月日とともに 久しかるべし

 表が騒々しいと気付いたのは、昼餉を終えて半刻と経たない頃だった。
 部屋で休んでいた小夜左文字は、ふとした拍子に顔を上げた。聞こえて来た騒ぎ声に眉を顰め、何事かと立ち上がった。
 読みかけの本をそのままにして、襖を開け、廊下を窺った。いつもなら無視してやり過ごすところが、何故か今日だけはじっとしていられなかった。
「いち兄、帰って来た」
「なんか、怪我してるって!」
「本当ですか?」
 屋敷が賑やかなのは、いつものことだ。この本丸には合計六十振りを越える刀が集い、日々鍛錬に励み、仲間と親睦を深めていた。
 刀ごとに得手不得手ははっきりしていて、馬当番で頻繁に尻を蹴られる者もいる。毎日どこかで、誰かしらが馬鹿をやり、笑い声が絶えなかった。
「一期一振さん、が?」
 だから普段は、この程度のざわめきは意識しなかった。毎回反応していては疲れるし、下手に巻き込まれて面倒なことになるのは避けたかった。
 それなのに、珍しく動いていた。聞こえた短刀たちの会話に瞠目して、左文字の末弟は思わず敷居を踏みつけた。
 行儀が悪いと叱られそうな真似をして、脂汗を顎に垂らした。口の中は乾いているのに、唾を飲みこむ仕草を止めることが出来なかった。
「それじゃあ、まさか」
 生温い空気を喉の奥へ押し流し、唇を戦慄かせる。
 虫の知らせというものを実感して、彼は握り拳を胸に押し当てた。
 速度を上げた鼓動に、キーン、という耳鳴りが続いた。目の前で光がチカチカ明滅して、よろめき、左肩が壁に当たった。
 そのまま崩れそうになった体躯をすんでのところで支え、小夜左文字は記憶違いを疑って頭を振った。
「第一部隊。江雪兄様も、一緒だったはず」
 けれど現実は冷たく、残酷だ。昨晩のうちに通達があった編成は、今朝になっても変更されていなかった。
 厚樫山へ出撃となった第一部隊の隊長は、粟田口の長兄である太刀、一期一振。
 そして副隊長として、小夜左文字の兄である太刀、江雪左文字が指名されていた。
「まさか」
 その部隊長が、傷を負って帰還したという。ならば共に出撃している面々も、負傷している可能性が高かった。
 血みどろになり、刀を杖代わりにして歩く兄の姿が脳裏を過ぎった。全身から血の気が引いて、一瞬のうちに顔面蒼白になった。
 気候は安定し、気温も穏やかだというのに、寒気がした。足元から冷たいものが這い上がり、歯の根が合わず、奥歯がカチカチ音を立てた。
「そんな、こと。兄様に限って」
 悪い予感がどんどん膨らんで、足が震え、膝が笑った。
 カクン、と簡単に折れてしまいそうなのを、懸命に奮い立たせた。指を軽く切った程度かもしれない、と悪夢を追い払って、小夜左文字は鼻息荒く廊下へ出た。
 襖を閉めもせず、駆けた。誰かにぶつかると危ない、だとか、そういうのは一切考えなかった。
 曲がり角で九十度右に折れ、勢いを殺さぬまま突き進んだ。道中、脇差の浦島虎徹とぶつかりかけたが、お互い身軽なのが幸いし、正面衝突とはならなかった。
 謝るのは後にして、速度を緩めなかった。居住区と母屋を繋ぐ渡り廊を猛然と走り抜け、開けっ放しの木戸を潜って広い場所へと飛び出した。
「ああ、もう……よかったぁ」
「一時はどうなるかと思いました」
「ったく。びびらせやがって」
「けれど、怪我をしたのには違いないです」
「だな。いち兄より、大包平さんのが、よっぽど怪我も酷いみたいだし」
 と、そこで彼はやむを得ず足を止めた。前方に本来はない壁が出来ており、体当たりが憚られた結果だった。
 聞こえてくる会話に眉を寄せ、弾みで寄り掛かった衝立越しに様子を窺った。素足で冷たい床板を踏み、口々に語り合う粟田口の面々を右から順に眺めた。
 五虎退に、平野藤四郎、厚藤四郎と、前田藤四郎。そこに後藤藤四郎のひと言が付け足されて、少しずつ状況が見えてきた。
 最近仲間に加わった大包平は、天下五剣に対して異様なまでの敵愾心を抱き、対抗心をむき出しにする刀だった。
 先んじて本丸に至っていた天下五剣の三振りは、当然だが練度が高い。故に格下に見られるのを嫌った太刀は、一日でも早く自分の練度が上がるよう、審神者に訴えた。
 最初は渋っていた審神者だが、毎日熱烈な直訴を受け続け、ついに根負けしたらしい。
 それで護衛役として何振りかの太刀を伴わせ、時間遡行軍の動きが活発な時代へと送り込んだ。
 一期一振なら無茶な進軍はしない、との判断で隊長を任せられたのだが、率いる仲間が無鉄砲だった場合は、どうなるだろう。
 今回の出来事は、猪突猛進に敵へと殴りかかった馬鹿な男の守り役として、周りが迷惑を蒙った典型だった。
「俺たちが一緒だったら、いち兄に怪我なんかさせなかったのに」
 部隊の中に、索敵能力の優れた刀がひと振りでもいれば、結果は違ったかもしれない。
 悔しそうに唇を噛んだ厚藤四郎の肩を叩いて、薬研藤四郎は困った顔で小夜左文字を振り返った。
「手入れ部屋、お前んとこの兄貴も、もう入ったみたいだぜ」
「あ、……ありがとう」
 気付いた素振りなどなかったのに、気配を悟られていた。仲良く並んだ兄弟らに遠慮して、出るに出られずにいた短刀は、眼鏡を掛けた短刀の気遣いに感謝しつつ、手入れ部屋がある方角に顔を向けた。
 皆が集まる大広間のその奥に、例の設備は整えられていた。
 納戸や書庫へ通じる通路の少し手前で右に曲がり、進んだ先だ。使われない時は扉に鍵が掛けられており、道に迷っても入れないようになっていた。
 ここの鍵は常に審神者が所持し、必要に応じて解錠された。立ち入りは厳しく制限されて、負傷していない者は扉の手前までしか許されなかった。
 兄弟刀が傷を負ったとしても、すぐ傍で待っていてやることすら出来ない。
 大事ないとは思うが。不安は尽きず、小夜左文字は手持ち無沙汰に長着の衿を掻き毟った。
「さ、お前ら。いつまでもここにいちゃ、邪魔になるだろ。いち兄なら大丈夫だ。ほら、解散。解散」
「なんで薬研が仕切るのさ~」
 一方で薬研藤四郎はあっさり頭を切り替えて、玄関先に集う兄弟を追い散らした。不満をぶつけてきた信濃藤四郎を軽くあしらい、ひっくり返っていた靴を探して爪先を押し込んだ。
 その後を追いかけて、乱藤四郎が柑子色の髪を揺らした。
「いち兄が出て来たら、美味しいもの、食べさせてあげなきゃね」
「ああ。腹も減ってるだろうしな」
「万屋? 俺も、俺もいく!」
「あのなあ。自分らの甘味を買いに行くんじゃねえんだぞ、っと」
 出かける理由を察した少年の声に、頬を膨らませていた少年はあっさり機嫌を取り戻した。元気よく挙手して同行を求め、立ち去ろうとしていた粟田口がまたも玄関先に集合した。
 これだけの数が一気に押しかけたら、万屋もさぞや狭かろう。
 心配ばかりして悶々と過ごすのでなく、その先を見据えて行動している。
 何も考えていないようで、案外あれこれ思いめぐらせている短刀に慧眼を得て、小夜左文字は感嘆の息を吐いた。
「江雪兄様」
 手入れ部屋は四部屋しかなく、一部隊の編成は最大六振りだ。ふた振りは控えの間で痛みに耐えているはずで、そもそも彼らは、出陣以降なにも食べていなかった。
 朝餉はとうに消化され、胃袋の中は空に違いない。
 弁当を持って出てはいるが、それどころではなかっただろう。
 小夜左文字自身、過去に似たような経験がある。敵に囲まれた状態では、座ってのんびり飯など、出来るわけがなかった。
「そうだ」
 傷を負いつつも帰還した仲間を労うには、どうすれば良いか。
 万屋は混雑しているだろうから、別の方法を、と悩んだ先で、妙案を思いついた彼は両手を叩き合わせた。
 善は急げと言うし、早速取り掛かろうと歩き出した。飴茶色の床板を踏みしめて、向かったのは台所だった。
「失礼し、ま……誰もいない」
 開けっ放しの戸を潜り、軽く一礼してから中に入った。失礼にならないように、との配慮から上げた声は意味を持たず、見目幼い少年は挙動不審に左右を見回した。
 てっきりひと振りくらい、今日の食事当番がいると思っていた。だが内部は蛻の殻で、静まり返っていた。
 昼餉を終えて片付けも済んだらしく、洗った鍋や笊が逆向きに置かれていた。竈の火は消えて、釜は取り外されていた。
 ぽっかり開いた空洞から、暗闇が覗いていた。鼻に付く焦げ臭さは、今し方産まれたものではなく、壁や天井に染みついたものらしかった。
 ぴちゃん、と水滴が落ちる音が大きく響き、がらんどうの空間に思わず息を飲んだ。ゾワッと来た悪寒に耐えて背筋を伸ばし、彼は困った顔で顎を掻いた。
「米櫃は、確か」
 台所には、食事当番でない時でも、頻繁に出入りして、手伝いを買って出ていた。
 だから他の刀らよりは、内部に詳しい。どこになにが置かれているか、探し回らなくても良かった。
 記憶を頼りに進んで、今朝炊いた米を保管する櫃の蓋を取った。檜材で作った丸い桶を覗き込んで、カタカタ揺らし、溜め息を吐いた。
「ない」
 せめてひと椀分くらいは残っていると期待した。
 それがおおよそ現実的でない、机上の空論だったと気付くのが、あまりにも遅すぎた。
 櫃の中は見事に空っぽで、米粒ひとつ残っていなかった。朝にはここに大量の玄米が、ほかほか白い湯気を立てていたというのに、影も形も残っていなかった。
 洗われていなかったので、油断した。最初から空だと分かるよう置かれていたら、ここまで落胆しなかった。
「今日の当番、誰」
 中途半端に洗い残しがあるのは、許せない。
 これは是が非でも、見つけ出して復讐しなければ。
 苛立ちを膨らませて、彼は乱暴に櫃の蓋を閉じた。
 そのまま本体ごと持ち上げて、ぷんすかしながら洗い場へと持って行った。遠くに隔離されていた足台を運んで、その上に登って流し台との身長差を埋めた。
 但し洗うのは、使用済みの米櫃ではない。
「少しくらいなら」
 用済みとなった道具をその場に放置して、短刀は即座に踵を返した。
 素足のまま勝手口から外に出て、弱い日差しの下、蔵へと走った。食糧を長期保存できるよう、温度や湿度が管理されたそこに入り、大量に積まれた米俵へと近づいた。
 一番手前に置かれたものは、開封され、四角い枡が無造作に放置されていた。
 食糧は刀剣男士の体力の源であり、日々を過ごす大事な原動力だ。最初のうちは一日三食も食べるのは面倒だったが、今となっては、夕餉に何が出るかが一番の楽しみだった。
 動けば腹が減り、腹を満たせば眠くなる。渇いた心が潤い、清々しい気持ちになった。
 だが無尽蔵に食べれば身体は重くなり、貴重な糧もどんどん減って行った。先のことを考えて備蓄しているので、必要ない浪費は避けるよう言われていた。
 あればあるだけ食べてしまう刀が大勢いるので、その辺の管理は手厳しい。
 見つかったら叱られるだけで済まないと承知の上で、小夜左文字は一合枡に米を詰め込んだ。
 溢れ出た分は手で払い落とし、周囲を警戒しつつ蔵を出た。駆け足で台所へと戻って、片隅に避けられていた土鍋をひっ掴んだ。
 運んできた米をそこに放り込み、洗い場に設けられた竹筒の栓を抜いた。もれなく外に設置された樽から水が溢れ出し、底の浅い鍋の中に流れ込んだ。
 白い米粒が水流に煽られ、渦を巻いた。零さないよう注意しつつ、適当なところで栓を戻して、短刀は数回、雑に米を掻き回した。
 表面の汚れを軽く取り払い、必要分の水に浸した。
 ずっしり重くなったそれを抱え、彼が次に向かったのは竈だった。
「よい、しょ」
 握り飯のひとつでも、と思ったのに、冷や飯が残っていなかった。これでは手入れを終えた兄の腹を満たしてやれなくて、ならばと一念発起した。
 説教を覚悟で、決行した。土鍋に蓋をして、屈んで竈を覗き込む。灰の中に種火が残っているのを見つけて、鉄箸で掻き出した。
 上に乾いた小枝を広げ、火が移ってから薪をくべた。適時風を送り込み、熱風で喉が焼かれる度に咳き込んだ。
「げほ、けほっ」
 手際よく作業を進め、蓋の隙間から噴き出る湯気を見つつ、火力を調整していく。
 一段落ついたと汗を拭って、彼は片方が煤けた竹筒を抱きしめた。
「あとは、炊き上がるのを待つだけ」
 大量に釜で炊くのとは違い、時間も普段よりはずっと短い。
 焦がさないよう注意しながらそわそわ身を捩って、彼は慎重に時間を計った。
 そしていよいよ、ふっくらと米が炊きあがったと思われた頃。
「お小夜? そこでなにをしているんですか?」
「っ!」
 蓋を開けたいが、まだ早いかと思い悩んでいた少年は、突如後方から聞こえた声に、大仰に竦み上がった。
 息を止め、膝をぶつけ合わせた。爪先立ちになって背筋を伸ばし、高く結った後ろ髪を尻尾のように大きく揺らした。
 ドッと汗が溢れ、心臓が口から出そうになった。慌てて飲みこんで、入れ替わりに息を吐いて、彼は背後から近付いてくる足音に四肢を戦慄かせた。
 緊張から立ち眩みがして、重い頭がぐらりと傾いた。転びそうになって、おっとっと、と飛び跳ねて、その最中にくるりと身体を反転させた。
 明らかに動揺が見られる姿に、勝手口から入ってきた打刀は目を瞬かせた。きょとんとしながら小首を傾げ、狼狽激しい弟に目を眇めた。
「お小夜?」
「宗三、兄様……」
 左右で色が異なる瞳を細め、怪訝な視線を投げられた。
 細く薄い唇がへの字に曲げられるのを間近に見て、小夜左文字は返答に窮して真っ青になった。
 思考が停止し、言葉がひとつも出て来ない。両手を意味なく振り回すばかりで、あ、とも、う、ともつかない呻き声ばかりが漏れた。
 竈に据えた土鍋がぐらぐら揺れて、白い湯気が一直線に伸びていた。もう芯まで火が通っており、これ以上は焦げ付いて、固くなる一方だった。
 折角美味しく出来上がったものを、こんな形で駄目にしたくない。
 しかし皆に黙って貴重な米を使った後ろめたさから、短刀は一歩も動けなかった。
 瞬きを忘れて瞠目して、脂汗を流しながら見つめ返すだけ。
 さすがに宗三左文字も奇妙と思わないわけがなく、蓋の隙間から泡を吐いている土鍋も気になった。
「お小夜、それ」
「はっ」
 放っておいていいのかと言外に問い、細く筋張った指で指し示す。
 それで硬直が解けて、小夜左文字は大慌てで土鍋を、使っていない隣の竈へ移動させた。
「熱!」
「なにをやっているんです。馬鹿ですか」
 しかも急いでいたので、素手で、だ。
 真っ赤に燃え盛る炎の中から、爆ぜる直前の栗を拾うようなものだ。直後に悲鳴を上げて仰け反った弟に、宗三左文字は呆れた顔で溜め息を吐いた。
 両手の指を真っ赤にしている彼を憐れみ、冷やすための水を用意すべく流し場へ向かった。そうしてそこに放置された枡や、ぽつぽつと散らばる米粒を見つけて首を捻った。
「お小夜、あなた」
「こ、これは、その。兄様に」
「僕に? ……では、ないですね」
 腰から上だけを振り返らせた次兄が、末の弟の表情を探りながら呟く。
 もじもじしながらの上目遣いに嗚呼、と頷き、彼は得心がいったと手を叩き合わせた。
「なるほど。そういうことですか」
 江雪左文字の手入れは、もう終わっていた。後が閊えているという理由から、大包平同様、時間短縮の札が用いられていた。
 様子を見に行って、その帰りだった宗三左文字は、なんともいじらしい弟に相好を崩し、合わせたままの両手を頬に添えた。
「良いですね、お小夜。良い考えです」
「宗三兄様?」
「長谷部には言っておきます。大丈夫ですよ、これくらい」
 てっきり叱られると思いきや、賞賛された。妙案だと褒められて、小夜左文字はきょとんとなった。
 貴重な食糧を勝手に持ち出したのに、説教ではなく、太鼓判を押された。
 任せろ、と胸を叩いて、左文字の次男は帳簿の管理を任されている打刀の名前を口にした。
 へし切長谷部は何かと小うるさく、規則に厳しい。ちょっとした違反でもねちねち言ってくるので、一部の刀からは敬遠されていた。
 だが彼がいなければ、本丸の台所が回らないのも事実だ。
 昔の縁を最大限に利用する兄の姿に感嘆して、左文字の末弟は吹き零れを回避した鍋を盗み見た。
「江雪兄様に、差し入れるんでしょう?」
「え、あ。はい」
 その瞬間に話しかけられ、ビクッとなった。大仰に身を竦ませた彼を笑って、柳のように細い打刀はしどけなく微笑んだ。
 顎に指を置き、煤けた天井を仰ぐ。なにかを考え込んでしばらく沈黙して、小柄な短刀に守られた土鍋に瞳を向けた。
 あんなに勢い良かった湯気は薄まり、鍋の蓋は落ち着いていた。内部では米が余熱で蒸らされて、一層美味しくなっているに違いなかった。
「塩むすびでは、少々寂しいですね」
「兄様」
「どうせなら、中に何か入れて差し上げましょう」
「……あ!」
 半ば独り言を呟いて、不思議そうに見上げられて、言い足す。
 宗三左文字の提案に短刀は目を丸くして、それこそ妙案だ、と握り拳を作った。
 戦場帰りの兄に差し入れを、とばかり考えて、そこまで思いが至らなかった。確かに炊いた米を握っただけでは、芸がなく、味気なかった。
 あの男のことだから、塩むすびでも充分喜んでくれるだろう。けれど弟らは、それで満足出来ない。どうせなら驚かせたいし、もっと美味しいものを食べさせたかった。
「中に入れるのは、なにが良いでしょう。梅干しはありきたりですが、疲労回復に良いと言いますし」
 土間の一帯をうろうろしながら、打刀が候補を数え上げていく。
 小夜左文字は平らな桶を取り出すと、しゃもじを水で濡らした。
 充分な蒸らし時間を確保してから、土鍋の蓋を外した。途端にぶわっと湯気が噴き出て、目の前が一瞬だけ真っ白になった。
「ぷは」
 熱い風を下から受け、咄嗟に息を止めていた。視界が開け、呼吸を再開させた彼を待っていたのは、仄かに甘い匂いを放つ炊き立ての米だった。
 玄米なので真っ白とはいかないが、十二分に美味しそうだ。思わずごくりと喉が鳴ったが、誘惑に負けまいと、少年は首を振った。
 魅力的すぎる光景から一旦顔を背け、用意しておいたしゃもじを利き手に構えた。ふっくらした米と鍋の隙間に差し込んで、全体を切るようにざっくり掻き混ぜた。
 その都度湯気が立ち上り、すぐに消えた。粗熱を取り、余計な水分を排除して、軽く冷ますべく桶へと移し替えた。
 そんな風に小夜左文字が働いている間、宗三左文字も忙しく手を動かしていた。
 江雪左文字の好みを考慮し、中に入れる具材を決めた。梅干しに、野沢菜漬け、そして昆布の佃煮の三種類だ。
 どれも朝餉に出てくるものであり、それなりの量が備蓄されていた。それらを少量ずつ拝借して、打刀は慣れた調子で細かく切り刻んだ。
「兄様、これ」
「ありがとう、お小夜」
 一年前は台所に入るのさえ嫌がっていた男が、随分な進歩だ。当初は何をするのも気怠げで、物憂げで、面倒臭そうだったのに。
 ここでの生活が長くなるにつれて、本来の姿を取り戻したとでも言うべきか。馬の世話は相変わらず嫌そうだが、野良仕事は楽しそうだった。
 へし切長谷部や薬研藤四郎に世話されてばかりだった環境も、大きく変わった。彼が積極性を発揮するようになったのは、不動行光が仲間に加わった辺りからだ。
 兄を動かす起爆剤になれなかったのは悔しいが、こうして一緒に、長兄のために握り飯を作れるのは悪くない。
 織田信長に所縁を持つ刀らに心の中で感謝して、小夜左文字は充分冷ました米を差し出した。
 桶ごと渡されて、宗三左文字は苦笑した。早速両手を軽く濡らして、適量を取って左手に広げた。
「これを、ここに」
 厚みが均等になるよう手で押さえ、あらかじめ用意しておいた具を中心に置く。そこに右手で緩く握った米を、蓋する形で被せた。
 ぽすん、と左右の手を重ねあわせ、指を折って閉じ込めた。圧力を加えて隙間を塞ぎ、凹凸激しい形を整えた。
「兄様、上手」
「そうですか? それほどでもありますが」
 しっとり濡れた米は指に張り付き、ひと粒たりとも落ちて行かない。その米粒を集めながら、宗三左文字は掌の塊を器用に操った。
 ゆっくり回転させて、綺麗な三角形を作った。角はやや丸みを帯びて、持ち易い大きさに揃えられた。
 小夜左文字は俵型なら作れるものの、三角には結べなかった。他の刀らが手際よく握っていくのを横から眺め、いつも羨ましく思っていた。
 そのうち時間が空いた時に、作り方を聞こう。他の刀には恥ずかしくて出来ない質問も、宗三左文字相手なら問題なかった。
 密かに誓い、長方形の皿を出した。手製の沢庵を二切れ添えて、出来立ての握り飯を端から順に並べていった。
「まあ、こんなものでしょう」
「……っ」
 合計三つ収めたら、皿はもういっぱいだ。見た目も綺麗で、店で出しても恥ずかしくない出来栄えだった。
 良い汗を流したと、宗三左文字も満足げだ。高菜の握り飯だけ、茎の部分が表面に顔を出したが、他はきちんと内側に収まっていた。
 お蔭でどちらが梅干しで、どちらが昆布の佃煮なのかが分からない。
 もっとも食べるのはひと振りだけだから、どちらであろうと関係なかった。
「江雪兄様、食べてくれますか?」
「心配ありませんよ。あの方なら、たとえ泥団子であろうと、お小夜が作ったと言えば食べるでしょう」
「泥では、作りません」
「おやおや、それは失礼」
 残る問題は、江雪左文字がこれを食べられる状態か、どうか。
 心配になった末弟の呟きに、次兄は呵々と笑った。ものの喩えで囁いて、真顔で糾弾されて首を竦めた。
 冗談を言われたのだと気付くのに、小夜左文字は数秒必要だった。長兄に泥を食わせよう、など思ったことがなくて、ついつい額面通りに受け取ってしまった。
 声を響かせ笑い続ける打刀を前に、気まずくて仕方がない。
「あの、兄様。今のは」
「分かってますよ、お小夜。さあ。兄様が待ってます」
 何とか弁解を試みるが、言葉が上手く出て来ない。それなのに宗三左文字は弟を気遣い、皿を持つよう促した。
 沸かしておいた湯で茶を煎れて、丸盆に急須と湯飲みを用意する。これで全ての準備が整い、ふた振りは前後に並んで廊下に出た。
 洗い物は、後回しだ。竈の火こそ消したが、使った土鍋や桶、包丁の類までそのまま放置だった。
 一刻も早く、江雪左文字に届けたい。
 その一心で道を進み、小夜左文字は太刀部屋区画に足を踏み入れた。
「江雪兄様、いらっしゃいますか?」
「……お小夜? どうぞ」
 そうして辿り着いた部屋の前で、遠慮がちに問いかけた。
 閉ざされた襖の向こうに呼びかけ、間を置いて返事があったのにホッとした。次兄の言った通り、江雪左文字は手入れを終えて戻っていた。
 頬を緩め、引き手に指を掛けた。握り飯を倒さないよう注意して、慎重に敷居を跨いだ。
 宗三左文字がそれに続き、屈んで襖を閉めた。
「宗三まで。どう、しましたか……?」
 先ほど顔を合わせたばかりの弟まで一緒だったのに、江雪左文字は些か驚いた顔をした。
 彼は戦装束を解き、いつもの作務衣姿で、座布団に座って着物を畳んでいるところだった。
 足元に法衣が広げられ、武具の片付けも終わっていなかった。辛うじて刀だけが、床の間の刀掛けに据えられていた。
 前屈みだった姿勢を正し、銀髪の太刀が眉を顰める。
「兄様、これを」
 そのすぐ傍へと進み出て、小夜左文字は運んできたものを差し出した。
 四角い皿に三つ並んだ握り飯と、厚めに切られた沢庵が二切れ。そこに陶器の急須と湯飲みが追加されて、江雪左文字は目を瞬かせた。
 口調がゆったりであれば、行動もどこかのんびりだ。その彼が珍しく俊敏さを発揮して、上に、下に、視線を動かした。
 膝先に盆を置かれ、握り飯もその中に加わった。豪勢とはとても言い難い食事であったが、太刀は大袈裟に身を竦ませると、動揺した様子で弟らを見比べた。
「これは、……いったい」
 間にひと呼吸挟み、動揺が見え隠れする口調で問う。
 小夜左文字と宗三左文字は顔を見合わせると、ほぼ同時に頷いた。
「兄様のことですから、どうせ昼は食べていないでしょう、と。お小夜が」
「握ったのは、宗三兄様です」
 怪我を負って帰ってきたと聞き、不安になった。大事ないと教えられても心細さが拭えなくて、じっとしていられなかった。
 自分に出来ることを考えて、後先考えないで突っ走った。途中から宗三左文字が味方してくれて、とても心強かった。
 嬉しかった。
 気恥ずかしさと照れ臭さを押し隠し、小夜左文字は俯いた。赤く染まる頬を腕で擦って、物理的な原因なのだと誤魔化した。
「そう、ですか。私の、ために……」
「そうですよ。お小夜が頑張ってくれたのです。残さず、全部食べてくださいね」
「っ!」
 感嘆の息を吐き、江雪左文字がしんみりした表情を浮かべた。何故か暗くなりかけた空気は次兄が振り払い、悪戯っぽく微笑んだ。
 水を向けられた末弟はビクッとした後、大慌てで首を振った。
「でも、握ったのは、宗三兄様で」
「はいはい。僕も多少なりとも手伝いました。そのところ、どうぞよしなに」
「ええ。……いただきましょう」
 短刀一振りだけでは、ここまで完成度の高い握り飯を作れなかった。
 もっと小さく、形も悪く、手で持てばボロボロと米粒が落ちていくような、そんなものしか出来上がらなかった。
 本当に、あそこで宗三左文字がやって来たのは、奇跡としか言いようがない。
 偶然が作り上げた傑作に頭を垂れて、江雪左文字は合掌した。
 自然の恵みと、弟らの心遣いに感謝し、まずは右端のひとつを手に取った。
 表面には野沢菜の茎が飛び出して、自分も米だ、と言わんばかりの顔をしていた。それを両手で、底部を支えるようにして持って、彼はゆったりした動作で口元へと運んだ。
 三角の頂点に唇を寄せ、弟らが見守る中、小さく口を開けて齧りつく。
「……これ、は」
「兄様?」
「どうか、しましたか?」
 そしてその状態のまま凍り付いて、しばらくの間動かなかった。
 削り取った米を咀嚼すらせず、瞬きすらしない。これには小夜左文字らも驚いて、聞かずにはいられなかった。
 もしや米の中に籾殻か、小石が紛れ込んでいたのだろうか。塵は取り除いたつもりだが、全部を確認するには時間が足りなかった。
 あるいは、表面に少量塗した塩が、そこだけ異様に濃かったのか。
 思いつく限りの懸案事項を脳裏に浮かべ、左文字の次兄と末弟は緊張に頬を引き攣らせた。
 長兄の動向を瞬きも忘れて見守って、無意識に握り拳を作った。掌を汗で湿らせて、固唾を飲んで変化を待った。
 やがて、どれだけの時が過ぎただろう。
「おいしい、です」
 停止していた時間の流れが、ぽつりと零れたひと言により、再びゆったり流れ始めた。
「……なんですか、それ」
 息を殺していた宗三左文字は、どっと押し寄せて来た疲労感にがっくり膝をついた。
 小夜左文字はホッとしつつも、微妙に難しい顔をして、少しずつ握り飯を齧る江雪左文字に肩を落とした。
 あれこれ悪い予想をしたが、全て杞憂だった。
 長兄と自分たちとの間には、未だ容易く越えられない、壁のようなものがあるようだった。
 どうにも理解し難い一面を垣間見て、苦笑を禁じ得ない。
「とても、美味しいので……胸を打たれて、おりました」
「ああ、はい。それはようございました。お褒めいただき、ありがとうございます」
「宗三、なにやら、言葉に……棘が……」
「気のせいです、兄様。どうぞ残りも、召し上がってください」
「ええ。こちらは……塩むすび、でしょうか」
「さあ、なんでしょう。食べてみてのお楽しみですよ」
 江雪左文字は度々息継ぎを挟むので、喋るのがとても遅い。浜辺に波が緩やかに押し寄せ、引くようなものであり、ずっと聞いていると眠くなるのが難点だった。
 説教もこの調子なので、怒っていてもあまり迫力がない。
 その点宗三左文字は若干短気で、兄相手では他の刀より早口だった。
 おっとり口調との対比は面白くて、見ていて飽きない。
 こんな時間は久しぶりで、小夜左文字はごく自然と頬を緩めた。

ちはやぶる神田の里の稲なれば 月日とともに久しかるべし
千載和歌集 賀歌 635

2017/02/18 脱稿

打まかせては 言はじとぞ思ふ

 むせ返る程の血の臭い。
 累々たる屍の海に、断末魔の叫び声が轟く。
 それは雷鳴のように心を抉り、佇む者に血の涙を流させた。
 ぬるりと滑る手から刀が零れ落ちようとして、反射的に握り直す本能が憎い。
 こんなにも苦しいのに、身体はまだ戦いを求めた。復讐を成し遂げんと、仇を欲し、探していた。
 どれだけの数を屠り、葬っても、想いが満たされることはない。
 そうしなければいけない、という衝動に突き動かされていた。襲い来る敵をひたすら斬り裂く、醜い鬼と化していく。
 やがて仮初めに与えられた人の形さえ失って、一介の獣と成り果てて。
 その先に待っているものがなんでるか、分からないわけでもないのに。
「――っ!」
 ドッ、と全身を地に叩きつけられた――ような錯覚を抱いた。
 血液が沸騰し、猛烈な勢いで体内を駆け回る。心臓はバクバクと爆音を刻んで、耳鳴りを引き起こした。
 目の前の暗闇が現実か、幻か、咄嗟に判断出来なかった。
 惚けたように開けた口から、ひゅう、と空っ風に似た音が漏れた。喉を上から押さえつけられている、そんな圧迫感に苛まれて、なにからなにまで粉々に砕かれそうだった。
 潰れてしまう。
 危険信号が発せられて、四肢の隅々を電流が駆け抜けた。
「うっ」
 びくん、と爪先が痙攣を起こした。指が反り返り、こむら返りを起こした臑が激痛を発して掛け布団を蹴飛ばした。
 綿の薄い布団が少しだけ持ち上がって、直ぐに沈んだ。その僅かな重みにさえ苦痛を抱き、小夜左文字は寝返りを打って四つん這いになった。
「っ、う……く、あ」
 内側から引き裂かれる幻覚に見舞われ、脹ら脛の肉が剥き出しになる妄想に背筋が粟立った。足の指に力が入らず、膝で何度も敷き布団を叩いて、苦痛を紛らせようと両手で枕を抱き潰した。
 こちらを身代わりに裂いてやろうと爪を立て、唇を噛み締める。
 顎が軋むまで力を込めて、短刀は痛みが落ち着くのをひたすら待った。
 声を殺し、汗を流す。
 固く引き結んだ唇を解くのに軽く三分は必要で、寝間着はびっしょり濡れていた。
 背中や、腋や、首筋が特に温い。あらゆる場所の汗腺が開いたようで、肌に張り付く布の感触が不快だった。
「は、あ、あ……」
 違和感はまだ残るけれど、痛みは一時期より、格段に楽になった。
 時間遡行軍に切りつけられるのと、どちらがより辛いだろう。
 そんなことを考えて、小夜左文字は唾を飲み、力尽きて布団に倒れ込んだ。
 ぼふん、と間に挟まれた空気が潰れ、或いは左右に逃げて行った。感触は固く、自らの体温と汗を吸ってあまり心地良くない。それでも我慢して目を瞑ってみたけれど、残念ながら睡魔は訪れなかった。
「今、どれくらいだろう」
 外はしんとして、虫の声すら聞こえない。耳を澄ませても、鼾のひとつも聞こえて来なかった。
 それもその筈で、小夜左文字の部屋の両隣は無人だ。誰も暮らしていない、というわけではなく、部屋の主が別室で眠るのを習慣にしている為だ。
 今剣も、愛染国俊も、同派の刀と仲が良い。だから個室を与えられているのに、あまり居着かず、仲間たちと一緒に過ごすのが常だった。
 小夜左文字にも兄がふた振りいるけれど、居室は別だ。虎徹兄弟のようにいがみ合っているわけではないが、会話が長続きしないのもあって、同じ空間にいるのが若干苦痛だった。
 嫌いではないけれど、どう接して良いかが分からない。
 歴史修正主義者との戦いの中、審神者によって招聘されてからかなりの時が過ぎたが、兄たちとは歯車がかみ合わないままだっだ。
 噛みあわない、といえば、他にもある。
「どうしようか」
 悪夢を振り払うように首を振り、呟く。
 湿った前髪を掻き上げて、小夜左文字は布団の上に座り直した。
 寝間着にしている湯帷子の衿を整え、深呼吸で鼓動を鎮めた。瞼にこびりついている赤黒い景色を振り払って、唇を舐め、深々とため息を吐いた。
 陰鬱な気持ちを追い払い、喉の下を二度、三度と撫でる。
 いがいがしたものがその辺に沈殿して、唾を飲みこむ程度では剥がれ落ちてくれなかった。
 たっぷり眠った感覚はなく、身体は怠い。疲れは抜け切っておらず、何もかもが憂鬱で、億劫だった。
 大人しく布団に戻りたいと思うが、夢の続きを見せられる予感がして、頷けない。
 この場合どうすべきか悩んで、彼はこめかみの汗を指で押し潰した。
 日が変わった辺りか、その前後。丑三つ時には届いていないと予想して、濡れた指を太腿に擦り付ける。
「喉が渇いた」
 眠っている時にもたっぷり汗を流したからか、身体が餓えていた。
 喉の奥に潜む不快感も洗い流したくて、意を決し、彼は立ち上がった。
 こむら返りを起こした脛を庇いつつ、掛け布団を足元に退けて背筋を伸ばす。枕元に残しておいた細い灯明を頼りに進んで、障子を開けて縁側へ出る。
 月は明るく、冴えていた。
 これなら灯りなしでも、問題なく動き回れそうだ。但し井戸へ行く勇気は、沸いてこなかった。
 こんな時間に間違って落ちようものなら、朝になるまで見つけて貰えない。そういう終わり方はあまりにも惨めだから、避けて通るべきだった。
 ならばどうするかと言えば、台所に行くしかない。
 あそこなら常時飲料水が、水瓶に用意されていた。
 本当なら、部屋の枕元にも水差しを準備しておくのだが、今日は忘れていた。
 というよりも、間に合わなかった、と言うべきだろう。彼は日暮れ直前まで、出陣で江戸に出向いていた。
 今回も酷い傷を負わされて、這う這うの体で帰り着き、即座に手入れ部屋へと押し込まれた。そして後が閊えているからと時間短縮の札を用いられて、あっという間に追い出された。
 お蔭で傷は治ったが、疲労が抜けていない。
 あんな夢を見たのも、行動が活発化した時間遡行軍との戦いが原因だ。
 奴らの動きを食い止める為、刀剣男士は必死になって戦っていた。しかしそれを嘲笑うかのように、歴史修正主義者は次々に難敵を送り込んできた。
 挙げ句に検非違使まで出現して、三つ巴の戦いは一向に終わりが見えない。
 自分たちは、どこへ向かっているのだろう。
 終わりが見えない争いを前に途方に暮れながら、小夜左文字は角を曲がり、広い廊下に足を進めた。
 母屋に繋がる渡り廊を進むうちに、どこからか、賑やかな声が聞こえてきた。
 まだ起きている刀がいて、しかも騒いでいる。どうやら酒宴が催されているようで、次郎太刀らしき笑い声が姦しく響いた。
 大広間は、刀剣男士らが眠る棟から離れているので、余程でない限り声は届かない。酒好きの一派もあれで気を使っていると苦笑して、短刀の少年は湯帷子の裾を払った。
 腿に絡んでまとわりついて来たのを剥がし、結っていない髪を掻き上げる。
 眠る時は邪魔だからと解いたそれは、癖だらけで、四方を向き、火で炙られた後のようだった。
 肩よりも長さがあるのは確かだが、途中で大きく波打っており、正確にどれくらいあるかは分からない。指で梳けば簡単に引っかかって、力を込めれば何本か千切れた。
「いたた」
 悲鳴を上げるが、自業自得だ。
 誰も責められないと肩を竦めて、彼は指に残る藍の糸を闇に委ねた。
 騒がしい場所は避けて、予定通り台所へと進路を取る。歩く度に床板はギシギシ音を立て、汗ばんだ足の裏が張りついて、引っ張られた。
「朝には、元通りにならないと」
 気分転換に部屋を出たのに、物思いにふければ耽るほど、暗く落ち込んでしまう。
 完全に足手纏いなのに戦場へと駆り出され、挙げ句仲が悪い刀たちの喧嘩を目の当たりにさせられた。一致団結して敵と向き合わなければならないのに、彼らは好き勝手動き回って、連携など全く望めなかった。
 なんとか関係を取り持とうとしたけれど、意固地が過ぎて、会話にすらならなかった。
 厄介事に厄介事が重なって、憂鬱で仕方がない。
 けれど小夜左文字がそんな顔をしていたら、あの刀はきっと心配する。
「さっさと終わらせて、休もう」
 心に決めて、歩幅を大きくした。広すぎる屋敷を横断して、ようやくたどり着いた台所で、彼は夜中でありながら明るい空間に眉を顰めた。
 壁に据え付けた行燈に火が入り、内部を淡く照らしていた。調理台には燭台が置かれて、蝋燭の焔が不安定に揺れていた。
「燭台切光忠、さん」
「あれえ、小夜ちゃん?」
 合計三つの光が、床にいくつもの影を作りだしていた。昼間程の明るさはないけれど、窓を開けて月明かりも補充して、見通しは非常に良かった。
 洗い場の前には男がひとりいて、小夜左文字の声に瞬時に反応した。小声だったが、周りが静かなので意外に響いて、距離があったのに気付かれた。
 しまった、と思うがもう遅い。
 慌てて口を手で塞いだ少年を振り返って、大柄な太刀は隻眼を細めた。
 最初はきょとんとしていたが、すぐに相好を崩した。人好きのする笑みを浮かべて、敷居の前に立ちつくす短刀をおいで、おいでと手招いた。
 お互い、妙な時間に遭遇したと思っている。けれど燭台切光忠が此処にいる理由は、案外簡単に答えが出た。
 大広間で展開中の宴に、酒のつまみは必須だ。足りなくなったと文句を言われて、渋々作りに来た、というところだろう。
 或いは大量の食器を片付けに来たか、そのどちらかだ。
 しかし彼も、元気なものだ。小夜左文字たちと隊を組み、江戸から帰還したのはつい二刻ほど前のことだというのに。
 蛍丸はまだ手入れ中だろう。大倶利伽羅も、もしかしたらまだかもしれない。
 歌仙兼定は、どうだろう。
 ぼんやり考えて、黒装束の男を見詰める。小夜左文字は数秒逡巡した後、真っ直ぐ進んで土間へと降りた。
「大変ですね」
「ああ。でも、まあ、好きでやってることだしね」
 近付きながら話しかければ、燭台切光忠は緩慢に笑った。肘まで捲り上げていた袖を伸ばして、桶に沈めた食器を小突いた。
 油汚れを落とそうと、しばらく浸けてあるのだろう。真っ黒に汚れているのは、煤けているのではなく、汁状のものが垂れた跡らしかった。
 洋風な料理を好む男だから、作るものもそれに準じている。時々聞いたことがない調味料を用いて、食べたことのない味付けのものが出てくるので、彼が食事担当の日は緊張させられた。
 まるでどっきり箱だな、と評したのは、鶴丸国永ではなかったか。ただ燭台切光忠の料理は大体味付けが濃いので、一部の刀からは不評だった。
 歌仙兼定も、そのうちのひと振りだ。
 小夜左文字は食べられればなんでも良いと思っているので、味の良し悪しにはあまり興味がない。
 だからどちらが美味いか、と比べるよう求められても困る。そして訊いてくるのは、大抵が昔馴染みの打刀だった。
 燭台切光忠や大倶利伽羅に敵愾心を剥き出しにするのは、元主の気質を強く受け継いだ所為だろう。小さなことにまで拘りたがるので、小夜左文字は時々ついていけなかった。
「小夜ちゃんは、どうしたの?」
 こんな夜更けに彼と会っていたと知れたら、あの打刀が何を言い出すか、分かったものではない。
 明日のことを思って溜め息を零して、短刀は質問に顔を伏した。
「水、を。……寝付けなかったので」
 言葉に迷い、躊躇してから吐き出す。
 嘘を半分混ぜ込んだ説明に、隻眼の太刀は鷹揚に頷いた。
 心当たりを探って、勝手に推測し、納得している。成る程、と唇を音もなく動かして、男は大きな手を短刀の頭に置いた。
「そっか。小夜ちゃんも、お疲れ様だね」
「僕なんか。みんなと比べたら」
 打刀や太刀、大太刀に囲まれて、短刀として出陣した。
 傷は癒えたが、気疲れが残っていると想像した太刀の慰めに、少年はふるふる首を振って逃げた。
 頭を撫でられるのは、あまり好きではない。だが燭台切光忠は、何度言ってもやめてくれなかった。
 半ば諦めの気持ちで後退して、最初から乱れていた髪を梳く。手櫛で雑に掻き回す小夜左文字に、隻眼の太刀はクスクス声を漏らした。
 今のやり取りに、なにか面白いところがあっただろうか。
 分からなくて首を捻る短刀に慌てて手を振って、男はコホンと咳払いの後、片付けられていた薬缶を持ち上げた。
 底の部分が真っ黒に染まっているそれを取り、蓋を外して中に少量の水を注いだ。慣れた仕草で栓を閉めて、金属製の蓋を戻し、七輪の網を外して、入れ替わりに据え置いた。
 少し前まで、焼き物をしていたらしい。中にはまだ赤い炭が残り、熱を発していた。
「眠れないのなら、良い物を出してあげよう」
「いいもの、ですか?」
「なんだと思う?」
 人差し指を唇に押し当てて、格好をつけた仕草で甘く囁く。
 告げられた単語に胸を高鳴らせて、小夜左文字は訊き返されて口を噤んだ。
 水を飲みに来たと言った短刀の前で、湯を沸かしに入ったわけだから、恐らくは飲み物だろう。だが前に、何かの折に出された真っ黒い液体は、無駄に苦く、とても飲めたものではなかった。
 珈琲という飲み物だそうだが、小夜左文字の口には合わなかった。砂糖や牛の乳を足して、甘くしないととても飲めなかった。
 まさかあれか、と危惧するが、ニコニコしている男がそんな意地悪をするとは思えない。
「分かりません」
 他に思い浮かぶものもなくて、正直に答える。
 降参だと白旗を振った短刀に、太刀は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「とっておきだよ」
「はあ」
 皆には内緒だと相好を崩し、燭台切光忠がいくつか並んだ棚のひとつの前に移動した。抽斗を開け、四角形の缶を取り出した。
 大きさは、太刀の手で鷲掴みに出来るくらい。上部に嵌めこみ式の蓋があって、開けるのに爪を立てなければいけなかった。
 続けて彼は、硝子製の急須を出してきた。湯呑みも同じく硝子製で、でっぷりと丸みを帯びた愛くるしい形状をしていた。
 それらは伊達の刀たちの私物で、小夜左文字はあまり触ったことがない。割れやすいと聞かされており、傍にある別の器を取る時にまで無駄に緊張させられるので、あまり好きではなかった。
 透明な食器は、灯明を受けてキラキラ光っていた。橙色の輝きが口縁部を駆け抜けて、角度によって見え方が少しずつ違っていた。
 そんな湯呑みを盆に置いて、急須の蓋を抓んで外した。中が丸見えのその中に、缶から掬い取った茶葉らしきものを数匙入れて、クツクツ音を立てる湯をそうっと注ぎ込んだ。
「ああ……」
 途端に、急須の中で革命が起きた。
 乾燥して皺くちゃだったものが、水気を与えられて一斉に花開いた。底に当たって跳ね返り、波打つ湯に導かれて四方に拡散して、踊り、唄い、跳ね回った。
 普段から茶を嗜んでいる身でありながら、急須の中で茶葉がどんな動きをしているか、全く気にしてこなかった。
 こんな風になっているのかと、初めて見る景色に驚いた。小夜左文字は感嘆の息を吐き、不可思議な世界に目を輝かせた。
「すごい」
「どうだい?」
 濃茶は美味だが、口にするのに手間がかかる。格式ばった雰囲気もあって、日常的に飲むには適していなかった。
 だから普段は、ただの水か、白湯か、或いは煎じ茶で喉を潤す機会が多い。しかし燭台切光忠が出してきたものは、短刀が知る煎茶とは、些か趣が異なっていた。
 なにより、匂いが違う。
「甘い……?」
 急須の中で、無色透明だった水が急速に黄金に染まっていった。
 更には仄かに香り立ち、少年の興味を引き付けた。
 黄金糖を溶かしたような色になり、甘い匂いが鼻孔を擽った。どことなく林檎の香に似ていて、思わず喉がごくりと鳴った。
 けれど目の前にあるのは、器によって自在に形を変える液体だ。
 どこにも林檎などない。奇妙に思ってきょろきょろ辺りを見回していたら、堪え切れなくなった燭台切光忠がくっ、と喉を鳴らして肩を震わせた。
「カモミールだよ、小夜ちゃん」
「鴨……?」
「ハーブティーの一種だね。どうぞ。気持ちが落ち着くよ」
「……はあ」
 笑いながら告げられたが、彼が何を言っているのかまるで分からない。
 初耳の単語の連続に眉を顰めて、小夜左文字は緩慢に頷き、琥珀の液体で満ちた器を受け取った。
「熱いから、気を付けて」
「ありがとうございます」
 太刀が片手で扱うものを、両手で大事に抱え込み、立ち上る白い湯気にそっと息を吹きかける。
 匂いは間違いなくそこから漂っていて、林檎の果肉でも使っているのかと、不思議でならなかった。
「いただきます」
 小さく会釈して、恐る恐る口をつける。
 火傷しないよう、本当にごく少量だけを唇に含ませるが、鼻に抜ける爽やかな香りに反し、舌はあまり喜ばなかった。
 味がしない。
 ほんのり苦みを覚えるけれど、それ以外はこれといった特徴のない、ただの熱い湯に等しかった。
「う、ん?」
 嗅覚が期待したものと、味覚から得た情報が一致しない。
 確かに林檎のような匂いが口の中に広がったのに、噛み砕いた果肉から溢れる果汁は一切得られなかった。
「んん?」
 頭が混乱して、動揺した。
 鼻から変な声を漏らして、小夜左文字は硝子の器を目の前に掲げた。
 蝋燭の光を受け、淡い黄金色が眩しい。
 確認すべくもう一度口に含ませるが、どれだけ飲んでも、味は変わらなかった。
「あっ、ははは」
 疑問符を並べ立て、奇怪な液体に目を白黒させる。
 百面相する短刀を面白がって、燭台切光忠は腹を抱えて噴き出した。
「なんでしょう、これは」
 今まで飲んできた飲み物と、根本的に違う気がする。
 訳が分からないと声を高くした少年に、隻眼の男は喉の辺りを撫で、相好を崩した。
「カモミールっていう花をね、乾燥させたお茶なんだ。良い香りだろう?」
 右の掌を上にして、軽やかに告げる。
 得意そうに語られて、短刀は嗚呼、と首肯した。
「花、ですか」
「そう。鎮静効果があってね。気持ちを落ち着かせて、よく眠れるようにしてくれるって話だよ」
「つまり、薬湯ですね」
 そこまで説明されて、ようやく納得がいく結論に辿り着いた。成る程、と肩の力を抜いて囁いて、真向かいの太刀が渋い顔になっているのには気づかない。
「それは、うーん」
 植物の根や茎、葉を煎じたものを薬として用いる漢方は、歴史が古い。
 これもそのひとつだと理解した小夜左文字に、燭台切光忠は否定しようとして、言葉を喉に詰まらせた。
 もっと御洒落な感じで呼んで欲しいのに、通じなかった。
 なかなか難しいと苦笑して、太刀は冷ましながらちびちび飲む短刀に目を細めた。
「美味しい?」
「よく分かりません」
「そっか~」
 試しに訊いてみれば、感想は素っ気なかった。しかし嘘を吐くのが苦手な子だから、これは止むを得なかった。
 正直な意見に苦笑して、燭台切光忠は急須の底に溜まった茶葉ならぬ、花を揺らした。
 小夜左文字は半分ほど飲み干したところで顔を上げ、縁に残る唇の痕をなぞって消した。掌からじんわり広がる熱に安堵の息を吐き、確かに荒んでいた心が落ち着いたかもしれないと、薬効に頬を緩めた。
「燭台切光忠さんは、どうして」
「うん?」
「こんなにも、僕に。親切にしてくれるんですか」
 そうしてふと気になって、掠れる小声で問いかけた。
 真剣な表情で、真っ直ぐ太刀を見詰めて。
 心の底から疑問を感じているのだと、雄弁に語る眼差しだった。口調以上に熱心な眼差しに問い質されて、背高な男は一瞬口籠もり、言葉を探して目を泳がせた。
 その僅かな沈黙が、小夜左文字にも考える時間を与えた。彼はふっと頬を緩めると、濡れてもない器の縁を繰り返し撫でた。
「こんなに親切にされても。僕は、なにも。返せるものがないのに」
 復讐に囚われた子供は、それこそが自分の願いであり、本懐だと信じて疑わない。
 仲間を得てもそれは変わらず、『小夜左文字』という存在の軸として在り続け、決して揺らぐことはなかった。
 一緒に居たところで楽しくもなく、面白い事が起きるはずもない。むしろ暗く澱んだ気配を引き寄せて、仲間を危険に晒しかねないのに。
 小夜左文字には、復讐以外なにもない。
 受けた恩に報いる術を、なにひとつ持ち合わせていない。
 彼の持つ器が揺れていた。黄金色の茶が静かに波立ち、茶器の内側で砕けて散った。
 表に現れ難い感情が、姿を変えて溢れていた。このままでは中身が零れてしまいそうで、燭台切光忠は右手を広げると、飲み口の広い器にそっと被せた。
 握るのではなく、添えるだけに留めた。掴むのではなく、ただ重ねて、小夜左文字の意識を引き寄せた。
 暗い場所に落ちて行こうとしたのを妨げ、防いだ。俯いていた少年はハッとなって背筋を伸ばし、眼前に佇む男を半ば呆然と見つめ返した。
「小夜ちゃん」
「……すみません」
「謝ることはないよ。それに、別に僕は、見返りが欲しくてやっているんじゃないんだ」
 語り掛ける言葉は柔らかく、温かだった。甘い香りを放つ茶にどこか通じるところがあって、不思議な感覚だった。
 一旦は上向かせた眼を下向けた彼に、太刀は頬を緩め、微笑んだ。ぽんぽん、とまたしても藍色の髪を撫でて胸を張り、迷うことなく言い切った。
「でも」
「そりゃね、打算で動くことも、たまにはあるよ。けど、小夜ちゃん。考えてみて。そうやって損得勘定から始まる関係っていうのは、きっと、哀しい結果にしかならない。僕は、そう思う」
 食い下がる短刀には人差し指を突き付けて黙らせ、思っていることを率直に述べる。やや早口に捲し立てて、反論の余地を与えなかった。
 一気に告げられた方は理解に時間がかかり、惚けた顔で小さく頷いた。その後で、そんな風に考える者もいるのかと衝撃を受けて、まだ温かい茶碗を抱きしめ直した。
 相手が自分にとって都合よく動いてくれそうだから、わざと親切にして近付いて、意のままに操ろうとする。
 金持ちだから、知恵者だから、権力者だから。そういう理由で距離を詰めようとする者たちの、なんと浅ましいことだろう。
 そんな風に思う相手から親切にされても、きっと嬉しくない。誰かに優しくしたいという気持ちは、そもそも、無条件の慈悲の中から生まれてくるべきものだ。
 もっともそういう感情を抱ける相手は、ごく一部に限られる。万民に対して生じるものではない。
 ではなにが、判断基準になっているのか。
「僕は、小夜ちゃんが頑張っているのを知っているからね」
「僕が、ですか」
「そう。だから、応援したくなっちゃう」
 にっこりほほ笑みながら言われたが、小夜左文字にはピンと来なかった。燭台切光忠の言葉は漠然としており、曖昧で、明確な形がなかった。
 いったいなにを、自分は頑張っているのだろう。心当たりは見つからず、なにも浮かんで来なかった。
 戸惑っていたら、黒髪の太刀に鼻の頭を小突かれた。
 首を前後に揺らして、小夜左文字はおどけた男に眉を顰めた。
「応援、したくなるんですか」
「そうそう。それで、僕も頑張らなくっちゃって、ね。思うわけだ」
 戻した腕を胸の前で組んで、燭台切光忠は自身の台詞にうんうん頷いた。
 ご満悦な表情を見せられて、短刀は打たれた場所を撫で、唇を噛んだ。
「僕には、よく、分かりません」
 見返りを期待しないで、誰かの為に尽くす。そんなこと、本当にあるのだろうか。
 刀は器物であり、持ち主の想いに使い方を左右される。物言わず、形を持たぬ付喪神であった頃ならば、迷うことなく頷けたかもしれないけれど。
 審神者によって現身を与えられ、心とも呼ぶべきものを付与された。そこから生じた感情が、短刀を戸惑わせていた。
 復讐だけを追い求めていれば良かったのに、自らの足で見聞を広げ、知識を得る度に、本来は不要であるべきものが此処に産まれ、育っていった。
 燭台切光忠が言いたいこと、そのすべてが分からないわけではない。けれど簡単に認められるほど、易しいものではなかった。
 はっきりとした形を持たず、言葉にならないものが胸の中で渦巻いていた。
 親切にされて嬉しいのに、心苦しくてならない。温情を受けておきながら、礼を返せない己の不甲斐なさが情けなかった。
 同時に、自分にはここまで優しくされる資格がないとも思う。
 足元からは赤黒い気配が忍び寄り、耳元ではクスクス笑う声が繰り返された。
 どす黒いものに取り込まれ、沈んでいく自分なら想像出来た。望まぬ殺戮に手を染めて、屠った者たちの断末魔の叫びが消えなかった。
「小夜ちゃん」
「っ!」
 手の中の茶が、どんどん冷たくなっていく。
 あれだけ立ち上っていた湯気がひとつもなくなる頃、燭台切光忠が急須を揺らし、口を開いた。
「さあ、もう一杯」
 硝子の器にはまだ残っているのに、温かなものを注ぎ足して、飲むように促す。
 どうぞ、と掌を向けられた少年は呆然として、戻って来た温もりに吐息を零した。
 嗚呼、と声が漏れた。染み渡る熱に鼻の奥がツンと来て、こみあげて来たものを堰き止めんと目を閉じた。
 音立てて鼻を啜った彼を見つめて、燭台切光忠は残量が分かりやすい急須を真っ直ぐに戻した。
 そうして茶碗の底を両手で支え持つ、遠慮がちな少年に相好を崩した。
「でも、そうだね。もし、小夜ちゃんがどうしても、お返しがしたいって言うんだったら。欲しいものは、あるかな」
「僕で、叶えられますか」
「ああ。勿論だよ」
 小夜左文字はなにかと物騒なことを口にする、暗い刀だと思われがちだ。しかしそれは誤解で、実際は思慮深く、慎み深く、礼儀正しい短刀だった。
 心根が優しいから、復讐に固執している。それが無為なことだと、本当は分かっているのに、その身にこびりついた誰かの想いを満たそうと、必死になって自分自身を押し殺している。
 無私の心境で誰かの為に動いている、それは小夜左文字のことだ。
 燭台切光忠は到底、その境地にまで至れない。だから羨ましくもあり、応援したくなり、不安定な彼を支えたいと願っている。
「笑って、くれないかな」
「……笑う?」
「そう」
 心を押し殺し、元の主への忠義を貫こうとする短刀。
 そこに染みついた黒いものを削り落として、いつか、まっさらな彼の姿を見てみたい。
 万感の思いを込めて、燭台切光忠は頷いた。深く息を吸い、吐き出して、惚けた顔をしている短刀の頬を指の背で擽った。
 優しく撫でて、藍色の髪を梳く。
 膝を折って屈んで、下から覗き込むように見つめた。小夜左文字は藍の瞳を泳がせて、照れ臭そうにした後、たっぷり残っている琥珀色の茶に己を映した。
「……すぐ、には。難しいです」
 真剣に悩んで、真顔で返された。
 彼は控えめに囁いて、ゆるゆる首を振った。熱を取り戻した茶に息を吹きかけ、ひと口飲みこんだ。
 こくりと喉を鳴らして、唇を舐める。
 よく眠れるかどうかは分からないけれど、渇きは癒やされた。
「ゆっくりでいいよ」
「ありがとうございます。お茶、御馳走様でした」
「あれえ?」
 そう言った短刀が持つ器の中には、まだまだたっぷり、茶が残されていた。
 だのに唐突に、幕切れを告げる鐘を鳴らされた。
 予想外の展開にきょとんとなって、男の口から素っ頓狂な声が出た。てっきりまだ話が続くものだと思いきや、小夜左文字の側から切り上げられてしまって、驚いて愕然となった。
 そんな太刀の前で、少年は深々と頭を下げた。硝子の器は返却せず、胸に抱き、中身が零れぬよう水平に構えた。
「洗って、お返しします」
 借り物の器だから、間違って落として割ってはいけない。
 決意を込めて囁いて、口を真一文字に引き結んだ。
「小夜ちゃん?」
「僕、は。巧く笑えません。でも、僕も」
 怪訝にする太刀の前で、彼は力を込めて呟いた。揺れる水面の向こう側に、此処にはいない打刀を思い浮かべて、大事な事に気付かせてくれた感謝を述べた。
 笑って欲しいから、心を尽くす。
 笑っていて欲しいから、心を砕く。
 そんな相手が、小夜左文字にも居た。面倒なことばかり引き起こす、頑固で厄介な性格の持ち主だけれど、どうしてだか放っておけなくて、世話を焼かずにいられなかった。
 この時間なら手入れ部屋を出て、いい加減私室に戻っているだろう。重傷を負わされた己の不甲斐なさに腹を立て、休まなければいけないのに、眠れない夜を過ごしているはずだ。
 本当にこの茶が、安眠へと誘ってくれるのだとしたら。
 これが真に必要なのは、小夜左文字ではない。
「おやすみなさい」
 退室の挨拶をして、少年は深く頭を下げた。
 未だ惚けたままの太刀を置き去りにして、慎重な足取りで、けれど急ぎ気味に床を蹴った。
 パタパタ足音を響かせて、台所を出て、廊下を駆ける。
 それも間もなく聞こえなくなって、取り残された男は開けっ放しだった口を閉じ、行き場を失った字で額を叩いた。
「そっかあー……」
 復讐以外なにもないと言いながら、小夜左文字にも大事にしたいものがあったではないか。
 知っていたのに忘れていたと失笑して、燭台切光忠は天を仰いだ。ふーっと深く息を吐き、四肢の力を抜いて身体をふらつかせた。
 立ち上がろうとして失敗して、よろめいて腰を机にぶつけた。
「見事にふられたな」
「鶴さん」
 痛みに耐えていたら、別方向から突然話しかけられた。
 いったいいつから、見て、聞いていたのだろう。二重になった羞恥心に、男は顔を赤くした。
 些か語弊がある言い回しが気になったが、墓穴は掘りたくない。今は触れないことにして、空の徳利を揺らす太刀に目を眇めた。
「傷心の光坊には、俺様が晩酌の相手をしてやろうじゃないか」
「はいはい。おつまみ、追加だね」
 壁に寄り掛かって偉そうに胸を張る男に、燭台切光忠は呆れ混じりに言い返した。膝を起こし、今度こそ背筋を伸ばして、心優しい酔っ払いにひらひら手を振った。

気色をばあやめて人の咎むとも 打まかせては言はじとぞ思ふ
山家集下 雑 1246

2017/02/10 脱稿

あやなくけふや ながめくらさむ

 短く息を吸い、吐く。
 頬杖ついたまま天井を眺め、同じことを繰り返す。
 意識は拡散し、その場に留まらない。かといって遠くへ思いを馳せる真似もせず、ぼんやりしたまま、呼吸だけを繰り返す。
 四角い座卓に凭れかかり、座布団の上で崩れた足は斜めを向いていた。少しでも重心が傾けば仰向けに転びそうで、ぎりぎりのところで姿勢を維持していた。
 どこを見ている、というわけでもなく、なにかを凝視しているわけでもない。
 物思いに耽っているのとも違って、起きているのに半ば眠っているような状態だった。
「どうしたの、あれ」
「さあ。さっきから、ずっとだね」
 近くから聞こえてきた話し声も、あまり耳に入らない。明らかに自分を話題にしていると分かるのに、相槌を打つ気になれなかった。
「昨日も、あんな感じだった」
「ええ、それ本当?」
「うんうん。彼になにかあったのかな」
 部屋に入ってきた鯰尾藤四郎に、にっかり青江と骨喰藤四郎が口々に言い合う。それを頭の片隅で聞き流して、物吉貞宗は小さく溜め息を吐いた。
 このままだと本当に倒れそうで、時間経過と共に強くなっていた身体の傾きを修整した。身動ぎ、居住まいを正せば、座卓の左右に陣取っていた他の脇差たちが一斉に身構えたのが分かった。
 唯一空いていた正面に座った鯰尾藤四郎まで、神妙な顔でこちらを見た。
「……なんでしょうか」
 それがどうにも居心地悪くて、彼は控えめに、気恥ずかしげに問いかけた。
 そもそも彼らはいつ、ここに来たのだろう。にっかり青江が障子を開けたのは辛うじて記憶にあるが、骨喰藤四郎については皆無だった。
 ここは、脇差部屋区画の中にある空き室だ。刀種ごとに大別されている本丸の部屋割りにおいて、脇差は所属数が少ない、という事情があり、こういった未使用の部屋をいくつか抱えていた。
 打刀や太刀部屋区画が過密状態にあるのと比べると、雲泥の差でもある。初期に比べるといくらか埋まったとはいえ、ここのような空き部屋が、他にも二、三残っていた。
 そして使わないまま放置するのも勿体ない、ということから、彼らはそのうちの一ヶ所を、皆で集まって暇を潰す場所として使っていた。
 居住区の南側にある母屋にも、居残り組がだらだら過ごせる座敷があった。
 しかし南北で棟が分かれており、移動するのは手間だ。その点、こちらなら、部屋に忘れ物があっても、すぐ取りに戻れた。
 今後脇差仲間が増えるなら、喜んで譲り渡そう。だからそれまでの間、ここは皆が気まぐれに集う場所だ。
 そんな部屋の真ん中に置かれた座卓の前で畏まり、物吉貞宗がもぞもぞと身を捩る。
 煎餅が入った菓子盆に手を伸ばして、鯰尾藤四郎は尾のように長い髪を揺らした。
「んーん、別に?」
 表面に海苔が張り付いた一枚を抓んで、齧り付きながら答える。直後にバリッ、と小気味いい音が響いて、何故かにっかり青江が噴き出した。
 口元に手をやって、やや前屈みになって目を細めた。その向かい側では骨喰藤四郎が、机に零れた欠片を指で拾い集めた。
 屑入れを引き寄せて、そちらにまとめて落とした。間違って床に散らそうものなら、蟻や虫が寄ってくる原因になりかねないためだ。
 共同で使っている部屋なだけに、その辺は手厳しい。この先、新たな仲間が加わった時、黒い虫が出る部屋を与えられるのも嫌だろう。
「ああ、ごめん。あんがと」
「問題ない」
 知らず汚していたと気付かされ、鯰尾藤四郎が軽い調子で謝罪した。骨喰藤四郎は淡々と返事して、屑入れを元あった場所に戻した。
 しばらくの間、煎餅を噛み砕く音だけが静まり返った空間に響き渡る。
 他の三振りは特になにをするでもなく座って、各々好きな方角を見ていた。
 左右を泳いだ物吉貞宗の視線も、やがて手元へ落ち、沈んだ。膝に転がした両手を意味なく弄って、その真ん中に向かって溜め息を零した。
「はあ……」
 一旦途切れた会話はなかなか再開せず、これもまた普段より大きめに響いた。
「四十二回目」
「え?」
「今日の、物吉君の溜め息の回数」
 そんな時ににっかり青江が言い出して、驚く皆の前で人差し指を立てた。不敵な笑みを浮かべて口角を持ち上げ、一番惚けている少年を指し示した。
 爪先を向けられて、物吉貞宗は唖然と目を丸くした。
「俺が来てからだと、これで三十一回目だ」
「えええ?」
「なにそれ。じゃあ俺も、今から数えよっかな」
「そん、な。なにやってるんですか。止めてください」
 更に骨喰藤四郎まで指を折り、煎餅を食べ終えた鯰尾藤四郎は両手を叩き合わせた。
 よもや彼らが、そんなくだらない遊びに興じていたとは思わなかった。やり玉に挙げられた脇差は悲鳴を上げて、勢いよく座卓の板面を叩いた。
 衝撃で菓子盆が揺れたが、中身がひっくり返ることはない。ただ三振りを怯ませるには充分で、物吉貞宗は彼らの惚けた表情に、慌てて浮かせた尻を沈めた。
 座布団で行儀よく正座して、大声を出したのを恥じた。首を竦めて小さくなって、にっかり青江の計測では四十三回目となる溜め息を吐いた。
「はあ」
 ただ今回は、これまでの、心此処に在らず、という雰囲気とは微妙に異なる。数に足すかどうか悩んで、大脇差は眉を顰めた。
 机の下で嬉々として中指を伸ばした友人には苦笑して、結んだ両手の上に顎を置いた。両肘を立てて頬杖を付き、視線を左に戻した。
 片方だけ露出している眼を眇めて、幽霊斬りの刀は物憂げにしている少年に相好を崩した。
「なにか御悩み事かい?」
 この数日、物吉貞宗の様子は明らかにおかしかった。
 出陣や遠征では特に問題ないのに、本丸に戻ってくると途端抜け殻になっていた。
 宙を彷徨う視線は安定せず、と思えば突然一点に固定されて動かない。屋敷仕事には定評があったはずなのに、小さな失敗が連続して、不注意からの怪我が増えていた。
 台所で調理中に切ったという指には、薬研藤四郎特製の薬が塗られ、包帯が何重にも巻きつけられていた。
 廊下を歩いていても何もないところで躓き、転び、見えている筈の柱に自分から突っ込んでいく。
 こんなこと、今までなかった。
 集中出来ていないのは、傍目からも明らかだ。しかし原因が分からないことには、周囲も対応の余地がなかった。
 昨日からじっくり観察して来た結果をもとに分析して、にっかり青江は菓子盆ごと煎餅を引き寄せた。
 物吉貞宗にも食べるか問うて断られ、一枚だけ抜いて、机の中央へ戻した。そこから鯰尾藤四郎がもう一枚取って、骨喰藤四郎がなにも起きないうちから屑入れを抱え込んだ。
 失礼にも程がある兄弟の態度に、粟田口の脇差が渋い顔をする。
 それを笑いもせず受け流して、にっかり青江は首を捻った。
 優しいが鋭い眼差しに、物吉貞宗は膝の間に両手を押し込んだ。落ち着きなく肩を揺らして、上目遣いに質問相手を窺った。
「いえ。悩みとか、そういうのは特に」
「おやおや、そうなのかい」
 口を開き、喉から絞り出そうとしたのとは異なる内容を音に出す。
 にっかり青江は意外そうに目を丸くして、緩慢に相槌を打った。
 間繋ぎに煎餅を割って、小さい方の欠片を口に含んだ。もう一度左隣に勧めて、再度断られて呵々と笑い、屑籠を手にうずうずしている正面には小さく頷いた。
「君は物好きだねえ。掃除のことだよ?」
 固い煎餅を割った際に零れた細かな屑を、骨喰藤四郎がせっせと掻き集める。
 次に万屋に行った時にでも、卓上を掃除する小さな箒を探そう。密かに決めて、物吉貞宗はまたひとつ、意識しないまま吐息を零した。
 万屋、という単語と共に浮き上がって来た映像に首を振り、頭から追い払った。両目をぎゅっと瞑って視界を闇に染め、眩い金色が紛れ込む余地を残さなかった。
 それが他の三振りには、挙動不審に映った。
 いきなりぶんぶん頭を振った彼に、鯰尾藤四郎などはぽかんと口を開いた。
 悩みはない、と彼は言ったが、とてもそうは思えない。
「具合でも悪い?」
 ならば、とほかに考えられる可能性を声に出せば、物吉貞宗は二度の瞬きの後、なんとも評し難い曖昧な笑みを浮かべた。
「い、いいえ。全然、そのようなことは」
 必死に取り繕うとするけれど、表情は不格好だった。声も若干上擦って、動揺が隠し切れていなかった。
 あからさまな態度を見せられて、鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎兄弟が顔を見合わせた。にっかり青江はスッと目を細め、残っていた煎餅の欠片を縦に構えた。
「ふうん? それじゃあ」
 半月の下半分をやや欠いたような形状で、動かしても破片は落ちない。それを仮面の如く顔の右半分に被せて、彼は不遜に微笑んだ。
 含みのある眼差しに、物吉貞宗が警戒して唇を引き結んだ。座布団の上で身じろいで、訝しげに男を見た。
 粟田口の脇差らも、なにやら不穏な気配に口を噤んだ。息を殺し、動きを止めて、次に放たれるだろう言葉を待った。
 またもや訪れた沈黙に、煎餅を咥えたままの鯰尾藤四郎が醤油味の表面を舐めた。
「あの……」
 注がれる視線の気まずさに耐えかねて、物吉貞宗が切り出そうとした直後だった。
「恋煩い、かな?」
 それを遮り、にっかり青江が言った。
 鼻から息を吐いて妖しく笑った彼の斜向かいで、耐えきれなくなった鯰尾藤四郎が煎餅を噛み砕いた。
「鯉が患ったのか?」
「ぐぇっほ、げへ、っほ!」
 屑入れを手に、唯一立っていた骨喰藤四郎が首を捻る。
 あまりにも的外れも良いところの発言に、その兄弟が途端に噎せて丸くなった。
 煎餅の破片が気管にでも入ったか、なんとも苦しそうな咳を連発させた。まさか自分がその元凶だとも知らず、慌てた骨喰藤四郎は屈んで背中を撫でてやった。
「やれやれ。そんなに激しくしなくても……咳のことだよ」
「いや、あの。ええと」
 わざわざまどろっこしい喋り方をするにっかり青江に、物吉貞宗は困った顔で頬を引き攣らせた。
 言われた台詞がいまいち理解出来なくて、何故そんな発想になったのかを逆に問うた。依然苦しそうにしている鯰尾藤四郎を気にしつつ、僅かに前へ身を乗り出した。
 戸惑い、困惑している彼の姿に、にっかり青江の表情がそこで初めて曇った。
 煎餅を食べようとしていたのを止め、半眼し、胡乱げに眉を顰める。
「おや、違うのかい?」
 再び欠片を縦に持ち、大脇差は口角を持ち上げた。
「違いますよ。なんだって、僕が。ソハヤさんに」
「おやあ?」
 それに真っ向から言い返して、物吉貞宗はひと際大きくなった相槌にハッとなった。
 背をさすられていた鯰尾藤四郎も、骨喰藤四郎と並んで顔を上げた。
 三振り分、合計六つの眼が一斉に向けられて、幸運を運ぶ脇差は真っ青になった。
「い、今のは、あの。その」
「おやおやおや、僕は恋煩いと言っただけで、誰に、とは言っていないんだけどねえ」
「へええ。ソハヤさんですか。へええ」
 懸命に否定しようとするが、発言の撤回は最早不可能。時間を巻き戻す行為は歴史修正主義者のそれであり、刀剣男士にとっては絶対許容できないことだった。
 うっかり口を滑らせた少年は、右往左往しながら身を捩り、両手を意味なく振り回した。
 鯰尾藤四郎にまで興味津々見つめられて、一時は青かった肌色がみるみるうちに赤く染まった。頭の天辺からは湯気が出て、風呂場でもないのに逆上せて倒れそうだった。
「ちが、ちっ、ちが、ああああぁ」
 言質を取られ、身動きが取れない。
 反論しようにも碌に言葉が出てこなくて、最後は諦めて顔を覆った。机に額から突っ込んで、ごちん、とぶつけた後は動かなかった。
 かなり痛かっただろうに、ぴくりともしない。
 目元から顎までを両手で隙間なく埋めて、物吉貞宗はじわじわ正座を崩し、ぺたんと尻を着いた。
「そういうんじゃ、ありませんよぉ」
 結構な時間が過ぎてから、呻くように呟く。
 大人しく見守っていた三振りは、半泣きで鼻を愚図らせた彼を笑わなかった。
 額の一部を一層赤くして、喘ぎ、物吉貞宗は唇を噛んだ。墓穴を掘って自滅した己を恥じて、頭を振ったと同時に竦み上がった。
 ドスドスと、荒っぽい足音が聞こえた。廊下を曲がって、こちらへ近付いていた。
「誰だろ」
 こんな激しい足音、脇差は誰も響かせない。短刀よりは背丈があるにしても、彼らは皆、どちらかといえば小柄だった。
 これは明らかに、大柄な打刀か、太刀のものだ。
 障子は閉まっており、振り返っても姿は見えない。興味を惹かれた鯰尾藤四郎が首を傾げる中、物吉貞宗は突如身を屈め、四角い机の下へと潜り込んだ。
「なにをしている、物吉貞宗」
「おーい、物吉。いるかー?」
 座卓の脚は短く、入り込めることは入れるが、かなり窮屈だ。
 突如かくれんぼを開始した彼に骨喰藤四郎が眉を顰め、その後方を黒い影が流れた。
 障子に映った影はあっという間に通り過ぎ、ふたつ隣の部屋の主を呼んだ。障子を開ける音も聞こえて、空き部屋に集まっていた面々は互いに顔を見合わせた。
 視線を下に移しても、分厚い天板が邪魔で、隠れている少年は見えない。勿論屈んで覗き込めば話は別だが、ぱっと見た感じ、そこに誰かが潜んでいるとは分からなかった。
 物吉貞宗も、それを狙っての行動だろう。
「なあ、すまん。物吉の奴、どこに行ったか知らないか?」
 目当ての脇差が不在だと知って、荒っぽい足取りが戻って来た。そして障子を開けて、ソハヤノツルキが顔を出した。
 金色の髪を綺麗に固め、額を曝した太刀が中にいた三振りにまとめて訊ねた。身体半分ほどの隙間から身を乗り出して、障子の框を引っ掻いた。
「ええ、っと。物吉だったら、こ……いでっ」
「大丈夫か、兄弟」
 問いかけられて、一番入り口近くにいた鯰尾藤四郎は目を泳がせた。ごにょごにょと口籠もりつつ言いかけて、途中で急に悲鳴を上げた。
 座ったまま飛び跳ねて、骨喰藤四郎に心配されながら机に倒れ込んだ。右の太腿を抱え込んで、必死に痛みに耐えていた。
 それが、隠れていた物吉貞宗に思い切り抓られた所為であると、にっかり青江は直感的に悟った。
「彼だったら、さっき、用があるって出ていったよ。急ぎでないのなら、言伝を預かるけれど」
 防衛本能が働いて、言葉はすらすら溢れ出た。膝を閉じて防御を固め、ソハヤノツルキに代表して答えた。
 未だ悶絶している鯰尾藤四郎を怪しみつつ、新参者の部類に入る太刀は嗚呼、と頷いた。教えられた内容を素直に信じたようで、背筋を伸ばし、首の後ろを掻いた。
「あ~、んじゃいいや。邪魔したな」
 少しだけ悩んで、天を仰いで告げる。
 ひらりと手を振って踵を返した男は、自分で開けた障子を閉めなかった。
 冷たい風が流れ込んで、やむを得ず骨喰藤四郎が前に出た。外の様子を窺って、例の太刀が居なくなったのを確認し、振り返って頷いた。
 それでようやく、物吉貞宗が机の下から這い出してきた。凶器にした爪で畳の目地を引っ掻いて、服の表面に出来た皺を叩いて伸ばした。
 最後に髪の毛を掻き回して、潰れていたところに空気を送り込んだ。
 ふわふわの感触を取り戻して、疲れた様子で肩を落とす。
 今回の溜め息は数えないことにして、にっかり青江はずっと食べ損ねていた煎餅を口に含んだ。
 噛まずに舐めて、湿らせた。柔らかくなったところで奥歯で割って、非常に気まずそうな少年に相好を崩した。
「あれで良かったのかい?」
「……すみませんでした」
 意地悪く訊ねられて、物吉貞宗は小声で謝罪した。鯰尾藤四郎にも頭を下げて、恐縮して小さくなった。
 尻に敷いた座布団の端を弄り、俯いたまま顔を上げようとしない。服の裾を抓んで引っ張ったり、捩ったりと、手は落ち着きなく動くのに、口は重かった。
「喧嘩したのか」
 ソハヤノツルキは、先ほどから話に出ていた刀だ。
 それが直接訪ねて来たのに、物吉貞宗は居留守を使った。
 なにか会いたくない事情があると察した骨喰藤四郎の質問に、彼は間を置かず首を横に振った。
「じゃあ、なんで?」
 喧嘩ではないと教えられ、鯰尾藤四郎がそこに噛み付いた。下世話な好奇心からではなく、単純に不思議だったから問うただけの少年に、貞宗派の次男は言い辛そうに口を噤んだ。
 胸の前で両手指を捏ね回し、言葉を探して視線を彷徨わせる。
 その途中でにっかり青江と目が合って、にっこり微笑まれて渋面を作った。
「なるほどね。会いたくなかったんだ」
「…………」
 訳知り顔で囁かれて、物吉貞宗の表情はより険しくなった。
 しかし反論は聞こえて来ず、これ幸いと大脇差は目尻を下げた。
「ああ、いいねえ。この甘酸っぱい感じ」
「え、おせんべい、酸っぱかったですか?」
「ははは。そうじゃなくて、彼がソハヤノツルキ君に恋しててる、って話だよ」
「にっかりさん!」
 感極まった様子で楽しげに言って、疑問符を頭上に生やした鯰尾藤四郎にも大真面目に答えた。そこへ痺れを切らした物吉貞宗が割り込んで、声を荒らげ、机を叩いた。
 軽くなった菓子盆が揺れて、カタカタと音を立てる。
 腿を抓られたのを思い出したのか、黒髪の脇差は咄嗟に内股になった。
 痛みは引いたが、服を脱いだら痣になっているかもしれない。風呂場で弟たちに見付かり、からかわれないよう気を付けることにして、鯰尾藤四郎はそそくさと骨喰藤四郎の後ろに隠れた。
 盾にされた方は淡々とした表情を崩さず、目の前で繰り広げられる会話を黙って聞いていた、が。
「鯉ではなかったのか」
 ずっと思い込んでいた内容が漢字違いだったと知って、地味に衝撃を受けていた。
 そんなふた振りを余所に、物吉貞宗は荒く肩を上下させ、意識して深呼吸を繰り返した。心を落ち着かせようと躍起になって、笑いを堪えている脇差仲間を睨んだ。
 けれど眼差しに迫力はなく、僅かに潤んでいる所為で威圧感もない。
 随分愛らしいと顔を綻ばせ、にっかり青江は真っ赤になっている少年に手を叩いた。
「いいんじゃない? 僕は、応援するよ」
「にっかりさん」
「嫌いじゃないからね、そういうの」
 拍手と声援を送り、呆然と見つめ返されて、頷く。
 人差し指を顎に添えての発言に、物吉貞宗はホッとしたような、違うような、どちらともつかない顔をした。
「でも。良いんでしょうか」
 先ほどよりは幾分はっきりとした発音は、迷いと躊躇が明確に表れていた。
 その原因を推測して、大脇差は嗚呼、と重ねたままの手を左右に捻った。
「大丈夫なんじゃないかな。主は、真面目に戦ってさえいれば、あんまりそういうの、気にしないと思うよ」
 刀剣男士は、刀の付喪神だ。過去改変を企む歴史修正主義者の目論見を挫き、これを討伐すべく集められた武器であり、兵力だった。
 審神者なる者の力によって顕現し、現身を与えられた彼らは、『本丸』と呼ばれる場所で日々を過ごしていた。
 広大な敷地の中には屋敷のほかに厩や、鍛冶場、畑といった施設が点在した。神社もあり、大太刀らはそこで一日の大半を過ごしている。裏手には山が広がって、短刀らの格好の遊び場になっていた。
 ここに集う刀らは、審神者を新たな主と定めた。その命に従うのは、彼らがここに存在し続けるための絶対条件だった。
 彼らが慕うべきは、審神者ただひとりのみ。
 ところが物吉貞宗の心は、あるべき形から外れようとしていた。
「分かるんですか?」
「そりゃあ、君よりはちょっとだけ長く、ここにいるしね」
 この感情は、許されるべきではない。認められるべきものではない。
 だのに気が付けば、主以外の存在を想っていた。瞼の裏に、姿を思い浮かべていた。
 取るもの手につかず、集中力が続かない。声が聞こえれば過剰に反応し、話しかけられたら頭が真っ白になった。
 少し前まで出来ていたことが、今は出来ない。
 どんな顔をして彼と一緒にいたか、全く思い出せなかった。
「第一、ねえ。僕の知る限り、歌仙が叱られた、って話は聞いたことがないよ」
 これが審神者に知れたら、どうなるか。確かめる勇気などなくて足踏みしていた彼は、苦笑交じりに言われて目を丸くした。
 突然出て来た刀剣名にもあんぐりして、金魚のように口をパクパクさせた。
 助けを求めて横を見れば、鯰尾藤四郎は嗚呼、と柏手を打って目尻を下げた。
「小夜ちゃんと、歌仙さん。随分前にありましたねえ、そういえば」
「え?」
「君のところの平野君と、鶯丸の時は、お兄さんの方が大変だったねえ」
「ええ?」
「最近だと、大典太さんと前田かなー。一回経験しておくと、いち兄の説得が早くていいよね」
「えええ?」
「薬研は、進展が感じられない」
「あー、あいつねえ。まだ宗三さんに言ってないんでしょ。バレバレなのに。これからどうする気なんだろ」
 途中から骨喰藤四郎も混じって、指折り数えながら次々名前を出していく。
 聞いていて軽く眩暈がして、物吉貞宗は受け入れ難い現実に卒倒した。
「なんだ、知らなかったんだ?」
 机のひんやりした感触が、頬に心地いい。
 現実逃避していたところでにっかり青江に言われ、彼はくらくらする頭を抱え込んだ。
 この本丸に来て結構な時間が過ぎていたが、仲間内でそんな事態になっていたとは知らなかった。
 全く興味がなくて、関心を持とうともしなかった。よく一緒にいる、仲が良い刀たちだ、程度としか認識しておらず、水面下であれこれ起きていたなど、露とも思わなかった。
 そして今度は自分が、そこに立たされる。
「……」
 いや、きっと立つことはない。
 現時点での自分の状況を冷静に顧みて、物吉貞宗は哀しげに瞼を閉じた。
「物吉君?」
「ソハヤさんは、僕のこと。なんとも、思ってないんです」
 胸に抱くこの感情がなんであるか、もう否定出来ない。互いに慈しみあい、愛おしんでいる仲間がいると知って勇気づけられて、それと同時に辛くなった。
 仲睦まじくしている彼らと、自分とソハヤノツルキとでは、決定的に異なるところがある。
 それを認めたくなくて、訪ねて来た太刀から逃げた。見苦しく畳に這い蹲り、机の下に隠れた。
「物吉」
「僕だけ、どきどきして。不公平ですよね。狡いです」
 ほんの五日ほど前、ソハヤノツルキの服を繕ってやった。破いて出来た穴を縫って、塞いでやった。
 それで彼はいたく感激し、礼をしたいと言い出した。万屋で好きなものを選ぶよう促し、翌日、強引に物吉貞宗を連れ出した。
 手を繋がれた。強く、強く握りしめ、些か乱暴に引っ張られた。
 その時の感触が、まだ微かに残っている。遠慮を知らない指はゴツゴツして、爪は短く、全体的に温かかった。
 結局万屋では何も買わず、また今度、となった。そうしたら翌日も、朝早くから誘いに来て、遠征があると言ってもなかなか引き下がってくれなかった。
 物吉貞宗が選び、ソハヤノツルキが気に入ったものが見つかるまで、延々とこれが繰り返される予感がした。
 彼と一緒に出掛けられるのは嬉しいのに、寂しかった。
 ふた振りだけで過ごす時間は楽しいのに、胸が苦しかった。
 ソハヤノツルキが物吉貞宗に構うのは、下心のない善意からだ。
 受けた恩を返すのが主目的であり、そこに脇差の意思は介在しない。彼が欲しいのは、恩義に報いたという確かな証拠だけだ。
「それで、会いたくないのか」
「……はい」
 あの太刀は兄弟刀の天下五剣と違い、性格は明るく、活発だ。声が大きく、何事にも熱心で、色々と豪快だった。
 心を開いた相手には遠慮がなくなり、距離を一気に詰めて来た。会話が盛り上がると腕や背中をバシバシ叩き、強引に肩を組んできた。
 その豪快さが、物吉貞宗には辛い。
 自分ばかりが意識させられる状況が息苦しくて、耐えられなかった。
 骨喰藤四郎の問いに素直に答え、彼は爪の白い部分を擦った。カチカチと硬い音を響かせて、最後にぎゅっと握りしめた。
 好きなのに、一緒にいたくない。
 想いは膨らむ一方なのに、それをぶつける先がなくて、行き場のない感情が破裂寸前だった。
「へ~え。つまり君は、彼に意識してもらいたいわけだ」
「え、と……?」
 赤くなり、青くなり、いつになく表情豊かな物吉貞宗に向かって、にっかり青江が言う。
 頬杖ついて聞いていた男は最後の煎餅を手に取って、顔の横に掲げた。戸惑う少年の前で円盤を揺らし、中心に向かって人差し指を突き立てた。
「突いたり、突かれたり。そういう関係になりたい、ってことだろう?」
「つっ!?」
 固い煎餅を小突き、押しつけ、爪でカリカリ引っ掻く。
 骨喰藤四郎の耳は鯰尾藤四郎が咄嗟に塞いだが、物吉貞宗は残念ながら間に合わなかった。
「まっ、待ってください。僕はなにも、そんな。そ、そこまで、言ってません。誤解です!」
 思わせぶりな台詞と、意味深な微笑に、気が動転して声がひっくり返った。
 動揺し過ぎて仰け反って、そのまま身体も仰向けになった。
 尻餅ついて倒れ込んだ少年に、大脇差はカラコロと喉を鳴らした。
「ううん? 僕が言っているのは、ほっぺたのことなんだけどね?」
 仲良く相手の頬を突き、やられた方がやり返す。なんと朗らかで、和やかな光景だろう。
 そう平然と言い放って、彼は別の意味で解釈した脇差をからかった。
 見事罠にはめられて、物吉貞宗の顔が真っ赤になる。
 熟れ過ぎた林檎と化した彼に破顔一笑して、にっかり青江は唇をなぞった。
 悔しがって地団太を踏んでいる少年に目を眇め、考え込むように表情を引き締めた。視線を浮かせて天井の隅を見詰め、初めての感情に揺れ動く仲間へ視線を戻した。
 ちょっとしたことに一喜一憂して、とても微笑ましい。
 だからこそ応援してやりたくて、彼は短い爪を噛んだ。
「要するに、あちらにも、君を意識させればいいんだろうけれど」
「見込み、あるんですかね」
「僕の見立てじゃ、皆無ではないと思うけどねえ」
 策を練りつつ、鯰尾藤四郎の呟きに答える。
 物吉貞宗は座布団に座り直し、膝を揃えて苦笑した。
「にっかりさん、あの。良いんです、僕は別に」
「駄目だ」
「骨喰さん……」
 真剣に考え込んでいる大脇差に遠慮して、自分の問題だからと断ろうとした。
 それを骨喰藤四郎に制されて、予期せぬところから伸びた手に躊躇した。
 大阪城と共に焼け落ちた影響からか、この脇差は過去の記憶があまりない。遠い昔に出会った刀との思い出も、かつての主たちと過ごした日々も、彼の中には残っていなかった。
 その影響か、表情にあまり変化が現れない。何を考えているのか分からない時が多々あって、鯰尾藤四郎がいないと話が通じない場合もあった。
 そんな脇差に、鋭く睨まれた。険しい口調で一蹴されて、物吉貞宗は二の句が継げずに黙り込んだ。
「俺は、昔のことははっきり覚えていない。だが、一緒にいた誰かが笑っていたのは、ぼんやり覚えている。俺は、この先、お前が笑えずにいるのを見るのは、嫌だ」
 珍しく多弁になって、骨喰藤四郎が捲し立てた。
 真っ直ぐ相手を見ながら告げた兄弟刀に相好を崩して、鯰尾藤四郎は元気よく右腕を掲げた。
「俺も、骨喰に一票」
「決まりだね」
 白い歯を見せながら言った彼に、にっかり青江が頷いた。多数決は物吉貞宗のひとり負けとなり、反論は封じられた。

 その日の夜。
 明日の準備を済ませ、眠る準備に入っていたソハヤノツルキは、ふとした感覚に襲われて顔を上げた。
「誰だ?」
 日はとっぷり暮れて、室内を照らすのは行燈の柔らかな光ひとつ。その小さな灯では全体を照らすのには足りず、廊下との間を仕切る襖は闇に濡れていた。
 その向こうに、誰かがいる。
 辛うじて掴んだ微かな気配に、寸前まで眠そうだった眼が鋭く尖った。
 夕餉を終え、風呂にも入り、浄めた身体は白い湯帷子で覆われていた。
 薄手の布一枚を羽織った状態で警戒し、得物を探して両手を床に這わせる。けれど指が畳以外を探り当てる前に、向こうの方から声がかかった。
「僕です」
「物吉?」
 静まり返った夜の空気に、音は凛と響いた。
 反響せずに消えていく音色に瞠目して、ソハヤノツルキは急ぎ立ち上がった。
 気の早い刀はもう床に入り、高いびきの最中だ。中には遅くまで宴会に明け暮れる者もあるが、彼は今日、誘いを受けていなかった。
 隣室では兄弟刀の大典太光世が、短刀を抱き枕に夢の中だ。寒い時期だと羨ましくてならないが、貸してくれ、とはとても言えなかった。
 外の様子を窺いながら、襖を開く。
「すみません、こんな遅くに」
 立っていたのは案の定物吉貞宗で、格好はソハヤノツルキとほぼ同等だった。
 脹ら脛までしかない湯帷子を、腰に巻いた帯一本で固定していた。何故か蕎麦殻の枕を抱いており、湯上がりなのか、肌は火照って赤かった。
 身長差があるので、立ったままだと視線が合わない。仕方なく軽く膝を折って屈めば、小柄な脇差は顔の下半分を枕で隠した。
 唯一露出している眼を上向かせ、金色の中に太刀の姿を閉じ込める。
「どうした?」
 訪ねて来た理由を率直に問うて、ソハヤノツルキは首を捻った。
 廊下は薄暗く、灯りは見えない。だが夜目が利かない太刀と違い、脇差は闇に強かった。
 夜戦では短刀と並んで頼りになり、池田屋へも頻繁に出撃している。昔からよく知る仲間が活躍するのは頼もしく、誇らしかった。
 中腰で長時間いるのは疲れるので、右腕を襖に預けた。左腕は腰に当ててじっと見つめれば、物吉貞宗はもぞもぞ身じろいだ後、恐る恐る口を開いた。
「あの。えっと」
「ん?」
「ええと、えと、その。実は、お、お願い、が」
「俺に?」
 遠慮がちに告げられて、一瞬聞き間違いを疑った。
 思わず左人差し指で己を指差せば、脇差は間髪入れずに頷いた。
 鼻筋を枕に埋めながら、ふわふわの頭を上下させた。大袈裟な動きで肯定して、膝同士をぶつけ合わせた。
 腕に力が籠もり、ぎゅうぎゅうに絞められた枕が真ん中が潰れていた。まるで瓢箪だと、中身が空洞の植物を連想して、ソハヤノツルキは眉を顰めた。
 こんな時間に、頼みごととは。
 いったいどんな用件かと、迷惑がるより先に、好奇心が首を擡げた。
 今日こそは恩に報いようと張り切っていたのに、結局捕まえられなかった。あちこち探したが見つからず、ようやく姿を見かけた時は、もう夕方になっていた。
 夕餉の時間が迫っていて、万屋に誘えなかった。
 いっそ自分が気に入ったものを選び、押し付けてやろうかと思い始めていたところだった。
 ようやく欲しいものが決まったかと、嬉しくなった。内心わくわくしながら目を輝かせて、続きを待って息を殺した。
 だが物吉貞宗は枕を抱き潰したまま、言い難そうに口籠もった。目を合わせては逸らし、を何度も繰り返して、寒いのか大きく身震いした。
「入るか?」
「あの!」
 廊下と室内では、気温差はほとんどない。だが風がたまに吹くので、部屋の方が幾分暖かかった。
 気を遣い、訊ねた。それを遮って、物吉貞宗が突然声を張り上げた。
 踵を浮かせて背伸びして、身を乗り出してきた。距離を詰めて、枕から顔を上げて、驚くソハヤノツルキに迫った。
「き、きょ、……今日。その。一緒に、あの。ねね、ね、寝て、も。いい、で、しょう、か」
「は?」
 そうして舌足らずに捲し立て、ごくりと唾を飲んだ。
 息継ぎを大量に挟んだ訴えは聞き取り辛く、滑舌の悪さから咄嗟に意味が掴めない。太刀は一瞬きょとんとなり、興奮に鼻息荒い脇差に眉を顰めた。
 途端に物吉貞宗の顔が、火が点いたように真っ赤になった。
「いえ、あのっ。め、めめ、迷惑、でした、ね。ですよね。ねっ」
 益々強く枕を抱きしめ、裏返った声を響かせた。
 彼は元から声が高めなのに、更にその上をいっていた。両隣に迷惑がられやしないか懸念して、ソハヤノツルキは首を掻いた。
 こんな態度は、見たことがない。ここまでいっぱいいっぱいになるなど、余程のことと思われた。
 朗らかに笑っている姿が脳裏を過ぎり、目の前にいる刀との落差に興味を惹かれた。なにが彼を追い詰めているのか知りたくなって、力になれるなら協力したかった。
「どうしたんだ?」
 頼ってきた相手を、話も聞かずに追い出したりはしない。
 意識して語調を柔らかくして、太刀は右にずれ、中に入るよう促した。
 だが物吉貞宗は棒立ちのままで、動こうとしなかった。枕の締め付けを少し緩めるに留め、荒い息を吐き、鼻から大きく息を吸った。
 口を開けて唇を舐め、何度も唾を飲みこんだ。その度に細い肩が上下に揺れて、過度な緊張ぶりが伝わってきた。
「物吉」
「こわい、夢を。……見たんです」
 暗がりの中に佇む彼は、身にまとう湯帷子の色の影響もあり、ぼうっと闇に浮かんで見えた。
 華奢な体躯が強調されて、風が吹けば飛ばされそうでもある。儚げで、おぼろげで、存在自体が酷く心許なかった。
 声は掠れ、震えていた。
「夢?」
「はい」
 先ほどから一転して、蚊の鳴くような訴えに、ソハヤノツルキは鸚鵡返しに問いかけた。
 予期せぬ単語に目を瞬かせ、間髪入れずに首肯されて渋面を作った。風呂に入った時に洗って、崩したままの前髪を弄って、首を僅かに傾けた。
 告げられた言葉をどう解釈するか、即座に判断出来なかった。
 夢とは、眠っている間に見るものだ。内容は千差万別だが、過去の記憶から派生した内容が多い、と聞き及んでいた。
 ソハヤノツルキ自身は、あまり経験がない。もしかしたら見ているのかもしれないが、朝起きた時には綺麗さっぱり忘れていた。
 隣の大典太光世はたまに魘されており、それで夜中に起こされたことがある。膝丸は、兄である髭切に名前を呼んでもらえない悪夢ばかり見る、と愚痴っていたが、それは夢でなく現実では、とは流石に言えなかった。
 ともあれ、物吉貞宗もそれに近い内容の夢を、恐らくは昨晩、見てしまったのだろう。
「いやまあ、別に、お前が良いなら俺は構わないんだけど」
「ソハヤさん」
「けど、なんでまた、俺だ? 脇差連中と、たまに集まって一緒に寝てるとか、前に言ってなかったか?」
 助けになるのであれば、協力してやりたかった。力になれるのであれば、手を貸してやりたいとも思った。
 けれど疑問が先に出て、言わずにいられなかった。
 頼られるのは、素直に嬉しい。だが普段から仲良くしている刀たちではなく、自分のところへ来た意味が上手く理解出来なかった。
 脇差は数が少ないので、太刀や打刀に比べ、横の繋がりが強い。刀派を越えて親しくしており、物吉貞宗も例外ではなかった。
 貞宗の兄弟刀より、鯰尾藤四郎や堀川国広たちと一緒にいる時間の方がよっぽど長い。
 そんな印象が強かっただけに、自力で疑問が解けなかった。
「あ……」
 質問を受けて、脇差の表情が翳った。一定だった呼吸が乱れ、唇の色が抜け落ちた。
 瞠目したまま凍り付き、琥珀色の瞳が宙を彷徨った。なにかを探しているようにも見えて、全く違うようにも感じられた。
「物吉?」
「内府様、の……夢、だったんです」
「家康公の?」
 怪訝に思い、名を呼んだ。それに反応してぽつりと呟かれて、ソハヤノツルキはぎょっとなった。
 たったそれだけで、背筋が寒くなった。かつての主と、たとえ夢でも相見えるのは嬉しいことなのに、先ほど『こわい夢』と表現されたのが引っかかり、喜べなかった。
 ひやりとした空気を感じて、三池の太刀はごくりと息を飲んだ。不意に押し寄せて来た嫌な感覚に四肢を粟立たせ、俯いて小さくなる脇差を食い入るように見た。
 物吉貞宗は小さく首肯すると、枕の表面に爪を立てた。
「家康公、が。僕を手に。……腹を」
「――っ!」
 絞り出すような呻き声に、ぞぞぞ、と悪寒が駆け抜ける。
 発作的に手を伸ばして、ソハヤノツルキは細い手首を握りしめた。
 力任せに引き寄せ、胸に閉じ込めた。小さくて丸い後頭部を押さえつけ、それ以上喋らないよう、彼の顔面を胸板に叩き込んだ。
 蕎麦殻の枕は緩衝材にすらならず、支えを失って畳に落ちた。爪先を踏まれたが意に介さず、太刀は顎を軋ませ、歯を食い縛った。
「すまん」
 何故あんな心無い質問をしたのかと、数分前の自分を呪った。
 心細さに負けて頼ってきた相手の、弱くなっている部分を抉った己の浅慮ぶりに腹が立った。
 どうして『分かった』と、たったひと言告げるだけに済ませなかったのか。詮索するような真似をせず、受け入れてやらなかったのか。
「すまん、物吉」
 彼は今日一日、どんなにか不安だっただろう。部屋におらず、どこにも姿が見当たらなかったのだって、夜に怯えていたからではないのか。
 気付いてやれなかったのを悔やみ、ソハヤノツルキは細い背を撫でた。慰めになるかは分からないが、柔らかな毛足を擽って、身じろがれて締め付けを緩めた。
「ぷは」
「心配するな。俺の霊力が、お前を悪夢から守ってみせる」
 ようやく息が出来ると安堵して、物吉貞宗がホッと胸を撫で下ろした。
 そんな酸欠で真っ赤になっている顔を見下ろして、徳川の宝剣は自信満々に言い切った。
 彼とて、それを期待して訪ねてきたはずだ。叶う保証はどこにもないが、何事も信じることから始まると、ソハヤノツルキは胸を叩いた。
「あ、ありがとう、ございます」
 得意満面に告げて、枕を拾って脇差に持たせる。
 先に寝床に入るよう告げて、自分は襖を閉めるべく半歩前に出た。
 ところが物吉貞宗は、またしても場から動かなかった。
「ごめんなさい」
「どうして謝る」
 湯帷子の袖を抓んで、軽く引っ張られた。
 顔を背けたまま謝罪されて、意味が分からなかった。
「だって。ソハヤさんに、その。……ご迷惑を」
「なに言ってんだ。そんなこと、これっぽっちも思っちゃいないさ」
 口をもごもごさせながら言い足された内容には、呆れるしかない。気にしなくて良いのだと笑って返して、彼は細い指を解かせると、ふわふわの頭をわしゃわしゃ掻き混ぜた。
 遠慮など不要と繰り返し、襖を閉めた。それでも動かない脇差を押して部屋の真ん中へ誘導して、いつから敷きっ放しか覚えていない布団の端を捲った。
 先に自分が入って、右隣の空いている場所を示す。
「ほら。来いよ」
 手招いて繰り返し誘って、物吉貞宗はようやく重い一歩を踏み出した。
 まさか一連のやり取りが、にっかり青江を中心とした脇差たちの策略だとも知らず、ソハヤノツルキは人好きのする笑みを浮かべた。
 行燈の火を吹き消して、室内を一気に暗くした。完全なる善意から腕を広げて、膝を折った少年に綿入りの布団を被せた。
「狭くないか? あと、臭いかもしれん。すまん」
「いえ。大丈夫です」
 肩までしっかり覆ってやり、自分の背中が少しはみ出しているのは、上手に隠した。いくら脇差が小柄だとはいえ、ふた振り並ぶと窮屈だった。
 もう少し距離を詰めれば、楽になる。けれど寝床の中でそれをするのは、変な誤解を受けそうで出来なかった。
「ソハヤさん、そっち、行っても良いですか」
「え」
「近くにいる方が。安心、出来ると思うので」
「あ、ああ。そうか。それもそうだな」
 ところが向こうから切り出して来て、心配は杞憂に終わった。
 川の字ならぬ二の字だったのを、太めの一の字に作り変える。ソハヤノツルキは恐る恐る、擦り寄って来た脇差の肩に腕を回した。
 眠っている間に突き飛ばしてしまわぬよう、引き寄せた。抵抗されるかと思いきや、物吉貞宗はホッとした様子で身じろいで、脇から差し入れた手を背に垂らした。
 抱きしめ返されて、変な気分だった。
「物吉、苦しくはないか」
「いいえ。とっても、……はい。暖かいです」
 いつもは加減などしたことがないのに、状況が状況だけに、遠慮が勝った。
 恐る恐る問えばクスクス笑われて、楽しそうな囁きがくすぐったかった。
 彼は腕の付け根辺りに頬を押し当て、目を眇め、瞳だけをこちらに向けた。
 太刀は闇に不慣れながら、これだけ近ければ、辛うじて見えた。障子越しに差し込む月明かりは明るく冴えて、物吉貞宗の柔らかな髪色を照らしていた。
「そうか」
「はい」
 真っ直ぐ見つめてくる眼差しは、脇差特有の淡い光を発していた。夜闇に紛れて敵を狩る特性がここでも発揮されて、ソハヤノツルキはどきりとなった。
 今、自分は、彼に狩られる立場にあると自覚した。
 無論そんなことにはならないだろうが、一瞬でも恐怖した。昼間見るのとは明らかに違う姿を垣間見て、足元から震えが来た。
「……俺の霊力が、お前を守る。家康公も、それを信じた。だから安心して、眠れ」
「ありがとうございます」
「礼には及ばん。お前には、世話になってばかりだ。これくらいは、役に立たないとだな」
「ふふ、そうでした」
 それを振り払おうと、敢えて声を大きくした。萎縮した心を奮い立たせ、髪を梳き、背を撫でてやった。
 物吉貞宗はその度に、クスクス声を漏らした。控えめながら艶のある笑みを浮かべ、お返しだとばかりにソハヤノツルキの胸を叩いた。
 掌を広げ、押し当てた。湯帷子の上から肌を探って、左胸に陣取った。
 どくん、と鼓動が大きく跳ねた。
 投げかけられる眼差しは、普段通りの彼でありながら、初めて見る彩を放っていた。
「ものよし」
 彼はこんな貌だっただろうか。
 全くの別人を寝床に招き入れた錯覚を抱いて、身動きが取れなかった。
「はい。おやすみなさい」
 目を眇め、脇差が淑やかに告げた。
「ああ、……おやすみ」
 軽く触れているだけなのに、心臓を鷲掴みにされた錯覚に陥った。就寝間際だというのに拍動の乱れを自覚して、ソハヤノツルキは声が上擦るのを必死に抑えた。
 間にひと呼吸挟んで告げて、目を閉じた少年をじっと見据えた。
 こてん、と頭が沈んだかと思えば、そこからもう動かなかった。耳を澄ませばか細い息が聞こえて、途切れることはなかった。
 なんと寝つきが良いのだろう。感心し、呆れつつ、ソハヤノツルキは過去類を見ない現状に頭をくらくらさせた。
 自身の睡魔はといえば、ちっとも訪れる気配がない。
「やばい。眠れねえかも」
 理由は分からないが、妙にどきどきして落ち着かない。
 大見得を切った手前、物吉貞宗を置いて部屋を出るわけにもいかず、彼はいやに冴える眼で闇を凝視し続けた。
「……う、あ、あ~~~」
 そうはいっても、いつの間にかしっかり眠りに就いていたらしい。
 いつだったかはまるで覚えていないが、ぷつりと記憶の糸が途絶えていた。次に気が付いた時には、障子の向こうは明るい陽射しに溢れていた。
 大きく欠伸をして、ソハヤノツルキは閉じた瞼を痙攣させた。まだ目を開ける気になれなくて、寒さから逃げるように布団にもぞもぞ潜り込もうとした。
 しかし、途中で邪魔された。
 温かなものに肘が当たって、衝撃でつい、瞼を持ち上げてしまった。
 最初はぼやけていた視界が、瞬きを経る毎にはっきり輪郭を持ち始める。
「え?」
 真っ先に見えた肌色にきょとんとなって、彼は呆然と目を見開いた。
 光に照らされた部屋は、間違いなく己の私室だ。少々黴臭い布団も自分のものであり、余所から持って来たものではなかった。
 だのにどうして、自分以外の刀がここにいる。
 すやすやと寝息を吐いて、気持ちよさそうに眠っているのか。
「あ、ああ。そうか」
 昨晩の出来事が咄嗟に思い出せず、記憶はぶつ切り状態だった。
 全てが繋がるまでに数秒の時を要して、その間、ソハヤノツルキは身動きひとつ取れなかった。
 布団に横になったまま、あどけない寝顔を見詰め続けた。右腕はいつからか、脇差の枕に使われており、長く圧迫された影響で痺れ、指の感覚は失われていた。
 左手は華奢な背を抱いて、力なく垂れ下がっていた。しかもなぜなのか、触れ合うのは寝間着代わりの湯帷子ではなく、素の肌だった。
 どんな寝相をすれば、ここまで肌蹴られるのだろう。
 寝間着は肩からずり下がり、肘のところで塊になっていた。しかもそれは脇差だけに限らず、太刀自身も同様だった。
 確かに自分は、寝相の悪さに定評があった。眠る前にきちんと着付けたはずなのに、朝になるとほぼ脱げていた、というのは一度や二度ではない。
 無防備に曝された白い肌は艶やかで、ふっくらとして、柔らかそうだった。触れた場所はとても温かく、吸い付くような滑らかさが心地よかった。
 さらりとして、いくらでも触れていられる。
「よく寝ている」
 好奇心が擽られて、ソハヤノツルキは溜め息に混ぜて囁いた。
 音量を絞り、慎重に手を動かした。枕になっている腕はそのままに、左手のみを操って、警戒心皆無のあどけない寝顔をつん、と小突いた。
 頬の柔らかさを確かめて、掌で包み、撫でた。
「んむ、……う」
 鼻の脇を親指で擦っていると、嫌がった物吉貞宗が首を振った。
 しかし瞼は閉じたままで、鮮やかなあの瞳の色は現れない。それを惜しく思いつつ、別のところではホッとして、彼は指の位置をゆっくり下へ滑らせた。
 夜中に魘されていた様子はなく、呼吸は落ち着いていた。肌色は良く、体調の悪化は感じられなかった。
「よかった」
 ひと先ず役目は果たせたと、ソハヤノツルキは相好を崩した。
 誰かと床を共にするなど、これまで考えたこともなかった。
「意外と、……悪くないな」
 だがこうして抱きしめ合うと、互いの体温が心地いい。冬場は特に、暖を取り合えるので一石二鳥だった。
 なにより目覚めた時、物吉貞宗の可愛らしい寝顔が拝める。
 幸運を運ぶ脇差というだけでご利益がありそうで、得をした気分だった。
「ああ。良いな」
 言い直して、もっちりした肌触りの頬を戯れに小突いた。
「んう、……んっ」
 物吉貞宗は眠ったまま不機嫌に唸り、顔を背け、寝返りを打った。右腕の上から退いて、背中を向けて丸くなった。
 白いうなじが露わになって、くるん、と湾曲した後ろ髪が布団に落ちた。肉の薄い体躯は骨張っているが、その凹凸さえもが妙に艶っぽかった。
 中心を走る脊椎の上に、興味本位で指を走らせる。
「っ、あ」
「……!」
 直後にぴくん、と脇差の肩が跳ね上がり、漏れ出た声は甲高かった。
 日頃の健康で活発な少年らしさから一線を画した、腹の低い位置に突き剌さる声だった。
 反射的に肘を引いて、ソハヤノツルキは瞠目した。なにも付着していない人差し指を先に見て、続けてもぞもぞ動く脇差の後ろ姿に凍り付いた。
 脱げかけの湯帷子から覗く素肌の上に、琥珀色の輝きが現れた。
「あ、――」
 夢うつつの表情で振り返る脇差は、両手を床に添え、腰を緩く捻っていた。
 両足は布団の下に隠れ、細い帯が境界線になっていた。半端に着乱れた状態で、太刀を映す眼差しは儚かった。
「ぁれ。そはや、さん……?」
 完全に覚醒しきらず、舌足らずな呟きは掠れていた。とろん、と蕩けた双眸は眠そうで、昨晩のことを覚えているかどうかも疑問だった。
 先ほど、自分が陥ったと同じ状態ではなかろうか。
 小さく欠伸をして、目尻を擦った少年に緩慢に頷いて、ソハヤノツルキは布団の上を後退した。
 身を起こせば、引っかかっているだけだった湯帷子が背中に落ちた。袖が手首に絡まって、だらしなく弛んだ布が尻の下に巻き込まれた。
「お、おお。おはよう、物吉」
 未だ感覚が鈍い右腕を揉みほぐし、血液を末端へ送りながら告げる。
 朝の挨拶に、ここまで緊張した日があっただろうか。
 男であると分かっているのに艶っぽい姿勢で見つめられて、不思議なことに胸が高鳴り、変なところから汗が出た。
 このまま物吉貞宗が起き上がったら、湯帷子が全部脱げてしまう。
 とても直視できないと、何故だかそんな風に思った。理由は分からないが、ともかく見てはいけない気になって、いそいそと布団から出るべく活動を開始した矢先だった。
「ソハヤ、起きているか。朝餉に間に合わなくなるぞ」
 隣室で寝起きする兄弟刀が、様子を気にしてやって来た。襖越しに話しかけられ、ソハヤノツルキは竦み上がった。
「おおお、おおおおき、起き、起きてる。起きているぞ、兄弟!」
「そうか? どうかしたのか」
 ハッとして隣を見れば、物吉貞宗がうつ伏せに突っ伏していた。両手は敷き布団に添えられ、肘が鋭角に曲がっており、これから起き上がろう、という雰囲気がありありだった。
 慌てて前方に向き直れば、動揺し過ぎの返答を訝しみ、大典太光世が様子を確かめるべく襖に手をかけていた。
 彼との間には、入室の許可を取り合う決まりはない。
 それで困ったことは、過去に一度もなかった。だが今は、そのなぁなぁぶりが恨めしく、悔やまれてならなかった。
「待て。ま、待ってくれ、兄弟」
 今、部屋に入られるのは非常に不味い。
 事情をきちんと説明すれば、やましいことはなにもなかったと分かる。だがそれをこの場で、巧く出来る自信がなくて、咄嗟にそれしか言えなかった。
 両手を振り回し、懸命に懇願するが届かない。
 既に一尺近く開いていた襖の隙間に、背高な太刀の顔が見えた。
 目が合って、ソハヤノツルキはひくり、と頬を引き攣らせた。
「……邪魔をした」
 スッと開いた襖が、直後にパタン、と閉じられた。
「大典多さん、ソハヤさんは、よろしいのですか?」
「ああ。お楽しみだったようだ」
「誰、ですかあ?」
 一瞬で兄弟刀の姿が見えなくなり、その場にいたもうひと振りとの会話が遠くなった。
 入れ替わりに身を起こして、物吉貞宗は脱げた湯帷子を膝に広げた。拳で目元を擦り、呂律が回らない口調は甘えているようだった。
 もろ肌を晒し、首を捻る。
 大典太光世の視界に、その姿は当然入っていただろう。
 半裸の男ふた振りが、ひと組の布団を共有していた。それが何を意味しているか、真っ先に思いつく答えはひとつだ。
「違う。違うんだ、兄弟。聞いてくれ。誤解だ!」
 必死になって弁解を試みるが、返事はなかった。もう立ち去ってしまったのか、うんともすんとも言わなくて、伸ばした腕が虚空を掴んだ。
 力なく床に落とし、深々とため息をついて座り直す。
「あ、あの」
「あぁ?」
 起きて早々災難に見舞われて、機嫌は一気に下降した。呼び声にも仏頂面で挑んでしまい、返事は無愛想で、目つきは剣呑だった。
 そんな不愉快ぶりを悟って、物吉貞宗が湯帷子の前だけを持ち上げた状態で身を竦ませた。
 肩は露出したまま、胸元だけを布で覆った脇差が視界に入って、ソハヤノツルキは一転して目を点にした。
 数秒間まじまじと見つめた後、ハッと我に返り、顔を背ける。
「あの。なんだか、えっと。……すみません、でした」
「いや」
 ようやくしっかり目が覚めて、状況が理解出来たのだろう。恐縮しながら謝られて、太刀は鼻の頭を爪で掻いた。
 赤く染まった頬を、泳ぐ視線を、そうやって誤魔化して。
「意外と、……よかった……」
「え?」
 当分の間、今見た光景は忘れられない。
 欲望に正直な返答は、幸か不幸か、物吉貞宗には届かなかった。

見ずもあらず見もせぬ人の恋しくは あやなくけふやながめくらさむ
古今和歌集 恋一 476 
在原業平朝臣

思ひのみこそしるべなりけれ

 屋根の上でちゅん、と雀が鳴いた。
 間もなく翼を広げて飛び立って、地面に落ちる影がすいっと流れていった。
 一瞬の出来事に、目を奪われた。お、と思う間もなく影は遠ざかり、追いかけようとしても追い付けなかった。
 縁側から身を乗り出し、庭先に落ちそうになって慌てて姿勢を戻す。
「あぶない、あぶない」
 軒を支える柱に右腕を絡め、ソハヤノツルキはホッとした顔で額を拭った。
 汗など出ていないのに、無意識にそこを撫でていた。他の刀たちがそうやっているのを何度も見かけるうちに、どうにも癖が移ってしまったらしかった。
 安堵の息を吐き、唇を舐める。ほんのり甘く感じたのは、つい先ほど、汁粉を一杯味わったからだ。
「人の身というものは、面白いな」
 午前中からかかりきりだった雪かきが、つい先ほど終わった。それからひと休みを経て、今は部屋へ帰る最中だった。
 一夜のうちに降り積もったそれは、小柄な短刀らの背丈を軽く上回っていた。
 屋根に積み上げたままでは、その重みで屋敷が潰れかねない。そうならないように何振りかが登って、ひたすら削って落とす繰り返しだった。
 それが毎日続くのだから、足腰が辛い。けれど大柄な大太刀や薙刀に任せると、それだけで屋根が割れそうだった。
 だからこれは、太刀と打刀の仕事だ。短刀や脇差も手伝うと言っているが、滑って転んで落ちられても困るからと、断っていた。
 小豆を甘く煮た中に餅を入れた汁粉は、その肉体労働の報酬だ。この程度で、と懐柔されるのは悔しいが、汗水垂らして働いた後の甘味は、非情に美味だった。
 腹がいっぱいになり、しかも内側からぽかぽか温かい。
 満足感に頬を緩め、ソハヤノツルキは伸ばしていた袖を捲った。
 外に出ている間は、寒いからと手首まで覆っていた。けれど普段は肘まで捲り上げており、伸ばしている状態はなかなか馴染まなかった。
「んお?」
 まずは右腕をいつも通りにして、続けて左腕の分を、と指を引っ掻けた。
 そして布を手前側にひっくり返そうとして、何故か布地ではなく、己の手首を擦った指先に、彼は目を丸くした。
 良く見れば、穴が開いている。
 どうやらそこに、中指が知らずに入り込んだらしかった。
「うあっちゃ~」
 どこかで引っ掻けたらしく、綺麗に裂けていた。長さは一寸に届くかどうか、という程度で、幅は狭かった。
 今まで気付かなかったのは、間抜けとしか言いようがない。繊維が弱まっていたところに、自ら止めを刺したようなものだった。
 あまり弄っては、裂け目が広がってしまう。それは避けたくて指を抜いて、ソハヤノツルキは困った顔で頭を掻いた。
「参ったな」
 冬場は曇りの日が多く、洗濯物があまり乾かない。毎日の雪下ろしで汗だくになるのに、着替えの確保は難しかった。
 手持ちがあまり多くないので、これが着られなくなると、明日以降は上着なしで過ごさなければいけなくなる。
 この程度の穴なら見た目にそう影響を与えないが、外での作業には支障が出そうだった。
 隙間風が忍び込んで、寒さに震えなければならないのは、嫌だ。
「どうすっかなあ」
 けれどこの穴を繕おうにも、彼は縫物など、やったことは一度もなかった。
 刀剣男士は、刀の付喪神だ。そしてソハヤノツルキは、霊力の加護を期待し、神社に奉納された刀だった。
 つまるところ、針仕事とは無縁の日々を送っていた。訪れた人々が熱心に祈りを捧げる姿は多々見て来たが、お針子の仕事ぶりを見物する機会は、ついぞ得られなかった。
 勿論、彼自身も針と糸で破れを繕う、という経験は皆無。
 道具すら持ち合わせておらず、誰かに頼むより他になかった。
 では誰に依頼するかといえば、それも心当たりがない。兄弟刀の大典太光世には短刀の知り合いが多いので、そちら経由で申し込むか、と思い悩んでいた矢先だ。
「あれ。どうしたんですか、こんなところで」
 後ろから不意に話しかけられて、ソハヤノツルキは首から上だけで振り返った。
 仰け反るように背を撓らせ、僅かに見えた髪色に目を瞬かせる。
「物吉貞宗」
「はい。すみません、そこに立たれると通れないです」
「おっと、すまん」
 毛先が四方を向いて跳ねる髪は空気を含んでふかふかで、瞳は黄金を思わせる色艶をしていた。背は高くないが低くもなく、脇差らしい小柄な体躯をして、申し訳なさそうに見上げてくる双眸は困った風に歪んでいた。
 僅かに首を竦めて告げられて、それで太刀は我に返った。言われてみればその通りと、母屋から続く渡り廊の真ん中から慌てて退いた。
 ふた振りが並んで通るのが精一杯の道の、真ん中に堂々と陣取っていた。
 思いがけず、通行の邪魔をしていた。気が付かなかったと素直に詫びて、彼は破れた上着を背中に隠した。
 左腕だけ不自然に肘を曲げ、取り繕う笑顔を通りかかった顔馴染みに向ける。
「ソハヤさん?」
 それが奇妙に思えたのか、物吉貞宗は眉を顰めた。
 なにか隠し事をしている雰囲気に、温和な少年の顔が険しくなった。
「なにかあったんですか?」
「ああ、いや」
 別段隠す必要はなかったのに、咄嗟にそうしてしまった。この少年なら縫物でも出来るだろうに、なかなか言い出せなくて、ソハヤノツルキは目を泳がせた。
 物吉貞宗とは前の主が同じで、以前から交友があった。本丸で初対面だった刀剣男士よりは、ずっと話し易かった。
 それなのに変に遠慮してしまって、気まずい。
 脇差の方もそれを訝しんで、道を譲られたのに動かなかった。
「んん?」
 真ん丸い目を物憂げに眇め、小柄な体躯を左右に揺らした。渡り廊の隅に逃げていた太刀を横から覗き込んで、度々上を窺いつつ、ソハヤノツルキの周囲を探った。
 やがてその瞳が、袖に空いた小さな穴を捉えた。
「袖、どうしたんですか」
「まあ、ちょっと」
 指で弄った所為で、裂け目が立体的になっていた。真っ直ぐ一本走った傷が開いて、本来隠れているべき肌が見え隠れしていた。
 右腕だけ袖を捲っていたのも、変に思われた要因だった。
「雪下ろしの時に、たぶん。引っ掻けた」
 屋根の上に登る以外にも、庭に積もった分を退かせて道を造る作業もあった。
 こちらもなかなか重労働で、埋もれた庭木に気付かず、身体のあちこちをぶつけて痛い目を見た。
 その時に、作った傷だろう。
 そういえば細い枝に袖を引っ張られ、力任せに振り払ったのだった。
 軍手をしていたので怪我はなかったが、今思うと他に考えられない。
 もうちょっと慎重に行動すべきだったと反省するが、全て後の祭りだった。
「放っておいたら、どんどん大きくなりそうですね」
「ああ。けど、どうすりゃいいんだか」
 最初に気付いた時に比べて、穴はごく僅かだが広がっていた。この先無意識に弄り倒して、肘の辺りまで裂けていくのは簡単に想像出来た。
 そうなる前に、なんとかしたい。
 しかし対処方法が思いつかなくて困っていたら、物吉貞宗は楽しそうに顔を綻ばせた。
「じゃあ、僕が縫いましょうか」
「有り難い。頼めるか」
「勿論です。今からでも、お時間はありますか?」
「問題ない」
 こちらから頼むべきところを、向こうから申し出てくれた。
 まさに願ったり叶ったりだと二つ返事で頷いて、ソハヤノツルキは心の中で握り拳を作った。
 時間的余裕も、問題ない。力仕事をひとつ終えたところで、あとは夕餉まで予定がなかった。
 部屋で寛ぐか、兄弟刀のところへ遊びに行くか、特に決めていなかった。むしろ物吉貞宗の方は大丈夫なのかと心配になるが、にっこり微笑まれて、質問する機を見失ってしまった。
「では、決まりですね。僕の部屋で良いでしょうか」
「構わない。感謝する」
 ぱん、と両手を叩き合わせた脇差に、ソハヤノツルキは頬を掻いた。小さく頭を下げて礼をして、先に立って歩き出した背中を追いかけた。
 この本丸の屋敷は南北で棟が分かれ、両者を長い渡り廊が繋いでいた。
 南側が母屋に当たり、台所や食堂代わりの大広間などがある。対して北側は居住区画で、本丸に集う刀剣男士の私室がずらりと並んでいた。
 刀たちは基本的に、ひと振り一部屋与えられているが、中には粟田口の短刀らのように、大部屋を共有する刀派もあった。部屋自体は刀種ごとに分けられて、打刀は打刀ばかりで集められていた。
 ソハヤノツルキは太刀なので、脇差部屋区画にはあまり縁がない。
 もしや初めて入るのでは、と過去の記憶を振り返って、通された部屋の敷居を跨いだ。
 襖を開けば、中は広々としていた。生活道具は壁際に集められ、寝具は綺麗に折り畳まれていた。
 万年床状態の自室とは、天と地ほどの差があった。整理整頓が行き届き、定期的に掃除しているのか、埃ひとつ落ちていなかった。
「へええ」
「やだな。あんまりじろじろ見ないでください」
 大典太光世も片付けが下手で、頻繁に前田藤四郎の訪問を受けていた。そのついでで、一緒に布団を干してもらうこともあったが、頻度は高くなかった。
 どうやればこんなに綺麗に使えるのだろう。出したものを元の場所に戻す、という単純なことさえうっかり忘れてしまう男は、物珍しげに室内を眺め、怒られて首を竦めた。
「上着、貸してください」
「おう。悪いな」
 一方で物吉貞宗はすぐに気を取り直し、棚の抽斗から箱を取り出した。表面に漆を塗っただけの簡素なもので、蓋を外せば中から糸や端切れが顔を出した。
 その中から待ち針や、縫い針が刺さった針山を探し当て、箱の外に置いた。座卓の前にあった座布団を引き寄せ、座ると同時に腕を伸ばした。
 ソハヤノツルキは部屋の真ん中で羽織っていたものを脱ぐと、手渡すついでに膝を折った。
「敷物が一枚しかなくて。使いますか?」
「いや、良い。お前のものだろう」
 畳に直接腰を下ろした太刀に遠慮して、失礼したかと物吉貞宗が腰を浮かせた。それを手で遮り、座り直すよう促して、胡坐をかいた男は興味深げに箱の中身を観察した。
 糸切り用の黒い鋏に、布を裁断する大きめの鋏。糸は細い棒状のものに巻き付けられて、端が解けないよう固定されていた。
 糸自体も色が沢山あって、白に黒、赤や緑と賑やかだった。
「よくやるのか」
「そんなに多くはないですけれど。太鼓鐘が、たまに外で破いてくるので」
 縫う布に合わせて糸を選ばないと、そこだけ不自然になってしまう。
 衣装にこだわりがある伊達の短刀は、その辺が五月蠅かった。
 慣れた調子で上着に近しい色を選び、物吉貞宗が肩を竦めた。空色の髪に金の瞳が目映い彼の弟は、いつも元気いっぱいで、粟田口の短刀と混じってやんちゃ三昧だった。
 ただ彼の昔馴染みには、料理上手ならいるけれど、裁縫に長けた刀はいない。
 一度見かねて直してやって以降、当たり前のように持ってくるようになった。
 謝礼のつもりか山で摘んだ花や、木の実を一緒に差し出すのだと言われて、ソハヤノツルキはつられて笑った。
「良い弟じゃねえか」
「怪我するような真似は、しないで欲しいんですけどね」
 褒めてやれば、心配なのだと囁かれた。
 無茶をしたがる性格なのを承知して、傷ついて血を流すのを憂いでいた。
「こっちも、良い兄貴だな」
「なにか?」
「い~や、なんでもない」
 独り言を聞き取れず、脇差が首を捻った。それを誤魔化し、手を伸ばして、ソハヤノツルキは眉を顰めた。
「これ、なんだ?」
「ああ、それはですね。折角だし、使いますか?」
 話題を変えて、裁縫道具に埋もれていたものを引き抜いた。いずれも掌に収まる程度の大きさで、色々な布や、糸を使って作られていた。
 花柄や、猪目型に、葵の紋を模したものまであった。丁寧に端を処理し、表面には細かく刺繍が施されていた。
 それが五つも、六つも飛び出してきて、驚いた。
 いったい何に使うものなのかと惚けていたら、葵紋を手に取った物吉貞宗が、薄縹色の上着にそれを重ねた。
 破れ目を覆う形で置いて、出来上がり図を太刀に示す。
 にっこり満面の笑みを浮かべられて、ソハヤノツルキは頬を引き攣らせた。
「まさか、それって」
「釘隠し、ならぬ傷隠しですね。粟田口のみんなには、好評なんですよ」
 建物の外壁に釘の頭が出ては無粋だからと、これを隠す専用の金具がある。
 それと役目は同じと言って、脇差は無地の袖に模様を付けたがった。
 半袖一枚で過ごしているから、という理由以外で寒気がして、金髪の太刀は竦み上がった。愛らしい猪目模様で飾った上着を羽織る己を想像して、全身に鳥肌が立った。
 ぞぞぞっ、と来て、歯の根が合わない。カチカチ音を鳴らして首を振れば、物吉貞宗はあからさまにがっかりした顔をした。
「可愛いと思うんですけど」
「いやいやいや。そういうのは良いから、普通で頼む」
 第一、汚れ易い袖近くに紋をつけること自体、どうかと思う。
 そんなところに使わないでくれ、と切実に頼み込んで、ソハヤノツルキは冷や汗を流した。
 脇差はそれでも粘ったが、最後は渋々同意してくれた。無事諦めてくれたのに胸を撫で下ろして、太刀は取り出した飾り布を膝先に並べた。
 自分が使うには遠慮願うが、短刀たちがこれを服に付けていたら、確かに可愛かろう。
 破れた痕だと、傍目には分からなくなるので、まさに一石二鳥だった。
 モコモコした肌触りに頬を緩め、試しに裏を返せば、様々な色が飛び交っていた。表からだと可愛らしい文様が、反対側からだと影も形もなかった。
 優雅に池を泳いでいるように見える鴨だって、水中では必死に足ひれを動かしている。
 そういうものかと連想して、彼は葵の紋を小突いた。
「すげえな。自分で作ったのか」
「万屋には置いてなかったので。当て布をするにしても、こういう方が楽しいでしょう?」
 手が込んだ刺繍は、一朝一夕で完成するものではない。気が遠くなりそうな作業工程に眩暈を起こして、ソハヤノツルキは恐縮する脇差に視線を投げた。
 細い糸を針穴に通し、てきぱきと袖の破れを繕っていく。
 指の動きには一切迷いがなくて、縫い目も正確だった。
「ほへぇ……」
「じろじろ見られるのは、ちょっと」
「おっと。悪いな」
 針先が布に沈んだかと思えば、瞬時にぴょこ、と首を出した。縫い目を扱きながらひと針ずつ進めて、出来上がるまでものの五分とかからなかった。
 途中、まじまじ眺められるのを嫌がったが、背を向けたりはしなかった。集中出来ないと言ったくせに、最後まで動きに乱れはなかった。
 終着点に到達して、布の裏側に針を通し、糸を結んで、口に咥えて噛み千切る。
 そこに鋏があるのに敢えてそうした意味を考え、すぐに放棄し、ソハヤノツルキは返却された上着に相好を崩した。
「おお、ちゃんと塞がってる」
 穴のあった場所は綺麗に縫われ、指が潜り込む隙間は失われていた。布に比べてやや濃い糸が横一列に並んでおり、その幅や、間隔は見事に揃っていた。
「着てみて違和感があったら、言ってください」
 色味の違いはさほど目立たず、遠くからだと全く分からない。
 丁寧過ぎる職人仕事に感嘆の息を吐き、太刀は脇差の気遣いに拍手した。
「お前に頼んで良かった。助かったぜ」
「どういたしまして」
「今度、なんか礼をする。なにがいい。言ってくれ」
 こんなに良くしてもらって、対価を支払わないわけにはいかない。
 好意に甘えるような不義理は果たせなくて、ソハヤノツルキは袖を通しつつ言った。
「いえ、そんな。そういうつもりじゃ」
「いや、このままじゃ俺の気が済まない。なにが欲しい?」
 違和感など、どこにあると言うのだろう。縫い糸の処理も完璧で、素肌を擦られても少しも痛まなかった。
 次からはこういう事があったら、真っ先に物吉貞宗を頼ろう。そう決めて、早口になって、太刀は遠慮する脇差に言葉を重ねた。
 感激のままに両手を取って握りしめ、答えるまで離さない、と眼差しで告げた。
 恩を受けたのに、返せないような男にはなりたくない。そういう意思は痛いほど分かるが、欲しいものなど、咄嗟になにも思い浮かばなかった。
 あまりにも情熱的な懇願に、普段は抑えられている霊力が噴出する。恐らくは無自覚だろうソハヤノツルキに圧倒されて、物吉貞宗は口をぱくぱくさせた。
 困り果てて目を泳がせ、半端に浮かせた尻を戻した。仰け反り気味だった背中も伸ばして、爛々と輝く双眸に首を竦めた。
「あの……」
「なんだ!」
 恐る恐る声を響かせれば、ものすごい勢いで食いついて来た。
 がっしり握られた手を一瞥し、危ないからと針山を膝で遠ざけ、物吉貞宗は小さく溜息を吐いた。
 なにかを強請らなければ、ずっとチクチク言われそうだ。しかもこの雰囲気では、安物を頼んでも納得してくれそうになかった。
 まがりなりにも、天下を取った男の刀だ。写しとはいえ、山姥切国広よりは己に自信を持っている。誇り高く、気高い霊刀は、こういう状況下では非常に強欲で、傲慢だった。
「ええと、では。えっと」
 太刀らしい分厚く大きな掌から、少し高めの体温が伝わってきた。
 振り払うのが難しい力の強さを発揮されて、骨が軋んだ。折れやしないか冷や冷やしながら、物吉貞宗は必死に言葉を選びとろうとした。
 書物か、筆か、或いは反物か。
 菓子を注文したら、食べきれないくらい大量に寄越して来そうだ。それはそれで困ると悩み、迷い、出ない結論に唇を戦慄かせた。
 必死に息を吸い、吐いて、情熱的な眼差しに怯まず立ち向かう。
 だが眼力に圧倒されて、見詰め合おうにも、そう長続きしなかった。
 緊張に心臓が圧迫されて、どくどく言う鼓動が耳元でこだました。なにもしていないのに身体が妙に熱くて、冬場なのに腋がしっとり湿り始めた。
 鼻の奥がむず痒く、だのにくしゃみが出そうで出ない。
 結論を出すのに時間が欲しいのに、ソハヤノツルキは猶予をくれなかった。言えば即座に踵を返し、万屋へ走っていくつもりでいるらしかった。
 善は急げという言葉を、自ら体現しようとしている。
 そこまでせっかちにならずとも良いのに、気忙しいことこの上なかった。
 辛抱が足りない男を一瞥して、それとなく部屋を見回す。
 火急を要さないものの、いずれは買おうと思っているものなら、いくつかあった。その中から文句を言われずに済みそうなものを探して、物吉貞宗は目を閉じた。
 視界を闇に染め、心を鎮めようとした。焦ると失敗すると肝に銘じて、なんとか冷静になろうとした。
 だのに瞼を下ろした途端、聴覚が感度を増した。肌を通して流れ込む熱にも敏感になって、太刀の荒い呼気が気になって仕方がなかった。
 鼓動は速まり、ドンドンドン、と銅鑼を叩いているようだ。鼻から息を吸いこめば、雪下ろしで汗を流した後だと分かる匂いが嗅覚に突き刺さった。
 臭い。
 が、決して不快ではない。
「……なんなんですか、これ」
 訳が分からない状況にずるずる沈んでいく感覚に襲われて、物吉貞宗は心の中で呻き、奥歯を噛み締めた。
 顔を伏し、返事を躊躇して背筋を粟立てた。
 あんなに急かして来た男が静かになったのを不思議と思わず、疑問すら抱かなかったのは、不覚だった。
「怪しい奴。そこにいるのは誰だ!」
「うあっ」
 突如、握っていた手を解かれた。体重の一部をそこに預けていた脇差はハッとして、直後に肩を抱く圧力に目を白黒させた。
 ソハヤノツルキは大声で吼えて、右膝を起こし、上半身を前方に傾けた。いつでも立ち上がれるよう身構えて、裁縫箱から裁ち鋏を引き抜いた。
 ほんのわずかな時間のうちに、彼は物吉貞宗を半身で庇い、守るべく己の胸に抱え込んだ。反対の手で武器を探し、鋭利な刃を持つ鋏を装備した。
 一緒に詰め込まれていたものを撒き散らさず、見事な早業だった。
 全く周りを見ていなかった脇差は唐突な展開に混乱して、険しい表情で襖を睨む太刀に総毛立った。
「そ、ソハ……さっ」
「出て来い。そこにいるのは分かっているぞ」
 いったい何が起きたのか、さっぱり分からない。だがソハヤノツルキの口ぶりから推測は可能で、動揺から抜け出せないまま、物吉貞宗は部屋の出入り口を見た。
 本丸は審神者、ならびに神刀である大太刀が創り上げた結界により、敵の侵入を防いでいた。
 もしやそれが、破られたとでもいうのだろうか。
 しかし警戒を促す声や、敵襲に備える動きは一切感じられない。屋敷自体は非常に静かで、五月蠅いのは物吉貞宗の鼓動だけだった。
 無意識の行動なのか、ソハヤノツルキが肩を抱く力は強い。押し退けようにも敵わなくて、逆に逃げられないよう圧迫された。
 右耳が太刀の胸板に当たり、その分厚さや固さが否応なしに感じられた。着ているものが薄いだけに、筋肉の鳴動まではっきり伝わって、体格差を否応なく意識させられた。
「ソハヤさん、苦しい」
 身動ぎ、束縛から抜け出そうと足掻くが果たせない。
 大きな掌は脇差の細い肩をすっぽり覆って、爪先は関節の継ぎ目に食い込んでいた。
 下から覗き込んだ表情は真剣で、気迫に満ちていた。未知の存在に立ち向かい、血気盛んに勇んでいた。
 戦場で刃を振り翳し、敵に挑みかかる時と全く同じ表情だ。
 これまで共に出撃しても、槍や打刀との連携が中心であった脇差にとって、太刀である彼のこんな姿を間近で見るのは、実はこれが初めてだった。
「……っ!」
 普段のどこか惚けた、そして明るくやんちゃな雰囲気とはまるで違う。
 獲物を欲する餓えた獣の横顔を目の当たりにして、物吉貞宗はドッ、と胸を貫くような衝撃に騒然となった。
 息を飲み、瞬きも忘れて男らしい輪郭に見入る。
 奥歯を噛み締めて前方を睨み続けるソハヤノツルキは、なかなか出て来ない不審者に痺れを切らし、裁ち鋏を上下に揺らした。
 丸く穴が開いた握り部分を、指を通すのでなく握りしめ、二枚ある刃を一列に揃えた状態で牽制した。
 それでようやく観念したのか、廊下側から室内を窺っていた存在が、ゆっくり、ゆっくり襖を開いた。
 すう、と隙間が出来て、小さな指先が顔を出した。親指以外の四本が縦に並んで、僅かに遅れて麦の穂色の頭が現れた。
 前髪を横に流し、落ちて来ないよう留め具で固定していた。襟足は大きく跳ねており、首を竦める姿は必要以上に幼かった。
「包丁……藤四郎?」
 口はヘの字に曲げられて、物吉貞宗らに向けられる眼差しは剣呑だ。不機嫌を露わに、隠そうともせず、ぶすっと膨らませた頬を一瞬で凹ませた。
「人妻の気配を感じたのに」
「は?」
「人妻っぽい気配があったのに。なんだよ、全然違うじゃないか!」
 口を尖らせ文句を言われたが、その内容は全くもって意味不明だった。
 握り拳を上下に振り回して、包丁藤四郎が地団太を踏みながら文句を垂れ流した。その訳が分からない抗議にぽかんとなって、ソハヤノツルキは胸元に抱き庇った脇差に助けを求めた。
 鋏を構えた腕を下ろして、呆然としている物吉貞宗と見詰め合う。
 その間も彼の腕は肩に回され、華奢な少年を引き寄せ続けた。
「なんなんだよ、もう。人妻、どこに行っちゃったのさ」
「おい、待て。そんなもの、最初からどこにもいなかったぞ」
「嘘だ。隠したんでしょ。ねえねえ、人妻どこ~。出ておいで~?」
 ふた振り揃って包丁藤四郎に向き直り、太刀が代表して答えたが、話が通じない。
 粟田口の短刀は駄々を捏ねて身を捩り、本気で家探しするつもりなのか、敷居を跨いで入ってきた。
 そうして箪笥の抽斗を引っ張り出し、奥の空洞を覗きこんだり、呼びかけたり。
 おおよそ常識外れとしか言いようがないことを連発して、部屋の主らを呆れさせた。
「おいおい」
 包丁藤四郎とは、ふた振りともに、過去に少なからず縁がある。
 彼は甘えん坊で、甘え上手で、案外口達者で、要領が良かった。
「人妻や~い」
「あの、包丁君。僕の部屋に、そんなのは」
 屑籠に向かって声を張り上げた短刀が見ていられなくて、物吉貞宗は止めさせようと手を伸ばした。ソハヤノツルキの束縛は緩んでおり、脱出は容易だった。
 太刀から離れ、短刀らしい幼い肩を捕まえた。中身の少ない屑入れから引き剥がし、説得すべく目と目を合わせた直後だ。
「いや待て。そういや、ああ。それっぽいのは居たなあ」
「本当?」
「ソハヤさん?」
 鋏を元の位置に戻したその手で顎を撫でた太刀のひと言に、落ち込んでいた少年はパッと目を輝かせ、脇差は信じられないと声を高くした。
 大急ぎで振り返って、物吉貞宗は瞬きを繰り返した。見つめる先で太刀は不遜な顔をして、口角を持ち上げて意地悪く笑った。
 そもそもこの本丸に、女人はひとりも存在しなかった。五虎退が引き連れる虎に雌が含まれている可能性ならあるが、それは別の話だ。
 いったい、何を言い出すのか。
 稚い子供をからかい、振り回すのは止めて欲しい。馬鹿にするのも大概にするよう眼力を強めれば、右目だけを器用に閉ざし、ソハヤノツルキが膝を打った。
「さっきの、物吉が裁縫してるとこ。ありゃ、確かに人妻っぽかったぜ」
 睨まれても飄々として、胡坐を組んで座り直し、呵々と笑いながら大きな声で言い放つ。
 唐突な発言に絶句して、脇差は凍り付いた。
「ぼ、く……?」
「え~。なんだよ、物吉だったの? ちぇ、がっかり」
「ちょっと。違いますよ」
 唖然としていたら、横で包丁藤四郎がつまらなそうに空を蹴った。両手を頭の後ろで組んで、ぶすっとした顔で口を尖らせた。
 露骨に拗ねられて、物吉貞宗は慌てて否定した。言い出しっぺのソハヤノツルキを改めて睨んで、撤回するよう訴えた。
 人妻とは、伴侶を持つ人間の女性のことだ。
 間違っても、刀剣男士を指して言う台詞ではない。
「だから、人妻っぽい、て言ったろ?」
「それでも!」
 対するソハヤノツルキは不敵な笑みで対抗し、揚げ足を取って言い返した。
 近しい雰囲気がしただけで、正確には違うものだ、と言葉尻に含ませたけれど、脇差に言わせればどちらも大差ない。そもそも、そういう存在に揶揄されたこと自体が屈辱だった。
 確かに屋敷に集う刀らの中では小柄な部類に入るけれど、彼だって立派な男だ。戦場で数多の敵を屠る、血の餓えた獣の一匹だった。
「ひどいです。まさか僕のこと、そんな風に思ってたんですか?」
「んな怒るなって。ちょっとした冗談だろ?」
「冗談でも、言っていいことと、悪いことがあります!」
 ところが正反対も良いところの評価を下されて、面白くない。
 到底認められないと抗議して、物吉貞宗は声高に吠えた。
 火が点いたように真っ赤になって、ソハヤノツルキに殴りかかる。ぽかすかと打たれるのを嫌って後退した太刀の向こう側では、包丁藤四郎が退屈そうに欠伸をしていた。
「ちぇ。人妻に頭撫でてもらえると思ったのにな~」
 望みが叶わないと知り、とぼとぼと部屋を出ていった。しょぼくれながら襖を閉めて、戻ってこなかった。
 騒ぐだけ騒いで立ち去った短刀に見向きもせず、脇差は利き腕を大きく振りかぶった。渾身の力を込めて殴りつけて、敢え無く避けられて癇癪を爆発させた。
「ソハヤさんってば、ひどい!」
「こら、やめろ。物吉。痛い。殴るな。悪かった、俺が悪かった。すまん」
「心が籠ってません」
「許せ。このとーりだ」
 尚も拳を振り翳す少年に、壁際へ追い込まれた太刀は白旗を振った。こめかみ近くに一撃を喰らって観念して、両手を合わせ、頭を垂れた。
 肘を水平に広げて首を竦め、土下座とまではいかないが、誠心誠意謝罪する。
 次の一撃を狙って身構えていた脇差は、両目をぎゅっと瞑った男を前に、荒い息を吐いた。
 肩を上下させ、呼吸を整えた。構えは解かないままじっと睨みつければ、恐る恐る様子を窺う太刀と目が合った。
「へ、ヘヘ」
 完全には許して貰えていないと察して、ソハヤノツルキが引き攣り笑いを浮かべた。
「そんなに怒るなって。可愛い顔が台無しだぜ?」
「――っ!」
 彼としては褒めたつもりだったのだが、この場で言うべき言葉ではなかった。
 人妻扱いされた直後に告げられた台詞に、物吉貞宗は怒髪天を突く勢いで拳を振り下ろした。
「いだ!」
「くうっ」
 ソハヤノツルキの脳天を痛打して、跳ね返った衝撃に、脇差も身じろいだ。利き腕を胸に庇って膝を折り、体勢を崩して置きっ放しの針山へと倒れ込んだ。
 危ない、と思ったけれど、避けられない。
 目の前に迫る細く尖った金属棒に、最悪を想像して凍り付いた。
「……!」
 まさか戦場ではなく、安全であるべき屋敷の中で終わりを迎えるなど、誰が想像出来ようか。
 しかし逃れようがない現実に竦み上がって、せめてもの抵抗と両目を硬く閉じた直後だ。
「あっぶねえな」
 次に聞こえてきたのは、肉を貫く針の音でなければ、潰された眼球が四散する音でもなかった。
 ガクン、と上半身が大きく揺れて、直後に抱き起こされた。畳の上に尻から降ろされて、彼は呆然としながら肩を上下させた。
 目の前にソハヤノツルキの顔があった。上腕、並びに背には頼もしい手が添えられて、強かった圧迫感は次第に薄れていった。
 衝突寸前で助けられたのだと、理解するのには時間が必要だった。目まぐるしく変わる状況に頭が追い付かなくて、物吉貞宗は惚けたまま男を見詰め続けた。
「大丈夫か? 気を付けろよ」
 言葉もなく硬直している脇差を案じ、太刀が声を潜めて問いかけた。右手でふわふわの前髪を掻き上げ、額に触れて、真ん丸い瞳を覗き込んだ。
 吐息が掠める距離まで迫って、試しに頬をむにむに抓る。
「はっ」
 それでやっと我に返って、物吉貞宗は奪い返した頬を両手で庇った。
 軽く触られただけなのに、異様に熱かった。じんじん疼いて、撫でた程度では収まらなかった。
 鏡がないので確認しようがないが、きっと耳まで赤かろう。自分で分かるくらいに身体中が熱を蓄え、耳から湯気が出そうだった。
「そ、そもそも。誰の、せいですか」
「まだ言うのかよ。結構根に持つんだな」
「あんな風に言われたら、誰だって怒るに決まってます」
 誤魔化して声を荒らげれば、悪びれもせずに言われた。
 蒸し返されるのを嫌ったソハヤノツルキをねめつけて、物吉貞宗は当分引きそうにない熱を瞼の裏に閉じ込めた。
「だいたい、だったら。僕は、誰の妻なんですか」
「ん?」
「なんでもありません!」
 自分にしか聞こえない音量で囁き、小首を傾げた太刀には怒鳴りつけた。
 一緒に振り翳した拳は、今までにないくらい、力が籠っていなかった。

知る知らぬなにかあやなくわきて言はむ 思ひのみこそしるべなりけれ
古今和歌集 恋一 477
詠み人知らず

2017/01/29 脱稿

隠れむものか埋む白雪

「ひえぇ~、さっむ」
「本当、冷えるね。兼さん」
 ドタバタという足音と一緒に、馴染みのある声が聞こえて来た。糠床を掻き回す手を休め、小夜左文字は間もなく姿を見せるだろう者たちを気にして背筋を伸ばした。
 玄関から屋敷に入り、一直線にこちらを目指したらしい。肩を並べて入って来たふた振りは、揃って首を竦め、両手を擦り合わせていた。
 鼻の頭に始まり、耳も、頬も真っ赤だ。いったいどこで、何をしていたのかと考えて、短刀は糠床ごと脇へ逃げた。
 ぷうん、と漂って来たのは、手元にある樽が発する臭いではない。
 原因を探って嗚呼、と頷き、少年は指先に残る滓を払い落とした。
「之定、茶ぁくれ。あっついやつ!」
 一方で大股で入って来た打刀は声を荒らげ、奥にいた男に向かって尊大に吠えた。やや巻き舌気味に捲し立てて、赤黒くなっている指先に息を吹きかけた。
 どうやら彼らは寒さに耐えられなくなって、温かいものを求めに来たようだ。
 その気持ちは、分からないでもない。だが態度が少々横柄であったため、台所を取り仕切る打刀の機嫌を損ねてしまった。
「まったく、五月蠅いね、君は。もう少し、落ち着きというものを持ったらどうだ」
 振り返り、歌仙兼定が嫌味たらしく言い返す。その右手には包丁が握られて、左手には皮を剥く前の芋が握られていた。
 毒のある芽の部分を、丁寧に削ぎ落としているところだった。それなりに集中力の要る作業を邪魔されて、口から漏れるのは溜息ばかりだった。
 呆れて、馬鹿にしている。
 そんな雰囲気がはっきり分かるくらい、滲み出ていた。他と比べて些か鈍感と言われる打刀でも勘付くくらいには、分かり易い反応だった。
「んだよ。俺はなあ、これでもしっかり、馬当番終わらせて来たんだぜ?」
「兼さんは、馬に餌あげただけだけどね」
「ちょっ、国広。それは言わない約束だろ」
 ムッとして、和泉守兼定が反論を試みた。拳を作って息巻いて、けれど横から茶々が入り、途端に声は小さくなった。
 赤くなった耳を弄っていた脇差が、満面の笑顔で舌を出した。喧嘩になりかけていたところを未然に阻止して、相棒である打刀の覇気を削いだ。
 隠しておきたい秘密を暴露されて、和泉守兼定の顔がみるみる歪んでいく。対して歌仙兼定はそらみたことか、と得意げに胸を張った。
 実に程度の低いやり取りだが、これが彼らの日常だ。一時期に比べて随分控えめになったとはいえ、両者の仲の悪さは、一向に改善が見られなかった。
 双方認める部分は認め合っているのに、意地っ張りなのか、それを巧く相手に伝えられずにいる。同じ兼定とはいえ、時代が大幅に隔たっているためにまるで似ていない両者だが、性格面では案外似た者同士だった。
 悔しそうに奥歯を噛んでいる和泉守兼定から視線を外して、小夜左文字は草履を引っ掻け、土間へ降りた。沢山並んでいる瓶のひとつに柄杓を入れて、掬った水でまず口を濡らし、余った分で手を洗った。
 早朝に汲んだ水は冷えていたが、凍る程ではない。ほう、と息を吐いて濡れた手を手拭いに包み、短刀の少年はいそいそと台所へ戻った。
「煎茶で良いね」
「はい、ありがとうございます」
 歌仙兼定はといえば脇差の少年に向けて問い、南部鉄器の鉄瓶を手に取った。そうして何の迷いもなく短刀へと差し出して、突き出された方も当たり前のように受け取った。
 ずっしり来る重みと、鉄の冷たさが手に痛い。だが文句は言わずに飲み込んで、少年は即座に踵を返した。
「湯呑みは、どれだったか」
「あ、僕がやります」
 先ほど水を飲んだ瓶から半分ほど注ぎ、聴覚は後方へと差し向ける。物音と会話が入り混じって、静かだけれど、賑やかだった。
 こんな長閑な午後は、随分と久しぶりだ。
 なにかと慌ただしかった年末年始を振り返って、小夜左文字は柄杓を置き、水瓶の蓋を閉めた。
「僕も、もらっていいですか」
「なら休憩としよう。豆餅しかないが、構わないかな」
「おっと、流石は之定。分かってるじゃねーか」
「言っておくが、ひとり、ひとつだけだよ」
 沓脱ぎ石を経て上り框に爪先を置き、背伸びをしながら呟く。
 歌仙兼定が真っ先に反応を示して、告げられた内容に和泉守兼定が食いついた。
 豆餅は、今日の八つ時の菓子だ。ただ遠征に出ている短刀が数振りいるため、僅かだが数が余っていた。
 外見は良い大人なのに、中身はてんで子供の打刀を軽く叱って、歌仙兼定は湯呑みを四つ並べると、棚の戸を開いた。
 隠してあった甘味を出して、続けて急須を取る。手際よく準備を整える彼の横で、小夜左文字は水を注いだ鉄瓶を七輪に預けた。
 火鉢代わりに暖を取るのに使っていたから、中の炭は赤々と燃えていた。断面には綺麗な菊の模様が見えて、黒と赤の対比が美しかった。
「へへ、役得。いっただき」
「駄目だよ、兼さん。先に手を洗わないと」
「いって。いーじゃねえかよ。さっき、顔と一緒に洗ったろ」
「爪の間に、馬糞が残ってるかもしれないのに。いいの?」
「う……」
 豆餅の皿の前では和泉守兼定が、早速手を伸ばそうとして怒られていた。行儀がなっていないと脇差に手を打たれ、渋い顔で目を逸らした。
 実際、彼らは獣臭かった。馬小屋で働いていたのだから当然で、この程度で済んでいるのはまだ良い方だった。
 鯰尾藤四郎に至っては、全身馬糞まみれで大変だ。そのまま風呂に行くな、と周りが毎回止めに入って、冬場でも容赦なく井戸水を浴びせられていた。
「おや、餌やりしかしていないんだろう?」
 口籠り、大人しく手を引っ込めた打刀に、歌仙兼定がここぞとばかりに問いかける。
 嫌なところを指摘された男は口を尖らせ、両手を腰に据えて頬を膨らませた。
「毛並みだって整えてやってらい」
「兼さんも、髪の毛、食べられてたけどね」
「お前はいちいち、ひと言多いんだよ!」
 馬当番の仕事は、いくつかある。餌やり、厩舎の掃除に加え、鬣を整えてやったり、適度に走らせて運動させたり。
 堀川国広にばかり任せていたわけではないと主張し、吼えるが、横からまたも茶々が入って、どうにも締まらない。逐一要らないことを報告する相棒に小鼻を膨らませ、和泉守兼定は握り拳で空を殴った。
 振り下ろした手は後ろへ伸びて、長い黒髪を鷲掴みにした。黒毛の馬に喰われた箇所を探して労わるように撫で、枝毛でも見つけたのか、苦々しい表情を作った。
「ほら、行くよ。兼さん」
 そんな打刀の手を取って、臙脂色の上下を羽織った脇差が促す。
 鉄瓶の中で水はクツクツ言っていたが、吐きだされる湯気の量はまだ少なかった。
 茶の準備が整う前に、手洗いを済ませよう。
 土間から裏庭に繋がる勝手口を指差した彼に、和泉守兼定は舌打ちの末、頷いた。
「わーったよ」
「丁寧に洗うんだよ」
「分かってるっての。俺ぁそんなに餓鬼じゃねーぞ」
「そういう事言うから、子供だって言われるんでしょ」
 軽く引っ張られ、いかにも仕方がなさそうに動き出す。そこへ歌仙兼定が余分なひと言を口にしたものだから、またしても口論に発展しそうになった。
 堀川国広が慣れた反応で割って入り、瞬時に会話を断ち切った。
 手厳しい指摘を受け、黒髪の打刀の顔が益々渋くなる。口はヘの字に曲げられて、泣きそうなのを堪えている雰囲気もあった。
 傍目には堀川国広の方が年下に見えるのに、実際はその逆だ。主導権も和泉守兼定が握っているように思われがちだが、本当に強いのは脇差の方だった。
 小さい大人が大きい子供を宥め、台所から裏庭へと連れていく。寒いのは嫌だ、だとか、冷たいのはきらいだとか、抗議の声はことごとく無視された。
 勝手口を開けて、ふたり組が外へ出た。扉が閉まるまで見送って、小夜左文字は肩を竦めた。
「騒がしいですね」
「まったくだ」
「歌仙も、大人げないですが」
「……お小夜、湯が沸いたようだ」
 毎日飽きもせず、同じようなやり取りが繰り返されている。
 いい加減懲りればいいのに、反省する気配がない。分かっていながら改めようとしない打刀にもちくりと言えば、良い具合に誤魔化された。
 確かに、鉄瓶から白い湯気が勢いよく噴き出ていた。放っておけば中身が煮え滾って、ぐらぐら揺れて、五徳から転がり落ちかねなかった。
 刀剣男士だって、火傷くらいする。そして戦場で受けた怪我以外で手入れ部屋を使うのは、情けなく、恥ずかしいことだった。
 火傷しないよう手拭いを間に挟み、少年は鉄瓶を七輪から外した。調理台では歌仙兼定が、急須に茶葉を注ぎ入れていた。
「うん。良い感じだ」
 そこに沸騰させた湯を注ぎ入れ、暫く待ち、蒸らした。余った湯は湯呑みに注いで器を温め、全ての準備が全て終わるころに、堀川国広たちが戻って来た。
 少しは色が落ち着いていた鼻の頭が、また真っ赤になっていた。
「ひぃぃぃ、さっみぃ」
「冷めないうちに、どうぞ」
「いただきます」
 鼻水を垂らした和泉守兼定に苦笑して、歌仙兼定が湯気を放つ湯呑みを手で示した。脇差は嬉しそうに顔を綻ばせ、ほんのり湿った手で器を抱きしめた。
 じんわり温かな熱が伝わってきて、それだけでほっとした。元から柔和な表情を更に解して、少年は口を窄め、息を吐いた。
「うわ、っち」
 右隣では和泉守兼定が、早速茶に口をつけ、あまりの熱さに悲鳴を上げた。赤く染まった舌を伸ばして涙目になり、呵々と笑う打刀を恨めし気に睨みつけた。
 もっとも、熱い茶を所望したのは、他ならぬ彼だ。
 文句を言われる筋合いはないと、歌仙兼定は取り合わなかった。
「食べますか?」
「気持ちは有り難てぇが、今は、ちと……」
 見かねた小夜左文字が豆餅の皿を、彼の方へと押し出した。だが繊細な部分がじんじん痛む状態で、固形物を食べるのは危険だった。
 水を飲んで冷ましたいところだが、男としての矜持がそれを許さない。
 変に気位が高い打刀に肩を竦め、短刀は拳ほどある大福をひとつ、手に取った。
 口を開け、ぱくりと齧り付いた。柔らかな餅を苦心の末に噛み千切って、唇にこびりついた白い粉は親指で払い落とした。
「ん」
 鼻から息を吐き、小さく頷く仕草は、美味いという意味だ。言葉にはせず態度で示して、残る餅をひと口で頬張った。
 指の腹に残る餅の切れ端まで舐って、もぐもぐ動く口の周りは白い粉に染まっている。気付いた歌仙兼定が自前の手拭いを取り出して、身を屈め、拭いてやった。
「ほら、じっとして」
「別に、いいのです」
 布を細く折り畳み、三角にした角を押し当てられた。嫌がって逃げるが叶わず、やや強めに肌を擦られた。
 斜め向かいからは笑い声が聞こえて、なにかと見れば、堀川国広が肩を震わせていた。
「兼さんも、あんな感じだよね」
「うっ、……せえ。んなこたぁ、ねえよ」
「本当かなあ?」
「よーし、それじゃあ俺様が、格好良い豆餅の食い方を披露してやろうじゃねえか」
「こら、食べ物で遊ぶんじゃない」
 手のかかる子供の世話を思い出して、脇差がちらりと隣を見る。水を向けられた打刀は妙なところでやる気を発揮し、正面から叱責されて頬を膨らませた。
 ようやく痛みが引いた舌で前歯の裏を舐め、和泉守兼定が豆餅を掴んだ。それは小夜左文字にとっては大きかったが、彼の手に収まると、随分小さく見えた。
 表面に塗された白い粉を軽く叩いて落とし、打刀は大口を開け、一度に全部を放り込んだ。流石に少々苦しかったが、我慢して奥歯で噛み潰して、細切れにして小さく丸めていった。
 柔らかな餅に、臼歯に磨り潰される豆の歯応えと、仄かな塩気が丁度良い。悔しいが美味い、と内心拍手を送って、背高の男は指に残る粉を皿に落とした。
「どうよ」
「自慢することか」
 口の周りに、粉は残っていない。
 綺麗に食べられただろう、と胸を張った彼に、歌仙兼定は呆れ顔で首を振った。
 小夜左文字はふたつめの豆餅に手を伸ばしており、堀川国広もひとつめを食べ終えた。幾分温くなった茶で喉を潤して、和泉守兼定もちゃっかり残る一個を取ろうとした。
「君はひとつだけだと、言わなかったか」
「あでででででっ」
 勿論、台所番長たる打刀が見逃すわけがない。
 個数制限を無視した不届き者を罰して、彼はその生意気な手の甲を思い切り抓った。
 爪を立て、引っ張り、力を込めて捩じった。骨ばかりで肉の薄い場所を攻撃されて、幕末を駆けた志士の刀は涙目になり、聞き苦しい悲鳴を上げた。
 肩を跳ね上げて手を取り返そうと足掻くものの、戦国育ちの打刀の力は凄まじい。簡単には逃してくれず、薄い皮膚を更に捩じられた。
 抵抗を封じられ、和泉守兼定の鼻の穴が大きく膨らんだ。悲壮感丸出しの表情で傍らを振り返って、頼りになる相棒に助けを求めようとした。
「くに、ひ……」
「自業自得って言葉、僕、好きだな」
「悪因苦果です」
 しかし肝心の脇差は正面を向いており、左隣に一切構おうとしなかった。それどころか茶に舌鼓を打ち、嫌味としか思えない台詞をのんびり口遊んだ。
 その真向いでは小夜左文字が、ぼそりと小さく呟いた。歌仙兼定は人好きのする笑みを浮かべ、手癖の悪い打刀を解放した。
「いっ、てぇぇ」
 抓られた場所は見事に赤く染まり、内出血まで起きていた。爪の跡がくっきり残されて、見ているだけで痛そうだった。
 たかが豆餅で、この仕打ち。
「ひとつくらい、良いじゃねえかよ。之定のけちんぼめ」
「ほう。反省が足りないようだな」
 皮が引き千切れると思うくらい、本気で痛かった。大福にも結局ありつけておらず、一方的に責められて、あまりにも不平等だ。
 腫れている場所を撫でつつ文句を言えば、歌仙兼定の眉が片方、持ち上がった。声は低く沈んで剣呑な様相を呈し、和泉守兼定も負けるものかと眼力を強めた。
 台所の調理台を挟み、火花が散った。
 取っ組み合いの喧嘩が始まりそうな雰囲気に、小夜左文字と堀川国広は、ほぼ同時にため息を吐いた。
「ほら、兼さん。お茶が冷めるよ」
「歌仙、おかわりください」
「いって。耳を引っ張るんじゃねえ」
「ああ、お小夜。なんてことだ、また粉まみれじゃないか」
 このふた振りの相性は、どうやったって良くならない。些か面倒臭く感じながら、脇差と短刀は其々の方法で、互いの打刀の意識を引き寄せた。
 利き手に続いて右耳まで痛めつけられ、和泉守兼定は完全に涙目だった。歌仙兼定も空の湯呑みを差し出されて、別のことに気を取られて膝を折った。
 大人しく顔を拭かれてやって、小夜左文字は肩を竦めた。他の刀と、自分に対する態度が百八十度異なるのはいかがなものかと思いつつ、嬉しそうにしているのを見ると、口喧しく言う気が起きなかった。
 本丸内においても、両者の関係は既に知れ渡っている。
 今更あれこれ反論しても無駄と諦め、少年は急須から注ぎ足された茶で口を漱いだ。
 咥内に残っていた餅の欠片を洗い流し、ほう、とひと息つく。
 目の前では堀川国広が、両手を合わせて瞑目していた。
「ごちそうさまでした」
 丁寧に、行儀よく。
 小さく頭を下げた彼は、食後の挨拶を述べ、顔を上げると同時に歌仙兼定を見た。慣例的なものとはいえ、感謝されるのは悪くないと満足げだった男は首を捻り、不思議そうに脇差を見詰め返した。
「なんだい?」
「お礼、というのは変ですが。まだご存じないようなら」
「ああ、あれか」
 声にも出して問えば、堀川国広が目を細めた。重ねあわせた両手を左右に躍らせて、視線を外し、勝手口の方を見た。
 それで思う所があったのか、和泉守兼定も茶を啜るのを中断し、頷いた。同じく外へと意識を傾けて、持っていた湯呑みは台に戻した。
「庭の梅の花、蕾が綻んできてました」
 ことん、という小さな音に、少年の軽やかな声が重なった。
 寒さは依然厳しく、雪は大量に残っていた。それでも陽が落ちる時間は少しずつ遅くなり、冬の終わりを匂わせていた。
 春の訪れを実感する機会は、少ない。
 そんな中で見つけた確かな変化に、堀川国広は喜びを隠し切れなかった。
 馬当番を終えて、屋敷に戻る道中に、その木はあった。
 葉は全部落ちて、丸裸で寒そうだった。幹はやや黒ずみ、枯れているのかと危惧しそうになる風体だった。
 しかしよくよく注意して見れば、枝の先に沢山の蕾があった。大半が寒さに身を竦め、丸くなっていたが、気の早い一部が外殻を突き破り、背伸びしていた。
「なんだって」
 初耳の情報に、にわかに歌仙兼定の顔が華やぐ。一も二もなく飛びついて、身を乗り出し、両手を調理台へと押し付けた。
 圧迫感が増して、和泉守兼定が反射的に仰け反った。小夜左文字も知らなかったと目を丸くして、壁の向こう側に思いを馳せた。
 もうそんな時期なのかと、驚きを隠せなかった。
 月日の経つ速さを思い知り、日々の変化に戸惑わされた。憎しみや、恨みに囚われている自分には無縁と信じていたのに、梅の花の綻びを知らされて、少なからず心が躍った。
「それは良い。早速見に行こう」
「歌仙」
 横では風流を好む自称文系が、興奮気味に捲し立てた。鼻息を荒くし、頬を紅潮させて、夕餉の下拵えもあるというのに、全部忘れて踵を返した。
 しかも何故か、短刀の手を取って。
 急に引っ張られて、面食らった。ぎょっとして抵抗すれば、見ていた堀川国広がひらりと手を振った。
「片付けは、僕たちがやっておきますから。ごゆっくり」
「行くよ、お小夜。ああ、筆と紙も取ってこなければ」
 歌仙兼定には願ったりかなったりの台詞を吐いて、完全に見送る体勢だった。その声が聞こえたからなのか、打刀は血気盛んに吼え猛った。
 短刀の都合などお構いなしで、強引に廊下へと連れ出した。小柄な少年を引きずるように進んで、歩幅は大きく、荒々しかった。
 前だけを見て、独り言は止まらない。たかが梅の花一輪、蕾が綻んだ程度で、呆れるくらいの喜びようだった。
 放っておいても、季節は進む。花は咲き、やがて散る。
 別段不思議な話ではない。自然の摂理とは、そういうものだ。
 それなのに、大袈裟だ。実に馬鹿馬鹿しい。
「……まったく」
 だというのに、叱れない。
 いかにもこの男らしくて、巻き込まれているのに、嫌な気分ではなかった。
 ぽつりと零して、小夜左文字は借りた褞袍に袖を通した。辿り着いた歌仙兼定の部屋で、いそいそと外に出る支度を整えた。
 この一年ですっかり物が増えて、壁は棚で埋め尽くされていた。畳の上にも書やらなにやらが散乱し、布団を敷くと、足の踏み場もなかった。
 もう少し広い部屋に引っ越したいが、そうは問屋が卸さない。本丸内で暮らす刀の数は着実に増えており、部屋数は、かなりぎりぎりだった。
 増築しようにも、土地がなかった。後は上に建て増しするしかない、という話だが、平屋建ての現時点でさえ大変な雪下ろしが、もっと危険なものになってしまう。
 来年は、命綱が必要かもしれない。戦闘ではなく、屋根から転落した怪我で手入れ部屋が埋まる日も、そう遠くなかった。
「よし。さあ、行こうか」
「歌仙、羽織りを忘れている」
 十枚を軽く超える短冊に、筆を収めた矢立を握って、歌仙兼定が意気揚々と立ち上がった。その格好は白の胴衣に袴だけで、防寒着の類はなにひとつ身に着けていなかった。
 そんな格好で外に出たら、凍え死んでしまう。
 梅の蕾が綻ぶところを早く見たいのは分かるが、夢中になり過ぎて他が疎かになるのは、いただけなかった。
 仕方なく衣桁にぶら下がっていたものを取り、差し出した。打刀は失念していたと頬を赤らめ、いつでも冷静な短刀に微笑んだ。
「ありがとう、お小夜」
「べつに……」
 感謝の言葉と共に受け取って、目尻を下げる。
 即座に少年は顔を背け、ぼそぼそと聞き取り辛い小声で囁いた。
 畳に直置きされていた木箱を踵で押し退け、下を向いたまま廊下へと出た。敷居を跨ぐ直前振り返れば、歌仙兼定は渡された羽織の前を閉めるところだった。
 太めの紐を絡ませて、満足げだ。膝まである大きめの羽織は濃い紺色で、裏地は紫に花を散らした鮮やかな一品だった。
 小夜左文字が羽織ると、裾が床に擦れてしまう。背丈の差をそんなところで意識して、苦々しい気持ちは奥歯で磨り潰した。
 豆餅の味が、微かに残っていた。程よい塩加減の唾を飲み込んで、少年は一足先に玄関を目指した。
 草履ではなく、自ら藁で編んだ雪沓を履き、踏み出した外は案の定、寒かった。
 思いの外、風が強い。襟巻も必要だったかと足踏みしていたら、気配もなく忍び寄った影が、ふわりと首を包み込んだ。
「お小夜も、忘れ物だ」
 締め付けることなく、ゆったり巻きつけられた。覚えのある色と感触に瞠目して振り向いて、小夜左文字は右目だけ閉じた男にばつが悪い顔をした。
 身支度を終えて、歌仙兼定が追い付いていた。その首には揃いの襟巻が、形よく結ばれていた。
 色が異なるだけで、模様も、長さもすべて同じ。
 兄弟刀でもないのに揃えるのは、本音を言えば恥ずかしかった。だのにどうしてもこれが良い、と万屋で駄々を捏ねられ、最終的に折れてしまった。
 甘やかしすぎるのは良くないのに、絆されてしまう。
 悪い癖だと自戒して、短刀は三重に巻かれた襟巻に顔を埋めた。
 堀川国広が言っていた蕾は、簡単には見つからなかった。
 厩近くと言っていたけれど、周辺に梅の木は沢山生えている。どれも葉が落ちて寒そうで、目印となるものはなにもなかった。
 分かり易く紐でも結んでいてくれたなら、どんなに良かっただろう。白い息を吐き、同じ場所をうろうろして、小夜左文字は肩を竦めた。
 枝はどれも高い位置にあり、小さい蕾を見つけるのも一苦労だ。背の低さは本丸随一の身として、上を向き続けるのはかなり厳しかった。
 日陰に残っていた雪を蹴散らし、途切れた集中力への苛立ちを発散する。疲労を訴える首を撫でて労わりたいところだが、襟巻が邪魔をして、思うように揉んでやれないのも癪だった。
 せめてあと三寸、いや、一寸で構わない。
 背が伸びる見込みはないと知っていても、祈らずにはいられなかった。
「まだ、春は遠いか」
 蕾が綻んだとはいえ、たった一輪の話だ。季節を勘違いし、早とちりしただけかもしれなかった。
 昨日から、雪は降っていない。風は強いが日差しは出ており、場所によっては暖かかった。
「うっ」
 びゅう、と吹いた突風に攫われそうになり、反射的に身を竦ませた。結い上げた髪がばさばさ音を立てて踊り、布の隙間から忍び込んだ冷気が肌を刺した。
 鳥肌が立ち、ぞぞぞ、と悪寒が走った。奥歯をがりっ、と噛んで耐えて、出そうになった鼻水は寸前で阻止した。
 ずずず、と息と一緒に吸い込んで、口から熱気だけを吐き出す。
 それを三度繰り返したところで、波立っていた心は幾らか落ち着いた。
 春は、まだ見ぬ夢だ。
 けれど着実に、距離は狭まっていた。
 足音が後ろから、少しずつ近付いて来ている。
「お小夜、あった。見つけた。本当だ。綻んでいる!」
 誘われて振り向けば紅潮した顔が現れて、小夜左文字は苦笑し、子供の無邪気さに肩を竦めた。
 息を切らし、歌仙兼定が声を張り上げた。瞳はきらきらと輝いて、宝石箱をひっくり返したかのようだった。
 両手は緩く握りしめ、上下に振れて落ち着きがない。気が急くのか足踏みを止めず、一刻も早く見せたくて仕方がない様子だった。
 宝物を見つけた顔だ。
 戦場で見せる野生の獣めいた荒々しさは、微塵も感じられなかった。
「ほら、お小夜。早く」
「分かってます。急がなくても、散ったりしません」
 急かし、手を伸ばしてくる。腕を掴まれそうになった少年は咄嗟に身を引いて、ため息を零し、先陣切って歩き出した。
 斜め後ろに置き去りにされた打刀は、直後に我に返って踵を返した。早足に追いかけて、並んで、訝しむ目ににこりと笑いかけた。
「どこですか?」
「ほら、あれ……あれ?」
 歌仙兼定が来た方角に暫く進んで、問いかけると返答が危うい。頭上を指差した男は急に目を泳がせ、身体を反転させて、その場でくるくる回った。
 三百六十度視線を巡らせて、縋るように短刀を見る。
「歌仙、どれですか?」
 当惑がありありと浮かんだ眼差しに、小夜左文字は容赦なかった。
 重ねて問いかけて、濃紺色の袖を引いた。催促された打刀は尻込みして、口籠り、助けを求めて明後日の方角を向いた。
 どれも似たような木ばかりで、際立って目立つものはない。よく注意しておかないと、現在地を見失いかねなかった。
 そんな環境だから、綻び始めていた梅の蕾も、一旦目を離したら簡単には見つけられない。
「ええ、と……」
 確かあの辺だったと人差し指で空を掻き、歌仙兼定は悲壮感たっぷりに顔を顰めた。
 口をヘの字に曲げて、必死に目を凝らして探し回っている。少し意地悪し過ぎたかと内心舌を出して、小夜左文字も周辺を見渡した。
 地表に飛び出た木の根に登り、寒さに震えている蕾を確かめていく。
 せっかちなのは誰、と心の中で問いかけて、少年は白い息を吐きだした。
「あ」
「はい?」
「あった。あったよ、小夜。ほら」
 両手を擦り合わせ、冷えた指先に熱風を浴びせた。そこに消え入りそうな声が紛れ込み、顔を上げた直後、問答無用で上腕を鷲掴みにされた。
 思い切り力を込めて、ぎゅう、と握りしめられた。その状態でガクガク揺さぶって、打刀は左手で宙を指し示した。
 沢山植えられた、梅の木の群れの中。
 風に煽られ、揺れる無数の枝の、その一本。
「ああ……」
 注意深く探さなければ分からないところに、確かに外殻を破り、花弁を紐解こうとしている蕾があった。
 同じ枝の、他の蕾はまだ硬い。五つ以上が身を寄せ合っている中で、その一輪だけが、一足早く目覚めを迎えようとしていた。
 雪はまだ残り、厳しい寒さが続いている最中だ。 
 背伸びしたい年頃なのか、あまりにも気が早過ぎる。おかしくて、見ているだけで笑いがこみあげて来た。
「消えずとも 皆淡雪ぞ 天地に こぬ春ひらく 園の梅が香」
 それはどうやら、隣で眺める男も同じだったらしい。
 早梅を詠んだ歌を無自覚にくちずさみ、歌仙兼定がうっとりと目を細めた。興奮は少し収まったのか、表情は穏やかだった。
 蕩けるような笑顔は甘く、柔らかい。寒さから朱を帯びた頬も相俟って、さながら梅の木に恋をしているようだった。
 破れかけた外殻から、白い花弁が覗いていた。咲くか、咲かぬかを躊躇する素振りで、心細げにふた振りを見下ろしていた。
 堀川国広が見つけなければ、きっと気付かぬまま樹下を通り過ぎていた。
 冬の終わりは遥か先のことに思えて、思いの外間近に迫ろうとしていた。春の息吹を体感し、少年は感慨深げに吐息を零した。
「綺麗です」
「ああ。なんて美しいんだろう。これこそ、自然が作り出す美の結晶だ。本当に、素晴らしい」
 感嘆の声を漏らせば、聞き拾った歌仙兼定が大袈裟に同意した。両手を広げ、大仰な仕草で早口に捲し立てた。
 冬のただ中に見付けた、春の芽生え。
 それこそが、彼が風流と評するものだった。
 感極まって、涙ぐんでいる。流石にそれはどうかと呆れて、小夜左文字は髪を結う紐を解いた。
「ん」
 結び癖がついた藍色の髪が、支えを失って四方へと広がった。空気を含み、ゆっくりと沈んでいく。首を振ってその速度を上げて、少年は端が擦り切れている紐を伸ばした。
 こちらもかなり癖がついていて、縛られていた部分が凹んでいた。軽く捏ねて引っ張って、短刀はそれを打刀へと差し出した。
 なんのつもりなのか、すぐに分かったらしい。
 歌仙兼定は鷹揚に頷くと、急に畏まり、両手で恭しく受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 髪紐なら、屋敷に戻れば何本か予備がある。一本くらい、惜しくなかった。
 やや横柄な物言いに苦笑して、打刀は預かった紐を枝に絡めた。風で解けないよう二重に巻き付け、しっかり結び、輪を作った。
「……少し、心許ないか」
「手拭いの方が良かったでしょうか」
「なら、僕のこれを」
 けれどいざ結んでみると、紐の赤色は枝に同化した。藍色の髪の中でなら映えるのに、枯れ色の木々の中だと、驚くほど地味だった。
 しかも紐は、細い。見失わない為の目印としては、些か弱かった。
 どうしようか悩んで、歌仙兼定が懐に手を入れた。先ほど小夜左文字の顔を拭った手拭いを取り出して、広げ、縦に細く畳み直した。
「明日も、見に来よう」
「はい」
 それを、蕾を挟む格好で、小夜左文字の髪紐の反対側に括り付けた。枝が折れない程度にぎゅっと縛って、さながら寺社の御籤を結んでいるかのようだった。
 今度は、布の白さが景色に映えた。遠目からでもなにかあると分かって、遥かに見つけ易くなった。
「これで、よし」
「楽しみです」
「……おや」
 背伸びをし、浮かせていた踵を下ろして、打刀が胸を張った。両手を腰に当てて満足げな横でぼそりと呟けば、耳聡く反応された。
 珍しいものを見た顔で、驚いた様子だった。目を真ん丸にして見下ろされて、短刀の少年は居心地悪く身じろいだ。
「なんですか」
 なにか変なことを言っただろうか。
 そんな表情をされる謂れはない。訝しんでいたら、歌仙兼定は目元を綻ばせ、口元は左手で覆い隠した。
「いや。お小夜も、そんなことを言うようになったのか」
「……っ」
 復讐に固執し、仇討だけを求めていた。
 黒い感情に囚われて、悪夢に魘され、過ぎ去った日々にばかり心を砕いていた。
 薄暗い檻の中、自由を望むことなく蹲っていた。
 そんな少年が、未だ見ない景色を望んだ。いずれ来ると分かっていても、今は見るのが叶わない光景を、求めた。
 前を向いていた。
 上を、向いていた。
 指摘されて、ハッとした。意識していなかったと両手で口を塞いで、意味深に笑う打刀を睨みつけた。
 けれど眼力に迫力はなく、なんの効果も発揮しない。歌仙兼定は呵々と笑うばかりで、小夜左文字は苦々しい面持ちで頬を擦った。
 本丸での日々は、あっという間に過ぎていく。時間の経過は、さほど気にならない。だが振り返ってみれば、実に多くの経験を、この場所で得ていた。
 それまで目も向けなかった世界を、否応なしに突き付けられた。気にしてはいけない、考えてはいけない、と蓋をしようとしても、情報は五感を通じて流れ込んで、小柄な短刀を呑み込んだ。
「……いけませんか」
「まさか。嬉しいよ。君とこうして、季節を感じられるんだ」
 否定しようとしても、上手く言葉が出て来ない。仕方なく悪態をついて誤魔化せば、打刀は華も賑わう笑顔を浮かべ、幸せそうに目を細めた。
 梅の花を愛でていた時より、よっぽど甘く、蕩けていた。
 それが他ならぬ自分だけに向けられているのを感じ取って、少年は一瞬息を飲み、身を捩り、膝をぶつけ合わせた。
 不自然にならない程度にゆっくりと顔を背け、跳ねる鼓動を落ち着かせようと息を吐く。
 勝手に赤くなる頬は寒さの所為だと言い訳して、両手を押し当て、上下に擦った。
「そうですか。……別に、梅の花は、好きです」
 時の流れ、季節の移ろい云々は別にして、梅の花自体は嫌いではない。観賞するにはもってこいの花だから、それが咲くのは、悪い気はしなかった。
 あくまで一般論として、言ったに過ぎない。
 変に誇大解釈するなと釘を刺して、彼はそろり、傍らを盗み見た。
 歌仙兼定はぽかんと間抜け顔をして、瞬きも忘れて小夜左文字を凝視していた。
「どうしました」
 見事に造形が崩れていた。折角の端正な顔立ちが台無しで、ひょっとこも逆立ちして逃げ出す腑抜け面だった。
 呆然として、動かない。問いかけにもなかなか反応してくれなくて、困っていたら、ようやく瞬きを再開させた男が、取り繕うように前髪を掻き上げた。
「あ、いや。すまない、お小夜。よく聞こえなかったから、もう一度、言ってくれないか」
 目が泳ぎ、声は上擦っていた。動揺が滲み出て、隠し切れていなかった。
 風が吹いたわけでも、獣の鳴き声が混じったわけでもない。だのに聞き取れなかったと、男は言う。
 梅の花に気を取られ、ぼんやりしていたのか。想像して、小夜左文字はやれやれと肩を竦めた。
「花は、好きです」
「もう一度」
「梅の花は、好きです」
「もう一回」
「……歌仙?」
「う――」
 仕方なく言い直してやれば、強請られた。間違いなく聞こえているだろうに、再度言ってくれるよう求められた。
 なにがしたいのか、意味が分からない。
 流石に三度は繰り返さず、短刀は声を低くして目を吊り上げた。
 凄まれ、打刀は尻込みした。右往左往して、哀しそうに顔を伏して目元を覆った。
 恥じ入って、小さくなった。恰幅良い体格を限界まで縮めて、小夜左文字の前で蹲った。
 それで、理由が分かった。
 綻び始めた蕾を見上げて、少年は首を振った。
「べつに、歌仙のことじゃ」
「わ、分かっているよ。そんなことくらい!」
 好きなのは、梅の花だ。だというのに無駄に繰り返し言わせて、何が嬉しいのか。
 理解出来なくて眉を顰めていたら、しゃがみ込んだままの打刀に怒鳴られた。唾を飛ばして吠えられて、短刀は圧倒されて目を点にした。
「歌仙?」
「だって、仕方がないだろう。お小夜は、その。言ってくれないじゃないか」
 全て承知の上だったのがまた驚きで、当惑が否めない。
 惚けた顔で見つめていたら、歌仙兼定はぼそぼそ言って、膝に顔を埋めて丸くなった。
 殻に閉じこもられた。
 羽織の裾が地面に擦れているのも構わずに、籠城されてしまった。
 見た目は立派な大人だが、これでも小夜左文字より幼いのが、彼だ。普段は隠している子供っぽさが急に前面に押し出されて、段々と可笑しくなって来た。
 拗ねられた。
 可愛かった。
 こんな風に癇癪を爆発する彼を、数百年ぶりに見た。
「梅の花なら、好きです」
「ぐ」
 こみあげてくる笑いを堪え、小夜左文字は肩を揺らした。まだ咲かない花を仰ぎ、身じろいで呻いた打刀に目尻を下げた。
 審神者によって顕現させられた当時は、右も左も分からずに混乱した。黒い夢に襲われて、安眠できず、日々移り変わる景色に目を向ける余裕すらなかった。
 この身に宿る闇は、未だ消えない。永遠に取り除かれることはない。しかし一時期に比べれば、痛みは格段に弱くなっていた。
 そこで小さくなっている男は、無数に突き刺さっていた太い棘を、一本ずつ取り除いてくれた。細心の注意を払って、小夜左文字が傷つかないよう、丁寧に。
 根気の要る仕事だったに違いない。そんなことは頼んでいないと反発し、突き放したこともあったのに、辛抱強く付き合ってくれた。
 冬の終わりに春の始まりを探す。こんな楽しみ方もあるのだと教えてくれたのは、他ならぬ歌仙兼定だった。
「歌仙と見る梅の花も、好きです」
 昨年は余裕がなくて、花が咲く過程を楽しめなかった。
 今年は、違う。横に並んで、一緒に愛でてくれる相手がいる。
 光景を瞼の裏に思い浮かべ、控えめにはにかんだ。打刀はピクリと震えた後、顔を上げ、瞠目して唇を戦慄かせた。
 驚愕に染まる眼差しが、一直線に小夜左文字を射た。
 突き刺さったが、これは痛くないと苦笑して、少年は利き手を伸ばし、立つよう促した。
「歌仙は、どうですか」
 指を揃えて並べ、首を左に傾ける。
 直後。
「うわ」
 差し出した手を無視して、太く逞しい腕が飛んできた。肩を掴まれ、問答無用で引き倒された。
 ふわりと、いつもの馴染んだ匂いが鼻腔を掠めた。冬場でも温かな熱が左右から襲ってきて、一瞬だけ睡魔に誘惑された。
 気が付けば、閉じ込められていた。
 分厚い胸板に正面を塞がれ、がっしりとした腕が腰に回されていた。左肩に熱風を感じた。視界の左半分は、藤色の髪で埋め尽くされていた。
 抱きしめられた。
 立っていられなくて膝を折って、小夜左文字は仕方なく、己を束縛する男を抱きしめ返した。
「歌仙?」
「ああ。もちろんだ。もちろんだとも。決まっているだろう」
 とんとん、と赤子をあやす気分で肩を叩けば、耳元で熱っぽく告げられた。感情を込めて、興奮気味に、荒々しい語気で繰り返された。
 訊くまでもないことをと、怒られもした。それがどうにもくすぐったくて、叱られたのに、嬉しかった。
「明日も、来よう」
 感極まったのか、鼻を啜る音までした。
 いくらなんでも大袈裟だと笑って、小夜左文字は大きな癖に小さな子供の髪を、愛おしげに撫でた。
 

色よりは香は濃き物を梅の花 隠れむものか埋む白雪
聞書集 123

2017/01/15 脱稿

茫洋

 西日が射しこみ、照明が必要ないくらいに教室内は明るい。
 けれど壁や柱が邪魔をして、影になった部分は薄暗かった。熱も籠らず、暖かい空気と、冷え切った空気とが複雑に混じり合っていた。
「ふんふふ~ん、ふ~ん」
 二本セットになって並ぶ蛍光灯から注ぐ光は、窓から入ってくる分とは違い、冷徹だった。突き剌さるような光線に温かみは感じられず、早く終わらせろ、と急き立てているようだった。
 その点、自然光はとても優しい。焦らなくてもいいのだと言ってくれているようで、なんとも心地よかった。
 そんな一日の最後を飾る陽光を横から浴びて、沢田綱吉は鼻歌を奏でながら手を動かした。
 握るのは鉛筆の類でなければ、チェック用の蛍光ペンでもない。やや灰色がかった薄手の紙で、折り目を付ける指の動きは滑らかだった。
 設計図を頭の中で展開させて、次はどこをどう折るのか、次々に指令を送り出す。その通りに実行して、何度か裏返し、また表に返して、を繰り返すうちに、平らだった一枚の紙はとある形を描き出した。
「ふふふ~ん、で~きた」
 上機嫌に頬を赤らめ、完成となった作品を右手に掲げる。
 手首を捻り、色々な角度から眺める表情は満足げだった。
 出来上がったのは、紙飛行機だ。先端が鋭利に尖り、翼は左右で少々大きさが異なっていた。
 きちんと揃えたつもりでいたが、どこかで間違えたらしい。けれどたいした差ではないと割り切って、綱吉は出来たてほやほやの紙飛行機を前後に揺らした。
 投げる仕草だけをして、実際にはまだ飛ばさない。
 これで一回転して手元に落ちる、というのだけは遠慮したくて、慎重にタイミングを計った。
 心を鎮め、陰影がはっきり表れている教室の黒板から目を逸らす。
「それっ」
 白いチョークで記された文言は見ないよう蓋をして、彼は意を決して飛行機を宙に放った。
 再テストの文字と時間の表記を標的にして、これを薙ぎ払う爆撃機の心づもりで祈りを込めた。
 けれど現実には、飛んでいくのは貧相な紙製品だ。しかも願いも虚しく、ふらふら宙を泳いだそれは、明後日の方向へと進路を変えた。
 自力でなんとかしてみせろと言わんばかりに、空っぽの教室にひとり居残る綱吉に背を向けてしまう。
「あああ……」
 教卓手前で失速したそれはすい、と右に滑って、徐々に高度を下げていった。
 そのまま十数センチ滑って、開けっ放しのドアの手前で停止した。完全に沈黙して、風でも吹かない限りは動かないだろう。
 暖房が入っていない教室は、時の経過とともに冷えていく。今は机の周囲を照らす天然光も、もうじき消えてなくなるはずだ。
 言い表しがたい切なさに襲われて、綱吉は呻きながら机に倒れ込んだ。広げていた教科書やノートを下敷きにして、弾みでシャープペンシルが転がり落ちても構わなかった。
 辛うじて残っていたやる気も、完全に潰えた。
 今日はこのまま、教室で一晩過ごすのだ。絶望感から投げやりになって、彼は投げ出した足で交互に床を蹴った。
「もう、最悪」
 少し考えれば結果は見えていたのに、時間を無駄にした。
 こんなことなら真面目に取り組んでおくべきだったと後悔しても、すべてが後の祭りだった。
「ぜんっぜん、分かんないってば。誰だよ、こんな問題、考えたやつ」
 問題の解き方は教科書に書かれており、真面目にノートを取っていれば誰でも答えられる。それが出来ないのであれば、日頃の行いを反省すべき。
 そう声高に語ってくれた教師の顔を思い浮かべ、前髪をくしゃりと握りしめた。不貞腐れて口を尖らせて、綱吉は真っ白に近いノートを睨みつけた。
 自分が問題を解けないのは、教える側の説明が悪いからだ。そう言いたい気持ちをぐっと堪え、飲みこんで、彼は渋々椅子を引いた。
「ちぇ」
 平均点があまりに悪かったために行われた再テストは、なんとテキスト類持ち込み自由という大盤振る舞いぶりだった。
 再試験を受けさせられた生徒は合計で十人近くいたが、ヒントを調べ放題とあって、あっという間に解き終えて出ていった。少し前まではもうひとりいたのだけれど、その生徒も先に席を立ちあがり、綱吉だけが残された。
 テストの答案を職員室に提出しない限り、帰れない。監督者がいないので脱走は簡単だが、そんなことをしても、後が苦しくなるだけだ。
 家に帰れば鬼家庭教師が待っている。今日の出来事も、当然のように把握しているに違いない。
 あの極悪ヒットマンに説教されるくらいなら、誰もいない教室で、ひとり寂しく問題と向き合う方がまだいくらかマシ。
 最低最悪の二者択一を迫られて、綱吉は鈍い足取りで教卓に向かった。
 今し方紙飛行機にして放り投げたものこそ、彼が解くべき問題用紙。
 あれがないことには、なにも始まらないし、終わらなかった。
「どうせオレは、ダメダメの、ダメツナですよ~、だ」
 潔く降参して、白紙のまま職員室へ向かおうか。
 何度か書いて、消して、努力の跡を残しておけば、教師だって人の子だ。多少は大目に見てくれるに違いなかった。
 希望的観測に己を奮い立たせ、蜘蛛の糸より細い期待に縋る。床に横たわる紙飛行機へと爪先を向け、拾おうと前屈みになる。
 足元ばかりに目を向けて、周囲への警戒は皆無だった。学校の中は安全だと無条件に信じて、マフィアの次期ボスという己の境遇をも、すっかり忘れていた。
「あっ」
 超直感など、あって無いに等しい能力だ。
 戦闘以外で役に立った経験はあったか、と自問自答して、綱吉はすぐそこに迫っていた存在に頬をヒクリ、と引き攣らせた。
「なに、これ」
 教室への出入り口は前後にあり、どちらも扉は全開だった。
 授業中ならまだしも、今は放課後だ。下校時刻が迫っており、帰宅を促す巡回があってもおかしくない頃合いだった。
 その事実を、すっかり失念していた。
 拾おうとしたものがするりと逃げて行って、綱吉はたらりと冷や汗を流した。しまった、と思うが後悔先に立たずで、穏やかだった心拍数は一気に限界値近くまで上昇を遂げた。
「う、うあ、あぁあっ」
「答案用紙?」
 間誤付いて、上手く喋れない。背中を流れる汗の量は増える一方で、目の前がぐるぐる回り、景色は歪んで見えた。
 その真ん中に立って、黒衣の青年が綱吉の紙飛行機を広げた。
 両手を使って折り目を伸ばし、現れた文字に瞬きを繰り返す。
 白のシャツに黒の学生服を羽織り、空の袖には臙脂色の腕章が。そこに記されているのがどんな文字かは、見て確かめるまでもなかった。
 良く知っている――知り過ぎている声に鳥肌が立ち、内臓がきゅっ、と窄まった。圧迫された心臓が悲鳴を上げて、全身から熱がサーッと逃げて行った。
「終わった」
 人生の終着点を予見して、燃え尽きたかのように真っ白になる。
 ぽつりと呟いて立ち尽くした綱吉の前で、並盛中学校風紀委員長こと雲雀恭弥は、折り線だらけのテスト用紙に眉を顰めた。
 紙飛行機など作って、現実逃避している場合ではなかった。風紀委員は他にもいるのに、よりによってそのトップを引き当てた自分の強運ぶりを嘆かずにはいられなかった。
「良い点数だね」
「……ど、どうも」
 問題用紙は最初にテストした時のものを再利用した格好で、当然だが、前回の点数が赤色で記入されていた。
 五つほど並んだ項目、その全てにバツが記されていた。名前の記入欄横には大きな丸がひとつ飾られて、強調するかのように、真下に二重線が引かれていた。
 これを見て、褒めてくれた人はひとりもいない。
 当然皮肉だというのは理解しており、綱吉は恐縮しながら頭を垂れた。
 生きた心地がしなかった。先ほどから心臓はバクバク言い続けており、濡れ雑巾を絞るかのように、冷や汗が止まらなかった。
 このままでは体内の水分が出尽くして、カラカラに干からびてしまう。
 乾物と化して風に飛ばされる自身を想像して、綱吉は恐る恐る両手を差し出した。
「あ、あの。すみません。返して、ください」
「へえ?」
「ひいいい!」
 なんとかこの状況から脱するべく、正面突破を試みた。しかし案の定跳ね返されて、小心者は悲鳴を上げた。
 雲雀は不遜な顔で笑い、輝かしい零点の答案用紙を空中に躍らせた。左右に揺らして口角を歪め、並盛中学校の恥さらしに目を細めた。
「許せないね。こんな点数の生徒が、僕の学校にいるなんて」
「すっ、す、すすす、すび、ずびば、ぜっ」
 淡々と告げられて、綱吉の全身に電流が走った。
 咄嗟に謝罪しようと口を開くが、恐怖に竦んで呂律が回らない。鼻濁音ばかりで言葉にならず、最後まで言えなかった。
 直立不動で半泣きになった少年に、風紀委員長は眉目を顰めた。解答用紙に視線を落として、聞こえ続ける喘ぎ声に溜息を吐いた。
「さっさと終わらせてくれる?」
「ひゃい!」
 えぐえぐ言って、聞くに堪えない。
 呆れ果てて紙飛行機だったものを突き返し、雲雀は外に向かって顎をしゃくった。
 黒板に書かれた文字も、彼の目には見えていた。再テストという一文だけで、この教室でなにが行われていたかを理解して、甲高く吠えた綱吉に肩を落とした。
 横から奪い取るかのように受け取って、ドン・ボンゴレの後継者は駆け足で机へと戻った。教室のほぼ真ん中に位置する席に座って、落ちていたシャープペンシルを屈んで拾った。
 もっとも、姿勢だけ作ったところで、問題がすらすら解けるはずがない。
 案の定三秒としないうちに行き詰った彼に、雲雀は力なく溜息を吐いた。
「小学生からやり直したら?」
「ひっ、ひどいです。ヒバリさん。そりゃ、オレだって時々、そう思いますけど」
「思うんだ」
 漲っていたやる気も四散して、屍だけが残される。
 見ていられないと呆れられて、綱吉は大声で反論を試みた。
 けれど論議には発展せず、会話はそこで途切れた。自ら恥を曝した少年はうっ、と口籠り、体裁だけは整えるべく、シャープペンシルを握りしめた。
 殆ど使った記憶のない教科書を広げ、落書きや涎の痕ばかり残るノートを捲った。どちらも役に立つとは思えなかったが、目を皿にして問題のヒントを探した。
 けれどちょっと長い文章を見るだけで眠くなり、複雑な記号を見ると頭が痛くなる悪癖だけは、どうにもならなかった。
「ううう……」
「君、あの赤ん坊の生徒だよね」
「リボーンのことは、今は言わないでください~~」
 勉強に対する苦手意識は、長年培われてきたものだ。一朝一夕でどうにかなるものでなく、凶悪家庭教師の名前も、症状を悪化させるだけだった。
 何気なく呟いた雲雀に反発して、綱吉は机の底を膝で蹴った。上に並べている文房具ごとガタゴト揺らして、溢れ出そうになる涙を必死に押し戻した。
 鼻の奥がツンとして、息を吸うとその周辺だけが熱い。
 ぶすっと頬を膨らませて拗ねられて、雲雀は対処に苦慮して頭を掻いた。
 こういう手合いは、暴力で脅しても効果が薄い。教室から追い出すのは簡単だが、根本原因をどうにかしない限り、今後も似たようなことが起きるのは目に見えていた。
 沢田綱吉の家庭教師は凄腕の殺し屋であり、あらゆる分野に通じる卓越者だ。
 雲雀が一目置くのも当然で、その教え子たる少年に期待するのも無理ない話だった。
 ところが蓋を開けてみれば、この体たらく。
 あの赤子は、いったい彼に何を教え込んでいるのだろう。一抹の懸念を抱き、不安を覚え、雲雀は綱吉のひとつ前の席に腰を下ろした。
 椅子を引き、斜めにして、身を落ち着かせる。
 綱吉は一瞬ビクッと身構えたが、雲雀の相手をするよりも、目の前の難問を優先させた。答案用紙に集中することで、外部から与えられる恐怖心を追い払おうとしたらしかった。
 賢明な判断だと内心褒めて、雲雀は右を上にして足を組んだ。左腕をそこに絡め、右手は綱吉の机の角に置き、斜め上から問題用紙を覗き込んだ。
 男子中学生としては小柄な部類に入る綱吉と、雲雀との間には、それなりに身長差がある。頭がぶつかる心配はなく、前髪が擦れることもなかった。
 吐息が触れない距離を保ち、ちらちら飛んでくる視線は無視して、天地が逆の問題を読む。
「ねえ。この問題、さっきのページに似たようなの、あったよね」
「え?」
 そうしてつい先ほどの記憶を掘り返して、人差し指で教科書を小突いた。
 突然の指摘に、綱吉は顔を上げて目を丸くした。ぽかんと間抜け顔を曝して三秒後、ハッとなって教科書を捲り直した。
 どこかにヒントが、と思って探していたが、具体的に見つけたい内容を思い描けていなかった。それで見落とし、素通りしていたと教えられて、衝撃を受けた。
「ほんとだ」
「ちゃんと読んでないからだよ」
「すみません……」
 流し読みで情報が頭に入ってくる人間がいれば、そうでない人間もいる。
 綱吉は明らかに後者であり、もっと念入りに調べる癖をつけるべきだった。
 苦手意識を優先させて、逃げ回ってばかりいては前に進めない。授業にしても、テストにしても、もっと真剣に取り組んでおけば、こんな無駄な時間を過ごさずに済んだのだ。
「紙飛行機は、真っ直ぐ飛んだ?」
「……いえ、全然」
「だろうね」
 嫌味を言われ、ちくりと胸に刺さった。
 呆れ混じりに相槌を打たれたのも、自業自得とはいえ、ショックだった。
 けれどあれがなければ、雲雀はここに来なかった。教室に居残っていた綱吉に帰宅を促し、そのまま立ち去っていただろう。
 言い換えれば、彼を引き留める材料になった。あながち悪いことばかりではなかったと前方を盗み見て、綱吉は教えられたページが閉じないよう、教科書の角に筆箱を置いた。
 重石代わりに使い、紙面の例文と、問題文とを見比べる。
「あ、そっか。こういうこと」
 理解出来るまで繰り返し読んで、六度目を数えてようやく、ストン、と答えが落ちて来た。
 どの数字を、計算式のどこに当て込むか。その答えを自力で見つけ出して、綱吉は詰まることなくすらすら流れるシャープペンシルに目を輝かせた。
「汚い字」
「よ、読めれば、良いんです」
 そこに水を差し、雲雀がふっ、と鼻で笑った。
 綱吉は負けるものかと言い返して、導き出した数字を回答欄に落とし込んだ。
「はい、間違い」
「えええ~!?」
「どうして六と、二十三を足して、二十七になるの」
「あ、本当だ」
 直後に冷徹な一撃が下されて、悲鳴を上げた綱吉は直後に目を点にした。単純な計算ミスに唖然となって、大慌てで書き直した。
 自分でも何故そこを間違えたのか、さっぱり分からない。
 折角いい線までいったのに、こんな単純な間違いで棒に振るのは勿体なすぎる。
 過去どれだけの点数を、このケアレスミスで失ってきたか。
 想像もできなくて、綱吉は脱力して天を仰いだ。
「ほら、急いで」
「いてっ」
 一問解き終えただけなのに、とてつもない疲労感だった。
 久しぶりに頭を使ったと、脳みそが糖分不足を訴えている。しかし与えられたのは、甘い菓子ではなかった。
 トンファーでなかっただけ良かった、と言うべきか。軽い拳骨一発で済んだのに安堵して、綱吉は次の問題を前に舌なめずりした。
 そして。
「……ヒバリさん」
 三秒後。
 ひとりでなんとかしよう、という思いを焼却炉へ投げ捨てて、いそいそと雲雀に向けて教科書を差し出した。
「小動物を甘やかすと、すぐ図に乗るね」
「そこをなんとか」
 ちょっと優しくするだけで、簡単に付け上がる。
 調子が良すぎると叱られたが、重ねて強請り、綱吉は両手を合わせて頭を下げた。
 神仏へ祈る仕草で胡麻を磨られ、雲雀は足を解いて椅子に座り直した。背筋を伸ばし、斜めに傾いでいた身体を正面に向けて、受け取った教科書に目を走らせた。
「まあ、いいよ。君に恩を売っておいて、損はないしね」
「リボーンには、言っておきます」
 言い訳めいた台詞を口にして、綱吉から言質を引き出す。
 漆黒に濡れた眼が、直後、怪しげに輝いた。軽率な発言をしたかと勘繰り、ボンゴレ十代目候補筆頭の少年はヒヤッと来た背中に鳥肌を立てた。
 警戒し、口を噤んだ。
 勝手に溢れる脂汗で腋を濡らして、綱吉は不遜な笑みの男に四肢を粟立てた。
 雲雀はとあるページで手を止めて、その角を三角に折った。他人の持ち物を勝手に痛めつけ、結構な厚みと重量がある書籍を閉じた。
「僕クとしては、ここで今すぐ。君自身で返してもらっても、良いんだけどね?」
 そしてそれを丸めて、俳優らが持つ台本のように振り回した。
「え――」
 顎をくい、と持ち上げられて、一瞬何が起きたか分からなかった。
 反射的に持っていたシャープペンシルを手放して、綱吉は唖然と見開いた目で眼前の男を見下ろした。
 琥珀色の瞳が僅かに歪み、下から覗き込む格好になっている雲雀に瞬きを繰り返す。立ち位置が急に逆転した状態だが、見上げてくる彼の方がずっと不遜で、偉そうなのは変わらなかった。
 俯こうにも障害物が邪魔で、顎を引くに引けない。
 仕方なく眼球だけを下向ければ、そこにあったのはメガホン状になった教科書だった。
 あまり目立たない喉仏が、肉厚の教科書に触れる寸前だった。もうちょっと力を込めていたら、間違いなく喉を潰されていた。
 彼のことだからそんな失態はしないだろうが、認識した途端、冷たいものが背筋を伝った。縮んだり、拡張したりと忙しい心臓がまたバクバク言い始めて、綱吉は告げられた内容を理解するのに、相当な時間を費やした。
 雲雀は不敵に笑うだけで、なにも言ってこなかった。
 だが見詰める眼は肉食獣のそれであり、獲物を値踏みし、見定めている顔だった。
 教室の真ん中で、座ったまま伸びあがり、綱吉は瞬きも忘れて雲雀に見入った。
 彼の方も、逃げることなく挑んできた。
 真正面からぶつかりあう眼差しに、自然と身体が火照っていく。
 雲雀恭弥は、綱吉の家庭教師であるリボーンに固執している。その強さに憧れめいたものを感じており、本気でぶつかり合える日を心待ちにしていた。
 強者と強者のぶつかり合いを、綱吉はいつだって外側から眺めていた。突然マフィアの次期ボス候補に祭り上げられたわけだが、今に至ってもなお、なにかの冗談だと心のどこかで思っていた。
 十四年間の人生のうち、十年以上を弱者として過ごして来たのだ。
 いつかは自分も、と思いつつも、自分では無理だと最初から諦めていた。楽な方へ、楽な方へ逃げ回って、直視しないよう心掛けていた。
 強い人たちは、弱い自分に興味などないと決めつけていた。
 無視されることに慣れていた。
 馬鹿にされ、笑われる方にばかり、耐性がついていた。
「え、あ……」
 ところが今、雲雀から向けられる眼差しは、強者に対して投げかけられるもの。
 ダメダメのダメツナを捕まえて、戦いたい相手として定めていた。
「えと、あの」
 果たして自分は、彼になんと返せば良いのだろう。
 突き刺さる眼光は鋭く尖り、そして熱い。戦闘狂の名に恥じぬ興奮を内に秘めて、拭い切れない好奇心に溢れていた。
 綱吉に興味を抱き、関心を寄せ、その実力を推し量ろうとしていた。
 揺らがず、曲がらず、一直線に押し寄せてくる。
 自分から逸らすなど出来ない。口籠り、綱吉は得体の知れないなにかが湧き起こる衝動に竦み上がった。
「――っ!」
 身体の芯とも言える場所が震えていた。
 魂というべきものを、鷲掴みにされた。
 すべてを曝け出し、示してみせろと訴える情熱に。
 対抗心よりも先に、羞恥心が溢れた。
 ぼんっ、と頭が爆発した。小さすぎる容量に対して、向けられた熱量があまりにも大き過ぎた。
 こんなに長い時間、誰かと見詰め合った経験すらなかった。
「小動物?」
「しっ、失礼、します!」
 限界に到達し、もう耐えられなかった。左右の耳から煙を噴いて、綱吉は怪訝にする雲雀を置いて立ち上がった。
 机に引っ掛けていた通学かばんを引っ掴み、ノートや筆記用具を、無秩序に放り込む。中身がぐちゃぐちゃなのも構わずファスナーを閉めて、まだ一問しか解けていない答案用紙を握りしめた。
 紙飛行機を折った時より皺くちゃにして、惚けている雲雀に深々と頭を下げて。
 猛然とダッシュして、彼は教室を飛び出した。
「なんなの、急に」
 取り残された青年は唖然として、あっという間に見えなくなった背中に瞬きを繰り返した。
 直前に目に映った綱吉の姿は、真っ赤に熟した林檎のようであり、熱湯に茹でられた蛸のようでもあった。
 甘そうな色の瞳を潤ませて、小振りの鼻を震わせて。
 頬を上気させ、唇を噛み締めて。
 その辺の愛玩動物よりもよっぽど愛くるしい姿に呆然として、そんな風に思った自分にも愕然となる。
「なんなの、いったい」
 暗さを増す教室の中で、ひとり。
 彼は手元に残された教科書で、誰もいない場所をコツン、と叩いた。

2016/12/24 脱稿

Sugary

 甘い香りに誘われるのは、なにも蝶や蜜蜂だけではない。
 鼻が先頭になって吸い寄せられて、足は後からついて行く感じだ。上半身が斜めに傾ぎ、前のめりの体勢をそんな風に表現して、ユーリは麗らかな日差しに目を細めた。
 味覚を刺激して止まない匂いは、サンルームの方から漂っていた。日光を燦々と集めて、冬場でも十二分に温かい空間だった。
 冷たい風を跳ね除け、日中であれば暖房要らず。勿論曇りの日や、雨の日は、そうはいかないけれど。
 普段は洗濯物が吊り下がっている場所も、今日ばかりは別のもので飾られていた。どこからか調達してきた樅の木の鉢植えが幅を利かせ、趣味の悪い電飾が明滅を繰り返していた。
 髑髏を模したオーナメントは、誰の趣味だろう。
 そもそもこんな代物を、いったいどこで購入してきたというのか。
 買う方も買う方だが、作って売り出す方もいかがなものか。
「イラッシャ~イ」
 入口を彩るけばけばしい照明に眉を顰めていたら、来店者に気付き、包帯まみれの男がひらひらと手を振った。
 よく注意してみれば、包帯で覆われた手と、チョコレート色のコートの袖が繋がっていない。本来あるべき手首の存在は無視されて、その向こう側が透けて見えた。
「パーティーには早くないか、スマイル」
「いいの、イイノ。気にシナ~イ」
 直前に見た柱時計の文字盤は、午前十時に届くかどうかというところ。今日が年に一度の特別な日とはいえ、騒ぎ始めるには些か早すぎだった。
 なにか企んでいるのかと訝しみ、ユーリは右手を腰に据えた。疑念の眼差しを隻眼の男に投げつけて、そのまま首を右に捻った。
 スマイルは鉄製の椅子に腰かけ、優雅に午前の茶を楽しんでいた。円形のテーブルには花柄のテーブルクロスが掛けられ、中心にはクリスマスローズを活けた花瓶が飾られていた。
 その丸型の花瓶を取り囲む形で、色とりどりの菓子が無数に並べられていた。
 アーモンドの香りが香ばしいフィナンシェに、ドライフルーツたっぷりのベラベッカ。シュークリームはミニサイズで食べやすく、干しブドウたっぷりのクグロフまで、全てが手作りだった。
 切り分けられる前のブリオッシュに降りかかった砂糖が、雪山の景色を描き出している。傍にはナイフが控えており、まだかまだか、と出番を心待ちにしていた。
 紅茶を淹れたポットはキルトのカバーで覆われて、熱が逃げないよう隠されていた。空のカップはあとふたつ用意されており、パーティーの主役の到来にそわそわ落ち着かなかった。
 サンルームいっぱいに飾られていた植物にも、クリスマス仕様の飾り付けが施されていた。昨日まではなにもなかったはずなので、一晩でここまで仕上げたのだろう。
「まったく」
 無駄なところで労を惜しまない透明人間は、さっきから電飾の明滅に合わせ、姿を消したり、現したりと忙しい。
 そういうところまで拘らなくて良いのに、と呆れて、ユーリは腰に当てていた腕を下ろした。
「アッシュは?」
「キッチンで、七面鳥と格闘中だネ」
 クッキーで作ったお菓子の家にはマジパン製のサンタクロースが舞い降りて、生クリームが雪の代わりに降り積もる。
 こちらも、いったいいつから用意を始めたのか。暇な時間を見つけてはせっせと台所に通っていたバンドメンバーを思い浮かべて、ユーリは納得だと頷いた。
「しかし、豪勢だな」
「クリスマスだしネ~」
 彼らの熱の入れようも、この日が特別だからだろう。
 数歩の距離を詰めて椅子に座ろうとしたら、先に立ち上がった男に背凭れを引かれた。床に敷き詰めた大理石がゴリゴリ削られて、城の主は力なく肩を落とした。
「別に構わんが」
「ン?」
「なんでもない。紅茶を一杯、いただこう」
「ヒヒヒ、特製ブレンドいっちゃう?」
「……カレー味なら遠慮する」
「ちぇー」
 細かな傷が入ったが、スマイルは全く気にしていない。逐一言っていたらきりがなくて、ユーリは諦めて椅子に腰を下ろした。
 座面にはあらかじめクッションが敷かれており、それ自体も温んでいた。
 吸血鬼は本来、日光を嫌うと言われている。けれどユーリはこれを平然と受け止めて、心地よさげに目を細めた。
「カレー味の紅茶があったら、毎日飲んじゃうのにネ」
 その向こうでは透明人間がいそいそと動き回り、白一色のティーポットを持ち上げた。細長い注ぎ口から飴色の液体を注いで、スプーンを添えて差し出した。
 シュガーポットとミルクは別に用意されており、欲しければ自分でやれ、ということだろう。さすがにそこまで甘える気はなくて、黙して受け取ると、ユーリは先に芳しい香りを嗅いだ。
 白い湯気をたっぷり吸いこんで、胸にすうっと溶け込む匂いに頬を緩める。
「誰か招いているのか?」
「なんデ?」
「こんなに、食べきれるのか?」
 カレー好きのスマイルは、どちらかと言えば辛党だ。一方でこの大量の菓子を作り上げた狼男は、見て分かる通りの甘党だった。
 ユーリはあまりこだわらないものの、甘すぎるものは苦手だ。辛いものも嫌いではないが、度が過ぎるものは避けて通っていた。
 さほど量を食べられる体質でもないので、この有り余るほどの菓子は不安要素でしかない。今宵はクリスマスディナーが待っているので、そちらのために胃袋を空けておく必要があった。
 七面鳥のローストだけでなく、豪華なケーキも準備中のはずだ。とてもではないが、昼前から食べ耽る余裕などなかった。
 アッシュは何事にも真面目に取り組み、手を抜かないのはいいが、些か極端すぎる。
 クリスマスツリーにも負けない鮮やかな緑髪の男を脳裏から追い出して、ユーリは誤魔化すように紅茶を啜った。
 前方ではポットを置いたスマイルが、空いた手でフィナンシェをひとつ取った。長方形の焼き菓子を半分頬張って、残り半分を優雅に寛ぐ吸血鬼に向けた。
「そんなに甘くないヨ」
 歯形が残る断面を見せてやり、呵々と笑って塊のまま口の中へ。
 透明人間が食べたものは、総じて透明になるのだろうか。眺めながらぼんやり考えて、ユーリは手始めにシュトレンへと手を伸ばした。
「美味しいヨ。さすがは、アッシュ君」
「そうだな」
 確かに店で売られているものより余程味わい深く、口当たりも良かった。ナッツの香ばしさにドライフルーツの甘味が良い塩梅に混じり合って、いくらでも食べられそうだった。
 いっそのこと、これらの菓子を昼食にしてしまおうか。
 女性ならば翌朝の体重が気になるところだが、吸血鬼には関係のない話だ。年末の仕事は、あとはラジオの収録が残るのみであり、多少増えたところで支障なかった。
「こっちは、どうやって作ったんだ?」
 アイシングクッキーで作られたヘクセンハウスが気になるが、壊してしまうのは惜しかった。
 あとで製作者に聞いて、許可が下りてから分解することにしよう。そう決めて、一旦出した手を引っ込めたユーリは、迷った末にクグロフを指し示した。
「ハイハイ」
 それだけで察して、スマイルは椅子を引いた。添えられていたナイフを、手袋のまま握りしめ、白い雪山の表面に雪崩を起こした。
 丁寧に切り分けて、横に寝かせた一枚を皿に盛り付けた。一緒に小さめのフォークをセットにして、恭しく差し出した。
「ドウゾ」
「ああ」
 畏まった御辞儀は滑稽だったが、ユーリは敢えてなにも言わなかった。目の前に供された焼き菓子に意識を集中させて、早速ひと口分を切り分けた。
 アッシュが作ったものは、なんだって美味しい。疑うことなく口に入れて、彼は蕩けるような笑顔を左手で隠した。
「カメラがあれば良かったネ」
「ネットなんぞにアップしたら、承知しないぞ」
「ブーブー」
 それを茶化し、叱られたスマイルが頬を膨らませた。子供じみた表情で拗ねて椅子に戻り、自分用に切りわけておいたクグロフを、塊のまま頬張った。
 豪快な食べっぷりに、口の周りが白くなる。
 青色の肌が一部斑模様に染まって、見ていられなかったユーリは自分の口元を指差した。
「スマイル」
「ウン?」
 名前を呼んで同じ場所を小突けば、最初はきょとんとしていた透明人間も、じきに状況を察した。嗚呼、と小さく頷いて、グローブの上から拭こうとし、寸前で止めた。
 腕を下ろし、紅茶を啜る。濡れた唇を一周させて、クロスの類は使わなかった。
 行儀が悪いと言いたいところだが、彼を躾けるのはユーリの仕事ではない。
 公の場でないのだからと大目に見てやることにして、彼は二杯目の紅茶を所望した。
「なんだ。もう先に始めてたッスか」
「アッシュ君も、イラッシャ~イ」
 そこに丁度、白い大皿を二枚抱えた男が近付いて来た。左右の手に一枚ずつ、肩の高さで掲げており、盛りつけられている料理は見えなかった。
 ポットを取るべく腰を浮かせていたスマイルが先に気付き、ひらりと手を振った。我が儘な王様をもてなしつつ、皿の中身を気にしてか、背伸びを繰り返した。
 そわそわ落ち着かないところは、まるで人間の子供だ。
 ロボットアニメが大好きで、台詞どころか効果音さえ暗記している。そんな透明人間に苦笑して、色黒の狼男は運んできた料理をテーブルに置いた。
 コトン、と小さな音を二度響かせて、料理自慢のコック兼ドラマーは胸を張った。
「スコッチエッグとパンケーキ、ッス。ユーリは、朝ごはん、まだッスね?」
「そうだな」
「スープもあるッス。持ってくるッスね」
「アッシュ君も、ひと休みすれバ?」
 スマイルの覚えている限り、彼は早朝からずっと台所に立っている。食事は、作りながら味見と称するつまみ食いで済ませているようだが、たまには座って、ゆっくり食べる時間も必要だ。
 慌ただしく働く男を労い、提案して、スープくらいなら自分で用意できると透明人間が席を立つ。
「スマイル」
「パンケーキ、あんまり好きじゃないんだよネ。だから、ヨロシク~」
 止めようとしたアッシュだが、先手を打って遮られた。出来立ての朝食兼昼食を譲られて、狼男はしおらしく椅子に収まった。
 恐縮したまま手を合わせ、気を利かせてくれた男へ感謝を述べた後、フォークとナイフをそれぞれに構える。
 ユーリはクグロフの残りとパンケーキを見比べて、温かい方を優先させた。
「半熟か」
「ソース代わりにどうぞ、ッス」
「いただこう」
 スコッチエッグを真ん中で割れば、とろりと黄身が溢れ出した。添えられていたアボガドと一緒に口に運べば、類い稀な幸福感が胸に満ちた。
 スープ皿も程なく運ばれて来て、テーブルの上はぎゅうぎゅうだ。これ以上並べる場所がない、という渋滞ぶりに、スマイルはやむを得ず立ったままスープを啜った。
 彼の分だけは、持ち手付きのカップだった。飲みながらクリスマスツリーや、趣味がよいとは言えないリースなどを眺めて回り、飲み終えると同時に椅子へと戻った。
 しばらくは食器同士の擦れ合う音ばかりが響き、会話はあまりない。
 先ほど注意された唇の汚れを思い出して、スマイルは透明な指で柔らかな皮膚を擦った。
「ン~~」
「スマイル?」
「辛いノ、食べたい」
 まだ残っていた白い粉と、それを上回る青色の塗料。
 キャメル色の手袋に残った二色をきゅっと握り締めて、彼は底抜けに優しい料理人に相好を崩した。
 どんな我が儘だって、たちどころに叶えてくれる。毎日美味しい料理を食べられるというのは、限りなく贅沢な話だった。
「ん、ッヒヒ」
「どうした、気持ちの悪い」
 彼らと出会うまでの日々が、不意に脳裏を過ぎった。あまりに膨大な記憶を一瞬に凝縮させて、スマイルは堪えきれずに噴き出した。
 突然身体を揺らしながら笑い出されて、食事中だったユーリも、アッシュも思わず手を止めた。けれどスマイルは答えることなく肩を震わせ、右手で口元を隠し、片方しかない目を瞑って息を絞り出した。
 横隔膜が引き攣って、呼吸が巧く続かない。
 何度か噎せて、咳き込んで、彼は不可解な縁に隻眼を細めた。
「だってネ~?」
 スマイルは最初からベースを弾いていたのではない。彼が各地を放浪していた時、携帯していたのは古びたギターだった。
 それほど巧かったわけではないが、下手でもなかった。聴衆がいなくとも気にならなかったし、好きなことを好きなようにやれる日々は楽しかった。
 けれどあの頃は、ひとりだった。
 朝起きて挨拶をして、毎日顔を合わせる相手を持ったことなどなかった。
 自分がいつ、どこで産まれたのかも分からない。
 気がつけば、世界の片隅に存在していた。
 己という存在を意識した時から、もう既にこの身体は透明だった。すれ違う人は大勢いたが、誰ひとりとして振り返ることはなかった。
 最初のうちは気がついて欲しくて、色々と頑張った。けれどそのうち疲れて、止めてしまった。
 自分とはこういうものなのだと認め、諦め、割り切ってしまえば、案外楽だと思えた。
 やがては心までもが透明になり、空に溶けて消えていく。
 なにも生み出せず。
 なにも遺せず。
 透明人間らしく、透明な終わり方を迎えるのだと信じて疑わなかった。
 ところが運命の女神というものは、存外に悪戯好きだった。ひょんなことから事態は大きく動き、ジェットコースターのような毎日が始まった。
 今は少しのんびりしているけれど、年が変われば、また忙しくなる。
「どうしてボク、ここにいるのかな、ってネ」
 どこかで何かが違っていたら、スマイルは今もひとりギターを抱え、寒空の下に蹲っていた。
 鳥の嘴に怯えつつ、色を持たない姿を不気味がられながら、透明なままで。
 空になったスープカップを抱きかかえ、名前通りのにこやかな笑顔で呟く。
 白い歯を見せてにっと口角を持ち上げた彼に、ナイフを置いた吸血鬼は深く長い息を吐いた。
 口元をナフキンで拭い、こめかみを二度叩いた。背凭れに深く身を委ねたかと思えば、おもむろに腕を伸ばした。
 紅茶に足す気なのかシュガーポットを取り、蓋を外し、中のスプーンを引き抜いた。
「掃除は、私がする」
「了解したッス」
「ン?」
 非常にゆっくりとした動きで、ユーリは上白糖入りのポットを鷲掴みにした。
 意味ありげな低い声に、アッシュが敬礼して畏まる。ふたりだけで通じ合っている状況に、スマイルは疎外感から眉を顰めた。
 直後だ。
「――ぶひゃっ」
 不細工な悲鳴を上げて、透明人間は叩き付けられた砂の痛みに飛び退いた。
 不意打ちも良いところで、避けられなかった。真正面から勢い良くぶつけられて、口どころか、目にも、鼻にまで入った。
「ぺっ、ぺっ」
 口の中は甘くてならず、全身がべたべたして気持ちが悪い。一部は服の表面を流れて落ちていったが、多くは残り、ボリュームたっぷりの髪の中に沈んでいった。
 粉雪ならぬ、粉砂糖が降って来た。
 犯人は言わずもがなで、しかも偉そうにふんぞり返っていた。
 暴挙を反省する様子は皆無で、得意げに胸を張っていた。
「ナニするのサ、ユーリ」
 吸血鬼が握り締めるポットは、見事なまでに空っぽだった。
 初めからそうするつもりだったと悟って泣き言を口にすれば、テーブルに頬杖ついたアッシュが苦笑した。
「今のは、スマイルが悪いッス」
「エエエ~?」
 満足げに笑っているユーリを庇い、被害者であるスマイルに原因がある、と彼は言う。
 それが理解出来なくて絶叫すれば、堪えきれなくなったのか、ユーリが先に腹を抱え込んだ。
「ふはっ」
「ぷふ、ふ……ふひっ、ははは」
 大切な仲間ふたりに笑われて、スマイルは訳が分からないと小鼻を膨らませた。地団駄を踏んで煙を噴き、髪の毛から零れ落ちた砂糖の粒に渋面を作った。
 ひとり蚊帳の外に置かれた気分で、面白く無かった。
 己の名前に反した表情をして、口をヘの字に曲げた。ぶすっと膨れ面で睨み付ければ、一頻り笑って気が済んだのか、アッシュが椅子を引いて立ち上がった。
「オーブンの様子、見て来るッス」
 本当はゆっくりするつもりがなかったので、火を点けたままだった。
 焼け過ぎていないか心配だと声を高くし、狼男は気忙しく走り去った。
 逃げた、とも言い換えられそうな後ろ姿に、スマイルの顔が益々渋くなる。それが尚更滑稽だと目尻を拭い、ユーリは空のシュガーポットをテーブルに戻した。
「馬鹿なことを言うからだ」
「ソウ?」
「そうだ」
 ユーリだって二百年間、城の地下で眠り続けていた。目覚めたのは偶然で、けれど振り返ってみれば必然と思えた。
 運命などという言葉は実に馬鹿らしいが、一理ある。そうでなければ辻褄が合わない出来事が、世の中にはごまんと溢れていた。
 彼らがバンドを結成したのだって、そう。
 ユーリがスマイルを見出し、アッシュを引き入れて、今日という日をこんな風に迎えているのだって。
 起きなかった未来を考えるのは、ナンセンスが過ぎる。もしも、の話をしたところで虚しく、つまらないし、興ざめだ。
「そっかァ」
「ああ、そうだ」
 せっかくのクリスマスなのだから、楽しまなければ勿体ない。
 湿っぽい話をした報いだと言い張って、ユーリは最後まで謝罪しなかった。むしろ良いことをしたと威張って、蟻が寄ってきそうな透明人間を遠ざけた。
「酷いなァ、ユーリ」
「なにを言う。こんなにも有能で、理知に富む吸血鬼は、ほかにないぞ?」
「美人で、スマートで、歌も巧くて?」
「ああ、そうだ」
「寝坊助で、ナルシストで、ちょっと服の趣味が悪くて、すぐ拗ねる?」
「さっさとシャワーを浴びてこい!」
 愚痴だったものが途中から煽てられ、最終的に落とされた。
 臍を曲げた吸血鬼は怒号を上げ、今度はポットの蓋を掴んで投げる動作に入った。
 さすがにこれは、当たればコブになる。痛いのは勘弁とやられる前から頭を庇い、スマイルは蟹歩きの要領でサンルームを出て行った。
 日当たりの良い一帯が、にわかに静まり返った。鳥のさえずりがどこからともなく聞こえて来て、砂糖まみれの大理石は歩くとじゃりじゃり音がした。
「まったく」
 つまらない話を聞いたと憤慨し、不機嫌な吸血鬼がぽつりと呟く。
「そんなもの、決まっているだろう」
 ユーリがいて、スマイルがいて、アッシュがいる、その理由。
「私たちが、Deuilだからだ」
 自信を持って声に出し、彼は残っていた紅茶を飲み干した。

2016/12/23 脱稿

豊かなりける わが思ひ哉

 気まぐれで降り立った庭を、特に行き先も定めずに歩いていた。
 本丸の庭は、広い。四季折々の花々が咲き乱れ、色彩に溢れている。春になれば桜が咲き、秋になれば紅葉が景色を飾り立てた。
 しかも目で見て愛でるだけでなく、香りも多種多様だ。雨上がりには土の匂いが際立ち、夏場は急速に成長する青草の瑞々しさが一帯に立ち込めた。
「ああ、これか」
 そして秋になって、薫風が鼻先を漂った。
 誘われるように歩いて来た小夜左文字は、四方に広がる甘い香の源を見つけ、感嘆の息を零した。
 殺気を隠そうともしない敵を見つけるのは簡単だが、樹木はそうではない。匂いを頼りに辿り着くのは、思った以上に困難を極めた。
 歴史修正主義者を相手にした方が、余程楽だ。並べて比べるのは失礼かと思うが、連想せずにはいられなかった。
 血腥い逸話を有する短刀相手でも、植物は怯えることがない。遠慮なく近くへ寄って、見目幼い少年は顔を綻ばせた。
 どこか棘がある目つきを和らげ、胸いっぱいに息を吸いこむ。
 少し酸味がある香りを放っていたのは、樹上に咲いた花だった。一輪ずつはとても小さいけれど、無数に集まり、橙色の塊を成していた。
 鮮やかな緑の葉に埋もれながら、存在を主張していた。近くを通りかかれば強い匂いに惹き寄せられて、足を止めてしまうこと請け合いだった。
 長時間で嗅いでいると酔ってしまいそうだけれど、ふわりと香る分には問題ない。嗚呼、と気の抜けた笑みを浮かべて、小夜左文字は低い位置に伸びている枝を小突いた。
 本丸でも際立って背が小さい彼では、高い場所に手が届かない。触れようとした枝も指先を掠める程度で、揺らすのが精一杯だった。
「良い匂い」
 それでも期待に応え、振動を受けた花が一段と香りを強めた。
 鼻からのみならず、全身で吸い込んで、藍の髪の短刀は目元を綻ばせた。
 ここにこんな木が生えていると、全く知らなかった。屋敷の者たちも、匂いがする、と言っていたが、具体的な場所までは語っていなかった。
 ならばあの男も、きっと知らないに違いない。
「ふふ」
 これは是非、教えてやらなければ。
 妙な義務感が湧き起こり、小夜左文字は無意識に拳を作った。それで口元を覆い隠して、押し殺し切れなかった声を漏らした。
 きっと驚くだろうし、喜ぶだろう。
 風流なものを愛で、雅を好むあの男なら、お手柄だと言って褒めてくれるに違いなかった。
 子供のようにはしゃぐ姿が目に浮かんで、面白くて仕方がない。誰も見ていないのを良いことにクツクツ喉を鳴らして、少年は今一度、芳しい香りをいっぱいに吸い込んだ。
 甘く、爽やかで、心地よい。唇を舐めれば、それすらも甘く感じられた。
「歌仙は、気に入ってくれるだろうか」
 樹上に咲き誇る花を眺めて、真っ先に教えたいと思った刀の名前を口ずさむ。
 期待に胸を高鳴らせて、小夜左文字は踵を返した。
 周囲の景色を記憶に焼き付け、屋敷までの歩数を数えた。大体の距離、方角をしっかり把握して、草履を脱ぎ、目的地へと急いだ。
 廊下は走らぬよう、へし切長谷部から厳しく言われている。だから注意されないぎりぎりの速度を維持して、いくつかの角を曲がり、とある部屋の前で立ち止まった。
 入口である襖の横には、この部屋で暮らす刀の号が記されていた。
「歌仙、居ますか?」
 丁寧な文字で描かれたその名を心の中で諳んじて、室内に向かって呼びかける。
 両手は背中に隠し、軽く首を傾げながらの問いかけに、間を置かず返答があった。
「その声は、お小夜かい?」
 質問に質問で返されて、苦笑を禁じ得ない。なにか作業中だったのか、衣擦れの音が後に続いた。
 ゆっくり立ち上がって、畳の縁を跨ぎながら歩く姿が思い浮かんだ。襖という障壁がありながら、手に取るように分かって、小夜左文字は堪らず顔を綻ばせた。
「はい。小夜左文字です。入っても良いで――」
 小さく首肯して答え、入室の許可を求めた。だが最後まで言い切る前に、襖の方が勝手に右に逃げて行った。
「やあ。丁度良かった」
「歌仙?」
 なんてことはない、中にいた男が開けただけだ。わざわざ出迎えてくれた打刀をきょとんと見上げて、短刀は告げられた台詞の意味を考えた。
 歌仙兼定は戦国大名細川忠興に所縁を持ち、三十六人殺しの逸話を持つ血濡れた刀だ。しかし現れたのは肉付きの良い体格をした偉丈夫で、表情は至って上機嫌だった。
 今にも鼻歌を奏でそうな雰囲気に、思い当たる節はない。
 怪訝にしていたら、心を読み取ったかのように、戦装備を解いた男がスッと右に道を譲った。
 塞がっていた視界が広がり、小夜左文字は目を瞬かせた。背筋を伸ばして室内に見入り、前より増えた茶器の数々に総毛立った。
「歌仙、まさか」
「ああ、そうさ。万屋に頼んでおいたものが、ようやく届いてね」
 嫌な予感を覚え、声が上擦った。
 だのに歌仙兼定は得意げに胸を張り、満足そうに頷いた。
 鼻高々、とはこういうことを言うのだろうか。打刀は満面の笑みを浮かべ、早く、と短刀を手招き、一足先に部屋の中央へ戻った。小夜左文字は僅かに遅れて中に入り、後ろ手に襖を閉めて、がっくり肩を落とした。
「また、無駄遣いをして」
 口を開けば自然とため息が漏れた。痛むこめかみを掌で押さえつけて、整理が行き届いているとは言い難い空間にゆるゆる首を振った。
「なにを言うんだ、お小夜。どれも素晴らしいものばかりだというのに」
 独り言を耳聡く拾い、聞き捨てならないと男が拗ねる。座布団に座った彼の掌中には、渋い色合いの茶碗が抱かれていた。
 上部と下部で色合いが異なり、垂れ落ちる釉薬が景色を描いていた。恐らくは著名な窯で焼かれたもので、附属する箱や紐から類推するに、相当な値がついていたはずだ。
 他にも軸に巻かれた掛物に、書が何冊か。藍色の小さな袋の中身は、香合かなにかだろう。
 総額でどれくらいになるか、計算したくなかった。そしてこの男のことだから、店頭で交渉したりせず、あちらの言い値で引き取ったに違いない。
 太っ腹なのは構わないが、万が一の時の蓄えはどうなっているのか。
 もうこれ以上、こちらにだって貸せる銭はないというのに。
「今度は誰に、借金したんです」
「うっ。……し、失礼だね。していないさ、今回は」
「では、前借りですか」
「お小夜。細かいことをねちねち言うのは、雅ではないよ」
 つい先日、花器の支払いを立て替えてやったばかりだ。
 それなのにこの有り様とは、続ける言葉が見つからなかった。
 下手に甘やかしたりするから、こうなったのか。己の行動を反省して、小夜左文字は開き直った男を睨みつけた。
 言い訳ではなく、話題を逸らそうとした辺りが、怪しい。後ろ暗いことがあり、追及されたくないと思っている証拠だ。
 図星なのだろう、と予想して、短刀は肩を落とした。欲しいものがあれば後先考えずで、財布の紐が常に緩い男を、ひと振りで万屋に行かせてしまった自分の失態でもある。
 歌仙兼定は出入り禁止にしてもらうよう、審神者に進言しなければいけない。
 浪費癖はどんどん酷くなっており、ここらで一度、区切りをつけるべきだった。
「歌仙」
「いっ、良いじゃないか。昨日も今日も、僕は畑仕事を頑張ったんだから」
 冷たい眼差しを投げつければ、胸にちくりと来たらしい。急に声を荒らげて、これらは自分への褒美だと捲し立てた。
 なお、一昨日は馬当番で、その前は厠の掃除だっただろうか。とにかく一週間近く、彼は矜持を傷つけられる仕事ばかり任せられていた。
 それで癇癪を爆発させて、散財した。少しも反省の色が見えない男の言い分に項垂れて、小夜左文字は新入りの茶碗に視点を定めた。
 左右に掌を並べて、優しく抱きしめていた。指を軽く曲げて包み込むように持ち、喋っている間も極力揺らさないよう配慮していた。
 大事に、大事に扱って、歌仙兼定はそれをそうっと、木箱の中へと戻した。言葉はひと言も発さず、目つきは真剣だった。
 無事収納し終えて、安堵の息を吐く。汗など出ていないのに額を拭った打刀に呆れて、短刀は爪先で空を蹴り、埃を撒き散らした。
 衣紋掛けには例の派手な外套がぶら下がり、外した具足がひとまとめに置かれていた。刀は床の間の刀掛に寝かされて、火の点かない行燈が畳んだ布団の傍で出番を待っていた。
 壁際に文机が置かれ、派手な硯箱が幅を利かせている。無記入の短冊が周辺に散らばり、違い棚には桜色の花瓶と、香炉が飾られていた。
 彼は目出度く仲間入りした茶碗の入った箱を、文机に避難させた。続けて手に取ったのは掛け軸で、座ったまま広げ、見え易いよう腕に角度を持たせた。
「ほうら。どうだい、お小夜。この美しい月の夜は」
「っ!」
 訝しげにしていた短刀の前に現れたのは、山水画だった。松が生い茂る山々と、足元に広がる湖水を、白い月が淡く照らしている光景だった。
 訪ねたこともない場所なのに、見た瞬間、風景に己が紛れ込んだ錯覚を覚えた。まだ明るい時間だというのに、暗い峠道から真ん丸い月を眺めている、そんな気分になった。
「そう、ですね」
 だが美しい、とは言いたくなかった。
 一瞬でも見惚れた事実を恥じて、小夜左文字は喜色満面とする男に素っ気ない相槌を打った。
 その反応が、思っていたものと違ったらしい。歌仙兼定は面白くないと小鼻を膨らませ、軸を巻いて隠してしまった。
「歌仙?」
「お小夜なら、分かってくれると思っていたんだが」
 風流を愛で、雅を愛する男には、理解者が少なかった。
 感性豊かに事象を眺め、言葉に表してみても、賛同してくれる刀は存外少ない。大抵は「それがどうした」と取り合わず、相手にもしてくれなかった。
 だから彼は、過去に所縁を持つ小夜左文字に執着した。戦国一の文化人と誉れ高い武将の短刀ならば、対等に会話が出来ると期待した。
 それなのに、芳しい結果が得られなかった。拗ねて、不貞腐れて、しょんぼり落ち込んでしまった。
「……歌仙」
 口を尖らせ、頬はぷっくり膨らんでいた。
 どこの赤子かと愕然として、左文字の短刀は藍色の髪を掻き回した。
「洞庭秋月ですか」
 瀟湘八景図のひとつを口にして、膝を折る。畳に直接正座して、彼は男の手元を指差した。
 本来は八幅あるべきものだが、一度で揃えられなかったらしい。これからの季節に相応しいものだけを選んで来た辺り、一応自制が働いたようだ。
 山に囲まれた湖を、月が照らしている。紙の中に閉じ込められた景観は、古来より人々を魅了してきたものだった。
 ごく短い時間眺めただけだったが、あっさり看破した。正解を告げた少年に瞠目して、打刀は途端に頬を紅潮させた。
「さすがは、お小夜だ。良く分かったね」
「分からない方が、どうかしています」
「ああ、そうだった。そうだった」
 手放しに褒めて、嬉しそうに何度も頷く。興奮に鼻息を荒くして、巻いたばかりの軸をまた広げる。
 これが床の間に飾られていたとして、足を止める刀は少なかろう。江雪左文字辺りは反応するかもしれないが、新選組の刀たちは微妙なところだ。
「これからの季節に、ぴったりだろう?」
「ええ、本当に。良い買い物をしました」
「だろう? お小夜もそう思うだろう?」
 季節、時間、天候といったものを組み合わせた山水画は、じっくり己と向き合うにも適している。墨の濃淡だけで表現された世界は、華やかさこそないけれど、暖かく、柔らかだった。
 この軸の前には、どんな花を飾ろうか。香炉は、鳥を模したものが良い。それも水辺で遊ぶ鳥だ。出来るなら、翡翠か、鷺が良い。香は、凪いだ湖面を思わせる静かなものを選びたかった。
 ひとつ考え出すと、際限がない。そして己が表現したい世界を作り上げるには、どう考えても資金が足りなかった。
 歌仙兼定が茶器を買い集めるのには、理由がある。それは痛いくらい分かる。当てずっぽうでやっているのではないことも、承知していた。
「それでね、お小夜。こっちなんだが」
「これは、とても……雅です……」
「だろう!」
 続けて打刀は小さな袋を広げ、中から香合を取り出した。掌にすっぽり収まる大きさで、表面にはびっしりと彫り物が施されていた。
 蔓草の中で、鳥が遊んでいた。小さすぎて分かり難いが、一羽や二羽ではない。探せばもっと沢山、紛れていると想像出来た。
 職人が丹精込めて、削り出したものだ。どうやればこんな風に作れるのか、とてもではないが真似できない。ただひたすら感心して、感嘆の息を漏らすより他になかった。
 こんなに素晴らしいものを見せられたら、庭で見つけた花の香りなど、取るに足りぬものに思えて来た。
 言い出すきっかけが掴めなくて、小夜左文字は血気盛んな打刀に目を細めた。
「かせん」
 素晴らしい品々を手に入れて、歌仙兼定はすっかり舞い上がっていた。
 彼が笑っているのは喜ばしいことなのに、どうしてだか嬉しくない。こんなに近くにいるのに、存在が遠く思えて、無性に寂しかった。
「茶匙もね、新しく拵えてみたんだ。お小夜に見定めて欲しいな。ちょっと待ってくれ、今準備するから」
 呼び声は届かず、打刀は目の前のことに夢中だ。急に立ち上がったかと思えば、短刀には此処に居るよう言って、棚へ向かう足取りは軽やかだった。
 早く言わないと、夜まで拘束されかねない。
 このままでは延々と、茶器の評論につき合わされてしまう。
 焦りを募らせ、小夜左文字は足指をもぞもぞさせた。膝の間に両手を挟んで、棚を漁っている男の背中を物言いたげに睨みつけた。
 奥歯を噛み、鼻を愚図らせる。だが肝心の打刀に、想いは伝わらなかった。
 代わりに。
「歌仙さーん、いる?」
 襖の向こうから、少女じみた明るい声が響き渡った。
「おや?」
 予想していなかった来訪者に、男が先に手を止めた。小夜左文字も腰を捻って振り返り、意外な刀の登場に眉を顰めた。
「ああ、いるよ。どうぞ」
 色々と散らかしたままだが、居留守を使うわけにもいかない。
 仕方ないと部屋の主が入室を許せば、直後に襖がスッと開いた。
 蝋を塗って滑りをよくしているので、引っかかることはない。楽々道を作った短刀は、敷居を跨ぐ前に足を揃え、頭を下げて一礼した。
 動きに合わせて長い髪が躍り、少女じみた姿が一層華やいだ。橙色がぱっと広がって、庭で見たあの花を思い出させた。
 やって来たのは粟田口派が藤四郎のひと振り、乱藤四郎だった。
「あれ、小夜だ。なんだ、こっちにいたんだ」
「探させてしまいましたか」
「ううん。そうじゃないけど」
 彼は入室早々手を叩き、先客に向かってカラコロと喉を鳴らした。なにが楽しいのか顔を綻ばせ、小夜左文字に用はないと手を振った。
 藤四郎は大勢いるが、それぞれかなり個性的だ。五月蠅いのが居れば、大人しいのもいて、本当に兄弟刀かと疑いたくなるくらいだった。
 その中でも際立って個性が強いと言える乱藤四郎は、怪訝にする歌仙兼定ににっこり微笑み、おもむろに明後日の方角を指差した。
「なんだったかな。あのね、燭台切さんと堀川さんが、これから新しい献立の検討会をやるから、歌仙さんも来てくれ、だって」
 そうしてちょっと迷った後、訪ねて来た用件をすらすらと口にした。
 話に出てきた刀は、歌仙兼定と同じくらい、本丸の台所に立っている刀だ。いずれも料理上手の世話上手で、美味しい食事を皆に提供してくれた。
 だが近頃は、出てくる料理が少々固定化されてきていた。同じものが一定間隔で繰り返されるばかりで、驚きが足りない、と一部の刀から不満の声が上がっていた。
 そういう事情もあり、近々新作に挑戦することが決まっていた。
 小夜左文字も手伝いで台所に立つことがあり、話は小耳に挟んでいた。どうやらこれから試作品を作り、改善点を探して行くつもりらしい。
 その輪の中に歌仙兼定が居ないなど、詐欺だ。
 呼ばれた男は嗚呼、と手を叩いて、深々と頷いた。
「分かった。すぐに向かおう」
 本丸第一の料理人として、参加せざるを得ない。快諾した彼は表情を引き締めると、手に持っていたものを棚に戻した。
 大量にある茶匙を雑に片付け、座したままの小夜左文字をちらりと見る。続けて乱藤四郎を気にする素振りを見せた後、こほん、とわざとらしく咳払いした。
「そういうわけだ、すまない。お小夜」
「はい。茶匙の選定は、またの機会に」
「部屋はこのままにしていってくれて構わないからね。それじゃあ、行ってくる」
 畏まって告げられて、藍の髪の短刀は頬を緩めた。少しだけホッとして、後から沸いて来た黒い感情には蓋をした。
 打刀部屋区画から台所までは、それなりに遠い。屋敷が広すぎるのが原因で、改造し過ぎた結果、一部は二階建てになっていた。
 急ぎ足で去って行った男は、襖を閉めなかった。ドスドスと足音を響かせて、少しも雅ではないけれど、注意する声は届かなかった。
「はあ……」
 ようやく解放された。だが結局、此処に来た目的は達成出来なかった。
 庭で嗅いだ匂いは遠くなり、今は歌仙兼定お気に入りの薫香ばかりが鼻についた。気持ちが落ち着いている時は快く感じられるそれも、苛立っている影響か、臭く感じられた。
 無駄遣いは良くないというのに、叱れなかった。終始あの男の調子に呑まれ、主導権を握れなかった。
 それもこれも、万屋が仕入れて来た茶器の所為。
 器物に罪はないと分かっていても、腹を立てずにいられなかった。
 ひとつか、ふたつ、割ってやろうか。
 そんな誘惑に駆られて、禍々しい気配が短刀から立ち込めた。
 けれどそれは、形を成す前に霧散した。
「歌仙さんと、なにしてたの?」
「……べつに」
 まだ居た乱藤四郎が、興味津々に小夜左文字の膝元を覗き込んできたからだ。
 話しかけられて、即座に顔を背けた。今は誰かと会話したい気分ではなくて、放っておいて欲しかった。
 だが乱藤四郎はお構いなしで、滅多に訪ねることのない刀の部屋を物珍しげに眺めていた。
 出ていく様子はない。ならば小夜左文字も、万が一の時の為に、立ち去るわけにはいかなかった。
「浮気者」
 彼が下手に触れようとして、落として割るようなことがあってはならない。
 頼まれてもないのに番人を引き受けた短刀は、一方的に喋った挙げ句、手前勝手に居なくなってしまった男に向かって呟いた。
「ん?」
「なんでもありません」
 話の腰を折ってでも、庭の花の件を切り出す選択肢だってあった。それを選ばなかった自分を棚上げし、歌仙兼定を非難すれば、乱藤四郎が瞬時に振り返り、目を細めた。
 独白の内容までは聞き取れなかったが、なにか呟いたのは分かったらしい。気にするなと断りを入れれば、柑子色の髪の少年は緩慢に頷いた。
 歌仙兼定が好むのは、風流。雅を感じるものを集めて回り、観賞するのが趣味だった。
 茶器に書画と、愛でるものは多種多様。どれかひとつに意識を傾けるのではなく、あらゆる方向に感心を向けていた。
 小夜左文字だけを見ることなど、あの男には有り得ない。
 分かっている。だのに上手く消化出来なくて、藍の髪の短刀は唇を噛んだ。
「これって、歌仙さんが買ってきたやつ?」
「今日、届いたそうです」
 飲みこみ切れない悔しさを持て余し、声を低くする。
 未だ部屋の中をうろうろしていた乱藤四郎に訊かれても、彼は顔を上げすらしなかった。
 答えてやっただけ有り難く思え、と心の中で唾を吐いた。鬱陶しくて、苛々して、怒鳴り散らしたい衝動に駆られもした。
 ささくれ立った感情が表に出そうになって、懸命に抑え込んだ。
 乱藤四郎はふうん、と小さく相槌を打つと、床に広げられていた掛物を横から覗き込んだ。
「こういう絵だったんだ」
「分かるんですか」
「ううん、全然」
 膝を折って屈み、その天辺に顎を置いて、尻は浮かせて。
 上半身を左右に揺らしながらの呟きに、小夜左文字は一瞬驚き、直後に苦笑した。
 実に明朗な回答に、返す言葉が見つからない。困って、向こうの出方を待っていたら、粟田口の少年は背筋を伸ばし、小夜左文字が持ったままだった香合に目尻を下げた。
「けど、歌仙さん。小夜には見せてくれるんだね」
「はい?」
 にっこり笑って、どうしてだか楽しそうに囁く。
 意味が分からなくてきょとんとして、左文字の末弟は瞬きを繰り返した。
「ぷっ」
 惚けた顔が、余程面白かったのだろう。乱藤四郎は腹を抱えて噴き出すと、尻を畳に落とし、膝を左右に広げて胡坐を組んだ。
 見た目に反して男らしい座り方をして、薬研藤四郎にどこか通じる不遜な笑みで口角を歪めた。
「だって、歌仙さん。ボクたちには、こういうの、全然見せてくれないんだもん」
 最初から趣味が分かってもらえないと、諦めているのか。
 それとも乱暴に扱われ、壊されるのを恐れてなのか。
 ともあれ藤四郎たちは、歌仙兼定の部屋に入る機会が殆どなければ、彼の収集物を観賞することもなかった。
「そうなんですか?」
 一方で小夜左文字は頻繁に呼び出しを食らうし、購入前の見定めを頼まれもした。顔を合わせれば新しいものが手に入った、是非見に来てくれ、と誘われて、今日のような時間を度々過ごした。
 てっきり、他の刀たちにも見せびらかしているとばかり、思っていた。
 自分に対してここまでやるのだから、きっと仲間内にも自慢して回っていると思い込んでいた。
 意外だった。
 素直に驚き、目を丸くする。すると乱藤四郎はまたゲラゲラ笑って、頬杖を付き、呆れ混じりに呟いた。
「それだけ、歌仙さんにとって、小夜が特別ってことじゃないの?」
 世辞や、おべっかを言っている雰囲気ではなかった。
 本心からの感想を口にして、彼はひと呼吸挟み、立ちあがった。
「さーって。用事は終わったし、帰ろっかな」
「どうして、そう思うんですか」
「んん?」
 頼まれごとは片付いたし、此処にいたところで暇が潰れるわけではない。物が多すぎて身動きが取り辛いと文句を言った彼に、小夜左文字は慌てて声を高くした。
 焦り過ぎて、上擦った。
 調子外れの問いかけに片目を閉じ、乱藤四郎は伸ばしていた腕を引っ込めた。
 捻った腰を戻し、肩の関節を回して解しつつ、数秒沈黙してからふっ、と息を吐く。
「ここにあるのって、歌仙さんの大事なものなんでしょ?」
「……恐らくは」
「だったら、小夜も歌仙さんの大事なもののひとつ、なんじゃないの?」
「え――」
 あの男が気軽に入室を許し、宝物を惜し気もなく披露する相手は、限られている。
 どうしてそんな風に限定するのか。ひとつの答えを示されて、小夜左文字は息を呑んだ。
 ぞわっ、と湧き起こった震えに背筋が粟立ち、全身の産毛が逆立った。首筋にピリピリと電流が走り、長く閉ざされていた扉が突然開いた感覚だった。
 バンッ、と大きな音を立て、暴風が駆け抜けた。
 一瞬の衝撃に騒然となって、少年は瞠目したまま凍り付いた。
「あ、ねえ。小夜。台所行こうよ。燭台切さんの新作、食べられるかも」
 その彼の横っ面を叩く形で、乱藤四郎が明るく言った。自身の発言がいかほどの重みを抱えていたかも知らず、あっけらかんとして、明後日の方角を指差した。
 気持ちは既に台所へ向かい、調理当番たちが作り上げる料理に騒いでいた。直前のやり取りなど綺麗さっぱり忘れて、涎を垂らしていた。
「僕は、歌仙の料理を、おすすめします」
「なんだって良いよ。小夜が居れば、味見させてくれるだろうし。行こ。ね?」
「仕方ありませんね……」
 濡れてもない口元を拭った彼に手を取られ、引っ張られた。強く握りしめられて、可愛らしく強請られた。
 これは断ったとしても、しつこく頼んでくるに違いない。ならばさっさと承諾することにして、小夜左文字は頬を緩めた。

日に添へて恨みはいとど大海の 豊かなりけるわが思ひ哉
山家集 恋 683

2016/10/10 脱稿

木ごとに花の盛りなるかな

 西の空が朱色に染まり、東からは薄墨を広げたような闇が迫りつつあった。烏が群れを成して山の方へと飛び去り、野犬らしき遠吠えが哀愁を感じさせた。風は昼間に比べて幾ばくか冷たくなり、地面に落ちる影は長い。
「そろそろ上がるか」
「そうですね」
 傍らで汗を拭う男がぽつりと言って、小夜左文字は間髪入れずに同意した。首に巻き付けた手拭いを広げて、顔を覆い、漂う土臭さにホッと安堵の息を吐いた。
 養分をたっぷり含んだ、良質の土の匂いだ。肥料を多めにして、時間をかけて丁寧に耕したので、きっと質の良い作物が育つに違いない。
 雨が降る気配はないけれど、日差しが厳し過ぎることもなかった。突然の嵐に見舞われさえしなければ、数日のうちに若芽が次々顔を出すだろう。
 種まきをした後は、それが一番の楽しみだ。
 本日の苦労の結果を振り返り見て、藍の髪の短刀は気の抜けた笑みを浮かべた。
「あとは、天候次第かな」
「これだけ汚れていれば、誰も俺の事なんて、気にも留めないだろう」
 逞しく、立派に成長してくれれば嬉しい。
 そんな気持ちでぽつりと呟けば、独り言だろう、横から全く関係ないひと言が聞こえた。
 最初の頃は驚かされ、逐一ギョッとなった。しかしずっとこの調子の為、近頃は流石に慣れて来た。
 この卑屈さも、ここまで続けば一種の才能だ。彼は名刀の写しという境遇を卑下しており、全てに対して態度が否定的だった。
 小豆色の上下を身に着け、頭には縁が擦り切れた襤褸布を被って。
 顔を隠し、他者の視線を嫌い、本歌と比較されるのを徹底的に拒む。だが誰よりも彼自身が、元となった存在を強く意識していた。
 小夜左文字に言わせれば、写しであろうとなんであろうと、割とどうでも良かった。
 その本歌たる刀が身近に居れば話は別だが、本丸の屋敷で共に暮らしているは、山姥切国広だ。会ったこともない相手に親近感を抱くのは、なかなか難しい話だった。
「戻りましょう」
「ああ」
 畑仕事ですっかり泥まみれの打刀に合図して、短刀は先に歩き出した。使った農具を手に進んで、古びた小屋に全て押し込んだ。
 立てつけの悪い戸を閉めて、これで今日の内番作業は終わり、と言いたいところ。しかし残念ながら、仕事はまだ残っていた。
「風呂に入りたいな」
「汚れている方が、いいんでしょう」
「……」
 上着の衿を引っ張り、山姥切国広が西日を受けながら呟く。
 思わず入れてしまった合いの手は、冷静に考えればかなりの嫌味だった。
 黙り込まれて、小夜左文字は遅れて「あっ」となった。意地悪を言うつもりは皆無であり、率直に感じたことを口にしただけだった。
 気が緩んでいたとしか思えない。
 後悔先に立たずとはよく言ったもので、短刀は困り果てて右往左往した。
「あんたの言う通りだな」
「山姥切さん」
「汚れて、臭くて、みすぼらしい。俺にお似合いだ」
 弁解も出来ず、狼狽えていた。そこに矢継ぎ早に捲し立てられて、小夜左文字は呆然としながら天を仰いだ。
 山姥切国広の言葉は彼自身に向けられており、完全な自虐だった。短刀を責める素振りは一切なく、むしろ言われて当然という雰囲気を醸し出していた。
 口角を歪めて自嘲気味に笑い、薄汚れた布で赤く照る日の光を遮る。
「ああ……」
 それが見ようによっては拗ねている風に映って、左文字の末弟はがっくり肩を落とした。
 あれは、完全に失言だった。
 言わなくて良いことなのに、うっかり口が滑ってしまった。
 もとより口下手で、洒落のひとつも上手く言えない。不貞腐れてしまった打刀を慰め、元気付ける言葉も、残念ながら持ち合わせていなかった。
 もう少し多弁で、気遣いが出来る刀であれば、こうはならなかっただろうに。
 国広の名を持つ脇差の顔が思い浮かんで、小夜左文字は溜息を吐きつつ、前を行く背中を盗み見た。
 自分も風呂場で汗を流したいと、そんな風に言えばよかったのだ。彼の意見に同調しておけば、少なくともここまで気まずくなることはなかった。
 この後は、畑当番の最後の仕事が待っている。
 それが片付かない限り、短刀はこの打刀から離れるわけにはいかなかった。
「日誌、俺の部屋でもいいか」
「え?」
 だけれど、どうやって切り出そう。
 雰囲気の悪さにあれこれ悩んでいたら、思いがけず向こうから声が掛かった。
 唐突に切り出され、面食らった。吃驚していたら、布に隠れがちの打刀の顔が曇った。
 見つめられるのを嫌がってサッと背け、乱暴に土を蹴ってザクザク進んでいく。慌てて追いかけて横に並べば、訊いておいて返事を待たなかった青年が、不満げに睨んできた。
「俺とは、一緒に居たくないだろう」
「それは、あなたの方じゃ」
 小夜左文字は復讐を求める、血に汚れた刀だ。たとえ写しとはいえ、国広随一の作と讃えられる美しい刀の傍にいては、穢れが伝染ってしまいかねない。
 意趣返しのつもりではなく、真剣に問うた。
 真顔で告げられた打刀は一瞬ぽかんとして、布の上から赤に染まりゆく頬を撫でた。
「……俺の部屋で、良いか」
「構いません」
 遠くを見ながら改めて訊ねられて、小夜左文字は小さく頷いた。お互い人嫌いな偏屈ぶりが、妙なところで噛みあった形だった。
 烏の鳴き声に見送られて屋敷へ戻り、夕餉の美味しそうな匂いに腹を空かせつつ、汚れた格好のまま廊下を行く。合間に何振りかとすれ違って、口々に畑仕事を労われた。
 土臭さを拡散させながら進んで、山姥切国広が襖を開けた。打刀部屋と太刀部屋の境界線近くに設けられた部屋は、入った瞬間に男臭さが漂う空間だった。
「日誌は」
「僕の部屋です。取って来ます」
「なら、その間に墨を磨っておこう」
「お願いします」
 衣紋掛けには打刀の衣服の他に、山伏装束が吊り下げられていた。獣の皮を鞣して作った頭陀袋が足元に鎮座して、洗濯前らしき肌着が無造作に捨て置かれていた。
 布団の畳み方は几帳面だが、小物の整理は行き届いていない。片付け方が両極端で、ここに暮らす者の性格の差が如実に表れていた。
 彼はどうやら、山伏国広と共に過ごしているらしい。
 国広は総勢三振り居るけれど、あと一振りは見る限り、此処で寝起きしていない様子だった。
 二客しかない布団を一瞥し、小夜左文字は敷居を跨がず踵を返した。打刀部屋が並ぶ区画まで突き進んで、間借りして長い部屋の襖を開いた。
 こちらもまた、物が雑多に並べられており、整理整頓が出来ているとは言い難かった。
 片付ける前に新しいものが、次々と増えていく。棚をいくら追加しても足りず、一部の木箱は壁際で塔を成していた。
 そのうち倒れやしないかと、見ていて冷や冷やした。間違ってぶつからないよう注意して、短刀は急ぎ足で文机に向かった。
 放置されていた分厚い日誌を取り、中も確かめずに踵を返す。糸で綴じられた書は手垢がべったり張り付いて、角は黒ずみ、表紙は破れかけていた。
 糊で補修した跡を無意識になぞり、来たばかりの道を戻した。開けっ放しの襖を潜れば、山姥切国広が質素な机を前に座っていた。
 置かれていた硯箱には、必要最低限の装飾しか施されていなかった。歌仙兼定が愛用しているような、黒漆に螺鈿細工といった派手な代物とは、天と地ほどの差があった。
 実用性を重視して、余分を削った一品だ。簡素で味気ないけれど、その無骨さは嫌いではなかった。
「山姥切さん」
 中に入って襖を閉め、呼びかける。
 振り返った山姥切国広は、屋内でも頑として布を外そうとしなかった。
 視界が制限されて見え辛いだろうに、構いもしない。風が吹いて煽られる度に被り直して、押さえ付けるのに常に片手を不自由にしていた。
 傍から見れば馬鹿らしい態度だが、本人は至って真面目だ。最初の頃は邪魔だろうと言っていた仲間たちも、諦めたのか、今はあまり口出ししなかった。
 唯一、脇差の堀川国広だけが、汚れて臭う布の洗濯に固執していた。
 彼らの鬼ごっこは、十日に一度程度の割合で繰り返されていた。その際、打刀が隠れるのを手伝ったこともある。山姥切国広から話しかけて来たのは、思えばあれが初めてだった。
 助けてくれ、と必死の顔で懇願された。
 あまりにも悲痛な声で頼んできたので、断り切れなかった。
「なにを書けば良いんだ」
「今日やったことと、作物の生育状況と」
 薄い座布団の上で居住まいを正し、打刀が渡された日誌を広げて呟く。
 今まで書いたことがないらしい彼の問いかけに答えて、小夜左文字は遠くもなければ近くもない尾場所で膝を折った。
 畳の上に直接正座して、脇から机上を覗き込む。墨は充分な量が確保されて、小筆も準備万端だった。
 書いている途中で閉じないよう、山姥切国広は書の折り目を何度か押して、広げた。手始めに右隅に日付と、担当したふた振りの名前を記入して、こめかみを筆の尻で小突いた。
 半眼して、記憶を手繰り寄せる。まだ数刻しか経っていないのに曖昧にしか思い出せなくて、低く唸って、口を尖らせる。
 端正な横顔が不機嫌に歪み、目つきが悪くなった。舌打ちが何度か聞こえて、苛立っているのが手に取るように分かった。
「西から二番目と、三番目の区画の整備を。それと、茄子と胡瓜の作付け、終わりました」
「あ、ああ。そういえば」
「唐黍は、そろそろ間引きした方が良いです」
 待っていても、筆は動き出さない。
 仕方なく口出しすれば、ハッとした打刀は慌てた様子で文字を書き連ねていった。
 畑の様子を振り返りながら、これから種を撒くべきものや、支柱や追肥が必要な作物も数える。折角芽吹いた分を引き抜くのは残酷かもしれないが、養分をひとつに集中させないと、育つ野菜は中途半端なものにしかならなかった。
 水路にも、補修が必要な個所があった。放っておけば土が崩れ、水の流れが滞り、最悪決壊する恐れがあった。
 雨の時期が来る前に、やっておくことは沢山ある。思いつくまま並べ立てて、小夜左文字は最後にふー、と息を吐いた。
「すごいな、あんた」
「なにがですか」
「畑に、詳しいんだな」
 他にないか考えていたら、藪から棒に褒められた。何事かと胡乱げにしていたら、筆を置いた青年が感心しきりに呟いた。
 その言葉は、他の刀からも貰ったことがある。武器でありながら土いじりに長け、知識を有しているなど、普通はあり得ない話だった。
 賞賛は、侮蔑の裏返しにも聞こえた。刀の癖に、という意識が垣間見えて、あまり好きではなかった。
「……飢饉は、避けたいからね」
 ここではない場所を見て、ぼそりと言い返す。
 山姥切国広は深く追求はせず、緩慢に頷いただけだった。
 言葉以上の意味を嗅ぎ取ってはいないようで、それが救いだった。ホッとして、唇を舐め、小夜左文字は左胸を二度ばかり叩いた。
 とんとん、と着衣の上から撫でて、何気なく視線を文机に投げた。金糸の髪の打刀は律儀に全ての文言を拾い上げ、丁寧な字で紙面に書き記していた。
 箇条書きで、字形は整っていた。どの文字も大きさは統一されて、斜めに進むこともなく、非常に読み易かった。
 習字の、手本のような字形だ。江雪左文字も達筆な方だが、あれは角ばり過ぎていて逆に読み辛い。歌仙兼定は癖が強く、しかも一部を崩し、画数を略してくれるので、時々首を捻らされた。
 それらから比較すると、山姥切国広の字はまさに理想を形にしたものだ。
「綺麗だね」
「はああっ?」
 皆がこんな風に書いてくれれば、助かるのに。
 そんな事を思いながら何気なく呟けば、前方から裏返った、素っ頓狂な声が響き渡った。
 直後にドスンバタン、と派手な音が轟いて、小夜左文字は目を点にした。何故かひっくり返っている打刀に絶句して、頭の上に疑問符を乱立させた。
「山姥切さん?」
「き、綺麗だとか。言うな!」
 仰け反り過ぎて、倒れたらしい。右腕を文机に預けた状態で転がって、布を被った青年が悲鳴を上げた。
 こんなに甲高い彼の声を、初めて聞いた。吃驚する小夜左文字の前で、山姥切国広は動揺激しく目を泳がせ、起き上がろうと足掻くが、なかなか上手くいかなかった。
 ジタバタ暴れて、蹴られそうになった。
 寸前で躱して瞬きを繰り返し、左文字の短刀は慌てふためく青年に苦笑した。
 真っ赤に染まる顔を布で隠し、山姥切国広は背中を丸め、小さくなった。写しである己には過ぎた言葉だと嘯いて、短刀の視線から逃げた。
「……ああ」
 彼はどうやら、意味を取り違えてくれたらしい。
 肝心の部分を省略した為に、思いは正しく伝わらなかった。
「あなたの字が、綺麗だと」
 誰かと比べられるのは不本意だし、面白くない。ましてやその相手が、己と瓜二つであれば尚更に。
 本歌と、写し。
 切っても切り離せない両者の関係は、小夜左文字には到底想像のつかないものだった。
「字……?」
 両手を膝に揃え、言い直す。
 山姥切国広は惚けた顔をして、深く頷く短刀をまじまじと見つめ返した。
 起き上がり、座布団を引き寄せた。座り直し、後ろにずれていた布ごと前髪を握り潰した。
「なんだ。そうか。字、か」
 俯き、クク、と喉を鳴らした。自虐的に笑っていると見せかけて、実際には勝手に勘違いしたのを恥じて、照れているようだった。
 穴があったら入りたいだとか、今すぐ消えてしまいたいような気持は、小夜左文字にも覚えがある。深い意図はなかったのに誤解して、誤解されて、失敗談は枚挙に暇がなかった。
「とても、読み易い。貴方の字、僕は好きです」
「字なんか、誰が書いたって同じだろう」
「まさか」
 ただあまり落ち込ませたままでいるのは、宜しくない。
 慰めのつもりで褒めてやり、短刀は机上の日誌を手繰り寄せた。
 墨が乾いているのを確認して、折り癖がついている頁を捲った。何日か分を巻き戻して、眉を顰めたくなる悪筆を見つけて手を止めた。
「はい」
「……なんだ、これは」
 日誌の向きを逆にして、差し出す。渡された打刀は紙面を覗き込み、眉間の皺を三本に増やした。
 表情は見る間に曇り、難しい顔になった。なんとか読もうとして頑張るが、三行と進まないうちにお手上げだと白旗を振った。
「それは、和泉守さんの」
「そう、か」
 最早謎の暗号文と化している文章は、小夜左文字も読めなかった。但し内容については、無事に理解可能だった。
 何故かと言えば、蚯蚓がのた打つような文字の隣に、米粒ほどの丁寧な字が書き記されていたからだ。
「こっちの、小さい字は?」
「堀川さんの、添削の跡です」
「ブフッ――!」
 気付いた山姥切国広の指摘に、しれっと答える。
 瞬間、打刀は盛大に噴き出した。
 防ごうとして手で口を覆ったが、間に合わなかった。指の隙間から猛烈な勢いで空気が漏れて、しばらく噎せて会話にならなかった。
「ゲホッ、ゲホ、ぐぇっほっ」
 煙でも吸い込んだかのような咳き込み方には、苦笑するしかない。お気に召して貰えたのが嬉しくて、小夜左文字は日誌を引き取り、紙面を撫でた。
 あまりにも汚い和泉守兼定の字の隣には、几帳面な細かい字が添えられていた。彼の助手を自認する脇差が気を利かせて、後で解読して、書き足してくれたものだ。
 この難解極まりない文章がすらすら読めるのだから、流石だ。読めたところで何の得にもならないが、賞賛するには値した。
「ぐぇっふ、うぇ……くふっ」
「大丈夫ですか」
「気管に、入った」
 前方では山姥切国広が、まだ苦しそうに悶えていた。
 いい加減心配になって問えば、口元を拭いながら返事があった。拳で胸元を何度も叩いて、息は乱れ、顔は真っ赤だった。
 彼のこういう姿は、滅多にあるものではない。珍しいものを見たと楽しくなって、小夜左文字は日誌をもう何枚か、捲ってみせた。
「はい」
「……こいつは、綺麗な字だな」
 読み易いよう角度を持たせ、打刀に見せてやる。
 幾分呼吸が楽になった青年は身を乗り出し、興味津々に紙面を覗き込んだ。
 書かれている内容は、作物の育ち具合と、手入れの方法。どこに苗を植えただとか、畑に獣の足跡を見つけたので注意、といったありふれたものだった。
 右肩上がりの癖があるものの、和泉守兼定と比べたら格段に読み易い。文章も整理されているので、これなら翌日の畑当番は、引継ぎが楽だっただろう。
 何が終わって、何が済んでいないのか。指示は明朗で、書き手の性格が垣間見えた。
「誰が、こんな……ん?」
 最後まで読み切ってから、山姥切国広は視線を右に戻した。真っ先に日付を確認して、その下に連なる名前に瞬きを繰り返した。
 きょとんとして、見間違いを疑って目を擦る。
 だが墨で記された文字に、修正の痕はなかった。
「嘘だろう」
「陸奥守さんです」
「訛ってないぞ!」
 唖然とし、信じ難い顔をする。
 そこに小夜左文字が追い打ちをかけて、彼は声を張り上げた。
 右腕を横薙ぎに払い、膝で畳を蹴った。座布団の上で中腰になって、愕然としながら頭を抱え込んだ。
「陸奥守が、まともな文章を書いている、だと……?」
 話に出た打刀は、土佐訛りが抜けない刀だ。明るく、弾けた性格をしており、前の主の影響を受けてか、刀でありながら拳銃を愛用していた。
 その彼が、筆を持ったら別人だった。
 文体からはまるで想像がつかなくて、意外な事実に頭痛がした。
「あとは、これとか」
「…………博多か」
「正解です」
 腰を沈めて座り直した彼に、小夜左文字はまたも日誌を捲った。
 見せられた文章は、平仮名が多い。しかも話し言葉が、そっくりそのまま書き記されていた。
 こちらは盛大に、訛っていた。今度は一目見ただけで、書き手の顔が思い浮かんだ。
 眼鏡をかけた小生意気な短刀が、瞼の裏で元気よく跳ねている。彼にはいつだったか、その髪は小判みたいな色だと、褒めているのかどうか良く分からない感想を貰ったことがあった。
 頭痛だけでなく、眩暈までしてきた。鼻梁に指を添えて渋面を作り、山姥切国広は深く溜息を零した。
「俺は、なら。鏡文字でも書くべきなのか」
 山姥切の写しとして、文章にも個性を出した方がいいのだろうか。
 そんな悩みが湧き起こって、呻くように囁いた。
「ふっ」
 真剣に迷い、考えた。
 だのに、笑われた。小さな短刀が小さく噴き出して、慌てた様子で日誌を盾に隠れた。
「おい」
「読み辛いのは、勘弁です」
 気に障って拳を作り、声を荒らげる。すると小夜左文字は左半分だけ顔を出し、首を竦め、早口に告げた。
 確かに鏡文字は読み難い。それ以上に、書くのが大変だった。
「まあ、そうだな」
 思いつきで言ったが、およそ現実的ではない。馬鹿なことを考えたと反省して、山姥切国広はふー、と長い息を吐いた。
 胡坐を作り、背筋を伸ばした。心を落ち着かせて、蘇りかけた和泉守兼定の文字は彼方へと蹴り飛ばした。
 当分、この件で笑って過ごせそうだ。どうしても我慢出来ず、緩む頬を手で隠して、彼は立ち上がった少年を目で追いかけた。
「小夜左文字」
「明日の当番が決まるまで、預かります」
「ああ、そうか。頼む」
 急にどうしたのかと問いかければ、閉じた日誌を揺らされた。内番の担当発表は夕餉の後と決まっており、明日が誰になるかはまだ不明だった。
 やるべきことは、全て終わった。あと少しすれば、食事の準備が整ったのを知らせる鐘が鳴るだろう。
 思い出した途端、腹が減った。ぐぅ、と小さく鳴った場所を押さえて、山姥切国広は小さな背中を見送った。
「あの」
「なんだ」
 それが、出ていく直前、振り返った。
 襖の引き手に指を添えて、小柄な短刀は腰から上だけを打刀に向けた。
「次の時も、あなたが書いてください」
「俺が?」
「あなたは、みんなより綺麗だから」
 淡々と、抑揚なく。
 真っ直ぐ目を見詰めながら、告げられた。
 直後に小夜左文字は襖を開け、廊下に出た。後ろ手に閉めて、足音を立てて走り去った。
 ひとり取り残されて、山姥切国広は呆気に取られて目を丸くした。
「……は?」
 去り際に、意味深な台詞を残された。
 考え方によっては、幾種類もの解釈が出来た。金糸の髪の青年は絶句して、被った布を乱暴に引っ張った。
 顎の先まで被って顔を隠し、本日二度目の転倒を果たした。バタン、と埃を撒き散らし、うつ伏せになって、奥歯を噛み締め、膝を丸めて小さくなった。
 あれはきっと、単に字が綺麗だから、と言いたかったに違いない。
 深い意味もなければ、意図もない。からかわれたとは思いたくないが、真剣にそう思われたとしたら、それはそれで恥ずかしかった。
 泥にまみれ、汗臭く、みすぼらしい格好をしているのに。
「綺麗だとか、言うな」
 大嫌いな言葉なのに、今の一言だけは、心底嫌だと思えない。
 布の奥で悪態をついても迫力はなく、声は微かに震え、掠れていた。

一時の遅れ先立つこともなく 木ごとに花の盛りなるかな
聞書集 133

2016/06/01 脱稿

心の色を袖に見えぬる

 障子を引き、廊下へ出る。
 頬に触れた空気はひんやり冷たく、夜の香りを漂わせていた。
 上を見れば、軒の向こうに月が浮かんでいた。半月よりもやや欠け気味で、金と銀の中間のような輝きを放っていた。
「ああ」
 淡く、儚く、そして美しい。
 過去幾度となく見上げて来た筈のものに魅了されて、小夜左文字は暫くそこに立ち尽くした。
 ほう、と息を吐き、緩く首を振る。
「……いたっ」
 僅かに遅れて後ろ髪が左右に踊って、同時に腕の付け根辺りが鋭く痛んだ。
 咄嗟に左手で押さえこみ、奥歯を噛んで五秒を数えた。ゴリゴリする骨の感触を確かめて、恐る恐る指で周囲を撫でた。
 傷はなかった。
 着衣こそ糸が切れ、綻んでいたが、下に隠れる肌は艶やかだ。しかも月光を浴びている所為か、白さは普段よりも際立っていた。
 あまり触り過ぎると、穴がもっと広がってしまう。
 自分で繕うか、誰かに頼むか天秤にかけて、短刀は閉ざされた障子を振り返った。
 四つある手入れ部屋のうち、三つが今も使用中だった。
 出陣していた全員が、揃って中傷以上での帰還だった。池田屋の敵は道中から鬱陶しさを増して、奥へ突き進むのは至難の技だった。
 どうにか突破出来たものの、負傷の度合いは凄まじい。よく無事で帰ってこられたものと、当事者ながら感心せずにはいられなかった。
「皆は、まだ、中か」
 隊は六人編成で、短刀だけで構成されていた。少し前に本丸に加わった後藤藤四郎や、不動行光を慣れさせる目的もあり、道中はいつも以上に慎重だった。
 お蔭で敵の本陣に切り込めたのだけれど、被害も相応に出た。重傷一名に、中傷三名。軽傷は小夜左文字を含めて二名だけだった。
 練度が一番低かった不動行光が、最も傷が深かった。敵の追撃を受けた彼を守ろうと前に出て、小夜左文字は右肩を脱臼した。
 敵の攻撃を受け流し切れず、弾き飛ばされ、壁にぶつかった。その衝撃で関節が外れてしまい、刀が握れなくなった。だが敵は待ってくれず、最終的に口に咥えて戦った。
 我ながら、獣じみた真似をしたと思う。だが利き腕を封じられた程度で戦線離脱するのだけは、どうしても避けたかった。
 帰還を果たした本丸は、当然ながら深夜も遅い時間帯。多くの刀は床に就いた後で、出迎えてくれたのは一期一振だけだった。
 担当の弟を沢山抱えている彼だから、休んでいられなかったのだろう。傷だらけで戻って来た皆を前に青くなり、自力で歩けない不動行光を抱えて運んでくれたのも、彼だった。
 その太刀は今、手入れ部屋に隣接する控えの間にいた。短くなった蝋燭の前に座し、こっくりこっくり、舟を漕いでいた。
「寝かせておこう」
 短刀たちが出陣している間、無事を祈って気を張っていたのだ。
 怪我こそしたが、皆元気だった。それに安堵して、緊張の糸が切れたのだろう。
 そっとしておいてやるのが、親切というものだ。覗いた障子を静かに閉めて、小夜左文字は小さく溜息を吐いた。
 彼にも、兄と呼べる刀がふた振りいた。しかし左文字の名を冠する太刀と打刀は、見える範囲に姿がなかった。
 弟のことなど、興味がないのかもしれない。
 本丸で一緒に暮らすようになってそれなりに経つが、粟田口の兄弟たちに比べると、彼らは依然ぎこちなかった。
 源氏の兄弟の方が、余程仲が良い。あんな風に兄の背中を一心に追いかけ、求め続けていれば、いつかは雪解けが訪れるのだろうか。
「……やめよう」
 想像するが、具体的な映像は生み出せなかった。
 却ってもやもやしたものが膨らんだだけで、少しも楽しくなかった。
 他は他、自分は自分。
 過去何度となく繰り返した言葉で己を戒めて、小夜左文字は小さな足で冷えた床板を踏みしめた。
 藍色の空の中で、欠けた月が眩しい。気付けば自然と目で追っていて、庭に降りたくなった。
 けれど素足で出歩くのは憚られるし、一寸先は闇だ。天頂がいくら明るかろうとも、足元まで光が届くとは限らなかった。
 誘われるまま伸びかけた右足を戻し、何気なく頬をぺちり、と叩く。それが引き金になったかどうかは分からないが、腹の虫がくぅぅ、と小さく鳴いた。
「うっ」
 出陣は、夕餉を食べた後だった。しかも出発の準備があるからと、いつもより時間が早めだった。
 指折り数えてみれば、あれからもう三刻近くが過ぎていた。丑三つ時には少し早いが、子の時はとっくに過ぎていた。
 手入れ部屋に居る間はゆっくり休めたが、当然ながら食事は出ない。意識した途端に空腹感が増して、腹の虫が五月蠅かった。
 疲労感は抜けず、このままだと朝まで残りそうだ。かといって今から台所に出向き、なにか作る気も起きなかった。
「歌仙が、居ればな」
 くぅくぅ言い続ける腹部を撫で、台所を預かっている刀の一振りを思い描く。朗らかな笑顔が瞼に浮かんで、何故か一瞬、殴り飛ばしたくなった。
 今宵の寝ずの番は、一期一振だ。
 控えの間で寝こけていた姿を記憶の隅に追い遣って、小夜左文字は三度、月を仰いだ。
 夜の都を駆け抜けていた時は、こんなに明るくなかった。
 隠密行動だから、暗い方が良いに決まっている。あの時は天が味方してくれたのかと、神など信じてもいないのに、そんなことを思った。
「寝るか、それとも」
 腹の虫はまだ鳴りやまず、なにか食わせろと訴えて憚らない。睡魔はといえば残念ながらまだ訪れず、目の下を擦っても変わらなかった。
 欠伸ひとつ出てくれない。意識は冴えて、尖っていた。
「まだ、戦場の意識が……おっと」
 手入れ部屋に入っていたのは、体感的に半刻と少し。ギリギリの戦いを強いられただけあって、それだけの時間が過ぎても、未だ戦場に居る錯覚に見舞われた。
 何処から現れるか分からない敵を警戒し、神経を研ぎ澄ます。
 そういう戦いを求められていたから、ちょっとやそっとでは心が休まらなかった。
 安全圏に入ったと分かっているのに、戦闘態勢がなかなか抜けてくれない。気持ちを切り替えるのは簡単ではなくて、なにかきっかけが欲しかった。
 たとえば熱々の吸い物を喉に流し込む、とか。
 程よく温い湯に肩まで浸かり、全身をだらしなく伸ばす、だとか。
 あれこれ考えながら歩いていたら、不意に足がもつれた。右足首に左の爪先が引っかかって、前に倒れそうになった。
 慌てて両手を広げて重心を低くし、踏ん張って持ち堪えた。片足立ちで何度か跳ねてから停止したが、異様なまでの前傾姿勢を取らされて、かなり滑稽な状態だった。
 右腕は前方に真っ直ぐ、左腕は身体の横で水平に。腰から上だけが前に飛び出して、右の足裏は天を向いていた。
 左足だけで全体重を支え、さながら大道芸人だ。これで頭の上に皿でも置いておけば、拍手喝采間違いなしだ。
「く、そ」
 自分でしでかした失態とはいえ、これはかなり恥ずかしい。これならいっそ、転んだ方がまだ良かった。
 責める相手もおらず地団太を踏んで、勝手に赤くなった頬を擦る。
 今が夜中で、皆が寝静まった時で良かった。
 誰にも見られなくて済んだのは、僥倖だ。そう思う事にして己を慰め、小夜左文字はもう一度、乱暴に顔を擦った。
 白衣の袖は縦に破れ、肘のところまで覗いていた。最早縫って直すよりは、新しいものと交換した方が良さそうだった。
 使い古した衣服は雑巾にするか、細く切って縄の材料にするか。
 裂け目の解れ具合を月明かりで確かめて、短刀は遠くに浮かぶ提灯の火に肩を竦めた。
「温かなものに、あり付けるな」
 灯りはぼんやり照って、揺れ動いていた。小振りの弓張り提灯の後ろには白い影が着き従い、小夜左文字に近付くにつれて形をはっきりさせた。
 人の姿をしていた。
 背は高くもないが、低くもない。肩幅が広く、どっしりとした重そうな体格をしていた。
 右手に提灯を構えて、一旦足を止めて高く掲げた。遠くまで照らして、嗚呼、と表情を緩めた。
「小夜」
「夜更かしは、身体に毒だ」
「確かに。けれど、君に言われたくはないかな」
 呼びかけられて、すぐに応じた。ちくりと小言を返してやれば、認めつつ、男は肩を竦めてやり過ごした。
 皮肉に皮肉をぶつけて、最後にぱちりと片目を閉じる。
 どこぞの伊達男ではあるまいに、気障な振る舞いをされて、小夜左文字は苦笑した。
「寝ずの番は、一期一振だろう」
 深夜と言うべき時間帯で、梟の声すらもう聞こえない。獣さえも息を潜め、朝が来るのを待っていた。
 控えの間にいた太刀を思い浮かべ、短刀が揶揄する。それは想定内の質問だったのか、歌仙兼定は笑って肩を竦めた。
「変わって貰ったんだよ。それに、寝ずの番では、弟君の傍に居てやれないだろう?」
「ああ……」
 近侍とはそもそも、本丸に何かあった時に即時対応出来るように置かれたものだ。舟を漕ぐなどもっての外だし、手入れ部屋の近くに陣取るのも論外だった。
 帰還した際に出迎えたのが彼だったから、そうだとばかり思い込んでいた。勘違い甚だしく、一期一振には謝罪せねばなるまい。
 眠っている彼を笑うのではなく、労わるべきだった。必要ないのに遅くまで起きていた太刀には、後日改めて礼を言おう。
 そう決めて、首を傾げる。
 その現時点での近侍が此処に居て良いものかどうかは、判断に苦しむところだった。
「それで、歌仙は」
 広間に控えていなくて良いのかと、言葉尻に含ませる。
 語尾をやや上げ気味に話しかければ、これも予想していたものらしく、打刀は目尻を下げて微笑んだ。
「小夜の手入れが、終わる頃だと思ってね」
 迎えに来たのだと、提灯を揺らされた。蝋燭の炎が障子紙に透けて見えて、短刀は一瞬きょとんとしてから、嗚呼、と肩を落とした。
 力を抜いて息を吐き、返答に迷って頭を掻いた。視線は自ずと下を向いて、当て所なく彷徨った。
「夜食を用意したんだ。お腹が空いているだろう?」
「不動行光は」
「彼は先に出ている。時間がかかりそうだったから、札が使われたようだ」
 手入れ部屋を出た後のことを見抜かれて、嬉しいやら、恥ずかしいやら。自然赤くなる頬を隠して身を捩り、誤魔化しに問うた言葉には、大真面目に切り返された。
 唯一の重傷者だった短刀は、小夜左文字より先に部屋を出たらしかった。
 六振りで出陣するのに、手入れ部屋は四つしかない。先に終わった者がいるのは予想していたが、不動行光だとは思わなかった。
 意外だと驚いていたら、手を差し出された。肉厚の掌は大振りで、小夜左文字の手などすっぽり包みこめるものだった。
 なにかを渡そうと言うのではない。自然な仕草で誘われて、短刀は反射的に両手を隠した。
「必要ない」
 小さな赤子ではあるまいし、手を繋ぐ理由はない。いくら夜道が暗くても、夜目が利くのだから問題なかった。
 気恥ずかしさから突っぱねて、口を尖らせる。
 ぼそぼそ小声で拒否してやれば、歌仙兼定は腕を揺らし、困った風に眉を顰めた。
「さっき、ふらついていたじゃないか」
「見て――っ!」
 首を右に傾がせつつ、やや憤然としながら言い返す。
 瞬間、小夜左文字は甲高い悲鳴を上げた。
 全身の産毛が逆立って、背筋にぞわっと悪寒が走った。踵を浮かせて仰け反って、両手はわなわな震え、空を掻き毟った。
 自分の足に躓いて、転びそうになった。
 どうにか寸前で回避したものの、滑稽な体勢を作らされた。
 思い出すだけでも恥ずかしいのに、まさか見られていたとは思わなかった。
 そういえば打刀も、短刀ほどでないにせよ、夜目が利く。距離はあったが、見えていても可笑しくなかった。
 失敗した。
 もっと遠くまで注意を払うべきだった。
 とても人に見せられない姿を、よりにもよってこの男に見られたのは、一生の不覚だ。
「だい、じょうぶ、だ!」
 顔がかあっと熱くなり、火を噴きそうだった。今すぐ忘れろと声高に叫んで、再度差し出された手を乱暴に突っぱねた。
 利き腕を横薙ぎに払い、勇ましく叩き落す。
 ぱしん、という音の後に続いたのは、打刀に悲鳴でもなんでもなく、骨が擦れ合い、軋む音だった。
「いっ……」
 直ったばかりの肩に無理を強いて、また外れそうになった。
 低く呻いて右肩を庇い、小夜左文字は呆れている男を恨めし気に睨みつけた。
「小夜」
「……分かって、いる」
 それ見たことかと、言外に咎められた。
 いくら全快状態になったとはいえ、疲労は抜けていない。脱臼が癖になって一番困るのは、小夜左文字本人だ。
 無茶はするなと責められ、反論できなかった。
 しょんぼりしながら項垂れて、少年は渋々、打刀の手を握り返した。
「痛むかい?」
「動きに支障はない」
「痛むんだね」
 そうして来た道を戻ろうとして、確認された。
 顔を背けてぼそぼそ言えば、彼は盛大にため息を吐いた。
 身長差があるのに、額に風を感じた。前髪の隙間から様子を窺えば、歌仙兼定は提灯を持つ手でこめかみを叩いていた。
「小夜、これを持って」
「いい。自分で歩ける」
「駄目だ。たまには僕の言うことも聞いてくれ」
 その提灯を、おもむろに差し出された。中で炎が揺れているものを押し付けられて、嫌がったが無駄だった。
 彼がこの後、何をしてくるかは容易に想像出来た。案の定提灯を持って立ち竦む短刀を、打刀は横から、軽々と抱えあげた。
「よ、っと」
「歌仙」
「絶対に躓かない、と君が断言するのなら、降ろしてあげても良い」
 短い掛け声ひとつで、華奢な体躯を易々持ち上げた。腋から腕を通して背中を支え、もう片腕は膝の裏から尻を包み込んだ。
 落とさないよう重心の位置を調整し、抗議は受け付けない。
 手厳しいことを言われて、小夜左文字は唇を噛んだ。
 空腹と、連戦の疲れの二重苦に、身体は思うように動かない。惨めに転倒することはないだろうが、よろめくか、躓くくらいはするだろう。
 今日の歌仙兼定は、いつになく頑固だ。鉄の意志を貫いて、揺るがなかった。
 こういう時の彼には、逆らわない方が良い。年下と見て甘く考えて、手痛いしっぺ返しを食らうのは避けたかった。
「……落としたら、復讐してやる」
 形だけでも従って、大人しくしておくのが得策だ。諦めて覚悟を決めて、短刀は両手で提灯を握りしめた。
 打刀の代わりに道を照らし、薄暗い廊下に光を齎す。
 ふた振り分の体重を受けて、縁側に敷き詰められた床板はギシギシと、一定の拍子で音を響かせた。
 負担にならないよう注意を払った歩き方をされて、振動は心地よかった。耳を澄ませば布越しに拍動が聞こえてくるようで、真上から落ちてくる呼気も嫌な感じではなかった。
 身体を包み込む熱が、思いの外冷えていたのだと教えてくれた。手入れの際にただの刀に戻されて、血の通う現身から切り離されるのが影響していると思われた。
「寝ずの番が、うろうろしていて良いのか」
「帰還したばかりの隊員を相手していたんだ。それくらい、許されるさ」
 先ほどまでは空腹が勝っていたのに、こうしていると睡魔に負けそうだ。
 どこからか現れた悪魔に抗って会話を振れば、歌仙兼定は呵々と笑い、こともなげに言い放った。
 もしこの場で火急の通達が出たら、どうするつもりだったのか。
 その辺は深く考えない打刀に苦笑して、小夜左文字は軒先から見える月を眺めた。
「ほととぎす 名をも雲井に 上ぐるかな」
「おやおや」
 今は薄く雲がかかり、下弦の月は朧だった。
 戯れに口遊んだ上の句に、男は短刀を抱え直し、呆れた風に目を細めた。
「鵺退治がお望みかい?」
「獅子王が怒るな」
 身じろいだ少年をしっかり抱き支え、軽口を叩いて歩みを進める。
 本丸に住まう、鵺を背負った太刀は、今頃寝床でくしゃみでもしていることだろう。
 下の句は敢えて詠わず、歌仙兼定は短刀の背を撫でた。
「夜食、なに」
 やがてふた振りは角を曲がり、縁側から離れた。仲間にして欲しそうな月に別れを告げて、現身を得た付喪神の住まう屋敷の中へと入った。
 寸前に問われて、打刀は淡く微笑んだ。よくぞ聞いてくれたと喜んで、声を潜め、悪戯っぽく口角を持ち上げた。
「にゅうめん」
 昆布と鰹節で出汁を取り、醤油を足して味を調えた汁に、たっぷりの湯で茹でた素麺を。
 仕上げに細かく刻んだ青葱と、油揚げを一枚足して、熱いうちに召し上がれ。
 滑らかな語り口調は上機嫌で、美味しく出来た自負に溢れていた。想像するだけで涎が溢れ、今すぐ食べたくて仕方がなかった。
 温かいものが欲しかった。
 空っぽの胃を満たし、朝までぐっすり、夢も見ずに眠りたかった。
「夜中なのに、手の込んだことを」
 この男は矢張り、近侍としての仕事を放棄して、ずっと台所に引き籠っていたのではないか。
 呆れて肩を竦めるが、頬は緩んだ。嬉しさを抑えきれず、どう足掻いても隠し通せなかった。
 笑いを堪えていたら、真上から気まずそうな視線が注がれた。首を捻れば逸らされて、その頬は仄かに赤かった。
「仕方がないだろう。その、……抱き枕がなくて、眠れなかったんだ」
 歯に衣を着せぬ物言いの男が、珍しく口籠った。言い難そうに声をくぐもらせ、羞恥に耐えて白状した。
 その間、目を合わせてもらえなかった。
 口を尖らせ、不満げに告げられた内容は、小夜左文字の耳を素通りして、駆け足で戻って来た。
「……歌仙?」
「だ、あっ。も、もう良いだろう。君の兄君達からも、握り飯を預かってるんだ。明日の朝から遠征任務があるから、待ってやれないのを詫びておられたよ」
 思いもよらぬ告白に、目が点になった。
 唖然としていたら耐えられなくなったのか、歌仙兼定は早口に、声を荒らげ捲し立てた。
 唾を飛ばされ、小夜左文字は瞬きを繰り返した。抱き上げられたままぽかんとして、わざとらしく咳払いした打刀を見詰め続けた。
 そして。
「ふっ……」
 素直でないのは、お互い様だ。
 堪らず小さく噴き出して、彼は分厚い胸に寄り掛かった。
 今宵は、良い夢が見られるだろう。
 眠りを誘う提灯の火は穏やかで、柔らかく、温かかった。
 

2016/05/03 脱稿