とる榊葉の色変へずして

 雲雀だろうか。褐色の羽に斑模様の鳥が、餌を探して畑で跳ね回っていた。
 翼があるのに、地面に足を下ろし、じっと地上を覗いていた。熱い眼差しを辺り一帯に送りつけて、何かを見つけたのか、嘴を柔らかな土中へと突き刺した。
「雄だな、あれ」
「分かるんだ」
 そんな鳥を邪魔しないよう、遠巻きに眺めながら呟く。
 愛染国俊の言葉に、膝を折って屈んでいた蛍丸が声を高くした。
「ああ。冠羽があるだろ?」
 感心しながらの相槌に、赤髪の短刀は得意げに胸を張った。右手を掲げて己の頭を指差し、続けて虫を見事捕まえた鳥を指し示した。
 言われてみれば確かに、頭部の羽毛が起き上がり、冠のような形になっている。鶏の鶏冠に似ていなくもないが、こちらの方がずっと柔らかそうだった。
 体長は六寸八分程度で、翼を広げればもっと大きくなるだろう。捕まえた虫を器用に咥えて、警戒してか周囲を見回した。
「おっと」
 今更動いても無駄だというのに、蛍丸が慌てて頭を抱え込んだ。背中を丸めて小さくなって、小鳥の視界から消えようと足掻いた。
 一方で愛染国俊は背筋を伸ばし、凛とした姿勢を維持した。
 追いかけて来なければ、石を投げもしないと分かっているのだろう。雲雀の雄は辞儀でもするかのように頭を低くし、翼を広げて風を起こした。
「雛が産まれたのかな」
「赤ちゃん?」
 熱心に地面を掘り、餌を探し回っていた。
 その理由を推測して空を仰いだ短刀に、見目幼い大太刀は 興味津々に声を響かせた。
 小鳥は既に飛び立った後で、地面にはなにも残っていなかった。新芽を荒らすこともある鳥ではあるが、孵ったばかりの雛の為だとすれば、仕方がないと諦めることも出来た。
 両手を腰に当て、愛染国俊が鷹揚に頷く。
 蛍丸はゆっくり身を起こして、膝に付着した土を払い落とした。
「春は、繁殖の季節だからなあ」
「はんしょく?」
「やっ。別に、変な意味とかねーからな」
 その隣で、短刀は感極まったのか、鼻の下を擦った。新たな命の誕生を祝福して、鸚鵡返しに訊き返す大太刀には何故か顔を赤くした。
 急に声を荒らげ、上擦らせた。
 照れて焦った表情を前に、蛍丸は不思議そうに首を傾げた。
 きょとんと目を丸くして、数回瞬きを繰り返した。じっと見つめられた方はもごもご口籠り、対処に困って煙を噴いた。
「だー、あ、なんでもねーし。気にしなくていいから。それよりさっさと続き、終わらせちまうぞ!」
 深く考えないまま発言して、揚げ足を取られた。
 まさかそこに食いつかれるとは思っておらず、変に意識してしまった。
 別段疾しい話でもないのに恥ずかしがって、反応は過剰だ。
 大声で怒鳴り散らされた蛍丸は眉を顰め、それからすぐに頬を緩めた。
「はぁ~い」
 背伸びをしながら返事して、口元を綻ばせる。
 意味ありげな表情で見つめられて、愛染国俊は蟹歩きで距離を取った。
 柔らかな地面に足跡を残し、他より土を盛って高くした畝に当たって止まった。転びそうになったのを耐えて振り返り、順調に育っている農作物に目尻を下げた。
「あぶね」
 もう少しで押し倒してしまうところだった。
 自分御注意力不足を悔やんで舌打ちして、彼は汚れてもない頬を手の甲で擦った。
「国俊。これって、あとどれくらいで収穫できるかな」
 火照った顔を冷まし、呼吸を整える。
 唇を舐めて唾を呑み込んだ辺りで訊ねられて、短刀は考え込んで口をヘの字に曲げた。
「そうだなあ。どれくらいだろ」
 審神者なる者が歴史修正主義者を開始して、もう一年が過ぎた。暦は一周して、本丸には二度目の春が訪れていた。
 屋敷で暮らす刀剣男士の数は、今では五十を越えていた。昨年の今の時期はその半分以下だったことを思うと、かなりの賑やかさだった。
 そして蛍丸は、春を知らない。彼が顕現を果たしたのは、季節が夏に入ろうとしていた頃だった。
 黒みが強い土から、太い茎が伸びていた。蔓が支柱に絡みつき、青々とした葉が自由を謳歌していた。
 実を食べるものなので、収穫は花が咲いてからだ。蕾らしきものは散見しているけれど、綻びそうなものはまだなかった。
 冬を越え、春まで頑張って育てて来た野菜だ。
 是非とも美味しくなって欲しくて、愛染国俊は背伸びをし、枝分かれようとしている側枝を断ち落とした。
 鉄製の鋏を用いて、心の中で謝罪しつつ、摘み取る。
 こうしておかないと株が大きくなりすぎて、実に充分な栄養が行き渡らなくなるのだ。
 風に負けないよう縄で作った柵の中で、空豆はすくすく成長している。
 食べる側の身勝手で間引くのは、正直言えば心苦しかった。
「ん」
「すまねえ」
 切り取った側枝は、蛍丸が引き取った。足元に置いていた籠に入れて、次を受け取るべく、軍手を嵌めた手を広げた。
 左から右へ少しずつ移動しながら、黙々と作業する。
 陽射しは暖かいが、日光に長時間晒されるのは過酷だった。
「あっちぃなあ」
「でも、もっと暑くなるでしょ」
「だな。これくらいでへばってたら、みんなに笑われちまう」
 本丸に暮らす刀剣の付喪神の中でも、愛染国俊は特に声が大きく、五月蠅いと認識されていた。
 実際、祭り好きでお調子者な性格もあり、煽てられるとすぐ調子に乗った。粟田口の短刀たちとも親しくしており、騒ぎの中心には大体いつも、彼がいた。
 元気で明るく、時に無鉄砲。
 そんな仲間内からの評価が、愛染国俊の誇りだった。
 汗を拭い、上着の裾をはためかせる。腹を覗かせ、素肌に空気を送り込んで、口からは深く長い息を吐いた。
 ちょっと休憩したいところだけれど、雲雀観察で時間を使ってしまった。
 こんなに近くまで来るのは珍しくて、ついつい見入ってしまった。蛍丸まで巻き込んで、作業の手を止めてしまった。
 畑仕事はただでさえ重労働で、しかもやることが多い。馬小屋の掃除の方が、終わりがはっきりしているだけに、まだ楽だった。
「あとどんくらいー?」
「んー。結構、ある」
「げえぇぇぇ」
 空豆の支柱の補修、補強と、側枝の処理に、甘藍の収穫を終えた場所の整地。
 ざっと数えただけでもそれだけあって、とても今日中に終わりそうになかった。
 倒れていた支柱の補修は終わっているけれど、手入れの方はまだ半分以上。整地まで行けるかどうかは、賭けだった。
「国行、ちゃんとやってんのかな」
「さーあ?」
 本日の畑仕事は、来派の小さい刀ふた振りが担当だった。
 そこに、彼らの保護者を気取る太刀が名乗りを上げた。このふた振りだけに任せておけないと、珍しく積極的だった。
 普段からやる気がないと公言して、暇を見つけてはごろごろして過ごしている刀だ。たとえ暇ではない時でもぐだぐだで、屋敷のことは何もしようとしなかった。
 布団は敷きっ放しで、靴下も脱ぎっ放し。
 洗濯物は溜まる一方で、風呂を入るのも面倒臭がった。
 放っておけば、黴が生える。茸が生える。刀なのに腐って、分解されて土に還る。
 仕方がないので、愛染国俊が積極的に世話を焼いていた。別にいなくて良い、と言っていた蛍丸も、渋々彼を手伝っていた。
 保護者とは本来、か弱き者を保護する立場の者を指す。
 だが来派にとっての保護者とは、『介護される者』の意味だった。
 いつも気だるげな明石国行は、散乱する枯れ葉を集め、地面を耕し、新しい畝を作る役を引き受けていた。
 だがその太刀の姿が、その場所に見当たらない。地表を覆っていた甘藍の葉は消えているが、肝心の男までもが畑から失われていた。
「あの野郎、ばっくれやがった」
「まあ、国行だし」
 ひと通り辺りを見回し、愛染国俊が地団太を踏んだ。
 蛍丸は最初から期待していなかったようで、ため息と共に呟いた。
 首に提げた手拭いを揺らし、あんな男は放っておいて、自分たちの役目を終わらせようと相方の背を叩く。
「いでっ」
「あ、ごめん」
 軽くやったつもりだったのだが、短刀はつんのめり、膝を折った。
 見た目は幼いけれど、蛍丸は大太刀だ。その背丈よりも長い刀を軽々操り、複数の敵を一度に薙ぎ払った。
 彼が一緒に出陣してくれると、とても頼もしい。
 ただしごく稀に、攻撃に巻き込まれそうになるのが怖かった。
「くっそー。この馬鹿力め」
「ごめんって、国俊」
 またしても、空豆を薙ぎ倒すところだった。
 すんでのところで回避して、蹲り、愛染国俊はひりひりする場所を服の上から撫でた。
 まさか倒れるとは、蛍丸も思っていなかった。加減がなかなか難しいと苦笑して、彼も屈み、膝を抱え込んだ。
「……なんだよ」
「土の匂いがする」
 頭を低くして、軍手のまま踏み荒らされた畝の谷間を撫でた。視線が逸れた短刀は怪訝に口を尖らせ、姿勢を作り直した。
 爪先だけで体重を支え、膝を前に突き出し、尻は踵に置いた。いわゆる蹲踞の体勢を作って、愛おしげに大地に触れる大太刀に首を捻った。
「蛍?」
「ここの土、良い匂いがする」
「そうか?」
 彼は途中から手袋を外し、掌を直接押し付けた。空気を含んで柔らかな地面に手形を残し、満足そうに頷いた。
 愛染国俊にしてみれば、土はどれも同じだ。泥臭くて、良い匂いと思ったことはなかった。
 鍬を手に耕せば埃だらけになるし、口の中に砂利が入ると不快極まりない。目に入れば痛いし、汗ばんだ肌に張り付いて気持ちが悪かった。
 だというのに、蛍丸は今にも地面に寝転がりそうな雰囲気だ。頬を緩め、満面の笑みを浮かべていた。
 彼は一部の刀に比べると、まだ表情豊かな方だが、こんな笑顔は珍しい。底抜けに幸せそうで、楽しそうだった。
 ただ地面を撫でているだけなのに。
 釈然としなくて、愛染国俊は眉を顰めた。鼻に貼り付けた絆創膏を爪で掻いて、悩んだ末に自分も彼を真似てみた。
 鉄製の重い鋏を置き、外した軍手をその上に被せた。胼胝の潰れた跡がある指で地面に浅く溝を掘り、掻き出した分を掌で押し潰した。
 柔らかかった。
 思った以上にサラサラしており、ふっくら温かかった。
「いい匂い、ね」
「しない?」
「どっちかっつーと、くせぇ」
 肘を折り、顔の前に掲げた掌を鼻に近付けてみた。表面には数粒こびりついて、揺らせばぱらぱら落ちて行った。
 蛍丸が言うような匂いは、全く感じられなかった。
 畑に来てかなり時間が経っており、鼻が土の匂いに慣れ過ぎたのだろう。それよりも軍手でも防げなかった鋏の、鉄の臭いの方が強かった。
 汗と混ざり合って、間違っても芳しいとは言えない。
 鼻の奥がツンと来る酸っぱさに、彼は渋面を作った。
「ふふ」
 手首を大袈裟に振り回す愛染国俊を見て、蛍丸がクスクス笑った。
 目尻を下げて両手で土を掘り返し、掬い取ったものをその場に落とした。
「良い土だよ、此処の畑」
「なんでそう思うんだ?」
 感嘆の息を漏らし、囁く。
 短刀は両手を叩き合わせて土を払い、首を右に傾けた。
 先ほどから、彼は妙にこの土地を贔屓にする。どこも似たようなもの、との認識しかない愛染国俊には、理解し難い感覚だった。
 そもそも畑には、頻繁に肥料が追加されていた。作物が良く育つ環境が形成され、維持されており、良い土なのは当然だった。
 毎日手入れを欠かさず、冬の間もそれは変わらない。
 炎天下での草むしりは地獄だが、その後食べる冷えた西瓜は最高だった。
 まだ先の季節に思いを寄せて、赤髪の少年が眉間に皺を作る。
 蛍丸は頬を緩め、指先から零れる土に目を細めた。
「俺が前に居たところと、土が似てる」
「お前が、……って。ええと」
「うん。阿蘇」
 親指で掌に残る分を捏ね、押し固めた。しかしちょっと刺激を加えれば、形は簡単に崩れた。
 粒子が細かく、庭の土と比べるとかなり黒い。水捌けが良くて、耕作がし易かった。
「石灰を撒いてやるとね、地中の酸性が緩和されるんだ。そうやってちょっとずつ、土壌を改良してってさ」
「へえ」
「阿蘇のお野菜、美味しいよ。水は豊かだし、暖かいし。そりゃちょっと、噴火とか、大変な時もあるけど」
 掘り返した場所を埋めて、上から二度、三度と軽く叩く。
 合間に呟いた蛍丸に、愛染国俊は緩慢に頷いた。
 翠玉のような丸い目を眇めて、大太刀の視線は手元に注がれていた。唇はなにか言いたげに動いた後、真一文字に引き結ばれた。
 昔のことを思い返しているのか、表情は険しい。耳を澄ませば荒い息遣いが聞こえ、苦しそうだった。
 胸が締め付けられるような痛みを、見ている側に引き起こさせた。
 掛ける言葉が思いつかない短刀は天を仰ぎ、地を見詰め、彷徨う手は空を撫でた。
「うっ」
 土と鉄の汗の臭いを漂わせて、愛染国俊は蛍丸の頭をガシガシ掻き回した。
 柔らかな髪をぞんざいに扱い、ぐしゃぐしゃにした。毛先は四方八方を向いて逆立ち、蘇鉄のようだった。
 ぴょんぴょん毛先を跳ねさせて、悪戯な短刀が歯を見せて笑う。
「へへへっ」
「背が縮んだら、国俊でも許さない」
 上機嫌に胸を反らされて、蛍丸は両手を頭に押し当てた。
 大太刀でありながら誰よりも背が低いのを、彼はこっそり気にしていた。磨り上げられたわけでもないのに小さいのは納得がいかないと、顕現したばかりの頃はよく愚痴を零していた。
 頭を撫でられ続けると、摩耗するのではないかと危惧している。
 そんな訳がないのに、その辺はやや自意識過剰だった。
 拗ねて煙を噴く相棒に、愛染国俊は頬を緩めた。一瞬だけ神妙な表情を浮かべて、膝を伸ばし、立ち上がった。
「いつか、食ってみてえな」
 腕を高く掲げて背骨を鳴らし、遠い大地へと思いを馳せる。
 蛍丸も起き上がって、力強く頷いた。
「国俊、絶対気に入ると思う」
「そいつは楽しみだぜ」
 軽く身体を動かして凝りを解し、作業を再開すべく、軍手と鋏を一度に掴み取った。頼もしい宣言に口角を持ち上げて、もう一人の来派を探して視線を彷徨わせた。
 明石国行はやはり指定の場所におらず、雲隠れを決め込んだままだった。
「あいつ、また」
 自分は作る側でなく、食べる方でいたいと常々口にしていた。
 働かざる者食うべからず、の規則は本丸の基本中の基本であり、例外は認められないというのに。
 このままだと彼は、間違いなく餓えに苦しむことになる。
 駄目すぎる保護者を持った不幸を恨み、愛染国俊は鼻孔を擽る臭いに眉を顰めた。
「国俊」
「ああ」
 蛍丸も気付き、顔を曇らせた。
 先ほどまでは、全く感じなかった。それがいつの間にか、畑に広がっていた。
 なにかが燃えている、焦げた臭いだ。
 風は南西から、北東に向かって吹いていた。そして彼らがいる畑は、屋敷の北に存在した。
「まさか」
 嫌な予感を覚え、ふた振りは揃って風上に顔を向けた。背伸びをして身長を補い、懸命に目を凝らした。
 だが瓦屋根を戴いた重厚な屋敷は、前と変わらずそこに構えていた。
 火災が起きた様子はなく、問題は見当たらなかった。逃げまどう仲間たちの声もせず、至って静かだった。
「……あれ?」
「国俊、あれ」
 予想が外て、唖然とさせられた。喜ばしいことなのに喜べず、惚けていたら、蛍丸に袖を引かれた。
 遠くを指差しながら言われて、彼と同じ方角に目を向ける。
 灰色の煙が細い棚引き、風に煽られゆらゆら揺れているのが見えた。
 畑の片隅で、野焼きをしている者がいる。
 誰の仕業かなど、考えるまでもなかった。
「なにしてんだ、あいつは」
 今日はさほど風が強くないが、火の粉が散って農作物に燃え移ったら一大事だ。風向きが変わり、建物の方に延焼されるのも困る。
 だというのに、何を考えているのだろう。
 火は便利な反面、とても危険だ。対処を誤れば、目を覆わんばかりの惨事を引き起こしかねなかった。
 軽率な真似をしたと腹を立て、愛染国俊は鋏を握りしめた。肩を怒らせ、わなわな震え、力任せに奥歯を噛み締めた。
「国行の野郎」
「待って、国俊」
 居ても立ってもいられなくて、柔らかな地面を蹴り飛ばした。空豆の生垣から抜け出して、全速力で駆けた。
 彼は本丸の中でも、足が速い部類に入る。蛍丸も他の大太刀よりは脚力がある方だが、短刀相手では到底敵わなかった。
 あっという間に引き離して、赤髪の少年は焚き火の前に座り込んでいた男目掛けて突進した。
「くにゆきぃぃぃぃぃぃ!」
「お? やっとお出ましか。待っとったで――げはぁっ」
 土埃を撒き散らし、猪と化して突っ走る。
 遠くから響く大声に明石国行は顔を上げ、暢気に語り掛ける途中で悲鳴を上げた。
 寸前で腕を伸ばした短刀の、肘が見事に喉に決まった。顎に痛烈な一撃をお見舞いして、首の骨を折る覚悟で吹っ飛ばした。
 ずどぉん、と凄まじい音が轟いた。土煙がもくもくと立ち込めて、足元には細身の眼鏡が転がった。
 明石国行は呆気なく倒され、地面に大の字になった。耕作地とは違い、踏み固められている大地に横たわって、目玉をぐるぐる回していた。
「ったく、危ねえだろうが」
「はっ、は……やっと、着いた」
「くあ~……いった。急になにしますん、国俊。危ないんはどっちや」
 愛染国俊は鼻息荒く捲し立て、じんじんする腕を庇って拳を作った。蛍丸がようやくふた振りに合流して、伸びていた太刀はゆっくり身を起こした。
 頭と喉を同時に撫でつつ、いきり立つ短刀を咎める。
 あと少しで喉仏が潰れるところだったと呟き、眼鏡を探して視線を巡らせた。
 拾ってやったのは蛍丸だ。表面の汚れを息で拭き飛ばし、弦の部分で自称保護者の男を小突いた。
「おお、おおきに。やっぱり蛍丸はええ子やな」
 偏愛している大太刀から渡されて、明石国行は一気に頬を緩めた。嬉しそうにはにかんで、傷がないか確かめてから、いつもの場所に装着した。
 彼の依怙贔屓ぶりは有名で、本丸で知らない者はいない。今回は差別される理由があったとはいえ、愛染国俊は面白くなかった。
 乱暴を働いたのにだって、理由がある。
 いったい何を燃やしているのか、焚き火はさほど大きくなかった。
「焚き火をする時は、水をちゃんと用意する。教わったでしょ」
「そういえば、そんな話を蜻蛉切はんが、随分前にしてはったような」
 但し消火用の水は用意されていなかった。桶も、用水路もそこにあるのに、万が一の事態に備えていなかった。
 火の始末は、大事だ。消したつもりでも、奥で燻っていることがある。だから台所当番は竈の扱いに慎重で、限った者にしか触らせなかった。
 おぼろげな記憶を頼りに呟いた明石国行は、見目幼いふた振りから睨まれても飄々としていた。悪びれることなく顎を撫でて、成る程、と頷くだけだった。
 事の重大さを、まるで理解していない。憤慨して足を踏み鳴らす愛染国俊を低い位置から見上げて、眼鏡の太刀は折り畳んだ膝に頬杖をついた。
「けどなあ、国俊。そない神経質にせんでもええんとちゃう?」
「なんかあってからじゃ、遅いだろ」
「大丈夫やって。火なんか、ぱぱっと足で土かけたったら、それで消えんねんから」
 のんびりした口調で呟き、しゃがんだまま地面を蹴る仕草をする。片足座りで転びそうになったのはご愛嬌だが、見ていた蛍丸はにこりともしなかった。
 愛染国俊も憤然として、眼光は鋭い。
「かなんなあ」
 ここまで機嫌を損ねるかと頭を掻き、明石国行は地面に突き立てていた竹ひごを一本引き抜いた。
 焚き火を囲うようにして、合計で三本設置されていた。
 細く、長さは一尺ほど。その真ん中やや上よりのところには、真っ黒に炭化した物体が刺さっていた。
 円柱状のものが二寸五分程度の幅で揃えられ、どの串にも三本ずつ、連なって並べられていた。火に直接触れていないからか、焦げていない箇所もあり、そこは瑞々しい白だった。
 断面からは汁が滲み、湯立って泡を作っていた。鼻を近づけると、不思議とどこかで覚えがある匂いがして、焦げ臭さはあまり感じず、土の香りよりはよっぽど好印象だった。
「ほら」
 そんな消し炭状態の物体を、突き出された。
「はあ?」
 訳が分からなくて、愛染国俊は素っ頓狂な声を出した。
 白い湯気が数本立ち上り、匂いだけは合格点だ。しかし火に触れていた場所は黒に染まり、見ているだけでげんなりした。
「なんだよ、これ」
「食べえや。美味いで」
 受け取りを拒否し、その正体を問い質す。だのに明石国行は答えず、尚も串を突き出した。
 短刀は慌てて後退して、蛍丸の真横まで逃げた。その大太刀もきょとんとしており、不機嫌そうに顔を顰めていた。
「俺たちに、炭、食べさせようって?」
 一目見ただけで、これが食べ物だと分かる者はいないだろう。それくらい見事に黒い塊だ。喜んで受け取る方が可笑しかった。
 それにも拘わらず、明石国行は彼らの反応に不満げだ。伸ばしていた肘を曲げて、口はヘの字に引き結んだ。
「美味いのになあ」
「ていうか、国行。さっさと、火」
「もったいないわあ。ほんま、惜しいなあ」
「あ」
 諦め悪く呟いて、愛染国俊を怒らせる。しかし彼は聞く耳を持たず、手元の炭に息を吹きかけた。
 一部だけ冷まして粗熱を取り、小突いて温度を確かめた。とても食べられそうにない表面を爪で掻き、捲れ返ったところを抓んで、一気に引っ張った。
 ぺり、と。
 蛍丸が唖然とする中、黒かった部分は途中で千切れることなく、串刺しの葱から剥ぎ取られた。
 ぐるりと一周させて、無用となった表皮部分は焚き火に投げ込まれた。串から漂っていた湯気は倍増して、香ばしい匂いも一段と強くなった。
 まるで魔法だった。
 あんなにも見た目が悪かったものが、一瞬で変身を遂げた。
「うわあ」
「えっ、なに」
「はむ。う、……あちち」
 食欲をそそる香りに、自ずと唾液が溢れた。堪らず身を乗り出したふた振りの前で、明石国行はゆっくりと、熱々の葱に齧り付いた。
 前歯を突き立て、時間をかけて内側へと突き刺した。白くほっこり焼き上がった茎は僅かに抵抗し、ぐちゅりと、大量の水分を輩出した。
 それがあまりにも熱くて、悲鳴が上がった。
 噛み千切るのを諦め、口を離した太刀が串を振り回した。その分多くの空気に触れて、少しだけツンと来る匂いが辺りを埋め尽くした。
「あっひひ……こらあかん。熱すぎるわ」
 もう少し冷ますべきだったと反省して、彼は串を横にした。両端を挟み持って顔を近づけ、先ほどより念入りに呼気を吹きかけた。
 空気が動き、押し出された匂いが短刀の鼻先を掠める。
 蛍丸など鼻をひくひくさせて、太刀の一挙手一投足を見守っていた。
「なんや。いらんねやろ」
 それを知って、明石国行が意地悪を言った。歯型が残る場所を口に含んで、唇が火傷するのを我慢して、一気に噛み千切った。
 はふ、と喘いだ彼の口から煙があがった。
 歯応えが残っているのか、噛み潰される際にシャキシャキいう音がした。耳を澄ませなくてもはっきり聞こえて、ぷわんと広がる香りが心地よかった。
「甘いわあ。流石は新鮮、採れたては最高や」
 たかが葱、と侮ってはいけない。
 満足げに呟いた彼を歯軋りしながら睨みつけ、愛染国俊は拳を作った。
 明石国行は焚き火の前で、ひとりでご満悦だった。大きな塊を串から引き抜き、全体を口に含ませ、シャクシャク言わせて唇を舐めた。
 頬は緩み、紅潮していた。途中で暑くなったのか手で顔を扇いで、それでも食べるのを止めなかった。
「国行、食べたい」
「おっ、ええで。蛍丸は分かってくれると思っとってん」
 あまりにも美味しそうで、見せつけられて我慢出来なかった。根負けした大太刀が先に両手を広げて、残っている竹串を顎でしゃくった。
 勿論、明石国行が断るはずがない。
 彼は二つ返事で頷くと、焼き加減を確認し、色合いが良い方を選び取った。
「熱いで。剥いたろか」
「それが一番やりたいの」
 進んでお節介を焼き、面倒を見ようともする。だがこれは余計な御世話で、蛍丸は拗ねて頬を膨らませた。
 真っ黒になっている表面が、するりと剥けるのが面白かった。
 あれがなかったら、ここまで食いつかなかったに違いない。愛染国俊自身、興味を惹かれてそわそ落ち着かなかった。
「国俊は、どないする?」
「うぐぐ」
 そこにすかさず、声が掛かった。
 下を向けば、頬杖ついた太刀が不遜な笑みを浮かべている。
 してやったりの表情を見せられて、なんとも言えない悔しさだった。
「食うよ! 食べ物を粗末にする奴には、天罰が下るからな!」
 葱を焼く串は、最初から三本あった。
 それがどういう意味なのか、分からない程愚かではない。
「くそう。国行のくせに」
「火傷しなやー」
 負けた気がして膨れ面をして、愛染国俊はこんがり焼けた葱を受け取った。茎の部分を食べる白葱で、最後の一本は丸々と太っていた。
 表面だけが焦げ、中身が無事だったのは、葱本体に含まれる水分のお陰だろう。良く見れば所々罅割れて、そこから汁が漏れていた。
 注意しないと、本当に火傷してしまう。
 それくらい熱い葱に悪戦苦闘して、彼らはぺり、と皮を一枚剥ぎ取った。
「おおお」
「すっげえ。綺麗に外れた」
「ちゃんと冷ましや。知らんで」
「いっただっきまーす」
「いただきまー……んふぁ、あぢぃ!」
「おーおー、せやから言うたのに」
 力など碌に加えていないのに、簡単に剥けた。串に刺さっている分全部を綺麗にして、がぶりと行けば、口の中に業火の嵐が巻き起こった。
 牙を刺した場所から、ぶちゅぅ、と熱湯が弾け飛んだ。美味さよりも熱さが圧倒的に勝って、愛染国俊は堪らず尻餅をついた。
 あれだけ注意したのに、まるで聞いていない。
 明石国行は呆れ顔で、食べ終えた串を火にくべた。
 最早食べるに値しない甘藍の葉を拾い、それを燃料にしていた。火種は台所から譲り受けたもので、焚き火の許可は歌仙兼定に貰っていた。
 言わなかった方が悪いのだろうが、もうどうでも良かった。
「どうや。美味いやろ」
「んふ、はふ、ん……ん、うんめー!」
「すごい、国行。なにも付けてないのに」
 新鮮な葱を軽く洗い、根を落とし、切って串に刺しただけ。
 火だって特別なものではなく、味付けは皆無だった。
 それでも中まで火が通った葱は、ほっこりしており、汁を啜れば甘かった。外側は蕩けるほどに柔らかく、中心部はしっかりとした歯応えが残っていた。
 口を開けば、はふはふと息が漏れた。白い湯気が立ち上って、子供たちの首筋にはしっとり汗が滲んでいた。
 皮一枚を選んで引っ張れば、にゅるん、と一枚の紙になって剥がれ落ちた。中心部までひと口に頬張れば、ぐちゅっという音と一緒に甘い汁が爆発した。
 噛めば噛むほど味が出て、葱とはこんなに旨かったのかと驚かされた。塩はひと粒も用いておらず、ただ焼いただけなのに、味に奥行きがあった。
 いつもは薬味として使うか、鍋物の添え物程度に入れるだけ。
 ここまで主役級の味わいを楽しめるとは知らなくて、ひと串ぺろりと食べられた。
 これっぽっちでは、とても足りない。
 まだまだ食べたくて、胃袋が暴れていた。
「うー、美味しかった」
「なんか、意外だ」
 けれど葱は旬を過ぎており、畑に残り少ない。贅沢は言えず、御馳走様と蛍丸が手を合わせた横で、愛染国俊は茫然と呟いた。
 串に残っていた塊を前歯で削り、新たな発見に感嘆の息を吐く。
 ほこほこした葱は、まるで蒸かした芋のような食感だった。繊維が細かく、場所によっては噛み千切り難かったけれど、熱が入って全体的に柔らかかった。
 余計なことは一切していないから、葱本来の味が際立っていた。辛いかと思えばそうでもなく、畑で収穫したばかりのものを使ったので、含まれる水分量も半端なかった。
 思い出すと、涎が出た。
 じゅるりと音立てて飲み込んで、愛染国俊は顎を拭った。
「ほんまは白葱よりも、九条さんみたいな青いのが好きやねんけど」
 明石国行は立ち上がり、焚き火に向かって土を振り掛けた。爪先で穴を掘って蹴り飛ばし、勢い弱まる火に止めを刺した。
 後は水を汲んで、浴びせてやれば消火は完了。
 案ずるような問題は起きなかったと肩を竦めて、怠け者の太刀は目を細めた。
「ほな、続きやりますか」
「おお、国行が働いてる」
「あほ言いなさんな。自分、真面目やねんで」
 僅かながら腹は満たされ、少々熱かったが、水分も補給できた。
 両腕を伸ばして背を反らした彼の言葉に、蛍丸も愛染国俊も、揃って目を丸くした。
 葱の美味さよりも、こちらの方が驚愕だ。
 唖然としていたら拗ねたのか、明石国行は猫背になって小鼻を膨らませた。
「これでも一応、あんたらの保護者やねんから」
 適度に休憩させ、間食を与えるのも忘れない。
 栄養補給は大事と嘯き、口角を持ち上げる。
「ま、いいけど」
「んじゃ一発、よろしく頼むぜ」
 それに応え、蛍丸が肩を竦めた。愛染国俊は拳を作り、偉そうな保護者の背中を軽く叩いた。
 目の前には広大な畑が広がっていた。
 今日の予定を片付けるには、もう休んではいられない。だがこの三振りが揃っている限り、なんだって出来る気しかしなかった。

2016/04/21 脱稿

咲かでしもさてやまじと思へば

「ふぁ……」
 明るい陽射しと、麗らかな陽気に誘われたのだろうか。
 息を吐くべく、口を開いた瞬間だった。漏れ出た呼気が色を持ち、眠たげな音を紡ぎだした。
 そんなつもりはなかったのに、唇が上下に大きく別たれた。望んでもないのに瞼が降りて、視界が一瞬闇に染まった。
 肺の中にあった空気を、意図せず全部吐き出した。姿勢は若干仰け反り気味になって、口を綴じると同時に元に戻った。
 目尻に涙が、頼んでもないのに浮き上がった。乾いていた眼球が潤いを取り戻し、見える景色が微かにぼやけた。
 欠伸だった。
「ふあ、あ……んぁ、ぅ」
 しかも一度きりではなく、続けて二度目の声が漏れた。
 涙の量が一気に増えて、睫毛を越えて流れ出そうになった。慌てて拭って誤魔化すが、その間に三度目の欠伸が現身を襲った。
 淡い吐息を連続させて、開き過ぎた唇の端を指で労わる。普段ここまで開くことがないから、慣れない皮膚が切れそうだった。
 ぱっくり裂けていないかを撫でて確かめて、小夜左文字はついに堰を切った涙を袖に吸わせた。
 襷で縛って固定しているところに、首を倒して押し付けた。乱暴にぐりぐり擦りつけ、頬が赤くなるのも厭わなかった。
 摩擦に負けて色味を強めた肌だが、暫くすれば落ち着くだろう。欠伸の方もひと段落ついて、少年は安堵の息を吐いた。
「珍しいね。小夜が、欠伸なんて」
「……べつに」
 そこに、近くから声が掛かった。顔を上げて首を捻って、短刀は笑っている打刀を睨みつけた。
 彼らは、刀剣の付喪神。歴史改変の目論見を阻止する為、時の政府の指示を受けた審神者によって見出された存在だった。
 審神者に喚び出された付喪神は、人を真似た現身を等しく与えられた。本丸と呼ばれる広大な敷地に建つ屋敷で暮らし、生活も人のそれに準じていた。
 即ち、日に何度か食事を摂り、夜間は眠りに就く。斬られれば傷が生じ、血が流れ、度合いが酷ければ最悪折れることとなる。
 ただ人間と違うところもあって、特に決定的なのが、傷が癒えるのが異様に速いこと。手入れ部屋と呼ばれる場所に行き、特殊な札を用いさえすれば、どんな大怪我でさえ一晩のうちに平癒した。
 基本構造が違う為か、病気もしない。手入れが終わった直後は怠さが残り、何をする気も起こらない事ならあるが、熱を出して寝込むというのは、今のところ誰の身にも起きていなかった。
 刀なのだから、痛みを覚えることも、食事を必要とすることもないだろうに。
 しれにも拘わらず審神者は、およそ不必要と思われる種々の機能を、刀剣男士に付与していた。
 眠気も、そのひとつだった。
「良く眠れなかったのかい?」
 重ねて問いかけられて、返事をするのは正直億劫だった。
 けれど答えなければ、答えるまでずっと構い倒される。それが分かるから、小夜左文字は仕方なく口を開いた。
「出陣してたから」
「ああ。そういえば、戻りが遅かったね」
 欠伸の代わりに言葉を連ね、重い腕を持ち上げる。普段より身体が動かし辛いのも、睡眠時間が足りていない所為だった。
 幕末期の一大事変への介入は、夜の街を駆け抜ける必要があった。次々襲い掛かってくる遡行軍を蹴散らして、息つく暇もなかった。
 狭い場所での戦闘が多く、身体の大きい者たちには不利な戦場だ。だから短刀や脇差といった、小柄で身軽な刀が編成の中心だった。身を隠す場所も多いので、背後を衝かれての急襲も警戒しなければならなかった。
 常に緊張状態で、終わった後の疲弊感は凄まじい。
 しかも命のやり取りをやっていたわけだから、身体は疲れているのに、興奮状態からなかなか脱せなかった。
 当然すぐには寝付けず、目が冴えたまま朝を迎えた。
 一方でこの打刀は、短刀の苦労も知らず、暢気に寝こけていた。
 小夜左文字が手入れを終えて部屋に戻った時、歌仙兼定は眠っていた。布団に忍び込もうとした時にちょっとだけ目を覚ましたが、夢うつつで、会話は成立しなかった。
 夜戦に出たのは昨日が始めてではないし、これまでも戻りが遅い日はあった。神経が高ぶり、なかなか眠れなかったとしても、ちょっとは休めていたというのに。
 今回に限って、上手くいかなかった。
 熱を処理し切れなかったと臍を噛んで、小夜左文字は溜息を吐いた。
「今からでも、横になってくるかい?」
 一番鶏の声はかなり前で、既に陽が昇って、空は明るかった。冬場ならまだ真っ暗だという時間帯で、季節の移り変わりが肌で感じられた。
 彼らが向かっているのは、台所だ。これから本丸で暮らす刀たちの朝食を、大急ぎで用意しなければならなかった。
 刀剣男士は五十振り近くいるから、かなりの大仕事だ。まずは竈の神に拝礼して、そこから後は休みなしだ。
 そんな重労働に、眠そうにしている短刀を連れていけない。
 火や包丁を扱う場所でもあるので、注意力散漫なのは危険だった。
「問題ない」
「いいや、小夜。休める時に、休まないと」
 強がりを言われて、打刀は瞬時に反発した。良く見れば小夜左文字の足取りは乱れ、左右にふらついていた。
 語気を強め、歌仙兼定が右手を振った。これ以上先に進ませないと道を塞いで、高い位置から短刀をねめつけた。
 険しい顔をされて、行く手を遮られた。その傲慢ぶりにむっとして、小夜左文字は口を尖らせた。
 どうせひとりで居ても、眠れないのだ。悪夢にうなされる回数は減っていたが、完全に消えたわけではなかった。
 未だに転寝をしていて、跳び起きることがある。全身は汗でぐっしょり濡れて、眠る前より憔悴していた。
 ゆっくり休むなど、無理だ。
 分かっているくせに無責任なことを言った男を睨み返して、小夜左文字は奥歯を噛み締めた。
 怒って拗ねてみせるが、体格が幼いのもあり、あまり迫力がなかった。むしろ愛らしさが倍増して、打刀から怒る気を失わせた。
「小夜」
 困り果て、歌仙兼定が肩を落とす。小夜左文字はそっぽを向いて、右足を振り回した。
「そもそも、歌仙が悪い」
「待ってくれ。どうしてそうなるんだ」
 脛を蹴られ、男は眉を顰めた。呆れ混じりに呟いて、廊下の真ん中に立つ少年に目を眇めた。
 本丸の中核施設である屋敷は、いくつかの区画に分かれていた。刀剣男士が寝起きする居住区に、手入れ部屋。または書物や、特定の季節にしか使わない物などを収めた倉庫などで構成されていた。
 台所は東の端にあり、何個所かに散らばる居住区の、どこからも遠い。まだ寝ている刀たちの鼾は聞こえず、静かだった。
 鳥の囀りすら響かず、互いの声や、呼吸音ばかりが耳についた。壁に設けられた明かり取りの窓からは、早朝とは思えない明るい光が注がれていた。
 八つ当たりを受け、打刀は口をヘの字に曲げた。上唇を突き出す形で不満を露わにし、少し間を置いて胸元で腕を組んだ。
 彼は襷を結んでおらず、白の胴衣の袖が揺らめいていた。前髪は後ろに梳き流されており、狭い額が剥き出しだった。
 小夜左文字は兄ふた振りが揃った後も、昔馴染みであるこの打刀の部屋で寝起きしていた。
 血濡れた逸話を持つ短刀は、姿無き影に怯え、幻聴に苦しめられていた。自責の念に押し潰されそうになり、仇討を求めることで己を保っていた。
 眠れば夢を見た。黒く染まった怨讐に襲われ、平静でいられなかった。
 それが何故か、歌仙兼定の傍では楽になった。三十六人殺しを悪びれもせず自慢して、名の由来を誇っている男には、短刀を苦しめる怨嗟も近づけないらしかった。
 もっとも今では、彼の助力なしでも、小夜左文字は眠れた。魘されることはままあるけれど、前ほど夜を怖れなくなった。
「小夜。僕は君を心配して、言っているんだ」
 意地悪のつもりで忠告しているのではなく、単に身を案じているだけ。
 何故聞き入れてもらえないのかと抗議して、歌仙兼定は声を荒らげた。利き手を上下に揺らして、強情を張る短刀に一歩踏み込んだ。
 二尺ほどあった距離を一気に詰めた彼から、小夜左文字は反射的に後退した。壁に寄って肩を預け、ふいっと顔を背けて頬を膨らませた。
 眠れなかった責任を押し付けて、その後はだんまりを決め込んだ。上目遣いに睨みつけて、意地でも理由を言わないつもりだった。
 欠伸を繰り返すのも珍しければ、ここまで我が儘なのも珍しい。
 粟田口の短刀たちに比べて聞き分けが良い方なのに、今日は異様に頑固だった。
「小夜」
 歌仙兼定の所為で寝付けなかったと言うが、そもそも彼は何もしていない。いつも通り布団を敷いて、愛し子の無事を祈りつつ、帰りを待てずに眠ってしまった。
 襖が開いた時、気配で目を覚ましはした。
 だけれど完全な覚醒には至らず、小夜左文字が布団に入ったのを確認して、気がつけば朝だった。
 それとも覚えていないだけで、実は彼に無礼を働いていたのか。
 眠っている時の記憶は、流石に残っていない。
 身体が無意識に動いていた可能性は、否定出来なかった。
「まさか僕は、なにか……した?」
 拗ねている短刀を前に、嫌な予感がした。
 初めてそこに思い至って、打刀は声を震わせた。
「してない」
 けれど、懸念は瞬時に払拭された。
 間髪入れず否定されて、歌仙兼定はホッと安堵の息を吐いた。
「そ、そうか」
 寝ている時に妙な真似をしたのではないかと勘繰ったが、杞憂だった。変態じみた行動を取ったのではないと判明して、彼は胸を撫で下ろした。
 全身の力を抜き、頬を緩めた。疑念が晴れて嬉しそうな顔をして、それからはて、と首を捻った。
 ならばなぜ、小夜左文字は怒っているのだろう。
 変な悪戯もせず、大人しく寝ていたのであれば、歌仙兼定にはなんら否がない筈なのに。
「あいたっ」
 出発地点に戻されて、訳が分からなかった。
 思い当たる節に行き当たらなくて困っていたら、またしても脛を、力いっぱい蹴飛ばされた。
 弁慶の泣き所に一撃を食らい、打刀は聞き苦しい悲鳴を上げた。その場でぴょん、と飛び跳ねて、半尺ほど後ろに着地した。
 短刀から距離を取り、不意打ちの痛みに耐えた。歯を食いしばって涙を堪え、予想外に鋭かった攻撃に目を白黒させた。
「酷いじゃないか、小夜」
 どうして蹴られなければならないのか、それも分からない。
 不条理な暴力に抗議して、男は小鼻を膨らませた。
 下唇を突き出して、憤懣やるかたなしの表情で短刀を見下ろす。そこから二尺程度下がったところで、小夜左文字は鈍感極まりない男に拳を作った。
「小夜?」
 唇を真一文字に引き結び、元から険のある眼差しを一層強めた。
 打刀を仇のように睨みつけて、踵で思い切り床を踏み抜いた。
 ダンッ、と凄まじい音がした。
 この場に他に誰かいたならば、確実に振り返るくらいの勢いだった。
「だから!」
 牙を剥いて吼え、直後に息を詰まらせた。
 雑に結い上げた髪を尻尾のように振り回して、彼は奥歯を噛み、顎を軋ませた。
 悔しさと腹立たしさが同居して、どうにもならない表情だった。
 苛立ちと憤りがない交ぜになり、どう吐き出せば良いのか分からない様子だった。
 細い肩を小刻みに震わせ、握り拳は固かった。内側に巻き込んだ親指は力み過ぎて色を悪くし、噛み締めた唇は赤紫だった。
 目尻に、欠伸が原因ではない涙が滲んだ。
 制御できない感情に操られ、小夜左文字は大きくしゃくりあげた。
「さよ……」
「歌仙の、せいでっ」
「だったら、僕が何をしたのか教えてくれないか」
 見るからに痛々しく、胸に迫る姿だった。
 哀れに涙を堪える少年に寄り添おうとして、打刀は声を潜め、身を屈めた。
 膝を折り、片方を床に据えた。視線を低くして、短刀を見上げる形に作り替えた。
 距離が狭まった分、相手の顔が良く見えた。また蹴られないよう注意して、歌仙兼定は首を右に倒した。
 屋敷の短刀たちを相手にする時の、営業用の笑顔で目尻を下げる。警戒心を抱かせないよう気を配り、気難しい少年の懐に入ろうとした。
 それが分かっているのか、小夜左文字はじり、と後退した。
 壁に背中を張りつかせ、見た目だけは心優しい好青年に口を尖らせた。先ほど言いかけた言葉を唾と一緒に呑み込んで、臼歯を擦り合わせ、カチカチ五月蠅く噛み鳴らした。
「言ってくれないと、なにも分からないよ」
 責任は打刀にあると主張しておいて、それ以外は固く口を閉ざしている。
 これでは話し合いなど不可能で、相互理解も深まらなかった。
 小夜左文字は、歌仙兼定が何もしなかったと言った。だというのに、良く眠れなかったのは彼の所為だと譲らない。
 このふたつの意見は、本来両立し得ないものだ。静かな環境を手に入れた短刀は、安心して眠りに就けただろうに。
 話が支離滅裂すぎて、理解出来なかった。
 至極当然の主張を展開して、細川の打刀は立てた膝に右手を置いた。
 背筋を伸ばし、片膝立ちの状態で昔馴染みを仰ぐ。
 斜め下から覗きこまれて、復讐に囚われた短刀は口をもごもごさせた。
「だか、ら」
 もぞもぞ身じろいで、両手を壁に貼り付けた。背中との間に挟んで、爪先立ちになって距離を稼ごうとした。
 もうこれ以上下がれないのに抵抗して、視線を左右に彷徨わせた。落ち着きなく辺りを見回し、誰も来ないと知って小さく舌打ちした。
「教えてくれないか、小夜」
 足元では歌仙兼定が跪き、懇願を繰り返した。
 あんなに強かった睡魔は、やり取りの最中ですっかり消し飛んでいた。もう眠くもなんともなく、欠伸は遠い彼方だった。
 ふわふわしていた意識は研ぎ澄まされ、怒りよりも羞恥に染まっていた。じっと見つめられて顔が火照って、身体の芯が熱くて堪らなかった。
 そんなに真っ直ぐ見ないで欲しい。
 突き刺さる眼差しに膝をぶつけ合わせ、小夜左文字は弱々しく頭を振った。
「昨日、歌仙が」
「ああ」
「なに、も。しなかった」
「うんうん……うん?」
 小さく口を開き、ぽつぽつと小声で語り始める。
 耳を傾け相槌を打っていた歌仙兼定は、消え入りそうな囁きにはて、と首を傾げた。
 うっかり頷いてから、右に倒した。太めの眉を真ん中に寄せて、真っ赤になっている短刀に瞬きを繰り返した。
 小夜左文字は鼻を愚図らせ、頬を強張らせていた。背中に隠していた両手は、今は着物の裾を握りしめていた。
 尻端折りで折り返した布の、輪になった部分を皺だらけにしていた。白の股袴から覗く足は細く、手入れ部屋でも直し切れない傷でいっぱいだった。
 解けかけの包帯が波打っていた。肉付きの悪さは天下一品で、どれだけ食べても太らない体質だった。
 彼の兄である宗三左文字や、江雪左文字も、かなり華奢な体型をしていた。特に次兄などは、背が高いくせにひょろっとしており、叩けば折れそうな体格だった。
 触っても骨張っており、あまり柔らかくない。ただ見た目の貧相さに反し、打力は短刀でも際立っていた。
 体力もあり、根性が据わっている。守り刀として大事にされてきた他の短刀とは違い、実戦経験豊富だった。
 敵を求め、仇を探し、好戦的で、だからこそ危うい。
 ひとりで良いと強がりながらも、心細さと寂しさを隠そうとしない。ひょんなことでぽっきり折れてしまいそうで、歌仙兼定はそれが不安だった。
 出会ったばかりの頃は、彼の強さと気高さに憧れた。
 本丸で再会を果たした後は、昔は気付けなかった彼の脆さを支えたいと、強く願うようになった。
 誰よりも彼を愛おしく感じていた。
 小夜左文字に関することは、どんな小さな事でも無視できなかった。
 大切に思うからこそ、世話を焼いた。時に鬱陶しがられたりもするけれど、放ってはおけなかった。
 昨晩のことも、彼の安眠を妨害したわけではなかったと分かり、ホッとした。
 しかし小夜左文字は全く眠れないまま朝を迎え、ふらふらして、具合が悪そうだった。
 状況がこんがらがって、頭が上手く働かない。
 何もしなかったのは良いことの筈なのに、非難されて、意味不明だった。
「ええと、小夜。どういうことだい?」
 早くしないと、朝餉に準備が間に合わない。あまり長話をするわけにもいかなくて、気が急き、早口になった。
 両手を広げて問い質した男に、短刀は脇を締め、肩に力を込めた。
 自然と肘が折れ曲がり、跳ね上がった。掴んでいたものも引っ張られ、白くしなやかな脚が露わになった。
 普段は隠れがちの腿が、眩しい。
 本能的にそちらに目をやってしまって、歌仙兼定は大慌てで顔を背けた。
 その横っ面を、甲高い声が引っ叩いた。
「歌仙がなにも、してくれなかったから!」
 羞恥心の限界を超えて、劣情が爆ぜた。
 内股になって膝をぶつけ合わせて、小夜左文字は鈍いにも程がある男に唾を飛ばした。
 屋敷の廊下で大声で吼えて、肩を怒らせ、目を吊り上げた。火を噴きそうなくらいに顔を真っ赤にして、荒い息を吐き、唇を引き絞った。
 冷たいものを浴びせられて、打刀は絶句し、凍り付いた。
 きょとんと目を丸くして、勢いに負けて仰け反り、瞬きを繰り返した。
「――え?」
「昨日、は。道中で、後藤藤四郎が、重傷になって。相手は検非違使だったから、遡行軍はあいつらに任せて。撤退、した」
 茫然としていたら、小夜左文字が舌足らずに捲し立てた。短刀だけでの出撃の顛末を語り、途中でしゃくりあげ、言葉を切った。
 いつもより早めに戦場を脱出したので、最後まで戦うつもりだった者にとっては消化不良だった。敵に敵の討伐を任せるのも、戦術としては間違っていないが、面白くなかった。
 悶々として、すっきりしなかった。
 達成感が得られなくて、中途半端に熱が残った。
 ひと眠りすれば落ち着くと信じて、寝床としている打刀の部屋に戻った。細心の注意を払ったのだけれど、荒々しさを残す気配は隠せず、起こしてしまった。
 期待はしていなかった。
 けれど思いがけない出来事に、胸が高鳴った。
 もしや帰ってくるのを寝ずに待っていてくれたのかと思い、嬉しくなった。処理に困っていた戦場で生じた熱が、一瞬にして別のものに置き換わった。
 敵を斬り伏せる興奮が、色を変えた。
 鼓動は自然と早くなり、身体の奥が疼いて仕方がなかった。
 だというのに、歌仙兼定は何もしてこなかった。短刀が布団にもぐりこむのを見届けるや否や、目を閉じ、すやすや眠りに堕ちてしまった。
「それは。え、と。じゃあ、まさ、か……」
 掛け布団の端を一寸だけ持ち上げて、此処に来るよう招いてくれたから、余計に紛らわしかった。横になったところにとんとん、と頭を撫でられて、次は別の場所に触れられると待ち構えていた。
 だのに、なにも起きなかった。
 歌仙兼定は小夜左文字の肩に腕を預けたまま、すよすよと寝息を立てた。
 絶句した。
 唖然となった。
 信じられなくて、揺り起こそうとしたが、反応は芳しくなかった。
 叩いても、抓っても、起きなかった。こちらの心構えは万全で、受け入れる気満々だったのに、肩透かしを食らった。
「したかった、のに」
「っ――!」
 付喪神の現身を蝕む欲望を、熱を、発散したかった。
 快楽を共有して、ひとつに繋がりたかった。
 しかし結果は、どうだ。望んでいたものはひとつとして得られず、行き場の無い感情が薄れるまで、ひたすら耐えるよう求められた。
 苦行だった。
 寝つけるわけがなかった。
 言っているうちに恥ずかしくなったのか、最初こそ大きかった小夜左文字の声は、尻窄みに小さくなった。もじもじ身を捩りながら、朴念仁の脛を蹴り飛ばした。
 力は入っておらず、殆ど撫でるに等しかった。痛くも痒くもない攻撃に目を白黒させて、打刀は慄き、背筋を粟立てた。
 瞬きを忘れた眼は充血し、真っ赤だった。唇は土気色をして、わなわな震えていた。
 据え膳を食いそびれた。
 久方ぶりに身体を重ねる好機だったのに、そうとは知らず、逃していた。
「いや、あ。いや、えっと、あの。小夜、ちょっと。ちょっと待って」
 支離滅裂に思えた説明が、これでひとつに繋がった。
 歌仙兼定が何もしなかったからこそ、小夜左文字が眠れなかった理由が判明して、騒然となった。
 惜しいことをした。
 勿体ないことをした。
 どうしてそこで眠ってしまったのかと、数刻前の自分を殴り飛ばしたかった。
 動揺を隠し切れず、打刀は頭を抱え込んだ。左手は短刀に向けて伸ばして、触れる寸前で躊躇した。
 長くしなやかな指が、喉の手前を滑り落ちていく。
 それが膝に落ちて転がるまで見送って、小夜左文字はぶすっと頬を膨らませた。
「歌仙など、知るものか」
「いや、待って。待ってくれ、小夜。せめて、ああっと……だから、今夜。そう、今夜なら!」
「もうそんな気になれない」
 吐き捨てられて、天地がひっくり返るような衝撃を受けた。大急ぎで挽回の機会を求めてみるが、取り付く島はなかった。
 雅さの欠片もない慌てぶりは、滑稽だった。
 恥知らずな打刀を見下して、短刀は前を塞ぐ男の額に掌底を叩き付けた。
「うぐ」
「朝餉、間に合わない」
「小夜。待ってくれ」
 避けもせずまともに食らって、歌仙兼定は首を後ろに倒した。不安定な体勢で仰け反って、最終的には尻餅をついた。
 そんな彼を憐みもせず、小夜左文字が冷たく言い放つ。みっともなく追い縋る手も無視して、目と鼻の先にある台所を目指そうとした。
 もう時間がなかった。
 今からだと火を熾し、米を炊くので精一杯。あとは簡単な一品が作れるかどうかの瀬戸際だった。
 朝餉の膳に並ぶのは、玄米と味噌汁と、塩ひと盛に冷たい新香がふた切れだけ。
 そんな膳を提供しようものなら、非難の嵐が吹き荒れるだろう。
 責めを受けるのは、歌仙兼定だ。
 いい気味だと溜飲を下げて、短刀は駆け足で追いかけて来た打刀の手を払い除けた。
「しつこい」
「本当にすまなかった!」
 突っぱねようとしたら、先手を打って頭を下げられた。
 気が付かなかったとはいえ失礼を働き、恥をかかせた件を大声で詫びられた。小夜左文字の期待に応えられず、嫌な思いをさせたのを心から陳謝された。
「かせん」
「許してくれ、小夜」
 放っておいたら、廊下の真ん中で土下座しかねない。
 彼が額を床に擦り付ける姿など、見たくなかった。そんなみっともない真似をさせるくらいなら、選択肢はひとつしかなかった。
「もういいよ」
 結果的に眠気は去り、怠さはあるが、動きに支障はなかった。
 昨晩空振りさせられた恨みは、無事晴れた。恥ずかしい話でもあるので、あまり引きずりたくなかった。
 ため息交じりに囁いて、肩を竦める。
 必死過ぎる打刀に苦笑して、彼は赤くなっている額を撫でてやった。
「さよ」
 触れられて、歌仙兼定は感極まった表情を浮かべた。ホッとして、嬉しそうな顔をして、目尻には涙まで浮かんでいた。
 そこまで喜ぶことかと、大袈裟な反応が可笑しかった。
 つられて頬を緩めて、小夜左文字は憎らしくもあり、愛おしくもある男に肩を竦めた。
「世話のかかる」
 見た目は大きくなったけれど、中身はまだまだだ。
 細川の屋敷では金魚の糞だった打刀に目を細め、少年は軽く膝を折った。
 屈んでいる男との距離を詰め、怪訝な顔にふっ、と笑いかける。
「小夜?」
「今夜、待ってる」
 高めの声で名を呼ぶのを遮って、囁き、寸前で目を閉じた。
 首を伸ばして前傾姿勢を取り、胴衣の衿を鷲掴みにした。強く握って引っ張って、角度を調整し、身を預けた。
 唇を重ね、押し付けた。上下から挟むように動かして、湿り気を分け与え、捏ね回した。
「ん」
 鼻から息を吐き、吸い込むのは我慢した。喉を窄めて上顎に舌を張りつかせ、惚けている男を至近距離から覗き込んだ。
 薄目を開け、顎関節に力を込めた。上目遣いの眼差しを投げて、両側から抱きこもうとした腕は、素早く避けた。
 後ろに逃げて、唇を舐める。
「二度はない」
 赤濡れた色をより鮮やかにさせた彼に、歌仙兼定は音もなく口を開閉させた。
 空を掻いた腕は小刻みに震え、両手の指が蠢いていた。泣いているのか、笑っているかの判別がつかない表情を作り、鼻を啜って、膝で床を打ち鳴らした。
「小夜ぉ!」
 抱きつかれたら、きっと抗えない。一度は立ち消えた筈の熱が燻って、ちょっとした拍子で火が点きそうだった。
 だから、避けた。それなのに分からないという顔をして、打刀は地団太を踏んで訴えた。
 本当に我が儘で、どうしようもない。
 駄々を捏ねられて辟易して、小夜左文字は愚図る男に首を振った。
「夜まで我慢して」
「なら、せめてもう一回」
 犬でも躾が行き届いていれば、もう少し行儀が良い。
 獣にも劣る聞き分けのなさに落胆して、少年は強請られて眉を顰めた。
 ここであまり時間を浪費したくなかった。朝餉の刻限は着実に迫っており、気持ち良く準備に取りかかりたかった。
「一度だけだね」
「勿論だ。約束は守る」
 念押しして、コクコク頷く男にため息を吐く。
 それくらいなら妥協しても良いと判断して、彼は軽率に許可を出した。
 承諾を得て、歌仙兼定は厳かに腕を伸ばした。手を掬い取られて、微熱が素肌に舞い降りた。
 握りしめられて、胸が弾んだ。まだ朝も早い時間だというのに、今宵の戯れを想像して、心が波立った。
「小夜」
 優しく囁かれて、芯が疼いた。
「ああ、歌仙」
 呼びかけに応え、首を傾け、目を閉じた。
 唇は、すぐには降りて来なかった。待ち構える小夜左文字を散々焦らして、手首を抓られてようやく舌で舐められた。
 ぺろりと、表面をなぞられた。生温い感触を後に残して、頬を擽り、勿体ぶらせてから口に吸いついた。
「ん、む……ぅ」
 こちらが息を吸うのに合わせ、邪魔をして食いついた。獣を真似てがぶりと噛み付いて、牙を立てたところを舐めて慰め、塗りつけた唾液を音立てて啜った。
 深く重ねて来たかと思えば力を緩め、けれど決して離れない。強弱つけて捏ね繰り回して、舌も使ってちょろちょろ弄り倒した。
 大量の水分を与えられ、肌が重く、膨らんでいく。潤った媚肉は粘性を発揮し、貼り付く肌が剥がれる度にくちゅり、くちゅりと淫らな音を奏でた。
「かせ、ん。ちょ。っかいだけ、って」
「口は離してないんだ。まだ一回だよ」
 しかもそれが段々酷くなって、頭の中にこだました。男の腕はいつしか短刀の頭を抱え込み、腰を支え、胸に閉じ込めていた。
 このままでは明らかに不味くて、必死に頭を振った。どうにか空間を確保して、下唇は重ねたまま苦情を叩き付ければ、打刀は不敵に笑い、平然と言い放った。
 空色の瞳が妖しく輝き、獣の彩を強めていた。
 自ら歯列を割ってくれたと感謝して、短刀に覆い被さり、熱い舌をくねらせた。
 これ幸いと調子に乗って、一気呵成に攻めて来た。
 後手に回らされて、少年は総毛立った。してやられたと愕然として、咥内を練り歩く高熱に悲鳴を上げた。
「んぅ、んむ、……んんっ」
 必死に逃げるけれど、逃げ切れない。奥に隠れようとするが間に合わず、一瞬にして捕えられた。
 絡みつき、食いつかれた。表面を撫で回され、捏ねられ、飛沫が散った。
 くにゅくにゅと水音が弾け、頭の中にこだまする。疼くばかりだった身体が揺らいで、ぎゅっと閉じた瞼に涙が滲んだ。
 腹の奥底から言い知れぬ感情が湧き起こり、全身へと広がっていく。止められない。焼け焦げそうに熱くて、立っていられなかった。
 力が抜けていく。膝が笑った。視界は涙で歪み、霞んでいた。
「か、せ……」
 息も碌に出来なかった。言葉は露に溶け、音にならなかった。
 気付けば手を伸ばしていた。肩を掴んでいた。首に巻き付け、抱きついていた。
「ひぁ、あ、んっ。んんっ」
「ああ、小夜。僕の、可愛い小夜」
 口を開けば、耳を塞ぎたくなる声が漏れた。淡く色を持ち、妖しく濡れて、恥ずかしいのに我慢出来なかった。
 それを嬉しそうに聞いて、歌仙兼定が微笑んだ。夢見心地に囁いて、鮮やかな紅に染まる唇に吸い付いた。
 夜まで我慢出来ないのは、いったいどちらだっただろう。
 この後確実に起きる騒動は考えないことにして、小夜左文字はうっとり目を閉じた。
 

2016/04/16 脱稿

むかしの跡はうづもれぬとも

 奇妙なことが起きた、というのが審神者の弁だった。
 存在するとは聞かされていたが、波長が微弱であり、上手く捉えきれない。もっと安定してからでなければ、鍛刀による顕現は難しいだろう。
 それが時の政府の見解であり、審神者が把握している情報の全てだった。その為か、それが出現した際は、いたく驚いた顔をしていた――傍目にもこの現象が、想定外のものだったと分かるほどに。
「なにか、御悩み事ですか」
 鍛冶場での出来事は、江雪左文字にとっても予期せぬものだった。
 この日たまたま近侍を言い渡されて、その現場に出くわした。愛らしい短刀が次々産まれ来るのを眺めていたら、突然、それは現れた。
 後ろからの問いかけに、彼は前を向いたまま首を振った。ゆるゆると揺らせば、動きに合わせて長い髪が左右に踊った。
 邪魔に感じることもあるけれど、今は結んではいない。服装も身軽な作務衣ではなく、小札を配した袈裟を着け、右手には大左唯一の太刀を握っていた。
 一歩進むたびにその小札がぶつかり合い、かちゃり、かちゃりと音を立てた。間隔は常ならば一定を保つのだが、残念ながら今日に限って、そう上手くいかなかった。
 髪の流れが落ち着くのを待ち、江雪左文字は左に首を巡らせた。わざわざ暗い方角に目を向けてから、数歩後ろを行く相手を振り返り見た。
「随分と難しい顔をしておられる」
「もとより、このような顔に、……ございます」
 目が合って、含みのある表情を向けられた。語尾を上げ気味に囁かれて、長く視線を合わせていられなかった。
 あまりにも清廉で、眩しかった。
 とても近距離から直視出来るものではなく、己の内面を抉られるような気分だった。
 愛想の欠片もない、つまらない返しで逃げて、近侍に任じられた不運を恨んだ。肝心の審神者はといえば、事の次第を政府に報告すると言い、後の始末を全て押し付けてくれた。
 新参者に屋敷の中を案内し、皆に紹介して回れ、と言われた。
 しかしいくら審神者の頼みであろうとも、憂鬱でならなかった。
 そもそも江雪左文字は、大勢のみならず、たったひとりを相手にするのも苦手だった。戦を厭い、争いを忌避したがる傾向はよしと見なされず、他の刀剣男士からはあまり歓迎されていない様子だった。
 弟たちや、一部の友好的な刀のお陰で、高かった壁は随分低くなったものの、溝は未だ深い。それに命じられたことと、止むを得ないことだと、必要に迫られてだとどれだけ言い訳しても、何かを斬り伏せるという行為は、どうしても好きになれなかった。
 己が刀であることを否定すれば、己の存在を維持できない。
 かといって刀の本義を全うするのも、江雪左文字を否定することに他ならなかった。
 二律背反の境地に佇み、黙してじっとしていた。
 そんな最中に、この男は突如現れた。
 数珠丸恒次。天下五剣のひとつに数えられる、古青江の刀だった。
 長い髪は毛先に向かうに従い色を変え、服装はここ本丸に至って久しい、もうひと振りの青江の名を持つ脇差に準じていた。但し首に絹の半袈裟を着け、首には百八を数える数珠を掛けていた。
 白と黒の玉飾りを連ねた瓔珞が左腕を伝い、床を擦るところまで垂れている。今は足に絡まぬよう、先端を浮かせているけれど、時折段差に引っかかるようで、こちらもシャラシャラ音を立てていた。
 仏の身を飾る装身具を、ごく当然のように纏っていた。手にする刀をまるで杖の如く扱い、瓔珞の一部は柄にも絡んでいた。
「それにしては、背筋が伸びていらっしゃらない。下ばかり向かれて、浮かない御様子」
「いいえ。決して、そのような」
 淡々と告げられる内容を即座に否定するけれど、説得力は皆無だ。声は幾ばくか上擦り、慌てて取り繕った風が全面に出てしまい、表情は自然苦々しいものになった。
 無意識に右手に力が籠り、太刀を握る指が痛みを訴えた。痺れにも似た疼きに浅く唇を噛んで、江雪左文字は左手で額を押さえこんだ。
「そう緊張召されずとも」
 深々と息を吐けば、数珠丸恒次が白手袋の指で口元を覆った。緩く握った指先で顎近辺を隠し、首を竦めて目尻を下げた。
「確かに私は、貴方とは違い、権力者に疎まれた御方をお守りしたことはありますが。私自身は、仏の教えに違いはないと思っております」
 立て板に水を流すように、言葉は滑らかだった。低く落ち着いた声には言い表し難い凄味があり、揺るぎない信念といったものが垣間見えた。
 迷いのない眼差しにも、心が掻き立てられた。
 落ち着かず、穏やかでいられない。己の心の奥深くの、他者に曝け出すのを避けるべき部分が燻られて、炙り出されている気分だった。
 緊張しなくても良いと言われたが、逆効果だ。
 余計に冷静でいられない。許されるなら今すぐ膝を折り、あらゆる罪を懺悔して、赦しを乞うてしまいたかった。
 己が信じるものと、彼が信じるもの。
 根は同じと言われようとも、それが重なり合うことはない。ならば互いに、己が信念を貫けば良いのだろうが、あまりの徳の高さに怯まされた。
 頭を垂れて、屈服してしまいたい。
 天下人を前にした武将たちも、似たような心持ちだったに違いない。誘惑は甘美で、抗い難かった。
 首筋に脂汗が滲み、低めの体温がじんわり上がっていく。
 物言わぬ張り子と化した江雪左文字に、数珠丸恒次は思案気味に眉を寄せた。
 もとから細い目を眇め、じっと見つめられた。
 軽率に逸らすことも出来ず、胃に穴が開きそうだった。ちくちくと、細い針が刺さるような痛みに耐えていたら、やがて彼は嗚呼、と小さく頷いた。
「為政者より迫害を受けたとはいえ、それもまた、仏が与えし試練。御安心召されよ。恨むつもりなど、毛頭ありはしません」
「試練、に……御座いますか」
「苦難に打ち勝ち、乗り越えた先にのみ、見えるものもあります。己の内面ばかりに答えを求めていては、目を閉じているのと同じですよ」
 控えめに微笑み、すらすらと言葉を紡いでいく。
 それは聞く者の耳に心地よく、心に響き易い音色だった。
 強く惹き付けられ、魅入られてしまいそうになる。先ほどから異様に居心地が悪いのも、この声の力によるところが大きかった。
 他者に語り聞かせるのに長けて、言葉によって時代を動かした男の影響を受けているのだろう。強弁を張ることも多かったようだが、それは裏を返せば、己が信じるものに対し、どこまでも真摯に向き合っていた証だろう。
 翻って、自分はどうか。
 己と向き合うことすらままならない存在にとって、この男は矢張り、あまりにも眩し過ぎた。
「共に仏に仕える身。何卒、良しなに」
 日が射していた。
 穏やかな陽気を遮るように、細くしなやかな手が悠然と伸ばされた。
 握手を求められていると気付くのに、数秒が必要だった。ひと呼吸置いてからハッとして、江雪左文字は逡巡の末に袖を掻いた。
「私のような、未熟者には。過ぎたるお言葉に、御座います」
 前に出かかる右手を左手で制し、柄を押さえた。下を向き、首を振って、前方から小さなため息を引き出した。
 卑屈な心が蠢いて、上手く立ち回れない。
 不器用にも程があると弟に笑われるところまでを想像して、彼は深く頭を下げた。
「代わりの者を、呼んで参ります」
 矢張り荷が重いと白旗を振り、降参を表明した。数珠丸恒次にとっても、もっと社交性に富み、弁が立つ刀の方が楽しいに決まっていた。
 この時ばかりは早口になって、江雪左文字は背筋を伸ばした。ひと呼吸置いて心を落ち着かせて、近場に誰かいないかどうか、左右に目を走らせた。
 初春の陽光が暖かく、長閑な午後だった。一部の刀は遠征に出ており、本丸に居を構える刀の三分の一近くが不在だった。
 にっかり青江は、数珠丸恒次と同じ青江派だ。時代がやや隔たっているが、他の刀よりはずっと近しい関係の筈だった。
 あの脇差は、どこにいるだろう。面と向かって話をした記憶はあまりないけれど、彼がこの太刀の案内役として、最も適任と思われた。
 ただ見える範囲に、不敵な笑みを浮かべた男は現れない。
 功徳が足りない所為かと落ち込みかけて、江雪左文字はやむを得ず、穏やかに佇む男に視線を戻した。
「待って。待って~~」
「こらー。逃げるなー」
 そこに遠くから、甲高くも愛らしい声が響いた。高い空に吸い込まれていくそれは、屋敷に暮らす短刀たちのもので間違いなかった。
 程なく視界に、五虎退と秋田藤四郎が現れた。彼らの前方では合計三匹の虎が、砂埃を巻き上げながら走っていた。
 白い毛並みは泥に汚れ、黒く煤けていた。細い尻尾が調子よく跳ねて、短い脚で懸命に駆けていた。
 短刀ふた振りは、その虎を追いかけていた。手にはそれぞれ手入れ用の櫛と、手拭いが握られていた。
 恐らくは洗って、乾かしている最中に、逃げられたのだろう。早く捕まえないと、また洗うところからやり直さなければいけなくなる。
 彼らの兄であり、粟田口を統率する太刀は、今は遠征に出ていた。他の弟何振りかを連れて、半刻ほど前に出発していた。
「ああ」
 丁度良いところに来たと思ったが、呼び止めるのには憚られる状況だった。彼らも彼らなりに必死であり、仕事を頼める雰囲気ではなかった。
 右手を出して勇んだものの、そこで勢いが止まってしまった。
 中途半端に縁側から身を乗り出して、江雪左文字は行き場のない手を握りしめた。
「おや」
 そんな彼を見て、数珠丸恒次も広大な庭へと目を向けた。興味深げに景色を眺めて、松の根本で虎を確保した子供たちに小首を傾げた。
「つかまえましたよ!」
「も、もう。逃げないで~」
 彼らはじたばた暴れる虎の子を抱きかかえようと、悪戦苦闘していた。血気盛んな秋田藤四郎の横では五虎退が悲鳴を上げて、両名とも見事に泥まみれだった。
 白の内番着に、肉球の痕が次々増えていく。当人らは必死だろうが、傍目には和む光景で、新たに加わったばかりの太刀はどこか楽しげだった。
「あれ?」
 並んで眺めていたら、当然あちら側も、縁側の存在に気が付いた。虎の前脚に顎を押されつつ、秋田藤四郎が先にこちらに顔を向けた。
 元から丸い目が、一層大きく見開かれた。好奇心旺盛な双眸がにわかにきらきら輝き出して、肘で傍らを小突き、興奮気味に頬を紅潮させた。
「江雪さん、その人は?」
 遠くからの呼びかけは大音響で、元気に溢れていた。興味津々に問いかけて、虎の子を抱えたまま駆け寄ってきた。
 縁側は庭先より一尺少し高い位置にあり、元からある身長差が一段と広がった。それ故、子供たちは首を思い切り後ろに倒して見上げねばならない。
「はい。新たに、我らの仲間となりました」
「数珠丸恒次と申します。どうぞお見知りおきを」
 後ろ向きに倒れるくらい仰け反らせるのは不本意と、江雪左文字は軽く膝を折った。身を屈め、掌で傍らを示せば、数珠丸恒次は後を継いで深々と頭を下げた。
 胸元に手を添えて、仰々しいほどに丁寧な所作だった。相手が誰であろうと区別なく接する姿勢が窺えて、相対する側の好感度は一気に上昇した。
「はっ、はじめまして。僕、秋田藤四郎って言います」
「秋田殿、ですか。新参者ゆえお見苦しい部分も多々ありましょうが、ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願いします」
「わ、はい! もちろんです」
 これまで、こんなにも丁重な挨拶をされたことがないのだろう。
 秋田藤四郎は舞い上がった様子で声を弾ませ、嬉しそうに頭を下げ返した。
 華やかな桃色の頭が上下に動き、姿勢を正したところでもうひと振りがようやく合流を果たした。無事捕獲した虎二匹を抱え込んで、息は大いに乱れていた。
 着ている服は泥にまみれ、汚れていない場所の方が少なかった。散々手古摺らされたからか、頬には涙の痕まであった。
「ふぁ、ひゃっ」
 新たな刀が加わった事実は、本丸内にはあまり広まっていないようだ。初めてみる太刀に気後れしたのか悲鳴を上げて、五虎退は秋田藤四郎の背後へと回り込んだ。
 恥ずかしそうに俯き加減で、上目遣いに様子を窺う。顔の下半分は虎の頭で隠れており、臆病で怖がりな性格が良く表れていた。
「おや、貴方は。確か……五虎退殿でしたか。先ほど振りです」
 そんな小柄な少年を見て、数珠丸恒次が首を傾げた。僅かに右に角度をつけて、ひと呼吸置いてからすらすらと短刀の名を口にした。
 挨拶も追加して、軽く会釈を済ませる。だが名前を言い当てらえた側はきょとんとして、言葉もなく目を丸くした。
「え?」
 秋田藤四郎も惚けた顔をして、背中に隠れる兄弟を振り返った。その後不思議そうに太刀を仰ぎ、首を左にコテン、と倒した。
「数珠丸殿」
「あの、えっと。僕、……その。初めまして、です……」
「五虎退は、ずっと僕と一緒でしたよ? 誰かと間違えてるんじゃないですか? 変な数珠丸さん」
 やり取りを聞いていた江雪左文字が制しようとしたが、それより早く、五虎退が後ずさりしながら呟いた。秋田藤四郎がこれを援護して、天下五剣をカラカラと笑い飛ばした。
 時同じくして遠くから、姿は見えないが、厚藤四郎の声がした。弟を探しているらしく、呼び声は何度も繰り返された。
「おーい、秋田、五虎退。見つかったかー?」
「あ、厚兄さんだ」
「みんな、洗って、あげないと」
 虎を追って出て行って、なかなか戻らないと心配したらしい。助けが必要か問う大声に、彼らは胸に抱く虎の頭を撫でた。
 それからちらりと盗み見られ、江雪左文字は躊躇の末に頷いた。行って構わないと無言で伝え、折り曲げていた膝を伸ばした。
「夕餉の、席で。改めて、ご紹介いたします」
「はーい。新しい人来たって、みんなに教えてあげなくちゃ」
「とっても、き、綺麗なひと、だったって」
 興奮冷めやらぬ子供たちを見送って、数珠丸恒次が淡く微笑む。瞼はほぼ閉じられており、視界が確保できているかどうか、傍目には分からなかった。
 表情はどこまでも優しげで、菩薩のようでもある。
 慈愛に満ちて、美しかった。
「ここは、子供が多いのですね」
「……ええ。そう、ですね……」
 刀剣の付喪神であったものが、現身を得て、顕現を果たす。
 その行いは世の道理を曲げており、歪な構造の上に存在した。
 もっとも歴史を改竄しようとする者たちが暗躍する中で、正攻法で対処するにも限界がある。
 そうやって審神者によって喚び出された刀剣男士は、人の身を得た状況を喜び、時に不便さに戸惑った。
 道具として扱われるのではなく、自らの意志で行動する快感。そしてそれによって生じる、責任の重さ。
 どこに帳尻を合わせ、どこに妥協点を見出すか。誰もが煩悶する毎日だった。
 だけれど此処にいるひと振りの太刀は、顕現したばかりだというのに、既に揺るぎない信念を確立していた。
 少なくとも本丸に至ってこの方、ずっと惑い続けている江雪左文字にはそう見えた。
 何気ない呟きに同意して、誰もいなくなった庭に目を向ける。
 視線を感じて右を向けば、数珠丸恒次がふっ、と笑みを零した。
「離婆多という名を、御存じですか」
 そうして唐突に、とある名前を口にした。
 聞き覚えがあるけれど、どこで聞いたのかすぐに出て来ない名前だった。思い出すのには些か時間が必要で、考え込むうちに自然と眉間に皺が寄った。
 怖い顔になっている、といつだったか、一期一振に言われた顔になっていた。
 全く関係のない記憶をよみがえらせて、江雪左文字は目と目の間に指を立てた。
「たしか、仏弟子の……ええ。そのような名の方が、おひとり」
「では、この話はご存じで」
 苦心の末引き出した情報を、自信無さげに呟く。どうやら正解だったようで、数珠丸恒次は口元を綻ばせた。
 腕に絡めた瓔珞を撫で、続けて袖の上から肘を示した。指は肩の方へと流れ、根元で斬り落とすかのように、上から下へと滑り落ちた。
「屍を糧とする小鬼と、大鬼が、その屍を巡って争った。小鬼は場に居合わせた離婆多に所有の是非を問い、離婆多は小鬼の所有であると判定を下した。これを不服とした大鬼が、離婆多の腕を引き抜き、これを食らった」
 太刀の口から滾々と、言葉が泉のように湧き出でた。澱みなく紡がれる音は天女が奏でる楽に等しく、語られる内容の血腥さを誤魔化した。
 流麗な語り口に惑わされかけたが、内容は至って物騒な話だ。
 死者を喰らう鬼が、糧とする亡骸の所有権を僧侶に問うた。僧侶は鬼を嫌悪するどころか、当然のように言葉を返した。挙げ句に認められなかった方の鬼の怒りを買い、殺されてしまった。
 突然の話題の転換に、どういった意図が在るのかが読み解けない。屋敷に短刀が多いことと、鬼に殺された僧侶の話が、江雪左文字の中では上手く噛みあわなかった。
「数珠丸殿、何を」
 戸惑い、不信感が膨らんでいく。
 警戒して声を潜める前で、太刀は涼やかに微笑み、左手を顔の前に立てた。
 首から垂らす数珠を掲げ、薄目を開く。
「小鬼は、哀れと思ったのでしょうか。適当な屍を見繕い、拾った骨を離婆多の腕に宛がって、呪を唱えた」
「数珠丸殿」
「これにより、離婆多は見事生き返りました。人の身は所詮、仮のもの。――我らの身体もまた、仮初に過ぎぬのです」
 遮ろうと声を張り上げたが、効力があったとは言い難かった。数珠丸恒次はにこりと目尻を下げると、短刀たちが走って行った方角に顔を向けた。
 その遥か向こうには、彼が顕現した鍛冶場がある。
 火を絶やすわけにはいかないと、そこでは毎日のように鍛刀が繰り返された。見目愛らしい者たちが次々生まれては、時に用済みとして、鉄に戻されていた。
「われわれは、刀剣の付喪神。然れば、我らは何を形代とし、この世に現れ至るのでしょう」
「それ、は。……私たちは、刀故に」
「奇異なことを仰る。では、此処にあるこちらは、何と申されるか」
 五虎退とのやり取りを頭の隅に置き、江雪左文字は必死に言葉を繰り出した。
 しかし最後まで言い切る前に、声を被せられた。語気荒く詰問されて、眼前には鞘に収めた刀を突きつけられた。
 絡みつく瓔珞の珠が弾み、跳ねた。当てられそうになった江雪左文字はへっぴり腰で後退して、言い返せなくて顔を背けた。
 奥歯を噛み、太刀でありながら打刀拵えの愛刀を握りしめる。
 それは紛れもなく彼そのものであるのに、全く別のものとして存在していた。
 刀剣男士は、時間を超える。
 時を遡り、過去へと戻れる唯一の存在だ。
 そして戦乱は、いつ、どの時代でも、愚かしくも繰り返され続けて来た。
 野ざらしにされ、見向きもされない屍の数は、天の星よりも遙かに多い。
「そういえば貴殿の、弟君。名を確か、小夜、左文字と」
「それが! なにに、……御座いましょう」
「命名の由来は、和歌、でしたね。ええ。大本房も、その昔、高野の山で寂しさ紛らそうと、人を造ったことがあるという話ですが」
 腕を戻し、数珠丸恒次が笑った。刀と己を繋ぐ瓔珞を抓み持って、動揺を隠し切れないでいる太刀に目を眇めた。
 憐みと、嘲弄とが混じり合っているように見えた。
 ただ立っているだけなのに畏怖の念を抱かせ、他を圧倒する凄味が感じられた。
 膝を屈してしまった方が、どれほど楽かと思った。けれどぎりぎりのところで堪えて、江雪左文字は手首に巻き付く数珠を握り直した。
「大本房に反魂の呪を教えたのも、鬼でしたか」
 滔々と流れる水のように、数珠丸恒次から言葉が溢れ出す。
 小夜左文字の名は、西行法師の詠んだ歌に由来する。地位を棄て、家族を置いて都を後にしたこの男もまた、術を用い、集めた屍を使って死者を蘇らせたという。
 但し出来上がったそれは、人の形こそしているけれど、おおよそ人間とは言えない不出来なものだった。
 声は発するが、話し相手とするには遠く及ばず、かといって壊すのも、殺すようなもので気乗りしない。仕方なく山の奥深くに置き去りにし、捨てて来たというのがその概要だ。
「紀長谷雄が鬼より与えられた美しい娘も、屍を集めて作られたものでしたね」
 鬼との賭け双六に勝ち、紀長谷雄は美女を得たという。その後百日間手を出さずにいれば、これを妻と出来る筈だった。
 しかし男は鬼との約束を違え、期日を迎える前に女を抱いてしまい、得るはずだったものを失った。
 言いつけを守り、百日間耐えていれば、屍から組み立てられた女は、命を宿して人になったという。
 鬼が蘇らせた離婆多も、失われた部分は死者の骨で補われた。
 材料となる屍が、そこかしこに転がっているような時代だった。
 その屍を使って、鬼が――或いは鬼より教わった人間が、人を作り、死者を蘇らせた。
「そういえばこの屋敷には、鬼を斬った方も、いらっしゃるようですね」
 クツリ、数珠丸恒次が喉を鳴らした。
 丸めた手を口元に宛がって、何故か楽しそうに目尻を下げた。
 ぞわりとした。粟立つ背筋に冷たい汗を流し、江雪左文字は時間をかけて呼吸を整え、項垂れるかの如く頭を下げた。
 瞼の裏に、鍛冶場で見送った弟の姿が蘇った。
「しばし、ここでお待ちください」
 此処にいたくなかった。一刻も早く、この場から離れたかった。
 重すぎる荷を投げ出して、与えられた仕事を放棄する。審神者を恨み、己の不幸を嘆き、彼は震える両手を握り締めた。
 代わりに案内する者を探して来ると、言外に告げた。
 逃げ出すのにも等しかったが、威圧感に耐えられない。止まらない汗を拭いもせず、顔を上げると同時に踵を返した。
 反転し、人気の絶えた縁側を進み始める。
「もし悩み事があるようでしたら、言ってください。私で良ければ、いつでも相談に乗りましょう」
 足音立てずに数歩進んで、不意に語り掛けられた。
 胸に手を添えて述べた彼に、江雪左文字は返事をしなかった。廊下を曲がる際に一瞬だけ視線を向けて、目が合いそうになった時は、頭を下げて誤魔化した。
 数珠丸恒次は変わらすそこに佇み、神々しくもある陽光を浴びていた。
 見る者が居れば拝みたくなる姿はとても眩しく。
 とてつもなく恐ろしいものに、思えた。
 

2016/03/26 脱稿

つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける

 みーんみーん、と遠くの方で蝉の鳴く声がした。
「おや」
 たまたま通りかかった廊下でそれを聞いて、歌仙兼定は足を止めた。前方に送るつもりでいた爪先を庭先に向け直して、背筋を伸ばし、姿の見えない蝉を探して視線を泳がせた。
 静まり返った空間で、鳴いているのはその一匹だけだ。どれだけ待っても、耳を澄ませても、呼応するかのように鳴く声は響かない。
 少し前なら大量の蝉が、連鎖反応で一斉に鳴き喚いていた。それが実に五月蠅くて、会話にも困るほどだった。
 だのに今日は、妙に物悲しく聞こえてしまう。
 それはきっと、この蝉がもう居ない仲間を捜し求め、必死に声をあげているからだろう。
 季節は過ぎ、夏の盛りは昔の話だ。あの姦しかった鳴き声も、遠ざかってしまえば妙に懐かしい。
 哀愁漂う声に思いを巡らせ、打刀は緩く首を振った。口元に淡い笑みを浮かべて目を眇め、庭へ降りる場所を探して左右を確かめた。
 広い庭園を出歩くのに、いちいち玄関まで回っていたら面倒だ。だから縁側には、一定間隔で沓脱石が置かれ、そこに共用の下駄や、草履が用意されていた。
 短刀や脇差が履くには少々大きすぎる履き物ばかりだが、打刀なら問題ない。そう行かないうちに無事発見して、彼は袴の裾をひょいっ、と持ち上げた。
 膝が布に引っかからないよう注意しつつ、段差を降りて下駄を履く。
 長く日向に出ていたのもあって、それはほんのり熱を含んでいた。
 足袋越しに感じる温もりは、火傷しそうな程強いものではない。最初は吃驚したけれど、慣れればさほど気にならなかった。
 これも、少し前までは本当に熱くてたまらなかった。どうして日陰に隠しておかなかったのかと、前に履いた者に対して怒りが沸いたものだ。
 憤慨すればその分身体も熱を発して、余計に暑くなったのは笑えない冗談だ。
 そんな他愛ない出来事を振り返って、歌仙兼定はゆっくり庭を進んだ。
 隆盛を誇っていた雑草は今も健在だが、一時期よりは勢いが衰えていた。緑の木々はほんの少し元気を失い、細い枝が下を向いていた。
 丹塗りの太鼓橋の上では短刀が数振り集まり、水面を覗き込んでいた。鯉に餌でもやっているのか、わいわい言い合って、楽しそうだった。
 その光景は、いつもと変わらない。
 だが確実に変わりゆくものが存在して、それを探して、打刀は深く息を吸い込んだ。
 土と水の匂いがした。
 蝉の声は相変わらずで、聞いていて無性に哀しくなった。
「おっと」
 二本歯の下駄を巧みに操り、足下に落ちていた石を避けた。だがそれは、よくよく注意して見れば、寿命を終えた蝉の亡骸だった。
 腹を上にして転がり、足がその上に重なっていた。まるで天に祈る仕草であり、懸命に鳴く仲間を置いて、先に逝くのを詫びているようだった。
 周囲には黒い点が群がり、行儀良く列を成していた。徒党を組んだ蟻が大きな蝉の死骸に集って、巣へ運ぶ算段をつけているところだった。
 諸行無常、とは数珠丸恒次が日頃から口にしている言葉だが、まさにこれが、そうだろう。
 たった数日の命を散らした蝉は、屍となった後は小さな生き物たちの命を繋ぐ糧となるのだ。
「それにしても」
 乾いた地面を下駄で叩いて、彼は爪先に上ろうとした蟻を追い払った。踏まないよう注意して足を運び、木漏れ日が眩しい日陰に身を潜ませた。
 ほんの十日ほど前まで大合唱を奏でていた蝉が、今は探してもなかなか見つからない。
 出遅れてしまった一匹は、先に旅立った仲間たちを、どう思っているのだろう。
 そう考えると、この鳴き声は弔いの歌にも聞こえた。
「夏が、終わる……か」
 あれだけ暑かった日中も、幾ばくか落ち着き始めていた。焼け焦げそうな熱を放っていた太陽は、このところ随分と大人しかった。
 明け方や日暮れ後も、前ほど辛くない。寝苦しかった夜は過去の話となって、ここ最近は寝坊組が続出していた。
 安眠を邪魔してくれた蚊も、減ってきている気がする。
 これはあくまで体感でしかないけれど、寝入りそうになった瞬間に訪れるあの不愉快な羽音を、ここしばらく聞いていなかった。
「秋、だね」
 暦は立秋を過ぎて、次の季節を予兆させた。真っ昼間はまだまだ十二分に暑いけれど、最盛期に比べれば可愛いものだった。
 夏の盛りは本当に暑くて、早く冬が来ればいいのに、と心から願った。
 だのにいざ夏が終わろうとしていると知って、急に惜しくなった。
 心変わりの早さには、自分でも呆れてしまう。
「参ったな」
 鼻の下を擦って苦笑して、歌仙兼定は木々の隙間から覗く青空を仰いだ。
 注意深く辺りを観察すれば、いろいろなものが少しずつ、前とは違っているのが確認出来た。
 木の幹は色を濃くし、葉の厚みが増した。瑞々しかった若葉の頃を過ぎて、どっしりとした風格を持ち始めていた。
 艶やかに咲いていた花は散って、種を残すべく行動を開始していた。まだまだ固い木の実を探して目を凝らし、彼はごつごつした幹を撫でた。
 秋が深まれば、実りの季節がやってくる。子供たちは団栗拾いに夢中になり、大人たちは臭気に耐えつつ銀杏を集めるだろう。
 一年前のことを振り返り、顔を綻ばせる。
 楽しい出来事ばかりではなかったが、なかなか充実した一年だった。
 これから巡ってくる季節もそうであればいいと願って、彼は森の奥深くに行こうとした身体を引き留めた。
「いけない、いけない」
 あまり遠くへ行きすぎると、戻れなくなる。
 本丸の庭は敷地が広く、どこまでが範囲なのかは誰にも分からなかった。
 方向を見失えば、簡単に迷ってしまえる。森の中は似たような景色がどこまでも続くので、出歩く際は覚悟と準備が必要だった。
 今日は遠出をする気はない。
 蝉の声に誘われて出て来ただけと思い出して、彼は左胸を数回叩いた。
「さて、帰るか」
 季節の巡りを感じ、ちょっとした変化を堪能できた。
 次は是非とも、風流を分かりあえる存在と一緒に訪ねたいものだ。
「雅を解さぬ者たちの、なんと哀れなことよ」
 この楽しさが理解できない連中が、本丸には多い。
 それが腹立たしくてならないと肩を怒らせて、彼は直後に深呼吸で心を鎮めた。
 折角、夏の終わりを肌で感じ取れたのだ。
 それをつまらない怒りで吹き飛ばしてしまうのは、あまりにも勿体なかった。
 気持ちを落ち着かせ、来た道を戻る。
 だが途中で思いついて、屋敷の外周をぐるりと回ることにした。
「そういえば、ここも」
 家屋の周囲には、短刀たちが春に植えた花々が見事な彩りを奏でていた。
 だがそれも、少し前までの話。
 太陽に向かって咲いていた背高の花は、黄色の花弁を悉く地面に落とし、禿坊主になって俯いていた。
 肩を落とし、項垂れている風にも見える。なまじ背丈が高いだけに、居並ぶ花々が一斉に首を垂れる姿は異様だった。
 十も、二十も、似たような風体で連なっている光景は不気味で、おぞましくもある。それが肌で感じられるからか、少し前まで賑やかだった場所も、今は静謐に包まれていた。
 盛りを過ぎてしまえばこんなものと、他に近付く者がない花畑を眺めて、打刀は両手を腰に当てた。
 下を向く向日葵の軍勢は、遠くから見ても、近くから見上げても、薄気味悪かった。
 そのうち勝手に動き出しそうで、震えが来た。ちょうど風が吹き、枯れた葉が擦れあって、さざ波のようなざわめきが生まれたのも影響していた。
「うわ」
 驚いて、思わず声が出た。身体が勝手に仰け反って、二秒後我に返った打刀はひとり赤くなった。
 周りに誰もいなくて良かったと安堵し、唇を舐める。ほっと胸を撫で下ろして呼吸を整え、次に向かうべく足を動かした。
 道中見つけたのは、空の桶に突っ込まれた水鉄砲だった。
 細い竹筒を使って、子供たちが手作りしたものだ。最初は飛距離を争うだけだったが、次第に互いを撃ち合うようになった、暑い時期定番の遊び道具だった。
 真っ黒に日焼けした短刀たちがはしゃぐ声も、近頃はすっかりご無沙汰だ。見向きもされず、軒先で放置されているそれを戯れに小突いて、歌仙兼定は軒から垂れ下がる細い縄に目を向けた。
 それもまた、夏を鮮やかに彩ったひとつだった。
 ただこちらも、すっかり干からびていた。目の粗い網状の縄に絡みつく蔓は茶色く変色し、一部は乾いて、折れ曲がっていた。
 ぽっきり折れてしまったものもあれば、辛うじて形を残しているものもある。河童の手のような形をした葉は悉く地面に顔を向けて、緑色をしたものは皆無に等しかった。
 朝顔だ。
 夏の始まりを高らかに告げた花だが、今では見る影もなかった。毎朝、数え切れないくらい咲いていた花は萎み、縮み、朽ち果てていた。
「ああ、ここも」
 時の流れは残酷だ。その無常さに思いを馳せて、彼はかさかさしている蔓に手を伸ばした。
 そんな男の視界に。
「う、わあっ」
 黒々とした塊が、突如飛び込んできた。
 いや、単に歌仙兼定が気づいていなかっただけだ。思わぬところに思いがけないものを見つけてしまって、驚き方は大袈裟だった。
 右足を高く掲げて飛び跳ねた彼に、地面に蹲っていた方は胡乱げな顔をした。こちらは早いうちから男の存在に気づいていたようで、突然の大声に迷惑そうな顔をして、口を尖らせた。
 大振りの笠を日除けに被り、枯れた朝顔の前にしゃがみ込んでいた。いつもの藍色の内番着姿で、側には底の浅い笊が置かれていた。
 黒っぽいもので埋まっているそれにも目をやって、右手を胸元、左手は顔の前という珍妙な体勢を取っていた男は慌てて背筋を伸ばした。まるで何事もなかったかのように装って、咳払いし、無駄に畏まった姿勢で短刀に向き直った。
「や、やあ。お小夜」
 まさか居るとは思っていなかった。
 妙なところで遭遇したと焦りを隠し、打刀は些か上擦った声で呟いた。
 引き攣り気味の笑顔で挨拶して、小さく手を振ってみせる。
 だが小夜左文字の反応は、期待したほどではなかった。
「はい、歌仙」
 冷淡に挨拶を返されて、その後が続かない。
 彼の手は忙しく動いており、仕事の邪魔をするな、という雰囲気で溢れていた。
 蝉の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
 鳴き疲れたのか、それとも場所を変えたのか。生き残っているかもしれない仲間を捜し、旅に出たのかもしれなかった。
 あれこれ想像して、取り残された側の気持ちに寄り添う。
「え、ええと」
 胸に生じた寂しさを蹴り飛ばして、歌仙兼定はせっせと動き回る少年に目尻を下げた。
「お小夜は、なにをしているんだい?」
 どうか邪険にしないでくれと願って、勇気を振り絞った。
 左手を胸に添えて問いかけて、彼は蹴りそうになった笊を覗き込んだ。
 黒い、小さな粒だった。
 それが山盛り、笊に集められていた。
「これは?」
 腰を折って屈み、指さす。
 短刀は笠を少しだけ持ち上げると、居座ってしまった打刀に困った顔をした。
「朝顔の、種です」
 やや言い辛そうにしながら、淡々と告げた。そこに特定の感情は含まれず、事実のみを口にした感じだった。
 それが却って、彼が何かを隠そうとしている風に感じられた。
「種」
「はい」
 言われてみれば、そんな風に見える。取り立てて驚くことではなくて、嘘を言われている、と疑いを抱く理由も見つからなかった。
 頷かれて、歌仙兼定は笊に手を伸ばした。爪の先ほどもない大きさのそれをひとつ摘んでみれば、球形とも、角形ともいえない、不思議な形をしていた。
 円錐状と言ってしまうのは些か乱暴で、形状を詳細に説明する方法が見つからない。
 自然界には不思議な形が溢れているのだと感心して、彼はそれを笊に戻した。
 一方で小夜左文字は渋面を作った後、視線が合う前にぱっと切り替えて能面を被った。右手で枯れ色の朝顔を摘んで、玉葱の超小型版のような球体を捻じ切った。
 黄土色をした薄皮に覆われており、その残骸は短刀の足下に沢山散らばっていた。
「それは?」
「中に、種が」
 次々飛んでくる疑問に、小夜左文字は面倒くさそうに答えた。簡潔に言って、打刀の前で乾いた薄皮ごと、球体を指で押し潰した。
 ペキペキと音が聞こえてきそうだが、実際には、そんなことはない。代わりに皮の表面に罅が入って、隙間から黒い塊が顔を出した。
 小さな手のひらに転がり落ちた種は、全部で四つ。
 どれも同じ形をしているようで、少しずつ大きさが違っていた。
 それが、四つに分かれた小部屋の中に入っていた。
「……へえ」
「綺麗に、咲いていたので。来年も、咲くように」
 小夜左文字が種を集める理由は、至極単純なものだった。
 だがその気持ちはよく分かると首肯して、打刀は改めて小さな掌に見入った。
 朝顔の種など、初めて見た。
 素直に感心して、彼は栄華を誇って咲き乱れた花の姿を、瞼の裏に蘇らせた。
 目を瞑れば、瞬時に思い出せた。朝顔は縁側の日除けにも使われており、一定間隔で色が変わっていた。
 赤、青、紫、白。
 微妙に風合いが異なる花が多数並んで、眺めているだけで楽しかった。
 ではここには、どの色が咲いていただろう。
 そこまで注意深く観察していなかったので、すぐには思い出せない。腕組みをして、懸命に記憶を手繰り寄せて、彼はやがてぽん、と柏手を打った。
「ああ。そういえば、ここの朝顔は。綺麗な紫色と、藍色だったね」
「……」
「お小夜?」
 二色が混じり合った花もあって、見つけた時は驚いた。こんな風にも咲くのかと驚いて、面白がって、萎んでしまうまで、毎日眺めに来た。
 それがちょうど、この辺りだったはずだ。
 慌ただしい日々が続いて、すっかり忘れていた。
 そんなこともあったな、程度に呟いて、歌仙兼定は相好を崩した。
 けれど短刀は、「そうですね」と返してくれなかった。
 何故か顔を赤くして、唇を真一文字に引き結んでいた。
 耳の先まで紅色に染めて、こめかみには汗が滲んでいた。朝顔の蔓に向かって睨みを利かせ、瞬きの回数は極端に減っていた。
 呼吸さえ止めているのか、顔色は徐々に悪くなり、青ざめていく。
「お小夜? どうしたんだ、具合でも悪いのか」
 急変した彼に驚き、歌仙兼定は悲鳴を上げた。急ぎ手を伸ばし、華奢な肩を掴んで揺さぶれば、はっとなった短刀が大慌てで振り払った。
 突き飛ばされて、打刀は数歩後退した。たたらを踏んで、目を丸くして、笠を後ろに落とした少年に見入った。
「おさよ……?」
 急にどうしてしまったのかと懸念して、声を潜める。
 短刀は肩を上下させて深呼吸して、苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべていた。
 再び赤みを取り戻した頬を擦り、利き腕で顔の下半分を覆い隠す。
「いけ、ま……せん、か」
 彼が種を集めていたのは、この一帯だけ。
 朝顔はあちこちに植えられているけれど、ここ以外はどこも手付かずで、枯れるに任せて放置されていた。
 立ち尽くす向日葵の群れと同様の扱いだ。それなのに小夜左文字は、藍色と、紫色の花が咲いたこの場所だけ、せっせと種を集めて回っていた。
 掠れ声で訊かれて、歌仙兼定は眉を顰めた。首を傾げ、なんら不都合ないと言おうとして、開けた口を直後に閉じた。
 そういえば前に、紫と藍が混ざった朝顔を見つけた時。
 寝ていた小夜左文字を叩き起こし、外に連れ出して、一緒に見上げた朝があった。
 綺麗だ、珍しい、風流だ、とあれこれ感想を述べた後。
 僕たちのようだね、と何気なく呟いた。
 髪の色が、似ていると。
 深い意図も、意味もなく、口にした。
「え……と。あ、れ?」
 あの時、小夜左文字はなんと返事しただろう。
 同意は得られず、しかし反論もなく。ただ黙って、花を見つめ続けていたのではなかったか。
 彼方へと忘れ去られていた記憶が、芋蔓式に復活した。次々溢れて止まらなくて、打刀は右手で拳を作り、口元へと叩き付けた。
 勝手に頬が緩み、鼻の下がだらしなく伸びていく。
 押し殺しきれない嬉しさに胸を高鳴らせ、歌仙兼定は短刀を見た。
 小夜左文字は居心地悪そうに身を捩って、手の中の種を笊に投げ入れた。
「綺麗、だった……から。来年もまた、咲けば良いな、と。それだけです」
 深い意図はなく、意味だってない。
 そう声を荒立てて、彼はその場で地面を踏み鳴らした。
 肩を跳ね上げ、小さな身体で懸命に威嚇した。変な想像をするなと息巻いて、声高に叫んだ。
 だが彼が必死になればなるほど、歌仙兼定の中で疑念が確信に変わっていく。
「お小夜は、まったく」
「違います!」
 可愛いところを見せつけられて、笑いがこみ上げて来た。止められず、満面の笑みを浮かべて、打刀は愛しい短刀の頭を撫でた。
 それを跳ね除け、小夜左文字が吼える。
 通りかかる者たちが何事かと怪訝にする中、答えの出ない問答は、当分終わりそうになかった。

2016/8/20 脱稿

乱れそめにし われならなくに

 その日命じられた遠征任務は、滞りなく完了した。
 無事に役目を果たし、手土産もたっぷりだった。通常より多い資源を獲得出来て、鼻高々だった。
 報告の際、近侍を務めていたへし切長谷部が、悔しそうにしていたのも楽しかった。
 日頃からなにかと主命、主命と五月蠅く、近侍でない時も場を取り仕切ろうとする男なので、痛快だった。
 これでしばらくは、何をやっても文句を言われることはない。快適な生活環境を勝ち取って、頬は緩みっぱなしだった。
 方々を歩かされて疲れていたが、一気に吹き飛んだ。帰還の道中に見かけた素晴らしい景観も手伝って、廊下を行く足取りは非常に軽かった。
「ふふふ」
 思い出すだけで目元が綻び、笑いがこみあげて来た。
 口元に手をやって声を堪えて、歌仙兼定はほんの少し歩幅を広くした。
 刀を手に歴史修正主義者と戦う出陣とは違い、遠征の多くは裏方任務だ。偵察や見回り、時間遡行軍の動向調査と、やることは実に幅広い。
 どれも重要な任務で、堅実さが求められた。とはいえ目立たず、地味な分、派手な大立ち回りを好む刀からは不評だ。特に同田貫正国といった実戦刀や、血に餓えた刀たちには、面白くない仕事だろう。
 だが歌仙兼定は違った。様々な時代を巡り、色々な場所へ出向くのは楽しい。これまで目にする機会がなかった景色を眺め、話に聞くだけだった花々を愛でるのは、なんとも言えない喜びだった。
 今日も、新たな発見があった。
 これほど心躍るものはなく、嬉しいことはない。
「ああ、見せてあげたいねえ」
 次の遠征では、あの子を連れて行こう。
 きっと気に入ってくれるに違いなくて、心が疼いてならなかった。
 今すぐにでも引っ張って行きたいところだが、審神者からは暫く休むよう言われていた。
 別時代への遠征に出ている刀剣男士が帰還したら、編成を変更し、再度の遠征に出発だ。玄関に張り出されていた予定表を見れば、それまであと一刻半近い猶予があった。
 この空いた時間で何をするかは、各自の自由だ。
 幸いにも畑仕事や、馬当番は言い渡されていない。演練場は空いているようだが、折角快い気分でいるのだ、汗臭さで上書きしたくなかった。
 放っておくと勝手に弛む顔を叩き、歌仙兼定は辿り着いた部屋の前で深呼吸を二度繰り返した。逸る気持ちを抑え、それでも堪え切れない興奮に頬を紅潮させ、閉め切られた襖の向こうに声を掛けた。
「お小夜。お小夜は、いるかい?」
 遠い昔に共に暮らし、不幸な別れ方をして、ここ本丸で再会を果たした。
 数奇な運命に彩られ、時代に翻弄され続けた短刀の名前を、愛おしげに声に出した。
 他の刀たちに向けるものより、遥かに甘い声色なのは自覚している。だがそれも仕方がないことだ。無骨者が多いこの屋敷で、小夜左文字は数少ない、雅に通じた刀だった。
 勿論、中には非常に品位ある刀も存在している。だが彼らはあまりにも高貴過ぎて、話しかけるに遠慮が勝った。
 その点、以前から付き合いがある短刀が相手なら、気が楽だ。しかもあの子は、嫌がらずに最後まで話を聞いてくれた。適度に相槌を打って、時には間違いを指摘し、正してくれた。
 戦場では鬼神の如き荒々しさを見せながら、平素の振る舞いは優雅で、且つ慎み深い。
 だのに周囲は、小夜左文字の良さを分かろうとしなかった。
 それが歌仙兼定には腹立たしく、理解出来なかった。
 今日の遠征中も、あの子が怖い、といった話を盗み聞いた。
 本日唯一の嫌な記憶を蘇らせて、細川の打刀はむすっと口を尖らせた。
「お小夜?」
 膨れ面を作り、首を捻る。
 呼びかけたのに返事がなく、襖の向こうは静まり返っていた。
 物音ひとつせず、動くものの気配はない。もしや不在かと勘繰って、彼は丸い引手に指を掛けた。
「失礼するよ」
 断りを入れ、思い切って左に開けた。襖は敷居の上をすっと滑り、ほの暗い室内へと導いた。
 瞬きを三度繰り返して、歌仙兼定は力なく肩を落とした。
「いないのか」
 戦支度も解かずに訪ねて来たが、空振りだった。そう広くもないが、狭くもない部屋は綺麗に片付けられ、猫の子一匹いなかった。
 小さめの文机に飾り気のない硯箱が置かれ、他には衣服類を入れた柳行李がひとつだけ。布団は三つに折り畳まれて隅に寄せられ、丸い枕だけが打刀を見詰めていた。
 空気は乾いており、ほんの少し澱んでいた。朝から一度も戻っていない雰囲気が感じられて、歌仙兼定は眉を顰めた。
「今日のお小夜は、確か」
 藍色の袈裟は畳まれて、行李の上に置かれていた。刀は小さめの刀掛台に、鞘に収めた状態で控えていた。
 戯れにその柄を撫でて、染みついている汗や血の気配に身を竦ませる。まるで触れられるのを拒むかのように、鋭い意識を向けられて、内臓がぶるりと沸き立った。
 本丸は現世と切り離された場所――時空の狭間に、結界に囲われた形で存在しているという。季節の変化も自在らしいが、審神者の方針で、暦通りに時が過ぎるよう設定されていると聞いていた。
 ここは本当に不思議なところだ。だが一番不可思議なのは、刀剣の付喪神が現身を得て、こうして自在に動き回っていることだろう。
 審神者に喚び出されるまで、彼らは器物に宿る概念でしかなかった。姿はあるけれど、形は無い。波長が合う人間ならば稀に視認も可能だったが、そうでなければ付喪神など、存在しないも同然だった。
 触れるのは叶わず、声も届かない。命運は全て他人任せで、自ら何かをどうこうするなど、夢のまた夢。
 それが数奇な巡り合わせにより、人に似た身体を得た。己の足で歩き、己の手で触れ、己の舌で味わい、己の意志で行動を決定付けられるようになった。
 勿論、最終的な判断は審神者によって下される。望みが全て叶うわけではない。
 それでも、日常生活における判断の多くは、自らの心に委ねられた。
 これほどの驚きと、喜びは、刀剣として造られてから二度目、いや、三度目だった。
 一度目は、細川忠興に見出された時。
 二度目は、小夜左文字と最初の邂逅を果たした時。
 鶴丸国永ではないが、驚きというものがなければ、本当に世界は退屈だ。
 だから歌仙兼定は、遠征であろうと手を抜かない。常に旅先の景色を愛で、肌を撫でる空気の変化、季節の移ろいを探して、歌にしたためるのは楽しかった。
 ちょっとした違いを見つけ出して、時の流れを実感する。木の葉ひとつにしても、どれも同じようで一枚ずつ異なると教えてくれたのは、僧衣の少年だった。
 今日新たに見つけた驚きを、一秒でも早く伝えたい。
「どこに居るのかな」
 無人の部屋を後にして、歌仙兼定は左右を見渡した。
 平和呆けしそうな本丸でも、小夜左文字は戦いを忘れない。
 刀としての本義を保ち続けているところも、審神者の下に集う他のどの刀剣男士とも異なっていた。
 屋敷のどこかにいるだろうが、心当たりが思い浮かばなかった。内番任務からは外れていたはずで、出撃部隊にも名前がなかった。
 戦に出られないとがっかりしていたので、それは間違いない。朝餉の席には顔を出していたが、以後の行方は不明だ。
「お小夜?」
 試しにその場で名前を呼んでみたが、返事はなかった。
「あれ、歌仙さんだ」
 代わりに、別の声がした。短刀たちの部屋が集中する区画で、現れたのは鯰尾藤四郎だった。
 頭の天辺で跳ねた髪ひと房を揺らし、悪戯者の脇差が廊下の真ん中で手を振った。
 彼には前に、馬糞で酷い目に遭わされている。だが今のところ、両手は空だった。
 少し前までは戦装束だったが、自室で着替えて来たらしい。黒を主体とする服装は変わらないが、装飾は控えめで、動き易い格好だった。
「どうかしたんですか?」
 彼は大家族、とも言うべき粟田口派のひと振りで、元々は薙刀だ。弟を大勢従えており、短刀達は大部屋で共同生活を送っていた。
 長兄である一期一振を筆頭に、粟田口の多くは昼夜を問わず、その部屋で過ごしている。そこがこの少し先にあるので、向かう途中なのだろう。
「ああ、いや。ちょっとね」
 訝しげに訊ねられて、歌仙兼定は口籠った。
 落ち着きなく視線を泳がせ、何気なく背を向けていた襖を見る。
 この部屋の短刀に用があったと言えば良いのに、心構えが出来ていなかったので、咄嗟に言葉が出なかった。
 落ち着きなく身を捩り、口元を右手で覆って、親指で顎を掻く。
 そんな挙動不審ぶりに首を捻って、ややしてから鯰尾藤四郎が手を叩いた。
「ああ、なんだ。小夜君に用ですか?」
 朗らかに目を細め、納得した様子で首を縦に振られた。そこに思わず食いついて、歌仙兼定は声を高くした。
「お小夜を知っているのか」
「そりゃあ、知ってますよ。部屋、いないんですか?」
 行き先を問うたつもりが、言葉が少々足りなかった。
 志同じくする仲間なのだから当然、と鷹揚に頷いて、粟田口の脇差は閉まっている襖に目を細めた。
 実に頓珍漢なやり取りに、若干の気まずさが生じた。歌仙兼定は恥ずかしさに唇を噛み、沈黙を返事にした。
 頭上から聞こえた大きなため息に、鯰尾藤四郎は苦笑して姿勢を正した。半歩下がって踵を浮かせ、爪先でぐるぐる円を描いた。
「小夜君だったら、確か」
「知っているのか」
「遠征、第四部隊とかじゃ、なかったです?」
「え?」
「あれ?」
 右手の人差し指で小ぶりの鼻を撫で、言葉の最後でぴん、と弾く。続けて天井に向けてくるくる回して、あっけらかんと言い放つ。
 その答えに、歌仙兼定は目を丸くした。
 素っ頓狂な声を上げられて、鯰尾藤四郎も唖然となった。
 数秒間、見詰め合ったまま沈黙する。
 必死に記憶を掘り返して、細川の打刀は頭を抱え込んだ。
「いや、そんなはずは。だが変更になった、ということも」
 今朝、彼が遠征に出た時点で、第四部隊に小夜左文字の名はなかった。だが第二部隊の出発は、そちらよりも先だった。
 出かけた後で編成が組み替えられた可能性を探り、眉間に皺を作る。
「あのー……歌仙さん?」
「すまない、鯰尾。ありがとう」
「ああ、はい。どういたしまして」
 真剣に悩み出した彼に、黒髪の脇差が不安そうに眉を顰めた。そこに打刀が声を弾ませ、勢いよく頭を下げた。
 憶測が大部分を占める発言を、真に受けられてしまった。他意はないが、まさか本気で信じるとも思っていなかったので驚いて、鯰尾藤四郎は反射的に御辞儀で返した。
 今更違うかも、とは言い出せなかった少年に見送られ、歌仙兼定は荒々しく床を蹴った。急ぎ足で玄関に向かって、本丸に暮らす刀剣男士の名簿を兼ねた予定表を仰ぎ見た。
 彼の名札は、まだ二番隊の先頭にあった。
 そして小夜左文字の札は、左文字兄弟三振り分の最後尾に置かれていた。
 四番隊にあったのは、宗三左文字の名前だった。
「ああ……」
 どうやら鯰尾藤四郎は、これを見間違えたらしい。
 当てずっぽうで言っただけと判明して、歌仙兼定はがっくり肩を落とした。
 とはいえ、脇差の少年を責めるわけにはいかない。
 先走ったのは自分だと反省して、彼は前髪を掻き上げた。
 気を取り直して、改めて一覧表を見る。
 畑当番は江雪左文字と一期一振で、馬当番は岩融と今剣だった。
 第三部隊はまだ遠征から戻らず、玄関の戸は開かれたまま。大勢が暮らす屋敷ではあるが、出払っている者が多いのか、屋内は静けさに包まれていた。
 任務から外れた刀たちは、どこに行ったのだろう。
「台所かな」
 八つ時が近いのを思い出して、打刀は膝を打った。
 歌仙兼定は前の主の影響で、料理をするのが好きだ。食器に華やかに飾りつけ、見目鮮やかな一品を作るのが得意だった。
 そういう理由で、本丸の食事当番が良く回ってくる。皆が美味しい、と褒めながら残さず食べてくれるのは、なんとも言えない喜びだった。
 だが流石に、彼だけで刀剣男士全員分の食事を供するのは無理だ。そこで小夜左文字が、頻繁に手助けを買って出てくれていた。
 歌仙兼定がいない時も、たまに誰かを手伝っているのは知っている。今日もその小さな手でお玉を握り、灰汁取りに励んでいるものと思われた。
 ところが、だ。
「……お小夜は?」
「やあ、歌仙君。遠征お疲れ様」
 訪ねて行った台所に、目当ての刀はいなかった。
 代わりに燭台切光忠が、振り返って隻眼を細めた。黒の衣装に白の割烹着を着て、茹でた豆を潰していた。
 すり鉢を支えるのは、大倶利伽羅だ。寡黙な一匹狼を気取ってはいるが、緑色の餡が気になるのか、目つきは真剣だった。
 太い擂粉木を手に、大柄の太刀が朗らかに笑う。そんな男の左右、どこを見ても、小夜左文字の姿は影も形も見つからなかった。
 少し前までいた、という様子もない。現に燭台切光忠は、歌仙兼定の呟きに反応しなかった。
 色黒の打刀は瞳だけを動かし、一瞥を加えただけ。頑なに口を開こうとはせず、愛想は皆無だった。
「すまない。お小夜は、こちらに」
「ええ? ああ、小夜君なら、今日は来てないね」
 無視された苛立ちを呑み込み、あまり相性が良いとは言えない刀から意識を引き剥がした。懸命に堪えて本題を述べれば、擂粉木を動かしつつ、太刀が大きな声を響かせた。
 手元でゴリゴリやっているから、自然とそうなったのだろう。だが歌仙兼定には不快でならず、気付けば後退を図っていた。
「そうか。邪魔をした」
 探し人、ならぬ短刀がいないのなら、台所にはもう用がない。落胆は否めず、返す足取りは重かった。
 まだ何か言いたそうな燭台切光忠に背を向けて、玄関へと戻る。たった数分しか経っていないので、当然ながら第三部隊は戻っていなかった。
 しかしこのままでは、小夜左文字に会えないうちに、次の遠征に出なければならなくなる。
 そうなれば、戻りは日が暮れてからだ。夕餉はきっと一緒にとれないし、下手をすれば帰還の途に就くのは、彼が寝床に入った後だ。
 朝にちょっと顔を合わせ、言葉を交わしただけで、一日が終わってしまう。
 それはあまりに寂し過ぎて、嫌だった。
「どこに行ってしまったんだ」
 こんなにも会いたいのに、姿が見当たらない。誰かに訊ねようにも、誰ともすれ違わなかった。
 皆、外に出ているのだろうか。
 天気が良いし、暖かいので、屋内で過ごすのでなく、外で遊び回っている可能性は高かった。
「行ってみるか」
 小夜左文字は復讐に取り付かれ、それ以外にはあまり関心を示さない。粟田口の短刀たちのように、無邪気に日々を過ごすことはなかった。
 それでも誘われれば、無碍に断ったりはしない。これまでにも何度か、かくれんぼや球蹴りに付き合っているところを目にして来た。
 その子供たちのはしゃぐ声も、今日は珍しく遠い。
「かくれんぼ中かな」
 屋敷が静かな時点で予想は大方外れているのだが、この目で確かめない限り納得出来ない。小さな希望に縋って、打刀は隅に寄せていた沓に爪先を押し込んだ。
 上り框に腰かけて、脱げないようしっかり足を覆った。ぴかぴかに磨かれ、汚れひとつないのに満足げ頷いて、日差しが眩しい庭に出た。
 遠くに、外界に通じる門が聳えているのが見えた。
 今日の門番は、蜻蛉切だ。今もきっと、侵入者がないかどうか、鋭い眼光で睨みを利かせていることだろう。
 あの男なら安心と頬を緩め、本物と見紛う太陽にかぶりを振る。足元に伸びる影は短く、じっとしていても汗が滲んだ。
「水でも飲んでくれば良かった」
 折角台所に寄ったのだから、喉の渇きを癒しておけばよかった。思い起こしてみれば、遠征先で昼食を簡単に済ませて、それ以降なにも口にしていなかった。
 意識すると急に空腹が襲ってきて、反射的に腹を押さえた。帯の上から軽く撫でて、なかなか見つからない人影に眉目を寄せた。
「お小夜、どこだ」
 こんなにも会いたいのに、会えない。
 まるであの時のようだ。寒気を覚え、歌仙兼定は青くなった。
 居なくなった短刀を探し、城中を駆け回った記憶が蘇った。餓える領民を救う為に止むを得なかったとはいえ、当時は納得がいかず、あちこちに当り散らして過ごした。
 本丸で邂逅を果たした時は、だから本当に、心の底から嬉しかった。
「どこにいる!」
 声を荒らげ、吼えた。辺りを見回し、強く地を蹴った。
 小石を弾き飛ばし、息を切らして駆けた。抜け切らない疲労がどっと押し寄せて、膝がガクガク震えたが、構わなかった。
 馬小屋の傍まで来て、獣特有の臭いにようやく足が止まった。ぷわん、と漂って来た悪臭は、否応なしに鯰尾藤四郎を連想させた。
「ここ、は。違うな」
 馬には嫌な思い出しかない。当番は交替で回ってくるが、格別の理由がない限りは遠慮したかった。
 近付くのも嫌で躊躇して、大股で距離を取る。だが歌仙兼定の足は、三歩目で停止した。
「あれれ、かせんさん。どーしたんですかー?」
 簡素な東屋から、小柄な少年が出て来た為だ。重そうな桶を両手で運んで、地面に置いたところで打刀に気付き、声を上げた。
 刀派は三条の短刀、今剣だ。源義経の愛刀で、その散り際に際し、介錯を手助けしたと伝えられている。
 彼の姿は、その前の主の若き日を踏襲していた。一本足の下駄を履いて、器用に体重を移動させていた。
「やあ、今剣。お小夜を、知らないかな」
 厩の中を覗く勇気はなかったので、向こうから出て来てくれたのは大助かりだ。これで情報が得られると安堵して、距離を保った上で質問を投げた。
 どこか余所余所しい態度だったが、自称烏天狗は気に留めず、緩慢に頷いた。左右で色合いが微妙に異なる瞳を眇め、寂しそうに呟いた。
「さよくん、さそいましたけど。おうまさん、こわがるから、いやだって」
「ああ……」
 今剣と小夜左文字は、仲が良い。
 同じ刀派に短刀が居ない者同士で、顕現した時期も近かった。順調に数を増やしていく粟田口と違い、ひとりぼっちの期間が長かったのもあって、一緒に居る機会が必然的に多かった。
 それが巡り巡って、今に繋がっている。
 ただ山賊が殺した人々の怨讐を一身に受ける小夜左文字は、殺気に敏感な動物たちからは嫌われていた。
 馬が怯えるからと、手入れを頼まれてもやりたがらない。家畜の世話を毛嫌いする刀は多いが、大抵は面倒だ、汚い、という理由からで、彼が抱える理屈は異質だった。
 だから小夜左文字と一緒の時に限り、歌仙兼定は馬当番を拒まなかった。
「今剣よ、これはどこに片付ければ良いのだ?」
「いわとーし。それは、えっと。あっちです」
 厩の掃除は終わったのか、道具一式を抱えた岩融も外に出て来た。
 本丸で最も大柄な薙刀には一礼するだけで済ませて、打刀はもう一度、短刀に目を向けた。
 指示を終えた少年は、視線を気取り、首を横に振った。
 馬当番の手伝いを断った後、小夜左文字が何処に行ったかは知らない。
 仕草で伝えられて、歌仙兼定は渋面を作った。
「邪魔をしてすまなかった」
「なんだ、もう行ってしまうのか」
「さよくん、みつかるといいですね」
 表に出てきたばかりの岩融は、歌仙兼定が何故ここに居るのかが分からない。不思議そうに見つめる彼の前で、今剣が気を利かせて声を張り上げた。
 ぶんぶん手を振られて、これには苦笑が漏れた。今一度軽く礼をして、歌仙兼定は踵を返した。
 舞い戻った庭先には、依然誰の姿もなかった。
 池では鯉が悠然と泳ぎ、どこかで風鈴が鳴っている。日当たりのよい縁側では五虎退の虎が昼寝中だが、飼い主は近くに見当たらなかった。
 これが鳴狐の連れている狐であれば、言葉が通じ合ったものを。
 残念だと肩を落として、打刀は藤色の髪を掻き毟った。
 こんなに探しているのに、見付からない。
「そんな、まさか」
 もしや本当に売られてしまったかと怖くなり、彼は愕然と目を見開いた。
 嫌な予感に青くなって、無意識に刀を握りしめた。
 短刀の本体とも言えるものが部屋にあったのだから、それはあり得ない話だ。だが少し前の記憶は、頭からすっぽり抜け落ちていた。
 騒然となり、ぶるりと身震いした。全身の毛を逆立てて、歌仙兼定は血走った目を天に向けた。
「お小夜!」
 誰に聞いても、あの子の行方を知らないと言う。
 早く見つけ出してやりたい一心で、打刀は声の限り叫んだ。
 と同時に、全力で駆け出した。広い敷地を隅々まで探し回る覚悟で、疲れも忘れて走った。
 緑濃い木々の根本、井戸の底、池の中、果ては庭に転がる小石の下まで。
 おおよそ現実的ではない場所をも、手当たり次第確かめた。右に左に動き回る打刀を、遠くから蜻蛉切が怪訝に見守る中、息せき切らし、汗を流して、カチカチ奥歯を噛み鳴らした。
「お小夜……お小夜、どこに――そうだ!」
 そしてひと通り庭を荒らし回って、ふと、思い出した。
 無駄に広い本丸の中で、まだ訪ねていない場所がある。
 その事実に愕然として、彼は思い切り両手を叩き合わせた。
 ばちぃん、と良い音がして、それに見合う痛みが掌から手首を駆け抜けた。ジンジン来る痺れに熱が生じたが、お蔭で目が覚めたと意に介さなかった。
 どうして今の今まで、こんなに大事なことを忘れていたのだろう。
 焦って周りが見えていなかったと自省を促し、打刀は続けて頬を叩いた。
 顔を赤く染めて、ひりひりするのを堪えて道を急いだ。畑は屋敷の裏手に広がっており、その面積は屋敷の数倍あった。
 畑当番は日替わりでふた振りが担当するが、それだけでは手が足りない。土作りに作付け、間引きに収穫と、やることは大量だった。
 そんな事情もあり、暇をしている刀は頻繁に畑に連れ出された。万が一この重大任務を放棄しようものなら、罰として、食事当番による超絶辛いお仕置きが下された。
 夕餉抜きは基本中の基本で、相手によっては三日間肉抜きや、嫌いな食材のみで膳を埋める、といったものもあった。塩さえ使わない味付けや、酢飯の代わりに山葵を使った寿司、という罰も一度だけあった。
 本丸の食卓を彩り、刀剣男士の胃袋を支えているのは、広大な畑だ。
 一日手入れを怠れば、その分野菜や米の質が落ちる。食べ物の恨みは恐ろしいと、教え込むのは大事だった。
 そういう懲罰的な食事を、いかに雅に飾り付けるか。
 普段やらない事に頭を使って、あれはなかなか楽しかった。
 その時も小夜左文字が隣にいて、一緒になって真剣に案を練ってくれた。
 食に対する思いは、彼の方がずっと強い。
 あの短刀が二度と餓えと関わる日が来ないよう、切に願わずにはいられなかった。
「はっ、あ……は、はっ」
 そうしてようやく辿り着いた先。
 地平線まで続きそうな広大な畑の入り口に立って、歌仙兼定は膝に手を置き、汗を流した。
 ずっと動いていたので、そろそろ体力が尽きそうだ。ゆっくり休みたい誘惑に駆られて、願望はぶんぶん首を振って追い払った。
 目的を達成していないのに、のんびりなどしていられない。
 この後再度の遠征任務が待っているのも忘れて、力を振り絞り、背筋を伸ばした。
 目を凝らし、遠くを見る。黙々と働く刀たちの数は多く、ざっと見ただけでも十振りを越えていた。
 内訳としては短刀が主で、たまに背丈がある刀が混じっていた。中心に居るのは目に鮮やかな空色の髪の男で、歯が三本に別れた万能鍬を振るっていた。
 本日畑当番を言い付かった、一期一振だ。周囲に散らばっているのは彼の弟たちで、ふた振りか、三振りずつに分かれ、それぞれ異なる作業に勤しんでいた。
 粟田口は数が揃っている分、こういう時に有利だ。中には鯰尾藤四郎のような例もあるが、概ね皆礼儀正しく、躾が行き届き、兄に従順だった。
 信濃藤四郎も、嫌々ながら参加していた。虫でも見つけたか、乱藤四郎が悲鳴を上げて、駆けつけた厚藤四郎となにやら騒いでいた。
 長閑で、ほのぼのとした光景が広がっていた。
 これが刀たちの暮らす世界かと、夢でも見ている気分で惚けていた。
「おや、そこに……」
 我に返ったのは、掠れ気味の声が聞こえたからだ。
 思わず、といった風情で呟かれた低音にハッとして、歌仙兼定は四肢を粟立てた。
 棒立ち状態だったところに、電流が走った。ビリッ、と指先を痙攣させて、限界まで目を見開いた。
「お小夜!」
 発作的に叫んで、振り返った。
 心拍数を跳ね上げて、充血して真っ赤な瞳を後方に投げた。
 但しそこに佇んでいたのは、小夜左文字ではなかった。
 声で違うのは分かっていたのに、言わずにはいられなかった。必死の形相で弟の名を吼えられて、瑞々しい野菜を手にした太刀は黙って目を眇めた。
 本当は驚いているのだが、顔に出ない所為で分かり辛い。必死の形相の打刀をしばらく見詰めた後、江雪左文字は数珠のない左手を掲げ、人差し指を彼方に向けた。
「お小夜っ」
 直後に半泣きで声を響かせ、歌仙兼定は首を傾げる短刀に向かって駆け出した。
 一直線に猛進して、勢いは完全に猪だ。恰幅の良い男に突如突っ込んで来られて、当然ながら、華奢な少年は竦み上がった。
「か、歌仙?」
「お小夜、やっと見つけた。何処に行っていたんだい、探してしまったじゃないか!」
 ぎょっとして、動けなかった。あまりの勢いに圧倒されて、逃げるという選択肢が完全に抜け落ちていた。
 そうしている間に打刀は捲し立て、両手を広げて短刀に抱きついた。大きな子供が小さな大人に全力で甘えて、歓喜の雄叫びを上げた。
 遠くにいた粟田口の面々が、騒ぎに気付いて手を止めた。江雪左文字はゆっくり腕を下ろして、口元には淡い笑みを浮かべた。
 屋敷の中、庭と、どこを探しても見つからなかった短刀は、此処にいた。
「何処に、って。僕はずっと、畑に」
「お小夜、ああ、良かった。良かった。本当に、よかった」
 急にやって来たかと思えば大声で喚かれ、挙句力任せに抱きしめられた。
 膝を折って地面に屈み、肩口に額を埋めて喘がれた。途中で嗚咽のような声が混じって、唖然としていた短刀は目を瞬いた。
 歌仙兼定は顔を伏しており、表情は見えない。だが首に回された両手は、か細く震えていた。
 暖かな陽気の中、鳥肌が立っていた。表面に浮き上がった凹凸を確かめて、細川の短刀は困った顔で半眼した。
「どうしたんです、歌仙」
 いったい何に怯え、何に急き立てられたというのだろう。
 おおよその想像はつくが、敢えて訊ねて、少年は縋りつく打刀の髪に鼻先を押し付けた。
 すっかり身に馴染んだ匂いを嗅いで、懐かしさに目を細める。
 穏やかに問いかけられて、歌仙兼定は咳き込むように息を吐いた。
 唾で濡れた唇を舐め、恐る恐る顔を上げた。
 すぐ目の前に見慣れた姿を見つけて、息を呑み、そして恥ずかしそうに耳を赤くした。
「あ、いや……ええと」
「歌仙?」
 辺りを探れば、一期一振たちが遠巻きにこちらを窺っていた。収穫物を抱いた江雪左文字も、少し離れたところで弟を待っていた。
 畑に居る刀剣男士の視線が、全て彼らに注がれていた。
 認識した途端羞恥に駆られ、打刀は右手で顔を覆い隠した。
「いや、あの。すまない、お小夜。君に、話したいことがあったのに」
 農作業中だったのに、押しかけてしまった。邪魔をした。失礼を働くなど、雅ではない振る舞いだった。
 こんなのはおおよそ自分らしくないのに、制御出来なかった。我を忘れて駆けずり回り、たったひと振りの刀を追い求めた。
 その最中で、小夜左文字にどんな用件があったのか、すっかり忘れてしまった。
 いつの間にか目的が、彼に会うことにすり替わっていた。
 しどろもどろに捲し立て、歌仙兼定は必死に思い出そうとした。これまでの自らの行動を振り返り、逆再生して掴み取ろうとした。
 だが焦れば焦るほど、何事も上手くいかない。
「ええと、だから、その。僕は、お小夜に」
 口をパクパクさせ、まるで餌を欲しがる鯉だ。空気が足りず、頭は真っ白で、言いたいことがあるのに言葉が出なかった。
 意味もなく両手を振り回し、必死に説明を試みるが無理だった。空回りし続ける打刀は顔を青くしたり、赤くしたりと忙しく、冷静さは皆無だった。
 碌に会話にならず、何がしたいのかも良く分からない。
 困った顔で目を細め、小夜左文字は悲壮感丸出しの男に肩を竦めた。
「ゆっくり、思い出せば良いです」
「……お小夜」
「時間は、いくらでもあるんですから」
 慌てることはない。
 焦る必要はない。
 この本丸に居る限り、彼らは二度と別たれることはない。
 風に乗せて囁いて、短刀は頷いた。赤子をあやすように優しく告げて、蹲る打刀の額に額を押し当てた。
 間に挟まれた前髪が緩衝材となり、骨同士がぶつかる衝撃は弱い。
 コツン、と脳内に直接響いた音に瞠目して、歌仙兼定は唇を戦慄かせ、細く、長い息を吐いた。
「ああ。ああ、そうだ。そうだったね」
 急がなくても、大丈夫。
 怖がらなくても、平気。
 万感の思いを込めて呟き、肩の力を抜いた。
「お小夜。君が、君で……良かった」
 改めて抱きしめた身体は細く、酷く痩せて、小さい。だがどんなに広い海にも、空にも敵わないと笑えば、短刀は虚を衝かれて目を丸くして、困った風に頬を緩めた。
「また、そんなことを言って」
 呆れ混じりのため息は、心なしか嬉しげだった。

花見し人の心をぞ知る

 木漏れ日が眩しく、日向はじんわり熱を帯びていた。
 蝉の声こそ聞こえないけれど、目を瞑ると情景が瞼に浮かんだ。強すぎる陽射しに辟易させられる季節がまた廻ってくると、小夜左文字はげんなりした表情で肩を竦めた。
 軒下には誰の仕業か、既に風鈴が準備されていた。風が吹く度に細い短冊が揺れて、青銅製の鈴がちりりん、と愛らしい音を響かせた。
 こんなものがあるから、真夏を思い出してしまう。
 急ぎ目を逸らして視界から追い出し、短刀は足早に縁側を進んだ。
 まだ初夏に届くかどうかの暦であるが、太陽は既に夏の様相を呈している。気温は夜明けを待たずに上昇を続けており、動いていると汗ばむ陽気だった。
 畑仕事に出ている面々は、さぞ辛かろう。
 この時期から帽子と手拭い必須となれば、夏の盛りはいかばかりか。
「暑いのは、嫌いだ」
 もっと暑くなると、想像するだけでうんざりした。冬の寒さも厳しいが、夏に比べれば数倍楽だった。
 げんなりしながら呟いて、小夜左文字は右手に持った棒を揺らした。竹を薄く削って造られたそれは、形だけなら扇の中骨に似ていた。
 しなやかで、頑丈に出来ており、ちょっとやそっとでは折れない。その竹で出来た棒の先には、乳白色をした円筒状の物体が突き刺さっていた。
 長さは二寸に届くかどうかで、真上から見れば瓢箪のような形状をしていた。竹の棒も二本あって、どうやら作成時に失敗し、くっついてしまったらしかった。
 水分を過分に含み、表面は露に濡れ、集まって雫になった分がぽとり、ぽとりと床に落ちる。
 試作品だから皆には内緒、と渡された氷菓は、日光を集めて徐々に溶け始めていた。
 燭台切光忠に呼び止められたのは、台所の裏手だった。
 今日の収穫品らしき野菜が軒先に放置されており、見かねて軽く洗って泥を落とし、届けに行った帰りだ。頑張っている子にご褒美と、隻眼を細めて手渡された。
 氷室から出したばかりだったらしく、竹棒を持っただけでも冷たかった。白い湯気のようなものが全体から立ち上っており、手を翳せばひんやりした。
 蜜を混ぜた水を凍らせたのだと、小声で耳打ちされた。後で味の感想を聞かせてくれれば進呈すると言われたら、一も二もなく頷くのは自然の摂理だ。
 本来二本であるべきものを、まとめて譲られた。
 誰にも見つからないよう、こっそり食べようか悩んだのは一瞬だった。
「どこに行ったの」
 秘密の菓子なのだから、手にしたまま屋敷内をうろうろするのは、本当は良くない。けれどひとりで食べるには少々大き過ぎて、どうせなら分け合って食べたかった。
 味に五月蠅いあの刀なら、きっと短刀よりも的確な助言が出来るだろう。
 冷たい菓子がもっと美味しくなるのは、大歓迎だ。本格的な夏が来る前に、是非とも試作を重ね、完成させてもらいたい。
 垂れ落ちる雫の量を気にし、前歯をカチカチ噛み鳴らす。気ぜわしく足踏みをして、小夜左文字は左右を見回した。
 真っ先に訪ねた部屋は無人で、時間を無駄にした。他に思いつく行き先は茶室くらいだが、そちらは別の者が使用中だった。
 となれば残るは書庫くらいだが、あそこは少々遠過ぎる。
 気付けば汗だくになっている氷菓を一瞥して、彼は姿が見えない打刀に臍を噛んだ。
「歌仙」
 用がない時は簡単に見つけられるのに、用がある時に限って行方をくらましてくれる。
 なんと間の悪い男なのかと腹を立てて、小夜左文字は地団太を踏んだ。
 当初考えたように、ひとりで全部食べてやろうか。
 此処に居ない打刀相手に小鼻を膨らませて、まだまだひんやり冷たい菓子を顔の前に掲げ持った。
「――あ」
 欲望に駆られて大きく口を開こうとした矢先。
 白い氷菓のその向こう側を、薄ぼんやりした影が通り過ぎて行った。
 庭木の緑に紛れて、一瞬のうちに遠ざかっていく。焦点を間近に合わせていた所為で見過ごしかけたが、あの艶やかな髪色は間違いなかった。
 似たような髪の色をした打刀は他にも居るが、長さがまるで異なる。二度瞬きして視野を広げて、確信を抱き、小夜左文字は縁側から飛び降りた。
 素足のまま、気にすることなく地面を蹴った。伸び放題の雑草を踏み潰し、小石を散らして、緑濃い庭を一心不乱に駆けた。
「歌仙!」
 普段は感情を押し殺し、声を荒らげる真似はあまりしない。
 けれど今は抑えきれず、呼びかけは絶叫に近かった。
 当然、前を行く背中は聞き逃さない。調子よく進めていた足を止めて、歌仙兼定はゆっくりと振り返った。
「お小夜?」
「やっと、見つけました」
 小走りに駆け寄って来る子供を見つけ、風雅な衣装に身を包んだ刀が首を傾げた。不思議そうに眉を顰めて、弾む声に目を眇めた。
 怪訝に見つめられ、小夜左文字は肩で息を整えた。汚れた爪先で地面を捏ねて、落とさぬようしっかり握っていた竹の棒を持ち上げた。
 水滴が散り、手首に落ちた。
 あまり冷たくないのに不安を覚えたが、蜜たっぷりの氷菓はまだまだ形を保っていた。
「それは?」
 空気が震え、氷菓の周辺だけ気温が下がった。
 暖かな日差しの中できらきら光るそれは、ぱっと見ただけでは正体が掴めなかった。
 案の定の問いかけに、小夜左文字は唇を舐めた。燭台切光忠から聞いた情報を頭の中で整理して、胸を弾ませ、二本並ぶ棒を左右の手で握りしめた。
 それぞれ一本ずつ掴んで。
「っせ」
 威勢のいい掛け声と共に、外向きに力を込めた。
 瞬間、柔らかくなっていた氷菓子が真ん中でふたつに分かれた。瓢箪のくびれ部分が特に脆くなっており、半分に折り畳もうとする動きに耐えられなかった。
 ポキッ、と小さいが音がした。
 氷の礫が飛び散って、手首に落ちた瞬間、融けてなくなった。
「お小夜、それはいったい」
「燭台切さんから、差し入れです」
「僕にも?」
「試食した感想を、後で聞きたいと」
 突然目の前で氷菓子を真っ二つにされて、歌仙兼定が声を高くする。
 それに構わず片方をずいっと差し出して、小夜左文字は戸惑う男に捲し立てた。
 早口に述べて、早速ひと口齧り付く。
 ひんやり冷たい菓子は存外に柔らかく、歯を立てた瞬間、しゃり、と内側まで滑り込んだ。
 唇に触れたところから水になり、甘い蜜が溢れ出した。口の中で洪水が起きて、慌てて棒を引き抜いた。
「ふぐ」
 鼻から息を吐けば、変な音が付随した。冷たいのになぜか熱く感じられて、はふはふ言わなければならなかった。
 細かな氷が雪崩を起こし、咥内をあっという間に埋め尽くす。呑み込めばほんのり甘く、後味は弱く、唇を舐めれば皮膚は氷のようだった。
 唾液が意図せず分泌され、口腔を漱いでくれた。美味しいのに一瞬で消えられて、なにがなんだか、分からなかった。
「ひべ、ちゃ」
「ああ。夏向けの菓子か」
 口の粘膜がひりひりするのは、急激に冷やされたからだろう。
 舌を伸ばしながらの感想は上手く発音出来なくて、それでようやく、歌仙兼定は合点が行ったようだった。
 渡されたものを、食べるより先に日に透かしたのは、彼なりの美学だろう。味よりも見た目を気にするところがいかにもこの男らしくて、小夜左文字はふたくち目を齧りつつ、笑いを堪え切れなかった。
「溶けます」
「それもまた、風流というものさ」
 口元に垂れた汁を拭い、手短に叱りつける。
 だが歌仙兼定は意に介さず、呵々と笑って棒をくるりと回転させた。
 光の当たり具合によって、氷の内側の棒が見えたり、見えなかったり。
 垂れ落ちる雫が反射する輝きも美しく、眺めているだけでも充分楽しかった。
「歌仙」
 だがこれは、あくまで菓子だ。
 食べないのであれば返すよう促せば、打刀は空の手に慌てて首を振った。
「いただくよ」
 日の当たる場所にいると、じっとり汗が滲む季節になった。
 庭を散策するだけでも喉が渇いて、身体は水分を欲していた。
 溶けかけの氷による見事な光の演出も、食い気の前には形無しだ。花より団子の言葉を噛み砕き、歌仙兼定は良く冷えた蜜に舌鼓を打った。
「うん。冷たくて、……これは、なかなか」
 口に入れた傍から溶けて、跡形もなく消えてしまう。火照った身体を内側から冷やし、程よい甘さは疲労回復にもってこいだった。
 これを畑当番の連中に差し入れたら、諸手を挙げて喜ぶだろう。
 情景を想像して含み笑いを零し、打刀は親指で唇を拭った。
 棒を挿して固めたことで、手を汚さずに食べられるのも利点だ。持ち運びに便利だし、片付けも面倒ではない。難点は、作る際に傾くと、簡単に隣とくっついてしまうところだろうか。
 棒を中心部に、真っ直ぐ立てて固定する必要があった。だが凍らせる前は当然液体なので、言うほど簡単ではなかった。
「もう少し、甘くしてくれても」
「それは好き好きだろうね」
 棒を支える方法は、要検討というしかない。工作が得意な刀に頼むことにして、問題は氷菓子の味付けだ。
 短刀らしい子供舌な感想に、打刀が大人風を吹かせて熟考を促す。
 便利な言葉で即答を避けた男を上目遣いにねめつけて、小夜左文字は残っていた氷をがりがりと削り取った。
 棒を横に倒して、回転させながら、残さず頬張る。
 まるで鮎の塩焼きでも食べているかのようなやり方に、歌仙兼定は小さく肩を竦めた。
「行儀が悪いよ」
 とても雅とは言えない食べ方に呆れるが、彼とて垂れた蜜で指が濡れていた。
「歌仙」
「おっと。いけない」
 話に集中していて、食べるのが疎かになった。
 指摘を受けて肘を引き、男は左手を懐へと差し込んだ。恐らくは手拭いを探しているのだろう。身を揺すりながらガサゴソする彼に、小夜左文字は苦笑交じりの吐息を零した。
 そうやっている間にも、氷はどんどん融けていく。
 陽射しは容赦なく照り付け、風に煽られた木漏れ日が賑やかだ。新緑は目に眩しく、どこからか鳥の囀りが聞こえて来た。
 元気に伸び続ける雑草が地表を埋め、湿気が足元に集まっていた。小さな虫が其処此処で這いずり回り、それを餌とする更に大きな虫や、獣の動きが活発だった。
 蔓植物が木々に絡みつき、一日中日が当たらない場所では苔が隆盛を誇っていた。羊歯植物が水辺で存在感を放ち、池では鯉が悠然と泳ぎ回った。
 戦とは無縁と言わざるを得ない場所で、戦道具である刀が呑気に戯れていた。
「どこにやった……どこだ」
「歌仙」
 着物の衿を大きく広げ、右に、左に漁るのはみっともない。おおよそ打刀が好む雅とはかけ離れた仕草に呆れるが、本人は気付いていないようだった。
 言葉が耳に届いていないと悟り、小夜左文字は肩を竦めた。役目を終えた棒をどうするかで一瞬迷い、足元で蠢く様々な生き物の気配に頬を緩めた。
 植物は放置すればいずれ腐り、分解され、次の命の養分となる。
 豊かな自然はそうやって、巡り巡って回っていた。
 指先の力を抜けば、細く削られた竹がするりと滑り落ちた。生い茂る草の上に転がって、緑の中に吸い込まれた。
 瞬き一度のうちに、もう見失った。空になった両手を緩く握りしめて、短刀はまだ探し物中の打刀に苦笑した。
「舐めれば良いでしょう」
「何を言うんだ、お小夜。そんな真似、雅じゃない」
「……どの口が」
 手拭いは、依然見つからない。もしや持ち合わせていないのでは、という疑念は声に出さずに飲み込んだ少年に、男は語気を荒らげ、力説した。
 懐を派手に乱した格好で、言えた台詞ではない。
 呆れを通り越して若干腹を立てて、小夜左文字は渋面を作り、前髪を掻き上げた。
「全部、溶けますよ」
「え? あああ、しまった」
 思うにこの男は、こういた形状の菓子を食べるのに向いていない。
 器に山なりに盛ってあれば、問題なかっただろう。そう言えば串に刺した団子も、ひとつずつ丁寧に外してから食べていた。
 単純に、苦手なのだ。
 濡れ方が酷くなっている利き手に慌てふためく姿は滑稽で、普段の偉ぶった態度からは想像もつかなかった。
 見方を変えれば、随分と愛らしく思えてくる。
 悲壮感たっぷりに顔を顰めている打刀が可愛くてならず、年嵩の短刀はやれやれと肩を竦めた。
「之定」
「どうしよう、お小夜。どんどん崩れていく」
 このまま放っておいたら、折角凍らせた蜜が全て溶け、流れてしまう。
 為す術なく狼狽して、歌仙兼定は昔馴染みに縋りついた。
 和歌や茶道が得意でも、こういう事柄には対応出来ない。初めての事態に動揺する刀に目尻を下げて、小夜左文字は両手を伸ばした。
 氷菓を持つ彼の手ごと包み込んで、弱い力で引き寄せる。
 打刀は逆らうことなく従って、軽く膝を折り、身を屈めた。
「お小夜?」
 そうして首を伸ばし、爪先立ちになった少年に目を細めた。怪訝な顔をして状況を見守り、途中からは息を止めて顔を強張らせた。
 小夜左文字は背伸びをして、白い氷菓に顔を寄せた。触れる寸前で愉悦を瞼の裏に隠し、蛸を真似て口を前方へ突き出した。
 歯列を薄く開き、歌仙兼定の手を手前へ引っ張った。吸い付き易い角度を作って、雫を滴らせる氷菓子にちゅく、と唇を張りつかせた。
 目を閉じ、細長い棒の側面にくちづけて。
「……!」
 突然のことに打刀が顔を赤くする中、短刀は口腔に力を込めた。
「ん、っ」
 鼻から息を吐き、咥内に残っていた空気を、一斉に喉の奥へと押し流した。舌を前歯の裏に貼り付かせ、唇の隙間からひんやり冷えた外気を集めた。
 その場所だけ気流が乱れ、旋風が起こった。溶けた氷の蜜が巻き込まれ、細かな粒子が塊となって一点へと集められる――
 最後にコクリと喉を鳴らして、小夜左文字は晴れやかな表情で顎を引いた。
「御馳走様」
 ちろりと覗かせた舌で唇を一周させ、短く告げて後ろへ下がる。
 前に傾いていた重心を整えた彼に、歌仙兼定は顔面を真っ赤に染め上げた。
 茹蛸一歩手前で、湯気を噴いていた。唇は変な形に歪んで、漏れる呼気は音にならなかった。
「さ、あ……さ、さっ」
「また溶けてしまう」
「だ、あっ、ええ?」
 突然氷菓に吸い付いたかと思えば、数秒としないうちに離れた。垣間見た表情は妙に艶っぽく、淫靡な色気に満ちていた。
 一瞬の出来事だったが、瞼の裏にしっかり焼き付いている。これに動揺せずに、いったい何に慌てろというのか。
 だが小夜左文字は淡々として、焦る打刀の右手を指差した。握りしめられた氷菓は、今にも崩れそうだったのが嘘のように――少々小さくなっていたが――氷室から出した直後の固さを取り戻していた。
 水気を含んで弛んでいたのが、凛と引き締められていた。表面こそ濡れてはいるけれど、内側に潜り込んでいた分は根こそぎ失われていた。
 いったいどこへ消えたのか。
 ようやく合点がいって、歌仙兼定は瞬きを連発させた。
「なんですか?」
 まじまじ見つめられて、小夜左文字が不満げに口を尖らせる。
「そういうことは、先に言ってくれ」
「どうにかしろ、と言ったのはそっちです」
 頭を抱えながら愚痴られて、短刀は憤然としながら言い返した。
 あのまま放っておいたら、氷は形を保てなくなり、全部地面に落ちただろう。そうなる前に手を打ってやったのに、文句を言われるのは筋違いも良いところだ。
 納得がいかなくて膨れ面を作り、咥内に残っていた蜜を唾液で薄めて飲み込む。前方では物言いたげな打刀が氷菓を齧り、表面を伝う水滴を舐め取っていた。
 赤みを帯びた肉厚の舌を動かし、れろ、と下から上へ走らせた。同じ仕草を二度、三度と繰り返して、細く、短くなった棒の先端に歯を立てた。
 カリ、と一部を削り取り、零れた分は下唇で素早く掬い上げる。ちゅ、と吸い付いて溶けた蜜を啜り、形を崩さないよう注意しつつ、残り少なくなった菓子を横から咥えこんだ。
 小夜左文字がそうしていたように。
 棒を回転させ、扱くように動かして。
 残り少なくなった氷を、余すところなく呑み込んだ。
「……ふぅ」
 悪足掻きで残っていたひと欠片も舌で削ぎ落とし、裸になった棒を最後にひと舐めする。
 深く長い息と共に緊張を吐き出して、打刀は俯いている短刀に目を細めた。
「お小夜?」
 両手は背中に回して結び、内股気味に膝をぶつけ合わせていた。落ち着きない仕草でもじもじ身じろいで、時折視線を浮かせ、瞬時に落とした。
 気のせいか、耳の先が赤い。
 露わになった項もほんのり紅に染まっており、呼びかけても顔を上げようとしなかった。
 爪先で地面に穴を掘り、踵で蹴って、土踏まずで均す。それを三度も繰り返した彼に、歌仙兼定は眉を顰めた。
 丸みを帯びた棒の先で唇を叩き、思う所があって地面に投げ捨てた。蜜を浴びてべたついている手を軽く振って、試しに人差し指を差し向けた。
 下向いている少年の、顎を掠めるように動かす。
 小突かれそうになった短刀はビクリとした後、探るような眼差しを投げかけた。
「どうかしたかい?」
 空色の瞳は羞恥に潤み、熱を帯びていた。引き結ばれた唇はもごもご蠢き、左右に身を捩る動きは徐々に大きくなっていった。
 尻込みし、後退を図ろうとするのを妨げ、歌仙兼定が問いかける。
「う」
 小夜左文字は小さく呻いて、恨めし気に打刀を睨みつけた。
 敵を射抜く眼力は、しかしこの場では至極弱い。威嚇しようにも迫力が伴わず、却って愛らしさが増しただけだった。
 外見相応な態度に、幼い見た目にそぐわない艶っぽさが見え隠れしていた。短い股袴から覗く足まで緋に染まって、各部を覆う包帯さえもが卑猥だった。
 無自覚に唾を飲んで、歌仙兼定は喉を鳴らした。
「お小夜?」
「ほ、放って、おいて。ください」
「顔が赤い。冷たいものを食べたから、腹を冷やしたのかな?」
「ちがいます」
 引き戻した指を舐め、打刀がクツクツ笑った。意地の悪い質問を投げて反発を受けたが、全く意に介する様子がなかった。
 むしろ楽しくて仕方がない雰囲気だ。生意気に言い返されるのを喜んで、嬉しがっていた。
「変態」
 怒られても反省せず、笑っている男が変態でなくてどうする。
 悔し紛れにぼそっと吐き捨てた台詞は、小声だったのに、しっかり相手に届いていた。
「なんだって?」
「なんでもありません」
 耳聡く音を拾った男が、右の眉を持ち上げた。身を乗り出して睥睨されて、小夜左文字も負けるものかと顎に力を込めた。
 奥歯を軋ませ、小鼻を膨らませて否定の言葉を繰り返す。
 だがその間も身体は火照り、内側から生じる熱を排出する術はなかった。
 脇腹を抱え込んで身を捩り、もぞもぞ動きながら上唇を突き出す。
「聞き捨てならないね、お小夜。僕の、この僕のいったいどこが――」
「之定」
 一方で打刀は文系としての矜持が傷ついたと、撤回するよう訴えた。厚みのある胸を叩いて声を張り上げ、尚も言い募ろうとしたところで言葉を遮られた。
 外見に似合わぬ低音を響かせ、短刀が打刀に凄む。
 吐き出す筈だった空気を呑み込んで、歌仙兼定は緊張に頬を引き攣らせた。
 三白眼で睨まれて、まるで蛇を前にした蛙だ。
 本気で怒らせたかと冷や汗を流し、気圧されて後退を試みた。だがそれより先に、本丸で最も小柄な刀が深々とため息を吐いた。
 肩を落として力を抜いて、息を吸い込む際には唇に人差し指を添えた。
 折り曲げた第二関節を喰むように押し当てて、上目遣いに、腰をくねらせた。
「……熱いんです」
 呟きは掠れ、色を帯びていた。
 艶を含んで、嗅げば甘い匂いがした。
「お小夜?」
「熱くてたまらないんです」
 思わずゴクリと唾を呑み込み、歌仙兼定は声を潜めた。音量を絞って唇を震わせて、繰り返された言葉に内臓を戦慄かせた。
 ぞわりと、悪寒が走った。
 足が竦みそうになって、言おうとしていた台詞を忘れてしまった。
 発作的に右手で顔を覆い、指の隙間から眼前の子供を盗み見た。それを知ってか知らずか、彼は爪の先を軽く噛み、見せつけるように舌を絡ませた。
 瞬間、四肢が痙攣を起こした。立っていられずふらついて、歌仙兼定は乾きつつある唇を開閉させた。
 氷菓子を食べたばかりだというのに、熱を訴えられた。
 冷えたのではなく、その逆だと告げられて、目の前に薄く靄がかかった気分だった。
 息継ぎの合間に舐めた唇は仄かに甘く、それでいて僅かながら冷たさを残していた。
 行方の知れない竹棒を探して地面を蹴り、生い茂る緑の草を踏み潰す。小夜左文字は逃げもせず、それどころか自らも一歩を踏み出した。
「冷ませば良いのかい?」
 長く圧迫されていた下草が跳ね起き、隣の下草が横倒しになった。列からはぐれた蟻が慌てて逃げ出して、短刀の足の甲を駆けあがった。
 それを払い除けてやって、歌仙兼定は膝を折った。
 質問は厳かに、静かに。
 返答は小さな首肯、ひとつだけだった。
「はい」
 ごく僅かな動きだったが、言葉よりも雄弁に語ってくれた。赤らむ頬は確かに熱を帯びており、触れればぺたりと貼り付き、剥がれなかった。
 もっともそれは、歌仙兼定の指が蜜に汚れたままなのも一因だ。
 皮膚を引っ張られた少年の仏頂面を笑って、詫びて、打刀は頭を垂れ、目を閉じた。
 薄く唇を開き、息を吸い、止める。
 緊張で力んでいる頬を優しく包み、撫でて、ほんの少し首を前に出す。
 見て確認しなくても、どこを狙えば良いかが分かった。
 か細い呼気を探り当てて、触れるのに躊躇はなかった。
「ん――」
 押し付けられて、小夜左文字が首を仰け反らせる。
「お小夜、んっ」
 追いかけて、囁いて。
 甘く湿った唇を捏ね合わせて吸い付けば、くちゅりと濡れた感触が両者の間を駆け抜けた。
 氷菓の面影すらない熱をねっとり絡ませ、白く濁った糸の橋を架ける。
「は、ぁ……」
 程なく千切れたその飛沫は冷たくて、吐き出す息はどれも荒かった。
 酸欠手前まで追いやられた少年は一層顔を赤くして、不遜に笑う男を睨み返した。
「少しは冷えたかい?」
 だけれど打刀は何処吹く風で、冷静に切り替えし、目を眇めた。
 悪戯な微笑は無邪気で、悪気が一切感じられない。
 そういうところが卑怯だと内心詰って、小夜左文字は濡れて重くなった唇を噛んだ。
「……いいえ」
 低い声で唸り、かぶりを振る代わりに打刀の乱れた襟を掴んだ。
 力任せに引っ張られた男は苦笑して、甘え下手な短刀の背に腕を回した。
 引き寄せ、閉じ込め、壊さぬように抱きしめて。
「責任は」
「勿論、最後まで取らせてもらうよ」
 こうなったのは、誰の所為。
 言外に不条理を押し付けて来た少年に頷き、呵々と笑った。擦り寄って来る小さな体躯を撫でさすり、氷菓よりも甘美な蜜に喉を鳴らした。
 

草茂る道刈りあけて山里は 花見し人の心をぞ知る
山家集 夏 175

2016/05/22 脱稿

野咲

 神出鬼没とは、良く言ったものだ。
「ねえ。今、暇?」
 本来なら有り得ない場所から掛けられた言葉に、握っていたシャープペンシルがぽろりと落ちた。瞳は限界まで見開かれて、頬はヒクリと引き攣った。
 珍しく宿題などしていたから、こんなことになるのだ。
 天変地異の前触れだった己の気まぐれを呪い、沢田綱吉は返事も忘れて凍り付いた。
 勉強机を置いた壁際の窓。
 室外機を設置する為だけに設けられた小さなベランダに、その男は悠然と佇んでいた。
 ひらひら踊って邪魔なカーテンを捕まえて、さほど大きくない窓枠から身を乗り出していた。肩にはいつも通り黒色の学生服を羽織って、袖には臙脂色の腕章がはためいていた。
 安全ピンの銀色が陽光を反射し、綱吉の目を容赦なく刺した。しかし痛みを覚える余裕すらなく、彼は騒然と背筋を粟立てた。
 冷や汗、否、脂汗が首筋を伝った。
 愕然としていたら、黒髪をなびかせ、男が訝しげに眉を寄せた。
「ねえ」
 聞こえているか問うて、カーテンを引っ張った。
 ビリッと布の繊維が千切れる音がして、綱吉はハッと息を吐いて大袈裟に震えあがった。
「はっ、ひゃはい!」
 椅子に座ったまま気を付けのポーズを作っての返事は、笑えるくらい裏返った。
 これが学校だったなら、教室中が大爆笑だったに違いない。
 それくらい甲高く、情けない叫び声に、けれど男は満足げだった。
「なら、ちょっと付き合ってよ」
「はい、かしこまり……って。え?」
 悠然と頷き、外を指差しながら告げる。
 反射的に返事をしてから、綱吉は目をパチパチさせ、首を捻った。
「え?」
 何を言われたのか、理解出来ない。
 大粒の目を真ん丸にした彼に、窓からの訪問者は再び眉を顰めた。
 あからさまに不機嫌な顔をして、天下の風紀委員長がむすっと頬を膨らませた。握り締めていたカーテンを解放して、自由になった手は腰の後ろへと回された。
 学生服の内側に、いったい何が潜んでいるか。
 当然知らないわけではなくて、瞬間、綱吉は竦み上がった。
「ひ、ひぃぃぃぃぃ!」
「三十秒で支度して」
「分っかりましたあー!」
 隠し武器であるトンファーで殴られる痛みは、強烈だ。頭の上で星がぐるぐる回って、何度三途の川を渡りかけたか分からない。
 過去の記憶に急かされて、綱吉は駒付きの椅子を蹴り飛ばした。直立不動で返事して、着ていたジャージを脱ぎ捨てた。
 今日は一日、家に居るつもりだった。
 だから服装も、寝間着の延長線上だった。
 着古したよれよれのシャツを放り投げ、上半身裸でクローゼットの戸を開けた。途端に詰め込んでいたものが雪崩を起こし、音立てながら床に散乱した。
「うわああああ」
「早くね」
 予想していなかった出来事に騒然となり、足を踏み鳴らして慌てるが、どうしようもない。
 焦りに焦って悲鳴を上げた彼を余所に、急な訪問者はひらりと手を振った。
 室内に背を向けて、黒髪が視界から消えた。
「あっ、ちょ。ヒバリさん!」
 勿論あの男のことだから、これくらいの高さ、問題ないのは分かっている。だけれどヒヤッとさせられて、綱吉は足をもたつかせて窓辺に駆け寄った。
 眼下を覗き見た時にはもう、雲雀恭弥は庭に降り立っていた。洗濯ものの間を悠然と歩き、閉まっていた門扉を内側から開けた。
 公道に出る直前、振り返る。
「ひえっ」
 距離があるのに目が合いそうになって、綱吉は大急ぎでしゃがみ込んだ。
 貧相な裸体を震わせて、理解が追い付かない現実に竦み上がる。
 前触れもなく現れたのは、並盛中学校の風紀委員長だった。
 その名を知らぬ者はおらず、その横暴ぶりは凄まじい。学校の応接室を乗っ取って、独裁者気取りだった。
 並盛中学校を愛して止まず、その平穏を守る為にはいかなる犠牲も厭わない。風紀を破る者が居れば容赦なく叩き潰し、相手が女子だろうとお構いなしだった。
 そういうわけだから、風紀委員は生徒らにとって恐怖の象徴であり、非難の的だ。けれど彼らがいるお陰で守られている秩序は、少ないながらも、確かに存在した。
 そんな男に、いきなり誘われた。
 約束などしておらず、本当に唐突だった。
 いったいどこに付き合え、というのだろう。訳が分からなくて戸惑うが、訊ねようにも本人は既に居なかった。
 彼が執心している赤ん坊は、残念ながら不在だ。リボーンはビアンキと一緒に、買い物に出かけていた。
「そういや、ヒバリさん。リボーンのこと、なにも聞かなかったな」
 雲雀がやってくるのは、大抵あの極悪家庭教師に用がある時だ。しかし今回は違って、綱吉目当てのようだった。
 嫌な予感しかしない。
 ぶるりと身震いして、彼は急ぎ身なりを整えた。
 爆発した頭は、直しようがなかった。櫛を通している暇はなくて、潔く諦めた。
 空色のTシャツに白のパーカーを合わせ、下は無難にジーンズを選択した。靴下は踝丈で、白と水色のボーダー。行き先は聞いていないけれど、念のため財布と携帯電話をポケットに詰め込んだ。
 長袖の上着は暑いかと思ったが、もう着てしまったので修正が出来ない。邪魔なら脱げばいいと開き直って、綱吉は急ぎ足で部屋を出た。
「ちょっと出かけてくる」
「あら、ツナ。夕飯は?」
「いるー」
 階段を降りる足音は、台所にまで響いていた。玄関で声を上げれば奈々が顔を出し、短い会話の後に息子を送り出した。
 この時間から外出なら、母として気になるのは当然だ。けれど綱吉には、雲雀が食事に誘ってくれるとは、これっぽっちも思っていなかった。
 恐らくは日が暮れる前に解放して貰える。
 根拠もなく信じて、彼はドアを開けて外に出た。
「遅い」
「スミマセッ」
 雲雀は門扉に凭れかかるようにして待っていた。顔を見るなり不機嫌そうに言って、返事も待たずにさっさと歩き出した。
 こういうところが、彼の性格を良く表している。独善的で、自分本位で、他人に対する気遣いが全く見られないところが、だ。
 けれどその裏側で、群れるのを嫌がりつつ、風紀委員という集団を率いている。雲の守護者の地位についても、なんだかんだで、受け入れ続けてくれていた。
 出会ったばかりの頃は、ただ怖いだけの相手だった。
 当時に比べれば距離は随分と縮まって、懐かしさに頬が緩んだ。
「どこ、行くんですか」
 最初は恐ろしかった彼の強さが、今は誰よりも頼もしい。
 遠くなる背中を小走りに追いかけて、綱吉は声を張り上げた。
 雲雀が嫌がるのが分かっているので、隣に並んだりしない。数歩の距離を置き、斜め後ろについて、前を見据える男の返事を待った。
「……知り合いの子が、今度、誕生日でね」
「へえ、そうなんですか。おめでとうございます」
 数秒が過ぎて、男が口を開いた。一瞬だけちらりと振り返って、直ぐに逸らして言葉を紡いだ。
 この返答は、予想外だった。
 行き先をあれこれ想像した中には入っておらず、綱吉は素直に驚いた。
「ヒバリさんに、知り合い、いたんだ」
「なにか言った?」
「いいえ、なんでもありません!」
 その驚嘆を、心の中に留めておけなかった。
 ぼそっと言えば聞かれてしまい、飛んでいきそうな勢いで首を横に振った。
 首から上だけを、不穏な感じで振り向けられた。睨まれて小さな蛙と化して、綱吉はふとした疑問に我を取り戻した。
「それって、オレに何か関係あります?」
 暇なら付き合え、と言って連れ出された。
 暇ではなかったが断り切れず、碌に準備もないまま家を飛び出して来た。
 その用件として、他人の誕生日を教えられた。そこに己がどう結び付くのか、まるで想像がつかなかった。
 首を捻り、知り合いとは誰かを考える。
 真っ先に思い浮かんだのは、風紀委員会副委員長であり、雲雀の参謀役と言える男だった。
「ああ」
 リーゼントが似合う草壁の姿を思い描いていたら、雲雀が足を緩め、自ら隣に並ぼうとした。会話がし辛いのを気にして近付いて、小さく頷いてから肩を竦めた。
 苦笑しているように見えた。
 微妙な変化に綱吉は目を丸くして、肩に当たった学生服の袖にはビクッとした。
「小さい子だから、なにを贈れば良いのかと思ってね」
 その間に、囁くように告げられた。
 声色は柔らかく、優しく、別の男のようだった。
 いったい誰を思い浮かべているのか、綱吉を見下ろす眼差しまでどこか暖かい。
 稀に見る表情に、図らずもどきりとした。その相手がちょっと羨ましくなって、何故だか胸がもやもやした。
 訳が分からなくて困惑し、口を尖らせる。
「……それって、じゃあ。オレに選べって、そういうことですか」
「そういうこと」
 彼が訪ねて来た理由がようやく明らかとなって、綱吉は歓喜とも落胆ともつかない顔を作った。
 沢田家には現在、赤ん坊から幼児にと、複数の子供が居候していた。
 リボーンを筆頭にランボ、イーピン、そしてフゥ太。思いがけず家族が増えた綱吉は、子供たちのよき兄でもあった。
 だから雲雀は、彼を連れ出した。幼い子への誕生日プレゼントを選ぶのに、これほど最適な人材はいないから。
「小さい子、って。男の子ですか、女の子ですか」
「男だよ」
 交友関係が狭い雲雀だから、他に頼る当てがなかったのだろう。
 別の誰かではなく、自分を選んでくれたのは嬉しいけれど、判明した事情は些か面白くなった。
「だったら、今やってる戦隊ものとか、ヒーローものの玩具にしておけば」
「僕にそんなものを買えって?」
「ですよねー?」
 だから性別を聞いて、簡単に済ませようとした。
 当たり障りない返答で片付けようとして、浅墓な企みは呆気なく瓦解した。
 日曜日の朝、子供たちはテレビの前から動かない。綱吉も幼い頃は夢中だったので分かるが、あれらの玩具はとにかく種類が多かった。
 人形からロボット、変身アイテムに武器、など等。
 下調べもなしに選べば、失敗するだけだ。第一雲雀が、派手にラッピングされた巨大な箱を抱える姿は、面白すぎだ。
 あまりにも似合わなくて、却下されて若干ホッとした。頬を引き攣らせて頭を掻いて、綱吉は憤然としている男から顔を背けた。
「ていうか、オレ、そういうのあんまり詳しくないんですけど」
 道は大通りを経て、住宅地から商店区画に入った。並盛駅の案内板が見えて、商店街まであと少しだった。
 昨今は大型商業施設に押されて衰退気味という商店街だが、並盛町のそれはまだ元気だ。新しい店舗も増えていて、休日の午後だからか、それなりに賑わっていた。
「君が欲しいって思うので良いよ」
「なんですか、それ」
 談笑する女性グループに、子供連れも多い。杖を手に歩く男性がいて、自転車が蛇行しながら通り過ぎていく。
 この時間帯、車は通行禁止だ。歩行者天国のような雰囲気の中では、雲雀の姿もあまり目立たなかった。
 各所に設置されたスピーカーからは、軽やかなメロディーが絶えず聞こえて来た。雑踏の中では隣の声も聞き取り辛く、ふたりの距離は自然狭まった。
 選択権を丸投げされて、苦笑を禁じ得ない。
 呆れて言い返して、綱吉は真剣な目つきの男に息を呑んだ。
「小さい子、なんですよね」
「そう」
「オレのこと、馬鹿にしてます?」
「どうして?」
「どうして、って……」
 雲雀は基本的に、嘘を言わない。冗談も嫌いだ。何事に対しても真面目で、真剣だから、多くの風紀委員から慕われていた。
 専横ぶりに目を瞑っても、有り余る魅力が彼にはある。
 綱吉自身、男として惹かれる面は確かにあった。
 だけれど今の台詞は、不満だった。
 幼い子への誕生日プレゼントを、十四歳の目線で選べと言われた。それはつまり、雲雀の認識の中で、綱吉はその知り合いの子と同レベル、ということだ。
 もしくは綱吉の方が、その贈り先と親しくしているかのどちらかで。
 そもそもあの雲雀が幼児と知り合いである時点で、疑問に思うべきだった。
「リボーンにだったら、本人に直接聞いた方がいいんじゃないですか」
 当てはまる存在は、ひとりしかいない。
 膨れ面で吐き捨てた綱吉に、雲雀は怪訝な顔をして足を止めた。
「彼じゃないよ」
「え?」
 きょとんとしながら、言い返された。
 勘繰って勝手に拗ねていた綱吉は絶句して、素っ頓狂な声を上げた。
 まるで頭の天辺から飛び出したかのような、甲高い声だった。声変りを済ませた男子の声ではなく、完全に女子のそれだった。
 自分でも驚いて、目が点になった。
 呆気に取られて口をパクパクさせていたら、ポケットに両手を突っ込み、雲雀が面倒臭そうに首を振った。
「それに、赤ん坊の誕生日は十月だよ」
「あ、それも……そっか」
 カレンダーはまだ五月で、気候は春のそれだ。長袖パーカーが急に暑く感じられて、綱吉は袖をまくり、肘までたくし上げた。
 頭が飛び出していた携帯電話をポケットへ押し込み直して、深く頷く。
 もやもやしていたのが急に晴れて、胸がスッとし、気持ちが軽くなった。
「変な子」
「待ってください、ヒバリさん」
 そわそわして落ち着きがない綱吉に、雲雀が肩を竦めた。再び歩き出した彼を追って、辿り着いたのは小奇麗な商店だった。
 紳士物の衣料品を扱っており、外観は外国の建物のようだ。壁は煉瓦で、軒先から蔦が足れていた。
「小さい子、……ですよね?」
 オーダーメイド専門と、看板に書かれていた。店頭にはスーツを着たマネキンが並んで、靴一足にしても値段の桁が二つくらい多かった。
 大人の男性ならともかく、子供には縁がない店だ。興味深そうに店内を覗く雲雀に恐々尋ねたら、振り返った青年は間を置いて首肯した。
「そう、だったね」
 父の日のプレゼントを探しているのではないのだから、此処は流石に違うだろう。
 言われて思い出したらしい彼に冷や汗を流して、綱吉は二度、三度と胸を叩いた。
 並盛商店街に来るのは久しぶりで、知らない店が増えていた。
 クレープを焼く店からは甘い匂いが漂い、京子たち行きつけのケーキ屋も繁盛していた。電気屋の店頭にはテレビがどん、と鎮座して、野球の試合を映していた。
 山本がいたら、ここから動かなくなること間違いない。
 野球部所属の友人を思い出し、頬を緩める。そして気が付けば雲雀が隣にいなくて、慌てて探せば数件先の店先にいた。
「勝手に行かないでくださいよ」
「君がついてこなかったんだろう」
 走って追いかけ、追い付き、隣に並ぶ。
 文句を言えば、言い返されて、取り付く島がなかった。
「……頼んできたの、ヒバリさんなのに」
 余所事に気を取られ、注意が散漫になっていた。意識が雲雀から逸れていたのは否定できないが、一方的に悪者扱いされるのは癪だった。
 今度は聞かれないよう呟いて、何気なく見た店内の様子に首を伸ばす。
 少し暗めの照明の中で、ガラス細工が煌めいていた。
「こんな店、あったんだ」
「入る?」
「あ、待ってください」
 白い外壁に、屋根は赤。まるで絵本から飛び出して来たような外見で、ドアを押せばちりん、と鈴が鳴った。
 少し前まで、ここは散髪屋だったはずだ。
 いつの間にか入れ替わっていたと驚き、綱吉は恐る恐る敷居を跨いだ。
 聞いておきながら、了解をもらう前に雲雀は動いていた。
 彼が開けたドアの隙間から滑り込み、ひやっとする空気に息を呑む。室内は冷房が入って、外より格段に温度が低かった。
 パーカーを着て来て良かったと、初めて思った。
 何重にも捲りあげていた袖を伸ばし、息を整え、綱吉は真新しい調度品に目を泳がせた。
 どうやらここは、ガラスで作った作品を販売している店らしかった。
 ステンドグラスを使った照明器具に、ワイングラスといった食器の数々が見栄え良く並べられていた。アクセサリー類も充実しており、アンティーク風の作品が多数取りそろえられて、派手さはないが、落ち着いた雰囲気だった。
 雲雀なら、こういう空間でも違和感がない。
 対して自分はと落ち込んで、綱吉は居心地悪げに身を捩った。
「失礼するよ」
「ごゆっくり」
 店員はひとりだけで、品の良い女性だった。レジカウンター奥は作業場らしく、そこに腰かけ、近付いては来なかった。
 雲雀の言葉に顔を上げたが、それだけだ。滞在の許可が下された感じがして、少しだけだが気が楽になった。
 先ほど外から眺めたものは、三段ある棚の最上段に並んでいた。商品にぶつからないよう注意して歩み寄れば、後ろから雲雀がついてきた。
「気に入ったの?」
「え? あ、うわ」
 残念なことに、話しかけられて初めて、その事実に気が付いた。
 足音を立てず、気配も消しての接近は心臓に悪く、不意打ちにかなり焦らされた。
 どきん、と胸が弾み、冷や汗が出た。
 爪先立ちで仰け反って、綱吉は意外に近かった雲雀に目を白黒させた。
 吐息が掠めるところに居たのに、全く警戒していなかった。超直感はどこへ消えたのかと言いたくなって、無理して笑えば頬が引き攣った。
「うわ?」
「い、いいえ。なんでも。なんでもないです」
 雲雀はといえば驚かれたのが不本意らしく、仏頂面で聞き返して来た。店員も何事かと視線を向けて、綱吉は早口で捲し立てた。
 両手を壁にして後退し、とにかく雲雀から離れた。安全と思える距離を確保してようやく胸を撫で下ろし、自分が何故焦っているかの疑問には触れないことにした。
 折角涼しい場所に来たのに、汗が止まらない。
 パーカーの袖で額を拭って、彼はまだ収まらない拍動に唇を舐めた。
 一方で元凶となった男は平然として、綱吉が眺めていた棚を覗き込んだ。
 ガラスで作ったバラが見事な花瓶に、リビングを飾る華やかな置物。その隙間を埋めるようにして、ウサギやリスらしき動物が躍っていた。
 犬が居れば、馬もいる。猫も複数いて、色々なポーズを決めていた。
 中でも目についたのが、丸々と太った、愛嬌ある顔立ちの猫だった。
 鬣こそないけれど、どことなく沢田家で暮らす獣に似ている。
 これにサンバイザーを被せたら、ナッツと瓜二つだった。
「ああ、君の」
「うぇ、っと、まあ……はい」
 雲雀もそれが分かったようで、得心顔で頷いた。それが綱吉には恥ずかしくてならず、顔は赤らみ、耳の先まで色鮮やかだった。
 ナッツはペットではないけれど、それに近い扱いだった。奈々は猫だと信じて疑わず、ナッツ自身もキャットフードを美味しそうに食べていた。
 そんな子ライオンに似た調度品に、呆気なく引き寄せられた。
 親馬鹿だと言われても仕方がない行動に、脂汗が止まらなかった。
「カンガルーは、さすがにない、か」
 雲雀の知り合いへの誕生日プレゼント探しなのに、自分の好みを優先させた。
 何の役にも立っていない自分を悔やんでいたら、耳を疑いたくなる台詞が聞こえて来た。
「え?」
「梟はあるけれど、まあ、これは要らないね。犬と、鳥と……なんだ。ハリネズミもないの」
「あの、ヒバリさん?」
「ああ、でもそうだね。時間はまだたっぷりあるし、作らせればいいか。デザインも変更させないといけないし」
「ヒバリさん?」
 きょとんとして、瞬きを繰り返した。
 何度呼びかけても返事はなく、雲雀は目の前の置物に集中し、独り言は尽きなかった。
 口元に手をやって、小声でぶつぶつ繰り返す。最中に色のついた硝子を小突いては裏返し、値札を爪で削って、元通りに戻した。
 思索に没頭して、こちらの声が届いていない。聞こえてくる独白の内容は、意味が分かるようで、分からないものだった。
 カンガルーに、犬、鳥、猫、ハリネズミ、梟。
 そこに牛が加われば、まるでどこかの動物園だ。
 しかも時間はある、とも聞こえた。誕生日への贈り物を選んでおきながら、まだ余裕があるというのは、いったいどういうことなのか。
 不意に、つい先ほどの出来事が蘇った。
 リボーンへのプレゼントだと思い込んでいた時。彼はその日が十月であるのを、ごく当然のように言い当てた。
 そして綱吉の誕生日は、リボーンの誕生日の翌日だ。
 今は五月。
 特別な品を用意するにしても、五ヶ月あれば充分だろう。
「……あ、あの」
 都合の良い妄想が膨らんだ。
 有り得ないと否定しつつも、絶対にないとは言い切れなくて、心が震えた。
 膝が笑った。立っていられなくて、無意識に雲雀の学生服を掴んでいた。
 引っ張られて、黒髪の青年が目を見張った。口元にあった手をきゅっと握って、やや遅れて綱吉を見た。
 目が合った。
 鉄面皮と揶揄される風紀委員長の顔が、瞬時に赤く染まった。
「僕は何も言っていない。良いね」
「お、オレも。なにも聞いてまふぇん!」
 見てはいけないものを、見た。
 聞いてはいけないものを、聞いた。
 ぬっと伸びた腕に顔面を鷲掴みにされ、怒鳴られた。アイアンクローでぎりぎり締め上げられて、若きボンゴレ十代目は海老反りでのた打ち回った。
 だが不思議と、痛くなかった。怖くもなかった。但し店員は驚いて立ち上がって、その物音で雲雀は手を離した。
 もしかしなくても、もしかしたら、なのか。
「うえ、ふへ。ふへへへへ」
「顔、不細工になってるよ」
「これは生まれつきです」
「ああ、……そうだったね」
 掴まれて赤くなっている場所を撫でて、緩み放題の頬を挟む。
 雲雀は呆れ顔で呟いて、小動物の頭をぽん、と叩いた。

2016/05/22 脱稿

恋ぞ積もりて淵となりぬる

 昼から台所を使いたい、と言われたのは、朝餉の片付けをしている最中だった。
 頼んできた面子は主に粟田口の短刀たちで、後方には堀川国広や浦島虎徹、それに物吉貞宗の顔もあった。最後尾には加州清光が控えており、どうやら言いだしっぺは彼のようだった。
 昼餉に使った食器を洗い終えてからで良いのなら、という条件は、それもやっておくから、というものに取り替えられた。一秒でも早く、長く占有していたい、という強い思いが窺えて、押し切られた格好だ。
 皿を割りはしないかと心配だったが、堀川国広たちがいるので、恐らくは大丈夫だろう。物吉貞宗も頻繁に台所に出入りしており、どこに何を片付けるか、承知している筈だった。
 そういうわけで、思いがけず手が空いた。
 八つ時の菓子も必要ないと言われているので、夕餉まで、本当にやることが何もなかった。
 第一部隊は大太刀や太刀を中心に編成され、昼になる前に出立していた。第二から第四部隊も長時間の遠征に出ており、日が暮れるまで帰ってこない。
 馬当番には任じられていないし、雪深い今の季節、畑仕事は休止中だ。だからと言って演練場に顔を出すは、あまり気が進まなかった。
 歌の題材を探して庭を散策するか、それとも部屋に籠って本を読むか。
 どちらにしても寒さは避けて通れない。どうしたものかと肩を落として、歌仙兼定は藤色の髪を掻き上げた。
 こんな時間から暇を持て余すなど、いつ以来だろう。
「参ったね」
 予期していなかった休暇が有り難い、と言い切れないところが、哀しい。格別急ぐ用件がない状況では、逆に何をしていいか分からなかった。
 鶴丸国永ではないが、退屈で死んでしまう。
 首の後ろを掻きながら呟いて、打刀はのろのろ廊下を進んだ。
 洗濯は朝のうちに済ませて、あとは乾くのを待つのみ。茶器の整理でもしようか考えるが、やり始めたら止まらなくなるので、半日で終わるとは思えなかった。
 これ以上部屋を物で埋めたら、寝具を敷く場所すらなくなってしまう。
 寝返りも碌に出来ない現状を思い出して、歌仙兼定は頬を引き攣らせた。
「いや、でも。少しくらいは、しておかないと」
 それほど広くない部屋には、同居人がいた。本丸で最も小柄な短刀で、目つきは鋭く、なかなかに毒舌家だった。
 数日前、その少年に説教されたばかりだ。もっと考えて選別し、収納場所を用意した上で購入するように、と。
 気晴らしに万屋に出向いた際に、気に入ったものをつい買ってしまうのが良くなかった。後のことなど顧みず、一目惚れした茶器や花器を集めて回った結果が、今の状況だった。
 足の踏み場にも困る有様で、高く積み上げた木箱はいずれ崩壊しそうだ。眠っている間に倒れられたら一大事で、早急な改善が求められた。
 だがひとりで片付けるとなると、これがどうして、巧くいかない。
 捨てるにしても勿体なく思ってしまうし、どれも箱から出して飾っておきたい、と願ってしまう。珍品の美しさに見惚れているうちに時間が過ぎて、片付けを始めたつもりが、散らかして終わった過去は数えきれなかった。
 その度に、同居人に冷たい目で見られた。
 整理出来ないのであれば出て行く、と言われてしまって、涙ながらに引き留めもした。
「小夜に、手伝ってもらうしか、ないか」
 思い出すだけで恥ずかしくなるし、己の性分を呪いたくなった。
 凝り性も度を越せば病気だと詰られては、反論出来ない。情けないとがっくり肩を落として、打刀は溜息を零し、首を振った。
 今一度前髪を掻き上げ、偶々近くを通りかかった部屋を覗き込む。
 大広間は昼夜解放されており、火鉢の他に櫓炬燵も設置されていて、他の部屋より暖かかった。
 熱を含んだ空気が逃げないよう、開けた戸はすぐに閉じた。入室の挨拶も何もなかったが、ここは刀剣男士共有の空間であり、堅苦しいしきたりを度外視した場所だった。
「おや、歌仙殿」
「おう。珍しいな、お前がこっちに来るなんて」
 中に居たのはふた振りの太刀と、打刀が三振り。いつも炬燵を取り合っている短刀たちは皆無で、それこそ珍しかった。
 どうりで静なわけだと首肯して、軽く会釈して返礼の代わりにした。火鉢の傍では鶴丸国永と一期一振が碁を打っており、隅の方では鳴狐が供の狐の毛並みを整えていた。
 なにより驚いたのは、騒がしいのを苦手とする蜂須賀虎徹が、櫓炬燵に入って蜜柑を食べていたことだ。反対側では長曽祢虎徹が、自らの腕を枕に寝そべっていた。
 顔を合わせれば口論ばかりの犬猿の仲の刀が、何故か一緒に居る。これには度肝を抜かされたが、下手に触れて火傷をするのは御免だった。
「どうかしたか」
「いや。ええと、そう。小夜を、知らないかな」
「小夜左文字?」
 ただあまりにも奇抜過ぎて、じろじろ見ていたら、気付かれた。不機嫌そうに睨まれて、歌仙兼定は慌てて首を振った。
 取ってつけたような言い訳だったが、探していたのは嘘ではない。所在の知れない短刀の名前を口に出せば、蜂須賀虎徹は細い眉を真ん中に寄せた。
 渋面を作り、考え込まれた。それもその筈で、歌仙兼定自身、彼を昼餉以降全く見ていなかった。
 どこへ雲隠れしてしまったのか。外は雪で、気温はかなり低い。
「小夜殿でしたら、恐らくは、台所ではないかと」
 怪訝に首を捻り合う打刀に、見かねた太刀が言葉を挟んだ。黒石を盤面に打ち付けて、表情はにこやかだった。
「ぐ、……ちょ、ちょっと待った」
「待ちませぬ」
「頼む。駄目だ。その石は、その石だけはあああああ」
 但し盤上の攻撃は、容赦ないものだったらしい。鶴丸国永はみるみる青くなり、頭を抱えて悲鳴を上げた。
 調子よく攻めていたつもりが、上手く誘導されていたようだ。一期一振の術中に見事に嵌って、白装束の太刀は悔しそうに唇を噛んだ。
 そちらの勝負は、正直言ってどうでも良い。
 歌仙兼定は訳知り顔の太刀に向き直り、膝を折って畳に座った。
「台所、ですか」
「おや、なかなかに良い手ですな。鶴丸殿、援軍獲得おめでとうございます」
 試合を放棄した太刀に替わって白石を取り、窮地を脱するかどうかは微妙ながら、最善と思える場所に置いた。それで一期一振は一層笑顔を花開かせて、こくりと頷き、櫓炬燵の反対側に視線を投げた。
 双六に、歌留多に、落書き道具一式。いずれもが短刀や脇差が退屈しのぎに持ち込んだ、子供たちの遊具だった。
 今は使う者がなく、箱の中に仕舞われている。その大半が、粟田口の所有物だった。
「昼から使わせてくれと、乱藤四郎殿に頼まれました」
「そのようですね。弟たちが、ご迷惑を」
「昼餉の片付けを手伝っていただけたので、こちらとしては大助かりですが」
 鶴丸国永は大の字になって、勝負を投げ出したまま動かない。仕方なく会話の合間に碁石を繰って、歌仙兼定は涼やかな太刀を盗み見た。
 台所で、いったい何が行われているのか。急に興味が沸いて来て、是非とも知りたかった。
 獲物を見定める目で盤上を射抜き、劣勢をどうにか挽回しようと足掻く。
 強気な攻めに上機嫌になって、一期一振は呵々と笑った。
「なんでも、今日は、愛しい相手に菓子を送る日なのだそうで」
「……ほう?」
「弟たちが、朝から張り切っておりました」
 蕩けるような笑顔は、幸せの絶頂にあると告げていた。やり取りを思い出してか口元を覆って、太刀は肩を震わせた。
 押し隠し切れておらず、溢れ出て止まらない。
 思いがけない情報に打刀も目を見開き、合いの手を挟む声は上擦った。
 どくり、と跳ねた鼓動に、とある短刀の姿が重なった。遅れてやって来た興奮に息を呑んで、歌仙兼定は先ほど通った襖を振り返った。
 膝が浮いて、咄嗟に立ち上がろうとした。大袈裟に反応してしまい、頬は紅潮して、全身に熱が迸った。
 唾を飲む音が大きく響いて、見開いた眼はここではない場所を捉えた。他の短刀たちと一緒に菓子作りに精を出す小夜左文字を想像して、魂と呼ぶべきものが震えたのが分かった。
 自然と顔が緩み、鼻の下が伸びていく。
 どうして教えてくれなかったという気持ちと、あの子ならば教えたがらないだろう、という気持ちがぶつかった。身体は勝手にぐらぐら揺れて、落ち着きを失い、挙動不審も良いところだった。
「浦島は、俺のために作ってくれているんだ」
「やめろ、蜂須賀。蹴るんじゃない」
 向こう側では話題に乗り遅れまいと、蜂須賀虎徹が声を荒らげた。弟手作りの菓子は自分のものだと言い張って、寝そべっていた長曽祢虎徹を炬燵から追い出した。
 分別を弁えている打刀も、真贋の話になると向きになる。贋作にくれてやる分はないと言い張って、実に大人げなかった。
「愛染国俊と、蛍丸の奴も、明石国行に作ると言っていたな」
 勝負を引き継いだ歌仙兼定の猛攻により、盤面の状況は一方的なものではなくなっていた。鶴丸国永は関心を示して身を起こし、聞き齧った話を口にした。
「そうですね。堀川国広殿も、御兄弟に贈るのだとか」
 それに一期一振が同意して、黒石を碁笥の中から取り出した。白石を取り囲むように陣地を広げて、牽制し、小気味よい音を響かせた。
 話に出た脇差の少年は、兼定の名を持つもう一振りの打刀と親しい。いつも一緒に居るようなもので、てっきりそちらに贈るものと思っていた。
 だが、話を聞く限り、違うらしい。
 薔薇色の想像が急に翳り、雲行きが怪しくなった。二度続けて瞬きをして、歌仙兼定は間抜け面で口を開いた。
 ぽかんとして、石を打つ音に慌てて盤面に視線を落とす。
「うぐ」
 少しは盛り返せたと思っていたが、またしても窮地に立たされた。
 なかなかの策士だと歯軋りして、打刀は口惜しさに顔を顰めた。
「今剣は、三条の皆に配るって言っていたな」
「あそこは皆、家族同然のようなものだしな」
「加州殿は、主殿に差し上げると仰っておりました」
「それで大和守の奴が拗ねていたぞ。揉めた挙げ句、自分の分は自分で作る、と言っていたが」
 周囲から聞こえてくる話が、どんどん歌仙兼定を追い込んでいく。
 そうとは知らない者たちは会話に花を咲かせ、次の白石は、鶴丸国永が打った。
 ぱちん、と音だけは良い。それでハッとして、打刀は青褪めながら身じろいだ。
「さ、小夜、は……。あの、なにか、言って」
「ああ。あいつも、粟田口の連中に誘われた時に、兄貴たちに渡すとか、なんとか」
「――――」
 目の前が真っ暗になった。
 鶴丸国永の軽妙な語り口調は一気に遠くなり、泡を噴いて気絶してしまいたかった。
 蟹になった気分で、頭を抱え込んだ。碁盤を囲む太刀が苦笑して、または腹を押さえてひーひー言っているとも知らず、歌仙兼定は絶望の淵に佇んで、真っ白だった。
 風が吹けば、砂のようにさらさらと崩れていくだろう。
 黙って聞いていた鳴狐の、その供の狐だけが何か言いたげな顔をしたが、頭を押さえつけられ、仕方なく言葉を呑み込んだ。
「部屋に、……戻る」
「そうか。助太刀、感謝だ」
「そうだね。負け戦、頑張りたまえ」
 一方で打刀はよろよろと立ち上がり、ふらつく足取りで歩き始めた。下を向いたまま前を見ず、両腕はだらりと垂れ下がり、まるで動く屍だった。
 鶴丸国永に珍妙な応援を送って、襖に激突してから、半歩後退して左に滑らせた。廊下に出た後は閉めもせず、そのままにして去って行った。
 哀愁漂う背中だった。間もなく広間は大きな笑い声に包まれたが、歌仙兼定の耳には届かなかった。
 右に、左によろめいて、何度も転びそうになりながら辿り着いた自室で、ついに力尽きて倒れ込む。
 衝撃で最近買ったばかりの茶碗がひっくり返ったが、幸いにも割れはしなかった。
 いつもなら飛び起きて傷の有無を確認するのに、そんな気力も沸いてこない。
「そうか。そうだね。小夜は、家族思いの良い子だからね」
 布団は敷いておらず、畳は冷たかった。その目地に爪を立てて、打刀は消え入りそうな声で呟いた。
 小夜左文字には、兄がいた。太刀の江雪左文字と、打刀の宗三左文字だ。
 両者ともなかなか癖がある刀だが、一年以上を本丸で過ごし、当初に比べれば態度は軟化していた。末弟との距離も随分縮まって、三振りで出かけることもしばしばだった。
 今日は愛しく思う相手に、菓子を贈る日だという。
 当然兄弟を優先させると分かっていても、哀しくて仕方がなかった。
「いいんだ。僕は、小夜が居てくれるだけで」
 菓子が食べたいのではない。
 物が欲しいのではない。
 一緒に居られるだけでいい。
 贅沢は言わない。
 それなのに、こんなにも寂しい。胸が苦しく、切なくて仕方が無い。涙が溢れそうで、吸い込んだ息は異様に熱かった。
 上唇を噛んで嗚咽を堪え、膝を抱えて丸くなる。胎児の姿勢で小さくなって、歌仙兼定は親指の爪を噛んだ。
 何もする気が起きなかった。
 部屋を整理すべきと頭では分かっているが、億劫で、動きたくなかった。
 落ち込んで、拗ねて、そんな自分が嫌になって。
 心に吹く隙間風に身を震わせて、打刀は鼻を啜り、目を閉じた。
 じっとしていたら、眠くはないのに睡魔が来る。次に気が付いた時にはもう日が暮れて、外は薄暗かった。
 障子越しに感じる光は僅かで、太陽の輝きとは趣が異なった。軒先の吊り灯篭の火は、風に煽られゆらゆら踊っていた。
「しまった」
 夕餉の支度があるというのに、午睡で済む時間をとっくに通り越していた。
 なんという失態だろう。慌てて飛び起き、急ぎ向かうべく立ち上がろうとして、彼は肩からずり落ちた掛布団に目を見開いた。
 綿が入って分厚い布が、ずるりと滑った。間に挟まれていた温かな空気が一度に逃げ出して、身震いし、歌仙兼定は唇を戦慄かせた。
「起きたの」
 いつの間に、誰が。
 その答えは即座に判明し、内臓が竦み上がるのが分かった。
 部屋の隅で影が動き、大きく膨らんだ。聞き覚えがあり過ぎる声にも四肢を戦慄かせて、打刀は知らぬうちに掛けられていた布団を握りしめた。
 これがあったから、凍えずに済んだ。胸に痛い心遣いに感謝して、己の迂闊さをひたすら呪った。
「歌仙」
「ああ、いや。すまない、ありがとう」
「珍しいね。歌仙が、寝過ごすなんて」
 動揺を内に隠し、取り繕おうと足掻くが巧く行かない。ため息交じりの呟きがぐさりと来て、歌仙兼定は苦い顔で俯いた。
 勝手に期待して、勝手に気落ちして、不貞寝して、寝坊した。
 言い訳の余地もない見事な空回りぶりに、言葉が出ない。否定も肯定もせずにいたら、静かに歩み寄った短刀が手を伸ばして来た。
 薄明かりの中、探るように頬に触れられた。恐る恐る指を添えて、乾いた皮膚を撫で、掌を押し当てられた。
 柔らかな熱に包まれて、それだけなのに涙が出そうだった。己の惨めさを思い知らされ、反面、嬉しかった。
「すまない、小夜。すぐに」
「夕餉なら、堀川国広と燭台切光忠がいる。心配はいらないよ」
「そう。……後で礼を言わないと」
「明日は任せると、言付かった。でも掃除が終わっていないから、朝だけは、堀川国広たちがやってくれる」
「掃除? なにか、あったのか」
「爆発するなんて、聞いてなかった」
「……そう、か」
 昼間から台所を占拠していた短刀たちは、果たして何をしてくれたのか。
 詳しく聞かない方が己の為な気がして、歌仙兼定は言葉を濁した。目を泳がせて心を鎮め、棚の食器の無事を祈った。
 左頬を包む熱に相好を崩し、ほんの少し体重を預ける。寄り掛かられた少年は労わるように打刀を撫で、額にかかっていた前髪を脇へ払った。
「兄君達には渡せたのかい?」
 言葉は、殊の外すんなり零れ落ちた。
 もっと卑屈になるかと思いきや、口調は穏やかだった。
 復讐の怨嗟に囚われていた少年に、愛おしく思う相手が出来たのだ。最初こそ不慣れで、ぎこちなかったけれど、兄弟間で仲良くしているのは、喜ばしいことだった。
 疎外感を押し殺し、目尻を下げた。不自然にならないよう努めて笑いかければ、小夜左文字は目を丸くして硬直し、気恥ずかしげに頷いた。
「……ああ」
「そう。それは、良かった」
 コクン、と首を振った少年を、心から祝福出来た。言葉を噛み締めながら呟いて、歌仙兼定も手を伸ばした。
 耳に被っていた藍の髪を払い、子供をあやす仕草で頭を撫でてやる。短刀は途端に首を竦め、上目遣いに睨んできた。
「歌仙」
「喜んでもらえたかい?」
 その視線を無視し、饒舌に問いかける。本当に訊きたいことは胸の奥に隠して、いつにも増して早口なのにも気付かない。
 小夜左文字が喋る機会を与えなかった。質問ばかりして、目を逸らさず、相手に主導権を握らせなかった。
 それに歯軋りして、少年は逡巡し、添えるだけだった利き手をきゅっ、と窄めた。
「いっ」
 もれなく野太い悲鳴が、鼓膜のみならず、指先を通して聞こえて来た。頬を抓られた打刀は反射的に仰け反って、悪戯な手を振り払った。
 それほど力を込めたわけではないが、不意打ちだったので、驚きが勝ったらしい。畳にへたり込んで目を白黒させる姿に溜飲を下げて、小夜左文字は指に残る感触を膝に擦り付けた。
「歌仙」
「なっ、なんだい」
「歌仙の分も」
「――え」
「作る、予定だった」
「……予定……」
「材料が、爆発さえしなければ」
「ねえ、小夜。君たちは、本当に、何を作っていたんだい?」
 挙動不審極まりなく、感情を押し殺しているのが窺えた。無理をしているのがはっきり顔に出て、心苦しいのに、なかなか切り出す機会が掴めない。
 抱いていた申し訳なさは、会話の途中で苛立ちに変わった。大人数で台所を占拠した時間を振り返って、少年は声をひっくり返した男から目を逸らした。
 小麦を碾いた粉と、卵を混ぜて、牛の乳がないので山羊の乳で代用し、捏ねて、固めて、窯で焼いた。
 たったそれだけなのに、何故か爆発した。
 真っ黒い煙が出て、音が凄まじかった。一瞬何が起きたか分からなくて、全員がぽかんと間抜け顔を晒した。
 後で聞いた話、もっと美味しくなるようにと、木の実やなにやら、好物をこっそり混ぜた短刀がいたようだ。それがまさかこんなことになるなんて、夢にも思わなかった、と。
 吃驚したのと、自分の所為で材料が台無しになったのとで、大泣きしていた少年を思い出す。彼は良かれと思ってやったわけだから、誰も責めはしなかったが、お蔭で完成品が減ってしまったのは事実だ。
 もっとも苦心の末に出来上がった量と、日頃世話になっている者たちに配って回った数は、決して合致しないわけだが。
 歌仙兼定に渡す分がなくなったのには、もうひとつ、理由がある。
「すまない」
 重ねて詫びて、小夜左文字は居住まいを正した。
「小夜?」
 畏まられて、打刀は首を捻った。怪訝な顔をして、薄明かりの下で短刀の様子を窺う。しかし視野が限られており、表情を探り切れなかった。
 太めの眉が顰められているのを想像して、短刀は首を竦めた。ひとり自嘲気味に笑って、肩の力を抜き、照れたような、困った顔で男を仰ぎ見た。
 此処に来る前、鶴丸国永たちに会った。落ち込んでいるだろうから慰めてやれ、と言われて、何のことだか最初は分からなかった。
 本当はちゃんと準備するつもりだったのに、こんな結果になったのは想定外も良いところ。粟田口の面々がこぞって一期一振に渡す横で、兄たちを蔑ろには出来なかった。
 顔に出さないよう頑張っていたけれど、宗三左文字も、江雪左文字も、そわそわしていた。ちらちら横目で盗み見られて、素通りするのは難しかった。
 天秤にかけてしまった。
 どちらを選ぶか迫られて、妥協した。
 そこは心底、申し訳ないと思う。焼き上がった菓子の、あまりに甘くて香ばしい匂いに誘われて、味見と称するつまみ食い大会になったのも、当初の予定になかったことだ。
 食べ過ぎた。反省している。誘惑に弱い自分を戒めて、左文字の末弟は愛しい男に身を乗り出した。
 尻を浮かせて膝立ちになり、両手は畳に添えて、首を伸ばす。
「小夜?」
 目の前の影が濃くなった打刀は驚き、咄嗟に後ずさろうとした。
 それよりも早く、小夜左文字は目を閉じた。恥ずかしさを押し殺して、口を窄め、隙間からふっ、と息を吐いた。
 甘い香りが溢れた。鼻孔を擽る匂いに気を取られ、歌仙兼定の動きが止まった。
「ん」
 ふわりと、食欲をそそる香りが強くなった。
 鼻から抜ける吐息の後に、柔らかくて甘いものを唇に感じた。
 微熱が弾けた。軽く押し付けられて、捏ねるように擽られた。
 挙げ句にちろりと舐められて、匂いが一層強くなった。温かな粘膜の感触が、いつまでもそこに留まり続けた。
 首を上下に揺らし、小夜左文字が離れていく。
 残された打刀は惚けた顔で凍り付き、今しがた触れたものを確かめようと、左中指で唇を擦った。
 右から左へ動かして、呆然と前を見た。
 少年は行儀よく座り直し、羞恥を誤魔化そうとそっぽを向いた。
「その。せめて、匂い、だけ……なら」
 ぼそりと呟かれた声は上擦り、掠れ、殆ど音になっていなかった。膝に戻った両手はもぞもぞ動き、無愛想で不器用な短刀の胸中を伝えていた。
 落ち着きなく這い回って、重ねたり、結んだり。
 早く何か言えとばかりに横目で睨まれて、歌仙兼定は随分遅れて赤くなった。唇に触れたものの正体を今になって悟って、噎せそうなくらいの甘い香りに背筋を粟立てた。
 幾らか薄くなりはしたが、匂いはまだ残っていた。慌てて重なり合った部分を舐めれば、小夜左文字の唾液が残っていたのか、こちらも微かに甘かった。
「……っ!」
 ぞわっと内臓が沸き立った。顔面から火が噴き出そうで、思いもよらぬ贈り物に四肢が戦慄いた。
「さ、小夜」
「いらない、なら。もういい」
 声が裏返った。にじり寄ろうとしたら、仏頂面で吐き捨てられた。
 分かり易い照れ隠しに、心が躍った。興奮に頬は紅潮し、顔の筋肉は緩み、胸はきゅぅ、と窄まった。
「へえ。なら、頼めばもっとくれるのかい?」
 落ち込んでいたのが嘘のように、声は高く響いた。短刀の膝元に右腕を突き立てて、打刀は下から覗き込む形で問いかけた。
 暗がりの中、空色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
 少年は困り果てて目を泳がせて、躊躇の末に瞼を伏した。
 一緒に、こくりと頷かれた。膝から滑り落ちた手は、歌仙兼定の太い指に添えられた。
 骨の隆起を辿り、握り締められた。それに嬉しそうに笑って、男は遠慮なく甘い香りを吸い込み、いくらでも食べられそうな甘味に舌なめずりした。
「かせ……んっ」
「今度、作り方を教えてくれ。一緒に作ろう」
 柔らかな粘膜に唾液を擦り付け、音を響かせながら囁く。
 かぶりつかれ、圧力に負けた首が後ろに倒れそうだった。それに抗い、懸命に支えて、少年はがっつく打刀に呆れつつ、嬉しそうに頷いた。

2016/2/9 脱稿

さしも知らじな 燃ゆる思ひを

 心地よい振動と、微かに甘い匂い。
 程よく温かな熱に包まれての微睡は、幸福としか言い表しようのないものだった。
 深く沈み込んでいた意識が波に揺られ、徐々に水面へと浮き上がっていく。薄い皮膜を破れば飛沫が散って、強い光が瞳を焼いた。
「う……」
 あまりの眩しさに呻き、開いたばかりの瞼を閉ざした。ぎゅっと力を込めれば、目尻に浅く皺が寄った。
 鼻の周りに目や口を集めて顰め面を作り、両手も強く握りしめた。首を竦め、背を丸めて、仕草はまるで産まれたての赤子だった。
 緩く折れ曲がった膝が跳ね上がり、空を蹴った末に落ちて行った。踵から剥がれた草履が足裏に舞い戻って、指をもぞもぞさせれば、鼻緒が皮膚を擽った。
 身を縮めて丸くなったまま、小夜左文字は数回息を吐いた。口を窄め、尖らせ、特色ある香りを吸い込んだ。
 覚えのある匂いだった。
 よく知っていると、夢うつつの状況下で考える。
「小夜?」
 その矢先に声が降って来て、波打ち際を彷徨う意識が陸に転がった。覚醒を促され、一度は拒んだ光を受け入れた。
 恐る恐る眼を開き、瞬きを繰り返した。ふっ、と鼻から吐息を零し、少年は指を緩めて空を撫でた。
 宙を漂う掌が、そう行かないうちに壁にぶつかった。探るように叩いて、握れば、馴染みのある匂いが一層強くなった。
 衣服に焚き染められた香が、摩擦で外へと溢れ出したのだ。
 たったこれだけで、そこに居るのが誰なのか分かった。だというのに咄嗟に名前が出て来なくて、小柄な短刀は眉目を顰めた。
「ん、ぅ……?」
 同時に身動ぎ、低く唸る。指の背で瞼を擦り、奥歯を数回噛み鳴らす。
 もごもご唇を蠢かせて、最後に細く、息を吐く。
 大きな欠伸が漏れて、もれなく身体が反り返った。伸びあがり、片腕を頭上へ掲げれば、指先は一直線に空を駆けた。
「ああ、あぶない」
 それに合わせて悲鳴めいた声が聞こえ、身体もぐらりと傾いた。ずるり、と頭から滑り落ちそうになって、急ぎ目を開き、見た世界は全てが逆さまだった。
 結い上げた髪が軒並み地上を目指し、首から上は胴より低い位置にあった。背中を支えていた柱が大慌てで肩に回されて、短い掛け声の後、上下に揺さぶらされた。
「よっ」
「……!」
 腹筋に力を込めて、男が吠えた。と同時に軽い体躯が弾んで、垂れ下がっていた頭部が正しい位置へと戻された。
 腰が沈んで、膝が持ち上がった。胎児の体勢に作り替えられて、小夜左文字は嗚呼、と強張っていた頬を緩めた。
 咄嗟に止めていた呼吸を再開させ、改めて胸元にある衿を手繰り寄せる。緩く握りしめれば、引っ張られた男が目尻を下げた。
「起こしてしまったね、すまない」
「いや……」
 花が綻んだような笑顔を浮かべ、口にしたのは謝罪だ。もっともあまり悪いと思っていないようで、口調は丁寧だが、言葉自体は軽かった。
 短刀は返答に窮して首を振り、視線を巡らせた。己が置かれている状況を整理しようと周囲を確かめ、最後に見慣れ過ぎて些か飽いてすらいる打刀を仰いだ。
 彼は今、歌仙兼定の腕の中に居た。
 どうしてかは分からないが、横向きに抱きかかえられていた。
 遠征から帰還したばかりなのか。裏地が派手な外套は外しているが、戦装束で、首を振れば鼻先が牡丹の花飾りを掠めた。
 対する小夜左文字は内番着で、尻端折りに襷姿だった。手作りの草履を引っかけ、爪先は土で汚れていた。
「どうして、歌仙、が」
 屋敷の中ではなく、屋外だった。景観には見覚えがあり、本丸の裏手に広がる畑の傍だった。
 視覚から得られる情報が増える度に、埋もれていた記憶が次々蘇っていく。今日の彼は畑当番で、水やりを終え、木陰で休んでいたのだった。
 縦横無尽に張り巡らされた水路を点検するのは大変で、疲れる仕事だった。端から端まで歩き回らなければならないし、水量の調節で樋を動かすのは、地味ながら結構な重労働だった。
 相方は江雪左文字で、彼は土を耕すのに夢中だった。
 邪魔するのも悪いと声は掛けず、休憩しようと地面に座り込んだ。良い天気だと眩しい太陽に相好を崩して、その後どうなったか、まるで覚えていない。
 気が付けば歌仙兼定に抱き上げられており、居場所も畑ではなく、屋敷へ向かう道の半ばだった。
 陽はまだ高く、空は明るい。どれくらいの間眠っていたのか気になって、少年は瑠璃色の瞳を細めた。
 睨むように見上げられて、打刀は何故か困った顔をした。即答は避けて一旦余所を向き、大人しく抱えられている短刀にかぶりを振った。
「歌仙」
「ああ、いや。木陰で眠っているのを、見つけたと」
 煮え切らない態度に苛立ち、声を尖らせる。
 強い口調で名を呼べば、恰幅の良い男は肩を竦め、降参だと白旗を振った。
 控えめに微笑んで語った内容は、分かり辛いけれど、伝聞を含んでいた。気付かれなければそのまま流すつもりでいたと解釈して、小夜左文字は半眼した。
 不機嫌に顔を顰め、青藍色の衣を手繰る。爪を立てて布を引っ掻けば、歌仙兼定は深々とため息を吐いた。
 身体を揺らし、彼は短刀を地面に下ろした。二本足で立つまで支え続け、離れていく直前、ふっくら丸い頬を人差し指で擽った。
 名残惜しそうな仕草が、なんとも女々しい。
 幾らか傷ついた顔をしているのも気になって、小夜左文字は首を傾げた。
「どうした」
「江雪殿が、ね。疲れているようだから、部屋で休むようにと仰有っていたよ。後はやっておくから、と」
「……あにうえが?」
 けれど質問は無視され、まるで別のことを告げられた。唐突に脈絡のないことを教えられて、驚き、短刀は目を見張った。
 思えばそれは、先の問いに対する答えだ。だが突然過ぎた所為で気付けず、声は綺麗に裏返った。
 驚愕を隠そうとしない少年に、男は深く頷いた。優しげで、それでいて少し哀しそうな顔をして、低い位置にある頭をぽんぽん、と叩いた。
 大きな手を広げ、ゆっくりと。
 押し潰さないよう力は加減されており、結った髪が上下に踊った。
 それがどうにもくすぐったくて、未だに慣れない。あまり得意ではないと続きは遠慮して、小夜左文字は両手で頭を抱え込んだ。
 後退しても、歌仙兼定は追ってこなかった。曖昧に微笑むだけで、いつもとどこか違っていた。
「……そう」
「昨日の出陣の疲れが、抜け切っていないんだろう」
「そんなことは、ない」
 ただその差異は酷く小さくて、巧く言葉で表せなかった。気のせいかもしれないと声に出すのを躊躇している間に、会話は先に進んで、後戻り出来なかった。
 はぐらかされた。疲労しているとの指摘にも腹を立てて言い張るが、聞き流され、相手にしてもらえなかった。
 一旦は引っ込んだ手が戻ってきて、藍色の髪から覗く耳朶に触れた。軽く抓まれて咄嗟に跳ね除けて、小夜左文字は身体を北に向けた。
 畑仕事はやることが多く、刀一振りではとても手が足りない。どう考えても戻って兄を手伝うべきだが、歌仙兼定の様子も気になって、なかなか決心がつかなかった。
「小夜」
「あにうえ、は」
「一期一振殿が手伝いに来ていたから、心配いらない。君はゆっくり、休むと良い」
「そう、なの」
「ああ」
 もぞもぞしていたら、急かされた。先回りした答えを披露されて、続ける言葉が見つからなかった。
 会話が途切れ、沈黙が落ちた。目を合わさぬまま膝をぶつけ合わせて、小夜左文字はもう一度、木々の間に見え隠れする畑を窺った。
 どれだけ目を凝らしても、そこに動く刀の影は見えない。大声を出したとしても、兄の耳には届くまい。
 迷惑をかけた。要らぬ心配をかけたし、手間取らせてしまった。
 後悔が胸を満たす。どうしてあそこで目を閉じたりしたのかと、眠りに落ちる直前の己を罵りもした。
 下唇を噛んで、拳を作る。
 ぽすん、と大きな手が降って来て、小夜左文字は首を竦めた。
「歌仙」
「部屋まで案内しよう」
「必要ない」
「駄目だよ、小夜。君がちゃんと休むまで、見張っているから」
「僕はそんなに、信用ないか」
「江雪殿に頼まれているからね」
 またか、と手首を打って跳ね除けて、声を荒立て突っぱねる。だというのに歌仙兼定は食い下がり、左文字の太刀の名を口にした。
 反発を抱くが、拒み切れない。兄弟という括りは他者から与えられたものだというのに、今や小夜左文字を程よく縛り、行動を制限した。
 弟らしく、兄の言うことを聞け。
 暗にそう揶揄されたわけで、受け入れ難いのに、従わざるを得なかった。
 家族の真似事など望んでいないのに、周囲がそれを押し付けてくる。全く以て迷惑甚だしくて、鬱陶しかった。
 ただ吐き気を催すほど嫌か、と問われれば、答えに詰まった。
 即答出来ず、顔を背けるしか術がない。
 そんな長兄の名前を免罪符にして、歌仙兼定は胸を張った。早く屋敷へ行くよう促して、穏やかに目を眇めた。
「歌仙」
「なんだい?」
 表面上は愉しげで、幸せそうだ。だというのに語る言葉がどれも薄っぺらいとでも言うのか、心からのものでない気がした。
 思い過ごしかもしれない。そうであれば良いと願う。
「……いやなことでもあったか」
「変なことを訊くんだね」
 それでも問わずにいられなかった短刀に、男は浅葱の眼を見開いた。
 否定はせず、顔を背け、答えを濁した。図星を指摘されて、自然と顔は赤く染まった。
 勘が良過ぎるのも考え物だと嘆息して、歌仙兼定は瞳を伏した。
「なにもないよ」
「歌仙」
「本当だよ、小夜。今ので、消し飛んでしまった」
「言っている意味が」
 どうして分かるのかと、不思議でならない。そんなに自分は分かり易いかと、ある意味衝撃的だった。
 それともこれは、小夜左文字特有の嗅覚なのか。
 だとすれば嬉しく、また見透かされて恥ずかしいし、情けなかった。
 つまらないことにウジウジしていた過去の己を悔いて、打刀は戸惑う少年に微笑んだ。
 畑に出向いたのは、呼ばれたからだ。一期一振に頼まれて、訪ねてみれば江雪左文字が待っていた。
 眠る小夜左文字を抱く太刀に、任せて良いか問われた。何故と訊き返せば、寝言で名前を呼んでいたからだ、と教えられた。
 自分が抱きかかえて運ぶより、貴方の方が良いらしい。自嘲気味に笑う江雪左文字に言われて、心躍ったのは嘘ではない。
 だが現実には、どうだろう。
 江雪左文字の腕の中で、小夜左文字はすよすよ眠っていた。どれだけ揺らされても、撫でられても、安心しきった顔で目覚めなかった。
 ところが歌仙兼定が彼を引き受け、いくらも行かないうちに、短刀は起きてしまった。むずがり、暴れて、降ろせとばかりに身体を伸ばした。
 その落差に、動揺した。
 愕然として、密かに傷ついた。
 寝言で名を呼んでいたという話も、信憑性が薄い。疑いたくはないが、とても信じられなかった。
 そんな胸に蔓延っていたもやもやが、一瞬のうちに掻き消えた。
 小夜左文字は、気付いてくれた。些末な心の揺らぎに、反応してくれた。
 こんなに嬉しいことはない。顔を綻ばせていたら、問答に飽きたのか、小夜左文字が肩を竦めた。
「変な歌仙」
 ぼそりと言って、颯爽と歩き出す。
 風を切って進む短刀の背筋はぴんと伸びて、凛々しく、それでいながら愛らしかった。
「ああ。待ってくれ、小夜」
「歌仙、餓鬼道への近道はどちらだ」
「台所が一番遠回りだね。なにか作ろう。何が食べたい?」
 慌てて追いかけ、声を高くする。
 あっという間に追い付いて、隣に並んだ。肘を伸ばせば指先が触れて、自然と絡まり、結び合った。

2016/1/4 脱稿

心ぼそくも絶えぬなるかな

 それは、突然の出来事だった。
 ドンッ、と大きな音が轟き、床を伝った振動に突き上げられた。耳から、足からも驚かされてびくりとして、小夜左文字は目を丸くして振り返った。
 一緒に食器を拭いていた堀川国広もが、何事かと息を呑んだ。首を竦めて恐々後ろを見て、戸口に佇む打刀に目を白黒させた。
「うわあ」
 思わず、と言った風に声を漏らし、脇差の頬が引き攣った。手にする皿を落とさぬよう握りしめて、黒髪の少年はなんとも言えない笑顔を浮かべた。
 非常にぎこちない表情に、応じる者はいない。
 奥で薪の整理をしていた太刀はといえば、隻眼を見開いて、困った様子で頬を掻いた。
「お、おかえり……なさい。かな?」
 燭台切光忠が、掠れ気味の小声で、言葉を選んで呟いた。合間にひと呼吸挟んで気持ちを整理して、台所の戸に寄り掛かっている打刀を歓迎する素振りを見せた。
 白の軍手を嵌めたまま、両腕を八の字に広げた。遠征で疲れているだろう男を労って、早く中に入るよう、言外に促した。
 しかし藤色の髪の打刀は俯いたまま、なかなか動こうとしなかった。軽く膝を折って姿勢を低くして、猫背気味に項垂れ、口元は真一文字に引き結ばれていた。
 右肘を戸袋の縁に預け、左手は膝の上にあった。先ほどの大きな音は、籠手で壁を叩いた際のものだった。
 戸は開いていたのだから、わざわざ鳴らす必要などない。中に居る者の注意を惹きつけたいのなら、声を掛ければそれで済んだ。
 要するに、あれは八つ当たりだ。
 しなくても良いことを敢えてする、それくらい精神が疲弊している現れだった。
「か、歌仙君?」
「ああ……今、戻った」
 なかなか返事がないのを不安がり、燭台切光忠が伸びあがった。
 心配そうな呼びかけに漸く反応を見せて、歌仙兼定は血の気の引いた顔で呟いた。
 膝に置いていた手で額を覆って、ゆるゆる首を振った。目を閉じて深呼吸して、右手を垂らし、背筋を伸ばした。
 胸元を飾る大振りの花が、朝に比べるとかなり萎びていた。いつもの自信満々、余裕綽々とした様相は失われて、覇気がなく、著しく草臥れた様子だった。
 顔色は悪く、青白い。目元には薄く隈が浮かんで、唇は土気色をしていた。
「大丈夫ですか?」
 歩き出そうとして、すぐにふらついた。右に大きく傾いて、見ていた堀川国広が慌てて声を高くした。
 辛うじて堪えたものの、歌仙兼定の足取りは覚束なかった。一歩を進むのにも時間が必要で、さながら年老いた獣だった。
「歌仙」
 産まれたての小鹿ですら、もっと上手く歩くだろう。それくらい不安定で、見ていて怖くなった。
 いつ倒れるか分からなくて、小夜左文字は持っていたものを机に置いた。拭いている途中だった皿に布巾を被せて、堀川国広の後ろから回り込んだ。
 名を呼んで、手を伸ばす。だけれど寄せられた善意を、歌仙兼定はやんわり断った。
「すまない。水を、一杯」
 彼の体格では、打刀を支えきれない。転倒しようものなら、道連れにしかねなかった。
 気遣いは嬉しいけれど、受け取れなかった。右手で短刀を制し、男は堀川国広に願い出た。
 人差し指を一本立てられて、少年はハッと息を飲んだ。彼も急いで手の中のものを置き、洗い終えた後の濡れている食器ではなく、乾いたものが並ぶ棚へと駆け寄った。
「ええと、歌仙さんの分は……」
「疲れてるみたいだね。遠征、そんなに大変だった?」
 ひとりごちて湯呑みを探す脇差の向こうで、燭台切光忠が履いていた靴を脱いだ。手には薪ではなく、柄杓が握られており、たっぷりの水が波を立てていた。
 溢れてしまいそうで、案外零れない。水平を保ちながら運んでくる太刀に、打刀は嬉しそうに息を吐いた。
「堀川君」
「はーい。うーん、もう、これでいいや」
 今すぐにでも飲みたそうな顔をするが、流石に柄杓から直接は行儀が悪い。太刀に呼ばれた脇差は探すのを諦めて、手近なところにあった湯呑みを掴み取った。
 駆け戻り、手渡すのではなく、底に手を添えて燭台切光忠へと差し出した。直後に瓶から汲み取られた水が、陶器製の器へと注ぎ込まれた。
 透明な雫が滝となり、一部は湯呑みを外れて床へと落ちた。だが雑巾で拭くのは後回しにして、堀川国広は餓えている打刀に顔を向けた。
「すまない」
 礼を言い、歌仙兼定が頭を下げた。仰々しく謝意を表明して、利き手で湯呑みを掴み取った。
 そうして縁に口を着けるや否や、ぐーっと背を後ろへと反らした。
「んぐ、んっ、ん……ぷは、あー」
 立派な喉仏を何度も上下させ、たっぷり注がれた水を一気に飲み干した。ただの井戸水だというのに、最後は美味そうに歓声を上げて、満足げに身を震わせた。
 飲み損ねた分が顎を伝っているのも構わず、濡れた口元を拭いもしない。無言で湯呑みを突き出された脇差は苦笑して、隻眼の太刀に目で合図した。
「もう一杯、ですね」
「頼む」
「お疲れ様、歌仙君」
 言葉は交わさずとも、燭台切光忠は勝手に動いていた。空になった柄杓を肩の高さで揺らして、もう一杯分掬うべく、水瓶を置いた土間の方へ歩いて行った。
 わざわざ井戸まで汲みに行くのは手間だから、朝のうちに桶を使い、複数用意された瓶に溜めておくのだ。料理に使うのは主にこの水で、後は喉が渇いた刀たちが、その都度此処まで飲みに来た。
 歌仙兼定も、そのひと振りだ。遠征から帰還して、余程餓えていたのだろう、二杯目もひと息で飲み干してしまった。
「歌仙、座ると良い」
「ありがとう、小夜。助かるよ」
 左手を腰に当て、湯浴み後の一杯のような飲みっぷりだ。水分を摂取して幾らか回復したらしいが、身体はまだふらついており、膝はガクガク震えていた。
 見かねた小夜左文字が、日頃足台に用いている台座を動かした。簡易の椅子にもなるそれを見せられて、打刀は一も二もなく頷いた。
 実は立っているのも、やっとだったらしい。
 疲労感満載の男は膝を折ると、どっかり腰を下ろし、長い息を吐いた。
 姿勢は猫背で、頭はぐらぐらしていた。眠そうで、怠そうだった。
「疲れてるねえ」
 柄杓を片付けた燭台切光忠が代表して呟くが、他の刀たちも、それ以外言葉が浮かばなかった。戦装束で座り込む打刀は、誰が見ても分かるくらいに疲弊しきっていた。
 吐く息はどれも重く、陰鬱だ。嫌な雰囲気が見ている側にまで伝染りそうで、堀川国広は真っ先に傍を離れた。
 昼餉の片付けに戻り、食器を拭く作業を再開させた。彼を手伝っていた小夜左文字は、躊躇して、視線を泳がせた。
「お腹空いてるでしょう。なにか食べるかい?」
 労いの言葉をかけたいところだが、巧い台詞が思いつかない。そうやってもじもじして、困っていたら、米櫃の蓋を外した燭台切光忠が声を上げた。
 居残り組の昼餉は終わった後だが、出陣や遠征組の為に、食べ物は人数分残してあった。白米はすっかり冷めて表面が固くなっているけれど、茶漬けにするか、粥にすれば充分食べられた。
 握り飯にして、表面に味噌を塗って焼いても良い。
 指折りながら食べ方を提案し、希望を問うた太刀に、聞いていた短刀も力強く頷いた。
「朝からずっと、だろう」
 助けを得て、会話のきっかけが掴めた。
 鼻息荒く告げた小夜左文字に膝を叩かれ、項垂れていた打刀は緩慢に頷いた。
 彼は今朝早くから隊を率い、遠征に出ていた。
 実を言えば既に四度、この男は屋敷への帰還を果たしている。だが屋敷に戻るや否や、編成し直し、仲間を連れて時空を超える旅に出発した。
 つまり彼は、今日だけで遠征を四回終えたことになる。隊の構成は都度組み替えられており、その全てに参加したのは、此処にいる歌仙兼定だけだった。
 ずっと歩き通しの、気の張り通し。
 これで疲れない方が、どうかしていた。
「お昼だって、まだでしょう。作るよ」
 これまでこんなに短時間で、何度も同じ遠征を繰り返されるなど、あまりなかった。どういう風の吹き回しかと、審神者の急な方針転換に、屋敷の誰もが首を傾げていた。
 巻き込まれた打刀は、不運としか言いようがない。
 自分でなくて良かった、とは決して口にせず、燭台切光忠は袖を捲った。
「歌仙、朝も碌に食べてなかっただろう」
 小夜左文字も同意して、打刀の前に回り込んだ。俯く男を下から覗き込んで、強い眼差しで訴えた。
 短刀が目を覚ました時、歌仙兼定は既に身なりを整えていた。昨晩遅くに二番隊を率いるよう命じられていたらしく、食事もそこそこに出て行ってしまった。
 急な話で、驚いた。昨日の夕餉の席で発表された出撃予定では、二番隊を率いるのは小夜左文字だったからだ。
 いつの間に入れ替わったのか、何も聞かされていない。
 話をしようにも歌仙兼定はなかなか戻らず、戻ってもすぐに出発してしまって、すれ違いが続いていた。
 これでようやく、今日の遠征は終了だ。
 疲れ果てている打刀に目を眇めて、小夜左文字は手甲の上から大きな手を撫でた。
 こんなことしか出来ないが、慰めになれば良いと願った。少しでも楽になると言うのなら、背でも、頭でも、満足するまで撫でてやるつもりだった。
「ゆっくり休め」
「ああ。そうしたい、ところだけれど」
「え?」
 腹を満たし、部屋に戻ったら布団を敷いてやろう。そんな事を考えていた矢先、頭上から苦々しい声が降ってきた。
 一瞬、誰の言葉か分からなかった。
 それくらい低くくぐもり、掠れた囁きに、短刀は空色の目を丸くした。
「歌仙ってば、なにしてんのさ。もう出発するよー?」
 そこに外から、けたたましい叫び声が轟いた。
 ドタドタと喧しい足音が発生して、台所に居た全員が一斉に廊下の方を見た。
 現れたのは、加州清光だった。黒を主体とした衣装に身を包んで、左手には彼の本体とも言える刀が握られていた。
 踵の高い靴を履けば、いつでも出発出来る。
 そんな格好で顔を出した打刀に、小夜左文字は唖然となった。
「出発、する……?」
「そういうわけだ。御心遣い、感謝する」
「歌仙!」
 聞き間違いを疑うが、それ以上に信じ難い言葉が間近から聞こえた。堀川国広や燭台切光忠も絶句する中、歌仙兼定は膝に両手を置き、ゆっくりと起き上がった。
 非難めいた叫び声にも、何も言おうとしなかった。黙って小さく首を振って、待ちくたびれている加州清光に右手を振った。
「早くしてよー」
 先に行くよう促され、川の下の子を自称する刀が台所を出ていく。それを驚愕の眼で見送って、小夜左文字は手を伸ばした。
「どういうことだ、歌仙」
 後を追おうとする打刀の、皺の寄った袴を掴んだ。幾重にも連なる襞のひとつを引っ張って、行かせまいと声を荒らげた。
 もう既に、彼は四度も遠征に出ている。次は五度目だった。
 碌に休憩も挟まず、出ずっぱりだった。胃の中は水ばかりで、固形物は残っていない筈だった。
 顔色は依然優れず、瞳には生気が乏しい。今の彼ならば、練度の低い刀相手にも後れを取りかねなかった。
 ふらふらして、まっすぐ立っていられない。そんな状態で、いったい何処へ行くと言うのだろう。
「駄目ですよ、歌仙さん。休んでないと」
「堀川君の言う通りだよ。無茶をしたって、良いことなんか何もないんだから」
 布巾を握りしめて、堀川国広が叫んだ。燭台切光忠も呼応して、小夜左文字に代わって打刀の前を塞いだ。
 両腕を真横に広げ、通せんぼした。その太刀の肩をぐっと押して、歌仙兼定は気丈に声を張り上げた。
「僕がやると決めたんだ。放っておいてくれ」
 苛立ちを含み、早口だった。
 血走った目で怒鳴られて、気迫に圧倒された。希に見る大音声に怯んで、隻眼の太刀はつい道を譲ってしまった。
 小夜左文字は指先に力を込めたが、何の意味もなかった。
 掴んでいた袴は大きく裾を広げたが、それだけで、引き留める役には立たなかった。
 するりと抜けて行った布に瞠目し、追おうとするが間に合わない。
 小さな手は空を掻いて、やがて暗い場所へと沈んで行った。
「歌仙」
 呼びかけても、返事はない。牡丹の絵柄を翻し、打刀はそれまでの不安定さが嘘のように、大股で廊下を歩き去った。
 足取りに迷いはなく、強い決意が窺えた。
 視線は真っ直ぐ前だけを見据え、残された者を顧みようとしなかった。
 腿に爪を立て、小夜左文字は奥歯を噛み締めた。誰もいない空間を呆然と見詰めて、短い間隔で息継ぎを繰り返した。
「小夜君……あっ」
 状況が上手く理解出来なくて、心の整理が追い付かなかった。
 訳が分からなくて混乱して、心配した堀川国広の声で火が点いた。
 肩に触れられる前に、動いていた。床を蹴って段差を飛び越え、全力で廊下を駆けた。
「なんの、つもりだ」
 腹立たしくて、怒りが治まらなかった。
 あんな状態で遠征に出ても、失敗して帰ってくるのが関の山だ。仲間に迷惑がかかるし、時間の無駄だった。
 疲れているのに認めようとせず、我を張ってなんになる。そこまで遠征が大事だとは、小夜左文字にはどうしても思えなかった。
 わざわざ夜のうちに、編成の変更を申し出た理由も聞いていない。
 本当なら連続での遠征に疲弊させられるのは、小夜左文字の方だった。
 身代わりになったつもりだとしたら、屈辱だ。
 遠征任務のひとつも出来ないと思われるのは、癪でならなかった。
「歌仙!」
 玄関へ出て、吼えた。
 上り框の縁ぎりぎりに立てば、準備を終え、門に向かって進む六振りの背中が見えた。
 声は、届いたはずだ。
 実際、最後尾にいた獅子王が振り返った。不思議そうに目を丸くして、首を傾げたのが何よりの証拠だった。
 しかし、それだけだった。歌仙兼定は立ち止まらず、小夜左文字を見ようともしなかった。手を振って隊の面々に合図を送り、気にしなくて良い旨を伝えたようだった。
 息を切らし、小夜左文字は唇に牙を立てた。いっぱいに空気を吸い込んで、丹田に力を込めた。
「歌仙、待て。遠征なら僕が出る。だから。歌仙!」
 渾身の想いを込めて、戻ってくるよう訴えた。昨晩定められた通りの編成で、自分が隊を率いると胸を叩いた。
 それでも、芳しい反応は得られなかった。
 色よい返事はひとつもなく、それどころか徹底的に無視された。散乱する靴や草履を避けて飛び降りて、素足で追いかけても結果は変わらなかった。
 目の前で門が開き、閉ざされた。頑強で重いそれは短刀の手では決して開かず、無情にも世界はここで切り離された。
 惚けて立ち竦み、暫く動けなかった。
「小夜君、大丈夫?」
 過去に縁を結び、此処本丸でも親しくしていた者に拒絶された。現実味が沸かず、夢を見ている気分で、案ずる声にもすぐに答えられなかった。
 真後ろに堀川国広が立っていた。
 飛び出した短刀を心配し、追いかけて来てくれた。そんな少年の前で固く閉ざされた門を仰いで、小夜左文字はヒクリ、頬を引き攣らせた。
「僕が。復讐さえ果たせない、駄目な刀だからか」
「そんなこと――」
 笑おうとして、失敗した。己を卑下する言葉を吐けば、脇差は否定しようとして、半端なところで言葉を切った。
 地響きがした。
 今しがた閉まったばかりの門が、どういう訳か開かれようとしていた。
「ええ? なんで?」
 第二部隊は出発したばかりで、こんなに早く帰ってくるわけがない。
 何が起きようとしているか分からなくて、堀川国広は武器もないのに身構えた。
 一瞬期待して、小夜左文字は目を見開いた。庇おうと前に出た脇差の影から身を乗り出して、外からやってくる者たちを良く見ようと瞬きを繰り返した。
 風が吹き、砂埃が舞い上がった。
 眼球を襲う細かな塵に臆し、怯んだ隙に、ドォン、と轟音が空を貫いた。
「うっ」
「小夜君!」
 大音響に、鼓膜がびりびり震えた。
 巻き起こった旋風に飛ばされそうになって、小柄な短刀は伸ばされた脇差の手を掴んだ。
 ふた振りで踏ん張って、静かになった空間を揃って見た。
 砂煙は徐々に晴れて行き、程なくして黒っぽい塊が多数、内側から出現した。
「つっかれたぁ~」
「もう、やだ!」
「くったくただー。お腹すいたねえ」
「ははは。こんなにこき使われる日が来ようとは、驚きだぜ」
 それとほぼ時を同じくして、喧々囂々、愚痴が聞こえて来た。口々に言い合って、そこに小夜左文字達が居るとは思っていない様子だった。
 合計六振りの刀が、門の前に座り込んでいた。中には両手両足を投げ出し、大の字になって寝そべっている者もいた。
 各々が喚いている通り、誰も彼も疲れ切っていた。屋敷に行くのさえ億劫だと言って、運んでくれる相手を探し求めていた。
「え、ええ?」
「あ、堀川だ。ねえ、負ぶってー」
「おお、すまん。小夜、申し訳ないんだが大太刀か槍の誰かを呼んできてくれ。俺らは御覧の通り、もう一歩も動けない」
 まさかの事態に、堀川国広が悲鳴を上げた。それでふた振りの存在に気付き、第三部隊の面々が次々に頭を下げた。
 出迎えに来てくれたのだと、勘違いしたらしい。鶴丸国永に手を合わせられて、頼まれた短刀は脇差と顔を見合わせた。
 そういえば彼らも、今日は朝から大忙しだった。
「おんぶー、おんぶー。はーやくー」
「今まで、こんなことなかったのになあ」
 乱藤四郎が強請って我が儘を言い、手で顔を扇いでいた浦島虎徹が、明後日の方角を見ながら呟いた。奥の方ではその兄である蜂須賀虎徹がぐったり座り込んでおり、言葉を発するのも嫌な様子だった。
 一瞥をくれただけで、すぐに俯き、動かなくなった。鶴丸国永の言う通り、此処にいる者全員、自力で歩ける体力は残っていなかった。
 彼らもまた、朝早くから遠征に何度も駆り出されていた。
 第二部隊のように面子を入れ替えたりせず、ずっと固定だったらしい。疲労の度合いは頂点に達しており、もう一度行け、と言われたら全力で拒否しそうだった。
 審神者が相手でも、承諾しない筈だ。彼らの口ぶりから、歌仙兼定の異常ぶりを改めて思い知らされた。
「なんだって、急に張り切っちゃったんだろう」
「近いうちに、大きな戦が起こるんじゃないかって」
「俺が聞いたのは、新たな刀が加わるかもしれない、ってやつだな」
「それで今のうちに~、ってことかあ」
 他に比べてまだ元気が残っている乱藤四郎と浦島虎徹の会話に、鶴丸国永が合いの手を挟んだ。聞きかじった情報を皆に伝えて、真偽は不明と肩を竦めた。
 兎に角、これ以上の遠征は遠慮願う。出陣するなら別の刀に頼むよう、此処に居ない審神者に向かって言って、白装束の太刀は蜂須賀虎徹に寄り掛かった。
「おい、やめろ。貴様、なにをする」
「おお、この椅子、喋るぞ。こいつは驚きだぜ」
「誰が椅子だ。邪魔だ、重い。早く退け」
 背凭れにされて、金色が眩しい打刀が抗議の声を上げた。肩を突っ張らせて必死に抵抗するが、周囲の笑いを誘うばかりで、誰も助けてくれなかった。
 嫌がる彼に調子に乗って、鶴丸国永は一層体重を押し付けた。まるでおしくらまんじゅうで、見ている分には滑稽だった。
「主さん、なにか考えがあってだろうけど」
 一方で堀川国広は難しい顔をして、新たに得た情報に眉を寄せた。小夜左文字も同じ気分で、顰め面で首を傾げた。
 出撃も、遠征も、すべては審神者の指示によるものだ。行き先や編成の選択基準等、詳しい説明はなく、意図あってのものかどうかは、想像するしかなかった。
 ひとつ言えるのは、その審神者の思惑に逆らった刀がいる、ということ。
 歌仙兼定の無謀な行動にも、なにかしら狙いがあると思って間違いなかった。
 小夜左文字に代わって、隊長を引き受けた。
 彼は戦に出るのと、料理は好きだ。茶を嗜み、歌を詠んで、現身を得た生活を満喫していた。
 ただ、嬉々として遠征に出たがる、という話は、あまり聞かなかった。
 珍しい景色に遭遇し、美しいものを堪能出来ると楽しんでいる節はあった。しかしそれだって、帰還後の休息を約束された上でのこと。疲労を蓄積した中での遠征が、彼の本意であるわけがなかった。
 ではどうして、あそこまで強く拘る。
「訳が分からない」
 歌仙兼定のやっていることは論理性に欠け、支離滅裂であり、愚昧としか言いようがなかった。身を粉にして働くような性格ではなかったのに、どういう風の吹き回しか、呆れを通り越して腹が立った。
 低い声で呻き、小夜左文字は拳を作った。尻端折りをした藍色の衣の、丁度折り返されて二重になっている裾を握りしめた。
「あっ、小夜君」
「誰か探してくる」
 疲れ果てている遠征部隊を、このままにしてはおけない。
 力の強くて身体も大きい刀を連れてくると言えば、慌てた堀川国広の後ろで、鶴丸国永が宜しく、と手を振った。
「早くしてね」
 帽子を団扇代わりにしていた乱藤四郎にも催促されて、小柄な短刀は小さく頷いた。玄関に戻ってから素足だったのに気が付いて、追いかけて来た脇差の少年に笑われた。
「雑巾、取ってくるね」
「……すまない」
 気を遣わせてしまったと詫びて、小夜左文字は顔を赤くした。世話好きの少年はクスリと笑って目を細め、靴を脱ぎ、式台へと上り込んだ。
 前方からはドスドスと足音がして、騒々しい。今度は何かと顔を上げた先に見えたのは、背高の男の姿だった。
「国広、んなとこに居やがった。探しちまっただろ」
「ああ、兼さん。そうだ、丁度良かった」
 長い黒髪を左右に躍らせ、大股で近付いて来た。濃い緋色の衣装に浅葱の羽織を合わせて、随所に施された意匠には歌仙兼定と通じるところがあった。
 目は吊り上がり、機嫌が悪そうだった。声は野太く、伸びがあり、低いながら良く響いた。
 やって来た方角からして、台所を覗いた後なのだろう。居ると思っていた存在が居なかったので、拗ねているらしかった。
 そんな打刀に責められても、脇差は慣れているのか意に介さない。それどころか両手を叩き合わせ、門前で座り込む仲間を運ぶ良い人材を得たと喜んだ。
「門のところに、鶴丸さんたちが居るからさ。動けないらしくて、運んであげて」
「はああ?」
 掌を重ねて頬の横に据え、可愛らしい仕草を決めて甘え声で強請った。勿論和泉守兼定が快諾するわけがなく、寝耳に水だと目を丸くした。
 至極嫌そうな顔をして、頬をヒクヒクさせて反論を試みる。
 だがこう見えて堀川国広の方が年上で、且つ経験も積んでいた。
 にっこり微笑みつつも、目は笑っていない。
 有無を言わせぬ眼光に、本丸で最も年若い打刀は気圧され、怯んだ。尻込みして後退して、我に返って首を振った。
「だっ、誰が、ンなこと。俺はなあ、国広。ついさっき、遠征から帰って来たばっかりなんだよ。疲れてんだよ。腹が減ってんだよ」
「遠征?」
 ここで引き下がっては男が廃ると、己を鼓舞して男が吠えた。早口に捲し立てて、右腕を大仰に振り回した。
 浅葱の羽織を膨らませ、喧しく喚いた。その中で飛び出した言葉に反応して、黙って聞いていた小夜左文字が身を乗り出した。
 上り框のすぐ手前まで出て、背高の打刀を仰ぐ。
 それまで存在に気付いていなかったのか、和泉守兼定は一拍置いて頷いた。
「いたのかよ、小夜坊」
「遠征とは、歌仙が率いていた方か」
「んあ? ああ、そうだよ。ったく、胸糞悪り遠征だったぜ」
 堀川国広の眼力から逃れる口実にして、短刀の方へと進み出る。わざわざ膝を折って屈んでから答えて、彼は余所を見ながら吐き捨てた。
 黒髪を雑に掻き回し、心底嫌そうに顔を歪めた。思い出しているのは目を眇めて、表情はいつになく険しかった。
「兼さん、そういう言い方は」
「はあ? だってそうじゃねえか。お前、俺がどこ行ってたか知ってんのか?」
「それは……」
 歌仙兼定が率いる遠征隊に参加して、気分を害して帰って来た。
 端的にまとめると、そういう話だ。聞き咎めた堀川国広を逆に叱り、打刀は不貞腐れて口を尖らせた。
 ちらりと小夜左文字を窺って、脇差は躊躇し、口を噤んだ。そう言えば聞いていないと俯いて、探るように相棒たる刀を窺った。
 藍の髪の短刀も和泉守兼定を注視して、胸に生じたざわめきを手で抑え付けた。
 不穏なものを感じた。
 足元から黒々としたものが広がっていく幻を見た。
「ったくよー、本気で嫌になるぜ。すぐそこに餓えて死にかけてるやつがいるってのに、そいつは歴史上では死ぬ運命にあるからってよ。助けずに、見捨てなきゃならねーってのは」
 頬杖を付き、打刀が吐き捨てた。明後日の方角を向いて、大きな音を立てて舌打ちした。
 正直な感情の吐露に、小夜左文字の身体がびくりと跳ねた。堀川国広もサッと青くなり、立ち竦む短刀を見た。
 視線が交錯した。
 瞼の裏側に、乾き切った大地が映し出された。
 池も川も干上がり、田畑だった場所は罅割れ、雑草一本生えていなかった。獣の死骸がそこかしこに横たわり、死肉を求めて烏が群れを成していた。
 木々に集う黒い鳥は、次に死ぬだろう者を見定め、その時を待っていた。十数羽を数える黒鳥が枯れ枝の上で羽を休める光景は不気味でならず、さながら地獄の一丁目といったところだった。
 僅かな食料を求めて人は奔走し、夥しい命が失われた。産まれたばかりの命が無残に尽きていく様を、為す術なく見守るしかなかった。
 歴史修正主義者はそんな地獄絵図にも、容赦なく介入していた。
 死ぬべきだった命に糧を与え、生きるべき者には飢えを与えた。奴らの目論見は阻まなければならず、刀剣男士はこれを防ぐべく、行動を起こしていた。
 つまりは、遡行軍と逆のことをする。
 生きるべきものを生かし、死ぬべき者の命運は天に任せる。
 歴史を守る為と、どれだけ綺麗な言葉を使ったとしても、なんの慰めにもならない。今にも死にそうな者を前にして、彼らは見て見ぬふりをするよう強いられた。
 それはとても、惨いことだ。
 けれど彼らが歴史を動かすことだけは、絶対にあってはならなかった。
 頭では理解していても、心がそれに追い付かない。正しい行いでありながら、和泉守兼定はこれを胸糞悪い、と言った。
 小夜左文字でも、そう思う。あまり楽しい遠征ではない。精神的に辛く、苦しい旅だ。
「じゃあ、歌仙さんは」
 此処にいる短刀は、餓える領民を救う為に金に換えられた。そんな来歴を持っているから、飢饉に関しては、他の刀よりも思う所は大きかった。
 大っぴらに語るものではない為、本人はこのことをあまり口にしない。だが知る者は知っていた。一時期を共に過ごした打刀ならば、尚のこと。
 堀川国広の声が震えていた。
 握り拳を一度緩め、再びぎゅっと固くして、小夜左文字は玄関先に張り出された名札掛けを見た。本丸に暮らす刀剣男士全員分の名前がそこにあり、一番隊から四番隊まで、六振りずつ札が並べられていた。
 二番隊の先頭に、歌仙兼定の名前があった。今朝からずっと、その位置は変わっていない。
 本当ならそこに、小夜左文字の札があるはずだった。
 なにを思って、何を考え、あの男は無謀極まりない行動に出たのか。
「馬鹿だろう」
 壁を見上げながら、ぽつりと呟く。
「胃に優しいもの、作って待ってようか」
「俺には?」
「兼さんにも、作ってあげるから。その前に門の前のみんな、よろしくね」
「ちぇ。しょうがねえなあ」
 堀川国広は肩を竦め、両手を背に回して目尻を下げた。横では空腹を抱えた打刀が駄々を捏ねて、交換条件を出されて渋々頷いた。
 そんな彼らのやり取りに肩を竦めて、小夜左文字は旅人の無事を祈り、目を閉じた。

「でも、……ありがとう」
 

2016/03/19 脱稿

懸樋にも君がつらゝや結ぶらん 心ぼそくも絶えぬなるかな
山家集 恋 609