがない」
 復讐に狂った短刀は、あまり物を持たない。
 審神者から幾らか駄賃をもらっているものの、使うことはせず、壺に入れて貯め込む毎日だ。
 その所為で替えの服も多くなく、襤褸になってもずっと着続けている。しかも枚数は多くなく、洗濯に出してしまうと暫く裸で過ごさなければいけなかった。
 これからの季節、夜は冷え込む。日中ならまだ耐えられなくはないが、陽が暮れた後は命取りだった。
 頭から水を浴びせられて、一張羅がずぶ濡れだ。髪を梳き上げながら文句を言えば、身体を拭き終えた男は身なりを直して肩を竦めた。
「なら、僕のを貸してあげよう」
「大きいだろう」
「なんとでもなるよ」
 着丈だけなら、腰のところで折り返してやれば良い。そんな軽い口ぶりに、華奢な短刀はぶすっと頬を膨らませた。
 それは、女性の着方だ。
 小柄な体格とはいえ、小夜左文字は立派な男子。
 侮辱されたと拗ねた少年に、歌仙兼定は呵々と笑った。
「では、粟田口の誰かに借りるかい?」
「あれは、ちょっと……」
 声を高くして聞かれ、途端に小夜左文字は口籠った。例に出された者の衣服を脳裏に想像して、そのあまりの似合わなさに、彼は頭を抱え込んだ。
 それなら今剣から借りる方が良い。
 あそこまで身体の線に沿ってぴったりした衣装は、窮屈で仕方がなかった。
 露骨に嫌がった彼に目を眇め、歌仙兼定はもう一度湿らせ、絞った手拭いを広げた。四つに折り畳んで右手に持って、小夜左文字の顎から滴る雫を吸い取らせた。
 そのまま肩に手を置き、顔を丁寧に拭いていく。仕草は優しく、ゆっくりで、心地よかった。
「ここで脱いでいくかい?」
「歌仙が、運んでくれるなら」
「おやおや」
 問われ、小夜左文字は目を逸らした。濡れた服は肌に張り付いて気持ちが悪いが、我慢出来ないほどではなかった。
 それでも生意気を言えば、男は朗らかに目尻を下げた。淡く微笑み、珍しく我儘を言った少年の耳朶を擽った。
「いいよ。脚も洗わないとね」
 桶の中は空っぽで、水を汲むところから始めなければいけない。
 背筋を伸ばした彼は手拭いを小夜左文字に預け、暮れなずむ空の下、釣瓶をけたたましく鳴り響かせた。
 どうしてあんなことを言ったのか、本人も良く分からなかった。
 下履きだけになって、跪いた歌仙兼定に脚を洗われて。
 連れて行かれた部屋で着せられた麻の単衣は、案の定、床に擦るくらいに長くて。
 文句を言えば、宥められた。
 頭を撫でられ、拗ねて膨らませた頬を捏ねられた。
 楽しそうに笑われた。姫のようで似合っていると言われたので、思い切り蹴ってやった。
 衣には防虫効果もある香が炊き付けられて、嗅ぎ慣れない匂いがした。
 自分ではないものになった気がした。後ろから誰かに抱きしめられているようで、その日はずっと、落ち着かなかった。

2015/04/18 脱稿

うつつに物を 思ふなりけり

 穏やかに晴れた、天気の良い日だった。
 日増しに厳しくなりつつある陽射しも、適度に雲が散っているお陰で幾分弱められていた。風はなく、庭の木立が揺れるのは、主に枝に停まっていた小鳥が飛び立ったのが原因だった。
 本格的な夏はまだ先ながら、地表付近はじりじりと焦げ付くように熱い。
 出来るだけ日なたを避けるように進んで、小夜左文字はうなじを擽る後ろ髪を跳ね除けた。
 高く結った藍色の髪は、冬場に比べると少し短くなっていた。だが不用意に鋏を入れたお陰で長さが足りず、一部が頭頂部付近の結び目に届いていなかった。
 そういった短い髪が重力に引かれ、度々襟足に絡みついた。じっとしていれば特に気にならないものだけれど、汗ばんだ肌に張り付かれると、途端に不快さが増した。
 もっとちゃんと櫛を通し、鏡を覗き込むべきだった。
 もしくは人に頼み、やって貰えば良かった。
「……失敗した」
 数日前の行動を振り返り、小夜左文字はぼそぼそと呟いた。
 愚痴を零したところで、髪が伸びることはない。暫く我慢するより他なくて、彼はまたも項に触れた毛先を払い除けた。
 トタトタという足音は軽やかで、土壁が剥き出しの廊下は比較的涼しかった。
 但しもうじき、表に出る。南に面した縁側は日当たりも良く、この時間はぽかぽか陽気で逆に暑いくらいだった。
 あと少ししたら簾を吊るそう、という話が出ているのは聞いていた。葭簀の手配は済んでいるから、近いうちに届くというのも耳にしている。
 風鈴を買いに行こう、とも誘われていた。軽やかな音色に涼を見出すのは堪らなく風流だと、嬉しそうに笑っていた。
 蕩けるような笑顔を思い浮かべ、小夜左文字は足取りを緩めた。辿り着いた本丸南側の庭園は濃い緑に覆われて、冬場とは全く違った様相を呈していた。
 ぴちゃりと水の跳ねる音がしたのは、池に放った鯉だろう。毎日飽きるほど餌をもらって肥え太っており、ふてぶてしい顔をしているのが短刀たちに人気だった。
 野良猫に襲われないようにと、見回りも欠かさない。
 但しその輪に小夜左文字が加わったのは一度きりで、以後は誘われなくなっていた。
 折角太らせたのに、美味しく育ったところを掠め取られたら困るからね、と言ったのだが、何か変なところがあっただろうか。頬を引き攣らせていた秋田藤四郎や乱藤四郎を思い返し、彼は右に首を傾けた。
 ともあれ、無理矢理仲良しごっこの会に組み込まれることはなくなった。
 それは有難いことだと自分を納得させて、小夜左文字は辿り着いた障子戸の前で息を整えた。
 胸に手を添えて、深呼吸を三回。
 舐めた唇は乾いており、トクトク言う鼓動は調子を速めていた。
「歌仙」
 開放的な縁側に面した戸は、すべて閉じられていた。
 他の部屋はそうでないのに、此処だけだ。前を素通りしてきた部屋はいずれも無人で、内部は寝起きしている刀剣たちの個性に溢れていた。
 綺麗に布団を片付けている者、万年床になりかけている者。
 脱いだものをきちんと畳んで、整理している者。
 広げたら出しっ放しで、足の踏み場も残っていない者。
 各々が寝起きする場所は、自身で掃除する決まりになっていた。だから当然、面倒臭がって一切手を付けない者もいた。
 そういう性格が複数人揃えば、あっという間に部屋は腐海と化す。特に湿気が高く、雨の多いこの時期は悲惨だった。
 梅雨の晴れ間は貴重なのに、布団を干すどころか、床から上げようとすらしないのは問題だ。
 仕方なく手伝ってやろうとした男が、黴が生えて粘菌類の巣と化している空間に悲鳴を上げたのは、見ていてかなり滑稽だった。
 よくぞあんな部屋で、不満なく暮らせるものだ。
 驚き、呆れさせられた。小夜左文字は昨日のひと悶着を軽く振り返り、ゆるゆる首を振った。
 この一件は、実はまだ解決していない。しかし今はどうでもいい事で、頭から追い出し、彼はシンと静まり返った戸の奥に意識を差し向けた。
 動くものの気配はない。
 誰も居ないのかと一瞬不安になって、彼は引き手に伸ばそうとした手を引っ込めた。
「歌仙?」
 二度目の呼びかけにも、返事は得られなかった。
 応対がないと、障子を開け難い。この部屋は小夜左文字が寝起きしている場所であるけれど、元々は歌仙兼定が審神者に与えられた場所だった。
 小夜左文字は、いわば居候の身だ。自身に宛がわれた短刀たちの共同部屋には居着こうとせず、遅れて本丸へ招かれた兄たちとも生活空間は別々だ。
 赤の他人にも等しい歌仙兼定を選んだ理由は、単純に、彼と接する時間が一番長かったからだ。
 審神者によって現世に喚び出される前から、彼の存在は承知していた。当時の彼にはまだ固有の名前がなかったけれど、その鋭い切れ味については、既に広く知られていた。
 昔のような気性の荒さは影を潜めたものの、今でも時折、無邪気なまでの残酷さがちらちら顔を覗かせた。
 彼からは、血の臭いがする。
 だから安心するのかもしれない。
 腐臭を漂わせ、血腥さが決して消えないこの身体と、彼が香で誤魔化す臭いが似ているから。
「歌仙兼定。居ないのか」
 三度目、小夜左文字は先ほどより声を高くして問いかけた。
 けれど相変わらず部屋は静かで、物音ひとつ響いてこなかった。
 本当に留守にしているのだろうか。しかし直前に立ち寄った炊事場は蛻の空で、朝餉の片づけは終了した後だった。
 一番隊は出陣し、二番隊以降も半刻ほど前に遠征へと旅立った。広い屋敷は途端に人気が消えて、普段の賑やかさが嘘のようだった。
 こんなに静かなのは、久しぶりではなかろうか。
 まだ本丸に刀剣が揃わず、出陣さえままならなかった頃を思い出して、小夜左文字は何気なく後ろを振り返った。
 彼がここに来たのは、昨年の夏の終わりだった。
 季節は秋に至る、ほんの少し前のこと。屋敷には審神者と、歌仙兼定しかいなかった。
 そうしているうちに今剣が喚び出され、五虎退がやってきて、乱藤四郎と出会った。
 鯰尾藤四郎が乱入して、山姥切国広と加州清光が時を同じくして現れた。
 秋の中ごろには宗三左文字が仲間に加わり、冬を迎えて暫くしてから、江雪左文字がふらりと本丸を訪ねて来た。
 時が過ぎるのは早い。
 あっという間に季節が一周してしまいそうだった。記憶を辿れば様々な出来事が芋づる式に蘇り、小夜左文字は感嘆の息を吐いた。
 歌仙兼定がいなければ、こんなにも本丸に馴染むことはなかった。
 審神者に対しては相変わらず不信感が残るものの、ここでの生活は、口で言うほど悪くなかった。
「どこへ」
 四度目の声は唾と一緒に呑みこんで、小夜左文字は内番服の衿を撫でた。
 襷はまだ結んでおらず、袖口は肘の辺りを彷徨っていた。帯代わりの腰紐の結び目は雑で、尻端折りもしていない。長着の裾は膝の下で揺れ動き、着丈が合っていないのもあって、若干不格好だった。
 素足に巻き付けた包帯は、今にも解けて落ちそうだ。それを気にして片足立ちで飛び跳ねて、小夜左文字は引っ張った布を包帯の内側に押し込んだ。
 これで暫くは大丈夫だろう。
 懐に潜ませた白い襷を上からなぞり、彼は困り顔で左右を見回した。
 歌仙兼定には、今日、馬当番を手伝ってもらう約束を取り付けていた。
 審神者に命じられた仕事なので、面倒だが断れない。ただ小夜左文字は、その経歴故か、動物に嫌われていた。
 中には顔を擦り寄らせてくる馬もいるけれど、一頭だけだ。厩で世話をしている馬は他にも数頭いるので、触らせてくれる馬だけ手入れする訳にはいかなかった。
 そんな真似をしたら、一緒に当番になった今剣に何を言われるか、分かったものではない。
 拗ねたら面倒臭い短刀を思い出して嘆息し、彼は胸の前で指を蠢かせた。
 左右の掌を重ね、人差し指を小突き合わせる。
 もっともこんなことをしていたところで、事態が好転するわけがなかった。
 馬を怖がらせないよう、助けて欲しかったのに。
 断られるのを覚悟で頼んだ時、二つ返事で承諾してもらえた。それなのに、どこへ行ってしまったのか。
 二面性があり過ぎる男に口を尖らせて、小夜左文字は深く肩を落とした。
「仕方がない」
 此処に居ないのであれば、他を当たるだけだ。
 けれど今剣をこれ以上待たせるわけにもいかなくて、彼は数秒逡巡し、右足を床板から引き剥がした。
 台所と部屋にいないのであれば、残る行き先に心当たりはない。そして非常に悪い事に、屋敷は無駄に広く、複雑に入り組んだ構造になっていた。
 場当たり的に増改築を繰り返した結果が、これだ。最近は落ち着いているけれど、春先までは毎日のように槌や鉋の音が聞こえていた。
 さらには建物内部だけでなく、敷地そのものも広かった。坪庭は数知れず、畑は広大で、演練場まで整えられていた。
 それらを逐一見て回り、探し回るのは骨が折れる。時間が差し迫っている中で、そんな手間取る真似が許されるわけなかった。
 人に頼ろうとしたのが、そもそも間違いだった。
 馬に蹴られる覚悟を決めて、小夜左文字は踵を返そうと、障子戸から一歩離れた。
「……んふしゅっ」
「――っ」
 直後だった。
 妙に詰まり気味のくしゃみが聞こえて、彼は慌てて振り返った。
 どくりと跳ねた心臓が、口から飛び出て来そうだった。それを急ぎ飲み込んで、小夜左文字は今し方立ち去ろうとした部屋を凝視した。
 障子戸は隙間なくぴっちり閉ざされて、中の様子は窺えない。呼びかけに応じる声はなく、薄暗い空間は静寂に包まれていた。
 だからてっきり、中に誰も居ないと思った。
 もしや違うのかと勘繰って、小夜左文字は恐る恐る、一度は引っ込めた手を伸ばした。
「歌仙?」
 息を潜め、囁くように問いかける。
 しかし今度も返答はなく、代わりに衣擦れの音が聞こえた。
 耳朶を擽る微かな音色に、少年は堪らず喉を鳴らした。緊張に頬を強張らせて、短い指で金属製の引き手を引っ掻いた。
 浅い溝を削り、木製の戸を右へと滑らせる。一寸ほどの隙間を作って肘を引き、出来上がった細い筋から室内を覗き込む。
 生唾を飲んで喉を鳴らして、小夜左文字は薄明かりが照らす屋内に目を凝らした。
 歌仙兼定の部屋は入口近くに衣紋掛けが用意され、季節外の衣装を入れる長持がその横に陣取っていた。調度品の類は少なく、がさつで粗野な刀剣たちとは一線を画していた。
 布団は毎朝きちんと折り畳まれて、長持の上に置かれていた。整理整頓が行き届き、畳には髪の毛一本落ちていない。
「いた」
 そんな綺麗に片付けられた室内に、巨大な塊が転がっていた。
 思わず声に出して、小夜左文字は目を丸くした。覗き穴代わりだった隙間に掌を差し込んで、楽に通り抜けられる幅まで障子戸を開けた。
 外の光が差し込んで、暗かった部屋が一気に明るくなった。しかし中で寝転がっていた存在は反応せず、小夜左文字に背中を向け続けた。
 藺草の匂いが心地よい畳の上で、彼の探し人は小さく寝息を立てていた。
 布団は敷かれていなかった。己の腕を枕にして、大柄の男はすやすやと、心地良さげに眠っていた。
 華美な衣装は脱ぎ捨てて、袴に白の胴衣姿だった。藤色の髪は垂れたままで、紅白の襷は脇に放置されていた。
 背中をやや丸めて、足はぴんと伸ばして。
 僅かに俯き加減で、空いた左腕は腹の上に転がっていた。
 敷居の手前に佇んで、小夜左文字は呆然と呟いた。
「寝ている、のか」
 何度か瞬きを繰り返して、ハッとして慌てて部屋の中に入る。行儀が悪いけれど後ろ手に障子戸を閉めて、彼は瞬時に暗くなった屋内に安堵の息を吐いた。
 白い紙に漉された組子の影が、緑の畳に薄く広がった。小夜左文字の影も細く伸びて、部屋のほぼ真ん中で眠る歌仙兼定の上に落ちた。
 物音が立て続けに響いたというのに、彼は微動だにせず、寝息は一定だった。
「歌仙」
 試しに名前を呼んでみても、反応はまるで得られなかった。
 布団も敷かずに、深い眠りに就いていた。外は太陽が燦々と照りつけて、素晴らしい洗濯日和だというのに、だ。
 じめじめとして鬱陶しい、梅雨の湿気も無縁だった。溶けそうになるほど暑くなく、あれこれやるには丁度良い日だった。
 寝て過ごすには、勿体ない。
 けれど歌仙兼定は実際に昼寝を楽しみ、目覚める様子がなかった。
「起きない、のか」
 彼を最後に確認したのは、朝餉が終わった直後だった。
 審神者から馬当番を任されて、手助けを頼んだ時だ。その後小夜左文字は兄たちの膳を下げに行って、薬研藤四郎と会って、食器を運ぶ役を奪われた。
 手持無沙汰になって、いつもは出向かない遠征組の見送りに行った。和泉守兼定には驚かれて、加州清光には髪型が可愛くないと言われた。
 襟足を擽る後ろ髪に身震いして、彼は忍び足で畳を進んだ。
 縁を踏まないよう進み、歌仙兼定の一尺手前で膝を折る。
 しゃがんで息を殺せば、穏やかな寝息がはっきりと聞き取れた。
「ん」
「歌仙」
「すぅ……」
 その時鼻を鳴らされて、目覚めたかと一瞬期待した。しかし僅かな間を置いて、歌仙兼定は窄めた口から息を吐いた。
 瞼はしっかり閉ざされて、開く要素が見つからない。
 暗くて見え辛いが、顔色は悪くない。間違っても、どこか具合が悪いわけではないようだった。
 今朝の彼は元気だった。いつものように朗らかに笑い、朝餉の支度を楽しんでいた。
 全部で四十人近い刀剣男子がいるので、食事の用意も大変だ。しかも江雪左文字は菜食主義で、神刀である大太刀たちも同様だった。
 彼らの為だけの食事も用意して、大飯食らいの胃袋も満足させる。
 到底ひとりでは手が足りず、小夜左文字も出来るだけ協力するようにしていた。
 それでも稀に、追い付かない。料理が出来る者は彼以外にも居るのに、趣味だから、のひと言で一手に担おうとするお人よしぶりが、小夜左文字には理解不能だった。
 毎日あれこれ忙しく、更には出陣をしたり、遠征に出向いたり。
 良いようにこき使われているというのに、彼は文句のひとつも口にしようとしなかった。
 昨日だって、頼まれたわけでもないのに他人の部屋を掃除して、散々だった。
 畳の上にぺたんと腰を落として、小夜左文字は行き場のない両手を太腿で挟んだ。
 長着の裾が割れて、白の下履きが顔を覗かせていた。肉付きの悪い膝で交互に畳を叩いて、少年は眠ったまま動かない男をじっと見下ろした。
「かせん」
 たどたどしい声で呼んではみるものの、結果はこれまでと何も変わらなかった。
 夢でも見ているのか、時々顰め面を作る以外、全く動かない。険しい表情はあまり楽しそうではなくて、文系を気取って本丸を取り仕切る姿との落差は大きかった。
「疲れているのか」
 毎日忙しくして、必要のない事まで手に掛けて。
 平気な顔をしていたけれど、実は疲労が溜まっていたのだろうか。
「之定の」
 懐かしい呼び方をして、小夜左文字は深く息を吐き出した。
 肩の力を抜き、背中を丸める。猫背になって歌仙兼定との距離を詰めて、彼は太腿から抜いた手を畳に添えた。
 身を乗り出し、寝入る男を覗き込む。吐息が当たらない距離を保ったまま見つめ続けるが、相も変わらず、寝顔は穏やかだった。
「……ふっ」
 一瞬笑ったように見えたのは、気のせいか。
 小さく噴き出した直後に身じろがれて、小夜左文字は慌てて背筋を伸ばして退いた。両手も引っ込めて空に泳がせ、暫くしばたばさせた後、膝の上に押し付けた。
 歌仙兼定は緩く首を振ると、頭に敷いていた腕を少しだけ引っ込めた。横向きから仰向けになって、右膝だけを軽く折り、左は下方へ放り出した。
 足の位置が離れ、袴の裾が畳に広がった。膝が浮いた分だけ布が圧迫されて、普段は隠れている脛が片方、膝の下まで露わになった。
 爪先は足袋に覆われているが、内側に隠れた指は時々動いていた。調子を取るように空を掻いており、徒歩での旅を夢に見ているのかもしれなかった。
 これまで、数えきれないくらい彼と遠征に出た。
 一緒に出陣して、広い背中に負ぶわれて帰還を果たした事もあった。
 逆に彼が手傷を負って、不安のままに帰りを急いだ日もあった。
 数え上げたらきりがない。両手では到底足りなくて、小夜左文字は思い出を五つ並べたところで諦めた。
 憎しみを抱き、復讐を遂げる事ばかりを考えていた。
 罪滅ぼしになるわけがないと分かっていても、仇を探さずにはいられなかった。
 もう存在しない相手を求め、望まずして背負わされた罪に潰されそうになっていた。
 傷を負い、血を流し、骨が折れて手足が歪に曲がっても、すべては罪過の報いを受けただけと、平然を装うとした。
 けれど死地に挑んでおきながら、思ってしまった。
 ここで別れるのは嫌だと。
 まだもう暫くは、共に在りたいと。
 負ぶわれる背の暖かさ、揺られる心地よさを知ってしまった。
 背負う側の憔悴と、後悔に気付いてしまった。
 彼が嘆かねばならないことはしたくなかった。彼が悲しみに顔を顰め、苦悶を押し殺して唇を噛む様は見たくなかった。
「かせん」
 口遊むその名前は、舌が蕩けるように甘かった。
 声に出すだけで胸が満たされた。奥の方が暖かくなって、凍てついて棘だらけだった心を柔らかく包み込んでくれた。
 歌仙兼定は毎日忙しい。
 炊事に洗濯、掃除と、具足の整備。暇を見つけては庭の手入れに汗を流し、風を感じては歌を詠む。
 大変だろうに、楽しそうだった。
 本丸にいる誰よりもここでの生活を面白がり、充実した日々を過ごしているように見えた。
 けれど、違った。単に人前で弱音を吐かないだけで、本当は疲労が溜まっていたのではなかろうか。
 でなければ、こんな明るい時間から横になりはしない筈だ。
 彼はまだ目覚めない。覗き込んだ表情は落ち着いており、心地よさげだった。
「歌仙、起きないのか」
 恐々問いかけるが、当然ながら返答はなかった。
 馬当番をひとりでやるのは気が引けた。今剣も一応居るけれど、短刀ふたりで大きな馬を一度に複数世話するのは、正直かなり骨が折れた。
 手助けが欲しかった。
 小夜左文字の気配に馬が怯え、暴れて逃げられる憂き目だけは、是が非でも避けたかった。
 鶏を捕まえるのでも大変なのに、相手がその数倍の大きさなら、苦労は計り知れない。特に後ろ脚の蹴りは強烈で、直撃を喰らったら簡単に吹き飛ばされてしまう。
 そうなると、最悪の場合、手入れ部屋へ直行だ。
 裾から覗く足首を軽く撫でて、小夜左文字は肩を落とした。
 手伝いは欲しい。
 けれど健やかに寝入っている男を起こすのは忍びない。
 両極端な想いを同時に胸に抱いて、少年は振り幅の大きい天秤に息を潜めた。
「歌仙、起きて」
 そうして天秤棒が停止するのを待たず、ほんの少し語気を強め、同時に尻を浮かせて膝立ちになった。
 力なく転がしていた利き腕を持ち上げて、拳を解いて指を伸ばす。
 慎重に。
 もどかしいくらいにゆっくりと。
 彼は覚悟を決めたのか、眠る男の肩を揺り動かすべく空を掻いた。
「……かせん」
 己の罪深さに歯を食い縛り、申し訳なさを上回る感情に心を奮わせる。
 一瞬だけ見開いた眼を細く眇め、彼は自身の欲を優先させて、丸い頬を紅潮させた。
「おきて」
 たどたどしく呼びかけて、直前で躊躇した指を痙攣させる。
 脈は次第に速まって、身体全部が心臓になったかのようだった。
 緊張に四肢を戦慄かせて、小夜左文字は苦悩と恍惚の狭間から手を伸ばした。
 その、背中を。
「さよくん、さよくーーんっ!」
「うっ」
 突如飛んできた甲高い声が、乱暴に突き飛ばした。
 堪らずつんのめり、小夜左文字は出していた腕を畳に叩き付けた。肘を突っ張らせて前傾姿勢を支え、吃驚し過ぎて大変な事になっている心臓を左手で押さえこんだ。
 どどど、と爆音を奏でる鼓動に脂汗を流し、瞳孔を細くして衝撃に耐える。右手はあと少しで歌仙兼定に触れるところで、もし目測を誤っていたら、彼の脇腹に鉄槌を下すところだった。
 そうならなかったのは幸いだったが、安心している場合ではない。外から聞こえた声に返事も出来なくて、彼は目を白黒させて左右を見回した。
 まず何からすればいいのか、咄嗟に判断出来なかった。
「さよくん、どこですか。おうまさん、まってますよ。はやく、はやくー」
「い、今剣……待っ、声が。歌仙が」
 もうひとりの馬当番が、なかなか来ない相棒役に痺れを切らし、屋敷を探し回っているようだった。両手を口に添えて大声を張り上げて、必死になって呼びかける姿は簡単に想像出来た。
 庭に面する障子戸は閉まっており、襖も全て閉ざされている。小夜左文字がどこにいるのかは、彼が返事をしない限りは秘匿された。
 けれど放っておくわけにはいかない。待ちきれなくなった今剣が、あらゆる部屋を家探しし始めるかもしれないし、そうならなくても、当分の間小夜左文字を呼ぶ声は続くだろう。
 それで歌仙兼定が起きない保証はない。
 今し方自分がしようとしていたことは棚に上げて、彼は右往左往しながら奥歯を噛み鳴らした。
「さよくん、いないんですかー。ぼくひとりじゃ、おうまさん、おせわできません! はやく、でてきてくださーっい」
 今剣の声は止まない。明るい障子戸に向き直って、小夜左文字は鼻を愚図つかせた。
「歌仙が、起きてしまう」
 腰を捻って姿勢を戻せば、目を離す前と後で歌仙兼定の体勢が少し変わっていた。再び腕を枕に背を向けて、右手は力なく畳に投げ出されていた。
 いつの間に寝返りを打ったのか。
 一瞬の動作を見逃していた。時間の経過を痛感して、小夜左文字はすとん、と腰を落とした。
 体温が移って仄かに暖かい畳にへたり込み、小鼻を膨らませて口を尖らせる。肩で息を整えて、落ち着き始めた鼓動に唇を舐める。
 今剣は明るく、元気で、活発な性格をしているけれど、反面拗ねると面倒臭かった。
 他にも何人かいる短刀の中で、小夜左文字と殴り合いの喧嘩をしたのは彼だけだ。粟田口の子らには、壁とまではいかないが、一線を引かれている雰囲気があった。
 小夜左文字が構えずに済む相手は、存外に少ない。
 未だ兄たちとの距離感を計りかねている彼にとって、今剣は、歌仙兼定と並ぶ大切な相手だった。
 行くべきか、留まるべきか。
 返事をすべきか、黙ってやり過ごすべきか。
 二者択一を迫られて、彼はこの大声にも目を覚まさない男に嘆息した。
 背中は、死角だ。目は前にしかないから、必然的に後ろは見えない。背後からばっさり斬られる危険がある限り、そこは最も警戒すべき場所だった。
 それなのにこうも堂々と曝け出されて、呆れるより他になかった。
 それに眠っている時間は、人が最も無防備になる時だ。
 だから小夜左文字を含め、実際の戦地を知る刀剣たちの眠りは浅い。熟睡はせず、少しの物音でも飛び起きられるようにするのが鉄則だった。
 ところが、この歌仙兼定はどうだ。
 小夜左文字がここにいるのに、今剣があれだけ騒いでいるのに、瞼が開かれる気配は皆無だった。
 本丸は安全と、信じきっているのだろう。
 間抜けな寝顔にふっ、と頬を緩め、小夜左文字は 静かに目を閉じた。
 淡く微笑み、首を振る。
「いつも、ごくろうさま。歌仙」
 訥々と告げて、彼は右膝から順に、身体を起こした。
「美味しいごはんも。ありがとう」
 思い返してみれば、きちんと礼を言った覚えがあまりない。
 面と向かっては言い辛い事を、この場を借りて囁いて。
 彼は膝立ちの状態で、僅かに残っていた彼との距離を詰めた。
 なるべく音を立てないよう気を配り、呼吸を整え、唇を舐める。歌仙兼定は強まった他者の気配に反応したか、眉を寄せて顰め面を作った。
「う、……ん」
 小さく呻き、男は顎を反らした。後頭部を畳に押し付けて、仰け反るようにして寝返りを打った。
 再び左向きから仰向けに体勢を入れ替えて、右腕は腹の上へと移動した。今度は枕代わりだった左腕が畳に放置されて、すぅすぅ眠る顔はあどけなかった。
 可愛いと、思ってしまった。
 凛とした佇まいからは想像し得ない表情に顔を綻ばせ、小夜左文字は眠りが深い男に首を竦めた。
「ゆっくり休んでくれ」
 もう手伝って欲しいとは言わない。
 彼の安らぎの時間を、誰にも――小夜左文字自身をも含め――邪魔させたくなかった。
「おやすみ。歌仙」
 そうっと囁いて、息を半分だけ吐く。
 残った半分を口の中に留めて、小夜左文字は膝に添えた手で長着の裾を握りしめた。
 膝を肩幅に広げ、背中をぐっと丸める。上半身だけを前に出して、倒れていかないよう腹に力を込める。
 頬を栗鼠のように膨らませて、色々な意味で顔を赤らめて。
 ゆっくり、歌仙兼定へと顔を近づける。
 吐息が鼻先を掠めた。
 穏やかに寝入る彼に安堵して、小夜左文字も目を閉じた。
 触れたのは一瞬だった。
 ほんのり香る甘さに首を竦めて、少年は柔らかくて心地いい微熱に照れ臭さを噛み殺した。
「さよくーん!」
 今剣の声は、少し遠くなりはしたが、まだ続いていた。
 早くしないと、後が大変だ。彼は素早く思考を切り替えて、くちづける前と何も変わっていない男に安堵の息を吐いた。
 面映ゆげに微笑んで、小夜左文字は音もなく立ち上がって踵を返した。
 障子戸を開け、閉めもせずに縁側へと駆け出す。
「今剣、うるさい!」
 庭を走って行っただろう短刀を追いかけ、草履を履くべく玄関へと向かう。トタトタという足音は次第に遠ざかり、捨て置かれた部屋には晩春の風が紛れ込んだ。
 人の気配が完全に途絶えるのを待って、歌仙兼定はのっそり、時間をかけて身を起こした。
「…………」
 頭が寝癖で大変な事になっていたが、そこに傾ける意識は欠片も残されていなかった。
 男は口元にやろうとした手を留め、白い胴衣に何度か擦り付けた。ごしごしと磨いてから顔の右半分を覆い、三角に立てた膝に額から突っ伏した。
「反則だ」
 狸寝入りは、幸運にも気取られなかった。
 どんな反応をするか見てみたくて、鶴丸国永ではないけれど、吃驚させてやろうと企んだのが全ての始まりだった。
 あんな可愛い悪戯を仕掛けられて、何も手が出せなかった。
 あんなにもいじらしい事をされたのに、誰にも――本人にさえ、このことを口外出来ないのが堪らなく悔しかった。
 小夜左文字は、歌仙兼定が眠っていると信じ込んでいた。でなければ、あの不器用の塊のような子が、あのような真似を出来るわけがない。
 寝ている振りをしていただけだと知ったら、十日は口を利いて貰えないだろう。全部聞いていたし、知っているのが露見したら、最悪、手入れ部屋行きだ。
 言いたい。
 言えない。
「どうすればいいんだ……」
 なんとも罪深い愛し子に煩悶として、歌仙兼定はしばらくの間、そうやって頭を抱え続けた。

2015/04/04 脱稿

花かと見てや たづね入らまし

 行きたい場所があると、審神者に申し出たらしい。
 供として付き添うように、と告げられた時、小夜左文字は驚きのあまり暫く息が出来なかった。
 返事を急かされ、慌てて頷いてから再び目を丸くする。鼓動は速まり、骨を突き破って飛び出して来そうだった。
 堪らず左胸を押さえて、彼は乱れた呼吸を整えた。
 袈裟の上から撫でた身体に、目に見える変化はなかった。しかし心の臓は二重の意味で高鳴って、足の先まで落ち着かなかった。
 畳に正座したまま身を捩り、恐る恐る隣を窺う。
 目が合ったような気がした。けれど咄嗟に顔を背けてしまったので、錯覚だったかどうかの確認は出来なかった。
「お許しいただけました事、謹んで感謝申し上げます」
 その間に、長い髪を持つ男が恭しく頭を下げた。両手を揃えて畳に置いて、額が擦れそうなくらいに深く身を屈めてから、ゆっくりと身体を起こした。
 艶やかな銀髪がその動きにつき従い、肩の上をサラサラ流れていった。
 さながら淡雪が如く、儚く溶けてしまいそうな横顔は深い愁いを帯び、切れ長の瞳は正面を見据えて微動だにしなかった。
 背筋は真っ直ぐ伸びて、手本とすべき姿勢だった。両手は膝の上で緩く握られて、一瞬だけ、何かを急かすように小夜左文字を盗み見た。
 それではっとして、藍の髪の少年は急いで審神者に頭を垂れた。
「御役目、承知、仕りました」
 下を向いたまま早口で捲し立て、勢いをつけて顔を上げる。
 両手は畳に添えたまま、首ばかりを前に伸ばした体勢は滑稽だった。しかし場に居合わせた誰ひとりとして、笑ったりしなかった。
 静かすぎる空間に緊張で頬を強張らせ、小夜左文字は時間をかけて姿勢を改めた。乱れた袈裟の形を簡単に整えて、席を辞す挨拶に入った長兄を再び横に眺める。
 彼が立ち上がったのに合わせて膝を起こし、部屋を出る直前、再び審神者に会釈する。
 襖を閉め、板張りの廊下を素足で踏みしめた時にはもう、江雪左文字はとっくに歩き出しており、背中は遠くなっていた。
「あに、うえ」
「出立は、用意が整い次第です」
「畏まりました」
 慌てて追いかければ、視線を投げる事なく告げられた。小夜左文字は追い付いたところで駆け足を止めて、彼の一歩半後ろで歩調を揃えた。
 足を踏み出す毎に、足元の床板がキシキシ音を立てた。しかし前を行く江雪左文字は殆ど足音を立てず、まるで中空を滑っているかのようだった。
 幽霊の方が、もっと堂々と足音を響かせるに違いない。琵琶法師の元を毎夜の如く訪ねた落ち武者だって、彼よりもずっと存在感があっただろう。
 抜けるような白い肌に、冷えた眼差し。
 遠くばかりを見据える藍の瞳は、小夜左文字のそれと似た色をして、少しだけ趣が異なっていた。
 彼が見るものと、小夜左文字に見えているものは、同じ景色でもきっと違う。刀剣でありながら戦を厭い、争いが途絶えないのを嘆く江雪左文字は、この本丸の中では異端だった。
 そして小夜左文字は、己の長兄に当たるこの存在が、ほんの少し苦手だった。
 口数は少なく、表情は乏しい。他者と同調するのを善しとせず、交流は最小限。次兄である宗三左文字も独特の立場を取っており、兄弟揃って周囲から浮いていた。
 最初のうちは打ち解けようとあれこれしていた刀剣たちも、江雪左文字の態度が変わらないと知ると、波が引くように離れて行った。ただ大太刀である石切丸だけは、彼に一定の理解を示していた。
 神社暮らしが長いからだろう。戦場に久しく出ていないが故に、思う事も多々あるようだ。
 但し血腥い世界で育った小夜左文字には、到底理解の及ばない話だった。
 強い力を秘めておきながら、他者を傷つけるのを嫌い、忌避する。彼はあまりに綺麗で、遠い存在だった。
 だからこそ近寄り難く、話しかけ辛い。
 望んでいたわけではないとしても、無辜の民の命を多数刈り取って来た身だ。復讐に固執し、既に亡い男を殺す事にしか存在理由を見出せない短刀には、彼に手を伸ばす資格はないと思えた。
 江雪左文字の刃はあまりにも美しく、研ぎ澄まされていて、汚らしいこの身体では、触れたところで粉微塵に切り刻まれるのが関の山だ。
 それに江雪左文字自身も、血の臭いがこびりついた短刀など、傍に置いておきたくないだろう。
 兄とはいえ、共に過ごした時間は無いに等しい。
 共通点は乏しく、話をしようにも、何を語れば良いのかがまるで分からなかった。
 あの冷たい眼に映る己が、いかに醜いかは承知していた。
 だから拒まれるのが怖かった。
 疎まれているとはっきりさせるのが、堪らなく恐ろしかった。
 無意識に避けていた。初めて顔を合わせた時、その冷たい眼差しに戦き、咄嗟に歌仙兼定の後ろに隠れてしまったのも、気まずさを増幅させていた。
 あの瞳はまるで氷のようで、全てを見透かされるような気がして直視できなかった。
 本丸での接触は最小限で、小夜左文字側からなんらかの行動を起こすことはなかった。幸か不幸か、江雪左文字も一日の大半を屋敷の奥の部屋で過ごしているので、顔を合わせる機会は最低限で済んでいた。
 部屋の近くに行けば、読経の声が静かに響いて来る。その為彼を気味悪がる者も、一定数、存在した。
 いったい誰を弔い、誰の御霊を慰めているというのか。
 刀剣風情が、可笑しなことをする。
 そう言って笑った男がいた。その意見に半分は同調できたが、半分は否定したい気持ちでいっぱいだった。
 あの時、なんと答えたのだろう。
 思い出せなくて、小夜左文字は上り框で立ち止まった。
 引き戸は開け放たれ、江雪左文字が外で待っていた。慌てて草履に爪先を押し込んで、小夜左文字は沓脱ぎ石の上から飛び降りた。
「申し訳御座いません」
 早口で謝り、敷居を跨ぐ。表に出ると地面には薄ら雪が残り、庵を囲む竹林からはざわめきが聞こえた。
 枯れ落ちることなく残った笹の葉から、雪の塊が落ちたのだろう。撓っていた竹が反動で揺れて、周囲の竹を巻き込んだのだ。
 風が吹いたわけではない。けれど空気は充分に冷えており、吐く息は白く濁った。
 頭上に目をやれば、鈍色の雲が天頂を覆っていた。
 陽の光は見えない。足元に影は落ちず、まだ早い時間だというのに暮れ方のようだった。
「参りましょう」
「はい。あにうえ」
 竹林の間に伸びる細い道は、本丸の裏手に続いている。いつの頃からか審神者はこの場所に庵を設け、そこで暮らすようになっていた。
 広い屋敷は、最初の頃こそ人気が少なく、静かだった。
 しかし時が経つにつれて同居人が増えて行き、今ではあれだけあった空き室も、全て埋まっていた。
 屋敷が手狭になったから、此処に移ったのだろう。
 あまり出向く機会のない場所を振り返って、小夜左文字は足早に進む兄を追いかけた。
 もっとも本丸に戻った後、行く先は別々だった。
 進路を違える際も、江雪左文字は無言だった。弟に一瞥をくれる事もなく、黙々と雪を避けて歩いていった。
 まるで関わるな、と言いたげな背中だった。
 同行者として自分が選ばれた理由は、いったい何なのか。審神者が勝手な裁量で決めたのか、それとも江雪左文字側から要望があったのかは、小夜左文字には分からなかった。
 朝餉を終えた直後に呼び出されて、離れの庵を訪ねたら、江雪左文字がそこにいた。審神者から事情を簡単に説明されて、行き先も教えられぬまま、共に出向くように命じられた。
 護衛、ではないだろう。江雪左文字は太刀であり、その気になれば敵兵を一撃で屠れる切れ味を有していた。
 道案内か、はたまた目付け役か。
 ただそれなら、別の者でも事足りたはずだ。
 矢張り審神者が要らぬ気を回したのだと結論付けて、小夜左文字は霜焼け気味の赤い指先を捏ねた。
「かゆい」
 末端が冷えて、血流が滞っている所為だ。摩擦で温めれば急激な変化に身体が驚いて、痛いような、むず痒いような感覚が広がった。
 ひとりきりになってぼそりと零し、彼はゆるゆる首を振った。
「急がないと」
 出立は、今すぐにでも。
 早くしなければ、その分戻りが遅くなってしまう。行き先が何処かは知らないけれど、急ぐに越したことはなかった。
 早足で本丸に駆け込み、旅支度をすべく部屋へ向かう。但し彼が目指したのは短刀たちに宛がわれた大部屋ではなく、本丸最古参の打刀が寝起きする部屋だった。
 その六畳ばかりの部屋の片隅に、小さな行李がひとつだけ。
 それが小夜左文字の、持ち物の全てだった。
 しかしいざ部屋に入ろうとしたら、襖を開ける前に引き止められた。
「小夜、ここにいたのか」
「歌仙」
 名前を呼ばれ、ひらりと手を振られた。他ならぬ、今入ろうとしていた部屋の主に手招かれて、彼は向きを変えて華美な男に近付いた。
 胸に牡丹の花を飾り、傍に寄れば炊き付けられた香の良い匂いがした。風流を愛すると常日頃から口にしている男は淡く微笑み、戸惑ってばかりの子供の頭を撫でた。
「話は聞いているよ。弁当を拵えたから、道中で食べなさい」
「……いつの間に」
 そうしてなんでもない事のように言われて、小夜左文字は驚きに目を丸くした。
 彼ですら、先ほど教えられたばかりだというのに。
 知らされたのは自分が最後かと唖然としていたら、歌仙兼定は呵々と笑って首を振った。
「僕だって、ついさっき言われたんだ。ただの握り飯だよ。それしか残っていなくてね」
「いい。感謝する」
 朝餉を終えて、片付けをしている時に言われたのだろう。
 大慌てで準備する様を想像して、小夜左文字は微笑んだ。
 麦飯を握っただけだとしても、何もないよりはずっと良い。素直な気持ちで礼を告げれば、歌仙兼定は一寸意外そうに目を眇めた。
「歌仙?」
「ああ、いいや。もっと、なんと言うか。困っているかと思っていたけれど」
 その表情が引っかかって袖を引けば、彼は躊躇を経て肩を竦めた。
 誰と誰が出かけるのかも、彼は知っているのだろう。ならばそんな顔をするのも、仕方のない事と言えた。
 小夜左文字と江雪左文字は、兄弟とはいっても、接点は殆ど無かった。互いに相手とどう向き合えば分からなくて、会話はぎこちなく、態度は常に余所余所しかった。
 一期一振と粟田口の兄弟たちのようには、どうやっても振る舞えない。親しくなりたいと願っても、小夜左文字はその方法を知らなかった。
 対面すると緊張を強いられ、普段以上に口数が少なくなる。頬は強張り、声は裏返って、落ち着かなくて居心地が悪かった。
「主の命令だから」
「これを機に、打ち解けられると良いね」
「……分からない」
 江雪左文字と本丸の外に出るのは、審神者が下した命令だ。逆らえない。だから仕方なく応じるのだと態度で告げれば、歌仙兼定は固くて太い小夜左文字の髪を手櫛で梳いた。
 優しく撫でられて、くすぐったかった。
 こんな風に、兄たちに頭を撫でられた事はない。特に江雪左文字には、髪の毛一本でも触れられた覚えがなかった。
 穢らわしいと、思っているのかもしれない。
 憶測が真実でなければいいと願いながらも、確かめる勇気は無かった。
「草鞋を表に出しておくから、脚絆を着けておいで。弁当を入れる……袈裟文庫は持っているね」
「ある」
 本来は文字通り袈裟などを入れる為の小箱を話に出され、小夜左文字は即答した。長旅であれば持ち歩かなければならない装備品は増えるが、この雰囲気では、泊りがけの外出ではなさそうだった。
 夕刻、陽が暮れる頃に帰って来られる距離だろう。
 その範囲で江雪左文字が行きたがる場所を考えるが、地理に疎い身では何も浮かんでこなかった。
 先回りをしてあれこれ準備していた歌仙兼定に重ねて礼を言い、小夜左文字は仕度を整えるべく彼の部屋に入った。愛用の行李を開けて少ない荷物を取り出して、日頃は履くことのない脚絆を細い足に通した。
 ずり落ちて行かないようしっかり紐を結び、続けて袈裟文庫を出して首から提げる。
 準備はこれで終わりだった。後は玄関で草鞋を結び、笠を被り、歌仙兼定が作ってくれた握り飯を荷箱に入れるだけだ。
 膝小僧や脛が脚絆に隠れているのがどうにも不思議で、感覚に慣れるのには時間がかかりそうだった。
「小夜、出来たかい」
「今、行く」
 襖の外からの呼び声に顔を上げて、彼は瞬時に踵を返した。
 廊下に出て、すっかり覚えてしまった道順通りに足を運ぶ。途中の部屋からは賑やかな笑い声が聞こえて来て、火鉢を囲んで談笑する皆の姿が楽に想像出来た。
 冬が来て、出陣の回数は減っていた。庭は雪化粧が施され、短刀たちが作った雪だるまが軒先を飾っていた。
 一方で寒がりの刀剣は布団から出たがらず、朝餉の時間は秋口に比べると随分遅くなった。鵺の毛皮を背負う獅子王は大人気で、短刀のみならず、太刀にまで群がられていた。
 暖を求めて昼間から酒浸りの刀剣もいれば、演練場で汗を流す努力家もいる。一時期に比べれば屋敷は格段に賑やかになって、毎日が騒々しかった。
 しかしその輪の中に、宗三左文字や江雪左文字の姿はない。
 無理強いして引っ張り出せば軋轢が生じ、今よりもっと雰囲気が悪くなりかねない。宗三左文字に関しては織田の頃の顔馴染みが手を尽くしてくれていたが、功を奏しているとは、正直言い難かった。
 もし、ひとつ望みが叶うのだとしたら。
 贅沢は言わない。ただ縁側に三人並んで、団子でも食べてみたかった。
 けれどその光景が、どうやっても思い描けない。
 小夜左文字を挟んで座る兄たちも含め、三人の顔はいずれも墨で塗り潰されていた。
 彼らの笑顔が想像出来ない。あのふたりを前にすれば、能面の方が余程感情豊かに思われた。
 きっと、望むような穏やかな日は、永遠にやって来ない。
 少なくとも今の時点では、そうとしか思えなかった。
 下唇を浅く噛んで、小夜左文字は歌仙兼定が差し出した荷物を受け取った。
「入るかな」
「問題ない」
「中に焼き魚を解したものと、海苔の佃煮が入っているよ」
 それは竹笹で包まれた、大きな握り飯だった。
 全部で四つあるそれは、抱えるとずっしり重かった。道中で傷まないよう良く冷まされて、触れても温かみは感じなかった。
 けれど指ではなく、心がほんのり温かくなった。急いで作ったという割には丁寧に包まれており、食べるのが早くも楽しみだった。
 嬉しさに顔を綻ばせ、小夜左文字は袈裟文庫にそれを押し込んだ。隙間が出来ないくらいにぎりぎりだったがなんとか収まって、再び首に掛けたところで歌仙兼定が竹筒を差し出した。
「そうそう、これは喉が渇いた時に。もし道中腹が痛くなったら、これを噛んで飲むと良い。山道は歩き辛いだろうから、怪我をした時はこの軟膏を使いなさい。それから、山の辺は寒いだろうから、これを上に羽織っていくといい。それと――」
「歌仙」
 矢継ぎ早に告げられて、彼は竹筒の上に次々積み上げられる荷物に騒然となった。
 あれも、これもと脇に置いてあった品を押し付けられた。大きすぎる外套を与えられたところで我に返って、小夜左文字は慌てて彼の手を払い除けた。
 水筒代わりの竹筒はともかくとして、残りのものは余計だった。
 気遣いは有難いけれど、荷物が増えるのは願い下げだ。そう何泊もかかる旅程ではないのだから、食器や予備の衣服は必要なかった。
 軽くねめつけてそう告げれば、遅れてハッとした歌仙兼定はばつが悪そうに頭を掻いた。
「ああ、そうだったね。すまない、小夜。なんだか、……ははは」
「歌仙」
「おかしいね。僕の方が、浮足立っていたようだ」
 返答に窮し、誤魔化そうとした男の袖を引く。それで正面に向き直って、彼は肩を竦めて苦笑した。
 目尻を下げて、優しい顔で呟かれた。
 言葉と表情が噛み合っていない。笑顔なのに哀しげなのが苦しくて、小夜左文字はひと呼吸置いて首を振った。
「帰ってくる」
「小夜」
「夕刻には、……ちゃんと」
 あの時のことを、思い出しているのだろう。
 小夜左文字はかつて彼と共に在り、売られて離れ離れになった。
 別れの挨拶などなかった。互いにそうとは知らずに当日の朝を迎えて、当たり前のように明日も一緒だと信じていた。
 けれどふたり揃っての夜明けはやって来なくて、いつか帰れるとの願いは、時と共に摩耗していった。
 残ったのは、諦めだった。
 最早二度と会うのは叶わないと、刃と共にすり減った心を抱きかかえて、ずっと眠っていた。
 目覚めさせられたその日のうちに、まさか顔を合わせようとは、夢にも思っていなかった。
「――……そうだね。美味しいものを沢山用意して、待っているよ」
「分かった」
 手を握られ、真っ直ぐ目を見ながら囁かれた。
 小夜左文字も間髪入れずに首肯して、神妙な顔の男に頬を緩めた。
 照れ臭さに首を竦めて、いつもの笠を被って表へと出る。庭先には既に兄の姿があり、支度を整えた弟を待っていた。
 江雪左文字もまた旅装束で、戦装束を解き、小夜左文字と同じ黒の直綴姿だった。
 白の脚絆に草鞋を履いて、手には錫杖が握られていた。長い髪を背に垂らし、右袖からは手首に絡めた数珠が覗いている。笠は被らず、錫杖とは反対の手で胸に添えていた。
 荷物は全体的に少なく、ほぼ身ひとつと言って良い。袈裟文庫も持たず、傍目には徳の高い修行僧に見えた。
「準備は、よろしいですか」
「は、……はい」
 静かに問われ、小夜左文字は緊張気味に頷いた。
 いよいよ彼とふたりで行くのだと、先ほどまでなかった実感が湧いてきた。心臓はきゅうう、と窄まって、落ち着かない膝がもぞもぞ揺れてぶつかり合った。
 身じろいでいたら、数歩後ろで眺めていた歌仙兼定が忘れていた、と声を高くした。
「小夜。もし検非違使の気配を感じたら、戦わずに逃げなさい。良いね」
 口調は柔らかかったけれど、有無を言わせぬ雰囲気があった。振り返った小夜左文字は深く頷いて、隠し持った短刀を直綴の上からなぞった。
 いざという時はこれで応戦するけれど、勝ち目がない相手に挑む気は最初から持ち合わせていない。無事に帰ると約束したのだから、逃げるのに躊躇はなかった。
 ただ、無事に逃がしてくれるかどうかは、相手次第。
 歴史介入を試みる者を容赦なく屠ろうとする難敵とは、出来るものなら遭遇したくなかった。
 歌仙兼定の忠告を聞いて、江雪左文字も嗚呼、と首を縦に振った。
 虚ろな眼差しは、どこを見ているか分かり辛い。それ故に彼が心の裡で何を思っているのかも、表情から読み取るのは難しかった。
 万が一、話し合いでどうこうしようと考えているのなら、愚かとしか言いようがなかった。
 歴史改変者も、検非違使も、話が通じるような相手ではない。どちらも問答無用で襲いかかって来て、会話が成立するような要素はひとつもなかった。
 それは彼も重々承知しているだろうし、実際遭遇した過去もある。
 だというのに相変わらず和睦の道を模索して、軽率な発言を繰り返した。
 仲間が傷つけられ、実際に何人も重傷を負って倒れているのに、一向に態度を改めない。そういう姿勢が反発を生み、彼の立場を一層悪くするというのに、だ。
 反省の色がまるで見えない横顔に嘆息して、歌仙兼定は小夜左文字の笠の紐を結び直した。
 膝を折って屈み、形が歪だった結び目を綺麗に整えてやる。顎を擽られた少年は背筋を反らし、畏まった表情で唇を引き結んだ。
「いって、……きます」
「ああ。行っておいで。旅先の景色、後で僕にも教えておくれ」
「行きますよ、小夜」
「はい。あにうえ」
 複雑な感情を伝える言葉に、歌仙兼定は務めて笑顔で送り出した。少年は不器用な口調で兄に答え、早々に歩き出した男を追いかけた。
 錫杖の遊環がぶつかり合い、澄んだ音を響かせた。しかしそれも、暫くすると聞こえなくなった。
「何事もなければ、いいんだけどね」
 近頃はなにかと物騒であり、戦場は不穏な空気に満ちていた。
 遠征に出た面々が検非違使に遭遇した、という話は聞かないが、今はまだないだけかもしれない。これから先起こり得る可能性は、絶対にないとは言い切れなかった。
 旅の安全を、石切丸にでも祈願して貰おうか。
 たかが半日足らずの旅程を大袈裟に心配する自分に苦笑して、歌仙兼定はざらざらして苦い唾を飲みこんだ。
 

 馬を使えば楽に通える道でありながら、江雪左文字は自らの足で歩くことを選択した。
 審神者には使っても構わないと言われていたのに、だ。わざわざ旅装束まで揃えて、物好きとしか評しようがなかった。
 結局目的地は教えてもらえないままで、方角から計算するが依然思いつかない。そもそも小夜左文字はあまり本丸から外に出ず、出かける機会があっても大抵誰かと一緒だった。
 その誰かは、今日は留守番だ。
 握り飯が収められた袈裟文庫を撫でて、彼は黙々と前を行く兄の背中を見上げた。
 全体的に肉付きが悪く、手足は細く華奢で、肌は病的なほどに白い。袈裟の上からでも線の細さは際立っており、装具も立派な太刀との相性は、見た目だけだと良くなかった。
 本丸の門を潜り抜けたところで笠を被り、江雪左文字は迷うことなく東に進路を取った。錫杖を頼りに荒れた道を行き、地図を確かめる素振りは一度もなかった。
「どこへ、行くのだろう」
 いい加減教えてくれても良い頃なのに、彼は一向に口を開かなかった。
 気になるのなら自分から聞けば良いとも思うのだが、遠慮が上回り、なかなか言い出せなかった。そうしているうちに平らだった道には角度が付き、坂道の勾配は徐々に急になって行った。
 枯葉が物悲しげに揺れる山の道は狭く、向かいから人が来ればすれ違う時に立ち止まらなければならないほどだった。先人たちがひたすら歩いて開拓した街道は、山肌に添ってうねうねと曲がりくねり、まさに九十九折と言うべき険しさだった。
 大きな葛を風呂敷で包み、背に担いだ行商人が居た。
 笠で顔を隠し、供を連れた若い女性の姿もあった。
 野武士らしき男もいた。腰に差した刀に一瞬警戒させられたが、急ぐ身なのか、脇目も振らずに山道を登って行ってしまった。
 道は悪いながら、此処は交通の要所らしい。
 これでは、駕籠での旅も険しかろう。江雪左文字が馬を使わなかった理由を今更理解して、小夜左文字はまだまだ遠い山頂を、木々の隙間から仰いだ。
 中腹辺りから目立ち始めた杉の木はどれも背が高く、枝は頭上遥かのところだけ残されていた。
 耳を澄ませば、どこかで斧を振る音がする。獣の声は少なく、鳥の囀りも遠かった。時折吹く風は冷たくて、平地よりも気温が低い為か、稀に粉雪が宙を舞った。
 空は相変わらずどんより曇っていたが、水分を多く含んだ牡丹雪を降らせるほどではなかった。
 とはいえ、山の気候は変わり易い。
 遠い昔の、あまり思い出したくもない記憶の欠片を手繰り寄せ、小夜左文字は白い息を吐いた。
「あにうえ」
 ぼんやりしていたら、距離が開いていた。急ぎ追いかけ、少年は横に並びそうになったところで足を緩めた。
 江雪左文字は弟の接近に気付いているだろうに、見向きもしなかった。砂利や木の根を踏む音は静かで、存在感は依然薄かった。
 目に映っているこの姿は幻かと、唐突に思った。実は此処に居るのは実際の兄ではなく、想像が作り上げた架空の存在ではないかと、馬鹿なことを考えた。
「なにを、愚かしい」
 瞬時に否定して、首を横に振る。自嘲の笑みを口元に浮かべて、彼は肩を落として拳を作った。
 何度も話しかけようとした。
 けれど出来なかった。
 寡黙な背中は他を寄せ付けず、弟である小夜左文字さえ拒む雰囲気に満ち満ちていた。
 同行者を付けるのが、審神者が外出に際して出した条件なのだろう。
 勝手にどこかへ行ってしまわないよう、鎖を付ける、というのは建前だ。主にまで気を遣われてしまったわけだが、今現在、その配慮は事態をより悪化させていた。
 矢張り自分は、兄にとって不要な存在。
 醜く、穢らわしい、忌むべき存在でしかなかった。
 江雪左文字が厭う戦場が、小夜左文字の生きられる唯一の場所だった。憎む相手を探し求め、殺すことだけが、彼のたったひとつの望みだった。
 彼が歩んできた道は血に汚れ、黒く濁り、悪臭を放っていた。
 それは和睦の道を模索して、争いを拒む江雪左文字の周囲に広がる世界とは、決して相容れないものだった。
 小夜左文字が近づけば、彼の持つ清廉さを穢してしまう。
 それがなにより恐ろしかった。
 隣に並ぼうなど、烏滸がましい。血濡れた短刀などと一緒に居るよりも、不浄を祓う神刀と共に在る方が、江雪左文字だって気が休まるだろう。
「……あにうえ」
 それでも、触れてみたい気持ちは消えなかった。
 頭を撫でて、優しく抱きしめて欲しかった。
 一緒に食事をして、三人並んで布団を敷いて。川の字になり、ひとつの部屋で眠ってみたかった。
 兄弟の真似事を、彼らと試してみたかった。
 望みはなにひとつ、叶った例がない。
 頼んでみればいい、と歌仙兼定は言うけれど、それが出来ればこんなに苦しんだりしなかった。
 断られた時のことを考えると、足が竦んだ。
 面と向かって拒絶されるのが嫌で、身動きがとれなかった。
 結局歌仙兼定と居る方が楽だから、その気安さに甘えていた。居心地の良さに流されて、環境が変わることから逃げていた。
 江雪左文字の歩みは速い。野武士のそれには及ばないけれど、重い荷を担ぐ行商人よりは、遥かに足取りは軽やかだった。
 置いて行かれないように。ただそれだけを考えて、小夜左文字は曲がりくねる道を急いだ。
「こんな、山道」
 兄の目的地は未だ知れず、目印になるようなものも見当たらなかった。
 かなりの高さまで来ているようで、蹴り飛ばした小石は雪に埋もれる傾斜を一直線に駆け下りていった。
 足を踏み外せば命はなく、実際命を落とした者がいるのだろう。それを証拠に、道端には小さな地蔵が祀られていた。
 ただでさえ暗い道は、空が濁っている所為もあって余計に暗い。夜闇には届かないけれど、人々を不安にさせるには十分だった。
 夜が来る前に山を越えてしまおうと、急ぐ人は多かった。もう昼を過ぎた頃合いだったが、弁当を広げる場所は見当たらなかった。
 本丸を出てからずっと歩きっ放しで、いい加減足が怠かった。少し休憩したいし、腹も良い具合に減っていた。
 だけれど言い出すきっかけが作れなくて、小夜左文字は己の爪先と、揺れる銀髪とを何度も見比べた。
 彼は疲れていないのだろうか。
 存外に体力がある長兄に内心舌を巻いて、肩で息を整えた直後だった。
 水の音がした。山肌の一角に人だかりが出来ており、何かと思えば湧水が染み出ているらしかった。
 道幅も急に広くなって、傾斜は穏やかになった。苦労してここまで来た者への褒美のように、頭上は開け、雲が間近に見えた。
「峠だ」
 感嘆の息を漏らし、小夜左文字は細い川に掛けられた古ぼけた丸太橋を渡った。
 そこは山の上とは思えない、賑やかな場所だった。
 粗末な小屋が何軒か並び、うち一軒が茶屋として営業していた。店先には縁台が置かれ、歩き疲れた人々が思い思いに寛いでいた。
 餅でも焼いているのだろう、良い匂いが鼻腔を擽った。堪らず生唾を飲んで、小夜左文字は背骨に張り付きそうな腹を撫でた。
「こんな、ところに」
 軒先には幟が立ち、若い娘が接客に忙しそうだった。名物らしき料理名を大きく記した紙が軒先に張り出され、疲弊した旅人の胃袋を誘っていた。
 他に食事処がないからか、店内はかなり混雑していた。
 冷えた身体を温めようと、次から次へと客が来る。座るには場所を譲ってもらうか、暫く待つしかなさそうだった。
 出汁の香りが食欲をそそって、ふらふらと、足が自然と店に向かいそうになった。寸前で気付いて慌てて踏み止まって、小夜左文字は一瞬のうちに見失った兄を探して視線を彷徨わせた。
「あにうえ」
 店に気を取られたばかりに、江雪左文字がどこに行ったか分からなくなった。錫杖の音も聞こえなくて、右往左往して焦っていた時だった。
 不意に、火が点いたかのような赤子の鳴き声がこだました。
「っ!」
 びくりとして、小夜左文字は咄嗟に後ろを振り返った。周囲も何事かと騒ぎ出し、声の主を探して首を左右に巡らせた。
 泣き止まそうとあやす母親の声も聞かれた。人々の視線が向かう先にいたのは、旅姿の若い娘だった。
 その細腕には、乳飲み子らしき赤子が抱かれていた。何が気に障ったのだろう、ふぎゃあ、ふぎゃあと泣きじゃくり、母が名を呼んでもむずかる一方だった。
 困り果てている娘の隣には、赤子の祖母らしき女性もいた。
 ふたりして一緒に赤ん坊に話しかけて、あれやこれやと、泣き止ます努力を惜しまない。しかし効果が上がっているとは言い難く、弱り果てていた女性らに救いの手を差し伸べたのは、様子を見かねた茶屋の主だった。
 一旦店内に引っ込んだ男が差し出したのは、黄金色の球体が張り付いた棒だった。
 細かな気泡を含んだそれは、棒を傾けると形を変えた。ゆっくり、ゆっくり地面に向かって細く伸びて、指で抓めば引っ張られた通りに捩れて止まった。
 飴だ。
 店の看板にもその字があった。
 それは茶屋が名物として売り出している、柔らかくて甘い水飴に他ならなかった。
 気が付けばそれを、食い入るように見つめていた。
 引き結ばれるべき唇は力が抜けてだらしなく開き、眼差しは飴を与えられる赤子へと引き寄せられた。
 身重の女がいた。
 帰り道を急ぐ中、山賊に襲われて金品を奪われた。
 命乞いは聞き入れられず、大きな腹は無残に切り裂かれた。
 ぱっくり割れた傷口から転げ落ちた赤子は、泣く力さえ持ち合わせていなかった。夜の山道を訪れる者は他になく、朝が来る前に命は尽きるものと思われた。
「小夜」
「――っ!」
 息が荒くなっていた。瞬きを忘れた双眸は乾き、突然の呼びかけに、心臓は破裂しそうだった。
 全身に鳥肌が立った。不意打ちに竦み上がり、小夜左文字は青くなったまま恐る恐る後方を仰ぎ見た。
「あに、うえ」
「どうしたのです。行きますよ」
 江雪左文字がそこに居た。笠を右手で持ち上げて、訝しげに眉根を寄せていた。
 とっくに先に行ったものとばかり思っていた。完全に油断していた小夜左文字は目を見張り、ど、ど、ど、と五月蠅い鼓動に唾を飲んだ。
 空腹など、どこかに消し飛んでいた。
 置いていかれなかった事、忘れ去られていなかった事に胸を高鳴らせて、彼は直前まで見ていた灰色の幻を頭から追い出した。
 命の危機に瀕した嬰児を救ったのは、道端にあった大きな石だった。
 それは無念のうちに命を奪われた、母親の執念か。
 赤子を助ける為に、石は、泣いた。
 自分は泣けるだろうか。誰かを助ける為に、涙を流せるだろうか。
 そして誰かを喪った時、哀しみの声をあげられるだろうか。
 浮かびそうになった顔を寸前で掻き消して、小夜左文字は先を急ぐ兄を追いかけた。
 峠を越えた先の道は、二方向に別れていた。
 片方は、人々が大勢行き交う賑やかな太い道。もう片方は荒れ放題で、長く通る人がないと分かる道。
 江雪左文字が選んだのは後者だった。道標もない獣道に怯み、小夜左文字は躊躇して雪が残る斜面を見下ろした。
「あに、さま。あの、少し」
「もうじきです」
 折角茶屋まであったのに、何もせずに素通りしてしまった。ようやく休憩が出来ると思った身に、この強行軍はかなり堪えた。
 歌仙兼定が持たせてくれた竹筒も、とうの昔に空だった。歩きながら飲んだのでかなり零してしまって、湧水を汲んで補充しておきたかった。
 それなのに、江雪左文字の脚は緩まない。疲れも知らずに短く告げて、彼は溶け残りの雪を蹴散らした。
 足場の悪さをものともせず、一心不乱に突き進んでいく。
 彼をそこまで執着させるものはなんなのかと、小夜左文字は肩で息をしながら唇を噛んだ。
 鼻の奥がツンと来たのは、山の上で空気が冷えているからだ。
 泣きたい気持ちを懸命に振り払い、幼い少年は皸が目立つ手で袈裟文庫を握りしめた。
「待って、ください」
 勇気を振り絞って訴えて、出来てしまった距離を懸命に詰める。下り坂は最初だけで、山肌沿いに切り開かれた道はすぐに上昇に転じた。
 大きな岩が通せんぼして、張り出した根がそこに絡みついていた。今にも転げ落ちて来そうな巨岩は恐ろしくもあり、心を惹きつける不思議な魅力があった。
 苔生した表面には感銘を受けた誰かが彫ったものなのか、稚拙ながら仏像が刻まれていた。
「小夜」
「今、参ります」
 見惚れていたら、足が止まったのを懸念した江雪左文字に呼ばれた。ハッと我に返って、小夜左文字は岩肌に伸ばそうとした手を急ぎ引っ込めた。
 この先になにがあるのか、分かったかもしれない。
 険しい山道の先に造られるものは限られていて、その大部分は寺社仏閣だった。
 案の定、苦労しながら登り詰めた先にあったのは、切り立った崖の上に建てられた古い寺院だった。
 どうやって建材を運んできたのか、まるで想像がつかない。切妻造の御堂は本瓦葺きで、放置されて荒れ果ててはいたけれど、その威厳は見る者を圧倒した。
「すごい」
 その門前に立ち尽くして、小夜左文字は大きな目を丸く見開いた。
 山の頂に建てられているので、当然だが景色は凄まじかった。遥か彼方に水平線まで見渡せて、地表を走る川の流れも隅々まで見通せた。
 まるで墨絵だった。白と灰に染まった冬景色は疲れを忘れさせ、霜焼けの痒みや痛みをも吹き飛ばした。
「全然、違う」
 本丸の屋敷は平地にあり、長閑な田園地帯のただ中にあった。
 屋根に登って高い場所から眺めても、ここまでの絶景は拝めない。素晴らし景観に呼吸さえ忘れて、小夜左文字は初めて目にする風景を瞼の裏に焼き付けた。
 山奥で暮らしていた時期もあったというのに、あの頃は辺りを見回す余裕などなかった。だから気付きもしなかったし、知ろうとも思わなかった。
「こんな、場所も。あるのか」
 胸はトクトクと軽やかに弾み、興奮に心が沸き立った。人が去って久しく、とうの昔に忘れ去られた寺院は枯れ色の冬景色と見事に調和して、なんとも哀れで、趣深かった。
 道の険しささえなければ、文句はひとつもない。
 だがあの険しい道行きがあるからこそ、乗り越えた先にあるこの絶景が、最高の馳走になるのだろう。
 これほど贅沢なものはなくて、小夜左文字は抑えきれない興奮に鼻息を荒くした。
 もしや兄は、この眺めを弟に見せたくて、審神者にあんな申し出をしたのか。
 密やかな期待に頬を紅潮させて、彼は共に来た長兄を振り返った。
「あにうえ?」
 しかし視線は絡まなかった。江雪左文字は末弟に背を向けて、両手を合わせて瞑目していた。
 荒れ放題の古寺に敬意を払い、割れた石畳を踏みしめる。眼差しはそう広くない敷地の最奥に固定されて、足元さえ見ようとしなかった。
「ここで、暫くお待ちなさい」
「あ、あのっ」
 幻想は敢え無く砕かれて、散り散りになって空に溶けた。
 それでも追い縋ろうと手を伸ばして、小夜左文字は胸に提げた袈裟文庫を広げた。
「これを、その。出先で食べるようにと、歌仙、が」
 兄が少なからず自分に興味を持ってくれているのだと、そんな風に期待していた。
 たとえ血濡れた穢らわしい身ではあっても、弟として認めて貰えている事を願っていた。
 全て、淡い夢だった。
 江雪左文字は興味がないのだ。同じ刀工の手で鍛え上げられた兄弟刀に対しても、一切関心を抱いていなかった。
 望むだけ無駄だった。
 願うだけ虚しかった。
 最初から分かっていた事だった。だのにひとり浮足立って、有頂天になって、落ち込んで。
 なんと惨めで、愚かしいのだろう。
 こんな思いをするくらいなら、審神者の命令ではあったが、拒めばよかった。
 歯を食い縛り、小夜左文字は深く息を吸い込んだ。苦くて不味い唾を飲みこんで、取り出した握り飯をふたつ、恐る恐る差し出した。
 呼び止められた江雪左文字はか細く震える弟を一瞥し、両手で抱えられている笹の包みに目を向けた。
 先ほどまで見事な眺望に歓喜していたのが嘘のように、怯えて小さくなっていた。泣き出す寸前まで顔を歪めて、歯を食い縛って必死に堪えているのが窺えた。
 何故そんな顔をするのか、江雪左文字には分からなかった。
 景色に見惚れていたのだから、好きなだけ眺めていればいいと気遣ったつもりだった。慣れない山道で疲れただろうから、楽な姿勢で休めばいいと慮ったつもりだった。
 茶屋は騒がしかったので、静かな方が落ち着くだろうと考えた。
 小さい身体で無理をさせた自覚があるので、暫く好きにするように労った気でいた。
「小夜」
「水を、汲んで参ります」
 それなのに、弟は華奢な肩を突っ張らせ、顔を歪めて苦悶していた。
 戸惑って受け取りを躊躇していたら、頭を下げた小夜左文字が強引に包みを押し付けて来た。反射的に受け取って、江雪左文字は半歩、後退した。
 藍の髪の少年は俯いたまま声高に叫び、瞬時に踵を返して走って行った。もしや茶屋まで戻るつもりかと呆気にとられ、その兄は咄嗟に動けなかった。
「小夜。御待ちなさい」
「大事ありません。あにさまは、どうぞ、お勤めを」
 声をかけるが、それ以上は出来なかった。ひとりで大丈夫だと言い張られて、その自主性を蔑ろにする事も出来なかった。
 手元に残された包みを見下ろして、江雪左文字はとうに姿の見えない弟に眉を顰めた。
「どうすれば、良かったのでしょう」
 何気なく近隣の地図を眺めていて、この廃寺の存在を知った。
 関心を示していたら、どこからか聞き付けた審神者に、行って来れば良いと囁かれた。
 無論ひとりでは行かせられないので、供をひとりつけようと。そう言ったのも、他ならぬ審神者だった。
 己の存在が本丸内に不協和音を齎しているのは、薄々勘付いていた。故にこれを取り仕切る立場の者が状況を憂い、あれこれ気を回し、改善を目論むのも理解出来た。
 末の弟を供に選んだのも、ぎこちない関係をどうにかするよう、暗に命じたに等しい。
 しかし具体的に何をどうしろ、とは言われなかった。
 江雪左文字自身も、まるで想像が付かなかった。
 行ってみれば、分かるかもしれない。そう思って期待してみたけれど、却って溝が深まっただけの気がしてならなかった。
 包みを紐解けば、大きな握り飯がふたつ、出て来た。
 握ったのは歌仙兼定だ。彼は出立の間際まであれこれ小夜左文字の世話を焼いて、屋敷の外まで見送っていた。
「あの子は、私などよりも、あの者と共に在る方が、余程」
 巨大な塊を撫で、江雪左文字は包みを戻した。紐は外したまま抱え直し、雲間から薄ら見える太陽を仰いで、眩しそうに目を細めた。
 

 山奥の廃寺に戻った時、江雪左文字の姿はそこになかった。
 ただ奥の建物から低い、伸びのある読経の声が聞こえてきたので、彼がそこにいるのは間違いなかった。
 放置された仏像を前に、経を唱えているのだろう。一心不乱に読誦して、本丸での口数の少なさが嘘のようだった。
 寡黙さも、仏の前では薄れるのか。
 その十分の一、いや、百分の一でも構わないから、言葉をかけては貰えないか。無い物ねだりと分かっていても、思わずにはいられなかった。
「雪……」
 水をたっぷり入れた竹筒を脇に置き、小夜左文字は空から舞い降りてきた結晶に目を瞬かせた。
 ひとりで食べる握り飯は、あまり味がしなかった。よく冷やされた麦飯はまるで石のように固くて、少しも美味しいと思えなかった。
 目の前に絶景があるのに、つまみにもならなかった。色褪せた景観は寂寥として、ただでさえ冷えた心に重く圧し掛かった。
 来なければ良かった。
 誰に対してか祈りを捧げる兄の声を聴きながら、小夜左文字は膝を抱えて丸くなった。
 本堂に続く短い階段に座し、訪れる人のない寺院をぼんやり眺める。頭上を覆っていた雲はかなり薄くなっていたが、地表に降り注がれるのは陽の光よりも淡雪の方が多かった。
 地面に触れる前に儚く消える雪に腕を伸ばし、彼は空の手を握りしめた。
「かざはな」
 言葉は、自然と唇から零れ落ちていた。
 眼を眇め、寂れた景色を瞼で隠す。宙を落ちた手は散々歩き回って疲れた足を撫で、赤く腫れた爪先を慰めた。
 あの道を、今度は下らなければいけない。上りよりは楽かもしれないが、勢いが付く分、道を踏み外して転落しないように注意が必要だった。
 無事に帰ると約束した。
 それだけは、是が非でも果たしたかった。
 けれど、帰ったところでどうなるのだろう。
 兄の背中は益々遠くなって、孤独感ばかりが胸を満たした。
「風花よ、峠の道は……険しけれ」
 審神者に喚び出され、半年近くが経った。当初は広々として静かだった本丸も、日増しに賑やかさを増して、ひとりきりで過ごす時間は減って行った。
 けれど結局、彼らは行きずりの旅人でしかない。
 ずっとあの地で暮らすわけではない。審神者が目的を達すれば、小夜左文字も江雪左文字も、再びただの刀剣に戻り、この身体と心を失うだろう。
 もしくは修復不可能なところまで砕かれて、折られたら。
 最早誰も恨まず、苦しまずに済むのだろうか。
 楽になれるのだろうか。
「背負う荷の無き、旅の身……なれど」
 ぼそぼそと小声で続けて、彼は揃えた膝に額を押し当てた。
 背中で笠が揺れていた。歌仙兼定が結んでくれた紐はとうに外れて、自ら直した結び目は酷く歪だった。
 もし彼が隣にいたら、即座に歌に反応をくれただろう。その言葉はこちらがいい、いやこっちだと、あれこれ熱のこもった論議を重ねて、紙に書き認めて悦に入るに違いなかった。
 そういうやり取りは簡単に思いつくのに、兄たちが隣にいる光景はまるで描き出せない。映像として浮かんでくるのは、せいぜい黙して歩くふたりをひたすら追いかけるだけの、つまらない図だけだった。
「荷の無き……荷も、無き」
 どちらが良いか、それすらも決断が下せない。
 寂しい歌だと言われそうだ。旅先の感想を聞かせてくれと言われていたけれど、語れるような内容がひとつも得られないまま、今日という日が終わりそうだった。
 気が付けば江雪左文字の声は止んでいた。耳に痛い沈黙に風の音が紛れ込み、風花を遠くへ吹き飛ばした。
 行方を追いかけて顔を上げて、小夜左文字はそのまま後ろを振り返った。
 木戸が静かに開かれた。まさかそこに居るとは思っていなかったようで、江雪左文字は軒下に座る弟を見て僅かながら目を見開いた。
「そこに、居ましたか」
「あにうえ」
 低音の囁きに、惚けていた小夜左文字は慌てて立ち上がった。竹筒を手に段差の上から飛び降りて、そのまま跳ねて後ろに下がった。
 距離を作ったのは、あまり近くに居ては失礼と思ったからだ。階段は通り道でもあるので、いつまでも占領するわけにはいかないとの判断だった。
 けれど江雪左文字は、何故か哀しげな顔をした。複雑な感情をほんの少し表に出して、手に持った笠を被ってすぐに隠してしまった。
「参りましょうか」
「はい」
 彼の手に、笹の包みはなかった。
 食事はひとり、中で終えたのだろう。小夜左文字もとうに済ませているので、今更一緒に食べようと言われても困るだけだった。
 雲に隠れた太陽は西に傾き始め、日暮れまでの残り時間はそう多くなかった。
「急ぎましょう」
「はい」
 陽の高さを確認して、江雪左文字が急ぐ気などなさそうな穏やかな口調で呟く。
 小夜左文字は間髪入れずに首肯して、今度は自分が先に立った。
 道は覚えている。次はひとりでも、地図なしに辿り着けるだろう。
 けれどきっと、二度と来ることはない。江雪左文字が再訪を望んでも、その時は随伴を断るつもりだった。
 目を見張る絶景も、今となってはなにひとつ心に響かなかった。薄墨で描かれた景色は靄に霞み、輪郭は朧だった。
 注連縄が巻かれていた形跡が見える巨岩の下を抜け、小夜左文字は急峻な坂を駆け下りた。跳ねるように小走りに進んで、時々後ろを振り返っては、兄が後に続いているかを確かめた。
 往路同様、会話はなかった。
 しかし期待しなくなった分、哀しくもなんともなかった。
 彼を兄と思わない方が良いのかもしれないとさえ、思えるようになっていた。
 兄弟という前提があるから、赤の他人に無視されるよりもずっと切なくなるのだ。繋がりなど何も無いと思えば、相手にされなくて傷つくこともないし、会話が続かない虚しさを噛み締めなくても済んだ。
 縁を断ち切れたら、心は軽くなる。
 次第に人が増えていく往来をすり抜けて、小夜左文字は道を急いだ。
 早く帰りたかった。
 一刻でも早く屋敷に戻って、旅支度を解き、蓑虫のように布団に包まって、朝が来るまで眠ってしまいたかった。
「小夜」
 だから茶屋の前も素通りしようとした。見向きもせず、行き過ぎようとした。
 赤子を連れた女性はとうに出発した後で、影も形も残っていなかった。あの母子が居たことさえ幻のようで、誰一人、烈火のごとく泣きじゃくる赤ん坊を覚えてはいなかった。
 看板娘は相変わらず忙しそうで、餅が焦げる良い匂いが漂っていた。しかし行きのように香りに惹かれることなく、足は真っ直ぐ街道を向いていた。
 それを、引き留める声があった。
 三秒してから気が付いて、小夜左文字は右足を前に出した状態で振り返った。
「あにうえ?」
 夕餉までに戻るとの約束だけが、今の彼の唯一の拠り所だった。
 それを邪魔されて、遮られた。小夜左文字はほんの少し不機嫌になって、棘のある眼差しを長兄に投げた。
 けれど視線は交錯しなかった。彼は被っていた笠を降ろすと、それを胸に、何故か茶屋の中へと入って行った。
「……あに、うえ?」
 人と同じ姿かたちを得てはいるけれど、ふたりは刀剣の付喪神だ。
 そして今現在、彼らの格好は僧侶のそれに等しかった。
 俗世とはおおよそ無縁そうな顔をして、江雪左文字は世俗にまみれた場所に足を向けた。粗末な小屋に入り、何をしているのか、暫く出てこなかった。
 来た時は全く意に介さず、関心を示しもしなかったというのに。
 意外過ぎて言葉が出なかった。あまりにも似合わなくて、小夜左文字は堪らず自分の頬を抓った。
「いたい」
 ほんのり赤く染まった爪の痕を撫でて、彼は惚けたままぽつりと呟いた。
 狐、或いは狸に化かされた気分が抜けなかった。
 廃寺の御堂から出て来たのは偽物で、本物は霞となって消えてしまったのではないか。おおよそ有り得ない幻想を、真剣に信じてしまいそうになった。
 絶句して、道の真ん中に立ち尽くす。往来の邪魔になるなど頭になく、その場を動こうという発想すら出てこなかった。
 其処に居るよう、言われたわけではない。けれど小夜左文字がここから移動したら、江雪左文字に見付けて貰えなくなる気がした。
 もっともそれは建前で、予想すらしていなかった展開に頭が混乱して、居場所を移すどころではなかっただけだ。
 おおよそ理解の及ばない高尚な精神の持ち主が、峠の茶屋に足を踏み入れた。そのあまりの不釣り合さに思考は停止して、小夜左文字は立ち眩みを覚えた。
 ふらりとよろめき、倒れそうになった。通りがかりの人にぶつかって、押し戻されて、彼はこめかみに指を置いて頭を軽く振った。
「あにうえ……?」
 兄の思惑も、意図も、さっぱり読めなかった。
 そもそも小夜左文字は、江雪左文字について詳しく知っているわけではなかった。兄弟刀とはいえ共に在った時間は無いに等しく、せいぜい名前を聞きかじった程度だった。
 その点は、次兄である宗三左文字も同様だ。
 小夜左文字は、彼らを詳しく知らない。ふたりがどのような来歴を持ち合わせ、どのような考え方を持っているのかも、本人の口から直接聞いたことはなかった。
 過去を問い質すということは、傷に触るのと同じだ。
 小夜左文字だって、人に知られたくない経歴を多々、持ち合わせている。山賊の掌中にあった頃、どれほど惨い殺し方をしてきたか、思い出すだけで背筋が粟立った。
 今でも目を閉じれば、足元から亡者が這いあがってくる予感がした。呪詛を吐きながら縋りつかれて、地獄よりも更に昏い深淵に引きずり込まれる悪夢を見た。
 だから聞かれたくなくて、自分も訊かなかった。
 知るのが恐ろしくて、知られるのが怖かった。
「小夜……小夜?」
「――っ!」
 無意識に己を抱きしめて、胸の前で腕を交差させていた。
 我に返ったのは、繰り返された呼びかけがきっかけだった。
 脂汗を流して荒い息を吐き、小夜左文字は瞠目したまま眼前に立つ男を仰いだ。
 いつ、戻ってきたのだろう。
 接近にまるで気が付かなくて、彼は無防備だった事実に四肢を戦慄かせた。
 検非違使に見つかっていたら、逃げ切れないところだった。
 幸いにも不穏な気配は感じられなくて、ほっと胸を撫で下ろす。重ねていた腕も下ろして息を整えていたら、不意に目の前に、黄金色の何かを突き出された。
 黒い直綴の袖から、白い腕が生えていた。
 数珠を絡めた手で細い棒を握る江雪左文字に、小夜左文字は怪訝に眉を顰めた。
「……あに、うえ?」
「なにをしているのです」
 戸惑いに声を高くすれば、朗々と響く声で急かされた。早く受け取るよう促されて、少年は困惑に半歩後退した。
 ふたりの両脇を、旅人が次々に通り過ぎて行く。周囲の時間は流れているのに、まるでここだけ異空間に切り離されてしまったかのようで、小夜左文字は何度も目を瞬き、手元と頭上を見比べた。
 江雪左文字は諦めず、再度ずい、と腕を出した。もれなく握られた棒と、その先に絡め取られた飴が顔に迫って、小夜左文字はひと口で頬張るには大きい塊に苦虫を噛み潰したような顔をした。
 似合わない。
 茶店に入ったのもそうだが、この男が甘味を手にする様も、大概滑稽だった。
 あまりの不相応ぶりに、つい声に出してしまいそうになった。
 本当に偽物になってしまったのかと懸念していたら、なかなか引き取ろうとしない弟に焦れたのか、江雪左文字は後方を窺い見た。
 茶店は繁盛しており、店員は忙しそうだった。
 軒先には扱っている商品の名前が紙に記され、目立つ場所に張り出されていた。
 水飴の文字も、その中に含まれていた。
 歩き疲れた身体を甘いもので癒すよう誘う、耳に心地よい文言が添えられていた。本当にあるかどうかも不明瞭な薬効を謳い、買い手を募集していた。
「食べたかったのではないのですか」
 肩で息をしていたら、訝しげに訊かれた。
 質問の内容にまず驚いて、小夜左文字は言葉を失い、立ち尽くした。
「僕は、別に……」
「ずっと、見ていたでしょう」
「あれは――」
 腹は減っていなかった。
 飴も、実を言えばそれほど得意ではなかった。
 甘い物は嫌いではない。ただ甘過ぎるものは苦手だった。珍しい菓子を見せられて目を輝かせた過去はあるけれど、この黄金色をした水飴だけは、どうしても好きになれなかった。
 赤子でも食べられるからと、子育て飴として売り出している店があるのは知っている。茶屋側に深い意図はなく、地元で知られる怪談話にかこつけたものだというのは、小夜左文字も分かっていた。
 それでも、好んで食べたいとは思わなかった。
 ずっと見ていたのだって、赤子が大声で泣きじゃくっていたからだ。母親の腕に抱かれて、懸命にあやされていたからだ。
 間違っても、飴が羨ましかったからではない。
「……見て、おいでだったのですか」
「小夜」
 それで気が付いて、小夜左文字は赤くなった。
 あの時、彼は兄の姿を見失っていた。どこへ行ってしまったのかと探している時に、他愛無い騒動が起きたのだった。
「食べないのですか?」
 まさか盗み見られていたとは思わなかった。
 江雪左文字は他人に興味などなく、弟にも関心がないと決めつけていた。
 だから驚かされた。
 勝手な思い込みが誤りだったと教えられて、少年は四肢を戦慄かせ、目を見開いた。
 驚愕を露わに立ち竦む末弟を見て、左文字の長兄は当てが外れたとでも思っているのか、困り顔で小首を傾がせた。
「附子などは、入っていませんよ」
 子供の好みなど分からない。
 甘い物を与えておけば喜びましょう、と笑っていたのは石切丸だ。
 疑われているのかと勘繰って、江雪左文字は声を潜めた。雑踏に掻き消されそうなほどの小声での囁きに、しっかり拾い上げた小夜左文字は二度、立て続けに瞬きした。
 惚けた顔をして、三秒経ってから拗ねたように頬を膨らませる。小鼻を膨らませ、愛らしい口を細く窄め、尖らせた。
「僕は、掛け軸を破いたり、茶碗を割ったりはしません」
 坊主の留守中につまみ食いをして、隠すために悪さをした稚児の話を引き合いに出された。
 死ねなかったと嘘泣きをする童子扱いされるのは、不愉快極まりなかった。
 膨れ面で抗議の態度を示していたら、これも意外だったのだろう。
 江雪左文字は僅かに目を見開き、直後にふっ、と淡く微笑んだ。
 それは一瞬で消えてしまう、儚くも美しい風花のようだった。
「無論、心得ています」
 淡々として抑揚のない口調が薄れ、穏やかで優しい口ぶりで囁かれた。感情が僅かながら滲み出ており、心にすっと染み入る心地良さだった。
 それは紛れもなく、小夜左文字を見詰めて、小夜左文字だけに向けて告げられた言葉だった。
「あにうえ」
 初めて耳にする声だった。
 初めて目にする姿だった。
 心が震え、唇が戦慄いた。咄嗟に何かを言おうと口を開いたけれど、喉は痺れ、ことばはひとつも出なかった。
 呆然と見つめ返してくる弟に、江雪左文字は改めて水飴を差し出した。
 重みで片方へ寄らぬよう、時々くるりと棒を回して。
 とても些細で、どうせすぐに無駄になってしまう気配りを怠らず。
 彼は軽く膝を折り、屈んで、弟に飴を手渡した。
「い、た……だき、ます」
「落とさぬように」
「はい」
 ぎこちなく言葉を返し、小夜左文字は両手で棒を握りしめた。短い忠告に首肯して、艶やかな黄金色の水飴に下唇を噛んだ。
 中に細かな気泡が入って、まるで琥珀のようだった。ひと口舐めれば素朴で優しい味が舌に広がって、無性に胸が苦しかった。
「美味しいですか」
「はい」
 甘い菓子を歯で削り、飲み込む。中空に利き手を彷徨わせた江雪左文字の問いかけに、彼は静かに頷いた。
 行き先を見つけられなかった腕は、男の脇に垂れ下がった。その後も逡巡するかのように空を搔いて、力を失った指は手首に巻き付けた数珠を絡め取った。
 長兄の躊躇など露知らず、小夜左文字はなかなかなくならない飴を一心に舐めた。口の周りがべたつくのも構わず、促され、歩き出した後も止めなかった。
「……ふふ」
 少し前まで苦手にしていたものが、今は不思議と、美味しく感じられた。
 山道を行く足取りも、往路に比べれば格段に軽い。どんな悪路も、今なら楽々乗り越えられそうだった。
 気を抜けば、自然と頬が緩んだ。険しい坂道を、跳ねるように下りながら、小夜左文字はふわりと舞い降りた小雪に目を眇めた。
 飴を全て舐め切った後も、残った棒はなかなか捨てられなかった。
 土産話が出来た。
 眩いばかりの飴の色は、この先、絶対に忘れないだろう。
「風花や、峠の道は……たのしけれ」
 来て良かった。
 心の底からそう思って、彼は天を仰いで口遊んだ。
 

2015/03/28 脱稿

うき世をいとふ 心ある身ぞ

 陽射しが心地よい日だった。
 庭先の桜の木はいよいよ花盛りとなり、冬場は白く覆われていた地表も新緑で溢れかえっていた。そこかしこから新芽が顔を出して、可愛らしい双葉が露に濡れて輝いていた。
 寒い時期は屋敷に引き籠っていた男たちも、気温が高くなるにつれてにわかに活気づいた。今も軒先に茣蓙を広げており、屋外での宴会は毎日のように繰り返されていた。
 御役目御免となった火鉢は部屋の隅に追い遣られ、使われなかった炭は納戸の一角で埃を被っている。もっとも寒の戻りがあるのはいつものことなので、また気温が下がる可能性は非常に高かった。
 雪が降る中での花見はなかなかに趣深く、乙なものだとは思う。
 しかしガタガタ震えながら眺めるのは、どちらかと言えば雅ではない。
 片方に比重が傾き過ぎるのは宜しくなくて、匙加減はなかなか難しかった。天候は思いのままにいかない代表例だから、それ故に稀な光景は際立って美しく、なんとも言えない風情があった。
 しかしどれだけ風流な光景も、どんちゃん騒ぎの前では台無しだ。
 花より団子。
 桜よりも、酒とつまみ。
 頼まれて作った鳥肝の串焼きを皿に並べて、歌仙兼定は深々とため息をついた。
「まったく、どうしてこう」
「すみませーん。熱燗追加、お願いしまーす」
「承知した!」
 愚痴を零そうとすれば、遮って開けっ放しの扉から声が飛び込んできた。続けて小柄な脇差が姿を現して、限界に達した男は腹の底から怒号を響かせた。
 勢いよく皿を調理机に叩き付け、苛立ちを隠しもせずに奥歯を噛む。
 絶好調に不機嫌なその姿に、空の徳利を抱えた堀川国広は頬を引き攣らせた。
「す、すみません。本当に……」
「ああ、まったくだ」
 首を竦めて小声で謝罪した彼に、歌仙兼定は憤懣遣る方なく頷いた。
 荒々しい口調で同意して、鼻から息を吐く。空になった両手は胸の前で組まれて、仁王立ちの様相からは、不愉快極まりないという感情が痛いほど伝わって来た。
 最早苦笑する他なくて、堀川国広は遠慮がちに三本ある徳利を机に並べた。
「これ、貰っていきますね」
「ああ。せいぜい有難がって、味わって食べるよう伝えてくれたまえ」
「分かりました」
 続けて香ばしい匂いを放つ焼き串を持って、世話焼きの少年は小さく頭を下げた。遠くからは酒や料理の追加を急かす声が聞こえており、堀川国広は慌てた足取りで調理場を去っていった。
 パタパタという足音はすぐに消えて、ひとりに戻った歌仙兼定は痛むこめかみに指を押し当てた。
「まったく……」
 どうしてこんな日に限って、燭台切光忠は不在にしているのだろう。
 遠征に出向く隊を編成し、指令を下した審神者にまで恨み言を吐いて、彼は少し落ち着くべく深呼吸を繰り返した。
 薬研藤四郎に酒の支度をさせる訳にもいかなくて、目下、水場を取り仕切っているのは彼だけだった。
 堀川国広は先の通り、給仕で手いっぱいの状態で、とても手伝える状況にない。他に頼りになる者はおらず、最初こそ上機嫌に作業していた歌仙兼定も、いい加減堪忍袋の緒が切れそうだった。
 いったいどれだけの量を飲み食いすれば、彼らは気が済むのだろう。
 連日のように繰り返される花見の宴は、傍から見ていても過分に見苦しいものだった。
 一時期に比べれば格段に人が増えた本丸は、毎日が騒がしく、五月蠅いくらいに賑やかだった。
 空室ばかりだった屋敷は一気に手狭になり、今や部屋数が足りないくらいだ。
 そういう事情もあって、兄弟刀は出来るだけひと部屋で集まるよう言われていた。もっともその命令は今や形骸化しており、守られているとは言い難かった。
 歌仙兼定にも、同じ『兼定』の名を持つ弟じみた存在がいた。しかしお互いに相性が宜しくないというのもあって、寝起きする部屋を別にしていた。
 代わりに小さい昔馴染みが毎夜のように部屋を訪れ、勝手に人の布団に入って来る。そして明け方、一番鶏が鳴く頃に去っていく毎日だった。
「そういえば、魘されていたな」
 ふと思い出して、歌仙兼定は眉を顰めた。
 冬場は日が昇った後でも寒いので、ふたりして起床が遅くなることが多かった。
 前は寝起きに顔を合わせるのを嫌がっていたけれど、最近はあまり気にしていない様子だ。寝顔を眺めていたら引っ掻かれたのは昔の話で、朝の挨拶も、このところは普通に返って来ていた。
 しかし今朝に限って、それがなかった。
 夜更けに、苦しそうな声で唸っているのを聞いた。嫌な夢でも見たのだろうか、とても辛そうだった。
 背中を撫でてやっているうちに表情は穏やかになっていったけれど、眠り自体が浅かったのか、明け方を待たずに出て行ってしまった。お蔭で歌仙兼定自身も良く眠れなくて、それが今の苛々の遠因にもなっていた。
 真横で身じろがれたのだから、目も覚めるというものだ。しかし起きていると知ったら、あの子はきっと気に病むだろう。
 他人に対してつっけんどんでありながら、臆病者で、実は結構な寂しがり屋。
 本人が聞いたら烈火の如く怒りそうな感想を心に並べ立て、歌仙兼定は頬を緩めた。
「そういえば、そろそろ八つ時だね」
 北に面する窓から外を眺め、陽の翳り具合でおおよその時間を推測する。顎を撫でてひとつ首肯した彼は、目の前でぐつぐつ音を立てている鍋と、散乱する空の徳利を見比べた。
 そうして十秒近い沈黙の末、男は袖を縛っていた襷を解いた。
「よし。僕は今日、充分過ぎるほど働いた」
 紅白の紐をしゅるりと引き抜き、鍋は竈から外して、火が点いた炭には灰を被せる。後はどうぞ好きにしてくれと嘯いて、彼は満足げに胸を張った。
 遠征に出向く顔ぶれが増えたお陰で、もれなく暇を持て余す刀剣男子も増えていた。それが連日開催される宴会に繋がって行くわけだが、歌仙兼定は一度だって、その席に参加したことがなかった。
 ただ呑み、食い、騒ぐだけの場に、風情はひと欠片もありはしない。あんな風にみっともなく過ごすくらいなら、裏方として調理場を取り仕切る方が何倍も心地良かった。
 しかし、今日はそれも仕舞いだ。
 たまには自分たちでなんとかすればいい。心の中で舌を出して、彼は意気揚々と歩き出した。
 役目を終えた襷は首に掛け、手を伸ばしたのは食器などを入れる棚だった。その下には引き戸があって、中には冬場に作った干し柿が、小振りな樽に入った状態で保管されていた。
 表面に白い粉がふいているそれをひとつ取り、男は隠しておいた甘味の容器を元の状態に戻した。
 古びた樽は、蓋をしてしまえば中身が見えない。傍目には味噌臭い漬物を漬けているように見えるので、菓子等の隠し場所としてはうってつけだった。
 見える場所に置いておくと、子供たちがこっそりつまんで食べてしまう。前にそれで酷い目を見ているので、以後、隠し場所には気を遣うようにしていた。
「さて、と」
「すみません、歌仙さん。つまみがもう、全然な……あれ?」
 必要なものは手に入った。
 後は渡す相手を探すだけと、背筋を伸ばして立ち上がった矢先だった。
 またしてもパタパタと足音を響かせて、息を切らした堀川国広が土間に姿を現した。
 額に汗を流し、焦った表情で凍り付く。それを歌仙兼定は涼しい顔で眺め、少しも悪びれた様子なく微笑んだ。
「僕はこれにて失礼するよ」
「え? あ、あの。えっと、すみません。それはどういう――」
「僕に手打ちにされてもいいのなら、自分で頼みに来るように。そう伝えてもらえるかな」
 屈託なく告げて、持った干し柿を二度、三度と宙に投げる。孤を描いて落ちて来たそれを片手で器用に受け止めて、男は戸惑う少年に目尻を下げた。
 爽やかながら物騒な宣告に、堀川国広は瞳を泳がせ、青い顔で押し黙った。
 いくら料理が好きとはいえ、無銭で働かされるのは腹が立つ。しかもあれこれ注文が多く、感謝の言葉はひとつもない。
 それが良い大人のすることか。
 清々しい笑顔の裏にどす黒い感情を隠した男を前に、空色の瞳の脇差は一度だけ、深く首を縦に振った。
「わ、かり……ました」
 歌仙兼定の命名の由来が、脳裏を過ぎったのだろう。どことなく怯えた態度で返事をすると、細川国広は駆け足で、来た道を戻っていった。
 打刀とはいえ本丸では最古参に当たる歌仙兼定は、敵の大太刀さえも一閃してしまえる実力者だ。最近は戦線に赴く回数が減っているものの、腕は決して鈍っていない。
 そもそも台所を一手に引き受けている男に、屋敷で暮らす者たちが勝てるわけがなかった。
 元は刀剣でありながら人の身体を得た彼らは、それ故に時が過ぎれば腹が減り、傷を負えば痛みを感じるようになった。夜になれば眠くなり、疲れが溜まれば動きが鈍った。
 それが良いか悪いかは、各個人の感性の差だろう。
 相応にこの身体での生活を楽しんでいる歌仙兼定にとって、その所為で悪夢に苦しむ子供の気持ちは、至極遠いものだった。
 痛みを覚えるようになったからこそ、己が一介の刃だった頃、期せずして傷つけた人々を想って苦悩する。望んでもいないのに殺さねばならなかった境遇を憂い、それを強いた者への恨みを抱く事で、罪滅ぼしにしようとする。
 誰かに責められたわけでも、罵倒されたわけでもないのに。
 復讐を糧として生きて来た元主の生きざまに感化された男が、それを由来として名を与えたばかりに。
「さて、小夜はどこにいるのかな」
 彼は眠る時、いつだって小さく、丸くなって。
 まるで闇に怯える赤子のように、心細げに手を握ってくる。
 そんな罪深き哀れな短刀は、今、どこに居るのだろう。
 屋敷を勝手に抜け出す真似はもうしないだろうから、探せばきっと見つかるはずだ。甘く考え、歌仙兼定は干し柿を袖にしまって歩き出した。
 邪魔な前髪を結んでいた紐も外し、陽が照って明るい庭へと足を進める。遠くからは堀川国広から話を聞かされたのか、野郎どもの野太い悲鳴が響いて来た。
「あちらでは、ないだろうし」
 小夜左文字はどちらかと言えば賑やかな場所を嫌い、ひとり静かに過ごすのを好む短刀だった。
 もっともそれは単純に、人付き合いが下手なだけだ。自分から積極的に話しかけるのが苦手なようで、所有者が度々変わった境遇もあり、他者を信用しない傾向が強かった。
 それは刀剣たちを喚び出した審神者に対しても、同様だった。
 お蔭で主に忠誠を誓う一部の刀剣からは、顰蹙を買っていた。しかし他人の評価を気にしない性格でもあるので、表面上は、穏やかな日常が繰り返されていた。
 ひとりにしておいたら、自滅的な方向に思考が沈んで行ってしまう。
 だから都度捕まえて、引き揚げてやらないといけない。
 騒がしい方角に背を向けて、歌仙兼定は空を舞う蝶に目を向けた。
 白い羽に黒色の模様が入った小さな虫は、咲き始めた花の蜜を求めてふよふよと彷徨っていた。目を凝らせばそれは一匹だけでなく、三匹、四匹と、緑の間を飛び交っていた。
 もっと暖かくなれば、もっと沢山の動物が顔を見せてくれるだろう。毛虫が出るのはお断りだが、それも自然の営みのひとつだ。
「蚊帳を調達しておかないとね」
 夏になれば、寝苦しい夜が増える。
 耳元をうるさく飛び交う疎ましい羽虫を思い浮かべて、歌仙兼定は肩を竦めた。
 屋敷には色々な品が揃っているけれど、足りないものは沢山あった。それを調べて買い足していくのは楽しみであり、刀剣としての本来の姿を忘れさせる愚行でもあった。
 次の季節を体感できるかどうかさえ、分からないというのに。
 今後の展望など何ひとつ見えない暗中に佇み、審神者に最初に選ばれた打刀は口角を持ち上げた。
 笑いを押し殺し、湯屋の裏手を巡って、農耕具などを収めた小屋が作る日蔭から遠くに目を眇める。
 無駄に広い敷地には、様々な施設が用意されていた。
 厩に、演練場のみならず、畑まである。手入れは全て刀剣たちの仕事で、交代制で務めていた。
 今日はどうやら、一期一振が畑仕事を任せられていたらしい。傍には彼の弟でもある、元薙刀の骨喰藤四郎の姿もあった。
 更には厚藤四郎や、秋田藤四郎達も近くにいた。皆動き易く、汚れても良い格好をして、土いじりに精を出していた。
 いつもうるさい短刀たちだが、兄の目があるからか、真面目に働いていた。もっともやんちゃな厚藤四郎は頻繁に五虎退にちょっかいを仕掛けて、逃げる弟を追い回していた。
「うわあん、やめてくださぁい」
「知ってるか。蚯蚓って、土を耕してくれる良い奴なんだぞ。だからほら、ちゃーんと感謝しねーとな」
「やめてください。顔にくっつけないでー」
「こら、それ以上やると怒りますよ。嫌がっているでしょう」
「ちぇ。はーい」
 騒々しいやり取りに、見かねた長兄が声を高くした。鍬を手に肩で息をして、手伝っているのか、邪魔をしているのか分からない弟たちを叱責した。
 なんとも仲睦まじい、微笑ましい光景だろう。
 酔っ払い連中とは方向性が違う賑やかさに、歌仙兼定は苦笑を禁じ得なかった。
「ああ。これは、お恥ずかしいところを」
 立ち止まっていたら、向こうも彼の存在に気が付いた。頬に着いた泥を拭って頭を下げられて、歌仙兼定は丁寧な挨拶に慌てて手を振った。
「仲が宜しくて、羨ましい限りです」
 草履の裏で砂利を踏み、建物の影から抜け出して距離を詰める。他人行儀のお仕着せな返答で茶を濁して、彼は一期一振に近付いた。
 笑顔が爽やかな青年は、農作業を求められても嫌がったりしない。むしろ楽しんでいる雰囲気が感じられて、それが歌仙兼定には不思議だった。
 もっとも彼の元主は、太閤まで登り詰めてはいるけれど、元をたどれば農家出身だ。
 土いじりは、或いは得意分野なのかもしれなかった。
「あっ、歌仙だ。なあ、おやつなに。おやつなに?」
「これ、厚。行儀が悪いですよ」
「えー……」
「ははは。いえ、大丈夫ですよ。今日は堀川殿に任せて来たので、彼に訊いてくれるかな」
「りょーかーっい」
 整えられたばかりの畝の手前に立ち、空気を含んでふっくら柔らかな土を踏みしめる。すかさず厚藤四郎の声が飛んできて、歌仙兼定は他人に責任を押し付けた。
 その堀川国広は、花見中の連中から非難の嵐を喰らっている最中だろう。
 だが彼だって、悪いのだ。彼が和泉守兼定を無闇に甘やかすから、調子に乗った太刀が旗振り役となり、宴会が開かれるのだから。
 少しは反省すれば良い。
 本当なら宴の席に乗り込んで、その喉元に切っ先を押し付けたって構わないのだ。それをしないだけまだ良心的で、寛容だと言わざるを得なかった。
 昔に比べて、随分我慢強くなった。
 自画自賛して胸を反らして、男は広い畑に散らばっている、粟田口の面々を眺めた。
 何人かは遠征で不在だが、残る全員はほぼ勢揃いしていた。秋田藤四郎と五虎退は泥団子作りに夢中で、他の子たちは各々出来る範囲で働いていた。遠くでは薬研藤四郎が種まきをしており、平野藤四郎がこれを手伝っていた。
 どの子も仕事熱心で、真面目で、明るい。
 その社交性を別の子にも分けて欲しいと密かに願い、歌仙兼定は中心に立つ一期一振に肩を竦めた。
「ところで、小夜左文字を見かけませんでしたか」
 雑談に乗っていたら、いつまで経っても本題に入れない。
 袖の上から干し柿を撫でつつ問いかければ、白い作業着の男は考え込むように視線を落とした。
「左文字殿の、末の弟君ですか」
 呟いて半眼し、顎を撫でようとして、指が汚れていると思い出して慌てて止める。しかし結局触れてしまって、彼はそのまま首を捻った。
 深く思案している表情に、知らないのだというのは楽に想像がついた。
「ああ、いえ。ご存じないのであれば」
「五虎退、君は知っているかな」
「ひえっ、はい! あの、すみません!」
 となれば、待つだけ無駄だった。
 話を切り上げるべく声を上げた歌仙兼定に、一期一振も状況を察して声を響かせた。突然話しかけられた粟田口の短刀は大袈裟に反応し、口癖なのか、必要のない謝罪を大声で叫んだ。
 どうしてそこで謝るのか、意味がまるで分からない。
 皆で唖然としていたら、頭を抱えた一期一振が諭す口調で囁いた。
「怒っているわけではないから、落ち着いて」
「うぅ、すみませぇん……」
 優しく語り掛け、弟のひとりを宥める。やり取りには慣れが感じられて、これが彼らの日常だと思い知らされた。
 場違い感は半端なかった。
 尻がむずむずするような居心地の悪さに苦笑して、歌仙兼定は虎の子を抱き上げた短刀に目を細めた。
 怖がらせないよう気を配り、知っているなら教えてくれるよう訊ね直す。すると五虎退は口を噤み、本瓦葺きの屋敷に顔を向けた。
「小夜君だったら、朝は、御屋敷にいましたけど」
「あー、うん。畑に誘ったんだけど、来なかったよ」
「なんだか具合、悪そうでした」
「てか、眠そうな感じだったよな」
「そうですね。すっごい大きい欠伸、してました」
「えっと、あの。小夜君は、今日、朝ごはん、残してました」
 それが契機になったのか、そばに居た他の短刀たちも、口々に知っていることを語り出した。
 果てには居場所と関係ない事を言い始めて、放っておけば収拾がつかなくなりそうだった。
「珍しいですよね。小夜さんって、いつもいっぱいお代わりするのに」
「だよなあ。俺より良く食べてんぜ。あんなちっちぇーのによ」
「この前は、岩融さんと御櫃の取り合いになってました」
「あれは、怖かったです。僕のところに、岩融さんが倒れて来そうになって」
「岩融のおっさん、でっかいもんなー。秋田なんか、蚤みたいなもんだろ」
「そっ、そんなに小さくありません!」
 ぽんぽんと話題が転がって、果てには藤四郎同士の喧嘩が勃発しそうになった。当然それは一期一振が寸前で制して、彼は惚けていた歌仙兼定に困った顔で微笑んだ。
 無理矢理引き剥がされた厚藤四郎と秋田藤四郎に挟まれて、太刀にしては背の低い男は静かに頭を下げた。
「申し訳ない。あまりお役に立てませんで」
「止めてください。それより、こちらこそ御手を煩わせてしまい、申し訳ありません」
 丁寧な謝罪に恐縮して、作業を中断させてしまった非礼を逆に詫びる。背筋を伸ばした一期一振はそれでホッとしたような顔をして、傍に居た弟の頭を撫でた。
「少し休憩しようと思っていたところでしたので」
 穏やかに笑って、気に病む必要はないと言う。それが遠回しの気遣いだとしても、心配りは有難かった。
 心安い相手に顔を綻ばせて、歌仙兼定は今度こそ場を辞すべく一礼した。
 踵を返し、歩き出す。
 その背中に。
「左文字殿の弟君は、兄君達と巧く行っていないのでしょうか」
 今度は一期一振が、唐突に話を振って来た。
 突然声を荒らげた兄に、弟たちは不思議そうな顔をした。歌仙兼定も足を止め、率直過ぎる疑問に三秒かけて返事をした。
「いいえ。そのようなことはありませんよ。ただ、おふたりとも、貴殿のようには器用でらっしゃらないだけです」
 実際、左文字三兄弟の関係はあまり良好とは言えなかった。
 長兄は刀剣にあるまじき戦嫌いで、次兄は物腰柔らかながら毒ばかり吐く皮肉屋。そして歌仙兼定が探し求める三男は、復讐に囚われた戦闘狂。
 三者三様に個性が強く、どう考えても巧く行くとは思えない。
 しかし表に現れてこないだけで、彼らは互いに、相手のことを慮って行動していた。
 それがあまりにも不器用過ぎて、通じ合わず、すれ違いばかり起きてはいるけれど。
 彼ら三人が本丸に揃ったばかりの頃に比べれば、距離は随分と縮まっていた。
 但し、表向きは何も変わっていない。
 相変わらず上の兄ふたりは皆と別々に食事をするし、少ない部屋をひとりで使っていた。寝床も当然別々で、末弟は依然、他人である歌仙兼定の布団に潜り込んでいた。
 複雑な感情を裡に秘めた返答に、一期一振は深く追求しなかった。
 振り返り見た彼は額面通りに信じたのか、安堵の表情を浮かべていた。他人事なのに何故か嬉しそうで、それが歌仙兼定には不快だった。
 なにひとつ関係ないくせに、当事者になった気分でいるのが腹立たしい。上品ぶって、親切ぶって、善人ぶろうとしているところが癇に障った。
 貴方にあの子の何が分かるのかと、発作的に叫びそうになった。
 それを寸前で堰き止めて、男は軽く会釈して身体を反転させた。
 取り繕うのは得意だった。激情をただ闇雲に発散させるのは、三十六人分で打ち止めだった。
 このただならない感情の正体には目を向けず、真っ直ぐ進んで屋敷の傍へと戻る。日陰に入って冷えた空気を吸い込んで、彼は手本ともいうべき兄弟たちを一瞥した。
 既に遠く、小さくなっている彼らは、長兄を中心にして幸せそうだった。
 黙々と雑草を毟っていた骨喰藤四郎は褒められて照れ臭そうで、厩から馬糞を調達してきた鯰尾藤四郎は叱られてしょんぼりしていた。
 元気な笑い声がこだまして、絵に描いたような大家族がそこにあった。
 だからこそ、一期一振は気になったのだろう。
 他の兄弟関係にある者たちとは一線を画す、左文字の刀たちが。
 愛され、慈しまれているとは到底思えない、その末弟の存在が。
 本人のあずかり知らぬところで、彼を思い遣っている者がいる。それが小夜左文字にとって良い事なのだろうというのは、理屈としては理解出来た。
 けれど、穏やかでいられなかった。
 心がざわめいた。
 神経がささくれだって、胸の奥がもやもやした。
 納得したくなくて、歌仙兼定は奥歯を噛み締めた。顎が軋むまで力を込めて、鼻から勢いよく息を吐き出した。
「いっそ、誰かに一太刀浴びせてやろうか」
 この不快感は、どうすれば拭い取れるだろう。
 物騒なことを考えて、彼は藤色の前髪を掻き上げた。
 一瞬だけ額を晒し、当て所なく彷徨い歩く。野太い雄叫びはもう聞こえず、代わりに勇ましい掛け声が耳に痛いくらいに響いて来た。
 気が付けば、演練場が目の前に迫っていた。
 壁が薄いので、声は幾らでも外に漏れた。どうやら三名槍のふた振りが手合せ中らしく、その咆哮は外に居る歌仙兼定の腹にまでズシリと来た。
 傍で聞いていたら、鼓膜が破れそうだ。
 思わず耳を塞いで苦笑して、彼は開け放たれた入口に回り込んだ。
 薄く平らな石の上に履物が、片方は行儀よく、片方はぶっきらぼうに脱ぎ捨てられていた。見物人はないようで、一本終わった後は急に静かになった。
「相変わらず、見事だ」
 野蛮な連中の技とは違い、動きのひとつひとつが洗練されている。見ていて惚れ惚れする芸当は、雅と評するに値した。
 拍手をしたのは無意識で、音は奥行きが深い建物に良く響いた。
「おや。これは、歌仙兼定殿ではありませんか」
「珍しいな。あんたがこっちに来るなんて」
 汗を拭っていた槍二本はほぼ同時に振り返って、上り框に腰かけた男に各々の反応を見せた。奥にいた御手杵は長い槍を肩に担ぎ、蜻蛉切は仰々しい仕草で礼をした。
 深くお辞儀されて、歌仙兼定は座したまま手を振った。先ほどの一期一振とのやり取りが思い出されて、あまり畏まってくれるなと、先手を打って釘を刺す。
 それを受けて、御手杵がこれ幸いと顔を綻ばせた。元々行儀が良いとは言えない男なだけに、上品に振る舞わずに済んだと嬉しそうだった。
 但し、蜻蛉切の方は一筋縄ではいかない。調子よく笑っている槍仲間を一瞥して、大柄な男は困った風に肩を竦めた。
「どうです。一本、合わせて参りますか」
 そして定型句とも言える誘い文句を口にして、右腕を演練場の奥へと伸ばした。
 筋骨隆々として逞しい大男の提案は、願ってもないものだった。敵方にも槍使いが複数混じる事があるので、大太刀よりも広い間合いに慣れておきたい気持ちは少なからずあった。
 しかし今は、そんな気分ではない。
 第一彼は戦仕度を解いており、得物である刀も部屋に置いたままだった。
「いやあ、折角だけれど遠慮しておくよ。また今度、よろしく頼む」
 至極残念そうに言って、目を細める。
 しかしこの返答は想定内だったようで、蜻蛉切はさほど落胆せず、朗らかに微笑んだ。
「お勤め、感謝いたします」
「よしてくれ。好きでやっていることだ」
 その上でまた恭しく頭を下げられて、歌仙兼定は苦笑した。
 数ばかりが増えていく刀剣たちの食事の世話は、かなりの時間と労力が必要だった。手先が器用で味覚に優れている者はそう多くなくて、必然的に炊事場に立つ者は数名に限られた。
 彼のような、日頃の感謝を率直に伝えてくれる相手になら、いくらでも酒やつまみを用意してやるのに。
 花見がお開きになって不満顔だろう連中を思い浮かべ、歌仙兼定は小さく溜息を吐いた。
「爪の垢を煎じて、飲ませてやりたいよ」
「いかがなされました?」
「ああ、こちらのことだ。気にしないでくれ。それより、小夜左文字を見なかっただろうか」
「左文字の……末の弟君ですか」
 口を開けば文句しか言わない同門を頭から追い出し、本来の目的を遂げようと話を切り出す。
 急に早口になった歌仙兼定に、蜻蛉切は太い眉を寄せて思案顔を作った。
 後ろの御手杵も似たような表情で、心当たりがないと言っているようなものだった。
「こっちには来てねーけど。なんかあったのか?」
「なんだか、調子が悪そうだったのでね。少し心配になっただけだよ」
 背高の青年に訊ねられ、先ほど畑で得た情報をもとに言い足す。すると御手杵は瞳を宙に浮かせ、あちこちに修理した痕が残る堂内を見回した。
「つーか、具合悪いんだったら、演練場なんて来ないんじゃねえの?」
 ここは武芸を極める為の場所であり、精神を研ぎ澄ます為の空間だ。集うのは心身ともに健康な者だけで、体調不良を抱えたまま訪れるべきところではなかった。
 言われてみればその通りだった。
 全く考えていなかった歌仙兼定はぽかんとして、成る程と大袈裟に手を叩いた。
 目から鱗が落ちた。
 その発想はなかったと、冷静に振り返れば当たり前とも思える事に大袈裟に驚かされた。
 と同時に納得して、彼は見当違いな方向に歩いていた自身の頭を叩いた。
「それは、思いつかなかった」
「おいおい。あんたも疲れてんじゃねえの。大丈夫か?」
「確かに、私もそう思います。今頃は、部屋でお休みになられているのではないでしょうか」
 とんだ失態だと呟けば、御手杵には呆れられ、蜻蛉切にも言われてしまった。
 最早反論の余地はなかった。
 どうして畑で話を聞いた時、真っ直ぐ屋敷に戻らなかったのか。うっかりするにも程があって、歌仙兼定は自省して肩を落とした。
「部屋、ね……」
 そうして少し憂鬱な気分になって、袖を手繰って干し柿を握り締めた。
 布の上から形をなぞり、行方の知れない短刀を想って目を閉じる。瞼に浮かんだのは藍色の髪を持つ少年と、その後ろに控えるふたりの男だった。
 表面上はぎこちない彼らだけれど、兄ふたりは各々のやり方で、末の弟を慈しんでいた。
 もし調子を崩した小夜左文字が、兄たちを頼っているのだとしたら。
 居場所を探り当て、訪ねて行くのは野暮でしかなかった。
 兄弟水入らずを邪魔するほど、歌仙兼定は図々しくない。しかし顔を見たい気持ちは却って膨らんで、どっちつかずの感情がなんとももどかしかった。
 頬に掛かる髪を指に絡め、彼はどうしたものかと遠くを見た。
「ありがとう。屋敷の方を探してみるよ」
「大事ないと、よいですな」
「まったくだ」
 一期一振の時とは違い、蜻蛉切の言葉は素直に受け止められた。歌仙兼定は袴の襞を整えて立ち上がり、別れの挨拶代わりに手を振った。
 今回は呼び止められなかった。暫くすると雄々しい咆哮が後ろから聞こえて、彼は一度だけ振り返って肩を竦めた。
 今宵の夕餉に、彼らにだけ特別な一品を追加してやろう。
 それくらいの贔屓は許されるべきだと舌を出して、彼は屋敷に戻る道を草履の裏で踏みしめた。
 砂利を転がし、竹林に囲われた離れに通じる小路の前を素通りする。
 その静かで、他よりも不思議な程に涼やかな空間は、不可思議な力を有する審神者の気配を色濃く漂わせていた。
 ちらりと見えた邸宅の庭には、白い狐の姿があった。
 審神者に文でも届けに来たのだろう。小さな獣はコンと鳴いて、煙となって姿を消した。
 最初の頃は驚いたが、すっかり慣れてしまった。屋敷の主が出てくる様子もなくて、彼はそのまま道を行き過ぎた。
 近いうちに、出陣するのかもしれない。決めるのは主の気持ちひとつで、彼ら刀剣に意見する権利は与えられていなかった。
 中には盲目的にあの者を信奉する輩も存在するが、そこまで無条件に信用出来る相手だとは、歌仙兼定は思っていなかった。
 小夜左文字のように、最初から疑ってかかっているわけではない。ただ相手の言葉を鵜呑みにするのは危険で、思考の放棄は身を滅ぼす元凶と知っているだけだ。
 敵と味方を見極め、どちらに付くのが得策かは、常に考えている。
 今は審神者に与する方に利があるから、そうしているに過ぎない。
「さて、どこから手を付けたものか」
 鳥の声と風のざわめきしか聞こえない場所を離れ、無駄に広すぎる母屋を仰ぎ見て呟く。両手は腰に当てて、男は疲れた顔で苦笑した。
 何度も増改築を繰り返している屋敷は構造が複雑で、ちょっとした迷路と化していた。最初の頃はまだ分かり易い間取りだったのに、いつの間にか改造が施され、当初の見取図は全く役に立たなくなっていた。
 ここに住んで長い歌仙兼定でも、時々目的地を見失って戸惑うことがある。後から来た者なら尚更で、蛍丸が迷子になった時は、捜索隊が組まれたほどだ。
 なんとも傍迷惑な話だが、新参者が迷う事で他者と交流を持ち、親交を深めるきっかけになる事もある。それを思うと、この奇怪な間取りも、案外悪くなかった。
 但し、当て所なく探し回る分には、厄介極まりなかった。
 先に宗三左文字や、江雪左文字の部屋を当たるべきか。
「行ったら刺されそうだけれど」
 嫌な記憶を蘇らせて、歌仙兼定は頬を引き攣らせた。
 小夜左文字関連で、この二人からは過去に数回、酷い目に遭わされていた。不可抗力だったというのに、弁解は一切聞き入れられなかった。
 有無を言わさず刃を突き付けられて、あの時は本気で駄目かもしれないと覚悟した。なんとか無事に生き延びられたけれど、以来彼らに対して、少なからず苦手意識が出来てしまった。
 逃げていては始まらない。そうは言っても、腰が引けてしまうのはどうしようもなかった。
 彼らの元に向かうのは最後にしようと決めて、歌仙兼定は爪を立てて頭を掻いた。
「よし」
 二度の咳払いで気を取り直し、褌を締め直して母屋で一番古い区画へ進路を取る。
 南に面した家屋は陽の光が沢山取り込めるよう、柱や壁を極力減らした構造だった。
 縁側が真っ直ぐ伸びて、特に日当たりが良い部屋は皆の溜まり場だった。昼間から呑んだくれていた連中も、冬場はそこで火鉢を囲んでいた。
 暖かくなって、気が緩んだのだろう。解放感から調子に乗って、歯止めが利かなくなったのだ。
 そんな呑兵衛たちは食べるものがなくなったからか、既に庭先を離れた後だった。
「ちゃんと片付けはしているんだろうか」
 桜の下に茣蓙が敷きっ放し、食器や徳利が散乱しっ放しだったら、どうしてくれよう。
 陰鬱な気持ちを奥歯で噛み締めて、歌仙兼定はすっかり静かになった庭園を、ゆったりした足取りで進んで行った。
 子供でも出来る事を大人がしないのは、格好悪いとは思わないのだろうか。馬鹿騒ぎだけは一人前で、それ以外はお粗末としか言いようがない同門出身の弟には、ほとほと愛想が尽きそうだった。
 堀川国広も、いい加減目を覚ました方が良い。
 昔馴染みとはいえ、あんな最低な男に尽くしてやる義理はないだろうに。
 痛むこめかみに指を置き、首を振って降ってきた桜の花びらを避ける。良く見れば足元にも沢山散っていて、乾いた土色を美しく彩っていた。
 川面に満ちる花びらとまではいかないが、これもなかなか風流だ。なるべく踏まないよう注意して、彼は進路を遮る枝の下を潜った。
 軽く腰を曲げて屈み、花の海を抜けて背筋を伸ばす。藤色の前髪に花弁が一枚引っかかって、抓んで風に流すのも楽しかった。
 花を愛でるとは、本来、こういう事を言うのだ。
 梅林に出向いた時もそうだが、景色よりも食べ物、飲み物に夢中になる連中とは、一緒にされたくなかった。
 とはいえ、賑やかに過ごす事自体は、嫌いではないから困る。
 せめてもう少し気遣いを足してもらえたら、こちらだって機嫌を損ねることなく過ごせるのに。
「青二才に何を言ったところで、馬の耳に念仏だろうけれど」
「ほーお。そいつぁ、いったい誰の事だ?」
「おや?」
 声に出した愚痴は、近くにいた男にしっかり拾われていたようだ。
 棘のある口調で話しかけられて、思ってもなかった歌仙兼定は目を眇めた。
 縁側のすぐ傍に、浅葱色の外套をまとった男が立っていた。
 長い黒髪を背に垂らし、紅玉の飾りが耳朶に見え隠れしていた。隣には洋装姿の堀川国広が立ち、おろおろと左右を見回していた。
 喧嘩腰で向かって来られて、歌仙兼定も反射的にムッとなった。目つきを鋭くして睨み返して、直後に鼻で笑って右手を顔の横で揺らした。
「おやおや、そんなところに居たのかい。てっきり布団にでも包まって、恐怖にガタガタ震えているかと思っていたよ」
「お生憎様。こちとら、砲弾飛び交う戦場で命のやり取りやってたんだよ。誰かさんのくそちっせー、つまんねえ癇癪なんかに付き合ってやる暇はねえよ」
 堀川国広に頼んだ伝言は、しっかり彼に届けられていたようだ。
 挑発的な台詞に噛み付いて、和泉守兼定は偉そうな口ぶりで大仰に肩を竦めた。
 露骨に人を馬鹿にしてはいるけれど、視点を変えれば強がっている風にも映る。突っかかってくる理由はひとつしかなくて、歌仙兼定は不出来な弟にやれやれと首を振った。
 相手にするだけ時間の無駄だ。遠くからきゃんきゃん吼えるだけの犬に構っている場合ではないと、彼は即座に踵を返した。
 そこへ堀川国広の高めの声が響いて、気を取られた歌仙兼定の足取りが鈍った。
「違うでしょ、兼さん。そうじゃないでしょ」
「しょうがねーだろ。こいつが、あんな事言うから」
「今回は、だって、兼さんが悪いんだから。ちゃんと言わなきゃって、兼さんだって納得したじゃない」
「だからって、なんで俺だけなんだよ。他の連中だって、良い具合にこき使ってただろうが」
「みんなには、僕が後で言っておくから。まずは、代表して兼さんから」
「てめーは俺の味方だったんじゃねえのかよ」
「兼さんの、駄目なところを指摘してあげるのも、助手の僕の務めだからだよっ」
 脇差の少年に背中を押され、太刀が渋って地団太を踏む。
 完全に打刀を蚊帳の外に置いた会話だったが、内容から推測するに、今回の歌仙兼定台所放棄事件が根底にあるようだった。
 日頃から何かと世話になっているのに、礼のひとつも言ってこなかった。それで歌仙兼定が怒ってしまったのだと、堀川国広は思ったのだろう。
 その考えは概ね正しい。
 いくら好きでやっていることとはいえ、それが日常となり、やって貰って当たり前、という傲慢な決めつけが固定化されてしまえば、文句のひとつだって言いたくなるというものだ。
 人の善意は、あくまで善意。
 見返りのない労働を根気よく続けられるのは、思考を放棄したただの愚か者だけだ。
 けじめはきっちりつけるように。
 そう主張する堀川国広に抵抗して、和泉守兼定はどこまでも強気で、生意気だった。
「だったら、お前が言やぁいいだろ。つーか、お前だって俺と似たようなもんだろうが」
「そうだよ。だから一緒に、いつもありがとうって、ひと言言えば良いだけじゃないか」
「ぜってー、嫌だ。こんな奴に頭下げるなんざ、死んでも願い下げだね」
「兼さん!」
 繰り返し責められて、反発心が強まったのか。
 人を指差しながら吐き捨てた和泉守兼定に、堀川国広は声を張り上げて怒鳴った。
 しかし男は聞き流し、腕を組むとそっぽを向いてしまった。臍を曲げて小鼻を膨らませ、意地を張って口を尖らせた。
 まるで三歳か、四歳程度の子供だ。やんちゃ盛りで悪戯ばかり、直ぐに人の所為にして意地を張る青年に、歌仙兼定は我慢出来ずに噴き出した。
「くっ」
「ああ?」
「駄目だよ、兼さん。短気は損気って、言うでしょ」
「うっせえ。大体、嫌だったら、最初に頼まれた時にそう言やぁいいんだろうが」
「では、次からは丁寧にお断りするとしよう。もう僕は、君の食事は今後一切作らない。それで良いね?」
「うっ……」
 笑われて目を吊り上げ、和泉守兼定が唾を飛ばして喚き散らした。そこに歌仙兼定が割って入り、爽やかに微笑んだ時点で勝敗は決したようなものだった。
 売り言葉に、買い言葉。
 取り返せない失言に後から気付き、本丸で最も年若い刀剣は一瞬で青くなった。
 横では堀川国広が深く溜息を吐き、改めて相棒の背中を押した。
「ほら、兼さん」
「う、っく……あー、畜生。どいつもこいつも、俺ばっかり悪者扱いしやがって!」
 本陣の台所担当は複数人存在するが、各々で得意分野が異なっていた。
 たとえば燭台切光忠は魚料理が中心だし、薬研藤四郎は異国の料理に研究熱心だ。そして歌仙兼定は丁寧に出汁を取り、季節の野菜を取り揃え、見た目にも拘った料理が主流だった。
 当然刀剣別にも食事の好みはあって、誰が夕餉を作ったかで一喜一憂する毎日だった。
 もし歌仙兼定が、本当に和泉守兼定の食事を作らなくなってしまったら。
 彼はその日、他の面々が豪奢な料理に舌鼓を打つ中、ひとりだけ麦飯と漬物で腹を満たさなければならなくなる。
 それはなんと虚しく、惨めな光景だろう。
 胃袋を人質に取られた男は癇癪を爆発させ、悔しさを滲ませて下唇を噛み締めた。
「事実、褒められたものではないだろう。君の前の主は、君に、ただ偉ぶって居丈高でいればいい、とでも教えたのかい?」
「ぐぬ、う……」
「兼さん?」
 弱いところを次から次に責められて、今や大の大人が涙目だ。
 堀川国広にまで強めの語気で促されて、和泉守兼定は鼻を愚図らせ歯を食い縛ると、覚悟が決まったのか、不意に背筋を伸ばした。
 天を向き、姿勢を正し。
 両手は脇に添え、勢いつけて腰を九十度に曲げて。
「どーっも、すいやせんでした。これからも、どうぞよろしくお願いしあっす!」
 半ばやけっぱちに、そしてかなり棒読み気味に。
 足元を見ながら大声で吼えた。
 感情が籠っていたかと言えば、答えは否だ。
 しかし一応は姿勢を見せたということで、及第点を与えても良いだろう。
 この無様な光景を、いい気味だとは思わない。
 ただ呆れるばかりだ。手間のかかる弟を前に、歌仙兼定は堀川国広と一緒に肩を竦めた。
「考えておくよ」
「そんだけかよ!」
 完全に許したわけではなく、善処すると言えば泣き付かれた。
 間髪入れずに叫ばれて、滑稽過ぎて声を抑えられなかった。
「ふふっ」
 腹を抱え、背中を丸めて息を止める。しかしぎりぎり間に合わず、笑い声が漏れてしまった。
 それで、からかわれたと気付いたようだ。和泉守兼定は顔面を真っ赤に染め変えて、ぷるぷる震えて目を吊り上げた。
「ほら見ろ。やっぱこんな奴に頭下げるこたぁ、なかったんだよ。見ろよ。こいつのどこが可哀想なんだよ」
「まあまあ、兼さん。落ち着いて。小夜君は、きっと、兼さんに歌仙さんを取られてばっかりで、面白く無かったんですよ」
「小夜?」
「あ?」
 八つ当たりされるのを宥め、脇差が慣れた様子で言葉を並べ立てる。その中に出てきた名前に打刀は耳を疑い、声の調子が変わったと察した太刀は意味深に口角を歪めた。
 ようやく反撃の好機が訪れたと、不敵な表情は分かり易いくらいに告げていた。
「へーへー。良かったじゃねえか。可愛い子ちゃんに庇われて、兄上様はさぞやご満悦でありましょうよ」
「小夜が、此処に来たのかい?」
「ええ。もう大分前ですけど」
「って、おい。聞けよこら」
 しかし歌仙兼定は和泉守兼定の嫌味をあっさり無視し、話が通じやすい堀川国広に顔を向けた。
 問われた少年は首肯して、矢張り相棒を無視して屋敷の中を指差した。
「大体、いつ頃のことだろうか」
「まだここで、兼さんがみんなと騒いでいた時ですので、結構前ですね」
「……おい、お前ら」
「そうか。すると、僕もまだ台所にいた辺りだね。小夜は、何か言っていたのかい?」
「ええ。歌仙さんがひとりで忙しくしているのを知っていたからなのか、貴方のことを、その。『かわいそうだ』と」
「小夜が、そんなことを?」
「おい。おーい、堀川ー。ほりかわくーん?」
「はい。その時は、僕も忙しかったから、ちゃんと聞いていたわけではないんですけれど」
「へえ、あの子が、僕を。そう。そんなことを言っていたのか」
「聞けって。おい、こら。お前ら、俺を無視すんじゃねえ」
「本当は、あの時気付けていれば良かったんですけれど。僕も気が回らなくて。本当に、すみませんでした」
「いや、いいんだよ。面白いものも見られたし。それで、小夜はどっちへ行ったかな」
「ちょっと待て。その面白いものって、もしかして俺のことか」
「……他になにがあるんだい?」
「そうですよ、兼さん。ちょっと黙っててください」
 なんとか話に割り込もうとしていた和泉守兼定に、残る二人は限りなく冷たい。一応聞いてはいた両名はほぼ同時にすっぱり叩き斬って、半泣きの太刀を地の底へ突き落した。
 止めを刺された格好で、よろりとふらついた男はそのまま地面にしゃがみ込んだ。いじけて「の」の字を指で書いて、不貞腐れる姿はいっそ哀れだった。
 残るふたりはほぼ同時に嘆息して、惨めな男を視界から追い出した。
「それで、小夜は」
「御屋敷の中に、入って行きましたけど」
 変に相手をしてやると、つけあがるだけだ。
 静かになって、丁度良かった。少しは反省してもらう事にして、二代目兼定の打刀は話を戻し、求め人の行方を問うた。
 堀川国広が告げながら見た方角には、屋敷の縁側に上がる為の沓脱ぎ石があった。四角く、細長いその灰色の石の上には、行儀よく、一足分の草履が並べられていた。
 この屋敷で、草履を履いて過ごす刀剣はそれほど多くない。短刀に限定すれば、たった一人しか存在しなかった。
 黒の鼻緒が光を浴びて、ぽかぽか陽気で温められていた。懐に入れるのも楽そうな小ささに目を眇めて、歌仙兼定は一列に並ぶ障子戸に視線を投げた。
 あそこから屋敷に上がったのであれば、彼の兄らが過ごす部屋は遠回りだ。屋内からいけないことはないけれど、かなり迂回させられるので、一旦外に出てから向かう方が近道だった。
 少し気が楽になって、彼は頬を緩めて肩の力を抜いた。
「嬉しそうな顔しやがって」
「兼さん」
 そこに嫌味をぶつけられて、歌仙兼定は出来の悪い弟を振り返った。
 相棒に注意されても構うことなく、和泉守兼定はしゃがみ込んだまま頬杖をつき、自分の目元を繰り返しなぞった。
「なんか、すんげー怠そうな顔してたぜ、あの餓鬼。目の下にでっけー隈作ってよ。御盛んなのは構わねえが、ちゃんと寝かせてやってんのか?」
「邪推しないでもらえないか。僕と小夜は、そういう関係ではないよ」
「ほんとかよ」
 毎晩同じ布団に包まって眠っているものだから、そう思われていても仕方がないけれど。
 誓って邪な感情がないと言い張るが、和泉守兼定は最後まで不満げだった。
 胡乱げな眼差しを投げつけられて、歌仙兼定は嘆息と同時に堀川国広を一瞥した。しかし脇差の少年はさっと顔を背けてしまい、視線は交錯しなかった。
 両手は背中に回して結びあわせ、足の先から頭の先までピンと伸ばして畏まる。
 そういうわざとらしい態度に愛想笑いを浮かべ、歌仙兼定は緩く首を振った。
「そりゃあ、勿論。愛おしいとは思っているけれどね」
「あそこの兄貴らは物騒だからな。せいぜい、背中に気を付けるこった」
「だから勘違いしないでくれないか。小夜は、弟みたいなものだよ」
 小夜左文字とは、細川の城で一時、共に過ごした間柄だった。
 言うなれば昔馴染みであり、数少ない友のひとりだ。当時の歌仙兼定にはまだ名がなく、性格も今と違って気性が荒かったので、あまり良い関係を築けてはいなかったけれど。
 それでも突然審神者に喚び出され、人の形を与えられたばかりの頃。
 あらゆる事象に戸惑う中、知った存在に会えたのは心強かった。
 また会えて嬉しかったし、交流を深めるのは楽しかった。
 小夜左文字が他の刀剣たちと比較して、一段高いところに居るのは否定しない。
 けれどそうなる根拠が下賤な感情と思われるのは不本意だし、許し難かった。
 重ねて否定した歌仙兼定に、和泉守兼定は返事をしなかった。
「報われねえなあ」
 代わりにぼそりと呟いて、膝に手を置き立ち上がった。
 地面に擦っていた袴の汚れを叩いて落とし、堀川国広に指で合図を送る。手招かれた少年は遠慮がちに頭を下げて、麗しい太刀の隣に並んだ。
「夕飯、頼んだからな」
「覚えておくよ」
「忘れやがったら、承知しねーぞ」
「もう、兼さん。行くよ」
 念を押され、歌仙兼定は飄々と返した。気に障った男はさらに言い募ろうとしたけれど、相棒に遮られて渋々踵を返した。
 あの二人は、これからもずっと、あの調子なのだろう。
 遠くなっていく背中を黙って見送って、彼は小指の先ほどもない小石を踏み潰した。
 草履の裏で地面に擦りつけ、振り返りもせずに歩き出す。沓脱ぎ石の手前で一旦足を止めて、律儀に並べ直された粗末な履物に頬を緩める。
 口を開けば物騒な事しか言わない子だけれど、意外なほどに行儀は良かった。
 小夜左文字は見た目からしてみすぼらしく、目つきは子供ならざる険しさだった。灰汁の強い口癖は人を怯えさせ、近寄りがたい雰囲気の少年だった。
 しかしいざ触れてみれば、その心は繊細で、傷つき易く、玻璃細工よりも遥かに脆い。傍にいれば彼が多くの苦しみを胸に抱えており、押し潰されてしまいそうなのを必死に堪え、耐えているのが分かるはずだ。
 願わくは、その行く末を最後まで見守りたかった。
 誰よりも近い場所で。
 誰よりも尊い存在を。
「短刀たちの部屋は、あちらだから」
 自らも履物を脱ぎ、歌仙兼定は縁側に身を移した。焦げ茶色の柱を右手で撫でて、各部屋を指差しつつ、間取りを声に出して確認した。
 藤四郎たちが使っている大部屋は、此処からだと遠かった。方向違いも良いところで、選択肢から外しても大丈夫そうだった。
 小夜左文字が行きそうな場所は限られている。
 短刀の中で特に仲が良い今剣は、相棒の薙刀と一緒に遠征中だ。ならば彼らの部屋も除外対象で、残るのはごく僅かだった。
 指を折って数えるまでもない。
「僕の、……部屋か」
 最初からそれ以外なかった答えを口にして、歌仙兼定は額を覆った。
 目を瞑り、深呼吸を二度繰り返す。次に顔を上げた時、表情からは迷いが消えていた。
 足音を響かせて縁側を進み、角をひとつ曲がって壁のある廊下に入る。そこから数歩行けばまた縁側に出て、陽光が板張りの通路を照らしていた。
 木目がくっきり出ている床板を踏みしめて、彼は閉め切られた戸の前で足を止めた。
 背を向けた庭では、枝垂れ桜が美しく咲き乱れていた。
 風が吹けば花弁が舞って、廊下にもいくつか紛れ込んでいた。鹿威しの音が遠くから流れて来て、鳥の囀りが心地よかった。
 コクリと喉を鳴らして、歌仙兼定は障子の引き手に指を掛けた。
 自室なのだから、中に人がいるか問う必要はない。部屋主は此処に居る。もし誰かいるようなら、それは主不在の隙を狙った不届き者だ。
 そのような勝手な真似をする輩は、万死に値する。
 唾を飲んだばかりだというのに、口の中は乾いていた。舌の腹を口蓋に張り付けて、彼は意を決して戸を右に滑らせた。
 昼間でも薄暗い室内に、白い筋が細く走った。斜めに伸びた光は徐々に幅を広げ、人ひとりが楽に通り抜けられるだけの太さで停止した。
「これ、は」
 もれなく歌仙兼定自身も目を見開き、あらゆる動きを中断させた。
 踏み出そうとしていた足を床に戻し、愕然と室内を見回す。六畳少々とそれほど広くない空間は、今朝の時点では、塵ひとつ落ちていないくらいに綺麗に片付いていた。
 整理整頓が行き届き、布団も畳んで長持の上に置いておいた。裏地が牡丹柄の外套は、その他の衣装も含め、皺にならないよう衣紋掛けに預けていた。
 だというのに、その衣桁が倒れていた。
 ちょっとやそっとの揺れではびくともしない代物だ。しかし現実に、それは畳の上で寝転がっていた。当然掛けられていたものは床に落ちて、あられもない姿を晒していた。
 それだけではない。
 布団も、長持から落ちていた。きちんと三つに折り畳んだはずなのに、上掛け布団も含め、悉く足元に散らばっていた。
 更には長持に収めていた、出番が終わった冬物の衣服まで表に出ていた。
 蓋は開け放たれ、中を漁った形跡が窺えた。縁に羅紗の上着が引っかかっており、上物の衣装がなんとも無残な有様だった。
 誰の仕業かは、考える余地もなかった。
 しかし彼の悪戯にしては程度が低く、ましてや部屋を荒らされる理由が浮かんでこない。苛立って暴れたという可能性は残るが、それにしたってやり方が幼稚だった。
 おおよそ小夜左文字らしからぬ行動に眉目を顰め、歌仙兼定は敷居を跨いで中に入った。
 後ろ手に戸を閉めて、外からの光を遮る。
 障子紙越しの薄明かりを頼りに目を凝らし、彼は踏み出そうとした足を慌てて戻した。
 もう少しで自分の服を踏むところだった。
 ずっと首に掛けていた襷を外して一緒に脇に退けて、部屋の中心部に出来上がっている小山に眉を寄せる。
 こんもり丸い膨らみは、歌仙兼定が普段身に着けている胴衣に他ならなかった。
 色柄が派手な外套もそこにあった。但し小山の容積は、部屋中の布を集めたものより大きかった。
 一番幅を取る布団は、雑に広げられて畳を覆っていた。枕は横倒しになり、遠くで寂しそうにしていた。
 耳を澄ませば聞こえてくる寝息に、男は顔を覆って苦笑を隠した。
「これは、怒れないね」
 忍び足で近寄り、そろりと手を伸ばす。
 重ねられた布を割り広げて覗きこめば、案の定、人の服に包まる格好で、小さな子供が眠っていた。
 これではまるで、赤子の御包みだ。
 膝を折って丸く、小さくなっている小夜左文字を見下ろして、歌仙兼定は降参だと白旗を振った。
 朝餉での席は離れていたので、目の下の隈に気付いてやれなかった。
 夜中に魘されていたのだから、もっと注意してやるべきだった。
「すまない。小夜」
 自分のことに手いっぱいで、察してやれなかった。強く反省し、頭を垂れて、彼はすぅすぅと寝入る子供に顔を近づけた。
 恐る恐る撫でた頬は温かく、柔らかで、涙の痕は乾いていた。
「ん……」
 触れられて、気に障ったのだろうか。
 小夜左文字は目を閉じたまま小さく呻き、嫌々と首を振って顎を引いた。
 顔を伏されてしまって、歌仙兼定は腕を引っ込めて淡く微笑んだ。
「起こすのは、可哀想か」
 折角干し柿を持って来たのだが、お預けだ。袖から引き抜いたものを掌で転がして、彼はそれを小夜左文字の枕元に置いた。
 穏やかな寝顔は愛らしくて、日頃のつっけんどんさが嘘のようだった。
 こうしていれば、年相応に見える。険しい目つきは瞼の裏に隠されて、彼を悩ませる数多の罪過も、夢の中には及ばなかった。
「小夜。小夜左文字」
 その名を口遊む度に、愛おしさが膨らんでいく。この罪深く、哀れな魂の為に、祈りを捧げずにはいられなかった。
 なんと美しく、儚いのだろう。
 人を魅了して止まない、狂おしいほどの輝きは、どれほど血に濡れようとも穢れを知らず、無垢なままであり続けた。
 彼に再び巡り会えた幸運に感謝して、歌仙兼定はその額に額を押し当てた。
 目を閉じ、軽く擦りつける。淡い微熱を確かめて離れた後、少し赤くなっている場所へとくちづける。
 一連の動作を淀みなく終わらせて、温かな頬を両手で挟みこむ。
「小夜、左文字。小夜。僕の、小夜」
 細川の城で彼を見初めた時、歌仙兼定にはまだ名がなかった。ただの一振りの刀でしかなくて、だからこそ心を擽られる美しい名を持つ少年に嫉妬し、離れた後も焦がれずにはいられなかった。
 繰り返す言葉は、果たして眠りの淵に佇む少年に届いたのだろうか。
 むずがって背を仰け反らせた短刀は、二度、三度と細く開けた唇から息を吐き、睫毛を震わせてこめかみを引き攣らせた。
 小振りの鼻がヒクヒク動いて、薄い瞼が強く閉ざされる。覚醒に入ったと知っても歌仙兼定は微動だにせず、少年の一挙手一投足を脳裏に焼き付けた。
 嬉しそうに頬を緩め、宝玉にも勝る藍の瞳が現れるのをじっと待つ。
「う、ん……?」
「小夜」
「…………之定、の……?」
 やがて静かに開かれた眼はとろんと蕩けており、彼が未だ夢と現の境界線にあると教えてくれた。
 焦点の定まらない双眸が宙を彷徨い、呼びかけに応じて正面へ戻された。三度もの瞬きを経て華奢な首はコトンと右に倒れ、唇から零れ落ちた声色は平素より若干高めだった。
 心地良い澄んだ音色に顔を綻ばせ、歌仙兼定は鷹揚に頷いた。
「そう。僕だよ。歌仙兼定だ」
 記憶の混濁が起きているのか、懐かしい呼び方をされた。
 それもまたこの身に焼き付けられた銘に相違ないけれど、どうせなら唯一無二の名前で呼ばれたかった。
 ずっと彼に、呼んで欲しかったのだ。
「か、せ……ん」
 たどたどしい舌遣いで、甘やかな声で囁かれた。
 それが何よりも嬉しくて、男は湧きあがる幸福を噛み締めた。
「そうだよ。歌仙兼定だ。ああ、構わないよ、小夜。もう少しおやすみ」
「かせ、ん」
「君を怖がらせるものは、僕が打ち払おう。君の眠りを邪魔するものは、僕が全て取り除こう。だから安心して、ゆっくり休めばいい」
 昼間から眠っていたら、夜に眠れなくなるかもしれない。けれどそうなったなら、夜通し話をして過ごせば良いだけだ。
 歌を詠むのもいい。月明かりに照らされる夜桜を眺め、あれこれ語らいあうのも楽しかった。
 中途半端な覚醒状態にある少年を促し、歌仙兼定はふくよかな頬に親指を滑らせた。耳の付け根を擽って、もう一度無防備な額へと唇を落とした。
 軽く触れて離れた男に、微睡む少年はふにゃりと、力の抜けた笑みを浮かべた。
「まじない……?」
 か細い声で囁かれて、それが何を意味しているのか、一瞬理解出来なかった。
 けれど二度の瞬きの間に思い出して、歌仙兼定は苦笑した。
 随分と懐かしい話を引っ張り出して来たものだ。とうに忘れ去った後だった記憶を掘り返して、彼は小さく頷いた。
「そう。元気の出る、まじないだよ」
 あの時は小夜左文字から、歌仙兼定に、だった。
 誰に教えられたのか、初心な反応は可愛らしく、だからこそ大いに驚いたし、戸惑わされた。
 まだ覚えていたのかと、半分眠っている少年に囁きかける。朗々と響く声で肯定してやれば、小夜左文字は控えめに笑い、瞼を下ろした。
 数秒と経たず、穏やかな寝息が聞こえ始めた。血の気の戻った肌は艶々して、目の下の隈は幾分薄くなっていた。
 業深き罪から解放されて、今だけは、彼は自由だ。
「ああ。本当に、君はとても美しい」
 健やかな眠りに落ちた少年の白い頸をなぞり、男は夢見心地に呟いた。
 皮に張り付いている鎖骨を擽り、飛び出る事なく埋もれたままの喉仏を撫で。
 ほんのり紅に色付く唇にも指を添えて。
 このまま縊り殺したくなる衝動を抑え、歌仙兼定は祈るように目を閉じた。
「小夜。僕の小夜。僕だけの、小夜」
 幼子を腕に抱き上げ、壊れたかのように繰り返す。
 胸に渦巻くこの感情は、決して賤しい劣情ではない。
 憐みを含んだ和泉守兼定の眼差しを蹴飛ばして、歌仙兼定は幸せそうに微笑んだ。

2015/03/14 脱稿
2015/06/14 一部修正

庵ならべむ 冬の山里

 今まで、気にしたことはなかった。
「さよくんの、おくびのかざり。きれいですね」
 なにせ今剣にそう言われた時も、何のことだかすぐに分からなかったくらいだ。一瞬怪訝な顔をしてしまって、お陰であちらにも不思議そうな顔をされた。
「首の、飾り?」
「はい」
 古びた毬を投げようとして、その直前で動作を止めて首を傾げる。
 すると今剣は深く頷いて、此処、と自身の喉元を指差した。
 教えられ、小夜左文字は瞳だけを下向けた。しかし見える範囲には限界があって、彼は腕を下ろすと、右手と腹の間に毬を挟み持った。
 空いた左手で言われた場所を手繰り、黒い直綴の衿に指を入れる。更にその下の白衣と一緒に引っ張れば、胸元が広がり、隙間から冷風が吹き込んだ。
「ひゃっ」
 そのあまりの冷たさに驚き、彼は咄嗟には首を竦めた。亀を真似て丸く、小さくなって、枯葉を巻き込んで駆けていく突風をどうにかやり過ごした。
 空気の流れが穏やかになるのを待ち、恐る恐る背筋を伸ばす。前方では今剣が、巻き上げられた砂埃が目に入ったらしく、赤い瞳を頻りに擦っていた。
「う~~」
 痛いらしく、涙まで流して唸っていた。けれどどうしてやることも出来なくて、小夜左文字は汚れてもいない袈裟を撫でると、改めて己の喉に指を差し向けた。
 骨に皮が張り付いただけの頸部をなぞり、ゆっくりと下へ滑らせる。隆起を乗り越えて鎖骨を過ぎた辺りで、爪先がなにかにぶつかった。
 白衣ではない。なめらかな感触は肌に驚くほど馴染み、乾いた指でさえつるり、と滑ってしまえるほどだった。
 撫でて形を確かめる最中で行き過ぎてしまった手を戻し、小夜左文字は嗚呼、と合点がいった顔で首肯した。
「なんだ」
 これのことを言われたのだとようやく理解して、彼は首にぶらさげた黒色の数珠を捏ねた。
 綺麗に丸く削られた石は、彼の体温を吸ってすっかり温くなっていた。最早身体の一部と言っても過言ではない状態で、首に掛かる負担も、まるで苦にならなかった。
 真ん丸い球体に穴を開け、そこに紐が通されて、輪を作っていた。長さは小夜左文字の頭がぎりぎり潜る程度で、漆黒の珠以外の飾りは一切設けられていなかった。
 手に持つ数珠とは違い、房はない。紐の結び目は珠の中に隠されており、表からではどこが切れ目か分からなかった。
「ずっと着けているから、忘れていた」
 白衣の中から引き抜き、掌に転がして陽に晒す。久方ぶりに表に出た数珠は心なしか嬉しそうで、艶を帯びた表面をきらきらと輝かせた。
「ううぅ~」
 一方で今剣はまだ目が気になるのか、ただでさえ赤い瞳を、兎のように真っ赤に染め上げていた。
「洗った方がいいのではないか?」
 それほど強い突風ではなかったが、彼は真正面から浴びていた。避ける暇もなく砂埃を被ったのであれば、目に入った粒も相応の量だろう。
 手で擦るのは、却って眼球を傷つける。
 一番妥当な案を提示してやれば、今剣は落ち着き払っている小夜左文字に頬を膨らませた。
「おみず、つめたいの、いやです」
「……分かった」
「さよくん?」
「湯を沸かしてもらえば、それでいいんだな」
 実に子供らしい理由を口にされた。絶句した小夜左文字は初冬の澄んだ空を仰ぎ見て、ひと呼吸置いてから後方に控える巨大な屋敷を振り返った。
 彼らが暮らす邸宅は重厚な瓦屋根を持ち、庭は広く、門は騎乗したまま潜れるほどに大きかった。部屋の数は軽く二十を越えており、どこの大名屋敷だと言わんばかりだった。
 坪庭が各所に配置され、不用意に歩き回れば簡単に迷子になれた。増改築が絶えず繰り返されており、早い時期からここに住まう小夜左文字ですら、時折道を見失って途方に暮れる有様だった。
 敷地の中には他に演練場と、厩舎が用意されていた。今も誰かが鍛錬に明け暮れているのか、風に乗って雄々しい掛け声が聞こえて来た。
 庭先の木々はすっかり葉が落ちて、寒そうな姿で震えていた。
 銀杏も大半が裸になって、目に眩しい黄色は来年までお預けだ。一時期悪臭を放っていたぎんなんも、短刀たちがこぞって拾い集めたお陰で、地面に落ちていなかった。
 雪が降り始めるのはもう暫く先になると、少し前に誰かが呟いていた。けれど日増しに気温は下がっていくし、陽が出ている時間も徐々に短くなっていた。
 朝方、寝床から出るのも一苦労だ。鶴丸国永などは一日中布団を被り、火鉢の前に陣取って動こうとしなかった。
 今からこの調子では、本格的な冬が来た時にどうなるのか。
 秋の頃と変わらぬ格好でいる子供たちは、今日も元気に遊び耽っていた。
「おゆ、ですか」
「どうせ、誰かが火鉢を使っているだろうし。五徳を置けば、すぐに沸くだろう」
 朝餉はとうの昔に終わり、夕餉までは相当な時間があった。片付けも終わっている頃合いで、炊事場にはきっと、誰も居ないだろう。
 それを懸念した今剣の言葉に、小夜左文字は屋敷の縁側を指差した。
 煮炊きする竈の火は、いちいち着火するのが面倒なので、灰の中に種火が残されている場合が多い。しかし薪に炎を移し替えるのは手間だし、一歩扱い方を間違えれば、大参事になりかねなかった。
 下手をすれば、屋敷自体が炎上してしまう。だから慣れない子は竈に近付かないよう、複数人に増えた調理当番から厳しく言われていた。
 その言いつけを破ってまで、湯を沸かそうとは思わない。その代わりとして最近納戸から引っ張り出された火鉢を挙げれば、成る程、と今剣は目を丸くして鷹揚に頷いた。
「さよくん、あたまいいです」
「……もう平気なんじゃないのか?」
「あいたたた。いたいですー」
 考えてもみなかった案に、鞍馬の烏天狗は頬を紅潮させた。興奮気味に人を褒めて、冷めた突っ込みはわざとらしい態度で誤魔化した。
 左右の手で両目を覆う格好は滑稽で、面白かった。小夜左文字は思わず噴き出しそうになって、腹に力を込めて我慢した。
「くっ」
 それでも少しばかり息が漏れて、今剣にしっかり聞かれてしまった。
「さよくんー?」
「よし。鶴丸国永を探そう」
 笑われたと知った今剣が睨みを利かせて来て、小夜左文字は慌てて顔を背けた。白々しい台詞を棒読みで口ずさんで、屋敷の中に戻るべく、先んじて歩き出した。
 後ろで地団太を踏んでいた今剣も、小夜左文字が振り返らないと知って慌てて駆け出した。縁側の足元に置かれた四角い沓脱ぎ石に毬と履物を並べて、少々埃っぽい板敷の通路によじ登った。
 目の前の部屋は障子戸が閉められて、中の様子は窺えなかった。
 金属製の引き手に指を掛け、僅かばかり作った隙間を手で押し広げる。しかし誰何の声はなく、呼びかけなしの行動を咎められもしなかった。
「だれもいませんね」
 覗き込んだ室内は八畳ほどの広さがあって、その中央には白色の火鉢がひとつ、ぽつんと取り残されていた。
 今剣も隣でひょっこり顔を出して、昼間なのに無人の空間に眉を顰めた。
 この部屋は、屋敷の中でも特に日当たりが良い場所だった。庭の眺めも良くて、暇を持て余した刀剣たちは大抵ここに集まり、好き勝手雑談に興じていた。
 今日は皆、出払っているのだろうか。
 遠征当番が誰だったかを思い返しつつ、小夜左文字は敷居を跨いで中に入った。
「まだ温かい」
 室内のほぼ中心に置かれている火鉢に手を翳せば、立ち上る空気は仄かに暖かかった。
 真っ白い陶器製のそれは膝ほどの高さで、胴回りは彼の腰よりも太かった。子供がひとりで抱えられる大きさではなく、中に灰が詰め込まれているのもあって、重さも相当だった。
 自由に持ち運べるものではないので、放置されたのだろう。真上から覗きこめば横倒しになった炭が、灰を被った状態で残されていた。
 隅に突き立てられた火箸は、今にも倒れてしまいそうだった。仕方なく小夜左文字はそれを引き抜くと、中途半端な埋め方だった炭を抓んで持ち上げた。
「みなさん、おでかけでしょうか」
「どうだろう。演練場の方かもしれない」
 屋内に入った所為で、たまに響いていた雄叫びは聞こえなくなっていた。
 体力だけは有り余っている刀剣たちは、隙あらば相手を見つけ、鍛錬に励んでいる。手合せは盛んで、食事時でも一番の話題だった。
 訓練で用いられるのは、勿論己が最も得意とする獲物であり、己自身が宿っていた刀剣だ。刀身の長さは各々違っていて、間合いもそれぞれ異なっていた。
 当然、重くて長い武器の方が強い。しかし体格的に不利な短刀が、大太刀の懐に入り込んで一閃する様は、傍から見ていても爽快だった。
 小夜左文字も偶に打刀である歌仙兼定と組手をするが、毎回のように見物人が出て、やんややんやの大騒ぎだった。
 本丸には腕自慢が多いから、己の技術を磨く一端で、人の対戦を見学しているのかもしれない。
 物珍しげな顔をしている今剣に憶測で答え、小夜左文字は内部が赤くなっている炭を縦に起こし、火鉢の中心に埋め直した。
 菊の形を成している断面は、空気を含んで赤く火照り始めていた。
 三本を密集させて並べただけで、じわり、じわりと熱が広がっていく。倒れないよう灰で周囲を固めた後に、彼は火箸を端に刺し、首を伸ばして左右を見回した。
「さよくん?」
「五徳、持ってこないと」
 部屋の中にあるのは火鉢くらいで、それ以外では目立つものは何も置かれていなかった。
 ここは皆が使う場所だから、私物で一画を占領するのは許されていない。箪笥もなく、火鉢の上に置く金輪も見当たらなかった。
 湯を沸かすための鉄瓶も、用意しなければいけない。
 先にそちらを準備するべきだったと反省して、小夜左文字は赤々と照っている炭に肩を竦めた。
「燃え尽きてしまうだろうか」
 こうやって炭を縦にすると、横にするより熱量は多く得られる。湯沸しに使うのであればこちらの方が良いと思ったのだが、先走り過ぎだった。
 また寝かせるのも面倒で、灰を被せて保温すべきかで迷う。どうしようかと上から覗き込んでいたら、紅色も濃い頬を擦った今剣が、緋色の目をぱちぱちさせた。
「さよくん。おくびの、あぶないですよ」
「え? ああ、忘れていた」
 またもや喉元を指差しながら言われて、眼下に垂れる球体を見つけた小夜左文字は慌てて場を退いた。
 首に掛けた数珠が、もう少しで火鉢に触れるところだった。
 普段は白衣の中に入れているので、垂れ下がったりしないのだ。先ほど取り出し、そのままにしていたのを、すっかり失念していた。
 言ってくれなければ、灰に埋めていただろう。黒光りする珠を捏ねるように撫でて、小夜左文字は急ぎ白衣の中に押し込んだ。
 いつもと同じ場所に収め、直綴の上から撫でて隆起を確かめる。たったそれだけで普段の自分が取り戻せた気がして、彼は肩を竦めて頬を緩めた。
「しまっちゃうんですか。きれいなのに」
「邪魔なだけだ」
「そうですかー?」
 戦場で駆け回る際、視界の端に紛れこまれては困る。集中力が阻害されて、意識がそちらに絡め取られては大変だ。
 腕を振り抜く時に弾みで当たるだけでも、指先の力が僅かに緩む原因になる。そういう無駄なことは極力排除していかないと、一瞬の隙が命取りになりかねなかった。
 彼らは戦う為の武器。
 時代改変を目論む者たちを誅殺する、刀剣に宿った付喪神だった。
 審神者によって人の形を与えられ、自ら刃をふるうことを許された。そして異形の者を打ち払い、己らのかつての主を殺した相手でさえ、時に守ることを強いられる。
 奇妙な話だった。
 屋敷の奥で暮らす審神者が本当のことを言っているのかどうか、それさえも判然としない。
 けれど未来から来たというあの者の弁を信じる事でしか、この形を保つ術がない。それは疑いようのない、紛れもない事実だった。
 一介の刀剣だった時には、温かいだとか、冷たいだとか、感じる事などなかった。
 いや、あったのかもしれない――ただ理解出来なかっただけで。
 人の肉は生暖かく、流れ出る血は徐々に冷えていった。
 人が息絶えていく様を、何度見送った事だろう。吐き捨てられた呪詛の数など最早覚えておらず、脳裏に浮かぶ怨嗟の眼が誰のものだったかも思い出せない。
「さよくん?」
「……炊事場に行ってみよう」
 ぼんやりしていたら、怪しまれた。
 至近距離で名前を呼ばれた。小夜左文字は咄嗟に一歩後退し、目を逸らしながら呟いた。
 火鉢のお陰でかなり暖かくなってきたが、肝心の湯を沸かす用意は何も出来ていなかった。鉄瓶は調理場にあるはずで、探すのはそう大変ではない筈だった。
 五徳だって、きっと簡単に見つけられる。今剣が所望する品は、きちんと手順を踏めば、すぐ手に入るだろう。
 目を洗うなら、手拭を湿らせて上から押さえつければ良い。余った分は湯呑みに入れて、白湯で喉を潤すのも悪くなかった。
 だというのに言いだしっぺの今剣がぐずぐずして、なかなか動きだそうとしなかった。
「要らないのか?」
「さよくん。さっきの、もういっかい、みせてください」
 目を洗うのに、井戸で汲んだばかりの水は冷たいから嫌だと言ったのは、彼だ。だというのに火鉢に張り付いて動かないのは、湯などどうでも良くなっている証拠だった。
 そんな彼に不意に言われて、奥の襖へ向かおうとしていた小夜左文字は眉を顰めた。
 今剣はすっかり寛ぐ体勢で、膝を折って畳にしゃがみ込んでいた。
 両手は火鉢の上に掲げ、立ち上る熱気を集めていた。頬は緩み、横顔は幸せそうだった。
 目に入った砂粒は、涙ですっかり洗い流された後らしい。ならば炊事場に行く必要もなくて、小夜左文字は襖の引き手から腕を引っ込めた。
 そうしてゆっくり振り返り、奇妙な要望に小鼻を膨らませた。
「数珠のことか」
「そうです。それです」
 今は一部しか見えない黒い数珠を指差せば、今剣は鷹揚に頷いた。興味津々らしく瞳はきらきら輝いており、聞いてやらないと力技で奪い取られそうだった。
 話がころころ入れ替わる烏天狗に肩を竦め、小夜左文字は畳の縁を踏まないように足を進めた。
「こんなの、見たって」
「いいんですー」
 仕方なく引っ込めたばかりのものを取り出し、ついでに頭からも引き抜く。人肌に温まった石は隙間なく紐に通され、美しい輪を形成していた。
 石の大きさは、多少の違いはあれど、ほぼ同程度に揃えられていた。
 丁寧に磨かれて、表面は艶を帯びて滑らかだ。もし紐がなかったら、地面をどこまでも転がって行く事だろう。
 合計で幾つあるかも分からない珠を右手にぶら下げて、小夜左文字はほら、と無造作に差し出した。
「ありがとうございます」
 それを今剣は恭しく受け取って、高くしたり、低くしたり、色々な角度から眺めた。
「すごいです。すごいなあ。きれいだなあ。いいなあ。きれいだなあ」
 満面の笑みを浮かべ、同じ単語を何度も繰り返す。珠の一つ一つをじっくり眺めながら、心底羨ましそうに目を眇める。
 その、あまり言われ慣れない単語がどうにもむず痒くて、居心地の悪さを覚えた小夜左文字は身を捩った。
「そんなこと、ない」
「きれいですよ、さよくん。いいなあ。いいなあ」
 自分自身が褒められているのではないけれど、普段から身に着けているものを絶賛されているのだから、同じようなものだ。
 刀としての数奇な境遇や、名前を『美しい』と褒められるのは納得がいかない。けれど今剣の繰り出す言葉からは嫌味の類が感じられず、純粋な想いだけが驚くくらいに伝わって来た。
 だからこそ、照れ臭い。
 段々恥ずかしくなってきて、小夜左文字は数珠を返してもらおうと手を伸ばした。
「うふふ」
 それをやんわりと拒み、今剣は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「これ、そうざさんとおそろい、ですよね?」
「――え?」
 目を糸のように細め、甘い声で囁かれた。
 底抜けに楽しそうに問いかけられて、小夜左文字は咄嗟に答えられなくて凍り付いた。
 中空に伸ばした手を蠢かせ、零れ落ちんばかりに目を見開く。
 唇はか細く震え、何の音も刻み得なかった。
「さよくん?」
 そんな風に考えたことなど、一度もなかった。
 宗三左文字は、小夜左文字以上に数奇な運命を辿った打刀だ。もとは太刀だったが短く磨り上げられ、さらには幾度も炎に焼かれ、その都度直されて、時の権力者の手元に置かれ続けた。
 その身には魔王、織田信長の名が刻まれて、それ故に価値は高まった。戦場に出る事なくただ愛でられるばかりで、数多の恩寵をうけながらも、刀の本質を奪い取られた彼が満たされることはなかった。
 本丸に彼が招かれてそれなりに経つが、籠の鳥を気取っているのか、あまり表に出てこようとしない。他の刀剣との接触も必要最低限で、弟である小夜左文字にさえ、態度は余所余所しく、冷たかった。
 兄弟刀とはいえ、共に過ごした時間はないに等しい。
 小夜左文字自身、彼とどう接し合えばいいのか、未だ分からないままだった。
 会いに行けば、言葉を交わせた。
 しかし会話は、長くは続かなかった。
 挨拶をして、当たり障りのない話題を振って、途切れて。
 気まずくなって、席を辞す。
 いつだって、その繰り返しだった。
 手本になるような兄弟刀は傍にいる。ただ藤四郎たちのように振る舞うのは、どう頑張っても無理そうだった。
 彼らは皆天真爛漫で、明るく、社交的だった。血の臭いを漂わせ、復讐に心を絡め取られている小夜左文字には、あんな風に振る舞えるはずがなかった。
 宗三左文字にしたって、そうだ。彼の瞳は常に憂いを帯び、その身に刻まれた呪縛に苦しんでいた。
 未だ何処ともしれない長兄に会えれば、なにか変わるだろうか。
 僅かばかりの希望を胸に秘めて、小夜左文字は今剣の掌中を食い入るように見つめた。
 突き刺さるほどの眼差しを受け、臆したのか、彼はしゃがんだまま後退した。畳の上を膝で後ずさり、掲げ持った物の存在を思い出して、肘を伸ばした。
「これ、かえしますね」
 努めて明るく言うが、一変した空気に緊張しているのはバレバレだった。
 こんなにも過敏に反応されると思っていなかったようで、彼の頬は引き攣り、目は泳いでいた。
「おそろい、……ちがいましたか?」
 それでも好奇心には勝てないのか、恐る恐る問うてきた。
 小夜左文字は瞳だけを動かして、取り返した数珠を両手で握りしめた。
「わからない」
 そうとしか、答えようがなかった。
 本当に分からなかった。
 これは審神者に喚び出された時から身に着けていたもので、最初から彼の手元にあったものだ。どこで手に入れたのか、誰に持たされたのかなど、知る由もなかった。
 由来があるのかどうかさえ、皆目見当がつかない。けれど無意識に大事にしていたのは確かで、内番で農作業などをする際は、首から外すのが習慣と化していた。
 なにかに引っ掛けて、紐が切れてしまったら目も当てられない。珠のひとつでも紛失しようものなら、きっと立ち直れないだろう。
 それくらい大切なものだった。
 言われて初めて自覚して、小夜左文字は上唇を噛み締めた。
 どうしてだろうか、心が震えていた。切なさが胸を占めて、苦しくて仕方がなかった。
「さよくん」
「分からない。……わからない」
 今剣の言うように、これは宗三左文字と揃いなのだろうか。
 外見はどこも似ていないと、他の刀剣には頻繁に揶揄されていた。本当に兄弟なのかと疑われて、小夜左文字はいつだって巧く答えられなかった。
 輪の中に手を入れて、反対の手で黒い珠を取る。ひとつずつ爪で押し出すように手繰って、彼は今も部屋にひとりだろう兄を想った。
 宗三左文字の首にも黒い数珠が、二重にして掛けられていた。それが何故か鎖のように見えて、小夜左文字は嫌いだった。
「ぼく、……えんれんじょう、いってきます」
「ああ」
「おそろいだと、いいですね」
「うん」
 返事をしたのは、無意識だった。
 囁きに反射的に同意して、三秒経ってから小夜左文字は弾かれたように顔を上げた。
「ち、ちがう。僕は別に、そんなつもりじゃ」
「あははははー。さよくん、おかおがまっかですよー」
 だけれど、どんな言い訳だって通用しない。今剣が信じてくれるわけがなく、弁解するよりも、彼が逃げる方が早かった。
 俊敏さが自慢の烏天狗は、けたたましい笑い声を残して部屋を飛び出していった。襖を開けっ放しにして廊下に出て、足音を響かせながら屋敷の奥へと駆けて行った。
 演練場に行くと言っていたのに、方向が逆だ。元々そんなつもりはなかったのだと知れて、小夜左文字は肩を落として嘆息した。
 手元には黒い数珠だけが残された。火鉢の中では炭が煌々と照り、小さな太陽となって彼を見詰めていた。
 今剣は明るく、無邪気で、時々人の心を抉る言葉を口にした。
 幼い見た目に反し、異様に鋭いところがある。三条の出だというのは伊達ではなく、無為に歳月を重ねているわけではないようだった。
 見透かされて、悔しい。
 小夜左文字は苦虫を噛み潰したような顔をして、掌中の数珠を握りしめた。
 もうこの部屋に居る理由はなくなった。
 誰か来る気配も感じられなくて、彼は数珠を大事に首に掛けると、火箸を取って炭を灰に押し込んだ。
 こうしておけば燃焼が抑えられ、燃え尽きるまで保温出来る。もしこの後誰か来ても、火を熾さずに暖が取れるはずだ。
「新しい炭、用意しておいた方が良いか」
 明日以降も、火鉢は忙しく働かなければならない。必要になるものを先に準備しておけば、何かあった時も騒がずに済むはずだ。
 思案し、小夜左文字は必要ないのに声に出して呟いた。
 今剣の指摘が未だ頭に渦巻いて、ぼうっとしていたら、そればかり考えてしまいそうだった。
 直綴の外に出ている数珠をさりげなく抓み、親指と人差し指で弄りながらその場に立ち尽くす。空いた左手は握ったり、開いたりを繰り返し、掴む物を求めた指は腰に提げた短刀を引き寄せた。
 鞘から抜けば、血腥さが漂う刀だ。どれだけ拭っても血糊の幻は消えず、耳を澄ませば怨嗟の声が蠢いた。
 まるで呪われているようだ。
 こんなことなら、産み出さないで欲しかった。父たる刀工の名を口の中で呟いて、彼はそれを噛み砕いた。
 顎を軋ませ、荒々しく床を蹴る。畳がその部分だけ浅く凹んで、室内の埃が一斉に舞い上がった。
「すごい音だね」
 そこに飄々とした声が紛れ込んで、全く気付いていなかった小夜左文字ははっと息を呑んだ。
 視線を上げれば、襖の向こうから見慣れた顔が現れた。内番中なのか藤色の髪は結い上げられて、邪魔な袖は紅白の襷で縛られていた。
 白い胴衣に袴姿で、足元は足袋だった。手に持っているのは底浅の桶で、中には大量の衣服が、湿った状態で積み重ねられていた。
 言わずもがな、此処に暮らす刀剣たちの衣服だ。
「すごい、量」
「本当だよ。各自でやるように言われているのに、放っておいたらどんどん溜まっていく。その癖あれがない、これがないと騒ぎ立てて。まったく、なにを考えているのやら」
 絶句していたら、仲間を得たとでも思ったのか、歌仙兼定は堰を切ったように語り出した。息継ぎも碌に挟まず捲し立てて、最後は勢いよく鼻から息を吐いた。
 人のものまで洗濯するなど、御人好しにも程がある。嫌なら放っておけばいいものを、彼は汚れ物が蓄積されていく様を、黙って見ていられない性分らしかった。
 屋敷の掃除も、台所での食事の支度だってそうだ。
 仕切るのが好きなのか、それともただの変人か。
 働き過ぎてそのうち倒れやしないかと、相手が人ではないというのに、小夜左文字はふと心配になった。
「干すのか?」
「ああ、いや。それくらいは流石にやらせようと思ったのだけれど。おかしいね。誰もいない」
「…………」
 この量を表に吊るすだけでも、かなりの時間と労力が必要だ。そんなところまで面倒を見てやる道理はないだろうと、言おうとしたが、言えなかった。
 歌仙兼定とて、そこまで甘い男ではない。濡れたままの洗濯物を持ち主に押し付け、あとはどうぞご自由に、とやるつもりでいたらしかった。
 ところが、昼間に大勢集まる縁側に面した大部屋は、夜更けのように静まり返っていた。
 小夜左文字一人しかいない状況は、彼も予想していなかった。
 どこかで目論見が露見して、捕まる前に皆で逃げたのだろうか。火鉢の炭の消し方が中途半端だったのも、急いでいたのなら充分説明がついた。
「いっそ、ここに広げておけば」
 そんな仄温かい部屋を見回して、小夜左文字はぼそりと呟いた。
 深く考えたわけではなかった。なんとなくそう思ったから口に出しただけなのだが、思いの外歌仙兼定は気に入ったらしく、妙案だと目を輝かせた。
「それはいいね」
 一も二もなく同意して、彼は抱えていた桶を下ろした。そして肩幅に足を広げて身を屈めると、伸ばした手で桶の底を掴んだ。
 何をするのかと、問うよりも早く。
「それっ」
 生来の短気さを覗かせて、男は勢いよく桶をひっくり返した。
 もれなく上にあった洗濯物が散らばって、小夜左文字の足元まで飛んできた。踏みそうになった彼は慌てて後ろに避けたが、歌仙兼定はといえば満足げに背筋を伸ばし、大きな塊目掛けて爪先を叩きこんだ。
「そぅら。それ、それそれそれそれっ」
 続けて散乱した着衣を、次々に踏み潰していった。
 まるで踏み洗いでもするかのように、山盛りだった衣服を火鉢の周囲に広げていく。表情は至極楽しげで、子供っぽい笑顔だった。
 日頃から溜め込んでいたものを、ここぞとばかりに発散させている。
 まだ無機物に八つ当たりしているだけ良心的と考えて、小夜左文字は敢えてなにも言わなかった。
 歌仙兼定は足袋を履いているので、足形が付かないだけ良い方だ。一応洗ってあるので、放っておけば火鉢の余熱で乾くだろう。
 皺だらけにはなるが、文句は言えまい。無残に踏み広げられた洗濯物の持ち主は大体見当がついて、すごすご部屋へ持ち帰るところまで想像出来た。
 鶴丸国永に陸奥守吉行と和泉守兼定、それに同田貫正国と、あと数名。
 日頃からこの部屋に集っている面々を思い浮かべ、小夜左文字は健やかな汗を流している歌仙兼定に肩を竦めた。
「うん。良い運動になった」
「雅じゃないよね、これ」
「流石の僕にも、限度はあるよ」
 ちくりと嫌味を言えば、これでも善処した方だと、気に入らない家臣を手打ちにしてきた刀はさらりと言い返した。
 額の汗を拭い取りながらの、満面の笑顔だった。
 粗暴さがすっかり薄れてしまった彼だけれど、時折こうして顔を出す。文系だ、なんだの言っているが、矢張り彼は之定なのだと思い知って、小夜左文字は目を眇めた。
 ふと懐かしい気持ちが湧き起って、言い表し難い安堵感が胸を占めた。
「おや」
「うん?」
 ひと仕事終えた歌仙兼定は用済みとなった桶を取り、脇に抱えて姿勢を正した。その矢先に見下ろされて、油断していた小夜左文字は右に首を傾がせた。
 不思議そうな顔をされたが、そんな目で見られる謂われはない。
 怪訝に見つめ返していたら、男はふっと表情を緩め、顎の下を指差した。
「珍しいね。表に出しているなんて」
 男らしい立派な喉仏から鎖骨手前へ指を滑らせ、小夜左文字を見下ろしたまま囁く。それでおおよそ理解出来て、少年は嗚呼、と頷いた。
 今剣に乞われて外して、取り返して、首に掛けて。
 そこに歌仙兼定が来たものだから、白衣の中に戻すのを忘れていた。
 黒光りする数珠を撫で、彼は烏天狗に言われた言葉を振り返った。
 宗三左文字も、これと似たようなものを首に掛けている。しかし黒は闇の色であり、底の知れない深淵を連想させた。
 山賊に殺された人々の呪詛の声がした。光のない隘路は怖くて、恐ろしいものだった。
 兄の首の数珠が鎖なら、小夜左文字のこれも同じだ。失われた無辜の民の声が染み付いた、呪われた品に他ならなかった。
 だというのに、棄てられない。
 手放せない。
 壊そうとしても、出来なかった。
 噛み締めた奥歯が痛んだ。顎の関節が音を立て、骨が砕けてしまいそうだった。
「小夜」
 ふっと、影が掛かった。
 瞳だけを上に流せば、歌仙兼定が身を屈めてすぐ前に佇んでいた。
「見せてもらってもいいかな」
「ああ、……うん」
 控えめに手を差し伸べられて、惚けていた少年は一呼吸置いて首肯した。首から外そうと数珠を掴めば、それを遮る格好で、大きな手が重ねられた。
 上から包みこまれて、強張っていた指を一本ずつ解された。歌仙兼定は膝を折ってしゃがみ込むと、小夜左文字より目線を低くして淡く微笑んだ。
 特に言葉はなかったのに、まるで「大丈夫」と宥めているようだった。
 口ほどにものを言う眼差しに、反発するのは難しかった。小夜左文字は解かれた手を今度は彼の手に被せ、広くて厚い甲を握りしめた。
 男は何も言わなかった。子供の好きなようにさせて、目尻を下げて数珠を見詰めた。
「黒瑪瑙だね」
「くろ、めのう」
「ああ。素晴らしいものだね。とても綺麗だ」
 目利きを自慢するだけあって、彼は即座に呟いた。珠のひとつを抓み持ち、近くまで顔を寄せ、その精緻な仕事ぶりに感嘆の息を吐いた。
 藤色の髪が小夜左文字の顎に迫り、ふよふよ泳ぐ毛先が鼻先を掠めた。後ろに梳き流した前髪を紐で縛ってはいるものの、短い髪は完全に押さえきれてはいなかった。
 くすぐったいのに、払い除けられない。
 ましてや口に咥えるわけにもいかなくて、困り果てた彼は瞳を彷徨わせた。
「かせん」
「とても丁寧に作られている。まさに職人技だね。黒瑪瑙は希少価値も高いのに、これだけの数を揃えるのはさぞ大変だったろう。ああ、本当に素晴らしい。惚れ惚れするよ。なんて美しいんだろう」
「歌仙、近い」
 興奮して、もっと近くから見ようと詰め寄られた。本人は無意識かもしれないが、このままだと体当たりを経て、床に押し倒されそうだった。
 興奮して荒い呼気が喉元を掠め、他人の熱が産毛を煽った。薄い肉の内側にまで微風が紛れ込んで、擽られた心臓が膨張し、忙しなかった。
 落ち着かない。
 背筋がぞわぞわして、小夜左文字は内股になって膝をぶつけ合わせた。
 耐えられなくなって彼の手に爪を立てれば、微かな痛みを覚えたか、歌仙兼定は顔を上げた。
 目が合った。
 残り一寸もない距離で視線が交錯し、鼻の頭などは実際にぶつかった。
「……失敬」
 直後、俯かれた。咳払いの後に紡がれた言葉は短く、声量も小さかった。
 謝られるまでに相応の間があった。下を向かれて表情は知れず、ただ赤らんだ耳の裏側が見えるだけだった。
 意図しなかった近さに驚いたのだろう。あと少しで唇までもが掠めるところだっただけに、小夜左文字も一瞬どきりとさせられた。
 顎に激突されなくて良かった。
 鼻程度で済んだので痛みもなく、衝撃も弱かった。無事で良かったと深く安堵して、小夜左文字は彼の手から離れた数珠を胸で受け止めた。
「そんなに、良いものなのだろうか」
「そりゃあ、……勿論。一級品だね」
 歌仙兼定の体温を残す珠を繰り、独白する。それに反応して、男は二度の咳払いを挟み、低い声で囁いた。
 彼が言うのであれば、間違いないのだろう。しかしどうしても信じられなくて、小夜左文字は苦悶に顔を歪めた。
 美しいと言われても、少しも嬉しくなかった。
 今剣の時ほど素直に受け入れられないのは、歌仙兼定の言葉が単純な賞賛として聞こえない所為だった。
 血腥く、呪わしい境遇に美を見出される。
 そんな己の境遇に納得がいかず、拒絶反応が起きるのと同じ感覚だった。
「こんな黒くて、禍々しい色をしているのに」
 下唇に牙を立て、腹の底から声を絞り出す。
 すると聞いていた男は瞠目し、即座に首を振って頬を緩めた。
「それは誤解だ、小夜」
「なにが誤解だと言うんだ」
 彼の否定を瞬時に叩き落として、小夜左文字は声を荒らげた。
 闇は恐怖と同義だった。夜は忌々しい時間であり、朝焼けに照らされる血濡れた身体は醜かった。
 黒は嫌いだった。
 捨て去りたい過去を、否応なしに想起させる色だった。
 目頭が熱を持ち、鼻の奥がツンとした。睫毛を震わせ目を閉じて、小夜左文字は歯を食い縛って息を止めた。
 嗚咽を漏らし、華奢な肩を怒らせる。
 そんな痛ましい子の頭を撫でて、歌仙兼定はその額に額を押し当てた。
「小夜、違うんだよ。黒瑪瑙には、まじないが込められている」
「歌仙」
「そう、まじないだ。黒瑪瑙は、魔を祓い、邪を寄せ付けない力がある」
 泣きそうになっている子の顔は見ず、男は瞼を下ろして静かに告げた。
 訥々と、淀みなく。
 朗々と、厳かに。
 黒瑪瑙には呪力が宿る。それは悪しきものを打ち滅ぼし、その身を守ってくれる力だった。
「なにを、愚かなことを」
 けれど、では何故、小夜左文字は修羅の道を行かねばならなかったのか。
 あるべき場所を奪われて、望まぬ場所で身も心も磨り減らして。
 こんな自分を産み出した世界を呪いながら、孤独に彷徨い歩く運命を与えられて。
 なにが黒瑪瑙の加護か。
 どこに利益があったというのか。
「ふざけるな!」
「小夜」
「こんなもの、僕は……欲しくなかった」
 慰めの言葉など、余計に惨めになるだけだ。
 虚しさが募って、心が苦しくなる一方だった。
 こんなことなら、知らなければよかった。
 何も考えず、何も恐れず。ただ復讐だけを望んで、凶刃をふるい続ける獣でありたかった。
 両手で顔を覆い、頭を振る。涙だけは絶対に流すまいと腹に力を込め、砕けるまで顎に力を込める。
 絶望の淵に立ち、暗がりから明るい世界を見上げ続けてきた子供に目を眇め、歌仙兼定はその柔らかな頬を撫でた。
「君は、最初の主の守り刀になるべく、左文字の手で生み出されたのだろう?」
「……歌仙」
「大丈夫。君は愛されて、望まれて産まれて来た。確かに君の境遇は、決して幸多いものではなかったかもしれないけれど」
 刀工は刃を鍛え上げる時、いったい何を想い、願い、槌を振るうのだろう。
 多くの屍を築き上げ、その上で勝鬨を上げるようにか。
 それとも。
 これを持つ者を災厄から守り、健やかに育ってくれるようにか。
 紆余曲折を経た今も、左文字の想いはその刃に刻まれている。
 数奇な運命を辿りながらも、彼は折れずにここまで生き長らえて来た。それは、或いは左文字の祈りが結実した結果にならないか。
「そう、想うことは。難しいかい」
 穏やかに。
 閑やかに。
 優しく。
 柔らかく。
 心にすっと染み入る声で問いかけられて、小夜左文字は青褪めた唇を開き、直後に閉ざした。
 巧く息が出来なくて、うまく言葉が出なかった。噛み締めていた顎は緩んで、力を失った四肢はゆっくり前に傾いた。
 幼くて頼りない体躯を引き受けて、歌仙兼定は小夜左文字を抱きしめた。
「すぐには、無理かもしれないけれど」
 か細く震える背を撫でて、その耳元で繰り返す。
 時間がかかるのは仕方がない。簡単に受け入れられないのも分かっている。
 それでも折れて、砕けて、焼けてしまうのではないやり方で、救われる方法があるのだと。
 この哀れで儚い魂に、覚えておいて欲しかった。
「小夜。小夜左文字。とても美しい、いい名前だ」
「……うるさい」
 夢見心地に囁けば、嫌がられた。
 いつもの調子が戻って来たと、歌仙兼定は顔を綻ばせた。
 胴衣の両脇を強く握りしめ、小夜左文字は暫く動かなかった。人にしがみついたまま離れず、その顔を誰にも明かさなかった。
 彼が退いた後、歌仙兼定は軽く乱れた着衣を素早く整えた。衿の合わせを深くして、湿っている布は内側に隠して穏やかに微笑んだ。
「さて。では僕は続きがあるから、もう行くよ」
「歌仙」
 洗濯はまだ完了していない。日が暮れる前に終わらせてしまいたい作業は沢山あって、忙しい身の上だとさりげなく主張した時だった。
 幾分目を赤くした小夜左文字が、鼠茶色の袴を抓み取った。
 真っ直ぐ走った折り目のひとつを握られて、引き留められた男は首を傾げた。床に置いていた桶を担ぎ直して、不思議そうに昔馴染みの少年を見下ろした。
 小夜左文字は瞳を泳がせると、言い難いのか、何度も口を開閉させた。
 その間も、手を離そうとはしなかった。逆に手繰り寄せられて、立ち去る時期を逸した歌仙兼定は眉間の皺を深くした。
「どうしたんだい」
「いや、……その。たいした、話では、ない」
「うん。いいよ。言ってごらん」
 三度洗濯桶を下ろし、片膝を折ってしゃがみ込む。腰はあまり深く落とさず、いつでも立ち上がれる体勢を維持しながら目線を揃えられて、小夜左文字は手を引っ込めると、今度は首に提げた数珠を弄り出した。
 捻ったり、弾いたり。または両手に挟んで捏ねたりしながら、彼はちらちらと男に視線を送り、赤みを帯びた頬を膨らませた。
「僕は、違うと……思う。でも、今剣が。これが、あにさまと、一緒だと」
「ああ。そうだね」
 同じ左文字の出であるふた振りの刀は、同じ色の数珠を首に提げていた。
 それが素材も同じかどうかは分からないが、言われてみれば確かに、長さは別として、良く似ていた。
 瞳を左右に泳がせて、落ち着かない様子の小夜左文字に同意する。すると彼はぱっと目を輝かせ、首を正面に据えて歌仙兼定に向き直った。
 真っ直ぐな眼差しが、本当かどうか問うていた。
 口以上に雄弁な双眸に目尻を下げ、男は深く頷いた。
「きっと、そうだと思うよ」
 長兄は未だ本丸に姿を現さない状況だが、左文字の次兄は既に屋敷に招かれていた。但しその境遇故かあまり他と交わろうとせず、人によっては高慢とも取れることばかりを口にした。
 同じ主を持った経験のある薬研藤四郎が何かと構ってはいるが、効果が上がっているとは言い難い。へしきり長谷部などは露骨に彼を嫌っていて、人前でも憚ろうとしなかった。
 そうなると末弟である小夜左文字に期待が集まるわけだが、彼だって兄の扱いには苦慮していた。
 一緒に居た記憶はまるでなく、兄弟刀とはいえ、名ばかりだ。外見も似通っているとは言い難く、共通点を挙げる方が難しかった。
 その為か、本当に彼は兄なのか、もしくは自分は弟なのかと、勘繰ってしまう日もあった。
「だが」
「自信がないのなら、確かめてくればいいじゃないか」
「どうやって」
「今僕に言ったことを、そのまま聞いてみればいいだけだろう?」
「…………」
 それが出来れば、苦労はしない。
 簡単に言ってのけた男を軽くねめつけて、小夜左文字は黒瑪瑙の数珠を撫でた。
 宗三左文字は屋敷の奥に引き籠り、滅多な事では表に出ない。主である審神者にも挑発的な態度を取って、戦場での経験の少なさを理由に、出陣さえも拒んでいた。
 それを生意気と取るか、哀れと取るかは、個々の判断だ。だがこのまま行けば、今でこそ同情的な刀剣も、いずれは反感しか抱かなくなるだろう。
 彼の味方になってやりたかった。
 けれど彼を兄だと信じきれないままでは、無条件に受け入れるのは難しかった。
「そう」
 下ばかり見て答えない小夜左文字に、歌仙兼定は静かに嘆息した。落ち込んでいる短刀の頭を優しく撫でて、半眼し、数秒後に声を弾ませた。
「なら、こういう手は、どうだろう」
 妙案でも思いついたのか、悪戯っ子の表情を作る。
 近くに来るよう手招かれて、十数秒後。
 囁かれた秘密の計画に、小夜左文字は興奮気味に頬を紅潮させた。

 書見台に手を伸ばし、外表に折られた薄い紙を一枚めくる。
 次の頁に目を進めて、宗三左文字は区切りの良いところで読むのを止めた。
 記憶に焼き付けようと先頭の一行を指でなぞり、力を抜いて膝の上に転がす。陶器のように白い爪先を天井に向けて、彼は瞳だけを左に流した。
 手元には長足の燭台が佇み、蝋燭の上で炎が揺れていた。日暮れにはまだ早い時間ではあるが、陽光が差し込みにくい間取りであるのと、障子戸を閉めている所為で、室内はかなり薄暗かった。
 灯りに添えられた白い紙に、炎の影が躍っていた。芯の焦げる臭いが微かに鼻について、横顔に伸びる影は色濃かった。
 薄紅色の袈裟を撫で、彼は障子戸の向こう側に居るだろう相手に思いを馳せた。
「どなたですか」
 頼んでもいないのに喚び出され、現世に招かれた。
 人としての形を与えられ、力を振るうよう請われた。
 けれど正直、どうでも良かった。
 歴史がどう変わろうとも、興味はない。どうせ籠の鳥は自由に空を羽ばたけず、一方的に愛でられて終わるのだから。
 最早飛び方も忘れてしまった。
 空を自在に駆る心地良さも、今となっては思い出せない。
 此処に来てからの毎日は、憂鬱の連続だった。
 立ち上がるのは億劫で、読み飽きた書の前から動く気も起こらない。宗三左文字は座したまま、気だるげに戸の向こう側に問うた。
 気配はずっと感じていた。しかし一向に語り掛けて来ない。いい加減鬱陶しくてならず、痺れを切らした格好だった。
 こういう気の短さは、この身に烙印を施した男から引き継いだものらしかった。
 天下に名を轟かせた魔王の愛器だから、丁重に扱われてしかるべき。しかしそれが重く取られているのか、近付いてくる者はごく限られていた。
 顔見知り程度の癖に、薬研藤四郎はなにかと小うるさい。へしきり長谷部とは、顔を合わせる度に嫌味を言いあう間柄だった。
「無用であるなら、早々に去りなさい。邪魔ですよ」
 けれど裏を返すなら、彼らはまだ遠慮がなかった。
 あのふたりであれば、こんなまどろっこしい真似はしない。問答無用で戸をあけて、許可も得ずに踏み込んでくるだろう。
 だから彼らではない。確信を持って、宗三左文字は苛立ちを露わにした。
 ささくれ立った心を抱え、早口に告げる。手を振って犬猫を追い払う仕草こそ取らなかったが、雰囲気としてはまさにそれだった。
 このひと言が引き金になったらしい。
 物陰に隠れてじっと様子を窺っていた存在が、恐る恐る、障子戸の前へと移動した。
 小さい。
 組子に貼られた障子紙に写るのは、高い位置で髪を結った少年のものだった。
「あに、さま」
「……小夜?」
 気配はふたり分あるような気がしたが、姿を見せたのはひとりだけ。心細げな声は聞き覚えがあるもので、呼びかけられた瞬間、宗三左文字は驚きに身を乗り出した。
 弟がいるという話は、遠くに聞き及んでいた。しかし顔を合わせた例はなく、いざ目の前にしても、実感はまるで湧いてこなかった。
 そんな初対面時の戸惑いを気取られてしまったのか。
 小夜左文字は宗三左文字と相対する時、常に怯えた態度を取った。
 緊張して、表情はいつだって強張っていた。目は泳ぎがちで、言葉遣いもぎこちなかった。
 宗三左文字自身、あまり口数が多い方ではない。刀工の手を離れた後の境遇に共通点は少なく、これと言って盛り上がる話題もなかった。
 お蔭で会話が捗らず、沈黙ばかりが積み上げられていく。
 このままでは宜しくないと思っていても、どう対処すればいいか分からない。薬研藤四郎に訊くのは野暮というものだし、へしきり長谷部に相談しようものなら、鼻で笑われるのが関の山だ。
 なんとかしたいと思いつつ、なんともならなくて今日まで来た。自ら事を起こす勇気はなく、鬱々しながらも動く気になれなかった。
 それに小夜左文字は、実兄よりも歌仙兼定に懐いていた。あちらと過ごす方が気が楽そうなのも、一歩踏み出すのを躊躇させていた。
 細川の懐刀ごときが、と思う反面、小夜左文字を最も知るのはあの男なのも事実。
 出発地点からして格段の差がついているのだから、宗三左文字が気後れするのも、ある意味仕方がない事だった。
 その弟が、自ら兄を訪ねて来た。
 滅多にあることではなくて、驚きは否めなかった。
 兄らしいことは何も出来ておらず、兄として振る舞えている自信もない。ならば疎遠な関係が続いて行くのは当然で、その方が良いとさえ思い始めていた矢先だった。
 他人と関わるのは兎角面倒臭い。
 静かに過ごしたいだけなのに、周りに騒がれ、注目されるのはいい加減うんざりしていた。
 だからあの子が近付いて来ないのならば、こちらからわざわざ出向く事もない。
 求められていないのであれば、手を伸ばすのは無駄な労力だった。
「なに、よう……でしょう」
 心揺さぶられる呼びかけに、返す言葉が上擦った。途中で噎せそうになったのを耐えて、彼は平静を装って幼い影に問い直した。
 蝋燭の炎が宗三左文字の手元に影を作る。光と闇の境目はおぼろげで、酷く曖昧だった。
「お邪魔でしたら、下がります」
「小夜」
 先ほどつっけんどんに言い放った台詞が、尾を引いているようだった。遠慮がちに声を潜められて、宗三左文字は見えていないと知りながら首を振った。
 訪ねて来たのが誰だか知っていたら、あんな風には言わなかった。後悔に襲われて、彼は畳の目地に指を這わせた。
 前のめりになった身体を利き腕で支え、先ほどより薄くなった気がする人影に下唇を噛む。引き留めようにも巧く言えるとは思えなくて、口を開けば、出て来たのは素っ気ないひと言だった。
「構いません。お入りなさい」
 もっと他に言いようがあるだろうに、なにも思い浮かばない。
 へしきり長谷部を相手にする時と大差ない態度を取ってしまって、彼は己の狭量ぶりに落ち込んだ。
「失礼、します」
 一方で小夜左文字は安心したのか、僅かばかり声の調子を上向かせた。畏まって頭を下げて、障子の引き手に指をかけた。
 ほんの少しだけ戸を開き、続けて出来上がった隙間に掌を忍ばせる。握らないまま戸板を横に滑らせて、通り抜けられるだけの空間を作って腕を下ろす。
「失礼、仕ります」
 そうして改めて礼をして、恐る恐る敷居を跨いだ。
 中に入ってすぐ、先ほどと逆の手順で戸を閉める。間から紛れ込んでいた陽の光は途絶え、部屋が明るくなったのは一瞬だった。
 小夜左文字は袈裟を脱ぎ、藍色の胴衣に白の襷を結んでいた。
 帯にするには短かったのか、襷の結び目は大きかった。剥き出しの手足は細く、傷跡を隠す包帯が痛々しかった。
 その傷だらけの短刀の手には、武器とは異なるものが握られていた。
 半月型をした茶色い盆だった。更にその上には釉薬を掛けて焼いた四角い皿が置かれ、白い塊がふたつ、肩寄せ合うように並べられていた。表面はぼこぼこしており、遠くからではその正体が分からなかった。
「小夜?」
 彼が訪ねて来た用件は、まず間違いなくそれだろう。
 見せたかったのか、渡したいのか。判断がつきかねて、宗三左文字は訝しげに首を捻った。
 口元を袖で隠し、眇めた眼だけを表に出す――それが小夜左文字にとって、拒絶されていると感じられる仕草だとも知らずに。
 眉目を顰めた兄を窺い、少年は皿を両手で抱え直した。
「あ、の。ええと」
 前に出ようか、引っ込もうか。
 敷居の前で躊躇して、彼は意を決して顔を上げた。
 その間、宗三左文字はひと言も発しなかった。
 掛ける言葉が思いつかなかったなど、黙っていては伝わらない。気の利いた口上のひとつも用意できない己を悔やむけれど、すべて彼自身の度量の狭さが招いた事だった。
 袖の裏側で薄い唇を噛み、歩み寄ってくる弟をただ静かに見守る。小夜左文字はそんな彼の二尺ばかり手前で立ち止まり、右から先に膝を折った。
 しゃがみ込んで、持って来たものを畳に置いて押し出す。
「これは?」
 青みがかった灰色の皿に盛られていたのは、饅頭らしきものだった。
 らしい、というのは他でもない。形は楕円に歪み、所々に指の形が残る有様だったからだ。
 店で売られていたものとは思えず、外見だけだととても不味そうだ。中に何か入っているのか、皮が歪に出っ張っているのも気になった。
 子供が土を捏ね、面白がって作った泥団子と大差ない。
 そんな粗末なものを提示されて、宗三左文字は眉間の皺を深めた。
 馬鹿にされているのだろうか。
 日頃から冷たく接している事への、嫌がらせかなにかだろうか。
 訝り、目の前の弟を胡乱げに眺める。不躾な視線を浴びせられた方は唇を引き結び、上目遣いに窺って、両手を膝に戻した。
「あにさま、に」
「僕に、これを食べろと」
「あの、だっ、大丈夫、です。見た目は、その。売り物のようには、巧く出来ませんでしたが。味は、その。悪くは、ありませんでしたので」
 不愉快だと、感情が声に滲み出ていたのだろう。
 小夜左文字ははっと息を呑み、珍しく声高に捲し立てた。
 早口で、けれどたどたどしく告げて、最後に頭を垂れて下を向く。結われた髪が一緒に揺れて、藍色が目に眩しかった。
 宗三左文字は彼と皿の上の饅頭もどきを交互に見て、その短い爪の間に潜り込んだ、泥ではない塊に半眼した。
「あなたが作ったのですか」
「あにさまは、八つ時も、ずっと。お籠りに、あらせられるので」
 彼が語る内容が真実かどうか、それは宗三左文字には分からなかった。
 人を殺す為の道具である刀が、生きるための食事を作るのは滑稽だ。
 人を真似た姿を得て、人と同じ生活を送って。それで人になったつもりならば、片腹痛い。
 小夜左文字だって、そういった飯事に興味があるとは思えなかった。裏で糸を引いている存在がいる筈で、それは間違いなくあの男だった。
 気を遣われたことが不快で、面白くなかった。けれど弟が不器用なりに作ってくれたものを、無碍に扱うなど不可能だった。
 ただ正直なところ、食欲はなかった。
 働き者の刀剣たちとは違い、宗三左文字はほぼ一日中、部屋に引き籠っている。外に出る回数は片手で余るほどで、審神者も諦め顔だった。
 動かないのだから、腹も減らない。
 そして過剰な食事は、身体が重くなって辛いだけだ。
 どうしたものだろう。
 嫌がらせの側面は否定し切れなかった。弟にその意図はなくても、饅頭作りに協力した男は、間違いなく影でほくそ笑んでいる。
 前方に視線をやれば、小夜左文字は期待と不安が入り混じった表情をしていた。
 緊張で頬は紅潮し、呼吸の間隔は短かった。鼻息は若干荒く、引き結ばれた唇は一文字を形成していた。
 そんな顔をされて、要らない、と言えるわけがなかった。
「いただきましょう」
 幸い、味は保証されている。中から飛び出そうになっている物体が恐怖だが、いざとなれば噛み砕かず、塊のまま飲み下せばよかった。
 意を決し、宗三左文字は細い息を吐いた。
 憂鬱さを隠し、邪魔になる袂を左手で押さえる。柳のように細い腕を伸ばし、右の饅頭を掴み取ろうと指を広げる。
「あにさま」
 それを制して、小夜左文字が声を響かせた。
 掴む直前だった宗三左文字は驚き、その場でぴたりと動きを止めた。人差し指で空を二回ほど引っ掻いて、急ぎ立ち上がった弟を不審な目で仰ぎ見た。
 彼は藺草の欠片を膝に張り付けたまま、二度言いかけては躊躇して、三度目にようやく口を開いた。
「あ、あの。あにさまの、髪は。その、長うございますから。えっと、食べるに際して、あの、邪魔に……なりましょう」
「いえ、特にそのような」
「ですので、その御髪、を。お、お、押さえておいても、よろしゅうございましょうか!」
「……はい?」
 両手で胸元を掻き毟って、惚ける宗三左文字に向かって大声で叫ぶ。
 それは大きなお世話も良いところの過剰な接待で、必要ない気遣いだった。
 だというのに、話が通じない。小夜左文字は稀に見る声量で訴えて、絶句する兄の返事も待たずにその背に回り込んだ。
 髪など、どうとでもなる。自分で押さえるのは簡単だし、前に垂れて邪魔にならないよう、姿勢を整えれば済む話だった。
 それなのに、小夜左文字はやると言って聞かなかった。
 誰かに入れ知恵をされたのだろうか。しかしわざわざ髪に触れたがる理由が思いつかなくて、宗三左文字は早々に思索を放棄した。
 これしきの事で頭を悩ませるのは、時間の無駄だ。背後に取り付いた子供から漂う気配は産毛を逆立たせて、そちらを抑える方がよっぽど重要だった。
 背中を取られるということは、後ろからばっさり斬られる可能性がある、ということ。
 だから否応なしに緊張を強いられて、宗三左文字は前を向きつつ、瞳だけで弟を窺った。
 あれだけ啖呵を切っておきながら、彼は触れようか触れまいかで逡巡して、小さな手を出したり、引っ込めたりしていた。
「宜しくお願いしますよ」
「はっ、い」
 それが妙に愛らしくて、何故かほっとさせられた。
 弟相手に神経をすり減らすなど、実に愚かしい。思い直して宗三左文字は飄々と告げ、不格好な饅頭を抓んだ
「これは、もしや柿ですか?」
「お嫌いで……あらせられましたか」
「いいえ」
 持ち上げると、ずっしり重かった。顔に近付ければ中に収められているものが見て取れて、その色と形に、彼は成る程と頷いた。
 心配そうに問うた弟を安心させてやり、人知れず頬を緩める。
 随分と可愛らしい悪戯だと相好を崩して、宗三左文字はひと口で頬張るには大きすぎる饅頭をじっくり眺めた。
 そうしているうちに、小夜左文字側も決心がついたらしい。肩甲骨の辺りに指が触れたかと思えば、左右から挟むようにして、桜色の髪を抱えあげた。
 折れそうなほどに細い頸部が晒されて、冷たい空気が紛れ込んだ。慣れない感覚に思わず頭を振れば、首に掛けた長い数珠が擦れてちゃりちゃりと音を立てた。
 黒瑪瑙の珠の数は、煩悩の数より遥かに多い。
 或いはこれは我が身を手にする為に、権力者たちが屠ってきた命の数かもしれなかった。
 そんな重くてならないものに、短い指が添えられた。
 形を確かめるようになぞられて、薄い皮膚を巻き込まれた宗三左文字はおや、と眉を顰めた。
「小夜、どうかし――うっ!」
 髪を掻き上げるだけではなかったのかと、意図していなかった動きに目を見開く。
 直後にドンッ、と体当たりされた。あまつさえ、ぎゅうぎゅうに抱きつかれた。
 喋っている途中だった彼は舌を噛み、あまりの痛みに涙した。
 弾みで落としそうになった饅頭を握り、後ろから背中にしがみつく子供に騒然となる。身動きが取れず、振り向くこともままならなくて、顔を伏して震えている弟の真意が、彼にはさっぱり分からなかった。
「小夜、どうしました。どこか痛むのですか。小夜。返事をしてください。小夜。小夜?」
「なんでも、ありません。あにさま。なんでもありません」
「なんでもないわけがないでしょう。小夜、顔を見せてください。いったい、急に、どうしたのですか」
「いいえ。いいえ。なんでもありません。あにさま。小夜は、本当に。なんでも、……なんでもないのです」
 混乱して、宗三左文字は声を高くした。慌てふためき、動揺も露わに捲し立てるが、小夜左文字は首を振るばかりだった。
 背中から誰かに抱きつかれるなど、今までないことだった。
 だからこの後、どうして良いかが分からない。
 右往左往し、狼狽えて。
 彼は長い逡巡を挟み、細かく震える小さな手に、黙ってその手を重ねたのだった。

2015/03/07 脱稿

Blue Hawaii

 真夏の練習は、とにかくハードだ。
 なにせ、暑い。じっとしているだけでも汗が出る。地表を焦がす陽射しは屋根が遮ってくれるけれど、代わりに風がなく、熱気が籠った。
 高湿度の空気が肌にまとわりつき、重くて仕方がない。汗を拭こうにも、タオルを首に巻いたままコートに入るわけにはいかなかった。
 必然的に、着ているシャツの袖や裾で拭く事になる。しかしどこもかしこも汗まみれで、鼻を近づければ腐臭が粘膜に突き刺さった。
 涙が出そうな饐えた臭いに、慣れそうで、慣れない。
 そもそも慣れたくないと歯を食い縛って、日向翔陽は眼前に迫るボールに食らいついた。
「ナイッサー!」
 必死に飛びつき、腕を伸ばす。直後にドガッ、と衝撃が走って、じんじん来る痛みと熱が手首と肘の間に広がった。
 後方や左手からは勇ましい声援が飛び、跳ね返ったボールが床を打つ音が続いた。汗の玉が弾け、額からこめかみを伝っていくのが感じられた。
「もう一本!」
 ネットを挟んだ向かい側には、コーチである烏養が台座に乗って構えていた。その隣には菅原が立って、ボールを渡す役を引き受けていた。
 本来ならそれは、マネージャーである清水が主に担当する仕事だった。新米マネージャーの谷地もチャレンジしてはいるものの、タイミングが覚えられないらしく、不慣れさが目立って出番は少なかった。
 その癒しの女子部員ふたりであるが、今は席を外していた。夏休み中にかかわらず毎日顔を出している顧問の武田も、彼女らと一緒にどこかへ出かけていた。
 烏野高校男子排球部は、今日も朝早くから第二体育館に集い、練習に励んでいた。
 春高の二次予選まで、あまり時間がない。のんびりしている暇はなく、盆の時期も休みなしだった。
 度重なる東京遠征で、部員らの技術も着実に上がっていた。試合に対する意識や、モチベーションの保ち方も、半年前に比べると、随分違ったものになっていた。
 その一点、一点が勝利へ繋がる一歩なのだと、ずっと強く認識するようになった。
 どうすればボールを落とさず、次に繋げられるか。
 視線が宙を舞い、身体が動きながらでも、思考を止めず、最良を探し続けられるようになった。
 だが、そうはいっても、暑いものは暑い。
「日向、あと一本な」
「ハギッ!」
「返事で噛まないでよ……」
 五本連続レシーブに成功しないと、次に進めない。ようやく終わりが見えてきた日向への声援に、順番待ちが長引いた月島はぼそりと零した。
 もっとも、日向本人には聞こえていなかった。ぼさぼさ頭の少年は勇ましく吠えて、烏養が打ち下ろした痛烈なボールへと、頭から突っ込んで行った。
 結果。
「ぶぎゃっ」
 見事顔面でボールを受ける羽目に陥り、小柄な体躯はごろん、と仰向けに倒れた。
 痛そうな悲鳴と轟音が重なって、見ていた者たちまで揃って首を竦めた。
 ボールは高く跳ね上がり、ナイスコンロトールでセッターの位置へ返された。腕でレシーブするより遥かに正確で、賑やかだった館内は、その一瞬だけシーンと静まり返った。
 これは、良いのだろうか。裁定を下すのは難しく、菅原はコーチを縋るように見た。
「え、えー……と。セーフ、です?」
 訊かれ、烏養は赤くなっている利き手を揺らした。即座に起き上がった日向にも目を向けて、汗を滴らせ、鷹揚に頷いた。
「頑張りは、認める」
「日向、五本成功。次、月島な」
「うぃーっす」
 大甘な採点だが、後が詰まっている。ひとりを相手に時間を裂くわけにはいかなかった。
 やる気があるとは言えない返事をして、月島が入れ替わりに前に出た。日向は潰れた鼻を気にしつつ、場所を譲って白線の外に出た。
 待っていたのは、ガッツを賞賛する眼差しと、不機嫌そうな眼差しだった。
「翔陽、ナイスガッツ」
「ボゲ。日向、ボゲ」
 西谷と影山からほぼ同時に言われ、聞き取ろうにも声が混ざった。忙しく左右に首を振り向けて、少年は褒めてくれた方だけを都合よく拾い上げた。
「えへ、へへへ」
 照れ臭そうに笑って、頭を掻く。その肩を西谷がバンバン叩いて、今の調子だと嘯いた。
 部内で最もレシーブが上手いリベロに称えられて、日向もまんざらではなさそうだった。今度は鼻の頭を掻いて、頬を緩め、心底嬉しそうだった。
 それが、無視された方には気に入らない。
 目を向けてももらえなかった影山は、不満をありありと顔に出し、黒い影を纏って周囲を威圧した。
 ただそれも、天然コンビにはあまり通用しなかった。
「西谷さん、あんま、こいつ褒めないでください。ヘタクソが、いつまで経っても直らなくなります」
「いーじゃねえか。なによりそのガッツが、大事だ。ボールを最後まで諦めねえ。そこはきちんと言ってやんねーと」
 身長は影山の方が圧倒的に高いが、学年は西谷の方がひとつ上。
 先輩相手にも物怖じしない一年生セッターに、言われた方もさらっと言い返した。
 意見されても、機嫌を損ねたりしない。上下関係は一応あるものの、そこまで厳しくないのが、この部の傾向だった。
 なにせ西谷が、三年生でエースである東峰を説教することもあるくらいだ。そういう光景を頻繁に見ていれば、一年生でも声を上げ易かった。
「ツッキー、ナイッサー!」
 一方で山口は、月島を応援して声を張り上げていた。コート内にいる背高のミドルブロッカーが迷惑そうにしているのも構わず、ぎゅっと目を瞑り、暑さにも負けずに叫んでいた。
 どこもかしこも賑やかで、必死なのに、穏やか。
 よく分からない雰囲気だと苦笑を漏らし、主将を継続中の澤村は飛んできたボールを右手で受け止めた。
 軽々片手で持ち、転がっていた分も集め、菅原の元へ運んでいく。途中開けっ放しのドアの前を通り過ぎれば、微かに風が吹き、茹でられた空気が全身を包み込んだ。
 涼しいような、そうでないような。
 こちらも訳が分からないと肩を竦めていたら、照り返しで白く見える地面の上を、足早に駆ける人の姿が見えた。
 影は短く、小さい。
 それがふたつ、並んでいた。やや遅れる形で、少し大きめなものがもうひとつ。
「清水?」
 足を止め、首を伸ばす。
 外を注視する部長に、ボール拾いをしていた面々も何事かと首を傾げた。
 急にざわざわし始めた体育館に、烏養も一旦手を止めた。シャツの袖で鼻筋を擦って、ポニーテール姿のマネージャーに嗚呼、と頷いた。
「来たか」
「え?」
 眼鏡の女生徒に続き、小柄な少女もぜいぜい言いながら階段を上ってきた。両手は広めの盆で塞がっており、靴を脱ぐのが大変そうだった。
「清水、それ」
「ごめん、ちょっと持って。仁花ちゃん、預かる」
「すすす、すみまぜっ、え」
 踵が抜けなくてもたついている谷地を見て、清水の行動は素早かった。戸惑う澤村に持っていたものを押し付けて、今にも転びそうな後輩へ手を差し出した。
 辺り一帯にほんのり甘い匂いと、冷たい空気が立ち込めた。白い湯気が見えるようで、冷静沈着が売りの主将も、たまらずごくりと唾を飲んだ。
 遠巻きにしていた一団も、戻ってきたマネージャーたちを見て、途端に息巻いた。
「よし、お前ら、ちょっと休憩な」
「やったー!」
 そわそわして、落ち着かない。興奮に頬を紅潮させる高校生を見下ろして、烏養は知っていたのか、豪快に笑った。
 最早練習どころではなくなっている。月島ひとりが肩透かしを食らった顔をしていたが、遅れて到着した武田に目を向けて、嗚呼、と力なく頷いた。
「すげー。かき氷!」
「うっまそー」
「順番。並んで」
「ハーイ!」
 わらわらと入口に集まっていく部員は、まるで小学生のようなはしゃぎようだった。清水や谷地が運んできたものに目を輝かせ、涎まで垂らしていた。
 使い込まれて古びた盆に並ぶのは、キラキラ輝くガラスの器。そしてそこに山盛りになっている、目の粗い削り氷だった。
 シロップはまだかかっていない。どれもこれも真っ白で、雪山を眺めている気分だった。
 いかにも涼しげで、冷たそうだ。
 元気よく返事をした男子部員が、言われた通りに列を作る。先頭は勿論西谷で、二番目は田中だった。
 思わぬ形で盆を渡された澤村は、いつの間にか氷を部員に渡す係にされてしまった。
「なんだって、急に」
「コーチが、押し入れの奥で見つけたからって、持ってきてくれて」
「ああ……」
 鼻息荒くしている西谷にかき氷を渡し、清水が部長の疑問に答える。シロップは武田が両手に抱えており、封を切る鋏は谷地の掌中にあった。
 もしかしたら、昨日から準備していたのかもしれない。段取りの良さに感心して、澤村は緩慢に頷いた。
「はい」
「あざーっす」
「転んで零すなよ」
「んなことねーし。なあ、シロップどれにする? おれ、イチゴ!」
 隣では清水が、テキパキと部員に冷たい器を配り続けた。受け取った日向は影山の嫌味にも負けず、元気いっぱいに声を響かせた。
 暑い中、ずっと動き回っていた。
 頻繁に水分補給はしていたものの、飲んだ分はすぐ汗になって流れてしまう。ドリンクも腹が驚かないよう、少し温めに作られていて、喉の渇きは癒せても、涼を得るには不十分だった。
 思わぬ差し入れに、顔がほころぶ。
 鉄面皮の月島でさえ、表情は心持ち嬉しそうだった。
 外は陽射しがカンカンに照り付け、コンクリートは焼けた石に等しい。時折聞こえてくる余所の部の掛け声も、春先に比べるとかなり控えめだった。
「く~~、うめえ!」
 真っ先に氷に齧り付いた西谷が、幸せそうに身を竦ませた。その横では田中も、キーンと来る冷たさに震えていた。
 縁下、東峰といった面々も、冷たい差し入れに満面の笑みを浮かべた。菅原だけ辛いシロップがないと不満げだったが、そもそも唐辛子は、かき氷にかけるものではなかった。
「辛さで溶けちゃいません?」
「今度デスソースかけてみようか」
「部室では絶対にやらないでくださいね」
 以前、激辛麻婆豆腐で酷い目に遭わされた。それを思い出しながら言った日向に、三年生は碌でもないことをさらりと言い、次期主将と目される二年生に後ろから釘を刺された。
 そんなものを使われた日には、一週間は余裕で部室に入れない。プレハブの建物全体が、下手をすれば全滅しかねなかった。
 男子排球部はそうでなくとも、なにかと問題を起こしがちだ。ここ最近は大会での成績が伸びており、一旦は沈んだ評価が上昇しつつあるだけに、変なところで躓くわけにはいかなかった。
 手厳しいひと言と冷たい眼差しに、副主将はしょんぼりしながら項垂れた。仕方なくレモンシロップを大量にかけて、表面が溶けかけている氷の山にスプーンを刺した。
 一方でなかなかシロップを選べないでいるのが、一年生セッターの影山だった。
 日向はといえば、赤色のシロップを氷全体に、万遍なく注いでいた。
 家では怒られるのでやらないが、この場では遠慮は必要ないと思っているのか。些かかけ過ぎているくらいで、お陰で小ぶりの山は背丈を低くしていた。
 嶋田マートで仕入れてきた細長いシロップの容器は、全部で五本。内訳はイチゴに、メロン、レモンと来て、あとはみぞれに、ブルーハワイだった。
 自宅でかき氷をしようにも、シロップは使いきれずに残ってしまう場合が多い。だからこんなに一度に沢山、種類が揃っているのは、屋台以外では初めてだった。
「武ちゃん、これ、混ぜてもいい?」
「こら、食べ物で遊ぶんじゃない」
「あでっ」
 童心に帰り、西谷が言い出す。それを澤村が叱って、げんこつを叩き付けた。
 もっとも拳は緩く、音もしなかった。西谷は悲鳴をあげたものの、本気で痛がる素振りはなかった。
 部内で暴力沙汰となれば、大問題だ。それを主将である澤村が、分からない筈がなかった。
 首を竦め、西谷が小さく舌を出す。大柄な三年生は溜息で応じて、まだ決めかねている影山にも肩を竦めた。
「なんでもいいだろ」
 そう言う彼が持つ器には、たっぷり緑色のシロップがかけられていた。
 メロンは、本物は値が張ってなかなか食べられない。高級感あふれる夏の果物の、代表格的位置づけだった。
 だからなのか、かき氷くらいたっぷり味わいたい。そういう魂胆が見え隠れしており、向こうの方では菅原が笑っていた。
 残る三年生の東峰はイチゴ味で、清水はみぞれを選んでいた。二年生も無難にイチゴを選ぶ者が多く、次に多いのは、澤村と同じ考えなのか、メロンだった。
「くっはー、しっかしうめーな。やっぱかき氷つったら、イチゴだろ」
「いーや、ここはメロン一択だね。イチゴなんかとは風味が全然違うぜ」
 なにをしていても、何を食べていても、西谷と田中は喧しい。ガツガツスプーンを動かして、あっという間に半分以上を平らげてしまった彼らは、シロップひとつにしてもこだわりがあるようだった。
 さほど重要ではない意見を言い合って、対立して、火花を散らす。
 その横で、早くしないと氷が溶けてしまうというのに、影山は依然決めあぐね、シロップの前で指を彷徨わせていた。
「そういえばかき氷のこの蜜って、味、全部同じなんですよね」
「……は?」
 他の皆が着々と食べ進める中、ひとりだけ決断出来ないでいる。
 それを優柔不断だと鼻で笑って、月島はシロップ談義に花を咲かせる面々にも言い放った。
 蜜を被っても白いままの氷を崩し、ひと口頬張る。
 口の中に広がる冷たさに加えて、大勢から一斉に視線を向けられた。免疫がなければぞわっと来そうな展開に口角を持ち上げて、底意地が悪い一年はにっこり頬笑んだ。
「知りませんでした?」
 臆面もなく言って、もうひと口噛み砕く。
 排球部の面々は揃って目を丸くして、唖然としながら自分が持つものを見下ろした。
 イチゴ味に、メロン味に、レモン味。
 ひんやりした氷に絡む、甘い、甘い蜜の味。
「え」
「嘘だろ」
「ちょっと一口寄越せ」
「同じ、か?」
「やっぱ違うんじゃねーの?」
 男たちは絶句し、顔を見合わせ、隣の皿に匙を伸ばした。実際に違うのか試して、区別がつかなくて首を捻った。
 同じようで、違うようで、よく分からない。
 乱立するクエスチョンマークにクク、と肩を震わせて、月島は谷地が抱えているシロップの容器を指差した。
「ふえっ。ひええ!」
「裏、見てみなよ」
「おお!」
 その状態でちょいちょい、と指先だけを動かされた。咄嗟のことに混乱した谷地だけれど、言われて成る程と納得して、真新しい容器を覗き込んだ。
 一部だけ半分以下になっているボトルを揺らし、裏面に貼られている成分表に目を走らせる。
 そして。
「ほんとだ……」
 どの味も原材料に殆ど差はなく、違いがあるのは加味されている着色料だけだった。
 つまり、月島の言う通り、シロップ自体に味の違いはない。
「じゃあ、イチゴ味ってのは?」
「見た目の色で、脳が勝手に勘違いしてるだけ、らしいですよ」
「えええええー?」
 視覚から得られる情報と、あらかじめ『イチゴ味』だと認識している所為で、頭はその味なのだと騙されてしまう。
 全ては思い込みのなせる技だった。
 にわかには信じ難い話ながら、原材料が色素以外同じ、という動かざる証拠がある。嘘や冗談だと断じることは不可能で、男子部員は軒並み口を閉ざし、頭を抱え込んだ。
「じゃあ、俺らが今まで食ってたのは、なんだったんだ」
「ただのみぞれ味ですね」
「っつーか、んじゃ全部同じってことだろ。影山、お前なにずっと悩んでんだよ!」
 合成着色料を過剰摂取するくらいなら、みぞれで良い。
 そういう理由でシロップを選んだ月島の弁に、何故か田中がキレて声を荒らげた。
 視界の端に、まだ思い悩んでいる後輩が見えた。それがいい加減鬱陶しくて、我慢出来なかったのだ。
 突如吼えられ、影山の肩がびくりと跳ねた。驚いて振り返った後輩のきょとんとした姿にも腹を立てて、田中は唯一未開封だったシロップを掴み、引き受けた鋏でその先端を断ち切った。
「ちょ、田中さん?」
「全部同じだったら、ほーれほれほれ、どうだ!」
 そうして戸惑う後輩の器目掛け、青色が鮮やかなシロップをドバドバと垂れ流した。
 かなり低くなった氷の山に、温くなった液体が振りかけられた。その熱で細かな氷は益々溶けて、小鉢の底には毒々しい色が溜まって行った。
「やめてください、ちょっと」
「こら、田中。いい加減にしろ」
 このままだと、シロップを全部かけてしまいかねない。
 嫌がった影山が押し退けようとして、澤村も見るに見かねて、介入すべく声を上げた。
 悪い顔をしていた二年生も、主将に睨まれては黙らざるを得ない。けれど時既に遅く、影山のかき氷はかなり無残な状態になっていた。
「うわあ、ひっでえ」
「あらら、王様。残念でした」
 これでは氷が添え物で、蜜がメインだ。ほぼ食べ終わっていた日向と月島に同時に言われて、影山は唖然としたまま手元を見詰め続けた。
 そもそもどうして、あんなにも選ぶのに時間をかけたのか。
 他の面子が即決だった中、彼の迷いぶりは相当なものだった。
 訊かれ、影山は視線を泳がせた。口籠り、一番近くにいた日向を前に唇を引き結んだ。
「影山?」
「いや、俺ん家、こういうのやったことなかったし。祭も、行かねえから……かき氷とか、食ったこと、なくて」
「お、おう」
 目で訴えられるが、分からない。首を捻れば訥々と語られて、予想の斜め上を行く返答に、巧く相槌が打てなかった。
 まさかの、初体験だった。
 そんな人間がこの世に居たとは。驚きつつ、哀れみが否めない。どれだけ小さい頃からバレーボール一辺倒だったのかと、その人生の迷いの無さに、相槌を打つのが精一杯だった。
「まあ、食え」
「おう」
「急げよ、お前ら。食ったらすぐ練習再開すっぞ」
「うぃーっす!」
 他に、なんと言えるだろう。
 かける言葉が見当たらず、横柄な態度を取れば、食べ始めた影山の向こうで、烏養が声を響かせた。
 なんだかんだで、結構な時間が過ぎていた。
 休憩も大事だが、夏休みにまで毎日体育館に出てきている理由は何か。頭を切り替えるよう吠えられて、影山は大慌てでスプーンを動かした。
 残すのは勿体ないから、急いで食べきるつもりらしい。
 焦って掻きこんでいる姿は滑稽で、見ていた日向はつい笑ってしまった。
 後ろでは、空になったガラスの器が集められていた。これもまた、烏養が自宅から持ち込んできたものらしく、洗って返却するまでがマネージャーの仕事だった。
「急がなくていいから」
「ッス」
 日向の分を回収しに来た清水が、まだ食べている影山に優しく言う。
 最初こそ勢いが良かった彼だけれど、冷たさに頭がキーンと来たらしく、途中から進みが一気に遅くなっていた。
 これでは練習再開に、ギリギリ間に合わないかもしれない。
 既にアップを始めている部員たちを見て、日向もそちらへ混じるべく、片足を浮かせた。
 しかし彼は、何故か踏み出すべき一歩を戻した。背筋を伸ばして意味深に笑い、こめかみを叩いているチームメイトにはにかんだ。
「影山」
「あ?」
「ほら。まっかっか」
 かき氷が初めてなら、これも知らない可能性がある。
 ふと思って、日向は自分を指差し、舌をべろん、と伸ばした。
 イチゴ色のシロップをたっぷりかけたから、その色素が舌の表面に沈着してた。
 夏祭りの夜、友人らとこうやってよく見せ合った。元から赤い舌だけれど、それが一層強まって、毒々しい感じになるのが面白かった。
「気持ち悪りぃ色だな」
「お前のだって、青くなってんぞ?」
「ゲッ、マジか」
「まじまじ」
 案の定影山は嫌がったが、教えられて顔まで青くなった。スプーンで掬ったばかりの氷を器に戻して、恐る恐る舌を出せば、日向の笑い声はより大きく響いた。
 腹を抱えて足を踏み鳴らして、チームメイトは何事かと振り返った。
「どった?」
「いえ……」
 ただ訊かれても、答え辛い。どれだけ青いのか、自分で見られないのも影山を苦しめた。
 鏡があれば良かったのだが、体育館にあるわけもなく。
「影山君、もう良い?」
「あ、ああ。悪い」
 そこへ谷地が器を回収しにやってきて、両手を揃えて差し出した。
 まだ二口分ほど残っていたものの、これ以上食べる気になれない。彼は大人しく容器を手渡し、色の変化を気にして唇を掻いた。
「見て、谷地さん。真っ赤」
「あはは、すごいね。日向の。影山君も、青くなってる」
 後でトイレに行って、確かめてこようか。
 気になって仕方がない影山は、谷地にまで言われて渋面を作った。
 自分の身体なのに、本人に見えないのが余程腹立たしいらしい。変なところで拗ねている仲間に苦笑を漏らして、彼女は嗚呼、と小さく頷いた。
「赤と青って、混ぜたら紫になるんだけど。これも、そうなのかな」
 青い汁が入った器を揺らしつつ、谷地が呟く。
 二種類以上の絵具を混ぜると色が変わるのは、ふたりも知っていた。顔を見合わせた彼らは、片付けられつつあるかき氷シロップに目をやって、緩慢に頷いた。
「へー、面白そう」
「試すか?」
「でもちょっと、勿体ないかな」
 食べ物で遊ぶなと、澤村も先ほど言っていた。
 けれど好奇心を擽られ、単純な男子はそわっと落ち着かない。谷地が遠慮を申し出ても、ふたりの決意は覆らなかった。
 但しかき氷シロップは、武田が回収済みだ。
 今からあれを借りて、実験するにしても、氷がない状態では難しかった。
「いや、うん。日向」
「んぬ?」
「ちょっと舌、出せ」
 挑戦するのは、また今度。
 そういう方向に話が流れようとした矢先、ピンとひらめいた影山が小柄なミドルブロッカーを手招いた。
 疑うことを知らず、日向が言われた通り傍へ行く。そうして青い舌を見せながら言われて、首を捻った。
 舌は赤いのに、青色の色素が上に塗られていても、紫にならない。
 素材が違うからか、とぼんやり考えて、頭の出来が悪い少年は眉を顰めた。
「影山?」
「いーから」
 怪訝に名を呼ぶが、押し切られた。早くしろ、と後方から睨みを利かせる上級生を気にして、エースを夢見る少年は渋々、口を大きく開けた。
「ン」
 鼻から息を吐き、舌を広げ、伸ばす。
 瑞々しい赤色を視界に収め、直後。
 影山は何の躊躇もなく、青に染まった粘膜を、赤く色付く舌へ擦り付けた。
 ぐにゅ、と湿った感触がした。
 逃げる間もなく押し付けられて、日向の背中にゾワワッ、と悪寒が駆け抜けた。
 間近で目があった。
 ガゴン、と重いものが床に転がる音がした。
 間近で響いた騒音に、背筋が粟立った。心臓がぎゅっと縮こまって、凍り付いて動けなかった。
 瞬きも忘れて立ち尽くし、ブリキのおもちゃと化して首をギギギ、と回す。
 左側では手を空にした谷地が、顔面蒼白で硬直していた。
 彼女の足元に、ガラスの容器が転がっていた。幸い、割れてはいない。しかしスプーンは明後日の方向へ吹き飛び、青い汁が茶色い床に広がっていた。
 白い体育館シューズにも、青色が散っていた。それを拭いもせず、部で最も小さい少女は両手で顔を覆い、ムンクの叫び宜しく身を捩った。
「ひぃぃぃぃ。すみません、すみません。私は何も見ていません!」
 吹き飛びそうな勢いで首を振って、喚き、今度は真っ赤になって湯気を噴く。
「これで、紫に」
「なるかボゲェ!」
「ぐあっ」
 そのまま蹲ってしまった谷地に、影山は一切空気を読まない。
 赤に触れた青い舌を指差しつつ当惑する彼に、日向はたまらずチョップを喰らわせた。続けて蹴りも入れて、皆が見ている前で大声で吼えた。
 赤と青を混ぜる事を優先させて、自分が今、何をしたのか、本気で分かっていない。
 どこまで馬鹿なのかと憤慨して、日向もまた煙を噴き、痛がる影山に飛びかかった。
 どたばたと、彼らはなにかと騒がしい。
 青筋を立てている澤村が怒鳴り声をあげるまで、残り時間は、あと三秒。

2015/8/11 脱稿

Cinnabar

 まるで酔っ払いだった。
「ひっく」
 突然真横から、いやに裏返った奇妙な声が聞こえて来た。耳慣れた声色とはかなり違っていて、彼はこんな高い音も出せるのかと、日向は驚き、目を見開いた。
 もっともそれは、音を発した当人も同じだった。
 勢いよく振り返られ、影山は細い目を真ん丸に広げた。何が起きたのかと、自分の喉に手を当てて、絶句して暫く黙りこんだ。
 しかし。
「ひっ、く」
 先ほどよりは幾ばくか落ち着いた、けれど矢張り奇怪なトーンの音が漏れて、肩まで一緒に跳ね上がった。
 喉仏を覆っていた手まで高く弾み、そのまま宙を滑って落ちて行った。胸元を掻いて腕を垂らして、影山はきょとんとしたまま目を白黒させた。
 唐突だった。
 予兆は何一つなくて、ずっと一緒だった日向も驚愕に言葉がなかった。
 今の声はなにか、と訊かれたら、しゃっくり、と答えるしかない。それ以外に考えられず、他に正解と思しきものはなかった。
「だ、だいじょぶ?」
「なんで、急に……っく」
 前触れもなしに襲って来たしゃっくりに、ふたりとも戸惑いが隠せない。日向は堪らず箸を持つ手を膝に下ろし、影山は自分に首を傾げて奥歯を噛み締めた。
 出そうになったしゃっくりを強引に噛み潰し、留めようとした。しかし完全には果たせず、行き場を失ったエネルギーが彼の身体を上下に弾ませた。
 床が揺れた気がした。前のめりになった姿勢を戻して、日向は箸の先に残っていたソースを舐めた。
「いきなりだな」
「ああ。なんでまた」
 同情をこめて呟けば、影山は間髪入れずに同意した。首肯して喉を撫で、止まっただろうかと深呼吸を繰り返す。
 しかし願いは虚しく、彼の肩は再び跳ね上がった。
「っ、く」
 吐息は苦しげで、喘いでいるようにも聞こえた。眉間の皺は深くなり、表情は一段と険しさを増した。
 子供が見たら、泣き出しそうな顔になっている。日向には見慣れた顰め面だが、今日は殊更恐ろしげだった。
 それもこれも、食事中に突如襲って来たしゃっくりの所為。
 部室でのんびり昼飯を食べていたふたりは肩を竦め、困ったものだと天を仰いだ。
 歴年の勇士が遺した染みが散見し、室内は外見以上に汚かった。元から男の巣であり、汗臭い運動部なのだから、それも致し方ないのだけれど。
 目立つ汚れを見せられても、掃除しようという気にならない。そうやって見逃すメンバーが多いから、年に一度の大掃除の際に、カビが生えた古雑誌が見つかったりするのだ。
 食べかすも散乱して、衛生面でもよろしくない。蟻が這い回るなど日常茶飯事だし、夏場などは黒くて素早い奴も、時々顔を出した。
 その度に誰かが悲鳴を上げ、主に菅原が駆除に走り回っていた。
 大人しそうな顔をして、あれで意外に度胸が据わっている。日向も虫は平気な方だが、月島などは飛び上がって逃げる側だった。
 それが面白くて、カマキリを捕まえて鞄に潜ませてやった事があった。結果は阿鼻叫喚で、悪戯が知れた後はこっぴどく叱られた。
 影山も、どちらかと言えば平気な側だ。気にしない、というか、自分に害がなければどうでもいい、というスタンスはある意味潔かった。
 彼については、本人が望んでも擦り寄って来ない、という一面もありそうだ。犬や猫といった小動物が好きなのに、何故か怖がられ、或いは威嚇されて、どれだけ人懐こい獣でさえ逃げる有様だった。
「止まりそう?」
「分か、……っンく、ねえ」
 弁当箱を膝に置き、影山が首を傾げて喉や胸を弄り回した。しかししゃっくりは一向に収まらず、度々中身が入っている弁当が揺れ動いた。
 このままだと、ひっくり返しかねない。
 危惧した彼は先に大事な食事を床に移し、紙パックの牛乳に口を付けた。
 ストローを前歯で軽く噛み、息と一緒に中身を吸い込む。ずごっ、と音がしたのはしゃっくりではなく、残量が少なかった所為だ。
 表面が盛大に凹んで、立方体が奇妙な形に歪んだ。
「……どう?」
 残っていた牛乳を一気に飲み干した彼に、日向が慎重に訊ねた。影山は潰れかけた紙パックを利き手に構え、しばらく沈黙してから首を横に振った。
「全然、だな」
 ゲップの代わりにしゃっくりが出て、飲んだばかりのものが逆流しそうになった。
 流石にそれは避けたい。口を固く噤んで堪えた彼の弁に、日向は他人事なのに辛そうな表情を作った。
 放っておいても、大事なかろう。けれど気になるし、なにより食べ辛かった。
「そういや、しゃっくりって、ずっと治らなかったら死ぬって、誰かが」
「怖ぇえ事言うんじゃ――ひっく」
 空になった容器を置いた影山を眺めていたら、ふと、遠い記憶が蘇った。
 あれは、いつ、誰に聞いた話だっただろう。
 小学校か、中学校で、矢張りクラスの誰かがしゃっくりに見舞われて、なかなか止まらなくて。あれこれ試した後に、同年代としては博識の生徒が、いやに畏まって言っていた気がする。
 その時も、影山のような反応があった。早く止めてくれと頼まれて、あれやこれやと試行錯誤しているうちにチャイムが鳴って。
 それから、果たしてどうなったのか。
 顛末が思い出せなくて、日向は苦笑した。影山は苦虫を噛み潰したような顔をして、なかなか静まってくれない腹に手を当てた。
 一抹の不安を覚えたか、顔色は優れない。
 怖がらせてしまったと反省して、日向は彼の太腿を叩いた。
「大丈夫だって。お前って、殺しても死なさそうだし」
「……それ、褒めてねえだろ」
「あ、やっぱし?」
 影山の神経の図太さは、折り紙つきだ。しゃっくりのひとつやふたつで野垂れ死ぬなど、とても思えなかった。
 若干貶しつつも励まして、日向は残っていた弁当のから揚げに手を伸ばした。
「そのうち治るって」
「だとい……っく、けど、な」
「ぷっ」
「笑ってんじゃねーよ」
 影山も箸を握り直し、食事を再開させた。しかし喋っている最中に、よりにもよってしゃっくりが出て、言葉は不自然な場所で区切られた。
 本人は辛いし、大変なのだが、傍から見る分には面白い。
 笑いを堪え切れなかった日向に憤慨して、影山は弁当箱の底を叩いた。
 箸の先でプラスチックを削り、こびりついていた米粒を剥いで口へ運ぶ。いつもの大食いの、早食いは鳴りを潜め、行動は控えめだった。
 変な真似をして噎せないように、慎重になっていた。食べる速度はかなり遅く、平常時の半分以下だった。
 お蔭で日向の方が、先に食べ終わってしまった。
 昼飯の量は、体格が随分異なるふたりであるが、ほぼ同等だった。
 市販されている弁当箱の中で最も大きいサイズに、隙間なく、ぎゅうぎゅうに。米は押し込まれ過ぎて密度が高く、箸を突き刺せば箱が浮きそうなくらいだった。
 勿論、そんな行儀の悪い真似はしない。
 今日も腹いっぱい食べられる幸せに感謝して、彼は両手を合わせて目を閉じた。
「気にしなきゃ、そのうち止まるって」
「うっせえ。そう言うテメーは、出来んのかよ」
「無理です」
「んじゃ言うな」
 ソース汚れまで綺麗に舐めとった弁当箱を片付け、箸箱と一緒にして大判の布に包む。
 元々は父のハンカチだった包み布の端を結んだ彼の楽観的意見に、影山は眉を顰め、取りつく島を与えなかった。
 一気に機嫌が悪くなった。あまり突き過ぎると、溜め込まれた鬱憤が爆発しかねない。
 火の粉が降りかかるのは遠慮したくて、日向は淡く微笑んで口を閉じた。
 片付けを継続して、黙々と手を動かす。鞄を引き寄せて空いたスペースに包みを押し込み、邪魔な荷物は端に寄せて、凹凸が極力少なくなるよう配置を修正する。
 忙しない彼を一瞥して、影山は自分の所為で気まずくなったのを自覚し、小鼻を膨らませた。
 怒っているわけではないのだが、そう捉えられても仕方がない。
 匙加減が難しいと臍を曲げて、彼は残り少なくなった弁当を一気に貪り食った。
 速度を上げ、追い込みに掛かる。ところが突然の勢いに吃驚したのか、横隔膜が激しくひきつけを起こした。
「んぐっ、ぅえ、ごふっ」
「ぎゃあっ」
 咀嚼もそこそこに飲みこんだものだから、喉に詰まった上に、運悪くしゃっくりのタイミングが重なった。咄嗟に左手で口を塞ぐが咳は止まらず、指の隙間から散った米粒を浴びせられ、日向は素っ頓狂な悲鳴を上げた。
 仰け反り、右肩から床に倒れ込む。
 大仰過ぎる驚き具合は失礼極まりないが、致し方ないとも思えて責められない。なにせ影山の掌は中央部分がぐっしょり濡れて、鼻水までこびりついていた。
 汚らしい顔に、日向が引き攣り笑いを浮かべた。
「貸してやるから、拭けよ」
「……おう」
 寝転んだまま鞄からタオルを取り出し、投げて渡す。影山は空中で難なくキャッチして、ずび、と鼻を啜った。
 真っ先に手を拭いた彼に肩を竦め、日向は崩していた脚を整えた。胡坐を掻いて床に座り直し、未だしゃっくりの勢いが衰えない影山に相好を崩す。
 そうしておもむろに、膝立ちになって。
「わっ!」
 口元を拭いていた影山目掛け、両手を広げて声を張り上げた。
「……なにやってんだ?」
 しかし反応は、限りなくゼロに等しかった。
 顔の横でうねうねさせていた指を握り、日向はがっくりと肩を落とした。至って冷静にツッコミを返されて、急に自分が恥ずかしくなった。
「いや、だって」
 しゃっくりを止める常套手段は、相手を驚かせる事だ。
 原理は良く分からないが、昔からそう言われていた。日向自身、友人にやられたことがあったし、逆に試した事もあった。
 それで本当に止まったかと言われたら、首を傾げるしかない。
 けれど何もせずに放置するよりは、実践してみるのが吉だった。
 但し、影山には通じなかった。
 胸の前で人差し指を小突き合わせ、日向はもじもじと身を捩った。羞恥心を堪えて口を尖らせ、またもや肩を跳ね上げた男にため息を零す。
「ダメかあ」
 失敗だった。
 やるのではなかった、と後悔に襲われて、彼は浮かせていた尻を戻した。
「つか、そういう、のって、っく。不意打ち、じゃ、ねーと。ひくっ、意味、ないだろ」
 頻繁にしゃっくりが会話の邪魔をするので、彼の言葉は細切れだった。
 一言一句を短く区切り、スロー再生のように喋る。必要以上に過剰な対応をしている彼に、日向はそれもそうだ、と頷いた。
「驚かせるって、結構難しいなー」
 後ろから突然飛びかかろうにも、部屋の中では無理だ。
 日向が移動すれば、影山は目で追いかける。隙を狙おうにも限界があった。
 最初から驚かせよう、という魂胆が見え見えだから、効果は期待できない。たとえば相手の息を止めるほどの事を口にするなら、話は変わってくるけれど。
「うーん」
 妙案はないかと頭を捻り、日向はぽん、と手を打った。
「日向?」
「あのさ、影山。おれって、実は、その」
 なにかアイデアが浮かんだのか、影山も興味津々に背筋を伸ばした。
 期待の眼差しを向けられて、日向は人差し指を立て、指先を回しながら語り出したのだが。
 途中で彼は言葉に詰まり、顔色を悪くしてだらだら脂汗を流し始めた。
「……おい?」
「――ごめん。やっぱなんでもない」
「なんなんだよ」
 目は泳ぎ、表情は虚ろだった。心配になって呼びかければ、日向は両手で顔を覆い、気にしないでくれるよう頭を下げた。
 そんな事を言われても、気になるものは、気になる。
 やりかけて途中で止めるな、と声高に責められて、日向は鼻をスピスピ言わせて奥歯を噛んだ。
「いや、さあ。お前がビックリすることって、なんだろうって」
 詰問されて、逃げられない。実行する前に失敗に終わったアイデアは、最初こそ他にないと思えたが、いざ口を開いてみると、どうしても言えない台詞のオンパレードだった。
 影山を驚かせるなど、簡単だ。
 嘘を言って、騙せばいい。
 そう意気込んでいたのに、日向の方が先に白旗を振ってしまった。
「お前の事、嫌い、とか。ウソでも言えねえだろ」
「……言ってるじゃねーか」
「お前が言わせたんだろ!」
 正直に小声で答えれば、一瞬の間を置き、影山が揚げ足を取ろうとして失敗した。
 言わなければ酷いと、無言で脅したから告白したのに。
 これでは恥の上塗りだと赤くなって、日向は半泣きで怒鳴った。
 鼻息荒くして、再度膝立ちになって肩で息を整える。フー、フー、と獣のような呼気を呆然と見上げて、影山は頬に散った唾を拭った。
 そして。
「……っそ、それもそうか」
 今頃になって発言の真意を理解したのか、ボッと火が点いたように真っ赤になった。
 日向以上に朱色を強め、耳まで鮮やかに染めて下を向く。露わになった襟足もほんのり紅色なのを確かめて、日向はようやく溜飲を下げた。
 冗談でも、言えるわけがなかった。
「影山の、ボケ」
「悪かった。怒んな」
「ふーんだ。影山なんか、もう知らないしー」
 バレーボールが好きで、バレーボールがしたくて烏野高校に来た。
 夢にまで見たユニフォームを着て、コートの中でも、外でも、最高のパートナーを手に入れた。
 感情が爆発して、想いは留めきれなかった。溢れた分も、そうでない部分も汲み取って、掬い上げてくれたのが影山だった。
 彼が好きだ。
 しゃっくりを止める為、驚かせる為の嘘だとしても、想いと反対のことは口に出来なかった。
 理解が遅い男に腹を立て、そっぽを向いて膨れ面を作る。影山は困った顔で頭を掻いて、日向の方ににじり寄った。
 両手を床に添えて四つん這いになり、機嫌を直してくれるよう、姿勢を低くして頼み込む。
「日向」
 彼に嫌われたら、もう生きていけない。
 そんな事さえ平然と口にする真摯さで見つめられては、流石の日向も、怒りを維持するのは難しかった。
 鈍感だし、救いようのないバカだし、我儘で横暴なところもあるけれど、一本気で、愚直で、嘘を吐かない。
 体当たりでぶつけられる感情は時に許容量を超えていて、吹き飛ばされそうになるけれど、日向は彼が大好きだった。
 堪らなく、愛おしかった。
「ったく、もー……お?」
 心を貫く眼差しに照れて、首を竦めて火照る頬を押さえる。最中に忘れかけていたことを思い出し、日向は素早く瞬きした。
 思考を一瞬で切り替えた彼に、影山も怪訝にしつつ、姿勢を正した。
「ひなた?」
「影山、お前、しゃっくり止まった?」
「んん?」
 改まって名を呼べば、低い声で指摘された。言われて合点が行った影山は目を丸くして、そういえば、と胸を撫でた。
 制服の皺を押し潰し、安定した呼吸に顔を紅潮させる。先ほどまで意識の大半を占めていたしゃっくりは、いつの間にか彼の元を離れていた。
 今度こそ驚かされて、彼は興奮気味に口角を持ち上げた。
「すげえな、日向」
「おれ、なんにもしてないけどな?」
 感嘆し、手放しに褒め称える。賞賛を受けた方は恐縮し、気恥ずかしげに耳の後ろを掻いた。
 ところが、だ。
「……っぃ、く」
「おりょ?」
 止まった、と喜んだのも束の間だった。
 突如影山が顔を伏したかと思えば、短く詰まった息を吐いた。
 屈強な肩を細かく震わせて、瞬間的に膨らんだ腹を即座に引込める。前歯の隙間から漏れた息は裏返り、彼らしからぬ可愛さだった。
 日向も、影山自身も絶句して、双方暫く無言だった。
「ダメ、か」
 収まったと思ったが、ぬか喜びだった。人を振り回した挙句、安心させたところで突き落すとは、このしゃっくりはかなりの手練れと思われた。
 落胆し、前髪を梳き上げる。時計を見れば昼休みは残り十五分を切っており、このままだと午後の授業まで長引きそうだった。
 下手をすれば、放課後の練習中もしゃっくり地獄に見舞われるかもしれない。
 大いにあり得る可能性に、彼は陰鬱な気分で嘆息した。
「なんとかなんねーのかよ、これ」
 授業中ならともかく、練習中は止まって欲しかった。これでは気が散って、周囲も集中出来ないだろう。
 迷惑甚だしく、鬱陶しい事この上ない。
 苛立ちを募らせる彼を眺め、日向は乾いた笑みを浮かべた。
「そうは言われても……」
 他に、しゃっくりに有効な手立てはあっただろうか。
「えーっと、そうだ。影山。なすびって何色?」
「はあ? なんだ急に」
「良いから」
「茄子だろ。紫じゃねーの」
「しゃっくりは?」
「は? ひぁっ、く」
「ダメかー」
「おい。なんなんだよ」
 記憶を手繰り寄せ、そういえば、と手を叩く。早速試してみるが、効果はなかった。
 茄子の色で悩んでいるうちに、しゃっくりが止まると聞いていたのだが。影山は迷うことなく即答して、日向をがっかりさせた。
 詳しい説明もないまま片付けられて、影山は怒り心頭だった。
 憤慨し、ぷんすかと煙を噴く。空を殴る拳を躱して、日向は脚を崩して姿勢を変えた。
 立てた膝に顎を置き、行き場をなくした指は乾いた畳を這った。
「あとはー、コップに箸を置いて。その隙間から水を飲む、とか……だけど」
 知識は限られており、どれが一番効果的かも分からない。そもそもこの部屋には、コップなど存在しなかった。
 坂ノ下商店に行けば紙コップなら手に入るが、必要なのは一個だけだ。十個も、二十個もまとめて買って、残りを余らせるなど勿体ない。
 八方塞がりで、お手上げだと首を振る。
 日向以上に知恵を持ち合わせていない影山は、渋い顔で項垂れた。
「もー、諦めっか……」
 打つ手なしだ。あとは自然に収まってくれるのを、ひたすら願うのみ。
「そのうち止まるだろ」
 日向も同意して、あっけらかんと言い放った。最初に放っておけば死ぬだとか、物騒なことを言い出したのは彼なのに、その件についてはもう忘れたようだった。
 呵々と笑われ、影山は肩の力を抜いた。一瞬出そうになったしゃっくりは喉のところで引き留めて、身体は震えたものの、音を漏らさないのには成功した。
 大きく身震いした彼に苦笑して、日向は彼に貸しっ放しだったタオルを手繰り寄せた。
「まあ、がんばれ」
「言われなくても」
 濡れている面を内側にして折り畳み、よく分からないエールで影山を励ます。当人も不必要に己を鼓舞し、直後にしゃっくりに襲われて息を詰まらせた。
 相変わらず、空気を読むのが上手いしゃっくりだ。
 影山本人もこれくらい雰囲気に敏感であったなら、もう少し世の中を巧く渡り歩いていけただろうに。
 呵々と笑い、日向はタオルを鞄に押し込んだ。影山も弁当箱を重ね、専用の袋に片付けた。
 最後に牛乳パックに手を付けるものの、中身はとっくの昔に空だ。
「チッ」
 分かっていたのに舌打ちして、彼は揺らしても音がしない容器を床に戻した。
 その手を、上から押さえつけて。
「ン?」
 油断している影山に向けて身を乗り出し、日向は首を伸ばして目を閉じた。
 片腕で彼の動きを封じ込め、狙いを定めて口を窄ませる。
 ふにゅ、という感触が一瞬だけ広がって、熱を浴びせられた影山は呆気に取られて目を丸くした。
 即座に姿勢を戻し、日向は更に膝立ちで二歩後退して尻を落とした。
「うへへ。隙あり」
 惚けて反応出来ずにいる影山を見詰め、歯を見せてしどけなく笑う。照れが混じった頬は熱を帯び、紅色に艶めいていた。
 悪戯が成功したと喜んで、子供のようにはしゃいでいた。
 影山はぽかんとしたまま凍り付き、錆びついたブリキの人形宜しく、ぎこちない動きで今し方触れられた場所を撫でた。
 唇の、右。
 あと少しで正面衝突するところだったのに、残念ながら僅かに逸れてしまったくちづけに。
「うん?」
 凍り付いたまま何のリアクションも返さない彼に、日向は眉を顰め、首を傾げた。
「びっくり、した?」
 実はしゃっくりを止めるのを、まだ諦めていなかった。
 話題を変えて、意識が他に逸れるのを待って、程よくスパイスが利いた不意打ちをお見舞い出来た、と思った。
 それなのに影山が瞬きさえ止めてしまって、指一本も動かそうとしないから。
 急に不安になって、日向は恐る恐る、彼の方に擦り寄った。
 それを狙って。
「なにやってんだ、テメーは!」
「ぎゃああ!」
 良かれと思ったのに吼えられて、襟首を引っ掴まれた日向は悲鳴を上げた。
 外にまで響く大声で叫び、ようやく時間が動き出した影山に頬を引き攣らせる。彼の目は異様なまでに血走って、鼻の孔は興奮で膨らんでいた。
 無駄に熱い呼気を浴びせられて、日向は言い訳を探して目を泳がせた。
「だ、だって。……ほら。止まったろ?」
 しどろもどろに捲し立て、人差し指でくるくる円を描く。
 指摘を受けた影山は指先の力を僅かに緩め、日向を解放して己の喉を撫でた。
 そういえば、そうだ。
 あれだけ人を悩ませたしゃっくりが、気が付けば尻尾を巻いて逃げ出していた。
 追いかけるが、遅かった。完全に見失ってしまって、もう追い付けなかった。
 床の上に瞳を這わせ、影山は喉仏を上下させて生唾を呑んだ。
「ひっ、く」
「……おい」
 確かこんな感じだったと、記憶に縋って肩を揺らす。
 だがこれが人工的なしゃっくりだというのは、日向でも看破可能だった。
 ぎこちなく、不自然だった。折角止まったしゃっくりを、鬱陶しがるどころか再度求める彼に、日向はげんなりして肩を落とした。
「止まってねえぞ」
「ウソつけ」
「嘘じゃねえよ。だから、今の、もう一回だ」
「ンなわけあるかー!」
 前言撤回、彼でも嘘は吐く。それも救いようのないレベルで下手なものを、だ。
 日向からのキスを欲しがり、しゃっくりの真似をして自分の頬を指差す。
 その手を容赦なく叩き落して、日向は懲りない馬鹿な恋人にチョップをお見舞いした。

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