閃爍

 もうずっと、彼女が泣いている光景を見たことがなかった。
 彼女は、太陽の輝きのように眩しい笑顔をいつも見せてくれていた。時には静かに、時には喧しすぎるくらいに声を上げながら、彼女は笑っていた。
「セレン……」
 急ごしらえではあるけれども、けれど戦死者を葬るものよりかはずっと立派で、そして大きな墓石の前で彼は立ちつくしている。
 名前を呼ばれても返事をしない。時折突きつけてくる風が彼の首許に巻かれた黄色のスカーフを揺らしている、陽射しは陰り些か寒い。
 だのに彼は身動ぎひとつせず、恐らく背後に立つ存在にも気付いているはずなのに振り返りもしない。微動だにしない彼の背中を今しばらくの間眺め続け、しかし五分もしないうちに飽いてしまって彼は小さく、肩を竦めて首を振った。
 その墓の下に眠っている存在が誰であるか、彼は熟知している。
 消えてしまった石版の文字、消えてしまった城内に響き渡る明るい笑い声。彼女に引きずられる格好で暗く沈んでいた人々も顔を上げ、笑うようになっていった。おっちょこちょいで、お節介で、世話好きで、けれど不器用な。
 太陽のように笑う少女だった。
「セス、日が暮れる」
「先に帰ってくれていいよ」
 西に大きく傾いた太陽を見上げて呟いた声に、ようやく口を開いたラストエデン軍リーダーが短く返す。よもや返答があるとは思っていなかった彼はすぐさま前へ向き直り、けれど動いていないセレンの背中を凝視する。
 振り返ってはくれないらしい。意固地になっているセレンの態度に頭を掻き、彼は首を振った。
「僕だけ帰って、シュウに怒鳴られろ――と?」
 あの少女が逝った。
 衝撃的なニュースは瞬く間に城内を駆けめぐり、彼女のたったひとりである弟の身を案じる声は高くなった。血は繋がっていないとは言え、本当の姉弟以上に姉弟らしかったふたりは常にワンセットで、どちらかが欠ける事など誰も、想像していなかったから。
 セレンの精神が砕けるのでは、とさえ危惧する者もいた。だが意外にもセレンは毅然としてその事実を受け止め、つい先日完成した墓碑に彼女を埋葬したばかりだ。
 それが見せかけの上辺だけの強がりだと気付いた人間は、僅かしかいない。
 今ここで彼が倒れるわけにはいかない、それは彼と、彼を取り巻く軍の中枢が一番よく理解している。だからセレンは、自分の心に嘘をついてまでも平然を装った。
 彼女の死を受け止めようと、受け入れようと。
 泣かなかった。
「ルックは意地が悪いよね」
「大きなお世話だよ」
 ずっと見下ろし続けていた墓碑から目を上げて赤焼けの空を仰いだセレンが言い、背後に立つルックは上着の長い袖を捲って胸の前で両腕を組んだ。不機嫌そうな顔をしているが、それは常からであり素っ気ない口調もいつも通りで、セレンは振り向いて確かめもせずに口元を綻ばせて笑った。
 いくらか、自嘲気味に。
「帰る、って言ったって、直ぐそこなのに?」
 デュナン湖を望む高台の丘の上に設けられた、黒塗りの真新しい墓碑。顔を上げて右を向けばすぐ間近にレイクウィンドゥ城は誇らしげにそびえ立ち、彼らの身の丈を楽に越す城壁で囲まれていた。
 だから現在位置は城の領内と言えなくもない場所であり、置いて帰る、というには語弊があるとセレンは言いたいようだった。しかし分かってないね、とルックはまたしても大仰に肩を竦めた。
「僕は」
「ぼくが湖に身投げでもしないように、見張ってるんでしょう?」
 言いかけたことばを遮られ、自棄に等しい台詞を吐きだしたセレンに睨み付けられ、ルックは言おうとしていた言葉を呑み込んで鼻から息だけを吐き出した。ようやく振り返ったかと想えばこの態度で、かわいげが足りないな、と心のどこかが嘲笑する。
「そんな事、するつもりだったわけ?」
 自分から命を絶とうというような前兆があるなら、ルックではなくもっと力自慢で頭もいい人間を傍に置くようにするだろう、シュウならば。あるいは、首に鎖でもつけて城内に軟禁するかのどちらかだ。
 けれど今のところその様子がないので、セレンはある程度、シュウに信用して貰っているらしい。デュナン湖を取り囲む土地とそこに暮らす人々の行く末を決める戦いに、途中放棄してしまうような根性無しだとは想ってもらえていない証拠だ。
 だからルックが、ここにいる。
 セレンと同年代でありながら、それ以上の英知と冷静さを持ち合わせてかつ、非情である彼を。
 下手に傷つけることを言わないだろうし、下手に甘やかす事も言わないだろうと。嫌な信頼の仕方をされたもので、ルックにとってはやる気の失せる仕事でしかなかったものの、確かにセレンをひとりだけにしておくのも危険だろうと判断して、ルックは此処にいる。
 天魁星の主を守るために。
「死にたいのなら、なんだったら今此処で殺してあげてもいいんだよ」
 そうした場合、歴史がどう動くかにもささやかな興味がある、と付け足すように呟いて。ルックは、組んでいた腕を解き左手を広げてセレンへと向けた。
「殺せるの?」
「君が、そう望むのであれば、ね」
 感情のこもらない声で告げて、ルックは掌の中に風を呼び込む為の呪を唱え始める。真の紋章を持つ彼の願いに応え、空から冷たい刃を持つ風が幾陣も降りてくるのが見えないはずの大気のうねりを感じることで知り、セレンは背中に冷たいものが流れ落ちるのを感じた。
 その本気を、教えられる。
 地表を追いつくしている背の低い草が風の煽りを受けて大きく傾ぎ、頭を下げる。セレンの前髪も激しく揺すぶられ、肌に叩きつけられる。
「どうする?」
 今これを放てば、確実に全身を切り刻まれていくら紋章の持ち主であっても楽に死ねるよ? 
 ルックの声が風の所為でいくらか揺らめいて聞こえた。
 セレンは喉を鳴らす、ごくりと呑み込んだ唾が鉛の塊のように思えてならない。
「ルックに出来るの?」
「出来るよ。簡単な事だし」
 人を殺すのも、人が死ぬのも。
 実に呆気なく、簡単だ。
「そんな事をして、良いと想ってるの!?」
「僕は少なくとも構わない。他人を、自分が生きる言い訳にするくらいならさっさと、逝っちゃえば?」
 誰かが必要としてくれているから、とか。
 誰かを守らないといけないから、とか。
 誰かが生きろ、と言い続けるから、だとか。
 そういう風に他人に、自分の命の行く末を預けてそれに甘えて、そうやってでしか生き続けようとしないくらいなら。
 断ち切って、自分の意志で生き続けようと想わない限り、その命は生きていないことと同じではないのか?
「逝っちゃえば?」
 今なら多分、ナナミも待っていてくれてるんじゃい?
 墓の下に眠っている、冷たくなってしまった女性の名前を出されて初めて、セレンの顔が大きく歪んだ。
 夕焼けが色濃く、西の空から天頂にかけてを支配している。
 地表に落ちる影は長く、そしてやはり濃い。湖は茜に染まり、波立っている表面に跳ねてキラキラと輝いている。
 日が暮れる前の一瞬の時間に。
 風は、変わらず冷たい。
「ナナミ、はっ……!」
 自分を守るために盾となった少女。優しい胸に無情な刃をいくつも受けて、傷ついて血を流して、それなのに苦しいとも痛いとも、言わずに。
 たったひとこと。
 家族を、弟とそれに等しい相手を案じる言葉だけを残して眠るように逝ってしまった少女の閉じられた瞳からこぼれ落ちたのは、ひとしずくの涙。
 彼女はいつも、いつだって笑っていた。
 どんなに落ち込んで、哀しいことがあっても次の日には何事もなかったかのように笑って、微笑んで、周囲を元気付けようと強がって、頑張って、生きて。
 生きて。
 彼女の方が生き残るべきではなかったのか?
「ぼくは、ずっと、ナナミが泣いてるところを見たことがなかった!」
 最初で、最後のような彼女の涙は本当に最期の時で。
 ゲンカクが死んだ日も。
 ユニコーン隊への配属が決定して、出発するその日も。
 キャロを追われて逃げなければならなかった日も。
 ビクトールの砦が焼け落ちてみんな散り散りになってしまった夜も。
 ジョウイがアナベルを殺害した日も。
 グリンヒルでジョウイと決定的な決別があった日も。
 一度も、彼女は泣かなかったのだ。悔しそうに、哀しそうにしていても彼女は誰かに心配をかけないようにと、涙を呑み込んで堪え、周囲が沈まぬように要らぬ気を配って明るく務めていた。
 我が侭らしい我が侭があったのは、ティントから逃げ出した夜くらい。
「だから?」
 彼女を泣かせてしまった事に対する罪悪感を抱くのであれば、それは場違いであろう。冷たいルックの返す言葉に、セレンは下唇を浅く噛んで視線を逸らした。
 太陽光を浴びてキラキラ輝く湖には、幾隻かの舟が浮かんでいる。そこには人の営みがあり、それらを守るために彼らは闘っている。
 その中心に、セレンはいる。
「ぼくは、ナナミの笑っている顔を守りたかったのに」
「良いじゃない、泣かせてあげても」
 弾かれたように、セレンは顔を上げてルックを睨んだ。しかし彼は涼しい顔を崩さず、掌に浮かせていた風の塊を解き放った。空へと駆け上っていくそれを見送って、乱れてしまった髪を手櫛で整える。
 ルックもまた、静かにセレンを睨み返した。
「泣かなかった彼女が、ようやく泣けたんじゃないか」
 我慢して、我慢を続けて。自分に嘘をつき続けて大丈夫、と言っていた彼女がようやく正直に、涙を流した。それも、痛みや苦しみ、哀しみではなく、大切で守ろうとした相手をどこまでも案じ続けての、優しい涙だ。
 責めていたわけではないはずだ、彼女の涙は。
「それが分からない君でもないだろう」
「それでも!」
 ナナミには笑っていて欲しかったと、そう切望するのはいけないことなのだろうか。
 更に強く噛みしめた唇が痛い。俯いたセレンを夕焼けが赤く染める。
 キラキラと、眩しいくらいに輝いているデュナン湖の水面が目に痛い。
「君が泣いてどうするのさ」
「泣いてないよ!」
「……はいはい。泣いてない」
 向きになって突っぱねたセレンに三度目の肩竦めをして、ルックは今度は自分から彼に背中を向けた。
「気が済んだら、いい加減帰るよ」
 寒いんだ、外は。付け足して呟いて、ルックはまた腕を組み足許の草を蹴り飛ばした。
「分かってるよ、それくらい!」
 やけっぱち気味に叫んでセレンは乱暴に、腕で顔を拭う。
 キラキラと、太陽のように眩しい笑顔。
 それをもう一度見たいと願ってしまうのは。
 罪なのでしょうか。

非恋愛的恋愛症候群

 夕方。
 放課後。
 本日の部活動は、学校内の教員を総動員しての職員会議が放課後に予定されているからなし、とのおふれが出ていた。
 季節は春を過ぎ、初夏。新入生もそろそろその殻を脱ぎ捨てることを要求され始め、高校生活にも慣れを見せ始めた時期。瑞々しい青葉が植樹を彩って陽射しが眩しいと感じ出す時期でもある。
 長い受験勉強で鈍っていた身体も、日頃の厳しい練習で充分にほぐれて来た頃合い。丁度いいタイミングだからと、自主練習をしようとする一年生を相手に十二支高校野球部主将は朗らかな笑顔で、今日は完全休業するように、と告げた。
 一斉に不平不満を顕す声が上がった(一部喜ぶ人間も居たが)。嬉しさの余り飛び跳ねる兎丸は除外して、練習熱心の代名詞を背負っている子津が牛尾主将に練習させてくれるように頼み込んだけれど、練習場所であるグラウンドへ入るための鍵は主将が握っているのだ。
 その主将が鍵を手放さない――だめだよ、の言葉を撤回しない限り一年生は限りなく無力である。結局、一度はユニフォームに着替えようとしていた面々揃って、脱いだばかりの制服に再び袖を通す羽目に陥った。
 先輩方はキャプテンのお達しを先に聞いていたらしく、その場に居たのは一年生と後ろキャプテンだけであり、彼はにこにことした笑顔を崩さずに後輩が全員部室を出るのを見送り、部室の鍵までしっかりと閉めて回収して去っていった。
 寄り道はしないように、道草は食べないように。小学生相手にしているんですか、と言いたくなる注意事項を念入りに各人に――特に猿野には念入りに――告げ、教室に鞄を置いてあるから、と踵を返す。けれど途中で一度立ち止まって振り返り、なんだったら一緒に帰ろうか、と猿野相手に声をかけて。
「こいつは、しっかりと俺達が見張ってますからご心配なく!」
 つい、ガラにもなく声を荒立てて叫んでしまった。しかも瞬間的に伸びた俺の腕は猿野の、無防備丸出しだった手をしっかりと掴んでいて。
 おやまぁ、と後ろで辰がずり落ちた眼鏡を直すのが気配だけで知れた。
「は?」
 自分の知らないところで争奪戦が発生しようとしていることなど、考えてもいないらしい。腕と一緒で無防備を晒している猿野が頭の上でクエスチョンマークを浮かべ、キャプテンから俺へと視線を向ける。
「なんでテメーに見張られなきゃなんねーんだよ、オレが!」
 人類という霊長類の長たるこのオレ様が、何故に犬っころなんかに面倒みられなきゃなんないんだ。そう耳元でがなり立てる猿野を眺め、牛尾主将は口元を隠しながら楽しそうに笑う。
「じゃあね、チェリオ君。くれぐれも気をつけて帰るんだよ」
「あ、はーい」
 主将相手には素直に返事をしてくれる猿と、そして俺達に背を向けて歩き出した主将を睨み付ける。彼が去り際に発したのは、あれは俺への挑戦状か何かか?
「犬飼君、私たちもそろそろ帰りましょう」
 いつまでも残っていては、教職員の皆様方に迷惑をかけてしまいます。
 律儀な口調で告げる辰に頷き、俺は未だ掴んだままで居た猿野の腕に気付いて慌てて放した。猿野は不満顔で俺をひと睨みし、俺が掴んでいた箇所をもう片手でさする。無意識に力を込めてしまっていたらしい、痛かっただろうかと詫びの言葉を告げたかったのに猿野は俺から早々に視線を逸らすと、誰かを捜して周囲を見回した。
 誰を捜しているのだろう、と俺も一緒になって回りを見る。けれど野球部の部室前には当然野球部絡みの人間しか残っていない。ついでに言うならば、マネージャー達も今日は現れなかった。恐らく練習無し、の連絡が先に行っていたのだろう。それは二、三年生の先輩方と同じだ。
「沢松君でしたら、先程写真部の方と一緒に帰っていきましたよ」
「なにー!?」
 一体何処で目撃したのか、と疑いたくなった辰の台詞に、殊更大声で猿野は叫び握っていた鞄を落とす。どうやら幼なじみのあの野郎を捜していたようで、俺はむっとした思いを抱えながら猿野の落とした鞄を拾い、ぶっきらぼうに突き出す。
「ほらよ」
「……触るな」
 まだ学校が始まってからふた月と少ししか経過していないのに、既にボロボロになりかけている猿野の鞄は軽そうで、重かった。中に何が入っているのか気になったが、どうせ漫画本や食糧辺りだろうと察しを付けてそこで思考は停止する。
 俺から鞄を奪い返した猿野は、大事そうに、そして重そうに鞄を抱え込んでまた視線を巡らせた。牛尾主将とのやりとりをしていた間に、大方の面子は帰ってしまったらしく、すっかり人気が無くなっている。
「ネヅッチューは?」
「彼は兎丸君と司馬君と一緒に帰りましたよ。なんでも、一緒にCDショップを回るとかで」
「えー。オレも一緒に行けば良かった」
 辰の返事に猿野はまた、頭に響く大声で叫ぶ。どうして誘ってくれなかったんだ、と愚痴をこぼす奴に辰は、キャプテンとのお話を中断させるのも悪いから、と子津が誤っていた事を知らせる。
 果たしてそれも、本当かどうか。
 そして最終的に今残っているのは、俺と、猿野と、辰の三人だけ。その事に不満そうで、猿野はふっと俺の顔を見上げ、そして一瞬で逸らし唇を尖らせる。
「じゃあ早く帰ろうぜー」
「あ、私は参考書を買おうと思うので本屋に寄りますが」
「……げ」
 もういいや、と諦め調子で呟いた猿野にトドメを刺すかのように、辰は眼鏡を上げながらにこりと言った。それはむしろ、猿野に、というよりは俺に向かって発せられた言葉のように聞こえたが。
 げ、と言いたいのは俺の方だ。
「一緒に行きますか?」
「遠慮しとくぜ」
 本屋、と雖も漫画本ばかりにが並んでいるところではない。辰が行くのは洋書なんかも扱っている大型の、専門書ばかりが揃えられているお堅い本屋なのだ。当然猿野がそんな場所に行きたがるはずが無く、即答で奴は首を横に何度も振った。
 辰が芝居がかった顔で残念そうに、そうですか、と呟く。ちらりと見上げた俺へ、何の意味を込めてかの含み笑いを向ける。
 こいつがこんな顔をするときは、大抵何か企んでいる時だ。
 そして伊達に中学からバッテリーを組んで来ただけあって、俺の勘は外れてくれなかった。
「では、犬飼君。猿野君の見張り、宜しくお願いしますね」
「げっ!」
 今度こそ心底嫌そうな顔をし、猿野は悲鳴を上げた。……それは俺も一緒だったが。
「辰!」
「犬飼君? 先程主将相手にご自分で仰有っていたではありませんか」
「うっ……」
「ちょっと待て! なーんでオレが、こんな奴と一緒に!」
 怒鳴り返そうとして、けれどやり返されて言葉に詰まり、そこに猿野が割って入ってくる。
「俺だって、テメーなんかとお断りだ!」
 本音ではない言葉がすらすらと口をついて現れ、空気を震わせる。辰がその、こんな時だけ息がぴったりと合う俺達を交互に眺めて溜息をついた。
「そうは言っても……おふたりとも、駅まではどうせ道が一緒でしょう?」
 呆れ調子で告げた辰の台詞に、ふたりしてぴたりと声が止まる。
 そう、そうなのだ。駅までの道は単調な下り坂が続き、途中で寄るほどの大型ショップも少ない。ひょっとすれば駅前で先に帰った面々と鉢合わせする事だってありかねない、本当に小さな町。因みに辰が寄る、と言っているのは電車を少し乗り継いだ先にある少々都会と言える場所にある書店だ。そしてその場所に行くための路線は普段俺達が使っている電車会社とは異なっていて、学校前からバスで行かねばならない。
 辰とは、学校前で今日はサヨウナラ、なのだ。
 仕組まれている気がする。そう思ったが、もうどうしようもなくて俺は重いため息を零して鞄を握りなおした。
「帰るぞ、猿」
「こらっ、勝手に決めんな!」
「じゃあ置いていく。俺は帰る」
「ッテメ! 待ちやがれ犬のくせに!」
 ひとこと声をかけて俺は歩き出した。後ろで猿野は騒ぐが、煽るような事を告げれば猿野は逆切れを起こし、俺を追いかけてくる。だけれど、見送る側に立った辰にもしっかりと手を振り、別れの言葉を投げかけている奴は思いの外律儀であり、几帳面だ。
「やれやれ……」
 やっと行きましたか、と眼鏡を上げながら辰が小さくなっていく俺達をそうやって見送る。
「大変そうだね、君も」
「いえいえ、大した事ではありませんよ。投手を好投球に導いてやるのが、私の仕事ですから。それに、敵は強大ですし」
 気の休まる暇もありません、と。
 そう辰が不敵な態度で笑いかける。同じように不遜な態度を崩さず、一部始終を見守っていたらしい意地の悪い人物は笑いながら、
「その“敵”には、僕も含まれているのかな?」
「さぁ……判断しかねますね、牛尾キャプテン」
 後から話を聞いて、俺はその場に居なくて良かったと、心の底から思った。

 放課後。
 帰り道。
 お互いに無言のまま、学校の正門から駅まで幾つかの角を曲がりながらも、経路としてはひとつしかない道を道なりに進んでいく。
 近所の小学校帰りらしいランドセルを背負った子供達が、俺達の脇を小走りにはしゃぎながら去っていく。そのうちのひとりが、被っていた帽子を前方から吹き付けてきた風に飛ばされ、「あ!」という短い悲鳴を上げた。
 黄色の学帽は俺の斜め左方向へと飛ばされて、俺は鞄を握っていた左手を解いた。ズドン、と辞書も入っている鞄がアスファルトに落ちると同時に、俺は地を蹴った。
 伸ばした腕が風に煽られ、浮き上がる帽子の鍔にあたった。
「あー」
 残念そうな小学生の声が周囲に響く。俺の指先を掠めた帽子は、上方向へと飛んでいこうとしていた軌道を一気に下方向へ修正した。俺は今自分たちがいる場所が、小さな川の土手とも言える場所だという事を思い出し、背中に冷や汗をひとつ流した。
 このままでは、帽子は川へと落ちてしまう――――
 けれど、
「ナイスキャッチ」
 背後で、いつの間にか道と川を隔てる背の低い柵に身を乗り出していた猿野が、俺の掴み損ねた小学生の黄帽子をしっかりと掴んでいて。
 着地と同時に振り返った俺に向かって、にっ、と白い歯を見せて笑った。
「ほらよ」
 もう飛ばすんじゃねーぞ、と走ってきた小学生の男の子に帽子を被せてやって、猿野はその子の頭をひとつ撫でた。
「うん、ありがとうお兄ちゃん!」
 その子にとっては、俺よりも帽子をしっかりと掴まえた猿野の方がヒーローなのだろう。礼も、俺にはなかった。
 子供は待ってくれていた友達を追いかけて急いで走っていく。ぱたぱたと元気の良い足音を響かせる子供を見送って、猿野は勝ち誇った顔を俺に投げつけてきた。どうだ、と言わんばかりに胸を反り返す奴に、俺は悔しさを紛らわせて呆れながら自分で落とした鞄を拾い上げた。底を軽く叩いて埃を払う。
 相手にして貰えなかった猿野がつまらなそうに唇を尖らせ、まだ止まったままの俺を置いて先に歩き出す。
 二級河川という札の出ている川の、短い距離しかない橋を渡る。
 夕暮れ。 
 沈もうとしている太陽が、眩しく俺達を照らす。
 東から西へと流れているその川は目に映る範囲だけではほぼ一直線で、欄干から左を向けば、夕日がはっきりと見えた。
 狭い地表を埋め尽くす住宅や、ビルディングの隙間を這うようにして走る川の上を、オレンジ色をした光が埋め尽くしている。
「あー……」
 橋の中央まで進んだところで、先に猿野が足を止めた。
 俺も数秒遅れで猿野に並ぶ。視線は同じものを見つめ、同じ事を考えていたらしい。
「「綺麗だな」」
 その言葉が、ふたり同時に自然と流れ出て重なった。
 まったく、普段はどうしてここまで、と言いたいくらいに気が合わないのにこういうときだけ、嫌になるくらいに気があってしまうのは何故だろう。
「マネすんな」
「そっちこそ」
 横斜め上を見上げる猿野の台詞に、俺も斜め下を見下ろして言い返す。
 猿真似は貴様の本業だろうに、と鼻で笑いながら言ってやれば、猿野はうきーっ! と歯ぎしりをしながら地団駄を踏んで悔しがる。それこそ猿だろう、と俺は奴から視線を外して夕日を見つめた。
 いつもは練習で帰りが遅くて、日が沈みきってからこの道を通っていたから今まで、二ヶ月近くもこの道を毎日通っていたのに気が付かなかった。この時間帯に帰ることが皆無だったとは言い難いけれど、それでも、この場所から見る景色に気付いたのは今日が最初だった。
 そして、俺がひとりでこの道を歩いていたとしたら、今日であっても気づけたかどうか。
 自信が無い。
 俺は隣を見た。この景色に気がつけたのはコイツの御陰かも知れないと、その張本人を見下ろそうとして。
 猿野は、其処にいなかった。勿論先に帰ってしまったわけではなく、すぐにその存在は見つけだせたが俺は別の意味で驚愕し、同時にあきれ果てた。
 こいつは橋の、俺の腰までしかない石組みの欄干の上に立っていたのだ。
 バカと煙は高い場所が好き、とはよく言うがこうも目の前で実践されると言葉を投げかけてやる気力も失せる。しかし猿野は俺よりも随分と高くなった視界にご満悦のようで、ボロボロの鞄を斜めに肩にひっかけて遠く、夕焼け色に染まる空を見上げていた。
「おー、空が高いぜ」
「いいから降りろ、恥ずかしい」
 人通りが少ないながらも一応ある公共の道のど真ん中、である。後ろを自転車で走り抜けていった買い物帰りらしきおばさんが、クスクスと笑いながら走り去っていく。俺は顔が赤くなる気分で猿野の、高い位置にある背中を見上げた。
 俺がこいつを見上げる事なんて、初めてではないだろうか。
「っせーな。良いだろ、もう少しくらい」
「良くない。とりあえず、今すぐに降りろ」
「お前も来いよ!」
 人の話などまるで聞いていない猿野が、夕日よりも眩しい顔を俺に向けて手招きをする。その瞬間だけ、ぐらっと揺らぎそうになった俺の精神をどうか、誰も笑わないで欲しい。夕焼け色を頬に受けて朱色に染めている猿野の顔を見て、不覚にもさっき夕日を見たときと同じ感想を抱いてしまった俺は、頭がどこか可笑しいのだろうか。
「降りろって言ってるのが聞こえねーのか、バカ猿」
 少しだけ苛立った声を俺は猿野の背中にぶつける。大体、お前が其処にいたら俺が見えないんだよ、前。けれどわざとやっているのか、からかっているつもりなのか、猿野は欄干の上で左右に揺れたり、うろうろしたりと落ち着きがない。そのうち落ちるんじゃ無かろうか、と俺は橋の高さと川の水面までの距離、そして川の深さを気にした。
 落ちたところで、死ぬような奴では無いだろうけれど……怪我でもされたら、辰や他の連中になにを言われるかわかったものじゃない。監督不十分だ、一緒にいながらどうして、と方々から責め立てられるだろう。
 そんな光景を想像してぞっとした俺は、手を伸ばし猿野の制服、その裾を掴んだ。
「降りろっつってんだろ!?」
「バカ、引っ張んなっ!」
 ぐいっ、と後先考えずに猿野の制服を引っ張った俺に、ぐらりと後方へ身体を傾がせた猿野の悲鳴が被さった。ただでさえ足場が狭くバランスも、肩から下げている鞄で後ろに重心が傾き気味だった猿野は俺が引く力を受けて、堪えきれず、それこそ簡単に、落ちた。
 俺の上へ。
「どわっ!」
「ぐはぁ!」
 ふたり分の、野太い男の悲鳴が周囲を圧倒して、直後に訪れるのは異様なまでの静寂さ。
「ってぇ……」
 空中で半回転した猿野は、俺の上に俯せに倒れ込んでぶつけたらしい顎の周辺を片手で押さえ込んだ。
 猿野を受け止めながらも、自分も一緒になって橋の上に転倒してしまった俺は、しこたま背中と腰を打ってついでに猿野にもぶつかられたらしい額を抑え、呻いた。
「この……ガングロ! テメー、もうちっと考えてやれよな!」
 さすがは犬、人類じゃないだけに頭回らないんだな、バカヤロー。散々罵詈雑言を吐き出してくれる猿野だけれど、俺が言いたい事はひとつだった。
「とりあえず……退け、猿」
 いつまでの人の腹の上を占拠してくれてるんじゃない、と下から見上げながら言えば猿野はハッとして、途端慌てて顔まで赤くして俺の上から立ち上がって脇に退いた。俺はそれを待ち、ぶつけたらしい額を抑えたまま上半身を起こす。ぶつけた背中がズキズキと痛む。夜になったら鬱血しているかも知れないと考え、少し憂鬱になった。
「テメーが……悪いんだからな」
「言われなくても」
 今のは俺が引っ張った事が原因だと認め、立ち上がる。ズボンを叩いて埃を払っていると、手の届かない背中の部分は猿野が、何も言わず叩き落としてくれた。少し力が込められていて痛かったが、文句を言う気にもならなかった。
「頭……ヘーキか?」
「……とりあえず」
 赤くなっているかも知れない額をもう一度抑えると、猿野は俯いてそっか、とだけ答えた。右手が忙しなく自分の口元をさすっている。
「ぶつけたか?」
「んぁ? ああ……ちょっと」
 俺が問いかけると、言いにくそうに猿野は口淀み、俺から視線を逸らしてしまう。どこにぶつけたのかは、言ってくれなかった。
 その代わり、俺が気付いた。
 俄に俺の顔が夕日の色に染まっていく。慌ててまた落としてしまっていた鞄を拾い上げ、歩き出す。随分と時間を食ってしまった。路上に伸びる俺達の影は橋の幅を通り越し、欄干の隙間から川へと落ちてしまっていた。
「帰るぞ」
 ぶっきらぼうに言うと、「おう」と猿野は短く返して、二人して歩き始める。
 駅まで、あと徒歩で約八分。
 その間、俺達は一切会話がなかった。

02年4月11日脱稿

白線の夢

 真っ白な地図を広げて
 その先にある色鮮やかな世界を見た瞬間
 僕は決めた
 この世界を
 端から端まで
 歩き倒してみせる、と

「はぁ……」
 既に今日何度目か知れない溜息をつき、テンプルトンはようやく使い勝手も慣れてきた机に頬杖をつく。
 与えられた仕事場は広く、窓も大きくて快適な生活を送ることが出来る。集めた資料は膨大でこれからもどんどん増えていくことだろう。それこそ、今はまだ隙間があちこちに見られる壁の棚からはみ出して床の上に積み上げられるくらいに。
 それほどに、地図を作るという行為は一大行事であるのだ。
 その苦労は計り知れない、精巧に作ろうとすればするほど、必要とされる資料の数は鰻登りだからだ。
 それらを比較し、計測し直し、書き記して行く。単純作業に思われがちだが、この苦労の手間を省くと地図はどんどん不正確で信用なら無いものになって行ってしまう。一瞬でも気の抜けない作業なのだ。
 しかし、だ。
 彼が懸命に足で稼いだ資料を基に作り上げた地図が、たった一晩で無用な産物になってしまうことがある。地図に書かれた町や村、道が消えてしまったりしたときである。
「まただよ……」
 ベレー帽を被った頭を抱え、ついさっき報告されたばかりのハイランド、白狼軍の暴虐な行いを想像し、彼は溜息どころか泣きそうな気持ちを必死に抑え込んでいた。
「こんにちはー」
 彼の目の前にはようやく完成しようとしていた地図が広げられている。しかし、今日明日中には完成を見込んでいたそれは、数日後に延長せねばならない、ここの記されている村がひとつ、昨日の夜に消えてしまったから。
「こんにちはー、テンプルトンー?」
 痛む頭を押さえたまま、今までの苦労を水の泡にしてくれた狂皇子ルカを思い浮かべ、その残忍な笑みに碇を震わせたテンプルトンは、何度も入り口で繰り返される呼び声にさっぱり気づいていない。ノック音はだんだん大きくなり、痺れを切らしたらしい呼び声の主は、部屋の所有者の許可も貰わずドアノブを回した。
「テンプルトン、いないの?」
 がちゃり、という音がやけに大きく響き、はっとなって顔を上げたテンプルトンは真正面にある扉から入ってきた人物とまともに視線をぶつけ合った。
「あ……はい?」
 一瞬呆けたあと、間抜けな声で首を傾げた彼に、入ってきた赤い服の少年も次のリアクションに困ってしまってノブを掴んで扉を開けた姿勢のまま凍り付いた。
「勝手に入って来ないでよね」
 だが、数秒の間を置いて我に返り、咳払いをしたテンプルトンのひとことに扉を閉めてそこに凭れ掛かった少年は唇を尖らせる。
「何度もノックして、呼んだよ」
 聞こえてなかったの? と反対に問い直されてテンプルトンは困った顔をする。そういえば、そんな気もする……。
「考え事、してたから」
 少しの間無言で考え込んで、そして出した結論は結局そんなところでしかない。
「ふぅん……」
 テンプルトンよりも数歳年上のはずの少年が不思議そうな顔をしつつも、扉から背を離して机の方に歩み寄ってきた。テンプルトンもまた、視線を流して彼の姿を追いかける。
「それで、なんの用?」
「用……あぁ、そうだ!」
 興味深そうに書きかけの地図を眺めていた彼が、聞かれてぽん、と手を打った。直後、またしても視線を天井近くに向けたまま動かなくなってしまったが。
「?」
 今度はなんだろう、とその背中を見つめて次の句を待っていたテンプルトンは、
「…………なんだっけ?」
 彼が振り返って自分に向かって聞いてきた瞬間、ずべっ、と机の上に倒れ込んだ。
「君はー! それでも同盟軍のリーダーなのか!?」
 机に鼻をぶつけて赤くしたテンプルトンが、がばっと起きあがって叫ぶ。一方、言われた方の少年は照れたように苦笑を浮かべるのみ。
 ――駄目だ、コイツ……。
 数年前、テンプルトンはこの地よりも南に位置する、今はトラン共和国と名前を変えた国の独立運動に参加していた。その時のリーダーは、少なくとも彼よりは利発で優秀だった。人身を導く手腕に優れ、彼が言ったことは必ず実現できると思わせる何かがあった。
 だが、今テンプルトンの目の前にいる人物はとてもではないが、リーダーの才覚に溢れているとは言えない。何も知らないし、自分の意見を主張しない。軍師であるシュウの立てる計画に反対も意見もせず従うだけの、まるでお飾りだ。
 もし、彼が同盟軍のリーダーに選ばれた理由が、彼の右手に宿っている“輝く盾の紋章”が、かつての英雄ゲンカクの宿していたものだから、というそれだけなのだとしたら。
 彼の意志は、関係ないのかも知れないが。
黙り込んで返事を待っているテンプルトンに、あー、ともうー、ともつかない呻り声をあげて必死に用事を思い出そうとしている同盟軍リーダーのセレン。いっそその滑稽さを笑ってやろうかと頬杖をついたまま彼を眺めていたテンプルトンだったが、机の上に広げたままの地図を見たセレンが「あ!」と先に声を上げたのでやめておいた。
「なに?」
「地図……そうだよ、テンプルトン! 外に行こう」
「は?」
 まったく脈絡の感じられない彼の台詞に間の抜けた事この上ない顔をして見返したテンプルトンは、傍に駆けてきたセレンを見上げる。
「報告は聞いてるよね、昨日……白狼軍が焼いた村のこと」
 椅子に腰掛けたままのテンプルトンの横に立ち、セレンは僅かに表情を翳らせて言う。無論だ、と頷いた彼に、セレンは自分の腕を握りしめると刹那の逡巡の後にこう言った。
「生き残った村人の救出作業と、偵察を兼ねて……一軍を派遣する事が決まったんだ。君もどうかと思って」
 初めの頃の元気さが失われた控えめな、言って良いのだろうかと悩んでいるような口振りにおや? と首を傾げてテンプルトンは彼を真っ直ぐに見上げた。表情の変化からその心内を探ろうとするが、単純に悲しんでいるとも悔しがっているとも、困っているとも判断出来なかった。
 けれど、偵察部隊に混ぜてもらえるのは願ってもないことだった。村の周辺の被害情報は逐一入ってくるものの、矢張り自分の足で訪れて、自分の目で確かめたものの方がよっぽど信頼性に長ける。
「……それは是非、参加させてもらうよ」
 見返したまま告げた言葉の直後、テンプルトンはあることに気づいた。
 セレンは「君も」と言った。「君は」ではない。それに、用事を思い出したときの彼の口振りは一緒に行こう、という部類のものではなかったか。
「ひとつ確認させてもらうけど」
 まさか、の気持ちがテンプルトンの脳裏をよぎる。だって、彼はリーダーだ、この設立間もない同盟軍の、要であり柱の人物だ。
 それを、たかが焼き討ちされた村の救助活動と周辺偵察に行くなんて。
「なに?」
 テンプルトンが考えている事などまったく予想もしないで無邪気に尋ねてくるセレンは、リーダーの自覚など感じさせない少年の顔だった。
「……君も行くのかい?」
「そうだよ?」
 即答。しかもその上、どうしてそんなことを聞くの? と言わんばかりの顔を向けてくる始末。
「どうして」
 シュウは反対しなかったのだろうか。再び痛み出したこめかみを押さえ込んだテンプルトンは、セレンが偵察部隊に参加したい、という言葉を聞いたときのシュウの顔を想像して心底気の毒に思った。
「だって、同盟軍は今人手不足だしさ。ボクは……あんまり仕事がないし」
 セレンが言いたいことは解らなくもない。確かに、同盟軍は拠点を手に入れはしたものの未だ協力者は少なく財政面も苦しい立場に置かれている。傭兵を雇う金もないから、戦力はビクトールが集めてきた連中やサウスウィンドゥ軍の生き残り、そして少し前までは農具を片手に田畑を耕していたにわか兵士の寄せ集め。
 新同盟軍を名に掲げている以上、ハイランド軍の暴虐で犠牲になっている村々を無視することは出来ない。こういった小さな手助けから、後々大きな援助を導き出すことも可能なのだ。
 ラストエデン軍の基盤は未だ脆い。
 柱が一本でも失われたら、呆気なく瓦解するだろうことは、楽に想像がつく。
「だからって、リーダー自らが行かなくても良いだろう」
 周辺にはまだハイランド軍がうろうろしているかも知れない場所に、自分から飛び込んでいくなんて。危険極まりない行為を、あの錬成沈着かつ、利益優先の軍師がよく許したものだ。
「そんなの、関係ないよ」
 むすっとした声で言い返し、不満気な表情を作り出したセレンがひとつ足を踏みならした。
「ボクが決めたんだ、行くって。人では多い方が良いに決まってる」
 本当にリーダーの自覚皆無、なセレンの我が儘とも言える主張に肩を竦め、テンプルトンは椅子を引いた。立ち上がるために机に手を置き、広がられたままの地図を見つめる。
 様々に書き込まれた略図。町、森、道、そして……国境。
 地図上に書かれていながら、実際の大地には存在しないもの。白線を引かれ、こちらとあちらでは世界が変わってしまう国境というもの。
 戦争が始まって、一番地図で変わってしまい、そして今も確実に変わり続けている国境の白線。
 それを地図に書き込んでいるのは、他でもない自分自身だとテンプルトンは理解している。
「軍師殿は了解してくれてるの?」
「フリックさんが一緒だから」
「あぁ……」
 トラン共和国独立の立て役者のひとりである彼が一緒ならば、余程でなければ大丈夫だろうとシュウは判断したのだろうか。それとも、思いのほか融通の利かなかったこのリーダーに折れたのか。
「それにね」
 立ち上がり、地図を丸めて片付けようとしたテンプルトンの背中に、セレンが呟く声が聞こえた。
「ボクは知りたいんだ」
 振り返ったテンプルトンは、自分を見ていないセレンを見つける。彼は窓の方、遠くを見据えていた。
「知りたいって、なにを」
 地図を壁のケースに立てかけてテンプルトンはゆっくりと身体ごとセレンに向き直った。彼もまた、問いかけに気づいてテンプルトンに微笑みかける。
 それは、年頃の少年のものでも、ラストエデン軍を率いるリーダーとしてのものでもない、寂しそうで哀しそうな、微笑だった。
「世界を」
 それだけを告げ、セレンは踵を返す。
「出発は今から2時間後なんだ、あんまり時間は無いけど……ごめんね、邪魔して」
「それは構わないけれど……」
 出発時間が予想以上に早い事に驚くより先に、テンプルトンはセレンのこの笑顔が気になった。
 彼は知っている、こんな風にしか笑わなかった人物を。
 人前では毅然とした態度を崩さなかった青年だったけれど、ひとりきりになった途端彼は今にも泣きそうな顔をしていた。いつも、彼は見えないところで苦しみ悲しんでいたに違いない。
 複雑な気持ちを覚える。
 去っていく背中を見送り、テンプルトンは木目が鮮やかな机に視線を落として溜息をついた。

 焼け野原、崩れ落ちた家屋、踏み荒らされた畑。
 焚き火の煙が空に白の線を描いて上っていく。小さな炎の回りで人々は暖をとり、僅かに残った食料を分け合っていた。
 救援物資を届け配り終え、汗を拭いたテンプルトンは廃材を寄せ集めてなんとか風雨を避ける為の小屋を造っている一団に眼を向ける。レイクウィンドゥ城から派遣されてきた兵士達のうち、フリックの率いる約半数は村の近辺警護に向かった。残りの半数は、けが人の手当や家屋復旧に汗を流している。
 そのメンバーの中にさっきまで加わっていたセレンの姿が、今は見当たらなくて首を捻る。
「何処行ったんだろ」
 ぽつりと呟き、テンプルトンは木材を運んでいた男に近付いた。
「セレンは?」
「リーダーでしたら、足りない工具を取りに行かれましたよ」
 工具類もすべて、レイクウィンドゥ城から持ち込んだものだ。数に限りがあるからあちこちで使い回すしかなく、向こうで使っていたものが必要になったら誰かが取りに行くしかない。
「そう……」
 だったら、こことは反対側に行ったのだろう。あちこちで聞こえてくる槌の音を聞きながらテンプルトンは、おおよその位置を検討つけて歩き出した。
 聞きたいことがあった。
 セレンの言っていた“世界”とは、こんな焼け野原にされてしまった場所のことなのかそれとも、もっと広く果てしないテンプルトンが見続けている“世界”の事なのかどうか。
 テンプルトンの目の前に広がる光景は、決して綺麗とは言えない。復旧作業も材料が足りなくてなかなか上手く行かないでいる、人々はいつまた白狼軍が襲ってくるか知れない恐怖に怯えながら片寄せあって生きていかなければならない。
 それが戦争のもたらす現状だ。
「…………あ……」
 表面が高熱で炙られて焦げ、豊かに茂っていたはずの枝も一枚の葉を残すことなく炭になってしまっている、恐らく村のシンボルだったのだろう古木の足下に。
 探していた人物を見つけ、テンプルトンは歩みを止めた。ふたりの距離は約十歩分、彼は背中を向けたままでテンプルトンの接近に気づいていないと、思われたが。
「ボクはね」
 こぼれ落ちた囁きは、風に乗ってテンプルトンに運ばれる。
「ずっと知りたいと思っていた」
 懐かしい故郷へ帰る日の前夜、突如降りかかった悪夢。死にたくなかったから、逃げ出して故郷の町に帰ることだけを夢見た。助けてくれた人たちを裏切ってまでも、昔に戻れるのならそれも許した。
 けれど、気がつけば自分はまた戦場に戻ってきている。
 故郷を裏切った形で、故郷に弓引く一団を率いている。
 何故、と。
 自問する夜が続いて、答えは今も見付からない。
「リューベの村、トトの村……ボクはこの村のように白狼軍に襲われた村をいくつも見てきた」
 その度に思っていたことがある。
 戦場に立ち、敵を前にする度に思うことがあった。
 何故、争うのだろう。どうして闘いが起こるのだろう。
「それは……」
 答えられず、テンプルトンは足下に視線を落とした。これがビクトールだったりフリックであれば、なにか気の利いた台詞のひとつも言えるのだろうけれど、テンプルトンはまだ子供で、了見の幅が大きく違いすぎる。
 そしてそれは、セレンも同じこと。
 どうして、何故が先に立つ。そこに囚われてしまうとなかなか抜け出せず、迷い道を見失いがちになる。
 だから旅立つとき、シュウはセレンにこう言った、考えるな、と。
 けれど考えてしまう、悩んでしまう。こうして生きていることの意味、争いが無くならない現実と死んでしまった人たちを悼む慟哭の声。
 セレンは、本当はユニコーン部隊が全滅したあの夜、死んでいたはずだ。それが今もこうして生きている。生き残ってしまった、沢山の友を失っても尚、生き続けている。その上、今ではもうひとりの生き残りである親友も傍にいない。ここでこうして、同盟軍を率いる存在として生きる理由など、本当はないのかもしれない。
 ハイランドの猛攻は止まらないし、それをくい止めようとする各都市の力は協調性を欠いて無力だ。対抗するために立ち上がったラストエデン軍の力も、白狼軍とは比べものにならないほど脆弱。それでも人は抗う事をやめない。
 どうしてだろう、涙が出てくるのは。
「見てよ、この木」
 焼けこげ、朽ち果てたようにただ立っているだけの古木に表面に触れ、炭になった幹の表面を手で擦る。
「こんな風になっても……まだ生きてるんだ」
 すべての葉を失っても、枝が焼かれてボロボロになっても、表面が炭に覆い尽くされても。猛火の中でなお、この古木は懸命に生きることを諦めなかった。
 村人も同じだ。多くを失いはしたが、彼らは生きることを自らの手で放棄していない。兵士達に混じって働けるものは斧を、鋸を持って立ち、汗を流しながら少しでもかつて野村の姿を取り戻そうと頑張っている。
「思うんだ、最近」
 そっと古木の幹に顔が汚れることも構わず頬を寄せ、セレンは静かに目を閉じた。
「何を」
 一歩、彼の方へ歩み寄ってテンプルトンが尋ねる。目を開けた彼は木に凭れ掛かったまま彼に振り向き、微笑んだ。
 それは、先日テンプルトンが自分の仕事部屋で見た笑顔とはまるで同じようで違う、優しさと決意に満ちた微笑だった。
「争いが起きるのは、国境があるからなんじゃないかって」
 この世界は広い、何処までも広く続いている。山があれば谷もあり、森があって平野があり、海と湖、川が流れて起伏に富んだ様々な顔を持っている。
 そこに境目など無い、大地はひと繋ぎで広がっている。それを区切っているのは他でもない人間だけ。
「え……」
 目を見張り、テンプルトンはセレンを見返した。
「だから、……夢話だって言うかも知れないけど、そうなれば良いなって思うんだ。いつかこの世界から国境が消える日が来るって」
 それは本当に絵空事でしかない夢物語かもしれない。けれど国境という見えない線が人の心にも同じように線を作ってしまっていることは、紛れもない事実だ。
 人の心にある垣根が、国境という見えない壁を生み出している。それもまた、変えようのない真実。
「前にシュウに行ったらさ、怒られちゃった。もっと真面目に物事を考えろって」
 セレンにしてみれば、本気の言葉だったのだろう。けれど現実を知っている分、シュウはそれがどれだけ実現不可能で困難なことか考えなくても理解できてしまった。セレンだって、本当は気づいているはずだ、自分の言葉の荒唐無稽さに。
 でも、それはとても大事なことではないだろうか。
「僕は……笑わないよ」
 今回ほど、新しいリーダーはバカなのだとはっきりと認識した事はない。
 くしゃり、と髪を握って胸の奥からわき上がってくる笑いたくて泣きたい気持ちを抑えながら、テンプルトンは更に歩を進めてセレンの傍にまで近付いた。
「だって、僕が先に……君の夢を実現してみせるからさ」
 黒こげになりながら、それでも生きている古木に同じように手を振れ、テンプルトンは眩しく光を降り注ぐ太陽を見上げた。
「僕の書く地図から、国境を消してしまうから」
 そうだ、本当はそんなもの必要ない。この広い世界を見渡してみればいい、国境なんて言う白線は何処に引かれているというの?
「……ありがとう」
 一瞬テンプルトンの言葉を理解しきれず目を丸く見開いて驚いていたセレンも、すぐに彼の台詞の優しさを知って嬉しそうに笑った。

何処までも続く地平線を見て
この世界の広さを知った
何処までも青い空を見上げて
この世界の優しさに気づいた
何処までも無限の海を見据えて
この世界の暖かさを思い出した
そして
人間の小ささを痛感した
この大地をどうやって区切るというのだろう
この世界をどうやって分かつというのだろう
ずっと忘れていたことをようやく思い出した
そうだ、僕は世界を見てみたかったんだ
地図を作るために世界を巡るのではなくて
世界をもっと沢山の人に見て感じて欲しいから
その為の道しるべを作りたくて
歩き続けてきたんだった
そこに国境線は必要ない
ただ果てのない夢があればいい
諦めない夢があれば、それでいい

甘い休日

「これあげる!」
 そう言って両手いっぱいに抱えていたものをマグナに押しつけて、褐色の肌をした少女……と呼ぶには少々年齢がアレであるが、ずっと人里離れた場所でひとり暮らしていた分幼さが充分に残っているルウは勢いよく駆け出した。
 風のような素早さで、あっという間にマグナの視界から消え去った彼女が目指す場所は、簡単に想像が付いた。今、本当についさっき彼女に自分が告げた言葉から類推するに、どう考えても大通り沿いに先だってオープンしたケーキ屋しかない。
 ルウは本当にずっと、人目を忍ぶようにして旅人すら滅多に訪れることのない深い森の入り口で暮らしていたから。街中にごく自然に溢れている甘いものも、彼女は今まで殆ど口にしたことがなかった。
 なにせ甘味料さえ手に入らないのである。せいぜい木の実程度しかおやつになるものを知らなかっただろう彼女にとって、そこいらに売られているちょっとしたものも珍しく映るのだ。
 そして世間知らずの彼女が一番気に入ったものが他でもない、今マグナが両手から溢れ出しそうな程に抱えている、菓子だった。
 ケーキが誕生日などのお祝い事がある日でなければ食べてはならない、と思いこんでいた彼女の世間知らずぶりにも驚かされた彼だったが、それ以上に今自分がプレゼントいただいた分量をひとりで食べきるつもりだった事の方が驚きの分量は大きい。
 マグナとて子供時代はあったし、甘いものに代表されるおやつは大好きだった。一日三食がおやつで在ればいいとさえ思った時期もある、だがそれも昔の話だ。
 大きくなるにつれて、甘味が強いものはあまり胃が受け入れなくなっていった。甘ったるく舌の上に残る感触が宜しくないことや、食べ過ぎると腹が重くなるというのがその理由の大半を占めている。あとは、買って食べるだけの金銭的余裕がないという至極現実的な理由もある。
「どーしよ、これ」
 本気で困り顔になり、マグナはやや茫然と自分の両腕と胸に挟まれている狭い空間を見下ろす。山盛りの菓子類はちょっとでも動けば崩れてしまいそうで、迂闊に動けない事も相当彼を悩ませた。
「おやおや、色男が台無しだよ?」
 一連の動向を見守っていたらしい、下町商店街に並ぶ屋台のひとつを切り盛りしている恰幅の良い女性がコロコロと笑いながら話しかけてきた。手に、商品を入れるときに使っていると思われる紙の袋を持っている。
 それをマグナの前で広げ、彼女はそこに入れなさい、と顎で彼が抱えている菓子を示した。
「あ、はい。有り難う御座います」
 素直に好意を受け取ることにして、マグナは少々重く感じ始めていた菓子を彼女が口を広げてくれている紙袋に少しずつ落とし込んでいった。バラバラと、軽い音を立てて大量のお菓子が紙袋の底を膨らませていく。
 結局、マグナの上腕ほどの深さがある紙袋の半分近くまで、ルウがくれたお菓子はあった。大量、である。それこそ彼女がどうやってこの菓子を買い、代金を支払ったのか謎に思えてしまう。
「虫歯になりそう」
 間違っても底が抜けて仕舞わぬよう、両手でしっかりと紙袋を抱えたマグナはこれを自分ひとりで処理するのかと考え、憂鬱な気持ちに駆られた。
 甘いものは嫌いではない、好きな方だ。だが量が多すぎる、とても自分ひとりで処分できる数ではない。それにルウが選んだものは見た限りどうも非常に甘いものばかりのようで、マグナでなくとも渡されたら嫌気を覚えたに違いない。
 紙袋を分けてくれた女性に頭を下げて礼を告げ、ひとまずマグナはこの場を立ち去ることにした。だが、足は今仮住まいとしているモーリンの屋敷ではない方向へ進んでいく。
 なぜなら、彼は非常事態により城門が閉鎖されてしまっているファナンを出て北へ向かわなければならないからだ。
 デグレアの猛勇は、金の派閥の議長たるファミィ力で退けることが出来た。だが敵の軍勢は未だ留まり、体勢の立て直しを計っている。それが完了し次第、ルヴァイドは再びこの街へ侵攻するだろう。
 根本的な解決にはなっていないのだ。
 だから、その根本的な解決方法を捜すために彼らは敵国へ侵入する事に決めた。戦うためには、敵を知る必要があることに気付いたからだ。
 彼らが何を望み、何を目的とし、何を企んでいるのかを知るために。それが分かれば、対抗手段を考えることも、ともすれば和解の道を模索することだって出来るようになるかも知れないのだ。
 戦いは出来る事ならば避けて通りたい。誰だって、誰かを傷つけたいと思っているわけではないのだから。
 同じ人間なのだからきっと分かり合える、分かり合えなくちゃいけない。言葉が通じるのだ、想いを伝える手段を持っているのだ。暴力で自分の行いを正当化しちゃ行けない、それは逃げの行為でしかない。真正面から、本音を語り合ってちゃんと分かり合いたい。
 だから、逃げないために前へ進むために、今彼らは北へ向かおうとしている。
 閉鎖されてしまった城門を開けてもらい、外へ出るには閉鎖を命じた人の許可が必要になる。だからマグナは、一団の代表としてその人物に会いに行く途中だった。
 その道すがらで、ルウにばったり出くわし、立ち話をするうちのケーキの話題に事が向かってそしてこの結末だ。
 抱えた菓子の袋がずっしりと、実際以上にマグナは重く感じられる。
 寄り道はするな、と先にネスティに釘を刺されての出発だった。寄り道をした覚えはないが、結局それに近い状態に陥ってしまっている。今、出てきたばかりの道場にそのまま踵を返して戻る事は気分的に憚られた。
 ネスティに見付かると、絶対に小言を言われるに決まっている。他の面々も呆れるだろう、菓子の処分には困らないだろうがその分、自分の心が痛く傷ついてしまうはずだ。
 だからそれは避けたかった。分かっているのにみすみす傷つく事をするべきではない、自分の本能がそれを告げている。
 スタスタと狭い道を歩き続けるとやがて大通りへと道は合流し、人通りも増えにぎやかになった。噴水を中心に広がる小さな公園を突っ切り、行き交う荷馬車を避けながら通りを抜けるともう、目の前には金の派閥本部が見える。
 建物の間から聳えたって見える外観は相変わらず何度見ても派手だ。金色がそこかしこに散りばめられ、自分の派閥がなんであるかを声高らかに宣言しているように見える。モーリンが好きになれない、と言った気持ちも分からなく無くてマグナはこの建物を見るたびに苦笑を禁じ得なかった。
 初めて見たときは、この建物にこんなにも頻繁に足を運ぶことになろうとは、予想だにしなかったのに。
 既に顔なじみになってしまった門番へ会釈をすると、鎧を着込んだ兵士も彼に会釈を返してくれた。そして議長は執務室の方にいるだろうから、連絡を付けてやろうとさえ言ってくる。
 恐るべきは、議長のひとり娘とオトモダチ効果、か。こんな言い方をしたらきっと、その一人娘であるミニスは嫌がるだろうけれど。
 さほど待ち惚けを喰らうことなく、マグナはやってきた秘書係の女性に案内されてファミィの居る執務室へ連れていってもらえた。彼女は忙しそうに書類の山に身を埋めていたけれど、訪ねてきたのがマグナだと予め知らされていたらしく、にこやかな笑顔で迎えてくれた。
 そして、先客までもが其処に居た。
「あれ、マグナじゃない。どうしたの?」
 山積みの書類に隠された机の向こうに広がる応接セット。そのひとつ、ふかふかのクッションが利いたソファにちょこん、とミニスが座っていた。部屋に入ってきたマグナに気付き、両足を伸ばして前屈みになっている。
「ミニス……?」
「恐らく貴方と目的は同じだと思いますよ?」
 もう少し待って下さいね、とファミィが穏やかな表情を崩すことなく猛スピードで書類を処理していく。何が恐いかといえば、彼女がその書類一枚一枚をきっちりチェックし、分類し、対処を書き込み、判を押し、それぞれ部署が違うだろう行き先をいちいち指示して持って行かせている事、だ。
 見ている方が頭を混乱させそうになる。
 姿勢を戻し、ソファに座り直したミニスに手招きされたのでマグナはそちらへ進み、空いているソファに腰を下ろした。その間もファミィの手は休むことなく働き続け、これで終わり、というところまで来た合図として彼女はぱんぱん、と両手を叩く。
 そしてやって来た秘書官に最後の書類の束を手渡し、紅茶と菓子を持ってくるように言った。程なくしていい香りを漂わせる紅茶と、甘さも控えめながら上品な味の焼き菓子が運ばれてきて、マグナ達が座っているソファ前に鎮座するテーブルに並べられた。
 それを眺めてから、マグナはちらりと自分の脇に小さくなっている紙袋を見る。どう考えても品格が違う、対抗しようにも最初から負けているような菓子を此処に持ってきてしまったことを少しだけ後悔した。
 よければ皆さんで分けてください、なんて言いながらファミィに手渡そうかと思っていたのだが、この時点で既に挫けてしまった。普段からこんな高級菓子を口にしている彼女達が、下町の商店で売られているような菓子を食べるはずがない。きっと、ファミィは悦んで受け取ってくれるだろうけれど。
 なんとなく、それでは惨めだった。
「ねぇ、それなに?」
 紅茶のカップを両手で挟み持ち、手を温めながら飲んでいたミニスがマグナの視線に気付き、紙袋の存在に首を捻る。仕事机から移動してきたファミィも同じように小首を傾げ、マグナの返事を待っているようだった。
「あ、いや、これはその……」
 どう言えば誤魔化せるだろう。本当のことを言ってもミニスは兎も角としてファミィは呆れたりしないだろうけれど、どうにも言い出しにくくマグナは苦笑したまま、来る途中で衝動買いしたもので見せる程のものではない、と嘘をついた。
「ふーん」
 かりっ、といい音を立ててミニスは焼き菓子のひとつを割った。その片方を口に放り込み、もう片方は持て余して隣に座っているファミィへ差し向ける。だが彼女の母親はやんわりと首を振ってそれを断った。
 どうしよう、と一瞬逡巡したのだろう。人差し指を顎の辺りにやった小さなレディは、結局少し離れた位置に居たマグナにそれを差し向けてきた。
「ありがとう……」
 そうこうしている間に、ミニスは口に放り込んでいた方をすっかり食べ終えて呑み込んでいたはずなのに。次第に小さくなっていくミニスの口の動きを観察していたマグナは、渡されたものを反射的に受け取ってしまいつつ苦笑い。
 ちらり、とファミィを見ると微笑ましい表情で彼女はふたりを眺めているばかりだ。上品に両手を使ってソーサーとカップを持ち、静かに紅茶の味を楽しんでいる。
 昼過ぎの優雅なひとときを金の派閥本部で過ごしたマグナは、快く必要な書類を用意してくれたファミィへ丁寧に礼を告げ、頭を下げて席を辞した。
『これを、城門を警備している兵士に見せてください。話は通しておきますので』
 通行証を手渡すとき、ファミィはミニス、そしてマグナと順番に真正面から顔を見つめてそう言った。マグナに封筒に入った証書を渡すとき、微かだったがその手は震えていたように思う。
 大切な愛娘を敵地の中心へ送り出さねばならない、その辛さを現しているようでマグナはこの時、必ずミニスは無事彼女の元へ連れて帰ってくると密かに誓った。
 誓わずにいられなかった。
 こんなにも小さいのに、いつも一所懸命で前を向いている。最初はささやかな関わりだけだったのに、いつの間にか事態は予想しなかった方向へ急転直下を見せて行った。捜し物を見つけだす、その理由が失われた以上本来ならミニスは、母親という腕の中に帰すべきだったのだろう。
 誰もが危惧している、この戦いは危険すぎて彼女を巻き込むことは危険極まりないと。
 戦いを本業にしていたり、今更退けない理由を持っているものたちとは彼女は違うのだ、無理についてくる必要性を彼女は持たない。
 それでも、ここまで関わってしまった以上「はい、さようなら」で終わらせるのは嫌だと彼女は言い張り、ファミィもそれを許した。
 友達が苦しんでいる、悲しんでいる。それを理由にしてはいけないのか、問われれば首を横に振って否定するしかない。元々、マグナだってそんなささやかな理由からこの戦いに関わりを持つようになってしまったわけなのだから。
 自分の力になれることがあるのなら、それをやってのけたい。友達が哀しい顔をしているのは嫌だもの、気丈なまでに真摯な瞳で語ったミニス。幼いのに、ずっとしっかりとした考えを持っている、それは母親であるファミィの影響だろうか。
 そう考えると、両親を知らないマグナは少しだけうらやましさを彼女に抱いてしまう。自分には、叱ってくれる人も褒めてくれる人も居なかった。
 最初から居なかったものと思えば、自分を捨てたのか捨てざるを得なかったのか分からないけれど、傍に居てくれない両親を恨む気持ちにもなれなかった。それはマグナの心からの本心だ。
 存在も知らない相手を恨んだり憎んだりする事は難しい。空っぽの箱を蹴り飛ばしても虚しいだけ、その気持ちに似ている。
『貴方達の武運を祈ります。そして、ちゃんと無事な姿をまた私に見せてくださいね?』
 そっと包み込まれた両手に暖かさを感じながら、ファミィが最後に告げた言葉にマグナは深く頷いた。その表情に彼女はとても嬉しそうな笑顔をくれて、益々自分たちの行動が自分たちだけでない多くの人たちに関わるものなのだと気が引き締まる思いだった。
『行ってきます、お母様』
『ミニスちゃんも、頑張ってね』
 短かった親子の会話を横で聞きながら、自分が立ち入ることの出来ない空気をそこに感じてマグナは少しだけ寂しくなる。
 自分がもう少し若ければ一緒についていったのに、という彼女の言葉は冗談で片付けられてしまったけれど、きっと立場が許せば彼女は同行を望んだ事だろう。
 帰り道、夕食の買い出しで賑わう街を歩くふたりはしばらく無言だった。
 出発の準備は総て道場の方で行っている、だからミニスも必要な道具などは全部そっちに持って行っているから、帰る先はマグナと一緒だ。人混みをかわして、噴水広場まで来たところでふと、ミニスが立ち止まった。
 数歩先に進んでしまったマグナが気付き、戻ってくる。どうしたんだ、と俯いている彼女に膝を軽く曲げて尋ねかけると、ミニスは言いにくそうに視線を足許に泳がせた。
「あのね、マグナ」
 どうも立ち話ではしにくそうな雰囲気を感じ取り、周囲を見回してちょうど空いたばかりのベンチを見つけ彼はそちらに行こう、と彼女を誘う。素直に応じてくれて、三人掛けのベンチにふたり、腰を落ち着けさせた。
 金の派閥本部で座ったソファとは比べものにならない硬さだけれど、ベンチにふかふか感を求めるのは酷だろう。抱えていた紙袋を置いたマグナは、そのベンチに浅く腰掛けたミニスを見る。
「で、なに?」
 急かすつもりはなく、彼女が言い出すまで待つつもりでマグナは脚を組み、その上に肘を置いて頬杖をついた。
 にぎやかなファナンの大通りは人通りが多く、子供の手を引いて買い物をする母親の姿も多く見られた。普通の家庭に育っていれば、自分たちもそんな子供のひとりだったに違いないが、生憎と両者共に普通の家庭では育たなかった。
 家族と、親と買い物に行って何かを買って欲しいと我が侭を捏ねた経験も残念ながら持っていない。
「あのね、マグナ。ええっと、ね。…………私って、邪魔?」
「はい?」
 ほのぼのとした光景を眺めて気持ちが和みかけていたマグナに、不意打ちのようなミニスのそれなりに真剣で必死な声。思わず間抜けな声を返してしまい、一緒に向けた視線の先に泣きそうなのを懸命に堪えているらしい彼女の顔。
「どうしたんだよ、ミニス」
 そんな突然、そんな事を言い出すなんて。
 訳が分からないと困惑の表情を隠せずにマグナは問い返し、ぶぅ、と頬を膨らませたミニスはまた哀しそうな顔をする。
「だって、本当だったらマグナだって、私なんかよりもお母様が一緒に来てくれる方が心強いでしょ?」
 早口に捲し立て、必死の形相でマグナに詰め寄ってくる彼女の言葉を聞いてようやく、マグナは「ああ、そうか」と合点がいった。
 冗談とマグナが受け流したファミィの言葉を、彼女は真剣に考えて悩み落ち込んでいたらしい。
 確かにあれ程の高等召喚術をあっさりと使いこなし、黒色の絨毯のように草原に陣取っていた黒の旅団を駆逐してしまった彼女の助力が得られたら、これほど心強いものはないだろう。
 だ、が。
 彼女の存在は今やファナンにとっての要であり彼女はだからこそ、此処を離れることが出来ない。許されない、彼女はミニスの母親であると同時に、ファナンを守る中心の柱であるから。
 だからこそ、大切な愛娘を頼むとマグナの手を握ったのだ。
「大丈夫だよ、ミニス」
 君の力は充分仲間達の支えになっている、とマグナは笑顔を作って彼女の髪を撫でた。
 少しクセのある鮮やかな金色の髪が、マグナの手の平で踊る。驚いた顔をして彼を見上げてくるミニスに微笑みかけ、
「邪魔なんかじゃない、ミニスは。むしろ俺達はいつも、君のその明るさに助けられている」
 ともすれば暗くなりがちな空気を、明るい声でうち破ってくれる。頑張らねば、と思い出させてくれる。
 そう言うと彼女は意味をはき違えたのか、むっとした顔を作った。
「それって、私が何も考えてない脳天気で足手まといって事?」
「まさか」
 今日は随分と卑屈な考え方をしているミニスを珍しいと思いつつ、マグナはまたもう一度彼女の頭を撫でてやった。
「だって、私なんかよりお母様の方がずっと凄い召喚術が使えるし、頭だっていいし、みんな頼りにしてるけど」
 母親が偉大すぎると、どうしても比較されて自分のみそっかすぶりが際立つのだろうか。自分で言っていて益々落ち込んでいくミニスに、どうしようかと思案したマグナは崩した足の太股に紙袋がぶつかって、その存在を思い出した。
 ガサガサと閉めていた袋の口を広げ手を突っ込む。適当に掴みだしたお菓子は甘いチョコレートで、キャンディーのように一個ずつ包装されているものだった。
 マグナは手の平の上でそれを転がし、俯いてしまったミニスの目の前に差し出す。
 パステル調の色使いをした包装紙にくるまれたチョコレートに、一瞬目を見開いたミニスは顔を上げてマグナを見返す。そして口が開けられた紙袋に気付き、中身がお菓子の山であることを察した彼女は一瞬にして表情を呆れたものに変えた。
「まさか、衝動買いしたものって、それ?」
「いや、これはその……本当は、ルウに」
 押しつけられたんだ、とごにょごにょと告げると途端、ミニスはぷっ、と吹き出した。
 それまでの落ち込みムードが一変して可愛らしい笑い声がその場に木霊する。つられてマグナも照れ笑いを浮かべながら笑いだし、しばらくふたりとも、そうやって笑い続けた。
 結局はチョコレートどころか、ルウがくれたお菓子は紙袋ごとミニスの膝に収まる事に。彼女から、道場にいる女性陣と分けっこして全部食べきってみせるという約束を取り付けたのだ。
 デグレアまでは遠いから、その道すがらのおやつにするのも良いかもね、と笑って彼女は機嫌良くチョコレートを口に放り込む。はい、とマグナにも同じものを手渡してミニスはベンチから降りている両足を前後に揺らした。
「あのさ、ミニス。さっきの続きだけど」
 中断してしまっていた先程までの会話、ミニスは決して邪魔者でも役立たずでもないという話。そこに戻したマグナは包み紙を丁寧に剥ぎ取り、出てきたチョコレートをやはり手の平の上で転がした。
「……うん」
「俺さ、ファミィさんが出してくれる焼き菓子とか美味しいから大好きなんだけど」
「はぁ?」
 口の中で溶けていく甘いチョコレートを呑み込んで、構えていたミニスはけれど全然内容の違っているマグナの言葉に素っ頓狂な声を出す。その調子を彼は微かに笑って見送り、手の上にあるチョコレートを摘んで彼女の顔の前に差し出した。
 食べろ、という事か。
「うん、それで?」
 手が退けられる様子が無いことを少し待ってみて確認し、観念してミニスはぱくっ、とマグナの手からチョコレートを直接口で受け取った。もぐもぐと咀嚼すると、少し熱で溶け掛かっていたチョコは簡単に形を崩していく。
「でも俺はどっちかというと、こんな風にもっと気軽に食べられるお菓子の方が、好きかな」
 ごくん、と呑み込んだチョコレートの甘さにか、それともマグナの言葉に対してか。ミニスは眉間に皺を寄せた。
「私、そんなに安物じゃないわ」
「分かってる。ものの譬え……が悪い?」
「うん」
 帝国産の高級菓子と、下町商店街に分量幾らで売られている菓子とで引き合いにされたら、ミニスでなくとも怒るだろう。反省したのか、ぽりぽりと頭を掻きマグナはう~ん、と唸ってじゃあ何がいいのだろう、と真剣に悩みだした。
 また可笑しそうにミニスが笑う。
「でも、けど、うん。ありがと、マグナ」
 言葉を紡ぐ間もいくつかの逡巡が頭を過ぎったのだろうが、自分で納得出来る答えを見つけたのだろう、トン、と両足を揃えてベンチから立ち上がりミニスは振り返ってマグナに微笑んだ。
「かえろ?」
 紙袋を小さな胸に抱きかかえ、まだベンチの上に悩んでいる彼に言う。言われた方はしかし不満顔で、今度は彼がぶつぶつ言いながら立ち上がる番だった。
「もう。いつまでもうだうだしてないの!」
 そんなのちっともマグナらしくないよ、と力任せにマグナの背中を叩き、彼女は歩き出す。そして五歩ほど先を行った場所で立ち止まり彼を待った。
「さっさと帰って、通行証もらえたことみんなに報告しなきゃ駄目なんでしょー?」
 すっかり忘れかけていた、自分が出かけた目的を彼女に指摘されてマグナはまた頭を掻く。道場を出てからかなり時間が過ぎてしまっている、ネスティの小言を食らうこと必至だろう。
「うわ、やばいっ!」
 思い出して焦るマグナをカラカラと笑い飛ばし、ミニスは走り出そうとするマグナの手を、取った。
 え、と一瞬動きが止まったマグナをあの大きな瞳で見上げる。
「ほら、早くしないと晩ご飯も全部食べられちゃうんだから」
「それは困る!」
 フォルテあたりなら平気でやりかねないことを言われ、益々焦ったマグナはミニスの手を握り直すと駆け出す。一歩遅れてミニスがそれに続き、ファナンの大通りにふたつ並んだ影が伸びて消えていった。

あの風に乗せて空へ・2

 エドスは言った。屋根裏部屋にあるものは好きに使ってもいいと。
 昔から探検ごっこが好きだった。海賊ごっこも実はやったことがあるし、トム・ソーヤに憧れていとこ達と田舎の林へ死体を探しに行った事もあった――って、これは違うか。
 古い蔵を漁って、祖父にこっぴどく叱られたのはいつの夏休みだっただろう。もう長いこと田舎に帰っていないけれど、元気でいるだろうかあの頑固じじいは。
 埃臭さに顔をしかめながら、乱雑に置かれた木組みの箱の中身をわくわくしてのぞき込むあの一瞬が溜まらなく気持ちよかった。結局蔵の中を荒らし回っただけで、もう二度と中に入れてもらえなくなったんだけれど。
「兄ちゃん、何やってるの?」
 俺が屋根裏部屋でごそごそと家捜しを初めてすぐ、耳ざとく俺の行動を聞きつけたらしいアルバがひょこっ、と小さな頭をのぞかせた。その目はすでに何か面白いことをしているに違いないという、興味津々という思い出キラキラ輝いていた。
「ん? 何かないかなぁ、って思ってさ」
 エドスが修理していた椅子とかではなく、もっと他の、例えば俺も子供達も遊べるようなものがきっとあるはずだと俺は踏んでいた。
「ふーん」
 よいしょ、というかけ声と共に屋根裏に登ったアルバは、俺の横に来て今俺が漁っている端の壊れた木箱をのぞき込む。
「何かって?」
「さぁな」
 探したいものなんて特に決めていない。ただ楽しいものがあればいいな、と思っている。もっとも、今のところ発見できたのは何に使うのかよく分からない伸びきったスプリングだったり、ほつれだらけの毛布だったり、埃まみれの腕が取れた人形だったり。
 ここは不要品置き場か? と苦笑してしまいたくなる。
 足の取れた椅子をかき分け、俺は更に奥へ向かう。埃が立ちこめてきたので、アルバは俺から離れて反対方向にある窓を開けに行った。
 冷たい風が吹き込んできて、差し込んだ日差しのまぶしさに一瞬目がくらむ。そういえば今日は気持ちのいいくらいに快晴だけれど、風がやけに強くて洗濯物が飛ばされてしまう、とリプレがぼやいていたのを思い出した。
「兄ちゃん」
 屋根裏部屋の奥の方でぼんやりとしていた俺を、アルバがつつく。
「ん?」
「これ、何?」
 我に返って視線を斜め下に向けると、アルバはどこから引っぱり出してきたのか白い、少し大きな紙を持っていた。細い木の枠に貼り付けられた紙、それに俺は見覚えがあった。
 正四角形とは違う、どちらかといえば台形の紙の中心部には細い糸が繋がれていて、先は部屋の片隅に伸びていた。よく見れば糸を巻いた芯棒が転がっている。
「へぇ……こっちの世界にも凧なんてあったんだ」
「タコ? これ食べられるの?」
「いや、その蛸じゃなくて……」
 純粋に問い返されて俺は苦笑する。なんと説明をすればいいのかすぐに思いつかず、俺はアルバから凧を受け取ると空を指さした。
「空に飛ばすんだ」
 今日みたいな風の強い日ならば、さぞかし高くまで登ることだろう。強すぎて、逆に辛いかもしれないけれど。
「ふーん」
 凧を下から眺めながらアルバが不思議そうな顔をする。やはり説明がまずかったのか、いまいち理解できていないようだ。
「なんなら、今から飛ばしに行くか?」
 だが言ってから、俺は気付いた。
 握っていた骨の部分が変な方向に曲がってしまっている。少し力を込めたら、本来あり得ない形で凧は折り畳まれてしまった。
「あちゃ」
「兄ちゃん……」
 非難の目でアルバが俺を見たが、どう考えてもこの凧は最初から壊れていた。俺が壊したんじゃない、断じてそれはあり得ない! ……気付かなかった俺も間抜けだけど。
「あ、でもこれくらいだったら俺でも直せるかも」
 もともとそんなに凧の作りは難しくない。小学校時代に手作りの凧を飛ばしたことだってあるし、部品さえ揃えば新しく凧を作ることも可能だろう。この凧は、骨組みさえ補修してやればそれでいい。
「下に行こう」
「飛びそう?」
「なんとかなるって」
 ぽん、とアルバの頭を叩き、俺は一足先に屋根裏部屋から脱出した。

「なあに? それ」
 広間ではフィズとラミがクレヨンを手にお絵かきをしていた。リプレは昼食の準備らしく、台所をのぞくと忙しそうに動いているのが見えて声をかけるのに気が引けてしまう。
「タコだって」
「タコ? 食べられるのこれ?」
 アルバの説明に、アルバと同じ事を問い返すフィズにまた失笑してハヤトは庭に出た。凧の補強に使う木を探すためだ。
「細い枝……っと、これなんかいいかも」
 薪用に拾ってきた枯れ木の中から手頃な太さと堅さを持っている枝を引っぱり出し、ハヤトは広間に戻る。するとまだアルバは必死になってフィズ達に凧の説明をしている最中で、でもアルバも実際に凧が揚がっているところを見たことがないから、どうしても話が混乱してしまうらしい。泣きそうになっていた。
「にいちゃぁ……」
「はいはい。男なんだから、こんなぐらいで泣いてたら格好悪いぞ?」
「うん……」
 優しくアルバの頭を撫でてやると、ハヤトは今拾ってきた枝を床に置いた凧の折れた骨の部分に並べてみる。
「少し太いか」
 木の枝だけを見たときはちょうどいい感じだと思ったのだが、実際に並べてみると案外そうではなくてハヤトはどうしようかと首をひねる。
「削るか……」 
 かといってこれ以上細い枝では弱くなってしまう可能性もあって、仕方無しにハヤトは自室からナイフを持ってきた。場所も、広間から庭に面する日当たりの良い縁側に移動する。ここなら、木屑が出ても庭に落とせばいいだけだ。
「何をやっているんだい?」
「キール兄ちゃん、あのね、たこ揚げだよ」
 縁側に足を下ろし、ハヤトは持った枝をくるくると回転させながら削っていく。
「たこ揚げ?」
「うん。今ね、ハヤト兄ちゃんが直してくれてるの」
「キールは凧、知ってるのか?」
 キールとアルバ、ふたりの会話を背中で聞いていたハヤトが肩越しに振り返って尋ねる。しかも手はまだナイフを握ったままで。
「一応……本で見たことだけなら。そういう遊びがあるという程度しか知らないけれどね」
「へー。じゃ、やっぱりこれって凧なんだ」
「…………確信があった訳じゃないんだね」
 素晴らしく的確な突っ込みがキールからもたらされ、ハヤトは苦笑いを浮かべた。枝を削るナイフを下ろし、角の丸くなった枝を再び凧の骨に重ねてみる。今度はちょうど良い太さになっていて、ハヤトはナイフを置くと次の行程に移ろうとした。
 だが、やはり難問にぶつかって手が止まる。
「接着剤なんて……あるわけないよなぁ」
「糊ならあるけど」
 ハヤトの横に腰掛けてキールが呟く。
「うーん……それで問題ないと思うけど……」
 今ひとつ自信が持てなくてハヤトは頬を掻く。だが後ろではアルバとフィズがどたばたと走り去り、すぐに糊の入った瓶を抱えて帰ってきた。
「兄ちゃん、これでいいの!?」
「あ……うん。ありがとう」
 これで飛ばなかったら申し訳ないなぁ、と小声で呟いたハヤトに、
「僕も手伝うよ」
 キールが笑って言った。
「どうせなら、全員分作ってみるかい?」
 唐突に彼がそう提案したものだから、にわかに後ろで歓声が上がってハヤトは前につんのめりそうになった。振り返り見ればそこにぬいぐるみを抱いたラミがいて、しっかりとハヤトの袖を掴んでいる。
 何かを期待する眼差し……目は口ほどにものを言うとはよく言ったもので、一番大人しいラミにまでねだられてしまっては、もうこれは、やるしかない。
「キール、責任持って最後までつきあえよ」
 言い出したのはお前なんだからな、と釘を刺してハヤトは立ち上がった。
「紙と紐!」
 いきなり叫んだ彼にみんなは目を丸くするが。
「作るんだろ? 人数分」
「あ、ああ……」
 にかっ、と笑ったハヤトに言われ、それが凧に必要な材料だと思い出したキールも慌てて立ち上がった。
「俺は骨にする木の準備だ。薪を細くしてけば、なんとかなるだろ」
 ここに来てから薪割りも仕事のうちに入っているハヤトだ。最初は不慣れだった斧の扱いも今は手慣れたもので、思い通りの太さにすることも出来るようになっていた。ただ凧に使うような細さまでやったことはないが……。
「ある程度まで細くしたら、あとはナイフで裂けばいいか」
「ねえねえ、私のに絵、描いてもいい?」
 さっきまで使っていたクレヨンを持ってきて、フィズがハヤトに訊く。ラミもその後ろに隠れつつハヤトの返事を待っていて、
「構わないよ。好きなように描いてくれて」
 そういえばこの子達はお絵かきをしている最中だったっけ、と思い出してハヤトは頷いた。途端に「やったー」という歓声には毎度の事ながら驚かされるが。
「なんだか大騒ぎね」
 食事の支度が一段落着いたのか、エプロンで手を拭きながらリプレが様子をのぞきに来る。
「リプレ母さん、あのね、兄ちゃん達に凧を作ってもらってるの!」
「へえ、良かったわね」
「うん!」
 洗濯物が飛んでいないかを確認するため、庭に下りてきた彼女はそこにハヤトの姿を見付けてそそくさと寄ってくる。
「ねえ、ハヤト」
「ん?」
 慎重に、途中で割れてしまわないように薪に斧を入れていたハヤトが手を止めて顔を上げる。
「あのね、ハヤト」
 至極真剣な顔で見つめてくるリプレにハヤトは訝しむが、
「あのタコはいくら私でも料理することは出来ないんだけど……」
「…………」
 どうしてみんな同じ事を言うのかなぁ、しかも真面目に。がくっ、と傾いてハヤトはヒクついた笑みを浮かべることしか出来なかった。

 なんだかんだあったものの、試行錯誤の末ようやく凧は完成した。
 最初に屋根裏で見付けた凧はハヤトが、真っ白のままで骨を補強したのみに終わらせる。そのかわりに、子供達のために新しく一から作った凧には、子供達自らが描いた絵で色鮮やかに飾られている。
「邪魔な建物がない広い場所って言ったら、やっぱりアルク川の河川敷かな」
 そんなわけでハヤト、キールを含め合計五人は連れだってアルク川へ向かった。なんとなく幼稚園の引率の先生になった気分になったのは、ハヤトだけだっただろうが。
「じゃ、先に俺がお手本見せるから。キール、頼むな」
 河川敷に着くと、ハヤトは持っていた凧をキールに預けて自分はその中心から伸びる糸の先を持つ。だがキールは一体どうすればいいのか分からないようで、いきなり凧の本体を預けられたことに困惑している。
「ハヤト、僕は……」
「大丈夫だって。これを高く掲げて持って、俺が合図するまで一緒に走ってくれるだけでさ」
 難しくないよ、と笑ってハヤトは緊張で固くなっているキールの肩を荒っぽく叩いた。一瞬息が詰まって前に傾いだキールだが、叩かれた部分の熱さにそっと手を触れ長く息を吐く。
「分かった。ハヤトと一緒に走ればいいんだね」
「一緒って言っても、並んで走る訳じゃないからな」
 そんなことをしたら無意味で、滑稽すぎるとハヤトはまた笑って言う。だけど実際にたこ揚げをするのはこれが初めてのキールは、彼が何をそんなに面白がっているのかが分からず眉をひそめるに留まった。
「兄ちゃん、早くやろうよ」
 ふたりいつまでも動こうとしないので、アルバがせっついてきた。
「そうよ、ふたりだけでこそこそお喋りするんだったら、他ですればいいのよ」
 フィズまで腕を組んでお怒りの様子で、
「悪い悪い」
 気が付いたハヤトが苦笑して謝る。悪気はなかったのだと両手を合わせて頭を下げる素振りをする彼を眺めて、キールは自分にはそれが出来ないことを実感してしまう。
 そうだ。自分たちはこんなにも今まで生きてきた世界が違っている。
 知識があっても、実際にやってみなければ事の本質は見えないし、正しく思い描くこともできない。たかが遊びでしかないたこ揚げだって、風の流れを正確に読み、その流れに巧く凧を乗せなければいけないのだから。
 まだこの世界には、キールの知らない事が沢山ある。
「僕に時間はあるのだろうか……」
「? キール、何か言ったか?」
 ぽつりと呟いた言葉は、だが音だけがハヤトに届いただけで内容までは伝わらなかったことにキールは安堵してしまう。
 彼には知られたくない。自分はこんなにも浅はかで愚かしい惨めな人間であることを。
 ――君を見ていると、僕がどれほどにちっぽけな人間であるかを、思い知らされる……
 嫌いなのではない。ただ、どうしても見比べてしまう。そして自分が劣っていることを感じて自分が嫌になる。何故もっと違う生き方が出来なかったのだろうと……今更変えることの出来ない過去が恨めしく思えて仕方がない。
「キール、行くよー!?」
 前方でハヤトが長く伸ばした糸を持って叫んでいる。
「ああ、いつでも!」
 キールも負けじと大声を張り上げるが、だがそれは、今己が考えている内容を頭から追い出すためでもあった。
 彼らから少し離れた場所では、子供達が自分の凧を胸に、わくわくした面もちで見守っている。
 凧をみっつも作るのに時間がかかり、間に昼食を挟んで今はあと少しで夕暮れという時間帯で。風も朝よりは幾分収まったもののまだ上空はかなり強く吹き荒れているらしく、白い雲は西から東へかなり速いスピードで流れていた。時折雲の影が地上を覆い隠すが、すぐにまたいつもの日の光が戻ってきて周囲は明るくなる。
 ハヤトが駆け出した。
 糸に引かれる形で、凧を頭上に高く掲げ持つキールもペースを合わせて走り出す。向かい風の中を。
 空気の圧迫感が腕を痺れさせる。意外に大変な作業なのだなと、向かい風を耐えながらキールは思った。そして同時に、今こうして凧を持って走っている自分を想像しておかしくなる。
 かつて、父の元にいた頃はたこ揚げをする日が来るだなんて、思いもしなかったのに。
 ただ魔導書を読みふけり、召喚術を学んで、来る日も来る日も異界の住人との契約を交わそうと必死になって真の名前を探して。
 美味しいものを食べたり、仲間と喜びや悲しみを分かち合ったり、将来について空が白むまで話し合ったり。それが生きていることなのだと。
 今までの、自分が生きているのかどうかも疑わしい日常から抜け出すことが、どれほどに自分の命を感じられるのかを、ここに来ることで、知った。
 だからもう戻れない。あの色のない居場所には。
 数え切れない程の彩に囲まれたこの居場所を知ってしまった今では。
 もう、父の元には帰れない……。
「キール、今だ!」
 ハヤトの声が聞こえる。現実に引き戻された。
 キールの両手から風を受けた凧が離れて行く。一気に、速度を増して風に乗り、真白い凧は青空に呑み込まれてゆく。
 あれは今の自分だと、空へ伸びる糸を目で追いその先の凧を見付け、キールは肩で息をしながら思う。
 自由になったと錯覚を憶え、風のように空に浮かんでいるけれど実際あの凧は糸で地上とつながれている。どれほど空高くに舞い上がろうとも、決して地上からは逃れられない……哀れなピエロだ。
 自分の思うとおりの生き方を選んだつもりでも、どこかで誰かに操られた末に見た虚像の未来しか手に入れていないのだとしたら。
 それほど愚かなことはない。
 自分は未だにオルドレイクの掌で踊らされているだけなのだと。
 泣きたくなった。
「キール?」
 顔を上げればそこにハヤトがいて、思わずのけぞって離れてしまう。いつ側まで戻ってきたのだろうと訝しんでいたら、いきなり凧糸を渡された。
「俺、あいつらの方手伝ってくるからさ。これ頼むな」
 彼が指で指し示したのは、空をうっとりと眺めている子供達だ。
「あ、ああ……分かった」
 まさか自分の今の気持ちを読みとって、話し掛けてきたのではあるまいとあり得ない事を考えてしまったキールは、気持ちを落ち着かせるために深呼吸をしてハヤトから糸と芯棒を受け取った。
 瞬間、ぐいっと上に引っ張られてその強さに驚く。
「気をつけないと、風にさらわれるからな。結構上、風強いみたいだから。調子乗って高く揚げ過ぎたんだ」
 てへ、と舌を出したハヤトはキールを残して子供達の方に駆けていく。最初はやはり男の子のアルバからのようで、フィズが何か文句でも言ったのだろう。なかなかたこ揚げにまで至れずにいる。
 自分はあそこまで面倒見が良くなれない。最近は慣れたが、やはり人と深く接するのは苦手だ。
 煩わしいとさえ思うこともある。だがそれではいけないのだと以前にハヤトに言われてしまったし、努力すると自分も公言してしまったから今更後にも引けない。
 だからといって後悔しているとか、そういう気持ちは全くない。ただやはり、まだ人が大勢いる場所は息苦しくなる。そんなときにハヤトが側に寄って来てくれて、心配そうに顔色をうかがってくれる。それは悪い気がしないし、なにより彼が近くにいてくれると安心する。
 と同時に、自己嫌悪に苛まれてしまうのだが。
 ひとりで生きて行けるのだと思っていた。
 自分にはそれだけの力が備わっていると信じていた。
 だけど違った。
 結局どれも、自分よがりの勝手な思いこみでしかなく。迷うことなく、疑いすらせず受け入れたはずの自分の死を恐れたばかりに、ハヤトをこの世界に引き込んでしまった。
 助けて、と。
 誰にも聞こえないはずのあの時の悲鳴が本当に彼に届いたのだとしたら。
 彼ならばこの運命を変えられるのかもしれないと思うのも、やはり自己中心的な勝手な妄想でしかないのだろうか。
 助けて、と。
 確かにあの時、自分は思っていた。
 死にたくないと。
 生きていたいと。
 それは罪か?
 突風が吹く。キールの白いマントが激しく煽られ、前に流れてきた少し長い自分の髪に驚いてキールはつい、手を離してしまった。
 白い指先からこぼれだした細い、細い糸が風にさらわれる。
「あ!」
 叫んだときにはもう、手遅れで。
 必死に伸ばした手をすり抜けて、カラカラと芯棒に巻かれた糸がほどけていく。凧は風に乗ってどこまでも高く舞い上がり、カン、と糸を失った棒だけが地上に残された。
 まるでキールから逃れ行くように。
 地上のしがらみと、すべての迷いから逃げ出すように。
 空と大地の鎖は断ち切られた。わがままで傲慢な風によって、実にあっけなく。
「あーあ……」
「飛んでっちゃった」
 子供達からもため息混じりの非難する声が聞こえ、キールは消えてしまいたいとさえ思った。どうして手を放したと、自身の両手をきつく睨み付け、強く握りしめる。爪が拳に食い込んでも、その痛み以上に心が悲鳴を上げていた。
「キール」
 力無くうなだれている彼の前に、駆け寄って来たハヤトが回り込む。
「…………ごめん…………」
 蚊の泣くよりももっと細い声で、キールはハヤトと顔を合わさずに呟いた。
「キール、君の所為じゃない」
 誰だってあんな急に、あんなに強い風が吹いたら驚くよ、とハヤトは言ったがキールは黙って首を振るばかりで、顔を上げようともしない。
 ふう、とハヤトは分からないように息を吐いた。小さく肩をすくめて首を振り、もう見えない白の凧が消えた空を仰ぐ。
「嬉しかったんだろ、きっと」
 腰に手を当て、ハヤトは白い歯をのぞかせながら笑う。
「あの凧、ずっと屋根裏で埃かぶって忘れられてたんだぜ? 久しぶり……いいや、もしかしたら初めてだったのかもしれない。空に登って、浮かんで、きっと嬉しかったんだよ。だからもっと高い場所に――俺達の手じゃ届けてやれないような空高くに行くために……凧が風にお願いしたって、思えばいいじゃん」
 だからキールは、捕らわれていた地上からあの白い凧を解放したのだと、ハヤトは照れもせずに言ってのける。
 そんなはずはないのに。
「凧はまた作ればいい。でもキールは一人っきりしかいなくて、変わりはいないんだから。キールが凧と一緒に空に飛んでいってしまわなくて良かった」
「ハヤト……」
「……やっと、俺を見たな」
 下ばっかり見てると健康に良くないぞ、と嘯いてハヤトはキールの肩に手を置こうとした。しかしその伸ばした手をキールがかすめ取り、かわりにハヤトの肩に彼の顔が埋められる。
「君にはかなわないよ」
「え? 今なんて言った!?」
 くぐもった音だけがハヤトに聞こえて、片手を拘束されたままのハヤトが目を泳がせて叫ぶ。
「なんでもないよ」
 キールがハヤトに接していたのはほんの一瞬で、すぐに彼は離れていく。握られていた手を解放されたハヤトは、誤魔化すように笑う彼をジト目で睨んだ。
「兄ちゃん達、早くやろうよ!」
 向こうでアルバとフィズが待ちきれない、と大声でふたりを呼ぶ。
「今行くよ」
 ハヤトの代わりにキールが返事をし、行こう、と手を差し出す。
 まだ少し納得がいかないのか、ハヤトは最初渋ったが子供達の声に負けて走り出した。悔しいから、キールの手は取らないで。
「…………かなわないな」
 置いて行かれたキールもそう呟くと、彼を追いかけて駆け出す。

 
 朱と碧の混じる空に三つの凧が仲良く並び、風を受けて揺れている。
 高く、高く、どこまでも高く。

Lost

 喧嘩を、した。

 きっかけはとても些細なことだったはずだ。だのに途中からお互いに引き下がれなくなって、子供じみた罵詈雑言を早口に捲し立てていた。そしてカッと頭に血が上ったまま、反射的に手を上げていた。
 ぱぁん、ととてもいい音が響いて。
 その音で我に返った。
 振り下ろした手を胸元に引き寄せて、軽く肩で息をしながら視線を持ち上げた瞬間、目に飛び込んできたのは頬を叩かれた時のまま横を向き、自分を見ようとせず突っ立っている彼。
 僅かに赤くなっているように見えるけれど、包帯で覆われた肌の色なんて見えるはずがないから所詮それも、目の錯覚でしかない。
 叩かれたのは彼で、叩いたのは自分。なのに、自分の頬が痛んだ。
 違う。痛いのはもっと別の場所。
 彼はまだ自分を見ない。それがまるで、自分の存在を拒絶しているように思えて途端、胸が苦しくなった。丹朱の瞳は床を睨むようで、彼は微動だにせず動かない。
 さっきまであんなにも大声を張り上げあっていたはずなのに、息をするのも忘れてしまいそうになるくらい今は静かだ。それこそ居たたまれなくなるほどに。
 指先が痺れたように痙攣している。肘の辺りをそっと反対側の腕で押さえ込んで震えを押し殺そうとするが、何かを言いかけた唇は浅く息を吐き出しただけで結局音を発することはなかった。
 最初は、本当に些細な口論だったはずだ。
 普段なら適当にあしらって、彼が先に折れて結局うやむやのままに終わるはずなのに。何故今日に限って、こんな。
 重苦しい空気が場を支配している。何かを言わなければならない、何かを告げて欲しい。
 罵倒でも良い、叩いたことに対しての非難の声でも構わない。この沈黙だけが耐えられない。
 けれど彼は何も言わない。動こうとも、自分を見ようともしない。
 だから逃げ出した。
 その間の時間は僅かだったけれど、自分にとっては永遠のように長い時間に思えた。
 外した視線は絡み合う事を知らず、背を向けて駆け出した自分に対する制止の声もなかった。
 惨めな気分だった。
 確かに、最初に彼を侮蔑するような言葉を発したのは自分だった。でもそれは、普段と何も変わらない言葉で、感情で、本気で言ったつもりなど無かった。
 言った瞬間に傷ついたような顔をした彼に、しまったと心の中で感じつつもそれを正直に言葉に乗せる事なんて自分の性格では出来るはずがない。つい、彼を更にあおり立てるような事を口に並べてしまって、それが尚更彼の心を煽ってしまった。
 傷つけた。
 本当なら自分の方が叩かれていてもおかしくない状況だった。むしろ、そうあるべきだったのに。
 矢張り先に手を上げてしまったのは自分の方。
 どうしてこうなってしまったのだろう、今日に限って。
 いつも上手くやっていたではないか、自分たちは。悪ふざけをする彼を自分が軽くあしらって、偶に自分の方から彼をからかうような事も有った。そしていつも最後に彼は笑って、それで終わりだったではないか。
 なのに……。
 無我夢中で城を飛び出し、闇雲にそれこそ適当に目の前に広がる道を走る。
 悔しくて、情けなくて、莫迦みたいで。
 息が苦しくても足を緩めず、いくつもの角を曲がり何人もの人にぶつかりそうになって、それでも自分は止まらなかった。点滅している青信号を駆け抜け、細い路地に迷い込み乱雑に積み上げられているゴミを蹴り飛ばす。
 途中で足がもつれて、その場に倒れ込んだ。
 スライディングの要領で固く冷たいコンクリートの上を滑る。くすんだ水色のポリバケツが巻き添えになって派手な音を立てて転がった。蓋が外れ、中身がはみ出す。
 むっとした悪臭が周囲を覆い、倒れたときの痛みと臭いに顔を顰めた彼はヨロヨロと両手をコンクリートに押しつけて身を起こした。ちりっとした熱さが掌に広がって、顔の前で開いてみるとガラス片が刺さったらしい。赤い血が珠になって滲み出ている。
 不意に、泣きたくなった。
 立ち上がり、衣服の埃を払う。掌の血がぽつぽつと染みを残して濃く、薄くあちこちに散る。緩く首を振って、転んだときに擦った頬に触れた。切れてはいないようだが、少しだけ熱を持っている。指を添えると、頬骨の上を薄く痛みが走っていった。
「私、は……」
 一体何をやっているのだろう。
 全力疾走してきた所為で、今も心臓は破裂しそうな勢いでポンプを全開にしている。頭は転んだ御陰で少し冷静さを取り戻していたが、生ゴミの悪臭のために気分は最低だった。
 兎に角此処を離れよう。そこかしこをぶつけた所為で身体の各所が痛んだが構わず、細い路地裏を片側の建物の壁に手を置く形でゆっくりと進んでいく。だが、表通りとの接点まで歩を進めたところで唐突に、動きたくなくなった。
 眩しすぎる。
 今まで薄暗い路地裏に居たからではない。表通りを行き交う人たちの表情が明るくて、今の自分が其処に混じる勇気が持てなかったからだ。
 自分にはその資格がないように思えて、動けなくなる。
 白と黒のライン。光と影の境界線の一歩手前で、進むことも引き返すことも出来なくて。立っているのも辛くてその場に座り込んだ。壁に凭れ掛かり、抱きしめた膝に顔を埋める。
 視界が闇に染まる。
 ガラにもなく落ち込んでいるらしい、こんな自分は自分ではないと思えるのにそれを跳ね返すだけの気力が今日は沸いてこない。いっそこのまま此処で眠りについてしまおうか、そんな事さえ頭に浮かんで顔を伏せたまま皮肉げに微笑んだ。
 音が遠くなる。路地に蹲っている自分を誰も気にしやしない。無機質に通り過ぎていく人波は自分を拒絶しているようにも見える、まるであの瞬間の彼のように。
 唇を噛む。頬がまだ痛い。
「ユーリ!」
 だから。
 ばんっ! と路地の両脇に建つビルの壁に両手を広げて置いて、息せき切らせた彼が現れた時は本当に驚いて声が出なかった。
「……スマイル……?」
 どうして、ここに。そう問おうとしたのに唇が麻痺したように動いてくれない。呆然と膝の間から持ち上げた顔で見上げた先で、隻眼の丹朱がホッとしたように柔らかくなった。
「良かった、見付かって。あちこち探しちゃった」
 嬉しそうに、眩しいくらいの笑顔を向けられる。
 何故笑っているのだろう、自分は彼にとても酷いことを言って酷いことをした。謝りもせずにその場から逃げ出して、勝手に此処にいるのに。
 捜してもらえる理由なんて何処にもないはずなのに。
「どうしたの? どこか痛いとか? あ、顔!」
 赤くなっている頬に気付いてスマイルが声を荒立てる。壁から手を離して膝を軽く曲げ、ユーリに顔を近づけると傷の具合を確かめるようにじっと見つめてきた。それが気恥ずかしくて顔を背けると、首を曲げて更に彼は視線で追いかけてくる。
「ユーリ?」
「お前は、何故」
 自分が此処にいると、解ったのか。
 言葉が続かなくて視線だけで問いかけると、スマイルは「な~んだ」と肩を軽く竦めて、
「そりゃ、愛でしょ?」
 普段の元気があれば、グーで殴りつけていただろう台詞をさらっと口に出した彼は、もし今現在のユーリの気力を計算に入れていたのだとしたら、それは充分策略家だろう。
 喧嘩をしていたこと、そして頬を叩かれたことも全く気にしていない様子でスマイルはいつもと変わらない笑顔を見せてくれる。それが嬉しくて、ユーリはまだ間近にあった彼のおでこを指で弾いた。
「寝言は寝てから言え」
「ちぇっ」
 酷いなぁ、と打たれた額を押さえて離れて行ったスマイルに薄く笑み、ユーリは銀の髪を掻き上げる。見上げた先で、スマイルと視線が合った。
「お前、莫迦だろう」
「うん」
 貶すつもりで言ったのではないが、ついつい棘のある言葉を口に出してしまう。しかし言われた方も充分それが解っているようで、にこにこと表情を変えないままあっさりと頷く。
「怒っていないのか」
「どうして怒らなくちゃいけないのなかぁ」
 確かに一方的に叩かれはしたけれど、そうさせるような事を言ったのは自分だから。お互い大人げなかったねぇ、と笑って彼は首を振る。
 結局、今回もスマイルが折れることで問題は解決の形に向かおうとしていた。それが自分の甘えであることは解っているつもりなのだが、如何せん素直でないこの性格では他にどうしようもないから。
 そして、スマイルもそれを許してくれているから。
「立てる?」
 立てなかったら抱っこしてあげる、とまで言われては自力で立ち上がらざるを得ない。壁に片手をついて膝に力を込め、一気に立ち上がると見守っていたスマイルが残念そうに舌打ちするのが聞こえた。
「はい」
 けれどまだぶつけた膝が辛く、立つのがやっとと言った感じを察したのだろう。何も言わずスマイルが左手を差し出してきて、一瞬の逡巡の末ユーリはその手を取った。
 握りしめられた手が、暖かさと優しさを伝えてくれているような気がした。
 軽く引かれる。その弾みで一歩足が前に出て、あれだけ自分ひとりでは出ることが叶わなかった薄闇から光の中に吸い込まれた。
「おっ、と」
 抗う事なく引っ張られたユーリを、全身で倒れる手前で受け止めたスマイルが少し驚いた顔をする。けれど調子に乗ったのか、そのままぎゅっとユーリを胸に抱き込めてきた。
「ん~…………」
 髪に鼻先を埋めて来るが、微妙に間が空いて、
「ちょっと……生ゴミ臭いかもねぇ……」
 めしょ。
 ぽつりと零された素直な感想を聞いた瞬間、ユーリの拳は自然と動いてスマイルの顎をクリーンヒットしていた。
「帰る!」
 しがみついているスマイルの腕を解くと、顎を押さえて呻いている彼を置き去りにユーリはさっさと歩き出した。
 一瞬でも彼を良い奴だと思った自分が莫迦らしくて、腹が立つ。
 だが途中、十メートルほど進んで立ち止まり上半身だけで振り返ってまだ痛がっている彼を確認してから、結局は、
「帰るぞ!」
 その声にパッと顔を上げたスマイルが、あれは芝居だったのかと思わせる変わり様でユーリのところまで走ってきてふたり並んで、歩き出す。
「あとで消毒しとかないとねぇ……」
 彼はまだユーリの頬の傷を心配しているようでそんな事を言ってくる。けれどあんなに痛んだはずの傷はどこももう痛くなくて、ユーリは過保護すぎる彼に小さく笑った。

優しい嘘

 いつか、必ず。
 約束は、けれど最悪の結果で果たされてしまって。
 苦々しい気持ちを抱えたまま、重い足取りでただ前だけを目指して歩いていく。その視界に収まるものは、己が踏み出す足とそれが踏みしめている大地ばかりだ。
 茶色の、多くの旅人や行商人が長年をかけて踏みしめ固められた道は穏やかに傾斜しており、それに合わせて周辺の景色も幾ばくか変化する。なだらかな丘陵に沿うようにして走る一本道は、行き交う旅人もそれなりに多く雑多だ。
 だのに、彼を中心とする一団は十人を軽く越える大所帯にも関わらず、一様に重苦しい雰囲気を背後に背負い皆して無言だった。
 まるで葬列の集団のようだが、それらしき物も見当たらずすれ違う人々は怪訝な顔つきをしながら、彼らが通り過ぎていくのをただ見守るばかりだ。あるいは、厄介事を彼らが抱えている事を気配で察し自分から道を譲り避けていく人々も多い。
 そして事実、彼らは厄介な内情を抱えていた。それも、自分たちだけでは到底解決を見ないだろう非常に辛く、苦しいばかりの現実を目の前に突きつけられ、それを認めずにいる事は出来ないに関わらず、否定しようと心の底で藻掻いて止まない代物だ。
 誰だって嫌だろう、自分が罪人の一族であったことを前触れもなく、知識さえないままに告げられては。ましてやその罪は、己の一生涯をかけても償いきれないものであれば尚更。
 嘘だと言いたくなるし、言って貰いたくなる。
 けれど真実は真実に変わりなく、それを証明するかのように無言のままそびえ立つ古代遺跡と、過去の因縁に囚われたまま生きていた仲間と信じた人の本当の姿を見せつけられては。
 嘘、と言葉にすることさえひどく愚かしく滑稽で、哀しい。
 短い説明で詳しい事を知る由もない旅の道中に出会い、行きがかり上一緒に居てくれている仲間達にも、当事者である三人が背負っている重くどんよりと湿った空気は充分すぎるほど感じられて、詳細を聞く気にもなれなかった。
 たとえ短期間であっても寝食を共にし、なおかつ命を削るような苦難の連続を共に乗り越えてきたからこそ、言葉にせずとも通じ合うものが絆として形作られて来ていた矢先だった。
 時折ささくれ立ち言い争いも多かった仲間達がそれぞれ心を許しあい、多くを語り出そうとしていたその和やかな空気を一瞬でぶちこわした、あまりにも痛すぎる真実。
 だが誰よりも辛いのは、知らなかった真実を目の前に突きつけられ、どうしようもなく戸惑い苦しみ、どうすることも出来ず茫然とするしかなかったまだ年若い召喚師であろう。
 信じてきたもの、今まで培ってきたものがものの数秒としない間に総て崩れ去っていったのだ。
 長い時間をかけて彼が苦労を重ねながら積み上げてきたものがあっさりと踏みにじられ、突き崩されてしまった。遠目にはとても頑丈で堅固に見えたはずのものの、近付いてよくよく目を凝らしてみればそれは、砂の上に建てられた楼閣でしかなかったのだ。
 古びた遺跡を後にし、旅の最中で偶然出会い同行を申し出てくれた異世界の巫女によって再び深く因縁深い森を結界で閉ざしてもらって。そして数日が経過しようやく、彼らが今帰り着くべき場所を目の前にしても。
 マグナは、ひとことも口を利かなかった。
 彼だけではない、彼を弟のように可愛がり、また厳しく接してきたネスティもまた無言を押し通していたし、彼ら程ではないにしろ己の生い立ちとそうならざるを得なかった遠い昔の哀しい戦いの被害者であった少女も、常以上に口数少なかった。
 アメルは、呼ばれれば返事をするし受け答えもしっかりしている。彼女は祖父と慕っているアグラバインに自分があの森で拾われたことを教えられてから、或る程度の覚悟をしていたのだろう。それほどショックを受けた様子もなく、淡々としてなおかつ、静かだった。
 ネスティは融機人として自己の血液に先祖達の記憶を保有している、という特殊な機能を持ち合わせている為に、予め総てを把握し知り、その上で行動してきていた為に動揺もなく、やかり彼も静かだった。
 ただひとり、何も知らず、何も知らされず、そして何も知ろうとしてこなかったマグナだけが激しく胸の内を混乱させ、自己を保てなくなり挙げ句己を傷つけようとした。
 その瞬間、止めに入ったカザミネの手刀を頸部に受け彼は失神したのだったが。
 咄嗟の判断で他に方法がなかったとカザミネは翌日、意識を取り戻したマグナへ謝罪している、だがあの場面で、彼以外に動けた人間が彼とカイナくらいしか居なかった事を考えると、彼らが一年前に経験したという戦いもまた、とても厳しいものだったのだろう。
 カイナがぽつりと呟いた、気を失ったマグナを気遣う時の言葉は誰もが耳にしたはずなのに、誰も彼女に追求しようとはしなかった。
『なんだか、あの時と似ていますね……』
 独り言だったのだろうが、横で聞いていたカザミネが小さく頷いたところをみると、彼女が口にしたのは一年前、サイジェントで起きた戦いの事を指していたのだろう。
 その場に無色の派閥の乱にまつわる詳細を知る人物が居なかったため、いったいどのような事件が起こり彼女たちの身に災いが降りかかったのか誰にも分からない。カイナもそれ以上の事を口に出しはしなかったしカザミネも元々多くを語りたがる性格をしていない。聞けば答えてもらえただろうが、それも納得がいくような答えではなかっただろう。
 ギブソンもミモザも、そしてこの場に居合わせたカイナたちもまた、無色の派閥の乱を語りたがらない。なにがあったのかは派閥の機密事項として伏され、真実を知るものはごく僅かだ。
 金の派閥代表であるファミィ・マーンもきっと知っている事は多いだろうが、娘であるミニスに語ったことはないらしい。サイジェントには彼女の叔父に当たる人物がいるにも関わらず、ミニスは事件の内情を何も知らされていなかった。
 情報は、何処かで食い止められてしまい総てが明かされる日は永遠に訪れることはない。知りたければ、自分で捜すしかないのだろうか。
 それとも、自分が意図としない形で突然、心の準備も出来ていない瞬間を見計らって真実を告げられるのと、どちらが良いのだろう。
 どちらにせよ、ありのままを受け入れることは難しい。
 孤児で、頼れるものもなく。ゴミを漁りその日食べるものにも事欠き飢えを抱えながらひとりきりで生きてきた自分が、何故突然召喚術を使うことが出来、迎えにやってきた人に無理矢理連れてこられた派閥で、けれど心優しく暖かな人に保護されて、愛されて。
 しかしそれもすべて、自分が過去業深き咎を犯した一族の末裔だったから。
 必要とされたのは籠、閉じ込めておくための檻。守られていたのではなく囲われて見張られていたのだと、教えられてショックを受けないはずがない。
 なにもかも信じてきたものが基盤から揺らめき崩れ落ちていった。
 泣くことも出来ず、自失呆然と立ちつくすしかなかった。
 真実はあまりにも重く、彼が抱えきれるものでは無い。罪の深さは歴史の長さと、リィンバウムが直面した危機とその中で数多に失われただろう生命の分だけ底が見えない。
 だからこそ真実は隠れたがり、秘される。ネスティが語ることを拒んだ理由は他でもないそれで、彼の心を守るための手段であった事は誰もが認めるだろう。
 あどけなさと無邪気さを残す、青年の領域に入っているはずなのに幼さが抜けきらない少年らしさを持った彼の表情が、哀しみによって翳らないように。それはネスティの最大級の愛情であっただろうし、優しさだった。
 それが分からないマグナではない。
 だがそれでも、疑いを抱いてしまった心はなかなか元には戻らない。隠されていた、意図して自分には隠し通されていた真実が今までのような関係をもう二度と、築くことが出来ないことを嘲笑っている。
 潰れてしまった関係は、また最初から作り直していくしかない。問題なのは、同じ場所に崩れる前と全く同じものを築けるかどうか、だろう。
 辛いのは、自分だけではない。
 出来うるものならば永遠に隠し通し、傷つける事なく大切に守っていきたかっただろうものを自分から傷つけるような真似をせねばならなかったネスティも。
 人々を慈しみ、平等に愛し守るために遣わされながら守るべき存在に裏切られ、道具として扱われ無惨に切り捨てられた存在の魂と記憶を受け継ぎ、果てしない時の放浪を閉ざされた世界で過ごさねばならなかったアメルも。
 皆それぞれに傷を抱え、だのにそれをおくびにも出さずその日を懸命に生きていこうとしている仲間達も。
 辛いのは、変わらない。
 抱えている苦しみや哀しみや、辛さは同じだ。其処に秤で比較できるような目方は存在しない。
 やがて日は沈み、夜の帷が降りてきて一日歩き通しだった仲間達は次第に歩を緩め、そして月が天頂に輝く時間にはすっかり野営の準備も整っていた。
 場所を空け、焚き火を起こし明かりと暖の用意が調うと慎ましく夕食が始まる。
 旅の席なので保存の利くやや塩っ辛い乾ものが主体ではあるが、立ち寄った村で購入したパンがあるだけ、今日はマシと言えるだろう。大所帯な上、金銭面で補助を与えてくれる存在に欠いている彼らにとっては、村の宿で一泊、という真似も許されない。
 身を寄せ合い接近する獣や夜通しでかけていく早馬などに一々気を配り、大きな物音がするたびに目を覚まさねばならない、そんな旅だ。更に付け加えるならば、彼らはデグレアの兵士達からも狙われている存在である。
 可能な限り無関係な人々から離れ、自分たちだけで行動するように心がけていると自然と、野宿が多くなる。冒険者家業が長いフォルテが火を起こす作業であったり、簡単な調理に手慣れていたりするのは流石と納得がいくが、今となっては他の面々も彼にまけず劣らずの腕前になっていた。
 慣れとは、恐ろしい。
 あまり量の多くない夕食を慎ましやかに終え、次に待つのは身体の疲れを癒すための浅い眠りだ。男達がくじで焚き火の番と周辺警戒の順序を決め、一番目の赤札を引いてしまったらしいバルレルがひたすら文句を口にしているが、すっかり彼の扱いにも慣れてしまったメンバーはそれぞれにさっさと自分の毛布を引っ張り出し、柔らかな草の上に横になる。
 見張り役を最初から除外されている女性陣も、片寄せあって眠りにつく。くじを作成したフォルテに怒りの矛先を向け、眠ろうとしている彼の背中を蹴り飛ばしていたバルレルも、そのうち飽きたのか静かになった。
 月明かりだけが眩しい。雲ひとつない空は明るく、こんな夜であれば明かり取りの焚き火も必要ない。手で掬い上げた砂を薪の上でくすぶっていた火に降りかけ、彼は炎を消した。
 そうでなくとも、明かりが地上にあり続けると自分たちの存在を遠くまで知らしめる事になるので、幾らか時間が過ぎれば火は消す事になっていた。それが早まっただけだが、意外にも焚き火の光量は重要だったらしく、火が消えると同時にかなり濃い闇が彼らの上に降りかかって来る。
「ちっ」
 不本意だったらしく、バルレルの舌打ちが聞こえた。続いてガシガシと地面を蹴る音か、これは。どすん、とその場に座り込んでそれっきり音がしなくなった。
 静か、だった。
 いつもは女性陣優先で回される毛布を手渡され、礼も言えぬまま横になったマグナは眠ることも出来ずじっと、闇ばかりを見つめていた。
 草間に埋もれて見える虫たちが、巨大な生物に気付いて慌てて逃げていく。目を閉じるとあの遺跡で見た禍々しく愚かしく、哀しいだけの映像が浮かんで来るので瞼を閉ざすことも出来ず彼は動かない。
 アルミネは救われなかった、リィンバウムを結果的に救ってくれたのに彼女の魂は救われる事無く、還る場所も失いあてもなく彷徨わねばならなかった。力の欠片が形を作り、幼子となってアグラバインが連れ帰らなければ、アルミネの魂は今も虚空の中で漂っていたに違いない。
 ライルの一族は糾弾され追いつめられ、迫害を受けた。自由を失い、咎人としての屈辱を一身に背負い辛い記憶を捨てることも忘れることも叶わず、細々と歴史の裏側に囚われ続けた。逃げることも、瞳を逸らすことも許されなかったネスティの苦しみが、まるで分からないわけではない。
 アルミネの記憶を取り戻したアメルが、どんなに苦しい思いを抱えているのかも、分からないはずがない。
 重すぎる、なにもかもが。
 けれど本当に痛いのは、自分だけが知らされず知りもせず、のうのうと今まで生きてきた事に他ならない。
 分かっていなかった、分かってあげようとしなかった自分の浅はかさが恨めしく憎く思えてならないのだ。自分の幼い感情が彼らを傷つけ、悲しませてしまっている。そんな自分自身が一番許せない。
「……ん?」
 遠くで虫の鳴く声だけが聞こえてくる、仲間達の寝息さえ響かないそんな不気味なほどに静かすぎる空間に、しばらくぶりのバルレルの声。そのいぶかしみ、どことなく不穏な気配を混じらせている彼の声に気を向ける前に、別の声が響いた。
「交替しよう」
「まだ時間でもねーし、オマエの順番でもねーぜ?」
 そもそもオマエは見張り番の面子に加わってなかっただろう、と生意気な口調を崩さないバルレルに声をかけたのはネスティだった。立ち上がったのであろう衣擦れの音に、マグナは無意識のうちに被っていた毛布の端を握りしめる。
「気遣いは有り難いが、生憎と眠れなくてな」
 眠れないのであれば、見張り役として起きている方が良いだろうと、彼は普段と変わりない調子で告げ、バルレルは小さく唸る。
 自分としては眠いし退屈な当番から逃れられるわけだから願ったり叶ったりだが、彼だってネスティに任せてしまうことには幾らかの抵抗を感じている。望みは叶えてやりたいが、だからといってもし明日の朝、この事が知れて仲間内から非難の声を浴びるのは非常に面白くない。
「良いんだ、バルレル」
 ネスティにしてみればむしろ、こうやって慣れない気遣いをされるほうが疲れる。以前と同じ扱いで接してくれる方がずっと、心も体も楽になれるのに。
 みな、分かっていても実践に移ることが出来ないから戸惑っている。
 ちらり、とネスティはマグナの背中に目をやった。この辺りは見かけに反して非常に聡いバルレルだ、彼が本当は何を求めて寝ずの番を申し出たかに気づき、あからさまな態度で肩を竦めた。
「へいへい、分かりましたー」
 自分は命じられて仕方なく、と言い訳するための動作だろう。いかにもやる気の無さそうな声で言うと、彼はくるりと身体の向きを反転させさっきまでネスティが横になっていた場所に転がった。広げたままにされていたネスティの毛布をちゃっかりと懐に抱いて。
 やれやれ、とネスティは弟弟子の護衛獣を見送りポジションを替えたその場所に座った。
「眠っている、か……?」
 風に溶けていきそうな、静かな声。
 それが誰に向けて放たれたものか、マグナは彼に背を向けたままだったが気付いていた。
 返事はしない、したところで自分は彼に向ける顔を持たない。どんな表情をして何を語れば良いというのだ、この罪深き魂は。
「………………」
 流れるのは風、そして沈黙。高いびきのバルレルも今日ばかりは静かだ。
「恨んでいるのだろうな、君は」
 僕を。
 独り言かはたまた語りかけか、背を向けているマグナには判別がつかない。だからといって、振り返り確かめる勇気もない。ただ握っている毛布に深く皺を刻み込み、震えを堪える事しかできない。
 否定したかった、けれど否定しきれる自信もなかった。
 恨まれているのは自分の方だ、無知であった愚かしい自分を見て彼はずっと何を考えていたのだろう、それを教えられるのが恐い。
 見限られるかもしれないと、そう思ったから。
 顔を向けることも出来ない。
「恨んでくれて、構わないと思っている」
 淡々と、彼は告げる。其処に感情を見出すことは出来ない、どんな顔をしているのかも見えない。
「僕はずっと、君に嘘を吐き続けていたのだから」
 本当は最初に会ったときから知っていたのだ、マグナがクレスメントの末裔であることを。
 最後の融機人とクレスメントの生き残りが出会ったとき、誰もがそれを運命と思い、何かが起ころうとしている前触れだと危惧した。真実が隠されたのは必然であり、大々的な変化を嫌う派閥の上層部にとっては、彼らを隔離する案も強く推すに足るものとして見られた。
 けれどマグナは召喚師への道を歩み、ネスティと共に成長する道を許された。総て、ラウルの計らいによるものだったし、この時彼らは知らなかったが派閥の長であるエクスの意向も反映されての事だった。
 彼もまた、人として当たり前の幸せを求めて良いはずだ、と。
 古き罪は償われなければならないが、その総てを新しく生まれてきた命に求める事は間違っている、と。
「けれど、これだけは分かって欲しい」
 優しく注がれる月の光、聞くだけで心が落ちつき安心させてくれたネスティの声は、昔と少しも変わることなくマグナを包み込んでいる。
 信じたいと、思う。彼を、今まで通りに……今まで以上に、信じられたらと思う。
 けれどまだ、彼と一対一で向き合う勇気が出ない。いつから自分はこんなにも臆病になったのだろう、と唇を噛みしめてマグナは草の間に顔を埋めた。
 緑の匂いが鼻腔を擽る。泣くな、と懸命に自分に言い聞かせて熱い息を吐き出す。
「マグナ」
 そっと腕を伸ばして、ネスティは横たわるマグナの髪をそっと撫でた。癖毛はいくら櫛を入れてもまっすぐにならなくて、鏡を見て笑いあったのはもうずっと昔の事だ。
「それでも僕は、君に巡り会えて」
 自分の境遇を不幸だと呪ったことはない、諦めに似た感情が大部分を占めていたネスティにとってマグナは太陽だった。
「君に会えて、良かったと心から思う」
 嘘じゃない。
 告げ、彼は離れていく。重なり合った体温は一瞬で消え失せ、寒い。
 ただ今は無性に哀しくて、マグナは毛布にしがみつき声もなく泣いた。

あの風に乗せて空へ

 早起きは得意だ。
 剣道部の朝練があるから、以前は毎日五時半には起きて七時には学校に向かっていた。 親にしつけの所為もあるが、基本的に早起きするのが好きだった所為でもある。
 良い目覚めを迎えられた日は一日中気分がいい。ピンと張りつめた朝の冷たい空気も、窓の外でさえずる小鳥の鳴き声も、新聞配達の自転車の音、プリズムのように輝く太陽の光。そういうものを眺めながらジョギングするのが日課になっていた。
「んん……」
 日差しの差し込まない窓のない部屋で眠るようになってから、目覚めの体内時計が狂ってきていることは由々しき事態であると、トウヤは思う。夜なかなか寝付けないのも、原因のひとつなのだろうが……。
 ベッドの中で夢うつつのまま寝返りを打ったトウヤは、しかしキィ……という木の軋む音を微かに耳にして眉根を寄せた。
 極力足音を立てないようにしているつもりだろうが、気配を完全に消すところまでは至っていない。建て付けの甘い床の上を進むだけでも、床板は小さく軋むというのに。
 ――誰だ……?
 早朝の侵入者はトウヤの眠る、ドアすぐ横に置かれたベッドの脇で止まった。
 何故か嫌な予感を憶える。
 壁側に向いている今の姿勢から、ドアノックもなしに入ってきた人物の立つ方に寝返りを打とうとした、その瞬間。
「起きろーーーー!!!」
 思い切り息を吸って、けたたましい声で叫ぶと同時になんと体ごと横になっているトウヤに向かってダイブしてきたのは。
「うわっ!」
 直前に目が完全に覚めて、でも避けるのには間に合わなかった。
 体にかけていた薄い生地のケットが空中に舞い、落ちてきたソルをトウヤは腹部で受け止める。息が詰まって、エビぞりになったトウヤは呻いた。
「お、重い……」
「あー、悪い悪い。大丈夫か?」
 トウヤから放れ、ベッド脇に戻ったソルがからからと笑う。少しも悪びれた素振りではない。
「でもお前だって悪いんだぜ? いつまで経っても起きてこないから」
「え?」
 押しつぶされた胸を押さえ、上半身を起こしたトウヤがびっくりした顔でソルを見る。すると彼はそれこそ意外だったのか、きょとんとする。
「今……何時?」
「もうとっくにみんな仕事に行ったけど?」
 聞くのも恐ろしい事を敢えて口に出し、即答されてトウヤはベッドの上に沈没した。
 ――不覚!
 今まで多少起きるのが遅れることはあった。しかしその程度はほんのわずかでしかなくて、皆で一斉の朝食には必ず間に合っていた。だが今日、ソルの口振りからしても、朝食タイムはすでに終わっている。
 無遅刻無欠席、皆勤賞で中学を卒業したトウヤにとって、朝寝坊は一生の汚点でもあった。
「大丈夫か? トウヤ」
 何をそんなに苦悶する必要があるのか、とソルは不思議そうだ。たかが寝坊したくらいで。
「ま、いいけど。早く来ないとリプレが片付けちゃうぜ?」
 よくよく耳を澄ませれば、微かに台所で洗い物をしている水音が聞こえる。すでに彼女が片付け体勢に入ってしまっていることは間違いないだろう。
「今行く……」
 まだじんじん痛む腹に力を込め、よろめきつつ立ち上がるとトウヤはソルについて部屋を出た。
 確かに、外は晴天。しかも太陽はかなり上の方まで登っていて、窓から空を見上げたトウヤを大きく落胆させた。

 台所に行くと、リプレは「珍しいわね」と笑って残しておいてくれた朝食をくれた。
「雨でも降るかもね」
 いつも誰よりも早く起きてくるトウヤだからこそ、彼が寝坊したことはフラットの全員が驚いた。だが、疲れているのだろうと皆がそれぞれ彼を気遣い、敢えて起こしに行かなかった所為でトウヤはますます起きるのが遅くなってしまった。
「そんな気遣いは不要なのにな」
 皿に盛られたサラダを突っつきながら呟き、トウヤは食堂を見回す。
 ガゼルはリプレの頼み事で出かけているとさっき聞いた。エドスやレイドも仕事に出ているし、リプレは台所で洗い物の続き、それが終われば洗濯に取りかかるはずだ。いないのは……子供達か。
「どこに行ったんだろう」
 もうじき昼とはいえ、まだ午前中だ。子供達だけでそう遠くへ行くとは思えないし、もし出かけているとしたら少しはリプレの話題に上るだろう。ソルも子供達に関しては何も言っていなかったし。
 そのソルも今はどこかに消えてしまって姿が見えないけれど。多分、自室に戻ったのかアジトのどこかで何かをやっているか、どちらかだろう。
 ひとりぼっちの食事はどことなく味気ない。昔は、鍵っ子だったから平気だったはずなのに。今じゃ大勢で一斉に食事をする生活に慣れてしまったからか、いつもと変わらないハズのリプレの食事も、あまり美味しいと感じられなかった。
 ――そうか……。
 食事が美味しいということは、もちろん食べ物の味も欠かせない要素だが、それ以上に共に言葉を交わしながら食べてくれる相手がいてこそ、初めて成り立つものなのだと、トウヤは今更実感する。
 ――やっぱりもう寝坊は出来ないな……。
 こんなつまらない食事をするくらいなら、多少無理をしてでも早起きしなければ。サラダを口に運びつつ、トウヤは心の中で誓った。
 右手に持っているフォークを置き、皿の右側に置いてあるコップを取る。中にはコーヒー(らしき飲物)が注がれている。甘いものは苦手だから、中に甘味料を入れることはない。昔からそれは癖だった。
 何度も胃に悪いぞ、と注意されたけれどこれだけは変えられない。舌の上に残る砂糖の感触が嫌いだった。
「どう? たまにはひとりで静かに食べるのも悪くないんじゃない?」
 台所から、エプロンで手を拭きつつリプレが出てきてテーブルにひとり座っているトウヤに言う。
「いや、もう二度と寝坊はしないよ」
「そう?」
「ああ」
 ひとりで食事するつまらなさは一度だけで十分だ、と苦笑しながら答えるとリプレは口元にてをやって笑い、洗濯物を干しているから、と庭に下りていった。
「食器、流し台のところに置いてくれたらいいよ。お昼の分と一緒に洗っちゃうから」
 赤いお下げ髪を揺らして、彼女は上機嫌に洗濯に取りかかる。小さい頃から慣れているのだろう、彼女の動きにはまったく無駄が感じられない。感心するほどに。
 たまには手伝ってあげようと思うのだが、替えって邪魔になることの方が多いのは目に見えて明らかなので、迷惑にならない程度に抑えておく必要があるが。
 ややぬるくなったコーヒー(あくまで、それらしき飲物ではあるが)を口に運び、ひとくちすする。苦みが口いっぱいに広がり、その苦みこそがトウヤの心を落ち着かせるのに一役買った。
「ふう」
 ようやく人心地付けた、と両手でカップを持ちながら息を吐いた彼の耳に、ふとけたたましい複数の足音が聞こえてきた。
「?」
 そう遠くはない。なんだか上から聞こえてきているような気もするが、すぐに音は平行面上――つまり一階部分から聞こえるようになった。しかもだんだん近づいてきている。
 なんとなく、嫌な予感がした。
 彼の座っている席は台所に向いている方で、背中側がガゼルの部屋や自分の部屋に繋がる廊下部分になっている。つまり、そちらから接近してきているものは振り返らない限り今のトウヤには見えない。
 でも振り返るのもちょっとばかり恐ろしい気分。
 テーブルが振動で揺れ、そこに肘をついていたトウヤの持つコーヒーカップの中身もゆらゆらと波立つ。足音は上気する息を加えて更に大きくなり、ついに。
「兄ちゃーーっん!」
 トウヤの手前で飛び上がったアルバが容赦なく彼に飛びかかり抱きついてきた。
「ぶっ!」
 持っていたコーヒーカップが上下に激しく揺れ動き、中身が前につんのめったトウヤの顔に降りかかる。前髪に雫が垂れ、苦い味が顔全体に広がった。着たばかりの服にも茶色のシミが点々と……。
 幸か不幸か、コーヒーは冷めていて熱くなかったのがせめてもの救い。
「あ……ごめん、兄ちゃん」
 後ろからだとトウヤがカップを持っていたことは見えない。張り付いた笑顔をヒクつかせているトウヤの顔を盗み見て、アルバはばつが悪そうに言って離れていった。
 食べかけのサラダも、見事にコーヒー味に染まっている。
「なにやって……トウヤ、どうしたんだそれ!?」
 大騒ぎを聞きつけたソルが食堂に顔を覗かせ、コーヒー色の顔になったトウヤを見て驚く。まだ前髪から滴るコーヒーさえ拭おうとしていないトウヤは答えることが出来ない。すこし、鼻に入った。
「……はい…………」
 おずおずと横から小さな手が差し出され、振り向くとラミが真白いタオルを持って立っていた。
「あ、ああ……ありがとう」
 素直にタオルを受け取り、顔を拭うと一度でその部分は真っ茶色になってしまった。これは洗濯が大変かもしれない。
「ごめん、兄ちゃん……」
 泣きそうな顔をしているのはアルバだ。
「怒ってないよ」
 両手と首筋と、服の表面と前髪とを順にタオルで拭きながらトウヤは笑っていった。
「それくらいの元気がないと。男の子だもんな」
 ただあの不意打ちは二度とやってもらいたくないけれど、と心の中で呟いてトウヤはアルバの頭を軽く撫でてやった。そして、彼の後ろにいるフィズがなにやら白いものを持っているのに気付く。
「どうした?」
 何か言いたげな顔をしている彼女に椅子ごと向きを改めて尋ねると、彼女ははっとなって持っているものを前に突きだした。
 それは白いカイトだった。俗に言う、タコ。
 一体どこから見付けてきたのか――と問いかけて、さっきの足音の発生源を思い出しトウヤはピンと来た。屋根裏部屋だ。
 確かにあそこはいろんなものが乱雑に押し込められていて、タコぐらい出てきても何ら不思議ではない空間になっている。そのタコは所々すすけて汚れていたが、骨もしっかりとしているし壊れていない。このままでも充分飛ばせそうだ。
「懐かしいな、タコか……」
 小学校の頃、正月に田舎でよくたこ揚げ大会をやった。あの頃はまだ電柱がなく、広々とした草原がどこまでも広がっていたのだが、その田舎も、今じゃマンションが建ち並ぶベッドタウンに変わってしまった。最近の子供達はたこ揚げもやったことがないらしい。
「なんなの、これ」
 そして御多分に漏れず、アルバ達もたこ揚げを知らないらしい。いや、ただ単に教えてくれる大人がいなかった所為だろう。リィンバウムのは電信柱なんてものはないから。
「これは、タコ……この形だとカイトって言った方が正しいのかな。要するに風に乗せて空に揚げるものなんだ。この糸を持って、風と逆方向に走る。もうひとりがカイトを支えて一緒に走って、タイミングを揃えて手を放してやる。糸は放しちゃ駄目だからな。放したらそのまま風に飛ばされてしまうから」
 何も描かれていない真っ白なカイト。糸は日本の凧糸とは少し違って細かったが、十分すぎる長さを持っている。
「へぇ……物知りなんだ」
 フィズが物珍しそうにカイトを見つめて呟く。トウヤは苦笑した。
「僕が住んでいた国にも、似たようなものがあったからね。いとことかが一斉に集まって、誰が一番高くまで揚げられるか、競争したよ」
 凧同士の場所が近すぎて糸が絡まり、くるくる回転しながら地上へ落下していった事もあるが、トウヤは大体いつも、一番か二番に収まっていた。そのかわり独楽回しは不得手だったけれど。
「やりたい!」
 突然アルバが大声を上げた。
「おいら、やってみたい!」
 トウヤの話を聞いて好奇心が刺激されたのだろう。トウヤを挟んで反対側にいたラミが、クマのぬいぐるみを抱きしめて肩をびくっと震わせた。
「……じゃあ、なるべく広くて風の吹いている場所――川原とかに行ってみたらどうだ?」
 何もなく広い場所は沢山あるが、子供達に荒野に行かせるわけにもいかないのでトウヤはアルク側の畔を勧めた。あそこなら町に近いし、釣り人もいるから安心だ。
「兄ちゃんは手伝ってくれないの……?」
 だが椅子から立ち上がらないトウヤに、途端に泣きそうな顔になってアルバが言う。
「ばーか。お兄ちゃんは、誰かさんが邪魔してくれたおかげで着替えなくちゃいけないんでしょう。それに、まだ朝ご飯の途中みたいだし?」
 フィズが間髪置かずにアルバに突っ込み、まさしくその通りだったトウヤは苦笑する。だが確かに、いきなりやったこともないたこ揚げをお手本もなしにやるのは無理があるかもしれない。
「じゃあ、俺が一緒に行ってやるよ」
 言ったのはソルだった。
 一斉に4人の視線を集めて、すっかり存在を忘れられていたソルは胸を張った。
「出来るのかい?」
「風に乗せて浮かせるだけだろ? 楽勝だって」
 召喚術を使うよりは簡単だろう、と笑ってソルはフィズからカイトを受け取った。まじまじとそれを見つめ、
「ふーん。以外と単純な構造してるんだな……」
 裏返し、また表を返して眺めて呟く。
「あんまりごちゃごちゃものをくっつけすぎると、かえって重くなって浮かないんだと思うよ」
 まだ体に残っているコーヒー臭さに顔をしかめ、トウヤは言う。そんなもんかな、とソルは気のない返事をして子供達を見下ろした。
「じゃあ、行くか」
「やったー!!」
 本当は自分がやりたいだけではないのだろうか、と本気ではしゃいでいるように見えるソルを眺め、トウヤは肘をついたまま笑った。

 
 手っ取り早く食事を終え、食器を流し場に置いたトウヤはまず自室に戻って今着ている服を脱ぎ新しいものに着替えた。だが髪に残るコーヒーの匂いや粘っこさはどうにもならず、井戸に行って水を汲み、それを頭からかぶるしかなかった。
「どうしたの?」
 洗濯をあらかた済ませたリプレに問われて、苦笑しながら事の顛末を教えると彼女は呆れた顔で笑っていた。
「火傷しなくて良かったね」
「まったくだよ」
 真新しいタオルで顔を拭き、頭を振って髪に残る水気を飛ばす。わしゃわしゃとタオルで頭を掻き回し、軽く水分を奪ってそれで終わりだ。後は自然に乾燥するのを待つ。まだ昼で太陽も出ているから、アルク川に行くまでに乾くだろう。
「出かけてくるよ」
 上着に袖を通しながら洗濯物を干しているリプレに言うと、彼女は行ってらっしゃいとだけ返してくれた。
「昼ご飯、ちょっと遅くなるかもしれないけど、いいかな?」
「んー、あんまり遅くならないでね」
 もうじきしたらガゼルが帰ってくるはずだから、とシーツを両手で広げて物干し竿に向かって背伸びをしている彼女の返事を待ち、トウヤは庭から出た。
 いい天気だ。真っ青な色は、西の空を見る限り無限に続いている。ところどころで浮かんでいる白い雲は風にながされ、のんびりと東へ進んでいるようだった。
「んー、気持ちがいい」
 道の真ん中で大きく伸びをして呟き、トウヤはアルク川へ向かう。だが町並みを抜けて川原へ出る道をいくら行っても、空にあのカイトが浮かんでいる気配はなかった。
「どうしたのかな?」
 あれだけ自信満々だったソルだったから、多分大丈夫だろうと思っていたのだが。やはり初心者には難しかったか?
 風はいい具合に吹いている。これなら多少下手でも少しは飛んでもおかしくないのに。
 並木を抜けて川原に下りると、すぐに子供達とソルの姿は見付かった。だがその光景を眺めてトウヤは失笑してしまう。
「それじゃ、駄目に決まってるよ」
 糸を持つソルと、凧を抱くようにしてもっているアルバがいつまでも一緒になって走っているのだ。それじゃあ、いくら頑張っても凧は揚がりっこない。
「お兄ちゃん……」
 ふたりから少し離れた場所に立って事の様子を見守っていたフィズとラミがまずトウヤに気付く。それから、ソルが気付いた。
 視線が合うと、ばつが悪そうに顔を背ける。まだ走り止んでいないアルバがいつの間にか立ち止まったソルを追い越して慌てて戻ってきた。
「あれ? 兄ちゃん」
 この凧壊れてるの? 全然揚がらないよ、と続けざまに質問してくるアルバに笑いかけ、トウヤは前に出て彼から凧を受け取った。そして糸の先を持つソルに近づく。
「貸してごらん」
 長く垂れ下がった糸を心棒にまき直し、持ちやすいように棒の片側に糸を寄せてトウヤはカイトの両端を持った。そしてそれを頭上高くに掲げる。
「これは、こう持つんだ。なるべく高く、風を大きく受け止められるようにね」
 アルバは胸の前で持っていたから駄目だったのだ、と言うと彼は頬を膨らませた。
「ソル」
「え?」
 名前を呼ばれ、振り返った瞬間何かを差し出されたからつい反射的に受け取ってしまった。ソルは目を見開き、胸に納まっているカイトを呆然と見つめる。
「それ持って、走ってくれないかな。僕がタイミングを言うから、その瞬間に手を放してくれたらいい」
 なるべく高くに掲げるんだぞ、と念押しして、トウヤはソルの了解の返事も待たず糸を伸ばして風上の方向へ走っていってしまった。
「え……ちょっと待て、トウヤ!」
「いいかい? いくよ!」
「だから待てって……うわっ」
 期待の眼差しを送ってくるアルバにも気付かず、突然のことに対応できなくて焦るソルを置き去りにトウヤはさっさと糸を引いて走り出した。前に引っ張られる形でつんのめったソルは、だがこのままここで足を踏ん張っていてはカイトが破れてしまうと気づき、不本意ながらトウヤに合わせて走り出した。
 最初は歩くように、やがて緩やかにスピードを上げて。
 風に逆らって走るソルの頭上には、風を受けて暴れるカイトがある。このまま自分ごと空にさらわれてしまうのではないか、と一瞬恐くなった。
「今だ、ソル。手を放して!」
 前方からトウヤの矢を射るような声が飛んできて、台詞の中身を理解する前に彼は手を放してしまった。
 トウヤはまだ走っている。ソルの手を飛び出したカイトは、風に乗ってぐんぐん上昇していく。
 子供達の間から歓声が聞こえた。
 トウヤの手の中から細い糸が心棒からものすごい勢いで解き放たれていく。それをある程度の長さでトウヤはストップさせ、糸を持ってバランスを取りながら空の中に浮かぶ白い小さなカイトを安定させた。
「凄いスゴイすごーっい!」
 興奮したアルバがぴょんぴょんとその場で飛び跳ね、大急ぎでトウヤの元に向かう。フィズもラミの手を引いて走り出し、にわかにトウヤの周囲は大騒ぎだ。
 それを、ソルは離れた場所で見ていた。
 見上げた先にあるカイトは、時々強く吹く突風にあおられて揺れる以外は安定している。白い点は青空の中のシミのようで、ちっぽけだった。
 地上で藻掻き足掻く自分たちを、あの小さなカイトは見下ろしている。ここよりも遙かに自由な空から。
「あんまりごちゃごちゃものをくっつけすぎると、かえって重くなって浮かない……まるで俺みたいだ」
 何も持たないからこそ、カイトは自由に空を飛ぶことが出来る。運命という鎖で縛られ、思い通りにならない自分にさえ戸惑いを隠せないというのに。
 なんて自由、なんて身勝手、なんてザマ……!
「ソル」
 悔しげに唇をかみしめた彼を、いつもと同じ優しい声でトウヤは呼びかける。
「ソル」
 カイトの糸は操り方をアルバに教え、彼に渡してきたらしい。今のトウヤは何も持ってはおらず、それが今のソルには自由の象徴のように見えた。
 しがらみのないもの、己の思うように生きられる者、奪うことを知らない無垢な瞳――
 苦しい。
 哀しい。
 羨ましい。
 妬ましい。
 憎い。
 いっそ彼も自分を憎んでくれたらいいのに。そうしたら、こんなにも苦しい思いをしなくても済むのに――!!
「ソル」
 気付かないのか、トウヤは返事をしないソルを訝しげに見つめる。わずかに視線を上向かせれば、そこにトウヤの黒い瞳があった。
 揺れることのない力強い光をその奥に秘めている。彼に見つめられたら、自分が今まで虚勢を張ってでも守ろうとしてきたものがあっけなく崩れてしまいそうで……ソルは苦手だった。まるで自分の心の内をすべて暴かれてしまいそうで。
 言いたくなってしまう。謝りたくなって、許しを請いたくなる。そしてきっと彼は赦すだろう、今まで隠してきたこと、これからも隠し続けること、……トウヤが何故この世界に呼ばれてしまったのか、その理由も、ソルの存在もすべて。
 彼は認め、赦し、受け止めてしまうのだろう。
 その優しさがいっそうソルを苦しめることにも気付かないで。
 トウヤの言葉は優しい棘になってソルの心を傷つけている。
 ふいに泣きたくなった。
 遠くで子供達のはしゃぐ声が聞こえる。そちらに一度視線を戻していたトウヤに気付かれないように目尻を乱暴に拭い、ソルは深く息を吐いた。それに気付き、トウヤはすぐに彼を振り向き見た。
「今度、ソルにも作ってあげるよ」
「いらない」
 ずっと黙ってカイトと空を見上げていたソルだったから、トウヤは誤解したらしい。
「大丈夫、凄く簡単に作れるんだ。小学校の時に作ったことあるし」
「だから、別に欲しいとか思ってないって……」
 人の言うことを聞いてくれ、と訴えかけるソルだったが。トウヤの瞳にまっすぐ見つめられて息を呑む。
「本当に?」
 くすり、と。含みのある笑顔で問われてソルは言葉に詰まる。
「いいんだってば!」
 苦し紛れに叫んでソルはトウヤの背中を思い切り押した。
 心底面白がっているのが分かるトウヤの笑い声に赤くなりながら、ソルはもう一度空を仰ぐ。
 白いカイトが揺れている。トウヤが糸を支えていたときよりもいくらかぶれが大きくなってきている気がしたが、まだ当分、地上に落ちてくる様子はなかった。
「ソル?」
「……ありがとう」
 信じていいのか?
 そう言葉の裏に告げて。
 もう空のカイトを憎いとは思わなかった。

闇空の向こうへ

 ファナンにあるモーリンの道場は、敷地が広い所為で見回す限りそこよりも背の高い建物がない。だから高い位置に行けば見晴らしは相当宜しい。
 気に入ってしまったかもしれない、とマグナは夜の月見を道場の屋根で実行しながら思った。
 なんとなく昼間、眺めが良さそうだなと思って見上げた屋根へは、壁に立てかけた梯子を使った。それも、昼間のうちにモーリンの尋ね、倉庫の奧から自分で引っ張り出してきたものだ。年代物で、乱暴に扱うと壊れてしまいそうな代物だったけれど文句は言わない。
 自分ひとりの体重はなんとか凌いでくれた梯子をちらりと見て、もう一度天頂で穏やかに輝く月を見上げる。その周辺には月に負けじと光り放つ星々が。
 こうして空を見上げていると、今が戦争を間近に控えた非常事態だという事を忘れてしまいそうになる。否、忘れたいと願ってしまう。
 戦争なんて起きなければいい、今始まろうとしていることは夢幻で、月が沈み太陽が昇れば長閑で平穏な世界が待っている。そう、思いこみたくなる。
 現実逃避だとは分かっている、そんなことが起きるはずがないことも。
 自分の目で見てきたことだ、スルゼン砦での事もローウェン砦での事もそして、トライドラでの悪夢も。
 殺された人々の叫びも、死して尚救われない魂の悲鳴も、なにもかも現実に起こってなおかつ自分はその一部始終を見てきた。知ってしまった、今更逃れる事など出来るはずがない。
 自分は充分すぎるほどに関わってしまった、意図しなかったこととはいえ。望んでいなかった事とはいえ。
 ぼんやりと月を見る、視界を遮るものが何もない為か空が近く感じる。
 手を伸ばせば、届きそうな程に。
 右腕を緩やかに伸ばし、手を広げる。目の前に無限に広がる夜空へと差し出して、一番大きく輝いている星を掴もうと藻掻いた。
 掴めるはずなど、ないのに。
 同じ行為を幾度か繰り返しているうちに、不意に涙がこぼれた。けれどマグナは構うことなく、虚空へと手を伸ばし続ける。
 座ったままで届かないのならば背を伸ばし、それでも駄目であれば立ち上がって、さらには爪先立ちになり。
 屋根の上である、足許は当然斜めに傾いでいる。それすらも忘れて彼は、ただ星だけを求めていた。無意識に、その行為にいかなる意味があるのかも考えず、ただ、あの無駄とも思える程に毎夜空を焦がしている星の輝きを欲して。
 手を伸ばす。
 やがてバランスを崩した彼は、姿勢を正すことも出来ず前のめりに身体を崩した。それでも、手を伸ばし続けるのは。
 何故?
「マグナ!」
 痛切な叫び声が間近で聞こえて、すぐ眼前に迫っていた屋根瓦に直撃する寸前にマグナの身体はなにかに抱き上げられだ。胸元に回された腕が、他者の体温を彼に伝えている。
「なにをしているんだ、お前は!」
 大丈夫か、の前にまず叱りとばすその声は耳慣れすぎてさえいる、彼の兄弟子の声。
 虚ろな瞳に次第に光が戻ってきて、マグナはようやく自分がどういう状況に置かれているかを徐々に認識し始めた。伸ばしていた腕は、力無く垂れ下がり今、ネスティの肩に置かれている。
 無意識だったのだろうが、支えを求めていたらしい左手はネスティの腰辺りに溜まっている布地を握りしめている。位置的にマグナの方が高い場所にいるくせに、彼は前のめりに身体が倒れかけている所為で兄弟子の顎骨のすぐ下に頭が行っていた。
 斜め前から抱きかかえられている体勢、と言えば分かりやすいだろうか。ちゃんと抱きしめられているわけではないが、これでは自分の方からネスティにしがみついている感じがしてマグナは赤く染まった顔のまま慌てて飛び退いた。
 しかし、バランスが崩れたままだったのでそのまま尻餅を付いてへたり込んでしまう。
 呆れた顔のネスティが、顎を引いて顔を上げた先に見えた。片手を腰に当て、肩を竦めている。眼鏡の奧にある瞳の色は冷ややかだ。
「なにがしたかったんだ?」
 問いかけの口調は穏やかだけれど、言葉尻に響く気配は剣呑だ。怒っている、それが長年のつき合いの御陰でひしひしと伝わってきて痛い。
「いあ、その……」
 座り直し、胸の前で左右の人差し指をつき合わせ上目遣い。けれどネスティの顔色は少しも変わることなく、穏やかだけれど末恐ろしい表情でマグナを見下ろしている。腰にあったはずの手はいつの間にか前で組まれていた。
 問いかけ以外にネスの口から落ちてくる言葉はない。巧い説明をしようにも、こうなったネスティに下手な言い訳は通用しないし、嘘は簡単に見抜かれてしまう事は過去の経験上実証済みだ。救いを求めて視線を周囲に流すものの、立地条件の問題もあってこの場に居合わせる不幸な存在は見当たるはずがない。
 冷ややかな月の光だけが、彼らを頭上から朗らかに眺めているだけだ。
「マグナ」
 口調がきつくなっている、このまま無言を押し通しても益々彼の不機嫌を煽るばかりだろう。そうなってしまったときのお叱りは実力行使も含まれるので、反射的に首を引っ込めたマグナは泣きそうな視線でネスティを見上げた。
「だ、だってぇ……」
 十八歳にもなって、そういう子供臭い仕草はやめるべきではないか。実年齢よりも十は幼く感じさせるマグナの態度に溜息をつき、ネスティは言いかけた言葉を呑み込んだ。
 前髪を掻き上げるついでで、眼鏡に神経質に触れる。冷たい指先よりも冷えた眼鏡のフレームが月光を反射して輝いた。
「怒らないから、何をしていたのかだけでも言うんだ」
 その言葉自体が既に怒っていることを表明しているのだが。
 星を掴もうとした、などと言えるはずがなくマグナは口ごもる。聞いた時のネスティがどんな反応を返すか目に見えて明らかだ。
 呆れられるだろうし、バカだと詰られるだろう。
「マグナ」
 声色は変化ない、淡々としていて冷え切った空気のように肌を刺してくる。
「あ、あの、さ……」
 おずおずと、マグナは右手を伸ばして空を指さした。相変わらず星は瞬き月が輝いている。
「ん?」
 ネスティもつられて空を見上げるが、普段と変わらない夜の光景が一面に広がっている事だけしか確認できない。マグナが意図している事の意味を掴みかねて、彼は小首を傾げながら視線を戻した。
「星、が、さ……」
 近くに見えたから。
 掴めそうな錯覚を覚えて、手を伸ばしたのだ、と。
 途中までは声もはっきりと聞き取れる音量だったが、後半に行くに従って言葉は淀みぼそぼそと口の中だけで呟くように小さくなっていく。聞き取りにくいマグナの台詞に眉根を寄せ、だが中盤までの彼の言葉からマグナがなにを言わんとしていたかを大方察したらしいネスティは、伸ばした人差し指で自分の米神を押さえ込んだ。
 そして、深く吸い込んだ息を一気に吐き出す。いくつかの言葉と一緒に。
「…………また、か」
 呆れというよりは同情か哀れみか。そしてそれは、むしろマグナへではなく自分自身へと向けられたもののような響きがあった。
「ネス?」
 顔を上げて今度こそちゃんとネスティの顔を見返したマグナは、ひとしきり首を傾げて不思議がったあと、唐突に或る疑問に陥った。
 曰く、何故ネスティはここに居るのか。
「僕か?」
 そのまま言葉に乗せて問いかけると、米神から指を離したネスティが大仰に肩を竦め、そして屋根の端に立てかけられ先端だけが見えている古い梯子を指さした。
「あんなものが、昼間になかった場所にあることを不思議に思わない方が可笑しいと思わないのか」
 怪訝に思い、そのまま視線を上に流していけばなんと屋根の上に爪先立ちになり、上ばかりを見て今にも倒れそうになっているマグナが居るではないか。驚きが先に立ち、次の瞬間ネスティは梯子を駆け上っていた、そして倒れかけたマグナを間一髪で助けた、と。そういう事だ。
 手短に要点だけを掻い摘んだ説明をし、ネスティは納得したか、とマグナに視線で問いかける。頷いて返したマグナは、では、と次の質問へ移行した。
 それはたったいまさっき、ネスティが口にした言葉。
「“また”、って?」
 自分は以前にも屋根から落ちるような事をしでかした事があっただろうか。星や月を眺めるのは好きだが、わざわざ昇る手段がない家屋の屋根に登ってまで眺めた記憶は乏しい。
「覚えて……いない、か。だろうな」
 まだ派閥に引き取られてから時間もさほど経過していない時だったし、あまり大っぴらに語れるような武勇伝でもない。どちらかと言えば隠しておきたい恥ずかしい過去の部類に入るだろう出来事を、マグナが自分から記憶の片隅に起き続けて時折思い出すような真似はしないだろう。
 納得顔で頷き、ネスティはマグナの横に腰を下ろした。裾を踏まないようにマントを揺らし、片膝を伸ばす体勢でくつろいでいる。一方のマグナは、どうもネスに見下ろされていた居心地の悪さも手伝って両足を揃えて膝を曲げ、両手で抱きかかえているという状態だ。
「君は前にも、派閥本部の屋根から落ちたことがあるんだ」
 そういわれても、覚えていないマグナは少しもピンとこなくて頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。首を傾げたまま横に座るネスティを見返すと、彼は幾分困った顔をしてマグナを見た。
「悪戯がばれて謹慎処分を受けていたところを脱走して、屋根に登ったんだ」
 覚えていないのなら一から説明してやるしかなく、あまり気乗りしないままにネスティは語りだした。聞くに従って、マグナの顔が赤くなり慌てていく変化に面白そうに目を細めているが、あまり口元は笑っていない。彼としても、思いで語りにするには不本意な出来事だったのだろう。
「え、嘘! 俺そんなことやった!?」
 思い当たる記憶に直ぐに辿り着けず、マグナは大きな声で叫ぶが即答でネスティにこっくりと頷かれてしまうと反論も出来ない。自分より遙かに記憶力に優れているネスティがそういうのだから、間違いないのだろう。
 こうやって自分は忘れているのにネスティだけが何時までも忘れないでいる事、そういう事が日増しに多くなっていく気がする。
 黙り込んだマグナを見て何を思ったのか、一呼吸置いてネスティは中断していた昔語りを再開させた。
 屋根に登って降りられなくなったのか、突然動き回るのを止めたマグナはずっと空を見上げていた。地上から派閥の人々が口やかましく、そこから動かないようにと叫んでいる声も聞こえていない様子だった。
 ネスティはまるで昨日の出来事のように話す。視線は直ぐ近くにあるはずなのに、彼が見ているのはもう十年以上前のマグナの姿なのだ。
 自分を通り越した先にいる自分に、何故かヤキモチに似た感情を覚えてマグナは少し不機嫌になる。
 幼い日のマグナは、屋根の上で手を伸ばしていた。何かを掴もうとしているのか、手が数回握り開きを繰り返し、背伸びを続ける。バランスが崩れ、助けの手が届く前にマグナは屋根から滑り落ちた。
 悲鳴が轟き、誰もが最悪の結果を想像した。
 けれどマグナは生きていた、落下地点が草木の生い茂る庭園の一角だった事が功を奏したらしい。
 なのに。
「頭をぶつけたのだろう、血を流していた」
 ここに、とネスティは久方ぶりに現在のマグナを見て指を伸ばした。彼の体温が低い指先が、マグナの右米神付近を辿る。少し髪の生え際に潜り込ませた位置で指を止め、思い出しているのか何度かその周辺を指の腹で撫でて離れていった。
 自分でも触れてみるが、傷痕など残っておらず触れたときの痛みも皆無で、首を捻ることしかできない。
 意識のないマグナは、ラウル師範の意向で彼の屋敷に移され治療が施された。怪我は召喚術を使って完璧に治癒されたはずだった。
 なのに、マグナは目を覚まさなかった。彼は三日間、意識がないまま眠りにつき、医者も原因が分からないとお手上げ状態で。
「僕たちは、このまま永遠に君が目覚めない覚悟を決めなければならなかった」
「あ……」
 ちりり、と頭の片隅を焦がすような痛みがして、マグナは口元を手で隠した。
 思い出した、かもしれない。いや、実際には少し違う、聞いただけだ、その時の事をラウル師範から。
 きっかけを手に入れると、次から次へと記憶は溢れかえってくる。膨大な情報の詰まった箱をひっくり返したような感じで、余計なことまで色々と思い出してしまいマグナは自然と表情を崩していった。
「それ、思い出した」
 ずっと暗闇にいた気がする。ひとりぼっちで、とても冷たい場所に閉じ込められていた。心細くて、膝を抱えてずっと泣いていた。それが現実ではなく眠っている間の夢に見た事であるのは明白だったが、幼いマグナにとってそれは現実の事とだぶって記憶されていた。
 別の記憶に紛れて、混ざり合って異なる出来事の一環にされていたのだが、ネスティの話を聞いてそれが間違った記憶であることを思い出した。抜けていたパズルのピースがかちりと音を立てて合わさる。
 長い間空白だったものが、色つきで埋められていく感じだ。
 ゆっくりとネスの瞳を見つめると、少し困った顔で微笑まれる。その顔に嬉しくなってマグナは深く頷いた。
「知ってる、俺。ネス、ずっと手握っててくれた」
 持ち上げた手の平はあのころよりもずっと大きくなっているけれど、握りしめてくれていた手の体温や、力強さは少しずつ戻ってくる。それこそ、昨日のことのように。
 目を覚ましたとき、最初に見えたのは真っ白い天上ではなくてネスティの顔だった。
「あの時、ネス、泣いてた」
「泣いてなどいない!」
 真上から覗き込んでくる顔は、ずっと眠っていた所為で焦点が合わずぼやけて見えたけれど、確かにネスは涙ぐんでいた。彼はムキになって否定して、マグナを笑わせたけれど。
 やや拗ねた顔でネスティはそっぽを向く。その背中に笑って、マグナはことん、と額を預けた。僅かにネスティが身じろぎするが、振り払われる事はなかった。
「ネス、ずっと俺のこと呼んでくれてたんだよな……?」
 三日三晩ずっと、枕許についてくれていたのだとあとになってからラウル師範に教えられた。ネスティはそんなこと、ひとことも言わなかったけれど。
 マグナが戻って来られたのは、暗闇の向こうから呼ぶ声が聞こえたからだ。彼の名前と、帰ってこい戻ってこい、其処に居ちゃいけないこっちへ来るんだ、そう呼び続ける声が聞こえたからだ。
 そして決め手となった、闇を貫いて差し伸べられた、手。
 その手を握り返した途端、強い力で引っ張られた。そして目が覚めて、最初にネスティの顔が見えた。
 重たくて動かない腕を懸命に伸ばすと、ネスティは握りしめてくれた。抱きしめてくれた。
 その瞬間悟ったのだ、自分は此処にいても良いのだと。此処に居たい、彼とずっと一緒にいたい、と。
 星は掴めなかったけれど、それ以上の輝きを放つものを手に入れた。
「それ以来、脱走はしても屋根には登らなくなった」
 だのに彼はまた屋根の上に昇って、星を求めて手を伸ばしていた。ネスティが危惧した事へようやく思考を巡らせることが出来たマグナは、ネスティから離れ折り曲げていた膝の間に顔を埋める。
 忘れかけていたが、自分は叱られている真っ最中だったのだ。最後の最後で、ネスティに釘を刺されてしまい口答えも封じられた。
「ごめんなさい……」
 素直に謝ると、見えないがネスティは肩を竦めたらしく衣擦れとマントが揺れる音が重なり合った。
「もうしないな?」
 問いかけられ、素直に頷くと頭を撫でられた。いつもなら子供扱いするな、と突っぱねる優しい手も、今日ばかりは振り払う気になれなくてマグナはそのまま受け入れた。
 髪を撫で、癖毛を掬い上げて優しく指で梳いて。そんなことをされると眠くなってくる、膝の間に置いたままの顎がカクン、と落ちて滑りかけた身体はネスティの腕にまた阻まれた。
「言った先から」
「あはは……御免」
 もう謝ることしかできなくて、シュンと小さくなるとまた頭を撫でられる。
「な、ネス」
 今度は落ちないよう、自分からネスティの服に手を伸ばしてしがみつく。皺になるからやめるよう、言葉で注意されたものの彼は行動には移ってこなかったので甘えることにした。
「なんだ」
 彼の手は優しい、人よりも少し体温が低くて几帳面な指先は神経質だけれど。こうやって触れられると良く解る、彼に触れられるのは好きだった。
「もし、……もし、また俺が迷ったら」
 闇に囚われて、自分ひとりで抜け出せない事になった時は、その時は。
 握りしめた服を、更に強く握って、マグナは彼の胸元に顔を埋める。今のこの泣きそうな顔を、彼に見られたくなかったから。
 頭を撫でていた彼の手が背に回され、軽く抱きしめられる。びくっ、とその瞬間だけ反応したマグナだったが、宥め賺すように手を上下されて背を撫でられると、ホッとしたように息を吐いた。
「分かっている。また呼んでやる、何度でも」
 それこそ、喧しいと怒鳴り返される程に。
 確信犯的な笑みを湛えたネスが笑い、表情を俯くことで隠していたマグナもつられて笑った。弾みで、我慢していた涙が出てきた。
「俺も、さ。ネスが迷ったときは呼ぶから……ネスのこと、俺が此処にいるって分かるように、大声で」
「それは、僕に自力で探し出せと言っているのか」
「だって、俺ひとりだったら迷うもん」
 待ってるから、見つけだして。
 ようやく顔を上げたマグナが笑いながら言うと、無邪気な笑顔にデコピンが飛んできた。
「やれやれ、君はまったく。どこまで僕に手間をかけさせれば気が済むんだ」
「一生」
 心底呆れかえったネスティの溜息に、楽しそうにマグナの声が重なる。ツッコミの手は瞬時に飛んできたけれど、避けずにいるとあまり痛くなかった。
「約束、だからな」
 暗闇を照らし出し道を示す星の輝きを、マグナがネスティに見たように、その逆もまた同じはず。
 光は、光を受けるものがあって初めて、自分が輝いている事を知ることが出来るのだから。

RainDay

 その日は朝からずっと、雨だった。
 どんよりとした空は今にも落ちてきそうなばかりで、鈍色の雨雲は何処までも世界を覆い尽くしている。地平の果てまで続いていそうな雲に、一面ガラス張りの窓から外を眺めていたユーリはふっと、息を零した。
 それは溜息に似ていた。
 雨の所為か、表情も幾らか影って見える。今自分ひとりしか居ないこの部屋は、ひとりで使うには充分すぎるほどに広くてそれが逆に、空気を冷やし音を奪っている。
 彼の耳には、庭に育つ木々の葉に落ちて跳ね返るその雨音しか響いてこない。樹木にとってこの雨は恵の雨であるのだろうが、ユーリにしてみればこの重苦しく冷えた空気は憂鬱な気分しかもたらしてくれない。
 もう一度、息を吐く。
 硝子窓に息が当たり、その周辺が一瞬だけ白く曇る。片手を添えてみれば、指先が少しだけチリチリとした痛みを覚えるように、窓は冷たかった。
 雨は止みそうにない。天気予報では夕方前には落ちつくだろうと伝えていたが、それは誤報ではないかと疑ってしまいたくなる程に、雨足の変化は見られない。それどころか益々、降雨の勢いは増している気がする。
 止まない雨。
 こんな日は何をする気にもなれない。茹だるような暑さの日も好きではないが、少なくともこんな、鬱陶しいばかりの雨空よりは数倍マシだろう。
 ふと、雨音で遠くなっている聴覚にそれ以外の何かが鳴り響いた。
「…………?」
 窓に手を添えたまま、足下ばかりを見ていた目線を持ち上げる。
 勢いの変わらない雨は透明なガラス窓でさえ視界を奪っている。霞む庭の光景は先程と何も違っていない。しかし、違和感を覚える雨のワルツとは異なる声色は確かに聞こえてくる。
「なんだ?」
 試しに窓を開いてみる。吹き付けてくる風に押し流された雨粒が一気に窓の隙間から押し寄せてきて、ユーリの前髪を攫い彼の身体を容赦なく濡らしていく。
 台風でも接近しているような雰囲気の中、彼は雨降りしきる庭に足を下ろした。
 全身は既にびしょ濡れの、濡れ鼠状態。たっぷりと水分を吸い込んだ髪は重く貼り付いている。腕を持ち上げてひさし代わりにするものの、その努力は報われる事などなかった。
 かろうじて保たれる微かな視覚と聴覚だけを頼りに、ユーリは広大な庭を見回した。確かこっちから聞こえたはず……と勘を頼りに滑りやすい芝を一歩一歩踏みしめて進んでいく。
 普段ならものの五秒もかからずに辿り着ける場所が、嫌に遠くに感じた。
 茂みのような庭の植木を手でかき分け、落ちてくる巨大な水滴を払いのけてようやく、彼は地面の上で小さく震えているものを見つけだす。
 まだ若い木の根本に身を寄せるようにして、全身をユーリ以上に雨に濡らしていた灰色の仔猫が突然現れた彼を見上げて、心細そうに鳴いた。

 仔猫を腕に抱き上げると、想像以上に軽くて驚く。もう逃げ出す元気も残ってないのか、落ち着かないダークブルーの瞳は不安を表現しているけれど仔猫はユーリの腕の中でじっと動かない。
 微かに抱いた腕から仔猫の命の鼓動を感じて、ユーリは急いで開け放しだった窓から屋内に入ると窓を閉める事もせず、反対側の扉を開けた。
 歩くたびに衣服が吸い込んだ大量の雨水が垂れて痕を残す。廊下を敷き詰めているカーペットが靴裏の泥を受け止めてくれるが果たして、これは誰が掃除するのだろう。
 アッシュが見れば絶叫しそうな汚れをそこかしこに残す事も構わず、ユーリは仔猫を抱いたまま廊下を進み最終的にこの城で一番広い部屋――リビングに相当する一室に足を踏み入れた。
「アッシュ!」
 ばんっ、と扉を押し開けて開口一番叫ぶが、返事はない。
 そのかわり、両手にギャンブラーZのフィギュアを握って、どうやら……遊んでいたらしいスマイルが床の上に座った状態で振り返った。
「アッシュなら、さっき買い物に行ったよ~?」
 相変わらずの暢気でおちゃらけた声にユーリは明らかに落胆の表情を浮かべる。
 それが見えてしまったらしい、スマイルは一瞬不満そうな顔をするがすぐに、ユーリの様子がいつもと違うことにも気付いて手にしていたフィギュアを置いた。そのまま立ち上がる。
「どうしたの?」
 そんなに濡れて、と言いかけた言葉が途中で途絶える。座ったままでは見えなかった、ユーリの腕の中にいる仔猫の存在に立ち上がった事で気付いたからだ。
「その子は?」
「ああ……庭に迷い込んでいたらしい」
 傍まで来たスマイルが仔猫を指さして問いかけ、ユーリも額に貼り付いた銀髪を片手で掬い上げるながら答える。指先に珠の形をした水滴が転がり、フリーリングの床に跳ねて砕け散っていった。
「へぇ……」
 新たに現れた包帯ぐるぐるのスマイルに明らかに怯えた表情をする仔猫をじっと見つめ、それからふっと視線を持ち上げてユーリを見た彼はしばらく、其処で待つようにユーリに言った。
「?」
 どうする気なのか、と不思議そうにするユーリを置いてスマイルは一度踵を返してリビングを出ていく。そして一分も待たないうちに戻ってきた。
 両手にバスタオルを抱えて。
「はい」
 うち一枚を片手で振って広げると、それを空気抵抗に任せてユーリの頭上に落とす。唐突に視界がゼロになったユーリは驚いてそれをキャッチし、その隙にスマイルは彼から仔猫を奪い取った。
 軽くなった腕に、ユーリは慌ててタオルを持ち上げて視界を確保する。何をする、と叫ぼうとした彼だったが、意外にもスマイルはもう一枚持ってきていたタオルで仔猫をくるみ、優しく拭いてやっているところだった。
「ユーリも、身体拭いて着替えて来た方がいいと思うけどねぇ」
 そのままだと風邪引くよ? と柔らかな手つきで仔猫の身体をタオル越しに撫でているスマイルが言う。彼に指摘されて、ようやくユーリは自分もすっかり雨に濡れて身体が冷え切っている事を思い出した。
「あ……」
「この子はぼくが見ておくから。大丈夫だよ?」
 心配要らないから、と微笑むスマイルに押し切られる形で結局、ユーリは庭で見つけた仔猫を彼に預けることに決め、自分は着替える為にリビングを出る。
 頭の上には相変わらず真っ白い洗濯されたタオルが載っている。その端を掴み持ち、頬を濡らしている雫を拭って彼は軽く布地を噛んだ。
 首を振る。動きに合わせて普段なら軽やかに揺れる上衣も、今は雨を吸って重くなり反応が鈍い。ぽたぽたと垂れる雫は相変わらずカーペットを濡らして、まるで蝸牛が這った痕のようだった。
 再びスタート地点である自室に戻ったユーリは、そこで雨晒しになっている窓辺を見つけてようやく、自分が窓を閉め忘れたことに気付く。泥を混じらせた雨が床一面を濡らしていて、それは部屋の中央まで達していた。
「…………もう、この部屋は使えないな」
 溜息混じりに呟くと、クローゼットから適当に着替えを見繕って手に抱え、またしても窓を閉めることなく彼はバスルームへ向かって歩き出した。

 シャワーを浴びて、冷え切っていた身体を暖めたユーリはこざっぱりとした服に着替えてリビングに向かった。今度はシャワーの所為で湿り気を帯びている髪をタオルで拭きながら、仔猫がどうなったか心配になって自然と足は早くなる。
「スマイル」
 閉められていた扉を押し開けると、やはり床の上に直に座っている彼が声に気付いて顔を上げた。
「あったまった?」
 どうやらユーリがシャワーを浴びていた事も知っていたらしい。主語の抜けた言葉にコクリと頷いて、ユーリは視線を巡らせる。
 すると彼が何を捜しているのか理解したスマイルが小さく笑って、胡座をかいて座っている自分の前を指さした。
 白い小皿を前に、白い毛並みの猫がミルクを飲んでいる。少し温めてあるのか湯気を薄く立てているミルクは、スマイルが台所から拝借してきたもののようだ。しかし、あの灰色の毛並みをした仔猫は一体何処へ?
 首を捻り、入り口に立ち止まったままでいるユーリを今度はスマイルが不思議そうな顔をして見返す。
「どうしたの?」
「いや……その猫は?」
 ミルクを無心で飲んでいる白い猫を見つめ、先程自分が庭で見つけてきた仔猫は何処へ行ってしまったのかと彼は真顔でスマイルに問いかけた。心配要らないから、とスマイルが言うから任せたのに、と言外に咎めている口調に、今度こそスマイルは眉間に皺を寄せてユーリの側へ行き、ぽん、と肩を叩いた。
「あのねぇ、ユーリ?」
 何処か力の無い声で、スマイルは言う。
「あの猫が、ユーリの拾ってきた仔猫なんだけど?」
「え?」
 一瞬だったけれど、怖ろしく間の抜けた顔をしたユーリがスマイルを見返した。
 それだけでも得をした気分になったスマイルだが、顔がにやけかけるのを寸前で押し留め、ミルクを飲み干し満腹顔になっている仔猫を抱き上げた。
「ほら」
 そう言って、ユーリに手渡す。
 すっかりご機嫌になっている仔猫は、さっきまであんなに濡れていたのが嘘のように全身がふわふわで柔らかく、暖かかった。両手で抱きかかえてやると、甘えたようにごろごろと喉を鳴らしてすり寄ってくる。
 それは確かに、あの灰色の仔猫だった。
 しかし何故、こんなにも色が違ってしまったのか。問いかけるように目線を上げたユーリに、スマイルは苦笑する。
「タオル、三枚も真っ黒にしちゃった」
 それだけ汚れていたのだと言葉の裏に隠して、彼はユーリの腕の中で気持ちよさそうにしている仔猫を撫でる。最初はあんなに怯えていたはずなのに、すっかり彼に懐いている仔猫に少しだけむっとして、ユーリはふいっと予告もなくスマイルに背を向けた。
 そしてソファへと進みどかっと腰を下ろす。
 革張りで弾力のあるクッションに身体を沈め、自分も抱きしめた猫に指を沿わせて毛並みを撫でる。すり寄ってくるのが楽しくて、そのまま頬を寄せて自分からも頬ずりしていると、向こうでスマイルが羨ましそうでそれでいて恨めしそうな目をしているのが見えた。
 拗ねている。ありありと手に取るようにそれが解ったユーリだったが、構ってやる義理もないので無視しているとそのうち本格的に拗ね始めたらしく、スマイルは彼に背を向けて床に置き去りにしていたギャンブラーZでまたひとり遊びを始めてしまった。
 苛めすぎただろうか。そう思う気持ちも少しはあるのだが、あまり構い過ぎると調子に乗ってくるのでもう少ししてから声を掛けてやろう。
 スマイルが見ていないことを良いことに表情を和らげて笑みを形作らせたユーリの前で、矢張り硝子一面の窓の向こうが少し明るくなってきていた。
「あ、雨止んだみたいだねぇ」
 スマイルも、外からの採光の度合いが変化したことに顔を上げ、立ち上がる。窓辺に寄って鍵を外し、少しだけ開けて外を覗く。
「止んだか?」
 ソファに腰掛けたまま、膝の上で猫の背を撫でていたユーリが問う。上半身だけ振り返ったスマイルがうん、と頷いた。
 その声に反応したわけではないのだろうが。
 ぴくん、とそれまで大人しく撫でられていた仔猫が耳を立てた。頭を持ち上げ、周囲を伺うように視線を巡らせてそして、最終的にスマイルの居る窓に首の向きを定める。
「あっ!」
 止める間もなく。
 ユーリが手を伸ばした時にはもう、真っ白い毛並みの仔猫は彼の膝を飛び出してスマイルの元へと駆け出していた。
 仔猫は、スマイルの股間を抜けて開かれていた窓から外へと飛び出し、雨上がりの芝の上を勢いよく走り去る。それは本当に、一瞬の出来事だった。
「あ~あぁ……」
 足下を神風のように駆け抜けていった仔猫が庭の茂みに消えていくのを見送って、スマイルは溜息をついた。
「行っちゃった」
 まさか逃げ出すとは思ってもみず、自分の不注意だったかとカラカラと静かに窓を閉めた彼はユーリが気落ちしているのではないかと不安げに振り返った。
 しかしユーリは、妙にさばさばとした顔をしていた。視線は何処か遠い場所を見ているようで、少し寂しげにも映る。
 まだ僅かに湿っている髪を掻き上げ、小さく首を振った。
「ユーリ」
 窓辺から離れ、ソファへと歩み寄る。
 自嘲げにも見える皮肉な笑みを片手で隠している彼には、この言葉は届かないかもしれないけれど。
 それでも、スマイルは言っておきたかった。
「なんだ」
 仏頂面のユーリが顔を上げて彼を見返す。視線が重なった。
「ぼくは、ずっとユーリの傍に居るからね」
 一瞬間が空いて。
 先に視線を外したのは、ユーリ。
「…………馬鹿者…………」
 横を向いたまま、随分と時間がかかって彼はそれだけを小声で口に出して。
 それから。

「……そんなこと、当然……だろう……」

 とても言いにくそうに口をモゴモゴとさせて言った彼に、スマイルはいつになく楽しげに微笑んだ。