恨みばかりや 身に積らまし

 ギィィ、と軋みを上げて門が内側に開かれた。
 番人を兼ねる槍が、重い閂をゆっくりと地面へ降ろす。そうして恭しく頭を下げて、しばらく顔を上げなかった。
 蜻蛉切が礼をする前を、審神者がゆっくりと通り過ぎた。どんな時でも焦らず、慌てず、淡々として、感情などないが如きの振る舞いだった。
「いっちち……」
「あ~、もう。最悪。泥だらけ!」
 続けて本丸へ舞い戻った刀たちはといえば、こちらは実に騒々しい。
 傷を負った仲間を庇いながら、元気に勝利報告代わりの挨拶を繰り広げた。
「ただ今、戻りました」
「お役目、ご苦労様です」
「なんの。これが、僕たちの務めですから」
 前田藤四郎が蜻蛉切に一礼し、労われて微笑んだ。その隣で平野藤四郎が生真面目に頷き、最後に門を潜った刀を振り返った。
「大丈夫ですか、小夜君」
「ちいっと、敵さんに好かれ過ぎたな」
「これくらい、痛くもなんとも、ありません」
 一足先に本丸へ向かい、手入れ部屋の支度に入った審神者を追う刀はいない。走ったところで怪我が酷くなるだけと弁えて、痛みが酷くならない程度に足を動かした。
 先頭は頬に擦過傷が目立つ厚藤四郎で、最後尾は小夜左文字だ。
 その彼は六振りの短刀の中で最も傷の度合いが酷く、左足を引きずっていた。
 だというのに肩を借りるのを拒み、自力で歩けると言って聞かなかった。元からあちこち擦り切れていた紺の袈裟は泥で汚れ、前からあった穴が大きくなっていた。
 橙色の房は茶色く染まり、足に巻いた包帯も端が解け、落ちそうだ。
 彼が進む度にぽつ、ぽつ、と血が滴って、見ている分にはあまり気持ちが良いものではなかった。
「手入れ部屋まで、お連れしましょう」
「平気です」
 見かねた蜻蛉切が手助けを申し出るが、これまで同様、彼は取り合わなかった。両手を差し伸べた槍に見向きもせず、前を向いて、荒い息を吐いた。
 行き場をなくした両手で宙を掻き、親切心を働かせたつもりの男が惚けた顔をする。
「気にするな。ちょっと気が立ってるだけだ」
 気遣いを無碍にされて若干落ち込んでいた槍に、腕に切り傷を作った少年が呵々と笑った。
 紫色の瞳を細め、薬研藤四郎が背筋を伸ばす。
「はあ……」
 慰められた蜻蛉切は緩慢に頷き、よろよろしながら屋敷へ向かう小さな背中を見送った。
 小夜左文字が背負う笠にも、いくつか刺し傷があった。薬研藤四郎が言ったように、今日の出陣で彼は妙に敵に好かれてしまい、集中砲火を浴びせられた。
 重傷には至らなかったが、ちくちく刺されて、あまり楽しくなかったようだ。
 しかもひとり攻撃を浴びる中、他の刀が次々に誉れを勝ち取っていった。
 結局、最後まで一度として誉れを得られなかったのだから、彼が不公平に感じるのも止むを得ない。骨折り損のくたびれ儲けも良いところで、機嫌を損ねるのは当然といえば、当然だった。
「気を付けろよ、小夜」
「うるさい、です」
 先を急ぐ仲間たちを追いかけるべく、最後まで門前に残っていた薬研藤四郎も歩みを再開させた。
 右に、左にと千鳥足な短刀を気にかけて忠告すれば、案の定、小夜左文字からは不機嫌な声が返された。
 歯を食いしばり、痛みを堪え、懸命に足を動かしていた。時折意識が遠退きかけて、身体がガクン、と大きく傾くけれど、寸前で踏み止まった。
 その都度前田藤四郎や、平野藤四郎が心配そうに振り返る。
 憐みを含んだ眼差しが不快で、彼は呻りながら息を吸い込んだ。
「復讐、してやる」
 こちらを嘲笑うかのように襲ってきた敵の顔は、瞳にくっきり焼き付いていた。
 勿論全て討伐し、塵に帰してやったのだが、それでも心は晴れない。少しも気が休まらず、悶々として、苛立ちが拭えなかった。
 勝ったのに、負けた気分だ。悔しさが腹の底で煮え滾り、あちこち熱くてならなかった。
 前を歩く仲間さえ敵のように睨みつけて、フー、フー、と獣を真似て鼻息を荒くする。歯切りしして顎を軋ませ、ようやく辿り着いた屋敷の玄関で、鼻緒が擦り減っている草履を脱ぐ。
 彼らの帰還は、とうに知れ渡っていた。玄関先には一期一振がいて、後藤藤四郎や包丁藤四郎たちも出迎えに来ていた。
 江雪左文字は畑仕事を抜けられなかったようだが、大きな衝立の影に宗三左文字が立っていた。息が荒い弟を見つけて一瞬顔色を悪くしたが、自力で立てる状況に安堵して、すぐに胸を撫で下ろした。
 他にも数振り、玄関近くにいた刀が集まって、江戸から戻った短刀らを労い、その無事を喜んだ。
「主が手入れ部屋でお待ちだ。急げよ」
「分かってるって」
「は~い」
 近侍でもないのに偉そうに言ったへし切長谷部に、厚藤四郎と乱藤四郎がほぼ同時に返事をした。
 傷の度合いが軽い前田藤四郎は兄弟が脱ぎ散らした靴を揃えると、隅の方でおろおろしていた太刀を見つけ、安心させるべく微笑んだ。
「平野。手入れの前に、茶でも飲んでいけ。喉が渇いているだろう」
「鶯丸様、お心遣い感謝します。いただきます」
「他の連中も、一杯どうだ」
「おっ、気が利くねえ。いただくよ」
 前田藤四郎が大典太光世と無言のやり取りを交わしている横で、鶯丸が湯飲みを載せた盆を差し出した。その隣では大包平が薬缶を持ち、先を急ごうとする短刀たちに呼びかけた。
 薬研藤四郎が真っ先に反応して、一度は廊下を行こうとした厚藤四郎たちも戻ってきた。気を利かせた仲間に感謝を述べつつ受け取って、走りっ放しで疲弊した現身に水分を補充した。
 あまり意識していなかったが、身体は水気を欲していた。
 気が付かなかった、と嬉しそうに相好を崩した乱藤四郎の傍らを、小夜左文字はすい、と流れるように通り過ぎた。
「おい。お前も、どうだ」
「小夜。手入れ部屋の前に、飲んでおいた方が良いと思うよ」
 すかさず、大包平が声を上げた。両手で湯呑みを抱いた少年も、後々のことを考え、水分摂取を促した。
 けれど小夜左文字は、振り返りもしなかった。聞こえているはずなのに無視して、手入れ部屋を目指して廊下を突き進んだ。
「なんだ、あいつは」
 折角用意したのに、無駄になってしまった。大包平はたっぷり量が残る薬缶を揺らし、不愉快だと口を尖らせた。
「そう言うな。虫の居所が悪かったんだろう」
 彼よりも若干、本丸での生活が長い鶯丸が原因を探り、平野藤四郎を見る。
 悪気があったわけではない、と同意を求められた少年は慌てて頷き、空にした湯飲みを太刀に返した。
 残る短刀たちも口元を拭い、両手を空にして道を急いだ。小夜左文字との距離はあっという間に埋まって、追い付き、追い抜くのは容易だった。
「小夜ってば。機嫌が悪いのは分かるけど、さっきのはちょっと失礼だよ」
「……」
 狭い廊下で横に並び、注意したのは乱藤四郎だ。
 少女じみた可愛らしい外見ながら、明け透けにものを言い、誰に対しても遠慮がない。当然短刀仲間の小夜左文字にも、思ったことを正直に述べた。
 横目で睨まれても臆さず、反応の悪さにため息を吐いて、肩を落とす。
「嫌われちゃっても、知らないからね」
「別に、それでいいです」
「もう!」
 お節介を焼いて言葉を重ねれば、どうでも良いとばかりに突っぱねられた。
 あまりの愛想の無さに憤慨し、地団太を踏む彼に、後ろで見ていた薬研藤四郎は失笑を禁じ得なかった。
 前田朗四郎らはやり取りをハラハラ見守っていたが、厚藤四郎はあまり興味がないようだ。大包平があれしきで臍を曲げるわけがない、と太刀の側に信頼を置いて、それよりも、とのろのろ運転になっている先頭を急かした。
「あんまり大将を待たせるもんじゃねえぞ」
「はいはい。分かってるってば」
 彼らが門を潜ってから、それなりに時間が過ぎていた。
 怪我を負った刀を癒やすべく、準備している審神者を待たせるなど、失礼千万。
 もっと早く歩け、と後ろから飛んできた声になおざりに返事をして、乱藤四郎は小夜左文字を追い抜き、角を曲がろうとした。
「おっと」
「あれ?」
 だが、直前で思い止まった。
 歩み自体も止めて、上半身だけを後ろに傾けた。
 奇妙な反応に、残る五振りも足を緩め、衝突を回避した。左右に分かれて角の先を覗きこみ、ぬっと現れた黒い影に嗚呼、と丸くしていた目を眇めた。
「良かった。遅いから心配したよ」
 もう少しでぶつかる、というところに、打刀がひと振りで立っていた。
 白の胴衣に薄鼠色の袴を着けて、紅白の襷で袖を縛っていた。前髪は後ろに梳き流して額を晒し、落ちて来ないよう赤い紐で結んでいた。
 人好きのする笑みを浮かべて、歌仙兼定が戦場帰りの短刀たちを出迎えた。ホッとした表情で息を吐き、後方に続く廊下を一瞥した。
 この先に、手入れ部屋があった。しかし屋敷のほぼ中心に位置するそこに入れるのは、傷を負った刀だけだ。
 兄弟刀の傷が癒えるのを、近くで待ちたいと願っても、それは叶わない。
 本丸で最も古株である打刀は、その事実を勿論承知している。だからここで待っていたのだろう。
 左へずれた乱藤四郎が、その間際に小夜左文字を肘で小突いた。意味ありげに笑って、不機嫌な短刀に場所を譲った。
「……歌仙」
 他の粟田口の短刀たちも、なにやら思う所があるようで、にやにやと目つきがいやらしい。
 不躾な視線を浴びた少年は不満そうに頬を膨らませ、仕方なく打刀の名前を口ずさんだ。
 小夜左文字と歌仙兼定は、本丸に至る以前からの知り合いだ。そう長い期間ではないけれど、同じ屋敷に暮らし、隣り合わせで時を過ごした。
 まさかそれから数百年を経て、このような形で再会を果たすことになろうとは、夢にも思っていなかった。
 人見知りだという打刀も、この短刀にだけは気兼ねせずに済むらしい。本丸の中でも、外でも、一緒にいるところが頻繁に見受けられた。
 大勢が集まる玄関ではなく、手入れ部屋に続く廊下で待っていた辺りも、なかなかに意味深だ。
 何を考えているか丸分かりの視線に肩を落として、小夜左文字は若干戸惑い気味の男に首を傾げた。
「なにか」
 訳知り顔の眼差しを浴びるのは、左文字の短刀だけに限らない。
 複数に取り囲まれた打刀は困った風に頬を掻くと、視線を泳がせ、右手を懐に忍ばせた。
 そうして音もなく取り出したのは、懐紙で作った包みだった。
 四角形の紙の端を集め、捩って固定したものだ。反対側に捻れば簡単に開き、中身が取り出せる。彼が料理上手だと知る短刀たちも、興味惹かれて首を伸ばした。
 黙って通り過ぎて行けばいいものを、菓子の気配には敏感だ。
「小腹が空いていると思ってね。手入れ前に、食べていくといい」
 歌仙兼定も、その辺はしっかり心得ていた。人数分を用意したと笑って、掌に広げた甘味を皆に示した。
 包まれていたのは、親指ほどの大きさの塊だった。
 表面は艶やかで、光を受けてきらきら輝いている。形状は少しずつ異なっており、夜空に瞬く星を拾ってきたかのような鮮やかさだった。
「わああ」
「いいのですか、いただいても」
「どうぞ。黄金糖と言うそうだ」
 見た瞬間、前田藤四郎が歓声を上げた。平野藤四郎は遠慮がちに問うたが、右手が既に伸びかけている。厚藤四郎などは返事を待たずにひとつ摘み、問答無用で口に放り込んだ。
 そして皆が見つめる前で、噛み砕こうとして、ガリッと硬い音を響かせた。
「ぎゃっ」」
「黄金糖って、飴じゃなかったっけか」
「それを先に言ってくれよ~」
 奥歯が変に歪んだ気がして、帰還後に傷を増やした短刀が泣きそうな声を出す。
 手にした時に分からなかったのか、と薬研藤四郎がからかい、甘い蜜を含んだ飴を咥内に招き入れた。乱藤四郎も嬉しそうに顔を綻ばせ、手入れ前の栄養補給とその場で飛び跳ねた。
 だが肝心の、小夜左文字が動かなかった。
「お小夜?」
「僕は、いいです」
 包み紙にひとつ残った飴を気にして、歌仙兼定が眉を顰める。
 直後に少年は首を振り、掠れた小声で囁いた。
 耳を澄ませていなければ、聞き取れない音量だ。蚊の鳴くような小さな呟きに、打刀は目を点にし、素早く瞬きを繰り返した。
「いや、しかし」
 わざわざ人ごみを避け、確実に話しかけられる場所で待っていた。短刀たちが喜ぶ甘いものを用意して、出陣の労をねぎらうつもりでいた。
 彼らが玄関で捕まっている間に、別経路で先回りまでして。
 それを冷たく断って、困惑する打刀に舌打ちする。
「邪魔です」
「ちょっと、小夜」
 言い捨てて、彼は利き腕を横薙ぎに払った。前を塞ぐ男を押し退け、強引に先へ進もうとして、あまりの態度に反発した乱藤四郎は無視した。
 敵の攻撃を幾度となく受け、傷ついた足で床を蹴った。薄れつつあった痛みが蘇り、ズキリと来たが我慢して、強がって打刀の胸を突き飛ばした。
「うあ、っと」
「ああ!」
 みぞおち近くを攻撃されて、歌仙兼定が体勢を崩した。
 痛くはなかったが、踏ん張れなかった。上半身を前後に大きく揺らして、右足を引いて踏み止まろうとした瞬間、手の中で懐紙ごと飴玉が躍った。
 カサカサに乾いた紙の上で飛び跳ねて、黄金色の塊が空中へと舞い上がる。
 思わず、といった感じで厚藤四郎が叫んだ前で、それは緩やかな曲線を描き、一直線に大地を目指した。
 重力に引かれ、床に落ちて、二度跳ねた。
 実際は音などしなかったが、誰もがカラン、と硬い音を想像した。
 居合わせた全ての刀が、同じ物を目で追った。そうして床に転がる黄金糖が動かなくなったところで、一斉に視線を上げて、ひと振りの短刀を見た。
 空になった懐紙を握りしめた男の前で、よもやの結果に驚いた少年は、絶句して背筋を震わせた。
 そんなつもりはなかったのに、食べ物をひとつ、駄目にしてしまった。
 たとえ小さな飴玉とはいえ、完成までにはいくつもの工程と、時間と、材料が費やされている。これは、間違っても空から降って来たものではない。
 その計り知れない努力と、労苦を、彼はこの一瞬で無に帰した。飢饉を肌で知り、餓える民草を救うために細川の屋敷を出た短刀にとって、これは相当な衝撃だった。
 望んでやったことではない。
 たまたま、偶然そうなっただけ。
 けれど彼が歌仙兼定を突き飛ばさなければ、このような結果にはならなかった。
「あ~ああ」
「洗ったらまだ食えるかな」
「意地汚いですよ、薬研兄さん」
 粟田口の短刀たちが言い合っているのも、耳に入らない。
 食べ物を粗末にするなど、あってはならないことだ。だのに他ならぬ自分が引き起こした事態に騒然となって、小夜左文字は色の悪い唇を噛み締めた。
 目に見えない金槌で、思い切り頭を殴られた気分だった。戦場ではなんともなかったのに、今になって眩暈がして、意識がふっと遠退きかけた。
「お小夜」
「か、かせ……歌仙、が。僕は、要らないと、言いました!」
 それを引き留めたのは、歌仙兼定の声だった。
 ハッとして、無意識のうちに捲し立てていた。防衛本能が働いて、こうなった責任は相手側にあるとの立場を取り、横暴とも言える理論を錦の御旗に掲げた。
 痛む足に力を込め、腹の底から声を絞り出した。大声で吼えて、遠巻きにしていた短刀仲間がぎょっとする中、癇癪を爆発させて頭を振った。
「おいおい、小夜。お前、そりゃ、いくらなんでも」
「要らないと言っているのに、押し付けて来たのは歌仙です」
 無関係とはいえ聞き捨てならないと、厚藤四郎が割って入ろうとした。
 それを押し退け、喚き散らし、小夜左文字は頑として譲らなかった。
 打刀に責任を押し付け、自分は悪くないと繰り返した。息を荒くし、脂汗を流し、仇を見るような目で歌仙兼定を睨みつけた。
 敵陣を前にした時と同じ表情に、平野藤四郎がゾッと背筋を寒くした。薬研藤四郎は呆れた様子で頭を掻いて、口の中で小さくなった黄金糖を噛み砕いた。
「すまねえな、歌仙の旦那。小夜の奴、敵さんにしこたま虐められて、機嫌が悪いんだ」
「薬研藤四郎!」
「ほらほら、お前らも、行った、行った。大将が首を長くしてお待ちだ」
 すっかり悪くなった場の空気を掻き混ぜて、飄々とした口調で言い放つ。
 まるでひと振りだけ弱い、という風に言われた少年は罵声を上げたが、彼は耳を貸さなかった。
 弟たちにもひらひら手を振って、いい加減手入れ部屋へ行くよう命じた。これ以上寄り道しては、審神者まで機嫌を損ねてしまうと言われれば、誰も逆らえるわけがなかった。
 最後まで居座っていた小夜左文字の背中も押して、構わないから向こうへ行くよう促す。
「気を付けるんだよ」
「あんがとよ」
 その上で歩き出した黒髪の短刀に、打刀は少々場違いにも聞こえる台詞を口にした。
 これから傷を癒やしに行くというのに、なにに気を付けろと言うのだろう。だが敢えて突っ込まず、ひらりと手を振って礼に変えて、薬研藤四郎はしんがりを務めて皆を追いかけた。
 小夜左文字が手入れ部屋を出たのは、それから一刻半近くが経過した後だった。
 他の短刀たちはすでに手入れを終えたのか、並んだ部屋はどれも空っぽだった。障子の奥は静まり返っており、灯りさえなく、不気味だった。
 本丸のほぼ中心に位置するこの一帯は、周囲から隔絶され、出入りは厳しく制限されていた。大扉は普段から施錠されており、鍵を持つのは審神者か、近侍に限られていた。
 内側からなら開けられるのだけれど、一度閉めると自動的に鍵がかかる。
 間に挟まれぬよう慎重に潜り抜けて、彼は背後で響いたドスン、という大きな音に首を竦めた。
 何度聞いても、この音は慣れない。
「先に、着替え……か」
 人気のない薄暗い空間に佇んで、小夜左文字は誤魔化すように呟いた。
 擦り切れて襤褸布一歩手前の袈裟を抓み、穴が塞がった笠を撫でた。いつまでも戦装束でいる必要はなくて、さっさと内番着に着替え、身を軽くしたかった。
 たっぷり時間をかけて修復されたお陰もあってか、気持ちは幾分、落ち着いていた。
 ここに至るまでの出来事を走馬灯のように蘇らせて、彼は後悔を過分に含んだ溜め息を零した。
「……はぁ」
 確かにあの時、機嫌は最高潮に悪かった。
 嫌がらせのように敵の攻撃を連続で浴びせられ、腹が立って仕方がなかった。挙げ句その横を粟田口の連中が駆け抜けて、小夜左文字に集中した敵を横から攫っていった。
 それなりに戦果を挙げたのに、認められなかった。
 不公平だと臍を曲げて、全てに対して反発した。
 なんと幼く、未熟だったのだろう。
 誉れが全く取れなかった日は、なにもこれが初めてではない。集中砲火を浴びたのだって、過去に幾度か経験済みだ。
 今回はたまたま自分だっただけで、前回は厚藤四郎が被害に遭っていた。けれど彼は辛抱強く耐えて、自分が引き受けた分、皆に被害が及ばずに済んで良かった、と笑ったのだ。
 彼の方が圧倒的に立派で、大人だ。
 到底敵うわけがないのだと思い知らされて、傷は癒えたのに、心は憂鬱だった。
「あ、小夜。お帰り。大丈夫?」
 やってしまったことは、元に戻せない。後悔ばかりが胸に渦巻き、陰鬱な足取りで黙々と部屋へ向かうべく歩いていた。
 話しかけて来たのは、乱藤四郎だ。一足早く手入れを終えて、着替えもとっくに済ませていた。
 彼の傷の度合いは、比較的軽かった。髪を切られて一部が短くなっていたが、それもすっかり元通りだった。
 中庭で、五虎退と鞠蹴りで遊んでいたらしい。紙を丸めて作った模造刀で稽古する、厚藤四郎と後藤藤四郎の姿もあった。
 本丸の屋敷は南北で別れており、北側の棟が刀剣男士の居住区だ。手入れ部屋や大座敷、台所がある南の棟とは中庭を挟んで、長い渡り廊で繋がっていた。
 その屋根つきの廊を潜っている途中、呼び止められた。窓から身を乗り出した少年は、引っかかった笠の位置を調整し、駆け寄ってきた短刀に頷いた。
「ありがとうございます。もう、……問題ありません」
「ふふっ、良かった。機嫌も直ったみたいだね」
「面目次第もありません……」
 本丸の屋敷は、一部を除き、地面から一尺近く高いところに床がある。
 普段は見上げなければならない相手でも、立ち位置の違いから、今は見下ろす側だった。
 恐縮しながらの返事に鋭い指摘を返され、どうも気まずい。
 ばつが悪い顔をした小夜左文字に、乱藤四郎はカラコロと楽しそうに笑った。
「あとで、歌仙さんに謝っときなよ。落ち込んでたからさ」
 鈴を転がすような音を響かせ、両手を腰の後ろで結んだ。背伸びをして距離を詰めて、右目だけを器用に閉じた。
「本当ですか?」
「うん」
 その彼の発言に、小夜左文字は目を丸くした。思わぬ情報に唖然として、迷いなく頷かれて呆然と立ち尽くした。
 悪いことをしたとは思っていたが、落ち込むくらいだとは、考えていなかった。
 酷いことを言ってしまった自覚はある。彼には何の非もないのに、責任転嫁して、強く詰ってしまった。
 勿論、後で謝りにいくつもりでいた。あの時の自分は、どうかしていたのだ。あらゆる事象に対し、思い通りにならないのに苛立って、偏屈になっていた。
 歌仙兼定は悪くない。心配して、気を利かせてくれたのに、応えられなかった小夜左文字がいけないのだ。
「歌仙が。そう、ですか」
「時間経つとさ、謝りにくくなるよね」
「そうですね……」
 朗らかに笑う打刀の顔が脳裏に浮かび、それがみるみるうちに歪んで行った。
 哀しげに伏せられた瞼と、それを縁取る睫毛の震えを想像して、彼は心優しい助言に、素直に頷いた。
 あの男は部屋にいるだろうか。気になって、視線は自然と前方に聳え建つ家屋に注がれた。
 乱藤四郎に一礼して、足早に渡り廊を駆け抜けた。笠が邪魔だと、途中で結んだ紐を解き、胸に抱えて足を交互に動かした。
 先に着替えようか迷ったが、心が逸った。短刀たちが暮らす区画を素通りして、彼は打刀区画に踏み入った。
「歌仙、いますか?」
 焦燥感に声を上擦らせ、閉まっている襖の前で呼びかける。
 短刀が使うには些か大きい笠で顔の下半分を隠して待つが、返答は得られなかった。
「歌仙。いないんですか?」
 念のためもう一度呼びかけて、遠慮がちに襖を開けた。覗きこんだ内部は物で溢れ返り、どこもかしこもごちゃごちゃしていた。
 壁一面に棚が設けられ、茶器や花器、書画などが所せましと詰め込まれていた。布団を敷くだけの面積が辛うじて確保されて、文机の上もいっぱいだった。
 丸められた書き損じの紙が、屑入れの横で昼寝をしていた。仕方なく拾って、山盛りだったのを上から押して凹ませて、小夜左文字は深く肩を落とした。
 気張って出向いたものの、空振りだった。
 歌仙兼定は不在で、最近出て行った雰囲気もない。やや埃っぽい空気を吸い込んで、短刀は眉を顰めた。
「ここに居ないとなると」
 思索を巡らせ、回れ右をして部屋を出た。襖をピシャッと閉めて、来た道を早足で戻った。
 歌仙兼定は昔から人見知りで、慣れない相手にはつい居丈高に構える癖があった。初対面で舐められないよう、甘く見られないように、との配慮が裏目に出て、高慢で鼻持ちならない存在、という誤解を受け易かった。
 そういうわけだから、どうしても友人が少ない。本人は平気だと言い張っているが、少なからず寂しく感じているようだ。
 だからこそ彼は、小夜左文字に付き纏った。昔からの知り合いということで遠慮が不要で、心を預けるに足る存在だからこそと、短刀も彼を受け入れた。
 それが結果的に良かったのか、悪かったのかは分からない。
 歴史修正主義者討伐が始まって、もう二年が経過した。その年月の中で、歌仙兼定に対する各方面の誤解は、順次解けて行ったはずだ。
 にも拘らず、あの打刀はことあるごとに小夜左文字に構ってくる。他の刀に頼んだ方が良さそうなことにまで、逐一伺いを立てに来た。
 彼に好かれている自覚はある。
 本丸において、殊の外あの男に気に入られているのは承知している。
 そして自らもまた、あの男に並々ならぬ感情を抱いているのも、把握していた。
 手入れ部屋に向かう道中、にやにや笑っていた粟田口の刀たちが不意に蘇った。
「別に、……このままだと、気分が悪いからで」
 今現在苛立っているのは、早く謝りたいのに、肝心の相手が不在だったからだ。
 間違っても、顔を見られなかったのに落ち込んで、しょげているのではない。誰に言われたわけでもないのに、必死に弁解を捲し立てて、小夜左文字は小さくなった袈裟の穴を弄り倒した。
 表面を皺だらけにして、私室に入る。
 短刀たちの部屋を集めた区画は、いつも通り無駄に静かだ。彼らは日中、外に遊びに出ていることが多く、室内で過ごす刀は稀だった。
 その稀な刀に分類される少年は、圧倒的に物が少ない部屋で戦装束を解くと、手早く内番着に着替えた。
 刀を床の間に据えて、首に巻いていた数珠を外した。畳んだ袈裟の上に黒の直綴を置き、緩んでいた髪を解いて、結び直した。
「台所、だろうか」
 楽な服装になり、最後に裾を巻き上げ、帯に挟んだ。尻端折りで足さばきを軽やかにして、再度外に出ようとして、敷居の手前で踏み止まった。
「一応、念のため」
 歌仙兼定が行きそうな場所は、限られている。
 部屋か、茶室か、でなければ台所。
 あとは庭を散策しているかくらいで、畑や厩には、仕事を命じられない限りは近寄らなかった。
 もう既に、私室は確認済みだ。障子を開け、中庭を挟んで反対側の棟を覗きこむが、目立った変化は見つからなかった。
 打刀部屋区画は、短刀部屋とは坪庭を挟み、向き合っている。植物が目隠し代わりになっているけれど、全く見えない、というわけではなかった。
 まだ戻っていないと思っても、支障ないだろう。
 とすればあの男の現在地は、本丸の母屋のどこかだ。
 台所だとするなら、夕餉の支度に入っている頃合いだ。当番ではなくても、手伝いで包丁を握っていて不思議ではない。
 そうなれば、彼の周囲には何振りか、刀がいる。
 調理中に呼び出すのは忍びなく、躊躇が生まれたが、小夜左文字は首を振って己を鼓舞した。
「明日には、持ち越したくない」
 時間遡行軍との戦いは、苛烈を極めている。いつ、万が一が起きるかは誰にも分からなかった。
 いうなれば、明日とも知れぬ身だ。戦場へ出向く際に、心残りは作っておきたくなかった。
「……こんなことを言ったら、歌仙は怒るだろうけれど」
 二度と居なくならないでくれ、と懇願されたことがあった。
 何も出来ないまま、黙って見送るしかなかった日の繰り返しは御免だと、怒鳴りながら泣かれたこともあった。
 過去の出来事がコロコロと転がり、互いにぶつかり合い、そして爆ぜた。連鎖反応的に次々蘇って、懐かしさと切なさで胸が締め付けられた。
 やはり一刻も早く、謝ろう。
 気まずさは残るが、勇気を振り絞ると決めて、彼は深い意図がないまま室内を見回した。
「あ」
 そうやって、文机に出しっ放しだった書物に目を留めた。ずっとドタバタしていた所為で、なかなか読み進められずにいた一冊だった。
 中身は、とある人物の日記の写しだ。
 宮廷文化が隆盛を極めていた時代の、華やかな日常が連綿と綴られていた。当時の風俗や祭事にも多数言及しており、資料的価値が非常に高かった。
 存在は知っていたが、目を通す機会がなかったものを、先日幸運にも手に入れた。それを歌仙兼定に話したら、興味を示し、読み終わったら貸してくれ、と頼まれていた。
 ところが一向に頁が進まないので、約束はずっと後回しになっていた。
 明日も、小夜左文字の出陣は続く。時間を作ってゆっくり読んでいる暇はなさそうで、ならばいっそ、彼に先に読んでもらおう。
「それがいい、ね」
 長く待たせるのも悪い。これを話しかけるきっかけにして、今日のことも一緒に謝れば、一石二鳥だ。
 落ち込んでいるという打刀も、きっと機嫌を直してくれるに違いない。
 やり取りを想像して、期待に胸が膨らんだ。これで行くと決めて、力強く頷き、短刀は糸で綴じられた本を小脇に挟み持った。
 今度こそ部屋を出て、襖は閉めずに廊下を歩き出した。やや急ぎ気味に、せかせかと足を動かして、長い渡り廊を潜り抜けた。
 粟田口の短刀たちは、場所を変えたのか、姿は見えなかった。代わりに鶴丸国永が、なにか仕掛けをしているらしく、熱心に手を動かしていた。
「あそこは、通らないようにしよう」
 思い過ごしかもしれないが、留意するに越したことはない。
 今日明日は中庭に立ち入らないと決めて、小夜左文字はそこそこ厚みがある書を叩いた。
 落とさないようしっかり握りしめ、小走りに廊下を進んだ。頑丈な木戸を開けて母屋へ入り、現れた目隠しの衝立から玄関を覗きこんだ。
 上がり框まで近付いて、広い空間を見渡す。
「歌仙の、は……あった」
 帰還時に脱ぎ捨てた草履は、誰が片付けてくれたのか、揃えて隅に避けられていた。
 肝心の打刀の履物はといえば、踵のある戦用のものと、平たい草履、両方揃っていた。となれば屋内にいると思って良くて、短刀は俄然やる気を漲らせた。
「台所、だね」
 茶室は庭の一画にあるので、行くには履物が必要だ。素足でも平気で屋外を歩き回る刀はいるが、歌仙兼定はそうではなかった。
 行き先が更に絞られ、確信が強まった。
 部屋から持って来た本を抱きしめて、彼は自分に向かって頷いた。
 今になって思えば、どうしてあの時、あんなに苛々していたのか分からない。良いことがひとつもなくて、損な役回りばかり与えられた気でいたが、それは今に始まったことではなかった。
 別の機会では、違う刀にばかり攻撃が集中していた。
 すべては偶然だ。誰も責められない。もし責める先があるとしたら、それは時間遡行軍であり、歴史改竄を目論む歴史修正主義者たちだ。
「すぅ……はぁ……」
 八つ当たりした件を謝り、許しを請う。
 言葉にすればとても簡単だが、実践するとなると相応に勇気がいる。
 深呼吸して昂ぶる鼓動を落ち着かせ、小夜左文字は早速台所へ向かい、開けっ放しの戸から中を窺った。
 こそこそ隠れて、まずは誰が居るのかを調べる。
「わはっ、なにそれ。嘘でしょ?」
「僕も、ちょっと信じられないかなー。本当なんですか、それ」
「ああ、勿論だとも。信じられないのも無理ないが、嘘偽りない真実さ」
 聞こえて来たのは、新撰組に所縁を持つ刀たちの笑い声。そして、それに自信満々に応じる、戦国期を知る古刀の声だった。
 三十六人を斬ったと伝わることから、その首の数に合う号を与えられた刀。
 細部に亘って精緻な細工が施された、美しくも実用性高い鞘拵えが付属する、片手持ちに適した長さを有する打刀。
 人見知りが故に小夜左文字にだけ懐き、少しずつ交友範囲を広げていった男。
 藤色の髪に長い睫毛、端整な顔立ちに意外と広い肩幅、背中。文系を気取りながらもなにかと腕力に訴え、力技で物事の解決を図る悪癖が抜けない、筋肉馬鹿。
 歌仙兼定。
 落ち込んでいると聞いていた。
 しょぼくれて、暗い顔をしているとばかり思い込んでいた。
 気遣ってくれたのに、失礼な真似をしたから、小夜左文字は深く反省し、謝罪するつもりでここに来た。元気になって欲しいから、いつものように笑って欲しいから、自分のことは二の次にして探し回った。
 それが、どうだ。
「……なんだ」
 三振りの会話は続いており、戸口に佇む短刀に気付く気配はない。
 断片的に聞こえてくる内容は前の主に関することで、時折脱線し、伊達の刀の主や、黒田の刀の主にまで話題が及んだ。
 楽しそうだった。
 小夜左文字は聞き飽きた内容でも、加州清光や大和守安定は初耳だったようで、興味津々だ。頻繁に相槌を挟み、合いの手を入れて、続きを促し、声を弾ませていた。
 あんな風にはしゃぐなど、自分には出来ない。
 いつも淡々として、感情の起伏に乏しく、無愛想で、口数も決して多くない。
 そんな短刀を相手にするよりも、歌仙兼定だって、反応が良い刀と喋る方が面白いに決まっている。
「嗚呼」
 高鳴っていた鼓動が、急速に凪いだ。やる気が萎えて、虚しさが広がった。
 彼の為に一喜一憂していたのが、馬鹿らしく思えてならなかった。
 静まっていた怒りがふつふつと湧き起こり、良く分からない感情が胸の奥で渦巻いた。怒り、憎しみ、妬みといったものが複雑に絡み合って、汚らしい斑模様を形成した。
 意識しないうちに、コン、と木戸の角を叩いていた。
 小さな音だったが、大和守安定だけ気が付いた。歓談の中に紛れ込んだ異音に顔を上げ、入り口を塞ぐ少年に首を捻った。
「小夜ちゃん?」
「え?」
 いつからそこに、という顔を向けられて、小夜左文字はこみあげる笑いを喉の奥で押し潰した。無表情を気取って鼻を鳴らして、驚き、振り返った男に照準を合わせた。
 目が合った瞬間に眼力を強め、射抜いた。
 大きく振りかぶって、彼の為に持って来た書を持つ指に力を込めた。
「お小夜。ああ、良かった。手入れが終わ――あぶっ!」
 一瞬ビクッとした歌仙兼定が、直後に表情を入れ替え、嬉しそうに声を弾ませた矢先だ。
 無言で腕を振り抜いた小夜左文字の手から、一直線に書物が飛んだ。修業の旅を終え、一段と強くなった短刀の腕力に物を言わせて、打刀の顔面目掛けて叩きつけた。
 空気を唸らせ、軽い紙が鉛よりも重い弾丸と化す。
 直撃を受け、男の身体が後ろへ吹っ飛ぶ。
 凄まじい音がした。衝突の衝撃で積まれていた桶が吹っ飛んで、ガラガラ音を立てて床に転がった。
「あわわわわ」
「ひええええ」
 一連の流れを見守っていた打刀たちは揃って竦み上がり、己のありようを見極めた短刀の実力に背筋を寒くした。
 身を寄せ合い、震える加州清光らに一瞥も加えることなく、小夜左文字は姿勢を改めた。幾分すっきりした表情でふん、と鼻から息を吐き、煙を噴いて倒れている男をもう一度睨みつけ、踵を返した。
 この間、ひと言も発さない。
 突如現れ、去って行った短刀の後を追う者はなく、台所は当分の間、誰もいないかのように静かだった。
「だっ、大丈夫? 歌仙さん」
「おーい。生きてるー?」
 沈黙が破られたのは、小夜左文字が廊下の角を曲がった直後。
 それは奇しくも、彼が鉄面皮を破り、空になった両手で真っ赤な顔を覆い隠したのとほぼ同時だった。
「や……って、しまった」
 ついカッとなり、暴挙を働いた。頭に血が上って、後のことなどなにも考えなかった。
 これではさっきと同じなのに、止められなかった。謝りに行ったのに、自分で事態を悪化させて、最早収拾がつかなかった。
 直前まで、あんな真似をしようだなど、これっぽっちも考えていなかった。だというのに身体が自然と動いて、気が付けば打刀目掛けて本を放り投げていた。
 しかも相当に、勢いが乗っていた。まさかあそこまで速度が出るなど、思ってもいなかった。
 短刀は投石兵が装備できなくて良かった、と密かに思った。あんな剛速球を敵でなく、味方にぶつけでもしたら、大参事だ。
 空になった利き手を呆然と見つめ、小夜左文字は小さく首を振った。今から戻って平身低頭で謝ろうかどうか悩んで、足は勝手に玄関を目指した。
 時間は巻き戻せず、やり直しも利かない。
 うだうだ悔やんでいても始まらないのに、後悔ばかりが押し寄せて、短刀から光を奪った。
「どうして、こうなるんだろう」
 結局のところ、自分が一番悪い。
 それが分かっていながら、愚行を繰り返した。
 反省をしているといっても、所詮はこの程度なのだ。復讐を遂げることしか頭になく、仇を討つことに専心して来た短刀が抱くには、過ぎた感情だったのだ。
 これまでも、これからも、自分の、そして誰かの復讐を果たすことだけを考えていればいい。
 そう言われている気分になって、眩暈がして、吐き気が止まらなかった。
 もやもやしたものが腹の内側にこびりつき、剥がれない。黒い澱みとはまた異なるものがまとわりついて、払っても、払っても、取り除けなかった。
 今度こそ、歌仙兼定は呆れただろう。恩知らずな刀だと忌ま忌ましく思い、追い求めるに値しないと断じたに違いない。
「……復讐すべきは、僕自身だ」
 気が付けば庭の、池のほとりに立っていた。枝を広げた桜が影を作り、風に揺れる木漏れ日がきらきらと眩しかった。
 水面にも光が反射して、眩しい。
 ぱしゃん、と水が跳ねる音がして、駆け抜ける風は涼しかった。
 少し前まで、打刀は小夜左文字しか話し相手がいなかった。
 業務報告で様々な刀とやり取りしていたけれど、空き時間に会話を試みる先は、常にひと振りに限られていた。
 それがいつしか、様相が変わった。短刀が知らないうちに、彼は本丸に集う多くの刀に対し、心を開くようになっていた。
「僕がいなくても、歌仙は、平気です」
 拾った石を池に投げ、波を起こした。
 餌がもらえるのを期待して集まっていた鯉が、暴挙に驚き、慌てて逃げていく。水文は次第に穏やかになって、しばらくすれば何事もなかったかのような静けさを取り戻した。
 感情の起伏も、これに近い。
 一瞬だけ大きく揺らいで、後は徐々に凪いで行く。だがその一瞬に引き起こした出来事が、後々まで尾を引いて、簡単には消えなかった。
 もうひとつ石を投げるが、水面を弾むことなく、たちまち沈んで行った。じゃぼん、と大きめの音が響いて、少しも楽しくなかった。
「うう」
 悔しさと、怒りが爆発しそうなくらいに膨らんだ。
 そのやりきれなさが向かう先に待つのは、ふがいない自分自身だ。ぶつける先は他に存在せず、悔しさから地団太を踏み、青草に滑ってズドン、と転んだ。
 尻餅をついて、これもまた腹立たしい。
「ああ、本当に……嫌になる」
 なにをやっても巧くいかず、願う通りに事が運ばない。
 外に発奮するのが叶わない感情を抱きかかえ、陰鬱な表情を作り、小夜左文字は背を丸めて小さくなった。
 膝を三角に曲げ、その頂点に額を置いた。自分はこの世界にとっての害悪と捉え、このまま消え去りたい欲求で胸を焦がした。
 サク、と草を踏む音がしたのはそんな時だ。
 風に漂う微かな匂いに小鼻をヒクつかせ、彼は近付いてくる気配に浅く唇を噛んだ。
「見つけたよ、お小夜」
 池の端の斜面を滑らぬように進み、袴姿の男が囁くように言った。少し呆れた表情を浮かべて、赤くなった鼻の頭を掻いた。
 小夜左文字は声にピクリと肩を震わせたが、膝に顔を伏したまま、動かなかった。
 自分は路傍の石だと言わんばかりの態度を示し、聴覚も、嗅覚さえも遮断した。瞼をきつく閉ざして世界を闇一色に塗り潰し、眩い光を拒んだ。
「お小夜。顔を上げてくれないか」
「…………」
 不規則に続いていた足音が止まり、声が近くなった。防ぎ切れなかった甘い香りが強くなって、男の現在地をはっきり教えてくれた。
 真横に佇み、身を屈めてこちらを窺っている。
 衣擦れの音から判断して、奥歯を噛んだ。鼻を愚図らせ、苦い唾を飲みこんで、顔を伏したまま首を横に振った。
 もれなく身体全体が揺れた。額と腕が擦れあい、引っ張られた皮膚が軽い痛みを発した。
「お小夜」
 言葉にせずとも、答えは伝わったはずだ。歌仙兼定は幾ばくか声を低くして、溜め息を吐き、衣擦れの音を大きくした。
 カサカサと草が鳴り、よいしょ、という小さな掛け声がそこに重なった。乾いた布が短刀の肘を掠めて、どうやら彼は座ったらしかった。
 隙間から様子を窺えば、池に向かって伸びる二本の脚が見えた。
「へえ。良い眺めだ。お小夜はよく、ここへ来るのかい?」
 僅かに身じろいだのが、知られてしまったのだろう。寛ぐ体勢を取った男は軽い調子で囁いて、挫けることなく話しかけて来た。
 当然ながら、短刀は返事をしない。いや、出来なかった。
 本当は調子よく合いの手を挟み、会話に花を咲かせたかった。けれど言い出すきっかけが掴めず、顔を上げる機を窺っている間に時間が過ぎた。
 そうしてモタモタしているうちに、またさらに時間が過ぎて、完全に機会を逸してしまった。
 台所で垣間見た光景が蘇り、悔しさよりも哀しくなった。切なくなって、目頭が熱くなり、益々顔を上げられなかった。
 きっと今、みっともない顔をしている。
 とても見せられるものではない。そんな自分を恥じて、小夜左文字は首を竦め、いよいよ小さく、丸くなった。
 ところが打刀は、違う受け止め方をしたらしい。
「怒っているのかい?」
 一向に返事がないのに焦れて、声を潜め、心細げに呟いた。
「!?」
 許しを請う雰囲気が、端々から滲み出ていた。どうして彼がそんな風に言わねばならないのかが分からなくて、短刀はぎょっとなり、反射的に背筋を伸ばした。
 瞠目し、空色の瞳いっぱいに男の顔を映した。
 ようやく目が合った打刀は寂しそうに微笑んで、困った風に目を細めた。
「君を、怒らせてしまったかな」
「なに、を」
 照れたように言って、はにかむ。それが信じられなくて、小夜左文字は声を震わせた。
 意味が分からなかった。
 訳が分からなかった。
「怒っているのは、歌仙でしょう」
 酷いことをした。優しさを、優しさで返せなかった。
 生意気な態度を取った。失礼な真似をした。許されざる行為に手を染めた。
 誰に非があり、誰が責められるべきかは、一目瞭然だった。
 だというのに、歌仙兼定は首を振った。目を瞑って二秒ほど黙ったあと、額をぺちりと叩き、なんとも言えない笑顔を浮かべた。
「どうかな。僕はむしろ、嬉しいよ」
「歌仙」
「お小夜があんな風に、はっきりと、妬いてくれたんだから」
「や……っ!?」
 想定してもいなかったひと言が飛び出して、声がひっくり返った。皆まで言えず、絶句して、顎が外れそうだった。
 ぽかんと口を開き、恥ずかしそうにしている男を凝視する。その惚けた視線にさえ照れて、歌仙兼定は前髪をガシガシ掻き回した。
 彼の頭には、花が咲いているのではないか。
 どういう理屈を捏ねれば、そんな発想に至れるのか。想像を超える展開に唖然として、小夜左文字は右頬を軽く打った。
 凍り付いていた表情を力技で解きほぐし、肩を落とした。力なく息を吐いてかぶりを振って、こめかみに生じた鈍痛に眉間の皺を深めた。
「それに、君が帰ってきた時のあれは、僕も良くなかった。配慮が足りなかったと、反省している。すまなかったね」
「あれは、……あれも、歌仙は悪くないです」
「そうかな? 嫌がっている君に、無理矢理渡そうとしたんだ。どう見ても僕の落ち度だろう」
 非難されるべきは自分と、頑として譲らない。しばらく押し問答が続いて、妥協点は見つからなかった。
 そういえば彼は、頑固だった。
 不意に思い出して噴き出しそうになって、短刀は根負けだと白旗を振った。
 歌仙兼定の言い分は、一度断られたのに、無理強いした自分が悪い。台所でのことは、小夜左文字の焼き餅であるから、気にしない、と。
「別に、やきもちとか、そういうのじゃ」
「違うのかい?」
「ちが、……違わない、ような、違うような」
「なら、焼き餅だよ、お小夜。君のことなら何でも分かる、僕が言うんだから間違いない」
「なんですか、それ……」
 顔を付き合せた途端に殴りかかられたようなものなのに、怒らないのはいかがなものか。
 あまりにもご都合主義な持論に花を咲かせる男に、聞いているだけで疲れて来た。もう好きに解釈してくれて構わない、と匙を投げて、小夜左文字は自信満々な打刀に肩を落とした。
 何を根拠に、そんなことが言えるのだろう。
 真面目に取り合うのも馬鹿らしいが、胸の奥で、ぽわ、と淡い光が生まれたのは嘘ではなかった。
 呆れつつも、少し嬉しかった。
 こんなことで簡単に復活してしまう機嫌に苦笑して、ならば、と短刀はひとつ問いかけた。
「だったら、歌仙。今、僕がなにを考えているか、分かりますか」
「ああ。お安い御用さ」
 絶対当てられないと知りつつ、意地悪を投げた。すると歌仙兼定は得意げに胸を張り、渋面を作って短刀の顔を覗き込んだ。
 むむむ、と唸りながら見つめられた。ただそれだけなのに、本当に心を読み解かれているような気分になるから、不思議だった。
 笑い出しそうになるのを堪え、反応を待つ。
 やがて彼は、控えめに笑って。
「うーん。……そうだね。僕に、ぎゅっとしてもらいたい、と思ってくれていたら、嬉しいかな?」
「なんなんですか、それ」
 回答は、予想と大幅に違うもの。
 身勝手にも程がある願望を口に出されて、短刀は唖然としつつ、相好を崩した。
 思っていたものではなかったが、それはそれで、面白かった。
「もう、それでいいです」
 反論し、訂正する気力が沸かなくて、小夜左文字は肩を竦めて微笑んだ。

なかなかになれに思ひのままならば 恨みばかりや身に積らまし
山家集 恋 665

2017/06/11 脱稿

裏返れとは 君をこそ思へ

 開門を告げる声が、風に乗って流れて来た。
 恐らくは江戸へ出陣していた第一部隊が、その役目を終えて帰還したのだろう。遠征部隊の戻り予定時間ではないのを確かめて、歌仙兼定は嗚呼、と首肯した。
 刀剣男士は、闇に紛れて暗躍し、歴史改変を目論む時間遡行軍を討伐するのがその役割。故に短刀たちは、今日も戦場で血を流していた。
 歌仙兼定も江戸には幾度か出向いた経験があるが、あそこはなかなかに、魔窟だ。
 その時代に生きる人々に見付からないよう侵入し、襲い来る敵を討つ。
 難易度はこれまでの任務の比ではなく、警戒すべきが敵の襲撃だけでないのが、なんとも厄介だった。
 そんな苦難の多い仕事を、第一部隊の面々は文句も言わず、やり遂げている。
 凄まじい精神力と、胆力だと感心しつつも、頭の片隅では少し呆れていた。そして僅かではない羨望が入り混じり、ここのところ出番のない戦装束が脳裏を過ぎった。
「戦わずして勝つのが、一番なんだけどねえ」
 鍋の表面に浮き上がる灰汁を丁寧に掬い取りながら、呟く。
 負け惜しみにしか聞こえない台詞だと自分に向かって苦笑して、歌仙兼定は騒がしくなった方角に顔を向けた。
 もっともそこには壁があるだけで、現地でなにが起きているかは、想像するより他になかった。
 心配性の一期一振が、弟たちの帰還を喜んでいるのは間違いない。手入れ部屋に向かう短刀たちを労い、賞賛を贈る刀もさぞかし多かろう。
 左文字の太刀と打刀も、恐らく顔を出しているはずだ。本当なら自分も、と落ち着きを欠いた膝をぶつけ合わせて、彼は急く心を戒めた。
「彼らに美味しいものを提供するのが、僕の役目だからね」
 残念なことに、昼餉の準備がまだ終わっていない。今ここで火の傍を離れるのは、無責任との謗りを受けかねなかった。
 心優しく、同情的な刀は見逃してくれるだろうが、へし切長谷部はそうはいかない。
 口喧しい男にぎゃんぎゃん説教されるのは御免で、我慢するしかなかった。
「手入れが終わった頃に、顔を見に行くとしよう」
 些細なことにまで目を光らせている、本丸の番人に捕まると、厄介だ。
 仕方なく今は諦めて、歌仙兼定は手にした玉杓子をくるりと回転させた。
 寸胴の大鍋を掻き混ぜ、底に沈んでいたものを水面近くで解き放った。途端に薄茶色の塊がぶわっと広がって、三々五々、沸き立つ湯に散って行った。
 今日の昼餉は、肉うどんだ。
 出汁の準備は、既に出来ている。後は中に入れる具を仕上げ、饂飩を必要分、茹でるだけ。
 器の支度は、当番で一緒になった秋田藤四郎に任せていたのだが、いつの間にか姿が見えない。打刀は懸命に耐えたというのに、あの桃色頭の少年は、辛抱出来なかったようだ。
 彼の数いる兄弟のうち、数振りが江戸に出ていた。
 あそこに出向いて、無傷で戻ってくる刀の方が珍しい。負傷具合も気になるだろうしと、叱るのはやめにして、歌仙兼定は肩を竦めた。
 少し前まで台所の方が騒がしかったのに、玄関に持って行かれてしまった。
 やはり様子を見に、と気もそぞろになる自分を律して、彼は水面に浮いてくる灰汁を根こそぎ掬い取った。
 第一部隊がやるべきことを成し遂げて来たのだから、自分も負けていられない。
 気持ちを奮い立たせ、手元に意識を集中させた。火を通し終えた肉を笊に上げて、葱や蒲鉾といった他の具材の準備も進めていく。
「戻ってこないな」
 その一方でなかなか帰ってこない短刀たちを気にして、彼は視線を遠くへ投げた。
 無味乾燥とした壁をじっと見つめるが、向こう側が透けて見えることはない。耳を澄ませても足音は響かず、近くを通りかかる刀はひと振りもいなかった。
 クツクツと鍋が湯立つ音だけが、耳朶を擽った。郭公らしき鳥の声がして、一陣の風が窓から吹き込んだ。
 額の真ん中を叩かれて、遠くへ飛び立とうとしていた意識を引き戻された。
「……なにかあったのか」
 掠れる小声で呟いて、彼は白くて平らな額を撫でた。
 前髪は邪魔になると、後ろに梳き上げて結んでいた。随分昔に、色が揃いだと笑いあった記憶が不意に蘇って、胸の奥がざわめいた。
 嫌な感覚が膨らんで、内側から腹を圧迫した。不快感が食道を通って喉まで迫り、一瞬の吐き気に背筋が寒くなった。
「いや、まさか」
 もしや重傷者が出たのかと懸念して、慌てて否定するが、根拠はない。
 あるとすれば、玄関の方から聞こえた声が、さほど慌てふためいていなかったこと、くらいだ。
 敵に後ろを取られるなりして、陣形を崩され、不利な状況の中で戦わなければならなくなったとして。
 負傷者多数により進軍不可と審神者が判断し、即時撤退となっていたのだとしたら。
 門を抜けて戻ってきた時点で、もっと大きな騒ぎになっていた。
 台所まで響くくらいの大声が、いくつも重なり合い、混乱に陥っていたに違いない。
 だが今日は、それがなかった。一時は賑やかだった玄関先も、今となっては静かだった。
 だからきっと、大丈夫。
 逸る心を落ち着かせ、呪文のように繰り返した。蒲鉾を薄く切る手を休めて、暗く沈みそうになる表情を引き締めた。
「ああ、駄目だ。僕がこんな顔をしていては」
 繰り返し首を振り、吐き出す寸前だった溜め息を飲みこんだ。
 陰鬱な顔をして作った料理が、美味しいわけがない。仲間の身を案じ、心を痛める刀たちの為にも、一時の慰めになるような美味なものを用意するのが、彼の務めだった。
 言い聞かせ、気合いを入れ直した。今の自分は、本丸全体の胃袋を任されている。個人の感情で、出来栄えを左右するわけにはいかない。
「そうさ。だから、お小夜。どうか無事でいてくれ」
 秋田藤四郎たちが戻れば、なにか話が聞けるだろう。
 それまでじっと耐えることに決めて、彼は集中すべく、包丁を握り直した。
 しかし。
「……いたっ」
 やはりどこかで、気持ちが揺れていた。
 普段通りなら絶対にない失敗に、歌仙兼定は渋面を作った。
 蒲鉾と一緒に、指の皮まで切ってしまった。見れば皮膚一枚が薄く削がれて、ぺらん、と爪の先ほど捲れていた。
 流石は、刀ばかりが暮らす本丸で使われている包丁、といったところか。位置がもう少しずれていたら、蒲鉾でなく、指が二本か三本、饂飩の具になるところだった。
 洒落にならない想像をして、打刀は後からじわっと滲んできた血を啜った。傷口を唇で挟んで押さえつけ、削げた皮を傷口に貼りつけた。
 そのまま舌で圧迫し、物理的に傷口自体を塞いでしまう。
 じくじくとした疼きは、簡単には消えなかった。動かすのに支障はないが、ひょんな拍子にまた血が出て来られると厄介で、包帯かなにかで覆ってしまいたかった。
「確か、薬研藤四郎が置いていったものが、どこかに」
 いつまでも片手を咥えたままではいられない。
 記憶を掘り返し、眉を顰めて、歌仙兼定はやむを得ず包丁を置いた。
 ここ台所は、戦場、畑に続いて負傷者が多い場所だ。
 なにせ本丸では振り回すのを禁じられている刃物を、堂々と扱えるのだ。火を使うので、火傷することもある。その都度手入れ部屋や、薬室に駆け込むのは、効率が悪すぎた。
 だからと、薬事に通じている短刀の手配により、台所には薬箱が置かれていた。
 内容物は極端なまで絞られて、消毒薬と、軟膏と、包帯に、絆創膏のみ。
 あれこれ詰め込まれるよりも分かり易い、と小さく頷いて、彼は見つけ出した蓋付きの木箱を棚から引き抜いた。
 山積みにされたどんぶり鉢の横に置き、金具を外して蓋を開けた。
「ええと、確かこれが……」
 中身と用法はひと通り説明を受けているが、なにせ随分前のことで、記憶が古い。
 声に出しつつ確認して、彼は赤く染まっていく左人差し指に渋面を作った。
「僕が怪我をしていては、お小夜に笑われてしまうな」
「べつに、笑いません」
「ひえっ!」
 戦場でもないのに負傷するなど、刀剣男士の名折れ。
 苦笑し、消毒薬の入った瓶を揺らしていた打刀は、期待などこれっぽっちもしていなかった合いの手に、飛び上がらんばかりに驚いた。
 独り言のつもりだっただけに、余計だ。誰もいないと思い込んでいたので、心臓が口から飛び出すところだった。
 素っ頓狂な声を上げ、液体入りの瓶を落としそうになった。すんでのところで掴み直し、事なきを得たが、あらゆる汗腺が解放され、ドッと汗が溢れ出した。
 心臓がバクバク言って、眩暈を覚え、耳鳴りが酷い。
 よもやの展開に騒然となって、中腰になった男は挙動不審に身を捩った。
 左右を急ぎ確認して、恐る恐る振り返る。
「歌仙?」
 白昼夢でも見ている気分でいたが、現実だと痛感させられた。
 へっぴり腰で身体を反転させた男に、小夜左文字は奇異なものを見る目を投げた。
 首を捻り、眉間には浅く皺が寄っていた。右目は大きく開き、左目は眇めるといった胡乱げな眼差しを向けられて、打刀はぶるっと身震いした後、出そうになった悲鳴を必死で堰き止めた。
「ふむっ」
 代わりに鼻から息が漏れて、こちらの方が余程怪しい。
 直後に両手で穴を塞いだが後の祭りで、短刀の視線は益々鋭くなった。
「足は、あります」
 それがやがて、別な方面に歪められた。
 不満そうに吐き捨てられて、どきりとして、歌仙兼定は慌てて腕を振り回した。
「あ、当たり前じゃないか。お小夜。なにを言い出すんだ、急に」
 亡霊かなにかと見間違えた、という風な解釈をされてしまったらしい。足の無い幽霊画を例に出されて息を呑み、彼は飛んでいく勢いで首を横に振った。
 懸命に否定して、不満顔の少年を宥める。傷の痛みなど忘れて胸を叩いて、白い胴衣に赤い血の跡を刻んだ。
「あ」
「傷は酷いんですか、歌仙」
「いや、あ……たいしたことではないよ」
 とはいえ、色は薄く、範囲は狭い。
 軽く擦った程度だと苦笑して、打刀は爪先立ちになった少年に目尻を下げた。
 それとなく身体を揺らし、薬箱を背中に隠した。背の低い短刀からは見えないよう位置取りして、愛想笑いを浮かべ、見たところ無傷の小夜左文字に小首を傾げた。
 彼は間違いなく、戦場に出ていた。第一部隊の副隊長に任じられて、機動力が高い他の短刀たちが仕留め損ねた敵を、確実に打ち滅ぼす役目を担っていた。
 修行を終えて帰ってきた彼は、一段と強くなった。
 以前から短刀としてはずば抜けていた攻撃力に、更に磨きがかかった。現在の彼と腕相撲をして、歌仙兼定が勝てる確率はかなり低かろう。
「それより、お小夜は? 手入れは、いいのかい?」
 左手の傷も拳の中に隠して、気配を消すのまで巧くなった少年に問いかける。
 小夜左文字は戦装束を解き、刀を手放し、袈裟も外していた。
 白衣の上に黒の直綴を羽織り、腰の高い位置に白い細帯を結んでいた。太腿から足首にかけて包帯で覆われており、股袴の丈は短いのに、肌の露出は控えめだった。
 素足で、指はどれも小さい。それに付随する爪は、尚更だ。
 人形のようだと、見ていて思った。
 作り物めいた細かさと、正確さが、自分たちは現身に宿る付喪神という事実を、否応なしに教えてくれた。
「終わりました」
「終わった?」
「はい」
 人間としては整い過ぎた外見が、良い証拠だ。
 美化された伝承が起因しているのかどうかは分からないが、見目麗しい刀剣男士が多いのは確かだった。
 そんなどうでも良いことを考えつつ、歌仙兼定は教えられた事実に目を丸くした。再度甲高い声を響かせて、間髪入れずに首肯した短刀を唖然と見つめた。
 けれど三秒としないうちにハッとして、自分で出した答えに納得した。成る程、と頷いて、開けっ放しの口を閉じた。
「大事ないのかい」
 どうやら審神者は、手伝い札を使ったらしい。
 手入れ時間を大幅に短縮し、一瞬で終わらせてしまう便利な道具だ。けれどその便利さ故に、数を揃えるのが難しかった。
 今回、それを使ったらしい。勿体ない、と貯めこむ一方だったものを解放した辺り、小夜左文字の傷は相当酷かった、と推測が可能だった。
「今はもう、平気です」
「今、は……」
「誉れ、いただきました」
「そうかい」
 苦虫を噛み潰したような顔になった打刀に、安心させようとして、短刀は矢継ぎ早に言った。
 失言を取り返そうと躍起になって、胸を張り、どこも問題はないと両手を広げて証明した。ぴんと伸びた五本の指は綺麗で、目立つ傷といえば、昔からある目の下のものだけだった。
 彼は足が遅く、他の短刀より行動が一歩半ほど遅い。故に仲間が一閃を与え、手負いとなった敵と対峙する機会が多かった。
 傷を負った獣は、しぶとい。
 時間遡行軍もまた、同じだ。
「無茶をしたんじゃないだろうね」
「したのは、厚藤四郎です」
「そう。彼は?」
「僕と同じで、先に出ました。今は一期一振さんと、鳴狐さんに、叱られていると思います」
「そうかい」
 複数の敵に、一斉に襲い掛かられる姿が瞼に浮かんだ。
 開門の声が聞こえた時、なにもかも投げ出して玄関まで走っていればよかったと、後悔が胸を過ぎった。
 今回の出陣で出た中傷者は、ふた振り。功を焦って先走り、敵に囲われてしまった厚藤四郎と、これを助けに向かった薬研藤四郎、乱藤四郎らの分も敵を引き受けた小夜左文字だ。
 残る刀たちは、幸いにも軽傷で済んだ。厚藤四郎も、守りを捨てて攻めに転じたのが吉と出て、折れることなく帰還出来た。
 料理当番の短刀が戻ってこないのも、道理だ。
 今頃は手入れ部屋区画の前で、修復作業中の兄弟が出てくるのを、息を殺して待っていることだろう。
「大変だったようだね」
「……それが、役目ですから」
「お腹が空いているだろう。先に食べるかい?」
 厚藤四郎も修行に出て、少しはやんちゃぶりが落ち着いたかと思ったが、実情は違うらしい。
 責任感が強くなったのは良いけれど、勲功を焦るのは宜しくない。それで仲間が傷つくのであれば、尚更に。
 長兄からの説教に懲りて、今後は改まるといい。巻き込まれた結果、必要ない痛みを味合わねばならなかった短刀に心を寄せて、歌仙兼定は静かに問いかけた。
 背中に回した手で薬箱の蓋を閉じ、消毒薬の瓶はどんぶり鉢の中に紛れ込ませた。空にした両手を大袈裟に揺らして、派手な身振りで小夜左文字の注意を余所に向けた。
 示された方角に顔を向けて、彼は嗚呼、と頷いた。
「今日は、なんですか」
 薬研藤四郎たちが手入れ部屋を出るのは、当分先の話だ。
 つまりそれまで、第一部隊に組み込まれた短刀たちは、本丸を出て行かない。
 審神者がいつ気まぐれを起こすかは分からないものの、憂いでいても仕方がなかった。ならば今出来ることを、と鼻息を荒くした打刀に、短刀は可愛らしく首を捻った。
 甘い香りがする出汁と、山盛りの蒲鉾、葱に、乱立するどんぶり鉢。
 これらを総合的に判断すれば、答えは自ずと導き出せる。
 それでも敢えて声に出して訊ねた少年に、歌仙兼定は自信作だと鼻を高くした。
「肉うどんだよ」
 麺は朝のうちから仕込んであったので、もう完成している。あとはたっぷりの湯で、茹でるだけ。
 その茹で時間さえ我慢出来るなら、すぐに食べられる状態だ。
 どうするか、と空色の目を眇め、小夜左文字を覗きこむ。
 二つ返事で頷いてもらえるとばかり思っていた打刀は、次の瞬間、むすっと膨らんだ頬に絶句した。
「お小夜?」
「違うのが、良いです」
「ええ?」
 同意されるものと信じて疑わなかったので、驚いた。強い語気で拒否されて、唖然とさせられた。
 後ろからいきなり話しかけられた時より、もっと吃驚したかもしれない。跳び上がりはしなかったものの、目を真ん丸に見開いて、歌仙兼定はぶすっと不貞腐れている少年に瞬きを繰り返した。
 小夜左文字は基本的に、素直だ。正直で、裏表がない。
 口数は少ないけれど、全く喋らないわけではない。大倶利伽羅のように無視するのではなく、呼びかければきちんと応じてくれた。
 相手の意見に耳を傾け、助言はいつも的確だった。頭ごなしに否定するのではなく、ひと通り聞いてから、間違っている部分をひとつずつ指摘して、訂正してくれた。
 だからこんな風に、取りつく島もないのは珍しい。
 面と向かってきっぱり言われて、打刀は惚けた顔で立ち尽くした。
 無意識に痒みを訴える指先を掻き、折角静まりかけていた痛みをぶり返した。
 それがあって一瞬顰め面を作って、奥歯を噛み、口をへの字に曲げた。
「違うの、って……」
「甘いのがいいです」
「こんな時間からかい?」
「はい」
 困り果て、小声で繰り返す。
 すかさず小夜左文字が、助け舟になっていない助け舟を出して、問い返されて首肯した。
 真っ直ぐ相手の目を見て、揺るがない。確固たる意志を嗅ぎ取って、歌仙兼定は天を仰いだ。
 八つ時の菓子は、万屋で購入した花林糖の予定だった。最近は自作する時間が足りず、材料を揃えるのにも苦労するようになって、買ったもので済ませる機会が増えていた。
 まだ時間には早いが、止むを得ない。
 他ならぬ小夜左文字の要望だから特別に、と肩を竦めて、彼は隠してある棚に足を向けようとした。
 だが、叶わなかった。
「おおお、お小夜?」
 歩き出そうとした途端、後ろから腕が伸びて来た。
 腰に巻き付け、ぎゅっと力を込められた。行かせない、と言っている事とは逆の行動をとられて、打刀は目を白黒させた。
 前に出そうとした身体を戻しても、締め付けは緩まなかった。圧迫された骨がミシミシ言って、そのうちぽっきり折れてしまいそうだった。
 怖い想像をして、サーッと血の気が引いた。しかもこの間小夜左文字は無言で、それが尚更恐ろしかった。
「ど、どうしたんだい。甘味が良いんだろう?」
 こんなことが、過去にあっただろうか。
 生まれてこの方経験したことのない状況に身を置いて、声が裏返った。脂汗が噴き出して、心臓が喧しく騒いだ。
 胸の奥の鼓動が、耳元で轟いた。いつの間に頭の中に引っ越したのかと、有り得ないことに瞠目して、必死に首を捻って後ろを見た。
「歌仙のじゃないと、嫌です」
「えええ?」
 下半身が固定され、腰から下は動かせない。
 肩を引いて限界まで視野を広げるが、背中に貼りつく短刀は頭の先しか目に映らなかった。
 濃い藍色が揺れたのは、我が儘に仰天した打刀が震えたからだ。
 百年に一度あるか、ないかの台詞に仰け反って、歌仙兼定は耳を疑い、頭を抱え込んだ。
 指の怪我など、もうどこかへ消えてしまった。それどころではなくて、昼餉の準備も完全に止まっていた。
「いや、けれど。お小夜」
「お腹が空きました」
 目の前に陣取る大量のどんぶり鉢を視界に入れ、辛うじて理性を保つ。
 だというのにそれを台無しにする台詞を吐かれて、膝から崩れ落ちそうになった。
 そんな風に言われたら、応えてしまいたくなる。要望を聞いて、贅を尽くし、気に入る菓子を満足するまで作ってやりたくなるではないか。
 しかし彼は、今日の料理当番だ。本丸に暮らす刀剣男士全振りの腹を満たす義務があった。
 職務を放棄して、個人の都合に走るわけにはいかない。
 だがこんな機会は二度とないかもしれなくて、天秤は激しく揺れ動き、定まらなかった。
「歌仙、駄目ですか」
 懊悩していたら、急かされた。
 背骨の低い位置に熱を感じたので、その辺りに短刀の顔があるらしかった。
 白の胴衣に顔面を押し付けて、ぴったり張り付き、離れない。臍の前でぎりぎり届く指先を重ね、絶対に逃がさないと力を込めていた。
 なんと健気で、情熱的なのだろう。
 叶うなら今すぐ身体を反転させ、抱きしめ返したかった。勿論叶えてやると大声で宣言し、食べたいものを問うて材料集めに奔走したかった。
「いや、駄目……じゃ、うう」
 けれども、簡単には頷けなかった。息を吸えば出番を待つ出汁の香りが鼻腔に広がり、出しっ放しの包丁が目についた。
 あと半刻後であれば、ここまで悩まされなかった。昼食前でなく、終わってからなら、歌仙兼定もある程度自由に台所を使えた。
 どうしてこういう時に限って、こうも間が悪いのか。
 己が天より与えられた命運を呪って、彼は喉の奥で呻き声を上げた。
「かせん」
「少し、待ってくれないか」
「今すぐが、良いです」
「お小夜……」
 顔を向け合わせていないからか、短刀はよく喋った。強請って、甘えて、擦り寄って、解いた指を打刀の帯に絡ませた。
 踵を交互に浮かせ、ドンドンと足音まで響かせる。繰り返し催促し、妥協せず、譲歩もしないと態度で示し、一刻も早い決断を迫った。
 弱り果てて、歌仙兼定は顔を歪ませた。嬉しさに困惑が混ざり、ひと言では表現できない顔になって、助けを求めて開けっ放しの戸口を見た。
 そろそろ腹を空かせた刀が、昼飯を寄越せと訪ねてくる頃合いだ。
 運が良ければ、この場を任せられる。大倶利伽羅が一番の外れ籤で、それ以外が訪ねて来るよう切に祈って、打刀は赤かった顔を青くした。
「歌仙、嫌なんですか?」
「嫌、じゃあ……ない、というか。むしろ大歓迎、というか」
「だったら――」
 足音は響いてこない。小夜左文字は尚も急かして、袖を引く。
 にっちもさっちもいかなくなって、歌仙兼定はしどろもどろに捲し立てた。
 素晴らしい幸運と、役目に縛られた不幸が同時に押し寄せて、早く決めるよう声を上げた。鍔迫り合いが始まって、剣戟の音は止まない。天秤は荒々しく揺れて、今にも壊れそうだった。
 抑圧された本能が、押しとどめようとする理性に抗った。互いに相手を捻じ伏せんとして、全力を振り絞り、頭から湯気が噴き出した。
 このままだと、破裂する。
 審神者から与えられた役目も、何もかも投げ出して、欲望のままに突き進みたかった。
 ただひと振りの愛しい子の為に尽くしたいと、どうして願わずにいられようか。
「失礼するぞ。すまない、兄者と万屋へ出かけるので、早めに昼をもらいたいんだが」
 その時、天が彼に味方した。
 早足で敷居を跨いだ太刀が、静まり返った台所を見回しながら気忙しく告げた。ほぼ中央に立っていた歌仙兼定には、言い終えてから気が付いたようで、棒立ち状態の打刀に首を捻り、端整な顔を僅かに歪めた。
 黒に白を織り交ぜた衣装に、薄緑色の髪。口を開けば鋭い八重歯が顔を出し、戦場では獣じみた戦い方を披露する。
 兄である髭切にべったりの彼の名は、膝丸。肝心の兄になかなか名前を憶えて貰えず、日々涙を飲んでいるが、落ち込んでも立ち直りが早いのが、彼の長所だった。
「どうした?」
 頼みごとをしたつもりなのに、食事当番の打刀の反応がない。
 彼の位置からだと背後に隠れた短刀は見えないようで、頻りに首を捻り、眉を顰めた。
 その彼に、三秒してから鼻息を荒くして。
「ちょうどいいところに!」
「は?」
 歌仙兼定は歓声を上げた。
 諸手を挙げて喜んで、惚けて立ち尽くす太刀に迫り、両手を力強く握りしめた。
 救い主が現れたと涙まで流して、力任せにぶんぶん振り回し、唖然とする膝丸に準備完了間際の昼餉を示した。
「後は任せた」
「ちょっと待て。どういうことだ」
「恩に着る」
「待つんだ、歌仙兼定。なんのつもりだ。おい、待て。俺は、急いでいるんだ。待て、待て!」
 言うが早いか、腰を捻った。しがみついて来ていた小夜左文字の手を解き、掴んで、駆け出した。
 慌てたのは膝丸で、道理が分からないと声を荒らげた。だが伸ばした手は空を撫で、職場を放棄した男には届かなかった。
 土間へ降りる際に草履を履き、勝手口から裏手に出る。左方向には煮炊きで使う薪が山積みにされており、正面には食糧を備蓄する蔵がふた棟、肩を並べていた。
 その右側に、畑へ通じる小路がある。
 だが歌仙兼定はそちらではなく、真っ直ぐ進路を取った。
「かせん」
 小夜左文字は、素足だった。乾いた地面を踏みしめて、後ろで騒ぐ膝丸を気にしつつ、興奮に息を弾ませた。
 連れ立って蔵の中へ入り、ひんやりした空気を吸い込んだ。分厚い壁と屋根に阻まれた内部は暗く、天上近くに設けられた明かり取りの窓が唯一の光源だった。
 もっとも短刀や打刀にとって、この程度の暗さは敵ではない。
 瞬き数回で闇に馴染んで、男は理路整然と整理された空間を指差した。
「さあ、お小夜。なにが食べたい?」
 ふたつある蔵のうち、片方は主食である米を中心に、野菜や肉が保管されていた。
 一方彼らが足を踏み入れた蔵は、保存食を中心にしていた。だがそれだけだと場所が余ってしまうからと、使用頻度は低いが、ないと困る食材などが集められていた。
 団子を作る上新粉に、白玉粉、などなど。果物を甘く煮詰めて瓶詰めしたもの、或いは細かく切り刻んで乾燥させ、水分を飛ばしたものもあった。
 砂糖や塩、醤油といった調味料も、こちらに備蓄されていた。味噌の匂いが強く漂い、否応なしに食欲が刺激された。
 無条件で溢れた唾液を飲み干して、なんだって作れると、男が宣言する。
 その場でくるりと三百六十度回ってみせた歌仙兼定を呆然と見つめて、小夜左文字は嗚呼、と肩を落とした。
「歌仙は、文系、……ですよね」
「うん? そうだが、それがどうかしたかい?」
「いえ」
 誰もいない場所へ連れて来られて、膨らんだ期待が一気に萎んだ。
 言葉通りの意味としか解釈していなかったのだと教えられて、短刀は落胆を露わにし、苦笑を漏らした。
 小さく首を振り、目を細める。明かり取り窓から差し込む光に溜め息を零し、彼はきょとんとしている男に近付き、ぶつかる直前になって顔を伏した。
「お小夜?」
 ぽすん、と胸に寄り掛かられて、歌仙兼定は首を傾げた。咄嗟に細い肩を抱きしめて、返事がないのを訝しんだ。
 話を振って来たのは彼なのに、この態度はなんだろう。
 再びぎゅうぎゅうに抱きつかれて眉を顰め、二つに割れている髪の結び目に視線を集中させた。
「どうしたんだい、お小夜。なにか、食べたいものがあったんじゃないのかい?」
 昼餉の饂飩よりも、甘いものが良いと強請られた。
 万屋で売られている物ではなく、歌仙兼定手ずからの物が良いと求められた。
 だからこうして、台所仕事を膝丸に押し付け、蔵に来た。材料となるものを示して、なにが食べたいか希望を聞いた。
 ところが小夜左文字は、なにも言わなかった。要望を出しておきながら、仔細を一切語らなかった。
 これでは打刀も、なにを作れば良いか分からない。後で膝丸や、へし切長谷部らから小言を喰らうだけで、良いことなどひとつもなかった。
「お小夜。お小夜?」
「……歌仙、今日。迎えに来ませんでした」
「ううん?」
 あんなにも急かして来たのに、急変した態度に戸惑う。繰り返し名前を呼んで、せめて顔だけでも上げてくれるよう願えば、短刀はようやく、くぐもった小声で囁いた。
 恨み節を聞かされて、想定していなかった返答にまた困惑する。
 頭の上に疑問符を乱立させた男に臍を噛んで、小夜左文字は打刀の腹に額を擦りつけた。
「朝も、見送りに来ませんでした」
「どうしたんだい、いきなり。そりゃあ、悪かったとは思っているけれど」
 ぐりぐり押し付けながら、低い声で唸った。八つ当たりめいた行動をとられた方は唖然として、困り顔で目を逸らした。
 第一部隊が出発する時も、彼は台所にいた。朝餉の片付けに手間取って、動けなかった。
 帰還した時も、そうだ。無人にするわけにはいかなくて、責任感から持ち場を離れなかった。
 それが仕方のないことなのは、小夜左文字だって分かっているだろうに。
 だのに文句を言われて、納得がいかない。道理に合わないと臍を曲げれば、不機嫌が伝わったのか、短刀の方から距離を取った。
 後ろに下がって、睨みつけられた。拗ねた様子で小鼻を膨らませて、渦巻く不満を隠そうとしなかった。
「昨日は、歌仙、遠征でいませんでした」
「それが、どうかしたかい?」
「一昨日は、僕の手入れが終わるのが夜遅くて」
「ああ、そうだったね」
「その前も、理由は忘れましたけど、来ませんでした」
「んんん?」
 過去へ遡り、不貞腐れた態度で空を蹴る。
 彼が何に対して怒っているのか見当がつかず、目を眇め、歌仙兼定は顎を掻いた。
 頭を捻り、首を傾げ、苛立ってぷんすか煙を吐いている少年を凝視した。なにか大きな思い違いをしている可能性に至って、その発言内容を振り返り、秘められた意図を懸命に探った。
 文系なのだから、これくらい造作もないこと。
 その割に時間をかけて思案して、彼は次の瞬間、凄まじい激痛に悲鳴を上げた。
「いっ!」
「もう良いです」
 焦れた小夜左文字が、打刀の臑を思い切り蹴ったのだ。
 弁慶の泣き所を的確に攻撃し、上背がある男を床に沈めた。苛立ちを発散し、溜飲を下げ、荒々しく息を吐き、不敵に笑って口角を歪めた。
 ひとり癇癪を爆発させて、踵を返した。痛みに身悶え、呻く打刀には一瞥も加えなかった。
 だが。
「いっつ、あ……ああ、ぐ、ううう」
 一向に途絶えない喘ぎ声に一抹の不安を覚え、蔵を出る直前に恐る恐る振り返った。
 歌仙兼定は背を丸め、蹴られた場所を抱え込んでいた。苦悶に表情を歪め、脂汗を流し、呼吸を乱し、激痛に耐えていた。
 そんなに強く蹴ったつもりはなかったが、もしや骨に異常が現れたのか。
 思い当たる節が全くないわけではない短刀は青くなって、躊躇して足踏みし、三秒悩んで来たばかりの道を戻った。
「歌仙」
 もし深手を負っていたなら、一大事だ。
 手入れ部屋は埋まっており、薬研藤四郎も修復中だ。自分の怪我ならどうとでも出来るが、他者の分は対処のしようがなくて、小夜左文字は冷たい汗を背中に流した。
 最悪の可能性を頭に入れて、蹲る男へと手を伸ばす。
「捕まえた」
「うあっ」
 次の瞬間。その手を絡め取られ、咄嗟に身を引いたが間に合わなかった。
 寸前まで顰め面だった男が、したり顔でほくそ笑んだ。巧く行ったと口角を持ち上げて、驚き、目を見張る短刀に勝ち誇った笑みを浮かべた。
 まんまと騙されたと気付くのに、少し時間が必要だった。
「ひ、卑怯です」
 ハッとなり、短刀は喚いた。束縛を振り払おうと腕を振り回して、爪を立てて空を引っ掻いた。
 悔しいかな、攻撃はいずれも打刀に届かない。安全圏で安堵の息を吐いて、歌仙兼定は真っ赤になって憤る少年に相好を崩した。
「文系だからね」
 勝ち誇った顔で言って、自慢げに胸を張る。
 策略を巡らせるのは得意、とでも言いたげな姿に臍を噛み、小夜左文字はまんまと引っかかった自分自身にも悪態をついた。
「こんな、ことで」
「ふふん。さあて、お小夜。君はなにが食べたいんだったかな?」
「知りません!」
 悔しげに顔を歪める少年を見下ろし、歌仙兼定が目を眇めた。実に嫌らしい、含みのある眼差しを投げて、怒鳴られても平然と受け流した。
 振り返ってみれば、短刀はほぼ答えを口にしていた。
 直接的な表現ではなかったが、滅多にない甘え方を加味すれば、正解は自ずと導き出された。
 こうやって声を荒らげ、吼えるのも、打刀の出した結論が正しいのを物語っている。
 湯気が噴き出るくらい真っ赤になって、小夜左文字は羞恥に喘ぎ、唇を戦慄かせた。
「おや? いいのかい、そんなことを言って。とびきり甘くて、お小夜が大好きなものを用意してあげようと思ったのに」
「う、ぐ」
 その美味しそうな色艶に相好を崩し、蕩けんばかりの笑顔で問うた。
 低く、甘く、過分に色気を含んだ囁きにぐっと息を呑んで。
 短刀は百面相の末に、観念したのか、口を窄ませ、目を閉じた。

吹風に露もたまらぬ葛の葉の 裏返れとは君をこそ思へ
山家集 雑 1335

2017/06/18 脱稿

うれしがほにも 鳴くかはづ哉

 誰かの気配がして、振り返った先。
 障子越しに影が浮かんでいるのを見て、にっかり青江は嗚呼、と頷いた。
「どうぞ」
 輪郭だけでも判別がつく小柄な体躯は、なにかを抱えて両手が塞がっていた。入室の許可を下しつつ、炬燵から足を抜き、彼はゆっくり立ち上がった。
 自力で障子を開けるのは難しいとの判断した通り、廊下に立っていた短刀は丸い盆を抱いていた。
「あ、……ええと」
「いらっしゃい。どうしたんだい?」
 だからこちらから出向いてやれば、小夜左文字は困った顔をして視線を逸らした。
 一瞬だけ目が合ったのに、なんと切ない反応だろう。嫌われることをしたか過去を振り返るが、特に思い当たる節はなかった。
 ただ、あまり話をしたことがないのは、確かだ。
 お互いこの本丸に来て長いのに、これといった接点がないまま、月日を重ねていた。意外だったと露わにした方の目を見開いて、にっかり青江はにっこり微笑んだ。
「それは?」
 まずは警戒を解こうと試みて、軽く膝を折って屈んだ。彼自身もあまり背が高い方ではないけれど、小夜左文字は短刀としても際立って小さい。背筋をまっすぐ伸ばしたままでは、身長差が大きかった。
 多くの太刀や、大太刀がやっているのを見習って、敷居の手前で低くなる。
 視線の高さが揃ったのに安堵したか、来訪者ははにかむと同時に腕を伸ばした。
「おやつ、です。脇差のみなさんの」
「ああ、そうなんだ。ありがとう」
 彼が運んできたのは、小麦色の焼き目がついた球体だった。
 短刀の拳ほどの大きさで、表面は凸凹していた。それが合計六つ、深めの皿に盛りつけられていた。
 数的に、脇差全員分だろう。言われてみれば丁度八つ時で、小腹が空く時間帯だった。
「わざわざ、持ってきてくれたんだ」
「燭台切光忠さんが、たくさん、作ってくれたので」
「へえ。不思議な形だね」
 ずっとここで本を読んでいたものだから、気付かなかった。ならばそろそろ出かけている仲間たちも、戻ってくる頃だろう。
 首を伸ばして遠くを窺うけれど、通りかかる人影はない。差し出されたものを盆ごと受け取って、にっかり青江は初めて見る菓子に目尻を下げた。
「あの。みなさんは」
「生憎と、出かけている最中だよ。じき戻ってくると思うけどね」
 燭台切光忠や歌仙兼定手製の菓子は、一度に作れる数に限りがあるため、短刀優先だ。
 それがこちらにまで回ってくるのは、実はかなり珍しい。こうして脇差たちが根城にしている空き部屋まで配達に来てくれなければ、明日になっても気付かなかっただろう。
 取り分があることの嬉しさと、不在にしている仲間たちの不運ぶりに頬を緩める。
 自分だけでも居座っていて良かったと胸を撫で下ろし、にっかり青江は不意に嗚呼、と天を仰いだ。
「そうだ。浦島君は、遠征中だったね」
「えっ」
 忘れていた事項を思い出し、肩を竦めた。それに小夜左文字は吃驚した様子で目を丸くして、ぽかんと間抜けに口を開いた。
 どうやら彼も、失念していたらしい。脇差は六振りだから六個、という大前提があって、今日は全員屋敷にいると思い込んでいたようだ。
 けれど、困ったことになった。
「ひとつ、余ってしまうねえ」
 手作りの菓子は、あまり長持ちしない。料理上手な刀たちからも、極力その日のうちに食べるよう、言われていた。
 だが浦島虎徹が戻ってくるのは、夜を過ぎてから。彼の為に残しておきたいところだが、放置し過ぎると傷んでしまう可能性があった。
「どうしましょう」
 藍の髪の短刀は動揺を隠し切れず、思わぬ失態に顔を赤くした。声は震え、上擦って、見上げてくる眼は戸惑いに染まっていた。
「そうだねえ。取り合いの喧嘩も、困るしねえ」
「……はい」
 それに相槌を打って、にっかり青江は顎を撫でた。深皿の中身を数え直して、間違いなく六つあるのを再確認し、目を眇めた。
 短刀の落ち込み具合からして、皿に選り分けたのはこの少年のようだ。遠征部隊に脇差がひと振り含まれていたのを忘れ、全員に行き渡るよう準備したらしい。
 その配慮が、争いの火種になろうとは、夢にも思わなかっただろう。
 小夜左文字の落ち込み具合に嘆息して、大脇差は右足を引いた。
「君も、食べていくと良いよ」
「え?」
 身体を捻り、室内に向き直った。こともなげに言って室内へ誘い、左手の人差し指を唇に添えた。
 目を眇め、不敵に笑いかける。少年は最初、なにを言われたか分からない様子だったが、数秒のうちに目を見張って、大慌てで首を振った。
「僕は、台所で。もう食べました」
「へえ、そうなんだ。それで、どうなんだい? たった一度で満足してしまったのかい?」
「うぐ」
 冷や汗を流して遠慮を申し出た短刀に、にっかり青江は早口で畳みかけた。同意し、疑問を呈し、小首を傾げて口角を歪めた。
 意地の悪い表情に、小夜左文字はぐっと息を詰まらせた。図星を指摘されて言葉を失い、目を泳がせ、もじもじと膝をぶつけ合わせた。
 粟田口の短刀たちは、数が多く性格もばらばらだが、そのほとんどがなかなかに図々しい。元気が良く、遠慮がなく、相手が誰だろうと馴れ馴れしかった。
 反面、左文字の短刀は思慮深く、大人しい。あまり出しゃばらず、物事に口を挟もうとしなかった。
 もっとも、だからと言って主張しないわけではない。相手の顔色を見るところから始めるので、二手も三手も遅れてしまうが、誘導してやればちゃんと意見を言える短刀だった。
 誘いかけ、試す。
「……いいんですか?」
 しばらく黙って待っていたら、案の定、彼は恐る恐る首を伸ばして来た。
 不安げな眼差しに、にっかり青江は微笑で応じた。ちゃんと伝わるよう深く頷き、炬燵の上に菓子入りの皿を置いた。
 盆は外して余所に置き、先ほど自分が座っていた場所に脚を入れた。小夜左文字は「失礼します」と一礼の後、敷居を跨ぎ、障子を閉めた。
 ここは脇差部屋区画のほぼ真ん中に位置する、誰も使っていない空き部屋だ。
 着実に数を増していく刀剣男士の居住区は、昔はもっと狭かった。部屋数が少なく、このままでは足りなくなると度々増築されて、ついに二階建てになっていた。
 部屋は刀種ごとに分けられ、短刀は短刀だけ、打刀は打刀で集められている。勿論望めば兄弟で大部屋を使えるが、その特権を利用しているのは、今のところは粟田口だけだった。
 そうして大太刀や槍、薙刀といった身体が大きい刀を抜きにして、最も所属数が少ないのが、脇差。
 今後の為にと多めに用意された部屋は、当てが外れ、現時点でも埋まり切っていなかった。
 余らせておくには惜しく、誰かが独占するのは不公平。
 ならば、と両側の部屋の住民が出した答えが、いつでもみんなで集まれる部屋にする、という案だった。
 台所や食堂などがある母屋へ行けば、もっと広い座敷があった。しかしあちらへ出るには、中庭を縦断する渡り廊を行かねばならない。ちょっと寛ぎに行くには、些か遠かった。
「炬燵、出したままなんですね」
 難点は、脇差部屋区画の真ん中にあるため、ほかの刀種が若干近付き難いことだろうか。
 粟田口派の短刀たちは、兄の鯰尾藤四郎や骨喰藤四郎がいるので気後れしないが、他の刀たちは微妙に足が遠かった。
 小夜左文字も、そのひと振りだ。初めて入ったと感嘆の息を吐き、彼は部屋の中心に陣取る四角い座卓に目を瞬いた。
「うん。なんだか別れ難くてね。火は入れてないよ」
 台座と天板の間には薄手の布団が挟まり、四方に裾を広げていた。
 にっかり青江は答えながらその布団の端を捲り、中が真っ暗なのを短刀に教えた。季節は巡り、もう冬は終わった。座敷の火鉢も撤去され、納戸へ収納された後だった。
 だというのに、ここの炬燵はそのままだ。
 脇差の雑談部屋が冬場、特に賑わっていた理由を知って、小夜左文字は緩慢に頷いた。
「お邪魔します」
「暑かったら、被らなくていいからね」
「はい」
 摺り足気味に近付いて、正座して、膝に少しだけ炬燵布団を被せる。
 義理堅いところがある子だと苦笑して、大脇差は八つ時の菓子に視線を戻した。
 先ほどより表面が窪み、小さくなっているのは気のせいだろうか。ぱりぱりした生地は所々で薄くなり、今にも破れてしまいそうだった。
「燭台切君が作ったんだよねえ」
「はい。しうくりむ、だそうです」
「しうく、りむ?」
「しうくりむ」
 灰鼠色の器を引き寄せ、興味本位で人差し指を突き立てた。途端にぐに、と皮が凹んで、そのまま戻ってこなかった。
 見た目は固そうなのに、案外柔らかい。器の分を差し引いても、結構な重みがあった。
 名前も、聞いたことがなかった。語感から異国の菓子だと推測して、力強く頷いた短刀に破顔一笑した。
 きっと彼は、台所で必死に名前を覚えたに違いない。完璧に言えるようになるまで、繰り返し練習した顔つきだった。
「へえ。おいしかった?」
「頬が落ちます」
 それで益々好奇心が擽られ、期待に胸が高鳴った。
 燭台切光忠といえば、伊達正宗に所縁を持ち、水戸徳川家へと渡った名刀だ。元主の影響を過分に受けて、西洋文化にも造詣が深かった。
 そんな男が作ったのだから、味に不満が出るわけがない。
「嬉しいねえ、だらしなく伸びてしまいそうだ」
「鼻の下がですか?」
「……頬、かな?」
 先の短刀の言葉に引っ掛けて呟けば、意外にも合いの手が入り、にっかり青江は失笑した。
 まさかの解説を加え、その頬を掻く。少々予想外な展開に戸惑いつつ、彼は改めてしうくりむ、とやらに手を伸ばした。
「これは、柔らかいねえ……」
「なかに、くりむ、が入ってるので。気を付けてください」
 掴めば、指が皮に食い込んでいく。先ほど凹ませてしまった件を思い出して、持ち上げる動きは慎重だった。
 短刀も固唾を飲んで見守って、先駆者としての助言を欠かさない。横から言われて頷いて、にっかり青江は掌に奇妙な塊を置いた。
 手を皿にして、間近から全体像を眺めた。上から、横から観察して、でっぷり丸い形状に何かを連想せずにはいられなかった。
 顎に右手を置き、言うべきか否か、少しの間真剣に悩んだ。
「噛み付きませんから、噛みついて大丈夫です」
 それを全く別の原因と解釈して、小夜左文字が小声で囁いた。
 天板に両手を置き、身を乗り出していた。
 どうやって食べるのか、その方法を考えていると想像したらしい。おおよそ見当はずれも良いところの推測に頬を緩め、大脇差はうん、と大きく頷いた。
「それじゃあ、いただこうかな」
 初めて目にする食べ物は、食べ方で困ることがある。自分なりの手段を試してみたところ、実際は大きく違っていた、というのが過去にあって、恥ずかしい思いをさせられた。
 この短刀は、燭台切光忠から手ほどきを受けたようだ。
 彼が口にした台詞は、あの隻眼の太刀が短刀に向けて放った言葉だろう。
 やり取りを思い浮かべると、自然と顔が綻んだ。なんと穏やかで、和やかな光景なのかと笑って、にっかり青江は大きく口を開いた。
 歯列を割って、舌を伸ばした。ひと口で頬張るには大きすぎるそれに、思い切って齧り付いた。
「んんっ?」
 瞬間、見た目以上に柔らかな皮がぱっくり裂けた。牙を押し付けたところからびりびり千切れて、中に詰め込まれていたものが雪崩を起こした。
 どっと押し寄せて、咄嗟に口を閉じようとした。流れ込んでくるものを堰き止めんと足掻くが、防ぎ切れない。なお悪いことに、行き場をなくした中身が唇の外へ行き先を変えた。
 顎に冷たいものを感じて、背筋がぞわっとなった。
 反射的に首を後ろへ傾けて、右手を喉の上に走らせた。
「ああ……とろっとして、口の外にまで溢れてしまうねえ……」
 唇に張り付いた分を舐め取り、指で掬った分も回収して、呟く。
 背中に冷たい汗を流して、彼は柔らかな食感と、なんとも言えない甘さと香りに吐息を零した。
 先に言われていたのに、注意を怠った。気を付けるよう忠告されていたのに耳を貸さず、もう少しで顔の下半分をべとべとにするところだった。
 舐めた指は甘く、ねっとりした感触がいつまでも残った。こそぎ落としてもまだ張り付いている気がして、べたべたして落ち着かなかった。
「でも、美味しいです」
「そうだねえ。とても……独特な食べ物だ」
 人差し指を何度も舐る彼に、小夜左文字がこくりと首肯した。あれだけ遠慮していたくせに、堂々と天辺にあった菓子を取り、少し厚みがある底の部分を支え、頂上付近を僅かに削り取った。
 半分以下になった手元の分を見れば、中は空洞だった。上に行くに従って皮は薄くなっており、底部にたっぷりと、とろみのある液状のものが詰め込まれていた。
 鼻を近づければ、癖になる匂いが漂った。
 指に残っているのと全く同じ香りで、歌仙兼定が作る菓子からは絶対しない系統だった。
「良い匂いだ」
「ばにら、だそうです。でもこれだけ舐めると、苦いです」
「へえ、知らなかった。甘くて、苦いなんて、まるで僕らみたいだねえ」
 興味深く味わっていたら、これも燭台切光忠から得た知識を披露された。案外物知りな短刀に感心して、にっかり青江は残った分を口に含んだ。
 零さないよう舌を操り、大部分を舐め取ってから、皮を噛んだ。一方小夜左文字は、上部に空けた穴から中身を啜り、小さく潰してからぱくり、と頬張った。
 果たしてどうやって食べるのが正解なのか、さっぱり分からない。
「まあいいか」
 だが零して駄目にしてしまうよりは良いと割り切って、彼は犬のように舌をくねらせた。
「ううん、確かにこれは、頬が落ちるかもしれないねえ」
 後に引く甘さは、一個ぽっきりでは物足りない。腹が膨れるまで三個でも、四個でも食べたくなった。
 そして目の前には、仲間たちへの分が合計四個。
 うっかり手を伸ばそうとして、にっかり青江は苦笑した。
 右を見れば、丁度食べ終えたばかりの小夜左文字が凄い形相で睨んでいた。まるで仇かなにかを見つけた表情で、大脇差はいそいそと腕を戻した。
「冗談だよ」
「……はい」
 勝手な真似はしないと約束して、両手を腿の下へ隠した。炬燵の中で膝を軽く曲げて、出来上がった三角形の隙間を指で掻き混ぜた。
 気が付けば口の周りを、しつこく何度も舐めていた。
 滅多に訪れない手作りの甘味が大当たりだっただけに、是非とも二度目、三度目と要望せずにはいられない。
 今夜にでも早速、料理好きの太刀を捕まえて強請ってみよう。
 ああいう洋風なものは、歌仙兼定に頼んでも無駄だ。和にこだわりがある打刀だから、土下座して頼んでも、絶対に承諾してくれない。
「帰ってきませんね」
 早速算段を練り、猫なで声で甘える練習を心の中で開始する。
 と、そこに短刀の声が紛れ込んで、燭台切光忠懐柔計画は一時中断となった。
 小夜左文字は落ち着かないのかそわそわして、しきりに室内を見回していた。物音がすればびくりとして、反応は大袈裟だった。
 菓子の配達が終わり、好意に甘えてひとつ食べた。彼がこの部屋に居続ける理由は失われ、立ち去るきっかけを探しているようだった。
「そうだね。ちょっと、遅いかな」
 鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎は、一緒に馬当番だ。堀川国広は分からないが、和泉守兼定が部屋の掃除をしていたので、その手伝いではなかろうか。
 浦島虎徹は遠征中。物吉貞宗は、にっかり青江がこの部屋に入った時、箒を手に中庭へ歩いていくところだった。
 約ひと振りを除いて、脇差は皆、本丸の中だ。外では陽が傾き始めており、作業を終えて帰ってきてもおかしくない時間帯だった。
 誰かひと振りくらい、食べている最中に入ってくるとばかり思っていた。
 見込みが甘かったのは否定しない。室内の空気はどうにも微妙で、快適とは言えなかった。
 にっかり青江とふた振りきりだと、小夜左文字は出ていくと言い出し難かろう。居心地が良い空間を提供してやれなかったのは残念だが、引き留めて嫌な思いをさせるのも申し訳なかった。
「みんなには、伝えておくよ。ありがとう」
 菓子入りの皿を手元に引き寄せ、そこから更に、天板の中心へと移動させた。
 がりがりと木の板が削れる音にハッと顔を上げて、短刀は胸の前で指を蠢かせた。
 絡ませ、握り、広げては指先同士を貼り合わせる。
 落ち着きを欠いた仕草に小さく首肯して、にっかり青江は真後ろを振り返った。
「あの」
「うん?」
 もう帰って良い、と態度で示したつもりだった。ところが小夜左文字が不意に声を上げたものだから、瞬時に身体を捻らねばならなかった。
 長い髪が左右に踊り、暴れ、静かになった。肩の上に残ったひと房を背中に放り投げて、大脇差は頬を紅潮させた少年に眉目を顰めた。
 表情は切羽詰まっているような、鬼気迫るような。ともかく、一刻も早く立ち去りたいと思っている雰囲気ではなかった。
「なんだい?」
 またしても想定外の事態に、ほんの僅かながら声が上擦った。
 首を右に倒して問いかければ、正座から尻を浮かせた少年は、ストンと座り直し、衿の合わせ目を指で弄り倒した。
「あの、にっかり青江さん、は。畑仕事の時、髪の毛、どう、して、いますか」
「んん?」
 言葉をひとつひとつ小分けにして、息継ぎを頻繁に挟みながら訊ねられた。
 よもやそこに話が行くとは思ってもいなくて、にっかり青江は目を丸くした。
 利き手は無意識に後ろへ回り、背中に垂れる長いひと房を掬い取った。広げた指で軽く梳いて、深緑の流れを胸元に引き寄せた。
 毎朝櫛を入れているので、毛先はするすると零れ落ちた。それを二度、三度と繰り返して、彼は怪訝な眼差しを斜め前方へ投げた。
 意図を探り、小夜左文字を見詰める。
 少年は覚悟を決めたか、一文字に引き結んでいた唇を解いた。
「兄様、……あ、江雪兄様が。夏場、とても暑そうだったので」
 一度言いかけて、慌てて訂正し、付け足した。それで彼の真意が読み解けて、にっかり青江は嗚呼、と頬を緩めた。
 小夜左文字の兄である江雪左文字は、青銀の髪が美しい太刀だ。戦嫌いということで当初は浮いた存在だったが、今ではすっかり打ち解けていた。
 畑仕事や馬当番といった、他の刀らが嫌う作業も、精力的に引き受けていた。特に庭造りが好きらしく、積極的に取り組んでいた。
「確かに、彼の髪は、暑そうだねえ」
 その太刀は、髪が長い。にっかり青江に勝るとも劣らないくらいで、それをいつも背に垂らしていた。
 だが屈んだり、前のめりになったりする機会が多い作業で、その髪が邪魔になるのも事実。どれだけ後ろに掻き上げようとも、重みに引っ張られ、自然と胸元へ雪崩れ込んできた。
 結えばいいのだけれど、ただ束ねるだけでは、あまり意味がない。
 毎日のように悪戦苦闘している兄の姿を見て、なんとかしたい、と彼なりに考えたようだ。
 そんな時に、同じく髪が長い刀と話す機会を得た。
 なにか妙案がないかと問いかけられて、にっかり青江は顎を撫でた。
「ふうむ」
 薄く開けた唇から息を吐き、半眼する。
 壁に吊された暦は、これから夏に向かうと告げていた。
「そうだねえ。一番手っ取り早いのは、ぶらぶら垂れているものを切ってしまうことだけれどね……髪のことだよ?」
「他に、なにを切るんですか?」
「んん、まあ、それは置いておいて」
 暑さをしのぐ方法はいくつかあるが、簡単かつ効果的なのは髪を短くすることだ。
 純粋無垢な眼差しに苦笑で応じて、大脇差はコホンと咳払いした後、自分の髪を掬い上げた。
 細い束を肩より高い位置で揺らし、根本で結んでいた紐を解いた。途端に一箇所に集まっていたものが膨らんで、背中全体を覆い隠した。
 先端は座布団の下へ潜り込み、畳に零れた。頭頂部にあった締め付けや、重みが一瞬のうちに瓦解したのに、まだ結われているような感覚はしばらくその場に留まった。
 卵形をしている後頭部をなぞり、ひと房取って短刀に示す。
「僕らは、切ったところで手入れ部屋で元通り、だからねえ。だったら、縛ってしまうべきと思うな。……髪をだよ?」
「髪以外、どこを縛るんですか?」
「それは僕じゃなくて、亀甲貞宗君の得意分野だねえ」
「……はあ」
 淡々とした合いの手の後、小夜左文字は分かったような、分からなかったような顔をした。頭の片隅で考えて、数秒後に放棄して、話を戻そうとにっかり青江に向き直った。
 足を揃え、その上に両手を並べた。
 行儀よく畏まる短刀に相好を崩して、大脇差は両手を首の後ろへ回した。
 手櫛で軽く梳いて、一本にまとめた髪を三つに分けた。素早く手を動かして、慣れた調子で瞬く間に髪を結い直した。
「たとえば、こんな感じ」
「縄、みたいです」
「似たようなものかな。こうしておけば、髪は散らばらないだろう?」
 鏡もなしに完成させ、結い終わりは指で押さえる。
 それを肩から胸元へ垂らせば、小夜左文字は率直な感想を述べた。
 正直で、素直すぎる返答には、苦笑を禁じ得ない。甚だ失礼な意見だが、怒る気は起こらなかった。
「本当だ」
 試しに編んだ髪を上下に振り回すが、長さが足りずにはみ出た分以外、毛先は散らばらなかった。
 小夜左文字は感心した様子で頷いて、雑に結んでいるだけの自分の髪を抱え込んだ。
「君は、ちょっと長さが足りないかな」
 短刀の髪質は固く、癖が強い。解けば肩より下に届くが、編むには少々短かった。
「そうですか」
「体験していくかい? ――髪結いを、だよ」
 教えられた内容を、自分で試そうと考えたのだろう。
 それを真っ向から否定され、落ち込んだ少年に、にっかり青江は素早く言い足した。
「いいんですか?」
 途端に小夜左文字の顔がぱあっと明るくなって、声も一緒に高くなった。普段の、感情を押し殺した口調が薄れて、外見に応じた表情の完成だった。
 喜怒哀楽が大きく欠如していると思われがちな彼だけれど、しっかり備わっていた。
 珍しいものを見たと感嘆して、大脇差は深く頷いた。
「かまわないよ。どうぞ」
 今の表情だけで、練習台になる価値はある。素晴らしい報酬を先払いされたのだから、協力を惜しむつもりはなかった。
 早速炬燵から足を引き抜き、立ち上がろうとした。座布団ごと後ろに下がり、膝を畳んで腰を浮かせようとした。
 だがそれより早く、短刀が動いた。好機を逃すまいと息巻いて、小夜左文字はにっかり青江の後ろに移動した。
「おやおや」
「教えてもらえますか」
 なんとせっかちで、気忙しいのだろう。
 己のことには無頓着なのに、兄に関する事項だと、こんなにも必死になる。
 江雪左文字や宗三左文字が知れば、きっと泣いて喜ぶに違いなかった。
「君たちは、案外、仲が良いんだねえ」
「にっかり青江さん?」
「まずは根元で、ひとつに束ねる。それを、出来るだけ均等に、三つに分けてごらん?」
「はい」
 新たな事実に胸を震わせ、彼は怪訝にする短刀に指示を出した。まずは基本中の基本からと、恐らく他者の髪など結ったことがないだろう少年相手に、あれこれと思いつく限りの助言を贈った。
 櫛があれば良いのだが、生憎とこの部屋には備えられていない。
 取りに行く案は、真剣に取り組んでいる短刀に水を注すことなるので、言わずにおいた。
「あいた」
「すっ、すみません」
「良いよ、大丈夫。ああ、抜けた髪はそっちの屑入れにお願いするよ」
「気を付けます」
「丸坊主にだけは、しないでおくれよ。そうしたら、他の毛で練習してもらわないといけなくなるからね」
「ほかの?」
「おっと。今のは、お兄さんたちには内緒だよ」
「……? 分かりました」
 たまに力加減を誤って、強く引っ張られた。
 通じているのか、いないのか、微妙なやり取りを何度か繰り返し、小夜左文字はせっせと手を動かした。
 結んで、解いて、また結んで。
 最初は綺麗に三当分出来ず、太さがばらばらで、うまくまとめられなかった。
 それが回数を重ねる度に、少しずつ整えられていく。
 但し巧く出来たかどうか判定を求められても、にっかり青江の目には、方々を向いて跳ねる毛先くらいしか見えなかった。
 鏡があれば良かったのだが、そちらもこの部屋にはない。誰か取りに来てくれないかと切に願っていたら、ドタドタと、久しく途絶えていた足音が響いた。
「おっ」
「あー、疲れた。たっだいま~。っと、おやあ? 珍しいお客さんですね」
「今戻った。なんだ、来ていたのか」
「おかえり。小夜君、練習台が増えたよ」
「んん? なんですか?」
 自室へ戻るより先に、こちらに顔を出したのは鯰尾藤四郎と、骨喰藤四郎の兄弟だ。粟田口派に属する脇差で、片方は賑やかで、片方は静かで大人しかった。
 大阪城落城の際に焼け身となり、記憶が一部欠落しているという。だが鯰尾藤四郎はあまり気にすることなく、本丸での日々を満喫していた。
 障子を大きく開けて入って来た彼らからは、泥と獣の臭いがした。馬当番を真面目にやったかは疑問が残るが、両手はしっかり洗われて、綺麗だった。
「それは、なんだ?」
 にっかり青江の髪を結っていた小夜左文字から視線を動かし、骨喰藤四郎が炬燵を指差す。
 大脇差に意味深に笑われて、首を傾げていた鯰尾藤四郎も、顔を上げて目を輝かせた。
「おおっと、これはしゅーくりーむ!」
「おや、知っているんだ」
「もちろん、知ってますって。前に、燭台切さんが試作品だって、味見させてくれたんです。完成したんだ。うわあ、美味しそうだなあ」
「兄弟。初耳だ」
「あ、しまった。内緒だった」
 皿の中の菓子を見た瞬間、高らかと響いた歓声に、にっかり青江は驚き、骨喰藤四郎は表情を曇らせた。横から鋭く睨まれた脇差はハッとして口元を覆い、言わなくて良いことを声に出して首を竦めた。
 彼らがやって来ただけで、部屋の中が一気に騒がしくなった。
 物理的にも、精神的にも喧しさが増して、小夜左文字は屈託なく笑う彼らに目を丸くした。
 髪を結う手が止まり、背中に隠された。
 気配を察したにっかり青江は振り返って笑いかけ、及び腰の短刀を引き留めた。
「鯰尾君は、夏の間、愉快な髪型をしてたよねえ?」
「ふぁい?」
 炬燵の反対側に回り、早速菓子皿に手を伸ばした脇差に問いかける。
 勝手知ったるなんとやらで、特に慌てもせず、零しもせずに薄皮に齧り付いた少年は、質問に一瞬固まり、瞳を宙へ投げた。
「俺の力作だ」
「あ、あー。はいはい。乱と骨喰に、玩具にされてましたけど。それがなにか?」
 粟田口派の刀剣男士は、数こそ多いが、長髪は彼と乱藤四郎くらいだ。それが災いしてか、夏場は毎日のように髪型が変わっていた。
 団子状に丸めたり、細く編んだものを輪にしたり。
 涼しさと過ごし易さを優先させた脇差は、見た目が滑稽だろうと構わなかった。それで余計に周囲が面白がって、次第に凝ったものに変わって行った。
 忘れていた記憶を呼び覚まし、鯰尾藤四郎が首を捻る。
 得意げに親指を立てている脇差にも目を向けて、にっかり青江は珍客と言われた少年の肩を押した。
「小夜君に、教えてあげてくれるかな。お兄さんの髪を、結ってあげたいそうだよ」
「え、あの」
 突然矢面に立たされて、小夜左文字の身体がビクッと跳ねた。
 一斉に向けられた視線に竦み上がった短刀に、鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎は顔を見合わせた。
 目と目で会話して、改めて前に立つ小柄な少年に注目する。
 両腕に鳥肌を立てて震える彼に微笑んで、にっかり青江は人差し指を立てた。
 それを頬に押し当てて目を眇め、脇差仲間から同意を引き出す。
「いいですねえ、俺は構いませんよ」
「江雪左文字か。どんな風にするのが良いだろう」
「いえ、そんな。お手を煩わせることは」
「いいの、いいの」
 使えるものは、使える時に使っておくべきだ。
 こんなところでまで遠慮しようとした短刀を焚きつけて、口角を持ち上げる。前方ではすでに脇差ふた振りが、どのような髪型が良いか検討を開始しており、今更止められそうになかった。
 事態はすでに動いている。
 にっかり青江に申し出た時点で、小夜左文字の意思は彼ひと振りのものではなくなった。
「ただ今戻りました~。あれ、賑やかですね。なにかあったんですか?」
 そうこうしているうちに、物吉貞宗が顔を出した。こちらも自室に向かうより先に、大勢で集まる共同部屋へやって来て、滅多にない来客に顔を綻ばせた。
 いつも笑顔を欠かさない少年が、髪を弄られる長髪ふた振りと、弄っているふた振りを順に見た。興味深そうに小夜左文字の手元を覗き込んで、事情を説明されて嗚呼、と手を叩いた。
「僕、太鼓鐘に頼まれて、いろんな髪飾り、作ってるんですよ。持ってきますね」
 結った髪を留めるのには、紐や、簪が必要だ。編み方が多少雑になっていても、装飾次第ではあまり目立たない。
 派手好みの弟を持つ脇差の提案に、骨喰藤四郎が妙案だと親指を立てる。
 慌ただしく廊下を駆けて行った彼と入れ替わりで、今度は堀川国広が姿を見せた。
「あれ、小夜ちゃん。珍しいですね。みなさんも、なにしてるんですか?」
「江雪左文字さんの、髪型相談会です」
「……うん? なんだかよく分からないけど、櫛と、鏡、要りますね。取ってきます」
 いつにも増して賑やかな空間に、鯰尾藤四郎の元気の良い声が響き渡る。その的を射ているようで、大筋が欠けた説明に、新撰組所縁の脇差は苦笑いを浮かべて踵を返した。
 察しが良いと感心して、にっかり青江は炬燵に深く潜り込んだ。
「お待たせしました。こういうのとか、江雪さんに似合うと思いませんか?」
「えっ、あ、……きれい、です」
「髪の手入れだったら、兼さんで慣れてるからね。なんでも聞いて?」
「ありが、とう、ございます」
「出来たぞ。こういうのはどうだ」
「――くっ」
「うわあ……」
「ちょ、ちょっと。鯰尾君。君、それでいいの?」
「残念。俺には見えません!」
 足早に戻って来た物吉貞宗、堀川国広に挟まれ、小夜左文字が動揺しながらも懸命に応対する。
 前方では鯰尾藤四郎の髪の毛がとぐろを巻き、頭の天辺に陣取っていた。
 自信満々の骨喰藤四郎に、どうしてそうなったのかとの突っ込みが四方から飛んでいく。もっともやられた当人は完全に開き直っており、鏡を見せられても目を瞑って、堂々と胸を張り続けた。
 賑やかで、騒々しく、それでいながら嫌な気分にならない。
 けたたましい笑い声に包まれて、最初は戸惑っていた短刀も、次第に表情を和らげた。
「それ、どうしたんですか?」
「燭台切さんが作ったんだって。しゅ一くりーむ」
「しうくりむ、です」
「違うって、小夜ちゃん。しゅーくりーむ」
「しう、くりむ」
「美味ければ、どっちでもいい」
 天板に陣取る菓子に気付いた堀川国広に、鯰尾藤四郎と小夜左文字が火花を散らした。
 最後は骨喰藤四郎が引き受けて、それでまた一段と大きな笑い声が部屋に響く。
 果ては隠してあった煎餅、かき餅などが次々現れ、空になった深皿はすぐに別のもので埋め尽くされた。
 二つ結びにしたり、細かく編んだものをひとつに束ねたり。宗三左文字のような編み込みで、ぐるりと頭を一周させたり。
 次々に披露される髪型に、物吉貞宗特製の髪飾りが彩りを添えた。途中からは骨喰藤四郎と堀川国広の技術対決へと発展して、簡単なやり方を学びたかった小夜左文字は、若干置いてけぼりだった。
 それでも彼は、楽しそうだった。
 熱心に脇差たちの手元を注視する短刀の横顔に目を眇め、にっかり青江は炬燵の天板に顎を沈めた。
「たまには、大勢でやるのも悪くないね。……休日の過ごし方のことだよ」

真菅生ふる山田に水をまかすれば うれしがほにも鳴くかはづ哉
山家集 春 167

2017/05/16 脱稿

まどふ心ぞ わびしかりける

「前田の様子がおかしい?」
 戦支度を解く間もなくそう言われたのは、十日近く続いた遠征任務がひと段落した日のことだった。
「うん。ボーっとしてるっていうか、落ち着かないっていうか。とにかく、変なんだよね」
「はあ……」
 帰ってくるなり信濃藤四郎に捕まって、平野藤四郎は緩慢に頷いた。具体性を伴わない説明に眉を顰めつつ、被っていた帽子を取り、それで顔を扇いだ。
 昨日までは遠征に出て、戻って、少しの休憩を挟んでまた遠征に出発、の繰り返しだった。任務自体はさほど難しくないのだけれど、とにかく手間ばかりが必要とされて、慣れていないと時間切れで失敗する可能性が高かった。
 遠征先で食事と睡眠を取っていたとはいえ、疲れはある。
 布団でゆっくりひと眠りしたかった身としては、後にして欲しいという気持ちが強かった。
 ただ振られた話に気になる点が多くて、無碍にあしらうのも出来なかった。
「変ですか」
「そう。何もないところで躓くし、目の前の柱にぶつかりに行くし。手もみ洗い中の洗濯物は破くし」
「それは、……困りますね……」
 仕方なく相槌を打ち、脇を通り過ぎていった太刀には軽く頭を下げた。帰還早々兄弟に捕まった短刀を労って、鶯丸は気遣い不要とでも言うつもりか、ひらひらと手を振った。
 審神者への報告は、部隊長だった蜻蛉切に一任していた。お役御免となった第四部隊は一旦解散となり、半刻もすれば別編成が組まれるに違いなかった。
 のんびり歩いて行く背中を見送って、平野藤四郎は信濃藤四郎に視線を戻した。彼もまた飄々とした太刀を眺めており、視線に気付いて背筋を伸ばした。
 両手を腰に当て、頬を丸く膨らませる。
「まあ、なんでそうなったかってのは、大体分かってるんだけど」
「はあ……ん?」
 憤然とした面持ちで吐き捨てられて、疲労感が拭えない短刀は愛想に欠ける相槌で応じた。
 理由を知っているのなら、彼の方でさっさと対処すればいいだけの話ではないのか。それを何故わざわざ自分に報告するのか、兄の真意が分からなかった。
 確かに平野藤四郎は、兄弟間でも前田藤四郎とは殊に縁が深い。外見も似通っており、間違って名前を呼ばれるのは日常茶飯事だった。
 だからといって、なにも彼の世話係を務めているわけではない。
 調子が悪い時は、誰にだってある。前田藤四郎にも不調の日くらいあるだろう。
「どうせ大典太さんと、喧嘩でもしたのでしょう」
「え、すごい。なんで分かるの」
 あのしっかり者で、几帳面な短刀がぼんやりするとしたら、原因はひとつしか思いつかない。
 ため息混じりに呟けば、信濃藤四郎は目を丸くして仰け反った。
 その表情も、大概失礼だ。
 分からない方がどうかしている、と言いかけたのをぐっと我慢して、平野藤四郎は右手に持った帽子を被り直した。
 静かに歩き出せば、赤髪の短刀は慌てて追いかけて来た。左斜め後ろにつき、時々横に並んで、語りたくて仕方がない表情で目を輝かせた。
「放っておけば、そのうち仲直りするでしょう」
 それがあまりにも無粋に思えて、平野藤四郎はちょっとだけ語気を荒くした。
 強めの眼差しで兄を仰ぎ見れば、圧倒されたのか、信濃藤四郎は半歩下がって頬を引き攣らせた。
「いや、それがさ~。俺だってさ、最初はそう思ってたんだよ。でも、よく見てたら、ちょ~っと喧嘩とは違うみたいなんだよね」
「違うんですか」
「勘だけど」
「勘……」
 前田藤四郎は粟田口の短刀の中でも小柄な部類に入るが、理知的で、落ち着いた性格をしていた。
 真面目で、心優しく、時に手厳しい。曲がったことが嫌いで、律儀で、鳥が好きだった。
 その号が示す通し、前田家に伝来し、天下五剣の大典太光世と長く一緒だった。但しあちらは蔵の中に封印されていたので、厳密には、共に過ごしたとは言い難いが。
 有り余る霊力を重宝がられながらも、それ故に忌避されて来た太刀は、その影響で人付き合いが苦手だ。後ろ向きの思考の持ち主であり、名刀と謳われながら己に自信がない、という有様だった。
 本丸に顕現した当初は、特にその傾向が顕著だった。だが所縁を持つ短刀らが盛大に構い倒した結果、少しずつではあるが、ここでの生活に馴染み始めていた。
 その中でも前田藤四郎が、特に彼を世話していた。
 面倒見がよく、少々お節介なところもある刀なだけに、丁度良い配役だったと言えるだろう。
 だのにこの数日、前田藤四郎は大典太光世を相手に、妙に余所余所しい態度を取っているという。
 大典太光世の方も、前田藤四郎に話しかけようとしては諦めて、お互い目を合わせようとしないのだそうだ。
 他人行儀で、遠慮が目立つ。以前は仲が良過ぎる、というくらいになにかと一緒だったのに、近頃では共に命じられた馬当番でも、別個に行動していた。
「それは確かに、変ですね」
「でしょう?」
 喧嘩をして、謝るに謝れない状況が続いている可能性は無きにしも非ずながら、そもそもあのふた振りに喧嘩が成立すること自体、疑問だ。
 前田藤四郎はあれで意外に短気な一面があり、頑固だが、大典太光世は違う。もし短刀に癇癪をぶつけられたら、自分は悪くなくても勝手に謝りそうな雰囲気だった。
 どんな不条理をぶつけられても、耐え忍び、飲みこんでしまうだろう。
 そういう懐の深さ、広さが彼の良い面であるが、何ひとつ言い返そうとしないところは、明らかに欠点だった。
「分かりました。後で様子を見てきます」
「うん、お願いするね。平野にだったら、なにがあったか、教えてくれるだろうし」
 兄弟間でも特に仲が良い相手になら、だんまりを決め込んでいた短刀でも、心を開くに違いない。
 既に何度か挑戦し、その度に失敗して来た信濃藤四郎は、平野藤四郎の返事を受け、嬉しそうに両手を叩き合わせた。
 眼差しは好奇心に彩られ、結果を教えるよう、言外に告げていた。下世話な話に興味津々であり、あまり褒められたものではなかった。
 だが彼だって、一応は弟を心配している。
 でなければ玄関先で、遠征部隊の帰還を待ち構えたりなどしないはずだ。
 編成解除の旨が通知される前から話しかけられて、面食らった。どんな重大事案が発生したのかと、身構えざるを得なかった。
 一瞬脳裏を過ぎった想像が、杞憂に済んで良かった。兄弟の誰かが折れた、など言われたらどうしようと思い悩んで、予想以上に気楽な悩みをぶつけられたのにホッとした。
 けれど、これはこれで厄介かもしれない。
 部屋に戻って、平野藤四郎は己の本体ともいえる刀を刀掛けに預けた。帽子を脱ぎ、装具を解き、箪笥に収納されていた内番着に着替えた。
 柔らかな木綿素材で身を包み、深呼吸を二度、三度。
 そうすることで任務による緊張感が完全に抜け落ちて、本丸に帰ってきた実感がむくむくと湧き起こった
「それで、信濃兄様。前田は、今、どちらに?」
 粟田口の短刀は、個室ではなく、大部屋を共同で使っていた。鯰尾藤四郎や骨喰藤四郎、鳴狐に一期一振は個室を与えられているが、時々こちらに顔を出し、布団を敷いて一緒に寝起きすることもあった。
 だが現時点で部屋にいるのは、平野藤四郎と信濃藤四郎だけ。
 がらんどうの空間を見渡しての質問に、赤髪の少年はやおら障子の向こうを指差した。
 そちらはには中庭があり、部屋から直接出入り出来た。背の低い灌木が連なり、小さな池があり、その向こうに母屋の壁がそそり立っていた。
 本丸の屋敷は大きくふたつの棟に分かれ、北側が刀剣男士の居住区、南側が座敷や台所といった施設が集まる母屋になっていた。
 両者は屋根つきの渡り廊で繋がって、他に迂回路は用意されていない。中庭を縦断する手段もあるにはあるが、一旦地面に降りなければならず、手間であるのに変わりなかった。
 広間の障子は半分開かれ、穏やかな日差しが注ぎ込まれていた。畳に落ちる影はやや斜めに傾き、台形になっていた。
 聞こえるのは鳥の囀りと、練武場からと思われる勇ましい雄叫びばかり。
 他の兄弟たちは、母屋にいるのだろうか。
 そんな事を考えながら注意深く窺っていたら、軒を支える柱と同化した影に気が付いた。
「え」
 微動だにせず、まるで置物のよう。
 それが良く見知った相手であると理解するのに、平野藤四郎は数秒の時が必要だった。
「今朝からず~っと、ああなんだけど」
「これは、随分と……重傷ですね……」
 陶器で出来た狸の調度品ではあるまいに、外を眺め、身動ぎすらしなかった。ふた振りの会話は筒抜けであろうに、全く反応せず、振り返る素振りも一切なかった。
 平野藤四郎が出陣から帰ってきた時、いの一番に出迎えてくれた前田藤四郎は、どこへ行ってしまったのか。
 まるで別存在だと愕然として、言葉を続けることが出来なかった。
 ここまで酷いとは思っておらず、頭が痛くなった。いったい大典太光世との間になにがあったのか気になって、ふと、思い当たる節がある気がした彼は目を瞬かせた。
 自身も以前に、似たような境遇に身を置いたことがなかったか。
 百年単位で昔の話ではない。本丸に来て一年を過ぎた辺りの、丁度花が盛りの季節だった。
「前田」
「んじゃ、よろしく」
「うわあっ」
 もしや、と胸が騒ぎ、身体が前に出かかった。そこに信濃藤四郎の、何気ない一撃が肩を見舞って、平野藤四郎は呆気なくつんのめった。
 倒れこそしなかったけれど、心臓が口から飛び出るかと思った。
 肝を冷やし、呵々と笑って出ていく兄弟を軽く睨んで、彼は額の汗を拭って呼吸を整えた。
 胸に手を添えて鼓動を数え、唇を舐めた。
 遠征での疲れをこの一時は忘れて、慎重に、よく似た兄弟刀との距離を詰めた。
「前田、平野です。ただいま戻りました」
「……っ」
 驚かせないよう充分注意したつもりだが、それでも駄目だった。
 横から覗き込むように話しかけられて、前田藤四郎はビクッと肩を跳ね上げた。
 今になって初めて存在を知った、と言わんばかりの表情を向けられて、苦笑を禁じ得ない。口角を持ち上げて目を細め、平野藤四郎は縁側に腰を下ろした。
 爪先を軒下へと垂らしても、地面との間には隙間が残った。太刀や打刀らならば楽に足が着く高さでも、短刀の彼らには巨大な障壁同然だった。
 靴下に覆われた指を当て所なく揺らし、返事を待つ。
 穏やかに微笑んで見つめ続ける彼に、内番着にも外套を愛用する少年は、ハッと息を呑んで姿勢を正した。
「あ。ああ、はい。ごくろうさまです」
「やっと終わりました。これにて、お役御免です」
「それは、よかったです」
 かなりの時間を費やし、現状を理解したようだ。前田藤四郎の双眸に光が宿って、どこか力なかった口調も、普段通りに戻った。
 心から安堵した様子で言われて、平野藤四郎は頬を緩めた。目尻を下げて頷いて、疲弊している太腿を軽く捏ねた。
 あまり厚くない筋肉を揉みほぐし、滞っていた血の巡りを活性化させた。膝を越えて脹ら脛まで手を伸ばして、前屈みに腰を折った。
 ついでに背中の筋肉も伸ばして、最後に両腕を肩より高く掲げ、伸ばした。空中に創り上げた仮想敵を殴り飛ばして、深呼吸でひと段落つけた。
 横で見守っていた前田藤四郎は、最初のうちこそ笑顔で見守っていた。けれど沈黙が長くなるにつれ、目線は沈み、猫背になった。
「はあ……」
 ため息を隠そうとしない、物憂げな表情が切ない。
 膝に転がした指を弄り回すのも、恐らく意識してのものではないはずだ。
「どうかしたんですか、前田」
「えっ。あ、……いえ。べつに」
 信濃藤四郎の言葉が蘇り、目の前の光景に重なった。
 明らかになにかあったと分かる素振りなのに、理由を語ろうとしない。乱藤四郎や薬研藤四郎も心配しているのに、当の刀は問題無く振る舞えていると信じきっていた。
 壁にぶつかる、ちょっとした段差で転ぶ。料理当番になれば、塩と砂糖を間違える。挙げ句大典太光世と馬当番になった日には、言葉足らずで意思疎通が果たせず、馬を庭に解き放ってしまった。
 ソハヤノツルキが頑張って捕まえてくれたが、立ち入った場所によっては、馬の脚が折れていた。
 事の次第を知ったへし切長谷部はかんかんで、集中力が欠如していると両者を叱った。
 こってり絞られて、これで元の鞘に収まってくれれば良かったのだが、状況は改善するどころか、悪化の一途だった。
 ついには大典太光世が、蔵に引き籠もって出て来なくなった。
 信濃藤四郎や愛染国俊らがなんとか引っ張り出そうと試みたが、自分は駄目な刀だと言って、説得に耳を貸さなかった。
 このことを、前田藤四郎はまだ知らない。
 教えるかどうかは任せると、一切の責任を押し付けられた。正直荷が重いが仕方ないと諦めて、平野藤四郎は正面に向き直った。
 空は青く、雲は白い。囀っている鳥の姿は見えず、気まぐれに吹く風が樹木を揺らしていた。
 長閑で、穏やかな風景に、物々しい怒号が混じり合う。
 同田貫正国を相手にしているのは、大和守安定か、和泉守兼定か。
 さぞや暑苦しい光景だろうと肩を震わせ、少年は腿の上で両手を結びあわせた。
 前田藤四郎は俯いて動かず、自ら喋り出す気配もない。
「大典太さんと、なにか。ありましたか?」
 待っていても埒が明かないと覚悟を決めて、平野藤四郎は静かに問いかけた。
 返事はなかった。
 先ほどのような反応すら見受けられず、粟田口のひと振りは怪訝に眉を顰めた。
「前田?」
「ありません、なにも。みなが心配するようなことは、なにも」
「前田……」
 促せば、前田藤四郎は緩く首を振った。沈痛な面持ちで呟いて、自嘲的な笑みを浮かべた。
 口角は片方しか持ち上がらず、顔の筋肉は引き攣っている。無理に笑おうとして失敗した、実に不細工で滑稽な姿だった。
 あまりにも哀れな表情に、返す言葉が見つからない。平野藤四郎は絶句して、紺色の股袴を掻き毟った。
 腿の上に複数の皺を作り出し、掌で押し潰した。布の表面をぐしゃぐしゃにして、伸ばして、を三度か四度繰り返して、胸を反らして深く息を吸いこんだ。
 言い知れぬ焦燥感に、不安から怯みたがる心を宥めた。慌てず、冷静であるよう努めて、左右を窺い、声を潜めた。
 近くで聞き耳を立てている者がないか調べて、相変わらず静かな室内に胸を撫で下ろした。さりげなさを装って距離を詰め、良く似た背格好ふた振り、肩を寄せ合って座り直した。
「では、前田は今、何を憂いでいるのでしょう」
 顔は見ず、前を向いたまま問いかける。
 平野藤四郎がいない間、彼は兄弟や仲間から、沢山言葉をかけられたのだろう。
 優しく、時に手厳しい質問を投げかけられて、都度大丈夫だ、と返してきたに違いない。
 実際、彼は隠し事をしている風ではない。大典太光世となにかあったのは確かだが、それが今回のことの、直接の原因ではなさそうだった。
 訊き方を変えた少年に、前田藤四郎はピクリ、と身を揺らした。彼もまた正面を向いたまま、膝に並べた手を握り、引き結んでいた唇を何度か開閉させた。
 言おうか、言うまいかで躊躇して、伸びあがったり、縮んだり。
 余計な茶々を入れずに辛抱強く待つ兄弟を窺って、その瞳を大きく歪めた。
「刀、とは。僕たちは、いったい、なんなんでしょう」
 顔をくしゃくしゃにして、鼻から大きく息を吸って。
 絞り出すように呻かれて、平野藤四郎はぽかんとなった。
「……それは、また。随分と壮大な話ですね」
「平野、僕は真剣に悩んでいるんです!」
「すみません、すみません。殴らないでください、前田。痛いです」
 失礼な話、冗談かと思った。突然宇宙とはなにか、と訊かれたに等しくて、拍子抜けして声が高くなった。
 それが気に食わなくて、前田藤四郎は右手を高く掲げると、一気に振り下ろした。左手も同じように動かして、交互にぽかぽか、平野藤四郎を殴り付けた。
 癇癪を爆発させて怒鳴られて、急いで謝罪するが、声の調子が戻らない。聞きようによっては笑っている風に感じられたようで、打撃はなかなか止まなかった。
 打開策として距離を広げ、後ろへ逃げた。一撃ずつは軽かったが、なにせ手数が多くて、ところどころ薄ら赤くなっていた。
 痛みはないに等しいものの、殴られた、という意識自体が厄介だ。しばらく警戒せざるを得ず、荒くなった呼吸を整えて、平野藤四郎は咥内の唾を一気に飲み干した。
「落ち着いてください、前田。僕たちは、ええと……刀剣男士、です。刀の付喪神であり、主君の命に従い、歴史修正主義者の目的を挫くために、在ります」
 心を鎮め、ひと息に捲し立てた。
 それはこの本丸に顕現する時、現身と共に与えられた、使命とでも言うべきものだった。
 刀剣男士は審神者に従い、敵を討つ。
 敵とは時間遡行軍であり、時の政府に仇なす者のことだ。
 彼らは数百年の時を巡った、付喪神。数多の人間の手を経て、その意志を引き継ぐ存在でもあった。
「はい。そうです。その通りです」
「前田、急にどうしたのです」
「平野、では、僕たちは。主君にとって、いかなる存在なのでしょう」
 ただこれは、誰もが認識していることであり、今更確認を要するものではなかった。
 前田藤四郎も承知しており、当たり前のように頷いた。認め、確固たるものとして受け止めて、その上で重ねて平野藤四郎に訊ねた。
 いったい、彼は何を気に病んでいるというのか。内容は哲学的な方向へ傾いており、即答するのは憚られた。
「それは、勿論。歴史修正主義者に対抗するための、武器であり……」
 言いかけて、違う気がして口籠もる。
 顔を背け、視線を泳がせた短刀に、前田藤四郎は浅く唇を噛んだ。
「ならば、僕たちにとって。主君とは」
 呻くような悲痛な声に、聞いている方まで胸が締め付けられた。
 己らの身のあり方は、常に意識の片隅にありながら、なるべく目を逸らしてきた問題だ。
 審神者がいなければこの本丸は成り立たず、刀剣男士がいなければ本丸は成り立たない。男士にとって審神者とは絶対の存在であり、常に傍らにあり、守り抜くと誓った相手だった。
 しかし人は、いずれ死ぬ。
 その命は、百年と満たない。しかもこれは、この世に誕生した瞬間から数えての年数だ。
 彼らが顕現した時、審神者は既に一人前の存在だった。ならばあの者には、あとどれだけの寿命が残されているのだろう。
 そんなこと、誰にも分からない。ただ分かるのは、あと百年も残っていない、ということだけだ。
 数多の主の下を渡り歩いてきた彼らにとって、今の主が最後のひとりになる可能性は高い。
 つかず離れず、そばに居続けたいと願っても、それは決して叶わない。
 だからこそ、刀剣男士は審神者に尽くす。残り僅かかもしれない時を、一秒たりとも無駄にしないために。
 それなのに。
「僕たちは、主君を……主君だけを。お慕い、せねば。ならないのに」
 喉を掻き毟り、前田藤四郎が喘いだ。懸命に息を吸い、吐き出して、頬につう、と雫を零した。
 爪を立てて皮膚を抉るのを止めさせて、平野藤四郎はそっと瞼を閉じた。視界を一瞬だけ闇に染めて、苦悶する兄弟の頭を撫でた。
 乱暴になり過ぎない程度に力を込め、栗色の髪を掻き回した。綺麗に切り揃えられたものをぐしゃぐしゃにして、寝癖よりも酷い有様に仕上げた。
「なにを、するんですか!」
 当然のように、前田藤四郎は反発した。
 声を荒らげ、勇ましく吠えた。不躾な手を跳ね除けて、目を吊り上げて牙を剥いた。
 直前までの陰鬱な雰囲気は四散して、跡形もなかった。憤慨し、煙を噴き、ぽかぽか殴りつけて来た時のように元気だった。
「あは、あはは。いいではありませんか。とても素敵だと思いますよ」
「冗談はやめてください」
 腹を抱えて笑われて、恥ずかしいやら、悔しいやら。
 勢い余って平野藤四郎の肩を突き飛ばした少年は、二秒後にハッとして、気まずげに顔を背けた。
 頬を赤くして口を噤んだ兄弟に相好を崩し、後ろ髪を短く刈り上げた短刀が、詫びの代わりに栗色の髪を梳いた。
 手櫛で整える間、お互い無言だった。前田藤四郎の後ろに回り込んで、平野藤四郎は心細く見える肩をぎゅっと抱きしめた。
「平野」
 布越しでも伝わって来る体温は心地よく、気持ちを和らげてくれた。
 相談に乗る、と近付いて来た刀は何振りかいたけれど、優しく包み込んでくれたものはなかった。
 この微熱が、心地良い。
 温もりに深く安堵して、前田藤四郎は頬を緩めた。
「良いのではないでしょうか、それで」
「……え?」
 そこに静かに囁かれて、彼は目を真ん丸に見開いた。
 驚き、反射的に伸びあがった。結果的に平野藤四郎を押し返す形となり、意図を誤解した少年はそのまま離れていった。
 違うと言いたかったのに言葉が出ず、惚けた顔のまま見つめ返すしかない。
 唖然と口を開いて凍り付いた前田藤四郎に、良く似た顔の短刀は首を竦めて苦笑した。
「大典太さんのことが、好きなのでしょう?」
 さらりと告げて、平野藤四郎が目を細める。
「……え。え、ええと……ってええええええええ!?」
 一瞬意味が理解出来なくて、前田藤四郎はぽかんとなった。思考が停止して、直後に急加速して、響き渡る大声は見事に裏返っていた。
 気が動転して、縁側に腰掛けたままじたばた暴れ、逃げようとして失敗した。寄り掛かっていた柱に後頭部を激突させて、その状態のまま尚も足を交互に動かした。
 頭が状況を把握せず、身体が勝手に動いていた。茹であがった蛸のような顔をして、最終的に仰向けに倒れ込んだ。
「ぎゃっ」」
 脚が空回りし続けて、腰が下がっていった結果だ。挙げ句の果てには縁側の下に滑り落ち、ごちん、と痛い音を響かせた。
「大丈夫ですか、前田」
 刀剣男子は皆丈夫だが、頭を打っていたら大変だ。
 心配した平野藤四郎に真上から覗きこまれ、前田藤四郎は林檎よりも鮮やかに色付いた頬を痙攣させた。
 目元は潤み、鼻から息を吸えば途中で詰まった。それでもずびずび、音立てて啜って、彼は唇を戦慄かせた。
「ちが、ちがい、ちが……あああ」
 懸命に否定しようとするものの、呂律が回らず、最後まで言えない。
 それは助け起こされた後も同じで、頬の赤みは一向に引かなかった。
 縁側に這い上がり、熱を持った肌を両手で覆い隠して、ぶすぶすと焦げた煙を立て続けに宙へ放つ。
 なんともいじらしい態度に口元を綻ばせ、平野藤四郎は今一度、勝手に乱れた栗色の髪を整えてやった。
「良いんです、隠さなくて。みんな知ってますから」
「みっ……!」
「でも前田が、今、大典太さんに向けている気持ちは。きっと、みんなが思っている『好き』とは少し違う。そうでしょう?」
 淡々と言われて、前田藤四郎の声がまたもやひっくり返った。挙動不審に身を捩って、激しく狼狽しながら動き回るのを、平野藤四郎は穏やかに宥めた。
 畳みかけるように問うて、真正面から瞳を覗き込んだ。
 視界いっぱいに広がった兄弟の顔に惹きこまれて、竦み上がっていた少年は跳ね上がっていた肩を降ろした。
 二、三度の瞬きの後、落ち着いて、ゆっくり首を縦に振った。
 そのまま俯いてしまったので、首肯したかどうかは微妙な線だ。けれど否定しなかったのだけは確実で、平野藤四郎は慰めるように細い肩を叩いた。
 とんとん、と一定の拍子で続けて、腕が怠くなる前に引っ込める。
 その頃になってようやく、前田藤四郎は顔を上げた。
「どうして、平野には。分かるんですか」
 こんな風に言ってくれた刀は、ひと振りもいない。
 何故彼だけが心に寄り添い、導けるのか。
 不思議に思って投げかけた問いに、彼は控えめに、照れ臭そうに、それでいてどこか誇らしげに微笑んだ。
「僕にも、覚えがありますから」
「え?」
「主君に仕え、その願いに準ずるのが、僕の使命です。無論、主君はとても大切です。けれど僕には、主君とは別の意味で、とても愛おしいと思える方がいます」
 左手を胸に添え、平野藤四郎は一言一句噛み締めるように囁いた。途中からは目を瞑り、祈りを捧げるかのように頭を垂れた。
 刀剣の付喪神である彼らにとって、主君に向けて抱く感情は、忠義に根差したものだ。けれど前田藤四郎が大典太光世に注ぐ眼差しは、それとは趣を異にしていた。
 この感情の名前を、知識としてなら知っている。
 だけれど、よもやそれが己に芽生えるとは思ってこなかった。
「鶯丸さん、ですか?」
「ええ」
 心当たりに行き着いて、前田藤四郎は恐る恐る訊ねた。
 返事は明朗で、健やかだった。一瞬の迷いすらない、見事なまでの即答ぶりだった。
 大きく頷いた表情は爽やかで、自信に満ちている。ほんのり気恥ずかしそうにしているものの、それ以上に誇っている雰囲気だった。
 平野藤四郎が輝いて見えて、変な感じだった。あまりの眩しさに、長時間見つめ続けるのが難しいくらいだった。
「それ、は。僕や、いち兄や」
「いち兄のことも、勿論大好きです。前田も、信濃も、兄弟みんな、大事です。でも、鶯丸様は、やっぱり違います。特別なんです。巧く説明出来ないのがもどかしいですが、簡単に言うと、そうですね。……どきどき、します」
 確かめるのが恐ろしいのに、重ねて訊かずにはいられない。
 びくびくしながらの質問に、平野藤四郎は臆面もなく言い放った。
 胸に添えた手を握って、最後のひと言だけ、声を潜める。
 俯き加減で囁かれたその言葉は、普段耳にする彼の声と、ほんの少し趣が違っていた。
「っ」
 自分までドキッとしてしまって、前田藤四郎は知れず赤くなった。訳もなく羞恥心が湧き起こって、同時に彼が羨ましくなった。
 鶯丸と居る時の平野藤四郎は、兄弟らと一緒にいる時と、確かに少し違っていた。
 雰囲気が丸くなる、とでもいうのだろうか。空気がいつになく穏やかだった。互いを慈しみあい、尊重し合っているのが感じられて、こちらまで嬉しくなったものだ。
 縁側で並んで茶を飲んでいる彼らを幾度となく見てきたが、短刀が挙動不審になっている瞬間に遭遇した試しはない。
 本当にどきどきしているのか疑っていたら、気取った短刀が首を竦めた。
「余裕ぶって見えるかもしれませんが、これでも結構、必死なんですよ」
「とても、信じられません」
「鶯丸様は、だって。いつも突拍子無いですから」
「あ、ああ……」
 古備前の太刀は、爺を自称する三日月宗近と並んで、独特の雰囲気があった。常に自分の調子を崩さず、他と歩調を合わせもせず、我が道を真っ直ぐ突き進んでした。
 常識外れな面が多々あって、博学かと思えば、基本的なことを知らなかったり。その度に短刀は驚かされ、新鮮な気持ちになり、不思議と心が騒いだ。
 前触れもなく、唐突に思いつきで行動するので、ついていくだけでも大変だ。思考を先回りするのが難しく、だからこそ一緒にいて、楽しかった。
 粟田口の兄弟間では決して出ない発想が連発して、少しも飽きない。
 日々新しい発見に溢れており、退屈している暇がなかった。
「それは、とても。楽しそうです」
 指折り数えて説明する平野藤四郎の顔は緩み、心の襞が綻んでいるのが伝わってきた。
 聞いているだけでほっこり温かな気持ちになって、羨ましさが膨らんでいく。
 感嘆の息とともに感想を述べた前田藤四郎に、彼を良く知る短刀は目を眇めた。
「前田は、どうですか。大典太さんと一緒の時、僕には、前田がとても眩しく見えます」
「ええ、そんなことは」
 水を向けられて、おかっぱ頭の少年は悲鳴のような声を上げた。首を横に振って髪を膨らませて、心当たりを探して眉を顰めた。
 大典太光世は、とにかく世話がかかる男だ。鶯丸もそうだが、あれとは少々意味合いが異なった。
 根暗で、物事をなんでも悪い方向に考えたがる。すべて自分が悪いのだと言わんばかりに卑屈に構え、他者と距離を取りたがった。
 誰も気にしないような些細なことを、いつまでも引きずる。明石国行とは別の理由で、色々とやる気がない。
 真面目なのだが、その真面目さ故に、己の置かれた状況を正しく理解していた。求められておきながら、蔵の隅に追いやられていた過去を引きずって、いつか見放されるのではないかと、常に怯えている節がある。
 本丸にいる仲間たちに――前田藤四郎にも、そのうち愛想を尽かされてしまうのでは、と。
 前田藤四郎は、それが哀しい。
 だから信じて欲しくて、躍起になった。あれこれ構い倒して、蔵の外はとても素晴らしいのだと、懸命に伝えようとした。
 必死だった。
 たとえ少しずつでも、太刀の心が解れていくのが感じられて、嬉しかった。
 楽しかった。
 彼を笑顔に出来た、自分が誇らしかった。
「……そう、なんでしょうか」
 そんな自分が、周囲からどういう風に映っていたか、考えたことなどなかった。
 客観的な感想を述べられて、照れ臭い。しかし決して不快ではないし、そう言ってもらえて心強かった。
「前田、思うのです。なぜ主君は、僕たちに、なにかを『愛しい』と思う心をお与えになったのか」
「いとしい、ですか?」
「ええ。これは、とても不思議な感情です。先も言いましたが、主君に尽くす為だけに僕らが在るのであれば、忠義の心さえあれば、それで良かったはずなんです」
 刀剣男士は、刀の付喪神。
 その性格は、歴々の持ち主に依存する。ほかにも置かれた環境や、目的や、刀を取り巻いていた様々な願いや祈りが、主の願いを叶えたい、という根幹部分に絡みついていた。
 そう、それだけなら、なにも問題は起きなかった。
 だのにどういう不具合なのか、刀剣男子には不要な感情が付与されていた。忠節に基づく情報だけが付随していたなら、彼らが迷い、悩み、煩悶としながら日々を過ごすことはなかったはずだ。
 特定の刀相手に手を伸ばすのを躊躇し、肩と肩が触れ合うだけでも喜ばしく感じるのは、審神者への忠義心と別のものだ。歴史修正主義者を屠るためだけに彼らが存在するなら、本来必要たりえないものだった。
 しかし現に、この感情は存在する。
 それは彼らそれぞれの胸に宿り、彼らを動かす原動力のひとつとなっていた。
「いち兄を尊敬する気持ちも、です。僕たちはいち兄を、僕たちを率いるひと振りの刀、として見ていない。違いますか」
「言われてみれば」
 一期一振が傷を負えば哀しいし、心配になる。だから怪我をして欲しくないし、無事出陣から帰ってきたら嬉しかった。
 彼に沢山構って欲しくて、気に掛けて欲しい。反面、叱られると辛い。時に反発したくなり、落ち込んでいるのを見ると、元気付けたくなった。
 単に彼を長兄として敬うだけなら、説教に反論せず、どんな不条理だって黙って受け入れていた。けれど現実は、そうではない。彼が好きだからこそ、間違った考え方をして欲しくなくて、嫌われる覚悟で意見したことだってあった。
 そんなこと、深く考えたことがなかった。当たり前として受け止めており、一度も疑わなかった。
 平野藤四郎に言われなければ、この先も気に留めずに過ごしていただろう。
 目から鱗が落ちて、驚嘆が隠せない。
「平野は、すごいですね」
「いいえ。これは、鶯丸様の受け売りなんです」
「鶯丸さんの?」
「僕たちは、不要なものを持ちすぎている、と」
 陽の当たる縁側で、いつものように茶を飲みながら寛いでいた時の会話だろうか。
 当時を思い出しながら、湯飲みを持つ仕草をした平野藤四郎を眺めて、前田藤四郎は緩慢に頷いた。
 不要なものとはなにか、を考えて、真っ先に思い浮かんだのはこの身体だった。
 刀を握り、敵と戦う為には器がいる。概念でしかない付喪神を宿すのは、時の政府と審神者が用意した、人に似せて作った現身だった。
 各刀の特性に合わせて設計されており、外見には個性が顕著に表れた。だがそれは必要な部分であり、特に問題視しなかった。
 気になったのは、その再現性だ。
 人に似せるのは構わないが、似せ過ぎなのだ。一日最低三食必要で、一日の三分の一近い睡眠時間が欠かせない。傷を負えば血が流れ、痛みが生じ、身動きが取れなくなった。
 刀をただの武器として扱うには、あまりにも効率が悪すぎる。だのに審神者は、これを改めようとしない。
 なぜなのか。
「鶯丸さんは、なんと?」
「不要と思うから、不要に感じる。必要とされたから与えられたのだと、そう思えば良い、だそうです」
「は、あ」
 興味を惹かれ、前田藤四郎は前のめりになった。だが得られた回答は、禅問答か、と言いたくなるものだった。
 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、ぽかんと目を丸くする。
 そんな間抜け顔を笑って、平野藤四郎は空中に円を描いた。
「僕は、繋がりを作るためなのだと、思います」
「繋がり」
「ええ。僕たちは、ひと振りずつでは弱いです。けれど隊を組み、仲間を信頼することで、本来持ち得る以上の強さを発揮します。それは、前田も、覚えがあるでしょう」
「はい」
 最初に描かれた円の隣に、もうひとつ円が描かれた。
 一部が重なり、交わった部分がある。そこを指し示し、平野藤四郎は言葉を続けた。
「もし僕たちが、主君への忠義心ひとつで行動していたら。勿論、必要とあれば共闘しますが、仲間内へ向ける視線は、疎かになりがちです」
「……はい」
 彼を真似て、前田藤四郎も縁側の床板に指を走らせた。いくつも、いくつもの円を並べて、思い出したのは顕現した直後での戦闘だった。
 勝手が分からず、目の前の敵を相手にするだけで精いっぱいだった。周囲を気にする余裕がなくて、同じく初陣だった秋田藤四郎が深手を負ったのに気付いてやれなかった。
 あの時は、人の身で活動するのに慣れていなかった。
 だが果たして、それだけが理由だろうか。
 本丸で邂逅した短刀と、兄弟だと言われても、すぐにはぴんと来なかった。意思疎通が果たせていたとは、とても言えなかった。
 今は違う。
 きっと前より上手く立ち回れるに違いない。
「不要だけれど、必要な、もの」
 ここで暮らしていくうちに、芽生えたもの。もしかしたら最初からあったのかもしれないが、気付かずに見過ごしていたもの。
 少し分かった気がして、前田藤四郎は顔を上げた。
 目が合った平野藤四郎と頷きあって、湧き起こる興奮に頬を紅潮させた。
「いち兄は、僕たち兄弟を、平等に慈しんでくれています。贔屓せず、不公平にならないように。でも時々、それでは満足できないことが、あるでしょう?」
「あります。でも、それはいけないことだと思って、ずっと我慢してきました」
「僕もです。そして、いち兄では、頑張れば我慢出来てしまうんです」
「では、鶯丸さんでは?」
 思い当たる節がぼろぼろ出て来て、堰が切れたように早口になった。お互い距離を詰め、額を小突き合わせ、うんうん頷き合って興奮を高めた。
 そうして話が盛り上がり、最高潮に達しようかというところで。
 質問を受けた平野藤四郎が、不意に黙り込んだ。
 勢いのまま問いかけた前田藤四郎は、訊ねた瞬間凍り付いた短刀に首を捻った。
 てっきり即答されると思っていただけに、意外だ。
 怪訝に思って返事を待っていたら、黙り込んだ少年の顔が、下からじわじわ赤らみ始めた。
 耳の先まで真っ赤に染めて、両手で額から目元を覆い隠した。鼻と口元は外し、気道だけは確保して、俯き、背中を丸めて小さくなった。
「それは、訊かないでください」
 猫の子のように身体を捩った短刀が、蚊の鳴く小声で訴えた。
 羞恥に襲われて、今すぐにでも消えてしまいたい衝動に駆られている。いったい彼が何を思い浮かべているのか、前田藤四郎には皆目見当がつかなかった。
「平野。平野?」
「嫌です。思い出させないでください。あんな、あんな、情けない……」
 心配になって呼びかければ、地の底から響くような呻き声が聞こえた。
 両耳を塞いで嫌々と首を振る姿は異様で、過去に類を見ない光景だった。
 彼と鶯丸の間に、どのような事が起きたのだろう。非常に気になるものの、追及するのも可哀想に思えて、好奇心と良心の天秤はぐるぐると回り続けた。
 最終的に、辛うじて良心が勝った。
 いつか平野藤四郎の方から語り聞かせてくれるのを期待して、胸の中の宝箱にそっと仕舞い込む。
「と、とにかく。僕たちは、いち兄の前では良き弟であろうと振る舞っていますが」
 そのまま黙って彼の復活を待っていたら、気を取り直すかのように、咳払いが聞こえた。
 実に強引な話題の転換に、苦笑しつつも頷いて、前田藤四郎は己の気持ちを噛み締めた。
「分かります。とても……とても、よく」
 俯き、己の指先をじっと見る。五つ並んだ小さな爪は、どれも綺麗な卵形をしていた。
 大典太光世の爪は、これと随分違っていた。横に幅が広く、短い。指先の大部分を占めており、厚みも短刀の倍近くあった。
 深爪気味で、指自体も肉厚だ。掌はごつごつしており、肌触りは決して良くない。
 だのにあの手が、心地よかった。伝わって来る少し低めの熱が嬉しくて、ずっと触れていたかった。
 一期一振には、そんな風に思わない。褒められ、頭を撫でられるのは好きだけれど、一刻以上そうされたいかと訊かれたら、微妙な顔をしなければならなかった。
 大典太光世相手だと、前田藤四郎は我が儘になった。
 聞き分けが良い素振りを見せながら、一方で頑なだった。
 彼が、好きだ。
 けれど審神者への忠義が邪魔をして、彼をそう思うのがいけないことだと感じ、距離を取った。
 一時の気の迷いと断じ、離れていればいずれ冷めると信じた。
 試みは、上手く行かなかった。
 向こうから近付いて来ようとするから、逃げるような素振りになってしまった。それで太刀が落ち込む姿が目に入って、苦しくてならなかった。
 ここで折れてはいけないと、心を鬼にして頑張った。なるべく目に入れないようにして、顔を合わさずに済むよう行動した。
 そうしたら今度は、信濃藤四郎や愛染国俊たちが、喧嘩でもしたのかと話しかけて来た。
 違うのに、事情を説明出来なくて、だんまりを決め込むしかなかった。逃げ回り、ひとりになろうとして、ここにはそんな場所がどこにもないと思い知った。
 取るもの手につかず、ぼんやりする時間が増えた。その間も胸を過ぎるのは、大典太光世の顔と、審神者への罪の意識だった。
 時間遡行軍を滅するという使命を全う出来ていないのに、余所事にうつつを抜かして良いはずがない。
 自分がこんな状態であると知れば、審神者もきっと幻滅するに決まっている。
「いい、ので……しょうか」
「前田」
「こんな、中途半端な気持ちでいて」
 平野藤四郎と喋ったことで、幾分気が楽になった。
 間違っていないと背中を押されて、ほっとした。
 だが心が完全に晴れたとは言い難い。審神者への裏切りではないか、との思いが未だ燻り、身動きが取れなくなっていた。
「では、中途半端でなくなれば良いのです」
 自縄自縛に陥っている前田藤四郎に、平野藤四郎は至極あっさり言い切った。
 妙案だと言わんばかりに、血色の良い顔で囁かれた。両手を胸の前で叩き合わせて、他に方法はない、とにっこり微笑んだ。
 それが出来ないから悩んでいるのに、予想の斜め上の返答を受け、返す言葉が見つからない。
 変なところで鶯丸に似て来たのではないか。内心毒づいていたら、彼は重ねた両手を解き、人差し指を突き付けて来た。
「いいですか、前田。僕は、主君に忠誠を誓いました。その命に従い、必ずや敵を討ち果たしてみせると。そして鶯丸様とも、約束しました。何があっても、必ず帰ってくると」
 途中で引いた手を胸に当て、勇ましく宣言する。
 圧倒されてぽかんとしている兄弟を見下ろして、平野藤四郎はやがて、気の抜けた笑みを浮かべた。
「鶯丸様も、僕に。約束、してくださいました」
 照れ臭そうにはにかむ表情は、どこかぎこちない。
 これまで数多い兄弟に向けて来たものとは異なる笑顔を浮かべて、彼は白い歯を輝かせた。
 眩しい、と前田藤四郎は思った。
 彼はこんな風にも笑う刀だったのだと教えられて、驚き、同時に心強く思った。
「平野は、鶯丸さんが、本当に好きなんですね」
「改めて言われると、恥ずかしいです」
 自分は彼のように胸を張り、大典太光世が好きだと宣言出来るだろうか。
 口では照れると言いながら、平野藤四郎は前を向いたままだ。笑顔を崩さず、堂々としていた。
 己が抱く感情を、誇りに思っているのが伝わってきた。
 こんな風になりたいと思った。
 彼のようにならねば、と思った。
 きらきらと、光が溢れていた。日差しは弱いのに、平野藤四郎の周辺だけが不思議と明るく見えた。
「誰かを好きになるのが、悪いこととは思いません。だって、大切な人が増えれば増えるほど、力が湧いてくるのです」
 刀剣男士は、何故武器を手に戦うのか。
 それが使命だから、と言えば簡単だ。けれどそれだけなら、心などいらない。命じられたまま動く人形を用意すれば良いだけで、付喪神に現身を与えるような手間は省けたはずだ。
 だのに審神者は、そうしなかった。刀剣男士に、自身で考える力を与えた。戦う理由、意味、それらを自分で探し、答えを導き出すよう促した。
 平野藤四郎が出した結論は、至極明快だ。
 戦うのは、守りたいと思うものがあるから。
 自らを見い出してくれた審神者、自らが辿って来た歴史。信念を持って戦い、生き抜いたかつての主たちの歩み。そして、背中を預けられる仲間たち。
 守りたいものがあるから、奮起する。強敵と相対しても怯まず、果敢に挑んでいける。
 誇りに思う相手がいるから、自分を保っていられる。情けない姿を見せないために、己を鼓舞して闘える。
 笑って欲しいから、哀しい気持ちもぐっと堪えられる。
 でも泣きたい時だってたまにはあるから、その時は一緒に涙するか、背中を優しく撫でて欲しい。
 真っ直ぐ自分を見て欲しい。
 気取らず、飾らず。ありのままの自分を見て、そしてごく稀に格好つけたくなった時は、笑わずに頷いて欲しい。
「……素敵です」
「いいえ。僕など、まだまだです」
 思いの丈をぶつけて、平野藤四郎がはにかむ。
 ほんのり頬を朱に染めて、彼は自分に良く似た短刀の額に、己の額を重ねた。
 コツン、と骨をぶつけ、吐息が掠れる距離から眼を覗きこんだ。
「前田、手を離してはいけません。僕たちの存在は、とてもあやふやで、明日どうなるかは誰にも分かりません。失いたくないと願うなら、絶対に、掴み続けてください」
 今日と同じように、明日も東から陽が昇ると、どうして言い切れるだろう。
 昨日まで当たり前のように隣にいた相手が、明日も隣にいてくれると、誰が保証できるだろう。
「平野」
 声を潜め、けれど一言一句噛み締めるように囁く。
 そのすべてを心に刻んで、前田藤四郎は無意識に拳を作った。
 急に変わった声色に、嫌な予感が背筋を伝った。緊迫した空気に心が震えて、口を開こうとした矢先だった。
「大典太様が、今朝から。蔵に籠もられているそうです」
 平野藤四郎がひと息で告げた。
 信濃藤四郎から託された願いを、瞠目する少年に伝えた。
「え……?」
 予想だにしていなかった情報に、前田藤四郎が言葉を失い凍り付く。
 やはり知らなかったか、と内心毒づいて、重責を全うした短刀は力なく肩を落とした。
 自分自身のことに必死で、周りが見えていなかったのだろう。視野が狭くなり、大典太光世の姿さえ、彼の目に映っていなかった。
 伝え聞いた話でしかないけれど、この数日、前田藤四郎はあの太刀を避けていた。向こうから話しかけられても余所余所しく接し、会話を途中で切り上げて逃げる真似を繰り返した。
 そんな態度を見せられて、大典太光世がなにも感じないとでも思ったか。
 天下五剣の中でも際立って繊細な男が、傷つかないとでも思っていたのか。
 前田藤四郎の軽率さに腹が立ったし、肝心の時に傍にいてやれなかった自分にも腹が立った。審神者の命令なのだから止むを得なかったとはいえ、もっと注意を払っておくべきだったと、平野藤四郎は浅く唇を噛んだ。
 太腿に爪を突き立て、悔しさを堪える。
 衝動的に怒鳴りたくなったのを必死に抑えて、平野藤四郎は深呼吸を繰り返した。
「それは、本当ですか」
「ええ。先ほど、信濃兄さんから」
 ここで感情を剥き出しにしても、良いことはひとつもない。
 努めて冷静を保ち、淡々と答え、彼は青褪めた兄弟の手を握った。
 手の甲に掌を重ね、緩く力を込めた。一番衝撃を受けているのはこの短刀なのだ、と自身に言い聞かせて、決断を促した。
「朝から、一切、食事を口にしていないそうです。いいえ、信濃兄さんが確認出来ていないだけで、もっと前からなのかもしれません。蔵に入られた時間は分かりませんが、朝餉の時間には既に」
 愛染国俊や、ソハヤノツルキも注意を払っていたようだが、防げなかった。
 もとから自己評価が低く、自虐的な傾向が強い刀だ。その上心を寄せた短刀にすら冷たく扱われたら、いったいどうなるか。
 最悪の展開にさえなりかねないと、言葉尻に含ませた。
 長く蔵に封じられ、鳥の歌を聞くことすらままならなかった太刀は、今、屋敷の食糧貯蔵庫の奥にいる。白壁の、泥臭い空間に閉じこもり、内側から閂を掛けて他者との接触を拒んでいた。
 扉を力技で破壊するわけにもいかず、手が付けられない。
 蔵の中には米や麦、酒といったものが備蓄されており、天岩戸の解放は急務だった。
「そんな……」
「前田のせいではありません。ですが、前田がひとりで思い悩んでいた間、大典太様も同様に悩んでいたのだと、分かってください」
 大典太光世が蔵に入ったのは、彼自身の判断だ。決して誰かにそそのかされたわけではない。
 だがそうしなければならない事態に至らせたのは、前田藤四郎だ。
 きちんと彼と向き合っていれば、こうはならなかった。悶々とした時間を過ごすことなく、正面切って話をしていれば、もっと早く解決方法が見いだせていたかもしれない。
 言い出せばきりがなく、過ぎた話を今更どうこう言ったところで意味はない。
「大典太さんが」
「しっかりなさい、前田。落ち込んでいる場合ですか」
 衝撃を受けて唇を戦慄かせた短刀を叱って、平野藤四郎は握りしめた手を振り回した。
 薄暗く、深い場所へ沈みゆこうとする彼の意識を強引に浮上させ、吼えた。ハッとなった兄弟を睨みつけて、腑抜けた表情に活を入れた。
「いっ……!」
 ぱしん、と頬を左右から叩かれた。
 痛みよりも、打たれたこと自体に驚いて、前田藤四郎は色が抜けかけていた瞳をぱちくりさせた。
 見開いた双眸に、悔しげな兄弟の顔が大きく映った。下唇を咥内に巻き込んで、溢れ出る感情を懸命に堰き止めていた。
 平野藤四郎だって、大典太光世と少なからず縁がある。同じ屋敷で世話になり、壁越しだったとはいえ、幾度となく言葉を交わしてきた。
 出来るものなら、自分が彼を蔵から引きずり出したいと思っている。今すぐにでも駆けつけて、扉を叩き、早く出てくるよう訴えたかった。
 けれどそれをすべき存在は、他にいる。
 だから自らは引き下がり、譲ろうとしていた。
 口ほどにものを言う眼差しが、鋭く胸に突き刺さった。見詰め合ったまま頷かれて、前田藤四郎は惚けて開きっ放しだった口を閉じた。
 奥歯を噛み、頷き返した。
「行ってきます!」
 そうだ、落ち込んでいる暇などない。
 一秒でも早く、大典太光世に伝えなければ。
 立ち上がり、駆け出した。靴下のまま中庭に飛び降りて、外套を翻して風を切った。
 あれだけグタグタ悩んでいたのが嘘のように、目の前がすっきり晴れて見えた。光あふれる世界がそこに広がって、自分たちを出迎えていた。
 一介の付喪神でしかなかった頃、前田藤四郎は蔵の中に入れなかった。厳重に封印が施されていたし、それでもなお滲み出る大典太光世の霊力が、短刀の存在そのものを消し去ってしまう危険があったからだ。
 だが今は、違う。
 大典太光世の霊力の大半は、刀身の方に残された。現身が宿す霊力もまた、内側に厳重に封じられていた。
 本丸の蔵には結界など存在せず、誰もが自由に出入りできた。正面の入り口が閂で閉ざされていようとも、天井高い位置に設けられた明かり取りの窓は、どうだろう。
 小柄な短刀の身体ならば、潜り抜けるのは容易だ。
「大典太さん……大典太さん!」
 早くも心は太刀の元へ向かい、彼の瞳には大典太光世しか映らない。
 一目散に突き進む背中を見送って、平野藤四郎は安堵の息を吐いた。
 尻から縁側にへたり込み、どさくさに紛れて随分恥ずかしいことを口にした、と赤みを残す頬を捏ねた。
「いやあ、素晴らしい名演説だったな」
「ひっ」
 と、そこで急な拍手が響き渡り、彼は顔を引き攣らせて竦み上がった。
 ビクッとなって背筋を伸ばし、仰々しく振り返る。
 奥歯をカタカタ言わせながら瞠目した少年に、赤地に黒を織り交ぜた衣装の男が笑いかけた。両手をぱちぱち叩き合わせ、朗らかに目を細めた。
「さすがは平野、俺が見込んだだけのことはある。実に良いことを言う」
 額に垂れ下がった前髪ひと房を揺らし、愕然としている平野藤四郎を褒め称える。
 だが短刀は、合いの手を返すのも忘れて喉を引き攣らせた。驚愕に硬直し、瞬きを繰り返した。
「い、い、……いつから!」
「ん?」
「いつから、そこに。いらっしゃったんですか、鶯丸様!」
 ここは短刀の私室が集められた区画で、粟田口派が集団生活を送る大部屋だ。夜になれば布団で埋め尽くされ、足の踏み場もないくらいだった。
 但し今は、がらんどうに近い。一部が出陣し、一部は遠征に出て、一部は畑仕事を手伝い、一部は母屋でのんびり過ごしていた。
 そんな広々とした座敷の真ん中近くに、男がひと振り、立っていた。古備前の太刀で、その姿は天下五剣に劣らない美しさだった。
 性格は飄々として、掴みどころがない。どんな時でも自分というものを崩さず、危機的状況であっても焦らない、図太い神経の持ち主でもあった。
「いつからと言われても、困るな。そうか、俺はそんなに突拍子ないか」
「っ!」
 顔面から火が噴き出そうな短刀を笑い飛ばし、鶯丸が両手を腰に当てた。
 からからと声を響かせる太刀の台詞に跳び上がって、平野藤四郎は右往左往しながら目を潤ませた。
「い、いえ。あの。あの。鶯丸様、あの――」
 足元から震えが来て、カーッと熱が広がっていく。過去類を見ない羞恥心に支配されて、生真面目で知られる少年は狼狽し、のた打ち回った。
 現在地を忘れて後退を図り、縁側の端から見事に滑り落ちた。
 必死の弁解が途切れ、最後まで言えなかった。急に視界が変化して、青い空が見えたと思ったら腰と背中に衝撃が走った。
「平野!」
 昼間なのに星が見えて、目の前が真っ暗になった。一瞬遠ざかった聴覚を引き裂き、鶯丸の甲高い悲鳴が聞こえた。
 大抵のことは受け流し、動揺すらしない男が、どうして。
 不思議に思って目を開ければ、縁側から身を乗り出した太刀の顔が見えた。緊張で強張っていたのが瞬時に緩んで、案外大きくて逞しい手が差し出された。
「平野は、俺を驚かせる天才だな。心臓が止まったかと思ったぞ」
「鶯丸様、僕は」
 大きな怪我がないのを確認して、引っ張り上げられた。途中から左腕も使って掬い上げられて、平野藤四郎は間近に来た男の顔をまじまじと見つめ返した。
「なに、長期間の遠征の褒美だと、主からかすていらなるものを貰った。茶を煎れてはくれないか、平野」
 そんな彼に相好を崩し、鶯丸が言った。背中や肩を軽く叩き、土汚れを払い落として、最後に栗色の髪を撫でた。
 切りそろえられた前髪をわざとくしゃくしゃにして、嫌がって身を捩った短刀を追いかけなかった。
 中途半端なところで話題が途切れたが、自分から蒸し返すのも恥ずかしい。都合よく向こうが別の話を振って来たのに乗じて、平野藤四郎は肩を竦めた。
 しばらくゆっくりする間がなかったので、この台詞を聞くのは久しぶりだった。
「そのかすていらですが、どれくらいの量、ありますか」
「腹いっぱいになるくらいだ」
「でしたら、前田と大典太様にも、よろしいでしょうか」
「俺は構わないぞ。平野が煎れる茶は美味いからな。楽しみだ」
「お褒め頂き、光栄です」
 茶の支度が調う頃には、蔵の扉も開いているに違いない。
 少し先の未来が見えた。嬉しさから破顔一笑して、平野藤四郎は台所を目指して歩き始めた。

わが恋は知らぬ山路にあらなくに まどふ心ぞわびしかりける
古今和歌集 恋2 597

2017/06/03 脱稿

深き流れと ならんとすらん

 からっと晴れた、気持ちのいい天気だった。
 空は青く、とても高い。羊の群れのような雲が北側に広がって、太陽は眩しく地表を照らしていた。
 ほどほどの暖かさで、日向でじっとしていると眠くなる。動けば汗ばむ陽気ながら、だらだら流れ続けることはなかった。
 ほんの数ヶ月で、驚くほどの変化だ。ぼんやりしていたら季節に置いて行かれると、前田藤四郎は額を拭って微笑んだ。
 左手には、竹箒が握られていた。足元には集めた枯葉や松ぼっくりが山を成し、塵取りで回収されるのを待っていた。
 誰が捨てたのか、破れた布きれらしきものに、汚れが酷い紐が絡まっていた。
 これは洗っても使えないし、使い道がない。元がどういう形をしていたのかも、全く想像出来なかった。
 残念だが、捨てるしかない。畑の片隅に設けられた焼却炉を思い浮かべて、屑入れとして使用している背負い籠を振り返る。
「前田?」
 塵取りを取りに行こうとして、一歩踏み出そうとした時だ。
 左後方から声がかかって、彼は慌てて首をそちらに向けた。
「大典太さん」
 聞き慣れた声色に相好を崩し、右足の踵を地面に戻した。そのまま身体ごと向き直って、前田藤四郎は近付いてくる人影に目を細めた。
 ザリ、と砂利を踏む音がして、乾いた地面に濃い影が落ちた。爪先が出ている草履を履いた男を下から上へと眺めて、粟田口の短刀は箒を両手で握り直した。
 大典太光世は漆黒の髪をひとつにまとめ、額を大胆に曝していた。
 衿のない、動き易い服装をして、上着は邪魔なのか、腰に巻きつけている。袖を肘の辺りまで捲っており、肉厚で骨太な腕が露出していた。
 衣装は黒を基調に統一されており、反面肌は蝋のように白い。青みがかり、不健康そうに見えるのは、長く蔵に封印されていた影響だろう。
 但し実際の彼は、そこまで柔ではない。武に秀でて、本丸でも力自慢の部類に入った。
 先日も隊を率い、見事時間遡行軍を討ち取ったという。
 武勲を上げ、審神者から誉を与えられたのが、前田藤四郎も誇らしかった。
 そんな天下五剣のひと振り、大典太光世は、目下馬当番の真っ最中だった。
 腕まくりも、その一環だ。動物に忌避される性分故に、馬の世話は兄弟刀のソハヤノツルキに任せて、厩の掃除に明け暮れているようだった。
 右手にぶら下げた手桶には、綺麗な水が波を打っていた。近場の水路から汲んできたばかりらしく、地面には点々と水の痕が散っていた。
「順調ですか?」
 縁ぎりぎりまで汲んであるので、多少零れても問題ない。太刀らしい豪快さを垣間見て、前田藤四郎は微笑んだ。
「ああ。お前も、……掃除か」
「はい」
 にこやかな笑顔を向ければ、一見無愛想な男は頬を緩めた。低く、重量のある声で囁いて、厩と屋敷を繋ぐ一帯を見回した。
 屋外なので、どうせ明日になればまた木の葉が積もるのは分かっている。かといって放置していたら、歩くのに邪魔だった。
 ある程度往来がある場所なので、綺麗にしておくに越したことはない。決して無駄ではないのだと胸を張り、短刀は竹箒で地面を打った。
「お屋敷も、馬小屋も。ピカピカなのが一番ですから」
 烏さえ停まらぬ蔵の主は、強すぎる霊力により獣に畏れられている。だが彼自身は、動物を毛嫌いしているわけではなかった。
 毛並みを梳いて整えてはやれないけれど、馬が多くの時を過ごす厩の手入れには熱心だ。床を磨き、飼葉を新しくして、飲み水も冷たく澄んだものに入れ替えている。
 他の刀ならどこかで手を抜くのに、この男は誠心誠意をもって励んでいた。
 だから自分も、負けていられない。
 鼻息荒くして宣言した前田藤四郎を見下ろして、大典太光世は数秒挟んで破顔一笑した。
「そうだな」
 微妙な間が気になったが、同意を得られたのは素直に嬉しい。
 胸の辺りがくすぐったくて、粟田口の短刀は気恥ずかしさに頬を緩めた。
 この後、きっと大きな手で頭を撫でられる。
 彼との会話の後は、それが半ば約束事だった。
「……大典太さん?」
 ところが今日は、いつまで待っても撫でて貰えない。太くごつごつした指で髪を掻き回されるのを期待したのに、大柄な太刀はなかなか動かなかった。
 怪訝に思い、首を捻った。落胆を隠さぬ眼差しで見つめれば、男は困った顔で手を開いた。
「今は、汚いからな」
 彼自身も、途中までそのつもりでいたらしい。中空に漂う手は行き場を失い、半端に握りしめられていた。
 直接触れてはいないけれど、馬糞も扱った。肥料に使うからと桶に集めて、小屋の外に運んであった。
 水汲みの際に軽く洗ったけれど、ごしごし擦ったわけではないので、清潔とは言い難い。そんな不浄の手で短刀に触れるべきではないと、表情が物語っていた。
 躊躇して、ふたつの瞳が辺りを彷徨う。
 結局太刀は胸元に手を戻し、前田藤四郎に触れるのを諦めてしまった。
「そんな。僕は、気にしません」
「いや、そういうわけにはいかない」
 さっと背中に隠されて、短刀は悲鳴のような声をあげた。一歩踏み出して距離を詰め、強情な太刀に唇を噛んだ。
 ここでこうして掃除をしていたのだって、彼と話が出来るのを期待してのことだ。願いはひとつ叶ったけれど、満足出来るものではなくて、悔しいし、腹立たしかった。
 蔵の中と外という環境ではなく、好きな時に好きなだけ会いに行けるようになった。それだけでも充分贅沢なのに、いつの間にかこの状況に慣れてしまった。
 際限なく欲しがっていると自覚しながらも、抑えきれない。箍が外れ、制御が利かなくて、前田藤四郎は苛立つ自分にも腹を立てた。
 冷たい竹箒をぎゅっと握って、細い穂先を地面へと押し付ける。
 乾いた地面に無数の筋が走ったが、箒が揺れた途端、それはあっさり掻き消えた。
 埃が舞い上がり、すぐに沈んだ。ざっ、ざっ、と硬い音が何度か繰り返されて、大典太光世は眉間の皺を深くした。
「少し、待ってくれ」
「大典太さん?」
 苦悩を顔に出し、唇を真一文字に引き結んでいた。控えめな音量で囁いた彼は手桶を下ろし、荒波を打つ水面に向かって、やおら両手を突き刺した。
 掌を重ねて、じゃぶじゃぶと水を掻き回した。冷たい飛沫を大量に散らして、足が濡れるのも厭わなかった。
 突然の行動に驚き、前田藤四郎は目を丸くした。吃驚して身を乗り出して、丹念に手を洗う男に騒然となった。
「いえ、そんな」
 確かに触れて欲しいと願いはしたが、それは単なる我が儘だ。折角汲んできた水を、自分の為に使われるのは不本意だった。
 大人しく引き下がるべきだったのに、傲慢になっていた。己の狭量さが哀しくて、慌てて止めに走るが、無駄だった。
「これで、良い」
 指の股や爪の間も念入りに磨いて、大典太光世は両手を水から引き抜いた。何度か振り回して水滴を払い、残った分は腰に巻いた上着に擦り付けた。
 皺の間に残る水気さえ取り除き、満足そうに頷いてから、改めて腕を伸ばす。
「大典田さん……」
 そこまで気にしなくても良いのに、徹底している。強情な男に少し呆れて、前田藤四郎は自分から近付いて行った。
 残っていた距離を詰め、首を伸ばし、頬を差し出した。意図を汲み取り、男は親指以外の四本を揃えると、洗い立ての掌で柔らかな頬を包み込んだ。
「っ!」
 ただ、触れられた瞬間は、びくっとなった。
 氷とまではいかないけれど、首を竦めるに足る冷たさに、前田藤四郎は顔を引き攣らせた。
「すまない。冷たかったか」
 大典太光世にもそれが伝わったようで、太刀は急ぎ手を引こうとした。しかしそれより早く、短刀としての俊敏さを発揮して、彼は長兄よりも大きな手を押さえ付けた。
 甲の上に掌を重ね、逃げられないよう圧迫した。勿論力技で来られたら防ぎ切れないが、突如落ちて来た微熱に驚き、大典太光世は動きを止めて凍り付いた。
 下手に動けば、前田藤四郎を傷つける。それを恐れてもいたのだろう。
 二度、三度と深呼吸を積み重ねて、三池の刀はコクリと喉を上下させた。
 短い間隔で息を吐き、吸って、短刀の真意を探って唇を引き結んだ。若干怯えている風にも映って、多くの兄弟刀を持つ少年は目を眇めた。
「こうすれば、ほら」
 汚さないよう、傷つけないよう、冷たい水に耐えて洗ってくれた気遣いが嬉しかった。
 そんなもの必要ない、と言うのは簡単だ。けれど肝心の大典太光世がそれを許し、受け入れるには時間がかかるだろう。
 ならばそれまで待つと決めて、相好を崩した。
 自分の為に手間を惜しまなかった男への感謝を、違う形で伝えたかった。頬と掌で挟んで温めてやりながら、前田藤四郎は竹箒を肩に寄り掛からせた。
 埋まっていたもう片手も解放して、惚けている男へと差し出す。
「前田は、あたたかいな」
 思いを察した太刀は小さくはにかみ、残る手も柔らかな頬に寄り添わせた。
 押し潰さないよう力は込めず、そっと重ねるだけに済ませた。前田藤四郎の手は小さくて、とても大典太光世の甲全体を覆えないけれど、温もりはじんわり広がっていった。
「僕は、懐に入るのが仕事ですので」
 率直で、飾り気のない感想に、当たり前だと笑って返す。
 主君の腹を冷やさないのも守り刀の務めだと冗談を言えば、そういうものに疎い刀は真顔で目を丸くした。
「そうなのか?」
「あはは」
 真剣な表情で問い返されて、笑うより他にない。
 いくら吉光の刀でも、懐炉代わりは無理だ。きちんと訂正し、戯れを言ったのを詫びて、前田藤四郎は水仕事で荒れ気味の肌を撫でた。
 後で軟膏を差し入れた方が良いだろうか。何事も真に受けて、疑わずに信じてしまう点も、問題がある。
 長い間蔵に引き籠っていた影響で、大典太光世は世事に疎い。本丸には冗談ばかり言い、皆を煙に巻く刀がそれなりに存在するので、うっかり騙されないか心配だった。
 鶴丸国永や鶯丸、髭切辺りが、特に危ない。
 三日月宗近も浮世離れしたところがあるし、数珠丸恒次などは更に何を考えているか分からなかった。
 同じ天下五剣に括りに入るから、大典太光世はその辺りと行動を共にする機会が多かった。不要な知識を与えられ、純粋無垢に信じ込んでしまわないか、想像すると胃の辺りがキリキリした。
 ならば自分が、しっかり彼を支え、導いてやらなければ。
 心の中で誓いを新たにして、前田藤四郎は頬を緩めた。掃除が終わった後も、会いに行く用事が出来たのを喜んで、分厚い手をきゅっと握りしめた。
「お仕事、頑張ってください」
 名残惜しいが、こうしていてはいつまで経っても掃除が片付かない。
 大典太光世にだって都合はあると戒めて、寂しさを押し殺した。
 昔のように蔵の壁に隔てられているわけではなく、いつでも顔を見に行ける。その幸福を噛み締めて、すっかり温かくなった手を引き剥がした。
 内番に励むよう言われては、流石の太刀も抵抗出来ない。渋々ながら応じて、微笑む短刀にひとつ頷いた。
「また、後で」
「はい」
 代わりに自ら約束を取り付けて、細く繊細な指を撫でた。左の小指をきゅっと抓まれて、前田藤四郎は照れ臭さに首を竦めた。
 これが片付いたら兄である薬研藤四郎に頼み、軟膏を調合してもらおう。平野藤四郎が煎れてくれた茶を飲んで、縁側でのんびり過ごそう。
 昔は思いつきもしなかった楽しみが、ここ最近は次々に溢れていた。こんな日が来るとは思わなくて、一緒に居られるだけで幸せだった。
 この頃お前は大典太光世に付きっ切りだと、長兄に笑われた。鯰尾藤四郎たちは良いのではないのか、と言ってくれたが、信濃藤四郎からは独り占めして狡い、と文句を言われていた。
 そんなつもりはないのだけれど、言われてみれば確かにべったりかもしれない。
 なにせ大典太光世は色々と手のかかる男で、どうしても放っておけなかった。
 ひと振りだけにすればすぐ蔵に戻ろうとするし、一度落ち込むと復活するまでが長い。慰めて、励ましても素直に聞いてくれなかった。
 藤四郎兄弟の中にも厄介な刀はいるが、彼ほどではなかった。時折腹立たしくなって、鬱陶しい奴と匙を投げ、見捨ててしまいたくなる衝動に駆られることもあった。
 けれど、結局手を伸ばしてしまうのだ。
 長く孤独に耐えて来た男の哀しみが分かるから、せめて自分だけでも傍に居てやりたい。
 世界はもっと明るく、美しいのだと、蔵の中しか知らない彼に教えたい。
 自分が、その役を務めたい。
 肩に預けていた竹箒を取り、固い節を爪で掻く。
 大典太光世は遠慮がちに頷くと、地面に置いていた手桶を持ち上げた。
 中身は半分近くまで減り、周囲は水に濡れて湿っていた。そこだけ色が濃くなって、桶があった痕跡をくっきり描き出していた。
 太刀が此処にいた証拠だ。どうせすぐに乾いて、分からなくなってしまうとしても、彼が作り上げたものがそこに在る事実が、不思議と心地良かった。
 これは箒で掃けそうにない。
「困りましたね」
 消してしまうのが勿体なくて、前田藤四郎は自分に苦笑した。可笑しなものだと顔を綻ばせて、長く放置していた木の葉の山に向き直った。
 厩へ向かう男を見守っていたら、仕事に戻れない。自分を奮い立たせて、彼は足元をサッと掃いた。
 気が付けば、いつも大典太光世を探していた。
 ちょっとしたことで気落ちして、暗く沈んでしまう男だから、目が離せない。誰かに冗談を言われ、茶化されて、笑われたのを誤解して泣いていないか、常にはらはらだった。
 あちらも良い大人なのだから、捨て置いても大丈夫だと良く言われる。
 違うのだ。
 そうではないのだ。
 大典太光世がたとえ大丈夫だとしても、前田藤四郎が大丈夫ではないのだ。
 病気のようなものだ、と笑ったのは薬研藤四郎だ。視界に入れていないと落ち着かない気持ちは良く分かると、心当たりがあるのか、言っていた。
 特効薬はない。ただ受け入れ、慣れるしかない。
 一生治らないから覚悟するように、とも言われた。あの時は意味が良く分からなかったが、冷静に己の行動を振り返ると、こういうことか、と納得出来た。
 だがたとえ病気だとしても、悲観することはない。なにせ前田藤四郎は、毎日が楽しくて仕方がないのだから。
「ふふふ」
 掃除が終わる頃には、八つ時を迎えているだろう。
 菓子は短刀一振りにつき一個と決まっているが、大典太光世と分け合うのも悪くなかった。
 喜んでくれるのを期待して、想像して首を竦めた。急に照れ臭くなって身を捩って、竹箒でぐりぐりと地面に穴を掘った。
「――うっ」
 そこに、突然だった。
 これまで終始穏やかだった秋の空に、気まぐれな突風が吹き抜けた。
 ザザザッ、と低い位置を駆け、地表を抉った。周辺に枝を伸ばす木々を一斉に揺らめかせ、藪を震わせて、それは足元から前田藤四郎に襲い掛かった。
 折角集めた木の葉や塵芥を蹴散らし、障害物にぶつかって気流を乱した。ぐうっと仰け反った風はその場で旋回して、巻き上げた細かな粒子と共に渦を描いた。
 逃げる暇もなく、旋風の直撃を受けた。反射的に身を固くし、構えを作って口を閉じたが、状況を把握しようと足掻いた瞳を庇うのだけが一歩遅れてしまった。
「前田?」
 悲鳴は甲高く、遠くまで響いた。
 勢いを弱めた風は、最後の力を振り絞って厩へと一直線に駆けた。背中にぶつかって来た突風に後ろ髪を煽られて、大典太光世は聞こえた声に急ぎ振り返った。
 水桶ごと反転した彼の目に映ったのは、箒を手放し、両手で顔を覆う短刀の姿だった。
 今の風で、目に細かい塵が入った。表層に張り付いて剥がれず、チクチク刺さって痛みが生じていた。
「どうした、前田」
 もっとも大典太光世には、細かい状況が分からない。
 だから桶を捨てて駆け戻り、俯く短刀に問いかけた。
 心配そうに声を高くし、細い肩を掴んだ。軽く前後に揺すって、膝を折って下から覗き込んだ。
 姿勢を低くし、繰り返し名前を呼んだ。だが前田藤四郎は答えず、指の背で頻りに目元を擦るばかりだった。
 瞼を下ろし、その上から睫毛ごと捏ねていた。直接眼球に触れることはないけれど、圧迫し、押し潰さんとしていた。
「やめるんだ、前田」
 軽く曲げた指の関節を使い、素早く何往復もさせていた。このままでは目玉が破裂してしまうと、恐ろしい想像をした太刀は背筋を粟立てた。
 赤らんだ頬は自然と溢れた涙に濡れて、次の雫が目頭に珠を作っていた。何故泣くのか、その理由にもすぐには行き当たらなくて、自分が原因かと大典太光世は青くなった。
「お、俺が。俺の――」
「ちが、い……ます。これは、その。目に、塵が」
 狼狽えて、顔が引き攣った。掴んでいた肩を大急ぎで解放して、しゃがんだまま後ろに下がろうとした。
 それを遮り、前田藤四郎が鼻を愚図らせた。ずび、と音を立てて唾を飲みこんで、真っ赤になった目を瞼から覗かせた。
 風に煽られた塵と、それを追い出そうとする本能がぶつかり合い、戦っていた。結果乱暴にされた眼球の血管が切れたらしく、こうしている間も緋色はじわじわ範囲を広げていた。
 両目ともだが、特に右目が酷い。このままでは失明に、と懸念して、心配性の太刀は両手を戦慄かせた。
「大丈夫なのか。真っ赤だぞ」
 刀傷を受けたわけでもないのに、手で拭えない場所が血で染まっていく。
 こんな事例は今までなくて、恐怖心が膨らんだ。
 内部で出血しているということが、大典太光世には理解出来ていなかった。
 審神者の求めに応じて顕現し、現身を得てから相応の時が過ぎたが、こういう経験は一度もなかった。故に前田藤四郎に何が起きているのか、どう対処して良いのかも分からなかった。
 狼狽激しくおろおろする太刀に、短刀はどうにか落ち着かせようとした。けれど涙ぐんだままの笑顔には、説得力が皆無だった。
「心配、いりません。これくらい」
「しかし」
 涙は痛みからではなく、眼球への侵入者を追い出す為に溢れたものだ。表面を洗い流し、駆逐せんとして、自然と滲み出ただけだ。
 けれど大典太光世は、そういう防衛本能が肉体に宿っていることも、把握していなかった。
 問題ないと繰り返しても、彼は聞いてくれない。地面に片膝を預けて屈んで、短刀の前から離れようとしなかった。
「平気、です。じき……痛みも、引くので」
 瞬きを何十回と連続させて、流す涙の量を増やした。頬に伝うそれを袖に吸わせてごしごし擦って、前田藤四郎は心配無用と白い歯を見せた。
 相変わらず無理のある笑い方だったけれど、他に方法がなかった。視力に支障が出るほど深刻なものではないと伝えて、自分に触れようとしながら、最後まで伸びて来ない男の手を掴み取った。
 こんな時でも躊躇してしまう彼に呆れて、この程度では傷つかないと教えてやる。
「……痛むか」
 触れ合った熱にホッとしながらも、疑念が拭いきれない男は小声で問い、眉を顰めた。
 片手の自由が失われて、目を擦るのも憚られた。出来るものなら目玉を引き抜き、水洗いしてしまいたい衝動を堪えて、短刀は逡巡を経て頷いた。
 本当は、掻き毟りたかった。赤くなろうと構わない。充血したところで、視野が狭くなるわけではなかった。
 ただ自分に実害がなかろうと、周囲の刀たちはぎょっとするだろう。現に大典太光世が、大袈裟に怯えていた。
 だったら、我慢するしかなかった。本能を理性で制御し、蓋をして閉じ込めて、彼は乾きつつある眼球を瞼で隠した。
 涙の膜を保護し、じっと耐えるつもりだった。
 視界を黒く塗り潰して、息を殺し、疼くような痛みをやり過ごした。
 前田藤四郎が遮断した光の下で、大典太光世が苦悩に顔を歪め、自分に出来ることを懸命に探しているとも知らずに。
「前田」
 この子を、どうにかして救いたい。
 痛みのない、安らかな場所へと送り届けたい。
 平気だと無理をして笑うところは見たくなかった。心からの笑顔を得るまでは、この場を離れられなかった。
 けれどいったい、何が出来るというのだろう。大典太光世が抱く霊力は病人を癒しはしても、怪我を治す力は秘めていなかった。
 現身を得た直後、共に出陣したソハヤノツルキ相手に試してみたが、効果はなかった。
 そもそも刀剣は、病に侵されることはない。錆びて朽ちた場合は分からないが、審神者がこまめに手入れをしている現状では、確かめようがなかった。
 病人の居ない本丸で、大典太光世に出番は望めない。今の彼は獣の世話すらままならない、能無しのでくの坊だった。
「すまない。俺に、力がないばかりに」
 霊力がもっと高く、万能だったら、結果は違っていた。
 後悔と自責に駆られる男の声に驚いて、前田藤四郎は彼の手を握りしめた。
「どうして、大典太さんが謝るんですか」
 塵が舞ったのは、風の悪戯だ。防ぎ切れなかったのは、前田藤四郎の落ち度だ。
 離れた場所にいた太刀が責任を感じる必要はない。それは道理に合わない。声高に叫んで、指先の力を強めた。
 目を開けたいが、もう暫くは無理そうだった。涙で濡れる睫毛を揺らして、短刀は痛みを堪えて唇を噛んだ。
 彼に余計な心配をかけてしまったのを悔いて、軽率な真似をしたと恥じた。大典太光世を励ましたいと願っているのに、正反対の結果を産み出してしまった現実に、別の理由で涙が出た。
 目頭が熱くなり、鼻の奥がツンと来た。
 情けない自分に腹を立てて、前に出した足が倒れた竹箒を蹴った。
 爪先にカツン、と来た衝撃に気を取られた。
 良く知っている手に頬を撫でられて、前田藤四郎はハッとなった。
 吐息を傍に感じた。乾いた肌を擽って、瞼に熱が触れ、通り過ぎていった。
 一瞬だけ、柔らかく湿ったものが目尻に当たった。ねっとりとした感触には馴染みがなくて、いつまでも残る微熱の正体がすぐには分からなかった。
「大典太、さん?」
 己の身に起きたことが、目を閉じていた所為で把握出来ない。
 誰の仕業なのかだけは明白ながら、なにひとつ思いつかなかった。
 指ではない。彼の手は、片方は前田藤四郎が捕まえたままで、もう片方は頬にあった。先ほどから全く動いておらず、親指だけが余所に移動した、というのとも違っていた。
 足や、肩といった別の部位でないのも確かだ。となれば残るものは限られてくる。あれこれ浮かんでは消えていく可能性に眉を顰めて、前田藤四郎はこめかみに触れた微風に四肢を粟立たせた。
 ぞわりとくる熱量は、生温く、湿気ていた。
 それが先に肌を掠めて、直後に。
「……」
 嗅ぎ慣れた匂いが強まり、ちゅ、と微かな音がこだました。
 頬を包む手がやわやわと肉を揉み、唇の脇を掠めた。先ほどよりもずっと長い時間触れた熱は、色々なものを前田藤四郎に伝え、教えてくれた。
 新しい涙がひとつ、つい、と流れ落ちた。
 大典太光世はそれを指の腹で受け止めて、押し潰した。
「まだ、痛むか」
 密やかに問われ、短刀は止めていた呼吸を再開させた。先に吐き、吸って、どくん、と高鳴った鼓動に身を竦ませた。
「今、あの」
「前田?」
 口を開くが、言葉は途中で途切れた。喉に引っかかって上手く発音出来ず、乾いた空気が唇から抜け落ちていった。
 大典太光世の顔は本当に、目を開けたすぐ先にあった。身を乗り出し、前屈みになって、不安そうな眼差しで短刀を見詰めていた。
 二つ並ぶ眼に、前田藤四郎だけが映っていた。他のものが紛れ込む余地などないくらいに、一面を埋め尽くしていた。
「今」
 それが急に、恥ずかしくなった。
 彼が真っ直ぐな視線を投げてくるのはいつものことなのに、突然怖くなった。
 声が上ずり、ひっくり返った。内股になって膝をぶつけ合わせて、短刀は最後に残った可能性に総毛立った。
「大典太さん」
「怪我をした時は。舐めれば良いと、聞いた」
 どうか違っていてくれるよう祈って、縋った縄はあまりにも細かった。
 蜘蛛の糸は敢え無く途切れ、前田藤四郎は咄嗟に濡れている場所を手で叩いた。
 ぱしん、と良い音が響いた。同時に竦み上がり、ボボボッ、と赤くなる顔を必死に隠した。
「前田?」
「ど、ど……どなたに、そのような。嘘を!」
「嘘?」
 それがいかに挙動不審な行為かは、承知していた。けれど止めることなど出来ず、声は震えて呂律が回らなかった。
 それでも必死になって叫び、頭を振った。大典太光世の手を振り払って、短刀はハッとして目を見開いた。
 太刀は絶句し、凍り付いていた。中途半端な場所に利き手を彷徨わせて、惚けた顔で瞬きを繰り返した。
「嘘、なのか?」
 唇は青褪め、色を失っていた。声は今にも消え入りそうなくらい小さく、表情は泣き出す寸前だった。
 愕然として、呆然としていた。口をぽかんと間抜けに開き、瞬きを忘れた双眸は瞳孔がぱっくり開いていた。
 大きな体を小さく丸め、か細く震えていた。受けた衝撃の大きさに耐えきれず、今にも潰れてしまいそうな雰囲気だった。
 雨の日に捨てられた子犬の姿が、何故か前田藤四郎の目に浮かんだ。実際には抱えることも出来ない大柄な男なのに、同列に並べそうになって、粟田口の短刀はヒクリと頬を引き攣らせた。
「いえ、あの。迷信……俗信です、が。確かに言います。聞いたことがあります」
 良かれと思ってやったことを、全力で否定されたのだ。大典太光世の落ち込み具合は凄まじく、必死の弁解もなかなか届かなかった。
 いったい誰が、彼にこんな世迷い言を教えたのか。根拠のない俗説のあまりの無責任ぶりに、前田藤四郎は眩暈を覚えた。
 唾液に鎮痛作用はなく、殺菌効果も期待できない。逆に黴菌が入って傷を悪化させるので、薬研藤四郎から真に受けないよう通達が出されていた。
 だがそれも、随分前のこと。大典太光世がやってくる、ずっと昔の話だ。
 ならば彼が騙され、信じてしまったのも仕方がないことだ。教えた方も、よもや実践するとは思っていなかったに違いない。
「ソハヤノツルキが、前に肘を擦り剥いた時に」
「それはきっと、手当てするまでもない軽い怪我だ、という意味だと思います」
「そうだったのか」
 大典太光世の兄弟刀は彼と違って明るく剛毅で、太刀でありながら子供のように無邪気だ。馬の世話が好きで、馬も彼に懐いている。交友関係は幅広く、脇差の物吉貞宗とは特に親しい。
 あの男なら言いそうだ、と、説明を受けた前田藤四郎は頷いた。
 心配不要との意味を、額面通りに解釈した太刀の純朴さには、呆れを通り越して感動するしかない。そういう彼だから目が離せないし、放っておけなかった。
 いつの間にか涙は止まり、痛みも消えていた。吃驚し過ぎて、どこかへ吹き飛んでしまったらしかった。
「はい。ですので、その……このような真似は、あまり、なされませんように。要らぬ誤解を、与えてしまいます」
「誤解?」
「ええ」
 後には照れ臭さと、気恥ずかしさだけが残った。
 まだ火照って赤い肌を擦り、涙の痕跡を拭って、前田藤四郎は深く息を吸い、首を縦に振った。
 戸惑っている男を低い位置から仰ぎ見て、兎のように赤くなった目で睨みつけた。細い眉を吊り上げ、眼力を強めて、大柄な太刀を威圧した。
 短刀の迫力に臆し、大典太光世が半歩後退した。摺り足で砂埃を巻き上げ、突き刺さる眼差しに唇を戦慄かせた。
「前田」
「あのような、ことは。本来、番である者たちがすべきことで」
 短刀として主を守ってきた前田藤四郎だから、勿論人間たちの夜の営みも、それなりに見聞きしてきた。中には双方合意の上でなかったことや、片方が他に想い人を持っている場合もあったが、概ね相思相愛――夫婦となった者たちのそれだった。
 だからあれは、慈しみあい、愛おしんでいる相手にこそすべきこと。
 たとえ傷を癒すつもりであったとしても、誰彼構わず振り撒いて良いものではなかった。
 仲睦まじく過ごす過去の主とその夫人の記憶を掘り返し、その傍らに佇む自分を想像した。あのような生き方を心のどこかで羨みながら、彼らの営みを守ることが自分の役目と割り切って来た。
「軽率に、あのような。僕に、されては」
「駄目なのか」
「駄目に決まっています」
 それが今、足元でぐらついていた。
 低い声での問いかけに大声で応じて、前田藤四郎は両手をぎゅっと握りしめた。
 彼らは、刀だ。主君に仕え、これを支える為にある。
 刀は武器だ。敵を斬り伏せ、主の平穏を守るために存在する。
 そこに余分な感情は要らない。彼らは主のために働き、主だけを思って行動すればいい。
 それなのに、欲が芽生えた。
 今の主に与えられた心が、作り物の器の中で悲鳴を上げていた。
「俺は、前田」
「お願いします、言わないでください」
「お前が、とても」
 両手を伸ばし、大典太光世が前田藤四郎の肩を掴んだ。力を込めれば砕けてしまいそうな細い体躯を揺らして、耳を塞ぎたがる短刀に目を吊り上げた。
 牙を剥き、吼えた。
 それを。
「――!」
 べちん、と力任せに遮られた。
 前田藤四郎の手が、太刀の口を文字通り塞いでいた。
 左右で重ねて、乱暴に押し付けていた。
 下になった右掌に生温かな熱が触れ、太刀の呼気で肌が少しずつ湿っていく。
 唇を閉じる暇すらなかった男は目を点にして、真っ赤になっている短刀を呆然と見つめ続けた。
「……僕も、同じです」
 やがて小さな手は外れ、力なく落ちていった。
 同時に紡がれた言葉は酷く頼りなげで、哀しみに満ちていた。
「前田」
「でも、これは。駄目なんです、きっと」
 大典太光世のことは、とても愛おしい。大切な仲間であり、このままずっと、共に在りたいと願う存在だった。
 人間は、すぐに死ぬ。せいぜい百年にも満たない命は儚い。どれだけ長寿を祝ったところで、あっという間に耄碌し、床に伏し、動かなくなった。
 一生を賭けて尽くすと、どれだけの回数、誓っただろう。あと何度繰り返せば良いのかと、憂鬱になりもした。
 その点、刀は違う。錆びず、朽ちなければ永遠に輝き続ける。磨り上げられて姿形が変化することはあっても、其処に宿る付喪神が入れ替わることはない。
 けれどこんな風に思うのは、主君への裏切りだ。
「あんなこと、僕にも、誰にも……もう、しないでください」
 懇願し、前田藤四郎は唇を戦慄かせた。血が出るまで噛み締めて、頭を振り、溢れて止まらない涙を頬に流した。
 赤く充血した目を瞼に隠し、頬を擦った。ひっく、としゃくりあげ、痛くて堪らない左胸を服ごと鷲掴みにした。
「泣かないでくれ、前田。お前に泣かれると、どうして良いか分からない」
 主君への忠義は捨てられない。
 大典太光世が他の誰かを慈しみ、愛おしむところも見たくない。
 酷い我が儘だと、自分でも思う。分かっている。真っ直ぐな想いを向けられておきながら、真摯に応えられないのは臆病だからだ。
 本当は前田藤四郎の方がずっと弱虫で、怖がりだ。嬉しく思う反面、踏み出せなくて、中途半端なところを行ったり来たりしてばかり。
「頼む、前田。お前の涙を止める術があるのなら、俺に教えてくれ」
 大典太光世が縋る声で訴えて、短刀の身体を乱暴に揺すった。力強く握られて、骨に食い込む指が心に迫るようだった。
 なにかを言わなければいけない。だけれど、いったい何を言えば良い。
 必死に口を開き、息を吐いてみせても、声は音にならず、言葉は形を持たなかった。
 喘ぐように息継ぎを重ね、涙で霞む視界で大典太光世の姿を探す。
 狂おしい想いに四肢が震え、ばらばらに千切れてしまいそうだった。
「前田」
 低く掠れる彼の声がお気に入りだった。
 その声で名前を呼ばれるのがくすぐったくて、堪らなく嬉しかった。
「大典太さん、が。……好きです」
 はらはらと零れ落ちる涙が、頬を、唇さえも濡らしていく。
 擦っても、拭ってもちっとも追い付かないそれを掬い取って、大典太光世の指が前田藤四郎の顎を掻いた。
 親指の腹を押し当てて、俯きたがる短刀の顔を上げさせた。弱い抵抗を封じ込め、力でねじ伏せて、潤む眼に己の姿を叩きつけた。
「泣かなくて良い」
 前田藤四郎が一等好きな声で囁いて、男が目を細めた。口角を僅かに持ち上げ、頬を緩め、眉間の皺を解き、小さく頷いた。
 触れた熱は一瞬で、けれど永遠に続くようだった。
 刀としての矜持や、義務と、主への後ろめたさがぐちゃぐちゃに混じり合う。
 もう暫く、涙は止まりそうになかった。

恋ひ死なむ涙のはてや渡り川 深き流れとならんとすらん
千載和歌集 恋二 759 源光行

2016/11/06 脱稿

思ふ心よ 道しるべせよ

 その花は緑の草に覆われて、埋もれるように咲いていた。
 注意深く探さないと、確実に見落としていた。それくらい密やかに、しおらしく咲く花だった。
 緑色の茎に絡まり、花が無数に連なっていた。螺旋を描いて茎を取り囲み、渦を巻く形で花をつけていた。
 綺麗だったと、兄弟に教えられた。興味を惹かれて、具体的な場所を聞き出し、探し始めて数分と経っていなかった。
「うわあ……」
 緑や茶色ばかりの中に、薄紅色の花が背筋を伸ばしていた。
 右を見ても、左を見ても、そこかしこに咲いていた。これまで何度も傍を通った場所なのに、まるで気付かなくて、己の注意力の無さには呆れざるを得なかった。
「秋田に、礼を言わないと」
 かくれんぼが得意な短刀は、こういう隠れたものを見つけるのも得意だ。
 彼はいつも、どんな時でも好奇心旺盛で、目をキラキラさせてあちこちを観察していた。
 情報をもたらしてくれた兄弟に感謝して、前田藤四郎は緩んでいた頬を引き締めた。真顔になって呼吸を整え、軽く一礼した後、淡い紅色の花を一輪だけ手折った。
 長い茎の中ほど、やや根元よりの場所に指を添え、抓み、右へと捻る。一度では千切れてくれなくて、二度、三度と繰り返して、ようやく花は大地に別れを告げた。
「すみません」
 これでもう、この花は種を遺せない。
 小さくも儚い命を摘んでしまったのを詫びて、少年は青臭くなった指ごと花を掲げ持った。
 顔の近くまで寄せても、特に甘い匂いはしない。茎を捩じ切る際に溢れた緑色の汁の方が、よっぽど香りが強かった。
 だが、それもじきに消えるだろう。
「本当に、面白いです」
 どういう進化の過程を辿れば、こんな不思議な形になるのか。
 縄状になって茎に寄り添う花々に目を細めて、粟田口の短刀は顔を綻ばせた。
 花のひとつひとつは小さいけれど、どれも鮮やかな色合いだった。中心部は白く、外側に向かうに連れて赤みが強まっている。茎はそれなりに太くて、無数に咲く花を一心に支えていた。
 手折る時に、低い位置に咲いていた分を何輪か散らしてしまった。鋏を持ってくるべきだったと後悔して、前田藤四郎は天頂部の蕾を撫でた。
 花瓶に活けて、どれくらい持つだろう。
 そもそも一輪挿しなど、持っていない。
「しまった」
 話を聞いて先走った行動に出たのを自覚して、彼は小さく舌打ちした。
 けれど、この花の存在を知って、じっとしていられなかった。
 この目で見てみたい、見せてやりたいと、強い欲求に駆られた。普段ならもう少し慎重に判断を下すのに、今回は後先考えずに突き進んでいた。
「……後で、考えましょう」
 花瓶なら、誰かが持っているに違いない。
 手持ちのものでどうにかするのは諦めて、前田藤四郎は後ろを振り返った。
 緑豊かな木立の向こうに、瓦屋根の家屋が見えた。横に幅広く、奥行きもかなりのものがある。この位置からでもその広大さが、手に取るように分かった。
 歴史改変を目論む者たちに対抗すべく、時の政府の命を受け、審神者なる者が刀剣男士を集めるようになってから、もうじき二年になろうとしていた。
 時を遡れるのは、刀剣のみ。その付喪神たる前田藤四郎たちは、己が本体たる刀を握り、朝に夕に、戦いに明け暮れていた。
 当初は静かで、寂しかった本丸も、今ではすっかり大所帯だ。毎日が賑やかで、騒々しく、どこかで誰かしらが問題を引き起こしていた。
 遠い昔に過ごした大名屋敷での日々が、二重写しになって甦る。
 あの時は人の営みに直接介入することが出来ず、ただ眺めるだけだった。だがこの本丸では、現身を与えられ、人と同じような生活が送れた。
 こうして花を摘むのだって、造作もない。
「気に入っていただけるでしょうか」
 あまり見る機会のない不思議な花を愛でて、前田藤四郎は照れ臭そうに囁いた。
 後先考えずに庭に来たのには、理由がある。つい最近、この本丸に、新たにふた振りの刀が加わった。
 そのうちの片方と、前田藤四郎は、同じ屋敷で暮らしたことがあった。
 いや、共に暮らしていた、というのには語弊があろう。前田藤四郎は守り刀として主君の傍に仕えたが、あちらはそうではない。用いられる時以外は厳重に封印が施され、蔵の中に祀られていたのだから。
 だから彼とは、本丸で初めて顔を合わせたようなものだ。暗く冷たい蔵の中に閉じ込められていた刀とは、言葉を交わしたことはあれども、面と向かって相対する機会は殆ど得られなかった。
 現在の主君たる審神者は、彼を蔵に閉じ込めたりしない。自由に過ごしてくれて構わないと言っている。
 だのに不信感が拭えないのか、大典太光世は本丸内でも部屋に籠りがちだった。
 なんとか外に連れ出して、世界の美しさ、素晴らしさを知ってもらいたい。
 暗い場所に引き籠っているから、考え方も薄暗くなってしまうのだ。どうしても悪い方、悪い方へ思考を巡らせたがる太刀を思い浮かべて、前田藤四郎は踵を返した。
 駆け足で屋敷へと戻り、玄関で脱いだ靴を揃えた。花を傷つけないよう大事に抱え持って、足早に廊下を進んだ。
 短い外套を風にはためかせ、左手で根元を握り、右手は盾代わりに翳した。萎れてしまう前に見せてやるべく居場所を探し、あちこちうろうろして、廊下を曲がったところで脇差とぶつかりかけた。
「うあっ」
「すみません!」
 洗濯物を抱えた物吉貞宗と、危うくぶつかるところだった。
 折り畳んだ衣服を抱えていた少年は、驚いてたたらを踏み、後続の短刀に支えられて事なきを得た。
「どーしたんだ、そんなに急いで」
 兄である脇差の影からひょこっと顔を出し、太鼓鐘貞宗が怪訝にしながら声を出した。頭髪に結いつけた鳥の羽を左右に躍らせ、咄嗟に花を隠した短刀仲間に眉を顰めた。
「あの、大典太さんを、知りませんか?」
「大典太? 天下五剣の?」
 彼もまた、最近本丸にやって来た刀だ。日頃から過去に所縁ある刀たちと一緒にいる事が多いが、今日はその伊達の刀たちが出陣中の為か、兄弟刀である物吉貞宗と行動を共にしていた。
 丁度良い、と話を振り、質問を投げ返す。
 訊かれた少年は目を丸くして、隣に並んだ兄と顔を見合わせた。
「僕たちは、ちょっと」
「見てねえな。どうせ部屋で、ぐずぐずしてんだろ」
「こら」
 天下五剣に数えられながら、大典太光世は根暗で、性格は後ろ向きだ。それが一部の刀には不評で、悪く言われる事も多かった。
 けれど大典太光世だって、好きで蔵に閉じこもっていたわけではない。悪気があっての発言ではないだろうか、ムッとした前田藤四郎より先に、物吉貞宗が拳を上げた。
「いて」
 たいして力は入っていなかったが、ぽかりとやられた少年は首を竦めた。逃げるように身体を外向きに倒して、口を尖らせ、ぶすっと頬を膨らませた。
 露骨に拗ねた弟に、物吉貞宗は小さく溜息を吐いた。やれやれ、と首を振って肩を竦めて、惚けて立つ前田藤四郎に頭を下げた。
「あとでちゃんと、叱っておきます」
「えええ~~~?」
「い、いいえ。そのようなこと」
「大典太さんにも、良いところはあります。ですよね?」
「は、はい!」
 失礼な事を言った弟に代わって詫びて、そそくさと後退を図った太鼓鐘貞宗の腕をしっかり捕まえる。
 温厚な外見に似合わない握力で短刀を拘束して、脇差はにこやかに微笑んだ。
 協調性がないように見える刀でも、胸に熱いものを秘めているかもしれない。まだ本丸に来てから一ヶ月と経っていないのだ、大典太光世について判断を下すのは早計だ。
 前田藤四郎だけが知っている良いところを、これからどんどん広めて欲しい。
 そう囁いた脇差に力強く頷いて、粟田口の少年は顔を綻ばせた。
 嬉しそうに目を細め、前方不注意で危ない目に遭わせかけたのを謝って、駆け出す。
 トタトタと足音を響かせて、彼が向かったのは大広間だった。
 ここは本丸で最も日当たりがよく、景色も良い場所だ。昼間でも、夜遅くでも常に誰かいて、雑談をしたり、碁を打ったり、一番賑やかな部屋だった。
 食事の際には左右を仕切る襖を取り払い、大部屋にして、膳を並べる。座る場所は特に決められていないが、最近の前田藤四郎は、大典太光世の隣が定番だった。
 だが今回は、横に並ぶことは出来なかった。
「どうかした?」
「あの。大典太さんは、こちらには」
 急ぎ足で飛び込んできた弟を振り返り、乱藤四郎が真っ先に声を上げた。首を傾げ、鮮やかな柑子色の髪を揺らし、空色の瞳を怪訝に眇めた。
 中に居たのは粟田口の短刀たちが数振りに、にっかり青江と数珠丸恒次。愛染国俊と蛍丸が折り紙で遊んでおり、近くで寝転がる明石国行が欠伸をしていた。
 他にも何振りかいたが、探し人、ならぬ刀の姿はない。
 息を切らした短刀は肩を何度か上下させ、質問に答えてくれる相手を欲して室内を見回した。
 だが目が合ったほぼ全員が顔を顰め、首を振り、傍に居た者と顔を見合わせた。
「あの……」
「あのお方とは、朝から会うてんなあ」
 誰も答えてくれず、前田藤四郎が焦りを強めて顔を曇らせる。息苦しさに喘いで小さくなった彼を憐れんだか、直後に明石国行が寝返りを打ち、京訛りで呟いた。
 独り言じみた台詞に、俯いていた短刀はハッとなった。その斜め前方では洗濯物の整理中だった太刀が、同じく何かを閃いた顔で背筋を伸ばした。
「なるほど。大典太、だけに」
「いやあ、それはさすがに厳しいと思うよ?」
 駄洒落だったのかと深読みした数珠丸恒次に、同じ青江派の脇差が苦笑しながら答える。顔の前で手を振って、彼は惚けて立つ少年に目尻を下げた。
「ここには来ていないね。部屋じゃないかな」
 人見知りが激しく、親しくない者との会話に不便する刀は、他にもいる。
 そういう刀は得てして部屋に引きこもりがちで、大勢が一堂に会する広間にはあまり顔を出さない。
 歌仙兼定がその典型だと笑う大脇差に首肯して、前田藤四郎は背中に隠した花を握り直した。
 話に出た打刀は、概ね私室か台所のどちらかにいる。だが大典太光世には、逃げ場となる場所がひとつしかなかった。
 本丸にも蔵はあるが、食糧庫を兼ねているので意外に出入りが激しかった。畑で収穫した野菜の匂いで溢れており、静かで落ち着ける空間とは言い難かった。
「そうですね。ありがとうございます」
 助言を素直に受け入れて、前田藤四郎は頭を下げた。丁寧にお辞儀をして、瞬時に来た道を戻り始めた。
「おおでんた……おうてんな……」
「ねえ、君。まだそれ言ってるの?」
 後方で続く青江派同士の会話も気になったが、大典太光世に花を届けるのが先だ。長兄に見付かると叱られるのは分かっているが、駆け足で、刀たちの居住区画へと急いだ。
 屋敷は幾度か増築を繰り返した結果、刀剣男士が寝起きする棟と、食事や軍議を開く公的な空間を集めた棟とに大別されるようになっていた。
 そこに台所や湯屋といった火を使う棟が加わり、玄関を起点に繋がっていた。勿論他にも道はあるのだが、どれも中庭を経由しなければならず、素足で地面に降りるのに抵抗がある前田藤四郎は使ったことがなかった。
 わざわざ遠回りになる経路を使い、最も手前にある短刀部屋へ続く通路を素通りする。あまり立ち入る機会のない太刀らの生活空間へと進めば、廊下に満ちる空気がほんの少し色を変えた。
「なんだか、……いえ」
 具体的に言うなら、匂いが変わった。
 汗臭さや男臭さといった、短刀たちからはあまり感じられないものが空気中に漂っていた。
 決して不快ではないけれど、相応しくない場所に足を踏み入れた気分になって、落ち着かない。自分の存在があまりに場違いすぎて、大人しく立ち去れ、と言われているような錯覚さえ抱いた。
 兄である一期一振からは、あまり体臭がしない。ごくたまに線香の香りを漂わせているが、特定の香を好んでいるわけではなかった。
 共に暮らす弟たちが嗅覚に敏感なので、遠慮しているのだろう。毎日欠かさず風呂に入っているのだって、数居る弟らの面倒を見るついでだった。
 思えばあの太刀には、あれこれ面倒を掛けてばかりだ。
 今後は、あまり甘えすぎないように気を付けよう。そんな事を頭の隅で考えて、前田藤四郎はごくりと唾を飲みこんだ。
 覚悟を決し、えいや、と境界線を踏み越えた。摘んだ直後より些か元気がなくなった花を胸に、沢山並ぶ襖を眺め、目的の名前が記された札を探した。
 刀剣男士には、基本的に個室が与えられていた。望めば複数で生活出来るが、粟田口や堀川を除き、兄弟刀でも共同で暮らすのは稀だった。
 三池の太刀も、個々で過ごすのを選択した。大典太光世と時期同じくして本丸にやって来たソハヤノツルキの部屋は、空室が残る太刀区画の、手前側にあった。
 入り口である襖は閉まっており、物音はしない。大典太光世と違って明るく、元気に溢れるあの刀は、本丸での生活に馴染むのも早かった。
 きっと今日もどこかで、誰かと楽しく過ごしているに違いない。
「大典太さん、いらっしゃいますか。前田です」
 兄弟刀でここまで違うとは、驚きだ。粟田口の統一性の無さを棚に上げて苦笑して、前田藤四郎は真新しい札が下がる部屋の前で立ち止まった。
 ここだけは、身に馴染む匂いが漂っていた。安堵の息を吐いて、強張り気味だった表情を緩めた。
 呼びかけの声は高らかと弾み、ようやく会えるという嬉しさで溢れていた。
 勝手に綻ぶ頬を懸命に引き絞り、花は背中に隠した。いつでも襖を開けられるよう右手を引き手に添えて、返事を待ってそわそわ身を捩った。
「どうぞ~?」
 その彼の耳に飛び込んできたのは。
 予想していた低く掠れた声ではなかった。
「っ!」
 明るく晴れやかな少年声に、前田藤四郎はビクッと肩を跳ね上げた。全く想定していなかった返事に騒然となって、咄嗟に引っ込めた指が引手の角に当たった。
 金具に引っ掛けて、赤い筋が走った。だが痛みを感じている余裕はない。鼓動は急激に速まり、耳鳴りがガンガン響き渡った。
 どくん、どくんと激しく脈打ち、心臓が頭の中に引っ越してきたようだ。眩暈がしてくらりと来て、膝はガクガク震えて今にも崩れ落ちそうだった。
「……え?」
 絶句し、呆然と襖に見入る。
 薄い壁越しに聞こえたのは、良く知る刀の声だった。
「前田? どうしたの、入っておいでよ」
 返事がないのを訝しみ、同じ粟田口の短刀が襖の向こうから彼を呼んだ。慌てた前田藤四郎は顔を上げ、壁に吊るされた札の名前を二度も、三度も確認した。
 大典太光世と、太文字でしっかり書き記されていた。
 だのに部屋から、太刀以外の声がする。
 この不一致に思考が停止して、暫く身動きが取れなかった。
「まえだ~?」
 沈黙に痺れを切らし、短刀の声が不機嫌に沈んだ。
「は、はいっ」
 それで我に返り、前田藤四郎は改めて引手に指を掛けた。
 右に滑らせ、道を開く。新しい畳の匂いが鼻腔に襲い掛かり、明るい光が網膜を焼いた。
 反射的に目を眇めて顰め面を作って、瞬きを繰り返した。唇を咥内に巻き込んで引き結び、少しずつ明らかになっていく景色にはぞっ、と来る悪寒を覚えた。
 胸の奥が焦げ付いたようにチリチリ痛み、泥のような汚いものが喉の奥から迫り上がってきた。吐き気とは異なる感覚に背筋を粟立てて、前田家に縁深い短刀は敷居を跨いだ。
 左手とその中のものは背中に隠したまま、軽く会釈して後ろ手に襖を閉める。
「やっほ。どうかした?」
 出迎えてくれたのは部屋の主ではなく、その膝に腰かけた短刀だった。
 燃え盛る炎の如き赤髪に、好奇心旺盛な真ん丸い眼。人好きのする笑顔を浮かべており、実際彼はかなりの甘え上手だった。
「前田」
 信濃藤四郎を膝に置いて、猫背な太刀が困った顔で目を泳がせる。
 量の多い前髪を後ろに押し流して、大典太光世は訪ねて来た少年の名を小さく口遊んだ。
 行き場のない手を宙に彷徨わせるものの、懐深くに座られている所為で立ち上がれない。長く節くれ立った指は結局畳に落ちて、目地に逆らい爪を立てた。
 身を起こそうとし、途中で諦めた動作の所為で、上にいた信濃藤四郎の身体は前後に揺れた。だが短刀はそれを面白がって、ケラケラ笑い、自ら達磨となって左右に身を躍らせた。
「信濃、動くんじゃない」
 膝でごろごろ動かれるのは、落ち着かない。座るのならじっとしているように言って、太刀は短刀の肩を抱え込んだ。
 束縛されては、さすがの信濃藤四郎も大人しくするしかなかった。それでもどこか嬉しそうに笑って、訪ね来た弟には首を傾げた。
「それで? なに、前田も大典太さんの懐、入りに来たの?」
「あの、いえ。そういうわけでは」
 話を振られて、前田藤四郎は口籠った。どう言えば良いか分からなくて咄嗟に否定して、僅かに遅れて首を振った。
 信濃藤四郎も、大典太光世と少なからず縁を結んだ刀だった。
 というよりは、一緒にいたことがある。平野藤四郎や、愛染国俊らとも顔見知りだった。
 蔵の中に引き籠っている太刀を気にして、顔を拝んでやろうと四振りであれこれ試したこともあった。その際陣頭指揮を執ったのが、そこで笑っている短刀だった。
 前田藤四郎はいつも後ろをついて回るだけで、率先して行動したことはなかった。お蔭で兄には色々振り回されて、若干の苦手意識があった。
 今もそれは残っており、尻込みして、無意識に後退を図っていた。折角お目当ての刀に会えたのに、今すぐ取って帰ってしまいたかった。
 指先に力が籠り、持っていた花の茎が潰されて拉げたのが分かる。ただでさえ摘み取られて弱っていたところに、駄目押しされて、不可思議な形をした花は力を失ってよろめいた。
 手首に軽いものが倒れ込む感触に、悔しさが膨らんだ。どうして、と先に部屋にいた短刀に対して苛立ちが生まれて、心が膿んでいくのが肌で感じられた。
「あれ? そうなの?」
「俺になにか、用か。前田」
 摺り足でじわじわ距離を作る短刀に、信濃藤四郎が首を捻った。不思議そうに目を丸くして、座椅子にしている太刀に一瞥を加えた。
 真下からの視線を受けて、大典太光世も眉を顰めた。いつも通りの低い声で囁いて、来訪の目的を問うた。
 用があったから、わざわざここまで足を運んだのではないのか。
 真っ直ぐ投げかけられる眼差しに臆して、前田藤四郎は不意に泣きたくなった。
 目頭がじんわり熱を持ち、鼻が詰まって息がし辛い。慌てて奥歯を噛んで呼吸を止めて、少年は苦くて堪らない唾を飲みこんだ。
 ぐっと腹に力を込めて、口を開き、空気を吐き出す。
「い、いえ。たいしたことでは」
「ふ~ん? な~んだ。てっきり、懐探してうろうろしてたんだとばっかり」
「信濃兄さんと一緒にしないでください」
「あれれ~? そういう事言っちゃう?」
 そこまで深刻な用件があったのではないと、言い訳が口先から飛び出した。意識していなかったのに勝手に音が零れ落ちて、真実を包み込み、覆い隠した。
 僅かに上擦ったその声を信じたのか、太刀の膝で寛ぐ短刀が緩慢に頷く。
 常に誰かの懐を狙い、潜り込む隙を探している刀に言われたくない。そう非難すれば、それこそが短刀の本義だと主張する少年は口を尖らせた。
 同じ短刀ならば分かるだろう、と決めつけられて、反発したら怒られた。
 確かに懐に抱かれるのは安心するし、気持ちが良いものだけれど、誰彼かまわず、というのではない。
 その辺はもっと分別を弁えるべきと、前田藤四郎は思っていた。
「だってさ、しょうがないじゃん? いち兄の膝は秋田とか、五虎退が優先だし、日本号さんは博多のだろ? 宗三さんの膝に座ったら薬研が怒るし、歌仙さんのは小夜のだって言われたし。鶯丸さんは平野が独占してて、燭台切さんは太鼓鐘優先だって言うしさ。江雪さんの膝は、なんでかいち兄が駄目って言うんだよ?」
 それを言えば、信濃藤四郎はムッと頬を膨らませた。
 これまで拒まれてきた刀の名前を、指折り数えて目を吊り上げた。不機嫌を隠しもせずに拗ねて、駄目だと言われたのに身を揺らした。
 左右にぐらぐら頭を振って、椅子代わりにされている大典太光世を呆れさせる。
「俺なんかの、どこがいいんだ」
「駄目?」
「いや。そういう訳じゃないが、つまらんだろう」
「別に、俺、気にしないし。大典太さんの懐って、広くて、あったかいよ。前田もそう思うでしょ?」
 蔵住まいが長く、気の利いたひと言も言えない。知識が豊潤というわけでもなくて、話し相手としては失格だ。
 一緒に居て楽しい筈がないと言い切った彼に、そういうのは二の次だと信濃藤四郎が言い返す。そして弟に水を向け、同意を求めて目を輝かせた。
「ええ?」
 訊かれた方はぎょっとして、ぴん、と背筋を伸ばした。
 これには賛同してもらえるだろうと、兄の眼差しは希望に満ちていた。その上から注がれる眼差しも、不安と期待が入り混じった様相を呈していた。
 自分には暗く湿気た蔵がお似合いだ、と常々口にする太刀は、要するに自分に自信がない。刀として正しい用途に使われた記憶に乏しく、外に持ち出されるとすれば病の平癒を求められてか、見世物扱いのどちらかで。
 勇猛果敢な武士の腰を飾り、戦場を駆け回るなど、夢のまた夢だった。
 だからそれ以外で、自分が求められる機会があるのかと疑っている。
 短刀の座椅子程度の役目だとしても、大典太光世にとって、必要とされるのは喜びだった。
「前田?」
 暗く澱んだ眼が光を帯び、立ち竦む短刀を映していた。
 雨上がりの若葉のような眼差しを一心に浴びて、前田藤四郎は総毛立った。
「僕、には。……分かりません!」
 衝動的に、吼えていた。
 注がれる視線に、羞恥とも憤怒とも取り難い感情が溢れた。一秒と長くこの場に留まりたくなくて、逃げ出したくて、実際その通りに身体は動いていた。
 どうしてこんなに哀しいのか、さっぱり見当がつかなかった。自分のことなのに自分でも分からなくて、鼻をぐじ、と愚図らせると、前田藤四郎はその場で身体を反転させた。
 間近に迫っていた襖を力任せに開き、廊下へと身を躍らせた。閉めもせずに放置して、足音五月蠅く駆け出した。
「前田?」
「ちょ、えええ?」
 慌てたのは部屋の中にいたふた振りで、突然のことに絶句し、声をひっくり返した。
 立ち上がった大典太光世の膝から転がり落ちて、信濃藤四郎は目をぱちくりさせた。だがそれ以上に驚いたのは、何事にも受け身な太刀が、血相を変えて走り出したことだった。
「前田!」
 ドスドスドス、とこちらは低くて重い音を轟かせ、出て行った短刀を全速力で追いかけて行った。悲鳴めいた上擦った声で名を呼んで、気配はあっという間に遠ざかった。
 見事に置いて行かれて、内股に座り直した短刀は唖然とし、静かになった空間を見回した。
 そして。
「ちぇ~っ」
 お気に入りの場所がまたひとつ減ったと喚き、面白くないと大の字になった。

 大典太光世の部屋で信濃藤四郎が不貞腐れていた頃。
 前田藤四郎は腕を前後に振り、必死になって廊下を駆けていた。
 とはいっても、ここは屋内だ。誰かと衝突する危険があり、あまり速度は出せない。注意深く進路を探って、歩く者が居れば無意識のうちに足を緩めていた。
 それもこれも、長兄の厳しい躾の賜物だ。こんな状況でも癖が抜けないくらいに、深い場所に染みついてしまっていた。
「ああ、もう」
 前方から髭切と膝丸の兄弟がやってくるのが見えて、やきもきした。どうしてこんな時に会うのかと地団太を踏んで、談笑しながら去っていく太刀らに小さく頭を下げた。
 焦っているのに、焦れない。
 バクバク言い続ける心臓を服の上から撫でて、前田藤四郎はにこやかに手を振った髭切にぎこちない笑みを返した。
 これからどこかへ出かけるのか、膝丸が頻りに注意点を話しかけている。だが髭切はあまり興味がないようで、まるで聞いていなかった。
 関係ないことを口にして、弟を怒らせては、楽しそうに声を立てて笑った。いつだって真剣な太刀をわざとからかい、遊んでいるようで、どこかの誰かに通じるところがあった。
 信濃藤四郎に悪気があったわけではなく、彼はいつだってあんな感じだ。頼めば場所を譲ってくれただろうし、用があるとちゃんと言えていたら、空気を読んでくれたに違いない。
 それなのに、出来なかった。
 巧く立ち回れなくて、ひとり相撲に興じた挙句、失礼な態度を取ってしまった。
「どうして、こうなるのでしょう」
 ただ単に、話をしたかっただけなのに。
 綺麗に咲いた花を眺めながら、外にはもっと綺麗なものが溢れていると、大典太光世に教えてやりたかっただけなのに。
 その場に信濃藤四郎がいても構わなかったのだ。なのに、どうしても許せなかった。待ち望んでいた時間を邪魔された、という感情ばかりが胸に渦巻き、制御出来なかった。
「……あれ?」
 また溢れそうになった涙を堪え、左手で目元を擦る。
 握った拳の背を二往復させて、そこで彼はきょとんとなった。
 奇妙に思って、手を広げた。何度か握って、開いてを繰り返して、零れ落ちるものがなにもない状況に騒然となった。
「あれ。あれ。あれあれあれ?」
 右手も開き、続けて足元を見た。踏んでいないかと交互に持ち上げて、腰を捻って背後を覗き込みもした。
 だがどこを探しても、何もなかった。
 庭で摘んできた花が、忽然と姿を消していた。
 あの華やかな赤色が、近くに見当たらなかった。爪の間に緑色の汁が滲むだけで、花そのものは行方をくらましていた。
 理由は、分かり切っている。大典太光世の部屋を飛びだした後、どこかで落としたのだ。
「そんな」
 他の者が見れば、芥に見えるかもしれない。床を汚していると、屑籠に放り込まれておしまいだ。
 庭に行けば、まだ咲いている。数えきれないくらい沢山で、より取り見取りだ。
 しかし、そういう問題ではないのだ。前田藤四郎はあの花を、太刀に見せたかった。一等綺麗な咲き方をしているものを選んで、喜んでもらいたいと願いながら摘んできたのだ。
 空っぽになった両手に愕然として、彼は背筋を震わせた。内臓がぎゅっと一ヶ所に集まって、窄まり、圧迫された肺が苦しかった。
「前田」
 荒い息遣いが聞こえた。ぜいぜいと音を響かせ、囁かれた声はいつも以上に低かった。
 太刀は身体が大きくて攻撃力が高い分、足は短刀より遅い。あのまま走り続けていたら、並ばれることはまずなかった。
 だが、追い付かれてしまった。
 花を失った衝撃に、自分の置かれた状況を忘れていた。信濃藤四郎が一緒の可能性を勘繰って警戒して、びくびくしながら男を振り返った。
「すまん」
 直後だ。
 突然大典太光世が深く頭を下げ、短刀に向かって謝罪した。
「大典太さん?」
 前置きもなにもなく、唐突だった。いったい何に対して謝っているのか分からなくて、前田藤四郎は絶句した。
「ど、どうしたんですか。急に。なにを謝るんですか」
「お前が、あんな顔をして、出て行ったのは。俺がなにか、お前の気に障ることをしたからだろう?」
「それは――」
 混乱して両手を振り回せば、頭を垂れたままの太刀が床に向かって言った。質問の形式を取ってはいたが、彼の中で結論が出ているらしく、言葉には力があった。
 具体的な内容は不明ながら、自分の行動、或いは存在が、前田藤四郎を傷つけた。でなければ部屋を飛び出して行ったりしないと、説明は理路整然としていた。
 非は己にあると断じた男の顔には、苦悶と後悔が滲んでいた。眉間の皺が深くなり、瞳は輝きを失い、唇は横一文字に引き結ばれた。
 詫びても詫びきれないと、見ている方が辛くなる表情で見つめられた。
 その通りだと肯定など出来なくて、けれど軽々しく否定も出来なくて。
 前田藤四郎は口籠り、目を泳がせた。
 そもそも、正直な話。
 どうして大典太光世の部屋を飛び出したのか、彼自身も未だ理由が掴めていなかった。
 兄に先を越されたのが不満で、嫌悪感が募ったのは確かだ。けれど大典太光世は、誰のものでもない。その膝を独占する権利は、前田藤四郎だって有していなかった。
 膝を貸す太刀が許したのだとしたら、信濃藤四郎に腹を立てるのは、筋違いも良いところ。
 それでも納得がいかず、面白くなくて、見ていたくなかった。
 「大典太さんが、悪いんじゃありません」
 あれは前田藤四郎がひとり臍を曲げて、一方的に気分を損ねただけのこと。
 大典太光世に罪はない。むしろ謝罪すべきは、身勝手極まりない短刀の方だった。
 折角の寛ぎの時間に水を差し、嫌な思いをさせてしまった。信濃藤四郎にも後できちんと頭を下げて、許しを請わなければいけなかった。
 首を横に振り、前田藤四郎は膝の前で両手を揃えた。行儀よく腰を九十度に曲げて、心配して追いかけて来てくれた太刀に感謝の気持ちを伝えた。
 嬉しかった。
 そう思うのはいけない事と分かっているが、昂ぶる想いを止められなかった。
「前田……」
「大典太さんの御膝は、僕だけのものではないのに」
 甘え上手の兄ではなく、自分を優先させてくれたのが、堪らなく気持ちよかった。
 こんなにも醜く、嫌らしい部分があったのだと思い知らされた。醜悪な独占欲が胸に溢れ、充足感が全身に満ちた。
 なんと罪深く、汚らわしいのだろう。
 自分自身でも知らなかった賤しい一面を垣間見て、前田藤四郎は自嘲気味に微笑んだ。
 大典太光世だって、こんな風に思われて、さぞや迷惑だろう。詰られる覚悟は出来ており、責めを受けるのは当然だった。
 ただ、嫌われるのだけはいやだった。
 我が儘が過ぎる感情に表情を曇らせ、瞼を伏す。
「分かった」
 ため息交じりのひと言が降って来て、短刀はそっと口角を持ち上げた。
 滲み出る涙を堪えて息を止め、奥歯を噛んだ。全ては自業自得と己を嘲って、溜息を吐くべく唇を窄めた矢先だ。
「お前以外を、座らせなければ良いんだな」
「――え?」
 きっぱり、はっきり、朗々と響く声で告げられた。
 何の迷いもなく、逡巡もなく、躊躇もせずに言い切られた。
 聞き間違いを疑って、前田藤四郎は目を点にした。呆気に取られてぽかんとして、惚けた口をぱくぱくさせた。
 金魚が餌を欲しがるような動きで見上げられて、大典太光世がふっ、と気の抜けた笑みを零した。
「あいつは、動き回るからな。じっとしていない。正直言って、少し迷惑していた」
「大典太さん」
「お前がそんな顔をするくらいなら、これくらい、容易いことだ」
 目元を綻ばせ、手を伸ばしてきた。避ける間もなく頬を擽られて、前田藤四郎は信じ難い気持ちで立ち尽くした。
 夢でも見ているのではないかと疑って、緑に染まった爪で腿を抓る。
「いっ」
「前田?」
 遠慮なく、容赦なく力を込めたら、少しやり過ぎた。
 ザクッと刺さった痛みに呻けば、竦み上がった原因を勘違いした男が慌てた様子で手を引っ込めた。
「すまん、出過ぎた真似をした。俺のような刀に言われても、お前は迷惑だろうに」
 焦っているのか早口に言って、陰鬱な表情を浮かべて下を向く。
「違います。今のは、そうじゃなくて」
 そんな男に身を乗り出して、前田藤四郎は声高に捲し立てた。
 今度こそ、本心から否定した。照れ臭さを笑いで誤魔化して、頬を緩め、目を細めた。
「嬉しい、です」
 胸の中に蟠っていた、黒くもやもやしたものが晴れていく。
 最後に顔を出した感情を素直に言葉にすれば、大典太光世は一瞬固まって、困った風にこめかみを掻いた。
「そうだ。お前に」
「はい?」
「これを」
 目を泳がせて囁いて、腰の辺りをごそごそさせる。
 ちょっとしたものを入れておくのに便利な衣嚢から出て来たのは、前田藤四郎がなくしたあの花だった。
「さっき、廊下に落ちているのを拾ってな。踏むのは哀れだと思って」
 紅色の花弁が緑の茎に絡みつき、螺旋を描いていた。所々で散ってしまい、歯抜けになっていたが、まだ充分愛らしかった。
 それを潰さないよう指先で抓み持ち、男は短刀に一歩近づいた。距離を詰め、茎の先端を少し弄って、惚けて立つ少年の左耳のすぐ上に挿した。
 甘茶色の髪を押し退け、落ちないよう固定された。左右に軽く捻って安定させて、太い指は離れていった。
 そして半歩下がり、惚ける短刀を上から下まで眺めて。
「ああ、思った通りだ。お前によく似合う。愛らしいな」
 満足そうに頷き、笑いかけられた。
 真顔で朗らかに告げられて、前田藤四郎はボッ、と顔から火を噴いた。

まだ知らぬ人をはじめて恋ふるかな 思ふ心よ道しるべせよ
千載和歌集 恋一 642

2016/10/06 脱稿

たぎつ心を せきぞかねつる

 本丸での暮らしは丸一年を過ぎて、二年目へと突入していた。
 季節も一巡し、最初の頃のドタバタぶりが嘘のようでもある。当初は何をするにも困惑が先に立ち、これでいいのかと手探り状態だったが、今ではある程度慣れて、昔ほど失敗しなくなった。
 とはいっても、それは本丸での生活に馴染んだ刀たちの話。
 最近戦列に加わった者は、その限りではなかった。
 顕現した直後は、とにかく色々と大変だ。人に似せたこの身体に馴染むのには、相応の時間がかかる。食事や、睡眠といった諸々を理解するのにも、ある程度の猶予が必要だった。
 誰もが戸惑い、通る道だ。
 新たに仲間になった者たちの困惑は、皆が一度は経験した覚えのあるものだった。
 だから一定の時間が過ぎ、この地での生活にある程度順応した後。
 彼らが次に目を向けるのがどこか、想像するのは簡単だった。
「外が、気になりますか?」
 暫く黙って見ていたが、猫背気味の背中はまるで動かなかった。縁側にどっかり腰を下ろしたまま、微動だにしなかった。
 脚を肩幅より少し広めに開き、腿の上に肘を立てていた。胸の前で組まれた指は長く、骨張り、体格に見合う男らしい外見だった。
 思い切って話しかけてみれば、その広い肩がピクリ、と持ち上がる。反応は瞬時に返されて、眠っていたわけではないのが分かった。
 まず先に背筋を伸ばし、左右で結んでいた指を解いた。そうして腰を捻って振り返った男は、色白というより些か青白い、不健康そうな肌色をしていた。
 長く陽の当たらない場所で生活していたのが、こんなところに影響を及ぼしたらしい。不揃いの黒髪は癖が強いのか、毛先が四方に向かって跳ねて、悩ましげな眼差しを隠していた。
 眉間の皺は深く、簡単には消えない。
 睨むような眼は生来のもので、あちらに悪気があるわけではなかった。
「前田」
「先ほどから、ずっと。眺めておいでですね」
 初めのうちは怯えることもあったが、この頃はすっかり免疫がついた。鋭い眼光にも臆することなく微笑み返して、前田藤四郎は数歩の距離を一気に詰めた。
 隣に行っても良いか許可は求めず、当たり前のように近付いて、困っている雰囲気の太刀に目尻を下げる。大典太光世は瞳を左右に彷徨わせると、場所を譲ろうとして、遠慮がちに右にずれた。
 彼がいたのは、賑やかな大広間から少し離れた場所だった。
 耳を澄ませば、大勢の騒ぐ声が聞こえた。しかしこの先は行き止まりなので、共に暮らす仲間たちはあまりやって来ない。
 静かではないが、騒々しくはない。ひとりで過ごすのにはもってこいの、そういう場所だった。
 屋根が日陰を作り、太陽を隠していた。もっとも庭を照らす陽射しは穏やかで、夏場の険しさはすっかり遠くなっていた。
 暦は秋へと進み、冬へ向かおうとしていた。庭を彩る木々が真っ赤に色付くのも、もう間もなくと思われた。
「この前と、少し。景色が違う気がする」
 あの燃えるような赤は、鮮烈だった。
 あれから一年が過ぎたのかと思うと、驚きが隠せない。今でも鮮明に思い出せる景色に胸を高鳴らせ、前田藤四郎は深く頷いた。
 こんなところでなにをしているのかと思ったが、ただ眺めていただけらしい。
 ひと振りだけでぽつんと座っている姿が寂しげに見えて心配だったが、杞憂だったようだ。
「そうですね。少しずつ、変わって行っています」
 この場に歌仙兼定がいたら、風流が分かるのか、と大喜びしそうだ。情景を想像して目元を綻ばせて、粟田口の短刀は膝を揃えた。
 大典太光世の左隣に正座して、外を眺める。大広間から見えるものとは角度が異なる為か、池の奥に茶室があるように映った。
 手前の桜は緑濃く、まだまだ色を変える気配がない。もみじの葉も青々として、夏の名残を楽しんでいた。
 それでも着実に、季節は移ろおうとしていた。
 咲き誇っていた花々が散り、次の世代へ種を残そうと動き始めているのだと、どう説明すれば伝わるだろう。
 簡潔にまとめるのは難しくて、前田藤四郎は人差し指で顎を掻いた。
 髭など生えるはずのない場所を撫で、横からの視線を感じて瞳だけを上向ける。目が合った男は一瞬ビクッとした後、何も言わずに顔を背けた。
「大典太さん?」
「いや。前田は、・‥‥‥変わらないな、と。思っただけだ」
 挙動不審に目を逸らされて、少し気になった。
 首を傾げていたらしどろもどろに返されて、栗色の髪の少年は目を瞬いた。
 時が過ぎれば、景色は変わる。木々は葉を落とし、虫は卵を遺し、獣は子を産み、育てる。
 だが、彼らは。
「僕は、刀ですから」
 何を当たり前のことを、と笑って、前田藤四郎は笑窪を作った。目を細めて白い歯を見せれば、振り返った大典太光世がなんとも評し難い表情を作った。
 困っているような、憐れんでいるような。
 惑っているような、納得しているような。
「大典太さん?」
「ああ。そうだな」
 何故そんな顔をするのか分からなくて、短刀が僅かに身を乗り出す。
 それを掌で押し留めて、大柄の太刀は立ち上がった。
 ずっと座っていた所為で凝り固まった関節や筋肉を解し、腕を伸ばして軽く揺すった。腰に手を当ててぐーっと背を反らして、天を仰ぎ、草履の裏で地面を叩いた。
 屋敷の床は、地面より一尺ほど高い位置にあった。だが前田藤四郎がたとえ立ち上がったとしても、地上に佇む大典太光世の背丈を越えられなかった。
 短刀と太刀なのだから、当然といえば当然だ。それはどう足掻いても覆しようがないのだけれど、ほんの少し悔しかった。
 広い肩幅も、逞しい二の腕も。
 彼らの兄にあたる一期一振はどちらかと言えば華奢で、身長も太刀としては控えめだ。以前はその背中ばかり見上げていたので、大典太光世が顕現した時には、あまりの違いに驚かされた。
「前田。あちらには、何がある」
「では、ご案内しますね」
 大典太光世とは過去にも縁があり、言葉を交わした事ならあった。だが彼は常に鍵の掛かった蔵の中に置かれ、声こそ聞こえども、姿を見るのは叶わなかった。
 前から知っている相手なのに、本丸で初めて顔を合わせた。紹介を受けたのにお互いきょとんとして、「はじめまして」と頭を下げ合ったのは、笑うに笑えない冗談だ。
 ともあれ、昔は望むだけだったあれこれが、今は好きなだけ出来る。
 庭の奥を指差した太刀に目を眇め、前田藤四郎も立ち上がった。
 床板に圧迫されて凹んだ膝を撫で、靴を取ってくると玄関の方角を指差した。大典太光世は緩慢に頷いて、歩き出した短刀に歩調を合わせようとした。
「すぐに戻りますので。ここで、待っていてください」
「……分かった」
 このまま一緒に、玄関まで行くつもりらしい。だが屋敷の廊下は、そこまで一直線ではなかった。
 そういうところが、彼はまだ理解出来ていない。屋敷の構造を把握し切れていない太刀にクスリと笑みを漏らして、前田藤四郎は自分の足元を指し示した。
 天下五剣に数えられる男は素直に応じて、一度下を見て、首肯した。脇に垂らした両手がきゅっと握られて、表情は捨てられた子犬のようだった。
 ちょっとしたことで不安を覚え、悪い方に考えようとするのは、彼の悪い癖だ。
「すぐですから」
 心配しなくても大丈夫だと繰り返して、前田藤四郎は一歩の幅を広くした。
 小走りに駆けて玄関へ向かって、似たような形や大きさが並ぶ靴の中から、自分のものを探し出す。爪先で引っ掛け、踵まで押し込んで、転がるように外へと出る。
 軒下を抜けると、空の明るさに一瞬目が眩んだ。
 真夏の昼間ほどではないにせよ、陽光は鋭い。
 たまらず右腕を庇代わりにして、頭の中で本丸の地図を広げた。
 本丸は皆が暮らす屋敷を中心に、いくつかの区画に分かれていた。
 広大な面積を持つ畑は雑木林を抜けた北東側に存在し、馬小屋は南東側にあった。刀剣男士たちが鍛練に使う道場は西側で、南側には座敷から望むような光景が広がっていた。
 太鼓橋が架かる池の畔に、茅葺の茶室。遠方には山が連なり、ただでさえ華やかな景色に色を添えていた。
 大典太光世が興味を抱いたのは、その池の先だった。
 この数日で屋敷内をある程度歩き回り、重要な拠点は把握したようだ。となれば次に関心が向かうのは、屋敷の外側だ。
 前田藤四郎も、そうだった。彼が顕現したばかりの頃は仲間も少なく、毎日が失敗と発見の連続だった。
 延々と広がる庭の探索も、幾度となく繰り返した。その結果甘い実をつける木を見つけたり、顔ほどの大きさがある葉を茂らせる植物に驚いたりと、冒険気分で楽しかった。
 近頃はとんと足が遠ざかり、珍発見に胸をときめかせる機会は減った。
 久しく忘れていた興奮を蘇らせて、前田藤四郎は道を急いだ。
「お待たせしました」
 約束通り駆け足で戻れば、大典太光世は軒先で立ち尽くしていた。
 座って待っていても良かったのに、そこまで頭が回らなかったのだろう。声を掛ければあからさまにホッとした様子で、険しかった表情を少しだけ緩めた。
 それにつられて、前田藤四郎も顔を綻ばせた。
「では、参りましょう」
「頼む」
 太刀の手前で足を揃えて止まり、左手を掲げて庭の方を示す。
 大典太光世はそちらをちらりとも見ようとせず、短刀に焦点を定めたまま小さく頭を下げた。
 庭を気にして眺めていたのに、そこまで関心がないのだろうか。もしや無理強いたかと不安になったが、様子を窺う限り、そうとも言い切れない雰囲気だった。
「ここは、色々な音がする」
 感嘆の息を漏らし、大典太光世が呟く。
 歩き出した彼の歩幅はさほど大きくなくて、小柄な短刀に合わせているのは明白だった。
「大勢が、一緒に暮らしていますから」
 屋敷の前を離れて、下草が生い茂る中に出来た細い道を進んだ。ここも昔は一面緑だったのだが、何度も、何振りもが往復するうちに、自然と草が生えなくなって出来た道だった。
 そういう場所が、他にも沢山あった。まるで自分たちの生きざまを大地に刻み付けているようで、ここを通る時、前田藤四郎は少し自分を誇らしく思った。
 両手を広げ、左右に身体を揺らしながら、大典太光世の前を行く。
 振り返った先には俯き加減な太刀と、瓦屋根の大きな屋敷が見えた。
「そうだな。だが、それだけじゃない」
「え?」
 広間では兄弟たちが賑やかに、わいわい過ごしている筈だ。どれだけ語らい合っても話題は尽きず、毎日がとても充実していた。
 思いを巡らせ、遠くなった喧騒に耳を傾けた。すると大典太光世は足を止めて、短刀の前でゆるゆる首を振った。
 きょとんとなった前田藤四郎に目を細め、彼はやおら上を見た。背の高い木々が四方に枝を伸ばし、数えきれないほどの緑がその間を埋め尽くしていた。
 木漏れ日は柔らかで、ゆらゆら揺れるのが美しかった。どこかで鳥が囀って、鹿らしき鳴き声が彼方からこだました。
「……ああ」
 そうか、と納得して、前田藤四郎は肩の力を抜いた。息を整え、瞼を閉ざし、己を取り巻く数多の息遣いに耳を澄ませた。
 地面を這う虫たち、木の実を集める小動物。餌を求めてさまよう獣に、塒へと急ぐ鳥の羽ばたき。
 それらはいずれも、この本丸ではなんら不思議ではない、当たり前に存在するものだ。
 けれどここにいる太刀は、それが得られないでない場所で、長い時を孤独に過ごしていた。
 烏さえ停まらぬ蔵に、押し込められて。
 有り難い霊力と持て囃しておきながら、用済みとなれば封印して、腫物扱いで。
 敬うと同時に畏れられ、遠ざけられた。大典太光世にとって、命の営みというものは、あらゆる面で最も縁遠いものだった。
 死に向かっていた者を救いはしても、その行く末を見届けるのは許されなかった。
 武器でありながら、人を生かす為に使われた。彼の内側にはいくつもの矛盾が、複雑に絡み合って存在した。
「ここは、主君の御力に守られていますから。鳥が落ちることはありません」
「前田」
「あそこに、栗鼠がいますね」
 守り刀として常に主の傍にあった短刀には、その複雑な胸中を紐解く術がない。
 だがせめて、彼が抱える哀しみを減らせたら。そう願って、前田藤四郎は樹上を指差した。
 小鳥を死なせてしまったと、心優しき太刀が二度と悔やむことのないように。
 祈りを込めて、彼が知らないだろう生き物を教えてやろうと声を高くした時だ。
 カサッ、と低い位置で音がした。
 なにかが野の草に触れて、動く。そういう音が響いた。
「――っ!」
 反応は、大典太光世の方が早かった。
「うわ、あ」
 突如脇腹を抱えられて、前田藤四郎は悲鳴を上げた。後ろからぐっと力を込められ、引っ張られて、軽い身体は呆気なく宙に浮き、地表に別れを告げた。
 足の裏が空を蹴り、斜めに傾いた身体が海老のように反った。咄嗟に掴めるものを探して手をばたつかせて、握り締めたものは太く、固く、それでいて暖かだった。
 爪を立てればガリッと刺さる感触があり、耳元で「うっ」と呻く声がした。頑強な牢に閉じ込められて、ジタバタ暴れても枷は外れなかった。
 捕まった。逃げられない。その上背中にぴったり何かが張りついて、首筋を細い糸の束が掠めた。
 荒い息遣いが聞こえた。背後から圧し掛かるようにして、大典太光世が前田藤四郎を抱きかかえていた。
「お、おおっ、おおでん、た、さん?」
 急に抱きしめられて、他者の体温が全身を包み込んだ。今まで嗅いだことのない匂いがして、触れ合った場所から鼓動が流れてくるようで、いきなりの荒々しい仕草に頭が破裂しそうだった。
 いったい、何が起きているのか。
 困惑して、動揺して、目の前がぐるぐる回って見えた。心の準備もなにも出来ていないと、訳が分からないことを考えて混乱の境地に達していた、直後。
 空を切り裂くような、鋭い声が放たれた。
「誰だ!」
 それでハッとして、前田藤四郎は大典太光世の腕の中でかあぁっ、と顔を赤くした。
 蔵入りとはいえ、彼は天下五剣に数えられる美麗、且つ勇猛果敢な太刀。性格は根暗で、悪い方向にばかり物事を受け止めたがる傾向にあるが、戦場では凛と胸を張り、堂々とした佇まいで挑んでいた。
 その男が、眼光鋭く前方を睨んでいた。
 武器を持たず、無防備な短刀を胸に庇って。接近する不審な存在に対し、牙を剥き出しにしていた。
 触れれば斬れる刃の如き鋭さで、全身全霊をかけて前田藤四郎を守ろうとしていた。
「……っ」
 彼もまた丸腰だったが、日頃の癖か、利き腕は腰に伸びていた。掴むものがないと悟った指は固く握られ、拳を形成し、不意打ちに備えて警戒を強めていた。
 見えない敵を射る眼差しは、まるで獰猛な肉食獣だ。奥歯を噛み、腹に力を溜めて、いつでも応戦出来る構えを作っていた。
 練度で言えば、前田藤四郎の方が圧倒的に彼より上だ。新参者の大典太光世より、よほど実戦慣れしていると言えた。
 だのにこの男は、迷わず短刀の守る体勢を取った。条件反射とでも言うのか、後先考えない行動だった。
「大典太さん」
 真剣な眼差しを間近で見せられて、前田藤四郎は息を呑んだ。
 野獣めいた表情は日頃の彼とはまるで別人で、あまりの落差に目が離せなかった。
 背筋がぞわりと震えた。抱きしめてくる力強さに四肢が粟立ち、短刀として懐に抱かれる快感もあわさって、今まで経験したことのない高揚感に襲われた。
 心の臓がどくりと脈打ち、頼んでもいないのに顔が火照った。じわじわ熱が広がって、内側から焼かれているようだった。
「出て来い!」
 大典太光世は声を荒らげ、藪の奥に向かって凄味を利かせた。前田藤四郎を抱えたまま身を乗り出し、大きな拳を横薙ぎに払った。
 ぶうん、と空気が震えた。周囲の草花が一斉に波打って、斜めに倒されて道を作った。
 圧倒される程の怒気が渦を巻き、守られている側の筈の短刀までもが息を呑んだ。背筋にぞぞぞ、と悪寒が走り、萎縮した内臓が胸の中心を圧迫した。
 きゅぅぅ、と締め付けられる衝動に、声のひとつも出せなかった。
 本丸は審神者の結界に囲われ、外部からの侵入を拒んでいる。歴史修正主義者でさえ手出し出来ないと、そんな風に聞かされていた。
 しかし今、大典太光世は敵意を察知し、警戒していた。索敵能力に勝る前田藤四郎がなにも感じなかったのに、だ。
「大典太さん」
 もしや、と想像を巡らせて、彼は掠れる小声で訴えた。己を抱え込む男に向かって手を伸ばし、喉元まで覆う丸衿を掴んで引っ張った。
 精一杯力を込めて、前方を凝視する男の注意を引き寄せた。
 そして。
「……?」
 彼らの三歩先では、緑の藪が左右に踊り、隙間からぴょこっと白い塊が顔を出した。赤くつぶらな瞳で彼らを見詰め、首を傾げるかのように、長い耳を横に倒した。
 全身毛で覆われて、手足は短い。爪は見えず、牙の類も見当たらなかった。
 小振りの鼻をヒクヒクさせて、不思議そうに刀剣男士を窺っていた。言葉は通じず、意思疎通を果たすのは難しかったが、害意がないのだけは間違いなかった。
「え?」
 そんな無害の草食動物に見上げられて、予想を違えた男は絶句した。
 初めて目にする生き物に唖然とし、惚けた顔で瞬きを繰り返す。言葉を失い、凍り付いて、戸惑った様子で目を泳がせた。
 助けを求める眼差しを受けて、前田藤四郎は嗚呼、と小さく頷いた。矢張り、という気持ちが一気に膨らんで、呆れとも感嘆とも取れない、なんとも言い表し難い気分になった。
「兎、です。ね」
「うさ、ぎ」
 その正体を口にして、頬を緩める。
 太刀は鸚鵡返しに呟いて、ぽかんとしながら白兎に見入った。
 一尺に満たない体調に、丸々とした体型で、毛並みはとても柔らかそうだ。細い髭が鼻の動きに合わせて上下に振れて、真紅の瞳がこちらを注意深く窺っていた。
 好奇心たっぷりに見つめられて、刀剣男士を怖がらない。もしや近付いてくるか、と短刀は期待したが、残念ながらそうはならなかった。
 カサカサ、と草が揺れたかと思えば、兎の耳が途端にピンッ、と跳ね上がった。同時に後ろ足でぴょん、と立ち上がって、慌ただしく左右を見回したかと思えば、高く飛び跳ね、茂みの中へと姿を消した。
「ああっ」
 一瞬の早業に、息を殺して見守っていた少年は悲鳴を上げた。
 抱き上げればさぞ暖かく、触り心地もよかろうと期待しただけに、残念でならなかった。
 藪はその後しばらくガサガサ言っていたが、さほどしないうちに静かになった。風で揺れることもなくなって、互いの呼吸ばかりが耳についた。
 吐息が襟足を掠める。
「大丈夫、です。大典太さん。あれは、無害です」
「……そのようだな」
「はい」
 肌を擽る微熱にかぶりを振って、前田藤四郎は硬直したままの太刀の胸を叩いた。
 惚けている男の意識を呼び冷まし、囁く。大典太光世はひと呼吸挟んでから首肯して、遠くを見て、それから胸元の短刀に視線を落とした。
 彼はまだ顕現したばかりで、命あるものの気配を察知出来ても、こちらに害意があるかどうかまでは区別がつかないらしい。戦場であれば現れるのはすべて敵だが、本丸はその限りではなかった。
 猪や狼、野犬の類は危険だから排除しなければいけないが、穏やかな性格の草食動物は、放っておいても問題ない。
 勿論畑を荒らすような輩には、厳しい罰を与えなければいけないが。
 前田藤四郎はここでの暮らしが長いから、兎の接近を悟っても、それが襲って来るとは考えなかった。
「俺はやはり、この程度なのか」
 新参者なら、今はまだ、分からなくても仕方がない。
 だが大典太光世はそうは受け止めず、落ち込んで、声をくぐもらせた。
 とんだ恥を掻いたと赤くなり、奥歯を噛んで鼻を愚図らせた。
「いえ、いいえ。そんなことはありません」
 しょんぼりしながら小声で呟かれ、前田藤四郎は慌てて声を上げた。両手を振って、首も振り、早口に捲し立てた。
 確かに今回は失敗したが、それは誰もが通る道。かくいう前田藤四郎も、最初のうちは蟻一匹にも悲鳴を上げていた。
「今はまだ、分からなくても良いんです。ちょっとずつ、覚えていきましょう。僕も、お手伝いしますから」
 拳を作り、朗らかに笑いかける。「ね?」と同意を求めて小首を傾げてやれば、大典太光世は目を丸くして、遠慮がちに口元を綻ばせた。
「そう、……だな。ありがとう、前田」
 いつもは物憂げに顰められている顔が、ほんの少し和らいだ。
 眉間の皺が薄くなり、陰鬱な雰囲気が遠くなった。
 淡く微笑み、前田藤四郎を見詰めていた。力の抜けた表情で、囁く声は軽やかだった。
 今まで殆ど耳にしたことのない、穏やかな声だった。
 一瞬耳を疑って、短刀はハッと息を呑んだ。至近距離からの微風に背筋が粟立って、遅れて心臓がどくん、と大きく戦慄いた。
 しゃっくりのような音が喉から漏れて、慌てて飲みこもうとするが間に合わない。抱きかかえられたままの体躯が勝手に反応して、びくっ、と大きく跳ね上がった。
「そっ、そうですよ。それにさっきの大典太さん、すごく、あの。格好良かったですし」
「俺が?」
「え?」
 真下から正体不明のものに突き上げられる錯覚に、目が回りそうになった。
 己の挙動不審ぶりを怪しまれたくなくて、咄嗟に口を開いた。深く考えもせずに喚き散らして、その内容に後から騒然となった。
 目の前に大典太光世の顔があった。
 ぽかんとして、無防備にこちらを見ていた。
 太い腕は短刀の背に回り、細い肩を抱いていた。すっぽりと全身を覆うように包み込まれて、体温も、鼓動も、息遣いもはっきりと感じられる距離だった。
 唇の動きも、瞬きに合わせて睫毛が躍る様も。剃り残しの髭の黒点や、髪の生え際までもがはっきりと見て確認出来た。
 息を吸えば、汗を含んだ匂いがした。数いる兄弟たちの誰とも違う、癖のある、けれど不快ではない匂いだった。
 窄められた口が開き、吐息が漏れる。
「前田?」
 低く掠れた声は、聞き慣れた兄のものとはまるで異なる次元にあった。
 心配そうに見つめて来る眼差しも、物言いたげに開閉を繰り返す唇も。
 背を抱く腕も。
 布越しに感じる肉の厚みも。
 温かさも。
 なにもかもが。
「――っ!」
 ボンッ、と破裂したような音が頭の中に轟いた。
 顔から火が出るくらいに真っ赤になって、前田藤四郎は発作的に大典太光世の胸を押し返した。
「どうした、前田」
「ああ、あっ、あ。ああ、あの。あの、あぁぁのっ」
 突き飛ばし、離れる。尻餅をついてそのまま地面を後退して、彼はしどろもどろに喚き散らした。
 なにか言わなければいけないのに言葉が出ず、頭が全く働かない。同じ音ばかりを繰り返して、短刀は両手を無茶苦茶に振り回した。
 自分が口にした台詞に、動揺した。
 意図しなかったひと言に動転して、世界が三百六十度ひっくり返った。
 大典太光世を格好いいと思ったのは、まぎれもない事実だ。しかしそれを、あろうことか本人を前にして、面と向かって言ったことが恥ずかしかった。
 聞き流してくれれば良かったのに、素で訊き返されたのも羞恥心を増大させていた。無意識の発言に否定も出来ず、かといって肯定も不可能で、にっちもさっちもいかなかった。
 胸元を空にした大典太光世が、林檎のように顔を赤くする短刀に戸惑い、眉を顰めた。
「顔が、赤い。虫にでも刺されたか」
「違います!」
 その余りにも的外れな発言の後に手を伸ばされて、衝動的に吠え、前田藤四郎は仰け反って逃げた。
「あ、あの。ぼ、僕……そう、用が。用事を、頼まれていたのでした。早く終わらせないと、なので。先に戻ります!」
「前田?」
「大典太さんは、どうぞごゆっくり!」
 この場を離れる理由を探し、適当にでっち上げて叫んだ。若干詰まりながらもひと息に告げて、大典太光世が怪訝にする中、踵を返して駆け出した。
 服に残る泥を落としもせず、緑溢れる庭に太刀ひと振りを残して、全力で。何度も転びそうになりながら、息苦しさを堪え、脇腹が引き千切れそうな痛みにも耐えて。
 足の筋が攣り、鼻水が垂れそうになった。ぐじ、と擦れば何故か涙で視界が滲んで、彼は道場の裏手で立ち止まり、胸を押さえた。
 バクバク言っているのは、きっと全力で走ったから。
 奥の方が締め付けられるように苦しいのも、全身が火照って熱いのも。
「こんなの、変、です。おかしいです」
 別れ際に見た大典太光世の、寂しそうな眼差しが瞼に焼き付いて離れない。
 今すぐ戻って抱きしめてやりたくて、けれど足が動かなくて。
 数百年の時の中で、ただの一度も経験したことのない感情に襲われて、前田藤四郎は膝を抱えて蹲った。

2016/09/25脱稿

あしひきの山下水のこがくれて たぎつ心をせきぞかねつる
古今和歌集 恋一 491

問はず語りの せまほしきかな

 鳶らしき鳥が、遥か頭上を旋回しているのが見える。それは先ほどからずっと、同じ場所を往復していた。
 羽ばたきを止め、降下して来る様子はない。青空の中に黒い塊が右往左往して、行くべきか否かと迷っている風だった。
「ふ……」
 その理由を推し量って、大典太光世はふっ、と頬を緩めた。
 ただ傍目からは、微笑んでいるようには見えない。険のある目を眇めて、大柄の太刀は小さく肩を疎めた。
 彼の両脇には青々と茂る緑があり、地表を余すところなく埋めていた。見渡す限り一面に広がって、終わりがなかった。
 収穫はもう暫く先と聞いている。地表に出ている蔓や葉ではなく、地中で太る根の部分を食べるのだと、世話好きの短刀が言っていた。
 いったいどういう風に埋もれているのか、まるで想像がつかない。
 地面の中で食べ物が育つのが不思議でならず、奇妙に思えて仕方がなかった。
 いや、短刀たちが丹精込めて育てている芋だけではない。
 球状に葉を茂らせる野菜も、房の中に種を残す植物も、どれもこれも奇怪に感じられた
 刀剣男士は、鉄より産まれし付喪神。彼らの産み主は数多在る刀匠だが、元を辿れば地中深くに眠っていた鉱物に行き当たった。
 砂鉄が精製され、玉鋼となり、更に鍛錬を重ねてようやく刀となる。であればこ地表を埋める土もまた、彼らの同朋というべき存在だった。
「おかしなものだ」
 だが大地に向かって問いかけても、言葉は返ってこない。
 刀などより余程人々の強い意志を浴び、受け継がれてきたものなのに、そこに付喪神は宿らないらしかった。
 なにがどう違うのか、大典太光世には分からない。固い靴底で沈黙する大地を叩いて、彼は今一度、澄み渡る空を仰いだ。
 鳶は諦め、どこかへ去った後だった。見えるのは白い雲の群ればかりで、姦しく鳴いていた鳥の姿は、どこにも発見出来なかった。
 代わりに、別の声が響いた。
「ああ、いた。こんなところに」
 幼い少年の、可愛らしい高めの声だ。息を弾ませ、些か調子外れの音色を奏でて、駆けて来たのは良く知った顔だった。
「前田」
 丈の短い股袴に、黒を基調とした上着を身につけ、背には扇状に広がる外套を羽織っていた。帽子は胸に抱いて、落とさないよう左手でしっかり抱きしめていた。
 残る右腕を前後に振って、走る手助けとして畦を飛び越える。田畑の間を流れる水路を一足飛びに抜けて、立ち尽くす男の元へと急いだ。
 風を受け、短い外套が優雅にはためいていた。額には大粒の汗が浮かんで、屋敷からここまで、休むことなく駆けて来たのが分かった。
 その甲斐あってか、彼は大典太光世の前を行き過ぎそうになった。大慌てで速度を緩め、踵で溝を掘り、二尺ばかりの距離を一歩のうちに詰めた。
 ぴょん、と飛び跳ねて、両足揃えて着地する。その仕草ひとつさえもが愛くるしく、庇護を受けるべき短刀としての正しい姿を見せつけた。
「どうかしたか」
 前田藤四郎はまず息を整え、胸を押さえて深呼吸の後、一旦頭を下げてから帽子を被った。落ちないよう位置を調整して、巻き込まれて余所を向いている毛先を手櫛で梳き、改まって仰々しく腰を折った。
 丁寧な挨拶を経て、ようやく大典太光世を見る。機を誤り、早く問い過ぎた太刀は幾分気まずげな顔をして、まだ息が荒い短刀に眉を顰めた。
 ただでさえ良くない目つきが余計に悪化して、猫背な体格も手伝い、悪い意味での凄味が増加する。
 けれど前田藤四郎は気にする様子もなく、もうひとつ胸を打った後、にこりと微笑んだ。
「このような場所で。大典太さんは、今日は畑仕事ではなかったはずでは」
 探してしまった、と告げて、広々とした畑を見回す。
 今日の当番は現在遠征中で、大所帯の本丸を支える耕作地はほぼ無人だった。
 見回りをする者はおらず、前田藤四郎が来る前は、大典太光世一振りだけ。その彼も鍬や鋤を手にするわけではなく、ぼんやり空を眺めて佇むばかりだった。
 こめかみから頬を伝い、顎へ落ちようとした汗を拭った短刀に、天下五剣に数えられる太刀は鳴呼、と緩慢に領いた。鋭い眼光を天に投げて、屋敷に比べて圧倒的に静かな空間に視線を移した。
「俺のような奴は、烏除けの案山子にしかならんからな」
 病を癒す霊力を重宝がられた名刀も、病に倒れる者がいなければ置物と同じ。否、置物で済んでいた方が、まだいくらか良かったかもしれなかった。
 その強すぎる霊力は、目的を持って処されない限り、周囲に悪影響しかもたらさない。病人がいない時期は厄介者扱いで、蔵の奥に押し込められ、日の目を見る機会はなかなか訪れなかった。
 必要になれば持て囃すのに、そうでなくなれば邪険にして、見向きもしない。
 歴史修正主義者討伐の為に審神者なる者に喚び出されはしたが、未だ練度が低い彼は、本丸の中でも浮いた存在だった。
 求めに応じて訪ねはしたが、戦に出る機会は未だ多くない。
 このままでは蔵に戻されてしまうと考えて、気が滅入ってならなかった。
「それで、畑に、ですか」
 なんとか役に立とうと考えても、出来ることは限られている。
 そうやって悩んだ末に出した答えに耳を傾け、前田藤四郎はぽかんと間抜けに口を開き、間を置いて目尻を下げた。
「大典太さんが見ていなくても、大丈夫ですよ。鳥が寄り付かないよう、陸奥守さんが一日に何度か、空砲を天に向かって撃って、音で脅していますし。新芽や、収穫目前のものには網を架けて、猪用の罠もあちこちに」
「……そう、なのか」
「はい。ああ、でも、大典太さんの御心遣いは、とても有り難いです」
 クスクスと笑みを零し、短刀はこの一年あまりでようやく定まった害獣避けの方法を簡単に説明した。当初はあれこれ試しては失敗の連続で、大変だったが、最近は被害も減り、収穫量は格段に増えていた。
 だがそれは、大典太光世にとっては些か衝撃だった。
 良かれと思ってやったことが無意味だったと愕然としていたら、気付いた前田藤四郎が慌てて礼を言い、頭を下げた。
 どれだけ精巧な罠を仕掛けようとも、獣だって馬鹿ではない。いずれは空砲の音に驚かない鳥が現れても、なんら不思議ではなかった。
 早口で慰められて、太刀は一段低くなりかけた姿勢を伸ばした。猫背を改め、手入れが行き届いている畑を振り返り、前田藤四郎が作った浅い溝を靴底で均した。
「それでお前は、どうして此処に」
「ああ、そうです。早くしないと、冷めてしまう」
 それから抑揚の乏しい声で訊ね、首を捻った。
 途端に短刀はぴょん、と飛び跳ね、胸の前で両手を叩き合わせた。
 言われて思い出した、と顔を赤くし、何に興奮しているのか鼻息を荒くした。独り言を大声で喚いて腕を上下に振り回し、怪訝にしている太刀に向かって手を伸ばした。
「大典太さん、参りましょう」
「前田?」
「危うく忘れるところでした。急がないと」
 言うが早いか、彼は許可を得る前に大典太光世の手を握った。太く、節くれだって長い指を横から攫うようにして掴み、反対側からも包み込んで、大柄な男を引っ張った。
 力では敵わないと知りつつ、引きずってでも連れて行こうという意志が垣間見えた。短刀でありながら実に男らしい判断に、左肩を低くした太刀は目を見張った。
「前田」
 とはいえ、少年の腕力だけでは一歩たりとも動かせない。
 どこへ連れて行くつもりなのかと困惑して、大典太光世は躊躇し、立ち竦んだ。
 それでも粟田口の短刀は、諦めずに踏ん張った。顎を反らし、奥歯を噛んで、必死の形相で戸惑う太刀に抗った。
「大典太さん」
「分かった」
 最終的には、怒られた。
 振り返った短刀に鋭い目つきで睨まれて、男は多々ある疑問は一旦脇に置き、小さく領いた。
 左腕を前田藤四郎に預け、息巻いている少年に従って畦道を進み始める。細い水路をいくつか越えて、雑木林の間の道を抜け、屋敷の裏手へと出て、左へ曲がった。
 台所の勝手口は閉められていたが、誰かが使用中らしく、話し声が聞こえた。八つ時の菓子を準備中なのか、甘い匂いが漂って、香りだけで胸焼けが起こりそうだった。
「今日は、かりんとう饅頭だそうです」
「……そうか」
 餡を詰めた団子を、油で揚げて表面をカリッと香ばしく仕上げた菓子が、前田藤四郎の脳裏に浮かんだ。
 しかし顕現したばかりの大典太光世は、それを見たことがない。当然食べた事もなくて、どう反応すれば良いか分からなかった。
 前田藤四郎が嬉しそうにしているので、きっと良いものなのだろう。その程度の解釈で済ませて、彼は導かれるまま勝手口の前を通り過ぎた。
 総勢五十振りを越える刀が一緒に暮らす屋敷は、とてつもなく広い。特に北側にある居住棟は、度々拡張を繰り返しており、次からは二階建てになるそうだ。
 どうやっても敷地が足りないと、へし切長谷部が頭を悩ませていた。膝丸は兄である髭切と離れ離れになるのは嫌だと五月蝿く、一期一振は弟たちとの共同部屋は譲らないと言って聞かない。
 食事時に交わされる様々な会話を盗み聞いているうちに、屋敷内の状況はある程度把握出来た。知りたくなかった情報まであれこれ得てしまって、時々頭が痛くなるのはご愛敬と言うしかない。
「何処まで行くんだ」
「こちらです」
 格別仲が良い刀たちと、それを良しとしない刀たちとの間で、火花が散っているだとか。
 誰が一手料理上手なのかと競い合い、対立している刀がいるだとか、なんだとか。
 共に暮らす刀が多ければ、問題も多々出てくるだろう。そんな中にいきなり放り込まれた大典太光世は、親しくしている、と呼べる刀が少なかった。
 時期を前後して顕現したソハヤノツルキを除けば、以前に縁があった何振りかの短刀たちくらい。
 その中でも際立って世話を焼いてくれたのが、この前田藤四郎だった。
 蔵の中に閉じ込められている大典太光世を気にかけ、壁越しに沢山話しかけてくれた。溢れ出て止まない霊力が彼に悪影響を及ぼさないかと懸念して、遠ざけようとしたこともあったが、結果的にそれは叶わなかった。
 この地に来て、初めてまともに顔を合わせた。その刀に手を引かれて歩いている、それ自体が不思議で、大柄の太刀は不意に泣きそうになった。
 鼻を啜り、きつく目を閉じる。前田藤四郎は屋敷の入り口に当たる玄関を通り過ぎて、広大な庭園へと足を踏み込ませた。
「前田」
「ああ、いた。良かった。平野、鶯丸さん。お待たせしました」
 大きく弧を描く形で曲がられて、慌てて目を開き、前を見る。
 大広間に近い縁側に座す刀たちに手を振って、粟田口の少年は顔を綻ばせた。
 丹塗りの太鼓橋を持つ池の傍らには、茅葺きの茶室があった。それを眺める格好で大座敷が用意され、その手前にある縁側に、大小の刀が並んでいた。
 濃緑色の髪を持つ太刀に、前田藤四郎とどこか似た雰囲気のある短刀だ。彼らの手にはそれぞれ湯呑みが握られて、傍らには大振りの茶瓶が置かれていた。
 盆の上にはもう二組、湯呑みが用意されていた。それを間に挟む格好で、前田藤四郎は平野藤四郎の隣に陣取った。
「ちょうど、飲み頃です」
「それは、良かったです」
 大典太光世の手を離し、地面から一尺半程の高さにある縁側によじ登り、座る。
 微熱を残す掌を見詰めて、天下五剣のひと振りは困惑に身を揺らした。
「大典太さんも、こちらにどうぞ」
「美味しいお茶が手に入ったので、ご一緒に、いかがでしょうか」
 その戸惑いを察知して、居住まいを正した前田藤四郎が空いている左側を指差した。平野藤四郎も領いて、両手に抱く湯呑みを左右に揺らした。
 円を描くように動かして、零れない程度に中身を見せた。水面は薄緑がかっており、底の方に茶殻が沈んでいた。
 鶯丸が飲んでいるのも、同じものだろう。姿は頻繁に見かけるが、話した回数は片手で足りるほどしか覚えがない相手に躊躇して、大典太光世は渋面を作った。
「大典太さん?」
「いい、のか。俺が」
「はい、勿論です」
 折角の午後のひと時、寛いでいた彼らの邪魔にはならないだろうか。
 朗らかな光景に混じって、場の空気を悪くする恐怖に足が竦んだ。けれど遠慮がちの問いかけに、前田藤四郎は間髪入れず首肯した。
 満面の笑みで返事して、早く座るよう、もう一度傍らの床を叩く。ぽんぽん、と何もない空間で上下する小さな手を見詰めて、大柄の太刀は子犬のような目を遠くへ投げた。
 鶯丸は我関せずの様相で、薄茶を楽しんでいた。
 大典太光世など最初から目に入っていない様子で、のんびりと、且つ泰然としていた。
 それがどうにも拒絶されているように思えてしまい、並んで座る勇気が出ない。
 自分から話しかけることも出来ず、黙って立ち尽くす。すると平野藤四郎が、気を利かせて身を乗り出した。
「鶯丸さんも、良いですよね」
「ん? ああ。俺に遠慮などせず、好きにすると良い。平野、おかわりを貰えるか」
「分かりました。さあ、大典太さんも、冷めないうちにどうぞ」
 右隣に座る男に話しかけ、湯呑みを差し出されて右手で受け取った。自分が持っていた分と共に盆に置いて、四つ並んだ器にそれぞれ茶を注ぎ入れた。
 芳しい香りがほのかに漂い、薄い湯気が微風に煽られながら天へ昇って行く。
 引き寄せられるように半歩にじり寄って、大典太光世は逡巡の末、縁側に腰を下ろした。
 短刀たちのように、よじ登ってから身体の向きを変える必要はない。大柄な身体を窮屈に縮めて、彼は揃えた膝に両手を添えた。
 茶は平野藤四郎の手から前田藤四郎を経て、太刀の元へとやって来た。白色の、底部が窄まって飲み口が広い器を受け取って、居並ぶ三振りを順に眺めてから、恐る恐る唇に近付けた。
 湯気を鼻息で吹き飛ばし、熱さに怯えつつ、音立てずに啜る。
「……ん」
 顕現したばかりの頃、熱々の味噌汁をそうと知らずに飲んで、舌を火傷した。
 驚いて椀を放り投げて、隣にいたソハヤノツルキにぶちまけてしまった記憶は、まだ生々しかった。
 その所為で、熱い物が苦手だ。慎重に舌の先で温度を測り、程よい温さなのを確認してからコクリと喉を鳴らして、続けて二口目、三口目と、豊潤な香りを放つ茶で喉を潤した。
 次第に勢いを増していく飲み方に、緊張の面持ちで見守っていた藤四郎たちの表情も和らいでいく。
 最後の一滴まで飲み干して、大典太光世は驚嘆の表情で息を吐いた。
「美味い」
 食事の際に出てくるのは、白湯ばかり。たまに茶が出てくるが、かなり薄められており、味も香りも殆どしなかった。
 それに慣れていたものだから、素直に驚いた。
 口の中に入れた瞬間、爽やかな香りが弾けて広がり、渋みは全く感じなかった。
 ほんのりと甘く、飲みこんだ後も苦みは残らない。優しい温もりが唾内いっぱいに染み渡り、幸せな気分が胸に満ちた。
 ほう、と息を吐き、無意識に呟く。
 すっかり空になった湯呑みを呆然と見つめていたら、隣からふーっ、とやけに長い吐息が聞こえてきた。
「良かったあ……」
 見れば前田藤四郎が、胸に手を当てて俯いていた。
 緊張の糸が切れ、脱力していた。不安が払しょくされて、安堵しているのが肌で感じられた。
「良かったですね、前田」
「はい。平野が選ぶのを手伝ってくれたおかげです」
 その目尻には光るものがあって、彼は慌てて指で拭い取った。平野藤四郎の言葉に大きく領いて、嬉しそうにはにかみ、花が綻ぶ笑顔を浮かべた。
 それがなんとも眩しくて、大典太光世は騒然となった。危うく落とすところだった湯呑みを握り直して、喜ぶ短刀たちに愕然と見入った。
「わざわざ、……俺なんかの為に?」
 大典太光世は天下五剣に数えられるが、華々しく活躍したわけではなく、蔵で封印されていた期間の方が圧倒的に長い刀だ。本来の用途で用いられることはなく、必要でなくなれば厄介払いで暗がりに追い遣られた。
 だから戦うことでしか己の必要性を証明出来ないのに、練度の低さの所為で戦に出られない。
 本丸で暇を持て余すだけの、役立たずの能無し刀が、こんなにも尽くされる謂れはなかった。
 夢でも見ている気分で、信じ難かった。からかわれているのではと危惧して、目の前の少年たちに疑念を抱いた。
 それが、顔に出たらしい。
 花咲く笑顔が忽然と消えた。己を卑下した男の発言に、前田藤四郎は表情を曇らせ、悔しそうに唇を噛んだ。
「違います。そんな。僕は、大典太さん、だから。僕は――」
 鼻を愚図らせ、顔をくしゃくしゃに歪めて、呻く。
 言葉は中途半端なところで途切れ、そこから先が出て来ない。湯呑みを抱き漬す覚悟で握りしめて、細い肩を震わせて、彼は上目遣いに太刀を睨んだ。
 大きすぎる感情を必死に制御せんとして、顎を軋ませ、耐えていた。爆発寸前の想いを引き留めて、けれど全ては封じ切れず、眼差しから溢れていた。
 今にも泣き出しそうで、見ていて辛い。彼にこんな表情をさせたのは自分と、分かっているのに、大典太光世はかける言葉が見つからず、戸惑うばかりだった。
「前田……」
 平野藤四郎が心配そうに声を潜め、双子のように似通った兄弟の肩を叩く。
 前田藤四郎は大きく頭を振って、拳を作り、それで膝を殴ろうとした。
「甘いものが欲しいな」
「――っ!」
 そこに、場違いとしか言いようがない呟きが紛れ込んだ。
 のんびり、おっとりして、それでいて自分本位な発言だった。雰囲気に流されず、一切空気を読まず、他者に遠慮しない。
 鶯丸のひと言にハッとなって、平野藤四郎は大慌てで領いた。
「え、ええ。ええ。そうですね。今すぐご用意します。行きましょう、前田」
 惚けていた表情を引き締め、何度も領いたかと思えば、前田藤四郎の肩を揺らした。手伝うよう囁き、促し、背中を押して、台所に向かって早足に歩き出した。
 今日はかりんとう饅頭だと言っていた。
 それを貰いに行くのだと想像して、大典太光世はふた振りの背を目で追い、見えなくなったところで姿勢を正した。
 正直なところ、助かった。
 前田藤四郎がどうしてあんな顔をするのかは未だ分からず、どう対応すべきだったのかも見えなかった。
 ホッとして、肩の力が抜けた。短刀の手には大きいが、太刀の手には些か小さい湯呑みの縁をなぞって、彼は暢気に座す男をそうっと窺った。
「……すまん」
 鶯丸のお陰で、窮地を脱した。問題を先延ばしにしただけだが、あのまま重苦しい空気の中にいるよりは、ずっと良かった。
 礼を言い、謝罪の意味で頭を下げた。消え入りそうな小さな声で告げれば、鶯丸は一瞬だけ大典太光世を見て、直ぐに正面に向き直った。
「なんのことか、分からんな」
「鶯丸」
「俺は、菓子が食べたかった。だからそう言った。それだけだ」
 感謝される謂れもなければ、謝罪される理由もない。
 誰かを慮ったわけではなく、気を利かせたつもりもない。自分が思ったから、声に出しただけ。そうはっきり述べて、古備前の太刀は残り少ない茶を啜った。
「ああ、美味い」
 万感の思いを込めて呟いて、天を仰ぐ。
 燦々と照る太陽を軒先に見付けて目を眇め、彼は呆然とする男を振り返った。
 口元に笑みを浮かべ、態度は不遜だった。含みのある眼差しで天下五剣を見詰め、ほぼ空の湯呑みを左右に振った。
「美味いだろう?」
「あ、ああ」
 問われて、大典太光世は急ぎ領いた。茶殻が僅かに残る器の底を一瞥して、短刀たちが残して行った分にも視線を走らせた。
 茶瓶に、あとどれくらい残っているのだろう。
 嬉しそうにしていた前田藤四郎の顔が思い浮かんで、後悔が胸に渦巻いた。
 苦悶を滲ませ、下唇を噛む。険しい横顔に呆れた様子で溜息を吐いて、鶯丸は湯呑みを頭より高く掲げた。
 底に描かれた落款を眺め、横目で盆に並ぶ茶瓶や湯呑みを見る。それらは絵柄が共通しており、最初からひと揃いとして売られていたものだった。
「あんたが来るかもしれないって聞いて、平野たちが万屋に足繁く通って見つけて来た茶だ」
 三池派ふた振りに顕現の兆候があるとの報せが入った日から、本丸はてんやわんやの大騒ぎだった。
 足りない資源の調達に大勢が駆り出され、いつも以上に屋敷内は賑やかだった。短刀たちも例外ではなく、そんな忙しい間を縫って、彼らは頻繁に万屋へと通い詰めた。
 屋敷に戻れば紙を広げ、昔馴染みの刀との再会に備え、共にやりたいことを書き出した。
 この茶会も、そのひとつ。
 縁側に並んで過ごしたいと言ったのは、前田藤四郎だった。
 念入りに準備して、最高の品でもてなそうと考えた。揃いの茶器を用意して、楽しんでもらえるよう、あれこれ策を練った。
 寝る間も惜しみ、ああでもない、こうでもないと検討を重ねた。その結果、ごく少量だけ入荷していた良質の茶葉が手に入り、今日の日を無事迎えることが出来た。
「俺は、そのご相伴にあずかった。いうなれば、お前が来てくれたおかげだな。感謝する」
「あ、……ああ」
 美味な茶を味わい、寛ぎの時を得た。
 特に何もしていないのに、棚から牡丹餅、もしくは瓢箪から駒。幸運が舞い込んだと逆に礼を述べて、鶯丸は唖然とする太刀に目を眇めた。
 思いがけない発言に、大典太光世は緩慢に領き、左手で首の後ろを掻いた。
「そうか」
 自分にはそんな資格がないと思っていた。
 ここ本丸でも歓迎されていないような気がして、卑屈になっていた。
「……そうか」
 病を癒すしか能がない刀だが、鶯丸には感謝された。
 前田藤四郎と平野藤四郎は、一生懸命考えてくれていた。
 胸の奥にぽう、と炎が灯ったようだった。闇の中に一輪の花が咲き、淡い光を放ち、じんわり温かな熱を産み出した。
 ほかほかして、ホワホワした。その癖どうにもむず痒くてならず、鼻の奥がツンと来て、目頭が熱くなった。
「鳴呼」
 これが、嬉しいということなのだろうか。
 勝手に滲む涙を堪え、頭を振って、大典太光世は可愛らしい足音に顔を上げた。
「あ……」
 目が合った。
 長方形の盆を手にした少年が、一瞬怯み、上げていた右足を降ろした。
「どうぞ、鶯丸さん」
「礼を言う、平野。こいつは美味そうだ」
「お茶、すぐに用意しますね」
 その脇を通り抜け、平野藤四郎が膝を折って盆を差し出した。鶯丸は早速並べられていた菓子をひとつ抓み取り、高く掲げて物珍しげに眺めた。
 黒に近い茶色の塊は、指二本で作った輸ほどの大きさで、表面は艶々していた。光を受けて鈍く照り、鼻を近づければ些か焦げ臭い、油で揚げた匂いがした。
 先ほど注ぎ足したばかりの湯飲みが、もう空になっている。気付いた短刀が茶瓶の蓋を開けて、湯を足してくると席を立った。
 動きはてきばきしており、日頃からの慣れが感じられた。
 急に慌ただしくなって、惚けて立っていた前田藤四郎はハッとなった。開いていた口を閉ざして背を戦慄かせて、急ぎ足で来た道を戻る平野藤四郎に助けを求めた。
「待ってください、僕も――」
「前田」
 この場にひとり残していかないで欲しい。
 そういう切羽詰まった感情を露わにした少年に、大典太光世は発作的に声を上げた。
 低い、けれど普段より幾ばくか大きな声だった。
 ボソボソと喋る、いつもの聞き取り辛い口調ではない。それは朗々と響いて、短刀の足を凍り付かせた。
「っ」
 思わずビクッとなった彼に、呼び止めた方も慄然となった。
 後先考えずに行動して、この後どうするか、何も考えていなかった。前田藤四郎は先ほどの件をまだ引きずっており、振り返る姿は心細げだった。
 不安そうで、怖がっている雰囲気が溢れていた。
 彼をそうさせたのは、紛れもなく大典太光世だ。今更遅い後悔に苛まれ、男は力なく項垂れて、唇を噛んだ。
「ああ、美味い茶が飲みたいな」
 そこに再び、空気を読まない独り言が流れて来た。
 かりんとう饅頭を手にしたまま、早く平野藤四郎が戻って来ないかと、鶯丸はそれだけで頭がいっぱいだった。
 他人がどう思おうが、なんと言おうが、気にしない。
 自分がどうしたいか。
 それこそが大事だと、古備前の太刀は婿然と微笑んだ。
 飄々として、掴みどころがない。だが彼の場違い極まる発言のお陰で、緊張が解れた。
「前田」
「はっ、はい」
 長らく喉につっかえていた言葉が、するりと零れ落ちた。滑らかな呼び声に、前田藤四郎ははっとして、反射的に背筋を伸ばした。
 表情は強張ったままで、何を言われるか戦々恐々としていた。その臆して萎縮した表情が哀しくて、大典太光世はしばし迷い、言いかけた言葉を飲んだ。
 嫌な思いをさせてすまなかったと、侘びようと考えていた。
 けれど鶯丸の言葉が脳裏を過ぎって、臆病な天下五剣の背中を押した。後ろから無言で支え、顔を上げさせた。
「あの、……大典太さん?」
 真っ直ぐ、じっと見詰められた前田藤四郎ははっとして、盆に食い込むほどに力ませていた指を緩めた。
「ありがとう」
「え?」
「俺の、為に。いろいろと、……その。嬉しかった」
 そこに、低い声が紡がれた。
 掠れるほどに小さな、けれどはっきりと相手に伝わる声で、朗々と。
 大典太光世は躊躇を踏み倒し、蹴飛ばし、言った。後半は照れが混じり、蚊の鳴くような音量になってしまったけれど、思いはしっかり伝わったはずだ。
 それを証拠に、前田藤四郎は唖然としたまま凍り付いていた。
 目を丸くし、頬を紅潮させて。
 自然と緩む口元を懸命に押さえつけ、肩を跳ね上げ、菓子盆を持つ手は細かく震えていた。
「大典太、さん」
「くっ」
 辛うじてそれだけを口ずさんだ彼の向こうで、聞いていた鶯丸が小さく噴き出す。
 それを横目で軽く睨んで、蔵住まいが長かった太刀は身を乗り出した。
「それで、前田。……その、万屋というのは、どういったところだ」
「え?」
「俺は、まだ。一度も行ったことがない」
 台所に行っている間、ここでどのような会話が交わされていたか、見目幼い少年は当然、知る由もない。
 突然の話題転換に、前田藤四郎は怪訝にしながら首を捻った。黒髪の太刀は間を置くのを嫌い、深く息を吸うとひと息に捲し立てた。
 矢継ぎ早に告げて、廊下に佇む短刀に向かって声を高くする。
 彼が本丸に来た後も、屋敷は相変わらず騒がしかった。直後に新たな刀の顕現が観測されて、これを調査すべく、様々な刀がその時代に送り込まれては、強敵に打ちのめされて帰還していた。
 審神者はそちらに構いきりで、新入りを連れ回す余裕がない。
 未知の空間に強い興味を示した男に、前田藤四郎はぽかんと間抜け顔を作り、直後にぶわっと四肢を震わせた。
 手にした菓子盆を抱きしめて、唇を引き結んだ。柔らかな頼をぷるぷるさせて、双眸を煌めかせた。
 興奮に、顔全体が赤く染まる。
「……駄目、か」
 一方でなかなか返事がもらえないのを不安がり、太刀の表情が僅かに曇った。
 身を引き、猫背になろうとした男に、慌てて畏まって。
「いえ。いいえ。駄目なんかじゃありません」
 少年は大声で叫んで、にかっと白い歯を見せた。
 息を乱し、肩を大きく上下させ。
「喜んで、お供します」
 百点満点の笑顔を浮かべて、前田藤四郎は泣きそうな顔で頷いた。

包めどもたへぬ思ひになりぬれば 問はず語りのせまほしきかな
千載和歌集 恋一 649

2016/09/12 脱稿

めぐり逢ひつゝ 影を並べん

 その日は朝から気だるくて、何をするのも億劫だった。
 原因は分かっている。前日の早朝から夜遅くまで、幾度となく遠征任務に駆り出された所為だ。
 最初のうちは良かったけれど、正午を回った辺りで段々と嫌になった。けれど審神者は許してくれず、日がとっぷり暮れるまで、小柄な短刀を方々に走らせた。
 手短に片付く時もあれば、数時間かかる道のりもあった。馬を使う訳にもいかず、終日立ちっぱなしの、歩き通しだった。
 お蔭で全部が終わる頃には足が棒になっており、真っ直ぐ立つことさえ難しかった。まるで産まれたての小鹿かなにかのようで、ぶるぶる震えて、膝が砕けそうだった。
 食事も満足に喉を通らず、夜が明けた後も体力は回復していない。風呂に入るのさえ後回しにして泥のように眠ったが、全快には程遠かった。
 腹は空いているのに、あまり食欲が湧かない。
 いつもは二、三杯は食べる飯も、今日は箸の進みが遅かった。
 なんとか一杯分は食べきったが、胃の辺りが重かった。食べた直後に朝風呂で垢を落として来たので、それも多少は影響しているだろう。
 湿っている髪の毛を掻き回し、小夜左文字は深々とため息を吐いた。
「つかれた」
 流石に今日は、終日休みだ。内番任務も、免除されていた。
 本当は昼まで寝ていても構わなかったのだけれど、自然と目が覚めてしまった。早起きの習慣をこんなに恨んだことはなくて、気が付けば二度目、三度目のため息が漏れていた。
「おやおや」
 しかもそれを、聞かれた。
 廊下の真ん中に突っ立っていたわけだから仕方がないとはいえ、些か軽率だった。愚策だったと己を恥じて、短刀は堂々とした佇まいの男に視線を投げた。
 紫紺色の胴衣に、灰鼠色の袴を着け、腰には立派な拵えの刀を差していた。淡い笑みを浮かべて、藤色の髪を揺らし、やや大股に床板を踏み鳴らした。
 一瞬のうちに距離を詰めて、小夜左文字の前に立つ。
「そんなに溜め息を吐いていては、幸運が逃げてしまうよ」
 優雅な動きで前髪を梳き上げ、咎めるように告げる。
 貴重な忠告に思わずムッとして、短刀はお節介な打刀に頬を膨らませた。
「もうとっくに逃げ出した後なので、大丈夫です」
「ははっ」
 反射的に言い返し、渋面を作る。
 それのどこが面白かったかは分からないが、歌仙兼定は破顔一笑し、口元を手で覆い隠した。
 歯を見せぬよう笑って、即座に拳を作った。肩の力を抜いて脇に垂らして、その上で腰に据えて胸を張った。
「そういう言い方は、雅じゃないな。お小夜」
「みやび……」
 威風堂々と指摘されたが、その判断基準が分からない。
 どの辺が雅でなかったのか、是非とも講釈を垂れていただきたいところだ。だが生憎と、彼に構う元気は残っていなかった。
 これは彼の口癖のようなものだと勝手に判断して、心の中で整理を着けた。相手をするのも面倒くさくて、厄介な男に掴まったと悔やんでいたら、またしても嘆息していた。
 無意識に「はあ」と、息が漏れていた。
 細い肩を力なく落とす、という仕草も一緒だったので、歌仙兼定は見逃してくれなかった。
「お小夜」
 語気が強められ、目つきも剣呑になった。
 高い位置から睨むように見下ろされて、放っておいて欲しい短刀はゆるゆる首を振った。
「僕が、どういう刀なのか。歌仙はよく知っているでしょう」
 小夜左文字は、義の刀。
 しかしどれだけ話を盛り、飾り立てられようとも、実際のところは山賊への仇討ちに使われた、血濡れた刀であることに違いなかった。
 目まぐるしく主が変わり、望まぬ殺生で穢れた短刀だ。守り刀としての役目を果たすどころか、守るべき主を手に掛けて、刀だけがこうしてのうのうと生き長らえている。
 本丸に住まう刀は様々な経歴を有し、不幸な境遇だったものも多い。だが小夜左文字は、その中でも群を抜いていた。
 彼の兄ふた振りも、稀な来歴を経てここにいる。兄弟三振り、幸福だったとは揃って言い難かった。
 勿論歌仙兼定は、そういった事情を熟知していた。殊に末弟の短刀に至っては、四百年の昔より顔見知りだった。
 この本丸で、小夜左文字について最も詳しいのが彼だ。その男が、小夜左文字から幸運が逃げると口にするなど、ちゃんちゃら可笑しな話だった。
 機嫌を損ねて目つきを鋭くした少年に、打刀は眉を顰め、口を尖らせた。隙間からふう、と息を吐いて腕組みして、長い袂を左右に揺らした。
「勿論、知っている。だがね、お小夜。僕が言っているのは、既に過ぎた時のことではない。これから起こり得ることだよ」
「同じです。僕の行く末に待っているのは、黒い澱みだけです」
 淡々と告げられて、小夜左文字は即座に反発した。
 自分には復讐しかなく、それ以外に求めるものは何もない。きっぱりと断言して、腕を横薙ぎに振るい、打刀を牽制した。
 けれど歌仙兼定は怯むことなく距離を詰め、膝を折った。あと一歩分の空間を残して屈み、息巻く少年へと手を伸ばした。
 刀は装備しているけれど、手甲の類は身に着けていない。彼の両手は空っぽで、中指に結ばれる紐も存在しなかった。
 そんな骨張ってごつごつした手の甲で空を撫で、長くしなやかな指で藍色の髪を掬い上げる。
「歌仙」
「顔色が悪い」
 耳朶ごと頭を挟み持たれて、短刀は苦虫を噛み潰したような顔で呻いた。
 嫌だと言っているのに、聞いてくれない。どこまでも自分本位な打刀に至近距離から囁かれて、小夜左文字は奥歯を噛み、小鼻を膨らませた。
 この男のことだから、短刀が不機嫌なのは体調が悪い所為、くらいにしか思っていないのだろう。
 自分の物言いに原因があるとは、微塵も感じていない。そんなだから伊達の刀と大喧嘩になるし、それ以外の刀からも敬遠されてしまうのだ。
 自信を持つのは良いことだが、限度というものがある。なにもかも自分が正しいと信じて行動していたら、意見が合わない相手と衝突するのは必然だ。
 いったい誰に似たのか、癖があり過ぎる性格に育ってしまった。
 遠い昔、共に日々を過ごしていた頃。もう少し考えて面倒を見ていたら、こんな風にはならなかっただろうに。
「問題ありません」
「そんなはずがない。どこか痛むんじゃないのかい?」
 真正面から見つめられて、穴が開きそうだった。いい加減離れて欲しくて身体を揺らすが、打刀は頑として聞き入れず、逆に距離を詰めて来た。
 前髪が擦れ合い、吐息が肌を掠めた。自然に吹く微風とは異なる熱量にビクッとなって、小夜左文字は話を聞かない男に目を眇めた。
「歌仙」」
 確かに少し怠いけれど、寝込むほどではない。いつもより量が少なかったとはいえ、朝餉だってちゃんと食べた。
 この後は、部屋に戻ってもう一眠りだ。布団は敷いたままにしてあるので、すぐに休める。
 頭は濡れているけれど、放っておいても構わない。起きた時布団がぐしゃぐしゃになっていようとも、髪型がどうなろうと、知ったことではなかった。
 どこかの伊達男のように、鏡の前でうんうん唸ったりしない。そもそも既にみすぼらしい格好をしているのだから、今更髪が跳ねようが、どうでも良かった。
 擦り切れて、所々破れている袈裟は、小夜左文字の心の在り様をも示していた。だから綺麗に身づくろいし、瀟洒に着飾った者たちを前にすると、どうしても引け目のようなものを感じてしまった。
「なにも、問題ありません」
「お小夜、嘘はよくない」
 あまりにも距離が近過ぎて、恐怖めいたものを覚えた。強がって声を荒らげて抵抗するが、歌仙兼定は譲らず、頬を挟む手に力を込めた。
 押し潰されて、息が苦しい。むにゅ、と外側が凹んだ所為で中央部が出っ張って、図らずも短刀の顔は潰れた魚のようになった。
「……ぶっ」
 引き結んでいた唇は上下に開き、口端の窪みが可愛らしい。
 思いがけず愛くるしい表情を目の当たりにして、打刀は堪え切れず噴き出した。
 一方で笑われた方は羞恥に顔を赤くして、本気で男を追い払うべく、爪を立てた。
「いた、た」
「復讐します」
「痛い、痛いよ。お小夜」
 遠慮なく引っ掻かれ、歌仙兼定が情けなく悲鳴を上げた。真っ赤な筋を手首に走らせ、万歳して攻撃から逃げた。
 手の甲にまでざっくり刺さって、半月型の跡がくっきり残った。数分としないうちに消えるだろうが、今は痛くてならず、彼は口を窄めると、ふ~っ、と息を吹きかけて熱を冷ました。
 酷いと睨みつけられても、小夜左文字は何処吹く風だ。そもそも誰が一番悪いのか、と目で問うて、不満げな男を黙らせた。
「まったく。風流じゃない」
「僕はそれで、構いません」
「ああ、でも。さっきよりは、顔色が良くなったかな」
「歌仙?」
 痛めつけられた場所を慰め、愚痴を零したと思えば、不意に声を高くした。
 唐突に話題が入れ替わって、合いの手を返し損ねた短刀は目を丸くした。
 何を言われたのか、一瞬分からなかった。機能を停止した脳細胞に慌てて血液を送り込んで、小夜左文字は瞬きを繰り返した。
 この現身は、本当によく出来ている。手入れ部屋というものがなければ、彼らはそこいらの人間となんら変わりなかった。
 適度な睡眠を必要とし、食事をせねば餓えて干からびる。皮膚が切れれば血が流れて、大なり小なり、痛みが生じた。
 戦闘に特化した存在でありながら、本丸では刀の代わりに鍬を振るい、馬の世話をする。自らの手で野菜を育て、罠にかかった獣がいれば、皮を捌いて肉とした。
 時の政府も、審神者も、何を求めて刀剣男士にこんな無駄なものを与えたのだろう。
 ここで日々を過ごすうちに、復讐への想いが昇華され、薄れていくのを感じる。
 それでは駄目なのに、つい、多忙にかまけて忘れそうになった。
「覚えているかい、お小夜」
 大勢が共に暮らす本丸で、ひとりきりで過ごすのは難しい。
 短刀は粟田口を中心に大勢いるし、三条の今剣はお節介で、我が儘だ。愛染国俊はあれで意外と面倒見がよくて、なにかにつけて輪の中に連れ込もうとした。
 彼らに捕まると、孤独を忘れた。
 それ以外にもあれこれ面倒事を押し付けてくる刀がいて、その筆頭株が、目の前にいる男だった。
「なにを、ですか」
 歌仙兼定は小夜左文字と、本丸に至る前から面識があった。九州の地で、一時期共に過ごしていた。
 当時の彼は未熟な、生まれたばかりの付喪神だった。本体から離れすぎると形を維持できず、大きな霊力の波を受ければ、簡単に消し飛んでしまえるほどにか弱い存在だった。
 それが今や、どうだ。背丈は小夜左文字の遥か頭上を行き、胸板は厚く、肩幅は広い。筋骨隆々として、それでいて動きはしなやかで、水に流れる柳のようだった。
 ちょっと小突いただけで泣きべそをかいていた打刀が、立派な偉丈夫へと成長を遂げた。お蔭で再会した当初は誰か分からず、思い出すのにかなりの時間が必要だった。
 美しく、それでいて少々物騒な号を得て、すっかり自信をつけていた。最早短刀の後ろを追いかけ回す必要はない。
 だのにこの男は、事ある度に小夜左文字の前に現れ、庇護を求めるような真似をした。
「昔、よくこうやってくれただろう」
 幼き頃の彼を、思えば過分に甘やかしすぎた。
 その時の癖が抜け切っていない打刀は囁いて、短刀の丸みを帯びた頬を撫でた。
 先ほどのように抓んだりせず、首を前に傾け、目を閉じた。瞼の縁を長い睫毛で彩って、白くきめ細やかな肌で眼前へと迫った。
 直後にコツン、と骨が当たった。
 軽い感触と、衝撃に脳髄を揺さぶられ、小夜左文字はフッと意識が遠くなった。
 眩暈を覚え、後ろに倒れそうになった。だが、出来ない。揺らいだ身体を支えるように、歌仙兼定の手が肘を掴んでいた。
 引き留められて、逃げられないよう拘束された。力は緩かったが振り解けなくて、短刀は目を見張り、穏やかな微笑を前に凍りついた。
 微熱を含んだ吐息が鼻筋に触れた。ほんのり淡い香りを伴うそれを吸いこんで、彼はカアッと顔を赤くした。
 この微熱も、甘い匂いも、打刀から発せられたものだ。そういったものを体内に取り込んだと認識した途端、何故か急に、居た堪れないような気分に陥った。
「か、かせ」
「熱はないようだね」
 羞恥心が湧き起こり、離れたいと願うのに叶わない。
 肩を揺らして上半身を左右に躍らせたが、歌仙兼定は意に介さず、却って上腕の束縛を強めた。
 逃がさない、と力技で告げて、目を開きもしなかった。表情は落ち着いており、腕に食い込む指先とは違って穏やかだった。
 囁く声は低く掠れ、耳朶に響く。独白めいた言葉は遠くまで響かず、小夜左文字にさえ届けば良いと、そんな雰囲気が滲み出ていた。
 普段の喋り口調とは異なり、安堵にも似た感情が見え隠れした。
「熱、など」
「ああ、そうさ。分かっているよ」
 付喪神である刀剣男士は、現身を得て傷を負うことはあっても、病に倒れることはない。
 風邪を引くことがなければ、熱を出すこともない。食べ過ぎで身体が重くなることはあっても、腹痛で動けなくなるようなことはない。
 これは、戯れ言だ。遠い昔、己らを取り巻く人間たちの真似をして遊んだ、その延長だった。
 赤子が熱を出して寝込んでいる傍で、母親が必死になって看病している。薬を飲ませ、寝かしつけ、額に触れて熱の上がり下がりを確かめる。
 そういうままごとを、強請られるままに繰り返した。何故か小夜左文字が母親役をやる機会が多くて、額を重ね合うこの仕草も、彼らにとっては馴染みあるものだった。
 ところが、だ。
「だったら」
「良いじゃないか。たまには」
 ここの所殺伐とした日々が続いていたから、思い切って童心に返るのも悪くない。
 分かり切ったことを敢えて確かめた男には、いくら苦情を言っても伝わらなかった。
 本当に、いい加減離して欲しいのに、まだ解放されない。熱がないのは既に判明しているのだから、この体勢で居続ける必要も、とっくに失せているというのにだ。
「歌仙」
「ああ、お小夜」
 さっきから妙に頬や、首筋や、喉の辺りが熱かった。
 怪我をしたわけでも、動き回って関節に無理をさせたわけでもないのに、内側からかっかと熱が産まれて、消えなかった。
 背中に汗が滲み、閉じた腋がじっとり湿っていくのが分かる。上腕を掴む手は依然緩まず、それどころか少しずつではあるが、上に向かって移動していた。
 正面を見れば、歌仙兼定の顔があった。
 整った鼻梁、長い睫毛。引き結ばれた唇は薄く、滑らかで、肌は絹のように白い。頬は僅かに朱を帯びて、目尻には筆で緋を入れていた。
 藤色の髪は緩く湾曲し、毛先が軽やかに踊っていた。額を覆う量は少なく、先端に向かって少しずつ色が変化している。それは近くから見ないと気付けないほどの、繊細なものだった。
 髪質は柔らかく、ふわふわで、風が吹けば煽られて逆さを向いた。小夜左文字の針金のような髪とは大違いで、ふっくらしており、触っていると気持ちよかった。
 丁寧に櫛を入れても真っ直ぐにならず、よく枝に引っ掛けては絡ませて、動けなくなって泣いていた。
 そんな無邪気で幼かった付喪神が、時を越えて、すっかり大人びた風貌に変わった。
 昔は、大層可愛らしかった。
 それが今はこんなにも、綺麗で。
 男らしくて。
 凛々しくて。
 艶を帯び、刀にあるまじき色香を匂わせて。
「かせん」
 嗚呼、とため息が漏れた。
 うっとりと見惚れてしまう容姿に、心が蕩けていく。
 力が抜けて、膝が折れ、崩れ落ちてしまいそうな自分自身を意識した。
 そこに。
「――――」
 打刀の唇が、動いた。
 引き結ばれていたものが緩み、小さな隙間が出来た。穴が開いて、暗闇が覗き、引き寄せられるように視線がそこに集まった。
 音は響かなかった。
 窄められた唇が、次に倍の大きさに広がった。白い前歯がちらりと顔を出して、直後に再び、窄められた唇の中に隠された。
 瞬き一回分に等しい、僅かな時間の出来事だった。
「っ!」
 何も聞こえなかった。
 歌仙兼定はなにも語らなかった。
 けれど、分かった。
 音にならない声で、名前を呼ばれた。
 お小夜、と名を紡いだ。
 それを小夜左文字は、鼻先が擦れる距離で見ていた。
 たったそれだけ。
 他愛無い、日常の仕草のひと欠片だった――筈だ。
 しかし、そうはならなかった。
 それで済ませられなかった。
「いやっ!」
「お小夜?」
 衝動的に、短刀は叫んだ。甲高い悲鳴を上げて身を捩り、打刀の手を振り払い、叩き落とした。
 拘束から逃れ、よたよたと後ろへ下がった。摺り足で距離を稼ぎ、荒い息を吐いて、突然の変貌に戸惑う男に喉を引き攣らせた。
 歌仙兼定は呆然として、打たれた手を宙に投げた。届かないと知りながら腕を伸ばして、虚空を掻き、短刀を引き寄せようとした。
 小夜左文字自身、吸い寄せられそうになった。見えない糸に絡め取られ、自分からその胸に飛び込みたい衝動に駆られた。
 だのにそれを、身体が拒んだ。
 心が甲高い声で泣き叫び、溢れる羞恥に爆発しそうだった。
「お小夜、どうしたんだ。急に」
 心臓が爆音を奏で、平素の倍の速度を記録した。
 頭の中で銅鑼が鳴り響き、キーンと五月蠅い耳鳴りに血管が破裂寸前だ。視界が歪み、眩暈がして、地震でもないのに足元が揺れていた。
 内臓が揃って萎縮して、圧迫された肺が苦しい。呼応するかのようにきゅん、と下腹部が窄まって、内股になって膝をぶつけ合わせた。
 奥歯がカタカタ鳴って、息を吸うのと、吐くのがほぼ同時だった。呼吸ひとつまともに出来ず、爪先から駆け上る電流に背筋が粟立ち、産毛が逆立った。
 背筋がゾワゾワして、寒いのに、熱かった。
 相反するものが同時に存在して、鬩ぎあい、火花を散らしていた。
「え、あ……」
「お小夜?」
 前方では男が戸惑いに眉を顰め、渋面を作っていた。頻りに首を捻り、困惑を隠そうとしなかった。
 だが小夜左文字にだって、何が何だか分からない。目の前に佇む男が急にきらきら輝いて見えて、甘い香りが強まり、短刀を包み込んだ。
 無意識に喉を鳴らし、緊張に頬を強張らせる。
 眉を顰める打刀の口元に視線が集中して、逸らしたいのに、出来なかった。
「いったい、どうしたんだ。お小夜。顔が赤い。まさか、本当に熱が」
「いや、です。触らないでください」
「お小夜?」
 これまで不思議とも思わずに眺めて来たものが、突如百八十度入れ替わった。
 歌仙兼定の顔を、どうしてだかまともに見返すことが出来ない。こんなことは初めてで、小夜左文字は狼狽激しく叫び、追い縋る手を振り払った。
 後ろへ逃げて、肩で息をして、呆然と座り込む男に鼻を愚図らせる。
「お小夜……」
「っ!」
 困惑に彩られた男の声色が、四肢をぞわっと波立たせた。
 当惑に揺れる眼差しに、胸の奥がズキリと疼いた。
 身体のどこもかしこも熱くてならず、顔は火照り、倒れそうだった。
 まるで長時間湯に浸かり、逆上せた時のようだ。くらくらして、なにも考えられなくて、頭の中は真っ白だった。
 おかしくなってしまった。
 キリキリ引き絞られるように痛い胸を抱え、短刀は顔を引き攣らせた。ドッと汗が噴き出して、居ても立ってもいられなかった。
 このままここに居続けたら、死んでしまう。
 それくらいの恐怖に襲われて、彼は爪先で床を蹴り飛ばした。
「お小夜、どこに」
「来ないでください!」
 ぴょん、と跳ねて、素足のまま庭に降りた。膝を曲げて着地の衝撃を吸収させて、次の瞬間には脱兎の如く駆け出した。
 後ろから歌仙兼定の怒号が響いたものの、振り切った。甲高い声で喚いて、追いかけようとした男を牽制した。
 茹で蛸のように真っ赤になって、行き先も決めないまま庭を走った。道のりは滅茶苦茶で、右に、左に何度も折り返しては、同じ場所を往復したりもした。
 やがて力尽きて、楠の根本に蹲った後も。
「な、ん……なの」
 溢れる唾液を飲み干して、呻く。
 未だ心臓は爆音を奏で、心は静まらず、荒波に呑まれて彷徨っていた。
 目を瞑れば慣れ親しんだ男の顔が、今朝までとは違う色合いで現れた。なにも変わっていないのに、何もかもが違って見えて、鼓動は少しも休まらなかった。
「僕、は。どうなってしまったの」
 自問自答するが、答えは出ない。
 甘く名を囁かれる幻聴に背を撓らせて、小夜左文字は身体中に渦巻く熱にきつく目を閉じた。

君にいかで月にあらそふ程ばかり めぐり逢ひつゝ影を並べん
山家集 恋 629

2017/05/13 脱稿

鴛鴦棲みけりな 山川の水

 良い天気だった。
 朝から雲ひとつない快晴で、まさに洗濯日和と言わざるを得ない。風は強すぎず、かといって弱すぎず。頬を撫でる感触は柔らかく、心地よかった。
 これほど過ごし易い日は、一年にそう何度もない。
 それが分かるのか、屋敷中の世話好きな刀たちが、早い時間からあちこちを駆け回っていた。
 掃除に洗濯、そして布団干し。
 雨戸を開けて縁側に出し、充分過ぎるくらい日光を浴びた布団はふかふかだ。
 今宵は、さぞや良い夢を見られるだろう。まだ明るいうちから想像して、小夜左文字は口元を綻ばせた。
 南に面した縁側を確保して、何度も表面を叩き、表裏を入れ替えた。埃を払い、綿に空気を入れて、全体を暖めた。
 ここしばらく曇り空が続いたので、布団を干す機会はなかなか得られなかった。
 そうしている間になんだか湿って、しんなりしてしまったが、それも今日限りだ。
「急げ、急げ」
 あとは陽が翳る前に回収して、部屋へ運ぶだけ。
 西向きに移動を開始した太陽を庭木の向こう側に見付けて、彼はおっとりした足取りを速めた。
 一応布団に名前は書いておいたが、心無い者がこっそり拝借し、交換してしまっているかもしれない。実際前に、そういう小狡い真似をした刀がいて、へし切長谷部にこってり絞られていた。
 あの時ほど、御手杵が小さく見えた日はない。ちょっと魔が差しただけで、槍自身も深く反省しており、以来このような事件は起きていないが。
 本丸に集う刀剣男士の性格は千差万別で、働き者がいれば、怠け者もいる。万年床の刀がいれば、毎日きちんと畳んでいる刀もいた。
 御手杵は、頻繁に布団を干す方ではなかった。そして少々黴臭く感じ始めた矢先、やや小ぶりながら、陽を浴びて白く輝く布団を見つけた。
 これ幸いと、うっかり手を伸ばしたくなることはあるだろう。小夜左文字だって、遠征中の短刀のために残された菓子を前に、何度手が出そうになったことか。
「あった。よかった」
 ともあれ、布団交換事件はあの一度きりだ。
 だが念のためと足早に角を曲がった彼の目に、ふかふかに膨らんだ敷き布団と掛け布団が飛び込んできた。
 縁側のこの場所は、屋敷の中でも数少ない、ほぼ一日中陽が当たる一帯だ。一刻程前に裏返しに来た時には、狭い空間を奪い合い、何振り分かの布団がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
 けれど今は、かなり数が減っていた。
 気忙しい刀が、早々に引き揚げていったのだろう。夕方に向けて夕食の支度や、風呂の準備などがあり、長く放置できない理由があったのかもしれない。
 折角温まった布団だ、夜気に晒して冷ましたくはない。
 小夜左文字が道を急いだのだって、同じ理屈だ。
「……あ」
 これで、あとは運びやすいように小さく畳み、抱えて部屋へ戻るだけ。
 そう思って足取りを緩めた少年は、近付くにつれて違うものまで見つけてしまい、眉を顰めた。
 怪訝にしながら目を眇め、布団の上にある塊に渋面を作る。
「太鼓鐘貞宗」
 衣装と布団が同系色だったので、遠くからだと見分けがつかなかった。
 まさかの存在に肩を落として、小夜左文字は不満も露わに口を尖らせた。
 群青色の髪に金の瞳の短刀が、よりによって彼の布団で丸くなっていた。両手足を折り畳み、母胎で眠る胎児のようになって、すやすやと、機嫌良さそうに眠っていた。
 両側にはもうひと組ずつ、布団が干されていた。
 どちらも短刀のものよりやや大きめで、打刀以上が使用しているものだと分かる。
 そちらの方が面積が広く、寝心地も良さそうだ。だのにどうして、彼は真ん中を選んだのか。
 派手好きで、目立ちたがり屋の伊達男は、どんな時でも輪の中心に陣取ろうとした。それがよもや、こんな時にまで発揮されようとは思わなかった。
「どうしよう」
 あどけない寝顔は、熟睡中と教えてくれた。瞼は左右とも固く閉ざされ、黄金色の双眸は小夜左文字を映さなかった。
「んむ、う~」
「太鼓鐘」
 その時、太鼓鐘貞宗が顔を顰めた。気配を察したのか小さく呻き、枕元から見守る短刀を期待させた。
 即座に名前を呼んで、目覚めを促す。
「すう……」
 しかし残念ながら、彼はすぐに緊張を解し、だらしない寝顔に戻ってしまった。
 ふにゃ、と砕けた笑い方は、眠っている時ならではだろう。喜怒哀楽が激しい短刀だが、ここまで気の抜けた表情は珍しく、見ていて愛らしかった。
 かといって、このまま放置するわけにはいかない。
 もう半刻もすれば、太陽は地平線に沈む。昼間はかなり暖かくなってきているが、そのままの調子で夜を過ごすと、痛い目に遭わされた。
 小夜左文字だって、布団を回収したい。それも出来るだけ平和的に、穏便な手段を選びたかった。
「起きてください、太鼓鐘貞宗」
 力技で退かすのは容易だが、絶対に後で文句を言われるに決まっている。
 なにせ太鼓鐘貞宗は、とにかく五月蠅い。元気が良い、とも言い換えられるが、あまり目立ちたくない身としては、彼の存在は少々鬱陶しかった。
 ひとりで庭を眺めて楽しんでいるのに、退屈しているのだと勝手に解釈して、あれこれ構ってくるのは迷惑だ。
 何度となく説明しているのに、まったく耳を貸してくれない。悪気があってのことではなく、完全に善意のつもりでやっているからこそ、邪険にし辛くて、困らされた。
 燭台切光忠や鶴丸国永を味方に付け、あれこれ口うるさく押しかけて来られるのは、避けたい。
 そういう事情から小声で呼びかけてみるものの、眠りは深く、起きてくれる気配はなかった。
 日当たりが良い上に、昼寝するのに最適な布団まで干してある。
 誘惑には、抗い難い。
 誰の布団か確認した上での行動なら計画的だが、そこまで考えていないだろう。たまたま目にした光景に誘われて、ふらふらと倒れ込んだらしく、縁側の下には天地を逆にした靴が落ちていた。
「まったく、もう」
「んへぇ、えっヘヘ~」
「変な顔」
 見るに見かねて腕を伸ばし、揃えてやった。
 それを見ていたわけでもないのに笑う、だらしない表情が滑稽だった。
 誉れをもらって、花が散っている時のようだ。上機嫌で、嬉しそうで、とても楽しそうだった。
 どんな夢を見ているか気になるが、そこに入り込む余地はない。肩を竦めて嘆息して、小夜左文字は無事だった掛け布団を先に回収した。
 運びやすいよう三つに折り畳み、端を揃えて板敷きの間の隅に置いた。斜めになった陽光が奥の方まで入り込んでおり、灯明がなくとも室内はまだまだ明るかった。
「起きない」
 表面の埃を払い、綿がたっぷり吸いこんだ空気をほんの少しだけ押し出す。
 短刀の動きはひとつひとつが大きく、足音も五月蝿かった。振動は床板を伝って、太鼓鐘貞宗にも届いている。だのに暢気な少年はぐうぐうと高いびきを継続して、悠然と寝返りを打った。
 神経が図太いというのか、堂々として懐が広いと言うべきか。
 ちょっとした揺れや、物音でも目が覚めてしまいがちな身としては、羨ましい限り。
 いっそこのまま放置して、いつになれば起き上がるか、観察したい気にさせられた。
 長く伸びた影を床に落とし、爆睡中の少年を真横から見下ろす。
「なにやってんだ、小夜」
「愛染国俊」
 それは些か奇妙な光景であり、やって来た短刀が怪訝にするのは必然だった。
「太鼓鐘貞宗が、邪魔で」
「あー、あっはっは。なんだそりゃ。大変だな」
「ひとごとだと思って」
 振り返り、足元を指差しながら状況を端的に説明する。
 これが虎や狐であったなら、余裕で押し退けられた。ところが刀剣男士相手ではそうもいかず、苦慮していると伝えれば、赤髪の短刀は腹を抱えて噴き出した。
 豪快に笑われて、少し嫌な気分になった。苦虫を噛み潰したような顔をしていたら、彼は鼻の頭を掻き、立ち尽くす小夜左文字の前で膝を折った。
 左隣に干されていた布団をぐるぐる巻いて、運びし易い大きさにして小脇へ抱え込む。
「あなたのだったの」
「ん? いや、これは明石の。あいつ、放っておくと、ずーっと敷きっ放しだからさ」
 短刀が使うには少々大きいと思っていたので、意外だ。
 驚いていたら事情を簡潔に説かれ、成る程と納得するしかなかった。
 来派の太刀は、蛍丸や愛染国俊の保護者を自称しておきながら、実際には世話される側だ。自分は怠け者だと公言し、江雪左文字とは違う理由で戦いたがらなかった。
 あの男の布団なら、この大きさでも不思議ではない。
 きっと朝早くに明石国行を叩き起こし、頼まれてもないのに回収したのだろう。
 なんだかんだで面倒見が良い短刀に小さく首肯して、小夜左文字は夢の世界を満喫しているもう一振りを振り返った。
「鼻でも抓んでやれば、すーぐ起きるって」
「あとが、面倒で」
「ひとの布団で勝手に寝てるやつが悪いんだろ。気にしなくても良いんじゃねえの?」
 その寝顔を横から覗き込み、愛染国俊があっけらかんと言い放つ。
 渋面を止めない短刀を呵々と笑って、彼はくるりと踵を返した。
 来派の三振りは、なんだかんだで仲がいい。自称保護者を起こす際も、遠慮などしないのだろう。普段から行動を共にして、相手の性質や気質を十二分に理解していた。
 そんな近しい間柄なら、小夜左文字だって遠慮しない。
 そう出来ないのは、太鼓鐘貞宗と言うほど仲が良くないからだ。
 彼はいつも、燭台切光忠と一緒だ。鶴丸国永とも親しい。単独行動を起こしがちな大倶利伽羅に絡んで、鬱陶しがられつつも、共に任務に当たっていた。
 小夜左文字はそういう彼の積極性が苦手で、邪険にしがちだった。
 これまでのこと、そして今後のことを思うと、無理に起こすのは気が引けた。
 じわじわ西の空へ傾く太陽を一瞥して、溜め息を零す。
「……どうした」
 力なく項垂れていた短刀の背中に、再び声がかかった。
「一匹りゅ……大倶利伽羅、さん」
 今度は低めの声で、振り返るより先に名前が出た。脳裏に思い浮かべたばかりの男の登場に驚き、小夜左文字はうっかり勝手につけたあだ名を口にしそうになった。
 不意打ちだったので、油断した。
「ん?」
 なにか変な単語が聞こえた、とばかりに眉を顰められて、彼は狼狽を隠して首を横に振った。
 愛想笑いで必死に誤魔化し、後退を図って踵から布団に乗り上げた。低い段差に躓きかけて、ふらつく身体を懸命に留めた。
「あ、ぶな、い」
 あと少しで、大の字になっている太鼓鐘貞宗を踏むところだった。
 そんなことをすれば、飛び起きて怒鳴られるだけではすまない。一年先までねちねち言われ、事あるごとに槍玉にあげられるのは確実だ。
 想像するだけで気が重くなって、そうならずに済んだ幸運に感謝した。だが一番の不幸が解消されない以上、手放しでは喜べなかった。
 こんなになってもぐうすか寝ている短刀に呆れ、ふと思って大倶利伽羅を仰ぐ。
「なんだ。貞か」
 あちらも丁度、縁側に寝転がる存在に気付いたところだった。
 さほど興味ない素振りで呟いて、色黒の打刀は緩慢に頷いた。小夜左文字の布団を迂回して反対側に向かい、干してあったもうひと組の布団の前で身を屈めた。
 あちらは、彼のものだったらしい。大胆に半分に畳んで、その上に掛け布団を積み重ねた。
「それは、お前のか」
「ええと、……はい」
 彼は短刀より身体が大きいので、そこまで小さく丸めずとも持ち運びが可能だ。
 どうにもならない体格差を恨めしく思いつつ、頷き、小夜左文字は打刀の意外な反応に首を捻った。
 大倶利伽羅と言われて真っ先に頭に浮かぶのは、愛想の悪さと、付き合いの悪さだ。
 声を掛けられても無視が当たり前で、返事は期待するだけ無駄。食事こそ大広間で食べるものの、雑談には一切混じらず、宴にもほぼ顔を出さない。
 燭台切光忠や鶴丸国永がなにかとお節介を焼いているものの、それに対する感謝の言葉は、一度として耳にした記憶がなかった。
 そんな男が、珍しく話しかけて来た。
 太鼓鐘貞宗が寝こけている布団を指し示して、彼は肩に担いでいた布団を床に降ろした。
「悪いな。貞が迷惑を掛けた」
「いえ、そんなことは」
「いい。起こせばいいんだな」
 板張りの部屋の、小夜左文字の掛け布団近くに置いて、数歩で戻ってきた。困っている刀がいるとも知らず、暢気に眠っている短刀の代わりに短く詫びて、大倶利伽羅は膝を折ってしゃがみ込んだ。
 彼らは伊達の屋敷で、長らく一緒だったと聞いている。
 共に過ごした時間から来る親しみめいたものが、微かではあるが、彼の口調から感じられた。
「じゃあ、大倶利伽羅さんの布団は、僕が運びます」
 身を乗り出し、寝顔を覗き込む打刀にぴんと来て、先回りして提案する。
 だが小夜左文字のひと言に、大倶利伽羅は怪訝に眉を顰めた。
 言葉にはしないが、なにを言っているのか、と表情が問いかけて来た。それがやがていつも通りに戻って、数秒を待たずに力ない溜め息へと変わった。
「どうして俺が、貞を運ぶんだ」
「違うんですか?」
「慣れ合いはお断りだ」
「はあ……」
 面倒臭そうに首を振られ、呆気に取られた。てっきり太鼓鐘貞宗を部屋まで運んでやるものと思い込んでいたので、予想を裏切られて唖然となった。
 こんなことまで慣れ合いの一種に加えるのも、彼らしいと言えばそれまでだ。目にかかる黒髪を掻き上げて、大倶利伽羅は間抜け顔の昔馴染みに目を眇めた。
「紙か、布きれはあるか」
 そうしてやおら問いかけられて、小夜左文字はぽかんとなった。
「紙? でしたら」
 いったいどうするつもりなのか、打刀の頭の中が全く見えない。
 八つ時の菓子を包んでいた懐紙なら、偶然だが、持ち合わせていた。あとで捨てるつもりだったものを差し出せば、色黒の打刀は黙って受け取り、一瞬悩んでからそれを半分に引き裂いた。
「良かったか」
「構いません」
 ふたつに破いてから、所有者に許可を求める辺りも、彼らしいのだろうか。
 案外抜けたところがあると心の中で苦笑して、小夜左文字は細くなった紙を捩る手元に見入った。
 彼が作ったのは、こよりだ。紙を細く巻き、糸状にしたものだった。
 それを右手に構え、太鼓鐘貞宗の顔へと近づける。
 不穏な気配を一切関知せず、天真爛漫な短刀は暢気に昼寝を楽しんでいた。
 こんな時間から爆睡していたら、夜眠れなくなるのではなかろうか。他人事ながら心配していた矢先、大倶利伽羅が紙縒りの先端を、短刀の右の鼻に挿しこんだ。
「ふえっ」
「うわ」
 元々柔らかいものなだけに、突き刺さったりはしない。
 それで粘膜をこちょこちょと刺激されて、朗らかだった寝顔は一瞬で顰め面へと変わった。
 見ているだけの小夜左文字まで、背筋が寒くなり、鳥肌が立った。反射的に自分で自分を抱きしめて、容赦なく鼻の穴を擽る打刀を信じ難い目で見つめた。
「ふっ、ふへ、ひゃ」
 大倶利伽羅はといえば、いつも通りの無表情で、紙縒りを操る指先に迷いはなかった。
 太鼓鐘貞宗の変化を凝視し、擽る場所を頻繁に変更した。反応が良い場所を探って抜き差しして、ほんのり湿った粘膜を刺激し続けた。
 そうして、一分と経たず。
「っふ、ふ……ふあ、ふベーっくしょう!」
 幾度となく鼻を弄ばれた少年は、盛大なくしゃみと共に布団の上で飛び跳ねた。
 勢いよく身体を起こして、大量の唾と鼻水を彼方へ飛ばした。肩幅に広げた両膝の間に左手を沈めて、鼻腔に残る感触を嫌がり、右手で顔面を捏ね回した。
 これが猫だったなら、可愛らしい仕草だったといえよう。
 肉球を舐める獣の図と比較して、小夜左文字は惚けた顔で伊達所縁の刀たちを見詰めた。
「っくし、ふあ、くしゅ。ぷしゅ。ふべ。くはあああ」
 まさかこんな展開が待っているとは、夢にも思わなかった。
 叩き起こされた方も絶対にそうで、太鼓鐘貞宗は何度もくしゃみを繰り返し、しつこいくらいに顔を擦った。
 掌だけでなく手首、果ては肘の近くまで使って、鼻の奥に残るむず痒さを必死に追い出そうと試みる。その一部始終を見送って、大倶利伽羅は先端が濡れた紙縒りを群青色の紙に突き刺した。
「な、……なんてびっくりな夢だったんだ」
 対する短刀はまだ意識がはっきりしないのか、呆然としながら呟いた。増えた髪飾りには構わず、震える両手を握りしめ、血色のいい唇を戦慄かせた。
「腹いっぱい、みっちゃん特製どら焼きを食べていたら、急に腹が膨れて止まらなくなって。それでも手が止まんなくて、したらどんどん風船みたいに丸くなって。そんでくしゃみと一緒に、食べたどら焼きが、全部外に飛び出して――」
 自分の世界に浸り、早口に捲し立てる。
 夢だからこその奇想天外な物語を体感していたらしく、小夜左文字は苦笑を禁じ得なかった。
「……馬鹿か」
 大倶利伽羅はまたもため息を吐き、簪のように刺さっていた紙縒りを引き抜いた。身近で動く影にようやく外界との接点を見い出して、太鼓鐘貞宗はぽかんとしながら左右を見回した。
「あれ?」
「やっとお目覚めか」
 素早く瞬きを繰り返し、枕元に座る打刀をじっくり見入る。
 不思議そうに首を傾げた彼に嘆息を追加して、大倶利伽羅はかなり草臥れた紙縒りを問答無用で突き付けた。
「ふぁくしゅっ、……って、ああああああ~!」
 軽く鼻を擽られ、くしゃみひとつで現実を思い出したらしい。
 目覚めた理由に行き当たった少年は素っ頓狂な声を上げ、不敵に笑った打刀に拳を振り上げた。
「伽羅ちゃんってば、ひでえ。せっかくひとが、ぐっすり寝てたのに~!」
 但しその一撃は、目標のかなり手前で空を切った。
 初めから殴りかかるつもりはなかったようで、太鼓鐘貞宗の座る位置は変わらない。小夜左文字の布団に陣取ったままジタバタ暴れ、癇癪を爆発させた。
 昼寝をするつもりでそこに横たわったのには、間違いないようだ。誰の布団かは確認せず、大きさが適当なものを選んで、今の時間まで満喫したらしい。
 限りなく自分本位の意見で、布団の所有者が迷惑するとは考えていなかった。困り果てていた短刀に助け舟を出した打刀を怒鳴り散らし、反省の色は皆目見当たらなかった。
 頬を膨らませ、まだ少し眠そうな金の目で大倶利伽羅を睨む。
 拗ね顔を披露された青年は力なく肩を落とし、紙縒りを結んで太鼓鐘貞宗の手に握らせた。
「邪魔だ」
 そうしてひと言ぼそりと言って、この場にもう一振りいると彼に教えた。
「はああ~~? ……あ、小夜だ」
 最初こそ反発していた短刀だが、振り向いて小夜左文字に気付いた途端、険しかった表情を緩めた。大粒の目を丸くして、立ち尽くす仲間をじろじろ見た後、ハッとして座り込んでいる布団を叩いた。
 無言で指を差されて、同じく無言で首を縦に振る。
 途端に太鼓鐘貞宗は顔色を悪くして、跳ねるように布団から退いた。
「ご、ごめん。ごめんな、小夜。気がつかなかった」
 大倶利伽羅の横まで下がって、両手を揃えて頭を下げた。土下座とまではいかないながらも、姿勢をかなり低くして、存外長居してしまったのを謝罪した。
 彼が此処に辿り着いてから、太陽はかなり西に進んでいた。その時にはなかった木立の影が軒下に迫り、あれだけ暖かかった布団はかなり冷たくなっていた。
 ふっくら膨らんでいたのも、相当凹んだ。
 申し訳ないことをしたと詫びて、太鼓鐘貞宗は縋るような目で小夜左文字を見た。
「……べつに。もう、いいです」
「ほんとか?」
「はい」
「は~、よかった~。小夜はどこかの誰かと違って、優しいな~」
「無理矢理言わせてるだけだろう」
「ふーんだ」
 雨の日に外へ捨て置かれた子犬のような目つきに、あまり強く出られない。
 日暮れまでに退いてもらえたのだから良しとすれば、途端に短刀は大はしゃぎして、左に控えていた打刀にはそっぽを向いた。
 ぷんすか煙を噴いて、変な起こし方をした恨みは忘れていない、と息巻く。小夜左文字としてもあの手段は意外で、まさかのひと言に尽きた。
「力尽くが良かったか」
「どきっ。いやあ、それはそれで……なあ?」
「え?」
 大倶利伽羅のことだから、首根っこを掴まえて平手打ちくらい、簡単にやりそうだ。
 ところがそういった暴力には訴えず、一応は平和的なやり方だった。少々強引とは思ったが、誰も傷つかず、まだ穏便な手法だったと言えるだろう。
 太鼓鐘貞宗に水を向けられた小夜左文字は、返答に窮し、目を泳がせた。
 同意を求められても、頷いて良いのか、首を振るべきか分からない。流れに乗って相槌を打つのも難しく、硬直していたら、見かねた大倶利伽羅が短刀の左耳を抓り、引っ張った。
「いだだだだ、痛い。千切れる、ち~ぎ~れ~る~~」
「少しは反省しろ」
 眠っている彼を起こした時とは違い、やり口が急に乱暴になった。
 大声で悲鳴を上げる太鼓鐘貞宗をねめつけて、色黒の打刀はその頭をぽかりと叩いた。
 緩く握った拳で、表面を掠める程度だ。音もせず、あまり痛くはないだろう。しかしやられた方は涙目になって、両手で丸い頭を抱え込んだ。
「ひどい。みっちゃんに言いつけてやる」
「好きにしろ。小夜の布団で大の字になっていた件は、俺の方から伝えておく」
「ぎゃー、やめろー。それって、絶対俺が怒られる奴じゃん」
「自業自得だ」
 自分と、そこの打刀の保護者を兼ねている太刀の名前を口に出せば、大倶利伽羅も負けじと応戦した。鼻で笑って立ち上がろうとして、劣勢を悟った短刀に大慌てで引き留められた。
 引っ張られた上着の裾が僅かに伸びて、龍が絡みつく腕がすかさず邪魔な手を払い落とした。その流れで太鼓鐘貞宗の頭をぐしゃぐしゃに掻き混ぜて、勝ち誇った顔で口角を持ち上げた。
 無愛想な男だとばかり思っていたが、こうやって見ていると、存外表情は豊かだ。
 喧しい短刀につられて口数も多くて、小夜左文字が知る打刀とは別物のようだった。
「あああ、折角の髪型が……くそう。伽羅ちゃんめ。頼まれたって、もう一緒に寝てやんねーからな」
「え?」
「なあ、知ってたか、小夜。伽羅ちゃんってば、こう見えて結構寂しがり屋なんだぜ。俺が来たばっかりの頃とか、嬉しがってぎゅうぎゅうに抱きしめて来てさあ」
「貞」
「冬場とか、問答無用で布団に潜りこんでくるんだぜ。んで、朝まで放してくんねえの。ま、俺は有能な湯たんぽ様だからな。手放し難いのは、よく分かる。うんうん」
「貞、おい」
「そうなんですか?」
「そうそう、驚きだろ? けどよ~、これが本当なんだから、世の中分かんねえっていうか」
「貞」
「いやあ、伽羅ちゃんってば、惜しいことをしたよねえ。俺みたいなすんげえ暖かい湯たんぽ様を手放すってんだから。勿体ないねえ」
「……少し黙れ」
「ふぐっ」
 にわかには信じられない光景に唖然として、次々繰り広げられる会話劇に呆然と見入る。
 これまでの彼に対する認識が、悉く覆された。初耳も良いところの情報に惚けていたら、暴露に我慢出来なくなったのか、大倶利伽羅が力技で短刀を黙らせた。
 伸ばした右手でその頬を挟み、押し潰した。太鼓鐘貞宗の唇は蛸のように窄まって、物理的に喋るのが難しくなった。
 鼻はそのままなので、呼吸は可能だ。手が大きくなければ出来ない芸当を披露して、打刀はこめかみに青筋を立てた。
「んぐー、ふんが、ふんがっ」
「嘘を吐くな、貞。俺の布団に断りなく入ってきたのは、お前だろう」
 表情には苛立ちが浮かび、口調は険しかった。眼光は鋭く尖り、好き勝手べらべら喋られたのを本気で怒っていた。
 曰く、抱きついて来たのも太鼓鐘貞宗。
 冬場、寒さに震えて布団に潜りこんできたのも、太鼓鐘貞宗。
 彼が語った情報は、すべて都合よく変更された偽りの記憶。歴史修正主義者から正しい歴史を守るべき刀剣男士でありながら、彼は自らの記憶を多々改竄していた。
「ふがー!」
「もう二度と、俺の寝床に入ってくるな。そういうのは、光忠にしろ」
「だって、みっちゃんってば、朝早いんだよ!」
 力任せに頬を潰されて、太鼓鐘貞宗が大きく頭を振った。
 大倶利伽羅の束縛を決死の思いで振り払って、冷たく言い放った打刀に向かって悪びれもせず言い返した。
 嘘を吐いた件の反省がなければ、謝罪もなかった。一時でも大倶利伽羅に対して誤った印象を抱かせたというのに、全く見向きもせず、薄い胸を叩いて高らかと吼えた。
 小夜左文字は完全に蚊帳の外だったが、かといって無言で立ち去ることも出来ない。
 早く布団を回収したいのだけれど、喧々囂々のやり取りが気になって、身動きが取れなかった。
「信じられるか? みっちゃんってば、日の出前にもう起きるんだぜ。朝飯の準備があるとかなんとか言って。そういうの、当番じゃなきゃ別に良いのにさ。しかも寝るのも遅い。飲み会の片付けがあるとかって言って、子の刻過ぎても戻ってこねえし。あんな睡眠時間で大丈夫なのか? 俺はちいっとも、大丈夫じゃねえよ」
「……貞」
「その点、伽羅ちゃんは寝るの早いし、起きるのも遅い。まさに適任。しかも暖かい。これぞ一石二鳥ってやつだな」
「貞」
 一方的に捲し立てる短刀は、大袈裟な身振りを度々交え、表情がころころ入れ替わった。
 文句を言う時は声が低くなり、嬉しい時は高くなった。目つきも剣呑になったかと思えば、突然大きく見開かれ、瞬時に満開の笑顔になった。
 上半身を大きく揺らし、座っていながら全身を動かしていた。
 まるで高座に上がった噺家だ。落語でも聞いている気分になって、目が離せなかった。
 大倶利伽羅はなんとか黙らせようと躍起になるが、功を奏しているとは言い難い。度々名前を呼ぶものの、短刀は聞こえない振りをして、ふとした瞬間不敵に笑った。
 にやにやしながら見上げられて、打刀が合いの手に困って口籠もる。
「ふっ」
 次の瞬間場に響いたのは、おしゃべりな短刀でもなければ、無口な打刀の声でもなかった。
 あまりにも彼らのやり取りが可笑しくて、耐えられなかった。
 咄嗟に左手の甲で隠したものの、口元の緩みは抑えられない。つい漏れた笑みに顔を赤くして、小夜左文字はぱたりと止んだ会話に、目を瞬いた。
 恐る恐る顔を上げれば、太鼓鐘貞宗、大倶利伽羅のふた振りが、揃って彼を凝視していた。
「お、おおお?」
「……ふん」
 しかも短刀に至っては、これまでにないくらい目を輝かせていた。
 西日を浴びているのも手伝い、星が閉じ込められているようだ。きらきらと瞬いて、その中心に小夜左文字を映していた。
 大倶利伽羅はいつもの無表情に戻ってしまったが、口角がほんの少しだけ持ち上がっていた。じっと見つめてくる眼差しは真剣で、こちらの一挙手一投足に注目していた。
 二対合計四つの熱い視線に、背筋がぞわわ、と沸き立った。
「なっ、なんですか」
 全身に鳥肌を立て、小夜左文字は素っ頓狂な声を上げた。動揺し過ぎて裏返り、いつになく高音だった。
 それを面白がり、珍しがって、太鼓鐘貞宗が干しっぱなしの布団に圧し掛かった。
「へえ。へええ、へええええ。小夜って、そんな風に笑うんだな」
「い、いえ。あの。今のは、違う」
「別に、隠さなくてもいいんじゃないのか」
「おうおう、おうおう。もっと笑えって。絶対そっちの方がいいって。なんだよ、ちゃんと笑えるんじゃねえか。なんで今まで秘密にしてたんだよ~」
「あの。あ、あのっ」
 四つん這いになってにじり寄り、矢継ぎ早に捲し立てる。
 大倶利伽羅の援護射撃を受けて、その勢いは留まることを知らなかった。
 それまでの会話の流れを忘れ、ふた振りともが小夜左文字に夢中だった。大倶利伽羅と並んで愛想が悪いと知られる短刀の、稀に見る笑顔に興味を示し、追加を催促して鼻息を荒くした。
 二方向から詰め寄られて、突然矢面に立だされた短刀は竦み上がった。
「――っ!」
 羞恥心が湧き起こり、顔は火が点いたかのように真っ赤になった。耳の先まで朱に染めて、耐えきれずに立ち上がった。
「あ、待てって。小夜、どこいくんだよ」
「おい、お前ら……やれやれ」
 好奇心に満ちた眼差しに背を向けて、小夜左文字は脱兎のごとく駆け出した。足音五月蠅く響かせて、縁側を一直線に駆け出した。
 太鼓鐘貞宗がそれに不満を示し、手を伸ばしたが届かない。どたばたと走って行った背中に舌打ちして、是が非でも捕まえてやると息巻いた。
 夕方になっても元気が良い短刀たちに、取り残された大倶利伽羅は頭を掻いた。どうしたものかと辺りを見回し、足形がくっきり残る小さめの布団を三つに折り畳んだ。
 部屋の中に置き去りにされた掛け布団に重ね、自分の分を肩に担ぎ、廊下へ出る。
 それと入れ替わりにやって来た酔っ払いの短刀が、屋敷を一周して戻った小夜左文字の布団の上で眠りこけていたのは、また別の話だ。

つがはねど映れば影を友として 鴛鴦棲みけりな山川の水
山家集 雑 958

2017/05/06 脱稿