招くははれを慕ふなるらん

 木の葉が色付き、山肌を舐めるようにして、鮮やかな赤色が広がっていた。庭先に植えられた公孫樹の木は軒並み黄色に染まって、逆三角形をした葉が地面を埋め尽くした。
 銀杏の特徴的な臭いが鼻を突くが、慣れてしまえばどうということはない。落ち葉に埋もれる形で散らばる実を、子供たちは夢中で拾い集めていた。
 誰もが膝を折り、身を低くして屈んでいた。視線は足元に集中して、お蔭で前方不注意か来る衝突事故が多発していた。
「あだっ」
「いったあい」
 愛染国俊と乱藤四郎の悲鳴が同時に響き、ゴチンとやったふた振りが揃って尻餅をついた。小さな星が数個飛び散って、甲高い悲鳴を受け、皆が一斉に顔を上げた。
 これでいったい、何度目だろう。
 だが呆れてため息を吐きこそすれ、腹を抱えて間抜けと笑う者はいなかった。
 少し前にぶつかった記憶が蘇ったのか、前田藤四郎が頭に出来た瘤を撫でた。その隣では秋田藤四郎が、桃色の髪を押さえこんでいた。
 数分前、彼らも派手に激突していた。地面に落ちている木の実を拾うのに必死で、接近する影に全く気付いていなかった。
 思い出して渋い顔をして、短刀たちは首を竦めて縮こまった。反省してか左右を見回し、場所を変えようと数名が立ち上がった。
「俺、あっち探してくる」
「でもそちらには、公孫樹の木、ありません」
「ぐ、ぅ……」
 額を撫でつつ、涙目の愛染国俊が彼方を指差す。けれど前田藤四郎から冷静な指摘がなされて、祭り好きの少年は途端に押し黙った。
 妙案だと思ったのだが、そうことは巧く運ばない。
 既に移動を開始していた五虎退は、耳をピクリとさせてから困った様子で振り返った。
 彼がいつも連れ歩く虎は、この場には一匹もいなかった。
 獣は嗅覚が優れているから、悪臭を嫌って寄り付かなかった。そういうわけだからあの子虎たちは、今頃縁側で、鳴狐たちと一緒に日向ぼっこをしているはずだ。
 ふかふかの毛並みは、とても触り心地が良いらしい。
 だけれど未だ、一度として撫でるのに成功していない短刀は、疲れた顔で肩を落とした。
 秋が深まり、紅葉が庭や、その背後に迫る山を、彩り鮮やかに飾っていた。迫る冬に備えて植物は子孫を遺そうと、種を含んだ木の実を丸く膨らませ始めていた。
 柿の木は眩い橙色に染まり、日々子供たちの腹を満たしている。
 銀杏もまた、加工すれば美味な酒のつまみになった。
 背高の木になる果実の収穫は、上背がある刀たちの役目だった。一方短刀たちは、地面に落ちているものを集めるのが仕事だった。
 秋は、実りの季節。
 畑の方も収穫に忙しく、とてもではないが出陣している場合ではない。本当なら遠征に出るべき面々も駆り出されており、屋敷中が大騒ぎだった。
「なにを、やっているんだろう」
 額の汗を拭い、小夜左文字が呟く。
 けれど彼の声は小さくて、誰の耳にも届かなかった。
 歴史を作り変えようという輩がいた。時を遡って不当に介入を図り、望む通りの未来になるよう、世界をひっくり返そうとしていた。
 これを見過ごすわけにはいかないと、時の政府が動いた。審神者なる者を遣わして、刀剣の付喪神を喚び出した。
 悠久の時を辿れるのは、刀のみ。そんな一介の道具でしかない彼らに、審神者は現身を与えた。仮初の肉体を持たされて、刀たちは歴史修正主義者と日々刃を交えていた。
 ところが、だ。
 ここ数日は、誰も出陣していない。本丸に入り浸って、てんやわんやの大騒ぎだった。
 収穫の後は、祭りをするのだと愛染国俊が言っていた。豊作に感謝して、来年はそれ以上の実りを祈願するのだと、嬉しそうにはしゃいでいた。
 祭事は自分が取り仕切ろうと、石切丸も乗り気だった。次郎太刀は酒が飲めればそれでいいと、特に反対しなかった。
 神輿も山車も出ないのに、不思議な盛り上がりだった。
 誰も疑問を抱くことなく、朝から騒ぐ理由が出来たと喜んでいる。刀としての本質を忘れて、当初の目的を失念していた。
 最初のうちは刀なのに畑当番、と文句を言っていた面々まで、張り切って鍬を振り回していた。蔓を引っ張れば地面からボコボコ芋が飛び出してきて、それがとても楽しそうだった。
 小夜左文字も、最初のうちは周りの雰囲気に流されていた。
 だがふと我に返ってしまって、急になにもかもが馬鹿らしく感じられた。
 浮足立っている皆が愚かしく見えた。どうして審神者はなにも言わないのかと、他者に八つ当たりしたくなった。
 手にした麻の袋には、銀杏が十数個、入っていた。それをガサガサ揺らして、彼は力なく息を吐いた。
「さよくん?」
 立ち尽くしたまま、動かない。
 枯葉を払い退けながら進んでいた今剣が話しかけても、彼はすぐに返事しなかった。
 遠くを見据えたまま緩く首を振り、諦めて膝を折る。
 ストンと姿勢を低くした彼に、長い髪を結い上げた烏天狗は目を細めた。
「いっぱい、あつまるといいですね」
「銀杏は、食べ過ぎると中毒になるけど」
「えええ。そうなんですか?」
 早く食べたくて、うずうずしていた。膝を揃えてしゃがみ込んで、驚き方は大袈裟だった。
 両手を大きく広げて、倒れそうになったところで身体を前に傾けた。一本足の下駄を器用に操って、体幹は誰よりも優れていた。
 無様に尻餅をつく真似はせず、目を真ん丸にして小夜左文字を見詰める。
 じっと穴が開くくらいに視線を向けられて、少年は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……ああ。身体に合わないようだと、数個でも、気分が悪くなったり、吐き気がしたりする」
 興味津々で、逃げられそうになかった。爛々と輝く眼差しは、詳しく教えるように訴えていた。
 仕方なく答えれば、聞き耳を立てていた他の短刀が一斉にざわついた。一生懸命集めたものに目をやって、信じ難い表情で左右を見回した。
 仲間と顔を見合わせ、不安げな態度で小夜左文字を取り囲む。
 直接話しかけては来ないけれど、更なる情報を求めている空気だ。言うのではなかったと早々と後悔して、藍の髪の少年はこめかみに指を立てた。
「僕らの、その。身体は。人のそれとは、違う、と。思う……けど」
 子供には食べ過ぎると毒な銀杏だが、薬としての効能も広く知られている。あくまでも量を多く摂取した場合の問題であり、少数口にする分には、なんら問題ないはずだ。
 そもそも刀の付喪神である彼らに、食中毒など起こり得るのか。
 未だ前例がないと言ってやれば、途端に安堵の息が漏れ聞こえた。
「こーんな頑張って集めたのに、俺たちが食えねえってのは、納得いかねえもんな」
「だよねー」
 丸く膨らんだ麻袋を掲げ、愛染国俊が口を尖らせる。乱藤四郎が同意して鷹揚に頷いて、他の短刀たちも首肯した。
 小夜左文字は一歩遅れる形で、別の意味で胸を撫で下ろした。腰帯の上辺りを押さえながら息を吐き、安心して銀杏集めに戻った仲間に肩を竦めた。
 彼らは、知らない。
 銀杏が食べられるようになるのに、かなりの手間と時間が必要だということを。
 だが教えれば、確実に文句が噴出する。そういうのは、一度で充分だった。
 外の果肉部分を除去して種だけにして、天日干しにして、更に火で軽くあぶる。そうやって完全に水分を取り除けば完成で、要する日数は一日や二日では済まなかった。
 殻を剥くのも、なかなか大変な作業だ。
 そうやって苦労の末に味わう銀杏は、とても美味しい。火で焼けば鮮やかな緑色になって、煮れば白っぽく濁るのも不思議だった。
 ほんのり苦くて、噛めばもっちりした食感が面白い。
 想像したら涎が出そうになって、小夜左文字は慌てて口を閉じた。
 唾を呑み込み、入れ替わりに息を吐く。視界にはらりと何かが紛れ込んで、見れば樹上から落ちて来た木の葉だった。
 末広がりの扇形で、真ん中に浅く裂け目が入っていた。日に透かせば黄金に輝くそれは公孫樹に他ならず、捕まえるのは容易だった。
 握り締めれば、感触は軽かった。何かを潰した印象は薄く、実感が沸かなかった。
 手を開いて、黒い筋が走っただけの木の葉を地面へ落とす。短い葛藤の末に作業に戻ろうとして、まず目に入ったのは銀杏ではなかった。
「椎の実」
 それは探し物とは似ても似つかない、焦げ茶色をした塊だった。
 大きさは、小指の先ほど。細長く、黄土色の帽子を被っていた。
「どこから」
 この辺りは公孫樹ばかりで、椎の木は生えていない。当然地面に落ちているのも、銀杏ばかりであるはずだった。
 反射的に頭上を仰ぎ、小夜左文字は目を細めた。木漏れ日が優しく照りつけて、庭先の樹林は明るかった。
 直射日光を避け、注意深く辺りを探る。けれど蹲る短刀たちがいるばかりで、目当ての木は見つからなかった。
「さーよくん?」
 みんなでせっせと頑張っているのに、ひと振りだけ手を休めたまま。
 抗議するかのように今剣に呼ばれて、ぼうっとしていた少年は慌てて首を振った。
 但し、手の中のものは隠せなかった。
「どんぐり、ですか」
「この辺には、生えてないのに」
「そういえば、そうですね」
 抓んで持っていたものを覗きこみ、烏天狗の少年が何故か声を潜めた。つられる形で小夜左文字も小声になって、額を寄せ合い、ひそひそ頷きあった。
 肩が擦れ合う近さのふたりに、銀杏拾いの面々は怪訝な顔をした。だが先ほどと違って、耳を澄ませても会話は聞こえてこなかった。
「りすさん、でしょうか」
「狐かもしれない」
「このちかく、はえてるのかもしれませんね」
「たぶん」
 周りが不思議そうにする中、彼らは構わず会話を続けた。必要以上に音量を絞り、囁いて、椎の実の帽子を弾いた。
 笠はするりと外れ、地面に落ちた。枯れ葉に埋もれて瞬く間に見えなくなり、もう探し出せそうになかった。
 けれどあれは、必要ないものだ。取り除いても問題ないと唇を舐め、小夜左文字は艶々している表面を小突いた。
 これもまた、食べられる木の実だった。
 しかもこちらは、えぐみが少ない種類だ。だから生でも食べられるし、軽く炒れば更に美味だった。
 銀杏のような面倒なことをしなくても、すぐに腹が満たせてしまう。なんともお得で、子供向きの木の実だった。
「……どうします?」
「決まっている」
 肩をぶつけ合い、問われ、答える。
 最早彼らの中では、刀の矜持がどうだの、収穫祭がどうだの、関係なくなっていた。
 目先の欲に囚われて、深く頷き合う。
 となれば決行は速いに越したことがなく、ふたりはほぼ同時に立ち上がった。
「どちらへ?」
 それに前田藤四郎が反応し、顔を上げた。行き先を訊ねられてぎくりとして、歩き出そうとしていたふたりは目で合図を送り合った。
 横に並び、揃って後退を図る。言葉を探して口を開閉させて、指差したのはあらぬ方角だった。
 けれどそれが、転機になった。
 小夜左文字が示した方に、皆が一斉に顔を向けた。それで今剣はハッとして、両手を勢いよく叩き合わせた。
「あっちに、も。いちょうのき、あります」
「そ、う。だから、見てくる」
 早口に言って、その場でぴょん、と飛び跳ねる。小夜左文字も彼に合わせてコクコク首を振って、この場を離れる理由を正当化した。
 勿論、それは嘘だ。公孫樹の木は庭の中だと、ここら一帯にしか枝を伸ばしていなかった。
 しかし行儀のよい短刀たちは、そのことを知らない。彼らは奥深い山に立ち入ろうとしないし、食べられる木の実についてもあまり詳しくなかった。
 後で咎められようとも、勘違いだったと言えばそれで済む。やり過ごせる算段は整ったと、ふたりは逸る気持ちを抑えこんだ。
「えー、じゃあ僕も、そっちにいこっかな」
「それは、だめです」
「なんでさ?」
「あまり、数が多くない。こっちの方が、広い」
 銀杏の臭いが立ち込める中、小夜左文字は必死になって言葉を重ねた。今剣も同調して訴えて、自分たちだけで行くと言い張った。
 藤四郎たちは顔を見合わせ、愛染国俊は面倒になったのか、ひらひらと手を振った。
「わーったよ。けどちゃんと、真面目に働けよ?」
「もちろんです」
「ああ」
 見張り役がいないと、子供たちはすぐに作業を忘れて遊んでしまう。ふたりひと組なら心配ないだろうが、念のためと釘を刺した少年に、今剣と小夜左文字は力強く頷いた。
 もっともこの時既に、彼らには真面目に働く気などなかった。
 そもそも小夜左文字は、日頃から屋敷の手伝いに汗を流していた。食事の準備や、掃除に洗濯だってそうだ。
 愛染国俊こそ、普段から遊び惚けている。精力的に活動しているのは、祭りという言葉に反応した今だけだ。
 どの口が、偉そうに。
 少なからず反発を抱き、小夜左文字は椎の実を握り締めた。誰にも気取られないよう、尻端折りで折り返している着物の裾に潜ませて、今剣に続いて踵を返した。
 あまり量が入っていない麻袋を振り回し、粟田口や来の短刀たちに見送られて場を離れる。その歩みは尋常ないくらいに速く、脱兎の如き勢いだった。
 一目散に駆け出して、降り積もる枯れ葉を蹴散らした。柔らかな土を踏みしめて爪先を汚して、草履と下駄の少年は息を弾ませた。
「おお。いっぱいありますねー」
「集めて、歌仙に炒ってもらおう」
 公孫樹の木から遠ざかるにつれて、あの鼻にこびりつく臭いもなくなった。空気は澄み渡り、仰ぎ見る秋の空は飛び上がりたくなるほど高かった。
 黄葉の鮮やかさは失われたけれど、子供たちの目はきらきら輝いていた。色気より食い気、花より団子とはよく言ったもので、周りの景色など眼中になかった。
 胴回りが太い立派な木を見つけ、その足元を覗き込めば、探し物は沢山見つかった。形も、大きさも様々で、数は銀杏の比ではなかった。
 中には灰汁を抜かなければ食べられないものもあったが、構わなかった。
 銀杏を日干しにする焦れったさに比べれば、その労苦はずっと軽い。ただ調理時に難儀するのは避けたくて、ふたつある袋に、別々に入れることにした。
 公孫樹の実と混じってしまうが、これはパッとみただけでも判別がつく。特に問題ではないと息巻いて、今剣はガサガサと麻袋を鳴らした。
「こっちのほうが、たのしいです」
「今剣、見ろ。茸だ」
「やりました、さよくん。おてがらです」
 団栗は食べるだけでなく、加工すれば玩具になる。銀杏拾いなどより、余程遣り甲斐があった。
 更に追加で、嬉しい発見があった。
 木の実を探して枯れ葉を退ければ、木の根に這い蹲るようにして、食べられる茸が姿を現した。中には毒を持ち、身体に害があるものもあったけれど、彼らはこの違いを見分ける目を有していた。
「こっちのは、ざんねんです」
「誰かに、試しに食わせてみるか?」
「さよくん、わるいこです。でも、おもしろそうです」
 ひと口齧れば楽しくもないのに笑い転げ、死ぬほど苦しい目に遭う茸もあった。
 流石に本気で実践しないまでも、想像する分には自由。小夜左文字のひと言に今剣はクスクス笑って、地味な見た目の茸を小突いた。
 やる気の度合いが、格段に違ったからだろう。
 麻袋の中はあっという間に団栗と茸で埋まり、口を絞って持つのが難しい程だった。
 広範囲をせっせと探し回って、素晴らしい成果だった。これなら当分、食うに困らない生活が送れそうだ。
 勿論、朝餉や夕餉はちゃんと食べるし、八つ時の甘味にだって手を伸ばす。だが身体の小さい短刀は消化が早いのか、動けばすぐに腹が減った。
 これで食糧備蓄庫にこっそり忍び込み、怒りっぽい打刀の目を掻い潜らずに済む。満足できる結果が得られて、ふたりは終始嬉しげだった。
「また、きましょう」
「そうだな」
 屋敷の外にある鎮守の森にも、椎や栃の木が沢山あった。
 だが審神者の許可なしに飛び出した時は、後で散々怒られた。他の刀たちに多大な心配をかけてしまい、二度としないと誓っていた。
 だから庭の奥に、こんな場所があったのは驚きだった。意外な発見に興奮は留まることを知らず、胸の高鳴りはなかなか鎮まらなかった。
 茸は、夕餉の食材として、台所当番に進呈しよう。椎の実を炒る代金だと言えば、文句は言われないはずだ。
 勿論このまま七輪で焼いても、充分美味い。火で炙られ香ばしく香り、傘の細かな襞から水分がじゅわ、と滲み出てくる様を想像していたら、刺激された腹の虫がぐぅぐぅ鳴いた。
 食い意地が張った身体が恥ずかしいが、今剣も似たようなものだ。きゅぅ、と可愛らしく鳴くのを聞いて顔を見合わせて、ふたりは照れ臭そうに肩を竦めた。
「もどりましょう」
「あっちだ」
 太陽の位置を確かめ、木々が邪魔して見えない屋敷の方角を指し示す。
 大雑把な予想だったが、誤差はそれほど大きくなかった。何度か左に修正した程度で済んだし、屋敷自体からもそんなに離れていなかった。
 頭に張り付いた木の葉を振り落とし、次も辿り着けるようにおおよその位置を記憶に焼き付ける。銀杏拾いの面々はまだ頑張っているのか、開けた場所に姿は見えなかった。
 満杯になった袋の中身を見られたら、言い訳が出来ない。
 公孫樹の木を避けるように進んだのが功を奏して、彼らが帰り着いたのは、池を挟んだ反対側だった。
 こちらの方が、東側にある台所にも少し近い。
 夕餉の準備中らしき匂いが漂っていて、悪戯な短刀たちは目を輝かせた。
「いそぎましょう」
 今は下ごしらえの段階で余裕があるが、もう少ししたら調理場は戦場になる。大勢の胃袋を支えているわけだから、炊事場の忙しさは他の比ではなかった。
 団栗を炒るのは、今のうち。
 銀杏採りの面々が戻ってくるまでが勝負で、庭に戻った後もふたりは駆け足だった。
 開けっ放しの勝手口を抜けて、薄暗い土間へと競うように飛び込む。
「おや?」
 中にいたのはひと振りだけで、しかも椅子に腰かけ、休んでいるところだった。
 背凭れのないそれは、小夜左文字の足台でもあった。本丸で最も背が低い少年は、これがないと棚の上に手が届かなかった。
 藤色の髪を結い、袴姿だった。紅白の襷は結んでおらず、白の胴衣の袖は垂れていた。
 優雅に足を組み、袴の裾が広がっていた。折り目がぴしっと尖った襞が斜めに流れており、足袋からはみ出た足首がちらりと覗いていた。
 読書中だったらしく、膝には書が広げられていた。左手で滑り落ちないよう支えて、右手は顎の下にあった。
 思案中だった顔を上げ、歌仙兼定が目を瞬かせる。息を弾ませ入って来た子供たちに背筋を伸ばし、手は素早く書を閉ざした。
 流れるような仕草で立ち上がって、土間の手前までやってくる。小夜左文字も沓脱ぎ石の前に進み出て、肩を上下させ、乱れた呼吸を整えた。
「銀杏拾いは終わったのかい?」
「かせんさん、かせんさん。やいてください!」
 唾を飲み、喋る準備を開始する。だが一足先に歌仙兼定が疑問を口にして、割り込む形で今剣が腕を伸ばした。
 抱えていたものを突き出して、弾みで椎の実がいくつか零れた。土間に落ちてコロコロ転がるのを目で追って、袴の打刀は不思議そうに首を捻った。
 当然だろう。彼は短刀たちが銀杏を拾いに行ったと聞かされて、それを疑わなかった。
 実際、このふた振りもその中に加わっていた。だが途中で飽きて、違うことに手を出していた。
 打倒が覗き込んだ袋には、頭にあったものとは異なるものが詰められていた。
 椎の実、樫の実、そしてたくさんの茸。
 森で自生している、食べられるものをひと通り集めて来た雰囲気に、男は間を置いて苦笑した。
「やれやれ。なにを急いで帰って来たかと思えば」
「えっへへへー」
 口調は呆れ気味だったが、短刀を見下ろす眼差しは優しい。得意げにしている今剣と、小夜左文字の頭を順に撫でて、歌仙兼定は背筋を伸ばした。
 食べられるようになるまで時間がかかる銀杏よりも、手早く口に入れられるものを優先したのだろう。他の短刀たちが戻っていないところから類推して、打刀は袋の中身に顎を撫でた。
「また随分と、豊作だね」
「茸は、夕餉に」
「ありがとう。有り難く使わせてもらおう。小夜、水を汲んできてくれないか」
「分かった」
 木の実の種類も、いくつかあった。まずはそれらを分けるところからだと笊を取り、台所仕事に慣れた短刀には短く指示を出した。
 今剣が竹で編んだ笊に、集めて来たものをひっくり返した。紛れていた枯れ葉や、小石を抓んで退かして、茸と銀杏を別の笊へ移していった。
 一旦外に出た小夜左文字は、水を汲んだ桶を手に戻ってきた。歌仙兼定はそこにひと掴みの塩を入れて、胴長の椎の実を放り込んだ。
 地面に落ちていたものだから、当然古いものもある。更に虫が食いついているものもあって、それらを取り除く為の処置だった。
 水面に浮いて来たものを除去して、底に沈んだ分は冷水で良く洗う。七輪に炭を熾し、上に焙烙を置く。水気を払った椎の実を焙烙に入れて、全体に熱を通す。
「爆ぜるから、離れておいで」
「はーい」
 興味津々に七輪を囲んでいたふたりだが、歌仙兼定に言われて素直に従った。今剣が元気よく右手を上げて、直後に乾煎り中の実がボンッ、と大きな音を立てた。
「ひゃっ」
 続けてポンポンッ、と炸裂音が立て続けに響いた。焙烙の上で椎の実が躍るように飛び跳ねて、勢い余った何粒かが外に転がり落ちた。
 熱くないのか、拾い上げた歌仙兼定が即座に火の上へと実を戻す。香ばしい香りは徐々に強くなり、待ちきれない短刀はそわそわ身を捩った。
「口が開いているよ、小夜」
「う」
 火傷して危ないからと遠ざけられているのに、無意識に前のめりになっていた。台所の床にペタンと腰を落としたまま、上半身だけが前方に傾いでいた。
 涎がひと筋、たらりと垂れた。
 言われて苦虫を噛み潰したような顔をして、藍の髪の短刀は両手で口を塞いだ。
 恥ずかしそうに赤くなった彼を呵々と笑い、歌仙兼定は菜箸で木の実をざっと掻き混ぜた。そろそろかと皮の表面に走る割れ目を確かめて、木製の大皿へと一気に移し替えた。
 白い煙が細く立ち上り、匂いが一段と強くなった。
「おおー」
 出来上がりだと見せられて、今剣は両手を叩いて歓声を上げた。小夜左文字も目を爛々と輝かせ、嬉しそうに拳を震わせた。
「冷めないうちに、どうぞ。食べる時に、少し塩を振るといい」
 調理台でもある背高の机に置いて、その横に塩を入れた壺を添える。もうひとつ、剥いた殻を捨てるための笊を用意してやれば、跳び上がって喜んでいた子供が男の袖を引いた。
「歌仙も、食べるか」
「僕は遠慮しよう」
 夕餉の支度まで猶予があるなら、一緒にどうか。
 拾い集めた木の実はかなりの量で、今剣とふた振りだけでは食べきれそうになかった。
 だからと誘った小夜左文字に、しかし歌仙兼定は首を振った。嬉しい提案に顔を綻ばせはしたものの、返答は迷いなく、声は朗々と響いた。
 きっぱり断られ、想定外の事態に少年が目を丸くする。その小さな手を掴んで、解して、打刀は空になった焙烙へと、残る椎の実を注ぎ入れた。
「んー、おいしいですー」
 今剣はさっさと炒られた木の実に手を伸ばし、いくつかをまとめて口に放り込んだ。
 指に張り付く殻を払い落とし、白っぽい中身だけにして、軽く塩を塗し、もぐもぐと咀嚼する。
 満面の笑みを浮かべながらドタバタ足踏みするところからして、本当に美味しそうだった。
「小夜?」
「……だが」
 早くしないと、彼が全部食べてしまう。
 せっせと働く歌仙兼定に促されても、小夜左文字はなかなか身動きが取れなかった。
 折角拾って来たのに、ひとりだけ口にしないのはおかしい。
 美味しいものは、みんなで分け合う。そうすればもっと美味しく感じられると、彼は本丸に来てから知った。
 背中を押されても躊躇して、小夜左文字は唇を噛んだ。見かねた今剣が剥いたものを五個程差し出してくれて、おずおず手を伸ばせば、まだほんのり温かかった。
 奥歯で噛み砕けば、香ばしさが口の中いっぱいに広がった。
 小さいので食べ易く、すぐになくなってしまう。皿に山盛りだったものがもう半分以下で、注ぎ足すべく、七輪の上では焙烙が一所懸命働いていた。
「ぜんぶ、やいちゃうんですか?」
「ああ。必要だろう?」
「そんなに一度に、食べられない」
「ふふ。それは、どうだろうね」
 ふた振りで食べるなら皿の中にある分で足りるのに、歌仙兼定は追加で炒ろうとしていた。剥くのに疲れたのか手を休めた今剣の質問に、彼は意味深に笑うだけだった。
 控えめに微笑まれて、短刀たちは顔を見合わせた。膝を折って焙烙を操っている男に首を傾げ、笊に残された茸と、手付かずで放置されている銀杏にも目を向けた。
 ドタドタドタ、と騒々しい足音が聞こえて来たのは、丁度そんな時だった。
 ひとりではなく、大勢で。
 駆け足で近付いてくる気配にも眉を顰めて、ふた振りは数秒してから首を竦めた。
「手前ら、こんなところに居やがった!」
「見つけましたよ、ふたりとも」
「あー、何食べてるのさ」
「ずるいです、ふたりして!」
「すっごく、良い匂いがします」
 一斉に、戸口から大声が轟いた。一度に声を張り上げられて、個別の台詞は混じりあい、聞く側には何を言っているのかさっぱりだった。
 ただ皆揃って目を吊り上げて、怒っているのだけは明白だった。
 勝手口ではなく、屋敷の廊下側から。
 引き戸を塞ぐ形で、合計五振りの短刀が煙を噴いていた。
 中央に愛染国俊が陣取って、その左右を粟田口が埋めていた。色とりどりの髪は銀杏拾いで乱れに乱れ、まさに怒髪天を衝く迫力だった。
 口元に屑を貼り付かせた今剣が、食べようとしていた椎の実を落とした。小夜左文字も指を咥えた状態で凍り付いて、憤懣やるかたなしの面々に騒然となった。
 彼らのことを、すっかり忘れていた。
 炒った団栗に夢中になって、銀杏拾いが終わったかどうかも気にしてこなかった。
 いつまで待っても戻ってこないふた振りを、探し回っていたのかもしれない。ところがその迷子であるはずの刀たちが、誰より早く屋敷に帰還していた。
 同じ真似を自分がされたら、気分を害するどころではない。
 怒られて当然のことをしでかしたのだと、彼らは今になって青くなった。
「んぐ、ん、……え、えーと」
「すっげー心配したんだぞ。探したって、どこにもいやしねえし」
 口の中がいっぱいだった今剣が、慌てて飲み込んで目を泳がせた。小夜左文字もなんとか巧い言い訳を探すけれど、言葉はなにも出て来なかった。
 凄い剣幕で捲し立てる愛染国俊に圧倒されて、反論できない。
 残りの短刀にも険しい表情で睨まれて、彼らは揃って項垂れて、反省して小さくなった。
「……すまなかった」
「ごめんなさい」
 頭を下げて、小声で謝る。
 目を閉じて肩を小刻みに震わせる彼らに、それでも短刀たちは納得がいかない様子だった。
 嘘まで吐かれ、信頼を裏切られた。戦場で背中を任せる相手に偽られたのだから、憤りはもっともだった。
 だがこのまま謝罪を受け入れず、突っぱね続けるのも、よろしくない。
 軋轢が生じ、関係に罅が入ってしまうのは、出来る限り避けなければならなかった。
 子供達の様子を見守っていた歌仙兼定は、肩を竦め、焙烙を手に立ち上がった。乾煎りした実を箸で掻き混ぜて、食欲をそそる香りをいきり立つ子供たちへと放った。
 最初から匂いに釣られていた五虎退が、琥珀色の目を大きく見開いた。両手を叩き合わせて嬉しそうに背伸びして、皿に注ぎ入れようとする打刀へと駆け寄った。
「うわあ……」
 感嘆の息を吐き、雪崩を起こした椎の実に頬を紅潮させる。視線は木の実に釘づけで、小夜左文字たちへの怒りは欠片も残っていなかった。
 元々彼は、誰かと争うのが苦手だ。臆病で、泣き虫で、虐められても反撃しようとしなかった。
 短気な愛染国俊とは正反対だ。おっとりしており、日向ぼっこが好きで、戦に出るよりも土いじりをしている方が良いと言って憚らない。
 爪先立ちで調理机にしがみついた彼の姿は、憤然としている残りの面々から毒気を奪うのに充分だった。
「美味しそうですぅ」
 魅力的な香りを嗅いで、だらしなく開いた口からは涎が垂れていた。今にも手を伸ばし、食べ始めそうで、もぞもぞ身をくねらせている少年に、残りの四振りは戸惑いがちに目を泳がせた。
 香ばしい匂いの誘惑は続いており、拒絶し辛い。息を止めるわけにもいかなくて躊躇していたら、見透かした歌仙兼定がふっ、と笑った。
「ほら、君たちも。小夜と今剣が、頑張って集めて来たんだよ」
 木目が美しい皿を軽く押し、机の上を滑らせる。
 その前では小夜左文字と今剣が、上目遣いに様子を窺っていた。
 我が強くて意地っ張りな愛染国俊だが、寝は素直で、優しい子だ。乱藤四郎や前田藤四郎たちだって、ふた振りの反省が本物だというくらい、いい加減分かっている。
 このまま彼らを許さず、仲違いしたまま台所を去るか。
 不満を呑み込んで彼らを許し、働いて凹んだ腹を椎の実で満たすか。
 二者択一だが、結果は火を見るより明らかだった。
「もう、しょうがないな」
「次からは、勝手な真似すんなよ」
「分かった」
「は~い」
 五振りの短刀が怒っているのは、ふたりが黙って勝手な真似をしたからだ。ひと言断ってからにしていれば、騒ぎになどならなかった。
 釘を刺し、愛染国俊が敷居を跨いだ。段差を降りて台所に入って、足は真っ直ぐ調理机に向かった。
 五虎退は既に木の実を掴んでおり、皮を剥くのに悪戦苦闘していた。見慣れないものに秋田藤四郎は興味津々で、前田藤四郎は机上のものを眺めて成る程、と頷いた。
「これ、ほんとに美味しいの?」
 団栗なら知っているが、栗鼠や狐といった獣の食べ物という認識が、乱藤四郎にはあったらしい。湯気を立てる山盛りの椎の実に、半信半疑の様子だった。
 愛染国俊も似たような表情で、視線は自然と歌仙兼定に集まった。焙烙を片付けていた彼は子供らの眼差しに首を竦め、答える代わりに目を眇めた。
「小夜、教えてあげるといい」
「歌仙、僕は」
「おしお、かけると。もっとおいしいです」
 身を固くして畏まったままの短刀を呼んで、机を指差す。会話を紡ぐきっかけを作り出した彼に、今剣が瞬時に乗りかかって声を上げた。
 茶壺に似た容器の蓋を開け、中の小匙で塩を掬った。教えられた短刀たちは横一列になって、木の実の皮を剥ぎ、現れた白い粒に塩を落とした。
 恐る恐る口に入れ、噛み砕き、呑み込む。
 疑り深げだった眼が歓喜に染まるのに、そう時間はかからなかった。
「うま。うっま!」
「なにこれ。すっごくおいしいんだけど」
「驚きです。食べられるのですね、団栗って」
 初体験に目を輝かせ、子供たちが歓声を上げた。ひとつでは足りないと次々皮を剥いて、五個、十個とまとめて口の中へと放り込んだ。
 二寸近い高さの山が、瞬く間に低くなった。代わりに殻入れである笊が山盛りになって、その嵩は増す一方だった。
「ずるいです。ぼくのぶんもー!」
 バクバク食べる皆に悲鳴を上げて、今剣が机に飛びついた。謝罪の品として残りを献上するつもりでいたが、苦労して集めて来たのを思い出して、矢張り譲れないと息巻いた。
「こんなにおいしいのなら、僕も取りに行けばよかった」
「これは、良いものですね」
 口々に感想を言い合い、その間も手は休みなく動いた。あれだけの量があっという間に消え失せて、出遅れた小夜左文字は茫然と立ち尽くした。
 呆気にとられて目を点にして、満腹だと腹を叩く愛染国俊には苦笑する。
「はー、美味かった」
「腹が緩くなっても、知らないよ」
「えっ。もしかしてこいつにも、なんか毒があんのか?」
「……ないけど」
「んだよ。驚かせんなよなー」
 ぼそりと言えば、過剰反応された。銀杏とは違うと告げれば大袈裟に安堵されて、周囲からどっと笑い声が起こった。
 なんであれ、食べ過ぎが身体に悪いのは事実だ。すっかり空になった皿を傾け、もう終わりなのか目で問うた五虎退に、歌仙兼定も空っぽの焙烙を見せて応対した。
 彼が小夜左文字の誘いを断った理由は、これだ。
 短刀たちがこぞって押しかけて来ると、予見していたのだろう。だから数が減らないよう、自分は食べないと言ったのだ。
 全てを見越したうえでの判断だった。
 食い意地に負けて仲間を置き去りにしたのを、小夜左文字は改めて悔いた。
「すまなかった」
 今度は、大きな声で言えた。
 歯の隙間に入り込んだ木の実を気にしている短刀に言えば、赤髪の少年はきょとんとしてから、嗚呼、と緩慢に頷いた。
「もういいって。あ、そうだ。銀杏、集めた奴。玄関の外にまとめて置いてあっから」
「分かった」
 過ぎたことだと笑い飛ばし、愛染国俊は白い歯を見せた。両手を腰に当てて胸を反らして、戸口の方を顎で示した。
 臭いがあるものを、屋敷に入れたくなかったのだろう。
 その判断は正解だと首肯して、小夜左文字は後ろを振り返った。
 肩を叩く手は大きく、温かかった。真後ろに立った歌仙兼定と目を合わせて、微笑みかけられて、なんだか照れ臭かった。
「なあ、これってまだ庭に落ちてんのかな」
「いっぱいありましたよー」
「では、明日以降の分も拾いにいきませんか」
「さんせーっい!」
 前田藤四郎の提案に、乱藤四郎が万歳しながら賛同した。残る面々からも反論は聞こえず、台所は子供らのはしゃぐ声で溢れかえった。
 すっかり、団栗の虜だ。銀杏のことなど忘れて、その辺に落ちている木の実に夢中だった。
 椎の木が生えている場所は、今剣が覚えている。我先に駆け出した彼を追いかけ、足音は来た時以上に騒々しかった。
 嵐のような出来事だった。
 ひゅう、と風が吹き、喧騒が遠ざかった。机の上には笊に入りきらなかった殻が大量に散らばり、一部は床に落ちて砕けていた。
 こちらを片付けてから、行って欲しかった。
 ひとつのことに集中すると、他が見えなくなるのはいかにも子供らしい。仕方がないと肩を竦めて、歌仙兼定はひとり居残った少年に目尻を下げた。
「小夜は、いかなくていいのかい?」
 丸い頭を撫で、訊ねる。
 二つに割れた毛先を揺らし、藍の髪の少年は伏し目がちに頷いた。
「歌仙」
「うん?」
「手を」
 結局彼は、あまり数を食べられなかった。
 前半は歌仙兼定に遠慮して、後半は他の子らの勢いに負けて。
 それで許してもらえたのだから文句を言うつもりはないけれど、食べ足りないのは嘘ではない。だからと彼は男に向き直り、短く言って着物の衿を握りしめた。
 小夜左文字は作業がし易いよう尻端折りをして、布は膝の上で折り返されていた。裾は帯に差し込まれ、ずり落ちないよう固定されていた。
 それを、怪訝にする打刀の前で解いた。折り畳んでいた布を引っ張って、垂れ下がろうとするそれを掲げ持った。
 細い脚を剥き出しにしたまま、長着の裾を宙に泳がせる。
 コロン、と端からなにかが零れ落ちて、床で跳ねて転がった。
 団栗だった。
 細長くて小さい、椎の実だった。
「……おや」
「まだ、ある」
 こんなこともあろうかと、思っていたわけではない。
 だが袋に入りきらなかった分を、こっそりここに潜ませていた。
 全部で三十か、それくらいあった。これならふたりで分けるに充分で、しかも余らない量だった。
「狡い子だ」
「そんなことは、ない」
 こうなったのは、ただの偶然だ。本当はこれで玩具を作ろうと、そんな考えで隠していた。
 今は、彼と分け合いながら食べられたらいいと、強く願っている。
 今剣や愛染国俊らの声はもう聞こえなかった。
 七輪では炭が赤々と燃えており、木の実を炒るには問題なかった。
 着物の裾を持ち上げたまま、小夜左文字が受け取るよう歌仙兼定を急かした。男は急いで両手を揃えると、短刀が守り抜いた実を厳かに貰い受けた。
「茸も、焼こうか」
「悪くない」
「その前に、茶の準備だね。小夜、手伝ってくれるかな」
 掌で集めた木の実を塩水に浸しつつ、打刀が軽やかに問うた。
 だが言われるより早く、少年は湯呑みを用意すべく棚に向かっていた。当然だと口角を持ち上げて、男が椅子に使っていた足台と、その上に置かれていた書を一緒に持ち上げた。
 糸で綴じられた本は、趣向を凝らした様々な料理の作り方が記されていた。簡単なものから、 手が込んだものまで、好奇心を擽られる品々が取り揃えられていた。
 この頃献立が固定化してきたので、打開策を練っていたのだろう。
「歌仙が作るなら、なんでも美味しい」
「おや、ありがとう」
 世辞のつもりはなく、本心から囁く。
 聞こえていた男は誇らしげに礼を言って、洗った茸を串に刺した。

2015/11/01 脱稿

茂りゆきし原の下草尾花出でて 招くははれを慕ふなるらん
山家集 秋 273

吉野は里に冬籠れども

 それが本丸に現れた日、屋敷の中はちょっとしたお祭り騒ぎだった。
 南側にある庭に面した、最も日当たりが良い大広間。若草色も鮮やかな畳が敷き詰められた和室の真ん中にどん、と置かれたのは、角材を用いて作られた四角い櫓だった。
 高さは二尺に満たず、奥行きは三尺あまり。やや平べったい方形をして、補強の目的で筋交いが施され、鎹が打ち込まれていた。
 やや厚みのある底板が取り付けられ、天板部分は升目状に木材が配置されいた。その中央部分は特に丁寧に作り込まれており、一画には蝶番が取り付けられていた。
 中になにかを入れる目的だろうがあると、それだけで推測が可能だった。しかし角材同士の隙間は広く、小さなものだと簡単に転がり出てしまえそうだった。
 ちょっと見た程度では、何に使うのかさっぱり分からない。けれど一部の刀たちはピンとくるものがあったらしく、既に顔が綻んでいた。
 これを作ったのは、意外にも御手杵だった。もっとも設計図を描き、指示を出したのは蜂須賀虎徹だったが。
 櫓とはいえ、物見台のような大きなものではない。短刀が腰かける台座としてはやや大きいくらいで、大太刀が座れば瞬時に壊れる代物だった。
 そんなものを、いったい何に使うのか。
 胡乱げな表情で見守る仲間を前に、金銀刺繍が派手な着物を纏った打刀は、得意げな顔で胸を張った。
「これに、この炉を入れるだろう?」
 大柄な槍を手足のように操り、指示を出して、自らは動かない。
 けれど御手杵には格別不満はないようで、言われた通り木組みの櫓の内部に、粘土を焼いて作った大碗を入れた。
 素焼きの簡素なものだけれど、熱に対しての耐性はそれなりに強い。狸の腹を思わせる丸くでっぷりとした形状のその底部には、拳ほどの大きさの石が数個、敷き詰められていた。
 事情を知らない短刀たちは興味津々で、背伸びをして覗き込んでいた。小夜左文字も例外ではなくて、粟田口の面々に挟まれながら、小さな体を懸命に伸ばしていた。
「蜂須賀さん、こんなのでいいですか?」
「ああ、堀川国広。助かるよ」
 その後方から明るい声が響いて、大広間が一瞬ざわめいた。もれなく柔らかなものに頭を叩かれて、横一列になっていた短刀たちは一斉に振り返った。
 しかし大きな目を丸くしても、視界が塞がれていてなにも見えない。
「わぶっ」
 真横で五虎退の悲鳴が聞こえて首を竦め、小夜左文字は肌触り良い布地に眉を顰めた。
 布団だ。
 それもふかふかしており、柔らかかった。薄くだが綿が入っているようで、これで眠ればさぞや心地良かろうと思われた。
 季節は冬に突入し、既に雪が降り始めていた。
 陶器製の火鉢は大広間の片隅に鎮座して、炭の火は昼夜を通して絶えることがなかった。
 雪が降り積もり、庭は白銀に染まっていた。年中緑が鮮やかな松の木も、この時ばかりは猫背になる。枝からはバサリ、バサリと塊が落ちて、子供たちが作った雪だるまが、まるでこけしのようだった。
 吐く息は白く濁り、朝晩の冷え込みは殊に厳しい。日中でも寒くてならず、刀たちの動きは俊敏さを欠くようになった。
 特に年季が入った太刀に、その傾向が強く表れた。
 鶴丸国永など、ここ最近は一日中布団の中だ。もしくは火鉢の前に陣取って、梃子でも動かなかった。
 全体的に曇り空が多く、晴れても薄日が差す程度。積もった雪はなかなか溶けず、屋根が潰されないようにと、雪かきが欠かせなかった。
 そういう状況でありながら、この本丸には暖房器具が異様に少なかった。
 火鉢は広間にあるそれひとつきりで、後は持ち運びが可能な手あぶり火鉢が数個のみ。残るは懐に入れる懐炉を、各自持っている程度だった。
 暖を欲して、台所に来る顔ぶれは一気に増えた。竈の火の番を進んで買って出て、顔を真っ黒にする刀は大勢いた。
 誰もが冬の寒さに身を凍らせ、背筋を震わせていた。出不精が増えて、遠征任務さえ滞る有様だった。
 そういう状況を、なんとか打破しようと考えたのだろう。
 綿入りの布団を抱きかかえた堀川国広に、派手好みの蜂須賀虎徹は満足げに微笑んだ。
 無造作に結った長い髪を揺らし、男が嫣然と目を細めた。短刀たちの隙間を抜ける形で脇差の少年が前に出て、その後ろには襷を絞めた和泉守兼定が続いた。
 彼もまた、三つに折り畳んだ布団を抱えていた。
「何をする気だ?」
「あ、僕、分かっちゃったかも」
 薬研藤四郎が訝しげに眉を寄せ、五虎退が嬉しそうに声を弾ませた。両手を胸の前で叩き合わせて、小柄な短刀は目元を綻ばせた。
 首を竦めて笑っている弟に、大人数の兄弟を取り仕切る短刀は益々変な顔をした。顎を撫でて眉目を顰め、着々と進む作業に意識を傾けた。
 そんなやり取りを横目で眺めて、小夜左文字は縁側から伸びる影に顔を上げた。
「歌仙」
「ほら。これでいいのかな」
 やって来たのは、藤色の髪をした打刀だった。
 銅製の、取っ手のついた鍋を握っていた。台所でも頻繁に使っている道具を手に、彼は集まる面々に首を傾げた。
 十能といって、火を熾した炭を運ぶのに使う品だ。内側には黒色の、鉄で作られた火熾し器が収められていた。
 薄く煙が棚引いており、中に火の点いた炭が入っているのは間違いなかった。わざわざ台所から運んできたらしく、傾けないよう支えている腕が小刻みに震えていた。
 頼まれただけで、何に使うかは彼も知らないらしい。本丸にいる刀たちのうち、半数近くが勢揃いしている光景に渋面を作って、打刀は木製の取っ手を脇差に委ねた。
「すみません、歌仙さん。ありがとうございます」
「それは構わないんだけどね。しかし、いったい何の騒ぎなんだい。これは」
 重い荷物から解放されて、歌仙兼定は手首を揉んで慰めた。疲労を訴える身体を宥めて肩を回し、座敷の真ん中に置かれた木枠にも口を尖らせた。
 その拗ねているようにも見える表情を、布団を積み重ねていた和泉守兼定が不遜に笑い飛ばした。
「なんだ、二代目。知らねえのか?」
「……そういう君は、どうなんだ」
 喜色満面に白い歯を覗かせて、背高の打刀が人を馬鹿にする笑みを浮かべた。もれなく歌仙兼定はムッとして、険を強めた眼差しを投げ返した。
 だが今回は自信があるようで、和泉守兼定は怯まない。鼻高々と胸を張り、偉そうに腕を組んだ。
「こいつはなあ、聞いて驚け」
「炬燵ですよ」
「って、おい。国広ぉ!」
 だが彼の独壇場は、呆気なく幕引きとなった。得意になって言い放とうとした傍で、脇差の少年が明るく弾んだ声を響かせた。
 折角二代目兼定の刀相手に自慢出来たのに、言わせてもらえなかった。
 台詞を横取りされた。あまりにもあんまりな展開に大声で抗議して、頬を膨らませた和泉守兼定だったが、慣れているのか堀川国広は平然と聞き流した。
 歌仙兼定から引き受けた十能を両手で持ち、彼は木組みの四角い枠の前でにっこり目を細めた。まるで悪びれる様子なく相好を崩して、皆が見守る中、茶色い陶器の炉に炭を移し替えた。
 灰が落ちないよう注意しつつ、細かく砕いた塊を火箸で操る。向こうで相方が地団太踏んでいるというのに無視を貫き、手早く作業を済ませて立ち上がった。
 入れ替わりで前に出たのは、蜂須賀虎徹だ。彼は長い袖の袂をちょっと摘むと、伸ばした手で蝶番で繋がった扉を閉めた。
 大袈裟にも見える木枠の中で、炭が赤々と燃えていた。まるで牢に入れられている風にも見えて、様相は不可解だった。
 これに手をかざせば火鉢同様、暖がとれる。だというのに木枠が邪魔で、それより内側に手が伸ばせなかった。
 もしやこの升目ひとつひとつに、腕を差し込めというのか。
 初めて目にする道具に疑問符を抱く刀たちの前で、蜂須賀虎徹は目を閉じて人差し指を揺らした。
 チチチ、と舌を鳴らして注目を集め、察しが悪い男たちを居丈高に見下ろす。
 そういう態度が癪に障るのだが、知りたい気持ちを抑えきれない。仕方なく文句はぐっと飲み込んで、刀剣男士一同は次の言葉を待った。
 不満と期待が入り乱れる中、虎徹の真作はまだ悔しがっていた和泉守兼定を呼んだ。御手杵にも新たな指示を出して、運ばれて来たばかりの布団を広げさせた。
「これを、こうして。ここに、被せる」
 そうして短い方の端を持たせ、櫓を隠すように被せた。真ん中で二枚が重なるようにして、木枠全体を布で覆い尽くした。
 赤色の派手な柄が表に来て、その隣に生成り色が並んだ。両者があまりに違い過ぎて違和感が拭えなかったが、これで櫓炬燵の完成だった。
 本来は布団一枚で足りるのだが、ここ本丸で暮らす刀の数は多い。なるべく皆で温まれるよう、大きめに作ったが故の、二枚使いだった。
 布団があるので、炭火で温められた空気は逃げない。布自体も熱を持つので、これに下半身を入れると、とても温かい。
 熱々の炉に爪先が当たれば火傷をするが、手前にある櫓が防御壁代わりになるので、その心配は軽減された。思い切り足を延ばせないのが難点ではあるが、贅沢は言っていられなかった。
「切炬燵が出来れば、一番よかったんだけどね」
「座敷に穴開けんのは、ちょっとなー」
 構造と使い方を簡単に説明して、蜂須賀虎徹は最後に肩を竦めた。隣で聞いていた御手杵も同意して、畳敷きの床を撫でた。
 彼の背丈では、この櫓炬燵は少々窮屈で、使い難かった。
 床より一段低い囲炉裏があれば、その上に櫓を設けて暖を取るのが可能だった。ただ残念なことに、この屋敷にはそういった構造の部屋が用意されていなかった。
「えーっと、つまりは……」
「物は試しだ。入ってみたまえ、鶴丸国永」
 分かっている者たちだけで語らわれて、置いてけぼりを食らった太刀が首を捻った。それで蜂須賀虎徹はひょい、と布団の端を持ち上げて、寒がりの男を手招いた。
 誰よりも暖かそうな格好をしている癖に、この太刀の寒がりようは群を抜いていた。そういう事情もあって実験台に選ばれた男は、左右からの注目を一斉に集め、嬉しそうに頷いた。
 日々驚きを追い求める鶴丸国永だが、雪が降った初日に短刀より大はしゃぎして、一度体調を崩していた。
 それが尾を引く格好で、寒がりに拍車がかかっていた。まだ冬は始まったばかりだというのに、布団に包まって丸くなる姿は、先行きを不安にさせるに充分だった。
「それじゃあ、ちょっと失礼するぞ」
 本丸の代表として前に出て、蜂須賀虎徹から布団の端を譲り受ける。櫓に当たらないよう注意しつつ膝を折って座り、その上に持ち上げていたものを落とした。
 皺を伸ばして布を撫で、猫背気味に姿勢を作る。もぞもぞ何度か身じろいで、何をするかと思えば、背に垂らしていた頭巾をおもむろに頭に被せた。
 その間、彼はひと言も発しなかった。
 良いとも、悪いとも口にしない。ただ居心地の良い体勢を探してあれこれ試し、大勢が息を飲んで見守る中、やがて太刀はごろん、と猫のように横になった。
「……え?」
 いきなり倒れられて、部屋の中がざわめいた。
 どうしたのかと、短刀は互いに顔を見合わせた。子供たちが心配そうに表情を曇らせる中、男は頭巾の端を持ち上げ、不安げにしている蜂須賀虎徹を凝視した。
「どうだ?」
「……やばい」
「は?」
 恐々感想を聞けば、ぽつりとひと言、返された。
 それがどのような意味合いで発せられたのか、咄嗟に理解出来ない。切れ長の眼をパチパチさせて、打刀は裾を揃え、しゃがみ込んだ。
 もっと詳しく聞かせてくれるよう眼差しで訴え、具合が悪くなったのかと手を伸ばす。
 その無骨で長い指を、掻っ攫って。
 そして。
「まずいぞ、蜂須賀虎徹。こいつは、ありえない。恐ろしいまでの驚きだ。俺は――冬が終わるまで、一生ここから出ないぞ!」
 がばりと勢いよく起き上がって、白髪の太刀は力強く宣言した。
 素晴らしい品を提供してくれたと喜んで、琥珀色の瞳は眩く輝いていた。寒さから青白かった肌には血色が戻り、喜色満面として、恍惚に染まっていた。
「は、あ?」
「いやあ、素晴らしい。なんていうものがあったんだ。こんな驚きがあったなんて、知らなかったぞ。ああ、俺は夢を見ているんじゃないだろうな」
 鼻息荒く、声を大にして叫ぶ。言い終えた後は熱を宿した布団に顔を埋めて、幸せそうに頬ずりする。
 うっとりと夢見心地に囁いて、放っておいたら櫓に抱きつきそうな雰囲気だった。
 未だかつて、こんな鶴丸国永を見たことがあっただろうか。火鉢の前でガタガタ震えている姿ばかり目撃されていただけに、場に居合わせた刀たちは揃って呆気にとられ、ぽかんとなった。
 そんな中で、ひと振り。
「独り占め、はんたーい!」
 右手を挙げて前に出た刀がいた。
「俺も、炬燵でぬくぬくしたーい」
「あ、狡いぞ。清光」
 加州清光が声高に叫んで、鶴丸国永の斜め向かいに滑り込んだ。赤色の絵柄も派手な布団を捲り上げて、隙間が出来ないよう突っ込んだ脚の周囲を叩いて凹ませた。
 しかし塞いだばかりの穴を穿つ形で、後を追った大和守安定が割り込んだ。横に押し出された打刀は至極嫌そうな顔をして、肘鉄でやり返したが通じなかった。
「は~、あったか~い」
 満面の笑みを浮かべて呟いて、右隣からの攻撃などどこ吹く風とやり過ごす。猫背を強めて櫓の角に額を預け、ゴロゴロと首を振る姿は猫を連想させた。
 真横に陣取られて不満げな加州清光ですら、布団から出て櫓炬燵から離れようとしない。鶴丸国永など完全にここで眠る気で、目を瞑って横たわる表情はいたくご満悦だった。
「僕、炬燵、大好きです」
「あ、おい」
 五虎退も声を弾ませ、空いている場所に潜り込んだ。薬研藤四郎は慌てたが、引き留める間もなく、秋田藤四郎や前田藤四郎たちも炬燵へと詰めかけた。
 それを見て、遠巻きに様子を探っていた刀たちも動き出した。なんとか入れる場所を探して、時に肩がぶつかる窮屈さに耐えながら、櫓炬燵がもたらす温かさを体感していった。
「こいつは……」
「確かに、こりゃやべえぞ」
「ぬくぬくです~」
 最初は半信半疑だった面々だが、見る間に認識を改めた。感嘆の息を漏らし、稀に見る幸福を享受して、蕩けるような笑顔を浮かべた。
 頬のみならず全身を弛緩させ、爪先から染み込んでくる温かさに微睡む。鶴丸国永からは早々に寝息が聞こえ始めて、加州清光もこっくり、こっくり舟をこぎ始めていた。
「これは、すごいな」
 ある程度人が集まり、動かなくなるとは想像していた。
 けれどここまでの集客力があるとは、予想以上だった。
 結果を確かめるべく見守っていた蜂須賀虎徹は素直に驚き、御手杵は自分が作ったものの人気ぶりに満足そうだった。一方和泉守兼定は完全に出遅れて、自分が入る隙間がないのにお冠だった。
「てめえら、どけ。俺が入れねえだろうが」
「残念でした。早いもの勝ち」
 炬燵作りで働いた分、優遇されて然るべき。そう主張する打刀だったが、大和守安定は耳を貸さなかった。
 眠りを誘う優しい温もりは、手放し難い。たとえ功労者であろうとも譲れないとの言い分に、後ろで聞いていた御手杵は苦笑するしかなかった。
「てか、あんたって布団運んだだけだろ?」
「兼さん、釘を打とうとして、指叩いてたもんね」
「国広ぉ!」
 櫓を作ったのは御手杵であって、和泉守兼定は見ていただけ。面白がって手伝おうとしたけれど、初っ端で痛い思いをしてしまい、二度と触らせてもらえなかった。
 恥ずかしい失敗談を大勢の前で暴露されて、格好よさが自慢の男の顔がみるみる赤くなっていく。
 彼の不器用さは、本丸内で知らぬ者はない、というくらい有名だった。刀装作りでもよく失敗しており、貴重な資源が彼の所為で幾つも無駄になっていた。
 堀川国広は本当のことを口にしただけで、本人に悪気はない。しかし言われた方は堪ったものではなく、炬燵に陣取る刀からも、どっと笑い声が湧き起こった。
「やれやれ。君は、どうしてこう」
「うぅ、うっせえ!」
「あ、待ってよ。兼さん」
 挙句歌仙兼定にも呆れられて、ついに耐えられなくなった。癇癪を爆発させて、短気な刀は逃げるように駆け出した。
 自分が元凶であるとも知らず、堀川国広が追いかけようとして、手に持ったままのものを思い出した。中身が空になった十能に戸惑っていたら、見かねた歌仙兼定が手を伸ばし、火箸も含めて一切を引き受けた。
 感謝の意を込めて頭を下げた脇差を見送り、本丸で最も古株の打刀が柔らかく微笑む。若干の呆れを含んだ眼差しは、縁側から座敷に向けられた後も変わらなかった。
「歌仙」
「やあ、小夜。君は、良いのかい?」
 大勢が一斉に押しかけて、炬燵櫓の周囲には人垣が出来ていた。せめて片足だけでも、と足掻いている者までいて、傍目から見る光景はかなり滑稽だった。
 そういうものに混じる気は、この打刀にはさらさらないらしい。随分軽くなった十能を片手に揺らし、歌仙兼定は傍に来た短刀に目尻を下げた。
 小夜左文字もまた、出遅れたひと振りだった。
 躊躇している間に、布団が埋まってしまった。少しでも多く布を被ろうと引っ張り合いが発生しており、あの中に混じるにはかなり勇気が必要だった。
 見苦しい争いに参加するくらいなら、大人しく引き下がった方が良い。そういう判断をした短刀に苦笑して、歌仙兼定は役目を終えた火箸を丸火鉢の灰に突き刺した。
「入って行かないのかい? 残念だ」
「また今度だね。昼餉の片付けが、終わっていない」
 押し合いへし合い、暖を取り合う姿は猿団子に似ている。蜂須賀虎徹に言われて肩を竦め、歌仙兼定は謹んで辞退を申し得た。
 いくら大きめに作ったとはいえ、本丸で暮らす刀全員では入れない。あとふたつか、みっつ、同じものを用意しないと、一部の刀で独占されてしまうのは不公平だ。
 その懸念は、炬燵を作る時点で既にあった。
「すぐに二つ目に取り掛かろう」
「だな」
「期待しよう」
 蜂須賀虎徹の言葉に、御手杵が深く頷く。やり取りを聞いていた歌仙兼定は静かに声援を送って、手持無沙汰にしている短刀の頭を撫でた。
「……なに」
「いいや」
 突然髪を梳かれ、小夜左文字が胡乱げに眉を寄せた。それで利き手を引っ込めて、打刀はゆるゆる首を振った。
 藍の髪の少年は、気が付けば目で炬燵近辺の光景を追いかけていた。
 今は諦めたものの、興味はあるらしい。場所の取り合いをしつつ、仲良く会話を繰り広げている仲間たちに、視線は釘づけだった。
 本音をあまり口にしない少年ながら、行動は素直だ。
 分かり易いと微笑んで、歌仙兼定は台所へ戻るべく縁側に足を繰り出した。
 食器の片付けと、夕餉の下ごしらえがまだ終わっていない。それが完了しないことには、炬燵で微睡むなどもっての外だった。
「手伝う」
「すまないね、ありがとう」
 人手は、いつだって足りない。
 台所当番の苦労は、小夜左文字も承知していた。猫の手でも借りたかろうと、少年は慌てて打刀を追いかけた。
 小走りに距離を詰めて、横に並んだところで歩みを揃える。もっとも足の長さが違うので、短刀は小刻みに身体を揺らさなければならなかった。
 忙しく上下に振れる髪を一瞥して、歌仙兼定はこみあげてきた笑いを堪えた。
 小夜左文字の髪質はかなり強情で、癖があった。高い位置で結えば、跳ねた毛先が左右に割れて、さながら芽吹いた直後の双葉だった。
 真っ直ぐ真下へ向かって落ちていく髪質の、蜂須賀虎徹とは大違いだ。だが歌仙兼定も真っ直ぐなようで緩く湾曲しており、長く伸ばせばそこの短刀と同じになりかねなかった。
 あれこれ屋敷の仕事をする時は、邪魔だからと前髪だけ結い上げている。扱う量は少なく、短いので特に問題を感じないが、長くなったらなったで、手入れが面倒臭そうだった。
 ひょこひょこ飛び跳ねている毛先が面白いのだが言わずに済ませ、男は咳払いで心を落ち着かせた。深呼吸して唇を舐めて、まだ騒がしい後方を一度だけ振り返った。
「これで、台所が静かになるかな」
「手伝いが、減らないか」
「不慣れな連中に任せるよりは、ね」
 竈の火を目当てに押しかけて来た連中は、雪が降るまで台所に足を踏み入れたことがない刀ばかりだった。
 入ったとしても、食べ物を探す目的で、だ。自ら料理をしようだとか、そういう考えがあって訪ねて来る刀は殆どいなかった。
 そんなだから竈の扱いに慣れておらず、火加減の調整も下手だった。釜が噴きこぼれているからと蓋を外して、炊いている途中だった飯を台無しにされたことまであった。
 そういう過去があるから、歌仙兼定の意見は厳しい。手伝いという名目で邪魔されるのは、短気な刀には我慢ならないようだった。
 淡々と吐き捨てた男の横顔を見て、小夜左文字は和泉守兼定を思い浮かべた。
「ふふ」
 あの刀も、堀川国広に張り付いて、よく台所に顔を出した。
 だが生来の不器用さが祟って、役に立った記憶はあまりない。豆の莢剥きさえまともに出来ず、いつも歌仙兼定を苛立たせた。
 どんなに怒られてもへこたれず、失敗しても諦めない姿勢は素敵だ。けれど迷惑を蒙る側からすれば、少しは限度を覚えて欲しいとも思う。
 和泉守兼定の努力を認めてやりたいところだけれど、歌仙兼定の心労も理解出来る。
 どちらに味方しようか悩んで、小夜左文字は控えめに笑った。
「おや」
 その声を拾って、打刀が珍しいものを見たと目を丸くした。
 向けられた不躾な視線に、少年は一瞬きょとんとなった。そして直後に我に返り、口元にやっていた手を背中に隠した。
 なにも可笑しなことはしていないのに、気恥ずかしげに顔を伏して、足取りも緩めた。照れ臭そうに身を捩って歌仙兼定の背後に回り、廊下を行く彼の視界から隠れようとした。
 追いかけて振り向けば、動きに追随して逃げられた。常に真後ろに張り付く形を維持して、執拗な追撃を躱し続けた。
 歌仙兼定も意地になって、是が非でも顔を見てやろうと躍起になった。そうなれば必然的に、ふたりして縁側の角でくるくる回ることになって、たまたま通りかかった鳴狐には変な顔をされてしまった。
「おふたりとも、何をしておられますか」
「あ、いや。気にしないでくれ」
 肩に乗っている狐、並びに本体からは仕草と視線でなにをしているか訊かれ、咄嗟に答えられなかった。曖昧に誤魔化そうとすれば、まるで猫が自らの尻尾にじゃれているようだったと、率直且つ的確な感想を告げられた。
 滑稽な真似をしたと自覚して、顔が熱くなった。
 小夜左文字までカーッと頬を染めて黙り込んで、湯気のような白い煙が見えるようだった。
 楽しそうでなによりとまで言われ、穴があったら入りたかった。耐えきれずに片手で顔を覆って、歌仙兼定はちらりと傍らを窺った。
「……なに」
「いいや」
 すると思いがけず目が合って、低い声で問い質された。けれど格段意味があったわけでもなくて、言葉を濁すしか術がなかった。
 火照った肌を擦り、変に上がった体温に手で顔を扇ぐ。だが微風さえ産まれなくて、熱はいつまでもそこに留まり続けた。
 これなら真冬でも、炬燵はいらない。
 刀たちがもみくちゃになっていた光景を思い出して、細川の打刀は深く息を吸い込んだ。
 内側から冷まそうとして、ついでに心も落ち着かせる。最中に胸に手を添えれば、下方から鋭い視線が感じられた。
「小夜?」
「……別に」
 立ち止まって深呼吸している間も、彼はそこから動かなかった。先に台所にいくなり、予定を変更して別の場所に出向くのだって可能なのに、歌仙兼定を待ち続けた。
 名前を呼べば、空色の眼はふっと逸らされた。それでいながら暫くすれば、また上向いて昔馴染みの男を映した。
 炬燵を気にしていた時と同じだ。関心ないという体を装っておきながら、本音が隠し切れていなかった。
 無口で無愛想ではあるけれど、所々で短刀らしい愛くるしさが零れ落ちる。普段は無理をして大人びようとしている雰囲気が滲み出ており、不意を突いて溢れる子供らしさとの対比が、堪らなく愛おしかった。
 小夜左文字の方が年上であるのも忘れて、打刀が顔を綻ばせる。
「皆がいなくなった時にでも、入ってみようか」
「歌仙?」
「気になるんだろう、炬燵が」
「う」
 今はまだ物珍しさが付きまとっているけれど、そのうち飽きる者も出てくるだろう。
 遠征任務や出陣と、本丸を出ている刀剣男士たちもかなりの数になる。大勢が出払っている時を狙えば、爪先を突っ込むくらいは、出来るはずだ。
 小夜左文字は冬場でも、基本は素足で過ごしていた。
 さすがに薄着過ぎるので、袈裟ではなく褞袍を着ているものの、足元から来る冷気は防げない。小振りの足は霜焼けで赤く膨らんでおり、毎晩のように歌仙兼定が、湯に浸して揉んでやっていた。
 あの炬燵を使えば、その必要もなくなる。
 専用のものが作れないか、蜂須賀虎徹に相談してみよう。そんな事を考えて、歌仙兼定は赤みが強まったふくよかな頬に相好を崩した。
「あれが小夜にも行き渡れば、僕は御役目御免かな」
 小夜左文字は夜間、歌仙兼定の部屋で休む。ひと組しかない布団に割り込んで、その腕に包まれて眠るのが習慣だった。
 もうずっと、それが当たり前の生活だった。本丸に来てすぐの時に、ちょっとした騒動の果てにそうなって、以後ずるずる続いていた。
 けれどもう、終わりだ。冬場に入り、前にも増して相手に密着して眠るのは、暖を取る目的だった。
 他に温まる方法があるのなら、そちらの方が良いに決まっている。
 抱き枕ならぬ、抱き行火役は必要なくなる。呵々と笑って手を振った歌仙兼定に、小夜左文字は身震いと同時に膝をぶつけ合わせ、物言いたげに口をもごもごさせた。
 瞳は宙を彷徨い、安定しない。だが彼が切り出すより早く、歌仙兼定は台所へ急ぐべく、背中を向けた。
 それを、後ろから。
「うっ」
 ドスッ、と小柄な塊に体当たりされて、打刀は転びそうになったのを必死に堪えた。
 滑りやすい足袋で懸命に踏ん張って、肩幅以上に足を広げてどうにか姿勢を保つ。十能の中で鉄製の火熾し器が躍って、あと少しで外に飛び出るところだった。
 あんなものが爪先に落ちようものなら、骨の一本や二本、軽く真っ二つだ。
 そんな情けない理由で、手入れ部屋には行きたくない。ほっと安堵の息を吐き、歌仙兼定は細長い持ち手部分を両手で握りしめた。
 緊張で強張った上腕二頭筋をプルプルさせて、腰を捻れば藍色の頭が見えた。背中にしがみついて顔を埋めているらしく、どんなに頑張っても、小夜左文字の表情は見えなかった。
 腰に回された腕は細いながら力が強く、ぎゅうぎゅうに締め付けられて痛かった。さすがに引き千切られはしないけれど、圧迫されて苦しく、内臓は悲鳴を上げていた。
 あまり長時間こうしていたら、細胞が壊死してしまう。
 血の巡りが悪くなっているのを実感して、打刀の男は青くなった。
「小夜?」
 急に飛びつかれる原因が分からず、声は自然と裏返った。音量も大きくなって、素っ頓狂な悲鳴が庭先に響き渡った。
 音波を浴びてか、松の木の枝から雪の塊が落ちた。バサバサ、と風流とは言い難い音色に眉を顰め、彼は抱きついて離れない短刀に目を白黒させた。
 無理に引き剥がすのは躊躇が勝り、為す術がない。行き場を失った左手を揺らめかせ、男は最終的に、ぽん、と丸い頭を撫でた。
「どうしたんだい、急に」
「……が、いい」
「うん?」
 ひとまずこの束縛を緩めて貰おうと、宥めるように撫でてやる。
 後頭部の形をなぞりながら指先を動かしていたら、少しは気が済んだのか、腕の力が僅かに緩まった。
 同時に呻くような小声が聞こえ、歌仙兼定は首を傾げた。
 聞き取れなくて、眉間に皺が寄った。返事が出来なくて戸惑っていたら、小夜左文字も声が小さかったと自覚したらしく、ゆるゆる首を振って息を吐いた。
 完全に解放はせず、顔を上げる。
 しがみつかれたまま睨まれて、打刀は空色の双眸にぐっ、と息を飲んだ。
 甘えるような、拗ねているような、複雑な彩だった。
 怒っているように見えて、寂しがっている風にも映った。悔しさを堪えているように感じられ、悲しんでいる雰囲気だった。
 色々な感情が入り乱れ、混ざり合っていた。
 ひとつに定まらず、感情が簡単には計れない。どう対処するかの判断がつかなくて、歌仙兼定は不自然な体勢で凍り付いた。
 片手で十能を持ち、もう片手は中空を漂った。腰を軽く捻り、足は前後にずれていた。
 今にも倒れそうで、ぎりぎりそうならない。二度と真似できない絶妙な塩梅で姿勢を保って、男は二度、喉を上下させた。
 沈黙が流れた。
 無言のまま見詰め合って、先に目を逸らしたのは小夜左文字だった。
「歌仙の、方が。……あったかい」
 そうしてぽつりと、消え入りそうな声で囁いた。
 蚊の鳴くような小声で、恥ずかしそうに。ゆっくり後方に体重を移動させて、拘束を解きながら。
 袴に出来ていた皺が薄れ、華奢な腕がするりと逃げて行った。固く結ばれていた指は空を掻き、細身の背中へと隠された。
 俯いて、顔が見えない。
 だが藍の髪から露出する耳は、柘榴の実よりも真っ赤だった。
「さ、よ?」
 一瞬、夢を見ている感覚に陥った。
 聞き間違いではないかと疑って、名を呼ぶ声が上擦った。息が詰まって変に途切れてしまい、焦っていたら鋭い眼差しで睨まれた。
「歌仙が嫌なら、もう行かない」
 口を尖らせ、頬を膨らませて。
 素っ気なく吐き捨てられたひと言に、打刀は騒然となった。
「なっ、まさか。僕だって、君がいてくれれば充分に決まっている」
 雷が落ちたかのような衝撃を受けた。慌てて胸を叩いて捲し立てて、身を屈めて距離を詰めた。
 身体ごと振り返り、声高に叫んだ。十能を持ったままの、あまり格好いいとは言えない状況で、必死になって短刀に訴えかけた。
 勢いをつけすぎて、唾が飛んだ。下唇が濡れてしまって、みっともなさに慌てて口を覆っていたら、惚けた顔の少年が、数秒してから控えめに噴き出した。
 春先、雪の重みに耐えていた花が綻ぶかのように。
 固かった蕾が膨らみ、鮮やかな色彩を奏でて花弁が一斉に広がるように。
「じゃあ、いい」
 嬉しそうに言って、はにかんだ。
 光が弾けた。
 雲間から薄日が差して、白銀に染まる庭がきらきらと輝いた。
 見惚れていた。
 動けなかった。
 瞬きさえ忘れて、歌仙兼定は呆然と立ち尽くした。
 冬は寒い。だからみんなで肩寄せ合って、互いの熱で温まる。
 だけれど炬燵を囲む輪に、加わりたいとは思わない。あんな風におしくらまんじゅうしなくても、小夜左文字は――歌仙兼定は、互いが在れば充分だった。
 茫然としたまま、藤の髪の打刀は音もなく口を開閉させた。息苦しさに負けて背筋を伸ばし、長く留めていた呼気を吐き出した。
 胸がぎゅうっと締め付けられた。鼓動はトクトクと、小走りに、早鐘を打つが如くだった。
 小夜左文字は両手を背中で結んで、意味もなく身体を左右に捩った。爪先で床を蹴っては踵を擦り合わせ、何をきっかけにしてか、ぴょん、と跳ねると同時に駆けだした。
「小夜」
「竈の火、熾してくる」
 斜めに跳んで、傍らを掻い潜られた。すれ違いざまに早口で告げられて、動きを目で追いつつ、歌仙兼定は瞬きを繰り返した。
 睫毛を震わせ、伸ばしかけた手を引っ込める。空を撫でた指は口元に辿り着き、遅れてかあぁ、と熱が走った。
 ぼっ、と火が点いたようだった。
 緩く曲げた指の背を唇に添えて、打刀は雪さえ融かす高熱に身悶えた。
 嬉しかった。
 小夜左文字があんなことを考えて、感じていたと知れたのが、堪らなく嬉しかった。
 心が震えた。
 あまりにも幸せで、涙が出そうだった。
 鼻を啜りあげ、薄ら濡れた目尻を拭う。感嘆の息を吐いて弾む鼓動に頬を緩め、歌仙兼定は直後。
 首筋へ走った銀閃に凍り付いた。
 スッと、音もなく突きつけられた。
 薄皮一枚、痛みもないまま切り裂かれた。
 つい、と赤い血がひと筋、肌から滴り落ちた。生温い液体が頸部を伝って、その微熱が夢見心地だった男を現実へと引き戻した。
 振り向くのは、自ら刃に刺さりにいくのと同じ。
 自殺行為と懸命に己を制して、男は背後から立ち上るどす黒い気配に四肢を粟立てた。
 脂汗が滲んだ。
 先ほどまでとは違う理由で、全身が燃え盛るくらいに熱かった。
 頬がヒクリと引き攣った。体温が上がって血の巡りは良いというのに、一斉に血の気が引いて、歌仙兼定の顔面は真っ青だった。
 鋭い切っ先が、右頬のすぐ下にあった。二度の再刃など感じさせない怜悧さを内包して、いつでも首を落とせる位置に佇んでいた。
「こっ、これ、は。随分と、……御無沙汰で」
 少しでも動けば、彼の身体はふたつになる。
 押し寄せる恐怖に抗いながら、細川の打刀は必死に声を振り絞った。
 状況に相応しいとは言い難い挨拶をして、どうにか振り返ろうと瞳を片側に寄せた。聞かずとも分かる相手に両手を高く掲げて、降参を表明して命乞いを試みた。
 けれど、伝わらない。
 通じない。
「ひっ」
 ズッ、と二寸ばかり刀が前に出て、半寸引き戻された。たったそれだけの事なのに惨めに悲鳴を上げて、歌仙兼定は歴史修正主義者より余程恐ろしい相手に冷や汗を流した。
 どうして彼が、此処にいる。
 普段は屋敷の奥にある部屋から一歩も出ようとせず、母屋には滅多に顔を出さないというのに。食事だって他の刀とは別で、毎日せっせと弟に運ばせているような刀なのに。
 それが、何故。
 よりによって、今。
「弟が随分と世話になっているようですね、歌仙兼定。その首、頂戴しても宜しいか?」
 細川の打刀に見えないところで、魔王の刻印を持つ刀が嫣然と微笑む。
 前後で話が噛みあわない台詞をひと息のうちに告げて、宗三左文字は不埒な不届き者に抜身の刃を寄り添わせた。
「薬研に、珍しいものがあると誘われて来てみましたが。想像以上に素晴らしいものを見せていただきました。このお礼は、是非。痛みを覚えないほどに一瞬で、天に召されてくださいませ」
 きらりと閃光が煌めき、美しく磨かれた刀身に青褪めた男の顔が映し出される。
 稀に見る楽しそうな打刀の斜め後ろでは、黒髪の短刀がやれやれと肩を竦めていた。

2015/10/21 脱稿

山ざくら初雪降れば咲きにけり 吉野は里に冬籠れども
山家集 冬 512

まどふ心ぞわびしかりける

 虫の声が騒がしい夜だった。
 陽が沈み、空は次第に暗さを増して行った。日没の名残が消え去るには幾ばくか猶予があったけれど、闇の訪れは、ぼうっとしていれば一瞬だった。
 まさに釣瓶落としが如く、駆け足で夜がやってきた。あちこちの部屋で灯明が点されて、縁側の釣り灯篭にも火が入れられた。
 一方で短刀たちが暮らす区画の明かりが消されて、既に久しい。粟田口の子供たちは実に健康的な生活を送っており、来派の少年たちもこれに準じていた。
 ただし当然のように、例外だって存在する。
「悪い男ですね、貴方も」
「いいじゃねーか、たまには」
 呆れ混じりで呟いた言葉に、この場で誰よりも年若く見える少年が笑った。首を竦め、口角を持ち上げて、眼鏡の奥の双眸は糸よりも細かった。
 胡坐を崩した姿勢で座り、左手は腿に被せた右足首の上にあった。右手は酒杯を掲げており、薄い器には溢れんばかりの酒が注がれていた。
 透明な液体を波立たせて、少年は赤ら顔で杯を呷った。ひと息に飲み干して、美味そうに口元を拭った。
 上機嫌に身体を揺らして、寝かせていた膝を起こす。行儀悪く姿勢を改めて、見た目にそぐわぬ不遜な表情を浮かべた。
 一瞬で空になった杯は盆に戻されず、おもむろに斜め向かいへと突き出された。
「ん」
 仄かに色付いた太腿を惜しげもなく晒して、注げ、とばかりに座っている男を睨みつける。下唇を尖らせながらの仕草は年相応だったが、彼が求めているものは、おおよそ子供が飲むものではなかった。
 もっとも外見でその年齢を判断するのは、この本丸内では無意味な行為だ。そもそも彼らは人ですらなく、一応は神の部類に入る存在だった。
 刀剣に宿る、付喪神。
 それがここに集った者たちの正体だ。
「んっ」
 だから傍目には子供でしかないこの少年も、実年齢は数百余年。ましてや末席とはいえ神の一員に当たるのだから、酒を飲むくらい、なんということはなかった。
 それなのに、いつまで経っても酒杯は空のまま。
 瓶子はそこにあるというのに、求められた男は応じようとしなかった。
「へし切?」
「長谷部だ」
 薄い座布団に行儀よく畏まって、男は横から紡がれた怪訝な声を叩き落した。
 正面を見据えたまま一顧だにせず、両手は膝の上に揃えられていた。戦仕度は解きつつも堅苦しい性格に変化は見られず、目つきは敵を射抜くが如き鋭さだった。
 明らかに不機嫌と分かる雰囲気に、けれど少年側だって負けていない。大人しく引き下がる気配は見えず、見えないところでバチバチと火花が飛び散っていた。
「酌のひとつも出来ねえたあ、大将もさぞや嘆いているだろうよ」
「主は、そのような些事を求めてなどおらん」
「どうだか。長谷部の旦那の仏頂面の所為で、頼み辛いだけかもしれねえぜ?」
「薬研、貴様っ」
 まだ量が入っている瓶子と、既に空になっている瓶子、そして残骸だけが残るつまみが入っていた皿。
 乾燥させた無花果は、とうの昔に失われた。これから先はひたすら酒を飲み、消費する時間だった。
 気分は高揚し、舌の滑りは常の倍以上、良くなっていた。
 ケラケラ笑いながらの薬研藤四郎の弁に、へし切長谷部のこめかみが引き攣った。
 侮辱されたと受け取って、声を荒らげる。しかし無意識に伸びた先に刀はなく、利き手は虚しく空を切った。
 なにもない場所を握り潰して、行き場のない指先を広げてから、はっと我に返る。
 真向いでは薬研藤四郎が、堪え切れずに噴き出した。
「なんだそりゃ。だっせ」
 片足を立てて腰を浮かせておきながら、肝心の武器がない。空振りした怒りのやり場を失って、へし切長谷部は赤くなった。
 もっとも本丸内での刃傷沙汰は御法度であるので、万が一帯刀していたところで、本当に抜きはしない。せいぜい脅す程度だったのだが、それすらも失敗した形だった。
 屈辱に、麦の穂色の髪をした打刀が打ち震える。
 対する薬研藤四郎はついに大の字になり、畳の上を左右にのた打ち回った。
 酒の力もあって、いつになく楽しそうだ。恐らく兄弟の誰にも見せたことがない姿を曝け出されて、宗三左文字はクスリと、口元に笑みをたたえた。
「おっと。待たせたな、酒の追加だぜ。……なんだ、どうした?」
 それを袖で隠し、軽く腰を捻る。
 ちょうど向いた方角からひょっこり白い頭が飛び出してきて、瓶子を抱えた男が目をパチパチさせた。
 瞬きを繰り返しつつ、斜めに傾がせていた体勢を真っ直ぐに作り替える。そうやって敷居を跨いで入って来たのは、白装束を纏った太刀だった。
 その後ろに、同じく瓶子を抱きかかえた隻眼の太刀が続いた。畳の縁を踏まないよう進んで、空いていた座布団二客にどっかり腰を下ろした。
 持って来たものを前に並べて、空いた手は酒杯へと伸ばされた。それぞれ自分で酌をして、喉越しも滑らかな清酒に舌鼓を打った。
「くっはー。やっぱり美味いなあ」
「五臓六腑に染み渡るね」
 まずは鶴丸国永が心地よさそうに声を響かせ、燭台切光忠が後を継ぐ形でしみじみ言った。ふたりとも胡坐を作ってやや猫背気味で、頬は僅かに朱を帯びていた。
 黄金に近い瞳はとろんと蕩け、ほんの少し眠そうだ。それでいながら口を開けば声には張りがあり、昼間の倍以上に元気だった。
「刀の分際で、五臓六腑など」
「あれれ~、長谷部君。君、全然呑んでないじゃない。具合悪い?」
 室内に敷かれた座布団は、合計五客。その全てが埋まった。中座していた者たちが無事戻って来て、宴はいよいよ盛りとなるところだった。
 耳を澄ませば別の部屋でも、酒宴が催されている。賑やかで、騒々しいはしゃぎ声にため息を吐いて、堅物で知られる打刀は座布団に座り直した。
 中腰だった姿勢を改め、畏まって正座を作る。
 おおよそ酒の席に似つかわしくない体勢に、残る四人は不満げだった。
「俺は、いらん」
「なんでだ。美味いぞ」
 彼の膝元に置かれた杯には、最初に注がれた一杯分が、そのままの形で放置されていた。部屋の隅それぞれに置かれた行燈の光を受けて、水面はゆらゆらとさざ波立っていた。
 笑い過ぎて疲弊しきっていた薬研藤四郎も身体を起こして、寝かせた膝に頬杖をついた。もう片足は折り畳んで真っ直ぐ立てて、上半身を斜めに傾ぐ姿は実に偉そうだった。
 しかし案外似合うものだから、誰もなにも言わない。合計四対七つの眼を向けられて、へし切長谷部は居心地悪そうに口籠った。
「なんだって良いだろう」
「長谷部は、下戸なんですよ」
「おっと。そいつは失礼した」
「嘘を吐くな、嘘を」
 余所を見ながらぼそぼそ言えば、間髪入れずに合いの手が入った。右隣からの発言に打刀はぎょっとして、真に受けた太刀にも青くなった。
 一瞬のうちに表情を変化させて、白に紫を組み合わせた衣服の男が頭を抱え込んだ。片手でこめかみの辺りを包み込んで、横で舌を出している打刀に舌打ちした。
 機嫌悪そうに渋面を作り、睨みつけるが効果はない。宗三左文字はしれっとした顔で、杯に残っていた酒を飲み干した。
 彼だけは両手を使って、ちびり、ちびると舐めるように呑む。それはまるで女人のような仕草であり、夜の暗さも手伝ってか、妙な艶めかしさがあった。
 桜色の法衣に袈裟を合わせ、首元には黒い数珠が覗いていた。彼もまた胡坐ではなく正座だったが、着物の裾が邪魔で見えないだけで、足を崩している可能性は否定出来なかった。
「どこぞの大うつけに、義理堅いことで」
 右に身体を傾けて、つまらなそうに嘯く。
 瞬間、へし切長谷部の右眉が吊り上り、顰め面が益々険しくなった。
 けれど薬研藤四郎を相手にした時と違い、睨むだけだった。左手からは燭台切光忠と、鶴丸国永の笑い声が、綺麗に重なって響いてきた。
 この場で唯一の短刀も腹を抱えており、さっきから喧しい。一対四で数的不利に追い込まれて、麦色の髪の打刀はぎゅうっ、と両手を握りしめた。
「ええい、貴様ら。飲み過ぎだぞ!」
 懸命に堪えようとして、けれど無理だった。
 我慢ならないと声を荒らげ、握り拳を振り翳す。だけれど誰一人として相手にしようとせず、臆する者もいなかった。
 皆して平然と受け流し、怒号など聞こえなかった体を装った。流石に遊ばれているとは察していたが、それでも吼えずにいられなかった。
「明日も出陣があるのだぞ。少しは控えろ」
 立て続けに喚き散らし、この中で最も練度が高い太刀を睥睨する。しかしどれだけ鼻息荒くしようとも、燭台切光忠はにこにこ笑うばかりだった。
 隻眼を細め、頬は緩んで締まりがなかった。
 一見すると素面のようであるが、その肌はかなり赤い。話が通じているかどうかすら微妙なところで、暖簾に腕押しも良いところだった。
 怒られているというのに落ち込む様子もなく、彼は空いた杯に酒を注いだ。ついでに鶴丸国永の杯も満たしてやって、最後にへし切長谷部へと差し出した。
 呑まないのかと、言葉ではなく態度で告げていた。
 急かすような仕草で瓶子を向けられた男は奥歯を噛み、くらりと来る匂いに仰け反った。
「あまり苛めないであげてください。下戸なんですから」
「違うと言っているだろう。しつこいぞ、宗三」
 魅力的で、蠱惑的な香りから逃げ、座布団へ尻から戻って座り直す。右隣では宗三左文字が細い肩を震わせて、つまらない嘘を繰り返した。
 へし切長谷部だけが、杯に口をつけていない。
 気を抜くと手を伸ばしたくなる誘惑に必死に抗って、横から伸びて来た腕は叩き落した。
「なんですか」
「人のものに手を出すんじゃない」
「いいじゃないですか。呑むつもり、ないのでしょう?」
 甲を打たれた宗三左文字が不満げに頬を膨らませるが、耳を貸さない。このやり取りは実のところ三度目で、見ている側はまたやっている、と相好を崩した。
 傍目には微笑ましい光景に苦笑して、薬研藤四郎が手酌で杯を満たした。行燈の光に水面を煌めかせて、甘い香り漂う媚薬を飲み干した。
「俺っちの宴で呑まねえのは、失礼とは思わねえのか?」
 垂れ落ちそうになった雫まで唇で掬って、ひと舐めしてから腕を下ろす。赤く塗られた器は艶を帯びて、血を浴びたかのようだった。
 今宵の酒宴は、そこの短刀主催によるものだった。
 事情はどうであれ、一度は同じ主君を得た刀だ。五振りが本丸に揃ったのを記念して、集まろうという話だった。
 数奇な巡り合わせで、彼らはこの本丸に喚び寄せられた。審神者なる者の力によって現身を得て、歴史に不当に介入しようとする輩を打ち滅ぼすよう、命じられた。
 とはいっても、四六時中戦場を駆けているわけではない。人の身とは存外に不便なもので、一日に三度は飯を食わなければならないし、一定時間床に就いて、眠らなければならなかった。
 疲労が蓄積すれば、敵を討ち滅ぼすのも難しくなる。だから彼らは、ここ本丸を拠点として、様々な時間を巡っていた。
 屋敷での暮らしは、勝手に外に出ない限りは、基本的になにをしようと、自由。飯を食うのも、遊ぶのも、惰眠を貪ろうとも、羽目を外し過ぎなければ咎められることはなかった。
 但し審神者が口出ししなくとも、その代理を自認して、説教する小うるさい刀はいた。ここにいるへし切長谷部が代表格で、彼は酒宴が催されているのを見つければ、問答無用で散会を命じる悪代官だった。
 そんな主命第一の刀が、何故か毛嫌いしている宴に出ている。
 日頃は屋敷の部屋に引き籠ってばかりの宗三左文字も、珍しく顔を出していた。
 というよりは、顔を出さざるを得なかった、という格好だ。なにせ薬研藤四郎が酒盛りをするので来い、と指定した先は、魔王の刻印を持つ打刀の私室だったのだから。
 騒がしい場にいたくなければ、宗三左文字自身が部屋を逃げ出さなければならない。しかし日頃から他の刀と交友を持たない彼には、余所に行き先がなかった。
 左文字の末弟を頼る道は、最初からなかった。あの短刀は過去に縁を持つ打刀の寝床を間借りしており、個室を有していなかった。
 諦めて、参加するしかない。
 狡賢い男だと肩を竦めて、宗三左文字は自らの手で杯に酒を注いだ。
 舐めるように呑んで、突き刺さる視線を感じて左を見る。そこにいた男は瞬間的にそっぽを向いて、視線は全く絡まなかった。
 居心地が悪いのであれば、席を辞せばいい。場の雰囲気を悪くするだけならば、立ち去ってくれた方が有り難かった。
 すごすご逃げていく背中を笑いはしても、文句を言う輩はいない。馬鹿な奴だと鼻息で吹き飛ばして、それで終わりだった。
「ああ、いけない」
 呆れつつ、一旦口から離した器を再度顔に寄せる。
 間が悪く前に流れた髪が器に降りかかって、一緒に呑み込みそうになった。
 唇の端に引っかかり、濡れた毛先が張り付いた。鬱陶しげに払い除けて耳に引っ掛ければ、目ざとく気付いた薬研藤四郎が背筋を伸ばした。
「なんだ。邪魔か?」
「ええ、まあ」
 日頃は片側だけ結い上げられている宗三左文字の髪は、この後寝所に引き籠るだけ、というのもあってか、すべて解かれていた。
 袈裟を着けて、戦支度そのままながら、一部分だけ日常から外れていた。普段は目にすることのない姿に短刀は目を輝かせ、相槌を打った打刀に口角を持ち上げた。
「なら、俺が編んでやるよ」
「薬研が、ですか」
「不満か?」
「いえ。そういうわけでは」
 積極的に手を挙げて、やる気満々で膝を起こした。承諾を得る前に立ち上がって場所を移る準備に入り、不安げな宗三左文字に胸を張った。
「心配すんなって。乱の髪だって、俺が弄ってんだぜ?」
「はあ……」
 得意げに言い張って、自信満々に親指を立てる。
 だが素面ならまだしも、彼は既にかなりの量を呑んでいた。
 足元は覚束なく、たった数歩を進むだけでもふらふら踊っていた。色白の肌は淡い紅に染まって、口元は上機嫌に緩んでいた。
「どうせなら、宗三君に一番似合う髪型を作ってあげなよ」
「お、そりゃいいな。是非とも驚かせてくれ」
「おう。任せな」
「僕で遊ばないでくれますか」
 向かい側から燭台切光忠が茶々を挟み、鶴丸国永も乗っかる形で薬研藤四郎を煽った。真後ろに立たれた刀は早々に後悔に苛まれて、それでも姿勢を改め、居住まいを正した。
 嫌がる素振りを見せつつも、悪い気はしない。
 人に触れられるのはあまり好きではないが、構われるのは嫌ではなかった。
「茶を持ってくる」
「へし切」
「長谷部だ。なにか食うものも探してこよう」
 刻印が施されてからは、愛でられるばかりで、戦場に出ることはなかった。武器としての本懐、戦って折れることさえ許されず、焼かれても、焼かれても再刃されて、本当の自分がどんなだったかさえもう思い出せない。
 皆のように胸を張り、刀としての矜持を示せないのは、己の姿が昔と今とで大きく違ってしまっている所為だ。
 薬研藤四郎が桜色の髪に触れようとして、直前にへし切長谷部が腰を浮かせた。独白めいた呟きで場の空気に水を差し、続けてここへ戻ってくるという確約を口にした。
 淡々とした口調ながら、不機嫌さが垣間見えた。返事も待たずに歩き出して、敷居を跨ごうとして障子戸に左手を置いた。
「食糧庫の左奥の棚、三番目の扉のところに干し芋が入ってるよ」
「承知した」
 廊下に出る寸前、日頃から台所当番を買って出ている燭台切光忠が言った。仰け反るように振り返って、秘密の隠し場所をあっけらかんと白状した。
 干し芋は、子供たちにも人気の甘味だ。前に台所に吊るして保存していたら、こっそり忍び込んだ短刀たちに盗まれて、数日と経たず全滅したことまであった。
 以後、歌仙兼定によって別の場所に隠されるようになった。今のところ、燭台切光忠が告げた場所は、誰にも気付かれていなかった。
 そこに薬研藤四郎がいるというのも忘れ、カラカラ笑ってへし切長谷部を見送る。恐らく明日には忘れているだろうと肩を竦め、宗三左文字は耳の後ろに触れた指にピクリと身を震わせた。
「どんな風にして欲しい?」
 後ろから櫛も使わず手で梳いて、大人びた短刀が声を潜ませた。吐息を吹きかけるように囁いて、髪など生えていない首筋を撫でた。
 挑発的で、煽情的だった。
 口煩い小姑的な刀がいなくなったからと、調子に乗っている。ふた振りだけではないのに妖しげな雰囲気を醸し出され、宗三左文字は呆れて肩を竦めた。
「薬研の、お好きに」
 だが振り払うのもやぶさかではなく、相手に合わせて言葉を返した。垂れ気味の眼を斜め後ろに向けて、うなじをなぞる手に細い指を重ねた。
 もっとも、握り締めはしない。ほんの少し力を加えて、襟足を掬わせるように押し上げた。
 艶っぽいやり取りながら、釘を刺した形だ。
 指の行き先を指定された薬研藤四郎は面白くなさそうに嘆息し、諦めて髪結い作業に戻った。
「宗三は、髪の毛まで細っこいんだな」
 手櫛で集め、束を作りながら短刀が呟く。
 率直な感想に宗三左文字は首を傾げ、瞳に掛かりそうな前髪を抓み取った。
「そうですか?」
「ああ」
 骨と皮ばかりの体躯は否定せず、毛先を指に巻きつけながら半眼する。薬研藤四郎は即座に首肯して、同意を求めて太刀ふたりを見た。
 三本目の瓶子を空にし終えた鶴丸国永は、視線を受けて眉を顰めた。燭台切光忠は楽しそうに頬を緩め、何度も繰り返し頷いた。
「宗三君の髪は、綺麗だよねえ」
「あちこち跳ねて、面倒なだけですよ」
「いつも綺麗に結われているが、ありゃ、お前さんが自分でやってるのか?」
「あれは……いたっ」
「おっと。すまん」
 のんびりとした口調で隻眼の太刀が言い、褒められたのにムッとした打刀が言い返す。そこに鶴丸国永が疑問を投げかけ、答えようとした男が悲鳴を上げた。
 髪同士が絡まっているのに気付かず、薬研藤四郎が引っ張ったのだ。短刀は慌てて手を引っ込めて、折角集めた髪も放してしまった。
 桜色の毛先が一斉に広がって、一瞬で失速して沈んで行った。宗三左文字は痛む頭皮を撫でて慰め、拗ねた眼差しを後方に投げた。
「小夜の方が、まだ丁寧です」
「お?」
 油断していただけに、本気で痛かった。
 口を尖らせてとある短刀の名を口に出せば、それが意外だったのか、薬研藤四郎が目をぱちくりさせた。
 興味を示し、頬が紅潮した。鼻息を荒くして詳しく教えろ、と迫られて、宗三左文字は早速後悔に見舞われた。
「小夜の奴と、どうなんだ、最近」
 早口に質問出されて、面白くなかった。
 訊かれても、言えることはなにもない。そもそも会ってすらないと顔を背け、座ったまま身体を上下に揺らした。
「別に、どうもしません。あの子は、僕があまり好きでないようですし」
 彼の弟である小夜左文字が桜色の髪に触れたのは、一度きりだ。やはり物を食べる時の邪魔になるからと、後ろから梳き上げて支えてくれた。
 それだけで、それっきりだ。あの子が兄の部屋を訪ねて来る回数はさほど多く無く、向き合ってもなかなか喋ろうとしなかった。
 いつだって居心地悪そうで、目だって合わそうとしない。
 他の刀を相手にする時とは、露骨に態度が違っていた。彼にとっては兄よりも、昔馴染みと一緒に居る方がずっと気が楽なようだった。
「なんか結ぶ物、あるか」
「そこの箱に、まとめてあります」
 憤然としていたら、いきなり話題が変わった。懲りない薬研藤四郎に素っ気なく伝えて、指で部屋の片隅を指し示した。
 取りに行った短刀を視界の端で見やり、宗三左文字は濡れている赤色の酒杯へと手を伸ばした。指二本で縁を支え、残りの指を底に添えれば、燭台切光忠が素早く瓶子を傾けた。
「ありがとうございます」
 遠慮なく注がれることにして、先ほどまでとは違ってひと息で飲み干す。
 意外に男っぷりが良い姿勢に、鶴丸国永が不敵な笑みを浮かべた。
「成る程。お前さんは、ずっとそうやって来たってわけか」
「なにか御不満でも?」
「いいや?」
 左手は使わず、豪快な飲みっぷりだ。口元を拭うのも酒杯を持つ右手の甲で、上品さは欠片も残っていなかった。
 誰かが居なくなっただけで、随分な違いだ。
 面白い変化だと笑う太刀に、宗三左文字は疲れた顔で肩を叩いた。
「あまり引っ張ると、千切れてしまいます」
「気を付けるって」
 その上で舞い戻って来た薬研藤四郎に注文を付け、見せられた櫛を小突いた。
 髪を結うのを、まだ諦めていない。
 やめさせるのも面倒だからと観念して、宗三左文字は空いた杯を燭台切光忠に突き出した。
 問答無用で注がせて、合計三杯分、立て続けに喉へと流し込む。
 これまでの鈍さが嘘のような配分に、鶴丸国永はやれやれと肩を竦めた。
「小夜君は、良い子だよね~」
「……おいおい。今頃か」
 そうしているうちに燭台切光忠が、とうに終わった筈の話題を引っ張り出した。宗三左文字の眉は片方ピクリと持ち上がって、予想外だった白髪の太刀も頬を引き攣らせた。
 薬研藤四郎は髪結いに必死で、話に入ってこなかった。せっせと手を動かして、色鮮やかな髪を梳いていた。
「うん?」
 周りが呆れる中、隻眼の太刀はきょとんとしていた。完全に酔っているらしく、屈託なく笑う顔は締まりがなかった。
 およそ格好よさとは無縁の表情には、呆れるより他にない。
 無邪気な子供に逆戻りして、彼は嬉しそうに目尻を下げた。
「いつもお手伝いしてくれる、優しい子だよ」
「嫌味ですか」
「あはは~。そんなことないよ~」
 どこぞの次男とは、全然違う。そんな風にも受け取れる台詞を述べられて、宗三左文字はむすっと頬を膨らませた。
 言った本人に悪気がなかったとしても、そう聞こえたのだから仕方がない。
 彼は出陣や遠征以外では殆ど部屋から出ず、食事だって皆とは別に摂っていた。審神者から内番に命じられた時は嫌々ながら従うが、そうでなければ片付けさえ碌にしてこなかった。
 他の刀たちが一所懸命働いている中で、怠け者の謗りを受けているのは知っていた。審神者から特別扱いされていると僻まれ、敵視する刀があるのも分かっている。
 末弟の懸命の努力がなければ、次兄の立場はもっと悪くなっていた。
 働き者の彼がいるからこそ、宗三左文字はここで、こうしていられた。
「よし、出来た」
 彼に悪いと思いつつ、どうしても自ら動き出せない。目に見えない鎖で絡め取られているかのように、全身が重くてならなかった。
 この本丸で、自分はどのような姿が求められているのか。
 同じように善き兄とはどんなものかも、まるで見えてこなかった。
 手本なら、そこにいる。薬研藤四郎のような真似が出来れば、弟との関係もここまでこじれることはなかっただろう。
 しかしあまりにも本質から離れすぎていて、演じるのは難しかった。そうやって決めあぐねているうちに、時間ばかりがどんどん過ぎていった。
「ぶっは。なんだそりゃ、薬研」
 後ろで満足げな声が聞こえて、正面にいた鶴丸国永は噴き出した。失礼にも人を指差して笑う太刀にムッとして、宗三左文字は忘れかけていた自分の髪に手を伸ばした。
「そんなに笑うこたぁ、ねえだろ。自信作だぜ」
「……すみません、薬研。鏡を」
「おっと、いけねえ。ほらよ」
 尊大に言い放った短刀ではあるが、指に当たった感触からするに、綺麗に出来上がっているとは言い難い。
 凹凸の激しさに嫌な予感を覚え、彼は差し出された手鏡を受け取った。
 細長い持ち手部分を握り、良く磨かれた銀板に己の姿を映し出す。
「わー、宗三君、可愛いよ」
「だろ?」
 左前方では燭台切光忠がパチパチ拍手を送って、薬研藤四郎はどうだ、と両手を腰に当てた。
 けれど鶴丸国永はまだ笑っているし、宗三左文字も絶句して凍り付いていた。彼の髪は見事にぐちゃぐちゃで、編み込みの太さは一定でなく、あちこちから毛先がはみ出ていた。
 いつもは片側だけのものを、両側からやろうとしたらしい。残る髪は高い位置で結い上げて、編んだ髪で根本をぐるりと一周させたかったようだ。
 発想としては、悪くない。
 きちんと出来ていれば、さぞや可憐だろう。
 だが宗三左文字は、そもそも娘子ではない。不器用にも程がある出来栄えに、とても喜べなかった。
「薬研、貴方……」
 見た目に寄らず不器用なのか、それとも酒が入っている所為なのか。
 医療行為を得意とする短刀にがっくり肩を落とし、打刀は力なく首を振った。
 吃驚し過ぎて、酔いが醒めた。
 左手で顔を覆って項垂れて、宗三左文字は鏡を下ろした。
「よっし。んじゃあ、次は俺だな」
「ちょっと」
「いっちょ、驚きの一品を作り上げてやろうじゃないか」
「やめてください。僕の髪は、玩具じゃありません」
 腕まくりをしつつ、立ち上がったのは鶴丸国永だ。舌なめずりまでして、薬研藤四郎以上にやる気だった。
 慌てて止めに入るが、耳を貸してももらえない。必死に訴えて頭を守ろうとするが、頼りになる短刀は味方になってくれなかった。
「別嬪にしてやってくれよ」
 言って、薬研藤四郎が宗三左文字の肩を掴んだ。動けないよう固定して、語る内容は挑発的だった。
 背筋がぞわっとして、打刀は竦み上がった。脂汗を流して懸命に身を捩るが、短刀の割に存外力が強く、抗うが敵わなかった。
「放してください、薬研」
「怖がんなって、宗三。すぐ終わるからよ」
「そうだぜ。楽にして、俺たちに全部任せちまいな」
 にこやかに言われ、簪が引き抜かれた。結い上げていた髪がはらりと解けて、一直線に沈んで行った。
 やや癖を持つ毛先が空中で軽やかに踊り、桜の花弁のようにはらはら落ちていく。そのひと筋を受け止めて、鶴丸国永は意外な柔らかさに目を見開いた。
「やわらけえな、随分と」
「だろう? だから扱いやすいが、却って面倒臭い」
「あはは。それって、結局どっちなの?」
 指先で捏ねながらの感想に、薬研藤四郎が知った顔で正反対のことを並べ立てた。聞いていた燭台切光忠はケタケタ笑って、意味不明だと膝を叩いた。
 三人揃って、酔っ払いだ。始末が悪いのに掴まってしまって、宗三左文字は酒宴に出たのを軽く後悔した。
「いった。なんなですか、引っ張らないでください」
 どうすれば、この狂瀾から逃げ出せるだろう。
 物理的にも頭が痛くなって、瞳は開けっ放しの障子戸に向かった。
 色違いの双眸を眇めるが、残念ながら救いの手は現れない。そのうち燭台切光忠まで参戦し出して、座っている彼を囲んで三人がわいわいやり始めた。
「この簪は、鼈甲か。こいつは見事だ」
「欲しければ差し上げますよ」
「そりゃあ、いい。だが生憎と、俺より似合いそうな奴が他にいるからな」
「こっちの髪留めも、随分と手が込んでるじゃないか。螺鈿細工か? 良い仕事してやがる」
 人の化粧箱を漁って、男たちはわいわいと賑やかだ。
 目についたものから人の頭にぶすぶす挿して、先ほどから重くて仕方がない。自慢にするつもりはないが色美しい桜色の髪は、酔いどれの手によってすっかりぐちゃぐちゃだった。
 薬研藤四郎が毛先まで丁寧に梳いたのも、過去の話。好き放題触られて、弄られて、毛先は絡まり、団子状態だった。
 このままにして寝ようものなら、明日の朝は悲惨だ。いい加減にして欲しいのに言っても聞いてもらえなくて、一方的にやられ放題なのが気に食わなかった。
 気持ちよく酒を飲む気も起きなくて、膨れ面で口を尖らせる。
 その丸くなった頬に、黒いものが被せられた。優しく撫でてくる手は仄かに暖かく、太刀らしからぬ繊細さだった。
「折角綺麗な顔してるのに、そういうのは、似合わないな」
「失礼。口説く相手を間違えていますよ」
「こらあ! そこ、なにしてやがる!」
 燭台切光忠が顔を寄せながら囁き、宗三左文字が手を叩き落したと同時に薬研藤四郎が吠えた。酒臭い息を浴びせられた打刀は喧しさにも辟易して、再度、釣り灯篭が照らす廊下に目を向けた。
 中庭は暗闇に閉ざされ、灯明が照らす世界は朧げだ。夢かうつつか、境界線は曖昧で、晩秋の風は酷く冷たかった。
「……っ」
 酔いが切れてしまい、酒の効力ともいえる温かさまで失われた。寒気を覚えて身震いして、彼は大きく開いた衿を閉ざした。
 数珠ごと掻き毟るように握り締めて、露出していた肌を隠す。そこへどすん、と後ろから短刀に体当たりされて、よろめいた身体は前を塞ぐ太刀へと倒れ込んだ。
「おっと」
「てめえ、勝手に宗三に触るんじゃねえ」
 受け止めて、燭台切光忠が華奢な打刀を抱きしめる。それは不可抗力、というよりはほぼ薬研藤四郎が原因なのに、当の少年は激昂して目を吊り上げた。
 牙を剥き、太刀目掛けて人差し指を突き出した。刺さりそうになった男は仰け反って避けたが、分かってやっているのか、いないのか、宗三左文字を離そうとはしなかった。
 一緒に倒れそうになって、慌てて引き離そうとするが巧く行かない。背中から薬研藤四郎に押されているのもあって、挟まれた身では為す術もなかった。
 それどころか、だ。
「わっ」
「ああ!」
「うおっと」
 押しつ押されつだったのが崩れ、見事に三人重なって、畳の上へと転げ落ちた。燭台切光忠の肩に空の瓶子がぶつかって、跳ね飛ばされたそれは別の瓶子に衝突した。
 ゴン、ガン、ドン、と立て続けに物騒な音が轟き、室内が一瞬静まり返った。ふたり分の体重に押し潰された太刀はといえば、さすがに少々辛そうだった。
「う、う~ん……」
 頭も打ったのか、目を瞑って呻いている。逞しい胸板は上下に揺れ動き、安定しなくて落ち着かなかった。
「薬研、退いてください」
「いいじゃねえか、ちょっとくらい」
「良いんですか? そのままだと」
 早く降りたいのに、背中に張り付いている短刀が邪魔で難しい。胸を締め付ける腕は細いくせに力強く、首を振る仕草は駄々っ子のそれだった。
 案の定拒まれて、宗三左文字は嘆息した。下では燭台切光忠が依然苦しそうにしており、更に忘れ去られているもうひとりが、驚きを演出すべく構えていた。
 きらん、と両手を掲げた鶴丸国永の目が輝く。
 こんな滑稽な展開に、あの男がどうして加わらないわけがあるだろう。嫌な予想に頬を引き攣らせて、打刀は擦り寄ってくる短刀の頭を押し返した。
「照れんなって、宗三」
「ぐ、ぐるじ、い……」
「そうらっ!」
「うぎゃ!」
 けれど、どうにもならなかった。
 にっちもさっちもいかない中で、鶴丸国永が満面の笑みで空中に跳び上がった。衣の袖を広げて鳥になって、親子亀状態の三人に向かって飛びかかった。
 ドスンッ、と今までにない大きな音が轟き、部屋全体が激しく揺れた。もれなく一番下にいた父亀、ならぬ燭台切光忠が潰れた蛙のような悲鳴を上げて、母亀ならぬ宗三左文字も、強烈な圧迫感に息を詰まらせた。
「どうだ、驚いただろう」
「あははははは!」
「ちょ、重い……」
「はっ、はやく、退いて……つ、ぶれ、痛い!」
 薬研藤四郎を抱きしめる格好で、鶴丸国永が両手両足をジタバタさせた。太刀を背中に乗せた子亀は、何が面白いのかけたたましい笑い声を響かせて、体重を支えるふた振りの訴えを軽く無視した。
 このままでは本当に、内臓が破裂してしまう。既に肋骨はミシミシ言っており、燭台切光忠などは白目を剥いていた。
 首がカクリ、と折れており、かなり危うい状態だ。
 悶絶している太刀の顔は至近距離にあって、見たくもないのに見えてしまう状況に、宗三左文字は泣きたくなった。
「い、いか、げっ、に」
「なにをやっているんだ、貴様らは」
 誰よりも細くて華奢な打刀の身では、脱出など不可能に近い。それでも歯を食いしばって目を吊り上げていたら、とうの昔に忘れ去られた存在が、茶瓶片手に首を捻った。
 縁側に佇み、へし切長谷部が眉を顰める。
 なにがどうなって、こうなったのか。想像に困る状態を前にして、眉間の皺は一層深くなっていた。
「た、す、け」
「よう、長谷部。お前も混ざるか?」
 渋面で見下ろされて、はっきり言って気分は良くない。けれどようやく訪れた好機に、宗三左文字は必死の思いで手を伸ばした。
 一方で鶴丸国永は呵々と笑い、天辺から黒田の打刀を手招いた。
 失神寸前の燭台切光忠といい、宗三左文字にへばりついている薬研藤四郎といい、さっぱり意味が分からない。
 だが放置すれば隻眼の太刀が手入れ部屋行き確定なのだけは、ぼんやりと理解出来た。
「馬鹿なことを」
 塔に加わるよう誘われたが、へし切長谷部は当然断った。それどころか鼻で笑って虚仮にして、湯呑みを載せた盆と共に敷居を跨いだ。
 鉄製の茶瓶からは、白い湯気が薄く伸びていた。注ぎ口からちゃぷちゃぷと水音が聞こえ、結構な量が入っているのが窺えた。
 ただ肝心の、干し芋が見当たらなかった。
 誘いに乗らない男の態度に、空気が白けた。鶴丸国永は面白くないと不貞腐れて、渋々薬研藤四郎の背中から降りた。
「はぁ……」
 これで少しは、楽になった。
 圧死の危険から解放され、安堵の息が漏れた。短刀は相変わらず張り付いていたが、横に転がれば立場は逆転した。
 燭台切光忠を解放してやり、寝転がったまま天井を仰ぐ。しかしぼんやりはしていられず、胸元に紛れ込んだ手を素早く叩き落した。
「おいたが過ぎますよ」
「ちぇ」
 どさくさに紛れて、衿から潜り込もうとする手があった。制された薬研藤四郎は膨れ面で口を尖らせ、へし切長谷部からも睨まれて、大の字になった。
 束縛を解かれ、宗三左文字は起き上がった。押し潰していた短刀から離れて、不快感がある頭を撫でた。
「なんだ、その髪は」
「僕がやったんじゃありません」
 無作法に挿しこまれた簪がずれて、落ちそうになっていた。それを戻すのではなく、引き抜いた彼に、へし切長谷部は呆れ顔だった。
 すかさず文句を言うが、現場に居なかった男にはきっと分かるまい。不満も露わに小鼻を膨らませて、彼はまだ残っている櫛や、簪に手を伸ばした。
 人の頭を剣山代わりにして、下手な華道を披露されたようなものだ。さっさと取り払うに越したことはなく、手つきは乱暴で、荒っぽかった。
「やめろ、宗三。余計に絡まるぞ」
 一緒になって髪も何本か引き千切れて、頭皮に痛みが走った。それでも構わず手櫛で梳こうとしたら、見かねた打刀が力技で止めに入った。
 春に咲く桜にも勝る髪色は、味気ない黒髪に比べてずっと美しい。
 それを無造作に扱われるのが我慢ならず、茶瓶を置いた上で細い手首を掴み取った。
 声を荒らげたへし切長谷部に、宗三左文字の拗ね顔は一段と酷くなった。
「あなたが、さっさと帰って来ないからです」
「俺の所為だと言うのか」
「ええ、そうですとも」
 ぶすっとしたまま言い放たれて、八つ当たりも良いところの台詞に騒然となる。言い返そうにも咄嗟に言葉が浮かんで来なくて、打刀は憤りに赤くなった。
 しかし彼の手は、両方とも荷物で埋まっていた。まさか熱々の茶が入った茶瓶で殴るわけにもいかなくて、彼は懸命に自身を宥め、平静を装って盆を床に置いた。
 上にあった湯呑みを端に寄せて、空いた場所に茶瓶を移す。畳に直接置いたままにすると、熱で焦げてしまいかねないので、そうならない為の処置だった。
「いった、たぁ。もう、みんな酷いんだから」
 遠くに跳ね飛ばされていた座布団を引き寄せ、腰を下ろせば、今頃になって燭台切光忠が起き上がった。まだ痛む胸を撫でながら二度、三度と咳き込んで、四つん這いで席へと戻って行った。
 三振り分の体重を一度に浴びておきながら、見たところどこにも異常はなさそうだ。流石は太刀とその頑強さに呆れつつ、へし切長谷部はふたつしか用意していない湯呑みに、均等に茶を注いだ。
 白い湯気の数を増やし、片方を自分の口元へと持って行く。もうひとつの湯呑みは、なにも言わずに宗三左文字の前へと置いた。
 その一瞬だけ、色違いの双眸がへし切長谷部に向けられた。しかし薄い唇はなにも語らず、表情は不満そうながらも、手は渡されたものへと伸びていた。
「熱いぞ」
「あれ、長谷部君。御芋は?」
「そうだ、光忠。貴様、俺を謀ったな」
 大人しく座布団に正座して、珍妙な頭をした打刀が湯呑みに息を吹きかけた。右手で胴を持ち、左手で底を支えて、仕草は上品で、淑やかだった。
 隣ではへし切長谷部がなにを思い出したのか、乱暴に自らの膝を打った。
 人数分の茶を用意しなかった男への不満は言わず、燭台切光忠が不思議そうに首を捻る。その太刀に激昂して青筋を立てて、麦の穂色の髪の打刀は湯呑みを握りしめた。
「貴様が言っていた場所に、芋などなかったぞ」
「えー?」
 語気を荒くし、喧しく吠えたてる。宗三左文字に八つ当たりされた分の苛立ちも込めて、元気を取り戻した酔っ払いに牙を剥いた。
 湯飲みの中では激しい波が起こり、一部が縁を飛び越えて男の手に降りかかった。しかし熱いのも構わず目を吊り上げて、へし切長谷部は説明するよう燭台切光忠に迫った。
「食糧庫の方だよ?」
「水場も、そっちも、全部調べたぞ」
「へえ。すごいね、長谷部君」
 本丸の台所は竈が合計五つもある規模だが、米やらなにやらまで、一緒に保存は出来ない。だからその隣に部屋を設け、野菜などをまとめて備蓄していた。
 彼らが呑んでいる酒も、そこにある。昼間から入り浸る輩が多すぎるからと、扉に鍵をつけるか否かの議論が、一部の刀の間で起きていた。
 兵糧の管理は、とても重要な任務だ。へし切長谷部も当然そこに名を連ねており、台所に立つ機会は少ないものの、物の配置は把握していた。
 燭台切光忠が教えてくれた棚に、目当てのものはなかった。他の扉も探してみたけれど、それらしきものは潜んでいなかった。
 誰かが食べ尽くしたのか、それとも嘘を吹きこまれたか。
 茶を沸かしに行っただけなのに、探索に時間を取られ、遅くなってしまった。真に咎められるべきはそこの伊達男だと腹を立てて、へし切長谷部は冷ましてもない煎茶をぐい、と呷った。
「あっち」
「馬鹿ですか、貴方は」
「うるさいぞ、宗三左文字」
 当然、舌が火傷する。
 右隣からの呆れ声に間髪入れず反発して、打刀は苦々しい想いを噛み砕き、少し冷めた茶と共に呑み込んだ。
 鶴丸国永や薬研藤四郎も席へと戻り、手酌で飲み直し始めた。燭台切光忠は疑問符を頭上に生やし、頻りに首を捻って口をヘの字に曲げた。
「おっかしいな~」
 酔っぱらっているとはいえ、毎日通っている台所の件で間違えるはずがない。他の台所当番の仕業だとしても、置き場を変更したら必ず教え合う約束だった。
 歌仙兼定や、堀川国広が、決まり事を破るとは考えにくい。
 となれば別の要因があるはずで、うんうん唸っていたら、静かに酒を嗜む太刀がふっ、と笑った。
「芋だったら、俺が昼のうちに別の場所に隠したぞ?」
 不遜に鼻を鳴らし、得意げに言い放つ。
「なっ――」
「どうだ。驚いたか?」
「そういうことは、先に言え!」
 もれなく絶句した太刀と打刀の前で、鶴丸国永はどうだ、とばかりに胸を張った。
 怒られても平然として、思った通りの反応だと、笑う声は姦しい。今は酒が入っているので尚更で、膝や床を叩く音も喧しかった。
 なんと傍迷惑な悪戯だろう。
 一度失敗して、痛い目に遭えば良い。心の中で呪詛を吐いて、へし切長谷部は湯呑みを置いた。
 半分ほど茶が残ったままなのを手放し、ゆっくりと立ち上がった。些か疲れた表情で、向かった先は化粧箱だった。
 周囲に散乱する簪や櫛を集め、必要ないものは抽斗へと片付けていく。選別作業には手慣れた雰囲気があり、迷いは一切見られなかった。
「まったく。どうやれば、こんな出来栄えになるんだ」
「僕がやったんじゃ、ありませんから」
 歯が細かい櫛と、そこそこ間隔が開いている櫛と。
 梳き櫛と梳かし櫛をひとつずつ残して後は全て仕舞って、彼はごく自然と宗三左文字の後ろで膝を折った。
 腰は沈めず、背筋は伸ばす。櫛は歯の数が少ない方を構え持って、まずは残っている無用な簪を外しにかかった。
「酷い有様だ」
「僕のせいじゃありません」
 細い髪は歪に曲がり、絡み合ってぐしゃぐしゃだった。編み込みも雑で、必要ない髪まで巻き込んでいた。
 それを慎重に解きながら、へし切長谷部が繰り返す。それに逐一反応して、宗三左文字は当たり前のように彼に頭髪を委ねた。
 両手で温かな湯呑みを抱き、他の三振りの時とは違って文句を言わない。嫌がる素振りもなく、完全に任せきっていた。
 薬研藤四郎が面白くなさそうにそれを眺め、酒を口に含ませた。瞳は据わり気味で、露骨に機嫌が悪かった。
 態度に出して隠しもせず、黒髪の短刀は瓶子を傾けた。溢れる寸前まで赤い杯を酒で満たし、苦々しいものと一緒に飲み干した。
「長谷部君って、器用なんだね」
「毎日やらされれば、慣れもする」
「僕は頼んでいません」
「あんな寝癖だらけの頭で、主の前に出るつもりか。貴様は」
 へし切長谷部は慣れた手つきで宗三左文字の髪を操り、毛先まで丁寧に梳いた。その甲斐甲斐しさに燭台切光忠は目を眇め、打刀同士の会話は軽妙だった。
 軽く手刀を叩きこみ、へし切長谷部が宗三左文字を黙らせる。
 首を前に倒した男はむすっとしながらかぶりを振り、気になる点を見つけて振り返った。
 髪を結う作業を邪魔されて、櫛を操っていた男が眉を顰める。
「なんだ」
「いえ。……あの、僕、あとは休むだけなんですけれど」
「あっ」
 低い声で訊ねれば、宗三左文字は申し訳なさそうに呟いた。遠慮がちの、伏し目がちで、表情からは困惑が読み取れた。
 右手は膝に残し、左手で口元を弄りながら、へし切長谷部を窺い見る。
 それで男も気が付いて、無意識の所作に青くなった。
 絡まっていた髪を解き、梳くだけで良かった。だというのに彼の手は、本人も意識しないままに、するすると動いていた。
 習慣づけられていた影響で、流れ作業でその先まで進めていた。必要ないのに片側だけ髪を編んで、高い位置で留め、毛先は無造作に散らしていた。
 外は真っ暗闇で、月が雲に隠れていた。虫の声が賑やかで、吹く風は冷たかった。
 こんな時間から、どこへ出かけろというのか。
 身支度を勝手に整えられてしまって、宗三左文字は困り顔で頬を掻いた。
「……すまん」
 へし切長谷部も、思わぬ失態に顔を赤くした。まさかの状況に恥じ入って、額を覆って肩を震わせた。
 笑っていいのか、嘆くべきか、もうよく分からない。
 素面な筈の男の失敗に、鶴丸国永は容赦なかった。
「すっかり宗三専属の床山だな」
「差し上げますよ」
「おい」
「いやあ、遠慮しておこう」
 腹を抱えてけらけら笑って、人を指差しながらからかう。すかさず宗三左文字が掌を差し出して、巻き込まれたへし切長谷部が声を高くした。
 わざとではないのに、面白がられた。
 自分でも何故こんなことになったのか、全くの謎だった。
 だが間違いなく、宗三左文字の寝起きの悪さが原因だ。そしてぼさぼさ頭を放置しておけなくて、不必要に世話を焼いてしまった己の性格も、大きな要因だった。
 掌中の櫛を放り投げようとして、直前で踏み止まって、唇を噛む。薬研藤四郎は黙々と酒を飲んでおり、燭台切光忠は相変わらずにこにこ笑っていた。
 いやなところを見られ、知られてしまった。
 彼らが朝を迎え、酔いが醒めた後、今宵の記憶を綺麗さっぱり失っているよう願うばかりだった。
「まったく」
「解くか?」
「いいえ。枕を使えば、なんとかなるでしょう」
 馬鹿らしいほど愚直で、生真面目で律儀だからこその失敗だ。呆れこそすれ、笑いはせず、宗三左文字は緩く波立つ髪を指に巻き付けた。
 申し訳なさそうにしている男には首を振って、湯呑みの冷めた茶を飲み干す。濡れてしまった縁を指で拭って盆へ戻せば、櫛を片付けた打刀が座布団へと舞い戻った。
「冷えて来ましたね」
「そろそろ終いにするか」
 へし切長谷部もまた湯呑みに手を伸ばし、残しておいた茶で口を漱いだ。仄かに朱を残す頬を親指で擦って、ぐだぐだになっている宴の終わりを切り出した。
 けれど、酔っ払いが聞き入れるわけがない。
「なに言ってやがる。夜はまだまだ、これからだろうが」
「そうだぜ、長谷部。景気よく行こうじゃないか」
「あはは~。それ、かんぱーい」
「貴様ら……」
 薬研藤四郎を皮切りに、三方向から一斉に声が飛んだ。秋の夜長とはよく言ったもので、下手をすれば彼らは、朝日が昇るまでここに陣取りかねなかった。
 明日も各々仕事があるのに、なんという体たらくだろう。
 さっさと閉会にしてしまうつもりでいたのに、粘られて、彼は痛む頭を抱え込んだ。
 そんな彼の為に茶を注いでやって、宗三左文字はクスリと笑った。
「そのうち、胃に穴が開きますよ」
「俺が倒れたら、貴様らの所為だと吹聴してやる」
「違いますよ。融通が利かない、貴方が悪いんでしょう」
「可愛げのない」
「貴方に言われたくありません」
 少し軽くなった茶瓶を揺らし、自分の湯呑みにも半分ほど注いで、言い返す。
 つんと鼻筋を反らして見栄を張った彼に半眼して、へし切長谷部は正座だった足を崩した。
 珍しく胡坐に作り替えて、凛と伸ばしていた背筋も緩く曲げた。猫背になって湯気立つ湯呑みの縁をなぞり、丹塗りの酒杯を掲げる男たちに肩を竦めた。
「なにが楽しいのやら」
「意地を張らずに、混じればいいではありませんか。向こうでは、呑んでいたのでしょう?」
「小夜にでも聞いたのか」
「いいえ。厚藤四郎が言っていたと、薬研から」
 元主が同じ、という一点だけで集った面々だが、勿論他の刀とだって交流があった。
 ここにいる五振りは、たまたま同じ主の元に場所に集っただけ。
 顔を合わせた事すらなかった者も中にはいるけれど、名前だけは聞き及んでいたりして、存在を知らないというわけではなかった。
 さまざまな主の手を渡り歩いて、数奇な縁で、彼らは今、ここに居た。
 黒田の屋敷でへし切長谷部と一緒だったという短刀は、そこにいる薬研藤四郎の弟だ。
 更には宗三左文字の弟である小夜左文字も、一時期ではあるが、黒田に身を寄せていた。
「あー、そうそう。そうだ。ねえ、小夜君てさ、前はどうだったの?」
「なんだ、急に」
 ぽつり、ぽつりと交わされるふたりの会話に、突然燭台切光忠が割り込んだ。酒杯を揺らしながら声を高く響かせて、藪から棒に、質問を投げかけた。
 前振りも何もなかった問いかけに、へし切長谷部が渋面を作った。湯呑みからひと口茶を飲んで、興味津々の隻眼を睨み返した。
 けれど伊達男は譲らず、屈託なく微笑んだ。左手でくるくる円を描きながら、随分前に終わった話を引っ張り出した。
「さっきもさ、ちょっと話してたんだよね」
 へし切長谷部が台所へ出て行った、その少し後のことだ。もうとっくに忘れ去られていた話題を呼び戻されて、同意を求められた宗三左文字は複雑な顔をした。
 燭台切光忠は小夜左文字をべた褒めして、高い評価を下していた。積極的に手伝いをすると、台所当番らしい視点で語ってくれた。
 けれど彼が知る短刀は、本丸での姿だけだ。
 細川にいた頃の話なら、歌仙兼定がたまに、本人がいない時に教えてくれた。けれどそれ以外での日々は、小夜左文字自ら口にしようとしなかった。
「知って、どうする」
 それが面白くないと拗ねる太刀に、打刀は少し嫌な顔をした。
 他人の過去を詮索するのは、あまり良い趣味とはいえない。当人が語りたがらないのは、知られたくないからだ。ならば黙って頷いて、好奇心に蓋をするのが筋というもの。
 だというのに、燭台切光忠は駄々を捏ねた。
 お手本過ぎる回答につまらない、と喚き散らし、鶴丸国永を味方に付けて強請った。
「お前らな」
「なんで駄目なわけ? さては長谷部君、小夜君と、も~しかし~て~」
「下種なことを言うな。そんな訳があるか」
 二対一だと、些か不利だ。前方左右から同時に迫られて、酒臭い息が不愉快だった。
 挙句に碌でもない邪推をされて、胸糞が悪い。きっぱり否定した直後に一瞬だけ右を窺って、彼は面白がっている太刀ふたりを押し返した。
 酔っ払いの顔面に遠慮なく拳を叩きこみ、肩で息を整える。
 茶瓶の中では激しい波が沸き起こり、蹴飛ばされた瓶子が部屋の端まで転がった。
 八の字になって倒れたふた振りの間からは、まるで桃から産まれたかのように、短刀が現れた。ずっとそこに座っていただけなのに、変な演出をされた薬研藤四郎もまた、荒い息を吐く打刀に不満げな眼を投げた。
「いいじゃねえか、聞かせてやれよ」
「あ?」
 頬杖をついたまま、顎をしゃくって呟く。
 なにかを指し示しながらの台詞にきょとんとなって、へし切長谷部は三秒後に我に返った。
 短刀の視線の先で、薄紅の桜が咲いていた。行儀よく畏まって、但し表情は僅かに戸惑い気味だった。
 寄せられた双眸が、へし切長谷部を映した。左右で異なる瞳に囚われて、打刀はしどろもどろに首を振った。
 小夜左文字は宗三左文字の弟であるが、双方に面識はなかった。
 存在だけなら聞かされていたが、本丸に至るまで、接点は殆どなかった。突然審神者から弟だ、と紹介されても困るだけで、どう扱えばいいか、誰も教えてくれなかった。
 愛おしくは、思っている。だがそれを態度で表せない。長く権力者の手元に居過ぎた所為で、相手に媚を売る真似ばかりが巧くなっていた。
 袈裟を握る手に、無意識に力が籠った。
 唇を引き結んだ男を目の当たりにして、へし切長谷部は力なく肩を落とした。
 片手で頭を支え、無粋な好奇心は手で追い払う。
 わくわくしている鶴丸国永や、燭台切光忠に座布団へ戻るよう促して、彼は短く溜息を吐いた。
「聞いて面白い話など、なにもないぞ」
 そもそも小夜左文字が黒田に居た期間は、それほど長くない。細川では三代に渡って世話になっていたのだから、そちらに比べれば一瞬に近い時だっただろう。
 だからこそ彼は、黒田に馴染めずにいた。
 いつだって高い空を見上げて、ひとりぼっちで佇んでいた。
「手のかかる刀を残してきたのが気がかりだと、いつも言っていたな。そういえば」
 湯呑みを取り、啜る直前に思い出して呟く。
 なんのことか当時は分からなかったが、今思えば、その刀とは燭台切光忠と共に台所を取り仕切る、あの藤色の髪の男だろう。
 へし切長谷部が本丸に来た当初から、あのふた振りは常に一緒だった。
 ずっと寂しそうにしていた。
 帰りたがっているように見えた。
 遠い昔の彼の願いが、長い時を経て叶ったのであれば、それはきっと、祝うべき事柄だろう。
「料理するのが好きだと言っていたから、一緒に作りもしたが」
「――っ」
 喉を潤し、話の流れで思い出したことをぽつり、呟く。
 隣でピクリと反応されて、彼は不思議そうに首を傾げた。
「なんだ」
「いえ。……貴方、料理なんて出来たんですね」
「悪いか」
「えー。長谷部君、作れるんだったらたまには台所手伝ってよー。僕たち、三人で回してるから、もうすっごく忙しいんだから!」
 失礼な想像をされていると予想して、声を潜ませる。一方で燭台切光忠は悲痛な叫びをあげて、初耳の情報に勢いよく噛みついた。
 本丸では、現身を得た刀は一日三食、食事を摂る。作るのも刀たちの仕事で、得意としている者が担っていた。
 ただ最初のうちはよかったけれど、大太刀や槍、薙刀などが本陣に加わるうちに、三人だけでは手が足りなくなっていた。かと言って不慣れな者に包丁を握らせることも出来ず、八方塞り状態だった。
 もしそこにへし切長谷部が加われば、これほど心強いものはない。
 負担が一気に減ると息巻く太刀に、けれど打刀はつれなかった。
「歌仙兼定が許すと思うか」
「……駄目?」
「お断りだ」
 湯呑みを揺らしながら、取り付く島を与えない。にべもなく言いきって、懇願に耳を塞いだ。
 彼と歌仙兼定は、前の主同士の関係がそのまま引き継がれていた。
 つまり、とても仲が悪い。顔を合わせてもひと言も口を利かず、共に戦場に立とうものなら、敵ではなく味方を斬り伏せようとした。
 そんなふたりの険悪さは、本丸でも有名だ。たとえ土下座されようとも嫌だと言い張って、へし切長谷部は鼻息を荒くした。
 主命第一の男であるが、こういうところだけは、変に子供っぽい。
 意地を張っているとしか言いようがない態度にしょんぼりして、燭台切光忠は落ち込んで丸くなった。
 その背中を鶴丸国永がバシバシ叩いて、本人なりに慰めようとする。薬研藤四郎も頑張れ、と声を掛けるだけで、腫れものに触れない対応らしかった。
 笑い上戸だった男が、今度は本気で泣きそうになっている。
 酒の力というものはかくも凄まじく、日頃の伊達男っぷりはすっかり鳴りを潜めていた。
「へし切」
 今度は燭台切光忠を囲んで、賑やかなやり取りが繰り広げられた。
 それには混じらず、少し離れたところから眺めていたら、横からふっと吐息のような声が流れて来た。
「長谷部だ。なんだ、宗三」
「冷えてきました」
 見れば湯呑みを両手に抱いて、宗三左文字が小声で言った。彼にだけ聞こえる音量で囁いて、酔いを残す眼差しで傍らを覗き込んだ。
 淡い色合いの双眸が、熱を帯びて潤んでいた。艶を増した輝きは妖しげで、行燈の光も相俟って蠱惑的だった。
 人心を惑わす妖魔の類を思わせた。
 着物からちらりと覗く白い腿は煽情的で、絡みつく数珠の黒が背徳感を増幅させた。
 寒いというのにはみ出る脚を隠しもせず、逆に裾を捲って露わにする。
 言動不一致の打刀から慌てて目を逸らして、へし切長谷部は茶瓶へと手を伸ばした。
 腰を浮かせて持ち上げて、残り全てを湯呑みに注ぐ。
 最早湯気さえ立たない煎茶を零しそうになり、彼はぐっ、と腹に力を込めた。
「な、ならば。もう休め。宴は終わりだ」
「こら、そこ。勝手に決めるな」
「そうだぜ、旦那。無礼講といこうじゃねーか」
「だ、そうです」
 今宵の酒宴の主催者は薬研藤四郎だが、主賓は宗三左文字のようなものだ。なにせ会場であるこの部屋は、彼の私室でもある。
 彼が眠りたいと言うのなら、残る四振りは大人しく引き下がるのが筋だ。
 だというのにまたしても抗議の声が飛んで、宗三左文字もそこに乗りかかった。三振りを味方に付けてクスクス笑って、魔王の愛刀は楽しそうに口元を覆った。
 眇められた眼が、へし切長谷部を捕えて離さない。
 罠にはまった獣の心境でぞわっと来て、男は意味深な眼差しに背筋を粟立てた。
「宗三」
「温かいものが、食べたいです。飲み物ばかりで、小腹が空きました」
「だったら、そこの光忠に作らせればいいだろう」
「えー? 僕、無理ぃ~~」
 嫌な予感に声を荒らげるが、この刀には通じなかった。凄んだところで受け流されて、逃げ道を探すが拒否された。
 床に寝転がって、燭台切光忠は完全に拗ねていた。ぶすっと頬を膨らませて、顔の前で両手を交差させた。
 もとより酔っ払いに、包丁など握らせられない。下手を打って指の一本でも斬り落とされようものなら、審神者からの大目玉は必至だ。
 へし切長谷部がついていながら、何をやっているのか。
 言われるだろう台詞が楽に思い浮かんで、彼は喉の奥で呻き声を上げた。
「ぐ、ぬ」
 主に見放されることほど、心が千切れそうになることはない。審神者を落胆させる真似はしたくなくて、答えは既に決まっていた。
「ええい。何が出て来ても、文句は言うなよ」
「任せろ。驚きの逸品を頼むぞ」
「宗三、貴様も来い。たまには手伝え」
「はい? どうして僕が」
 半ばやけっぱちになり、勇ましく吠える。威勢よく立ち上がって右方向に手を伸ばして、抗議の声は全て叩き落した。
 食べたい、と言いだしたのは彼だ。
 ならば言葉に責任を持ち、少しは役立ってもらわないと理屈に合わない。
「僕の包丁、水場の隣の棚に入ってるよ」
「知っている。食材、いくつかもらうぞ」
「どうぞどうぞ~」
 問答無用で宗三左文字を立たせた彼に、燭台切光忠が手を振った。
 普段から台所を使っている面々は、専用の包丁を何本か用意していた。それを使って構わないと告げて、彼は床の上で万歳した。
 なにが出てくるか、今から楽しみでならない様子だ。鶴丸国永も、薬研藤四郎も、意外な特技を持っていた打刀に興味津々だった。
「長谷部」
「それで、なにが食いたいんだ」
「え?」
 力技で廊下へと引っ張り出され、宗三左文字はつんのめって転びそうになった。板葺の縁側でたたらを踏んで、手首を掴んだままの男に目を丸くした。
 歩く速度が、ほんの僅かに落ちた。覚束ない足取りを配慮されて、彼は下を見て、前に向き直り、またすぐに俯いた。
 手はまだ離されない。逃げるとでも思っているのか、力が緩む気配もなかった。
 他者の熱が、夜風を薙ぎ払って触れた肌から伝わって来た。
 後ろを見れば、宗三左文字の部屋だけが明るい。檜造りの渡り廊には、釣り灯篭は用意されていなかった。
 へし切長谷部は振り返らない。
 前だけを見て進む男を追いかけながら、彼は唇を浅く噛み、二度、三度と息を吐いた。
「では、小夜に。小夜に、作ってあげたものと、同じものを」
 意を決して、言葉を紡ぐ。
 月は冴え冴えと輝き、空気は凛と冷えて、澄んでいた。
 濃い影より出た男の耳の赤さは、寒さの所為ではない。
「馬鹿が」
 承諾でも、拒否でもないぶっきらぼうな返答に首を竦めて、宗三左文字は緩んだ男の手を握り返した。
 

2015/10/16 脱稿

わが恋は知らぬ山路にあらなくに まどふ心ぞわびしかりける
紀貫之 古今和歌集 恋二 597

たれかは知らぬ神無月とは

 一歩進む度に、手にした瓶子がちゃぷちゃぷ音を立てた。
 荒縄を首に結んだ酒壺が、前後左右に揺れていた。中身は幾分減っているものの、注ぎ足すところにまでは至らない。お行儀よく飲むつもりはないので、徳利や猪口の類は持ち歩いていなかった。
 素面に近い為か、足取りはまだ確かだ。左右にふらつく機会は少なく、千鳥足には程遠かった。
 早くどこか、落ち着ける場所を見つけたい。
「む~う」
 辺りを素早く見回して、次郎太刀は口を尖らせた。
 彼は大酒飲みとして知られ、朝から晩まで、酒を友として過ごしていた。但し情緒面での教育に悪いので子供たちの前では飲むな、と口煩く言われていた。
 そうはいっても、この本丸には、短刀の数がやたらと多い。
 粟田口派がその大部分を占めて、一大派閥を形成していた。長兄である一期一振は不在ながら、代理として薬研藤四郎が眼を光らせており、自分は良いが他の弟たちの前は駄目、と言って聞かなかった。
「どうせ飲むなら、見晴らしが良いとこがいいしねえ」
 だが隠れてこそこそ飲むのは、気に入らない。月見酒も悪くないが、昼間から豪快に呑む楽しみには劣った。
 とはいえ、短刀たちがあまり足を向けず、且つ景観に優れた部屋など、そう多くない。
 昼間は光を求め、誰もが南側の庭に面した区画に集まる。外で遊ぶ短刀も多く、彼らの視界に入らないようにするのは難しかった。
 薄暗い、黴臭い一室で辛気臭く過ごすのだけは、避けたかった。
「なーんで、あの刀は、平気なのかねえ」
 彼が寝起きしている大部屋は、日中でもあまり日が当たらない、本丸の北側にあった。背が高く、大柄な大太刀の為に用意されたような区画であるが、その片隅には他者との接触を嫌う刀が、ひっそり暮らしていた。
 魔王織田信長の銘を刻まれた打刀は、大広間での食事にも顔を見せず、滅多に表に出て来ない。昔馴染みの刀たちがなにかと構い、面倒を見ているようだが、積極的に交友を持とうとはしなかった。
 その弟はといえば、辛うじて刀たちの輪に加わり、あれこれ動き回っていた。もっともそれだって、あくまで兄よりは幾らか積極的、と言える程度でしかなかった。
 親交を持つ相手と、そうでない相手とで、態度は露骨に変わった。打刀である歌仙兼定とは仲が良いようだが、それ以外だと今剣くらいしか、一緒にいるところを見かけなかった。
 同じ短刀でありながら、粟田口の面々とは、一定の距離を保っている。小夜左文字は寡黙で、陰気で、日々楽しく酒を飲む、が身上の次郎太刀とは、どうにも相容れない刀だった。
「ま、よく知らないんだけど」
 たまに一緒に出陣するが、言葉を交わした記憶は殆どなかった。
 真っ先に戦場へ飛び出して、畏れることなく敵の懐へと潜り込む。その戦いぶりは狂気じみていて、まるで死にたがっているようにも見えた。
 数回、振り回した刀に巻き込みそうになったことがあるけれど、寸前で察知し、ちゃんと躱してくれた。背が低いので視界に入りにくく、見落としていたと謝った時は、頬を膨らませて拗ねていた。
 その時は、少しは可愛げがあると思った。
 けれど戦いぶりを見る限り、近寄り難い雰囲気があるのは、否めなかった。
「さーて、ここはどうかなー?」
 詳しくは知らない相手を頭から追い出して、縁側からひょい、と障子戸の内側を覗き込む。
 長い黒髪を左右に揺らし、次郎太刀は細い目を丸くした。
「おっ」
 中は薄暗く、動くものの気配はなかった。
 試しに戸を開いてみれば、見事に蛻の殻だった。奥行きがある板葺の間は閑散としており、左右の戸も閉じられていた。
「ここは、えーっと。なんだっけ?」
 屋敷をうろうろしていたので、現在地がぱっと出て来ない。
 この後誰か使う予定がある間かどうか知りたくて、彼は背筋を伸ばし、縁側から辺りを窺った。
 けれど、取り立てて何も見当たらなかった。
 子供たちの声は遠くで、演練場の声も聞こえてこない。足音は響いて来ず、軒から覗く空は青かった。
 後ろを見れば、広い空間に洗濯物がはためいていた。
「ああ。次の間か」
 現在本丸で暮らす刀剣男士が勢ぞろいしても、この板葺の間は埋まらない。それくらい広い部屋は、更に広い大座敷に続く手前にあった。
 ここは武家屋敷で言う、控の間だった。
 嬉しいことに、天井が高い。次郎太刀の身長でも、欄間に頭がぶつからなかった。
「兄貴も、ここならのんびり出来るんだろうにねえ」
 未だ会い見えるのが叶わない大太刀を思い浮かべ、早く来ないかと密かに願う。だが会えば会ったで小言が五月蠅かろうと、女郎姿の刀は首を竦めた。
 今は戦装束を解き、楽な格好だった。結い上げて簪で飾った頭も、今は緩くまとめただけだった。
「景色は、ま、いっか。よーっし、飲むぞー」
 独り酒が寂しい限りだが、飲めればもう何でもよかった。肴も欲しいが、今から台所まで足を延ばすのは面倒だった。
 懐には、前回の残りである鯣の足がある。今日はこれで我慢と言い聞かせ、次郎太刀は敷居を跨いだ。
 大広間の方が見晴らしが良いのは分かっているが、流石にあそこで大の字にはなれない。人の出入りもあるので、次の間程度で落ち着くのが丁度良かった。
「よっこらしょ、っと」
 やっと見つけた、安住の地。
 もう歩き回らなくて済むのかと思うと、心は晴れやかだった。
 障子戸を全開にしたまま、次郎太刀は酒瓶を置いた。荒縄を手放して庭の方へ向き直り、見た目に反して男らしく胡坐を組んだ。
 片膝を立て、そこに肘を置く。陣取ったのは敷居を越えてすぐの場所で、軒下の景色が良く見えた。
 上空は地上と違って風が強いのか、雲の流れが速い。澄んだ青色に綿雲が泳いで、形状を眺めるだけで楽しかった。
 竹竿で作られた物干し台には、短刀のものらしき服がずらりと並んでいた。他には誰のものなのか、白い褌が、風を受けてゆらゆらはためいていた。
 下帯と知っていなければ、優雅なものだと笑って眺められたものを。
 堪らずククッ、と喉を鳴らして、次郎太刀は酒瓶の栓を引き抜いた。
 楽な体勢を作り、豪快にひと口呷る。
「ぷっはー」
 ごくごくと喉を鳴らせば、爽やかな香りと味が口の中いっぱいに広がった。果実など使っていないのに、ほんの少し酸味の利いた匂いがして、喉を流れる一瞬だけ、口腔を焼くほどの熱を感じた。
 舌の上に雑味は残らず、口蓋垂になにかが引っかかって居座るような感覚もない。
「うまいっ」
 まるで水だ。しかし確かに、これは酒に違いない。
 頬を紅潮させて一声叫んで、次郎太刀は耐え難い幸福感に胸を震わせた。
 こんなに美味なものが、この世には沢山ある。
 あちこちの銘酒を集めて、是非とも飲み比べしてみたかった。
「あとは、やっぱり美味い肴と、一緒に呑んでくれる奴がいれば、だねえ」
 本丸内を見回せば、それなりに酒を嗜む者はいた。だが次郎太刀ほど酒豪でなければ、昼間から好んで飲みたがる者はいなかった。
 早くお仲間を見つけたい。
 膝を寄せて抱え込んで、彼はまだ見ぬ刀たちに思いを馳せた。
 濡れた酒瓶の縁を拭い、もうひと口呷ろうかと荒縄を手繰り寄せる。
 足音が聞こえたのは丁度その時で、次郎太刀は瞬きをして顔を上げた。
「あ……」
 直後、ひょっこり小さな頭が現れた。柱の陰から姿を見せて、室内を覗き込んだところで停止した。
 目が合った。あちらはビクッと背筋を震わせて、敷居を跨ぐ手前で歩みを止め、警戒気味に背筋を伸ばした。
 漏れ出た声は、限りなく小さかった。思わず、といった感じで零れた音色には、戸惑いが過分に含まれていた。
 誰かいると、考えてもいなかったのだろう。
 大きく見開かれた瞳から想像して、次郎太刀は肩を竦めた。
「なんだ。あんたかい」
 務めて穏やかに微笑み、積極的に話しかける。それで緊張が解れたか、藍の髪の短刀はほっと息を吐いた。
「すまない」
 その上で、何に対してなのか、謝罪を口にした。
 驚き、失礼な態度を取ったとでも思っているらしい。詫びられて、次郎太刀は目尻を下げた。
「いーって、いーって。なんだったら、あんたも飲むかい?」
 萎縮した態度を豪快に笑い飛ばし、酒瓶を掴んで高く掲げる。
 行儀に五月蠅い打刀が聞いたら、目を吊り上げて追いかけて来そうだ。だが藤色の髪の男は、見た限り、近くにはいなかった。
 酔いが回ったわけではないが、気が大きくなっているのは否定しない。呵々と笑って訊ねた次郎太刀に、小夜左文字はきょとんと目を丸くした。
「い、いや。僕は」
「そうかい? 美味しいのに」
「……知ってる」
「うん?」
「なんでもない」
 こんな見てくれで、酒を勧められるとは予想していなかった。
 そんな風に解釈した次郎太刀だけれど、外れだったらしい。目を逸らしてぼそぼそ言われて、彼は首を右に倒した。
 よく聞き取れなくて、もう一度言ってくれるよう頼むが、断られた。
 小夜左文字は首筋を赤く染めて、緩く首を振り、軒下から空を仰いだ。
「ここ、使うのかい?」
 爪先立ちになり、遠くを窺って黙り込んでいる。目を眇めてなにか考えている様子に、次郎太刀は眉目を顰めた。
 ようやく見つけた、落ち着ける場所だ。それを横から奪い取られるのは、正直言えば良い気がしなかった。
 感情は、声に滲み出たらしい。途端に小夜左文字は振り返って、一瞬押し黙った後、ふるふる首を振った。
「いや。……使う、が。居てもいい」
「ふうん?」
「少し、うるさくする」
 追い出したりはしないと告げるが、随分曖昧だった。告げられた内容は具体性に欠けており、言葉を選んで喋っているうちに、必要な分まで削ぎ落としてしまったようだった。
 彼に近しい存在なら、このやり取りだけで何かを察せられるのかもしれない。だが次郎太刀には、残念ながらそういう才能がなかった。
「うーん?」
 一度では理解出来ず、頭を捻るがあまり働いてくれなかった。
 軽い酩酊状態で首を傾げる大太刀に、短刀は口をもごもごさせた。
 言葉足らずを自覚しているのか、表情は曇り気味だった。それでいて頻りに外を気にして、その場で足踏みを繰り返した。
 逡巡し、躊躇して、やがて思い切って足を踏み出す。
「雨が来る」
 座っている次郎太刀の脇を駆け抜ける直前、彼はそんなことを口走った。
 板葺の間の奥までいって、隅に積み上げていたものを引っ張り出した。持ち上げ、広げて、忙しく左右を見回した。
「雨?」
 なにをしているのか、さっぱり分からない。すれ違いざまのひと言も上手に扱えなくて、次郎太刀は怪訝に目を眇めた。
 試しに外に目を向けるが、小夜左文字が言うような雨雲は、どこにも見当たらなかった。
 空は青く澄み、綿雲が追いかけっこしていた。太陽が照りつけて、地表には影が伸びていた。
 聞き間違いを疑い、再度後ろへ目を向ける。
 左文字の末弟は三段ある足台を壁際に置いて、その天辺に登っていた。
 背伸びをして、壁になにかを括りつける。しっかり結べているかどうかを確認して、台座を飛び下りて、綺麗に着地を決めた。
 続けてその台座を抱え、反対側の壁へと走った。彼と一緒に細い縄も床を走り、壁に結ばれたところでピンと真っ直ぐになった。
 どうやら彼は、壁に縄を張り巡らせるつもりらしかった。
 ジグザグに動き、少しもじっとしていない。縄は空中で交差することなく、一筆書きの如く部屋を覆った。
 足音が響き、確かに少し騒がしい。
 忙しなく働く少年に気を取られて、次郎太刀はぽかんとなった。酒を飲むのも忘れて惚けた顔をして、近くまで戻ってきた短刀に瞬きを繰り返した。
「なにやってんの?」
「雨が」
「晴れてるよ?」
「今は、まだ。だが、雨の匂いがする」
 呆気にとられて問いかけて、遅れて首を捻った。明るい外を指差しながら言えば、小夜左文字は肩で息を整え、小振りの鼻をヒクつかせた。
 すん、と大気の匂いを嗅ぎ、唇を舐めた。
 確信を込めて告げられた。真剣な眼差しと表情は、冗談を言っている風ではなかった。
 ただ、俄には信じ難い。試しに次郎太刀も真似をしてみたが、彼の言う『雨の匂い』とやらは、残念ながら嗅ぎ取れなかった。
 なにが違うのだろう。
 分からなくて、眉間に皺が寄った。外は爽やかに晴れており、雨雲の気配は感じられなかった。
 ただ、この少年が嘘を言うとも思えない。
 何を信じれば良いか分からず、次郎太刀は困惑を強めた。
「ええ、っと……」
 相槌も碌に打てなくて、言葉に迷った。どう会話を続けるべきか悩んでいたら、待ちきれなくなった小夜左文字が焦った顔で唇を噛んだ。
「早くしないと」
「あっ」
 独り言を残し、止める間もなく部屋を飛び出していく。
 伸ばした手のやり場がなくなって、次郎太刀は仕方なく、酒瓶の胴を撫でた。
 中身はまだ沢山残っているが、呑む気が湧いてこなかった。
 小夜左文字は縁側に出ると、左に曲がって走って行った。その方面には玄関があって、案の定、暫く待てば草履を履いた子供が庭に現れた。
 一目散に竹竿に駆け寄って、干されているものを引っ張った。地面に落とさないよう注意しつつ、小さな身体を懸命に伸ばしていた。
「あー、あぁ。あんなに必死になっちゃって」
 洗濯物はどれもまだ乾ききらず、湿っていた。ひとつひとつは軽いものの、数が揃えばかなりの重量だった。
 本丸で最も背が低い短刀の両腕は、瞬く間にいっぱいになった。視界の下半分が塞がって、かなり動き辛そうだった。
 足元がふらついて、まるで酔っぱらっているようだ。苦心しながら足を進めて、辿り着いたのは次郎太刀のすぐ目の前だった。
「よい、っと」
 掛け声ひとつと共に、抱えていたものを縁側へ置く。
 半ば放り投げる形になって、白い塊は山になる前に崩れていった。
「手伝うかい?」
 洗濯物はまだ残っていて、少なくともあと三往復は必要だった。見かねて手助けを申し出れば、短刀は汗を拭い、首を横に振った。
「問題ない」
「本当かい?」
「……ああ」
 強がりを言って、断られた。念押ししてみたが結果は同じで、意外に頑固だった。
 見た目の儚さとは裏腹に、芯は強い。
 感心する大太刀の前で彼は深呼吸を繰り返し、再び竹竿へと駆け出した。
 その後ろ姿と、縁側で潰れている洗濯物を順に見て、次郎太刀は最後、軒先を流れる雲に目を向けた。
「うん?」
 気が付けば、太陽が隠れていた。いつの間にか雲の数が増えて、青空が隠されつつあった。
 雨が降る様子はまだないけれど、一抹の不安を抱かせる色合いだった。
 少しだけ暗くなった世界に、瞬きを繰り返す。その間に小夜左文字は生乾きの衣服を掻き集め、縁側へと放り投げた。
 皺が出来るだとか、そういうのは二の次になっていた。
 とにかく雨が降り始める前にと、そういう意気込みだけで動いていた。
「雨、ね」
 本当に、あの子の言う通りになるのかもしれない。
 次の間に張り巡らされた縄は、屋内で洗濯物を干す為の竿代わりだった。
「なるほど。こりゃ、確かに五月蠅いね」
 小夜左文字に言われた台詞を想い返し、次郎太刀は緩慢に頷いた。こうしているうちにも空模様は段々怪しくなって、灰色の雲がちらほら見え始めた。
 少し前まで、あんなにも快晴だったのに。
 驚きの変化に愕然としていたら、ようやく最後の洗濯物を回収して、小夜左文字が縁側に這い上がった。
 草履をその場で脱ぎ捨てて、膝から登って布の山へと倒れ込む。
「大丈夫かい?」
 勢い余って突っ伏した短刀を覗き込んで訊ねれば、問題ないとでも言いたいのか、小枝のような腕がふらふら揺れた。
 柔らかな感触が心地良いのか、少年はしばらく動かなかった。顔面のすぐ横に他人の褌があるのも気にせず、うつ伏せで、大の字になった。
「ふっ」
 そういうところは、子供だ。
 五虎退の虎がふかふかして温かいだとか、鶴丸国永の外套が羽毛布団のようだとか。そういう話を粟田口の短刀たちが話していたのが、ふとした拍子に脳裏をよぎった。
 小夜左文字は、そんな事に興味がないとばかり思っていた。
 どうやら、違ったらしい。
 それが何故だか嬉しくて、次郎太刀は頬を緩めた。
 ちゃんと可愛いところがあった。見た目相応なところがあると知れて、心がほっこり和らいだ。
「あ、降ってきた」
「っ!」
 そこにぽつ、と小さな音が紛れ込み、大太刀は声を高くした。独白への反応は素早く、小夜左文字はがばっ、と身を起こした。
 洗濯物を抱きしめつつ、腰を捻って庭を見た。空色の目を真ん丸にして、少年は獣の如く飛び跳ねた。
 雨雲は、驚きの速度で空を覆い尽くした。青色はすっかり駆逐されて、一面鈍色だった。
 ぽつ、ぽつ、と落ちて来た雨粒は瞬く間に勢いを強め、荒々しく大地を叩いた。小さかった水溜りはどんどん大きく広がって、軒を打つ音が騒々しかった。
 突如、空が閃光に包まれた。ピカッ、と世界が真っ白になって、直後に轟音が空を切り裂いた。
 どこかで雷が落ちた。地面が揺れて、一瞬の恐怖に鳥肌が立った。
 首を竦めたくなる衝撃に、次郎太刀は感嘆の息を吐いた。
「ひゃ~、びっくりだねえ」
 あと少し遅かったら、小夜左文字は水浸しだった。洗濯物もびしょ濡れで、洗い直さねばならなくなるところだった。
 まさに、間一髪。
 素晴らしい判断だったと心の中で拍手して、次郎太刀は野生の勘を働かせた少年を褒め称えた。
 その短刀はいそいそと起き上がり、集めた衣服を奥へ避難させた。両手両足、身体全部を使って、敷居を跨ぎ、焦げ茶色の床に移し替えた。
 真横に山を作られて、次郎太刀は笑った。呵々と喉を鳴らして、額を拭う少年に相好を崩した。
「お疲れ様だねえ」
 労いの言葉を告げて、酒瓶を高く掲げ持つ。
 乾杯の仕草を取られて、小夜左文字は困惑気味に目を泳がせた。
「こんなの。べつに」
 口籠り、そっぽを向く。その頬は仄かに熱を帯び、赤く染まっていた。
 素っ気ない態度ではあるが、変化を感じた。次郎太刀はうんうん頷いて、持っていた酒をぐいっ、と呷った。
 上物の酒を大胆に呑んで、赤ら顔で心地良さげに息を吐く。
 風圧で前髪を掬われて、小夜左文字は堪え切れず苦笑した。
「誰かに頼まれたのかい?」
「いや?」
 若干頬を引き攣らせ、摺り足で後退された。どうやら息が酒臭かったらしいが、今更どうすることも出来なかった。
 代わりに質問を繰り出せば、短刀は静かに首を振った。
 洗濯物の山に手を伸ばし、種類毎に選別を開始した。集める時は必死だったので、構っている余裕がなかったからだ。
 乱藤四郎のものらしき股袴と、誰のものか不明の褌を引き剥がす。そうやって小振りの山をいくつか作って、彼はすくっと立ち上がった。
「干してきゃいいのかい?」
「次郎太刀?」
 縄を張り巡らせる時、短刀は足台を使っていた。床に洗濯物が擦れないように、高い位置に吊るさなければいけないからだ。
 彼の背丈では、縄は壁に結ぶのは台に乗ればまだ楽だが、洗濯物を干すのは簡単ではない。
 先ほどは手伝いを拒まれてしまったが、今回は断らせるつもりはなかった。
 酒瓶に栓をして、次郎太刀は立ち上がった。袖をまくって肩を露出させた大太刀に、小夜左文字は吃驚して目を丸くした。
「ひとりより、ふたりでやる方が速いってね」
「しかし」
「いいって、いいって。この次郎さんに、任せなさ~い」
 そんな彼に早口に言って、嫌がられる前に洗濯物を掻っ攫った。野郎どもの下着の山を小脇に抱えて、頭が引っかかりそうな縄を潜り、鼻歌を歌いながら歩き出した。
 小夜左文字は後ろで空の手を揺らし、当惑して目を泳がせた。
 逡巡が窺えた。
 どうして良いのか分からないと、態度が語っていた。
 他者に親切にされる、その理由が分からないらしかった。これまで目立った交友もなかった相手から、突然優しくされて戸惑っていた。
 聞けば彼の刀としての境遇は、あまり喜ばしいものではなかったらしい。
 守り刀でありながらその役目を果たせず、奪われ、良いように使われて、救いだされはしたものの、その後方々を流転した。ひとつのところに長く留まらず、金銭に替えられて、彷徨い続けた。
 神社暮らしが長かった次郎太刀には、その辛苦が分からない。
 けれど辛い思いを沢山した分、ここでは優しくされて良い程度には、思っていた。
「ねえねえ、これって、なんか決まりとかある? 適当に吊るしちゃっていい?」
 けれどそういう辛気臭い話をするのは、あまり好きではない。
 だからわざと明るく言って、次郎太刀は小夜左文字を振り返った。
 次の間の奥へ行き、緩みなく張られた縄を小突く。それで短刀は拳を作り、すぐに解き、掌の汗を拭った。
「あまり、近過ぎると。重なって……乾かない」
「はいは~い、なるほどねえ」
 ぼそりと言って、最後に次郎太刀を見た。ただ並べていけばいい、としか思っていなかった大太刀は鷹揚に頷いて、奥が深いと顎を撫でた。
 感心して、口角を持ち上げる。
 笑いかけられた短刀は瞬時に顔を背け、自分も干す作業に入ろうと、生乾きの洗濯物を持ち上げた。
 外では雨音が響き、庭には大きな水溜りが出来た。薄墨で塗り潰したような景色が広がって、夕方を待たずして夜のようだった。
「ふ~ん、ふふん、ふふ~ん」
「それ、は。広げてやらないと、皺が残る」
「へえ?」
「こうやって、叩いて。伸ばす」
「ほっほ~う。勉強になるなあ」
 そんな中で上機嫌に動き回れば、小夜左文字から注意が入った。細かいところまで気を配っている短刀には、感嘆の声しか漏れなかった。
 まさか神刀が、洗濯物を干して回ろうとは。
 自分の刀も大概物干し竿だと笑って、次郎太刀は新たな足音に首を傾げた。
「ああ、小夜。見つけた。……なんだ。回収してくれていたのか」
「歌仙」
 息を切らし、やってきたのは打刀だった。藤色の髪を揺らして、袴姿の男は真っ先に短刀に話しかけた。
 雨に濡れる庭を見て、竿が空になっているのに安堵の息を漏らす。続けて洗濯物で埋まった次の間を覗き込んで、それでようやく、次郎太刀の存在に気が付いた。
「うわっ、……と。いや、これは失礼」
 意外な組み合わせに、驚きが隠せない。うっかり悲鳴を上げたのを慌てて取り繕って、歌仙兼定は詫びて頭を下げた。
 それをカラカラ笑い飛ばして、次郎太刀は最後の一枚を縄に引っ掛けた。
 落ちないようぶら下げて、身を屈めて洗濯物の列を潜る。
「よーっし。お~わりっ、と」
 床の上にあった衣服の山は、今や跡形もなかった。次の間は白い布で埋められて、頭がつっかえ、真っ直ぐ歩けそうになかった。
 なかなかの重労働だった。肩を回し、高らかと吠えて、次郎太刀は満面の笑みを浮かべた。
 こんなに働いたのは、本丸に来て初めてかもしれない。
 酒を飲むのも楽しいが、こうやって雑事に励むのも、存外悪くなかった。
 高らかと吠え、自身を労って満足げにはためく洗濯物の群れを見る。その後ろでは雨降る景色を背負い、小夜左文字と歌仙兼定がなにやら耳打ちし合っていた。
 背が低い短刀に合わせ、打刀が膝を折って屈んでいた。手を壁代わりにしてひそひそ喋って、聞き役の打刀はうんうん頷いていた。
「そう、それは良かったじゃないか」
「……うん」
「なにかお礼をしなければね」
「お礼……」
「ん?」
 漏れ聞こえてきたやり取りに、視線が混じった。見つめられて次郎太刀は首を傾げ、背伸びをしている短刀に眉を顰めた。
 この場合、屈んでやった方がいいのだろうか。
 考え、悩んでいたら、小夜左文字が先に目を逸らした。ふいっ、と赤い顔を隠して、歌仙兼定の袖を引いた。
「台所、余ってるもの」
「色々あるよ。……ああ、すまなかったね、次郎太刀殿。手伝わせてしまったようだ」
 打刀の背中に潜り込んだ短刀に、歌仙兼定は視線を往復させた。小夜左文字に返事した後、次郎太刀に向き直り、改めて頭を下げた。
 少ない言葉で短刀の真意を探り、会話を繋げる技術は見事と言うほかなかった。
 あれでどうして、お互い分かり合えるのか。
 不思議に思いつつ、言わないで済ませ、次郎太刀は肩の高さで手を振った。
「あー、別にいいって。アタシも、結構楽しかったしね」
 昼間から酒を飲むくらいには、退屈していた。
 良い運動になったと笑って言えば、歌仙兼定はホッとした顔で胸を撫で下ろした。
 そんな彼を急かし、小夜左文字が再度袖を引っ張った。早く行こうと促して、足元は落ち着かなかった。
 爪先立ちで足踏みしている短刀に目を向ければ、視線が交錯した途端、本格的に歌仙兼定に隠れられてしまった。
「やれやれ」
「うーん……」
「分かったよ、小夜。次郎太刀殿は、しばらくこちらに?」
「そのつもりだけどー?」
 逃げられて、次郎太刀は低く唸った。もしや嫌われたかと懸念していたら、間に立った打刀が肩を竦め、話を切り出してきた。
 問われ、深く考えないまま答える。
 雨は止まないし、後ろは洗濯物だらけだが、移動する気は起きなかった。最早飲めればどこでもいいと、夕餉まで腰を据えるつもりでいた。
 鷹揚に頷けば、藤色の髪の刀は嬉しそうに微笑んだ。
「だ、そうだよ。小夜。頑張らないとね」
「うる、さい」
「そうだ。蛤があるよ、蛤が。次郎太刀殿はお好きかな」
「酒蒸しがいいかな~……って、なんの話?」
 笑顔を向けられる理由も、まとまりのない会話も、良く分からない。
 戸惑って訊ねれば、歌仙兼定は意外そうに目を丸くした。そしてすぐに表情を戻して、隠れている短刀の頭をぽん、と撫でた。
「つまみを用意しよう。小夜が、ね」
「歌仙」
「うん?」
 そうして彼を強引に、前に押し出しながら、囁く。
 焦る短刀を余所に、素知らぬ顔を決め込む打刀を前にして、次郎太刀は突飛な流れにきょとんとなった。
 視線を泳がせ、赤くなっている少年を見て、不意に思い立って後ろを振り返った。
 すとん、と答えが落ちて来た。
 どうやら手伝って貰った礼をするつもりなのだと知れて、後からじわじわ、歓喜が押し寄せて来た。
「あらら、別にいいのに~」
「いや、か」
「まっさかー。もらえるものは、ありがた~く、いただくよ」
 そんなつもりはなかったのに、思わぬ展開になった。嬉しくて顔は自然と緩んで、不安げにした短刀には慌てて首を振った。
 両手を重ね、頬に添える。百点満点の笑みを浮かべれば、小柄な短刀は照れ臭そうに首を竦めた。
 意外に律儀で、真面目で、可愛いところがある。
 小夜左文字に対して抱いていた評価は、昨日と今日とで百八十度入れ替わっていた。
「少し、待て」
「りょうか~い」
 仏頂面のまま言われたが、不機嫌にしているのだとは思わなかった。つっけんどんな口調にも、嫌な気はしなかった。
 朗らかに笑い、手を振った。小夜左文字は小さく頷くと、歌仙兼定の腰を両手で押した。
「分かった、分かってるから。大丈夫だよ、小夜」
 早く行け、とせっつく短刀に、打刀もどこか嬉しげだ。楽しそうに声を響かせて、去り際、次郎太刀に目配せした。
 今日の酒は、とびきり美味いものになりそうだ。
「たまには、悪くないね」
 生憎の雨であるが、心は晴れやか。
 満足げに呟いて、彼は酒瓶を抱き、縁側に腰を下ろした。

2015/08/24 脱稿

山家集 上 502
東屋のあまりにも降る時雨かな たれかは知らぬ神無月とは

紅洗ふ山川の水

 木枯らしが吹く、寒い日だった。
 前日まで降り続けた雪は止んだが、庭は一面真っ白に覆われていた。木々の枝にまでどっしり積もって、バサバサと落ちる音が絶えず響いていた。
 菰を巻いた松の木が重そうに枝を撓らせており、冬場でも緑が残る葉が憐れだった。今もまた、どこかの木から雪の塊が落ちて、聞いていて楽しくない音色が耳朶を擽った。
 遠くでは足を取られて滑ったのか、誰かの野太い悲鳴も聞こえてきた。
 息を吐けば白く濁り、鼻の頭は凍て付きそうだった。水仕事に忙しい手は赤く染まり、あちこち切れて血が滲んでいた。
 皸を起こしている指に吐息を吹きかけ、小夜左文字は藁で編んだ雪沓で大地を踏みしめた。
 粟田口の面々が履いている靴は、底の凹凸が乏しくて滑りやすい。反面藁で作ったこの沓は、柔らかな足元でもしっかり身体を支えてくれた。
 普段は素足に草鞋だが、流石にこの時期だけは別だ。戦場に出る時は履きかえるけれど、本丸にいる間はこれで充分だった。
「もう一足、作っておくか」
 昨夜完成させたばかりの試し履きは、案外悪くなかった。予備の分も用意しておくに越したことはなくて、少年は上機嫌に呟いた。
 足を持ち上げれば、爪先から雪がぽろぽろ零れていく。水分を吸って重いそれは、ひと粒ひと粒が大きかった。
 雲間から光が射しており、放っておけば溶けるだろう。
 ただ天候次第では、どうなるか分からなかった。
 息を吸うだけで、鼻の穴がひりひりした。君は薄着過ぎる、と直綴の上から着せられた綿入は寸法が大きくて、袖も、裾も、余り気味だった。
 前は胸元の紐を結んだだけで、衿はやや開いていた。それでは首元が寒いからと、これまた借り物の襟巻が二重に巻きつけられていた。
 雪沓は膝のすぐ下までの長さがあり、膝小僧は綿入に隠れがち。お蔭で随分温かいが、反面、若干動き難かった。
 褞袍を着るのに邪魔だから、袈裟は着けていない。それが最初のうちは心許なかったけれど、数日としないうちに慣れてしまった。
 口元まで覆う白の襟巻を引っ張り、冷えた空気で胸を満たす。
 溜め込んだ分を一気に吐き出して、小夜左文字はゆるゆる首を振った。
 柔らかな雪を蹴散らし、ざくざく言わせながら暫く進む。後ろを向けば足跡が転々と残されて、意味もなく嬉しくなった。
 雪が降るようになってから、庭に出る刀は一気に減った。みんなして寒いのは苦手と口を揃えて、火鉢を囲んで動かなかった。
 中には季節を問わず、演練場に通う刀も何振りかいた。だがこちらは少数派で、雪に喜び遊び回る子も同じだった。
 粟田口の面々は、最初こそ面白がっていたが、この頃は屋内で過ごす時間が増えていた。雪合戦をしようにも数が揃わず、雪だるまもさほど増えていなかった。
 朝方、軒先に出来た氷柱を折って回るのは、小夜左文字の仕事だった。長い棒を振り回すのはなかなか骨が折れる作業であり、見かねた大太刀や槍が手を差し伸べてくれるのもしばしばだった。
 氷柱は放っておくと、どんどん大きく育っていった。それはそれで面白いが、先端が尖っているのもあり、落ちると危険だった。
 池には薄く氷が張り、その下で鯉が泳いでいた。厚みはさほど無くて、短刀であろうとも乗れば割れて、こちらも危なかった。
 厚藤四郎が身体を張って実践し、見事に冷たい水の中に転落した。助け出すのも大変で、以後冬場の池で遊ぶのは禁止された。
 そういう事情もあり、表で遊ぶ刀は少ない。
 誰も踏んでいない真っ白い雪に跡を刻んで、小夜左文字は屋敷を一周しようと歩を進めた。
 こんな状況だから、畑仕事もひと休みだ。春に向けて土を耕したいところではあるが、雪を退かしたところでまた降るので、徒労に終わることが多かった。
 庭先に放置された桶の、表面に氷が張っていた。掴めば丸い形のまま持ち上げられるそれも、目新しいものではなくなっていた。
 雪にはしゃぎ回っていたのは、最初だけ。
 食べたところで美味しくないそれは、屋根に積もれば屋敷を押し潰す厄介者だった。
 雪かきは朝のうちに終わったようで、大きな塊が所々に落ちていた。それを避けながら更に進み、小夜左文字は薄水色の空を仰いだ。
 曇ってはいるけれど、雪雲は見当たらない。
 暈を被っている太陽に目を細めて、短刀の少年は細い水路を飛び越えた。
 こちらは凍らず、雪も積もらず、ちょろちょろと音を立てながら流れていた。右を向けば檜造りの渡り廊が見えて、その先は中庭だった。
 廊の下を潜れば、綺麗に整えられた庭園への近道だ。大小様々な石が配置され、苔の緑はこの季節でも鮮やかだった。
 雪は少なめだが、全くないわけでもない。枯れ色が目立つ中で淡雪は非常に目立って、水墨画の光景にささやかな彩りを添えていた。
 その中庭の先に、兄たちの居室がある。
 だが今は訪ねる気になれなくて、小夜左文字は小さく首を振った。
 宗三左文字も、江雪左文字も、他の刀と大きく雰囲気が違っていた。
 長兄は戦いを厭い、出陣を拒んだ。次兄も似たようなもので、審神者に命じられても滅多に部屋から出なかった。
 彼らが戦列に加わった際、既に居た刀たちは歓迎を表明した。しかし共に過ごす時間が長くなるにつれ、双方に隔たりが生まれ始めた。
 刀でありながら、己の存在意義を真っ向から否定する江雪左文字。
 籠の鳥を気取って他者を下に見て、皮肉ばかり口にする宗三左文字。
 大広間での食事にも参加せず、兄弟相手にも冷たい態度を取る。一定の刀としか交友を持とうとせず、言葉さえ交わさない彼らへの風当たりは、日増しに厳しくなっていた。
 周りの刀たちが兄を悪く言うのを聞くのは、辛い。
 けれど小夜左文字には、どうすることも出来なかった。
 弟でありながら、距離を保たれていた。向き合う機会は少なく、会話は更に少なかった。
 宗三左文字に至っては、薬研藤四郎の方が余程親しい。それがとても羨ましく、妬ましくもあった。
 いつか自分も、彼のように忌憚なく話が出来るようになるのだろうか。
 顔を合わせれば緊張させられて、上手く言葉が出ない。喋りたいことは沢山あるのにひとつも思い出せなくて、「あ」だとか「う」だとか、意味を成さない音ばかりが口から零れ落ちた。
 そういう状況が改善出来る見込みがあるかどうかは、さっぱり分からなかった。
 せめて向こうから積極的に話しかけて来てくれれば、どうにか対応出来たものを。
 お互い無口なのが災いした。宗三左文字はまだしも、江雪左文字は輪にかけて口数が少なかった。
 どうせ会いに行っても、嫌な顔をされるだけ。
 それで傷つくくらいなら、避けて通るのが賢明だった。
「はあ……」
 折角上機嫌だったのに、一気に陰鬱な気持ちになってしまった。
 雪沓が上手く編めたと嬉しがっていたのも、露となって消え去ってしまった。
 溜息を吐き、小夜左文字は赤らんだ頬を撫でた。
 戻ろうかと悩むけれど、玄関はかなり遠い。このまま進み続けても、距離的にそう大差なかった。
 自分の足跡だけが残された雪原を眺め、薄雲が広がる光景にも目を向ける。
「うん」
 どちらを選ぶか天秤にかけて、少年は力強く頷いた。
 この先左手には、演練場があった。北進を続ければ畑に出て、右に曲がれば湯屋があった。
 屋敷と湯殿は、棟が分かれていた。渡り廊で繋がってはいるけれど、建物としては完全に別のものだった。
 湯を沸かすのに火を使うから、万が一の時の為の策だ。ただこれのお陰で、折角身体を温めても、移動中に冷えてしまうのが難点だった。
 昼間から誰か使っているのか、白い煙が一本、屋根越しに見えた。
「ちがう?」
 ただ方角や、雰囲気からも、発生源が湯殿ではない予感がした。
 まさか火事が起きているとも思えず、小夜左文字は首を傾げた。怪訝に眉を顰め、念のためと駆け足になった。
 もし失火しているようなら、急いで消さなければいけない。他の刀を呼び集めて、本丸に延焼する前に食い止める必要があった。
 雪に覆われた竹林を左に見て、少年は走った。着慣れない綿入と襟巻に苦戦しつつ、自慢の雪沓で地を蹴った。
「はっ、は……はぁ、んっ」
 何度も天を仰ぎつつ、煙の位置を確認する。恐らくここだ、と目星をつけて道を急いで、なにかが燃える焦げ臭さに息を詰まらせた。
 唾も一緒に飲みこんで、肩を上下させ、呼吸を整える。
 バクバク言う胸を支えて足を止めた短刀に、問題の場所でしゃがみ込んでいた男たちは一斉に振り返った。
「んあ?」
 雪を掻き分けて地面を露出させて、尻を浮かせる形で屈んでいた。
 濃緑色の上下を着て、手には槍ならぬ竹竿が握られていた。前方では枯葉の山が燻って、生乾きの枝がパチパチ音を立てていた。
 灰色の煙が風に揺られ、空へゆっくり登って行く。
 それを上から下に追いかけて、小夜左文字は瞠目した。
「は……え?」
 予想していたものと、かなり違う。
 驚き過ぎて、声が出なかった。絶句して瞬きを繰り返して、少年は頭の上に疑問符を乱立させた。
 そこにいたのは、無骨な打刀と、背高の槍だった。
 同田貫正国と、御手杵だ。ふた振りが囲むのは枯れ落ち葉の茶色い山で、その中心には燻っている炎が見えた。
 一気に燃え上がってはおらず、熾火状態だった。芯の方だけが熱を持ち、時折獣の舌を真似て蠢いた。
 空を彷徨う煙は、苦い。風に流された分をまともに受けてしまって、小夜左文字は渋い顔をして咳き込んだ。
「けほっ」
「ああ、悪りぃ。大丈夫か?」
 急ぎ口を袖で塞ぎ、息を止める。しかし鼻から吸い込んだ分が粘膜に残って、いがいがした感触が不快だった。
 背を丸めて噎せている子供に、反応したのは御手杵だった。
 秋の終わりまでだらしなく開いていた上着の前は、今は喉元までぴっちり閉じられていた。但し動きに邪魔だからか、袖は肘の手前までまくり上げており、太くはないが筋肉質な腕が覗いていた。
 急ぎ立ち上がり、駆け寄って来た。大きな手で背中を撫でられて、小夜左文字は濡れた口元を拭った。
「大事ない」
「そっか。そりゃよかった」
 多少無理をして言えば、彼は強がりをあっさり信じた。不安げだった表情をパッと切り替えて、人好きのする笑顔を浮かべた。
 まだ本丸に来て日が浅い男だが、気さくな性格をしているのもあって、すっかりここの生活に馴染んでいた。上背があり、意外に力持ちで、短刀たちからも人気だった。
 大太刀にはどこか近寄り難い雰囲気があるけれど、御手杵は違う。彼は遠くでもじもじしている子供達を見ると、話しかけられるより早く、自ら彼らを遊びに誘った。
 但し今は、傍に短刀はいない。焚き火を前にして蹲っているのは、同田貫正国だけだった。
「なあ。まだ焼けねえのか」
 その打刀が、顔を上げてぼそっと言った。小夜左文字など眼中にない態度で、舞い上がる煙を指差した。
「ああ。ちょっと待ってな」
 呼ばれて、御手杵が振り返る。軽く右手を振って竹竿を揺らして、黒ずんでいる先端を枯葉へと突き刺した。
 もれなく立ち上る煙の量が増えた。もくもくと灰色に濁ったものが広がって、裏庭の一帯を曇らせた。
 視界が霞んで、小夜左文字は仰け反った。迫りくるものを避けようと風上に向かって、同田貫正国がいる方へと逃げた。
「うあ」
 途中、よく見ていなかった所為でなにかに躓いた。倒れそうになって片足立ちで飛び跳ねて、少年は跳ね上がった鼓動に冷や汗を流した。
 トン、トン、トン、と等間隔で横へ跳び、着地を決めて胸を撫で下ろす。はー、と息を吐いて額を拭って、前方を見れば古びた桶があった。
 中の水が、ちゃぷちゃぷ揺れていた。もっと勢いつけてぶつかっていたら、蹴り倒してしまうところだった。
「あぶなかった」
 水を浴びれば、火は消える。
 焚き火を邪魔するところだったと安堵して、彼は枯れ葉の山を掻き回す御手杵に首を捻った。
 竹竿を持ち上げたり、突き刺したりして、煙る枝葉を探っていた。何をしているのか怪訝にしていたら、やがて黒ずんだ灰の中から、ごろんとなにかが転がり落ちた。
 白い煙を全体にまとって、非常に熱そうだ。
 形状はやや細長で、楕円形。表面は真っ黒で、焦げた石にしか見えなかった。
「あちぃぞ」
「わーってる」
 それを、同田貫正国は素手で掴もうとした。御手杵から警句が発せられたが構わず、指先でちょいちょい、と押しながら地面を転がした。
 途中、表面を覆っていた黒ずみが剥がれ、地表へと残された。
 よくよく注意して見れば、それは炭化した紙だった。雪に湿った地面との摩擦で粉々に砕けて、多くは風に攫われて空へと消えていった。
「なにを、している」
「んぁ? おめーも食うか?」
「だな。陸奥守の旦那に言ったら、分けてくれると思うぜ」
 冬の空から目を逸らし、男たちに向き直る。
 焚き火から取り出された塊を見詰めていたら、男たちふたりだけで勝手に会話を進められた。
 事情が読み解けず、意味が分からない。
 首を傾げて怪訝にしていたら、火傷した手を水に浸し、同田貫正国が緩慢に頷いた。
「芋、食うだろ」
 言って、拾い上げた塊の表面を払った。濡れた手で炭化した紙をべりべり引き剥がして、出て来た紫色の物体を小突いた。
 そこまで言われて、小夜左文字は理解した。
「唐芋」
 同田貫正国が握りしめているもの、それは本丸の畑で栽培している唐芋だった。
 見た目は悪いが、味は甘い。栗にも勝るとまで言われており、焼いても、炊いても、申し分なかった。
 どうやら彼らはその芋を、焚き火で焼いていたらしい。
 この芋については、陸奥守吉行が並々ならぬ情熱を注いでいた。収穫後の管理も彼が務めており、勝手に盗み出すのは至難の業だった。
 昼餉は終わって、夕餉までまだ間があった。八つ時の甘味は短刀や脇差中心に配られて、打刀以上に回って来ない日は多かった。
 だから彼らは、自分たちだけで楽しんでいたのだろう。但し見つかっても、追い払おうとはしなかった。
 熱々の皮を剥き、黒衣装の打刀は芋に齧り付いた。大きく口を開け、がぶりと頭を噛み千切った。
 剛毅な食べ方が、いかにもこの刀らしい。
 むしゃむしゃ咀嚼する音が聞こえて来て、小夜左文字は頬を緩めた。
「いらねえの?」
「僕は、いい」
 陸奥守吉行を探しに行くかと思えば、動かなかった。焚き火の傍で佇み続ける少年に、御手杵は訊ね、返事を受けて頷いた。
 芋を探す間に散らばった枯葉を一ヶ所に集め、上手に竹竿を操る。突くことしか出来ない、と言い張る割には器用で、そちらを眺めている方が面白かった。
 どうせ八つ時の菓子は、歌仙兼定が作ってくれているはずだ。
 今ここで芋を食べていては、それが腹に入らない可能性が高かった。
 焼き芋の美味さは知っているが、丁寧に作られた和菓子には敵わない。贔屓目と分かっているが、比較対象にもならなくて、少年は不遜に笑い、胸を張った。
 明らかにひと回り以上寸法が大きい褞袍ごと身を揺らし、膝をぶつけ合わせる。遠慮しているわけではないと仕草で示せば、御手杵は穏やかに微笑んだ。
「そっか」
 向こうでは同田貫正国が、物言いたげな顔をしていた。だが焼き立ての芋を食べるのに忙しくて、話に割って入ってこなかった。
 本丸の中に入れば、火鉢で炭が燃えていた。腰が重い面々がその周囲に集って、だから冬は嫌いだなんだと、実りのない会話を繰り広げていた。
 焚き火も、温かかった。火傷しない程度に距離を保って、小夜左文字は両手を広げ、翳した。
 皮膚からじんわり熱が伝わり、身体の芯まで届くようだった。煙たいのだけが難点だが、慣れればどうということはなかった。
「御手杵は、食べないのか」
「ん? ああ、俺はもう食ったから」
「俺がこいつを見つけた時には、もうふたつ食った後だった」
「言うなって。しょうがねーだろ、我慢出来なかったんだから」
 ふと気になって傍らに問えば、槍の青年は暴露話に顔を赤くした。同田貫正国に指差されて、恥ずかしそうに竹竿を振り回した。
 ぶんっ、と空気を唸らせて、風圧が乾いていた木の葉を弾き飛ばす。小夜左文字は前髪を掬われて、目に入った細かい塵に奥歯を噛んだ。
 咄嗟に瞼を閉じたが、間に合わなかった。
 眼球に刺さった痛みに息を詰まらせ、少年はもみじの手で顔を押さえこんだ。
「いった……」
「あーあぁ」
「わ、やべ。悪い、小夜助」
 か細い悲鳴に、同田貫正国のやる気のない非難が重なった。御手杵は慌てて竹竿を放り投げると、猫背で俯いている少年に駆け寄った。
 膝を折って屈み、心底申し訳なさそうな顔をした。大丈夫か、と問いかけて、細い腕を左右から挟み持った。
 褞袍の袖ごと握られて、小夜左文字は鼻を啜った。自然と溢れた涙で目尻を濡らして、何度も瞬きして、入り込んだ塵を洗い流した。
「へい、き。だ」
 手首で涙を拭い、途切れ途切れに囁く。
 それで御手杵は肩の力を抜いて、地面に尻から倒れ込んだ。
「よかった~~」
 心からホッとした表情で、万歳しながら叫ばれた。雪が解けた地面はほんのり湿っているのに、着ているものが濡れるのも構わず、嬉しそうに白い歯を見せた。
 他人事なのに、我が事の如く扱って、喜んだり、哀しんだり。
 そうやって他の刀たちに気持ちを寄り添わせられるから、彼は皆から慕われているのだろう。
 あまり会話をしたことがなくて、よく知らなかった。
 なんだか親近感が湧いて、小夜左文字は首を竦めた。
「もう、心配ない」
「洗ってこなくて平気か?」
「問題ない」
 歌仙兼定並みに過保護だが、彼ほど押し付けがましくない。引き際をわきまえている槍に深く頷いて、短刀は睫毛に残る涙を弾いた。
 深呼吸して、喉と胸の間辺りを軽く叩く。
 微かに残る違和感を払拭しようとしていたら、御手杵が懐をごそごそし始めた。
「ちょっと待ってな」
 小夜左文字を引き留め、手は忙しなく動いた。胸元、尻、腰とあちこち叩いて回って、最終的に上着の右衣嚢から、目当てのものを引き抜いた。
 ゴロゴロ言う球体を掌に転がして、良く見えるように差し出す。
 無骨な手が掴んでいたのは、光を透かす綺麗な硝子玉だった。
「びいどろ?」
「ああ。綺麗だろ?」
 全部で三つ。色は透明と、赤と、青だった。
 親指の先ほどの大きさで、歪みのない球形をしていた。ぶつかり合えばカチリと音が響き、跳ね返ってコロコロ転がった。
 びいどろを使った品は、これまでにいくつか見たことがあった。金魚鉢や風鈴や、酒杯といったものがあった。
 しかしこれは、初めて見た。実用品と言うには用法が思いつかず、調度品にするにしても些か小さかった。
 それをひとつ手に持って、御手杵は片目を閉じ、その斜め上に球体を掲げた。
 曇りがちの柔い日差しを受け、びいどろの赤が彼の頬に落ちた。影が色をまとって、きらきら輝いていた。
「へ、え……」
 今まで、影は全て黒一色と思っていた。
 濃淡こそあれど、水墨画の中から抜け出せない。そう信じて、疑わなかった。
 赤色の影がそこにあった。
 ゆらゆら揺れて、不可思議な光景だった。
「すごい」
「へへ。いいだろ?」
 感嘆の息を漏らせば、御手杵がにっ、と笑った。白い歯を見せて得意になって、偉そうに胸を反らした。
 芋を食べ終わった同田貫正国だけが、冷めた顔をしていた。食べられないものには興味ないと言いたげで、眇められた双眸は眠そうだった。
「けどよ。こいつを、もっと綺麗に出来んだぜ」
「どうやってだ?」
「よーっし、小夜助。そこの桶、こっち寄越してくれ」
 頬杖ついている打倒の前で、御手杵は上機嫌に言い放った。興味を示した短刀に不敵に笑い、口角を持ち上げ、古びた木桶を指差した。
 先ほど蹴り飛ばすところだった桶には、なみなみと水が張られていた。持ち上げればずっしり重く、底の方には黒い破片が散らばっていた。
 御手杵はまず、その桶に近くの雪を放り込んだ。
「なにをするんだ?」
「つっべて。うん、これくらいでいいかな。小夜助、火箸探してきてくれ」
 びいどろの球を、どうやってもっと輝かせるのか。
 答えをなかなか教えようとしない彼に、小夜左文字はふと思って頬を膨らませた。
「さっきから気になっていたが、それは僕のことか?」
「ん? 駄目か?」
「…………べつに」
 素で聞き返されて、咄嗟に否定出来なかった。
 今までそんな変な呼び方、されたことがなかった。慣れなくてどうもむず痒くて、そわそわして落ち着かなかった。
 ただ呼び捨てにされるより、親しみを感じた。
 分け隔てなく接せられているのが伝わって来て、照れ臭かった。
 仄かに頬を朱に染めて、小夜左文字は素っ気なく言い捨てた。踵を返したのは火箸を探しに行ったからで、気恥ずかしさから逃げたわけではなかった。
 畑で使う農耕具などを収納した物置小屋で言われたものを見付け、駆け戻った。待ち構えていた御手杵は、黒い鉄製の棒を二本受け取ると、赤色の硝子玉を指で弾いた。
「そら」
 言って、燃える枯れ枝の山目掛けて放り投げた。ズボッ、と沈むと同時に火箸を操り、素早く木の葉で覆って隠した。
 同田貫正国も、突然のことに目を丸くした。あんな綺麗なものを惜しげもなく投げ放った彼に、小夜左文字は騒然となった。
「燃やすのか」
「この程度の火じゃ溶けねえから、安心しな」
 唖然としたまま呟けば、高い位置から合いの手が返された。御手杵は棒を通じての感触を頼りに球体を転がして、万遍なく熱が通るよう動かした。
 表情は余裕綽々としており、慌てる素振りはなかった。余程自信があるらしく、鼻歌まで聞こえて来た。
 そんな槍を惚けたまま見つめて、小夜左文字はパチパチ燃える焚き木の煙を手で払った。
「そろそろかな」
 風向きがまた変わった。煙たさに咳き込んでいた少年は、続けて起こった爆発音にビクッとなった。
 バチィッ! と、かなり凄まじい音がした。油断していた所為で驚かされて、心臓が口から飛び出そうになった。
 白い煙が膨らんで、一瞬のうちに掻き消えた。桶から水飛沫が立ち上って、跳ね飛んだ水滴が雪沓にまで降りかかった。
「おいおい、なんだこりゃ」
 向かい側で見ていた同田貫正国も、腰を浮かせて声を荒らげた。眠気を吹き飛ばして瞬きを繰り返し、苦笑している槍を睨みつけた。
 御手杵は小さく舌を出して首を竦め、後頭部を左手で掻き回していた。
「わりぃ、わりぃ。失敗した」
 軽い調子で謝罪して、木桶に突っ込んだ火箸で水を掻き回す。
 いつの間に移動させたのかと唖然として、小夜左文字は煙が染みる目をパチパチさせた。
 桶を覗き込めば、底に沈殿するものが増えていた。
「ばらばらだ」
「ちいっと、加熱し過ぎちまった」
 それは他ならぬ、炎にくべられた硝子玉だった。
 真ん丸かったものが、真っ二つになっていた。大きい塊と、小さな塊とに分かれて、細かく刻まれ、破片が光を反射していた。
 きらきらと、綺麗だった。
「これが?」
 凹凸が激しい壁面を通し、屈折した光は不可思議な彩を産み出した。小さな虹が浮き上がっており、これはこれで美しかった。
 膝を折ってしゃがみ、水面を覗き込んだ少年が声を弾ませる。
 しかし御手杵はゆるゆる首を振り、残った二個の球を掌に転がした。
「次は巧くやる」
 小夜左文字は聞き逃していたが、彼は先ほど、失敗した、と言った。この経験を教訓にすると、独白は力強かった。
「長く入れ過ぎたんだな。もうちっと早めに、早めに」
「やめとけって。あぶねーぞ」
「大丈夫だって。よーし、いっくぞー」
 自分自身に言い聞かせ、御手杵が青色の硝子玉を構えた。堪らず同田貫正国が止めに入ったが、槍は耳を貸さなかった。
 失敗したままでは終われないと、そう思っているのだろう。彼もご多聞に漏れず意地っ張りで、負けん気が強かった。
 気合いを入れて、燻る炎の中へ球体を放り込む。火箸を素早く操って、全体に熱が通るよう転がし続ける。
 それから四十か、五十を数えた辺りだろうか。
 真剣な表情をして、御手杵は長い火箸を器用に操った。
 滑りやすい硝子に灰を塗し、それを滑り止めとして鉄棒で抓み取る。落とさないよう細心の注意を払い、水を張った木桶へと放り投げる。
「うっ」
 ジュッ、と何かが焦げる音がした。
 水柱が白く翳って、真上に散った飛沫が桶の中へと落ちた。ボタボタとその辺一帯だけが通り雨に見舞われて、小夜左文字は唖然としたまま、汗を流している槍と足元を見比べた。
 煙は徐々に晴れていった。
 次第に明るさを増していく視界で、キラリと何かが輝いた。
「さて、どうだ?」
 同じものを見つけ、御手杵が声を高くした。興奮気味に鼻息を荒くして、火箸でぐるぐる水を掻き回した。
 渦が巻いて、中心部が僅かに低くなった。流れに合わせて底に溜まっていたものも浮き上がり、転がって、壁にぶつかり音を立てた。
 なんだか分からないけれど、胸が高鳴った。
 わくわくしてならず、小夜左文字は無意識に汗ばむ手を握りしめていた。
 拳を作り、固唾を呑んで見守る。
 やがて御手杵は手を休め、水流が静まるのを待って火箸を置いた。
「巧くいっててくれよ?」
 期待を込めて呟いて、右手を桶の中へ突っ込んだ。
 戦闘狂の打刀までもが、焚き火の向こうで息を潜めていた。つられて小夜左文字も息を止め、御手杵の利き手に意識を集中させた。
 瞬きも忘れて凝視して、緩く握られた指が解かれる瞬間を待つ。
「お、やった」
「なに?」
「どれどれ?」
 掌から零れた水が、焚き火の上にボタボタ落ちた。手にした感触で歓声を上げた槍に、短刀も、打刀も興味津々だった。
 背伸びをして、小夜左文字は瞳を見開いた。同田貫正国も関心はあったようで、立ち上がり、焚き火を回り込んだ。
 御手杵は左右から注がれる眼差しに相好を崩して、掌に残った球体に目尻を下げた。
 火の中に放り込まれる前、それは鮮やかな青一色だった。
 しかし今、彼の手にある球体には、内側に無数の割れ目が入っていた。
 縦に、横に、斜めに、交差して、並走していた。しかし表面に傷らしい傷は見当たらず、今にも破裂しそうなのに、球体は形を維持し続けた。
 乱反射する光は、桶に沈む破片どころではなかった。青い影は不規則に散らばって、まるで夜空を飾る天の川だった。
 たったひとつの硝子玉の中に、夜空が閉じ込められている。
 摩訶不思議な光景に息を飲んで、小夜左文字は背筋を戦慄かせた。
「ひゃっ」
 鳥肌が立った。汗が噴き出て、震えが止まらなかった。
 背中がゾクッと来て、少年は悲鳴を上げた。反射的に自分で自分を抱きしめて、藍の髪の少年は身体を上下に揺さぶった。
 襲い来た寒気を堪え、摩擦で温める。剥き出しの膝をぶつけ合わせて、内股気味にひょこひょこ動き回った。
 愛くるしいその仕草を笑って、御手杵は濡れている球体を袖に擦り付けた。
 表面の水滴を取り除き、改めて光に晒す。
「すげえな。どうなってんだ」
「ああ。あっためた奴を、急に冷やすとこうなるんだ」
 横から覗き込んだ同田貫正国が、疑問符を撒き散らして首を捻った。御手杵は原理を手短に解説して、小夜左文字に向き直った。
「え?」
「ほら。持ってけ」
 やおら言って、戸惑う少年に硝子玉を差し出す。
 今にも地面に落としそうな雰囲気に、短刀は慌てて両手を広げた。
 左右を並べ、隙間を埋めた。御手杵はその真ん中に割れ目が入った硝子玉を、落とすのではなく、そっと置いた。
 少し前まで炎の中にあったのに、冷たかった。触れれば壊れてしまいそうで、小夜左文字はなかなか動けなかった。
「衝撃に弱いからな。乱暴に扱うと、こっちみたいになるから気をつけろ」
 上と下を見比べて、気もそぞろに落ち着かなかった。そんな少年に目を眇め、槍の青年は爪先で木桶を蹴った。
 軽く揺らして、水面を波立たせた。その底には細かくなった硝子片が、宝石のように煌めいていた。
 そちらにも視線を投げて、小夜左文字は深く息を吸い込んだ。告げられた内容を一緒に飲みこんで、胸にしっかり刻み付けた。
 宝物をもらった。
 きらきら光って、見たこともない輝きを放っていた。
「大事に、する」
「へへ。そうしてくれや。あ、そうそう。他の連中には内緒な。俺も、あんまり持ってねえんだ」
「……いいのか?」
「構わねえさ。大事にしてくれんのなら、な」
 恐る恐る表面を撫で、小夜左文字は聞こえた台詞にハッとなった。貴重なものを分けられて臆しかけたが、御手杵は居丈高に言って右目だけを閉じた。
 短刀は数が多く、粟田口などは特に賑やかだ。小夜左文字ひとりが優遇されたと知れば、不満の声も聞かれよう。
 喧嘩になったら、勝ち目がない。同田貫正国をちらりと窺えば、彼は手近な小石を拾い上げ、これでも可能かと訊ねていた。
「いや、それは……割れるだけじゃねえ?」
「そうか。難しいもんだな」
 彼は割れ目が入った硝子玉よりも、割れる工程の方に興味があるようだった。奪い取られる様子もなく、言い触らしそうな気配もなくて、小夜左文字は肩の力を抜き、ふっと息を吐いた。
 頬を緩め、嬉しさに目尻を下げる。
「気に入ったか?」
「ああ。……ありがとう」
「どーいたしまして」
 訊かれ、迷わず頷いた。照れ臭さを覚えながら礼を言えば、御手杵は両手を後頭部に掲げ、白い歯を見せた。
 光に透かせば、青色があらゆる方角に散らばって見えた。片目を閉じて太陽を覗き込んで、小夜左文字は小さな幸せを噛み締めた。

 ギシギシと、嫌な音が響いていた。
 空っ風が空を舞い、血腥さが鼻についた。左腕からはじくじくした痛みが生じて、肘から先に力が入らなかった。
 動けば、鮮血が地表に散った。ぬるっとした感触が肌を伝い、直綴の下に着込んだ白衣を赤く染めていた。
 脂汗が止まらないのに、末端から冷えていくのが分かる。身体の芯はかっかと燃えるように熱いくせに、表層部に近付くにつれて、氷の如く冷たかった。
 相反する状況を抱えて、小夜左文字は走った。歯を食いしばって、必死に、追ってくる異形から距離を稼ごうとした。
 戦場では常に先陣を切り、敵の戦列に突撃するのが彼の戦い方だった。
 けれど今回は、それが裏目に出た。一撃で屠れなかった相手を前に、彼は撤退戦を強いられていた。
 常々前に出過ぎだと怒られていた。ひとりで突出し過ぎると、万が一の時に守ってやれないと言われて来た。
 耳を貸さなかった。
 手助けなど必要ないと突っぱねて、改めようとしなかった。
 その結果が、これだ。後ろで声を張り上げていた仲間を想って、短刀は痺れ始めた肩に奥歯を噛み締めた。
 中央突破を目論み、表向きは達成された。敵の戦列を乱し、統率を失わせる策は成功だった。
 けれど、止めを刺せなかった。
 思わぬ反撃を喰らって、手傷を負った。一撃は想像以上に鋭く、身の自由を奪われた。
「っは、……は、っく、は。んぐ!」
 ここで足を止めるわけにはいかなかった。刀装は既に剥がされ、なにも残っていない。あと一発喰らったら、どうなるか分からなかった。
 全身が悲鳴を上げていた。血まみれの左腕は、いつ引き千切れても可笑しくなかった。
 咄嗟に頭を庇って、肉を抉られた。確かめる暇もなかったけれど、下手をすれば骨が覗いている可能性があった。
 汗が止まらなかった。息が上がって、時折目が霞んだ。
 止血している余裕などなかった。血を流し過ぎている。分かっているが、のんびり手当てしている場合ではなかった。
 追われていた。距離は少しずつ、少しずつ狭まっていた。
 折れるなど、どうということはないと思っていた。
 仇を討てるのであれば、この身がどうなろうと構わないと息巻いていた。
『死』が迫っていた。目に見える形で、背後から押し寄せていた。
「は、ぁ……っい、……だ、あっ」
 知らぬ涙が溢れていた。鼻が詰まり、息が苦しい。圧迫された心臓が悲鳴を上げて、足がもつれそうになった。
 転びかけた。必死に踏ん張って耐えるが、ズン、と鉛のように重くなった身体は言うことを聞かなかった。
 倒れるのだけは回避したが、速度が一気に落ちた。最早地を蹴って、駆けるのも難しい。足裏は地面から剥がれず、引きずるように進むのがやっとだった。
 吸い込むより、吐き出す息の方が多かった。
 頭がくらくらして、状況がどう変わっているか、なにも分からなかった。
 恐ろしかった。
 肉体的な痛みよりも、心が押し潰される恐怖が勝った。
 恨みだけで生きて来た。審神者の命に従っているのも、仇を見つけられるかもしれないという、虚しいだけの願いがあったからだ。
 仇討はとうに果たせているのに、まだ追いかけてしまう。
 あの山賊を見つけ出して殺さなければ、この身は救われない。穢れた刀身の罪は漱がれず、清められることはないのだと信じて、疑わなかった。
 目的を遂げないまま、こんなところで滅びたくなどない。
 否、そうではない。
 そんなこと、最早どうでも良かった。
 涙が頬を伝った。犬のように舌を出して息をして、小夜左文字は刀を握る右手で胸元を押さえこんだ。
 暗く澱んだ世界の中で、キラキラ輝くものがあった。少ない光を集めて闇を照らし、澄んだ青色の影を産み出していた。
 星空を閉じ込めた硝子玉を、無意識に探していた。
 宝物は、ひとつ、またひとつと増えていった。仲間が増えて、経験を積んで、新しい記憶を得る度に、抱えきれないくらいに沢山の輝きで溢れ返っていた。
「い、……や、だ」
 それらがぽろぽろと、指の隙間から零れ落ちていく。
 意見が合わなくて喧嘩をしたり、仲直りしようとして余計怒らせてしまったり。
 美味しいものを食べた。新作の味見役を押し付けられて、あまりの塩辛さに悲鳴をあげもした。
 季節が巡っていった。庭の景色が変わっていくのを見守って、雪の冷たさに歓声を上げた。
 兄弟に会った。
 巧く会話が出来なくて、そう接すれば良いか分からないままだけれど、少しずつ歩み寄れている感じはしていた。
 早く安全なところに逃げて、身を隠して、体勢を立て直す。
 やるべきことは分かっているのに、足取りは重く、なかなか前に進まなかった。
 斬られたところが熱かった。
 身体中どこもかしこも痛くて、却って痛みというものが分からなくなりかけていた。
 目の前が白くぼやけていた。濃い霞がかかって、なにもかもが濁って見えた。
 己の荒い呼気だけが聞こえていた。耳鳴りは酷くなる一方で、頭がガンガンして、眩暈は一向に治まってくれなかった。
 諦め悪く足掻くけれど、身体はついてこなかった。
 全ては自分の未熟さ、愚かさが招いたことと。今更悔やんだところで後の祭りと、押し殺し切れない笑いが漏れた。
 鼻を愚図らせ、唇を噛む。
 牙を突き立てれば皮膚が破れ、血が滲んだ。それで辛うじて理性を保って、小夜左文字は刀を握りしめた。
 一緒に出陣した仲間たちは、どうなっただろう。
 短刀がひとり欠けたところで、戦闘に支障はないはずだ。むしろお荷物がいなくなって、清々しているかもしれなかった。
 彼らが無事であればいい。
 助けは期待できないし、望むのも烏滸がましかった。
 敵を振り切れていれば、それが一番良かった。しかし振り返って確かめる気力は、欠片も残っていなかった。
 どうせ絶望するだけと、最初から分かっていた。首筋はチリチリして、内臓は沸き立っていた。
 圧倒的な悪意が背後から迫り、小さな身体を呑み込もうとしていた。絡め取られればひとたまりもなく、蟻を踏むように潰されて終わりだった。
 早く。
 早く、もっと遠くへ。
「く、……っあ、は……ぅぐっ」
 懸命に力を振り絞り、棒と化した足を鼓舞した。動かない腿を殴って叱り付け、一歩でも先に進もうとした。
 けれど、叶わない。
 なにをどうやっても、思い通りにいかなかった。
 万策尽きた。
 乾いた笑みが浮かんで、身を揺らした小夜左文字は、直後。
 瞠目し、虚空を掻き毟った。
 敵が迫っていた。
 鉈のような刀を振り回して、無表情で。空っぽの眼に赤黒い炎を宿し、刀剣男士を打ち滅ぼさんとして。
 淡々と、粛々と。
 歴史修正主義者の命令通りに、事を成さんとして。
 思えば彼奴らも、小夜左文字たちとさほど変わりない。一方的に喚び出され、一方的に使命を押し付けられて、身を削って闘わされて。
 けれど哀れみは覚えなかった。
 敵側にまで同情してやれるほど、小夜左文字は心優しくもなければ、出来た刀でもなかった。
 いつだって自分のことに精一杯で、いつだって目の前のことに必死だった。
 今だって、そう。
「待っ……!」
 悲痛な叫びは、足元に向けて発せられた。
 刀を握る手を懸命に伸ばして、掴もうとしているのは大切な、大切な宝物のひとつだった。
 服の間から零れ落ちた硝子玉が、一直線に地面に向かっていた。必死に追いかけるものの指は空を掴み、あと少しのところで届かなかった。
 脳裏に、穏やかな日常の光景が浮かび上がった。
 衝撃に弱いから注意するよう、背高の青年が笑っていた。
 落ちる。
 落ちてしまう。
 急いで捕まえようと、躍起になった。無我夢中で、一瞬だけ、他のこと一切が頭から抜け落ちた。
 痛みも、緊迫する状況も。
 迫りくる一撃も、なにもかもを。
「――っ!」
 ビュンッ、と空を切り裂く音が首の真後ろで奔った。
 産毛が一斉に逆立つ圧迫感に瞠目して、小夜左文字は削り取られた後ろ髪の一部に騒然となった。
 硝子玉が割れる音は、彼の耳に届かなかった。
 木っ端微塵に砕け散った破片が指に当たって、その痛みが現実味を呼び戻した。膝からガク、と崩れ落ちて、少年はヒュッ、と息を吸い込んだ。
 黒々とした巨躯が見えた。
 禍々しい気配を纏って、横薙ぎに払った刀を縦に持ち替えようとしていた。
 破損した鎧の間から見えるのは、真っ黒い闇。ただそれだけ。
 だが面頬で覆われた口元は、確かに嗤っていた。
 惨めな短刀を踏み潰す愉悦に浸り、傲慢に勝ち誇っていた。
 両手で巨大な刀を握り、頭上に掲げ、振り下ろす準備に入る。
 行動はゆっくりで、大胆だった。しかし小夜左文字には立ち上がる力も、跳んで避ける体力も、なにひとつ残されていなかった。
 砕かれてしまう。
 自分も、この硝子玉のように。
 粉々に、跡形もなく――――
「串刺しだあ!」
「っ!」
 咄嗟に頭を庇い、覚悟が決まらない心ごと抱きしめた。
 鋭い声は死角から発せられて、一瞬、何が起きたのか分からなかった。
 ぐらりと、敵大太刀の身体が揺れた。その身を守る頑強な鎧の一部が剥がれ落ちて、その中心部から、鋭く尖った銀の穂先が閃光を放った。
 一瞬自分が突き刺される錯覚に陥って、小夜左文字は絶句した。瞠目し、硬直して、突然過ぎる出来事に呆然となった。
 蹲ったまま唖然として、目を真ん丸にして凍り付く。
 身の丈七尺はありそうな大太刀は天を仰ぎ、鎧を突き破った穂先が失われると同時に、ガラガラと崩れていった。
 巨大な角を持つ兜が地面にひっくり返り、端からサラサラ溶けていく。砂粒となって風に流され、そのまま光に呑まれて消えていった。
 目の前での出来事が、すぐに理解出来なかった。
「……え、ぁ」
 長く忘れていた瞬きを思い出し、短刀の少年は雲間から射す光にかぶりを振った。惚けたままへたり込んで、槍を手元に戻した背高な青年を、信じ難い思いで見つめ続けた。
 彼はやや茶色がかった髪を、無作法に掻き上げた。人好きのする笑みは一旦奥に仕舞われて、表情は真剣そのものだった。
「無事か、小夜」
 放たれた声は低く、槍のように鋭い。眼差しは剣呑で、注意深く周囲を探っていた。
 索敵は苦手なくせに、他に敵がいないか警戒を怠らない。構えを解かないまま摺り足でにじり寄られ、小夜左文字は大きく肩を、二度、三度と上下させた。
 現実味が戻って来た。
 乾いた風に乗り、遠くから呼ぶ声も聞こえて来た。
「小夜!」
 知った顔が小さく見えた。共に出陣した一番隊の面々が、揃ってこちらに向かっていた。
 敵は一掃し終えた後らしく、彼らは刀を鞘に戻していた。それで御手杵も槍を下ろし、安堵の息を吐いた。
 険しかった表情が和らぎ、口元に薄く笑みが浮かんだ。仲間の合流を待つべく手を振って、小夜左文字が無事だと大声で皆に教えた。
「どう、……して」
「んあ?」
 生き延びた。
 破壊されずに済んだ。
 実感はじわじわ沸き起こって、それに合わせて忘れかけていた痛みも蘇った。
 血は依然流れ続け、貧血で頭がぐらぐらした。安堵もあって力が抜けて、今にも気絶してしまいそうだった。
 それを必死に堪えて、小夜左文字は唇を戦慄かせた。
 どうして生き長らえられたのか。偶然が偶然を呼んで、最早奇跡と呼ぶしかなかった。
 絶体絶命だった。完全に駄目だと思った。
 どうにもならないと、諦めかけていた。
 御手杵は掠れた小声に首を傾げ、傷だらけの小夜左文字に眉を顰めた。痛ましい姿に苦々しい表情をして、陽光を浴びる硝子片にも半眼した。
 長い腕を伸ばして、大きな欠片を抓み取る。
「そっか。割れたのか」
「……っ、すまない」
「いや」
 彼はそれが何であるか、すぐに分かったようだ。感嘆の息を吐いてしみじみ言って、震えあがった少年にはゆるゆる首を振った。
 目を眇め、破片を光に翳した。青色は当初に比べて幾分色を濁らせ、出来上がる影は黒ずんでいた。
 折角もらったものを、壊してしまった。
 大事にすると約束しておきながら、なんということだろう。嫌な思いをさせてしまったと悔やんで、小夜左文字は申し訳なさそうに奥歯を噛んだ。
 落ち込んで、項垂れた。
 その丸い後頭部に、ぽん、と大きな手が触れた。
「お前の代わりに割れてくれたんだ。感謝しねえと」
 くしゃくしゃと掻き回して、御手杵が呟く。
 あの時、敵大太刀は短刀の首を断ち切ろうとしていた。その細い頸部を一閃して、胴と分離させようと目論んでいた。
 それを、小夜左文字は躱した。前のめりになって、姿勢を低くして、ぎりぎりのところで回避した。
 紙一重だった。あと一秒でも遅ければ、御手杵はここで朽ち果てた刀をひと振り、回収する羽目になっていた。
 罅の入った硝子玉が、小夜左文字を救った。
 落ちた珠を拾おうとしていなければ、彼は今、此処に居ない。
「小夜、怪我は。怪我は、大丈夫か」
「うっわ、こりゃ酷ぇ。早く戻って手入れ部屋放りこまねえと」
「撤退する。準備急げ」
 駆け寄ってきた面々が矢継ぎ早に言葉を発し、止血を試みる者もいた。歌仙兼定に即席の包帯で腕を巻かれながら、小夜左文字は騒がしくなった周囲をぼんやり見回した。
 御手杵はまだそこにいて、長い槍を肩に担いでいた。忙しく動き回るへし切長谷部を興味深そうに眺めるだけで、手伝う気は皆無だった。
 それはそれで、彼らしい。
「いっ……」
 ぼうっとしていたら、歌仙兼定に思い切りよく傷口を縛られた。ぎゅうぎゅうに締め付けられて、別の痛みに涙が出た。
「これからは今日みたいな、馬鹿な真似は控えることだ」
「分かっ、た」
 説教は、こりごりだった。
 反省は充分過ぎるくらい、した。愚かしい真似をして皆に迷惑をかけたと、心から思っていた。
 敵に追い詰められた恐怖は、まだ消えていない。胸には疼く物が残って、折りを見てじくじく痛みを発していた。
 心の中が膿んでいた。
 澱が溜まって、腐臭を発していた。
 俯いていたら、ため息が聞こえた。応急処置を終えた打刀が血で汚れた手を手拭いに擦りつけて、ついでとばかりに頬に押し付けて来た。
 やや乱暴に拭われて、無理矢理顔を上向かされた。ちゃんと目を見て返事をするよう、無言で威圧された。
「ぐ……」
 迫力は凄まじく、本気で怒っているのが窺えた。歌仙兼定の短気ぶりは重々承知しており、折角助かったのに、生きた心地がしなかった。
 苦虫を噛み潰したような顔をして呻き、鼻を愚図らせる。
 そこへ。
「まあまあ、その辺にしといてやれよ。いいじゃねえか。こうして無事だったんだから」
「御手杵」
 調子のよい明るい声が、高い位置から降ってきた。間に割り込んで仲裁に入り、憤っている歌仙兼定を先に宥めた。
 向こうの方ではへし切長谷部も、撤退準備を進めつつ、ちらちらと様子を窺っていた。
 歌仙兼定の説教が長引きそうなら、止めに入るつもりでいたのだろう。そうなれば新たな火種が発生しそうだったが、幸い、最悪な展開は回避された。
 穏やかで朗らかに言われて、細川の打刀は口にしかけた言葉を呑み込んだ。どうせのらりくらりと躱されるだけと、口論になる前に降参した格好だった。
「引き上げるぞ」
 そうこうしているうちに、へし切長谷部が号令を下した。戦利品を数えていた獅子王と鯰尾藤四郎が一斉に立ち上がって、小夜左文字は御手杵によって引っ張り上げられた。
「立てそうか?」
「御手杵、小夜は僕が」
「歌仙の旦那も、結構痛そうな顔してんだけどな。俺は無傷だし、これくらいはやらせてくれ」
 二本足で立てるかどうか聞かれ、首を振ろうとしたところで別の声がかかった。
 頭の上をすり抜けた打刀の台詞に、斜め向かいにいた槍の青年は屈託なく笑って、自身の鼻をちょん、と小突いた。
 確かによく見れば、歌仙兼定はあちこち傷だらけだった。
 小夜左文字ほど酷くないが、袖が裂けて、袴も汚れていた。鼻の頭から左頬に向けて切り傷が走っており、血は乾いていたが、見るからに痛そうだった。
 他の刀たちは軽傷か、刀装のお陰で無傷が殆どだというのに、だ。
「宜しく、頼む」
 指摘を受けて、歌仙兼定は悔しそうに顔を伏した。御手杵は鷹揚に頷くと、自力で動けない短刀を片手でひょい、と担ぎ上げた。
 傷に障らないよう注意しつつ、小柄で軽い体躯を胸に抱く。
 易々と扱われた方は意外な高さに驚きつつ、近くなった青年の顔に渋面を作った。
「あんまり心配かけてやんなよ」
 歌仙兼定が怒るのは、小夜左文字の脆さを案じているからだ。ひとりで暴走しないよう、口を酸っぱくして言い聞かせるのだって、心から彼を想っているからだ。
 それを時に鬱陶しく、面倒臭いと感じることもある。
 恩着せがましいと反発して、押し付けるなと突っぱねたくなることもある。
「……うん」
 それでも彼は、飽きることなく繰り返した。
 傷口に巻きつけられた布は赤く染まって、鮮やかな牡丹の柄はすっかり駄目になっていた。
 不格好に外套を切り裂いた男に目をやって、短刀は小さく頷いた。
 疲弊しきった身体を槍に預け、重い瞼を素直に閉ざす。
「御手杵も」
「ん?」
 宝物は壊れてしまった。粉々に砕けて、跡形も残らなかった。
 けれど何もかもがなくなったわけではなく、失われずに残ったものも、確かに存在した。
「あり、が、とう」
 言い慣れない言葉を音にして、呟く。
 聞こえた小声にきょとんとして、御手杵は首を竦めた。幾分重くなった身体を抱え直し、嬉しそうに笑った。
「どーいたしまして」
 呵々と声を響かせ、眠ってしまった子供に相好を崩す。
 その足取りは上機嫌で、踊るかのように軽やかだった。

2015/10/06 脱稿

竜田姫染めし木末の散るをりは 紅洗ふ山川の水
山家集上 497

絞りはてぬるむらさきの袖

 閉めたはずのカーテンからの、漏れ入る光が眩しかった。
「う、……ん」
 瞼を越えて瞳を射す輝きに、深く沈みこんでいた意識が揺り動かされた。暗闇が彼方へと追いやられて、心地よい睡魔を連れ去ってしまった。
 空が明るい。
 遮光カーテンは何をしているのかと、頭の片隅で文句が溢れた。販売店に言って抗議しなければ、と今日の予定も忘れてひとり憤って、ついに耐えられなくなってごろり、寝返りを打った。
 柔らかな感触が背中に広がった。それでも眩さは防ぎきれなくて、物理的に壁を作るべく、右腕を額へと落とした。
 覚醒しきらぬままの行動に、加減などありはしない。
「いった」
 思いの外高いところから、勢いよくべりちとやってしまった。自分で自分を叩く結果に陥って、歌仙兼定はやり場のない苛立ちに口を尖らせた。
 お蔭で完全に、目が覚めた。
 少しだけ赤くなった額を陽に晒して、彼は瞼を持ち上げ、邪魔な前髪を後ろへ梳き流した。
 寝返りを打った際の名残だろう、右膝がほんの少し持ち上がっていた。左足は力なく投げ出され、爪先が掛布団からはみ出していた。
「もう朝か……」
 その状態でしみじみ呟いて、ぼんやりと木目が美しい天井を眺める。
 左腕は胸元に添えられており、右腕を頭の上にやったポーズは、傍目からはかなり滑稽に映った。
 想像して沈黙し、彼はもぞもぞ身動いで姿勢を正した。まずは両足を揃えて伸ばし、そこから半身を起こして、欠伸を零した。
「さっき眠ったばかりだったのに」
 枕もとの時計を見れば、午前七時に届くかどうか、という時間だった。古めかしい柱時計も同じ頃合いを指し示しており、知らぬ間に時空が歪んだ、という事態が発生したわけではなさそうだった。
 昔読んだ安っぽいSF小説を思い返して、彼は自嘲気味に笑った。もう一度前髪を掻き上げて、首を振り、掛布団は足元へずらした。
 六畳ほどの部屋に、窓はひとつだけ。廊下に続く襖の反対側は押入れで、余った壁は書棚で埋められていた。
 分厚い専門書を中心に、理路整然と片付けられていた。その脇には文机が置かれ、手前には草臥れ気味の座布団が、控えめに鎮座していた。
 布団は部屋のほぼ中央に敷かれ、真上には明かりの消えた蛍光灯が垂れ下がっていた。
 築年数だけが無駄に積み重なっている屋敷は平屋建てで、不便なところも多い。表向き華やかに映っても、中に入ってみれば改修工事が必要な場所だらけだった。
 少々埃臭い空気を吸い込んで、欠伸をもうひとつ。
 辛うじて残っていた眠気を奥歯で磨り潰し、歌仙兼定はしおらしく寝床を出た。
 カーテンは、開いていた。窓の鍵は掛かっており、外を覗けば緑濃い庭が一面に広がっていた。
 植物が力を蓄える時期だから、どれもこれも葉を茂らせて、のびのびしていた。餌を求める小鳥が枝を揺らして、チィ、チィ、と可愛らしい鳴き声を響かせた。
 あの鳥は、なんという名前だっただろう。
 すぐに思い出せなくて渋面を作り、彼はガラス窓に額を貼り付けた。
「顔を洗ってくるか」
 しかし、思ったより冷たくなかった。
 眠っている間に浮き出た油脂がくっきり残されて、無様だ。指で拭い取って、歌仙兼定は力なく肩を落とした。
 寝入る前に稼働させた冷房器具は、タイマーをセットしておいたので、自動的に切れていた。湿気が取り除かれた空間は快適だったが、いつまでも此処に居続けるわけにはいかなかった。
 寝間着代わりにしている作務衣の上から喉の下を掻き、その格好のまま襖を開ける。右に滑らせ、外との繋がりを作れば、一瞬のうちにムッとする熱気に取り囲まれた。
「年々……いやになるな」
 涼しい空間に別れを告げて、彼は年を追うごとに厳しくなる夏に嘆息した。誰に言ったところで詮無い苦情を飲みこんで、ひたひたと、飴色が濃い廊下を突き進んだ。
 慣れた足取りで、ふたり並んで通るのがやっとの道を行く。角を曲がったところで幅は少し広くなり、庭に面する明るい窓が現れた。
 反対側に目を向ければ、梅雨時に入る前に張り替えた障子戸が見えた。
 戸はいずれも閉まっており、中で動くものの気配はなかった。二間続きの座敷は無駄に広く、最も手前にある次の間を足せば、四十畳近くになる計算だった。
 しかし近頃は、めっきり使わなくなった。
 訪ねてくる人も減って、障子を取り払っての大宴会は、遠い昔の記憶となっていた。
 どんちゃん騒ぎの幻を振り払い、歌仙兼定は突き当たりを左に曲がった。天井が高い床張りの空間に出て、右を向けば磨りガラスの玄関が控えていた。
 式台は広く、がらんとしていた。上り框の下、三和土に靴は少なく、端の方に遠慮がちに寄せられていた。
 全て左右揃えられ、行儀よく並んでいた。少々堅苦しい光景からふっと目を逸らして、彼は小振りの鼻をヒクヒク蠢かせた。
 どこからか、甘い匂いが漂って来た。
 正体は分からないけれど、すきっ腹に沁みる香りだ。堪らず唾が溢れ出して、歌仙兼定は音立ててそれを飲みこんだ。
「……はあ」
 しかし喜び勇む身体に反し、心は深く沈んでいった。昏い穴倉から天を見上げて、男は力なく肩を落とした。
 台所に行けば、恐らくは温かな朝食が用意されていることだろう。
 それが誰の手によるものなのか、考えるだけで憂鬱になった。
 朝早くから落ち込んで、もうひとつため息を零す。だが行かざるを得なくて、彼は渋々、踵を返した。
 玄関に背を向けて、奥へ続く経路を取る。途中あった扉は無視して少し行けば、古びた木製のドアに行き当たった。
 ノブを回して押せば、ガチャリと大袈裟な音がした。立てつけが悪い戸を力技で黙らせて、彼はタイル張りの床に爪先を置いた。
 真っ直ぐ正面を向くと、己と瓜二つの顔があった。勿論それは肖像画などではなく、ただの四角い鏡でしかない。
 角がやや黒ずみ、表面には雑巾で拭いた筋が残っていた。その下には陶器製の洗面台があり、蛇口はくすんだ銀色だった。
 今時懐かしい、握って捻るタイプだ。水と湯の区別がつくように、青色と赤色のマークがそれぞれ取り付けられていた。
 そのうち、右側の青色の方を掴み、軽く捻る。間髪入れず水が溢れ出して、手を差し伸べれば少し温めだった。
 それを両手で掬って口を漱ぎ、寝ぼけた感じが残る顔へも叩き付けた。二度、三度と繰り返して、軽くこすって、歌仙兼定は犬を真似て頭を振った。
「髭は……後でいいか」
 吐息と共に呟き、軽く顎を撫でる。手を振れば雫が舞い、鏡にも何滴か飛び散った。それを拭いもせず、放置して、利き手を宙に彷徨わせ、タオルを掴み取った。
「はあ」
 口を開けば、ため息が漏れた。健やかな目覚めとは言い難い状況に肩を落とし、彼は洗濯したてで良い匂いがする布に顔を埋めた。
 この柔軟剤の香りにも、随分と慣れてきた。
 最初の頃は不愉快だったのに、今となっては、これでないと落ち着かないくらいだ。
 毒されている。
 いつの間にかすっかり馴染んでしまっていると苦笑して、彼はタオルを元の場所に戻した。
 右手には風呂場へ続く扉があって、換気の為か、少しだけ開いていた。
 その手前には汚れ物を入れた洗濯籠がふたつ、仲良く肩を並べていた。うち、赤色の方には、パジャマらしき布の塊が押し込められていた。
 柄物ではなく、単色のごくシンプルなものだ。可愛げがなければ、面白みもない。試しに抓み取ろうとして、歌仙兼定は自分の右手を叩き落した。
「あの子は、何時に起きているんだろう」
 代わりにぼそりと呟いて、静かに目を閉じた。
 暗闇が広がって、そこにぽつん、と小さな光が現れた。それはじわじわ範囲を広げると、うねり、歪み、形を変えて、ひとつの影を産み出した。
 華奢な体躯、強い決意を秘めて引き結ばれた唇、すべてを諦めたかのような冴えた眼差し。
 頬に残る小さな傷跡、痩せた手足、年齢以上に幼い容姿。
 肩まで伸びたぼさぼさの髪、似合わない上物の服。新品だと分かるぴかぴかの靴と、脛や腿に巻きつけられた白い包帯。
 アンバランスさが際立っていた。
 相反するものがひとつの身体に同居して、酷くちぐはぐで、不安定だった。
 あれからもう、一ヶ月近くが経つ。
 時が過ぎる速さを痛感して、歌仙兼定は洗面所を出た。
 トイレには立ち寄らず、台所を目指した。先ほど素通りした扉の前に立って、気になって藍色の作務衣の裾を撫でた。
 皺を伸ばして、髪の毛も手櫛で整えた。鏡の前でやるべきだったと反省して、彼は意を決して引き戸を滑らせた。
 ゴロゴロと、木の板が敷居を駆けていった。目の前が一気に広がって、薄暗かった視界が明るさを取り戻した。
 照明が灯っていた。
 北に面した磨りガラス以上に、人口の光が瞳に不快だった。
「あ」
 くつくつと、鍋が煮える音がした。玄関まで漂っていた甘い香りが強まって、無意識のうちに喉が鳴っていた。
 三十センチほどある足台に立っていた少年が、音に反応して顔を上げた。右手に持つ包丁の先を揺らめかせ、手を止めて、背筋を伸ばした。
 藍色の髪が躍っていた。高い位置で結われて、毛先は双葉のように別れていた。
「おはよう」
 朝の挨拶を、気を張っているのが伝わらないように隠して、告げる。
 昨日よりは自然な感じが出せたと自分を褒めて、歌仙兼定は境界線を跨いだ。
 築五十年を超える屋敷の台所は、複数人が一緒に作業しても問題ない広さを誇っていた。
 但し、その分器具は古い。ガスコンロは脂汚れがこびりつき、換気扇は回すとガタガタ音を立てた。
 ステンレスの流し台は銀色で、洗面台の鏡同様、くすんだ色をしていた。傍らには食洗機が置かれて、そちらはまだ新しく、綺麗だった。
 冷蔵庫、炊飯器、電子レンジの類もひと通り揃っていた。もっともどれもサイズは小さめで、単身世帯向けのもので揃えられていた。
 こちらもまた、ちぐはぐだ。三世代が共に暮らせそうな構造なのに、現在の住民はたったふたりだけだ。
「……おは、よう」
 部屋の真ん中には、足の長いテーブルがあった。セットの椅子は、昔は六つあったはずだけれど、何故か今は四脚まで減っていた。
 壁際に、重そうな食器棚があった。年単位で開かれていそうにない扉の奥では、年代物の洋酒の瓶が、暇を持て余して居眠りしていた。
 テーブルの上には、出来上がったばかりと思われる卵焼きがあった。厚みがあり、ふっくらしている。白い湯気が立ち上って、美味しそうだった。
 甘い香りは、そこから漂っていた。茶碗の中身は空っぽだが、箸は用意されて、いつでも食事が始められそうだった。
 今日の献立は、白米に厚焼き玉子、味噌汁と青菜の煮浸し。漬物はしば漬けが用意されて、醤油が横に添えられていた。
 カチャ、と音がして、味噌汁を温めていた青い火が消えた。足台に立っていた少年は軽い身のこなしで床に下り、歌仙兼定の為に椅子を引いた。
 上座の、屋敷の主人が座るべき席だった。
 一生懸命背伸びをする彼に、男は眉を顰め、唇を歪めた。
「小夜、そういうことはしなくていい」
「歌仙」
「椅子くらい自分で引く。いつも言っているだろう」
 ついつい、声が荒くなった。不機嫌を隠し切れず、子供を強く叱ってしまった。
 右手を挙げ、そして下ろす。行き場のない指で空を引っ掻いて、歌仙兼定は諦めて首を振った。
 背凭れ付きの椅子の後ろで、少年は居心地悪そうに小さくなっていた。空色の双眸は不安に彩られて、悟られまいとしてか、すぐに逸らされた。
「だが、僕は」
「君がどういう育てられ方をしたのかは、知らないけれど。ここは僕の家だ。僕の家のルールには、従ってもらう」
 薄い唇だけが動き、言い募ろうとしたけれど、歌仙兼定は許さなかった。蚊の鳴くような小声を上書きして、誰も座っていない椅子を手前に引いた。
 並べられていた空の茶碗のうち、大きい方を掴み取って反転する。炊飯器までは三歩の距離しかなくて、使い方は勿論熟知していた。
 釜を開ければ、むわっと湯気が立ち上った。それを顔面で受け止めて、彼は後ろで物言いたげな少年を睨みつけた。
「ほら。寄越しなさい」
「自分で」
「小夜?」
「……わか、った」
 自分の分を先によそい、残る手を差し出す。右手で杓文字を構える男に、少年は観念したのか、苦虫を噛み潰したような顔をした。
 渋々両手で茶碗を取り、歩いて歌仙兼定の方へ近づく。彼が持つ椀は欠けもなく、綺麗で、まだ新しかった。
 女性向けのものなのか、表面には細かな花柄が施されていた。小振りで、丸みを帯びて、可愛らしい。
 そこに白米を山盛りにして、男は満足げに胸を張った。
「こんなに」
「食べなさい」
「……味噌汁、入れてくる」
「ああ、頼むよ」
 だが少年は、嬉しくなさそうだった。明らかに多いと分かる量に陰鬱な表情を作って、頭ごなしの命令に反発してか、話題を逸らした。
 くるりとターンして、彼は茶碗をテーブルに置いた。味噌汁用の木の椀は別で用意されており、少年は台座に飛び乗ると、銀色の御玉で汁を掻き混ぜた。
 手慣れた動きでふたり分用意して、ひと椀ずつ手に戻って来た。先に歌仙兼定の前に置いて、常に自分は後回しだった。
 年上だから尊重されているのか、それとも別の理由があるのか。
 間違いなく後者だと嘆息して、男は奇妙な同居人に視線を流した。
「いただきます」
 食べる前に両手を合わせ、きちんと頭を下げる。箸使いは丁寧で、食べ方も綺麗だった。
 身長は、百二十センチに届かない。極端な痩せ型で、体重も吃驚するほど軽かった。
 人が見れば、幼稚園児と言い出しそうだ。
 だが彼は、これで小学四年生だった。
 戸籍を取り寄せ、調べたから間違いない。本人が口にした生年月日と、書類に記されていた内容は、完全に一致していた。
 病気が原因でこうなった、というわけでもない。
 となれば、単純に栄養が足りていないだけ。
 しっかり躾けられているのに、三食まともに与えられない環境下にあった。そういう境遇は同情するに値して、歌仙兼定を余計複雑な気持ちにさせた。
「うん。美味しい」
「……そう」
 料理の腕も、悪くなかった。
 作れる献立は限られていたが、教えればすぐに覚えた。包丁捌きに不安はなく、火の扱いにも長けていた。
 厚焼き玉子を半分に切り分けて、口へと放り込む。
 砂糖入りの甘い味付けにも、もうすっかり慣れてしまっていた。
 台所にテレビはなく、ラジオはあるが電源は入っていなかった。互いの咀嚼音まで聞こえそうな静けさは、存外、悪くなかった。
 カチャカチャと、食器と箸が擦れ合う音が暫く続いた。温くなった味噌汁を一気に飲み干して、歌仙兼定はひと息ついたと唇を舐めた。
 腹が満たされて、気持ちは落ち着いていた。
 まだ時間が早いので、外の騒ぎ声は聞こえて来ない。もっともこの屋敷は、広大な庭に囲まれているので、敷地の外でなにか起きたとしても、簡単には伝わらなかった。
 腹を撫で、引いた状態で放置されている上座の椅子を一瞥する。続けて彼は、もそもそと口を動かす少年に見入った。
 正面の席にしてみたが、嫌がられなかった。
 最初のうちは、一緒に食事をするのさえも拒否された。それを思えば、大した進歩だった。
「僕の部屋のカーテンを開けたのは、君か?」
 食事を終えて、箸を置く。両手を合わせて瞑目したまま問えば、前方から不自然な衣擦れが聞こえた。
 食べ続けていれば生じない類のものだ。瞼を持ち上げて、歌仙兼定は案の定だと苦笑した。
 右手に箸、左手に茶碗を持ったまま、彼は掴み損ねた白米に目を泳がせていた。テーブルの上には親指の先ほどの塊が、肩身狭そうに転がっていた。
 思ったよりも動揺させてしまった。意地悪を言ったつもりはないのだけれど、反省して、男は落ちた米を指で抓んだ。
「あっ、あ」
「これは、やめておきなさい」
「でも」
「小夜?」
「……分かった」
 拾い上げ、空になった皿に落とす。少年は声を上擦らせ、目だけでなく、箸でも後を追おうとした。
 一度落としたものを食べるなど、行儀が悪い。そんな真似は許せなくて、歌仙兼定は渋る少年を黙らせた。
 不承不承ながら頷き、彼は箸を置いた。味噌汁の椀を両手で持ち上げて、口を漱ごうと汁を飲んだ。
 仕草ひとつひとつは上品なのに、時々意地汚い。
 それも彼の育った家の所為とすれば、実に嘆かわしいことだった。
「今日の予定は?」
「片付けて、掃除と、宿題と、買い物」
「どこかへ遊びに行く予定は?」
「………………」
 試しに問えば、昨日聞いたのと同じ内容が繰り返された。折角の夏休みだというのに寂しい限りで、追加の質問には無言を貫かれた。
 顔を背けられて、視線は絡まなかった。
 困ったものだと前髪を弄って、歌仙兼定は椅子に座ったまま身を揺らした。
 事の発端は、遠い、遠い昔のこと。
 彼の祖父がまだ若かった頃にまで遡る。
 その男には、親友と呼べる男がひとりいた。
 まるで実の兄弟であるかのように親しみ、なんでも相談し合える間柄だった。血縁者より余程信頼が深く、互いを頼りとし、助け合う仲だった。
 そんな彼らには、夢があった。こんなにも信頼し合っているのに、直接的な繋がりが自分達にはない。だからとある酒の席で、酔いも手伝ってか、ふたりはいつか身内になろう、と約束を交わした。
 自分たちのどちらかに娘が生まれれば、もう片方の息子に嫁がせる。そうやって、姻戚関係を結ぼうと。
 当の子供たちには甚だ迷惑は話であるが、男たちはこの話題で大いに盛り上がった。
 しかし結局、彼らには娘しか生まれなかった。
 これではかつての約束が果たせない。だったらそこで諦めればよかったものを、性懲りもなく、ならば孫の世代に、となったのが問題だった。
 その頃になれば、双方の交流も幾分疎遠になっていた。だというのに約束だけが生き続けて、ついにこの夏、年頃になった孫同士で見合いをさせる、という話が急浮上した。
 年寄りたちが老い先短いと騒ぎ出して、未だ成し遂げられていない約束が復活した。これを見届けない限り死ねないと、双方揃って捲し立てた。
 現代においては、有り得ない感覚だった。しかし老人たちは大真面目で、窘める声を聞き入れなかった。
 仕方なく、子供世代はひとつの手を打った。
 形だけでも見合いをさせて、ことを収めよう。既成事実を作ってさえしまえば、後はどうとでもなる、という算段だった。
 話を聞かされた時、歌仙兼定は呆れてものが言えなかった。
 病院に放り込まれている老人の我儘ぶりもだが、なにより自分の親に落胆した。産まれる前から婚約者めいたものがいる、というのは初耳だったし、会って、適当に話をして、断ってこい、というやり方も気に食わなかった。
 向こうだって困惑しているだろうに、まるで自分たちだけが被害者のような振る舞いだった。
 祖父のことは、嫌いではなかった。むしろ好いているし、尊敬もしている。賑やかな人で、幼い頃は色々な話を聞かせてくれた。
 この家は、元々祖父の屋敷だった。彼が体調を崩して長期入院となり、退院しても養護施設行きでここに戻ることがないのは、既に決まったことだった。
 空き家にするのは忍びないし、取り壊すには惜しい。
 だから一部をリフォームして、譲り受けた。もしかしたらこの屋敷の相続には、例の見合いの話が絡んでいたかもしれなかった。
 祖父の資産は、かなりのものだ。狡い話、親友の孫との結婚が、遺産相続の条件だった可能性は否定出来なかった。
 知らないところで、勝手に話が進められていた。
 それも、歌仙兼定が不満を抱く一因だった。
 もうあの親は、信用しない。変な話に巻き込んでしまったと頭を下げて、見合い相手には誠心誠意、謝ろう。
 そう決めて、出向いたホテルで。
 約束の時間になっても、その相手は一向に現れなかった。
 ひとりで平気だと言って、付き添いは断っていた。
 とある高級ホテルの最上階の、予約を取るのも難しいレストランの、窓際の景色が良いテーブルで。
 二時間待ちぼうけをくらって、諦めて店を出て。
 出口のところで会ったのが、そこにいる少年だった。
 小学校の制服だろう、白い半袖シャツにリボンタイ、黒の半ズボン姿だった。
 胸には有名私立学校の校章が刺繍されて、痩せた身体を隠していた。
 包帯から、黒い痣が覗いていた。切り傷や擦り傷は、今よりずっと多かった。
 ぴかぴかに磨かれた靴と、光を失った瞳。
 名前を呼ばれた時は、ぎょっとした。差し出された手紙の内容を見て、更にぎょっとさせられた。
 驚くことに、この少年こそが見合いの相手だった。
 否、代理人だ。
 いや、それも少し違う。
 もっと正確に言うならば、無責任に役目を押し付けられた影武者、といった辺りだろう。
 とにかく、本当の見合い相手は逃げた。来ない。来たところで、婚姻関係が結べるものでもなかったが。
 どういう因果か、祖父たちには娘しか生まれなかった。
 だから孫世代に望みを繋いだというのに、今度は双方の孫が、あろうことか全員男児だった。
 歌仙兼定には弟がひとりいる。歳は二つ下で、まだ大学生だった。
 一方少年には、兄がふたりいた。上の兄は既に社会人であり、下の兄は大学生という話だった。
 どうして最初の時点で確かめなかったのかと、親に文句のひとつも言いたかった。だが長年待ち望み続けた祖父たちの気持ちを思えば、言い出し難かったのも理解出来た。
 ただやはり、先に教えておいて欲しかった。
 事情を告げられ、歌仙兼定は驚き過ぎて叫んでしまった。ホテルの通路で大声を出して、要らぬ恥をかかされた。
 もう二度と、あのホテルに行けない。
 こめかみに生じた鈍痛を堪えて、彼は壁に吊るしたカレンダーを見た。
 八月も、そろそろ終わりに近い。
 残暑は依然厳しく、湿気は鬱陶しかった。口の中に残っていた米粒を飲みこんで、男は忙しく箸を動かす少年を眺めた。
 名前は、小夜左文字。
 歌仙兼定と形だけの見合いをする予定だった次兄から、当日になって代役を押し付けられた三男坊だ。
 彼の家庭の事情は、詳しく聞かされていない。だが渡された手紙には、こう書かれていた。
 綺麗な字で、たったひと言。
 この子をよろしく頼みます、と。
 訊けば長兄が書いたという。家まで送ると言えば、嫌だと言って動かなかった。
 貴方のところへ行く、と言い張って聞かなかった。夜遅かったというのもあり、放置するわけにもいかず、仕方なく連れて帰って来てしまった。
 以来一ヶ月が経っても、健在の筈の彼の両親は、こちらに顔を見せようともしなかった。
 一度だけ、長兄と名乗る人物から電話があった。
 勝手な申し出で心苦しいが、と前置きされて、翌日には当面の生活費が書留で届けられた。
 夏休みの間、預かるだけ。
 当初はそんな心構えだった。
 違うのだろうか。一生、面倒を見させられるのだろうか。
 もやもやしたものが胸に浮かんでは、消えて、気が付けば眉間に皺が寄っていた。
「歌仙?」
「ごちそうさま」
 不機嫌な顔になっていた。自分で気付いて嘆息して、彼は今一度両手を叩き合わせた。
 小夜左文字も、丁度終わったところだった。椅子を引いて立ち上がって、男はふたり分の食器を、言われる前に積み重ねた。
「僕が」
「歯を磨いてきなさい。掃除も、今日は良い」
 この少年は家事の一切を、一手に引き受けようとした。
 それがこの屋敷で暮らすための条件だと、勝手に思い込んでいる。歌仙兼定だって独り暮らしが長く、料理も洗濯も自分で出来るのに、率先して仕事を奪おうと躍起だった。
 およそ子供らしくなくて、見ていて面白くない。
 聞き分けが良過ぎるのも問題と腹を立て、彼は流し台の蛇口を捻った。
 勢いよく水を出し、食器の汚れを跳ね飛ばす。小夜左文字は後ろでおろおろした後、両手をぎゅっと握りしめた。
 言われたことをしようとせず、言われていないことをやろうとする。
 矛盾ばかりだと肩を落とし、仕方なく、歌仙兼定は水を止めた。
 八月は中盤を過ぎ、盆の行事もひと段落した。
 墓参りは済ませた。テレビを賑わす帰省の大混雑も、遠い世界の話だった。
 濡れた手を振って、雫を飛ばす。面倒になって、どうせ着替えるからと作務衣で拭いて、彼は大きすぎるシャツ姿の少年に視線を投げた。
「どこか、行きたいところは?」
 教室の生徒たちも田舎に帰るなり、旅行に行くなりで、本日の稽古の予定は組まれていなかった。
 せいぜい挨拶回りをする程度で、格別急ぐ仕事はない。
 時間は余っていた。
 スケジュールは真っ白だった。
 藪から棒の質問に、小夜左文字は目を丸くした。きょとんとしてから首を傾げ、まるでワンピースな半袖シャツを引っ掻いた。
 襟が広すぎて、腕の付け根にまで達していた。ズボンは履いている筈だが見えなくて、生足が際どかった。
 いい加減、服も買い足してやらないといけない。
 なにもしていないのに、悪いことをしている気分になった。慌てて明後日の方向を向いて咳払いして、歌仙兼定は返事を待った。
 少年は戸惑いがちに目を泳がせ、抓んだ服を弄り回した。皺を作り、広げ、叩いて伸ばし、また握りしめた。
「僕、は。別に」
「小夜」
「歌仙は、忙しいだろう」
 言い淀み、促せば言い訳に利用された。
 本気で思いつかないのか、それとも遠慮しているだけか。
 両方だと判断して、歌仙兼定は両手を腰に当てた。
「今日は、君に合わせる。だから君がなにか言ってくれないと、僕だってなにも出来ないよ」
 三か月分に届きそうな生活費の差出人は、江雪左文字という名前だった。中身に今はまだ手を付けていないが、そろそろ役立たせなければ、怒られそうだった。
 遊園地でも、動物園でも、海でも、山でも、どこでも良い。
 学生時代に遊びまわっていたわけではないので、あまり詳しくないのが難点だが。その辺は、弟に訊けば喜んで教えてくれるだろう。
 学生の身分を満喫している馬鹿を思い浮かべ、頬を緩める。
 それをどう受け止めたのか、小夜左文字はシャツの裾を伸ばし、俯きながら身を揺らした。
「あ、の。……じゃ、あ」
「うん。言ってごらん」
 奇妙な出会いから始まった共同生活は、一ヶ月に達しようとしていた。けれど彼と出かけた回数は両手で余るほどで、内容も近所を連れ回し、どこにどんな施設があるかを説明した程度だった。
 一緒に買い物に行ったのも、最初のうちだけ。
 今や彼は、ひとりで財布を握り、スーパーを梯子していた。
 まだ小学四年生なのに、生活力が高かった。我が儘も言わず、黙々と働いていた。
 なにが好きか、趣味はなにか。思えば一度も聞いたことがない。
 ゲームもせずに、暇があれば百科事典を広げているような子供の望みなど、まるで思いつかなかった。
 小夜左文字は臆し気味に、瞳だけを持ち上げた。ちらちら様子を窺って、言おうか言うまいか迷い、口をもごもごさせた。
 頬は赤らみ、恥ずかしがる表情は年相応だった。
 かわいらしいところもあると目を見張って、小夜左文字は膝を折り、身を屈めた。
 目線の高さを揃え、顔を覗き込む。至近距離から見詰められて、少年はうっ、と息を詰まらせると、爪先を捏ねながら鼻を啜りあげた。
 深く息を吸って、臆し気味に歌仙兼定を見る。
 こうやって近距離から顔を合わせるのは、初めてかもしれない。
 思っていた以上に綺麗な空色に驚いていたら、薄い唇がひくりと震えた。
「小夜」
 吸い込まれそうだった。
 美しい彩に見入って、無意識に手を伸ばそうとした。
 膝が浮いた。前髪が擦れ合う直前だった。
「僕、は。歌仙、の。お茶、……点ててる、とこ。見てみたい」
 触れる寸前、少年が笑った。
 控えめに囁いて、自分から首を傾がせ、大きな掌に擦り寄った。
 甘えた声だった。
 子供らしい無邪気な、それ故に無垢な艶を含んだことばだった。
 告げられた言葉に、男は瞬間、背筋を粟立たせた。指先に触れた淡い熱にもぞわっとなって、歌仙兼定は面映ゆげな少年に瞠目した。
 電流が走った。
 雷が落ちたようだった。
 息さえ忘れて硬直して、男は初めて欲を示した小夜左文字に絶句した。
「……だめ、か?」
「いや――」
 返事がないのを、訝しまれた。
 長い時間が過ぎたあと、ぼそりと聞かれ、我に返った。
 小さく首を振って、男は口元を覆った。勝手に赤く染まる頬を隠して、全身を襲う異様な熱量に奥歯を噛み締めた。
「そんな、ことで。いいのか」
 恐る恐る問えば、小夜左文字は迷うことなく頷いた。首を大きく縦に振って、やや興奮気味に、強請る眼差しを投げつけた。
 たった今思いついた雰囲気ではなかった。
 ずっと胸に抱き続けて来た、そんな想いが感じられた。
「かせん」
 小さな手が、作務衣の衿を掴んだ。ぎゅっと握りしめて、遠慮がちに引っ張った。
 この手を、どうやって振り払えると言うのだろう。
 拒絶の言葉は、ひとつも思い浮かんでこなかった。
「やれやれ……」
 気恥ずかしさを堪え、歌仙兼定は嘯いた。目尻を下げて頬を緩め、力が籠っている少年の手に手を重ねた。
 一本ずつ、ゆっくり紐解いてやって、両手で挟んで包み込む。
「仕方がないね」
「歌仙」
「なんだったら、稽古もつけてあげようか。但し僕は、スパルタだよ?」
 思ったよりも、舌は滑らかに動いた。上機嫌に囁いて、調子に乗って右目だけを閉じた。
 意地悪く言って、子供を茶化す。
 だが小夜左文字は、笑った。
「……うれしい」
 頬を朱に染めて、心から幸せそうに呟いた。面映ゆげに目を細めて、首を竦めた。
 花が咲いたようだった。固かった蕾が綻んで、艶やかに咲き誇った瞬間だった。
 ズドン、と何かが突き刺さった気がした。
 その衝撃に息を飲んで、歌仙兼定は頭を抱え、顔を伏した。

2015/09/13 脱稿

君に染し心の色の裏までも 絞りはてぬるむらさきの袖
拾遺 松屋本山家集42

松も昔の友ならなくに

 手伝って欲しいことがある、と言われたのは、朝餉が終わってすぐの事だった。
 今日の彼は、内番を命じられてもいなければ、出陣を言い渡されてもいなかった。遠征任務すら入っておらず、終日手が空いている状態だった。
 一方小夜左文字は、内番として馬当番に指名されていた。
 動物は苦手だと、常から言っているにも関わらず、だ。
 小夜左文字が厩に顔を出すと、馬は怖がって逃げ回った。それを捕まえ、外に連れ出すだけでも、人の数倍の時間が必要だった。
 そこから汚れた厩舎内部を掃除して、新しい飼い葉を用意して。
 本当は身体を洗って、毛並みも整えてやりたい。しかし彼に触れさせてくれる馬は少なく、相方となる刀には毎回迷惑をかけていた。
 心苦しく、申し訳ない限りだ。しかし審神者が決めたことだから、放り出すわけにはいかない。渋々従って、全部終わったのは午後に入ってからだった。
 獣臭くなった身体を軽く拭いて、汚れた内番着は脱いだ。袈裟は着けず、黒の直綴姿になって、少年はパタパタと足音を響かせた。
「遅くなった」
 いつ行く、との約束はしなかった。だが待ちぼうけを食らわせたのは、間違い無かった。
 もしかしたら、もう終わっているかもしれない。通路の角を曲がって縁側に出て、小夜左文字は顎を滴り落ちる汗を拭った。
 馬当番が済んでからで構わないなら、と最初に言われた時点で伝えてはいた。しかし気が急いて、心は落ち着かなかった。
「之定」
 あの刀が助けを求めてくるなど、珍しいことだった。
 本丸で最古参に当たる打刀は、基本的になんでも出来た。畑仕事は嫌がるが、料理するのは好きで、台所にも率先して立ちたがった。
 彼の作る食事は、とても旨い。但し薄味が多いので、食べ盛りの一部の刀からは不評だった。
 このところ、彼ばかりが炊事場を占領していたので、今日は別の刀が包丁を握っていた。毎日君ばかり働かせて悪いから、と笑っていたのは燭台切光忠だ。
 そうやって他人に居場所を奪われたから、違うことをしようと決めたのだろう。
 助力を求められた内容は聞いていないが、おおよその見当は付いていた。
「之定、いるか」
 日差しが明るい縁側をゆっくり進んで、小夜左文字は障子戸の向こう側に声をかけた。白い紙が貼られた戸には、小柄な影が薄く浮き上がっていた。
 呼びかけに、応答はすぐには得られなかった。代わりにガタゴトと物音がして、衣擦れの音がそれに続いた。
 近付いて来る気配がある。警戒して、小夜左文字は半歩下がった。縁側の板目を踵で踏み、じわじわ濃くなる黒い影に顔を上げた。
 直後、障子がスッと開かれた。
 右に滑った戸を目で追って、すぐに視線を持ち上げる。そこには袴姿の男が、鼻の頭を黒くして佇んでいた。
 背は、高い。大太刀や槍と比べれば無論及ばないが、本丸で最も小柄の短刀に言わせれば、彼の背丈は十二分に大きかった。
 肉付きの良い体格をして、肩幅は広かった。首の筋肉も発達しており、決して太くはないのだが、どっしりとして安定感があった。
 白の胴衣に襷を結び、邪魔になる前髪は後ろに流して結んでいた。その胴衣も所々黒く汚れ、埃が付着していた。
 足袋も、同じだ。爪先が酷く汚れている。ならば裏側は、もっと黒ずんでいるに違い無かった。
「終わって、……ないのか」
「すまない、小夜」
 そして彼の後方では、木箱や葛籠が、それこそ山のように積み上げられていた。
 中には、いつ崩れてもおかしくない塔まであった。壁際に置かれた文机にも、物を置く空間が一切残されていなかった。
 足の踏み場もない、とはまさにこの事だ。唖然としながら呟いて、小夜左文字は肩を落とした。
 歌仙兼定も申し訳なさそうにしながら頭を下げて、頬に掛かる髪を指に巻き付けた。
 照れ臭そうに笑って、道を譲られた。とは言っても畳の目地が見えないくらいに、彼の部屋は物で溢れかえっていた。
「よくぞ、ここまで」
「ははは。凄いだろう?」
「褒めていないぞ、之定」
 心の底から呆れ、呟く。後ろで戸を閉めた男は気分を入れ替えたのか、呵々と笑って、居丈高に胸を張った。
 まったくもって、反省の色が見えない。どこにこれだけ買い集める金があったのかと、小夜左文字は室内を見渡して肩を竦めた。
 見た感じ、茶器が最も多かった。四角い木箱に入っているのは、恐らく全て碗だろう。他に茶筅、茶匙といった小道具や、茶壺といったものまで、幅広く見受けられた。
 それ以外で特に多いのは、硯箱だろうか。
 衣装に凝る趣味はないらしく、もっぱら茶道具ばかりだ。それも見目良いものから、何故買ったと言いたくなる代物まで、落差は非常に大きかった。
 玉石混淆、ずらりと並べられており、さながら品評会だ。ずっと眺めていたら笑いたくなってきて、少年は好事家の刀を振り返った。
 藍色の髪を揺らし、小首を傾げる。
 眼差しを受け止めて、風流を好む男は頬を緩めた。
「さすがに、多すぎると思ってね」
「咎められたか」
「置き場所が欲しいと言ったら、却下されたよ」
「……当然だろう」
 あまりにも集めすぎて、収納する場所がなくなった。審神者に直訴したけれど、すげなくあしらわれた。
 他の刀たちだって、狭い部屋でなんとかやりくりしているのだ。彼ひとりを特別扱いするわけにはいかなかった。
 小夜左文字も、嫌々ながら馬当番を引き受けている。歌仙兼定が専用の茶室を貰ったと聞けば、良い気はしなかった。
 厩舎の掃除の途中、後ろ足で蹴られそうになったのを思い出して、短刀は頬を膨らませた。低い声で素っ気なく吐き捨てた彼に、打刀は困った顔で首の後ろを掻いた。
「それでね、小夜。頼みというのは他でもない」
「捨てればいいのか」
「全部、じゃないよ?」
 そうして改まった態度で少年に向き直り、口を開いた。皆まで聞かずに少年が続きを呟いて、根こそぎ破棄される危険を察した打刀は早口になった。
 慌てて釘を刺し、両手を広げた。必死になっている男に目を眇めて、小夜左文字は短くため息を吐いた。
「選べば良いんだな」
「そう。そうなんだ、小夜。話が早くて助かるよ」
 余所を見ながらぼそぼそ言えば、歌仙兼定は勢い良く両手を叩き合わせた。人を持ち上げる台詞を声に出して、揉み手をして機嫌を取ろうとした。
 とどのつまり、歌仙兼定はこの集めに集めた品を、一部を残して捨て去ると決めた。
 だが本人はどれもこれも気に入っているので、なかなか的を絞れない。そこで目利きの才を持つ者を招いて、残すべきものを決めてもらうことにした。
 あらかじめ予想はしていたけれど、案の定だ。
 傷を避けて頬を掻いて、短刀は面倒臭そうに首を振った。
「それくらい、自分でどうにか出来ないのか」
「出来ないから、こうして頼んでいるんじゃないか」
 馬当番がもっと長引いていたら、彼はどうするつもりだったのだろう。寝床を用意する空間すら無い室内を見渡して、そこの打刀より年嵩の短刀は右手で顔を覆った。
 昔から凝り性なところがあるとは思っていたが、知らないうちにもっと酷くなっていた。収集癖が悪いとは言わないが、ここまで来ると最早病気に近かった。
 前の主の影響を受けすぎだ。過去を軽く振り返って、少年は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「蜂須賀虎徹辺りに言えばいいのに、どうして僕なんかに」
 歌を愉しみ、茶道に通じた主を持った過去なら、ある。茶器の善し悪しも、多少なら判断が可能だ。
 けれど、そこの男ほど優れてはいない。本当に良いのか問いただせば、藤色の髪の刀はむっと口を尖らせた。
「彼とは、趣味が合わない」
「ああ……」
 拗ね顔で言われて、他に返す言葉がなかった。緩慢に相槌を打って、小夜左文字は小さく頷いた。
 確かに蜂須賀虎徹は派手好みで、侘び寂びを重視する歌仙兼定とは相容れない部分があった。万が一彼に助けを求めようなら、結果は惨憺たるものになるだろう。
 彼の目利きの才は、決して悪くない。ただ此処にいる男とは、方向性が逆だった。
 深く納得して、左文字の末弟はいよいよ逃げ出せないと苦笑した。覚悟を決めるよりほかなくて、責任重大だと首を竦めた。
「どうなっても知らないよ」
「小夜を信じている」
「買いかぶりすぎだ」
 もう一度念押しして、短刀は一歩前に出た。床に直置きされている茶器を踏まないよう爪先立ちになって、ぱっと目に飛び込んできた器を手に取った。
 傷つけないよう大事に持ち上げて、箱書きを見るべく身を乗り出す。
 だが筆で書かれた文字を読むより先に、後ろで見ていた男が反応した。
「素晴らしいよ、小夜」
 声を高くして叫ばれた。思わずビクッとなって、少年は慌てて後方に顔を向けた。
 腰を捻って振り向けば、歌仙兼定が頬を紅潮させ、興奮に鼻息を荒くしていた。
「それはね、特に気に入っているもののひとつなんだ。美しい色艶をしているだろう。形も堂々として、とても味わい深い」
「之定……」
 歓喜に胸を高鳴らせて、嬉しそうに言われた。聞いてもいないのに、茶碗の由来や手に入れた経過まで、事細かく語って聞かせてくれた。
 それを小夜左文字は、うんざりした表情で聞き流した。
 これから取捨選択をしよう、という時に、逐一茶器の経歴を語るつもりなのだろうか。ならばこうやって床に色々散乱しているのも、ひとつ眺めては思い出に浸って、を繰り返していたからに違い無かった。
 道理で、半日以上が過ぎても終わらないはずだ。彼ひとりに任せていたら、三日が経っても部屋は片付かないに違い無い。
 一気に憂鬱になって、藍の髪の短刀は桐の箱に茶器を押し込んだ。
 蓋を被せ、紐は結ばずに差し出す。目の前に突きつけられて、歌仙兼定は口上を中断させて目を瞬いた。
「小夜?」
「これは、残しておいて良い。どこかに分けて、ほかと混ざらないように」
 不思議そうにされて、少年は嘆息した。当初の目的を忘れている男に言って、早く受け取るよう急かした。
 さっさと終わらせないと、夕餉に間に合わなくなる。日が暮れて暗くなれば、片付け自体が出来なくなった。
 埃っぽい空気を嫌い、障子も開け放つよう言い渡す。歌仙兼定は両手で桐箱を引き受けて、間を置いて首肯した。
「わ、分かった」
 声を上擦らせ、首を二度、三度と立て続けに縦に降った。その仕草は滑稽だったが、小夜左文字は笑う気も起こらなかった。
 生憎だが、彼のご託に付き合っている暇はない。頼まれた以上はさっさと終わらせようと決めて、少年は次の茶器を手に取った。
 ゴツゴツした表面を撫で、無骨な形状に右の眉を持ち上げる。何度か角度を変えて眺めて、最後にゆるゆる首を振った。
「これは、だめだ。之定」
「ああ、それは……仕方が無いかな」
 ぱっと見た感じ、風合いが面白く感じられた。しかし残念ながら、賓客をもてなす茶席に出せる代物ではなかった。
 悪くないが、格別良くもない。
 手元に残すには値しないと言えば、男は意外にも、あっさり引き下がった。
 もっと粘るかと思いきや、拍子抜けだ。先ほどのような長口上が始まるのかと思っていただけに、当てが外れて呆気にとられた。
 ぽかんとしていたら、歌仙兼定は照れ臭そうに笑った。
「前に、時間がなくてね。目についたものを手当たり次第に」
「それでか」
 偶然立ち寄った店で眺めて、深く吟味しないまま買ってしまったものらしい。他にも多数ある品質が悪いものは、大抵他のものとまとめて一括購入したか、良品を買う際に一緒に押しつけられたものだった。
 それらも少なからず味があると、捨てずに残してきたから、こうなった。
 ならば部屋が物で溢れかえるのは、当然の帰結だ。あまりにも馬鹿馬鹿しくて、助けてやる気も失せかけた。
 小夜左文字だって、暇ではない。本の一冊くらい読みたいし、馬小屋掃除で汚れた内番着も洗いたかった。
 頼まれ事を優先させたから、脱いでそのままにしてきた。部屋が臭くなっていなければ良いが、まず間違い無く、当分臭い続けるだろう。
 思い出したら、気が滅入りそうになった。
 こめかみに指を置いて頭痛を堪え、少年は急激に明るくなった視界に瞬きを繰り返した。
 歌仙兼定が障子戸を開けたのだ。涼しい風が吹いて、暗く沈みそうになった心を慰めてくれた。
 明るさに瞳が馴染むのを待って、肩の力を抜いて苦笑する。見れば歌仙兼定は、最初に渡された桐箱を、衣紋掛けの足音に慎重に置くところだった。
 愛おしそうに箱を撫で、目を細めていた。
 茶の道に心酔して、けれど狂うことなく、忠実であろうとしている。
 好きが高じた結果だと苦笑して、小夜左文字は暗がりで光を放つものに手を伸ばした。
「之定、これも」
「小夜」
「僕は、これが好きだ」
 良いと思ったものと、そうでないものとを大雑把に分けていた時だった。際だって目を惹く器を見つけて、自然と手が伸びていた。
 苦心の末に確保した空間に腰を据えて、両手で抱いてじっくり眺める。紛れもない上物を発掘して、短刀は顔を綻ばせた。
 足の踏み場を探しながら戻って来た男は、怪訝にしつつ眉を寄せた。小さな手が抱え持つものを間近から見詰めて、やがて合点が行ったのか、嗚呼、と小さく頷いた。
 それは白の釉薬を使った楽焼きで、高さは三寸少々。肉厚で、手捏ねで形成されたものだった。
 釉薬は全体に厚く塗られていたのだが、窯で焼く際になにか不可思議な現象に見舞われて、中程からは下は茶色く焦げていた。お蔭で側面の色合いは二層になり、内部も下半分が黒く染まっていた。
 まるで、雪を被る富士山のようだ。
 対照的な色の組み合わせが、奇跡となって目の前に現れていた。
 見ているだけでも心が沸き立ち、手が震えた。その美しさといったら、どの茶碗よりも遙かに優れていた。
 群を抜いて素晴らしい品を手に、少年は頬を紅潮させた。歌仙兼定も同意して、彼の傍らに身を沈めた。
 並んで座って、光に晒す。これで茶を点てればさぞかし美味かろうと、気がつけばそんな軽口を叩いていた。
「之定?」
 珍しいものを、見た。迷ったけれど、来て良かった。
 面倒臭いことに巻き込まれたと、本音では思っていた。けれど引き受けて正解だったと相好を崩して、小夜左文字は視線を感じて首を傾げた。
 左を見れば、すぐそこに歌仙兼定の顔があった。穏やかな笑みを浮かべて、嬉しそうにしていた。
「では、それは君にあげよう」
「……いいのか」
「構わないさ。駄賃としては、少なすぎるかい?」
「まさか!」
 そして事も無げに言って、小夜左文字を驚かせた。
 片付けの手伝いの駄賃としては、大きすぎるくらいだ。とても釣り合いが取れない。明らかに比率がおかしかった。
 けれど、ならば返せと言われても、もう差し出せない。類い稀な器に魅入られて、簡単には手放せなかった。
 こんなにも素晴らしい品を、こうもあっさり譲り渡してしまうなど、あり得ない。
 信じ難くて様子を窺うが、歌仙兼定はにこりと笑うだけだった。
「男に二言はないよ。その代わり、ね」
「分かっている。最後まで、手伝う」
「ありがとう、小夜」
 きっぱり言い切って、男は手を伸ばした。頭を撫でられて、小夜左文字は首を竦めながら答えた。
 力強く宣言して、満面の笑みで返され、頬が緩んだ。短刀は嬉しそうに茶器の縁を撫で、慌てて立ち上がると、衣紋掛けへと駆け寄った。
 先ほど歌仙兼定が置いた桐箱の上に、転がらないよう大事に乗せて、手を離す。
 揺れもせず鎮座した茶器に鷹揚に頷いて、彼は不要と判断したものを部屋の外へ追い出した。
「木桶でも借りてこよう。之定が使わなくても、本丸の誰かが使うかもしれない」
「ああ、そうだね。妙案だ」
 例の二碗ほどではないにせよ、一度は歌仙兼定のお眼鏡にかかった品だ。本丸に集う刀剣男士の中には、彼ほどではないにせよ、茶を嗜む刀が数振り存在した。
 茶道に興味が無い刀でも、普段使いの茶碗を欲しがる者がいるかもしれない。要らぬものとして捨て去るには勿体なくて、引取先を探すのは急務だった。
 短刀の提案に、打刀は諸手を挙げて賛同した。是非ともお願いすると口にして、少年の背中を押した。
 単調で退屈な作業が、一気に騒がしくなった。
 また掘り出し物が見つかるかもしれない。本丸に引きこもっていては目にするのも叶わない品々に、多く出会えるかもしれない。
 そう考えると、楽しかった。
 目移りした。歌仙兼定が片付けに手間取る気持ちが、痛いくらいに理解出来た。
「之定、これは」
「ここの、ほら、この歪み具合が秀逸なんだ」
「だが扱い辛い。相手を選ぶ」
「うーん、そこなんだよねえ」
「だったら僕は、こちらの、鉄釉に金彩の焼き付けが」
「なるほどねえ。しかし僕としては、うん」
「……難しいな」
 あれこれ吟味して、論議するのは面白かった。こんなこと、ひとりで居る間は気付けなかった。
 教えて、教えられて、時間がいくらあっても足りなかった。無機質に選り分けていくのではなく、理由を考えて選別する楽しさが身に沁みて伝わって来た。
「参ったな。宝物がどんどん増えていく」
「減らすのだろう?」
「違うよ、小夜」
 そんな中で、歌仙兼定がふと呟いた。陽は大きく西に方向き、影が長く伸び始めた頃だった。
 空が赤く染まっていた。台所から借りて来た木製の番重には、不要と判断された茶器類が堆く積み上げられていた。
 部屋の中は、かなり簡素になっていた。足の踏み場どころか、寝具を広げる空間も、十分過ぎるほど確保されていた。
 鑑定品の残りはあと僅かとなり、それが済めば箒で軽く掃いて、綺麗にする仕事が待っている。
 なんとか今日中に終わりそうだ。緊張が解けて気が緩み、寛いでいた中でのやり取りに、少年はきょとんとしながら首を捻った。
 大粒の目で見上げられ、歌仙兼定は目尻を下げた。幸せそうで、それでいながら少し違う感情を滲ませて、打刀は手にしたものを床に置いた。
 背筋を伸ばし、姿勢を正した。改まられた少年は反対側に首を倒し、灰色の茶器と昔馴染みの刀を見比べた。
 不思議そうにされて、男は根負けして噴き出した。
「確かに、物は減ったけどね。残った分には、君とこうして、あれこれ話ながら選んだっていう、記憶が染みつくだろう」
「……付喪になるか」
「どうかな。そうなれば、嬉しいけれど」
 彼らは、刀剣に宿る付喪神。歴々の主の強い想いを宿す、力を持つ存在だった。
 たわいない会話を交わして、小夜左文字は茶碗を撫でた。それから障子戸近くの衣紋掛けに顔を向け、西日に照らされた空間に顔を綻ばせた。
 数が絞られた品々の中でも、あの茶碗だけは異質の輝きを放っていた。
「ならば、あれも」
「君の宝物にしてくれるかい?」
「もちろんだ、之定」
 多くの茶器を目にしたが、やはりあれが一等優れていた。太っ腹な打刀に深く頷いて、小夜左文字は目を細めた。
 記憶は宝になると、教えてくれたのは彼だった。思い出は忘れがたく、拭い去りがたいものだと、胸に突き刺さった。
 風はいつしか夜のそれに変わって、一気に冷たさを増した。薄着で過ごすには酷な季節がやって来て、少年は手にした茶碗の縁をなぞった。
「小夜?」
 季節がいくつか巡って、本丸の顔ぶれも前と少し変わった。賑やかなのは相変わらずで、出陣やら、遠征やらと、毎日が忙しかった。
 呼びかけられて、庭に出ていた彼は振り返った。軒を支える柱の横に、行灯を手にした男が立っていた。
 藤色の髪が、陰影の所為で赤く染まって見えた。背は高めで、肩幅は広く、肉付きが良くてどっしりとした体格をしていた。
 白の胴衣に、袴姿だった。襷は結ばず、髪も解かれていた。
「そんなところでなにをしているんだい、小夜」
「歌仙」
 行灯を揺らし、男が声を荒らげた。寒いだろうと案ずる言葉も発して、早くこちらへ来るよう手招きもした。
 それに黙って首を振り、左文字の短刀は淡い笑みを浮かべた。
「じき、戻る」
「そうかい? 宝物を見せてくれる約束だろう」
「忘れていない。済ませたら、すぐ行く」
 両手で茶碗を抱き、訥々と言葉を返す。それで納得してくれたのか、歌仙兼定は窄めた口から息を吐いた。
 頬を凹ませ、不満を表情に残しつつ、踵を返した。行灯を揺らして縁側を行き、その後ろ姿はすぐに見えなくなった。
 暗さが戻って来た。
 下弦の月から目を逸らし、少年は手元に視線を落とした。
 楽焼きの器になみなみと注がれているのは、緑濃い茶ではない。
「本当なら、点ててやるべきなのかもしれないけれど」
 黒く焦げた底部を覗き込んで、短刀は波立つ水面にはにかんだ。月の光がキラキラと輝いて、まるで宝石箱のようだった。
 仄かに香る神酒に目を眇め、彼は目の前に聳える小高い塚を仰いだ。頂には誰が作ったのか、梵字を記した塔婆が衝き立てられていた。
 この下には、なにもない。
 分かっている。皆、重々承知していた。
 けれど供えられる花は途切れず、団子や、握り飯が尽きる事はなかった。
 それらを踏まぬよう気を配り、草履で乾いた土を踏む。ザッ、と音を響かせて、少年は白と黒が並ぶ茶器を掲げた。
 背を逸らし、ぐっ、と息を止める。
 杯から呷るが如く半量を一気に喉へと押し流して、彼は喉を焼く熱に咳き込んだ。
「かはっ」
 噎せて横隔膜を引き攣らせ、爛れる痛みに奥歯を噛んだ。自然と湧いた涙で睫を濡らして、顎を軋ませ、茶碗を頭上高く持ち上げた。
 躊躇を振り払い、一気に腕を振り下ろす。
 神酒が溢れた。斜めに宙を駆けて、塔婆の下辺を濡らした。
 続けてガシャン、と盛大に音がした。地面に叩き付けられた衝撃で、陶器に罅が入り、粉々とはいかずとも、砕け散る音が闇を裂いた。
 無残な姿となった茶碗を蹴り飛ばし、肩で息をして、小夜左文字は唇を噛んだ。溢れ出そうになった嗚咽を堪え、きつく、固く、目を閉じた。

2015/08/31 脱稿

 藤原興風(34番) 『古今集』雑上・909
誰をかも知る人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに

細雨

「失礼しまーす」
 敷居を跨いで反転し、遠慮がちに呟く。
 同時に頭を下げて一礼をして、沢田綱吉は素早く扉を閉めた。銀色のレールに板戸を滑らせて、完全に閉まり切るのを待ってから、左足を後ろへずらした。
 前傾姿勢だった背筋を伸ばし、緊張気味に息を吐く。
 そのまま二秒待っても呼び声は聞こえて来ず、職員室は静かだった。提出物に問題がなかったと判断して、彼はようやく頬を緩めた。
「あ~~~……」
 安堵に思わず声が漏れ、心臓は爆音を奏でた。脂汗が首の裏側を伝って、身体中が熱くて堪らなかった。
 これでやっと、解放された。
 ホッとし過ぎて、その場に座り込みたくなった。膝から力が抜けていくのが分かって、綱吉は慌てて首を振った。
「やばい、やばい」
 職員室前でへたり込むのは、あまりにも格好悪い。
 放課後もかなり遅い時間とあって、クラスメイトに見られる危険は極端に低い。とはいえ、油断ならなかった。
 部活動はもう終わったのか、勇ましい声は聞こえてこない。何気なく目を向けた窓の外はもう真っ暗で、体育館らしき建物の灯りが、かなり遠くで光っていた。
 こんなに暗くては、グラウンドを使用する運動部は大変だ。視界が極端に悪い中、互いの位置が見えずに衝突する危険が非常に高かった。
 だから、早めに切り上げたに違いない。
 野球部に所属している親友の顔を思い浮かべ、綱吉はまだバクバク五月蠅い心臓を宥めた。
 制服の皺を撫でて伸ばし、変な風に折れ曲がっていたネクタイを整える。すっかり着慣れた感があるブレザーに顔を綻ばせ、汚れが目立つ上履きで廊下を叩いた。
「よし」
 これであとは、家に帰るだけ。
 晴れて自由だと顔を綻ばせ、並盛中学校の劣等生は教室へ急いだ。
 今回の居残りは、先日の小テストの結果が、あろうことか零点だったのが原因だ。
 寒くなって来たのもあって遅刻回数が増えた上、勉強もまるで駄目。このままでは宜しくない、と担任は思ったらしく、今日中に反省文を提出するよう、雷を落とした。
 期末試験も近いというのに、この調子でどうする。
 懇々と説教された挙句、四百文字詰め原稿用紙五枚以上、というノルマが課せられた。これを提出しない限り、帰宅は認めないと、横暴極まりなかった。
 文才に優れた人間ならば、そう苦も無く終わる作業だ。しかし作文を書けば小学生以下、とまで言われている綱吉だ。うんうん唸って、頭を捻らせても、一枚書き上げるのがやっとだった。
 それがつい先ほど、ようやく五枚分、埋めきった。達成感は半端なく、心は躍り、歌いたい衝動に駆られた。
 万歳したい気持ちを堪え、下手なスキップを刻みながら階段を駆け上る。苦労させられた分心は軽やかで、今なら空だって飛べそうだった。
 もっとも、実際にそんなことは叶わない。
「うわっ」
 調子に乗っていたら段差をずるっ、と滑りかけて、大慌てで手摺りにしがみついた。
 踵を踏み潰し、スリッパ状にしているわけでもないのに、これだ。
 運動神経のなさをつくづく思い知らされて、綱吉は冷たい手摺りに寄り掛かった。
「あっぶな~」
 安堵の息を吐き、職員室に入る時より五月蠅い心臓に唾を飲んだ。乾いている唇を舐めて肩の力を抜き、奥行き三十センチほどの段差に足を揃えた。
 冷や汗が出て、また体温が上がった。ほんのり湿った額を拭って、残る階段は慎重に進んだ。
 それでも教室のある階が近付くに連れ、心が逸った。唯一明かりが灯っている部屋に駆け込んで、出しっ放しだったシャープペンシルを筆箱に放り込んだ。
 鞄のファスナーを開け、筆記用具を入れる代わりに、防寒具を取り出す。
「よし」
 奈々が子供たちのついでに、と編んでくれたマフラーは、市販されているものより幅があり、しかも長い。二重に巻きつけても充分余裕があり、毛糸なので温かかった。
 喉元に余裕が出来るよう形を作って、続けて矢張り手編みの手袋を装着する。こちらはミトン型で、親指以外の四本はひとまとめにされていた。
 フゥ太やランボたちとお揃いなのだが、学校に着けていく分には問題ない。一緒に公園へ遊びに行く時だけ注意すれば、仲良しとからかわれることもなかった。
 帰り支度を済ませ、綱吉は気合いを入れた。無事家に帰り付くまでが学校だ、と普段は考えないことに顔を綻ばせ、すっかり暗くなった空を一度だけ見た。
 窓の向こう側は、まるで墨で塗り潰したかのような色合いだった。
 光を反射し、己の姿がガラス板にぼんやり浮かび上がっている。じっと見つめていると吸い込まれそうで、慌てて視線を逸らし、廊下に向き直った。
「帰ろう」
 声に出して呟いて、廊下に出る直前に教室の電気を消した。立てつけの悪いドアを閉めて、ひゅうう、と響いた不気味な音に背筋を粟立てた。
 どこかの窓が開いているのか、空気が冷たい。
 内股になって身震いして、綱吉は人気の乏しい廊下にゴクリと唾を飲んだ。
「こ、怖くなんか、ない、ぞー」
 一瞬嫌な想像をしたが、持ち前の忘れっぽさで即座に頭から追い出した。震える声で自らを鼓舞し、今来たばかりの道を逆に突き進んだ。
 そもそも、現在時刻は午後五時台だ。間違っても深夜でなければ、丑三つ時でもない。一階の職員室には教師がいるし、体育館や特別教室にだって、部活動中の生徒が大勢居残っている。
 綱吉ひとりが、学校に取り残されているわけではない。だから恐怖を覚える必要はないし、怯える理由もなかった。
 窓を叩く風の音や、意外に反響する自分の足音。
 そういうものにも極力意識が向かわないようにして、滑り落ちそうになるのを堪え、地上階へと舞い戻る。
「……はっ、あ、あー」
 ホラーゲームのやり過ぎだ。
 物陰から何か出て来そうだとか、角を曲がった瞬間なにかに飛びかかられるのでは、なんて。
 想像力だけは逞しいと苦笑して、綱吉は弾む息を整え、癖だらけの頭を掻き回した。
 ようやくたどり着いた正面玄関はひっそり静まり返り、人影は皆無だった。
 但し遠くからは、コピー機らしきものの動く音がした。職員室が近いので、教室がある階よりも全体的にざわざわしていた。
 動くものがなくても、人の気配があるだけ良い。難敵だった学校というダンジョンを抜け出せるのも嬉しくて、綱吉は下駄箱を開け、薄汚れた靴を取り出した。
「……あれ?」
 玄関と外を隔てる扉はガラス張りで、今は閉じられていた。
 鍵は掛かっておらず、押せば簡単に開く。それが分かっていながら触れるのを躊躇して、彼は半眼し、眉を顰めた。
 手前が明るく、奥が暗い所為で非常に分かり辛いけれど、何かが見えた。
 非常に細かく、動きは素早く、靄のようであり、目の錯覚かと疑いたくなるが。
 背伸びをしたり、軽く屈んでみたりと何度も確認して、最後にドアを押し開ける。
 もれなくサアァ、と小川のせせらぎに似た音が聞こえて来て、綱吉はがっくり肩を落とした。
 どうりで、運動部が早めに練習を切り上げたわけだ。
 空が墨汁をひっくり返した色をしているのも、これで納得がいった。
「嘘だろ。降ってるよ」
 口にした途端、実感が押し寄せて来た。有り得ないと愕然として、彼は力なく首を振った。
 雨が降っていた。
 しかもこれは、俗に霧雨と呼ばれる類のものだった。
「つめたっ」
 雨粒が細かく、風に流されてすぐ方向を変えた。玄関前の庇の下も安全圏ではなくて、綱吉は悲鳴を上げ、慌ててガラス戸の奥へと逃げた。
 朝、奈々は何も言っていなかった。降水確率が高めなら、確実に忠告してくれる母なのに、今日に限って天気の話は一切しなかった。
 急な通り雨だろうか。だとしたら、待っていればいつか止むのか。
 ブレザーの袖に付着した水滴を払い除け、渋面を作る。
 だが唸ったところで、答えなど出るわけがなかった。
「置き傘、あったかな」
 降雨の勢い自体はさほど強くないので、頑張れば傘を使わなくても走って帰れるだろう。だが濡れるのは避けられないし、身体が冷えればその分風邪を引く確率が上がった。
 なにより、毛糸の手袋とマフラーが可哀想だった。
 制服や鞄が濡れるのは諦めがつくけれど、母が丹精込めて編んでくれたものは駄目にしたくない。この歳で手作り品、と最初は思ったが、使い易さは群を抜いており、愛着があった。
「こっちには、ない、か」
 下駄箱横の傘立てを探してみるが、『沢田』の名前があるものは見つからなかった。友人らの分を探してみるけれど、獄寺や山本の傘も入っていなかった。
 京子の分ならあったが、女子のものを勝手に拝借するのは心苦しい。それに盗んだ、という濡れ衣を着せられるのも嫌なので、大人しく諦めた。
「と、なると」
 後は教室のロッカーに、折り畳み傘が入っているのを期待するしかない。
 前に使ったのはいつだったか考えて、綱吉は目玉を真ん中に寄せた。
 ともかく、行ってみるしかない。教室に逆戻りだと踵を返して、彼は閉じたばかりの下駄箱を開けた。
 そして。
「おっ」
 使い込んで草臥れている上履きの横に、意外なものを発見して瞳を輝かせた。
 暗い内部に目を凝らし、仄かに漂う酸っぱい臭いも気に掛けない。
 興奮に鼻息を荒くして、綱吉は履き古した靴ではなく、その隣に埋もれていたものに手を伸ばした。
 掴み、取り出す。
 明るい照明の下に引きずり出されたもの、それは小さめの折り畳み傘に他ならなかった。
「そういや、こっちにも置いてあったんだ」
 いつ入れたかは忘れたが、教室まで取りに戻る手間を惜しんだ過去の自分が、家に余っていた分を押し込んだのだ。しかし使う機会がないまま時間だけが過ぎて、存在自体を忘れていた。
 数か月前の自分の判断を褒め称え、降って沸いた幸運にガッツポーズを作る。もとはと言えば居残りを命じられる成績を取るのが悪いのだが、それは考えないことにした。
 奈々が昔使っていたものらしく、サイズはかなり小振りながら、傘としての機能は申し分ない。綱吉の体格では肩がちょっとはみ出てしまうけれど、全身が濡れるよりはずっとマシだった。
 図柄は、可愛らしい花柄だ。もっともこれも、暗い夜道なのでさほど目立たない。
「ついてる、ついてる」
 ひとり居残りを命じられた時はどん底だった運が、ここに来て上昇気流を捕まえた。嬉しさに破顔一笑して、綱吉はいそいそと傘カバーのスナップを外した。
「そこで、なにしてるの」
「――!」
 下手な口笛を吹き、手元ばかりに集中していた。
 背後から突然話しかけられて、驚き過ぎて心臓が飛び出そうだった。
 ビクウッ、と過剰反応してしまった。大仰に竦み上がって四肢を震わせて、彼は噴き出た汗に全身を湿らせた。
 その声には、聞き覚えがあった。
 恐らく全校生徒で知らない者はいないのではないか、と言われるくらいの、有名人のものだった。
 聞こえないフリを装うかと思ったが、それはそれで後の展開が恐ろしい。選択肢はひとつしか有り得ず、妥協の余地はなかった。
「あ……の。えっと」
 首を引っ込め、亀を真似て背中を丸めた。傘と鞄を手に恐々振り返って、綱吉は昇降口手前に佇む青年を上目遣いに窺い見た。
 ベージュ色の上着を着用する一般生徒と異なり、その人物は黒色の学生服姿だった。白のワイシャツを下に着込んで、袖には臙脂色の腕章が輝いていた。
 鋭い眼光は、獲物を求める肉食獣のそれだ。両手は今でこそ空だけれど、隙あらば瞬時に仕込みトンファーを構え、標的を打ちのめした。
 並盛中学校風紀委員会、委員長。
 但し彼が持つ特権は、その肩書きを大幅に上回っていた。
 傍若無人、慇懃無礼。
 横暴にして凶悪、不遜にして傲慢。
 そんな相手に遭遇してしまって、綱吉の震えは止まらなかった。
 圧倒的強さを誇り、数多の風紀委員を配下に従えながらも一匹狼を気取る男。常に戦う相手を探し求める、人の皮を被った血に飢えた獣。
「ひ、ひば、り……さん」
「ああ、なんだ。君か」
 何人たりとも彼を縛れず、彼に命じることは出来ない。まさに自由気ままな雲を体現する人物は、ビクビクしている小動物を認め、緩慢に頷いた。
 後ろ姿で気付いていても良いはずなのに、実にわざとらしい。
 そんなに人を驚かせて楽しいかと、内心反発するものの、言葉にするのは難しかった。
「もう下校時間だよ」
「わっ、分かってます。だからこうして、帰ろうと」
 続けて言われて、綱吉は腕を伸ばした。半分ほどカバーが剥かれた折り畳み傘を見せるが、外向きに布が広がっているのもあり、形状はまるでバナナだった。
 長い間使っていなかったので、固かったのだ。悪戦苦闘している時に話しかけられたものだから、何もかも中途半端だった。
 自分が悪いのではない。
 恥ずかしさを堪えて奥歯を噛み締めていたら、思いがけない勢いに呆然としていた雲雀がふっ、と息を吐いた。
 口元を緩め、目を眇める。
「うっ」
 普段はむすっとして無愛想な癖に、時折こうやって力みのない表情を作る。
 それが思いの外優しげに見えるものだから、落差の大きさに戸惑わされて、綱吉は苦手だった。
 芯が強く、まっすぐで、揺らがず、靡かず、退かない。
 こうと決めたら突き進み、どんな障害だってものともしない彼が、周囲に流されがちの綱吉には眩しかった。
「な、なんです、か」
「別に?」
 不敵な表情を見せられて、怯み、警戒した。
 尻込みしながら声を上擦らせれば、雲雀は首をちょっとだけ右に傾がせ、簀子が並ぶ昇降口へと移動した。
 カンカンと音を響かせ、職員用に用意されている下駄箱に手を伸ばす。
 それでハッとして、綱吉は急ぎ傘カバーを外した。
 要らなくなった布は丸めてポケットに詰め、手早く靴を履き替えた青年を追いかける。
「ヒバリさん、待って。雨、降ってます」
 閉まっていたドアを押した彼に叫び、綱吉は脆弱な骨組みの傘を開いた。
 三つに折り畳まれていたそれを広げつつ、庇の下に出た。だが一歩遅く、雲雀は霧雨が冷たい屋外に足を伸ばした後だった。
「ヒバリさん」
 濡れて冷たいだろうに、意に介さない。見るからに寒そうな格好をしておきながら、少しも怯まない。
 かといって放ってもおけなくて、綱吉は鞄を肩に担ぎ直し、奈々の傘を差して走った。
 地面は湿っているものの、水溜りはそう大きくなかった。細かな霧雨は光を反射して、街灯の周囲はぼんやり輝いていた。
 これが冬の入りの季節でなければ、綺麗だと眺めていられるものを。
 勿体ないと悪態をついて、綱吉は校門を潜った男に駆け寄った。
 雲雀は風紀委員長として、学内に留まらず、この地区一帯の警備も担当していた。
 風紀を乱す者が居ればこれを駆逐し、決して逃さない。相手が大人であろうと、女子供であろうと容赦なく、その悪名は別の町にまで轟いていた。
 今日もこれから、町内を巡回するのだろう――雨の中、傘もささずに。
「寒いですよ、ヒバリさん。傘、使ってください」
 黙々と進む男に呼びかけ、右手を振り回した。握った傘で霧雨を掻き回し、濡れたアスファルトを蹴飛ばした。
 だが聞こえているだろうに、雲雀は振り返らない。綱吉の善意を無視して、一切構おうとしなかった。
 お陰で傘を差している方も、細かな雨に当てられて濡れていた。手編みのマフラーも、手袋も、表面の細かな毛に水滴が張りついていた。
 特に手袋の方は、内側まで水が染み込んでくる。
 これでは防寒具として失格で、襲ってきた寒気にくしゃみが出た。
「へぶっ、しゅ」
 可愛くなければ、男らしくもない不細工なくしゃみに足が止まり、鼻水まで出た。鼻の頭を赤く染めてずずず、と息を吸えば、一連の行動に呆れたのか、雲雀が立ち止まって肩を竦めた。
 街灯の光は細く、あまり明るくない。どことなく困った風に見えたのは錯覚か、綱吉は瞬きを繰り返した。
「ヒバリさん」
「これくらい、なんでもないよ」
 ふたりの距離は、三メートル程。しかし暗闇と、濡れた路面に反射する光が混ざり合い、感覚は頼りにならなかった。
 近いようで遠い男に首を振られ、綱吉は惚けて半開きだった口を閉じた。唇を引き結び、傘を傾け、霧雨を齎す雨雲を仰いだ。
「冷たいですよ」
 ずぶ濡れとまではいかないけれど、彼の上着は湿り始めていた。シャツの下にちゃんと着込んでいるのか、心配でたまらなかった。
 いくら圧倒的な強さを誇る雲雀でも、一応は人の子だ。体調を崩す日があれば、熱を出して寝込むことだってあるに違いなかった。
 傘を差しながらでは、急襲に対応出来ないというのは、分かる。綱吉だって邪魔に思うことが多く、雨など降らなければいい、と恨めし気に天を睨む日は多かった。
 ただこの冷たい雨に濡れ、体調不良を起こし、高熱でふらふらになっている時に襲われる方が、余程危険だ。
 そういう考え方は出来ないのかと睨みつければ、反応が意外だったらしく、雲雀は驚いた顔をした。
 一寸だけ目を大きく見開いて、すぐに戻して、右手を腰に添えた。胸を張って居丈高に構えて、前髪にぶら下がる雨雫を左手で払いのけた。
「だったら、君のそれ。貸してくれるの?」
「え?」
 鷹揚に言い放ち、綱吉が握りしめているものを指差す。
 言われた方はぽかんとなって、三秒遅れで背筋を粟立てた。
「えっ、あ。でも、これは」
 何のことか一瞬分からなくて、自分の手を見てから持っているものを思い出した。当たり前だが傘はこれ一本しかなく、近くにコンビニエンスストアはなかった。
 教室に行けばもう一本、置き傘がある気がした。だが校門は遥か後方に遠ざかっており、走って取りに行っている間に、雲雀が立ち去ってしまうのは明白だった。
 そうなると今ある分を彼に押し付け、綱吉ひとりが取りに戻る選択肢しかない。そして泣く子も黙る鬼の風紀委員は、女性向けの可愛らしい花柄を、頭上に掲げることとなる。
「これは、ちょっと……」
 どう考えても、似合わない。
 いくら雨の夜とはいえ街灯は明るいし、住宅地を出て駅前に出れば周囲はもっと明るくなる。色合いは大人しめであるけれど、持つ人次第で自己主張は激しいものとなるだろう。
 悪目立ちして、雲雀が笑い者になるのは嫌だった。そういう意味合いで尻込みしていたら、向こうは別の理由と解釈したらしく、ふっ、と息を吐いて口角を持ち上げた。
「出来ないことを、言わないことだね」
「あ、ま……待っ」
 自分が濡れたくないから傘を譲らないと、そちらの意味に受け取られた。誤解だと否定しようとしたが、喉に息が詰まり、上手く音に出来なかった。
 待って、と言いたいのに伝わらない。
 気持ちだけが先走って、胸の中でもやもやしたものが大きく膨らんだ。
「ヒバリさん」
 雲雀は身体を捻った。先に上半身を、僅かに遅れて下半身を反転させて、肩に羽織った学生服が軽やかにダンスを踊った。
 緋色の腕章が街灯を反射し、鈍く輝いた。風、の字だけが琥珀の瞳に焼き付いて、綱吉は発作的に駆け出した。
 長くも短い距離を一気に詰めて、後先考えず、手にした傘を突き出した。
「ぐっ」
 サクッ、と六本しかない骨の一本が何かに当たって滑ったが、目を瞑っていた綱吉は見ていなかった。短い悲鳴らしきものも聞こえたけれど、霧雨降る音と混じり、何の音かは分からなかった。
 首を竦めて猫背になって、雲雀は耳の後ろを押さえて振り返った。頭に降りかかっていた雨雫は数を減らして、代わりに大きめの粒が肘を叩いた。
 一瞬だけ上を見れば、空が隠れていた。
 銀色の細い骨組みが六方向に広がって、中心から伸びる芯棒は七十五度に傾いていた。
「刺さったんだけど……」
 出かかった文句は、音になる寸前で呑み込んだ。
 視界に飛び込んで来たのは腕を限界まで伸ばし、更に背伸びをして踏ん張る少年だった。
 身長百六十センチに満たない身体を使って、女性向けひとり用の折り畳み傘を支えていた。腕も足もプルプル震えており、ちょっと小突けば簡単に折れてしまいそうだった。
 人に傘を譲って、雨に濡れていた。一応頭の天辺はカバー出来ているものの、首から下は完全にはみ出ていた。
 毛糸のマフラーが水を吸い、色を濃くしていた。くたりと萎れて、重そうだった。
 爆発している髪は湿気を帯びて、毛先が下がり始めていた。息を殺して苦しい体勢に耐えており、限界は目前だった。
「ぶはっ」
 黙って見ていたら、勝手に自滅した。足りない酸素を求めてぜいぜい息をして、噎せて、細い肩はひっきりなしに上下した。
 聞いているだけで、こちらまで呼吸が苦しくなった。傘は彼の頭上へ戻されて、再び霧雨が雲雀を包み込んだ。
「君って、馬鹿な……いや、馬鹿だったね」
「ぐ、う」
 嘆息混じりに呟けば、小動物は唸った。決まりが悪い顔で俯いて、恨めし気に睨んできた。
 成績は学年でも断トツの最下位で、運動神経はないに等しく、素行は悪くないが遅刻や無断欠席が多い。背が低く、体格も華奢で、男らしさは欠片もなかった。
 一時期まで全く目立たず、周囲に埋没して、雲雀の目に入りもしなかった。それが突然豹変して、学内でもトップクラスの問題児になった。
 怯えてビクビク震えるだけの小動物かと思いきや、追い詰めれば意外に反抗的だ。下着姿で校内を駆け回るのは見過ごせなかったが、近頃はその回数が減っており、どこか物足りなくもあった。
 強敵が次々襲って来る日々はすっかり遠くなり、毎日が平々凡々として、刺激が足りない。
 だから以前なら無視していたであろうことでも、今は少し、好奇心が擽られた。
「もしかして、ああやってずっと、僕の後ろをついてくるつもりだったの?」
「へ? え、いや、あ!」
 試しに問えば、大粒の瞳が真ん丸に見開かれた。夜闇の所為でほんの少し色味が暗くなっている眼をパチパチさせて、小動物はきょとんとした後、薄明かりでも分かるくらい真っ赤になった。
 霧雨が、湯気に見えた。傘を抱えたまま右往左往する姿は滑稽で、見た目もあって随分可愛らしかった。
 これで裏社会を牛耳るマフィアのボスだというから、世の中は意外性に満ちている。額に炎を宿した姿はまるで別人で、その計り知れない強さには心底ゾクゾクさせられた。
 彼ほど見ていて飽きない生き物はおらず、彼ほど傍に居て面白い人間はいない。
 でなければ雲の守護者などという面倒なだけの仕事、引き受けるわけがなかった。
「なんだ、違うの」
 狼狽激しい少年を嘲笑い、前後に触れている傘の軸を小突く。
 振動を受けて小動物は顔を上げ、物言いたげに口をもごもごさせた。
 青くなり、赤くなり、ひとりで百面相して、深呼吸をして。
 強く奥歯を噛み締めて。
「か、貸せま、せん。……けど、でも。いっ、一緒に、なら!」
 躊躇を振り払い、吼えた。
 雄々しく息巻き、懸命に訴えて、両手で持った傘を前ではなく、上に持ち上げた。
 ミトンタイプの手袋は、雨でぐずぐずになっていた。半月型の鞄は濡れているところと、そうでないところで斑模様を作り、ズボンの裾は跳ねた泥で汚れていた。
 言葉は、半端なところで途切れた。
 後に続く筈だっただろう台詞を頭の中で補って、雲雀は濡れた肩を撫で、やれやれと苦笑した。
「やっぱり、馬鹿だね」
 背後から言葉もなく襲いかかって来た連中は数えきれないが、傘を差されたのは初めてだ。
 もうすっかり痛みが引いた箇所を撫でて、彼はその手を翻し、風が吹けば折れそうな細い芯を抓み持った。
「あ」
 引っ張られて、綱吉は抵抗した。咄嗟に強く握り直そうとして、濡れた毛糸が邪魔をした。
 滑って、しっかり掴めない。
 そうこうしているうちに雲雀が傘を奪い取り、その軸で肩を二度、叩いた。
「今日って、赤ん坊、いる?」
「……え?」
「久しぶりに、顔、見たいな」
 やおら訊かれて、戸惑いが否めない。状況に理解が追い付かず、呆然としていたら、不敵に笑って呟かれた。
 視線は僅かに右にずれ、此処に居ない誰かを思い浮かべているのは明白だった。
 彼にこんな表情をさせる相手は、極端に限られている。その唯一とも言える赤子を思い浮かべて、綱吉は悔しさに下唇を噛んだ。
「いる、と。思います」
 朝からずっと学校だから、リボーンの現在地など知るわけがない。ただ出掛ける、という話は聞いていないので、恐らくは家にいるだろう。
 あの赤ん坊がやってきてから、綱吉の人生は大きく狂った。もれなく山本や、獄寺や、此処にいる雲雀の運命も。
 嫌なことが沢山あったけれど、過ぎてみれば案外悪いことばかりではなかった。痛い想いも沢山したが、それまで遠巻きに見るだけだった相手との距離が詰まったのは、意外なご褒美だった。
 傘の影からちらりと窺えば、雲雀は緩慢に頷いた。どことなく嬉しそうに目を眇めて、愛らしい花柄を、ちょっとだけ綱吉の側へ傾けた。
「君の家までね」
「……はい」
 霧雨は勢いを弱めようとしていた。完全に止むところまではいかないけれど、一時期よりは量を減らしていた。
 きっと沢田家に到着して、リボーンと雲雀が会話を交わすうちに、雨雲は遠くへ運ばれて行くだろう。
 あくまで、雨宿りと、気になる友人に会う為に。
 寄り道の言い訳は、心の中で。
 相手のペースに合わせて歩く技術はなかなか難しいと、歩幅を調整して、雲雀は綱吉との距離を十センチ、詰めた。
 

2015/12/12 脱稿

年の明くるを待ちわたる哉

 空気が凍る、そんな音が聞こえて来そうな夜だった。
 凛と冷えた大気が、遠慮を知らずに肌を撫でた。茨に抱きつかれているような錯覚を抱いて、悪寒が走り、背筋が粟立った。
「……っ」
 緊張に頬が強張り、息が喉に詰まった。
 呼吸を止めて居竦んで、五秒が過ぎた辺りで跳ね上げていた肩を落とす。
 ふうぅ、とゆっくり吐き出して、入れ替わりに吸い込む夜気は冷たい。もれなく舌がぴりぴりして、咽喉が萎縮した。
 喉が狭まり、肺が笑った。内臓が痙攣して、ひっく、としゃっくりに似た音が漏れた。
 ぞわぞわと迫る寒気に抗って、小夜左文字は己を抱きしめた。脇腹を繰り返し撫でて、摩擦熱で肌を温めようと画策した。
 とはいえ、小さな手二本ではとても間に合わない。夜空に呑み込まれる熱の方が、新たに生じる熱よりも、圧倒的に多かった。
 それでも、場所を動く気になれない。
 見上げる空に雲は少なく、月は淡く輝いていた。
 満月には及ばないけれど、明るさは際立っている。周囲に散る星々はその強すぎる光に怯え、霞んでいた。
 炭で塗り潰したかのような天空に、月だけが眩しい。
 さほど珍しい光景ではないのだけれど、今宵はまた格別だと、幼い外見の少年は頬を緩めた。
「綺麗だ」
 率直な感想を述べて、唇を引き結ぶ。
 口からでも、鼻からでも、吐く息は全て白く濁った。
 目の前が一瞬曇って、すぐに消えてしまう。その儚さにも相好を崩し、彼は誘われるまま目を閉じた。
 視界を闇に染めても、棘を持つ冷気は緩まない。むしろ強まった気がしたが、少年は構おうとしなかった。
 薄手の寝間着に派手な色柄の褞袍を着込み、更にその上から綿の入った布団を被っていた。日中は素足を晒しているけれど、今は布の中に隠して、露出させるのは首から上だけだ。
 遠目からだと、不格好な雪だるまだ。下だけが綿で丸々と太って、首は細く、頼りなかった。
 普段結い上げている髪は解いて、背に垂らしていた。それが丁度襟巻の代わりを務め、夜気を幾ばくか防いでくれていた。
 もっとも、寒いものは寒い。
 大きな掛布団を外套代わりに羽織って、見目幼い短刀は視線を間近へ戻した。
 瞬きひとつで瞳を下方に向け、縁側の先へと落とす。だがそこにあるべきものは見えず、異なるもので覆われていた。
 雪だ。
 数日前に寒波が押し寄せ、結構な量が降った。その後かなり溶けて消えたのだけれど、日蔭などではまだたっぷり残っていた。
 雪下ろしが必要な季節が来たと、一部の刀からは恨み節が聞かれた。だが放っておけば屋根が押し潰されかねず、平穏な生活を守るには必要なことだった。
 炬燵や火鉢を取り囲み、動かない連中に、目いっぱい働いてもらおう。既に道具は揃っており、準備万端だった。
 前の冬には本丸に居なかった刀も多いから、説明からやり直しなのは面倒だが、致し方ない。その辺は獅子王が率先してやってくれると期待して、小夜左文字は気の抜けた笑みを浮かべた。
 目尻を下げて、口角を僅かに持ち上げる。
 一年前は、意識して出来なかった。今でも不慣れだけれど、少しは見られるものになったと思う。
 色々なことがあった。
 嬉しいことも、嫌なことも、哀しいことも、悔しいことも。
 思い出していたら、それこそきりがない。一晩かかっても、語り切れそうになかった。
「冷えるな」
 じっとしていたら、胡坐を組んでいた脚が痺れた。もぞ、と身じろいで、小夜左文字は重なり合う足首の位置をずらした。
 隙間風が肌を撫で、駆け抜けていった。意地悪な冷気に思わずムッとして、少年は頬を膨らませ、首を竦めた。
 亀を真似て小さくなって、それでも縁側から動かない。
 いっそ朝までこうしていようか考えて、彼はちらりと、背後を窺い見た。
 障子戸は閉められ、中の様子は見えなかった。
 有明行燈の細い明かりが、白い紙越しに感じられた。他に灯明の類はなく、軒先の吊り灯篭の火も消えていた。
 団子のように丸まって座る短刀を照らすのは、空を支配する月と、地表の雪が反射した光だけ。
 それでも歩き回るには十分で、心地良い明るさだった。太陽のように眩し過ぎず、瞳に突き刺さりもしない。長い間眺めていても、首以外は疲れなかった。
「きれい、だ」
 もう一度空を仰ぎ、大きな月に目を眇める。
 飾り気のない言葉は、偽らざる本心だった。
 こんなにも美しいものを、何十回、何百回と眺めて来た。それはとても幸せなことだと、ふと、前触れもなく思った。
 夜は暗くあるべきで、月の明るさは、復讐には邪魔なものと考えていた。
 今でも夜の戦場に出れば、同じことを感じる。敵に気取られずに接近するには、朔の夜が最適だった。
 だがこうして、本丸の軒先から眺める分には、月は明るい方が心地よかった。
「奇妙なものだ」
 一時期は仇を討つことだけを考えて、それに固執した。
 勿論復讐を遂げたい、という願いは胸の奥底に宿り、蠢いている。だが屋敷で休む一時だけは、禍々しい想いを忘れそうになった。
 いや。薄れる、と言った方が正しいか。
 違うことに気を取られ、復讐に思考を振り向ける時間が減った。他にやるべきことがある生活に、殊の外慣れてしまった。
 二律背反の心境に苦笑を浮かべ、緩く首を振る。自嘲にくつくつと喉を鳴らして、小夜左文字は小刻みに肩を震わせた。
 腹筋が引き攣り、少し痛んだ。肩に被せていた布団が右にずり下がって、慌てて引き上げると共に、その柔らかな感触に頬を寄せた。
 擦り付ければ、乾燥した肌に繊維が引っかかった。チリッと来て、痛みはすぐに消えた。
 軽くだが押し潰されて、中に含まれていた空気が逃げた。奥底に潜んでいた香りが鼻腔を掠め、甘酸っぱい感情が胸を満たした。
 夕餉を済ませ、翌日の準備などを済ませた後、床に入った。
 布団は冷え切っていてなかなか寝付けず、ようやく眠れたと思った矢先、目が覚めてしまった。
 月の明るい夜だった。
 誘われるまま外に出て、以来この場から動けない。
 掛布団を一枚拝借して来た所為で、同居人が寒がっていなければいいのだけれど。少し心配になって再び障子を振り返り、少年はそうっと耳を澄ませた。
 息を殺し、様子を窺う。
 物音ひとつせず、どこもかしこも静かだった。
 梟の声も聞こえず、夜行性の獣でさえ塒に引き籠っているらしい。それも無理ない寒さだと身震いして、小夜左文字は干からびる寸前だった唇を舐めた。
 今年も残すところあと僅かとなり、日中はどこもかしこも騒がしかった。
 大掃除はひと段落して、角松の準備は整った。大広間には巨大な鏡餅が用意され、重箱に詰める料理もなんとか間に合った。
 刀剣男士総出の餅つきは、大賑わいだった。
 つきたての熱々の餅に、黄な粉を塗して、食べる。その美味さは絶品で、小豆たっぷりの汁粉は舌が蕩けそうだった。
 実際のところ、舌は蕩けるどころか、火傷したのだが。
 思い出すだけで、口がもごもご動いた。夕餉をたっぷり食べたというのに、もう小腹が空いている。だが今から台所に忍び込む元気は、残念ながら持ち合わせていなかった。
 白湯が飲みたいと思っても、立ち上がりたくない。
 縁側になど出るのでなかったという思いと、月夜の美しさを愛でられて良かったという思いが、交互に頭を支配した。
 口を窄め、ふぅ、と息を吐く。
 細く伸びた煙はゆらゆら揺れて、瞬き二回のうちに掻き消えた。
「寒い」
 布団を被ったまま腰をくねらせ、猫背を強めた。顎まで布団に埋めて、染み込んでいた己の熱に安堵した。
 目を瞑れば、睡魔が襲ってきた。このまま委ねてしまいたくなって、身体が傾いたところで、慌てて姿勢を正した。
 衣擦れの音が聞こえた。首を伸ばし、振り返って、眉を顰めている間に、障子戸が僅かに開かれた。
「ああ、なんだ」
「起こしたか。すまない」
「いや。姿が見えないから、心配した」
 ごそごそと物音がしていたから、中でなにが起きているのかは、おおよそ見当がついていた。結果は予想通りで、小夜左文字は申し訳なさに首を竦めた。
 歌仙兼定は寝間着姿で、肩に褞袍を羽織っていた。表が黒で、裏地が赤い派手な代物で、小夜左文字と揃いだった。
 隣に居るべき存在が失われていると知って、手に触れたものを掴んで飛び起きたのだろう。袖を通すのを後回しにしてまで、彼は探しに出るのを優先させたのだ。
 厚みのある足指が冷え切った床板に触れ、その瞬間だけ、男は眉を顰めた。嫌そうに唇を歪めて半眼して、数秒じっと耐えて、次の一歩を踏み出した。
 隣に来るのに、二歩とかからなかった。布団を背負った短刀は気まずげに目を逸らし、庭に向き直った。
「小夜」
「月が、綺麗だ」
 呼びかける声は、寝起きの所為もあるのか、低く掠れていた。
 若干強めの語気で咎められたのを掻い潜って、逃げるように、少年は捲し立てた。
 苦しい言い訳を展開させて、天を仰ぐ。打刀はつられて瞳を持ち上げ、軒先から覗く闇を見詰めた。
 望月よりは細く、半月よりは太い。居待月と寝待月の間くらいかと考えて、歌仙兼定は目を眇めた。
 濡れ羽色の闇に、白銀の月が薄ぼんやりと輝いていた。輪郭は僅かに滲んでおり、虹色の暈を被っている風にも見えた。
「空気が澄んでいるからね」
「歌仙」
「床を出るのなら、僕も起こしてくれないと。肝が冷えた」
「……気を付けよう」
 気のせいか、中秋の名月よりも色が冴えている。冬の月も悪くないと首肯して、打刀は膝を折り、短刀の左隣に座した。
 最中に顔を見ぬまま愚痴を言えば、少年は一瞬間を置き、低い声で囁いた。
 感情を押し殺し、抑揚なかった。お蔭で内心笑っているのか、困っているのか、判断がつかなかった。
 我儘を言った自覚はあり、歌仙兼定は緩く湾曲した髪を掻き上げた。肩から羽織るだけだった褞袍に袖を通して、前身頃を隙間なく、ぴっちり重ねあわせた。
 ただ残念ながら、脚までは覆えない。胡坐を掻いて肌が触れ合う場所を増やしてみるが、効果があるとは言い難かった。
「かせん」
「問題ない」
 なんとか落ち着ける体勢を探そうともぞもぞしていたら、見かねた小夜左文字が被っていた布団を捲った。腕を伸ばして広げて、傍に来るよう促した。
 だがパッと見て肉まんじゅうと勘違いしそうな格好は、正直言って、雅ではない。褞袍を羽織っている時点でなにを、と笑われそうだが、風流を好む刀として、受け入れられないものがあった。
 微妙な境界線の前に佇み、悩んで、断った。それが意外だったのか、小夜左文字はきょとんと目を丸くして、二度、三度と瞬きを繰り返した。
「……そう」
「ああ、いや。違う。小夜の心遣いは、十二分に有り難く思っているんだけどね」
 やがて空色の瞳は地に沈み、漏れ出た声に覇気はなかった。
 落ち込んでいる雰囲気を察して、打刀が慌てて弁解に入る。両手を胸の前で右往左往させて、いつにも増して早口だった。
「歌仙?」
「その。君が、冷えてしまうだろう」
「別に、いいのに」
 滑稽な舞を披露されて、少年は頬を膨らませた。無用な気遣いだと口を尖らせ、拗ねて膝を抱え込んだ。
 男の為に用意した布団の隙間を閉じて、いよいよ丸く、小さくなった。その態度は見た目相応の幼さで、内面の成熟具合との差異が可笑しかった。
 悟られないよう笑って、歌仙兼定は寝かせた膝に頬杖をついた。
「冬の月夜の庭というのも、悪くないね」
 空気は凛と冷え、下手に動けば切り刻まれそうだった。
 突き刺さる冷気に、もれなく見る側の心までもが、鋭く研ぎ澄まされていく。溶け残った白い雪が反射する輝きもまた、無愛想な景色に彩りを添えていた。
 明るくはないけれど、暗くない。
 存外心地良いと深呼吸して、小夜左文字は鷹揚に頷いた。
「じき、春だ」
「暦の上はね」
「だとしても」
 新年を迎えたとしても、すぐに暖かくはならない。本格的に雪が降り始めるのはこれからだし、布団や褞袍の綿を抜くのは、もっと先の話だ。
 けれど一日が一歩となり、季節は着実に前に進んでいく。
 昨日と同じように見えて、ふとした瞬間に変化を感じるのが、何よりの楽しみだった。
「小夜は、春が好きかい?」
「夏よりは」
「それは確かに」
 気まぐれな問いかけに、少年は間髪入れず言った。
 短い返答に男は破顔一笑して、大いに同意する、と膝を打った。
 夏は、ひたすら暑かった。ちょっと動くだけで汗が滲んで、不快な臭いが屋敷中に充満した。
 とある刀の部屋から茸が生えたのは、梅雨時の出来事だ。布団を敷きっぱなしにして、衣服もその辺に脱ぎ捨てて放置していたら、変な菌が繁殖したのだ。
 あんな思いは、二度と御免だ。
 畳ごと取り替えなければならなくなったのを思い出し、歌仙兼定は無意識に拳を作った。
 なにやらひとりで腹を立てている打刀に目を細め、小夜左文字は布団の中で両手を捏ねあわせた。
 皮膚は乾燥し、カサカサしていた。水仕事が多いので手荒れも酷く、爪の周りは真っ赤に腫れて、関節部分はぱっくり裂けていた。
 風呂上り、軟膏をたっぷり塗り込んだが、もう乾いていた。後でまた塗っておかないと、目覚めた時、枕や布団が血まみれになってしまう。
「寒い?」
「いや」
 身じろいでいたら、危惧された。首を振って答えて、短刀は白く煙る靄に顔を埋めた。
 視界が白く濁るかと思ったが、吐いた息は確かめる前に消えた。三度も試したが一度も成功せず、なかなかに難しかった。
「なにをしているんだい?」
「べつに」
 深い意味もなく、理由もない行為だった。思いつきで初めて、上手くいかなかったので繰り返しただけだ。
 だから訊かれても、答えられない。一瞥してはぐらかして、小夜左文字は肩を二度、上下させた。
 首は自然と後ろに傾き、視線は空を映し出した。
「今日ごとに 今日や限りと 惜しめども 又も今年に 逢ひにけるかな」
「やれやれ。君はずっと、今日限りの命と思い続けていたのかい?」
「……駄目か」
「いいや。そうだね。世の中というものは、なにが起きるか分からないから、面白くあるんだ」
 沸き起こった感情と言葉を混ぜ、囁く。
 紡いだ音は歌となり、横で聞く男に笑われた。
 大晦日を詠った歌は、一日を一歩として、気がつけば年の瀬が来たと教えてくれる。そして年が明けたとしても、同じように、また一日を一歩として刻んでいくのだ。
 結局今年も、復讐を遂げられなかった。
 だが全体的に、悪くない一年だったと言わざるを得ない。
「来年は、どうなるかな」
 昨年末の時点で本丸に至っていなかった江雪左文字は、今や主戦力の一員にまで育ち、嫌々ながら出陣する毎日だ。一期一振や日本号も同様であり、小さくない小狐丸まで、いつの間にか屋敷に棲みついていた。
 粟田口派の短刀が一段と数を増やし、三間続きの大部屋ですら、手狭になってしまっている。槍たちの共同部屋は男臭さに酒臭さが加わって、梅雨時に黴が生えそうだった。
 ふと思い浮かんだ疑問に、合いの手は返らない。小夜左文字は沈黙し、歌仙兼定を見もしなかった。
 代わりに真っ直ぐ月を仰ぎ、大きく口を開き、息を吐いた。
「今とそう、変わらない」
 出陣と遠征と、日常任務の繰り返しの中に、ちょっとした騒動が起きて、その繰り返し。
 新たな強敵が現れようとも、次なる時代に派遣されようとも、やることは結局、どれも同じだ。
 戦って、戦って、傷ついて、癒して。
 また戦場に出て、戦って、そうやって毎日が過ぎていく。
 歴史修正主義者が諦め、審神者の勝利が決定的にならない限り、戦いの日々は終わらない。
 仲間がどれだけ増えようと。
 とても倒せそうにない敵が現れたとしても。
 眠って、起きて、食べて。
 笑って、怒って、泣いて、拗ねて。
 これまで散々繰り返して来た日常に、決定的な変化は訪れない。
「歌仙がいるなら、僕は、それで」
 多くは望まない。
 今あるものだけで構わない。
 変化は要らない。
 これ以上の贅沢は、ほかにない。
「小夜」
「おいで」
 掠れる小声の呟きに、男の貌がぱっと華やぐ。背筋を伸ばして目を丸くした打刀に向かって、短刀はおもむろに手を伸ばした。
 肩幅よりも大きく広げ、被っていた布団は背に落とした。身軽さを取り戻した反面、薄着になった少年を迎えに行って、歌仙兼定は膝を起こした。
 倒れ込む体躯を胸で受け止め、遠慮なく抱きしめる。
 熱が弾け、火花が散った。
 心地良い温もりに満面の笑みを浮かべて、小夜左文字は冷えた頬を分厚い胸板に押し当てた。
「こんなに冷たくなるまで」
「歌仙は、温かいな」
「僕の熱で良いのなら、いくらでも貰ってくれ」
 丁度空には雲が流れ、月の光を隠そうとしていた。打刀は小柄な短刀を楽々抱えあげると、落ちた掛布団を拾い、大股に敷居を跨いだ。
 開けっ放しだった障子を閉めて、暫くもしないうちに、室内に明かりが灯った。
 置き行燈に火を入れて、大勢が寝静まる中、そこだけが橙色の輝きに包まれる。
 白い紙に影が浮かび、手を取り合う姿が見て取れた。それはやがてひとつに重なって、灯明は吹き消され、全ては闇へと呑み込まれた。
 

2015/12/31 脱稿

心乱るゝ 秋の夕暮

 西の空に、薄い紅が差し始めていた。
 視界の際まで伸びる稜線がくっきりと表れ、光と影の境界がはっきり目に焼き付いた。雲は薄く、高い位置で疎らに散っている。陽の光を受けて、その下側ばかりが妙に明るかった。
 天頂より、地表に近い部分が眩しいのも、不思議なものだ。
 次々に彩りを変える景色を仰ぎ、小夜左文字は被っていた笠を揺らした。
 頭を左右に振りながら、砂利が多く、凸凹している道を行く。そこは所々深く陥没しており、足を取られると、簡単にひっくり返れる悪路だった。
 気を抜くと、転んでしまう。
 けれど俯いて、下ばかり見ているのは勿体ない空模様だった。瞳は頻繁に上下を行き交い、少しも落ち着かなかった。
 お蔭で足取りは鈍く、進みは遅かい。一緒に出掛けていた者たちとの距離はどんどん広がって、完全に置いて行かれていた。
 共に遠征に出向いた面々は、誰もが心持ち、早足だった。
 さっさと本丸に帰り着き、ゆっくり休みたいのだろう。いくら近場とはいえ、こう何度も往復させられては、身が持たなかった。
 今日だけで、十回以上だ。疲労はかなり溜まっていて、皆が無言だった。
 午前中はまだよかったけれど、午後に入ってからは、特に酷い。いつもは背筋が伸びている薬研藤四郎も、流石に猫背になっていた。
「これで、終わりだと。良いのだけれど」
 歩くのも辛そうな短剣仲間の背中を眺め、小夜左文字はひとり呟いた。落ちていた小石を蹴り飛ばして、行く末を見守ることなく、路面の窪みを飛び越えた。
 横幅四尺もない細い道の左右には、人の手が全く入っていない、荒れ野原が広がっていた。
 青々と茂る雑草はどれも背が高く、威勢が良かった。道の真ん中で咲く花もあって、自然の逞しさには毎度驚かされた。
 草花の中には、小夜左文字の背丈を越えるものまであった。無秩序に枝を伸ばす灌木は風の影響を受け、歪に歪み、蔦が絡みついていた。
 夜に見たら、化け物と誤解しそうだ。敵がいる、と勘違いして刀を抜きそうになった過去が蘇り、少年はひとり赤くなって木の前を通り過ぎた。
 太陽は徐々に稜線へと迫り、足元の影は長くなった。遠くに鎮守の森が見えて、烏の鳴き声がどこからともなく響いてきた。
 早く帰るよう、子供たちを急かしている。
 獣にまで背中を押され、短刀は深く頷いた。
 日が暮れると、野犬が出た。昔は人に飼われていたのかもしれないが、戦火が広がり、捨てられて野生化したのだ。
 ここいらの山は、熊は出るけれど、狼はいない。食物連鎖の頂点である人間も居なくなって、手付かずの自然が隆盛を誇っていた。
 たった数秒目を逸らしただけなのに、西の空は赤みを強め、鮮やかな朱色に染まっていた。
「あと、少し」
 細い道の先に、土壁が見え始めた。瓦屋根の建物もぼんやり現れて、前方からは歓声があがった。
 先頭を行く獅子王が、諸手を挙げて跳ねていた。秋田藤四郎の桃色の頭も、西日を受けつつ、輝いていた。
 やっと目指すべき場所が現れて、押し殺していたものが爆発したのだろう。我慢出来ず、鵺の毛皮を担いだ太刀が、疲労も忘れて駆け出した。それに引きずられる格好で、薬研藤四郎や、陸奥守吉行までもが速度を上げた。
 誰一人、最後尾を行く小夜左文字を気に掛けない。振り向きもしなければ、声をかけもしなかった。
 目の前のことに必死で、余裕がないのだ。
 それほどに、彼らは疲れ果てていた。
 簡単な任務の繰り返しは単調で、面白みに欠けた。緊張感に乏しかったのも、刀たちを疲弊させた要因だった。
 小夜左文字だって、疲れている。腹は減ったし、喉だって渇いていた。
 きっと今頃、本丸では夕餉の準備が執り行われている。温かな味噌汁に、米は瑞々しく炊き上げられて、新鮮な野菜が膳を彩り、ホクホクに焼かれた魚が食べられるのを待っていた。
 想像するだけで、涎が出た。今日の当番は燭台切光忠だから、魚料理が供されるのは、ほぼ間違いなかった。
 ゆっくり昼餉を食べる間もなく、遠征ばかり言い渡された日だった。
 これでまた、同じ任務を命じられたら、暴動が起きそうだ。まだ帰還出来ていないのに、大喜びしている刀剣たちを眺め、小夜左文字は肩を竦めた。
「僕も、急がないと」
 彼らだけ先に門を潜っても、任務達成にはならない。隊長が審神者に帰還報告をして、初めて終了となるのだが、その部隊長は、あろうことかここにいる短刀だった。
 あまりのんびりしていると、責められてしまう。けれど夕焼けに誘われて、視線は西に傾いた。
 早くしないといけないと分かっていても、思うように足が動かない。
「夕暮れの まがきは山と 見えななむ」(古今392)
「夜は越えじと 宿りとるべく、かい?」
「っ!」
 朱色の美しさに見惚れ、言葉がするりと零れ落ちる。
 それを途中から補われて、小夜左文字は身を竦ませた。
 びくりと大袈裟なくらい肩を跳ね上げ、反射的に身構えた。利き手は咄嗟に腰のものへと伸ばされて、邪魔な笠は背中へと滑らせた。
 視界を広げ、唇を引き結ぶ。
「僕だよ」
 そんな獣じみた動きと警戒心を見せられて、話しかけて来た男は困った顔で呟いた。
 苦笑して、両手を掲げて小動物を宥める。
 全身の毛を逆立てていた小夜左文字も、三度瞬きを繰り返して後、唖然としながら息を吐いた。
「歌仙」
 いつの間に、傍へ来たのか。
 油断し過ぎだと己を恥じて、左文字の短刀は柄を握る手を解いた。
 肩の力を抜き、両足へ均等に体重を配する。立ち尽くしていたら、藤色の髪の男が朗らかに微笑んだ。
「見事な夕焼けだね」
「う……」
 なにに気を取られていたのか、さらりと言い当てられた。
 悠然と腕を組んだ男に囁かれて、小夜左文字は小さく呻き、頬を空に負けないくらい赤くした。
 夕焼けなど、別段珍しいものではない。日の出、日の入りは毎日繰り返されて、もっと色味が鮮やかな日だってあった。
 但し今日という日は、今日しかなかった。明日の夕焼けはこれと同じではないし、昨日の日暮れ時だって全く違う顔をしていた。
 二度と見るのが叶わない景色だから、焼き付けておきたかった。
 そういう意識が働いて、足はなかなか、前に進まなかった。
 折角だから、陽が沈み切るまで、ここで見守りたい。
 他の刀剣たちの迷惑になるから実践はしないけれど、そんな願いも、心の片隅に存在していた。
 本丸からだと、垣根が邪魔だった。背後に迫る山が視界を遮り、最果てを望むなど無理な話だった。
 遠征続きで疲れていたのは本当で、それで足が重かったのも嘘ではない。
 けれどそれを言い訳にして、人より遅い歩みを維持していたのは、否定出来なかった。
「綺麗だね」
「……ああ」
 責めるでもなく感嘆の息を吐き、歌仙兼定が西を見た。
 小夜左文字も同じ景色を横目に眺め、一瞬の躊躇を挟み、首肯した。
 この打刀は、少し前まで薬研藤四郎の前を歩いていた。こんなのは雅ではない、とひたすら愚痴をこぼして、審神者に対する不信感を露わにしていた。
 これだったら、台所で包丁を握っている方が百万倍、楽しい。
 忌憚ない批判は聞く側をヒヤヒヤさせたが、咎める存在は、最後まで現れなかった。
 まさか朝からこの時間まで、同じ任務だけを押し付けられるなど、誰も想像していなかった。本丸に一番帰りたがっていたのは彼で、てっきりいの一番に駆け出し、獅子王と先頭争いしているとばかり、思っていた。
 予想外の連続に、小夜左文字は深呼吸を繰り返した。まだ少々速かった鼓動を宥めて、咥内に溜まっていた唾液をひと息で飲み干した。
 胸を撫で、唇を舐める。
 隣を窺えば、歌仙兼定は依然そこに佇み、動かなかった。
「歌仙」
「一首詠みたくなる素晴らしさだね」
 名を呼んでも、反応が鈍い。任務中だというのも忘れているのか、語る内容は自分本位だった。
 茶を嗜み、武芸に秀で、和歌を愛する。
 前の主の影響を過分に受けた刀は、どんな状況下であっても己の歩幅を崩さなかった。
 協調性がないとの指摘も多々受けるが、本人は気にしていない。何処吹く風と受け流して、批判に耳を傾けなかった。
 小夜左文字としても、彼には反省して欲しいところがいくつかあった。だがどれだけ言い聞かせても無駄と、最近は諦め気味だ。
 本丸に遅れて辿り着き、獅子王が叱っても、彼は笑ってやり過ごす。もっと早く歩けただろう、と責められても、夕暮れに惑わされたと言って、相手を煙に巻くに違いなかった。
「いいのか。いかなくて」
 一度通った道を、わざわざ戻って来た。
 目前に迫った本丸に向かう方を優先すべきなのに、なにを考えているのか。
 顎をしゃくって屋敷を覆う垣根を示し、小夜左文字は胡乱げに男を仰いだ。
 眉間に皺を寄せて睨まれても、彼は笑みを絶やさなかった。うん、とひとつ頷いただけで、表情は穏やかだった。
「小夜だって、だろう?」
「それは、そうだけれど」
 この道を進むべきは、彼ひとりだけではない。揚げ足を取られた少年は言葉を濁し、気まずくなって顔を背けた。
 夕焼けを眺めるくらい、どこででも出来る。それこそ、門まで辿り着いてからでも、問題なかった。
 だというのに、敢えて小夜左文字の傍に来た。
 真意を図りあぐねて、短刀は困惑を強めた。
 歌仙兼定とは細川の城に居た頃、一時期ではあるが、共に過ごしたことがあった。当時の彼には固有の名がなくて、容姿も今と違っていたのですぐには分からなかったけれど、面影は、所々に残っていた。
 ただ性格の面は、大きく変わった。なにも知らなかった無垢な付喪神は、離れている間に小夜左文字の背丈を追い越し、血腥い謂れを得て、自我を確立させていた。
 小夜左文字の知っている之定と、ここにいる歌仙兼定は別物。
 そう思った方が、心は平和だった。
 それでも彼がそばに居ると、少し安心出来た。昔を知っている気兼ねせずに済み、名前しか知らなかった兄たちよりは、余程身近な存在だった。
 審神者に喚び出されたばかりの、不安定だった時期を支えてもらったのもあって、彼には世話になりっ放しだ。いやに大人ぶり、世話を焼こうとするところが気にかかるけれど、大きな手は優しく、触れる熱は心地よかった。
 気が付けば、いつも隣にいる。
 それが自然なことと思い始めている自分を意識して、小夜左文字はぷっくり頬を膨らませた。
 あちこちを流転した。
 守るべき主を守れず、奪われ、売られ、己の存在意義を見失った。
 仇を討ちたくて、それだけが支えだった。そんなもの、とっくの昔に成し遂げられているというのに、そこに縋ることでしか自分を保てなかった。
 歌など、久しく忘れていた。
 夕暮れが綺麗なもので、景色は季節や時間によって驚くほど変化すると、本丸に来てから思い出した。
 あの頃、自分はなにを見ていたのだろう。
 乾いた大地と灼熱の太陽以外、目に浮かぶものがなかった。
 呼吸を整え、改めて歌仙兼定を見る。
「っう」
 息が喉に詰まったのは、思いがけず目があった所為だった。
 もしや彼は、ずっと人の顔を見詰めていたのか。こちらが物思いに耽っている間も、飽きることなく眺めていたのだろうか。
 気が抜けて、遠い過去に浸っていたところをじっくり観察された。意識した途端かあっ、と顔が熱くなって、小夜左文字は耳の先まで赤くなった。
 それはまるで、藪の中に身を潜ませた野苺だった。
 春先に熟す、小さくて甘い果実を思い浮かべて、歌仙兼定は相好を崩した。
「勿体ないと思わないか。こんなにも美しい夕焼けは、二度とないかもしれないのに」
 それは少し前、小夜左文字がぼんやり考えていた内容に相違なかった。
 笑みを噛み殺し、男が背筋を伸ばして遠くに視線を投げる。
 先を急ぐ仲間たちはかなり小さくなっていて、豆粒ほどの大きさだった。
 後続がやってこないと知り、騒いでいるのが見て取れた。声は聞こえないものの、両手を振り回し、何度も飛び跳ねているのは秋田藤四郎だ。
 気付いた歌仙兼定が手を振り返すものの、歩みは止まったまま。
 依然として動かない男を不思議な面持ちで仰ぎ、小夜左文字は短く息を吐いた。
 夕焼けは色を強め、西の空はまるで燃えているようだった。
 今日の最後を彩ろうと、赤々と照りつけている。伸びる影は一段と長くなり、短刀でありながら、太刀の背丈に追い付きそうだった。
 もっとも隣に在る歌仙兼定の影は、更に長い。
 己の貧相な体格と、彼の逞しい体躯とを我知らず比較して、少年はぶすっと口を尖らせた。
「いこう」
 秋田藤四郎だけでなく、陸奥守吉行もぴょんぴょん跳ねていた。獅子王や薬研藤四郎は蹲っているのか、視界に入らなかった。
 隊長を任された小夜左文字が帰らないと、門の中にだって入れない。
 棒のようになっている足を叱咤激励して、彼は仲間の為に、一歩を踏み出した。
 その背中に向けて。
「いいのかい?」
 歌仙兼定が静かに問いかけた。
 なにが、とは言わなかった。しかし心を読まれた気がして、小夜左文字は大袈裟に振り返った。
 ハッと息を飲み、目を丸くして打刀に視線を投げる。
 藤色の髪を朱に染め変え、優美な男は嫣然と微笑んだ。
「小夜」
 否応なしに過去を想起させる名をくちずさみ、目尻を下げた。根深いところで復讐と結びついているその呼称が、そういえばこの男は、昔からお気に入りだった。
 義の刀と言われようとも、人殺しの事実は変わらない。
 だというのに素晴らしい名前と手放しに褒めて、羨ましいとさえ言い放った。
「歌仙」
「うん」
「歌仙兼定」
「ああ」
 赤は血を連想させた。
 燃えるように赤い夕焼けは、山賊上がりの短刀と、三十六人殺しの刀を魅了して止まなかった。
「君は、君なんだから」
 ぽつりと言って、歌仙兼定はようやく足を持ち上げた。右から踏み出して、たった二歩で短刀に追い付き、追い越した。
 歩幅が違う。
 痛感させられて、小夜左文字は無防備な背中を蹴り飛ばしたくなった。
「君が見たいものを、君が好きなだけ、眺めるのは。とても良い事だと思うけどね」
 それをしなかったのは、西を見やりながら歩く男が、そんな風に言葉を注ぎ足したからだった。
 蹴る直前まで行っていた足を宙に留め、少年はふらつき、前のめりになった。片足立ちで数回身体を弾ませて、のんびりと進む背中を呆然と見つめた。
 今のひと言が、歌仙兼定の行動原理。
 理念ともいうべきものだった。
 流されるではなく、漂うだけではなく。地に足をつけて、一歩、一歩、着実に進むために。
 ただの刀であったのが、審神者によって人の姿を与えられた。付喪神として降臨し、武器を手に戦い、斃すべき敵を得た。
 しかし、それだけではない。
 彼らはあらゆるものを見る目を持ち、掴む手があった。善悪を嗅ぎ分ける鼻や、毒さえ呑み込む口があった。耳は風の囁きさえ拾って、移り変わる季節や時が押し寄せて来た。
 一日、一日が奇跡の連続だ。驚きに溢れている。見るもの、聞くものすべてが新鮮であり、心の襞を擽った。
 興味があるなら、調べればいい。
 飽きるまで眺めて、過ごせば良い。
 それを叱る者がいても、気にしてはいけない。好奇心は人を殺すが、それがなければどこにも踏み出せないことも、確かだった。
「秋ふかみ たそかれ時の ふぢばかま」
「匂ふは名のる 心ちこそすれ」
 男が軽やかに歌を奏でた。
 後を継ぎ、小夜左文字は当たり前のように下の句を舌に転がした。
 残念ながらこの辺りに、藤袴は咲いていない。秋の七草にも名を連ねる花は、匂いによって名乗りを上げてはくれなかった。
 代わりに男が、黄昏時を面白がり、口を開いた。
「小夜」
 太陽は西の稜線に近付き、輪郭は滲み始めていた。棚引く雲は下側だけが朱に染まり、上側は辛うじて昼の名残を留めていた。
 東に目を転じれば、藍と紫が混じり合い、不可思議な彩が生み出されようとしていた。
 気の早い一番星が薄く輝き、烏の声は遠くなった。ひたひたと夜闇が迫って、ふたりの背後に風を起こした。
「歌仙」
 煽られるように、前に出た。
 爪先立ちで駆け寄って、小夜左文字は歌仙兼定の袖を発作的に掴んだ。
 指二本で手繰り寄せ、袖下を抓む。軽く引っ張られた男は一瞬だけ視線を向けて、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「昔と逆だね」
「迷子になって、べそべそ泣いていた」
「そんなことはないさ。小夜が迎えに来てくれると、信じていたからね」
「いけしゃあしゃあと」
「本当のことだよ」
 夕焼けは、美しい。
 人の肉から噴き出る鮮血とは違う、清々しさがあった。
 それを教えてくれたのは、誰であったのか。
 呵々と笑う打刀を仰ぎ、小夜左文字は緩やかに暗さを増す空と、大地と、遠くで待つ仲間たちを順に見た。星は数を増して瞬いて、斜めに伸びる影は色を薄めていた。
 もうじき、相手の顔もはっきり見えなくなってしまう。
 それまでの僅かな時間を惜しみ、少年は指先に力を込めた。
「ゆっくり行こう、歌仙」
 この稀有な光景を、じっくり眼に焼き付けたい。
 二度と同じものはない空に思いを馳せて、小夜左文字は囁いた。
 その小さな手に触れ、覆い、掴み取って。
 歌仙兼定は驚く短刀に目配せし、悪戯っぽく微笑んだ。
「もちろん、そのつもりだよ」
 怒られる役は、任せておけ。
 そんなことまで嘯いて、打刀は人差し指を唇に当て、右目だけを閉ざした。

2015/7/22 脱稿