irritate

 ちらちらと感じる視線。
 しかしその視線の持ち主の姿は何処にも見当たらない。
 だのにしっかりとした意志を内包している視線は確実に、存在している。
 休ませることなくフォークとナイフを持つ手を動かしながら、ユーリはさっきからずっと感じている視線を気にしていた。
 表面的には気付かないフリ……無視を決め込んでいるので顔に出ていないが、実のところ彼はかなり不機嫌だった。
 不躾な好奇心に寄るところが大きい視線は巨大な棘のようであり、神経を逆撫でする。食事を覗き見される趣味は持ち合わせていないし、食事以外の時間でもこんな風に卑怯な方法を使っての接触はお断りだった。
 今まで何度も注意してきている、だが彼は一向に気に留める様子も見られず今日もまた、同じ事を繰り返している。
 解っているのだ、彼の魂胆は.
 普段からの悪戯心の延長で、ユーリの怒りを誘い普段表情を滅多に変えない彼の違う一面を見て笑いたいだけなのだ、スマイルは。
 だから無視している、そんなつまらない誘いにわざわざ乗ってやる必要など無い。
 スマイルは透明人間、姿を自由自在に消して、現す事が出来る。感じるのは視線だけで、姿は今は見えない、恐らく真正面に立っているのだろうがそれも確証を得る事は難しい。
 姿が見えているのであれば、視界の中にその形がどうしても飛び込んできてしまって無視を貫くことは難しい。しかし視線だけであればまた話は違ってくる。
 どんなに目を凝らしたところで、どう頑張ってもスマイルの姿を捕らえることが出来ないのであれば、唯一彼の存在が此処にあることを示している視線を弾いてしまえばいいだけのこと。
 スマイルはここには居ない、誰も居ない。そう思いこんでしまえば、自然と彼の不躾な視線はシャットアウト出来る。そうすれば、アッシュの作った手の込んだ料理もじっくりと味わえるというもの。
 淀みない動きでフォークとナイフを操りながら、小さくカットした肉料理を口に運び入れる。丁度良い火加減で調理された肉は軟らかく、ソースも良い具合に絡んでいて文句なしだ。
 つい、スマイルが此処に居ることも忘れて顔を綻ばせてしまう。
 やはりアッシュをメンバーに招いたのは正解だったようだ、自分の判断の正しさを改めて実感してユーリはワイングラスを優雅に傾けた。
 そう広くないテーブルに所狭しと並べられた食器は、ひとつのテーマを持って縁取りや飾りが統一されている。グリーンのラインを絡め合わせた肉皿のそれは、古城の外壁を覆う蔦をイメージしているらしい。その脇に添えられているサラダが盛り合わされた小皿には、赤やオレンジといった小さな円が緑の中に見え隠れしている。これは、森の木々が実らせている果実を模しているとか。
 ワインの赤は、さながら豊穣の象徴か。
 グラスを揺らし、波立つワインに目を細めたユーリは赤に映える白い手でそれをそっとテーブルへ返す。
 しかし。
 がちゃっ、ががちゃっ。
 一瞬テーブルが揺れて、それほど距離を持っていなかった食器とワイングラス、そして手を休めていたために肉皿に置かれていたフォーク類が鈍い不協和音を奏でたのだ。
「……っ」
 何事か、と倒れ掛けたグラスの根本を慌てて指先で押さえたユーリは、その瞬間、ふっと目の前の視界が歪んだ事に怪訝な表情を作る。
 その歪みは直に納まり、その代わり今まで何もなかったはずのテーブルの向かい席に、くすんだブルーの髪を持った男が現れた。テーブルに顔面を突っ伏した姿でいる為に顔は見えないが、焦げ茶色のコートを身に纏い全身のそこかしこを包帯で覆っているそれはまさしく……スマイルに他ならず。
 テーブルの上で両の拳を握りしめて悔しそうに微かに震わせている。一体何が原因か解らないが――恐らく、テーブルに頭突きをした時に集中力でも切れたのだろう――透明人間形無しで、スマイルは其処に居た。
 なにをしているのだか……。
 呆れた調子でユーリはスマイルをしばらく呆然と眺める。一方、スマイルは自分の透明化が解けていることにもまるで気付いていない様子で、ずるずると腕を下ろし交代に頸を持ち上げて顎をテーブルに置き顔を上げる。
 その瞬間、目があった。
 お互い、ぎょっとした顔をしてしまって急ぎユーリは顔を背ける。何事もなかったかのように素知らぬ素振りで食事を再開させようとしたが、何故か手が震えて巧くフォークを操れない。
「アレ?」
 そこへ天の助けか。
 それまでキッチンで残りの料理を仕上げていたアッシュが、デザートの載った皿を片手に姿を現す。そしてテーブルと、キッチンとこの部屋とを繋ぐ扉の丁度中間当たりで足を止めた。
「スマイル、何してるんっスか?」
 心底驚いているらしいアッシュの声に、かろうじて不器用な動きながら食事を再開させる事に成功したユーリの手が止まる。最後の肉切れを口に運ぶ寸前で止めてしまったために、垂れてきたソースが膝の上に敷いていたナフキンに落ちた。
「え?」
 そんなユーリの目の前で、スマイルがこれまた間の抜けた声を出す。
「あれ?」
 スマイルは首を傾げる。そして、自分の手で自分を指さして、
「見えてる?」
「ばっちりっス」
 こくり、とアッシュは頷いた。途端にどうして良いのか解らないと言う顔になってスマイルは居心地悪そうに視線を巡らせた。その手前で、アッシュは持ってきたデザートをユーリの前に差し出す。
 コト、と綺麗な音を立ててアイスクリームの載った皿がテーブルの一角を飾った。
「どーしたんスか? スマイルが此処に来るなんて珍しいっスね」
 その一連の短い作業を終えて、人心地ついたらしいアッシュが未だテーブルに顎を置いて座っているスマイルを見下ろして笑う。その顔に思わず不機嫌さを表に現した彼だったが、アッシュは全く意に介した様子無く、
「スマイルもなにか食べるっスか? 沢山あるから持ってくるっスよ」
 くるりと方向転換して、今さっきまで居たキッチンに戻ろうとした手前で尋ねてきたアッシュに、ちらりと視線をユーリに流したスマイルは彼が綺麗に口元をナフキンで拭っているのを見た。
 肉料理はもう食べ終えていて、あとは少し残してあるサラダを終えれば今出ていたばかりのデザート。それで本日の夕食は完了。
 間近で交わされているアッシュとスマイルの会話に全く耳を貸す様子無くサラダ皿にフォークを向けたユーリの、その目的が赤い色鮮やかなミニトマトに向いているコトに気付いてふと、スマイルは笑った。
 腕を持ち上げ、テーブルの上で組みその上に顎を置き直す。
「ん~……」
 わざと悩む素振りを見せてから、
「要らない」
 たった一言、アッシュへと返しテーブルに添えたばかりの両手に力を込めて立ち上がる。
「そうっスか」
 いかにも残念そうな声を出して、アッシュは踵を返しキッチンの後始末をするためか部屋を出ていこうとした。
 ユーリが、フォークを器用に操って直ぐに転がってしまうミニトマトを掬い上げることに成功する。そのまま、落とさないように慎重に構えて口元へ運ぼうとしている。
「うん。ぼくはこれでいいや」
 アッシュへの返事のつもりで呟いて、スマイルはトマトを落とさないことだけに意識を集約させていたユーリへと顔を近づけた。
 そして。
 ぱくっ、と。
 スマイルが一体何の事を指して今の言葉を告げたのか解らず、確かめようと振り返ったアッシュがその瞬間を見てしまい「あ」と声を上げて硬直した。
 ユーリも、目の前にあった赤を攫われて呆然と目を丸くする。
「ご馳走様」
 ぱんっ、と両手を合わせてスマイルだけが場の雰囲気にそぐわないのほほんとした口調で言う。
 そのまま、なんとも表しがたい空気が空間を支配する。
「なっ……」
 先に我に返ったのは、ユーリ。握っていたフォークを更に強く握りしめて、それを思い切り勢いよくテーブルへ叩きつけた。その衝撃は先程のスマイルの頭突きの比ではなく、がしゃんっ、と跳ね上がったワイングラスが傾ぎテーブルの端から床に落下してしまう程だった。
「っスマ、スマイル!」
 余程動揺しているのか、舌が回りきらない息の詰まった声で彼は怒りたいのか照れたいのか判別のつかない顔をする。
「は~い」
「貴様、何のつもりで!」
「あ、あのユーリ、落ちつくっス」
 そんなユーリを実に愉しそうに眺め、ケラケラと笑っているスマイルに堪忍袋の緒が切れたのか。椅子を蹴り倒して立ち上がったユーリは今にもスマイルに掴みかからんとする勢いだった。
 それを慌てて戻ってきたアッシュが押し留め、その先で笑っていたスマイルがフッと姿を消した。
「スマイル!」
 今日という今日こそ許さない、そう息巻いてユーリは何処に消えたのか解らないスマイル目掛けて怒鳴った。
 その開かれた唇に、冷たい何かが触れる。
 一瞬で離れていったそれがなんであるか、直ぐには理解できなかったユーリだが直後、耳元で自分だけに聞こえる音量で囁かれた内容により、それがスマイルの指先であることを思い出した。
 捕まえようと手を伸ばしても、もう其処には彼の気配など欠片も残っていない。
「誰が食させてやるものか!」
 虚空に向けて怒鳴ったユーリに、アッシュだけか蚊帳の外で解らないという顔をしていた。

柔らかな盾

 その日、長かった戦いが一応の決着を見て大勢の捕虜が一本のロープに連なられた。
 夕暮れの空が地上に長い影を落とす中、嫌に静かな行列が西への道を進む中で君はやはり静かに行軍を見守っていた。
 ふと、彼の顔を知っている捕虜がいたらしく。
 列の進行を乱して立ち止まる兵士が居た。それは年老いていて、長すぎた戦いの所為かかなりやつれていた。頬削げた顔には無精髭が生え、瞳は落ち窪んでいたが光は失われていなかった。
「……」
 その老兵は君の前に立ち止まった。列を指揮していた自分の兵士が慌てて駆け寄ってきて早く行け、と老兵を殴る。
 その瞬間にだけ、君は痛そうな……敢えて言うなら、そう、物憂げな哀しそうな瞳をして光景を見守っていた。しかし言葉を放つことなく、やはり静かなまま兵士に急かされて歩き出す老兵を白い軍馬の上から見下ろしていた。
 あるいは、老兵にはそれが高慢な姿に映ったのかも知れない。
 無言の列は無情なまでに静かに、長い影を荒野に落として進む。まるで死人の群れだと心の中で嘲笑うが、表情には表れなかった。
 僕はもう一度君を見た。
 その瞳はどこを見つめているのかも分からないほど遠くを見据えていた。
 老兵は兵士に急かされながらも、なお君を睨んでいた。全身から放たれるオーラはどす黒く、今彼の身が自由でその利き手に武器が握られていたとしたら君を真っ直ぐに、迷い無く襲っていたことだろう。たとえ自身の命を抛ってでも、その剣先が君に届くことなく阻まれることを承知の上でそれでもきっと、あの男は君の命を奪いに行ったはずだ。
 その行為にどれ程の意味があるのかは分からない。
 そして、男の行動に君がどんな反応を返すのかも。
 きっと、君は逃げないだろう。惑うことなく、恐らくは真正面から男の凶刃を甘んじて受け入れようとするだろう。
 その刃が自分に届く前に、彼を取り巻く信頼のおける戦友によって阻止される事を確信しているから、ではない。
 彼は本気で、心の底から、老兵の刃を受け止めるだろう。
 逃げたところで、防いだところで、老兵の憎悪を取り払うことが出来ないことを知っているからだ。
 バカだ、と笑おうとした。
 しかし表情は変わらなかった。
「…………」
 無表情な仏頂面だと、人は言う。だが、そうでなければやっていられない世の中なのだ、今は。
 争い事が充満して、どこもかしこも血に飢えた空気が支配している。空の闇は世界を包み込む漆黒だ、それがなにもかもを狂わせている。
「…………ルック……?」
 いくらか自嘲げな表情を作った僕を気遣うように、君は小首を傾げて馬を寄せてきた。
 先程までの、哀しげでそれでいて無機質な何も見ていないような瞳とは違う、充分に年相応の子供らしさを残した瞳だ。
 そして、それに安心している自分がここに居る。
「どうか、した?」
 心配そうな声を、僕は嗤う。そうすることしか出来なかった。
 遠くを見ていた瞳、そこに宿るのは果て無き争乱の行く末を憂う心か、それとも終わりのない戦いに殉じていく仲間と、罪なき人々と大切な家族、そして自分自身を案じる感情か。
 どちらにせよ、君はきっと、多分。
 間違いなく。
 自分を棄ててでも他者を守ろうとするだろう。
 その愚かしさ、その強さ。
「どうもしないよ」
 冷たく言い放つ、それこそ取り付く島のないくらいに。
 僕の返答を聞いて君は苦笑し、思い過ごしなら良いんだ、と弁解するように小さく頭を下げて両手を合わせてきた。それから、御免、と小さく呟く。
 なにを謝る必要があるのだろう。心配をさせてしまうような表情をしていたのは自分で、それを君に見抜かれたのも僕自身だ。君の過失はなにひとつとして、存在しないのに。
 そんな風に自分よりも誰か、を優先させる君は。
 まるで。
 ……そう、まるで。
「柔らかな盾だな」
 ぶっきらぼうに、それこそ藪から棒に、僕は呟いた。
 聞きそびれたらしい君は、「?」という顔をして僕を見上げてくる。最も馬上にあるため、互いの視線はさほど高さは変わらなかったのだけれど。
 それでも君はどこか、いつも、人を見上げるような視線を使うからそれが癖になってしまっているようだった。リーダーなのだから止めた方が良いと、何度か注意したはずだけれど一向に聞き入れられぬままに、今に至っている。 
 そういう点にしてみても、君はどこまでもリーダーらしからぬ存在だった。
「……なに?」
 恐る恐る尋ね返してくる表情はあどけない。今の彼の、この表情だけを見せられた人間は果たして彼こそが、天下に轟くラストエデン軍の首魁だと信じられるのだろうか。
 否、だ。
 眉間に指をやって僕は呟く、心の中で。
「なんでもないよ」
「でも、今盾って……」
 それは自分の右手に宿る、この紋章のことを指しているのだろうか。不安を覚えてしまったらしい君が己の右手をさすりながら尚も問いかけてくる。僕は首を振るだけで答えた。
 夕暮れが闇色に紛れて霞んでいく。東の空は薄暗く、天頂を見上げれば一番星に二番星が控えめな光を明滅させていた。
 地獄の死者の行列紛いな列はまだ止まらない、生きているくせに死んだ気分で居るハイランドの兵士達が蟻の列の如く、進んでいく。眺めやって、僕はそっと重い息を吐き出した。
 彼を囲む兵士達は屈強で、ラストエデン軍でも主力を成している。その彼らが列を見つめる瞳も、どことなく物悲しく愁いに満ちている。
 この先どうなるか分からない未来への漠然とした不安に包まれているのだ。明日はこの行列に並ぶのが自分たちかも知れないと、そう思っているのだろう。
 抵抗軍とハイランドの攻防は一進一退を極めており、どちらが勝っても負けても可笑しくない状況に変化はない。今はかろうじて抵抗軍が僅かに勝っているけれど、それも時間の問題だった。
 いつ逆転されてもおかしくない状況。皆、切羽詰まり緊張している。
 なのに、君が笑うから。大丈夫だと、笑うから。
 不思議だと思う。君が言うからきっとそうなのだと、根拠のない自信が周囲を包み込んでみんなを安心させ、勇気づけている。
 だから、だろう。
 随分と懐かしいものを思い出した。
「柔らかい、盾」
「……柔らかい盾ぇ?」
 怪訝な顔をして君が聞き返してくる。けれど僕はもう、答える気にならなかった。
 だってばかばかしかったから。あんな昔話のお伽噺に君を照らし合わせて重ねて見ただなんて、口が裂けても言えるはずがない。
 変わらない仏頂面で僕は最後に首を傾げている君を見て、そして馬の首を返した。行軍が進む方向へ、ゆっくりと馬を進ませる。
「ルック、どういう意味それ」
 背中で声を受け止めるけれど、答える義理は僕にないから無言を決めて貫き通す。
 君は困って、自分の回りを囲んでいる兵士達を見回したけれど、そのうちの誰ひとりとして君の質問に答えられる人物は居なかった。

柔らかな盾

「なに、それ?」
 ナナミは質問を繰り出した義弟に向かって、思い切り眉根を寄せた顔で聞き返した。
「あ、うん。知らないんだったら良いんだ」
 逆に問い返されてしまってセレンは答えに困り、慌てて両手を首を一緒に振って誤魔化す。けれどそんな稚拙な方法が長年一緒に過ごしてきたこの義姉に通じるはずがない。
「なによ~、おねえちゃんに言えないこと~?」
 笑顔だけれど迫力満点な顔で凄まれて迫られて、セレンの頭には巨大な冷や汗マークが浮かび上がっていた。もっとも、ナナミは意外なことに呆気なく彼から離れ、そして不思議そうな顔はそのままに顎に人差し指をやって斜め上を向く。
 考え込むときの彼女の癖だ。視線が天井付近を当てもなくふらついて彷徨っている。
「柔らかい、盾かぁ」
 ルックに言われた、あの一言がどうしてもセレンの気に掛かっていた。そしてレイクウィンドゥ城に戻ってきてからとりあえず、手近なところから質問責めにしてみているのだけれど。
 芳しい回答は得られていない。
 ビクトールやフリックに言わせれば、柔らかい盾など戦闘などには何の役にも立たないからとどのつまり、“役立たず”という意味ではないかと言うし。シュウはまったく相手にしてくれなくてアップルも思い当たるものはないと言い、ナナミに至っては逆切れに近い対応を見せてくれた。
 自室の、柔らかでふかふかのベッドに腰を下ろしてセレンも一緒になって天井を見上げる。
 白く、真新しい。改築工事がようやく終わったばかりの城内は所々機材が山積みされていたけれど掃除が終わった場所は、とても綺麗で居心地が良かった。良すぎて逆に、此処にいて汚してしまったらどうしようと思うくらいに。
 味方になってくれる人や、強力を申し出てくれる人たちが増えて。それに、戦闘で捕虜にした人たちを収容しておく場所も確保する必要があり、城内は慌ただしく増改築工事が繰り返されている。今も、窓際で耳を澄ませば蚤の音風に乗って上階のこの部屋まで聞こえてくるほどに。
「柔らかな盾……」
「ねぇ、悩むんだったらいっそ、リッチモンドさんに調べて貰ったら?」
 諄いくらいに何度も呟くセレンに、ナナミは妙案を得たとばかりに手を打って、言った。途端セレンも顔をばっとナナミに向けて、忘れていた事を思い出したように間の抜けた顔をして頷いた。
「そっかぁ……」
 この城には何でも頼めば調べてくれる、優秀な探偵が居たではないか。
 善は急げ。ベッドから飛び跳ねて立ち上がったセレンはナナミの次の句を待たずに駆け出した。
「あっ、待ってよー!」
 おねえちゃんをおいていくとはどういう了見だこの愚弟め! ぎゃんぎゃんとひとしきり叫んで怒りを表現し、ナナミも続いて部屋を飛び出す。
 途中、降りた階段の中腹からいつものように石版の前に立つ仏頂面を見つけたけれど、言葉は交わさなかった。
 謎かけのような言葉の意味を解くまでは側にも寄るものか、と心に誓ってセレンはリッチモンドが居る倉庫の前へ急いだ。

「柔らかい盾、ですか?」
 リッチモンドによって得た情報の末、辿り着いた先の少年はセレンの二の句に出た質問に、可愛らしい顔を顰めた。
 眉根を寄せ、口元に手をやりしばし考え込む。斜めに頭に被せられたベレー帽にぶら下がる房が微かに揺れた。リズミカルに、首が揺れ動いている。
「それは……ひょっとして、“優しい盾”の事でしょうか」
 やや自信なさげに少年は控えめな声で呟いた。そして上目遣いに目上の存在であるセレンを伺う。もっとも、“柔らかい”が“優しい”に変わっただけの言葉の意味を彼が掴みきれるはずがない。傍らのナナミが、助け船を出すつもりで問いかける。
「えっと、それってどういうお話しなの?」
 城の中に作られた、空中庭園の片隅。一見すると女の子かと見まごうような容貌をしている少年を取り囲むのは、セレンとナナミだ。
 音職人の少年は何故そんな事を聞くのかと疑問符を頭の上に浮かべていたが、彼らの真剣な表情にやがて溜息をそっと吐き出し、近くにあるテーブルセットへとふたりを導いた。そして、大した話ではないと前置きをしてから語り始める。
 音職人らしく、澄み渡った綺麗な声が風に乗って流れていく。
「ハルモニアに伝わる、古い伝承のひとつです。セレンさんが持っている輝く盾の紋章の謂われは知っていますよね……?」
「うん」
 コーネルの問いかけに、セレンはグローブに隠された自分の右手を見て頷いた。
 盾と剣は互いに己の強さを誇り、どちらが最も強いかを争って両者共に砕け散ってしまった話だ。どちらもが愚かであり、哀しい。
 けれど、とコーネルはひとつ咳払いをした。それから、ゆっくりとセレンの顔を見つめる。
「別の、ええ別の……多分、もとは違う話だと思うんです。どこの誰が言い出したかも分からない、今では笑い話にもされてしまっている程に些細な話なのですが」
 しかし僕はこの話が好きです、とコーネルは笑った。
「優しい盾、という昔話があるんです」
 昔、とても名の知れた鍛冶屋が居た。その鍛冶屋が鍛えた剣は如何なる鎧も砕き、矛はどんなに頑丈な盾も貫いた。鍛冶屋には注文が相次ぎ、戦争は途絶えることを知らなかった。
 ある日、鍛冶屋は傷ついた兵士を見た。彼は鍛冶屋の武器を持っていた。けれど彼は傷つき、倒れ、朽ち果てた。
 鍛冶屋は思った、どんなに強い武器を鍛え上げたとしても敵の武器から身を守る鎧が無ければ意味がない。あらゆる攻撃を防ぎきる事の出来る防具を作らなければならない、と。
 そして鍛冶屋は盾を鍛えた。あらゆる攻撃から身を守る事の出来る、最強の盾だ。しかしその盾も、彼が昔鍛え上げた剣の前では無力に砕け散った。盾は、盾の意味を持たなかった。
 鍛冶屋は悔やんだ、自分がどんな鎧も砕きどんな盾も貫く矛を鍛え上げなければたくさんの人が死なずに済んだかも知れないのに、と。
 けれど鍛冶屋は懸命に盾を鍛えようとした。強く、頑丈で、どんな攻撃も弾き返してしまえるような盾を作ろうとした。
 しかしどんなに丈夫な盾を作ろうとしても、それは呆気なく砕けてしまう。固くすればするほど、盾は脆くなっていった。
 ある日、鍛冶屋はまた別の光景を見た。
 屋根から間違って落ちてしまった子供が、柔らかな木立と下草に包まれてまったく怪我をすることなく無事に難を逃れる光景を。
 その瞬間、鍛冶屋は気づいた。
 柔らかな盾を作ろう、そうすればあらゆる攻撃を包み込み吸収して、誰も傷つかず傷つけることのない盾を作ることが出来ると。
 そして、鍛冶屋はついにあらゆる攻撃から身を守ってくれる、優しい盾を作ることに成功したのだった。
「でも、そんな盾は役に立たないと言って、鍛冶屋は時の王に処刑されてしまうんですけれどね」
 哀しげに、コーネルは最後にそう付け足して笑った。
「……へぇ……」
 感心したように、ナナミが感嘆の声を出して椅子の背もたれに深く身を預けた。セレンも、そこまではしなかったものの彼女と同じ気持ちで居た。
 優しい盾――柔らかな、盾。
 役立たずだけれど、誰も傷つけず誰も傷つかない為に生み出された、優しい盾の物語。
「なんか、哀しいね」
 鍛冶屋のした事は無駄だったのだろうか、意味のないことだったのだろうか。
 違う、と思いたくてセレンは真っ青に澄み渡っている上空の空を見上げた。白い雲が風によって西に流れていく。淀みなく、無言のままに静かに。
「哀しいけど、でも」
 口元に手をやって、言葉を探しながらナナミが呟く。
「でも、なんだろう。……すごく、あったかい」
「僕もそう思います」
 ハルモニアでも、もう忘れ去られたに等しい物語だという。ただコーネルはこんな昔語りが好きで、図書館でたまたま見つけた本を読んで以来気に入っていたのだという。
「なんだか、セレンさんに被りますよね」
 そういえば、と言い足して彼はまた笑った、屈託無く。ナナミも同調して大きく頷き、ルックが言いたかったのってこういうことなんじゃないかな、と言った。
「そうなのかな?」
「僕もそう思いますよ」
 あまり知られていないことだけれど、ルックはハルモニアの出身だ。この“優しい盾”の話を知っていても可笑しくない。古い話だけれど、けれど争いを拒む人々の間では今も語り継がれている隠喩だ。
 反発するだけでは傷つくだけだ、どちらかが優しく包み込む必要がある事を教えてくれる。だから、鍛冶屋を処刑した王の方が愚かなのかも知れない。けれど王も自分の国と領土と、国民を守るために闘うことを選んだのだとしたらそれは……哀しい矛盾だ。
「ねぇ、ナナミ」
 照れくさそうに鼻を擦って、セレンは顔を向けた。なに? と彼女が小首を傾げる。
 小さく、笑ってみた。
「ぼく、なれるかな」
 “優しい盾”に。
「なれるよ。ううん、もうなってる」
 君が笑っているから、みんなが大丈夫だと思えるんだ。君が大丈夫だと思うから、みんなも根拠が無くてもその自信を信じられる。真っ直ぐに前を見つめるその瞳が澱むことのない限り、自分たちは前に進み続けられるのだと、安心できる。
 君が居てくれるから。
 だから、君は“柔らかな”盾のようにみんなを包み込んでいる。
「ね?」
 お日様のように眩しいナナミの笑顔に、セレンは思い切り頷いた。

空の光、それは君の色

 初夏の陽気を地上に晒している太陽を憎らしげに見上げ、オレは昼休みも早々に食べ終わってしまった弁当を手早く片付けに入った。
 この程度の量ではとてもこの空腹を訴え続ける胃袋を満たしきれず、未だ規則正しく箸を動かし続けている沢松に視線を戻してから椅子を引いた。
「どっか行くのか?」
 むぐむぐと口を動かしながら行儀悪く沢松が言う。弁当箱を乱暴に、中身も入っていないので斜めにしても問題ないと鞄に詰め込んだオレはおう、とひとつ縦に頷き鞄に突っ込んだ手で今度は財布を捜し出して引き抜いた。
 黒の、かなり使い込まれている所為で端の方が擦り切れて色落ちも目立つ革製の財布を手の上で遊ばせ、もう一度窓の外を見やった。
「足りねーから、食堂行ってくる」
「今からか?」
 箸を咥えたまま咀嚼し、嚥下する沢松を嫌そうに見返してもう一度頷く。ちらりと盗み見た奴の腕時計は、昼休みの残り時間を約十八分と計上していた。奴の時計は正確な時間よりも二分ほど早いから、残り時間はあと二十分といったところか。その五分前には予鈴が鳴り響く。
 急げばうどんの一杯くらい行けるだろう、そう考えてひとまず財布の中身を確認した。昨日の段階ではまだ夏目漱石が一枚残っていたはず……だが。
 それはあくまでも、昨日の昼までの中身だった事を確かめてから思い出した。
「…………」
 財布を胸元にしたまま沢松を見る。奴は箸を置き、やれやれと言った風情で肩を大仰に竦めた。仕方がないな、と呟きながら右手を自分のズボン後ろポケットへ回し、そこに入れられている自分の財布を取る。ぱちん、とがま口タイプのそれを開き、中から銀色の大振りな硬貨を一枚取りだした。
「ほれ」
 ちゃんと後で返せよ、と念を押すことを忘れず沢松は五百円硬貨をオレの差し出した手の平に置いた。それから空になった手でオレの眉間を指さし、
「言っとくが、“貸す”だけだかんな」
「わーってるって」
 んな連呼されなくても聞こえてるよ、と口では言いつつも実のところ、既に沢松からの借金は万単位に徐々に近付いていっている。返済を迫られるたびにオレは「出世払いだ」と逃げ回るわけだが、奴は一応その言葉で引き下がってくれる。
 甘えているなと思いつつ、その甘えから脱却できずに居るオレ。
「じゃ、行ってくる」
「ちゃんと返せよー」
 椅子を引いて立ち上がったオレに、再び箸を取った沢松が最後の釘刺しを告げる。もう苦笑いするしかなく、オレは後ろ手に手を振ってざわつく教室を出た。
 一年の教室は校舎の最上階にあるから、食堂はかなり遠い。既に食事を終えた連中が廊下で溜まっているのを躱しながら、食堂へ行くに一番近い階段を下りようと角を曲がった。
 そこで、オレは見つけた。
 窓の向こうには、普通教室のある校舎棟と渡り廊下で繋がっているだけの特別教室が並ぶ校舎の非常階段が見えるのだが。その特別教室棟は今オレがいる校舎よりも階がひとつ高いのだけれど。
 その特別棟の外側にある非常階段、一番上。
 暑いばかりの夏を思わせる陽気が満ちる、澄み渡った青空の下に、その空に負けないくらいの青空を身に纏っている存在を。
 オレは、見つけてしまった。
 おりようとしていた足が中途半端に停止して、崩れそうになったバランスに慌てて手摺りにしがみついた。危うく階段落下の羽目に陥るところで、なんとか回避された事にホッとする間もなくオレは再度、空の下にある空色を見上げた。
 少しここからは遠くて小さくしか見えないから、もしかしたら見間違いかと自分の視力を若干疑いもしたが。
 空色は相変わらずそこにあった。間違えるはずがない、あんな目立つ髪の色をした奴はこの学校に何人も居ない。
「司馬?」
 口の中でその名前を呟く。疑問符で僅かに上がった語尾に引かれるままに、オレは一段落ちてしまっていた足を戻した。方向を転換し、滅多に人が通らない渡り廊下へと向かう。その間もしつこく窓の外を見て、あいつが居なくなっていないかどうかを確かめながら。
 閉められている扉を開け、教室棟とは空気の色も温度も一変してしまった特別教室の前を歩く。他に誰も居ないのか、廊下にはオレの足音しか響かない。
 化学室の札が出ている教室の前で一度立ち止まって窓から中を覗き込むが、一年の授業ではまだ化学が選択できないので勿論、中に入った事はない。ただなんとなく不気味な印象を受けてしまい、慌てて視線を逸らして非常階段に続いているはずの扉を探した。
 探さなくても、廊下の一番端にある扉が目的の階段に繋がっているのだけれど、その時はそんな事にも気が回らなかった。
 ただ一秒でも早くこの寂しくて冷たい感じのする場所から逃げ出したくて、オレは足早に廊下を進み、扉を開けた。
 鍵はかけられていなかったけれど、滅多に使用されていない為かなかなか開いてくれない。強引にノブを回して力任せに押すと、かなり軋んだ音を立てて扉は外側に開かれた。
「うわっ!」
 それが唐突だったものだから、オレは情けなくも悲鳴を上げてドアノブにしがみついたまま階段に足を踏み出した。突風が吹き荒れ、大して手入れも出来ていない髪が掻き乱される。
 右足をスキップする要領で前に出し、それからバランスを取ってドアからも手を放し自分の足だけで立つ。上を見上げるとまだ一階分の高さがあるためにこの場所には天井が出来ていて、司馬の姿はそこになかった。
 あいつは確か、五階への入り口前に立っていたはず。今の声、聞こえたかな。でも聞こえていたら降りてくるくらいの事をしてそうだし、やっぱり聞こえなかったんだろうな。
 だってあいつ、いっつもヘッドホンして音楽聴いてるし。
 自分で開けた扉を今度は慎重に閉め、オレは階段を登り始めた。すっかり空腹の事は頭から抜け落ちてしまっていて、葛折りの非常階段の踊り場を曲がった先に見えた司馬の青い髪に少しだけ、胸が早鳴る。
「しーば」
 予想通り、それは奴だった。
 近くで見ると尚更空の色をしている髪の、オレよりも少し(強調)背の高い男がポケットに手を突っ込み、高い空を見上げていた。両耳にはいつものようにヘッドホン、そこから伸びるコードは奴の胸ポケットへと消えていた。
 瞳を隠すサングラスも装備したままで、奴の表情を無色にしてしまっている。今あいつがどんな顔をしているのか、よく分からない。
 そしてオレの呼びかけに、返事はなかった。しかもこちらを振り返りもしない。
 気付かれてない?
 その可能性は否定できないが、人が折角呼んでやっているのに気付かないでいるあいつも大概失礼な奴である。オレは残っていた半階分の階段を二段飛ばしに登り、司馬の居る踊り場に並んだ。
 そこに来てようやく、オレの気配を気取ったらしい司馬がゆっくりとした動作で振り返った。
 オレの顔を見る、だけれどサングラスに隠されてやはり表情は掴みきれない。
「司馬」
 よぉ、と片手を挙げて一応挨拶。すると司馬は少しだけ困惑した様子で、けれど反応しないわけにもいかないといった感じで曖昧な表情のまま小さく頷いた。
 もっともどの表情の変化も本当に微細で、気を抜けば見落として仕舞いかねないものばかり。
 こいつ、本当に表情の変化に欠けてるよなー。
 挙げた手を下ろし、行き場に困って結局ポケットに突っ込むしかなく、オレはじっと司馬の顔を見続ける。
 なに? と言いたいらしい司馬の表情が見て取れた。
「うんにゃ、用は特にねーけど」
 窓からお前が見えたから、何してんのかなーと思って来てみただけ。
 そう答え、オレは自分たちの教室がある建物を指さした。窓の向こうで小さく、行き交う生徒の姿がいくらか見えた。校舎の向こうはグラウンドだが、この場所からでは残念ながら見ることは出来ない。
「で、何してたんだ?」
 質問には答えた、だから今度はお前が答える番だ。
 カラカラと笑いながらオレは司馬を見上げる。困惑した顔のまま、奴はふぅ、と息を吐いた。
 溜息のようで、そうでないようで。
 暫くの間があって、司馬は空を見上げた。つられてオレも同じものを見上げる。
 どこまでも青く、暖かく、広くてその上高い。
 司馬の色。
 なんとなくだけど、分かった。司馬がここへ来た理由。
 屋上へは立ち入りが禁止されていて、普段から鍵が掛けられている(一箇所窓が割れてて立ち入れる場所はあるんだけど、そこはいつも誰かがいる)から。
 だからそこを除けば、この場所が一番、学校で空に近い。
 一面の、青。
「なー、司馬」
 オレは空から脇に立つ男に視線を移した。空腹のことはもうすっかり、頭の中から抜け落ちてしまっていた。ただ今隣に立っている司馬に、少しだけ興味がわいた。
 いや、違うか。
 興味は前からあったんだ。その興味を惹かれた理由が、少しだけ分かった気がしたのだ。
 司馬がオレを見る。その顔に両手を伸ばし、右手で司馬の左頬、左手で司馬の右頬を、それぞれに抓ってみた。
「…………」
 あ、やべ。失敗したか?
 無反応、だけれど困っている事は空気で伝わってきてオレは司馬の頬を摘んだまま苦笑と冷や汗を浮かべた。
「えーっと……なんだ。ちゃんと柔らかいじゃん、お前」
 当たり前なのだけれど、と心の中で舌を出す。固かったらそれ、人間じゃないし。
 でも表情の少ない司馬が本当に顔まで固くなってしまっているのではないだろうか、と以前に疑ってみた事がある事も実は本当だったりする。オレはあいつが、思いっきり笑ったり怒ったりしている姿を見たことがない。
 ふにふにと数回司馬を痛くない程度に抓ってから手を放す。
 青空から降りてくる風は温く、緩い。
「……いや、だから」
 司馬はなにも答えない。こいつが口を開いたところさえ滅多にないのに、なにか言ってくれる事を期待した。最早怒らせたかったのか、笑わせたかったのかも分からなくなってオレはへへ、と乾いた笑みを浮かべた。
 さらり、と肌に触れる感触が訪れたのはその直後で。
 なんだろう、と思った瞬間にそれは司馬がオレに触れていると気付いた。
「司馬……?」
 司馬の手は片手だけで、オレみたいに両側から摘むような事はなかった。だけれど、やっぱり軽くだけど捻られた。
 頬の皮がふにっ、と伸びる。自慢じゃないが、オレの顔は結構伸びる。司馬は意外だったようで、少ししつこく触ってきた。
 珍しい。
 でも、悪くない。
「くすぐってーよ」
 抓られて少し赤くなってしまった頬を、今度は宥めるようにしてさすってくる司馬の手にけらけらと笑い、オレは首を振った。反動で頬にあった奴の手は下方へずれ落ちて頸部に触れた。
 一瞬びくっ、と全身が粟立ったけれど司馬は気付かなかったのか、すぐにその場所から去っていった。
 そして、喉仏の膨らみに触れた後、上へ戻ってオレの顎を掴んだ。
 掴んだ、という表現は正しくないようでもっとちゃんと言うなら、添えられた、とするのが正確のようだったけれど。
 人差し指から先の指が顎に置かれたままで、司馬の親指の腹は別の場所をなぞっていた。
 何故かオレは、動けなかった。
「司馬……」
 声が震えている。言葉を発する時に危うく触れて来る司馬の親指を唇で咬んでしまいそうで、嫌に神経が尖り緊張を必要とした。
 オレの声となった息が触れたのだろう、司馬が薄く笑った……ような気がした。
「あ、の……司馬……?」
 自分が今どんな顔をしているのか、想像出来ないししたくなかった。ただ必要以上に困ってしまっているオレが、縋るように司馬を見つめる。
 刹那。
 ナイスタイミング、と表現する以外に他無いくらいに午後の授業開始五分前を告げる予鈴が、学校内に甲高く鳴り響いた。特にこの場所は、外に据えられたスピーカーのひとつに近くて音も普段より大きく響き、オレはびくっ、と鳴った瞬間身体を強張らせて縮こまった。
 この時、つい司馬の親指を咬んでしまった事はこの際、事故として処理して欲しい。
「あっ、あー! 予鈴鳴ったな、このままじゃ遅刻しちまうよな!」
 オレが咬んでしまった事で司馬は手を放し、オレも慌てて大袈裟に両手を振り回し叫ぶ。この場に他に誰も居なくて良かったと、心の底から思った。
 どうしよう、心臓がばくばく言ってる。けどこれ、た、多分……間近でチャイムが鳴った所為だよな。そうだよな? そういう事にしておこう、そうしよう!
「行くぞ、司馬。オレ、次、数学なんだよやべーな全然分かんねーんだよお前分かるか?」
 振り回していた両手を戻し、オレは階段を下りる為にくるりと踵で方向を転換させた。けれど数段降りてから、後ろに続く気配が無いことを怪訝に思い、振り返る。
 振り返った瞬間、振り返らねば良かったと後悔したが最早遅く。
 オレはばっちり、オレが咬んでしまった親指を舐めている司馬を目撃してしまった。
 いや、それはあくまでも痛みを和らげる為の事であっただろうし、でもそれって血が出たときの消毒方法じゃなかったっけ? と思考がグルグル回って終いには支離滅裂な事を想像し始めて。
 オレは、怒鳴っていた。
「先行くからな!」
 火山が噴火したような勢いでオレは司馬を指さして叫び、転げ落ちるように階段を走り抜けた。四階の扉を開けて校舎内に飛び込み、さっきまでは誰も居なかったのに次授業なのか、他学年の生徒が集まり始めていた化学室の前を爆走。
「あれ、今の猿野君……?」
 だからその化学室に牛尾キャプテンが居た事にもまるで気付かなかったし。
「やあ、司馬君。今猿野君がもの凄い顔をして走っていったけど、なにかあったのかい?」
 その後をゆっくり歩いていた司馬がそんな質問をキャプテンから受けていた事も。
 返事の代わりに、司馬が楽しげに微笑んで会釈し、去っていった事も知らなかった。
「っれー、天国。お前どこ行ってたんだよ」
 食堂に居なかっただろ、お前。
 教室に飛び込んだオレを見て沢松が声をかけてきたが、オレは返事も出来ず耳の先まで真っ赤になった顔を机に押しつける。
「どした?」
 心配そうに沢松が声をかけてくるが、勿論本当の事を言う事なんでオレには出来ない。
「ちくしょー……」
 まだ熱のある頬と唇を片手で押さえ、オレは小さく呻く。
 間もなく本鈴が学校に鳴り響き、けれどオレが復活できるのにはもうしばらく、時間が必要そうだった。

02年4月2日脱稿

残照の庭に煙る涙

 なにも残らなかった
 なにも出来なかった
「行くのか?」
 庭に立ち、着慣れたマントの具合を確かめていたキールに、後ろからガゼルが静かな声で尋ねてきた。振り返れば、ガゼルの横には俯いたままのリプレも並んでいる。
「ああ。いつまでもここにいても……仕方がないからね」
 向き直って言うと、弾かれたようにリプレが顔を上げた。
「迷惑なんて思ったこと無いよ! いつまでもいてくれていいんだよ? どうしても……行っちゃうの?」
 だんだんと小さくなっていく声に重なるように、リプレの肩が小刻みに揺れて嗚咽が漏れ始める。両手で顔を覆って涙をこらえる彼女に、ガゼルが悔しげに唇を噛んで支えるように彼女の肩を抱いた。
「どうして……こんなことになっちゃったの……」
 誰に問うともなしに呟く彼女の声に、キールもガゼルも答えることは出来ない。
 彼らの大切な友達──ハヤトがいなくなって、もう1週間になる。
 サイジェントの町は落ち着きを取り戻し、城から避難していた領主も戻ってきて以前と大して変わらない日常があちこちで繰り返されるようになっていた。ただひとつだけ、ハヤトが消えてしまったこと以外は。
「探すのか? あいつを」
 魔王となってしまった彼を。
 誰のことを言っているのか、示さなくてもキール達には分かってしまう。それが哀しくもあり、悔しい。
 戦いが終わりフラットのアジトへ帰ってきた彼らには笑顔はなかった。待ちくたびれたように飛び出してきたリプレと子供達に、皆は事のすべてを隠さず話した。隠してもいつかはばれてしまう。ショックが大きいだろうから、とガゼルは反対したが結局、ハヤトだけがいないことを説明するには、真実を知らせるしかなかった。
「ハヤトが何処ヘ行ってしまったのか……それは僕にも分からない。魔王と一緒にサプレスに行ってしまったのかそれとも、魔王の言った通り、無事に元いた世界に帰れたのか。僕には分からないよ」
「まだハヤトは、魔王のままなのか……?」
 泣きやまないリプレの背中を軽く何度も叩いてやりながら、ガゼルは続けて尋ねる。だがそれには、キールは黙って首を振った。
「分からない。だから僕は、行こうと思う」
 リィンバウムは結果的には崩壊の危機から脱した。だが世界を覆い尽くしていた結界が修復された気配はなく、今も召喚術は横行している。こうしている間にも結界のほころびはどんどんと大きくなり、いつか完全に砕け散ってしまう。
 そして、結界を支えていたエルゴはもういない──
 たとえ召喚術をすべて使用禁止にしたところで、エルゴの力が失われている今、結界は長く保たない。新たな、別の手段を探さないことには、リィンバウムは遅かれ早かれ、滅ぶことになるだろう。
 この一週間、キールは考えに考え、そして旅立つ決心をした。
 もう彼には自由を束縛してきたものはない。あるのはハヤトへの思いと、仲間達を守りたいという思い。
「方法は必ずある。諦めてしまう前に、僕は走りたい。きっとどこかに、解決策はあるはずだから」
 そして叶うならば、もう一度君に会いたい。ちゃんと世界を守れたよ、と笑って君と話したい。君が守ろうとした世界は今も平和にあり続けていることを、胸を張って教えてあげたい。
「俺は……行けないけどよ……」
「分かっている。ガゼルは、僕達の還る場所を、守っていてほしいんだ」
 フラットのこの家と、ここに住むリプレやアルバやフィズ、ラミ達をそして、今はキールの帰る場所を守るのが、ガゼルの役目だ。
 重なり合った沈黙に耐えきれず、ガゼルは視線を庭に泳がせた。日の陰る庭に、元気を失った花が頭を垂れて並んでいる。まるで植物までもが、ハヤトの不在を嘆いているように見えて寂しくなる。
「キールさぁん……」
 その庭の隅の方から、モナティが現れて不安げな顔でキールを呼んだ。両手でガウムを抱き、大きな耳を力無く垂らしている。
「……マスターは……」
 彼女にはまだ、ハヤトが魔王になってしまったことがちゃんと理解できていない。彼がいなくなってしまった理由を掴みかねている。自分が不器用でみんなに迷惑ばかりかけていたから、怒って出ていってしまった、だから自分がいい子にしていればいつか帰ってきてくれるのだと、信じて疑わない。それが見ている方には辛かった。
「帰ってくるのですの……?」
 だが日が経つに連れ、彼女もなんとなくだが理解してきているようだった。同時に部屋に引きこもり、泣いていることの方が多くなっていた。
「モナティ」
 大粒の涙を目尻に溜めて、必死に泣くのをこらえている彼女に手を差しだし、キールが柔らかに微笑む。
「一緒に、探しに行こうか?」
「キール!?」
 ガゼルが目を見開き大声を上げる。リプレも泣くのを一時中断し、キールとそれから、モナティの顔を順に見た。
「ハヤトもきっとモナティに会いたいって思っているよ。だから、一緒に探さないか? 会いたいんだろう?」
 会える保障なんてどこにもないのに、キールはごく当然のことのようにハヤトに会えると言ってのけた。
「信じてるから、ね。出来るって、会えるって。ハヤトが教えてくれたことだだから。信じることの強さは」
 だからいつか会える、信じている限り必ず。それがキールの原動力だった。
「あいたいですぅ……」
 しゃくりを上げ、モナティがついに耐えきれず涙をこぼす。次から次へと流れ出す涙につられて、リプレもまた泣き出した。
「きゅーー」
 ガウムがモナティを慰めるようにぷにぷにした体を揺する。
「おれっちも行く!」
 そこへ、緊張感の欠片もない声が飛び込んできた。ずっと彼らの会話を聞いていたのだろうか。裸足のまま部屋から庭に駆け出してきた黒い影はジンガだった。
「おれっちもアニキに会いたい! だから手伝う。おれっち、召喚術のこととか全然分かんないけど……でも、アニキに会いたいって気持ちは誰にも負けない! だから!!」
 ガゼル達とキールの間に割り込み、握り拳を作って必死になってキールにその気持ちを訴えかけてくるジンガに、初めはぽかんとしていたキールはあわてて我に返って頷いた。
「……ああ。正直僕達だけじゃ旅は心許なかったからね。君が一緒だと、助かるよ」
 手を差しだしたキールの顔をじっと眺め、それから彼の言葉を承諾と理解し、凄く嬉しそうに笑ってジンガは彼の手を握り返した。離れた場所にいたモナティも、しゃくり上げるのをやめてトテトテと走って来ると、握りあっているふたりの手の上に自分の両手を重ね合わせた。
 言葉にしなくても想いは繋がっている。皆、こんなにも彼に会いたいのだ。
「お前ら……」
 少し羨ましいのか、ガゼルが複雑そうな顔で彼らを見つめる。
「俺は残るぜ」
「ローカス!」
 話に割り込んできたのは、窓際にもたれかかったローカスだった。その向こうにはエルカの姿も見える。
「領主の勝手は収まった訳じゃないからな。俺はアキュートの連中と一緒に、サイジェント復興に賭ける。仲間を集め直して、またしきり直しだ」
 一度裏切られてはいるものの、目指すものは同じなアキュートに、ローカスはもう一度協力してみようと思っている。以前からそれは考えてきたことで、ラムダからも是非、という答をもらっていた。
「あたしも行かないから」
 生意気な口振りを変わることなく見せるのは、エルカ。
「あたしは、あたしで帰る方法を探すから。あたしを召喚した奴はまだ生きているはずだろうし、そいつを捜し出してなんとしてでもあたしはメイトルパに帰るんだからね」
「じゃあ、そのうち……」
 リプレがエルカを見つめて言う。するとエルカは視線をわずかに泳がせたあと、
「ま、まぁ、あんた達がどうしてもって言うのなら、考えてやらなくもないけど……」
「エルカさぁん」
「な、なによ」
 嬉しそうに笑うモナティにびくっとして、エルカがすぐさま牙を剥く。だが彼女が素直ではないことはフラットのメンバー全員が知っている事で、ムキになって否定することが逆に肯定しているということに、エルカはいい加減気付くべきだろう。
 雲間から日が射して、庭を明るく照らし出す。暖かな風が彼らの回りを緩やかに舞った。
「おい」
 だが、一瞬和みかけた庭に、新たな人物が割り込んでくる。これまで何度もフラットにちょっかいをかけ、喧嘩を仕掛けてきた張本人であり、ハヤトによって救われた最後の存在──バノッサだった。
 全身に無数の傷を負い、エドスによって運び込まれた彼はしばらくベッドに貼り付けられていたが、昨日辺りからようやく起きあがれるようになっていた。顔色は相変わらず優れないままだったが、カノンとエドスの必死の看病により、今日からはベッドの上ではなく皆と一緒に並んで、食卓で食事を取るようにもなった。
 以前のような荒々しく、触れればこちらが傷つくような空気はもう彼からは感じられない。やはり本当に、バノッサの中にあった憎しみや悲しみや怒り、そういった負の感情はすべて魔王に持ち去られてしまったのだろう。まるでバノッサじゃないみたいだ、と最初は誰もが困惑したが、この頃は違和感も薄くなっている。
 もっとも、一番戸惑っているのはバノッサ本人だろうが。
「起きて、平気?」
 まだ歩き回るには辛そうだったから、食事を終わらせた彼をリプレはさっさとベッドに押し戻した。見張り役、としてカノンを四六時中彼に付き添わせていたのだがどういう訳か、そのカノンの姿はない。
「あいつは、替えの包帯が切れたからって買いに行った」
「そんなの、言ってくれればついでに買ってくるのに……」
 まだ信用されていないのか、と少し傷ついたリプレにバノッサはそうじゃないと首を振る。
「お前等は、受け取ろうとしないから……」
「そんなのが欲しくて、お前を世話してるんじゃないからな」
 領主から課せられている税率は、相変わらずのまま。人数も増えて食料の調達でさえ首が回らない状態のフラットに、重傷人のための薬やらなにやらにまで、回す金なんてないはずだ。なのに、リプレ達はそんなこと気にしなくていいから、とバノッサが出す金を一向に受け取ろうとしない。
 ガゼルがふん、と鼻を鳴らして言い返したのにバノッサは複雑そうな、それでいて少し悲しげな表情を作る。これもまた、以前の彼からは想像できないものだ。
「そんなに俺が嫌いか。分かった、明日にでも出ていく」
「だーかーら! そうじゃねぇってば」
 この分からず屋、と怒鳴るガゼルに今度はきょとんとするバノッサ。何をこんなにもガゼルが怒っているのか、理解できないでいる。
「俺達は好きでお前の面倒を見て、世話して、食わせてやってるんだ。迷惑だとか思ってない、無償の行為は素直に受け取ってろ。お前が俺達に負い目感じる事なんてないんだ……いたいだけ、いればいい」
 最後の方は口の中でもごもごと言っているだけで、隣にいたリプレにしか聞こえなかった。
 ガゼルはなんとなく、ハヤトのことを思い出していた。そういえばあいつがフラットに来たばかりの頃、同じ様なことを言われて同じ様なことを怒鳴り返したような気がする。そんなに昔のことではなかったはずなのに、もう何年も前のことのように感じられて、泣きたくなった。
「はぐれ野郎を……ハヤトを、探しに行くんだろう?」
 黙りこくってしまったガゼルからキールに視線を戻し、バノッサは痛々しい包帯姿のまま庭に下りてきた。肩から上着を羽織っただけで、素肌に巻かれた包帯には所々血がにじんでいる。だが連れてこられたときに指の一本も動かせないでいた時と比べたら、遙かに体力は回復してきているようだった。これも、あかなべ特製の薬をシオンが好意で、半額以下の値段で分けてくれたおかげだろう。
 アカネとシオンは店に戻り、今もあやしげな店の奥で仕事を続けている。たまにアカネがフラットの様子を覗きに来るぐらいだ。
「ハヤトを、探すんだろう?」
 キールからの返事がなくて、もう一度バノッサは同じ事を口にした。
 一瞬警戒するようにキールの前に立ったジンガだが、近づいてくる彼の表情を見て緊張を解く。今のバノッサには戦う力はないし、そんなことをして得をするわけでもない。だがその場から退こうかとした時、バノッサの足の力が急に抜けてバランスを崩して倒れそうになったため、慌てて横から腕を差しだし体で彼を受け止めた。
「すまねぇ」
 まさかバノッサから感謝の言葉をもらうとは思っておらず、ジンガは驚いて目を丸くしてしまう。
「いやぁ、いいって事よ」
 だが人から礼を言われるのは素直に嬉しいらしく、すぐに笑ってバノッサの腕を自分の肩に回してやった。バノッサの足元があまりにも頼りなくて、これではまた倒れてしまいかねないと判断したからだ。ただ多少、身長差があってやりにくそうではあるが。
「お前は、あいつを捜すんだろう」
「そのつもりでいるが」
「だったら、伝えてくれねぇか」
 今度はきっぱりと返事をしたキールに、バノッサはわずかに視線を足元に落として言った。
「いや、……連れてきて……くれねぇか、あいつを、ここに。俺はあいつに言いたいことが山ほどある、お前が憶えきれないくらいにだ。それに俺はあいつとまだ決着を付けてねぇ。このままじゃ気分が悪い、勝ち逃げされるのは嫌いなんだ」
 負けず嫌いな台詞を聞き、キールは静かに頷いた。もとより、そのつもりだと。
「約束するよ。必ずハヤトを連れて戻ってくる。その為の旅でもあるからね」
 リンカーである彼がいれば、エルゴが失われた今でも結界を修復できるかもしれない。完全にとは行かなくても、時間が稼げるかもしれないから。その間に、人の心が召喚術を必要としない程に強くなってくれれば……リィンバウムはすべての危機から脱せられるだろう。
 彼がいてくれたら、出来るような気がするのだ。
 望みは、失わない。
 願いは、強さになる。
 守護者達もまた、旅立つ。それぞれの方法で、それぞれの目的のために。
 カザミネは新たな強者を求める修行の旅に、カイナはカノンのような混血児を差別から救うために、エルジンとエスガルドはサイジェントの町から汚染を無くすための方法を生み出すために。それぞれに、新しく進むべき道を見付けて歩きだしている。
 止まったままなのは、君の記憶、ただそれだけ。
──会いたい……
 こんなにも呼びかけている人がいるのに、君はどうして気付かないの?
──会いたいよ、君に……
 こんなにも君を求めているのに、どうしてこの手は君の元に届かないのだろう。
──ハヤト……
 何処にいるの?
 今何を想っているの?
 何を願っているの?
 
 庭が陰る。陽が落ち、黄昏が町を染める。風が冷たくなり、彼らの身を震わせた。
 不安と希望を重ねながら、今日もまた、終わりを迎える。

 訪れるのは、君のいない朝

陽景

 黄金の光を見つけたんだ、そこで。
 夕暮れ、赤く染まりつつある西の空と地平線に沈もうとしている巨大な太陽を眺めながら、彼は言った。
 絡まない視線の先、彼が見つめる向こう側の世界がどんなものであるのか、その時のぼくはまるで想像がつかず、ただ曖昧に受け答えをしながら時折相槌を打つだけしか出来なかった。それでも君はよく、こうやって話をしてくれた。
 彼が見た景色を、人々を、国を、街を、村を、山を、海を、そして世界を。
 どう考えてもぼくを同年代であるはずの彼がそんな色々な場所を旅する事が出来るはずないと、最初は勝手な彼の想像の産物だろうとぼくはあまり相手にしなかった。
 だけれど。
 時に彼が屋敷に泊まりに来た夜、寝入る前の昔話代わりとして。
 時に、彼と釣りに出かけたとき魚がかかるまでの間の暇つぶしとして。
 時として、喧嘩をしたあとの仲直りとして背中合わせに。
 彼は本当に、ぼくに色々な話をしてくれた。
 光ははじめから黄金じゃないのか? と、彼の呟きにそう返したぼくに、君は少し困った顔をしながら笑って返した。
 そうかもしれない、でもそうじゃない光を見たんだ、と。
 わけが分からないよ、そう言い返して頬を膨らませたぼくに、君は「ゴメン」と小さく一度だけ謝罪の言葉を口にした。
 夕焼けは徐々に色を濃くし、東の空は天頂に近い部分から闇へ染まっていく。
 この時、ぼくの世界は高い城壁に囲まれたグレックミンスターの町並みとそれから、グレミオやパーンが必ずと言っていいほど付き添っていないと出かけていくことの出来ない近隣の村や町。そして、君と城壁を抜け出して走り回った帝都周辺の草原や、林や小さな森といった、そんな本当に狭い場所がすべてだった。
 君の見た、君が過ごしてきた永い時の中で君が見送っていった世界の大きさなどには到底及びもしない、自分が中心の子供の世界だった。
 黄金色をした、光。
 だけれど幼心にその言葉は強く印象に残っていて、それは具体的にどういうものだったのか、君がいい加減にしてくれと泣き言を言うくらいにぼくは問いつめた事を覚えている。
 いつ、どこで、どの時間帯に、どの方角で見たのか。そんな君が覚えていないよ、と悲鳴を上げたくなる事までとことん問いつめた。君は苦い顔をしながらも、必死に思い出そうと記憶を掘り起こしながら答えてくれた。
 ありがとうと、今なら言える。
 それはとても些細な事だったけれど、君が教えてくれた場所にどうしてもぼくは辿り着いてみたかったから。
 あの時、君が答えてくれて良かった。
 金色の光。太陽が照らす眩しいだけの光ではない、世界中を黄金に染める煌めく光を見たのだと、君は言った。
 それは夕暮れ時、そろそろ戻らないと夕食の席に間に合わなくなってしまうと急ぎ足で帰ろうとしていた、その途中。
 草原のただ中にぽつんと、一本だけ忘れ去られたようにして聳える木立があった。それは細い街道沿いにあって、近くには小さな井戸もあって旅人がグレックミンスターに入る直前の、小さな休憩所になっていた。
 ただその時間帯、通り過ぎる人は誰ひとりとしていなくて、一面若緑の草原に伸びる黒い影と、赤く染まって帝都の頭上を彩る西の空との対比とがやたらと印象深かった。
 シルエットのように浮かび上がる木立の陰影がはっきりと、今でも瞼の奧に焼き付いている。ぼくはその景色を、矢張り夕焼けに浮かび上がる君の背中とが合わさった一枚の風景画を見るような思いで見つめていた。
 君は気付かなかったかも知れないけれど、その時ぼくは感じたんだ。君がとても、遠い存在なんだって。
 君は本当に沢山の経験をしていて、ぼくの知らないことを色々と知っていた。魚が良く釣れるポイントの探し方、森の中での包囲を確認する方法、枯木で早く火を起こす方法、獣の狩り方……数え上げてもキリがないくらいに。
 たくさんの事をぼくは君から学んで、それからぼく自身も必死で勉強して学んでいった。強くあろうとして武術に励む以外にも、君に負けないなにかが欲しくて軍師としての戦術なんかも勉強した。さすがに料理はグレミオに任せていたから、そこに手を回そうとは思わなかったけれど。
 そういえば確か、君は野料理も得意だった。
 一体どんな生活を送っていたのか、想像を絶するものだったに違いない。それでも君は生き続けなければならなかったし、それ以上に生きたいと願う力は強かったのだろう。例えそれが、逃亡という二文字に彩られた道のりであったとしても。
 グローブの上から自分の右手をさすってみる。甲の中央に刻まれている紋章が、心に反応したらしく少しだけ熱を持ち、触れている左手の指先をほんのりと温めた。
 ああ、お前はまた魂を欲して蠢いているのか。
 どれだけの罪無き命を喰らえば、この空虚な存在は満たされるのだろう。ぼくの、この心はいつ満たされるのだろう。
 瞼を閉じる、思い浮かぶのはあの日の夕暮れ、そして君のことば。
 色々な話をしたね、それこそ眠る時間さえ惜しむ程に。気が付けば沈んだはずの太陽が東の空に頭を覗かせていて、二人して驚きながらそのまま頭まで毛布を被り、朝食が出来上がるのを待った日も数えきれない。結局その日一日は眠すぎてなにもする気が起きず、勉強も修行も全部放り出して逃げ出して、ふたりだけの秘密基地にしていた森の洞で昼寝をしたりもしたっけ。
 あの頃の事はきっと、絶対に忘れたりしない。
「テッド……」
 夕暮れの一枚絵、その中に佇む君の姿。何故か声をかけるのも憚られて、暫くぼくは君が君の方から振り返って声をかけてくれるのを待つしかなかった。だって君の背中があまりにも寂しそうで、ぼくの知らない君のように思えてならなかったから。
 そんな背中を見せる君を、ぼくは知らなかったから。
 その日のぼくはまだ今と比べると格段に幼くて、幼すぎるくらいで、ぼくの回りの世界はグレックミンスターとそれを取り囲むほんの僅かな空間がすべてだったから。ぼくの知る限りの人間の姿とは、勇敢で誇り有る父を代表として、グレミオやパーンや、ともかくそういったごくごく僅かな人々を眺めて、それが人間のすべてだと思いこんでいる節があった。
 だからだろうか、君は時々とても哀しそうな顔をしてぼくを見ながら言った。
『お前って、良い奴』
 その時はことば通りの意味としか捕らえる事が出来ず、バカにされているような気分になって言われる度にぼくは不機嫌になった。思えば、それが既に子供だった。
 君の事を何も知らなかったね、どこから来てどこへ向かおうとしていたのかも知らず、ぼくは君を引き留め続けた。
 それは苦痛だったかい? 今もしもう一度君に出逢えるのだとしたら、それを一番に聞きたい。
 ぼくは良い友人だったかい? 君にとって、ぼくの存在は救いになっていたのかい?
 いや、やっぱり良い。聞きたくない、答えを知るのが恐い。
 力無く弱々しく首を振って、握った手の平を解いていく。
「ぼっちゃ~~~ん」
 後方から、非情に情けない声を間延びさせたグレミオが小さく頭を覗かせた。首から上だけで背後を振り返ってその接近を確かめ、ぼくはずっと結んだままでいた唇を緩く解いた。
 もうへとへとで、今にも登ってきたばかりの急峻な坂道を転がって落ちていきそうな勢いのグレミオを確かめる。
 中華鍋を背負い、その上他にも調理器具や食材をいっぱいに詰め込んだリュックサックを抱えているわけだから、このきつい坂を登ってきているだけでも充分凄いだろう。かなり遅れてしまっているが、目の前に広がる一瞬の光景を見るにはなんとか間に合いそうだ。
 再び視線を戻し、目の前の光景に見入る。
 テッド、君が「黄金色の光」と表現したものをぼくもようやく、見つける事が出来たよ。
 右手に触れながら呟く。持ち上げて顔に寄せれば、微かなぬくもりがそこから伝わってくるようだった。
 この場所で、この季節の、この時間帯に、この方角でしか見ることの出来ないだろう世界がそこにある。
 君と出会って、ぼくの世界は格段に広がった。
 君と別れて、ぼくの世界は益々無尽蔵に広がり続けている。それはぼく自身にさえも量りする事の出来ない規模で膨らみ続け、今も膨張を止めようとしない。
 君がぼくに話して聞かせてくれた事を、ひとつひとつ思い出していこう。
 君が旅した場所、訪れた人々、通り過ぎた国、乗り越えた山、太陽を見送った海、朝を迎え入れた渓谷の輝き。
 そのすべてを、ぼくも手に入れてみたい。君に教えてもらった世界を、君が歩いた場所をぼくも歩いてみたい。
 少しでも君の心に近付くために、300年という気の遠くなるような時間を歩き続けた君の心に、ほんの僅かだけでも構わない、触れたいと思った。
 季節は初秋、暑かった夏が通り過ぎて気候も穏やかになり幾分過ごしやすくなって来た頃合い。
 時間は早朝、まだ星が天頂に瞬いている時間に出かけて歩き続けて辿り着いた。
 方角は東、太陽が昇る方角。
 場所はここ、眼前遙かな地平線までを一面埋め尽くす金色の小麦が穂を揺らす大陸随一の穀倉地帯を望む、まさにこの場所。急峻で険しい道無き道を抜けた先にある、峰高い岩山の頂。
 この場所で、朝日が昇る瞬間を見たと、君は言った。
 その時、自分以外の世界のすべてが黄金色の光に包まれて行くのを感じたと、君はそう告げた。
 君がそんな風に感じた場所に、今ぼくは立っている。
 目映いばかりの太陽が地平線を昇っていく、その光に照らされて闇に眠っていた麦の穂が一斉に目を覚まし、穏やかな風に揺られて金色を撒き散らす。空は一気に光を取り戻して闇を追い払い、次第に昇っていく太陽が世界を照らすその姿は。
 まさに、一面に広がる黄金色の光。
「ぼっちゃ~~~ん!!」
 唐突にグレミオの声が大きくなり、けれど長引いた余韻は次第に遠ざかっていく事に驚いた。慌てて振り返ると、さっきまではかなり大きく見えていた彼の姿が、今では豆粒のようになってしかもその上、段々と小さくなっていく。
 どうやら、足を滑らせたらしい。背中に重い荷物を背負っていた為、バランスを取り直そうにも後ろに引っ張られてしまったのだろう、通常の彼ならばやらない失態を見せてくれたグレミオに、呆れつつも苦笑が禁じ得なかった。
「グレミオ!」
 大丈夫か、と身を乗り出して自分まで落ちないよう足許に気を配りながら、下を覗き込む。ようやく滑り終わったのか、痛そうにしながらもなんとか平気らしく彼が手を振ってくれたのを見、ホッと胸をなで下ろす。
 ここで彼にまで居なくなられてしまっては、それこそぼくは自分を許せなくなるだろう。
「ぼっちゃぁぁぁ~~~~ん!」
 情けない声ではあるものの、この距離を届かせるだけの大声が出せるのなら無事に違いない。吐き出した息分の空気を胸一杯に吸い込んで、また吐き出して改めて目の前を見つめた。
 テッド、君もいつかの昔、この景色を見たんだね。
 流れていく風に向かって囁きかけ、返答を待つように静かに目を閉じる。後頭部で締めたバンダナが風に棚引き、ゆらゆらと揺れて襟首を擽ってくる。
 君が見た、歩いた場所をぼくも歩いていこう。君が必要とした300年という時間を、ぼくもそうやって過ごそうと思う。君が過ごした時間を、ぼくも感じてみたいと思う。
 そしてもしぼくが、君の生きた時間を超えて。
 その先も歩いて行けるのだとしたら、その時は。
 君に教えてあげられるように、ぼくが今度は色々な世界を歩いてみようと思っている。君が知らない場所を訪ね歩き、君が見たこともないような景色を見つけて、君が驚くような体験をしてみようと思っている。
 閉じた目を開く。
 世界は金色から明るい白へと姿を変える。朝が来る、一瞬だけの奇跡の光景はこれで終わる。
 ゆっくり、踵を返した。崖の下では変わらずグレミオが、荷物の無事を確認しながらぼくの事を呼び続けている。
 今度こそはっきりと分かる笑みを顔に浮かべ、ぼくは歩き出した。
「今行く!」
 大声で返事をしてグレミオを黙らせ、注意しながら、足許の崩れやすい岩と砂の大地を踏みしめて坂を下っていく。
 途中で一度だけ、背後を振り返った。
 太陽はもうすっかり地平線から完全に顔を出し、光を大地に振りまいている。照らし出された黄金の穂波は風に揺れ、収穫の季節を心待ちにしていることだろう。
 もうあの黄金色の光は見えない。
「またな、テッド」
 なにもない空間に告げ、足早に下りの道を急ぐ事にした。身軽に大きな岩を飛び越えて着地を繰り返すぼくに、下で見ているしかないグレミオがその度に悲鳴を上げるのが聞こえる。
 自然と笑いがこみ上げてきて、ぼくは随分と久方ぶりに思い切り心の底から笑った。
 なにかが可笑しかったり、楽しかったからではない。ただ純粋に、笑いたかったのだろうと後から思った。
 そして笑いながらぼくは、もうひとつある事を思い出した。
 この場所で黄金の光を見た帰りの坂道で、テッド、君もやっぱりこんな風に大声で笑ったんだっけ、と。

whim

 重なり合う金属音は一定で、淀みがない。
 本当ならそれは雑音でしかないはずなのに、彼の手が動くたびに奏でられる光沢のある音はそれすらもひとつの音楽のようで、聴いていると心地よい。
かりゃり、と。擦れ合った銀の食器が彩る食卓の楽団に頬杖を付いて眺めていたスマイルは、そんな彼の視線など全くお構いなしのユーリの手元へと視線を持ち上げる。
 白く綺麗な手にはフォークとナイフ。艶のある唇の中へ吸い込まれていくのは、悔しいけれど彼専門の料理人でもあるアイツが作った食事。
 料理なんてしたことないしやろうとも思わないけれど、とスマイルは心の中で舌打ちして少し楽しそうに料理を味わっている彼の顔を不躾に眺めた。
 こんな顔、自分の前じゃ絶対にしてくれないよねー。
 スマイルの視線総てを跳ね返すようなオーラで全身を取り囲んでいるユーリ。全身を持ってして自分を拒絶してくれているようなものだが、実際のところは彼に今の自分は見えていないはずだから無視されていても仕方のないことだったりする。
 透明でなきゃ、彼の食事の席に居座る事なんてできっこない。
 勿論、お許しなんて貰ってないから。
 多分ユーリは気付いているだろうけれど、気付かないフリなのかそれとも面倒臭いだけなのか、何も言ってこない。だからスマイルは、調子に乗ってテーブルの向かいに居場所を落ち着けて、ユーリの顔をいつになく楽しげに眺めている。
 きっと、刺さるような視線をユーリは感じているだろうに、矢張り彼は綺麗な顔のままスマイルに気付かない真似をする。
 彼の視界に収まるものは、アイツが作った料理とアイツだけだ。
 ちぇっ。
 不公平に感じて、少しだけ頬を膨らませる。テーブルにずるずると突っ伏して、額を固い天板に押しつけるとその衝撃で少しだけ、テーブルが揺れてしまって食器が苛立ったように音を立てた。
 まるで、此処に自分が居ることを咎めているみたいに聞こえて益々、スマイルは気分を損ねる。
 ちぇっ、ちぇっ、ちぇっ。
 そうだよね、そうですとも。どうせぼくは料理も出来ないし何の役にも立てない、消える事だけが得意の透明人間ですよーっだ。
 ふてくされて、そのままテーブルに顎を置いて顔を上げる。
 姿は消したままだから自分の顔がどの辺にあるのか、居ることは解っていてもそこまでは察する事叶わないはずのユーリが、じっとスマイルを見ていた。
 あれ?
 けれど一瞬で過ぎ去ってしまった彼の瞳に、思わず首を傾げてしまいたくなる。
「アレ?」
 でもそれより前に、食堂と隣り合っている台所から小皿を手に入ってきたアッシュの声に邪魔されて、それは出来なかった。
「スマイル、何してるんっスか?」
「え?」
 扉と、テーブルの中間辺りで立ち止まってアッシュはこちらを見ていた。しかも、それなりに勘は鋭いとはいえ透明になっているはずの自分をあっさりと見抜いて。
「あれ?」
 ひょっとして。
 今度こそ首を傾げて、スマイルは自分を指さした。瞬間、アッシュはコクリと頷く。
「見えてる?」
「ばっちりっス」
 はっきりと断言されてから、ようやくスマイルはユーリがさっきあれ程までに自分に対して真正面に目を向けることが出来た理由を知る。
 そりゃ、見えてたら誰だって解るってば。
 コト、とテーブルにできたての料理を置いてアッシュは少しテーブルから離れる。ここには椅子がひとつっきりしかなくて、それはユーリが使っている為に他のメンバーが此処で彼と一緒に食事をすることはない。
「どーしたんスか? スマイルが此処に来るなんて珍しいっスね」
 別に珍しくはない、偶に透明になって今みたいにユーリの食事風景を覗きに来たことはある。今日はたまたま、運悪く透明が解けてしまったから見付かっただけ。
 にしても、どうして透明、解けちゃったんだろうね?
「スマイルもなにか食べるっスか? 沢山あるから持ってくるっスよ」
 台所へと引き返しかけたアッシュが、ふと振り返って尋ねてくる。
 ユーリは、ふたりのやりとりを全く眼中に入れず黙々と食事を続け、ナフキンで口元を拭っている。
「ん~……」
 身体を起こして、テーブルに両腕を寝かせてその上に顎を置いて。丁度ユーリの真正面に座り込む姿勢を作り直してから、スマイルは不機嫌なのか何か楽しいことを考えているのかよく解らない顔をする。
「要らない」
 すっ、と曲げていた膝を伸ばして、立ち上がる。
「そうっスか」
 残念そうに呟いてアッシュは踵を返そうとした。ユーリが、銀フォークでサラダの中にあるミニトマトを転がし、掬い上げる。
「うん。ぼくはこれでいいや」
 そう言って。
 テーブルに置いたままだった手に少しだけ力を入れて、身を乗り出して。
 ぱくっ、と。
 トマトを口に入れようとしたユーリの目の前で、そのトマトをスマイルは自分の口に。
 あ。とアッシュが息を止め。
 ユーリが、呆然と間近に迫るスマイルの顔とその手前に残っているフォークを交互に見る。
「ご馳走様」
 ご丁寧に両手を合わせてお辞儀をしたスマイルだけが、飄々としていた。
 ぽかん、と一瞬その場をなんとも表しがたい間抜けな空気が流れていった。
「なっ……」
 その一瞬が通り過ぎてようやく、楽しげに笑いながら口笛何ぞを吹いているスマイルに向かってユーリがぴきっ、と頬を引きつらせた。
 握っていたフォークをやや乱暴にテーブルに叩きつけ、衝撃にがしゃんっ、とワイングラスが倒れた。
「っスマ、スマイル!」
 微妙に呂律が回っていない。そんな顔をしてこんな風に呼ばれるのは、何度やっても新鮮な気分に浸れるから、大好きだ。
「は~い」
「貴様、何のつもりで!」
「あ、あのユーリ、落ちつくっス」
 ケラケラと笑うスマイルに、椅子を蹴り倒して立ち上がったユーリをアッシュが慌てて戻ってきて押し留める。だがそれすらも許さない剣幕で彼はスマイルに掴みかかろうとするが、その手前でスマイルはふっと、姿を消した。
「スマイル!」
 逃げるんじゃない、と虚空に向かって叫んだユーリ。その唇にトン、と細い何かが触れた。
 それがいつの間にか距離を詰めていたスマイルの指だと気付いたときにはもう、彼の気配は遠く離れてしまっていたけれど。
 遠ざかっていく間際にスマイルが残していった、ユーリだけに聞こえる言葉に彼は更に激昂するのだった。

『今度は、こっちが食べたいな?』

風のコトバ

 その子を初めて見たのは、夕暮れ間近の庭園だった。
 勉強が一区切りついた僕が庭に出ると、ちょうど門から馬車が入ってくるところだった。正面玄関の前に横付けされた馬車から、半ば強引に引っ張り出された少年の横顔が一瞬だけ見えて、最初彼が何者で一体どういう経緯で青の派閥などと言う外界からはある意味隔離された場所に連れてこられたのか、いたく疑問に思ったことを今も鮮明に覚えている。
 それほどに、その少年は召喚師という職業には不釣り合いな顔をしていたから。
 夜、夕食を前にして呼び出しを受けた僕を待っていたのが派閥の長老格に当たる人物と彼らに囲まれたあの少年だったときは、最初に彼を庭で見たときと同じ程の驚きを抱えた。
 クレスメント家の末裔が見付かったかも知れない、その知らせは前から受けていた。だがこの少年がその人物であるとは、何故かあの時予想もしなかったのだ。
 迂闊と言えば迂闊な事だったが、真正面から彼を見ていると彼が間違いなく、クレスメントの血を継ぐ存在であると己の中にある遺伝された記憶が確信を持って告げてきた。
 どこか怯えたような表情を浮かべていた彼は、今まで散々質問や詰問を繰り返していた大人ばかりの中からようやく年の近い僕を見出せたことに少しだけ安堵の顔を作った。
 クレスメント家と僕との関わり合い等も考慮されて、彼は僕の養父であり後見人であるラウル師範に預けられる事が決定。僕はその時点で彼の兄弟子となり、召喚術以外のあらゆる事を教育する役目、そしてクレスメントの知識が再び暴走を繰り返さない為の見張り役となったのだ。

「ここが、君の部屋だ」
 新米見習い召喚師となった彼を、彼に宛われた部屋に連れて行くのも僕の仕事だった。
 自己紹介もそこそこに長老達の前から辞した僕は彼を連れ、丁度空き部屋になったばかりの一室の扉を開ける。そこは僕の部屋からふたつほど間を置いた部屋で、前の使用者はつい先日、召喚術試験に合格して部屋を出ていったばかりだ。
 綺麗に片付けられ、掃除された部屋の空気は僅かに湿っている。窓をずっと閉めていた所為だろうと考え、僕は先に室内に足を踏み入れると向かい側の窓へ歩み寄った。カギを外し押し開くと、すっかり外は日も沈みきっていて闇に包まれていた。
 太陽光から解放されて熱を失った風が微かながら吹き込んできて、僕の前髪を揺らす。
「今日はもう遅いから、明日にでも建物内を案内しよう。必要なものは一通り揃えて置いたが足りないものがあれば……マグナ?」
 ゆっくりと振り返り、もう少し眺めていたいと思った夜闇の光景に背を向けた僕が見たのは、部屋の入り口の向こうで立ちつくしている少年だった。
 いや、少年というには少し語弊があるような気がする。無論幼児、と呼べる年齢はとうに通り越しているはずだ。だが、いったい今までどんな生活を送っていたのか疑問に感じてしまうほど、彼はやせ細っていて小さかった。
 孤児だとは、聞いた。街中で偶然手に触れてしまったサモナイト石が暴走して、街を破壊したという事も。
 正確な年齢は分からない、だが見た目ほど幼いわけでもないことは口答での対応で分かっている。単に栄養が行き届いていないだけなのだろう、全身に。それはつまり、彼が喰うに困るような生活で今までをひとり過ごしてきたことになる。
 哀れだとは、思った。
 だが同情はしない、彼よりもずっと不幸な境遇の人間は数多の数存在している。彼は召喚術という能力を持って生まれただけでも、まだ幾らかは幸福なのだから。
「あ、の……」
 名前を呼ばれたことに咄嗟に顔を上げたマグナだったが、直ぐに口ごもってまた下を向く。
「おれ、これから……どうなるのかな……」
 不安そうに上目遣いになって彼は尋ねる。両手で自分の身体を抱きしめている事は、そのまま彼の怯えを表現しているようだった。自分だけが自分を守る唯一の存在だと言い聞かせているかのように。
「君はこれから、青の派閥の一員として召喚術を学び取得する義務がある。説明を聞いていなかったわけではあるまい」
 自分も随分と年齢不相応な物言いをするものだと思う、だがこれもまた、自分で自分を守る手段として開発したものだから早々簡単に崩せない。僕にとっては、青の派閥は庇護者ではあっても心を許しあえる仲間ではない。
「う、ん……」
 聞いていたのかいなかったのか、どっちだと言いたくなる返事をされて僕は頭を掻いた。嫌いかも知れない、この子が。そう思った。
「明日から早速で悪いが召喚術の基礎に入る。テキストはそこの棚に一通り用意して置いたから、せめて最初の一ページは目を通して置いてくれ。あと、紛失しないように自分の名前を書いておく事を推奨する」
 正直な話、派閥はあまり彼の存在を歓迎しているようには見えなかった。
 態度が露骨であり、扱い方にも乱暴な部分が多くあった。ラウル師範が口を挟んでいなければ、彼の待遇はもっと酷いものになっていたに違いない。
 この先彼には様々な困難が待ち受けるだろう、閉鎖主義の傾向が強い派閥内部の人間は中心に近付くにつれてより強固に、外部からの来客を拒む。彼がクレスメント家の末裔である事を疑う人間もまだいるのだ、彼の味方は決して多くない。
 手招きをして何時までも廊下に立っている彼を部屋に引き込むと、僕は素早く扉を閉じた。パタン、という音を不安そうに聞いて、彼は初めて足を踏み入れるこれから長い間世話になるであろう室内を見回した。
 天井はさほど高くない、家具はベッドと机、そして据え付けの棚程度だ。その棚の半分ほどを、基礎学のテキストが占領している。召喚術だけでなく、政治学や歴史などのテキストも混じっているのは、召喚術師が大きく国家という枠組みに組み込まれている事を照明しているようなものだ。
 表向き、青の派閥は政治との直接取引は禁じられているけれど……。
「ノートや筆記用具類はこの引き出し。着替え等は追々支給されるだろうから……」
「あ、あの」
 部屋の説明を続けようとしていた僕の言葉を遮り、マグナは胸の前で手を居心地悪そうに弄った。言いかけた言葉は、だが僕の意識が彼へと向き視線を投げかけられた事で中断させられてしまう。
「……なんだ?」
 言葉遣いや語気に刺があることを、僕は自覚していた。だがどうにも、止められそうにない。
 眼鏡の奧から冷たい視線を向けると、彼は小さな肩を揺らして視線を外してしまった。そのまま弄っていた手を口持ちにやり、言うべきか言わざるべきかを懸命に考え込んでいるらしい。泳いだままの視線が再び僕の元へ戻ってくるのに、かなりの時間が掛かった。
「あの……おれ、その……」
 そこまで言い渋ることなのだろうか、さっさと言えばいいのにと時間の無駄を考えて溜息をつきかけた僕は。
 次に彼が告げた言葉にものの見事に、言葉を失った。
「おれ、字……書けない」
「……なんだって?」
「だから! おれ、字も書けないし読めないって言ったの!」
 思わず聞き返してしまった僕に、彼は怒鳴り声で返してきた。間近で聞いてしまった大声に耳がキーンとなって、片耳を手で押さえ込んだ僕は目を丸くしながら彼をマジマジと見つめてしまう。
 孤児だとは、確かに聞いている。
 だが、この可能性は考えていなかった。
 どうも迂闊なことが連続してしまって、頭が冷静に回らない。
「読めない……まったく?」
「数字とか、なら……」
 簡単で生活に必要不可欠な単語と簡単な足し算引き算と言った計算だけなら、なんとか出来るのだと彼は口を尖らせながら言った。誰も教えてくれる人は居なかったのだと、最後に小声で付け足して。
 溜息しか出ない。
「そう、分かった」
 いや、分かっていなかった。事の重大さというよりも、大変さに。
 立ち眩みを覚えそうになる頭を押さえ、僕はもう一度マグナを見た。心細そうな顔をして僕を見上げている幼子は、実際の年齢よりもずっと頼りなく小さく映る。
 突然の出来事で住み慣れた街を破壊してしまい、追われるようにして街を離れて捕らわれたように青の派閥へと連れてこられた。そして自分が置かれている状況もロクに理解できぬまま、彼は今此処に立っている。
 知り合いも居ない派閥の中で、恐らく彼が一番存在を近いと感じるのは僕なのだろう。それは言い換えれば、彼のことを分かってやれる存在も僕しかいないという事に繋がる。
「自分の名前は書けるのか」
「…………」
 マグナは黙って首を振った。
 教えてくれる存在がなかったから、知ろうともしなかったのだろう。聞けば鉛筆を握ったことも数える程もないという。
「おいで」
 再び手招きをして机の下から椅子を引きだし、僕は彼をその上に座らせた。引き出しを開け、中から真新しいノートとペンを取り出す。
 表紙を捲り、机の上に広げた僕は握ったペンで一番上の欄に彼の名前を出来るだけ大きな字で書き込んだ。それを、彼の前に示す。
「これが、君の名前だ」
 “マグナ”と。たった三つの文字が記されたノートを見せられても、彼はピンとこないのか怪訝な表情のままノートと僕の顔を交互に見つめている。
「これ、書けないと駄目なのか?」
 何処か面倒臭そうな声を出して彼は言う。
「当たり前だろう。字が読めなければ本も読めないし、聞いたことを書き記すことも出来ない」
「けどさ、今までそんなことしなくても平気だった」
「これまでと、これからの生活は違う。君はまだ、自分の置かれた状況がどんなものなのか理解していないみたいだな」
「……分かってるさ。もうあの街には帰れないってことくらい」
 自分が壊してしまった街、そこに住む人たちの生活を壊してしまった自分はもうあそこに居る資格がない。
 彼は彼なりに、懸命に考えているのだろうか。
 小さな呻り声を上げながら、マグナはしばらくノート上の文字を睨んでいた。そして徐に僕が置いたペンを取ると、僕の字を真似して書き取る練習を始めた。
 確かにロクにペンを持ったことがないと言い張るだけのことはあり、彼のペンを握る手は不器用なものだった。
「そうじゃない、これは、こう……こうやって持つんだ」
 立ち位置を椅子の後ろに移動させ、僕は彼の手を取るとペンを正しく持ち替えさせる。途端、持ちにくいと口に出して文句を言い始めた彼だったが、この方が書きやすいのだと言いくるめるとむっとしたままだが用紙にペンを滑らせた。
「……あ、ホントかも」
 試しに最初の一文字“ま”を書いてみて、彼が感嘆の声を上げた。まだまだ不器用な崩れた形だが、かろうじて読めないこともない文字に思わず笑いそうになる。
 マグナは続いて“ぐ”と“な”の字を模写すべく机にかじり付いた。その背を丸める姿勢に眉根を寄せた僕は、彼の首根っこを掴み後ろに引っ張った。
「なにすんだよ!」
「猫背になっている。背筋は伸ばしておけ、姿勢が悪い」
 ぺしっ、と背中を叩くと肉が殆ど無い身体から出っ張った背骨が手に痛かった。
「ちぇー……」
 舌を出して不満を露わにしながらも、抵抗は無駄だと悟ったらしい彼は今度こそ背中をピンと立てたままやりづらそうにノートに筆を走らせていく。走らせる、と言う表現には不釣り合いな非常にゆっくりとした書き方ではあったけれど。
 真剣な表情をしてノートとにらめっこをしている彼を見ていると、案外真面目な所があるのだな、と感心した。あとになってこれが大きな間違いであったことを実感することになるのだが、それはまた別の話。
「できたっ!」
 そう叫んでノートを目の前高くに掲げたマグナが、椅子の上から後ろの僕を振り返る。自慢げにノート上のミミズが這ったような自分で書いた字を見せてくる姿に、表情がつい綻んでしまった。
「簡単かんたん!」
「もっと早く、綺麗な字で書けるようになるまでは合格とは言えないな」
「えー?」
「そんな字で書類を提出しても、誰も読めなくて突き返されるのがオチだと僕は思う」
 そう告げて僕は彼の頭を軽く二度、叩いた。
「夕食を貰ってこよう。本来は食堂で決まった時間に自分で取りに行かなければならないんだが、今日は仕方あるまい」
 夕方からの呼び出しに応じていたため、僕自身も夕食を取り損ねていた。食堂は閉まっているだろうが、恐らく議会の方から通達が行っているだろうしふたり分の食事程度なら残っているはずだ。
 踵を返し、扉へと向かった僕の頬を冷たい夜風が撫でていく。
「あ、ねぇ」
「ネスティ、だ」
 自己紹介は既にしたはずなのだが、と少しだけ不機嫌になって僕は僕を呼び止めたマグナを振り返る。その返した視線を覆い尽くすようにして、彼は僕の目の前に広げたノートを突きつけてきた。
「名前、書いて」
「君の?」
「おれのは、これでしょーが」
 反射的に聞き返した僕を笑って、マグナは次のページを捲った手で僕にペンを差し出した。
「名前、えっと……ネスティの!」
「あ、ああ……僕の名前か」
 ようやく会話の流れをつかみ取れて、僕はずり落ちかけた眼鏡を正すとペンを受け取った。一歩半進んでいた距離を戻り、机に置かれたノートの新しいページに僕の名前を書き記す。
「ね、す……てぃ……これが?」
「そう、これで“ネスティ”。僕の名前だ」
 文字ひとつひとつに発音を合わせてペンをずらして示してやると、彼は興味津々という顔でノートを見つめ、先程彼の名前を書いたページと見比べ始めた。
「同じ形じゃないんだ」
「発音の数だけ、字は形を持っている」
「うへー……なんかやる前からやる気なくなりそー……」
「覚えて貰うぞ、何が何でも」
「ちぇー」
 もう一度頭を小突くと、大して力も入れていないのに彼は机に突っ伏してしまった。見通しが甘かったのか、しきりに悔しがっている。何を悔しがっているのかは正直なところ、理解できなかったけれど。
 彼が机の上でマグロになっているのに肩を竦めると、僕は今度こそ夕食を貰い受けに部屋を出た。今度は、制止する言葉はなかった。

 食堂へ向かう道すがらで、困ったことにラウル師範に捕まってしまった。
 師範も色々と彼のことを気に掛けているのだろう、どんな具合かとしきりに聞きたがって、僕も報告しなければならないだろう事はあったからつい長話になってしまった。
 マグナが読み書きの出来ない子供であったことは師範も知らなかったことのようで、計画していた彼の召喚術師へのステップアップも時間が掛かりそうだというのが、僕と師範の出した結論だった。
 その結論に導かれるまでに三十分は軽く掛かってしまったのだけれど。
 夕食を取りに行く途中だったと言うことを話の途中で思い出して、残りの報告は後日改めてと告げ僕はかなり遅くなってしまった食事を両手に、マグナの部屋へと急いだ。
 盆を落とさないように注意しながら、きっちりと閉められた扉を開ける。視界に入った彼はまだ机に向かったままで、あれ程注意したというのに猫背になっていた。
「机に向かう時は、きちんと背筋を伸ばして……ん?」
 やれやれ、と盆をサイドボードに置いた僕は彼に注意を促そうとした。が、どうも様子が可笑しいことに気付き首を捻る。
 彼は猫背どころか、両腕を枕にして机に突っ伏し、眠っていたのだ。
「ん~~~~……」
 肩を軽く揺すってやると、不機嫌そうな呻き声を上げるだけで目を覚ます気配はない。
「疲れていたんだな」
 無理もない。ずっと馬車に揺られて、これからの不安に胸が押しつぶされそうになるのをひとりきりで堪えて。着いた先では大人に囲まれて見下され、自分の意見を述べる間もなく勝手に処遇を決定されてしまったのだ。
 まだ幼い彼には酷な事でしかなかっただろう。それなのに、疲れている素振りを少しも見せようとしなかった。少しでも気を緩めたら一気に足許が崩れてしまう事を幼いながら空気で読みとっていたのだろう、気丈に振る舞って。
「明日は休暇にしてもらうように頼んでおくか」
 顔に掛かる前髪を梳き上げてやり、僕は呟くと彼を椅子から抱き上げた。見た目以上の小ささと軽さに、驚く。
「んぅ、ん……」
 触れた体温が心地よいのか、マグナが自然と顔をすり寄らせてきてその猫のような仕草に自然と笑みがこぼれた。
 彼をベッドに寝かせると、摘まれた上着が引っ張られた。起きているのかと思ったがどうもそうではないらしく、寝ぼけているだけらしい。無理に解いて目を覚まさせるのもどうかと思い悩み、結局自分もベッドサイドに腰を下ろす。
「マグナ、か……」
 黒いクセのある髪を撫でてやると、くすぐったいのか顔を揺らして彼は逃げていく。楽しい夢でも見ているのか、彼はずっと笑っていた。
 その寝顔を見ながら、僕も少しだけ幸せな気持ちになれた気がした。

wave

 波のように押し寄せる、それは魂の叫び。
 風のようであり、だがそれは布地や髪を揺さぶることはない。けれど確かにその波は存在し、自分たちに向けて押し寄せてきている。その波に呑まれてしまわぬよう、己は懸命にかいなに抱くベースを握りしめて音をかき鳴らす。その音が更なる波をもたらしているという、簡単な事実さえ無視して。
 ただ、無我夢中で。
 見えない波に抗いながら、それでもその心地よさに魂が震えている。
 ああ、自分は生きているのだと確かに感じさせてくれる何かが、この場所には存在している。一度覚えてしまった快楽を手放すことは難しく、だからきっと自分はまたこの場所に帰ってくるに違いない。
きっと、必ず。
 彼らと、共に――――

 
 酔った。
 そんな気分。
 けれど少し違う。
 少し、どころの違いではないかも知れない。
 だって、充実しているから。
 こんなにも身体は疲れているのに、こんなにも心は満たされている。今にも溢れ出しそうな程に、心は疲れるどころかまだまだやれるぞ、とでも言いたげだった。
 キモチイイ。
 一言で表現するとしたら、そんな言葉くらいしか頭に思いつかない。
 押し寄せてくる歓声、それに応えようとして必死に、何もかも頭から吹き飛ぶくらいにマイクへありったけの思いを打ち込んで。
 跳ね返ってくる何か、を、確かに感じた。
 それは恐らく自分だけが感じたものではないはずだ。あの場所で時間を共有した彼らもまた、きっと。
 そう思えるし、思いたい。
 扉を開けて、誰も居ないはずの薄暗い部屋に一歩足を踏み入れたところで動きが止まる。
「あれぇ……?」
 照明が灯っていないからてっきり無人だとばかり思っていた。けれど、違う。暗闇に染まる室内には確かに、誰かの存在が感じ取れる。
 それは扉の開く音で微かに瞼を持ち上げ、己が発した音を聴いて再び瞼を閉ざしてしまった。
 誰何の声などあげない。こんな部屋に、闇に包まれてひとりきりで居る存在なんてひとりきりしか知らない。
「なに、してる?」
 その代わり、そんなことを口に出してみる。言葉が返ってくる様子は無い。それも、いつも通りで変わらない。
 けれど何処か、違う気がする。
「そっち。行ってもいい?」
 矢張り返事はない。拒否も許可の言葉もなかったけれど、彼が何も言わない事は則ち許可を意味することは、長い時間がかかったけれど理解したから。
 今度は何も言わずに、歩を進める。
 たった五歩にも行かない距離が、とてつもなく遠い距離に思えた。
「明かり、つけないの?」
 あと一歩、進めば彼に触れることの出来る距離。けれどその一歩を踏み出す手前で動きを止める。
 多分、自分はまだこの一歩分の距離を詰めるだけの関係を彼との間に築けていない。自分から歩み寄る勇気を失って、ようやく手に入れたこの一歩分の距離を壊してしまうのが恐くなったのは何時からだっただろう。
 それすら、忘れた。
 昨日のことのようで、遠い昔のことのようにも思える。
 透き通るような声は、響かない。どうも彼は自分の前では普段以上に無口になってしまうらしくて、それが少し、気に入らない。
 もっと聴かせてくれても良いのに、と思うもののそんな言葉を口にすることは無論、叶わない。
 望んではならない、望んでも手に入らないのなら最初から、求めたりしたくない。
 それでも無意識の手を伸ばして虚空を掴むこの衝動を抑えきれない時が偶にあって、だから、困る。
 彼にそんな姿、見せられないし見せたくないから。
 だからもうちょっと、お願いだから、声を、聴かせて。
「目に悪いでしょ。明かり、点けるよ?」
「必要ない」
 最初から瞼など閉ざしている。闇になれた瞳に映る彼は確かに、ずっと脚を組んでその上に頬杖、瞳は伏されたまま。闇の中でも映えるあの紅玉の鮮やかさは全く感じられないし見受けられなかった。
 けれど、この闇は自分の存在を不確かにする。
 何もかもが溶けていってひとつになって。周りが、自分が、なにもかもが、見えなくなってしまうから。
「でも、さ」
「見えなくとも……」
 ふっ、と。
 風が走り抜けていった気がした。
「感じることは、出来るだろう?」
 唄うように、囁くように、水に溶ける光のように。
 問いかけと共に持ち上げられた視線、射るようでそれでいて、優しい日溜まりのような紅玉の双眸に見つめられて鼓動が早まった。
 表面上の変化はなにひとつ現れていないはずなのに、彼にはそれが解ったのか薄い笑みを一瞬だけ浮かべる。
 瞳が、優しい。
 見えなくても感じた、魂レベルでの波。
 ステージ上で体感したあの感覚が戻ってくる。一度引いていった波が今度は更に大きな波になって押し寄せてくるような、あの感覚。
 酔った、かもしれない。
 今度こそ。
「だったら、さ」
 見えなくて、だからこそ何よりも不確かなもの。本当は、一番恐いのは自分が薄れてしまうこと。
 誰の目にも残らない、誰の心に触れることも出来ない。それは同時に、自分が誰にも触れず誰からも触れてもらえない事だったから。
 恐かったのは、感じてもらえないこと。
 だから、だろう。ステージに立ってあの波を感じると、自分は確かに此処にいて、皆に自分の存在を感じてもらえているのだと実感できて。
「ぼくは、見えてる?」
「此処に居る」
 瞳を閉ざしたまま、変わらない口調で彼は呟く。硝子玉を転がしたような声が、薄闇に響き渡って消えていく。
「違うか?」
「……そうだね」
 見える、ではなく。
 居る、と。
 一歩、前に出る。
 彼が腰掛けている椅子の、肘置きに両手を添えて。
「ありがとう」
 何処か泣きそうな声で呟いた声に、彼の微笑んだ唇が一瞬、触れたような気がした。

冷たくて、熱いもの

 十二支高校野球部の練習は、正直言ってハードだ。
 どう考えても、戯れに近い高校生のお遊びとは違う。所属する部員いずれもが真剣であり、僅か九つしかないレギュラーポジションの座を争いあっている。黄土色の乾いた土の上を疾る白球を追いかける目は、一瞬の変化も見逃さぬようにしっかりと見開かれ、素人同然の天国にはそれが在る意味脅威であった。
 まったくどうしてこうしてもう、みんなしてそんな恐い顔しながらボールを追いかけるものかねぇ。
 そう思いつつも、自分もまたその輪に加わってグローブを構え、牛尾キャプテンのノックを受けている最中だったりするわけだけれど。
 守備は正直、苦手。不得手、大嫌い。
 凪さんの為に野球部に入部して、似合わない泥臭さと汗くささに毎日まみれながら白球を追いかける日々が続く。少しは勉強して、まるで知らずにいた野球のルールも沢松にバカにされない程度には覚えた。
 でも未だに、“いんふぃーるどふらい”ってのが普通のフライとどう違うのか分からない。誰かに訊こうにも、冥にでも知られたら素人とバカにされるから、誰にも聞けずにいる。今のところ困った事はないから良いかも知れないけれど、ファーストなんだからそれくらい覚えておけよ、と沢松に言われた事は忘れていない。
 言って置いて教えてくれない奴も、親友甲斐がないってもんだ。
 ぶつくさ文句を呟いているうちに、軽快な打撃音が響いて猛スピードの硬球が突進してきた。避けそうになる腰を留めて、ボールを真正面に見据えながら野球の基礎本に書かれていた内容を頭の中で高速回転させる。
 ――ええと、まず腰を低くして体勢を落とし、ボールの真正面に入る、だろ? グローブは指先の方を下にして手首を上にして、右手は添えるように……って。
「どぉわ!!」
 あまりにも頭の中で考え込む時間が長すぎたらしい。
 御門が打ったボールは鮮やかに、見事なまでに、思わず観客席に居た誰もが立ち上がって一斉に拍手喝采を送るくらいに、天国の脳天を直撃していた。
 ちょうど目と目の間にめり込んだボールが、赤い形跡を残して天国の顔から落ちていく。それとほぼ時を同じくして天国の身体も後ろ向きに、地球の重力に引っ張られる格好でズドン、と落ちた。
 コロコロとその脇を白球が転がっていった。
「あ~あぁ」
 一番近くにいた比乃が頭の後ろで手を組みながら駆け寄って、真上からノックダウンを喰らった天国の顔を覗き込む。顔の位置はそのままに膝を折って傍らに座り込むと、恐る恐る手を伸ばしてダウン中の天国の頬をつついてみた。
 反応、ナッシング。
 バッドを置いた御門も慌てて走ってくる。その他、グラウンドに散らばっていた面々も何事かと動きを止めた。だけれどそのうちの大半は、騒ぎの中心に居るのがあの猿野天国であると知ると、またかよ、という顔で練習を再開させていった。
 まったく気付く様子がない天国の頭の上では、可愛らしい天使が三人笛を吹き鳴らしながらくるくると踊っていた。
 御門が、比乃に変な事はするなと視線だけで制して困ったように顔を顰める。
「おーい、お猿の兄ちゃん。無事?」
 呼んでも返事がない事を分かっているくせに、わざとらしく問いかけ首を捻り、比乃は試しに持っていたグローブでばしっ、と天国の頬を叩いてみた。明らかに不快な表情を表に出し、御門が眉根を寄せる。
 悪戯っぽく比乃は笑った。肩を揺らし、一緒になって被っている帽子の耳垂れ部分がひょこひょこと跳ね上がる。
「兎丸君」
 更にもう一発、気付け代わりに天君にちょっかいを出そうとグローブを構えた比乃に制止の声を上げようとした御門だったが、丁度天国を挟んで彼とは反対側に立っている彼には手を伸ばしても、比乃の動きを止める事は出来なかった。
 だけれど、比乃の右手が振り下ろされる事はなかった。
 地面に横たわり、顔面にボールを直撃して後頭部は倒れたときにグラウンドで強打して、挙げ句比乃にグラブで殴られた天国は、それでもまだ目を覚ます気配がない。ただ小さく呻き声をあげ、苦しそうな表情で横を向いただけ。
「…………」
「司馬君?」
「……ちぇっ」
 怪訝そうな声を出す御門と、不満そうに舌打ちする比乃の声が重なり合った。微かに、そこに洋楽が被さる。
 無言のまま、葵は掴んでいた比乃の腕を放した。ようやく強く握られていた力から解放され、変な体勢で居らねばならない必要もなくなった比乃が、不服そうに頬を膨らませる。ユニフォームの袖を捲って今まで握られていた箇所を確かめると、少しだけ鬱血して赤くなって指の後が残っていた。
「はいはい、司馬君ってば恐いんだから」
 袖を戻し、グローブを持ち直した比乃が肩を竦めて苦笑する。それから自分よりも遙かに高い位置にある、表情に変化の見られない葵の顔を見上げ、にっ、と口端を持ち上げて笑った。
 悪巧みをしている時の、悪戯小僧の笑みだ。
「キャプテン。ぼくじゃお猿の兄ちゃん運べないから、司馬君が運んでくれるって~」
 確かに体格上の違いから、比乃が天国を背負うのは難しい。しかし引きずっても構わないのであれば比乃でも、グラウンドの外へ運ぶくらいなら出来るだろう。それに、この場には言われた当人の御門も居るのだ。
 但し御門はキャプテンであり、そうそう練習中の現場から立ち去る事は難しいだろうが。
 御門はやはり困惑顔で比乃と天国の顔を交互に見て、それからいきなり話を振られて困っている葵を見た。
 サングラスで表情は限りなく遮断されてしまっているが、今の葵が困っている事くらい御門でも分かる。
 ただ比乃の言うとおり、天国をこのまま放置しておくことは出来ない。いつボールが飛んでくるかも分からない場所に寝かせて置くことも出来ないし、御門がグラウンドを留守にすることは避けたい。その上で天国は、一応怪我人だ。比乃に引きずらせていくのも、気の毒過ぎる。
 御門は視線を泳がせた。グラウンド内を静かに見渡すが、他の面々は既に練習に戻っており、薄情すぎるくらいに彼らに無関心だった。
 ただひとり、冥が時々ちらちらとこちらを伺うようにしていたが、御門と目が合いそうになると慌ててボールをキャッチャーミット目掛けて放り投げていた。
 もっともそれは集中不足の所為か、見事に空中に弧を描いて大暴投となっていたが。
 一通り周囲を見回してから視線を戻し、御門は肩を落としながら溜息をつく。その一連の行動でさえ、どこか芝居がかっていて大袈裟だ。
「司馬君」
 眉間に指を押さえて表情を作ってから、にっこりと御門が微笑む。
 いつの間にか比乃もその場から消え去っていた。ちゃっかりしているのかなんなのか、天国を心配している子津に大丈夫だから、と声をかけてキャッチボールを再開させている。
 葵がサングラスの奧にある目を俯かせた。色の被さった視線の先に、気を失っている天国が見える。
「頼まれてくれるかな?」
 拒否権などないよ、と表情が語る御門のひとことに、葵は疲れた素振りでひとつ頷いた。
 

 
 背負うか抱き上げるか、三秒ほど悩んで結局抱えやすいからと、葵は天国を両腕で抱き上げる方式を選んだ。
 途端、背後で凄まじい殺気を感じて振り返ったが、そこには十二支高校野球部の面々が黙々とキャッチボールと守備練習を続けているだけで、他に不審な点は見受けられなかった。
 葵は首を捻り、何もなかった事にして天国を抱えなおした。
 殺気は相変わらず、彼が視線を外すと途端に巨大化する。けれど常からそういった他者の感情を遮っている葵には、そういうものはあまり効果がなく、涼しい顔をしてグラウンドを歩いていく。
 嫌がらせなのか、誰かが放ったらしいボールが葵目掛けて飛んできた。
 こちらは天国を抱えているというのに、そういう基本的な事も忘れて行動に及ぶ奴の神経が信じられない、と首を捻ることで軽々とボールを躱した葵はふと、ボールが飛んできた方向を見やる。咄嗟に視線を逸らしたのは、数人。
 けれど思い当たるのは、ひとり。
 別に良いんだけど、と葵は高身の背中を眺めながら思った。
「う……」
 天国が腕の中で低く呻く。幸か不幸か、女子マネージャー達は筋トレに使う器具を借り受けに出かけている最中だった。
 視線を巡らせて監督の顔色を窺うと、向こう側も面倒臭そうにして顎をしゃくり、グラウンドの外を指し示した。つまりは、ここに置いておかずどこか邪魔にならないところに連れて行け、とそういう事。
 とはいえ、行く場所と言えば保健室か部室くらいだろう。どちらに行こうか悩んでいるうちに、腕の中にいる天国がもぞもぞと蠢きだした。
「…………」
 近い方が良いか、と結論を出して葵は歩き出した。天国がむず痒そうにぶつけた場所に手を伸ばすのを、肘を使って防ぎながら器用に支えて進む。
 部室棟の前までは楽に来られたけれども、困ったのは扉を開ける方法で。
 鍵は開いてあるから問題はないものの、両腕が天国で塞がっていてノブを回せない事に今頃気付く。やはり比乃についてきてもらうべきだったどうか、と思い至るが今更だ。
「ぅ~……」
 低い呻き声。ハッとして顔を下向けると、まだかろうじて覚醒には至っていない天国が掴むものを求め彷徨わせた手を、葵のユニフォームに添えて布を握りしめている最中だった。
「…………」
 ここで目を覚ましてくれなくて良かったと安堵する気持ちが半分、気付いてくれなくて残念だと感じている気持ちが、半分。
 複雑な表情をサングラスの裏に隠して、葵は腕に力を込めた。
 天国の左脇から差し込んでいた左腕を基軸にし、手を広げてその背中を支える。少しだけ天国の身体をずらして彼の顔が自分の胸の方を向くように直して、背に回した手を腰まで移動させた。
 膝裏に差し伸べていた右手を引き抜くと同時に、彼の足が急激に下方へ落下せぬように右肘と右足で支えてやりながら、かろうじて右の手だけを自由にする。
 けれどあまり長い時間そうやっているのは辛いので、一発勝負でドアノブに開いた右手を向け、ノブを勢い良く回す。そして留め具が外れる瞬間を見計らって左肩でドアを押し開けた。
 倒れ込みそうになるのを寸前で踏み止まり、後方でぶらんぶらんと揺れているドアから差し込む光に照らされて明るい部室内をひとまず見回す。乱雑にものが積み重ねられ、正直整理整頓が行き届いているとは言い難いものの中央に近い場所にある、スチール製の背もたれがない長椅子の上だけはかろうじて綺麗だった。
 数歩で辿り着ける場所に五歩を必要とし、葵は静かにそして丁寧に、天国を長椅子の上に横たわらせた。それから、開け放しにしていた部室のドアを閉めに行く。
 音を立てぬようゆっくりと締めると、一気に視界が薄暗くなった。そのあまりの変化に驚き、葵はドアの直ぐ横にあるスイッチを入れようかと悩んだ。
 けれどまた突然に明るくなった所為で天国が変に気付くのは良くないだろうか、と考えて止める。その代わり、空気が籠もってしまう部室内を喚起しようと、ドアとは逆位置にある窓へ向かった。
 ただ、その足は目的地へ辿り着く事無く止まった。
「……司馬……?」
 まだ赤みが消えていない顔を押さえ、痛むらしい場所に指が触れた事に苦悶の表情を作った天国が微かな声で呟く。瞼はいつの間にか開いていた。だが通常の元気良さが分かるサイズの半分の位置で止まっている。
「…………」
 中途半端に出している最中だった足を戻し、葵は口澱んで天国を見下ろす。
 起きあがろうと椅子の上に投げ出されている自分の足を引き戻し、床に下ろす天国を見て口を歪めた。サングラスの下では、恐らく同じように目元も細められて困惑しているのだろう。
 但し、それは天国にも葵自身でさえも見えなかったが。
 身を起こし、椅子に座り直した天国が緩く首を振る。大丈夫か、と側に近付いてきた葵を見上げ、彼は状況を把握しようと眉間に皺を刻んで考え込み始めた。
「ここ、部室だよな」
「…………」
 無言のまま葵が問いかけに頷いて返す。
「オレ、グラウンドでぶっ倒れたんだよな」
「…………」
 上に同じく。
「で、ここは部室なんだよな?」
 少しだけ不思議そうに葵は首を捻ってみた。真っ直ぐに見上げてくる天国の顔に、分かりづらい表情を翳らせる。
「っあ~~! って事は、アレか。オレはお前におんぶされて此処まで運んで貰っちまったって、そういう事か!?」
 正確にはおんぶではなく抱っこだ、と訂正するのは止めておいた。葵の目の前で天国がうが~! と照れているのか笑っているのか、怒っているのかもの凄く曖昧な、混ざり合った表情で憤慨し始めたから。
 天国はそのままひとりで自分の世界へと入り浸り、座ったまま地団駄を踏んだり頭を抱えてぶつけたばかりの場所を掻きむしりながらなにやら唸っている。どうも、情けなく気を失った事以上に人の手を借りて部室に退場してきた自分が恥ずかしく、格好悪くて嫌らしい。
 まぁ、普通の男にとっては屈辱でしかないだろうが。
 しかしそれにしても、騒々しい。
 葵の耳には変わらずMDからの楽曲が流れてきているが、ちょうど静かなバラード調のものに切り替わった直後に重なってしまい、天国の声がダイレクトに脳裏に響いてくる。
 はぁ、と溜息をついた。
 首を回す、踵を返して葵は天国から一旦離れた。それにも気付かずに天国はひとり、狼狽しながら歯ぎしりしている。
 けれども、ひやりとした空気が肌を擦った瞬間、
「ひゃぁ!」
 身を竦ませてか細い悲鳴を上げた。胸の前で腕を交差させて身体を抱きしめた彼の首脇から差し出されたものは、500mlサイズのペットボトル。中身は透明、つまり水。しかもこのむさ苦しい部室の中にあって、冷蔵庫から取り出されたばかりかのように冷たい。
 天国は怪訝な顔をしつつ、怖々と背後を振り返った。そして見上げた先に自分へと影を落とす高身の存在を認め、ほっと安堵の息を零した。
「くれんのか?」
 ようやく静かになり、落ちついた呼吸を取り戻した天国は未だボトルの首を持ったまま尻の方を差し出している葵に問いかけた。相変わらず無言のままだったが、葵の口元が僅かに緩んでおり、頷き返してもらえなかったがそれは肯定の意味だろう、と勝手に判断して天国は自分に向けられているボトルを掴んだ。
 力を込めると同時に、葵の指が外される。見事なタイミングの計り方に心の中でだけで感心して、まだ封が解かれていないボトルの蓋を外した。
 ふわっとした水の香りが鼻先を掠めていく。誘われるままに口をつけ、ボトルを傾けて喉を鳴らした。
 ごくり、とひとくち分。冷たいものが思いの外乾いていたらしい喉を潤し、腹の中へと沈んでいくのが分かった。昼食の弁当もすっかり消化されてしまったらしい胃の中に、冷たい水が染み渡っていく。
 そのまま、遠慮もなく喉を上下させ続けているうちに、気持ち良すぎて閉じていた目を開くと直ぐ前に葵の顔があって、天国は驚いてしまった。
「司馬……?」
 驚きのまま、ボトルから口を外した天国の瞳にサングラスが映る。色を被せたその向こう側は見えない。
 けれど、光が反射して、一瞬だけ、見えた。
 笑っていた、ような気が……する。
 触れる、と思った瞬間にきゅっ、と固く天国は目を閉じた。一緒に肩を窄めて膝頭に力を込めて身体まで小さく縮める。
 寒い冬の朝、蒲団の中で縮こまっている子供のように。
 ツ……、と触れたのは、けれど一瞬。しかも意外な場所で、直ぐに熱は離れていって速攻でそれは乾き、跡形もなく消え去った。
 顎のラインと下唇の間、何もない場所。舐められただけだと、気付いた時には顔は紅潮してどうしようもなく心臓がばくばくと高鳴っていた。
 いや。きっと当初の想像通りの場所に、予想していたもので触れられていたらこれの比ではないくらいに凄いことになっていただろうけれども。これはこれで、健康に悪い。
「なっ、しっ、ばっ、ばっ、ばっ……!」
 動揺してしまって舌が回らず、頭の先から湯気を立てたまま天国が両手をわたわたさせる。それを眺めながら、椅子の前に立つ葵が口元を拭う仕草をした。
 曰く、まだ濡れている、と。
「っせぇ!」
 乱暴に怒鳴りつけ、天国は慌てて手の甲で乱暴に口元を拭う。そこまでがめつく水を飲んでいただろうか、と記憶を掘り返しながら冷静さを取り戻そうと試行錯誤している脇で。
 葵が椅子に置かれたペットボトルを取ろうと手を伸ばしてきた。
 中身は残り半分を少し割ったくらい。天国が身体を揺らす衝撃が伝わって表面を波立たせているそれを、彼は葵の手が触れる寸前で奪い去った。
「やらん」
 胸に抱き込んで主張する天国に対し、葵は心底困惑しているらしく口元が僅かに力む。
 そう言われても、それは元々葵の所持物であり天国には分け与えるつもりで差し出したものだ。
「だってお前、オレに『くれた』だろ?」
 にっ、と悪戯顔で天国は笑って葵を見上げた。
 思い起こせば確かに、そう言った――と言うよりかは、返事の代わりに頷いた。意志疎通にずれがあったことを実感し、葵は頬を指先で掻く。
 勝ったと天国はニンマリしながらもうひとくち、とペットボトルを傾けた。
「ところで、このあとどうする。戻るか?」
 すっかりくつろぎ体勢に入っている天国を見下ろし、問われて葵は肩を竦めた。流れていたMDはいつの間にかすべての楽曲を流し終え、再生ボタンを押される事を無音の中で待っていた。
 天国が笑う。やれやれ、といった風情で葵はその脇に腰を下ろした。
 MDの電源を切る。ヘッドホンを外すと、ダイレクトに傍らに座る天国の息づかいが聞こえてくる。その彼は今、ボトルの口回りに零してしまった水をちびちびと舌で舐め取っている最中だった。
 どこか子供じみた仕草を眺める。
「ん?」
 気付いた彼が目を細め、何を勘違いしたのか左手に持ったままのボトルを葵へと差し出した。
 呆気に取られる葵の前で、彼は「飲みたいんだろ?」と口に出した。
「…………」
 そのままボトルを手に押し込められる。天国は楽しそうに、葵が水を飲むシーンでも見たいのか膝の上で頬杖をついて彼を見上げている。
「…………」
 沈黙が続いた。ちらりと天国を窺い見ると、早く飲め、と目で訴えかけられて視線を戻す。
 意識しなければ別にどうだってないだろう、とは思うのだけれどやはりどうしようもなくて。葵はまず、ボトルを真っ直ぐに持ったまま口に近づけた。
 伸ばした舌先で、ボトルの口、捻りの水が溜まった部分を舐め取る。
「……っ!」
 瞬間、葵は後頭部を強打された。危うく口の中にボトルを突っ込むところで、振り返れば真っ赤になった天国が口を開閉させながら立っていた。
「恥ずかしい事すなー!!」
 耳の先まで赤く染まった天国の顔を見上げながら、葵はふっ、と口元を緩めた。
「うぅ……」
 光の反射具合で、見えないはずの葵の瞳が天国の位置からも見えた。その眼はやはり穏やかに微笑んでいて、それを見た瞬間にもう何も言い返せなくなってしまう。結局ストン、とその場に座り直してそれでも不満を身体いっぱいで表現するように、葵には背を向ける。
 だけれど、出ていくつもりはないらしい。脚を組んで、その上に肘を置いて。背中越しに葵の存在を感じながら、彼は静かに目を閉じた。
 そのうち、ボトルを逆さにして水を飲む音が耳に響いて。
 人知れずまた赤面して、オレの負けか、と呟いた。

02年3月15日脱稿

花火の夜

 色々なことがあった。
 色々なことが在りすぎて、頭の中が整理し切れていない面も大きい。
 けれど分かることは、これだけは言えるって胸を張れる事はある。
 俺は自分が決めた道を今ようやく歩き出せたこと、守りたいものを見つけたこと、一緒にいたいと思える仲間を作ることが出来たと言うこと。
 戦いは正直、好きではない。
 争わずに済むのならそれに越したことはない、戦争なんて……本当は起きない方がずっと良いんだ。
 国家とか政治とか、そういう頭の遙か上にある世界の話を振られても、正直そんなものに興味を持ったことがない俺にはいまいちピンとこない。青の派閥と金の派閥が争い合う理由も、正直なところ良く解らない。
 お互いを認め合い、競争しあうことでより高い場所を目指すのであれば、まだ少しは理解できる。けれど派閥間の争いはそういった、純粋なものではないのだと改めて教えられた。
 俺は、こういう世界では本当に無力だと教えられている感じがした。
 だからバカだって、ネスに怒られるんだよな……。
 なあ、俺ってそんなにバカ?
「そう言う質問を僕にぶつけること自体、既にバカである証拠だとは思わないのか、君は」
 隣を歩く人に問いかけると、即座にそんな言葉が投げ返されて、俺は「はいはい、そうですとも」と膨れっ面を隠しもせずに呟く。
「背筋をしゃんと伸ばせ。拗ねると猫背になるのは君のクセだぞ」
 ぺしっ、と軽く背中を手の平で叩かれてその痛みに自然と前屈みになっていた体勢が戻る。けれど膨れっ面が戻ったわけではなくて、恨めしげににらみ返すと彼は涼しい顔で受け流してしまう。
 毎度のことだからいい加減、慣れたけれど。
 もう少し労ってくれても良いのでは、とも思う。駄目なんだろうか。
「甘えるな」
 今度は軽く握った拳の背で頭を小突かれてしまった。何も言っていないのに、視線を向けただけなのに俺が何を考えていたのかお見通しらしい。
 流石に十年近く一緒に居るだけはある、あまり嬉しくないけれど。
 だって、俺のことばっかりネスに伝わって、俺はネスのことがちっとも分からないまま。これって不公平じゃないのか?
「僕は君の愚痴を聞きに出てきたんじゃないぞ」
「分かってるってば」
 小突かれた箇所を手でさすり、俺は頬を膨らませつつネスに声を投げ返す。まったく、どうしてこう、愛想がないかなぁ……。祭の夜くらいもっと楽しそうにしても良いと思うのに。
 そんな風に考えているうちに、大通りへと辿り着く。
 派手に飾られた山車がいくつも並んでいる、照明に光が灯されて此処だけが昼のように明るい。
 聖王都に負けず劣らず、きらびやかでにぎやかな祭。ほんの少し前この場で俺達はケルマの決闘を受けて戦ったのだけれど、そんなことは微塵も感じさせない。人々は互いに微笑み会い、騒ぎ合っている。酒を飲み、振る舞われる食事に舌鼓を打ってある人は踊り、ある人は唄い、それを見ている人たちはやんやの喝采を送っている。
 人々の営みが確かに此処にはある。
「戦争……」
 遠巻きに騒ぎを眺めている俺達。ぽつりと呟くと、ネスが「なんだ?」という顔を向けてきた。
 眼鏡の奧にある知的な瞳に影が走っていることを、ずっと俺は気にしていた。
 なぁ、その危惧の中身はなんなんだ? 俺にも言えないことなのか? 俺じゃ、ネスの力になれないのかな?
「どうした」
 大人しいな、と身体ごと向きを変えて俺の顔を覗き込んできたネスの視線から逃れようと、俺は首を振って一歩下がった。
 だって、「戦争なんて起きなければ良いのに」という言葉は、この祭の最中には似合わない。みんな、年に一度の祭に浮かれて、楽しんでいるというのにその賑わいに水を差すような事は言えない、言いたくない。
 俺だけが楽しめていない感覚が嫌だった。
 何のために、ネスを祭に連れ出したって言うんだ。少しでも今までの、そしてこれから起きるだろう戦いを忘れて楽しんで貰うためじゃないのか。
 俺がこんな事を言ったら、余計にネスは気にするだろう。そういう性格だから、責任感が強すぎるって言うのかな、兎に角そんな感じ。
 俺、バカだからこんな事しか分からないけれど……ずっとネスが何かを悩んでいて、ひとりで苦しんでることくらいは、分かる、から。
 出来るなら話して欲しい、ずっと一緒に居たのに。
 ネスは俺のことは全部知ってるくせに、俺はネスのこと、全然知らないんじゃなかったのかな。旅に出てからは特にそう思う。俺、ネスのこと何も分かってやれてない。それが悔しい。
「なんでもない、よ」
 苦笑いを隠して手を振る。そして視界の端に映った出店を理由に俺はいぶかしんでいるネスの手を取って小走りに駆けだした。その出店は、こんな祭でなければ見かけることのないお菓子を扱っていて、俺はそれが大好きだった。
「なんだ、またこれか」
 王都で祭がある度、俺はネスにこのお菓子を強請った。やれやれ仕方がないな、そんな顔をしながらもネスは財布を取りだして店の主人に代金を払う。
 甘い匂いを漂わせているそれは、俺の手の中でほこほこと湯気を立てる。ネスはこの甘すぎる味が苦手らしいが、俺は大好きだった。祭でなければ食べられないこともあって、確かに大きくなるに釣れて味は舌の上にしつこく感じるようになってはいたけれど、毎回俺はこれを食べる。これがなければ祭ではないとさえ、俺は思っている。
「虫歯になるぞ」
「これ一個だけじゃならないって」
 大口を開けてかじり付くと、甘さが舌の上いっぱいに広がっていく。どこか懐かしくて、甘いのにほろ苦い感じがした。
「ネスも、ほら」
 俺が囓った跡のくっきりと残る菓子を差し出すと、ネスは眉間に皺を寄せて不機嫌さを露わにする。
 彼がこれを苦手にしている事を知った上での嫌がらせであることを、彼はちゃんと理解しているのだろう。鼻先に突きつけられるだけでも嫌そうな顔をするネスを軽く笑い飛ばして、俺は二口目を囓ろうとした。
 けれど、その手をネスが遮る。
 横から伸ばされた彼の手が、俺の手首を掴んで後ろから、ネスが近付いた。
 カリッ、と硬めの表面を囓る音が耳の直ぐ傍で聞こえた。
「え、ネス……?」
「やはり甘すぎる」
 俺が囓った分よりもずっと少ない量だったけれど、ネスは確かに、俺が食べかけていた菓子を食べた。わざとなのかそうでないのかは分からないけれど、俺の囓った箇所の直ぐ横を。
 何故か顔が赤くなっていくのが分かった。
「嫌いじゃ、なかったのかよ」
 気のせいか声が上擦っている。ネスがしつこすぎる甘さに気を取られているのが幸いして、彼は俺の変化に気付かなかった。
「そうは言っていない」
 絶対に食べたくないというレベルではない、と眉間のしわをそのままに呟く彼の声を聞きながら、俺は菓子を囓った。最初のひとくちをどうしても避けてしまう、歪な形になってしまった円形の菓子が何故か恨めしく思えた。
 一緒にいることは当たり前だった、その当たり前が崩れるのが恐かった。
 派閥の決定で俺が旅立つことになった時、本当はどうしようもなく不安で心細かった。ネスが一緒についてきてくれると知ったとき、跳び上がりたくなるくらいに嬉しかった。
 また独りぼっちになることよりも、ネスと離れなければならない事の方が辛かったのだと今なら思える、分かる。
 孤児だった俺に初めて出来た家族、友人……心を許せる人。大切な、守りたい人。
 足は自然と騒がしい祭の中心部から離れて海岸へと向かっていた。
 人混みは消え、喧噪も遠ざかる。水平線の上にいくつもの舟が浮かび、灯された船上の光が淡い蛍の輝きに似て見えた。
 豊漁祭は本来、海に暮らす民が豊かさをもたらしてくれる海への感謝の思いを示すものだと教えられた。山間に暮らしていたアメル達が、実りの秋に豊穣祭をするのと同じ事だと言っていた。
 俺はずっと、街で暮らしていたからそういうものとは無縁で、年に一度の祭の意味も深く考えたことが無かった。
 ただ出店が出て山車が並び、観光客も多くやってきて珍しいものが見れて、食べられて、あちこちで騒ぎがあって兎に角みんなが笑い合っている日だとしか、認識していなかった。
 総ての行動にはなんらかの意味があって、意味のないことなどひとつもないのだと改めて実感する。
 だったら俺が此処にいること、此処にこうして生きていることにも、何か意味があるのだろうか。
 船上から打ち上げられた花火が夜空に花を咲かせる。
 王都の花火は建物や観光客の頭で邪魔されて、あまりちゃんと見たことがなかった。だから尚更、何も邪魔するものがない海岸から見る花火は今まで見てきた中でも、ひときわ綺麗で印象深いものがあった。
「な、ネス。俺さ」
 隣に立つ人を見る。少し俺よりも高い位置にある瞳が、俺を見下ろしている。
 花火が上がる、ふたつの大輪の花が夜の空を鮮やかに飾っている。
「俺、沢山守りたいものが出来た」
 仲間、友人、この街に暮らす人たち、この世界に暮らす総ての人たち……はちょっと言い過ぎかな?
「誰が何と言おうと、譲れないものが出来た」
 ぎゅっと握りしめた手の平に汗が滲む。
 どうして何も答えてくれないのだろう、いつもだったらこんな風に急に真面目になった俺のことをからかうのに。
 今日に限って、ネスは静かに俺を見ている。それって、結構卑怯じゃない?
 俺だけ、こんな風に必死になって頑張ってる。今ネスがどんな顔をしているのか見たのに、臆病者の俺は足許の砂ばかりを見て折角続けざまに連発されている花火もちっとも見ちゃいない。
「俺、さ」
 聖王都に来たばかりの頃、迷子になった俺をどうやってかいつも探し出して連れ帰ってくれたネス。
 わがままを言ってばかりの俺を辛抱強く見守って、つき合ってくれたネス。
 祭の夜に抜け出した俺を見つけだして、面倒見てくれたネス。強請る俺にお菓子を買い与えてくれたネス。
 な、知ってる? 俺ってさ、結構ひとりじゃ何も出来ないんだぜ?
 こんな事言ったら、自慢にもならないんだけど。その辺には自信ある、俺は俺ひとりじゃきっとこんな風になれなかった。
 ネスが居なかったら……もっと早くに色んな事から逃げ出していた。
 守りたいものは、アメルやレシィや、一緒に戦ってくれる人たち。
 譲れないのは、この場所。
「俺、ネスと一緒に居られて良かった」
「過去形にするんだな、君は」
 精一杯の勇気を詰め込んだ言葉は、けれどネスに呆気なく一蹴されてしまって俺が顔を上げる。
 見つめているネスの顔はいつになく優しいものに見えた。
 花火が上がる、今度はしだれ柳のような絵柄が空に描き出される。
「これからは一緒に居たくないって?」
「違う!」
 腹の底からの叫び声は花火の打ち上げ音に紛れて霞んでしまった。一瞬の光に照らし出されたネスの横顔が眩しい。
「俺、俺、は……」
 言いたい言葉は沢山あるのに、思い浮かばない。頭が回らなくて、もっと色々勉強して色々な場面になれていれば良かったと今頃になって後悔する。
 自然とまた俯いていく俺の頭を、ネスの手が優しく撫でた。そのまま柔らかい手つきで髪を掻き回される。
「心配しなくても、僕の隣は君の特等席だ」
 永遠に。
 ぽんぽんと優しく叩いてくる手は何処までも優しくて、俺は不本意にも泣きたくなってネスにしがみつくことでそれを誤魔化した。
 きっと、ネスには見透かされているんだろうけれど。
 彼は何も言わずに、傍に居てくれた。