八百万世の しるしなるらむ

 ひんやりした空気に、自然と背筋が伸びた。
 普段の猫背具合を改めて、明石国行は静まり返った廊下に目を細めた。
 どこまでも続きそうな暗がりに首を振り、踵を返した。草木さえもが眠りに就く、丑三つ時に動き回るのは彼だけで、行方を見守るのは点々と灯された灯明くらいだった。
 これがあるお陰で、夜も遅い時間帯でも屋敷の中を歩き回れる。
 短刀や脇差、打刀ほどに夜目が利かない己にため息を零し、彼は無造作に跳ねている後ろ髪を掻き回した。
 風呂でうっかり濡らしてしまったので、根本付近がまだ少し湿っていた。
 洗うつもりはなかったのに、結局洗わなければならなかった。そうして後の手入れを面倒臭がり、自然乾燥に任せていたせいで、この有様だ。
 将来禿げる、と揶揄されたが、強く否定できない。
「参りましたなあ」
 眠気を誘ってわざと欠伸をしてみたが、どこを彷徨っているのか、睡魔は一向に訪れなかった。
 頭が乾き切るのが先か、東の空から太陽が昇るのが先か。
 結局猫背に戻って呟いて、彼はひんやり冷たい床板に足の裏を貼りつかせた。
「……なんや?」
 遥か遠く、廊下の先に小さな光が見えた。
 最初は蝋燭の灯りかと思ったが、すぐに違うと否定した。仄かに緑がかった淡い輝きは、一箇所に留まらず、自在に動き回っていた。
 しかもひとつだけではない。ふたつ、みっつと増えたかと思えば、またひとつへと戻った。
 近くで見ればさぞや眩しかろう黄金色のそれは、時折なにかを呼ぶように明滅し、夜闇に光の筋を残した。
 美しい。
 だがなぜか、見ていて胸が締め付けられる。
「あかん」
 季節外れもいいところの蛍火に総毛立ち、明石国行は早足で廊下を突き抜けた。
 雪の時期が終わり、空は晴れて、月が明るい。雨の心配もないので、縁側に面した雨戸は開けたまま放置されていた。
 お蔭で庭の景色を遮るものはなく、幻想的な光景が見放題だ。こんな神秘的な光の演出は、高い代価を支払わなければお目にかかれないものだった。
 そんな不可思議な世界を目の当たりにして、彼は頬を引き攣らせた。一瞬でも見惚れてしまった自身を恥じて、縁側から飛び出しそうになった身体を懸命に引き留めた。
 軒を支える柱を掴み、噴き出た汗を背中に流した。床から地面までの高さを改めて確認して、ほっと安堵の息を吐いた。
 刀剣男士が暮らす屋敷は、床面が地表より一尺近く高くなっている。誤って落ちた場合、打ち所が悪いと大参事だ。
 不注意から来る負傷を免れ、彼は早鐘を打つ左胸を押さえた。内番着の上から繰り返し撫でて、落ち着くよう促した。
 肩を上下させ、息を整える。
 最後にふー、と長い時間を掛けて肺を空にして、面長な太刀は斜めに傾いていた眼鏡を正した。
 かちゃり、と爪にぶつかった金属が小さく音を立てた。
 日中であれば聞き取れない音も、夜だからか、よく響く。
「蛍。蛍丸」
 ならばこの位置からでも届くはずと、彼は池の畔に立つ少年に向かって呼びかけた。
 明滅を繰り返す光は其処此処を漂い、夜の暗さを打ち消していた。書物を読むには不向きだが、手元くらいははっきり見えた。
 夜戦を得意としない太刀でも、これだけ光源があれば、なんとか動き回れる。
 庭に降りるかどうかで迷い、視線を泳がせて、明石国行は前方からの物音に顔を上げた。
「国行」
 か細い声が聞こえた。
 今にも泣き出しそうな気配を感じて、来派の祖たる国行の太刀は肩を竦めた。
「こないな時間に、危ないやろ。そない寒いところおらんで、こっち来い」
 草履を探すのを諦め、柱の傍らで膝を折った。足の裏全体を床に張り付け、尻は浮かせた状態で、池の前に立つ大太刀を手招いた。
 ゆっくりとした仕草は、向こうにも見えたことだろう。短刀より背が低いくせに、誰よりも大きな刀を振るう少年は、いつもの勇猛さが嘘のように静かで、大人しかった。
 反応は鈍く、動きが悪い。
 やはり迎えに行くべきかと立ち上がろうとした太刀の前で、蛍丸は緩くかぶりを振り、小さな一歩を踏み出した。
 池の端から離れ、母屋へとゆっくり近付いてくる。夜は視野が狭まる彼のために、周囲を泳ぐ虫たちは頻りに羽を動かし、地表を照らした。
 迷いない足取りに、明石国行はほっと安堵の息を吐いた。険しかった表情がほんの少し緩んで、口角が持ち上がったところを、蛍の光が淡く照らした。
「ねえ。なんでそんな顔できるの」
 途端に、蛍丸の足が止まった。
 一瞬嬉しそうにした太刀を見咎めて、見目幼い少年は不満を露わに吐き捨てた。
「なんで。国俊が、あんな風になってるのに!」
 肩を跳ね上げ、時間帯も忘れて怒鳴る。
 ここが母屋の南側に広がる庭でなく、多くの刀剣男士が寝起きする北側の居住棟であったなら、あちこちから抗議の声が聞こえただろう。
 だがそうはならなくて、明石国行は肩を竦めた。寝ずの番を務める近侍には聞こえただろうが、大座敷から出てくる様子はなかった。
 ちらりと後方を振り返り、周囲に変化がないのを確かめた。
 近付く影がないのに首肯して、太刀は額に掛かる髪を掻き上げた。
「そない言うたかてなあ。国俊なら、大丈夫やろ。朝になったら、出てくるって」
「だけど!」
 刀である付喪神は、本来眠りを必要としない。だが審神者の力によって顕現した刀剣男士は、人に似せた現身に宿ることで、人と同じような生活を送っていた。
 一日三食食べて、運動し、夜は眠りに就く。この規則を破ることがあれば、仮初めの身体は途端に機能を低下させた。
 疲労が蓄積した時も、動きが一気に鈍くなった。足が重くなり、腕は上がらない。なにをするのも億劫になって、横になってだらだら過ごすのが一番治りが早かった。
 一方で人間とはまるで異なる面もある。
 彼らが戦場で負った傷を癒やすのに、薬や外科手術は用いられない。使われるのは手入れ部屋で、ここに入ればあっという間に元通りだった。
 どんなにか人に近付こうと試みても、彼らは人にはなれない。
 両者は限りなく近く、果てしなく遠い存在だった。
 こうして春の最中に飛び回る蛍も、人の身では起こし得ない奇跡だ。
 蛍丸に宿る伝承が、この奇妙な現象を引き起こしたようだ。けれど実際に傷を受けたのは、彼でなく、彼が慕う短刀だった。
 愛染国俊は出陣先で重傷を負い、手入れの真っ最中だ。仲間と共に帰還して、かれこれ二刻以上が経過しているのに、未だ出てくる様子がなかった。
 彼は修業の旅を終え、一段と強くなった。同じように修行を終えた短刀だちと隊を組み、時間遡行軍を血気盛んに討伐して回っていた。
 ところが不意を衝かれ、背後から急襲された。決して油断していたわけではないが、囮役だった一団に気を取られて、敵援軍の接近に気付くのが遅れた。
 味方は総崩れとなり、四方を囲まれて逃げ道を封じられた。強行突破しか術がないとの判断で、先陣を切ったのが愛染国俊だった。
 自慢の素早さを発揮して、血路を開いた。
 しかし仲間を庇って余分に攻撃を受けて、無事では済まなかった。
 残る五振り共々帰還したが、彼が一番、負傷の度合いが酷かった。厚藤四郎に背負われて手入れ部屋へ向かう姿は悲惨としか言いようがなく、血まみれで、呼びかけても返事がなかった。
 折れてはいないと言われても、信じられない。
 手入れ部屋から元気に出てくるまで、蛍丸は眠れそうになかった。
「せやから、主はんに任せとけばええねんって。あのお人が、手入れに失敗したことあったか?」
 けれど心配して夜通し起きていたとしても、愛染国俊の修復が速まるわけではない。審神者を信じて、任せて休んだ方が、蛍丸の身の為だ。
 明日だって、彼には彼の仕事がある。寝不足でふらふらな状態では、周囲の迷惑になりかねない。
 言い聞かせて、明石国行は早く屋敷に入るよう、蛍丸を急かした。
 縁側の端でしゃがんだまま、右手だけをぶらり、ぶらりと動かす。
 その指に蛍が一匹吸い寄せられて、爪に被さり、器用に停まった。
 ぼんやりとした光が間近で強まり、ゆっくりと弱まった。そうしてまたすぐに強くなって、明滅の間隔はほぼ一定だった。
 羽を休める場にされて、これでは迂闊に動かせない。なかなかの策士ぶりだと苦笑して、痩せ形の太刀は左腕で頬杖をついた。
 曲げた膝に肘を置き、蛍が停まる右手は動かさずに身体を傾けた。折り曲げた手首に顎を載せ、遠いようで近い場所から睨んでくる大太刀に肩を竦めた。
「国行は、冷たいね」
「酷いなあ。勿論、国俊も心配やけど。今はどっちかと言うたら、蛍丸の方が心配や」
 素っ気なく言い捨てられて、傷つかなかったわけではない。
 ただそれをおくびにも出さず、受け流して、明石国行は怠け者の蛍を宙に放った。
 指先を上下に振れば、地震に襲われたと勘違いした虫が飛び立った。急いで群れに合流して、早すぎる目覚めの元凶にまとわりついた。
 なにもないところから、蛍は産まれない。
 彼らは昨年の初夏、庭で優雅に舞っていたものの末裔だ。当初は季節の変化に合わせ、もっと遅い時期に空を駆る予定が、不安定に揺れる大太刀の霊力に刺激され、このような変異を引き起こした。
 今宵舞う蛍は、本来あるべき姿ではない。気候に適応できず、朝になる前に多くが死に絶えるはずだ。
 手入れを終えて元気に朝を迎える愛染国俊とは、逆だ。
 庭に散らばる虫の死骸を目にした時、彼はどんな顔をするだろう。
 止め処なく溢れ出る霊力が、蛍丸自身に影響を及ぼさないとも言い切れない。
 霊力とは、付喪神の生命力のようなものだ。神社へ奉納され、信仰の対象となった神刀などは特に高い。
 これが外へ流れ続ければ、当然付喪神は弱体化する。また、霊力は様々なものに、なんらかの形で影響を及ぼす。天下五剣の大典太光世などは、その典型だ。
 蛍丸はすでに、眠っていた虫を強引に目覚めさせている。
 この異変が長く続けば、本丸の四季が狂い、おかしな事態になりかねなかった。
「あかんで、蛍丸」
 彼は愛染国俊を案じる余り、己に宿る霊力を解放した。蛍が刃毀れを直したという奇跡の再現を目論み、実行に移した。
 だが肝心の短刀は、手入れ部屋の中。結界に覆われたあそこには、神刀であっても簡単には立ち入れなかった。
 行き場を失った蛍は庭を飛び交い、この美しく、幽玄な世界を彩っている。
 朝日が昇ると同時に消え失せる儚い命を思って、明石国行は今一度、愛しい大太刀を諭した。
「国行には、関係ない」
「関係あるから、言うてんねやろ。あかんもんは、あかん。そういうのは、しまっとき」
 冷静に見えて頭に血が上っている大太刀は、放っておけば単騎で敵陣へと突っ込みかねない。愛染国俊を傷だらけにした時間遡行軍に、鬼の形相で挑んでいきそうだった。
 ただ幸いと言うべきか、出陣は審神者の許可なしでは叶わない。
 今の状況からして、許しが得られるとは思えなかった。
 霊力の放出を止めない少年を窘め、明石国行はゆっくり立ち上がった。冷えて感覚が鈍った足を適当に動かして、両手を腰に当て、背後を振り返った。
 この位置からでは到底見えないけれど、ここから奥へ進んだ先に、手入れ部屋がある。
 他の設備とは違い、自由に出入りできない場所だ。解放されるのは仲間が負傷した時に限られ、入室を許可されるのも負傷者だけだった。
 近くで待っていたいのに、許されない。
 蛍丸の不安や苛立ちは、明石国行にもよく分かっていた。
「なあ、蛍丸」
 頭に停まろうとした蛍を追い払い、庭に佇む少年に呼びかける。
 首を右に傾がせた彼に、小柄な大太刀は眉を顰めた。
 また説教かと警戒する素振りに、自然と苦笑が漏れた。どんなに信用がないのかと自嘲して、怠け者の太刀は肩を竦めた。
「蛍丸も、ちょっと前までは、よう手入れ部屋の世話になっとったなあ」
 右肩を細い柱に預け、爪先で雨戸の溝を踏んだ。ほんの僅かな窪みに親指の腹を捻じ込めば、凹んだ型通りに肌が変形した。
 感覚で分かる滑稽さに横隔膜を引き攣らせ、しみじみしながら呟く。
 最近はとんとご無沙汰になっている事実を思い出してか、蛍丸はなんとも言えない表情を浮かべた。
 短刀たちが修行に出ると言い出す前、この本丸の主戦力は彼だった。一度に多くの敵を攻撃できる上、刀装の装備数も他の大太刀よりひとつ多い利点があり、顕現した直後から主力部隊に組み込まれた。
 それが結果的に、短刀たちが旅に出るきっかけを作った。
 刀装がひとつしか持てず、挙げ句攻撃力は低くて霊力も微弱。どんなに頑張っても戦場では足手纏いにしかならない現実を彼らに叩きつけたのは、体格だけは短刀並みの大太刀だった。
 結果、己を見極めた短刀らは、すこぶる強くなった。
 半年前まで毎日のように出撃していた刀たちはお役御免となり、最近は暇を持て余すようになっていた。
 愛染国俊も、常々口にしていた。自分も明石国行や、蛍丸と一緒に出陣したい。
 肩を並べて戦いたい、と。
 けれどそれが叶わなかったから、彼は修業に出た。そうして自分に自信を持ち、連日連夜、戦いに出向いていた。
 蛍丸を置いて。
「俺が、一緒だったら。あんなことにはならなかった」
 どうして一番隊の面々は、愛染国俊に先鋒を任せたのか。打たれ強い刀は他にもいる。修業から戻って間もない彼に任せるには、荷が重かったのではないか。
 詳しい報告を聞いていないので、戦場で実際どういうやり取りが交わされたのかは分からない。
 仲間を責めるのは酷だと分かっていても、言わずにはいられなかった。
 俯いて拳を作った大太刀に、明石国行は小さく溜め息を吐いた。肩だけでなく、背中まで柱に預けて寄り掛かり、雲の少ない夜空を仰いだ。
 蛍は今もなお、つがいを求めて彷徨っていた。
 あと数刻で潰える命と知ってか知らずか、種を残そうと必死だ。淡い輝きは徐々に弱くなり、数は次第に減っていく。それでも彼らは懸命に生き、抗っていた。
「どうやろな。そればっかりは、誰にも分からん」
「いじわる」
「国俊も、似たようなこと言うとったわ」
 もしかしたら、運よく明日も生き延びる蛍がいるかもしれない。
 今まさに消え果てた光も、本来の季節に羽を広げていれば、違う未来を得ていたかもしれない。
 なにがどうなるかは、分からない。そして分かっている過去を変えることは、誰にも許されない。
「国俊が?」
 遠くを見詰める明石国行に、蛍丸は僅かに身を乗り出した。
 初めて聞く話に興味を惹かれて、無言で続きを催促した。
 若草を踏む音がして、太刀は視線を近くへ戻した。眼鏡の奥の眼を眇めて、近付いてくる大太刀に合わせて膝を折り、屈んだ。
「自分がおったら、どうなってたやろう、ってなあ」
 以前は、蛍丸が手入れ部屋の常連だった。強敵を討ち果たすのに、負傷は避けられない。多かれ少なかれ血を流し、帰還と同時に放り込まれてきた。
 この頃はすっかり縁遠くなった場所を思い浮かべ、昔を懐かしむ太刀の横顔をじっと見る。
 明石国行は突き刺さる視線に苦笑して、軒下まで来た大太刀の頭を撫でた。
「縮むから、やめて」
「おー、おー。縮め、縮め。縮んでくれたら、持ち運び易うなるわ」
「国行!」
 それを嫌がり、蛍丸が駄々を捏ねた。
 身を捩って逃げた彼の周囲で蛍が舞って、この辺りだけが昼のような明るさになった。
 時期外れに無理矢理起こされたというのに、蛍は彼を守ろうとする。それが溢れ出る霊力によるものか、どうなのかの判断は保留して、明石国行は相好を崩した。
「蛍丸が手入れ部屋から出て来た時、国俊のやつ、ようこの辺で待っとったやろ?」
「うん」
 手入れ部屋がある一帯は屋敷の中心に近く、やや奥まった場所にある。迷路のように折れ曲がった通路を抜けて、ようやく辿り着ける位置だ。
 そこから庭に出るのに一番使いやすいのが、明石国行の背後にある廊下だ。台所や、各刀剣男士の私室がある北の棟に行くには別の経路が便利だが、母屋の大座敷へ向かうなら、ここを行くのが最も近道だった。
 だからこそ、蛍丸はここで待っていた。
 かつて愛染国俊が立っていた場所に、今は彼が佇んでいた。
「なあ。そん時、国俊、どんな顔しとった?」
「っ!」
 問われた大太刀はビクッと肩を震わせ、直後に顔を伏した。鼻を啜って音を響かせ、痙攣する唇を強引に引き結んだ。
 艶やかな髪が目の前に迫り、明石国行はそのひと筋を掬った。指の間をサラサラ流れて行く細い糸を擽って、怒られないよう優しく撫でた。
 大太刀の胸に渦巻く感情は、太刀にも覚えがあった。そしてその逆も、度々経験していた。
 待つのも、待たせるのも、どちらも辛い。
 自分の力の無さを嘆いたし、不甲斐なさに唇を噛んだ日は数えきれない。共に出陣しながら守れず、せめて背負ってやりたいと願っても、自力で歩くのさえままならないことだってあった。
「かなんなあ、ほんま」
 俯く蛍丸の眼に溢れる涙を見つけて、愚痴を零す。
 これを止めてやれるのが自分でないのが悔しいし、そこまで仲間を思っていると知れたのが嬉しかった。
 背中をいっそう丸めて小さくなって、明石国行は自然と緩みそうになる頬を手首に押し付けた。
「国俊も、目に涙いっぱい溜めてたなあ」
「うそだ」
「嘘やあらへん。蛍丸が、知らへんだけや」
「国俊、そんなこと、言ってなかった」
「言うわけあらへんやろ。男っちゅうもんは、いつだって、見栄を張りたいもんやで」
 うっかりもらい泣きしそうになって、それだけはと我慢した。熱くなる目頭を袖に押し付けて、つくづく信用がないと苦笑した。
 絶対に誰にも言わない、と約束していたのを破ったから、愛染国俊に知れたら怒られるだろう。そうなると信頼度がまた一段下がるのは確実で、益々憎まれ口を叩かれるようになりそうだった。
 だが、それでいい。
 憎まれ口すら叩かれなくなるよりは。
 憎まれ口さえも聞こえなくなるよりは、ずっと良い。
「……国行も?」
 額に垂れる髪の毛で視界を半分隠していたら、ぽつりと、消え入りそうな声で問われた。
 必死に涙を堪え、愚図る大太刀に虚を衝かれて、明石国行は返事も忘れてぽかんとなった。
 この場合、質問の先にあるのは何か。
 見栄を張っていることか。それとも、手入れ部屋から出てくるのを、涙こらえてじっと待っていたことか。
「せやなあ」
 恐らくは両方だと目を眇め、彼は遠い夜空を見上げた。光が煩わしく感じるくらい飛び交っていた蛍は、いつの間にか半分以下になっていた。
 瞬きひとつで視線を正面に戻せば、蛍丸から溢れ出る霊力は、一時期より遥かに落ち着いていた。
 もうこれで、強制的に蛍を目覚めさせることはない。
 そして霊力により活性化された虫たちは、命の源たる霊力を失い、朽ち果てる。
 願わくば、彼がそれを気に病まぬように。
 静かに瞼を伏して、明石国行は足元で眠る蛍の背をそっと撫でた。
「蛍丸は、どっちがええ?」
「また、すぐそうやって、はぐらかす」
 しんみりしたくなくて、わざとおどけての質問返しは、怒鳴られて終わりだった。
 ぷんすかと煙を噴く少年に呵々と笑って、痩せ型の太刀は口元を綻ばせた。
「どっちなと。好きな方に思ってくれてええよ」
 投げやりとも取れる台詞を吐いて、判断は相手に任せた。
 蛍丸の頬はみるみる丸く膨らんで、口を尖らせる姿は河豚のようだった。
 それが実に可愛らしくて、明石国行は腹を抱え込んだ。愉快だと高く声を響かせて、自然と浮かんだ涙を指の背で削ぎ落とした。
「あ~……やっぱり蛍丸は可愛らしいな」
「うるさい」
 最大限の賛辞を贈ったのに、なぜか怒られた。
 拗ねて殴る振りを見せられ、太刀は後ろに仰け反って避け、ずっと浮かせていた尻を床に降ろした。
 一気に足が楽になり、安堵の息が漏れた。素早く胡坐を組んで頬杖をついて、赤く染まった頬を捏ねている大太刀に目尻を下げた。
「国俊だって、手入れ部屋で、頑張ってるんだ。俺だって」
「そうそう。その意気やで」
「言っておくけど、国行に言われたからじゃないからね。俺が、変な顔してたら、国俊が困るでしょ」
 寒さと、それ以外の理由で固まっていた顔の筋肉を解し、蛍丸は笑顔の練習を開始した。口角に指を置いて無理矢理持ち上げて、ニッ、と白い歯を覗かせた。
 続けて掌で揉んで、解して、最後にバンバン、と素早く二度、叩いて音を響かせた。
 せっかく長時間の手入れを終えて、元気いっぱいになって出てくるのだ。出迎える側も、元気に明るく、笑顔でいたいではないか。
 心配させたことを、愛染国俊は気にしているかもしれない。
 敵の罠を見抜けず、仲間を劣勢に追い込んだ後悔や、反省や、羞恥といった感情だって当然あるだろう。
 もしかすれば、暗い顔をして廊下を歩いてくるかもしれない。祭り好きの陽気な性格が影を潜め、落ち込んで、精神的に疲弊しているかもしれない。
 そんな時に、こちらまでどよんとした顔をしていはいけない。
 無傷で済まなかったとはいえ、折れずに帰ってきたのをまず褒めよう。そしてもっと一緒に強くなろうと、誘おう。
 おかえり、と言って抱きしめよう。
「あ、やべ」
 愛染国俊が出て来たら言いたいこと、やりたいことを並べているうちに、またしても涙腺が緩んだ。
 慌てて目尻を擦った蛍丸に愁眉を開いて、明石国行は微かに感じた気配に腰を捻った。
 胡坐を崩し、ひたひたと迫る足音に耳を澄ませた。音の間隔、床を伝う振動などから相手の大きさを測って、軒下から身を乗り出した大太刀に目配せした。
 ハッと息を吐き、彼らは揃って四肢を粟立てた。
「あー、もうくったくただよ。祭りどころの騒ぎじゃなかったぜ」
 先に声が聞こえた。
 月明かりが照らす中、暗がりからぬっと抜け出して現れた影は、彼らを見るなり疲れた様子で肩を回した。
 大きく欠伸をして、眠たげに目の下を擦った。紅く愛染明王を染め抜きした上着は裾が一部擦り切れて、胸元には横一文字の切り傷が、くっきりと残されていた。
 赤く染まった一帯から覗く肌は平らで、肉が裂け、折れた骨が飛び出てもいない。傷はしっかり塞がって、修復されたばかりの皮膚は他より若干白くなっていた。
 お気に入りの戦闘服がぼろぼろにされて、もっと機嫌が悪いかと思っていた。
 意外とそこにはこだわらない短刀に呆れて、肩を竦め、明石国行は立ち上がると同時に後ろへ下がった。
「国俊!」
 直後、彼がいた場所に小さな塊が飛び込んできた。勢い余って縁側に膝をぶつけたが、痛みを堪え、蛍丸は履物のまま愛染国俊に抱きついた。
「どわ!」
 あと一秒でも避けるのが遅れていたら、踏まれていた。
 蛍丸は小柄なので体重はさほどでないけれど、あの大太刀を自在に振り回せるだけあって、腕力も、脚力も充分だった。
 床が踏み抜けなかっただけ、良かったと言わざるを得ない。
 どてっぱらに穴を開けずに済んでホッとして、明石国行は後頭部を痛打した短刀に憐れみの表情を浮かべた。
 油断があったのだろう。愛染国俊は、避けられなかった。
 正面から蛍丸の突進を受け、突き飛ばされ、受け身もなしに床に転がった。しかもそこに飛びつかれ、ぎゅうぎゅうに締め付けられて、強烈な圧迫感に白目をむいていた。
 塞がったばかりの傷が開かないか、少々心配になった。
 加減を忘れている大太刀にため息を吐いて、彼らの保護者を自認する男はゆったり起き上がった。
「よお生きとったな、自分」
「死に、そう……」
 のんびり歩み寄り、月光を浴びて蠢く影へと話しかけた。返ってきたのは心底苦しそうな呻き声で、暗がりに見える顔色は土気色だった。
 光が弱いからそう見えるとは、断言し辛い。やむなく大太刀の肩を叩いて、短刀から強引に引き剥がした。
「蛍丸、その辺にしとき。国俊がまた手入れ部屋、行かなあかんなる」
 一発か二発、殴られるのを覚悟して言い、強烈な愛情表現は控えるよう諭す。
 先ほどまでのやり取りはなんだったのか、と苦笑していたら、ぶすっと頬を膨らませた大太刀が不満そうに太刀を睨んだ。
「国俊が、俺が手入れ部屋入ってる時。泣いてたって、国行が」
 そうしてやおら人差し指を突き付けて、早口に捲し立てた。
「ちょ、蛍丸。それはあかん」
「はあああ?」
 秘密を暴露した件を告げ口されて、悠然としていた男の顔色がサーッと青くなった。愛染国俊も寝耳に水の情報に騒然となり、痛みも忘れて素っ頓狂な声を上げた。
 目玉が飛び出しそうなくらい真ん丸に見開かれた眼が、冷や汗を流して後退を図った男を捉えた。
「国行、どういうことだよ。内緒だって、約束したろ!」
 握り拳を作って振り回し、鼻の頭に絆創膏を貼った短刀が吠えた。
 途端に明石国行は額を押さえて項垂れて、蛍丸は成る程、と満面の笑みで頷いた。
「ふ~ん。本当だったんだ」
「……あ」
「あほやなあ、国俊は。なんでそこで認めるん」
 ここで否定しておけば、真実は闇に葬られた。だのに口が滑り、墓穴を掘った愛染国俊は、己の失態に気付いてピキッと凍り付いた。
 今なら軽く突くだけで、ぼろぼろに砕けてしまうだろう。
 男としての矜持を自ら投げ捨てた彼を、どう慰めてやろうか。なにを言ってもお前が悪い、のひと言で片付けられそうな予感はするが、ひとまず悩んで、保護者役の太刀は頬を緩めた。
「国俊、腹減ってるやろ。台所に握り飯と、伊達巻き、作っといたから。食べ」
「う、うお、お……まじで?」
 下手に同じ話題に拘るよりは、まったく別のものに振り替えた方が良い。
 夜遅くの台所作業は骨が折れたが、時間を潰すには充分だった。余計なことを考えずに済み、お蔭で少々やり過ぎた。
 怠け者で知られる太刀にあんな特技があると、他の刀が知ったらどう言うだろう。粟田口の短刀たちに強請られるのだけは、勘弁願いたかった。
「国行、俺は。俺のは?」
「はいはい。蛍丸の分も、ちゃあんと用意してあるから。仲良う分けや」
「やった。ねえ、今回はなに? なにがある?」
 直前までの会話は、一瞬で彼方へと忘れ去られた。ほかを差し置いても食い気が勝る弟分に失笑して、明石国行は顔の前で指を折った。
「えー、なんやったやろ。猫と、犬はあったやろ。んで、兎と、虎と、あとなんや」
「俺、犬と虎な」
「えー。じゃあ俺、猫と兎と。国行、今度あれ作って。象っていう鼻が長いのと、麒麟とかいう、首が長いやつ」
「しゃーないな。考えときますわ」
 本丸には動物図鑑なるものがあるから、それを眺めたのだろう。新たな希望を受け付けて、彼は肩を竦めた。
 握り飯を薄焼き卵で覆ったり、海苔で目玉や模様を作ったりして、動物を模す。
 明石国行の意外な特技は、来派のふた振りに大好評だった。
 最近ではだし巻き玉子に色々な具材を混ぜ、断面が顔になる小技まで身につけた。
 だがいずれも、本丸に暮らす刀剣男士は知らぬこと。この事実は、来派三振りだけの秘密だった。
「誰にも見つからんように練習すんの、しんどいねんけどな」
「やったね。国行、愛してる」
「俺もだぜ、国行」
「はいはい。嬉しいわー。むっちゃ嬉しいわー」
 ただそれも、いつまで続けられるのか。
 どんどん数が増えていく仲間のお蔭で、台所はいつでも混雑している。夜更けに早起きするにしても、頻繁過ぎると怪しまれた。
 だが可愛いふた振りが喜んでくれるなら、これくらいの努力は致し方ない。
 とても心からとは思えない告白に、棒読みで返事して、明石国行は台所へ行こうとする大太刀を引き留めた。
 後ろから小さな頭を鷲掴みにして、ぐりん、と捩って強引に短刀の方を向かせて。
「その前に、言うことあるやろ。蛍丸」
「あ」
 笑顔で出迎えるのは失敗したが、ほかにもやりたいことがあったはずだ。
 それを思い出すよう促した太刀に、大太刀ははっとして、短刀は不思議そうに首を傾げた。
 三振りが輪になって、向き合って。
「おかえり、国俊」
「よう頑張ったな。お疲れさん」
 彼らはそれぞれに告げると、揃って愛染国俊の頭を撫でた。

ときはなる三神の山の杉村や 八百万世のしるしなるらむ
藤原季経朝臣 千載和歌集 賀歌 640

2017/04/30 脱稿

法にあふこの 薪なりける

 分け入った山の中で見つけたのは、鄙びた小さな小屋だった。
 近くには粗末ながらも窯があり、そこで焼いたであろう炭が積み上げられている。足元は均され、下草は生えない。緑に覆われた中に突如現れた空間は、見るからに異質だった。
 小屋を建てるのに使ったのだろう、何本もの木が根だけになっていた。
 そのうちひとつの切り株には、刃先鋭い斧が深く突き刺さっていた。
 本丸で、薪割りに使っているものよりももっと太く、重そうだ。
 これなら首だって、易々と一刀両断出来るだろう。物騒な想像に頷いて、小夜左文字は凶器となりえる道具から距離を取った。
「誰が作ったんだろう」
 炊事に使う焚き木を拾うべく、籠を背負って山に入った。
 調子よく荷を重くしていた矢先、こんな場所に出くわして、短刀の付喪神は首を捻った。
 山中にこのような小屋があるとは聞いておらず、驚いた。古くからあるのかと勘繰ったが、建物は堂々としており、荒廃して朽ちる一方とはとても言えなかった。
 風雨の影響を過分に受けているものの、まだ壁材は新しい。
 斧が刺さった切り株の雰囲気からして、出来上がってまだ一年か、二年といったところだった。
「そういえば」
 誰かが立ち話をしているのを、以前、通りがかりに耳にした。
 その男は屋敷の仕事がない時期は、せっせと山へ足を運んでいると。修業の場を作るのだと言って、兄弟刀にも手伝いを要請している、と。
 「山伏国広、さん?」
 豪快で笑い声が大きい太刀を思い浮かべ、小夜左文字は自信無さげに呟いた。
 首を捻ったまま瞳を真ん中に寄せて、ほんの僅かに開いている入り口に眉を顰めた。
 建物の枠組みは実に単純で、外から力を加えたら簡単に倒れてしまいそうだ。壁は薄く、所々で隙間がある。窓はないが、そこから光が漏れ入るので、不便がないようだった。
 屋根は薄く切った木の板を並べ、補強として石が並べられていた。素人が建てたとひと目でわかる粗末ぶりで、屋敷の馬小屋の方がよっぽど立派だった。
 ここで寝起きするのは、身体に悪そうだ。
 但し一時的に休む場合や、雨に降られた時などには、避難場所として重宝しそうだ。
「いないのかな」
 耳を澄ませても、物音は聞こえてこない。耳に響くのは風に揺れる木々のざわめきや、遥か彼方で鳴く鹿の声くらいだった。
 頭上はぽっかり穴が開いたように空が広がって、薄く日が射していた。軒下に積まれた、乾燥途中と思しき木材の周辺にも、ひとの姿は見当たらなかった。
 今朝、山伏国広は本丸にいただろうか。
 修行のために山籠もりがしたいと、常日頃から審神者に訴えている刀だ。許しが得られずとも勝手に行動して、これまでにも頻繁に行方をくらましていた。
 脇差の堀川国広は、もう諦め顔だった。何度注意しても改まらないので、せめて連絡が取れるようにしてくれ、と繰り返し訴えていた。
 そういう事情を含めての、拠点ということだろうか。
 奥まった場所でなく、存外本丸に近いところにあった小屋をまじまじと眺めて、小夜左文字は天を仰いだ。
 周辺の景色を眺め、喧騒とは無縁の穏やかな空気で胸を満たした。ずっしり重い背負い籠ごと身体を揺らして、肩に食い込む紐を爪で擦った。
「少し、休ませてもらおう」
 ここまでずっと歩き通しだった。休憩したいと思っていただけに、丁度良かった。
 家主は不在にしているようだが、構わないだろう。
 決断を下して、小柄な付喪神はずっと担いでいた荷物を下ろした。
「ふう」
 肉に食い込んでいた重みを取り除き、安堵の息を吐く。布が当たって擦れた場所は赤くなり、所々摩擦に負けて擦り剥けていた。
 小さな痛みが走って、触れれば熱を発していた。悪化する前に軽く洗って、冷ますことにして、小夜左文字は左右に視線を走らせた。
 ちょろちょろと聞こえる水音を探り、たきぎ入りの籠を残して歩き出す。
「わざわざ、引いたんだろうか」
 さほど行かないうちに、目当てのものが見つかった。青草生い茂る中で、幅一尺もない細い水路が走っていた。
 背筋を伸ばして水源を探すが、木々が邪魔をして遠くまで見通せない。流れる水は澄んでおり、底に敷き詰められた小石がはっきり見て取れた。
 魚は泳いでいないが、沢蟹が一匹、小夜左文字を見て慌てて逃げて行った。
 頭上でバサッ、と音がして、思わず首を竦めた。瞳だけを宙に投げれば、鳥でもいたのか、木の枝が不自然に揺れていた。
「冷たい」
 熊や狼の類ではなく、身の危険は感じない。安堵して、小夜左文字は膝を折って流水に指を浸した。
 右手を器の代わりに使い、掬い取って口に運んだ。途中で大半が零れてしまったが、咥内を湿らせるには充分だった。
 屋敷の井戸水よりも、ずっと冷たかった。飲めば喉の粘膜がぴくぴく痙攣し、胃の奥がきゅっ、と窄まった。
 思った以上に、身体は乾いていたらしい。
「おいしい」
 ただの水がいつになく美味に感じられて、彼は二度、三度と手を動かした。
 零れた分が口元だけでなく、膝や、胸元にまで飛び散ったが、構わない。
 折角だからと痛む肩を濡れた手で撫でて、チリッと来た痛みは歯を食いしばって耐えた。
 ピピピピピ、と鳥の囀りがした。つられて顔を上げて、目を泳がせるが、色鮮やかな羽は見つけられなかった。
 濡れた手で濡れた顎を拭い、立ち上がって踵を返す。竹で編んだ籠まで戻ろうとして、途中で自然と足が止まった。
 簡素な造りの小屋に、視線が釘付けだった。
 外はこんな風だが、中はどうなっているのだろう。大きくはないが、小さくもない好奇心が擽られて、鼻の奥がむずむずした。
「ちょっとだけ」
 急ぎ左右を確認して、短刀は背筋を伸ばした。
 壊しに来たわけでも、盗みに入るわけでもなく、仲間が一から造った家屋の出来栄えを確かめるだけ。本当にそれだけで、他意はないと自分に向かって言い訳した。
 そのくせ、足取りは慎重だ。中で眠る者があってはならないからと、息を殺し、そうっと建屋に近付いた。
 寸法が合っていないのか、戸は完全に閉まらないらしい。
 若干傾いている引き戸を上から下へと眺めて、小夜左文字は恐る恐る首を伸ばした。
「誰も、いない……?」
 昼間だというのに、中はかなり暗かった。唯一の光源である戸が、短刀により塞がれたのもあり、内部は夜に似た闇に覆われていた。
 何度か瞬きを繰り返して、暗がりに目を凝らす。
 短刀特有の、闇への対応能力を発揮して、注意深く室内を窺い見た。
 部屋割りはされておらず、広さ六畳弱の一間だけ。屋根を支える柱が真ん中にどん、と突っ立っており、それを囲む形で様々なものが置かれていた。
 床は土が向き出して、一部は茣蓙で覆われていた。入り口近くに持ち運びが容易な小型の七輪があり、火打ち石が網の上に転がっていた。
 椅子代わりなのか、太めの木を輪切りにしたものがひとつ。その向こう側には、何に使うのか分からない一尺半ほどの角材がどん、と置かれていた。
 木くずの中に、鑿があった。これを打つための槌が、丸太の上に横たわっていた。
「なんだろう」
 それ以外では、暖を取るための毛皮であったり、蓑笠であったり。
 食糧の類は、隠されているのか、そもそも保管していないのか、見当たらなかった。水を汲む桶は小屋の外に、無造作に放置されていた。
 生活の気配はそこかしこにあるのに、ここを根城にしていると言う風にはあまり感じられない。あくまでも仮の場所、作業をするための空間なのだと、強く意識させられた。
 火で炙るなど、単純な料理は出来るが、手の込んだものを作るのには圧倒的に不向き。
 眠るにしても、完全に雑魚寝で、熟睡できるとは思えなかった。
 炭焼きのために作られた小屋という雰囲気でもなくて、首を捻る。
 入り口から覗くだけでは、詳しいことはなにも分からない。選択を迫られ、小夜左文字は膝をぶつけ合わせた。
「うん」
 ここで引き返すか、このまま突き進むか。
 覚悟は、すぐに定まった。
 小さく頷いて、彼は握り拳を胸に押し当てた。
 思い切って、立て付け悪い戸を全開にした。力任せに横へ滑らせて、内部に差しこむ光の量を増やした。
「うっ」
 途端に瞳が焼かれ、視界が真っ白になった。夜目を利かせていたのをすっかり忘れていたと、自分の軽率さに臍を噛んだ。
 ぎゅっと瞑った目を開くのに、数秒の猶予が必要だった。
 戸を開けるよりよっぽどビクビクしながら、小夜左文字は失明の恐怖を捻じ伏せ、薄く瞼を持ち上げた。
「……すごい」
 最初はぼんやりと、次第にはっきりと、ものの輪郭が露わになった。
 先ほどまでは気に留めなかった備え付けの壁の棚に焦点を定めて、彼は感嘆の息を漏らした。
 廃屋一歩手前の東屋の中には、四段分の棚が備え付けられていた。外観が完成した後に付け足したらしく、仕事ぶりは雑だが、ある程度重いものを並べても耐えられる構造になっていた。
 うち、半分近くがすでに埋まっていた。
 掌に載る大きさから、短刀の頭ほどあるものまで。
 大小さまざまな彫刻が、小屋の一画を占領していた。
 気が付けば、ふらふらと足が向かっていた。丸太の椅子の左脇を抜けて、一列に並べられた彫刻を仰いだ。
「仏像、だろうか」
 それはどれも、似たような形をしていた。
 大きさこそ違うが、雰囲気は共通していた。鑿の跡が目立つ、決して上手とはいえないものばかりだが、いずれも表情は優しげで、穏やかだった。
 左上から右、そして下に向かうに従って、段々と上達していっているのが分かる。初めは荒削りで些か乱暴に思えた仕上げが、徐々に丁寧に、それでいて繊細になっていた。
 恐々振るっていた鑿が大胆になり、それでいて細かな部分にまで目が回るようになっていた。大振りだった衣の襞が精緻になって、角ばっていた顔立ちは丸みを帯びるようになった。
 成長の具合が、実によく分かる配列だ。
 ひと目では収まり切らない数を彫ったのも凄くて、驚きが隠せなかった。
 これもすべて、山伏国広が作ったのだろうか。
 ほかに思いつかないが、確証となるものはなにもなくて、小夜左文字は口を開けたまま首を捻った。
 そもそもなぜ、こんな辺鄙な場所で、彫刻に耽っているのか。
 本丸でも、やろうと思えば作れる。多少騒々しいだろうが、移動の手間を考えれば、屋敷で挑む方が効率的だ。
「こんなにも、素晴らしいのに」
 素朴で、味わい深い仏像は、眺めているだけで心が洗われるようだ。
 数珠丸恒次や江雪左文字が知れば、さぞや喜び、話に花が咲くと思うのだが。
 それにこれだけ彫れるのだから、ほかのものだって作れるに違いない。動物を模せば、短刀たちが喜ぶだろう。屋敷を飾る置物だって、いくらでも産み出せそうだ。
「もったいない」
 折角手に入れた技術を、公表せず、留め置く意味はなにか。
 深く考えないまま呟いて、彼は作成途中と思しき角材へ近づいた。
 四角く切り出されたそれには、細く削った炭で大雑把な完成予想図が記されていた。
 もっとも、素人目には何が何だかさっぱり分からない。どこをどう削れば、あんな風に立体的な像が現れるのか、見当もつかなかった。
「いつも、修行、修行と煩いひとだと思ってたけど」
 山伏国広は体を鍛えるのが趣味で、同田貫正国や大包平と仲が良い。一部からは暑苦しい連中、と揶揄されている一派に属して、剛毅で豪胆な性格をしており、短刀たちからも人気があった。
 脇差の堀川国広と結託して、何かある度に自己否定に走りがちな山姥切国広を構い倒してもいる。
 面倒見がよく、大胆なようで、意外と気配り上手。
 声が大きくてうるさいが、嫌な印象を抱いたことは一度もなかった。
 同じ屋敷で寝起きしているのに、接点がないので、あまり話したことはない。もう二年以上共同生活を送っておきながら、あの太刀について、さほど詳しくないと気付かされた。
 捨て置かれていた鑿のひとつを手に取れば、小さいくせにずっしり重い。
 刃先は鋭く尖って、打ち所を間違えば、指の一本や二本、簡単に断ち切れてしまいそうだった。
「なんだろう……」
 小夜左文字は短刀の付喪神で、戦場に出れば刀を振るい、敵と対峙した。
 だのにこの鑿を持った瞬間、胸がざわついた。恐怖にも似た感情が湧き起こって、足が竦んで動けなかった。
 触れてはならないものに触れたような。大き過ぎるものを前にして圧倒された、とでも言うような。
 軽率に手を伸ばすべきではなかったと後悔して、小夜左文字は暗さを覚え、顔を上げた。
「――っ!」
 瞬間、四肢が粟立った。全身の毛がぞわっと逆立って、全く別物の恐怖に囚われた。
 熊が、小屋の入り口にいた。
 大きく開かれた戸口に仁王立ちして、窓のない空間を塞いでいた。
 彼は目を丸くして、咄嗟に鑿を握りしめた。両手で掴んで胸の前に掲げ、いつでも突き刺せるよう身構えた。
 逆光で、輪郭しか見えなかった。短刀より遥かに上背があり、肩幅が広く、堂々とした佇まいからして、山に棲む獣としか思えなかった。
 だが。
「カッカッカ。これは、珍しい客人であるな」
「え……?」
 鼓膜を大きく震わせる笑い声が響いて、警戒心を露わにしていた少年は目を点にした。
 ぽかんと間抜けに口を開いて、大股で入って来た太刀に瞬きを繰り返す。
「山伏、国広さん」
「そういうおぬしは、小夜左文字で間違いござらんな?」
 熊かと思ったのは、ほかならぬこの小屋の主だった。空色の髪を頭巾で覆い、脚絆に高下駄を履いた、いつもの格好の太刀だった。
 呆然としていたら、鑿を取り上げられた。危ないと言って回収されて、入れ替わりに大きな手が頭に降ってきた。
 高く結った髪ごとぐしゃぐしゃに撫で回され、上からの圧力で首が折れそうだ。触れてくる指はどれも太く、上腕は筋骨隆々として引き締まっていた。
 頻繁に筋肉自慢を始めるだけあって、相当に鍛えられている。
 抵抗するが力及ばず、小夜左文字は最終的に、爪を立てて乱暴な手を追い払った。
「失敬、失敬」
 それを痛がらず、呵々と笑って、山伏国広は微かに赤くなった手首を振った。鑿は丸太の椅子に置いて、不法侵入を働いた短刀に向き直った。
 とはいえ、小屋に鍵はかかっていなかった。
 立ち入り禁止の札も出ておらず、出入りは制限されていなかった。
「見つかってしまったか」
「困りますか」
「いいや、結構」
 屋敷の皆に隠しておきたいのであれば、黙っておくことも出来る。小夜左文字に知られたのが困るのであれば、見なかったことにして、一切を記憶の海に沈めよう。
 だけれど、山伏国広は特になにも言わなかった。
 口止めもせず、なんとでも受け取れる返事しかしなかった。
 解釈に迷って眉を顰めていたら、戸惑いを察した太刀が白い歯を見せて笑った。
「おぬしも、やってみるか?」
 やはりこれらの仏像は、彼が彫ったものだった。
 足元に置いた鑿を指差した山伏国広に、突然話を振られた短刀は目を丸くした。
「いえ、僕は」
 興味はあるが、ここまで出来る自信がない。上達には根気が必要で、才能がある程度求められる。存外短気な面がある短刀には、明らかに不向きだった。
 それ以上に短気な打刀の知り合いがいるが、あれも彫刻は無理だろう。
 自分で作るより、観賞する方が好き、と公言している男を頭から追い出して、小夜左文字は両手と首を同時に振った。
 遠慮して、右足が後ろに下がった。
 及び腰になっている少年に目を細めて、山伏国広は作りかけの仏像の前で膝を折った。
 丸太の上を片付けて、腰を下ろした。足を肩幅以上に広げ、台座に乗せた材木を引き寄せる。左手でこれまで掘った場所をなぞり、右や左と、あらゆる角度から全体を観察した。
 眼差しは真摯で、それでいて優しい。
 それが不意に上を向いて、短刀は身を竦ませた。
「おぬしも、仏の道を歩む者であろう」
「……僕は、兄様とは違います」
 見つめられ、目を逸らせなかった。内面を覗きこまれた気がして落ち着かなくて、返す言葉は掠れていた。
 左文字の兄弟は、揃って袈裟を身にまとい、戦場へ赴く。それは長兄である太刀、江雪左文字のかつての主が僧侶であったというのが一因だ。
 それに小夜左文字の銘の由来となった歌を詠んだのは、西行法師。更に前の主は、出家して幽斎を名乗った。
 時代の流れを読み解き、素早く対処することによって難敵を退け、味方する先を選び、生き長らえる術に長けた男だった。
 ただ短刀の出自は血に濡れており、清らかな仏の道とは相反している。復讐を掲げ、仇討ちを遂げるのに躍起になっている刀が僧形というのは、皮肉以外のなにものでもなかった。
 江雪左文字のように、戦が嫌いと言えたなら、少しは違っていただろうか。
 俯いて小さくなった少年を眺めて、山伏国広はゆるゆる首を振った。
「江雪殿は、関係なかろう。拙僧は、小夜左文字、おぬしに聞いておる」
「そんなこと、言われても」
 真っ直ぐ目を見ながら問われて、咄嗟に言葉が出てこない。
 仏道に真摯に向き合っているかと言われたら、首を横に振らざるを得ない。彼は兄、江雪左文字のように熱心ではなくて、毎朝の勤行にも殆ど参加したことがなかった。
 そもそも武器であり、付喪神である彼らが、だ。
 仏の道に救いを求めるのは、果たしてどうなのか。
 矛盾してはいないかと考えだしたらきりがなく、滑稽だと鼻で笑い飛ばしたくなった。
 ただそれを、山伏国広に言えなかった。真顔で説教されそうな気配がして、そういう上から押さえつけてくるやり方は、苦手だった。
 こちらの意見に耳を貸さず、否定から入られるのは嫌いだ。上から目線とでも言うのか、自分の考えこそが正しいと滔々と語られるのは、苦痛だった。
 だから答えずにはぐらかしたかったのに、許してもらえそうにない。
 渋々口を開き、息を吸って、小夜左文字は唇を舐めた。
「僕のような穢れた刀が、仏の道を歩むなど、烏滸がましい限りでは」
 座っていてもなお、立っている短刀より大きい太刀を窺い、小さな声で精一杯の思いを告げる。
「カーッ、カッカッカー!」
 直後に耳を劈く大声で笑われて、彼は吃驚し過ぎて凍り付いた。
 山伏国広は両手で膝を叩き、胸を反らし、天に向かって声を響かせた。踏み固めた地面を勢い良く蹴って、指先で調子を取り、仰け反っていた体勢を戻した。
 丸太の椅子には背凭れがないので、あと少しで仰向けに倒れるところだった。
 それをぐぐっと、腹に力を込めることで防いで、筋肉自慢の太刀は口角を持ち上げた。
「なにを言い出すかと思えば、そのような」
「笑い話をしたつもりはないです」
 不敵な表情に、ついムッとなった。呵々と喉を震わせる男を睨みつけて、小夜左文字は拳を固くした。
 短刀が求めるのは、救いではなく、討ち取るべき仇だ。それと同時に、山賊の掌中にあった頃に犯した罪を悔いている。
 無辜の民を傷つけ、欲望のままに行動する賊を止められなかった。それでいながら、刀として世に産み出された性なのか、肉を斬り裂き、温かな鮮血を浴びることに微かな喜びさえ感じていた。
 これを穢らわしいと言わずして、なんと言う。
「そう怒るでない。怒りが大きく育てば育つほど、内側に澱が積もり、重なり、その身までもが重くなろうぞ」
「…………」
 両手で頭上を抱える仕草を取ったかと思えば、右親指を己の胸に突き立て、山伏国広が言った。
 口調は穏やかで、説教臭さは感じない。それでいて言葉ひとつひとつに熱が籠められている辺りは、江雪左文字と随分違っていた。
 淡々と語るのではなく、抑揚があった。時に静かに、時に大袈裟なくらいに声を大きくして、身振りも随分派手だった。
 数珠丸恒次も滾々と語り聞かせてくる上に、無駄に話が長かった。彼の法話は眠くてならず、最後まで舟を漕がずに済んだ例はなかった。
 その点、山伏国広は雰囲気からしてまるで異なる。
 小夜左文字が抱える黒い澱みを指摘して、彼は親指を畳み、人差し指を小夜左文字に向けた。
「それに、おぬしはすでに、己の罪を認めておろう。立ち止まっておる。ならば、仏の道は開かれておるも同然」
「央掘摩羅、ですか」
「カッカッカ。話が早くて、結構結構」
 それは仏弟子のひとりであり、かつては婆羅門だった男の名だ。師に騙され、罪なき人々を殺害し、仏陀に諭され、心を改めて出家した男だ。
 たとえ悪事から手を引いたとしても、過去の罪は消えない。殺してしまった人々の家族や、友人らに石を投げられ、傷つけられても、決して自らはやり返さず、黙って痛みに耐えた男でもある。
 彼は小夜左文字を、苦行僧だと言いたいらしい。
 困難に立ち向かい、これを乗り越えようとしている。それはもう、仏道の入り口に立っているのと同じである、と。
 話が飛躍し過ぎていて、反論する気にもなれなかった。
 山伏国広のようにはできなくて、短刀の付喪神は一度だけ、頬をピクリと引き攣らせた。
 不格好な笑みが、泣き出しそうに歪んだ。鼻の奥が一瞬だけツンとなって、吸い込んだ空気が苦くて仕方がなかった。
 言葉が続かなくて、息継ぎが荒くなった。醜悪がものが溢れ出る予感がして、必死に歯を食い縛って耐えた。
 肩を上下させ、足を肩幅に開いて力を込める。
 踏ん張って立つ短刀に相好を崩して、山伏国広は膝先に置いた角材を撫でた。
「おぬしには、どんな仏が現れるであろうな」
「あらわれる」
「うむ」
 雑な下書きは、彼の手によるものだろう。それを確かめながらの独白に、小夜左文字は眉を顰めた。
 意味が分からなくてきょとんとしていたら、太刀は大きく頷いた。己の発言に絶対の自信を誇って、怪訝にしている短刀を手招いた。
 妙な言い回しだった。ここにある仏像は、どれも彼が彫ったもの。ならばこの場合、どんな仏に『なる』か、と言うべきだった。
 ところが山伏国広は、『現れる』と表現した。
「この木には、すでに仏が宿っておられる」
「気は確かですか」
「カッカッカ。冗談を言っているつもりは、ないぞ?」
 豪快に笑い、右目だけを眇めて短刀を射抜く。
 太刀の不遜な言い回しに怯んで、小夜左文字は渋い顔になった。
 先ほどの台詞を揶揄されて、あまり良い気はしなかった。苦々しい面持ちで舌打ちして、彼は愛おしげに角材を撫でる男に視線を戻した。
「仏は、あらゆる場所に宿っておられる。拙僧はそれを、皆に見える形に整えているだけであるぞ」
「それは、あなたが彫ったものでしょう」
「否。鑿を取ることのみが、拙僧の仕事」
「同じことでは」
「否」
 繰り返し問うても、山伏国広は違う、と首を横に振った。実際に鑿と槌を手にしていながら、己が彫ったのではなく、最初からこの木に宿る仏が現れただけと言って譲らなかった。
 すでにあるものを、より分かり易くしている。
 現れたがっている仏を、外に連れ出している。
 少しずつ角を削り、整えながら、太刀は持論を展開させた。短刀の反論には耳を貸さず、一心に手を動かした。
 途中からは合いの手も返さなくなり、視線は目の前に固定された。小夜左文字の存在などなかったかのように振る舞って、額に汗を流し、角材を人に似た姿に変えて行った。
 次にどこを彫るのか、迷いがなかった。
 全ての工程が頭の中で組み上がっているようで、怖ろしい正確さだった。
 或いはそれも、仏の加護と言うつもりなのか。
 鑿を打つ音ばかりが響く中で、僧形にて顕現した短刀は感嘆の息を漏らした。
 まだまだ完成には程遠いが、眺めているうちに全容が見えてきた。どこが手になり、顔になり、耳になり、鼻になるのか、想像がついた。
 ただの四角い塊だったのに、あっという間だった。これなら完成した姿がどんな風になるか、ある程度予想が可能だった。
「すでに、宿っている」
 仏も、仏の教えも、日常のあちこちに潜んでいた。
 けれど多くの者は、目に映らないそれに心傾けることがない。通り過ぎ、振り向かず、踏みつけて、心に思い浮かべようともしなかった。
 だが山伏国広には、それが見えている。
 小夜左文字がただの木と思っているものに、彼は仏性を見い出していた。
 一度削ってしまったら戻せないというのに、躊躇無く鑿を振るっていた。力強く、時に割れ物を扱うかのように丁寧に、ひたすら汗を流し、無駄口を叩かなかった。
 その真摯さが、山伏国広という刀を表している。
 熱の籠もった息を吐く彼に圧倒されて、黙って見ているしか出来なかった。
 振り向けば、手付かずの材木がそこかしこに転がっていた。
 陽のあたる一帯から外れ、打ち捨てられているそのひとつを拾って、小夜左文字はあらゆる角度からそれを眺めた。
「なにゆえに、それを手に取ったであるか」
「えっ」
 そこへ突然、声がかかった。
 不意打ちにビクッとなり、首を竦めた。恐々振り返れば手を止めた太刀がにこやかに微笑み、萎縮している少年の胸元を指し示した。
 木片はほかにもいくつかあった。似たような形、似たような色をしているそれらの中で、どうしてそのひとつを選んだのかと訊ねられた。
 深い考えはなかった。
 たまたま目について、たまたま手に取り易いところにあった。それだけで、それ以外なにもない。
 にも拘らず、他に理由があると言われた。それが知りたくて、短刀は両手に抱いた角材をじっと見つめた。
 一辺が二寸ほど、長さがその倍近くある立方体だ。皮を剥き、適当な大きさに揃えられ、木目が表面に現れていた。
 撫でると、ざらざらした。棘が出ており、刺さりそうになって慌てて避けた。
「外にあった焚き木も、おぬしのものであるな」
「はい」
「なにゆえ、あれらを籠に?」
「それは、火起こしに……ああ、いえ」
 ぼうっとしていたら、話題が変わった。急ぎ顔を向けて、首肯して、言いかけて途中で口籠もった。
 問われているのは、使い道ではない。背負い籠に集めた焚き木を選んだ理由だ。
 緑あふれる山の中だ、枯れ枝はいくらでも見つかった。その中でどうして持ち帰る分と、捨て置く分を選別したのかと、そう質問されているのだ。
 明確な基準などない。単に目についたから、手を伸ばした。適度に乾燥し、適度な長さがあって、贅沢を言えば燃やした時にあまり脂が出ないものを好んだ。
 いいや、小夜左文字が選んだのではない。
 地に落ちた木々が、小夜左文字を選んだのだ。
「仏は、常に拙僧たちに寄り添っておられる。拙僧らを見ておられる。ならばこちらも、見つめ返すしかあるまい」
 彫像は、自らの心の写し鏡でもある。苛立っている時は、仏の顔も恐ろしくなる。そのような感情を抱くべきではないと、叱りつけてくる。
 逆に悲しみに胸を満たしている時は、仏の顔も涙に濡れているようになる。こちらの心に寄り添って、共に哀しみ、慰めてくれる。
 では小夜左文字が手に取ったこの一片には、どのような仏が宿っているのか。
「僕にも、現れてくれますか」
「カッカッカ。それは、おぬし次第であるな」
 見ようとしなければ見えず、見たいと願っても易々とは現れてくれない。
 だから山伏国広は山に籠もり、自らを見詰め、問い続けている。飽きることなく修行に明け暮れ、自分だけの答えを模索し続けている。
 壁を埋める仏の像は、彼の歩みのひとつであるが、全てではない。
 不安げな問いかけを一蹴して、鑿を置いた男が笑った。保証は出来ない。挑むも、逃げるも好きにするよう言って。彼は大量の削り滓を払い落とした。
 央掘摩羅は罪を悔いたが、許しは請わなかった。周囲が彼を許すまで、ひたすら耐え忍び、待ち続けた。
 小夜左文字は今も、山賊を許すことができない。血に染まった己自身を、許すことができない。
 黒い澱みが、足元に広がっていた。そこに救いはない。あるのはただ、昏くて冷たい水の底。
 だがそれでも、現れてくれるだろうか。
 現れたがってくれるのだろうか。
「お邪魔しました」
「うむ。気を付けて帰られよ」
 山伏国広は、もうしばらくここで鑿を手に、仏像と向き合い続けるつもりらしい。
 頭を下げれば、顔を上げずに言われた。手を振ってももらえなかったが、小夜左文字は気に留めなかった。
 外に出て、焚き木でいっぱいの籠に譲り受けた木片を置いた。折り重なる枝を撓ませ、ゆっくり沈んでいくそれをしばらくじっと眺めて、背負い紐に腕を通した。
「よい、しょ」
 擦り切れた肩の痛みは、もう感じなかった。
 不思議と晴れやかな気持ちになって、彼は調子よく山道を下り始めた。

これはやさ年積るまで樵りつめし 法にあふこの薪なりける
山家集 雑 884

2017/04/23 脱稿

惜しき心を何にたとへん

 しとしと降る雨は、陽が暮れた後も本丸の周囲に居座り、立ち去る気配は感じられなかった。
 屋根を打つ音は間断なく続き、一定の拍動を刻んだかと思えば、風が吹いたのか横やりが入って、急速に乱れた。
 これでは鼓を合わせるのは難しく、舞の相手は務まらない。これで舞台に立とうものなら、なんと下手糞なのか、と酒杯を投げつけられかねなかった。
 雨音を背景に踊るのは風雅なようで、なかなかの難易度だ。
 自分に出来るかどうかを考えて、小夜左文字は寝床の中で首を振った。
「花はもう、終わりだね」
 瞼を開けても、見えるのは一面の闇。
 いつも以上に闇が濃く感じられるのは、障子の向こうで雨が降り続けているからだ。
 空は雨雲の支配下にあり、月も星も遠い彼方。地表を照らすのは常夜灯の細い光のみで、風が吹けば瞬く間に消える儚さだった。
 今日は夕方を待たずして、厚い雲が上空を覆った。洗濯物の回収は間に合ったが、僅かに花を残す桜に笠を被せるのは叶わなかった。
 染井吉野の後は遅咲きの八重桜が目を楽しませてくれていたが、それももう終わりだ。
 冷たい雨に打たれて散っていく花弁はなんとも憐れで、惜しくてならなかった。
 天候さえ良かったなら、あと二日か三日は、楽しめただろうに。
 屋敷に住まう刀剣男士の多くも急な天気の変わりようにため息を零し、残念がっていた。
 毎夜のように繰り返されていた花見の宴も、ついに終わりを迎える。これで酒飲みたちに絡まれずに済むと、ホッとしていたのは料理上手の刀たちだ。
 各々の立場や性格で、花の終わりについても考え方は違った。名残惜しむ刀もあれば、清々したと笑う刀もいた。散り際が哀しいから桜は嫌いだ、という刀も中にはいて、驚きだった。
 新たな仲間を複数迎え、三度目の春がやってきた。
 もうそんなにもなるのか、と愕然とした。反面、まだそれだけなのかとも思って、妙に胸の奥がむずむずした。
「季節の移ろいなど、気にしたこと、なかったのに」
 トン、トトン、タン、と軽やかに踊る雨音は止まず、眠れずにいる短刀の耳を楽しませた。
 薄い枕に左頬を埋めて、彼は肩まで被った布団ごと、軽く身を捩った。
 緩く曲げていた膝を投げだし、背筋を反らした。ぐ~っと伸びている間は息を止め、胎児の形に戻った後、時間をかけて吐き出した。
 何度か瞬きを繰り返し、暗闇の中に浮かぶ微かな影を目で追いかける。動くものはなく、雨音以外は静かだった。
 両隣の部屋を使っている短刀は、夜間は仲間のところへいく。今剣も、愛染国俊も、同派の刀の部屋が寝室だった。
 大勢で大部屋を使っている粟田口も、随分前から静かだ。耳を澄ませてみるが、話し声ひとつ聞こえない。少し前まで騒いでいたが、長兄が様子を見に来た後は、大人しく眠ったようだ。
 中庭を挟んで向かいにある打刀部屋からも、物音はしなかった。
 六十振りを越える刀がいる中で、眠っていないのは自分だけではないか。
 そんな気分になって、小夜左文字は四肢の力を抜いた。
「寝よう」
 近侍が寝ずの番を務めているのだから、この妄想はあり得ない。
 役目を与えられてもないのに、睡眠時間を削って疲労を翌日に持ち越すのは愚の骨頂だ。言い聞かせ、彼は冴えている頭を休めようとした。
 この地に顕現したばかりの頃は、桜を愛でようとも思わなかった。そこに美を見い出すことが出来ず、連日連夜、はしゃぎ回る刀たちが理解できなかった。
 だが今は、桜流しの雨が少し憎らしい。
「どうかしている」
 時期が来れば花は咲き、散る。次の年も、そのまた次の年も。
 自然の摂理なのだから当然で、不思議でもなんでもない。そうなるよう仕向けられた花を見上げ、あれやこれやと騒ぎ立てる方が、ずっと意味不明だった。
 それがいつしか、変わっていた。
 馬鹿騒ぎに興じる刀たちを、怪訝に見つめることもなくなった。
 この変化を、上手く受け止めきれない。自分の中でどう消化していけばいいか分からず、戸惑うばかりだった。
 そこに加えて雨音が重なり、なかなか眠れない。
 心がかき乱されて、落ち着かなかった。
「……眠らないと、いけないのに」
 明日は出陣を言い渡されている。中途半端な体調で出向けるほど、江戸城下に潜む敵は甘くなかった。
 共に戦う仲間に迷惑をかけないよう、万全で挑まなければいけない。だがそうやって自分を追い込めば追い込むほど、睡魔は遠ざかっていくようだった。
 眠りに集中したいのに、目を閉じれば余計なことばかり考えてしまう。
 止まない雨に嘲笑われている気分で、反発心は膨らむ一方だった。
「夜もすがら 涙も雨も ふりにけり 多くの夢の 昔語りに」
 気持ちを切り替えようと、掠れる小声で囁く。
 喉の奥から細く息を吐き出して、屋根打つ音に調子を合わせた。
 その数を数え、呼吸を鎮めた。
 酷く不安定に感じられたものを、穏やかな音色だと誤認識させて、苛立つ必要はないと自身を説き伏せた。
 目を閉じ、薄い布団に身を預ける。
 次の瞬間、違和感を覚えた彼はガバッと身体を起こした。
「あ、れ」
 途切れた意識が絡みあい、なかなか一本に繋がらなかった。記憶にあるより暗さが抜けた外に目を瞬いて、小夜左文字は惚けた顔で凍り付いた。
 いつ眠ったのか、まるで覚えがない。
 気が付けば数刻が過ぎていたようで、障子の向こうは僅かに白み始めていた。
 季節が巡り、日の出は徐々に早まっている。一番鶏が鳴いたかどうかを気にして、彼は寝癖が酷い頭を掻き混ぜた。
 あの後すぐ、眠れたようだ。怠さは感じず、身体は軽かった。
「まだ早いというのに」
 夜明けが近いとはいえ、早朝も良いところ。
 きっと朝餉当番も、まだ布団の中で寝返りを打っているはずだ。
 程よく眠れたのは嬉しいが、早く起き過ぎた。そんなつもりは毛頭なかったので、今一度眠るかどうか、数秒迷って欠伸を噛み殺した。
「ふあ、ん」
 口から息を吸い、鼻から吐く。
 あまり乱れていない寝間着の衿を整えて、短刀の付喪神は目の下を擦った。
 眠っていた時間は短いが、その分深かったらしい。睡魔はさほど残っておらず、布団でごろごろ過ごしたい欲も起こらなかった。
「どうしよう」
 そもそも何故、こんな変な時間に目が覚めたのか。
 髪を結う紐を探して枕元に手を伸ばし、彼は障子の向こうに目を眇めた。
 早起きの誰かが騒いでいる、というわけではなさそうだ。爺を自称する三日月宗近が、早朝の散歩で中庭を通った、というのも違う。
 石切丸が朝の行水に向かう道中、足を滑らせて転んだ、とは思えない。夜のうちに厠に出た兄が戻らないのを心配した膝丸が、あちこちを探し回っている風でもなかった。
 これまで実際にあった出来事を順に振り返り、短刀は起き上がった。布団に膝を折って座り直し、鏡も見ずに、手櫛だけで髪を結った。
 肩より長い毛束をひとまとめにして、根本に紐を三重にも、四重にも巻きつけ、輪を作る。
「よし」
 右側を無駄に大きく仕上げて、彼は何気なく天井を見た。
「そうか」
 寝入り端にあったのに、今は感じられないものがある。
 それが違和感の正体だと気が付いて、小夜左文字は右手を支えに立ち上がった。
 前傾姿勢から背筋を伸ばし、視線を高くすると同時に足を踏み出した。たった数歩で端まで行ける狭い部屋を横断して、中庭に面する障子を勢いよく右に滑らせた。
 本丸の建物は大きくふたつに分かれており、南側が公的設備を備えた母屋、北側が刀剣男士の私室が集う居住区になっていた。
 つい最近、一部が二階建てになった建物は複数の庭を持ち、どの部屋にも明かりが入るよう設計されていた。小夜左文字が暮らす短刀区画もそうで、中庭を挟んだ向かい側が打刀区画だった。
 見た限り、そちらになんら動きはない。
 変わったのは、空だ。
「止んでる」
 あれだけ遅くまで降り続いていた雨が、今は跡形もなかった。
 地面は濡れており、あちこちに水たまりが出来ていた。しかし空中を踊る雨粒は姿を消して、仄かに匂いを残すのみだった。
 吸い込んだ空気は湿気を含み、ねっとりと粘つくようだ。全体的に重く感じられて、まとわりついてくる感覚が不快だ。
 色も形もないものに目を凝らし、張り付いてくる生温かさに身震いする。ゾワッと来た悪寒に耐えて頭を振り、彼は灰色に濁る天を仰いだ。
 雨が止んだとはいえ、すぐに晴れ渡るわけではない。地上同様、上空も風が弱いらしく、雲を追い払うには時間がかかりそうだった。
 軒先の雫が大きく育ち、耐えきれずに地面に落ちた。
 音もなく砕け散ったそれに目を眇めて、小夜左文字は薄布一枚で出て来た自分を思い出した。
「暖かい、ような。寒いような」
 全身を覆う空気は生暖かいが、それが上着代わりになるわけではない。肌に吸い付いた水分が蒸発する際、体温を奪っているようで、最初は良かったが、段々肌寒くなってきた。
 胸の前で腕を交差させ、上腕を撫でて温めるが間に合わない。
 足踏みも追加して身を捩って、短刀は部屋に戻ろうと踵を返した。
 しかし、振り向く瞬間に見えた景色に目を奪われ、半回転で良かったのが、一回転になった。
 その場で三百六十度回って、小夜左文字は中庭に根を下ろす木に焦点を定めた。
 それは何の変哲もない、特に面白みもない楓だった。一本だけで枝を伸ばしており、仲間はおらず、孤独だった。
 中庭という場所柄、あまり沢山植物を植えられないのだ。大きく育ちすぎると日差しを遮り、各部屋に行くはずの光を奪ってしまう。かといって何も植えないと味気なく、寂しかった。
 そういう事情で、一本だけ楓が育っていた。この場所に本丸が設けられてから植樹されたので、幹はまだ細く、枝振りも大人しかった。
 それでも健気に、すくすく育っていた。秋になれば葉は一斉に赤く染まり、部屋に居ながら紅葉狩りが楽しめた。
 そして冬の間は葉が落ちて、素っ裸同然の寒々しさだった。
 それが知らぬ間に、薄緑色の葉を沢山茂らせていた。
 しかもどの葉も、先端が幾分丸まっている。まるで綻んだ蕾で、色こそ違えど、花が咲いているようだった。
「気が付かなかった」
 この季節は誰もが浮き足立ち、やれ梅だ、桜だ、と大騒ぎ。
 注目を集めるのも自然とこの二種類に絞られて、小夜左文字もそちらにばかり目が向いていた。
 初めての春は、あまり関心を示さなかった。だが周りが許してくれず、花見団子につられて樹下で過ごす時間を持った。
 二度目の春は、一年前よりも仲間が増えた分、賑やかだった。飲めや歌えの大騒ぎで、料理を運ぶのを手伝っているうちに、頻繁に酒杯に巻き込まれた。
 三度目のこの春、喧しいだけの宴会からは距離を置いた。花そのものを楽しみたくて、敢えて庭を避け、山桜を巡って過ごした。
 傍らにはいつも、同じ刀がいた。
 歌比べは、今年も引き分けに終わった。そもそも優劣を決めてくれる刀がいないので、争うというよりは、気ままに詠みあっているだけなのだが。
 振り返れば、随分な変化だ。それを普段は意識せず、受け流して来たのも驚きだった。
 青紅葉は露に濡れ、淡く輝いていた。他に類を見ない特異な形状の先端から、大粒の雫を滴らせていた。
 思えばこの木も、なかなか可哀想だ。
 季節によって様々な姿を見せてくれるのに、人の目を集めるのは決まって秋に限られる。それも赤く色づいた時だけで、散り切ってしまった後は見向きもされなかった。
 桜も似たようなものだが、気分が違う。
 これから暖かさを増していくのと、寒さが険しくなっていくのとでは、見る側の感じ方に相当な差があった。
「きれいだ」
 朝日はまだ昇り切らず、空は白んでいるものの、明るいとは言い難い。
 太陽は雲に隠れて見えず、辺りを照らす光はぼやけていた。
 それでも、楓の葉は懸命に背伸びをしていた。限りある光を集めようと、雨露の中で気勢を吐いていた。
 細い枝に密集して、隙間は殆どない。色は小夜左文字の記憶にあるものより淡く、厚みもさほどではなかった。
 枝や幹自体が細いのもあって、どことなく頼りなく見えるのは、気のせいだろうか。
 風が吹けば簡単に折れそうな姿に、短刀は一抹の不安を覚えた。
「しっかり育っているとは思うけど」
 二年前は、もっと貧相だった。
 それを思えば、順調に枝を伸ばしている。だが母屋の南に広がる庭には、これの数倍太い楓が、多数植えられていた。
 あれらと比較すると、やはり少々心許ない。
 肥料を追加してやるべきか悩んで、彼は庭造りを得意とする兄の顔を思い浮かべた。
「江雪兄様に、相談してみよう」
 食事の後、出陣までには少し時間がある。その間に捕まえて、質問すればいい。
 江雪左文字なら、きっと真摯に耳を傾けてくれるだろう。そして事態を良い方向に導いてくれるはずだ。
 戦嫌いの太刀が、最初は少し苦手だった。復讐に溺れる自分を、あちらがどう見ているかが気になって、こんな短刀が弟では嫌だろうと、勝手に決めつけ、距離を置いた。
 それが今では、席を隣にして食事をするまでになった。
 食事中は無駄口を叩かない方針なので、会話はないけれど、肩を並べられるだけで充分だった。
「ほかの木は、どうだろう」
 ざっと今日までの日々を振り返れば、思い出すことは多かった。
 今年に入ってからもなにかと慌ただしく、庭の景色をじっくり眺める機会は少なかった。毎日前を通っているのに、中庭の楓の変化に気付かなかったくらいだから、相当視野が狭くなっていた。
 やれ出陣だ、やれ遠征だと、毎日どこかに出かけている気がする。
 改めて薄日に照らされた庭を眺めて、小夜左文字は何気なく右に一歩を踏み出した。
 屋根瓦を伝い、大きな雫が落ちて来た。軒下に浅く掘られた水路に落ちて、底に集まっていた枯れ葉の山に呑み込まれて行った。
 近いうちに掃除をしないと、詰まってしまい、水の流れが悪くなる。畑にばかり気を取られて、自分たちの足元が疎かになっていると知り、短刀は頭を垂れて反省した。
 誰かがやってくれるのを期待していたら、いつまで経っても誰も手を付けない。
「出陣が早く片付いたら、掃除しよう」
 そう簡単に事が運ばないのは分かっているが、今日の予定に組み込んだ。なるべく怪我をしないよう気を付けることにして、彼は丹田の辺りを撫でた。
 気合いを入れ直し、若葉が瑞々しい光景に見入る。
 角度が変わるだけで、同じ庭がまるで別物だ。部屋の前では見えなかったものが目に入って、短刀の少年は濡れ縁の端までにじり出た。
 若い紅葉が、懸命に枝を伸ばしていた。
 一方向からでは頼りなく映ったのに、横からだと立派に成長しているのが分かる。幹に厚みが出て、根は力強く大地に食らいついていた。
 雲の隙間から光が零れ、天女が羽衣を翻したかのようだ。
 きらきらと輝くその中で、露に濡れる青紅葉が凛々しく背筋を伸ばしている。
 つられて衿を正して、小夜左文字は深く息を吐いた。
「おや?」
「あ」
 胸に手を添えて深呼吸して、朝の一瞬の奇跡を瞼に焼き付けていた。
 そこに不意打ちで声が響いて、彼は瞬時に振り返った。
「ああ、なんだ。お小夜か。どうしたんだい、こんな早くに」
「歌仙」
 廊下の窓から顔を出していたのは、昔からよく知る打刀だった。さほど大きくない明かり取り窓から首を伸ばして、歌仙兼定は朗らかに笑った。
 藤色の髪を後ろに梳き流し、落ちて来ないよう赤い紐で結んでいた。白の胴衣に紅白の襷を結んで、どうやら朝餉の支度に向かう途中らしかった。
 思わぬ相手と遭遇して、内心驚いた。だがそれを一切表に出さず、淡々と対応して、小夜左文字は直後に消えた姿を壁越しに追いかけた。
 程なくして、濡れ縁に続く木戸が開いた。
 案の定満開の笑顔が現れて、短刀は小さく肩を竦めた。
 歌仙兼定の尻に、ぶんぶん揺れる尻尾が見えた。大型犬に懐かれた気分で苦笑を漏らし、足早に近付いて来た昔馴染みに頬を緩めた。
「いいんですか?」
「少しくらい、構わないさ。それよりお小夜、珍しい。なにを見ていたんだい?」
 寄り道をしている暇はあるのか問うて、無責任とも取れる返答に目を眇める。そのまま視線を反対側に移した彼に、打刀は背筋を伸ばした。
 短刀の視界を再現しようとして、高い位置から中庭に望んだ。特にこれといった特徴のない、普段と変わらない景色に眉を顰め、不思議そうに半眼した。
 これが、正しい反応だろう。
 小夜左文字がふとした変化を感じたのは、偶然だ。
 いくら風流を好む刀とはいえ、毎日何気なく眺めるだけの庭の、ごく僅かな違いを見分けるのは、難しかろう。
「……ああ」
「歌仙」
「そうか。紅葉が、葉を広げてきているね」
 ところが、予想は覆された。
 しばらく黙り込んだ後、歌仙兼定は感嘆の息を吐き、嫣然と微笑んだ。
 顎にやっていた指を外して、傍らに佇む短刀に目尻を下げる。うんうんと何度も頷いて、次第に明るさを増していく空と、悠然と枝を広げる紅葉の図に相好を崩した。
「分かるんですか?」
「お小夜が教えてくれなければ、見過ごしていたよ。ありがとう」
 ほかにも、冬場は白く掠れていた地表に、青々とした草が生い茂っていた。
 躑躅の葉は瑞々しさを増して、一晩降り続いた雨に感謝の歌を奏でていた。
 昨日となにも変わっていないのに、昨日とはまるで違う。植物の配置は一切弄られていないのに、彼らは日々移り変わり、新たな姿を見せてくれた。
 あそこで立ち止まらなければ、見逃すところだった。
「何気ない、ふとした瞬間に季節を感じるのが、風流というものさ」
 口癖のように語られる台詞に、偽りはなかった。
 まさか言葉を介さず、視線ひとつで伝わるとは予想していなかっただけに、小夜左文字は唖然と打刀を見上げた。
「なんだい、その顔は。失礼だね」
 目を真ん丸にしていたら、不愉快だと怒られた。
 ぷんすかと煙を噴いて、歌仙兼定はその場で地団太を踏んだ。
 身体に厚みがあり、重量があるだけに、響く足音は大きかった。そのうち濡れ縁を踏み抜くのでは、と懸念して、短刀は小さく頭を下げた。
「すみません、歌仙」
「まったく。お小夜なら、分かってくれると思ったんだが」
「僕は、季節の変化に気を向けられるほど、余裕があったわけではないので」
「なにを言っているんだ。今まさに、僕に教えてくれたじゃないか」
 非礼を詫びて、緩く首を振る。その流れで中庭に視線を戻した彼に、歌仙兼定は声を大きくした。
 まだ眠っている刀もいるのに、近所迷惑も良いところだ。ぎょっとした短刀は、すぐそこが誰の部屋だったかと考えて、直後に嗚呼、と胸を撫で下ろした。
 太鼓鐘貞宗は、過去に所縁を持つ刀たちの部屋を巡って、その寝床に忍び込んで朝を迎えるのが習慣だ。部屋でひとり眠るのは稀であり、今日もきっと不在にしている。
 そして不動行光は甘酒に酔い、昼近くにならないと起きて来ない。
 杞憂に終わったと安堵して、視界から外れた打刀を探し、目を泳がせる。
「歌仙?」
 今まで立っていた場所に、男はいなかった。
 歌仙兼定は共用の草履を引っ掻け、中庭に降りていた。雨ざらしでかなり傷んでいる鼻緒を指で挟んで、新緑が眩しい楓へと近づいた。
 五方向に尖る特徴的な形状の葉だが、多くはまだ開き切っていなかった。花の蕾のように、細くなった先端が一箇所に集まっていた。
 大事なものを、包み込んでいるようにも見えた。或いは寒く厳しかった冬への恨み言を、春の空へ解き放とうとしているのか。
 両極端な想像をして、小夜左文字は覚悟を決めてぬかるんだ地面に飛び降りた。
 草履は一足しかなく、短刀の分はない。泥に汚れるのを嫌って躊躇していたが、開く一方の距離に焦って、思い切った。
「うわ」
「やれやれ。泥だらけじゃないか」
 だが、濡れた青草は想定外に滑り易かった。
 つるんと行って、尻餅を着いた。雨を含んで柔らかくなった地面が短刀を出迎えて、飛び散った泥水が白い寝間着に染みを作った。
 悲鳴を受けて振り返った打刀が、一瞬でみすぼらしくなった小夜左文字を呵々と笑った。起き上がる手助けはせず、そのまま楓に腕を伸ばし、ほんのり湿っている幹に掌を添えた。
「おっと。冷たい」
「歌仙も、滑って転べばいいんです」
「それは遠慮願うよ。着替えに戻らないといけなくなる」
 その途中で袖に枝が引っかかり、青葉に残る水滴が零れた。
 全く無関係の枝からも雫が落ちて、頭の天辺に浴びた男は思わぬ攻撃に目を細めた。
 攻撃的な嫌味を易々と受け流し、衣が汚れていないか素早く確認する。一方で小夜左文字は自力で立ちあがり、下穿きにまで染み込んだ泥水に苦虫を噛み潰したような顔をした。
「つめたい……」
「着替えさせてあげようか?」
「遠慮します」
 湯屋は一日中解放されているので、朝餉前にひと風呂浴びて来よう。
 打刀と違って食事当番には命じられていないので、時間的に余裕はある。身を清め、さっぱりしてから出陣するのも、悪くなかった。
 なにやら裏がありそうな誘いをすげなくあしらって、小夜左文字は汚れたまま足を進めた。歌仙兼定の綺麗な袴に手形を付けたい気持ちを堪え、その左隣に並んだ。
「立派に育ったものだ」
「最初は、ひょろひょろでした」
「ああ、良く覚えている」
 打刀に触れたい気持ちを堪え、両手を背中で結んだ。泥で黒く染まった指先を絡めて、背筋を反らし、胸を張った。
 歌仙兼定は成長途上の楓を見上げるばかりで、短刀に目もくれない。落ちて来た露を掌で受け止めて、嬉しそうに破顔一笑した。
 本丸は仲間が増える度に増改築を繰り返し、元の姿を留める場所は少ない。だがこの楓は、早いうちからこの場所にあった。
 最初に顕現した歌仙兼定や、その次に喚ばれた小夜左文字に並ぶくらい、本丸の古株だ。様々な騒動や、事件や、数えきれない出来事を記憶する、彼らの仲間だった。
「お小夜も、これくらい順調に育ってくれればいいんだけれど」
「歌仙は、最初に比べて少し太りました?」
「失敬な。筋肉量が増えた、と言ってくれないか」
 痩せた子供の姿をとる短刀は、どれだけ食べても太らない。打刀も同様で、この二年で外見に変化はなかった。
 刀剣男士は刀の付喪神であり、現身はその刀が辿った歴史や、かつての持ち主の性格、思考などが強く反映されている。要は彼らの根源ともいうべきものであり、たかが数年で変わってしまうほど、軽いものではなかった。
 だが内面に関しては、いくらか変化があったのは否めない。
 僅かずつでも、着実に太さを増していく木の幹を小突いて、歌仙兼定は失礼千万な短刀に肩を竦めた。
「僕らは、歳月を経るほどに擦り減っていく刀だけれど」
「はい」
「研がれ、磨かれ、薄く、短くなっていく分、増えていくものもあると思うんだ」
 一瞬だけ小夜左文字を見て、すぐに視線を正面へ戻す。
 彼は若々しい色を放つ青葉を抓み、匂いでも嗅ぐつもりか、顔の前へと枝を寄せた。
 そこに居座っていた雨粒をわっと集め、地面へ落とし、爪先が濡れるのも厭わなかった。
「……ありますか?」
「あるさ」
 雨上がりの土が放つ、泥臭さが鼻腔を刺す。
 食欲をそそるとは、お世辞にも言い難い香りを意識から切り離して、小夜左文字は即答した打刀に目を眇めた。
 刀は、刀工が打ち、研ぎ師が磨き終えた時が最高点だ。使えば使うほど切れ味は鈍り、研げばその分薄くなる。
 年輪を重ねる樹木とは、正反対。ところが歌仙兼定は、積み上がっていくものがある、と断言した。
 胡乱げな眼差しに微笑んで、彼は濡れた手で藍色の毛並みを撫でた。
「かせん」
 雑に結んだ髪を梳かれ、小夜左文字は瞳を浮かせた。高い位置にある男の顔を覗き込んで、存外優しい表情に眉を顰めた。
「記憶、記録。ものがたり」
 今は頼りなく見える若葉も、本格的な夏を迎える頃には色味を強め、厚みも増しているだろう。陽光をたっぷり浴びて雄々しく成長を遂げ、いずれは朱色に染まって、ひらひら踊りながら散っていく。
 だがそれは、決して終わりではない。
 次の春を迎えるための準備であり、一年分の成長の証しだった。
 散った葉には、意義がある。
 過ぎた時間には、意味がある。
 長く、しなやかな指が青葉を弾いた。しゃんとするよう促して、一年前よりは太くなっている枝の付け根を掻いた。
「お小夜はここに来て、どんな物語を歩いてきたんだい?」
 振り返り、男が言う。
 問われ、小夜左文字はハッとなった。
 雲の塊が割れて、隙間から青空が覗き始めていた。穢れを知らない無垢な光が無数に溢れて、夜の終わりを高らかに宣言した。
 餌を探しているのか、鳥の囀りが聞こえた。朝食前に軽く身体を動かそうと、早起きの刀が廊下を走る音がした。
 雨の匂いは色濃く残るのに、それはもう過去の話だ。だが喧しく屋根を打った雨の記憶は、いつまでも短刀の胸に留まった。
 それはこの先、引き潮のように遠ざかるだろう。けれどふとした瞬間に、波打ち際へと押し寄せてくる。
 そうやって、積もっていく。
 重なっていく。
 削り取られた以上のものが、増えていく。
 呪われた復讐譚もまた、小夜左文字の歴史だ。黒い澱みに囚われた、忌まわしき記憶もまた、彼の辿って来た物語の一部だった。
 そしてさらに、その上に。
「歌仙と、……だいたい、同じ、……です」
 惚けたまま打刀を見上げ、短刀は呟いた。
 次第に掠れる語尾に合わせて視線を逸らし、頼もしく成長している楓を仰いだ。
 真下から見上げれば、目に映る景色はまた違っていた。無作為に伸びていると思われた枝には、実際には一定の法則があり、下の枝に被らないよう広がっていた。
 若緑色の葉が頭上を覆い、大きな傘の下に入ったようだ。隙間から漏れ落ちる光は、ひとつひとつがキラキラして、宝石箱の中に飛び込んだ気分だった。
「おや。それはそれは、至極恐悦」
 言葉に窮した末の、場当たり的な回答だったのだが、打刀は素直に喜んだ。
 そんな訳がないと知りつつ、深くは追及せず、花が綻ぶ笑顔でクスクス声を漏らした。
 口元を手で覆い隠し、肩を揺らしながら優しい表情で見つめられた。それがどうにも居心地悪くて、小夜左文字はぶすっと頬を膨らませた。
「やっぱり、訂正します。歌仙とは全然違います」
 そっぽを向いたまま言い放ち、握っていた左右の手を広げた。そして爪先に残る乾きかけの泥ごと、笑い続ける生意気な男の背中に叩きつけた。
「いっ――!」
 べちん、とそれなりに痛い音がした。
 自身の身長より高い位置目掛け、渾身の力を込めた。前に踏み込む勢いを利用して、打刀の腰の窪みを突き飛ばした。
 茶色く染まっていた掌が、引き剥がした時には少々綺麗になっていた。
 その代わり、真っ白い胴衣に紅葉の手形が表れた。たたらを踏んだ男は一瞬で青くなり、行き場のない両手を蠢かせた。
「お小夜!」
 触れて確かめたいが、それで汚れが広がっては困る。
 咄嗟に後ろへ回ろうとした両手を引き留めて、歌仙兼定は腹から声を絞り出した。
 その気迫から逃げて、短刀はひょい、と水たまりを飛び越えた。十分な距離を取って首を竦め、小さく舌を出した。
「早くしないと、怒られますよ」
 泥まみれの足で濡れ縁に上がって、袖を抜いた寝間着で足の裏を拭う。
 素早い動きと、露わになった白く華奢な上半身に見惚れていた打刀は、告げられた台詞を三秒かけて理解した。
「しまった!」
 今日の彼は、料理当番だ。
 本丸全振り分の食事の用意は大変で、朝早くからてんやわんやの大騒ぎ。少しでも支度が遅れようものなら、仲間内から非難囂々だった。
 一日中針の筵に座らされ、ねちねち文句を言われるのは、誰だって嬉しくない。
 のんびり青紅葉を鑑賞している場合ではなかった。寄り道し過ぎたと悟って冷や汗を流して、歌仙兼定はくっきり残る背中の手形に臍を噛んだ。
「あとで、いいね。お小夜!」
「僕は出陣があるので、夜になります」
「ならば夜、僕の部屋だ。約束したからね!」
「あ、歌仙」
 怒り心頭で怒鳴って、人差し指を突き付ける。
 距離があるので余裕綽々と切り替えした短刀は、直後に踵を返した打刀に慌てて身を乗り出した。
 一方的に言うだけ言って、返事を聞かずに行ってしまった。荒々しい足取りで木戸を潜った背中は、あっという間に見えなくなった。
 約束、と言われても、小夜左文字はまだ承諾していない。
 これは反故にしても許されるか考えて、彼はしっとり湿っている下穿きを、寝間着の上から撫でた。
「歌仙、拗ねると面倒臭いから」
 あの男の欠点は、個人的な感情を戦場へ持ち込むことだ。
 相容れない仲間と出陣となった時は、こちらが不利になると分かっていても、連携を無視する。
 意に沿わない出来事があった時は、敵を斬り伏せて怒りを発散させる。
 どんな時でも冷静に対処という鉄則が、守れていない。激情に駆られて突進し、刀装兵すら置き去りにすることもあった。
 そんなところまで、前の主の気性を引き継がなくても良いだろうに。
「しょうがない歌仙」
 心底呆れて、苦笑する。
 風呂の準備を進めながら、彼は首を竦めた。自然とほころぶ頬を押さえて、脱いだ寝間着をくしゃくしゃに丸めた。
 白衣の上から直綴を羽織り、身なりを整え、目を閉じた。
 今日は、どんな物語が紡がれるのだろう。
 決して誰とも同じにならない巡り合わせに思いを馳せて、彼は一歩を踏み出した。

梢打つ雨にしをれて散る花の 惜しき心を何にたとへん
山家集 春 141

2017/04/16 脱稿

懸からんものか 花の薄雲

 ひらひらと、風もないのに視界が揺れた。
 それは決して、足元不如意でふらついたからではない。単に視界の中心を、ゆっくりとした速度で流れるものがあったためだ。
 上から下へ、左右に踊りながら。
 実に不安定で、だからこそ儚さを助長させる動きを見せて、桜の花びらが地面へと沈んで行った。
 最後まで見送って、小夜左文字は右足を引いた。草履の先端で地表を擦って、一瞬の夢を見せてくれた相手に敬意を表した。
 会釈するように小さく頭を下げて、すぐに背筋を伸ばした。ぐっと身体の中心に力を込めて、前方に広がる艶やかな景色に見入った。
 桜は今、盛りを迎えていた。
 庭に植えられた木々が一斉に花開き、四季の中でも際だって華やかな色彩を演出していた。枝垂れ桜の枝はどれも重そうで、先端が地面に敷かれた茣蓙に届きそうだった。
 あちこちから笑い声が響き、どこからともなく太鼓の音が聞こえてきた。下手な小唄が披露され、三味線は調子外れも良いところだった。
 そこかしこから酒だ、つまみだ、いや隠し芸だと、喧しいことこの上ない。
 耳を塞ぎたくなる一歩手前の喧騒は、当分終わりそうになかった。
「今年も、騒々しい」
 一番の感想を素直に吐露して、短刀の少年は肩を竦めた。鼻から吸った息を口から吐いて、乾いてかさついている唇を舐めた。
 今年もまた、この時期がやって来た。
 毎日のように宴が繰り広げられ、台所は朝早くから大忙し。昼も夜も関係ない呑兵衛たちに強請られて、調理当番は休む暇さえなかった。
 出陣している面々にも、悪いとは思わないのだろうか。
 どれだけ怒られても懲りない酒飲みらを頭から追い出して、小夜左文字は首を振った。
「僕には、関係ない」
 日本号や次郎太刀が中心となって席を設け、一日中庭先で花見大会。
 去年の夏以降、新たに加わった刀たちがそこに混じって、賑わいは少しも衰えなかった。
 小烏丸や大包平は美しく咲く桜に感嘆の息を漏らし、ソハヤノツルキは大はしゃぎ。大典太光世は最初こそ渋ったものの、過去に所縁を持つ短刀らに引っ張り出され、座椅子代わりを務めていた。
 万屋で購入した菓子や、酒の肴が所狭しと並べられ、巨大な酒樽が周囲を取り囲んでいた。熱燗用に火鉢が持ち込まれ、肌寒さに負けた者がこぞってそこに集まっていた。
 桜が咲いたとはいえ、朝晩の冷え込みはまだまだ厳しい。
 上着を羽織っている者も少なくなくて、小夜左文字もその一振りだった。
 もっとも彼がいるのは、饗宴催されている茣蓙の上ではない。
 騒ぎの中心からかなり離れた、庭の外れだった。
 綿入りの温かな褞袍を身に着け、裾からはみ出る脚は包帯で覆われていた。頬の傷には絆創膏が貼られて、両手の指は皸が治り切っていなかった。
 罅割れた関節部分から、真紅の肉がちらちら顔を出していた。
 毎晩しっかり軟膏を塗り込んでいたけれど、結局防げなかった。冬場恒例となった痛みを拳に閉じ込めて、彼は砂利を踏んで踵を返した。
 胸の奥に生じた不快感をその場に残し、苛立ちを吹く風に預けた。不意に叫びたくなる衝動は、散りゆく桜に託して、大股に賑わいの場を離れようとした。
「小夜君?」
 ところが、願いは叶わなかった。
 不意に呼び止められて、つんのめった。立ち止まろう、という意識と、このまま歩き続けようとする身体とが上手く噛みあわず、たたらを踏んでしまった。
 おっとっと、と転びそうになったのを耐えて、冷や汗を隠して振り返る。
 あちらも、まさか小夜左文字が倒れかけるとは思っていなかったようだ。
 前田藤四郎は中途半端なところで右手を泳がせ、若干申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
 近くには誰もおらず、彼ひとりだ。左手には茶が入っていると思しき土瓶をぶら下げて、重さの為に身体が斜めに傾いでいた。
「大丈夫ですか?」
「問題ありません」
 花見の席には、勿論短刀たちも参加している。但し酒を飲むのは、粟田口の長兄があまり良い顔をしないので、もっぱら菓子を頬張る役柄だった。
 花より団子、色気より食い気。
 なんとも分かりやすい傾向に呆れつつ、小夜左文字は素っ気なく答えた。
 心配してくれなくても、あの程度で転びはしない。
 ちょっと油断して驚いただけで、みっともなく恥を曝すつもりはなかった。
 不遜な態度で胸を張り、ホッと胸を撫で下ろした前田藤四郎を見詰め返す。呼び止めた理由を探って続きを待っていたら、粟田口の少年はきょとんとした後、首を右に傾けた。
「小夜君。お花見は、あっちですよ」
 彼が向かおうとしていたのは、桜の木から離れた場所。
 屋敷の裏手へ回ろうとしていたのだが、それが前田藤四郎には奇異に映ったらしかった。
 連日連夜繰り広げられる宴は、基本的に自由参加だ。いつ加わっても良いし、いつ場を離れても良い。だが小夜左文字は、これまで一度も輪に入ったことがなかった。
 そのことを忘れている少年に、少しいらっとした。
 当たり前に花見に加わると思われていた事実が気に入らず、押し付けがましい善意が鬱陶しかった。
 あちらからすれば、好意からの発言だ。
 けれど小夜左文字は、そんな言葉は欲しくなかった。
「知ってます」
 彼なりに気を遣い、誘ってくれたのだとは思う。心優しい短刀の親切心だというのも、理解出来た。
 しかし、要らぬお節介だった。
 冷たく吐き捨てて、小夜左文字は褞袍の袖を握りしめた。中に詰められた綿を潰して、右に払い除けた。
「え?」
「べつに、どうでもいいです」
 最初から花見に参加する気はなかった。たとえ誘われたとしても、混じりたくなかった。
 抑揚なく告げて、休めていた足を前に繰り出した。前田藤四郎は惚けた顔で瞬きを繰り返し、引き留めようか悩んで、右手で空を掻いた。
 再度呼び止めようとしたものの、何故か上手く言葉が出ない。
 口をパクパクさせる少年を一度だけ振り返って、小夜左文字は足取りを速めた。
 折角話しかけてくれたのに、愛想のない反応をしてしまった。
 その点については、心苦しさが否めない。けれど彼との付き合いは、もう二年を数えている。本丸に来て長いのだから、良い加減、こちらの性格を分かって欲しかった。
「……っ」
 前田藤四郎が、部屋の片隅で不貞腐れているような刀を見捨てられない性分なのは知っていた。
 今回も、その延長線上だ。すぐに蔵に引き籠もりたがる大典太光世を放っておけないのと同じで、賑わいに背を向ける短刀を捨て置けなかったのだろう。
 余計な御世話でしかないが、あの態度はいただけなかった。
 もう少し言葉が上手く扱えていたら、あんな風に寂しそうにさせずに済んだだろうに。
 巧く制御できない自分自身にも腹を立て、小夜左文字は空を蹴った。地面には小石が残され、空回りした少年を嘲笑った。
「死んでよ」
 勿論石に感情はないのだが、ともかくそう見えたのだ。
 抑えきれない激情に振り回されて、短刀は踵で小石を踏みにじった。
 この程度で砕けないのは承知の上で、地面へとめり込ませた。何度も踏んで、押し込んで、肩を上下させて息を整えた。
 少しはスッとしたが、依然心は晴れない。仲間に冷たく接した反省と、もっと気を遣って欲しいという希望がない交ぜになって、いつまでも留まり続けた。
 丁度そこに、後方からドッと笑い声が響いた。
 どこが発生源かは、今更考えるまでもない。ただこの位置からだとほぼ聞こえない喧騒が、この時だけ届いたのは気になった。
 いったいどんな話で盛り上がり、爆笑の渦が湧き起こったのか。
 現場にいなければ知り得ないと承知しながらも、気になって鼻の奥がむずむずした。
「別に。僕には、関係ない」
 きっと夕餉の席でも、多くの刀らが話題にするに違いない。けれど小夜左文字は話について行けず、蚊帳の外へ捨て置かれるのだ。
 切なさと、悔しさが芽生えて、頭がまとまらなかった。
 今から花見の席へ向かうのは負けた気がするし、なにより自分が許せない。
 結局は強がるしかなくて、復讐譚に彩られた短刀は大股で歩みを再開させた。
 但し、行く当てなどない。
「風が、気持ちいい」
 十歩と行かないうちに路頭に迷って、彼は天を仰いでぽつりと呟いた。
 賑わいの中心から距離を置き、且つ咲き誇る桜を堪能できる場所はないだろうか。
 山の辺まで行ければいいのだが、そちらは遠すぎる。山道を登ることになるので道具が必要だし、水や食料といった準備も不可欠だった。
 本丸に咲く桜は南に面した庭に集中しており、他はまばらだ。皆無ではないけれど、単独で咲くのと、密集して咲くのとでは、迫力が違った。
 それに枝垂れ桜以外で姿を見るのは、大体が八重桜だ。こちらは開花が少し遅くて、今の時分だとまだまだ蕾だった。
 選択肢は、あまりない。
 諦めて屋敷の私室に引き籠もろうかとも考えたが、それはそれで癪だった。
「ああ、そうだ」
 背高の木に登って、上から眺めるのも悪くない。
 ただ春になって、花だけでなく、虫の活動も活発化していた。毛虫も多く発生しており、それは桜の木も同じだった。
 暢気に花見を楽しんでいたら、上から毛虫が落ちて来た、という話は枚挙に暇がない。刺されると腫れて痛いので、小夜左文字としても遭遇は避けたかった。
 虫の攻撃を喰らわず、安全で、落ち着いて過ごせる場所。
 更なる難題で候補を絞って、少年は空色の瞳を彼方へ投げた。
「あ」
 瞬間、ぽん、と手を叩いていた。
 これらの条件に適う、ぴったりの場所があった。どうしてすぐに思いつかなかったのかと、自分の愚昧さを笑い飛ばして、彼は進路を変えて駆け出した。
 重かった足取りを軽くして、乾いた地面を蹴り飛ばした。跳ねるように裏庭を進んで、登り易いと評判の勝手口近くへ回り込んだ。
 調理や風呂の湯沸かしで使う薪は、台所の裏手にある軒下に積み上げられていた。
 竈で使うのは斧で割って細くしたものだが、そうなる前のものも大量に用意されている。崩れないよう形を整えられて、横から見ると綺麗な三角形だった。
 上を見れば、雨水を運ぶ樋が横一列に並んでいた。円筒状に焼いた瓦を半分に割ったもので、こちらもそれなりに頑丈だった。
「よし」
 簡単ではないけれど、そこまで難しくはない。
 行けそうだ、と判断して、小夜左文字は力強く頷いた。
 積み上げられた薪の高さと、軒に飛び移る角度を計算し、頭の中で数回試した。
 己の脚力を過信せず、けれど過小評価もしない。確実に成功するように、一番確率が高そうな解を導き出した。
 助走をつけるべく後退して、理想の展開を脳裏に思い描く。
 胸を張り、深呼吸して目を閉じた。精神統一を図り、覚悟を決めて目を見開いた。
「せやっ!」
 気合いを入れて吠え、全速力で駆けた。
 薪の山の手前で高く跳躍し、想定通りの位置に爪先を置いた。ぐっと腹に力を込めて身体を斜め上へと運び、二歩目を更に高くへと運んだ。
 奥歯を噛み締め、踏ん張った。軒先に衝突しない為には次で真上に跳ばねばならず、身体は目論見通り動いていた。
「く、っああ!」
 両腕を伸ばし、雨樋を掴んだ。滑りやすい瓦に爪を立てて、重力に引っ張られる体躯を強引に持ち上げた。
 膂力だけで体重を支え、右足を先に屋根へ登らせた。続けて左足も、と丹田に意識を集中させ、限界ぎりぎりの腕に全力を注ぎこんだ。
 しかし。
「ぶあっ」
 草履のままでは滑るというのを、すっかり失念していた。
 屋根を覆う瓦はつるつるしており、光を反射して美しく輝く。藁で編んだ草履では踏ん張りが利かず、やるなら素足になるべきだったのを、短刀はこの瞬間に思い出した。
 ずるり、と身体全体が後ろに傾いた。折角登ったのに落ちそうになって、小夜左文字は遥か下方にある地面に青くなった。
「くそ、んが!」
 しかも真下には、高く積まれた薪が山を成している。
 落下の衝撃だけならまだしも、薪が崩れたら、その重みにも耐えなければならない。奥深くに埋もれようものなら、自力での脱出が難しくなった。
 ここは屋敷の裏手の、更に奥だ。台所からさほど離れていないとはいえ、一日中日が当たらない場所に好んで来たがる刀は少ない。
 つまり最悪の場合、誰も助けに来てくれない。
 そんな悲惨な末路は、願い下げだ。刀は刀として、折れるとすれば戦場で散りたかった。
 鼻の穴を大きく膨らませて、小夜左文字は懸命に抗った。瓦と瓦の継ぎ目に指を掛け、這いつくばう形で屋根へとよじ登った。
 梯子を使えば良かったのに、手間を惜しんだばかりにこんなことになった。
 冬の間、雪下ろしの為に使われた便利な道具は、見晴らしの良い場所にまだ架けられたままだった。
 誰にも見つかりたくないからという理由で、そちらは避けた。今となっては後の祭りであるが、素直にあれを使っておけばよかったと、後悔が胸に渦巻いた。
「はあ、っ、は……ああ」
 変に意地を張ったばかりに、肝が冷えた。ようやく安全と思われる場所まで登り終えて、安堵から吸い込んだ空気はとても美味しかった。
 一瞬のうちに熱を持った身体を宥め、バクバク言う鼓動は深呼吸で鎮めた。唇を舐め、鼻の下を擦り、慎重に慎重を期して身体を起こした。
 黒と藍の中間色をした瓦は、所々で濡れていた。どこから飛んできたか分からない種子が芽吹き、緑がそこかしこで背を伸ばしていた。
 地上より、ほんの僅かだが風が強い。
 煽られた前髪を押さえつけて、小夜左文字は遥か遠くに広がる景色に見入った。
「広いな」
 屋敷の南には広大な庭が広がり、その先に急峻な山の峰が連なっていた。反対側に視線を転じれば、開拓が進む田畑の先に、果てがないように思える樹海が続いていた。
 西方に伸びる道の先には小高い丘があり、神社の横には鍛冶場があった。その手前にある黒い点は、大太刀の誰かだろう。
 東側には鍛練を積むための道場の屋根があり、その向こうは竹林だ。緑の中に半ば埋もれて見える茅葺きの建物は、審神者が暮らす離れだった。
 中庭の真ん中を縦断する渡り廊を、誰かが歩いていた。宴会の賑わいは大きくなったり、小さくなったり、途絶える気配はなかった。
 台所の真上にある煙出しを避け、一番高い場所まで進み、背筋を伸ばす。
 眼下に、遥か遠方でも、淡い紅色の群生が広がっていた。
「すごい」
 咲き誇る桜は、地面から見上げるのとは大きく異なる風情を醸し出していた。てんでバラバラに花を開いている風に思えたものが、上からだとひとつの塊と化し、大地を覆い尽くしていた。
 樹下で寛ぐ仲間たちの姿が、疎らにしか見えない。辛うじて見つけ出した宗三左文字の後ろ姿などは、桜の色と混ざり、ほぼ一体化していた。
 桜と見間違えた、と言ったら、兄はどんな顔をするだろう。
 こればかりは想像がつかなくて、三兄弟の末っ子は照れ臭そうにはにかんだ。
「登ったの、久しぶりだ」
 改めて視線を遠くへ投げ、言葉にならない眺望に感嘆の息を吐く。
 顕現したばかりの頃は本丸で暮らす刀も少なくて、台所仕事も今よりずっと楽だった。屋敷自体ももっと狭くて、こんなにもごちゃごちゃしていなかった。
 掃除する場所は限られており、時間的に余裕があった。だから暇を見つけては今剣らと屋根に上がり、山の向こうがどうなっているか、想像を語らいあった。
 仲間が増えるのはいいことなのに、どうしてだか、二年前の方が楽しかった気がする。
 こうしてひとり、ぽつんと佇んで桜を眺めている己を意識して、小夜左文字は浅く唇を噛んだ。
 仲が良かった短刀たちは、同派や兄弟刀が現れた途端、そちらに懐くようになった。ならば自分も、と試みたものの、宗三左文字は織田に所縁を持つ刀と居る方が楽なようだし、江雪左文字と一緒にいると、小夜左文字自身が落ち着かなかった。
 復讐を望む短刀と、争いを拒む太刀とで、なにを話せというのだろう。
「……構わない。僕は、ひとりであるべきだ」
 寂しさが広がって、胸の奥がちくちくした。
 けれども大勢の仲間らと談笑し、酒を酌み交わす自分が、どうやっても思い浮かばなかった。
 小夜左文字は、復讐の刀。仇討ちを成し遂げた、血と怨念に汚れた刃の持ち主だ。
 山賊の掌中にあった時には、数多の無辜の民を傷つけ、命を奪ってきた。男の欲望に抗えず、守り刀としての存在意義を自ら放棄した。
 今でも耳元で、怨嗟の声が響いた。痛い、哀しい、悔しい、恨めしいと、殺された人々が澱みの中から腕を伸ばしていた。
 それらが万が一にも兄弟や、仲間にまで影響を及ぼしたら、どうする。
 だから彼は、近付かない。宴会という晴れの舞台に、黒い澱みを抱え込む短刀は不釣り合いなのだ。
「うん?」
 決意を新たにし、遠い賑わいを足元に見た時だ。
 動くものなど何もない筈の場所で、ゴトン、となにかが蠢いた。
 太い角材が前後に跳ねて、何度も屋根にぶつかっていた。軒先に連なる雨樋を破壊しそうな雰囲気で、左右に泳ぐこともあれば、力いっぱい叩きつけられもした。
 黒く変色した材木の角が段差に引っかかり、ようやく止まる。
 何事かと怪訝に行く末を見守っていたら、しばらくして、またしても異なる色が現れた。
 屋根の縁に、有り得ない話だ。藤色の毛先が見えたかと思えば、続けて朱で目尻を彩った顔が出現し、太めの首から続く胴体が一気に押し寄せた。
「か、歌仙?」
「そこにいたんだね、お小夜」
 信じられない出来事に騒然となり、頭が混乱した。彼が出て来た場所は南の庭に面した場所であり、よじ登るのに適した柱は一本もなかった。
 ならばどうやって、と絶句していたら、余裕綽々とした顔で笑いかけられた。右手には少々深めの小鉢が握られ、中身を見せるようにしながら近付いて来た。
 足元は草履でなく、足首まで固定する草鞋だった。普段と異なる履き物に意識を取られて、小夜左文字は反応が一歩も、二歩も遅れてしまった。
「梯子、ですか?」
「まったく。探してしまったじゃないか」
 ようやく彼が屋根に至った手段を思いついたが、問いかけは無視された。白い胴衣の汚れを軽く払って、袴姿の打刀は団子入りの小鉢を短刀に突き付けた。
 灰色に覆い被さる白の釉薬が、まるで菓子のようだ。部分的にぷっくり膨らんだ形状がまた甘そうで、美味しそうだった。
 その影響を受け、中に収まっていた水まんじゅうまでもが、甘さを増幅させていた。半透明の中に漉し餡の黒が滲み出ており、一本だけ突き刺さった爪楊枝がとても偉そうに見えた。
「あ、りがとう、ございます」
 ひとりになりたくて此処を選んだのに、ものの数分としないうちに侵略された。
 土足でずかずか入り込んできた歌仙兼定は、ぎこちない礼の言葉に、満足そうに頷いた。
「どういたしまして、お小夜。座っていいかな?」
「どうぞ」
 聞きようによっては横柄とも受け取れる返事の後、短刀の隣を指差しながら許可を取る。それで尚更拒めなくて、小夜左文字は渋々首肯した。
 もとよりここは、短刀に割り振られた部屋ではない。了解を得る必要は、本来ならば皆無だった。
 それでも訊ねたのは、立ち去らない為の理由作りだ。無意識だろうが、狡賢くて、無性に悔しかった。
「よいしょ、と」
「年寄り臭いです、歌仙」
「うっ。そんなことは、ない……ない」
 掛け声を共に身体の向きを変え、打刀が足を広げて腰を下ろした。滑り落ちないよう注意して、安定する体勢を探して最後に深く息を吐いた。
 仕返しのつもりで放った嫌味は、見事男の胸に食い込んだ。頬を引き攣らせて否定した彼だけれど、口調は自信無さげで、不安げだった。
 自分に言い聞かせるように繰り返して、緩く握った拳で胸を叩く。その一連の仕草が面白くて、短刀は溜飲を下げ、昔馴染みの隣に座った。
 饅頭に刺さった楊枝を取り、思い切って奥まで貫き直した。
「いただきます」
 持ち上げる途中で抜け落ちないのを確認して、大きく口を開き、ひと口で頬張る。
 問題なく咥えられる大きさだったが、もにゅ、とした弾力に阻まれ、奥歯で磨り潰すのに失敗した。にゅるん、と逃げられて仕方なく前歯を突き立てれば、今度は難なく突き刺さり、八対二の割合で分断した。
 中の餡子が少しだけ顔を出して、甘味が舌に広がった。ほじくり出そうと先端を擦りつけ、側面を歯で削って、徐々に細かくしていった。
 複雑な工程であるが、深く考えてのことではない。無意識のうちに勝手に動いて、各々が役目を果たしていた。
「おいひい、れす」
 口の中を埋め尽くしていたものを切り刻んで、小分けにして飲みこんだ。
 奥歯の隙間に餡子が入り込んで、取り除こうとしたら発音が怪しくなった。
 もぐもぐと片方だけ頬を大きく膨らませた少年に、歌仙兼定は上機嫌に目を細めた。
「気に入ってくれたかな?」
「はい。美味しいです」
 見た目が涼しげで、夏の暑い盛りには丁度良い菓子だ。今の季節にはやや早いけれど、今後のことを考え、試作を重ねているといった雰囲気だった。
 満足できるものが出来たから、味見して欲しかった。けれど探しても見つからなくて、訊ね回っていたら、屋根にいる、と教わった。
 小夜左文字が地上を見下ろしていたように、空を見上げていた刀もいたらしい。手を振ったが気付いて貰えなかったと、歌仙兼定に教えたのは陸奥守吉行だ。
「そうですか」
 恐らくは、宗三左文字を探していた時だ。
 屋根から身を乗り出すような格好だったから、下から丸見えだったのだろう。
 そこまで頭が回らなかったと恥じ入って、短刀は次の饅頭を口に含んだ。
 一個目よりじっくり味わい、程よい餡子の甘味に舌鼓を打った。右隣に座る男がにこにこしながら見つめてくるのを意識しないよう、視線は遠くに向けた。
 またひとつ、足元からけたたましい笑い声が生まれた。
 反射的にそちらを見ようとしたけれど、屋根が邪魔をして瞳に映らない。拍手喝さいが湧き起こっているのに、中心にいるのが誰なのか、座っている状態では分からなかった。
 気にしないようにしても、心がざわめく。
 まだ大きかった塊を一気に飲みこんで、彼は最後の水まんじゅうに楊枝で切り付けた。
 半分にしようとして、果たせなかった。苛立ちは消えるどころか倍になり、無意識に歯軋りしていた。
「お小夜は、あちらへは行かないのかい?」
 それを歌仙兼定は、どう受け取ったのだろう。
 目に見えて不機嫌になった短刀を訝しみ、賑わいが止まない一帯を指差した。
 彼の位置からもはっきりとは見えないが、盛り上がっているのは伝わってきた。台所にもひっきりなしに刀が訪れ、酒だ、つまみだなんだのと、催促が喧しかった。
 集中して料理するなど不可能で、全ての注文に応えるのも難しい。
 だのに言ってくる方はそれを分かろうとせず、すぐに作って持ってこい、と我が儘放題だった。
 嫌気がさして、抜け出してきた。出来上がったばかりの水まんじゅうを持って、朝から姿を見ない短刀を探し、あちこちを訪ねて回った。
 次郎太刀と日本号は身体が大きいので、遠くからでも良く目立った。上機嫌に杯を傾ける姿を何気なく眺めて、小夜左文字は返事の代わりに首を振った。
「どうしてだい?」
 苦心の末に半分になった饅頭を、片方だけ口に入れた。
 重ねて問うてきた男には視線すら向けず、柔らかくて甘い菓子を噛み砕いた。けれど歌仙兼定は諦めず、辛抱強く待ち続けた。
 横から注がれる眼差しが、チリチリと胸の奥を焦がした。鬱陶しいのに振り払えなくて、根負けした短刀は深々とため息を吐いた。
 残り半分となった水まんじゅうを楊枝で小突き、小さな穴をぐりぐり広げていく。
「僕のような刀がいては、黒い澱みが、広がって。迷惑でしょう」
 晴れの席は、穢れから遠ざかっていなければならない。だのにその穢れを引き攣れた刀が混じっては、本末転倒も良いところだ。
 だから交わらない。参加しない。
 誘われても断って、距離を保った。
 自嘲を含んだ口調で答え、残る水まんじゅうを口に放り込んだ。荒っぽく咀嚼して、飲みこんで、唇を舐めた。
 気のせいか、味があまりしなかった。ひとつだけ甘くないのが混じっていたか考えるが、その可能性は低いと思われた。
 なんだか勿体ないことをした。折角打刀が丹精込めて作ってくれたのに、堪能出来なかったのが悔しかった。
「お小夜。それは、誰が言ったんだい?」
「はい?」
 空になった小鉢に放り込んだ爪楊枝は、先端が削れて丸くなっていた。
 細長い木の棒に気を取られていた少年は、横から告げられた台詞がすぐに理解出来なかった。
 素っ頓狂な声を上げて振り返り、小夜左文字はきょとんとした顔で歌仙兼定を見た。
 その打刀はといえば、至って真剣な表情で短刀を見詰めていた。
 眼差しは鋭く、一瞬たりとも見逃さない、という意志が感じられた。唇は真一文字に引き結ばれて、迫力は充分だった。
「誰に言われたんだ、お小夜」
「ええ?」
「なんてことだ。そんな心無いことを口にする奴がいるとは、信じられない。今すぐにでもその首、叩き落としてくれる」
 語気も荒くなり、鼻息が凄まじい。
 熱風を間近から浴びせられて、にじり寄って来た男を前に、小夜左文字は目を点にした。
 瞬きを連発させて、こちらこそ信じられない、という顔で見つめ返した。だのに歌仙兼定はまるで気付かず、自分の考えに没頭し、激しく息巻いた。
 こちらの言い分に耳を貸す気配はなく、勝手な解釈と理論を振り翳した。許せない、と持ち前の正義感を奮い立たせて、ぷんすかと煙を噴いた。
 屋根の上で地団太を踏み、両腕を振り回した。危うく打たれるところだった短刀は仰け反って避け、独りよがりの男に肩を竦めた。
「誰かに、言われたとか。そういうんじゃ、ないです」
「お小夜?」
 彼こそ、前田藤四郎以上に小夜左文字を分かっていそうなものなのに。
 遠い昔、一時期ではあるけれど、一緒に過ごした事があった。だからこそ彼なら伝わると信じていたのだが、どうやら過大評価だったようだ。
 ここまで通じ合わないとなると、苦笑するしかない。
 かんかんに怒っている打刀を小声で宥めて、藍色の髪の少年は目を眇めた。
「首を差し出すとしたら、僕しか」
 この本丸に集う刀で、小夜左文字を直接詰った刀剣男士はいない。宴会を忌避するのは、彼自身が決めたことだ。
 参加を嫌がられたのでもなければ、開催を教えてもらえなかったわけでもない。
 むしろ逆で、毎回のように声がかかり、その度に丁寧に断って来た。
 いい加減諦めてくれればいいのに、どうしてだか、みんな誘うのを止めてくれない。今度こそ、次こそは、と何度も粘られた。
「お小夜。それは、……どうしようか。困ったね」
「困りますか」
「ああ、困る。これでは君の首に、縄をかけなければいけないじゃないか」
 歌仙兼定は誘われれば参加するが、自分からはあまり酒宴を催さないので、その辺に疎かった。
 申し訳なさそうに恐縮した短刀に目をぱちくりさせて、彼は真剣な表情で呟いた。
 顎を撫でつつ、本気で戸惑っている雰囲気だ。前言撤回するつもりはないらしく、漏れ聞こえてくる独り言からして、斬首に代わる懲罰を考えているようだった。
「かせん」
 いったい何を告げられるか、戦々恐々だ。彼のことだからおよそ変な真似は強要しないだろうが、歌会や闘茶くらいは、求められるかもしれなかった。
 この本丸には、風流を解する刀が少なすぎる。それが歌仙兼定の口癖であり、積年の悩みだった。
 小夜左文字の前の主は、この打刀の前の持ち主の父親だ。戦国一の文化人と知られ、荒波の世を巧みに生き抜いた人物だった。
「参ったね、お小夜。どうやら僕は、君を連行しなければいけないようだ」
「はい?」
 細川幽斎も、三斎も、和歌の名手として知られていた。茶の道に通じて、後者などは千利休との親交も深かった。
 そんな男を見習って、戦闘狂の一面を秘めつつも、歌仙兼定は雅に振る舞おうと躍起だった。
「連行、ですか」
「ああ」
 やがて結論が出たのか、打刀は前髪を掻き上げる仕草をした。短刀から空になった器を受けとり、頷いて、立ち上がると同時に彼方へと視線を投げた。
 彩り豊かな自然に足を向け、歌を詠みあおう、とで言うつもりだろうか。
 首に縄を掛けられ、屋敷中を引きずり回されるのに比べれば、それは随分と軽い刑罰に思われた。
「どうかな。お小夜」
 しかも同意まで求められて、苦笑を禁じ得ない。
 罰を与える相手に言う台詞ではなくて、小夜左文字は肩を竦めると、お人好しも良いところの男に目を細めた。
「仕方ありません」
 どうせ嫌だと言っても、押し通されるに決まっている。ならば無駄でしかない押し問答に時間を費やすよりも、大人しくお縄を頂戴した方が建設的だった。
 折角屋根の上でのんびり寛げると思ったが、致し方ない。諦めて、少年は男の提案を受け入れた。
 雨でも降らない限り、桜はもうしばらく楽しめる。明日以降も、隙を見て此処へ来ようと密かに決めた。
 首肯して表情を緩めた少年に、歌仙兼定は満足そうに口元を綻ばせた。しどけなく微笑み、爪楊枝入りの小鉢を懐に捻じ込んだ。
 そしてやおら、腕を伸ばして。
「よい、しょ」
「え?」
 小夜左文字の脇から手を入れたかと思えば、ひょい、と軽々持ち上げた。米俵でも担ぐように抱え込んで、驚く短刀の背を優しく撫でた。
「どうどう、落ち着いて」
「ちょ、ちょっと。歌仙、待ってください。いったいなにを」
 そのまま抵抗を封じて押さえつけ、ジタバタ藻掻くのを封じた。嫌な予感しかしなくて蒼白になって、小夜左文字は声を荒らげ、数分前の己の判断を悔いた。
 短刀の身体は胸から上が、男の肩より後ろに回り込んでいて、腰は利き腕でがっちり固定されていた。咄嗟に掴もうとした白の胴衣はつるりと滑り、指を引っ掻ける場所が見当たらなかった。
 視界は反転し、空は全く見えない。薄汚れた屋根瓦と、打刀の下半身が大半を占めて、だらんと垂れ下がった己の腕がその中を彷徨っていた。
 連行、という単語が脳裏を過ぎり、頬が自然と引き攣った。
 てっきり一緒に遠征程度と思い込んでいたが、違うのか。
 腹の中が見えなくて、この後どうなるかの想像がつかない。逆さを向いた短刀の世界から、歌仙兼定の表情は失われていた。
「暴れない方が良い、お小夜。落ちたら危ない」
「歌仙!」
 不安と恐怖が膨らんで、頭の中で警告の鐘が鳴り響いていた。血液が頭部に集中して、こめかみを貫くような痛みが走った。
 大声を上げたら、眩暈がした。一瞬くらっと来て、一歩を踏み出した男の振動で我に返った。
 もしやこのまま、梯子を下りるつもりか。片腕が塞がった状態なのは、登って来た時と同様だが、重量も質量も、水まんじゅうとは段違いだった。
「息を止めて、お小夜。舌を噛む」
「え、え……え。いや。待ってください。待って、歌仙。まさか」
 ところが男は、屋根に掛けられた梯子の前には行かなかった。屋根の縁ぎりぎりまで迫って、眼下を望み、吹き上げてくる風に額を曝した。
 小夜左文字はごくりと唾を飲み、顔を引き攣らせた。緊張で全身を硬直させて、身の丈遥か彼方の大地に総毛立った。
「ああ。そのまさか、だ」
 嘘であって欲しいとの願いは、呆気なく消し炭となった。得意満面に言い切られて、短刀は気を失いたくなった。
 嫌々と首を振っても、逃げられない。この場で拘束を解かれる方が余程危険だと、身体は自ずと理解していた。
 歌仙兼定は梯子を使わず、このまま屋根から飛び降りるつもりでいる。
 それも桜の木の下に集う仲間らの前で、余興のひとつでもあるかのように。
 茣蓙の上に座す刀剣男士の大半は、高い位置にいる彼らに気が付いていた。これから打刀が何をする気か理解して、囃し立て、指笛を鳴らし、拍手喝采は鳴り止まなかった。
 その喧騒に負けない音量で、歌仙兼定が得意げに言い放った。
 自信ありげに口角を持ち上げ、居丈高に胸を張って。
「さあ、お小夜。君が宴に出ても、誰も迷惑をこうむらないと、証明しに行こうじゃないか」

吉野山高嶺の桜咲きそめば 懸からんものか花の薄雲
山家集 下 1454

2017/04/08 脱稿

のどかに散らす 春に逢はばや

 足を前に繰り出す度に。地面がざわつく感じがした。
 ついひと月半ほど前まで、一帯は一面雪に覆われていた。それがあっという間に緑に取って代わられて、青臭い空気が辺りに満ち満ちていた。
 ここは屋敷からかなり離れた場所であり、往来が不便という理由から休耕地扱いだ。手入れは行き届かず、雑草は生え放題。裏を返せば、自然のままの姿が辺りを埋め尽くしていた。
 耕作地は既に鍬が入り、種まきが始まっていた。肥料を追加し、土壌の改良も順調に進んでいた。
 今年は、去年にも増して良い野菜が出来そうだ。最初は鋤を握る手も恐る恐るだった刀剣男士は、今やすっかり熟練の耕作者だった。
 遠くに、せっせと働く粟田口の短刀の姿があった。
 五虎退に、秋田藤四郎、それに薬研藤四郎や平野藤四郎の姿もある。鶯丸は水車小屋の傍で休んでおり、髪色が道端に茂る草と同化していた。
 距離があるので、豆粒ほどにしか見えない。けれど案外分かるものだと頷いて、歌仙兼定は視線を戻した。
「お小夜。どこまで行くんだい?」
 踏みしめる大地は、すっかり春の装いだった。
 瑞々しい色がそこかしこに広がって、隙間から小さな蕾が顔を出していた。明日、明後日にも咲きそうな綻び具合で、既に風に揺られている分もあった。
 生える草は一種類ではなく、どれもこれも葉の形が違う。鋸刃のようにぎざぎざしているものもあれば、笹の葉に似た形もあった。
 共通するのは、どれもが陽の光を一心に集め、大きく育とうとしているところ。
 冬場には目にするのが叶わなかった光景に相好を崩し、打刀は先を行く短刀に問いかけた。
「もうちょっと、です」
 小さな身体を左右に揺らし、歩いていた少年が振り返った。重そうな竹細工の籠を両手にぶら下げており、肩の位置はいつになく低かった。
「やはり、僕が持とう」
 姿勢は前のめりで、いつ転ぶか分からない。彼はこれまでにも数回、絡み合った草に足を取られて危ない目に遭っていた。
 見ていられなくて手伝いを申し出るのだが、その度に断られた。
 今回も結果は目に見えていたが、言わずにはいられず、歌仙兼定は伸ばした右手を上下に振った。
 荷物を渡すよう促し、低い位置にある眼をじっと見つめる。
「いえ。大丈夫です」
 先に逸らしたのは小夜左文字で、同時に告げられた言葉は素っ気なかった。
 ある程度覚悟していたとはいえ、まったく傷つかないわけではない。なぜそこまで意地になるのか分からなくて、袴姿の打刀は眉を顰めた。
 背に羽織った外套を風に翻し、強まった大地の匂いに荒んだ意識を慰めてもらう。
 短刀が抱え持つ籠はかなり大きく、赤ん坊の揺籃ほどもあった。
 見目幼いこの少年なら、両手足を折り畳めば入るのでは、と言いたくなる大きさだ。持ち手は一本だけで、楕円形の籠の最も幅が狭くなる場所に通されていた。
 肩に担ぐには不便な位置で、だからこそ小夜左文字の足取りは安定しなかった。まるで酒に酔っているようで、右に、左に、千鳥足も良いところだった。
 そんなだから真っ直ぐ進めなくて、目的地になかなか辿り着けない。
 遥か後方に聳える屋敷の屋根を振り返り、歌仙兼定は強情な少年に肩を竦めた。
「もう、この辺で良いんじゃないのかい?」
 あそこを出発してから、もうどれくらい経つただろう。
 先導役がこの有様だから、歌仙兼定の足取りも非常に鈍い。牛の歩みでも、もう少し素早い気がしてならなかった。
 手持ち無沙汰で、退屈だった。
 屋敷を出た直後は、麗らかな日差しに浮き足立っていた。けれど遠出に誘われた嬉しさは、そろそろ枯れ果てそうだった。
 かといってひとり戻る気も起きず、仕方なく短刀の後ろをついて回る。
 頻繁に躓く少年に肝を冷やして、なんの手助けもしてやれない状況に、鬱憤が溜まる一方だった。
 そろそろ目的地と、大きくて重そうな籠の中身を教えて欲しい。
 話しかけても、小夜左文字は素っ気ない返事ばかり。会話はまるで繋がらず、大声で独り言を喋っている状況に近かった。
 とても、虚しい。
「……お小夜」
 青草を踏み潰し、沓の裏で土を蹴った。
 思い切って距離を詰めたが、短刀は振り向いてもくれなかった。
 元から淡々とした少年だったが、ここ最近は輪を掛けて態度が冷たい。万屋に誘っても頷いてくれず、和歌を贈っても返事が来なかった。
 その傍らで、伊達に所縁を持つ刀らとは仲がいい。台所で一緒にいるところを何度も目撃して、表情は楽しそうだった。
 自分と一緒の時と比較して、かなり落ち込んだ。歌仙兼定と居る時の小夜左文字は、あんな風に頬を緩めてくれなかった。
 悔しいし、哀しいし、切なくて、胸がはち切れそうだ。
 鬱屈した感情を足元にぶつけて、彼はぐりぐりと地面に穴を掘った。
 潰された青草の表面が削れ、細かな繊維が靴底に張り付いた。つんと来る青臭さが強まって、しばらく残りそうだった。
「しまった」
 やり過ぎたと後悔するが、もう遅い。
 あまり風流とはいえない臭いにまとわりつかれて、打刀は奥歯をカチカチ言わせた。
 鼻を愚図らせて拗ねるものの、どうにもならない。苦し紛れに幅広の草に沓を預けてみたが、拭いきれるものではなかった。
 そうやって独り相撲に興じている間に、一時は詰めた短刀との距離が広がった。
「なにをやっているんですか、歌仙」
「待ってくれ、お小夜」
 呆れ混じりに呼びかけられて、歌仙兼定は転げるように草原を進んだ。
 畑仕事中の仲間の姿が更に小さくなり、どれが誰だか分からなくなった。なにかが動いている、程度しか把握出来ず、それは向こう側も同じだろう。
 小夜左文字などは特に背が低いので、背景に同化して、見えているかどうかさえ怪しかった。
 手を振ってみたい気持ちを抑えて、打刀は可憐に咲いていた花を避けた。
 歩幅を僅かに広くして、足元覚束ない短刀の項を見詰めた。結ぶには長さが足りない髪がゆらゆら踊り、白い肌を擽っていた。
「歌仙、あそこ」
「う、おっと」
 短刀は袈裟を脱ぎ、黒の直綴姿だった。首に数珠はなく、腰の刀も屋敷に置いてきていた。
 内番の時などに着る衣よりは堅苦しいが、戦場に出る時ほど緊張感に溢れていない。
 春の陽気に合わせて身を軽くした少年は、不意に足を止め、左前方を指差した。
 下ばかり見ていた打刀は、危うくぶつかるところだったのを急ぎ回避した。あと一秒気付くのが遅れていたら、華奢な少年を後ろから押し潰していた。
 慌てて右に避けて事なきを得て、ひっそり流した冷や汗を拭った。首から上だけで振り向いた短刀に愛想笑いで応じて、指し示された方角に視線を投げた。
「おや?」
 そこだけ、色が違っていた。
 まだ溶け残った雪があったかと驚いたが、よく見れば違う。その一帯だけが白く染まって、風が吹く度に、同じ方角へ一斉にそよいでいた。
 精一杯茎を伸ばし、花を咲かせていた。
 屋敷の近くでは見る機会のない光景に、歌仙兼定は総毛立った。
「これは……っ」
 絶句し、直後に身体をビクッと震わせた。力なく垂らしていた腕を大きく跳ねあげて、拳を作り、襲ってきた寒気に抗った。
 開けっ放しだった口を閉じて、前歯の裏を舐めた。溢れ出した唾液を音立てて飲み干して、数秒してから傍らに立つ少年に向き直った。
 横に並んだ少年は得意げに胸を張り、どうだ、と言わんばかりに打刀を見詰め返した。
「気に入りましたか?」
 不敵な表情で訊ねられて、あれだけ言っても歩みを止めなかった彼の真意を悟った。
 余計な前情報を与えないために、必要以上に口数が少なくなっていた理由を理解した。
 きっと、驚かせたかったのだろう。
 他に考えられず、見事策略にはまった。
 積もり積もっていた鬱憤があっという間に薙ぎ払われて、歌仙兼定は清々しい風に胸を満たした。
「ああ、素晴らしいよ。お小夜」
 先ほどまで不信感しかなかった短刀に対し、今は尊敬の念が止まらない。
 お手軽過ぎる自分を笑い飛ばし、美しい景色に目を見張った。この時期でなければ出会えない景色に歓喜して、連れて来てくれた少年に感謝した。
 小夜左文字は照れ臭そうに首を竦めると、白い花で埋め尽くされた場所に踏み出した。
 草は多少踏まれようと、へこたれず、すぐに起き上がった。強く、逞しく、したたかで、見習うべき点は多かった。
「なんという花だろう?」
 緑の中に浮き上がった白い絨毯は、半径八尺ほどの範囲に収まっていた。それ以外でも花は咲いているものの、ここまで群生していなかった。
 そして近くで見て気付いたのだが、真上からだとそこまで真っ白いわけではない。他の場所同様、花は青草の中に埋もれていた。
 茎を精一杯伸ばして咲いているから、遠目には白く染まって見えたらしい。
 見る角度や、距離によって印象が大幅に変化すると知り、感嘆の息が止まらなかった。
「白詰草、だそうです」
 素朴な疑問には、短刀が淡々と答えたてくれた。運んできた籠を直接地面に置いて、中身を取り出すより先に、自身の身体を労っていた。
 疲労を訴える筋肉を慰め、肩の関節をぐるぐる回した。背筋を伸ばして骨を鳴らし、大きく仰け反った体勢のままどすん、と尻餅をついた。
「大丈夫かい?」
「心配ありません」
 結構な勢いだったので不安になったが、彼は最初から、そうやって座るつもりだったらしい。
 白詰草が隆盛を誇る地面は存外柔らかく、一帯を占領する草も緩衝材の役目を果たしてくれた。
 花弁は細く、いくつも並んで鞠状に丸まっていた。葉は目に眩しい若緑で、こちらも丸みを帯び、真ん中辺りに白い筋が走っていた。
 茎が地面を這い、根は深くまで入り込んでいる。ためしに一本引き抜いてみたら、千切れたところからごく少量の汁が滲んだ。
「うっ」
 それがたまらなく青臭くて、歌仙兼定は悲鳴を上げた。腕を払って摘んだ花を放り投げ、靴裏から漂うのよりももっと強烈な青臭さに鼻を抓んだ。
 手を洗いたいところだけれど、ここまで水路は伸びていない。川もなく、井戸があるとすれば枯れているだろう。
 手拭いで拭くにしても、今度は布自体が臭くなるのは避けられない。我慢するしかなくて、彼は己の軽率さをひたすら悔いた。
「さっきから、どうしたんですか。歌仙」
「いや、なんでも」
 野の草を摘んで活けることは良くやるが、その場合は大体鋏を使っていた。
 手で千切る機会はあまりなく、しかも冬場は植物の勢いが衰える。最近は梅の枝だとかが中心だったのもあり、野草の青臭さを失念していた。
 免疫が薄れていたところに、久々に嗅いだから衝撃が強かった。
 涙ぐみ、鼻声で返事して、打刀は投げ捨てた花の行方を捜した。
「お小夜、それは」
「お土産には、早いでしょうか」
 草花に埋もれてしまったかと思いきや、放った方角が良かったらしい。
 短刀の胸元に小さな花一輪を見つけて、歌仙兼定は愁眉を開いた。
 屋敷に持ち帰り、花瓶に飾りたい、と言われた。だが今すぐ帰るわけではないので、それまでに萎れてしまうかもしれなかった。
 愛おしげに白詰草を撫でた少年に相好を崩し、大股に近付く。膝を折って屈んで、打刀は自らが摘んだ花を短刀の髪に挿し直した。
「似合いません、僕になど」
「今だけだ。許してはくれないか」
 花で飾られるのを、小夜左文字は嫌がった。それを押し通し、願い出て、歌仙兼定は恥ずかしそうに俯いた少年に目を眇めた。
 濃い藍色の髪に、白い花はよく目立つ。簪やなにやらで装飾するより、よほど彼に似合っていた。
 返事がないのを承諾と解釈し、打刀は満面に笑みを浮かべて頷いた。心地良い日差しと幸せを噛み締めて、外套を尻に敷き、足を崩した。
「毛氈を持ってくるべきだったかな」
「すみません。そこまで、気が回りませんでした」
「いいや、構わないよ。たまには悪くない」
 地表は暖かいようで、意外と冷たかった。生い茂る草花に日光を奪われ、下の方まで届いていないようだった。
 濡れていないだけまだいいと、前回雨が降ったのがいつだったかを数える。だがしっかり思い出せなくて、指を三本畳んだ辺りで諦めた。
 地面が近い分、土の匂いが鼻腔を擽った。植物の青臭さと、遠くから運ばれてくる風の香が混じって、なんとも不思議な心地だった。
 屋敷の中にいたら、絶対に嗅ぐ機会は得られない。
 出陣以外でこんなに歩いたのも久しぶりで、一度座ってしまうと、しばらく立ち上がれそうになかった。
「それで? まさかこの花を見せるためだけに、僕を連れ出したのかい?」
 冬の間に、足腰が鈍ってしまっただろうか。
 畑仕事が本格化する前に鍛え直す必要性を感じつつ、打刀は意地が悪い質問を投げかけた。
「いいえ」
 それを淡々と打ち返し、短刀は傍らに置いた籠を引っ張った。上に被せていた布を取り払い、中に収まっていたものを男に見せた。
 もっとも、正体が即座に判明したものは少ない。
 表面に少々傷がある竹筒は、水を入れて運ぶ道具だ。節のところで切って、一箇所だけ穴を開け、細く切った竹で栓がされていた。
 他に、こちらも細身の竹を用いて作った器がふたつ。これは湯飲み代わりに使うと予想できた。
 分からないのは、竹で編んだ入れ物の中身。これが籠の大部分を占めており、結構な大きさだった。
「少し早いですが、昼餉にしましょう」
「ここで?」
「はい。作ってきたので」
 小振りの葛籠のようだが、籠に入っていたことから分かるように、深さはさほどではない。それを慎重に取り出して、短刀は互いの膝の間に置いた。
 歌仙兼定の正面に座り直し、ゆっくり、ゆっくりと蓋を真上に持ち上げた。
 中身を傾けないよう、じっくり時間を掛けた。歩いている時に散々左右に振り回していたのを忘れ、表情は真剣だった。
 つられて固唾を飲んで見守って、打刀は眉を顰めた。隙間からちらりと見えた色は想像していたものと違っており、中身の予想が難しかった。
 長閑な陽気に誘われて、ここまで来た。
 いったい短刀は、なにを用意してくれたのだろう。
 楽しみ半分、不安半分で、胸の高鳴りが止まらない。
 沸き上がる興奮に身震いして、歌仙兼定は瞬きも忘れて鶸茶色の葛籠に見入った。
「どうぞ」
 やがて、小夜左文字が葛籠の蓋をひっくり返した。
 裏側になにも付着していないのを確認した少年の前で、打刀は現れた品々に瞬きを繰り返した。
「これ、は?」
 中に収められていたのは、見たこともない代物だった。
 白く薄い板状のものに、色々な具材が挟まっていた。どれもひと口大に切り揃えられて、手で抓んで持てるようになっていた。
 厚焼き玉子に、鹿肉の燻製。衣をつけて油で揚げた猪肉や、茹でた芋を潰し、卵黄と油を良く混ぜた調味料で絡めたものもあった。
 形はどれも不格好で、見た目はあまり宜しくない。様々な匂いが混じり合って、嗅覚だけではどれがなにか分からなかった。
 これは本当に食べ物なのか、という疑問が頭を過ぎり、短刀に訊ねる声は微かに震えていた。
「さんどいっち、という食べ物、だそうです」
 得体の知れないものを前にして、恐怖を覚えた。
 その不安が顔に出ていたらしく、小夜左文字は安心させようとしてか、幾分口調を和らげた。
「三度一致?」
 ただ告げられた単語が、耳慣れないものだったせいで、緊張をほぐすところまでいかない。
 却って疑念を膨らませて、歌仙兼定は物珍しげに葛籠の中身を眺めた。
 彼が知る料理に、このようなものは存在しない。卵焼きなどは頻繁に作るが、大抵は皿で供して、箸で食べた。
 小夜左文字が運んできた籠の中に、箸と思しきものは見当たらなかった。いったいどうやって食べるつもりなのかと首を捻っていたら、物は試しとばかりに、短刀が手本を見せた。
 ふたつある竹筒の、片方の栓を外し、中身で手拭いを湿らせた。それで掌を拭って汚れを取り除き、素手のまま、葛籠の中身をひとつ抓み取った。
「お小夜、行儀が悪い」
「いいえ、歌仙。これは、こうやって食べるものだそうです」
 直接手で持って食べる行為は、褒められたものではない。饅頭などは手掴みで食べることもあるが、打刀はあまり良い顔をしなかった。
 だから今回も、露骨に眉を顰めた。渋面を作って声を低くして、言い返されて目を丸くした。
「冗談だろう?」
 予期せぬ反論に、声が上擦る。
 素っ頓狂な悲鳴を耳にして、短刀は堪らず苦笑を漏らした。
 外で食事をするのに、やれ皿だ、箸だ、となると、荷物がとても重くなってしまう。そういう手間を省き、出来ればもっと気軽に、身軽に出来ないかと考えていた。
 気候が良くなって、日中の肌寒さは薄れた。屋敷の梅や桜の観賞も良いけれど、大地に根をおろし、ひたむきに咲く野花を眺めるのも楽しいと思った。
 堅苦しい、格式ばったものはいらない。たとえば握り飯二、三個を手に出かけるくらいの気安さで、屋外でのんびり過ごしてみたかった。
 だけれどやはり、おにぎり程度では味気ない。折角出かけるのだ、どうせなら色々なものを食べたかった。
 しかし重い道具を持ち運ぶのは、到着前から疲れてしまう。
 この問題をどうやって攻略すれば良いか、妙案が浮かばず、数日悶々し続けた。
 そんな彼に救いの手を差し伸べたのが、洋風かぶれの、隻眼の太刀だった。
「あの男か……」
 つたない説明を受け、歌仙兼定は声を絞り出した。誰にでも愛想が良い伊達男を脳内に思い浮かべて、それを握り潰し、くしゃくしゃに丸めた。
「どうして、そんなに嫌うんですか。歌仙」
「嫌ってなどいない。単に気に食わないだけだ」
 苦虫を噛み潰したような表情に、小夜左文字が呆れた声で問いかける。
 打刀はそっぽを向いて吐き捨てて、鼻息を荒くした。
「それが、嫌いってことじゃないんですか……」
 あまりにも正直な返答に、短刀は苦笑を禁じ得ない。頬をひくり、と痙攣させて、彼は溜め息に混ぜてそっと呟いた。
 的確な指摘は聞かなかったことにして、歌仙兼定は居住まいを正した。草花の上で胡坐を組み、差し出された手拭いを左手で受け止めた。
 小夜左文字が最初に手に取ったのは、鹿肉の燻製を薄く切ったものだった。肉を挟むのは小麦などを水で練り、四角い箱に入れて焼いたものだ。
 周囲の焦げた部分を切り取って、真ん中の白い部分だけを使っている。外つ国の食べ物で、ぱん、と言うのだと教えられた。
「これも、そうなのかい?」
 また、型に入れず、楕円に捻って焼いたものもあった。
 真ん中に切れ目を入れ、そこに細かく刻んだ甘藍と、潰した馬鈴薯や肉を混ぜてを油で揚げたものを挟み、全体に黒い液体が掛けられていた。
「ころっけぱん、だそうです。それは、燭台切光忠さんが、作ってくれました」
「そうか。なら、僕は遠慮し……う、いや。お小夜にあいつが作ったものを食べさせるわけには」
 見るからに毒々しいが、美味しそうでもある。
 うっかり手を伸ばしかけて、作り手の名前を教えられた。打刀は自身の矜持と好奇心に挟まれて、最後は自尊心を捻じ曲げた。
 あの太刀が作ったものを食べた短刀が、目の前で「美味しい」と褒め称えるところだけは見たくない。
 食べ物を粗末にする、という選択肢は最初からないので、こうするしか術がなかった。
「く、そっ。うすたあそうすなど、邪道だというのに」
 料理とは、素材本来の味を大事にすべきものなのに、これを使うと調味料の味付けが全てに勝ってしまう。
 だから絶対に認めたくないのだが、料理下手でも簡単に扱え、挙げ句出来上がるものがそれほど不味くないから尚悔しい。
 これまで積み重ねてきた努力を嘲笑われている気がするので、余計に受け入れ難かった。
 食べ物を素手で鷲掴みにするのも、気に食わなかった。
 けれどこれが正しい食べ方なのだと言われたら、従うしかなかった。
 燭台切光忠の高笑いが聞こえるようで、実に腹立たしい。しかし小夜左文字がじっと見守っている手前、後には引けなかった。
 長い葛藤の末に覚悟を決めて、敵に勝負を挑む心持ちで口を開く。
「あ~……んむ」
「どう、ですか?」
 恐る恐る先端を口に入れ、少しだけ齧った。
 ひとくちでは揚げ物のところまでは辿り着かず、酸味のある液体に絡んだ甘藍が精一杯。だというのに短刀は目を輝かせ、興奮気味に訊ねて来た。
 それを右目だけで確かめて、歌仙兼定は渋面を作った。もぐもぐと顎を動かし、口の中にあったもの全てを飲みこみ終えてから、口の端に残る汁気を爪で削ぎ落とした。
「まあ、食べられなくは、ない……ね」
 美味しいか不味いかの判断など、まだ出来る状況ではない。しかし答えないわけにもいかず、適当な言葉で場を濁した。
 ところが短刀には、それが褒め言葉に聞こえたらしい。緊張気味だった表情が緩んで、嬉しそうに口角を持ち上げた。
「そうですか」
 ホッと安堵の息を吐き、相好を崩した。ならば自分もと、食べずに待っていた分を頬張って、柔らかな肉を真ん中で噛み千切った。
 あちらの方が余程美味しそうだけれど、迷い箸は行儀が悪い。
 気に食わない太刀の料理を食べきらないことには、手を出せないのが癪だった。
「しかしね、お小夜。花見弁当が欲しいのなら、僕に言ってくれれば」
「歌仙が作ると、豪勢になり過ぎるから、駄目です」
「ぐっ。いやね、けれど」
 彼が朝早くから頑張って作ってくれたのは嬉しいが、燭台切光忠と一緒だったのはやはり納得がいかない。相談する相手として、真っ先に自分を選んで欲しかった。
 小夜左文字とは昔から縁があり、繋がりは誰よりも強いと信じていた。
 それが独りよがりの勝手な思い込みだったとは、絶対に認めたくなかった。
 なんとか反論を試みるけれど、食べながらなので言葉が続かない。
 気が付けばむしゃむしゃ頬張っていて、最初の一個はあっという間になくなった。
 味付けが濃い気がしたけれど、短刀や脇差は喜びそうだ。獅子王や和泉守兼定も、こちらの方が好みだろう。
 逆に三条の刀や、髭切、小烏丸などは嫌がるかもしれない。
 袴に散った細かな屑を地面に払い落として、歌仙兼定は難しい顔をして唇を引き結んだ。
「まだ。あります」
「いただくよ」
 手が止まって、小夜左文字に心配された。沢山残っている葛籠の中身を示されて、彼は次々、小さめに切り分けられた料理を口に放り込んだ。
 胡椒が利いた揚げ物は、食べた瞬間ガツンと来た。甘めに味付けされた厚焼き玉子は柔らかく、舌が麻痺しかけた身には有り難かった。
 燭台切光忠が作った中には、他に、香ばしく焼いた麺を挟んだものがあった。
 柑橘類を多く使った調味料で味付けした麺を挟み、触感が面白かった。噛み千切り損ねた一本がちゅるん、と口から垂れ下がり、それを見た短刀が思い切り噴き出したのが今日一番の驚きだった。
「そんなに笑わなくても良いだろう」
「すみません……」
 歌仙兼定自身、みっともない姿を曝した自覚がある。
 八つ当たり気味に咎めてしまったのを後から反省して、彼は竹筒から注がれた水を一気に飲み干した。
「はあ」
 口の中で多種多様な味が混じり、粘膜にこびりついていた。水を飲んでもその味が入り込み、どこか歪で、不愉快だった。
 どれだけ漱げば、取り除けるのだろう。
 水筒の中身には限りがあるので、試せないのが悔しかった。
「歌仙」
「食べられなくは、ない」
 葛籠に詰められていた昼食は、三分の二を歌仙兼定が、残りを小夜左文字が平らげた。
 腹が膨らんで、身体はすこぶる重い。立ち上がって屋敷に戻るのは、もうしばらく休憩してからになりそうだった。
 食べながら、顰め面が酷くなっていった自覚もある。それがとても大人げない行為だというのを、打刀はしっかり認識していた。
 それでも止められなかった。不味くはないが、格別美味くもない。腹を満たしたいならこれで充分かもしれないが、歌仙兼定の美意識にはそぐわなかった。
 丁寧に出汁を取り、素材の旨味を殺さず、ひとつひとつを宝石のように扱って調理する。
 そうやって出来上がった料理は抜群の美味さながら、完成するまでに膨大な手間と時間が必要だった。
 以前なら、それでも良かった。
 しかし今、本丸に集う刀は六十振りを越えた。その全員の腹を満たすのに、彼のやり方は非常に効率が悪かった。
「駄目ですか?」
 身を屈め、短刀が上目遣いに覗き込む。
 膝を突き合わせて囁かれて、男は口惜しげに唇を噛んだ。
 もしや彼は、これを言う為だけにわざわざこんな手の込んだ真似を仕組んだのか。
 歌仙兼定の料理は、手が込んでいる分、確かに美味しい。ほかに比べるものがないくらいに、とても繊細な味付けだった。
 しかしその細やかな配慮を喜び、じっくり堪能する刀が少ないのもまた、事実。刀剣男士の多くは、とにかく腹が満たせればそれでいい、という立場だった。
 一度にたくさん作れないという理由で、打刀の料理は一皿当たりの量が少ない。それもまた非難の的であり、不評の遠因となっていた。
 だが彼は、周りがなんと言おうと、まったく耳を貸さなかった。
 これが自分のやり方だと言い張り、断固として曲げなかった。必然的に調理時間が長引いて、朝から晩まで、台所から一歩も外に出られない日が増えて行った。
 彼と当番で一緒になった刀らは総じて嫌な顔をして、あれこれ五月蠅く言われると不満を漏らした。ちょっとでも手を抜けば責められて、気に入らないなら出て行け、と怒鳴り散らされた。
 料理とは、楽しいものではなかったのか。
 美味しいものを食べた時の、皆の顔が綻ぶのが堪らなく嬉しい。だから多少辛かろうと頑張れるのだと言っていたのは、いったいどこの誰なのか。
「お小夜、僕は」
 矢継ぎ早に糾弾されて、歌仙兼定は言葉を失った。
 言いかけたが途中で息を詰まらせて、鋭い眼光に顔色を悪くした。
「手を抜くことと、手間を省くことは、違うと。僕は、思います。歌仙」
 細かく震える指先を隠し、拳を作った。
 丹精込めて作って来たものを否定されたのが苦しくて、胸が張り裂けそうだった。
 本丸が今のような賑わいを持たなかった頃、包丁を握れる刀は貴重だった。
 料理などしたことがない刀剣男士が大多数を占める中、歌仙兼定は嬉々として皆の腹を満たしてくれた。人見知りで気難しいところがある刀でも、台所に立っている限り、仲間内では英雄扱いだった。
 しかし今、彼の強すぎる拘りに味方する者は少ない。
 最初は芋の皮を剥くのさえ覚束なかった仲間らも、次第に自分たちで食事を作れるようになっていった。そしてあれこれ工夫を重ねていくうちに、打刀の非効率さに気が付いた。
 手間を掛けた分だけ美味しくなるのは、理解出来る。
 だが工程をいくつか省き、作業を簡略化しても、似たようなものは作れてしまうのだ。
 多少味が劣っても、誰もそこまで気にしないし、歌仙兼定を責めたりしない。
 一生懸命になるのは良いことだが、周囲にまでそれを押し付けるのは、褒められた行為ではなかった。
「……分かる。分かるよ、お小夜」
 裏でこそこそ言われているのは知っていた。一年前なら喜ばれたことが、今では通用しなくなっているのも承知していた。
 それでも簡単には切り替えられなかった。
 時間を掛けて育て、培ってきた知識や経験を捨て去るのは、容易ではなかった。
 他にやり方があると思いつつも、決心がつかなかった。今から新しい手腕を試そうにも、失敗した時のことを考えると、覚悟が定まらなかった。
 結局これまで通りをずるずる続け、思い通りにならないと苛立った。周囲に当たり散らし、ただでさえ下がる一方の評価を更に下げて、袋小路から抜け出せない。
「けれど、では、僕はどうすれば良いんだ」
 これでも打開策を考え、悩み抜いて来た。
 それでどうにもならなかったものを、責められるのはやりきれなかった。
 両手を広げ、歌仙兼定は吼えた。にっちもさっちもいかなくて、初めて他者に助けを求めた。
「あんまり、難しく考えなくても良いと思います。最初の頃の歌仙は、だって、今よりずっと、ずぼらでした」
「ええ?」
 そんな切羽詰まった男にさらりと言って、小夜左文字は相好を崩した。
 目を細め、口角を持ち上げた。抑えきれない感情を掌で隠して、素っ頓狂な声を上げた打刀に肩を震わせた。
「ずぼ、ら……?」
「はい。味噌汁だって今より薄かったですし、人参は、花模様ではなかったです」
「それは、その」
「でも、美味しかった。そういうので、いいんだと思います」
 歴史修正主義者との戦いが始まったばかりの頃、本丸でまともに料理が出来るのは歌仙兼定ひと振りだった。
 ただ、彼だって知識を有していただけで、実際に料理をしたことはなかった。失敗も多く、米を焦がし、魚を炭にした日もあった。
 手の込んだものは作れず、質素だった。
 それが我慢ならなくて、努力を重ね、研鑚を積んだ。
 もっと美味しいものを、もっと味わい深いものを、と追求した。手を抜かず、妥協せず、ひたすら邁進し続けた。
「前に、誰かが言っていました。歌仙の料理は、食べるのに緊張する、と」
「緊張だなんて、そんな」
「でも、分かる気がします。毎日食べる食事としては、豪華すぎるので」
 食材から拘り抜いて、見た目も華やか。盛り付ける器も豪勢で、間違って傷をつけようものなら何を言われるか分からない。
 茶碗を傾けて口に掻きこむのが憚られ、隣と雑談しながら食べるのも自然と控えてしまう。
 静まり返った空間で黙々と箸を動かして、膳が空になっても満腹になれない。
「お小夜もなのかい?」
 問えば目を逸らされて、打刀は背筋を寒くした。沈黙を肯定の意味と受け止めて、竦み上がった。
 悪寒が走り、ぞわっと内臓がざわめいた。脈が乱れ、呼吸の間隔が短くなった。
 頭がぼうっとして、なにも考えられなかった。陽の高い屋外だというのに辺りが暗く感じられて、奈落の底へ落ちていく錯覚に襲われた。
「祝い膳は、毎日食べないから、特別なんでしょう?」
 今までになく落ち込んで、言葉が出ない。
 短刀の慰めも耳に入らず、鼻の奥がツンと来て、目尻に涙が溢れた。
「歌仙」
「僕は、ただ。皆に、本当に良いものを、食べさせてやりたいだけで」
 泣くつもりなどなかったのに、止まらなかった。ひと粒はらりと零れ落ちて、頬を濡らした。
 自分でも驚いて、慌てて拭うが感覚は消えない。吸い込んだ空気が喉に張り付いて、草花の青臭さが目に沁みた。
「あのひとたちも、みんな、本当は、分かってます」
「だったら、どうして」
 打刀が手を抜かないのは、己の我が儘を押し通すのが目的ではない。喜んで欲しくて、笑顔になって欲しくて、彼なりに一生懸命になった結果だ。
 それを小夜左文字は否定しない。彼だけでなく、屋敷に住まう多くの刀たちも、心の中では認めていた。
 ただ状況が、彼の理想を許さなかった。
 それに。
「僕は、それで歌仙が倒れるのは、嫌です」
 膝を揃え、短刀が言った。
 相手の目を見てきっぱり告げて、頬を擦る男の手を下ろさせた。
 代わりに背筋を伸ばし、瞼を下ろした。少しだけ赤くなっている場所に、更に赤い唇を寄せて、ほんの一瞬重ねて、離れた。
 確かに触れた柔らかな感触に、驚いた打刀の涙がぴたりと止まった。惚けた顔で凍り付いて、ぽかんと口を開けた間抜け顔を曝した。
「お小夜?」
「当番の日は、歌仙。朝からずっと、立ちっぱなしでしょう。夜遅くまで休みなしなのも、感心しません」
 どうしてそうなったのかが分からなくて、頭がぐるぐるした。
 眩暈を起こして倒れそうになった彼を繋ぎ止めたのは、小夜左文字のひと言だった。
 照れているのか顔を赤くして、口を尖らせて一気に捲し立てた。珍しく早口で、怒っているのがはっきり表れていた。
 機嫌を損ね、臍を曲げていた。
 拗ねて、小鼻を膨らませていた。
「え、ええっと……」
「歌仙の御飯は、美味しいです。とても。でも、それで歌仙の時間がなくなるのは、おかしいです」
 合いの手を挟もうとしたけれど、上手く言葉が出て来ない。そうしている間に短刀はぷんすか煙を噴き、苛立ちを露わに空の葛籠を叩いた。
 べちん、と軽い容器が浮き上がり、ひっくり返った。
 用済みとなった包み紙やらなにやらが散乱して、当の小夜左文字も、しまった、という顔をした。
「と、……とにかく。歌仙はもっと、力を抜くことを、覚えてください」
 真剣に取り組むのもいいが、毎回それでは疲れてしまう。張り切るのは晴れの日くらいにして、それ以外は適度に力を抜き、頭をからっぽにして取り組めばいい。
 元々技術は高いのだから、少々手を抜いたところで、そこまで酷い出来にはなるまい。
 そうして余った時間で、茶を点てたり、縁側で微睡んだり。
 庭を散策し、同情で汗を流し、作歌に興じ、書に親しむ。
 退屈だと言って、欠伸をしている暇はない。
「……ああ、そうか」
 我を貫き通そうとして、近頃の歌仙兼定は屋敷の中で孤立していた。馬鹿にしてくる連中を見返してやりたくて、凝り性が益々酷くなっていた。
 朝から晩までそればかりで、周囲に気を配る余裕がなかった。
 小夜左文字とも、最近はまったく出かけていなかった。
 直近では短刀の方が断っていたのだが、それはそれ。打刀と仲間たちの間にある軋轢をなんとかしようと、彼なりに配慮した結果だから、責めるつもりはなかった。
 気が付かないうちに、視野が狭くなっていた。
 初心を思い出させてくれた相手に感謝を示し、歌仙兼定は頬を緩めた。
「ありがとう、お小夜」
 仲間を喜ばせたいと思っていたはずが、いつの間にか自己満足のための手段になっていた。
 皆が反発するのも、当然だ。
 憑き物が落ちた顔をして礼を述べて、彼は一瞬惚けた後、嬉しそうに目尻を下げた短刀に見入った。
 そして。
「これからは、お小夜と出かける時の弁当にだけ、たっぷり時間をかけるようにしよう」
「え……って、歌仙!」
 金輪際、朝昼晩の食事には手間を掛けないと決めた。特別な日の、特別な相手のためだけに時間を費やし、心を砕くと胸を張った。
 得意げに言い放ち、破顔一笑する。
 小夜左文字はぽかんとした後、顔色を青から赤に入れ替えた。
 大声で怒鳴られても、少しも怖くない。逆に楽しくなって、打刀は伸ばした指で小振りの鼻を小突いた。
「お小夜は、どうだい?」
 詰め寄って来た少年を制し、意地悪く問いかける。
「う、……う、れしい、……です」
 最大級の特別待遇に、短刀は目を泳がせ、顔を伏した。

花ざかり梢をさそふ風なくて のどかに散らす春に逢はばや
山家集 春 135

2017/04/01 脱稿

何か山辺の 友にならまし

 その後ろ姿は挙動不審で、ひっきりなしに左右を確認していた。
 落ち着きがなく、気もそぞろだ。爪先立ちで足音を消し、猫のような動きだった。
 こっそり盗み見られているとも知らず、早足で廊下を通り過ぎる。曲がり角に至る度に後方を確認して、目的地へと急いだ。
 もっとも行き先は、つまみ食いを狙った台所でなければ、本丸全体の運営資金が納まった金庫でもない。屋外へ出るべく、靴が並べられた玄関だった。
 上がり框に腰を下ろし、踵が少し高くなった沓を見つけて手元へと引き寄せる。早速右足から履こうとして、爪先を入れるべく留め具を外した。
「歌仙?」
「ぎくっ!」
 そこを狙って名前を呼んで、小夜左文字は深々と溜め息を吐いた。
 前方では口から出そうになった心臓を飲みこんで、藤色の髪の打刀が仰々しく振り返った。
 ほんのり朱を帯びた頬は引き攣り、全体的に強張っていた。空色の瞳は瞳孔が開いて、土気色の唇はわなわな震えていた。
 一度だけこちらを見た後は、目を合わせようとしない。余所を向き、右往左往して、履きかけの沓を弾みで蹴り飛ばした。
 他の刀の靴を巻き添えにして、盛大にひっくり返した。その中に、江雪左文字の雪駄が混じっているのを見て、藍の髪の短刀は力なく肩を落とした。
「どこへ、行くんですか。歌仙」
 空はまだ白み始めたばかりで、西の空には夜の気配が残っている。
 太陽が登り切るにはまだしばらく時間がかかり、屋敷に暮らす刀の大半は未だ布団の中だった。
 夜の間に空気が冷えて、肌寒さは否めない。台所では当番の男らがせっせと包丁を振るい、朝餉の準備に取り掛かっていた。
 そんな早朝の時間帯、遠征任務の出発はまだ先だ。出陣を言い渡された面々も、身支度を調えている最中で、玄関先に出てはいなかった。
 だのにこの男は、裏地が派手な外套までしっかり着込み、寒さ対策を万全にした上で、外へ出ようとしていた。
 いったい、どこへ行くつもりだったのか。
 予想し得る可能性をいくつか頭に思い浮かべ、小夜左文字は静かに返答を待った。
 その眼光は鋭く、険しい。決して朗らかに緩みはせず、打刀を睨んで逸らさなかった。
 突き刺さる眼差しに臆し、歌仙兼定はひく、と喉を鳴らした。咥内の空気を飲みこんで、不自然に目を泳がせた。
「いや、えっと。お小夜、これは」
「聞いていることに答えてください、歌仙」
 両手を振り回して必死に言い訳を試みるものの、頭が真っ白で、言葉が碌に出て来ない。
 それでもなんとか言い繕うとした彼を遮って、短刀の少年は返答を急かした。
 真っ直ぐ見つめられて、歌仙兼定の顔色がひと際悪くなった。助けを求めて辺りを見回すが、残念ながら玄関先には彼らふた振り以外、誰もやってこなかった。
 窮地を脱するには、自分でなんとかするしかない。
「いや、あの。ちょっと、散歩、に……」
 焦り、声を上擦らせた彼が言い放ったのは、そんな苦し紛れのひと言だった。
「わざわざ身繕いして、ですか?」
「そっ、そうさ。何事も、雅であらねばいけないからね」
 それが、打刀には天啓に導かれたかのように思えたらしい。
 訝しげに眉を顰めた短刀相手に、男は急に勢いづいた。
 両腕をばっと広げたかと思えば、不遜に笑ってうんうん頷いた。得意げに胸を張って、靴を履かぬまま玄関へ降りた。
「そうですか」
「ああ、そうだとも」
 最初からそういうつもりだったと言わんばかりの態度を示し、裏返っていた草履を踏んだところで上がり框へ戻った。爪先の汚れを軽く払って落とし、短刀の反論を待って目を眇めた。
 出陣も、遠征も言い渡されておらず、近侍を任せられてもいない刀は、大体が内番着で過ごしていた。
 汚れても構わない上に、動き易い。勿論出陣時の衣装もそうでなければならないのだが、武具がない分軽く、気が楽だった。
 だから小夜左文字も、尻端折りこそしていないけれど、いつもの内番着姿だ。襷は折り畳んで懐に入れて、いつでも取り出せるようにしてあった。
 ところが歌仙兼定は、庭を散策するためだけに、わざわざ戦装束に身を包んだという。
 彼なりの雅さの表現だ、と言い張っているけれど、嘘なのは明白だった。
 歴史修正主義者の目的を挫くべく、時間遡行軍との戦いが始まってから、もう結構な時が経った。
 審神者なる者に現身を与えられた刀剣の付喪神は、刀剣男士として日々活動を繰り広げていた。時を遡って歴史への不当介入を阻止することもあれば、畑を耕し、馬を世話し、人間と変わらないような毎日を送っていた。
 その本丸で過ごして来たこれまでの時間で、歌仙兼定が散歩のためだけに身なりを整えた回数が、どれだけあっただろう。
「そう、散歩ですか」
「ああ。お小夜、そうさ。他になにがあると言うんだい?」
 だがそこは敢えて突っ込まず、小夜左文字は相槌を打つだけに留めた。
 俯いて小さく頷き、一気に饒舌になった男を一瞥する。
 途端に歌仙兼定は怯み、嫌な気配を覚えてたじろいだ。
「では、その散歩に、僕もご一緒して良いですか」
「えっ」
 長いようで短かった冬が終わり、庭の雪は全て溶けた。庭木に巻き付けていた菰は外され、正月気分はとっくに過去のものとなっていた。
 寒さに耐えた植物は春の気配を受けて一斉に芽吹き、桜の花は早々に咲き始めていた。満開は間もなくで、花見好きの刀らはその日を心待ちにしていた。
 昨日まで堅かった蕾が、今朝は綻んでいるかもしれない。
 薄桃色に色付こうとする木々を眺めて回るには、早朝のこの時間帯はうってつけだった。
 喧しい連中に邪魔されず、のんびり観賞できる。
 悪くないと口角を持ち上げた短刀に、打刀は何故か困った顔で仰け反った。
 再び三和土へ落ちそうになって、踵が飛び出したところで急ぎ足を戻した。簡単には転落しない安全圏まで出て、ゆっくり歩み寄ってくる短刀に目を白黒させた。
「あ、あの。お小夜」
「いいでしょう、歌仙?」
 ひと振りでの散歩も楽しいが、話し相手がいた方が盛り上がるに違いない。
 小夜左文字は、普段から単独行動したがる刀だ。だから彼の方からこんな申し出をするのは、とても珍しいことだった。
 いつもは歌仙兼定が誘って、つれなく断られていた。その記憶があるだけに、まさかの誘いに驚いたし、拒否できるわけがなかった。
 強請って擦り寄って来た短刀を、どうして押し返せるだろう。
 苦渋の選択を迫られて、打刀は揺れ動く天秤を飲みこんだ。
「それとも、歌仙。まさか万屋へ、いくつもりだったんですか?」
 眉間に皺を寄せた男に、小夜左文字が息を潜め、声を低くした。
「ま、まさか! そんなわけが、わけが」
 それでハッとして、歌仙兼定は声を上擦らせた。動揺しているのが丸分かりの叫び声をあげて、詰め寄った短刀にぶんぶん首を振った。
 緩く湾曲した毛先を躍らせ、青白い肌を懸命に誤魔化した。眼前まで迫った少年をまともに見つめ返せず、言葉はしどろもどろだった。
 図星を指摘されたと、態度が告げている。
 非常に分かり易い打刀に深く肩を落とし、年嵩の短刀は微かに痛むこめかみを叩いた。
「分かっているとは思いますが」
 これまで散々繰り返してきた説教を、また口にしなければいけないのかと思うと辛い。
 何度言い聞かせても全く反省しない打刀をギロリと睨みつけ、小柄な少年は右足を思い切り床に叩きつけた。
 バンッ、と大きな音と振動を響かせて、びくついている男に向かって伸びあがる。
 大きすぎる身長差を僅かでも縮めて、小夜左文字は途端に気弱な表情を作った昔馴染みに人差し指を突き付けた。
「いいですか、歌仙。万屋は、禁止です。こっそり隠れて行こうだとか、絶対に、許しません」
「お小夜……」
 一言一句噛み締めて、細切れにして告げた。
 気迫の籠もった説得に歌仙兼定はがっくり肩を落とし、項垂れて小さくなった。
「どうしても、かい?」
「当たり前です。歌仙、あなたは今日まで、いったいどれだけ、無駄遣いしてきたと思ってるんですか」
「けど、お小夜。あれはみんな、僕の給料で」
「そうですか。僕が立て替えた分も、歌仙の給金だった、と」
「うぐ――」
 もう一度床を蹴り、朝早くから玄関で罵声を轟かせる。
 頭に血が上り、興奮のあまり早口になった短刀に、打刀は萎れた花と化して膝を折った。
 反論を試みたが一蹴され、打つ手がなかった。痛いところを追及されて、最早なにも言い返せなかった。
「なにか文句がありますか?」
「いや、なにも……」
 ふん、と鼻息を荒くした小夜左文字に問われ、力なく首を振るのが精一杯。
 溢れ出そうになった涙を堪えて、歌仙兼定はしょんぼり項垂れた。
 事の始まりは、彼の浪費癖を短刀が指摘したことだ。月に一度の給金を数ヶ月分前借していると、偶然耳にした小夜左文字が、本当かどうか問い詰めたのがきっかけだ。
 へし切長谷部が誰かと立ち話している時、偶々近くを通りかかって聞いた話だ。これは嘘か真か確かめなければならないと、短刀はその日のうちに打刀へ回答を求めた。
 結果、噂は真実と分かった。挙げ句、小夜左文字が把握していない借金まで多数抱えているのが判明した。
 もともと金遣いが荒かったが、最近益々酷くなっていた。いったいどこから資金を調達しているのか気になっていたが、よもや仲間内から手広く借りているとは、夢にも思わなかった。
 打刀の部屋を調べたら、出てくること、出てくること。
 見たことのない大量の茶器や壷を前にして、ついに堪忍袋の緒が切れた。
 そうして布告されたのが、歌仙兼定万屋行き厳禁、の報だった。
 期限は、膨大な借金が完済するまで。彼に金を貸した刀の中には、くれたものとして返却不要と手を挙げた者もいたが、そこに甘えるのを小夜左文字は許さなかった。
 借用書を取ったものは勿論のこと、取らなかったものも、覚えている限り全て返済させる。
 そう息巻く短刀を、いったい誰が止められるだろう。
 悪いのは、どこをどう見ても歌仙兼定だ。これも止む無し、と周囲は小夜左文字の意見に同調し、誰も打刀に同情してくれなかった。
「ううう……」
「散歩、行かないんですか?」
「お小夜が冷たい」
「冷たくありません。これでも精一杯、歌仙を労わってます」
 膝を抱いて丸くなった男の肩を叩くが、歌仙兼定は顔を上げなかった。下を向いたまま鼻を愚図らせて、恨み節を呟いた。
 それをまたもや一蹴して、小夜左文字は捲し立てた。よしよし、と落ち込む刀を慰めて、賑やかになり始めた後方を振り返った。
 布団を出た刀たちが、続々と行動を開始していた。寝間着を脱いで、着替えを済ませ、朝食を食べようと廊下を行き交っていた。
 調理場からは美味しそうな匂いが漂い、つられてぐう、と腹が鳴った。
 今日の献立は、なんだろう。当番が誰だったのかを思い出そうとして、余所向いていた小夜左文字は次の瞬間、指先にぐっと力を込めた。
「何処に行くんですか」
 この隙に、と逃げ出そうとしていた男の悪足掻きを封じ、冷たく問い質す。
 短刀の逆鱗に触れた打刀は頬をヒクリ、と引き攣らせ、かつてないほど冷徹な眼差しに竦み上がった。
「歌仙」
「だ、だって、仕方がないだろう。欲しいものは、欲しいんだから。給料が、少なすぎるのが、いけないんだ」
「給金は、皆同じです。どうして我慢出来ないんですか」
「風流を嗜むには、資金が必要なんだよ」
「そんなものがなくとも、いくらでも風流に接するのは可能です。我が儘を言わないでください」
「墨が、紙が、もうじき尽きそうなんだ。それくらい、許してくれたって構わないだろう?」
「紙も、墨も、本丸側で支給されています。歌仙が自分で買わずとも、備品倉庫に沢山あるでしょう」
「あんな低品質なものを使っていたら、僕の品位に関わる!」
 ああ言えば、こう言い返す。大量の借入金も、自己投資への必要経費だと主張して、一向に譲ろうとしない。
 返せないくらいに借りているのが問題だと言っているのに、そこに耳を貸そうとしなかった。このままでは首が回らなくなり、仲間内からそっぽを向かれることにもなりかねないのに、まるで意に介さなかった。
 自分が用いるものは、高価で質の高いものでなければならない。
 そういう拘りばかりが強くなって、意固地になっている雰囲気だった。
 歌を記す紙がいかに高級品であろうと、そこに気を遣うのは歌仙兼定くらいだ。
 高価な茶碗を使う茶会は、誘われても気軽に参加出来ない。茶葉を厳選したと言われても、味に関心がない刀は、その違いが分からない。
「……仕方ありません」
 あれこれ拘るのは、自己満足でしかないと、何故分かろうとしないのか。
 自分だけが責められ、咎められ、不公平だと的外れな苦情を吐き散らす男に、心底愛想が尽きそうだった。
「お小夜?」
 起きて来る刀が増えて、玄関前は混雑し始めていた。食堂を兼ねる大座敷への通路になっているので、食事に来た仲間の大半が彼らの傍を通り過ぎた。
 大声で騒ぐふた振りに、過半数が何事かと興味本位の目を向けて来た。
 注目を浴びるのは嬉しくなくて、小夜左文字は根負けだ、と白旗を振った。
 力なく溜め息を吐き、歌仙兼定に向き直る。
 もしや許しが得られるのか、と期待した男は目を輝かせ、興奮気味に次の言葉を待った。
 だが。
「なら、歌仙が万屋へ出入り禁止の間、僕も同じく、万屋へは出向かないと約束します」
「――は?」
 短刀が語ったのは、打刀が期待した内容とはまったくの別物だった。
 咄嗟に理解出来なくて、歌仙兼定は目を点にした。パチパチと何度も瞬きを繰り返して、真顔で佇む少年をまじまじと見つめ返した。
 あまりにも熱心に見詰められて、顔の真ん中に穴が開きそうだ。それは困ると眉を顰め、小夜左文字は惚けている男の額を小突いた。
「歌仙が我慢するなら、僕も我慢する。それでいいでしょう」
「いや、よくはな……いだだだだだ」
 自分だけ不公平な扱いを受けるのが嫌だ、と言うのなら、一緒に不便さを共有する仲間がいれば良いのではないか。
 そんな発想から出た短刀のことばに、打刀はぽろっと言いかけて、耳を抓られて悲鳴を上げた。
 捩って、引き千切られそうになった。この世のものとは思えない痛みに絶叫して、歌仙兼定は衆目の面前で悶絶した。
 小夜左文字としては、断固として打刀の万屋行きを阻止しなければいけない。気に入ったものは是が非でも手に入れたがる悪癖がある男を、誘惑の坩堝へ放り込むなど、あってはならない話だった。
 以前はちゃんと我慢出来ていたのに、いつからか、歯止めが利かなくなっていた。
 昔はもっと利口だった。それがどうして、こうなってしまったのだろう。
「ほら、歌仙。ぐずぐずしていないで。食事が冷めます」
「お小夜が、冷たい」
「そんなこと、ありません」
 結局許しを得るのは叶わず、買い物禁止令は撤回されなかった。代理を遣る、という手段まで封じられて、歌仙兼定は情けない顔で鼻を啜った。
 子供のような拗ね方をして、潔くない。
 今度は本気で捩じ切る、と耳朶を抓る仕草をされて、彼はようやく立ち上がった。
 袴を叩いて埃を払い、憤然とした面持ちで短刀を睨みつける。
 小夜左文字はそれを平然と受け流して、右の小指を差し出した。
「やりますか?」
 誓いを破ったら、針千本。
 指切りを催促してみたが、歌仙兼定はゆるゆる首を振った。
「そもそも、お小夜。君はあまり、万屋に用がない。この約束事に、意味はあるのか」
「それは歌仙だって、同じでしょう。足繁く通う必要がない場所だと、今、自分で認めましたね」
「君はいつから、そんな小狡くなったんだ」
 両手を広げて訴えられたが、取り合わない。逆に揚げ足を取り、攻撃材料に利用すれば、打刀は話をすり替えた。
 表情に僅かながら諦めが見えて、この提案に、少なからず効果はあったようだ。小夜左文字は満足げに頷くと、結局手を伸ばして来た男と指を絡ませた。
 小指同士を繋いで、軽く上下に振って、切り離す。
「男に二言はないね、お小夜」
「もちろんです、歌仙」
「ちゃんと見ているからね。こっそり隠れては、許さないよ」
「分かってます」
 歌の代わりに双方言い合って、小夜左文字は自信満々に頷いた。朗々と響く声できっぱり言って、歌仙兼定を喜ばせた。
「言質は取ったよ」
 もしどちらかが、万屋で買い物をしたと判明したら、針千本。
 もしくはそれに代わる罰を受けると誓い合って、彼らの珍妙なやり取りは始まった。
 互いに相手が勝手を働かないか観察し、監視する。遠征に出る時の寄り道も、いつの間にか禁止に加えられていた。
 買い食いでもしようものなら、一緒に遠征していた仲間が皆に報告する。本丸全体を巻き込んで、多くの仲間が面白おかしく実況した。
 勿論小夜左文字自身も、時間が許す限り、歌仙兼定を監視し続けた。
 本丸にいる間は、行動はなるべく揃えた。打刀が調理当番なら、短刀はこれを手伝う。短刀が畑当番なら、打刀も嫌々ながらこれに付き合った。
 庭の散策も、馬の手入れの時も、何をするにも一緒。
 書を読む時は、短刀が打刀の膝に座った。打刀が疲れて昼寝をする時は、短刀が膝を枕として差し出した。
 傍目には、仲睦まじく見えたかもしれない。
 けれど当人らは割と必死で、真剣に相手を監視していた。
「なー、小夜。今から万屋行ってくるんだけど、饅頭かなんか、買ってきてやろうか?」
「え?」
 そんな日々の中でも、誘惑は当然のようにやってくる。
 たまたま打刀が近くにいない時に話しかけられて、小夜左文字は目を丸くした。
 玄関で靴を履いていた厚藤四郎が悪戯っぽく右目を瞑り、後ろの乱藤四郎はうんうん頷いた。秋田藤四郎は人差し指を口に当て、内緒だ、という仕草で合図を送った。
 思わず背後を振り返り、短刀は魅力的な提案に思わずぐっと息を飲んだ。
 歌仙兼定との、賭けのような約束事を取り交わしてから、既にひと月半近く。
 元から無駄遣いと無縁だった刀だから、楽勝で乗り切れると思っていた。しかし自由に買い物に行けないのは、意外に不便なのを痛感していた。
 日用品は本丸の備品で事足りるが、防具の交換でまず苦慮させられた。破れた分を買い替えたくても出来ないので、糸で繕うことでなんとか乗り切っていた。
 愛用の筆が壊れたのも、悲惨だった。
 仕方なく屋敷にあるものを借用したが、共用品なので、ずっと所持しておくわけにはいかない。必要な時に借りに行って、終わったら戻しに行く、その工程が非常に手間だった。
 小腹が空いた時に軽くつまむものが欲しくても、簡単には手に入らない。
 一から作るのは大変で、時間の浪費も激しかった。貴重な食糧を無断で、大量に使うのは憚られ、結局は我慢を強いられた。
 自分の金で買ってしまえば、それは全て自分のものになる。
 屋敷にあるもので代用が可能だ、と大それたことを言ったが、それは誤りだったとひしひし感じていた。
「でも、僕は」
「いーじゃねえか。黙っててやるからよ」
 思いがけず誘われて、反射的に頷きそうになった。自分で言い出しておきながら、甘い囁きに惹き付けられ、天秤がぐらぐら揺れていた。
 厚藤四郎の再度の進言が実に魅力的で、心が傾きかけた。
 歯を見せて笑う残りふた振りも同じ気持ちらしく、小夜左文字に向かって首を縦に振った。
 彼らは、当たり前だが小夜左文字と歌仙兼定とのやり取りを知っている。そして心情的に、短刀寄りの立場を表明していた。
「ちょっとくらい、大丈夫だって」
「そうです、小夜君。我慢は、身体に良くないです」
 擦り切れてボロボロになった肌着をいつまでも着用し、八つ時の菓子も手作り以外は全て断る。
 遠征で他の仲間が団子を頬張っている間は外で過ごし、決して弱音は吐かない。
 元はと言えば歌仙兼定の浪費が悪いのに、小夜左文字まで巻き込むなど、酷い。そう言って憚らない彼らに背中を押され、決心が鈍りかけた。
「えっと、じゃあ……」
「お小夜」
「!」
 そこまで彼らが言うのなら、強く断るのは申し訳ない。
 心の中でそんな言い訳をした少年は、直後に飛んできた呼び声にドキリ、と胸を弾ませた。
 頭の天辺から出かかった悲鳴を堪え、同時に首を竦めた短刀仲間から視線を逸らす。恐る恐る振り向けばそこには般若の面があり、鋭い角と牙がこちらを睨んでいた。
「か、せん」
「おやおや、厚藤四郎たちはお出かけかい?」
 表面上はにこやかな笑顔ながら、心の底では笑っていない。
 それが良く分かって、隠れてこそこそしていた短刀たちは一斉に冷や汗を流した。
 いつから、どこで話を聞いていたのだろう。完全に油断していた彼らは頬を引き攣らせ、目を細める打刀に愛想笑いを返した。
「う、うん。じゃあ、小夜。行ってくるね~」
「すぐ戻ります」
「またな、小夜」
「はい。いってらっしゃい」
 下手に誤魔化すよりは、このまま逃げた方が良い。
 咄嗟に判断した粟田口の少年らに向き直って、小夜左文字は話を合わせて頭を下げた。
 小さく手を振って見送り、傍まで来た打刀を仰ぎ見る。先ほどまでの恐ろしい表情は薄らいで、どことなく呆れている雰囲気が醸し出されていた。
「油断も隙もない」
「なにも頼んでなど、いません」
 腕を組んで愚痴を零され、短刀は反射的に言い返した。口を尖らせ、露骨に拗ねて、身体ごと顔を背けた。
 歌仙兼定に背中を向けて、歩き出す。それに僅かに遅れる格好で、打刀も後ろをついてきた。
 つかず離れず、互いが見える近さを保つ。
 すっかり身に馴染んだ距離に若干苛立って、小夜左文字は思い切って方向転換した。
「お小夜」
 身体を反転させれば、正面に男の腰から胸元が見えた。身長差があるので、顎を引かないと顔が見えないのが悔しかった。
 むすっとしたまま瞳を上向け、視界に打刀の顔を映し出す。
「ついてこないでください」
「この状況で、それを、僕に言うのか」
「……じゃあ、好きにしてください」
 文句を言えば、言い返された。一ヶ月半前、散々繰り返したやり取りの攻守が入れ替わり、劣勢に立たされた短刀は不満を露わに吐き捨てた。
 不味いところを見られただけに、強気に出られない。はぐらかすことも出来なくて、厚藤四郎らに倣い、今はひたすら逃げるしかなかった。
 愛想悪く言って、瞬時に踵を返す。歌仙兼定は特に何も言わず、大人しく後ろを追いかけて来た。
 意味もなく屋敷中をぐるぐる歩き回る間も、一定の間隔を保ち、離れていかなかった。
 これぞまさに、監視だ。振り切るのは容易ではなく、終わらせるのは簡単ではなかった。
 どこで立ち止まるべきか分からず、延々と続けるしかない。途中からは根競べの様相が強くなり、すれ違う刀たちは興味深そうに、或いはぎょっとして、彼らの行く末を見守った。
 そうして気が付けば、結構な時間が過ぎていた。
 庭に面した縁側を、もう五往復か、六往復かした頃だろうか。
 通っていない場所などない、というくらいに屋敷中をうろつき回った小夜左文字の耳に、帰宅を告げる短刀たちの声が届けられた。
「ただいま~」
「あ~、楽しかった」
「ただいま戻りました!」
 万屋へ出かけた三振りが、特に大きな問題もなく、無事戻って来たらしい。姿は見えないが、聞こえて来た声の調子から判断して、彼はちらりと後ろを振り返った。
「ん?」
 歩調も鈍り、距離が狭まっていた。存外近くにいた男と目が合って、小夜左文字は訳もなくばっと顔を背けた。
 外を見れば、陽は西に傾いている。もうしばらくすれば空一面が朱色に染まり、東から闇が迫るだろう。
 動いている間は感じなかったのに、時間の経過を意識した途端、ドッと疲れが押し寄せて来た。もうこれ以上歩く気になれず、歩みは完全に止まってしまった。
「どうしたんだい、お小夜」
「いえ。ちょっと、飽きただけです」
「……飽きる」
「はい」
 一方でまだまだ元気だった打刀は、そのまま足を進めようとした。
 それで短刀とぶつかりかけて、慌てて右に避けた。
 立ち止まった理由に若干不満そうな顔をして、数秒してから嗚呼、と頷いた。彼の中で何かが解決したらしく、拗ねた表情は一瞬で掻き消えた。
「休憩しようか。茶を煎れよう」
「では、台所に」
 気を取り直し、軽やかに告げられた。願ったり叶ったりの提案を拒む理由はなく、小夜左文字は間髪入れずに首肯し、進路を変えようとした。
「いや、お小夜はここに」
 それを制して、打刀が手を振った。にこやかな笑顔と共に告げて、足元――西日が眩しい縁側を指差した。
 今の今まで、短刀から離れようとしなかった男が、だ。
「いいんですか?」
 ろくに言葉も発さず、ひたすら後ろから見張っていたくせに、急に方針を変えた。
 小夜左文字は驚き、呆気に取られてぽかんとなった。惚けた顔で問い返せば、歌仙兼定は口角を持ち上げ、うんうん、と二度頷いた。
「信じているよ、お小夜を」
 朗らかに言い切って、釘を刺した。
「は、い」
 肩にずしりと信頼への責任が圧し掛かって、藍の髪の少年はそう返事をするのが精一杯だった。
 短刀の首肯を受けて、男は颯爽と踵を返した。足早に縁側を抜けて、美味い茶を煎れるべく、台所へ向かって駆けて行った。
 それと入れ替わる格好で、縁側に接する座敷に例の三振りが入ってきた。万屋の印が入った袋をぶら下げて、どの刀も満面の笑顔だった。
「たっだいま~」
「お帰りなさい」
 立っているのも疲れると、腰を下ろした小夜左文字に気付き、乱藤四郎が真っ先に声を上げた。一緒に右手をぶんぶん振って、兄弟を伴い、一直線に近付いて来た。
 畳から板張りの空間に出て、膝を折って身を屈めた。厚藤四郎や秋田藤四郎も彼に倣って、左文字の末弟を三方から取り囲んだ。
 些か圧迫感があるが、そこまで不快ではなかった。昔は嫌で仕方がなかったけれど、今はさほどでもなくて、状況を当たり前のように受け入れていた。
「良いものは、ありましたか?」
「おうよ。見ろよ、これ。新作だって。美味そうだろ~?」
 興味惹かれて自分から問いかければ、厚藤四郎が袋をガサガサ言わせた。出て来たのは真ん中に穴が開いた菓子で、小麦を練って形成したものを、高温の油で揚げたものだ。表面には触感に変化を持たせるべく、粒子の細かい粉が塗されていた。
 燭台切光忠も、たまに似たようなものを作ってくれた。だが万屋には色々な種類が売られており、新しい味付けが頻繁に追加された。
 今回彼が買ってきたのは、いつもの白っぽいものでなく、黒に近い茶色をしていた。
「焦げているのでは?」
「あはは、まっさか~。それでね、僕はね、これっ」
 見た瞬間ぎょっとなった小夜左文字に笑いかけ、乱藤四郎が自前の袋を広げた。現れたのはこれまた奇抜な、濃緑色をした菓子だった。
「僕は、僕と同じ色にしました」
 秋田藤四郎が見せてくれたのは、彼の髪に近い桜色だった。
 形状はどれも、中心部が空洞の菓子だ。どうやら使われている生地に抹茶や、なにやらを混ぜ込んで、鮮やかに色を付けたらしかった。
 どれもこれも、小夜左文字が万屋に通っていた頃には売られていなかった。たった一ヶ月そこらなのに、話に全くついていけず、置いてけぼり感は凄まじかった。
 知らないうちに、時間は進んでいた。屋敷を歩き回っているだけで太陽が南から西に移動したように、小夜左文字を取り巻く世界は、常に動き続けていた。
「で、小夜には、これ」
「え?」
 不意に孤独を覚え、切なくなった。仲間との距離を覚えて哀しんでいたら、唐突に水を向けられ、ぽかんとなった。
 乱藤四郎が腕を伸ばし、輪状の菓子を差し出していた。
 真ん中の穴の向こうに、したり顔の少年が見えた。柑子色の髪を揺らして、楽しそうに笑っていた。
「僕、ですか」
「そうそう。これも新作だってよ。中に、蜜漬けの水菓子が入ってる」
「とっても美味しそうでした」
 唖然としていたら、左右から同時に言われた。良く見れば生地の中に細かな粒が混じっており、それが厚藤四郎の言う蜜漬けの果実らしかった。
 興奮した秋田藤四郎の鼻息が頬を掠め、思わずそちらを見た。次に厚藤四郎に向き直って、早く受け取るよう急かす乱藤四郎に焦点を定めた。
「はい、どーぞ」
「いえ、僕は……歌仙との約束が」
 これを受け取ったら、あの打刀との賭けに負けたことになる。万屋で、代理を含め、なにも購入してはならないと決めたのだ。それを破るわけにはいかなかった。
 だからと首を横に振り、膝にあった手をひっくり返した。掌を下にして腿に張り付け、言葉だけでなく、態度でも拒絶を表明した。
 奥歯を噛み、甘い誘惑に抗った。ほんのり香る甘い匂いは魅力的で、気を抜いたら涎が垂れそうだった。
 本音を言えば、食べたかった。とても、食べてみたかった。
 だが指がぴくりと動く度に、先ほどの歌仙兼定の言葉が蘇った。
 信じている、と言われた。
 ならば絶対に、裏切るわけにはいかなかった。
「小夜は、強情だなあ」
 唇を引き結び、無心の境地で意識を逸らした。目の前に呈されたのは甘く美味しい菓子ではなく、石で出来たまがい物だと信じ込もうとした。
 その態度に呆れて、厚藤四郎が苦笑した。胡坐を崩し、手にした甘味をひと口齧って、その美味しさに目を細めた。
「大丈夫ですよ、小夜君。これは、たまたま、数が余っちゃったんです」
 膝に落ちた欠片さえ拾って抓んだ彼の横で、秋田藤四郎が身体を揺らしながら訴えた。やや舌足らずに捲し立てて、最後ににっこり微笑んだ。
 乱藤四郎も弟に同意して、深く頷いた。疲れて来た右手を一旦戻して、抹茶味のそれにぱくり、齧り付いた。
「そーそー。別に、小夜のために買ってきたんじゃないけど、残しちゃうのはもったいないよね?」
 新発売が四種類並んでいて、どれも欲しくて、小遣いを出し合って買った。しかし三振りで四個は喧嘩になるので、小夜左文字に供することで妥協した。
 建前としては、筋が通っている。だが果たして、歌仙兼定に通用するだろうか。
 茶を煎れに行った男は、まだ帰ってこない。けれどそう時を経ないうちに現れるのは、想像に難くなかった。
「でも、……」
 そんな中で三振りから勧められて、心が揺れた。背信行為にならないかとの不安と、貯め込んでいた鬱憤や欲望が鬩ぎあい、鍔迫り合いを繰り広げていた。
「僕らが良いって言ってるんだから、いいの。細かいことは、気にしない」
「それにさ、歌仙さんも。案外分かってると思うぜ?」
「この頃の歌仙さん、小夜君にいっぱい構ってもらって、すごく楽しそうですしね」
 なかなかつかない決着に焦れて、乱藤四郎がやや不機嫌に言い放った。厚藤四郎は飄々とした態度を崩さず、秋田藤四郎と頷きあった。
「うん?」
 その彼らの発言が、咄嗟に理解出来なかった。
 どうしてそんな発想になるのかが分からない。惚けていたら、それこそ驚きだ、とばかりに粟田口に唖然とされた。
 齧っていた菓子を落としそうになり、厚藤四郎が慌てて残りを口に放り込んだ。もぐもぐと顎を動かし、塊のまま飲みこんで、口の端に残る滓を指で削ぎ落とした。
「もしかして、お前、気付いてない?」
「なにが、ですか」
「歌仙さんがいっぱい買い物し始めたの、小夜が修行に行ってからだよ?」
「え?」
 一斉に顔を引き攣らせた短刀仲間を順に見て、小夜左文字は目を点にした。予想だにしなかったことを言われて絶句して、もう一度、先ほどとは逆の順番で彼らを見た。
 目が合った三振り全てに、深く頷かれた。
 真剣な表情で見つめ返されて、背筋が急に寒くなった。
 ぞぞぞ、と悪寒が駆け抜けて、左文字の短刀は竦み上がった。ヒツ、と喉から掠れた息を漏らし、予期せぬ情報に四肢を戦慄かせた。
 考えたことがなかったけれど、言われてみれば、確かにその辺りからだ。歌仙兼定が後先考えず、無闇矢鱈と高級品に手を出し始めたのは。
 目を見張るほどに美しい蒔絵の硯箱、螺鈿細工が見事な筆。大胆な造形の茶器に、匠の技が詰め込まれた香合など等。
 得意げに見せられて、その度に彼の懐を心配した。こんなものに注ぎ込んでいないで、もっと堅実な使い方をするよう、口を酸っぱくして言い聞かせた。
 すると今度は、更に豪華な品を手に入れたと、嬉しそうな顔で見せに来た。
 反省の色が皆無で、説教ばかりが増えていった。
 その顛末が、今のこの状況だった。
「修行から戻って来た後も、出陣ばっかりだったしね」
「寂しかったんだと思います、歌仙さんは」
「そうそう。いち兄も、最初のうちはすごかったもんな」
 口々に言い合い、粟田口の刀が笑った。当時のことを思い出しているのか、手を叩き合わせ、高らかと声を響かせた。
 だが小夜左文字は、一緒に笑えなかった。
 呆気に取られて凍り付き、瞬きも忘れて己の掌を見詰め続けた。
 そんな風に考えたことは、一度もなかった。
 寂しかったから、構って欲しかったのか。相手をして欲しくて、自分の方を向いて欲しくて、小夜左文字の気を引く為に、彼は。
「僕が、怒って、ばかりだったから」
 それなのに歌仙兼定の意図に気付かず、叱りつけた。打刀の方も、そこで諦めて、別の手段を講じれば良いものを、短刀をもっと驚かせるものを探して、意固地になった。
 悪循環の連鎖だ。お互い相手を思いやっていたつもりで、心がずれていたのに気付かなかった。
 ずっと分からなかった答えが、ストンと落ちて来た。
 憑き物が取れた顔をして、小夜左文字は深く息を吸いこんだ。
「それで、小夜。これ、どうする?」
 兄談義で盛り上がっていたのがひと段落して、乱藤四郎が話を振って来た。
 彼の手には、例の余りだという菓子がある。それは万物の完全な形と言われる円形で、遠くを見通せる穴が中心に開けられていた。
 片目を瞑って覗き込んできた彼に、感謝の念が湧き起こる。
「いただきます」
「そうこなくっちゃ」
「おや、なんだい。楽しそうだね。……お小夜?」
 今度こそ有り難く受け取って、小夜左文字は顔を上げた。急須と湯飲みを載せた盆を手に、戻って来た打刀が言葉の途中で表情を曇らせた。
 車座になっていた短刀を一度に見て、一番奥にいた短刀に眉を顰める。
 そんな男の前で、彼は譲り受けた揚げ菓子を半分に割った。左右均等になるよう調整して、柔らかな生地を折り曲げた。
 ぱらぱらと滓が落ちたが拾わず、突っ立っている歌仙兼定に向かって腕を伸ばす。
「もらいました。歌仙も、どうぞ」
 購入を頼んだわけではなく、強請ったわけでもない。好意から分けて貰ったものだと強調して、囁く。
 黙って食べようとしたわけではない。
 同じだけの量を、ここで、一緒に。
「……まったく」
 約束を盾に受け取りを拒めば、小夜左文字もこれを食べるわけにいかなくなる。
 それはあまりに可哀想で、願わくば避けたかった。
「仕方がないね」
 諦めて、歌仙兼定は肩を竦めた。膝を折って屈み、盆を置いて、小さな手から菓子を受け取った。
「あ、僕もお茶、欲しいな~」
「湯飲み、取ってきます」
 湯気を立てる急須を見た乱藤四郎が騒ぎ出し、秋田藤四郎が率先して立ち上がった。慌ただしく駆け出して、背中はあっという間に見えなくなった。
「おや。意外と悪くない」
「へへ。今度、歌仙さんも作ってよ」
「了解した。そっちは、抹茶かな?」
 早速ひと口齧った歌仙兼定に、残る粟田口がまとわりつく。
 会話は軽やかで、聞いているだけで楽しかった。
「今度、一緒に、見に行きましょうか」
 茶器や花器は、買わなくとも、眺めているだけで充分だ。
 明日、自分から誘ってみようと心に決めて、小夜左文字は甘酸っぱい菓子を頬張った。

ひとり住む庵に月のさし来ずは 何か山辺の友にならまし
山家集 雑 948

垣根の梅の 匂ひなりけり

 午後、時間があれば話がしたい。
 歌仙兼定にそう言われたのは、昼餉が始まる少し前のことだった。
 大勢がごった返す広間で突然話しかけられて、要旨などなにも訊けなかった。こちらの都合など一切聞かず、言うだけ言って立ち去られて、訳が分からず、少々腹立たしかった。
 もし小夜左文字が多忙を極め、暇を作れなかったらどうするつもりだったのか。
「まったく」
 勝手極まりない男に憤慨しつつ、短刀の付喪神は足早に廊下を進んだ。
 長閑な日差しに包まれて、本丸内はどこも暢気極まりなかった。歴史修正主義者の猛攻が続いているというのに、ここにいれば安全と高を括って、警戒心は皆無だった。
 縁側の陽だまりで、獅子王が鵺を枕に昼寝を楽しんでいた。傍では五虎退の虎が丸くなり、眠そうに欠伸をしていた。
 飼い主はどこへ行ったのか、姿が見えない。碁盤を挟んで膝丸と鶴丸国永が向かい合い、少し離れたところで髭切と鶯丸が茶を飲んでいた。
 威勢がいい雄叫びは、大包平のものだ。どういう組み合わせなのか、後藤藤四郎と一緒になって竹刀を振り回しており、聞こえる数字は軽く三桁に到達していた。
 反対側に耳を向ければ、道場からと思われる勇ましい声がした。誰と誰が打ち合っているかまでは判然としないが、昼食の饂飩を早食いしていたのは和泉守兼定たちだ。
 急がないと、場所を取られてしまう。そういう雰囲気があったので、きっと彼らが使っているのだろう。
 推測に首肯し、小夜左文字は廊下の角を曲がった。壁に阻まれ、外の景色が見えなくなって、昼間でも屋内は薄暗かった。
 二階へ続く急こう配の階段を避け、左に進路を取った。増築されたのではなく、最初からこの本丸にあった床板を踏みしめて、通い慣れた道を黙々と辿った。
 最早目を閉じたままでも、着いてしまえるのではないか。
 それくらい何往復もした経路を使って、彼は目当ての部屋の前で足を止めた。
「歌仙。来ました」
 なにか仕事がないかと探してみたが、畑仕事も、台所も、手が足りていると言われてしまった。
 結局ここに来るしかなかった自分に小鼻を膨らませて、小夜左文字は閉ざされた襖の向こうに呼びかけた。
「歌仙。歌仙?」
 どうせあの打刀のことだから、たいした用事ではないだろう。新しい茶器を買ったか、詠んだ歌が増えて来たので品評を兼ねて聴いて欲しいと、その辺だと思っていた。
 けれど何度声を上げても、返事はなかった。
 襖はぴくりとも動かず、小夜左文字の前を塞ぎ続けた。
「なんだ。どうかしたか」
「ああ、いえ」
 あまりにしつこく呼ぶものだから、ふたつ隣の部屋の主が、何事かと廊下に顔を出した。
 へし切長谷部に話しかけられ、彼は慌てて首を横に振った。若干の気まずさを覚え、恥をかかされた苛立ちを胸に、思い切って襖を左に滑らせた。
 入室の許可は得られなかったが、それもこれも全て、さっさと返事をしない男が悪いのだ。
 責任は歌仙兼定にあると八つ当たりして、ドン、と響いた音に溜飲を下げる。
「……あれ?」
 反対側の壁に当たり、跳ね返された襖が少しだけ戻って来た。
 それとほぼ同時に、怒らせていた肩を下ろして、小夜左文字は眉を顰めた。
 何度か瞬きを繰り返し、しんと静まり返った室内に息を飲んだ。はっと我に返って急ぎ内部を見回すが、視線の先で動くものは見つけられなかった。
 どれだけ名前を呼んでも返事がないのは、道理だ。
 歌仙兼定は、部屋の中にいなかった。
 見事に蛻の殻で、直前まで誰かがいた気配すらなかった。障子は閉められ、光はどこかぼんやりしていた。
 畳んだ布団が隅に寄せられ、その隣に立派な文机があった。座布団は濃い紫色で、四隅を飾る房は金色だった。
 飴色の棚が壁を埋め、所狭しと茶器に花器、丸められた掛け軸などが並べられていた。中には箱のままのものも含まれて、整理が行き届いているとはとても言えなかった。
 床の上は綺麗に片付いているが、それだけだ。文机も普段は見るに堪えない有様で、屑入れは丸められた紙でいっぱいだった。
「ひとを呼びつけておいて」
 ところが今日は、文机だけは綺麗だった。
 呼びつけておいて席を外す不届き者にぷんすかしつつ、興味惹かれて横幅が広い机へと近づく。
「なんだろう」
 覗き込んだ天板には薄手の紙が一枚、文鎮を重石にして置かれていた。
 珍しいこともある、といつもの部屋の光景と比較しなければ、気付かずに引き返していた。
 それほど大きくない紙面に記された短い言葉に半眼して、小夜左文字は深く溜め息を吐いた。
「東風吹かば」
 念のためと花を模した愛らしい文鎮を外し、簡単に破れてしまいそうな紙を引き抜く。
 手に取って光に透かせば、それは真っ白ではなく、ほんのりと紅が入っていた。
「また、手の込んだことを」
 すっかり乾いている墨を指でなぞり、短刀は苦々しい表情で呟いた。
 文字にして五文字、音にしても五音。
 書き置きとして残されたことばを繰り返し諳んじて、彼は後に続く句を自然とくちずさんだ。
「匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」
 残念ながら、紙を嗅いでも匂いはしなかった。
 さすがにそこまで凝った真似は出来ないと苦笑して、彼は薄紅色の紙を四つに折り畳んだ。
 折角なのでもらっておくことにして、懐に入れると同時に踵を返した。乱暴に扱ってしまったのを詫びつつ襖を閉めて、へし切長谷部の部屋の前を通り過ぎた。
 階段を下りていた千子村正に会釈だけして、来た道を戻った。獅子王はまだ昼寝中で、囲碁の観戦者に三日月宗近が加わっていた。
 相変わらず緊張感に欠けた光景を視界の隅に置き、跳ねるように廊下を進んだ。長い渡り廊を抜けて居住棟から母屋へ戻り、寄り道せずに玄関で草履を引っ掻けた。
「おや、おでかけですか。お小夜」
「はい。東風になってきます」
「そうですか。気を付けるのですよ」
「はい。いってきます」
 敷居を跨いだところで、遠征帰りの一団と遭遇した。戦嫌いで知られる太刀、江雪左文字がその中にいて、すれ違いざまに話しかけられた。
 おおよそ会話になっているとは言い難いやり取りに、聞いていた一期一振が怪訝な顔をする。けれど当の左文字兄弟はさほど気にする様子もなく、互いに一礼して別れた。
 片方は屋敷の中へ。
 もう片方は、外へ。
 双方一度も振り返らず、詳細の追及もなかった。大家族の長兄だけが不思議そうに首を捻る中、小夜左文字は東を目指して身を躍らせた。
 本丸の敷地は広く、最果てがどこにあるかは未だに分からない。
 刀剣男士が日々生活を送る屋敷は居住区である北棟と、母屋に当たる南棟に大きく分かれている。そこから南に向かえば広大な庭園が広がり、池があり、茶室があった。
 西に行けば道場があって、北側に田畑が広がった。屋敷の北側から東に向かって雑木林が幅を利かせ、それを越えた先に小高い丘がある。新たな刀が産み出される鍛冶場があるのは、その丘の頂だ。
 また、鍛冶場の近くには小さいながら、神社があった。最初はぼろぼろだったが、大太刀らが苦労しつつ改修し、今や立派な拝殿を持つようになっていた。
 石切丸や太郎太刀は、日中、主にそちらで活動している。蛍丸も時々顔を出しているようだが、次郎太刀は居心地が悪そうだった。
 そしてその社の裏手に、小規模ながら、梅林があった。
 屋敷の庭は桜に楓が中心で、春と秋は色鮮やかだ。季節になれば大勢の刀が茣蓙を敷き、車座になり、毎日のように宴が繰り広げられた。
 もっとも歌仙兼定は、そういう馬鹿騒ぎが嫌いだ。あんなのは風流ではないと言って、誘われても断固参加を断っていた。
 人見知りな性格なのもあるが、花より団子な側面が強い飲み会は、彼の感性に合わないのだろう。
 なにかにつけて風流だ、雅だ、と口にする男を思い出して、小夜左文字はクッ、と笑った。
 喉の奥で音を押し潰し、急ぎ表情を引き締めた。
 昼間でも暗い雑木林の小路を抜けて、若草が芽吹く丘の斜面へと飛び出した。
「ここは、涼しい」
 不思議なことに、この一帯はいつ来ても空気がひんやりしていた。
 冬場はもちろんのこと、夏場でもだ。太陽が眩しく照っている中でも、畑と違い、眩暈を起こして倒れることはなかった。
 神社があるので、不可思議な力が作用しているのかもしれないが、詳しいことは分からない。小夜左文字がそう感じているだけ、という可能性も捨てきれず、調べたいとは思わなかった。
 走って来たので、肌がほんのり汗ばんでいる。
 表面を覆う熱を吹き抜ける風に託して、彼は深呼吸を二度、三度と繰り返した。
「はあ……」
 肺の中を一旦空にして、新鮮な空気で満たす。
 最後に唇をひと舐めして、短刀の付喪神は遠くを見渡した。
 鍛冶場は休憩中だろうか、槌を打つ音は聞こえなかった。
「神社も、静かだね」
 一見粗末に思える家屋の向かいに丹塗りの鳥居が聳え、石垣で囲われた社が鎮座していた。だがこちらからも、毎日のように聞こえてくる加持祈祷の声がしなかった。
「そういえば、さっき、兄様と一緒だった」
 珍しいことが続く日だと思っていたら、思い出した光景があった。
 先ほど江雪左文字と会った時、石切丸と太郎太刀も、景色の中に佇んでいた。
 遠征に出ていたのであれば、神社が空っぽなのは当たり前だ。なにも不思議なところはなかったと自分自身に苦笑して、小夜左文字は緑の中に走る細道を駆け登った。
 往来が激しい一帯なので、ここだけ草が生えていない。地面が剥き出しになって、角が丸くなった石がちらほら顔を出していた。
 山の中にある、獣道と同じだ。
 そこを途中から抜け出して、日増しに丈を伸ばす若草の中に飛び込んだ。草履越しに感じる地面の感触が明確に変わって、一歩進むたびに足元でカサカサと乾いた音が響いた。
 風が吹けば、草が一斉に同じ方角を向いた。ざああ、と緑が大きく波打ち、まるで海原の真ん中に立っている感じだった。
「気持ちいい」
 短刀である少年は、あまりこちらに用がない。刀装を作るよう審神者に命じられた時くらいだが、近侍に任命される機会は稀だった。
 久しぶりの光景は、少し懐かしくもある。
 たかだか数ヶ月単位で郷愁に浸れる自分に呆れて、小夜左文字はふわりと鼻腔を掠めた香りに相好を崩した。
 前にここへ来たのは、いつだっただろう。
 修行に旅立つ前、無事の帰還を祈りに来た時以来ではなかろうか。
 あの頃と比べると、季節が巡っている分、景色は随分違って見えた。
「それにしても、歌仙は。呼び出し方が、なっていない」
 出立の計画を立てたのは、ちょうど野分の時期だった。週ごとに嵐が押し寄せて、屋敷の屋根瓦が吹き飛ばされ、あちこちで雨漏りが発生した。
 その影響で、小夜左文字の出発は延期させられた。今は行くべきでない、と周りから止められて、渋々承諾するしかなかった。
 足を進める度に、当時の記憶がまざまざと蘇った。その時抱いていた感情までもが復活して、現在進行形の感情と重なり、混じり合った。
「まったく!」
 鬱憤を大声と共に吐き出し、緩やかな傾斜を登った。前方に整備が行き届いていない垣根が現れて、その向こうに、丸裸の木々が姿を見せた。
 いや、丸裸とは失礼だろう。
 緑の葉こそないけれど、そこに根を下ろす樹木は皆堂々として、立派に枝を伸ばしていた。
 裸に感じたのは、それが白梅だったからだ。近付いて、間違いを訂正して、小夜左文字は鼻腔を優しく擽る香りにほう、と息を吐いた。
「……もう、こんなに」
 木々の間に道はなく、幹と幹との間隔は一定でなかった。
 白梅と紅梅の区別なく植えられて、白の中に紅が巧みに紛れ込んでいた。
 まだ蕾のものもあるけれど、多くは既に花を開いていた。中には満開を迎えている木もあるものの、全体的に八分咲きといったところだ。
 薄紅色のしだれ梅は、蕾の方が若干多い。高い位置から垂れ下がる細い枝には無数の花が絡みつき、正月飾りを連想させた。
「お小夜」
 梅林の入り口で、すでに圧倒されていた。
 桜ほどの派手さはないけれど、この慎ましやかな美しさが好ましい。
 忘れたころにスッと花を抜けていく香りも爽やかで、時の経過を忘れそうだった。
 だから聞こえた声も、右から左へと流れた。心に響かず、留まらない。聞こえているのに無視して、小夜左文字はうっとりと咲き誇る梅の花に見入った。
「お小夜。お小夜~?」
 じっくり堪能し、心行くまで観賞したかった。
 だのに男はその辺を理解せず、無粋に声を荒らげた。
「お、さ、よ!」
「……うるさいです、歌仙」
 耳元で怒鳴られて、さすがにカチンと来た。
 一音ずつ細切れにして吼えられて、血濡れた復讐譚を持つ短刀はむっと口を尖らせた。
 不機嫌を露わにし、木陰から現れた男を睨みつける。だが打刀は少しも心挫けることなく、振り向いてもらえたと嬉しそうな顔をした。
 この図々しさは、見習うべきかもしれない。
 どこまでも自分本位な歌仙兼定に肩を竦めて、小夜左文字は愁眉を開いた。
 怒り続ける気力が失せて、微笑んだ。口角をほんの僅かに持ち上げた彼に、藤色の髪の打刀は感心した様子で呟いた。
「よくここが分かったね」
 赤に白、そして少なくはあるが黄色に色づく梅を眺め、目尻を下げる。
「分からないわけがないでしょう」
 間髪入れずに言い返して、短刀は懐に入れていた紙を取り出した。
 男の前で広げ、太陽がある方角を指差した。地面に落ちる影は北東を向き、ここが屋敷から見てどの方角に当たるかを教えてくれた。
「まどろっこしい真似を」
 紙に残されていたのは、菅原道真の歌だ。
 東風吹かば、で始まる一首は、あまりにも有名だ。小夜左文字が知らないわけがない。この紙を押さえていた文鎮もまた、梅の花を模して形作られていた。
「単純に誘うだけでは、面白みに欠けるだろう?」
 あらゆる準備を整え、短刀に居場所を探させた。本丸の東側に位置する梅林は、東風が吹かずとも、芳しい香りに満ちていた。
「歌仙は、いつから、僕の主になったんですか」
「嬉しいね。僕を追って、海を渡って来てくれたのかい?」
 梅にまつわる菅原道真の逸話になぞらえ、皮肉を言ったつもりだった。
 それを好意的に解釈してみせた男にため息を零し、少年は畳んだ紙を懐へ戻した。
 落とさないよう帯に挟んで、改めて歌仙兼定に視線を向けた。
「それで、わざわざ謎かけしてまで僕を呼び出した理由は、なんです」
 答えは分かり切っているが、他にもあるかもしれない。
 確認の意味で訊ねた彼に、打刀は花が綻ぶような笑顔を浮かべた。
「お小夜に、教えてあげたくてね」
「……ご厚意、痛み入ります」
 結果は、予想通りだった。
 梅の花が満開に近いと、小夜左文字は全く知らなかった。日々の生活、出陣に追われて、季節の変化に心を向かわせる余裕がすっかりなくなっていた。
 訪ねた打刀の部屋に残されていた問題を解いた時も、場所しか思い浮かばなかった。雑木林を抜けるまで、大地の匂い、草木の青臭さすら、記憶の彼方だった。
 ここに呼ばれなければ、気付かなかった。
 一切見向きもしないまま、初春を飾る花の盛りを通り過ぎるところだった。
 だがそれを得意げに語られるのは、少々どころか、かなり腹が立つ。
 言われなくても自力で思い出せた可能性は、限りなく低いものの、皆無ではないのだから。
「どうしたんだい、そんな顔をして。お小夜は暗いなあ」
 さすがは風流を解する男、と褒めてやればいいのか。心優しく、気遣いが出来る素晴らしい刀だと、拍手喝采を贈るべきか。
 そんなことを悶々と考えていたのが顔に出たらしく、膨れ面を指差された。
 頬をちょんちょん、と小突かれて、瞬時に跳ね返した。人差し指どころか右手全体を打たれた男は素早く利き腕を回収すると、呵々と笑って顔を綻ばせた。
「すぐ暴力に訴える。お小夜の悪い癖だ」
「歌仙に言われると、とても、……傷つきます」
 本心ではなかろうが言われて、些かグサッと来た。
 家臣を三十六人手打ちにした男の刀にだけは言われたくなくて、小夜左文字は痛む頭を抱え込んだ。
 眩暈を堪え、意識を目の前の打刀から引き剥がした。首を巡らせ、視界に入る世界を入れ替えて、鮮やかに咲き乱れる花々に心を寄せた。
「良い匂いです」
 神社に近い方は白梅が多かったが、奥に行くにつれて紅梅が増えていく。蝋梅は盛りを過ぎており、散った花弁が樹下に集まっていた。
 鶯の声がして、顔を上げるが姿は見えない。仕方なく枝に留まって華麗に歌う姿を想像してみるが、脳裏に浮かんだのは鶯丸だった。
 小さくなった太刀が、懸命に囀ろうと頑張っていた。姿はあのままなのに、嘴が生えていて、それがパクパク動くのが滑稽で仕方がなかった。
「うくっ」
 堪らず噴き出しそうになって、大慌てで口を押さえた。両手を重ねて呼気を堰き止め、行き場を失った空気で頬を膨らませた。
「お小夜?」
 突如前のめりになった短刀に、打刀が怪訝な顔をする。
 しかしすぐには答えられず、小夜左文字はふるふる首を振った。
 横隔膜が痙攣し、全力疾走したわけでもないのに脇腹が痛んだ。口の中にある息を飲みこもうにも簡単にはいかず、指の隙間からゆっくり吐き出すしか術がなかった。
「いったい、どうしたんだい」
「いえ……なんでも」
 この場で歯を見せて笑ったら、後でなにを言われるか、分かったものではない。
 時間を掛けてどうにか取り繕って、冷や汗を拭い、短刀は荒ぶる鼓動を撫でて宥めた。
 歌仙兼定は訝しげに首を傾げ、やがて深く肩を落とした。胸に累積する様々な感情を吐息に委ね、気持ちを切り替えて背筋を伸ばした。
「ご覧、お小夜。とても華やかだろう?」
 話題を入れ替え、というよりはやや強引に戻し、左手を広げて梅林を示した。彼が手入れをして、育てたものでもないのに、鼻を高くして自慢げに語った。
 恍惚とした表情は、甘く香る梅に対してか、それともこれを小夜左文字に紹介した自分にか。
 常に居丈高で、誰に対しても高慢な振る舞いが目立つ打刀に愛想笑いで返し、短刀は木々の根を避けて梅林を進んだ。
 無秩序に生えているので、まっすぐ進めないのが難点だ。妙なところから枝が飛び出して、歌仙兼定は度々袖や髪を引っ掻けていた。
 但し小夜左文字は、そうはならない。凛と胸を張ったままでも、問題なく奥へ進めた。
「……」
 己の低身長ぶりに感謝すべきか、否か。
 難しい問題に直面して、少年はぶすっと頬を膨らませた。
「お小夜。さっきから、どうしたんだい?」
「いいえ、なんにもありません」
 そこに、またもや失礼極まりない男が話しかけて来た。
 歌仙兼定としては心配しているつもりでも、余計な御世話だ。変なところで矜持を傷つけられて、本丸でも際立って小柄な短刀は言うが早いか、突然地面を蹴って駆け出した。
「えええ?」
 前触れもなく飛び出したので、置いて行かれた男は勿論驚いた。素っ頓狂な声が背後から聞こえて、少しだけ胸がスッとした。
 右に、左に幹を避け、梅の香りを楽しんだ。自ら風を起こして枝を揺らし、花々の下を潜り抜けた。
 上を見れば細い枝が複雑に絡まり、隣の木と繋がろうとしていた。風を受けて傾いたらしい木が、他の木に支えられる形で枝を伸ばしていた。
「お小夜、本当に……なんなんだ」
 ふと目に入った光景に魅了され、足が釘付けになった。
 背後からは息せき切らせた男が追いかけて来て、ぜいぜい言いながら胸を押さえた。
 ただでさえ障害物が多い中、見失わないよう必死に走って来たようだ。準備運動も、心構えもなかったので、戦場に出る時以上の疲弊ぶりだった。
 最近出陣していないから、鈍ったのではないか。
 明日にでも道場に引っ張り込もうと密かに決めて、小夜左文字は黙って視線で頭上を示した。
 大きな木洩れ日が顔に落ち、眩しかった。今は良くても、いずれ完全に倒れてしまいそうな梅の木に思いを馳せて、彼は地表近くで咲く花に顔を寄せた。
「……しない」
 苦難に追い遣られても健気に咲く紅梅は、しかし短刀を歓迎してくれなかった。
 満開の一輪に鼻が張り付くくらい近付いたのに、何度息を吸っても、少しも匂わなかった。
 他の花に変えてみても、同じだ。ここに来た直後、そして打刀を捨て置いて走り回っている間、絶えず彼の周りにあったあの匂いが、どうしたことか全く嗅ぎ取れなかった。
 位置取りが悪いのかと、幾度か角度を変えてみた。上から、下から、後ろからと、うろうろ動き回る様は不審極まりなかった。
 犬のようにくんくん鼻を鳴らし、表情は次第に険しくなる。
 眉間の皺を深めた短刀に、歌仙兼定は深々とため息を吐いた。
「雅じゃないな、お小夜」
「放っておいてください」
 乱れていた呼吸が、ようやく元通りになったようだ。汗で湿った前髪を掻き上げて、見苦しい真似をする少年を叱った。
 最早決め台詞めいているひと言に、素直に応じるつもりはない。どうしようが自分の勝手とムッとして、言い返そうと梅から離れた直後だった。
「……あ」
 ふわ、と風が薫った。
 あれだけ必死になっても感じ取れなかった、仄かに甘く、透き通るような匂いが目の前を通り過ぎた。
 急ぎ振り返るけれど、当然匂いは見えない。右往左往しながら追い求めても、手に掴めるものではなかった。
「今――」
「言っただろう? 雅じゃない、と」
 あんなにも焦がれていたのに、望む時に得られなかった。惜しくてならず、改めて垂れ下がる枝に歩み寄ろうとして、肩を掴んで制された。
 首だけを後ろに捻って睨みつけても、打刀は全く悪びれない。
 同じ台詞を繰り返して、短刀を木の足元から遠ざけた。
「近づきすぎるのも、よくない。土は、彼らの布団だからね。寝ているところを上から踏みつけられるのは、お小夜だって嫌だろう?」
「ああ、はい。そうですね……」
 脇から手を入れて、ひょい、と軽く担ぎ上げられた。爪先だけが地面に残り、ずるずる引きずられた跡はそこに残らなかった。
 こうも簡単にあしらわれ、扱われたのにも腹が立つ。しばらく会わないうちにすっかり大人びた風貌になり、それに見合う体格を得た打刀が実に恨めしかった。
 だからと、仕返し代わりに全身から力を抜いた。折角だし支えてもらおうと企んで、自力で立つのを止めた。
「うわ」
 ふっと息を吐き、全体重を歌仙兼定に預けた。腕を掴んでいた短刀が急に重くなったのを受けて、男は短い悲鳴を上げ、がくんと落ちた膝を奮い立たせた。
 中腰で小刻みに震えて、数回の深呼吸の後に困惑を顔に出す。
「お小夜。今日は随分、ご機嫌斜めだね」
 今のが偶然ではなく、わざとだと見抜いての発言だ。
 尻を一寸ほど宙に浮かべた状態で吊り上げられていた少年は、嘆息混じりの質問に一瞬目を丸くして、直後に項垂れて小さくなった。
 白く細いうなじを間近から見つめて、歌仙兼定は眉間の皺を深めた。無理矢理立たせるのも、はたまた地面に直接座らせるのもどうかと悩んで、決めきれずに苦しい姿勢を維持し続けた。
 腹筋に力を込め、落ちそうで落ち切らない短刀を抱え続ける。
 小夜左文字が動くのが先か、打刀の体力が尽きるのが先か。
 我慢比べのような時間が十数秒、過ぎた頃だった。
「いいえ。歌仙のせいじゃありません」
 短気なくせに辛抱強く待つ男に白旗を振り、小夜左文字は足の裏を大地に押し付けた。
 二本足で立ち、歌仙兼定を解放した。身動ぎ、今となっては拘束でしかない腕を払い退けようとした。
 しかし打刀は、これを拒んだ。折角重くはないが、軽くもない短刀が自ら立ち上がったというのに、肩に腕を絡めたまま、離れようとしなかった。
「歌仙?」
「君を不愉快にさせたのなら、謝る」
「……ですから、僕が勝手に、腹を立てていただけです」
 遠い昔、彼らが同じ時を過ごしていた頃。
 歌を残し、居場所を探させる遊びを出題するのは、小夜左文字の方だった。
 なかなか正解に行きつけず、愚図る付喪神を諭し、宥めた。日が暮れようとしているのに帰りたがらない時は、力技で捻じ伏せた。
 当時は辛うじて、短刀の方が背が高かった。産まれたての未熟な付喪神は、無知で、無邪気で、純粋で、けらけらとよく笑った。
 復讐を遂げた研ぎ師の手を離れ、各地を転々とすることになる短刀にとって、あの時期が一番騒々しく、忙しかった。
 過去を懐かしみ、目を開けて現実を再確認する。あれほどに愛らしかった幼子は立派に成長を遂げ、いい意味でも、悪い意味でも、元の主の気質を過分に受け継いでいた。
「どうせなら、もっと難しい問題にしてください」
「善処しよう」
「わわっ」
 出題が簡単過ぎたのが悪い、と、憤慨の理由を全く別のところに据えて、呟く。
 それが嘘なのを承知の上で返事して、歌仙兼定は背後から抱きかかえていた小夜左文字をひょい、と持ち上げた。
 爪先が地面に別れを告げ、空中でくるりと反転させられた。見える景色が一瞬のうちに変化して、最後はぽすん、と男の胸に落ち着いた。
 行き場のなかった両手を幅広の肩に置いて、こういうのが悔しいのだと、短刀は小鼻を膨らませた。
「さて。では、お小夜の機嫌を直しにいくとしようか」
 そんな膨れ面を知らず、歌仙兼定が呑気に言い放つ。
 天に向かって跳ねている藍色の髪を軽く撫でて、彼は悠然と背筋を伸ばした。
 軽く揺らされて、ふわっと甘い香りが広がった。歩き出した男の動きに合わせ、先ほどまでよりずっと強く、頻繁に、咲き乱れる花の香が乱舞した。
「歌仙、いつからここにいたんですか」
「うん? さあ、どうだっただろう」
 男の髪に、衣に、梅の匂いが移っていた。木々から漂うだけではない、もっと近い場所から、鼻が疼く匂いがした。
 すうっと空気に紛れ、溶けていく。胸の奥まで沁み込んで、広がって、ゆっくり身体に馴染んでいく。
 答えをはぐらかされて、小夜左文字は眼を真ん中に寄せた。顰め面になって、直後にふーっ、と息を吐いた。
 昼餉の前に誘われたのに、短刀が打刀の部屋に出向くまで、相当な間があった。手伝いを欲する刀を探してうろうろして、あちこち寄り道してから赴いた。
 いくら暖かくなってきているとはいえ、まだまだ肌寒い。特にここは丘の上で、屋敷の庭よりも風通しが良かった。
 変な意地を張るのではなかった。
 後悔し、反省し、黙り込んで、小夜左文字は身体全体に及んだ振動にハッと我に返った。
「歌仙?」
「花見の供に、と思ったんだけど。好きだろう?」
 どうやら先ほど言っていた、短刀の機嫌を直す算段がついたらしい。
 梅林の中を移動した男は、枝に引っ掛けていた袋を広げ、中に入っていたものを取り出した。
 竹の葉に包まれて、開かないよう麻紐で縛られていた。横からちらりと覗いたのは、白に桃、緑の球体。それが三つ並んで、真ん中には串が刺さっていた。
 見た瞬間、正体が分かった。と同時に咥内がいっぱいになるまで涎が溢れ、口の端から滲み出そうになった。
「この場合、桜餅ではないのですか?」
 それを急ぎ飲み干して、嬉しさを押し殺した。波打つ感情を必死に隠して、小夜左文字は必要以上に無表情になった。
 淡々と告げて、打刀を鋭く睨む。
「桜の葉の塩漬けが、手に入らなかったんだよ」
 菅原道真に引っ掛けた嫌味に、歌仙兼定は弱り切った表情を浮かべた。一応探してはみたが入手できなかったと白状して、代わりの品を短刀に差し出した。
 邪魔なら降ろせばいいのに、彼はずっと小夜左文字を抱きかかえている。三色団子を袋から出す時は片腕で支えて、包みごと持たせた後は両腕で抱え直した。
「僕ひとりで、これを?」
 梅の香が、広い梅林を彷徨っていた。
 ほうっと安心できる匂いに舌鼓を打って、少年は少々意地悪な質問を投げた。
 麻紐を解き、出て来た団子は全部で二本。
 万屋で買ってきたものと分かる色艶を眺める彼に、打刀は困ったような、なんとも言いがたい変な笑みを浮かべた。
「できれば、食べさせてくれると嬉しいかな」
 正直に白状して、承諾を求める。
 赤子をあやすかのように左右に揺らされて、小夜左文字は団子の串を抓み持った。
「いいんですか?」
 普段から雅だ、なんだとうるさい男は、この食べ方を許せるのか。
 ふと浮かんだ疑問に首を捻り、目を細める。
 咲き誇る梅の花を眺めていた打刀は、視線に応じて頷いて、朗らかに微笑んだ。
「風流、だろう?」

ひとりぬる草の枕のうつり香は 垣根の梅の匂ひなりけり
山家集 春 43

はるかに渡せ 雲のかけはし

 春の陽気に誘われたのか、ひらひらと蝶が舞っていた。
 白い羽を忙しく動かし、蜜を求めて庭を彷徨っている。いったいどの花を選ぶのか、ふと気になって、太郎太刀は目を泳がせた。
 蝶の進路にある植物を探し、もっと手近なところにあったものに意識を吸い寄せられた。一瞬のうちに昆虫のことを忘れて、彼は不思議そうに首を傾げた。
「おや、これは」
 屋敷の鴨居に頭をぶつけないよう屈み、敷居を跨いで縁側に出た。室内にいるよりも僅かながら圧迫感が薄れて、背高の大太刀は安堵の息を吐いた。
 一旦は手前に戻した視線を前方に投げて、先ほど奇妙に感じた集団へと気持ちを切り替える。
「ふぁ、あ~~~」
 そこに大きな欠伸が響いて、太郎太刀は咄嗟に自分の口を覆った。
 自分が発したものではないと一秒後我に返り、微妙に気まずい気持ちで腕を下ろす。右に視線を投げるがそこには誰もおらず、彼の行動を奇異と見咎める存在はなかった。
 目撃者がいなかったのにホッとして、改めて欠伸の主に注意を戻す。
「んん、むにゃ……ふう」
「ん~」
 南に面した縁側で、短刀がふた振り、眠たそうな顔で座っていた。
 丁度日が当たる時間帯で、この辺りはぽかぽか暖かい。日蔭に入ると肌寒さを覚える季節ながら、今日は風も弱く、過ごし易い一日と言えた。
 一段低くなった地面では、真っ白い毛並みの虎が寛いでいた。立ち上がれば太郎太刀に迫りそうな背丈で、鋭い爪と牙を持つ猛獣だった。
 もっとも今の姿を見ていると、野獣というよりは、ただの大きな猫だ。主人と定めた短刀の足元に陣取り、背中を丸め、前脚に顔を埋めていた。
 毛並みは手入れが行き届き、ふわふわと揺れ動いている。性格も猫そのもので、己の体格を忘れて短刀にじゃれ付き、押し倒しているところを良く見かけた。
 こちらは主と違い、眠っていなかった。
 ゆったり過ごしているとはいえ、流石は獣、といったところか。太郎太刀が足を進めた瞬間、閉じていた右の瞼がぱっちり見開かれた。
 主人に近付く者を警戒し、敵意がないかどうかを探っている。
 疑り深く観察されているのを感じて、大太刀は両腕を軽く広げた。
 武器は所持していないと教え、相好を崩した。それで納得したかどうかは分からないが、巨大な虎は再び目を閉じ、動かなかった。
「……太郎太刀さん?」
「お二方とも、眠そうですね」
 代わりに愛らしい声が聞こえて、彼は顔を上げた。虎から視線を右にずらし、きょとんとしている短刀に小さく頷いた。
 五虎退は縁側に腰掛け、足を軒下に向かって垂らしていた。靴は履かず、爪先は空中を泳いでいた。
 その向こう側には小夜左文字がいて、頻りに目の下を擦っていた。
「えへへ。恥ずかしい、です」
 けれどいくら擦ったところで、眠気は過ぎ去ってくれない。
 再び欠伸を零した小夜左文字に代わって、五虎退が照れ臭そうに首を竦めた。
 頬を爪の先で掻き、誤魔化しに脚を揺らした。前後に振って空気を蹴って、傍にいた虎に当たりそうになった。
 ぎりぎりのところで空振りしたが、間近に迫る凶器に、虎は迷惑そうだった。身を捩り、逃げて、やれやれと言わんばかりに地面に突っ伏した。
 抗議の代わりに太い尻尾を躍らせるが、飼い主に伝わったかどうかは甚だ疑問だ。
 何気ない彼らのやり取りに目を細めて、太郎太刀は慎重に手を伸ばした。
 潰してしまわないよう注意を払い、五虎退の頭を撫でる。
「わわっ、くすぐったいです」
 いきなり髪を触られた少年は、けれど嫌がりはしなかった。くすくす笑って受け入れて、大きな手に手を重ねてきた。
「太郎太刀さんの手、おっきいです」
「そればかりが、取り得のようなものです」
「いいなあ。羨ましいです」
 指の長さを比較して、短刀が呟く。
 それについつい皮肉で応じたが、眠たげな少年には通じなかった。
 純粋に感心されて、太郎太刀は己の卑屈さを反省した。嫌味を言われたわけではないのに、斜に構えていたと悔やんで、もう一度、詫びのつもりで五虎退の頭を撫でた。
 ふわふわの毛並みを軽く梳いて、最初に感じた疑問を思い出して首を捻る。
「昨晩は、眠れなかったのですか?」
 連続する大欠伸は、睡眠不足の証しだ。
 麗らかな陽気の中で睡魔に誘われた、という理由だけではなさそうな雰囲気に、大太刀は眉を顰めた。
 日向ぼっこするには最適の日であるが、眠いのであれば部屋に戻って、布団を敷いた方が良い。
 そんなお節介も心の中にあって、問わずにはいられなかった。
 本丸では毎晩のように酒宴が催され、太郎太刀の弟である次郎太刀は、頻繁に参加していた。もしや彼らもその輪に加わっていたかと想像するが、五虎退の兄である一期一振は、その辺りに異様に厳しかった。
 短刀は、見た目こそ子供だけれど、実際は数百年を生きる付喪神だ。人間が定めた約定に縛られるものではなく、飲酒は各自の判断に任せられていた。
 それなのに、あの太刀は弟たちが宴席に加わるのを快く思っていない。
 彼ほど声には出さないものの、小夜左文字の長兄も、似たような感覚を有していた。
 弟の見た目が幼いと、なにかと大変だ。その点太郎太刀は、まだ気が楽な方だった。
 明け方近くまで続く賑わいを想像し、首を捻る。
 だが五虎退は苦笑して、顔の前で手を振った。
「いえ。僕たち、昨日は」
「朝まで、出陣でした……ふあぁ」
 どう言おうか迷っている間に、小夜左文字が言葉を継いだ。
 腰から上を捻って振り返った五虎退は、すぐに姿勢を戻し、太郎太刀に向かって首肯した。
 その通りだと態度で告げて、首の後ろを掻いた。左右で揃えた膝をもぞもぞ動かして、何故か恥ずかしそうだった。
「ああ、それで」
 余計な文言を一切含まない説明は、しかしとても分かり易かった。大太刀は成る程、とあっさり納得して、戦場から戻ってすぐの少年らに愁眉を開いた。
 そういえば、そうだった。すっかり失念していたと恥じ入って、彼は疲労が抜け切らない短刀に肩を竦めた。
 幕末の一大事変は夜の戦闘が主で、出陣に際する編成も、これに準じた刀種が割り振られた。
 短刀と脇差の出番が一番多く、続けて打刀がそこに加わった。
 太刀や、大太刀といった身体が大きな刀は、屋内戦闘では武器を振り回せない。しかも最悪なことに、彼らは夜目が利かなかった。
 馬に乗って野を駆け回る戦場であれば、身体が大きく、一度に複数の敵を薙ぎ払える大太刀や薙刀が有利だ。しかし狭い京の町を駆け回るのに、彼らはとても不向きだった。
 お蔭で最近、太郎太刀の出陣は減っていた。それはそれで良いのだけれど、時間を持て余す機会が増えたのには困惑させられた。
 次郎太刀のように、昼夜逆転の、酒宴中心の生活は送れないし、送りたくない。
 こうやって屋敷内をぶらぶらしていたのだって、手持ち無沙汰だったからだ。
「帰ってきてから、ひと休みしたのですか?」
 三条大橋への出陣は、陽が暮れてから、陽が昇るまで。
 次々襲ってくる敵を薙ぎ払い、隠密裏に行動せねばならない。実に気忙しく、休まる時の無い戦場は、常に緊張を強いられ、短刀らの気力を削ぎ落とした。
 もっとも太郎太刀は、そこに出向いたことがない。持ち合わせた知識はどれも、他者から伝え聞いた話でしかなかった。
 彼らがどんな風に戦っていたか、想像が難しくて、言ってやれることは少なかった。
 自分がそこに居れば、戦闘は楽になるのだろうか。否、足手纏いにしかならず、却って迷惑になるだけだ。
 疲れ果て、眠そうにしている短刀を見るのは、心苦しい。なにか役に立てないかと考えるが、碌な言葉が出てこなかった。
 やむを得ず、当たり障りないところを口にした。
 短刀らが返答するまでに、少し間があった。
「ええと、僕は……畑の、お手伝いが」
「僕は、馬の世話があるので」
 頭が半分眠っているようで、理解に時間が必要だったらしい。
 間誤付きながら五虎退が答えて、小夜左文字がため息と共に呟く。それに驚き、目を見張り、大太刀は唖然としながら立ち尽くした。
「それは、大丈夫なのですか」
 明け方、一番鶏が鳴く頃に帰還して、そのまま休まず内番業務。
 それはあまりにも酷な話で、にわかには信じ難かった。
 まさかそんな状況になっているとは夢にも思わず、愕然とさせられた。任務を割り振った審神者に対しても不信感が生まれて、太郎太刀は浅く唇を噛んだ。
 子供たちが過酷な状態にあると知っていたら、当番など、自分がいくらでも代わってやったのに。
 どうして手助けが必要だと言わないのか。
 八つ当たりに近い感情まで芽生えて、大太刀は苦笑している少年に視線を落とした。
「大丈夫、って、言いたいんですけど。いち兄が、休んでなさいって」
「僕も、江雪兄様が、危ないからと」
 ただどうやら、そう思ったのは彼だけではなかったらしい。
 短刀の兄らが、すでに動いた後だった。見ていて危なっかしい弟らを追い払って、こうしている間も、汗水流して働いていることだろう。
 鍬を間違って足に振り下ろしたら、怪我をするどころではすまない。
 ぼんやりしていて馬に蹴られでもしたら、それこそ一大事だ。
 心配は、杞憂だった。
 さすがは一期一振に、江雪左文字。彼らは大太刀が知らぬところで、弟たちの状況を、しっかり把握していた。
「そうですか。ならば、良かったです」
 深く安堵して、肩の力を抜いた。胸を撫で下ろし、笑みを浮かべていたら、目が合った五虎退が照れ臭そうにはにかんだ。
「だから、小夜君と、ちょっと休憩して。あとでまた行こうね、って」
「はい。部屋に戻ったら、夕方になってしまうので」
「僕も、お布団で寝ちゃったら、夜まで起きられない気がします」
 ふた振りが自室ではなく、縁側にいたのは、そういう理由からだった。
 本格的に休んだら、昼を過ぎてもきっと目覚めない。内番仕事を兄任せにするわけにはいかないので、少しでも手伝いたい、という心理が働いていた。
 なんと健気なのかと、驚きを隠せない。
 次郎太刀も、少しは彼らを見習うべきだ。
 そんな、今はどうでもいいことを頭の片隅でちらりと考えて、太郎太刀は口元を緩めた。
「無理は、禁物ですよ」
「ふぁい。分かって、ます……うにゅ……」
 頑張る子供たちを応援したいが、無茶をさせたいとは思わない。
 そこはきちんと管理するよう言って、彼は舌足らずな返答に目尻を下げた。
 喋っている間はそうでなかったが、会話がひと段落した途端、眠気が戻って来たらしい。
 途中で大きな欠伸を挟んだ五虎退が、両手で目の下を擦り、頭をぐらつかせた。その足元では白い虎が飼い主の様子を窺い、目を光らせていた。
 鋭い眼光ながら、ぱたぱた揺れる尻尾はどこか呑気でもある。
 五虎退が倒れそうになったら、受け止めるつもりでいるのだろう。舟を漕ぐ最中に前のめりになって、縁側から滑り落ちる危険性は皆無ではなかった。
 こちらも、健気だ。
 言葉はなくとも、両者の間には信頼がある。それを微笑ましく思って、太郎太刀は歩き出そうと右足を浮かせた。
「おっと」
 直後、大きくふらついた五虎退に、咄嗟に手が伸びていた。
 膝を曲げて軽く屈み、ごろん、と縁側に転がりそうだった体躯を支えた。まずは右手で肩を捕まえ、出遅れた左手を背に添えて、一瞬で肝が冷えた男はホッと息を吐いた。
 軒下の虎も、ぐん、と身体が伸びあがっていた。前脚が縁側に掛かる寸前で、主人の無事を悟り、程なくして引っ込んでいった。
 たった今まで喋っていたのに、もう眠ってしまったのか。
「大丈夫ですか?」
 思わぬことに絶句して、問いかけるが、明朗な返事は得られなかった。
「うにゅ、むう……」
 鼻から息を吐き、目を瞑った短刀が顰め面を作った。大太刀の手の中で身じろいで、そばかすが残る頬をぴくぴく引き攣らせた。
 瞼は降りたままで、開かなかった。くるん、と湾曲した前髪が右目に被さり、長い睫毛を擽っていた。
「これは、参りました」
 咄嗟に庇ったはいいものの、この後をどうするか、なにも考えていなかった。
 試しに五虎退の肩を押し返してみたが、残念ながら背筋は真っ直ぐ伸びなかった。手を離せば途端にぐらぐら揺れて、安定せず、今度は逆方向へと傾いた。
「む」
「小夜左文字、平気ですか」
「……重い、です」
 そちらにいた短刀に寄り掛かり、ずるっ、と頭を下げた。凭れかかられた方は反射的に受け止めたが、表情はとても迷惑そうだった。
 彼自身、眠くて仕方がない。それで元々不機嫌だったのに、表情は険しくなる一方だった。
 率直な感想を述べて、小夜左文字は言い切ると同時に五虎退を突き返した。仕草は乱暴で、加減が出来ていなかった。
「危ないですよ」
 五虎退の身体を、まるで鞠かなにかのように扱っている。仲間なのだからもっと大事にするよう叱って、太郎太刀は本格的に身を屈めた。
 片膝を着いて座り、倒れ込んできた短刀を優しく抱きしめた。そっと顔を覗き込めば、相変わらず瞼は閉ざされていた。
 こんなにも揺らされて、目覚めないのは凄い。
 修行に出て、精神的な成長を遂げた彼らだが、こういうところも図太くなったらしい。
 妙なところで密かに感心して、大太刀は牙を剥いて唸る虎に手を振った。
 小夜左文字も、悪気があってやったのではない。どうか怒らないで欲しいと代わりに謝って、ぐっすり眠る少年の横に腰を沈めた。
 両足を縁側から垂らせば、踵までしっかり地面に着いた。
「参りました。草履を履くべきでしたか」
 短刀たちの足が、いずれも宙に浮いていたので油断した。
 自らの身長を見誤った大太刀は、白い足袋を一度持ち上げ、諦めて地表に降ろした。
 この程度の汚れなら、洗えば問題ないだろう。素足で庭を駆け回り、そのまま屋敷に入ろうとして叱られている短刀よりは良い、と腹を括って、太郎太刀は己の膝に五虎退を転がした。
「少々固いかもしれませんが、許して下さい」
 どうせこの後、やることはない。
 暇を持て余している身だから、もうしばらく、彼らに付き合うのも悪くなかった。
 枕にするには些か高く、弾力にも乏しい太腿だが、他に提供できるものがない。
 そこは我慢してもらうことにして、ぐっすり眠っている五虎退の頭を撫でた。
 下半身は縁側に、上半身は大太刀の膝に。
 腰をやや斜めに捻って寝転がった少年は、最初こそ戸惑った雰囲気だったが、すぐに顔を綻ばせた。
 優しく撫でてくる手も気に入ったようで、眠る姿は幸せそうだ。しどけなく笑っており、口元は緩みっぱなしだった。
「……ずるい」
「はい?」
 軒下から窺っていた虎も、ようやく安心したらしい。大太刀の一挙手一投足を見守って、大人しく引き下がった。
 その代わり、別の存在が機嫌を損ねた。
 声に反応して顔を向ければ、目の下に傷を持つ少年が、口を尖らせ、不貞腐れていた。
 普段からむすっとした表情が多い小夜左文字だが、それよりも一回りも、二回りも酷い形相だ。河豚を真似てか頬は膨らみ、雑に結われた髪が棘のようだった。
「これは、また」
 なんとも珍しいものを見せられて、驚きが否めない。
 あまり表情が変わらないと定評がある太郎太刀ながら、こればかりは堪えられなかった。
 噴き出しそうになって、必死に耐えた。笑うのはあまりに失礼と我慢して、不満顔の少年に手を差しだした。
「私で良ければ、どうぞ」
 五虎退が占領しているのは左足で、右半分は開いていた。多少狭くはあるが、短刀ならば充分枕に出来そうで、その気があるなら使うよう進言した。
 ところが、だ。
「べつに、いいです」
 小夜左文字はぷいっとそっぽを向き、予想と違うことを言った。一段と拗ねて膨れ面を作り、縁側から垂らした足をぶらぶらさせた。
 両手は後ろに添えて、ぐっと胸を反らした。合間に大きな欠伸を二度、三度と続けて、太郎太刀を窺い、即座に顔を背けた。
 五虎退ばかりに優しくするので、機嫌を損ねたのかと思ったが、違うのか。
 均等に接するべきだったと反省して、自分なりに考えてみたのだけれど、短刀の反応はいまひとつだった。
 行き場をなくした手を引っ込め、大太刀は眉を顰めた。小首を傾げ、ひょこひょこ動く藍の髪を見詰めるが、答えは出なかった。
 陽だまりの下で、五虎退はすやすや眠っていた。庭先を舞う蝶はいつの間にか二匹に増えて、互いに追い越し、追い抜きながら、飛び回っていた。
 馬の嘶きが聞こえた。鳶が餌を探し、甲高く鳴いている。鯉が池で跳んだのか、ぴちゃん、と水の跳ねる音がした。
 屋敷の中からは笑い声がどこからともなく響き、けたたましい足音が一瞬で通り過ぎた。道場から勇ましい雄叫びが轟き、昼餉の支度中らしき匂いが鼻腔を擽った。
 静かなようで、ここはとても賑やかだ。
 神社に奉納されている間も、周囲はなにかと騒々しかった。だが本丸の雰囲気は、それとはまるで異なっていた。
 己は人の手に扱える代物ではないと思っていた。よもや再び戦場に立つ日が来るとは、思っていなかった。
 誰にも扱えぬのであれば、自らの手で振るえばいい。
 審神者に与えられたこの現身は、そう語っているようだった。
 だが、なにごとも大きければいい、というものではない。
 実際問題、それで彼は夜戦に出られない。屋内で刀を振り回そうものなら、柱や天井に突き刺さり、身動きが取れなくなった。
 敵を倒しにいった筈が、的になってどうする。
 分かりきった結末を、この手で覆してやる、と息巻けるほど、彼は無謀にはなれなかった。
「小夜左文字」
 ぽかぽか陽気は凍てついた心を解きほぐし、安らぎをもたらした。
 昨晩はたっぷり眠った太郎太刀でさえ、ここにいたら眠ってしまいそうだった。
 夜を通して一睡もせず、闘い抜いた少年なら、どうだろう。こっくり、こっくり舟を漕ぐ短刀に相好を崩して、大太刀は空いている腿をぽんぽん、と叩いた。
「いいです」
 誘ったが、断られた。小夜左文字は仏頂面で吐き捨てて、ぶすっと小鼻を膨らませた。
 剣呑な目で睨んでくるが、迫力はあまりない。睡魔に負けて眼はとろん、と蕩けており、瞼は頻繁に下がって、視界を塞いでいた。
 顎が泳ぎ、大きな頭が不安定に揺れている。
 近いうちに、五虎退の二の舞となるだろう。怪我をさせないためにも、早いうちに対策を採りたかった。
 けれど、彼のことだ。無理矢理寝かせたところで、突っぱねられるのが関の山だ。
 なんとか自発的に、横にさせる術はないものか。
 悩み、考え、太郎太刀は強がりな短刀の頬を擽った。
 少々距離はあったが、腕が長いお陰で無事届いた。被さっていた癖だらけの髪を払い除けて、傷跡の下をそっと撫でた。
 小夜左文字は嫌がったが、本格的に逃げようとはしなかった。迷惑そうに渋面を作っただけで、生意気に噛みついても来なかった。
「ご覧の通り、私は図体ばかりが大きいもので。あなた方のように、俊敏さはありません」
「……はい」
「池田屋での歴史修正主義者の動きを阻止する役目も、みなさんのようには果たせそうにありません」
「そう、ですね」
 江戸幕府の滅亡は、この国の歴史でも、五本の指に入る重要事項だ。
 その中で起きた一事変は、全体で見れば些末なものかもしれない。だが後の世に大きな影響を及ぼしたのは確かで、見過ごせなかった。
 時間遡行軍も、それが分かっているから、改変を目論んだ。重点的に攻めて、刀剣男士の妨害を受けても諦めなかった。
 戦いは苛烈を極め、一進一退が続いている。太郎太刀は、そこに加われない。仲間が多数傷つき、血を流して苦しんでいるのに、ただ眺め、見守ることしか許されなかった。
 正直言えば、悔しい。
 淡々と相槌を打つ小夜左文字は、大太刀が語る内容が事実だからこそ、他になにも言わなかった。
 否定するような真似はしない。下手な慰めをしたところで誰も救われないのを、彼はちゃんと知っていた。
 しかも眠いから、余計に頭が回らないのだろう。
 無駄口を叩かない寡黙さに苦笑して、太郎太刀は改めて手を差しだした。
「ですので、今、私がみなさんに出来ることは、これくらいです」
 自嘲の笑みを零し、膝に来るよう促す。
 喜んで枕になると進言した男に、本丸一小柄な少年は惚けて目を丸くした。
「太郎太刀さん、は」
 目尻を強く擦って、短刀が口を開いた。
 深く息を吸い、吐き出して、ぐらぐらしている頭を支え、瞳を伏した。
「役立たず、じゃ。ないです」
「……おや」
 声はいつもより高く、掠れていた。
 普段は意図して、あの低さを維持ているのだと分かった。他者に見くびられないよう、甘く見られないよう威嚇し、牽制するために、常から緊張しているのが伝わってきた。
 今はそれが緩んで、本来の姿が少しだけ顔を出した。
 復讐に用いられたとはいえ、もともと彼は守り刀。本丸に集う短刀の多くがそうであるように、小夜左文字の本質も、主君を慕い、想い、守る、そういうものであるらしかった。
 今日は、驚かされてばかりだ。
 たまの気まぐれも悪くないと密かに感心していたら、短刀が頬骨に親指を突き立てた。
 爪で引っ掻き、痛みで眠気に抗おうとしていた。やり過ぎると表面が裂け、傷になる。血が出てからでは遅いと止めさせて、眠っているのか、起きているのか分かり辛い顔を覗き込んだ。
 短刀はむすっと顔を顰め、鼻から勢いよく息を吐いた。
「僕は、いつも……前に出過ぎる、ので。はぐれた時。太郎太刀さんは、遠くから、でも。よく見えます」
「はあ」
 そうして訥々と語られて、太郎太刀は瞠目した。
 後から思えば間抜けすぎる相槌をひとつ打って、まじまじと小夜左文字を見詰め返した。
 華奢な少年は不機嫌を隠さず、表情は険しいままだった。自虐的なことを口にした大太刀を眼差しで責めて、立ち上がったかと思えば、反対側へ回り込んだ。
 そうしてどすん、と側頭部を高い位置にある肩にぶつけて来た。
 寄り掛かられた。押し付けられた体重の分だけ上半身を揺らし、太郎太刀は目を点にした。
 ぐりぐりとこめかみを擦りつけてくるのは、甘えているのか、怒っているのか。
 顔を伏されてしまったので表情が見えず、彼の感情がどこに位置しているのか分からない。だからと次の行動に躊躇している間に、小夜左文字は自ら離れていった。
 膨らんでいた頬を凹ませて、眼光鋭く大太刀を睨んで。
 やがて彼は、糸が切れたかのようにぱたり、と倒れ込んできた。
「おや」
 咄嗟に腕を掲げて、左膝の上を空にした。短刀の頭は見事そこに収まって、もぞもぞ動いた後は静かになった。
 力尽きた、とはこういうことを指すのだろう。
 五虎退同様、一瞬のうちに寝入ってしまった少年に肩を竦め、太郎太刀は顎を掻いた。
 寸前に言われた内容をよく咀嚼して、目を眇める。
 小夜左文字が言いたかった内容は判然としないながら、慰めようとしたのは間違いない。
 広い平原が戦場となれば、隊列が乱れ、仲間と分断されることもある。検非違使が出現しての混戦ともなれば、事態は更に悪化した。
 短刀は持ち前の俊敏さを生かし、先手を打つべく敵陣を掻き回すのが仕事だ。しかしその役目が行き過ぎると、敵陣で孤立する羽目に陥った。
 臆病で慎重な性格ならば起こり得ないことだが、一部の短刀では良くある話だ。小夜左文字も、そう。熱くなると周りが見えなくなりがちだった。
 けれど彼は、太郎太刀と出陣した時は、毎回自力で帰ってきた。なかなか見つからず、あちこち探し回ってようやく合流出来た、という話を頻繁に耳にしていたが、ついぞそんな事態は起こらなかった。
 あれは、つまり、彼が先ほど語った内容が理由だ。
 市街地や屋内戦でなければ、馬に乗っての出陣が基本。ただでさえ背が高い太郎太刀が騎乗すれば、その背丈は屋敷の屋根も迫った。
 平地であれば、さぞや遠くからでも目についただろう。
「私は、旗印かなにかですか」
 似たようなことは、岩融にも言えた。今剣があの薙刀を見失わないのは、同じ理屈なのかもしれなかった。
 奇妙な役立ち方だが、悪い気はしない。
 この大きな身体の有用性に気付かされて、目から鱗が落ちた気分だった。
 すっかり眠ってしまった短刀は、大太刀の呟きに答えない。すうすうと寝息を立てて、頬を撫でても起きなかった。
 太郎太刀が本丸に来たばかりの頃の彼は、復讐に餓え、本丸に集う仲間にさえ牙を剥いていた。目に入るものすべてが敵と言わんばかりの態度で、誰にも懐かず、弱みを見せようとしなかった。
 あれからもう、二年近くが過ぎた。
 神社に奉納され、神刀として過ごして来た悠久の時と比べれば、ほんの僅かな時間でしかない。けれど己の目で見て、耳で聞き、自身の足で歩んだここでの日々は、数百年分をぎゅっと濃縮したような濃さがあった。
 この先決して忘れ得ぬと、確信を持って言えた。
 小夜左文字が変わったように、自分自身も変わったのだろうか。
 これまで指摘されたこともなく、意識して来なかった。だが気付かなかったうちに、いろいろと変化が生じているのかもしれなかった。
 そう思うと、誰かに聞いてみたくなる。
「あ、五虎退。こんなところに」
 うずうずして、首を伸ばした。通りかかる者がないかと視線を巡らせていたら、ほぼ真後ろから声が飛んできた。
 軽快な声色は、成長期の少年のものだ。高く結った髪を揺らし振り向けば、五虎退と似通った服装の男士が立っていた。
 両手を腰に当て、厚藤四郎が苦笑する。その陰に隠れていた乱藤四郎は、縁側に座す太郎太刀ごと弟を眺め、少し不思議そうな顔をした。
「珍しい組み合わせ……」
「そうでしょうか」
 思ったことが、ついつい口に出てしまったらしい。
 大太刀に問い返されてハッとして、彼は首を竦めて舌を出した。
「わあ、小夜までいる。そっか、こいつら、内番だったもんな」
 その一方で厚藤四郎は、太郎太刀の横へ回り込み、歓声を上げた。自分の兄弟だけかと思いきや、もう一振りいたと知って驚いて、慌てて口を塞いで声を潜めた。
 眠っている短刀を起こさないよう気を配り、太郎太刀に見つめられて小さく頷いた。幸いどちらもぐっすり寝入っており、この程度では目覚めなかった。
 雑音が気に障ったのか、小夜左文字の鼻がぴくぴく動いたものの、瞼は閉ざされ、開かない。
 滅多に寝顔を曝さない少年を物珍しげに見つめて、粟田口の短刀らは目を細めた。
「ここ、あったかいね」
「はい。こうして陽に当たっているだけで、神威が高まるようです」
「へええ。じゃあ、ボクも一緒にお昼寝しちゃお」
「ええ~。お前、さっき起きたばっかじゃねえか」
 このふた振りも、共に夜戦に出ていたらしい。だが内番任務から外れていたので、今まで部屋で休んでいたようだ。
 活動を再開させたばかりなのに、また日なたでひと眠りしようとしている。
 言うが早いか大太刀の背中に寄り掛かった乱藤四郎に、厚藤四郎は呆れ顔だった。
 けれど肝心の少年は、楽しそうに呵々と笑った。庭に背を向けて腰を下ろし、了解を得るより早く太郎太刀の右肩に頭を預けた。
「ごめんな、太郎太刀。うちの連中が」
「いいえ。今日は特に仕事もありませんし、構いません」
 勝手極まる兄弟の非礼に、年長組としての責任からか、厚藤四郎が謝罪した。しかし大太刀は不要だと首を振り、預けられた体重に目を細めた。
 それほど重くないので、苦とは思わない。むしろこうしている方が、背筋がぴんと伸びるようだった。
 お墨付きを与えられ、乱藤四郎はしたり顔でほくそ笑んだ。床に広がっていた長い黒髪を掬い取り、布団の代わりか、己の膝に垂らした。
 後ろ髪が弄られていても、太郎太刀には分からない。なにかやっているな、程度に受け止めて、意に介さなかった。
「ったく。だったら俺も!」
 それを見ているうちに、段々羨ましくなってきたらしい。
 最初は苦々しい表情だった厚藤四郎も、最後は嬉しそうに破顔一笑し、大太刀の背中に凭れかかった。
 乱藤四郎の反対側に陣取り、座敷の敷居目掛けて足を伸ばした。踵を畳に押し付けて、爪先をゆらゆらさせながら楽な姿勢を探した。
 帰還後に仮眠を取ったとはいえ、それは普段の睡眠時間の半分ほど。
 日中も活発な彼らには不十分で、目を閉じた途端、短刀らはすう……と短く息を吐いた。
 片方は俯き加減に、片方は天井を仰いで。
 位置的に表情が見えないのを惜しみながら、太郎太刀は寄せられる心地良い重みに頬を緩めた。
 気が付けば、五虎退の虎までもが、彼の足元に移動していた。
 柔らかな毛並みが足首を擽り、陽だまり以外の熱が肌を通して伝わってきた。沢山の寝息に、鼓動が連なって、これが命の重みなのだと実感した。
「暖かい、ですね」
 ただ座っているだけの時間は、退屈だった。
 宝物庫で過ごした日々は、嫌いでないが、満たされず、空虚だった。
 けれど。
「ん~、なんだい、兄貴。随分楽しそうじゃないか」
「やっと起きて来たのですか、あなたは」
「いいじゃん。細かいことは、気にしない、気にしな~い」
 昨晩も遅くまで飲み騒いでいた次郎太刀が、酒の臭いをぷんぷんさせながら現れた。
 昼餉を目前とした時間まで寝こけていた大太刀は、少しは短刀たちを見習うべきだ。だが始めようとした説教は早々にはぐらかされ、最後まで言えなかった。
 仕方のない弟に深々とため息を吐き、彼はすっと目を細めた。抑えきれない感情を口元に浮かべて、すやすや眠る五虎退の頭を撫でた。
「ええ、そうですね。とても、ええ。楽しいです」

稲妻の光に行かむ天の原 はるかに渡せ雲のかけはし
物語二百番歌合 198
(源氏物語)

越の中山 霞隔てて

 山肌を覆い隠すように、厚い雲が広がっているという認識はあった。
 これから進む方角だというのに、嫌な予感しかしない。けれど今更引き返すわけにもいかなくて、不安を押し殺し、黙々と歩み続けていた。
「ああ、降ってきた」
 先に声を上げたのは、同行していた男だ。藤色の髪を掻き上げての呟きに、小夜左文字はつられて視線を持ち上げた。
 遠いようで近い場所に、ふわふわと何かが漂っている。数はさほど多くなく、小さな羽虫が集まっているような雰囲気だった。
「雪」
 その認識が間違いであると悟るのに、ものの数秒とかからない。
 ぽつりと零して、短刀の付喪神は天から落ちて来た欠片に目を瞬いた。
 鉛色の雲が頭上に迫り、大地を押し潰そうとしていた。陽の光は一段と弱まり、日暮れ時よりももっと陰鬱な気配が辺りに漂った。
「これは、本降りになりそうだ」
「どうしますか、歌仙」
 この先の道に、雨宿り、ならぬ雪止み待ちが出来る場所はなさそうだ。
 峠に向かう一本道は芒野原の真ん中にあり、見える範囲に村はなかった。
 場所柄、耕作に不向きと捨て置かれた場所だ。人の手は殆ど入っておらず、枯れ色の雑草が地表を埋め尽くしていた。
 この道自体、通る者はあまりないらしい。踏み均されてはいるけれど、整備は行き届かず、窪んだ場所には雨水が溜まった跡があった。
 道標の類もほとんどない。雪が降って辺り一面真っ白になった途端、道にはぐれて迷子になるのは間違いなかった。
 その前に目的地へ辿り着きたいが、降り始めた雪を眺める男の動きは鈍い。
 風もないのに左右に踊る白い粒を眺めて、打刀の付喪神は感極まった表情で白い息を吐いた。
 気温も瞬く間にぐっと下がって、肌寒さが増した。小夜左文字は一瞬悩んだ末に、胸元を横切る赤い紐を引っ張った。
 背負った笠を頭に被せて、結った髪が落ち着くよう角度を調整した。何度か試行錯誤を繰り返して、緩めた紐を顎で結び直した。
「風がないのが、幸いだろうか」
 風向き次第では笠が煽られ、飛ばされそうになる。ただでさえ小柄で、華奢な体格を有している短刀は、遠方を仰ぎ、間近に視線を戻した。
 歌仙兼定は完全に歩みを止め、降り止まない雪の景色に見入っていた。
「もう、梅も盛りだというのに」
 感嘆の声を漏らし、ためしに掌を上にして差し出す。
 中空を漂う雪のひとかけらを掴み取るが、指を解いた時にはもう、塊は融解していた。
 冷たい雫がほんの一滴、肌の上に残るのみ。それもやがて張力を失い、しなやかで、それでいて無骨な手に吸い込まれていった。
 乾いていた肌が、その部分だけ潤った。何本か交差する皺を親指でなぞって、刀でありながら風流を好む男は相好を崩した。
「歌仙、いきましょう」
「もう少し、お小夜」
 真上を見れば、穢れを知らぬ白色が、灰色の中から次々と落ちて来た。
 そのひとつが目に入りそうになり、慌てて瞼を閉ざし、彼は急かす声に首を振った。
 寒さが酷くなり、雪で視界が閉ざされたら、本丸に帰れなくなる。
 彼らは遠征任務を終えて、時間を行き来するべく設置された門を目指す途中だった。
 歴史修正主義者側に不審な動きが確認されたそうで、時の政府の命令により、偵察を行った帰りだ。近々この一帯で大規模な一揆が起きるのだが、その周辺がどうにも怪しいらしかった。
 しかし聞かされていたような変異は、今回は確認できなかった。
 もしかしたら巧妙に隠されているのか、それとも見当違いの場所を探していたのか。
 自分たちだけでは判断出来ず、一旦戻って報告することにした。証拠集めに無謀な真似をして、自らが歴史に介入する羽目になってはいけないからだ。
 木乃伊取りが木乃伊になるなど、あってはならない。
 そこの分別だけはしっかりつけて、帰路に就いたつもりだった。
 時間を移動する際に目撃者が出てはまずいし、なにより巻き込むのは許されない。そのため、転移先は必ず人気がない場所が選ばれる。
 今回も、そう。例外は過去に一度もなかった。
 あと少しで本丸に帰れるというのに、足踏みしている暇はない。
 小夜左文字は繰り返し急かして、道の真ん中で突っ立っている男の袖を引いた。
「歌仙」
「分かっている」
 偵察任務は、大勢でやっては却って目立つ。
 だからとふた振りだけで隊が組まれたのだが、こんなところでそれが災いするとは思わなかった。
 体格的な差から、小夜左文字ひと振りでは打刀を動かせない。力任せに行えば、相手を傷つけかねなかった。
 遠慮がちに、優しく促しても、歌仙兼定の足は重かった。地面にぴったり張り付いて、引き剥がすのは容易ではなかった。
「……知りませんよ」
 雪はひらひらと舞い、その数を徐々に増やしていた。
 灰色に濁った雲は着実に支配領域を拡大し、遠く、近く、前後左右を埋め尽くそうとしていた。
 吐く息は益々白く霞み、小夜左文字の笠にも積もっていく。地面に落ちた瞬間、すうっと消えていくそれらは、場所によって微妙に溶け方が違っていた。
 踏み固められた地面では、ひと呼吸置いて。
 道端に残る枯れ草の上では、三拍も、四拍も置いてから。
 打刀が羽織る外套に、白い点々が散っていた。藤色の髪にも多数絡みついて、まるで繭玉で飾られているようだった。
「久しぶりに見た気がするよ」
 熱に触れた瞬間に瓦解する結晶を追い求め、歌仙兼定は両手を広げた。なんとか捕まえようと試みて、その度に溶けて消える儚さに目尻を下げた。
「そうですか?」
 興奮気味の感想に、小夜左文字は冷たく言い返した。
 雪など珍しくもないと鼻息を荒くして、被った笠の縁で打刀の腰を打った。
「あいた」
 背後から一撃を加えて、強引に前へ進めようとする。
 反動で首がグキッといった際の悲鳴は、歌仙兼定が代わりに叫んでくれた。
「酷いな、お小夜。なにをするんだ」
「歌仙が、もたもたしているのが悪いんです」
 つんのめった男が抗議して来るが、酷い目に遭ったのは小夜左文字の方だ。
 胴体と頭がきちんと繋がり、問題なく動くかどうかを確かめて、短刀は苦虫を噛み潰したような顔で鼻を愚図らせた。
 口からだけでなく、鼻から吐き出した息まで曇り始めた。
 一瞬で消え去る煙の数を増やして、彼は不機嫌に口を尖らせた。
 並々ならぬ怒気を感じとり、歌仙兼定もさすがにまずいと思ったらしい。怯えた顔を瞬時に消して、道の前後に誰もいないのを確かめた。
「分かったよ。急ごう」
 戻りが遅いようだと、本丸から探索隊が派遣されかねない。
 任務以外の理由で遅れたと知れたら、給金を減らされてしまう。それは是が非でも避けたくて、打刀は渋々、根を張っていた足を地面から引き抜いた。
 爪先に小石が当たり、音もなく脇に転がった。そのすぐ傍らに雪が落ちて、蹴られたのを嘆く石を慰めていた。
 雪は降り止まず、順調に量を増していた。
 里の方でも降り始めているのかと気になって、小夜左文字は遥か後方を仰いだ。
 一揆が起きるのは、天候不順が続き、思うように作物が育たなかったからだ。だのに権力者は弱者を救済せず、己の利益のためだけに邁進した。
 独善的で他者を顧みない為政者に、どうして人は従えるだろう。
 積もり積もった不満はやがて大きなうねりとなり、濁流と化す。正義の心で民草を守ろうとした者は、訴えを聞き届けない上層部に失望し、戦うことで自身の正当性を証明しようとした。
 だが、信じた者に裏切られた。
 ここから約一年後に流される大量の血を憂いで、小夜左文字は一気に鈍った足取りに首を振った。
「お小夜」
 今度は彼が、先を急ぐ男に促される番だった。
「はい」
 もっとも、打刀ほど粘りはしない。
 素直に頷き、従って、飢饉を嫌う短刀は笠を目深に被り直した。
 昼食にと持って来た握り飯は、半分食べて、残りを道端の地蔵に供えて来た。
 それが歴史改変に繋がる可能性を、考えなかったわけではない。それでも、なにかせずにはいられなかった。
 とはいえ餓えた子供が握り飯ひとつ手に入れたところで、変わるものなどない。一時しのぎにはなるだろうが、その後が続かなければ、結局行き着く先は同じだ。
 助けたつもりで、逆に惨い仕打ちをしたのかもしれない。
 後悔が湧き起こり、胸がざわついた。
 今ならまだ取りに戻れるような気がして、再び後ろに顔を向けた矢先だった。
「お小夜、知っているかい」
「……っ」
 前を歩く男が、振り返らずに話しかけて来た。
 ざ、ざ、と砂利道を行く足音が、薄暗い世界に飲みこまれていく。雪が降る音はほぼ聞こえず、短刀は一瞬空耳を疑った。
 慌てて視線を戻せば、歩きながら歌仙兼定が腰を捻った。左肩を後ろに引いて、髪に降り積もる雪を払い落とした。
「雪の結晶は、六角形をしているそうだよ」
「はあ」
 唐突過ぎる話題に、小夜左文字は惚けた返事しかできなかった。
 緩慢な相槌を打った彼を叱るでもなく、責めるでもなく。打刀はそれだけ言って、あっさり姿勢を戻した。
「え?」
 続きはないのかと、虚を衝かれた。
 てっきり長々と講釈を垂れるとばかり思っていただけに、拍子抜けで、驚かされた。
 うっかり声が漏れて、小夜左文字は目を丸くした。ぱちぱちと瞬きを繰り返して、寡黙に進む男の背中を仰いだ。
「雪が、あんなに」
 彼の外套は表が黒いので、積もる雪の白さが他よりもいっそう際立った。柔らかな繊維に絡みついたそれらは、他と比べて簡単には溶けず、いつまでも打刀の傍に寄り添い続けた。
 それがなぜだか無性に悔しく思えて、短刀は総毛立った。ぶるっと身震いしたのは寒さだけが原因と思えず、彼は無意識に唇を噛んだ。
「六角形」
 感覚が麻痺しかけているのか、力を込めてもあまり痛くない。
 簡単に歯型が消えない程度に噛み締めて、少年は視界を埋める雪の行方を追いかけた。
 笠があるので、少し遠い。手を差し伸べてみたところで、掴みとれるものでないのは分かり切っていた。
 降り始めた直後の打刀を真似てみるものの、やはり触れた途端に溶けてしまった。
 ひんやり冷たい感触を掌で受け止めて、彼は霞み出した行き先に一抹の不安を抱いた。
 一本道だが、ちゃんと辿り着けるのだろうか。
 このまま白い雪に埋もれて、誰にも見つけてもらえぬまま、朽ちていくのではないだろうか。
 それならいっそ、売りに出されて金に換えてくれた方が有り難い。
 多くの無辜の民を屠った刀とはいえ、逸話が秀逸だからと高値で取り引きされてきた。自分にはそれくらいしか価値がないと自嘲して、小夜左文字は爪先に落ちようとした雪を蹴り飛ばした。
「本当なんですか、それ」
 胸に積もる、鬱屈した感情を散らして、声を張り上げた。
 笠を少し持ち上げて視野を広げて、開いていた打刀との距離を詰めた。
 駆け足で近付き、隣に並んだ。笠の幅だけ隙間を作って、歩調を合わせてちょこちょこ足を動かした。
「さあ。けれど、先日読んだ本に、そうあった」
 左横に来た短刀を一瞥して、歌仙兼定は頷いた。途切れた会話を今更繋いだ少年に相好を崩し、人差し指で空中に六角形を描いた。
 得たばかりの知識を、披露したかっただけらしい。なぜ六角形なのか、どうすればそれが見えるようになるのかについては、一切言及されなかった。
 短刀が気になったところが、まったく出て来ない。
 随分と中途半端な情報だと呆れて、小夜左文字は得意げな横顔に肩を落とした。
「亀甲紋、ですか」
「やめたまえ、お小夜」
「なぜです?」
「声に出すと、出てきそうじゃないか」
 ため息を吐き、真っ先に浮かんだ単語を口にした。打刀を倣って空中に図を描き、吉祥と知られる生き物を模した絵柄を呟いた。
 それが、歌仙兼定には気に入らなかったらしい。
 急に声を低くし、険しくされて、理由を問うた少年は遅れて嗚呼、と頷いた。
 本丸には、亀甲貞宗という打刀がいる。貞宗派三振りの長兄で、眼鏡を掛け、常に穏やかな笑みを浮かべていた。
 これだけなら、彼が好青年に思えるかもしれない。だがこの打刀は、本丸でも際立って特異な存在のひと振りだ。とても短刀たちの目に曝せない奇特な趣味を有しており、千子村正と並んで一部から問題視されていた。
 物腰柔らかで、審神者に忠実な刀ではあるけれど、時に暴走して面倒を引き起こす。
 前に嫌な思いをしたことでもあるのか、歌仙兼定の顔はとても渋かった。
「自分が言い出したのに」
「僕は、六角形としか言っていない」
 そんな問題児を思い出すきっかけは、打刀のひと言だった。
 小夜左文字は亀甲紋としか言っておらず、そこから亀甲貞宗を連想したのは、彼の勝手だ。だのに責任を押し付けられ、苦情をぶつけられるのは納得がいかなかった。
 怒りをぶつけられ、それが短刀の中に染み込んだ。すっと溶けて、入り込んで、元からあった感情と混じって大きく膨らんだ。
「そんなに嫌なら、追い出せば良いのではないですか」
「あのね、お小夜。確かに苦手にしてはいるけれど、あれだって貴重な戦力だ。軽率な発言は、止めるべきではないかな」
「お行儀が良いですね、歌仙は」
「お褒めいただき、光栄だ」
 気に食わない刀剣男士は、審神者に訴えて、排斥すればいい。
 その主張をやんわり窘めた男に嫌味を言えば、皮肉を返された。
 開き直りとも取れる返答に、小夜左文字はむっと頬を膨らませた。河豚を真似て顔全体をぷっくり丸くして、言い負かされてぷんすか煙を噴いた。
 彼の周囲だけ気温が高くなり、肩に降り積もる雪が見る間に溶けていく。
 直綴に水が染み込んで、黒色の中にさらに濃い斑模様が出来上がった。
 指先が悴み、指の感覚も遠い。血の巡りが悪くなっていると自覚して、五本の指を何度か握り、開きを繰り返した。
「酷くなってきたな」
「歌仙が、もたもたするから」
 視界は霞む一方で、遠くに見えていた山の稜線はすっかり覆われてしまった。上空で風が強まったらしく、轟々と獣に似た呻き声が鼓膜を震わせた。
 灰色の枯れ草は溶けずに残る雪の重みに頭を垂れ、微かに見えた枯れ木はまるで骸骨のよう。美しかった雪景色は見るも無残に塗り潰されて、地を這う彼らを嘲笑った。
 文句を言ったところで始まらないが、言わずにはいられなかった。
 あの短い時間でどうこうなったとは思えないものの、ついつい口から出た苛立ちに、歌仙兼定は肩を竦めた。
「ああ、僕のせいだね」
 無闇に反論して怒りを買うより、認めて論争を終結させる方を選んだ。
 言い争っている場合でないのはお互い承知しており、今回は打刀が折れた格好だった。
「すまなかった、お小夜」
「分かれば、良いです」
 払ったところですぐ集まる雪に辟易しつつ、男が小さく頭を下げる。
 それで溜飲を下げて、小夜左文字はつっけんどんに言い返した。
 あまり根深い問題にしたくなくて、彼の方もここで一区切りつけた。この話題はこれで終わり、とすっぱり断ち切って、勢いを増す一方の雪模様に渋面を作った。
 時間を遡り、転送される先は決まって古い神社だ。しかも廃村などの打ち捨てられた場所が大半で、どれも歴史に名を残していなかった。
 彼らが向かう先も、その中のひとつ。
 権力争いに破れた貴族が落ち延びた先だが、結局逃げ切れず、一族郎党皆殺し。そうやって時代の波に埋もれて消えた、泡沫のような村だった。
 もっとも、土いじりなどしたことがない輩が集まったところで、どうせ先は知れている。追っ手が放たれていなくとも、自然界の猛威を受け、自ずとに滅んでいたに違いなかった。
 せめて神仏の加護をと望んで建てられた粗末な社は、長年風雨に曝され続け、朽ち果てる寸前だった。
 びゅうびゅうと頭上で荒れ狂う風を聞き、小夜左文字はこの時代で最初に見た光景を思い出した。
 訪ねる者もなく、放棄されて久しい廃墟の中に佇む鳥居は、時が時であれば丹色に塗られ、それはそれは立派なものになったに違いなかった。
 だが見た目がどうであれ、あそこには確かな祈りがあった。
 願いがあり、少なくない想いが籠められていた。
 崩れかけた鳥居に、付喪神が宿った形跡はなかった。
 それが良いことなのか、悪いことなのか分からなくて、彼は再び、通り過ぎた道を振り返った。
「ああ……」
 地蔵に捧げた握り飯も、この雪ではどうなっていることか。
 冷たく凍ってしまう前に、誰かの胃袋に収まっていればいい。たとえ一時の猶予であろうとも、死を迎える直前に、安らかな気持ちになっていてくれたらいい。
 失われて良い命などない。だが覆せない。覆してはならない。どれだけ焦がれようと、求めようと、我欲の為に誰かを不幸にして良い道理はない。
 この吹雪は、歴史を捻じ曲げようとした小夜左文字への罰か。
 存在してはいけない握り飯をそこに置いた少年の、拭い難い愚行への報いか。
 風に煽られ、雪の塊が頬に張り付いた。
 それはすぐに溶けて水になり、隆起を辿って顎へと流れていった。
「お小夜、大丈夫かい?」
「平気です。これくらい」
 唇に入りそうになったのを、引き結んで防いだ。顎を噛み締め、丹田に力を込めて、彼は心配そうな問いかけを突っぱねた。
 勢いを増す一方の雪に翻弄され、方角を見誤りそうだった。踏み固められた道幅は狭く、ここから逸れたらきっともう戻れない。
 黒衣を纏った枯れ木は後方へ遠ざかった。目的地まであとどれくらい残っているのか、距離感がまったく掴めなかった。
 すでに三歩もはっきり見えず、物の輪郭が辛うじて掴める程度。すれ違う人があったとしても、直前になるまで、お互いに気付けそうになかった。
 かといって立ち止まり、嵐が落ち着くのを待つ選択肢はない。
 地表には溶け損ねた雪が集まり、一歩踏み出す度にざく、ざく、と霜を踏むような音がした。
 歌仙兼定は爪先が覆われた沓だが、小夜左文字は草履だ。
 平気だと強がってはみたものの、進めば進むほど指の感覚が失われ、思うように力が入らなかった。
「こんなことなら、脚絆にしておくんだった」
 足袋を穿き、足首までを荒縄で結んでおけば、ここまで苦労せずに済んだだろう。
 本丸の気候がすっかり春めいていたので、油断した。この季節、場所によってはまだまだ雪が深いのだった。
 この国の広さを思い出して、彼は後悔に臍を噛んだ。
「ちょっと、失礼するよ」
「歌仙、なんです……――うわあっ」
 そんな短刀の耳に、いささか場違いに思える暢気な声が響いた。
 なんだ、と思って顔を上げた瞬間には、ひょい、と持ち上げられた。軽々と扱われて、小夜左文字は急な体勢の変化に素っ頓狂な声を上げた。
 いつだって感情を押し殺し、表情を変えない短刀が、だ。甲高く叫んで、驚愕に目を丸くした。
 滅多に笑わないと評判の少年の悲鳴に呵々と笑って、悪戯を仕掛けた張本人は軽すぎて心配になる体躯を抱きかかえた。
 小夜左文字が被る笠が自身にも重なるように、胸でなく、肩の位置まで高く掲げた。華奢な肢体を身体の中心でなく、やや右に寄せて支え、行軍を邪魔する雪の影響を少しでも排除しようと試みた。
「ああ、もう。急に、びっくりさせないでください」
「ちゃんと断りを入れただろう?」
「あれは、断ったとは言いません」
 確かに前置きはあったが、なにをするつもりかは教えられなかった。
 あれで驚くな、という方が無理な話だ。本日二度目の煙を噴いて、小夜左文字は雪まみれの打刀の髪を掻き回した。
 爪を立てて痛めつけると同時に、降り積もっていた白いものを払い落とした。藤色の毛先はかなり内側まで湿っていて、水分を吸って重くなった分、いつもより膨らみが落ち着いていた。
「しばらく、我慢してくれるかい?」
「待ってください。歌仙、睫毛にも雪が」
「おや」
 位置や力加減の調整で何度か揺らされ、その都度小夜左文字の身体が雪の中で踊った。振り落とされないよう左腕を逞しい背に回して、彼は早速歩き出そうとした男を引き留めた。
 髪に積もっていた分は退かしたが、それ以外の場所にも沢山雪が張り付いている。黒一色のはずの外套も、今では白い部分の方が多かった。
 果ては眉毛、睫毛にまで、ごく少量だが小さな結晶が張り付いていた。
 気温が下がったから、溶けずに残っているのだろう。それとも一旦溶けて、また凍ってしまったのか。
 その辺りについては、短刀には知識がないので分からない。
 無事本丸へ帰り着けたら、詳しい刀を探して聞いてみよう――雪が六角形な理由も、ついでに。
「あ」
「ん?」
 真っ白い吐息を零し、小夜左文字は恐る恐る利き手を伸ばした。
 睫毛、と言われて素直に目を閉じた打刀は、聞こえた声に首を傾げ、右の瞼だけを持ち上げた。
「六角形」
「お小夜?」
「本当だったんですね」
 そこに、興奮した短刀の声が響いた。鼻息を荒くして、胡乱げな男に目を細めた。
 頭を左右に揺らし、笠が重くなっている原因を地面に振り落とした。どさどさと小さな塊がいくつも砕け散るのを無視して、彼は歌仙兼定の目元を擽った。
 ほんの一瞬だけれど、結晶が見えた。
 亀甲紋に花菱を収めたような、そんな形だった。
「お小夜だけ、狡いな」
「綺麗でした、歌仙」
 残念なことに、打刀にはそれが見えなかった。自身の睫毛に張り付いていたものなのに、あまりにも近過ぎたのが災いしてか、最後まで焦点が合わなかった。
 小さな結晶は、短刀の吐息で形を失った。小指の先ほどもない雫となって、落ちる直前、小夜左文字に掬い取られた。
「お小夜の顔に、雪は……ないね」
 折角の好機を逸して、男は悔しそうに言った。
 ずい、と首を伸ばして覗きこまれて、苦笑を禁じ得なかった。
「また、機会があります」
「そう願おう」
 吹き荒れる雪風の中では、とてものんびり結晶を観察できない。
 そしてこれから向かう本丸は、すっかり春の装いとなっているので、こちらも観察対象を得られそうになかった。
 望みを叶えるには、数か月後の、次の冬の訪れを待つしかない。
 だが彼らにその時が巡ってくるかどうかは、誰にも分からなかった。
 だから願う。
 遠い先の約束を交わす。
 彼らは刀剣男士。時を遡り、歴史改変の目論見を阻止するべく戦うもの。
 故に彼らは、数多の時代、道半ばで倒れた命を救うことすら許されない。
 散りゆく命に背を向けて、顔も知らぬ誰かが、生きている間に見るのも叶わなかった景色を眺める。そうやって数多の死を悼み、己と、己らが目を背けてきた者たちへの慰めとした。
「そうです、歌仙。六角形で、思い出しました」
 雪は止まず、降り積もる。
 すぐに重くなる笠を何度も叩いて、小夜左文字は声を弾ませた。
 罪悪感と後悔を雪と一緒に地面へ落とし、真っ白い息を吐いて、打刀の赤くなっている耳に顔を寄せた。
 風に声が流されぬよう、手で壁を作った。歌仙兼定は小首を傾げ、灰と白が混じり合う世界で瞬きを繰り返した。
「なんだい、お小夜」
 足を止めれば、もう動けなくなりそうだった。そうならないためにも、一歩一歩前へ進んで、視線だけを脇へ流した。
「蜜蜂の巣も、六角形、です」
 そんな彼と目を合わせ、小柄な短刀が秘め事のように囁く。
 最後に首を竦めて目を閉じた少年に、打刀は一瞬ぽかんとして、すぐに破顔一笑した。
「ああ、それはいい。帰ったら葛湯を作ろう」
 蜂蜜をたっぷり入れて甘くした葛湯は、冷え切った身体を温めるのにも最適だ。
 妙案だと深く頷き、歌仙兼定は小夜左文字を抱き直した。落とさないようしっかり腕を回して、一歩の幅を広くした。
 道を覆う雪を蹴散らし、獣のように駆ける。
 その首にしがみついて、短刀は頬を緩めた。
 己の浅ましさ、罪深さを雪の向こうに投げ捨てて、祈るように頭を垂れた。

雁がねは帰る道にや迷ふらん 越の中山霞隔てて
山家集 春47

2017/03/05 脱稿

嘆かば人や 思知るとて

遠くから声がして、足を止めたのは気まぐれだった。
 名前を呼ばれたわけではなく、だから誰に話しかけているのかまでは分からない。自分が目当てとは限らず、無視して通り過ぎようかとも考えたが、あまりにしつこく続くので、振り返らずにはいられなかった。
 これで他の誰かを呼んでいたのであれば、かなり恥ずかしい。
 自意識過剰と笑われるのを覚悟で腰を捻って、小夜左文字は見えた姿に目を瞬いた。
「お~い」
「鯰尾藤四郎さん?」
 左手をぶんぶん振り回し、駆けて来たのは粟田口の脇差だった。長い黒髪を左右に躍らせて、悪戯好きの少年は残っていた距離を一気に詰めた。
 息を切らして、全力疾走だった。小夜左文字の手前で速度を緩め、衝突を回避し、胸に手を当ててぜいぜいと苦しそうに咳き込んだ。
「ああ、よかった。止まってくれた」
「僕になにか、用ですか」
 彼の目的は、自分で間違いなかった。
 恥をかかずに済んだのにまずホッとして、左文字の短刀は怪訝に眉を顰めた。
 小首を傾げ、前屈みで呼吸を整えている脇差に見入る。視線を気取った少年はすぐに顔を上げ、顎を拭って唇を舐めた。
 咥内の唾液を飲み干して、深呼吸して、背筋を伸ばした。よくよく見れば彼の右手には、風呂敷包みがぶら下がっていた。
 紺色で、柄はない。四隅を集めて結びあわせているが、その結び目は大いに雑だった。
 小夜左文字も髪や襷を結ぶのに、片方の輪が大きくなる癖がある。毎日直そうと努力するのだけれど、どうしても利き腕に力が入ってしまって、左右均等にするのは難しかった。
 この風呂敷も、そういった感じだ。不慣れな者が結んだというのが、ひと目で分かる出来栄えだった。
「はい、どうぞ」
「え?」
 その風呂敷包みを、やおら突き出された。
 思わず受け取ってしまって、小夜左文字は目を丸く、ぱちくりと見開いた。
 鯰尾藤四郎は楽しそうに目を細め、驚いている短刀にしてやったりと口角を持ち上げた。不遜な笑みで得意げに胸を張り、長い髪で空気を掻き回した。
「小夜君のおどろき顔、いっただっき~」
 珍しいものを見たと歯を見せて、大声で言い放つ。
 親指を立て、良い表情だったと褒められても、さっぱり意味が分からなかった。
 さては鶴丸国永の企みか、と疑惑が生じて、小夜左文字は大慌てで左右を見回した。
 念のためと頭上も確認して、足元も念入りに調査した。穴を掘り、潜り込める構造になっていないのを確かめて、短刀はようやく脇差に向き直った。
 その頃には鯰尾藤四郎も、真顔に戻っていた。何を警戒されているのかを予想して、顔の前で手を振り、そういう類ではないと苦笑交じりに告げた。
「いや、さあ。うち、兄弟多いじゃない?」
「……はあ」
「それで、遠征ついでによくお土産を買ってくるんだけど。間違えて、多く買ってきちゃってさ」
「はあ」
 三個入りの箱詰めのものを、四つ買ったつもりでいた。
 ところがいざ蓋を開けてみれば、中には四個ずつ、入っていた。
 実際は三箱で良かったのに、ひと箱余ってしまった。これでは弟たちと、脇差の兄弟でぴったりだった土産が、余分を取り合い、争奪戦になってしまう。
 喧嘩にならないよう、毎回数を調整していた。だのに今回は、得をした形だけれど、計算を誤った。
 一期一振や鳴狐を頭数に加えても、何個か残ってしまう。
 そんな説明を先にされて、小夜左文字は風呂敷に収められた箱を見詰めた。
 大きさの割に、ずっしりと重い。饅頭の類と想像して、彼は期待混じりの眼差しに半眼した。
「お代は、いくらですか」
 要するに彼は、これを引き取れ、と言っているのだ。
 弟たちに知られる前に、処分したいとの考えだろう。ついでに使い過ぎた分の回収も目論んでいると悟り、先回りして訊ねた。
 けれど。
「え? 要らないよ?」
 頭の上から素っ頓狂な声が降って来て、用心深い短刀はきょとんとなった。
 鯰尾藤四郎も、ぽかんとした表情をしていた。間抜け顔を晒して、絶句していた。
 お互い惚けたまま見詰め合って、しばらくの間沈黙する。
 先に我に返ったのは、粟田口の脇差だった。
「別に、そういうのは良いよ。小夜ちゃんには、美味しいごはん、作ってもらってるしね」
「僕が作っているわけでは」
「同じだって。そうそう、風呂敷は、骨喰に返してくれたらいいから。じゃあね~」
 くれてやるから金を寄越せ、という気は、さらさらなかったらしい。あっけらかんと言って、鯰尾藤四郎はひらりと手を振った。
 本丸に暮らす大勢の刀の胃を満たす食事は、刀剣男士たちが交代で作ることになっている。だが一振りでは到底手が足りるものではなくて、見るに見かねて手伝いを買って出る刀もいた。
 小夜左文字は、その貴重な一振りだ。暇だから、なんだのと理由をつけて、週の半分くらいは台所に立っていた。
 包丁を主に握る役ではないけれど、彼がいなければ手順が滞る。協力し合って作っているのだから、短刀の存在は重要だった。
 言いたいことだけを言って、鯰尾藤四郎は踵を返した。来た時同様駆け足で、パタパタ足音立てて去って行った。
 この後用事でもあるのか、随分と急いでいる。置いて行かれた少年は小さくなる背中を呆然と眺め、手元に残された風呂敷を撫でた。
 縮緬素材で、触り心地は滑らかで、柔らかかった。
 立ったままで失礼と思いつつ、結び目を解いた。広げた風呂敷は、実際は無地ではなく、折り返されて隠れる場所に小さな紋が入っていた。
 それであの台詞だったようだ。骨喰藤四郎の紋を指でなぞって、小夜左文字は呆れて嘆息した。
 箱の中身は、予想通りずんぐり丸い饅頭だった。
 中身は餡か、或いは栗か。外側の皮は濃い茶色で、下半分にだけ芥子の実が塗されていた。
 一個辺りの大きさは、かなりのものだ。短刀の拳よりやや小さいくらいで、とてもひと口では食べられなかった。
 岩融や、石切丸たちなら可能かもしれないが、小夜左文字ではまず難しい。一個食べきるだけで、相当腹が膨れてしまいそうだ。
 これは、夕餉前に食べてはいけないものだ。日暮れまでの残り時間を考えると、今すぐどうにかしないと、後で困ることになる。
「どうしよう」
 受け取ったはいいけれど、自力で処理するには数が多すぎだ。
 ひと振りでこれを食べきるのは、どう考えても不可能だった。
 となれば、誰かに引き取ってもらうしかない。幸い、鯰尾藤四郎は代価を請求して来なかった。彼としても、まさか小夜左文字一振りで食べ尽くせるとは思っていないはずだ。
 遠慮なく、皆で分け合って食べることにしよう。
「そうなると、だ」
 悩みがひとつ解決した途端、次の悩みが生じてくる。
 なかなか心休まる時が来ないと肩を落として、小夜左文字は風呂敷を包み直した。
 箱が水平になるよう抱え持ち、遠くを見る。庭先に話し声はなく、鳥の囀りもしなかった。
 実りの秋に至り、畑では毎日収穫で大わらわだ。屋敷に居残っている刀の大半は、目下そちらに駆り出されていた。
 小夜左文字は今朝も台所を手伝って、そういう事情で畑仕事が免除されていた。別に手伝っても良かったのだけれど、小さい子ばかり働かせるのは良くないと、追い返されてしまった。
 手持ち無沙汰になってしまい、当て所なく歩き回っていたところで、鯰尾藤四郎に捕まった。
 ずっしり重い菓子箱を小突いて、彼は数奇な巡り合わせに目を細めた。
「四個、か」
 貰った菓子は、全部で四個。鯰尾藤四郎の説明通り、箱にぎっしり、隙間なく詰められていた。
 普通に考えて、四振りで分け合えば丁度良い。だが粟田口の短刀たちには、脇差から一個ずつ配られているはずだ。
 厚藤四郎や後藤藤四郎は食いしん坊だけれど、いくら彼らでも、一度に二個は厳しかろう。そうすると必然的に、粟田口の面々は除外せざるを得なかった。
「兄様たち、食べるだろうか」
 そうすると、持って行く先は限られてくる。
 一番妥当なところを口にして、左文字の末弟は眉を顰めた。
 口を尖らせ難しい表情を作ったのには、理由がある。手持ちの菓子が、合計四個、という点だ。
 小夜左文字には、兄がふた振り在った。太刀の江雪左文字と、打刀の宗三左文字だ。
 彼らはどちらも、大食漢とは言い難い。むしろ食が細くて、お代わりも殆どしなかった。下手をすれば小夜左文字が、兄弟の中で一番の大食いかもしれなかった。
 持って行けば引き受けてくれるだろうけれど、全部食べつくせるとは思えない。余った一個を三振りで分けるのは、現実的ではなかった。
 かといって残して、腐らせるのは、作った人に申し訳が立たない。食べ物を無駄にするのも、絶対に許せなかった。
「誰か、一個、引き受けてくれれば」
 唇を爪で掻き、呻く。
 思案して、パッと脳裏に浮かび上がったのは、古くから付き合いのある一本の刀だった。
「……ああ」
 そういえば、あの男がいた。
 もっと早く思い出すべきだったと首肯して、小夜左文字は心の中で手を叩き合わせた。
 現実の手は、菓子箱を持っているので動かせない。代わりに鼻息を荒くして、短刀は目的地が定まったと口角を持ち上げた。
 菓子を食べるにも、この大きさだ、切り分けておいた方が食べ易かろう。楊枝も必要になる。箱に入れたままでは不便だから、皿に移し替えてしまいたい。
 茶もあった方が良い。饅頭は美味いが、口の中が乾くのが欠点だ。咥内を潤す飲み物があれば、飲みこむ際に苦しめられることもない。
 そうなれば、行く先はひとつ。
 兄たちの部屋を訪ねる前に、寄り道は必須だった。
「歌仙」
 それにあそこなら、脳裏に浮かんだ三振り目がいるに違いない。
 今日の食事当番の名を口ずさんで、短刀は駆け足で屋敷へ急いだ。
 畑に顔を出す前、小夜左文字は台所にいた。昼餉の片付けを手伝って、ひと段落ついたから場を離れたのだ。
 歌仙兼定は、このまま夕餉の下拵えに入ると言っていた。なにせ大量に作らなければならないので、野菜の皮を剥くのさえ大仕事だった。
 その合間に糠床を掻き混ぜ、冬に向けての保存食作りの準備をする。残っている食材を計算して、不足分を補充する作業も必須だ。
 やることが多すぎて、腕が三本あっても足りなかった。
 そんな彼を置いて、小夜左文字は炊事場を離れた。軽く後悔を覚えて、短刀は鈍足に鞭打った。
「歌仙、いますか」
「お小夜?」
 息せき切らして駆け、勝手口から台所へと入った。開けっ放しの戸を潜り抜け、開口一番問いかければ、思いがけず近い場所から声が飛んできた。
 正面に広がる景色の中に、その姿はない。慌てて左に腰を捻って、驚いた顔をそこに見付けた。
 歌仙兼定は竈の前で膝を折り、内部を掃除しているところだった。
 白い胴衣を黒く汚し、鼻の頭にも、擦ったのだろう、筋が走っていた。太く逞しい腕は灰色に染まって、手には火掻き棒が握られていた。
 灰を受ける塵取りが脇に立てかけられ、集めた分を入れる壺も用意されていた。中を覗けば半分近く埋まっており、数ある竈も大半が綺麗になっていた。
「良く、頑張りましたね」
 この灰は、後で畑へと持って行く。捨てるのではなく、肥料として撒く為だ。
「……たまには、ね」
 小夜左文字が呆気に取られたのは、必要なこととはいえ、歌仙兼定が自ら掃除をしていたことだ。誰かに命じられたわけではなく、率先して煤だらけになったのが信じられなかった。
 風流を好み、雅さを第一とする男からすれば、薄汚れる行為はその反対側にある。畑に出るのも、着物が汚れるからと毎回嫌がっていた。
 それが、どういう風の吹き回しだろう。
 愕然となり、後から歓喜が湧き起こって、小夜左文字は興奮に頬を紅潮させた。
 その表情の変化をつぶさに見て取り、藤色の髪の打刀は少々気まずげな顔で頬を掻いた。
「僕だって、これくらいは」
「そうですか。歌仙には、では、ご褒美をあげないといけませんね」
 なにをきっかけに、竈の手入れをしようと思い立ったかは分からない。だが近いうちに、誰かがやらなければいけなかったことであり、率先して手を上げた行為は褒めて然るべきだ。
 感心して、見直した。
 我が儘で短気なだけではないと自ら証明した男に相好を崩して、短刀は鯰尾藤四郎から譲り受けた菓子箱を撫でた。
 元から歌仙兼定に渡すつもりでいたが、正当な理由が出来た。
 どうやって食べさせるかが悩みの種だっただけに、問題がひとつ解決したのが喜ばしかった。
「褒美?」
 一方の歌仙兼定は、小夜左文字が何を持っているのか知らない。
 訝しげに首を捻った打刀に目尻を下げて、短刀は草履を脱ぎ、台所へと上がり込んだ。
 土間から一段高くなっている床に足を移し、作業台も兼ねている机に菓子箱を置いた。風呂敷は四つに折り畳み、更に半分にして懐に収めた。
 後で骨喰藤四郎に返しに行くのを、忘れてはいけない。衿の上から薄い膨らみを叩いて、彼は土間で背伸びをしている男に向き直った。
「手と、顔と。酷いことになってます」
「ええっ」
 自由になった手で己の顔を指差し、汚れている場所を教えてやる。
 打刀は気付いていなかったらしく、素っ頓狂な声を上げ、灰まみれの掌を覗き込んで目を丸くした。
「なんてことだ」
 鏡がないと、自分の顔が見えない。
 憤慨して踵を返した男に肩を竦めて、小夜左文字は行ってらっしゃい、と手を振った。
 台所のすぐ裏手には、井戸がある。そこで水を汲んで、顔を洗うつもりなのだろう。
 その間にと、小夜左文字は包丁を棚から出した。専用のもので、歌仙兼定や燭台切光忠たちが使うものより、ひと回り小さかった。
 あまり重すぎると、刃物に振り回されかねない。
 危険な目に遭わない為には、身の丈にあうものを使うのが一番の近道だった。
「よし」
 他に、菓子を載せる皿を並べ、半月型の盆の準備も整った。黒文字を合計四本用意して皿に置き、とっておきの茶葉も引っ張り出した。
 七輪に置かれていた薬缶に、湯はたっぷりあった。湯呑みを温め、急須に茶葉を適量注ぎ入れ、いつでも香り立つ薄茶を入れられるよう準備を整えた。
 机の上をいっぱいに散らかして、満足げに頬を緩める。
 次は饅頭を、食べやすい大きさに切り分ける作業だった。
「お小夜、すまない。拭くものを貰えるだろうか」
 俎板の用意も出来ている。いざ、このずっしり重い菓子の中身を暴いてやろう、という時だった。
 勝手口から舞い戻った打刀に叫ばれて、小夜左文字はビクッと肩を震わせた。
「っ、ぶな……」
 包丁を、取り出した饅頭に押し付けんとしていた。
 咄嗟に身を竦ませて、切っ先が上を向いた。更にはそのまま下向きに傾き、饅頭の隣にあったもの――小夜左文字の指に振り下ろされそうになった。
 寸前で回避したが、危なかった。
 心臓が口から飛び出そうなくらい驚いて、短刀は冷や汗を流した。
 息を呑み、両手を振り回しながらやってくる男を呆然と見やる。怒りは後から追いかけて来て、小夜左文字はむすっと頬を膨らませた。
「歌仙」
 向こうは知らなかったのだから、止むを得ないことなのは分かっている。
 けれど気持ちが収まらなくて、押し留められなかった。
「お小夜?」
 手拭いを求めたが、なかなか差し出して貰えない。
 顔や前髪までも濡らしたまま、歌仙兼定はきょとんとした顔で立ち尽くした。
 幽霊画を真似て胸の前に両手を垂らし、雫を落としながら首を傾げた。惚けた表情は間抜けで、睨みつける気力は続かなかった。
「ええと、あれ。お小夜?」
「ちょっと待ってください」
 ぽかんとしたまま連呼されて、作業は中断せざるを得ない。
 仕方がないと嘆息して、彼はそこにあった手拭いを掴み、放り投げた。
 細長い布は空中でパッと花を咲かせ、不安定に揺れながら落ちて行った。それをなんとか無事捕まえて、打刀は乾いている部分で顔を拭いた。
 念入りにごしごし擦って、鼻の頭を赤くした。もう汚れていないのに、繰り返し触れて、痛みを覚えたところで布を剥がした。
「ふう」
 指の股まで綺麗に拭き終えてから、人心地付いたと息を吐く。
 暢気極まりないと肩を竦め、小夜左文字は包丁を握り直した。
「それが、ご褒美かい?」
「はい」
 草履を脱いで板敷きの間に上がり、打刀が後ろから覗き込んで呟く。
 短刀は間を置かずに頷いて、今度こそ饅頭に刃を入れた。
「くっ」
 しかし思った以上に固く、なかなか通ってくれなかった。
 奥歯を噛んで唸って、小夜左文字は包丁の背に左手を添えた。
 上から押さえつけ、圧を加えた。ぐっと腹に力を込めて、見た目よりも強情な菓子を睨みつけた。
 饅頭を仇として、一気に切り伏せた。勢い余って俎板にも刃を突き立て、ガッ、と痛い音を響かせた。
 真ん中で真っ二つになった饅頭が、衝撃で左右に踊った。ただ中心部が重い所為か、傾きこそすれ、倒れはしなかった。
 しばらく不安定に揺れて、数秒してから落ち着いた。削り落とされた滓が辺りに散らばって、最後まで抵抗していた元凶が姿を現した。
「栗か」
「やっぱり」
 中に詰められていたのは、栗の渋皮煮だった。
 大振りのものが丸々一個、詰められていた。それが固くて、なかなか包丁が入らなかったのだ。
 そうと知らず、塊のまま齧っていたら、前歯が欠けていたかもしれない。
 爪楊枝程度では間違いなく切れなかったと、断言出来た。
 肩で息をして、小夜左文字は唇を舐めた。鼻筋を伝う汗は塩辛く、すぐに唾液に混ぜて飲みこんだ。
「大きいね。どうしたんだい?」
「鯰尾藤四郎さんに、貰いました」
「そう。これは食べごたえがありそうだ。しかし、……四つも?」
 外見もそこはかとなく栗に似せた饅頭が、全部で四つ。
 小夜左文字が用意した菓子皿も、四つ。
 果てには湯飲み茶わんも四つと、数は全て揃えられていた。
 褒美と聞いて喜んでいた歌仙兼定の表情が、何を想像してか、急速に曇って行く。
 口元に手を当て、反対の手で濡れた手拭いを握りしめた彼に、小夜左文字もまた渋い表情を作った。
「歌仙」
「僕は、ここでいただくよ。掃除がまだ終わっていないしね」
「かせん」
 先手を打とうとしたが、それより早く捲し立てられた。ご立派な理由を盾にして構え、逃げの口上を並べて目を泳がせた。
 視線は絡まず、すり抜ける。
 不満げに頬を膨らませて、左文字の末弟は右足で床を蹴った。
「また、そんなことを言って」
「いや、しかし」
 憤然としながら吐き捨てられて、打刀はびくりと肩を跳ね上げた。緊張に頬を強張らせて、胸の前で両手を擦り合わせた。
 薄い布を皺くちゃにして抱き込み、首を竦めて小さくなる。その姿はまるで子供で、見た目にそぐわなかった。
 打刀として立派な体格を持ち、大人びた風貌をしているくせに、完全に萎縮していた。
「そんなに、兄様たちのこと、嫌いですか」
「嫌い、ではないよ。尊敬している」
「では、良いじゃないですか」
 落ち着きなく身を捩る歌仙兼定に嘆息して、小夜左文字は包丁を置いた。半分に切った饅頭を元の形に揃え、下の俎板ごと九十度回転させた。
 ひと口で頬張るには、四等分にしないと厳しい。小食で、口が小さい兄たちのことを思い浮かべた短刀は、憤りのままに包丁を振り下ろした。
「……お小夜」
 ドゴン、と先ほどよりもよっぽど荒っぽい音が、台所内に轟いた。
 思わず首を竦めた男に、本丸で最も小柄な少年はぶすっと口を尖らせた。
「いくじなし」
 怒りを抑え込もうともせず、露わにして吐き捨てる。
 その凄まじい気配に臆して、歌仙兼定は弱り果てた表情で頭を抱え込んだ。
「苦手、なんだよ。なんていうか、その」
 小夜左文字の兄ふた振りは、個性的な刀が多い本丸の中でも、一段と異彩を放つ存在だった。
 長兄の江雪左文字は、刀の身でありながら戦嫌い。次兄の宗三左文字は籠の鳥を自称し、人を食ったような態度ばかり取った。
 他にも刀派を同じくする刀は大勢いるけれど、左文字ほど三者三様の方向を向いているのは他にない。
 そんな、普段はあまり交友を持とうとしない兄弟だが、ただ一点でのみ、火花を散らすほどに争い合っていることがあった。
 曰く。
 自分の方が末弟である小夜左文字に慕われている、と。
 外から眺める分には、この骨肉の争いは非常に滑稽で、愉快だった。自分こそが小夜左文字に、兄として好かれていると主張し合い、この時ばかりは江雪左文字も声を荒らげた。
 肝心の短刀は興味がないのか、毎回激しい口論を無視して過ごしていた。
 つまるところ、彼らは無関心を装っておきながら、末の弟を溺愛している。
 その可愛くて、可愛くて仕方がない弟と情を交える刀がいると知った時の大騒ぎぶりといえば、とても言葉では言い表せなかった。
「針の筵に座らされているようで」
「いい加減、慣れたらどうですか」
「だったら、お小夜から言っておくれよ」
「言って聞くと思いますか」
「……思わない」
 度重なる歌仙兼定の手入れ部屋行きにより、審神者からいい加減認めるよう通達が出されて、事態は収束した。
 しかしそれであの刀たちが納得するわけがなく、今でも歌仙兼定には厳しい目が注がれていた。
 審神者の命令だから手を出さないだけで、許したわけではない。そういう態度を堅持する彼らが、歌仙兼定はとても苦手だった。
 小夜左文字は、もう諦めていた。こればかりは、何度注意したところで、改まることはないだろう。
 最初のうちは抵抗していたが、最早どうにもならないと腹を括った。一度こう、と決めてしまえば後は楽で、兄たちが言い争う光景に心を痛めることもなくなった。
 しかし歌仙兼定は、未だその境地まで至れずにいた。
 うじうじして、ぐずぐずして、みっともなかった。
「歌仙?」
「うぐ」
 そろそろ覚悟を決めるよう、短刀が真顔で迫る。
 尻込みして、打刀はパッと顔を背けた。
 奥歯を噛み鳴らし、鼻を愚図らせて、血の巡りが悪いのか肌色を青くして。
「僕、のことは。気にしなくていいから。お小夜は、兄君達と。楽しんでおいで」
「僕は、歌仙とも一緒に食べたい、と言っているんです」
 その為に茶も用意した。湯はとっくに沸いており、薬缶からは白い湯気がひっきりなしに噴き出ていた。
 早くしないと、中身が全て蒸発してしまう。
 二つ目の栗饅頭を切り分けて、俎板から皿へと移し替えた短刀に、歌仙兼定は益々困り果てた顔で天を仰いだ。
 偏屈で口下手な小夜左文字が、ここまで言ってくれたことが過去にあっただろうか。こんなにも強く求められ、主張された経験は、恐らく生まれて初めてだった。
 嬉しくて、涙が出そうだ。けれど誘いに乗ればどうなるか、結果は目に見えており、とても楽しめなかった。
 歓喜と恐怖が入り混じり、ぐちゃぐちゃになっていた。江雪左文字の難解な禅問答に、宗三左文字が放つ嫌味混じりの皮肉の嵐の前では、小夜左文字からの誘惑も霞んだ。
「……いくじなし」
「言わないでおくれ、お小夜」
「いやです」
 決断出来ずにいる男を詰り、泣きつかれても受け入れない。
 間髪入れずに拒絶して、短刀は小鼻を膨らませた。
 むすっと顰め面を作り、恐縮している男に包丁の切っ先を向ける。刺される予感にぴくりとして、歌仙兼定は冷や汗を流した。
「お、お小夜っ」
 両手を挙げて降参の仕草を作り、本気なのかと瞬きを繰り返す。
 刀剣男士は斬ったり、斬られたりが日常茶飯事なのに、盛大に怯えた男に、小夜左文字は失笑を堪えられなかった。
「そんなにも、嫌、ですか」
「違うんだ。ただ、ちょっと、今はまだ心の準備が」
「僕は、歌仙。復讐の刀です」
「お小夜?」
 江雪左文字も、宗三左文字も、本丸に至って初めて顔を合わせた刀だ。兄弟と言われてもピンと来ず、どう接すれば良いか分からなかった。
 そんなふた振りから惜しみない愛情を注がれて、照れ臭いやら、気恥ずかしいやら、余計にどうすればいいか分からなかった。
 戸惑い、困っていたら、難しく考えなくて良いと教えられた。思っていることを正直に伝えれば、きっと分かりあえると、背中を押された。
 そう言った本人が、臆病風に吹かれて本音を言えずにいる。
 今や兄たちは、小夜左文字にとって大切な存在だ。此処にいる、遠い昔から傍で支えてくれていた刀と、同じくらいに。
 だから彼らが、仲良く、とまでは言わないけれど、せめていがみ合うことなく、共に暮らしていけたらと願っている。
「でも、世界は復讐だけじゃないって」
 山賊の掌中にあった時、左文字の短刀は多くの命を屠り、赤い血を啜った。
 研ぎ師となったかつての主が復讐を遂げた際も、一時の主であった山賊の血を浴びた。
 その後細川幽斎の元へと至り、西行法師の和歌から『小夜』の号を与えられた。復讐を遂げる、鈍く輝く刃を見ているだけでその身に宿る恨み、つらみ、怨讐といったものが見えるようだ、と言いながら。
 そう。小夜左文字は復讐の刀。
 誰かに復讐を遂げさせる為に存在する、復讐しか成し遂げられない刀。
 それを小夜左文字は、過去に出向き、思い出した。
 忘れていたのだ、ずっと。この身に染みついた黒い感情の正体が何であるのかも、本当は知っていたのに。
 この澱みこそが己の本質であると、気付いていながら、長く記憶に封じ込めてきた。
「教えてくれたのは、歌仙です」
 どうしてそんなことになったのか。
 理由を探れば、答えはひとつしか見つからなかった。
 小夜左文字がそう名付けられた後から、長い時が流れた。人の寿命は短く、刀のそれとは比べ物にならない。幾度となく主が変わり、方々を彷徨う事にもなった。
 しかし彼の基幹部分にあったのは、矢張り細川幽斎との日々であり、そこから始まる出会いと別れだった。
「僕、が?」
 名付け親が世を去り、その息子の手に渡った小夜左文字を待っていたのは、ひと振りの産まれたての刀だった。
 付喪神として未熟だったそれに、あろうことか懐かれた。血腥い逸話を持つ刀だというのに、嫌悪することもなく近付いて来た。
 思えば、そのころから兆候はあったのだろう。よもやその打刀が、後に三十六人殺しの逸話を付与されるなど、当時は思いもしなかった。
 好奇心旺盛な付喪神にあれこれ訊ねられ、連れ回されている間に様々なものを見たし、知った。これまで視界に入って来なかったあらゆるものに目を向けて、世界に色が溢れていると気が付いた。
 小夜左文字の根底にあるのは、復讐。
 けれど復讐だけが、彼という存在を創りあげたわけではない。
 唖然としながら己を指差した男に、小夜左文字は鷹揚に頷いた。ふっ、と頬を緩めて口角を持ち上げ、半月型の菓子盆を問答無用で押し付けた。
「行きますよ、歌仙」
 乱暴に渡されて、歌仙兼定は慌てて肘を引っ込めた。無理矢理持たされたものを惚けた顔で見つめて、慌ただしく準備を始めた短刀を振り返った。
「お小夜」
「僕の選択に、なにか、不満がありますか」
 茶瓶に湯を注ぎ、底に沈んでいた茶葉を水中で花開かせた。湯飲み茶わんは丸盆に置いて、左手一本で持ち上げて、囁くように問いかけた。
 柔らかな口調に反し、打刀を見詰める眼差しは険しい。
 有無を言わせぬ迫力を受けて、歌仙兼定はぐっと息を呑んだ。
 小夜左文字は、選んだ。自分の道を。復讐の道具として歩むことを。
 だが審神者を今の主と認め、その先鋒になると決めたからといって、全てを委ねたわけではない。
 戦う場を用意してくれたのは、感謝する。けれど戦う以外の、数百年の時を重ねて積み上げてきたあらゆる感情まで、奪わせはしない。
 選んだのは、審神者の道具となるだけではない。
 小夜左文字を『小夜左文字』たらしめる、すべてを抱えていくと決めたのだ。
 それと同時に、共に歩んでいく相手も、定めた。
 この決定に異論があるのであれば、今ここで、腹を割いてぶちまければいい。
「歌仙」
 不満があるなら、聞いてやる。
 そう胸を張った短刀に、打刀は暫く沈黙し、凍り付いた。
 惚けて開いていた唇を震わせ、きゅっと一文字に引き結んで。
「分かった。行こうか、お小夜」
「はい」
 彷徨っていた瞳を瞬きひとつで固定して、まっすぐ前だけを見詰めて、告げる。
 覚悟を決めた男の言葉に、小夜左文字は満足そうに頷いた。

今はただ忍ぶ心ぞ包まれぬ 嘆かば人や思知るとて
山家集 雑 1254

2017/02/26 脱稿