玻璃の月

 かつん、と硬質の音が窓から差し込む月明かりだけの薄暗い室内に響いた。
 吹き込む冷たい風は白いカーテンを揺らし、まるでワルツを踊っているかのようだった。昼間は騒がしいだけだった城の喧噪さえ今は遠い。すべては鏡に映し出された虚像の如く、戦と言う血臭に濡れた世界は闇の中だ。
『…………』
 彼は、僅かに変化した空気の流れに閉じていた意識を開く。ベッド脇の壁に無造作に立てかけられただけの剣が、不機嫌な気配を醸し出しながらその双眼を窓辺に向けた。
「なんじゃ、狸寝入りか」
 透き通った水晶のような声がカラカラと空気を震わせる。ふわり、と空に浮き上がるローブを身に纏い、少女は不遜な態度を崩すことなくそこに、腰を下ろしていた。
 部屋の主は彼女ではない、もっと骨太く粗暴な男だ。今は恐らく、まず間違いなく、仲間を引き連れて酒場で大騒ぎをしていることだろう。だがなかなか用心深い彼は部屋の戸の鍵はしっかりとかけていった。その割に、窓を閉め忘れていったのだが。
 その唯一の外界との接点に彼女は座っている。しかしこの部屋は高層階にあるのだ、この高さまで登るための梯子があるわけではないし、木登りも彼女には似合わない。それに第一、そんな木は何処にも生えていない。
「久しいの」
 カラカラと笑い、少女は両手を窓枠に置いた。本格的にその場所に腰を落ち着けるつもりらしく、そこから幾らか離れた場所に居る彼は、不機嫌を隠すことなく月明かりを背負う彼女を睨んだ。
『何用か』
「そう邪険に扱わずとも良かろう?」
 目を細め、愉しそうに彼女は睨みを受け流した。
「数少ない同胞ではないか」
『月は夜の眷属よ。同胞などという生温い言葉で表されたくないわ』
「それは失礼をした」
 だが少女の口調は本当に反省しているような色を欠片も含んでいない。たたえる笑みは穏やかになったものの、彼をからかう調子はまるで変わっていない。
 吹き込む風に揺れる髪を掻き上げ、彼女は一度薄暗いままの室内を見回した。壁に掛けられているランプは長い時間灯をともされた気配がない。少なくとも今日一日は一度も火が入っていないと考えるべきだろう。
「あ奴は?」
『どうせ酒場であろう』
「あぁ、そういえばそうだな」
 人気のない室内は、荷物も少ない。ベッドと、少しばかりの着替えと、武器を手入れするための道具が隅の方に積み上げられている。他に何もない。
 戦時中である、いつでも移動できるように――万が一城が陥落した場合、荷物を少なくできるように最低限のものしか傭兵は持ち歩かない――彼が心がけている証拠だ。
 しかしそれは同時にとても哀しい。この部屋は、確かにあの男が生活の場としているはずなのに、生きている人間の汗くささや、息づかいが感じられないのだ。
「あくまで、仮の宿にすぎぬと……」
 窓枠に置いてあった腕を抱き、彼女は呟く。その囁きを聞き逃さなかった彼――星辰剣は不思議そうな顔をした。
『あの男が気に入ったか?』
「戯れ言を」
 細められた処女の瞳が真っ直ぐに星辰剣を射抜く。口元は相変わらず笑みを残したままであるが、瞳は冷め切り、感情を見せない。
 見た目は幼さを残す少女であるが、彼女は既に五百年という歳月を重ねてきているれっきとした、27の真の紋章を継ぐひとりである。その年月の多くを孤独に過ごしてきた彼女にとって、人間などほんの一瞬を通り過ぎていく風のような存在なのだ。
 追いかけても捕まえることは出来ない、すり抜けて言ってしまう風は決して彼女の手元には残らない。ならばいっそ、諦めてしまえばいい。最初から期待しなければ、裏切られたと思うことも置いて行かれたと感じることもなくなる。
『仮の宿は、主も同じではないか』
「言われるまでもない」
 腕を解き、彼女は再び星辰剣に向き直った。
 ネクロードは倒した、奪われた月の紋章も取り戻した。彼女が長年旅してきた理由は無くなった、だから再びあの何もない、ただ静かに時が過ぎていくだけの村に戻る日が来るのだろう。今、この時間をこの城で過ごしているのはほんの戯れに過ぎない。
 27の真の紋章が選んだ少年、始まりの紋章の片割れを宿す少年が選び取る未来を見ていたいという小さな好奇心のたまものだ。
 どうしても重ねてしまう、あの小さな少年の姿に。
 漆黒の闇を背負い、ただ独り宛もない放浪の旅を続けていた少年を、思い出す。
「あ奴は死んだのかのぉ」
 窓の外、静かに地上を照らす月を眺めて彼女は呟いた。
『誰のことだ』
 怪訝な顔をして星辰剣が問うが、彼女は答えない。黙ったまま遠くなった時代を邂逅しているようだ。
「人間であり続けることは、存外に難しい事じゃ」
『?』
「それ故に……わらわは楽な道を選んだ。自ら山に入り、人との交わりを避け、逃れてくる人々に偽りの安息を与え続け……そして今は、己の心を凍らせておる」
『シエラ?』
 独白は寂しげだ。声は澄んでいるがどこか暗い。
「あ奴は、最後まで人であり続けることを選んだ……追っ手を逃れるために、心休まる日など無かったであろうに」
 零れた溜息はガラスのように呆気なく砕け散る。今彼女の瞳に映し出されているのは夜闇の中の月ではない、遠い昔に出会った人間の姿だ。
 幾度道を交えようと、どれだけの時間が地上を流れすぎていったとしても、お互いだけは少しも変わることなく、色あせない記憶と同じ姿を保ち続けていた。
 望まなかった力を手にしてしまった為に、すべてを失った過去は共通。探し求めるものがある自分と、己を探す手から逃れるために旅を止めることが出来ない少年は。共に旅をすることは結局無かったけれど、数十年に一度は必ず、道の何処かですれ違った。
 まるで紋章同士が惹かれあっているように、必ずと言っていいほど、ふたりは再会し、互いの無事を確認しあって別れた。短く会話を交わすこともあれば、本当にすれ違うだけの日もあった。余計な言葉をかけることはなく、ただ必要なことだけをぽつぽつと告げて情報を交換しあう、それだけの関係だった。
 ただ、彼はいつも傷ついた顔をしていた。
 彼は人と触れあい、そして傷つく結果しか生み出さないと知りつつ深く関わり合おうとした。結果は同じなのに、彼は学習しようとしない。
 彼が右手に宿していたのは死の紋章、ソウルイーター。人の命を糧とする紋章が彼の中にある限り、彼の周囲には常に死がつきまとう。決して逃れられない、それが彼の宿命だった。
 いつだったか、言ってやった事がある。いい加減、人間のフリを止めてしまえと。そうしたら彼はなんと答えた?
 ――そんなコトしたら、俺が今まで生きてきた意味ないだろ? 俺を産んでくれた母さんや父さんや、守ってくれたじいちゃん、助けてくれた人たち……そんな人たちとの出会いを、一瞬だって嘘にしたくないんだ。
 感情を消し、人との関わり合いを断絶すれば楽になるだろう。しかし同時に、人として大切なものも失ってしまう。彼はその失いがたいものに固執した。
 その強さを羨ましいとさえ、感じていた。
「結局、わらわには真似出来なかった」
 素直に自分の弱さを認めて、彼女は目を伏せる。
 あの強さがあれば何かが変わっただろうか、変えられただろうか。虚しさだけが残るこの心を持てあますことは無かっただろうか。答えなど、見付からないのに問いかけてばかり居る。
「星辰剣よ」
『なんだ』
 低いが耳に心地よい音が響き渡る。
「おんしは、もし人の形を得ていたとしたら、どうした?」
『奇異な事を聞く』
「気が向いただけじゃ。今夜は……月が明るい故に」
 ふっ、と零れた彼女の笑顔は本物で、つられて窓から見上げた月は確かに彼女の言う通り明るく輝いている。
『何も変わらぬ。同じように何処かの洞窟で眠っているだろう』
「面白味のない」
『私の勝手であろう』
「いかにも」
 小さく頷いて少女は細く白い指で落ちてきた銀の髪を掬い上げた。
 闇の紋章の化身として存在している星辰剣は、それ以上でもそれ以下にもならない。余分な感情を持たず、己を使う者にとっても最も効率的な戦い方を与えるだけ。それ以外に自身を使う必要などないのだ。
 自ら自由になる肉体を持たない不自由さであるが為に、彼の心は何処までも自由で強固でいられる。行きたい場所へ行きたいと思ったときに実行できる自由さを持つ人間とは根本的な部位で違う。
「いっそ考える術を持たぬ草木にでも生まれてくれば良かったものを」
『そう悩む事こそ、己が人間であることの証とは言えぬのか?』
 水面を揺らす波紋、投げ入れられた石の言葉に彼女は意外な様子で星辰剣を見返した。
『なんだ』
「いや……主らしからぬ言葉が聞こえたような気がしてな」
『似合わぬか』
「ああ、似合わぬ。道具であるうぬが人を語るなど」
『その人で在らざる者になりたいと願う汝が言えた口か?』
「いかにも」
 呟き、頷いた彼女の横顔からは感情が見えない。冴え冴えとした月明かりを受けて微妙な陰影の彩が浮き上がるのみ。そこからはなにも読みとれない。
「このまま、わらわが夜の闇に消えたとしても。誰ひとりとして哀しみ悼む者がいないのならば」
『…………』
「それを生きていると言えるのか?」
『このような戯論を交わすためにうぬは私を訪ねてきたのか?』
 会話は噛み合わない、いつしか互いの心が模索する道は離れた。
「戯れなど……」
『うぬの言葉は、「寂しい」としか聞こえぬ』
 驚いたように少女は目を見開いた。星辰剣が低く笑う。
『図星であろう?』
「……否定はせぬ」
 やや不本意そうに少女は答える。言われてみれば、確かにそうかもしれないという気持ちが消せない。心を持たぬものになりたいと願いながら、それを生きているとは言わないと否定する自分がいる。相反する心を抱えて、だからこそ彼女もまだ、ヒトでしかない。
「余計な事を……」
 少女は笑った、心から、本心で。
『年寄りの戯言だ』
 星辰剣も笑みを浮かべ少女を見返す。
 月明かりが眩しい。何処までも柔らかく澄んだ光がカーテンを揺らし室内を照らし出す。
 静かだった、遠く湖の波立つ音さえ聞こえてきそうな夜だった。だからどやどやと声を立てながら廊下を歩いてゆく一団が部屋の前を通り過ぎるのも簡単に予測が出来た。
「そろそろ暇するかの」
『結局何をしに来たのだ』
「決まっておろう? 月が明るかったからじゃ」
 月が明るい夜は心の中がわさわさして眠れない。だからだろう、自分を知るものを尋ねて昔話にでも花を咲かせたいと思ってしまった。自分らしくないと思いいつつも。
「あの男が戻ってきては五月蠅かろう。早々に立ち去らせて……」
 窓枠に置いた手に力を込め、身体を浮かせて足を外に向け直した彼女がカラカラと笑ったが、その声は途中で途切れた。
「ぷは~。飲んだのんだ」
 実に愉快そうに、野太い男の声が廊下と部屋を遮る扉のすぐ前で聞こえたからだ。ガチャガチャと鍵を外し、ノブを回して室内に足を踏み入れる。ぼさぼさに伸び放題の髪を掻き回し、あくびをしながら男はだが、部屋に入るなり肌に感じた冷たい空気に眉根を寄せた。
「なんだ?」
 そしてようやく、開けっ放しの窓を見る。その一瞬で、窓から消えた少女の姿も一緒に。
「!」
 反射的に、酔っぱらいのものではない動きで彼は窓にかけより太く逞しいその腕を伸ばしていた。
 すれ違うかと思った手はしっかりと目標物を捕獲していて、窓から身の丈の半分以上を乗り出した彼はホッと息を吐く。
「なんじゃ……」
「それはこっちの台詞だ!」
 不満げな顔と声で強く握られた手首の痛みを表現する少女に向かい、男は懸命に腕に力を込めて彼女を引き上げながら怒鳴った。
 怒鳴られた方の少女は目を丸くし、黙る。だが何故彼がこんなに怒るのかが理解できて居らずきょとんとしたまま、去るつもりでいたはずの部屋に引き戻されてしまう。
 脂汗を額に浮かべ、ゼーゼーと息を切らして肩を上下させている男に、窓枠に再び腰を下ろした少女は呆れ顔を向ける。
「飲み過ぎじゃ」
「うるせぇ」
 手の甲で汗を拭い、男が少女を睨み付ける。
「何のつもりだ」
「何が」
「だから、なんで飛び降りた!?」
「は?」
 一瞬何を言われたのか解らず、少女は素っ頓狂な声を上げる。それを聴いて、男も、彼女がそんなつもりなど毛頭なかったことに気づいた。
「いや、だから……この高さから落ちたら下手したら死ぬだろうが」
「お主……わらわを何だと思っておる」
「くそばばぁ」
「…………」
 迷いもせず即答され、ぴしっと米神にヒビが入った少女の鉄拳が容赦なく男の顔にめり込んだ。
『相変わらず正直な男だ』
 壁際の星辰剣がその様子を楽しそうに眺めていたが、こちらも持ち主に似たのか一言多かったため、少女の手近なところにあった男の持ち込んだ酒瓶を投げつけられ、ぼとっ、と床の上に転がって静かになった。
「ぁいちちち……」
 顔面を押さえ、男が床の上で胡座をかく。
「しょうがねぇだろ? 誰だって、部屋の窓からいきなり人が飛び落りたらびびるって」
 君は優しい、だから不安になる。
 何かを期待してしまいそうで、コワイ。
「この程度の高さ、わらわにはなんてことはないわ」
「けど、怪我するかもしれないだろう」
「今までそのようなヘマをした事はない」
「だからって、今度も上手く行くとは限らないだろ?」
 尚しつこく食い下がる男に、彼女は心底呆れた顔で目線を向ける。
「俺は、そんな所を見たくない」
 まっすぐ、迷わず告げる。だからこそ彼の言葉はいちいち琴線に触れてしまう。
 水面が揺れる、静かだった湖の表面が微かに波立つ。
「愚か者」
「なんでそう減らず口叩くかな、お前」
 苦笑して男は膝を叩いた。
「酔いは醒めたであろう?」
「おかげさまでな。楽しかった気分が一発でどっかに行っちまった」
「それは悪いことをした」
「そう思うのなら、一杯つき合って行け」
 立ち上がって星辰剣の脇に転がっていた酒瓶を手に取り、男が口元を緩めて酒を仰ぐ手振りを見せる。
「わらわに安い酒を勧めるとは良い度胸だな」
「俺の酒は安くないぜ?」
 なにせこいつはわざわざカナカンから取り寄せた特注品だからな、と豪快に笑って男は部屋の隅に忘れ去られたように置かれてあったテーブルにそれを置いた。
 少女もまた立ち上がり、月明かりだけを頼りに男の傍へと歩み寄る。
「ランプに火ぐらい入れたらどうだ」
 視線だけで壁に吊されたランプを示し男に抗議するが、棚からグラスを二つ持って戻ってきた男はなんだ、そんなことと呟いただけ。そしてカーテンの揺れる窓を顎でしゃくり、
「今夜は月が明るい。それで充分じゃないか」
「…………」
 一瞬、少女は呆けたように唖然となったが、すぐに表情を崩し楽しげに微笑んだ。
「確かに、その通りだ」
 玻璃のグラスに深紅色のワインが注がれる。
『やれやれ……』
 すっかり存在を忘れ去られた星辰剣が、床の上で横になったまま愚痴をこぼした。
『月が明るい夜は、煩くて適わんわ』
 グラスを重ね合う、硬質の音が響き渡る。

陽のあたる坂道(犬Ver.)

 人気の少ないホームの、さび付いたベンチに腰を下ろして列車が来るのを待つ。足許には妙にかさの少ない、真ん中で拉げているスポーツバッグがひとつと、背中にはリュック。
 こんなぼろっちい鞄を盗む奴は居ないだろうが、一応念のためと言うことでしっかりとスポーツバッグの持ち手は握ったまま、だが握り込む手は力無く、いつ落ちてしまうかも分からない。
 時刻表で調べた時間まで、まだ十分以上ある。その間こうやってぼんやりと遠くの景色を眺めているだけの自分を思うと、少しだけ自分を哀れに思った。
 今日この街を出ていく。思い出など大して残っても居ないこの街を、オレは出ていく。
 目的地はちゃんとあるけれど、その場所にだっていつまで居続けるか分からない。気が向けばずっと居るだろうし、その気になればいつだって出ていける場所。思い出なんていう重さをひとつとして持たない場所、それが次の目的地。
 誰ひとりとして見送りに来る奴は居ない。当然だろう、誰にも今日出発することを教えてやしないのだから。
 ひとりで、オレは逃げるようにこの街から出ていく。
 ……いや、違うな。逃げるように、じゃない。
 本当にオレは逃げ出すんだ。
 この街から、この街でオレが過ごしてきた日々から。この街で出会い、知り合い、仲間となった連中から。
 仲間達と過ごした苦しかった、そして楽しかった沢山の思い出と記憶を置き去りにしてオレはこの街を出ていく。
 さようならの言葉さえ告げずに。
「……あと、何分だ」
 ずっとベンチに座ったままだったからだろう、関節が音を立てる中で腕を動かし、首を引いて腕時計を見下ろす。文字盤が刻む現在時刻は、さっき確かめた時からまだ一分と少ししか経過してくれていなかった。
 もう列車の到着時刻手前だと思っていたのに、存外に時間の経過が遅いことに苛立ちを覚えオレはベンチの下に半分潜り込んでいるバッグを軽く蹴った。
 中身も数日分の着替えと洗面具や、そんな最低限必要なものしか入っていないバッグはオレの蹴りを受け、抵抗もせずに側面を凹ませた。
 まるで今のオレみたいだ。
 不意に浮かんだ思いに頭を振ってうち消し、けれど現れてしまった情けない自分という奴に嫌気しか残らない。更に二度、強めに頭を振っていると向かいのホームに列車が到着するのだろう、少し遠めに警告音が鳴り響き始めた。耳を澄ませれば、駅の向こうにある踏切で遮断機がおりる音がする。 
 遠く過ぎてよく見えなかったが、通行人が慌てて降りきる直前の遮断機を潜り抜けて走っていった。
「あーあ、危ねぇの」
 他人事を笑いながらオレは頬杖を付き、向かいのホームに滑り込んでくる列車を見つめた。利用者は少ないのか、こちらから見える窓の向こう、車内の人影はまばらだ。
 乗降が済んだ列車は警笛をひとつ鳴らし、ドアを閉じる。車掌の合図で列車はゆっくりと動き出した。そして少しの間を置いて加速し、あっという間にカーブを曲がって見えなくなった。
 一連の動きを目で追いかけている間に、オレが待つ列車の到着時間も近付いてきているようだった。さっきまでは誰も居なかったホームに、疎らだけれど人影が現れるようになっていたから。
 小さな鞄を肩に掛けている女性、孫らしき子供の手を引いている老婆、スーツ姿のサラリーマン風の男性、そしてオレ。あ、オレだけなんか存在が浮いてる感じがする。
 ひと通りホームを見回し、オレはまた視線を目の前に戻して頬杖を付き直す。一緒になって零れ落ちた溜息を拾うこともなく、オレはぼんやりと目の前に広がる世界を眺めた。
 今日で見納めになるだろう、この街の姿だ。
 特別目立った施設もなく、繁華街もしけたもので遊び場にも苦労させられ、バスの路線は短い上に本数も少ない。それは電車も同じで、普通電車しか停まらないし。
 自慢できるところなんかなにひとつとして存在していない、オレが育った街だ。
 春になれば河川敷の桜が溢れるくらいに咲き誇って、その下で花見もした。
 その河川敷で夜遅くまで秘密の特訓をして、汗水流して怪我もいっぱいして、格好悪い事も沢山した。
 がむしゃらにボールを追いかけて、ただそれだけで終わった気がする高校生活も、もう終わり。
 最初は不純な動機で始めたはずの野球、でもいつかそれがオレの目指すものになったのはいつからだろう。もっと巧くなりたい、強くなりたいと願うようになったのは、一体いつからだったのだろう。
 それさえも思い出せないくらいに、今じゃオレにとって野球は外すことの出来ないオレ自身の一部になっているのに。
 オレはその全部を棄てて、逃げようとしている。
 何もかもが、このままじゃ終われない。けれどこのまま続けていく事も、出来ない。
 みんなゴメン、オレってば滅茶苦茶格好悪くて、ダサいよな。あんなにも打ち込んで、自分の一生賭けるつもりでもいたはずなのに、その気持ちも投げ出してオレ、今からこの街を出ていくよ。
 やっぱりオレには、重すぎたのかも知れない。
 列車の到着を告げる笛の音が鳴り響く。ぼんやり考えている間に時間が迫っていたらしい、腕時計で確認するともう予定時刻を少し回ってしまっていた。
「遅せーっての」
 わざと悪態をつき、オレは立ち上がる。するりと握ってさえいなかったスポーツバッグの持ち手が抜け落ちてしまい、腰を屈めてそれを拾い上げる。
 ホームに煤けた感じの色をした列車が滑り込んできた。けたたましいブレーキ音を立て、それはホームに描かれた丸印に沿わせる格好で停車する。タイミングを合わせ、蒸気の抜ける音と同時にドアが一斉に開いた。
 ぞろぞろと列車から人が降りてくる。その群れを掻き分けるようにオレは鞄を肩に担ぎあげ、カメのような歩みで車体に近付いた。
 みんな、ごめんな。
 心の底から、だけれど心の中だけで呟き、オレは振りきるように足を前に伸ばした。右足が後一歩でドアの踏切線を越える。
 そして。
 季節外れの風が吹いた。
「猿野!」
 叫び声が背後で響く。よく通るその声にオレの身体は一瞬硬直し、前に出そうとしていた足がその場で落下してコンクリートを叩いた。
「こら、猿!」
 振り返りも、返事もしないオレの背中に怒鳴りつけ、その叫びの発生源である人物は駅員が制止の怒号を上げるのも無視して突っ走ってきた。
 自動改札を乗り越え、その嫌味なくらいに長い足で蹴り飛ばし、発車を知らせるベルがけたたましく鳴り響くホームを一直線に駈けてくる。そして、間もなく閉まろうとしている扉の前でようやく振り返ったオレに、タックル。
 ずじゃじゃじゃじゃーー!!
 ばたん。
 乗客が何事か、と驚きの視線を一斉に投げかけてくる中で、そいつの身体はオレを巻き込み閉まる寸前だった扉の中へと飛び込んできたのだ。その勢いに負けて床の上を滑ったオレの背中が反対側の扉にぶつかってようやく止まる。無情にも直後にホームに接岸していた扉は閉まり、何事もなかったかのように列車は走り出した。
 オレの鞄は、タックルを仕掛けてきたこいつの足にでも引っ掛かったのだろう。かろうじて閉まったばかりの扉内側にへたった形で転がっていた。
 しかしそれ以上に、車内にいた誰もが引き気味で遠巻きに見つめているオレ達の、この体勢が。
「テメー……こら、ガングロ! いい加減退け!」
 ぶつけてしまった後頭部を押さえながら、オレはオレの真上にのし掛かったままで居る男に怒鳴りつけた。それに貴様、切符買ってないだろう。乗車違反だろう!?
 重いんだから早く横になり後ろなりに退いて、オレの前から姿を消してしまえ。人の視線をまったく無視して喚くオレに、けれどこの野郎は一向に動く気配を見せない。ひょっとして気絶でもしてるのでは無かろうか、と疑いたくなったオレの目の前で、けれど図体ばかりが巨大なこいつはむっくりと顔を上げた。
 銀色の髪の毛が車内で滞り無く循環している空調に煽られ、ゆらゆらと揺れる。下半身を置いたままの車体がカーブに差し掛かったのか、大きく左に傾いだ。
「わっ」
 まるで予想していなかった事にオレは驚き、そしてそれはこいつも一緒だったのだろう。少しだけオレの方に倒れ込んできながら、床に片手を置いて完全にオレに体重を乗せる事だけは回避する。
 当然だ、こんなでかい奴にのしかかれたらオレは潰れる、簡単に。
 そうだ。大体コイツはでかすぎるんだ。図体も、やることも、成すことも、目標も、夢も……他人に望む事までも。
 だから、オレは逃げることを選んだっていうのに。コイツがオレに寄せる思いが大きすぎて、オレには到底抱えきれないものだったから。
 オレはこいつの差し向けてくる思いから逃げたくて、街を出る事に決めたのに。
 なんで居るんだよ、ここに。
 上目遣いに睨み上げたオレに気付き、未だオレにのし掛かったままのお前が不器用な顔をして呟く。
「勝手な事してんじゃねーよ、莫迦猿」
「あぁ?」
「大体な、ひとりで寂しく出奔、なんてガラじゃねーだろ、猿。テメーは見栄だけ盛大に送別会なんなりと開いて、餞別かき集めて出てくタチじゃねーか」
 誰にも言わず、それこそ親友で幼なじみである沢松くらいにしか告げず、他の誰にも悟られぬようにある日突然、街から姿を消しました、なんて。
 少なくとも常に誰かを側に置いて、誰かの側に居座って、人の迷惑顧みず自分勝手を貫いてけれどそれが不思議に嫌だと相手に感じさせない、そんな人間が。似つかわしくない、相応しくない。
「テメーこそ……オレの何分かったつもりで言ってやがんだ!」
 そもそもなんでテメーがここに居るんだよ、と叫べば。
 静まりかえった車内に嫌というくらいに響き渡る声が、次に到着する駅をアナウンスする車掌の声を掻き消して。
 今の状態を思い出したのは、果たしてどちらが先だったのか。
「お前の幼なじみが、教えてくれたんだよ」
 沢松がどんな意味を込めて、何の裏があって、情報を無条件のままに提示したのかは分からないけれど。奴が言った事が真実だとその瞬間に悟った時にはもう、身体が自然と走り出していた。
 ぶっきらぼうに事の真実だけを告げる犬飼の前で、ゆっくりと速度を落とした電車が彼らの住む町の隣町に位置している駅へと到着した。
 ブレーキ音が痛いまでに耳殻に響き渡る。開くドアは今オレが背中を預けている側であり、この場所は譲らなければならない。いつまでも凭れ掛かっていては、オレの方がドアの開いた瞬間にホームへ落下してしまう。だからオレは、溜息をひとつ吐きだして犬飼を押し返し、無理矢理に退かせた。緩やかな動作で立ち上がり、転がったまま誰ひとりとして手を伸ばそうとしなかったスポーツバックを拾いに行く。
「猿……」
「降りる」
 目的地へは、まだずっと遠いけれど。
 お前を、あそこへ連れて行くわけにはいかないから。
 言葉には出さず、スポーツバックを持った瞬間に開いたドアへ向かったオレに、犬飼も身体を起こして降りる準備をする。けれど切符を持たずに電車に飛び乗った人間が居る、という情報は素早く駅の各所に送り届けられていたらしい。それでなくとも目立つ外見をしているコイツは、簡単に駅員に捕まって尋問を受け、一駅分の乗車料金を支払わされた末に三十分近いお小言を喰らっていた。
 その間、オレは殆ど知りもしない隣町を彷徨くのも気が進まず、次の電車を待とうにも犬飼の莫迦に付き合って改札を迂闊にも出てしまい切符も回収されたあとだったので、ホームに戻ることも出来ず。
 結局、莫迦犬を待って改札外のベンチで暇な時間を持て余していた。
 夕暮れ、長い影が街中を埋め尽くそうとしている時間帯。
 ようやく解放して貰えた犬飼を後ろにしてオレは、オレ達が暮らす街に続く道を歩く。
 交通は不自由でもないけれど便利でもないふたつの街を繋ぐ、細い幹線道路。片側一車線の二車線しかない道路に引かれた白いラインの内側、ガードレールさえ設置されていない路肩を歩きながらオレは、黙って前だけを見つめていた。
 振り返ってなどやらない。同じように黙りながら、けれどオレと同じペースを崩さずに歩き続ける莫迦犬など気にしてやろうとも思わない。
 オレが誰の事を思って、考えて悩んで、そして三年かかって導き出した結論をダメにしてくれた張本人にかけてやる言葉なんか、ない。そもそも誰の所為で、オレはこんなにもガラじゃない苦悩を続けなくちゃいけなかったと思っているんだ。
 段々とむかついてきたオレは、持っているスポーツバッグを強く握り直し急ぎ足で坂道を上り始める。
 西に傾きだしている夕日が眩しく照らす坂道に、オレと犬飼の長い影が重なる。
「猿」
「…………」
「おい」
「………………………」
「こら」
「………………………………………………」
「帰って……来るんだろうな」
 投げかけられる声を無視してずんずん進んでいくオレに懲りず、言葉を投げかけてくる奴の調子が唐突に、沈んだ。
 途端、オレの機械仕掛けのように前に進むことだけを設定された足がぴたり、と音もなく止まる。直ぐ隣の車線を、隣県ナンバーの自家用車が猛スピードで走り抜けていった。
 オレの髪が煽られる。日の光を浴びて一際色素が薄くなった茶色が、空を掻いた。
「……んだよ、それ」
「帰ってくるんだろうな、ちゃんと」
 勝手なことをするな、とさっきは怒鳴ったくせに。今はオレが町を出ていくことを是認するような事を告げる。そのあまりにも裏表がありすぎる態度に腹が立って、オレは両拳を握りしめて叫びたい気持ちを抑え、俯いた。
 通り過ぎる車の排気音がうるさい。
 だのに、はっきりと犬飼の声だけはオレの耳に届けられる。
「好きだ」
 三年間、ずっと。
 お前を知って、お前をもっと知るたびに、好きになっていった。
「うっせぇ……」
 両耳を塞ぎたかった。否定したかった。けれど身体が動かなかった。
「俺は、お前の事が好きだ」
 そして、だからこそ。
 お前が俺の気持ちに答えられないことを悩んでいた事を、本気ですまないと思っている、と。
 犬飼のバカは、簡単に言い放った。
「うっせぇんだよ!」
「それはテメーだろ」
 いいからとりあえず、黙って聞いてろ。
 夕暮れを浴びて、振り返った先に立つ犬飼の銀色をした髪がキラキラと輝いていた。足許から坂の下へと伸びる長い影がふたり分、嫌な形で重なっている。影だけを見ていたら、オレ達、まるで抱き合っているみたいじゃねーかよ……。
 そんな事、出来るわけなんかないってのに。
 お前の気持ちから逃げ出すことしか結局出来なかったオレに、そんな資格、どこにも存在しやしないってのに。
 最低だよ、オレ。
 傷ついてるのは、オレだけじゃない。お前の事まで傷つけて、嫌な思いさせて、それなのにオレは!
「だから、待つ」
 犬飼は言った。真っ直ぐにオレの顔を見て、迷いのない瞳を向けて。オレだけを見て。
 お前が帰ってくるのを。
 お前が決着をつけて、自分の心と決着がついて、この街に――俺達が一緒の時間を過ごしたこの街に帰ってくる時まで、それまで。
 待つから。
「俺は、お前の帰ってくるのを、この街で待っててやる」
 握りしめていたバッグが、無機質なアスファルトの上に落ちる。
 一歩、一歩、犬飼はオレへと近付いてきた。三年間頑なに拒み続けた、オレが最後まで破ろうとしなかった壁を壊しながらこいつは、自分が傷つくことをまるで懼れようともせずに、オレの方へと。
「バカやろ……っ」
「それはテメーだ」
 溢れ出した涙に滲む視界で、けれど犬飼から顔を逸らせないままオレは言った。鼻先を指で弾かれ、みっともなく泣いてんじゃねー、と笑われる。
「待っててやるよ」
 一ヶ月でも、一年でも、十年でも、それ以上でも。三年間我慢して、待ち続けたんだからあと少し期日が延びたところで、大した違いにもならないから、と。
 犬飼は笑って。
 オレを抱きしめた。

琅然と

昔話を、しようか

 その日はたまたま、夜から雨が降り始めて。夕食を一緒にと誘われて招かれたマクドール家の面々は、食事そのものを終わらせたテッドをなんとか引き留めようと必死になっていた。
「折角ですから、泊まって行ってください」
 頬に十字の傷を持つくせに、その傷もまったく強面にせず穏やかな微笑みを隠さない金髪の青年、グレミオがエプロンを畳みながら言う。向こうではまだテーブルにかじり付いてパーンがシチューに食らいついていた。彼だけが、この夕食の席に遅れて帰ってきた為だ。
「そうですよ、テッド君。坊ちゃんも喜びます」
 食器を片付けながらクレオもグレミオに賛同する。
 “坊ちゃんが喜ぶ”、その台詞をこの屋敷に暮らす人間は最後の切り札的にテッドに使用してくる。にっこりと、微笑みながら。
 俺はアイツの玩具か? そう心の中で悪態をつきつつも、この雨の中ひとり帰るのも考えるだけで気が重く億劫になってしまうのも事実で、曇っている硝子越しに窓の外を眺めた彼は盛大な溜息をついた。
「仕方ねーなー」
 その言葉が発せられると同時に、テッドは背中を向けていて直接見ていないものの、グレミオとクレオがにんまりと笑ったのが解った。
 正直、ここの人間は苦手だった。行き場を失い戦場跡を彷徨っていた自分を戦災孤児としてグレックミンスターまで連れてきてくれた上、家や生活の世話までしてくれている。その事には多いに感謝しているが、だが、あまりにもサービスが良すぎて却って居心地が悪いのだ。
 最初は、この広すぎる屋敷の一室を与えられる予定だった。しかし、右手に刻まれた悪魔が共にある限りそれは己に許すべき事ではない。なるべく人と関わらず、関心を抱かれることなく。静かに、ひっそりと、時間が過ぎていくのを息を殺して待つだけが今までの人生だった。これからもその生き方を変えるつもりは無いし、それは出来ない。
 世界に散る27の真の紋章がひとつ、呪いの紋章ソウルイーターがこの身に宿っている限り、いつか必ず災いは招き寄せられてしまう。その時、被害を受ける人間はなるべく少ない方が良い。彼らは何も知らずただ巻き込まれていくだけなのだ、何の罪過もないのに。
 その現実はテッドを苦しめる、悲しませる。魂を締め付けて傷を負わせる。だから彼は自分から、人との関わりを極端なまでに避けてきたのに。
 マクドール家の人々はそのテッドの努力を呆気なくうち砕いてくれる。
「じゃああとで、坊ちゃんの部屋にテッド君の着替え、持っていきますね?」
 おいおい、既にラスの部屋に泊まることまで決定かよ……グレミオの朗らかな一声を聞いてテッドは呆れる。しかも、どうやらこの家には常に何時自分が来ても困らないように寝間着まで用意されているらしい。まさしく、いたせりつくせり。
 だからか、不安になる。与えられるばかりのこの生活に。
 見返りは何か、そのうちとんでもなく大きなものを求められるのではないか、代価を払わされるのではないか。彼らはそんなあざとい事をしない人種だと解っていても、何処かで疑っている自分が居る。そうやって生きてきたのだから、簡単に人を信用できなくなっていた。
 だって、ずっとひとりぼっちで三百年……その間、何度も裏切られてきた。人の死を経験してきた、多くを巻き込んだ、人も殺した、生きるために。
 気が付けば焼け野原に佇んでいたこともある。優しくしてくれた人が目の前で殺されるのも観た、その魂が右手に吸い込まれていく経験は数え切れないほど繰り返した。
 いい人達だから、距離を置きたいのに。
「ラス、二階?」
 ぽりぽりと頭を掻いてクレオに尋ねると、彼女は微笑んだまま頷いた。そしてパーンにシチューのおかわりを注いでやる。
 彼女も、パーンも戦士だ。マクドール家の当主テオは帝国の六将がひとり。戦争が起きれば彼らも戦場へ駆けつけなければならない。戦争にまで至らなくとも、将軍たるテオは常に帝国領内に鋭く目を光らせ、反乱分子を鎮圧させあるいは、北の都市同盟へも牽制をかけている。今までテッドが関わった誰よりも、死に近い場所に立っている人たちだ。
 食堂を出て階段を登る。廊下に置かれた花瓶には色鮮やかな花が生けられている。壁の肖像画は風景画が多いが、ひときわ大きな額縁にはテオの亡き妻でありラスティスの母である女性の肖像画が飾られていた。
 その前を通り過ぎて、二階の一番奥にある部屋の扉を控えめにノックする。一呼吸置いて名前を呼ぶと、ちょっと待ってと帰ってきて二秒後にドアが内側から開かれた。
 黒い髪に利発そうな顔立ちの少年が顔を覗かせる。テッドの姿をその大きな瞳で確認して、嬉しそうに表情を明るくさせた。
「テッド、帰るんじゃなかったの?」
「そのつもりだったんだけど」
 夕食の席でも、ラスティスはテッドに泊まっていくことを勧めていた。しかしまだ雨も降り始めて居らず、長居する理由も見当たらなかったので彼は丁重にその申し出を断ったのだ。丁重に、とは言えまだ幼いラスティスにしてみれば無碍に拒否されたという印象が強かったのだろう。彼は普段よりもずっと早いスピードで夕食を終えると、部屋に閉じこもってしまっていた。
 拗ねたのだろう、というのが食堂に取り残されたメンバーの出した結論。そうこうしている間にパーンが濡れ鼠で帰ってきて、グレミオ達に半ば言いくるめられる形でテッドはこうして、ラスティスの部屋を訪れている。
「入って」
 大きく扉を開かれて中に招き入れられる。最後に訪れたのは、確か十日ほど前だったはずだ。ぐるりと室内を見回しても以前と大差なく綺麗に整理整頓されていて、無駄なものは一切無い少しこの年の少年にしては寂しい感じのする部屋だ。
「相変わらず綺麗にしてんのな」
 天井まで見上げてから床に埃ひとつ落ちていないのを確かめ、テッドはさっさとベッドに腰を下ろして感心したように呟く。
「グレミオ、掃除好きだし」
 呟きに苦笑して、ラスティスは壁に向き合う形で置かれている勉強机の椅子を引っ張り出してくる。後ろ向きに、つまり背もたれに腕を預ける形で座る姿は、真面目なくせにわざと悪ぶろうとしているようで不釣り合いに思えた。
「何笑ってるんだよ」
「いーや? べっつにー」
 にやにやと、ラスティスが過剰に反応することを知っていながらの表情で笑ってテッドは言葉を濁し視線を外す。するとラスティスは彼が想像したとおりに頬を膨らませて睨んできて、尚更おかしくてテッドは腹を抱えて笑いたくなった。
「もう! テッドってば、なんだよ」
 顔を赤くしてムキになるラスティスだったが、その行動自体がテッドの笑いを誘っているのだとまるで気付く様子がない。ドンドンと悔しそうに自分の膝を叩いて、挙げ句は椅子から立ち上がってベッドの上のテッドに掴みかかる。
「うぉっ!」
 上からのし掛かってこられて、テッドはそのまま仰向けに転がった。真っ白い天井が見える、それと、覆い被さっているラスティスの黒い髪と。
「なにすんだ、危ないだろ」
「へっへーん、仕返し」
 散々笑った罰だ、とあっけらかんと言ってラスティスはテッドに乗りかかったまま小さく舌を出す。その仕草がどうも子供臭くて、そんな子供に良いようにやられっぱなしは気にくわないテッドは、ふと妙案を思いつきにんまりと笑う。
「え……?」
 彼の妖しさ満載の笑顔を観たラスティスは、何か嫌な予感を覚えて後ろに引いた。しかしそれよりも早く、テッドの両手が彼の両脇を捕らえる。
「うりゃっ、くすぐりの刑じゃ!」
「ひゃっ、やめっ、テッド……あ、あはははははっ!!!」
 ラスティスの弱いところを的確に狙って擽ってくるテッドから何とか逃げようと彼は身を捻りベッドの上を転がるが、しつこく追いかけてくる手は巧妙で、いつの間にか壁際に追い込まれてしまったラスティスは逃げ場を失う。
「そりゃそりゃそりゃぁ!」
 実に愉しそうなかけ声を上げてテッドはラスティスを擽り、
「やめっ、あはははっ、はははははっ!!」
 実に苦しそうに笑いながら息も絶え絶えのラスティスは必死に抵抗して彼の腕を力無く叩き続ける。
「今日はまた一段とにぎやかですねー」
 階下では、食後のお茶を楽しんでいたグレミオとテオがどたんばたん、という子供達の暴れ回る音を聴きながら朗らかに微笑んでいた。
「天井、抜けないと良いんですけれど」
 パーンの食器を片付けながら、クレオだけが不安そうに天井を見上げて呟いた。

昔話を、聞きたい?

 遠い、とおい昔。
 力を求める人が居た。とてもとても強い力を欲しがる人がいた。
 その人は、捜した。自分に力を与えてくれるものを。そして手に入れた、誰にも真似できない世界でたったひとつだけのとても大きな力を。
 けれど、その人は同時に知ってしまった、そのちからに匹敵する別の、同じような力が他にも沢山存在していることを。
 だから、その人は恐くなった。
 自分と同じ力を手に入れたひとが、自分を脅かす存在になってしまうのではないか。やっと手に入れたこの力を奪おうとする存在があらわれるのではないか。
 そしてその人は考えた。
 だったら、ほかのひとがその力を手に入れる前に自分で見つけだして、自分だけのものにしてしまえば良いじゃないか、と。
 そしてその人はたくさんの人と、力を使ってそのおおきなちからを探し始めた。
 世界には、この力を使ってはいけないものとして守っている人たちが大勢居た。そんな人たちの村を、焼き払って、その人は力を手に入れようとした。
 たくさんの守り人が殺された。力を守ろうとして、沢山の人がちからの犠牲になって死んでいった。
 多くの、恨みが残った。
 守り人の生き残りが、その人に対抗するための力をさがそうとした。その人よりもずっとずっと強い力を手に入れて復讐してやろうと心に誓った。止めようとしたひとの言葉もとどかなくて、復讐者はじぶんたちと同じ、別の力の守り人を襲った。
 それは、昔むかしじぶんたちがあの人にされたこととおなじこと。けれどにくしみだけがおおきくなってしまったその子は、ちっともそんなことにきづかない。
 にくしみと、哀しみが増えた。
 はじまりは、小さな欲望。いつのまにか、それは世界を巻き込む大きな、おおきすぎる、哀しみを引き起こした。
 どうして、どこで、なにがいけなかったのだろう。
 考えて、考えて、考えて……いくら考えても答えなんて結局見付からない。
 誰も本当のことを知らない、解らない。
 ただ言えるのは、大きすぎるちからは恩恵を与えると共にそれに見合うだけの災いを引き起こす、それだけは、確かで。
 望みもしない争いや諍いに巻き込まれ、流されて、失って、壊されて。泥水の上をがむしゃらにはい回って逃げるしかなかった。助けを求めるこえをあげても、返ってくるのは虚空に反響するじぶんのこえばっかり。
 誰もいない。
 ここにはひかりすらない。
 闇ばかりがひろがっている。
 世界を照らし出す太陽はとおすぎて手に入らない。
 暗い。闇い。くらい。
 だれも、なにもない。
 せかいじゅうで、ひとりぼっち。
 独り
 一人
 ひとり
 
 何故?
 どうして?
 わからない。
 判らない。
 分からない。
 解らない。

 こたえなんて、だれもしらない。

「っ!」
 誰かの、いや、あれは恐らく自分の声だったのだろう。泣き声で、目が覚めた。
 ひとりで寝るには少し広すぎて、ふたりで眠るには少し狭すぎるベッドで汗だくになり、テッドは乱れた呼吸を暗闇の中で整えようと息を吐いた。
 隣では、そんなテッドなどまるで知らずにラスティスが行儀良く寝息を立てている。目覚める気配は今のところ全くない。その彼を見下ろしてホッと胸をなで下ろし、テッドは彼を踏まないように気を払いながらベッドから降りた。
 素足の床はひんやりとして冷たく、悪夢に魘された後の火照った体には心地よかった。そのまま壁際まで寄り、閉められているカーテンの端を持ち上げて外を眺める。
 落雷の音が遠くで響いていた。空を突き破る光の筋が闇を切り裂いていく。
 まるで自然が何かに対して怒りの声を張り上げているようで、観ていて胸を締め付けられる思いだった。
「早いうちに、去った方が良い……」
 自分に言い聞かせるように、そんな事を口にする。これ以上此処にいたら、離れられなくなりそうだった。
 ずっと餓えていた人との温かな交わりを此処の人たちは余すことなく自分に与えてくれる。暖かく美味しい食事と、柔らかいベッドと、日溜まりのような笑顔に満ちた家族がここにはある。彼らは自分もその家族であると、一員として迎え入れてくれている。
 多分、距離を置こうとしているのは自分の方だ。そしてその事もふまえた上で、どうすれば本当に心を許してくれるのか色々と裏で画策しているのも見え見えだった。望まれている、そう思うと尚更頑なに拒もうとしている自分が哀しく思えてしまう。
 認めてしまえば楽になる、自分は本当は此処にいたいのだ。
 だが、それは出来る事ではない。右手に、ソウルイーターがある限りこいつはマクドール家の人たちを不幸に陥れるだろう。それが解っているからこそ、自分は益々此処にいるべきでないと思い知るのに。
 同時に、今度こそ守ってみせるという気持ちが膨らんできてテッドの心を圧迫する。
「う、ん…………れ、テッド?」
 寝返りを打って、もぞもぞと動いたラスティスが其処にいるはずのテッドが居ないことに気付いたらしく、眠そうに瞼を擦りながら身を起こした。
「あ、悪い。起こしちまったか?」
 まだ幼さが全面に残っているあどけない少年を振り返り、テッドは苦笑した。背後ではまた、遠くで雷が発生し一瞬の閃光を周囲にまき散らしていた。
「ん~……なに、かみなり?」
 その音でテッドは目を覚ましたのだろうと、カーテン越しに光った闇の空を見て彼はベッドの上に座り直す。しきりに目を擦っているのは、まだ覚醒し切れていない為に視界が曇ってしまっているからだろう。
「うん、そう。凄い音がしたから」
 本当は、落雷の所為ではなく悪夢に魘されていたからだったけれど、そんなことが言えるはずがない。けれどあんな風な夢を見たのは、街の上空を通り過ぎていく雷雲の音がきっかけだったのかも知れない。
 あの音は戦場で聞く兵士達の雄叫びに何処か似ているから。
「テッド、雷恐い?」
「そうじゃねーって」
 大分遠くなった雷鳴に大きな欠伸をしてラスティスは首を傾げた。すぐさまテッドは反論して苦笑したが、眠りの最中で目を覚ました彼には通じなかった。
 ラスティスは「ん~~」と少し考え込んで、何を結論付けたのか解らないが無言のままぽんぽん、と自分の膝を叩いたのだ。
「ラス?」
 怪訝な顔をして見返すテッドに微笑んで彼は手招きをする。よく解らないままカーテンを引きベッドへ戻ったテッドは、ラスティスの手に引かれて横に寝転がった。
「おい……」
 冷や汗、たらり。
 テッドの頭部は、ふたつ並んだ枕ではなく何故か、ベッドの上に座っているラスティスの膝の上に置かれたからだった。しかし彼はテッドの冷たい視線に臆することもなく、逆に彼を安心させようとしての行動か手をゆっくりと動かして肩を叩き、背中をさする。
「眠れない時、母様がこうしてくれたんだ」
 殆ど記憶にも残っていないはずのラスティスの母の、数少ない思い出を口に出してラスティスはそっと、テッドの髪を梳く。なんだか納まりが悪くてテッドは心がむず痒かった。
 こんな風に誰かの膝に抱かれて横になるなんて、何百年ぶりかで思い出すことも出来なかった。
 トントン、と一定のゆっくりとしたリズムを崩すことなくラスティスの手はテッドの背を撫でて包み込んでくれる。間近にあるラスティスの心音が聞こえてくるような気がして、無性に懐かしくて涙が出そうになる。
「テッド?」
 急に静かになったテッドに首を捻るラスティスが名前を呼んだが、彼は答えなかった。今返事をしたら、ガラにもなく泣きそうだったから。かわりに腕を伸ばしラスティスの背に手を回して自分からも抱きしめる。
 頭上で、彼は笑ったようだったが何も言わなかった。
 聞こえてくる雨足はだんだんと弱まっている。きっと明日の朝には止んで、昼前には太陽も顔を覗かせることだろう。
「明日、外へ遊びに行こうね」
 三百年も生きてきているくせに、自分はまだこんなにも子供で心細かったのかと思い出して、テッドは無言のまま頷く。
 その日は、久しぶりに何の夢も見ずに朝までぐっすりと眠ることが出来た。

陽のあたる坂道(馬Ver.)

 人気の少ないホームの、さび付いたベンチに腰を下ろして列車が来るのを待つ。足許には妙にかさの少ない、真ん中で拉げているスポーツバッグがひとつと、背中にはリュック。
 こんなぼろっちい鞄を盗む奴は居ないだろうが、一応念のためと言うことでしっかりとスポーツバッグの持ち手は握ったまま、だが握り込む手は力無く、いつ落ちてしまうかも分からない。
 時刻表で調べた時間まで、まだ十分以上ある。その間こうやってぼんやりと遠くの景色を眺めているだけの自分を思うと、少しだけ自分を哀れに思った。
 今日この街を出ていく。思い出など大して残っても居ないこの街を、オレは出ていく。
 目的地はちゃんとあるけれど、その場所にだっていつまで居続けるか分からない。気が向けばずっと居るだろうし、その気になればいつだって出ていける場所。思い出なんていう重さをひとつとして持たない場所、それが次の目的地。
 誰ひとりとして見送りに来る奴は居ない。当然だろう、誰にも今日出発することを教えてやしないのだから。
 ひとりで、オレは逃げるようにこの街から出ていく。
 ……いや、違うな。逃げるように、じゃない。
 本当にオレは逃げ出すんだ。
 この街から、この街でオレが過ごしてきた日々から。この街で出会い、知り合い、仲間となった連中から。
 仲間達と過ごした苦しかった、そして楽しかった沢山の思い出と記憶を置き去りにしてオレはこの街を出ていく。
 さようならの言葉さえ告げずに。
「……あと、何分だ」
 ずっとベンチに座ったままだったからだろう、関節が音を立てる中で腕を動かし、首を引いて腕時計を見下ろす。文字盤が刻む現在時刻は、さっき確かめた時からまだ一分と少ししか経過してくれていなかった。
 もう列車の到着時刻手前だと思っていたのに、存外に時間の経過が遅いことに苛立ちを覚えオレはベンチの下に半分潜り込んでいるバッグを軽く蹴った。
 中身も数日分の着替えと洗面具や、そんな最低限必要なものしか入っていないバッグはオレの蹴りを受け、抵抗もせずに側面を凹ませた。
 まるで今のオレみたいだ。
 不意に浮かんだ思いに頭を振ってうち消し、けれど現れてしまった情けない自分という奴に嫌気しか残らない。更に二度、強めに頭を振っていると向かいのホームに列車が到着するのだろう、少し遠めに警告音が鳴り響き始めた。耳を澄ませれば、駅の向こうにある踏切で遮断機がおりる音がする。 
 遠く過ぎてよく見えなかったが、通行人が慌てて降りきる直前の遮断機を潜り抜けて走っていった。
「あーあ、危ねぇの」
 他人事を笑いながらオレは頬杖を付き、向かいのホームに滑り込んでくる列車を見つめた。利用者は少ないのか、こちらから見える窓の向こう、車内の人影はまばらだ。
 乗降が済んだ列車は警笛をひとつ鳴らし、ドアを閉じる。車掌の合図で列車はゆっくりと動き出した。そして少しの間を置いて加速し、あっという間にカーブを曲がって見えなくなった。
 一連の動きを目で追いかけている間に、オレが待つ列車の到着時間も近付いてきているようだった。さっきまでは誰も居なかったホームに、疎らだけれど人影が現れるようになっていたから。
 小さな鞄を肩に掛けている女性、孫らしき子供の手を引いている老婆、スーツ姿のサラリーマン風の男性、そしてオレ。あ、オレだけなんか存在が浮いてる感じがする。
 ひと通りホームを見回し、オレはまた視線を目の前に戻して頬杖を付き直す。一緒になって零れ落ちた溜息を拾うこともなく、オレはぼんやりと目の前に広がる世界を眺めた。
 今日で見納めになるだろう、この街の姿だ。
 特別目立った施設もなく、繁華街もしけたもので遊び場にも苦労させられ、バスの路線は短い上に本数も少ない。それは電車も同じで、普通電車しか停まらないし。
 自慢できるところなんかなにひとつとして存在していない、オレが育った街だ。
 春になれば河川敷の桜が溢れるくらいに咲き誇って、その下で花見もした。
 その河川敷で夜遅くまで秘密の特訓をして、汗水流して怪我もいっぱいして、格好悪い事も沢山した。
 がむしゃらにボールを追いかけて、ただそれだけで終わった気がする高校生活も、もう終わり。
 最初は不純な動機で始めたはずの野球、でもいつかそれがオレの目指すものになったのはいつからだろう。もっと巧くなりたい、強くなりたいと願うようになったのは、一体いつからだったのだろう。
 それさえも思い出せないくらいに、今じゃオレにとって野球は外すことの出来ないオレ自身の一部になっているのに。
 オレはその全部を棄てて、逃げようとしている。
 何もかもが、このままじゃ終われない。けれどこのまま続けていく事も、出来ない。
 みんなゴメン、オレってば滅茶苦茶格好悪くて、ダサいよな。あんなにも打ち込んで、自分の一生賭けるつもりでもいたはずなのに、その気持ちも投げ出してオレ、今からこの街を出ていくよ。
 やっぱりオレには、重すぎたのかも知れない。
 列車の到着を告げる笛の音が鳴り響く。ぼんやり考えている間に時間が迫っていたらしい、腕時計で確認するともう予定時刻を少し回ってしまっていた。
「遅せーっての」
 わざと悪態をつき、オレは立ち上がる。するりと握ってさえいなかったスポーツバッグの持ち手が抜け落ちてしまい、腰を屈めてそれを拾い上げる。
 ホームに煤けた感じの色をした列車が滑り込んできた。けたたましいブレーキ音を立て、それはホームに描かれた丸印に沿わせる格好で停車する。タイミングを合わせ、蒸気の抜ける音と同時にドアが一斉に開いた。
 ぞろぞろと列車から人が降りてくる。その群れを掻き分けるようにオレは鞄を肩に担ぎあげ、カメのような歩みで車体に近付いた。
 みんな、ごめんな。
 心の底から、だけれど心の中だけで呟き、オレは振りきるように足を前に伸ばした。右足が後一歩でドアの踏切線を越える。
 そして。
 季節外れの風が吹いた。
「猿野!」
 改札口がなにやら騒がしい。何事かと振り返る前に、オレはその叫び声に全身を硬直させた。
 あと一歩、なにもかもを投げ捨てる覚悟で踏み出せればそこで終わる。終わらせる事が出来る。だのにオレはまだ迷っている、もう決めた事なのに今のこの一瞬でオレは、迷ってしまった。
「猿野!」
 もう一度、彼は叫ぶ。今までに聞いた数少ない声色の中で一番、怒っていて、必死で、哀しそうで、悔しそうで、そして。
 辛そうな。
 列車の出発を予告するベルが頭上で騒々しく鳴り響く。改札口ではまだ押し問答が続いているのか、駅員の怒号が止む気配はなかった。
 オレは振り返ることも出来ず、ただ閉まり行く列車のドアを見送るだけ。
「猿野!」
「聞こえてるっての……」
 電車、行っちまった。これで次まで、また十五分近く待たなくちゃいけないじゃないか。
 オレは振り返った。担ぎ上げていた鞄を下ろす、中身なんか殆ど入ってないに等しいはずなのに、やたらと今になってずっしりと重く感じられた。
 多分、あいつの所為。
 鈍い足取りでオレはホームを戻る。そして駅員に、払い戻しの利かない切符を手渡して駅を出た。
「よ」
 重すぎる鞄を引きずるようにしてあいつの前に行き、軽い調子で片手を挙げる。直後に、乾いた音が駅舎の中に響いた。
 駅員が目を見開いて驚きに顔を染める前で、オレは若干赤くなった自分の左頬に挙げていた手を置く。ひりひりとした痛みは、けれど嫌な感じじゃなかった。
「悪い」
 それだけを、告げる。
 お前は何も言わず、普段から装備しているサングラスも変な風に片方が下がった状態のままオレを睨んでいた。サングラス越しからでも伝わる、その思いが嬉しくて、哀しい。
 オレが一番、逃げ出したかった感情が其処にある。
「ゴメン、司馬」
 そして思い出した。
 さっき、降りようとしていた遮断機を無理矢理押しのけて踏み切りに突入して行った奴が居た。あれが、コイツだったって事に。
 司馬はひとしきりオレのことを睨んだ後、唐突に方向を転換して歩き出した。オレが呆気に取られている間に、駅舎を出てしまった背中が街中へと消えていく。
 ちょっと待て、引き留めるだけ引き留めて置いてそのままさよならかよ、おい。
 悔しくて、駅員に渡してしまった切符を返してもらおうかとさえ思ったオレだが、もう二言三言苦情を言ってやらねば気が済まないと考え改め、重くのし掛かる鞄を担ぎ直しオレは司馬を追いかけた。
 西日が眩しく照りつけるアスファルト上で、視線を巡らせれば目立つあの青い頭は感嘆に見付かる。小走りに駆けて追いかけるものの、身ひとつの司馬と鞄をふたつも持っているオレとでは進むスピードが違って当たり前。
 必死に追いかけているのにいつまで経っても追いつけないオレは、けれど悔しくて司馬に声をかけることもせずひたすら坂道を上り続けた。
 商業地を抜け、住宅地も抜け、この街で一番高い場所にある高台の公園へ続く急峻な坂道。特訓だと言ってよく駆け上った記憶のある坂道に、照りつける太陽はどこまでも明るい。
 前だけを見て進んでいく司馬、その後ろを追いかけるオレ。
 なにかがだぶったのは、一瞬のこと。
「猿野」
 泣きたい気持ちに駆られたオレを見透かしたように、夕日を背に受けて司馬が立ち止まり、振り返った。
 坂道の向こう、太陽が輝いている。
「まだ、行きたい?」
「今日はもう疲れたから、帰って寝る」
 そう、と司馬はオレのやや乱暴に、ぶっきらぼうに言った言葉に微笑んだ。
「明日も、迎えに行くから」
「…………」
 何度でも、何十回でも何百回でも。
 司馬はサングラスを外した。共に過ごした高校生活の中でも数え上げられる程にしか見たことのない司馬の素顔に、オレは居心地悪くなって顔を背ける。けれどオレの位置まで戻ってきた司馬に阻止された。
 伸ばされた両手は長く、強く、暖かい。
 畜生、反則だそれ。今更に涙まで出てくるじゃねーかよ。
「猿野、好きだよ」
 知ってる、知ってるよそれくらい。その思いがどれくらい重くて、どれくらい棄てがたいものであるかぐらいオレだってよく分かってるよ。
 分かってて、けれど棄てようとした意味、お前本当に分かってるのかよ。
「言うのおせーんだよ、お前」
 三年間、一度として言われた事のなかった言葉。
 気付くの遅すぎるんだよ、お前。もっとお前が早く気付いてたら、オレはこんなにも苦しんだり、悩んだり、似合わない格好悪いことしようとは思わなかったんだから。
 だから、だから全部お前の所為! さっきオレが無駄にしちまった電車賃返せ!
 そう司馬に抱きしめられたまま叫ぶと、司馬は今までにないくらい楽しそうに笑って、尚更強くオレを抱きしめた。
 窒息寸前になったオレの耳に、心地よいテノールが響く。
「好きだよ、猿野」
「……畜生。オレもだよ莫迦」
 司馬の体温の心地よさに酔いながら、オレも三年間一度も言わずにいた台詞を吐きだした。

02年4月10日最終脱稿

幸せと不幸の方程式

 その日、朝からガゼルの姿が見えなかった。
 だが、別にそれ自体は珍しいことではなかったから、ハヤトもリプレも大して気にしていなかった。
「回復薬が残り少ないな……」
 部屋で荷物の整理をやっていたハヤトは、ここ数日続いていたオプテュスとの戦闘でたっぷりと買い込んでいた回復薬が一気に減ってしまっていることに気付いた。
「またバノッサがいつ攻めてくるか分からないし……買い足しに行ってくるか」
 幸い、金銭面で問題はない。戦いが多いとその分戦闘後の実入りが大きいからだ。本当はこんなかつあげのような事はしたくないのだが、背に腹は代えられないというし。
『どうしても気になるというのなら、身代金だと思えばいい』 
 以前そのことを言ったら、レイドはそう返した。人質にされたり、命を奪われる変わりに相手に払う金だと考えろ、ということだ。要するに敵の命を金に置き換え、見逃してやっている事と同じだ。
「それもどうかと思うけどなぁ」
 ぽつり呟き、少し重い財布を持ってハヤトは部屋を出た。
 食堂には誰もおらず、台所を覗いて彼はリプレに声をかけた。
「ちょっと買い物に行ってくるよ」
「え? あ、うん、分かった」
 朝食の食器を洗っていたらしいリプレが、激しい水音にかき消されないように大きめの声で振り返らずに答えた。
「すぐに帰ってくるから」
「うん、いってらっしゃい」
 商店街に行って薬を買ってくるだけだから、そんなに時間がかからないだろう。端の欠けた大皿の水気を切っていたリプレが頷くのを確認して、ハヤトは台所を出る。食堂に戻ると、さっきまではいなかったキールがいた。
「出かけるの?」
「うん。ちょっと、商店街までね」
 一緒に来る? と尋ねるとキールは少しだけ考え込み、首を横に振った。
「今日は遠慮しておくよ」
 どうやら他に用があるらしい。マントを翻してキールは自分の部屋に帰っていった。
 子供達もどこかへ遊びに行っているのか、姿が見えない。エドスとジンガは石切の仕事だし、レイドとアルバは剣術道場だ。モナティは……多分、まだ寝ているのかもしれない。エルカは神出鬼没だし、ローカスはその辺の見回りに出ていったはずだ。
「んー、いい天気だ」
 外に出ると暖かい風が心地よい。ぽかぽか陽気に誘われて、何処かへ遊びに行きたい気分だが、そうも行かない所が哀しい。
「さっさと用事を済ませてくるか」
 胸にしまった財布を服の上から確かめ、ハヤトは足早に商店街へ向かって歩き出した。
 スラムを抜け、明るい作りの街並みに入る。急に人の往来が増え、道の両脇に色鮮やかに飾り立てられた商店が並ぶ地域に出た。
 今日もいつものように商店街は賑わっている。綺麗に身を繕った夫人が従者を連れて闊歩し、それを避けるようにして貧しい身なりの人々が道の端を歩いていく。天下の公道ではあるが、目に見えない線で道はふたつに分断されているようだった。
 ハヤトは人混みを避け、行きつけの薬局へ足を向ける。いい匂いを立てて食べ物屋が彼を魅惑的に誘うが、それをグッとこらえ、ハヤトは早足で店を目指す。
 だが、ふと向いた道の反対側に見慣れた人物の姿を認め、足を止めた。
「……ガゼル?」
 朝からまったく見かけることのなかったガゼルが、やけに周囲を気にしながらハヤトの進む方向とは反対側に向かって歩いている。まるで何かを探しているようで、誰か知り合いとはぐれでもしたのか、といぶかしんで見ていると。
「…………」
 スラムで暮らす彼とはとても知り合いとは思えない、豪奢に着飾ったいかにも、という風貌の中年女性に近づいていった。
 ちょうど女性とすれ違う瞬間、ガゼルが何かをやったような気がした。しかしハヤトの位置からでは遠すぎて確認できなかった。それに、中年女性も特にガゼルを気にした様子もない。従者に口やかましく何かを指示して、側の衣料品店に入っていった。
「?」
 だが、女性を無視して歩き続けるガゼルの顔は、この距離からでもはっきりと分かる。楽しそうだ。
 あの表情は……なにか、悪巧みをしている時にガゼルが見せる顔だ。もしくは、悪巧みが成功したときにか。
 ハヤトは意を決し、人混みをかき分けて道を横断した。途中ぶつかりかけた男性に怒鳴られたが、軽く謝ってガゼルを追いかける。見失わないように時々背伸びをして、ガゼルの癖のある背中を探す。
 彼は大通りを外れ、脇道に入った。
「ガゼル!」
「ぅおわ!」
 見失ってしまう。そう思ってハヤトは脇道に入る瞬間に大声で叫んだのだが、ガゼルは大通り沿いのすぐそこに立ち止まっていて、まともにハヤトの大声を間近で受けてしまった。
「なっ……、脅かすな!…………って、ハヤトかよ」
 誰だと思ったのだろう。大きくのけぞって、しかも片手は腰のナイフに伸びかけていたガゼルに、ハヤトは不審の目を向ける。何故、そんなに驚く必要があるのか。
「ガゼル?」
 危うく肝を冷やしたハヤトは、だが視線を彼のナイフから胸元にやったところで首を傾げる。
「それ、なに?」
 指を差して示したのは、ガゼルがもう片方の手でしっかりと握りしめている小さな、それでいてしっかりと縫製されて飾り石も付いている布袋だった。内容物のずっしりとした質感が傍目からも見て取れ、その中身が硬貨であることが容易に想像できた。
 ――ひょっとして……
 先程のガゼルの不審な動きを思い出し、ハヤトは顔をしかめた。それを見て彼はしまった、という顔を作る。
「もしかして、ガゼルお前……」
「だーー!!! それ以上は言うな」
 皆まで言わずとも分かっている、と先にわめいてハヤトの口をふさぎ、彼はまだ何か言いたげのハヤトの腕を強引に掴む。そしてずるずると引きずるように、路地の奥へと連れていった。
 表はあれほどに明るく、賑わっている通りも一本二本、通りを過ぎてしまえば一気に静かで人の気配がしなくなる。じめじめした空気がつん、と鼻につきハヤトは眉を寄せる。
「スリはもうしないって、約束したんじゃなかったのか」
 ようやく立ち止まってくれたガゼルの拘束から逃れ、ハヤトは彼を睨んだ。ばつが悪そうに、ガゼルは頭を掻く。
「ああ……けどよ、聞けよ。俺にだって言い分はあるぜ」
 開き直ったか、ガゼルはやや唇を尖らせてはいるものの反省の色は見せないで言った。
「最近フラットに人間が増えて、……分かるだろ、金が足りねぇって」
「…………それは、そうだろうけど……」
 そこを指摘されたら、ハヤトは強く出ることが出来なくなる。なにせフラットの人数が増えたのは、半分以上がハヤト関連の問題だったから。
「しかも、収入額は変わってない。ジンガの奴が働いてるけど、それで足りるわけがない。かといって、俺が働こうにも出来る仕事なんて限られてる」
 盗賊という職業柄、どうしてもガゼルが出来そうな仕事には世の中の裏関係がまとわりつく。フラットにはまだ小さい子供もいるわけだし、これ以上余計な厄介事を持ち込むことは避けたかった。
「けど、スリは良くない」
 結局、スリだって人の上前をはねているわけだし。
「もともとこの金は俺達が汗水流して働いて払った税金だぜ?」
「話をすり替えるな」
 ハヤトが怒って言うと、ガゼルはぷう、と頬を膨らませた。
「じゃあ、どうしろって言うんだよ」
「それは…………それに、仕事もしてないガゼルがいきなり大金を持って帰ったら、リプレじゃなくてもすぐに気付くんじゃないのか? その金が、もともと何処にあった物かって」
 それこそ話をすり替えていやしないか、と突っ込みたかったガゼルだが、痛いところを指摘されて口ごもる。
「リプレは受け取らないと思うけど?」
「やっぱ、そう思うか……」
 急に沈んだ声になって呟いたガゼルに、ハヤトは「おや?」となった。
「だろうなー。リプレ、怒るだろうな……」
 なんだ、ちゃんと分かってるのかとハヤトは妙なところで感心してしまった。この様子だと、今更ハヤトが言わなくてもガゼルは気付いているし、理解している。人の金を盗むのは、いかに己を正当化しようとも罪であるということを。
 わしゃわしゃと短い髪を掻きむしり、ガゼルは重いため息をつく。それにつられ、ハヤトも小さく息を吐いた。
「それで、それはどうするの?」
 今更本当のことを言ってあの夫人に返しに行くのは、捕まえて下さいと言いに行くようなもので、馬鹿らしく危険だ。多分向こうは躍起になってこの財布を盗んでいった人物――要するにガゼルを探しているだろうし。
 今、オプテュスとの闘争が激しさを増している中でガゼルが抜けるのは大きな痛手だ。だからハヤトは、彼に「返しに行ってこい」とは言えないでいる。
 偽善だな、と思った。
 盗んだ財布の中身は結構な量だ。多分、一度ではとても使い切れないだろう。いっそ皆の新しい防具をこれで揃えてしまおうか、とよからぬ事を考えてしまい、ハヤトは慌てて頭を振った。
「なにやってんだ」
 それが余りに唐突だったから、目の前にいたガゼルに驚かれてしまったけれど。
「どうするもこうするも……ぱーっと使いきっちまうしかねぇだろ」
 財布の重みを確かめ、中をのぞき込んだガゼルがくらっ、となる。一瞬気の遠くなりそうな額が入っていた。
「あのばばぁ……凄ぇ」
 一番金を持っていそうな人間を狙ったのだが、ここまでとは想像しておらず、ガゼルは息を呑む。これだけあれば数日……いや、一月は楽に食べて行けるかもしれない。
「どうするんだよ、こんな大金」
「どうするって……使うしかないだろ」
「どうやって」
「……博打」
「怒るよ?」
「もう怒ってんじゃねぇか」
 ばこ、とガゼルの頭を拳で殴ったハヤトに、彼はよほど痛かったのか涙目になって訴えてきた。
「冗談だって。それくらい分かれよ」
「ガゼルが言うとシャレにならないんだよ、そういうこと」
 前に一度、ひと稼ぎしてくると言ってなけなしの金を持ち出し、博打で散々に負けて帰ってきた、という前科を持つガゼルだから、ハヤトはどうも神経質になってしまう。以来フラットでは賭事は禁止にされてしまった。
「どうするか……」
 男ふたり、路地裏で腕組みをして考え事をするのも妙な光景だ。
 そんなこんなしているうちに時間はすでに昼。意識していたわけではないが、どうも体は正直で、前触れもなくググーと腹の虫が鳴き、空腹を知らせてきた。
 果たしてどちらの腹が先に鳴いたのか。顔を見合わせたハヤトとガゼルは互いに苦笑しあい、先に飯にありつこうとこの暗い路地裏から表通りへ出ようと歩き出した。
「そういえば俺、買い物に行く途中だったんだっけ」
 ガゼルを追いかけた所為で今まですっかり忘れていたが。
 人ごみが見え始めた頃、ハヤトがぽんと手を打って思い出す。それに、出かけるときリプレに早く帰ってくる、と言ってきてしまった。
「いいって、いいって。気にすんなよ」
 からからと笑い、ガゼルがハヤトの背中を叩く。
「どうせろくな昼飯じゃないからよ。今から帰ったって冷めちまってるだろうし、なんか食っていこうぜ」
 そして彼が指し示した先には、いい匂いを漂わせている食べ物屋が並んでいた。思わずハヤトも唾を飲む。
 外食は清貧の敵。だが今、彼らの手元にはあって余りあるほどの大金が握られている。自分たちのお金ではないのだが……。
 ごくり、と隣でガゼルも唾を飲み下す音が聞こえ、ハヤトはそちらを見た。視線が交わり、ふたり、言葉に出さずともお互いが何を考えているのか理解できた。
 多分、戦闘中もこれくらい意志疎通が出来ればもっと効率よく戦えるのだろうが……。
 ハヤトとガゼル、基本的なところでふたりはとても子供だった。
「いっただっきま~っす!」
 威勢良く食前の挨拶を口に出し、ガゼルはほかほかのホットドックに食らいついた。ハヤトも、出来立てのクレープに似たフルーツたっぷりの甘いサンドイッチにかぶりつく。クリームが端から漏れ出て、ハヤトの口の周りに白い髭を作る。一方のガゼルも、ソースが茶色の髭になっていた。
「んめ~」
「本当だ。結構いけるね、これ」
 初めて食べたから正直ドキドキだったが、思っていた以上に甘さも控えめで食べやすい。ただちょっと、皮が薄くて破れやすいのはいけてない気もするが。
 歩きながら食べるのは行儀が悪いとは思うが、そういう事が出来るような形に作られている食べ物だから、別にかまわないだろうと言うのがガゼルの弁。道行く人にぶつけないようにするのが一苦労だが、食事時であるためか、大通りの人出はさっきよりも幾分マシになっている。
 この先の角を右に折れれば、ハヤトの目指すショップに出る。そこに着くまでには食べ終われそうだ。
 だが。
「マスタ~~」
 ばふっ、といきなり後ろから不意打ちを食らってハヤトは手にしていたクレープを、残りあと3分の1のところで落としてしまった。
「マスター?」
「も、モナティ!?」
 これぞ予測不可能な人物の登場。脇でガゼルも驚愕の表情に顔を歪めている。
「どうかしましたですのー?」
「え、あ、いや、その……」
 モナティが一人きりでこんな所に来るはずがない。残り少しとなったホットドックを手にきょろきょろと周囲を見回すガゼルとハヤトに、モナティは不思議そうな顔をする。
「それ、何ですの~? とってもいい匂いがするですの?」
「へ? あ、こ、これはだな、その、あれだあれ」
「そうそう、あれ」
「あれって何ですの~?」
 頭の回転が速くない彼女には、ふたりがどうしてここまで狼狽えているのかがまったく理解できていない。ハヤトはモナティを背中に負ぶったまま、乱暴に袖で口元のクリームを拭った。
 しかし、時すでに遅し。
「ガーゼールー?」
 地鳴りにも似た音を背負い、ふたりが今一番会いたくない……もとい、最も恐れている人物の声が白昼の町中にとどろく。
「ハーヤートー?」
 ひくり、とふたりの表情が引きつった。
 真後ろ、すぐ近く。振り返ることすら恐ろしい。
 が、ここで逃げる方があとでもっと恐ろしい目に遭わされることは目に見えて明らかだ。彼女の怒りのオーラは赤い炎となって彼らを包み込み、蛇の舌のようにちろちろとふたりにかぶりつこうと待っている。
「あ、あは、あはははははは…………」
 冷や汗が滝のように背中を伝わり落ちて行く。
 至極ゆっくりと、まるで油が切れて動きの悪くなったブリキのおもちゃのような動きで、ハヤトとガゼルは後ろを振り向いた。
 リプレが腰に手を当て、仁王立ちで待ちかまえていた。手には編み籠がぶら下がっているから、多分夕食の買い出しに来た途中だったのだろう。モナティはその荷物持ちか。
「ふたりとも、何やってるのかなー?」
 口調はとても穏やかだが、彼女の目は決して笑ってなどいない。微笑みを浮かべているように傍目からは映るかもしれないが、それがリプレが本気で怒っているときの表情なのだ。
 普段大人しい人ほど、怒ったときが恐いとよく言うが、まさしくその典型ではないだろうか。
 ハヤトの手には、クレープの包み紙が。ガゼルの手には食いかけのホットドックが、それぞれしっかりと握られたままだ。更にガゼルに至っては、口周りにソースがべたべた。汚い。
 にっこり、とリプレが笑う。背筋が寒くなるその微笑に、ガゼルはがちがちと寒くもないのに震えている。ハヤトも、モナティが100キロの石の固まりのように感じられていた。
 ――に、逃げたい!
 よりにもよって、何故彼女に発見されてしまったのか……。悔いが残る。
「ずいぶんと美味しそうな物食べてるじゃない? どうしたのかしらねー、それ」
「あ、いや、これはその……」
「口答えしない!」
「…………はい」
 小さくなって、ガゼルとハヤト、しゅんとうなだれる。
「?」
 モナティだけ、まだ分かってない。
「そんなに私の作るご飯が不満だったら、もう帰ってこなくてもいいわよー? 別に」
 その方が食費が浮いて助かるしね、と嫌味と丸分かりの事を言われても反論できない。情けないが、フラットで彼女に逆らって生きていける者はいない。まだレイドに見付かる方が百倍マシだった。
 今更言っても仕方のないことだけれど。
「ふたりとも……ご飯いらないのね?」
「え? いや、そんなことは……」
「ふーん……?」
 疑いの目を向けられて、慌てて首を振って否定するがリプレは信じてくれない。大の男がふたり揃って、公道の真ん中で泣きそうな顔をしている。道を行く人々の視線を集めながら、ハヤトとガゼルは二度と買い食いはするまい、と心に誓うのだった。
 
 その日の夜、ハヤトとガゼルは仲良く夕食を抜かれ、罰としてトイレ掃除一週間を言い渡されてしまい、泣く泣く柄付きたわしを握る姿が目撃された。

自分であるために

 なに、を。
 期待していたのだろうか。
 己の手の平をただじっと見つめ、彼は考える。
 この手が汚したのではない、だが消すことの出来ない罪深き血の購いを求めていたのだと言うのならば、それは愚の骨頂でしかない。されど自分と同じような境遇にあり、その犯した罪に苦しめられている彼を見て、自分だけではないと安堵したかったのかと問われれば、首を振っての否定は出来ないのだ。
 そう簡単に清算できる事ではないことくらい、分かっている。だが自分ひとりだけが背負うにはあまりにも重すぎる、過去から現在に至るまでの一族の運命を思えば、もういい加減自由にしてくれても良いのではと思ってしまうことも事実だ。
 大地にひれ伏して、みっともなく頭を地面に擦りつけて謝罪の言葉を百万遍唱えれば許してやろう、そう言われたらきっと自分は誇りさえもかなぐり捨ててそうするだろう。
 その程度で許されるのであれば、軽いものだ。
 張りぼてのようなプライドなど、派閥の飼い犬として扱われる身である時点でとうに棄てている、今更拾いに行こうとも思わない。
 なのに、いざこの街に来て期待している自分が居る。
 彼は、どうして。己が犯した罪の重さに耐えられたのだろう。それでも生きていくことを選んだのだろう。
 その答えを、聞きたかった。
 波止場を降り、街中を歩く。辺境の町だけあってゼラムやファナンに比べると確実に見劣りするものの、こぢんまりと肩を寄せ合っている町並みはどことなく安心感を与えてくれる。
 目に見える範囲で人々が生活している、そんな感じだ。ゼラムは広すぎて、何処に何があるのかさっぱり分からない事も多い。地図なくしては、街中を闊歩することさえ慣れないと難しい。
 そして地図を持たさないと確実に迷子になる存在を最近になって、昔から知っている人物に加え、彼はもうひとり知ることになった。
 二重契約……本来あり得ないはずのギャミングによってここサイジェントからゼラムへ招かれてしまった不幸な少女が、それである。そして何を隠そう、昔から迷子になる常連であるのはその彼女を呼びだした張本人だったりするから、始末に負えない。
 どちらか片方でも方向感覚に鋭ければ問題ないのに、その両方共が方向音痴だったりするから彼らだけで買い物に行かせるにも不安が常に付きまとう。彼らが揃って帰宅するまで気が休まる事はなく、仲間内からは心配しすぎだと笑われもした。
 しかしあの緊張感のまるで感じられないふたり組は、ちょっとでも興味をひかれたものがあったら脇道に逸れてしまって、元の道に戻れなくなってしまうから困るのだ。
「それじゃ早速ご案内……」
 長閑な声がほわわんと響いて、思考を中断させられた彼ははっと顔を上げた。
 今、誰かが自分を見ていたような気がしたのだ。
「おいおい、モナティ。そっちは逆方向だぜ?」
 ウサギの耳を持った少女が意気揚々と北に向かって歩き出し、この街に不慣れな仲間達がそれに従おうとした時だった。唐突に、彼らの背後から声がかけられる。
 振り返るとまだ若い、自分たちとそう年の変わらない小柄な青年が片手を挙げて笑っていた。その傍らには白いマントを羽織り、人目で召喚師だと知れる風貌のやはり年若の、手を振っている彼よりは若干背丈のある青年が立って控えめな苦笑を浮かべている。
「にゅ……この声、は……」
 足を止め、振り返ったモナティが口をぽかんと開けて青年を凝視した。そして、見る間にその大きなふたつの瞳に涙を溢れさせた。
「おかえり、モナティ。心配したぜ?」
「マスター……」
 しばらく唖然とした顔で立ちつくしていた彼女も、ものの数秒も経たない間に我に返る。そして往来のただ中で、彼女は大声で叫び彼の許へと駆け出した。数歩手前で、ジャンプ。勢いをつけて飛びついた彼女をいとも容易く受け止めた青年は、よしよしと子供をあやすように彼女の頭を何度か撫でた。
 一方、取り残された方の面々は茫然である。
 確かに、モナティのマスターであり誓約者たる人物は青年だと教えられていた。何処にでも居そうな普通の青年だと。だが実際目の当たりにしてしまうと、やはり想像していたものとのギャップに愕然としてしまう。
 なんというか……酷いようだが、言ってしまうと威厳が感じられない。四界のエルゴに認められたリンカーとしての、もっと神々しい近寄りがたい何かがあるものと、心の何処かで期待していたのだ。それこそ、彼がいれば絶対に大丈夫だと信じさせてくれる何かがあるものだと。
 けれど実物を一目見たとき、それは自分たちの淡い幻想でしかなかったのだと改めて思い知らされる。
 どちらかと言えば、彼は出来の悪い弟弟子であったマグナ以上に召喚師っぽくない。腰に帯びている剣と日に焼けた健康そうな風貌からして、冒険者まがいの剣士に間違えられそうだ。
 そう、むしろエルゴの王は彼ですよ、と隣に立っている青年を紹介された方がまだ幾らか納得がいっただろうに。
 ちらりと横目で呆れ顔をしている青年を見ると、彼もこちらの視線に気付いたのか振り返る。向こうは少しだけ怪訝な表情をしてから、微かに微笑んだ。
「さ、行こう。みんな孤児院で待ってる」
 泣きやんだモナティを解放して、エルゴの王、ハヤトは笑った。詳しい話は、其処に着いて身を落ちつかせてからだと。
 そう長くはなかったものの、慣れない船旅で皆疲れ切っている。体を休め、心落ち着けさせるにはこんな繁華街の真ん中では無理と言うもの。
 リプレがお茶を用意してくれているはずだから、と彼は楽しそうに笑って言う。それを聞いてモナティがはしゃぎ回る。一歩遅れて歩く召喚師の青年が穏やかな表情でそれを見守っている。
「なんか……親子って感じ、しない?」
 この場合、子役は定まっているもののどっちがどっちの役目をするのかは考えないことにして、とりあえず思ったままの感想を述べたモーリンにマグナ達は苦笑で答えるしかなかった。
 その中で、ネスティひとりだけが沈痛な面もちで皆を眺めている。移動を開始した一団に少しだけ遅れて、彼は町の景色もロクに眺めようとせずただ歩いている。
「……ネス、具合でも悪いのか?」
 陸酔いしたとか? と今までずっと足場が揺れ続ける船上にいた事を揶揄し、問いかけてきたマグナにも「なんでもない」と首を振って会話を拒絶する。
 リィンバウムを人知れず危機から救ったエルゴの王と、それを補佐し支え続けた護界召喚師。その話は聞いている、ならばあの青年こそが無色の派閥に属しながらも誓約者を守る為の力を得た者なのか。
 罪深き業を背負いながらも、それでもなお、生き続ける事に固執した浅ましき魂の持ち主なのか。
 自分のことなのか、それとも目の前を黙って行く青年のことを差しているのか、それすらも分からない。
「…………」
 大通りを逸れて、雑多に色々なものが混じり合ったあまり治安も宜しく無さそうな一角へ足を踏み入れる。ぞろぞろと連れ立って歩いている彼らを物珍しそうに町の住人は見ているが、先頭に立っているのが彼だと知ると、納得顔で何故か立ち去っていく。あるいは、一団の中に不釣り合いなガタイの良い男が混じっている事に畏れおののいて逃げていくか、のどちらかだった。
 聞けば、その彼はミニスの叔父に当たりこの街の警備隊長を務める人物だとかで。町の住人に畏れられるのも無理はないのだと、教えてくれた小柄な少年は笑った。
 昔は対立してたんだけど、最後の戦いでは協力してくれたんだ。付け足されたように一番肝心なことを口にして、彼は傍らを行く機械兵士に「ね?」と同意を求める。求められた方も頷いて返し、前を行く青年達を見やる。
 年若い彼らは既にうち解け始めていて、ハヤトはマグナに町の中を色々と紹介しているようだった。初めての町に興奮気味のマグナは、そのいちいちに感心したように声を上げ、聖王都育ちのくせに田舎者丸出しで歩いている。
 ハヤトもそれが分かっているのか、遠くの方を指さしたり今度は近くのものを指し示したりと、まるでからかっているとしか思えない動作で説明をするものだから、いい加減やめにしないかと隣の青年――キールに咎められてしまった。
 小さく舌を出し苦笑いを浮かべるハヤトと、肩を竦めてやれやれといった風情で呆れかえるキール。いつもの事なのか、その仕草はやたらと堂に入っていた。
「キールさん、しばらく会わない間に随分と雰囲気が柔らかくなられたようですね」
 カイナが、そんな彼らを細めた目で見つめ微笑む。エスガルドも同意の言葉を口に出し、エルジンが補うように「ハヤトお兄さんの御陰だよ」と笑う。
「彼が……無色の派閥が行おうとした魔王召喚の生け贄だった事は、もうお話ししましたね」
 彼らの会話の中にふとした違和感をネスティが受けたことを、勘の鋭いカイナが察したのだろう、唐突に彼女がそんな話を彼に振った。それも小声で。
「え、ええ……」
 曖昧に頷くと、彼女はもう一度前方を行く青年達を見つめる。
 今あんな風にしているのを見ると信じられないのですが、と前置きした上で、彼女は。
「ハヤトさんはその儀式が失敗して、その時にこの世界にやって来てしまったそうです。最初、キールさんは彼を……魔王がよりしろにした存在だと疑っていたそうです」
 使われたサプレスのエルゴ、失敗した儀式、現れなかった魔王、その替わりに現れた不可思議な格好をした青年。この四つの事柄をシャッフルして考えれば、ネスティだってまずそれを疑う。
 そしてキールは、彼が魔王であるか否かを調べるために彼に近付いた。真実をハヤトに語ることなく隠し、彼を騙していた。嘘をついて、都合の悪いことは秘密にして、けれどキールはその事をずっと悩んでいた。
「罪を認める事はとても勇気の必要なことだと思います。勿論、許すことも」
 キールはハヤトに総てをうち明け、ハヤトはそれを許した。ふたりの間には様々な確執があったし、キールの裏切りを非難する声は仲間内でも上がっていた。だが、一番の被害者であるハヤトが彼を許した、その事実がキールを苦しみから解放したのだ。
 総てを語ってくれたキールの勇気を讃え、話してくれた事へ感謝さえして。ハヤトは、少しも彼を恨んだりしていなかった。むしろお互いが隠しあっていた事をさらけ出したことで、よりふたりの繋がりが強固になったと言えるだろう。
 誓約者と、護界召喚師としてだけではない。背を預けられる信頼に足る仲間としての、繋がりを。
「マグナさんはネスティさん、貴方に恨み事を言ったりしましたか?」
 ふっと微笑んで、カイナはそんな事を最後に口にした。
 ハッとなり、ネスティは顔を上げて彼女を見る。カイナは人の良さそうな笑顔を浮かべているばかりでそれ以上のことを語る気はないらしい。エルジンも、エスガルドも同様で。
 ようやく、彼女たちが何故一年前のハヤトとキールの話題を振ったのかを理解して、ネスティはしてやられた気分で頭を掻きむしった。
 そうだ、マグナは彼が真実を隠していたことを一度も非難したりしなかった。
 ショックから立ち直った彼は、いつもと変わらない自分を前面に押し出して周りを安心させようとしている。みんなを、そしてなによりも……隠していた真実を伝えなければならないという重責を背負わされたネスティを気遣って。
 それなのにネスティはひとり、悶々と過去に縛られた己に囚われて自分で身動きを取れないようにしていた。がんじがらめになっているはずの罪という鎖は、実はもうとっくに、断ち切られている事にも気づけずに。
 ライルの一族、そしてクレスメント家が犯した罪の重さは計り知れない。だが、目の前で笑っているあの青年に対する罪は少なくとも、もう清算できているのではないのか。
「貴方はもう充分苦しみました。そろそろ、ご自分を解放してさしあげるべきではありませんか?」
 優しい声でカイナが告げる。
「しかし……」
 それでも、ネスティは頷くことが出来ない。自信がない、本当に彼が心の底からネスティの事を許してくれているのかが。ずっとだまし続けていた罪がそう簡単に消えてなくなるのかが。
「罪は、己の心の中に罪として認識し続ける限り……消える事はありません」
 それまで響くことのなかった、落ちついた調子の低い声が俯こうとしたネスティに届いた。顔を上げると、いつの間にか移動してきていたらしいキールが、ハヤトに向けるのと同じ笑顔を讃えて其処に立っていた。
 いや、正しくは歩いていた。
「こんにちは」
「え、あ……はぁ」
 随分と気さくに話しかけてくる人だと、聞いていたのとはまたイメージが違っていてネスティは戸惑いを隠せない。その様子に、キールは口元に手をやって小さく笑った。だが目は笑っていない、真剣な色が其処にある。
「ですから、貴方がご自分でご自身を許さない限り……貴方は永遠に、罪という棘から逃れる事は出来ませんよ」
「では君は、自分を許せたと……」
「いいえ」
 自分で言ったことを呆気なく、簡単に否定して見せたキールにネスティは二の句が続かず唖然となった。ぽかんと口を開けている滅多に見ることの出来ないだろう彼の間抜け顔には、カイナまでもが口元を押さえて笑いを堪えている。
 キールが、意地悪く目を細めた。
「僕の罪は、ハヤトが許してくれました。だから、僕はもう良いんです。この先何があっても、彼のために逃げる事はしないと決めましたから」
 手を握っていてくれると、約束した。罪から逃げるのではなく立ち向かう勇気を、彼にもらった、だから。
「犯した罪も含めて全部が、僕である証だと思うようにしたんです」
 今こうしている自分も、過去贄となるためだけに育てられていた時期も、ハヤトを魔王だと疑い彼を裏切る己の行為に苦悩していた頃の自分も。全部ひっくるめて、自分なのだから。
 罪を否定することは出来ない、許すことも、また……否定することに繋がる。
 だから認める、真正面から受け止めて、ありのままを受け入れる。大丈夫、自分にはこんなにも後ろから支えてくれる人たちが居る。
「貴方にも、居るでしょう?」
 だから出来るはずだ、絶対に。
 もうすぐフラットのアジトである孤児院へ到着する。大分離れてしまった先頭の若者が大きな声を上げて手を振って、早く来いと騒いでいる。その中にごく自然に紛れ込んでいるマグナを見つけて、キールは微笑んだ。
「呼んでいますよ、貴方を」
「それは君も同じじゃないか」
 なにも手を振っているのはマグナだけではない、ハヤトもまた両手を頭上に掲げながら大声でキールの名前を連呼している。
「そうですね……」
 聞こえているよ、と返事をして彼はネスティに一礼し、ハヤトの方へ小走りに駆けていった。すぐにハヤトが寄ってきて、何を話していたのかと色々彼に尋ねはじめる。
 横目でその光景を見ているうちにネスティもいつの間にかマグナの所まで進んでいて、遅い、と小言を言われた。
「君が早すぎるだけだ。はしゃいで……子供みたいに」
「良いだろ、初めての町って面白いんだから」
「そう言って、ファナンで迷子になったのは誰だった?」
「うっ……」
 身も蓋もないことを指摘され、マグナは頭を引っ込めて口ごもった。反論できなくて、恨めしそうにネスティを見上げている。
 その姿に、ネスティは溜息をついた。
「君は……僕を許し認めているのか? 本当に」
 単に面倒だから何も考えていないだけではないのか。あまりの脳天気さに頭が痛くなる思いで呟いたネスティに、話の流れを知らないマグナは無邪気なままに首を傾げるだけだった。
「まぁ、いい……」
 前髪を掻き上げ、眼鏡の奧にある瞳を細めて彼は隣を自分と同じペースで歩く弟弟子を見据えた。
「君が、君で居てくれるので在れば……」
 それだけで充分自分は救われているのだと、今心の底からそう思った。

doze

 あふ……と欠伸をしながら、大きく腕を頭上に伸ばしてみる。その仕草に、横でドラムスティックをお手玉がわりにしていたアッシュが首を捻った。
「寝不足ッスか?」
 かつっ、と彼の手元から離れたスティックが床に落ちて跳ね、少し遠い場所へ転がって行く。それを、座っていたソファから少し腰を浮かせることで拾い上げて傷が入っていないことを確かめると、アッシュは返事をしないスマイルを振り返る。
 控え室にふたつ据え付けられているソファのうち、片方はふたり掛け、もうひとつはひとり掛け用になっている。今、彼はふたり用のソファをひとりで占領していた。
 Deuilに与えられた控え室はかなり広い、作りも丁寧で派手すぎないが豪奢だ。三人で使用するには勿体ない大部屋だったのだが、この配慮はどう考えても……置かれている家具類を見てもどうやら、ユーリの好みらしい。
 必要最低限のものがあれば充分のふたりと違って、どうもユーリだけが、生まれ育った環境の所為で通常よりも金のかかった道を自然と選んでいる。自分たちはその恩恵を少なからず受けているわけだから、批判したりするような莫迦な真似はしないけれど。
「スマイル?」
 いくら待っても返事をしないスマイルに、反対側へ首を捻ってアッシュは再びソファへと背を預ける。柔らかなクッションが心地よく身体を沈め、受け止めてくれた。
 視線を向ける。気紛れなこの透明人間は、眠そうに欠伸を噛み殺しながら瞼を擦っていた。半値状態らしく、アッシュの声もこんなに近くにいるのに届いていないような感じだ。
「寝不足?」
 さっきと同じ言葉を今度は少し声を大きくして尋ねてみる。それでようやく、彼はアッシュの問いかけに気付いたらしく何処かトロンとした目を向けてきた。
「ん~?」
 なに? と問いかけてくる目をされて、アッシュは困ったように頬を掻く。気付いてはもらえたものの、問いかけた内容までは聞き取れて居なかったようだ。
「かなり眠そうッスから。今ならまだ時間あるみたいだし、横になってたらどうッスか?」
 頬杖をついて座っているスマイルに、ふたり掛けのソファを指さしながらアッシュは笑う。時計を見上げて時間を確認し、リハーサルの時間から逆算してまだ一時間ほど余裕があることを彼に知らせてやった。
 ユーリはスタッフとの打ち合わせでさっきから出ていてここには居ない。もし眠るのに自分が邪魔なのであれば出ていくから、と言うアッシュの言葉を随分と長い時間をかけて理解したスマイルは、もう一度欠伸をして頷いた。
「そーするよ……」
 いかにも眠そうな声で、一言。瞼は既に落ちかけていて、目を開けているのも大変そうだ。このまま放っておいてもそのうち眠ってしまっていただろうが、座ったままの姿勢で眠りにはいると下手をすれば床に落下、ともなりかねない。
 そんな笑えないシチュエーションを本番前にさせるわけにもいかないから、アッシュは「そうそう」と何度も頷き返してスマイルが横になりやすいように手を貸してやった。
 最近また曲作りに熱中し始めているらしいスマイルは、どうやら昨夜もあまり眠ることなく作業に没頭していた模様だ。そんなことはにべにも出さない彼だけれど、これだけ眠そうにしていたら誰だって推測できる。よりにもよってコンサート前に、と思うのだが気紛れな性格をしているスマイルは、何時波に乗れるかどうかも気紛れなのだ。
 肘置きを枕代わりにしてソファいっぱいに横に寝転がったスマイルは、程なく寝息を静かに立て始めた。
 やれやれと、そのあまりの寝付きの良さに肩を竦めたアッシュは何か上掛けに出来るものが無いかと周囲を見回す。
 しかし生憎とこの控え室は仮眠室ではないので、上掛けなど置いてあるはずがない。譬えうたた寝であっても、身体を冷やすような真似をすべきではないからとアッシュはしばらく悩んだ後、スタッフから借りてこようと結論を下す。
 それにあまり人が寝ている横でドタバタとするのも悪い気がする。
 考えを決めたら即行動に移るに限る。アッシュはまるで起きる気配もなく寝入っているスマイルをもう一度見下ろして微笑むと、部屋の照明を消しなるべく静かに扉を開けて部屋を出ていった。

 アッシュが出ていって控え室にスマイルひとりが残されてから程なく、ノックも無しにその控え室の扉が開かれた。
「…………?」
 しかしドアノブに片手を置いたまま室内に入ろうとした存在は、窓から僅かに光が射し込んでいるものの天井のライトが点灯していないこの状況に首を捻った。おまけに、此処で待っているように指示して置いたはずのメンバーの姿が見えないことに、形の良い眉を寄せて彼は顔を顰める。
「アッシュ。スマイル?」
 順にメンバーの名前を呼ぶが返事はない。もう一度薄暗い室内を見回してそれから、彼は壁のスイッチを押して部屋を明るくした。
 やはり誰も居ない。首を捻ったまま彼は後ろ手に扉を閉めると足を踏み出す。飲み物や食べ物が乱雑に積まれたテーブルに持っていたファイルを置き、そこでようやく彼はソファの上の存在に気付いた。
「スマイル……?」
 銀の髪を揺らして、彼はソファの上で眠っている存在の名を呟く。
 短時間内での空間の明暗の変化にも全く目覚める様子がない。寝息に少しも乱れたところはなく、それが彼の眠りの深さを窺わせた。
 そう言えば朝からずっと眠そうな顔をしていたな、と傍に寄りながら彼は今朝のスマイルを思い出しながらそっと彼を上から伺い見る。こんなに人の気配が近くに迫っているのに、普段からは想像もつかない無防備さをさらけ出している事が珍しくてつい、じっと彼の寝顔を見つめてしまう。
 よくよく考えてみれば、こんな風にスマイルの眠っている姿を見るのは久しぶり……いや、もしかしたら初めてかもしれない。
 腕を伸ばし、角張っている癖の強いスマイルの髪に触れる。思いの外弾力があって、そのくせ指先から逃げるように梳けていく。
 立ったままでは触りにくいので、身体は自然と膝を曲げてソファの前に膝立ちに座り込んでいた。布ずれの音が何も他に響くものがない室内にいつも以上に目立ってしまい、どきりとした彼だったが矢張りスマイルは目を覚ますこと無く眠ったままだ。
 こんなに疲れるまで、一体何をしていたのだろう……。
 飽きもせずスマイルの髪を弄りながら彼は考える。どうせ下らないことだろう、と思いつつも朝集合したとき異様にハイテンションだった事を思うと、作曲でもしていたのだろうか。
「ん~……」
 狭いソファの上で身を小さくし、寝返りを打とうとしたらしく身体を揺らしたスマイルだったが、背もたれに半分身体が沈んでいる所為でそれは叶わなかった。
 声に驚いた彼ははっとなって慌てて手を引っ込め、何故か反射的にスマイルに触れていた手を背中に隠してしまう。もし此処で彼が目覚めても自分は何もしていなかった、と言い訳を懸命に考えながら視線を天井に逸らす。
 だがスマイルは、また直ぐに静かになってより一層顔を肘置きの柔らかいクッションに沈めただけに終わった。
 はー、とホッとした息を吐き出した彼は緊張していたものが一気に抜けたらしい。床の上に尻餅を付いてしまう。
 衣服が汚れるのも気にせず、そのまま床の上で膝を抱き寄せて座ることに決めた彼は、直ぐそこに自分の指定席のようなひとり掛けのソファが空いているのに移動しようとせず立てた膝の上に顔を載せた。
 今度は見上げる形でスマイルの寝顔をソファの影から見つめる。
 起きていれば悪戯好きで、何かを企んでは下らない事ばかりしているくせに眠っているときだけはこんなにも静かなのかと知る。穏やかで変化の少ない寝顔は普段のスマイルとかけ離れていて新鮮であると同時に、自分の知らない人のようにも見えてしまう。
 閉ざされた瞼の奧にある瞳は、彼を映していない。それどころかスマイルは、こんなにも近くにいる彼の事に気付いていない。
 何故だろう、少し悔しくて、苛立つ。
 いつもと逆だ、しばらくしてからその事実に気付いて愕然となる。
 そう、普段なら見ているのはスマイルであって見られているのは自分だった。ところが今は立場が逆になっている。だから落ち着かない、変な気分になったのだ。
 丹朱の瞳が見えない。自分をいつも見つめている瞳が見えない。
「スマイル」
 起きろ、と願う。いつものように不埒な笑みを浮かべながら自分を見ていろ。こんな風に待たされるのは、本意ではない。こんなのは自分たちの関係ではない。
 だから、立ち上がって服の埃を払いもせず彼は両腕を伸ばしてスマイルを真上から見下ろして、揺さぶる。
「スマイル」
 心が落ち着かない。
 見つめるのは自分の役目ではない。けれどそれ以上に不安になるのは。
 このまま、目覚めなかったらという莫迦らしくも見逃すことの出来ない漠然とした、取り残される恐怖。
「私が呼んでいるのだ、今すぐに目を覚ませ!」
 リハーサルの開始予定時間が迫っている、けれどそんなことは言い訳でしかない。
「んん~~~」
 不機嫌そうに、折角の眠りを妨げられてスマイルが眉を寄せた。重そうに持ち上げられた腕が瞼を擦り、隠しきれない欠伸を零して彼はぼんやりとした目線を彼に向けた。
「あれぇ、ユーリだ」
 寝ぼけているのか、声のトーンが普段よりも少し高い。何が可笑しいのかケラケラと笑いながら人差し指で目の前に居るユーリを指さしている。
「なにしてるの?」
 状況を全く把握していない台詞、尤も今目を覚ましたばかりではそれも無理無いことだろうが。
 そうは考えないのが、ユーリという人物。
 あまりにも緊張感の足りない、今まで自分がシリアスにしていたのがとてつもなく間抜けに思えてきて怒りに震え、別にスマイルが悪いわけではないのに握りしめた拳を振り上げてしまう。
 ばこっ、と小気味のいい音が控え室に響いて。
「毛布借りて来たっスよ~」
 片手に薄紅色のケットを抱えたアッシュが、がちゃっと扉を開けて中に入ってきたのはその直後。
「…………あれ? スマイル、起きちゃったんスか」
 扉を開けた体勢のまま一瞬停止し、ソファを前に拳を戦慄かせているユーリと見てそれと分かるたんこぶを頭の上に作っているスマイルとを交互に見て、なんとも長閑な声でアッシュは言う。
「一生眠っていろ」
 ねぼすけだったのは自分の方なのに、そんな事は棚に上げてユーリはもう一発スマイルのたんこぶに拳を入れると踵を返して部屋を出て行ってしまう。
 扉を抜けてユーリに道を譲ったアッシュは、不要になってしまったケットを持てあましながら廊下を去っていくユーリの背中、頭を押さえて痛そうにしているスマイルの順に見て小首を傾げた。
「どうしたんスか?」
 けれど、目を覚ましたらいきなり理由も告げられず殴られただけなので、スマイルにだってユーリが何を怒っていたのかさっぱり意味不明だ。
 御陰で眠気はすっかり吹っ飛んでいったけれど……。
「今度は氷が必要ッスね」
 ケットをひとり掛けソファに置いてアッシュが苦笑する。
「なんだったんだろー……」
 最後にもう一度欠伸をして、スマイルは開けっ放しの扉をしばらく眺めていた。

貴方の横に立つ特権

 例えば自分が男であり、相手も男であっても、「あ、この人憧れるな」だったり「この人って格好良いよな」と思う人は居るだろう。
 オレにとってはそれがあの人であって、他には? と聞かれても多分あの人しか思い浮かばないに違いない。だから昼休みなんかに食堂へ行こうと廊下を歩いている時に犬飼の奴が女子に追いかけ回されているのを見かけても、ばっかじゃねーの? とくらいしか思わないし、そりゃ少しは悔しいしなんであんなのが、と思うけどそれくらいで終わる。
 けど、さ。
 あの人が女子に囲まれてにこやかに微笑んでいるのを見かけたら、つい足が止まってしまうんだ。
 別の羨ましい、……ちょっとは羨ましくてそのうちのひとりくらい分けてください、って言いたくなりもするけれど。
 少なくとも犬飼のを見かける時程には、悔しさを感じない。だってあの人は凄くその光景が似合っているし、当たり前のように受け流しているあの人も結構凄いけど、それが違和感ないってのがまた、凄い。
 なにやらせても凄い人なんて、そんな奴は居ないって高校に入るまで思ってた。
 違うんだな、世の中にはなにをやっても様になる人が居るんだ。
 立ち止まったままぼんやりと、貴重な昼休みの時間が減っていくのにも構わずオレは食堂に至る手前の廊下でその光景を眺めていた。窓枠に置いた手は力も入らず、項垂れるように垂れ下がっている。
 あの人の回りには女子がひい、ふう……合計して六人、いや七人か。ファンの女の子が居て手製の弁当を押しつけようと必死になっている。あんな風に接する事が出来る事自体、あの女の子達を尊敬してしまいそうだ。
 知れば知るほど、あの人の凄さを実感してしまうオレは、だから部活中でもあの人を遠くから眺めるだけ。本当は色々と教えて貰いたい事や、学び取りたい事も沢山あるのに声をかけるのさえ憚られる雰囲気があって、二の足を踏んでしまう。
 こんなのは多分、オレらしくないんだろう。いつものオレならさっさと隣に行って、年上相手でも構うことなく肩を叩いて、お願いしますのヒトコトを口にしているはずだ。
「は~~」
 思い切り盛大なため息を零しオレは窓枠に置いた自分の手に顎を置いた。恨めがましい息は灰色に塗り固められていて、背後を通り過ぎていった別のクラスの奴がぎょっとして足早に去っていった。昼休み前まで散々鳴り響いていた空腹の虫も、すっかりなりを潜めて大人しくなっている。
 オレの目指すべきところに居る人、それがあの人。
 だけどどう頑張ったところで、到底追いつけやしない遠い人。近付くことさえ恐れ多いと感じるようになったのは、合宿が終わる前。見せつけるように打ち込まれたホームランはオレのようなまぐれの一発勝負なものじゃなく(一応自覚してんだぜ?)、完璧に予定されて予測された代物。オレが目指したい場所に、既に立っていて更にその上を行こうとしている人。
 尊敬する、尊敬して……一緒に嫉妬する。
 その才能の一割、いや1%でも良いからオレに分けてください。そうしたらオレは、もっともっと凄い奴になれるのに。
「ふ~」
 溜息再び。今度こそ窓枠に寄りかかったオレの視線が向いた先で、不意に誰かが微笑んだ。
「え!?」
 今までこのまま地中の奥底にまで沈んでしまいそうだったオレは、一気に目が覚める想いで身体を立て直した。今目の前で起きている事が信じられず、慌てて二本足で立ち、窓の向こうの光景を凝視する。
 オレの存在になどまったく気付いているはずのない、その気配すらなかったあの人がオレの向けて笑いかけ、あまつさえ手まで振っていた。それはかなり微細な動きではあったけれど、オレの視力を甘く見ないで欲しい。多少色眼鏡が入っているところは否定しないが、あの人の動きだけは絶対に見間違えない自信がある。……考えてみれば、変な自信だ。
 あの人は押しつけられていた弁当箱を暫く見つめたあと、やや肩を竦める仕草をして受け取った。それも全部だから、合計七個。途端に女子陣の間から黄色く甲高い悲鳴があがった。
 それからあの人をどこかへ連れだそう……恐らく食堂の近くにあるベンチかどこかで一緒にランチを、と考えていたのだろう女子が彼の腕を引っ張った。あの人はけれど、その申し出をやんわりとした仕草で断った。
 ごめんね、の言葉に女子陣から一斉に非難めいた悲鳴があがる。困った顔をしたあの人がそれでも重ねて謝罪の言葉を口にし、取り巻きを振り解いて歩き出した。
 オレの、方へ。
 制服姿の女の子達が揃ってあの人の進行方向に居るオレを観た。誰かが嫌そうな顔をするのが分かる、そんな顔されても、オレだってどうしてあの人……主将がオレの方に来るのか分からないってのに。
 睨まれてる、オレ。もの凄い形相で。
「待たせたね」
 けれどこの人はまるで意に介した様子もなく、地上から一階の校舎内廊下、窓際にいるオレに声をかけてきた。しかも内容はまるで、オレと主将が待ち合わせていたかのようなもので。
 オレは返す言葉が見当たらず、目を白黒させてしまう。すると主将は口元に手をやって控えめに笑い、抱えている弁当箱を身体の動きでオレに示した。
「話は、これを食べながらにしようか」
 お昼ご飯まだなんだろう? そう重ねられる言葉にオレは反射的に頷いた。けれど、話って……?
 主将は構わず歩き出した。オレは慌てて廊下の出口に回り込んで外に出、主将の背中を追いかける。背中に女子陣からの恨みに満ちた視線を受け、ちりちりと焼けるような痛みを覚えたのは錯覚じゃない。
 あな恐ろしき、女の恨み。
「キャプテン!」
 スタスタと学校の中を、オレもあまり歩き回らない所為でよく知らない場所を通り抜けて主将は歩き続ける。その早足を小走りで追いかけ、一体何処へ行くのかと勘ぐっているといつの間にかオレ達は、部室の横を通り抜けてグラウンドへ出ていた。しかも野球部専用グラウンドだ。
「れ……?」
 食堂は学校の校舎を挟んでグラウンドほぼ反対側にあったのではなかっただろうか。だからオレはいつもは校舎を大回りしていたのに、その半分以下の時間でついてしまった事に驚きを隠せない。すると主将はグラウンドの鍵がかかっていない金網の扉を押し開け、そして振り返って笑った。
「近いだろう?」
「あ、はい」
 伊達にオレよりも二年長くこの学校に通っていない。抜け道や近道もお手の物なのだろう、その一端を垣間見た感じがしてオレは素直に頷く。だけれど悔しいかな、先輩に追いつく事ばかりを頭に置いていた所為で、具体的にどこをどう通ったかをまるで覚えていなかった。あとで沢松の奴でも連れて、探検してみよう。
 主将はひとしきり笑ったあと、弁当を抱えなおしてグラウンドの端に置かれているベンチに向かった。オレも追いかけ、先に座ったキャプテンの顔を見下ろす。
「座ったらどうだい?」
「あ、はい。でもその前に」
「なんだい?」
 ベンチの空きスペースに弁当を置き、右足を上にして脚を組む。主将のそのポーズでさえ様になっていて、一瞬見惚れそうになったオレは自分を叱咤してから口を開いた。
 そもそも、話って?
「それは、僕よりも君の方がよく分かっているんじゃないのかな」
「どういう意味ですか」
「さっき、僕に何か言いたそうな顔をしていたよ」
 にこりと微笑み、主将はそう言ってからオレにベンチへ座るように言う。オレは毒気を抜かれた思いで促されるままに座り、居心地悪げに身体を揺らした。横で主将が女の子から貰った弁当を広げるのを見る、そのどれもが手が込んでいて美味しそうだった。
「猿野君は、どれにする?」
「だってそれ、先輩が貰ったものじゃないですか」
 まさかオレまで食べる事になるとは思っておらず、驚きを隠さぬまま素直な意見を述べると彼は柔らかく微笑んで首を振った。
「そうだね。そして僕が貰ったものを僕がどうしようと、僕の勝手じゃないかな」
「もの凄い屁理屈に聞こえます、それ」
「そうかな?」
「そうですよ」
 と言い返しつつも、オレはちゃっかり一番ボリュームが満点そうな弁当箱を受け取ってしまっていた。ここに来て忘れ去られようとしていた空腹虫が一斉に輪唱を始めてくれ、そのやかましさに先輩が笑い止んでくれなかったからだ。
 申し訳なささに心打ちひしがれる中、空腹には耐えかねてオレはついに、先輩からお裾分けしてもらった弁当に箸を付けた。
 多分これも主将が食べてくれる事を期待してあの子達が一所懸命作ったのだろう。その努力を思うと、これをオレが食べてしまっていることがとても悪いことに思えてしまう。もしこれが犬飼から分けてもらった(あり得ない話だが)弁当だったら、遠慮なく食い散らかしただろうに。
「美味しいかい?」
「先輩が作ったんじゃないじゃないですか」
「それはそうだけどね」
 勢い良く食べているオレ(結局は本能には逆らえない)に問いかけ、先輩も箸を進める。あ、この卵焼きちゃんと出汁使ってあって美味い。
 結局七つあった弁当のうち、五つまでもをオレが食べてしまった。後半になってからは申し訳なさもどこかへすっ飛び、ただひたすら目の前の食材を片付ける事に必死になっていた。そして主将がオレを連れだした理由である話、とやらもすっかり抜け落ちていた。
「さて、猿野君」
「ふぁい?」
 口いっぱいに食べ物を詰め込んでいたオレは、箸を置いてご馳走様の黙礼を済ませた先輩に声をかけられそのままの格好で返事をしてしまった。もぎゅもぎゅ動く口で喋るのは行儀が悪いと散々言われてきたのに、未だに守る事が難しい。オレはとにかく落ち着きに欠ける子供だったから。
 ついてるよ、と先輩が笑う。伸ばされたその指がオレの頬を軽くつつき、そこに米粒が飛んでいた事を教えられて恥ずかしくなった。
「さっきは、すまなかったね」
「?」
 かろうじて口に入っていた半分を呑み込んだものの、まだかなりの量が残ってしまっているオレは返事が出来ず、ただ首を傾けさせるに留めた。主将がまた微笑む。
「あの子達から逃げるのに、君を言い訳にしたんだよ」
 とてもそうは思えなかったが、と言いかけて背中に受けた視線の痛さを思い出す。
「ああ、はぁ……」
 だが結果的にオレはこうやってただで昼食を腹一杯食べることが出来たわけで、礼を言うべきはむしろオレの方だろう。ようやく咀嚼し終えて嚥下しきった口でその旨を告げると、主将は懲りずにまた笑う。笑って、オレの頬についたままだったお弁当を取り去ってくれた。
 そういえば忘れていた、と恥ずかしさに俯いてしまう。そんなオレの頭上に、先輩の声が降り注がれる。
「けれどこうして、君と話しをする機会が作れたわけだから彼女たちには感謝しないといけないかもしれないね」
「どういう意味っスか」
「話しをね、してみたいと思っていたんだよ君とは」
 ちゃんと、ゆっくり時間をかけて、それから他人に茶々入れられない環境で。
「野球、楽しい?」
「はい!」
 綺麗に食べ終えた弁当箱を片付けた先輩が、膝の上で頬杖を付いてオレを見ている。反射的にオレは、問いかけに必要以上の大声で返事をしてしまっていた。弾みで腿の上に置いていた人様の弁当箱が傾き、添えていた箸がカラカラと転がり落ちてしまった。慌てて拾い上げたが、すっかり土に汚れてしまった。手で払い落とそうとするが、水で洗い流さない事には無理っぽい。
 オレは溜息をついた。反対に先輩はクスクスと声を零しながら笑っている。ひょっとして笑い上戸では無かろうか、と疑ってしまいたくなるくらいによく笑う。
 だけれど、オレは知っている。先輩は人前では微笑む事はあっても、ここまであからさまには笑わない。
「ああ、けれど少し困ったかな」
「何が、ですか」
 汚れてしまった箸を綺麗にする事を諦め、弁当箱の片付けに入ったオレの脇で先輩がぽつりと呟くのが聞こえた。顔を見上げると、苦笑しながら先輩は手伝うよ、と言ってくれる。ので、オレは素直に甘えて弁当箱を包んでいたナフキンごと先輩に渡した。
 慣れた手つきでそれを結んでいきながら先輩は言う。それはオレにとって、少し信じがたい事実だった。
「今まで、女の子からこういうのは受け取らないようにしてきたんだけど……」
「へ?」
 一瞬嘘を聞かされた思いでオレは間の抜けた声を出し、折角結び目も形良く出来上がろうとしていたナフキンを箱ごと落としてしまった。これも土で汚すわけにはいかず、大急ぎで拾い上げるがその間も、先輩は喋り続ける。
 曰く、今まで相手に期待を持たせないようにという思いから、今まで一度として受け取らないでいたのだという。オレとしては毎日、こんな旨い弁当をただで食えるなんて幸せだな、としか思わなかったのに、この人はまったくもう……。
 そして浮かんでくる次なる疑問は、では何故、今日に限って受け取ったのかというもの。
 オレが問いかけを言葉にする前に、先輩はオレの目を見つめて苦笑を浮かべた。言いたいことは分かっているよ、とでも伝えようとしているかのように。
 ナフキンを結び終え、先輩は組んでいた脚を交換した。
「言っただろう? 君と、話をする口実だったんだよ」
「話しなんか、殆どしてませんけど」
「だから、口実。今は出来なくても、今約束すれば明日話しをすることが出来るだろう?」
「あ」
 ぽん、と打ちかけた手は慌てて背中に回して塞いだ。でも、という単語が次の瞬間にオレの頭を過ぎって、それも先読みされてしまって先輩はやんわりとした口調を崩さずに続ける。
 オレと話しをしたいって、先輩、一体なんの話しを……?
「猿野君が、どれだけ野球の事を好きか、とか。巧くなる為にはどんな事をすれば良いのか、とか。嫌かな?」
「いいえ!!」
 力いっぱいに否定し、大袈裟なまでに首を横に何往復もさせる。今主将から提案された内容こそが、オレが主将に求めていた事に他ならなかったからだ。だからオレがこの申し出を、断れるはずがない。
「大歓迎っス!」
「それは良かった」
 じゃあ明日から、ここでお昼を食べながら話しをしようか。
 そう提案されて、オレは頷こうとした。頷こうとして、はたと思いとどまり身体の動きを止めた。
 主将が怪訝な表情を作る。
 昼休み、と言うことは。お昼ご飯を食べながら、と言うことは。
「キャプテンはまた、お弁当受け取ってから来るんですか……?」
 何故そんな事を訊いてしまったのだろう、後からいくら考えても結論のでない問いかけを口に出し、オレは咄嗟に唇を噛んでしまった。
 表現に困る顔をされ、失言だったとオレは拳を作る。
 だと言うのに、この人は。
「……だったら、君が作ってきてくれるかい?」
「は?」
 なにを言われたのか理解に苦しみ、オレはどこまでも間抜け面を晒して先輩を凝視する。主将はにこやかな微笑みを浮かべ、オレを見つめ返していた。
「僕は女の子から貰ってくる分でも構わないんだけれど、どうする?」
「作ります!」
 意気込んだ大声がグラウンドに響き渡る。そしてその声を掻き消すように、昼休みの終わりと午後の始業を伝える予鈴が校内に木霊した。
 主将は片付けられた弁当箱を抱えベンチから立ち上がる。オレも続いて立って荷物を持とうと手を伸ばしたが、それは断られてしまった。これらを渡してくれた子の顔を知っているのは主将だけであり、オレが持っていっても返却できないから、というのがその理由。
 言いくるめられた格好でオレは、放課後まで訪れることのないだろうグラウンドを後にした。
 夕方、本日も厳しい練習を終えて部室に戻る道すがら。
「明日、楽しみにしているよ」
 そう主将に言われて肩を叩かれ、子津が不思議そうな顔をするのを見て。更に笑いを堪えているらしい主将の背中を見送ってから、オレは。
 オレは昼に、とんでもない事を主将と約束してしまった事にようやく気付いた。
「子津、お前料理できるか!?」
「は? え、どうしたんっスか、いきなり……」
「しまった~~! すっかり忘れてたー!!」
 わけも分からずに困惑する子津その他野球部員を置き去りに、オレは大急ぎで着替えて部室を飛び出した。
「モンキーベイベ~、どうしたんDa?」
「さあ、どうしたんだろうね?」
 部室で虎鉄先輩が首を捻る横で、牛尾主将がこれでもかと言わんばかりに楽しげに笑んでいた事など、オレにが知るはずはない。
 その夜、オレは沢松を巻き込んで台所を戦場跡にしてしまい、母親に殺されかけた。

黄昏のぬくもり

 天気は憎らしいほど、良かった。
 これは絶好の昼寝日和だなぁ、と頭上の空を仰ぎながらマグナは足許の小石を蹴り飛ばす。トントンと跳ねた石は、整地された舗道上を数回跳ねて、また風景の一部に紛れ込み見えなくなってしまった。
 はぁ……と重い溜息を零し、彼はまた一歩足を前へ出した。左、右、その次はまた左で、右。
 身体は前に進むが、心は後ろに下がりたがっている。いや、むしろ脇道に逸れたい気分だった。右手に持った鞄がずっしりと肩に重い。
 実際に鞄が重いのではない、中身はとても軽いものだ。数枚の書類、そしてとある召喚獣と契約を済ませたサモナイト石が入っているだけなのだから。
 重いのは、運んでいるものの重要性だ。あと、付け足すとすれば届け先の某召喚術師が非常に彼の苦手とする人物である事くらいか。
 ラウル師範の頼みとは言え、引き受けるべきではなかったなと今更ながら激しく後悔を覚える。いつもなら兄弟子のネスティが引き受けるような内容の仕事だったが、生憎とその兄弟子が所用で留守にしていた為に発生した事態だ。
 いったい何に使うのかまでは聞かなかったが、急遽どうしても必要になったというサモナイト石を届ける、それだけの事。だがこの石が一般民やまたは、最悪の場合外道召喚術師の手に渡ったら大変なことになる、その危惧があるからマグナは気乗りがしないのだ。
 以前……自分が蒼の派閥へ引き取られるきっかけとなった事件こそが、偶然触れてしまったサモナイト石の暴走だということが、未だ彼の心に影を落としている。
 本日何度目か知れない溜息を零し、また新たに小石を蹴り飛ばしたマグナは右手を意識して力を込めた。
 そして左手に持っていた地図を見る、本部を出るときに師範に渡された手書きの地図だ。そこには略式ながらなるべく分かりやすく、届け先の召喚術師が暮らす屋敷への道順が書き込まれている。
「えっと、赤煉瓦の屋敷の角を右に曲がって、だろ……?」
 赤煉瓦、赤煉瓦……と口に出して呟きながら、マグナは周囲を見回した。自分は確かに、地図に書かれた経路通りにやって来たはずだ。
 なのに、肝心の赤煉瓦の屋敷が見当たらない。
 右、左、前方やや斜め、それから背後を振り返っても。どこにも赤煉瓦の屋敷は見当たらない、いやそもそも、赤煉瓦なのは壁か、塀か、それとも屋根か?
 地図にはただ“赤煉瓦の屋敷”としか書かれていない。これではどれが赤いのか分からないではないか。他の目印を捜そうにも、地図にはそれ以上の事は書かれていない。
「確か、緑色の屋根の家の角を曲がって、そこからまっすぐ来て……だろ? え、え、あれ?」
 段々分からなくなってきて、マグナは頭の上にいくつもクエスチョンマークを浮かべながら必死に地図と周囲の景観を見比べた。だが無論、地図にそんな細かいものまで書かれているはずがない。
 急いで書かれたものだから、ラウルも細かく書いている余裕がなかったのだろう。だが唯一の頼みである地図が間違っているかもしれない、という予想をマグナは出来ないでいる。
 何処かで道を間違えただろうか、届け先の人の名前は知っているから誰か通りがかりの人を捕まえて聞くことが出来ればあるいは。そう思って心細い視線を周囲に巡らせるが、タイミングが悪すぎた。
 補整された通りを歩く人の影はひとつも見当たらない。
 ぽつん、と静かすぎる中に自分ひとりだけ。
「う……」
 途端に、この世界で自分ひとりしか存在しないのではないかという有りもしない事を考えてしまい、マグナは泣きたくなった。
 そんなことない、絶対にない。心の中で呪文のように何度も繰り返し自分に言い聞かせてマグナは歩き出した。ひとまず、地図に記されている通りの場所まで戻ろうと来た道を戻る為に。
 だが、ちゃんと通った道を来たはずなのに気が付けば、また見知らぬ場所へたどり着いていた。
「あ、あれ……?」
 こんな場所通ったっけ。
 どこかで方角を間違えてしまったのかも知れない、高級住宅街からいつの間にか光景は一般住宅街へと移ってしまっている。人通りもそこそこ増え始めていたが、皆道のど真ん中で呆然と立ちつくしている彼を物珍しそうに眺めて通り過ぎていくだけだ。
 服装から、マグナは蒼の派閥に属する召喚術師の一系だと人々は簡単に想像がつく。その彼が、鞄を片手にもう片手にメモ用紙を持って唖然としている姿はさぞかし滑稽に見えるだろう。
「ちょっと待て、何処で間違えたんだ」
 通行の邪魔にならないように道の端に寄ったマグナはもう一度地図をしっかりと見つめた。そしてはたと気付いた、いつの間にか地図を上下逆に持ってしまっていた事に。
 理解した瞬間、春先だというのに真冬の冷たい風が駆け抜けていったような気がした。
 ぽろり、と力を失った右手から地図が落ちる。そのまま風に攫われて、それはくるくると回転しながら遠くへと飛んでいってしまった。しかし、地図の見方を根本的なところから間違えていた事にショックを受けていたマグナは、その事にも気づけなかった。
 我に返ったときにはもう遅い。
 大慌てで周りを見回したものの、目に映る範囲内でそれを発見することは出来ない。玄関先で、メモ帳に雑に記して引きちぎっただけのそれは、別の人にしてみればただの紙屑でしかないから、拾った人が居てもそれを親切に届けてくれるとは考えにくい。
 目の前が真っ暗になって、マグナははっきりと知れるくらいに肩をがっくりと落とした。
「はうぅぅ~~」
 唸ったところで事態が好転するはずもなく。
 仰ぎ見た天はやっぱり、小憎たらしい程に晴れ渡り澄み切っていた。

 本部に帰ると、何故か妙に騒がしかった。
 なにか起きたのだろうか、首を傾げながら彼はとりあえず帰宅の報告をしようと養父であり師範であるラウルの部屋をノックする。直後、勢いよく開かれた扉に危うくぶつかりそうになって、彼は半歩身体を引かせると中から顔を出した人を凝視する。
「どうかしたのですか」
 普段は柔和な笑みを絶やすことなく浮かべているラウルの顔が、噴き出た汗に滲んでいる。眉間に刻まれた皺は怒りではなく、不安と苦悩に満ちあふれていて彼はいぶかしみの表情を作ると、扉に手を掛け問いかけた。
「ああ、ネスか。お帰り」
「只今戻りました。ところで何かあったのですか、妙に騒がしいようですが」
「あ、ああ……」
 どうも歯切れの悪い返事しかしないラウルにまた首を傾げ、ネスティは促されるまま室内に足を踏み入れた。綺麗に整理された部屋は掃除も行き届いており、使っている人の性格が伺い知れるものだった。
 その彼が、今部屋の奥にある机の前で苦悶に満ちた顔をしている。扉前で立ちつくしたまま、ネスティはしばらく養父のただならぬ雰囲気を呆然と眺めるしかなかった。
「とうさ……師範?」
「ネスや、マグナを見なかったかね」
「マグナですか?」
 どうしたのだろう、自分にまで不安が乗り移ってきて言いしれぬ何かを胸の奥に感じながら再び質問を口にしようとしたネスティを遮り、ラウルは顔を上げてそれだけを口に出す。反射的に頭の中に浮かんだ、あの脳天気な弟弟子の顔にネスティの米神がぴくり、と反応した。
「あいつがまた何かしでかしたんですか」
「いや、そうじゃないんだ、まだそうと決まったわけではないのだよ」
 早合点は良くない、といいながらもやはりラウルの言葉の歯切れは宜しくない。本部内の慌ただしさは彼の所為かと思うと、ネスティは頭が痛くなる思いだった。
「それで、まだ問題発生には至っていなくとも彼が原因で発生の危機にある事態はいったい何なのですか」
「それなんだが……」
 言って良いものかどうかしばらく悩んだあと、ラウルは致し方がないと溜息をついた。
「帰って来ないのだよ」
「は?」
 結論だけを先に述べたラウルに、ネスティの間の抜けた声が重なる。どういう意味なのか計りかねたネスティが、思わずずり落ち掛けた眼鏡を直しながらラウルを見返すと、彼は非常に言いにくそうに、
「いや、ね……? あの子に使いを頼んだんだよ、私が持っているサモナイト石が急遽必要になったと連絡があってね」
 ちょうどネスティは席を外していて、その場にいなかった。ラウルが抱える弟子はネスティとマグナだけだけのようなものだから、手の開いていたマグナに頼むしかなかったのだと彼は説明する。
 だが、つい先程その届け先の人物からまだ届かないと言う苦情が本部へ届いた。
 マグナが出かけたのは昼前である、そして今の時刻はもうじき日暮れが訪れる夕刻。聖王都ゼラムがいくら広いとはいえ、もういい加減届け物を終えて帰ってきて可笑しくない時間である。
大体、届け先の召喚術師が住む屋敷は派閥の本部からそう遠くない高級住宅街の一角にあるのに。だったら自分で取りに来れば良いと言うのは、屁理屈か。
「兎も角、そう言った理由であの子に持たせたんだが」
 なにせ急なことだったために、簡単な道順を書いたメモを手渡すことしかできなかった。そして渡してから、ラウルはそこに書き記した目印が間違っていた事に気付いたのだった。
「それじゃあ、マグナは」
「うむ、まず間違いなく……」
「迷子、ですね……」
 情けない顔の男がふたり、向かい合って項垂れている光景はさぞかし奇妙であったことだろう。
 持たせた地図が間違っていた事。届け先の相手がまだ目的物を手に入れていないらしいこと。そしてなにより、マグナが本部に帰ってきていないことから総合して考えるに、結論はひとつしかない。
 それでなくとも、マグナは聖王都の地理に不慣れだ。滅多に外出しない彼が、初めて行く場所に地図無しでたどり着けるはずがない。その場所が公園であったなら、まだ救いはあっただろうが……。
「捜してきます」
「頼めるか」
「はい」
 苦情処理は幸い、予備のサモナイト石があったことでなんとか片づいている。だが肝心のマグナが行方不明のままでは、事態の解決とは断言できない。
 万が一、彼が不用意に石に触れてしまったら。悪意を持つ人間に襲われでもしたら。目に見えない不安はどんどんと増長されていって、それを振り切るためにもネスティは絶対に見つけだす、と言う固い決心を持ってラウルの部屋を辞した。
 流石にあの年になっては、迷子になったくらいで泣きはしないだろう。道に迷ったとて、人に聞けば本部への道くらい教えてくれそうなものだが。
「帰りづらいのだろうな……」
 マグナが出かけてから、もう五時間は楽に過ぎ去っている。目的地にたどり着けなくて用事も果たせなくて、このままでは帰っても師範に怒られるし、合わせる顔がないと思っているのだろう。
 あの子は変なところで義理堅く律儀で、普段あれだけ図々しいくせに落ち込むと何処までも沈んでいくところがあるから、適当なところで引き上げてやらなければならない。その役目は、専ら兄弟子であるネスティに一任されている。
 彼らは両方共に、閉鎖的すぎる空間で幼い頃から育ったために、親しい友人がお互い以外に殆ど皆無と言ってしまってもいいくらいだった。
 本当の兄弟のように……周囲は彼らを見ていることだろう。
 複雑な気持ちを抱えたまま、ネスティは派閥本部を出た。門の前で左右の道を交互に見、ひとまず彼が辿ったと思われる道を順に追ってみる事に決めた。目指すのは、高級住宅街近辺。
 夕暮れが西の空を包み、夜闇が迫ろうとしていた。このまま日が暮れてしまっては捜しにくくなる、その前になんとしてでも見つけだしたかった。
 高級住宅街にマグナの影を見つけることは出来なかった。あちこちを見回しながら、細い路地にもひとつひとつ目を通し、ネスティはマグナの名前を何度も叫ぶ。だが返事はなく、家路を急ぐ人の群れに奇異の目で見られるばかり。
 次第に闇が濃くなって、人通りも少なくなっていく。聖王都とはいえ、夜は繁華街を除き静かなものだ。寂しすぎるほどに。
「マグナ……」
 噴き出た汗を乱暴に拭い、ネスティは唾を飲み込んで喉の渇きを一瞬だけ潤す。ふと、横を向いた視線の先に緑の光景が飛び込んできた。
「ここは……」
 あちこちを探し回り駆けめぐっていた為、いつの間にかスタート地点でもあった高級住宅街から大きく離れた場所に辿りついてしまったらしい。そこは、ゼラム市民の憩いの場所になっている導きの庭園だった。
 まさかこんな場所で昼寝などしていないだろうな、と思いつつも可能性は否定しきれなくて、ネスティは殆ど人の居ない公園へ入った。
 薄暗い広場は気味が悪いくらいに静かで、やはり居るはずがないだろうと思い直し掛けたその時。
 ガサリ、と向こうの茂みが揺れた。
 黒い影がそこから飛び出してくる。まっすぐ、ネスティ目掛けて。
「うわぁ!?」
 突然予告もなく飛びつかれたものに押し倒され、後ろ向きのまま倒れそうになったのを一歩足を下げることでかろうじて堪えたネスティは驚きで目を丸くする。自分の胸に頭を埋め、小さく震えている存在が何であるか、薄明かりの下でもはっきりと理解できた。
「マグナ……?」
 いつも以上に小さくなった彼が、キツイくらいにネスティにしがみついていたのだ。
「ネスぅぅぅ~~~」
 ぐずぐずと鼻を鳴らしてマグナが顔を上げる。全身埃まみれで、顔は泣いていたのか涙でぐしゃぐしゃ。正直、吹き出してしまいそうになって慌ててそれを押し殺す。
「どうした、迷子になったくらいで泣くほど君は子供ではないだろう?」
「うぅぅ……」
 なるべく優しく声を掛けるように心がけ、手を伸ばしその髪に触れてやる。泣いていることを指摘されて、マグナは乱暴に袖で顔を拭うと鼻をすすった。
 よしよし、と頭を撫でてやれば安心したのかようやく、小さく笑みを浮かべる。
「ごめん……」
 いったい何に対して謝っているのか、少し疑問に思ったが突っ込まないことにしてネスティは苦笑で返す。マグナはすっかり泣きやんでいたが、どうも引っ込みがつかない手はそのまま彼の髪をなで続けている。
 クセっ毛を指先に絡ませると、するりと逃げていって上目遣いに見ていた彼が声を立てて笑った。
「何やってんだよ」
「いや、別に……」
 理由があってやったわけではないのだと自分に言い訳をし、ネスティは微妙に赤くなった顔を夕闇に紛れさせることで誤魔化した。
「師範に迷惑かけちゃったかな……」
「ああ、まったくだ。御陰で僕まで町中を走り回された」
 自分のガラでもないことをさせられて正直不快だったが、今はもう気にしていない。とにかく、目的の人物は探し出せたのだし。
「サモナイト石は?」
「此処にある」
 抱きしめていたネスティから離れ、マグナが両手にしっかりと握りしめた小さな鞄を彼に示す。落とさなかっただけでも及第点をやって良いだろうか、と思いかけたが、既に道に迷っている時点で彼は落第だ。
「それで、ネス、あの……」
「心配せずとも、君が届けるはずだったものは予備を手渡すことで既に事は完了している。あとは君が、それを持って本部へ戻れば総て終了だ」
 ぽん、と最後に頭をひとつ叩いて手を離す。片手で叩かれた箇所を抑え込んだマグナが恨めしそうにネスティを見上げるが、そのうち「へへっ」という調子でまた笑い出した。
「なんだ」
 その笑い方が不気味で、思わず聞き返してしまったネスティにマグナはまた笑う。
「ん~……なんか、さ。ネスが汗だくになって俺のこと捜してくれてたんだな、って思っただけ」
 それが嬉しいと感じてしまった自分が、また可笑しいのだと彼は何でもないことのようにさらりと言ってのけた。
 心なしか、お互いの顔が赤いような気がしたけれどそれは黄昏時の空が反射した所為だと、互いに言い訳をして見なかったことにする。
「ほら」
 また迷子になられたら溜まらないからな、そう口にしながら差し出されたネスティの手をしばらく凝視したあと、マグナは少しだけ悩んで、その手を握り返した。
「俺、そこまで子供じゃないよ」
 口では不満を告げるけれど、しっかりと握り返した手が解かれる様子はない。
「だったら、これ以上僕に面倒をかけさせないでくれ」
 前を向いたまま言うネスティの口調はいつもと大して変わらない。けれど、握りしめてくれる手の暖かさは偽物じゃないと分かるから、マグナは彼に知れないように照れた笑みを浮かべた。
「帰るぞ」
「うん」
 間もなく天頂に星が煌めき、月が輝くだろう。夜が終わって明日になっても、この手の温もりが傍に在り続けて欲しい。そう願わずに居られなかった。

今日と明日をつなぐ糸は

 それまで当たり前のように感じていたことが、実はそうではなかったことをここに来て初めて思い知らされた。
 子供だから、学生だから、といったことはまるで通用しない。そもそも、この世界では「学校」なんて物に通えるのは貴族や金持ちといった一部の特権階級に生まれた子供達だけで、そうでない子供達は親や、身近にいる知識を持った人に頼るしかない。でなければ、自力で学ぶか。
 義務教育という考え方からして、この世界にとっては奇妙なものに映るのだろう。そしてそういうことが出来るのは、日本という国がいかに豊かであったのかを証明している。よくよく考えてみれば、確かに地球上では未だ貧困にあえぎ、戦争で苦しんでいる地域が山ほど存在しているのだから。
 自分は恵まれていたのだと、改めて思い知らされる。
 そして現代日本から自分が持ってきた知識や技術は、このリィンバウムでは何の役にも立たない、形だけの張りぼてだったことを、見せつけられた気がした。
 そもそも文字が作られたのは、言葉では伝えられない遠くにいる相手に知らせたいことを教えるためであって、それは別に知り合いとかだけではなく、後世に生まれてくる人々に歴史や己の考え方を遺すためでもあった。
 だから、そういうことをしなくてもいいと思っている人には、文字は必要ない。ましてや、語ることがない人には言葉さえ不要だ。でも現実にそういう人は極度に少数派で、少なくとも自分たちの回りにそういった奇特な人物は存在していない。
 故に言葉も、文字も必要。
 でも、自分はリィンバウムの言葉は理解できても、文章はまったく読めない。いつかテレビで見たアラブの方のような、それでいてヨーロッパ辺りでも使われているような、ミミズののたくったみたいな文字の前で、苦悶するだけだ。
 新堂勇人、17歳。この年にして、書き取りの勉強中。

「あーー!! やめたやめた、やーっめた!」
 ハヤトの大声と共に、部屋中に黒い紙が舞った。
「なんだ、どうした?」
 たまたま部屋の前を通りかかっていたらしいガゼルが、そんな彼のやけくそに近い雄叫びを聞いてドアをノックなしに開けて顔を覗かせる。だが目の前に飛び込んできた黒ずんだ紙を拾い、「なんだ」と一瞬でも緊張してしまった自分が馬鹿らしくなった。
「なにやってんだよ、ハヤト」
 ドア脇の壁にもたれかかり、ひらひらと飛んできた紙を揺らしてガゼルは机の上に突っ伏しているハヤトに言った。声は呆れ気味。
「なにって……見りゃ分かるだろ」
 ベッドの横に据え付けられた小さな、ハヤトのサイズでは少し小さいかもしれない子供用の勉強机の上で、腕を下敷きにハヤトはうなだれている。主に机の回りを中心に、書き取りを練習していたときに使ったと思われる紙が散乱している。半分くらいはくしゃくしゃに丸められているが、途中からそれすらも面倒になったのか、くねった文字が踊るインクに汚れた紙がそのままの形で床を埋め尽くしている。
 ハヤトが文字の練習をしていたことは、誰が見たって明らかだ。
「別にいいんじゃねぇの? 字くらい書けなくっても」
 死にはしないんだし、と軽口を叩いて持っていた紙をそこに捨てたガゼルが笑う。だがじろり、と机の上からハヤトに睨まれ、息を呑んだ。
 完全に彼の目は据わっている。ちょっと機嫌が悪いどころではない。珍しく、ハヤトは怒っていた。
「な……んだよ、んな怒ることか?」
 自分が今口にした台詞がそんなにハヤトの神経を逆なでするとは思ってもみなくて。ガゼルはやや憮然とした表情でハヤトを負けじとにらみ返した。
 だが、長いため息をついて机から身を起こしたハヤトは、
「違うって。ガゼルに怒ってるんじゃないよ」
 フルフルと首を振り、右手に持ったままだったペンを机上に放り出す。そのまま椅子の前足を浮かせて背もたれに体重を預ける。かくん、と力を失ったハヤトの首が、椅子の後ろ側に垂れ下がった。
 視界が逆さまになる。
 きょとんとしている、ガゼルが見えた。
「自分が嫌になっただけだよ」
 勢いをつけて姿勢を正すと同時に椅子を下げて立ち上がる。反動で揺れた机の上で、ペンが転がってすぐに止まる。
「今までの自分、何もできない自分、すぐに諦めてしまいそうになる自分……そういう自分が嫌になただけ。自分に怒ってたんだ」
 ガゼルに向き直り、表情を崩したハヤトは笑う。だけどそこにどことなく無理を感じて、ガゼルは首を傾げてしまう。
「なあ」
 だから、つい疑問が口をついて出てしまった。
「なんでそんなに、字が書けるようになりたいんだ?」
 聞くと、ハヤトは一瞬驚いた顔になり、すぐにばつが悪そうにガゼルから視線を逸らした。
 そんなに言いたくないこと?
 ガゼルの胸に更なる疑問が浮かぶ。自分には何だった相談してくれると思っていたのに、それは自分だけの勝手な思いこみだったのか。自分たちの間に成立していると思っていた信頼関係は、それほどまでに薄っぺらい形だけのものだったのか。
「分かった。もういい」
 今度はガゼルが怒る番だった。
「え?」
「勝手に頑張ってろ」
 突然怒りだしたガゼルの心内が分からず、きょとんとするハヤトを置いて彼は乱暴に部屋のドアを閉じた。
 ばたん、という大きな音がして部屋全体が揺れたような気がした。行き場のない風が部屋の中を駆けめぐり、床に散っていた紙を浮かせる。思わず身を縮ませたハヤトは、ガゼルが何をあんなにも怒ったのか、やはり分からなくて顔をしかめる。
「なんなんだよ……」
 彼はしばらく、呆然と閉じられたドアを見つめていた。

 自分の名前は、かろうじて書けるようになった。ラミが書いてくれたお手本と、書き方の本が役に立ったと言えるだろう。
 続いて挑戦したのは、フラットの仲間達の名前。キール、リプレ、ガゼル、……これまで関わってきた沢山の仲間達の名前を書けるようになるのに、ハヤトは軽くひと月をかけた。最初の頃はミミズよりもひどい字だったのだけれど、今では誰が見ても読めるような文字を書けるようになっている。
 でも、その次でつまずいた。
 字が書けて、簡単な単語も読めるようになった。でも、文章が読めない。
 文法が、分からないのだ。
「英語、もうちょっと勉強しておけば良かったかな……」
 リィンバウムの文法は、どうやら英語のように述語が最後に来る形で整理されているらしい。英語が出来る出来ないの問題でもないのだが、要は気の持ちよう、だ。
 そもそもハヤトは机の前に座っているよりも、グラウンドに出て体を動かす方が遙かに得意で、大好きだった。昔から勉強はそこそこ出来るが、ムキになって勉強するのは試験の時だけで、それ以外は学校の宿題くらいしかした覚えがない。やればもっと出来るのに、と親は度々愚痴をこぼしてくれていたが。
 ガゼルのいなくなった部屋で、再び椅子に腰を落ち着けたハヤトは指先でペンをもてあそびながらため息ばかりを繰り返していた。
 目の前にはキールが出してくれた練習問題がある。単語が3つ4つ並んだだけの、多分基本中の基本問題であろうこの例題を訳すのに、ハヤトは丸一時間かかった。
 辞書を引こうにも、書いてある文字すべてがリィンバウムの文字では話にならない。教えてあげようか、というキールの言葉に首を横に振った手前、素直に聞きに行くのもはばかられて。
 どうしても解けない最後の一文に嫌気がさし、さっきの大声を張り上げたのだ。
「あーああ」
 これで何度目か、ため息をこぼしハヤトは机の上に頬を載せた。
「召喚術に、言葉だけじゃなくて文字も読めるような呪文も組み込んで置いてくれたらよかったのに……」
 責任転換を言ってみても空しいだけで、手を伸ばし問題用紙を取る。几帳面に読みやすい字で書かれた紙面には、キールの生真面目さが伺えた。
 大体、どうしてこんなにも言葉を書けるようになりたかったんだっけ……?
 さっきのガゼルを思い出し、腕を抱えた。
 理由は本当にちっぽけで、情けないもののように思えたから、言えなかった。それに、多分自分の中では彼らを驚かせてやろうという気持ちも少なからずあったはずで、だから尚更、言いたくなかった。
 それがガゼルを怒らせてしまったのだろうと、今なら理解できる。
 秘密にするつもりは無かったけれど、かといって正直に全部話すのは、17歳にもなった今の自分からしたら相当恥ずかしい。
 ──残せるものが欲しかったんだ──
 自分はいつかこの世界からいなくなる。まだ分からないけれど、きっといつか、そんな日がやってくる。そして多分、自分は帰らなくてはならない。
 だからせめて、自分がこの世界に、リィンバウムに確かに存在していたことを証明できる何かを残せるようにしたい。みんなの記憶の中で今という時間が薄れて行き、いつか今日が夢であったのではないかと疑うときが来ても。記憶という曖昧な形のないもの以外で確かに自身の存在を明日に残して行けるものが、欲しかった。
 写真を撮ったり、ビデオに記録して置いたり声をテープレコーダーに録音したり。地球の日本だったら、そうやって次の世代に今の自分を残して置けるけれど、リィンバウムにはそういう便利な機械は存在していないから。
 手紙にするしか、ないじゃないか。
「ありがとう、って言いたいんだ」
 親切にしてくれて、ありがとう。助けてくれて、ありがとう。一緒にいてくれて、ありがとう。
 沢山のありがとうがある。いくら感謝しても足りないほどに。
 口に出すには照れくさくて、面と向かって言えないことでも手紙にすれば伝えられることがある。そういうことはガラじゃないと今まで思っていたけれど、いざ手紙にしようとしたら言いたいことはあとからあとから湧いて出てきて、とても簡単にまとめられそうになかった。 
 自分の手で、自分の言葉で伝えたい。だから人に頼ることはしたくない。
 だけど。
「くじけそう……」
 力無く呟いた声が聞こえたかのように、部屋のドアがノックされた。
「ハヤト、いるかい?」
 キールだ。
「どうぞ」
 机から顔を離して身を起こし、ハヤトはキールを迎える。キィ……と微かに木と金具の軋む音が響いて、片手いっぱいに何かを抱えたキールが扉口から顔を覗かせた。
「どう? はかどって……ないみたいだね」
 この練習問題をもらったのは今日の朝。それから彼はどこかへ出かけていたようで、さっきの大声も聞いていないはず。だけれど、床一面に散らばったままの紙を見て、ハヤトが何をしでかしたのか大体理解したようだ。苦笑が漏れている。
「何処が分からないんだい?」
 キールには隠し立てしても無駄。ハヤト自らが彼に対し、言葉を教えてくれるように頼みに行ったのだから。故に彼はハヤトが文字に執着する理由も知っている。知った上で、他の仲間達にも黙っていてくれた。
「最後のやつ」
「ああ、やっぱり?」
 後ろ手にドアを閉めて、床の紙を踏まないように注意しながら近づいてきたキールに、ハヤトはぶっきらぼうに答えた。だが、キールの妙に悟った態度に不審を抱き、椅子に座ったまま下から彼の顔をのぞき込んだ。
「ごめん、ここはまだ君に教えてなかったんだ。単語自体は簡単なんだけど……語尾の活用が、他のものとは異なってる。分からなくて当然だったね、悪いことしたよ」
「うそ……」
 それじゃあ、今までの散々頭を悩ませた時間は何だったのだ?
 ごめん、と繰り返すキールを呆然と見上げハヤトは少し、泣きたくなった。怒るよりも、空しい。それに、こんなにも自分から謝ってくるキールを怒れない。せめてもうちょっと早く教えて欲しかった、と思う程度だ。
「いいよ、もう。それより、それは?」
 椅子ごとキールに向き直って、ハヤトは髪を掻き上げつつキールの持つ白い袋を気にした。
「ああ、これかい? 君にって思ってさ」
 そう言って袋から彼が取り出したのは、練習用に使っているものとは明らかに質感の異なる上質紙だった。日本ではなんでもない白い紙だが、サイジェントでは貴重だ。通常使用しているインクのノリも悪いわら半紙並の紙とは、大違い。
「これって……」
「手紙にするとき、必要だろう? 心配しなくてもこれは僕個人の財布から買ったものだから、リプレたちに気付かれることもないよ」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
 そもそも、キールにはポケットマネーなんてあったのか? そういった話の次元が根本的に違っている事が先に頭に浮かんできてしまい、ハヤトは混乱した。
「気に入らない? ちゃんと人数分、ひとり一枚で計算して買ってきたんだけど」
「そうじゃなくって……」
「じゃあ、なんだい?」
 分からないことは正直に聞こう、というのはハヤトがキールに教えた人間関係を円滑にこなすための手段だった。だけどこう混乱しているときにされるのは、ちょっと辛い。
「だって、俺まだちゃんとした文章書けないし、字だって下手くそで、そんな高そうな紙に偉そうに書ける人間じゃ……ああ、俺なに言ってんだ!?」
 わしゃわしゃと髪を掻き回してハヤトが叫ぶ。ここに来てようやく、キールは彼が何を言いたいのか半分程度、理解した。
「いいんじゃないのかな、下手でも」
 とすん、といきなりキールはハヤトの前に中腰になった。俯いた彼の視線を下からのぞき込んで、否応がなしに自分の方を見なくてはいけない状態に追い込む。
「大丈夫、伝わるさ。たとえそこに書かれているのが、たった一つの言葉だったとしても」
 言葉にはそれだけの力がある。召喚獣をリィンバウムの固定化させているのだって、名前という言葉なのだし。
「それに、これは君へだけの投資ではないんだよ?」
 にこりと微笑み、キールはハヤトへ持っている上質紙の束を差し出す。
「今は真白いただの紙だけど、君が筆を走らせてここに文字を書き込むだけで、それは世界でたった一つのものへと変わる。僕は君からの手紙が欲しい。だから僕はこの紙を買ってきた。言ってしまえば、僕のための投資でもあるんだよ」
 はい、と手渡された紙束をつられて受け取り、ハヤトはキールの顔と渡された紙を交互に見つめる。
「焦らなくてもいい。君が満足できるようになったとき、使ってくれれば。時間はたっぷりとあるしね」
 それはつまり、まだハヤトが元の世界に帰る手段が当分見付かりそうにないっていうことの裏返し。
「努力はしているんだけどね……」
 そればかりを繰り返すキールに、ハヤトは時々、ひょっとして本気で探す気はないんじゃないのか? と突っ込み返したくなることがある。まさかそんなことはあるまい、と思いながらも……。
 しばらく真白い紙の表面ばかりを見つめていたハヤトは、ふと思い立ってキールを見た。
「キール、あのさ、今、一言でも気持ちは伝わるって言ったよな」
 中腰から立ち上がっていたキールを今度はまた見上げる形で、ハヤトは早口になって尋ねる。
「言ったけど……」
 紙撒き散るハヤトの部屋をぐるりと眺めていたキールは、思ってもみなかった事を質問されて驚いたのか、目を丸くしている。だが自分を見つめるハヤトがあまりにも真剣だったので、
「誰かに、伝えたいことでもある?」
 勘ぐり入れて問い返せば、ハヤトは少し顔を赤らめながらも正直に頷いた。
「教えてくれないかな。『ごめん』ってどう書くのかをさ」
「いいよ。『ごめん』だけでいいの?」
「うん」
 机上に転がっていたペンを取り、早く、とハヤトがキールを急かす。
 まだ使っていないわら半紙を拾い上げ、キールはハヤトの後ろからお手本をゆっくりと書いてやった。食い入るようにその手先を見つめるハヤトの姿がおかしくて、キールは苦笑が隠せない。
「なんだよ」
 やや憮然としてキールを振り返ったハヤトに、彼はまた「ごめん」と謝る。
 その日の夕方、庭で薪割りしていたガゼルの元にハヤトがやって来て、何も言わず彼に折り畳まれたわら半紙を差しだすと、脱兎の如く逃げていった。
「?」
 なんだろう、とハヤトの背中を見送ってガゼルは4つ折にされた紙を広げる。
 たった一文字。紙の中央に、記されていて。
「……ばっかじゃねぇ?」
 その文字を見た瞬間、ガゼルの口からはそんな言葉がこぼれていたけれど。
 どう見ても彼の表情は、嬉しそうだった。