十六夜の月

 暗闇が押し迫り、自身の足許を確かめるのもおぼつかなくなり始めていた頃、ようやく仲間の間から誰とも無しに、今日はここまで、という声が上がり始めた。
 最初に賛同の声を上げたのはお約束ながらフォルテで、だが相棒のケイナも疲れが目立ち始めている旅の同行者の顔色を見ると強く反対することも出来ず、やや呆れ加減に頷くだけに留めた。そして、反対する者が誰も居ない事が確かめられてから、ようやく本日の野宿場所が決定される。
 街道から少し外れた草原の一角に泉があり、小さいながらその奧に森が広がっている地帯をリューグが見つけてきた。休むに適した場所は他に見当たらなかったことから、一団はまとまってそちらへ移動を開始する。
 そして完全に太陽が西の空へと沈み、十六夜の月が空に輝きだした頃、少しばかりの夕食が終了する。
 食べ物は、道すがらに点在している村々で手に入れたパンや、保存の利く加工した肉。そしてフォルテとリューグが狩って来た森に住んでいた獣肉を捌いたもの。後は、ミニスとアメルが摘んできた野いちごや果物が、ささやかな夕食の席を飾っていた。
 泉があった御陰で飲み水を心配する必要もない。満腹とまでは行かずとも、空腹を満たすには充分だった食事のあとは、皆思い思いの休憩時間となった。だが眠るまでの数時間、暇を持て余すのも勿体ないとケイナが言い出し、女性陣は焚き火を囲みなんと汚れ物の洗濯を開始してしまう。男どもはというと、姦しくも仕事熱心な女性達を尻目にフォルテが取りだした花札に似たカードゲームを興じ始めていた。
 まったく、どうして男ってああなのかしらね。わざとらしく大声でのケイナの嫌味を聞かなかった事にし、カードを配りだしたフォルテが暢気に口笛を奏でる。手慣れた調子で配られるカードを捲り、もうひとつの焚き火の傍らでリューグとカザミネ、それにバルレルまでもが真剣な顔をし、自分の手元に来たカードの勝ち点を懸命に計算し始めていた。
「リューグまで……」
 村にいた頃は賭け事のひとつもしたことがなかったはずの幼なじみの姿に、アメルも些か呆れ気味である。本当なら叱って然るべき事なのだろうが、それをやるべきはずの彼の兄は今此処には居ない。それに、こんな緊張ばかりが続く日々では息が詰まるから、多少の息抜きを与えてやるべきなのかもしれないと考える気持ちも、アメルにはある。但し、賭け事自体は良くないが。
 今は賭けるべき対象が夕食の残りである肉と果物なので、育ち盛りの食べ盛りであるリューグも栄養を得るために必死な事も分かる。だから敢えて口出しはせず、アメルは見守る体勢に入ることにした。どうせ、止めたところで聞く相手ではない。
 しかしこの賭け事に参加せず、また女性達に混じって手仕事に勤しまない人も居た。
 マグナとネスティである。
 彼らはやはり焚き火の直ぐ近くで地図を広げ、今後向かう町への道のりを調べている真っ最中だった。真横から照らしてくる光で、地図に置かれたネスティの指が長い影を落としている。その影ごと上から覗き込み、彼の言葉にいちいち頷いて返すマグナはどちらかというと視線は落ち着きが無く、真剣に話を聞いている様子も見られなかった。
「聞いているのか」
「え、あ、うん」
 そのマグナの動きが気に入らないのか、ネスティは不機嫌な顔を上げて真向かいに座っているマグナを見る。咄嗟に頷いて返すものの、マグナはやはり心此処に在らずという状態で益々ネスティの不興を買っていた。
「聞きたくないのであれば聞かなくても構わない」
 そう言って、早々と協議を終了させる事にしたらしいネスティが地図を折り畳み始めてしまう。するとそれを見たマグナが慌てて手と首を一斉に横に振る。
「違うって! その……ちょっと、トイレ……」
「…………」
 非常に言いにくそうに、耳打ちするように顔を寄せて小声で呟いたマグナに今度は呆れた顔を向け、ネスティは眼鏡を直すために眉間に指を置いた。
「だったら、早く行ってこい」
「あう……」
 取り付く島もない彼の反応に、胸の前で指をいじいじとさせたマグナだったが幾ら待ってもネスティは別の言葉をかけてくれそうになく、仕方無く彼はひとりで立ち上がった。
ズボンに付いた埃と土を軽く払い、ゲームに熱中している自分の護衛獣を見やって肩を竦める。それからもう一度、座ったまままた地図に目を落としているネスティの焚き火に照らし出された横顔を眺め、マグナは歩き出した。
「気を付けて行ってこいよ」
 会話が聞こえていたのだろうか、フォルテが彼に背中を向けたまま忠告の言葉を発し、手を振った。何に気を付けて、なのかは口に出さなかったが、この森には獣も居るし黒の旅団が偵察隊を派遣している可能性も否定しきれない状況が現在だ。だから、そう言う伏兵の存在に気を付けろ、と旅慣れた者としての警告なのだろう。素直に頷いて返し、マグナは止めていた足をまた前へ進ませた。
 そして手元に明かりも持たず、彼は闇の色が濃い森の奧へと姿を消していく。
「大丈夫かしら……」
 ケイナが洗濯の手を休め、後ろを振り返りマグナの背中を見送りながら呟く。アメルも心配そうに薄暗い森の入り口を見つめ、それからリューグへ視線を向ける。ちょうど良い手札が来たらしく、小さくガッツポーズを決めている幼なじみの姿に、知らず知らず溜息が零れた。
 夜の森が危険であることは、森の中に小さく集落を囲む村に育ったアメルは良く解っている。獲物を狙う獣が息を潜めている事も多いし、何より足許が見えにくく木の根に爪先を取られて転べば怪我はやむを得ないし、茨の茂みに気付かず全身を血まみれにしてしまうことも、慣れない人間にはざらにあること。
「やっぱり、ネスティさん……」
 恐る恐るという風情で彼女は地図と睨めっこをしているネスティに声を掛ける。不機嫌そうな面構えで彼女を見た彼は、まったくどうしてこうも、と主語の述語にも欠ける言葉を呟きようやく、地図を畳み始めた。
「あれもで、もう今年で十八になるんだが」
「年齢はあまり関係ないと思うけどなー」
 不満を口に出したネスティを笑ったのはモーリンだ。洗ったばかりの洗濯物を丸めて絞っている最中だったらしく、手には捻られたシャツが握られている。
「だってさ、こんな暗闇だったらいくら慣れた木こりだって明かり無しじゃ辛いだろ」
 海の傍で育った彼女が山の事を語るのは些か奇妙な感じがするが、隣で聞いていたアメルも大きく頷いて同調しており、まるで一緒に行ってやらなかった自分だけが悪者の如く攻め立てられているようで、ネスティは益々眉間の皺を深くする。
「女が団結すると恐いぜ?」
 上がり札を放り出し、勝ち鬨の声を上げたフォルテが彼を振り返り口元に笑みを浮かべて言った。
「力に訴えられる前に、さっさと行ってこいよ」
 ぽん、とネスティの肩に手を置く。馴れ馴れしいその態度を突っぱねた彼は、だが泉の辺から向けられる視線が突き刺さって痛くて溜まらず、重い溜息を吐き出すとやれやれと首を振った。
 何もしていないのに一気に疲れた気がする。額を押さえて視線を浮かせると、カザミネと一対一でカード勝負を続けているバルレルの姿が映る。本来、マグナの面倒を見るべきは護衛獣の彼のはずだ。
「バルレル」
「うっせぇ! オレは今忙しいんだ。邪魔すんじゃねぇ、メガネ!」
 名を呼ぶと、言われる前に言われる事を察したらしい子供の姿をしたこの悪魔は生意気な言葉遣いで反論し、速攻で視線を戻すとカザミネが翳すカードから一枚引き抜く。途端、カザミネがしてやったりと笑い、逆にバルレルは「うぎゃー」と悲鳴を上げてその場に突っ伏してしまった。
「あーりゃりゃ」
 フォルテが腰に手を当て、呆れているけれど何処か楽しそうな顔で上からバルレルを見下ろす。ふてくされた顔をし、上半身を起こした彼はむすっとした顔でネスティを睨み、
「お前が茶々入れやがるから負けたじゃねーかよ!」 
 人の所為にするのは自分の実力が無いからだ、とぴしゃりと彼の反論を封じ込めるとバルレルは余計に機嫌を悪くしたらしく、土の上に転がって頬杖を付いた。
「ちぇっ。オレはあのニンゲンなんか知らねーからな。テメーが勝手に探しに行きやがれ」
 それに、案外オレなんかよりもお前が来るのを待ってるかもしれないぜ? 
 太々しい態度で笑ったバルレルに顔を顰め、神経質な動きでネスティは眼鏡を持ち上げた。視線には棘がある、だがそれをふっと鼻で笑い飛ばし見た目以上の年月を重ねてきている悪魔は口元を歪めた。
「お前だって、分かってんじゃねーの?」
「?」
 単語に欠いた会話を繰り返す彼らに、見守る周囲の視線は疑問符を抱えている。その中でフォルテは無関心を装いながら、炎にくべられた薪を抜き取ってネスティに差し出した。
「ほれ、行ってこい」
 自分はどうあっても動くつもりはないらしい。リューグはフォルテに負けたのが悔しいのかもう一勝負するつもりらしく、散らばったカードを集めて揃え始めバルレルもそれに便乗する気だ。女達も止まっていた作業を各々再開させ、ネスティはまさに袋の鼠状態。
 今度こそ諦めの溜息をついて、彼はフォルテが差し出す松明を断る。懐から取りだしたサモナイト石になにやら呪文らしきものを呟くと、それが仄かに光を放ち始めた。
 ひゅぅ、とフォルテが口笛を吹く。
「便利だな」
「そうでもありません」
 興味なさそうに答え、ネスティは輝くサモナイト石を手の平に立ち上がった。
 マグナが行ってからそれなりに時間が経過している。所用であればもう既に戻ってきても可笑しくないのだが、その気配は感じられず杞憂は大きくなっていく。最後にもう一度溜息をつき、彼はゆっくりとした歩調で歩き出した。
 照らし出される空間は狭い、せいぜい目の前から三歩ほどの距離しか召喚術の光は届かない。
「ゆっくりな~」
 それはどういう意味か、フォルテが歩き去ろうとするネスティに声を飛ばし怪訝な顔を仲間内から受けて苦笑した。言われた方のネスティはと言うと、足許が見えているはずなのに木の根に爪先を取られ転びそうになっていた。

 
 その光は少しずつ近付いてきて、最初身構えたマグナもそれが召喚術による光だと気付くと肩の力を抜いた。
 やがて茂みを掻き分けて、ネスティの姿がはっきりと視界に入ってくるのを認めると、それまで凭れていた他の木々よりも一際年輪を重ねている樹の幹から離れた。数歩前に出て、兄弟子を迎える。
「何をやっているんだ、君は」
「え」
 だが発せられた第一声は厳しくきつい語調で、声を掛けようとしたマグナはその勢いに押され僅かに仰け反った。その前にネスティは立ち止まり、斜め上方から彼を見下ろす。眼鏡の奧にある双眸は冷ややかだ。
「なに、って……」
「用は終わったのか。だったら何故、直ぐに戻ってこない」
 御陰で僕がこんなところまで出向かなければならなかった、明らかな不満と文句を口に出して憚らないネスティに、マグナは途端俯きしゅん、と小さくなる。
「だって、さ……」
 ネスのマントの端を握り、くいくいっ、と自分の方へ引っ張る。子供っぽいその動作を止めさせようとすると、マグナは寸前で手を放して逃げていく。
「何がしたいんだ」
「なにって、……ネスの鈍感」
 むすっとした声でマグナが頬を膨らませ、悪口を言われたネスティは米神をやや引きつらせて弟弟子を見下ろす。
「マグナ?」
「だーかーらー!」
 苛々と。両拳を握りしめて腕を振ると、その腕を伸ばしてマグナはネスティとの間にあった距離を一気に詰めた。その首にしがみつき、爪先を立てて背伸びを。
 そして一瞬呆けたような顔をして自分を見返すネスティの唇を、横向きに倒した顔を近づけて自分の唇に強引に重ねた。
「んっ!?」
 最初のキスは触れるだけの、一瞬のもの。
 けれどネスティを驚かせるには充分過ぎて、固まってしまった彼は目の前で不満そうな顔を一面に広げているマグナを見つめたまま、彼を突き放すことも出来ず立ちつくした。その間の抜けた顔を面白そうに眺め、意地悪く笑んだマグナはもう一度、今度はさっきよりも少しだけ長い時間キスを彼に贈る。
 ちゅっ、とわざと音が立つように口付けると、力の抜けたネスティの右手からサモナイト石が滑り落ちていった。
 光が明滅し、草の合間に沈んだ石が弱々しい光を伸ばして影を作る。蛍火のような、淡く儚い光。
 一気に薄暗さを増した周囲だったが、マグナは構うことなくネスティの首に腕を回したまま、今度は彼の頬に口付けて笑った。
「分かった?」
「………………まさかとは思うが」
 濡れた口元を拭うこともせず、眼鏡の奧の瞳を細めて不機嫌を表現したネスティ。
「だって、もう一ヶ月近くない」
 すかさず反論し、腕に力を込めて彼を自分の方へ引き寄せるマグナ、目がキスを強請っており呆れた顔のままネスティは掠め取るようなキスを彼にしてやった。
 だがもちろん、マグナがそれで喜ぶはずがなく。
「なんでー。いいじゃん、誰も見てないし」
 この兄弟子が体面を気にする人であることは、マグナとて無論承知している。けれど今まで誰ひとりとして、彼らのこの関係を咎めた人は居ない。気付いていないだけか、はたまた気付かないフリを貫いているのか。
 フォルテやバルレルあたりは、あの様子では気付いているようだったが。思い出し、また眉間に皺を寄せたネスティにマグナは怪訝な顔を向ける。そしてもう一度背伸びをして、彼の上唇に噛みついた。
「っ!」
「だって、俺は健全なオトコノコだもん」
 べーっ、と舌を出して彼はようやくネスティから離れた。半歩身体を引くと、巨木の幹に背中が当たる。顔を上げると、寝静まった枝葉の隙間から十六夜の月が霞んで見えた。
「ああ、確かにそれは否定しない」
 但し彼の言う健全の範疇が、果たして何処までの広さを持っているのかは謎である。
 噛まれた唇に指をやり、浅く付いた歯形が消えていくのを感じ取りながらこれで何度目か数えるのも億劫な溜息を零した。そのまま指先で眼鏡のフレームを押し上げ、前髪をやや乱暴に掻き上げる。
「まったく、子供が」
「悪かったなー」
「誘うのなら、もう少し色艶を利かせるべきだとは思わないか」
「こんな風に?」
 不機嫌は緩和されたものの、完全に消え去ったわけではないネスティに言葉に、マグナは笑いながらくねっと腰を揺らしポーズを取る。終いには投げキッスまでやらかして、その悪ノリぶりにネスティは眉間の皺を深く刻ませた。
 口から出るのは彼の常套句。
「君はバカか」
「ネスがしろって言ったんだろ~」
「そんな格好をしろ、とはひとことも言っていない」
 君が勝手に過大解釈をしただけだろう、とツカツカとマグナとの間を詰めて片手を彼の後ろに聳える樹木の、粗い肌触りをした表面に置く。ちょうど、マグナの首の真横を通り抜けるように、腕を伸ばして。
「ネス?」
 片方の逃げ道を封じられたマグナが、色濃くなった影を見上げて呟く。若干だが声に怯えが含まれている事をネスティは薄く笑って受け止め、左に耳に顔を接近させた。そして、声が彼の耳に掠めるように謀って囁く。
「ここで、良いんだな?」
 ぞくり、と背筋が震えてマグナは反射的に瞑ってしまった目を開ける。首を引き戻していたネスティの顔が直ぐ前にあって、薄く口を開くとそのまま近付いてきたネスティにかぶりつかれた。
「ぅ、ん……」
 返事もさせてもらえず、ただネスティの上着にしがみついたマグナはちらり、とだけ瞼を開き閉ざされている彼の眼を見た後また眼を閉じた。そして交替で、開いた唇の間から舌を差し出す。
 木の幹に添えているのとは反対の手で、ネスティはマグナの顎を持つと少しだけ上向かせた。そしておずおずと伸びてきたマグナの舌に薄く笑い、その先端を押し返す。
 くにゅ、と滑った舌先がマグナの歯列に当たった。
「ふっ、ん……苦しっ……」
 途中呼吸が上手くいかなくて、握った上着の端を乱暴に引っ張ってマグナはネスティの性急さを咎める。首元を引かれてはこちらも苦しいし痛いので、仕方なく絡めた舌を解放して伸びた唾液を舐め取った彼は一旦マグナから離れる。その手前で、顎のラインを流れていた唾液の川にも舌を伸ばし、掬い取ってから彼はようやく距離を置いた。
 やや乱れ調子の呼吸を繰り返し、マグナがネスティに凭れ掛かる。しがみついたまま顔を伏せているけれど、今更赤くなった顔を隠したところで意味はない。
「止めておいてもいいんだぞ?」
「それ……ものすごく困るんだけど」
 問いかけると、ぼそぼそとした声が返ってきて首を捻る。すると、下方からまだ微かに光を放っているサモナイト石に照らされた赤い顔でマグナが顔を上げ、言いにくそうに口をパクパクさせた。
「あのさ……聞きたいんだけど。ネスってどうしてそんなキス巧いわけ?」
 俺以外と経験あったりする?
 真面目な顔で尋ねられて、ネスティは一瞬きょとんとした後苦笑を持って返すしかなかった。それが不満なのか、頬を膨らませたマグナが彼の胸を拳で叩く。
「いいや、少なくとも僕は君と以外は無いよ」
 先祖代々は知らないけれど。と心の中で呟いて、ネスティはマグナのむくれている両頬を手で挟み持った。そのまま宥める為に触れるだけのキスを繰り返し、最後に仕返し、と音を立てて唇を吸い上げ、離れていく。
「本当に?」
「僕が君に今まで嘘を吐いた事があったかい?」
 疑りの目を向けてくるマグナに微笑みかけると、彼は一段と顔を赤く染めて小さく頷いた。
「……ない、と思う」
 ネスティの指が俯くマグナの唇をなぞっていく。親指の腹で軽く押され、促されるままに歯列を開くと其処から細くしなやかな、長い指が舌の表面をなぞるようにして入ってきた。
「ぅ、ん……」
 自分から口を広げて彼の指に舌を絡ませ、形をなぞりながら舐めていると飲み下せない唾液が溢れ出す。息苦しさに眉根を寄せると、気付いたネスティが放そうとするけれど、マグナは追いかけて逃がさない。
 上気した頬と熱っぽい瞳がネスティを見つめ、彼の手首を捕らえたマグナは彼の指一本一本を丹念に舐め尽くしていく。
「まったく、君ってやつは」
「……んだ、よ……」
 微かに笑って、ネスティは手首を振りマグナの緩い拘束から抜け出す。そしてべたべたに濡れている彼の口元に浅くくちづけ、スルリ、と左手を伸ばし彼の服の裾を引っ張り出す。
「誰に教わったんだか」
「そんな、のっ……ネス以外に居るかっ、よ!」
 裾の中から入り込んで来た、濡れている手の動きに息を詰まらせ、若干鼻に掛かる声でマグナは叫びネスティの胸元をまた拳で殴る。すると少し怒ったのか、乱暴に唇を合わされて口腔を余すことなく舌先で嬲られた。
 後頭部が木の幹に当たる、ごつごつした感触が痛い。そう思っていたらネスの右手が後ろに回されて、頭を抱きかかえられた。だからお返しでもう一度首に腕を回してしがみつくと、距離が詰まってお互いの熱が伝わって、知れずマグナもネスティも顔を赤く染めていた。

「なぁ、バルレルよ」
「ん~、なんだぁ?」
「ちょっくら、行ってみないか?」
「……お前も趣味が悪い奴だな」
「そう言うお前だって、興味あるんだろ?」
「そりゃ~……な」
 にやり、と。
 顔をつき合わせフォルテとバルレルが怪しく笑いあって。
 ケイナが気付いたときにはもうふたりは揃っていなくなっていた。
「?」
 知らぬは女ばかりなり?

永遠の在処

 レイクホーン城が、まるで水を打ったかのように静まり返っている。
 この城は少し前まで、化け物が棲みついた霧に閉ざされた廃墟だった。今は改修工事がなされ、人が住み集まる場所に変わっているが、この数日間だけは以前の廃墟に戻ったみたいに、ひどく静かだ。不気味なほどに。
 人はいる。だが、誰も彼もはしゃいだり騒いだりする気分にはなれずにいる。
 たったひとり、仲間が死んだだけなのに。
 戦争になれば犠牲は付き物で、傷つき死んでいく人間が出るのは珍しくも何ともない。むしろいちいち悲しんでいてはきりがなく、また冷たいようだが、意味のないことなのに。
 誰もが俯き、暗い表情をしている。
 先日、解放軍リーダーの長年の付き人をやっていた男が死んだ。
 死の理由は、主人であるラスティスを守るため。人喰い胞子の魔手から守るために、彼は己を犠牲にした。遺体はなく、彼が身につけていたマントと、誓いを刻んだ斧だけがその場に遺されていた。
 一瞬、彼は無事に逃げ出していたのではないか、と錯覚するほどに。
 けれど彼は戻らず、かすかな希望は絶望に変わった。
「…………」
 皆、幼い頃からずっと一緒だった人を失ったばかりのリーダーに同情し、憐れみ、彼に言葉をかけることなく遠くから見守るだけに留まった。
 こんなとき何を言ってやれる。安っぽい励ましの言葉など、かえって彼を傷つけるだけではないのか?
 だから彼らは気付かない。そうやって遠慮してラスティスをひとりにすることの方が、いかに彼が孤独を感じなければいけなかったかを。
 部屋にいても冷たい空気だけが彼を包み込むだけ。過剰なまでに心配して、寒くはないか、空腹ではないか、気分は悪くないかと様子を伺ってくる人がいないから、尚更彼はひとりぼっちの自分を見ていた。
 膝を抱え、ベットの上に寝転がって天井を眺めて、遠くに来すぎてしまった自分を実感するだけ。
 切ない想いが胸を押しつぶす。
 だから彼は部屋から逃げ出した。自分によそよそしい態度しか取らなくなった仲間達から離れ、いついかなる時でも変わらないまま自分と接してくれる人の所へと。
 ルックはその日も、約束の石版の前にいた。
 今までは刻まれていた名前がひとつ消え、空白になっていることをもちろん彼は気付いていたが、だからなんだ、という感じでしかなかった。
 他人の事なんてどうでもいい。自分のことでさえ、憂鬱に思うことがあるのに。いちいち人の分まで心配したり、気にかけたりするのは徒労だと、この年で彼は痛感していた。いや、ただ単にこれまで多くの人と接する機会がなく、閉鎖的な世界で育ったためでもあるのだが。
 ひとりでいるのは好きだった。何の気苦労も必要ないし、他人に足を引っ張られて煩わしい思いをすることもない。寂しい、という感覚が彼には欠けていた。
 だからこの日、いきなりやって来て何も言わずに石版のすぐ脇にうずくまった人に、ルックは思いっきり嫌な顔をした。
「……何の用?」
「べつに」
 なにもないよ、とだけ答え、ラスティスは抱えた両足の間に顔を埋める。その右側にはルックの足がある。しかしラスティスは気にする様子がまるでなかった。
 それからしばらくの間、二人の間には沈黙だけが流れていった。
 ルックはラスティスがここで何をしているのか、聞くつもりはない。どのみち他人のこと、彼が気にかけたところで何かが劇的な変化を見せる訳でもない。ラスティスも、ルックがそういう不干渉な性格をしていることを知っているから、この場所に来たのだ。
 星が選んだ仲間達。星に定められた運命。革命の時、変革の時代。
 しかし実行するのは人だ。見えない、知りようのない大きな時代の流れによって自分の、そして仲間達の未来が勝手に決められてしまうのはあまりいい気分がしない。だってそれは、自分で考えて決めた道が、他人によってあらかじめ敷かれたレールの上を歩いているだけだった、という事。
 未来なんて誰が決められる。グレミオがあそこで死ななければならなかったのも運命だったと言うのなら、彼が死なずに済む未来だってあっても良かったはずなのに。
 俯いたまま、ひょっとして寝ているのでは? とさえ考えたくなるほどに静かなラスティスにちらりと目をやり、ルックは分からないようにため息をついた。
「……何をしているの」
  リーダーは暇な職務ではない。こんな場所で無駄に時間を潰していたら、軍師のマッシュに怒られる。
 しかしちゃんと起きていたらしいラスティスは微かに頭を上げて、
「何も」
 とだけ答えると、やはりさっきと同じ体勢で静かになった。
 もう一度嘆息し、ルックは視線を目の前に戻す。
 何もない壁があるだけだが、だからといってルックがそこばかりを見ているとは限らない。時に風を通して遠い世界に意識を向けることだってある。
 真なる風の紋章の力によって、ルックはこの先永遠の時間という牢獄を生きて行かねばならない。そこに悲しみの感情が介入すれば、生は地獄に変わる。だからルックはあらゆる人間らしい感情を封印した。この先に起こる歴史を、正しい目で見つめるためにも、それは必要なことだったから。
 けれどラスティスは違う。彼はこれまで、ただの少年として生きてきた。人としての生を全うし、人の寿命で死んでいくはずだった。けれど今、彼の命は真の紋章であるソウルイーターに縛られている。彼は死ねない、あの紋章がその身に宿っている限りは。
 そしてラスティスはルックのように、悲しみを捨てることが出来ていない。彼は心がまだ人間の頃のままだ。だから人が死ねば悲しみ、悔やみ悼む。仲間を大切に思うから、置いて行かれると知っていながら、心を開き受け入れてしまう。
 これから、多くの同胞が先に死んで行く。それらを見送りながら彼はずっと、涙を流し続けるのだろうか。
「何も聞かないんだ」
 不意にラスティスが言葉を紡ぐ。ルックは彼を見ない。
「聞いて欲しかったわけ?」
「そうでもないけど」
 なにを言っているのか、ルックは聞かなくても分かったから、自分も言わなかった。
 ひとりでここに来て、静かな空気を感じながら、ラスティスも色々と考えていたのだろう。
「なら、いいだろう?」
 素っ気ない言葉しかルックからは返ってこない。そこがむしろラスティスには、余計な感情を込められずに済んで気分が良かった。
 再度沈黙がやってくる。しかしお互いにとって、それは決して重苦しく息苦しいものではなかった。時間だけが刻々と流れ去り、城の外では太陽がいつもと変わらずに西の空に傾いて行く。
 はたして、どれくらいの時間こうしていたのだろう。冷たい床に座り込み、ほとんど言葉を発することなく時間を無意味に過ごす事なんて初めてだったラスティスは、いい加減疲れてきた。だが立ちっぱなしのはずのルックはあくびのひとつもせず、ぴくりともしない。
「疲れない?」
「疲れてるよ」
 だから聞いてみた。ルックって、ひょっとして疲れ知らず? なんて思ったから。でも、答えは意外だった。
「嘘」
「嘘をついて得な事なんてないよ」
 相変わらず素っ気ない台詞が頭上から降ってきて、ラスティスは顔を上げてルックを見る。
「どの辺が?」
「君のいる辺りが」
 普段からひとりでいることになれているから、自分の側で誰かがずっといる、この状況がルックにとっては疲れた。
 意味を理解したラスティスは少し頬を膨らませ、不満を顔に出す。しかしすぐ、やや沈んだ表情になって、
「ねぇ……」
 膝を抱き直し、踵で床を叩きながらラスティスが呟く。
「どんな意味があるのかな」
 胸に顔を沈め、その為にくぐもりがちな声がルックの耳に届く。
 ルックは今日何度目かしれないため息をついた。
「そんなの、僕に分かるわけがないだろ」
 まだふたりは子供すぎた。いくら大人ぶって、大人の真似をしていようとも、彼らは所詮、十数年しかこの世に生きていない、若造だ。生きる意味も、戦う意味も、そんなものを考えたところで正しい答を知る術を持たない。
 流されるままにここまで来てしまった。無論、自分で選んだ生き方だ。けれど子供である彼らに、選択権が多く用意されていた試しはない。
 いつも、大人が提示するいくつかの道を、歩かされてきたに過ぎないから。
 大切なものを失ってまで、得た未来は本当に目指した未来だったのか? 必要なのか?
「後悔?」
 だからルックが問うと、
「ちょっとね」
 ラスティスはそう答えるしかなかった。
 少なくとも、彼が赤月帝国に敵対して、解放軍を指揮しなければグレミオは死なずに済んだのだから。
「やめる?」
 でも、こう尋ねられても、
「無理だよ」
 首を振ることしかできない。
「どうして」
「知ってるくせに」
「だったら?」
「意地悪」
「そうだよ?」
 知らなかったの? と真顔で聞かれて、ラスティスは頭を掻いた。
「…………ちぇっ」
 口でルックに勝てるとは思っていなかったが、簡単に負けてしまうのもしゃくに障る。
「まあ、そうだね」
 ふっと、ルックの語調が変わる。柔らかい、今までにない感じで。
「僕が言えるのは『自分を信じろ』って事ぐらいだね」
 自分で選び取った道を後悔しないで。
 いつか、レックナートが言った言葉が蘇る。
「君の思いに従って集まってくる人が絶えない限り、君の選んだ道は正しい。少なくとも、君が諦めてやめてしまうまでは」
 まっすぐに見つめてくるルックの眼差しは厳しく、そして強い。
 ラスティスはゆっくりと立ち上がった。視線が並ぶ。
「せめてもの情けだよ」
 ルックがため息の混じった声で呟き、ラスティスの右手を取った。それから自分の右手の甲とラスティスの手の甲を重ね合わせる。
 ふたつの真の紋章が共鳴しあい、まるでひとつに還ろうとしているみたいに相手を求め合う。
「これに関してなら、僕でも少しは重みを無くしてやれる」
 ソウルイーターが求めるのは、人の魂。そしてそれと同じくらいに強い力。無限の可能性。
 真の紋章を持つものとして。ソウルイーターの暴走を止めることが出来ると、ルックは無言の中でラスティスに教えた。
 共鳴が弱くなるとすぐ、ルックはラスティスの手を解放した。それからぷい、と顔を背ける。
 きょとんとして、ラスティスはやがてはじかれたように笑い出した。
「ありがとう」
 嬉しかった、心から。
「頼りにするよ」
 だから、ラスティスは彼に握手を求めた。ルックも、最初は渋ったがややして右手を出す。
 しっかりと互いの温かさを確かめ合い、ふたりは離れた。
 ラスティスはマッシュの待つ軍議場へ、ルックはこれまで通り、約束の石版を見守る役目へ。
 永遠の時間を持つ彼らの、一瞬の思いを胸に秘めて……。

FullMoon

 満月。
 薄く棚引く雲を従えて朧気に、そして儚げに淡い光を放っている月。
 けれど月は自分ひとりでは輝けないんだよと、遠い昔に誰かが言った。月は、自分を照らしているのに自分からは見えない太陽を捜して夜を彷徨っているのだ、と。
 その時はただ笑って、彼の変にノスタルジックで感傷的な台詞に「似合わない」としか答えなかった。彼はさも愉快そうに笑う僕を見て、困ったように微笑んだだけだった。
 あの時の君の表情は今でも忘れられない。もう、君の名前もどんな顔をしていたのかも思い出せないと言うのに。
『そんなに似合わない?』
 少し寂しそうに、哀しそうに、けれどその感情を覆い隠してしまう巧みすぎた微笑みに惑わされてぼくは気付かなかった。
 気付いてあげられず、ぼくたちは離れた。再び会うことはなくて、次に君を訪ねた時君は冷たい墓石の下で静かに眠りについたあとだった。
 花を手向ける時、君が口にした月と太陽の話を思い出した。
 自力で輝く術を持たない月は、自分を照らし出してくれる太陽を永遠に探し続けて夜の空を彷徨っている。太陽は自分に恋いこがれる月の存在に気付くこともなく、昼を照らしその残照を夜の月へ降り注いでいる。
 太陽は月の恋に永遠に気付かない、月は太陽に永遠に出逢えない。
 このことばが陳腐な皮肉だと気付いたのはそれからずっとあとのことだった。
 遠回しな言葉が好きだった彼の、最後で最後の謎かけだったのだろう。それを真に受けなかった自分は、だとしたらとても酷い仕打ちを彼にしたことになる。
 今夜は満月だ。
 そういえば、こんな事も彼は言っていた。
 暗闇の中で涙を流す月を見て恋をした蝶が、月を慰めようとか細い羽を懸命に伸ばして側へ行こうとするけれど、月を守る星々によってその羽を焼かれてしまって蝶の思いは月に届かない、とも。
 満月に恋いこがれ、身を滅ぼした蝶と。
 姿を見ることも叶わず、ただ自分へ降り注がれる光の主に恋した月と。
 月の想いに気付かず光を夜に零す孤独でけれど尊大な太陽と。
 誰が愚かで、惨めで哀れなのか。
 半分ほどに減ったウィスキーのボトルを揺らし、波立たせてぼくは小さく笑った。思えば自分も随分と滑稽な事を考えている。
 答えなど、出ない。誰もがそれぞれ、己の心情を貫き導かれた結末だ。そしてその結末は今も少しずつ動いている、変わっていく。
 栓を抜いて直接ボトルを傾けて酒を扇ぐと、ツンとした特有の臭いが喉の奥を甘く刺激してくる。
 視界を遮る邪魔な高層建築物は周囲には見えない。此処はこの城で最も高い場所、鐘楼の更に上。急勾配の屋根は油断すれば一気に地上へ滑り落ちる危険な場所であることに違いないけれど、ここが一番見晴らしが良くて気分も高揚できる場所だからお気に入りだった。
 吹き付けてくる風は地上のものよりも冷たく、鋭い。肌を刺す冷気は月へ昇って夜の眠りを手に入れる。昼の太陽は誇り高すぎて近付く事を許されないから、風が眠るのは夜を支える月の傍だけなんだよ、と詩人さながらに笑った彼を思い出す。
 ああ、そんな感じがする。今なら彼の言葉に素直に頷ける。
 名前も顔も、どんな格好をしていてどんな色の瞳をしていたのか。何も思い出せないのに君が語った言葉は今でも鮮明に思い出すことが出来る。穏やかに微笑んで柔らかな唇から紡ぎ出される言葉は、印象的で綺麗だったから。
 その声が、好きだったんだ。
 初めて見かけたとき、見つけられたとき。失敗したな、と直ぐに逃げ出そうと構えたぼくに。一瞬だけ驚いた顔をしたくせに二秒後にはとても嬉しそうに顔を綻ばせて。
『夜の散歩かい?』
 そう言った、君の声は今思えば魔力が込められていたのではないかと勘ぐってしまいそうになる。
 満月を見ると君を思い出す。
 もう一口、酒を喉に押し流して月を見上げる。月は変わることなく淡い光を放って其処にいる。
『スマイル』
 君はいつも笑っているね。どうして?
 問われても答える言葉を持たなかったぼくに、君は言った。
『心が優しい人はね、笑顔でいることで優しさをみんなに分けてくれるんだよ』
 だから、スマイルも優しいひとなんだよ、と。君の方こそ優しさを分け与えてくれる笑顔で言った。頬に触れてきたてのひらは、とても熱かったのを忘れることが出来ない。
『スマイル』
「スマイル」
 ぼくの名前を呼ぶあの声が好きだった。
『スマイル』
「スマイル」
 なんどでも、何度聞いても決して聞き飽きることはない声だと思った。もっと沢山、呼んで欲しかった。
「スマイル!」
「っ!?」
 ぐいっ、と乱暴に髪の下に隠れていた耳のリングを引っ張られて遠くに飛ばしていた意識を思い切り強引に引き戻された。しかも、我に返ったのにリングごと耳朶を引っ張る力は全然弱まってくれない。
「いだだだだだだ……っ!」
 我ながら情けないと思う声で悲鳴を上げて、ギブアップを表現する為にバンバンと鐘楼の屋根を叩く。
「痛い、いたいってばユーリ!」
 痛覚は人並みに持ち合わせているから痛くて当然、しかしそんなことお構いなしのユーリは手加減知らずで引っ張ってくる。彼の腕を捕らえて止めてくれと懇願するまで、彼は手を離してくれなかった。
「ふん。ようやく目が覚めたようだな」
 すっかり赤くなって、ひょっとしたら少し伸びてしまったかも知れない耳朶をさすっているスマイルに、ユーリは相変わらず尊大な態度で見下ろして言った。
 鐘楼の頂きに片手を置くことで滑り落ちないように身体を支えて、月を背負いシルエットを浮かび上がらせている彼の銀糸は透けるように輝いて見える。広げられた翼で風の抵抗をなるべく軽減させているのだろうが、その姿は一瞬息を呑みそうなくらいに総てがお膳立てされたように整えられていた。
「ユーリ、いつから……」
「何度も呼んだ」
 確かに誰かに名前を何度も呼ばれていたような記憶はあるが、あれはてっきり記憶の中の幻だと思いこんでいたから気づけなかったのだろう。
「お前は、月が満ちるたびに此処に来るのだな」
 自分の城でありながら自分は滅多に訪れることのない鐘楼に、毎度登っているスマイルの行動は彼に幾らかの興味を抱かせたようだ。
「満月の日は明るいからねぇ」
 見晴らしが一番良いのは此処だし、と取り繕うように選んだ笑顔でスマイルはボトルを握っているのとは反対の手で自分の足場を指さした。
「だがお前が見ていたのは眼下の景色ではなかった」
 しっかりと観察していたらしいユーリの指摘に、スマイルの表情が僅かに強張る。普段から彼の表情の変化に慣れているユーリでなければ見逃してしまっていただろう、そんな微妙な変化だ。
 随分と長い間観察されていたようだ。近くに他者の気配が迫れば直ぐに反応を返しているはずの自分が、余程油断していたとしか。それだけ、満月に気を取られていた事なのだろう。
「あー……うん、ちょっとねぇ」
 昔を、懐かしんでいたのだと。
 言いにくそうに髪を掻きむしりながらスマイルが言う。ユーリは黙って月を背負い聞いている。
「太陽に恋した月は可哀想だな、って」
 一生巡り会えない相手を想い毎夜涙を流している。その涙を拭おうとした蝶は月に触れる事も出来ずに命を燃やした。
「スマイル」
 頬杖を付いてユーリの向こうに見える大きな月を見上げた彼に、しかしユーリは少しだけ語気を強めた。
「月と太陽は、出逢える」
 太陽の光が月を照らして包み込む日がある。
「あ、日食」
 指摘されてスマイルはぽん、と手を打った。
 目から鱗、そういう手もあったのかとどうして今まで気付かなかったのか不思議なくらいに納得できた。
 確かに、日食であれば太陽は月を包んで月の輝きを奪い去る。月は太陽に出会える。
「……ユーリって、案外ロマンチストなんだねぇ」
 叩いた手をグリグリと回して、スマイルは笑った。自分で言って恥ずかしくなったのか、ユーリはそっぽを向いて闇に表情を隠してしまっている。それがおかしくて、スマイルは益々声を立ててケラケラと笑った。
「それより、アッシュが呼んでいる」
「え、どうして?」
 夕食は大分前に済ませている。今更アッシュが自分を呼ぶ理由は無いはずだと首を傾げたスマイルに、コホン、と咳払いをして気分を取り戻したユーリが鐘楼からかなり下、小さく見える庭を指さした。
「今晩は月が綺麗だから、月を見ながら茶会でもしようという話になった」
 目を凝らせば、薄明かりの下でテーブルを広げているアッシュらしき姿が小さな豆粒大で確かに見える。
「だったら、庭じゃなくってもっと月が近い此処でやればいいのに」
「何処にテーブルを広げる気だ?」
 鐘突堂である鐘楼には当然、鐘がつり下げられている。今は叩く人間もいないけれど、時刻を知らせる為の鐘の音は今でもやろうと思えば響かせる事は可能。そしてその鐘は、巨大。ひとふたりが並べば充分窮屈に感じるこの場所で、テーブルを広げて茶会など言語道断だろう。
 ましてや、屋根の上など。
「ちぇー」
 ユーリのもっともすぎる反論に口をとがらせ不満を表現したスマイル。すっかり彼の調子に戻っていることにユーリが口元に手をやってクスリと笑う。
「ねぇ」
 スマイルが振り返り、ユーリを下から見上げた。
「ぼく、ユーリの声好きだよ」
 そして何の繋がりがあるのか唐突にそんな事を言い出す。不意を突かれて理解しかねると間延びした顔になったユーリに、スマイルは目元だけで微笑んだ。
 立ち上がる。一歩進んで、ユーリとの間にあったそう大きくない距離を詰める。
「だから、いっぱい呼んでね?」
 ぼくの、名前を。
 口の形だけでそう告げて、スマイルはまだ状況を把握し切れていないユーリを抱き上げた。両手で彼の背を抱え横抱きにする。
「っ!」
 反射的に暴れて逃げようとしたユーリを力で抑え込み、その耳元に囁きかけた。
「舌噛まないでねー?」
 ひやり、とユーリの背中を冷たいものが流れていった。見上げた先にあるスマイルの顔が、普段以上の悪巧みを企んでいる顔になっている。
「や、やめっ」
 何をされるのか朧気ながら理解したユーリが更にスマイルの腕から逃げ出そうと暴れるが、完全にスマイルのペースにはまってしまっていてそれは不可能だった。
「しっかり捕まってててねー!?」
 元気良く叫んで、スマイルは勢いをつけて鐘楼の屋根から飛び出した。そのまま、重力に引き寄せられるままにユーリを抱きしめたまま地上へ目掛け堕ちていく。
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!?」
 声にならない悲鳴をあげてユーリは、無意識にスマイルにしがみついた。
 下から吹き上げてくる風が身体のあちこちにぶつかり、逃げていく。何度か衝撃がスマイルの腕伝いに届いたが、それが何故なのかを確かめようにも目を閉じていたユーリには無理だ。
 ただ時々、とても愉快そうなスマイルのけたたましい笑い声は聞こえてきてまだ自分たちが無事であることだけは分かった。
 やがて、一段と大きな衝撃が身体を抜き抜けていって風の抵抗も消えた。
 向こうから、アッシュが驚愕する声が聞こえる。
「とうちゃっく」
 ひときわ大きな声で笑って、スマイルが言ったので戦々恐々と固く閉じていた瞼を開く。だが最初に見えたのは地面ではなく、自分の腕と抱きついた先のスマイルの横顔。
「面白かった?」
「!」
 はっとその問いで我に返ったユーリは、彼の首に回していた腕を解くと同時に目の前にあったスマイルの右頬に強烈な拳を叩き込んでいた。
「スマイル、ユーリ! 一体どうしたんスか!」
 空から突然降ってきたかのように、地上にいたアッシュには見えたのだろう。慌てて駆け寄ってくる彼の目の前で、スマイルはユーリに殴り倒されてノックアウト。ユーリは少し赤くなった拳をさすりながら、怒り心頭という顔で彼を睨んでいた。
「あのー……」
 一体何がどうなっているのか、出しかけた手を引っ込めることもそのまま伸ばすことも出来ず中途半端にさせたまま、アッシュは困惑顔でふたりを交互に見る。
「スマイル、貴様という奴は!」
 今日という今日こそ許さない、と息巻くユーリだが叱られているはずのスマイルはまだ可笑しそうに、楽しそうに笑っている。
 草の上に寝転がって、苦しそうに息を吐いた彼の目に、満月は相変わらず柔らかな光を放って輝いていた。

真昼の悪夢

 スラムには空き家が多い。城壁が壊れているためにはぐれ召喚獣が襲ってくる危険性があるので、住人が逃げ出したためだ。
 もっとも、そこを利用して空き家に住み着いている人間もわりと沢山いるようだが。
 南スラムは、それでもまだ治安がいい方なので騎士団に隠れて暮らしている人々が多い。北スラムは、言わずもがな。あっちに住む連中は暴力と破壊に取り憑かれた、他では生きることの出来ない連中ばかりだ。
 バノッサも、そんなひとり。
 というわけで、南スラムは誰も住まなくなって久しいぼろ屋があちこちに存在している。そういう場所は、床が抜けたりいきなり天井が落ちてきたりと手入れが行き届いていないために危なくて立ち入り禁止になっている事が殆ど。だけれど、好奇心旺盛な子供たちにとっては、絶好の隠れ家、そして冒険の場でもあった。
 大人たちはあまりいい気分で子供たちが空き家に出入りすることを見ていないけれど、昔小さかった頃にやはり彼らも同じ事をしていたから、強く注意できていない。それはフラットでも同じだった。
「あれ? 子供たちは?」
 薪割りを終え、汗を渡されたタオルで拭っていたハヤトはふと、それまで喧しく聞こえていた子供たちの騒ぎ声が消えていることに首を傾げた。
「外、出て行っちゃった。あんまり危ない場所には行くなって注意してはいるけど……」
 リプレが困った表情で呟く。その表情は、子供たちがどこに行ったのかを知っているような口振りだった。
「?」
 事情を知らないハヤトは、不思議そうに彼女を見つめ返す。タオルを首にかけ、疲労した右肩をぐるぐると回転させると、食堂のテーブルで肘をついていたガゼルに笑われた。
「あれくらいでへばったのか?」
「まさか。軽い肩慣らしだよ」
 リィンバウムに来て、それなりに時間は経っている。最初は重く、振り回すと言うよりも振り回されていると表現した方が正しかった剣の扱いにも、ハヤトはかなり慣れてきていた。薪割りをした次の日は必ずと言っていいほど苦しめられた筋肉痛も、今はない。
「へぇ、そいつは好都合」
 ハヤトの自信満々な答えを聞き、ガゼルがにんまりと口元を歪めた。途端、ハヤトの背中に悪寒が走る。なにか、とてつもなく嫌な予感……。
「じゃあ、俺の代わりに買い物に……」
「ガゼルぅ?」
 両手を揉みほぐしながら、椅子ごと向き直って言いかけた彼に横からその先の台詞を読みとったリプレがジト目で彼をにらみつける。
「うっ……」
「ハヤトはちゃぁんと自分の仕事をやったでしょ? あんたは、今日何をしてくれたかしらぁ?」
 少々間延びした口調は、彼女が怒っているときの特徴でもある。後ろでハヤトは苦笑して聞きながら、ガゼルとリプレの毎度の喧嘩を眺めていた。
「だって、ハヤトはまだ働き足りそうだったから俺は親切心で……」
 しどろもどろに返答をするガゼルに視線は天井近くを泳いでいる。詰め寄るリプレの表情は、険しい。こめかみ辺りがヒクついているのは、多分ハヤトの見間違いではないだろう。
「あー……俺、その辺ぶらついてくるな!」
 ここにいては喧嘩に巻き込まれかねない。この数ヶ月でその事を痛いほど学んだハヤトは、些か作り物の笑顔を浮かべてカニ歩き状態のまま食堂から抜け出した。
「あ、ハヤト! 逃げるな!!」
「待ちなさい、ガゼル!」
 目聡くハヤトの逃走に気づいたガゼルも、慌てて走り出そうとしたがその前にリプレに掴まってしまった。じたばたと暴れて必死に逃れようとしている光景が一瞬振り返ったハヤトの目に映し出されるが、止めに行くつもりは毛頭なかった。
 あの二人は、幼なじみだ。喧嘩は一種のスキンシップ、本気でやっているわけではない。たまに、本気で怒っているリプレを見て肝を冷やすことはあるけれど。
 ガゼルだって冗談から言っているのだ。適当なところで妥協案を出して、ぐちぐち言いながらも彼女の指示に従うだろう。
「そういや、朝からキールの姿も見てないな」
 孤児院の玄関を出て、まぶしい太陽の光の下で大きく伸びをしたハヤトは、ふと今出てきたばかりの孤児院を振り返って思い出した。
 レイドたちは仕事。しかしキールは働いていない。朝食の後まではいたことを覚えているが、その後ハヤトは薪割りをしに庭に降りてしまったので彼がどこで何をしているのかまったく分からなかった。
「昨日も、一昨日もどこかに出かけてたよなぁ」
 そういえば、と呟いて。
 キールはあまり自分のことを話そうとしない。どこに行って何をしていたのか、それを問う権利もハヤトは持たない。あまり根ほり葉ほり尋ねて嫌われたくはないのだが、少しくらい教えてくれても良いのに、とも思う。
 仲間なのだから。
「……探してみようかな」
 どうせ行く宛もなく出てきてしまったのだ。散歩がてら、探してみても誰も文句は言わないだろう。探すあてもないのだけれど。
 そして気を取り直して歩き出そうとしたハヤトの耳に。
「大変大変たいへーーーっん!!」
 聞き慣れた大声が飛び込んできた。
「この声……」
 フィズ、だ。
 なんだろうと思いながらハヤトは孤児院の門を開けてその前を走る道を見回した。じきに、角を曲がって猛スピードで駆けてくる幼い少女の姿が現れた。
「おーい、どうした……って、こっち来るなぁ!!」
 よほど懸命に走ってきた所為だろう。アルバを先頭に、ラミの手を引いたフィズまでもが猪突猛進さながらに門の前に立つハヤトに向かって突進してきたのだ。
「うわぁぁぁぁ、にいちゃん、退いてぇぇぇぇぇっ!!!!!!!!!」
 それは無理。
 すっかり腰の引けてしまっていたハヤトはそこを動くことが出来ず、かといって走る自動車(間違い)もすぐには止まらない。
 咄嗟にフィズはラミをかばったが、アルバはそのままハヤトに正面衝突。身長差のために、ハヤトは一瞬、昇天したかと自分で思った。
 腹を押さえて蹲る。ちょっと立ち直れないかもしれない……。
「おにいちゃん、大丈夫!?」
 かろうじて衝突だけは防いだフィズが大慌てでハヤトに駆け寄ってきた。ラミも続くが、どこか彼女はいつもと違って見えた。
「うぅ……いってぇ……」
 なんで俺がこんな目に、と涙目になりながら顔を上げ、なんとか作り物の笑顔ながら「大丈夫だよ」と子供たちを安心させてやろうとしたハヤトだったが。
 ふと目に入ったラミも、同じように泣きそうな顔をしていることに気づききょとんとする。
「あれ? ラミちゃん……ぬいぐるみは?」
 いつもと違って見えるラミ。そう、彼女はどこへ行くときも一緒だったあの大きなぬいぐるみを抱えていなかったのだ。
「え? あれ、本当だ」
 言われて気づいたらしい。フィズも振り返って驚きの声を上げる。アルバも同様だ。
「嘘、どっかで落とした?」
「………………」
 ふたりに言われ、それまでかろうじて堪えていた涙がついにラミからこぼれ落ちる。小さくしゃくりを上げながら、彼女は肩を震わせて声もなく泣き始めた。
「おいおい、お前ら一緒にいたのに気づかなかったのか?」
 まだずきずき痛む下腹部に意識が行かないように注意しながら、ハヤトはフィズとアルバを交互に眺める。するとアルバがばつが悪そうな表情を作り、
「あそこ、かな……」
「うん。多分、あそこ」
 自信なさげなアルバの言葉に、フィズも遅れて同調する。ラミも、泣きながら一度だけ頷いた。
「あそこ?」
 子供たちがどこに行っていたのかを知らないハヤトは首を傾げ、答えを求めてアルバを見た。すると彼は、言って良いものかとフィズを見やり、それから少しだけ考え込むような素振りをして、
「この先にある、空き家……」
 そこは、もうずいぶん前から誰も住まなくなっていた家だという。恐らくガゼルが孤児院に来た時期にはもう、無人の館になっていたはずだと聞かされた。屋根は全部剥がれ落ちているし、床も腐ってボロボロらしい。危険だから入ってはいけないと言われている場所で、滅多に人も近寄らない。
 しかし最近、その屋敷に幽霊が出るという噂が立ち始めた。
 直接調べに行った者はいないが、近くの道を通りかかった人が窓際に立つ人影を見たとか、不気味な呻り声を聞いたとか、人とは思えない姿形をした生き物を見かけたとか。
 とにかくそう言う噂が広まっていて、好奇心を刺激された子供たちが幽霊のしょうたいを確かめようと、立入禁止の屋敷に潜り込んだというのだ。
 そして、見てしまった。
 幽霊を。
「…………見間違いだろ?」
 場所を門から今に移し、事情を聞いたガゼルが即断でそう決めつける。
「どっかの野良猫が住み着いてるのを、見間違えたんじゃねぇの?」
「違うもん!」
 フィズが大声で反論し、アルバも立ち上がってガゼルを非難する声をだす。ラミをあやしていたリプレも、どう答えて良いのか分からず視線を巡らせるだけだ。
 幽霊なんて、いるはずがない。それがガゼルの答え。しかし子供たちは間違いなく見たと言い張る。リプレだって幽霊を信じてはいないが、あからさまに否定するのも、どうかと思ってしまう。
「ハヤトはどう思う?」
「え?」
 聞いているだけだったハヤトは、いきなりガゼルに話を振られて面食らった。
「俺?」
「お前以外に誰がいるんだよ」
「そりゃ、そうだけど……そうだなぁ」
 幽霊。そういえば日本では、夏場によく心霊特集とかをやっていたよな、と関係ないことを思い出してしまった。結構笑えるものもあったりして、本物かどうかは別として楽しんで見ていた記憶はあったが、実際に見たことがないのでハヤトも返答に窮する。
 いてもいいけど、見たくない。それが本音だろうか。
「幽霊がいたかどうかは二の次にして、まずラミちゃんのぬいぐるみを探しに行く方が先決じゃないかなぁ」
 だから、話の腰を折る。
「そうね。そうしましょう」
 リプレも、泣き疲れて眠ってしまったラミの背中を優しくなでながらハヤトに賛成する。
「ちぇっ」
 ひとり、ガゼルだけが面白くなさそうな顔をするが、話はさっさと誰が取りに戻るかというところに進んでしまっていたので、彼はそれ以上口出ししてこなかった。
「そんなに幽霊がいないことを証明したかったら、ガゼルが取りに行くか?」
「いーやっ、俺は生憎とリプレの用事で商店街にいかなきゃならないんでね。残念だが、その役目はハヤトに譲ってやるよ」
「お、俺!?」
「なんだ? 文句あるのか? ははーん……さてはお前、幽霊が怖いんだろう」
 明らかに同様を見せたハヤトににやりと笑い、ガゼルがからかうように言ってきた。それで、ついハヤトも売り言葉に買い言葉で。
「誰がだよ! ガゼルこそ、幽霊が怖くて逃げてるんじゃないのか?」
「へっ、冗談は止めてくれ」
 肩をすくめて大仰に呆れ顔をするガゼルに、ハヤトは心の中で握り拳を作る。
「もう、あなた達。行くか行かないかはっきりしてよね」
 横で部外者を装っていたリプレも、喧嘩が始まってしまってはどうしようもないので止めに割って入ってきた。
「分かったよ、俺が行けばいいんだろう。大体、こんな真っ昼間から幽霊なんて出るわけないじゃないか」
「にいちゃん、俺たちの事信じてないんだ」
「へ? あ、違う違う! そういう意味じゃなくて……」
「じゃあ、どういう意味よ」
 アルバとフィズ、両方から責められてハヤトはがっくりと項垂れた。ガゼルが笑っている。
 こうして、ラミのぬいぐるみを探しに行くのはアルバと、ハヤトの二人に決定されたのだった。

 屋敷は本当にオンボロだった。
「うわ、すっげぇ……」
 あちこちを散歩して、サイジェントの町中は大体把握していたつもりだったハヤトだが、意外に自分の知らない場所が残っていたことを今思い知らされた。
 場所的には、崩れた外壁に近い。真っ先に家を棄てて住人が逃げていった区画だ。
「でかい」
 中心部にある貴族たちの屋敷ほどではないが、孤児院やその周辺に寄せ集まっている家とは、レベルが違う。孤児院が三つか四つは軽く入ってしまいそうな大きさだった。
「こっち」
 錆びた門は鍵が掛けられており、そこから中に入ることは出来ない。アルバに手を引かれて塀に沿ってしばらく行くと、石垣が壊れている箇所に出くわした。少々小さめだが、ハヤトならなんとか通れそうな大きさだ。多分、エドスだったら絶対に通れない。
「ラミちゃんははどこでぬいぐるみを落としたんだろう?」
「きっと、幽霊を見た場所だよ。オイラたち、すっごく驚いちゃって、慌てて逃げてきたから」
 それで、フィズは「たいへん」を連呼しながら帰ってきたのか。合点がいってハヤトは苦笑した。
 ふたりはそのまま、荒れ放題の庭を横断し、扉も蝶番が錆びて壊れ、片側がかろうじてぶら下がっている状態の玄関をくぐると屋敷の中に入った。
 かつて人が住んでいた頃は立派だったのだろう。しかし今は見る影もなく、調度品も何も残されていない拾い玄関ホールにまず行き当たる。
「うわっ!」
 歩こうとして踏み出した足が、腐った床に早速ぶち当たりつま先が沈んだ。
「なんで……」
 アルバは平気なのに、と思ってよく考えてみたら、体重差がありすぎるのだと気づいて頭を掻いた。
「にいちゃん、こっち」
 慎重に崩れない場所を探してそろりそろりと進んでいく。当然、スピードは出ない。たったか行ってしまうアルバとは、距離が開くばかりだ。
 窓から光は射し込んでいるとはいえ、ろうそくの明かりもない屋敷の中は薄暗い。吹き込んでくる風も、心なしか外より湿っていて生ぬるい感じがする。
 悪寒がして、ハヤトは無意識に自分を抱きしめていた。おそるおそる周囲を見回し、何もないことにほっと安堵の息を零す。こういう場所は、実は苦手だった。
 遊園地のお化け屋敷も、実は怖い。あれは作り物だと自分に言い聞かせても、実際出会うと怖くて悲鳴を上げてしまう。だから、本当は来たくなかったのだが。
「うぅ……」
 さっきから何かに見られている感覚がある。神経過敏になっているだけだと信じたいが、どうも、それだけではない気もして、落ち着かなかった。
 いつの間にかアルバもいなくなっているし……。
「…………………………………………」
 奥歯を噛みしめてハヤトは息を呑む。
 なにか、いる。いつしか予感は確信に変わっていた。
 ――幽霊なんて、いるはずない……
 非科学的な存在を信じるつもりはハヤトにはない。もっとも、彼がこの世界に来たことや、召喚術というものが自由に使える事自体、すでに充分非科学的なことなのを彼は忘れている。
 ふっ、と風が走った。
「!?」
 視界の端に、なにか白いものが通り過ぎていった。
 慌ててそちらを向くが、何もいない。すると今度は背後で何かが動く気配がした。
「!」
 だが、やはり振り返ったときにはもう何もなくて。
 じっとりとにじみ出た汗がシャツに染みこむ。ぽとり、と滴になった汗が顎を伝って床に落ちた。
 スィ…………
 奥の、別の部屋に通じる扉の失われた入り口付近で。
 白い影が、動いた。
「ひっ」
 ハヤトは息を呑む。それは、空中に静かに浮いていた。
 ゆらゆらと、不規則に揺れている。それに足など無く、よく日本の幽霊に表現されるように、両手を前に垂らしており…………
「ひぇぇぇっ!!」
 それがゆっくりと近付いてきていることに気づき、ハヤトは震え上がった。
 床が腐っていて危ないとか、そういう事も全部頭から抜けきって一目散にその場から逃げ出そうと方向転換、走り出した。
 が、当たり前だが。
 床はあちこち崩れているので走りにくいし、どこが腐っているかもこの薄暗さでは判別がつきにくい。なおかつ、今のハヤトはパニックに陥ってしまっている。
 だから。
 ぐしゃっ、と鈍い音がしたかと思うと、その直後にはもう。
 ハヤトの足下には、何も残っていなかった。
「へ?」
 間の抜けた声が哀しく響く。すかっ、と踏み出した足が宙を蹴り、そのまま真っ逆様に――――
「ハヤト!」
 落ちる直前で、ハヤトは自分を呼ぶ声を聞いた。
 ――ああ、幽霊にまで名前を知られているなんて俺ってば有名人(大間違い)…………
 だが、いつまで待っても身体に落下の衝撃が来ないことにハヤトは怪訝に思って閉じていた目を開けると。
 そこに、キールが(何故か)いた。
「あれ? なんでキールが……」
 ふわふわとした自分の立場にも疑問を感じ、首を曲げて背中の方を見てみると一生懸命彼を持ち上げているポワソと、ライザーがいた。
「にーちゃん、ぬいぐるみあったよー…………何してるの?」
 アルバが頭上に熊のぬいぐるみを抱えてようやく戻ってきたが、いつの間にか現れていたキールと、召喚獣二匹に持ち上げられているハヤトを見て思い切り変な顔をしてくれた。無理もないことだろうけれど。

「じゃあ、あれはポワソだったってのか!?」
 夕方。無事に孤児院に帰還を果たしたハヤトは、何故あそこにキールがいたのかの説明を受けていた。
「そうだけど……何と勘違いしたんだい?」
「それ、は…………」
 キールはここ最近、あの場所で新しい召喚術の実験をしていたそうだ。ひとりで町の外に出るのは心許ないので、あまり人がやってこない上に充分な広さが確保できるあの空き家を利用していたらしい。 
 あの時ハヤトが見た白い影とはポワソの事だった。確かに、ふわふわ浮いているし手も前に垂れている。
「なんだか騒がしくなってきたから帰ろうと思っていたんだけど、来たのがハヤトとアルバだったし、何をしているのかと思って見ていたら、ハヤトは抜けた床に落ちそうになるし……」
「うぅ……」
 まさかポワソを幽霊と勘違い(いや、霊界の生物であるポワソは本当に幽霊かもしれないのだけれど)したとは言えず、ハヤトは恨めしげにキールをにらみ返すだけだった。
 ぬいぐるみは見つかったし、キールが何をしていたのかを知ることは出来て万々歳の結果に終わったのかもしれないが。ガゼルには笑われたし、アルバにも呆れられてしまった。
「ああ、悪夢だ……」
 ぽつりと呟いた彼を、キールは不思議そうに見つめていた。

非恋愛的恋愛症候群2

 県立十二支高校には、色々と名物と呼べるものがある。
 例えば二十年前に伝説のバッター、村中がホームランを直撃させて以来止まったままの校舎の大時計、とか。
 女子更衣室に不気味な人影が現れて瞬時に消え去る、だとか。
 何故か肉が入っていない食堂のカレーとか。
 一部男子に群がる女子の壁、というものまである。
 そして新年度を迎えた十二支高校に、新たな名物光景が加わろうとしていた。それは毎日のように、昼休みのベルと同時に開始される。
「きゃー! 犬飼君、待ってー!!」
 例えるのならば黄色い歓声、と、悲鳴。あるいは絶叫、鼓膜を貫いて脳天を直撃する甲高い女子の叫び声が今日も、呆れかえる面々を尻目に校舎内の一角に響き渡った。
「お弁当受け取ってー!」
「逃げないでー!」
「待ってよ、犬飼君!」
 口々に勝手なことを言い放ち、短距離走選手も顔負けの速度で、しかも制服のスカートがまくれ上がる事にもまるで構わず彼女たちは、ただひとつの目的のために廊下内を走り回っていた。
 たったひとつの目的、即ち彼女たちが追いかける先にある背中へお手製の弁当を押しつける……もとい、手渡すという目的の為に。今まで一度として成功した試しがないというのに、飽きもせず今日こそは、と意気込み新たにして挑み続ける彼女たちには、ある意味尊敬と敬意を表したくもなる。
 だけれど、こうも毎日追い回される立場にある人物にとってはそれは、決して喜ばしい事ではない。
 ましてや、彼は女という存在が非常に苦手だった。
 自分は静かに、好きなものを食べていたいだけなのに。別に誰かに好かれたいとか、そういう不純な動機で野球をやっているわけではないのに。
 そもそも、こんな自分の一体何処を、彼女たちは気に入ったというのだろう。一度聞いてみたい気もするけれど、それを彼女たちに尋ねる為に立ち止まるのはある意味命取りになりかねない。二度と解放して貰えない気がする。
 だからひたすら、彼は逃げる。
 校舎内を、逃げ回る。
「あーあぁ、今日もやってら」
 どたどたと騒音を巻き上げて廊下を一瞬にして走り去っていった見慣れた横顔に、天国は口に箸を咥え込んだまま呟いた。母お手製の巨大弁当箱も残りはあと半分となり、しかしたった三口でその量を更に半分へと減らした彼は顎を大きく上下させながら、続いて廊下を走っていく女子の姿に嘆息する。
 そんな追い掛けっこを続けていて、貴重な昼休みを潰す奴らの気が知れない。
「ダンナも可哀想にねぇ……。ま、天国には一生縁がない光景だな」
 向かいの席に腰を下ろし、椅子だけ天国の方に向けてひとつの机に弁当を並べながら箸を進めていた沢松が、カラカラと笑う。
「むっ」
「あ! てめ、オレの唐揚げ!」
 けれど、その親友のひとことにかちんときた天国が空いていた箸で沢松の弁当から、彼が最後に食べようと大事に残して置いた唐揚げを奪い去った。沢松が短い声を上げる目の前で、天国はそれを口に放り込み、数回の咀嚼の後呑み込んだ。
 見る間に沢松の顔が青くなり、そして赤くなる。
「天国! テメー、返せ! オレの唐揚げ!」
 最後に食べようと楽しみに残して置いたのに、と怒鳴りながら沢松が天国の口を広げようと彼の頬と顎を挟み持った。しかし既に呑み込んだ後の天国は、べーっと舌を出してするりと彼の拘束からも逃れてしまう。
 しかも素早く、神業的なスピードで自分の残っていた弁当を胃の中に掻き込み、ぱんっ! と両手を叩いてゴチソウサマ、のポーズ。
「あ~ま~く~に~?」
「あー、美味かった。ごっそさん」
 ジト目で睨んでくる沢松を楽しげに笑って頭を叩き、天国はやはり素早い動きで弁当箱を片付けた。鞄の中に斜めに押し込んで椅子を引く。
「唐揚げ!」
「オレ様の前で隙を見せた貴様が悪い。んじゃな!」
 行儀悪く人を箸で指し示して尚も叫ぶ沢松に、不遜に言い放って天国は自席を離れた。他にも数人、昼食を終えたクラスメイトが雑談する中を紛れ、教室の出口へと向かって歩き出す。
「どこ行くんだ?」
 ちぇ、と舌打ちした沢松が最後に眦を細め、問いかける。扉を開けて教室を出ていこうとした天国が、一度そこで振り返った。
「ちっとそこまで」
 彼が指さした先には、他にも幾つか教室が並ぶけれども天国が今一番行きそうな場所と言えば、トイレくらいしかない。
 ああ、そう、ふーん。行ってらっしゃい。
 最後の楽しみを奪われ、途端に空虚に感じられる弁当箱に視線を落とした沢松は恨めしげに天国の背中を見送って、梅干しが乗った白米を口の中に掻き込んだ。
 窓の外は初夏の陽気、白いカーテンが時折吹き付ける風に貴婦人のスカートのように揺らめいてはためく。広いグラウンドでは何人かの生徒が、食後の運動なのだろう、バレーボールを持ち出して輪を作っていた。
 遠く響いてくる歓声の中で、ふと眉根を寄せたくなるような異質な声が時折混じる。
 カタン、と沢松は空になった弁当箱を今は主不在になっている天国の机の上に置いた。瞬間的に吹いた風に膨らんだカーテンを押しのけ、直ぐ横にある窓から真下を覗き込んだ。
「まだやってるよ……」
 呆れ半分に呟き、弁当箱に蓋をしてそのまま机に肘をついて眼下を見下ろす。追い掛けられている本人の声は当然聞こえないが、特徴のある追い掛ける側の人間の叫び声は断続的に、校舎内に轟いているようだ。その反響具合によって、大まかに今どの辺りを彼が走っているのかを想像する。
 多分、今は特別校舎棟のあたりか。
「大変だねぇ、犬飼の奴も」
 誰かひとりに絞ってしまえば、こんな面倒な事にもならないだろうに。
 そんな思考に思い至って、けれどふっ、と沢松は別の思考も同時に頭に浮かべてしまい犬飼を哀れむような、それでいてからかうような笑みを口元に浮かべた。
 それが出来ないから、奴は今日も逃げ回っているのだという事実を思い出したからだ。
「なーににやついてんだ、スケベ」
「誰がだ、誰が」
「テメー以外に居るか?」
「お前にだけは言われたくないぜ」
 いつの間に戻ってきたのだろう、頭上から降ってきた天国の声に心なしか驚いてしまった沢松は、けれど表面にそんな様子は一切出さず言葉を返す。普段からの悪言を用いたじゃれ合いに似たやりとりに、沢松は別の意味で苦笑する。
 弁当箱を片付け、頬杖を付き直した彼は窓の外、未だ遠くから聞こえてくる黄色い歓声を顎でしゃくって指し示してやった。天国も席に座り直し、促されるまま窓の外を見やってうんざりといった顔を作る。
「まだ逃げ回ってんのか、ガングロ」
 羨ましいけれど、同時に悔しい。自分は一度たりとも女の子からお弁当を貰った事なんてないし、自分があの立場だったら逃げもせず喜んで受け取ってその場で平らげる事だろう。
 恵まれているくせに、それを全身で拒絶しているあの男。顔を思い出してしまい、慌てて首を振って頭の中から追い散らす天国を見やり、沢松はやれやれと肩を竦めた。
「いっそ、誰かとひっついちまえば面倒なくて済むのにな」
「え、あいつ好きな奴とかいんのか!?」
 それは初耳だと、一応情報通を自称している(あくまで自称しているだけ)天国が机の上に両手を突っぱねらせ、沢松に叫んだ。両目が大きく見開き、驚きをそのまま顔で表現している。
「気になるのか?」
「へ? あ、いや……だってあいつ、全然女の子に興味ないみたいだし」
 野球一直線野郎で、いけ好かない奴だとしか認識してこなかった天国にとっては、その犬飼に思い人が存在するという事自体、青天の霹靂である。今まで散々嫌味の応酬ばかりであるけれど、会話を多数こなしてきた自分にはひとことも、そんな発言をしてこなかった奴が。
 それって、なんだか悔しい。
 ような、気がする。
 椅子に座り直し、飛び出していた両手も引っ込めた天国はいまいち自分でも理解しかねる今の自分の気持ちを落ち着けさせようと、改めて窓の外を眺めた。今度は下ではなく、上を。
 もう犬飼を追い回す女子の声は聞こえなくなっていた。
 喧噪がほんの少し遠ざかった気がして、ホッとする。今日も犬飼は無事、逃げおおせたらしい。
 ……無事に?
 ハッとなり、天国は慌てて自分が今思い浮かべた単語を必死にうち消した。
 自分は別に、犬飼がどうなろうと気にしないしどうだって良い。女子に捕まろうが逃げ仰せようが、結局自分に損得は訪れないわけだから関係ないはずだ。それなのに、今一瞬だけ、犬飼があの子たちに捕まらなくて良かったと、そう思ってしまった。
「天国?」
 ぶんぶんと首を振り回している親友に怪訝な顔を向け、沢松は首を捻る。
「なんでもねー! それで、犬飼の奴が好きなのって……誰だ?」
 まさか凪さんじゃあるまいな、とありもしない事を想像して叫び、天国は沢松の胸ぐらを机越しに掴んだ。自分の方へ引っ張り寄せ、顔を近づけて声を潜める。
 で、本当のところどうなんだ? 
 何故そんなおどおどしているんだ? と沢松は聞きたい気分にさせられたが、それなりにナイーブな面を持ち合わせている幼なじみの心情を察し、軽く笑って首を振り否定してやった。
「安心しろよ、彼女じゃない」
 予測の領域を抜けきれないで居るけれど、間違いなく鳥居凪ではないはずだ。そう告げた途端、天国の顔から緊張が抜け落ちていくのが見ていてはっきりと伝わってくる。だが直後、また天国の顔が引きつったものに変わった。
「じゃあ、誰だよ」
 その、犬飼が好きだって言う女は。まさかあの暴力巨乳女や、縫いぐるみ抱きかかえた怪しい宗教やってそうな女じゃないだろな。
 おおよそ本人が聞いたならパンチの一発や二発では済みそうにない暴言を小声で零し、天国は開きかけた沢松との距離を再び詰めた。ひそひそ声になってしまうのは、やはり少々ながらももみじに聞かれては殺されかねない、という事を理解しているからだろう。
 沢松はふー、と長い息を吐き出す。と同時に身体を後ろに傾がせて椅子の背もたれに体重を半分預けた。オールバックで髪の毛を後ろに一括りにしているから、前髪などありはしないくせに髪を掻き上げる仕草だけをして、一緒に首を横に振る。
「違うと思うぜ」
 恐らく、近くで犬飼を眺める機会がある人物の大方見当がつく、というか分かりそうなものであるのに。
「……オレの知ってる女か?」
 可愛いと目星をつけた女子であれば大抵はチェック済みであり、顔も名前も知っている天国である。変なところにだけ記憶力が優れている幼なじみの顔を暫くじっと見つめ、沢松は眉間に皺を寄せた。
 知っているも何も、知らない方が可笑しいだろうに。
「ま、報われてないみたいだけどな」
 へっ、と鼻で笑い飛ばし沢松は肩を竦めて両手を広げた。
 瞬間的に変化してしまった彼の台詞に、ついていけなかった天国は椅子を蹴り倒しそうな勢いで立ち上がって未だ背もたれに身体を預けきっている沢松に詰め寄った。しかし彼は一向に視線を合わせず、それ以上ヒントになりそうな事も言ってくれなかった。
 天国の知る人物であるのかどうか、という問いかけにも結局、答えていない。
「それってどういう意味だよ」
「望み薄、って事に決まってんだろ?」
 犬飼の思い人は、犬飼の気持ちにまったく気付かずに今日ものんびり楽しく過ごしているのです。改まったような口振りで、しかもその相手の事をしっかりと良く理解しているらしい沢松の言葉に、天国は顔を顰めた。
 どうしてお前がそんな事に詳しいんだよ、と視線で問いかけると、彼は揺らしていた椅子を戻して座り直した。
「オレは情報通なんだよ」
 誰かサンと違って、部活でしっかり活動しているもんだからその辺りのゴシップなんかにも、耳聡くなっちまうんだ。そう言いながら自分のこめかみを数回指で叩いてみせた沢松に、天国はふぅん、と生返事をひとつだけ送る。
「で、誰?」
 この辺は純粋に興味の領域。再び声を潜めさせた天国だったが、丁度そのタイミングに予鈴を告げるチャイムが教室に響き渡った。
 顔を見合わせ、それから揃って教室前方に据え付けられたスピーカーを眺めたふたりの耳に、ざわめきが一瞬止んでまた騒ぎ出した教室の生徒達の声が木霊する。沢松もまた、天国の机に置きっぱなしだった自分の弁当箱を掴み、椅子を引いた。もとよりその席は彼の席ではなく、授業が始まると同時に本来の持ち主に明け渡さなければならない。
 逆向きにしていた椅子を正位置に戻した沢松は、食堂に行っていたらしい天国の前の席の住人であるクラスメイトに軽く手を振り、廊下側の前から三番目という自席へと戻っていった。休憩時間中は半分ほどに減っていた教室内の人口が、徐々に全員集合になりつつある。
 天国は、取り残された子供のようになりながら机に突っ伏していた。
 自分の机に座り、弁当箱を鞄に押し詰めて教科書を引き出しから取りだした沢松は、ちらりとそんな幼なじみの姿を確かめて肩を竦めた。あの様子では本気で、犬飼の思い人が誰であるのかに気付いていないようである。
 もっとも、気付きそうになったなら自分が全力を挙げて阻止するつもりだけれど。
 なにせ、幼なじみである。自慢ではないが、天国の事に関しては奴が今何を考えているのかさえ分かりそうなくらい、理解できているつもりだ。そして奴の思考回路がどういう順番で繋がっているのか、も。
 天国は基本的に、自分が他人に差し向ける感情には割と敏感だけれど、他者から自分へと向けられる感情――特に好意といった部類に属するものには極端に、疎い。誰かが自分を好いてくれている、という隠された感情にまったくきづかない。その感情が、微妙で複雑かつ、純粋で重いものになるに従って、天国は自然とその感情から視線を逸らしてわざと、無かったものにしてしまう傾向にある。
 無意識のままで。
 間もなく本鈴が教室のみならず校舎内全体に轟き渡った。間髪入れず教師が教室に入ってきて、出席簿を広げて点呼を取り始める。天国はその声に怠そうな顔を崩さないまま返事をし、もそもそと教科書を取りだして広げた。
「ったく。あいつのどこが良いんだか」
 鈍い動きでノートを広げ、しかしメモを取るわけでもなく教科書に落書きを始めた天国の姿を、クラスメイトの隙間から眺めつつ沢松は頬杖をついた。
 頭に浮かぶのは、学校中を逃げ回っている男と、本来その男に追いかけ回されているはずなのに当の本人はまったく自覚していない、あのバカ。
 少なくとも、自分が味方につくとしたら後者の方である。大事な幼なじみであり、親友である存在を、中途半端に女子から逃げるだけでいつまでも断ち切ろうとしない奴に、ほいっと投げ渡してやろうとは微塵も思わない。
 幼なじみを、変な道に走らせようとは考えたくもない。ボディーガードを気取るつもりはないが、天国を誰かの手に奪い取られるのは癪に障る。あいつは、絶対に自分が認めたこれなら大丈夫、と思えるような相手じゃないと譲れない。
 微妙に親の気分を味わいながら、沢松は黒板に教師が記していく単語や年号を素早く、なるべく読みやすく丁寧に書き写していった。もうじき学期末が来る、どうせ天国はこのノートを頼ってくるのだから、少しでもあいつに理解しやすいようにまとめておいてやらないと。
 さらさらと真っ白かったノートに文字を連ねていく最中、ふと視線を感じて沢松は頭を振り、どうも気にかかる方向を向いた。
 教師はテキストを手に、黒板へと一心不乱に文字を書き連ねている。クラスメイトも、書いては消すの繰り返しでしかない教師の文字を追い掛けるのに必死で、机にかじり付くかもはや諦めて食後の睡眠に走るかのどちらかだった。
 皆がみなして頭を下向けている中で、ひとり首を伸ばした沢松の視界に、揺れるカーテンを後ろにして天国が彼を見ていた。視線が重なると、気付いて貰えた事が嬉しかったのか、天国はひらひらと気付かれない程度に手を振った。
 それから、両手を顔の前で重ね合わせ、頼む、と唇を動かす。授業中なので、当然音は零さない。
 はいはい、承知いたしましたよ。
 しょうがない奴、と呆れ調子に溜息をついて、沢松は今度、なにか奢れよ、と持っているシャーペンを彼に突きつける仕草をする。巧く伝わったかどうかは分からないが、一応承諾したらしい天国が深めに一度頷いた。
 黒板に向かいっぱなしだった教師はようやく、端から端までを文字で埋め尽くし終えて満足したようにチョークを下ろす。慌てて沢松は一言一句、書き損じないように気を払いながら書写し始めた。
 天国が、彼のその姿を見送ってから教科書を机に立てる。広げたノートは結局一行も文字を記す事がなく。
 その上に肘を置き、手の平をしたにして交差させた上に額を預ける。
 麗らかな午後、ポカポカ陽気に温められた風は丁度良い具合に眠気を誘って天国を取り囲んでいた。
 ものの十秒としない間に、天国の意識は朦朧と夢の中へと消えていく。
 本当、どうしようもなく面倒のかかる奴。
 教師が黒板に書いたばかりの内容を説明し始めたのを片耳で聞きながら、頬杖をついた沢松は遠くに小さく見える天国の眠る姿を見つめ、目を細めた。
 だからあいつは、オレが面倒見てやんなきゃならないんだよな、と。
 昔からの腐れ縁を思い出して薄く笑い、そしてまた教師の説明を聞き漏らさないように神経を前方へと戻す。
 腐れ縁や幼なじみだから、といった理由だけでそこまで出来るものなのかどうか、その疑問さえ頭の片隅に浮かべることを一度としてしないままに。
 彼は今日も、当たり前のように天国の隣に居る。

02年4月18日脱稿

光の在処


     
 声が聞こえ、ハッとなりマグナは顔を上げた。
 今までぼうっとしていたらしい、自分が立っている場所が何処であるかを認識するのに数秒掛かった。だが、その数秒が終わっても彼はそこが何処なのかを理解できなかった。
 深淵の闇が広がっている。
 右を見ても、左を見ても。上を向いても下を向いても前も、後ろさえもが。一面の闇色に染まっている、何も見えやしない。光の欠片さえ見出せないのだから。
 だのに不思議なことに自分の姿だけは認知できる、手を顔の前に差し出せば五本の指に刻まれている皺の数さえ数えることが出来そうだ。
 しかし自分以外のあらゆるものが見えない、なにも……存在していないかのように。 
 ぞくっ、とした震えが背中から迫り上がってきて、反射的にマグナは自分の両腕で自身の身体を抱きしめる。背を丸めてその場にしゃがみ込んでしまいたくなった。
 闇の中の世界、この場所を自分は知っている気がした。
 正確にはこの世界によく似た場所を。
 タスケテ、とまた声がする。
 かろうじて自分の体重を支えている両足を叱咤して、マグナは声の出所を探ろうと視線を巡らせた。
 ぽつん、と闇ばかりの世界に、小さな灯火が宿る。
 走ってくる、小さな子供。細く骨と皮ばかりの腕に抱えきれないほどの食べ物を抱きしめ、縺れそうになる矢張り細い両足で必死になり前を向いて走っている。後ろを振り返る余裕さえなく、また、腕からこぼれ落ちてしまったものを拾いに戻る余裕もない。
 ボロボロの衣服を身に纏い、髪も櫛を一度も入れたことのないような癖毛で乱雑に伸びている。しかしその間から覗く双眸は獣のように鋭く、牙のように輝いていた。
「あれは……」
『待ちやがれ、この盗人!!』
『今日という今日こそ、とっつかまえてとっちめてやる!』
『何処行った、あの餓鬼は!』
 真っ直ぐ自分の方へ走ってくる子供の顔に見覚えがあって、呟いたマグナの耳に彼の思考を邪魔するような大人達の野太い怒声が割り込んでくる。どれもが苛立ちと強い怒りを感じさせるもので、それはあの子供に向けられて放たれたものだった。
 だがその声はマグナの心にさえ深く刃を突き立て、彼をその場に立ちつくさせる。
 聞き覚えが、あった。
 あの声、この台詞、そして……あの子供の強すぎて哀しい瞳の色も。
 駆けてくる子供が、マグナへ直進する。ぶつかる、と彼が身構えて逃げ出すよりも先に、子供は彼の身体をすり抜けて反対方向へ走っていった。
 そう、マグナなど最初から居なかったように。彼にはマグナの存在が見えていなかった、否、違う。マグナがあの子供の前に居なかったのだ。
 続いて、パン屋や肉屋などの商店主が赤ら顔で頭から湯気を立てんばかりの勢いで駆けてくる、やはりマグナの身体をすり抜けて今去っていったばかりの子供を追いかけて走っていってしまった。
 彼らの腰よりも背が低い子供を、何人がかりで追いかけて捕まえて、殴り、蹴り、地面に叩きつけ、子供が血を流し気を失っても構うことなく。彼らはあの子に暴行を加えるのだろう。
 闇の中に灯った小さな光は消え失せ、また世界は闇が一面を色濃く染めあげる。子供とそれを追う大人達の姿も一緒に見えなくなってしまっているのに、マグナにはその後あの子供を襲う不幸が分かってしまう。
 だって、あれは幼い頃の自分自身に他ならないから。
 直ぐに気付くべきだった、あの瞳はひとりきりで生きるしかなく、盗みを働いてでも襲ってくる飢えを凌ぐためになんだってやっていた頃の、彼。
 マグナ、という名前だけしか自分の財産を持っていなかった。その名前すら親が付けてくれたものなのか分からないのだ。親なんて、気が付いた時にはもう居なかった。
 最初の記憶。雨の中、ズタボロの自分が裏路地にぽつんと立っているその光景。忘れていたはずなのに思い出して、不意に涙が溢れてくる。
 あれはネスティ達に会うずっと前の自分。頼るものも何もなく、縋るものもなく、力さえなかった幼少時代。
 与えてくれる存在などなかった、手に入れるためには奪うしかなかった。
 ゴミさえ漁った、浅ましい子供と石を投げられた事もある。野犬に追い立てられたことも、飼い犬を嗾けられた事もあった。あんな風に盗まれた食べ物を取り戻そうと商店主にまとまって追い立てられ、袋小路に追い込まれ、丸二日動けなくなるくらいまでに痛めつけられた事もざらにあった。
 それが日常だったのだ、マグナにとってはそれが一日の総てだった。
 家などない。川に架かる橋の下、誰かの家の軒下、打ち捨てられたゴミの山の一角。寝床を何度も転々とさせ、町の不要物と見てくる人々の冷たい視線にも慣れきっていた。
 そう、だから平気だった。蒼の派閥で成り上がりと蔑まれ、公然とした差別を受けていた日々も少しも気にならなかった。
 まだあのころよりは、ましな生活が――少なくとも屋根のある場所で、狭くとも自分だけの部屋がありベッドで眠ることが出来、盗まなくても食事を与えられる生活が保障されていたのだから。
 何の皮肉かと思っただろう、当初は。
 あまりにそれまでの日々とかけ離れた優雅すぎる生活に、自分は此処にいるべきではないと何度も思って逃げ出した。その度にまた追いかけられ、捕まえられたのだけれど。
 追いかけられる、という事には今でも激しい嫌悪が生じる。後ろから伸びてくる幾多の腕が恐い。だから暴れて、怪我をさせたし自分も傷ついた。
 殴られる、そう思ったら先に自分が殴るようにしていたから喧嘩も絶えなかった。
 その度にラウル師範やネスティが間に入って、相手側を宥めて大事になる前に対処してもらっていた。ネスティにはたっぷりとお灸を据えられた。
 ただ彼も、マグナの境遇をある程度理解してくれていたのだろう。頭ごなしに怒鳴る事もあったけれど必ずその後は、優しく頭を撫でて手を握り、気にしなくていいから、と言ってくれた。
 それだけが救いだった。その言葉に救われた気がした。
 そのうちに喧嘩の数も減って、卑屈になることも減っていった。真面目に召喚術を勉強する、という日はついにやって来なかったけれど。
 どうして思い出したりしたのだろう、もうとっくに忘れ去ったと思っていたのに。
 再び闇の中でひとり佇んで、マグナは考える。するとそれに呼応したかのように目の前の闇が薄くなって、追放同然の命令を受けて旅立ってから出会った仲間達の顔が順番に洗われ、消えていった。
 最後に、哀しい涙を流し謝罪の言葉を繰り返し繰り返し告げて去るしかなかった少女が現れる。
 勝手に呼びつけられ、命令され、間違った情報に踊らされそれに気付いて逃げ出した。自分がしてしまったことをずっと悔い、哀しみ、やり直そうと懸命になったけれど駄目で。自分を縛るものに縛られ続けてまた傷つけて、傷ついて、悲しんで悲しめて。
 彼女は何も悪いことをしていないのに、彼女はせめられる。ゴメンナサイ、と何度謝っても伝わらない。涙だけが絶えず零れてきて、心の中では悲鳴を上げていたはずだ。
 タスケテ、と。
 聞こえたその声に応えてあげたくて、マグナは剣を振るい召喚術を使った。仲間達も協力してくれた。
 彼女の心は結局、救えなかったけれど。
 本当は優しい子なのに、友達にだってなれるのに。
 許すまじはあの召喚術師。ユエルは利用されただけ、けれど何も知らなかった事が罪にならないとは言えないから……苦しい。
 何も知らないことは、知ろうとしなかった事に等しい。善悪の判別がつかず、生きることに固執すればどこかで誰かを傷つけてしまう。そして真実を知った時、傷つくのは自分自身なのだ。
 ああ、そうか。
 マグナはまた闇が広がった空間を見つめて呟いた。
「ユエルは、昔の俺にそっくりなんだ……」
 生き残るために盗みをする。なにも知識を与えられぬままに世界の片隅に突然放り出されてしまった存在。ちっぽけで、けれど生きているから生きていたくて、自分を守るために悪いと言われる事すら平気でやってのけた時代。
 似ている、だから分かった。
 彼女の孤独も、苦しみも、哀しみも。そして救いたいと思った、自分が孤独の中に光を見出して救われたように。
 自分にとってのネスティやラウルのような存在に、なってやりたいと思ったのかも知れない。
 誰だって平等に幸せを手に入れる権利を有しているのだと、声高く宣言したかったのかも知れない。
 泣くことしかできなかった彼女が、少しでも早く笑顔を取り戻してくれれば良い。彼女は心の底から今が幸せだと言ってくれる日が来ればいい。その孤独が埋まるものを彼女が見つける日が来ればいい。
 この世界が大好きだと、この世界にやってきて本当に良かったと思ってくれる日がやってくれば……いい。
 自分が、この世に生まれてきた事を感謝出来るようになったように。
 ありがとう、と心から言える人が隣にいてくれるようになれば……いい。
 闇が薄れていく。足許が急速に弱くなり、目の前に闇を解かす光が迫ってくる。けれど恐くない、大丈夫。平気だと心の中で何かが告げている、もう目覚めなさいという声が聞こえてくる。
「……ナ、マグナ……」
 肩を揺すられて低く呻いたマグナが、薄く重い瞼を持ち上げる。けれど飛び込んできた光の眩しさにまた目を閉じて寝返りを打った。
 肩の上に溜まっていた蒲団を引っ張り頭から被って横を向く、ちょうど壁に向き合う格好になって、真上の存在が呆れたように溜息をつくのが聞こえた。
「いい加減に起きろ。もう皆、食事も終わらせているんだぞ」
 後は君だけだ、と呆れ声が告げるがマグナは蒲団を被ったまま動かない。半分覚醒して残り半分はまだ夢の中に潜っている状態で、聞いている声も半端にしか理解できていない。
「あとちょっと~……」
「駄目だ、起きるんだ!」
 ぐっ、とマグナが掴んでいる蒲団を上から握りがばっ、と一気に引っ張って剥ぎ取る。途端、冷たい朝の空気が吹き込んできて毛布と身体の間の温められていた空気が消えていく。
「ひゃぁ!」
 その寒さに身を震わせたマグナは自分を抱きしめ、蒲団を抱えて勝ち誇った顔をしているネスティを恨めしげに見上げた。今ので完全に目が覚めてしまった、夢の余韻を楽しむ事さえさせてくれなかった。
「起きたか?」
「うぅ……酷いよ、ネスぅ」
 簡単に折り畳んだ蒲団をベッドに戻したネスティの、実に晴れやかな言葉に頷きはしたものの、不満顔を隠さないマグナは今度は枕を抱きしめ彼を睨む。
「何時までも起きてこない君が悪い。僕の所為じゃないだろう」
 それはその通りかも知れないが、だからって他に起こし方があるのではないだろうか。もっとこう……優しい起こし方が。
「甘えるんじゃない。起こしに来てもらえるだけ、有り難いと思え」
 不満を口に出したマグナの寝癖まみれの髪に指を入れ、軽く梳き解したネスティが苦笑する。
 そしてマグナの頭の上にいつの間にか用意されていた彼の日常服を、固まりにして落としてきた。咄嗟に伸ばした両手でそれを受け取り、やや茫然とした顔を向けるとネスティは掛けている眼鏡を直し、
「朝食、片付けられてしまいたくなかったらさっさとそれに着替えて食堂へ来るんだ。分かったな」
「あ、……うん」
 朝から空腹を抱えて昼までを過ごすのは地獄である。けれどネスティの事だからきっと、早くしなければ本当に片付けて仕舞いかねないので慌ててマグナは寝間着を脱ぎに掛かった。
 ネスティがそれを見て、ひとつ頷くと踵を返し部屋を出ていこうとする。
「あ、ネス!」
 その背中を思わず呼び止めてしまい、怪訝な顔をして振り返った彼を見てマグナは自分が何を言いたかったのか忘れてしまった。いや、最初から言いたいことなど無かったのかも知れない、何も思い浮かんでこなかったから。
「どうした?」
 そう広くない部屋、既に扉に手を伸ばしていたネスティが戻ってこようとしてマグナは慌てて手と首を振った。
「ななななんでもない! ごめん、ちょっと呼んだだけ……」
「? 変な奴だな」
 口元を緩め、微笑みを形作らせるとネスティは今度こそ扉を開けて部屋を出ていった。
 残されたマグナは、足音が去っていくのを確かめると自分の服を抱きしめて長く息を吐き出す。
「……ありがとう、ネス」
 面と向かって言えなくて、彼が渡してくれた服に向かって呟いたマグナはいそいそと寝間着を脱ぎ捨てて着替え始めた。

Sigarette

 買ったばかりでまだ封も開けていない煙草を置き忘れたことに気付いた。
 しまったな、と心の中で自分の失態に舌打ちしながら今来たばかりの廊下を戻り始める。分厚いカーペットが敷かれた廊下に足音が響くことはなく、柔らかな毛並みが靴底を優しく撫でている。
 ただ自然ではない感触が足裏を伝ってくる感じがして、正直言うとあまり慣れなかった。
 これがいっそ、素足で通り過ぎるのであればまた別の感じがしたのだろうけれど。靴底が固いだけに、なんとなく不釣り合いすぎる気がしてならないのだ。もしくは、踏みしめる度にサクサクッ、とでも音がするくらいであったなら。
 歩いている心地がしないのだ、強いてこの感情を言葉で表現するとしたら。
 確実に足が地についている感覚が微妙に遠くて、けれど宙に浮いているようなふわふわとした不安定な感覚ともまた違っている。
 足を前に踏み出す度に身体が上下し、視界がその動きに合わせて揺れているのだから自分はちゃんと歩いている事を実感できるのに、視覚的表現だけではどうも足りない気がして来る。手応えがないカーペットの上は、叩いても反応を返さずすぐに元の形に戻ってしまう羽毛クッションに似ていた。
 それほど距離もなく、ひとつ目の部屋に入る。
 扉を開けて室内に足を踏み入れ、視線を巡らせて見回すがその範囲内では置き忘れた煙草を見つけることが出来なかった。
 何処に置き忘れたのだろう。
 買ったのは此処に来る前の道端に置かれていた自動販売機だ。五百円玉を入れて、いつも吸っている銘柄のボタンを押した。釣り銭とフィルムにくるまれた箱を取りだして、小銭はコートの右ポケットに、煙草は左のポケットに確かに分けてしまったはず。
 城に着いて、いつも時間を潰しているあの広いリビングへ行こうとしたけれどその途中でアッシュが城に居るとき使っている部屋を先に覗いた。彼は不在だったけれど鍵がかかっていなかったから不法侵入して、テーブルの上に置きっぱなしになってあった料理本を少しだけ読んで、「これ食べたい」というメモを心惹かれたページに挟んできた。
 その次に立ち寄ったのはユーリの部屋。彼もやっぱり不在だったけれどしっかり鍵がかかっていたので不法侵入には失敗。
 その間、両手はポケットの中で手持ち無沙汰にしていたかもしれない。
 ひょっとしたら、歩いている時にポケットからはみ出て落としたのかも。
 台所を覗いたらアッシュが夕食の支度をしていたので、こっそり背後から近付いて驚かせた後揚げたばかりだった天麩羅をひとつ頂戴した。怒るアッシュの声を背中に聞いて、食堂に逃げてそれから当初の目的地であったリビングへ。
 そこも誰も居なかったので、窓を開けて縁側に座り庭でも眺めながら煙草を吸おうかと思って、灰皿を取りに自分が常々勝手に使用させて貰っている部屋に行こうとしたのが、さっき。
 ポケットの中に入れてあったはずの煙草が無くなっている事に気付いたのは、リビングを出て少ししてからだった。
 リビングも、広い。中央に応接セットのテーブルと、革張りのソファ。ひとり掛けがふたつと、ふたり掛けがふたつ。コの字型にセッティングされたソファに囲まれるようにして、天板が板硝子のテーブルが置かれている。
 壁に、重厚な造りの棚がみっつ。年代物のブランデーやウィスキー等と一緒にグラスが並べられている。
 庭に面した壁は一面ガラス張りで、太陽光をいっぱいに取り込める為夕方でもかなり明るい。窓を開ければ直ぐに庭に降りることが出来、天気の良い日は庭でお茶会、という事もあった。
 天井を見上げれば見事なシャンデリア。光の加減で虹色に輝いて見える硝子が眩しい。
 けれど無論、いくらなんでもシャンデリアに煙草を置き忘れる事などあるはずがない。入り口から部屋の中央に並べられたテーブルセットへと近づき、板硝子のテーブルを真上から覗き込むが一輪挿しの花瓶に薔薇が飾られているだけで他になにもなかった。
「ふぅむ」
 此処ではなかったか、ともう一度その場から部屋全体を見回すが、やはり真新しい煙草の姿を発見することは叶わなかった。
 ポリポリと頭を掻き、少し考える。
 一番可能性の高かったリビングが違った場合、次に思い当たるのはアッシュの部屋だろう。だがどう思い返しても、彼の部屋で煙草を出した記憶は見当たらない。
 変な時間を潰したのは事実だが、灰皿のないあの部屋で煙草を吸おうという気は起こらなかった。もとより、本来この城は全面的に禁煙なのだが。
 ユーリがあの脂臭さを嫌うので、おおっぴらに煙草を吸うわけに行かないのだ。もし吸うとしたら、庭の片隅か自分が勝手に借用している部屋でこっそり。ユーリが部屋にも食堂にもリビングにも居なかったので、今ここの城主が外出中であると判断したので今日は偶々、庭を眺めながらでも、と考え至っただけで。
 でなければ煙草を置き忘れるなどというミスは絶対に犯すはずがない。
「何処に置いたかなぁ……」
 困った顔で呟き、頬を引っ掻く。
 アッシュにならまだしも、ユーリに見つけられると厄介。こういうところだけ妙に口うるさい彼に喫煙がばれたときは、散々小言をくらって、禁煙を誓わされた記憶がある。
 その約束が守られる事は結局無かったが。
 それでも、三ヶ月は我慢したのだ。三カ月経ってつい気が緩んで吸ってしまって、最後は禁煙する前より頻繁に吸うようになってしまったのだから笑えないのだけれど。
 行方不明の開封前の煙草は何処へ行ってしまったのか。諦めきる事も出来ず溜息をつき、自分が辿ったルートを逆に回るしかないかと台所へ向かおうとした先で。
 食堂とリビングを区切る扉の前に立っているユーリに気付いた。
 気のせいか、眉間に皺を寄せて顔は酷く不機嫌そう。
 ひょっとして、と背中に冷や汗と嫌な予感を流してけれど引き寄せられるように足は彼の方に向いていた。
「ユーリ……?」
「スマイル」
 不機嫌な声で、ユーリはその名前を呼んだ。胸の前で組まれている腕、上にしている右手の人差し指が苛々した今の彼の機嫌をそのまま表現してか、トントンと早めのリズムで小刻みに下にしている左腕を叩いていた。
「これは、なんだ?」
 その左手に握られていたのは、真っ赤なパッケージの未開封の煙草。
「あ、いや、その。ねぇ……」
 言い訳は見苦しい、それは重々承知。けれど今回はその言い訳すらも頭に浮かんでこないらしい。
 てっきりユーリは外出して居るものとばかり思っていただけに、彼の登場は余程意表を突いたものとして自分の心に受け止められてしまったようだ。動揺している。
「なんだ、と聞いている」
 咎める語調の手厳しい声に、視線を天井近くに彷徨わせてなんとか誤魔化そうと必死に色々と考えるものの、どれも一度使ってその度に論破されてしまったものばかり。これと言うものが発見できず、しどろもどろに口を濁すばかりだ。
「私は以前、お前に禁煙を命じたはずだが」
 城で煙草を吸うときはなるべく換気の良い場所で。灰皿もユーリが絶対に調べそうにないところに隠していたし、脂臭さも残さないよう細心の注意を払ってきたから今まで気付かれることはなかった。
 よもやこんなミスを犯すとは夢にも見ていなかっただけに、一瞬の油断というものの恐ろしさを、身をもって思い知らされた気分だ。
「煙草は喉を潰す。お前も分かっているはずだろう」
「あー……うん」
 語尾が弱まる。力無く首を垂れて頷いた自分に、ユーリは呆れた感じの溜息を零していた。
 これで完全に失念されてしまったかもしれない。そう思い至ると逆に今度は、諦めがついたというよりも開き直りの精神が働いて、ふっと、頭の片隅に悪戯心が芽生えた。
「でも、ねぇ……」
 ちらり、と上目遣いにユーリを盗み見て。
「ぼくが煙草吸うのって、暇で口寂しい時だけなんだよねぇ」
 薄く口の端に笑みを浮かべる。
 ユーリが、なにか不穏なものを感じてか後ろに一歩、下がった。
「口寂しい?」
「うん」
 そう、と深く頷く。自分の唇に指を置き、目を細めてにっこりと微笑む。
 ユーリがまた、一歩後退した。合計二歩分、自分たちの間に出来た距離を一歩半で一気に詰める。彼はまた半歩下がって手にしていた煙草のケースを強く握った。
 まだフィルムを剥がしてもいない箱の角が、彼の指に押されて潰れる。何本かに皺が入った事だろう。
「お前は、そんな下らない事の為に自分の身体を苛めるのか」
 煙草を吸っても、百害あって一理無し。インスピレーションを求めて煙草を吸う人間も居るが、歌い手として音楽に深く関わる自分たちにとってそれはあまり好ましいものではないはず。
 それを口寂しいという、それだけの理由で実行に移すスマイルをユーリは計りかねた。
「ガムでも噛んでいればいいだろう」
「ガム、嫌いだしねぇ」
 再び距離を詰める。壁際に追い込まれて、ユーリは肩を壁にぶつけた。強く握っていたはずの煙草が、彼の指の間から落ちそうになってまだかろうじて組まれたままだった腕の内側に引っかかって止まった。
「スマイル」
「これでも一応、禁煙してたんだよねぇ」
 我慢して、煙草の替わりになるものを捜してみたけれど最後まで見付からなかった。それほど我慢強いとは言えない自分が三ヶ月も我慢したのは相当のものだったと、逆に褒めて貰いたいくらいなのに。
「でもやっぱり口寂しくて、吸い始めちゃった」
 ユーリが逃げられないよう、彼の頭を挟み込むように壁に両手をついてにっこりと微笑む。
 自分の喫煙量はせいぜい一日二、三本。一日でひと箱もふた箱も空にするヘビースモーカーに比べれば、かわいらしいものでしかない。けれどそれすらもユーリは許そうとしないのなら。
 煙草の替わりを彼に求めても、罰は当たらないような気がした。
「ユーリが協力してくれたら、煙草を止められると思うんだよねぇ」
 近付き、彼の顔に影を落とす。何をされるのかと一瞬怯えたような表情をする彼にふっと微笑んだ。
「私に、何を求めると」
「簡単だから」
 にっ、と目を細めまだいぶかしんでいるユーリの唇に一瞬だけ触れる。
 びくっ、と過剰なまでに肩を揺らして反応した彼から直ぐに離れると、反射的に飛んできた彼の拳を、背を仰け反らせる事で避けた。
 そして約一歩半分の距離を保ったまま笑いかける、自分の人差し指を自分の唇に押し当てて。
「一日一回、で手を打つよ~?」
 喫煙の替わりに、とウィンク。
「ばっ、馬鹿者!」
 我に返ったユーリが唇を片手で押さえながら怒鳴る。新品の煙草はすっかり彼に握りつぶされており、無事なものは中心に近い数本しか残っていないだろう。
「じゃ、約束したからね?」
 ひらひらと手を振って、もう用は済んだと踵を返す。了解の返事を貰ったわけではないが、それを貰うまで待っていたら彼に冷静さを取り戻されてしまう。
 明日からの喫煙は今までの苦いものではなく、甘いものになりそうだと心の中でスキップしてスマイルは去っていく。
 その背中を見送りながら、手の中に残った潰れた煙草をしばらく睨んで、ユーリは赤い顔のままそれを床に投げ捨てた。

忘れ得ぬ日々

 変だね。
 ここに来る前は、君がいない毎日が日常だったのに。
 もう、今じゃ君がいない日の方が日常でないような気がするよ。
 不思議だね。
 君は、いつの間にかこんなにも俺の中で大きくなっていた。
 君のいない日常なんて考えられない。
 考えたくもなかった。
 でも、駄目だった。
 やっぱり俺達は一緒にはいられなかった。
 いつか、君のいない日々が俺の日常に戻るのだろう。そして君といたあの日々は、遠い記憶の中でひっそりと忘れ去られていくのだろうか。
 この日常のせわしさの中で、君だけが俺の心を癒してくれているのに。
 君を忘れてしまう日がやがて訪れるのだろうか。
 嫌だ。
 忘れたくなんてない。
 取り戻したい、君といた日常を。
 それは、我が儘なのだろうか――――?

 ハヤトがリィンバウムから、懐かしい故郷の町に帰ってきて、そろそろ二週間が経過しようとしていた。
 あの日、まるで何事もなかったかのように夕暮れの公園にひとりぼっちで佇んでいた自分が、遠い過去のようにさえ、思えてきている。
 リィンバウムでの日々が、現実ではなくて自分の心で描き出した空想の世界であるかのように、日常はせわしなく彼を追い立て、追いつめていく。
 朝ベッドの中で目覚めたときに見上げる天井が、薄いクリーム色の壁紙と淡く白い光を放つ電灯に飾られていることに、彼はしつこいくらいにため息をついてしまう。これがもし、薄汚れた木目のくっきりと映る孤児院の天井で、室内を照らすのも人工物ではない炎の小さな光であったならと、何度願ったことか。
 だが実際の光景はありふれたマンションの一室でしかなく、カーテンを引き開ければその先に広がるのは、コンクリートに埋もれた灰色の世界だ。
 そう。ここがハヤトの生まれ、生きてきた場所。
 あれほどに帰りたいと思っていた場所なはずなのに、今となっては、この彩に欠けた世界はひどく味気なく彼の瞳には映る。
 自分は知ってしまったのだ。ここではない、本当に素晴らしい世界を。
「俺……間違えたのかな」
 何を、とは今更のことで、後悔なんてしないとあれほどに誓ったのに、思い出せば涙が自然と溢れてきてハヤトは握りしめた拳でそれを乱暴に拭った。
 涙もろくなっているのは、きっと起きたばかりで涙腺が緩んでいる所為だと決めつけて、彼は半開きだったカーテンを一気に端まで引いた。明るい朝の光が窓から室内にこぼれ落ちるが、それすらもあの場所に比べたら色褪せているような感じがする。
「みんな、元気でいるだろうか……」
 ぽつりと朝日に向けてそう呟き、ハヤトは着ていたパジャマのボタンに指をかけた。
 ベッド脇の目覚まし時計は、今ようやくセットしておいた時間を指し示して軽い音を立て始める。それを苦笑しながらストップさせ、それからしばらく、時計を抱えたまま思考を停止させる。
「……やめよ……」
 いつからか、目覚ましよりも早く起きるようになっていた。日が昇り、家族が起き出すよりも先にハヤトはベッドの中で目を覚ます。決して夜が早いとか、そういうことではない。むしろ睡眠時間は以前に比べると格段短くなっているはずだ。こちらでは一秒も進んでいなかった時間も、リィンバウムで過ごした時間は確かにハヤトの中に残っている。その間、無論勉強なんてしているはずもなく、おかげでクラスメイトにとって昨日習ったことも彼にとっては数ヶ月前に教わったことになってしまっていた。
 つまり、完璧に忘れてしまっているのだ。
 遅れてしまった(ちょっと違うか?)分を取り戻すためにも、ハヤトはクラブ活動の合間を縫って教科書に向かうようになった。向こうにいた間に色々あったから、学力は落ちたが体力だけは倍近くに増していて、それほど疲れなくなったのが幸いした。
 夜は眠くなるのを必死に堪えながら勉強に励み、放課後はクラブ活動に汗を流す。テレビなんて、そういえばまとまった時間に見た記憶がない。ラジオも聴かなくなった。周囲に音が溢れていることに対して、嫌悪にも似た感情を抱くようになったのも異世界から帰還した後だった。
 深夜でもバイクや車が走り回る音がする。リビングに行けば無意味に電源が入ったまま放置されたテレビ画面が、乱雑な色彩と雑音とも取れるわめき声を上げている。
 この世界がこんなにも住みづらく、息苦しい場所だったとは思いもしなかった。
 耳障りな音が多すぎる。消すことの出来ない騒音に眉根を顰め、彼は脱いだパジャマを小さく丸めると部屋を出た。
「おはよう」
 台所にまず向かい、そこで朝食の仕度を始めたばかりの母に挨拶をすると、そのまま脇を抜けて洗面所へ足を運ぶ。洗濯籠に乱暴にまだ自分の体温が残るパジャマを突っ込むと、蛇口をひねって顔を洗った。
 すっきりしない気分を払拭したくて、勢い良く流れ出した水に手をさしのべてその痛みに顔をしかめる。
 そうだ。今こうして何気なく使っている水道も、ほんの数十年前までは一般家庭に存在しない代物だった。井戸や川から水を運んできて、それを瓶に溜めて、少しずつ使っていた。リプレはいつも水を貴重なものと認識した上で、大事に使っていたではないか。
「そう……だよな」
 ため息混じりの声をこぼし、ハヤトは濡れた顔を上げて蛇口をきつく閉めた。
 資源は無限ではない。自分たちがいかにどれほどの犠牲の上に今の生活を築き上げたのかを、きちんと知っておかなければいけないのだ。でなければいつか取り返しのつかない事態が引き起こされる。
 それは無論、ハヤトが体験したような「魔王召喚による世界の再構築」なんていう、夢物語にしか聞こえない非現実的なことではなくて。
 もっと深刻でひとりの人間の力だけではとても対抗しきれないほどの、大きすぎる脅威なのだろう。言ってしまうなら地球規模の……いや、それはもう始まってしまったことだ。
 ずっと昔から、叫ばれてきたはずだ。このままではいつか地球は駄目になってしまうと。それなのに、今生きている人々の大半が、自分たちの今がどんな犠牲の上に成立しているのかを知らない。知ろうともしない。今が良ければそれでいい、自分たちさけ良ければ……そうやって問題解決を先延ばしにして、どんどん事態は深刻になって行く。
「戻れないのかな……」
 過ぎてしまった時間を戻すことは出来ない。どう足掻いても、祈っても。
 時間だけが人々に均等に与えられている。遅くも、早くもならず、無慈悲に時間は過ぎて行くばかりで。
「戻れたらいいのにな」
 あの頃に。
 俯いたハヤトの頬から。
 ぽたり、と。
 水道から流れ出たのとは重みの違う水滴が数粒、シンクを伝って消えていった。

 学校へ続く坂道を上りながら、ハヤトは空を見上げた。
 そこには、かつてなら澄み渡る青空となんの疑問も持たずに思っていた空間がある。だが、違う。違った。
 これは青空などではない。人の目には映らないだけで、空はスモッグに覆われて黒く濁っており、下界に有害な紫外線もたくさん降り注いでいる。恵みをもたらす太陽光も、一歩違えば、人を殺す兵器にもなりうるのだ。
 息苦しい。
 気持ちが悪い。
 アスファルトに照り返す陽光はさほどきついものではないはずなのに、ハヤトの額には脂汗が浮かんでいる。急な斜面でもないのに、息が乱れている。心臓の鼓動がやたらと耳に痛い。
「吐きそう……」
 まだ坂道は半分程度残っており、視線を落としてアスファルトを見つめた後彼は思い切って前方を見やった。
 まだ朝も早い時間帯で、通行人の影はまばらだ。ペンキの剥げかかったガードレールに片手を預け、がっくりとその場に膝をついたハヤトは肩で息をしながら、高校の正門までの距離を思い出していた。
 おおよそでしかないが、恐らく、あと300メートルはあるだろう。そこから更に、部室まで行って着替え、体育館の鍵を取りに警備員室へ一度出向かなければいけない。そのあと、バスケ部の朝練が始まりチャイムと同時に一限目の授業が開始される。
 今日一日のスケジュールをざっと並び立てて、ハヤトは吐き気以上にめまいを覚えた。ふらふらする。
「熱……あるのかどうかもわかんねぇ……」
 自分の手で額に触れてみたものの、自分では平熱かそれ以上かを計ることが出来ないことを思い出して止める。ただこの立ち眩みか貧血か、とにかく体調不良は尋常ではないことだけは、朧気な意識の中でも判断できる。
「保健室、開いて……ないよなぁ……」
 ここまで来てしまった以上、学校に行く方が家に帰るよりもずっと近い。
 腕にはめたデジタルウォッチを見る。秒ごとに点滅を繰り返す液晶には、午前七時半ばを指し示している。朝練開始まで、あと十数分だ。今だったら、部室に気の早い後輩がひとりくらい来ているかもしれない。そうしたら、そいつに頼んで鍵を取ってきてもらって、自分は部室で休んでいればいい。
 しばらくじっとしていたら、きっと体調も戻るはずだ。それでも駄目だったら、保健室に駆け込めばいい。あと一時間の辛抱だ。
「寝不足かな……」
 体力には自信もあるし、そんなに疲れが溜まっているという自覚もない。なのにこの、気分の悪さ。こみ上げる吐き気を懸命に堪え、ハヤトは両膝を叱咤して立ち上がるとおぼつかない足取りで歩き出した。
 ほんの、そう、ほんの数百メートルの距離が果てしなく遠くに感じる。瓶の歩みにも似たのろのろペースで坂道を上りきり、鉄門が閉じられたままの正門にようやくたどり着いたときにはもう、朝練開始まであと二分しか残っていなかった。
「つ、疲れた……」
 鍵のかかっていない通用門の方を通り、ハヤトはグラウンドの脇を進む。体育館の裏手に回ると、バスケ部の仲間が数人、クラブ室の前でたむろしていた。
「先輩、どうしたんですか!?」
「顔、真っ青ですよ」
 ハヤトの姿を認め、彼らは一斉に声を荒立てた。耳障りにしか聞こえない、けれどハヤトのことを心配してくれての言葉の群れに、彼は力無く微笑んで片手を上げた。
「いや、途中で、さ……」
 気分が悪くなったけど、近くに電話もないし学校に来る方が早かったから、と手短に説明して彼は後輩をかき分けて部室に入った。
 ロッカーが並ぶ狭い部室の真ん中に置かれた数人掛けの椅子に腰を落ち着け、重いため息を吐き出す。全身から一気に力が抜けて、うなだれているようにしか見えないだろう。
「大丈夫ですか? 新堂先輩」
「悪い……あんまり大丈夫じゃない……」
 近づいてきた後輩にそれだけを言うと、ハヤトは汗で額に張り付いていた前髪を掻き上げた。
「熱、あるんじゃないのか?」
 同学年のチームメイトが、騒ぎを聞きつけて戻ってきてくれた。
「元気だけが取り柄みたいなお前が、珍しい。こういうのを、鬼の霍乱て言うのかな」
「からかうなよ」
 まだ部室に残っていた後輩達を体育館の方へ向かわせ、先にランニングとストレッチを済ませてくるように指示を出したのは、バスケ部の副キャプテンを務めている男だった。
「先生には俺から言っておいてやるから、お前はしばらくここでじっとしてろ。あとちょっとしたら、保健の先生もくるだろうから、さ。無理すんな、やすんどけ」
「そうする……」
 もはや顔を上げる気力もなく、頭を抱え込んでいたハヤトは息を吐き出すついでに答えてパイプ椅子の上に横になった。副キャプテンの彼は見かねて、椅子の上に乱雑に積まれていた雑誌やユニフォームを片付けてくれた。
「サンキュ」
「そう思うなら、さっさとその体調不良をどうにかしてくれ。家、帰るか?」
「やめとく。母さん、仕事で家今誰もいないから……」
「そっか。じゃ、俺行くけど、本当にひとりで大丈夫か?」
 なおも心配そうに声をかけてきてくれる彼にひらひらと手を振って行かせ、ハヤトは瞼を閉じた。ゆっくりと意識が沈んでいく。
 奇妙な胸騒ぎと、ホッとするような雰囲気と、安らげる空気と息が詰まりそうなくらいの重苦しい感覚とが入り交じる。
 何故、どうして今自分はここにいるのだろう。
 何故、自分は帰ってくることを選んだのだろう。
 何故、帰ってきてしまったのだろう。
 何故、しないと誓ったはずの後悔がこんなにも胸を押しつぶそうとしているのだろう。
 何故……答は出ない。
「帰りたい……」
 誰もいなくなった部室、汗くささの残るハヤトの城だった場所。でも、違う。もうここは彼の居場所にはならない。
 嫌いじゃない、好きだった。この空間は誰にも譲れない自分と仲間が共有できる限りない小さな世界だった。それは多分、今も変わらない気持ちの上にある。だけど今のハヤトには、ここ以上に大事で、大好きな場所が出来てしまった。
 なれ合いだけじゃない、本当の意味で己を共有できる空間を、一度手に入れてしまったから。
 確かにこの世界は居心地も良く、住みやすい世界ではあるかもしれないが。
 それだけ、なのだ。住み易いという以上の利点を、ハヤトはどうしてもここで見出すことが出来なかった。
 いつしか浅い眠りに入っていたハヤトは、薄暗い夢の中で今となっては懐かしい限りの友人達の姿を見た。

 チャイムが鳴る。あわただしく廊下を走る生徒の波にもまれながら、ハヤトも自分の教室へ向かっていた。
「平気か? 保健室で休んでいてもいいんだぞ?」
「熱もないのに行っても、門前払いを食うだけだって」
「だけどさー」
 傍らには、クラスが同じバスケ部員が付き合ってくれている。朝練が終わったときにはハヤトはまだ眠っていて、揺すり起こされた彼はまだ幾分顔色が悪かったが少しは気分がマシになったらしく、保健室へ行くことを頑なに拒んだ。
 どうしてだか、ハヤトは今日は教室へ行き、授業を受けなければならないような気がしていた。
 虫の知らせ、とでもいうのだろうか。それが良い方に傾くか悪い方に転がろうとしているのかはまだ分からないけれど、とにかく胸の奥で何かが、教室へ行くことを彼に強要している。
「まだ顔色、良くないぜ?」
「平気だってば。吐き気もおさまったし、熱だってないんだから」
 階段を登り、教室の扉を開く。ちょうど前の扉からはホームルーム担任が入ってくるところで、入口付近で友人と離れハヤトは教室中央にある自分の席に向かった。鞄を机の横にあるフックに引っかけ、椅子に座る。
 吐き気は、ない。だがかわりに頭痛がした。
「知恵熱……は違うよな」
 熱はないのだから、と呟いて一限目の教科書と筆記用具を鞄と机の引き出しから取り出す。ざわめきの残る教室は空気も籠もっていて、窓の閉じられた空間はあまり過ごしやすい空間とは言えなかった。
「気分を切り替えろ……」
 深呼吸を繰り返し、必死に頭痛を押しとどめようとするが上手く行かない。そうこうしているうちに授業は開始された。
 教科担当が黒板にチョークでいくつかの数式を書き込み、教壇に手を置いて説明を口にしている。だがハヤトの耳にはそういった音は一切入って来ず、モノクロの景色が朧に歪んだ視界に流れ込んで来るばかりだ。ノートを広げたものの、シャープペンシルを握る力も出ない。
 時計のデジタルを見るだけでも気分が悪くなるので、時間の経過も分からない。
 やがて教室にざわめきが戻って、ハヤトはそれでようやく、一限目が無事に終了したことを知る。
「新堂、大丈夫か?」
「保健室、行った方が良くない?」
 クラスの男子も女子も、ハヤトの様子がおかしいことに気付いて声をかけてきてくれた。だがそれらに曖昧な返事を繰り返すだけで、彼はやはり椅子から立ち上がる気配はなかった。
「ほら、綾も何か言ってあげたら?」
「でも、新堂君が自分で大丈夫だって言ってるわけだし……」
「アレが大丈夫な姿に見えるわけ?」
 クラスメイトの女子がなにやら騒いでいる。ぼうっとする頭で考えながら、しかしそちらに視線を巡らすのも億劫でハヤトは机についた肘で頭を押さえた。
「頼む、少し静かに……」
 くぐもった声で呟こうとした瞬間、二限目の始業を知らせるチャイムがけたたましく鳴り響く。クラスメイトはわらわらと自分の席に戻り、ハヤトもようやく解放されたことに安堵の息をつく。
「新堂、どうした。顔色が悪いぞ」
 教壇に立った教諭も、視線の先にあるハヤトのうずくまる姿に気付き声をかけてくる。
「いえ、平気です」
 これにはさすがに顔を上げない訳にも行かず、なるべく繕った笑顔でハヤトは答えた。
「そうか。ならいいが……我慢できなかったら無理せずに、保健室に行くんだぞ」
「はい」
 素直に頷き返し、ハヤトは教科書を広げる。
 その時、ふっと鼻についた外気の匂い。澱んできた空気が流れ出した気配に、反射的に顔を風上に向けていた。
 それまで閉められていた窓がひとつだけ、遠慮がちに開けられていた。カーテンが揺れ動く、その窓の横に座っている少女の姿に、ハヤトは心の中で感謝の言葉を告げた。
 ――ありがとう、樋口。
 生徒会に籍を置く彼女の、言葉でない優しさは正直に嬉しいと思う。ほんの少しだけ軽くなった気分で、気を取り直しハヤトはシャープペンシルを握った。
 それから後は、緩やかに巡る新鮮な空気のおかげもあって気分の悪化はなく、むしろ快調に向かっていた。顔色も良くなり、汗も引いた。ノートを取る余裕も生まれ、無事に午前の授業がすべて終わろうとしていた。
 だが、ふと気になった。
 どこからか流れてきている、花の香り。
「……?」
 教室内には花瓶なんていう気に利いたものはなく、花が飾られていることもない。グラウンドの木々も桜の季節はとうの昔に過ぎて(それ以前に、桜はあまり香らない)いるし、他に目立って豊かな芳香を放つ植木もなかったはずだ。
 それなのに、確かに芳るこの、懐かしい花の匂いは。
 フラッシュバックする、リィンバウムでの日々。そうだ、これは確かに、あの世界のアルク川沿いに咲き誇っていたアルサックの花の香り。
 ――俺、夢でも見ているのか……?
 教室で教鞭を執る先生の声も遠くなる。香り付きの夢とはまた珍しい……なんていう感情はなく、ハヤトは瞬きを繰り返した後、髪を掻き上げた。
「なわけないのに……」
 だが、次々と浮かんでくる仲間達の顔が消えてくれない。目を閉じればはっきりと見える、苦楽を共にした友の姿。不意にこみ上げてきた涙をこらえ、ハヤトは息をつく。
「俺、頑張ってるか……?」
 みんなに誇れるくらいに、頑張っているかな?
 でも、時々挫けそうになるよ。まだ、頑張りが足りないのかな。まだ、頑張れるかな?
「会いたい……」
 突然だった別れの時に交わした約束を、思い出す。
 いつかまた会えると、きっと会えるからと。守れるかどうかも分からない約束を、思い出す。
「会いたいよ……」
 いつから、自分はこんなに弱くなったのだろう。君がいないだけで、俺はこんなにも弱い。泣き出してしまいそうだ。
 ――会いたい。君に、……君に会いたい!
 アルサックの花の芳香が強くなる。空気が奇妙な感じにねじれようとしていた。
 授業の終了と昼休み開始を知らせるチャイムが鳴り響こうとしている。時計の針が、その時間を指し示す。
 ハヤトは顔を上げた。

 そして、運命の時が訪れる――――

幾何学模様の恋愛事情

 好きだよ、と。
 囁くようにその柔らかな髪の毛に隠されている耳元で、低く呟いて。
 けれど返事は、なくて。
「……え?」
 問い返すような、そんな眼差し。
 それから。
「悪りぃ。聞こえなかったから、も一回言ってくんねぇ?」
 周囲に、自分たちを遠巻きながらも取り囲んでいるように進んでいる人たちにも聞こえるような声で、言葉を紡いで。
 なんて。
「…………」
 その瞬間、はぐらかされて、同時に逃げられたのだと悟った。
「司馬?」
 丸い目を丸くしたまま、けれど悪びれながら表面上は笑っている彼のその笑顔が作り物の仮面にすり替えられた事を、そう望まなかったのに気付いてしまったから。
 それ以上何も言うことが出来ず、唇を浅く噛んで吐き出しかかっていた言葉をうち消す。ひとり、タタっ、と駆け足で走り寄ってきた身の丈の小さな子が猿野の背中にタックルもどきに突撃を仕掛けて抱きついた。
 思いの外細いその腰に両手を回し、臍の前でがっちりと両の手を結び合わせる。そうすれば簡単には手は解けてくれず、猿野を拘束する事に成功した彼はべぇ、と猿野には見えないようにこちらに向けて舌を出した。
「なにしやがんだ、このスバガキ!」
「だって、お猿の兄ちゃんってば遅いんだもん! 早く行かないと、定食売り切れちゃうよ!?」
 腰を半分後ろに捻って抱きついてきた存在の正体を見定め、拳を片手分振り上げた猿野の怒鳴り声にも怯まず、兎丸はカラカラと笑いながら言い放つ。言われて、猿野もこれから皆で向かおうとしている先を思い出して振り上げた拳を停止させた。
 そう、今は生存競争の激しい食堂の手前であり。
 タイミング良く十二支高校野球部一年メンバーが多少面子を欠いていながらも、ほぼ全員に近い数顔を合わせてしまっていた。だったら、どうせだから一緒に食べよう、と簡単に話はまとまり、一旦止まった足を進めようとしていた先の出来事が、今。
 唐突に呟いたのは、別に理由があったわけではない。
 そして、あの呟きを彼の耳元で告げたのも、これが初めてではない。
 だけれど、その度に彼ははぐらかし、逃げて、誤魔化してしまう。彼の反応に目新しさは感じられず、だからこそ不安に駆られて彼がひとりで居る時を見つけては、囁きを繰り返しているのに。
 一向に、なにかが変わる気配は見られず。
 冗談だと思われている?
 あまりに変化のない猿野の態度に、心焦らずに居るというのは無理な話。とは言え、表情を表に出す事も殆どなく、ポーカーフェイスを崩すことも滅多になくなってしまっている自分の鉄面皮はそんな心内を露呈する事を防いでくれていた。
 こんな時にだけ、自分がこうなってしまっている事を救いだと感じてしまいさえする。
 好きだよ。
 もう一度、風にさえ掻き消されてしまいそうな弱い声で呟く。
 既に兎丸達と歩き出してしまっていた君の背中に向けて。けれど人混みの中で、猿野を取り巻く面々が矢継ぎ早に言葉を紡ぎ続けている中で、その呟きは本当に自分のイヤホンで閉ざされた耳にも届けられぬ程であったのに。
 当然、君は振り返ることもなく気付きもせず、食堂に続く扉を潜り抜けて行ってしまうはず、だったろうに。
 つと。
 踵を踏みつぶした上履きを突っ掛けのように履いているだけの君が、足を止めた。
「司馬」
 ポケットに両手を突っ込んだまま、残り少ない空席を確保しようと急ぐ人混みの中で君は振り返る。
 先を行った子津の、彼を呼ぶ声が雑談にまみれて喧噪甚だしい空間に響き渡った。しかしそれにも増して、この不器用な身体に染みこむように流れてくる声、が。
「早く来い、席が無くなる」
 にっ、と口端を持ち上げて笑いながら。
 ひとこと、言い残して猿野は踵を返し食堂内に消えていった。三歩遅れて、慌てたように人の波がもの凄い事になってしまっている狭い食堂に駆け込む。
 視界を巡らし、サングラスで狭められてしまっている視野で懸命に君の姿を探した。
 君は、食堂の割と端に奥まった位置に置かれている長机の端近くに腰を下ろしていた。その右隣には兎丸が居場所を定め、向かい側の席には犬飼が座り、犬飼の右隣には辰羅川が座っている。
 そして。
 猿野は遅れて入ってきたこの姿を見つけて軽く右手を振り、左手で。
 自分の、空いている左隣の椅子を笑いながら軽く叩いてみせた。

「なぁ」
 まだ昼休み。
 けれどそれぞれ食事を終えて、各自の教室へ戻ろうとしているその途中。階段を登って踊り場に差し掛かったところで、猿野が呟く。
 ちょっと良いか? と腕を引かれた。
 他の面々に視線を流す。彼らは今日の放課後、クラブの練習でどんな事をやらされるのかその談義に熱中しているようで、最後尾を歩いていたこちらの様子に気付いている気配はなかった。
 ひっそりと、猿野が更に言葉を添える。
「良いか?」
 上目遣いの視線を向けられ、断る理由も思い当たらず即座に頷いて返した。次の時間、授業は英語であり教室を移動する必要もない。体育のように、服を着替えなければならない事もない。
 猿野は少しだけ、自分から誘っておきながら躊躇する仕草を見せて視線を泳がせ、それからこの左腕を握っている手に少しだけ力を込める。促され、今昇ってきたばかりの階段を下り始めた。
 何処へ行くのか、先を歩く猿野はこちらに背中とうなじばかりを見せるだけで一向に言葉を重ねてこない。いつもの陽気で脳天気な彼らしさを欠いた様子に、少しだけ首を捻る。
 それから、いつもの彼が見せている姿が、本来彼自身が彼の中に持ち合わせている彼という姿ではない事を、思い出す。
 徐々に周辺から人気が減り、休憩時間でも滅多に人が訪れる事のない一角に連れて行かれる。特別教室が並ぶ建物の、その外側に位置づけられた非常階段だ。さすがに時間が足りなくて空に近い最上階にまで行くことはなかったけれど、非常時用と定義付けられているとだけあって、平常時は殆ど人もやってこない。
「あのさ、司馬」
 鍵のかかっていない、けれど扉はきっちりと閉められていたそれを再度、きっちりと閉め直してから猿野が改まって振り返る。名前を呼ぶ、見上げてくる。
 なに? という感じで首を傾げてみせれば、猿野はまた困ったように眉間に薄く皺を寄せ、口元に右手の折り曲げた人差し指を押し当てた。頭の中で言いたいことを推敲しているようで、眉間に刻まれた皺が徐々に深くなっていくのが見ていて分かった。
 それほどに言いづらいこととは、なんだろう。
 思い当たる事は、早々には見当たらず。
 暫く置いて、色々と有りすぎるような気がして来て内心焦りが生じ。
 けれどそこからまた間を置いて、焦りが不安に陥りながらも気にしているそのどれもがとても些細すぎる事に思えて、また分からなくなる。
 何か困らせる事をしただろうか。
 過去の記憶を手繰り寄せ、紐解きながら必死になって考える。気がつけば自分の方が猿野よりも厳しい表情をしていたらしく、先に我に返った猿野がぽかんとした顔をしてこちらを見ていた。
「なにやってんだ、お前」
 言う前から悩んでんじゃねーっての、とカラカラと自分の風体を笑い飛ばして猿野はよしっ、と鼻息を荒くひとつ吐き出した。腰に手を置き、胸を心持ち反り返らせる。
「オレ、お前のこと多分好きじゃねぇから」
「…………」
 うん、と。
 何故か反射的に頷いてしまった。
 それは実質的に、自分の感情を彼が受け止めることを拒否したのだと、その滝壺に突き落とされるような宣告であるに関わらず。そして実際、自分としてもかなりショックだったはずなのに。
 やはり鉄面皮が崩れることはなく、ただ少しだけ、自嘲気味な笑みを口元に浮かべるだけに収まってしまった自分に、猿野以上に驚いてしまった。
「…………司馬?」
 あまりのショックで惚けてしまったのかと思ったらしい猿野が、手の平を目の前でひらひらしてみせる。違うよ、と首を振ってから、それでもショックだったことを伝える為に軽く握った拳で、自分のこめかみから少し上の位置を叩いて見せた。
 ガツンと、此処を殴られたような気分。
 そう表現する動きに、猿野は理解を見せて「ああ」と小さく零す。そして、ゴメン、とも。
 俯いてしまった彼の後頭部を見下ろし、そっと手を伸ばした。触れる直前、猿野は顔を上げてこちらを見返す。申し訳なさそうな、哀しそうな顔をして、逆にこっちの胸が締め付けられる気分に陥った。
 けれど伸ばした手を引き留める事は出来ず、そのまま彼の柔らかな頬に触れる。軽くさすってみるが、その表面はちゃんと乾いていた。
「なんで……って、顔してんな」
 表情を変えたつもりはない。けれど伝わってしまった心の内にあった疑問を先に口にした彼に、一瞬だけ逡巡した後頷く。猿野は未だ振れ続けるこの手に己の手を重ね、頬との間に挟み込んだ。
 触れてくる熱が、痛いくらいに優しい。
「だって……さ。好きな相手に普通こういう事されたら、ドキドキするだろ?」
 触られて。目の前に立って会話をするというただそれだけの事にさえ、ガラにもなく緊張して、思っていることとはまるで違っている事を口にしてみたり、わざと注意を引きたくて意地悪をしてみたり。関わりを持ちたくて色々と調べてみたり、趣味を合わせてみたり、肩を並べても可笑しくないように頑張ってみたり。
 そういう感情を持つことが、「好き」なのだとしたら。
「オレ、さ」
 猿野の手に少しだけ力が込められる。頬から引き剥がされ、そして両手で握りしめられた。祈るように少しだけ角度を前に倒している、彼の額の前へと導かれる。
「お前に、ドキドキしねぇんだわ」
 すっぱり、きっぱりと彼は断言してそして手を放した。支えられていた力を失った腕が、ぱたりと脇へ落ちて沈んでいく。ブラブラと前後に数回揺れたあとはもう、ぴくりとも動かなくなった。
 どきどき、しない。
 確かに致命的かもしれないと、思った。
 だけれど、言葉を返してしまえば。
 実のところ、自分だって猿野に触れている時はあまり胸の鼓動が高鳴ったりしない。むしろその逆に近くて。
 連休での合宿の最中、上級生との試合にランナーを生還させねばならないという重責を背負わされてしまい、普段以上に緊張してしまったあの時に、握られた手は温かかった。
 その時に覚えた感情は、高鳴りなどではなかった。
 高鳴りを沈めてくれる、安らぎに似た感情だった。
「猿野……」
「ん」
 囁き声を落とす。そのまま、半歩も無かったふたりの距離を一息の間で詰めた。
 抱きしめる、両の腕で猿野を囲い込み、胸の中に彼を沈めた。彼の肩口に額を置き、彼が全身から放つ熱さえも閉じ込めてしまう。
 ああ、やはり。
 胸の拍動は穏やかなままで、なんの変化も顕さない。正反対に、先に叩きつけられた衝撃を和らげてくれる優しい波動が伝わってくる。
「司馬……?」
「好きだよ、猿野の事」
「けど、オレ」
「猿野は、今、どんな感じ?」
 この腕に抱きしめられて。好きでもない、ましてや同性である自分に抱きしめられている事を嫌悪するのだろうか、君は。
 それとも。
「え? オレ? オレ……は、ええと、ちょっと待ってくれるか?」
 頷くと、彼の肩に埋めていた額が前後して彼の上着に擦りつけられる。額に感じた微かな熱に、薄く口を開いて笑った自分に彼は、恐らく気付いていない。
 困った調子で、顔を伏せている為に見えないものの、楽に想像できる猿野が微かに腕の中で身体を揺らした。左右に持っている腕を持ち上げ、試しに、とばかりにこの浅ましい身体を同じように抱きしめた。
 背に回された腕が、辿々しく隆起している脊髄の上で結ばれる。
「なんてーか……なんて言えばいいんだろ」
 言葉を探し、猿野は視線を彷徨わせる。ほっと、最後に吐き出した息が迫り来る夏に向け、気温を上昇させ続けるばかりの空へと消えていった。
 随分と長い時間を必要とさせ、猿野が最後に、結んでいた手を解く一瞬に呟いた。
「……ホッとする」
 ただ、それだけを呟いて。
 猿野は解いてしまった腕を今度は腰の、低い位置(恐らくその方が体勢として楽なのだろう)で結び直した。
 今度はこちらが、彼に拘束されてしまう。情けなくも、動けなかった。
「猿野」
 低く、彼の耳元で囁いた。
 ぴくん、と彼の背が少しだけ跳ねる。耳朶に降りかかった息がくすぐったかったのだろうか、居心地悪げに肩を揺らした。
 顔を上げる。ずっと彼の肩口に埋めていた所為で若干熱と痛みを抱えてしまった額は、多分赤くなってしまっている事だろう。けれど気に病まず、先程よりも更に彼の耳へと口を近づけた。
 囁く、どこまでも低く。
「好き」
 しつこく、何度も繰り返して告げ続けてきた言葉を、飾らずに君へ。
「あ、やべ」
 刹那、猿野は自分でも驚いたらしい声で小さく、叫んだ。ぱっと結んでいた手を解き、慌てたように片手で開きっぱなしの己の口を塞ぐ。
 どうしたのだろ、と彼との間に僅かな距離を作って見下ろすと。
 俯き加減の顔をして、けれど目だけ上目遣いにこちらを見つめて。
 ぽそっ、と。
「今、ドキってした」
 余程不覚だったらしく、自分でも不本意だと言わんばかりの調子ながらも隠しておけばばれる事もなかったはずなのに、自分から弱みになるだけの事を告げて来て。
 そのあまりの正直さに苦笑を禁じ得ずつい笑ってしまった自分を、猿野はまだ恨めしげに睨みつけてくる。
 少なくとも、望みが完全に絶たれたわけではないらしい。
「こら司馬! なに笑ってやがる」
「猿野」
「うん?」
「好き」
「だーかーらー!」
 堂々巡りの会話がけたたましく鳴り響く予鈴の音で掻き消される。
「やべっ! オレ次数学!」
 あの教師は本鈴よりも早く教室に入ってきて、点呼を取ることで学内でもかなり嫌われている。その教師が担当の授業が、よりにもよって次に予定されていることを思い出し、猿野はひとり慌て始めた。その場で駆け足をしながら意味もなくぐるぐると回転し出した彼に、どうしようもなく笑いたい気分を抑えながら、急がないと遅刻になるよ、と背中を軽く押してやる。
 それを合図に、猿野は一気にダッシュを始めた。一度本校舎に戻るよりも、この非常階段を登って渡り廊下で教室棟に戻った方が早いと判断したのだろう、階段を駆け上っていく。その勢いは凄まじく、瞬く間に自分は置いて行かれてしまった。
 次の英語、担当教員は本鈴が鳴ってから職員室を出るのんびり屋なので、猿野の走り去っていった場所をあとからゆっくり、昇って行く事にする。
 ポケットの中に手を突っ込み、薄く石の階段に積もった埃を踏みつぶしながら。
 自然と緩んだ口元を引き締めることも忘れて、食堂に行く手前から切っていたMDの電源を入れた。
 小気味の良いリズムが耳へと流れ込んでくる。
「好きだよ」
 身体でリズムを刻みながら、その言葉を向けるべき相手を目の前に持たぬままに、再度呟く。
 そして。
 意外にも初めて、その言葉を呟いた自分に照れてしまっている自分に気付き、赤面した。

02年4月14日脱稿

日溜まりに君が居る

 空は、晴れていた。
 見渡す限り、雲ひとつない。寝ころんだままぼんやりと、澄み渡る青空だけを見つめていると不意に欠伸がこみ上げてくる。
 我慢することなく、マグナは大きな欠伸をこぼした。
「ふぁ~あぁ……」
 ねむ、と目尻を擦って自然に浮いてきた涙を拭い、彼はもう一度小さな欠伸を漏らした。それから、重くなってきている瞼を逆らうことなく閉ざす。
 一気に視界は闇に包まれるが、薄い瞼一枚を隔てた先にある景色は変わることなく、青く輝いている。時折遠くで鳥の鳴き声が聞こえる以外は静かなことこの上なく、風の声も頭上遙かを通り過ぎて行くばかりだ。
 最初は抵抗のあった青草の上に何も敷かずに寝転がる行為も、慣れてしまえばなんという事もなく受け入れられてしまう。背中越しに伝わってくる大地の暖かさと草の匂いが心地よくて、それが尚更彼の眠気を促進していた。
 ポカポカと太陽光は暖かく、熱すぎることも寒すぎる事もなかった。まさに昼寝日和この上ない気候は申し分なく、今昼寝をしないでいつするのか、という気持ちさえ彼に抱かせてしまう。
 状況は緊迫感を増し、一刻一秒たりとも気を抜けない事態がそこまで迫っている事を忘れたわけではない。
 今は戦時下なのだ、例え多くの人々がその事実を知らされていないとしても。デグレアの侵攻は止まることを知らないし、いずれ真実を知った民衆が慌てふためき街はパニックに陥るだろう。
 それでなくとも、近年は平和を謳歌してきただけに、戦争などという記憶は民衆の間から遠くなってしまっている。何処へ逃げればいい、どうすればいい、それが分からない。
 事実マグナだって、どれだけ耳にタコができるくらいまで口を酸っぱくして状況を説明されても、その全てに得心し理解できているわけではない。まだ心の何処かで、戦争とは自分にとって無関係の、遠い世界の出来事と思っているからかもしれない。
 だからこんな風に、真っ昼間の草原で、何時誰かに襲われるかも分からないというのに暢気に武器を置いて寝転がり、腕を枕にして眠りこける事が出来るのだ。
 仲間達は捜しているのだろうか、自分を。
 うつらうつらと夢うつつの意識の中で、朧気にマグナは考えてみる。
 自分が此処にいることは誰にも告げていない。気紛れな召喚獣はなにやらパッフェルとふたりで密談を交わして何処かに出かけてしまっていたし、フォルテとリューグは各々の鍛錬に勤しんでいる。アメルやケイナ達女性陣は道場の掃除と食事の準備や洗濯と、家事に忙しく働いていた。ネスティは、……そういえば朝から見かけなかった。
 もう一度欠伸をし、薄く開いた視界を閉ざす。瞳の奧に残った光の欠片がチカチカと瞼の裏側で明滅し、マグナはごろんと寝返りを打つと身体の右辺を下にして顔を俯かせるようにしてそれを消し去ろうとした。
 けれど一度気にしてしまった事は、なかなか記憶の中から落ちてくれない。
 分かっている、本当はこんなところで逃げていてはいけないのだと。こんな自分にだってやるべき事、やらねばならないことがある。出来ることがあるから、抗って藻掻いている。
 逃げるために派閥の指令を受けたのではない、逃げないために受け入れたのだから。
 それでも時々挫けそうになったり、諦めてしまいそうになる。許されるのであれば逃げ出してしまいたい時だって。
 マグナは思い右腕を持ち上げ、瞼の上に翳した。日差しを遮り、仰向けに寝転がり直して空を見る。指の間から覗く光景はやはり一点の曇りも見当たらない、澄み渡った青空だった。
 そのまま持ち上げていた腕を脇に流して広げ、地面に倒す。反対側の腕も同様にして広げ、大の字になってマグナはぼんやりと視界を埋め尽くす碧を見つめた。
 風が吹き、ざわざわと背丈の低い草が揺らめく。耳朶を擽る細かい草葉がくすぐったくて身を捻ると、体を動かした先に居たらしい虫が驚いたように薄い羽を広げ、飛び去っていった。
「あ……」
 指を伸ばしてその軌跡を追いかける、けれど届かなくて結局彼の手は空を切った。空しさがどこか心の片隅に広がる中で、マグナは行き場を失った手をぎゅっと強く握りしめる。
爪痕が手の平に刻み込まれる程に。
 しばらく逡巡した末、彼は両腕を持ち上げてそれを手首の位置で交差させるように重ねると、額に置いた。腕で視界が隠れる、鼻先の向こう側に僅かに緑と青のコントラストが見えるだけになる。
 風がまた吹く、煽られて倒れそうになりながら棚引く草花と違って、彼が居る場所だけがなにひとつとして動こうとしなかった。
 否、動けないのか。
 マグナは重い息を吐き出した、深く、長く呼吸が苦しくなる手前で止め、浅く吸った息をまた吐き出す。それを繰り返すうちに、不意に理由もなく泣きたくなった。だけれどそれを素直に認めてしまうことも出来なくて、喉の奥で詰まった息が出ることも戻ることも出来ないまま彼は何度も首を振った。その度に下敷きにしている草がカサカサと擦られて乾いた音を立てる。
 その音が突然、不協和音を奏でて響いた。
 予告もなく、影が落ちてくる。首が怠くなって動くのを止めたマグナは、しかし影を確かめようともせず懸命に涙を堪えようと不安定でちぐはぐな呼吸を繰り返している。
「こんな場所に居たのか」
 故に、聞き慣れた呆れ声が頭の上から落ちてきた瞬間、彼は吐き出そうとしていた息を呑み込んでしまうほどに驚いた。そして顔の上にあった腕を左右に振り払って自分から閉ざしていた視界を取り戻す。
「ぁ……」
「…………」
 茫然と見上げてくるマグナの目が潤んでいることに気付き、彼に影を落としている存在は明らかに怪訝な表情を作った。眉間に皺が刻まれ、目が細められる。
 その手前でマグナが慌てて身を起こし、誤魔化すようにわざとらしい欠伸を二、三度繰り返して目尻を指でなぞった。それから作り笑いを無理矢理に浮かべ、どうかしたのかと自分から問いかける。
「どうしたもこうしたも……」
 眼鏡をただしたネスティが困ったように腕を胸の前で組む。何かを言いかけたが告げる寸前で口を閉ざし、数秒考え込む素振りを見せた。その間マグナはずっと黙ってこの兄弟子を見上げつつ、心の中にある動揺を必死になって抑え込もうとしていた。
 みっともないところだけは見せなく無い、こんな風に弱い自分を人前にさらけ出すのは避けたかった。虚勢であっても、誰もが自分自身の事に手一杯な世の中である、余計な危惧を与えたくなかったから。
 やがて諦めたような溜息がネスティの口からこぼれ落ち、マグナが見守る前で彼は組んでいた腕を解いた。そして徐に左腕を伸ばし、癖毛な上に今は寝癖まで変についてしまっている弟弟子の頭を撫でた。
「え……」
 呆気に取られるマグナだったが、ネスティは特になにも言わない。数回彼の頭を撫で回したあと、始まりの時と同様に彼は断りも入れず手を離した。その白く細い指先に、緑色が鮮やかな草が数枚握られている。
「何時から寝転がっていたんだか」
 心底呆れた調子で告げ、ネスティはそれらを風に流す。マグナの髪に絡まっていたその千切れた草は少しだけ空を舞い、そして地上に落下して緑の中に埋もれて見えなくなった。
「なんで……」
「君のことだから、どうせこんな事だろうとは思っていたが」
 案の定サボっていたな、と緩やかな動きで腰に手を当てたネスティが呟く。その視線が「捜していた」と語っている、何故か目を合わせる事が出来なくてマグナは何も言い返さずに顔を逸らした。
 一際強い風が吹いた。前髪を煽られて左手で押さえつけたその向こうから、真っ白い大きな雲が流れてくる。
「一雨来そうだな」
 西の空を見やったネスティがひとり呟く。さっきまであれ程綺麗に晴れ渡っていたはずの空が、一陣の風に導かれた雲によって様相を一転させようとしていた。
「あ……」
 ぼんやりと、マグナは西の空を見つめる。
 ツィ……と、忘れていた涙がひとしずく、頬を伝って落ちた。
「…………」
 ネスティが黙ってそれを見守る。伸ばした左手で彼はまた、今度こそくしゃくしゃにマグナの髪を掻き回して撫でてやった。
「子供扱い、するなよ」
 むぅ、とマグナは拗ねたように頬を膨らませて文句を言う。けれど嫌がっていないようで、口で言ったもののネスティの手を振りほどこうとはしなかった。
「大丈夫だ」
 なに、が。
 なに、を。
 ネスティの語る言葉は決して多くない。大丈夫、それだけを彼はもう一度繰り返し呟いてマグナの頭を撫で続ける。
 入道雲は広がり、今や西の空全面を覆い尽くそうとしていた。間を置かず、この一帯も雷雨に巻き込まれるだろう。その前に帰らなければならない。ネスティは撫でやっていた手でぽんぽん、と軽くマグナを叩いて立ち上がるよう促した。
 素直に従い、マグナは二本足で立つと服に絡みついていた青草を払う。流れてくる風が湿り気を帯び、雨が近い事を伝えてくれる。
「帰るぞ」
 借宿ではあるが、今彼らが帰る事を許されているのはあの広い古ぼけた道場だけだ。
 ネスティに言われ、マグナは小さくひとつ頷く。そして風に煽られてふくらみ、目の前まで伸びてきたネスティのマントの端を掴んで彼は俯いた。
「どうした」
 引き留められる格好になったネスティが振り返る。マグナは顔を上げず、ただ彼のマントを握り込む。ややして、何度目かの溜息が聞こえた。それから優しく頬を撫でる手の平の暖かさ、が。
 伝わってきて、堪えきれない涙が溢れてくる。
「大丈夫だ」
 またネスティは言う。
 マグナはなにも言わず、頷いた。
「だいじょうぶだ」
 なに、が?
 なに、を?
 ネスティはそれ以上言わない、マグナもそれ以上を聞くことが出来ない。
 白い指がマグナの髪を柔らかく梳き流して行く、癖の強い毛先がその指先に絡まり、逃さない。
「大丈夫、だ」
 マグナは嗚咽を呑み込んでネスティの胸に顔を伏せた。
 遠雷が、鳴り響いた。