たとえば、ある昼下がりの出来事として

 白く長い指が触れた途端、細く華奢だった蕾が次第にふっくら膨らんで、順に花弁が開いていった。
 雪のような白さの中に、僅かに淡い輝きが内包されていた。言葉では上手く表現出来ない不可思議な色合いを間近に見て、藤丸立香はほう、と息を呑んだ。
「きれい」
 率直な感想を、飾り立てることなく素直に述べる。途端に向かい側に座る男は得意げに鼻を鳴らし、勝ち誇った顔をして口角を歪めた。
 自信満々に胸を張って、カドック・ゼムルプスはガラス製の一輪挿しを人差し指で小突いた。
 柔らかく揺れた花は、街中で見かける花屋では絶対に扱っていない艶を放っていた。おそらく世界でここにしか存在しない彩であり、これを生み出したのは、間違いなくカドックが有する魔力だった。
「これくらい、朝飯前だって言ったろ」
「うん。だけど、でも、すごいな。やっぱり。オレとは全然違う」
 透明なガラスの器は、テーブルの上にもうひとつ。
 目の前に鎮座する蕾を見やって、藤丸は感嘆の表情を落胆のそれに作り替えた。
 この花は魔術により錬成されたもので、水を与えるだけでは決して咲かない仕組みだった。
 必要となる養分は、魔力。魔術師が触れることによってようやく花開くので、魔力をコントロールする練習にも用いられていた。
 与える魔力が弱ければ咲かず、強すぎれば枯れる。丁度良い塩梅を維持しなければならないので、簡単なようで案外難しい訓練と言われていた。
 それを易々とやってのけたカドックをちらりと見やって、藤丸は椅子の上で背筋を伸ばした。深く息を吸い、吐いて、どくどく言う鼓動を左手で宥めた。
 乾いてひりひりする唇をひと舐めして心を落ち着かせ、慎重に右手を伸ばし、爪の先ほどの大きさの蕾に触れた。指先に意識を集めて未だ固い表層をそっとなぞり、自身の中に眠っているものを呼び覚ますべく、祈りながら頭を垂れた。
 目を瞑って数秒を数え、奥歯を軋ませながらゆっくりと顔を上げる。
「ぐ」
 だが力んだ眼が映し出したのは、先ほどと全く同じ状態の白い蕾だった。
「本気でやってるか?」
 押された分だけ傾いた以外、なんの変化も起きていない。
 向かい側で見守っていたカドックは呆れた口調で問いかけて、右肘をテーブルに衝き立てた。
 頬杖をついて欠伸を噛み殺した彼を一瞬だけ睨み、藤丸は手前の花瓶に視線を戻した。今一度息を止め、念を込めて小ぶりな蕾をなぞってみるが、結果はまるで変わらなかった。
「えい。えい……咲け。咲けよゴマ!」
 気合いが足りないのかと試行錯誤し、途中から謎の呪文を唱え始めるものの、効果はない。
 それどころかカドックの眼差しがどんどん冷たくなっていくのを感じて、藤丸は浮き気味になっていた尻を椅子に戻した。
 深く座り直し、力なく肩を落とした。額に浮いた汗を袖で拭って、うっかり零れそうになった涙を我慢した。
 音を立てながら鼻を啜って、奥歯を強く噛み締める。唇を咥内に巻き込んで耐えていたら、見かねたカドックが溜め息を吐いた。
「そもそもどうして、こんな訓練、始めようと思ったわけ。お前、魔術の才能ないの、自分で分かってるだろ」
「はっきり言うなあ」
「別に、僕がお前に優しくする理由はないからな」
 頬杖をついた青年が人差し指を伸ばし、空中になにか描いたかと思えば、その指で美しく咲いた花を突いた。途端に瑞々しかった魔術の花は一気に萎れ、何枚かの花弁がはらりと落ちていった。
 しかもただ落ちて、テーブルに横たわるだけではない。新雪の如き白さを誇ったそれらは、平坦な天板に触れると同時に、まるで鉱石のように砕け散った。
 細かな破片が宙を舞い、風もないのに流れ、溶けて消えた。最初からなにも存在しなかったとでも言わんばかりに、跡形も残らなかった。
「ええ……」
 どうしてそうなったのか、藤丸には理解できない。目の前で確かに起きた事象は、彼の知る常識の遥か外側の出来事だった。
 目を丸くして絶句し、しばらく呼吸も忘れて凍り付く。
 唖然としている彼を一瞥して、カドックはすっかり空になった一輪挿しに手を伸ばした。
「さすがにこっちは、僕じゃ無理だな」
「そうなの?」
「こんなでも、訓練用の実験道具だぞ。防御の術式が組み込まれてるに決まってるだろ」
 花に与えた魔力が溢れ、花瓶の外に影響を及ぼすのを防ぐ狙いがあると、カドックは言った。派手に揺らされてちゃぷちゃぷ言う少量の水の動きを眺めて、藤丸は残骸すら残らなかった美しい花を思い出した。
 蕾が花開く方向ではなく、茎や根が増大する方向に魔力が働いたら、花瓶は木っ端微塵に壊れてしまう。そういった事故を防ぐ狙いもあるのだろうと、少ない知識を総動員して結論を出し、自分を納得させた。
「ふうん」
 これが正解かどうかは不明なまま、緩慢な相槌で一旦会話を打ち切った。残ったもう一輪の花に焦点を合わせて、膝の上に転がした手で空を掻いた。
「なんか、……悔しいな」
「あのな」
 他人には簡単にできることが、自分には果たせない。
 露骨なまでの実力の差を見せつけられて落ち込む彼に、カドックは僅かながら身を乗り出した。
 俯く藤丸の額に顔を寄せ、右人差し指を突き出した。一瞬だけ躊躇して、小突くのではなく弾く方向で攻撃を繰り出せば、まともに喰らった黒髪の青年は大仰に仰け反った。
「いった」
「なにを勘違いしてるかは知らないが、思い上がるのも大概にしろよ」
 打たれた箇所を庇って顔を赤くした藤丸に怒鳴りつけ、カドックは椅子に戻った。早口に捲し立てた後は自身も耳を朱に染めて、気まずそうにそっぽを向いた。
 説教をしておいて、照れるとはどういうことか。
 らしからぬ事をしたし、言った自覚があるのだろう。目を泳がせて天井付近を見ている彼に、藤丸は噴き出しそうになったのを堪えた。
「っく、ふふ」
 それでも止められなかった一部が飛び出して、肩が震えた。慌てて口を塞ぐが後の祭で、カドックからは忌々しげに睨み付けられた。
 盛大に舌打ちして、彼はテーブルを膝で突き上げた。ガコン、と乱暴な音を響かせて、自慢の長い脚を行儀悪く組んだ。
 一気に不機嫌になったものの、それでもカドックは部屋を出て行こうとしない。
 その面倒見の良さに相好を崩し、藤丸は一向に反応を示さない蕾を撫でた。
 頬杖をついて姿勢を低くし、蕾の次に花瓶をなぞる指の動きに合わせ、肘の角度を下げていく。
 最終的にテーブルに突っ伏して、彼は静かに目を閉じた。
 思い浮かぶのは、ここ数日の出来事。
 レイシフトに向けての訓練で、碌な結果を出せなかった。同じチームのメンバーからは呆れられ、罵られ、見放された。
 補助役と参加していたマシュ・キリエライトには慰められたが、自分の不甲斐なさを痛感して、覚悟していたこととはいえ、ショックだった。
 なんとかしたい。
 なにかしたい。
 できるようになりたい。
 できるようにならなければならない。
 真綿で首を絞められるような息苦しさから抜け出したくて、助けを求めた。伸ばした手を掬い上げてくれた人から、初心者向けの訓練方法があると教えられた。
「……だめ、なのかな」
「お前が期待されてるのは、魔術師としての素養じゃないだろ」
「うん」
 カルデアの職員とは違う、風変わりな衣装に身を包んだ美女も、カドックと同じ事を言っていた。
 推奨しない。意味がない。君の願いは叶わない。却って傷つき、辛くなるだけ。それでも良いのかと、静かに問われた。
 構わないと頷いた。一ミリでも可能性があるのなら、希望を託したかった。
 否、本当は分かっていた。知っている。向いていないこと、才能がないこと、見込みがないことも。
 ただそれを、他人が吐いた言葉で飲み込むのは癪だった。認めたくなかったし、漫然と受け入れるのは、なけなしのプライドが許さなかった。
「そうだけど。でも、みんなと同じものを、同じ高さで見たいって思うのは、わがままかな」
「その考え方は、魔術師への侮辱に聞こえる……って言う奴も、いるだろうな」
 顔を伏したままぼそぼそ言う藤丸に、カドックはやや歯切れが悪く言い返した。
 見えないが、苦々しい表情を浮かべているのは容易に想像できた。なにも知らぬ一般人として育った藤丸に対し、魔術師として鍛練を積んだ側の存在であるのに、彼がこうやって接してくれるのは救いだった。
「で、どうする。それでもまだ、お前は続けるのか?」
 重苦しい沈黙が流れ、耐えきれなくなったカドックが声を幾分高くした。テーブルを一度、拳で強く叩いて藤丸を脅し、振動で起き上がるよう促した。
 揺れた天板で低い鼻を潰され、渋々身を起こす。僅かに赤くなっている箇所を優しく労って、藤丸は残された小さな蕾に頬を緩めた。
「がんばるよ」
 折角用意してもらったのだ、無駄にするのは惜しかった。
 希望がすべて潰えたわけではない。なにか方法があるかもしれない。潔く諦めるのも時には必要だが、それは性に合わなかった。
 なにせ奇跡のような魔術を、たった今、目にしたばかりだ。
「無駄だと思うけどな」
「じゃあ、もしオレが咲かせられたら、なにか奢ってよ」
 カドックは鼻で笑うが、言葉の端々は優しい。つられて目を細めた藤丸の提案に、彼は虚を衝かれたのか目を点にして、数秒してからぶっ、と噴き出した。
「いいぜ、できたらだけどな」
「よーし。んじゃあ食堂の全メニュー制覇、目指しちゃおっかな」
 奇跡を信じない魔術師が腹を抱えて笑い、藤丸は勇んで握り拳を突き上げた。
 気合いを込めて椅子から立ち上がり、本人なりに格好良いと思うポーズを決めてから、何気なくテーブルへと視線を戻す。
 部屋の中が急に明るさを増した気がして、カドックも数度瞬きを繰り返した。
「え?」
「はあ?」
 天井に埋め込まれたライトが点滅したのかと考えたが、見上げた先に異常はない。四つある照明器具に変調は現れず、そもそも誰も照明用のリモコンを操作していなかった。
 ならば何故、と部屋にいるふたりの眼差しが向かった先で。
 少し前までは静かに佇んでいるだけだった花が、一輪挿しの花瓶をカタカタ揺らす勢いで震えていた。
「なに? え、なに。なにこれ、こわい」
 ずっと無反応だったものが、突如ぶるぶる動き出したのだから、ある意味ホラーだ。なんら動力を与えられていないのに、自発的に振動しているのは見るからに異様で、おぞましい光景だった。
 前触れのない出来事に言葉を失い、生理的な恐怖から身を竦ませる。
 一方のカドックはとある可能性に思い至り、椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
「まさか藤丸、お前」
「うそ。オレ、ひょっとして才能あったの?」
 声を上擦らせた彼の発言に、藤丸もピンときた。
 込めた魔力が即座に発動せず、遅れて作用したのだとしたら、一応の説明がつく。散々こき下ろされてきた反動で歓喜に目を輝かせ、藤丸は徐々に膨らんでいく蕾に万歳と両手を高くした。
 これほど嬉しいことはなかった。
 長く願い続けた奇跡が、ようやく叶うのだ。泣きそうな顔で心を震わせて、彼は期待を込めて丸々と太っていく白い蕾に手を伸ばした。
「……いや、待て。藤丸。なにかおかしくないか?」
 だが触れる直前、カドックが声を低くした。
 牽制され、指先が空を滑る。空振りした手を中空に漂わせて、藤丸はきょとんとしながら改めて一輪挿しに注目した。
 カドックが実戦してみせたように、白い蕾は大きく膨らみ、今にも綻びそうなところまで来ていた。そして蕾だけでなく、胴長の花瓶の中にあった茎までもが、当初の倍近くの太さになっていた。
 透明なガラス容器が増大する緑に食い込み、力の鬩ぎ合いが発生していた。ミシミシと不審な音が立ちこめて、その間も蕾は著しい成長を遂げていた。
 親指大がせいぜいだったものが、今や拳ひとつ分に等しい。いつ弾けても不思議ではないサイズとなりながらも、まだ膨らみ足りないのか、花弁の数を増やして容積を嵩上げしていた。
「ねえ、これってほんとにオレのせい?」
「僕が知るわけないだろう!」
 常軌を逸した変貌ぶりを目の当たりにして、自分の成果だと誇れるほど、藤丸立香は傲慢ではない。
 動揺して声を高くした彼に怒鳴り声で応じて、カドックは更なる異変を警戒し、辺りを見回した。
 物が少なく、整理整頓が行き届いた部屋は、ある意味で生活感が薄い。チェストには故郷から持ち込んだというカップ麺が詰め込まれているという話だが、それも残り僅かだと聞いていた。
 壊れて困るものはそのチェストくらいだろうが、万が一爆発でも起きようものなら、カルデアの運営自体に関わりかねない。
「なんだってお前は、こう、いつもトラブルばっかり起こすんだ」
「そんなの、オレが知りたいよ。ていうか、これ、カドックのせいじゃないの?」
「僕がこんな真似できると思うなよ!」
「それはなんか、ごめん!」
 カドックは自分で、花瓶に付与された魔術は破壊できない、と言っていた。
 だのに彼らの眼前では、巨大な化け物となり果てた花が、今まさに一輪挿しを木っ端微塵にしようとしていた。
 嘘偽りのない告白に大声で謝罪して、藤丸はテーブルから二歩、三歩と後退した。逃げ場のない部屋の奥へひとり向かおうとする彼を制したのは、原因不明の異常事態に動揺が拭えないカドックだった。
「バカ。こっちに来い」
 万が一花瓶が破裂した場合、その破片にも魔力が乗る。強度を増した欠片は、どれだけ小さくても脅威だ。
 己の身を守る術すら持たない人間を放っておけなくて、彼は咄嗟に藤丸の手首を掴んだ。弱い抵抗を力技でねじ伏せて、無理矢理傍へと引き寄せた。
 一輪だけだった小さな花は、気が付けば二輪、四輪、八輪と蕾を増やし、一種のクリーチャーへと変貌を遂げていた。
 訓練のシミュレーションでも、ここまで禍々しいものは見たことがない。横スクロールのアクションゲームで、土管から生え来るあの植物を一瞬思い出して、藤丸は自分を抱え込むカドックの腕にしがみついた。
 限界まで膨らんだ蕾の外殻が、めりめり、と音を立てて剥がれ始める。
 落ちた萼の破片は数センチの厚みに至り、ドスン、ドオン、と局地的な地震を引き起こした。膨張を続ける花はついに天井に到達して、室内を照らす光を遮った。
「――来るぞ!」
 真っ暗な中、予測される終末世界を一足先に体験して、汗と震えが止まらない。
 どんな訓練よりも恐怖を覚え、藤丸はカドックの号令に合わせて頭を庇って丸くなった。歯を食い縛り、息を止め、仲間が作る防御壁の中で小さくなった。
 死を意識した。一瞬訪れた、不気味なまでの静けさに涙を堪え、縋り付く体温だけを頼りに時が過ぎるのを待った。
 瞼の先が僅かに明るくなったが、思考は停止していて、結果として判断が遅れた。
「…………――――?」
 薄く開けた唇から息を吐き、異様に大きく聞こえた時計の音に、目を閉じたまま首を振る。
 トントン、と肩を叩かれた。
「お前か。……お前か。お前かあ!」
 その手は間違いなくカドックのはずだが、直後に聞こえてきた声は彼らしくない怒りに満ち溢れていた。
 感情を剥き出しにした怒号にビクッとして、藤丸は惚けたまま瞬きを繰り返した。
 部屋の中は、明るさを取り戻していた。
「うわ」
 それだけでなく、爆発すると思い込んでいた花々は、どれもこれも無事だった。しかも人の顔くらいありそうな大輪を咲かせて、僅かに金色を帯びた輝きを放っていた。
 太陽に似ていた。
 菊のようでもあった。
 咲く瞬間を見逃したのを、今さらながら惜しく思った。最も近い場所にあった花に恐る恐る手を差し出せば、それはまるで生きているかのように頭を垂らし、ぽすん、と掌に収まった。
「なにこれ。すごい……」
 大量の花弁を何重にも纏い、それでいて造詣は破綻していない。一方で破裂の危機にあった花瓶はといえば、大半が茎の中に取り込まれ、一部だけが顔を覗かせていた。
 なにがどうなったら、こうなるのか。
 唖然としていたら、横からドン、と大きな塊がぶつかってきた。
「おわ。っと、と、と」
 言わずもがな、犯人はカドックだ。油断していた藤丸はふらつき、横向きに数回飛び跳ね、転倒を回避した。
 口から出そうになった心臓を呑み込み、振り返る。
 真っ先に目に入ったのは、怒りに震えるカドックの後ろ姿と、全開になったドアの先に立つひとりの青年だった。
「あれ。え? ……キリシュタリア?」
 僅かにウェーブがかった豊かな金髪で、貴族然とした優雅な白いコートを羽織り、右手で大ぶりの杖を握り締めている。ただし表情は戸惑い気味で、いつもなら穏やかな笑みを浮かべている口元は、困惑に歪んでいた。
 僅かに眉を顰めて、いきりたつカドックの苛立ちを全身で受け止めつつ、その理由が分からない様子だった。
「お前が、お前の、……お前のせいで! 死ぬかと思ったんだぞ!」
 一方のカドックは感情のままに吼え、握り拳を上下に振り回した。勢い余った肘が後ろに飛んで来て、藤丸は慌てて避けて彼の肩を掴んだ。
「ど、どうしたのさ。落ち着こう、カドック」
「お前こそ、なんで落ち着いてられるんだ。誰が、どう見ても、これは! こいつが元凶! だろうが!」
 頭から煙を噴いているAチームメンバーを宥めるが、効果はなかった。逆に火に油を注ぐ格好となって、部屋の中を指差された藤丸は、改めて自室がどうなったかを確かめた。
 テーブルは花の重みに耐えきれず、横倒しになり、ふたり分の椅子がその周辺に転がっていた。人の腰くらいありそうな太さに育った花茎がどん、と床に突き刺さり、そこから分岐した花が天井を覆い尽くす勢いで咲き誇っていた。
 微かに甘い匂いが漂う。魔力を帯びた花弁が光を反射し、艶やかに輝いた。
 クリーチャー扱いしたのを反省しなければならないくらいに、綺麗な花だった。
 ただ大きさは、尋常ではない。熱帯雨林の植物も顔負けのサイズが、藤丸の部屋を埋め尽くしていた。
 どれほどの魔力を注がれたら、ここまで育つのだろう。
「だめ、……だった、かな?」
 呆気にとられて立ち尽くす部屋の主を遠巻きに見て、元凶と名指しされた青年がおずおずと声を上げた。
 ここに来て自分がどれだけのことをやらかしたか、ようやく認識したらしい。キリシュタリア・ヴォーダイムは若干申し訳なさそうに首を竦め、明後日の方向を見ながら頬を掻いた。
 白手袋で白い肌を数回擦り、ちらりと横目で藤丸を窺い見る。
「君たちが、なにやら、おもしろいことをしていると聞いて。その、少し驚かせてみようかと、思ったんだ。が」
 喋りながらまた目を泳がせて、彼は遠くの壁や、床を眺めては、時々人の顔色を探りに来た。
 ちょっとした出来心と、悪戯心と、茶目っ気だったのだろう。但し壁越しの魔力操作で、室内がどうなっているかまでは、把握できなかったらしい。
 頬にあった手は言い訳の最中に力を失い、だらりと垂れ下がった。
 反省し、恐縮し、申し訳なさそうに顔を伏した彼を前にして、少しは溜飲が下がったのか、カドックも握り拳を解いて肩を竦めた。
「で、どうする。藤丸」
「ああ、うん。びっくりした。驚いた。やっぱりキリシュタリアって、……すごいんだね」
「おい、藤丸。なんで今、僕の顔を見た」
 肘で小突かれ、藤丸は背筋を伸ばした。今晩の寝床にも苦慮する状態にまだ混乱は抜けきらないものの、魔術師としての力量の高さを見せられたのには、感心するより他になかった。
 比較されたカドックに突っかかられたが、笑って誤魔化す。再度煙を噴く彼を宥めて落ち着かせて、藤丸は肩身狭そうに立つ青年に近付いた。
 さすがは優れた魔術師の中でも、特に優秀なメンバーだけが集められたAチームのリーダー様だ。ここまで巨大化しても立派に咲く花を、複数コントロールしてみせた。
 生まれながらの天才魔術師は、これくらい造作もないのだ。そんな男と肩を並べようだ、同じ高みを目指そうだなど、烏滸がましいことこの上ない。
 乾いた笑いが漏れた。
 ただ目の前に咲く花の美しさは、否定できなかった。
 妬むなど、どうして出来ようか。羨むことすら、できそうにないのに。
 絶対的な力量の差を見せつけられて、高すぎる壁を改めて痛感した。だというのに真っ先に出て来る感情は、『くやしい』の四文字で埋め尽くされていた。
「藤丸」
「でもさ、キリシュ。ちゃんとこれ、片付けてよ?」
 ぐるぐる回り続ける感情を悟られまいと、腹にぐっと力を込めた。斜め後ろからカドックの視線が突き刺さるのを気取りつつ、一切を無視して、なんてことないよう振る舞い、キリシュタリアの肩を軽く小突いた。
 このままにされたら、部屋で眠れない。落ち着けない。
 原因である男に後始末を任せ、目を合わせることなく廊下に出た。
「藤丸、待ってくれ」
「食堂に居るから、終わったら教えて。んじゃ、よろしく」
 追いすがる声を振り切り、振り返らない。息を吸えば、鼻の奥がつんと痛んだ。
 気丈に胸を張って進む背中を目で追って、遅れて廊下に出たカドックが立ち尽くすチームリーダの臑を蹴った。ギリ、と苛立たしげに奥歯を噛んで、猫背気味の姿勢から目つきも悪く睨み上げ、僅かに臆した男から顔を背けた。
「後で藤丸の良いとこ、十個なり、なんなり、全力で褒め倒すんだな。今回は、キリシュタリア、お前が全面的に悪い」
「カドック」
「ったく。僕はお前らの世話係じゃないんだぞ」
 嫌味を残し、食堂とは逆方向に走って行った青年を追いかけ、歩き出す。
 ひとり残されたキリシュタリアは、無人の部屋で静かに咲く花と向き合い、ふっと皮肉めいた笑みを浮かべた。
 伝えたかった想いがあったのに、言葉にする猶予すら与えられなかった。
「君に、花を……渡したかっただけなのに。どうしてだろう、藤丸。私にこの魔術は、嗚呼。……難しい、な」
 

2021/09/26 脱稿

Summer’s Shower

風鈴の音が風に揺られて鳴り響いている。
 ちりん、ちりりん……
 穏やかな空気に包まれた夏の日の午後。東の空には入道雲が顔を出し、幾らか湿気を帯びた風が先程から吹き付けだしていた。しばらく待てば夕立がやってくるだろう。雷が鳴るかも知れない。
 様子を眺めながら、アッシュが庭先の物干し竿から大慌てで洗濯物を回収している。それを軒下で眺めながら、スマイルはしゃりっ、と薄水色をしたアイスを囓った。
 冷たい感覚が舌先に落ち、微かにソーダ味が口の中に広がって溶けていく。熱に紛れた涼は一瞬で消え失せ、羽織ったTシャツを摘んでぱたぱたと前後に煽り少しでも涼しさを求めようとするがあまり効果は期待できない。
 いくら一雨来そうだとは言え、空の半分はまだ青空に包まれている。アッシュが「雨の匂いがする」と言っているものの、俄には信じ難い晴天模様だ。
「本当に降るのかなぁ……」
 もうひとくち、アイスを口に運びながらスマイルは呟いて片膝を抱き寄せた。夏の暑さに長ズボンは辛いという理由から、彼の現在の出で立ちはハーフパンツにTシャツ一枚。口には棒アイス、ソーダ味。
 汗はこうしている間も背中に、腕に浮き上がり珠を作ってはシャツに吸い込まれていく。雨が降ることで気温が下がれば良いのだが、湿度が上がることを考えると諸手をあげて歓迎するのも憚られた。
 真っ白いシーツが風を受けて大きく膨らみ、そしてアッシュの腕の中に回収されていく。そう言えば蒲団干してたっけ……と午前中の既に遠くなってしまっている記憶を呼び起こしながら、スマイルは彼の動きを視界の端で追いかけた。手伝ってやろう、という気は全くないらしい。
 口の中でアイスが溶けていく。
 変に甘ったるい味がして、銜えていたアイスを抜き唇を拭う。溶けて角を失っている箇所を囓って、もう一度口元を拭うと空を見上げた。
 さっきよりも少しだけ、空が暗くなっている気がする。
「其処に居たら雨に濡れるぞ」
 真後ろから声がして、振り返ると何時から其処に居たのかユーリが立っていた。
「まだ降らないよ」
 一瞬遠くで雷が鳴る音が聞こえたような気がした。言い返しはしたが、あと五分もすればこの近辺も夕立の地域に入ることだろう。
「涼しくなってくれると良いんだけどねぇ」
 頬杖を付いて、庭先を見る。もう物干し竿に吊されているものはなにひとつとしてなかった。
「濡れるぞ」
「降り出したら、中に入るよ」
 半分ほどに減ったアイスを口にする。相変わらず、酷く甘ったるい。
 仕方がないな、という風情でユーリが肩を竦めた。そして何を思ったか、半開きの窓をもう少し広げて自分の居場所を確保してスマイルの隣に腰を下ろした。
 ベージュのシャツにグレーのスラックス。暑いのか、前ボタンは三つ目まで外されていた。ユーリにしては、珍しい。
「濡れたいの?」
「まだ降り始めていないだろう」
 早く中に入れ、とさっきまで言っていた本人が軒下にスマイルと一緒に陣取っている。肩を揺らしてスマイルが笑うと、さっき彼が理由にした事をそのまま返されてしまい余計に苦笑を禁じ得なくなってしまう。
 風鈴の音色がだんだん重くなってくる。
 東から来る風が湿り気を帯びているのだ、アッシュでなくても少し気を付ければ風の中に水の匂いを感じ取れた。
 遠雷が聞こえる。
「……食べる……?」
 なにかを語り合うわけでもなく、ただ並んで座りながら風鈴の音を聴いて雨を待っている。
 下の方まで溶け掛けているアイスをユーリの前に差し出すと、彼は怪訝な表情でスマイルを見返した。
「いらない?」
「…………」
 返事はなくて、代わりに首を伸ばしたユーリが前歯でアイス棒の根本に近い箇所を囓った。スマイルが食べていた方とは、逆位置。
「間接キス、狙ったんだけどねぇ……」
 見え透いていたかな、と首を捻ってスマイルは自分が食べていた続きを囓る。さっきよりも更に甘さが増している気がした。もうアイスの冷たさも感じられない。
 ぽつり、と一滴。
 庭の常緑樹の葉が揺れた。
「甘いな」
 ぽつり、とユーリが呟く。
 え、とスマイルが彼を振り返り見る。綺麗な横顔が、降り始めの雨に濡れる庭を眺めている。
「アイス」
「ユーリの方が」
 何倍も甘いよ、と言いかけて突然その彼が真っ正面から見返してきたので驚いてしまう。言葉が中途半端に途切れた。
 空を稲妻が走る。金色の光が駆け上っていった。
 雨が強くなる、噎せ返るような水の匂い。
 お互い向き合ったまま、無言で居るうちに気が付けばどちらが先ともなく、口付けていた。
 触れるだけのキス、離れる時に吐息が頬を掠めて雨に冷やされた空気の中異様なほどに熱さを感じた。
 目を閉じる。今度はさっきよりも少しだけ長いキス。
 溶けたアイスが軒下に滴り落ちていく。雨に濡れ、雨に混じって土に紛れる。
「濡れるね」
「そうだな」
 本降りの様相を呈してきた雨雲をちらりと見上げ、笑いあった。
 風鈴の音は、雨音にかき消されてもう聞こえない。
 口の中にはソーダ味のアイスの甘ったるさ。そしてお互いの吐息の熱さ。

 さて、どっちが甘い?

 夕立はもうしばらく、降り続きそうだった。

Sky-high

 その日、三日間降り続いていた雨が漸く止んだ。

 緩やかな傾斜を抜けて、意識がすぅっと持ち上げられていくのを感じる。そのまま流れに身を任せていれば、やがて瞼の向こう側に微かな光を見つけた。
 吐息をひとつ零し、意識を柔らかな光の中へと委ねる。するとそれまで地底湖の暗やみに閉ざされていたかのような世界が劇的な変化を見せ、目映いばかりの陽光に照らされた草原へと様相を一変させた。
 驚きを隠せぬまま目を見張る。そうやって意識せぬまま夢現の中で瞬きを繰り返しているうちに、本当に意識は夢の空間から抜け出してぽとり、と伸ばそうとしていた腕が柔らかなクッションの上に落ちた。
 そこでようやく、目が覚める。
 持ち上げきるにはかなり億劫な重い瞼の向こう側には、何の変哲もない、いい加減見慣れすぎた感もある天井があった。白い壁に包まれた室内はモノトーンで、薄いレース地のカーテン越しに差し込む太陽の光がかろうじて室内の様子を教えてくれている。
 眠りに入る直前となんら変化のない自室の様子をベッドに寝転がったまま眺め、落ちてしまった腕を掲げると今度は額の上に落とした。ぼとり、としかし目測を誤ってしまったそれは額ではなく閉じる寸前だった両目の上に落下してしまい、ほぼ同時にはぁという溜息が唇の上を滑り落ちていった。
 顔の造形のままにカーブを描く頬に指を辿らせると、耳の側へとそれは身を沈めた。暫くそこを居場所と定めさせ、改めて天井を見上げてそれから、ふと気がついたように首を捻り視線だけを窓へと投げつける。
 光が、細かい刺繍の施されたレースのカーテンの隙間から溢れていた。
 その事を思い出した瞬間にはもう、彼の背中はそれまでどうあっても剥がれそうになかったベッドから離れ、肩までしっかりと被っていた薄手のケットもはね除けていた。膝の上辺りに溜まった格好のそれも引き出した右足で蹴り飛ばすと、素足のままひんやりとしたフローリングへと降り立った。
 大股に数歩行き、そして立ち止まる。
 一呼吸の後にサァッとカーテンを両手で一気に左右へと広げた。途端に薄い窓硝子の向こう側からは目が潰されるのでは、と思うくらいの強い陽射しが流れ込んできた。反射的に瞼を下ろし、加えて右手を庇代わりにしてまともに光を浴びることを回避した彼だったが、指の隙間から覗く光景に息を呑んだ。
 晴れている。
 裾を掴んだままだったカーテンを放し、フック形式の鍵を外して窓を押し開く。すんなりと真ん中から左右へ別れて広がった窓枠の向こうから、改めて眩しい光が彼にお辞儀をした。
 昨日まで視界の端から端までを覆い尽くしていた重苦しい色をした雲の姿は、もう何処を探しても見付かりそうにない。思わず身を乗り出した彼の頬を、薄緑色の香りを乗せた柔らかな風が撫でていく。寝癖で少しばかり潰れ気味になっていた前髪がふわり、と浮き上がった。
「晴れたのか」
 見れば誰であっても分かる、そして彼自身も既に分かり切っている結論を改めて口に出して呟き、なかなか出てこなかった実感を肌で受け止める。言葉にして余計に強く感じた久方ぶりの晴天という環境に、無意識に表情が緩んだ。
 雨は嫌いだ、じめじめするから。
 その嫌いな雨が今回、三日間も降り続けていた。空はどんよりと湿って重く、空気も冷える上にどこか生臭い。そういう季節だから仕方がないと言えばそれまでだが、三日も同じ天候で過ごさねばならない事はかなりのストレスだった。
 しかも洗濯物も外に干すわけにはいかなくて、ついにはリビングにまで物干し用の綱が登場した昨日はもう、彼の機嫌は限界に達しようとしていた。天気予報の言い分では昨日の段階で晴れていなければならなかったのに、それが見事に外れてしまって本気で苦情の電話を入れてやろうかと思っていたくらいだ。
 これで明日晴れなければホワイトランドに直訴に行くぞ、と息巻いて眠りに就いた事を思い出す。そんなはた迷惑な苦情を受け止めたのか、本日は見事な快晴。流れていく雲も真っ白で、視界を下へ映せば早朝から活動を開始していたらしい狼男が一所懸命に雲と同色のシーツを広げているところだった。
 ああ、晴れ渡る空って気持ちがいい。
 再度風を感じて伸びをした彼に、下から声が掛けられる。
「ユーリ、朝ご飯出来てるっス」
「分かった、直ぐに支度をする」
 口元にやった手を拡声器代わりにしたアッシュへ言葉を返し、窓から顔を引っ込めたユーリは身に纏っていたパジャマの釦を外しながら、昨夜用意して置いた着替えを手に取った。
 開け放たれたままの窓からは涼しい風が程々に流れ込んでくる。揺らめくカーテンが縁取る蒼の世界に、ふと、白いなにかが通り過ぎていった。
 空高く流れていくそれは直ぐに視界から消え去った。首を捻るユーリの耳に、遠くから、アッシュがもうひとりの同居人を呼ぶ声が聞こえた。
 暫く待ってみたがもうあの白い存在は戻って来る様子が無く、ユーリは一息ついた後着替えを再開させる。そして上下共に普段着を纏い終わる頃にはすっかり、蒼の中へ吸い込まれていった白い影の行方もすっかり頭から抜け落ちていた。

 縦に細長いテーブルでひとり、静かに朝食を片付ける。他の面々は既に食事を終えているようで、それを証明するかのようにユーリが座席に着くのとほぼ同時刻に、正面玄関を飾る巨大な柱時計が午後十時の鐘を鳴り響かせていた。
 耳の奧にまで反響してくるその音色を聴きながら、彼は自席に腰を落ち着けると銀色の底深い皿に盛りつけられたパンをひとつ手に取った。ひとり分のサイズに切り分けられたフランスパンを千切り、口に運ぶに適したサイズにしてからマーガリンを端に乗せる。
 他には青野菜を中心にしたサラダ、カリカリに焼いたベーコンに半熟卵、兔の形にカットされた林檎が皿の上を所狭しと飾っていた。本当ならばもっとボリュームが感じられたのであろうが、生憎と先客が半分以上の量を片付けてくれたようでユーリが目に出来たのは本当に残り物に等しい。
 吐息を零しながらフランスパンにかじり付き、ユーリは視線を巡らせた。
 リビングと繋がっている食堂は無駄に広い。そのだだっ広い空間に今、ユーリはひとりきりだった。
 アッシュは未だ洗濯物と悪戦苦闘している最中である。三日続きの雨で溜まりに溜まった汚れ物を乾かす千載一遇のチャンスを逃すわけには行かないと、彼は朝から庭と洗濯機が置かれている裏庭の庇の下を何度も往復していた。その証拠に、普段は余裕がある物干し竿が今は真っ白なシーツや、城の住人が出した汚れ物に占拠されてまったく隙間が見当たらない。
 しかもそのうちの大半が、雨の中でも平気で外出を繰り返していたとある人物の所持物だった。傘を持って出かけたはずなのに帰宅時には何故か手ぶらで、頭から雨水を垂らすような状況をこの二日ばかり繰り返していた張本人は、まるで反省の色を感じさせぬまま今も、庭を望むリビングの窓辺に腰を下ろしている。
 噛み砕いたパンをトマトジュースで嚥下したユーリは、何気なくその背中を見つめた。
 ユーリが食堂へ出向く為にリビングを素通りした時も、彼は振り返らなかった。両手を後ろに置き、窓辺に腰掛けて両足を庭へと投げ出している。特に何をするわけでもなく、ブラブラと手持ち無沙汰の様相で庭を、敢えて言うなら忙しなく動き回るアッシュを眺めているだけの彼。
 一体何が楽しいのかさっぱり分からないまま、ユーリは遅い朝食を平らげていった。
 少々青臭いサラダに眉根を僅かに顰めつつも、数回咀嚼して唾と一緒に呑み込む。上下する喉が収まった頃にふと視線を感じた気がして顔を上げると、片隅で手持ち無沙汰にしている彼の姿がそこにあった。
 先程までとなんら変化していないように見えるのに、彼の周りにあった空気が変化しているように感じる。何が変わったのだろう、と首を捻りながらユーリはそのまま彼の、その位置からかろうじて見える背中を眺める事にした。
 渇いた喉をジュースで潤し、濡れた唇を指先で弾く。赤みを帯びた舌先で残っていた湿り気を拭うと、不意に彼が振り返った。
 左側を真っ白の包帯で包み隠した蒼く塗られた顔がユーリの脇を通り抜け、別の場所へと向けられた。
 まったくもって、其処に座っているユーリを無視した視線のやり方だった。
 思わずむっとしてしまったユーリに気付く素振りもなく、彼は漸く洗濯物の始末をつけたアッシュへと二言三言、声を投げかけた。空っぽになった洗濯かごを両手に抱き込んで通りがかっていたアッシュは、食堂のテーブルに向き合ったままのユーリの傍らをすり抜けてリビングへ出向き、わざわざ彼の隣にまで出向いて腰を屈めながら窓際で動かない彼になにやら言葉を返している。
 彼は笑い、つられるようにしてアッシュも困ったような、けれど楽しそうな笑顔を表面に形作った。彼らの語り合う言葉の中身は、壁を隔てていないのに関わらず遠い世界の果てに追いやられた錯覚に陥っているユーリにまで届かない。
 それが何故か癪に障り、ユーリは右手に握っていたフォークを勢い良く皿に残っていたベーコンへ突き立てた。罪のないベーコンは反動で端を僅かに持ち上げたものの、直ぐにへたりと平らになって抵抗の意志無しを表明する。
 白旗を早々に上げたベーコンを口に運んで乱暴に歯で引きちぎり、ユーリは荒っぽく噛み砕く。ガシャンガシャンと食器が擦れあって不協和音を奏でて彼の仕草を非難するが、咎めるべきアッシュも今はその様に気付かなかった。
 折角三日ぶりに晴れたというのに、目覚めてすぐのあの爽快感を見失ったユーリは苛々とした気持ちを隠さないまま、朝食を終えた。
 そんな彼の様子をこっそりと、そうと知られないように窺っていた彼――スマイルは密かに溜息を零して、アッシュに目配せをしながら肩を竦めた。
 傍観者の立場に回る事に決めたアッシュは、そんな態度しか取らないスマイルに苦笑し、程々にしておくように釘を刺して立ち上がり、残る仕事を片付けるために足早に去っていった。残された彼がアッシュを見送る側で、ユーリはやはり眉間に皺を寄せたままフォークの先端で皿の表面を削っており、離れたこの場所まで低く響いてくる音に嘆息したスマイルは更に肩を竦め、そして些か自嘲気味に微笑んだ。
 そのまま視線を持ち上げ、窓から覗く空を見つめる。
 晴れ渡った空は相変わらず、心地よい風を吹かせながらそこに広がっていた。

   一点の曇りもない空は何処までも高く、澄み渡っているから。

「ユーリ」
 えへへ、と彼が笑った。
 側に近付くと、彼はそれが余程嬉しいのか表情を隠そうともせずに隻眼を細め、窓枠の外へと投げ出した両足をばたばたと揺らした。地上部分と城内の床との、三十センチほどある落差の間で両足を子供のように動かす彼に呆れかえり、あと数歩で真横に到達できる位置で立ち止まったユーリはその位置で自分の腰に右手を添えた。
 もうそれ以上近付く様子がないユーリを首から上だけ降り仰ぐことで確認したスマイルは、若干つまらなさそうに唇を歪める。けれど立ち入った事にまで言葉を差し向ける真似はせず、ユーリが伸ばせば手が触れる位置まで来ないことを了解したようであった。
 ぷらん、と投げ出された右足が宙を舞ってまた落ちる。彼は靴を履いていなかった。
 素足がズボンの裾から覗いている。さすがに足先まで包帯でくるむのは面倒だったのだろうか。しかし見たところ、今のスマイルは左目以外の箇所を包帯で隠していないようだった。それは別段珍しいことではなく、城から出る事のない休暇などはいつもこの調子だ。単に本当に面倒なだけか、それとも城で共同生活を送る仲間には隠す必要がないと考えているのか。
 スマイルの本心は、未だに掴み所が無い部分を彷徨っている。
「ユーリ?」
「なんだ」
 ぼんやりしてしまっていたのだろう、スマイルが下から声を投げかけてきてユーリはぶっきらぼうに問い返した。
 しかしスマイルは彼の名前を呼んだ事に特別な理由があったわけではないようで、ユーリもその事は分かり切っていた。それでも問わずにいられなかったのは条件反射としか言いようが無く、返答に窮して黙ってしまった彼に、ユーリは申し訳なかったかと密かに嘆息した。
 気配でユーリが困っている事を察したのだろう、スマイルがふっと微笑んだ。
 投げ出していた足を引き戻し、きちんと窓辺に座り直して姿勢を正す。ぽんぽんと自分のすぐ横の床を右手で叩き、促すような視線をユーリに向けた。
 ここの至ってようやく、ユーリは其処に座るように言われている事に気付いた。
 数瞬迷った後、結局言われるがままにユーリは彼の隣に腰を下ろしていた。ただ開いている窓の幅では自分が座るのに若干狭すぎて、仕方なく膝を折る前にガラス窓を横にスライドさせる必要があったが。そうやって視線を落としながら座ろうとしたユーリの足許付近に、隠れるようにしてスマイルが履いていたのであろう靴が見えた。
 踵が潰されているスニーカーは白いはずの爪先部分が泥にまみれている。よくよく視界を巡らせて庭を見据えれば、緑色を濃くしている芝の下はたっぷりと雨水を吸い込んだ土がかなりの度合いで、ぬかるんでいるようだった。
 遠目には気付きにくかったが、今庭に降り立てばもれなく靴裏が泥に沈む事だろう。既に早朝の段階でそれを実践したらしいスマイルの横顔を窺うと、彼はユーリの思考などまったく感知しない場所に意識を置いているようだった。
 丹朱色の隻眼を細め、眩しそうに庭木の頭上高くまで登っている太陽を見上げている。
 ふわりと吹き込んできた風がお互いの前髪を擽り、揺らして去っていく。風の妖精にからかわれたような錯覚に陥り、方向を違えてしまった前髪を指先で弄っていると不意に、ユーリは真横で動く気配に気付いてびくりと肩を硬直させてしまった。
 なんだろう、と恐る恐る強張った表情を戻しつつ傍らを覗き見ると、そこには不思議そうにしたスマイルが居て、自分が意識せぬままに緊張してしまっているのだと今更ユーリは思い知った。
 そんな必要など、どこにもないはずなのに。我ながらガラにもない事をすべきではないと肩を落として溜息をついている間に、スマイルの意識はまた別の方向へ向いてしまったらしい。気付けばもう彼はユーリを見ていなくて、彼の視線の先へと目をやったユーリはそこに、澄み渡る真っ青な空を見つけた。
 なんの変哲もない、代わり映えのしない青空、それだけだ。
 だのにスマイルは随分と熱心に見上げている。首が疲れないのかと心配してしまいそうなくらいに急角度で、庭木の間から頭上に真っ直ぐ広がる蒼いキャンパスを片方だけの瞳に収めようとしている。つられるように青空へ視線を戻したユーリは、その中にぽっかりと浮かんだ真っ白な雲に気付いた。
 上空では地上よりも強い風が吹き抜いているのだろうか、若干速い速度で流されているそれをどうやら、スマイルは見つめているらしかった。
 雨上がりの空はどこまでも澄み渡っている。普段よりも青色が濃く感じられるのは、雨で上空に蓄積されていた不純物や化学物質が地上へ流されるからだ、とも言う。
 だから三日ぶりの晴天を迎えた今日の空は、いつもよりずっと高く、澄んでいる。
 ふたり、暫くそうやって言葉を交わしあうことも忘れて空を見上げていた。いつの間にかユーリの姿勢は楽なのか右足を上にして組まれ、突出した膝の上に左の肘が乗り頬杖を付いていた。指を曲げて作られた関節上の段に顎を置き、やや顔の角度を斜めにすれば見上げた先に空が映る。
 青と白のコントラストが美しい世界を堪能する事に夢中になっていたユーリは、しかし傍らで細かく肩を動かすスマイルを思い出して怪訝そうに眉根を寄せた。数分は無視を続けるものの、どうしても気になって目線だけを横に流す。
 きちんと揃えられた両膝の上で、スマイルは何処から取りだしたのか色紙を折り畳んでいた。
 黄檗色の、正方形をした紙の角を揃え、しっかりと折り目を付けながらある形に仕上げていく。手慣れているようで、けれど慎重さを欠かない指先の動きにユーリは顔を顰めたまま声を掛けることも忘れ、じっとスマイルの手元に見入ってしまった。
 簡単な折り方だった。さほど苦労する事無く、スマイルの手先は正方形の薄っぺらい紙を立体に作り替える。先端を尖らせ双翼を持ったそれは、紙飛行機。
「完成」
 何が出来上がるのか楽しみにしていたユーリは、できあがりの品を見てなんだ、と溜息をついた。それこそスマイルがむっ、と片眉を持ち上げるくらいにあからさまに。
「紙飛行機程度で、何を嬉しそうに」
「そんなこと言うんだったら、ユーリも作ってみれば?」
 はい、と言いながらスマイルは新しい折り紙をユーリへと差し出した。新緑に似た濃い緑色をした紙を反射的に受け取ってしまい、先程の売り言葉の手前から引っ込みがつかなくなった彼は仕方なく膝の上にそれを置いた。
 スマイルが折っていた順番を思い出しつつ、自分なりに紙飛行機を作っていく。
 そうやって完成した紙飛行機は、確かにユーリの中ではスマイルと同じ手順で作ったはずなのに何故か随分と形も歪で、どう見ても同じ作品とは言い難いものになっていた。だけれど、見た目だけで飛ぶか飛ばないかを判断出来ないとユーリは笑おうとするスマイルを睨み、窓の真下にある石段の上にひょいっと軽い調子で降り立った。
 澄み切った空を見上げ、深呼吸をひとつ。
 自分で作った濃緑の紙飛行機を右手に構え持ち、肘を引き気味にして手首を前に投げ出すように捻った。
 ユーリの手を放れた紙飛行機は最初こそ、庭先で踊る風に乗ったらしく順調に宙を舞った。
 しかしそれも数瞬の事で、やがて空中でバランスを崩したユーリ号はふらふらと不安定に左右へ揺れたあと、呆気ないほどにぽとりとぬかるんだ庭先へ落下した。先端から落下したため、奇妙な感じで地面に直撃した後ぱたりと横に倒れ込む。その際、尖っている部分が拉げて折れ曲がる様がかろうじて見えた。
「あ~あぁ、残念」
 カラカラと笑いながらスマイルが窓辺に座ったままぱたぱたと足を揺らす。心底楽しげなその笑い顔に怒りを覚え、無意識に両の拳を握りしめたユーリは上半身を彼へ向けて目尻をつり上げた。
「笑うな。そこまで笑うくらいなら、さぞかしよく飛ぶ飛行機なのだろうな、貴様のそれは!」
 仁王立ちになったユーリが身体ごと振り返って、スマイルの膝の上で小さくなっている紙飛行機を指さした。槍玉に挙げられたそれは当人にとっては何処吹く風で澄まし顔をしていたが、スマイルがひょいっと摘み上げると途端に得意顔になる。
 ユーリが睨む前でスマイルは立ち上がり、脱いでいた靴に爪先を突っ込んだ。そして自然な動作で構えを作ると、スッと流れる動作で黄檗色の紙飛行機を空へと投げ放つ。
 まるで待ちかまえていたかのように、それはふわりと風に乗って空へ舞い上がった。
 真っ青な世界に異質なように見えるはずだった、黄檗色の紙飛行機。
 だけれど意外なまでにそれは空と雲の色に解け合い、コントラストを描き出していた。輪郭をはっきりと際立たせる色使いに、スラッとしたフォルムが天を駈ける。
「あ……」
 ぽかんと口を半開きにしたユーリが、どんどんと風に乗って上空高く駆け上っていくそれを見送った。偶然も重なっているのだろうが、スマイルの手から放たれた紙飛行機はどんどんと高度を上げて行く。そしてやがて、ユーリの部屋がある三階にまで到達した。
 はっと、ユーリは目を見開き真横でどこまでも飛んでいく紙飛行機を見上げているスマイルの横顔を見た。彼の位置からではスマイルの唯一の瞳は見えなかったが、やがてユーリの視線に気付いた彼はゆっくりと振り返り「なに?」と首を傾けた。
 純粋に問いかけてくる瞳を見返しながら、ユーリは深く息を吸って、そして吐いた。
 目覚めて直ぐ、窓の外を駆け上っていって消えた白い影。
 あれは、恐らく。
「ずっと飛ばしていたのか?」
 真正面から構えも無しに問いかければ、スマイルは一瞬毒気を抜かれた顔をしてそれから、困ったように頬を指先で引っ掻いた。
「う~ん、まぁ……それなりには」
 暇だったから色々と折り方を試しつつ、沢山飛ばしていたのだと彼は言った。言いにくそうに、視線を空の彼方へと彷徨わせながら決してユーリと目線を合わせず。
 けれどその仕草が何故か可笑しくて、ユーリはスマイルに詰め寄ったまま表情を緩めた。
「良く飛んでいたな」
 あれと同じくらいに、とユーリがスマイルから視線をずらして空を見上げる。風に流されてしまったのか、黄檗色の紙飛行機は彼らの視界からはみ出してどこかへ姿を消してしまっていたが。
 ユーリは庭へと降り立った。水気を含んだ芝生の間を抜け、泥にまみれてしまっている自分の紙飛行機を拾い上げる。そして折れ曲がり、湿って拉げてしまった翼部分に手を添える。
 飛ばなかった紙飛行機。同じに作ったつもりだったのに、どこで違ってしまったのだろう。
 考えてみても答えは見付からず、翼部分を撫でていると横からスマイルの手が伸びてきた。
「教えてあげよっか? 紙飛行機の作り方」
 折角晴れたのだし、この高い空に飛び交う紙飛行機を一緒に作ろうか。
 そんな事を嘯いて、彼は間近で目を細めて笑った。
 ユーリは一旦スマイルへ視線を向け、それから手元の紙飛行機を見つめた。歪んでしまった先端を伸ばし、指先についた泥を擦って落とす。
 飛べなかった紙飛行機。無機質な紙のそれが悔しげに見えるのは、決して気のせいではないだろう。
 ユーリは黙って頷いた。気配でスマイルが笑ったのを察し、彼の思うとおりに動いている自分を思って肩を竦める。
 だが偶には、そう、悪くない。
 不遜に笑っていると、急に視界が翳った。なんだろう、と思う間もなく吐息が鼻先を掠める。
 瞬きをする直前に触れた感触は、閉じた瞼を開いた時にはもう過ぎ去ったあとだった。
 驚きで思考が麻痺したまま目線を持ち上げれば、至極楽しそうに微笑むスマイルが居る。
「講習費、先払いってコトでヨロシク」
 惚けてままのユーリから潰れた紙飛行機をかすめ取り、目線の高さに持ち上げて角度を変えながら眺めて彼はそんなことを言った。それから五秒後、漸く意識を取り戻したユーリが耳まで真っ赤に染めながら肩を戦慄かせる。
「スマイル!」
「あ~、ココが変に曲がっちゃってるのが良くないんだよ。あと翼の形?」
 振り下ろされたユーリの拳をすいっと躱しても、スマイルは視線を紙飛行機から外さない。隻眼のくせに後ろにも目があるのではないのかと疑いたくなるような動きに、ユーリは悔しそうに歯ぎしりをした。
 今度は飛行機を奪い返そうと腕を伸ばすものの、これもあっさりと回避されてしまう。しかも身体を捻ろうとしたときに右足がぬかるみに滑り、前へつんのめってしまった。
「うわっ!」
「ユーリ!」
 咄嗟に両腕を空中に解放する。藻掻くように動かした指先がスマイルの上着に引っ掛かり、ユーリを支えようと動いていた彼は思いがけない方向から受けた引力によって同じようにバランスを崩した。
 ふたり揃って、ぬかるんだ芝の上に絡まって転がり落ちる。跳ねた泥水がスマイルの包帯を汚した。
 ユーリを抱えるために放り出された紙飛行機は、今度こそ空へ舞い上がらず地面にキスを繰り返す。背中一面に冷たい感触を受け止めたスマイルは、胸の上で抱き込んだユーリが無事な事だけを確認してひとまず安堵の息をもらした。
 じわりと着ているシャツが水気を吸い上げていくのが分かる。肌に貼り付く感触は正直気持ちの良いものではなかったが、スマイルは暫くそのまま動こうとしなかった。
 抱きしめられているユーリが身動ぎし、真下になっているスマイルの顔を見つめる。
「放せ」
「ヤダ」
「どうして」
 胸に置いた手を引き抜いて楽な姿勢を作ったものの、未だに抜け出せないで居る彼の胸元で居心地悪げに身体を揺らす彼に、スマイルは舌を出して拒否を表明する。理由を問われると、急に神妙な顔をして丹朱の隻眼を空へ投げかけた。
 真っ直ぐに見上げれば、その先は澄み渡る晴天。
「そうだねぇ……」
 さして深く考えた様子もなく、彼は呟く。ぎゅっと、ユーリを抱き込める腕に力を込めて。
「今は、敢えて理由を言うなら」
 空が高いから、かな。
 そんな意味の通じない事を言って彼は笑う。
「理由になっていないぞ」
「うん、そうだね」
 ふてくされたようにユーリは言った。しかしもう、スマイルの拘束から逃れようとはしなかった。
 ただ彼の胸に頬を預け、無意識に紅潮し始めている顔を隠すのに必死だったから。

Sunset March

ひーひーと、汗だくになって息を乱す声をカラカラと笑う。後ろ向きに座っている所為で、遠ざかる景色が足許に沈んでいくのを面白そうに眺めたユーリは、背中越しに聞こえてくる運転手にしっかりしろ、と素っ気なく味気ない声援を送る。
 夕焼けが間近に迫っていた。アスファルトの地面に伸びる影が徐々に長くなっていく。
「急げよ」
「だったら、降りてよね」
 恨めしげに深呼吸の合間を縫って吐きだした彼の台詞に、もっともだと頷いてもユーリは座席から降りようとしなかった。
 太い金棒を組み合わせた後ろ座席は決して乗り心地も良いものではなかったが、後ろに流れていく景色は、そう棄てたものではない。両脚を交互に前後へ揺らして、本来は荷台であるその座席を構成している細い銀の金棒に指を絡ませる。握って、落ちぬように身体を縛り付け背筋を伸ばした。
 耳には、喧しいばかりの運転手の息切れが止まない。目を閉じ、ユーリはスマイルの呼吸音を聴覚から排除させてそれ以外の音を拾うことに集中した。
 脇を走り抜けていく車の排気音も無視する。残ったのは、空を駆ける風の声や沈もうとしている太陽に追いすがる雲の流れ。昼に別れを告げて夜を招く木々のざわめき、ねぐらへ急ぐ鳥のさえずり。
「ユーリ、もう無理」
 腰を浮かせて前傾姿勢をとり続けていたスマイルが、ついに力尽きたらしく情けない声を上げてブレーキを握った。新品の自転車は、多少油臭い匂いを残して坂道の途中で停止する。
 長くなった影が下の方にまで伸び、坂の終わりまであと少しという距離をそれ以上のものに感じ取らせていた。
 頂上を仰ぐ。目指す目的地まで残り僅かだが、遙か遠方に小さく霞んでいる街中からここまで、ユーリを後ろに乗せてひたすら漕ぎ続けてきていたスマイルも、これが限界だろう。肩を竦め、ユーリは自転車に凭れ掛かり肩で息をしている彼を見つめた。
「ご苦労」
「疲れたー」
 ねぎらいのことばをかけてやった途端、スマイルは大声を上げて反り返った。スタンドを立てていない自転車が倒れぬよう、片腕だけはしっかりとハンドルを握っていたままだったが、唐突に胸を反らせたスマイルの動きに、ユーリは目を見張る。
 彼の手前で、スマイルはしかしすぐにまたハンドルに額を擦りつけ、ぐったりとしてしまう。
 いったい何だったのか、と訝むユーリの頬を影が掠めた。
 頭上を仰ぐと、それはどうやら鳥の影だったらしい。西日に向かって悠然と翼を広げて滑空する姿が、朱色に染まる空にぽっかりと浮かんで見えた。
 目的地は、この長く厳しい坂を上りきった先にある。
「行くぞ、間に合わなくなる」
「じゃー、今度はユーリが漕いで」
「乗ってみたいのか?」
「モチ、冗談デス」
 昼間散々自転車に乗ろうとして転び、真新しいフレームをあちこち曲げて、壊して、ついに廃車にしてしまったのは他でもないユーリだ。
 雲が棚引いている。細切れの鰯雲が整然と列を成して西に向けて泳いでいるようにも映る。
 スマイルはハンドルを握り直すと、乗ろうか乗るまいか一瞬悩んで結局決め倦ね、傍らのユーリを盗み見た。気付いたユーリが、少々むっとした顔をして頬を膨らませる。
「なんだ?」
「や、まだ乗りたい?」
 後ろに。
 言い切れなかったスマイルの呟きを察して、ああ、とユーリは相槌を返した。
「乗って欲しいのか?」
「そりゃあもう、ユーリが乗りたいのなら」
 ばしばしとサドルを叩いて残り少ないはずの体力を絞り出す覚悟を決めたスマイルを、ユーリは薄い笑みで弾き飛ばした。どう考えても、今のへろへろになっている彼とふたり乗りをするくらいなら、並列になって自転車を押しながら歩く方が早い。
 間もなく日が沈む、それまでには間に合わせなければならない。でなければ、わざわざ遠出までして、しかも自転車で、此処に来た意味がなくなる。
「それは、帰り道に残して置いてやる」
 坂を上りきれば、次に待っているのは下り。ペダルを力いっぱいに漕ぐ必要もなくなるはず。
 笑いかけて言うと、スマイルは明らかに安堵の表情を浮かべて頷いた。分かった、と見ている方が癪に障るくらいに満面の笑みで答えられ、少々ユーリは不機嫌になりかけた。
 そうしている間にもふたりは歩き続ける。影が長引く、東の空から徐々に空気は冷え、紫紺が広がりつつあった。
 あと一時間もすれば世界は闇に堕ちるだろう。目的地までは、もうちょっと。
 長く熱の籠もった息を吐き出す。買ったばかりなのに既にタイヤが擦り切れ始めている自転車を押して、スマイルは坂の上にようやく見え始めた石壁に目を細めた。
 西日が眩しい。ユーリも同様に瞳を細めて手を庇代わりに使い、一歩一歩進むたびに息を吸っては、吐くを繰り返す。
 そうしてやっと、目指した場所への到達を果たした。
 それは小高い丘の頂上を切り崩して平らに均した、小さな公園。飾り気のあるものは一切設置されていない、ベンチがみっつ東南北に置かれているだけの、質素で簡素な広場と呼ぶにも呼べそうにない狭い平地だった。
 長い坂道を抜けて辿り着いた先は思いの外寂しげで、さびれた感じが否めない。白く塗られたペンキも剥げ掛かっている門代わりの柵を抜け、中に入ったスマイルは入り口脇へ自転車を停めた。
 銀色のフレームが、西日を浴びてキラキラと、いっそ眩しすぎるくらいに輝いている。夕焼け色を受け、仄かに赤色に染まって見えた。
「到着~」
 お疲れさまでした、と今度はスマイルがユーリをねぎらって笑う。多少体力は回復しているようで、浮いていた汗を右の袖で拭った彼はまだ慣れない自転車の鍵を掛けるとそれをお手玉の要領で左手に飛ばして握らせた。
 地を蹴って、まだ彼よりも道路に近い場所に立ち惚けているユーリから距離を取る。
「ユーリ」
 手招きをして名前を呼び、彼はさっさとほぼ正方形に近い形をしている公園の西側に歩み寄った。そこだけはベンチが無く、視界を遮るものも置かれていない。腰丈の柵が続くだけの開けた場所は、ここが夕日を見送るためだけに用意された場所なのだと無言のうちに教えてくれた。
 地元では密かな人気スポットだという。今日はたまたま先客が無かったが、普段は夢見がちな恋人たちが、愛を語り合う場に利用しているとあとから聞いた。
 行ってみようか、と誘ったのはスマイル。自転車を買いに出た街で、その帰りに不意に思い出したらしい彼のことばに何故頷いたのか、ユーリは今でも良く解らない。
 ただ、乗ってみたかったのだ。真新しい自転車に乗って、彼と一緒にどこかへ行ってみたかっただけなのだと思う。
 最初のきっかけは、アッシュが個人で出演した番組で彼が獲得してきた景品の中にあった、真っ赤なスポーツタイプの自転車だった。

■■■

「なんだこれは」
 玄関に陳列された段ボール箱を見たユーリの第一声は、それ。
「えーっと、景品っス……この前出た番組の」
 箱の影から顔を出したアッシュが申し訳なさそうに耳を垂れて答え、積み重ねられていたうちのひとつを抱え上げた。よいしょ、と小さな掛け声をあげて腰に力を込めて持ち上げる。どうやら自室に運び込むらしい。
 箱は合計してふたつ。それから、箱に収まりきらない形状をしたものが、ひとつ。
 どういう番組に出演していたのだろうか、彼は。まさかギャラ代わりに物品で支給されたのではないだろうな、と怪しむユーリの脇を、せっせとアッシュが肉体労働宜しく歩いていった。
 一応ラッピング紛いの事はされていたらしい、リボンを巻かれ細かいパーツは取り外されて尖っている部分には防御用で段ボールが巻かれているそれに近付いてユーリは顔を顰めさせた。
 ふわりと空気が泳ぎ、耳に付く笑い声が間近に聞こえた。
「ドシタノ?」
 ユーリの声を聞きつけたらしいスマイルが、唐突に背後から姿を現して彼の斜め後ろに着地した。ユーリではないが背中に羽根でもありそうな軽い仕草で両脚を揃え、つと進みユーリが声を挟む前に残された箱の向こう側へ回り込む。
 そうすれば必然的に、ふたりの視線は向き合う格好になって、頭の上で焦げた螺旋を作ったユーリは半ば八つ当たりで床の上の箱を蹴り飛ばした。
 階段を下りてきたアッシュが目聡く気付き、短い悲鳴を上げて慌てて駆け込んできたのには揃って苦笑いをするしかない。
「何、コレ」
「出演料……みたいなものっス」
 やはり現品支給だったのか、と心の中で嘆息したユーリを無視してスマイルはアッシュを見返す。小首を傾げ、少々不思議そうに。
「それで、自転車?」
「スマイル、欲しいっスか?」
「なんで?」
 真っ赤にペイントされているそれは、小さいながらもブランドロゴがしっかりと入っている高価なものだと容易に知れた。乗る、という本来の目的として使用するよりも、飾って楽しむをコンセプトにしているのではないかと感じられる。
 無論、ちゃんと乗って走る事も出来るはずだが。
 問いかけに問い返され、更に尋ね返したスマイルへ向けアッシュは頭を掻き、軽く膝を曲げて残っている角が多少へこんでしまっていた箱に両腕を伸ばした。
 持ち上げると、がたごとと中身が揺れて音がする。
「だって俺、乗らないっスから」
 アッシュには車がある。食材をまとめ買いして経費を浮かせる事に命を懸けていると言っても過言ではない彼には、自転車では少々役不足なのだ。
 どうも、これだけは彼の希望していたものとは違ったらしい。だが折角受け取った以上は、使ってやらないと勿体ない。そこでアッシュが白羽の矢を立てたのが、大抵のものは器用にこなしてしまうスマイル。当然自転車もお茶の子さいさい。
「え~? ま、くれるのなら貰うけど」
 断る理由は特に思い当たらない。使用頻度は低そうだが、何かの折りに活躍させてやる日も来るだろう。最初は不満そうにしていたものの、終わりの方はそこそこ嬉しそうな顔をしてスマイルは軽い調子で、まだ油が馴染みきっていない自転車のハンドルを数回叩いた。
 そして、さっきからずっと黙ったままでいるユーリを見る。
「て、言うか。アッシュ君はどうしてユーリに譲ろうという選択肢を取らなかったワケ?」
 これはある種、かなりの意地悪だ。喉の奥を鳴らして笑ったスマイルを恨めしげに見つめ、アッシュは自分へ流れてきたユーリの視線にことばを濁す。宙を漂った視線が天井をしつこく嘗め回し、その間にスマイルは自転車を覆う保護材を外していった。
「アッシュ?」
 要らないものなら誰に贈っても同じはず。しかしアッシュはスマイルにだけ尋ね、ユーリは最初から居なかったように扱っていた。不満を感じていたらしいユーリの、若干棘のある呼び声に狼犬はびくりと身を竦ませた。
 外されていたペダルを填め込んだスマイルが、しゃがみ込んでチェーンの具合を確かめながら何度か手で回している。
「だ、だって……ユーリ」
 ちょんちょん、と胸の前で左右の人差し指先端を突き合わせたアッシュが上目遣い、に本人はしたいのだろうけれど身長差の所為でそうはならなかった目つきでユーリを見る。僅かに口ごもって、言い淀んでいると余計に睨みを利かされて、仕方なく言いたくなかった台詞を音に乗せる。
「ユーリ、自転車乗れない……っスよ、ね……?」
 段々と語尾が弱々しくなっていく。最終的には殆ど音になっておらず、無理に作った愛想笑いも強張っていて完全に逃げ腰になっていた。
 スマイルがケタケタと笑う。
 そう、ユーリは自転車に乗れない。自転車どころか、スマイルのバイク、アッシュの車の運転さえ真似できない。彼は自力で移動するには歩くか、羽根を広げて飛ぶしかなくてそれ以外は公共の交通機関を利用するしかなかった。
 だからアッシュの車が車検に出されている時などは、最悪という他無く。結局レンタカーを用意立ててなんとか凌いだけれど、その短期間は移動範囲がかなり狭められて苦労させられたものだ。
 アッシュとしては莫迦にしたつもりはないのだろうけれど、ユーリからすれば感じ方は勿論違うわけで。見る間に顔を赤くして目尻をつり上げていく彼の変貌ぶりを目の当たりにし、アッシュはひっ、と短く息を吸っての悲鳴をあげた。
 自転車の具合を確かめていたスマイルだけが、頭上に展開されている修羅場を飄々とした態度で素知らぬ振りを通しきるつもりらしい。音にならない口笛を奏で、チェーンにこびり付いたままだった油の付着した指を、もとはペダルを防護していた段ボールのきわに擦りつける。
「スマイル!」
 だ、が。
 耳をつんざくような怒号を上げたユーリが呼んだ名前はアッシュではなく、無関係を装いたがっているスマイルの方だった。
 はい? と完全に不意を突かれたスマイルは、素っ頓狂な声を出して膝を折ったまま彼を見上げた。見開かれた目が現状を予想外だったと訴えかけていて、反対にアッシュは人知れず胸をなで下ろしていた。
 ユーリのこめかみに青筋が浮かんで見える。下手な事を言ったのでは彼を余計に怒らせるだけに違いない、一瞬間があったもののすぐに頭を切り換えさせたスマイルはそう判断して、口の中にあった唾を飲み込んだ。
「ナニ?」
 出来る限り穏やかに、彼の神経を逆撫でしないように心配って問いかける。小首を傾げて。
 するとユーリは一呼吸置いて、びしっと、スマイルがさっきまでしきりに触っていた真っ赤なシティバイクを指さした。振り返った先で、既にそそくさと逃げの姿勢に入っていたアッシュを睨みだけで掴まえ、肩を怒らせる。
「これは、スマイルが要らぬと言えば私が引き受けても構わぬという事だな!」
 語気が荒々しい。言い切ってからふん、と力強く鼻を鳴らした彼は、ビジュアルで売っているバンドリーダーとは少々信じがたい様になっていた。
 ああ、悔しいんだ。妙に冷めた場所から事の成り行きを見守っていたスマイルが、手元に回って停まったペダルを押してまた回転させる。
 カラカラと空回る自転車をじっくりと見上げ、これにユーリが跨って颯爽と街を駆け抜けていく様をスマイルは想像しようとした。
 しかし、無理だった。脳裏に図を描こうとした途端、現れたのは自転車ごと派手に転ぶ姿だったから。
「それ、は……スマが了解すれば、俺は構わないっスけど」
 ちらりと自転車の影に隠れているスマイルを見やり、アッシュがどもりながら答えると、ユーリは血走った目でスマイルを勢い良く振り返った。
 仕方なく、スマイルが立ち上がる。軽く曲げた膝で回り続けていたペダルを止めて、ハンドルとサドルに腕を置き体重を預けてみた。タイヤはしっかりしていて、これなら直ぐに運転しても問題無さそうだ。
「乗ってみる?」
 既に包装は全部外し終えていて、準備万端に整えられていた自転車を前にスマイルはケラケラと楽しげに笑って尋ねかけた。
 なにもそんなに煽らなくても、とアッシュははらはらした気分で交互にユーリとスマイルを見比べるが、スマイルはまったく気にしない。彼にしてみれば退屈がしのげればそれで良いらしく、滅多にお目にかかれない光景を少しでも楽しみたくて言っているだけなのだろう。
 小さくユーリが息を吐く。
「当たり前だ、私に出来ぬ事などない」
 胸を張って言い切った彼に、スマイルがおおーという歓声を上げてひとりだけ拍手を送る。後方で、アッシュが疲れた顔をしてがくりと肩を落としていた。
「俺、飯の仕度するっス……」
 運び損ねていた段ボールひとつを抱え、よぼよぼと頼りない足取りで彼は去っていった。手を振って見送るスマイルに気づいた様子もない。肩越しに見やったユーリは、彼が何をあんなに疲れているのか分からず首を捻った。
「そ~んじゃ、ぼくはコレ、庭に出してくるし」
 ユーリは先に着替えておいでね? と自転車のハンドルを握り直したスマイルがステップを倒す。またしてもユーリは不思議そうな顔をした。
「何故だ?」
「どうしてって……だって、その服」
 一部腿が隠れるくらいに裾の長いシャツを着て、靴も底が厚くスラックスも自転車を漕ぐには不適当な形状をしている。
「絡むよ?」
 下手をすればタイヤのホイールに巻き込まれる、だなんて事も考えられない事はなくて、いちいちスマイルの説明に得心顔で頷いて返すユーリは成る程、と呟いて顎を持った。
 しばらく考え込む。
「ならば、どういう服装が良いのだ?」
 問われ、スマイルは浮かべていた笑みを少々ひきつらせた。
 どうやらそんなところから始めなければならないらしい。これは考えた以上に難作業かもしれないな、と心の中で嘆息したスマイルは自転車を玄関ホール脇に避けるとユーリの手を引いて衣装室へ先に向かう事にした。
 素直にユーリは従い、動きやすさを追求したスマイルの衣装セッティングに多少文句をつけながらも手早く着替えていった。
 圧底靴は平底のスニーカーに、スラックスは汚れても平気そうな、やや草臥れた感じを出しているデニムに履き替える。シャツは脱いで色無地のTシャツを被り、その上から長袖の裾もカットされたシャツを羽織る。上下とも黒系の汚れが目立たない色を選択して、終了。目に掛かる前髪の長い部分はヘアピンで片方に寄せて留める事にした。
「出来上がり~」
 ふう、と一仕事やり終えた感のあるスマイルの吐息に苦笑し、ユーリは鏡の中の自分を見てみた。カジュアルすぎてどうにも違和感が残るが、色の選択は悪くなく特に問題も感じない。
 デニムはアッシュのものだったから、ウエストが余ってしまうのはご愛敬。ベルトでなんとか補整させて腰で締める。靴はユーリサイズにぴったりで、しかし久方ぶりに足を通したので具合を確かめつつ踵を何度か床に打ちつけた。
 スマイルはもとのまま、黒ジーンズに焦げ茶と淡い黄色のシャツ二枚重ねという出で立ちで先に立ち、玄関へと戻る。彼は自分が置いたときのまま玄関で寂しげにしている自転車を起こすと、ユーリに頼んで玄関の扉を開けさせた。
 観音開きの荘厳でご大層な扉が両側に開いていく。人ひとりを通しきる幅だけを作り出して扉は自然と停止し、ユーリがまず外に出て続いてスマイルと真っ赤な自転車が。外に出終わると同時に、扉はまたひとりでに閉ざされる。ご丁寧に、閂までかけられたらしく派手な音がした。
「んじゃま、始めましょうか」
 ちょいちょいと手招きをしてスマイルはユーリを呼ぶ。言われなくても傍に行って、改めて赤いフォルムで身を固めた自転車に目を落とした。
 限定生産の貴重ものである。部屋の一角に飾って観賞用にしても遜色なさそうなスタイルはシンプルで、洗練されたものを感じさせてくれる。だけれどユーリにとってはそんなことどうでも良くて、要は乗れさえすれば良い感覚でスマイルから渡されたハンドルを両手で握ってみた。
「行けそ?」
「無論」
 段差を降り、比較的なだらかで広い地面を選んでスマイルはユーリに自転車を完全に預けた。意気込んで、唾を飲んだユーリがひらりと身体を浮かせて自転車にまたがる。ぱさぱさと背中の羽根が空気抵抗を呼んだ。
「あ、言っておくけど羽根使うのは禁止だからね」
 羽根の動きでバランスを取っているらしいユーリに、数歩離れた場所から見守る体勢に入っていたスマイルが素早く茶々を入れる。
「ダメなのか?」
 片足をペダルに、片足を地面につけて若干右下がりにバランスを取っていたユーリが急に、不安そうな声を出して聞き返してきた。しかしスマイルはダメ、と首を横に振り続けるだけで彼は仕方なく、目を閉じると羽根に意識を集約させてその存在をしまい込んだ。
 背中が心細くなる。今まであった支えが無くなってしまって、突然重く感じられるようになった身体がガクン、と右側に強く傾いだ。
「あっ」
 スマイルが目を見張り、直後に広げた手で顔を覆った。指の隙間から視界は確保するものの、そこに転がっているのは自転車を下敷きにして倒れているユーリの格好悪い姿。
 想像は限りなく現実に近いものになったわけで、はああと盛大な溜息をつきスマイルは肩を竦めた。
 ユーリは何が起こったのか一瞬理解不能に陥ったようで、目をぱちくりさせてから自転車ごと勢い良く立ち上がり、またサドルにまたがってハンドルを握った。両脚を宙に浮かせる。
 ばたん。
 ペダルに足を置く前に、倒れた。
 またまたズボンや服に散った砂埃を払いもせずに起きあがり、今度こそと掛け声を出しながら自転車に乗ろうとする。
 ばたん。
 結果はさっきとまったく変わらず。
 ばたん。
 ばったん。
 ばたべきっ。
 果たして幾度か目の同じ光景の末、やや不吉な音が欠伸を零していたスマイルの耳に響き。
 泥まみれになったユーリが、やや茫然とした面持ちでもとの鮮やかな赤色が失われつつある自転車を見下ろしていた。スマイルも、自転車に目をやる。
 真っ直ぐだったはずのフレームが、妙なところで凹んでいた。
「……えーっと」
 背中に生暖かなものが流れていくのを感じ、スマイルは乾いた笑みを浮かべて頬を掻いた。ユーリが強張った表情で頬の筋肉をひくつかせ、どうにか笑おうとしている努力を感じさせていた。
 静まりかえった場の空気に、緩い風が流れていく。
「あ、あは、あははは……」
 普通に買えば、六桁を突破するはずの自転車だ。欲しくてもそう易々手に入るものではないし、欲しいと思っていても叶わず涙を呑んだ人だっているだろう。真っ赤な色地に黒抜きのロゴが入っている、ブランドものである。
 新品だった、今日届いたばかりだった。
 しかも人のものを、半ば強引に奪い取ったようなものを。
 空笑いを続けるユーリを遠くに見つめ、スマイルは深々と溜息を吐く。慌てたユーリは、ハンドルを握って左右に前輪を揺らした。多分まだ壊れたわけではないと、大丈夫だと証明したかったのだろうが。
 ばきっ。
「あ」
 いったいどれだけ地面と衝突を繰り返させたのか。それも生半可な衝撃の加え方ではなかったらしい。真っ新だった自転車は見るも無惨に薄汚れ、一部色は剥げ落ち、フレームはひしゃげ、ハンドルはブレーキの右が壊れて両者が濃厚なキスをかましている。
 目を覆いたくなる状態に、スマイルは眩暈がした。
 ユーリもまた無事ではなく、あちこちに擦り傷や打撲の痕を作っていた。だが長袖長ズボンに着替えていた事が幸いしたのか、見た目の汚れほど傷は酷くない。転んだときにすりむいた頬の傷だけが、まだ赤味を残して痛そうな程度。
「なにをすれば、そんな風になるのかな~」
 呆れきった声でスマイルは呟き、足をハの字に広げるとその場で膝を曲げて腰を落とした。頬杖を付き、どうするの、とユーリを見上げて視線で問いかける。答えの詰まったユーリは、まだ大丈夫のはずだ、と再度ハンドルを強く握るとえいっ、という掛け声のもと自転車にまたがった。
 足を地面から離し、ペダルを踏み込んでよろよろと数十センチだけ、前進する。
 結論から言えばまた転ぶわけだが、最初の乗るだけで一苦労だった頃に比べれば、かなりの進展だと言えよう。努力は認める、だが無駄とも言える。
 今回の横転で、後ろの泥避けが折れた。たった一日、しかも片手で足りる数時間でここまで見た目が変わってきてしまうのなら、無事だったときの写真でも撮っておけば良かっただろうか。懸命に壊れる寸前の自転車を乗りこなそうとしているユーリを他人事のように眺め、スマイルはこそりと思った。
 いい加減飽きてきて、退屈加減も戻ってきている。これ以上やっても自転車が潰れるだけで、一緒にユーリも傷だらけになるばっかりで、面白くもなんともない。スマイルは足許の砂を掴んで指先からさらさらと零すと、膝にもう片手をやって立ち上がった。
 土埃を軽く叩いて払い、んーと伸びをして両腕ごと背筋を逸らす。左右に揺さぶって、腰に手を当てると、ブレーキも完全に壊れてまったく効かなくなっている自転車をなお操ろうとしているユーリに歩み寄った。
 倒れる寸前だったそれを、乗り手ごと受け止めて数十回目の地面との激突を回避させてから、自転車だけは手から離す。軽い音を立ててそれは土埃の中に沈んだ。
「スマイル……?」
「ユーリ、傷になってる」
 痛くないの? と鼻の頭と左の頬に走った赤い筋を触れない程度に指で近付いて示して尋ねる。言われて初めて気付いたらしいユーリが、砂埃に汚れた手で反射的に触れてしまい、小さく悲鳴を上げて肩を竦ませた。
 なにをしているのかと、迂闊な事をしてくれたユーリを笑い飛ばしてスマイルは彼をひとりで立たせると、自分で転がした自転車を引き起こす。重くはないが、変な風に重心がずれてしまっているらしくバランスを取りながら立てるのに苦労させられた。
 サドルの埃を払ってやるが、黒光りしていたかつての姿は忘却の彼方にあるらしい。洗えばどうにかなりそうだが、そこまでしてやる義理を貰い物の棚ぼた自転車に感じる事はふたりしてなかった。
 視線を通わせあい、互いに頷く。
 翌日アッシュが生ゴミを棄てに行った先で破棄された、ボロボロになった自転車を発見する。ただ原型を留めているのは赤っぽいフォルムだけ、という状態と他のゴミに半分埋もれていた事が幸いしてか、彼は真実に気付く事がなかった。
 後日まったく城で見かけなくなった自転車の行く末を尋ね、スマイルに大いにからかわれて彼は涙を流す事になるのだが、今は関係ないのでその話は置いておくことにして、さて、自転車を廃車にする事にしたふたり。
 ユーリは身体中にまとわりつく砂を払い、取り出したハンカチで傷を拭いて鈍い痛みを堪える。スマイルは苦笑を浮かべたまま肩を竦め、さてどうしようかと首を捻った。
「まだ自転車、乗りたい?」
「そういうお前は、どうなんだ」
 もともとあれは、スマイルがアッシュから貰い受けるはずのものだった。だが彼は一度たりともあれにまたがることはなかったし、風を切って走るなんていう洒落た事も出来なかった。そうなる前にユーリが壊してしまった。
 問い返され、スマイルは組んだ腕の先で顎を持ち上げると目線を空に浮かせて考え込む。
「まー、無くても困ることはないけどネ」
 あったら乗ったかも知れないし、ユーリを後ろに乗せてどこかに出かける気にもなったかもしれない。あくまで、仮定だが。
 人力なので移動距離は体力勝負だ、速度もそう出るものではない。だがのんびりと、近くを散策するには便利だったかもしれないと今更に思う。
「なら、買いに行こう」
「はい?」
「壊したのは私だからな、弁償させろ」
 だがあれは、もとを正せばアッシュが持って帰ってきたものであり彼の現物支給なギャラであって、タダ、だ。弁償するとしたらスマイルにではなく、彼へのはずなのにユーリはスマイルだけを見て、きっぱりと語尾を断ち切り言い放った。
 意表をつかれたスマイルが目を丸くして足を止める。
「いやでも、ぼくのじゃないし……」
「アッシュがお前への譲渡の意志を示した段階で、あれは既に貴様のものになっていたはずだ」
「だったら、ぼくはそれをユーリにあげたわけなんだから。弁償してもらう必要性はどこにもないよ?」
 彼の言う理屈からすれば、スマイルの結論はそこに達する。しかしユーリの言い分は違っていた。曰く、彼は借り受けただけだった、と。
 確かに記憶を掘り返せば、スマイルはユーリにひとことも自転車を譲渡するといった表現を含むことばを投げかけていない。言ったのは「乗ってみる?」というその問いかけひとつだけで、ニュアンスとしては貸してあげるから乗れば? になるはずだ、と。
 屁理屈である。だがユーリの頑固さは筋金入りで、一度言い出した事を易々と覆す性格でないことは、スマイルも熟知する範囲だ。やれやれと肩を竦め、諦め調子に吐息を零す。
「分かったよ、じゃ、御言葉に甘えて」
 新品の自転車を一台、購入して貰う事にしましょうか。あの真っ赤な自転車には及ばない、ありふれたものだろうけれど。
 幸いにもまだ日は高い。一度城の中に戻って汚れた服をユーリは着替え、スマイルはアッシュへ買い物に出かけて来るという旨だけを手短に伝え、彼らは街に出る事にした。
 目立たない地味な配色を選んだユーリの服装は、黒を基本にしたチェック柄のジャケットに揃いの生地を使ったハンティング帽。スマイルも上だけ着替え、シックなブラウンのシャツに丈の短い濃紺のジャケットを羽織る。
 お互い身軽な出で立ちの変装ぶりに笑みを零し、時間が勿体ないと彼らは急ぎ気味で街へ向かった。
 世間的に休日ではなかった事も手伝って、人出はさほどでもない。それでも一日中止むことのない喧噪に佇むと、気ぜわしい落ち着かない気持ちにさせられる。それは何度経験しても、決して慣れる事の出来ない環境だった。
 彷徨い気味なユーリの手を取り、スマイルは覚えている限りの店を回っていった。しかし自転車を扱っている店は専門店でもなければ種類も少なく、色もデザインも画一的で面白味に欠けた。
 スマイルの自転車であるはずなのに、ユーリの方が熱心に選んでダメ出しするものだから、なかなか決まらない。彼の頭の中には、潰したばかりの真っ赤な自転車が色濃くイメージとして残されすぎているようだ。
 ジーンズのポケットに手を突っ込み、長い買い物をしている恋人を待つ気分でスマイルは街の外に見える小高い丘に目をやった。確かあそこは……と、いつだったか誰かから聞かされた話を思い出す。
 夕焼けが綺麗な場所があるのだと、そう聞いた。
 この店でも良いと思うものに巡り会えなかったらしいユーリが戻ってくる。散々自転車練習で体力を使い果たしているはずなのに、元気なもので次へ行くから案内しろ、と意気込んでいる。何もしていないはずの自分が疲れているように感じて、スマイルは苦笑した。
「ね、ユーリ。ふたり乗り出来る奴にしようよ」
 ステップを付けるだけでも構わないが、座席に出来る荷台が最初から後ろに付いてある奴にしようと、ここに来てスマイルは初めて自分からリクエストを出した。
 途端、ユーリが渋い顔をする。荷台付きの自転車は、どこかデザインが古くさくて可愛げが足りない。ダメだ、というユーリに尚もスマイルは身を乗り出して提案を繰り返し、最後にはこう付け加えた。
「ユーリを乗せて、連れて行ってあげたい場所を思い出したんだ」
 この街で、君に見せたい綺麗な場所を思い出したんだと熱の籠もった瞳で見つめて呟けば、嫌とは言えずユーリは口ごもった。
「ダメ?」
「……勝手にしろ」
 焦げ茶の皮財布をスマイルの手に置き、彼はぶっきらぼうに吐き捨てるとスマイルが凭れ掛かっていたガードレールに靴裏を乗せ、がりがりと底を擦りつけ始めた。彼なりの譲歩は随分と素直でなくて、小さく笑ったスマイルは礼を告げると今ユーリは出てきたばかりの店に交替で入っていった。
 出てくるときには、真新しい銀色の自転車を押して来る。包装は必要ないと断り、このまま乗っていくからとパーツもすべて装着済み。領収書を切って貰って、ユーリの財布に忍ばせるとそれごと彼へ返却する。
 受け取ったユーリは、未だ納得しきれていない顔をしてじろじろと品定めするかのように自転車を前後左右から見て回った。路上でぐるりと自転車とスマイルを中心に一周してみせた彼は、やはりどこか違うと呟いて爪先で路上を蹴った。
「でも、乗ってみると案外違うかも」
 指先で銀色の太めの金網が編まれている荷台部分を小突き、スマイルはハンドルをしっかりと支えたままペダルを逆方向に蹴り上げた。
 空回りをする金属の棒を足裏で停め、油の具合をひととおり確かめてからスマイルはサドルに大股になってまたがった。立ててもいなかったスタンドを右足で蹴り飛ばす仕草だけして、ユーリを振り返る。
「行くヨ?」
 時間はもうあまり無い。陽が暮れてしまってからだと意味がなくなる。急がなければならない。
 太陽は西へ傾き、短かった影が徐々に長引いて来ていた。明るかった空は薄皮一枚を間に置いたような輝きに変わっていて、見上げた軒先からの景色も昼間とどこか違って映る。
 再度指で示された荷台を見下ろしたユーリは少々考え込む素振りを見せた。これは、またぐ方が良いのかそれとも横向きに座るべきか。バイクの後部座席に座るのと同じ感覚で行けば済むのだろうが、彼の背中にしがみつくのは気が引けた。かといって横座りで彼の腰に腕を回すのもそぐわない感じがする。
「ユーリ?」
 何をそんな真剣に悩む必要があるのか、理由が分からないでいるスマイルは首を傾げたままいい加減掴み続けるに怠くなった腕から力を抜いた。
 まるで見透かしたわけではないだろうが、その瞬間を狙ってユーリはやっとの事で後部座席に腰を下ろした。ただし、後ろ向きで。
「ひえ?」
 ガクンと後ろが沈んだ拍子にスマイルから変な声が出て、慌てて口を塞いだ彼が振り返った先でやはりユーリも上半身を捻って振り向こうとしており。
 危うく鼻先が擦れ合う寸前で、先に気付いたスマイルが僅かに首を退いた。
「まさかその体勢で行く気?」
 そう広くもない座席の後ろ縁に指を引っかけて座っているユーリを見える範囲内で確かめ、確認したスマイルに彼は満足そうに頷いて返した。
「私の自転車にどう乗ろうと、私の勝手であろう?」
 言っている事は分からないでもないが、やることは滅茶苦茶に近い。姿勢を正したスマイルが、ハンドルを持ち直して溜息を零した。
「落ちても知らないよ」
「そんな間抜けな事にはならんよ」
「だと良いけど……」
 そんなに自分にしがみつくのが不満なのかと、ぶつぶつ文句を小声で呟きつつスマイルは腰を浮かせてペダルに足を置いた。強く、漕ぎ出す。
「おっ」
 ユーリは背中が後ろ向きに傾くのを感じ、荷台の網に絡ませた指が解けそうになるのを寸前で堪えた。爪先が浮き、景色がゆっくりと流れ始める。頬を撫でた風が見つめる先へ走り去り、自転車屋が見る間に小さくなっていった。
 徐々に速度が上がっていく。助走を終えたスマイルが腰をサドルに置いて、後ろに置いた大きな荷物を揺らさないように気を配りつつ道を急いだ。
 街を抜け、郊外を走り抜け、やがて人通りも途絶えて車ばかりが目に付くハイウェイに到達して。
 それまでは比較的平坦な道ばかりだったのが、唐突に坂道の連続に突入した。
 重力とは下に働くもの。それに自転車は後ろに荷物を載せているから、必死に漕がなければまったく前に進まなくなっていく。涼しい顔をして自転車を操縦していたスマイルも、いつの間にか常に中腰で前に重心を傾けながらの運転になっていた。
 玉のような汗が彼の首筋に、額に溢れ出す。対するユーリは後部座席で悠々自適に、後方へ流れ落ちていく景色を眺めていた。
 日が沈み出していた。隣町へ続く車道を走る自転車は、時折駈けていく車に煽られ追い越されつつゆっくりと進む。朱色に染まっていく空が遮るもののなにもない坂道の向こうに広がって、眼下には数時間前まで居ただろう町並みが見えた。
 通り過ぎていく車が残した風に自転車が揺らぐが、なんとか体勢を立て直したスマイルがそれでも必死に自転車を漕ぎ続けている。
「平気か?」
「ぜ~んぜんっ!」
「何処へ行くのだ?」
「この先に、ねっ」
 ともすれば風に流されてしまいそうになる会話を、大声で補って交わす。汗に濡れたスマイルの声がユーリの耳に貼り付いて剥がれない。
「夕焼けが、綺麗に、見えるって、場所が、ある、……って!」
 呼吸の合間に叫んでいるので、スマイルの声はひとつずつ途切れていた。掛け声がわりにしているらしく、彼がなにか言うたびに車体が強く前進する。
 日が沈もうとしている、太陽の傾きは店の前で見た時よりも遙に角度を狭くしていた。雲間の空も茜色に変わっている。
「そうか?」
「そう、なの!」
「私は、降りた方が良くないか?」
「だいじょー、ぶっ!」
 ぼくが連れて行くって決めたんだと、回りきらない舌で叫んだ彼の背中に背中を預けて、ユーリはカラカラと笑った。
 身体が坂道に沈んで行かぬよう両手で荷台を掴んで支え、足を前後にぶらぶらと揺らす。耳元では相変わらず、ひーひーと辛そうに呼吸するスマイルの声が続く。
 もう一度笑ってみた。
「急げよ」
 あと少しで頂上にたどり着けそうだ。
「だったら、降りてよね」
 さっきまでとは正反対の事を言って、スマイルは尽きかけている体力を目算し熱気のこもった息を吐きだした。
 ユーリはカラカラと笑い、決して座席から降りようとはしなかった。

□□□

 太陽がゆっくりと、町並みの中に沈んでいく。
 晴天に恵まれた事もあって、空は綺麗に夕焼けに染まっていた。首を上げて天頂を仰ぐと、そこまでもが淡い茜に色づき、東側からゆっくりと迫る闇と混じり合って不可思議なグラデーションを作り出していた。
 申し訳程度に作られている柵に手を置いて、少しだけ体重を預ける。頼りなさそうに見えた柵だったけれど、案外頑丈になっているようでユーリの体重程度であればしっかりと支えてくれそうだ。
 スマイルもまた、彼の傍らに立ち夕日を見つめる。横顔を盗み見ると、眼帯に隠れて見えていないはずの左側に立つユーリだというのに、彼は気付いて、振り返った。
「ナニ?」
 小さく首を傾げて、問う。
「なんでも」
 ぶっきらぼうに言い捨てて、ユーリは西空に目を戻した。丘の上という事もあり、この時間だと肌寒さを覚えるものの余り気にならないのは、やはり眼前に広がる雄大な空と赤に揺らぐ太陽の御陰だろう。
 この夕焼け具合ならば、色白の度合いも甚だしいユーリの顔もそれなりに健康そうに見える。今度はスマイルがユーリの横顔を眺めて、そんなことを考えた。
「あー、帰りもあの道を走るのかー」
 もう疲れたよ、と明日の筋肉痛を想像して憂鬱になっているスマイルが、柵に置いた手をそのままに腰を後方へ伸ばした。くの字に曲がった彼の身体は直後にゆっくりと伸び上がり、離れた手が腰を支えて今度は胸を反り返らせる。一連の動きの間に、二度ばかり骨が鳴る音がしてユーリは眉目を顰めさせた。
 最後に肩を回して人心地ついたらしいスマイルが、長く深い息を吐く。難しい顔をしているユーリに気付いて、大丈夫だよと手を振って応えた。
「しかし……」
 言い淀むユーリの眉間に寄った皺を指でなぞって、彼はそれ以上ユーリに言わせなかった。払われた前髪の下に現れた夕焼けの所為だけではないはずの赤みがかった肌に、そっと彼が触れる。
 柔らかな感触がくすぐったくて、身を縮め込ませてユーリは笑った。
 間もなく日が沈み、一日は終わりを迎えるだろう。太陽は半分以上を地平の下に潜り込ませ、長く伸びきった影は緩やかに薄れ行こうとしている。東から迫る闇が朱色を呑み込み、紫と紺の中間色が空の大部分を埋め尽くしていく。
 長い影の終わりが、一瞬だけ重なり合って離れた。
「帰りは、私が運転してやろうか?」
 頬にあったはずの擦り傷は、もう跡形もなく綺麗になくなっていた。悪戯っ子の笑みで言ったユーリに、スマイルはもう癒えている彼の傷痕をなぞりながら唇を窄めさせた。
 微かな音を残して、彼は掴んでいたユーリの腕から手を外し柵に戻す。
「ふたりして、明日は病院のベッドかもね」
「失礼な奴だ」
 坂を下るスピードを利用すれば、ユーリであっても自転車を倒さずに乗れるかもしれない。だが、恐らく曲がり角でのブレーキ操作は無理だろう。高速の自転車はそのままガードレールを飛び越えて、空へダイブだ。
 想像してみる。この柵から身を乗り出して現在地点の高度を確認したスマイルは、肩を竦めて半歩後ろへ下った。
 けれど彼が何を考えていたのかを既に察していたらしいユーリが、素早く背後に回り込んでいた。右腕を伸ばし、まるで後方に無警戒なスマイルの背中をトン、と軽く押す。
「うわぁ!」
 完全に不意を突かれ、スマイルはみっともない悲鳴をあげて上半身を前に大きく傾がせた。脇腹に柵の上辺が擦れ、ごくりと飲み込んだ唾の音が嫌に大きく響いて聞こえた。大慌てで両手を使い柵にしがみついて、生きた心地がしなかった一瞬に吐き出し損ねた息を胸の中から追い出す。
 膝を折ってしゃがみこんでしまったスマイルに、ユーリはまさかここまで彼が過剰反応を見せるとは思っておらず驚いた顔をして、口許を手で隠す。意表をつかれたのはこちらも同じで、見開いた目に彼を映しながら大丈夫か、と声を掛けた。
 肩で二度ほど呼吸をしたスマイルが、恨めしそうに振り返る。
「ユーリさぁん?」
「悪い」
 ジト目で睨まれ、ユーリは乾いた笑みを作って手を振った。
「まさかそこまで驚くとは思わなくてな」
「ひど~い、ぼくってばユーリに殺されるところだったのに」
 勢い良く立ち上がったスマイルに詰め寄られ、悪かったと何度も謝罪のことばを繰り返しユーリはじりじりと後退した。
 赤を背負ったスマイルが黒に染まって見える。日が沈む、寸前。
 シルエットを浮かべた影だけのスマイルが、視線を逸らし同時に思考も別方向に飛ばしたユーリに気付いて、間を置いてから西を向く。
 揺らぐ太陽が雲と、地平に群がって乱立するビル群の中へ吸い込まれていくのが見えた。鮮やかな赤が雲の裏側に広がり、空の大部分は黒かそれに近い濃さの色が埋め尽くそうとしている。家路を急ぐ鳥が列を成し、南を目指し飛び去っていく姿が目に入る。
 今日は終わる、夜が巡りまた明日が来る。
 その繰り返しを、はたして自分たちは今までどれくらい続けて、これからどれくらい見守り続けるのだろう。
 ユーリはスマイルの背中を見つめた。
「帰ろうか」
 ポケットを探り、新品の自転車の鍵を取りだして手に踊らせた彼が、時間を気にして呟いた。けれど時計を持ち合わせていなくて、困った顔をし、ユーリに改めて問うた。
「今、何時?」
「あ? ああ……そうだな、そろそろ帰らないと」
 アッシュが夕食を用意し首を長くして待っているだろう。出かける時はまさかこんなに遅くなるとは思っていなかったので、連絡のひとつも入れていない。
 袖を捲って腕に巻いた時計の文字盤を眺めていると、横から覗き込んできたスマイルが見づらい、と零して更にユーリの方へと身体を近づけてくる。
 ひとつしかない街灯に光が灯ったが、いくら狭いとは言え公園全体を照らすには足りない明るさがスマイルを更にユーリに近づけさせる。ガラにもなく緊張しながら、ユーリは見やすいように時計を彼の方へ傾けてやった。鼻先を、嫌味にならない控えめなコロンに混じった彼特有の香りが掠めていく。
 指先で鍵を弄りつつ、アナログの文字盤が刻む現在時刻を読むと彼は離れていった。感じていた体温が遠ざかり、鼻腔を擽った匂いも数回の呼吸の末に消えて無くなる。
「ユーリ?」
 ぼんやりしていたら、いつの間にか自転車の傍へ戻っていたスマイルに肩越しで呼ばれた。
「帰るよ?」
 かちゃりとカギを外しスタンドも倒した彼のことばに、弾かれたように顔を上げてユーリは小走りになった。十歩と少しで足りる距離を一気に駆け抜け、彼の傍に立つ。
 日は落ちて暗く、彼の顔さえ少し朧気で。
「ああ、それとも」
 僅かに肩を上下させて息を切らしているユーリの額に貼り付いた前髪を払ってやり、スマイルは呟く。疎らに巻かれた包帯の隙間が透けて見えた。
 咄嗟に掴んでしまって、感触とぬくもりを肌で確かめて、ユーリは彼が困った表情を作っている事に気付いてはっとなった。
 急いで放し、自分の両手は後方の背中に回して隠すけれど、スマイルは口許に手をやってくすくすと面白そうに笑みを浮かべて困ったね、と零す。
「帰りたくない?」
 先程中途半端に途切れてしまたことばの続きなのだろう。スマイルは笑いながら言って、けれどことばとは裏腹にハンドルを握るとタイヤの向かう先を公園出口に転換させた。
 揺れた彼のジャケットの裾を、前に戻した手が無意識のままに掴む。
「ユーリ?」
 くいっと軽く引っ張られ、スマイルが振り返った。
「どうしたの?」
「もし、私がここで、帰りたくない、と言ったら……」
 お前はどうする?
 見上げた赤の視線でそう問いかけても、影を背負ったスマイルの表情は読み取りづらい。普段から何を考えているのか悟り辛い彼の笑みは卑怯だと、ゆっくり顔を逸らしたユーリは思う。
 手が離されるのを待って、スマイルは自転車にまたがった。右足をペダルに乗せ、左を地面に置くことでバランスを取り、ユーリが乗り込むのを待つ。
 彼は何も言わず、だからこそそれがユーリの問いかけの答えだった。
 寂しい気持ちを隠せきれないまま、ユーリは黙っているスマイルの背中に瞼を伏し、後部座席の荷台に腰を下ろした。行きとは違い、今度は横向きで座る。
 そっと彼の腰に手を回して胸の前で両手を絡ませた。指を互い違いに挟み、易々と外されぬよう力を込める。少々締め上げる程度の強さにしてやると、案の定彼は苦しそうにしてハンドルから離した手でユーリの握り拳を小突いた。
 これでは運転できないと言われ、仕方なく力を緩める。だが手は解かない、意地でも。
 自転車はゆっくりと走り出した。爪先が地面を離れ、揃えられた足が坂道でも比較的緩めに調節された速度でぶらぶらと揺れる。
「ねえ、ユーリ」
 夕焼けはもう雲の裏側に残る部分的な赤だけ。東から侵蝕した闇は空の大半を占領して、我が物顔で鎮座している。遠くに微かな光が明滅したのは、雲の隙間を行く飛行機かはたまた、もっと遠い星々の煌めきか。
 上りと比較しても遙に楽な下り坂、殆どペダルを漕ぐ事もなくブレーキとハンドル操作だけで自転車を走らせるスマイルの声は、風に融けて弱い。
 聞こえなくて、ユーリは彼の背中に顔を近づけた。腕の戒めを緩め、身を伸ばす。
「明日も、晴れだね」
 対向車線を走る車のヘッドライトを眩しそうに避け、彼は叫んだ。
 公園から見送ったのは色鮮やかで見事なまでの、恐らく記憶に永遠に残りそうなまでの夕焼け。長く短い一日の中でも、一瞬で終わってしまいそうなくらいに呆気ない日暮れの瞬間。
 これまで、意識して夕日を眺める事など無かった。あの空が、あんなにも美しく瞳の色に染まるのだと今日、教えられた。
 また来たいとも思う。明日の夕焼けを見るのが楽しみに思えてくる、一日の終わりに明日を夢見る事など、久しく無かった。
 夕焼けの次の日は晴れるのだと、彼は言った。笑って、続けた。
「明日は、何処に行こっか?」
 振り向きもせずに声だけで尋ねられ、彼なりのそれが答えなのだと気付いて。
 ユーリは目を見開き、吹き込んでくる風にも構わず声を立てて笑って、やめてくれ、と言われていた事も忘れて彼を抱きしめる腕に思い切り力を込めた。
 次の瞬間、鈍い音が彼らを襲う。逆転した天地の先に、ぽっかりと浮かぶ月が見えた。

 翌日、ゴミ捨て場に置かれた自転車は二台に増えていて。
 今度は青い自転車が、申し訳無さそうに城にお目見えしたのだった。

心あらば 名乗らで過ぎよ ほととぎす

 食堂の辺りがどうにも騒がしい。
 それはいつものことだけれど、普段と些か様子が違った。いったい何事かと背伸びしながら廊下の先を窺っていたら、賑やかな集団が列を成し、両開きのドアから出て来た。
「あれ、珍しい」
 見知った顔ぶれはどれもにこやかで、機嫌が良さそうだ。時間があれば娯楽室でごろごろしているメンバーが多く含まれているのも、立香には奇異に思えた。
 あの面子が揃って食堂に出向くなど、あまりない。大抵じゃんけんか、ゲームかで負けたサーヴァントが使い走り宜しく駆り出され、大量の食べ物を抱えて行くのが常だった。
「あー、マーちゃん。見て見て、これ。新作だって」
 怪訝にしながら眺めていたら、ピンクのフードを被ったアサシンと目が合った。刑部姫は眼鏡の奥の瞳を爛々と輝かせて、右手に握ったものを高々と掲げ持った。
 一緒に歩いている英霊たちも、多少のトッピングの違いはあれど、土台は同じものを手にしていた。
「へええ。いいな、夏っぽい」
「でしょ~?」
 焼き色がついたワッフルコーンに、たっぷり注ぎ込まれたソフトクリーム。
 太めに捲かれた渦はカラフルなチョコレートチップに彩られ、苺やマンゴーといったフルーツを使ったソースがこれでもか、と大量に注がれていた。
 そのまま齧り付くもよし、付属のスプーンで少しずつ掬って食べるもよし。
 なんとも涼しげで、美味しそうな夏の冷菓に、立香も知れず唾を呑んだ。
 幼い頃は、腹を下すといけないからと、あまり食べさせてもらえなかった。ただ家族旅行の道中に立ち寄るパーキングエリアだけは別で、味も格別だったのを思い出した。
「行ってみよう」
 誰の発案かは分からないが、嬉しいサプライズだ。
 カルデアの中がもっと夏らしくあれば最高なのだけれど、ここは生憎、窓もない閉鎖空間。外は真っ白に焼却された世界が広がっていて、四季の別さえ失われて久しかった。
 ぼうっとしていたら、今日が何月何日かすら忘れてしまう。定期的に開催される季節のイベントがないと、月日の移ろいに目を向けることすらままならない。
 時の流れを把握するのは、とても大事なことだ。己に言い聞かせ、立香は刑部姫やジナコたちを見送り、食堂に足を踏み入れた。
 テーブルが行儀良く並ぶ空間は比較的がらんとしているが、一区画のみ、やたらと混み合っていた。
 遠目でも目立つ幟が掲げられているのは、気分を盛り上げるためか、ただの悪ふざけか。
 食器の返却口近くに追加された即興の屋台には、ソフトクリームだけでなく、かき氷の機械も置かれていた。派手なアロハシャツを羽織った青髪のランサーがゴリゴリとハンドルを回して、隣では赤衣のアーチャーが注文を受け、手際よくソフトクリームを形作っていた。
 巨大な氷が細かく削れていくのが面白いのか、列の先頭で、ボイジャーが食い入るように見詰めている。それに気をよくしたクー・フーリンが益々勢い良くハンドルを操作して、氷片の山は今にも雪崩を起こしそうだった。
 茹だるような暑さの中で過ごした、夏祭りの記憶が甦った。
「ねえねえ、エリセ。みて。すごい。きらきらだ~」
 無垢な少年の歓声がこだまし、周囲の大人達の頬が一斉に緩んだ。立香も程よく巻き込まれて、笑顔を浮かべ、エミヤに向かって人差し指を一本立てた。
「オレも一個、もらって良い?」
「ああ、もちろんだ。マスターには、サービスしないとな」
「みんなと同じでいいよ」
 バニラかチョコかと聞かれ、バニラと返し、肩を竦める。過剰なトッピングは不要だと目を細めるが、出てきたソフトクリームにはたっぷりとチョコソースがかけられていた。
 スプーンも一緒に差し出されたが断って、右手で受け取ったコーンは思ったよりもしっかりしていた。
「零さないように気をつけてな」
「ありがと。いただきます」
 溢れ出そうになったチョコソースを先に舐め取り、母親然とした英霊に礼を言う。エミヤは少し照れ臭そうに頷いて、次の注文をクリアすべく、大がかりな機械に向き直った。
 振り向けば順番待ちの行列は、想定外に長く伸びていた。
 刑部姫たちが道すがら触れ回ったのと、マスターが率先して並んでいるのを見て、ソフトクリームに馴染みのない英霊たちも興味を持ったのだろう。
「わー、なんですか。なんなんですか、これ。おいしそう!」
「見て、食べてたら舌が真っ赤だよ」
 中でもやはり、見た目が幼い英霊たちのはしゃぎようは凄まじかった。
 アポロンを抱きかかえたパリスが物珍しげに飛び跳ねて、かき氷に舌鼓を打っていたアレキサンダーが子ギルに向かってべー、と舌を見せびらかす。何色かのシロップをかけたかき氷を手にボイジャーが走り、エリセが慌てた様子で追いかけていった。
 立香も早く食べないと、折角の甘味が溶けてしまう。
 ひんやり冷たいが、仄かに甘くて幸せな気持ちになれる菓子は、この季節ならではだ。
 エミヤが作ったのだから、味は保証されている。
「いただきまーす」
 じわじわ高まる期待を胸に、まずは先端に齧り付くべく、口を大きく開いた。
 チョコレートソースがたっぷり塗されたクリームをいっぱいに頬張り、急激に冷えた咥内に抗って背筋を伸ばした。頭がキーンと来るのを一瞬でやり過ごし、遅れてやって来た甘みに目尻を下げた。
「ん~、おいしい」
 じんわり体温を吸って温くなったアイスが、口の中でゆっくり、時間を掛けて溶けていく。
 凝縮されていた美味しさがじわじわ広がって、立香はうっとりと目を細めた。
 そこまで甘過ぎず、かといって淡泊でもない。しつこくなくて、後味がさっぱりしているので、いくらでも食べられそうだ。
 ふんだんにかけられたソースも、良い仕事をしていた。これがあるお蔭で味が単調にならず、飽きが来ない。
 ソースは何種類か用意されていたから、次は違うものをリクエストしよう。
 二個目以降のことを今から考え、胸を躍らせて、立香はほんのり湿った唇を舐めた。
「うへえ、凄い人出だな」
「イアソン様、早く。早く」
 食感を変えようとコーンを齧っていたら、斜め前方から馴染みのある声が聞こえてきた。顔を上げれば古代ギリシャに縁がある英霊たちが、連れ立って食堂に入ってきたところだった。
 アルゴー号船長のイアソンに、メディア・リリィ。それに英雄ヘラクレスと、ケイローンやアキレウスの姿もあった。
 彼らも噂を聞きつけ、物見遊山でやって来たのだろう。軽く手を振って挨拶をすれば、二本足姿のケイローンが笑顔で会釈を返してくれた。
 お菓子作りに精を出しているメディア・リリィに言わせると、ソフトクリームは見逃せないらしい。気乗りしない様子のイアソンの手を引いて列の最後尾に加わって、茶化す気満々のアキレウスがその後ろに続いた。
 十騎以上の英霊が列を作っている屋台は、大繁盛と言って良かった。
「いつまでやってくれるのかな」
 叶うなら今日だけでなく明日や、それ以降も続けて欲しい。
 特にエミヤは食堂での調理もあるので無理強いできないけれど、夏の間は屋台ごと残してくれると嬉しかった。
 後で要望を出そう。密かに決めて、行列から身体の正面へと視線を移す途中。
 驚くのに充分な立ち姿をそこに見つけて、立香は行き過ぎた眼を大慌てで引き戻した。
「ええー?」
「……なんだ。僕がいたらおかしいか」
 ケイローン塾の面々が揃っていたので、彼が居る可能性もゼロではなかった。
 しかし実際、この場に佇んでいるのを見ると、失礼ながら、違和感を抱かずにはいられなかった。
 目を丸くする立香に、アスクレピオスは不機嫌を隠さない。不満げに口元を歪め、長く垂れた袖ごと胸の前で腕を組んだ。
 白を基調とした衣から、金色のサンダルが先だけ覗いている。特徴的な前髪を左右に踊らせて、人と神の合いの子たる英霊は行列ではなく、そこから外れた立香の方へ一歩を踏み出した。
 いつもは医務室に引き籠もって、滅多なことでは出て来ない癖に。
 今日一番の衝撃だと苦笑して、エミヤ印のソフトクリームの偉大さに感嘆の息を漏らした。
「アスクレピオスも、食べに来たの?」
「興味はない。だが、ああも小さな英霊達が喜んで口にしているということは、それだけ魅力的なものなのだろう。ふむ、なるほど。次からは粉末状の薬をあれに振り掛けておけば良いのか」
 表面が溶け始めているソフトクリームを顔の高さに掲げ、訊ねる。すると彼は素っ気なく言い返し、続けて屋台の周辺に集う面々を眺め、ぼそぼそと呟き始めた。
 顎に手をやり、表情は真剣だ。金混じりの瞳を眇め、悪いことではないのだけれど、良くもないアイデアを口にして、ひとり悦に入った。
「あー……」
 そのいかにも彼らしい態度に失笑して、立香はチョコレートが溶け込んだソフトクリームを舐めた。
 舌先に冷気が刺さり、徐々に緩んでいく。熱の籠もりがちが身体が部分的に冷やされて、全身に波及していく錯覚に気が緩んだ。
「甘いものを苦くしたって、人気は出ないよ?」
「ム」
 どうやれば子供姿のサーヴァントたちが、嫌がらずに薬を接種してくれるのか。尽きない悩みを解決すべく、アイデアを練るのは構わないが、事の解決はそう簡単ではない。
 甘いソフトクリームと、苦くて臭い薬草を一緒にしても、絶対に美味しくない。単純に磨り潰して粉にするだけでは、誰も口にしたがらないだろう。
 立香だって、嫌だ。それだったら薬は苦いものとして受け入れて、我慢して飲む方を選ぶ。
 もっとも幼い外見をした英霊たちは、一部を除き、中身も幼い。然るに子供舌なサーヴァントが多いので、良薬と言われても、美味しくないものは口にしたがらなかった。
 つまるところ、アスクレピオスが作る薬は総じて評判が悪かった。
 彼なりに努力し、歩み寄ろうとしているのは理解できるが、あらゆる思考が医療の発展と拡充に向かっている男だ。子供系サーヴァントがどうして彼を忌避するのか、根本的なところに考えが至っていないのは否めなかった。
 大勢に好評な甘味と組み合わせることで、地位の向上を図るのは、あまりに安直だ。
 やり方が姑息、且つ目論見として甘すぎると笑ったら、口を尖らせた医神が腕を解き、手を腰に据えた。
「マスターの出身地では、茶の葉を混ぜた甘味が人気だったと資料にあったぞ。あれは元々、薬として用いられていたのではないのか」
 いったいどういう文献を漁ってきたかは知らないが、抹茶を槍玉に挙げられた。
 言われてみればその通りで、だのに抹茶味の菓子はどれも美味しい。中には本来の風味を残して、苦みを際立たせたものも存在したが、立香はそういったものに縁がなかった。
「ええ~。オレに言われても」
 それと、アスクレピオスが育てた薬草と、どこがどう違うのか。
 具体的に説明できるだけの語彙力を持たない立香は目を泳がせて、口を真一文字に結んで低く唸った。
 しばらく悩むものの、どうやったところで明朗な違いは見つからない。
「アスクレピオスの薬草は、お茶じゃないじゃん」
「煎じれば飲める」
 仕方なく思いつく理由を述べれば、即座に反論が繰り出された。
「そりゃあ、ハーブティーは美味しかったよ?」
 負けず嫌いな性格が反映された台詞に、立香も若干食い気味に言い返した。無意識に指先に力が籠もって、ペキ、と何かが拉げる感覚に、コンマ三秒遅れで我に返った。
 長らく握り締めていた存在が、ようやく気付いてくれましたか、と言わんばかりに歪んでいた。
 放置されたソフトクリームは白と黒が入り交じり、表面は斑模様に染まっていた。水分を吸ったワッフルコーンが全体的に柔らかくなって、今し方潰れた場所から中身が溢れ出していた。
 どろっとした半液状の物体が緩く握られた親指に触れ、輪郭をなぞるように、下へ向かって垂れていく。
「あわわ、あわ。はわわ」
 流れ自体はゆっくりだけれど、咄嗟にどうすれば良いか分からない。
 慌てふためき、意味もなくソフトクリームを持つ手を上下に振り回していたら、横から伸びてきた腕がガシッ、と人の手首を掴み取った。
 動きを阻害され、垂れ落ちる雫にばかり気を向けていた立香はハッと息を吐いた。惚けたまま腕を取ったものの正体に目を向けようとすれば、向こうから強引に、視界に割り込んで来た。
 距離を詰められ、息遣いが聞こえたのは一瞬だった。
 無理矢理拘束され、ソフトクリームごと右手を引っ張られた。上半身が僅かに泳ぎ、長い銀髪が視界の端で揺れ泳ぐ。陶器のような白い肌が間近に迫ったかと思えば、ふたつに割れた唇の間から、真っ赤に染まった舌が伸びて来た。
 獲物を見定めた蛇の如きそれが、立香から掠め取ったもの。それは。
「ひいっ」
 親指の爪先から関節に向かってべろりと舐められて、たまらず悲鳴が漏れた。
 咄嗟に撥ね除けようとしたが、力及ばず叶わない。悔し紛れに睨み付けた先では、ソフトクリームの雪崩れを攫った男が、不遜な態度で背筋を伸ばした。
「こういう味が良いのか」
 さほど美味くないとでも言いたげに眉を顰め、アスクレピオスが嘯く。
 それで何故かムッとなって、立香は囚われたままの右手を上下に振り回した。
「溶けてない方が、美味しいの!」
 断りなく急に舐められて、吃驚したし、行儀も悪い。あまり褒められた行動ではないという意味合いも込めて吼えた彼に、アスクレピオスはむすっと小鼻を膨らませた。
 眉間に皺を寄せて不機嫌を露わにし、かと思えば睨み合いの末にくわっ、と大きく口を開いた。
 滅多にお目にかかれない八重歯を覗かせて、力任せに掴んだままだった立香の手を引き寄せた。
 そうして。
「あー!」
 がぶっとやられた。
 立香の悲鳴は食堂中にこだまして、列に並んでいた英霊、冷たい甘味に頬を緩めていた英霊、厨房で忙しくしていた英霊までもが、揃って何事かと顔を上げた。
 一瞬場が静まり返り、ざわざわした空気が遠い方から広がっていく。その中心部にいる立香は居たたまれない気持ちに襲われて顔を伏し、逆に悲鳴の発端となった男は満足げに口角を持ち上げた。
 さらには未だ解放されることを知らないマスターの右手から、ソフトクリームをもうひと口。
 むしゃむしゃ食べ進むアスクレピオスを呆然と見詰めて、立香は殺気立つ一部のサーヴァントに向かい、愛想笑いで手を振った。
 大事ないと暗に伝え、殆ど残っていないアイスにはがっくり肩を落とす。
「案ずるな、マスター。お前には、こんなものよりもっと健康になれる氷菓を用意してやる」
 その落胆をどう勘違いしたか、自信満々に言われた。
 前を向けば、人のものを食べているうちに妙案が浮かんだのだろう、嬉々として目を輝かせる英霊が一騎。
「楽しみにしないで待ってる」
 果たして結果はいかばかりか。
 やる気十分なアスクレピオスに肩を竦めて、立香は呆れ調子に目を細めた。

2021/07/04 脱稿

心あらば名乗らで過ぎよほととぎす 物思ふとは我も知らねど
風葉和歌集 153

行く末を かけても何か 契るらん

 足元の茂みに隠れていた小石を拾い、握り締める。
 目の前には穏やかな水面が広がり、雲ひとつない空の色を映して、鮮やかに輝いていた。
 ふと意識を彼方に投げれば、誘うように風が踊った。後ろから過ぎ去ったそれに襟足を擽られて、藤丸立香は強張っていた頬を僅かに緩めた。
「えいっ」
 たったそれだけの事で四肢の力みが抜けて、幾分気持ちが軽くなった。角の尖った小石を勢いつけて放り投げれば、少しの間を置いて、親指大の塊が凪いだ泉に沈んでいった。
 ぽちゃん、と音が甲高く響き、そこを基点に波が起こった。等間隔で広がるさざ波はやがて水面に溶けて消え、静寂が戻るのにさほど時間はかからなかった。
 非力な人間が起こせる奇跡など、所詮はこの程度。
 己の無力さと凡庸さに対する怒りを、諦めとは異なる感情で落ち着かせた。
 深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
 草を踏む音が聞こえて振り向けば、銀色の髪を高く結った男の姿が見えた。
「アルトリア・キャスターは、どう?」
「直接打撃を喰らったわけではないからな。衝撃で飛ばされて、打ちどころが悪かっただけだ。意識は戻った。しばらく休めば、問題なく動けるだろう」
 直前まで怪我人の治療を行っていたからだろう、近付いてくるアスクレピオスは第二再臨の姿だった。但し厳めしいマスクは外して、口元は露わになっていた。
 毛先だけ緋色に染まった長いもみあげが、動きに合わせて左右に踊る。傍らには彼の攻撃や、防御のサポートを行う機械仕掛けの蛇が、見た目にそぐわぬ滑らかな仕草で付き従っていた。
 ノウム・カルデアで見かける姿は、普通の白蛇なのに、不思議だ。
 どういう理屈なのかは分からないけれど、分からなくて困ったことは一度もない。なので面白いな、と思う程度で済ませて、立香は澄んだ色の泉に視線を戻した。
 医神の二つ名を持つ英霊の言葉に、嘘偽りはないはずだ。懸念材料がひとつ消えたと安堵の息を吐いて、彼は膝を折り、その場にしゃがみこんだ。
 水面よりほんの少し高くなった地面は、下を覗き込めば若干内側に抉れていた。それでも青々と茂る草が健気に斜面に根を下ろし、必死にしがみついていた。
「みんなは?」
「ロビンフッドが情報収集で、近くの村を回って来ると言っていた。ほかの連中は、その辺で適当に休んでいる」
「そっか」
 自然に生きる植物の力強さに感嘆し、真横で足を止めたアスクレピオスには他愛ない話題を投げた。普段から無愛想な英霊は淡々と必要なことだけを口にし、立ち去るかと思いきや、立香に倣って膝を折った。
 衣擦れの音がして、ギリシャ神話に名を連ねるに相応しい、整った顔が一気に近くなった。
 額で前髪がクロスする奇妙な髪型であるけれど、それを差し引いても充分過ぎるほど麗しい。息子の時点でこれなのだから、父親たるあの羊は、人の姿を取った時、いったいどれくらいの美形になるのだろう。
 興味深いが、訊けばきっと悲惨なことになる。
 ここの親子関係が最悪なのは、立香も十二分に承知していた。万が一にもアポロンの名を出そうものなら、泉に突き落とされるくらいは覚悟しなければならない。
 冴えた色を放つ眼前の泉は、透明度が高すぎて、逆に深さが読めなかった。
「そういや、なんか、あったなあ。えっと」
 遠い昔、まだ故郷が健在だった頃。
 幼かった時分の記憶に合致するものを探しているうちに、無意識に声が漏れていた。
「マスター?」
「ああ、そうだ。金の斧と、銀の斧」
 獣たちの憩いの場となっている森の泉は、単純な円形ではなく、中程で捻りが加わった楕円形だった。
 親子だろうか、鹿が二頭連れ立って向かいの岸に現れた。こちらを一瞬警戒した後、危険がないと悟ったか、静かに水を飲み始めた。
 遅れてもう一頭表れて、おっかなびっくり水面に顔を近付けては、鼻先で飛沫を散らした。なんとも朗らかな光景に、立香の頬は自然と綻んだ。
 先ほど遭遇した巨大なモンスターを倒しきれなかったら、この水場も安全ではなかったはずだ。
 仲間には負担を掛けたけれど、無視せずに挑んでよかった。
 あの鹿たちが立香に感謝する日は、きっと来ない。自己満足と言われればそれまでだが、少なくとも後悔の種がひとつ減ったのは確かだ。
「ヘルメスの斧が、どうした」
「ヘルメス?」
 ホッとしていたら、不意に横から問われた。
 何のことか一瞬分からなくて、きょとんと目を丸くしたまま隣を見る。するとアスクレピオスも怪訝な表情を作り、首を僅かに傾がせた。
「金と銀の斧の話だろう?」
 聞き直されて思い出して、立香は嗚呼、と頷き、そのまま目を眇めた。
「……なんでヘルメス?」
 揃って微妙な顔付きのまま見つめ合い、並んで森の中の泉に目を遣った。鹿の親子連れはいつの間にか居なくなり、代わりに小鳥の囀りが周囲に響いた。
 羽音がして、近くの木の枝が大きく揺れ動いたが、肝心の鳥の姿は見えなかった。
 顔を上げ、遠くを見渡し、改めてアスクレピオスへと向き直る。
「女神様じゃないの?」
 まだ親に手を引かれなければ外を歩くのも覚束なかった頃、読み聞かせてもらった絵本にあったのは、美しい女神の姿だった。
 木こりが泉に斧を落としたら、中から金の斧と銀の斧を持った女神が現れる。どちらがお前の落とした斧かと問われて、木こりはどちらも違うと答える。すると女神は木こりの正直さを褒め称え、元々の分も加えた合計三本の斧を与えた。
 詳しくは覚えていないけれど、確かそんな話の流れだったはずだ。
「それは、ヘルメスの斧という寓話だ」
 だのに真正面から否定されて、立香は困惑を拭えなかった。
 眉間に皺を寄せて、古代ギリシャの英雄をじっと見やる。向こうも向こうで譲れないのか、立香の顔を真っ直ぐ見詰め返してきた。
 穴が空きそうなくらいで、最初こそなんともなかったが、時が過ぎるに連れて気恥ずかしさが勝った。
「そうなんだ?」
 三十秒としないうちに耐えられなくなって、ぱっと顔を背けた。早口で相槌を打って、右手で生い茂る草を弄るが、適当な大きさの石には行き当たらなかった。
 なにも掴めなくて、仕方なく緑色が濃い草の表面を撫でた。押してもすぐ戻る健常さに感嘆の息を漏らし、ちらりと傍らを窺えば、アスクレピオスは相変わらず鋭い眼光でこちらを射貫いていた。
「僕らの故郷で広く知られた話だが、……お前の故郷まで伝わっていたのだな」
「イソップ童話、だったかな」
「おおかた、伝播の途中で入れ替わったのだろう。よくある事だ」
 伝承や伝記は、伝える人、時代、風習によって様々に組み替えられていく。原形を留めないのは哀しいことだが、言い換えれば人の時代がそれだけ長く続いた証拠だ。
 アスクレピオス自身も、思い当たる節があるのだろう。
 皮肉めいた表情が、彼の胸の内を表していた。
 伝承で語られる英霊そのものがここに存在するのだから、間違いがあるなら直々に否定すれば良いとも思う。ただ人々の営みに寄り添い、数多の命と向き合ってきたアスクレピオスがそれをするのは、彼の信念を曲げることに繋がりかねなかった。
 だからきっと、彼は自分から言い出すことはしない。
 今の表情は己の胸の中に留めることにして、立香は三角に折った膝に両手を並べた。
 手の甲に顎を寄せ、背中を丸めた。穏やかな時間が過ぎ去るのを惜しみ、もう少し続いてくれるよう祈って、目を眇めた。
「あのさ、アスクレピオス」
「なんだ」
「もしオレがさ、泉に落ちたとして」
「落ちる予定があるのか?」
「……もしもの話ね? オーケー?」
 仮定の話を振ったつもりでいたのに、思いの外真面目に受け止められた。
 座ったまま前のめりになった英霊には頭を抱え、泉と立香の間に割って入ろうとした機械仕掛けの蛇は、残る手で制する。自分から飛び込む気はないと言外に伝えて、彼は真顔で頷いた男に苦笑した。
 二度の深呼吸を挟んで気を取り直し、踵を地面に打ち付けた。
「女神様でも、ヘルメス神でも、どっちでも良いんだけど。もしも、さ。未知の病原菌に苦しむオレと、今にも死にそうな大怪我してるオレと、どっちか選べって言われたら、どうする?」
 自分で言っておきながら、奇妙な二択だ。
 普通なら身長が伸びただとか、美形になったとか、強くなったとか、魔力が増えたとか。そういう選択肢を並べたくなるものだ。
 しかし此処にいる英霊は、そのどれにも食指が働かないと知っている。なので彼が迷いそうなものを探したら、結果としてこうなった。
 やや青臭さが残る右手と、そうでない左手を肩の高さに掲げ、揃えてアスクレピオスの前へと提示した。
 空っぽの掌を見せられた男は目をぱちくりさせて、立香の顔と、傷跡が残る指先を交互に見比べた。
「………………」
 沈黙は、殊の外長かった。
 最初こそ惚けた顔だったのが、時間が経つにつれて素の顔に戻っていった。そこから徐々に瞼が重くなって、眉間の皺が増え、唇は真一文字に引き結ばれた。
 腕を組み、右中指を噛むくらいに迷うアスクレピオスに、失笑を禁じ得ない。
「そんなに真剣に悩まれるの、癪なんですけど」
 童話に語られる木こりは、落とした斧が提示されたものどちらとも違うと、正直に答えた。
 その例に倣えば、素直に本物の立香を所望してくれれば良い。自分が三人に増えるというのは微妙なところだが、もしもの話であり、笑って流してくれればそれで済む。
 そう、本当の藤丸立香だけを選んでくれれば、全てが綺麗に収まるのだ。
「……――」
 だというのになかなか答えないアスクレピオスに、焦れた。苛々して、小鼻を膨らませたところでふと、我に返った。
 無言を保つ男に食ってかかろうと地面を踏みしめ、今まさに利き手を伸ばそうとした寸前で、はっと息を呑んだ。
 悶々と膨らんでいた苛立ちと、嫉妬めいた感情が一瞬のうちに霧散して、目の前が唐突に晴れた。
 途端に前方がよく見えるようになって、長らく顔を伏していた男の表情が明らかになった。
「なんだ。つまらん」
 不遜な笑みを口元に浮かべ、直前で停止した立香の動向を残念がった。嘲るような台詞を吐いて、にやにやと含みのある眼差しを向けてきた。
 頬杖をつき、露骨なまでになにか企んでました、という顔をして、空いている方の手を伸ばす。
 手袋に包まれた長い人差し指に迫られて、立香は咄嗟に仰け反った。しかし完全に避けきるのは難しく、一度空を撫でた指先は即座に来た道を引き返し、空気を含んで丸くなった頬を小突いた。
「さっさと根負けしてしまえば良かったものを」
 クツクツ喉の奥で笑いながら弄られて、立香は益々頬を膨らませた。
 口を尖らせ、睨み付けるけれど、なにひとつ効果はない。むしろ逆に面白がられて、悔しさのあまり頬を擽る指をはたき落とした。
「うるさいな。つか、アスクレピオスが先に言ってくれれば良いだけじゃん」
 彼が迷いそうな設問にしたのは、こちらの落ち度だ。ただそれを逆手に取って、立香の反応を楽しみ、玩ぶのは趣味が悪い。
 鼻息荒く捲し立て、口角を歪める男からじわり、距離を取った。侮られないよう目は逸らさないまま、両手と尻で青草を踏み潰して少しずつ後退した。
 ただこの反応さえも、アスクレピオスには愉快だったらしい。噴き出したりはしないものの、先ほどよりずっと楽しそうに笑って、一度は払われた手で立香の顎を抓んだ。
「なら、望み通り言ってやろう」
 顔を背けられないよう固定して、低く艶のある声で囁く。
 間に舌なめずりまで挟まれて、立香の背筋にぞわっと悪寒が走った。
「重病も、大怪我も、待っていればそのうちお前の身に降り掛かる。かといって三人に増えられるのは迷惑だ」
 膝を前に突き出し、アスクレピオスは人が折角稼いだ距離を一瞬で無に帰した。背筋を伸ばし、尻を浮かせて、こちらよりも拳二つ分ほど目線を高くしてから、ゆっくりと語り出した。
 端整な顔立ちが迫り、立香の鼻先に吐息が掠めた。伸びやかな低音が淀みなく流れて、耳朶を甘く擽り、脳髄に優しく突き刺さった。
 顎に触れた親指がつい、と横に泳ぐ。たったそれだけなのに皮膚が熱を持ち、連鎖反応で鼓動が爆音を発した。
「貴様のような愚患者は、お前ひとりきりで充分だ。ああ、そうだとも。お前がいれば、僕はそれだけで満足だ。僕の、僕だけのパトロン。マスター。お前と共に在る限り、僕は飽くなき研鑽に邁進できる。健康であれ、マスター。それこそが僕の望みであり、願いであり、お前と居る意味だ」
 うっとりと蕩けるような声色に包まれて、身体の芯がぞわぞわと蠢いた。心臓を直に撫でられたような感覚に背筋が震えて、翡翠の瞳に映る自身の顔が真っ赤に染まっているのを見付けた辺りで、限界だった。
 重病人か怪我人かを選べという話で、なぜ口説き文句にしか聞こえない台詞になるのか。
 やはりこの男はあのアポロンの息子に間違いない。心の中で喚き散らして、耐えられなくなった立香は火照って熱い身体を振り回し、距離が近すぎる男を突き飛ばした。
「う、あ……も。い――ああれえっ」
 ところが、である。
 いくらキャスター相手とはいえ、一応向こうは英霊の端くれ。人間を上回る存在だ。加えてアスクレピオスはケイローンを師として、パンクラチオンの使い手でもあった。
 一見貧弱そうに見えても、実際その通りだとは限らない。現に今、立香は彼を突き飛ばしたつもりで、逆に自分が跳ね飛ばされた。
 さらに悪いことは重なるもので、背後に控えていたのは地盤がしっかりした大地ではなかった。
 顔を向き合わせたまま後退した先になにがあるか、頭から完全に抜け落ちていた。
 重力から解放された体躯がふわっと宙に舞ったかと思えば、世界が百八十度ひっくり返った。
 青空が見えたと思った直後、水面はもうそこに迫っていた。咄嗟に頭を庇って身を丸めたが、勢いを殺しきれるはずがない。落下の衝撃は強烈で、骨格が拉げる感覚と同時に耳元で水が爆ぜた。真っ白い泡が大量に発生し、竦んで小さくなった立香の身体に纏わり付いた。
「――――ぶふっ!」
 息を止めるのが間に合わなかった。
 意識が一瞬飛んで、緩んだ口元から残っていた空気が一斉に溢れ出た。入れ替わりに冷たい水が口腔のみならず、鼻腔からも入り込み、目を開けていられない痛みに全身が撓った。
 早く浮上しなければと分かっていても、思うように手足が動かない。薄目を開けて覗き込んだ泉の底は真っ暗闇で、地上から見た様相とは全くの別物だった。
 抗っても、抗いきれない。果てが見えない水底に引きずり込まれた。透明な触手で絡め取られ、このまま冷たい牢獄に囚われるのだと、絶望感で頭が真っ白になった。
 こんなところで終われない。
 託された沢山の想いに見合う答えに、まだ辿り着けていない。
 ひたりと首元に迫る死の恐怖に怯えて、それでも救いを求めて手を伸ばす。
 四方から押し潰される圧迫感に逆らい、水を掻いた。自由に動くのもままならない水の中で、大きく口を開き、助けを欲して音なき声で吼えた。
 応じる声があった気がした。
 名前を呼ばれた気がした。
 遠ざかる光が突然ぐにゃりと歪み、四散した。それが自分とは異なる存在の起こした事象だと悟る前に、手首を乱暴に掴まれた。
 握り締めて、引っ張られた。深い方へ、暗い方へ流されるままだった身体がふわりと浮き上がり、すかさず腰を支えられた。
 安心させるかのように、背中を撫でられた。肺の中は空っぽで、もう目を開けられない。何も見えない、何も聞こえない状態で、意識は次第に霞み、あらゆる感覚が失われようとしていた。
 だから最初、なにが起きているか分からなかった。
 仄温かいものが唇に触れて、この場にあるはずのない空気が一気に喉の奥へと流れ込んできた。無理矢理押しつけられ、飲み下すのを強要されて、出来なくて噎せたところで、強く身体を抱きしめられた。
 周囲で水の流れが加速するのが分かる。追いすがる透明な触手を蹴散らして、誰かが立香を連れて光の溢れた世界へ駆け上がろうとしていた。
 深淵が遠ざかる。
 冥府の舌打ちが直接脳内に轟いたところで、ざばあっ、と水が弾ける音が眠っていた聴覚を叩き起こした。
「げほっ、けほ、はあ、あっ。あ――はぁ、げふっ、えふん」
 一歩遅れて肺が活動を再開させ、手始めに気道に入り込んでいた水分を盛大に吐き散らした。激しく咳き込み、続けて小刻みに酸素を掻き集め、最後に鼻腔に残る水気を吹き飛ばした。
 無意識に足をばたつかせ、簡単に沈もうとする身体を必死に浮かせた。それでも足りなくて、傍にあった浮き輪にしがみつけば、なんと浮き輪の方も立香をしかっと抱え込んだ。
 ぎゅうっと締めつけられて、肋骨が軋む。水による圧迫よりもずっと痛いし、苦しくて藻掻いていたら、耳元でふう、とそよ風が吹いた。
 微熱を孕んだ吐息に、目を瞬かせる。
 固く凍り付いていた瞼を溶かし、ぼやけていた視界を徐々に明るくした。歪んだ輪郭を修正し、滲む色を補正していくうちに、立香はずぶずぶと水の中に舞い戻った。
「ぶぶぶぶぶ」
 口まで浸かり、鼻の孔がぎりぎり水面に届かない位置まで沈んで、自らがしがみついているものに爪を立てる。
 引っ掻かれた方は不満げな顔をして、解けてしまった銀の髪を雑に梳いた。
 ずぶ濡れのアスクレピオスの頭には、潜水の最中で解けたのか、いつものバンダナがなかった。特徴的な前髪は勢いを失い、べたっと額に貼り付いていた。
 長いもみあげが水面に浮かび、立香の肩や首にも絡みつく。その細い糸ごと抱きつき直せば、呆れ調子の英霊が深々と溜め息を吐いた。
「本当に落ちるバカがどこにいる」
 緊張から解き放たれたからか、彼の声はいつもより少しだけ高かった。口調は相変わらずだけれど、言葉の裏に安堵が見え隠れしていた。
「ごめん」
 泉に落ちた直接の原因はアスクレピオスだけれど、言ったところで喧嘩にしかならない。恨み言は大人しく飲み込んで、立香は頭を垂れた。
 湿って重い黒髪から雫がぼたぼたと滴り落ちて、その数は少しずつ減っていった。
 関節のあちこちが軋むように痛み、息苦しさはまだ消えず、油断するとすぐに噎せた。正しい肺呼吸の仕方が分からなくて、手探りで試す水生生物になった気分だった。
 気を抜くと身体はすぐに沈み、体温も水に持って行かれて寒い。唇が色を失い、カチカチと奥歯を鳴らしていたら、眉間の皺を解いた男が彼方を見た。
「大丈夫ですか。だだ、大丈夫ですかあー?」
 間を置かず、遠くから少女の絶叫が聞こえて、水際に人影が現れた。走って来たアルトリア・キャスターは思ったより元気そうで、戦闘でのダメージは感じられなかった。
 小柄で軽い少女は、突進してきた猪の攻撃をすんでのところで躱したものの、巨大な獣と巨木の激突による衝撃をまともに喰らい、吹っ飛んだ。その際強く頭を打ったらしく、立ち上がってもすぐにふらつき、倒れてしまって、アスクレピオスの治療を受けることになった。
「よかった」
 杖を片手に声を張り上げる少女に胸を撫で下ろし、正直な気持ちを口にしたら、なぜか拳骨が降って来た。
 問答無用で水に沈められ、直後に抱え上げられた。なにがしたいのかと乱暴極まりない医神をねめつければ、アスクレピオスは憤懣遣る方ない表情で立香を睨み返した。
「お前の命はひとつだ。忘れるな」
「……あい」
 泉に沈んだところで、現実の立香は増えたりしない。
 命の使いどころを間違えるなと、叱られた。心当たりが多すぎる立香は素直に頭を垂れて、濡れた唇をそっと撫でた。

行く末をかけても何か契るらん ただ目の前になりぬるものを
風葉和歌集 948

2021/06/27 脱稿

忍ぶべき 心地やはする 数ならぬ

 突然腕を取られ、問答無用で引き摺られた。背後からだったので避けられず、相手が誰であるかの確認も遅れた。
「え、ええ? えええ?」
 訳が分からないまま右往左往して、後ろ向きのまま飛び跳ねるように数歩分戻らされた。困惑から抜け出して、兎も角狼藉を働く何者かの手を振り払おうと身を捻れば、真っ先に見えたのは鮮やかな黄金色の髪だった。
 床に擦れる程に長く、艶やかな色彩に目を奪われた。黒い上着の袖に潜り込んだ指先は雪の如き白さであり、しかもか細く、繊細だった。
 不意を衝かれた為に錯覚したが、引っ張ろうとする力はそこまで強くない。彼女が連れる青銅の巨人や純白の雄牛は強大で、強力だけれど、この愛らしい女性自身は、他者と戦う力を一切持ち合わせていなかった。
 ちょっとでも腹に力を込め、踏ん張れば、束縛から容易く抜けられる。
 ただこの絵に描いたようなお姫様が、こんな暴挙に出たのには、なにか理由があるはずだ。
 これが鈴鹿御前や清姫辺りだったら、一目散に逃げ出すところだけれど。
「人徳ってやつかな……」
 想像したら、たとえに用いられた英霊が脳内で文句を言った。煙を噴きながらぷんすかしている彼女らに苦笑を浮かべて、汎人類史最後のマスターである藤丸立香は肩を竦めた。
「エウロペ」
「はあい」
 躓かないよう足元に注意しつつ、愛くるしい誘拐犯の名前を呼べば、即座に返事があった。
 バレることなく連れ去れるものと、最初から思っていなかったらしい。おっとりした口調は笑みを湛えており、表情もそれに準じたものだった。
 朗らかに目を細め、古代ギリシャの神妃がとある扉の前で華麗にターンを決めた。
「さあ、どうぞ。どうぞ」
 そこが誰の部屋なのかを確かめる間もなく、開いたドアへと押し込まれる。よろめきながら敷居を跨げば、待っていたのは芳しい香りを放つ菓子の山だった。
 部屋自体は立香が使っているものと同じ、シンプルな構造だ。違うのは鉢植えの植物が沢山並べられ、小さいが見栄えのする花が色とりどりに咲き乱れているところだろうか。
 他にも壁際に置かれたぬいぐるみや、装飾品に、ここを使用している存在の個性が表れていた。
「ようこそ、マスター」
「はあ。お邪魔します」
 無理矢理連れ込んでおいて、いらっしゃい、というのも妙な話だが、それを指摘するのは野暮というものだろう。エウロペお手製らしき菓子が盛られたテーブルを遠巻きに眺めて、立香は部屋に入った後ではあるが、小さく会釈した。
 レースのクロスが敷かれたテーブルは、ちょうど部屋の真ん中に。植物をモチーフにした椅子がこれを取り囲むように並べられて、いつでも茶会を始められそうな雰囲気だった。
「あれ。まだ誰か来るの?」
 チョコレートを練り込んだ焼き菓子に、ハートや星形のクッキー。スコーンの隣にはサワークリーム入りの容器がどん、と控えており、ふたりでこれら全てを食べきるのは至難の業に思えた。
 それに加え、椅子は全部で三脚用意されていた。
 部屋の中には立香とエウロペしかいない現実から出た質問に、美しい女神は悪戯っぽく微笑んだ。
「ええ。ええ、もう少ししたら、来ると思うわ」
 美味しいお茶と一緒に、とも告げられて、立香は首を傾げた。
 古代ギリシャに縁を持つ彼女と関わりを持つ英霊は、数多く存在している。無論、このカルデアにも。
 ただその中に、茶を淹れるのが上手い英霊がいたかどうかは、記憶が定かではなかった。
「ケイローン、かな」
 一瞬アルテミスかと思ったが、彼女はエウロペとは根本的なところで大きく異なる。料理を捧げられたことはあっても、自分で台所に立つという発想には至らないだろう。
 消去法で残った賢者の名を口ずさむものの、部屋の主の反応は芳しくなかった。
「うふふ」
 含みのある眼差しで笑いかけられたので、推測は間違いだったようだ。ならばと他を探してみるものの、見付けられないでいるうちに、またも背中を強く押された。
「さあ、座って。座って。あなたは大事なお客様なのよ?」
 大人しくもてなされていろと囁かれ、苦笑を禁じ得ない。仕方なく椅子を引き、座って待っていたら、程なくしてドアをノックする音が聞こえた。
 向かいの席でそわそわしていたエウロペが、瞬時に反応し、両手を叩き合わせた。
「どうぞ、いらっしゃいな」
 子供のようにはしゃいで、声を高くして呼びかける。
 ドアは直後に開かれて、見えた姿に立香は絶句した。
「え」
「……チッ」
 にわかには信じられなくて、反射的に椅子の上で仰け反ってしまった。そんな態度もあってか、エウロペの茶会に招かれたもうひとりは露骨に顔を顰め、聞こえる音量で舌打ちした。
 但し両手で支え持ったものを投げ出さない程度に、理性は保たれていたらしい。
「さあさあ、こちらへおいでなさい。一緒におしゃべりしましょう」
 ドアの向こうで立ち止まっている銀髪の英霊に声を掛け、エウロペがカラコロと喉を鳴らした。
「ね、アスクレピオス」
 鈴の音色で名前を呼ばれ、日頃から医務室に居座っている男は深く溜め息を吐き、諦めた様子で足を前に繰り出した。
 透明なポットの中で淡い琥珀色の液体が踊り、水面に浮かんだ小さな塊がふよふよと揺れ泳ぐ。不思議な香りが鼻先を掠めて、立香は椅子に座ったまま、僅かに横に位置をずらした。
 無意識に距離を取り、ついでに菓子の皿を取って四角い銀盆を置くスペースを用意した。
「おばあさま。マスターが来るのであれば、先にそう言ってください」
「あらあら。だって、マスターを呼ぶと言ったら、あなたは来ないでしょう?」
「マスターが来ても、来なくても、とにかく僕を頻繁に呼びつけないでください」
「そう? おしゃべり、したくない?」
 その空間にやや乱暴に盆を置いて、アスクレピオスが苛立った声でエウロペを糾弾する。もっとも流石はあのゼウスに愛された女性なだけあって、この程度の怒りは軽々と受け流してしまった。
 アスクレピオス自体も、若干的外れな反論にやる気を削られたらしい。がっくり肩を落とし、慣れた調子で椅子を引いた。
 仕草や一連のやり取りから、立香が知らないところで、この義理の祖母と孫はやり取りを交わしていたのだろう。傍で聞いている分には微笑ましい光景で、口元を緩めていたら、勘付いた医神がギロッと鋭い目つきで睨んで来た。
「うわあ」
 この眼差しには、覚えがある。さながら思春期の頃、母親とのやり取りを友人に見られた時の感覚だ。
 恥ずかしいのと、照れ臭いのと、どうして此処にお前がいる、という理不尽な怒りがない交ぜになったアレだ。
 噴き出したいのを堪え、両手を膝に揃えて握り拳を作った。腹筋に力を込めて息を殺し、必至に耐えていたら、空気を読まないエウロペが両手を二回、軽快に叩いた。
「さあ、揃ったところで、いただきましょう」
 自信作だと胸を張り、彼女はまず大きなブラウニーにナイフを入れた。アスクレピオスも気持ちの整理がついたのか、透明なティーポットの中身を、花柄が美しいカップに注ぎ入れた。
 長い袖を垂らしながら、道具を器用に操って、落としたり、取り零したりしない。
 意外に慣れた動きに目を奪われて、ぼうっとしていたら、突然振り返った彼と目が合った。
「お前が来ると知っていれば、別のものを用意したんだが」
「えと、あ。どうも」
 いきなりだったので、驚いた。真っ直ぐ射貫くような眼差しは鋭く、どこか剣呑な雰囲気が合ったけれど、なみなみと注がれたカップを差し出す手つきは、丁寧で、優しかった。
 零さないよう注意しながら受け取り、穏やかに波を打つ水面をただじっと見る。
「そのお茶はね、アスクレピオスが育てたハーブなのよ」
「へえ、そうなん……ええ!」
 紅茶にしては少し色が薄く、底にはポットに浮かんでいた塊の破片が沈んでいた。
 これは飲んで良いものかと迷っていたら、見越したエウロペに教えられて、また驚かされた。
 目を丸くして傍らを振り向けば、祖母にも同じ物を渡した男が五月蠅そうに眉を顰めた。
 額で交差する前髪を踊らせて、アスクレピオスが口をへの字に曲げたまま頷く。
「なにを不思議がる。僕は医者だぞ」
 空になった手で星形のクッキーを一枚取り、頬張る前に不遜に言って、椅子に深く座り直す。悠然と足を組み、どことなくリラックスした素振りは、医務室で目にする彼とは少し違って見えた。
 ケイローンやイアソンらと一緒に居る時とも、雰囲気が微妙に異なっている。どちらかと言えばあの問題行動が多い羊に憤っている時の、憤りを抜き取った後といった感じだった。
「そっか。なるほど」
 イアソンが以前、彼から湿った薬草の匂いがする、と言っていた。それを思い出して納得して、立香は僅かに温くなったハーブティーに口を付けた。
 苦くはない。渋みも少なく、飲みやすかった。
「どう?」
「レッドクローバーだ。癖が少ないから、お前でも飲めるだろう」
「それ、どういう意味かな?」
 向かいから不安げに問われ、横から得意げな医神が立香に代わって言葉を並べ立てる。あまり良い気分がしないひと言に視線を投げかけたが、アスクレピオスは答えずにクッキーを噛み砕いた。
 確かにコーヒーはブラックでは飲めないし、渋みの強い飲料はアルコールなしでも苦手ではあるが。
 馬鹿にされたのは面白くないが、このハーブティーが飲みやすいのは、間違いない。
 立香が招かれていると知らずにこれを選んだのだから、アスクレピオスには感謝するしかなかった。
「さあ、どんどん食べてね」
「はい。いただきます」
 テーブル上にはまだまだ沢山の菓子が残っており、急いで食べないと、いつまで経ってもなくならない。山盛りの皿を差し出され、受け取って頭を下げたら、急に中腰になったエウロペに髪を撫でられた。
 華奢で白い腕を伸ばし、前のめり気味で俯いた立香の頭を二度、三度と撫でた。黒髪を細い爪で柔らかく梳いて、最後の仕上げのつもりか、ぽんぽん、と優しく叩いて離れていった。
 労られ、慈しまれ、愛おしまれた。
「いっぱい食べて、元気になってね」
「……はい」
 ただ彼女はいつものように微笑んで、余計なことは口にしない。
 見透かされ、見破られ、それでいながら見ないようにしてくれている。
 辛うじて掠れる声で返事して、立香はナッツ入りのブラウニーを口いっぱいに頬張った。
 チョコレートの良い匂いが喉から鼻に抜けて、香ばしい胡桃の噛み応えが楽しい。クッキーには細かく刻んだピスタチオが練り込まれており、手作りのジャムの酸味が口の中のリセットに役立った。
「ねえ、マスター。あなたのお話、聞かせてくれる?」
「軽率にマスターを疲れさせる真似は、医者として推奨しかねるんだが」
「良いじゃない、たまには。それにこのお茶、喉にも良いのでしょう?」
 促されて、口をいっぱいにしたまま囀ろうとしたら、横から苦々しい口調で制止が入る。かと思えば今度は理屈で反論されて、アスクレピオスは渋面を作って黙った。
 どうあっても、彼女には勝てないらしい。
 日頃の傲岸不遜な態度からは考えつかない一面は、新鮮で、おかしかった。
 軽い怪我や、微熱では相手をしてもらえず、かと思えば、自己判断で放置していた傷については、烈火の如く怒られた。
 正直、彼のことは少し苦手だ。友好的な時と、そうでない時の落差が激しい上に、どこでスイッチが入るかが掴めずにいた。
 だからエウロペの茶会に彼が招かれていると知った時は驚いたし、意外過ぎて、実は今でも疑っている。
「ねえ、マスター。そういえば最近、あまりこの子をレイシフトに連れていってあげてないようだけど」
「――はい?」
 甘い物で腹を満たし、ハーブティーで喉を癒して、昔の事や、最近のこと、当たり障りのない話をして、そろそろお開きかという頃合いで。
 唐突に切り出された話題に、目が点になった。
 横では塊を喉に詰まらせたらしいアスクレピオスが激しく噎せていて、エウロペだけが穏やかだった。
 素早く瞬きを繰り返し、たおやかに微笑み続ける女神と、ガチャガチャ食器を叩いて悶えている半神とを交互に見る。恐らくこれが、この茶会の真の目的だと理解するのには、十秒近い時間が必要だった。
「ええと、それは」
「おばあさま!」
「この子ったら、最近、マスターがどこにも連れていってくれないって。きっと寂しかったのね」
 言われてみれば近頃発生する特異点に、アスクレピオスは連れていっていない。というのも事が起こった時、彼は大抵医務室に詰めている。その時管制室に集まっていた面子だけで事態の解決を図るパターンが多いので、敢えて呼びに行ってまで連れて行くことがないのだ。
 同行する英霊をじっくり選び、吟味して編成するところまで至らないから、必然的に彼を連れてレイシフトする機会が減った。
 初めのうちは貴重な医者の英霊として、ダ・ヴィンチがデータを欲しがったのもあり、積極的に連れ回していたが、それも一段落していた。
「寂しかっ……た?」
「違う。僕のような優秀な頭脳が、有効に活用されていないのに、不満があっただけだ」
「つまりは、拗ねてた、と」
「違う。貴様が愚患者なのが悪いと、僕はそう言っただけだ」
「いだだだ、痛い。痛い。医者の暴力反対」
 気配りが行き届いた心優しきエウロペが、前触れもなく立香を引っ張って部屋まで連れて来たのには、事情があった。
 親が子供のためを思って、子供が望んでもないパーティーを企画するという黒歴史を目の当たりにした気分だった。
 つられてこちらまで恥ずかしくなるが、それを上回る面白さに頬が勝手に緩む。
 茶化せば即座に長い袖が飛んで来た。力技で黙らせようとする医者のやり口には、声を立てて笑うしかなかった。
 こんなにも腹から声を出して笑ったのは、いつ以来だろう。
 すぐには思い出せない記憶は霞の向こうへ戻して、立香は湧いて出た涙を指で拭った。
「じゃあ、今度は。一緒に行く?」
「未知の病原菌か、感染症が流行しているのであれば、付いていってやらんでもない」
「もう。この子ったら」
 ヒーヒー息を吐きつつ目を細めれば、生意気を言われた。エウロペが即座に叱るけれども、それがまた面白くて、腹筋が引き攣って痛いくらいだった。
 驚きの連続だったけれど、この雰囲気は嫌いではない。むしろ好きな部類だ。楽しかったし、心地よかった。
「アスクレピオスが喜びそうなのは、すぐには難しいかもだけど、考えておくよ」
 甘くないハーブティーを飲み干して、その清々しさに顔を綻ばせる。
 深く息を吐けば長い袖が下から静かに登って来て、なにかと思えば濡れた顎を拭われた。
「お前には、僕の研究が完成するまで、付き合ってもらわないと困る。貴重なパトロンだからな」
「言うと思った」
 急に触れられたので吃驚したが、害意はない。好きにさせて、立香は肩を竦ませた。
「またおしゃべり、しましょうね」
「うん。アスクレピオスのお茶も、案外、美味しかったし」
 あれだけあった焼き菓子も、スコーンも、綺麗さっぱりなくなった。
 意外に大飯喰らいだった半神に、最後の最後で嫌味を投げれば、彼は一瞬目を丸くして、ふっ、と口元を和らげた。
 皮肉だと伝わらなかったようだ。
 ほんの少し嬉しそうにはにかむ姿は、あどけない子供のようだった。
「なら、また煎れてやる」
 静かに告げられて、面と向かって言われたこちらが照れた。
「う、うん。楽しみにしてる」
 また新しい一面を見せられて、不本意ながらドキッとした。胸の奥がきゅんと疼いて、ときめきに近いものを覚えた。
 それを必死に誤魔化し、頷いたが、声は僅かに上擦った。
 視線を感じて横目で見れば、エウロペが女神の微笑みを浮かべていた。
「それじゃあ、オレはこれで。ごちそうさまでした」
 何も言われていないのに、眼差しが雄弁になにかを語っている。心の奥底まで見透かされているようで怖くなって、立香は早口に捲し立て、椅子から立ち上がった。
 転がるようにドアへ向かい、自動的に開いたそれを潜った。座ったままの二騎の動向が気になって、礼の代わりに頭を下げるべく、そろりと振り返った。
 女神と半神は変わらずテーブルを取り囲み、慌てふためく人間を見守っていた。
 こういうところが、根本的な違いなのか。
 ふと寂しく感じて、無意識に唇を噛んだ。今一度ご馳走してもらった礼を述べようと息を整えていたら、医神に先を越された。
「胃薬が必要になったら、いつでも来い。お大事に、だ。マスター」
 寄り添う言葉が投げかけられて、心の奥が熱を持つ。
 人畜無害に見せかけて、エウロペの思惑にしっかり乗せられた。そう自覚しつつも、火照った肌は偽れそうになかった。

忍ぶべき心地やはする数ならぬ 身に包めども余る思ひを
風葉和歌集 767

2021/05/30 脱稿