雲の絶え間も 待たれやはせぬ

 少し夜更かしをしよう。
 そう言われて、向かったのは庭に面した軒先だった。
 秋の風が涼しく、虫の声は長閑。ただ天に月は見えず、曇って星も窺えなかった。
「昼は晴れてたのに」
 それは雨を呼ぶ雲ではないけれど、空一面に広がって、淡い光を遮っていた。お蔭で地表は暗く翳り、灯り無しでは足元が覚束なかった。
 用意された蝋燭は、青銅製の持ち手を持つ細長い燭台に据えられていた。柄の部分は一尺近くあって、指を掛ける場所から炎はかなり遠かった。
 橙色の焔がゆらゆら揺れて、強く風が吹けば消えてしまいそうだ。しかし意外に度胸があるとでも言うのか、炎は小さくなることはあっても、黒ずんだ芯だけになることはなかった。
 薄い影が縁側に伸びて、後方の障子にまで続いていた。昼間は大勢が集まって賑やかなその場所も、今はひっそり静まり返っていた。
 動くものの気配は薄く、冷えた空気が首筋を撫でた。
 少し前まで、夜半でも暑さが残っていた。しかし今や、ふとした拍子に肌寒さを覚える。
 月日の流れというものは、なんとめまぐるしいのだろう。不思議なものだと感嘆の息を吐き、小夜左文字は先に腰を下ろした男の左に座った。
「見えるかい?」
「問題ない」
 燭台は打刀の右側に置かれ、短刀から遠ざかった。光はその分薄くなって、濃い影が膝の上に落ちて来た。
 もし見えない、と言えば、彼は燭台の位置を変えただろう。そうやってこちらの意見ばかり採用する男は、素っ気ない返答にも、嬉しそうに顔を綻ばせた。
 蝋燭に間違って触れぬよう、置き場所を調整して、歌仙兼定は続けて懐に手を入れた。
 戦仕度を解いた彼は、後は眠るだけと、袴も着けていなかった。寝間着である白の湯帷子で身を包んで、帯は焦げ茶色だった。
 内番中は縛っている髪も解かれ、緩く湾曲した毛先が額で踊っていた。その根元はほんのり湿っており、小さな雫が襟足に見えた。
 風呂で洗って、そのままだからだ。軽く拭いはしたものの、全体を乾かすところまでは至っていなかった。
 もっとも、小夜左文字も人のことは言えない。彼もまた寸足らずの湯帷子に、白い帯を締めていた。
 日頃高く結い上げている髪は背に流れ、毛先は四方に向かって跳ねていた。髪紐で締めつけている場所は特に曲がり方が顕著で、櫛で梳いた程度では直りそうになかった。
 本人よりも遥かに元気な藍の髪は、湿った分だけ色が濃くなっていた。
「良い月が見られると思ったんだけど」
 胸元を探りつつ、歌仙兼定が呟く。その眼差しは軒先の向こうへと注がれて、手元には一切注意を払っていなかった。
 ずっともぞもぞやっているのは、その所為だ。なかなか目当てのものを見つけられずにいる男に、小夜左文字は呆れて頬を緩めた。
 けれど彼の気持ちは、分からないでもない。
 折角の十三夜だというのに、月は顔を見せてくれなかった。
「歌仙は、十五夜も」
「それは言わないでくれ、小夜」
 ぼそりと言えば、瞬時に返答があった。嫌な顔を向けられて、小夜左文字はたまらず頬を緩めた。
 一ヶ月ほど前の一件は、まだ記憶に新しい。
 楽しみにしていた十五夜の観月を、この男は、よりにもよって審神者に邪魔された。お陰で共に眺める約束をしていた小夜左文字は、ひとりで月見をする羽目に陥った。
 当日の夕方になって、突然遠征に出るよう言われたわけだから、歌仙兼定の落胆ぶりは凄まじかった。珍しく激昂して審神者に食って掛かり、あれこれ言い訳してなんとか任から外れようとしたが、結局言いくるめられ、押し切られてしまった。
 半泣きで出かけていく彼は、雅どころの話ではなかった。駄々を捏ねるただの子供で、見苦しいことこの上なかった。
 それだけ悔しかったのだろうが、今となっては笑い種だ。本人も恥ずかしい真似をしたと思っているらしく、頬は紅を帯びていた。
 薄暗い中でも分かる色合いに相好を崩し、小夜左文字は差し出された懐紙に手を伸ばした。
 中身を気にすることなく、包み紙を受け取った。四つに折られた紙の真ん中はぽっこり膨らんでおり、触っても凹まなかった。
 親指と、人差し指で輪を作ったくらいの大きさだった。厚みがあり、想像よりもずっしり来た。
 意外な重さに首を傾げ、悪戯っぽく笑った男を仰ぎ見る。
 歌仙兼定は意味深に右目を閉じ、口元で人差し指を立てた。
「他の子たちには、内緒だよ」
「……分かった」
「十三夜だからね。張り切ってみたんだ」
 屋敷に住まう刀たちには秘密だと囁き、懐からは同じものをもうひとつ、取り出した。そちらは膝の上に置いて、男は残念そうに天を仰いだ。
 雲は相変わらずそこに位置取り、月を大事に包み込んでいた。
 少しくらい譲ってくれてもいいだろうに、独り占めしたいらしい。不公平だと口を尖らせて、風流を好む打刀は頬杖をついた。
 膨れ面の昔馴染みに苦笑して、小夜左文字は丁寧に懐紙を広げていった。
 間違って落とさないよう注意しつつ、慎重に角を剥がしていく。出てきたものは黄土色の塊で、正体はすぐに知れなかった。
 蝋燭の灯りひとつでは、はっきり分からない。怪訝にしつつ鼻に近付けて、仄かな甘い香りにようやく合点がいった。
「栗」
 皮を剥いて、中の渋皮も丁寧に除かれていたので、気付くのが遅れた。
 それは栗を蒸したものを磨り潰し、白あんに混ぜ、裏ごしして滑らかにした後、形を整えて栗の形に戻した菓子だった。
 ご丁寧に、表面には軽く焦げ目がついていた。ちゃんと栗に見えるように、細部にまで拘っていた。
 丹精込めて作ったのだと、見ているだけでもよく分かる。
 頑張って作った、という彼の言葉がより深みを増して、小夜左文字はふっ、と頬を緩めた。
「残念だったな」
「……まったくだよ」
 だというのに、空は生憎の曇り空。
 同情を禁じ得ないと囁けば、歌仙兼定はがっくり肩を落として項垂れた。
 深い溜息が聞こえた。意気消沈ぶりが伝わってきて、短刀は表情を引き締めた。
 改めて栗菓子に目を向けて、恐る恐る抓みあげる。
 茶巾絞りにも似た菓子は意外に固く、軽く抓んだ程度では潰れなかった。
「月、には――無理があるか」
「小夜?」
「独り言だ」
 それを顔よりも高い位置まで掲げ、薄墨に広がる雲を背景に浮かべてみる。だが思い描いた光景は、そこに現れてくれなかった。
 菓子を月に見立てるのは、残念ながら叶わなかった。
 実際に試してみて、途端に恥ずかしくなった。歌仙兼定にも素っ気なく言い捨てて、少年は栗菓子を懐紙へと戻した。
 折角抓みあげたというのに、口に運ぼうとしない。
 食べて貰えなかった男は少し寂しそうな顔をして、焦げ目が派手な自分の菓子を小突いた。
「それが一番、出来が良かったんだけどな」
「なんだ?」
「独り言だよ、小夜」
 幾つか試作して、最も見目良く出来たものを選んだ。
 終わった直後は、当分栗の木すら見たくない、という気分にさせられた。しかしもう既に、もっと美味しいものを作りたい、との決意が湧き起こっていた。
 焼き目をつける鏝も改造して、餡の作り方にも手を加えてみよう。
 本職から遠く離れた思索に耽り、雅を好む刀は押し黙った。
 リリリ、と虫の声が断続的に響いた。
 静かで、とても不思議な感じがした。
 昼間の、耳を塞ぎたくなる騒々しさが嘘のようだ。陽が沈んで夜闇に包まれて、柱の影は濃くなり、視界は限られていた。
 日が暮れた後、夜目が利かない太刀や大太刀は、あちこちで頻繁に頭をぶつけていた。あの岩融でさえ、今剣の手引きがなければ、夜間は碌に動き回れなかった。
 短刀である小夜左文字、そして打刀である歌仙兼定は、幸いにもそういう目に遭ったことはない。けれど日中に比べて見え辛いのには、間違いなかった。
「違う世界のようだ」
「確かにね」
「月があれば、また違った」
「口惜しい限りだよ」
 あんなにも色で溢れていた光景が、今や水墨画と化していた。歌仙兼定もあの豪奢な衣装を脱ぎ払っており、藤色の髪と空色の瞳だけが、唯一鮮やかさを保っていた。
 他愛無い呟きに言葉を返されて、ぽつり、ぽつりと会話が進む。
 見えない月への恨み節を繰り返し、歌仙兼定は目を瞑った。
 背筋を伸ばし、せめて雰囲気だけでも楽しもうと夜風に身を委ねた。それを左側から眺めて、小夜左文字は栗菓子の頭を撫でた。
 こんなにも見事な一品、ひと口で食べてしまうのは勿体なかった。
 かといってちびちび齧るのはみすぼらしく、みっともない。となれば、もう暫く目で堪能するより他になかった。
「みんなには、内緒」
「ん?」
「いや、……ふふ」
 形を崩さないよう栗菓子を撫で、含み笑いを零す。
 当然のように歌仙兼定が反応したが、小夜左文字は首を竦めただけだった。
 この本丸には、子供が多かった。
 無論中身は、数百年の時を経た付喪神だ。外見通りの性格ではない者も、少なからず存在していた。
 だが見てくれの幼さで、彼らは残る刀より若干ながら、優遇されていた。
 菓子だって、短刀たちに優先的に配られた。甘いものが好きな太刀や打刀だっているのに、だ。
 そういう状況下で、更に数を絞って菓子を与えられた。
 見た目にも美しい栗菓子は、この世でひとつだけの特別なもの。
 それが嬉しくて、なんだか照れ臭い。
 大事に菓子を包み込んで、小夜左文字は目を細めた。
 そんな穏やかな横顔を一瞥し、歌仙兼定は口に出そうとした言葉を呑み込んだ。意味深な微笑への追及は止めにして、右膝を立てて頬杖をついた。
「僕は月に嫌われているのかな」
「急に、どうした」
「だって、そうじゃないか。前だって、結局月をゆっくり見上げられなかった」
 十五夜の日。散々審神者に悪態をついた彼は、遠征先でも騒動に巻き込まれ、月を観賞する暇さえなかった。
 思い出すだけでも腹立たしい出来事に声を荒らげて、雅を好む打刀が悔しそうに唇を噛む。
 唐突に声量を大きくして、喚き散らされた。唾まで飛ばされた小夜左文字は目を瞬かせ、三秒してから脱力して、苦笑した。
「その話、もう十回以上、聞いている」
「……そんなにかい?」
「ああ。そんなに、だ」
 月が一等美しかった夜、出かけなければならなくなった彼の恨みは、当分消え去りそうにない。
 同じ話を何度となく繰り返すところからして、相当心が傷ついていた。
 せめてもの慰めにと、十三夜に賭けてみた。しかし今宵の天候は、ご覧の有様だった。
 夜明け前まで待ったとしても、雲は途切れそうにない。潔く諦め、次の機会を待つしかなかった。
 折角の麗しい月が、二度続けて歌仙兼定にそっぽを向いた。嫌われていると感じるのも、無理ない話だった。
 切なげに睫毛を震わせる打刀に頬を緩め、小夜左文字はひと月ほど前の夜を軽く振り返った。
 予定外の遠征に連れ出され、歌仙兼定は本丸を留守にしていた。空か明るく、月は眩しい。なかなか寝付けなくて、少年はひとり庭を彷徨った。
 現世に喚ばれて、そう間がない頃だった。
 ここでの生活に、少しずつ馴染み始めてはいた。だが過去の因縁譚に心は縛られ、ひとりでいると嫌なことばかり思い出した。
 眠れなかった。
「十五夜は、どうだったんだい?」
「五回くらい、言った」
「そうだったかな?」
「ああ」
 その日留守番だった短刀は、ちょっと嫌そうに顔を顰めた。聞かされるよりも、言わされる方が鬱陶しいと臍を曲げて、未練がましい打刀に嘆息した。
 こっそり持ち出された次郎太刀の酒で杯を掲げ、月見酒に興じていたのをまだ根に持っている。
 そういうところは女々しいと、小夜左文字は肩を竦めた。
 十五夜は、美しかった。
 ただ明るすぎて、闇に迷いそうだった。
 十三夜の月は、見えない。だがもし空が晴れていたとしても、あの夜のように、居もしないものに怯えなくても済むだろう。
「小夜?」
「少し、待て」
 自分は歌仙兼定の存在に、救われている。けれど逆は、そうではない。
 一抹の哀れみを抱いて、小夜左文字は腰を浮かせた。膝に手を添えて立ち上がって、捲れあがっていた湯帷子の裾を伸ばした。
 身なりを軽く整え、栗菓子は懐へ収める。動きを見送った歌仙兼定は身動ぎ、己も立ち上がるべく身体を揺らした。
 それを片手で制して、左文字の短刀は含みのある表情を浮かべた。
「すぐ戻る」
「小夜」
「歌仙に、いいものを見せてやる」
 二度続けて月夜に振られた男を、どうにかして元気付けてやりたい。
 一介の付喪神に天候を操る術はないが、その代わりに出来ることは、いくつかあった。
 それを思い出して、少年はくるりと踵を返した。
 引き留めようとする手を躱し、小走りに駆ける。後ろで打刀が複雑な表情をしているとも知らず、縁側を足早に通り過ぎて、とある部屋の前で立ち止まった。
 似たような造りが連続する本丸でありながら、ここだけは異彩を放っていた。否、見た目上は左右の部屋となにひとつ違わないが、小夜左文字にはこの一帯が特別なものに感じられた。
 打刀たちが住まう一画で息を潜め、少年はそろりと、障子戸を右に滑らせた。
 暗い室内を覗き込み、誰も居ないのを確かめてから敷居を跨ぐ。
 入口傍の衣紋掛けには、牡丹柄の外套が引っ掻けられていた。整理整頓が行き届いた空間が、ここで寝起きする男の几帳面さを物語っていた。
 その片隅に、小夜左文字は足を向けた。寝具を載せた長持の傍らには、小さな葛籠が置かれていた。
 それが、小夜左文字の所持するものの全てだった。蓋を開ければ何枚かの替えの下着と、古びた硯箱などが現れた。
 薄明かりの中で目を凝らし、短刀は息を整えた。深呼吸して心を落ち着かせて、慎重に葛籠の中に手を伸ばした。
 取り出したのは、漆塗りの小箱だった。何枚も紙を重ね、耐久性を向上させた文匣だった。
 黒光りするその箱を胸に抱きしめて、そっと床におろし、蓋を持ち上げる。
「歌仙は、喜ぶだろうか」
 出てきた小さな包みを取り上げて、彼は不安そうに呟いた。
 それは畳紙の角を合わせ、広がらないよう端を捻ったものだった。上辺は細く、下辺は楕円形。さながら涙のような形をしており、丸くなった部分になにが入っているかは、外からでは分からなかった。
 何度か広げ、また閉じた形跡があり、畳紙自体ぼろぼろだった。あと数回開閉すれば、弱くなった部分から破れてしまいそうだった。
 それを両手で挟み持って、膝を伸ばして立ち上がる。
 どうせ見られて困るものはないと、広げた葛籠は片付けない。戻すのは後と決めて、彼は急いで来た道を戻った。
 寝入った仲間たちを起こさないよう、五月蠅くならないよう気を付けながら。
 残念な天気が続く夜空を時々窺って、息を弾ませて走った。
 肩の上で湿った藍の髪を躍らせ、ぺた、ぺた、と足裏が床板に張り付く感触を楽しんで。
 最後の角を曲がって背筋を伸ばせば、月を待って佇む男の、異様なまでに儚い姿が目に飛び込んできた。
「歌仙」
 直後。
 いつにも増して大声で叫んで、小夜左文字は手にしたものを握りしめた。
「小夜?」
 彼は自分で作った栗菓子を齧っていた。もそもそと口を動かして、見えない月を嘆きつつ、顰め面をしていた。
 美味しくなさそうに食べていた。
 つまらなそうな顔をしていた。
 それを一瞬のうちに中断させて、男は大袈裟に振り返った。座ったまま姿勢を改め、息せき切らしている少年に目を丸くした。
「どうしたんだい、急に」
「歌仙。手を」
 陰鬱な雰囲気を隠して、声を高くする。短刀は答えず、残る距離を一気に詰めた。
 短く命令を下して、部屋から持ち出して来た包みを差し出した。目の前に突き付けられた打刀は眉を顰め、それでも素直に従ってくれた。
 訝しみながら右手を広げ、掌を上に向けた。だが小夜左文字は小さく首を振り、動かなかった。
「ああ……」
 それにどんな意味が込められているのか。
 考えて、男は食べかけの栗菓子を膝に置いた。
 欠片が懐紙の端から転げ落ちても構わず、左右の手を並べ、隙間を埋めて貼り付かせた。短刀は満足げに頷いて、鼻から息を吐き出した。
 興奮に頬を染めて、捩じった紙を反対側へ回した。
「月は、見せてやれないが」
 囁き、皺だらけの畳紙を広げ、傾ける。
 出来上がった隙間から、ころり、小さな粒が零れ落ちた。
 ひとつ、またひとつ。それは次第に数を増して、雪崩の如く歌仙兼定の手のひらへと流れていった。
「う、わ」
 予期しなかった事に、男は首を竦ませた。裏返った声で悲鳴を上げて、勢い余って飛び出そうになった分を堰き止めた。
 合計で、どれくらいあるのだろう。
 ぱっと見ただけでは分からない結晶の数々に、歌仙兼定は四肢を戦慄かせた。
 最後の一個を受け止めるまで息を止め、無事終わったところでほっと胸を撫で下ろす。
 小夜左文字は可笑しそうに肩を震わせ、空になった畳紙を丸めた。
 要らなくなったものを懐に片付け、入れ替わりに栗菓子の包みを引き抜いた。走っている間に崩れないか不安だったが、潰れもせず、無事だった。
 安堵して、縁側に腰を下ろす。
 先ほどより少しだけ距離を詰めて座れば、渡されたものの正体を知った男が目を丸くした。
「これ、は」
「前に。鶴丸国永が」
 傍らで息を飲む彼に、小夜左文字は悪戯っぽく笑った。
 本丸で日々、様々な驚きを演出する太刀は、周りにも驚きを提供するよう強要した。そして際立って驚きを与えてくれた刀に、礼代わりに色々なものを渡していた。
 これも、その中のひとつだ。
「金平糖じゃないか」
 一度に得られる数はそう多くないけれど、小夜左文字なりに努力して、集めた。
 口に入れると甘く、ゆっくり溶けて、なくなってしまう。噛み砕くにはあまりにも惜しいその甘味は、小夜左文字にとっての驚きだった。
 料理が得意な歌仙兼定も、さすがにこれは作れない。超がつくほどの高級菓子の登場に、打刀の顎は外れそうだった。
 感嘆の息を吐き、唖然としながら短刀を見る。
 少年は得意げに胸を張って、曇り空を指差した。
「星だ。歌仙」
 続けて男の掌中に指を向け、囁く。
 職人が数日かけて作り上げた甘味は、爪の先ほどの大きさの粒に細かな棘が張り付いていた。
 ひとつとして同じ形はなく、色合いも白のみならず、薄紅や黄色と、鮮やかだった。
「星」
 鸚鵡返しに呟いて、男は金平糖を片手に集めた。空いた手でひと粒取って顔の前に掲げて、雲間に浮かんだ白い輝きを呆然と見入った。
 やがて、少し経った後。
 彼はふっ、と息を吐き、相好を崩した。
「本当だ。星が、こんなに沢山」
「歌仙」
「小夜は、すごいね」
 星屑の海に金平糖を戻し、顔を綻ばせる。
 小夜左文字は身を乗り出して、褒められた途端に後ろへ下がった。
 照れ臭そうに下を見て、栗菓子の焦げ目に指先を押し当てた。抓もうか、止めようか逡巡して、結局懐紙ごと高く持ち上げた。
「かせ、んの、方が。すごい」
 こんなにも見事なものを作り出せる男こそ、素晴らしい才能の持ち主と言えるだろう。
 息を詰まらせながらの主張に、けれど打刀は首を振った。
「金平糖を星に見立てるなんて、考えてもみなかったよ」
 感心しきりに嘯いて、歌仙兼定は目尻を下げた。優しい笑顔を浮かべてはにかんで、抓んだ数粒を小夜左文字の手元に散らした。
 栗菓子を金平糖で飾って、即席の絵画を立体的に作り上げる。
「団子にすればよかったね」
「明日は、晴れる」
「分かった。なら明日は、芒を飾ろう」
 惜しいのは、栗菓子が綺麗な丸型ではないところ。
 小夜左文字と同じことを考えた男は、瞬き一度のうちに気持ちを切り替え、朗らかに言った。
 楽しそうに笑って、金平糖をひとつ、口に含んだ。
 頬は見る間に緩んで、底抜けに嬉しそうだった。
 それをじっと見つめて確かめて、小夜左文字もまた、地上の星に手を伸ばした。

2015/08/25 脱稿

むべ山風を 嵐といふらむ

 話し声が聞こえた。
 耳慣れた声だった。見た目の割に少し低めで、落ち着き払った口調だった。
「すまない、参考になった」
「いいや、こちらも勉強になった。頑張りたまえ」
「……ありがとう」
 敷居を挟んで、向かい合って話していた。廊下に立っているのが良く見知った顔で、開けた襖の向こうに居るのは、どうやら蜂須賀虎徹らしかった。
 遠目からでも目立つ黄金色中心の衣装の、その一部がはみ出ていた。優雅に腕を組んで、背の低い短刀を励ましていた。
「珍しい組み合わせだな」
 相対する少年は、寸足らずの長着を着て、裾を折り返して帯に挟んでいた。
 俗にいう尻端折りで、細くて華奢な脚が剥き出しだった。袖をまとめる襷は少し長めで、結び目は斜めに傾いていた。
 藍色の髪は高い位置で結われ、先端は左右に割れていた。全体的に粗末な身なりで、相対する打刀とはかなりの落差があった。
 もっとも本人は、それをあまり気にしていない。多少みすぼらしかろうとも、動きに支障がなければ構わない、という方針らしかった。
 前に交わした会話を何気なく振り返り、前方を気にしながら首を捻る。
 軽く頭を下げた小夜左文字の手には、丸められた紙束が握られていた。
 不思議な取り合わせといい、気になった。いったいどんな話が繰り広げられていたのか、俄然興味が沸いて来た。
「やあ、珍しいね」
 だから、心持ち早足になった。
 開いていた距離を大股に詰めて、歌仙兼定は右手を挙げた。
 挨拶して、会話の端緒を開く。にこやかに微笑んで、自分も混ぜてくれるよう、言外に訴えた。
 しかし。
「おや、歌仙兼定」
「……じゃあ、僕はこれで」
 蜂須賀虎徹が横柄に応じたのに対し、小夜左文字は場を辞そうとした。手にしたものを胸に抱きしめて、一礼して踵を返した。
 ちらりと一瞥をくれただけで、返事すらしない。
 古い付き合いだというのに素っ気ない態度を取られ、歌仙兼定は怪訝に眉を顰めた。
 今までにない反応だった。まるで初対面であるかのような振る舞いで、驚かされた。
「小夜?」
「急ぐから」
 突然、どうしたのか。
 酷くつれない反応に、戸惑いが否めない。思わず声に出して名前を呼べば、小夜左文字はようやく、肩越しに振り返った。
 それでも、目を合わせて貰えなかった。告げられた言葉も、とても冷たいものだった。
 妙に余所余所しく、他人行儀だ。突然目の前に壁が現れた気がして、歌仙兼定は困惑に瞳を泳がせた。
「あ、ああ。そう、か。悪かったね、引き留めて。ふたりが一緒なんて、あまりなかったから」
「まあ、そうだな。だが俺に相談したのは、良い判断だったと思うぞ」
「へえ?」
 たどたどしく言葉を紡ぎ、動揺を懸命に隠す。
 率直な感想は蜂須賀虎徹の心を引き付け、男は得意げに胸を張った。
「蜂須賀虎徹」
 だが、歌仙兼定が相槌を打ったところで、小夜左文字が間に割り込んだ。いつになく低い声を響かせて、凄味を利かせて目を吊り上げた。
 背の低さの所為で迫力に乏しいが、それでも充分脅威だ。
 復讐に固執する短刀に睨まれて、蜂須賀虎徹は嗚呼、と頷いた。
 口元に手をやって、不遜に笑う。含みのある表情で歌仙兼定をちらりと見て、大袈裟に肩を竦めた。
「おおっと。これは、言わない約束だったな」
「う、ん?」
「残念だが、君には教えられない。そういうわけだ。俺はこれで失礼するよ」
 深々とため息を付き、きょとんとする打刀仲間に相好を崩す。立てた人差し指を唇に添えて、内緒だと、右目だけを閉じた。
 最後にひらりと手を振って、彼は敷居の奥へ引っ込んだ。素早く襖を閉めて、唖然とする歌仙兼定の前からいなくなった。
「え?」
 見事な早業に、理解が追い付かない。
 呆気に取られて左を向けば、小夜左文字もまた、パタパタ足音を立てていた。
 小走りに駆けていく背中で、襷が左右に揺れていた。やがて角を曲がって見えなくなって、取り残された男はぽかんとしたまま立ち尽くした。
「……え?」
 彼の周囲だけで、時間が流れていた。呆然と佇んで、歌仙兼定は目を瞬いた。
 教えられない、と言われた。
 露骨に秘密にされて、訳が分からなかった。
「どうしてだ?」
 蚊帳の外に捨て置かれた。どうして教えてもらえないのか、その理由も分からず、はっきり言って、面白くなかった。
 しかしここで襖を開けて、蜂須賀虎徹に問い詰めるのは雅ではない。
 小夜左文字にだって内緒にしたいことのひとつやふたつ、あって然るべきであり、気にしないのが大人というものだった。
「うん、うん」
 あまり子供に干渉し過ぎるのは、教育上、よろしくない。
 あちらの方が年上だというのは考えず、彼は自分を無理矢理納得させた。
 ここは大人の余裕というものを発揮して、気にしないのが得策だ。ちょっと小石に躓いた程度と言い聞かせ、ちくちく痛む胸は無視した。
 少なからず傷ついたが、女々しく引きずりたくなかった。深く深呼吸して心を落ち着かせて、歌仙兼定は大きな一歩を踏み出した。
 目を細め、笑顔になるよう心掛けながら廊下を進んだ。特にこれといった用事はなく、屋敷をうろうろして暇を潰していただけだが、足は自然と小夜左文字を追いかけていた。
 今日は台所仕事から、終日解放されていた。君ばかり働かせてばかりで悪いからと、燭台切光忠が引き受けてくれたのだ。
 お蔭でやることが少なくて、退屈だった。
 出陣も、遠征も言い渡されていないので、こうしてぶらぶらするしかなかった。
 部屋に戻って本でも読むか、客は居ないが茶を点てようか。
 腕組みしながら考えて、歌仙兼定は開けた庭に目を向けた。
「茶室に行くなら、菓子が欲しいな」
 一期一振でも誘えば、付き合ってくれるかもしれない。茶の道仲間の顔を思い浮かべ、彼は小さく首肯した。
 点茶とくれば、和菓子がつきもの。
 出来合いのものでも構わないので、甘いものが欲しかった。
 となれば、台所に行くしかない。小夜左文字も丁度その方角に駆けていっており、行き先は自ずと導き出せた。
 燭台切光忠に頼んで、少しだけ使わせてもらおう。
 この後の予定をあれこれ頭の中で計算して、歌仙兼定は足取りを速めた。
「そう、それに決めたんだ」
「ああ。貴方は、知ってる?」
「うーん、僕はそっち方面には詳しくないんだよねえ。堀川君に頼んだ方が、良いんじゃないかな」
「分かった。そうする」
 そこに、またしても人の会話が聞こえて来た。片方は先ほど会った短刀で、もうひとりは右目を眼帯で覆った太刀のものだった。
 親しげなやり取りに、思わず足が止まった。開けっ放しの戸口手前で息を殺して、歌仙兼定は思わず聞き耳を立てた。
 いったい、なんの話をしているのか。
 状況がさっぱり読めないまま、彼は太い眉を真ん中に寄せた。
 蜂須賀虎徹に続いて、小夜左文字が燭台切光忠になにかを相談している。紙を捲る音も聞こえて来て、神経が逆立った。
 小夜左文字はかつて細川家にいたことがあり、その縁で歌仙兼定と親しかった。
 碌に交友がなかった兄弟刀よりも、余程繋がりは深いと自負していた。なにか困りごとがあれば、真っ先に自分に相談するものと、勝手に思い込んでいた。
 それなのに、あの少年は他の刀に頼っていた。
 衝撃は否めず、言葉が出なかった。
「……さ、よ?」
 惚けたまま、ふらふらと身体を揺らして壁に寄り掛かる。
 眩暈がした。目の前が真っ白になって、足元不如意で倒れてしまいそうだった。
「けど、これ、結構手間がかかると思うよ。材料も、今ある分じゃ足りないんじゃないかな」
「そう、か」
 小夜左文字と燭台切光忠の会話は、まだ続いていた。
 壁一枚隔てた先で、打刀が崩れ落ちているとも知らず、なんとも呑気なものだった。
 いつの間に、ふたりはこんなに仲良くなったのか。
 彼らが毎日のように台所で顔を合わせていた件は、すっかり忘れ去られていた。まるで共通点の無い両名が仲睦まじげにする様を想像して、歌仙兼定は両手で顔を覆った。
 その背中に向けて。
「あんた、そこでなにしてんだ」
「うわっ」
「ん?」
 不意打ちで声がかけられて、油断していた男は吃驚して飛び跳ねた。
 裏返った悲鳴は、当然ながら台所にまで響いていた。歌仙兼定が尻餅ついた音も、同様だった。
 強かに打った場所を庇い、彼は唇を噛み締めた。みっともないところを見せたと赤くなって、顔を上げれば浅黒い肌の打刀が見えた。
 出した手を引っ込めるのも忘れ、大倶利伽羅は怪訝そうに首を傾げた。
「なに、どうかした?」
 騒ぎを聞き付け、中にいた太刀も廊下に顔を出した。隻眼を細めて辺りを見回し、見知った相手に声を高くした。
 隠れていたのに、見付かってしまった。
 背後への警戒をすっかり忘れていて、歌仙兼定はアワアワしながら額を覆った。
「いや、俺は、別に。……こいつが、蹲ってたから」
 穴があったら入りたかった。
 後ろから指をさされ、消えてしまいたかった。
 大倶利伽羅は事実だけを淡々と告げ、自分にもよく分からない、と正直だった。伊達所縁の刀に前後から挟まれて、細川の打刀は頭を抱え込んだ。
 突き刺さる視線が痛い。
 奥歯を噛み締めて耐えていたら、廊下に出た燭台切光忠が頬を掻いた。
「歌仙君、もしかして、今の聞いてた?」
「なっ、なんの話か、な?」
 問いかけられて、反射的に仰け反っていた。声が上擦り、情けないくらいにひっくり返ってしまった。
 視線は宙を彷徨い、燭台切光忠を見られない。顔が引き攣って、嘘を言っているのはバレバレだった。
 誤魔化し切れない。
 醜態を晒して右往左往していたら、燭台切光忠が深い溜息を吐いた。
「参ったな。どこまで聞かれたんだろう」
 黒髪を掻き上げながら呟いて、渋面を作る。
 独り言にピクリと反応して、歌仙兼定は正面を見た。
「うっ」
 視界に、小夜左文字の姿が飛び込んできた。
 しかもばっちり、目が合った。発作的に呻いて、彼は喉に息を詰まらせた。
 見る間に青くなって、冷や汗をだらだら流す。
 床の上で畏まった打刀に、短刀は険のある目つきを投げた。
「盗み聞き、とか。歌仙」
 人を蔑む眼差しで、低い声で呟いた。言葉は変なところで途切れたが、その後に続いただろう罵詈雑言は、頭の中にはっきり響いた。
 馬鹿だとか、そういう可愛いものではない。
 見下され、罵られた。最低な刀だと断じられ、縁切りを言い渡された。
 金輪際近づくなと、そういう雰囲気だった。堪らず目尻が熱くなって、歌仙兼定は奥歯をカチカチ言わせた。
 鼻を啜り、縋る目を向ける。
 しかし小夜左文字は寸前で逸らし、取り合おうとしなかった。
「堀川国広を探してくる」
「うん。いってらっしゃい」
 傍らに立つ太刀にだけ言って、短刀は走り出した。歌仙兼定など最初からいなかったという態度で、存在は完璧に無視された。
「さ、……小夜」
 追い縋ろうと手を伸ばすが、勿論届かない。
 あまつさえ燭台切光忠が、道を塞ぐ格好で立ちはだかった。
「さっきから、なんなんだ。僕がなにをしたって言うんだ」
「あはは。ごめんね」
 蜂須賀虎徹といい、この男といい、どうして教えてくれないのか。
 憤慨して声を荒らげるが、反応は芳しくなかった。
 両手を合わせて謝られたが、少しも気が晴れない。頭を下げるくらいなら、小夜左文字との内緒の話を暴露して欲しかった。
 けれど、それは出来ないと言われた。秘密にするよう頼まれているから、たとえ刀を持ち出されても、応じられない、と。
「別に良いだろう。なんだって」
「君は、じゃあ、平気なのか」
 部外者である大倶利伽羅が落ち着くよう諭したが、逆効果だった。歌仙兼定は激昂して、怒号を上げて唾を飛ばした。
 いきなり水を向けられて、色黒の打刀は迷惑そうだった。頬を擦って舌打ちして、渋い顔で昔馴染みに目を向けた。
 燭台切光忠は苦笑を浮かべ、首を竦めて恐縮していた。
 雰囲気で「ごめん」と謝られたが、訳が分からないのは彼も同じだ。訝しげに眉を顰めていたら、我慢し切れなくなったのか、歌仙兼定が足を踏み鳴らした。
「分かった、もういい。君たちには頼らない。僕が自分で調べる」
「ああ、歌仙君。待って」
「うるさい」
 捲し立て、雄々しく歩き出した。燭台切光忠が慌てて引き留めようとしたが、打刀は耳を貸さなかった。
 こんなにも露骨に秘密にされて、扱いを軽んじられたのだ。こんなに腹立たしいことはなく、耐えられなかった。
 ならば自力で、暴くのみ。
 鼻息荒くする男を見送って、台所前に残された男は困った顔で嘆息した。
「なんなんだ?」
「いやあ、ちょっとね」
 大倶利伽羅に訊かれて、言葉を濁す。肩を竦めて苦笑して、燭台切光忠は対策を考え、鼻の頭を掻いた。
 歌仙兼定が短気だというのを、すっかり失念していた。
「小夜君って、愛されてるねえ」
「は?」
「歌仙君も、愛されてるよねえ」
「……熱でもあるのか?」
 突然しみじみ語り出した男に絶句して、大倶利伽羅が変な顔をする。
 かなり失礼な発想をされて、隻眼の伊達男は呵々と笑った。
 それから、順調に数日が過ぎた。
 歌仙兼定の決意、そして努力も空しく、小夜左文字が抱えている秘密の話とやらは、依然彼の耳に入ってこなかった。
 誰に聞いても「内緒です」としか言ってくれない。
 貴方にだけは教えられないと言われ、すげなくあしらわれ、取り付く島がなかった。
 堀川国広、薬研藤四郎にも当たってみたが、結果はどれも同じ。蜂須賀虎徹に再度問い質してみたが、口は堅く、有益な情報はひとつも引き出せなかった。
 その間、小夜左文字は歌仙兼定を徹底的に避けた。顔を合わせようものなら一目散に逃げ出して、物陰に隠れて追撃を躱し続けた。
 悔しいかな、あちらには協力者が多かった。短刀たちなどは、事情も知らずに面白がって、歌仙兼定から小夜左文字が逃げる手助けをした。
 何度も道を阻まれ、邪魔をされた。
 短刀相手に本気でやり合うわけにもいかなくて、精神的な疲弊は増す一方だった。
「どうしてなんだ、小夜。僕のなにが気に入らないって言うんだ」
「……それをどうして、貴様が俺に言う?」
 冷戦に突入して、今日で四日目。
 喧嘩を下わけでもないのに言葉を交わす機会を失い、歌仙兼定は露骨に落ち込んでいた。
 今や本丸は、すっかり彼を敵扱いだった。
 ひとりくらい、味方が欲しかった。しかし求めても、訪ねても、誰ひとり彼に協力してくれなかった。
 左文字の上ふたりは論外ながら、まさか新撰組の刀たちにまでそっぽを向かれようとは思わなかった。神刀たちは揃って小さい子に協力的で、次郎太刀への袖の下、ならぬ酒の差し入れは、彼の評判を一層悪くさせた。
 なりふり構わないやり方に、同情すら出来ない。
 蹲った打刀に愚痴を零されて、へしきり長谷部は面倒臭そうに肩を落とした。
 ふたりは元主同士の確執が尾を引いて、本丸内では特に仲が悪かった。
 顔を合わせても口を利かず、同じ隊に配属されても結果は同じだった。協力し合うなど不可能で、隙あらば戦場で敵ごと斬り伏せようとする有様だった。
 そんな男が、突然部屋に訪ねて来た。
 本丸の帳簿を整理していた打刀は、背後で鼻をずびずびさせている歌仙兼定に力なく首を振った。
 さっきからずっとこんな調子で、鬱陶しいことこの上ない。集中を乱され、邪魔で仕方がなかった。
「しょうがないだろう。誰も、僕の話を聞いてくれないんだから」
「だから何故、俺のところに来るんだ、貴様は。俺だって貴様の話など、聞きたくないわ」
 普段のつっけんどん具合はどこへ行ったのか、みっともなく縋られた。それを至極嫌そうに振り払って、へしきり長谷部は声を荒らげた。
 襖を指差し、出ていくよう吠える。
 けれど歌仙兼定は首を振って拒み、書類が山盛りの床で地団太を踏んだ。
 紙の山がひとつ、倒れそうになった。ぐらぐら揺れている塔に渋面を作って、へしきり長谷部はこめかみに青筋を立てた。
「いいか、俺は小夜がなにをしているかなど、これっぽっちも興味はない。愚痴なら他を当たれ。こっちは忙しいんだ」
「そんなだから、君は魔王に愛想を尽かされるんだよ」
「それとこれとは関係ないだろう!」
 いつまでも此処に居られては、迷惑だ。
 さっさと追い出そうと目論んだ彼だったが、古傷をぐさりと抉られた。文机を殴って自ら帳簿の山を突き倒し、黒田の刀は目を吊り上げた。
 一触即発の気配が漂い、にらみ合いによる火花が散った。
 歌仙兼定も数日分の鬱憤を滾らせ、いつでも刀が抜けるよう身構えた。
 その時だった。
「長谷部、長谷部、今帰ったちゃ。小夜からん頼まれ物、思ったちゃりも安く済んだったい」
 軽やかに、歌うように言って、赤い眼鏡の短刀が両手で襖を押し開いた。
 粟田口派共通の黒い衣をまとい、九州訛りで楽しげに笑う。商売人気質を前面に押し出して、良い買い物が出来たと満足そうだった。
 それはへしきり長谷部同様、黒田に所縁を持つ刀だ。
 今日は朝から買い物に出ていた少年の御帰還に、歌仙兼定の眉が片方、ピクリと持ち上がった。
 その向かい側で、白手袋の男が顔を覆った。項垂れて、奥歯を噛み締め、肩を小刻みに震わせていた。
 色々な感情を漲らせ、押し殺していた。そんな男から歌仙兼定に視線を向けて、博多藤四郎はたらり、と汗を流した。
「な、なして細川んの、ここに?」
 彼とへしきり長谷部の関係の悪さは、本丸内でも殊に有名だった。その男たちがまさか一緒に居ようとは、商売上手な少年も思わなかったに違いない。
 夢か、幻かと疑って、声を上擦らせる。
 さっきまで何も知らない、と言っていた男を振り返って、歌仙兼定は肩を怒らせた。
「貴様、万死に値するぞ!」
「取って食われる~~!」
 うっかり騙されるところだった。
 矢張りこの男も、歌仙兼定の敵だった。
 眦を裂き、雄叫びを上げる。怯えた短刀は悲鳴を上げて逃げ出して、へしきり長谷部も咄嗟に刀の柄に手を伸ばした。
 しかし、刃が引き抜かれることはなかった。
 それまで真っ赤になって憤慨していた男が、不意にはらりと、涙を流したのだ。
「あ、……」
 本人も、まさか泣くとは思っていなかったようだ。
 頬を伝う雫の感触に声を漏らし、拭いもせずに立ち尽くした。
 大切に想っていた相手から、突然冷たい態度を取られたのだ。周りは皆知っているのに、ひとりだけ内緒にされて、疎外感は半端なかったに違いない。
 へしきり長谷部だって、目の前でこそこそ内緒話をされるのは、心外だ。傷つく。
 僅かながら哀れみを抱かされて、彼は麦色の髪を掻き回した。
「台所にでも行って、顔を洗ってこい」
「へしきり」
「長谷部だ。いいから、さっさと行け。俺は忙しい」
 もう片方の手はひらひら揺らし、最後に廊下を指差した。博多藤四郎が開けた襖はそのまま放置されており、小窓から差し込む光が斜めに伸びていた。
 律儀に呼び方の訂正を忘れず、派手な格好の男を追い出しに掛かる。
 言い切った後は興味が失せたのか、歌仙兼定に背を向けて、振り返らなかった。
 自分で倒した書類の山に悪態をついて、黙々と片付け始めた。そんな男を暫く眺めて、細川の打刀は頬を擦った。
 涙はひと粒で終わり、既に乾いていた。目尻に残っていないのも確認して、彼は怪訝に眉を顰めた。
 顔を洗うなら台所ではなく、井戸ではないのか。
 不思議な言い回しに引っ掛かりを覚えたが、訊ねたところで、教えてもらえそうになかった。
 忙しくしている打刀に小さく頭を下げ、彼は廊下に出た。ひたひた足音を響かせて、向かう先は台所だ。
 ずっと気になっていた。
 どうして小夜左文字は、自分にだけは伝えてくれるなと、皆に釘を刺して回っていたのか。
 そんなに知られたくないことか。
 そこまで信用がないのかと、悪い方に考えた。
 もしや、違うのか。
 大前提からして、間違っているのだとしたら。
 気が急いた。
 心が逸って、いつの間にか小走りになっていた。
 通い慣れた道を行き、角をいくつか曲がって、肩で息を整える。噴き出た汗もそのままに、閉められていた台所の扉を開く。
 左へ滑らせ、目を見張る。
「ああ、歌仙君か」
「なんだ、呼びに行ってやろうと思ってたのに。もう来てしまったのか」
「丁度良かったです。探す手間が省けました」
 そこにいたのは、隻眼の太刀に、白い衣装の太刀、そして臙脂色の上下を着た脇差だった。
 それに加えて、輪の中心にちょこんと、藍色の頭が見えた。
 一斉に振り返られて、歌仙兼定は息を飲んだ。
 昨日までと、反応が違った。誰も逃げたりせず、目を逸らしもせず、にこやかに微笑んでいた。
 小夜左文字も、だ。
「歌仙」
 目が合った。空色の眼を真ん丸にして、短刀はもぞもぞと身じろいだ。
 顔を伏し、両手は背中へ。直前に見えた指先は、なにかを作っていたのか、白い粉で汚れていた。
 刀たちが集う机には、様々な道具が並べられていた。中には料理のどこに使うのか、と思える乳鉢や乳棒といったものまであった。
 なにをしていたのか、これだけではさっぱり見当がつかない。
 皆の態度の変化にも戸惑っていたら、鶴丸国永が悪戯っぽく笑った。
「そんなところに突っ立ってないで、ほれ、こっちに来い」
 へしきり長谷部とは逆の使い方で手をひらひらさせて、傍へ寄るよう言う。しかし躊躇させられて、歌仙兼定は小夜左文字を見た。
 眼差しで問われた少年は、一瞬躊躇してから頷いた。
 深く、顎が胸に着くくらいに首を振られて、それで打刀はやっと敷居を跨いだ。
 段差を下りて、飴色の床へと降りる。
 慎重に歩を進める彼に道を譲って、堀川国広が脇へ退いた。
「小夜」
 意味ありげな笑顔を向けられて、当惑が否めない。顰め面をひと呼吸の間に解いて、男は緊張しながら少年の前に立った。
 彼の斜め後ろには、燭台切光忠と鶴丸国永が控えていた。ふたりとも手を背中に回して、なにかを隠し持っているようだった。
 それが、この場で作られていたものなのか。
 赤や緑といった、色水の入った小鉢を一瞥して、歌仙兼定は首を捻った。
「歌仙」
 そんな彼の名を呼んで、小夜左文字がもじもじと、膝をぶつけ合わせた。
 俯いたまま、時々様子を窺って上目遣いになって、すぐに逸らして、下を向いて。
 なかなか喋り出そうとしない短刀に、太刀ふたりが声援を送った。
「小夜君、頑張れ」
「そうだ、坊主。驚かせてやれ」
 小声ではあったが、しっかり聞こえた。いったい何なのかと堀川国広に助けを求めるが、あちらは屈託なく笑うだけだった。
 またしても、蚊帳の外だ。
 数日分の切なさを噛み締めて、彼は元気に跳ねている藍色の髪を見詰めた。
 それが、突如空色になった。
 バッと顔を上げた小夜左文字が、覚悟を決めて、口を開いた。
「歌仙、あ、あの。い……いつも、その。あ、あ……あり、あり、あ」
 しかし途中で言葉を詰まらせて、言い淀んで。
「蟻?」
「ありがとう!」
 何のことかと歌仙兼定が怪訝にした矢先。
 腰を九十度曲げて、深々と頭を下げた。
 大声で叫んで、両手は膝に揃える。尻尾のような髪の毛が逆さになって、襷の結び目が蝶の如く舞い踊った。
 なにを言われたか、一瞬、分からなかった。
 勢いが良過ぎる御辞儀に、気を取られた。
 そちらに意識が傾いて、もう少しで聞きそびれるところだった。
 目を見開き、ぽかんとして。
「え?」
「じゃーん。小夜君の、力作だよ」
「そうれ。どうだ、驚いただろう!」
 満面の笑みで燭台切光忠に差し出されたものにも、反応出来なかった。
 呆然として、辺りを見回す。
 惚けた顔で停止していたら、期待していたものと違うと、鶴丸国永が不満を露わにした。
「おいおい、なんだその顔は。小夜に失礼じゃないか」
「あんまり、……驚かないね」
「もしかして、本当は知ってたんですか?」
 後方からも脇差に言われて、歌仙兼定は瞬きを繰り返した。きょとんとしたまま左右を見回して、小夜左文字を見て、最後に燭台切光忠が抱え持つものに目を向けた。
 白い大きな皿の中心に、一輪の花が咲いていた。
 牡丹だ。
 幾重にも花弁を重ねあわせた、手のひらよりも大きな花だった。緑の葉を茂らせて、優美な姿を披露していた。
 しかし今、この花は、季節ではない。彼の胸を飾るものは、似せて作られた造花だった。
 それがどうして、ここで咲いているのか。
 なにも分からず、なにも考えられない。
 頭は機能停止して、思考は働かなかった。
「はい?」
 答えを求め、背の高い者から順に見詰める。
 素っ頓狂な声を上げた歌仙兼定に、鶴丸国永はお手上げだと首を振った。
「なんだ、面白くない」
「ええと、歌仙君。大丈夫?」
 口を尖らせ、文句を言われた。燭台切光忠からは心底心配されて、顔の前で手を振られた。
 全く以て、意味が分からなかった。
 小夜左文字の内緒話に、ひとりだけ加えて貰えなかった。あれこれ手を尽くして調べたが、誰も教えてくれなかった。
 数日が過ぎて、手のひらを返された。これまでの非礼を忘れ、急に馴れ馴れしくされた。
 一変した態度にまず混乱し、理解が追い付かなかった。
「歌仙」
 立ち尽くしていたら、袖を引かれた。下を向けば、小夜左文字が申し訳なさそうに首を竦めていた。
 昨日までの素っ気なさが、嘘のようだった。表情は苦しげで、後悔に苛まれているのが窺えた。
 どうして彼が、そんな顔をする。
 泣きたいのはこちらだと腹も立って、巧く息が出来なかった。
「すまない」
 謝罪の声は小さかった。
 耳を澄ませていないと聞き漏らしそうな音量で、残る三人も、神妙な顔で押し黙った。
「えっと。僕の方も、ごめんね。頼まれていたとはいえ、酷いことしちゃったね」
 口火を切ったのは、燭台切光忠だ。抱えていた大皿を机に置いて、寡黙な少年の代わりに説明役を務めようとした。
 それを、小夜左文字が制した。左手を挙げて合図を送って、作業台に咲く一輪の花に目を向けた。
「歌仙、は。いつも、……僕に、よくしてくれる……から」
「小夜?」
「なにか、礼を、と」
 たどたどしく言葉を紡ぎ、両手をぎゅっと握りしめる。
 食紅で赤く染まった爪の先を隠して、彼は卓上の牡丹を見やった。
 白漉し餡に小麦粉を混ぜ、蒸したこなしを使ったのだろう。生地が赤や緑に染まっているのは、色粉を用いたからだ。
 うち、赤色のものは前から屋敷にあった。しかし緑については、覚えがなかった。
 歌仙兼定は、自分で茶菓子を作る。
 その工程を思い浮かべて、彼は視線を泳がせた。
 燭台切光忠は、以前、材料が足りないと言っていた。
 博多藤四郎は、小夜左文字に頼まれたものが安く手に入ったと、嬉しそうだった。
 ばらばらだったものが、真ん中に集まり始めた。
 無関係に思われていたものが繋がって、ひとつの形を成そうとしていた。
「え、と。じゃあ、ずっと」
 無意識に声が上擦った。何度も唾を飲み込み、喉を鳴らして、打刀は両手で空を掻き回した。
 巧く言葉が出て来ない。
 しかし言いたいことは伝わって、小夜左文字はコクリと頷いた。
 蜂須賀虎徹には、花の形を事細かに教わった。
 緑の葉を作るのに必要な色素には、薬研藤四郎に協力を求めた。手に入れるのに、博多藤四郎の伝手を頼った。へしきり長谷部には、資金の援助を申し出た。
 燭台切光忠と堀川国広に、作るのを手伝ってもらった。
 鶴丸国永からは、相手を驚かせる極意を教わった。
 歌仙兼定には、内緒だった。
 秘密にして、吃驚させるつもりだった。
 それなのに、おかしなことになった。計画が事前に、少しだけ漏れてしまったばかりに、嫌な思いをさせてしまった。
「すまなかった」
 ぽつりと言って、小夜左文字は俯いた。頭を垂れて、なかなか上げようとしなかった。
 あそこで正直に告白しておけば、こんなことにはならなかった。
 伝える時期を誤った。後悔して、少年は唇を噛んだ。
 計画立案者の謝罪を聞いて、他の三名もそれぞれ沈痛な面持ちを作った。言葉にはしないまでも、態度で詫びて、目を合わさなかった。
 そんな彼らを順番に見詰めて、歌仙兼定は再度、卓上を見た。
 大皿を飾る花は本当に見事で、細かい細工が施され、本物と見紛う出来栄えだった。
 慎重に、注意深く、丹精込めて作られたのがよく分かる。
 生半可な努力で成し遂げられるものではない。何度も失敗して、諦めずに繰り返して、一生懸命頑張った成果だった。
「……そう」
 言いたいことは沢山あった。
 けれど他に、なにも言えなかった。
 簡素極まりない相槌をひとつ打って、彼は肩を竦めた。苦笑を浮かべ、頬を緩めて、落ち込んでいる短刀の頭をポン、と叩いた。
「ありがとう、小夜。嬉しいよ」
 怒りがあった。
 腹を立てていた。
 否定しない。どれも本当のことだ。
 だが今となっては、すべて過去の話だった。
 目じりを下げて、囁く。
 小夜左文字は弾かれたように顔を上げ、空色の双眸を見開いた。
「歌仙」
「出来れば、もう少し穏やかな方法であって欲しかったけれどね」
「ぐ……」
 声の調子が僅かに持ち上がって、身にまとう空気が穏やかになった。肌に感じた変化に短刀は直後、ちくりと言われて口籠った。
 後ろでは鶴丸国永がブッ、と噴き出した。燭台切光忠は控え目に笑って、明後日の方角を見た。
 一番穏やかでなかったのは、どこの、誰か。
 完全に自分を棚に上げている男に、堀川国広も頬を引き攣らせた。
 但し小夜左文字だけは、自分が一番悪いと反省して、しゅん、と萎れて小さくなった。
 もれなく藍色の髪が下を向いて、襷の紐も元気を失った。その頭をもう二度、三度と撫でて、歌仙兼定は人好きのする笑みを浮かべた。
「折角だしね、茶でも点てようか」
 肩を震わせている鶴丸国永を見ても、機嫌を損ねず朗らかに告げる。
 底抜けに上機嫌な男の現金さには、呆れるしかなかった。
「僕、そういう堅苦しいのは、ちょっと」
「僕も、正座、苦手なので。遠慮します」
「茶の苦さには、驚き飽きたしな」
「なんだい、君たち。ふがいない」
 上物の和菓子がここにあるのだから、茶と一緒に味わうのが最高の贅沢だ。
 だというのに誰からも同意して貰えなくて、総じて辞退された歌仙兼定は不満そうだった。
 自慢の茶器を出して、由来を語りながら、良質の時間を過ごしたかったのに。
「歌仙」
 どうして誰も分かってくれないのだろう。
 小鼻を膨らませて拗ねていたら、またもや袖を引かれた。呼びかけた少年はコクン、と首を縦に振り、自分は参加すると迷わず告げた。
 途端に歌仙兼定の表情がぱあっ、と花開いた。
「小夜。ああ、やっぱり君が一番、僕を分かってくれるんだね」
「歌仙の点てる茶は、好き」
「嬉しいことを。では早速、準備しよう」
 満面の笑みを浮かべ、彼は声を弾ませた。小躍りしそうな勢いで、足取り軽く、颯爽と台所を出ていった。
 大皿を抱えた小夜左文字がそれに続き、場は一瞬にして、静かになった。
 残された刀たちは揃って引き攣り笑いを浮かべ、どっと押し寄せた疲れにため息をついた。
「なんだかんだで、あのふたり」
「良い組み合わせ、だな」
「ですね」
 彼らは単体で扱うには癖が強く、対処に困る事も多々あった。
 しかし文系を気取る打刀と、復讐を望む寡黙な短刀が一緒になると、何故かことは順調に運んだ。気心の知れた間柄だからなのか、少ない言葉で理解しあって、問題行動は極端に減った。
 これから先、あのふたりはなるべく一括りにして扱おう。
 ここ数日の騒動を振り返って、三人は強く心に誓った。
 

2015/08/07 脱稿

たれかは知らぬ 神無月とは

 一歩進む度に、手にした瓶子がちゃぷちゃぷ音を立てた。
 荒縄を首に結んだ酒壺が、前後左右に揺れていた。中身は幾分減っているものの、注ぎ足すところにまでは至らない。お行儀よく飲むつもりはないので、徳利や猪口の類は持ち歩いていなかった。
 素面に近い為か、足取りはまだ確かだ。左右にふらつく機会は少なく、千鳥足には程遠かった。
 早くどこか、落ち着ける場所を見つけたい。
「む~う」
 辺りを素早く見回して、次郎太刀は口を尖らせた。
 彼は大酒飲みとして知られ、朝から晩まで、酒を友として過ごしていた。但し情緒面での教育に悪いので子供たちの前では飲むな、と口煩く言われていた。
 そうはいっても、この本丸には、短刀の数がやたらと多い。
 粟田口派がその大部分を占めて、一大派閥を形成していた。長兄である一期一振は不在ながら、代理として薬研藤四郎が眼を光らせており、自分は良いが他の弟たちの前は駄目、と言って聞かなかった。
「どうせ飲むなら、見晴らしが良いとこがいいしねえ」
 だが隠れてこそこそ飲むのは、気に入らない。月見酒も悪くないが、昼間から豪快に呑む楽しみには劣った。
 とはいえ、短刀たちがあまり足を向けず、且つ景観に優れた部屋など、そう多くない。
 昼間は光を求め、誰もが南側の庭に面した区画に集まる。外で遊ぶ短刀も多く、彼らの視界に入らないようにするのは難しかった。
 薄暗い、黴臭い一室で辛気臭く過ごすのだけは、避けたかった。
「なーんで、あの刀は、平気なのかねえ」
 彼が寝起きしている大部屋は、日中でもあまり日が当たらない、本丸の北側にあった。背が高く、大柄な大太刀の為に用意されたような区画であるが、その片隅には他者との接触を嫌う刀が、ひっそり暮らしていた。
 魔王織田信長の銘を刻まれた打刀は、大広間での食事にも顔を見せず、滅多に表に出て来ない。昔馴染みの刀たちがなにかと構い、面倒を見ているようだが、積極的に交友を持とうとはしなかった。
 その弟はといえば、辛うじて刀たちの輪に加わり、あれこれ動き回っていた。もっともそれだって、あくまで兄よりは幾らか積極的、と言える程度でしかなかった。
 親交を持つ相手と、そうでない相手とで、態度は露骨に変わった。打刀である歌仙兼定とは仲が良いようだが、それ以外だと今剣くらいしか、一緒にいるところを見かけなかった。
 同じ短刀でありながら、粟田口の面々とは、一定の距離を保っている。小夜左文字は寡黙で、陰気で、日々楽しく酒を飲む、が身上の次郎太刀とは、どうにも相容れない刀だった。
「ま、よく知らないんだけど」
 たまに一緒に出陣するが、言葉を交わした記憶は殆どなかった。
 真っ先に戦場へ飛び出して、畏れることなく敵の懐へと潜り込む。その戦いぶりは狂気じみていて、まるで死にたがっているようにも見えた。
 数回、振り回した刀に巻き込みそうになったことがあるけれど、寸前で察知し、ちゃんと躱してくれた。背が低いので視界に入りにくく、見落としていたと謝った時は、頬を膨らませて拗ねていた。
 その時は、少しは可愛げがあると思った。
 けれど戦いぶりを見る限り、近寄り難い雰囲気があるのは、否めなかった。
「さーて、ここはどうかなー?」
 詳しくは知らない相手を頭から追い出して、縁側からひょい、と障子戸の内側を覗き込む。
 長い黒髪を左右に揺らし、次郎太刀は細い目を丸くした。
「おっ」
 中は薄暗く、動くものの気配はなかった。
 試しに戸を開いてみれば、見事に蛻の殻だった。奥行きがある板葺の間は閑散としており、左右の戸も閉じられていた。
「ここは、えーっと。なんだっけ?」
 屋敷をうろうろしていたので、現在地がぱっと出て来ない。
 この後誰か使う予定がある間かどうか知りたくて、彼は背筋を伸ばし、縁側から辺りを窺った。
 けれど、取り立てて何も見当たらなかった。
 子供たちの声は遠くで、演練場の声も聞こえてこない。足音は響いて来ず、軒から覗く空は青かった。
 後ろを見れば、広い空間に洗濯物がはためいていた。
「ああ。次の間か」
 現在本丸で暮らす刀剣男士が勢ぞろいしても、この板葺の間は埋まらない。それくらい広い部屋は、更に広い大座敷に続く手前にあった。
 ここは武家屋敷で言う、控の間だった。
 嬉しいことに、天井が高い。次郎太刀の身長でも、欄間に頭がぶつからなかった。
「兄貴も、ここならのんびり出来るんだろうにねえ」
 未だ会い見えるのが叶わない大太刀を思い浮かべ、早く来ないかと密かに願う。だが会えば会ったで小言が五月蠅かろうと、女郎姿の刀は首を竦めた。
 今は戦装束を解き、楽な格好だった。結い上げて簪で飾った頭も、今は緩くまとめただけだった。
「景色は、ま、いっか。よーっし、飲むぞー」
 独り酒が寂しい限りだが、飲めればもう何でもよかった。肴も欲しいが、今から台所まで足を延ばすのは面倒だった。
 懐には、前回の残りである鯣の足がある。今日はこれで我慢と言い聞かせ、次郎太刀は敷居を跨いだ。
 大広間の方が見晴らしが良いのは分かっているが、流石にあそこで大の字にはなれない。人の出入りもあるので、次の間程度で落ち着くのが丁度良かった。
「よっこらしょ、っと」
 やっと見つけた、安住の地。
 もう歩き回らなくて済むのかと思うと、心は晴れやかだった。
 障子戸を全開にしたまま、次郎太刀は酒瓶を置いた。荒縄を手放して庭の方へ向き直り、見た目に反して男らしく胡坐を組んだ。
 片膝を立て、そこに肘を置く。陣取ったのは敷居を越えてすぐの場所で、軒下の景色が良く見えた。
 上空は地上と違って風が強いのか、雲の流れが速い。澄んだ青色に綿雲が泳いで、形状を眺めるだけで楽しかった。
 竹竿で作られた物干し台には、短刀のものらしき服がずらりと並んでいた。他には誰のものなのか、白い褌が、風を受けてゆらゆらはためいていた。
 下帯と知っていなければ、優雅なものだと笑って眺められたものを。
 堪らずククッ、と喉を鳴らして、次郎太刀は酒瓶の栓を引き抜いた。
 楽な体勢を作り、豪快にひと口呷る。
「ぷっはー」
 ごくごくと喉を鳴らせば、爽やかな香りと味が口の中いっぱいに広がった。果実など使っていないのに、ほんの少し酸味の利いた匂いがして、喉を流れる一瞬だけ、口腔を焼くほどの熱を感じた。
 舌の上に雑味は残らず、口蓋垂になにかが引っかかって居座るような感覚もない。
「うまいっ」
 まるで水だ。しかし確かに、これは酒に違いない。
 頬を紅潮させて一声叫んで、次郎太刀は耐え難い幸福感に胸を震わせた。
 こんなに美味なものが、この世には沢山ある。
 あちこちの銘酒を集めて、是非とも飲み比べしてみたかった。
「あとは、やっぱり美味い肴と、一緒に呑んでくれる奴がいれば、だねえ」
 本丸内を見回せば、それなりに酒を嗜む者はいた。だが次郎太刀ほど酒豪でなければ、昼間から好んで飲みたがる者はいなかった。
 早くお仲間を見つけたい。
 膝を寄せて抱え込んで、彼はまだ見ぬ刀たちに思いを馳せた。
 濡れた酒瓶の縁を拭い、もうひと口呷ろうかと荒縄を手繰り寄せる。
 足音が聞こえたのは丁度その時で、次郎太刀は瞬きをして顔を上げた。
「あ……」
 直後、ひょっこり小さな頭が現れた。柱の陰から姿を見せて、室内を覗き込んだところで停止した。
 目が合った。あちらはビクッと背筋を震わせて、敷居を跨ぐ手前で歩みを止め、警戒気味に背筋を伸ばした。
 漏れ出た声は、限りなく小さかった。思わず、といった感じで零れた音色には、戸惑いが過分に含まれていた。
 誰かいると、考えてもいなかったのだろう。
 大きく見開かれた瞳から想像して、次郎太刀は肩を竦めた。
「なんだ。あんたかい」
 務めて穏やかに微笑み、積極的に話しかける。それで緊張が解れたか、藍の髪の短刀はほっと息を吐いた。
「すまない」
 その上で、何に対してなのか、謝罪を口にした。
 驚き、失礼な態度を取ったとでも思っているらしい。詫びられて、次郎太刀は目尻を下げた。
「いーって、いーって。なんだったら、あんたも飲むかい?」
 萎縮した態度を豪快に笑い飛ばし、酒瓶を掴んで高く掲げる。
 行儀に五月蠅い打刀が聞いたら、目を吊り上げて追いかけて来そうだ。だが藤色の髪の男は、見た限り、近くにはいなかった。
 酔いが回ったわけではないが、気が大きくなっているのは否定しない。呵々と笑って訊ねた次郎太刀に、小夜左文字はきょとんと目を丸くした。
「い、いや。僕は」
「そうかい? 美味しいのに」
「……知ってる」
「うん?」
「なんでもない」
 こんな見てくれで、酒を勧められるとは予想していなかった。
 そんな風に解釈した次郎太刀だけれど、外れだったらしい。目を逸らしてぼそぼそ言われて、彼は首を右に倒した。
 よく聞き取れなくて、もう一度言ってくれるよう頼むが、断られた。
 小夜左文字は首筋を赤く染めて、緩く首を振り、軒下から空を仰いだ。
「ここ、使うのかい?」
 爪先立ちになり、遠くを窺って黙り込んでいる。目を眇めてなにか考えている様子に、次郎太刀は眉目を顰めた。
 ようやく見つけた、落ち着ける場所だ。それを横から奪い取られるのは、正直言えば良い気がしなかった。
 感情は、声に滲み出たらしい。途端に小夜左文字は振り返って、一瞬押し黙った後、ふるふる首を振った。
「いや。……使う、が。居てもいい」
「ふうん?」
「少し、うるさくする」
 追い出したりはしないと告げるが、随分曖昧だった。告げられた内容は具体性に欠けており、言葉を選んで喋っているうちに、必要な分まで削ぎ落としてしまったようだった。
 彼に近しい存在なら、このやり取りだけで何かを察せられるのかもしれない。だが次郎太刀には、残念ながらそういう才能がなかった。
「うーん?」
 一度では理解出来ず、頭を捻るがあまり働いてくれなかった。
 軽い酩酊状態で首を傾げる大太刀に、短刀は口をもごもごさせた。
 言葉足らずを自覚しているのか、表情は曇り気味だった。それでいて頻りに外を気にして、その場で足踏みを繰り返した。
 逡巡し、躊躇して、やがて思い切って足を踏み出す。
「雨が来る」
 座っている次郎太刀の脇を駆け抜ける直前、彼はそんなことを口走った。
 板葺の間の奥までいって、隅に積み上げていたものを引っ張り出した。持ち上げ、広げて、忙しく左右を見回した。
「雨?」
 なにをしているのか、さっぱり分からない。すれ違いざまのひと言も上手に扱えなくて、次郎太刀は怪訝に目を眇めた。
 試しに外に目を向けるが、小夜左文字が言うような雨雲は、どこにも見当たらなかった。
 空は青く澄み、綿雲が追いかけっこしていた。太陽が照りつけて、地表には影が伸びていた。
 聞き間違いを疑い、再度後ろへ目を向ける。
 左文字の末弟は三段ある足台を壁際に置いて、その天辺に登っていた。
 背伸びをして、壁になにかを括りつける。しっかり結べているかどうかを確認して、台座を飛び下りて、綺麗に着地を決めた。
 続けてその台座を抱え、反対側の壁へと走った。彼と一緒に細い縄も床を走り、壁に結ばれたところでピンと真っ直ぐになった。
 どうやら彼は、壁に縄を張り巡らせるつもりらしかった。
 ジグザグに動き、少しもじっとしていない。縄は空中で交差することなく、一筆書きの如く部屋を覆った。
 足音が響き、確かに少し騒がしい。
 忙しなく働く少年に気を取られて、次郎太刀はぽかんとなった。酒を飲むのも忘れて惚けた顔をして、近くまで戻ってきた短刀に瞬きを繰り返した。
「なにやってんの?」
「雨が」
「晴れてるよ?」
「今は、まだ。だが、雨の匂いがする」
 呆気にとられて問いかけて、遅れて首を捻った。明るい外を指差しながら言えば、小夜左文字は肩で息を整え、小振りの鼻をヒクつかせた。
 すん、と大気の匂いを嗅ぎ、唇を舐めた。
 確信を込めて告げられた。真剣な眼差しと表情は、冗談を言っている風ではなかった。
 ただ、俄には信じ難い。試しに次郎太刀も真似をしてみたが、彼の言う『雨の匂い』とやらは、残念ながら嗅ぎ取れなかった。
 なにが違うのだろう。
 分からなくて、眉間に皺が寄った。外は爽やかに晴れており、雨雲の気配は感じられなかった。
 ただ、この少年が嘘を言うとも思えない。
 何を信じれば良いか分からず、次郎太刀は困惑を強めた。
「ええ、っと……」
 相槌も碌に打てなくて、言葉に迷った。どう会話を続けるべきか悩んでいたら、待ちきれなくなった小夜左文字が焦った顔で唇を噛んだ。
「早くしないと」
「あっ」
 独り言を残し、止める間もなく部屋を飛び出していく。
 伸ばした手のやり場がなくなって、次郎太刀は仕方なく、酒瓶の胴を撫でた。
 中身はまだ沢山残っているが、呑む気が湧いてこなかった。
 小夜左文字は縁側に出ると、左に曲がって走って行った。その方面には玄関があって、案の定、暫く待てば草履を履いた子供が庭に現れた。
 一目散に竹竿に駆け寄って、干されているものを引っ張った。地面に落とさないよう注意しつつ、小さな身体を懸命に伸ばしていた。
「あー、あぁ。あんなに必死になっちゃって」
 洗濯物はどれもまだ乾ききらず、湿っていた。ひとつひとつは軽いものの、数が揃えばかなりの重量だった。
 本丸で最も背が低い短刀の両腕は、瞬く間にいっぱいになった。視界の下半分が塞がって、かなり動き辛そうだった。
 足元がふらついて、まるで酔っぱらっているようだ。苦心しながら足を進めて、辿り着いたのは次郎太刀のすぐ目の前だった。
「よい、っと」
 掛け声ひとつと共に、抱えていたものを縁側へ置く。
 半ば放り投げる形になって、白い塊は山になる前に崩れていった。
「手伝うかい?」
 洗濯物はまだ残っていて、少なくともあと三往復は必要だった。見かねて手助けを申し出れば、短刀は汗を拭い、首を横に振った。
「問題ない」
「本当かい?」
「……ああ」
 強がりを言って、断られた。念押ししてみたが結果は同じで、意外に頑固だった。
 見た目の儚さとは裏腹に、芯は強い。
 感心する大太刀の前で彼は深呼吸を繰り返し、再び竹竿へと駆け出した。
 その後ろ姿と、縁側で潰れている洗濯物を順に見て、次郎太刀は最後、軒先を流れる雲に目を向けた。
「うん?」
 気が付けば、太陽が隠れていた。いつの間にか雲の数が増えて、青空が隠されつつあった。
 雨が降る様子はまだないけれど、一抹の不安を抱かせる色合いだった。
 少しだけ暗くなった世界に、瞬きを繰り返す。その間に小夜左文字は生乾きの衣服を掻き集め、縁側へと放り投げた。
 皺が出来るだとか、そういうのは二の次になっていた。
 とにかく雨が降り始める前にと、そういう意気込みだけで動いていた。
「雨、ね」
 本当に、あの子の言う通りになるのかもしれない。
 次の間に張り巡らされた縄は、屋内で洗濯物を干す為の竿代わりだった。
「なるほど。こりゃ、確かに五月蠅いね」
 小夜左文字に言われた台詞を想い返し、次郎太刀は緩慢に頷いた。こうしているうちにも空模様は段々怪しくなって、灰色の雲がちらほら見え始めた。
 少し前まで、あんなにも快晴だったのに。
 驚きの変化に愕然としていたら、ようやく最後の洗濯物を回収して、小夜左文字が縁側に這い上がった。
 草履をその場で脱ぎ捨てて、膝から登って布の山へと倒れ込む。
「大丈夫かい?」
 勢い余って突っ伏した短刀を覗き込んで訊ねれば、問題ないとでも言いたいのか、小枝のような腕がふらふら揺れた。
 柔らかな感触が心地良いのか、少年はしばらく動かなかった。顔面のすぐ横に他人の褌があるのも気にせず、うつ伏せで、大の字になった。
「ふっ」
 そういうところは、子供だ。
 五虎退の虎がふかふかして温かいだとか、鶴丸国永の外套が羽毛布団のようだとか。そういう話を粟田口の短刀たちが話していたのが、ふとした拍子に脳裏をよぎった。
 小夜左文字は、そんな事に興味がないとばかり思っていた。
 どうやら、違ったらしい。
 それが何故だか嬉しくて、次郎太刀は頬を緩めた。
 ちゃんと可愛いところがあった。見た目相応なところがあると知れて、心がほっこり和らいだ。
「あ、降ってきた」
「っ!」
 そこにぽつ、と小さな音が紛れ込み、大太刀は声を高くした。独白への反応は素早く、小夜左文字はがばっ、と身を起こした。
 洗濯物を抱きしめつつ、腰を捻って庭を見た。空色の目を真ん丸にして、少年は獣の如く飛び跳ねた。
 雨雲は、驚きの速度で空を覆い尽くした。青色はすっかり駆逐されて、一面鈍色だった。
 ぽつ、ぽつ、と落ちて来た雨粒は瞬く間に勢いを強め、荒々しく大地を叩いた。小さかった水溜りはどんどん大きく広がって、軒を打つ音が騒々しかった。
 突如、空が閃光に包まれた。ピカッ、と世界が真っ白になって、直後に轟音が空を切り裂いた。
 どこかで雷が落ちた。地面が揺れて、一瞬の恐怖に鳥肌が立った。
 首を竦めたくなる衝撃に、次郎太刀は感嘆の息を吐いた。
「ひゃ~、びっくりだねえ」
 あと少し遅かったら、小夜左文字は水浸しだった。洗濯物もびしょ濡れで、洗い直さねばならなくなるところだった。
 まさに、間一髪。
 素晴らしい判断だったと心の中で拍手して、次郎太刀は野生の勘を働かせた少年を褒め称えた。
 その短刀はいそいそと起き上がり、集めた衣服を奥へ避難させた。両手両足、身体全部を使って、敷居を跨ぎ、焦げ茶色の床に移し替えた。
 真横に山を作られて、次郎太刀は笑った。呵々と喉を鳴らして、額を拭う少年に相好を崩した。
「お疲れ様だねえ」
 労いの言葉を告げて、酒瓶を高く掲げ持つ。
 乾杯の仕草を取られて、小夜左文字は困惑気味に目を泳がせた。
「こんなの。べつに」
 口籠り、そっぽを向く。その頬は仄かに熱を帯び、赤く染まっていた。
 素っ気ない態度ではあるが、変化を感じた。次郎太刀はうんうん頷いて、持っていた酒をぐいっ、と呷った。
 上物の酒を大胆に呑んで、赤ら顔で心地良さげに息を吐く。
 風圧で前髪を掬われて、小夜左文字は堪え切れず苦笑した。
「誰かに頼まれたのかい?」
「いや?」
 若干頬を引き攣らせ、摺り足で後退された。どうやら息が酒臭かったらしいが、今更どうすることも出来なかった。
 代わりに質問を繰り出せば、短刀は静かに首を振った。
 洗濯物の山に手を伸ばし、種類毎に選別を開始した。集める時は必死だったので、構っている余裕がなかったからだ。
 乱藤四郎のものらしき股袴と、誰のものか不明の褌を引き剥がす。そうやって小振りの山をいくつか作って、彼はすくっと立ち上がった。
「干してきゃいいのかい?」
「次郎太刀?」
 縄を張り巡らせる時、短刀は足台を使っていた。床に洗濯物が擦れないように、高い位置に吊るさなければいけないからだ。
 彼の背丈では、縄は壁に結ぶのは台に乗ればまだ楽だが、洗濯物を干すのは簡単ではない。
 先ほどは手伝いを拒まれてしまったが、今回は断らせるつもりはなかった。
 酒瓶に栓をして、次郎太刀は立ち上がった。袖をまくって肩を露出させた大太刀に、小夜左文字は吃驚して目を丸くした。
「ひとりより、ふたりでやる方が速いってね」
「しかし」
「いいって、いいって。この次郎さんに、任せなさ~い」
 そんな彼に早口に言って、嫌がられる前に洗濯物を掻っ攫った。野郎どもの下着の山を小脇に抱えて、頭が引っかかりそうな縄を潜り、鼻歌を歌いながら歩き出した。
 小夜左文字は後ろで空の手を揺らし、当惑して目を泳がせた。
 逡巡が窺えた。
 どうして良いのか分からないと、態度が語っていた。
 他者に親切にされる、その理由が分からないらしかった。これまで目立った交友もなかった相手から、突然優しくされて戸惑っていた。
 聞けば彼の刀としての境遇は、あまり喜ばしいものではなかったらしい。
 守り刀でありながらその役目を果たせず、奪われ、良いように使われて、救いだされはしたものの、その後方々を流転した。ひとつのところに長く留まらず、金銭に替えられて、彷徨い続けた。
 神社暮らしが長かった次郎太刀には、その辛苦が分からない。
 けれど辛い思いを沢山した分、ここでは優しくされて良い程度には、思っていた。
「ねえねえ、これって、なんか決まりとかある? 適当に吊るしちゃっていい?」
 けれどそういう辛気臭い話をするのは、あまり好きではない。
 だからわざと明るく言って、次郎太刀は小夜左文字を振り返った。
 次の間の奥へ行き、緩みなく張られた縄を小突く。それで短刀は拳を作り、すぐに解き、掌の汗を拭った。
「あまり、近過ぎると。重なって……乾かない」
「はいは~い、なるほどねえ」
 ぼそりと言って、最後に次郎太刀を見た。ただ並べていけばいい、としか思っていなかった大太刀は鷹揚に頷いて、奥が深いと顎を撫でた。
 感心して、口角を持ち上げる。
 笑いかけられた短刀は瞬時に顔を背け、自分も干す作業に入ろうと、生乾きの洗濯物を持ち上げた。
 外では雨音が響き、庭には大きな水溜りが出来た。薄墨で塗り潰したような景色が広がって、夕方を待たずして夜のようだった。
「ふ~ん、ふふん、ふふ~ん」
「それ、は。広げてやらないと、皺が残る」
「へえ?」
「こうやって、叩いて。伸ばす」
「ほっほ~う。勉強になるなあ」
 そんな中で上機嫌に動き回れば、小夜左文字から注意が入った。細かいところまで気を配っている短刀には、感嘆の声しか漏れなかった。
 まさか神刀が、洗濯物を干して回ろうとは。
 自分の刀も大概物干し竿だと笑って、次郎太刀は新たな足音に首を傾げた。
「ああ、小夜。見つけた。……なんだ。回収してくれていたのか」
「歌仙」
 息を切らし、やってきたのは打刀だった。藤色の髪を揺らして、袴姿の男は真っ先に短刀に話しかけた。
 雨に濡れる庭を見て、竿が空になっているのに安堵の息を漏らす。続けて洗濯物で埋まった次の間を覗き込んで、それでようやく、次郎太刀の存在に気が付いた。
「うわっ、……と。いや、これは失礼」
 意外な組み合わせに、驚きが隠せない。うっかり悲鳴を上げたのを慌てて取り繕って、歌仙兼定は詫びて頭を下げた。
 それをカラカラ笑い飛ばして、次郎太刀は最後の一枚を縄に引っ掛けた。
 落ちないようぶら下げて、身を屈めて洗濯物の列を潜る。
「よーっし。お~わりっ、と」
 床の上にあった衣服の山は、今や跡形もなかった。次の間は白い布で埋められて、頭がつっかえ、真っ直ぐ歩けそうになかった。
 なかなかの重労働だった。肩を回し、高らかと吠えて、次郎太刀は満面の笑みを浮かべた。
 こんなに働いたのは、本丸に来て初めてかもしれない。
 酒を飲むのも楽しいが、こうやって雑事に励むのも、存外悪くなかった。
 高らかと吠え、自身を労って満足げにはためく洗濯物の群れを見る。その後ろでは雨降る景色を背負い、小夜左文字と歌仙兼定がなにやら耳打ちし合っていた。
 背が低い短刀に合わせ、打刀が膝を折って屈んでいた。手を壁代わりにしてひそひそ喋って、聞き役の打刀はうんうん頷いていた。
「そう、それは良かったじゃないか」
「……うん」
「なにかお礼をしなければね」
「お礼……」
「ん?」
 漏れ聞こえてきたやり取りに、視線が混じった。見つめられて次郎太刀は首を傾げ、背伸びをしている短刀に眉を顰めた。
 この場合、屈んでやった方がいいのだろうか。
 考え、悩んでいたら、小夜左文字が先に目を逸らした。ふいっ、と赤い顔を隠して、歌仙兼定の袖を引いた。
「台所、余ってるもの」
「色々あるよ。……ああ、すまなかったね、次郎太刀殿。手伝わせてしまったようだ」
 打刀の背中に潜り込んだ短刀に、歌仙兼定は視線を往復させた。小夜左文字に返事した後、次郎太刀に向き直り、改めて頭を下げた。
 少ない言葉で短刀の真意を探り、会話を繋げる技術は見事と言うほかなかった。
 あれでどうして、お互い分かり合えるのか。
 不思議に思いつつ、言わないで済ませ、次郎太刀は肩の高さで手を振った。
「あー、別にいいって。アタシも、結構楽しかったしね」
 昼間から酒を飲むくらいには、退屈していた。
 良い運動になったと笑って言えば、歌仙兼定はホッとした顔で胸を撫で下ろした。
 そんな彼を急かし、小夜左文字が再度袖を引っ張った。早く行こうと促して、足元は落ち着かなかった。
 爪先立ちで足踏みしている短刀に目を向ければ、視線が交錯した途端、本格的に歌仙兼定に隠れられてしまった。
「やれやれ」
「うーん……」
「分かったよ、小夜。次郎太刀殿は、しばらくこちらに?」
「そのつもりだけどー?」
 逃げられて、次郎太刀は低く唸った。もしや嫌われたかと懸念していたら、間に立った打刀が肩を竦め、話を切り出してきた。
 問われ、深く考えないまま答える。
 雨は止まないし、後ろは洗濯物だらけだが、移動する気は起きなかった。最早飲めればどこでもいいと、夕餉まで腰を据えるつもりでいた。
 鷹揚に頷けば、藤色の髪の刀は嬉しそうに微笑んだ。
「だ、そうだよ。小夜。頑張らないとね」
「うる、さい」
「そうだ。蛤があるよ、蛤が。次郎太刀殿はお好きかな」
「酒蒸しがいいかな~……って、なんの話?」
 笑顔を向けられる理由も、まとまりのない会話も、良く分からない。
 戸惑って訊ねれば、歌仙兼定は意外そうに目を丸くした。そしてすぐに表情を戻して、隠れている短刀の頭をぽん、と撫でた。
「つまみを用意しよう。小夜が、ね」
「歌仙」
「うん?」
 そうして彼を強引に、前に押し出しながら、囁く。
 焦る短刀を余所に、素知らぬ顔を決め込む打刀を前にして、次郎太刀は突飛な流れにきょとんとなった。
 視線を泳がせ、赤くなっている少年を見て、不意に思い立って後ろを振り返った。
 すとん、と答えが落ちて来た。
 どうやら手伝って貰った礼をするつもりなのだと知れて、後からじわじわ、歓喜が押し寄せて来た。
「あらら、別にいいのに~」
「いや、か」
「まっさかー。もらえるものは、ありがた~く、いただくよ」
 そんなつもりはなかったのに、思わぬ展開になった。嬉しくて顔は自然と緩んで、不安げにした短刀には慌てて首を振った。
 両手を重ね、頬に添える。百点満点の笑みを浮かべれば、小柄な短刀は照れ臭そうに首を竦めた。
 意外に律儀で、真面目で、可愛いところがある。
 小夜左文字に対して抱いていた評価は、昨日と今日とで百八十度入れ替わっていた。
「少し、待て」
「りょうか~い」
 仏頂面のまま言われたが、不機嫌にしているのだとは思わなかった。つっけんどんな口調にも、嫌な気はしなかった。
 朗らかに笑い、手を振った。小夜左文字は小さく頷くと、歌仙兼定の腰を両手で押した。
「分かった、分かってるから。大丈夫だよ、小夜」
 早く行け、とせっつく短刀に、打刀もどこか嬉しげだ。楽しそうに声を響かせて、去り際、次郎太刀に目配せした。
 今日の酒は、とびきり美味いものになりそうだ。
「たまには、悪くないね」
 生憎の雨であるが、心は晴れやか。
 満足げに呟いて、彼は酒瓶を抱き、縁側に腰を下ろした。

2015/08/24 脱稿

まだあひそめぬ 恋する物を

 空を舞う鳥の影が、足元を駆け抜けていった。
 地面を、続けて上空に視線を走らせて、彼方へと意識を飛ばす。しかし翼を持つものの勢いは止まらず、姿は瞬く間に見えなくなった。
「鷹、かな」
 ほんの僅かに見えた翼の形状や、色で判断するが、自信はない。断定出来ない悔しさに軽く唇を噛んで、歌仙兼定は肩を竦めた。
 彼の左側には大きな門が、どん、と聳え立っていた。
 閂が架けられ、簡単には開かない。腕よりも遥かに太い木は横に長く、ひとりでは外せない重さだった。
 あれを単独で抱えられるのは、槍の蜻蛉切か、大太刀の太郎太刀くらいではなかろうか。
 本丸でも際立って背が高い男ふたりを順に思い浮かべて、打刀はゆるゆる首を振った。
 強さは憧れだが、あそこまで大きくなりたいとは思わない。
 自分はこれくらいが丁度良いと、男は優雅に波打つ衣を揺らした。
 戦支度は整えているものの、これから出向く先は戦場ではない。万が一の為に刀は装備しておくが、鞘から抜くことは、恐らくはないだろう。
 この後の予定をざっと復唱し、同伴者を待つ。
 いつもならすぐにやってくる筈の少年は、今日に限ってなかなか現れなかった。
「遅いな」
 身軽な出で立ちの短刀は、着替えにあまり手間取らない。髪を結ぶ紐が頻繁に曲がったり、形が崩れていたりするけれど、本人はあまり気にしていなかった。
 もっと年相応の、可愛い格好をすればいいのに。
 いつまで経っても襤褸布の、粗末な袈裟姿を止めない少年に眉目を顰め、彼は髭のない顎を撫でた。
 今朝剃ったばかりなので、まだ生えて来ていない。
 人間の姿は時に便利だが、時にとても不便を覚える。その中のひとつにため息を零して、歌仙兼定は靴底で地面を削った。
 大地は乾き、空は澄んでいた。
 優雅に腕を組んで、背筋を伸ばす。本丸は松の木に埋もれ、全容は見えなかった。
 門から屋敷の玄関まで、結構な距離があった。しかも直線ではなく、石畳で作られた道は途中で大きく曲がっていた。
 その形に合わせ、庭木が植えられている。背の低いもの、高いものと組み合わせて、巧みに建物を隠していた。
 ここを覗き込む者が居るとは思えないのに、奇妙なものだ。
 本丸の主である審神者の考えに首を捻って、人の形を得た付喪神は緩慢に笑った。
「誰かに掴まっているのかな」
 彼はこれから、審神者に命じられ、買い出しに出向くことになっていた。
 近場の町の、商店を巡るのだ。都ほど栄えてはいないけれど、日用品程度なら問題なく揃えられた。
 普段は審神者にくっついていく形でしか訪ねられないが、その審神者が多忙な時は別だ。単独行動は許されないものの、連れがあるなら外出可能だった。
 さてはどこかで、個人的な買い物を、誰かに頼まれているのか。
 歌仙兼定が買い物に出向く、という話は朝餉の時点で広まっていた。しかし独自の美意識を持つ彼に買い物を頼むと、余裕で予算を越えてしまう為、申し出難いという問題があった。
 だから皆は、彼が連れていくだろう短刀の方に、品定めを依頼する。必要なものを紙に書いて、よろしく頼むと頭を下げる。
「確かに、小夜の審美眼はなかなかのものだけれど」
 目利きを得意と自負する歌仙兼定よりも、言ってしまえば貧乏性な短刀の方が優れていると言われるのは、正直腹立たしい。だが小夜左文字は確かに、値段がそれなりのものの中から、良い品を選ぶ技術に秀でていた。
 昔馴染みの優秀さは認めるし、否定できない。
 ただ矢張り面白くなくて、彼は苛々しながら爪を噛んだ。
 結局、同伴者である小夜左文字が姿を見せたのは、出立予定からかなり時間が過ぎてからだった。
「すまない、歌仙」
「別に、構わないよ」
 藍色の袈裟を着け、背には大きな笠を。露出する肌のあちこちに白い包帯を巻きつけて、足元は粗末な草履。
 端が擦り切れている衣を纏って、やっと来た少年は折れそうなほどに小柄だった。
 毎日ちゃんと食べているのに、一向に太らない。腕も足も驚くほど細く、背も格段に低かった。
 但し眼光は鋭く、血に飢えた性格は凶暴。
 復讐相手を探し求めながら、裏では己が犯した罪の重さに苦しんでいる。相反する心を抱えて、常に揺れ動く心は酷く脆く、不安定だった。
 もっともこの頃は、周囲の支えなどもあり、当初に比べれば落ち着き始めていた。悪夢に魘される夜はまだ多いが、以前ほど仇討ちに固執し、無謀な行動に出ることはなくなった。
 最初の頃は、それこそその言動の危うさで、周囲から敬遠されがちだった。
 それが今や、懐に大量の紙を潜ませている。
 随分変わったものだと苦笑して、歌仙兼定は腰を叩いた。
「では、行こうか」
「ああ」
 長く待たされた不満を呑み込んで、朗らかに告げた。小夜左文字は小さく首肯して、背負っていた笠を頭に被せた。
 陽射しを遮り、小柄な体躯さえもすっぽり覆い隠す。
 上からでは風にはためく袈裟くらいしか見えなくて、それがなんだか面白くなかった。
 しかし、彼は何も言わなかった。胸を去来するもやもやしたものは見なかった事にして、大門の傍らに設けられた潜り戸をすり抜けた。
 気持ちを切り替え、外界へと踏み出す。直後に風が強く吹き付けて、砂埃が高く舞い上がった。
「わっ」
 咄嗟に腕を覆い、目も瞑って顔を背けた。声は後方から放たれて、一緒になって軽いものが飛んできた。
 頭を後ろから叩かれて、思わず首を竦めた。咄嗟に猫背になって身を屈めたその上を、くるりと反転してなにかが落ちて来た。
「歌仙」
 ぎょっとして、目を見張った。急に眼前が暗くなって、歌仙兼定は中腰のままそれを受け止めた。
 少々焦った声で名を呼ばれて、飛んできたものを手に振り返る。
 藍色の髪の少年は気まずげに、膝をもじもじさせながら手を伸ばした。
 その頭に、例の笠はなかった。
「しっかり結んでおかないとね」
「……面目ない」
 解けた紐を小突いて、打刀は呵々と笑った。天地逆になっていた笠を戻し、被せてやって、満足げに頷いた。
 顎紐を結ぶ前に、風に攫われてしまったのだ。もし飛んだ先に歌仙兼定が居なかったら、拾いに行くのも大変だったに違いない。
 反省して、短刀は恥ずかしそうに頬を染めた。俯いたまま紐を抓んで、もぞもぞ身じろぎ、蝶々の形に結び目を作った。
 町までの道のりは、さほど遠くない。馬を使えば楽なのだが、徒歩でも充分通える距離だった。
「今日は、なにを頼まれたんだい」
 但し帰りの荷物次第では、どうなるか分からない。
 あまり大きいものが混じっていないのを祈りつつ、彼は傍らに訊ねた。
 審神者からの依頼の品は、毎回ほぼ同じだ。食料品は別として、半紙に懐紙、椿油と、伽羅の香。
 釣りは好きに使って構わないと、銭は多めに預かっている。御言葉には甘えることにして、歌仙兼定は返事を待った。
 屋敷の外は、思ったより風が強かった。間違って飛ばされないよう注意深く懐を探って、小夜左文字は慎重に頼まれ物の紙を広げた。
 折り紙に使う千代紙の裏に、細かい文字が書かれていた。他にも懐紙であったり、柄入りの短冊まであった。
 合計すると、六枚か七枚あった。それを指でしっかり押さえつけ、小夜左文字は一番上にあった紙面に目を走らせた。
「ええと、……墨、小筆三本、半紙三束。御伽草子、種類はなんでもいい。綺麗な帯締め。新品の褌。あとは……」
「分かった。もういい」
 順番に読み上げて、半分を過ぎた辺りで歌仙兼定が止めに入った。左手を振って合図を送って、眉間に寄った皺を解きほぐした。
 最初のうちは分からないでもなかったが、後半はどうだ。それくらい自分で買いに行け、と怒鳴り散らしてやりたかった。
 そんな下らないものまで引き受けてくるとは、どこまで御人好しなのか。
 再会直後に比べて随分丸くなった短刀を見下ろして、打刀は盛大に嘆息した。
 ただ当の本人は、あまり気にしていなかった。
 折り畳んだ紙を、なくさないよう大事に懐に戻し、その上からぽんぽん、と叩く。風に煽られる袈裟も押さえこんで、小夜左文字は憤慨している男に苦笑した。
「嫌だったら言って良いんだよ」
 首を竦めて目を細められ、見上げられた打刀は渋い顔で言った。
 町へは、審神者の遣いで行くのだ。そのついでに、余裕があれば買ってきてやる約束でしかないので、断る権利はこちらにあった。
 だというのに、小夜左文字は首を横に振った。
「色々見るのは、楽しい」
 都合よく使われているだけと危惧するが、短刀の返事は違っていた。彼は明朗に言い切って、嬉しそうに頬を緩めた。
 こんな風に色々な刀から依頼を受けなければ、審神者の用事を済ませて、それで終わりだった。町には色々な店が軒を並べているのに、一切目を向けず、関心を抱きもしなかった。
 それが、こういうものが欲しい、と言われただけで、一変した。
 雑多に並べられている品から、目当てのものを探すのは面白かった。掘り出し物を見つけると嬉しくなるし、それまで興味がなかったものにまで、気を留めるようになった。
 見聞が広がり、世界が膨らんでいく。
 知らなかったものを知れるのは、他に類を見ない喜びだった。
「そう、か」
「ああ」
 つたない説明に込められた思いを汲んで、歌仙兼定は鷹揚に頷いた。短く相槌を打ち、顔を紅潮させた短刀に目尻を下げた。
 復讐に囚われ、そうすることでしか己を保てなかった刀が、自力で立ち上がろうとしていた。
 大地に水が染み込むように、彼は今、様々なものを吸収している最中だった。
 変に介入して、堰き止めてしまわなくて良かった。
 己の愚かさに気付き、胸を撫で下ろす。相好を崩し、歌仙兼定はふわりと笑った。
「帰りの荷物は、僕も持つよ」
「……いいのか」
 頼まれものを全部購入した場合、かなりの量になる。短刀ひとりではとても担ぎきれなくて、申し出れば驚かれた。
 空色の目を真ん丸にして、意外そうな顔をする。
 若干失礼だと思いつつ、歌仙兼定は胸を張った。
「勿論。構わないよ」
 小夜左文字の中で、自分はいったいどういう扱いなのか。そんなに冷たい男だと思われていたのなら、心外だし、哀しかった。
 少なからず、傷ついた。
 文句を言いたくなったがぐっと我慢して、打刀は右から吹く風を躱し、道端の雑草を飛び越えた。
 荒れ野原の真ん中に伸びる道はやがて街道に合流し、幅は一気に広くなった。農具を担いだ農民や、荷車を引く牛や馬の姿も散見するようになっていった。
 板葺の粗末な家々が立ち並び、川を境界線にして景色が変わった。橋を渡ればその先は栄えた町が広がって、着飾った若い娘が供を連れて通り過ぎていった。
 瓦屋根がそこここに見えて、立派な鬼瓦が道行く人に睨みを利かせていた。中心部を走る大通りは人通りも多く、気を抜くとはぐれてしまいそうだった。
「さて、まずは米の手配からかな」
 屋敷には畑があり、野菜なら何種類か育てていた。鶏は毎朝新鮮な卵を産んで、山に入れば猪や鹿肉が楽に手に入った。
 しかし米だけは、買うしか術がない。
 俵物を扱う問屋を目指すことにして、歌仙兼定は気合いを入れた。
 その袖をちょい、と引いて、小夜左文字は別れ道で左を指差した。
「僕は先に、硯屋に」
 颯爽と歩き出そうとした男に言って、短刀は笠を僅かに持ち上げた。目を合わせながら言われて、打刀は嗚呼、と頷いた。
 極力二人以上で行動するよう言われているが、少しくらいは構わないだろう。流石にこんな街中で賊が襲ってくるとは思えないし、検非違使も姿を現さない筈だ。
「分かった。ならついでに、炭と砥石も、頼むよ」
 過去の経験から判断し、歌仙兼定は目を眇めた。
 小夜左文字の方が、町での用事が多い。早めに行って、あれこれ済ませてから合流すれば、余計な時間を使わずに済んだ。
 いつもの場所で待ち合わせと決めて、一旦別行動とする。短刀が左に曲がって人ごみに紛れるまで見送って、細川の打刀は大通りを直進した。
 俵物を専門とする問屋は、いつもと同じ場所に店を構えていた。顔を出して、番頭に挨拶をして、慣れた調子で手配の段取りを済ませた。
 大口の取引だが、こちらの身分は明かせない。ただその分、銭は多めに支払っていた。
 屋敷の近くまでの配達も頼んで、暖簾をくぐって外に出る。
 陽射しは明るく、風は街中だからか、幾分弱まっていた。
 続けて香屋に立ち寄って、自分のものと、審神者の分を選んで手に入れる。その他諸々の用事も順調に済ませて、彼は清々しい気分で息を吐いた。
「さて、と」
 後は小夜左文字を回収して、帰るだけ。
 軽くなった懐を撫でて、打刀は人の流れに乗って歩き始めた。
「団子も、悪くないな」
 その途中、甘味の看板が出ているのを見かけた。餅を焼く良い匂いが立ち込めており、胃袋を刺激された。
 小夜左文字を誘って、帰り道に立ち寄ってみようか。
 土産として買って行くにしても、本丸で暮らす刀剣男士の数は多い。全員分はとても持ち運べないし、かといって数を絞れば取り合いになる。短刀ばかりを優先するのは不公平と言われるし、串一本では足りないとの文句も多かった。
 善意で買ったのに、苦情が返ってくるのは切ない。
 ならばふたりだけで、こっそり食べて帰るのが一番平和な手段だった。
 遥々歩いてここまで来た、その路銀代わりだ。まだ充分残っている銭を服の上から撫でて、歌仙兼定は見えた鳥居に頬を緩めた。
 右隣に茶店が出て賑やかだが、境内は人気が少なく、静かだった。緑濃い空間が広がって、石畳の先に続く本殿は古めかしくも、荘厳だった。
 面長の狐が、狛犬の代わりに睨みを利かせていた。風が吹けば木々がざわめき、凛と冷えた空気は邪を寄せ付けなかった。
 本丸に似た雰囲気が、この場から漂っている。埃っぽさからも解放されて、歌仙兼定は深呼吸を繰り返した。
「小夜は、どこかな」
 買い出しに出た時、彼らはいつもここを待ち合わせ場所にしていた。
 市中だと人が多いし、子供だけで茶店というのは存外に目立つ。しかしここなら、小夜左文字がひとりでいても違和感なかった。
 昼間から薄暗い空間に立ち入って、打刀は左右を見回した。背筋を伸ばして目を凝らして、まだ来ていないのかと首を捻った。
「……で、これが……で」
 そこに、どこからか人の話し声がした。詳細は聞こえないものの、熱心な語り口調だった。
 ふたり以上が、境内のどこかにいる。
 どこぞの男女が逢引きでもしているのかと、歌仙兼定は眉を顰めた。
 念のため、確認しようとそちらに足を向けた。風呂敷包みを揺らし、耳を澄ませながら木々の間をすり抜けた。
 稲荷社の裏で、男が濡れ縁に腰掛けていた。葛籠が数個並べられ、服装は行商人のそれだった。
 草鞋に脚絆、尻端折りで、粗末な藍染の衣を着ている。どうやら商いの最中だったようで、なんとか買ってもらおうと、口上は滑らかだった。
「それでは、こちらなんか、どうでしょう。春の風を思わせる爽やかな香りに御座います」
「……歌仙?」
 籠から出したものを手に、お勧めだと訴える。その向かいに座るのは小柄な子供で、打刀が踏んだ小枝の音で、ハッと顔を上げた。
 大きな笠は傍らに立てかけ、足元には風呂敷包みが置かれていた。あちこち角張っており、かなり大きかった。
 よく知った顔に名を呼ばれ、歌仙兼定は目を瞬いた。行商人も振り返って、派手な身なりの男に嗚呼、と頷いた。
「お兄さんも、おひとつ、いかかでしょう」
「いや、僕は……小夜。用はもう済んだのかい?」
 連れがいると、先に聞いていたのだろう。年の頃三十半ばの男は鷹揚に頷き、手にした貝殻を差し出した。
 それは蛤を使った、小さな入れ物だった。
 表面には小筆で、絵が描かれていた。但し技巧としては、あまり褒められたものではない。努力は認めるが、稚拙さの方が目立っていた。
 葛籠を風呂敷に包んで、売り歩いていたのだろう。しかしさほど人気が出なかったのか、こんなところで、こんな少年相手に売りつけようとしていた。
「お安くしときやすよ」
「すまない。これと、これを」
「へえ、おおきに!」
 揉み手まで使って、気に入らない。
 だが渋面を作った歌仙兼定に反し、小夜左文字は並べられていた貝殻をふたつ、手に取った。
 西から流れてきた男なのか、買い手が現れて声を弾ませた。心底嬉しそうな顔をして、銅貨数枚を素早く懐に入れた。
「お兄さんは」
「僕は遠慮しておくよ。小夜、もう全部片付いたのかい」
 そうして惚けている歌仙兼定にも水を向け、つれなくされて項垂れた。
 打刀は社殿に足を向け、距離を詰めた。片付け始めた行商人を睨んで追い払って、空いた場所に腰を下ろした。
 返事がもらえなかった質問を繰り返し、目を吊り上げる。
 綺麗な顔を顰めた男に、少年は首を竦めて苦笑した。
「これが、最後だ」
「そう」
 小声で言って、今しがた手に入れたばかりの蛤を見せる。
 二枚貝の小物入れは、化粧道具である紅を詰めたものが多かった。
 次郎太刀にでも頼まれたものなのだろうか。怪訝にしつつも、興味が沸いて、気を取り直した打刀は短刀の手元を覗き込んだ。
「それは?」
「蜜蝋に、匂いを付けたものだそうだ」
「へえ?」
 貝を開けば、白っぽい塊が現れた。それを人差し指で少量掬い取って、小夜左文字は左手の指先に塗り付けた。
 本当は甲が良いのだろうが、防具が邪魔で、難しい。仕方なく僅かに露出している場所に薄く伸ばし、馴染ませた。
 乾いていた皮膚に艶を持たせて、鼻に寄せて匂いを嗅ぐ。
「うん」
「小夜?」
 こうなるのか、とひとりで納得している少年に、歌仙兼定は身を乗り出した。好奇心を擽られ、自分にも見せてくれるよう、眼差しで訴えた。
 行商人には嫌な顔をしたくせに、おかしなものだ。喉の奥で笑って、短刀は仕方なく腕を伸ばした。
 彼はその手を下から掬い取り、厳かに引き寄せた。
 鼻先に爪が擦れるまで近づけて、クン、と息を吸い込む。
「……ああ、これは」
 直後、鼻腔に甘い香りが喉にまで迷い込んだ。微かながら、汗とも、蜜蝋とも異なる匂いが鼻腔を漂った。
 悪くない香りだった。香を焚きしめるより余程簡単で、驚きだった。
「面白いだろう?」
 神社にきた時点で、行商人はここにいた。休憩中だったらしく、暇潰しのつもりで店を広げられた。
 最初はさほど関心がなかった小夜左文字も、実物を見せられて、気持ちが変わった。次兄への良い土産になると、迷わなかった。
「見た目に騙されるところだったよ」
「蓋を開けてみなければ、分からない」
「まったくだ」
 正論を吐かれ、歌仙兼定は恐縮して頭を垂れた。小夜左文字の手を持ったまま目尻を下げて、照れ臭そうにはにかんだ。
 ひとりで出かけていたら、見もせずに通り過ぎるところだった。
 新鮮な驚きをもたらされて、心は晴れやかだった。
「良い匂いだ」
「歌仙、そろそろ」
 もう一度鼻を寄せ、匂いを吸い込む。
 目を閉じてうっとりしている男から手を取り返そうと、少年は身動ぎ、肩を揺らした。
 けれど、果たせない。意外に強い力で拘束されて、放してもらえなかった。
「歌仙」
 再度催促するけれど、無視された。男は顔を綻ばせ、満面の笑みを浮かべて頭を垂れた。
 鼻の位置を上にずらし、蜜蝋を塗り付けた指先へ、今度は唇を招き入れて。
「――っ」
 ちゅ、と軽く吸い付かれて、少年は全身の毛を逆立てた。
 甘い香りを放つ場所に、恭しくくちづけられた。電流が走り抜けて、背筋がぞわわ、と粟立った。
 ひと呼吸おいて、どっと汗が溢れ出した。瞠目して硬直して、小夜左文字は仰天したまま男を見た。
 歌仙兼定は意地悪く笑って、今しがた触れた場所に、もう一度鼻先を戻した。
「おや。少し匂いが変わったかな?」
「そん、な。わけが!」
 しっとり汗ばんだ爪先に破顔一笑して、不遜に囁く。
 少年は真っ赤になって煙を噴き、力技で腕を奪い返した。
 肘で牽制して、牙を剥いて威嚇する。それを呵々と笑い飛ばして、男は立ち上がり、風呂敷包みに手を伸ばした。
「あっ」
「では、行こうか」
「待て。荷物は」
「団子でも食べていこうかな。小夜は、なにがいい?」
「話を聞け、歌仙」
 屋敷の者たちからの頼まれもので、荷物はかなり大きかった。それを軽々持ち上げて、肩に担ぎ、一方的に言って歩き出す。
 慌てて濡れ縁から飛び降りて、追いかけたが間に合わなかった。
 噛みあわない会話に、小夜左文字は拳を作った。しかし殴る先が見つからず、指は空中で解けた。
 甘い香りが仄かに流れ、心の襞まで擽った。
「……歌仙の、阿呆」
 ぼそりと呟き、顔を覆う。
 蜜蝋に込められた香りは汗と混じり、確かに色を変えていた。

2015/8/12 脱稿

かけじや袖の 濡れもこそすれ

 葭簀から漏れる陽が、縁側を疎らに彩っていた。
 朝方、あれだけ騒がしかった蝉の声が、今の時間はまるで聞こえない。風もあまり吹いておらず、空気は生温く、湿気を含んで粘ついていた。
 汗が首筋を伝い、なかなか乾かない。喉の渇きを覚え、小夜左文字は犬を真似て舌を伸ばした。
「いつまで、続くのか」
 初めて体験する夏は、思っていた以上に手強かった。
 昼間の暑さは、想像を超えていた。これならば蝉を代表する虫たちも、鳴くのを止めて木陰で休むに決まっていた。
 昼寝でもしたいところだけれど、あまりにも蒸し暑くて、とても眠れそうにない。横になっても不快感が増すだけで、結果は火を見るよりも明らかだった。
 かといって、起きているのも苦痛。
 足元に散る光の欠片を蹴り飛ばして、少年は鬱陶しそうに晴天を仰いだ。
 日除けの葭簀を濡らせば、少しは空気が冷えてくれるだろうか。ふと考えるが、湿気が増すだけの気もした。
 実行に移すには、少し勇気が足りない。
 面倒臭いと早々に諦めて、小夜左文字は逃げていかない熱を舌に包んだ。
 口を閉ざして唾を飲むが、当然ながら、美味しくなかった。
「水でも……」
 殆ど平らな喉仏をなぞり、行き過ぎた指で首に掛けた数珠を撫でる。ぽつりと零した声は年の割に低めだが、無理をしている風にも聞こえる音程だった。
 絞り出した独白で、余計に喉が渇いてしまった。
 音にした所為でより強く実感して、小夜左文字は額に浮いた汗を拭った。
 湿った指先で空を掻き、緩く握って、すぐに解く。己の体温でさえ不快だと眉間に皺を寄せて、夏初体験の短刀は踵を浮かせた。
 爪先立ちで進む縁側は、燦々と降り注ぐ陽光を遮る日除けに覆われていた。
 軒先に立て掛けているだけなので、大風が吹けば倒れてしまう。それでも無いよりは良い、との苦肉の策だった。
 簾を吊るした部屋もあるが、数はそれほど多くなかった。どこかで風鈴が鳴っていて、軽やかな音色が天高く昇って行った。
 一旦足を止めて耳を澄ませて、小夜左文字はほんの少しながら、涼しくなった気分を味わった。
「溶けそうだ」
 もっとも、効果は微々たるもの。すぐに戻ってきた蒸し暑さに愚痴を零し、彼は手を団扇にして風を招いた。
 衿を広げ、喉元を晒す。
 それでも得られる涼しさは限られていて、むわっと押し寄せて来た熱風を前に、為す術もなかった。
 空気を読まない蝉が一匹、鳴き始めた。簾の隙間から迷い込む温風に力なく肩を落とし、少年は諦めて首を振った。
「水」
 まずは喉の渇きを癒そう。
 そう決めて、小夜左文字は屋内へ通じる道を急いだ。
 台所は屋敷の東端にあるので、昼の盛りに突入した今の時間帯は、日蔭が多い。南に面した縁側よりは、確実に気温が低いはずだった。
 冬場は寒くて苦労させられたが、今の時期は、ありがたい。少し先の未来を予想して、彼は安堵の息を吐いた。
 とらぬ狸の皮算用だが、想像に間違いがあるわけがなかった。丁度八つ時の手前でもあるので、今行けば、一足先に甘味が楽しめるかもしれなかった。
 毎日欠かさず、甘くて美味な菓子が用意されている。
 手の込んだ品を、丹精込めて作ってくれる打刀を思い浮かべ、足取りは自然と速くなった。
 心が逸り、気が急いた。
 いつの間にか小走りになって、小夜左文字は台所に通じる最後の角を曲がった。
 戸は開けっ放しだった。
 頬を紅潮させて、興奮のままに中に駆け込もうとした。
「うわあ、すごい。すごいです、歌仙殿」
「もっ、もう一度。お願いします」
「ははは、構わないよ。さあ、よぉく、注意して見ておくんだよ」
 ところが、だ。
 小柄な短刀の足は、敷居を跨いだところで停止した。
 身体を前に運ぼうとする、その瞬間の体勢で凍り付いて、蒼色の瞳は真ん丸に見開かれた。
 勝手口がある土間の手前には、板張りの間があった。防腐剤が塗られている為か、廊下に比べるとやや床の色が濃いそこには沢山の棚が並べられ、調理台が置かれていた。
 土間の隅には井戸水を汲んだ瓶が並び、洗い物をする為の流し場も用意されていた。まな板は分厚く、包丁は多種多様取り揃えられて、鈍い光を発していた。
 竈は合計で五つあるが、いずれも火は消され、休んでいた。洗った釜は勝手口から外に出され、逆さにして干されていた。
 そんな中で唯一、七輪だけが炭をくべられ、熱を発していた。
 男ばかりの大所帯を支えているだけあって、台所に用意された七輪はどれも大きい。そのうちのひとつを前にして、男は膝を折って屈み、熱心に手元を見詰めていた。
 藤色の髪の一部を紐で結って、邪魔にならないよう、胴衣の袖も紅白の襷で縛っていた。香染の袴を履いて、動き易い格好をしていた。
 そんな男を取り囲んで、数人の子供が群がっていた。
「そら。これを、こうして。勢いよく混ぜて」
「うわあ。うわあ、すごぉぉい」
「いったい、どうなっているのでしょう。これは、とても不思議です」
「歌仙殿、私にもやらせてはいただけないでしょうか」
 目に鮮やかな桃色の頭と、榛色の頭がふたつ、仲良く肩を並べていた。全員膝を軽く折って前傾姿勢を取っており、視線は中心に座す男へと注がれていた。
 戸口に佇む小夜左文字には、誰ひとりとして気付かない。皆してなにかに夢中で、とても楽しそうだった。
 なにをしているのか。
 興味惹かれたが、その位置からでは全く見えなかった。
「歌仙?」
 先客があったことにまず驚き、不思議な組み合わせにも首を傾げる。
 七輪を前にしているのは本丸で最も古株の打刀であり、彼の背後に張り付いているのは、粟田口の短刀たちだった。
 本丸には、藤四郎だけで合計九口も存在した。そのうち秋田藤四郎と、平野藤四郎、そして前田藤四郎の三名が、この場に揃っていた。
 いつも騒々しい厚藤四郎や、乱藤四郎の姿はない。念のため左右を確認して、小夜左文字は賑やかな集団に眉を顰めた。
「薬研は、遠征だったか」
 今朝方見送った隊の中に、見慣れた顔があったのを思い出す。
 けれど他の面々には覚えがなくて、左文字の短刀は胡乱げな表情で騒ぎの中心を見やった。
 八つ時が待ちきれず、小夜左文字に先んじて台所に顔を出した。
 粟田口の短刀たちがここにいるのは、恐らくはそういう理由だろう。では、なにをそこまで、熱心に見つめているのか。
 団子を丸めるのであれば、背高の調理台の方がやり易い。汁粉を作っているのなら、藤四郎たちがあそこまではしゃぐ道理はない。
 こんな暑い時期に、わざわざ火を使って、作るもの。
 思いつく限りを頭に並べ立てて、小夜左文字はげんなりして肩を落とした。
 氷菓が良かった。
 贅沢に削り氷に甘葛、とまでは言わないが、どうせなら冷たいものが良かった。
 立っているだけで汗が滲んだ。涼しいと期待して訪ねた場所で、絶賛炭が焚かれていたのも、暑さに苦しむ短刀を傷つけた。
「なにを、しているんだ」
 歌仙兼定の手元は依然見えず、三人の藤四郎がなにを面白がっているのかは不明なまま。
 じりじりと襟足を焦がす熱に苛立って、小夜左文字は強く奥歯を噛み締めた。
「試してみるかい? 構わないよ。熱いから、気を付けて」
「本当ですか。とても嬉しいです」
「いいな。いいなー。次、僕がやっても良いですか?」
「もちろんだとも。火傷をしないよう、注意するんだよ」
「分かってます。ありがとうございます、歌仙さん」
「前田も、秋田も、ずるいです。歌仙殿、是非とも僕にも、試させてはいただけませんか」
「ああ。順番にね」
「分かりました」
 手にしていたものを七輪から外し、歌仙兼定が鷹揚に頷く。その言葉に短刀たちは活気づいて、我先にと手を挙げて、跳び上がった。
 普段は大人しくて控えめな平野藤四郎まで、鼻息を荒くしていた。兄弟で競い合って、負けるものかと息巻いていた。
 彼をあそこまでさせるものが、そこにある。
 興味が強まるものの、小夜左文字はどうしてもそこから動けなかった。
 今から近くに行って、変に思われないだろうか。
 目新しいことに好奇心を擽られたと、甘く見られるのも嫌だった。
 それに、なにより。
「えっと、確か。これを、こう……」
「ああ、それでは遠すぎて、熱が高くならないね。温度が肝心なんだ。もっと炭に近付けて」
「なるほど。ふむ」
 膝立ちになった歌仙兼定は七輪の前を譲り、入れ替わりに前田藤四郎がそこへ入った。その手が握っていたのは、銅製の小鍋だった。
 持ち手は長く、一尺近くある。それを左手に構えて、右手に掴むのは細い菜箸だ。
 小夜左文字に見えたのは、それだけだった。首を伸ばし、爪先立ちになっても、複数いる短刀の背中が邪魔で、七輪の上で何が起きているかまでは分からなかった。
「おや?」
「っ!」
 直後、平野藤四郎が振り返った。
 反射的に戸口から廊下に引っ込んで、小夜左文字は壁を背にして背筋を粟立てた。
「どうかしたんですか?」
「いいえ。気の所為だったようです」
 首を捻った平野藤四郎に、秋田藤四郎が目を眇める。そんなやり取りを壁越しに聞いて、思わず隠れてしまった短刀は冷や汗を拭った。
 逃げることはなかったのに、無意識に身体が動いていた。
「なにをやっているんだ、僕は」
 一瞬で跳ね上がった鼓動を落ち着かせ、鼻から吸った息を口から吐く。
 深呼吸を三度繰り返し終えた頃、台所内でもなにかが起きたらしく、藤四郎たちが一斉に声を張り上げた。
「おお、凄いです。本当に膨らんだ」
「はやく、はやく!」
「待って、くださ……あ、わ、ああっ」
「あああ~~……」
 興奮して騒ぎ始めたかと思いきや、直後に一変した。突然悲鳴があがって、平野藤四郎と秋田藤四郎のため息がそこに重なった。
 何事かと様子を覗けば、歌仙兼定が肩を竦めて笑っていた。
「火から離すのが早かったみたいだね」
「うぅぅ。ぺしゃんこなのです」
 口元に手をやって、目を細め、顔を綻ばせていた。その横顔はとても楽しげで、大輪の花が咲き誇っているかのようだった。
 落胆する前田藤四郎の肩を叩いて慰めて、もう一度お手本を見せようと腕まくりする。頼もしい打刀に子供たちは目を輝かせ、力強く頷いた。
「歌仙」
 彼があんな風にも笑うことを、小夜左文字は知らなかった。
 いつも穏やかに微笑んでいる彼だけれど、普段と趣が異なる笑顔だった。頼られて嬉しそうで、幸せを噛み締めている表情だった。
 意識しないまま、握り拳を作っていた。爪の先が皮膚に食い込むのも構わず、小夜左文字はモヤモヤするものを奥歯で噛み潰した。
 なぜだか、面白くなかった。
「ほら。これを、こう……これくらいになった時に、素早く」
「おお、お見事なのです」
「簡単そうに見えて、なんとも、奥深いです」
 彼が言い表し難い感情に襲われている間も、歌仙兼定は相変わらずだった。
 手際よく手本を示し、子供たちから拍手を貰ってはにかむ。打刀は照れ臭そうに首を竦めると、出来上がったばかりの菓子を前田藤四郎へと差し出した。
 それは球体を半分に切ったような、薄く茶色がかった固形物だった。
 硬いのか、握っても潰れない。七輪を使ったばかりなのにあまり熱くもないようで、与えられた塊に、短刀は躊躇なく噛みついた。
「中、空っぽです」
「ははは。そりゃあ、膨らませただけだしね」
 そうして驚いた顔で告げて、歌仙兼定を笑わせた。
 見た目によらず、歯応えは軽かったらしい。他の短刀たちも興味津々で、歯形が残る断面を覗き込んでは、感嘆の息を零した。
「不思議ですね」
「さて、次は誰かな?」
「はい。僕です」
 小夜左文字も関心があったが、言い出せなかった。戸口の影に身を潜めたまま右往左往して、最終的に下唇を噛んで、袈裟を握りしめた。
 こんなにも近くに居るのに、彼らとの距離がとてつもなく遠い。
 輪に混じれない己の意気地なさに腹を立て、いつまで待っても存在に気付かない男に対して小鼻を膨らませる。
 時間が過ぎれば過ぎるほどに胸のもやもや感は膨らんで、少しも萎んでくれなかった。
「いいですか。いきますよー」
 台所では道具を受け取って、秋田藤四郎が気合いを入れて吠えていた。
 愛くるしい短刀を見守る歌仙兼定の、稀に見る優しい顔が瞼に浮かんだ。無性に哀しくなって、小夜左文字は膝を抱え、座り込んでしまいたくなった。
「僕が、いない方が。歌仙だって、きっと」
 それをどうにか耐えて、掠れる小声を絞り出す。
 言葉にした途端、実感がどっと押し寄せて来た。華奢な少年は肩を震わせて、握った拳を腿に押し当てた。
 痛みが生じても、気にならなかった。
 口下手で、愛想がない自覚はあった。人付き合いが苦手で、子供らしくない、とよく言われていた。
 小夜左文字は、粟田口の短刀たちのようには笑えない。今剣のように無邪気に振る舞うのも、愛染国俊の猪突猛進ぶりも真似出来ない。
 この身体は血で穢れている。
 誰かを守る為でなく、誰かから、なにかを奪う為に振るわれた。小夜左文字はそういう、罪の一文字を刻まれた刀だった。
 卑屈な心が渦巻いた。
 と同時に、言いようのない怒りが湧き起こって、じっとしていられなかった。
 空を蹴り、彼はにこやかに微笑む男に小鼻を膨らませた。
 どうして気付かないのか。
 どうして、分からないのか。
 他の短刀に囲まれて、でれでれと、鼻の下を伸ばして。
 そんなみっともなく、だらしない顔など、見たくもなかった。
「歌仙など、知るものか」
 哀しみを怒りに置き換え、少年はむすっと頬を膨らませた。口を尖らせ、一気に息を吐き出して、周囲に良い顔をしたがる男の幻を踏み潰した。
 彼らが台所でなにをしていようが、どうでもよかった。
 興味は一瞬にして消え去って、跡形もなく霧散した。
 自分から混ざりに行けなかったのを棚に上げ、小夜左文字は荒々しく床を踏み鳴らした。己を鼓舞して覚悟を決めて、背筋を伸ばすと、思い切って身体を反転させた。
 右足を大きく踏み出して、力任せに敷居を跨ぐ。
「おおお、出来た。出来ました」
「すごいです、平野。さすがなのです」
「うわあ、いいなあ。かっこいいなあ」
 右前方では七輪を囲み、粟田口の短刀たちが賑やかに騒いでいた。
 銅製の小鍋を手に、平野藤四郎が頬を紅潮させていた。前田藤四郎は握り拳を振り回して、秋田藤四郎も感嘆の声をあげていた。
 それを横目に見て、すぐに正面へと戻す。一直線に土間を目指す少年の姿は、当然ながら、様子を見守っていた打刀の視界に入った。
 腕組みをしていた歌仙兼定は、早足で通り過ぎようとする短刀に二度瞬きし、三度目を終えてから頬を緩めた。
「小夜。君もやっていくかい?」
 亀の甲羅に似た丸い菓子に夢中だった短刀たちも、歌仙兼定の声で顔を上げた。底浅の小鍋から取り外した茶褐色の菓子を手に抱いて、平野藤四郎などは特に嬉しそうだった。
「とても、面白いものを見せていただきました。小夜殿も、試されるとよろしいかと」
 興奮冷めやらぬ様子で告げて、満面の笑みを浮かべる。
 いかにも子供らしい表情を向けられて、小夜左文字は興味なさげに目を眇めた。
「そう」
 低い声で短く呟き、それを返事の代わりにする。
 相槌なのかどうかも判然としない素っ気なさに、勢い勇んでいた短刀たちは顔を見合わせた。
 ざわめきが起こり、小夜左文字の心情を探って視線だけのやり取りが繰り返された。彼の反応をどう受け止めれば良いのか悩んで、幼い短刀たちは、最終的に打刀に縋った。
 戸惑いの眼差しを集めて、歌仙兼定も当惑しながら頬を掻いた。
「小夜、どうしたんだい?」
「別に。どうもしない」
 明らかに態度がおかしいと、声を高くする。けれど小夜左文字は振り向きもせず言い捨て、土間へ降りるべく、沓脱ぎ石に爪先を置いた。
 履き慣れた草鞋を足指に引っ掻けて、取り付く島を与えない。
 露骨なまでの頑なさに眉を顰め、歌仙兼定は思案気味に眉を顰めた。
 機嫌が悪い原因を考え、逆鱗に触れずに確かめる術を探す。だが良い案が浮かぶより早く、平野藤四郎が前に踏み出した。
「小夜殿、ほら、見てください。今日の八つ時の菓子は、このように、丸く膨らんで、すごく甘いのですよ」
「そうですよ。僕もさっき作ってみたんですけど、本当に不思議だったんです。急にぶわわっ、て大きくなって、固くなって。ほら、こんな風に」
「小夜殿も、絶対に気に入ると思うのです」
 彼の言葉に同調し、秋田藤四郎が目を輝かせた。興奮を取り戻して身振りを交えて訴えて、ようやく振り返った小夜左文字に力強く頷いた。
 こんなに楽しい経験を、知らずに過ごすのは勿体ない。
 一緒に体験して、共有したい。そういう意識が、彼らの言葉から汲みとれた。
 但しお節介な性格は、一定の域を越えればただ押し付けがましいだけの、傲慢な強者の弁にしかならない。
 不快感が膨らんだ。なにもかも気に入らなくて、腹立たしくてならなかった。
 どうして放っておいてくれないのか。
 鈍感が過ぎると苛立って、小夜左文字は顎を軋ませた。
「興味ないって、言ってる!」
「――っ」
「小夜!」
 獣を真似て低く唸り、吼える。
 無垢な子供を怯えさせるに十分な怒号を上げれば、案の定粟田口の三人は竦み上がり、歌仙兼定が反発して空を切り裂いた。
 鋭い声で叱責して、土間に降り立った少年を睨みつける。
 険しく尖った双眸を冷静に受け止めて、小夜左文字は不意に湧き起こった感情を噛み砕いた。
 急に泣きたくなった。
 それを堪えて、彼は上品で行儀が良い短刀たちを一瞥した。
 目線を向けられて、秋田藤四郎の顔色がさっと翳った。前田藤四郎は頬を引き攣らせ、平野藤四郎も歯を食い縛っていた。
 好意を真正面から跳ね返されたのだ。当然の反応だった。
 そんな彼らを庇うようにして、歌仙兼定が摺り足で前に出た。心配いらないと短刀たちに目配せして、小夜左文字には厳しい視線を投げた。
 彼だけは、なにがあっても味方してくれると信じていた。
「歌仙」
「小夜。機嫌が悪いからといって、人に当たるのは、やめなさい」
 けれど、それも結局は、夢幻でしかなかった。
 冷徹な口調でぴしゃりと言いきられ、叱られた少年は黙って唇を引き結んだ。
 もとはといえば、この男が悪いのだ。
 ずっと待っていたのに、一向に気付いてくれなかった。他の短刀にばかり優しくして、振り返りもしなかった。
 口に出さなければ伝わらないと分かっていても、彼の方から声をかけて欲しかった。そうすれば小夜左文字は迷わず傍に行けたし、こんなことにもならなかった。
 虚しさと悔しさが入り乱れて、鼻の奥がツンとなった。目頭がじんわり熱を持って、彼は誤魔化すようにかぶりを振った。
「小夜」
 歌仙兼定は諭すように名を紡ぎ、肩を竦めて嘆息した。強情な短刀にどう言い聞かせようかと言葉を探し、目を泳がせ、顎を撫でた。
 直後だった。
「音に聞く」
 そっぽを向いていた少年が、ぼそりと呟いた。
「うん?」
「高師の浦のあだ波は」
「かけじや袖の……ちょっと待つんだ。小夜、どうしてそうなる」
「うるさい」
 詠うように告げられて、続きを諳んじた歌仙兼定の顔が見る間に青くなった。
 慌てた様子で声を荒らげるが、少年は素っ気なく言い捨てて取り合わない。しかし歌仙兼定は諦めず、二歩前に出て、大袈裟な身振りで腕を広げた。
「いつ、僕が浮気したっていうんだ」
 大声で叫び、己の左胸を叩く。
 表情は切迫し、青褪めて、悲壮感に溢れていた。
 激しく動揺して、瞳は左右に揺れ動いた。突然三行半を突き付けられて、冷静ではいられなかった。
 そんな男を仰ぎ見て、小夜左文字は口を尖らせた。
「僕をからかって、楽しかったか、歌仙。最初から、おかしいと思っていた。こんな僕に、歌仙が関わるなど」
「だから、どうしてそうなるんだ。僕は君をからかった覚えはないし、いつだって真剣に――」
 足を踏み鳴らして近付き、大声で捲し立てる。
 それでも藍の髪の短刀は明後日の方角を向いて、取り合おうとしなかった。
「小夜、頼むから話を聞いてくれ。そりゃあ、僕の方が年下だし、君に釣り合わないところもあるとは思うけれど。艶書合じゃないんだ。ちゃんと本気だし、君以外の誰かとなにかあっただとか、そんなこと、絶対に、誓って、ありえないから」
 不貞腐れた表情の少年と、心変わりを疑われて焦る男と。
 両手を振り回して必死の説得を試みる歌仙兼定は、傍目から見て、かなり異様だった。
 急変した状況を目の当たりにして、取り残された形の粟田口は不思議そうに首を傾げあった。
 どうして歌仙兼定があんなにも狼狽し、小夜左文字に縋るのか。
 発端となった最初の短いやり取りに、どういう意味が込められていたのか。
 事情はさっぱり分からないものの、こんな光景、滅多に見られるものではない。平野藤四郎と前田藤四郎は良く似た顔を向き合わせ、秋田藤四郎も瞳を浮かせて天井を仰いだ。
「止めた方が良いのでしょうか」
「喧嘩、とは違いますよね」
「前に、乱がこういう状況のことを、なんとかだ、と言っていませんでしたか」
「しゅら、ば?」
「ああ、そうです。これはまさに、修羅場、というやつではないでしょうか」
「修羅場。なんと恐ろしい響きでしょう」
「でも修羅場って、どういう意味でしたっけ」
「修羅同士が戦いあう激しい戦場、ということではないでしょうか」
「小夜殿も、歌仙殿も、修羅ではありませんが」
「乱は、ちじょうのもつれ、で起きる、って」
「ちじょう? それはどういったものでしょう」
「……いや、あの。すまない。君たち、ちょっと黙っていてくれるかな」
 懸命に弁解する後ろで、口々に議論されるのは居た堪れない。
 耐えられなくなって割って入った歌仙兼定を見て、小夜左文字の頬は前にも増して、ぷっくり丸く膨らんだ。
 露骨に拗ねてみせ、打刀が子供たちに言い聞かせて振り向く直前、凹ませる。
 一瞬のうちに豹変した少年を遠くから見つめて、やがて秋田藤四郎は、成る程、と両手を叩きあわせた。
「小夜君、大丈夫です。僕たち、歌仙さんをとったりしませんから」
「――え?」
「っ!」
 彼の頭の中に、ストンとなにかが落ちて来た。得心顔で頷いて、満面の笑みを浮かべ、桃の髪の少年は無邪気に言い放った。
 唐突に飛び出して来たひと言に、歌仙兼定はきょとんと目を丸くした。予期していなかった小夜左文字は真っ赤になり、産毛を逆立ててて竦み上がった。
 まさか話しかけられるとは、思ってもいなかった。
 不意打ちに等しい言葉を贈られて、動揺を隠しきれなかった。
 高く結った髪をぶわっと膨らませて、袈裟を着た短刀が零れ落ちんばかりに目を開く。見詰める先では秋田藤四郎がにこにこしており、前田藤四郎と平野藤四郎も、少ししてから嗚呼、と深く頷いた。
「なるほど。これが痴情のもつれ、というやつですね」
「ご安心ください、小夜殿。歌仙殿は、今すぐ小夜殿にお返しします。行きましょう、秋田、平野」
「待て。ちっ、ちが。ちがう!」
「小夜?」
「歌仙さん、お邪魔しました」
「軽目焼き、いただきます」
「では」
 短刀たちは短刀たちで納得して、にこやかに手を振った。軽い食感の焼き菓子を胸に抱き、開けっ放しの戸口から廊下へと出て行った。
 小夜左文字が手を伸ばして引き留めを計るが、誰ひとりとして足を止めない。歌仙兼定だけが怪訝に首を傾げ、直近の子供たちの会話を思い出し、かなり遅れてカーッと赤くなった。
 行儀よく頭を下げた前田藤四郎をしんがりに、粟田口の短刀が台所から立ち去った。途端に広い室内が静かになって、気まずさを覚え、歌仙兼定は余所を見たまま頬を掻いた。
 随分と勝手なことを、あれこれ言われてしまった。
 傍観者からはあんな風に見られ、思われていると知らされて、無性に恥ずかしかった。
 横目で小夜左文字を窺えば、彼も袈裟を握りしめ、なんとも言えない表情を浮かべていた。
「ええと。……小夜?」
「うる、さい」
 試しに話しかければ、依然として素っ気なかった。けれど先ほどよりは、語気に力がなかった。
 ちらりと盗み見られて、即座に逸らされた。自分からは言い出しにくいのだとようやく気取って、歌仙兼定はもじもじしている短刀に目尻を下げた。
 本当に、素直ではない。
 けれどそこが可愛いと、本人に言えば蹴られそうな感想を心で述べる。小さく首肯した男は肩を竦め、すっかり人気がなくなった七輪を一瞥した。
 彼はそこで、軽目焼きを作っていた。
 砂糖を加熱して融かし、卵白を加えて膨らませた菓子だ。出来上がったものは見た目の割に軽くて、さくさくしており、甘い。
 作り方は難しく思えて、温度管理さえしっかりしておけば、失敗することはなかった。粟田口の短刀たちも、独特な作り方を面白がっていた。
 皆を喜ばせようと思って用意したけれど、先に台所に現れた子たちに構っていたから、拗ねられてしまった。
 藤四郎たちにも、妙な気を遣わせた。
「小夜。ああ、だから……その」
 これで仲違いをしたままだったら、夕餉の際に何を言われるか、分かったものではない。
 痴情のもつれで修羅場になったとの噂が広まったら、左文字の上ふたりに、どんな酷い目に遭わされるか、分かったものではなかった。
 和泉守兼定は間違いなく笑い転げるだろうし、燭台切光忠は不要な心配をして、お節介を焼いてくるに決まっている。大倶利伽羅は小夜左文字の味方だから、無言で威圧して来そうだった。
 どうやって、機嫌を直してもらおうか。
 あれこれ考えてはみるけれど、これ、という妙案はひとつも浮かんでこなかった。
 仕方なく、赤々と炭が燃える七輪を指差し、ぎこちない笑みを作る。
「軽目焼き、作るかい?」
 苦し紛れに訊ねれば、俯いていた少年はパッと顔を上げ、真ん丸い目を見開いた。
 直後に我に返ったらしく、頬を染めたまま、またしても俯かれてしまったけれど。
「……つくる」
 ぼそりと呟かれた言葉は、ほんの少し、嬉しそうだった。

2015/6/26 脱稿

その紫の 雲を思はめ

 クツクツと湯を沸かす音が耳朶を打つ。太い湯気が大量に立ち上って、風に煽られてゆらゆら踊っていた。
 大振りの七輪で炭が燃え、断面の菊文様が赤々と照らされていた。四本足の五徳の上には鉄製の鍋が置かれ、その内側はさながら釜茹で地獄だった。
 鍋の中身は油でなく、水であるが、ぼこぼこと泡が弾けて熱そうだった。あそこに今、手を突っ込んだらと考えるだけで寒気がして、和泉守兼定はぶるりと震えあがった。
「まだなのかい?」
 このままだと、あの沸き立つ鍋の湯を浴びせられかねない。
 火の傍らで仁王立ちしている男からのひと言にも過剰に反応して、彼は瞬間的に指に力を込めた。
「あっ」
 途端に抓み持っていたものが潰れて、中身がぷしゅっ、と飛び出した。
 緑色の莢からはぐれ、これもまた緑が鮮やかな球体が宙を駆けた。放物線を描いたそれは三尺近く離れた場所に落ち、行く宛てもなくコロコロ転がっていった。
 しまった、と顔を顰めるが、もう遅い。
 これで何度目かと自分に落ち込んで、和泉守兼定はがっくり肩を落とした。
 もれなく後方の男もため息を吐き、露わにしている額を叩いた。
「本当に不器用だね、君は」
「うっ、うるせえ。俺は敵さんをぶった斬れりゃ、それでいいんだよ」
「莢剥きも満足に出来ないくせに、なにを偉そうな」
「ほっとけ」
 呆れ混じりに呟かれ、反発するが口では敵わない。
 負け惜しみ的な台詞を吐き捨てて頬を膨らませて、和泉守兼定は手元の莢に残っていたひと粒を足元の笊に落とした。
 本当は、そこに入れるつもりだった。だが勢い余って飛ばし過ぎて、そんなえんどう豆が土間のあちこちに転がっていた。
 これらを全て拾って合計すると、結構な量になる。
 なんと勿体ない真似をするのか。重ねて苦言を呈されて、彼は言い返せずに顔を赤くした。
 これでも一応、気を付けているのだ。今のは、急に話しかけて来たのが悪い。
「集中してんだ。邪魔すんな」
「そういうことにしておくよ」
 責任転嫁して、声を荒らげる。
 不貞腐れた顔で怒鳴り付ければ、この返答は想定済みだったのか、歌仙兼定は肩を竦めて首を振った。
 嫌味たらしい態度を見せられて、余計に腹立たしい。
 だが実際、自分から言い出して始めた仕事は、まだ当分終わりそうになかった。
「早くしてくれないと、夕餉の時間に響くな」
「だったら、少しは手伝えよ」
「僕は僕で忙しいんだよ」
 湯を沸かす炭の火力を調整して、歴戦の台所当番はさらりと言い返した。取り付く島を与えずに、ひらひら手を振って調理台の方に向き直った。
 土間に茣蓙を敷いて座り込んでいた和泉守兼定に背を向けて、菜切り包丁を右手に構える。
 あれが刀でなかっただけ良かったと思うことにして、長髪の太刀は脱力して猫背になった。
 足首を交差させた脚の間には笊が据えられ、左右にも少し大き目の笊がひとつずつ置かれていた。うち、右側に詰められているのは中身を含んで丸々太った莢で、左側の笊にあるのは中身を失った抜け殻だった。
 分量としては、左側が若干多い。ただ見る角度を変えると、右側の方が多いようにも感じられた。
 どちらにせよ、まだ半分近く残っている。これを全て剥き終えないと、彼の仕事は完了とならなかった。
「くっそー。簡単だと思ったのによ」
「お生憎様。千里の道も、一歩から、だよ」
「だから、うるせーよ。いちいち、いちいち」
 愚痴を零せば、聞き付けた歌仙兼定が嫌味を言う。
 逐一難癖をつけてくる打刀に癇癪を爆発させて、和泉守兼定は少し前の自分を呪った。
 堀川国広を探して屋敷をうろうろして、台所まで足を運んだ。案の定求め人はそこにいて、夕餉の支度に勤しんでいた。
 なにやら単調な仕事をしていたから、これくらいなら自分にも出来そうだと思った。野菜や肉を捌いたり、出汁を取ったりは出来ないけれど、豆を莢から抜くぐらいは問題ないと、試す前に決断してしまった。
 その結果が、これだ。
 中身を笊に落とすだけなのに思いの外難しくて、やり始めから悪戦苦闘しっ放しだった。
 指には青臭さが乗り移り、鼻に近付けて嗅げば噎せそうになる。
 うえ、と舌を出して呻いて、和泉守兼定は垂れ落ちて来た黒髪を払い除けた。
 前屈みを維持しているので、すぐに垂れてくるから困る。
 堀川国広が戻ってきたら編んでもらうことにして、彼は空になった莢をくず入れ代わりの笊に放り投げた。
「やっと半分かよ」
 先はまだ長い。
 がっくり肩を落として項垂れて、口の中で愚痴を言う。
 山を成していた豆を撫でれば、艶々した球体が一斉に雪崩を起こした。もっとも笊の外にまでは行かず、内向きに傾斜した壁に当たって、止まった。
 これがどう調理されるのかは、さっぱり見当がつかなかった。
 卵とじにするのか、他の野菜と一緒に煮るのか。ただそれにしたって量が多く、一日で食べきれるのか不安になった。
 どうやって消費する気だろう。
 本丸の台所を長く預かる歌仙兼定を一瞥して、和泉守兼定は細長い莢を右手で抓みあげた。
 ぱっと見た感じ、三日月のような形をしていた。豆が入っている場所だけが丸く盛り上がっており、外からでも何個入っているのが把握出来た。
 一個しか入っていない莢だとがっかりして、四つも入っているのを引き当てると嬉しくなる。
 そういうところに小さな楽しみを見出して、彼は黙々と空の莢を増やしていった。
「しっかし、まあ……」
 口数を減らして勤しんでいたからか、歌仙兼定が茶々を入れてくることもなかった。あちらも忙しいのは本当らしく、包丁で何かを切り刻んでいたかと思えば、湯を沸かした鍋を掻き混ぜ、あちこち移動を繰り返した。
 首を伸ばして覗いてみたが、なにをしているのかさっぱり分からない。
 流石は二代目之定の作だと変なところで感心して、彼は青臭さが移った掌を何気なく眺めた。
 この手に掴めたもの、掴めなかったもの。
 守れたもの、失われてしまったもの。
 壊したもの。
 壊れたもの。
 壊されてしまったもの。
 指の間からするりと零れ落ちていったのは、いったい何だったのか。
 掴んでいた感触さえ思い出せなくて、試しに莢を握り潰してみようとする。
「お待たせー」
「うおっ」
 けれど指を折り畳み切る前に勝手口が開かれて、不意を突かれた太刀はピン、と背筋を伸ばした。
 茣蓙の上で大袈裟に身を竦ませて、ぐしゃっ、とやってしまったえんどう豆は、空の莢を入れた笊にこっそり潜ませる。
 植物に含まれていた水分が指に張り付き、少し気持ちが悪かった。けれどなるべく顔に出さないよう心掛けて、彼は意気揚々と戻ってきた同朋を振り返った。
「ああ、おかえり。堀川国広」
「……おい、なんだそりゃ」
 歌仙兼定は作業の手を休め、調理台の前で顔を綻ばせた。一方和泉守兼定は頬を引き攣らせ、作業着姿の脇差を指差した。
 正確には、その胸に抱かれているものを、だ。
 声も身体も震わせて、満面の笑みの堀川国広に顔を青くする。
 幕末の頃から共に戦場を駆け巡っていた脇差は、今まさに和泉守兼定が孤軍奮闘中のえんどう豆を、大量に抱きしめていた。
 ひと房ずつ摘んだりせず、枝ごと断ち切って持って来たのだろう。
 植物が放つ青臭さに土の匂いが混ざって、土間周辺は少々鼻が辛い状態だった。
 慣れないと、苦しい。
 但し唸ったのは、和泉守兼定だけだった。残るふたりはすっかり慣れっこで、逆に良い匂いだと目尻を下げた。
「豊作だね」
「これで足りますか、歌仙さん」
「充分だよ、堀川国広。そういえば、小夜は?」
「小夜君なら、水やりをしてくるそうです」
 採れたての野菜に顔を綻ばせ、台所当番歴が長い刀剣男士ふたりがにこやかに会話を繰り広げる。
 頭上を行き交うやり取りにひとり混じれなくて、和泉守兼定はむっつり頬を膨らませた。
 面白くないと口を尖らせ、悔しさを紛らせるべく、手は丸々太ったえんどう豆へと伸ばされた。みっつほどまとめて握って中身を抜いて、空になった莢も一気に左の笊に放り込んだ。
 今回は、きちんと真下に落とせた。ひとつも豆を取りこぼさなかったと自画自賛していたら、荷物を抱えたまま、堀川国広がゆっくり近づいて来た。
「わあ、兼さん、すごいじゃない」
 そうして斜め後ろから足元に置いた笊を覗き込んで、蒼色の瞳をきらきら輝かせた。
 えんどう豆の蔓を何束も持っているので、彼が動く度にガサガサ音がした。もれなく青臭さも強くなったが、何故かあまり気にならなかった。
 手放しに賞賛されて、驚いて目を丸くする。
 歌仙兼定の言葉とは正反対の台詞に呆気に取られ、彼は惚けた顔で相棒たる脇差を振り返った。
「……そうなのか?」
 先ほどまで散々罵られていたので、にわかには信じられない。
 疑わしげに小声で尋ねれば、意外だったのか、堀川国広はきょとんとしながら頷いた。
「え、うん。だって、もう半分も終わってるじゃないか」
「堀川国広、あまりその馬鹿を褒めるな」
「そんなことないですよ、歌仙さん。すごいね、兼さん。さすがだね」
「お、……おう。この俺に、任せろってんだ」
 屈託なく笑って告げて、嫌味を言った歌仙兼定にも面と向かって言い返す。その上で再度褒め称えられて、悪い気はしなかった。
 失われていた自信が蘇って、俄然やる気が沸いてきた。今なら何でもできそうな気がして鼻息を荒くして、和泉守兼定は握り拳で胸を叩いた。
 得意になって言い放ち、堀川国広に笑いかける。不遜に口角を持ち上げた男を遠くから眺めて、歌仙兼定はやれやれと首を振った。
「単純なんだから」
 あの程度の世辞で簡単に調子に乗せられて、まるで子供だ。
 おべっかを真に受けて照れている姿にため息を漏らし、彼は鍋に投げ入れた野菜を掻き回した。
 水やりを優先させた短刀は、まだ台所に戻って来ない。
 作業範囲を考えると、当分先になりそうだ。大きな笠を被って一所懸命働く姿を想像して、歌仙兼定は肩の力を抜いた。
「はい、じゃあ兼さん。これも追加で、よろしくね」
「って、ちょっと待て。これで終わりじゃねえのかよ」
 小さいのに頑張っている短刀に比べると、そこの太刀は図体がでかいだけのでくの坊だ。案の定堀川国広に言われて素っ頓狂な声を上げて、転がる勢いで仰け反った。
 莢の笊に左手から突っ込んで、盛大にひっくり返した。それも出汁を取るのに使うというのに、粗末に扱って、歌仙兼定は諦めて渋面を作った。
「え? そうだよ。言ったでしょ?」
「聞いてねえよ」
「おかしいなあ。だって僕、小夜君と畑に行く前に、足りない分採ってくるって。言いましたよね?」
「言っていたね」
「嘘だろ!」
 そんな話は知らないと主張する和泉守兼定だが、二対一で分が悪かった。堀川国広の弁に歌仙兼定は鷹揚に頷いて、菜箸の尻でこめかみを小突いた。
「どうせ、聞いていなかったんだろう」
「うぐ……」
 ずばり言い当てられて、ぐうの音も出ない。
 えんどう豆を剥くのに必死で、聞き流していた。そういえばそんな事を言っていた気が、しないでもないけれど、記憶はぼやけて、判然としなかった。
「冗談じゃねえぞ」
 安請け合いなど、するのではなかった。
 半刻近く使ってやっと半分終わらせたのに、残量が倍以上に増えられては、いつ終わるか分かったものではなかった。
「がんばって、兼さん。僕も手伝うから」
「甘やかすんじゃない、堀川国広」
「うっせえな。手前ぇは、俺のお袋かよ」
 土間の茣蓙に靴を脱いで上がり、脇差が人好きのする笑顔を浮かべた。畑で収穫したばかりのえんどう豆の束は地面に降ろして、枝を一本取って付随する房を毟り始めた。
 ぷち、ぷち、と手際よく進めて、片手で持ちきれなくなったところで莢を笊に積んでいく。
 早くしないと溢れかねなくて、和泉守兼定は慌てて畑臭い豆を引き寄せた。
「ったく。なんだよ、二代目の奴。文句ばっかり言いやがって」
「それだけ兼さんのこと、買ってくれてるんだよ。怒らない、怒らない」
 恨みを晴らさんと莢から豆を取り出し、ぶつくさ言いながら綺麗な球体を笊へ落とす。堀川国広は苦笑しながら窘めて、丸裸にされた細い枝を脇へ退けた。
 次の枝を取り上げて、顔の前で揺らす。
 房の実り方が、まるで石切丸の持つ御幣だ。ガサガサ鳴ったのを面白がり、少年は大太刀を真似て畏まった。
 穏やかで温厚そうに見えて、あの男も割と気が短い。
 一度戦場でぷつん、と切れた瞬間を見てしまって以来、彼の印象は百八十度入れ替わっていた。
「おっかねえのが多いよなあ、ここは」
 自分を棚に上げて呟いて、和泉守兼定は降ってきた埃を手で払った。堀川国広が持つえんどう豆からも枯れた葉の欠片などが落ちて来て、茣蓙の上に散っていった。
 間違って吸い込んでしまわないよう息を止め、細かな塵が落ち切ってから再開させる。そうして唇を舐めた彼をクスクス笑って、小柄な脇差は枝から莢を毟り取った。
 その手さばきに迷いはなく、動きは淀みなかった。
 次、どの房を掴むか、先に決めているのだろう。目つきは真剣で、集中していた。
 単調な作業に飽きて来ていた和泉守兼定は頬杖をつき、一心不乱にえんどう豆を毟る少年をぼんやり眺めた。
「あでっ」
 直後、後頭部に何か硬い物が当たった。油断していただけに驚かされて、彼は悲鳴を上げて首を竦めた。
 実際はそれほど痛くなかったものの、他に言葉が出て来なかった。突然の叫びに堀川国広も目を丸くして、手を休めて首を傾げた。
「兼さん?」
「ぼんやりしない、そこ」
「いってーな。なにすんだよ、二代目」
「君こそ、そこで何をしていたんだい。二桁」
 怪訝にする堀川国広の膝元に、人参の蔕が転がっていた。それは少し前までここになかったものであり、どこから、誰が飛ばしたのかは明白だった。
 近くに行って注意するのを面倒臭がり、歌仙兼定が投げたのだ。思いがけない攻撃を受けた太刀は小鼻を膨らませ、言い返せなくて奥歯を噛んだ。
 目の前で展開される軽妙なやり取りに、堀川国広は噴き出しそうになったのを必死で堪えた。
 砂で汚れてしまった食材の断片を手に取って、凹凸のない美しい断面に頬を緩める。相変わらず見事だと感心するが、和泉守兼定の前で口にするのは憚られた。
 兼定の銘を持つ刀同士ではあるが、そこのふたりは打たれた時期も、刀工も、別人だった。
 名工と誉れ高い二代目兼定、通称之定の作である歌仙兼定に対して、和泉守兼定はどうにも気後れしているとでも言うか、苦手意識があるようだった。
 なにかと評価の高い古刀に対し、新々刀である自身に劣等感のようなものを抱いている。それを誤魔化そうとしてか、彼は頻繁に、自分は格好いい、強くて優れていると主張した。
 わざわざ口にしなくても、彼は充分格好いいし、実力だって他に比べて遜色ない。太刀としては少々子供っぽさが残るものの、そういう未熟な部分も併せて可愛いと、堀川国広は常々思っていた。
 兼定たちのやり取りはまだ続いており、口論は次第に熱を帯びていた。しかしどうやっても勝てなくて、和泉守兼定は悔しそうに唇を噛んだ。
 半泣きで拗ねる顔が、短刀たちとまるで同じだ。
 ついに我慢出来なくて、首を竦めてケラケラ笑っていたら、黒髪の太刀はばつの悪い顔をして頭を掻いた。
 長い髪をぐしゃぐしゃにして、舌打ちしたかと思えば笊に手を伸ばした。勝ち目のない喧嘩を止めて作業に戻って、相変わらず不満そうではあるけれど、莢からえんどう豆を取り出しにかかった。
 堀川国広に笑われて、毒気が抜けた。台所で暴力沙汰は危険だし、そもそも歌仙兼定に口で敵うわけがなかった。
 ぼんやりしていたのは、否定できない。
 諦めて莢の背を開いて、彼は出てきた三つ子を掌に転がした。
「ていうかよ、これ、なにに使うんだ?」
 薄皮を被っている豆を小突き、笊に移して訊ねる。
 正面にいた堀川国広は意外そうな顔をして、瞬きを三度連発させた。
「言わなかった?」
「またそれかよ」
 てっきり教えたつもりでいた脇差に、太刀は渋面を作った。少し前の騒動が蘇って、表情はとても嫌そうだった。
 前回は完全に聞きそびれていたが、今回は違う。
 本気で知らされていないと強気になって訴えれば、本丸最古参の打刀がククッ、と押し殺した声を漏らした。
 肩から上だけで振り返れば、藤色の髪が小刻みに震えていた。
「ああ?」
 今日は、笑われてばかりだ。
 反発して牙を剥けば、堀川国広までつられて腹を抱え込んだ。
「はは。ごめん、ごめん。兼さん。そういえば言ってなかったね」
 記憶をじっくり精査して、和泉守兼定が正しかったと詫びを入れる。しかし目元は綻び、頬も緩んで、本気で申し訳なく思っているかどうかは怪しかった。
 高めの声で謝罪されても、少しも嬉しくない。
 不貞腐れてぶすっとしていたら、堀川国広は余計に笑って背中を丸めた。
「国広」
「ごめん、ちょっと、待って。苦しい」
 そんなに笑える事だっただろうか。
 和泉守兼定としては、ちっとも楽しくない。臍を曲げて口を尖らせて、右膝を立て、彼はそこに頬杖をついた。
 憤然としながら言われた通り待ち、退屈しのぎにえんどう豆を剥く。
 随分前に散らしてしまった莢も集めて笊に載せて、彼はひぃひぃ言っている相棒にため息を吐いた。
「悪かったな、二桁で」
「拗ねないでよ、兼さん。……ごめん、まだ無理」
 腹が引き攣って苦しいと、宥めようと試みた堀川国広が白旗を振る。その態度がなにより人を馬鹿にしていると、本人は気付いていないようだった。
 まったくもって、面白くない。
 発端となった歌仙兼定にやり返したい気持ちは満載で、和泉守兼定はない知恵を絞って唸った。
 彼をひと泡吹かせるとしたら、どうすればいいだろう。
 闇討ちはあまりにも卑怯だし、そもそも本丸内での抜刀は禁じられている。あまり子供っぽい仕返しはみっともなくて、程度の低い悪戯の類は避けたかった。
 そうなると、面と向かって勝負を挑むしかない。
 けれど歌仙兼定と和泉守兼定の間には、致命的なまでの練度の差が存在した。
 審神者が歴史修正主義者の討伐を開始した当初から、あの男は本丸に居る。秋の終わりに屋敷に連れて来られた和泉守兼定とは、熟達度にかなりの開きがあった。
 太刀と打刀とはいえ、勝てる保証はない。
 否、九割九分の確率で、あちらが勝利を得るだろう。
 惨めに床に倒れ伏す己の姿を想像して、和泉守兼定はがっくり肩を落とした。
 他に勝ち目があるとしたら、身長くらいだろうか。
「見た目は、俺のが絶対上だと思うんだけどなあ」
「兼さん、どうしたの。なんだか怖いよ?」
「なあ、国広」
「なに?」
 あれこれ悩みつつ、合間にぶつぶつ呟いては目を泳がせる。
 真向いに座る堀川国広に挙動不審ぶりを指摘されて、手を休めた太刀はぽん、と膝を打って身を乗り出した。
 土間を上がった先では、歌仙兼定が上機嫌に料理を続けていた。
 湯通しした野菜を、温かいうちに擦り潰し、粉に水を足して練った生地に混ぜていく。どうやら好き嫌いが多い短刀たち向けの甘味らしく、黄色に赤や緑と、見た目は華やかだった。
 子供たちだけ狡いと思いつつ、口には出さない。
 あれを丸める作業の方が、豆を弄るよりも楽しそうだった。
 実際、歌仙兼定は楽しんでいた。上機嫌だと分かる表情を気付かれないよう盗み見て、長髪の太刀は細い眉を真ん中に寄せた。
「二代目ってよ、確か三十六人斬ってんだよな」
「また随分、話が飛んだね。確か、そういう理由だっていうのは、聞いてるよ」
 細川の打刀命名の逸話は、なかなかに血腥いものだ。短気を働かせた前の主人が家臣をその数だけ斬ったので、三十六人という数字にちなみ、名付けられたのだとか。
 その由来の通り、あの男は戦場でも目覚ましい活躍を見せていた。躊躇せず敵を斬り伏せ、戦いそのものを愉しんでいる雰囲気さえ感じられた。
 三十六人どころか、もっと殺している気がする。
 嬉々として歴史修正主義者に襲い掛かる男の狂気は、共に戦う者たちにさえ、並々ならぬ恐怖を抱かせた。
 本丸の台所で料理に勤しんでいる姿からは、とても想像がつかない。
 本当に同一人物かと疑って、和泉守兼定は笊の中の豆を掻き混ぜた。
「んじゃあよ。もし、もしもだぜ。あいつが、じゃあ、三十七人殺してたら、なんて名前だったんだ?」
「……兼さん……」
 余所を見ながら、ぼそりを呟く。
 降って沸いた疑問に堀川国広は頬を引き攣らせ、何故か憐みを含んだ眼差しを投げて来た。
「もしかして、疲れてる?」
「なんでだよ」
 おそるおそる訊ねられて、和泉守兼定は自分の膝を叩いた。ぱしん、と音を響かせて、妙な心配をしている相棒に苦虫を噛み潰したような顔をした。
 歌仙兼定は、三十六歌仙にちなんで名づけられた。
 もし細川忠興が斬った家臣が三十七人だったなら、その名前にはならなかったはずだ。
 歴史に介入して、試してみようか。
 悪い考えが浮かんで、すぐに吹き消して、彼は苦笑している堀川国広から目を逸らした。
 背筋を伸ばし、仰け反って、団子作りに励んでいる男に直接問い質す。
「なあ、二代目」
「なんだい、喧しいね」
「あんたさ、もし三十七人斬ってたら、どうなってた?」
 せっかちな性格を動員して、和泉守兼定は声を高くした。率直に訊ねて返答を求め、山盛りの莢の笊にまたも手を突っ込んだ。
 今度は吹き飛ばさず、真ん中で押し潰し、待つ。
 どんな面白い回答が飛び出すかわくわくして、子供みたいに目を輝かせる。
 期待の眼差しを一身に浴びて、歌仙兼定は丸め終えた団子を皿に並べた。
「なにを言っているんだ、君は」
「ああ? だから、あんたが」
「そこまで馬鹿だとは思わなかったよ」
「だから、もしもの話だっつってんだろ!」
 どうして堀川国広といい、歌仙兼定といい、話を膨らませようとしないのだろう。
 既に起きた出来事をあれこれ掘り返しても、事実は覆らない。
 仮定の話をしても意味などないと割り切っている刀たちに、和泉守兼定は声を荒らげた。
 ありもしなかった展開を夢見ても、後で虚しいだけ。
 函館の地で堀川国広を止めたのは他ならぬ彼であり、考えないよう釘を刺したのも彼だ。
 けれど今は、歴史介入は関係ない。
 こんなにも非難される謂れはないと拗ねて、見た目に反して幼い太刀はぶすっと頬を膨らませた。
 まるで可愛くない表情に、少しだけ哀れみを覚えた。
 相手をしてもらえなくて臍を曲げた彼に肩を竦め、歌仙兼定は手に振っていた白い粉を叩いた。
「三十七人、ねえ」
 そんなこと、考えたことなどなかった。
 細川忠興も、織田信長ほどではないにせよ、妙な名前を刀に付ける男だった。もし本当にひとり多かったとしたら、どのような名が与えられていたか、まるで想像がつかなかった。
 そもそも三十七という数に呼応するものが、なにかあるのだろうか。
「なにも、思いつかないな」
 三十三であれば、西国巡礼。或いは京都の三十三間堂が思い浮かんだ。
 三十四なら、秩父の観音めぐり辺りだろうか。
「いいんですよ、歌仙さん。真面目に取り合わなくて」
「国広、お前、今日やたらひどくねーか」
「そんなことないよ。それより、兼さん。さっきから手が御留守だよ」
 えんどう豆は、まだまだ大量に残っている。
 早く莢から出してしまわないと、夕餉に本当に間に合わない。
「美味しい豆ごはん、いらないの?」
「なんだ。今日の晩飯はそれか」
 無駄話より、こちらが大事。念を押した堀川国広に諭されて、ようやく献立を知らされた太刀は緩慢に頷いた。
 とはいえ、表情は優れない。納得がいっていないのは、歪められた口元が証明していた。
「お前は、なんか思い当たるもんねーの?」
 しつこく食い下がられて、笑うしかない。
 仕方なく頭を捻ってみた堀川国広だったが、残念ながら彼の記憶にも、その数字に関する顕著な例は宿っていなかった。
 名前に出来るくらいに有名で、広く知れ渡っている事例が、あるのか。
「いっそ四十七人だったら、討ち入りできるのによ」
「また、極端な」
 赤穂藩士が主君の仇討を行った話を持ち出して来られて、聞いていた堀川国広は呆れて肩を竦めた。
 そもそも元禄赤穂事件は、江戸幕府五代将軍綱吉の時世の出来事だ。細川忠興が活躍した時代からは、かなり隔たっていた。
 いくらなんでも、これを命名の由来にするには無理がある。
 そう言えば和泉守兼定はしばらく黙り、ぽん、と手を打って人差し指を立てた。
「八十八で、茶筅兼定なんてのは、どーよ」
「そこ。聞こえているよ」
 ならばと他の数字を当てこめば、駄洒落は本人の耳にも届いていた。
 機嫌を損ねた声で割り込まれて、和泉守兼定は苦笑しつつ、首を竦めた。
 堀川国広もつられて小さくなって、無邪気な太刀に顔を綻ばせた。
「僕の名前で遊ばないでくれないか」
 一方で歌仙兼定は不満たらたらで、面白くなさそうだった。
 前の主からもらった名前だから、大切に思っているのだろう。それを玩具にされたのだから、不快感を示すのも道理だった。
「へーへー。どうもすみませんねえ」
「まったく」
 一度は話に乗ってみたものの、やはり不愉快だった。
 反省の色が見えない太刀をひと睨みして嘆息して、歌仙兼定は窓から見えた人影に肩の力を抜いた。
 気持ちを入れ替え、勝手口から現れた短刀に相好を崩す。大人しくえんどう豆を剥く作業に戻っていたふたり組も、振り返って顔を綻ばせた。
「水やり、ご苦労様」
「うん」
 代表して歌仙兼定が労いを口にすれば、小夜左文字は緩慢に頷いた。被っていた笠は屋内では邪魔なだけで、結んでいた紐を解き、頭から外して壁へと立てかけた。
 内番着に張り付いた土埃は土間で落とし、汗ばんでいた額を手首で拭う。それから茣蓙に鎮座する和泉守兼定、堀川国広を順に見て、最後に山盛りの莢付きの豆に肩を落とした。
「手伝おう」
 作業がまるで進んでいないと、それだけで判断したようだ。
 おおよそ子供らしくない悟った口調で告げられて、よく喋る太刀はかあっ、と顔を赤くした。
 馬鹿話ばかりしていて、まるで手が動いていなかった。
 外見と中身が比例していないとはいえ、見目幼い子供に蔑まれ、和泉守兼定は引き結んだ口をもごもごさせた。
「ちぇ」
「ありがとう、小夜君。一緒にがんばろ」
「よろしく頼む」
 但し役に立っていないのは本当なので、文句も言い辛い。
 堀川国広は頼りになる少年の登場に目尻を下げて、場所を提供しようと腰を浮かせた。
 後ろに位置をずらし、茣蓙の角ぎりぎりのところに座り直す。小夜左文字も土間の隅に積まれていた笊をふたつばかり取り、重ねて運んで来た。
 草履を脱いで茣蓙に登った少年を一瞥して、和泉守兼定はちらりと後方を窺った。間食用の菓子を作る歌仙兼定は相変わらずだったが、先ほどよりも心持ち、機嫌が良さそうだった。
「分かりやっす」
 台所にふたりだけだった時は、むっつり不機嫌そうだった。語る言葉にも棘があって、ちくちく刺さって痛かった。
 それが、小夜左文字の登場で一変した。本人に自覚はないかもしれないが、うきうきしているのが傍から見ていても感じられた。
 この無愛想な子供の、どこが良いのか。
 胡乱げな眼差しで右前方に視線を流せば、偶然にも目が合い、短刀に首を傾げられた。
「僕の顔に、なにかついているか」
「でっけー目ん玉が、ふたつ」
「……ああ。鼻と口もだな」
 怪訝にされて、愛想なく言う。すると小夜左文字は、意外にも話を合わせて来た。
 淡々とした口調ながら、戯言に乗って来た。珍しいこともあるものだと驚いて、和泉守兼定は抓み取ろうとしたえんどう豆を落とした。
 ぴゅっ、と莢から飛び出した豆が茣蓙を転がって、堀川国広の膝に当たった。地面に転がるよりは良いと判断したか、彼は小振りの珠を摘むと、ひょいっと投げて笊に入れた。
「人参?」
「ああ、これ?」
 その仕草を見送って、小夜左文字が眉を顰める。
 空色の瞳が見つめる先には、先ほど歌仙兼定が投げた人参の蔕が置かれていた。
 なぜそんな代物が、えんどう豆の中に紛れているのか。明らかに異質な存在へ疑問を抱いた短刀に、脇差は肩を竦めて苦笑した。
 もれなく見つめられた和泉守兼定は、気まずさを覚えて顔を背けた。
 両者のやり取りを視界の端に見て、小夜左文字は最後に調理場に顔を向けた。もれなく口元を押さえている男が見えて、それで大体の流れは把握出来た。
「ああ」
 誰も、なにも言っていないのに、納得して頷く。
 聡い少年に和泉守兼定は不貞腐れた態度を取り、脚を崩して胡坐を作り直した。
「悪かったな。どうせ、俺は手が遅いよ」
「僕はなにも言っていない」
「うっせ」
 勝手に拗ねて、勝手に怒って、不機嫌になった。
 癇癪をぶつけられた小夜左文字は釈然としない様子で呟いて、唾を飛ばされて肩を竦めた。
 今はあまり、刺激しない方が良さそうだ。堀川国広に目配せされて首肯して、短刀は山盛りのえんどう豆を引き寄せた。
 足を揃えて座り、膝の上に空の笊をひとつ置く。もうひとつは傍らに据えて、ぷち、ぷち、と豆を莢から弾き飛ばした。
 力加減と角度を調整しているので、豆粒が笊の外へはみ出ることもない。中身が失われた莢は左の笊にまとめられ、右手はその間、堀川国広が枝から千切った房へと伸ばされた。
 流れるような作業を見せられて、その熟達度に唖然とする。
 和泉守兼定は口をぽかんと開けて、間抜け面を作った。
「ほら、そこ。置物兼定になってるよ」
「だっ、あ……うるせーよ。この、茶筅兼定」
 そこに歌仙兼定が茶々を入れて、太刀の顔は茹蛸並みに赤くなった。
 名前で遊ばれた件を、まだ根に持っていたらしい。咄嗟に言い返して拳を振り上げた男に、唯一状況が分からない小夜左文字は目を丸くした。
「なんの話だ?」
 いつの間に改名したのかと真に受けて、肩を震わせている堀川国広を見て冗談だと知る。
 奇妙な悪口の応酬に緊張を解いて、少年は少し元気になった和泉守兼定を見詰めた。
 目で問われた男は不遜に笑い、憤然としている打刀を指差して白い歯を見せた。
「いや、よぉ。あいつがもし、八十八人殺してたら、って話でさ」
「ああ、そういう」
 歌仙兼定は三十六人殺しだから、歌仙兼定。
 八十八夜は茶摘みの時期なので、茶道具を引きあいにした、ということだ。
 なかなか洒落が利いている。理解して、小夜左文字は気の抜けた笑みを浮かべた。
「小夜、その男の戯言に付き合ってやることはないよ」
 もっとも槍玉にあげられた方は、面白くない。失礼だと腹を立てて、語気を強めた。
 不機嫌を隠しもしない打刀に首を竦め、短刀は止まっていた手を動かした。
 ただ、一度知ってしまった情報は、なかなか頭から抜けて行かない。
 不意を突いて思い出されて、小夜左文字は噴き出しそうになったのを堪えた。
「八十八は、多いな」
「小夜」
「やっぱそうかあ。けどよ、三十七になんか良いの、あるか?」
「そう急に言われても。……三十七道品、くらいしか」
 ぼそりと言えば、耳が良い男に拾われた。それに覆い被さる形で太刀が調子に乗って口を開き、三十六に一足した数字に短刀が答えた。
 一瞬考えて、豆を笊に落とす。
 三人揃っても文殊の知恵とならなかった面々は、あっさり言われて目を丸くした。
「なんだ、そりゃ」
 小夜左文字以外誰も、三十七に関する事柄が思いつかなかったのに。
 あるじゃないか、と内心感心して、続けて沸いた疑問は和泉守兼定が代表して述べた。
 初耳だと言わんばかりの顔を見せられて、袈裟で戦場へ出向く少年は緩慢に頷いた。
「仏法の、修行法。悟りを、得るための」
 四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道。
 それらを合計すれば、三十七。
 とはいえ、その内容が具体的に定められているわけではない。あくまで観念的なものであり、道徳的な決まり事でしかなかった。
「へえ。小夜君、物知りだね」
「……べつに」
 巧く言えないながらもたどたどしく説明した彼に、堀川国広は感心して頷いた。和泉守兼定も似たような顔をして、成る程、と呟きながら顎を撫でていた。
 歌仙兼定はといえば、微妙に苦い表情をしていた。
「んじゃあ、あの野郎。もしかしたら道品兼定だったかもしれねえのか」
「やめろ。勝手に決めてくれるな」
「三十七人殺しといて、悟りを得るっつーのは、すげー皮肉だなあ、おい」
「だから、僕は歌仙兼定だ!」
 嘲笑い、和泉守兼定が声を高くする。
 上機嫌に言い放った太刀に激昂して、我慢ならなくなった歌仙兼定が思い切り調理台を殴った。
 ゴンッ、と凄まじい音がした。上にあったものが揺れて、数枚並んでいた皿がぶつかり合ってカチャカチャ鳴り響いた。
 ひっくり返りはしなかったものの、団子がひとつ、角から零れ落ちた。
 綺麗な球体が、白い粉散る天板を転がった。抓みあげられたそれは最終的に、歌仙兼定の口に放り込まれた。
 むすっとしながら咀嚼する姿は、相当頭に来ているようだった。腕組みもして踏ん反り返って、皆に背を向けて立つ様は子供じみていた。
 臍を曲げた打刀に対し、太刀はげらげら笑っていた。初めて口で勝ったとご満悦で、本気で嬉しそうだった。
「君の夕餉だけ、豆は抜いておくよ」
「ちょっと待て。俺が剥いた奴だぞ」
 それが尚更悔しくて、歌仙兼定がやり返す。
 台所当番なのを逆手に取った主張に、聞き捨てならなかった和泉守兼定は拳を振り上げた。
 このふたりは、なにかと口論が多い。反発し合って、まるで水と油だった。
 放っておいたら、台所の雰囲気はどんどん悪い方向に転がっていく。
 適当なところで終わらせないといけなくて、小夜左文字は間を計って両者を見比べた。しかし堀川国広が先に割って入り、管を巻く和泉守兼定をあしらった。
「もう、兼さん。あんまり人の名前で遊ぶの、よくないよ」
「お前だって散々笑ってたじゃねーか」
「そんなことないって。それより、ほら、全然進んでないんだから」
「どっちの味方なんだよ、国広さんはよぉ」
「はいはい。怒らない、怒らない」
「お前、なに――ぎゃあ!」
 慣れた調子で太刀を宥め、緑の塊を抱きかかえる。目を細めて優しい顔をして、空っぽには程遠い笊目掛け、莢入りのえんどう豆を追加で注ぎ込む。
 一瞬にして終わりが遠退いて、野太い悲鳴が上がった。がっくり肩を落として項垂れる和泉守兼定に相好を崩して、脇差は無邪気に握り拳を作った。
「がんばろうね、兼さん」
 朗らかに言って、場を仕切る。
 屈託ない笑顔を向けられて、怒るに怒れなかった太刀は渋々ながら頷いた。ぶつぶつ文句を言いつつも大人しく莢を剥き始めて、腰を浮かせていた小夜左文字は茣蓙に座り直した。
 居住まいを正し、背筋を伸ばす。
 視線を感じて顔を上げれば、目が合う直前、歌仙兼定がふいっ、と背中を向けた。
 あそこにも、面倒臭い大人が残っていた。
 忘れていたと肩を竦め、年嵩の短刀は張りのあるえんどう豆を掌に転がした。
 畑の畦に根を張って、光を浴びてすくすく育っていた。
 横向きにして鼻の下に重ねれば、ちょび髭のように見えなくもない。前に厚藤四郎がそうやって遊んでいたのを思い出して、小夜左文字はクスリと笑みを零した。
「歌仙は、今の名前が一番似合っていると、思う」
「小夜坊?」
「だろう。之定?」
 その昔、あの刀には固有の名がなかった。
 人前では滅多に披露しない呼び名を口ずさみ、怪訝にする和泉守兼定を無視して問いかける。
 臍を曲げていた男はそれで渋々振り返って、ずっと組んでいた腕を解いた。
「茶を煎れよう。休憩だ」
 子供に窘められて、意地を張っていたのが急に恥ずかしくなったのか。
 照れ臭そうに言って誤魔化し、打刀は藤色の髪を掻き回した。

2015/07/12 脱稿

神は受けずぞ なりにけらしも

 弥陀の誓いぞ頼もしき 十悪五逆の人なれど
  一度御名を称ふれば 来迎引接疑はず

 歌声が空に溶けていく。
 それはのびやかで、華があり、美しく、それでいて儚げだった。凛としていながら艶やかで、郷愁を誘い、聞く者がこぞって涙するような彩があった。
 朗々と響き渡り、風に乗って遠く、どこまでも流れていく。
 身体に振りかかる振動をものともせず、喉に息を詰まらせる事もなく。
 滔々と流れる水の如く、軽やかな音色はいつまでも続くかに思われた。
「その歌、止めないか」
「……退屈なら歌でも歌っていろ、と言ったのは、貴方でしょう」
 だが、それは不意に途絶えた。胸元から発せられた呻き声に眉根を寄せて、宗三左文字は不愉快だと顔に出した。
 唄うのを止め、口を尖らせる。
 嘆息混じりの苦情は相手にしっかり伝わって、歯を食い縛っていた男は抗議するかのように身を揺らした。
「危ないじゃないですか」
 激しく振り回されて、宗三左文字は慌てて広い背中にしがみついた。逞しい肩に両手を乗せて、振り落とされないように強く握りしめた。
 履物を脱いだ足が左右で踊り、絡まっていた数珠が擦れ合って音を立てた。
 それもまた、非難めいた音に聞こえたのだろう。
 華奢な打刀を背に負ぶって、男は朽葉色の髪ごと頭を振った。
 目に入ろうとしていた汗を散らし、崩れかけた体勢を整え直す。短い間隔で息を吐いて、最後に深呼吸して、気持ちも、身体の熱も鎮めようとする。
 地面に届かない己の爪先を眺めて、宗三左文字は小さく肩を竦めた。
「自分で歩けます」
 彼らの足元に広がるのは、耕作を放棄された、荒れ放題の原野だった。
 雑草が生い茂り、どこが道だったのかも分からない。戦火の名残はそこかしこに見受けられて、乾ききった牛の骨が無残だった。
 屍肉を啄む鴉の鳴き声は喧しく、それ以外に響く音はない。日暮れが迫って空は紫紺に染まり、斜めに伸びる影は太く、長かった。
 見晴らしは良く、遠くにそびえる山の稜線まではっきり見えた。
 それはもれなく、敵側からも発見しやすいという事に他ならない。身の安全を思うのであれば、一刻も早くこの地を離れるべきだった。
 だというのに、この二人は随分ともたもたしていた。周囲を警戒すべきところだというのに歌など口遊んで、まるでその辺を散歩しているような雰囲気だった。
 しかも宗三左文字は、男に負ぶわれていた。
 背丈は、彼の方が若干高い。だが体格は、背負っている方が圧倒的に優れていた。
 肩幅は広く、胸板は厚い。引き締まった腕は背負う荷物を落とさぬよう、白くて細い腿に絡められていた。
 力加減を誤ると、脚の方が折れてしまいそうだ。それくらいに脆弱で、骨に皮が張り付いているだけの部位を一瞥し、へしきり長谷部は鼻息を荒くした。
「冗談を言うな。その足で、どうする気だ」
 腹に力を籠め、低い声で唸る。
 緩みかけていた歩みが再開されて、宗三左文字は呆れた顔で空を仰いだ。
 意地っ張りで、強情で。
 こうと決めたら頑なに譲らない――喩えそれが間違った道だとしても。世界に対して目を瞑っている、愚か極まりない決断だとしても。
 己の全ては、主君の為。
 主の命であるならば、なにがなんでも成し遂げてみせる。
 愚昧なまでの盲信ぶりには、吐き気しか催さない。だがその裏に隠された劣等感を思えば、この男は充分過ぎるほどに、同情するに値した。
「われを頼めて来ぬ男 角三つ生ひたる鬼になれ さて人に疎まれよ」
「だから、止めろと言っている」
 意地でも降ろすつもりはないらしい。
 その独善ぶりに一頻り呆れて、宗三左文字は構わずに続きを諳んじた。
「霜雪霰降る水田の鳥となれ」
 拍子を取り、伸びやかに口遊む。
 自分を押し通そうとするのは、彼もまた同じだ。言っても聞かない男の歌声に、へしきり長谷部は忌々しげに舌打ちした。
 もっとも先に言われた通り、唄えと命じたのは彼だった。
 歴史改変主義者との戦に出て、進軍は順調だった。
 この調子なら敵を全て撃破して、夕刻には本陣に帰還できる。誰もがそう、信じて疑わなかった。
 けれど、そうはならなかった。広大な平原で異形を成す者たちと刃を交えていたその時、突如として空間が捩れ、第三者が戦場へと降り立った。
 検非違使だ。
 いつもなら敵陣と遭遇した直後に現れる奴らが、この日に限って合戦中に出現した。前代未聞の事態に戦列は乱れ、状況は一変した。
 敵味方が入り乱れる混戦となり、陣形の維持は不可能だった。側面からの攻撃に指令系統が分断されて、気が付いた時にはもう、連携は途絶えていた。
 本陣からはぐれ、敵に囲まれた。多勢に無勢の事態に勝機などありはせず、命からがら逃げだすのがやっとだった。
 あの時、たまたまへしきり長谷部が宗三左文字の傍に居て。
 宗三左文字は偶然か否か、へしきり長谷部が居る側に活路を見出した。
 第一部隊に配属されていた、他の刀剣男士がどうなったかは、はっきりしない。今はただ、無事であるのを祈るばかりだ。
「どこへ行くつもりです?」
「…………」
 不安を拭いきれない胸中を気取って、唄うのを止めた宗三左文字が静かに訊ねた。
 へしきり長谷部は沈黙でこれに答え、重くてならない一歩を大地に刻み付けた。
 辛うじて戦場を脱出したふたりだったが、決して無事だったわけではない。手傷を負わされ、あちこちから血が出ていた。宗三左文字に至っては道中派手に転び、右足首を捻っていた。
 数珠が絡む右足は赤黒く濁り、倍近くに膨らんでいた。
 無事な左足と比べれば、その違いは明らかだった。とてもではないが、立って歩くなど出来そうになかった。
 喋っている時間と体力があるなら、少しでも安全な場所へ避難する事に使いたい。
 そういう意志が、荒い呼吸を繰り返す男から感じられた。
 是が非でも下ろすものかという想いも汲み取れて、宗三左文字は諦めて四肢の力を抜いた。
「どうした」
「いいえ、別に」
 寄り掛かられて、へしきり長谷部が突如口を開いた。
 振り向きもしない事務的な問いかけに半眼して、生臭坊主の青年は素っ気なく吐き捨てた。
 袈裟など身に着けてはいるけれど、彼は祈る仏など持たない。経文を唱える事もなければ、そこいらに転がっている骸を悼んで祈りもしない。
 草葉の陰に見付けた野武士の死骸を蔑んで、宗三左文字は黙々と歩く男のうなじを眺めた。
 死角でもある背中を預け、急所たる頸部を平然と晒している。
 ここで宗三左文字が刀を抜き、一閃をくれると考えもしない。
 なんと間抜けで、愚かな刀だろう。
 心の中でひたすら嘲り笑い飛ばして、彼は気取られぬよう嘆息した。
「いいんですよ。置いていってくれて」
 敵の攻撃を振り切るのに必死で、どこをどう逃げたのか、彼らは一切記憶していなかった。
 審神者の力によって時代を遡る彼らは、逆を言えば、審神者がいないと元の場所へ戻れないということだ。仲間たちと暮らす本丸は此処とは異なる時代に存在し、闇雲に歩いたところで辿り着けるわけがなかった。
 いったいどういう理屈で、このような不可解な事象が起こり得るのか。
 一介の付喪神でしかない刀剣男士に知る術はなく、探りを入れる事さえ許されていなかった。
 命じられるままに敵を屠り、その刀身を赤く血に染める。
 刀でしかなかった頃と何も変らない状況にため息を積み重ね、宗三左文字はへしきり長谷部の首筋をツ、となぞった。
 中央部を尖らせた爪で、皮膚に薄い筋を刻みつける。
 確かな意思を持って触れられた男は、その瞬間ピタリと足を止めた。
「僕がいては、邪魔でしょう?」
 反応があった。そのことにまず歓喜して、彼は言葉を重ねて口角を持ち上げた。
 不遜に笑い、へしきり長谷部の心を擽る。
 実際、宗三左文字は彼のお荷物でしかなかった。
 転んだのは、完全な不注意だった。先を行く男から引き離されないように必死で、足元に気を配る余裕などなかった。
 そもそも宗三左文字は、あまり足が速くない。攻撃力も低く、非力さは群を抜いていた。
 そんなひ弱な打刀を戦場に連れ出した、現主である審神者の気が知れない。
 まさか戦列に検非違使が乱入しようとは、審神者も考えていなかっただろう。それでも可能性がなかったわけではなく、いずれこうなると予測して然るべきだった。
 この場に居ない者を咎めても、一文の得にもならない。
 ならばへしきり長谷部の言うように、一刻も早く安全な場所を見つけ出し、身体を休め、傷を癒して機が熟すのを待つべきだ。
 分かっている。だのに、言わずにはいられなかった。
 真っ直ぐ前を見据えたままの男の襟足を撫でて、宗三左文字は甘い蜜たっぷりの言葉を舌に転がした。
「さっさとその腰のもので、僕をへし切ってしまいなさいな」
 ふたりで逃げるより、その方が圧倒的に速く、確実だった。
 宗三左文字は足を負傷して、思うように動けない。はぐれてしまった審神者と合流を果たし、無事帰還したいと願うなら、体力の浪費は避けた方が賢明だ。
 非常事態なのだから、主もきっと許すだろう。
 偽善者を気取るくらいなら、さっさと本性を露わにすればいい。元持ち主の気性の荒さを発揮して、一思いに首を落とせば良い。
 蠱惑的な声色で、闇に惑う心を誘う。
 自分自身の命がかかっているというのに、宗三左文字はまるで他人事だった。
 興味ないとでも言いたげに、軽く扱って、天秤を傾けようとする。
 もとより、己の好きなようになった例がない刀だ。彼は戦利品として召し上げられ、短く磨り上げられた挙句に刻印を刻みつけられ、以後刀身にではなくその文言にのみ価値を見出された刀だった。
 人を斬る、という根本的な刀剣の目的から逸脱し、希有なものとして重宝された。戦になど出してもらえるわけなどなく、使われることもなく、ただ飾られて、見世物にされて。
 耐え難い屈辱だった。
 しかし魔王の銘以外の価値が自分にない事も、宗三左文字は理解していた。
 大事にされるのは、何物にも代え難い刻印をその身に宿しているから。
 だから二度の大火に襲われても再刃されて、権力者の手元に残された。
 傾国だと囁く声もあるけれど、実際はそんな大層なものではない。
 宗三左文字に出来る事といえば、せいぜい所有者に媚を売り、程よく悪態をつくくらいだ。
「どうしたのです、へしきり」
 さっきからずっと足が止まっている。
 挑発を繰り返しながら嘲笑って、彼は無言を貫く男の後頭部を打った。
 小気味よい音はしなかった。へしきり長谷部は頭を垂れて顎を軋ませると、何かに堪えて肩を震わせた。
 そして。
「長谷部だ!」
 やや唐突に、宗三左文字が想像していなかった怒号で応じた。
 怒るべきは、そこなのか。魔王の愛刀は呆気に取られ、ぽかんとしながら目を瞬いた。
 絶句していたら、吼えて気が済んだらしい。へしきり長谷部は咳払いを二度繰り返すと、邪魔なお荷物でしかない男を背負ったまま動き出した。
 両腕は剥き出しの白い膝を抱き、放そうとしない。やや前傾姿勢で落とさないよう配慮を忘れず、生い茂る草を踏み分けて道なき道を突き進む。
 魔王から惜しげもなく、直臣以外の男に下げ渡された事を未だ恨み、事あるごとに口にして。
 過ぎたことに未練たらたらで、女々しいくせに、変に意固地で、強がって。
 主に忠誠を尽くしていれば、主は愛し返してくれると信じている。どこの馬の骨とも分からない審神者に執心して、他の刀剣より優れているところを見せようと必死だ。
 ならば彼のこの行動も、審神者に取り入る為にひとつの手段なのか。
 宗三左文字は魔王の刻印を持ち、時の権力者の間を渡り歩いてきた。多くの者に愛でられ、珍重されて来た刀だけに、審神者にとっても失い難いひと振であるのは疑う余地がない。
 直接問うたことはないけれど、あの者も、その他大勢の権力者と同じだ。
 こうやって天下の一刀を戦場に放り出しこそすれ、手元に戻って来なければ、惜しく思うことだろう。
 籠の鳥であるのは、今も昔も、変わっていない。
 左胸の髑髏に爪を立てて、宗三左文字はどこを目指しているのかも分からない男に瞑目した。
 頭を垂れて、その逞しい肩に額を預ける。
「宗三?」
 毒のあるこれまでの態度とは異なり、いやに淑やかで、大人しい。
 変化を感じ取ったへしきり長谷部が軽く振り返って名を呼んだが、今度は宗三左文字が沈黙で応じる番だった。
 

 辿り着いたのは、古びた一軒家だった。
 戦火が迫っていると知ってか、家人はとうに失せた後だった。土間に六畳ばかりの板張りの部屋がひとつあるだけの狭い家は、小屋と言っても然るべき粗末さだった。
 戸は屋外と繋がる一ヶ所だけで、空間を仕切る襖や壁といったものは一切ない。太い柱が中央付近にどん、と構えて屋根を支えて、土を固めただけの竈には蜘蛛が巣を張り巡らせていた。
 家財道具はひとつも残っていなかった。打ち捨てられてから相当時が経っているらしく、傾いた戸を開けた際は埃が凄まじかった。
「今宵は、此処で休むとするか」
 とはいえ、屋根と壁があれば夜露をしのげる。
 充分有難いと肩の力を抜き、歩き通しだったへしきり長谷部は息を吐いた。
 腕は鉛のように重く、脚は棒と化して久しい。あと少しでも小屋を見つけるのが遅ければ、屋外で力尽きていたかもしれなかった。
 安堵感で胸を満たし、彼は大股で土間を横切った。一段高くなっている板敷きの間に運んできた荷を下ろせば、乱暴に扱われた宗三左文字は不満も露わに口を尖らせた。
「失敬な」
「喧しい」
 文句を言うが、取り合ってもらえなかった。それで益々頬を膨らませ、桜色の髪の男は鼻と口を袖で覆った。
 あまりの空気の悪さに顔を顰めるが、ここで嫌と言える立場でないのも承知していた。贅沢を言っている場合ではなく、それを望める状況でもなかった。
 一喝されて黙り込み、首を竦めたまま薄暗い室内を見回す。屋根は蜘蛛の巣だらけで、床は塵に埋もれていた。
 食べるものなど、当然残されていない。朽ちかけた竈の横に水瓶が置かれていたが、表面には罅が入り、中身は当然空だった。
 転がっていた木桶は、持ち上げると箍が外れてしまった。バラバラになって落ちていく木片に力なく肩を落とし、へしきり長谷部は緩く首を振った。
 柄杓のひとつも、縁が欠けた茶碗さえも見付からない。当然布団といった物があるわけもなく、今夜は固い床で眠るしかなさそうだった。
 焚き木に使えそうな薪すら残されず、藁束は湿っていた。陽が沈めば気温が下がるが、暖を取ろうにも燃やすものがなかった。
 調度品を飾る棚もなく、生きていくのに必要最低限の空間しか用意されていない。かつて住んでいた人の名残は窺えず、その生活ぶりも想像し難かった。
「無事であれば、良いのだがな」
「なにがです?」
「ここに住んでいた者たちだ」
「ああ……」
 結局、めぼしい物はなにもなかった。狭い小屋の中を隅から隅まで調べ終えたへしきり長谷部が呟いて、宗三左文字はその偽善ぶりに顔を背けた。
 方々を逃げまどっている間、沢山の死骸を見た。
 焼けた村を見つけた。無残に蹂躙された形跡が、そこかしこに残されていた。
 けれど宗三左文字たちは、彼らを哀れまない。襲われている者たちを見つけても、一切介入しない。
 出来ない。
 奇跡的に生き延び、泣いている赤子を見つけたところで、その小さな手を握り返してやることさえ許されなかった。
 歴史を変えてはいけない。それが審神者の出した唯一の条件であり、刀剣男士が絶対に守らなければいけない理念だった。
 無事であろうと、なかろうと、人の世に介入出来ないのだから関係ない。
 興味なさげに相槌を打った偽坊主を見詰め、へしきり長谷部は時間をかけて溜息を吐いた。
「痛むか」
 会話が弾むことはなく、沈黙ばかりが続く。
 仕方なく話題を切り替えて、彼は床の縁に腰かける男の足元で膝を折った。
 根太を支持する床づかは、土間から一尺ほどの高さを維持していた。それが足を垂らすには丁度良くて、宗三左文字は部屋の奥へ行こうとせず、降ろされた時のまま動いていなかった。
 本丸の縁側に腰掛けて、雨上がりの庭を眺めている姿が思い起こされた。遠くから眺めるだけに済ませた日をふと蘇らせて、へしきり長谷部は痛ましい色に染まった細い右足を取った。
「……っ」
 瞬間、息を呑む音が聞こえた。悲鳴をあげぬよう堪えているのが窺えて、彼は赤黒く腫れた患部を手放した。
 途端にほっとした気配が感じ取れて、その分かり易さに苦笑が漏れた。
「折れては、いないようだな」
 もっとも、これだけで判断するのは早計だ。ちゃんと調べないと、手当ての仕様がなかった。
 骨に異常があるか、ないかで、治療方法は大きく異なる。腫れが酷いようなら血を抜いた方が良い場合もあって、へしきり長谷部は思案気味に眉を寄せた。
「放っておけば、そのうち治りますよ」
 改めて触れようとしたら、骨と皮ばかりの爪先がピクリと跳ねた。
 新たな痛みを警戒し、怯えているのが見て取れた。強がりも良いところの台詞をぶつけられて、苦笑を禁じ得なかった。
「馬鹿を云う」
 そんな意見、聞き入れられるわけがない。
 状況を正しく理解出来ていないと鼻で笑い飛ばして、へしきり長谷部は左手で踵を包み込み、右手で爪先部分をぐっ、と奥へと押し込んだ。
「ぃあっ!」
 宗三左文字の口からは、今度こそ絹を裂いたような悲鳴が上がった。背中を「く」の字に曲げて丸くなって、きつく閉ざされた眼の両側には深い皺が刻まれた。
 薄い唇を噛み締めて、突如襲って来た激痛に耐えている。
 そういう態度はいじらしく、健気ではあるが、普段の生意気さを思えば、憐みは起きなかった。
 構うことなく右手首を捻れば、握ったままの足もそちらへ傾いた。
「う、っぁ……く、ぅ」
 捩じられ、宗三左文字の顔が苦悶に歪む。色を失った肌には脂汗が浮かんで、眉は八の字に寄っていた。
 それを暗がりの中で確かめて、へしきり長谷部は胸に生じた嗜虐心を踏み潰した。
 これ以上はただの虐めだと反省し、五本並んだ小さな指を順に抓んで、動きに異常がないかを調べて終わりにする。
 手を離してやれば露骨に安堵されて、そこで初めて、憐憫が生じた。
「骨に異常はなさそうだ。筋を痛めただけだろう。冷やした方が良いな」
 医術の心得があるわけではなく、専門的な知識は持ち合わせていない。
 聞きかじった程度の情報を総合して呟いて、彼はゆっくり立ち上がった。
 土間に着けていた膝を起こし、背筋を伸ばして左を見る。そちらには彼らが入って来た戸が、傾いた状態で放置されていた。
 宗三左文字も痛みを堪えつつ同じ方向を見て、瞬時に冴えた横顔を仰ぎ見た。
「長谷部」
「水を探してくる。人が住んでいたのだ、井戸か、川が近くにある筈だ」
 ただでさえ青白かった顔色がもっと悪くなったが、へしきり長谷部は気付かなかった。隙間から外を窺いつつ告げて、振り返りもせず出て行こうとした。
 直前、宗三左文字が名を呼んだ声さえ、ひとつのことに意識を向けた男には届かなかった。
 真っ直ぐ前だけを見て、脇目も振らずに邁進して。
 主に認めて貰うことだけに必死になって、周りからどう評価されても耳を貸さない。
 見ようともしない。
 伸ばされた柳のように細い腕が、虚しく空を掻いた。筋張った長い指は何も掴むことなく戻されて、力なく冷えた床板へと落とされた。
 語る言葉をなくした唇を噛んで、宗三左文字はズキズキと痛む足をじっと見つめた。
「そうですか。どうぞご随意に」
 散々弄り回された患部は熱を持ち、疼いていた。指先の痺れが神経を伝って広がって、捻った以外の場所まで腫れて来ていた。
 肥大して重い心臓を外側から押さえこみ、薄紅色の衣で刻印を隠す。
 衣擦れの音は聞こえた筈だが、へしきり長谷部は見向きもしなかった。
 素っ気ない言葉で渦巻く感情を隠し、誤魔化す。どうせ分かってもらえないのだから訴えても無意味と、愚鈍極まりない男に唾を吐く。
 けれど戸が開かれ、閉じられた時だけは、顔を上げずにいられなかった。
 綺麗に閉まり切らない戸が立てた音に睫毛を震わせて、宗三左文字は自嘲気味に微笑んだ。
「かなり、痛みますね」
 この熱は、どうすれば引いてくれるだろう。
 水に浸す程度では癒えそうにない傷口に触れて、彼は膝に額を打ち付けた。
 何故あの瞬間、へしきり長谷部の元へ駆け寄ろうとしたのか。
 戦列が乱れ、陣形が崩れて収拾がつかなくなった時、守りを厚くすべきはその中心部だった。隊を率いる長を戦線から離脱させて、その後どう対処すべきかの判断を乞うのが最も妥当な判断だった。
 しかし宗三左文字は、そうしなかった。
 検非違使は、左翼を任されていたへしきり長谷部の部隊に、真っ先に攻撃を仕掛けた。横から予期しない敵に襲われた隊は瞬く間に崩壊して、全滅の憂き目に晒された。
 あそこで宗三左文字が、部隊の一部を連れて駆けつけていなければ、最悪、彼は折れていた。再刃が利かぬくらいに粉々に砕けて、戦場に散っていた。
 馬も失って、追撃を逃れて混戦が続く戦場とは逆方向に逃げた。へしきり長谷部は主を気にして戻ろうとしたが、宗三左文字が足を負傷したのが契機となり、安全な場所へ退避するのを優先させた。
 怒っているか、それとも呆れているか。
 刀が守るべきは主であるのに、それに背を向けさせた。彼の矜持を傷つけた自覚はあって、宗三左文字は力なく首を振った。
 たいした力も持たない、見た目だけ重宝された刀に守られたのも、魔王織田信長由来の刀は不満だろう。
 自分の身は自分で守れたと豪語されて、実際その通りだったから、返す言葉もなかった。
 いっそこのまま、ここで果ててしまいたい。
「僕はね、長谷部」
 咄嗟の判断を悔やむつもりはないが、巻き込んでしまった点だけは後悔があった。
 途中で見捨てたりせず、辛抱強く付き合ってくれたのには感謝しかない。
 けれどもう自由にしてやっても良いと思いながら、同時にひとりにしないで欲しいと願ってしまった。
 戻ってこなかったらどうしよう、と。
 置いていかれたらどうしよう、と。
 何も掴めなかった手で肉の薄い脚をなぞり、不安を打ち消そうと目を瞑る。そのまま疲弊した身体に任せて意識を手放し、眠ってしまおうとした矢先だった。
「――っ!」
 ガタガタッ、と大きな音が突然響いて、宗三左文字は弾かれたように身を起こした。
 部屋の端に座ったまま背筋を伸ばし、音の発生源に顔を向ける。
 陽の光を遮って立つのは大柄の、屈強な男だった。
 逆光になった所為で、その顔は見え辛い。まさか追手かと身構え、腰の刀に手を伸ばそうとした矢先、肘で閉まりの悪い戸を押した男が大股で近付いて来た。
「寒いのなら、これでも着ていろ」
 そうして藪から棒に言うと、着ていた上着を脱いで宗三左文字の肩に羽織らせた。
 長い裾が風を受け、ふわりと膨らんでから沈んで行った。陣羽織を模した衣装の下は南蛮好みで、幾重にも折り重ねられた襞が一列に並んでいた。
 白い手袋が喉の下に触れて、勢いを失った上着を押さえこんだ。肌蹴ていた胸元を隠された傾国の刀は目を丸くして、随分帰りが早かった男に絶句した。
「寒そうに、見えましたか」
「違うのか? 背を丸めていただろう」
 あまりにも的外れなひと言に、驚きが隠せない。
 惚けていたら己の勘違いを悟ったか、へしきり長谷部は気まずそうに目を泳がせた。
 彼の視線の先には、格子窓があった。本来あるべき障子は剥がれ落ちており、外から中は丸見えだった。
 それが丁度、へしきり長谷部の視線の高さに近かったのだろう。
 身体を丸める宗三左文字の姿が見えたから、慌てて戻って来た。そういうところだ。
「貴様は、なかなか言おうとせんからな」
 足を捻った時も、先ほどへしきり長谷部に苛められた時も。
 宗三左文字は呻き声を数回あげただけで、「痛い」とは一度も口にしなかった。
 弱音を吐くのは見苦しいと、我慢している。だがそれでは、本当に痛む場所が分からない。
 見立て以上に傷の具合が悪かったと懸念して、急いで帰って来た。彼の心配は杞憂に終わったわけだが、色々と意外過ぎて笑い飛ばす気力も沸かなかった。
 茫然としていたら、苦虫を噛み潰したような顔で小さく舌打ちされた。
「いいか。俺が戻るまで、絶対にここを動くな。勝手は許さんぞ」
 ばつが悪いからか、早口に、命令口調で言って瞬時に踵を返す。頭ごなしの上から目線だったが、宗三左文字にはムッとする余裕がなかった。
 言いたいことだけを言い残して、開けっ放しだったと戸から足早に出て行ってしまった。しかも戸を閉めるのさえ、忘れて。
 それくらい羞恥心に襲われて、気が動転していたという事だろうか。
 ああいう反応もあるのだと緩慢に頷いて、宗三左文字は隙間から吹き込む風に身を震わせた。
 動きたくても、この足では走れない。
 それくらい分かっているだろうに、釘を刺していった。消え去ることを望む感情を察知されたのかと勘繰って、彼はゆるゆる首を振った。
「あの男に限って、まさか」
 へしきり長谷部に、相手を思いやる心があるとは思えない。単に思いつきで言っただけだと一笑に付して、宗三左文字は肩から背を覆う上着に指を絡めた。
 これを羽織らされた時、自分はどんな顔をしていただろう。
 思い出そうとするが、少し前の出来事なのに、いやに難しかった。
「まったく、汗臭いんですよ。これ」
 仕方なしに思考を切り替え、鼻腔を擽る微かな匂いに悪態をつく。実際その衣は久しく洗濯されておらず、特有の体臭が染み付いていた。
 どこぞの雅を尊ぶ男ではないが、香でも焚き付けておいてくれれば、少しは気持ちよく羽織れたものを。
 文句は尽きることなく出て来たが、脱ごうという気は起こらなかった。それどころか逆に襟を握って、胸の前で腕を交差させた。
 汗と脂と、血の臭いが混ざり合い、複雑な彩を形成していた。それは水を探しに出ていった男そのものであり、離れていても存在を強く意識させられた。
 他に注意が向いた為か、足首の痛みが少しだけ和らいだ。
 おかしなものだと自分を笑って、宗三左文字は身体を傾がせ、右肩を下にして床に伏した。
 下半身は土間に垂らしたまま、腰を捻って横になる。貸し与えられた上着は彼の膝まで覆い隠して、十二分に暖かかった。
 そんな訳がないのに抱きしめられていると錯覚させられて、変な感じだった。
「あまり、僕を甘やかさないでください」
 へしきり長谷部は魔王が自らを手放したことを恨み、願わくは戻りたいと常々口にしていた。
 宗三左文字は魔王によって見出され、その身に所有の証を刻み付けられた。本能寺でも傍に置かれ、状況が違っていれば、魔王と命運を共にしていた。
 そんなだから、彼は宗三左文字が嫌いだった。
 嫌って当然だ。
 そうであって欲しい。
 そうでなければ困る。
 審神者に喚び出された後も、腫れものに触れる扱いながら、一応は大事にされていた。本丸で初めて顔を合わせた弟も、態度は依然ぎこちないけれど、慈しもうと努力している様子が感じられた。
 薬研藤四郎も、なにかと気にかけてくれていた。
 審神者の本心がどこにあるかは分からないが、丁重に扱ってくれているのは、我儘が比較的簡単に通るところからして、間違いなかった。
 本丸と棟を別にする部屋はまだ新しく、とても静かだった。日当たりが若干悪くて日中も薄暗いけれど、籠の鳥には充分な環境だった。
 愛されていると思う。
 これからも、無条件に愛され続けていくのだと思う。
 そこに刃を突き立てて、切り裂いて欲しかった。
 誰もが求めて止まないこの刻印を、きっと、あの男だけは躊躇無く削ぎ落としてくれる。
 目を閉じれば、闇が落ちて来た。
 そっと息を吐いて、宗三左文字は心地よい疲れに身を委ねた。
 

 軽い振動を感じて、意識が擽られた。
 木々の間を抜ける風の音は、獣の唸り声にどこか似ている。樹木のざわめきもまた、賑わう市の雑踏を連想させた。
 万屋に行く夢を見た。
 審神者に命じられたのは自分ではなかったが、気分転換にどうだと誘われて、ついていった日のことだ。
 初めて自分の足で出向いた市中は混み合っていて、気を抜けばすぐにはぐれてしまえそうだった。見失わないよう必死に追いかけたけれど、慣れない身体では巧く進めなかった。
 待ってください、とも言えなくて、そうしている間に距離が開いた。
 置いて行かれる恐怖が勝って足が竦んで、速度が落ちた。悪循環に陥って、袋小路を抜けられなかった。
 完全に立ち止まってしまって、動けなくなった。どこへ行けばいいのかも教わっておらず、完全な迷子だった。
 瞼を開き、二度、瞬きを繰り返す。
 未だ眠っているのかと思いたくなる闇が眼前を埋め尽くして、宗三左文字は眉を顰めた。
「眠って……いたっ」
 此処は何処かを真っ先に考えて、身を乗り出そうとした矢先にズキン、と刺さるような痛みが走った。思わず声に出して叫んでしまって、彼は飛び跳ねて患部へ手を伸ばした。
 まるで、万力で締められているみたいだった。ギリギリと左右から挟まれて、千切れるまで引き絞られている錯覚に陥った。
 勿論そんな拷問道具は存在しないけれど、それくらいに強い痛みが生じていた。
 不用意に動かし、床を支えている材木にぶつけたのが原因だった。
 それがなければここまで酷くはならないはずで、己の注意不足に涙が出そうだった。
「く、う……っあ、んぅ」
 鼻を愚図らせ、口で息を吸い、奥歯を噛み締めて背を反らす。
 なんとかやり過ごせはしないかと懸命に足掻くものの、時間が過ぎても痛みは引かず、逆に熱を強めて宗三左文字を苦しめた。
 いっそ膝から下に刃を押し当て、斬り落としてしまいたい。
 短絡的な発想を大真面目に検討して、彼はその膝を抱え込んだ。
 一番痛む場所には触らぬようにして、汗に濡れる額を半月板へと擦り付けた。
「宗三」
 直ぐ傍から声が聞こえたが、反応出来なかった。それが誰なのかも認識出来ないくらいに苦悶に顔を歪め、宗三左文字は肩に触れた手を反射的に跳ね返した。
 乾いた音がひとつ響いて、それでハッと我に返る。
 月明かりが薄く照らしだす空間で、へしきり長谷部が青白い顔をしていた。
「痛むのか」
 そういえば、彼が一緒なのだった。
 欠落していた記憶を取り戻し、彼は荒い息を吐いた。肩を上下させて唾を飲んで、返事はしないで顔を伏した。
 言葉を発するなど、出来そうにない。惨めに助けを求めて縋る真似だけはしたくなくて、宗三左文字は我を張って首を横に振った。
 すぐ分かる嘘を吐いて誤魔化すが、こればかりは通じなかった。へしきり長谷部は諦めずに腕を伸ばし、傷口を覆う手を払い除けた。
 ガタゴトと響いた音は、彼が立ち上がった音だろう。視界を確保出来るだけの光が届かない屋内で、移動手段は手探りだった。
 柱にどこかぶつけたらしく、呻き声がした。息遣いは乱れて、獣のようだった。
「くそ!」
 素人判断で怪我の状態を甘く見たのを、今更後悔している。吐き捨てられた罵声は、恐らくは彼自身に向けてのものだ。
 苦悩する顔が脳裏に浮かんで、宗三左文字は苦笑しようとして失敗した。二度、三度と噎せて咳き込んで、足元に蹲る気配に眉を顰めた。
「はせ、べ」
「添え木をしておくべきだったか。冷やそうにも、布が足りん」
 べちゃ、と湿った音もした。直後に右足首に濡れた手拭いが被せられたが、それは人肌よりも生温く、不快感が増しただけだった。
 気持ち悪さに耐えきれず、宗三左文字は膝を揺らした。痛みが誘発されたが、湿って重い手拭いよりはましだった。
「っう……」
「なにをしている、宗三。馬鹿な真似はよせ」
「これくら、い。なんでも、ありません」
 一旦は引きかけていた痛みの波が、今度は二重になって押し寄せて来た。
 左腕で顔を覆って呻く彼をへしきり長谷部が叱ったが、それは強がる彼を一層意固地にしただけだった。
 痩せ我慢に歯軋りして、へしきり長谷部は泥で汚れた布を拳で殴った。
 小川を見つけはしたものの、手で掬って運んでいくわけにはいかない。仕方なく懐にあった手拭いを湿らせて、宗三左文字の足に掛けておいた。
 もっとも、その程度では焼け石に水だ。桶は最後まで見つけられなくて、川と小屋との間は、日が暮れるまでの間では三往復が限界だった。
 食料もなく、眠っている最中に少量の水を飲ませるのがやっとだった。空腹では自然治癒能力も減退するらしく、へしきり長谷部自身、戦場で負った傷は癒えていなかった。
 せめて気を紛らせてやれれば、少しは楽になれるだろうに。
 医者に頼れず、本丸にある手入れ部屋も使えない今、彼が思いつく案といえばそれくらいだった。
 薬などない。
 冷やすための氷も用意してやれない。
 痛いだろうに、辛いだろうに、声を押し殺して平気だと言い張る愚か者を助けたい。
 手段がない。
 術がない。
 言いたいことの半分も口にせず、最初から何もかも諦めている馬鹿を救いたい。
 絶対に連れて帰る。
 籠の中に戻るなど嫌だと言われても、一度掴んでしまった手を振り払えるわけがなかった。
「宗三」
 紫陽花が咲いていた。
 己の髪と同じ色の花を前にして、蝸牛でも見つけたのか、それにちなむ今様を口ずさむ姿は、いみじくも美しかった。
 憐憫の眼差しを向けられているのは知っている。哀れに思われ、蔑まれているのも承知していた。
 既に嫌われているのだから、今以上に感情が悪化する事はあるまい。
 見下されているのは正直腹立たしいが、興味すら持たれないよりは良かった。そんな風に考えて自分を慰めて、へしきり長谷部は苦悶を顔に出す男へと身を乗り出した。
 床に倒れ伏す宗三左文字が、濃くなった闇に眉を顰めた。柳眉を寄せて怪訝な顔をして、覆い被さるように距離を摘めて来た男を警戒して顎を引いた。
 痛みが熱を呼ぶのか、青白かった肌は幾分赤みを強めていた。激痛に耐える眼は涙に濡れ、艶を帯びて潤んでいた。
「はせ、べ?」
 突然どうしたのかと、左右で色違いの瞳が宙を泳いだ。困惑を表に出して、押し返そうとする手がへしきり長谷部の上腕に触れた。
 これから何をされるのか、まるで想像がつかない様子だった。恐怖を抱いているのがありありと感じられて、自分が優位に立っている状況に心が沸き立った。
「な、……っう!」
「どうした。痛くないのではなかったのか」
 高揚感に背中を押され、左手を下方へと差し向ける。右腕は上半身を支えるのに使って、肘の骨がひっきりなしに床を叩いた。
 帯の締め方が甘いのか、宗三左文字は大抵、脚が肌蹴ていた。袈裟を着た坊主にあるまじき身なりをして、無知な雄を誘う姿は蝶を模した毒虫に等しかった。
 だが今はそれを逆手に取って、手袋を嵌めたままの手で肉の薄い太腿をまさぐる。
 緩く揉むように膝の方へと下ろして行けば、痛みの源泉に近付くにつれて、宗三左文字の顔が歪んでいった。左上腕を掴んでいる指先にも力が込められて、爪を立てて掻き毟られた。
 痛くも痒くもない攻撃を鼻で笑い、へしきり長谷部は下唇を噛み締める男を覗き込んだ。
「強がりも大概にしろ」
 捻った場所の手前で指を止め、強情を張る宗三左文字を咎める。
 暗闇の中で淡く輝く眼を覗き見ながら告げて、降参して認めるように促す。
 その割に手はしつこく動き回り、膝の関節を一周した後、脹脛の筋を捏ねた。やわやわと揉んで、宗三左文字の眉間に皺が寄れば退いて、来た道を戻って内腿へと伸ばされた。
 覆い被さる布を手の甲で押し退けながら、一番上には行かずに手前で引き返す。この期に及んで臆病風に吹かれていると笑いたくなって、宗三左文字は真顔で人を窺っている男に口角を歪めた。
 足首に集中していた意識は拡散して、別のところに集い直そうとしていた。言わずもがな、肉の薄い右脚を撫で回す手に神経が集中して、痛みはあるのに、若干それどころではなくなりつつあった。
「なに、を……言うかと、思えば。これしきの痛みで、僕がどうにかなるとでも?」
 彼の意図するところが、朧げながら見えてきた。
 何百年経っても不器用なままだと笑みを噛み殺し、宗三左文字は屈してなるものか、と強気に言い返した。
 勿論、腫れている場所は痛い。
 熱は高くなる一方で、最早それが自分の身体の一部なのかどうかさえ、判然としなくなっていた。
 痺れて感覚がなかった場所をなぞられ、強い電流が何度も走った。尻が浮き、背が撓りそうになるのを必死の思いで堪えて、彼は腹立たしげにしている男を嘲笑った。
「馬鹿にしないで、くれます、か。……僕を。誰だと」
 言葉は切れ切れだったが、喋る度に力が戻ってくる気がした。
 萎えていた気力が蘇って、負けたくないと心が奮い立った。
 あの時もそうだった。
 万屋に初めて連れて行ってもらった時、道にはぐれた。人混みに圧倒されて、押し流されて、動けなくなった。
 茫然と立ち尽くし、自分の居場所を見失った。
 こんなにも沢山人の目があるのに、誰一人として宗三左文字を見ようとしない。道のただ中で棒立ちの彼を迷惑そうに一瞥するだけで、美しいだとか、素晴らしいだとか、お仕着せの褒め言葉を口にする者もいなかった。
 恐かった。
 それまで漠然と抱いていた恐怖の正体が、その瞬間、はっきり分かってしまった。
 宗三左文字にはなんの価値もない。二度も焼かれて、再刃されて、本来の切れ味はとうに失われた。鈍ら刀は戦場に不向きであり、生来の刃紋さえ失われた今、彼にあるのは魔王が遺した刻印だけだ。
 誰も宗三左文字を見ない。
 そこに宗三左文字がいると、気付かない。
 確かに此処に在るのに、消えてしまった気分になった。透明になって、その他大勢の中に埋没して、見向きもされない自分を想像した。
 居るのに、居ない。
 居ないのと同じ。
 皆が欲しがるのは魔王の刻印であり、宗三左文字そのものではない。
 足が竦んだ。倒れそうだった。悲鳴をあげたくなった。我も忘れて泣き叫びそうになった。
 震えが止まらなかった。涙が溢れた。喉を掻き毟った。
 血が出るまで爪を立てた手を、力任せに引っ張られた。
 何をしている、と怒鳴られた。勝手に居なくなるなと叱責されて、一方的になじられた。
 呆然とするより他になかった。こめかみに血管を浮き上がらせて、へしきり長谷部はいつも通りだった。
 嫌いな相手の面倒も、審神者に命じられれば素直に従う。
 そういうところに、安心した。
「宗三」
「大体、そういう貴方こそ、どうなんです。変な顔に、なっていますよ」
 張りつめていた糸が切れて、力が抜けた。深く息を吐いて目尻を下げて、宗三左文字は真上に陣取る男の頬を小突いた。
 柔らかくはなかった。弾力にも乏しく、弟である短刀の小夜左文字の半分も指が沈まなかった。
「貴様の目が曇っているだけだ」
「そうですか。そういう事にしておきますか」
「俺を愚弄するか」
「まさか。僕は本当のことしか言いませんよ」
 軽口を叩きあい、至近距離から睨み合う。勝敗は最初から決まっており、へしきり長谷部は忌々しげに顔を背けた。
 右腕の位置を宗三左文字の脇から頭上に移動させて、腿から引き剥がした左手を口元に持って行った。
 薄く唇を開き、ひとつ息を吐いたと思えば指先を噛む。
 否。彼が前歯で挟んだのは、返り血や泥を浴びて汚れた手袋だった。
 首を右から左へ振って、一気に引き抜く。露わになった指はゴツゴツして、岩かなにかのようだった。
「ん……っ」
 そんな無骨な手が、宗三左文字の額に触れた。汗を吸って重くなった前髪を払い除けて、素肌に直接指の腹を押し当てた。
 掌は眼を避け、こめかみから頬を覆った。その状態で暫く動かさず、渋面だった宗三左文字の表情が緩むのを大人しく待ち続けた。
「ああ、あなたの手。冷たくて、ふふ。気持ちが良いです」
「そうか」
 鼻筋を伝おうとした汗を、親指が拭い取った。それに合わせて首筋へと下がっていった手を引きとめて、宗三左文字は珍しくへしきり長谷部を褒めた。
 元々彼らは刀なのだから、本来は冷たくて然るべきだ。
 今のお前が熱すぎる、とは言わずにおいて、へしきり長谷部は目を閉じた男の頸部を擽った。
 太い血管の上を辿り、脈動を確かめてからハッとする。
 宗三左文字も瞼を開き、不用意に急所を明け渡した己に愕然となった。
 影が揺れ、その瞬間だけ相手の顔がはっきり見えた。お互い呆然としたまま見詰め合って、引き金を引いたのはへしきり長谷部だった。
 太い親指がつい、と泳いだ。動脈の上からはぐれて喉仏を探り、男としては目立たない突起を通り過ぎて行った。
 残る指もそのまま滑り降りて、やがて長着の衿に行き当たった。
「長谷部」
 襦袢の隆起を押し潰し、退けようとしているのが肌で感じられた。内側に潜り込む指先が皮膚を削って、急な変化に宗三左文字は声を上ずらせた。
 喉元を広げようとする手が、異様に冷たかった。仰ぎ見る男の表情は能面のようであり、それでいながら切迫したものを匂わせていた。
 迷いを抱きながらも、熱を欲しがる眼が宗三左文字を射抜く。ぞわり、と内臓を沸き立たせる眼差しに、彼は反射的に膝を閉じた。
 足首の痛みなど、最早露とも思い出せなかった。目の前で繰り返される獣の吐息に意識は掻き乱され、喰われてしまう恐怖に歓喜が圧し掛かった。
「はせべ」
 熱に浮かされ、お互いおかしくなってしまったらしい。鼓動は荒れ狂い、正常な判断力を根こそぎ薙ぎ払った。
 舌足らずに名を呼べば、男は瞑目し、先立つ後悔を振り払うべく頭を振った。
「宗三」
 低い声で応じて、前歯の裏を舐める。身を乗り出して距離を詰めて、熱を帯びた双眸を、意志を確かめるべく覗き込む。
 宝玉の眼がへしきり長谷部を映し出した。
 鏡のように澄んだ彩の奥に潜む想いを暴こうと、牙を剥き、男は手元に落ちる影を払い除けた。
 ぱちっ、と。
 薪の爆ぜる音がした。
「…………?」
 と同時に、松脂の焦げる臭いがした。先ほどまでとは確実に異なる明るさに瞠目して、彼らは揃って瞬きを繰り返した。
 相手の顔がはっきり見えた。嘘ではなく、夢でもなく、ましてや夜明けが来たわけでもなかった。
 この廃屋に光源はなく、囲炉裏は沈黙したままだ。仰け反って部屋の奥を確かめて、宗三左文字は絶句している男に目で問いかけた。
 かといって、へしきり長谷部にも分かるわけがない。だが嫌な予感を覚えて背中に汗を流し、彼は左手を床に衝き立てた。
 宗三左文字を跨いでいた脚も土間へ降ろした。そうして前屈みの状態で、首から上だけを後ろへ向けた。
「あれ、止めちゃうの?」
 そこに、火の玉を見た。
 身を屈め、頬杖をついて悠然とする男が見えた。
 長い髪を肩から胸元へ垂らして、左手には松明が握られていた。炎で自分を焦がさぬよう高く掲げ、無邪気に微笑んでいた。
 その顔には見覚えがあった。
 にっかり笑う男に騒然となって、へしきり長谷部は立ち位置も忘れて竦み上がった。
「いった!」
 弾みで宗三左文字の足を蹴ってしまい、耐える間もない悲鳴が屋内に轟いた。
 長らく忘れていた痛みが蘇った。反射的に叫んで身体を丸めた宗三左文字に、へしきり長谷部は慌てて振り返った。そこの出刃亀を誅殺するのも忘れて青くなって、悪気がなかったとはいえ、傷を悪化させてしまった事態に右往左往した。
「宗三、すまん。すまん!」
「なんなんですか、あなたは。いつもいつも、そんなに僕が嫌いですか」
「違う。わざとではない。わざとでは――にっかり青江、貴様何故此処に居る!」
 急いで謝るが、癇癪を爆発させた宗三左文字は聞き入れない。大声で怒鳴りつけて、無事な方の脚で蹴って接近を拒んだ。
 腰を打たれた男は軽くよろめき、言い訳の最中に思い出して吠えた。
 いったいいつから、いつの間に。
 こじ開けられた戸口からは冷たい夜風が吹き込んで、松明の炎を激しく揺さぶっていた。
 壁に描き出された影が収縮を繰り返し、反響した声が外へ溢れていく。
 罵声を浴びても平然として、にっかり青江は外を指差した。
「どうしてって、言われても。主の命に決まってるじゃない。君たちを探して来いってさ」
 検非違使の強襲をどうにか凌いだものの、戦線は混乱し、行方不明になる刀剣男士もいた。
 無事を確認出来なければ、本丸へ戻る事も出来ない。審神者はなんとか合流出来た面子にすぐさま新たな指令を下し、へしきり長谷部と宗三左文字の回収を命じた。
「主も酷いよね。僕たちだって、ぼろぼろなのにさ。それなのに寝食惜しまず、仲間を探せっていうんだから。ああ、どうぞ続き、してくれていいよ。僕はただの灯篭で、居ないものと思って気にしてくれなくていいから。いやあ、それにしても、君たちってそういう関係だったのんだね。いつも喧嘩ばっかりだったから、全然知らなかったよ」
「ち、違う。妙な誤解はやめろ。第一、誰がこんな、可愛げのない男などと」
「そりゃあ、どうも失礼しました。ですがね。言わせてもらいますけど。僕だって、あなたみたいな朴念仁、絶対にお断りです」
「貴様、俺を愚弄する気か」
「ずっと言ってるじゃないですか。僕は、本当のことしか言いません」
 簡単に事情を説明したにっかり青江に、へしきり長谷部が真っ赤になって反論する。それに宗三左文字が噛みついて、口論は瞬く間にふたりだけのものと化した。
 喧嘩するほどなんとやら、という言葉が思い浮かんだ。一瞬で存在を忘れ去られた大脇差は苦笑を禁じ得ず、座り続けるのも辛くなって膝を伸ばした。
 松明を掲げ、それほど広くない屋内を照らし出す。
 光は外にも漏れて、程なくしてけたたましい足音が夜を切り裂いた。
「宗三、無事か!」
 夜戦慣れした短刀の機動力を発揮して、邪魔な扉を蹴散らして薬研藤四郎が飛び込んできた。勢いに乗ったまま正面の壁に激突しそうになって、直前で回避して通り過ぎた場所を駆け戻った。
 大きな瞳を不安げに揺らめかせ、呆然としている打刀の前で息を整える。惚けていた宗三左文字は三秒してから我に返り、詰め寄って来た短刀に反射的に頷いた。
 無事といえば、無事だ。
 足を挫きはしたが、それ以外はおおむね問題ない。
「おやおや。薬研君は心配性だねえ」
「って、どこが無事なんだ。足、腫れてんじゃねえか。どうしちまったんだ、これは。熱は。痛みは。ちゃんと手当てしたんだろうな」
 けれど薬研藤四郎は信じず、赤黒くなった足首を見て声を荒らげた。血相を変えて捲し立て、にっかり青江が茶化すのも無視して両手を戦慄かせた。
 思わず触れそうになって、直前に停止して指先を痙攣させる。頬は引き攣って紅潮し、怒りはへしきり長谷部へと向けられた。
「手前ぇがついてながら、なにやってんだ。この糞長谷部」
「宗三が勝手に転んだだけだ。俺に責任を押し付けるんじゃない」
「しかもなんだ、これ。冷やしてもねえのかよ。ああ、宗三の綺麗な足が台無しじゃねえか」
「致し方なかろう。手段が、その。なかったんだ」
「その辺に熱冷ましの薬草くらい、いくらでも生えてんだろうが。それくらい覚えとけ。甘ったれてんじゃねえぞ、ったく。待ってろ、宗三。今すぐ俺が治してやっからよ」
 道具がなければ、ある物で代用すればいい。周辺に生えている木々の葉も、濡らせば患部を冷やす布代わりになった。
 そういう方面に頭が働かなかった男を叱り、誰よりも男らしい短刀は華奢で骨張った手を取った。
「は、はあ……」
 状況が一瞬で急変して、理解が追い付かない。
 ぽかんとしたまま頷いて、宗三左文字は人数が増えた屋内を見回した。
「ったく、役に立たねえ奴だな、本当に。図体ばっかり、でかくなりやがって」
「いつ、貴様の方が俺より大きかったことが……こら、やめんか。蹴るんじゃない」
「あ、あー。僕は残りのふたりを呼んでくるね」
「おう、頼む」
 憤慨している薬研藤四郎に、やや押され気味のへしきり長谷部。にっかり青江は巧く話に混じれなくて頬を掻き、合流を果たせずにいる他の刀剣男士を呼びに出て行った。
 すっかり置き去りにされていた宗三左文字は、辺りに暗さが戻ったところでふっ、と息を吐いた。
「ふふ、……ははは。あは、はははは」
「宗三?」
「そう。そうなんです、薬研。その男、本当に……まるで役に立たなくて。もっと言ってやってください」
「ぬあ、あ、きっ、貴様!」
「おー、おー。ったく、仲間ひとり守れねえような奴に、宗三を任せておけねえな。宗三、いいか。次なんかあった時は、こいつは見捨てて、迷わず俺を頼れ」
「ええ、そうします」
「宗三、薬研も。貴様ら、あ、あんなに、俺が」
「なんですか、見苦しい。僕を負ぶって連れて来てくれたことには感謝しますけれど、少し恩着せがましくありませんか?」
 堪え切れず笑い、薬研藤四郎と調子を合わせて軽口を叩く。
 責めてくる相手がひとりから二人に増えて、見るからに不利な状況に追い込まれた男は青くなった。
 必死に反論を試みるが、口達者な両名を前にして、勝てるわけがない。
 にっかり青江は既に外に出た後で、援護射撃は期待できなかった。
 出来ることを精一杯やったつもりなのに、認めて貰えない。それどころかあれが悪い、これが宜しくないと矢継ぎ早に咎められ、彼を支えていた自信は見る間に砂となって崩れ落ちた。
 ついに膝を折って項垂れたへしきり長谷部に、宗三左文字はやれやれと肩を竦めた。
「知ってますよ」
 彼がどれだけ不器用で、生真面目なのか。
 一生懸命対処しようとしてくれた事、助けようとしてくれたこと。
 足を挫いたのは、決して悪い事ではなかった。
 薬研藤四郎に怒られそうな感想は胸にしまいこんで、宗三左文字は鈴のような笑い声を響かせた。

2015/07/04 脱稿

出でてややまむ 山の端の月

 目の前に広がるのは、見知らぬ河原だった。
 そこがどこであるか、まるで分からなかった。来たこともなければ、訪ねようと思ったこともない。右を見ても、左を向いても、灰色の石ころしか転がっていなかった。
 川があった。
 大きな川だ。流れは緩やかで、波はほとんど立っていない。遥か彼方の対岸は黒々しい雲に覆われて、岸辺に生える木々はどれも葉が落ち、枯れ果てていた。
 枝ぶりも立派な大樹なのに、惨めな姿と化していた。朽ちて白くなった枝の先には襤褸布が引っかかり、風もないのに当て所なく揺れていた。
 派手な色柄の名残が見えるものがあった。
 金銀の刺繍が施され、大層豪華な晴れ着まであった。
 けれどそれも、所々解れて、破れていた。長く風雨に晒されて来たのか、往時の栄華さは鳴りを潜めていた。
 耳を澄ませば、遠雷のような音が聞こえた。
 おぉぉ、おぉぉ、と絶えずこだましている。ずっと聞いていると、胸が締め付けられるように痛んだ。
 息苦しさを覚え、小夜左文字は藍の袈裟を握りしめた。左手は無意識に首の数珠を撫で、その奥に隠れていた喉仏を引っ掻いた。
「……なに、ここ」
 不意に恐怖に襲われて、足が竦んだ。草履を履いた足が尖った小石を蹴り飛ばし、カコン、と小さな音を立てた。
 途端に対岸からの声が大きくなって、彼は耳を塞いで身を強張らせた。
 黒い雲に覆われた川向うで、赤い火柱が上がった。火山でも爆発したのか、血にも勝る鮮やかな紅が轟音と共に天を突いた。
 地鳴りがして、足元が揺れた。立っていられなくなって、小夜左文字は片膝を折ってしゃがみ込んだ。
 頭を抱えたまま、地震が収まるのをじっと待つ。灼熱の溶岩に焼かれる死者の声は益々強くなり、何度殺されようとも終わらない苦しみが、対岸にいる短刀にまで襲い掛かった。
 いったい、どれくらいの時間、そうしていたのだろう。
 揺れが落ち着いた後もしばらく蹲り続け、小夜左文字は脂汗を流して荒い息を吐いた。
 瞬きを忘れた眼が、足元に敷き詰められた小石を映し出した。尖っている部分が刺さったのか、右の親指からは血が出ている。けれど痛みはまるで感じなくて、彼は緩くかぶりを振り、思い切って顔を上げた。
 景色は変わらなかった。噴煙は見えず、ただ鉛のように重い悲鳴だけはずっと続いていた。
 あれは、地獄へ落とされた者たちの嘆きの声だ。
 生前の罪を贖う為に、死者はいつ終わるとも知れない責め苦を受け続ける。ある者は炎に焼かれ、ある者は串刺しにされ、またある者は獣の牙に貫かれる。
 閻魔大王の前では、どれだけ弁が立とうとも無意味だった。
 鏡に映し出された過去の悪行に釈明は許されず、無慈悲な裁定が下される。地獄に通じる門が閉まる夜はない。
 目を凝らせば、遥か遠くに橋が見えた。渡し船の前には行列が出来て、身ぐるみを剥がれた者たちが集い、止め処なく涙を流していた。
 再び彼岸に目をやれば、相変わらず不気味な雲が、空の低い場所に留まっていた。
 景色が見えないのが唯一の救いだが、代わりに鼓膜を震わす声が止まない。
 獄卒たちの容赦ない責め苦がいかに厳しく、辛いものであるか。聞こえてくる叫び声だけでも、手に取るように理解出来た。
 己もいずれ、あそこへ行く。
 彼は多くの無辜の民を手にかけ、この身を血で濡らして来た。
 その罪は非常に重く、生半可な苦しみでは許されたりしない。
「そうか」
 ここに来てようやく、小夜左文字は気が付いた。
「僕は、……折れたのか」
 己が何故、この場所に立っているのかを。
 他人事のように呟けば、急に現実味が沸いてきた。曇っていた眼が晴れて、寸前の記憶がまざまざと蘇った。
 そう。小夜左文字は折れた。
 一介の刀剣であった彼は審神者なる者に喚び出され、付喪神として人の姿を得た。歴史改変を目論む異形との戦いに身を投じて、敵の斬撃を受け、数多の傷を負った。
 そしてついに、砕かれた。
 致命傷を受けた。振り翳した刃は敵に届かず、世界は暗転した。
 次に目覚めた時、彼はこの岸辺に立っていた。
「あれは、では、三途の川か」
 得心がいった。納得だと首肯して、少年は目の前に横たわる広い、広い川に視線を投げた。
 水は黒く濁り、澱んでいた。
 土砂でも流れ込んでいるのか、底が見えない。当然魚が生息しているわけがなく、穏やかな流れはひっそり静まり返っていた。
 ここに身を投じれば、二度と浮き上がることはないだろう。実際、橋を渡る死者の中には、この後待つ裁きを恐れ、自ら川に飛び込む者もいた。
 小夜左文字が見ている前で、またひとり、断末魔の叫びを残して消えていった。それに引きずられる形でもうひとり、更にひとりと、立て続けに水柱があがった。
 川面を揺らす水飛沫は、そう時間が経たないうちに終息した。流れは再び穏やかになり、絶望の淵に立つ死者を手招いた。
 目を閉じれば、京都の夜を彩る提灯の炎が浮かび上がった。
 月明かりさえ見えない裏通りを駆け、狭い路地で戦っていた。一歩進む度に敵が躍りかかって来た橋は、今思えばとても短かった。
 爛々と目を輝かせた凶刃を掻い潜り、先陣を切って刃を振るった。戦に怯える他の短刀たちを庇うように進んで、率先して傷を受けた。
 まだいける。
 もっと行ける。
 皮膚が裂け、血が流れようとも休まなかった。ここで立ち止まるわけにはいかない。己を鼓舞して、獣となって吼えた。
 その結果が、これだ。
 思い出しているうちに、笑いたくなってきた。実際クツクツと喉を鳴らして、小夜左文字はあちこち破れている袈裟を撫でた。
 下に着込んだ直綴の真ん中に、大きな穴が開いていた。
 背中側も同様だった。手探りで触れれば、白衣を通り越して素肌に直接指が当たった。
「――っ!」
 瞬間、槍で貫かれた衝撃が彼を襲った。吐き気がして、恐怖が四肢を覆い尽くした。
 身の自由を奪われて、小夜左文字はカタカタ震えながら丸くなった。瞠目したまま冷たい汗を流し、開きっ放しの口からはなんだか分からない声が漏れた。
 彼は折れた。
 咄嗟に身を守ろうとした刀諸共、槍が小さな体を打ち砕いた。
 これで楽になれると、一瞬、考えた。
 もう復讐に固執しなくて良い。居もしない仇を探し求め、戦場を血眼になって駆け巡らなくても済むのだと、思った。
 分かっていたはずだ。この身に、安らぎの時はやってこないと。
「当然、だよね」
 肩を上下させ、小夜左文字は乱れた息を整えた。濡れた口端を手の甲で拭って、少年は皮肉な笑みを浮かべた。
 自嘲して、ゆっくり肩を落とす。
 蒼色の瞳は光を失い、双眸は乾いていた。
 極楽へ行けるなど、端から思っていなかった。地獄行きは至極当然で、妥当な判断だった。
 だというのに、少なからず傷ついた。
「そうか……」
 この広大無辺な川を渡った先は、地獄だ。一度入れば二度と抜け出せない、永遠の檻だ。
 兄である江雪左文字は常々、この世こそ地獄だと口にしていた。
 戦が絶えず、連日連夜どこかで、誰かが死ぬ。
 平穏を求めようとも、そんな世界、どこにもありはしないのだ。
「もう、会えないのか」
 愁いを帯びた横顔が、流れるように消えていった。
 己の身の置き所を探し求め、彷徨っていた次兄の顔も現れ、消えた。
 賑やかな本丸の、喧しい連中が、泡の如く弾けて消えた。今剣に、厚藤四郎に、堀川国広や、燭台切光忠も。
 最後に残った大きな泡も、手を伸ばす前に儚く散った。
 紫の髪が風に揺れて、小夜左文字は溢れ出そうになった嗚咽を飲んだ。
 彼は刀としての役目を終えた。
 最早二度と、現世に戻ることはない。
 あそこに帰ることは出来ない。
 どれだけ歩いても、どんなに走っても。
 今一度、本丸に帰還を果たす日はやって来ない。
 会えない。
 誰にも、ずっと。
 もう、逢えない。
「……っ」
 不意に感情が突き上げて来た。全身が震え、背筋が粟立った。
 奥歯を噛み、小夜左文字は涙を堪えた。あまりにも残酷な現実に押し潰されそうになって、彼は懸命に己を奮い立たせた。
 辛くない、わけがない。
 けれどここで泣くのは、絶対に認められなかった。
 刀としての矜持を最後のよすがとして、二本足で凛と立つ。地獄で苦しむ亡者の声は途切れず、彼の努力を嘲笑った。
「僕は、……左文字の、刀だ」
 たとえその刀身が砕かれようとも、誇りまでは折られたりしない。
 最期の一瞬まで清廉と輝いてみせると息巻いて、小夜左文字は横薙ぎに腕を払った。
 歯を食い縛り、眉間の皺を深くして。
 たとえ地獄の鬼が相手でも、決して怯んだりしない。
 力強く決意して、荒々しく足を踏み鳴らして。
 彼は鞘より抜き放った刀を、逆手に握りしめた。
 歌が聞こえた。
 子供の声だった。
 悲鳴も聞こえた。
 悲しみに暮れる叫びだった。
 鬼がいた。
 赤黒い肌をして、金棒を振り回していた。
 遠い昔に見た、地獄絵図そのままだった。醜悪な顔をして、鬼が追い回しているのは、小さく、ひ弱な、白い影だった。
 石の塔があった。
 よくよく気を付けてみれば、そこかしこに、無数の塔が建てられていた。
 白くぼんやりとした影が、その足元に蹲っていた。無垢な涙は、その朧げな影から流れ落ちていた。
 歌は、和讃だった。
 賽の河原で石を積むのは、父母よりも先に死んだ子供たち。
 親不孝を詫びて、ただひたすらに石を積み上げていく。それを、鬼が崩す。塔が完成することは、ない。
 父の為、母の為。兄の為、姉の為。これから生まれてくるだろう、弟たちのため。
 幼くして死した子が、現世に遺した者たちを想って重ねた石を、鬼たちは無遠慮に、容赦なく壊していく。
 許せるわけがなかった。
 見逃せるはずがなかった。
「やめろ。やめろ!」
 小夜左文字は吠えた。腹の底から湧き上がる怒りに身を任せ、彼は金棒を振り回す鬼目掛けて突進した。
 後のことなど考えなかった。
 既に数えきれない罪を背負って、地獄行きは免れない。今更ひとつやふたつ、罪状が増えたところで関係なかった。
 手に馴染む短刀を握りしめ、砂利を蹴る。高く跳んで、少年は鬼を一閃せんと刃を振り翳した。
 しかし。
「――な!」
 あと一寸で鬼の頭蓋を打ち砕く。そんな瞬間に、肝心の鬼の姿が掻き消えた。
 目標を見失い、小夜左文字は目を剥いた。
 白く淡い影が見えた。涙を流す、哀れな子供の貌が瞳に飛び込んできた。
「しま……っ」
 慌てて腕を引こうとしたが、間に合わない。
 鬼の暴虐を阻もうとした。それなのに彼の刀は、あろうことか、守ろうとした子の塔を、木っ端微塵に打ち砕いた。
 目論見と正反対な結末を目の当たりにして、小夜左文字の心に罅が入った。ぴしっ、と硬い音を響かせ、必死に守ろうとしてきたものの角がぽろりと欠けた。
 目を見張り、少年は立ち尽くした。崩れ落ちた石の塔を茫然と見詰め、掌中から滑り落ちそうだった刀を急ぎ握り直した。
 肩で息をして、振り返る。
 鬼がいた。
 哂っていた。
 無駄な足掻きと短刀を虚仮にして、次の標的を探して金棒を振り回した。
「待て!」
 止めようとしたが、間に合わない。
 あと少しで完成を見るはずだった塔はガラガラと音を立て、跡形もなく消し飛んだ。
 伸ばした手は、なにも掴めなかった。虚空を掻き、小夜左文字は立ち尽くした。
 またひとつ、罅が走った。
 目に見えないなにかが、足元から崩れていく気がした。
 視線も自然と下に落ちて、ぼろぼろに千切れた草履と、傷だらけの爪先を映し出した。
 小石が沢山、転がっていた。
 ここで塔を作っていた子供の影は、場所を移したのか、いつの間にか見えなくなっていた。
「僕、は」
 人の形をした影は、涙を流していた。哀しみに支配されて、己の救いよりも、別れねばならなかった家族の為に祈っていた。
 それを小夜左文字が壊した。
 よかれと思ってやったことが裏目に出て、罪だけが積み上げられていく。
 声が震えていた。
 立っていられなかった。
 鬼の高笑いと、子供の泣き声がこだました。死者の叫びが川向うから響き、川面を飾る水柱は花火のようだった。
 がくりと膝を折り、小夜左文字は蹲った。
「いたっ」
 偶然当たった石は角が鋭く尖っていて、躊躇なくその指を刺した。
 血が出ていた。じんわり赤く染まっていく指を口に含めば、どこか懐かしい味がした。
「あにうえ」
 鉄錆びた匂いまでも舐めとって、彼は欠けてボロボロになった刀を手放した。
 両手で河原の石を集めて、作るのは粗末な石塔だった。
 大きくて平らな石を土台にして、その上に少し小さめの石を置く。更にその上に、またひと回り小さい石を重ねて、を繰り返す。
 江雪左文字の顔を思い浮かべながら。
「あにさま」
 宗三左文字の顔を思い出しながら。
「今剣」
 共に京へと出陣した、烏天狗を懐かしみながら。
「燭台切光忠、大倶利伽羅」
 台所で良く顔を合わせた男たち。
「堀川国広、和泉守兼定」
 同じく台所で時々一緒だった、世話好きの脇差と、その邪魔ばかりする太刀。
「厚藤四郎、五虎退、乱藤四郎」
 粟田口の短刀たちには、よく酷い目に遭わされた。悪戯に巻き込まれ、関係ないのに連帯責任で正座させられた。
「一期一振」
 藤四郎たちの長兄には、妙な形で世話になった。弟たちへのついでだと色々なものをもらったし、江雪左文字との仲を取り持ってもらったりもした。
「へしきり長谷部」
 黒田での縁で、彼とはたまに、碁を愉しませてもらった。これからは次兄宗三左文字と、喧嘩をせずに過ごして欲しい。
「薬研藤四郎」
 粟田口の短刀の中で、一番世話になったのは彼だろう。ぎこちなかった宗三左文字との関係が改善に向かったのは、間違いなく彼のお陰だった。
「鶴丸国永」
 悪戯好きな太刀には、頻繁に驚かされた。どうか暗く沈んでいるだろう本丸を、その持ち前の明るさで、眩しいくらいに照らしてはくれないだろうか。
 積み上げる石が、段々小さくなっていく。
 崩さないように乗せていくのは大変で、神経を削る作業だった。
 そして、なにより。
「ああ――っ」
 獄卒が振るう金棒が、彼の努力を薙ぎ払った。
 短刀を握る暇もなかった。最初のうちは斬りかかり、悔しさを爆発させていたが、どうやっても刃は鬼に届かず、寸前ですり抜けて終わりだった。
 なにも残らなかった。高く積み上げた石塔は倒されて、土台の石まで破壊された。
 そんなことを、五度も、六度も繰り返した。虚しさが心を占めて、そのうちに、鬼に反発する気持ちさえ持てなくなっていった。
 疲れていた。
 石を掴む手にも、力が入らなかった。
「……う、っ」
 悲しいのに、涙は出なかった。
 喉を引き攣らせ、小夜左文字は傷だらけの両手を握りしめた。
 現世に未練などなにもない。そのはずだ。これで誰も恨まずに済むと、憎しみを抱かずに済むのだと、喜びさえ抱いていた。
 だというのに、どうしたことだろう。
 石を積み、崩され、また積んで、崩されて。
 それを繰り返す度に、本丸での日々が無性に懐かしくてならなかった。
 最初は嫌だった。
 審神者に反発し、逆らい、窘められ、渋々従った。仲間が増えて騒がしさが増して、兄だという刀剣が現れて、復讐への執着が薄れていくのを肌で感じていた。
 あそこは暖かかった。
 とても、優しい場所だった。
「かせ、ん」
 喘ぐように息を吐き、石を取る。握りしめて、どうせ崩されると分かっている塔に積む。
 哂う鬼が見えた。振り上げられる金棒を止める手立てが、彼には残されていなかった。
 それでも諦めきれなかった。
 もう一度会えるのなら、何度壊されても、石を積み続けるのを止めたくなかった。
 兄、江雪左文字は言った――この世は地獄だと。
 小夜左文字もそう思う。
 けれど少なくとも、皆が居るうちは。
 皆と一緒にいる時だけは、そこが地獄たりえるわけがなかった。
 帰りたい。
 帰りたかった。
 またあの場所で、兄たちと。
 仲間たちと、賑やかな日々を過ごしてみたかった。
 獄卒の鬼になど屈しない。
 絶対に、折れたりしない。
 目を吊り上げ、少年は吠えた。無体に振る舞う鬼を威嚇して、今一度、ぼろぼろになった刀へと手を伸ばした。
 掴み取り、身構える。蒼の瞳を爛々と輝かせて、打ち倒すべき相手を見出し、刀の矜持を高らかに叫んだ。
 鬼に塔を崩されて涙する子供たちを背に庇って、守り刀としての尊厳を奮い立たせた。
「僕は小夜左文字。全てに復讐する者だ。貴様たちの悪行の数々、地獄の果てで悔いるがいい!」
 牙を剥き、最後の力を振り絞った。高く、高く跳びあがって、彼は渾身の一撃を鬼へと放った。
 着地場所を誤りはしない。避けられても追撃の手は緩めず、右に、左に動き回って、河原の塔から鬼を遠ざけた。
 今のうちに、と心が急いた。石積みの塔が完成した後、何が起きるかは分からないが、そうしなければいけない気がして、身体が動いた。
 無論獄卒たちも黙っていない。生意気な短刀風情を打ち負かそうと、鬼は聞き苦しい雄叫びを上げた。
 金棒を振り回し、小柄な少年を追い回す。けれど大振りな一撃を躱すのは容易で、小夜左文字の敵ではなかった。
「殺してやる。ああ、殺してやるさ!」
 後方で、ぽっ、ぽっ、と白い光が弾けるのが見えた。子供の影は手を合わせ、安らいだ表情で頭を垂れた。
 一瞬見えた光景は、小夜左文字を安堵させこそすれ、不安にはさせなかった。
 きっとこれで良かったのだ。胸を撫で下ろして、彼は次々集まってくる鬼たちに不遜な笑みを浮かべた。
 口角を持ち上げ、嘲笑を投げ返す。
 挑発し、彼奴らの意識をこちらに集める。どこかの太刀を真似て石を蹴って目潰し代わりにして、一斉に襲い掛かって来た獄卒の頭を跨ぎ、その背中を踏みつける。
 食らえば骨まで砕ける金棒は、密集する鬼たちにとっては仲間を屠る武器でもあった。
 共倒れを狙って巧みに場所を移動して、大振りの一撃を易々躱して逆に斬り付ける。怪しげな幻術は効力を失ったのか、肉を貫く鈍い感触が、柄を通して伝わって来た。
 袈裟斬りに刃を振るい、即座に後ろへ跳んで金棒を避ける。背後から狙って来た鬼の股を潜り抜けて逆に後ろを取り、脚の腱を切って倒れたところで、真上から振り下ろされた金棒からさっと逃げる。
 肉が拉げる音がした。
 断末魔の叫びは、人のそれではなかった。
 鬼の数は減らない。逆にどんどん増えていく。一方小夜左文字はひとりきりで、四方を取り囲まれれば逃げ場はなかった。
 もっともここを切り抜けられたとしても、彼に行く宛てなど、ありはしなくて。
 地獄で死んだら、どうなるのか。
 興味は尽きず、逆に笑いがこみあげてきた。
「どうした。小夜左文字はここにいるぞ!」
 雄々しく吠えて、賽の河原の鬼を集める。
 永劫にこれが繰り返されるとしても、悔やむ理由は、ひとつもなかった。
 色めきたった鬼たちが、徒党を組んで襲って来た。逃げられないように全方向から一斉に押し寄せて、小夜左文字を押し潰した。
 光が、爆ぜた。
 

 世界はすべて、輪郭があやふやだった。
 ぼやけた視界に、彼は眉目を顰めた。ふわふわと当て所なかった意識が一ヶ所に集約されて、戻ってきた聴覚が鳥の囀りを拾い上げた。
「こ、こ……は」
 口を開いても、巧く音が出なかった。乾ききった唇は動かすと痛くて、鼻から吸い込んだ息は粘膜を焼き、熱を産み出した。
 噎せそうになったが、咳さえ出ない。
 徐々に形をはっきりさせていく世界に瞬きを繰り返して、小夜左文字は見えた天井に眉目を顰めた。
 あの目玉のような木目を、知っている。
 河童か、大天狗の横顔か。異なる見え方で論争したのは、もうかなり昔の話だ。
 光は足元から差し込んで、障子戸の影が畳に刻まれていた。外の様子は見えないけれど、恐らくは快晴で、心地よい風が吹いていることだろう。
 洗濯日和。
 そんな言葉が思い浮かんで、彼は鉛のように重い腕を引き上げた。
 肩まで覆っている布団から抜き出し、額を覆おうとする。けれど命令に反し、身体は全く反応しなかった。
 指がぴくぴく痙攣を起こすのみで、肘が曲がらない。腹にも力が入らず、首を横に倒すのさえ一苦労だった。
 動けない。
 起き上がれない。
「な、に……が」
 まるで全身が、石になってしまったようだった。
 意識だけが冴え渡り、魂と肉体が分離してしまったみたいだった。
 掠れた声で呻き、小夜左文字は懸命に抗った。起き上がろうともがいて、必死になって歯を食い縛った。
 お蔭で少しずつ、感覚が戻って来た。
 後頭部がほんの少し浮いて、首が前に傾いた。肘を支えに上半身を持ち上げて、鉄片で出来ていそうな重い布団を押し退けようとした。
「んぅ、……う……」
 自分のものではない声が聞こえたのは、そんな時だった。
 腹の上から響いた呻きに、短刀は瞬きを繰り返した。
 誰かがそこにいる。
 人の腹を枕にして、よく知る男が唸っていた。
 藤色の髪が見えた。正座したまま前に崩れ落ちたのか、折り重なり合った膝が畳の縁を踏んでいた。
 巧く動けなかったのは、この巨大な重石があったのも影響している。
 理解した途端に怒りが湧き起こって、小夜左文字は発作的に右足を蹴り上げた。
 もれなくあらゆる筋肉や神経が激痛を発したが、そもそも声が出ないので呻きようがなかった。下から突き上げられた男も眠りを妨げられて、大袈裟すぎる反応で飛び上がった。
「えっ。ええ!?」
 まだ寝ぼけているのか、目を白黒させて大慌てで左右を見回す。狼狽激しい表情は滑稽だったが、無理をした報いを受けていた小夜左文字に、笑い飛ばす余裕などなかった。
 奥歯を噛み締め苦悶に耐え、眼差しだけで男を射抜く。
 地獄の底から蘇った短刀に、目が合った打刀はきょとんとした顔で凍り付いた。
 まるで死者が蘇ったかのような表情をされて、面白くない。
「かっ、……」
 なにをそこまで、驚く必要があるのだろう。
 不満を訴えるべく口を開いたものの、相変わらず喉は焼けて、声は音にならなかった。
 吐く息も細く、長く起き上がっていられない。
 力尽きるのに、五秒とかからなかった。再び布団の上の人となった彼に、歌仙兼定は顔色を青くして、直後に興奮に赤く染め変えた。
「ささっ、さ、さ、さっ……さよ。小夜、が!」
 動揺しすぎて舌が回らず、名前ひとつまともに呼べない。
 ひっくり返って頭のてっぺんから声を出して、やれ雅だ、風流だと五月蠅い男は慌ただしく立ち上がった。右往左往して落ち着きなく動き回り、挙動不審に足を踏み鳴らしたかと思えば、突然頭を抱え込み、ハッ、と息を飲んで硬直した。
 軽く十秒以上は停止して、瞬きひとつしない。
「……?」
 今度は彼が石になったかと懸念して、小夜左文字は眉を顰めた。
 瞬間、だった。
「小夜が。小夜が。さよがあああああああ!」
 細川の打刀は絶叫し、障子戸を蹴破る勢いで飛び出していった。
 足音うるさく掻き鳴らし、雅さを忘れて駆けて行ってしまった。
 開け放たれたままの障子戸からは朝の光が差し込んで、燦々と照る陽光がいやに眩しかった。
 目を細めて、小夜左文字は状況を整理すべく息を吐いた。
 四肢の力を抜き、馴染みのある天井を仰ぐ。本丸で毎日寝起きしている部屋は、前と変わらず、綺麗に整理整頓されていた。
 随分と長い間、眠っていた気がした。
 夢を見た。内容は判然としないものの、あまり楽しいものではなかったことだけは、辛うじて覚えていた。
 ズキン、と腹に痛みが走った。
 触れようと思ったが、身体は依然動かない。どうしたものかと悩んでいた短刀は、遠くから近付いてくるけたたましい足音に顔を顰めた。
「さよくん!」
 程なくして、障子戸が思い切り左右に開かれた。耳に痛い甲高い声が響き渡って、怒り心頭の元大太刀が、色違いの目を吊り上げた。
 緋色の瞳を尖らせて、今剣は敷居を跨ぐと同時に飛び上がった。
「さよくんは、おおばかです!」
「ぐえぇっ」
 大声で怒鳴り、布団から動けない小夜左文字に圧し掛かった。大の字で着地を決めて、逃げようがなかった短刀仲間を押し潰した。
 内臓が圧迫され、槍に貫かれた傷が疼いた。完全に塞がっているはずなのに痛みが膨らんで、二度目の悶絶に少年は泡を噴いた。
「しっ、し、ぬ……」
「ばかです。ばかばか、さよくんのばか!」
 呻くが、訴えは届かない。人の腹に馬乗りになった短刀はぽかすかと小夜左文字を殴って、ただでさえ傷ついている身体に追い打ちをかけた。
 このままだと、本気で殺されかねない。
 早く退いて欲しいのに、抵抗出来ない身体が恨めしかった。どうしてこんなにも疲労が蓄積されているのかと、混乱に拍車がかかって眩暈がした。
 限界に達した意識が強制終了を企て、目の前がふっ、と暗くなった。と同時に今剣の拳も一気に遠ざかって、安堵したのも束の間、高い場所から抗議の声が降ってきた。
「はなしてください、いわとおし。ぼくは、もーれつにおこってるんです!」
 薄目を開けて上を見れば、烏天狗が浮いていた。空中でじたばた暴れて、両手両足を振り回していた。
 もっとも今剣の背中に羽が生えたわけではなく、単に薙刀に吊り上げられただけだ。本丸でも際立って大きい男は見た目同様豪快に笑って、右腕にぶら下げた短刀を提灯のように揺らした。
「落ち着け、今剣よ。これ以上やっては、左文字の小僧がまた手入れ部屋行きだぞ」
「む、うー」
 憤りももっともだが、冷静になるよう促す。外見と違って思いの外細やかな気遣いが出来る薙刀を呆然と見上げ、小夜左文字は膨れ面の今剣にも視線を投げた。
 目が合って、思い切り睨まれた。ふんっ、と鼻息荒く顔を背けられて、その怒りの度合いが推し量れた。
 戸惑い、眉を顰める。
 困り果てた表情を下に見て、岩融は呵々と笑った。
「だがな、左文字の小僧よ。お主も悪い。あまり皆を驚かせるな。俺は、今剣が泣くところを、そう何度も見たくはないぞ」
「いわとおし!」
 ふっと真顔になって、薙刀が低い声で告げる。
 内容に異議ありと今剣が吠えたが、岩融は聞こえなかったふりをして肩を竦めた。
 改めて烏天狗の少年を見れば、その目元は黒く濁り、酷い隈が出来ていた。
 そういえば歌仙兼定も、最初のうちは顔色が悪かった。髪はぼさぼさで、無精髭も生えていた。
 眠っているうちに、いったい本丸になにがあったのか。
 それ以前に、どうして長い眠りに就かねばならなかったのか。
 途切れ途切れの記憶に荒い息を吐き、唇を舐める。振動を伴った足音が複数、また聞こえて、今度は頭側にあった襖が力任せに開かれた。
 あまりにも勢いが良過ぎて、衝撃で頭が浮いた。固い枕が僅かにずれ動いて、小夜左文字は目を丸くした。
「小夜!」
「小夜……」
 どきりとして、直後に聞こえた声にまたも瞠目する。
 振り返るのも叶わなくてじっとしていたら、天井に固定された視界に、あちらから潜り込んでくれた。
 薄紅色の袈裟と、銀の袈裟。
 肩で息を整えて、左文字のふたりが枕元で膝を着いた。
 香の匂いがした。いつも涼しい顔をしている江雪左文字までもが、額に汗を浮かせ、乱れた呼吸で胸を上下させていた。
 数珠が見えた。
 血の気の引いた貌に、今剣よりもずっと酷い隈が出来ていた。
 眉目秀麗なふたりが、揃ってだった。まるで二晩、三晩と寝る間を惜しんで経を唱えていたかのようで、その憔悴具合は凄まじかった。
「ああ……」
 感極まって、宗三左文字は両手で顔を覆った。何度も、何度もかぶりを振って、やがて小夜左文字へと身を乗り出した。
 今剣とは違い、手前に倒れ込まれた。肩に触れられ、腕を引っ張られ、自由の利かない手を掴み、握り締められた。
 江雪左文字は薄く開いていた唇を引き結ぶと、物言いたげな眼差しで弟を見据えた。溢れんばかりの想いを奥歯で噛み締めて、最後に深く頭を垂れた。
「感謝します」
 小夜左文字の、そのもっと先に居るなにかに向けて謝辞を述べる。
 心の底からの安堵が感じられて、少年は当惑したまま左右を見回した。
 気が付けば、歌仙兼定も部屋に戻っていた。
「小夜、起きたって?」
「これ、厚。静かになさい」
「小夜君が目を覚ましたって、本当かい?」
「おいおい、やっとかよ。小夜の奴、随分と寝坊助だな」
「ようやくか。まったく、鍛錬が足りん。腑抜けているぞ、小夜左文字」
 他にも大勢、部屋に集まっていた。入りきれない者が縁側や廊下にまで溢れて、その賑やかさといえば、過去に例がないほどだった。
 驚き、唖然として、小夜左文字は助けを求めて歌仙兼定を見た。細川で一緒だった打刀は小さく肩を竦めると、彼が身を起こす手助けをして、その背を支えた。
 そして懐に手を入れて、小さな包みを取り出した。
「本当に、危なかったんだからね、小夜」
 これがなければ、助からなかった。
 そう囁いて彼が差し出したのは、京へ出陣する際、審神者が持たせた守り袋だった。
 きつく結ばれていた紐は解け、傾ければ中身が転がり落ちて来た。それを左の手で受けて、小夜左文字はどくりと鳴った鼓動に四肢を戦慄かせた。
「地蔵、……菩薩」
 賽の河原で、子供たちは石を積む。
 親不孝を詫びながら、高く、高く、石を積む。
 地獄の鬼が邪魔をする。塔を壊し、薙ぎ払う。
 永遠に、終わらない。
 終わらせられるは、ただひとつ。
 地蔵菩薩の加護ひとつ。
 守り袋に入っていたのは、菩薩を描いた木片だった。それが見事に真っ二つ、真ん中で裂け、割れていた。
 右手に錫杖、左手に宝珠。
 子供を守護する地蔵菩薩は、ふたつに別れても尚、小夜左文字に優しく微笑みかけていた。

2015/6/17 脱稿

あやなく袖に しぐれもりけり

 その日、本丸に帰り着いたのは、陽もとっぷり暮れた後だった。
 遠征に出ていた面々を出迎えたのは、寝ずの番を任された蜻蛉切。それ以外の刀剣男士は、審神者も含め、とっくに寝床に就いたという。
 お陰で屋敷内は静まり返り、まるで誰も居ないかのようだった。
 疲れ果てて帰って来たというのに、皆を起こさないよう、息を潜めなければならないとは。
 世知辛いものだと呟いたのは歌仙兼定で、聞いていた全員がほぼ同時に頷いた。特に身体が大きい大太刀が窮屈そうで、次郎太刀は酒の入った瓶を大事そうに抱きしめていた。
 その中で跳ねる水音で、誰かが目覚めるわけがないのに。
 未だ現世での生活に馴染めていないのか、彼らの怯えようには笑うしかなかった。
 履物を脱いで、抜き足、差し足で奥へと進む。審神者への報告は明朝にするとして、歌仙兼定は大きな欠伸を零した。
 右手で顔を覆い、優雅さも忘れて口を開く。もっとも隣を行く陸奥守吉行も、同田貫正国も、似たような顔をしていた。
 特に鯰尾藤四郎や骨喰藤四郎など、今にも眠ってしまいそうな雰囲気だ。こっくり、こっくりと舟を漕いで、ちゃんと起きているのかも怪しかった。
「君らはもう、先に休んだ方がいいんじゃないかな」
 彼らは今日、審神者の意向を受けてとある時代に出向き、歴史修正主義者たちが仕込んだ罠や、裏工作を回収する任に当たっていた。
 もし放っておけば、歴史が大きく変わってしまう。それは時の政府としては、絶対に防がなければならない事態だった。
 単に刀を握り、戦場で駆け回っていればいいのとはわけが違う。
 その地域に明るい刀を選び、敵に気取られない技能に優れた刀を隊に加え、状況を総合的に判断可能な刀を隊長に据える。
 出立前から打ち合わせを重ねて、お陰でなんとか無事に終わった。安堵した途端にどっと疲れが押し寄せて来て、疲労感は戦場に出るのとは段違いだった。
 早く湯浴みをして、泥だらけの衣服を着替えたい。
 けれどそれよりも、なによりも、一刻も早く布団に包まり、惰眠を貪りたかった。
 人の身体というものは、便利なように見えて、なかなか不便に出来ていた。自由自在に動き回れるといっても限度があり、食事と睡眠を削れば途端に力が出なくなる。
 道中で冷えた握り飯を食べはしたが、空腹は凄まじい。
 ただそれ以上に眠気が勝って、許されるならこの場で倒れてしまいたかった。
「なあ。あんた、なんか作ってくんねーのか」
「ははは。いやあ、さすがに、ちょっと」
 同田貫正国に問われ、歌仙兼定は笑って首を振った。風呂上りになにか食べたい気持ちは少なからず持ち合わせていたが、自分が作るとなると、話は別だった。
 期待の眼差しを向けられても、応じられない。
 やんわり断られた無骨な太刀は盛大に舌打ちすると、湯殿へ向かう足取りを速めた。
 隊で一緒だった面々を置き去りにして、一番風呂を狙う気らしい。
 ただ懸念すべきは、本丸の檜風呂に湯が張られているかどうか、だった。
「水風呂でなければ、良いんだけどね」
 審神者に命じられて律儀に起きていた蜻蛉切が、頃合いを見計らって沸かしてくれていればいいのだが。
 そこまで気が回る男かと、生真面目が過ぎる槍を思い浮かべ、歌仙兼定はいよいよ前後に振れ始めた鯰尾藤四郎の肩を押した。
「君は、あっちだよ」
「ふぁぁい……」
 囁けば、欠伸のような返事があった。瞼は完全に閉ざされており、足取りは覚束なかった。
 それでも本能が導いているのか、骨喰藤四郎の手を引いて、粟田口たちが集う部屋を目指して歩いていく。途中までそれを見送って、歌仙兼定は肩を竦めた。
 暫く待ってみたが、大きい音は聞こえてこなかった。
 無事寝床に辿り着いたと判断して、彼は鷹揚に頷いた。
「さて、僕も」
 湯殿からも、水風呂に驚く悲鳴は聞こえてこなかった。行っても安心だと苦笑を浮かべ、歌仙兼定は二歩進んだところで足を止めた。
 ふと気になって、暗闇が支配する廊下の奥を覗き込む。
 誰かがこちらを見ていた気がしたのだが、人の気配は感じ取れなかった。
「疲れているのかな」
 今日は一日中神経を張り巡らせていたので、その影響かもしれない。歴史修正主義者にも、時代の中心を生きていた人々にも、存在を察知されないようにするのは大変だった。
 出来るなら、二度とやりたくない。
 凝って硬い肩を揉み解し、歌仙兼定は両腕を上げて伸びをした。
 もれなく背骨がボキッ、と鳴った。防具の上から腰を押さえこんで、彼は年寄りみたいに背中を丸くした。
「いて、てて」
 みっともないことをしてしまったが、誰にも見られなかったのは幸いだ。
 苦虫を噛み潰したような顔をして、彼は湯殿への道を急いだ。
 時間にゆとりがあったなら、身体を隅々まで洗い、濡れた頭もしっかり乾かしてから寝床に入る。けれど夜はもう遅く、梟の声さえ聞こえない頃合いだった。
 もし響いてくるとするならば、藁人形に釘を打つ音くらいだろう。
 想像して、耳を澄ます。
 勿論聞こえてくるわけがなくて、歌仙兼定は自分に苦笑した。
「橋姫は、宇治だろうに」
 つまらないことを考えてしまった。ぽたぽたと毛先から大量の雫を垂らし、男は床板から足の裏を剥がした。
 烏の行水では疲労が抜けず、却って怠さが出てしまった。眠気は少し収まったけれど、横になったらどうなるかは分からなかった。
 額に張り付く前髪を掻き上げ、目を瞑っていても辿り着ける部屋を目指す。
 足取りは鈍く、襖の向こうから聞こえる鼾がまるで子守唄だった。
 静かなようで、実際はそれなりに騒がしい。
 なにを言っているか分からない寝言も聞こえて来て、失笑を禁じ得なかった。
「僕も、早く寝よう」
 この疲れは、下手をすると朝になっても抜けないかもしれない。
 朝餉の時間までに起きられるか不安になって、彼はもう一度、大きな欠伸を噛み潰した。
 顔をくしゃくしゃにして睡魔に抗い、部屋に辿り着くまでは、と気合いを入れ直す。だが無事に到達出来たとしても、眠るための布団はなにも準備出来ていなかった。
 遠征に出掛ける前、綺麗に畳んで長持の上に片付けたのが悔やまれた。
 他のずぼらな太刀を見習い、敷きっぱなしにしておけば良かった。万年床にするつもりはないけれど、一日くらい放置しても、誰も文句は言わないだろうに。
「失敗したな」
 審神者に命じられた時は、こんなに帰りが遅くなると思わなかった。
 居残り組に頼んでおけばよかった。布団を下ろして畳に広げるくらい、そう難しい仕事ではない。本丸に来たばかりというのもあり、留守番ばかりさせられている前田藤四郎などには、持ってこいの任務だったのに。
 気付くのがあまりにも遅すぎて、後悔ばかりが胸を占めた。
 眠る前から憂鬱になっていては、楽しい夢など、夢のまた夢。気持ちを切り替えようとして、歌仙兼定は頭を振った。
 水滴を撒き散らし、先ほど痛めてしまった腰を叩く。背筋を伸ばして前を見据えれば、自室として宛がわれている部屋は目と鼻の先だった。
 明かり取りを兼ねている格子窓から、上限の月が見えた。薄く伸びる雲が暈となり、周囲は白くぼやけていた。
 吹き込んできた風が、その肩に羽織る外套の裾を擽った。花模様をあしらった赤い裏地が視界で踊って、飛んで行かないよう、彼は喉元の合わせ目を掴んだ。
 丸めた着衣を左脇に抱え、身に着けているのは白い湯帷子だ。肘を越えて上腕までを覆う長手袋もそちらに含められ、肌着の紐が真下を向いて垂れ下がっていた。
 同田貫正国や陸奥守吉行は、風呂を出た後、褌一丁で部屋に戻っていった。次郎太刀は一度部屋に寄って、着替えを揃えてから遅れて湯屋に現れた。
「そう、いえば」
 一方歌仙兼定は、当たり前のように寝間着としている湯帷子に着替えていた。
 脱衣所にあったから、何の疑いもなく手を伸ばした。広げてみたら間違いなく彼のものであり、一式揃っていたので疑問にも思わなかった。
 けれどよくよく考えると、それはおかしい。
 彼は本丸へ帰還した後、まっすぐ湯殿に向かった。寄り道はしなかった。脇差ふたりを見送って歩みを止めはしたが、それくらいだ。
 第一、浴場に入る前、脱衣所の棚には何も入っていなかった。
「……おや?」
 空腹と眠気が強すぎて、頭がまるで働かない。しかし奇妙な現象だというのは理解出来て、彼は顎に手をやり、首を傾げた。
 誰かが持ってきてくれたのかと考えるが、ではいったい、誰だろう。
 蜻蛉切が一番有り得そうだが、彼は湯を沸かしこそすれ、個々の着替えを運んだりはしない。現に一緒に湯船に浸かった刀剣たちは、各々好きな格好で部屋へ戻って行った。
 歌仙兼定だけだ。知らぬ間に着替えが用意されていたのは。
「まさか、ね」
 冷静に振り返ると、ぞぞぞ、と寒気がした。折角温まった身体が一気に冷えて、彼は頬を引き攣らせた。
 先ほど脳裏をよぎった、橋姫の逸話が蘇った。
 但しあれは、嫉妬に狂った女が鬼になった話だ。歌仙兼定には悋気される相手などおらず、そもそも今回の一件は、呪うというよりも、甲斐甲斐しく世話を尽くされていた。
 洗濯されて綺麗な湯帷子の袖を広げ、奇怪に思いつつ低く唸る。
 だが考えたところで結論は見えず、暗中模索するのも馬鹿らしかった。
「いいや。考えるのは、明日にしよう」
 今宵はもう、眠りたい。
 面倒なことは全部後回しと決めて、彼はようやく帰り着いた自室の襖を開けた。
「ただいま」
 そうして中に誰も居ないのに、気の緩みからか、帰宅を告げる言葉を発した。
 足元を見つつ、何気なく囁いてからハッとする。
 幻聴すら聞こえない室内に瞠目して、歌仙兼定は脱力して肩を落とした。
 脇に抱えていた荷物まで、一緒になって床に沈んだ。敷居の手前で立ち止まって、彼は濡れた髪ごと頭を抱え込んだ。
「参ったね」
 出立前にちゃんと片付けたはずの寝床が、どういう理屈か、綺麗に整えられていた。
 真向いの障子戸越しに、月明かりが薄く感じられた。衣紋掛けは空っぽで、木枠の影が畳に長く伸びていた。
 部屋の中央には布団がひと組用意され、上掛け布団の角が一ヶ所、外向きに折られていた。そこから中へ潜り込めと言わんばかりの周到さで、敷いた者の気遣いが読み取れた。
 挙句、枕元には茶瓶まで用意されていた。丸盆の上に湯呑みと一緒に並べられて、喉の渇きを潤せるよう、致せり尽くせりだった。
 流石に握り飯は用意されていなかったが、湯殿に出向く前、空腹である旨を口にしていたら、結果は違ったかもしれない。
「これでは、橋姫ではなく座敷童だね」
 どうやら福をもたらすと言われる存在が、この屋敷にも棲みついているようだ。
 世話焼きの物の怪の正体を察して、歌仙兼定は口元を綻ばせた。
 本丸には髭切が居ないので、鬼が出るとしたら若干心許なかった。杞憂で済んで良かったと安堵して、彼は落とした荷物を拾い上げた。
 両手で抱え、敷居を跨ぐ。この際行儀は忘れて後ろ手に襖を閉めて、運んできたものを枕元へと投げ捨てる。
 頭を乾かす気力は、米粒ひとつほども残っていなかった。
「疲れた」
 このままでは衣服に皺が寄るが、片付けたいとも思わない。折角布団を敷いてもらったのだから、この場合、好意に甘えるのが礼儀だった。
 ぽつりと呟けば、後から実感が湧いてきた。
 部屋に着くまでは、と気を張っていたのだろう。最後の糸がぷつりと切れて、歌仙兼定はガクリと膝を折った。
 そのまま布団目掛けて身体を傾け、受け身も取らずに寝転がる。
 身体全部が横倒しになったところでうつ伏せから仰向けになって、彼は闇に染まる天井から目を逸らした。
 瞼を下ろしても、瞳に映る闇の濃さは同じだった。ならばこうしている方が良いと四肢の力を抜いて、芋虫となって布団の中へと潜り込んだ。
 もぞもぞ身動ぎ、上掛け布団を押し退ける。被るのではなく、細長く畳んで抱きしめる格好で足を絡め、腕を回して、その天辺に頭を預ける。
 枕は使わなかった。寝姿に構っている余裕など、どこにもありはしなかった。
 だらしないと言われようとも、構わなかった。今、最も楽な体勢を探して何度か身体の位置を入れ替えて、彼は最後、すぅ、と息を吸い込んだ。
 それまで身じろぎ続けていたのを止めて、ぴたりと停止する。呼吸の間隔を心持ち長めにして、注意深く周囲に探りを入れる。
 疲弊した肉体は休息を欲したが、神経は逆に研ぎ澄まされていた。
 悪戯心がむくむく湧き起こり、子供のように心が沸き立った。緩む口元は布団に押し付けて隠して、歌仙兼定は外にはみ出ていた爪先を引っ込めた。
 不自然にならないよう気を付けつつ、膝を曲げて丸くなる。掛布団を抱いていた腕から力を抜けば、肘から先が柔い傾斜を滑り落ちた。
 右肩を下にして、真横ではなく僅かに角度を持たせた状態を維持し、耳を澄ませる。
 こちらが外を窺っているように、あちらも室内に意識を研ぎ澄ませているようだった。
 いつ来るか、まだ来ないのか。
 睡魔とも戦いながら胸を高鳴らせて、しばらく後。
 百も数えないうちに、スッ、と音もなく障子戸が開かれた。
 月明かりに影を作り、小さな体躯が隙間から入ってくるのが分かった。足音を立てぬよう細心の注意を払い、息も殺して、慎重過ぎるほど慎重に。
 中に入った後は、開けた時同様、時間をかけて戸を閉めた。
 ただ、戸を合わせた瞬間、パシン、と小さいながらも音が響いた。
「ぅぁっ」
 思わぬ事に息を飲んだのは、歌仙兼定だけでなかった。
 夜半遅くに不法侵入を試みた相手もまた、怯えて小さく悲鳴を上げた。
 恐らくは首を竦め、身を固くしていることだろう。少しの間無音が続いて、歌仙兼定は噴き出しそうになった。
 目で見て確かめたいが、下手に動けば気取られてしまう。じっと我慢の時を過ごして、彼は動き出した気配に頬を緩めた。
 こちらが無反応を試みて、安心したらしい。
 入室時に比べれば随分大胆になって、枕元へ向かう足取りは速かった。
「……歌仙」
 膝でも折ったのか、衣擦れの音がした。声は比較的近いところから降って来て、危うく返事をしそうになった。
 顔をあげようとして、寸前で思い止まる。平常心を心掛け、緊張で強張った四肢の力を抜く。
 瞼を強く閉じすぎてもいけない。たとえ暗く、視界が悪いとはいえ、相手は山賊として闇に乗じ、人々を襲って来た刀だ。
 気取られたら、大変だ。どんな痛い目を見るか、分かったものではない。
 眠ったふりを続けて、歌仙兼定は投げ出していた腕に触れた熱に背筋を粟立てた。
「……っ」
 つい、抵抗しそうになった。掛布団の上に居座っていた腕を取られて、反射的に振り払いたくなった。
 だがそんな真似をしようものなら、目論見は一瞬にして露見する。それだけは是が非でも避けねばならず、彼は平常心、の言葉を呪文の如く繰り返した。
 一方で歌仙兼定の緊張ぶりを知らず、実態を持つ座敷童は掛け布団から大きくはみ出た腕を持ち上げると、胴に添わせる形で敷布団へと下ろさせた。
 人の身を得た現在、不用意に他者に触れられるのは不快の極みだった。
 背後を取られるのも、心穏やかではいられない。四六時中気を張り巡らせるのは疲れるが、己の間合いにずかずかと入り込まれるのは避けたかった。
 寝首を掻かれる可能性を考え、本能がざわめき立つ。
 それを意図的に抑えこんで、歌仙兼定は深く息を吐いた。
「歌仙?」
 大丈夫、心配ない。
 繰り返し己に言い聞かせて、仰向けに姿勢を作り変える。
 訝しげに名前を呼ばれたが、今度は返事をしようとは思わなかった。
 強張りを解き、薄く唇を開いて息を吐いた。すぅすぅと、一定の調子を維持していたら、胸元にあった掛布団の端が肩まで引き上げられた。
 その上でとんとん、と胸郭の辺りを布団ごと軽く叩かれた。
 まるで赤子をあやす母親だ。体格は歌仙兼定の方が勝っているものの、世に生み出された時期はあちらの方が早かったのを思い出し、奇妙な縁を覚えて笑いがこみあげてきた。
「髪、濡れて……起こしてしまうか」
 つい頬が緩んだが、疑われなかった。楽しい夢でも見ているくらいに思われたらしく、声は別のところに触れた。
 自己完結した独り言は、濡れたままの髪を拭いてやるかどうかで逡巡したものだった。
 それを証拠に、右耳に被さる髪を触られ、脇へと梳き流された。湿った毛先は乾いた肌に絡みつき、頭皮を引っ張られる感覚は嫌ではなかった。
 心地よさを覚える仕草からは、慈しみが感じられた。素肌に触れた熱は少し高めで、遠ざかりかけていた眠気を呼び戻した。
「ん、……ぅ」
 振り払おうと軽く頭を振れば、鼻から漏れた息が音を伴った。途端に髪を梳く手が引っ込められて、なかなか戻ってこなかった。
 嫌がっている風に、解釈されたのかもしれない。
 偶然だったがそうとも取れる仕草をしてしまい、後悔が過ぎった。けれど言い訳を声に出すわけにもいかなくて、歌仙兼定は苦悶して奥歯を噛み締めた。
 但し、それもすぐに解いた。
 あまり長時間続けると、不自然と受け止められかねない。深く眠っていると偽って、彼は折角被せてもらった布団を押し上げた。
 左腕を引き抜いて、掛布団を巻き込む形で寝返りを打つ。すよすよと寝息を立てて、右を下に体勢を入れ替える。
 背中に隙間が出来て、そこから冷気が流れ込んだ。思わず首を竦めて、歌仙兼定は背を向けた格好となる相手を慎重に探った。
 変に思われなかったと期待して、曲げた右肘に頬を押し当てる。耳の下に空間を確保して、音が拾いやすい姿勢を作り上げる。
 そこでひと息ついた直後だった。
 背面に生まれた穴を広げて、布団の端が持ち上げられた。
 内臓がゾワリと来て、四肢に電流が走った。全身の産毛が逆立ち、心臓が肋骨の内側で跳ねた。
 それはもぞもぞ動きつつ、人の寝床に潜り込もうとしていた。敷布団に膝を置いて、捲った掛布団の内側に居場所を移そうとしていた。
 それまでの注意深さが嘘のように、行動は大雑把だった。
 開き直ったのか、それとも何があっても起きないと高を括られたのか。
 どちらにせよ、油断していた。安堵を覚え、これでようやく眠れると浮足立っていた。
「おやすみ、歌仙」
 無事に寝床を確保して、小柄な短刀は嬉しそうに囁いた。人の背中に張り付いて、表に出ている右肩をぽんぽん、と叩かれた。
 いじらしい仕草に、いい加減我慢も限界だった。
「ああ――そうだね」
「っ!」
 耐えきれず、口を開く。
 言うと同時に掛布団を跳ね除けて反転して、歌仙兼定は寝る体勢に入っていた短刀を上から抱きしめた。
 華奢な体躯を胸に閉じ込め、ぎゅっと束縛して離さない。予期していなかった展開に少年は零れんばかりに目を見開いて、一瞬にして飛んで行った眠気に瞬きを繰り返した。
 首に冷たさを感じて身を固くして、小夜左文字は唖然としたまま暗がりを見詰めた。
 障子越しの月明かりを浴びて、蒼い瞳が輝いていた。
「お、……おき、起きて」
「ははは、すまない。小夜。君が来ると思っていたから、つい、ね」
「かせっ―――んむ」
「駄目だよ、小夜。大声はみんなの迷惑だ」
 動揺激しく捲し立てた彼の口を塞ぎ、歌仙兼定が人差し指を唇に押し当てる。
 悪びれもなく言い放った男を恨めし気に睨んで、小夜左文字は気取れなかった自分の迂闊さを呪った。
 不満はあったが黙っていたら、手はあっさり引き下がった。口呼吸を再開させて、左文字の短刀は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 もっとも、いくら眼力を強めたところで通用しない。男は横になったまま呵々と笑って、肩を揺らして目を眇めた。
「ずっと待っていたのかい?」
「……最初は、獅子王のところに」
 五寸ばかりの距離を保ち、顔を向き合わせて尋ねる。
 小夜左文字は一瞬躊躇してから、歌仙兼定が不在時に間借りしている寝床を白状した。
 血に濡れた逸話を持つ短刀は、その境遇もあり、毎夜悪夢に魘されていた。悔やまれる過去を思い返し、殺してしまった命に怯え、罪の重さに潰れそうになっていた。
 安寧は訪れない。
 朝までぐっすり眠るなど出来ない。
 けれどちゃんと休まなければ、復讐相手を探し出す前に自分が倒れてしまいかねない。
 矛盾していた。手の施しようがなかった。
 散々悩み、考え、試した結果。妥協案として彼が選んだのは、他人の寝床に潜り込む事だった。
 歌仙兼定は小夜左文字同様、命名の由来が血腥い。だのに自分の名に誇りを持ち、謂れを得意げに語っては皆を呆れさせていた。
 彼のような豪胆な持ち主には、死者も迂闊に手を出せない。
 対して獅子王は、その名が示す通り、百獣の王の威厳を秘めていた。
 悪霊も、獅子を相手にするのは分が悪いらしい。本人も大らかな性格をしており、小夜左文字が怯える怨霊めいたものを引き寄せなかった。
「そう。色々とありがとう。でも、起こしてしまってすまなかったね」
「別に、いい」
 だから小夜左文字は、歌仙兼定が居ない時は獅子王の寝床に行く。彼もこの短刀に気を許しており、事情は分からないがいつでも大歓迎だと笑っていた。
 そんな太刀の布団から出て、わざわざこちらに移って来た。
 そうなる遠因を作ったのを詫びれば、小夜左文字はぶっきらぼうに吐き捨てた。
 宙を泳いだ瞳が地に落ちて、鼻筋が敷布団に埋もれた。顔を伏した彼に苦笑して、歌仙兼定は自分の側に偏っていた布団を引っ張った。
 温もりを分けてやり、折れそうに細い肩を数回に分けて叩く。
 先ほどの意趣返しだと知った少年は頬を膨らませ、額が触れそうで届かない場所にある紫の髪を掴んだ。
「濡れたままだ、歌仙」
 毛先を手繰り寄せ、指に絡めて掌を額に押し付ける。間に挟まれた髪は冷たく冷えており、歌仙兼定は嫌がって首を振った。
「いいよ、別に。面倒だ」
 今更身を起こし、手拭いを探し出して頭を乾かすのは手間だ。
 そんな時間があるなら、一秒でも長く眠っていたい。そう豪語した彼に、小夜左文字は呆れた顔で呟いた。
「朝になった時、どうなっても知らないよ」
 腕を胸元に戻して、布団を被り直す。彼の髪は白い布団に広がって、波飛沫を連想させた。
 いつも高い位置で結い上げているので、変なところに癖がついていた。とある地点で一度内側に曲がり、直後に外側へ跳ねているのを眺めて、歌仙兼定はそのひと房を引き寄せた。
 人差し指に巻きつけてみるものの、この程度では真っ直ぐになってくれない。辛抱強く櫛を通し続けるしか、対抗する手段はなさそうだった。
 歌仙兼定もこのままいくと、朝起きる頃には頭が素晴らしいことになっているだろう。髪が自然と乾く過程で奇怪な癖がついて、とても雅とは言えない髪型が完成するに違いなかった。
 だというのに、彼は構わないと言い放った。
「明日、櫛で梳いてくれ」
「僕がか?」
 それに加えて無責任な依頼をして、小夜左文字を驚かせた。
 他人の髪に触れた事など、ほとんどない。巧く出来る保証などどこにもないのに、歌仙兼定は含み笑いを零すだけだった。
「ほかに誰がいるんだい。頼んだよ」
「歌仙」
「君の頭は、僕がやってあげるから」
 鏡を前に、ああでもない、こうでもないと言いあう。
 それはそれで楽しそうだと目を細めて、男は止められなかった欠伸に大口を開けた。
 これまでで最大の眠気に見舞われて、抗いきれない。
 無事に座敷童を確保出来たからか、安堵が勝った。瞼を持ち上げ続けるのも一苦労で、歌仙兼定は心地よい熱を胸に閉じ込めた。
 背中で腕を交差されて、囚われた小夜左文字は困った顔で口を尖らせた。
「僕に任せたんだ、文句は聞かないよ」
「ああ、勿論だ」
 拗ねて言えば、目を閉じた男に頷かれた。瞼は既に閉ざされて、本当に分かっているのか怪しい口調だった。
 今すぐにでも眠りに落ちようとしている顔を眺めていたら、不思議なことに、自分まで眠くなって来た。
 睡魔というものは、伝染するらしい。小夜左文字も小さく欠伸をして、温かくて心地よい空間に身を委ねた。
 四肢の力を抜き、太い腕を枕にして口を開く。
「おやすみ、歌仙」
「おやすみ、……小夜」
 囁けば、夢うつつに返事があった。
 今度は嘘寝ではないらしい。続けて聞こえた寝息に苦笑を漏らし、小夜左文字は目を閉じた。

2015/06/07 脱稿

よに逢坂の 関はゆるさじ

 遠く、どこかで鶏の鳴く声が聞こえた。
 或いはそれは、錯覚だったのかもしれない。目覚めを促すべく頭が勝手に過去の記憶を引き出して、そういう幻聴をもたらしたのかもしれなかった。
 もっとも、憶測をいくら積み重ねたところで、本当のことは分からない。
 唯一はっきりしているのは、迂闊にも目が醒めてしまったこと。
「う、……ん」
 寝返りを打って見た障子戸の向こう側は、残念ながらまだ日の出には程遠い暗さだった。
 しかしどこかで、誰かが動いている気配があった。ほんの僅かではあるけれど、締め切っているにかかわらず、空気の振動を感じた。
 襖の向こう側に、既に起き出している者がいるのだろう。あちらも寝入っている者たちを起こさぬよう慎重を期しているが、元々眠りが浅く、且つ警戒心が強い小夜左文字相手では無駄な努力だった。
「むう」
 本音を言えば、まだ眠っていたかった。目が醒めたとはいっても頭はぼんやりしており、身体は鉛の如く重かった。
 一番鶏は本当に鳴いたのだろうか。
 最初の疑問に立ち返って、彼は再度、寝返りを打った。
 薄い敷き布団の上で身動いで、骨が当たって痛かった肩の位置を調整する。胸元までずり下がっていた掛け布団を被り直して吐息を零せば、呼応するかのように、向かいで眠る男が鼻を鳴らした。
 穏やかな寝息も聞こえた。暗がりの中で目を凝らせば、暢気な寝顔がぼんやり浮かび上がって見えた。
 瞼は閉ざされ、唇は僅かに開いていた。すぅすぅと一定の間隔で吐息が零れ、試しに触れてみればほんのり温かかった。
 命の息吹を感じて、小夜左文字は軽く曲げた膝の間に両手を押し込んだ。
「かせん」
 静かに眠る男の名前を呼んでも、反応はない。眠っている相手に語りかけても無意味なのは知ってはいるが、どうしても声に出さずにはいられなかった。
 目覚めてしまった以上、とやかく文句を言う気はない。これも何かの定めかと受け止めて、小柄な短刀は背に流した藍の髪を揺らした。
 東の地平線に、太陽の姿はまだ見られない。
 けれど既に、一部の者たちが活動を開始していた。
「朝餉の、支度」
 それが何を意味しているのかは、想像に難くない。
 本丸に暮らす刀剣男士の数は、ゆうに四十を超えていた。むさ苦しい男所帯には大飯食らいが多くて、夜明け前から竈に火を入れないと、朝餉に間に合わない程だった。
 となれば、遠くで忙しく動き回っているのは、今日の食事当番だろう。
 手伝いに行った方が良いのだろうか。
 考えて、小夜左文字は身体を横にしたまま頭を振った。
 彼自身は、食事当番として審神者に任命されていなかった。だがたまに、手が空いた時などには手伝うようにしていた。
 暇潰しに丁度良かったし、それにあそこに陣取る面子は、ほぼ固定されていた。
 決して静かな環境ではないけれど、見知った相手と過ごせるので、無用の気を遣わなくて良い。燭台切光忠や堀川国広は親切だし、小夜左文字が人付き合いを苦手としているのも理解してくれていた。
 もっとも彼が台所に顔を出す一番の理由は、そこで眠っている男がいつも居るから、なのだけれど。
 若干認め難い事実に小鼻を膨らませて、寝間着姿の短刀は唸って眉間に皺を寄せた。
「うぅぅ」
 眠気はまだ残っていた。身体も怠い。
 昨日無理をしたつもりはないが、出陣で山登りをさせられたのが、僅かながら尾を引いているようだった。
 そういう事情があるから、今日は丸一日、休みだ。未だ夢の中の歌仙兼定も、同様だった。
 だというのに、頭だけが妙に冴えている。
「勿体ないことをした」
 どうして目が醒めてしまったのか。
 誰も責められない事案に眉目を顰め、小夜左文字は弾力のない寝床に顔から突っ伏した。
 悔しさを堪えて碌に綿も入っていない敷き布団を鷲掴みにすれば、引っ張られた分だけ布が動いた。その微細な揺れは、当然ながら真横で眠る男にも届けられた。
「んぅ……」
 ほんの一寸にも届かない変化だったが、敏感に気取った男が低く呻いた。喉の奥から声を絞り出して、穏やかだった表情は瞬時に不機嫌になった。
 口を真一文字に引き結び、顰め面を作って顎を引く。ぎゅっと強く閉ざされた瞼はヒクヒク痙攣しており、覚醒が近いと小夜左文字に教えてくれた。
 呻き声にはっとなった少年は身を乗り出して様子を確かめ、己の迂闊な行動に冷や汗を流した。
「歌仙」
 起こしてしまった。彼だって、疲れているというのに。
 まだ目覚めると決まったわけではないのに後悔を抱き、申し訳なさでいっぱいになった。咄嗟に名を呼んでから慌てて手で口を塞いで、左文字の短刀は布団の中で後退を図った。
 そうやって動くから、余計に歌仙兼定の覚醒が促されるとは気付かない。
 大人しくじっと待っていられなくて、右往左往していた矢先。
 ついに恐れていた事態が起こった。
「……ん、ぁ……ふあ、ああ……んむ、ん……?」
 大きな欠伸を零し、右半身を下に寝転がっていた男がその状態から背を反らした。ぐっと伸びをして猫背を修正して、掛け布団からはみ出ていた爪先をもぞもぞ動かした。
 寒いのか、膝を曲げて下半身だけ小さく折り畳んだ。その膝頭が小夜左文字の足に当たって、瞬間、彼は大仰に竦み上がった。
 怯えた猫と化し、全身の毛を逆立てる。
 警戒心を露わにした少年をぼんやり眺めて、歌仙兼定は夢うつつのまま瞬きを繰り返した。
「……おは、よう……?」
「おお、お、おは、ようだ。歌仙」
「もう、朝……かい?」
 寝ぼけているのか、言葉は掠れて、辿々しかった。
 眼が宙を泳ぐが、瞼は半分ほどしか開いていなかった。夜明け前の薄暗い室内は現実と夢の境界線を曖昧にしており、彼が半信半疑になるのも、致し方がない事だった。
 語尾を僅かに持ち上げて、歌仙兼定が首を捻る。微睡んでいる男の貌は不思議と艶っぽく、あまり見る機会がないのもあって、新鮮だった。
 本人に言えば、締まりがなくて格好悪いと反論されそうだ。
 だから口にはせず、小夜左文字は問いかけに対し、首を縦に振るだけに留めた。
 首肯を受けて、男は眉間の皺を深くした。もう一度、今度は小さく欠伸をして、布団から引き抜いた左手を額に押し当てた。
「そんな、わけが……まだ暗いよ」
 眠気を噛み殺しつつ、低い声で囁く。
 気を緩めると襲って来る睡魔に抗っているのが窺えて、小夜左文字は目を眇めた。
「鶏の声が聞こえた」
 それは夢か、幻か。
 時を告げる鳥の声は、本物だったかどうかも分からない。けれど確かに聞いたと告げれば、幾分頭がはっきりしてきたらしい、歌仙兼定が垂れる前髪を掻き上げて口を尖らせた。
「聞き間違いじゃないだろうね。まだ夜だよ」
「僕を疑うのか」
「そうじゃない。けど、……ああ、駄目だ。まだ眠い、小夜」
 ふて腐れた声で反論されて、少し厳しめに切り返すが、効果はなかった。
 歌仙兼定は仰向けに姿勢を変え、両手で顔を覆った。無理矢理視界を暗闇に染めて、そのままばたりと、立てた肘ごと布団へ倒れ込んだ。
 小夜左文字の側へ身体を寄せて、驚く短刀を胸に抱え込もうとする。
 咄嗟に逃げようと足掻いたが、上下を布団に挟まれた狭い空間なだけに、身の自由は利かない。寝起きだというのに意外な俊敏さを発揮して、歌仙兼定は湯たんぽ代わりの少年を懐に閉じ込めた。
「歌仙、いいのか。朝餉の支度が」
「今日は堀川国広に任せてある。放っておけ」
「……朝だぞ」
「夜をこめて鳥の空音ははかるとも」
「僕は函谷関の門番か?」
 ここで目覚めたのには、何かしら理由がある。縁がある。
 けれど歌仙兼定は小夜左文字の催促に再三首を振り、聞こえたのは誰かの鳴き真似だと言って取り合わなかった。
 騙された側にされた短刀は不満げだったが、かといって束縛を振り解こうとはしない。
 身を包む熱は刀らしからぬ温かさで、逆らいがたい心地よさだった。
「あと少しでいいから……」
 歌仙兼定は既に眠る体勢に入っており、甘える声に力はなかった。
 見ればもう、目を閉じていた。三秒としないうちに寝息が聞こえて来て、あまりの素早さに小夜左文字は愕然となった。
 どうやら本当に、眠かったらしい。
「仕方が無い」
 この状況から抜け出すには、彼の手を振り解かなければいけない。
 それでは折角眠った彼を起こしてしまうことになる。
 天秤を片側に傾かせ、小夜左文字は肩を竦めた。短く息を吐いて四肢の力を抜き、まだまだ暗い天井から目を逸らした。
 瞼を降ろせば、そう待たずとも眠気が忍び寄って来た。
 次目覚める時は、本物の鶏の声を聞いた時。
 この事は笑い話にしようと決めて、小夜左文字は優しい温もりに身を委ねた。
 

2015/5/23 脱稿