歸道山

 我が愛しき子供達よ
 願わくばその進み行く道の先が
 幸多く光り満ちあふれるものであらん事を

 光が、欠ける。
 赤い光が空を流星の如く流れ落ちていくのを見た。夜空にぽっかりと空いた穴のように照る月を見上げ、その片隅に消えていった星の欠片を見送った後、緩く首を振り彼は視線を眼前に戻した。
 とは言え、月明かりがあったところで夜の闇は深く険しい。何を思ってこんな状況の悪い寄りに、更に足許不如意に成りがちな砂の大地を行かねばならないのか自問して、彼はやがて愚問だったと吐息を零した。
 夜に道なき道を行くのは、昼間が酷暑であり炎天下の中で歩き回る事自体が命を縮めかねない、危険な行為だからだ。日を遮ってくれる木立や並木も持たない一面の荒涼とした大地の上で、太陽の熱に晒されながら歩くことは無謀に他ならない。
 かといって今のような夜、月だけが地上を照らす昼間とはまったく異なった、嫣然と微笑む美女の如き白い柔肌の大地は決して、見た目通りの優しさを出てくれはしない。油断させて置いて地獄へと引きずり落としてくれる蟻地獄さながらに、罠を潜めて待ちかまえているだけの砂の大地で、ひとりきり。
 こんな場所を行くのは愚かしい事だとは、重々承知している。数少ない砂漠の商人が往来するもの、大抵は日暮れ前の太陽が傾き出す頃合い、もしくは日の出前の空が白みだした時間帯だ。
 だけれど彼は、そんな僅かな時間でさえ避けて道とも言えない平坦であり、かつ急峻な足場の悪い地表を進んでいた。
 人と交われば、必ず巻き込んでしまう自覚があった。
 これまでも幾度か、似たような光景を旅したことがある。彼は見た目以上にあらゆる世界を見て回り、そして通り過ぎてきていた。道すがら出会った人は数知れず、だが覚えている限りでもその半数以上が、不幸な事故あるいは事件に巻き込まれ命を落としていた。
 ぎり、と奥歯を噛みしめる。薄く開いてしまった唇の隙間からは、夜の冷たい風に乗って舞い上がった粒の細かい塵が流れ込み、噛み合わせるたびにじゃりっとした嫌な触感が口腔内部に広がった。
 月は白く、仄暗く世界を見下ろしている。昼間の太陽のような力強さはなく、だけれど月だけが持ち得る艶やかさが光の中に滲み出ている。
 白光を頼りに、彼は鈍く重い足を前へ踏み出した。
 体重を乗せた足は爪先が砂に埋まり、二の足を出すときには運悪く足首の手前まで砂に沈んでしまっていた。彼は舌打ちし、背に負う荷物の底を片手で支えると力を込めて砂に奪われそうになっている足を引きずり出した。
 黄色い細かな砂が、靴とズボンの裾との隙間を隠すために強く何重にも巻かれた布の上からも入り込んでくるのが分かる。更に舌打ちを繰り返し、彼は体熱の籠められた息を吐きだした。
「っくしょ……」
 誰も見ていない、月だけが見下ろす世界でひとり悪態をつき、砂の上にじきに消えて無くなるだろう線を残して彼は砂の中から足を引き抜いた。だが運悪く、バランスを崩して前のめりに倒れ込んでしまう。
 着地の為に突き立てた手首も、防護のために嵌めているグローブの指が見えなくなるくらいまで砂の埋もれた。
 息を吐く、二度、三度。額から滲み出た汗が粒となって砂の中に落ち、一瞬で吸い込まれ跡形もなく消え去った。
 立ち上がろうにも、体力が足りない。
「……あ~あぁ」
 愚痴のようなため息を零し、彼は身体を反転させて腰を下にし、その場に座り込むことにした。丁度丘陵の片端に位置する場所で、砂の間から突き出た岩石が壁となっていた。昼間であれば道を休む人の格好の休憩場所となっている事だろう。ただ今は夜であり、横たわって浅い眠りを楽しむ人は見られない。
 はぁ、と吐き出した息は明らかに彼の疲れを顕していた。
 砂から引き抜いた手からグローブを外し、月明かりに晒された殊の外細い、けれど節くれ立って傷痕の目立つ指先で額に貼り付いた髪の毛をまず払う。それから口の中に溜まっていた砂を唾と一緒に吐きだし、口元も拭った。
 被りっぱなしだったフードを外し、日よけと砂よけとを兼ねている外套の首許を緩めると長く息を吐きだして熱を放出。夜の一気に気温が下がる時間帯とは言え、重い荷物を背負い露出部分を極力控えた砂漠越えの完全装備は、かなり辛い。
 荷物も僅かに露出している砂の合間に見えた岩場の上に下ろし、肩から力を抜く。今になって漸く自覚したが、この身体はかなり強行軍のこの旅で疲れを蓄積していたらしい。一気に全身から気力が失せ、立ち上がる事は当分出来そうになかった。
 星を見上げ、自分の現在地を大まかに把握しながら次進むべき方角を見出す。
 昼間、人が目印の乏しい砂地を行くのを避けたがる理由には、もうひとつ重要な事柄がある。それは、方角を見出しにくい事だ。
 太陽は確かに有益な道標となるだろう。しかし昼間よりも、夜暗がりに浮かび上がる星々の位置を計る方が、遙かに道標は多く確かなのだ。特にあの、動かざる北の星は。
 かつて未だ旅慣れしていなかった頃、たまたま自分を拾ってくれた馬車商人の老人が教えてくれた地図の読み方と、方角の確かめ方を頭の中で反芻し北の星を探し出す。十数秒とかからなかった作業に、重ねて地図を広げて今の季節を思い返し、現在位置を特定する。この季節、小麦の収穫が近付いている時期に夜明け前に浮かぶ星を探して現在時刻も想像し、吐息をひとつ。
「まだ半分も行ってねー」
 地図を頭上に掲げて月明かりに透かし、後ろの荷物に頭を預ける格好で倒れ込んで彼は呟いた。がりがりと指で頭を引っ掻くと、フードに紛れ込んでいた砂が爪の間に入り込んで少し痛んだ。
 風呂に入りたいと、直後素直な感想を思い浮かべて即座に否定する。こんな砂ばかりの場所のどこに、湯浴みをさせてくれる宿があるだろう。せいぜい水で湿らせたタオルを貸して、それで身体を拭えと、その程度が限界だ。
 それに加えて、こちらはこんな幼い子供の姿をしているのだから。
 もうどれくらい、世界を巡っただろう。訪れた国は両手では足りず、過ぎた町は数えあげるのも億劫なくらいだ。通常ならばもう、天寿を全うしてふたつ巡りしていてもおかしくない年月を、過ごしてきた。
 幾分固い荷物袋に頭を埋め込み、遮るもののない一面の星空を眺めながら吐息を零す。
 いつだったか、大昔に、溜息をつくとその分寿命が縮んでしまうぞ、という馬鹿げた伝承があることを知った。そんなわけがないだろう、と笑い飛ばすだけに終わった伝承だった。
 もし本当にそんなことが起きるのならば、もう幾万回と零してきた自分の溜息はどうなるのか。その数を費やしても未だ終わりの見えない命の灯火を揺らす事の出きる日は、いったいいつ訪れてくれるのだろう。
 こうやって人も命が惜しくて滅多に行わない砂漠越えの強行軍を実行してみたり、あるいはもっと険しい山道を敢えて選んでみたり、自分の身体を苛めているとしか思えない行動を繰り返したところで。
 この身が滅ぶことは、星が命を終える事よりも困難な事のように思われてならなかった。
 自分はどこへ行こうとしているのだろう、どこを目指せば良いのだろう。
 その答えさえ見出せぬまま、ただ今は南を目指して歩き続けている。その理由さえ、ただ今までいた場所で戦乱が勃発したからに他ならないのだが。
 あの戦乱が開始された原因は、領主同士の啀み合いと長らく続く不作による農民達の不満が鬱積、爆発した事が主なる要因だった。だけれど、それだけではない。
 彼は知っている、彼だけが知っている。
 無意識のうちに背筋に悪寒を覚え、彼は右手の甲を左手で押さえ込んだ。未だ焦げ茶色のグローブに覆われたままだったそれが、微かに震えているのが左手の上からでも目で見て分かるくらいだった。
 ガチガチと噛み合って音を立てる奥歯を必死に押し留め、左手ごとかれは右手を己の額に押し宛てた。
 甦る記憶の中に、ひとときではあったが快く宿を提供し、貧しいはずなのに食事を提供してくれた優しい人の顔がまざまざと浮かび上がって彼を責め立てる。
 記憶の中の彼らは微笑んでいた、なにも知らないまま軒下で雨宿りをしていた彼を招き入れてくれた時の、そのままの笑顔で。
 だからこそ、彼は辛い。いっそ強い調子で睨み付け、指を差してお前の所為で、と非難してくれた方がよっぽど楽になれただろう。だのに彼の事を誰も責め立てようとしない、いつだって優しい、そして少しだけ寂しそうな笑顔を向けてくるだけだ。言葉を投げかけようともしてくれない。
 言いたいことはあるだろうに、記憶の中の彼らはいつだって優しいままだ。
「……っ!」
 熱くなる目頭も一緒に押さえ、上げそうになった嗚咽を噛み殺して呑み込む。胸の中で積み上げられた黒いものが渦を巻き、彼を呑み込もうとしているのを懸命になって押し留めながら、彼は声も涙もなくその場で泣いた。
 何故、誰も。
 彼を、悪だと断罪してくれないのだろう。
 いっそ裁きの場へと引き出され、石を投げられ火を放たれてしまった方が、こんなにも苦しまずに逝けるのに。
 生きることが辛い、苦しい。
 哀しい。
「っ……」
 呑み込んだ唾にしょっぱさを感じながら、熱い息を何度も吐きだして手首を湿らせる。夜の月は明るく、下側を少し欠いたそれはやはり記憶の中にある女将の笑顔の如く柔らかくて優しいのだ。
「ソウルイーター……っ!」
 吐き捨てるように、己の右手甲に宿る災いの元凶を呼ぶ。
 これはいったい、今までにどれだけの命を喰らってきたのだろう。その中にはあの、雨の日に出会った優しい夫婦の魂や、最初の旅に同行してくれた馬車商人の老人、そしてなによりも、自分の唯一の血縁者であった祖父も居るのだ。
 何故、どうして自分に優しくしてくれた人から先に命を奪おうとするのか。
 死んで当然のような悪漢は世の中に沢山居る。貧しい人を苦しめる重税を課す領主や、云われない罪を無実の人に着せて罰し、命を無碍に奪う奴らだって多い。どうせならそんな奴らの魂をかすめ取れば良いものを。
 ソウルイーターが選ぶのは、いつも必死に大地で命を繋ごうと汗水垂らして生きている、そんな人たちばかりだ。勿論大きな戦乱を引き起こせば、先にあげたような暴虐な人々の魂を奪うことだって有るだろう。
 だけれど、それだって戦争に巻き込まれ真っ先に死んでいくのは、いつだって世界を構成する人間達の末端にある貧しいけれども心優しい人々に他ならないではないか。
 この命ならくれてやる、だからもう目の前で優しい人を奪うことを止めてくれ。
 そう願ったことは、もう星の数ほどに達するだろう。だがその度にこの紋章は、彼を嘲笑うかのように目の前で、彼と接した人を無惨に切り裂いてしまうのだ。
 たとえ彼がそこに介入していなかったとしても。
 例えば、山賊に襲われた時――あの老人は彼の力を知らず、まだ幼い彼を守ろうとして身を張って庇った末に死んだ。
 例えば、その村が国境に近かった所為で夜の雨に紛れての秘密工作に利用され、明け方を待たずに油を巻かれて火を放たれ、逃げる間もなく村人全部が焼け死んだ時も――彼は、必死に抵抗したのに夫婦の蒲団に巻きくるめられ、家にあった水桶で全身を湿らされた挙げ句食料庫として利用されていた地下壕にひとり押し込められた時でさえも。
 たった一晩、あるいは数日世話になっただけなのに、彼と関わったという理由それだけで争い事に巻き込まれ、短い生を終える事になった。
 ならばもう、誰とも関わらずに居よう。誰ともすれ違わず、行き違わず、交わらず、語らず。さすがに町に出て必要物資を入手する事だけは回避できなくても、宿に泊まらなければいい。食堂で料理を平らげなければいい。水浴びは川や泉で出来る、食事だって火さえあればひとりでどうにだって出来る。
 大きな街道はなるべく避け、人の出歩く時間帯から行動時間をずらして進む。砂漠越えも、だから夜明け前と日暮れ前を外して夜の冷たい風が吹き荒ぶ中を選んだ。
 自分で選んで、決めた事だ。
 だというのに、時折無性に人の体温が恋しくなる。
「……くしょ」
 ぼすっ、と力無い拳で荷物袋を殴ってへこませる。目頭を押さえた左手はそのままにして、右手を浅い砂の中に埋め込んで表面からは感じられない、地の奧に蓄えられた熱を探した。
 こんな事をしても無意味だと知っているのに、誰かに抱きしめて欲しかった。
 ひとりぼっちの夜、特にこんな日は。
 月が明るい。見上げた先に広がる世界はどこまでも空虚であり、今が現実であるかどうかを見誤りそうな雰囲気を醸し出している。
 やはり昔に、場末の酒場で立ち聞きした話にこんなものがあった。
 人の命は炎に焼かれ(火葬の事だろう)、煙となって月へ昇る。そして月の涙で地上へ戻り(雨のことだろう)、大地に染みこんで新しい命の中に取り込まれて、再び世の中を巡りそしてまた、命潰えたときに煙となって空へ巡るのだ、と。
 少々違ったような気もするが、大まかにそんな話だった。
 人の命は、地上と月とを交互に巡っているのだという。では、ソウルイーターに食われた人々の命は月へ還る事が出来ないのだろうか。
 分からない、そもそもそんな話が本当なのかどうかさえ知る術がないというのに。
 砂の中から引き上げた右手をとり、胸の上に置いてみた。指先から、外套を越えて自分自身の体温を感じる、拍動を止めない心臓の息吹が伝わってくる。
 幾ばくか軽い息を吐きだした。
 ああ、けれど。
 もしその話が本当なのだとしたら、自分が死んだときに今まで世話になり、優しくしてくれた多くの人たちの命もまた、自分と一緒に月へ還るのだとしたら。
 その時にもう一度、会えるのだろうか。
 会えるのだとしたら、その時は。
 礼が、言いたかった。
 言い尽くせぬ感謝の気持ちを彼らに、伝えきれない想いを伝えたい。
 目頭が熱くなる、けれどそれは先までの熱とはまた趣の異なるものだと感じられた。間違いなく、それは哀しみや悔しさだけから来る涙ではなかった。
 素直に透明な露が砂にまみれた肌の上を伝って落ちる。
 言葉もなく、彼は泣いた。
 月だけが、いつまでも煌々と夜空に輝いていた。

信じる強さと儚き願い

 失くしたかったんじゃない。
 壊したかったんじゃない。
 守りたかった。
 本当に、守りたかったんだ。
 それだけだったんだ。
 信じてほしい。
 世界中の誰も信じてくれなくても
 君だけが信じてくれるのならば
 僕はそれでいいんだ。
 君だけでいい。
 どうか、守らせて。
 大切に思えるこの世界を
 大好きな人達を────

 何気ない日常がこれほどに心地よいものだと知ったのは、つい最近のことだった。
 周りは皆大人で、自分に対してあまり良いとは言えない感情を抱いている人々の中で生活することになれてしまっていた僕を、ここの人達は温かく迎え入れてくれた。
 初めてだった、こんな事は。
 見ず知らずの、いってしまえばいきなり押し掛けてきた素性もしれない人間を受け入れてしまうなんで、僕がいうのも何だが、迂闊すぎやしないだろうか。元々は孤児院だったというこのフラットのアジトで、僕は未だ慣れない人との共同生活に戸惑いを隠せないでいる。
「キール、いる?」
 ドアがノックされ、返事をする前にドアは開かれた。だがノックの主は返事がないことで二の足を踏んでいるのか、なかなか室内に入ってくる気配がない。
「どうぞ」
 ぶっきらぼうに(聞こえるらしい)声でそう言うと、安心したのか、ようやく彼は部屋に入ってきた。
「なにか?」
「あ、いや……別に用って程のものじゃないんだけどさ」
 机に向かい、魔導書を開いていた僕はそれを閉じ、椅子を退いて彼に向き直る。自然と僕が彼を見上げる形になってしまって、彼は困ったように頬を掻いた。どうやら視線が同じ高さにないと落ち着かないらしい。
「座ったら?」
 言って、僕は向かい側のベッドを示してやる。すると彼は一瞬考え込み、それから首を振って、
「あのさ、キール。今日はすっごくいい天気なんだ」
 この部屋には彼の部屋同様、窓がない。だから外の天気がどうなっているのかは、部屋を出ないと分からない。
 でも、天気がいいのがどうしたんだろう? 
 不思議に思っていると、彼はいきなり僕の腕を掴んだ。
「だからさ、部屋に閉じこもってるのなんて勿体なさ過ぎだろ!? 散歩、行こうぜ!」
 強引に僕を椅子から立ち上がらせ、彼は半ば引きずるようにして僕を部屋から連れ出そうとする。
「ちょっと、待ってくれ!」
 とは言っても、生まれてこの方ろくな運動もせずに本を読み、召喚術を勉強し続けてきた僕が力で彼にかなうはずがなく、些細な抵抗はあっけなく徒労に変わってしまった。
 部屋の中だったから愛用のマントも着用せず、魔力増幅のアクセサリーも防具も何も付けていない格好だった僕は、外に出た瞬間吹いた強い風に身震いする。気が付かなかったが、室内は外気よりも少しだけ気温が高かったらしい。
「あ、ごめん。寒い?」
 気が付いた彼が僕の顔をのぞき込んで尋ねる。
「取ってこようか」
「いや、いい」
 寒いといっても、耐えられないような寒さではない。それに日向に出れば、太陽の熱が体を温めてくれる。なるほど、確かに彼の言ったとおり、外はいい天気だった。雲ひとつない。
「これであの煙がなければ、文句無いんだろうけど」
 空を見上げていた僕の脇で、彼が東を見つめて呟く。彼が何のことを言っているのか、僕は見なくても分かった。ここの東側には、工場区がある。そこから流れ出す水は河を汚し、空を黒く染め上げる。そのことが、彼には気にくわないのだ。
 いつだったか、彼はこんな事を言った。
 河に汚水を垂れ流しにするのではなく、排水溝の手前に浄化水槽を作れば汚染を完全に遮断することは出来なくても、ある程度は防ぐことが出来る。煙突の煙だって、フィルターを設置してそこを通すようにすれば、空気を汚す度合いが低くなるはずだと。よくよく聞けば、彼のいた世界でも、似たような事が起きているのだという。
「それで、僕を連れだしてどうするんだい?」
 言葉に刺があることは自分でもよく分かっている。でも、この言い方しか今の僕には思いつかない。もっと、彼らを傷つけない言い方を、僕は探すべきなんだろうか。
「え? あ、そうそう! 折角のいい天気なんだし、どっかいかないか?」
「どこへ?」
「えと……あー、うー……」
 即答で聞き返した僕に、彼は言葉を詰まらせる。どうも、考えていなかったらしい。
 散歩に行こう、彼はそう言って僕を部屋から連れだした。でも具体的に何処ヘ、何をしに行くのかをまったく想定していなかったのだろう。きっと、思いつきで行動しただけなのだ。
 僕はため息をつく。彼に気付かれないように。
「行こうか」
 その言葉は、ごく自然に僕の口からこぼれ落ちていた。
「え?」
「散歩、だろう?」
 振り返る彼に続けて囁くと、彼は途端に嬉しそうな表情を作る。
「そう、行こう!」
 どこだって良い。この日溜まりの下で、君ともう少し話がしてみたい。僕とはまったく違う世界で、まったく異なる日々を送り、考え方を持って生きている君といれば、僕は変われるような気がするんだ。
 今までの色のない日常から抜け出して、僕はこの場所へやって来た。君が、僕を連れだしてくれたんだ。君は知らないだろうけれど、僕は本当は、君に感謝している。君がいてくれて、あの場所に現れたのが君で、本当に良かったと思っている。
 空が青い。そんな当たり前の事にさえ気付かないくらい、僕は狭い世界を生きてきた。
 君が羨ましかった。日の光に満ちた温かい世界を何の疑いもなく甘受してきた君が、羨ましい。
 僕にも手にはいるのだろうか?
「ハヤト」
 名前を呼ぶと、前を歩いていた彼が振り返る。
「なに?」
「……なんでもないよ」
 あどけない表情のまま、君は僕を見ている。
「変なキール」
「君こそ」
 頭の後ろで腕を組んだ彼を、僕は足元の石を蹴飛ばして笑う。
「俺が? どこが!?」
「全部。僕を簡単に信じてしまえるところ、疑うことを知らないところ、……何も聞こうとしないところ、とか?」
「はあ? そんなの、当たり前じゃないのかよ」
 君は笑う。僕の知らない沢山のものを、君は持っている。それを僕に示してくれている。君は気付いていないだろうけれど。
 僕はそれが嬉しい。
「誰にだって触れて欲しくないことがあるだろ? それに、前にも行ったじゃないか。俺は、キールを信じてるって。確かに嘘をつかれるのは気分がいいものじゃないけど、そうしなくちゃいけない嘘だったら、俺は許すよ」
 ほら、やっぱり君は変だ。なんの見返りもなく、君は僕を包み込んでしまう。
「いつか、話すよ……」
 時が来れば、きっと。
 

 僕は君を、信じる。
 だからどうか、君も僕を信じて。
 嘘じゃない気持ちがここにある。
 本当の僕の気持ちがここにある。
 それは嘘じゃない。
 君を無くしてしまうことが僕には恐い。
 でもそれは君を信じていないことになるのだろう。
 だから、いつか僕が恐れなくなったなら、全部君に話すよ。
 ありのままの僕を、これまでの自分を、君に示すよ。

「キール」
 名前を呼ばれた。いつの間にか俯いていた僕は、顔を上げた先に一面の緑を見つけて息を呑む。
「いいところだろ。この前、アルバに教えてもらったんだ」
 河原の土手の側で、花が溢れんばかりに咲き乱れている。風を受けて花びらが舞い上がり、地表に影を落とす木立の枝が揺れている。蝶々が蜜を求めてあちこちで飛び交い、緑の匂いが僕の鼻孔をくすぐる。気持ちいい。
 嫌なことをすべて忘れ去ってしまえる、まるで絵画の世界をそのままに映し出した光景が、そこにあった。
「ちがうよ、キール。絵画が、この光景を切り取ったものなんだ」
 最初にあったのはこの自然に溢れる世界。それはちっぽけな人間が描いたものなんかよりもずっと、色に満ちて鮮やかに輝いている。
 知らなかった。こんな世界もあったことを。
「どう? 来て良かっただろ」
「……そう、だな」
 声が震えているのが分かる。多分彼も、気付いただろう。でも彼は何も言わず、僕の側で僕と同じ光景を眺めている。
「いい天気だし、ちょっと昼寝でもしていこうか」
 彼が言う。
 歩き出す。
 その後を僕が行く。
 小さな影がふたつ、並んで進んで行く。
 君といた日々を、きっと僕は忘れないだろう。いや、忘れたくない。
 生きたいんだ。君と一緒に。どこだって良い、君がいるなら、何処ヘでも僕は行ける。

 だって、君がいる場所こそが、僕が探し求めていた、僕だけの居場所なのだから………… 

世界はきっと微笑むから

 朝から子供達の姿が見えないことに、最初に気づいたのはリプレだった。
 朝食はフラットのメンバー全員で、居間に揃って済ませたのは確かだから、その後いなくなったことになる。
 自分はずっと台所で洗い物をしていたから、多少の音は水音でかき消されてしまう。気づかなくても仕方がないのだが、いなくなってからもう数時間は経ってしまっていることは問題がある。
「ガゼル、子供達知らない?」
 アジトの中を一通り見て回って、子供達の姿が何処にもないことを確認したリプレは、今しがた薪拾いから帰ってきたらしいガゼルに声をかけた。
「いねぇのか?」
「だから聞いてるんじゃない」
 背中に背負った駕籠を庭先におろし、中にいっぱいに詰め込まれた枯れ枝を取り出しながら、彼は心配でたまらない、と顔に書いてあるリプレを見る。
「いつ」
「それが分からないの。気がついた時にはもう、いなくなってて……」
 胸の前で三つ編みにした長い髪のさきっぽをいじり、リプレは視線を足下に落とす。
 今日はエドスもレイドも仕事で出かけている。リプレだって家の仕事を一手に引き受けていて忙しい身分だから、子供達の相手ばかりをしてやるわけにもいかない。これは彼女のミスではない。黙って出ていった子供達が、悪い。
「探してくる」
「あ、私も!」
「お前はここにいろ。すれ違いになるかもしれないだろ。それに、もう昼だ。腹を空かせて帰ってきたときに、お前がいなかったらあいつらがかわいそうだ」
 薪を置き、立ち上がったガゼルに続こうとしたリプレだったが、彼にそういわれてしまっては一緒に探しに行くことは出来ない。出しかけた足を戻して、上目遣いに幼なじみを見ている。
「あいつらの足じゃ、そう遠くには行ってないはずだ。3人ともいなくなってんだろ?」
「うん……」
 リプレに確認を取って、ガゼルは子供達が行きそうな場所を素早く頭の中でピックアップする。どうせ、せいぜい南スラムのどこかか、アルク川の河原だろう。工場区や繁華街の方へは絶対に近づかないように普段から口を酸っぱくして教え込んでいるから、そちらに行ったとは考えにくい。
「行って来る。うまい昼飯、期待してるからよ」
「分かった。なるべく早く帰ってきてね! 絶対だからね!」
「おう!」
 後ろ向きにリプレに手を振り、ガゼルは走り出した。かつて孤児院だったアジトを出て、左右に視線を巡らせる。
「こっちか」
 鼻がむずむずした方角──ちょうど彼にとっては右手の方向を選び、ガゼルはまた走った。
 ゴミ捨て場と化しているスラムの一画は、悪臭が漂うあまり居心地の良い場所ではない。いつもならスラムに住む彼でも滅多に近づかない区域に入り、ガゼルは顔をしかめる。
「間違えたか……?」
 鼻がむずむずしたのは、ひょっとしてこの方向から風に乗って流れてきていたゴミのせいだったのだろうか。そんな気がして、滅入ってしまいそうになったが、一応調べておくに越したことはないと考え改め、ガゼルはゴミの山を登り始めた。
 町に住む連中が必要なくなったからと捨てていったゴミが散在して、今や立派な小高い山になっている。足下をのぞき込めば、まだ使えそうなものが見つかるが、それを掘り出して自分たちで使おうという気には、どうもなれないでいた。
 ゴミをあさって、それを安く売り払っている連中がいることは確かだ。でもそれは、見ていてもなんだか惨めな気持ちになるだけで、ガゼルは好きではなかった。彼らからものを買おうとは思わない。だが、彼らだって好きでそういう仕事をしているわけではないのだと知っているから、なるべくここには来たくなかった。
「いないか……」
山の頂に着いて、ぐるりと周囲を見回して呟く。
 なんにせよ、ここは悪臭がひどい。生理的に、子供達は近づきたがらないだろう。やはり鼻がおかしくなったのはこの臭いのせいだったのだ。
 では、子供達は何処へ行ったのか。振り出しに戻ってしまった。
「あいつら……見つけたらしっかりと叱ってやらないと」
 黙って外に出てはいけないと、あれほど強く言っておいたのに。だが、リプレが台所で手が放せない状態なのに、外に行きたいと、あの子達はとても言い出せなかったに違いない。
「世話かけさせやがって」
 自分たちが黙っていなくなることで、どれだけリプレが心配するか、考えていなかったのか。いや、そういうところまで子供達に強要するのは酷だろう。しかし、その自分たちの軽率な行為で皆に迷惑がかかることぐらい、気づいて欲しかった。
 足下のゴミを蹴り、ガゼルは一気に山を駆け下りた。途中何度か柔らかった足場に倒れそうになったが、そこは根性でこらえて土の地面に足を着ける。しっかりとした大地の感触に、心なしかほっとしてしまった。
 頭上を見上げると、太陽は一番高い位置まで昇っていた。
「一度、戻るか」
 もしかしたらアジトの方に戻っているかもしれない。走り回されたおかげで、腹も空いてきた。
 遠く、野焼きの煙が立ち上っているのが見える。使い道のないゴミを燃やしているのだが、たまに消火するのを忘れて火事になることもある。風の強い日にされたら、アジトから一歩も外へ出られない。臭いがきつすぎて。
 あそこまで行けば誰か人がいるに違いないが、行く気にはなれなかった。鼻がむずむずする。
「帰ろう」
 きっと、子供達は3人揃ってリプレと一緒に昼食を取っているはずだ。そう、根拠のない考えを無理矢理納得させて、ガゼルはゴミの山を後にした。
 そして、子供達は本当に帰ってきていた。
「ガゼル、お帰りなさい!」
 玄関をくぐるなり、リプレの甲高い声が脳天に直撃し、ゴミ焼きの臭いで頭が痛くなっていたガゼルは倒れそうになった。
「大声出すな、響くだろ」
 がんがんするこめかみを軽く押さえ、ガゼルはリプレを睨む。
「ごめんなさい」
 だが、しょぼん、と小さくなる彼女に「もういい」とつぶやき、居間の方を見やって目を細める。
 彼が視線をそちらに向けたと同時に、小さな影が2つ分、壁の向こうに引っ込んだ。
「俺が探しに行くまでもなかったな」
「ごめん」
「謝んなよ。気にしてないから」
 ぽんぽん、と彼女の肩を軽く叩き、ガゼルは居間へと向かう。しかし。
「待って。あの、ガゼル、あのね……怒らないであげて欲しいの」
 歩きだそうとしたガゼルの腕を後ろから引っ張り、リプレが下から彼を見上げる形で訴える。
「そりゃ、無理だろ。悪いのは勝手にいなくなったあいつらだ。悪いことをした奴は、それなりの罰を受けなくちゃならない。そういう決まりだろ?」
「そうかもしれないけど……違うの、それじゃなくて……」
「はあ? お前、もうちょっと分かる話し方してくれよ」
 何のことかサッパリ分からない、とガゼルは顔をしかめる。その直後。
「にゃ~」
 猫の鳴き声が、した。
 別に猫自体はめずらしくない。スラムに住み着いて野良化した猫はたくさんいる。だが、その声はあまりにも近い場所──アジトの中から聞こえてきた。
 ひくっ、とガゼルの顔がひくつく。まだ彼の腕を掴んだままでいるリプレから、ゆっくりと視線を後方の居間に向けて…………。
「お前ら、拾ってきたのかーー!?」
 大声は、そばにいたリプレ以上に叫んだ本人の頭に突き刺さり、ガゼルは頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまった。
「ごめんなさい」
 開口一番、子供達──アルバ、フィズ、ラミは声をそろえて頭を下げた。
 アルバの両手の中には、生まれて日のない子猫が抱かれている。まだ目も開いていない、本当につい今日生まれたばかりかもしれないような子猫だ。
「お前ら、分かってるのか?」
 仔猫のそばには、親猫らしい成猫の死体があったらしい。猫は一度に何匹も子供を産むが、そばに残っていたのはこの一匹だけだった。このままでは死んでしまうと、子供達はアジトに連れて帰って来た。怒られることは承知で。
「分かってるよ」
「本当に?」
「ちゃんと世話するから!」
「出来ると思ってるのか!?」
「出来るわよ、それくらい」
 強気に出るのはアルバとフィズだけだが、後ろでラミも泣きそうな顔をしつつ、しっかりと頷いてふたりと心は同じだと訴えかけてきている。
「どうしよう、ガゼル」
「どうもこうもねぇだろ」
 背もたれに腕を掛け、面倒くさそうに髪をかきむしるガゼル。リプレも終始困った顔で子供達を見ている。
「とにかく、駄目だ。お前らじゃ無理、絶対にむ・り・だ」
 いちいち言葉を区切って強調する、嫌みな言い方をしてガゼルはアルバの手から仔猫を奪い取る。だが、
「何するのよ!」
 すかさずフィズがガゼルの臑に蹴りを入れ、子猫を奪い返す。更に駆け込んできたアルバに、腹部に頭突きを入れられてしまい、ガゼル、ノックアウト。
「ちょっと、あんた達!」
 これにはリプレも怒ったが、3人固まって仔猫を守ろうと敵意をむき出しにしている子供達を見ると、どうしても強く出ることは出来なかった。結局、彼女は子供達に甘い。
「この子は、私たちが守るの!」
「絶対に捨てさせたりなんかするもんか!」
「お前ら……」
 うずくまったまま、ガゼルは声を失う。
 彼女たちは、仔猫に自分の姿を投影しているのだ。親に捨てられ、行き場をなくし、ここにやってきた自分たちと、親を失ったそのことすら気づかないでいるこの仔猫と。重ね合わせて、見ているのだ。
 でも、何かを育てると言うことはとても難しい。人間であっても、猫であっても、植物であっても、生き物を成長させる事はそう簡単に成せることではない。
 結果は、見えている。
 悲しい結末を、迎えるだけだ。
「いっとくが、この家には余分な食料なんてないんだぞ。そいつ用に新しく買い足せる余裕なんて、何処にもないんだからな」
「だったら、おいらの分をこいつに分けてやる!」
「私も!」
「わたし、も…………」
 はいはいはい!と手を挙げるその勢いはすさまじい。
「レイド達が戻ってきたら、また会議だな」
「ごめんね、ガゼル」
 床の上に座り込み、肘をついて子供達を見ているガゼルに、脇にしゃがんだリプレが謝罪の言葉を口にする。
「お前が謝る事じゃないだろ」
「でも、やっぱり……」
「いいから、その辛気くさい面、なんとかしろ。それから、飯だ、飯!」
 ぴんっ、とリプレの鼻の頭を指でこづき、ガゼルは立ち上がる。
「いいか、お前ら! レイドとエドスが駄目って言ったら駄目だからな!」
「べーっだ。レイドもエドスも、ガゼルみたいな分からず屋じゃないもんねー」
「フィズ、てめぇ!」
 舌を出してあっかんべーをするフィズに、大人げなくガゼルは怒り出す。握り拳をふるふる震わせ、
「泣かす!」
「こら、ガゼル! お昼ご飯抜きにするわよ!」
 しかしフィズに掴みかかる直前に、台所に向かおうとしていたリプレから矢のような言葉の攻撃を受けてしまい、とほほ、と壁により掛かった。
「なんでだよぉ……」
 結局、彼が一番、フラットで扱いが低いのだった。

 夜、いつも通りの時間に帰ってきたレイドと、少し遅くなったエドス、全員が食事を終えると、テーブルを囲んでの会議が始まった。ただし参加メンバーの中に子供達の姿はない。時間帯が時間帯なので、もう眠ってしまっている。仔猫も、一緒だ。
「で、どうするんだ?」
 エドスが重苦しい声で尋ねる。
「そう言われても、あいつらの気持ちはもう決まっちまってる。諦めさせることが出来るんなら、とっくにやってるよ」
「だが、育てるのは容易ではない。特にあのような、生まれて日の浅い生き物はな」
 子供達だけでどうにか出来るものではない。知識もないままに不用意なまねをすれば、仔猫の命などあっけなく朽ち果ててしまうだろう。
「あいつらは、それを分かってねぇ」
 吐き捨てるようにガゼルが言い、横でリプレが俯く。
 子供達から仔猫を巻き上げることは簡単だ。力任せにすれば、あの子達は抵抗してもかなうわけがない。だがそれでは子供達の中に良くない感情を残してしまう。けれど、このまま仔猫を飼うことを許したとしても、きちんと育ってくれる保証は何処にもない。むしろ、育たない確率の方がずっと高い。
「出来ることとそうでないことの区別が出来ていないんだな」
「んな呑気な事言ってる場合か?」
 エドスののんびりした声にいらだって、ガゼルはつい声を荒立てた。しかしすぐに、部屋で子供達が眠っていることを思い出して口を押さえ、反省の表情さえ浮かべる。
「レイドは、どう思う?」
 おずおずとリプレがさっきから黙ったままのレイドに尋ねる。ずっと腕を組んで考え込んでいたらしい彼は、リプレの声に顔を上げ、難しい表情を作った。
「そうだな。無理矢理取り上げることは出来ないから、やらせてみるのがいいかもしれない」
「でも、それじゃぁ!」
 レイドの言葉に、ガゼルはすぐに反応する。テーブルを両手で叩いて立ち上がった彼を、レイドは冷静な瞳で見つめ、それから、
「さっきも言ったように、生き物を育てることは容易なことではない。だが、いつかは知らなければいけないことでもあるんだよ。それに早いも遅いもないと私は思う。違うか?」
「そうかもしれないけど……」
 まだ若いながら、自分の子供ではないアルバ達を育てているリプレが言葉に詰まる。
「それに、別れはいつか必ずやってくるのだよ。今は、あの子達が小さな命を必死に守ろうとしている、その気持ちを優先してやりたい」
「わしもレイドの言うことに賛成だ」
 エドスが椅子を引いて立ち上がり、ガゼルを真っ正面から見る。
「あいつらは、お前さんが思っているよりもずっと強い。過保護になりすぎるのも、どうかと思うぞ」
「なんだよ、それ」
 不満そうに唇をとがらせるガゼルを笑い、エドスは自分の部屋へさっさと帰ってしまう。明日も仕事があるそうで、レイドも続いて部屋に戻っていった。
「ガゼル……」
「勝手にしろ。俺はもう知らねぇからな!」
 ずんずんと荒っぽい足取りで、彼も部屋に帰って行く。きっと明日はふて寝で昼まで起きてこないに違いない。
「おやすみ、ガゼル」
 最後にリプレはガゼルの背中に声をかけたが、返事はなく、乱暴にドアが閉じられる音に彼女は思わず肩をすくめたのだった。

 翌朝は早くから大騒ぎだった。
「ミルク、ミルク!」
「なんで戻しちゃうのよー」
 ふて寝を決め込んでいたガゼルの部屋にまで、今での大騒ぎが響いてくる。それはもっぱらアルバとフィズの声だったが、たまにリプレの声も混じっていたから、結局世話のほとんどは彼女がやっているのだろう。
「だから言ったんだ」
 ごろん、とベッドの上で寝返りを打って、ガゼルは自分にしか聞こえない音量で呟く。
 エドスとレイドはもう出かけた後で、リプレも片づけに追われている時間帯だ。しかし彼女の性格からして、子供達を放っておく事など出来るはずがない。
「くそっ」
 結局俺が行くしかないのかよ、と嘯いて彼は身を起こすとベッドから飛び降りた。
「お前ら、うるせーぞ」
「あ、ねぼすけガゼルだ」
「むかっ」
 顔を合わせた途端、アルバにそう言われてしまい、ガゼルは握り拳を震わせる。
「飯は」
「働かざるもの食うべからず、よ」
 姿の見えないリプレの変わりに、大人ぶった口調でフィズが言う。だが今度は無視し、ガゼルは自分の椅子を引いて座ろうとした。が、なにげに見下ろした腰掛け部分が変な色に染まっていることに気づき、それが何であるのかを理解するに連れて彼の表情は徐々に歪んでいった。
「お前ら、俺の椅子に何してやがるーーー!!!」
 腰掛けを濡らしていたのは、仔猫が吐き出したと思われるミルクだった。
「だって、起きてこないし、いらないのかと思ってさ」
 いけしゃあしゃあと言い放つアルバに、今度こそ切れかかったガゼルは、だがしかし、台所からリプレが顔をのぞかせたことに気づいてかろうじてこらえた。
「ったく、よー」
 腹立たしげに頭をかきむしり、エドスの椅子に座り直した彼は朝食が出てくるのを待ちながら、子供達の悪戦苦闘する光景を眺めていた。
「はい。思ってたよりも早く起きてきたね」
 ふて寝する事が昨日からばれていたらしく、リプレの言葉に一瞬赤くなったガゼルは、出されたパンにかぶりつきながら子供達の方を指さした。
「やかましくて、寝てもいられねぇ」
「まぁ、そうだろうとは思ってたけど……」
 この事態は、リプレも予想以上だったのだろう。子供を育てることは今もやっていることで、アドバイスを与えることが出来るかもしれないが、彼女は猫を育てた事はない。どうしたらいいのかと聞かれても、答えてあげられない。せいぜいミルクを温めることぐらいしかできないでいる。それが口惜しい。
「だから止めろって言ったんだ」
「そうね。でも、あの子達のやる気を見てたら、そうは言えないじゃない?」
 必死になって仔猫をあやし、ミルクを与えているラミの姿はとても生き生きしている。喧嘩ばかりしているフィズとアルバも、協力しあって仔猫を世話している。ただ、どうもそれは空回りしている気もするが。
「育ってくれるといいね」
「そうなったらそうなったで、困るだろ」
「……うん。でも、さ」
 猫は成長が早い。子供もたくさん産む。増えすぎでも困るのだ。
「なんだか、いいな、って思わない?」
「思わない」
 ごちそうさま、と最後のひとかけらを口の中に押し込み、ガゼルは席を立った。
「お前ら、俺の椅子ちゃんと拭いとけよ」
 自分のミルクまみれの椅子を指さし釘を打つと、彼は薪割りをしに庭に降りていった。
「ふーんだ、ガゼルの意地っ張り!」
 フィズが彼の背中に向かって文句を言ったが、彼は振り返りもせず、反応もしない。
「なによ、変なの」
 不満げに呟く彼女の足下で、仔猫は力のない声でひとつ、鳴いた。
 その夜だった。仔猫の様子が急変したのは。

 もともと、生まれたときから体が弱かったに違いない。
 ミルクはほとんど飲まない、無理に飲ませてもすぐに吐いて戻してしまう。急激に人の多い場所に移された事に適応できなかったせいもあるかもしれない。
 親猫に死なれてから子供達が見つけるまで日が経っていたことを、ガゼルは子供達から教えられた場所にそのまま残っていた親猫の死骸の腐敗状況を見た瞬間に理解していた。仔猫の命がそう長いものではないことを、彼だけは気づいていた。
 だから彼は最後まで反対した。仔猫が育たないことを知っていたから。でもその真実を口にしなかったのは、彼自身、心のどこかであの仔猫に、自分自身を映し出していたからかもしれない。
 どこかで、救えるのではないかという奢りがあったのかもしれない。
 結果は、変えられなかったが。
 次の日の朝、仔猫は冷たくなっていた。

 今もアジトの庭の隅には小さな墓標が立っている。
 それからしばらくもしないうちに、フラットには新しい仲間が増え、北スラムのオプテュスとは対立関係がいっそう深まり、そんなつもりはなかったのに城の召還師たちとも喧嘩するようになってしまった。
 アジトは人の出入りが激しくなり、いつの間にか居座る連中も現れ、広かったアジトが急に手狭に感じられるようになった。
 それでも、いいと思う。昔みたいに、圧政者の影におびえて暮らすよりも、仲間と一緒に助け合って暮らす方が、ずっと充実している。
 たまに庭の端で小さな影がしゃがみ込んでいても、誰かが気づいて言葉をかけてくれている。そこに何が眠っているのか、新しく来た連中は知りもしないけれど、子供達が手を合わせている姿から、おそらく察してくれているに違いない。
 子供達が笑ってくれるから。
 今の騒々しい日々は、決して悪いものではないのだと思える。
「なんだか、嬉しそうね」
「悪いかよ」
「ううん、別に」
 庭でラミを肩車しているハヤトに手を振り、リプレはお昼ご飯が出来たと大声で皆を呼ぶ。
「分かった、今行く!」
 最近の騒動の中心人物が、そんなことを全く気にした様子もなく手を振り返し、近づいてくる。
「ご飯?」
 薪割りをしていたジンガも、どうやらフィズに本を読んでいやっていたらしいキールも、連れだって居間に現れる。
「ったく、お前ら少しは遠慮しろよな」
「あんたが言うの? それを」
「うっ……」
 言葉に詰まるガゼルを後目に、リプレは台所に戻って食事の用意に取りかかる。ラミをおろしたハヤトがそれを手伝いに行き、ジンガはすでにテーブルでスタンバイ済みだ。
「ちぇっ」
 頭を掻き、ガゼルも席に向かう。
「ま、これもいいかもな」
 にぎやかなのも悪くない。賑やかすぎるのは問題ある気もするけれど。
「そのときは、そのとき考えるさ」
 日々楽しければそれでいい。
 まもなく、全員がテーブルについて食事が始まる。そこに暗い影は見あたらない。それがガゼルは嬉しかった。

精霊巡る大地

 穏やかな風がどこまでも広く、果てしなく続く空を駆け抜けていく。遠くに延びる街道は南へと延び、その両脇とは違ってそこだけが白い道の上にはぽつぽつと、行商人や旅人であろう人影が黒い点となって見つけられた。
 左右に広がるのは、無限とも思えるくらいに続く緑のカーペットだ。道の両側は日除けの役目も兼ねた街路樹が並び、その外側には用水路が細く長く伸びている。大木の枝葉のように乱れながらも絡み合わず、互いの領地を主張して水は大地に染み渡っていく。
 用水路の限界線まで農地が出来上がり、その外側は草原と緑豊かな森。穏やかな丘陵の斜面は若い草がサラサラと風に煽られて揺らめき、あそこで寝転がったらさぞかし気持ちよさそうだなとそんな事を考える。
 ふわっと下から吹き上げてきた風に前髪が浮き上がり、彼は右手でそれを押さえながら左手でしっかりと腰を落としている太い枝を握りなおした。肉の薄い額にごつごつしたグローブの感触が直に伝わり、苦笑って手を放した。
 腰かけている位置を直して姿勢を改め、再び遠くへと視線を流す。
 だが右手は彼の身体を支えてくれている太い枝には戻らず、手近な細く若い枝へと伸ばされた。緑濃い葉の間に指をまさぐらせ、隠れるように実っている赤い拳大の木の実をもぎ取った。
 手慣れた動作である、その間彼は一切視線を右手の先に長そうとしなかったのだから。
「はむっ」
 掴み取った果実を腹の前で服に擦りつけることにより汚れを軽く落とす、そして迷うことなく口へ運んだ。
 しゃりっ、とまだ固い果肉に歯形が出来上がる。
「ふーむ」
 少々酸っぱい感じもするが、大体こんなものだろうと咀嚼の最中に考えながら呑み込む。喉を上下させて唾と一緒に胃へと流し込んでから、更にもうひとくちかぶりつけば最初の歯形は乱れ、二つ分にそれは増える。
 赤かった表面が削られ、白っぽい果肉の更に内側から茶色の種が顔を覗かせた。それを舌先だけで器用に穿り出し、ペッと吐き出して足許に棄てた。ブラブラと揺れる足の間からそれは落ち、随分と遠い場所にある地面にぶつかって一度だけ跳ねる。だが直ぐに背の低い若草に紛れて分からなくなってしまった。
 商店で売られているようなものに比べたら味は落ちるのは仕方がないが、街路に聳える樹木が自然に実らせるものでちゃんと食べられるのなら文句は言えない。ただなのだから。
 まだ熟し切れていなかった木の実を芯と種以外綺麗に食べきり、彼は丸々だった頃に比べかなりダイエットに成功してしまった芯をやはり地面に落とす。食べ滓は蟻や地上の虫たちが綺麗に片付けてくれるだろう、土に紛れて腐ればそれもまた、次に種から芽を出す植物の栄養素にもなるはずだ。
夕焼けが迫る。だが夕食にはまだ幾ばくか早い時間帯である事を思い出し、頬杖を付いてみた。間違っても落ちないようにバランスを保ちながら、西の地平に徐々に傾きつつある太陽を見つめる。
 地平、とは言え西に広がるのは荒涼とした山並みなのだけれど。
 頬杖をつく姿勢に五分で飽き、また右の手は虚空を彷徨うように伸ばされる。がさがさと葉の間を探りながら肌触りが他と違うものを見つけだし、またもぎ取る。ちょっとコツを使えば簡単に枝から分離する木の実の二つ目に口を出そうとして、けれど真下から自分を見上げてくる視線に気付いて動きを止めた。
「テッド」
 不機嫌そうな顔と声で感情を隠さず、疲れるであろうに首を持ち上げて真っ直ぐな視線を投げつけてくる相手を足の間から認め、彼はやれやれと肩を竦めてみた。グローブのはまったままの右手に掴んだ果実を握りつぶさぬよう力を加減しつつ、やや前傾姿勢を作って下を覗き込む。
 その仕草が余裕綽々に見えるのだろう、あからさまにむっとした顔を作り直した彼よりも若干年若い少年が、黒髪に似合う鮮やかな緑のバンダナを揺らした。
「こんなところで、なにしてるのさ」
「なにって、見てわかんねぇ?」
 分からないから聞いてるんじゃないか、と当たり前すぎる論議を絡まない視線の間で交わし、テッドは益々すね始める少年に表情を緩めた。彼は一年ほど前に自分を保護してくれた人の息子であり、言ってしまえば甘やかされて育ったお坊ちゃんだ。荒廃した大地を、庇護してくれる誰かも持たずに放浪し続けてきたテッドとは産まれも、育ちもまるで違う。
 にも関わらず、テッドは随分と彼に好かれてしまっていた。環境の所為か年齢の似通った友人がいなかった事が一番の原因であろうが、テッドは少々それが迷惑な時があった。
 ひとりになりたいときがあるのに、彼はずけずけと遠慮なく自分の領域に入り込んでくる。しかも土足で、だ。
 喧嘩も多い、それも大半はテッドの方が一方的に彼を突き放し無視する事から端を発していた。そうやっているうちに彼が怒り出し、拗ね始め、収拾がつかなくなって大人が介入する事もしばしば。
 甘やかされてるな、というのが見ていて如実に伝わってくる彼の存在が、無性に気にくわなくなる事もある。殴り合いに発展した事は少ないが、それはテッドが普段から武術の鍛錬で鍛えている彼に力では敵わないと知っているから意識して避けているだけで。
 だが武術の試合ならともかく、ただの喧嘩であれば実戦経験の多いテッドが勝つことの方が多い。喧嘩を避けるのはむしろ、負けるのが嫌なのではなく面倒臭いという理由が強かった。
 もっとも彼はその事にも不満を持っているのかもしれないが。
「テッド」
 夕暮れが迫っている。足許に伸びる影は母体よりも身長を伸ばしていて、空の青も心なしか濁り始めている。虎狼山に掛かる太陽も赤味を増してきているようだ。
「なんだよ」
「今日うちに来るって約束しただろ」
 それなのに来なかった、と彼はテッドが登っている木の幹に手を触れながら言った。その語調は、最初こそ怒って拗ねていたものだったが今の言葉は、少し違っていた。
 どちらかと言えば、哀しんでいるような、そんな調子で。
「ラス?」
「楽しみにしてたのに」
 グレミオがアップルパイを焼いて、クレオが新しく手に入ったばかりの茶葉を使って美味しい紅茶を煎れてくれていた。パーンが最新式のゲームを用意してくれていて、みんなでテッドが来るのを楽しみに待っていたというのに。
 今日、テッドは来なかった。
 恨み言のように連ねながら、しかしラスティスの声は沈んだままだ。俯いて自分の足許に居る彼の後頭部を見下ろし、テッドは自分には随分と似合わない現在の状況に溜息をついた。
 今までこんな風に、諸手を挙げて歓迎された事は少ない。一箇所に長く留まる事も希だったから、人との関わり合い方を忘れてしまっていたと言っても良い。
 マクドール家と深く繋がりを持ってしまえば、右手に宿るソウルイーターが彼らを狙いかねない。親切な人たちだからこそ、守りたくて距離を置いているというのに。理由を知らないから彼らを責める事など出来やしないのだが、こうもずけずけと自分が創り上げている最後の防壁を破るのは止めて欲しかった。
 一箇所を破られたら、どんどんと侵入を許してしまいそうになる。長く飢えていた感情が満たされようと、喘いでいるのが分かるから。
「あー、そうだっけ?」
 悟られるのが嫌で、忘れていた振りをしながら惚けて見せた。
「テッド」
 だけれど遠くを見据えたまま、ラスティスを見ようとしないテッドの態度を高い位置に見上げながら彼は唇を尖らせた。緩く首を振り、こめかみを数回叩いてからラスティスは長い息を吐きだした。
「そんなに僕たちの事、嫌い?」
「なんでそう思う?」
「だって」
 君はこの前の誘いも、受けておきながら結局来なかったではないか、と。
 先月の事を引き合いに出し、地面に転がっている石を蹴り飛ばす。距離を稼ぐことも出来ず間近に落下した石の側に、食い棄てられた木の実の残骸を見つけて眉間に皺を寄せる。良家の子息に相応しい整った顔が歪んだ。
「この前来なかった理由も、確か『忘れていた』だったよね?」
「だっけか?」
 テッドは忘れたふりをしたものの、しっかりと覚えていた。ラスティスは言わなかったものの、先々月もその前も、テッドは午後の茶会の誘いを断るなり、直前でキャンセルだったり、今回のように理由も告げず行かなかったり。それがずっと繰り返されている。
 ラスティスでなくとも、自分たちはテッドに嫌われているのかと勘ぐりたくなるだろう。
「ばーか」
 嫌いなんかじゃない、とテッドは更に身を低くして下方に立つラスティスを見下ろしながら嘯いた。右手の中で、赤い果実が踊る。
 ぽんぽん、と数回手の中で転がして浮かせたそれを、テッドは警告を与える事なしにラスティスへ放り投げた。
「てっ」
 投げられるとは予想していなかったラスティスは、重力に引かれるままに落下していった赤い木の実を頭にぶつけて小さく悲鳴を上げた。受け止められず、果実は彼の頭で一度跳ねたあと地面に落ちて潰れてしまった。
 緑の下草に混じって見えづらいが、恐らくあれはもう食べられないだろう。虫や鳥の餌になるしかない。
「ちゃんとキャッチしろよ」
 それでもマクドール将軍の息子か、とぶつけた箇所を押さえているラスティスを笑い飛ばしたテッドに、彼はバンダナの上から頭をさすりつつ恨めしげな視線を向ける。
「だったら先に言ってよね!」
 彼の主張はごもっともだったが、テッドは彼にぶつかるように投げたのだから先に予告してしまうと意味がないと言葉を重ねた。
「戦場じゃ、どっから矢が飛んでくるかも分からないんだぜ? そんなんじゃ、てんでダメだな」
 大仰に肩を竦めて首を振ったテッドの、人を莫迦にしきった態度にラスティスはむかっと頭に湯気を昇らせた。握りしめた拳がわなわなと揺れる。
 悔しさに強く噛んだ奥歯の間から息を吸い、吐く。左足を半歩分引いて若干腰を落とし、親指を内にして右の拳を軽く握り左手は広げて脇を締め、顔の前に立てて。
 一呼吸の後、ありったけの力を右の拳を街路樹に叩き込む!
 樹齢五十年はあるはずの木が揺れた。
「うわぁ!」
 枝葉の末端まで揺らいだのではないか、という衝撃を受けてテッドは危うく枝から滑り落ちるところだった。かろうじて木の幹にしがみついてやり過ごすが、格好に構ってなどいられなかったので中途半端に右足が浮き、かなり間抜けなポーズになってしまっていた。
 両脇を締めて殴ってしまった木に黙礼をしたラスティスが上を見つめ、必死にしがみついているテッドを見つけてその格好を笑い飛ばした。すっきりしたのだろう、表情は晴れ晴れとしている。
 ストレス発散にしては、随分と荒っぽい行動ではあったけれど。
「お前っ……危ないだろ!」
 いきなり何するんだ、と体勢を立て直しながらテッドは怒鳴ったけれどラスティスは充分に涼しい顔で、
「戦場じゃ、どこから攻撃が来るか分からないんだよ?」
 テッドもまだまだだね、と指を振りながら言ったラスティスにテッドは頭を抱えたくなった。嫌な仕返しだが、そう言われてしまうと反論の余地がない。諦め調子に溜息をついて彼はさっきの衝撃で下に垂れ下がってきた枝に新しい木の実を見つけ、それをもぎ取った。
「ラス」
 今度は名前を呼んでから、それを彼に向かって投げ放つ。今度こそしっかりと両手で受け止めたラスティスは、その実がさっき草場の間に見つけた食い滓の原型だと気付いて渋い顔をした。
 こんなものを食べるくらいなら、自分の家に来て一緒にアップルパイを食べれば良かったのにと、そう考える。試しに袖で汚れを拭いてから噛み付いてみたが、食後のデザートには不適当なくらいに酸っぱさが先に立った。
「酸っぱい」
「まー、まだ完全に熟してないからな」
 自分の分も探してから、するすると枝を伝って地上に戻ってきたテッドが笑う。ラスティスの歯形を残した果実を受け取って、反対側から噛み付いた。
「二日くらいおいておけば、良い具合に熟して甘くなる」
 これはもう食べきるしかないけどな、と両頬を削ぎ落とされた格好の木の実をラスティスに返してテッドは自分の分をポケットに押し込んだ。
「じゃあ、売ってあるのって全部」
「そ、寝かせて熟してあるの」
 もっともその行為は腐敗を促している事にも言い換えられるのだが、とテッドは木くずのついた服を叩きながら言葉を連ねる。不思議そうにしたラスティスに、無知、とひとつ笑い飛ばしてから、
「要するになんだって、腐るちょっと手前が一番美味いんだ」
 一歩間違えれば腹痛を起こすかもしれないが、果物は大抵枝から自然と落下するくらいに熟しきった手前で収穫するのが一番美味。ただ売り物には適さない、売る前に腐ってしまうからだ。
 だから熟れきる直前に収穫して、寝かせて置くのだ。
「ふーん……」
 物珍しそうに自分たちの歯形が残っている果実を回転させながら眺めたラスティスは、もうひとくち噛み付いてその酸っぱさに顔を顰めた。カラカラと声を立てて笑うテッドを睨みつつ、荒っぽく咀嚼して一気に飲み込む。
「ま、あれだな。人間も似たようなものだよな」
「なんかお爺さんみたいだよ、テッド」
 渋い顔で更にもうひとくち、果物にかぶりついたラスティスが苦そうな顔で言い返した。独り言に言葉を返されるとは思っていなかったようで、テッドは驚いた様子で振り返りそれから、少し考え込んで首を振った。
「そうか? 成熟した大人ってことだな」
「褒めてないんだけど……」
 年寄り呼ばわりされた事を不満にも思わず、むしろ肯定的に受け止めたテッドの前向き姿勢をラスティスは笑ったようだった。
 彼は知らない。テッドが見た目とはまるで似つかわしくない精神を持ち合わせている事に。彼がどのように生き、年月を過ごしてきたかを。
 知らなくて良いと、テッドは長く伸びる己の影を見下ろしながら心の中で呟く。
 並んで歩き出した歩調は今はまだ差が出来る程のものでもないけれど、やがてラスティスはテッドを置いて前へ行ってしまう。将来彼が大人になって重荷を背負うことになったとき、側にいて支えてやれる人間に、自分はなれない。
 あまり深く心を絡め合わせる前に、この地を去ろう。
 熟し切った果実が地面に落ちて、潰れてしまう前に。
 彼を潰してしまう前に。
 その前に、彼という大樹に産まれた自分という果実を、自分から切り落としてしまおう。
「夕ご飯は食べていってよね」
 前を見つめたままラスティスが言った。顔を上げる、西日を横から受けて彼の顔は影になり、表情は見えなかった。
 視線を逸らす、そのまま足を緩めて自分が借りている部屋に戻ろうと逡巡する。
 それなのに。
 ラスティスの手はテッドの手を掴み、しっかりと握りしめて来た。暖かな人の体温がグローブ越しにも伝わってくる。
 飢えたソウルイーターが蠢く。固く目を閉ざし鳴動を止めない忌まわしい存在を己の内側に押し戻して、ハッと視線を戻せば驚くほど近くにラスティスの顔があった。
「テッド?」
 具合が悪いのだろうかと、脂汗を浮かべているテッドの額を撫でた彼の手が優しい。
 泣きたくなる。
「やっぱり調子悪い?」
「ちがっ……ちょっと夕日が眩しくてな」
 ごしごしと目尻を擦りながら、街の城壁に沈もうとしている太陽を八つ当たりで指さしてみた。
 城塞都市の上空は見事な朱色に染め上げられて、白く塗られた建物の壁までも赤く照らされている。そうなるように設計されたのであろう町並みはこの時間帯が一番綺麗で、道行く人も足を止めて沈み行く太陽に見入る。
 あと何回、この光景を見ることが出来るのだろうか。
 あとどれくらい、夕焼けの時を迎える事が許されているのだろうか。
 あと幾ばくの時を、夕焼けのように赤く染まった大地を進むことを強いられるのだろうか。
 死者の魂が巡る大地で、ひとりきり。
 ぎゅっと、ラスティスが無意識なのだろうがテッドの手を強く握った。
「ラス?」
「……なんでもない。帰ろう?」
 ぐいっと腕を引かれ、疑問に感じた事を問う事も出来ぬままテッドは促され、赤一色の街中を歩き出した。有無を言わせぬラスティスの行動に、怪訝な思いが拭えぬままテッドは彼の後ろを進む。
 やがて見慣れた建物が見え始めた頃になって漸く彼は歩みを緩め、一緒にテッドも速度を落とすとラスティスの手を振り解きながら立ち止まった。逆らわず、彼はテッドを解放して自分も二歩先で立ち止まる。
「どうした?」
「…………」
 振り返らない彼の背中を眺めながらテッドは尋ねた。この一年で大分背も伸びた彼は、いずれこの国を背負って立つ若者となるだろう。既に置いて行かれる立場にある自分は、成長期の年齢を外見に持っているというのに一ミリとして伸びてくれていなかった。
 時の流れ方が違う。まるで今の、お互い絡み合わない心と視線のように。
 ラスティスは顔を上げた。しかしやはりテッドを振り返らない。
 闇の色が濃くなっていく空を見つめ、彼は呟いた。
「テッド、いつも遠くを見てるよね」
「そうか?」
「そうだよ」
 意識していない行為に言及され、首を傾げたテッドにラスティスは頷く。
「そんなに僕たちと一緒にいるの、退屈?」
「なんでそう思うんだ?」
「だって……」
 君はいつだって、遠くばかりを見ているから。触れられるくらいに近くに居ても、君はいつも遙か彼方を見つめていて、存在を遠くに感じてしまうから。
 どこかへ、行ってしまいそうで。
 伸ばした手がすり抜けて行ってしまうのが恐かった。あの夕日に君を攫われそうで恐かった。
「まさか」
 テッドは笑った、そんなはずがないだろうと。
「そうだね」
 その仕草があまりに自然だったから、ラスティスも考えすぎだっただろうかと笑みを零しながら考える。
「帰ろう? グレミオが晩ご飯作って待ってるんだ」
 お茶会をサボったんだから、夕食こそは食べていってもらうからね、と強気の語調で告げた彼に苦笑い、分かったよと返してテッドは開いてしまっていたラスティスとの距離を詰めた。
 ふたり並んで歩き始める。そして一緒にドアを押し開けて、ただいまとお邪魔します、の言葉を重ねてみた。間もなく聞きつけたグレミオがエプロン姿で玄関に駆け込んできて、お帰りなさいといらっしゃい、がごちゃ混ぜになった言葉を貰った。
 笑い声を聞きながら、テッドはそっと、ポケットの中に忍ばせていた若い果実を服の上から握りしめた。
 せめてこの果実が成熟し、最も適した時期に至るまでここに在って、彼を見守らせてはくれないだろうか。
 居もしない神に願ってみる。

 右手の奥で、死に神が嗤った。

silent

 キィ……と浅く軋んだ音。
 それまで虚空に飛ばしていた意識をふっと手元へと引き戻し、彼は閉ざしていた瞼を少しだけ持ち上げた。
 白い肌に際だつ、深紅の瞳がその奧から現れる。だがそれも一瞬の出来事で、風の気紛れで起こったような扉が開く音にそれ以上の興味を抱くことなく彼は再び、意識を深層世界へと旅立たせようと瞳を閉ざした。
 組んだ脚の上で細い指をトントン、と。何かのリズムを刻んでいる様子だが、彼はそれ以外の動きもまた、音も発していない。もう片方の手は座している椅子の肘置きに立てられて頬杖を付いている姿勢だ。それも、先程から微動だにしない。
 ただあの一瞬の瞼の動きとその間も変化することなく刻み続けられているリズムだけが、この場を支配している総てだった。
 酷く静かで、逆に神々しささえ覚えてしまうような、決して触れてはいけない、壊してはならないもののように見えてくる。
 そんな彼の指がふと、止まった。
「……どうした」
 ふっ、という溜息に織り交ぜた問いかけ。だがその場所に居るのは艶やかな銀糸の髪を持つ彼だけで、それ以外の生命の姿は見当たらない。
 当然返事はなく、却ってそれが彼の不興を買ったらしい。二度目の溜息の後に囁かれた言葉には少し棘があった。
「盗み見が、趣味か」
「そんなコトないよ」
 声が返ってくる、虚空から。
 やがて目の前がぼんやりと朧になったかと思うと、もう其処には人が立っていて。……否、人とは異なっている存在が。
「何をしていた」
 問いかけは返答の拒否を許さない威圧感を持っている。姿勢を崩さず、ただリズムを取っていた指だけが動きを止めただけの彼は、どことなく王者の風格を醸し出している。さながら、己の支配者の様相だ。
「見てた」
 なにを、とは言わない。言わなくても通じるだろう。この場で、自分が立っている彼の真正面の位置からだけでも、言ってしまえば彼がいちいち問い質さなくても既に分かり切っているはずの愚問を彼は口にしたのだ。
 わざわざ。
 その意図が読みとれて、少し嬉しくなる。
 少なくとも今は会話することを許されたのだと、問いかけの裏に感じたから。
「面白いか」
「ぼくとしてはねぇ……」
 彼の瞳は閉ざされたままだ。彼は決して自分を見ようとしない、いやもともと……見えないのだが、この姿は。
「気になる?」
 訊いてみる、わざと“なにを”を消して。
 案の定、彼は少し不機嫌そうな顔をして綺麗な頬に添えていた指で自分の髪を掬い上げた。けれどまだ、瞼は開かない。
 あの宝石のように綺麗な瞳が、見えない。
「おまえは」
 そう呟いたきり、彼は口を閉ざしてしまう。彼が何かを問いかけてきたわけでもないから、自分も口を開かない。
 沈黙がその場所を再び覆い隠す。
 残念。彼の透き通るような声は、あのなにものにも屈しない強い輝きを持っている瞳と同じくらい、好きなのに。
 ちぇっ、と心の中で悪態を付いているとまるで見透かしたように彼は、閉ざしていた唇を薄く開いた。
「面白いか」
 肘掛けに置いていた腕を緩やかに動かして、今度は膝の上で頬杖を付き直す。あくまでも優雅な姿勢を崩さない彼は、矢張り瞳を閉ざしたまま。今度こそ、と期待していた分がっかりで、けれど憶面にも出さずぼくはいつものように、喉を鳴らして笑った。
「うん」
「そうか」
 返事はそれだけで、またふたりして、黙り込む。
 あ、そっか。唐突に気付いた。
 許されたのは、会話じゃなくって此処にいても良いってコトだったのかな。それとも、今度はちゃんと見えている姿で入ってこい、ってコトなのかな。
 どっちだろう。少し悩んで、座ったままの彼を見下ろす。
 その瞬間、どきりとした。
 深紅の双眸がぼくを見上げている。悪戯っ子のように、表情はちっとも変わっていないはずなのに彼が笑っているように見える眼が、ぼくを見ていた。
「ねぇ……」
「どうした」
 一歩、前に出る。カツン、と床の上で足音が踊った。
「そっち、座っていい?」
 返事は、なし。代わりに、膝の上に置かれていた彼の指先がまた、リズムを刻み始めた。
 一瞬だけぼくを映し出した瞳はまた宝石箱にしまわれてしまって、もう見えない。でも、いっか。見てくれたし。
 とすん、と腰を下ろす。彼の隣に。少しだけ腕が触れて、少しだけ、緊張した。
「ぁ……」
 何か言いかけて、やめる。何を言いたかったのかも解らないし、音楽に集中している時の彼の顔も、好きだったから。
 こんな風に傍で見ているコトを許してくれたんだから、もうちょっと、見ていたい。たとえその瞳がもっと遠い世界を見ているとしても。
 沈黙がまた流れる。
 リズムだけが、永遠と思える時間を流れていく。

青空の下にて

 麗らかな春の陽射しが眩しい、午後。と言うよりもむしろ、正午過ぎ。
 別にどちらかが言い出したわけでもないのに、いつの間にか一緒に各々の昼食を広げている男、ふたり。別に並んで仲良く、というわけではない。向き合っていると言うのも、少々違う。
 同じ場所に居座っているくせに、お互いに顔を向き合わさないように角度を変えてあっちとこっちを眺めながら、黙々と食する昼ご飯はどこかさもしい。
 入学して程なく。
 ふしだらな理由により野球部に入部した自称天才、のまったく野球ど素人な猿野天国と。
 天国が入部して早々に対立し、それ以後何かと意見がぶつかり合うまさしく犬猿の仲、な犬飼冥と。
 本来なら学校の廊下でも顔を合わせたくないとお互いに思っている相手と、どうして学校で数少ない楽しみな時間である昼食タイムでまで一緒に居らねばならないのか。
 ふたりともそれが不満で仕方がないのに、それなのに毎日のように、雨でも降らない限り屋上に姿を現すのにはわけがある。
 入学して間もない頃に。
 サボり癖のある天国がまず、屋上の鍵が案外簡単に外せることに気付いた。そしてこの場所を、自分のものだと勝手に決めた。
 しかしどうも、自分とは別の奴が屋上に出入りしているらしい、と気付いたのはその翌日。自分に断り無く屋上を使う奴が居るのは許せないと、天国は屋上に貼り付いて不届き者を掴まえようと試みた。
 そして現れたのが、犬飼冥。
 彼もまた、鍵が外せることにいち早く気付いてそこを自分の憩いの場所と決めていた。
 ここで問題。
 果たしてどちらが先に、屋上の鍵が壊れていることに気付いたか?
 天国は自分だと主張し、冥に即刻立ち去るように言い渡した。冥も冥で、先に見つけたのは自分だと言い張って天国に出ていくように怒鳴る。
 喧嘩は、袋小路に迷い込んだことにどちらも気付かないまま堂々巡り。
 結局決着はつかなくて、相手の事が気にくわないながらも自分から、折角見つけたお気に入りの場所を放棄するのも嫌だった事から無言の了承で、昼食は仲良くなく、屋上で一緒に。
 天国は母親が持たせてくれる巨大弁当を、冥は恐らく通学途中にあるコンビニで買ってきているのであろう食パンと、コーヒー牛乳。なお、食パンは二袋。
 春の陽射しはどこまでも優しく、暖かい。午後の授業さえなければこのまま屋上で日向ぼっこをしながら、のんびり昼寝でも楽しみたいと思うのが人の常。
 けれど視線を巡らせて、運悪く向いてしまった方向には大嫌いな相手が居て。
 気分良く食事を終えて弁当箱を片付けていた天国は人知れず、唇を尖らせていた。
 なんで、こいつが屋上にいるんだよ、と。
 今まで何度考えたか分からない疑問を頭の中で巡らせ、天国ははぁ、と息を吐き出した。
 二段組の弁当箱には、これでもか、とばかりに白米とおかずがぎっしり埋め尽くされていた。通常の弁当箱のゆうに二倍はあろう容積を十分そこらで胃の中に収め終えた彼は、風呂敷で箱を包み直して食後のお茶を口に含む。
 ちらりと伺った冥はまだ、背中を屋上のフェンスに預けてもそもそと食パンを囓っていた。
 とは言え、既に一袋分は空になって彼の足許に落ちていた。風に飛ばされないようにするためか、端をパックのコーヒー牛乳が踏んでいる。
 しかし何故、食パンなのか?
 聞いてみたい気もしたが、こちらから話しかけるのも癪である。そう思っていると、天国がじっと見ている事に気付いたらしい、冥が怪訝な表情を浮かべて彼を見返した。
 咄嗟に天国は身体ごと彼から顔を逸らした。
「…………」
 なにか言われるだろうか、と思ったが声がかけられることはなく、ホッとしたような残念に思ったような、いまいち良く解らない感情が胸の中に入り乱れて天国は頭を引っ掻いた。
 途端、ぐぅ、と腹の虫がひと鳴き。
 天国は慌てて自分の腹を両手で押さえ込んだ。その音は存外に大きく響いたらしく、はっとなって振り返ると冥も、口を休めて人をバカにした顔、というかはむしろ呆れた感じのする顔で彼を見ていた。
 俄に天国の顔が赤くなっていく。
 ちょっと待て、おかしいじゃないか。自分は今、この大量の弁当を食い終わったばかりではなかったのか。それでも足りないと言うのかこの腹は。あぁなんと無情な、そして殺生な腹であろう。これ以上成長を望むというのかそしてあの犬っころを追い抜いてこの世で一番ののっぽ野郎になってやれと? そういうのかこの身体は。それともなにか、急激に野球の素質を開花させて世界チャンプに一歩近付きつつある自分に、更なる試練を与えたもうと言うのか? ああそうだ、きっとそうに違いない。つーかその通り!
「……アホ猿」
「なぬぅ!?」
 ひとり腹の虫を誤魔化すためから始まった陶酔劇な天国のひとり芝居を一通り眺めた後、ぼそりと冥が呟き、現実に戻ってきた天国が食ってかかる。
「テメー、朝食ってねぇだろ」
 今日の朝練で、遅刻ギリギリに駆け込んできた天国を思いだした冥が言う。反論がない、と言うことはその通りなのだろう。寝坊したかなにかで、大慌てで家を飛び出してきたに違いない。それでも弁当を忘れなかったところはさすが、と言うべきか。
 しかし早朝からあれだけの運動をしておいて、昼食がそれで足りるはずがない。いつもならそれでいけたかも知れないが、絶対量が不足しているのだから身体が満たされていなくても、仕方がない。
「うぅ……」
 悔しげに天国は拳を握り、冥を睨んだ。もっとも冥はそういう喧嘩腰の態度に慣れているから、今更睨まれてもさして恐くないし、どうとも思わない。
 けれど頬を真っ赤にしている天国は少し珍しくて、思わずマジマジと見つめてしまう。
 そしてやれやれ、と首を振った。
 食べている最中だった食パンを口に挟み込んで持ち、空いた手でまだ中身を残している食パンの袋を漁る。六切りでそこそこの分厚さがある、けれどなにも塗られていないから味気ない食パンを一枚取りだして、徐に。
 それを、天国の方へ差し出した。
「へ?」
 狐に摘まれたような顔を、天国は浮かべた。普段から丸い目を更に丸くして、頭の上にいくつものクエスチョンマークを浮かべて首を捻っている。
 冥はそんな天国に、早く受け取れ、とでも言いたげに食パンを持った手を押し出した。一方の手では、いい加減くわえ続けるのに疲れた口の中の食パンを受け取らせて端をかみ切る。
 綺麗な歯形が白い食パンに残される。その様を何故かじっと見つめてしまった天国は、うっ、と息を詰まらせて唾を飲み込んだ。
 実際、まさか分けてもらえるとは思っていなかったからかなり意外な感じがする。それにお前ってそういうキャラじゃないだろう、とも言いたい。
 しかし、弁当だけでは足りていないこともまた事実。財布の中身は小銭が数枚、放課後のクラブ練習前に何か食べて、帰りにも夕食までの間つなぎで何か買って食べるとしたら、今ここでこの残り少ない金を使ってしまうわけにもいかなくて。
 勿論、食パン一枚で腹が事足りるとも言い難いが。
 なにもないよりは、いくらかマシ。
「べっ、別に施してもらったとかそういうんじゃねーからな」
「そんな事思ってねーよ」
 顔を背けて強がってみて、けれど現金な右手は差し出されたままの食パンに伸びてく。
「とりあえず、食うんだったらさっさと取りやがれ、バカ猿」
「うっせー! 返せつっても返さねぇからな」
 ぱしっ、とそれこそ餌を差し出された猿が人の手からそれをかっさらうが如きスピードで、天国は冥の手から食パンを奪い取った。そして真ん中で二つ折りにし、真ん中から噛みつく。
 広げれば、不格好な円形が食パンの中心に出来上がる。
「なんつー食い方……」
 ガキだな、と冥が呆れる手前で、天国は食パンの白い部分だけを口の中に放り込んでいった。むしゃむしゃというよりは、がつがつと。器用にパンの耳を残して食べ終える。
 一瞬の技だった。
 冥も食べかけだったパンをすべて口の中に放り込んで、手についたパンくずを叩いて落とす。
「ん」
 そんな中、唐突に天国が食べ終えたパンを差し出してきて驚いた。
「食え」
「食った」
「とりあえず、全部食え」
「やなこった」
 たまに居る、食パンの耳が嫌いな人間が。
「食え」
「いらねー」
「良いから食え」
「お前にやる」
 いやそれは元々、冥が天国にくれてやったものだろう。
 ほぼ無理矢理な形で強引に食パンの耳だけになったものを手に押し込まれ、冥は心底呆れた顔をして天国を見やる。彼は自分の、そういう食癖を知られてしまった事が相当不満らしい、ずっとあっちの方角を見つめている。
「食べ物粗末にしてんじゃねー」
「だったらテメーが食え」
 その横顔にぶっきらぼうに言ったら、そんな台詞が投げ返された。
 冥は視線を落とす、己の手の中にある天国が食べ残した食パンの耳に。
 綺麗に端が繋がって、四角形が保たれている。白い柔らかな部分はすべて取り去られ、本当に耳の部分しか残されていない。
 彼はトーストにしても耳の部分を食べ残すのだろうか? ふとそんな、どうでも良いことが冥の頭の中を過ぎって消えた。
 やれやれ、と肩を竦める。捨てるのは、勿体ない。かといって、天国が嫌いなものを食べるとも到底思えない。
 やれやれ、と今度は溜息をついた。
「あー!!」
 直後、天国の悲鳴のような叫びが屋上から高い空へと飛んでいった。
 ぱくり。
 冥がなんの迷いもなく、食パン(但し耳だけ)を口に運ぶ瞬間を運悪く、天国が見てしまったからだった。
「なっ、なっ……なにやってんだオメー!」
 絶叫が冥の耳間近で湧き起こり、煩そうに彼は顔を顰めた。天国の言葉に返事をせずに、手元にあった食パンの耳をすべて口に収め、数回咀嚼してから呑み込む。
 彼の喉が上下するのを天国は唖然とした想いで見送った。金魚のようにパクパクと開閉する口がおかしいのか、冥が口元を緩める。
「お前が“食え”っつたんだろうが」
 それはそうだ、天国は確かに、自分が食べないと突っぱねたパンの耳の処分を冥に委ねた。
 けれどまさか、本当に食べるとは思っても居なかった。
「何考えてんだテメー」
「とりあえず」
 ぼそぼそと赤い顔を隠すように言った天国に、冥は薄く笑う。想像以上の反応が楽しい、コロコロと変わるコイツの顔が此処まで真っ赤になる姿を見た奴は、恐らく他に居るまい。
 そう思うと尚更笑みがこぼれそうで、それは慌てて自制で抑え込んだ。
「テメーに貸し、ひとつだ」
「あぁ!? なんでそーなんだ!?」
 唐突に理不尽なことを言われ、天国は顔を上げて冥に食ってかかる。
 ふっ、と冥は笑んだ。それは天国からは嫌味なものに他ならず、そして冥にとっては思いがけない心の底から楽しんでいる時の笑み。
「テメーの出した後始末してやったんだ」
 今度の部室の掃除当番、替われよ?
 そう言って冥は手早く荷物を片付ける。少しだけ残っていたコーヒー牛乳を一気に飲み干し、それを最初買ったときに店員が入れてくれたビニル袋に押し込む。食パンの残りは口を固く閉じ、部活後に食べる事に決めた。ゴミと食べ物の残りとを分別し、未だ納得がいかないと真っ赤な顔から湯気を立てて怒っている天国を、ようやく久方ぶりの想いで見返す。
 何か言いたげに、けれど天国の開閉し続ける口からはなんのことばも出てこなかった。
 程なくして、昼休憩の終了と午後の始業開始を告げる予鈴が校内に鳴り響き始めた。顔を上げて屋上に据え付けられているスピーカーを見上げ、冥は立ち上がる。
「遅刻すっぞ」
「うっせぇ!」
 テメーなんかさっさとどっか行っちまえ! そう怒鳴る天国に大仰に肩を竦め、冥はゴミ袋となったコンビニ袋を手の中で握りつぶした。そして不意に思い出したような顔をして、座ったままの天国を見下ろす。
 なんだよ、とその強気に見返す目が告げている。
 口元が緩みそうだった。
「パンの耳、美味かったぜ」
「なっ!」
 ぼんっ、ともしここで効果音が背景に入ったらそう表現されていたであろう。天国の顔が、一気に茹で蛸の如く朱に染まった。
 それを最後に見返し、冥は踵を返して校舎内に戻る扉へ向かって歩き出す。予鈴から五時間目の始業の合図は五分しか猶予が設けられていない。しかも冥のクラスの次の授業を担当する教員は、始業ベルと同時に教室に入って点呼を取る厄介者だった。早く戻らないと、遅刻扱いにされてしまいかねない。
「こらっ、犬! ちょっと待て!」
「とりあえず、断る」
 扉を開けた冥が後ろで吠えている天国に冷たく言い返した。一方の天国は牙を剥いており、腹立たしげにぎゃんぎゃん喚いている。
「バカ猿」
「うっせぇ!」
 ぽつりと、自分に聞こえる程度の音量で呟いただけなのに天国には聞こえてしまったらしい。食ってかかる彼に肩を竦め、冥は彼を無視して教室に戻ることを決める。
「練習、遅れんじゃねーぞ」
 最後にそう言い残し、冥は一足お先に校舎内に姿を消した。天国は咄嗟に自分の靴を掴んで脱ぎ、それを一瞬早く閉じられてしまった扉に投げつける。
 ボロボロなスニーカーは壁となった扉にぶつかり、跳ね返って落ちた。吐き出す息が、荒い。
「ちくしょー」
 口元と、あと頬とを乱暴に手で拭って天国はぼやいた。
「なんだってんだよ……」
 わけわかんねぇ、と呟いて。
 始業のベルが鳴り響く中、天国は五時間目の授業をサボることを早々に決定しその場に仰向けに、倒れこんだ。
 空が、嫌ってくらいに青くて眩しい。
「ちくしょー」
 もう一度吐き出して、未だ赤みが抜けない顔を空から隠すように彼は寝返りを打った。

02年2月22日脱稿