木曾の懸橋底も見えねば

「薬研、いる?」
「ん? ああ、居るぞ」
 板戸越しに、声がかかった。それで集中力が途切れて、薬研藤四郎は億劫さを押し殺して返事した。
 視線を上げ、猫背になっていた背筋を伸ばした。両腕をぐー、と高く掲げて筋肉を解し、ずれた眼鏡は下ろす手で外した。
 その頃には板戸も大きく開かれ、呼び声の主が顔を出した。寒そうな素足を赤色の褞袍で隠して、白い襟巻が首に巻き付いていた。
 頬は赤らみ、息が苦しそうだ。鼻が詰まっているのか、口が閉じられると同時にずずず、と音が響いた。
 はあ、と深い溜息が聞こえて、薬研藤四郎は苦笑した。大事な眼鏡を文机に置いて、中に入るよう促した。
「どうした」
 戸を開けたままだと、温かな空気が逃げてしまう。入れ替わりに外の冷気が流れ込んできており、薬研藤四郎の細い脚を撫でた。
 ヒヤッとした気配に鳥肌を立て、剥き出しだった太腿を白衣で隠した。それでハッとしたのか、小夜左文字は慌てて戸を閉めた。
 敷居を跨ぎ、板張りの部屋へと入る。室内の中心には火鉢が置かれ、黒い炭の中心で赤い火が花咲いていた。
 入り口近くにまで、色々なものが置かれていた。それが真っ先に気になって、小夜左文字の視線は自然とそちらに流れた。
 もう一度鼻を啜り、口から息を吐いた。肩を上下させて襟巻の具合を調整して、座ったまま動かない薬研藤四郎の前へと進み出た。
「悪いな。座布団がねえや」
「別に、良い」
 文机に置かれた燭台では、太めの蝋燭の火が揺れていた。入口すぐのところにも行燈が据えられて、橙色の淡い光を放っていた。
 明かり取りの窓は高い位置にあるが、外が曇っている所為であまり頼りにならない。障子紙を貼った格子窓がカタカタ揺れて、隙間風が冷たかった。
「邪魔したか」
 壁も床も天井も、一面板張りだ。屋敷の広間のように、畳は敷かれていない。しかも季節は冬、火鉢ひとつでは間に合わなかった。
 そんな床に直接腰を下ろすのは、正直辛い。けれど外の寒さよりはずっと楽だと言い聞かせ、小夜左文字は遠慮がちに膝を折った。
 骨張った身体を低くして、正面から問いかける。この部屋で唯一の座布団を占有して、薬研藤四郎は首を竦めた。
「いいや、構わないさ。それより珍しいな、お前がこっちに来るなんて」
 場所を分けてやりたいところだが、真ん中で切り裂くなど出来ない。申し訳ないが我慢して貰うことにして、黒髪の短刀は首を傾げた。
 ここは薬室。屋敷の一画に設けられた、薬研藤四郎専用の部屋だった。
 壁一面に薬棚が並べられ、彼の名の由来となった道具の他に、様々なものが所狭しと詰め込まれていた。
 季節、昼夜の別を問わず、薬草の匂いが常に立ち込めている。この匂いに慣れていないと、立っているだけで気分が悪くなるような場所だった。
 手入れ部屋へいくまでもない怪我などは、薬研藤四郎の領分だ。切り傷、火傷、打ち身、など等。なんでもござれの名医だった。
 だが今日は、怪我人はいないらしい。薬を調合する道具は揃って脇に退けられて、山のように積み上げられていた。
「ちょっと、聞きたいことがあって」
 出陣や遠征で本丸を留守にする時以外、彼は大体、この部屋に籠っていた。あまり広くなく、半地下なので冬場は特に寒いというのに、だ。
 粟田口の短刀は数が多く、どれも遊びたい盛りだ。そんな中異彩を放つ彼は、一期一振がやってくるまで、手のかかる弟たちの取りまとめ役を担っていた。
 長兄が合流を果たした今、兄代わりもお役御免となったからか。
 遊び回るより別のことに時間を使いたいと、薬研藤四郎は暇を見つけては、此処でひとり、過ごしていた。
 歌仙兼定が大体台所にいるのと、同じようなものだ。本丸で最も古株の打刀と並べて、小夜左文字は足を崩した。
 褞袍の裾を尻に敷いて、胡坐を掻いた。踵を綿の入った布で保護して、爪先は両手で握りしめた。
 その指先は荒れ放題だったが、毎晩欠かさず軟膏が塗り込められているのを、薬研藤四郎は知っている。秋の終わり、寒さが厳しさを増し始めた頃、作り方を教わりに来た打刀がいた為だ。
 毎日水仕事を頑張ってくれている刀に、これを禁じねばならない程には、荒れ方は酷くない。甲斐甲斐しく面倒を見て貰っているのだと想像すると、関係ない自分までもが何故だか照れ臭かった。
「薬研?」
「いや、なんでもない。で、なんだ。俺に分かると、良いんだけどな」
 含み笑いを零していたら、怪しまれた。慌てて取り繕って、薬研藤四郎は膝を叩いた。
 白衣の上に頬杖をつき、わざわざ訪ねて来た理由を改めて問う。
 小夜左文字はこくりと頷き、はあ、と口から息を吐いた。
「ん?」
 ため息では、ない。落ち込んでいる様子は、表情からは嗅ぎ取れなかった。
 唇を薄く開き、音に聞こえるように、吐き出した。それを三度も繰り返されて、色白の短刀は眉を顰めた。
 怪訝に首を傾げ、正面を見据えた。探るような眼差しを受けて、生傷が絶えない短刀は顎を突き出し、口をヘの字に曲げた。
「いやいや」
 拗ねられたけれど、薬研藤四郎には何が何だか、分からない。
 睨まれたので堪らず突っ込みを入れて、少年は頬を引き攣らせた。
「どうしたよ、小夜」
「白くならない」
「あ?」
 いったい何がしたいのか、さっぱり見当がつかなかった。仕方なく答えを欲して訊ねれば、ぼそっと小声で呟かれた。
 明らかに不満げな声色に、呆気にとられて目が点になった。ぽかんとしてから瞬きを繰り返して、薬研藤四郎は黒手袋の指で頬を掻いた。
「小夜?」
 連日の冷え込みで頭が可笑しくなったとは、流石に思いたくなかった。熱でもあるのかと懸念を抱いたが、そもそも刀剣の付喪神が病に罹るのも妙な話だ。
 怪我人なら多数おれども、病人が出た例は未だない。
 折角用意してあるのに使い道のない薬の数々を横に見て、薬室常駐の短刀は肩を竦めた。
 苦笑していたら、小夜左文字も気まずそうに身を捩った。膝をもぞもぞ動かして、迷った末、斜め上を指差した。
 その先には、何もない。強いて言うなら窓があるだけで、障子紙越しに外の光を感じた。
 藍の髪の短刀は俯いたままだった。指示された方角から瞬時に視線を戻し、薬研藤四郎は首を傾げた。
「んん?」
 依然として、要領を得ない。
 あれこれ頭を働かせてみるが、どれもピンと来なかった。お手上げだと白旗を振ってみせれば、小夜左文字は渋々といった態度で口を尖らせた。
「寒く、なった」
「うん? ああ、そうだな」
 暦は着々と春へ向かって進んでいるが、その気配を嗅ぎ取るのは至難の技だった。
 昼夜問わず気温は低く、庭は雪に埋もれ、池の表面は凍り付いた。屋根に積もった分を下ろすのは太刀らの仕事で、雪だるまは数日経っても溶けることなく、軒下で威張っていた。 
 外を駆け回るのは難しく、元気が有り余っている弟たちの欲求不満は募るばかり。なにか面白い遊びでも考え出さないと、暴動が起きかねなかった。
 馬も寒さに震え、鶏は何羽か、冬を越せずに死んでしまった。餌を求めて里に下りてくる獣が増えて、庭の奥に仕込んだ罠は盛況だという。
 そういう状況で、今更寒いだなんだの話題は、奇妙に感じられた。それなのに敢えて口にする理由を想像していたら、今度はちゃんとしたため息を吐き、小夜左文字が身体を前後に揺らした。
「寒く、なってから」
「お? ああ」
「吐く息が、白く。なっただろう」
「そうだな」
「……何故だ?」
「うん?」
 余所事を考えていたら、急に話し始められた。危うく聞きそびれるところだった薬研藤四郎は意識を引き戻し、訥々と紡がれる言葉に凍りついた。
 上目遣いの眼差しに、思考が停止した。
 探るように見つめられて、黒髪の短刀は顔の筋肉を引き攣らせた。
「なんだって?」
 質問の意味が、咄嗟に掴めなかった。もう一度言ってくれるよう頼み込んで、彼は真ん丸になっていた瞳を眇めた。
 それが、失礼に感じられたらしい。小夜左文字は憤然として、言葉を補い、繰り返した。
「だから。冬になってから、僕や、皆や、馬も、全部。吐く息が白くなっただろう」
 語気荒く捲し立てられ、それでようやく、彼の言いたいことが分かった。右手を上下に振り、珍しく身振りを交えての言葉に、薬研藤四郎は嗚呼、と緩慢に頷いた。
 それで先ほど、何度も口から息を吐いていたのだ。
 合点が行って、胸がスッとした。謎が解け、目の前が明るくなった。
「成る程。そういうことか」
「薬研は、分かるか」
 特に面白くもないのに可笑しくて、両手を叩き合わせ、クツクツ喉を鳴らした。一方で小夜左文字は真剣な顔をして、知りたそうに身を乗り出して来た。
 前屈みになって、目つきは鋭い。
 意外なところから、意外な質問を受けて、少年は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「小夜も、変なとこで律儀だな」
「……意味が分からない」
「なんだってまた、んな事が気になったんだ?」
 夏場は、息は曇らない。冬だけだ。しかも室内では、なかなか起こり辛い。
 早朝、冷え込んだ廊下に出た時などでは、白く煙ったりする。だが台所に入って火を熾した後では、この現象はぱったり途絶えた。
 どうしてなのか、分からない。毎日当たり前のように繰り返して来たけれど、ふと疑問に思った。
 一度考え出したら不思議でならず、他のことが手につかなかった。
「薬研は、気にならないのか」
 笑われて、不満そうだ。頬を膨らませてぼそぼそ言った短刀仲間に、薬研藤四郎は相好を崩した。
 こんなこと、弟たちから訊かれたこともない。放っておいても別段害はないし、知らなくても困るものではなかった。
 それなのにわざわざ調べに来た辺りが、律儀と言わざるを得ない。
 流石は戦国時代きっての文化人の刀だと目を眇め、黒髪の短刀は火鉢の五徳に、避けていた鉄瓶を置いた。
 一度沸かして、茶を煎れるのに使った残りだ。中身はすっかり冷めており、揺らせばちゃぷちゃぷ音がした。
「そうかー。小夜も、ついにこっち側に足を踏み入れるかー」
「薬研?」
「文系一辺倒じゃ、面白くねえだろ。あとで化学の本、貸してやる」
 嬉しさから白い歯を覗かせて笑い、先ほど使って隅に追い遣っていた急須や、長く使っていなかった来客用の湯呑みを、棚の奥から引っ張り出した。出涸らし状態の茶葉は捨て、新しいものを用意して、逸る心を抑えこんだ。
 その間小夜左文字は怪訝に眉を顰め、首を傾げていた。何のことだか分からないと言いたげな顔をして、浮かれ調子で茶の準備をする短刀を見詰め続けた。
「で、吐く息が白くなるって、話か。参考までに訊くが、小夜はどう考える?」
 合間にくるりと反転して、薬研藤四郎の白衣がふわりと膨らんだ。裾を躍らせて問いかけられて、藍の髪の少年は顎を引き、身構えた。
 自分では答えが見つけられないから、知っていそうな刀を探して、此処に来たのだ。それなのに質問されて、彼は意地の悪い短刀を睨みつけた。
「歌仙は、……その方が風流だから、と」
「ぶっは」
 同部屋で暮らす打刀に問えば、そう言われた。
 知りたかったのとはまるで異なる回答だったが、薬研藤四郎も堪え切れず、噴き出した。
 持っていた急須ごと腹を抱え、ひーひー言いながら息を吸う。瞼はぎゅっと閉ざされて、目尻には涙まで浮かんでいた。
「薬研」
「いや、わりぃ……けど。さすがは、歌仙の旦那だ。風流って。ふうりゅ……ぶははははっ」
 そこまで笑うことかと小夜左文字が憤るが、滑稽で仕方がない。自称文系の腕力自慢ならば、成る程、風流のひと言で片付けてしまうのも道理だった。
 なんとか落ち着こうと足掻くものの、横隔膜が引き攣り、止まらなかった。腹の中から痛みが生じて、息をするのも大変だった。
 頬の筋肉が勝手にぴくぴく震えて、思い出すだけで変な声が出そうだ。当分はこの話題で笑って過ごせると、記憶に焼き付けて、薬研藤四郎は深呼吸を繰り返した。
 大きく吸って、吐き出して。
 それを五度連続させて、火鉢に向き直った。
「風流……くっ」
「薬研」
「悪い、悪い。んな怒んなって」
 だが座ったところでぶり返して、肩が小刻みに揺れた。顔の上半分を手で覆って耐えるけれど、隠し切れるわけがなかった。
 苛立った声で名前を呼ばれ、再度深呼吸して両手を合わせた。機嫌を直してくれるよう頭を下げて、彼はしゅわしゅわ言い始めた鉄瓶に視線を流した。
 細くなった口から、白い煙が噴き出ていた。勢いは強く、五寸ほどの長さになっていた。
「小夜の質問の、答えだけど。こいつと、同じだ」
 湯気はやがて千々に砕け、四方に散って、消えた。後にはなにも残らない。触れようとしても揺れ動くだけで、掴み取るのは不可能だった。
 そんな湯気を指差され、小夜左文字はきょとんとなった。
「同じ?」
「そう」
 白い息は冬場限定だが、湯気なら年中通して見られるものだ。それが同じだと言われても、まるでピンと来なかった。
 疑念を抱いて眉を顰めた少年に、薬研藤四郎は呵々と笑った。上機嫌に身体を揺らして、沸騰した湯を急須へと注ぎ入れた。
 乾燥させた茶葉が膨らみ、ちょっと癖のある匂いが溢れ出た。期待していたと違う香りに、小夜左文字は興味深そうに瞬きを繰り返した。
「ほら、飲めよ。温まるぞ」
 薬効を重視した薬膳茶で、冷えた身体を温めてくれる。独自に調合した特製品だと言えば、短刀は感心した顔で頷き、両手で湯呑みを受け取った。
 自分で飲む分も湯呑みに注いで、薬研藤四郎は喉を潤した。苦みが若干強めだが、冷え込む部屋で過ごすには、欠かせない一品だった。
「にがい」
「良薬はなんとやら、てな」
 案の定小夜左文字もひと口飲んで、舌を出した。眉間に皺が寄っており、かなりの顰め面だった。
 兄である一期一振も、似たような顔をした。乱藤四郎や秋田藤四郎は、匂いを嗅いだだけで受け取りを拒否してくれた。
 彼らのために、匂いは良いがもっと苦い茶を作ってやろうと決めたのだった。
 すっかり忘れていた過去の誓いを思い出して、薬研藤四郎は唇を舐め、湯呑みを両手で抱きしめた。
「で、話は戻るが。小夜は、湯をずっと沸かしてたら、段々量が減ってくのは、知ってるな」
「ああ」
 脇道にずれていた話題を戻し、投げかけられた疑問の解決に取り掛かる。炭火に掛けられた鉄瓶を指し示せば、台所での出来事を思い出しているのか、小夜左文字はコクリと頷いた。
 出されたものは、意地でも残さない覚悟らしい。苦い茶をちびちびと、舐めるように飲む姿はいじらしかった。
 無愛想な癖に、やることは逐一可愛らしい。その落差が面白くて、薬研藤四郎は誤魔化すように茶を啜った。
 一気に飲み込みはせず、咥内に留めてから喉へ流す。そうやって口腔を温めた上で吐く息は、ほんの少しだけだったが、白く霞んでいた。
「あ」
 即座に反応し、小夜左文字が目を丸くした。狐に抓まれた顔でぽかんとして、薬研藤四郎を唖然と見つめた。
 実験は、成功した。
 目の前の反応も期待通りのもので、黒髪の短刀はしてやったりと顔を綻ばせた。
「答えは、水蒸気だ」
「う、うん?」
「水ってのは、沸騰すると気体に変わるんだ。ちなみに、固まったのが氷な。んで、その熱を加えることで気体に変わった水蒸気が、湯気って俺らが呼んでるもんだ。だから沸騰させ続けると、水はどんどん気体になって出て行って、量が減るって仕組みだ」
 空中にくるり、と円を描き、得意満面と言い放つ。
 小夜左文字は馴染みのない単語に首を傾げたが、詳しい説明は省略し、薬研藤四郎は言葉を続けた。
「で、水蒸気って奴は、冷えると、また水になる。冷えすぎると、氷になる。気体は目に見えないが、液体と固体は目に見えるし、触れるだろ」
「う、……うん」
「そんでもって、小夜。俺らが吐く息にも、いくらか水気が含まれてる」
「えっ」
 立て板に水を流すように、少年は饒舌だった。両手を広げたり、叩き合わせたり、身振りを交えながら説明して、興奮し、頬は紅に染まっていた。
 正直言って、小夜左文字にはその半分も理解出来なかった。しかし思いもよらぬところから意外な事実を知らされて、再び興味を取り戻し、身を捩った。
 試しに掌に息を吹きかけてみるが、表面は乾いたままだ。本当にそうなのかと疑って、少年は前に向き直った。
 教師役の短刀は満足げに首肯して、まだ熱い鉄瓶を指差した。
「んな大量に含まれちゃいねえよ。で、小夜。質問だ。空気中の水蒸気を見えるようにするには、どうすればいい?」
「え……?」
 触れそうで触れないぎりぎりのところに指を彷徨わせ、問いを投げる。
 油断していた少年はぎょっとなって、半眼し、顎を撫でた。
「え、ええと……確か。あ、冷ます?」
「正解――あっち!」
 目を泳がせ、記憶を手繰り、引き寄せた情報を音に置き換えた。即座に薬研藤四郎は指をくるりと回転させて、勢い余って鉄瓶に突っ込ませた。
 野太い悲鳴に小夜左文字は吃驚し、四肢を戦慄かせた。幸いにも表面をつん、と小突いた程度で大事には至らなかったが、珍しい失敗に、薬研藤四郎は鼻を愚図らせた。
 奥歯を噛み、痛みを堪える。息を吹きかけ表面を冷まし、手首をぶんぶん振り回して患部を空気に晒した。
「大丈夫か」
「これ、くらい……薬塗るまでもねーよ。つーか、こんくらい、鉄瓶は熱いって話だ」
 格好悪い失態を誤魔化し、強引に話を続けた。心配無用だと強がって涙を呑み、心配そうにしている短刀に無理して笑いかけた。
 炭火で温められた鉄瓶の水は、そう時間をおかずに湯になった。細い口から湯気が噴き出し、勢いは凄まじかった。
 鉄瓶の内部と、薬室内部では、温度はかなり異なる。当然薬室の方が低い。火鉢があるとはいえ、夏の日なたよりよっぽど寒かった。
 だから沸騰した湯から生じた蒸気は、鉄瓶を飛び出した直後に水に戻る。一部の水蒸気が細かな水滴となり、それが白く煙っているように見えるのだ。
 宙を舞う水滴は、そのまたすぐ後に常温下で気化して、露は空気中に溶けて消える。息が白く染まるのも、理屈は同じだった。
 先ほど薬研藤四郎は、茶を口に含ませることで、呼気の温度を上げた。屋外より暖かい空間でも再現出来たのは、このお陰だった。
「……へえ」
「この身体は、あったけえからな」
 ただの刀でしかなかった頃は、寒さなど感じなかった。現身を得た今だからこそ出来ることだと笑って、彼は残っていた茶を飲み干した。
 空になった湯呑みを置き、小夜左文字の分も引き取る。急須と並べて文机に預けて、立ち上がって背筋を伸ばした。
「こんなんで、満足いただけたかな」
「ああ、とても勉強になった。ありがとう」
「なんか聞きたいことがあったら、また来ると良いさ。そうそう、小夜。ちょっと待て」
 謎は解けた。風流だから、のひと言で片付けなくて良かったと頷き、小夜左文字も起き上がろうとして、寸前で引き留められた。
 用は済んだのに、まだ何かあるのか。
 怪訝にしていたら、戸棚の抽斗を探っていた薬研藤四郎が何かを取り出し、差し出した。
「それは?」
「歌仙の奴に、軟膏作る時の精油、これも足すよう渡しといてくれ」
「……分かった」
 透明な硝子の容器だった。蓋は黒色で、厚みがあり、長さは一寸程度。直径はその半分にも満たなかった。
 小さいのに、精巧に出来ている。中身はやや黄味がかった液体で、揺らせば動きに合わせて波を打った。
 水仕事が多く、手荒れが酷い少年は、毎晩眠る前、両手に軟膏をたっぷり塗り込めるのが日課だった。お蔭で皸は出来るが、あまり悪化せずに済んでいた。
 そんな手作り軟膏のことを、彼は知っていた。何故かと考えるが答えは出ず、首を捻るうちに押しつけられた。
「あんまり入れ過ぎると、緩くなるからな。一滴ずつで良い」
「伝えておく」
 衝撃に弱いものなのか、上から落とすのではなく、直接掌に置かれた。反射的に握りしめて、逃げ遅れた薬研藤四郎の指まで掴んでしまった。
 黒の皮手袋の、柔らかいけれど冷たい感触が肌を撫でた。触れあった瞬間、黒髪の短刀はビクッとして、ひと呼吸置いてから苦笑を漏らした。
「小夜の手って、あったけえな」
 手袋越しで分かるのかと言いたくなったが、堪えた。だが疑う眼差しは防ぎきれず、小夜左文字は曖昧に笑う少年と、黒に覆われた指先を交互に見た。
 先ほど貰った茶が効いて来たのか、確かに身体の内側から熱が湧き起こっていた。汗が滲むほどではないけれど、血管が拡張して、冷えやすい末端に血が巡っているのが感じられた。
 だが目の前にいる短刀は、どうだろう。
 同じ茶を飲んだというのに、まるで温まっている風に見えなかった。
 火鉢を傍に置いて、部屋の中は温かい。だというのに彼だけが、異様に冷たかった。
「薬研は、……冷たい」
「俺はな。まあ、仕方がねぇさ」
 手袋の表面を手繰り、手首に触れても熱を感じなかった。ヒヤッとした感触は雪を思わせて、凍えそうだった。
 屋敷の大部屋は、人の出入りが激しい。戸の開閉の度に暖気が逃げるし、あそこの火鉢は鶴丸国永が独占していた。
 薬室は他の部屋に比べて狭く、気密性は高い。出入り口はひとつしかなく、温められた空気が逃げる場所は少なかった。
 彼がいつも此処にいる理由が、胸の中でざわめいた。
 自嘲気味の呟きに、雷撃を食らった気分だった。
 顔を上げれば、照れ臭そうに笑う顔があった。苦々しさを押し殺し、諦めさえ窺える表情だった。
「……仕方、なくは。ない」
「小夜?」
 その顔は、嫌いだ。
 思った時には、勝手に動いていた。噛み締めるように呟いて、小夜左文字は薬研藤四郎から手袋を剥ぎ取った。
 許可は求めなかった。突然のことに驚き、少年は当然の如く抗った。
 それを、自慢の打撃で捻じ伏せた。問答無用でひん剥いて、革細工は丸めて床へ叩き落した。
「おい、なにし――」
 現れた指先は、それこそ雪も真っ青な白さだった。血の気がまるでなくて、冷たく、氷のようだった。
 いきなり無体を働かれ、薬研藤四郎が声を荒らげた。力技で利き手を取り戻そうと足掻いて、指先に熱を感じて竦み上がった。
 はあ、と息を吐かれた。
 火鉢に炭を欠かさず、暖房を利かせているのに冷えている指先に、思い切り。
 大きく口を開けて、小夜左文字が呼気を浴びせかけていた。
 直後、左右から挟み持たれた。押さえつけるように揉んで、解して、また息を吹きつけられた。
 体内の熱を絞り出す姿に、水蒸気の幻が見えた。ぐにぐに捏ねて摩擦を起こし、温めようと躍起だった。
 人差し指から始まって、中指、薬指、小指と進んで、親指へと戻った。その次は掌全体を擽ってと、手つきは不慣れながら、手順に迷いはなかった。
 いつもそうやって、誰かに温めて貰っているのだろう。
 光景が瞼の裏に思い浮かんで、笑いと同時に、何故か涙がこみ上げて来た。
「これで、ちょっとは……薬研?」
「ああ、悪りぃ。大丈夫。すげー、あったまった」
 左手も、と言ったら、やってくれるのだろうか。そこまで願い出るのは、贅沢だろうか。
 もっともそんな不格好な真似が必要ないくらいに、既に身体は暖かい。じんわり優しい熱が広がって、身に沁みる寒さなど吹き飛んでいた。
「あんがとな、小夜」
「どういたしまして、だ」
 ぎこちなく礼を言えば、得意げに胸を張られた。効果抜群だろうと息巻かれて、苦笑するしかなかった。
 歌仙兼定も、左文字の上ふた振りも、彼を甘やかし過ぎだ。そこに自分も加わるのかと頬を緩めて、薬研藤四郎は立ち去る背中を見送った。
 暖気が逃げないよう、戸は素早く開かれ、閉じられた。足音は程なく聞こえなくなって、壁に囲まれた部屋は一気に静かになった。
「あちぃ、な」
 素手のままの右手を頬に当て、呟く。
 今しばらくは手袋をしなくても良いと笑って、少年は涙を堪え、天を仰いだ。

2016/03/13 脱稿

波と見ゆる雪を分けてぞ漕ぎ渡る 木曾の懸橋底も見えねば
山家集 1432 雑

心せたむるあたとなるらん

 風がさざ波のような音を立て、合間に梟の声が紛れた。ほー、ほー、と間延びしながら消えていく歌は、ひとり寝を寂しがり、仲間を探しているようにも聞こえた。
 もっとも見つけ出して共寝を誘ったところで、そんな必要はない、と言い張りそうであるが。
 強がりなのは、目の前の少年も同じだ。森の獣と重ねあわせて、歌仙兼定はふっ、と淡く微笑んだ。
「……なに」
 その笑みを、目敏く見咎められた。
 不満げに振り返った小夜左文字に、藤色の髪の打刀は小さく首を竦めた。
「いいや。髪、随分伸びたね」
「そんなことは」
 思っていたことは言わず、別の話を振り、詰問を躱した。両手は広げた手拭いで藍色の髪を掬い取って、左右から潰すように挟み込んだ。
 湿り気を布に移し替え、地肌を撫でて乾かしていく。その都度ぐしゃぐしゃと頭を掻き回されて、短刀は首を振って抵抗した。
 目を瞑り、仰け反り気味に身体を倒し、続けて前に引き戻した。もれなく手拭いの間から髪の束が引き抜かれ、出遅れた数本だけが残された。
 頭皮から抜け落ち、肉体から離れたものだ。だが即時消失して然るべきものは、未だ歌仙兼定の掌中にあり、しっかりした形を維持していた。
 戦場で遭遇する遡行軍は、刀で斬り伏せた直後に砂と化して崩れた。後には何も残らず、彼らがそこに在ったという証拠は、全て塵となって風に溶けた。
 ならば自分たちもそうかと言えば、どうやら少し違うらしい。
 人に似せて作られた現身は、髪や髭、爪といったものが、時間を経るごとに少しずつ伸びていった。
 但し身長は、伸びない。体重も、粗食中心の本丸では、大きく増えることはなかった。
 期待して毎日のように背を測り、柱に傷を作っている短刀たちには、少々酷な話だ。とはいえ今でさえかなり大柄な大太刀や薙刀にこれ以上成長されるのは、想像するだけで恐ろしかった。
 目の前に座しているこの短刀も、背丈だけは伸びないと知って、一時期かなり落ち込んでいた。
 表立ってなにも言わなかったし、他の子らと違って騒ぎもしなかったけれど、衝撃を受けている風だった。しばらくは挙動不審で、食事を前にしてのため息が異様に多かった。
 本丸で最も小柄で、華奢な子だから、口にはしないけれど、気にしていたのだろう。小さいことで不利益を被ることは存外多くて、棚の上のものを取るにしても、彼には足台が必要だった。
 手拭いに残った髪を抓み、木製の屑入れへと落とす。一本ずつ丁寧に扱う歌仙兼定を振り返って、小夜左文字は乱れに乱れている頭を手櫛で整えた。
「まだ乾いてないよ」
「別に、もういい」
 元気よく跳ねている分を梳き、落ち着かせようとしても、完全には真っ直ぐにならない。日頃から彼は髪を高い位置で結っており、癖がついてしまっていた。
 結び目で髪は左右に割れ、後ろから見ると双葉のようだ。紐を解いても跡が残って、櫛を入れたとしても、変に膨らんだ状態が維持された。
 腰が強く、髪自体も一本一本が太い。
 まるで松葉だと連想して、歌仙兼定は最後の一本を屑物入れに預けた。
 トゲトゲしており、刺されば痛い。一度折れば曲がって戻らず、怜悧な先端は攻撃的。
 まさに小夜左文字そのものだ。
 見てくれは小さいけれど、敵を屠る執念は短刀の誰よりも強い。華奢でありながら打力は高く、恐れを知らない戦い方は、畏怖の念すら抱かせた。
 防御無視で突っ込んでいくのが常で、見ている側はいつもはらはらさせられた。だが引き留めたところで、どうせ聞き入れはすまい。
 ならば後ろから彼を守り、時に前に立って、道を切り開いてやるのが己の務めだ。
 危なっかしくてならない短刀に頬を緩め、歌仙兼定は僅かに湿る布を捏ねた。
「ほら、小夜」
「どうせ朝には、ぐしゃぐしゃだ」
「駄目だよ、小夜。ちゃあんと乾かして、櫛を通してからでないと。明日の朝、痛い思いはしたくないだろう?」
 再度広げ、頭を寄越すよう促す。
 けれど短刀は嫌がり、距離を取るべく身じろいだ。
 夜眠って、朝になれば、折角整えた髪も四方八方に広がった。それはしっかり乾かした後でも、湿らせたまま放置した時でも、状況は同じだった。
 違うのは、櫛の入り方。
 やはり乾かして整えてからの方が、櫛通りは圧倒的に滑らかだった。
 濡らしたまま眠った翌朝は、髪同士が絡まり、櫛を入れれば度々引っかかった。強引に解こうとすれば頭皮が引っ張られ、途中で千切れるし、大量に抜け落ちた。
 その差を思い出すよう言われ、短刀は口籠った。至極嫌そうに顔を顰めながら、藍の髪をひと房取り、指に絡ませた。
「もう、乾いてる」
「根本がまだだ。ほら、こちらへおいで」
「偉そうに」
 細く短い指の曲線から逸れて、長さが不揃いの毛先が、ぴんと跳ねた。背筋を伸ばして凛として、槍宜しく刺さりそうだった。
 けれど彼の主張は、通らなかった。そんな事では誤魔化されないと打刀は胸を張り、両腕を広げ、膝元に戻るよう促した。
 引き締まった体躯に、分厚い胸板。鍛えられた上腕二頭筋は敵を一撃で粉砕し、風雅な身なりに反し、中身は異常に好戦的だった。
 文系を気取ってはいるけれど、戦場に出ればそれは関係ない。気性の荒さは隠し切れるものではなく、短気ぶりは昔とあまり変わっていなかった。
 数百年の時を経て再会して、攻守が逆転した。体格の差は埋められないと嘆息し、小夜左文字は渋々打刀の膝に座った。
 背中を向け、体重を預ける。やや俯き加減に猫背になれば、垂らした髪が肩から胸に回り込んだ。
 結び癖がついた髪は、針金並みに硬い。どれだけ丁寧に梳いても、決して真っ直ぐに戻らなかった。
「今日はやけに、反抗的だね」
「そんなことは、ない」
 普段は好きにさせているのに、今宵に限って妙に抵抗が激しかった。歌仙兼定に揶揄されて、小夜左文字は口を尖らせた。
 間髪入れずに否定するが、声に迫力がなかった。図星だったと教えているようなもので、打刀は笑い、白い地肌に手拭いを重ねあわせた。
 痛くないよう加減しながら生え際を撫で、時間をかけて乾かしていく。その間短刀は手持無沙汰に足を揺らし、踵で畳を叩いた。
 トン、トトン、トン、と太鼓のように音を響かせ、調子を刻み、時折遠くを見た。閉め切られた襖や障子に意識を寄せて、すぐに我に返って首を振った。
 それを三度繰り返したところで、歌仙兼定は腕を引いた。
「兄君のところに、行っても良いんだよ」
「歌仙」
「江雪殿も、顕現したばかりだ。おひとりでは不安だろう」
 とん、と細い肩を押し、合図を送る。瞬時に振り返った短刀に囁いて、打刀は手拭いを三つに折り畳んだ。
 短くなった布を更に半分にして、手拭い掛けへと預けた。返す手で化粧箱の抽斗を開け、目の細かい櫛をひとつ、取り出した。
 いちいち目で見なくても、身体が勝手に動いていた。それくらい毎日繰り返して来た仕草だと実感して、歌仙兼定は苦笑した。
 そのくせ口では、思ってもないことを音にした。姿勢を正すよう再度合図を出して、ようやく本丸に至った太刀を思い出した。
 銀の髪は雪のように輝き、艶を帯びて、透き通るようだった。癖はなく、根元から毛先まで真っ直ぐで、縛ったとしてもサラサラ零れていくだろう未来が、見るだけで想像出来た。
 端正な顔立ちは愁いを帯び、陰鬱な気配を漂わせていた。口元は真一文字に引き結ばれ、眉は哀しげに寄せられ、細い瞳は暗く翳っていた。
 江雪左文字を連れ帰る、との報せを受けて、いの一番に小夜左文字を呼びに行った。玄関先で出迎えようと、仲間の帰還を心待ちにした。
 左文字の末弟に当たる少年はそわそわして、落ち着かなかった。次兄の時は上手くいかなかった初対面の挨拶を、今度こそきちんと果たすのだと、意気込んでいる風だった。
 けれど結局、願いは果たせなかった。
 江雪左文字は集っていた面々にニコリともせず、逆に嫌そうに顔を顰め、深々とため息を吐いた。
 場の空気が悪くなり、慌てた鶴丸国永が小夜左文字を紹介した。会える日を心待ちにしていたと勝手に告げて、兄弟の出会いを演出しようとした。
 それで初めて、江雪左文字は小夜左文字を見た。
 瞬間、少年は歌仙兼定の背後に隠れ、長兄の視線から逃げた。
 周囲は驚き、気まずくなった雰囲気をなんとか盛り上げようとした。緊張しているだ、なんだのと、皆好き勝手言っていたけれど、本当のところは本人にしか分からない。
 いや、きっと小夜左文字自身も、どうしてあんな真似をしたか、答えを出せない筈だ。
 江雪左文字はその後審神者に連れられて行き、本丸の案内は近侍だった石切丸に任された。夕餉の席に太刀は現れず、兄弟の交流は未だ果たせていなかった。
 左文字の長兄は、次兄の隣の部屋をもらったらしい。屋敷の北に増設された一画は、元からあった居住区からかなり離れており、静かな反面、昼でも暗い場所だった。
 顕現したばかりの頃、小夜左文字は人の身の不自由さに戸惑わされた。力の加減具合が分からず、物を壊し、転んで尻を打つことも多かった。
 あの静かな太刀だって、例外ではない。傍で手を貸してくれる相手がいれば、さぞや心強かろう。
 気になるのなら、行っても構わない。そのまま兄弟水入らずで布団を並べ、川の字で眠って来ても良い。
 暗にそう告げて、歌仙兼定は短刀の髪に櫛を入れた。絡まっている部分を手で解しながら、上から下へと梳いた。
 少量ずつ、丁寧に。
 都度頭をくん、と引っ張られるのを耐えて、少年は口を開閉させ、最後に奥歯を噛んだ。
「なにか、あっても。あにさま、が。いる」
「そりゃあ、そうだけど」
「僕は、いらない」
「小夜」
 くぐもった声で呟き、緩く首を振った。櫛で梳くのを邪魔された打刀は眉を顰め、猫背を強めて俯いた昔馴染みに肩を落とした。
 江雪左文字になにかあった場合、隣室の宗三左文字がなんとかする。そもそも末の弟は短刀で、貧弱で、太刀の助けになれることはなかった。
 倒れたところで助け起こしてやれず、肩を貸すのも難しい。
 一緒に居たところで意味などないとの主張は、聞いていて哀しかった。
「江雪殿は、怒っていないと思うよ」
 初対面時に思わず隠れてしまったのは、致し方ないことだ。きちんと挨拶を済ませておらず、会い難いのは分かるが、このままで良いはずがない。
 時間が過ぎれば過ぎるほど、顔を合わせ辛くなる。早いうちに行動するよう促して、歌仙兼定は短刀の襟足を撫でた。
 後れ毛を掬い、櫛を通した。生え際は柔らかくて、空気を含み、ふかふかしていた。
 それもじきに、癖を持つようになる。結ばずに垂らしたまま過ごせばどうなるか、想像し、打刀は浮かんできた映像に瞼を閉じた。
 江雪左文字のような艶やかな髪にするには、相当な時間と根気が必要だ。宗三左文字の髪もふわふわしており、ぽん、と花開いた綿毛のようだった。
 末弟が一番頑固な髪質をしている。左文字の三兄弟が似ているかと問われたら、即時頷くのは難しかった。
「そういうのじゃ、ない」
「うん?」
「今剣が、言っていた」
「なんて?」
 兄の視線から逃げた気まずさから、訪ねて行けないのではない。
 首を振って櫛から逃げて、小夜左文字はふっくら膨らんでいる前髪を押さえこんだ。
 潰して、額に押し当てた。しかし指の隙間から漏れた分が跳ねて、真っ平らとはいかなかった。
 膝を胸に寄せて小さくなって、短刀は質問に身を捩った。自分から振っておきながら返答を拒んで、拗ねて口を尖らせ、哀しそうに目を眇めた。
「歌仙は。僕が、本当に……左文字、と。思うか」
「ええ?」
 そうしてぼそぼそと紡がれた言葉に、歌仙兼定は素っ頓狂な声を上げた。
 驚いて目を丸くし、口を開けたまま凍り付く。惚けた顔で絶句して、半泣きで振り返った短刀を上から下まで凝視する。
 見下ろされて、少年はすぐに顔を逸らした。櫛を通したばかりなのに早速跳ね返っている毛先を弄り、重ねた足指をもぞもぞ蠢かせた。
 一方で歌仙兼定は驚愕に目を白黒させて、苦労しながら息を吐いた。
「な、に……を。そんな、君が」
「似ていない」
 動揺で声は震え、掠れていた。
 合間に音立てて唾を呑んだ男を仰ぎ、少年は変なところで外向きに膨らんでいる髪を掻き混ぜた。
 江雪左文字を出迎えた後、広間に戻る間際に言われた。本人に悪気はなく、感じたことをそのまま言葉にしたに過ぎないだろうが、今剣が呟いたひと言は、思いの外小夜左文字の胸に突き刺さった。
 深く埋め込まれた棘が疼き、チクチクした。
 ちょっと顔を合わせた程度で断言は出来ないけれど、左文字の兄弟は、外見に共通点が少なかった。
 髪の色、背丈、諸々。僧衣に身を包んでいる点だけが、辛うじて通じ合っている部分だった。
 けれど身に着けるものなど、後からいくらでも変えられる。
 これまでずっと、自分は小夜左文字だと思って来た。けれど現実には違っていて、そう教え込まれただけの偽物ではないかと、懸念を抱いた。
 自分で自分が信じられなくて、確かめる勇気も沸かなかった。
 短刀が兄の様子を気にしながら、尻込みして、二の足を踏んでいた理由。
 それがようやく理解出来て、歌仙兼定は嗚呼、と頷いた。
「そんなわけ、ないだろう。小夜は、小夜だよ」
「だが」
「第一、兄弟で似ていないのは、君たちに限った話じゃないだろう?」
 本丸に居着く刀剣男士は、刀の付喪神だ。現身を与えられ、人の形を得て顕現してはいるけれど、人間とはまったく異なる存在だ。
 兄弟と言っても、所詮は刀工が同じなだけに過ぎない。父母の血を半分ずつ継いで生まれてくる赤子のように、外見が似通う道理はなかった。
 噛み砕いた説明をして、打刀は日没間際の空に似た色の髪に指を添えた。
 この本丸には、他にも兄弟と称する刀がいる。
 粟田口は大所帯だし、堀川国広のところも、太刀、打刀、脇差の三兄弟だ。
「似ているかな?」
「あ……」
 例を挙げ、問いかける。
 訊かれた少年は虚を衝かれたか瞠目し、数秒置いてコクリと頷いた。
 顎に手を添え、眉間には皺が寄っていた。渋面を作って首を左右に揺らして、類似点を探してうんうん唸り始めた。
 それがなんとも滑稽で、可笑しかった。
「ほら、出来たよ」
 比較に没頭するのは構わないが、もう休む時間だ。外は闇に覆われ、月明かりが雪を照らしていた。
 外は寒く、空気は冷えている。色々着込んではいるけれど、隙間風は防ぎようがなかった。
 小さめの火鉢は、手先を温めるので精一杯。広間にあるような大きめのものは、本丸には数揃っていなかった。
 行燈の火が揺れて、畳に伸びる影を濃くした。梟の声はもう聞こえず、狼の遠吠えも響かなかった。
 頭をコツンと小突かれて、小夜左文字は首を竦めた。考え事を中断させて恨めし気な顔をして、道具を片付ける打刀に小鼻を膨らませた。
「灯りは、いるかな。小夜なら、慣れているから必要ないかもしれないけれど」
 膝から降ろされて、短刀は既に敷いてあった布団へと移動した。ひと組しかないそれには、枕がふたつ、並べられていた。
 明らかにひとり用の寝具だけれど、小柄な短刀ならばなんとか潜り込める大きさだ。綿が多めに入れており、その上には打刀の羽織りが広げて重ねられていた。
 上に被る物を増やして、寒さを和らげる為だ。もっと寒い日が来れば、もう一枚か二枚、掛けるものが多くなるだろう。
 大きめの褞袍で膝まで隠し、小夜左文字は化粧箱を棚に戻す男の背中に首を振った。
 歌仙兼定の中では、今宵短刀は兄たちの元へ出向くと、そう決定付けられていた。
 そうしてこの先、ずっと、兄弟は兄弟だけで過ごすのだと、信じ込んでいる気配があった。
「いかない」
 いくら顕現したばかりとはいえ、江雪左文字は太刀だ。それに彼が与えられた部屋の近くには、大太刀たちの住まう部屋もある。岩融や、今剣が使っている部屋もすぐ傍だった。
 小夜左文字が行かずとも、面倒見の良い刀があれこれ世話を焼いている筈だ。一期一振も積極的に話しかけていたし、心配する理由が思い浮かばなかった。
 もし出向いたところで、会話が弾むとも思えない。お互い気まずい状態で床に入るくらいなら、顔を見ないまま別々に過ごす方が気楽だった。
「小夜」
 さっきから繰り返し言っているのに、どうして了承しようとしないのか。
 聞き分けがなっていない打刀に痺れを切らせば、歌仙兼定は空にした両手で床を撫で、膝を折った。
 寝間着の裾を整えて座り、短刀に向き直る。表情は困惑気味で、瞳は揺れ動いていた。
 睨まれて、気圧されて、膝がもぞもぞ蠢いた。落ち着きない態度は子供じみており、外見にそぐわなかった。
「歌仙」
「良いのか。君は、だって」
「なら、歌仙は。和泉守と一緒に寝るのか?」
「それは、謹んで辞退する。いや、そもそもあれは、僕の弟でも、なんでもない」
 兄弟は兄弟で、睦まじくあるべき。
 そういう風潮が本丸に、粟田口を中心に存在しているのは、小夜左文字も承知していた。だからと言って、なんでもかんでも行動を共にし、四六時中べったりしているのは、息が詰まった。
 あんな風にはなれないし、なりたいとも思わない。
 出来るとも、思わなかった。
 それに国広兄弟は、それぞれ居室を別にしていた。堀川国広に至っては、和泉守兼定の部屋に居候中だった。
 その和泉守兼定は、代を隔ててはいるけれど、そこにいる打刀と同じ兼定の手による刀。しかし指摘された方は嫌そうな顔をして、しかめっ面で吐き捨てた。
 信じる理念も、抱く美学も、両者は大きく異なっていた。和泉守兼定が言う格好よさが歌仙兼定には理解不能だし、その逆もまた然りだった。
 意見の相違で喧嘩も多く、三日に一度の割合だ。しかも口論では済まなくて、手が出て、足が出るのが常だった。
 仲が悪いわけではない。単にお互い、譲れない部分が多すぎるだけ。
 兄弟ではない、と言っておきながら、頻繁に兄貴風を吹かせている打刀がおかしい。やり取りを思い返して相好を崩し、小夜左文字は褞袍の上から膝を叩いた。
「僕がいなくなったら、歌仙はひとりだろう」
 ぽんぽん、と埃を散らし、訝しむ男に目尻を下げる。
 両手を差し出された打刀は腕の力だけで身体を前に運び、両者の膝がぶつかり合う直前、上半身の力を抜いて顔を伏した。
 倒れ込めば、小夜左文字は逃げもせず、大きく育った体躯を受け止めた。
 肩に寄り掛かる男の背に腕を回し、子をあやす母の面持ちで上下に撫でた。歌仙兼定も遠慮がちに短刀を抱き締めて、優しい手つきに目を閉じた。
「あまり僕を、甘やかさないでくれないか」
 誘ったのは小夜左文字だが、抱きついて来たのは打刀の方だ。だというのに棚に上げて文句を言って、それでいながら離れようとしなかった。
 意地を張って、拗ねている。
 それでいて甘やかされるのは嫌でないのか、どことなく嬉しそうだった。
「ひとり寝は、寒いだろう」
「否定はしないでおくよ」
 そんな男の髪を梳いて、短刀は藤色に頬を寄せた。擦り付けるように首を揺らして、口元に触れた柔い毛先にそっと唇を押し当てた。
 数本を食み、鼻先を埋め、仄かに香る匂いに鼻を鳴らした。
 衣服に焚き染めている香とは異なる、彼自身の匂いをいっぱいに吸い込む。唾と混ぜて飲み込んで、ほう、と安堵の息を吐く。
 肌を触れ合わせた場所から熱が迷い込んで、心地よく、悪い気はしなかった。
「歌仙は、温かいな」
「小夜こそ、温かい」
 冬場の寒さをしばし忘れ、夢うつつに囁いた。即座に合いの手が返されて、腰に回った腕がぎゅう、と窄められた。
 輪の中に閉じ込められて、逃げ場がない。今更気が変わったとしても行かせない、そんな意識が読み取れて、可笑しくてならなかった。
「明日も早いだろう?」
「そうだね。ひとり、増えたことだし」
 髪は乾き、寝入る準備は完了した。後は寝床に入り、空が白むのを待つばかり。
 朝餉の支度は交代制で、明日は歌仙兼定の番だ。小夜左文字も当然早起きし、手伝う約束だった。
「美味しいものを、沢山、作ろうか」
「分かった」
 掛布団と羽織りを一緒に捲り、団子状態のまま寝床に転がり込む。ごろん、ごろんと上下を入れ替えながら伏して、掛布団を引っ張り上げたのは小夜左文字だった。
 打刀の手は枕元に伸び、部屋を照らしていた行燈の戸に指を引っ掻けた。中の火を有明行燈に移し替え、大元の火は吐息で吹き消し、周囲を一気に暗くした。
 油皿を手探りで行燈に戻して、ごそごそと身じろぐ。その間に小夜左文字は定位置について、枕に頭を置き、首との間に挟まった髪を追い払った。
「今晩も冷えるね」
「ああ」
 首まですっぽり布団を被り、男が小さく呟く。
 少年は背を丸めて首肯して、温かな熱に手を伸ばした。

2016/03/04 脱稿

おぼつかな何の報いの還り来て 心せたむるあたとなるらん
山家集 恋 678

空にや春の立を知るらん

 長かった冬が、ようやく終わろうとしていた。
 庭を埋め尽くしていた雪は日陰の一部を残してほぼ消えて、軒先からぶら下がる氷柱も姿を消した。防火用に貯めていた桶の水は凍らなくなり、雪下ろしの作業も過去のものとなった。
 長時間の肉体労働の結果、戦でもないのに腰を痛める刀が続出したのが懐かしい。薬研藤四郎お手製の湿布は良く利いて、治療に訪れる者は後を絶たなかった。
 火鉢を囲んでの談笑はどんな時でも盛り上がり、賑やかだった。餅を焼いたり、酒を温めたりと、入れ代わり立ち代わり、多くの刀が広間を訪れた。
 皆で寒さに耐え、騒々しく過ごした。
 もっと重苦しく、辛い季節になるかと思いきや、意外だ。どんな状況下に置かれようとも変化を愉しみ、日々を満喫する刀は、存外本丸に多かった。
 短刀たちは毎日雪遊びに興じ、大人げない打刀や太刀がそこに加わった。雪合戦は数組に別れての本格的なもので、陣地の奪い合いは運動不足の解消の他に、遡行軍との戦いに備えた訓練も兼ねていた。
 あれはあれで、なかなか楽しかった。
 次は一年先の遊行を振り返りながら、小夜左文字は拾った石を籠に投げた。
 雪が解けたということは、芽吹きの季節がくる、ということだ。畑を耕し、肥料を撒き、農作物を育てる準備が始まる、という意味だ。
 冬を越すために備蓄しておいた食糧は、残り少ない。この頃の食事は一層質素さを増しており、大食漢の大太刀や槍が肩身を狭くしていた。
 きゅるるるる、と鳴る腹は哀愁を誘う。見かねた短刀たちが己の分を分け与えようとする光景は、食事時の定番となりつつあった。
 もっともそれは、粟田口筆頭の太刀である一期一振が許さない。本丸に至ってまだ日が浅い彼だけれど、既に長兄としての立場を確立し、弟たちに対して優しく、時に厳しく振る舞っていた。
 今日も大勢いる弟を指揮して、畑へと繰り出している。
 そこに何故か巻き込まれて、左文字の末弟は小さく溜息を吐いた。
 汗ばむ肌を手拭いで撫で、休憩しようと背筋を伸ばした。膝を起こして立ち上がり、掴んだ籠はずっしり重かった。
 雪に閉ざされていた畑は、その間一切手が加えられていない。雪解け後にはどこから現れたのか石が散乱して、荒れ放題だった。
 本丸に集う刀が増えた分、耕作地も広げる必要があった。作付面積が広がれば、その分収穫数も増える。但し荒地を整備するのは大変で、辛抱強さが求められた。
 遠くでは一期一振が、鋤を手に硬い地面を掘り返していた。
 地中に空気を送り、土を柔らかくする。牛が居れば幾らか楽な作業なのだが、生憎と本丸に居るのは馬だけだった。
「今日中に、どこまで行けるか」
 武器である刀剣が、農具を手に田畑を手入れするなど、滑稽な話だ。今でも有り得ないと思う。ぶつぶつ文句を言う刀が大半で、進んでやりたがる者は圧倒的に少なかった。
 それでも、己らが食べるものを作るのだ。
 手を抜けば収穫が減り、もれなく自分の食い扶持も減る。その辺の理屈は、冬の間の質素倹約生活で身に沁みていた。
 野良仕事は粟田口だけでなく、暇を持て余した刀たちも混じっていた。
 同田貫正国や御手杵、陸奥守吉行など等。堀川国広に山伏国広の姿も見えて、その足元にある白い塊は、恐らく山姥切国広だろう。
 嫌だなんだと言いながら、みんな、春の訪れを喜んでいた。屋外を自由に駆け回れる解放感に笑みを零し、嬉しそうだった。
 小夜左文字にとっても、春の到来は喜ばしい。矢張り寒さに震えるよりは、温もりに包まれている方がずっと良かった。
 これからどんどん、過ごし易くなっていく。
 夏の暑さがどれほどになるかは想像するしかないが、極寒の真冬よりは楽だろうと、根拠なく信じられた。
「よっ、と」
 両肩にずっしり来る籠を持ち上げ、畑の外れへと運ぶ。彼の今日の仕事は、この一点のみだった。
 集めた石を捨てて籠を空にし、そこでようやく一息つく。何度も汗を拭いた手拭いはほんのり湿り、鼻に近付ければ微かに臭った。
 刀でありながら、塩分を微量含んだ汗を分泌するのだから、それもまた可笑しなものだ。鉄に塩など言語道断なのに、本体である刀が錆びないのは、不思議としか言いようがなかった。
 現身というものは便利だが、痛覚その他あれこれを過剰なまでに有しており、時折面倒臭い。
 疲労感も、そのひとつ。あと苦手なのが空腹感と、睡魔だ。
「つかれた」
 ぽつりと零せば、途端に実感が湧いてきた。体内に蓄積された疲れが一気に噴出して、膝が震え、立っているのが辛くなった。
 運んできた石は結構な量で、かなり堪えた。短刀がやるべき仕事ではないと内心愚痴を零して、彼は顎を拭い、生温い唾を飲み込んだ。
 空の籠に凭れかかる形で腰を落とし、呼吸を整える。吸い込んだ空気は土の匂いが混じり、異様に青臭かった。
「戻るか」
 空は澄み、雲は高い。遠くから五虎退と秋田藤四郎の笑い声が聞こえて、目を向ければ一期一振も小休止中だった。
 動き易い内番着の袖を捲り、鋤を杖代わりにして立っている。様子を観察していたら太刀が不意に振り返られて、距離があるのに目が合った気がした。
「……なんだ?」
 妙にきょろきょろして、落ち着きがない。様子が変だと察して、小夜左文字は首を傾げた。
 軽くなった籠を右肩に担ぎ、小走りに畑へと戻る。ふっくら柔らかくなった土を踏んで突き進めば、粟田口の長兄は弱り切った表情で右往左往していた。
「どうかしたか」
「ああ、小夜殿。乱を見ませんでしたか?」
「乱藤四郎?」
 運んできた物を下ろし、問いかける。
 あまり背が高くない太刀は手にした鋤を左右に揺らしつつ、今にも泣きそうな顔で捲し立てた。
 普段の凛とした佇まいはどこへ消えたのか、泣きそうな顔をしていた。視線は常に揺れ動き、遠くを気にしていた。
 つられて後方を振り返って、小夜左文字は嗚呼、と小さく頷いた。
 そういえば乱藤四郎の姿を、ここ暫く見ていない。畑に居る粟田口の短刀は五虎退に秋田藤四郎、前田藤四郎に厚藤四郎だけで、あとは脇差と打刀だった。
 薬研藤四郎は本丸で薬草を煎じる作業に忙しく、農作業には最初から不参加だ。元気に走り回っている短刀の中に、少女と見紛う外見の少年は含まれていなかった。
 いつから居なくなったのか、まるで気にしていなかった。
「僕は、……すまない」
 言われて初めて、乱藤四郎の不在を知った。覚えがないと素直に謝罪すれば、一期一振は一度大きく目を見開き、力なく首を振った。
「いえ。小夜殿が悪いわけではありません」
「いつからだ?」
「それが、私にも。確か埋まっていた木の根を一緒に掘り出して、捨ててくる、と言って……」
 汚れるのも構わず手で顔を覆い、思い出そうと眉間に皺を作った。質問を受けた太刀は項垂れて更に小さくなり、苦悶の息を漏らした。
 目の前のことに集中し過ぎて、弟の行方に気を払っていなかった。
 痛恨の失態だと落ち込む男に、些か度が過ぎると笑うことも出来ない。
 そこまで心配しなくても、乱藤四郎は一期一振より練度が高い。まだ本丸に来たての兄よりも、屋敷内や、その敷地について、遥かに詳しかった。
 放っておいても大丈夫なのに、少々過保護過ぎる。
 彼を見ていると、昔馴染みの打刀が自然と思い出された。あれも大概だが、こちらの方がもっとひどくて、小夜左文字は苦笑の末に肩を竦めた。
「探して来よう」
「小夜殿」
「貴方は、ここにいて。貴方まで居なくなったら、他の刀が騒ぐから」
 五虎退や秋田藤四郎は、甘えん坊で、泣き虫だ。
 長兄の姿が見えないと知れば、きっと動揺するだろう。
 その点小夜左文字は、心配する者が少ない。一期一振と前後して左文字の長兄も本丸へ至ったが、彼は弟に構おうとせず、今日も屋敷の部屋に引き籠っていた。
 他者との接触を嫌い、孤独を好む。その辺りが、姿も性格も似通わない左文字の、唯一とも言える共通点だった。
 対する一期一振は、多くの弟を率いている。探しに行くべきはどちらか、火を見るよりも明らかだった。
 提案に目を丸くした太刀は、言葉を継がれ、押し黙った。左手で口元を覆い隠し、短い逡巡の末に頭を下げた。
「よろしく、お願い申し上げる」
「分かった」
 悲痛な声で頼まれて、小夜左文字は首肯した。空の籠を預けて踵を返し、瞬時に来た道を戻り始めた。
 道中一度だけ振り返れば、立ち尽くす兄を心配したか、短刀たちが駆け寄るところだった。先頭を行く秋田藤四郎を抱き留めて、太刀の表情が少しだけ和らいだ。
 もし小夜左文字の姿が見えなくなったとして、江雪左文字や、宗三左文字はどんな反応をするだろう。
 想像しようとするが思いつかなくて、少年はゆるゆる首を振った。
 これが昔馴染みの打刀であれば、容易に思い描けるのに。
 藤色の髪の歌仙兼定は、今頃台所で、包丁片手に奮闘しているに違いない。畑仕事が終われば一度覗きに行こうと決めて、小夜左文字は先ほど石を捨てた場所まで戻った。
 小さな塔と化しているそれらを一瞥し、奥に続く林を覗き込む。
 乱藤四郎は土中から出て来た木の根を捨てに行った、と聞いている。となれば行き先は林の方か、屋敷で出た塵芥を燃やす焼き場のどちらかだ。
 そして焼き場は、一期一振が耕していた場所からかなり離れている。
 そういう点を考慮すれば、林の中に入ったと思って間違いない。
 あまり奥に行き過ぎると、猪が出る。狼も、数は少ないが、山の方に生息していた。
 そういう野生動物と遭遇したら、危うい。野良仕事中は邪魔になるからと、彼らは刀を携帯していなかった。
 大丈夫だとは思うが、懸念は消えない。嫌な予想を噛み砕き、鼻の頭を親指で弾いて、小夜左文字は下草が伸びる林へと踏み出した。
「こっちには、あまり来たことがないな」
 屋敷の南に広がる庭は広大だが、今剣と一緒に探索を繰り返し、地形は大雑把に把握していた。しかしこちらの雑木林となると、屋敷から距離があるのも手伝って、あまり立ち入ったことがなかった。
 そもそも、訪ねていく理由がない。薪拾いは別の場所で間に合っているし、わざわざここまで足を運ぶ必要はなかった。
 好奇心を擽られ、突き進んだのか。
 乱藤四郎の心境を読み解こうと試みたが、なかなかに難しかった。
「まあ、いい」
 彼が何を思い、どんなつもりで皆の元を離れたのかは知らない。正直、どうでも良かった。
 さっさと用件を済ませ、仕事を終えて、屋敷へ帰ろう。
 決心を新たに大きな一歩を刻んで、小夜左文字は長身の常緑樹を仰ぎ見た。
 枝打ちされておらず、幹が変な方角に曲がっていた。表面にびっしり蔦植物が絡みついて、張り出た木の根が邪魔だった。
 平らな場所が少なく、歩き辛い。
「ちっ」
 思わず舌打ちして、短刀は苔が生えている木の幹を叩いた。
 整地されていない、自然のままの森に苛立ちが募る。乱藤四郎の姿は影も形も見えなくて、予想を違えたかと、不安が胸を過ぎった直後だ。
 微かに声が聞こえた気がして、小夜左文字は反射的に伸びあがった。
 爪先立ちになり、地表から突き出ていた木の根に飛び乗った。低い背を補って目を凝らし、木々の間に見える光に眉を顰めた。
 息を吸えば、ほんのり甘い。
 堪らず舌なめずりして、小夜左文字は高い場所から飛び降りた。
 十歩とかからなかった。
 密集する木々を抜けて突き進めば、不意に道が開け、逆に躓きそうになった。
 目の前がぱあっと明るくなり、光に溢れる世界に唖然となった。総毛立って立ち尽くして、少年は瞠目し、凍り付いた。
「ふんふ~ん、ふふ~ん」
 前方では尋ね人が呑気に鼻歌を奏で、地面に座り込んでいた。鮮やかな新緑の中に身を置いて、両手いっぱいに色とりどりの花を摘んでいた。
 そこは文字通り、花畑だった。
 林の中に、忽然と現れた。蜜蜂の羽音が耳朶を掠め、小夜左文字はハッと息を呑んだ。
 硬直していた四肢に電流を流し、瞬きを繰り返して呼吸を整える。鼓動は大きく弾んで飛び回り、見開いた目の奥がちかちかした。
 こんな場所が、屋敷のすぐそばにあった。
 全然知らなかったと愕然として、彼は夢かと疑い、頬を抓った。
「痛い」
 爪で皮膚を抉り、引っ掻いた。痛覚はきちんと反応しており、これが現実で間違いなかった。
 およそ八畳の空間に、花が咲き乱れていた。頭上を仰げばこの辺りだけ木々が途切れ、青空が広がっていた。
 緑の雑草に紛れ、紅紫色の花が背を伸ばしていた。形状は水面に咲く蓮に似ており、その小型版といったところだった。
「蓮華草か」
 踏み潰さないよう出来るだけ避けるが、全部は無理だ。
 地面が見えないくらいびっしり生えている草花に目を眇め、小夜左文字は鼻歌を止めた乱藤四郎に肩を竦めた。
「なにをしている」
「あれ、小夜。どうかした?」
 要らないものを捨てに出た筈なのに、こんな場所でなにをしているのか。放っておけば勝手に分解され、土に戻る木の根は見当たらず、代わりに少年の頭上には、花で作った冠が載せられていた。
 蓮華草を摘んで、花茎を繋げて作ったらしい。
 見た目に寄らず器用な短刀に、小夜左文字は深々とため息を吐いた。
 折角探しに来てやったのに、当人がこれでは報われない。
 心配するだけ無駄だった。落胆して、藍の髪の短刀は己の額を叩いた。
「一期一振が探していた」
「ええ? いち兄が?」
 項垂れながら呟けば、声を拾った少年が大袈裟に叫んだ。甲高い声を上げ、目を丸くして遠くを窺い見た。
 兄が来るのではないかと一瞬期待して、予想が外れてがっかりと肩を落とす。両手は膝に落ち、立ち上がるまで結構な時間が必要だった。
 その頃には小夜左文字も、彼の傍へと辿り着いた。周囲には千切れた花が散乱し、無残な有様だった。
 物言わぬ植物とはいえ、種を遺そうと懸命に生きている。それをこんな風に扱うのは、命に対してあまりにも失礼だった。
 もっとも乱藤四郎は、気にしていない様子だった。作りかけの花輪を手に頬を膨らませ、指を動かし、残りを手早く編んで行った。
「ちぇ。もうそんな時間かあ」
 悪びれる様子はなく、不満を隠そうともしない。図々しいというか、肝が据わっているというのか、愛らしい外見の割に豪胆だった。
「心配していた」
「うん、分かってる。あとちょっとだから。えっと、これをこうして、こう……」
 皆のところへ戻るよう、繰り返し促す。しかし乱藤四郎は抗って、手元に意識を集中させた。
 小夜左文字に見向きもせず、摘んだ花を繋げていった。葉を落とした花茎を捻り、並べて、簡単に解けないよう絡めていった。
 迷い無い手捌きで、端と端を組み合わせる。
 ようやく完成を見た花冠は、彼が被っているものより一回り大きかった。
「でーきた。へへ。どう、見てよ小夜。可愛いでしょ?」
「僕に訊かれても……」
 使った花の数も倍以上で、輪は太めで、がっしりしていた。そんな品を手に問いかけられて、花に興味などない少年は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 可愛いかどうかなど、分からない。見栄え良く出来ているとは思うが、小夜左文字は欲しいと思わなかった。
 困り果てていたら、乱藤四郎はぶすっと頬を膨らませた。期待した返事が得られなかったと拗ねて、憤慨して煙を噴いた。
「いいよー、だ。いち兄にあげようっと」
 あっかんべー、と舌を出し、瞬時に気持ちを切り替えた短刀が手元を見ながら嘯く。
 正直一期一振にこれが似合うとは思えないが、あの男のことだから、きっと喜んで受け取るだろう。
 光景は易々と想像出来た。
 誰もが羨む仲睦まじいやり取りに、劣等感がチクリと疼いた。
 胸の辺りがもやっと来て、小夜左文字は口を噤んだ。浅く唇を噛んで痛みを堪え、駆け出した短刀を追って視線を巡らせた。
 花畑の真ん中に佇み、去りゆく背中を黙って見守る。
 乱藤四郎は一度として振り返らず、小夜左文字の存在など忘れているようだった。
 彼の頭の中は、花冠を兄に渡すことでいっぱいだ。
 耐えきれずかぶりを振って下を見れば、試作品だろうか、花冠の残骸が幾つか残されていた。
 何度も捩じったのだろう、花径はぐにゃぐにゃに歪んでいた。爪が食い込んだらしき跡から汁が滲み出て、手に取ればぬるっと滑った。
「こんなものの為に」
 折角綺麗に咲いた花を、己の欲を満たすためだけに摘んで、荒らした。
 蓮華草は植えておけば良い肥料になるし、薬草にもなる。癖があるものの食べられるし、使い道は多岐に渡った。
 花冠を作って遊ぶ植物ではないのだ。それを、無造作に扱われた。
 腹立たしさはなかなか収まらず、捨て置かれたものを踏み潰したくなった。
 それを理性で引き留めて、小夜左文字は片膝を折り、落ちていたものをひとつ、拾った。
「茎を、巻きつけているだけなのか」
 作っているところを横で見ていたが、早過ぎて詳細は分からなかった。どうやってあんな風に輪にしていたのか気になっていただけに、謎が解けて、少し胸がスッとした。
 紐を使っているわけでもなく、茎を縛っているわけでもない。
 あくまで巻き付け、絡ませているだけと知って、少年は感嘆の息を吐いた。
 花を無駄にしたという苛立ちと、器用さへの感心が拮抗していた。好奇心がむくりと首を擡げ、自分でも作れるかと疑問が沸いた。
 時間の無駄と嘲笑いつつ、一度くらい試しても損はない、と天秤が揺れ動く。
 膝をぶつけ合い、逡巡して身を捩った。
「あっ」
 最中に持っていたものを捻ってしまって、小夜左文字は小さく悲鳴を上げた。
 花冠の茎が外れ、繋がっていたものが一瞬のうちに崩壊した。慌てて握りしめるが間に合わず、半分近い花がボタボタと地面へ落ちた。
 残った部分も、きつく絡み合っていたものが緩み、原形を留めない。仕方なく手放せば、窮屈さから解放された蓮華草が、花茎を伸ばしながら足元に沈んでいった。
 自分が摘んだわけではないのに、この手で散らした気分になった。少なからず衝撃を受けて、暫く身動きが取れなかった。
 朽ちた花は哀れで、精彩を欠いた。冠の形を成していた時の方がよっぽど鮮烈で、輝いて見えた。
 小夜左文字が壊した。
 花をより美しく魅せていたものを、自ら潰してしまった。
「直せる、か?」
 無意識に呟いていた。自問自答して、小夜左文字は地面に腰を下ろした。
 乱藤四郎が座っていた場所に身を置いて、散乱する花を集めた。尻端折りを解いた着物の裾に並べて、記憶を頼りに、見よう見まねで繋げようとした。
 だが。
「く、このっ」
 なにが悪いのか、芯となる花にぐるぐる巻き付けた花茎は直ぐに緩み、解けてしまった。
 ひとつ成功しても、次が巧くいかない。押さえ込むのに必死になっていると、巻き付けるのに手間取って、巻き付けに集中していると、押さえこみが疎かになった。
 左右の手に異なる動きを、しかも同時にさせるのがこんなにも難しいとは。
 刀を手にした時は無意識にでも出来ることが、花を手にした途端、情けないくらいに出来なかった。
 こんなにも不器用だったのかと驚き、密かに傷ついた。
 簡単に見えて、想像以上に難しい。何度も失敗して、ちっとも上手くいかなかった。
 蓮華草は文句も言わず、何も語らない。黙って茎を折り、花弁を散らす少年を見詰めるのみだ。
 だからこそ花を傷つける一方の自分が、歯痒くてならなかった。
「どうして、こんな……」
 乱藤四郎は手間取ることなく、すいすい編んでいた。草鞋を編むのと何が違うのか、さっぱり分からなかった。
 手本となる少年の指捌きを思い出そうとするけれど、集中して見ていなかった分、記憶は曖昧だ。失敗作らしき残された花輪も、外から眺めるだけでは構造が分からなかった。
 分解して調べたいところだけれど、戻せなくなるのが辛い。あそこで粟田口の短刀を引き留めなかったのを後悔して、小夜左文字は下唇を噛んだ。
 爪の隙間に花の汁が染み込んで、指先は緑に染まっていた。試しに嗅げば痛烈な青臭さで、春菊を湯がく際の数倍の濃度だった。
 堪らず鼻を摘むが、その手だって蓮華草を散々触ったものだ。泣きっ面に蜂とはこのことかと涙を呑んで、少年は嗚咽を漏らし、花冠の残骸に見入った。
 捩じ切れた繊維が薬指の爪に引っかかり、当て所なく揺れていた。散らばる花は散々弄り倒された結果、色がくすみ、花茎は複雑骨折を起こしていた。
 深緑色の折れ目が無残で、花はどれも俯いていた。どうして作り直そうなどと、無謀な挑戦をしたのか、後悔ばかりが胸に渦巻いた。
「こんなの、出来たって」
 花冠が作れなくても、刀としての価値は下がらない。戦場に出るには不要なもので、ましてや仇討を願う身にとっては。
 そんな無用の長物に、夢中になった。
 必死になった。
「なにをやっているんだ、僕は」
 時間を無駄にした。木乃伊取りが木乃伊になった。
 畑仕事は、どれくらい進んだだろう。短刀ひと振りが居なくなったところで、進行速度にそう違いが出るとは思えなかった。
 結局は、その程度の存在だ。鼻の頭を擦り、自嘲気味に笑って、藍の髪の少年は熱くなった目頭を押さえた。
 姿の見えない乱藤四郎を案じ、一期一振は右往左往していた。
 その後入れ替わるようにして小夜左文字が居なくなったのに、誰も探しに来ない。
「ああ。ひとりは……落ち着くよ」
 心に隙間風が吹いた。強がりを言って目を瞑って、少年は抓み取った蓮華草を口元に持って行った。
 鼻から息を吸えば、微かに甘い香りがした。後日種を集めに来る事にして、いい加減戻るべく、起き上がろうと身を揺らした。
 ザリ、と土を踏む音がした。
 殺気めいたものを感じてハッとして、短刀は反射的に背筋を伸ばした。
 蜜蜂が空を撫でた。羽音を追いかけるように首を巡らせて、直後。
「あぁ……」
 安堵に膝を折った男を見つけて、彼は五度、瞬きを繰り返した。
「本当に、居た」
「歌仙、どうして」
 独白が聞こえた。頭を抱え込み、木の根元に蹲るのは、藤色の髪の打刀で間違いなかった。
 白の胴衣に袴を着け、襷は外していた。但し邪魔になると梳き上げた前髪はそのままで、落ちて来ないよう結ぶ幅広の紐も、綺麗な輪を保っていた。
 問いかけに、答えはなかった。目を丸くしたまま総毛立って、小夜左文字は思いがけない来訪者に唇を戦慄かせた。
 指の隙間からちらりと覗かれ、背筋が粟立った。歌仙兼定は二度、三度と肩を上下させてから起き上がり、大股で花畑を横断し始めた。
 鮮やかに咲き誇る蓮華草を一瞥し、躊躇なく踏み潰した。それで我に返り、小夜左文字は膝に山積み状態だった草花を払い落とした。
 急いで身なりを整えて、打刀との距離がなくなる前に両手は背中に隠した。緑に染まる指先を腰の位置で捏ねあわせて、目を泳がせ、視線は合わせなかった。
「小夜」
「う、いや、……すまない」
 畑仕事を放棄して、花冠作りに勤しんでいた。それは決して褒められた行為ではなく、断罪されてしかるべきものだった。
 乱藤四郎を叱る権利など、自分にはなかった。その反省も含め、先回りをして謝罪をすれば、歌仙兼定は含みのある表情で目を眇めた。
「おや。すると君は、謝らなければいけないことをしていたのかい?」
「ぐっ」
 顎を撫で、意地悪く声を潜める。
 嘲弄を内に隠した囁きに、小夜左文字はビクッと身を震わせた。一瞬のうちに青くなり、脂汗をだらだら流した。
 歌仙兼定の主な仕事場は、台所だ。食事当番として朝から晩まで、忙しく動き回っていた。
 そんな彼が、屋敷から遠く離れた場所に居る。ちょっと散歩に出て迷い込んだ、という訳でないのは明白だ。
 彼は此処に来た時点で、「本当にいた」と呟いた。即ち誰かから、小夜左文字が林の中の花畑にいると、教えられたに他ならない。
 予想はついた。
 先回りをし過ぎて、墓穴を掘った。
 蓮華草の海に沈む少年を見下ろして、歌仙兼定はカラカラと喉を鳴らした。
「一期殿が、小夜が居ないと騒いでいてね」
「……」
「探索隊を組むべきだと言いだしたから、僕が引き受けたんだよ。乱藤四郎に、感謝しないと」
「やっぱり」
 弟が無事戻って来たはいいものの、農作業を終えて片付けの準備に取り掛かったところで、今度は別の短刀が居ないと判明した。心配性の太刀は案の定騒ぎ出して、江雪左文字たちに伝えに行こうとして、それを歌仙兼定が阻止した格好だ。
 一期一振の過保護ぶりには、呆れを通り越して感動すら覚える。
 想像した通りだったと額を覆って、小夜左文字は肩を落とした。
「あとで、謝りに……いく」
「そうだね。それがいい」
 但し気にしてくれたのは嬉しいし、気付いて、心配してくれたのは有り難かった。
 ささくれ立っていた心が少しだけ和いで、ぽっと光が灯ったようだった。
 淡い輝きに目尻を下げて、同意してくれた歌仙兼定を仰ぎ見る。ようやく目が合った男は小首を傾げ、それからひと呼吸置き、ストン、とその場に腰を落とした。
「歌仙」
 しゃがんで、蹲踞の体勢を取った。膝は肩幅に広げ、頬杖をついて覗きこまれた。
「それで、小夜」
「なんだ」
 戸惑っていたら、柔らかく話しかけられた。目を眇めて楽しそうに笑って、もう一段階姿勢を低くし、野草に埋もれる花を一輪、抓み取った。
 既に引き千切られていた、淡い赤紫色の花を。
「花冠は、完成したのかい?」
「――っ!」
 それをくるくる回して、語尾を上げて問いかけられた。
 矢張り聞いていたかと赤くなって、少年は仰け反り、座ったまま距離を取った。
 仰向けに倒れるぎりぎり手前の角度を維持して、腹筋をぷるぷるさせながら瞠目する。真っ赤に染まった顔を隠そうとすれば、当然緑に濡れた指先が人目に晒された。
 爪の輪郭がくっきり浮き上がり、指の腹も良い具合に色付いていた。言葉でどれだけ否定したところで、散乱する蓮華草という物証を突き付けられては、逃げ切るのは不可能だった。
 王手を掛けられた。
 今すぐ逃げ出したい衝動に駆られて、小夜左文字は頬を引き攣らせた。
 完成したか、否かは、一目瞭然だ。
 だというのに敢えて問い質した打刀は、相当性格が悪い。昔は純真で可愛らしかったのに、どこでひん曲がってしまったのだろう。
 知らぬ間に、背を抜かれていた。
 そういう恨みも込めて上目遣いに睨みつければ、歌仙兼定は呵々と肩を揺らし、頬杖を解いた。
 抓み持っていた花を嗅いで、おもむろに腕を伸ばした。
「なに」
「うん、可愛い」
 結い上げた髪を揺らされて、咄嗟に喉に力を込めた。首を竦めて振動をやり過ごせば、素早く腕を引っ込め、男が満足げに頷いた。
 なにをされたか、見えなかった。怪訝にしつつ頭を触れば、指先を覚えのないものが掠めた。
 歌仙兼定の手に、蓮華草はなかった。もしや、と触覚を頼りに探って、小夜左文字はがっくり肩を落とした。
「なにするの」
「とてもよく似合っているよ」
「歌仙」
 緋色の髪紐に、蓮華草が添えられていた。落ちないよう結び目に突っ込まれて、茎の先は髪に突き刺さっていた。
 こんなことをされても、嬉しくない。褒められたところで、反感が強まるだけだ。
 それなのに、外せなかった。
 無邪気に笑う打刀を間近に見ていたら、嫌だと思う気持ちは砂となって崩れ落ちた。
 馬鹿にするなと、怒る気力も沸かない。ドッと疲れが押し寄せて来て、もうどうでも良くなってしまった。
「まったく……」
 ただ、やられっ放しは性に合わない。溜息を吐いて顔を覆って、小夜左文字は足元から花を一輪、拾い上げた。
「小夜?」
「動くな」
 尻を浮かせて姿勢を高くして、歌仙兼定に身を寄せる。打刀は咄嗟に逃げようとしたが、言葉で制し、許さなかった
 まだ綺麗に咲いている花を上にして、萎びている茎を摘む。丸みを帯びた先端を指で潰して平らにして、藤色の髪を掬うように差し入れる。
 平織の紐に絡ませて、結び目の丁度真ん中に花が来るよう調整した。先端は輪にした茎の内側に潜ませて、強く引っ張り、余った部分は髪の中に忍ばせた。
「よし」
「小夜……」
「花冠だ、歌仙」
 我ながら、巧く出来た。失敗続きだった冠作成の技術が、こんなところで生きた。
 胸を張り、自信満々に言い放つ。
 眼前の男は最初こそ不満そうだったが、得意げな顔をする短刀を眺めているうちに、考え方を変えたようだった。
 ふっ、と脱力して笑い、目を細めた。困ったような、照れたような顔をして、最後に現れたのは歓喜だった。
「ありがとう」
「礼には及ばない」
「これは、大事にしないといけないね」
「ああ。勝手に外したら、許さない」
 嬉しそうに礼を言って、打刀はゆっくり立ち上がった。確かめるように花をそっと撫でて、微笑み、短刀へ利き手を差し出した。
 迷うことなく掴んで、小夜左文字は腹に力を込めた。引っ張る男の力を利用して起き上がり、衣服に付着する草花を払い落とした。
「良く似合うぞ」
「小夜もね」
「……外して良いか」
「不公平だ」
 嫌味を込めて褒めれば、自分の頭にも花があるのを思い出した。咄嗟に抓んで引き抜こうとしたら、歌仙兼定は声を荒らげ、口を尖らせた。
 花で飾った刀など、本来なら有り得ない。
 だが刀の付喪神が現身を得た本丸は、有り得ないことの宝庫だった。
「戻るか」
「そうだね。皆、心配している」
 苦笑を漏らし、小夜左文字は呟いた。傍らの打刀も鷹揚に頷き、鮮やかに咲き誇る花を一輪、身を屈めて摘み取った。
 流れるような仕草だった。節くれだった指で優しく包み込み、顔の手前へと持って行った。
「良い匂いだ」
「どうする気だ」
「折角だから、飾ろうと思ってね。屋敷の中も、これで一層、春らしくなる」
「ああ……」
 蜂や蝶が好む香りを楽しみ、回答は明朗だ。にこやかに告げられて、考えもしなかった小夜左文字は緩慢に頷いた。
 屋敷のあちこちには、冬の名残が見受けられた。
 片付けを待つ火鉢、閉められたままの雨戸。綿をたっぷり入れた褞袍に、皸対策の軟膏など等。
 それらが居座り続ける限り、冬が終わったとは言い切れない。屋内は依然暗く、どうにも辛気臭かった。
 そこに美しく咲く花を一輪、飾ったら。
 きっとそこから華やかさが広がって、褪せた景色に色が戻るだろう。
 想像したら、胸が弾んだ。
 楽しみが出来て、なんだか嬉しくなった。
「薬研藤四郎にも教えてあげよう」
「なぜだ?」
「解熱剤に使えるんだ。若芽は食べられるよ。いくらか摘んでいくかい?」
 小さく嘯いた声に反応すれば、男はすぐに教えてくれた。
 小夜左文字が教えなかったこと、そして小夜左文字が知らなかったことを、知らないうちに仕入れていた。それは今に始まったことではなく、本丸で再会して以来、ずっとだった。
 離れていた時間がそれだけ長かったと、密かに思い知る。
「歌仙」
「なんだい?」
「歌仙は、冠は……作れるの、か」
「さすがにそういうのは、やったことがないねえ」
「そう」
 歩き出した男に並び、胴衣の袖を引く。問われた男は笑いながら言って、不思議そうに首を傾げた。
「小夜?」
「そうか。歌仙は、作れないか」
 花冠は、意外に難しい。簪代わりに髪に挿すしか出来なかった打刀を笑って、短刀は太い木の根を飛び越えた。
 負けっ放しは、癪だった。知らなかったことを覚える時間は、幸いいくらでも用意されていた。
 含みを持たせた台詞に戸惑い、歌仙兼定が眉を顰める。
 首が左右に揺れて、頭上の花飾りが一緒に踊った。
 今はたった一輪でしかないそれを、近いうちに大きな輪にしてみせる。心に誓って、小夜左文字は駆け出した。
 

2016/03/03 脱稿

山里は霞みわたれるけしきにて 空にや春の立を知るらん
山家集 春 7

君が千歳や空に見ゆらん

 可愛らしい子供の笑い声に、騒々しい足音が重なった。
 鬼ごっこの最中なのか、それとも道を急いでいるだけか。ともあれ粟田口の短刀たち数振りが、団子になって走って行くのが見えた。
 開け放たれた襖、そして障子越しに、縁側の景色が望めた。木目が美しい廊下の真ん中で立ち止まって、小夜左文字は視界を駆け抜けた影に肩を竦めた。
 今日は粟田口の長兄である一期一振に出陣はなく、遠征の任務も入っていないという。だからこそ短刀たちは大喜びで、朝から兄の周囲で飛び跳ねていた。
 その兄たる太刀も、弟たちに取り囲まれて嬉しそうだった。騒がしいだろうに嫌な顔ひとつせず、纏わり付かれても拒まなかった。
 甲高い笑い声は遠くまで響き、間延びしてなかなか消えない。
 耳にこびりついて、簡単には離れなかった。
 あれは誰の声かと考えて、残された少年は天井を仰いだ。
 部屋越しに一瞬見えた小さな影は、黒に金の彩り艶やかな外套を羽織っていた。
 記憶が確かなら、あれは一期一振愛用の品だ。いつも肩から背に向かって垂らして、戦闘の際には優雅にはためかせていた。
 それを、どうして短刀が羽織っていたのか。
「前田藤四郎のように見えたが」
 先頭を行くおかっぱ頭の短刀も、普段から白色の短い外套を装備していた。後を追っていたのは秋田藤四郎と、平野藤四郎であり、僅かに遅れて五虎退が駆けて行った。
 部屋を挟んで反対側の通路にいた小夜左文字には、誰も気が付いていなかった。短刀たちは兄の具足を借りて、兄の真似をして遊ぶのに夢中だった。
「似合わないのに」
 もっとも彼らがどれだけ憧れようと、短刀は太刀になれない。
 他より小柄とはいえ、一期一振は太刀の端くれだ。その身丈に合わせた装備品が、短刀に適するわけがなかった。
 それなのに馬鹿な真似をして、何が面白いのだろう。
 呆れて、ため息が出た。深く肩を落として、小夜左文字は手に持つものを抱え直した。
 もう少しで落とすところで、危なかった。ホッと安堵の息を吐いて、少年は右から左へ唇を舐めた。
 折角綺麗に折り畳めたのだから、最後までこの形を維持したい。
 どうせ近日中に広げられ、台無しになると分かっていても、上手く出来たのは嬉しかった。
 手にもつ白の肌着は、いずれも彼の兄たちのものだ。ふた振り分でどれも大きく、丈は長かった。
 もし小夜左文字がこれを羽織れば、裾をかなり擦ることになる。平安朝の女御ではあるまいに、ずりずりと引きずって歩くのは、かなりみっともなかった。
 裃のように出来れば良いが、肌着なので柔らかくて、無理だ。肩を威張らせ、居丈高に歩く自分も想像出来なくて、短刀は早々に首を振った。
 くだらない妄想劇を終わらせて、兄たちが暮らしている区画へと向かう。静かな環境を好む太刀と打刀は、昼夜問わず騒がしい母屋ではなく、後から増築された離れで生活していた。
 歴史修正主義者が送り込む遡行軍に対抗する為、審神者なる者が刀剣男士を集め始めてから、かなりの時が過ぎた。
 最初は戦力も微々たるものだったが、今ではすっかり大所帯だ。同じ釜の飯を食う仲間が増えて、総数は五十に至ろうとしていた。
 何度か増改築を繰り返した屋敷は、完全に原形を失っていた。用途不明の部屋もいくつかあって、迷路に近い空間もあった。
 迷い込んだら、簡単には出られない。
 ここで暮らして長い小夜左文字でさえ、時に道を見失い、戸惑うことがあった。
 曲がり角を間違えないよう注意して、小走りに廊下を巡る。途中、前を通り過ぎた台所からは、美味しそうな良い匂いがした。
 夕餉の準備が、始まったのだろう。戸の隙間からは、忙しそうにする背中が見えた。
 これが終わったら、手伝いに来よう。
 心の中で頷いて、短刀は通い慣れた道を進んだ。
 肌着は今朝、彼が洗濯し、物干しに並べて干したものだ。先ほど乾いていたので回収して、一枚ずつ丁寧に畳んで来た。
 本来は持ち主が自ら洗濯するのが、本丸の決まりだった。しかしこの約束は当初から形骸化しており、兄たちの衣服を洗うのも、乾かすのも、末っ子の仕事だった。
 好きでやっていることだから、嫌だと思ったことはない。そもそも兄たちは――特に長兄は浮世離れしたところがあって、洗濯も苦手だった。
 華奢な見た目に反し、あの男は意外に力が強い。勢い余って引っ張り過ぎて、何着も破いて駄目にする姿を見かける度に、なんとも言えない気分になった。
 一着洗うのも、三着洗うのも、手間にそう違いはない。ならば自分がまとめて引き受けると言って、我を押し通したのはかなり前だ。
 周囲からは呆れられたが、応援もされた。兄弟間のわだかまりを小さくする、良いきっかけになれば良いと、背中を押してもらえた。
 その願いが叶ったかどうかは甚だ怪しいが、彼らが本丸に来たばかりの頃に比べれば、関係性は向上している。短いながらも会話が続くようになって、引き籠り気味だった兄たちも、自らの意志で外へ出る機会が増えた。
 特に長兄の江雪左文字は、畑仕事がお気に入りだ。土を耕し、泥にまみれるのを喜びとして、頼まれなくても鍬を握る日々だった。
 だから日中、彼が離れに居ることは少なくなった。
 文机の前に座り、写経に勤しむ背中に呼びかけるのは、気が引けた。あの緊張から解放されたのは、正直とても有難かった。
「あにさま、は」
 今日も今日とて、長兄は野良仕事に精を出している。
 もうひとりの兄はどうしているか想像して、少年は渡り廊を駆け抜けた。
 小さな池を持つ中庭の正面に、左文字のふた振りが暮らす部屋はあった。六畳ほどの個室で、左が江雪左文字、右側が宗三左文字の部屋だった。
 内部は襖で繋がっており、出入りは自由だ。縁側から続く障子は開いており、風が通るようになっていた。
「いない」
 先に奥側から済ませようと覗き込めば、室内は薄暗く、動くものの気配はない。内部は綺麗に片付けられて、髪の毛一本落ちていなかった。
 布団は畳まれ、長持の上に置かれていた。文机も整理が行き届き、硯箱はきちんと蓋が閉められていた。
 煙管盆が足元に置かれ、居心地悪そうに身構えていた。手前に放置された座布団は薄く、真ん中が凹んでいた。
 衣桁に薄桃色の衣が掛けられ、袈裟は折り畳まれていた。化粧箱がその傍に鎮座し、抽斗が少しだけ飛び出していた。
 静まり返った空間に、安堵と寂しさが飛び交った。複雑な感情に口を尖らせて、小夜左文字は運んできた白衣をふたつに分けた。
 うち、上に積んでいた方を袈裟の上に置き、表面をそうっと撫でた。埃などないのに払う仕草をして、やり遂げた気分で頷いた。
「よし」
 どうやら次兄も、どこかで時間を潰しているらしい。恐らくへし切長谷部のところと推測して、彼は踵を返し、敷居を跨いだ。
 会えなかったのは残念だが、本丸で一緒に暮らしているのだ。その気になれば、いくらでも顔を見に行けた。
 感謝の言葉が欲しかったわけでもないし、これはこれで構わない。
 気を取り直して廊下へ戻って、短刀は隣室を覗き込んだ。
 こちらもまた、もぬけの殻だった。
 江雪左文字が畑に居るのは知っていたから、特別驚くことはない。落ち込み、がっかりすることもなく、左文字の末弟は長兄の部屋に身を移した。
「失礼いたします」
 一応頭を下げて、断りを入れた。許可を待たずに姿勢を正し、ひょい、と境界線を飛び越えた。
 畳の縁を踏まないよう進んで、衣桁の前まで行く。薄墨色の衣の上には、裏面が小札で埋め尽くされた袈裟が掛けられていた。
 刀は床の間に飾られて、異様な存在感を放っていた。それを操る現身がたとえ離れた場所にあろうとも、本体とも言えるものは冷たい眼差しをして、来訪者を観察している風でもあった。
 試されている、とも感じられた。ひとりきりではあまり長居したくなくて、小夜左文字は身震いすると、今朝方託された白衣をそうっと、その場に降ろした。
 形が崩れないよう丁重に扱い、息を殺して、衣擦れの音ひとつ立てない。慎重に膝を折って、手放した瞬間に背筋を伸ばした。
 誰もいないというのに、自然と姿勢が改まった。背中で大きな蝶々結びが揺れて、髪を結う紐も軽やかに跳ねた。
 仰々しいまでに畏まり、緊張の面持ちのまま縁側へ戻ろうとする。
「あ」
 右足を軸に身体を反転させようとして、途中できらりと輝くものが目に入った。思わず首をぐりん、と引き戻して、少年の視線は机上に釘付けになった。
 江雪左文字の部屋は、宗三左文字の部屋以上に物が少ない。執着心を棄て、質素倹約を心がける刀には、茶器や花器、書物を手当たり次第買い漁る者の気持ちなど、永遠に分からないだろう。
 そのうち、兄に説教して貰おうか。
 同居している打刀の収集癖を思い出しながら、短刀はそろり、右足を滑らせた。
 摺り足で進み、目的地の手前でストン、と腰を落とす。
 白か灰色ばかりの暗い部屋の中で、文机に無造作に置かれたそれは、明らかに異質だった。
「数珠」
 綺麗に丸く削られた石を繋ぎ、輪にしたものだ。傍には収めていたであろう桐箱が、蓋を開けた状態で放置されていた。
 最も大きな石の先に小さな石が連なって、その先には濃紺の房が付随していた。瓢箪の形で置かれており、手垢はついておらず、まだ真新しかった。
「あにうえの、数珠?」
 左文字兄弟は各々袈裟を装具としており、数珠もまたそのひとつだった。特に兄ふた振りに関しては、日頃の生活でも手放すのは稀だった。
 四六時中身に着けて、仏の加護を請うている。勿論、農作業に勤しんでいる時も同様だ。
 だというのに、その数珠が、ここにある。
 しかも使われている石は、小夜左文字が今まで目にしたことのないものだった。
「新調されたのだろうか」
 黒を基本として、金に近い明るい茶色が入り乱れていた。混じり合い、融け合って、優雅に調和し、見事な仕上がりだった。
 好奇心が擽られて、恐る恐る手を伸ばした。下から掬い上げるように持ち上げてみれば、見た目通り、ずっしり重かった。
 珠ひとつひとつが大きく、見事だった。虎琥珀を惜しげもなく使用しており、光に透かせばより美しく輝いた。
 いかにも高そうで、価値がありそうな一品だった。歌仙兼定に見せたら、跳び上がって喜びそうでもある。
「綺麗だ」
 掛け値なしにそう思えて、本音はするりと零れ落ちた。顔の前に高く掲げて、小夜左文字は兄の数珠に目を輝かせた。
 凛とした表情が似合う長兄が、これを左手に掛けている。その姿は想像が容易で、しかも非常に美しかった。
 重厚で、どっしりとして、それでいて優美。
 江雪左文字の名に相応しい数珠と、手放しで賞賛出来た。
「すごい」
 これを持つ兄を、是非とも見てみたかった。感嘆の息を漏らして、小夜左文字は艶やかな石の表面を撫でた。
 彼の手に、これはかなり大きい。経文を唱える際、手繰って行くのも一苦労だ。
 だとしても、誘惑には逆らえない。好奇心が擽られ、甘酸っぱい感情が胸の内に広がった。
 胸の前に虎琥珀の数珠を下ろして、少年は首を竦め、素早く左右を見回した。
 勿論、部屋の中には彼しかいない。
 分かり切ったことを今一度確かめて、彼は右手で数珠を垂らし、左手をその輪に向かって動かした。
「おや、そこに――」
「っ!」
 刹那。
 耳に飛び込んできた低い声に戦き、小夜左文字は膝を揃えて跳び上がった。
 どきーん、と跳ねた心臓が飛び出しそうになって、慌てて口を閉じて飲み込んだ。全身の汗腺から脂汗が噴き出して、瞳は虚空を彷徨い、四方を飛び回った。
 耳元で銅鑼が喧しく鳴り響き、混乱した思考は煙を吐いて役目を放棄した。泡を噴いて気絶したくなって、蟹の気分が味わえた。
「小夜、ですか?」
 鼓動は騒々さを増し、耳鳴りが酷い。呼びかけにも上手く反応出来ず、咄嗟に握りしめた両手は胸元へ深く食い込んだ。
 背中を丸め、猫背になった。
 目を白黒させて、短刀は冷や汗を垂らしながら恐る恐る振り返った。
「どうか、しました……ああ」
 身を竦め、青くなっている弟を前に、江雪左文字は眉を顰めた。洗ったばかりで、まだ濡れている手を前後に揺らして、思案気味の細い瞳は瞬時に脇へ流れた。
 袈裟の足元に置かれた白衣に、感じるものがあったようだ。納得だと首肯して、その上で、彼は文机の前の末弟に首を捻った。
 洗濯ものを届けに来ただけなのに、どうして衣桁とは反対側に居るのだろう。
 不思議そうに見つめてくる眼差しに、小夜左文字の全身に鳥肌が走った。
「しっ、失礼仕ります!」
 兄の数珠が綺麗だったので、見惚れていた。手に取ってその重みを体感して、兄が装備している姿を想像していた。
 正直に本当のことを言えたなら、どれだけ良かっただろう。
 だが生憎、小夜左文字はそこまで素直ではなかった。粟田口の短刀たちのように、行儀よくはなれなかった。
 動揺し、動転していた。
 焦った口から飛び出したのは、退室の挨拶だった。
 勢い任せに頭を下げて、障子のところで立ち止まっている兄の脇を駆け抜ける。ドダダダダ、と足音を五月蠅く響かせて、礼儀などお構いなしだった。
 見咎められて、怒られようとも、あの場に居続けるよりは百倍良かった。一刻も早く逃げ出して、遠くへ離れてしまいたかった。
 恥ずかしかった。
 兄の装備に憧れるような、未熟な刀と知られたくなかった。
 耳の裏まで真っ赤にして、全力で走った。道中誰かとぶつかりかけたが、急いでいたのもあり、謝らなかったし、顔すら見なかった。
 寸前で衝突を回避して、縁側から飛び出そうになった身体は、柱を掴むことでどうにか支えた。遠心力を利用して角を曲がって、闇雲に屋敷の中を駆けた。
 どこをどう進んだかなど、まるで分からない。
 気が付けば小さな坪庭に出ていて、彼は目を丸くし、肩で息を整えた。
「どこだ、ここは」
 半畳ほどの広さに白い玉砂利が敷き詰められて、中央には苔生した手水鉢が置かれていた。窪みには雨水が半分ほど溜まっており、枯れ葉が何枚か沈んでいた。
 普段出歩く場所でないのだけは、確かだ。
 心当たりがすぐに出て来なくて、短刀は深呼吸を繰り返し、辺りを見回した。
 明かり取りを目的とした空間を前にして、気持ちも少し落ち着いた。唇を舐めて軽く胸を叩いて、汗でぐっしょり湿っている手をゆっくり開いた。
 ふわりと、栴檀の香りが鼻腔を掠めた。
 先ほどまで兄の部屋にいたから、というだけでは説明がつかない匂い。
 その芳しさに反して、小夜左文字の顔からは一気に血の気が引いていった。
「しま……っ!」
 四肢を戦かせ、悲鳴を上げる。
 瞬きを忘れて見つめる先にあるものは、黒と金が美しい立派な数珠だった。
 虎琥珀が陽光を浴びて、きらきらと輝いていた。
 極楽浄土の趣を感じさせる雅さに、唾を飲む音は自然と大きく響いた。同時にたらりと汗が滴り、乾いた肌を擽った。
 どくり、どくりと鼓動は五月蠅く、眼は乾燥し、充血して真っ赤だった。それでも微動だにせず、小夜左文字は仏像の如く凍り付いた。
 江雪左文字の数珠を、持ってきてしまった。
 突然現れた兄に驚き、置いてくるのを忘れた。掴んだまま離さず、握り締めたままここまで来てしまった。
 そんなつもりはなかったのに、盗んだのと同じだ。いかにも貴重で、高価な品だけに、生きた心地がしなかった。
「ど、ど、どう、し、よう」
 動揺が激し過ぎて、言葉が上手く繋がらない。細切れに音を刻んで呻いて、少年は身を竦ませた。
 丁寧に磨かれた石はどれも艶々して、触り心地は抜群だった。小夜左文字の体温を吸ってか、冷たくはなく、盗人相手にも対応は優しかった。
「あにうえに、お、お返し、しなければ」
 盗る気は一切なく、動転していて、返すのを忘れただけ。
 正直に告白して頭を下げれば、あの兄のことだ、きっと許してくれるだろう。
 だが、もし許してもらえなかったら、どうする。
 普段は使わず、大事な時にだけ用いる数珠だったら。
 なにか謂れがあり、人目に触れないようにしていたものだったら。
 血に汚れ、罪に穢れた短刀が手にして良いものではなかったら。
 江雪左文字は、滅多に怒らない。どんな時でも声を荒らげることはなく、いつだって静かだった。
 弟である小夜左文字も、殆ど叱られた記憶がない。その代わり、この一年で分かった事がある。
 彼は、見捨てるのだ。
 諦めてしまう。いくら言っても無駄と分かれば、早々に見切りをつけて、二度と見向きもしなくなる。
 それは大声を張り上げ、感情を剥き出しにされることより、よっぽど辛いことだった。
 拳骨で殴られる方が、何百倍も、何万倍も良い。ようやく兄弟らしくなってきたところなのに、振り出しに戻されるのは、絶対に嫌だった。
 だというのに、足が竦んだ。自分が犯した愚に萎縮して、思うように動けなかった。
 兄の数珠は、大きかった。
 精悍で、凛々しく、男らしさに溢れていた。
 羨ましい。
 こんな数珠が似合うような存在になれたら、どんなにか素晴らしいだろう。
「あにうえ」
 心がきゅうっと窄まって、涙が出そうになった。
 俯いて、両手で数珠を掲げて、胸へと押し付けた。
「小夜」
「……はい」
 足音には、随分前から気付いていた。
 観念して振り返って、小夜左文字は深々と頭を下げた。
 紺の作務衣に身を包み、江雪左文字が頬を緩めた。肩を上下させて息を整え、目を眇め、なかなか顔を上げない弟の前へと進み出た。
 走って来たのか、息が切れている。
 泥汚れが残る足指を確かめて、短刀は浅く唇を噛んだ。
「申し訳、ありません」
「なにを、謝るのです」
 苦い唾を飲み、苦心の末に謝罪を述べた。しかし江雪左文字は分かっているだろうに、弟に説明を求めた。
 意地悪で、酷なことをする。
 背筋を伸ばして姿勢を正し、短刀は苦々しい面持ちで手にした数珠を撫でた。
「小夜」
「盗もうと、思ったわけでは」
 小さな手には不釣り合いな、立派な品だった。それを差し出し、少年は顔を伏した。
 左文字の太刀は僅かに眉を顰めただけで、表情は殆ど変らなかった。掠れる小声で弁解した後も同じで、胸の裡は読み解けなかった。
 まるで能面だ。いや、あちらの方がまだ感情豊かかもしれない。
 彼が何を考えているか、全く分からない。共に暮らし始めて一年が過ぎるのに、小夜左文字は兄について、知らないことの方が多かった。
 返事はなく、手の中の数珠もなくならない。
 この後どうすればいいか悩んで、短刀は恐る恐る長兄を窺い見た。
「あに、うえ」
 上目遣いに見上げた途端、ぱあっと視界が広がった。
 江雪左文字は呆れたように肩を竦めて、口角をほんの少し持ち上げた。
「分かって、いますよ」
「あにうえ」
「出したままにした、のが。よくは、ありませんでした」
 声は低く、ゆっくり流れていった。
 少々まどろっこしく感じられる緩やかな口調は、けれど今日に限って、小夜左文字には安心出来るものだった。
 穏やかに告げて、彼は小夜左文字の手に手を重ねた。数珠を受け取るのではなく、弟に握らせて、反応を窺い、目尻を下げた。
「あ、あのっ」
「はい」
「あにうえの、念珠が、その。とても立派で、あにうえに、良くお似合いだった、ので。それで、あの。僕の手、には、大きいと、分かっているのです、が……」
 上下から挟まれて、優しく包まれた。
 それが引き金になって、口下手な少年は懸命に言葉を繰り出した。
 今なら前田藤四郎の気持ちが、良く分かる。兄に、その装具に憧れて、身に着けたいと願うのは、ごく自然なものだった。
 似合うかどうか、ではない。
 あんな風になりたいと思うから、試さずにはいられない。
 但しその気持ちを、上手く言い表すのは至難の技だった。
 ただでさえ口数が少なく、他者と接するのが苦手な小夜左文字だ。その上相手が長兄である江雪左文字ともなれば、言いたいことの半分も伝えられなかった。
 案の定途中で行き詰まり、言葉が途切れた。
 小さく呻いて鼻を愚図らせて、顎が軋むまで奥歯を噛み締めた。
 あまりの情けなさに、泣きたくなった。分かって欲しいことは沢山あるのに、どうやって理解して貰えばいいのか、その答えが見つからなかった。
 顔を伏して、肩を突っ張らせ、懸命に涙を堪える。
 すると何を思ったのか、江雪左文字は小夜左文字の手に、虎琥珀の数珠を掛けた。
 親指と人差し指の間に珠を預け、房を垂らした。自らは手を退いて、驚く弟に長い髪を揺らめかせた。
「よく、似合います」
「あにうえ」
「気に入ったのでしたら、ええ。どうぞ、小夜に」
 嬉しそうな顔をして、目を細めた。合間に小さく頷いて、持って行って構わないと、有り得ないことを口にした。
「そんな!」
 愕然として、小夜左文字は叫んだ。慌てて数珠を外し、突き出して、強引に兄に押し付けた。
 こんな高級なもの、とてもではないが受け取れない。なにより、短刀が扱うには大き過ぎた。
 猫に小判、豚に真珠。
 小夜左文字に虎琥珀の数珠、だ。
 急に声を荒らげた弟に、江雪左文字は面食らったらしい。一瞬だけ目を丸くして、受け取った数珠を哀しげに小突いた。
 彼にしてみれば、たかが数珠なのかもしれない。替えの物はいくつか所持しており、ひとつ失ったところで惜しくなかった。
 弟が望むのであれば、叶えてやろう。その程度の、浅墓な考えだった。
 或いは持つ者としての傲慢さだと、持たざる者の側を歩んできた短刀は、感じたのかもしれない。
 拒絶された衝撃からゆっくり回復して、暫く迷い、太刀は静かに頷いた。
「では、もし……私、が。私に、なにか、あれば。その時は、貴方に。これを」
「――――っ!」
 どうすれば末弟が受け取ってくれるかを考えて、最も可能性が高い案を声に出した。
 訥々と思いを告げて、形見として託す旨を述べる。
 瞬間、短刀は零れ落ちそうなくらいに目を見開き、唇を戦慄かせ、四肢を大きく痙攣させた。
 淡い紅色だった肌から血の気が引いて、一瞬で真っ青になった。全身がわなわな震えて、空の両手は握りしめられ、強く、大きく揺れ動いた。
 江雪左文字は、戦が嫌いだ。
 争い続ける愚を犯すこの世というものを、心底嫌悪していた。
 敵と戦い、斬り伏せるのは刀としての天命かもしれない。だが出来ることなら講和し、くだらない争いを早期に終わらせてしまいたかった。
 戦場に出れば、何が起きるかは分からない。運が悪ければ、万が一も起こり得るだろう。
 その時の為、望む者があるとするなら、そこに行き着くよう、あらかじめ手筈を整えておくべきだった。形見分けとして誰に託すかは、先に決めておく方が無駄に争いを引き起こさずに済んだ。
 良かれと思っての、発言だった。
 最良を選択したと、自負していた。
 それなのに。
「いや、に……ございます」
 俯き、息を殺し、小夜左文字は唸った。
 獣のように呻いて、懸命に声を絞り出した。
「小夜」
 下向かれて、表情は見えない。よもや二度も拒否されるとは思わず、江雪左文字は些か傷つき、狼狽えて足をふらつかせた。
 左足を引き、傾いた身体を支えた。
 その出来たばかりの空間に踏み込んで、華奢な短刀が涙に濡れる眼を吊り上げた。
「絶対に、嫌に御座います!」
 睨みつけ、怒鳴り、大きくかぶりを振った。握り拳を胸に押し付けて、全身を撓らせ、同じ言葉を何度も繰り返した。
 時に空を殴る仕草をして、足を踏み鳴らした。癇癪を爆発させて、赤子のように駄々を捏ねた。
「いや、です。いやだ。いやに御座います」
「小夜……」
「あにうえがいなくなるのは、小夜は、いやです!」
 泣き喚き、吼え散らす。
 誰も近付かない坪庭の前で叫び、短刀はひっく、と二度続けてしゃくりあげた。
 唇を噛み締め、鼻を啜り、懸命に涙を堪えて喘いでいた。
 形見分けは、死んだ者の所有物を、生き残った者たちが譲り受ける行為。つまりは江雪左文字が、いずれここから居なくなる前提の話だった。
 争いが嫌いだった。
 醜く、愚かで、哀しみに満ちた世の中に、辟易していた。
 早く消えてなくなりたいと、ずっと願って来た。戦場になど出たくない、誰かを傷つけるくらいならいっそ自分が、とさえ思っていた。
 死は、江雪左文字にとっての幸いだった。
 もう苦しまなくて良いのだと、解放されるのだと信じていた。
「嗚呼……」
「こんなもの、欲しくありません。いりません。欲しくなど、ありません」
 どうしてこんな単純なことを、勘違いしていたのだろう。
 愚かだったのは自分の方と気付かされ、愕然とし、江雪左文字は手の中のものを握りしめた。
 小夜左文字は弱々しく訴えて、大きく鼻を啜った。ずずず、と音を響かせて、口から息を吐き、湿る目尻を両手で擦った。
 塩辛い唇を舐め、肩を上下させ、乱れた呼吸を整えた。動きは忙しなく、落ち着きなく、子供じみていた。
「そう、です……ね。ええ。小夜の、言う通り……です」
 なんと馬鹿馬鹿しく、浅慮なことを言ったのだろう。
 弟に教えられて反省し、江雪左文字は数珠の房を捏ねた。
 今となっては、何故あんな考えを持ったのか、疑問だった。振り返っても首を傾げるしかなくて、自分自身のことなのに、可笑しかった。
 自虐の笑みを浮かべ、目を閉じる。
「あにうえ……?」
 態度の変化を察し、短刀が不安げに声を潜めた。小声で呼びかけ、眉を顰め、おずおず手を伸ばしてきた。
 その細い指が袖を掴む前に、江雪左文字の方から握りしめた。強く、但し痛くない程度に加減して、頼もしい弟に相好を崩した。
 そして。
「そういう、ことですので。貴方にも、……どうやら、譲るのは、難しそうです」
「え?」
 やおら腰を捻り、廊下の奥に向かって語り掛けた。突然のことに小夜左文字は吃驚して、不審がり、長兄を真下から覗き込んだ。
 そこに、誰かいるのだろうか。
 全く気付いていなかった短刀は目を点にして、薄暗い空間と、兄の顔とを見比べた。
「――なんだ。知ったんですね」
「あにさま」
「無論です」
 そこに、良く通る声が響き渡った。
 物陰に隠れる形で立っていた打刀が、居心地悪そうに身動ぎ、姿を現した。
 明るい方に出て、襷で縛った袖を掻いた。薄紅色の髪を揺らして、狭い歩幅でゆっくり近づいて来た。
 背が高く、手足は柳の枝のように細い。瞳は左右で色が異なり、剥き出しの脚には短めの数珠が絡みついていた。
 押せば簡単に倒れ、呆気なく折れてしまいそうな容姿だ。けれど見た目ほど柔でないのは、本丸で暮らす誰もが知っていることだ。
 この屋敷に住まうのは、刀。
 歴史に名を残して来た、数多の刀剣の付喪神ばかりだ。
 盗み聞きしていたのに悪びれもせず、宗三左文字は右耳に掛かる髪を掻き上げた。不遜な笑みを浮かべて目を眇めて、呆気にとられている末弟の頬を小突いた。
 いったいいつから、あそこに居たのだろう。
 疑問は声にならなかったものの、伝わったようで、左文字の次兄は両手を重ね、クスクス笑いながら口元を隠した。
「だって、小夜が、すごい勢いで走っていくでしょう? そのあとで、兄上が血相を変えて走って来るじゃないですか」
 行き先を聞かれ、指差して方角を教えた後、こっそり後ろを追いかけた。
 どんな楽しいことが待っているのか、わくわくした。
 そんなことをあっぴろげに告げられて、小夜左文字は絶句し、江雪左文字は深く肩を落とした。
 そう言えば確かに、道中誰かとぶつかりかけた。
 あれは宗三左文字だったのかと頷いて、小柄な短刀は恥ずかしさに頭を抱え込んだ。
「これを、出したのも。貴方ですね」
「良いじゃないですか、眺めるくらい。欲しいだなんて、僕は一度も言ったことがありませんよ?」
 その横で江雪左文字が、手にした数珠を揺らめかせた。それに宗三左文字は間髪入れず頷いて、生意気に言い返した。
 虎琥珀の数珠は高級品で、且つ珍品だ。これだけ立派なものはそう多くなく、望んでも簡単には手に入らない。
 そんな貴重なものを、使いもせずに箱に仕舞ったままにしている。
 勿体ないと嘯いた次兄に、長兄は長い溜息を吐いた。
 いけしゃあしゃあと、よくぞ口に出来たものだ。その図々しさに呆れるやら、逆に尊敬するやらで、銀髪の太刀はこめかみを指で叩いた。
「宗三」
「それは、兄上が一番似合うんですよ」
 咎めようとすれば、寸前で制された。
 揚げ足を取る形で話を逸らされて、上手く言い包められてしまった。
 小夜左文字までもが次兄に同調し、力強く頷いた。拳を作って力み、鼻息荒く肯定されて、江雪左文字は戸惑い、降参だと白旗を振った。
「そうですか」
 この先どれだけ譲り先を探しても、引き取り手は見つかるまい。
「責任、重大ですね……」
 房を掬い、顔の前で珠を掲げ持つ。
 嬉しいような、照れ臭いような。
 上手く言い表せない感情を抱いて、戦嫌いの太刀は静かに目を閉じた。
 

2016/02/22 脱稿

群れ立ちて雲井に鶴の声すなり 君が千歳や空に見ゆらん
山家集 雑 1173

俯瞰

 窓越しに降り注ぐ日差しは、程よく温められ、とても心地よかった。
 夏場は鋭すぎて痛いくらいなのに、季節が変わると、こうも趣が異なる。四季の巡りを肌で感じ取って、沢田綱吉は両腕を頭上へと伸ばした。
「ん、ん~~」
 両目をぎゅっと閉じて、上半身を後ろへと反らした。背骨に椅子の背もたれが食い込んだが、それさえも今は気持ちが良かった。
 猫背になっていた姿勢を正し、固い椅子で身じろぐ。腕を下ろせば机にぶつかり、軽い痛みが走った。
「ふぁ、あ、あー……んむ、う」
 それと同時に欠伸が出て、眠いやら、痛いやらで、頭が上手く働かない。手首をぶらぶら揺らして口を塞いで、自然と浮き出た涙は指で弾いた。
 俯けば、否応なしに机上のものが目に入った。
 真っ白に近いノートに、放り出されたシャープペンシルなどの筆記具。ペンケースのファスナーは半分だけ閉じられて、オレンジの蛍光ペンがちらりと顔を覗かせた。
 ノートには今日の日付と、日直の名前だけが記されていた。
「困った~~……」
 沢田綱吉と、黒川花だ。但し女子側の日直は、とっくの昔に帰宅していた。
 前回の当番の際、日誌の記入をサボったのがその理由だ。その時の女子は黒川ではなかったけれど、話は聞かされていたらしく、一方的に押し付けられた。
 これを提出しないと、綱吉は帰れない。だが日誌に書き込むべき内容が、まるで思いつかなかった。
 いい天気だった。
 先日の席替えで窓辺に移動した彼は、ぽかぽか陽気に当てられて、大半の時間を眠って過ごした。
 授業の内容など、当然聞いていない。テキストを開いた瞬間記憶を失い、チャイムの音で気が付いた、というのを何度も繰り返した。
 気持ちよく眠っているのを見咎められ、恥をかきもした。クラスのみんなに笑われて、その時は反省したけれど、同じ轍を幾度も繰り返した。
 そんな一日を過ごしたわけだから、勿論授業中の、クラスメイトの発言も聞いていない。昼休みは教室に居なかったので、誰が何をしていたのか把握していなかった。
 特筆すべきことは、己の醜聞のみ。
 そんな内容で紙面を埋めるなど、屈辱以外の何物でもなかった。
「京子ちゃんが、今日も可愛かった……とか書いたら、怒られるよなあ」
 試しに昨日の日直の記入に目を通してみれば、誰々が花瓶の水を交換していただとか、とある男子が荷物運びを率先してやっていただとか、他者を褒める内容ばかり。
 ならばと真っ先に思いついた事柄は、日直とはなんら関係ないものだった。
「山本が、ゴミ箱満載だったの捨てに行くのに付き合ったの……は、今日じゃない。駄目だ」
 拾い上げたシャープペンシルで紙面を叩き、書き出そうとしたが、結局筆は動かなかった。代わりに頭を抱え込んで、綱吉は下唇を突き出した。
 折角良いネタを拾えた気がしたのに、蘇った記憶は日付を跨いでいた。これでは今日の日誌に使えるはずもなく、双六はふりだしへと戻った。
 転がした賽の目を恨めし気に睨み、何かなかったかと、懸命に頭を悩ませた。こめかみをシャープペンシルの尻で小突き、うんうん唸って、せめて一行くらいは書きたいと、知恵を振り絞った。
 左から注がれる陽射しが、本当に暖かくて、快い。
 人が真剣に考えているというのに、一足早く春を感じさせられた。睡魔を振り払うのは難しく、知らぬ間に欠伸が出ていた。
「ふあ、あー……ねむ」
 あれだけ寝たのに、まだ眠いとはさすがだ。
 これで多少夜更かししても大丈夫と苦笑して、綱吉はどこからか聞こえた鳥の囀りに視線を上げた。
 少々汚れが目立つ窓ガラス越しに、西に傾く太陽が見えた。空はまだ夕焼けを知らず、一面明るく、眩しかった。
「日が長くなったなー」
 冬休みの頃は、午後五時を回ればもう真っ暗に近かった。
 時計を確認すると、四時をちょっと過ぎた程度。下校時刻までは、まだまだ余裕があった。
 グラウンドや体育館からは、運動部の喧しい掛け声が絶えず響いていた。野球部が活動中なのか、金属バットが快音を鳴らしている。その中に混じる親友の顔を思い浮かべて、綱吉は愛用のシャープペンシルを転がした。
「鳥になりたーい」
 先ほど聞こえた鳥の声だが、姿は結局、見当たらなかった。どこかの木の枝で羽を休めているのか、出て来てくれなかった。
 彼らは自由気ままに空を駆り、勉強などしなくて済む。餌の確保は大変かもしれないが、都会に暮らすのであれば、さほど困ることはないだろう。
 あんな風に自在に飛び回り、好きなように生きられたら、どれほど幸せか。
 日誌ひとつに悩まされる自分が嫌になって、妄想への逃避は一気に加速した。
「いいよなー、いいなー」
 澄み渡る空、真っ白い雲。高い場所から見下ろす世界はどれもちっぽけで、狭苦しく、息が詰まりそうだった。
 重力の枷を振り払い、気ままに過ごしてみたい。鬱陶しい授業や、家庭教師から、解き放たれたい。
 塒の確保や天敵の存在、荒天下での身の安全を守る大変さには、一切目を向けなかった。良いところ、楽しいところばかりに注目して、極楽のような日々にうっとり顔を綻ばせた。
「羨ましい」
 両頬を手で覆い、垂れそうになった涎は息と一緒に呑み込んだ。
「オレも、ヒバードになりたい」
 ぽつりと零れたひと言は、ほぼ無自覚だった。
 意識せぬまま飛び出した本音に、遅れて気付いて汗が出た。ボッと火がついたかのように真っ赤になって、綱吉は寄り掛かっていた机から慌てて退いた。
「ひえっ!」
 椅子に座ったまま、床を削って数センチ後退した。裏返った悲鳴を上げて、勝手に赤くなる頬に奥歯をカチカチ噛み鳴らした。
 ヒバードは、並盛中学校風紀委員長が飼っている小鳥の名前だ。ずんぐりむっくりした体型で、唇は横に長く、愛嬌のある顔立ちだった。
 簡単な言葉なら、教えれば覚えた。並盛中学校の校歌をよく口ずさんでおり、学校の周囲で頻繁に目撃された。
 あの鳥になれば、眠る場所も、食べるものも、なにも心配はいらない。
 鬼のようだと言われ、恐れられている風紀委員長の傍に居ても、鉄槌を下されることはない。
 可愛がられ、慈しまれ、大事にしてもらえる。
 あの大きな手に擦り寄っても、頭の上に乗っても、怒られることはない。
 なんという、羨ましさ。
「いい、なあ」
 それに対して、自分はどうだろう。
 己のおかれた境遇と比較して、綱吉は途端に声を低くした。
 真っ赤だった顔は一瞬で白くなり、火照っていた身体は一気に冷たくなった。頬を押さえていた腕は脇に垂れ下がって、ぶらぶら揺れて、当て所なかった。
 やる気が失せた。
 元々ないに等しいものがマイナスになって、生きる気力にさえ事欠く状態だった。
「なんでオレ、人間なんだろ」
 倒れ込むようにして机に寄り掛かり、呻く。
 母である奈々が哀しみそうなことを呟いて、綱吉は窓の外に広がる大空を仰いだ。
 死ぬ気になれば、空を飛ぶのは、一応可能だ。
 だけれど鳥になるには、生まれ変わりでもしない限り、不可能なのが実情だ。
 その生まれ変わりだって、本当にあるのかどうかすら、分からない。望んだ通り、鳥になれる保証だって、どこにもない。
 想像すればするだけ、虚しさが増していく。
 涙さえ出そうになって、綱吉は大きく息を吸い、鼻を啜った。
 ずずず、と音を響かせて、口から出るのは溜息ばかり。クラスで共有している日誌を陰鬱に湿らせて、瞼は重くなる一方だった
 並盛中学校の風紀委員長こと雲雀恭弥は、群れるのを嫌う一匹狼だった。
 数奇な運命で、一生交わることがないと思われた縁は、複雑に絡み合った上で、強く結ばれた。マフィアの後継者問題に端を発して、綱吉は大空のリングを、雲雀は雲のリングを与えられた。
 この先ずっと、繋がりが断たれることはない。血よりも濃い絆とは言い過ぎだが、彼は雲の守護者として、綱吉と関わり続ける。
 願ってもないことだった。
 遠くから眺めるだけだった存在が、手を伸ばせば届く距離まで来た。
 とはいえ、簡単に触れられる相手ではない。守護者の一員になったとはいえ、雲雀が真っ先に優先させるのは、並盛中学校のままだ。
 憧れと、恐れが混じり合った感情に、小さな嫉妬が紛れ込んだ。
 臆して二の足を踏む自分を棚上げして、愛らしい小鳥を羨み、嫉んだ。
「最低だ」
 だが分かっていても、抱いてしまう感情はある。
 止められないのなら、せめて外に漏れ出ないように蓋をしよう。強く戒めて、綱吉は力なく息を吐いた。
 認めてしまったからか、ふっと、気持ちが楽になった。肩の力が抜けて、身体が軽くなった気がした。
 鳥に、なった。
 目の前に青空が広がっていた。白い綿雲がぷかぷか泳いで、風が弱く、穏やかだった。
 あまりの高さに足が竦んだが、思い切って翼を広げた。えいっ、と意を決して飛び出せば、上昇気流を捕まえて、ぐんぐん空へ舞い上がった。
 強く羽ばたかずとも、風が勝手に運んでくれた。滑るように進んで、スキーをしている感覚だった。
 方向転換は容易ではなかったけれど、繰り返すうちに段々分かって来た。風を切って進むのは快感で、落下の恐怖も早いうちに消え失せた。
 死ぬ気状態で空を飛びまわった経験が、こんなところで生かされた。身体が大きな鳥相手にスピード勝負を挑み、ぎりぎりのところで勝利するのは気持ちが良かった。
 楽しい。
 地面を這いつくばうように歩く人間たちが、馬鹿らしく見えて仕方がなかった。
 可哀想に、と憐憫の情が湧いた。
 優越感に浸って、得意になっていた。
「ふへ、ぇへへ、えへ」
 口を開けば、だらしない笑みが零れた。頬は緩みっぱなしで、締まりがなかった。
 鳥になれば、どこへでも行ける。
 どこまでも行ける。
 重力に縛られてやる必要はない。
 自由の心地よさに満面の笑みを浮かべ、綱吉はもぞりと身じろいだ。
 もっと飛んでいたい。
 空の広さを満喫していたい。
 だけれど些か、疲れて来た。長時間飛び回るには、小さな身体はあまりにも不向きだった。
 どこかで羽を休め、英気を養わなければいけない。ただ安らげる場所は少なくて、視線は自然、見知った場所を彷徨った。
 並盛中学校の、校舎。
 窓は十センチばかり開けられており、中に忍び込むのは容易だった。
 滑り込む直前に羽根を畳み、するり、と通り抜ける。窓辺には横に広い机が置かれ、沢山の書類が積み上げられていた。
 肘かけのある椅子は無人だったが、直前まで誰か座っていたらしい。背凭れは正面を向かず、斜めに角度を作っていた。
 暖かな日差しが室内を照らし、照明は消されているけれど、充分明るい。鳥の目でもはっきり見て取れる景色は、綺麗に片付けられ、居心地が良かった。
 革張りのソファに、天板が硝子のテーブル。壁際には背の高い棚が設置されて、何かの大会の記念品らしきトロフィーや、楯が飾られていた。
 端に集められたカーテンが風にそよぎ、机上の書類を擽った。ボールペンが転がってくるのを跳んで避けて、小鳥となった綱吉は左右を見回した。
「ひば、り……さ……」
 並盛中学校の、応接室。
 本来は校長が座すべき席を支配しているのは、風紀の二文字を掲げる絶対王者だった。
 ただ彼は、動物にだけは気が優しい。
 頭を撫でてもらえると思っていた。それなのに、肝心のその人がいない。見回りに出ているのか、部屋の中のどこを探しても見つからなかった。
 今のこの姿なら、存分に甘えられると期待した。
 傍に行っても嫌がられず、一緒に居ても、周りから怪しまれることがない。周囲からどういう関係なのかと訝しまれ、変な組み合わせと笑われることもない。
 堂々と触れ合える。
 その艶やかな黒髪を巣の代わりにするのを、とても楽しみにしていたのに。
 こんな真似、人の形をしていたら、絶対に出来なかった。
 だから訪ねて来たのに、まさかの空振りだ。いったいどこへ行ったのか。待っていれば戻ってくるかどうかすら、綱吉に知る術はなかった。
 どんなに喧しく泣き喚いたところで、所詮は小鳥。声量は弱く、外へは届かない。
 ぱたぱた翼を振り回しても、微風が起こるだけで、身体は浮き上がらなかった。
 ぴぃぴぃ鳴いて、駄々を捏ねて、ふて腐れて、拗ねて、落ち込んで。
 これでは鳥になったのを喜べず、空を飛び回る楽しさも、すっかり吹き飛んでしまった。
 雲雀に会いたい。
 鳥の名前を持つあの人に、会いたい。
 いい子だと頭を撫でられたい、喉を擽られたい。
 肩に乗りたい。抱きしめて欲しい。たとえ鳥の餌だろうとも、雲雀の手から食べさせてもらえるのなら、喜んで口にしよう。
 歌に自信はないが、校歌なら覚えている。可愛らしく尻を振って、愛嬌たっぷりに歌ってみせよう。
「ひばり、さん」
 きっと気に入ってくれるはずだ。彼の好みは、弁えている。失敗など、するわけがなかった。
 ただそれも、本人に無事会えれば、の話。
 念願叶って鳥になったところで、これでは意味がない。タイミングの悪さを罵って、綱吉はしょぼくれて、顔を伏した。
「な、で……くだ、さ……」
 ずっと一緒に居られなくても構わない。最早贅沢は言わない。指一本でも構わないから、頭をくしゃり、と撫でて欲しかった。
 動物相手にしか見せてない笑顔を、自分に向けて欲しかった。
「オレ、の。こと……」
 夢うつつに囁き、祈り、突っ伏す。
 頬と机の間に挟まれたノートがずれ動いて、頬骨が押し潰されて鈍い痛みを発した。
 ふわりと風が薫って、癖だらけで四方を向いている毛先が躍った。元気いっぱいに跳ねているそれは、通常では凹むこともなければ、沈むこともなかった。
 それが、急に。
 上から軽く押され、形に沿って折れ曲がった。
 ふわりと、中に含まれていた空気が逃げていく。くしゃっ、と潰されて、その状態で前後左右に動かされて、微かな振動が頭皮全体に広がった。
 誰かが、綱吉に触れていた。
 頭を雑に、少し遠慮勝ちに撫で回していた。
 はっとした。
 気落ちして沈み切っていた心が大きく弾み、跳ねた。胸が高鳴り、興奮に頬は赤みを取り戻した。
 下向かせていた瞳を、一瞬のうちに上向けた。
 身体も自然と伸びあがって、待ち望んだ瞬間の訪れに、溢れんばかりの笑みがこぼれた。
「ヒバリさ――」
「おっと」
 歓喜に胸を躍らせて、夢が叶ったと声高に吠える。ぐん、と上半身を起こして身を乗り出して、綱吉は目を輝かせた。
 耳朶を打つ低音と、視界を覆う黒。
 なにかが可笑しいと気付くには、数秒の時間が必要だった。
 現在地を見失って、今いる場所が何処か分からなかった。鳥になって空を駆け、応接室に潜り込んだ筈なのに、そこにあるのはひとり用の簡素な机だった。
 背凭れが固い椅子に座り、腹這い状態だった。肘で胸から上を支えて、尻は浮き気味だった。
 膝が引き出しの底に当たり、これ以上前に行けない。机の縁に臍がぶつかって、爪先が床板を擦った。
 ガタガタ言う机から、シャープペンシルが転がり落ちた。消しゴムが弾みながら右へ逃げて、開き癖がついた日誌もそちらへとずれ動いた。
 教室だった。
 夕焼け空が鮮やかな、学校の教室だった。
 カシャン、とシャープペンシルが床の上で音を立てた。座ったままでは見えなかったが、一瞬だけ視線を向けて、綱吉は遅れてやって来た悪寒に全身を戦慄かせた。
 ぶるりと大袈裟なくらいに震えあがって、思考は硬直し、脈動さえ停止寸前だった。
 凍り付き、動けない。
 だらだらと冷や汗を流して、彼は眼前の光景に背筋を粟立てた。
 無人だった前方の席に、人が座っていた。
 白いシャツの上に黒の学生服を羽織り、左袖には臙脂色の腕章が。記される文字は風紀の二文字で、小さな安全ピンが夕日を反射していた。
 艶やかな黒髪に、冴えた眼差し。肩の高さにあった右手は膝へと下ろされて、口角は不遜に持ち上がった。
 不敵な笑みに、ゾワッ、とした。
 全身の汗腺が開き、ありとあらゆる穴から汗や、変な汁が出そうになった。
「ひ、ひぇ、ファッ!」
「日本語、喋って」
「ななななん、なん……っ」
「君、いつからインド人になったの」
「カレー大好きれす!」
 呂律が回らず、悲鳴は言葉にならない。驚き過ぎて仰け反って、茶化されて、おどけ返した。
 ただ滑舌が悪くなり、途中で噛んでしまった。最早滑稽を通り越し、みっともないだけで、道化師にもなれなかった少年は両手で顔を覆い隠した。
 穴があったら、是非とも入りたかった。
 いっそ存在自体を、綺麗さっぱり消し去りたかった。
 叶うなら、今の会話をやり直したい。巻き戻しが利かない時の流れに悲壮感を漂わせ、綱吉は猫背を強め、丸くなった。
 恥ずかしい夢を見たばかりなのに、現実はもっと恥辱に満ちていた。会えて嬉しい筈なのに、今すぐ死んでしまいたかった。
 脂汗が止まらず、身体は火照って熱い。放っておけば全身から火が出るのでは、と危惧するレベルで、体温計があれば、確実に四十度近くを記録するだろう。
 ダブルパンチも良いところだ。
 運命の神様は意地悪で、情け容赦ない。
 実在するかどうかも怪しい存在に恨み節を投げて、綱吉は赤く染まる頬を何度も擦った。
 俯いて、視界は掌で塞いでいた。真っ暗闇で、辛うじて見えるのは己の太腿くらいだった。
 そこに、ふわっと。
 後頭部目掛け、なにかが落ちて来た。
「……あ、あの」
「なに」
 まだ記憶に新しい感触に、再度見舞われた。癖だらけの髪の毛をくしゃりと掻き回されて、綱吉は恐る恐る、指の隙間から前を窺った。
 呼びかければ、無愛想な返事があった。
 腹筋に力を込め、ほんの少しだけ背筋を伸ばす。
 前傾姿勢が完全に改まらない状態で見た景色は、白い棒で左右に分断されていた。
 揺れ動く学生服の、赤色の裏地が鮮やかだ。どんなに激しく動いても決して落ちない理由を考えながら、綱吉は限界まで瞳を上向かせた。
 腕があった。
 手首が一瞬だけ見えた。
 感触だけが頼りの、全く見えない後頭部にあるのは、間違いなく目の前の男の手だった。
 撫でられていた。
 乱暴にならない程度に加減して、頭を掻き回されていた。
「なに、を。……ヒバリさん」
 まだ夢の途中かと疑ったが、それにしては色々リアルすぎる。バクバク跳ねる心臓に唇を舐めて、彼は戦々恐々しながら言葉を繰り出した。
 言いたいことの半分も言えなかったけれど、辛うじて趣旨は伝わった。
 上目遣いの視線に嗚呼、と頷いて、雲雀はゆっくり手を引っ込めた。
 指先に絡む髪の毛を払って落とし、膝には戻さず、頬杖をついた。綱吉が使っている机に寄り掛かって、足は左を上にして組み、体勢は斜めだった。
「なにって。君が撫でてくれって、言ったんだろう」
「はい?」
「ああ、そうそう。喉も擽ってくれって」
「――――っ!」
 抑揚ない声で淡々と告げられて、瞬間、目玉が飛び出そうになった。
 続けて教えられた内容には絶句せざるを得ず、止まっていた冷や汗がまた一斉に噴き出した。
「う、……ウソ、です。よね?」
 それは夢の中、応接室の机の上で呟いた独り言だ。
 妄想の世界で鳥になり、主不在の部屋で零した愚痴だった。
 この姿なら雲雀に可愛がってもらえる。頭を撫でてもらえる。喉を擽り、沢山触って貰える、と。
 他にも色々、期待した。
 そんな願望が、よもや駄々漏れだったとは。
「僕が君に嘘吐いて、どうするの」
「うわ、あああ。あああああああああ!」
 否定して欲しかったのに、あっさり却下された。
 綱吉を支えていた薄氷が、容赦なく踏み砕かれた。足場を失った彼は、他に頼るべきものを持たず、奈落の底へ落ちるしかなかった。
 両手で頭を抱え込み、絶叫しながら机へと突っ伏す。
 視界には白紙のノートがどん、と陣取ったが、その一画は涎らしきもので濡れていた。
 シミになって、裏のページが透けて見えた。窓の外では日没が迫り、カラスが鳴いて帰宅を促した。
 ぽかぽか陽気は、罠だった。
 下校時刻まで、もう幾らも残っていない。日誌は相変わらず真っ白だし、雲雀に色々見られ、聞かれた件も、無かったことに出来そうになかった。
 自ら招いたことだからこそ、誰も責められず、余計に辛い。
 恥ずかしさで涙が出て来て、綱吉はぐじ、と鼻を啜った。
「へえ。そういう態度なんだ」
「……う」
 落ち込み、項垂れ、自暴自棄になりかけた。
 踏み止まらせたのは、雲雀の短いひと言だった。
 彼にしてみれば、綱吉が夢で口にした願いを、現実に叶えてやったのだ。叩き起こすのではなく、寝かせてやって、望み通り頭を撫でてやった。
 だというのに、感謝のひと言もない。真っ赤になって右往左往する一方で、ちっとも喜ばない。
 不満を抱くのは、当然だ。怒りを滾らせて然るべきだった。
 嘲笑うかのような表情に、眼光は鋭い。
 蛇に睨まれた蛙と化して、綱吉は恐々と目の前の男を窺った。
「あ、いえ。あの、……あ、あり、が、と……ござい、ます」
「なんだ。言えるんだ」
 声を潜め、途切れ途切れながら礼の言葉を口にした。途端に雲雀はがっかりした様子で呟き、頬杖をついていない方の手を机に戻した。
 その仕草だけで、言わなければどうなっていたか、はっきり分かった。
 トンファーを出すのを諦め、雲雀が姿勢を正した。椅子の上で身体を前後に揺らして、長い足で綱吉の脛を蹴った。
「うあ」
「下校時間、だよ」
「はは、はい。ただいま!」
 もう間もなく、時計の針は五時半を示す。チャイムが鳴れば、学校内に居る生徒は全員帰らなければならない。
 その前に日誌を終わらせるよう、暗に急かされた。綱吉は舌足らずに叫ぶと、落としたシャープペンシルを拾い、椅子に座り直した。
 直後だ。
「あ、あの、ぅ」
 三度、雲雀の手が頭に落ちて来た。今度は額に近い位置に、大きな掌が被せられた。
 尖って天を向いている毛先を潰し、揉みしだくように撫でられた。長毛種の犬を可愛がっている感覚か、指の動きは忙しなかった。
「なに」
「なんで、また……ですか?」
 願いを叶えてくれたことは、嬉しい。有り難い。感謝している。
 だけれど今のこの状況で、撫でてくる意味が分からなかった。
 礼は言った。それは同時に、もう充分、という思いも込められていた。
 しかも今は、ものを書こうとしている。彼の行動は、正直言えば、邪魔だった。
 ただ素直に告げたら、殺されかねない。
 だから遠慮がちに、控えめに質問を投げかければ、雲雀は瞳を眇め、首を傾がせた。
「君の頭って、面白いよね」
「うぐ」
 一瞬だけ考え、笑われた。
 癖毛なのに意外に柔らかい感触が楽しいだけと、単純明快な理由を教えられた。
 つまりは、他の動物と同じ。猫や犬を撫で回す心地良さに通じると、そういうことらしかった。
 曲がりなりにも人間なのに、ヒバードと同列にされてしまった。
 あれだけなりたかった筈なのに、地味にショックで、悔しかった。
「すみません、あの。オレ、これ、書きたいんで……」
「書けばいいじゃない」
「ヒバリさんが撫でてると、なんていうか、書き辛いって、いうか」
「じゃあ、慣れなよ」
「は?」
「なに。嫌なの?」
「いい、いいえ。滅相もございません!」
 不満を覚え、抵抗したが、無駄だった。
 低い声で凄まれては嫌だと言えず、無理を通され、道理は引っ込んだ。
 裏返った声で悲鳴を上げて、大歓迎だと涙ながらに訴えた。とても名誉なことです、と繰り返して、半泣きになりながら嬉しいと呟いた。
 それが、まさか。
「ヒバリさん。その手、いい加減、邪魔なんですけど」
 応接室にあったものより、もっと立派で幅広の机。その前に座ってペンを走らせ、綱吉が横から伸びる手を弾く。
 だが悪戯な手は簡単には諦めず、性懲りもなく跳ね放題の髪の真ん中に陣取った。
「良いじゃない、別に。もう慣れたんじゃないの」
「そりゃあ、慣れましたけど。でも、仕事の邪魔です」
「僕に撫でられるの、好きなんでしょ」
「時と場合によっては、嫌いです」
 ぐりぐり撫でられ、本気で鬱陶しい。追い払っても、追い払っても、しつこく付きまとい、なかなか離れてくれなかった。
 強めの語気で避難しても、のらりくらりと躱されて、暖簾に腕押しも良いところ。
「十年経って、まだ飽きないんですか?」
 夕暮れの教室での判断が、ここまで人生を狂わせることになろうとは。
 夢にも思わなかったと後悔して、綱吉はスーツ姿の恋人に、甘えるように寄り掛かった。
 

2016/06/19 脱稿

分ゆく水のこほらざるら

 日没前に降り始めた雪は、日の出を待たずして止んだようだ。
 外の様子を確かめ、ほう、と白く濁る息を吐く。一瞬霞んだ視界に目を瞑り、小夜左文字は赤らむ頬を撫でた。
 空気は冷えて、氷のようだ。そして庭先は見事に白一色に染まって、どこかで塊が落ちる音がした。
 屋根にも相当積もっているらしく、柱がミシミシ言っている。そのうち重みに耐えかねて、屋敷が潰れないか心配になった。
 陽が昇れば、雪下ろしの開始だ。作業は主に太刀と打刀の仕事で、中心になっているのは獅子王と陸奥守だった。
 大太刀や薙刀の怪力に頼りたいところではあるが、彼らはそもそも身体が大きすぎた。
 背が高いということは、体重も相当ある、ということだ。ただでさえ重くなっている場所に登らせるのは、本末転倒と言わざるを得ない。
 そんな彼らだけれど、仕事はちゃんとある。庭に落とした雪は、その場に放置出来ない。集めて水路へ捨てに行く作業も、とても重要だった。
 毎日、この繰り返しだ。春が来るまで、終わることはない。
 軒先には氷柱がぶら下がり、水滴が月夜に輝いていた。染み入る寒さに震えて、小夜左文字はひたり、冷えた床板に爪先を置いた。
 一番鶏はまだ鳴かない。屋敷は静まり返り、誰も居ない錯覚を抱かされた。
 寝息や寝言、鼾の類は聞こえなかった。住居区画を離れたのだから当然で、聞こえる方がむしろ恐怖だった。
「冷えるな」
 当然のことを口にして、寝間着の上に羽織った褞袍の袖を握りしめる。肩を怒らせ、首を竦め、少年は身を縮こませた。
 行き先は、厠だ。但し急を要するものではなかった。
 藍色に濡れた夜空は薄ぼんやりした月の支配下にあり、星は控えめに、周囲で瞬いていた。
 太陽はまだ地平線の下にあり、頭を出す気配はなかった。温かな日差しは望むべくもなく、冴えた輝きが短刀を照らした。
「へぷちっ」
 瞬間、震えが来た。
 突如足元から這い上がった悪寒に身震いして、堪える間もなく、くしゃみが出た。
 咄嗟に止めようとして、失敗した。唾が散ったと顎を拭って、小夜左文字は褞袍の中の身体をもぞもぞ動かした。
 立ち止まっているから、冷えるのだ。休めていた足を床板から引き剥がし、小柄な少年は時間をかけて息を吐いた。
「歌仙め、こんな時間に」
 夜明けまで、あと半刻弱はありそうだ。月の位置と空の具合を今一度確かめて、彼は恨めし気に軒を睨んだ。
 寒気に負けて目が覚めた時、布団にその姿がなかった。幅広い空間が右側に出来ていて、隙間から漏れ入る冷気が胸に突き刺さった。
 早起きするとは、聞いていない。朝餉の当番ではあるが、こんな時間から用意しなければいけないとは、知らされていなかった。
 触れた布団はまだ暖かくて、熱が残っていた。一度目が覚めた以上二度寝は出来なくて、眠い目を擦り、小夜左文字はふた振りで使っている寝床を出た。
 着替えはひとまず脇に置いて、探しに行くことにした。厠かと想像してその道を辿っているけれど、すれ違う刀の影はなかった。
 あと少しで着いてしまう。
 歩みを緩め、少年は小さく頭を振った。
 底冷えの夜は、寝付くのも一苦労だ。そうでなくとも小夜左文字は、眠りが浅い方だというのに。
 抱き枕兼湯たんぽ代わりの打刀がいないと、安眠出来ない。不本意甚だしいが、あの熱に、身体はすっかり馴染んでいた。
 慣れない環境下では、嫌な夢を見た。一時期よりは随分薄くなったけれど、身に絡みつく黒く汚れた手の幻は、今でも時折現れた。
 考えていたら、また出て来そうだ。慌てて首を振って打ち消して、少年は冷えた指先に息を吹きかけた。
 首を竦めたまま丸くなって、見え始めた厠の扉に目を凝らした。
 灯りは見えず、動くものの影もない。
 見当違いの場所に来たかと勘繰って、小夜左文字は半眼した。
「いないのか……?」
 念のため扉を叩き、開けて確認してみたが、どれもこれも、空だった。汲み取り式の厠は饐えた臭いがして、空気が冷えている分、臭いも研ぎ澄まされていた。
 容赦なく嗅覚を攻撃され、涙が出そうだった。
 急いで息を止め、口を塞ぎ、少年は逃げるように踵を返した。
「ああ、もう」
 この道を選択したのは他ならぬ自分だが、今はそれが恨めしくてならない。どうして台所を先に探さなかったのかと後悔して、苛立ちが胸に渦巻いた。
 痛烈な悪臭により、僅かに残っていた眠気も吹っ飛んだ。一緒に寒気も飛んで行って、逆に熱いくらいだった。
 ひとり腹を立て、興奮し、煙を噴いた。無駄足を踏まされたと、早朝から行方知れずとなった打刀にも憤慨して、帰りの足取りはかなり荒っぽかった。
 ドスドスと音を響かせ、眠る仲間の迷惑も顧みない。そんな事をしたところで気が晴れるわけでもないのに、大股になって、短刀は庭に面する廊下を突き進んだ。
 出発地点でもあった部屋の前を素通りしようとして、戻り、少しだけ残してあった戸の隙間から中を覗き込む。だが室内は静まり返り、誰かが居る気配はなかった。
 部屋の主はまだ戻らず、有明行燈の細い炎だけが闇を見詰めていた。
「……どこへ」
 厠でなければ、台所しか思いつかない。
 ひっそりため息を零し、小夜左文字は戸を閉めた。
 悴んで感覚が遠い足を擦り合わせ、雪が降り積もった庭を振り返る。
 月明かりが白く輝き、全体的に銀を帯びて美しかった。
 神秘的な光景だった。
 幻想的で、自然が生み出す造形美に驚嘆し、感銘を受けた。もしこれで、身も凍るような寒さがなければ、いつまでも眺めていたいと思えたのだが。
「どうしよう」
 このまま部屋に引き籠るか、それとも台所まで足を伸ばすか。
 決めかねて躊躇して、小夜左文字はその場でもじもじ身じろいだ。
「ふぁ、はっ、は……へっく、ち。は、ぷしゃっ」
 直後にまた寒気に襲われて、くしゃみが連発した。鼻から吸い込んだ空気は冷たくて、鼻孔が焼かれるように痛んだ。
 両手で顔の下半分を覆い隠し、口から吐いた呼気を即席の囲いに充満させた。体温を含んだ空気はほんのり温かくて、凍りかけていた指をも溶かしてくれた。
 眠れないのは分かっているが、布団の中に逃げ込むべきだ。
 台所に行くにしても、せめてもう一枚くらい、何か羽織るべきと考えて、少年は鼻を大きく啜り上げた。
 ずずず、と音を立て、その場で足踏みを繰り返す。迷いを抱えてうんうん唸り、昼とは違う寒さに身を震わせる。
 気配を感じたのは、そんな時だった。
「……ん、ぬ?」
 振り返り見た庭は静謐に包まれ、荘厳で、怖いくらいだった。不用意に踏み込めば白に惑わされ、抜け出せなくなりそうな雰囲気があった。
 そこに、不自然なものが見えた。
 月明かりが落ちて来たのか、ぼうっと、白く輝くものが見えた。
「炎?」
 淡く辺りを照らし、揺れ動いていた。少し前までそこにはなにもなかったのに、突然現れ、光を放った。
 それは蝋燭の火にも似て、鏡に映り込んだ影のようでもあった。
 雪の上で焚き火をする馬鹿はいない筈で、そもそも炎は赤くあるべきだ。ではあれはなにかと問われたら、咄嗟に答えが出せなかった。
「あ、消え……」
 そうこうしている間に、白く翳った炎は見えなくなった。掌で溶ける雪のように、ふっと消えて、残らなかった。
 いったい今のは、何だったのだろう。
 夢でも見ていた心持ちで、小夜左文字は惚けて立ち尽くした。
 鳥の形に、似ていた。
 細い脚でスッと立つ、白い羽の鳥が脳裏を過ぎった。
 幽霊でも見た気分だ。にっかり青江を呼んでくるべきか悩んで、短刀は冷えた指で顎を撫でた。
「鶴……? いや、あれは」
「呼んだか?」
「うわ!」
 瞳を伏し、ぽつり呟く。直後に悲鳴を上げて、少年は竦み上がった。
 完全に独白だったのに、いきなり合いの手が返された。不意打ちを正面から食らって、目玉が飛び出そうなくらい驚いた。
 予期せぬことに心臓が跳ね上がり、肋骨を突き抜けそうになった。慌てて褞袍ごと抱きしめて、小夜左文字は軒先に現れた影に瞠目した。
 真っ白い衣装は綿入りで、被った頭巾は暖かそうだ。金色の鎖がシャラシャラ踊って、笑顔は茶目っ気たっぷりだった。
 右手をひらりと振って、戦く短刀にご満悦だ。それが誰であるかを認識し、日頃から彼が口にしている台詞を思い出して、凍り付いていた少年はがっくり肩を落とした。
 額を手で覆い、項垂れて膝を折る。
 廊下に座り込んだ彼に、頭巾の雪を払った男が首を傾げた。
「おいおい、どうした。俺を呼んだんじゃなかったのか?」
「そんなわけ、ない」
 白い鳥を想像して、偶々口にしただけだ。それでまさか本当に、鶴の名を持つ刀が出てこようとは、夢にも思わなかった。
 しかも昼間ではなく、こんな暗い、夜も明けやらぬ時間帯だ。他の刀たち同様、この太刀だって高鼾中と疑わなかった。
 吐き出すところだった心臓を飲み込んで、小夜左文字は首筋を拭った。唇を舐めて幾度か開閉させて、心を鎮めてから白装束の太刀に向き直った。
「鶴丸国永」
「そういう君は、小夜左文字に相違ないな?」
 ぼそっと名を呟けば、おどけるように訊き返された。ついでに右目だけを閉ざされて、お茶目なところを見せつけた。
 この態度、この口ぶり。
 間違っても幽霊や、妖といった類などではない。
 本丸で暮らす鶴丸国永その刀だと確信を抱いて、小柄な短刀は力なく首を振った。
「なんなの、あなた」
 寝間着姿ではなく、戦装束だった。腰に刀こそ佩いていないものの、いつ呼び出されても問題ない格好だった。
 厚底の下駄は雪を被り、脚絆にも沢山こびりついていた。少し前までどこに居たのかが窺えて、先ほど見た庭先の光が瞬時に結び付いた。
 白は、光を反射する。
 月明かりと、雪明りを浴びて、炎のように見えたのだ。
 謎は解けた。握った拳でこめかみを叩き、小夜左文字は冷え切った廊下で身を捩った。
 立ち上がり、褞袍を整える。踵を擦り合わせて熱を呼んで、縁側によじ登った太刀に眉を顰める。
「なあに。ちょっと退屈だったからな。散歩に出ていただけだ」
 鶴丸国永は足を蹴り上げ、付着していた雪を落とした。頭巾を背中に落として白い頭を曝け出し、悪戯っ子の顔で歯を覗かせた。
 笑い方が、短刀たちのそれだ。思わず厚藤四郎を思い浮かべて、小夜左文字は肩を竦めた。
 そういえば彼は、今宵の寝ずの番に任ぜられていたのだった。
 なにかあった時の為に、本丸では刀がひと振り、夜間も休まず過ごすのが決まりだ。当番は交代制だが、短刀は免除されており、担うのは打刀以上が多かった。
 誰かを驚かせ、自らも驚きを所望する太刀にとって、ひとりで過ごす夜程退屈なものはない。だから雪が止んだのを見計らい、庭に出たのだろう。
 何のための寝ずの番だか、分かったものではない。へし切長谷部に知られたら、大目玉を食らうのは確実だ。
「寒く、ないの」
 呆れてしまい、説教する気力も沸かなかった。代わりに質問を投げかければ、太刀は目を見開き、嗚呼、と頷いた。
 鶴丸国永はこんな格好をしているが、本丸で群を抜いて寒がりだった。
 昼間は火鉢の傍を離れず、雪下ろしの仕事もあれこれ屁理屈を捏ねて断っていた。無理矢理連れ出せば丸くなって動かず、鶴というより、蓑虫だ。
 そんな男が、自ら雪の中に飛び込んで行った。
 にわかには信じ難いと勘繰っていたら、楽しいことでも思いついたのか、鶴丸国永が口角を持ち上げた。
 にやりと笑い、不敵な表情で小夜左文字を見る。
「なに」
 嫌な予感を覚えて背筋を粟立て、少年は本能的に後ずさった。
 一方で太刀はぴょん、と縁側から飛び降りて、庭先に着地し、身を包んでいる白の上着を抓み持った。
 視線は小夜左文字に固定され、動かなかった。眼差しに掴まった少年は竦み上がり、障子に背中を擦り付けた。
 行き場がない状況で足掻いて、桟を引っ掻く。
「ははは。そうら、見ろ!」
 前方では鶴丸国永が得意げに吠え、分厚い上着をガバッ、と左右に開いた。
 肩幅以上に足を広げ、膝を外向きに軽く折り、腰は若干落とし気味に。
 その状態でじっとしていろ、と言われたら数秒で倒れそうな体勢を決めた太刀は、実に楽しげで、誇らしげな顔をしていた。
 対する小夜左文字は、といえば、目に飛び込んできた光景に絶句し、唖然として、天を仰ぎ、頭を抱え込んだ。
「重く、……ないの……」
「いやあ、実は肩が凝る」
 鈍痛を堪え、懸命に息を吐く。時間をかけてそれだけを呟けば、頭巾付きの外套を閉じ、鶴丸国永は楽しげに笑った。
 白い息が煙となり、連なって、弾けた。呵々と声を響かせて、呆れる短刀に舌を出した。
 彼の上着の内側には、多数の温石が吊り下げられていた。
 拳大の石を、火鉢に入れて温めたのだろう。それを綿で包んで、防寒着に潜ませていた。
 見えなかったが、背面にも吊るしているに違いない。ひとつずつなら大した重さではないが、流石に十個を越えると、相当な重量になるだろう。
 そこまでして、庭に出る意味がどこにある。
 聡いのか、愚かなのか分からなくて、小夜左文字は溜息を吐いた。
 大量の温石で身体を温める方法は、あまり実用的ではない。戦場でも、邪魔になるだけだ。
「良い案だと思ったんだがな」
「僕は、鷺かと思った」
「ほう?」
 目に見えてがっかりしている太刀に首を振り、白くぼうっと光っていた彼を思い出す。その時感じたことを声に出せば、興味惹かれた鶴丸国永が首を伸ばした。
 彼は常々、衣装は白が良いと言い張っていた。血の赤が戦場で映えて、本物の鶴らしくなると嘯いていた。
 だが雪に埋もれた庭では、彼は白一色のままだ。これでは鶴とは言えず、どちらかと言えば、それより少し小柄な鷺に近い。
「青鷺火かと」
 しかも、月明かりを集めて光っていた。
 それが吾妻鏡にも語られる妖の類に似ていて、ぎょっとなった。
「そいつはいいな。驚いたか?」
「当たり前」
 語って聞かせてやれば、案の定、鶴丸国永は食いついた。嬉しそうに目を輝かせ、興奮して鼻息を荒くした。
 妖怪と勘違いされたのに、喜んでいる。意図せずして短刀を驚かせていたこと、その事実に自分が驚いたことが、楽しくて仕方がない様子だった。
 彼らしいと言えばそれまでだが、小夜左文字には理解しがたい。幾つかある怪奇譚を脳裏に並べ、少年は肩を竦めた。
「弓で射られないよう、気を付けるんだね」
「おっと。そいつは遠慮願おう」
 あんな風に夜更けの庭で光られたら、何かいると疑われて然るべきだ。そしてこの本丸には、幽霊斬りの逸話持ちだっている。短気で、瞬時に刀を抜きそうな刀も少なくない。
 今回は事なきを得たが、次はどうなるか。
 人を驚かすのも程ほどに、と釘を刺して、小夜左文字は垂れそうになった鼻を啜った。
「使うか?」
「……べつに、いい」
 指先も、足先も冷え切って、感覚がなかった。息を吹きかけても焼け石に水で、擦り合わせると痒くなった。
 赤黒く濁った皮膚を見かねて、鶴丸国永が外套を捲った。吊るした温石を指差した彼に、断るが、視線は釘づけだった。
 言動不一致の短刀を笑い、太刀は手頃な石をひとつ外した。綿が剥がれないよう注意しつつ、差し出し、縁側によじ登った。
 下駄を脱ぎ、渋々受け取った小夜左文字の頭を撫でる。その手は氷のように冷たくて、鉄のように固かった。
 あれだけ温石を抱え込んでいながら、彼も充分冷えていた。
「土の中より冷たい場所など、他にはなかろうて」
「鶴丸国永?」
「さあて、台所へでも行くとするか。外から灯りが見えた。歌仙兼定を探していたんだろう?」
「ぐ……」
 首を竦め、少年は独白に眉を顰めた。慌てて顔を上げるが太刀はいつも通りで、気配の変化を探らせなかった。
 挙句嫌なところを指摘され、反論を封じられた。なにも言えなくなった短刀は口を噤み、渡された温石を鼻先に押し当てた。
「ぬるい」
 いったいどれだけの時間、彼は外に居たのだろう。
 綿がなくても火傷の心配がないくらいに、石は熱を失い、ただ重いだけの代物と化していた。
「しょうが湯でも作ってもらうとするか」
「蜂蜜入りが、いい」
「贅沢だな。そんな話、聞いたことがないぞ」
 雪に閉ざされた庭で、獣さえ眠りに就く夜に、ひとりで。
 そんな時に考える内容には、思い当たる節がある。だからと軽口で応じた少年は、当然のように食いついて来た男に、知れず安堵の息を吐いた。
「僕が頼めば、歌仙なら」
「なるほどな。小夜左文字様さまだ。ご相伴にあずかろう」
 台所を預かる打刀は、とある短刀にだけ異様に甘い。本丸に暮らす刀なら誰もが知る常識に首肯して、鶴丸国永が歩き出す。
 冷えた温石を温めるように抱いて、小夜左文字も台所へと急いだ。

2016/01/16 脱稿

いかなれば雪しく野辺の笹の下を 分ゆく水のこほらざるらん
松屋本山歌集 36

清き流れの底汲まれつゝ

 空気が澱み、濁っている感覚だった。
 澄み渡る青空を眺めても、それが美しいと思えない。様々な形を模る白い綿雲を数え、あれはなにで、あれは何に似ている、と語る気力も沸かなかった。
 身体を動かす度に関節がぎしぎし軋むような音を立て、鈍い痛みがそこかしこから生じた。肋骨が圧迫され、締め付けられているようで、息ひとつするのさえ激痛が伴った。
 ただ佇んでいるだけでも脂汗が滲み、平静でいられない。
 床に伏せても治まることはなく、目を閉じればどろりと滑る闇が四方から押し寄せた。
 飲み込まれる恐怖に飛び起きて、とてもではないが眠れない。呪詛の声は四六時中止むことがなく、耳を塞いだところで防ぎようがなかった。
 血走った眼で辺りを見回せば、後ろが薄く透けた人の姿が視界に飛び込んできた。
 ある者は物言わぬ骸を抱きかかえ、ある者は命乞いをして咽び泣き、ある者は怨嗟の言葉を吐いて絶命した。
 貧しいながらも質素に、堅実に生きた人々だ。小さな幸せを噛み締めながら、日々を慈しみ、愛おしんで生きていた人たちだった。
 それを、殺した。
 穏やかな暮らしを、壊した。
 望んだ結果ではない。むしろ逆で、あんな真似はしたくなかった。だというのに己を奪った山賊は容赦なく、長閑な人々の生活を蹂躙し、踏み潰しては嘲笑った。
 何の罪もない子供を殺した。
 無辜の民をこの手に掛けた。
 そこに道理などない。貫き通すべき意志や、理念、哲学といったものは微塵もなかった。
 ただ目に入ったから。偶々そこに居たから。
 幸せそうにしていたから。
 気に食わなかったから。
 到底受け入れられない理屈の下で、山賊は奪い、殺し、その為にこの身を使った。持ち主を守るべき短刀は血に濡れ、穢れ、どんどん黒く染まっていった。
 だからだろう、山賊は短刀を研ぎに出した。そして研ぎ師として働いていた、かつて殺していた女の息子に遭遇し、仇討として滅ぼされたのは、誰もが知る話だ。
 果たしてこれは、美談だろうか。
 仇を討ち滅ぼしはしたけれど、その刀は結局、山賊の血をも吸ったのだ。
 新たな罪を、重ねただけ。命に貴賤がないと言うのなら、山賊の命もまた、彼が殺した人々のそれと同じであるべきだ。
 喩え仇討ちだったとしても、殺した事実に違いはない。それを隠す為にか、血濡れた復讐譚は、いつしか忠義の話へとすり替えられた。
 美しいと褒め称えられたところで、嬉しくなどない。
 どうせならこの穢れた身体を真っ二つにしてくれた方が、余程有り難かった。
 眠れない夜が続き、朝が来る。
 時を追うごとに、己に向けられる眼差しがが哀れみと恐怖に染まっていくのを、ひしひしと感じていた。
「小夜」
「触らないで」
 差し出された手を拒み、跳ね除けて吼える。
 甲を打たれた刀は戸惑いを顔に出し、どこか哀しそうに眉を顰めた。
 長い睫毛を揺らして、物言いたげな口を何度か開閉させた。けれど語る言葉はなく、唇はきゅっ、と引き結ばれた。
 眉間の皺を深めて、歌仙兼定が瞳を伏した。力なく首を振り、吐息を零して、左手で額を覆い隠した。
「せめて、粥のひと口でも良い。食べてはくれないか」
「……必要ない」
 嘆息に言葉を混ぜ込み、掠れる小声で囁く。
 心からの懇願に一瞬躊躇しかけて、小夜左文字は空を蹴って吐き捨てた。
 素っ気なく言い放ち、引き戻した足の勢いを利用して身体を反転させた。困り果てている打刀に背を向けて、振り払うように一歩を踏み出した。
「小夜、待つんだ」
「僕に構わないで」
 追い縋る声と手が肩に触れて、引き留められた。それもまた瞬時に跳ね除けて、小夜左文字は苛立ちを隠さずに叫んだ。
 冷たく言い捨てて、取り付く島を与えない。睨みつければ打刀は尻込みし、目を逸らし、唇を噛んだ。
 苛立ちが腹の奥底で膨らんで、黒い塊と化して暴れていた。悶々としたものが全身に立ち込めて、四肢に絡まり、身も心も縛り付けていた。
 他者の気配りや心遣いが、鬱陶しくてならなかった。遠慮がちに話しかけられるのも、わざとらしい心配も、なにもかも不愉快だった。
 それだったら無視するなり、怖がって逃げ出してくれた方が余程良い。こちらとしても気が楽だと鼻で笑って、小夜左文字は物憂げな打刀に舌打ちした。
 聞こえるように音を響かせれば、歌仙兼定がくっ、と喉を詰まらせた。息を止めて口を尖らせて、袖から覗く手は拳を形作っていた。
 小刻みに震える体躯が、男の感情を伝えてくれた。怒りが迸っているのを、懸命に抑えているのが窺えた。
 我慢せず、爆発させればいい。
 短気で、すぐに癇癪を起していた昔を思い出しながら、短刀は堪え続ける打刀を笑い飛ばした。
 口角を片方だけ持ち上げ、不遜に鼻を鳴らす。
 露骨に見下した態度を取られた男はムッとして、やがて深く肩を落とした。
「小夜、お願いだ。このままでは、君が倒れてしまう」
 太く長い息を吐き、膝を折った。身を屈めて姿勢を低くして、その背丈は半分程になった。
 目線ももれなく沈んで、一際小柄で華奢な短刀と並んだ。いや、彼の方が幾ばくか下にあり、少年は見上げる側から見上げられる側になった。
 太めの眉が真ん中に集まり、見つめてくる双眸は揺らがなかった。本気で身を案じているのが感じられて、足元がぐらつきそうになった。
 歴史の改変を目論む者がいた。
 時を遡り、自らが望む未来を得る為に動く者たちがいた。
 それを阻止せんとして、審神者なる者が現れた。時の政府に従って、遡行軍の目論見を打ち破る為に。
 時間を遡れるのは、刀のみ。
 故に審神者は刀剣に宿る付喪神に、活動しやすいよう人に似せた現身を与えた。更には戦いで傷ついた身体と心を癒し、仲間と交友を育む場を用意した。
 小夜左文字も、歌仙兼定も、そうやって審神者に招かれたひと振りだった。
 だが審神者は、刀剣男士に多くを与えすぎた。戦う道具でしかないものに、分不相応なものを背負わせた。
 一日の三分の一を費やす睡眠や、食欲や、斬られて血を流す肉体や。
 誰かを慈しむ心があれば、その逆もある。妬み、嫉みといったものまでもが、無機物である刀に蔓延るようになった。
 復讐への渇望や、積み重ねた悪行への罪悪感も。
 それらは迷いを起こし、太刀筋を鈍らせる代物でしかない。だというのに審神者は、これを刀剣男士から――小夜左文字から取り上げようとしなかった。
 自分で蒔いた種は、自分で刈り取れとでも言うのか。
 そうやって審神者が放置した結果が、今の彼だった。
 夜眠ろうとせず、食事も摂らない。固形物を口に入れれば瞬時に吐き出し、落ち着いたかと思えば唐突に叫び、喚き、暴れ回った。
 血走った目をして、居ないものに襲い掛かろうとした。幻聴がすると泣き叫び、柱に頭を打ち付け、自傷行為を止めなかった。
 このままでは、本当に壊れてしまう。
 とても出陣できる状態ではないというのに戦場に出向こうとして、連れて行けば行ったで、作戦を無視して敵陣に突っ込んだ。
 深く傷つき、血を流しても、痛みを訴えるどころか、気が狂ったかのように笑ったという。
 当時の様子を聞いた者たちは揃って背筋を寒くして、関わり合いになりたくないと言い、短刀から距離を置いた。矢張りあれは、と陰口を叩き、ひそひそ言い合っては本人を前にばつが悪い顔をした。
「小夜」
「いやだ」
 懇願に応えずにいたら、手を伸ばされた。
 左右から腕を掴まれそうになって、少年は頭を振り、後ずさった。
「さよ」
「だって、全部が……気持ちが悪い。優しくなどするな。僕は、復讐さえ出来れば、それで。それだけで、良い」
 追いかけようとする歌仙兼定を制して、小夜左文字は奥歯を噛み締めた。鼻を啜って口から息を吐き、顎を引いて、一気に捲し立てた。
 語尾は掠れ、消え入りそうだった。最初は正面を向いていた視線が徐々に沈んで、歌仙兼定の双眸には、藍色の髪だけが映し出された。
 少年の手は空を掻き、己自身を抱きしめた。布に皺を刻んで力を込めて、小さな体をより小さく、丸くした。
 罪深き刀は、審神者に喚ばれて本丸に至り、多くの刀と交友を持った。昔馴染みから全く知らなかった刀まで、様々な経歴を持つ者たちと生活を共にした。
 価値観が違う者と衝突を繰り返し、時として協調し、親睦を深めた。それまで知らなかった世界が眼前に現れ、狭かった視野が一気に広がった。
 美味しいものを食べ、遊び、語らい、笑った。
 温かな寝床は心地よくて、幸福感が胸を満たした。
 忘れそうになった。
 忘れてしまいたくなった。
 己の罪を。
 血で穢れきった、己の過去を。
 それはある日、突然訪れた。
 月のない、新月の夜だった。
 呪詛の声が聞こえた。恨みを込めて睨んでくる、無数の眼の幻を見た。
 赤黒く染まる自身の姿が鏡にあった。沈めば二度と浮き上がれぬ底なし沼に引きずり込もうと、数多の腕が蠢いていた。
 忘れられるわけがなかった。
 消せるものではなかった。
 償いきれるものではなかった。
 罪の重さに溺れて、息が出来なかった。
 何もかもが濁って見えた。それまで美しく輝いていたものが、突如として灰色一色に塗り潰された。
「僕のことなど、放っておいて」
「出来るわけがないだろう。僕にまた、君を失えと言うのか」
 突き放そうとして、縋りつかれた。必死の形相で訴える打刀が哀れで、滑稽だった。
 歌仙兼定は遠い昔、小夜左文字と共に時を過ごした。しかし飢饉により餓える領民を救う為、短刀は請われるまま、その地を離れた。
 以来、一度として顔を合わさなかった。まさか同じ審神者に喚び出され、再び見えることになろうとは、夢にも思わなかった。
 そういう因果で、歌仙兼定はなにかと小夜左文字に構った。積極的に関わろうとして、なにをするのも一緒だった。
 彼の腕の中で眠るのは、快かった。他者の熱など不快と思っていたのに、彼の寝床だけは、どういう訳か安心出来た。
 彼もまた血に濡れた刀だから、なのかもしれない。
 多くの人を斬ったのに罪を覚えず、そういうものだから、という理屈ひとつで全て片付けてしまう。その強さが、小夜左文字は羨ましかった。
「小夜、お願いだ」
 頭を低くし、歌仙兼定が膝を着く。
 屋外だというのにひれ伏そうとする打刀に戦いて、短刀は嫌々と首を振った。
 彼と一緒に居ると、心が和らいだ。
 望みを忘れ、山賊に奪われる前の日々を思い出した。
 耳元で、かつて殺した人々の怨嗟がこだまする。心も、身体までもが引き千切られそうで、可笑しくなりそうだった。
「いや、だ。歌仙」
 眠れない夜を数えて、もう五日。ただでさえ少ない短刀の体力も、気力も、限界が迫っていた。
 刀が餓え死ぬことなど、あるのだろうか。
 その第一例になるのだと哂って、小夜左文字は両手で顔を覆った。
 物理的に視界を塞ぎ、男の姿を隠す。あまりに優し過ぎる打刀から逃げて、少年は鼻を啜りあげた。
「小夜」
「お願い、だ。もう」
 悲壮感漂わせる声にも首を振り、今度は短刀が、打刀に懇願した。
 ぬるま湯に浸る生活は、少年から色々なものを奪い取った。だけれどそれらは、小夜左文字が小夜左文字たらしめるものだった。
 これから得られるだろう幸福と、これまで積み上げてきた不幸との帳尻を、どこで合わせれば良い。奪い取って来た数多の命への償いも済ませぬまま、自分だけが日々を愉しむなど、許されるわけがないというのに。
 笑うことが、苦しかった。
 明日を待ち焦がれていることに気が付いた時、世界は音を立てて崩れていった。
 なにもしていなくても、辛かった。
 戦場で返り血を浴びている時だけが、束の間の安らぎだった。だのに今や、誰の差し金か、出陣の許可が全く下りない。
 壊して欲しい。
 壊れてしまいたい。
 消えてなくなってしまえたら、どんなにか楽だろう。
 顔をくしゃくしゃに歪め、大きく啜り上げた。自分ではどうにもならなくて、出来なくて、泡となって弾けてしまいたかった。
「駄目だ。そんな真似、絶対に許さない」
「だったら、どうしろと言うんだ」
 手首を掴まれ、力任せに引っ張られた。咄嗟に跳ね除けようとしたが叶わず、体格の違いをこんなところで思い知らされた。
 肩を上下に振り回して暴れ、抱きしめようとする男から懸命に逃げた。一度でも捕まれば終わりと戒めて、遠慮なしに爪を立てた。
「いっ……」
 ガリッ、と指先に衝撃が走った。振り下ろした利き腕は距離感を誤り、牽制のつもりが肉を抉っていた。
 手応えがあった。皮膚を削った感触が、確かにその瞬間、小夜左文字の手に生じた。
 現に頬に二本の筋を走らせて、歌仙兼定が低く呻いた。同時に束縛も緩んで、小夜左文字はその隙に腕を取り返した。
 じり、と摺り足で後退して、息を飲んだ。傷は思ったよりも深くて、赤らんだ皮膚からぽつ、ぽつ、と赤い雫が滲み始めていた。
 背筋が震えた。
 内臓が沸き立つようだった。
 ゾッとして、あらゆる汗腺から汗が噴き出した。呼吸は荒くなり、目の奥がちかちかした。
 感触が、爪先にまだ残っている。振り下ろす位置が少しでもずれていたら、この固く尖った凶器は、打刀の眼球を抉り出していた。
 想像して、総毛立った。沸騰していた血液が急激に冷やされ、膨張していた心臓は半分以下に縮んだ。
 息が出来なかった。
 奥歯がカタカタ鳴って、立っていられなかった。
「う、ぁ」
 もう一歩後退しようとして、膝が折れた。重心が崩れて倒れそうになって、両手を振り回してどうにか堪えた。
 歌仙兼定は蹲り、顔をあげない。両手で傷を負った頬を押さえて、瞠目して、動かなかった。
 その瞳だけが、ぎょろりと蠢いた。
 視線を向けられたと本能で悟って、恐怖が少年を包み込んだ。
 傷つけた。
 不慮の事故とはいえ、紛うことなき事実だ。
 呪詛の声が大きくなった。足元から真っ黒い手が伸びて来て、全身に絡みつき、短刀を縛り付けた。
「あ、ぁ……ああああっ!」
 頭の中が真っ白になった。ありもしないものに怯えて、叫び、払い除けて駆け出した。
 腰を捻り、両手を振り回した。目をぎゅっと瞑って、前さえ見ずに走った。
「小夜!」
 後ろで打刀が叫んだ。だが耳を貸さなかった。足を緩めず、行く先も決めず、ただ逃げ出したい一心でその場を離れた。
 右も左もなく、ただ前に向かって突き進んだ。両腕を大きく振って、一歩の幅を広くして、飛び跳ねるように、全速力で駆けた。
 自然と涙が溢れ、止まらなかった。哀しくもないのに勝手に滲み出て、滝のように頬を流れ落ちた。
「ふ、ぅ。……っず」
 しゃくりあげ、喘ぐ。こんな自分は嫌なのに何も出来なくて、粉々に砕けて塵になりたかった。
 本丸での日々が充実したものになるにつれて、置き去りにした心が悲鳴を上げた。
 復讐はどうするのだと囁いて、死者の魂を引き連れ、鏡の向こうから手を伸ばして来た。
 今すぐ代わってやるから、その身体を寄越せと。
 あらゆるものを破壊して、幸せそうに笑う者たちに復讐すると嘯いた。
「あうっ」
 その中には、本丸で親しくしている刀も含まれていた。優しくしてくれた者たちの名が、当然のように列挙されていた。
 聞きたく無くて引き離そうとしても、声はどこまでも追ってくる。首筋に張りついた、冷たい感触が剥がれなかった。
 振り払おうとして、身を捩った。丁度そこに、大きめの石が落ちていた。
 足を取られ、躓いた。下を全く見ていなかった弊害が現れて、小夜左文字は敢え無く顔面から倒れ伏した。
 受け身を取る暇もなかった。涙で濡れてぐずぐずのところに土埃を浴びせられ、泥に汚れ、散々だった。
 口の中に砂が入り、歯を食い縛ればじゃり、と音がした。堪らず唾と一緒に吐き出して、口元を拭って、冷えた地面に腰を落とした。
「けふ、っは、あ……」
 数回噎せて喉を叩き、ぜいぜいと肩で息を整える。最中に後ろを窺い見るが、歌仙兼定の姿はなかった。
 追いかけて来ない。
 その事実に安堵すると共に、幾ばくか落胆している自分に気付く。どちらがより大きいかと問われたら、答えに躊躇するくらい、拮抗していた。
 彼にまで見捨てられて、いよいよ自分は終わりだ。
「は、あは。ははっ」
 一時は止まった涙がぶり返し、小夜左文字は乾いた声を響かせた。
 もう戻れない。
 どこにも行けない。
 戦場で折れることも出来ず、時が過ぎて朽ち果てるのを待つしかない。
 それが罪を犯した者に与えられる罰か。延々と轟き、消えることのない怨嗟の声に押し潰されて、少年は蹲り、石になろうと背を丸めた。
「高天原に神留まり坐す 皇親神漏岐神漏美の命以て 八百万神等を神集へに集へ給ひ――」
 声が聞こえたのは、そんな時だった。
 朗々と響かせ、詠っている。澱むことなく、揺らぐことなく、一定の律を保ち、耳に心地よかった。
 風が流れるように、穏やかだった。緩まず、留まらず、静かに曲線を描き、淡々と、音を刻み続けた。
 どこかで聞いたことがある気がして、いつだったかが思い出せない。声の主にも覚えがあるのに、咄嗟に名前が出て来なかった。
 黒いものを抱きかかえ、小夜左文字は身じろいだ。どうにも出来ない想いを背負って、少年は涙に濡れる目を大きく見開いた。
 若草色の衣が見えた。白の袴に足袋を履き、背筋を凛と伸ばしていた。
 かなり、大柄だ。歌仙兼定よりずっと上背があり、衣に隠れた体躯は程よく引き締まっていた。
 その名前を、知っている。
 どんな時でも穏やかに微笑む黒の眼は、今日に限って鋭く尖っていた。
「――罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天津神国津神八百万の神等共に聞食せと白す」
 粛々と詠い終えて、彼はひとつ息を吐いた。背中に回していた両手を軽く振り、胸の前で向き合わせた。
 そうして小夜左文字が茫然と見守る中。
 勇猛さで知られる大太刀は。
「そうれ!」
 大きな掌を、勢いよくぶつけ合わせた。
 パンっ、と空気が爆ぜた。目の前で旋風が巻き起こって、圧倒された少年は咄嗟に顔を庇い、凍り付いた。
 吹き飛ばされる、そんな予感がした。
 ぞっと竦み上がった内臓に萎縮して、目を開けていられなかった。
 現実には、微風が肌を撫でただけに過ぎない。しかし嵐に飲み込まれた錯覚を抱いた。抱きかかえていたものが根こそぎ攫われて、天へ舞い上がって消える幻を見た。
 本能的に頭を抱え、首を亀のように引っ込めた。手足を中心に集めて丸くなって、数秒を待ち、息を吐いた。
 全身から力が抜けた。
 目の前で猫騙しをされただけなのに、どっと疲れが押し寄せて来た。
「これでもう、心配ないね」
 惚けていたら、大きな手が降ってきた。先ほど勇ましい音を響かせた掌が、ぽすん、と小夜左文字の頭を包んだ。
 子猫をあやすように撫でられて、訳が分からなかった。本人は優しくしたつもりかもしれないが、存外に力は強くて、顔を上げようにも抵抗出来なかった。
 丁寧に編まれた草履の先ばかり見て、大人しく撫でられる。
 文句のひとつでも言いたいところなのに、声は出ず、唇は干からびていた。
「う……」
 いったい、何が起きたのだろう。
 混乱したまま瞬きを繰り返して、短刀は探るように瞳を動かした。
 身動ぎ、かぶりを振る。振動を受けて大判の手は遠ざかり、二度と戻ってこなかった。
 それが妙に名残惜しくて、口惜しかった。かといってもっと撫でて欲しいとも言えず、困り果てて座り込んでいた矢先。
「小夜!」
「っ」
 矢を射るように飛んできた声に戦き、ビクッと全身を震わせる。
 座ったまま飛び跳ねて居竦んでいたら、前方に佇む大男が呵々と笑った。
「やあ。小夜左文字なら、此処にいるよ」
「石切、丸……殿?」
 ひらりと手を振った大太刀に、打刀は遅れて気が付いた。戸惑いの声を発して足を緩め、速度を落とし、ふた振りの手前で立ち止まった。
 歌仙兼定は肩で息をして、全身汗だくだった。顔は火照って赤らみ、髪の毛はぐしゃぐしゃだった。
 長い時間駆けていた形跡が窺えた。誰かを探し、走り回っていたのは一目瞭然だった。
 愕然として、小夜左文字は口をぽかんと開いた。一方で打刀は汗を拭い、庭先に悠然と佇む大太刀を訝しげに見た。
 小夜左文字の顔は泥に汚れ、衣服も砂まみれだった。ぺたんと尻を地面に落とし、大柄な刀の前にへたり込んでいた。
 助け起こしてやろう、という意志は、石切丸から嗅ぎ取れなかった。失礼ながらその逆、即ち小夜左文字を彼が転がした、という風な想像が先に浮かんでしまって、歌仙兼定は目を眇めた。
 剣呑な空気を漂わせ、警戒しながら残る距離を詰める。
 不躾な眼差しに大太刀が気付かない筈もなく、石切丸は正直すぎる打刀に肩を竦めた。
「良くない気が漂っていたからね。大丈夫、祓っておいたよ」
「なにを、言って」
 嘆息し、囁く。
 遠慮がちな微笑を向けられて、小夜左文字は首を傾げた。
 歌仙兼定も戸惑い、答えを探して短刀を見た。けれど訊かれても分かるわけがなく、見目幼い少年は訝しげに大太刀を仰いだ。
 本丸の中に、遡行軍の存在でも感じたのか。
 真っ先にそちらを想像したふた振りに、石切丸は嗚呼、と頷いた。
 口元に手を持って行き、漏れ出た笑いを隠そうと試みる。しかし肩が揺れており、押し殺し切れていなかった。
 深呼吸をして、目を細めて。
 両手を背中に戻し、大太刀は小夜左文字を見た。
 目が合って、少年は短く息を吐いた。横から伸ばされた手を一瞥して、申し出を断り、自力で立ち上がった。
「小夜、危ない」
 しかし、踏ん張りが利かない。
 生まれたての小鹿と化した短刀は、膝から崩れそうになり、打刀の胸へと倒れ込んだ。
 素早く身を屈め、歌仙兼定が自身を壁とした。受け止め、囲い込んで、ぐったりしている少年を覗き込んだ。
「小夜?」
「……もん、だい……な……」
 背後から見下ろされ、逆さ向きで問いかけられるが、上手く答えられなかった。大事ないと言いたかったのに唇が動かず、言葉は音にならなかった。
 あれだけ不快だった他者の熱が、今はあまり気にならない。怨嗟の声も遠くなり、呪詛は殆ど聞こえなかった。
 地上から生えていた黒い腕が消え、絡みつく泥の手は見えなかった。重く圧し掛かって来たものが立ち去って、潰されそうだった身体が、心が、幾らか軽くなった。
 安堵感が胸を満たす。
 一度目を閉じてしまうと、開ける気になれなかった。
「……寝た?」
 すう、と息を吸い、吐いた。
 歌仙兼定の声は届かず、額を掠めて滑り落ちて行った。
 厚みのある胸板に寄り掛かり、少年は眠っていた。黒ずんだ隈が痛々しいが、頬は赤みを取り戻し、一時に比べれば血色は良かった。
 ここ数日、安眠とは無縁だった。
 目を閉じた矢先に絶叫と共に飛び起きる繰り返しで、本人も、同居人も、著しく睡眠不足だった。
 その小夜左文字が、眠っていた。すよすよと呼吸は落ち着き、表情は穏やかだった。
 憑き物が落ちた、まさにそんな顔だ。
 あまりの変化に絶句して、歌仙兼定は突っ立ったまま微動だにしない男に眉を顰めた。
 妙な術でも使ったのかと、疑念を抱く。
 それさえも飄々と受け流して、石切丸は微笑んだ。
「穢れを祓っただけだよ」
 淡々と告げて、首をちょっとだけ左に傾けた。歌仙兼定は短刀を抱えて立ち上がり、聞き慣れない言葉に半眼した。
「小夜が、穢れていたと?」
「ああ、気を悪くしたなら済まない。正しくは、気枯れを起こしていた、だね」
 罪深き短刀は、けれど歌仙兼定にとっては他に比べようがない存在だ。それを悪く言われたと腹を立てた彼に、石切丸は早口で訂正した。
 言い直し、空中に指を走らせる。
 宙に文字を描いて、大太刀はぴんと来ないでいる打刀に肩を揺らした。
「このところ、様子がおかしかったからね。みんな、心配していたよ」
 健やかに眠る短刀に焦点を合わせ、呟く。
 頬を撫でようとした手を拒み、歌仙兼定は急ぎ小夜左文字を抱え上げた。後退して距離を作って、警戒を解かないまま大太刀と向き合った。
 まるで手負いの獣だ。手懐けるのは大変で、骨が折れそうだった。
 罪の意識に苛まれ、壊れそうになっていたのは短刀だが、この打刀は短刀の手を取り、共に地獄へ落ちそうな雰囲気だ。諸共に、という言葉が脳裏を過ぎり、危ういところで成立している関係に、畏怖の念が湧き起った。
 打たれた利き腕を脇に垂らして、石切丸は穏やかな寝顔を眺めるだけに済ませた。
「罪、というのはね」
「……ああ」
「包み込むもの、なんだよ」
 肩の力を抜き、囁く。
 合いの手を返した打刀は続けられた言葉に片眉を持ち上げ、怪訝に首を傾げた。
 何を言いだすのかと、そう思っているのがありありと分かった。感情の起伏が手に取るように読み解けて、なんと分かり易いのかと、少し可笑しかった。
 だが噴き出せば、ただでは済まない。そこは堪えて、大太刀は両手の指を軽く曲げ、何かを包み込む仕草を取った。
 掌を向い合せにして、胸の前に留める。その中心に光が見えたのは錯覚で、瞬きをすれば何も残っていなかった。
「石切丸、殿」
「心というものは、元来、まっさらなものだよ。しかし内から生じたものが発散されることなく留まり続ければ、それは外側にこびりつき、無垢なものを覆い隠してしまう。主に、悪い感情や想い、怖れや嫌悪といったものがね」
 眉を顰めた打刀に向かい、大太刀が滾々と言葉を紡ぐ。合間に手を動かして、目に見えぬものを覆う囲いは少しずつ大きくなっていった。
 妬み、嫉み、苛立ち、不安。
 外に発散出来ずに抱え込みがちになるものが集まって、やがて大きな影が生じた。真っ白であるべきものを包み、覆い隠した。
 たとえば、些細な失態。理不尽に怒鳴ってしまった後悔や、誰にも知られなければ良いという、ちょっとした判断。
 口に出すまでもないこと、出してはいけないこと。吐き出さずに飲み込んで、忘れたつもりでいた小さなことの数々。
 そういうものが積もり積もって、意識せぬまま悪縁を引き寄せた。無垢な心を包み、罪という意識を植え付けた。
 ありもしないものに怯え、聞こえる筈のないものに恐怖を抱く。
 こびりついた罪の念は次々に別の罪を引き寄せて、外からの光を遮り、心を枯らした。
 健やかな空気を与えられることなく、心身に満ちるべき気が枯れていく。
 それが気枯れ。
 穢れだ。
 石切丸の両手が、不意に重なり、強く握りしめられた。石となり、隙間がない。けれど外からの衝撃には弱く、ちょっとしたことで簡単に瓦解した。
 その光景に、歌仙兼定は瞠目した。
 反射的に下を向いて、眠る幼子に安堵の息を吐いた。項垂れて、潰さぬ程度に腕に力を込めた。
 締め付けられて、小夜左文字が眠ったまま呻いた。慌てた打刀が瞬時に腕を緩めたのもあり、瞼は開かなかった。
「理由は、分かっているのかな?」
 全ての物事には、因果がある。あらゆる事象は繋がっており、結果があるなら、原因があって然るべきだった。
「……僕が、迂闊だった。小夜を置いて、丸一日の遠征に出て」
 静かに問うた大太刀に、打刀は一瞬躊躇し、観念して口を開いた。
 訥々と語り、合間に一度だけ石切丸を見る。視線を送られた刀は瞳を浮かせ、記憶を手繰って嗚呼、と頷いた。
 その件なら覚えていると、仕草が語っていた。返答を確かめて、歌仙兼定は寝入る子供の髪を梳いた。
 続ける言葉を悩み、二度、三度と深呼吸する。
 覚悟を決めかねている態度を察して、大太刀は緩慢に笑った。
「そこの彼が、君と同衾しているのは、聞いているよ」
「誤解しないで欲しい」
「されるような事でもあるのかな?」
「…………存外、人が悪い」
「生憎、刀の身なのでね」
 言い難そうにしている理由を先読みし、揶揄すれば、歌仙兼定が苦虫を噛み潰したような顔をする。精一杯の嫌味を軽々と受け流して、石切丸は胸の前で腕を組んだ。
 小夜左文字が兄たちではなく、昔馴染みの打刀の部屋で寝起きしている件は、本丸内では有名な話だ。知らない者はいない、と言っても過言ではない。当然石切丸も、割と早い段階で耳にしていた。
 理由はどうであれ、皆が本丸に至った時からそうだったから、当たり前として受け入れる土壌は出来上がっていた。そういうものだ、程度にしか考えず、両名の関係を訝しんだり、詮索するつもりはなかった。
 勿論下賤な話を好む刀もいるけれど、このふた振りにそういった気配がないのは、誰の目にも明らかだ。しかし依存傾向にあるのは明白で、この先どう転ぶかは、審神者にも分かるまい。
 神刀になれなかった脇差が、いかにも好きそうな話題だ。振れば食いついてくるだろうと想像して、石切丸は目尻を下げた。
「それで? 君が不在の間は、確か……ああ」
「そうだ。その日は、獅子王も夜間の遠征で、不在だった」
 小夜左文字は歌仙兼定と一緒でなければ眠れず、彼が居ない時は別の刀に頼った。悪夢が寄り付かないよう、百花の王が不在な場合は、百獣の王に縋るのが常だった。
 だがその夜は、運悪く両名とも屋敷を離れていた。
 奇しくも、新月の夜。
 深い闇は、怯える子供を呆気なく呑みこんだ。
 元々眠りが浅かった短刀が、この頃は落ち着いて過ごしていた。本丸での生活にも随分慣れて、復讐だなんだのと物騒なことを、皆の前で言わなくなった時期だった。
「なるほどね。そういうことだったのか」
 小夜左文字自身、気が緩んでいたのだろう。過去に囚われず、前を向いて歩きはじめようとした矢先でもあった。
 不意にひとり寝の夜を迎えて、不安が増した。要らぬ緊張を強いられて、恐怖を抱き、抑えこんでいた感情が爆発した。
 罪は、消えない。消せない。一生涯背負っていくしかない。
 忘れるなと発せられた警句に、少年は過剰なまでの反応を示した。
 得心が行ったと頷いて、石切丸は腕を解いた。間を繋ぐために軽く頬を掻いてから、落ち込んでいる打刀にも肩を竦めた。
「罪とは、己の中から生まれ落ちるもの。一度払ったところで、また湧き出てくるだろうね」
 根底を断ったわけではなく、そこから生じた諸々を吹き飛ばしたに過ぎない。時間が過ぎればいずれ、今日と同じことが繰り返されるだろう。
 そして厄介なのは、その根底にあるものが、小夜左文字を小夜左文字たらしめているもの、という点だ。
「君だって、四六時中その子と一緒、というわけにはいかないだろう?」
「では、どうしろと」
 刀剣男士の編隊は、審神者の気分次第だ。小夜左文字を庇護する者が軒並み屋敷を離れる日が来ないとは、到底言い切れなかった。
 ならば審神者に直接、今回の件も含めて訴えるか。
 通るわけがない。あの者の目的はあくまで時間遡行軍の討伐であり、刀剣男士はその道具なのだから。
 大事にされても、結局は傷つくことを強いられる。戦えない刀だと判断されれば、炉で溶かして鉄に戻されよう。
 敵意をむき出しにした歌仙兼定に、石切丸は苦笑した。
「それを私に聞くのかい?」
 主たる審神者に抗ってでも、小夜左文字を守りたいと願う刀だ。他者から与えられた答えに納得し、受け入れるとは思えなかった。
 自分自身で考えろと突き放し、静かに嘲笑う。そこまで親切ではないと冷たくあしらって、唇を噛む打刀を無感情に見下ろす。
 まだまだ若い、と内心笑みが絶えない。
 睨まれて、少々意地悪が過ぎたと反省して、大太刀は無邪気な寝顔に頬を緩めた。
「彼が自分で、向き合うしかないだろうね」
「小夜が」
「言ったように、罪とは己の心が発するものだ。それもまた、彼の一部だからね」
 気を枯らすのも、栄えさせるのも、本人次第。
 消せないものだと分かっているなら、それを受け入れ、抱えたまま進んでいくしかない。
 逃げるから、追いかけてくるのだ。光に照らされて浮かび上がる影のように、もうひとつの自分と認めて、共に歩んでいく覚悟を決めるべきだろう。
 それが叶うかどうかは、別として。
 淡々と告げられて、歌仙兼定は押し黙った。眠る少年に見入り、動かなかった。
「君は、どうかな?」
 彼もまた、覚悟を決める必要がある。
 苦難多き道を行こうとする少年の傍に居続けるか、否か。
「僕を侮辱しないでくれるかな」
「それは失礼」
 問えば、至極嫌そうに吐き捨てられた。嫌悪を露わにして睨み、小夜左文字を隠して後ろを向いた。
 そんなもの、とっくに決まっている。分かり易い態度に舌を巻いて、石切丸はクツクツ喉を鳴らし、顎を掻いた。
 打刀は振り向かず、大股で歩き出した。眠る幼子を揺らさぬよう慎重に、けれど急ぎ気味に突き進んだ。
 迷いのない足取りは、その胸の裡を如実に表している。その歩みが脇道に逸れ、或いは道を踏み外さぬよう、大太刀は目を閉じ、静かに祈りを捧げた。

2016/1/11 脱稿

あはれにぞ深き誓ひの頼もしき 清き流れの底汲まれつゝ
山家集 雑 1187

ふもとにのみも年を積みける

 年の瀬が迫り、本丸はなにかと騒々しかった。
 なにかしら行事があるわけでない時でも、大勢が共同生活を送っているのだから、充分賑やかではある。しかしここ数日は平素の数倍、輪をかけて五月蠅かった。
 新年を迎えるには、色々と準備が必要だ。新たな歳神に訪ねて来てもらうには、相応に礼を尽くし、手筈を整えなければならなかった。
 屋敷中をぴかぴかに磨き上げ、角松を立てて目印とし、注連縄を飾り、鏡餅を用意する。
 だが付喪神として長年眺めて来た人間たちの営みを、いざ現身を得て実践するのは、なかなかに難しかった。
 不慣れなことは、いきなりすべきではない。
 大掃除の号令を発したはいいが、聞こえてくるのは怒号や悲鳴ばかりの状況に、歌仙兼定は早々に匙を投げたくなった。
 今も向こうの方で、重い棚を動かすのに失敗した脇差が、足の指を挟んだとかで騒いでいる。
 尻尾の如き長い髪を振り回して、鯰尾藤四郎は床に転がり、駄々を捏ねていた。
「いたい、いたーい。足が千切れる!」
「落ち着け、兄弟。足はちゃんと繋がっている」
「そういう問題じゃない!」
 淡々と切り返した骨喰藤四郎に、鯰尾藤四郎は涙目で食って掛かった。物の喩えだというのに真面目に応対されて、大声で吼えてがばり、と起き上がった。
 傍から見ていると滑稽なやり取りだが、ずっとこの調子だから疲れる。彼らに任せたのは間違いだったと肩を落として、細川の打刀は溜息を吐いた。
 右手で額を覆って首を振り、少しも進んでいない片付けに眉を顰める。反対側では秋田藤四郎が、はたきを手に噎せていた。
「げほっ、けほっ。埃が、けほっ」
 高い位置にある棚を掃除して、埃が顔に落ちたらしい。思い切り吸い込んだようで、何度も咳き込んでは、鼻の下や目を擦っていた。
 布で口を覆っておけば、被害はある程度軽減出来る。だというのにそういう知識は持ち合わせていないのか、同じことを繰り返しては、その度くしゃみを連発させた。
 しかも、だ。
「あー、ちょっと。秋田ってば、もー。そこ、さっき僕が箒で掃いたばっかりなのに」
 涙目の弟を見つけて、乱藤四郎が駆けて来た。長い髪は頭の後ろでひとつに束ねており、右手には言葉通り、屋内用の箒が握られていた。
 庭で枯れ葉などを集める竹箒とは違い、柄は若干短めだ。細い隙間にも差し込めるよう小振りで、短刀たちが扱うには適した大きさだった。
 それを肩の位置で振り回して、乱藤四郎は目を吊り上げた。鮮やかな桃色の髪の少年は鼻を啜りつつ振り返り、意味が分からないと言いたげに首を傾げた。
「けほっ。乱兄さん、なんですか?」
「だーかーら、そこ、僕がさっき掃除したの。それなのに、こんなに埃まみれにして」
「でも、上の棚も、綺麗にしないと」
「うああ、もう。だったら僕がやる前に、先に終わらせておいてよね」
「えええー」
 自分の不手際から生じた失敗は、正論で封じられた。反論出来なくなった乱藤四郎は自棄を起こして地団太を踏み、八つ当たり気味に捲し立てた。
 あまりにも不条理なひと言に、秋田藤四郎が目を丸くする。いくらなんでも酷いと声を荒らげるが、我が儘放題な短刀は耳を貸さなかった。
 ぷんすか拗ねて、譲らない。見かねた骨喰藤四郎が間に入り、乱藤四郎を叱って、場は一旦収まった。だけれど怒られた方は気が立ったままで、近くにあった赤いだるまを乱暴に蹴り飛ばした。
「こら!」
 さすがに、これは見過ごせなかった。
 片方しか目が入っていない達磨は、必勝祈願のお守りでもある。それをぞんざいに扱うのは度し難く、許せなかった。
 発作的に怒鳴って、歌仙兼定は握り拳を作った。距離があるので届きはしないが、警告にはなって、乱藤四郎は慌てて逃げて行った。
 蹴倒したものをそのままにして、見向きもしない。
 もっとも達磨は自力で起き上がり、何事もなかったかのように畳に鎮座していたのだが。
 くらくら揺れた後、しばらくしてから止まった。七転び八起きを目の当たりにして、秋田藤四郎は何故か笑顔だった。
「すごい。うわあ、おもしろぉい」
「玩具ではないんだけどね」
「はーい。分かってます」
 興味惹かれてか、小さな手が赤い頭を小突いた。達磨はぐらぐらしながらも倒れず、最後は背筋を伸ばして停止した。
 それを何度か繰り返す短刀に、打刀は呆れて肩を竦めた。遊び道具ではないと諭して止めさせて、片付け作業に戻るよう促した。
 ついでに、埃が立つ時は布で口を覆うよう、教えた。手拭いを使うよう指導すれば、秋田藤四郎は成る程、と目を輝かせた。
「やってみます」
 深く頷き、少年が息巻く。手持ちの分を出し、早速実践する彼の手拭いを結んでやって、歌仙兼定は部屋を見回した。
「ここは任せて良いかな」
「は~い」
 大掃除のついでに、粟田口の刀たちは大部屋に引っ越しだ。今の部屋は人数が増えて手狭になって来ており、全員分の布団を敷くと、足の踏み場が無くなった。
 新たに宛がわれたのは、今まで皆が食事をしていた広間だ。そちらを譲って、今後の食事場所は、三間続きの大広間になる。
 荷物を移し替えるだけなのに、大騒動だ。たった数ヶ月の生活で物が溢れ返り、簡単には終わりそうになかった。
 付きっ切りで面倒を見てやりたいところだけれど、歌仙兼定にだって仕事がある。未だ粟田口の長兄たる太刀が本丸に参陣しない中で、仕切り役を任せられるのは、鯰尾藤四郎か、薬研藤四郎くらいしか居なかった。
 若干心許ないが、仕方がない。
 きっと大丈夫。そう自分に言い聞かせ、細川の打刀は踵を返した。
 大部屋を出て、飴色の廊下を抜け、玄関の前を通り過ぎる。こちらも盛大に賑わっており、耳を塞ぎたくなる騒がしさだった。
「だーかーら、こっちは、こう。んで、これは、こう!」
「だが、それではこちらの棚が使い辛くなる」
「カッカッカ。数多の意見、良いではないか。一度試してみようぞ」
 来派の愛染国俊の大声に、山姥切国広が布の影で嫌そうに顔を歪めた。それを制して山伏国広が自慢の筋肉を披露して、棚の移動を買って出た。
 本丸で暮らす刀が増えて、その分履物の数も増えた。
 出陣時と通常時とで種類を変える刀もおり、収納用の棚はとっくの昔に満杯だった。
 今回、新たな棚を用意したのだけれど、それの置き場所で揉めているらしい。
 見栄えの良さを優先させるか、使い易さを第一とするか。
 放っておいても、道がふさがれるといったような、変なことにはなるまい。こちらは任せて大丈夫と安堵して、歌仙兼定は台所へ向かって足を進めた。
 彼が居住している部屋の片づけは、日々行っているので、そう急がなくても心配はいらない。それよりももっと重要な場所を片付けてしまわないと、安心して年を越せなかった。
 下手をすれば台所の方が、部屋よりも長い時間を過ごしている。最早第二の居室と言っても過言ではない場所は、扉が開け放たれ、冬の冷たい風が吹き荒れていた。
「冷えるなあ」
 竈の灰を全て退かし、釜にこびりついた煤は綺麗に洗い流した。天井に蓄積された埃を落とすのは後回しにして、今は棚に収納していた食器や調理器具を天日干しする真っ最中。
 普段は閉じている窓も全て解放して、空気は冷え切っていた。調理用の机といったものも外に出されており、雑多だった空間は小ざっぱりしていた。
 こんなに広かったかと感心しつつ、歌仙兼定は腕を撫でた。身震いして熱を呼び起こし、一段低くなっている床に爪先を置いた。
「思い出すねえ」
「歌仙」
「やあ、小夜。精が出るね」
 ヒヤッとした感触に頬を緩め、物が殆どない空間を眺める。
 ぼんやり佇んでいれば人の気配がして、勝手口から藍色の頭がひょっこり現れた。
 高い位置で結った髪のその上に、埃避けか、手拭いが巻かれていた。三角に折り畳んだ布で後頭部を覆っており、寒いだろうに尻端折り姿だった。
 帯にするには少々長い紐を襷にして、桶を胸に抱いていた。
 中には何も入っておらず、恐らくはこれから、そこに収めるのだろう。右を向いた歌仙兼定の視界には、中身の残った棚が幾つかあった。
「手伝おう」
「助かる」
 一度に大量に運ぶのは、重いし、危ない。器には陶器製のものが多いので、万が一落として割ったところに倒れたら、手入れ部屋行き確定だ。
 そうならない為には、運べるだけの量を動かし、何往復もするしかない。面倒だがそれが一番確実で、最も効率が良かった。
 文句も言わずにせっせと働く短刀に、歌仙兼定は袖を捲った。
 山伏国広には劣るが、腕力には自信がある。任せろと胸を叩いた打刀に、小夜左文字は無愛想に礼を言った。
 感謝の気持ちが感じられない表情だが、これでも愛想は良くなった方だ。こくりとひとつ頷いて、男は草履を脱いだ少年に先んじ、棚に向かった。
 いつもは調理台が間にある為、迂回させられるのだが、今日だけは別だ。広々とした空間を堪能して、打刀は高い位置に手を伸ばした。
「すまない」
「適材適所と言うからね」
 短刀の中でも際立って小柄な少年では、背伸びをしても届かない位置だ。台を使ってもなかなか難しいところの品々を取ってやれば、小夜左文字は急いで駆け寄り、空の桶を掲げた。
 あまり使う機会がなく、仕舞い込んだままだった椀の埃を払い、桶に並べていく。鮮やかな丹塗りの食器は、晴れの日に用いるものであり、正月には必要不可欠なものだった。
「こんなところにあったのか」
 探さなければ、と思っていたものに、運よく巡り会えた。
 これも大掃除の醍醐味だと笑って、打刀はすぐ満杯になった桶を小突いた。
「洗わないと」
「それは後だ。先に全部出して、棚を動かしたいな」
「移動させるのか」
「いや、裏を掃除したい」
 間近に迫る正月の為に、やることは山積みだ。
 使ったことがない食器は真新しいのに汚れていて、黒ずみを気にする少年に、歌仙兼定は首を振った。
 日々の調理に忙しく、台所の掃除は見える場所が主だった。手が届かないところに潜り込んだ野菜の切れ端や、欠片の回収までは、どうしても手が回らなかった。
 今日こそはそれらを、根こそぎ取り払ってしまいたい。
 目標は本丸が開かれた日の美しさだと宣言すれば、煤けた天井を仰ぎ、小夜左文字が苦笑した。
「出来るものならな」
 一度付着した汚れは、どんなに丹念に磨いたところで、完全には取り払えない。使えば使う分だけ物は傷み、終わりへと近付いていく。永遠に変わらないものなど有りはせず、たとえ見た目を取り繕おうとも、中身までは誤魔化せない。
 小夜左文字がかつての持ち主を殺し、無辜の民を手に掛けた刀である事実が覆らないのと、同じだ。
 台所の煤だって、全て取り払うのは不可能だ。だというのに夢を見て、熱く語る打刀は、まだまだ幼かった。
 無邪気に目を輝かせる昔馴染みに肩を竦め、小夜左文字はずっしり重くなった桶を抱え直した。
 勝手口から出た先には小さな庭があって、今は茣蓙が敷かれていた。その上に台所から避難させた食器類が並べられて、冬の日差しを受けていた。
 鍋や釜といったものも、そちらだ。現在進行形で大倶利伽羅と堀川国広が、井戸端でせっせと洗ってくれていた。
 寒い中、水だって冷たいのに、頑張ってくれている。
 後ろでは歌仙兼定が手で持てるだけの食器を集め、積み重ねて塔にしていた。
「よっと」
「危ないよ」
「なあに。これくらいは平気さ」
 小夜左文字のように、大きめの入れ物に詰めて運ぶのではなく、縦に長くして抱えていくつもりらしい。
 土間との間には結構な段差があるというのに意に介さず、忠告にも耳を貸そうとしない。自分に絶対の自信を持ち、失敗しないと疑わなかった。
 傲慢とも思える態度だが、確かに彼は器用だ。
 案外なんとかなるかもしれないと嘆息して、小夜左文字は桶を担いだ。
 先ほど適材適所と言われたが、まったくもって、その通りだった。
 悔しいけれど、体格差は覆せない。歌仙兼定のような太い腕も、逞しい肩幅も、短刀には夢のまた夢だ。
 羨ましくあり、妬ましい。
 狡い、と思う気持ちを奥底へ封じ込めて、少年は短い脚を交互に動かした。
 先を行く歌仙兼定は、段差の手前で身体を横にし、右足からそろり、土間へ降りた。慎重に、注意深く、時間をかけて、ゆっくりだった。
 そこで手間取るのが分かっていながら、何故盆を使わないのか。
 面倒臭がりなのか、そうでないのか分からないと眉を顰めて、小夜左文字は男の後に続いた。
 草履を引っ掻けて庭に出て、茣蓙へ近づき、桶の中身を移し替える。
 最中に縁が欠けているものがないかを調べて、傷みが酷いものは別にした。
「ああ、歌仙さん。お疲れ様です」
「お疲れ様。寒い中、すまないね」
「いいえ。これくらい、へっちゃらです」
 小豆色の上着を肘まで捲って、堀川国広が声を高くした。煤で汚れた釜の汚れは頑固で、洗うだけなのに、力仕事だった。
 向こうでは大倶利伽羅が、黙々と束子を動かしていた。ごしごし擦っており、手は炭で真っ黒だった。
 堀川国広の頬にも、黒い筋が走っていた。履物は泥水に濡れており、汗だくだった。
 感謝の弁を述べる男はにこやかに笑い、無心に働く少年たちを労った。
 会話はそれで終わりで、打刀は瞬時に勝手口へ戻った。持って来たものを茣蓙に置いて、両手を空にして台所へと急いだ。
 実に忙しなく、見ているだけで疲れてしまう。
 彼は運んでくるばかりで、少しも整理しない。高く積まれた塔は不安定で、風が吹いただけでもぐらぐら揺れた。
 放っておけば、大参事が起きる。仕方なく小夜左文字が整理を引き受けて、種類や大きさ、使用頻度別で並べ替えていった。
 何度も使われ、洗われて来たものは、やはり傷みが激しい。角が欠けた茶碗は、持った際に指を切る危険があった。
「勿体ないが、やむを得ないか」
 今までは騙し騙し使って来たが、そろそろ廃棄した方が良いだろう。まとめて処分する品を集めた笊に移し替えて、小夜左文字は後ろを振り返った。
 井戸端では堀川国広が、手を動かしつつ、口も動かしていた。熱心に大倶利伽羅に話しかけているものの、返事は殆どなく、あっても素っ気ない相槌ばかりだった。
 ただ脇差の少年は、さほど気にしていなかった。一方的に喋る内容は、和泉守兼定のことばかりだった。
 つい最近本丸に来た刀は、今は遠征任務中だ。五虎退と大和守安定に引率されて、現身での活動に慣れて貰っている真っ最中だった。
 同じ兼定とはいえ、歌仙兼定と彼とはかなり時代が隔たっている。刀派が同じであっても会話は噛みあわず、お互い昔馴染みと一緒に居る方が、気が楽でいいらしかった。
 そういう点は、左文字も同様だ。小夜左文字は兄である宗三左文字と、上手く意思疎通が果たせずにいた。
 長兄である江雪左文字は、まだ本丸にやって来ない。いずれ会えると言われているが、粟田口のように親しく出来るとは、到底思えなかった。
「歌仙?」
 憧れはするけれど、そこに自分を当て嵌めて、睦まじく過ごす光景は想像出来ない。
 宗三左文字は大掃除にも参加せず、与えられた部屋でたったひと振り、何をするでもなく過ごしている筈だ。
 いったい彼に、なんと話しかけろと言うのだろう。
 気兼ねなく言葉を投げかけられる相手は限られており、小夜左文字はそのうちのひと振りの名を呼んだ。
 返事はなかった。台所に戻ってもう結構な時間が経つのに、男はなかなか姿を現さなかった。
 外に運ぶ物が、なくなったのか。
 茣蓙に所狭しと並べられた品々を眺めて、少年は首を捻った。
 棚を動かすと言っていたが、単独で出来るものではない。言ってくれれば手伝うのに、声をかけて貰えないのは心外だった。
 そこまで非力だと思われていたのだとしたら、悔しい。
 頬を膨らませ口を尖らせて、短刀は斜めに身体を伸ばし、勝手口から屋内を覗き込んだ。
 灯りがなくとも、外から差し込む光のお陰で、台所は充分明るかった。
「……いないのか?」
 返事はなく、中は静かだ。手が空いている人員を探しに行った可能性が脳裏を過ぎり、小夜左文字は眉を顰めた。
 戸口に歩み寄り、暗がりに目を凝らす。
 漆喰で塗り固められた竈の向こう側に、白い塊が見えた。
 一段高くなった床に、打刀が蹲っていた。その前方には棚が、片側だけ壁から引き離された状態で停止していた。
「かせん」
 想像通り、自力で動かそうとしたらしい。もしや足でも挟んだかと危惧して、短刀は履物を脱ぎ、床へ上がり込んだ。
 両手を使って這うように進んで、一気に距離を詰めた。
 やや上擦り気味の、焦りを含んだ声で呼びかければ、男はハッと息を吐き、背筋を伸ばした。
 猫背を改め、勢いよく振り返った。あと少しで衝突するところだった短刀は慌てて避けて、体勢を崩し、その場に尻餅をついた。
「あぶない、小夜」
「いった」
 どすん、と大きな音がひとつ響いて、ふた振り分の悲鳴が重なった。言うのが遅い、との抗議は唾と一緒に呑み込んで、小夜左文字は臀部を襲った痛みに唇を噛んだ。
 右目だけを吊り上げ、左目は閉じて、小鼻を膨らませた。頬も片側だけ引き攣らせてねめつければ、睨まれた打刀は右往左往し、顔の前で手を横に振った。
「違う、小夜」
「なにがだ、歌仙」
「いや、ちょっと……」
 急ぎ弁解に走るが、話が巧くまとまらない。言葉を濁して目を逸らし、歌仙兼定は憤る少年を前に頭を掻いた。
 視線は地を走り、脇へ流れた。つられてそちらに顔を遣って、小夜左文字は半眼した。
 小さめの箒が、横倒しに転がっていた。
 壁と棚の間が開かれて、細かな埃や、なんだか分からない塊が、絡まりながら散乱している。それに加えて、床には固い物を引きずった跡があった。
 擦って、筋が出来ている。床に塗った漆が削られており、これはずっと残るだろう。
 ひとりでやろうとするから、こうなる。
 自慢の腕力に溺れた結果と呆れていたら、箒を拾い、打刀が苦笑いを浮かべた。
「これがね」
「なんだ?」
 隙間に潜り込んでいたのは、食べものの滓や塵だけではなかった。
 細い柄の先で示されたものに眉を顰め、小夜左文字は怪訝に首を傾げた。
 尻を叩いて起き上がり、蹲る男の背後から覗きこむ。両手を広い肩に添えて背伸びをすれば、体重を掛けられた打刀が首を竦めた。
「小夜」
「破片?」
 重くはないが、軽くもない。
 圧し掛かられた歌仙兼定は、苦虫を噛み潰したような顔を作った。だが年下の打刀には構わず、見た目に反して年嵩の短刀は、床で鋭く光るものに瞬きを繰り返した。
 それは陶器の欠片だった。
 先端は鋭く尖り、一種の凶器だった。
 刃物ほどではないにせよ、不用意に触れるのは危険だ。先ほどの打刀の警告が何に対して発せられたものか、今になってようやく分かった。
 親指ほどの大きさでしかないけれど、刺されば肉が裂ける。気付かず触れていたら、怪我をしていた。
 あそこで尻餅をついたのは、怪我の功名だった。
 臀部の痛みは既に消えており、痣にもなっていない。幸いだったと心の中で呟いて、短刀はそう珍しくもない物に目を眇めた。
 歌仙兼定はこれを眺め、動かなかった。
 なにか特別な理由があるのか考えるが、これといったものは思い浮かばなかった。
 破片ひとつなのでもとが湯呑みだったのか、茶碗だったのかは分からないが、格別高い品ではなさそうだ。誰かが落として割って、一部が棚の奥に逃げ込み、ずっと放置されて来たと思われた。
 あれこれ考えるが、格別注視すべき理由が見当たらない。
 訳が分からず戸惑っていたら、表情を読み取った歌仙兼定がクスリと笑った。
「なんだ」
「いや。そうか、小夜は覚えていないんだね」
「……うん?」
 なんだか嫌な予感がして突っかかれば、打刀は更に笑って目尻を下げた。口元を手で覆い隠して意味ありげに囁き、落ちていた破片を拾い上げた。
 後ろに立つ少年にも見えるよう、男はそれを高く掲げた。表面のつるつるしている部分を抓んで、自身を傷つけないよう配慮しつつ、角度を変えながら全体を光に晒した。
 それでも、小夜左文字に心当たりはない。
 段々不機嫌になって小鼻を膨らませていたら、打刀は呵々と声を響かせ、身体を揺らした。
「なんなんだ、歌仙」
 いい加減、教えて欲しい。
 思わせぶりな台詞は、苛々を助長した。己に関することなのに思い出せないのも、無性に腹立たしかった。
 八つ当たり気味に吠えて、後ろから首にしがみつく。
 腕を絡めて締め上げれば、息苦しさに耐えかねた男は白旗を振った。
「まだ本丸に、君と僕と、数人しかいなかった頃にね」
「ああ」
「……思い出せない?」
「む、う」
 少ししか力を加えていないのに、あっさり降参された。拍子抜けだと愕然としていたら、やり返すかのように、意地悪い聞き方をされた。
 時期を指定されて、小夜左文字の眉が真ん中に寄った。浅い皺が二本、縦に走ったが、瞳は上向きに固定されて動かなかった。
 天井を睨みつけて、ぴくりともしない。
 低く唸った少年に噴き出しそうになって、歌仙兼定は腹に力を込めた。
 ここで笑ったら、頭突きの一発でも食らいかねない。そういう贈り物は遠慮願って、彼は手にしたものを掌に転がした。
 鋭利な欠片は、厚み半寸にも満たない代物だった。
 表面は白く、内側も白い。大部分は失われて、原型を辿らせなかった。
 だが歌仙兼定は、これが元々湯呑みだったのを知っている。薄紅色で桜の花模様が描かれた、可愛らしいものだった。
 これは、底の部分だ。あの日どれだけ探しても、これだけ見つからず、諦めて、いつしか忘れていた。
 まさかこんなところに潜り込んでいようとは、夢にも思わなかった。
「歌仙」
 結局思い出せなかったようだ。藤色の髪を掴んで引っ張られて、毟られそうになった打刀は慌てて首を振った。
 小さな手から逃げて、腰を捻り、振り返る。
 顔と顔を向き合わせれば、予想していなかったのか、小夜左文字は一瞬びくりと身震いした。
 吊り上った目が左右に泳ぎ、やがて一ヶ所に固定された。見つめられた男は淡く微笑み、年上だが幼い、小さな短刀の左手を取った。
「なに」
 手首を緩く掴んで、掌を手繰り、中心部分に親指を宛がう。
 表面を覆う無数の皺を撫でられて、少年は不快感を顔に出した。
 だが打刀は構わず、円を描くように指を繰り、最後に親指の付け根近辺をなぞった。
「綺麗に消えているね」
「だから、さっきから。……あ」
「思い出したかな?」
 感慨深げに囁いて、少し強めに撫でた。途端に小夜左文字は嫌がって肩を突っ張らせ、肘を退こうとして、寸前で凍り付いた。
 ぽかんと開いた唇が、二度ほど引き付けを起こした。三連続瞬きをして、長い躊躇を経て、一度だけ首を縦に振った。
 視線は宙を彷徨い、足元に落ちた。太く幅広の爪越しに己の肉体を見詰め、そこにあった傷跡に思いを馳せた。
「あの時の」
「そう。あの時のだよ」
 ぽつりと言えば、間髪入れず合いの手が返された。歌仙兼定は深く頷き、傷一つない掌に爪先を走らせた。
 白く細い筋が、一瞬のうちに消えた。痛みはなく、なにも残らなかった。
 それは彼らが現身を得て、まだ幾日も経っていなかった頃。
 不慣れな身体を持て余し、上手く扱いきれずにいた時の話だ。
 小夜左文字はここで、湯呑みを割った。棚から取り出そうとして、握り損ね、落としてしまった。
 陶器のそれは粉々に砕け、鋭い破片が床一面に散らばった。少年は慌てて拾おうとして、誤って指を切ってしまった――それも太い血管が走る場所を。
 血が出た、大量に。
 戦場で見慣れている筈なのに、生々しい色に恐怖を抱いた。
 音と悲鳴に駆け付けた歌仙兼定が止血を試みたけれど、彼だって治療行為など初めてだ。傷口を素手で押さえつけるが止まらず、手拭いでぐるぐる巻きにして、お互い血まみれになり、大騒動だった。
 出陣での傷は手入れ部屋へ行けばいいが、この場合どうするか、審神者を交えて相談すらしていなかった時期だ。薬研藤四郎はまだおらず、包帯ひとつ巻くのも一苦労だった。
 五虎退や今剣までやって来て、本当に収集がつかなかった。その後審神者が現れて事なきを得たが、あの時は本当に大変だった。
 今となっては笑い話だけれど、当時は真剣だった。
 小さな切り傷ひとつに四苦八苦して、青くなったり、赤くなったり。
「こんなに、小さかっただろうか」
 あまりに衝撃的な出来事だったから、もっと大きなもので切った印象だった。
 こんな指の先ほどしかない欠片に振り回されていたとは、意外であり、驚きだった。
「危ないよ」
「あんなことにはならない」
 手に取ろうとすれば、歌仙兼定に止められた。それを押し切って奪い取って、小夜左文字は尖った部分を避けて指で挟み持った。
 現身を得た直後は、知識はあっても経験が足りなかった。人の身とはかくも脆く、傷つき易いものだと、失敗を積み重ねて理解していった。
 傷は完治して、跡は残っていない。
 だが痛みの記憶は脳裏にこびりつき、深い部分に根を下ろしていた。
「歌仙、これ、いいか」
「どうするんだい?」
「こうする」
 この欠片ひとつあったところで、割れた器は戻らない。どうせ捨てるのなら欲しいと言って、少年はくるりと身を反転させた。
 打刀を残して小走りに駆け、土間にぴょん、と飛び降りた。両足で綺麗に着地を決めて、向かったのは勝手口だ。
 草履も履かずに外へ出た彼を追い、歌仙兼定も立ち上がった。掃除は一時中断として、庭を覗けば、少年は常緑樹の根本にいた。
 楠はこの時期でも青々と葉を茂らせ、木漏れ日はキラキラ輝いていた。
 そんな光の雫を一身に浴びて、短刀は肩で息を整え、手にしたものを地面に置いた。
「小夜?」
「これくらいで、丁度良いか」
 いったい何をするつもりなのか。洗い物中だった堀川国広たちも手を止めて見守る中、小夜左文字は近くに落ちていた拳大の石を利き手に持った。
 厚みがある、平べったい石だ。短刀の拳くらいの大きさで、表面は斑模様だった。
 彼はそれを、肩の位置まで掲げた。
 大勢が黙って見詰める前で、大きく振りかぶって。
 思い切り。
 陶器の破片目掛けて。
「――はあぁ!」
 気合いの声と共に、一気に振り下ろした。
 ガチャン、と良い音がした。
 石と地面に挟まれて、唯一生き残っていた湯呑みの破片が、木っ端微塵に砕け散った。
 周囲の砂粒が一緒になって飛び散って、小夜左文字に降りかかった。しかし爪先を少し汚した程度にしかならず、細かくなった破片が刺さることはなかった。
 いきなり出て来たかと思えば、石を地面に叩き付けた。
 傍から見ている分には挙動不審でしかない行動にも、短刀は満足げで、底抜けに嬉しそうだった。
「小夜……?」
「復讐」
「え?」
 ある程度事情を知る歌仙兼定でさえ、理解し難かった。困惑して歩み寄れば、短刀は石を手放し、背筋を伸ばして不敵に笑った。
 口角を持ち上げ、得意げだった。ふっ、と鼻を鳴らして、幸せそうだった。
「今年の分は、これで終わりだ」
 低い声で短く言って、早々に歩き出してしまう。
 謎かけのような言葉を残されて、打刀は何度も瞬きを繰り返し、やがてぺちん、と額を打った。
「ああ、そういう」
 数か月前に傷を負わされた湯呑みを見つけたので、粉々にした。それが彼の言葉だと、復讐を遂げた、となるのだ。
 痛いし、血は止まらないしで、散々だったのと、あれしきで慌てふためいた過去の自分が許せなかったのだろう。
 そういう恥ずかしい記憶も含めて、復讐という形式美で粉砕したのだ。
「まったく、小夜、君は」
「歌仙、何をしている。早く済ませないと、夕餉が作れない」
 予想外も良い思考と行動に、笑いが止まらない。
 これだから一緒に居て楽しいのだと肩を揺らしていたら、戸口を潜る直前の少年に叱られた。
 ぼうっと突っ立っているだけでも、時間はどんどん過ぎていく。汗水流して大掃除をした後に、胃袋を癒す食事がないのはあまりにも可哀想だ。
 誰も使っていなかった頃の、綺麗な台所も良いけれど、手垢がついて馴染んだ台所も悪くない。
 少しでも長くここで過ごせるよう願って、打刀は深く頷き、急ぎ足で勝手口を潜った。
 

2015/12/27 脱稿

くやしくも雪の深山へ分け入らで ふもとにのみも年を積みける
山家集 百首 1492

鴫立つ沢の秋の夕暮

 ひゅうぅ、と上空で風が鳴いていた。
 巻き上げられた木の葉が数枚、旋回しながら天を駆けた。追いかけるように木々の枝が撓り、僅かに遅れて砂埃が舞い上がった。
「うっ」
 音に釣られて上向かせた顔を、咄嗟に左腕で庇った。しかし惜しくも間に合わず、細かな塵が顔面へと叩きつけられた。
 一部が目に入り、痛い。追い出そうと瞬きをして涙を流せば、呼んでもいないのに鼻水まで垂れそうになった。
「いた、い」
 呻き、仕方なく手の甲で鼻の下を擦る。ずび、と息を吸って音を響かせて、肺に沈殿していた空気を吐く。
 深呼吸を二度繰り返し、小夜左文字は最後に胸を叩いた。開き気味の衿を閉じて形を整えて、上唇を舐めて再度天頂を仰いだ。
「秋も、終わりか」
 澄み渡る空は遥か高く、色は冴えていた。
 夏場と違って細切れになった雲は群れを成しており、魚の鱗のようだった。
 思っていたら、池の方から音がした。ぱしゃん、と水が跳ねて、どうやら鯉が水面に顔を出したらしかった。
 本丸の庭には丹塗りの橋が架けられ、色鮮やかな鯉が何匹か飼われている。食べるためのものではなく、観賞用らしく、毎日餌をもらって丸々と太っていた。
 確かに朱や黒の模様が入って綺麗だが、魚とは本来、食べ物だ。
 冬に入って食うに困ることがあれば、非難を怖れず捌いてやろう。これを防ぐべく鉄串が通されていたとしても、まな板ごと叩き切れば問題なかった。
 右手に構えた箒を握りしめて、密やかに決意する。鼻息荒く誓いを立てれば、呼応するかのように、またもや頭上で風が鳴いた。
「さむっ」
 今度は強く、鋭い風が地表を襲った。折角集めた枯れ葉を蹴散らし、木枯らしが嘲笑いながら駆け抜けていった。
 堪らず身を竦ませて、小夜左文字は唸った。竹箒ごと自身を抱きしめて、内股気味に膝をぶつけ合わせた。
 無意識に爪先立ちになり、浮いた踵が草履から離れた。もれなく足の裏が剥き出しになって、土踏まずの凹みまで露わになった。
 寒いのならば肌が出ている場所を減らすべきなのに、逆の行動を取っていた。奥歯を噛み締めて鼻を啜り、少年は砂粒を避けた瞼を恐る恐る開いた。
 睫毛になにか引っかかっている気がして、手で払った。ついでに前髪も掻き上げて、竹箒の先で地面を擦った。
 細い筋が何本か、乾いた地表に刻まれた。少し前まで山を成していた枯れ葉は消え失せて、方々に散っていた。
 苦労して綺麗にしたのに、一瞬で台無しだ。
 辺りを見回してがっくり肩を落とし、藍の髪の短刀は頬を叩いた。
「最初から、だ」
 徒労に終わってしまったが、ここで諦めるわけにはいかない。枯れ葉に埋もれる庭は美しくなくて、実にみすぼらしく、惨めに見えた。
 訪れる者がない山奥の、寂れた庵ならばともかくとして、ここは大勢の刀剣男士が暮らす屋敷だ。身だしなみを整えるのと同じように、屋敷の顔に当たる庭にも気を配るべきだった。
 ただそれを、何故自分がしなければいけないのか。
 そちらの理由については、説明が出来なかった。
 誰もやらないから、見るに見かねて始めた。そうしたらいつの間にか、勝手に任されるようになってしまった。
「べつに、いいけど」
 庭掃除は小夜左文字がやってくれるから、自分たちはやらなくていい。
 そういう不文律が出来上がりつつあるのに、気付いていないわけではない。けれど何もせずにぼんやりしているよりは、たとえ面倒な仕事であろうと、動いている方がずっと良かった。
 復讐に囚われた短刀は、本丸にいる他の守り刀たちのように笑えない。明るく振る舞い、皆を和ませる術を持ち合わせていなかった。
 いてくれるだけで良いと、周囲に思わせる技量が彼にはなかった。
 だから代わりに、黙々と働いた。朝早くから起き出して、頼まれてもないのにあれこれ駆け回った。
 闘う以外に能がないから。
 守り刀としての務めを、全う出来なかったから。
 役立たずと判定されれば、ここから放り出されてしまう。他を守る為だと売りに出され、金銭に替えられて、知らない場所へ連れていかれてしまう。
 そういう恐怖が、無意識に働いていた。
 居たいと願う場所に居続けられなかった記憶は、思いの外強く、彼の心に根付いていた。
 じっとしていたら、必要ないことまで考えてしまう。
 ひとりで居る方が気楽なのに、ひとりで居たくないと願ってしまうのもまた、ひと言では語りきれない経歴の余波だった。
「は……」
 口を大きく開き、息を吐いた。
 一瞬だけ白く濁った呼気に頬を緩め、彼はゆるゆる首を振った。
「やり直しだ」
 庭を彩る木々は赤、黄、茶、緑と様々な色を羽織り、まるで刺繍が施された打掛のようだった。
 借景としている山も、秋の入りに比べると、かなり様相が変わっていた。あちらは標高が高い所為で紅葉が本丸より早くて、遠くに赤、近くには緑という変化がとても楽しかった。
 一時期庭園を彩りよく飾っていた菊の花は、盛りの頃を過ぎて、殆ど枯れてしまっていた。純白の花弁は赤錆色に変わり、瑞々しかった表面は水分を失って萎び、皺にまみれていた。
「冬来ても 猶時あれや 庭の菊 こと色そむる よもの嵐に」
 ふと思い浮かんだ歌を口ずさみ、枯れ色の竹箒でサッと地面を撫でる。埃が顔まで来ないよう注意しつつ、小夜左文字は木の葉を集め始めた。
 最後は火を点けて、燃やす。但しこれを池の傍でやると、もれなく周囲の部屋に煙が紛れ込み、顰蹙を買った。
 だから集めた分は一度竹で編んだ籠に入れ、畑の方へ持って行く決まりだった。
 そちらなら、多少強い風が吹いたとしても、屋敷まで火の粉が散らない。万が一にも火事が起きないよう注意するのは、とても大事なことだった。
 本丸には、炎に対して拒否反応がある刀だっている。
 彼らの目に入らないようにするのも、一苦労だった。
 特に左文字の次兄に当たる宗三左文字は、一度ならず二度までも、焼身の憂き目に晒されていた。鯰尾藤四郎や骨喰藤四郎も、大阪城で炎に呑まれている。
 その点を思えば、平然と台所仕事に精を出す燭台切光忠は、かなり図太いと言えるだろう。ただ矢張り、炭に火を熾す作業だけは、苦手意識があるようだった。
 夏の終わりころ、小夜左文字は審神者なる者によって現世へと喚び出された。
 彼は刀剣に宿る、付喪神。それらが人とよく似た現身を得て、人と同じ心を宿し、人の真似事をしながらこの地で暮らしていた。
 あの当時に比べれば、本丸は随分と賑やかになった。手狭になった屋敷は何度か増改築を繰り返して、構造はずっと複雑化していた。
 お陰で時々、迷うことがある。
 長く居着いている小夜左文字でさえこうなのだから、最近やってきたばかりの刀たちにとっては、迷宮にも等しかろう。
 とはいえ、近頃は新入りが減っていた。この先しばらくは面子に変化がないだろうと、いつだったか、どこかで誰かが呟いていた。
 あれは、誰の言葉だっただろう。
 思い出そうとするが出来なくて、小夜左文字は箒を握ったまま首を捻った。
 渋面を作り、冷たい風に顔を背ける。
 露出する肌に空気が突き刺さって、なにもしていないのに表皮は赤らんでいた。
「もっと、寒くなるのか」
 今でさえ朝晩は充分寒いのに、これから先、冬が深まれば、もっと冷えるという。
 彼らは刀なのだから、熱さはともかく、寒さには強くあって然るべきだ。だというのに日増しに厳しくなる冷気に対し、対抗手段がまるで見当たらなかった。
 火鉢を持ち歩くわけにはいかず、湯たんぽを背負うのは重すぎる。温石で懐を温めるのがせいぜいだが、それでは手足が冷えるのを防げなかった。
 後は、なにか上に羽織るくらいしかない。
 だがあまり厚着し過ぎると、今度は動きが制限される。自由に駆け回れないのだとしたら、それはそれで問題だった。
 早朝、布団から出るのが段々苦痛になってきた。
 夜明けは遅くなり、太陽が照る時間は短い。秋の夜長に虫の声を聴くのが楽しみだったが、それもそろそろ終わりだった。
 一日中日が当たらない場所では、霜が降りるようになっていた。庭に根を下ろす木々には菰が巻かれ、冬支度が着々と進んでいた。
 台所がある東側の軒先には、大根を筆頭に、様々な野菜が吊るされていた。
 干して、漬けて、保存食にするのだ。他にも猪や兎を狩って、その肉を燻製にする仕事が忙しかった。
 炊事場隣の納戸には、隙間がないくらいに米俵が積み上げられている。鼠が出ないよう、猫の代わりに虎が放たれて、五虎退が見張り役に忙しかった。
「あ」
 物思いに耽っていたら、またもや風が吹いた。さほど強くはなかったものの、枝に別れを告げた木の葉が一枚、はらりと宙へ舞い上がった。
 踊るようにくるりと回って、名残惜しげに落ちてくる。それを空中で捕まえて、小夜左文字は葉柄を抓んでくるくる回した。
 青みが失われた葉は乾燥して薄く、楕円形をしており、両翼が緩く湾曲していた。葉脈は老齢の男性を思わせる白さで、端が僅かに欠けていた。
 握れば、簡単に粉々になる。だが実践はせずに済ませ、小夜左文字はそれを竹籠に放り投げた。
 古びた背負い紐が弛んで、地面に接していた。籠の中はまだ半分も埋まっておらず、これを満杯にするのは大変だった。
「塵取り、手伝う?」
「あ……」
 簡単に集めた木の葉を前に、残り時間を計算する。太陽の位置を確かめるべく空を見上げた少年は、不意に話しかけられて姿勢を戻した。
 背筋を伸ばし、ゆっくり振り返った。斜めに構えた箒を揺らして、彼は近付く影に目を眇めた。
 ひらひらと右手を振りながら近付いて来たのは、目尻にほくろがある少年だった。
 袴を着けて、胴衣に襷を結んでいた。後ろ髪を結い上げて、首には白い布を巻きつけていた。
 普段は浅葱色の羽織を身に着けているけれど、今は見当たらなかった。畑仕事か、馬小屋の掃除でもしていたのか、足袋の爪先は黒ずんでいた。
「大和守安定」
「やあ」
 あまり接点がなく、会話をした機会はそれほど多くない。
 だが名前くらいなら流石に把握しており、口にすれば、にこやかに微笑まれた。
 口角が持ち上がり、表情は朗らかだった。穏やかそうな外見をしており、本丸内でも概ね、その傾向が強かった。
 但し一度戦場に身を置けば、性格は百八十度ひっくり返った。
 小夜左文字が良く知る打刀と、その辺がどこか似ている。あれもまた戦に出ると、実に楽しそうに刀を操り、敵を屠って回っていた。
 普段から文系だ、なんだのと言っているが、どの口がと笑いたくなる。
 思い出して呆れて肩を竦め、小夜左文字は黒髪の打刀に向き直った。
「いいのか」
 恐る恐る尋ねれば、大和守安定は鷹揚に頷いた。任せろ、と胸を叩いて、にっこり満面の笑みを浮かべた。
「それくらいならね~」
「ああ」
 やや含みのある返事だったが、気付かなかった振りをする。
 小さな声で返事をして、小夜左文字は竹籠に立てかけていた塵取りを差し出した。
 柄は長く、短刀の肩近くまであった。先端には薄く切った木の板が、コの字型に組まれていた。底にはもう一枚、木の板が添えられて、錆びた釘に枯れ葉が一枚絡んでいた。
 大和守安定はその一枚を指で抓み、籠の中に放り投げた。受け取って、枯葉の山の傍へ移動させ、小夜左文字が箒を操ると同時に前に押し出した。
 笊に似た形状の塵取りを動かし、細かな砂ごと木の葉を掬い取る。ザッ、と比較的大きな音がして、細かな塵が辺りに舞い上がった。
「ケホッ」
 それを間違って吸ってしまい、打刀の少年が咳き込んだ。空いた手で口元を覆って何度か噎せて、濡れた口元を拭ってから集めたものを籠に入れた。
「大丈夫か」
「あ、うん。平気。ありがと」
 箒を抱きしめ訊ねれば、間を置いてもう一度咳をした少年が笑った。
 目尻を下げ、笑みは優しい。気遣いに感謝して頬を緩める姿からは、物騒なことを口走る荒々しさが感じられなかった。
 それが対外的な余所行き態度だというのは、先刻承知の通りだった。
 彼は同朋の加州清光や、和泉守兼定に対してだけは異様に手厳しい。毒のある台詞を吐いて、本能を剥き出しにした。
 気遣われているのは、むしろこちら側だ。
 良い刀を演じようとしている彼に嘆息して、小夜左文字は嵩が増した籠の中を覗き込んだ。
 縁ぎりぎりまで入れたいところだけれど、枯れ葉も集まれば重い。持ち上がるかどうか確かめるべく試しに抱えてみれば、予想外の重量がずっしり圧し掛かって来た。
「う、くっ」
 背負えなくはないが、少々厳しい。
 本丸のどの刀よりも華奢で貧弱な体格を憂い、少年は口惜しげに唇を噛んだ。
「持ってくよ」
 短刀の中では力持ちの部類に入ると自負しているが、それでも持ち上げられないものは多い。大太刀と比べると圧倒的に非力なのは、疑う余地がなかった。
 だから大和守安定に手を差し伸べられた時、あまり嬉しくなかった。
 これくらい自分にだって出来ると反発しそうになって、表情は自ずと険しくなった。
 ムッとして、睨みつけていた。軽く膝を折って屈もうとしていた少年は、不機嫌と分かる目つきにきょとんとしてから、嗚呼、と相好を崩した。
「小夜君は、箒で集めててよ。畑だよね。捨ててきたら、すぐ戻ってくるから」
 塵取りを手放した彼の右人差し指が、まだ掃除が終わっていない区画を指し示した。
 これは、小夜左文字に同情し、憐れんでの行動ではない。ただの役割分担だと言葉尻に含ませて、彼は軽々と竹籠を担ぎ上げた。
 両手が空になって、短刀は半歩後退した。草履の裏で地面に横たわる箒を踏んで、厚みにハッとなった後にはもう、打刀は十尺以上離れたところにいた。
 けれど何故か、彼はそこで足を止めた。
 驚いて震えあがったのを、勘違いしたのか。大和守安定は駆け足で戻ってくると、しゅるりと首に巻いた布を解いた。
 襟巻の端が地面に擦れるより早く、立ち竦む小夜左文字の首に緩く巻きつけた。きつくならないよう、けれど簡単には解けないよう一度だけ片端を輪に通して、軽く形を整えた。
「はい、どうぞ」
 一方で大和守安定の首元はすっきりして、細い頸部が露出した。普段表に出していない場所を人目に晒して、顔は嬉しそうだった。
「どうぞ、って」
「小夜君、寒いでしょ。そんな格好じゃ」
 急に襟巻を結ばれて、訳が分からなかった。きょとんとしていたら早口に言い切られて、尚更意味不明だった。
 確かに肌寒さは感じていた。しかしそれと、大和守安定が身に着けているものを譲られることとが、なかなか結びつかなかった。
 頼んだわけではない。
 貸して欲しいと強請ったつもりもなかった。
 物欲しそうに見えたのだとしたら、心外だ。気を遣われたのに不貞腐れた顔をしていたら、見抜いた大和守安定が目を眇めた。
「だって小夜君、見てると寒いんだもん」
 言い方を変えて、凛と胸を張った。楽しげに顔を綻ばせて、竹籠の背負い紐に腕を通した。
 集めた枯れ葉ごと身を揺らし、朗らかに言い切る。
 にこやかに断言された方は呆気にとられ、首に絡みつく襟巻と、その下に続く手足を見下ろした。
 剥き出しの膝小僧は寒さから赤く色を抱き、指先は血の気が引いて白っぽくなっていた。
 生気を失った爪は濁り、関節部は皮膚が裂けていた。眠る前に軟膏を塗り込めてはいるけれど、癒えかけたところでまた裂けてしまって、酷くなる一方だった。
「べつに、僕は。こんなの、平気、だし」
「僕、同じの何本か持ってるから。冬が終わるまで、それ、貸してあげる」
「人の話を」
「じゃあ、行ってくるね」
 それでも無理をして我を張るが、大和守安定は聞かなかった。一方的に言いたいことを口にして、返答も、相槌も待たずに歩き出した。
 ひらりと手を振って、上機嫌に足を進める。一歩、一歩が大きくて、堂々とした佇まいだった。
 後に残され、小夜左文字は複雑な顔で息を吐いた。
 細い煙が、一瞬だけ白く伸びた。周りの木々がガサガサ揺れて、合間を抜けた風が背中からぶつかって来た。
 確かに、寒い。
 鎌鼬の悪戯で、皮膚がぱっくり割れてしまいそうな鋭さだった。
 風さえも、時に凶器となる。ひび割れている指先に呼気を吹きかけて、短刀の少年は竹箒を拾い直した。
「小夜」
 表面の砂埃を払い、言われた通り残りの区画を掃除しようと決めた直後だった。
 屋敷の軒先から声がかかり、顔を向ければ知った顔があった。高い位置から見下ろされて、距離があるのに目が合った。
「……歌仙」
 口の中でその名を呟いて、何か用かと首を傾ぐ。だが待っていても、彼は近くへやってこなかった。
 それもその筈で、歌仙兼定は沓を履いていなかった。傍には沓脱ぎ石もなく、誰もが共有で使える草履の類も置かれていなかった。
 素足で地面に降り立つのに、躊躇しない方がおかしい。ならば止むを得ないと嘆息して、小夜左文字は自ら歩み寄った。
 箒を引きずり、地面に何本もの筋を刻む。放置された塵取りも合わせて眺めて、袴姿の打刀は膝を折った。
 屋敷の床は地面から一尺少々高い位置にあるので、屈んだとしても、彼の方が小夜左文字より背高だった。踵を浮かせて蹲踞の姿勢を作り、伸ばされた手は真っ先に白い襟巻を捕まえた。
 引っ張らず、外向きに伸びている布を揺らすに留める。深い襞を擽って形を整えて、動き回る指は少し落ち着きなかった。
「どうか、したのか」
 その間、彼はなにも語らなかった。人を呼んでおきながら用件を告げないのは、全く以て理解不能だった。
 怪訝にしていたら、ひと通り弄って気が済んだのか、男は手を放した。膝の上に拳を置いて、箒を斜めに構える少年に目を細めた。
「綿入れの用意をしないといけないね」
 足を崩し、右側だけ踵を下ろして膝を起こした。そこに頬杖をついた歌仙兼定に言われて、小夜左文字は訝しげに眉を顰めた。
 綿入れとは、その名の通り綿が入った防寒具のことだ。形や着丈は色々あるけれど、ぱっと頭に浮かんだのは、もこもことした柔らかな羽織りだった。
 前を閉じる為の紐が用意されて、裾は少し長め。膝小僧が隠れるくらいで、袖も手まですっぽり入る大きさだ。
 そういう上着が一枚あれば、たとえ冷たい風が吹いても耐えられる。この先雪が積もる日が出て来ても、きっと大丈夫だ。
 この程度の防寒具なら、さほど動き回る邪魔にならない。皸に薬を塗る日々は続くが、全身霜焼けになるのは、避けられるだろう。
 想像して、短刀はハッと我に返った。思い描くだけで胸の奥が暖かくなる錯覚に陥ったが、妄想は木枯らしによって、呆気なく吹き飛ばされた。
 ぶるりと身震いして、箒を握り締める。
 固い竹の節に指先を押し付ければ、歌仙兼定が露骨に顔を顰めた。
「これは、……大和守安定かい?」
「そう、だが」
「ただいまー。あれ、歌仙さんだ」
 太く節くれだった指が、再度白い襟巻へ伸ばされた。
 尖った気配に圧倒されて思わず後ずされば、間の悪いことに、当の本人が元気よく戻ってきた。
 空の竹籠を右肩に担いで、左手をぶんぶん振り回していた。衿元はすっきりしており、見慣れない所為で変な感じだった。
 明るく朗らかに言って、なんの気負いもなしに駆け寄って来た。一瞬不機嫌だった歌仙兼定は瞬きひとつで切り替えて、力の抜けた笑みを口元に浮かべた。
「すまないね、任せてしまって」
「いえいえ。僕も、さっき来たばっかりなんで。褒めるなら、小夜君に」
「う」
 庭掃除は、簡単なようで大変だ。なにせ範囲が広いし、終わった傍から枯れ葉が落ちてくる。
 堂々巡りで、果てが見えない。だから途中で嫌になって、投げ出してしまう刀剣男士が多かった。
 その点、小夜左文字は働き者だ。文句も言わず、率先して箒に手を伸ばした。
 そこに彼なりの打算が含まれていると、気付いている者と、そうでない者は、半々といった辺りだろう。歌仙兼定は勿論後者だが、大和守安定は推し量り難かった。
 小さめの手で結った髪ごとぽん、と頭を押さえつけられ、短刀は喉を詰まらせた。押された分だけ首を前に倒して、まるで御辞儀をしているようだった。
 それにも拘わらず、大和守安定は笑顔だった。楽しそうに目を細めて、歌仙兼定を呆れさせた。
「放してやってくれるかな」
「ああ、ごめん。小夜君」
 指摘を受けて、ようやく腕を引っ込める。謝罪は即座に成されたが、反省の色は見えなかった。
 心から悪いと思っている雰囲気はないが、それがこの男の特性だった。加州清光相手にしれっと毒のあることを口にするように、彼が放つ言葉は、どうにも重みに欠けていた。
 夭逝した幕末志士の刀は、願い虚しく命断たれてしまう儚さを知っている。いくら言葉にして訴えたところで、どうせ届かないと諦めている節がある。
 誇りに殉じれなかった悔しさが、彼の言動を軽くする。
 戦場での彼と歌仙兼定は、似ているようで、ひとつも似ていない。
「なに?」
 無意識に手が伸びていた。
 胴衣の弛みを掴んでいた事実に、小夜左文字は訊かれて初めて気が付いた。
「あ、いや……」
 目を逸らし、言葉を濁す。
 慌てて指を緩めれば、入れ替わりに大きな手が肩を叩いた。
 ぽん、とちゃんと加減した一打に、空色の瞳が揺らぎ、泳いだ。救いを求めるように振り返って、藍の髪の短刀は冷えた空気で胸を満たした。
「歌仙」
「小夜に、襟巻をありがとう。だが君は、寒くないのかな」
「大丈夫ですよ、ちょっとくらい。それより、小夜君が風邪でも引いたら、そっちの方が可哀想だし」
「刀は、風邪など」
 表面上は穏やかに繰り広げられる会話に、割り込むのは難しかった。
 聞き捨てならないと文句を言うが、相手にしてもらえなかった。抗議の声はさらっと無視されて、両者の間で目に見えない火花が飛び交った。
「っていうか、歌仙さん。小夜君にこんな格好で外を掃除させるなんて、駄目じゃないですか」
「言葉を返すようだが、大和守安定。僕だってなにも準備していないわけじゃない。これからもっと寒くなるんだ。冬物の支度だって、今やっているところだよ」
「今からじゃ、遅くないですか。もうこんなに、空気だって冷えてる。小夜君、毎日朝早いのに」
「そう言うのなら、君も少しは早起きして、手伝う努力をしてくれないかな。君たちが、水が冷たいからと嫌がっている洗濯物だって、この子が率先してやっているんだ」
「だからお礼、じゃないけど。襟巻、貸してあげたんじゃないですか」
「あの、……」
 早口の応酬に、どちらもまるで引こうとしない。冬は寒くて当たり前なのに、ふたりは責任を押し付け合っていた。
 それもこれも、小夜左文字が寒そうな格好で庭を掃除していたから。
 となれば一番悪いのは、この短刀に他ならなかった。
「襟巻程度で、なにを偉そうに」
「じゃあ、歌仙さんはなにがあるんですか」
「僕はね、綿入れを縫っているところさ。小夜に一等似合う、一点ものをね」
 首に布を巻いてやった程度で得意になるなと鼻で笑い、男は両手を腰に当てた。蹲踞の体勢で胸を張って、自慢げに仰け反る姿は滑稽だった。
 もっとも当人は、それに気付いていない。短刀と打刀ふた振りにぽかんと見詰められて、数秒してからはたと我に返った。
 素早く瞬きを繰り返し、呆気にとられる少年をそこに見出す。
 至近距離で目が合って、バチッと音がした。堪らず後ずさった短刀の前で、打刀は藤色の頭を抱え込んだ。
「歌仙?」
「出来上がってから、驚かせようと思っていたのに……」
 迂闊な真似をしたと悔やんで、呻く声は苦しげだった。
 完成まで秘密にしておくつもりでいたのに、道半ばで自ら暴露してしまった。馬鹿だとしか言いようがない失態に大和守安定は呵々と笑って、小夜左文字は力なく肩を落とした。
 実は、そんな予感はしていたのだ。
 ここ数日、寝床を整えた後で、彼がなにやら励んでいるのは知っていた。こちらが布団に入り、眠ったと判断するや否や、小さな行燈の灯りを頼りに細かな作業に勤しんでいた。
 朝起きた後には、道具諸々は全て片付けられていた。だから知られたくないことをやっているのだろうと、敢えて触れないようにしていた。
 針が指に刺さったらしい小さな悲鳴は、時折聞こえていた。そんな状態で眠れるわけがないのに、小夜左文字が何も知らないと甘く見て、得意としていない針子作業を頑張っていた。
 出陣した際に破れてしまった外套の布を再利用して、ちくちく縫っている。色柄が派手なので彼が着るのかと考えたこともあったが、結論が出てしまった。
 ああいう色や、大きな牡丹の絵柄は趣味ではないのだけれど、口が裂けても言えそうにない。
 顔を真っ赤にして項垂れている打刀の肩を、今度は短刀が叩く番だった。
 ぽん、と軽く触れて慰めて、嫌々と首を振る刀に肩を竦める。
「歌仙?」
「聞かなかった、ことに」
「分かった」
 名前を呼べば、弱々しい声で頼まれた。今にも泣きそうな顔で訴えられて、嫌だとは言えなかった。
 真顔で頷けば、ようやく安堵された。もう一度両手で額を覆って、彼は深く、長く、息を吐いた。
「小夜君、お掃除、終わらせちゃお」
「……ああ」
 一方で大和守安定はといえば、我関せずという感覚だった。
 放り出していた庭掃除を再開せんと、塵取りを手に小夜左文字を呼んだ。箒は彼が持つ一本しかこの場にはなくて、用具入れに取りに行く気は皆目なさそうだった。
 邪魔をしたいのか、手伝いたいのか。
 判断が付きかねる打刀に相好を崩して、短刀はまだ落ち込んでいる刀にも苦笑した。
「また後で」
 他にかける言葉が見付からなくて、当たり障りのないことしか言えなかった。それが却ってよかったのか、歌仙兼定は顔を上げると、何かを堪える表情で頷いた。
 唇を引き結び、決意を秘めた眼差しだった。
 今宵は徹夜で、針仕事を終えるつもりなのだろう。あそこまで言われて大人しく引き下がるほど、この打刀は大人ではなかった。
 そういう負けず嫌いなところが、馬鹿馬鹿しくはあるが、愛らしくもある。
 言ったら拗ねられそうな感想を心の中で呟いて、小夜左文字は竹箒で地面を掃いた。
 乾いた砂を巻き上げて、大和守安定が構えている塵取りへと枯れ葉を誘導する。
「小夜君て、歌仙さんには甘いよね」
「そういう貴方は、意地が悪い」
「そうなんだ。知らなかった?」
「……知ってた」
 掃き入れる瞬間、身を屈めた大和守安定が楽しそうに言った。
 短い返答に満足そうな顔をして、空にしたばかりの竹籠目掛け、集めたものを放り込んだ。
「終わったら、焼き芋しようよ。陸奥守には僕が頼んでくるから」
「ああ」
 彼が変に掻き回さなければ、歌仙兼定が口を滑らせることもなかった。羞恥に身悶えて赤くなって、無駄に気負ってやる気を燃え上がらせることだって、なかった。
 本人にそういう意図があったかは、分からない。どの賽子の目が出るか分からないように、転がした結果までは考えていない様子だった。
 こういう手合いは捉えどころがなくて、何をしでかすか先が読めない。ただ今のところ、誰かの計画を引っ掻き回す程度の害悪しかないので、放っておいても良さそうだった。
 美味しい提案を受けて、小夜左文字は頷いた。
 畑で収穫した芋は焼いても、煮ても、とても美味しい。ちょっと熱を加えるだけでホクホクになって、ほんのり甘く、腹を満たしてくれた。
 想像するだけで涎が出た。濡れてもない口元を拭って、少年は箒を忙しく動かした。
 

2015/12/27 脱稿

心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮
山家集 秋 470

花ならぬまた錦着るべし

 風が吹き、木々が揺れる。小石が転がり、砂粒が掬われて空を駆けた。
「うっ」
 細かな粒に襲われて、目に入りそうになった。咄嗟に腕で顔を庇って、小夜左文字は奥歯を噛んで唇を引き結んだ。
 空気が唸り声を上げ、真っ赤に染まった木の葉が一斉に舞い上がった。地表を埋め尽くす落ち葉を巻き込んで、それは一瞬の嵐となって彼を押し流そうとした。
 軽い体躯が攫われて、飛ばされそうだ。腹に力を込めて懸命に堪え、少年は空いた手で背に垂らした笠を掴んだ。
 首が絞まるのをなんとか回避して、未だ止まぬ風の中で薄目を開く。
 網膜を覆う水分を奪われて涙が滲む中、辛うじて見えた景色は見事に朱一色だった。
 春に見事な花を咲かせた桜が、この季節、緑の葉を朱色に染め変えていた。
 それは紅葉にも決して劣らず、とても美しい光景だった。しかもひと度風が吹けば空も、大地もいよいよ朱色を強めて、まるで炎の中に佇んでいる気分だった。
「すごい、な」
 圧倒されて、それ以外に言葉が出ない。
 屋敷が借景としている山肌も一様に紅に染まっていて、どこもかしこも、目に鮮やかだった。
 あまりにも鮮烈過ぎるものだから、見詰めていると目がちかちかして来た。少し休ませようと瞬きを繰り返して、小夜左文字は目尻に残る涙の欠片を削り落とした。
 ずっと握りしめていた笠も手放し、紐の位置を調整し直す。緩んでいないかどうかを確認して、彼はついでとばかりに深呼吸した。
「……はぁ」
 大きく息を吸い込んで、一気に吐く。
 それを二度、三度と続けていると、遠く、鳶らしき鳥の鳴き声がした。
 ただ残念ながら、その姿は見えない。天頂は朱色に塗り潰されており、この位置から空を望むのは難しかった。
 かなりの量の葉が地上に落ちているというのに、視界を埋める木々にはまだまだ沢山の葉が残っていた。
 これらが全て落ち切る頃に、冬がやってくる。
 この一帯は雪深いので、初雪が舞うのも比較的早かった。
 昨年のことを軽く振り返って、小夜左文字は右足を蹴り上げた。爪先に降り積もっていた木の葉を散らして、柔らかな土を踏みしめた。
 草履越しのこの感触が心地良くて、好きだ。大勢が通って踏み固められた道に比べると、時折ぬかるみがあったりして足を取られ易いが、ふかふかの絨毯を歩いているようで楽しかった。
 この気持ちを分かってくれる相手は、思いの外少ない。
 粟田口の面々はまず駄目で、太刀連中も同様だった。
 今剣は、一本足の下駄の歯が埋まるので、土は苦手だという。兄である宗三左文字も履物が汚れるから嫌だと言って、同意してくれなかった。
 この話をした時、江雪左文字だけが辛うじて頷いてくれた。ただ彼と一緒に庭を散策する願いは、未だ叶えられていなかった。
 屋敷が雪に閉ざされてからでは、遅い。
 かと言って春になると、花は美しいが、もれなく毛虫も増えた。
 あれに刺されると痛いし、腫れてしまう。半年前の記憶を蘇らせて、彼は首の後ろを撫でた。
 熱も出て、苦しかった。
 人間の身体とは、なんと不便なのだろう。審神者なる者に現身を与えられた刀剣の付喪神は、すっかり馴染んでしまった体躯を揺らし、自嘲気味に笑った。
「はは」
 両手を広げ、前に向かってぴょん、と跳ねる。
 着地の瞬間爪先が深く沈んで、ザッ、と木の葉が押し潰される音が鼓膜を震わせた。
 揺れ動く笠が邪魔にならないよう、手は自然と後ろに回っていた。
 身の丈四尺足らずの短刀には大きすぎるそれを捕まえて、舳先をほんのちょっと前に倒した。高い位置で結った髪を潰すように浅く被って、爪先立ちで跳ねてはくるくる回り、都度蹴散らされ、宙を舞う落ち葉に目を眇めた。
 足首に巻きつけた包帯が外れ、先端が蝶となって地表を舐めた。絡子環から垂れ下がる房が獣の尻尾のようでもあり、袈裟を纏う少年の動きに合わせ、上下左右、常に落ち着きなく跳ね回った。
 上空で風が唸り声をあげ、雲の流れはかなり速い。けれど今のところ、雨がやってくる気配は感じられなかった。
 空気が乾いており、山火事が心配だ。ここ数日小雨程度も降っていないので、そろそろ一雨欲しいところだった。
「おっと」
 地表から飛び出た木の根に足を取られ、危うく転ぶところだった。
 咄嗟に笠を手放して体勢を立て直して、小夜左文字は随分遠くへ来たと辺りを見回した。
 立ち並ぶ木々に隠れ、屋敷は見えなかった。
 何度も増改築を繰り返したお陰で、本丸はかなり広くなっていた。建物の配置は一層複雑になり、古参であっても時々道に迷う有様だった。
 中庭がいくつも整備され、建物を囲む形で水路が張り巡らされた。畑の水路には水車が完成し、水やりの苦労が幾らか軽減されて、農作業は随分楽になった。
 冬支度に備え、今は収穫の最終段階だ。山に仕掛けた罠で捕えた獣を解体して、皮を剥ぎ、肉と骨と内臓に分け、それぞれ保存食に加工したり、日用品を作ったりと、こちらも大忙しだった。
 本当なら、そちらを手伝うべきだというのは分かっている。
 けれど小夜左文字にはそれにも勝る役目が課せられており、これを果たさぬ限りは屋敷に戻れなかった。
「こちらでは、なかったか」
 審神者はここ最近、大太刀四振りと薙刀に加え、太刀の誰かを引き連れて出かけることが多かった。なんでも時の政府から、実戦に即した気晴らしの場を用意したので挑むように、との通達が出たらしい。
 もっとも帰ってきた第一部隊の面々を見る限り、とても気晴らしになっているとは思えない。大門を潜って戻ってくる彼らの顔は、一様に疲れ果て、うんざりしている様子だった。
 小夜左文字の兄である江雪左文字も、戦が嫌いだというのに無理矢理連れ回されていた。
 出陣前に持たせた握り飯が、帰還時に殆ど減っていないのが気がかりだった。ただでさえ彼は食が細いのに、そのうち倒れてしまわないかと心配だった。
 今日も、例の如く審神者に引っ張って行かれた。留守番を言い付かった弟に出来ることと言えば、美味しいものを作って待つことくらいだった。
「歌仙は、何処」
 その為には、手助けが必要だ。
 昼餉を終えた直後から姿が見えなくなった打刀の行方は、ようとして知れなかった。
 この本丸で最古参に当たる男は、冬支度の旗振り役でもある。
 春が来た際、冬場に使った道具をどこに片付けたのか。備蓄はどれだけあればいいのか。買い足さなければいけないものは、何か。
 そういった情報を一手に引き受け、まとめて整理しているのが、歌仙兼定だった。
 へし切長谷部もこういう仕事を得意としているが、なにせ彼と歌仙兼定は、仲が悪い。ふた振りが協力し合って何かに挑むなど、戦場で敵と相対すること以外、到底成立しない話だった。
 だから彼らには、異なる仕事をやって貰っていた。そして双方の情報をひとつにまとめるのが、両者に顔が利く小夜左文字の務めだった。
 火鉢や炬燵といった暖房器具用に使う炭を、あとどれだけ調達すればいいのか。
 本丸の財政を委ねられているへし切長谷部の質問に、早く答えを与えてやらなければいけない。
 本丸の物品や、在庫の管理を委ねられている歌仙兼定は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
 屋敷内の心当たりは、全て回った。
 彼が日常過ごす部屋や、皆で集まる大広間、台所、食糧貯蔵庫に、演練場。しかしどこに行ってもその姿はなく、目撃者も現れなかった。
 となれば、庭にいる、という線しか残らない。敷地の外へ勝手に出かけるのは、審神者によって禁じられているので、庭のどこかに隠れしていると考えるのが妥当だった。
 もっともその庭も、かなりの広さを誇っているのだけれど。
 桜の紅葉は鮮やかで、目に楽しかった。風流を好み、景色の移ろいを誰よりも楽しんでいる刀だから、てっきりこちらに居るとばかり思っていた。
 推理は、外れた。
「僕も、鈍ったか」
 歌仙兼定が好むものを、正しく把握していたつもりだったのに。
 どうやら驕っていたようだ。肩を竦めて苦笑して、小夜左文字は落ちて来た木の葉を空中で捕まえた。
 木漏れ日に透かせば、葉脈が見事だった。隅々まで綺麗に赤く染まっている葉で鼻の頭を掻いて、少年は来た道を戻ろうと踵を返した。
 彼がこの地に招かれてから、もう既に一年が経過していた。
 思えば、あっという間だった。
 二度目の秋を過ごして、今度は二度目の冬を迎えようとしている。それはとても驚くべきことで、不思議な感じだった。
 駆けて来た往路とは違い、復路はゆっくりした足取りだった。日々移り変わる景色を眺め、堪能し、時に立ち止まって風に耳を澄ませた。
 急がなくてもいい。
 焦らなくても良いと教えてくれたのも、あの男だった。
「おかしなものだ」
 復讐に固執し、仇を討つことばかりを考えていた。勿論今でもその願いは胸の中に有り、戦場に立つ度に生々しく蘇った。
 けれど本丸に帰ると、スッと心が軽くなった。ここが自分の居場所なのだと、気が付かないうちに身体に刷り込まれてしまっていた。
 最近は出撃の機会が減ったけれど、感覚が鈍らないよう、鍛錬は続けていた。いつでも隊を率いる覚悟はあると、小夜左文字は木の葉を握りしめ、拳を作った。
「うあっ」
 丁度そこに風が吹き抜けて、少年の背中を突き飛ばした。
 笠の所為で圧力を受ける面積が大きい分、簡単に煽られた。うつ伏せに倒れそうになって、短刀は片足立ちで飛び跳ねた。
 まるで唐傘お化けだと、何かの折に見た妖怪絵巻を思い出す。どうにか顔から落ちるのだけは回避して、小夜左文字は深く息を吐きだした。
 今の一瞬で鼓動が弾み、首筋は脂汗で湿っていた。耳鳴りを払い除けんと頭を振って、ずり落ちた威儀を整えた。
 所々で擦り切れている袈裟を撫で、額を拭って呼吸を整える。
 大自然に不意打ちを食らわされて、誰も見ていないのに恥ずかしかった。
 ほんのり顔を赤くして、誤魔化すように頬を叩いた。そのまま挟み込んで軽く揉んで、小夜左文字は何気なく辺りを見回した。
 上も、下も茜色に染めつけられて、自分だけが異なる色を纏っている。
 兄の袈裟を借りてくれば良かったか。景色から浮いている気がして、彼は藍染めの袈裟をひょい、と抓みあげた。
「ふふ」
 けれどこの色が一番似合っていると、自分でも思う。
 他の色を選ぶことは無いと断じて、少年は豊かに枝を茂らせる森を駆け抜けようとした。
 ざああ、と風が哭く。
 また吹き飛ばされては敵わないと、先手を打って笠を押さえつけようとして。
「……あ」
 木と木の間、かなり遠く。
 紅に彩られた景観の中、違和感を抱かせるものを見付けて、彼は出しかけた足を引っ込めた。
 たたらを踏み、踵で全体重を支えて、背筋を伸ばす。
 爪先を左右同時に地面に降ろして、小夜左文字は目を見張った。
「いた」
 見間違いではないと確信できた。
 思わず声にも出して、彼は邪魔でしかない木の幹を回り込んだ。
 枝打ちされて真っ直ぐ伸びている木々の合間を抜けて、道なき道を急いだ。柔らかな土を蹴散らし、弾む息と鼓動を抑えもようともせずに。
 その男は色美しく散りゆく秋の木陰で、目を瞑り、なにをするでもなく、ただ佇んでいた。
 裏地に牡丹をあしらった外套を羽織り、胸元には同じ大振りの花を飾って。
 藤色の髪は光の加減か色を強め、はらはらと散る木の葉に合わせて薄ら紅を帯びていた。
 爪先が僅かに反り上がった鞜を履き、椎鈍色の袴を風になびかせていた。時折捲れあがる袖から覗く腕は黒色の肌着に隠されて、指先は緩く曲がり、軽く握りしめられていた。
 やや俯き加減で、微動だにしなかった。
 なにをしているのかと、小夜左文字ですら戸惑いが否めない光景だった。
 風を浴びて、感じているとしか評しようがない。ただこんなところで瞑想にふける理由が思いつかなくて、短刀は小首を傾げ、足取りを緩めた。
「うっ」
 そこにまたもや風が襲い掛かり、地表を舐めるように天へ舞い上がった。大地に敷き詰められた落ち葉が一斉に空を目指して、ざあああ、と滝の水が砕けるような音が耳元に渦巻いた。
 発作的に顔を覆おうとして、小夜左文字は掲げた腕を意識して留めた。
 右腕を額に、左腕を鼻筋と口元に当てて首を竦め、少年は遠くで立ち尽くす男に向け、悲鳴を上げそうになった。
 風に攫われる。
 赤に呑まれ、連れていかれてしまう。
「かせ……っ」
 どうしてそんな風に感じたのかは、正直言えば分からない。けれど本能的な恐怖を覚えて、足が竦み、四肢が震えた。
 心の臓を鷲掴みにされた錯覚を抱かされ、電流が走り、動けなかった。
 袈裟が捲れあがり、振り乱された裾が足や腕を叩いた。巻き上げられた木の葉が膝の裏や脛に集団で体当たりを試みて、笠ごと吹き飛ばされてしまいそうだった。
 歌仙兼定の姿は木の葉の渦に掻き消され、跡形も残らない。
 そんな未来を想像して、息が止まりそうだった。
 時間にして、ほんの数秒。
 瞬きを我慢しても耐えられる程度の、ごく短い、一瞬の出来事だった。
 だというのに永遠に終わらない責苦を受けた気分になって、眩暈がした。ただ立っていただけなのに体力を根こそぎ奪われ、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
 いつから忘れていたかも分からない呼吸を再開させて、全身に酸素を行き渡らせる。
 ドッと押し寄せた疲労感に潰されそうになりながら、小夜左文字は目を凝らした。
「かせん」
 その姿は、変わることなくそこにあった。
 幻でも、目の錯覚でもない。紛れもない本物だと、確信できた。
 嬉しかった。安堵に襲われた。膝が笑って、今度こそ立っていられなかった。
「うわ」
 気が抜けて、くらっと来た。
 次の瞬間にはもう、地面にべったり尻を張りつかせていた。
 膝がカクンと折れて、力が入らなかった。腰が抜けるとは恐らくこういうことで、両手で地面を押してみても、下半身はぴくりとも反応しなかった。
 うつ伏せに突っ伏さずに済んだのだから、まだ幸いだ。そう考えることにして自分を慰めて、小夜左文字は膝頭に覆い被さっている木の葉を払い除けた。
「雨の後でなくて良かった」
 地面は乾いており、冷たかったが、濡れてはいなかった。それもまだ幸運だったと胸を撫で下ろし、少年は濃くなった土の匂いに唇を舐めた。
 鍬を入れて耕し、肥料を与えた土とはまた違う。
 もっと泥臭い、けれど胸に心地よい匂いだった。
 それを懐かしいと感じるのは、正直なところ、複雑だ。誰にも踏み荒らされていない地面をそっと撫でて、小夜左文字は不意に沸き起こった泣きたい気持ちを堪えた。
「小夜?」
 目頭がじんと熱くなったのを、息を止めて耐える。
 そこを狙ったかのように呼びかけられて、短刀は忘れていたと顔を上げた。
「いや、あ……、の」
「なにをしているんだい、そんなところで」
 弾かれたように首を伸ばしてから、急にばつが悪くなった。目が合う前にこちらから顔を背けて口籠れば、歌仙兼定は小首を傾げ、ゆっくり歩み寄ってきた。
 木の葉の絨毯を突っ切って、最短距離を選んで。
 一直線に近付いてくる男に顔を赤らめて、少年は巧い言い訳を探して目を泳がせた。
 もっともそんな事をしたって、口下手が解消されるわけではない。
 両者の距離はあっという間になくなって、手はごく自然に差し出された。
 立ち上がる手助けをしようと、歌仙兼定が軽く膝を曲げた。だが小夜左文字はそれを握り返すことなく、右往左往しながら下を向き、猫背になった。
「小夜?」
「地面、が。その。冷たくて、気持ち……いいから」
「うん?」
 涼やかな視線から逃げ、必死に誤魔化そうとするものの、叶わない。
 下手な弁解は墓穴を掘るだけと知っているのに、なにも言い返さないという案も採用出来なかった。
 結局声は尻窄みに小さくなり、中途半端なところで途切れてしまった。まだ先があると思ったのか歌仙兼定は暫く待って、十秒を過ぎてからストン、とその場にしゃがみ込んだ。
 ただでさえ小さい身体を丸めている少年に、圧迫感を与えない為だろう。
 目線の高さを揃えたがった男に、小夜左文字は降参だと白旗を振った。
「冷やすのは、良くないよ」
「……ああ」
 本丸で最も華奢な短刀は、薄着な刀としても有名だった。
 両膝どころか太腿まで丸出しだし、足元だって素足に草履だ。そんな状態で地面にぺたん、と座り込んでいたら、体温を奪われて身体が冷えてしまう。
 時折過干渉に思える男だが、今はその気配りが有り難い。
 深く追求することはせず、改めて手を差し出した打刀に、今度こそ短刀は腕を伸ばした。
 広げられた掌に掌を重ね、しっかり握りしめられるのを待って、腹に力を込めた。
 先ほど自力では達成できなかったことが、ふた振りだとやり遂げられた。ふらつきつつも立ち上がって、少年はホッと息を吐き、太腿に付着した土を振り落とした。
 身を捩り、真ん中で折れ曲がっていた袈裟を振動だけで伸ばす。右手は依然歌仙兼定に囚われたままで、試しに肘から先を揺らしてみたが、めぼしい反応は得られなかった。
「歌仙」
「それで、小夜は。こんなところで、何を?」
「う……」
 一旦は逃れられたと思ったのに、そう甘くなかった。
 改めてにっこり微笑みながら問い質されて、短刀は及び腰で顔を引き攣らせた。
 貴方が秋風に攫われそうに見えた、だなんて、口が裂けても言えないし、言いたくなかった。
 だが既に一度、言い訳に失敗している。
 束縛されている手を取り戻そうと足掻いて、小夜左文字は奥歯を軋ませた。
「だ、から。その……あの。炭、を」
「炭?」
「そう、炭だ。暖房用の、燃料の」
「ああ。そういえば、見積もるよう言われていたね」
 懸命に知恵を働かせ、頭を高速回転させる。その際ぴょん、と飛び出た単語を苦し紛れに口遊めば、予想外にもすらすら言葉が繋がった。
 ハッとなって、小夜左文字は顔色を明るくした。へし切長谷部からの依頼を思い出して力強く訴えれば、歌仙兼定も心当たりを勝手に探り当て、眉を顰めた。
 そう、小夜左文字は歌仙兼定を探していた。
 此処にいる理由は、それ以上でも、それ以下でもない。それ以外なく、他に説明の必要はなかった。
 助かった。
 救われた。
 偶然の奇跡に感謝して、短刀の少年は息を弾ませた。
 興奮気味に鼻息を荒くして、これでもう心配ないと頬を紅潮させる。そんな分かり易い子供を一瞥して、歌仙兼定はゆるゆる首を振った。
「あ……」
「なんだい?」
「いや、別に。なんでもない」
 その流れで指を解けば、包み込んでいた小さな手が零れ落ちた。もれなく温もりも一緒に流れ出して、小夜左文字の指が引き攣るように空を掻いた。
 無意識に何かを掴み取ろうとして、打刀に反応されて慌てて引っ込めた。背中に隠して袈裟を握って、左手は右肘を締め上げた。
 顔を背けながらのひと言は、いつにも増して早口だった。
 そういう誤魔化し方も分かり易いと相好を崩して、歌仙兼定は腕を掲げ、癖が強くて硬い髪をぽん、と撫でた。
 結い上げた先から二手に分かれている藍色の毛を梳り、少年のご機嫌を取る。下から覗き込むように見上げられて、打刀は目を細め、頷いた。
「紅葉が見事だったからね。つい、見入ってしまったよ」
「そう……」
 彼は右手を横薙ぎに払い、地上から空へと続く赤色の洪水に顔を綻ばせた。とても嬉しそうに声を弾ませ、口調はいつもよりずっと楽しそうだった。
 毎日のちょっとした変化を愉しみ、風流を見出すこの男は、自分が文系だと言って憚らない。昔はちょっとでも気に入らないことがあると、口よりも先に手が出ていたというのに、だ。
 再会を果たした時、彼は少しだけ我慢強くなっていた。耐える、ということを覚えて、我が儘な子供ではなくなっていた。
 それが少し誇らしくもあり、寂しかった。
 今もそれと似た心境にあると自覚して、小夜左文字は燃えるように色付く木々と、その向こうに透けて見える空を仰いだ。
「魅入られて、連れて行かれないようにね」
 夕暮れはまだ遠く、茜色の雲は拝めない。
 けれど確実にやってくる逢魔が時を予見して、短刀はぽつり、呟いた。
 深い意味はなかった。
 意識して放った言葉でもなかった。
 ただなんとなく、そう思った。彼が風に攫われる幻を見た所為で、隙が生まれていた。
 ここでの用事は、もう終わった。頼まれていた伝言は伝えたし、後は屋敷に戻って、江雪左文字たちが戻ってきた時の為に、何品か料理を用意するだけ。
 夕餉の材料を少し拝借して、なにを作ろうか。
 手の込んだものは無理だけれど、滋養があり、しかも食べやすいものと言ったら、粥か、汁物が真っ先に思い浮かんだ。
 団子汁も、悪くない。江雪左文字は肉食を忌避しているので、野菜を多めにして、温かいものを供してやればきっと喜ぶだろう。
 これからのことを考え、心が躍った。屋敷がある方角に足を向けて、草履で腐葉土を踏みしめた。
 遠く、微かに獣の声がした。
 郷愁を誘うその声は、鹿のものに他ならない。顔に似合わない甲高い音色に引き寄せられて、小夜左文字はつい、そちらに目を向けた。
 後方への注意を忘れ、どこかに居る四足の獣を探し、瞳を泳がせる。
「いっ――」
 ザザザ、と大きい波が押し寄せて、蹴散らされた木の葉が高く宙に舞いあがった。
 手首を囚われ、捩じられた。強引に、力任せに掴まれて、肘があらぬ角度で折れ曲がり、鋭い痛みが四肢を貫いた。
 武器としての本性が首を擡げ、咄嗟に払い除けようとした。抗い、足掻いて、小さな体躯で大きなものを投げ飛ばそうと試みた。
「それは君だろう!」
 けれど、果たせない。
 力負けした身体は想像した以上に動いてくれず、鼓膜を震わす絶叫は、鹿の声よりも余程哀れだった。
 背中側に腕を捻られて、振り解けなかった。
 手首に絡みつく指は太く、力は強く、遠慮も、容赦もなかった。
 手加減を忘れていた。圧迫された皮膚が見る間に酸欠に陥って赤く染まり、血の巡りを悪くした指先は白磁と化して痙攣を起こした。
 痛い。
 苦しい。
 混乱に陥った頭は思考を停止して、何が起きているのか、状況がまるで理解出来なかった。
 歌仙兼定がそこに居た。
 小夜左文字の腕を捕らえ、力尽くで捻じ伏せていた。
「か、……んっ」
「攫われたのは……居なくなったのは、君の方だろう!」
 不自然な体勢で、呼吸のひとつもままならなかった。声は掠れ、途切れて続かない。懸命に名前を呼んでも届かなくて、獣の怒号に掻き消された。
 なにをそんなに怒っている。
 どうしてそんなにも、腹を立てている。
 なにが癪に障ったのか。
 なにが彼の逆鱗に触れたのか。
 自然とこみあげてくる涙で視界が濁り、霞んで、世界の輪郭がぼやけていく。
 痛みに鼻を愚図らせて、小夜左文字は吼える打刀に奥歯を噛み締めた。
「いつだって、そうだ。君がいなくなる。君の方から、勝手にいなくなる!」
 喉が引き裂かれて、血が噴き出るのではと危惧したくなる叫びだった。
 腹の底から声を絞り出して、涙など一滴も流れていないのに、全身で泣いているようだった。
 癇癪を爆発させていた。
 溜め込んでいたものを、一気に噴出させていた。
 赤色が見えた。
 鮮やかな緋に染まる世界を背景にして、歌仙兼定自身も朱色に濡れていた。
 短刀は脆い。どれだけ俊敏さを武器としようとも、一度でも傷を食らえば途端に足が止まり、敵の格好の標的になった。
 京の夜は騒がしく、道は狭かった。夜目の利かない太刀や大太刀がまともに戦える場所ではなく、いかに素早く駆け抜けられるかが、勝負の別れ目だった。
 眠れぬ夜を過ごし、目を真っ赤に腫らした男に何度抱き上げられたことか。
 髪も整えず、髭も生え放題で、酷い有様の彼を寝床から見上げた日もあった。
 守り袋がなければ折れていたと、後で教えられた。
 手入れ部屋で傷は癒えているのに、なかなか目覚めないから心配したと、あちこちで話を聞かされた。
 最初は、細川の城で。
 餓えた領民を救う手だては他になく、誰かの命を繋ぎとめられるなら、血に穢れた刀でも役に立てると嬉しかった。
 後に残したもののことなど、考えなかった。
 気丈にやっているものと勝手に期待して、信じて。それでも心のどこかで、寂しく感じてくれていたら嬉しいと、酷いことを考えた。
「君は、いつもそうやって」
 顔を真っ赤にして、歌仙兼定が叫ぶ。
「痛い、歌仙」
 抗えば、腕を掴む手に尚更力が込められた。血の巡りは一層悪くなって、手首がミシミシ音を立て、押し潰された骨が今すぐにでも砕けそうだった。
 指が引き攣り、短い爪が空を掻く。
 消え入りそうな声に男は耳を貸さず、牙を剥き、修羅と化して、血の涙を流して慟哭の声を上げた。
「勝手に僕の前から居なくなる!」
 冬が迫っていた。
 実りの季節を終えて、雪に閉ざされた暗い世界が訪れようとしていた。
 だけれど本丸には、たっぷりと食糧が備蓄されている。米も、野菜も、肉も、無茶をしなければひと冬楽に超えられるだけの量が、既に貯蔵庫に集められていた。
 暖房器具も、去年に比べて充実していた。火鉢が増えたし、櫓炬燵だってそうだ。綿入りの半纏は暖かいし、雪沓の編み方だってすっかり手慣れていた。
 来年の為の種籾さえ年貢に奪われ、草木の根を齧るようなことはない。干からびてひび割れた、嘗ては豊かな水田だった場所を前に、呆然と立ち尽くすこともない。
 この本丸が、小夜左文字の帰る場所だ。
 仲間がいて、友人が居て、兄がいて、歌仙兼定がいる。
 長い、長い放浪の果てに、ようやくたどり着いた安寧の場所だった。
「許さない。だったら僕が、君を。君を……っ!」
「之定、痛い!」
 怒りに我を忘れ、男が吠えた。
 茜に染まる大地に首を振って、小夜左文字が泣き叫んだ。
 ざわ、と風が騒いだ。
 ふたりの頭上に木の葉が降り注がれて、一瞬の静寂が場を包み込んだ。
 打刀は二度、三度と瞬きをして、捩じられた腕を前に唇を噛む少年を見た。鋭い眼差しで睨まれて、目尻に浮かんだ涙にハッと息を飲んだ。
「っす、すまない」
 我に返り、慌てて手の力を緩めようとした。
 けれど指の関節が凝り固まってしまったのか、なかなかすぐには外れなかった。
 残る手も使って指と指の間をこじ開けて、小夜左文字の細い手首を解放する。
 白い肌には紅葉より遥かに毒々しい色の痣が刻まれて、その形に凹んで戻らなかった。
 痛みは簡単に引かず、熱もすぐには下がらない。
 チリチリして痺れている指先に息を吹きかけて、小夜左文字は後退を図った男にかぶりを振った。
 目を閉じ、咎めるつもりはないと態度で示す。
 けれど歌仙兼定は自分が許せないのか、頭を抱え込み、ふらついて身を屈めた。
「すまない、小夜。僕は、……僕は、君に」
「いい。僕も、すまなかった」
「違うんだ小夜。君だって、好きであんな――」
「いいんだ、之定」
 狼狽激しく奥歯を噛み鳴らし、顔面蒼白になって男が喚く。
 それを静かに制して、小夜左文字は赤黒く腫れた手を背中に隠した。
 あんな風に怒鳴りつけられて、痛かったし、苦しかったけれど。
 嬉しかったと言ったら、彼はどんな顔をするだろう。
「帰ろう」
 言えない想いを胸に隠し、反対の手を差し出して、囁く。
 我が儘で癇癪持ちの子供は一瞬怯むように仰け反り、唇を引き結び、泣きそうな眼を瞼の裏に隠した。
「ああ、……そう、だね」
 躊躇を呑み込み、言葉を噛み締めて。
 彼は一番大事なものを傷つけた手で、大事なものを握りしめた。

 2015/11/10 脱稿

もみぢ散る 野原を分けて行く人は 花ならぬまた 錦着るべし
山家集 秋 483