柳の芽食む 鶸の村鳥

「ふう……」
 湯上がりで火照った身体を持て余し、小夜左文字は小さく吐息を零した。
 首に掛けた手拭いで汗を拭い、内側からほかほかと湧き出てくる熱に頬を緩める。一日分の疲れが湯気と共に抜け出ていくようで、なんとも言えない心地良さだった。
「暑い」
 夏の盛りはとうに過ぎたが、風呂場はあの頃を思い出させるに充分だった。
 湯船に浸かるだけでなく、蒸し風呂でも時間を過ごした。たっぷり汗をかいて、垢を擦り落としたお陰で、身体はどこもかしこもつるつるの、ぴかぴかだった。
 一皮捲れて、新しい自分になった気がする。
 こんなことで黒い澱みから解放されるわけではないが、しばしの幸福感に胸を満たして、短刀の付喪神は上機嫌に足を動かした。
 ひたひたと廊下を進み、賑やかな座敷の前を通りかかる。
「おっ、なーんだ。小夜じゃん。どう。一杯やってく?」
 偶々目が合った次郎太刀に誘われたが、首を振って、彼はそのまま真っ直ぐ進路を取った。
 後ろからドッと笑い声が起こったが、自分が笑われたのではないはずだ。
 思わず首を竦めて振り返って、小夜左文字は小さく溜め息を零した。
 毎日、毎晩、飽きもせずによくやるものだ。
 朝になって、飲み過ぎから来る頭痛に悩まされると分かっているのに、少しも学ぼうとしない。
 座敷には日本号や、燭台切光忠の姿もあった。膝丸と髭切が輪に加わっていたのは珍しいが、だからといってあの騒々しさに混ざろうとは思わなかった。
「なにもなければ、良いけど」
 酔いに任せて気持ちを昂ぶらせ、本音を吐き出す刀もいる。
 それで喧嘩になっても、周りは誰も止めない。それどころか拍手喝さいを送って囃し立て、煽るのが常だった。
 そうやって大乱闘が発生し、障子や襖がボロボロになったことが、これまでに何度かあった。
 当事者である刀が二日酔いで役に立たないからと、なにも関係ない刀が片付けに駆り出されるのは、癪だ。
 最近は起きていない騒動を思い出して、小夜左文字は目を瞬いた。
 前方に意識を戻し、深く息を吸い込んだ。廊下を照らす置き行燈の油の匂いが薄れ、ひんやり冷たい空気が肺に流れ込んできた。
「はあ」
 深呼吸を数回繰り返し、内側から冷えていく感覚に口元を綻ばせる。
 ようやく辿り着いたのは、秋草に彩られる庭に面した一角だった。
 紅葉するにはまだ早く、庭の公孫樹も、桜の葉も、まだ色付いていなかった。代わりに野の草が精一杯背伸びをして、紫や、橙色の花を咲かせていた。
 白粉花は蕾を閉じて、静かに朝を待っていた。
 誰かが昼間、沢山摘んだのだろう。日中に見た時よりも、花の数は随分と減っていた。
 花弁を絞って染め物に使ったり、蜜を吸ったり、遊び方は色々あった。
 黄色や赤、白が混じり合う花々を思い浮かべながら相好を崩して、小夜左文字は指先にそうっと息を吹きかけた。
「そろそろ――」
 風呂で温もり過ぎたのをどうにかしたくて歩き回っていたが、冷えすぎるのもあまり良くない。
 止まらなかった汗も落ち着いてきたことだしと、自室に向かうべく、来た道を戻ろうとして。
「うん?」
 視界の隅に黒っぽい塊を見つけて、彼はくるりと一回転した。
 踵を返すつもりが、半回転したところで止まれなかった。何をやっているのかと自分に赤くなって、短刀の付喪神は眉を顰めた。
 明るいうちとは一味違う景色を前に、誰かが座り込んでいた。濡れ縁の端に腰かけて、背を丸めていた。
 眠っているのか、声を殺して泣いているのか、ここからでは分からない。
 短刀でなかったら、気付かずに見過ごしていた。それくらい分かり難い場所に座り込んでいる刀に眉目を顰めて、小夜左文字は手拭いの端を撫でた。
「篭手切……ですか?」
 このまま立ち去っても良かったが、見覚えある輪郭に、動けなかった。
 確証が持てなくて自信無さげに呟けば、それで初めて、短刀の存在に気付いたらしい。蹲っていた脇差がハッと肩を震わせて、慌てた様子で背筋を伸ばした。
「小夜、じゃないですか。どうしたんですか、こんなところで」
 吃驚した様子で聞かれたが、それはこちらの台詞だ。
 どうしてこんな明かりもない、滅多に誰もやってこない場所を選んで、座り込んでいたのか。
 見たところ、風呂上がりというわけでもなさそうだ。もう床の準備を整えても良い頃合いなのに、彼はまだ、いつもの洋装姿だった。
 上着を脱ぎ、肘の辺りまで袖を捲っていた。襟を緩め、喉元を晒し、出陣時とは違って楽な格好だった。
 複数の紙を束ねて一冊にしたものを左手に、右手には墨の補充が不要な硬筆を握りしめている。
 どうやら彼は、月明かりくらいしか頼るものがない中で、書き物をしていたらしかった。
「目が悪くなりますよ」
「大丈夫。充分、見えています」
 暗い場所で作業をすると、そうでない時よりも疲れる。
 顕現してまだ間がない彼だから、知らないのかもしれない。身を案じて教えてやれば、どう受け取ったのか、彼はあっけらかんと言い返した。
 眼鏡の奥の目を細めて笑い、文字で埋め尽くされた書面を見せてくれた。だが字が細かすぎて、小夜左文字の位置からでは読めなかった。
「部屋でやれば、良いのでは」
 見える、見えないの話ではなかったのだけれど、伝わらなかった。
 仕方なく言葉を換えて、彼の方に足を進めれば、思う所があったらしく、篭手切江は目を泳がせた。
 背筋を伸ばしたまま遠くを見て、明後日の方角に顔を向けたかと思えば、すぐ戻ってきた。
 濡れ縁から足を垂らす脇差の隣に膝を折って、小夜左文字は淡い月光を頼りに、紙面に焦点を定めた。
 ところがいざ読もうとした途端、篭手切江はサッ、と帳面を隠してしまった。
「?」
 見せてくれるものとばかり思っていたので、反応は意外だ。
 首を捻って視線を上げれば、脇差の頬はほんのり紅に染まっていた。
 僅かに羞恥を滲ませて、もぞもぞ身じろいでいた。挙動不審な態度に目を眇め、短刀の付喪神は腿の間に手を挟んだ。
 会話が途切れ、続けて良いかどうかで迷う。
 だが様子からして、触れないで欲しい雰囲気が感じられた。
「早くしないと、風呂の湯が抜かれてしまいます」
「問題ない。あと少ししたら、向かうつもりだ」
 仕方なく空気を読んで、話題を変えた。
 寝間着としている湯帷子の衿を撫でながら囁いた短刀に、脇差は嗚呼、と頷き、首を後ろに向けた。
 見えるわけがないけれど、その方角に湯屋がある。利用できる時間は限られており、あまり遅くなってから向かうと、空っぽの湯船を前に打ちひしがれることになった。
 今なら充分間に合うが、座敷の飲み会が終わるのを待ってからだと、難しい。
 また聞こえてきた笑い声に肩を竦めて、小夜左文字は淡々としている脇差に首を捻った。
「なんですか?」
 不思議そうに見つめていたら、気付いた篭手切江が微笑んだ。
 生真面目な一面を脱ぎ捨てて、警戒心を解いていた。人好きのする笑みを浮かべた彼に、小柄な付喪神は緩慢に頷いた。
「歌仙が」
「歌仙?」
 居住まいを正し、小夜左文字は踵に尻を置いて正座した。膝小僧を覆う格好で両手を並べて、凛と背筋を伸ばした。
 急に畏まった彼に、脇差が眉間に皺を寄せた。小さな口から飛び出した名前にも渋面を作って、心当たりを探し、視線を彷徨わせた。
 歌仙兼定と小夜左文字、そして篭手切江は、共に戦国大名の細川家に所縁を持つ。しかし三振りが同時期に、同じ屋敷にあったことはなく、微妙に時期がずれていた。
 小夜左文字は初代藤孝から二代目忠興に伝わり、三代目忠利の時代に細川家を出ている。
 一方篭手切江は藤孝の時代に細川家を出て、忠利の時代に一度戻って来ていた。
 歌仙兼定は二代目忠興から始まり、三代目へと続いている。
 各々面識はあるけれど、一堂に会して和気藹々と過ごした過去はない。
 その打刀と、脇差は、先日一緒の隊で出陣した。
 戻ってきた歌仙兼定は妙に落ち込んでいて、かと思えば突然怒り出すなど、情緒不安定だった。
「歌仙が、どうかしたんですか」
 昔馴染みの刀がそんな状態になった原因が、自分にあるとは微塵も感じていないらしい。
 結局分からないと首を傾げた篭手切江に、小夜左文字は頬をピクリと痙攣させた。
 引き攣った笑みで返して、直後に深々とため息を吐く。項垂れて顔を伏した彼に、脇差の少年は不愉快だと小鼻を膨らませた。
「小夜」
 黙り込まれたのが面白くなくて、続きを促し、声を荒らげる。
 それでちらりと脇差を見て、短刀の付喪神は力なく首を振った。
「歌仙は、あなたが来ると知って、とても楽しみにしていたのですが」
 審神者が時の政府の意向に従い、この本丸を建ち上げた時、最初に顕現したのが歌仙兼定だった。
 風流を好む打刀は、周囲にもそれとなく、風流さを求めた。雅に務めるよう訴え、そうでない連中には目くじらを立てて怒った。
 だが仲間が増えていくに従って、彼は気付いてしまった。本丸内で風流さを解する刀の方が、圧倒的に少ないという事実に。
 だから彼は、長い間嘆き続けてきた。自分の真の理解者は小夜左文字くらいだと、事あるごとに縋りついて来た。
 そんな最中だ。審神者から、篭手切江顕現の兆候があると教えられたのは。
 同じ屋敷で過ごしたことがある刀の来訪を予感して、歌仙兼定は見事に浮き足立っていた。
「そうですか。それで?」
 きっと彼とは、仲良くやっていけるに違いない。他の刀たち相手では出来ない話をして、大いに盛り上がれるのを期待した。
 ところが、蓋を開けてみたらどうだろう。
 篭手切江はさほど興味がない様子で相槌を打ち、帳面の上に硬筆を転がした。
 脇差の持ち物は、小夜左文字の愛用しているものとは随分違っていた。毛筆ではなく、先端が金属製の硬筆を持ち歩き、書き物をする際に墨を磨ることもしなかった。
 便利だが、どうも味気ない。
 それは、歌仙兼定が毛嫌いするもののひとつだった。
 催促されたが、短刀は返事を渋った。様子を窺い、探る眼差しを投げかければ、脇差は少し仰け反り気味になった後、口を尖らせて膨れ面を作った。
「あれは、……向こうが勝手に、僕に期待しただけです」
 戦場で交わした会話の件だと、今更ながら気付いたようだ。
 それを小夜左文字が知っているというのにも機嫌を損ねて、篭手切江は頬杖をついた。
「僕は和歌などという、古臭いものとは、縁を切ったんです」
 一方的に捲し立てて、そっぽを向いた。暗闇を睨んで苛々と身体を揺らし、小夜左文字を視界から追い出した。
 その拗ね方が、微妙に歌仙兼定と似通っている。
 あの男も都合が悪くなると、すぐこんな態度を取った。
 変なところで共通点を見つけてしまって、藍色の髪の短刀は失笑を禁じ得なかった。
「なにがおかしいんです」
「いえ。別に、責めているつもりはないです」
 声もなく肩を揺らしていたら、見咎められた。
 横目で睨まれて弁解して、小夜左文字は正座していた足を崩した。
 板張りの床にぺたんと尻を着け、赤くなっていた臑を撫でた。ひんやりした感触を寝間着越しに堪能して、探るような眼差しに目を眇めた。
 月は雲の隙間に埋もれて、白く濁った暈の方が目立っていた。星はほとんど出ておらず、彼らを照らす光は弱かった。
 それでも、相手の顔はしっかり見えた。
 月明かりさえない、真の闇の中で敵と刃を交えている短刀には、これでも明る過ぎるくらいだった。
「歌仙が変になっているのは、ぼくの所為だと言いたいんですか」
 ここしばらく、あの打刀が馬鹿になっているのは、篭手切江も感じていた。
 味噌汁には出汁が入っていなかったし、一夜漬けの胡瓜は切れておらず、蛇腹状になっていた。
 歌仙兼定が作った朝食の不味さを思い出しながら呻いた彼に、小夜左文字は首を振った。漏れ出そうになる笑いを寸前で押し留めて、口元を覆い、唇を舐めた。
「そのうち、元に戻ります」
「何度も言いますけど、向こうが勝手に、僕を決めつけていただけです。僕は悪くない」
「分かってます」
 歌仙兼定は篭手切江と、和歌を詠みあう関係になりたかった。
 しかし、そうはならなかった。脇差が求める『歌』は、限られた文字数に世界観を詰め込んだものではなく、派手な演奏に演出を交えた、大衆娯楽としての歌だった。
 顕現して以降、篭手切江は熱心に歌仲間を勧誘していた。真っ先に粟田口派の短刀に目を付けて、一緒にやらないか、と毎日のように繰り返していた。
 平野藤四郎は嫌そうだったが、乱藤四郎は乗り気だ。金になるのなら、という理由で、博多藤四郎もやる気充分だった。
 そういうやり取りを食事時に目にする度に、歌仙兼定の機嫌がどんどん悪くなる。
 見かねた巴形薙刀が、食べている時は箸を動かすことにだけ集中するよう注意する。そんな日々が続いていた。
 今はまだ気持ちの整理がつかないものの、打刀もいずれ、諦めるだろう。
 しばらく時間がかかりそうだが、許してやって欲しいと逆に頭を下げて、小夜左文字は刀に視線を投げた。
 そして。
「古の」
 朗々と、伸びのある声を響かせた。
「今も変わらぬ 世の中に」
 抑揚を利かせて、厳かに。静かに、凛然と、闇に向かって吟じた。
 突然詠い始めた彼に、篭手切江がハッとなった。目を見張り、唇を戦慄かせ、音の行く末を追いかけて庭先へと視線を転じた。
「心の種を 残す言の葉」
 下の句を継いだのは、脇差だった。
 殆ど無意識だったと言うしかない。ゆっくり沈んでいく自身の声色に後から気付き、彼は驚いた顔で唇を開閉させた。
 決して強制したわけではない。
 けれどこうなればいいと願い、促したのは間違いなかった。
 思いの外あっさり叶ってしまったと笑って、小夜左文字は肩を震わせた。
「あ、いや。いえ。今のは、違う。違うんです、小夜」
 うっかりつられてしまったと、篭手切江は顔を赤くした。落ち着きなく両手を泳がせて、言い訳がましく声を張り上げた。
 先ほど自分で、古めかしい和歌とは縁を切った、と宣言した。それからものの数分としないうちにこの有様で、狂言でも見ているかのような滑稽さだった。
 動揺を隠し切れず、脇差は弱り果てて短刀の手を取った。両側から挟みこむようにして握って、頭を下げ、今のやり取りはなかったことにしてくれるよう懇願した。
 あまりにも必死で、可笑しい。
 だがそこまでして和歌から離れたい理由が分からなくて、小夜左文字は返事を保留した。
「嫌いになったのでは、ないんですね」
 あんなにもごく自然に、次を継げたのだ。
 覚えていないわけではない。
 和歌に傾倒した、かつての主を忘れたわけではない。
 それなのにどうして、距離を取ろうとするのだろう。
 現身での生活を楽しみ、歌集まで作ってしまった歌仙兼定ほどに熱を入れろ、とは流石に言わない。だが少しくらい、良いではないか。季節の移り変わり、その節目ごとに一句、口ずさむ程度なら、できそうなものなのに。
「当たり前です」
 芳しい返答が得られないと知って、篭手切江は背筋を伸ばした。短刀の手を解放して、膝から落ちた帳面を拾い、すぐ傍に転がっていた硬筆も回収した。
 ひとまとめにして抱きしめて、言葉を探し、数秒間沈黙する。
「小夜は、俳句を知っていますか」
「俳句?」
 やがて決心がついたのか、口を開いた彼の問いに、小夜左文字はきょとんとなった。
 あまり縁があるものではないけれど、一応知識としては有している。それは五七五七七を基本とする和歌の上の句と同じ数、即ち五七五を基準とする歌のことだ。
 その始まりは、連歌と呼ばれる長い詩の冒頭部分――発句が独立して作られるようになった、と言われている。
 細かな決まり事を廃し、優雅な文化に裏打ちされた和歌に滑稽みを足した俳諧が、再び芸術作品へと高められた。そうやって生み出された作品が、俳句だった。
 和歌には一定以上の知識と教養が必要となるが、俳句となるともっと自由だ。それもあり、爆発的に広がった。裾野を広げ、これまで閉鎖的だった和歌の世界に新風を吹き込んだ、と言っても過言ではなかった。
 長らく停滞していたものが、ふとした瞬間、一気に加速した。
 この変化は鮮烈だった。
 以前なら非常識、と鼻で笑われていたものが、ある時代からは当たり前になっていく。
 その一例だと、篭手切江は熱のこもった息を吐いた。
 握り拳を作り、それで胸を叩いた。頬を紅潮させて、当時の興奮を思い出してか、感動に目を潤ませた。
「いいですか、小夜。物事の価値とは、時代によって移り変わっていくものです。僕たち刀剣だって、そうです。歌もまた、例外ではありません」
 万葉の時代は、名もなき防人でさえ自由に歌を詠んでいた。
 だが歳月が流れるにつれて、歌は文化人のものとなる。一部の特権階級に当たる者たちが主流となり、独占されていった。
 武士の時代に入っても、その傾向はあまり変わらない。変わったのは太平の世になって、町人らの生活に余裕が出始めた頃だ。
 公家から武家へ、そして庶民へ。
 間口が広くなるにつれて、歌に付与される意味は変わって行った。上等な歌を詠むことが出世に繋がった時代は終わりを迎え、歌そのものの役目も移ろった。
 特定の誰かではなく、大勢を楽しませるものへ。
 皆が笑顔になるものへ。
 そうしているうちに、語数の縛りがなくなった。自由律が叫ばれて、様々な韻律が産み出された。
 疲れ果てた人々を癒やしたのは、美しい旋律だった。
 軽やかな歌声が、暗く沈みこんでいた心に、上を向くきっかけを与えた。
 歌には力がある。
 その時代に即した形で、永遠に続いていく。
「歌は、進化するものです。歌仙の懐古主義をどうこう言うつもりはありませんが、僕は常に、新しいものを追い求めたい」
 ぐっと拳に力を込めて、篭手切江が熱く宣言した。
 理想を語り、歓喜に打ち震え、突如ガバッと小夜左文字に迫った。
「小夜も、どうです。僕と一緒に、晴れやかなすてえじに登ってみませんか」
 鼻息を荒くして、血気盛んに吠えた。爛々と目を輝かせ、仲間を増やそうと必死だった。
 この顔には、覚えがある。
 風流仲間が見つからなくて、君だけは味方でいてくれ、と切願して来た時の歌仙兼定そっくりだった。
「遠慮、……します」
 方向性は真逆だが、彼らは似たもの同士だ。
 またひとつ、共通点を見つけてしまって、小夜左文字は頬を引き攣らせた。
「どうしてだい、小夜。君はもっと輝ける。その身軽さは、充分な武器になるよ」
「いえ、あの。ですから、僕は、そんなことより復讐を」
「有名になったら、君の復讐相手を知っている人が現れるかもしれないじゃないか!」
「…………」
 がしっと両手を掴まれて、額が擦れる近さで勧誘された。熱を含んだ鼻息が頻繁に肌を掠めて、ぎらぎら輝く眼が怖かった。
 よもやの切り返しには絶句したが、そういう探し方もあるのか、と一瞬納得しそうになった。仇討ち相手など、もうどこにもいないのに、見付かるかもしれない、と想像して、背筋がゾワッとなった。
 危うく口車に乗るところで、頷きそうになったのを堪えた。
 期待の眼差しで返事を待つ脇差を上目遣いに窺って、短刀は肩を落として溜め息を吐いた。
「ほかを、当たってください」
 山賊に奪われ、罪もない人々を次々手にかけてきた刀に、どうやって晴れやかな舞台に登れと言うのか。
 できるわけがない、と重ねて断った彼は、脇差ががっかりしながら呟いた言葉に愕然となった。
「どうしても駄目かい? 小夜のお兄さんは、割と乗り気だったんだけど」
「宗三、兄様……」
「いや、そっちではなく」
「は?」
 諦め悪く足掻いた篭手切江のひと言に、気絶しそうになった。
 小夜左文字の兄で、宗三左文字でない方はひと振りしかない。それこそきらびやかな衣装をまとって歌い、踊る姿が想像出来ない太刀の名前の登場に、短刀は顎が外れるくらい驚いた。
 呆気にとられてぽかんして、信じられないと瞬きを繰り返す。
「江雪、にい……さま……?」
「ああ、そうさ。歌には戦いを止め、愛と平和をもたらす、素晴らしい力があると言ったら、大層興味を示してくれたよ」
 あの気難しい、へそ曲がりにいったい何が起きたのか。
 物は言いよう、という言葉をじっくり噛み締めて、小夜左文字は天を仰いだ。
「兄様、騙されてます」
「人聞きの悪いことを言わないでくれ」
 両手で顔を覆い、さめざめと泣きたい気持ちを押し殺した。詐欺師呼ばわりされた脇差は不満そうに吐き捨てて、手にした帳面を大事に撫でた。
 興奮していた肌色を落ち着かせ、しんみりした表情で手元を見詰める。
 何が書かれているのか、見せてもらえないままの短刀は眉を顰め、聞こえて来た溜め息に首を捻った。
「篭手切」
「けど、どうにもね。良い歌詞が、思い浮かばなくて」
 言いながら、脇差が手元の帳面を捲った。
 さほど広くない紙面にびっしり、几帳面な文字が書きこまれていた。
 その大半に横線が走り、修正したものが、更に修正されていた。書いては消し、書いては消しの繰り返しで、一部は真っ黒に塗り潰されていた。
 華やかな舞台に上がる日を夢見て、そのために用意しているのだろう。
 けれど、言うは易く行うは難し。
 これぞ、と思う歌が出来なくて、彼なりに悩んでいたようだ。
「部屋にいたら、鯰尾藤四郎がうるさくて」
「ああ……」
 脇差は六振りだけの時期が長かったので、刀派に関係なく、仲が良かった。
 篭手切江が使っている部屋は、長く空き部屋だった。だが使わないのは勿体ないからと、机を置いて、皆が好き好きに集まれるようにしていた。
 その名残だろう。今でも脇差連中が、彼の私室によく押しかけていた。
 集中して詩作に取り組みたいのに、邪魔されて、なかなか進まない。試しに作った文章を声に出して読み上げられて、ここが可笑しい、ここが変だと品評されるのも、気に食わなかった。
 それでこんな辺鄙な場所に陣取っていたらしい。
 彼も彼なりに苦労しているのだと知らされて、小夜左文字は憐憫の情を抱いた。
 もっとも、だからといって一緒になって歌って、踊ってやるつもりはない。
 きらっと輝いた眼鏡に戦いて、短刀は掴まれそうになった手を逃がした。
「あとは小夜、君だけなんだよ」
「お断りします」
 すかっ、と空振りした手を蠢かせ、篭手切江が捲し立てる。
 やはり次兄もその気になっていたか、と歯切りして、左文字の末っ子は膝で床を蹴った。
 諦めが悪いところまで、歌仙兼定にそっくりだ。一度や二度断られた程度ではへこたれず、何度でも挑戦して来るところも、始末が悪い。
「あなたの、歌への情熱は分かりましたが、僕を巻きこまないでください」
「そこをなんとか」
「しません」
「……小夜が冷たい」
「歌仙と同じことを言わないでください」
 時代とともに変遷する文化に合わせ、より歌を身近な存在にしようとしている彼の努力は、認める。
 そこに込められた思いを、誰もが感じられる形で表現したいという気持ちは、素直に応援したかった。
 あれこれ技巧を凝らし、ひとつの言葉に複数の意味を持たせた和歌は、ぱっと見ただけでは意味を解しにくい。そういう取っ付きにくさを排除して、高みから見下ろすのでなく、皆と同じ目線に立とうという姿勢は、賞賛に値した。
 だがそれと、これとは別問題だ。
 小夜左文字はできるだけ静かに、平穏に暮らしたい。餓えることなく、腹八分で過ごせたら、それで満足だった。
 注目を浴びたいとか、拍手喝さいを浴びたいとは思わない。華々しい舞台に立つなど、天地がひっくり返ってもあり得なかった。
「そう毛嫌いしないで。一度やってみれば、癖になるよ」
 これだけ言っているのに、尚も食いついて離さない脇差のしぶとさには、呆れるしかない。
 ぴゅう、と吹いた秋の風は冷たくて、色々あって悪寒が走った短刀は、咄嗟に身体を抱きしめた。
「風呂、入り直そうか……」
 なんだかんだやっているうちに、すっかり湯冷めしてしまった。あれだけ暖かかった身体は芯まで冷えて、指先は凍えそうだった。
 面倒だが、湯船で温まり直した方が、夢見も良くなるだろう。
 こっそり溜め息を吐いた彼の独白を聞き拾って、篭手切江はそうだ、と両手を叩き合わせた。
「風呂場は音が反響して、歌の稽古にはもってこいだ。さあ、小夜。僕と一緒にとっぷすたあを目指そうじゃないか」
「目指しません」
 風呂、と聞いて妙案を思いついたと声を高くする。
 さりげなく手を掴もうとする彼からサッと逃げて、短刀は屈託なく笑う脇差に肩を落とした。

声はせず色濃くなると思はまし 柳の芽食む鶸の村鳥
山家集 1399

2017/09/10 脱稿

いかばかりなる 色にはあらまし

 サク、サクッ、と音がする。
 一歩を踏み出す度に微かに響く音色に耳を傾け、小夜左文字は右足を高く蹴り上げた。
 宙を駆ける爪先に巻き込まれ、落ちていた木の葉が数枚、空を舞った。赤と黄色とが入り混じって、視界の一部を覆い隠した。
 掌よりも大きい葉が、ゆっくり弧を描いて沈んでいく。行く手を遮るようにして降り注ぐそれを躱して、短刀の付喪神は口角を持ち上げた。
 見える範囲一面が、木の葉に埋もれていた。
「落ち葉まみれだ」
 率直な感想を呟き、今度は左足で空を蹴る。踵で地面を踏みしめれば、そこにあった枯れ葉がカサカサ音を立てた。
 何枚もが重なり合っていて、互いに擦られての音だ。一番下にあったものは、割れてしまったかもしれない。
 覆っているものを払い除けて確かめる真似はせず、想像を巡らせるだけに済ませ、交互に足を動かした。両手は背中に回して緩く結び、トントントン、と歩調に合わせて前後に揺らした。
 頭上を仰げば、木々はまだ葉を大量に残している。丸裸には程遠く、どれだけ多く茂らせていたのかと、呆れるしかなかった。
「はー」
 腹の底に溜めた息をひと思いに吐き出せば、一瞬だけ白く濁って見えた。
 早朝だから、空気は凛と冷えていた。肌に突き刺さるほどではないけれど、寒さは日増しに厳しくなっていた。
「お小夜」
「はい」
 鼻の頭を赤くして、ずず、と垂れそうになったものを啜った。唇を舐め、呼ばれて振り返って、小夜左文字は指を解いた。
 両腕の振り幅を大きくして、跳ねるように距離を詰めた。少し離れた場所に立っていた男は破顔一笑して、すぐ近くに根を下ろす木の幹を撫でた。
「なんて鮮やかな色だろうね」
 ごつごつした樹皮をなぞり、視線は遠く、高くに向けられた。つられて同じ方角に顔をやれば、楕円形の木の葉が一面黄色に染まっていた。
 公孫樹の木とは違い、あの嫌な臭いはしない。鼻の粘膜にツンと来る悪臭を頭の隅に追い遣って、短刀の少年は嗚呼、と頷いた。
 ほんのひと月前まで、この巨木は一面の緑に覆われていた。
 遠くから眺めれば、枝がどこに伸びているのかすら分からないくらいだった。こんもりと丸い山型で、底なしの生命力に溢れていた。
 それが今や、どうだろう。
 ひらひら舞い踊る木の葉を視界に収め、小夜左文字は何気なく手を伸ばした。
「あ、っと」
 捕まえようとしたけれど、片手では難しかった。ちょっとした気流の乱れで簡単に進路を変えられて、するりと指先から逃げていった。
 追いかけて再度挑むが、今度も叶わなかった。下から掬い取るべく、残る片腕を振り上げてみたけれど、こちらも空振りだった。
「む、う」
 空中でぱしん、と両手を叩き合わせたものの、掌には何も残らない。
 夏場、蚊を仕留め損なった時に似ている。思わず頬を膨らませて唸れば、隣で見ていた打刀が呵々と笑った。
「なにをやっているんだ、お小夜」
 歯は見せず、高らかと声を響かせる。
 馬鹿にされたと感じて、気分が悪かった。だが可笑しくて仕方がない、と顔を綻ばせた男を睨みつけても、残念ながら効果は薄かった。
「歌仙も、やってみればいいんです」
 簡単そうに見えて、意外と難易度が高かった。
 試してもない者に、滑稽だと言われる筋合いはない。掴もうとしたのがどれだったか分からない、木の葉に埋もれた地面を蹴散らして、小夜左文字は小鼻を膨らませた。
 負けず嫌いを発動させて、気の短い男を挑発する。
 歌仙兼定は緩慢に頷き、顎を撫でて目を細めた。
「では」
 調子よく頷いて、彼はやおら、腕を伸ばした。
 掌を上向きに広げ、視線は斜め上に固定した。風が吹き、木の葉が落ちてくるのをじっと待って、羽織った外套を優雅に翻した。
 ただ立っているだけなのに、景色に溶け込み、風情がある。
 派手さを内に隠し、黙って佇んで、男は手甲で覆った利き手を泳がせた。
 瑠璃色の袂を躍らせて、ひらり、ひらりと落ちて来た木の葉を目指して肘を伸ばして。
「……ふふ」
 風がないまま、自重に負けて大地を目指した一枚の速度に合わせ、彼はゆるりと膝を折り、軽く屈んで小さくなった。
 ゆっくり沈む木の葉に動きを揃え、静かに受け止めた。微妙な空気抵抗を封じ込め、難なく掴んでしまった。
 ほんのり橙混じりの黄色を手に取り、得意げに胸を張る。笑みを殺して目を細めた打刀に、小夜左文字はカッとなった。
「そんなの、自慢になりません」
「あいたっ」
 落ち行く木の葉を掴めたところで、戦闘でことを有利に運べるわけではない。おおよそ実用的でない特技だと吐き捨てて、短刀は力任せに男の臑を蹴った。
 草履の裏を使い、抉るように一撃を加えた。中腰状態で耐えられるわけがなく、歌仙兼定は呆気なくその場に崩れ落ちた。
 両膝を地面に着けて蹲り、手にした木の葉も放り投げた。求められたから実戦しただけなのに、あんまりな仕打ちに鼻を愚図らせ、奥歯を噛んで激痛をひたすら耐えた。
「酷いじゃないか、お小夜」
「歌仙が軟弱なのが悪いんです」
 抗議を受けたが、小夜左文字は跳ね除けた。
 強気に任せて言い放って、隙があった打刀を断じ、ふん、と鼻息を荒くした。
 揚げ足取りも良いところの台詞をぶつけられ、歌仙兼定は苦笑を禁じ得ない。徐々に薄まっていく痛みに肩を竦めて、時間をかけて立ち上がった。
 袴の汚れを叩いて落とし、地面に落ちていた団栗を靴の先で転がした。細く尖った部分で数回小突いて、朝日が眩しい東の空に頭を下げた。
「今日も、良い一日になりそうだ」
「そうだと、いいですね」
 左手を庇代わりに掲げ、白く沸き立つ光を遮る。
 万感の思いを込めて告げられたひと言に同調して、小夜左文字は素っ気なく後を継いだ。
 そろそろ屋敷の者たちも、寝床を抜け出している頃だろうか。
 一足先に朝餉を済ませた彼らは、遠征任務の出発を待つ間の、暇潰しの真っ最中だった。
 朝の気温が下がって、寝坊癖がついてしまった刀は多い。反面、布団でじっとしているのは寒いから嫌だ、と夏場より早起きになる刀も、少数ながら存在した。
 前者は粟田口の短刀たちに多く、後者は同田貫正国が典型だ。では小夜左文字はどうかと言えば、季節に関わらず、起床時間は変わらなかった。
 歌仙兼定も、似たようなものだ。食事当番を引き受けていた期間が長かった所為で、すっかり早起きの癖がついてしまっている。今は料理が出来る刀が増えて、前ほど台所に入らずに済んでいるというのに、だ。
 春や夏だったら、もう遠征に出発できていた。
 他の刀の都合で、諸々の予定が遅れるのは癪だ。しかしこうしてのんびり庭を散策できる余裕が持てたのは、怪我の功名と言うべきだろう。
 屋敷とは距離があるので、賑わう声は聞こえない。だが瞼を閉じれば、情景は鮮やかに浮かび上がった。
「遠征先も、紅葉しているといいのだけれど」
「それは、ちょっと困ります」
「どうしてだい?」
 そこに打刀の声が紛れ込み、意識が拡散した。暗闇に描き出された光景を掻き消して、小夜左文字は反射的に呟いた。
 うっかり声に出してしまい、当たり前だが拾われた。歌仙兼定は首を右に傾がせて、両腕を胸の前で組んだ。
 彼らが出向くよう言われたのは、江戸。歴史修正主義者の出現は確認されていないが、万が一に備えて情報を集め、異常がないか探るのが目的だ。
 どの時代の、どの季節の、どの日に足を運ぶかは、時の政府と審神者によって決められる。刀剣男士には選択権がない。秋になるか、春になるかは、着いてからのお楽しみだ。
 だが今のところ、本丸の暦に合わせて選ばれる場合が多かった。
 だから深く考えるまでもなく、彼らは秋の江戸を巡ることになる。屋敷を囲む庭の木々のように、山の植物は一斉に色付いているはずだ。
 それはそれは、見事な紅葉だろう。
 想像するだけで圧倒されて、目が離せなくなるに違いない。
「歌仙、動かなくなるでしょう」
 日の出から、日の入りまで、ずっと眺めていても飽きない。
 時間の変化によって姿形を変える光景に魅入られて、心を奪われ、任務どころではなくなってしまう。
「そんなことは、……」
「約束できますか?」
「返事は保留させてくれ」
 押しても、引いても、梃子でも動かない打刀に、どんなに迷惑してきたことか。
 今回もそうならない保証を求めれば、歌仙兼定はさっと目を逸らした。明後日の方角を向いたまま言って、小夜左文字を見ようとしなかった。
 もっとも、彼の気持ちは分からなくもない。
 真っ赤に色付いた山々と、そこに沈みゆく太陽、鮮やかな朱色に染まる空。
 どこを見ても一面の赤色に、心奪われない方がどうかしている。
 ものの数日としないうちに枯れ落ちて、寒々とした姿を曝すことになる木々を前に、この一瞬を切り取らずにはいられない。
 自分が立ち止まっていても、時は無情に過ぎていく。季節が切り替わっていると気付くのは、いつだって歌仙兼定と歩いている時だった。
 本丸には大勢の刀剣男士が暮らしているが、彼らはあまり景色を見ない。見ていても、それを敢えて言葉に表したりしない。
 小夜左文字だって、本当はそうだ。
「置いていかれても、知りませんよ」
「せめて手を引いてくれると、助かるんだけれど」
「甘えないでください」
「お小夜が冷たい」
「僕はずっと、こんな調子です」
 景色に見惚れてぼうっとしていたら、風流を解さない刀たちに置いて行かれ、迷子になりかねない。
 過去にあった事例を思い出すよう揶揄して、短刀は縋る男に肩を竦めた。
 素っ気なく言い放ち、渋面を作った打刀に背中を向けた。前に進むわけでもないのに右足を蹴り上げ、木の葉を散らして、両腕を肩より高く掲げた。
 背筋を反らして伸びをして、広げた両手は指二本を残して折り畳んだ。親指と人差し指を九十度に開いて、右掌は手前に、左掌は外向きになるよう、手首を捻った。
「お小夜?」
 その後、顔の前で親指の先と、人差し指の先端とを貼り合わせ、四角い枠を作った。丁度目の前に来るように、肘を緩く折り畳んだ。
 なにをしているのか、歌仙兼定には分からない。
 奇妙な動きを見せた短刀に、打刀は訝しげな声を投げた。
 語尾がほんの少し持ち上がった声には、感情が溢れていた。不思議そうに見つめられて、小夜左文字は失笑した。
「前に、陸奥守吉行さんがやっていたので」
 武士の世が終わりを告げた時代に生きた男の刀は、海の向こうからやって来た品々にも興味津々だ。
 刀でありながら拳銃を所持し、こちらの方が戦いの理に適っていると言って憚らない。舶来品も多数所持しており、その中のひとつが写真機だ。
 但し固定式の大型なもので、写すのにとても時間がかかるため、あまり実用的ではなかった。お蔭で評判もいまいちで、出番はあまり多くなかった。
 だが彼は、見たままに姿を残せる機械を気に入っていた。
 失敗は許されないので、毎回、どういう構図にするかじっくり時間をかけて練っていた。その作業の中で、こんな風に指を組み合わせていた。
 こうすることで、四角い縁取りの中に世界を収納する雰囲気が掴めるという。実際にどんな風に仕上がるのか、出来上がりが想像し易くなるのだと言っていた。
「へえ?」
 写真機はないけれど、その前段階なら身ひとつあれば可能だ。
 記憶というものは、心に深く留め置くことで、より強く、色濃く残される。ただぼんやり眺めるのではなく、こうやって仕草を伴うことで、今日の紅葉が、小夜左文字の中で永遠になる。
 これまでなかった発想に、歌仙兼定は興味を示した。相槌を打って目を輝かせ、早速見よう見まねで指を操った。
 短刀に倣って中指、薬指、小指の三本を折り畳み、残る二本を直角に広げた。拳銃を撃つ仕草を真似て人差し指を伸ばし、その上にもう片方の指を置いた。
「こう、かな?」
 最初は手首の捻りを忘れて、三角形を作った。
 これは違う、と自分で悟って首肯して、あれこれ動かした結果、小夜左文字がやっていた通りの形を導き出した。
 そうやって出来上がった長方形を、恐る恐る顔の前へ。
 首を竦めておっかなびっくり覗き込む姿は、傍目から見ても滑稽だった。
「上手ですね」
 だが小夜左文字は笑うことなく、逆に褒めた。両手こそ叩き合わせなかったけれど、心から告げて、自らも指が作り出した四角形に世界を詰め込んだ。
 陸奥守吉行から教わった時、最初は上手く出来なかった。指を四角に組んだ後も、片目だけを閉じて覗き込むのが難しかった。
 両目を開いたままだと、枠の外も広く視界に入ってしまう。かといって片方のみ瞑ろうとしても、何故か開けておきたい方まで閉じてしまった。
 変な顔になって、顔の筋肉がぴくぴく引き攣った。百面相をしたつもりはないのに、大笑いされて、とても不愉快だった。
 その後こっそり、周りに誰もいない時に練習して、最近やっと不自由なく出来るようになった。ところが歌仙兼定は、ごく自然に隻眼を実現してしまった。
 燭台切光忠の眼帯を借りて来てやろうか、などと意地悪を言う準備までしていたのに。
 当てが外れたが、がっかりはしなかった。
 そういう無駄な才能にだけは長けている、と呆れることで溜飲を下げて、赤や黄色に染まった景色を目に焼き付けた。
「なるほど。これは、新鮮だ」
 斜め向かいでは歌仙兼定が、感極まった様子で呟いた。右足を軸にぐるりと一回転して、遠眼鏡でも覗く感覚で、一大風景に驚嘆の声を上げた。
 勿論、指で枠を作らない方が、どこまでも広がる木々の彩りを堪能できるのは確かだ。しかし空間を小さく切り取ることで、逆に見逃していたちょっとしたものに意識を傾けられるのも、嘘ではなかった。
「どうですか?」
「ああ。良いことを教わった。ありがとう、お小夜」
 興奮で体温が上がったのか、打刀が吐く息が白く濁った。綿の塊のようなものが溢れ出て、即座に消え去り、後にはきらきら輝く空色の瞳が残された。
 ずっと腕を高く掲げているので、肩の筋肉が疲れてくる。片目だけ閉じ続けるのも案外体力が必要で、彼は時折休憩を挟み、四方の景色を切り抜いた。
 なんとも忙しなく、落ち着きがない。
 呆れつつも、止めることなく見守って、小夜左文字は目尻を下げた。
 これでまた、彼が遠征先で立ち止まる機会が増えることになる。それはあまり宜しくないのだが、最早取り返しがつかなかった。
 惚けた顔で立ち尽くし、景色に魅入られて動けなくなるよりは、良い。こうやって身体を動かしている限り、彼の意識はその器に宿り続けるのだから。
 小突くなり、音を起こすなりすれば、今までよりは楽に我に返ってくれるだろう。そこに期待して、短刀は左の踵で地面を擦った。
 凹凸が激しい地面は、隙間がないくらいびっしり木の葉で埋もれていた。多くは卵形をした楕円だが、風で流されて来たであろう、別の形がたまに紛れていた。
 こちらを眺めている分にも、充分楽しい。大小さまざまな団栗が陣地を奪い合い、冬枯れを起こすまいと気丈な雑草が緑を主張していた。
 赤、黄色、茶、緑。
 春先に比べると、その風合いは極端に地味だが、派手さに欠けるとは言い切れない。
 むしろこの寂れ具合が心地よくて、小夜左文字は好きだった。
 冬に備えて葉を落とす木々は、枯れ果てる日を目前にして、死に装束を整えているようにも見える。その根本では、負けてなるかと名もなき草が意地を通していた。
 けれどその根性も、あまり長くは続かない。
 冬の寒さは覆し難く、ちょっとやそっとでは耐えられなかった。
 枯れ落ちた命は、いったいどこへ行くのだろう。
 地獄というものが地の底にあるのだとしたら、小夜左文字はきっと一番近い場所にいる。
「まだやってる」
 何もない場所を草履で踏みつけて、短刀は飽きもせずくるくる回っている打刀に苦笑した。余程気に入ったらしく、瞑る目の左右を頻繁に入れ替えて、頭上だけでなく、正面や、足元にまで視線を向けていた。
 凄まじいはしゃぎようが、実に面白い。
 良いことをした気分になって頬を緩め、少年は右手を振った。
「歌仙」
 いい加減、屋敷へ戻らなければ。
 朝餉はとうに済ませたが、弁当の準備が出来ていない。遠征先で食べる握り飯を人数分用意して、笹の葉で包む作業が残っていた。
 本来は食事当番の仕事だが、忙しい彼らの手を煩わせるのは忍びない。
 庭の散歩に出る前に交わした会話を振り返り、合図を送った。手首から先をひらひらさせて、自分を見るよう注意を促した。
 それを、どういう風に解釈したのだろう。
「僕じゃないです」
「いやいや、これはなかなか、良い景色だ」
 歌仙兼定は指で作った四角い窓に、小夜左文字の姿を切り抜いた。
 長方形の真ん中に据えて、満足そうに笑った。何度も頷き、背伸びをしたり、屈んだりして、背景の角度を調整した。
 一番優れた景色を探して、試行錯誤を繰り返す。その熱意は認めるが、努力の向け先が間違っていると指摘しても、まるで耳を貸さなかった。
 陸奥守吉行の写真機を与えたら、一日中弄り倒していそうだ。
 それに付き合うのは絶対に御免だと決めて、短刀は髪を掻き上げ、溜め息を吐いた。
「お小夜、こっちを向いて」
「歌仙……」
 俯いていたら、文句を言われた。鋭い声で催促されて、脱力感は凄まじかった。
 馬鹿な刀だとは知っていたが、底なしだ。こんな短刀を記憶に焼き付けて、いったいなにが楽しいと言うのだろう。
 二度目の嘆息で顔を上げ、首を僅かに傾がせる。正面を見れば打刀が膝を折り、低い位置からこちらを見上げていた。
 右目のすぐ上に、指で作った枠があった。その範囲は案外広く、鼻梁の半分が収まっていた。
「あ」
「うん?」
「いえ、なんでも」
 それで思ったことがあって、ぽつりと声が漏れた。無意識に上半身が傾いで、崩れた重心を支えるべく、左足が前に出た。
 不安定な動きを見せた彼に、歌仙兼定が眉を顰めた。腕を下ろし、指で組んだ枠を解いた男に首を振って、小夜左文字はチリッと胸の奥を焦がす炎に唇を噛んだ。
 黒く濁った感情が、奥の方で蠢いていた。どんより濁って酷く不快で、出来るものなら喉を抉って吐き出したかった。
 呼吸は自然と荒くなり、唇が渇いた。無意識に掻き毟って、中指の爪を噛んだ。
 肉を巻き込み、牙で穿った。皮膚が破れ、血が出るのも厭わない仕草に半眼して、歌仙兼定が止めさせるべく声を上げた。
「お小夜、なにをしているんだ。傷になる」
 つい今しがたまで落ち着いていたのに、態度が急変した。
 瞳は落ち着きなく宙を駆け回り、肌色は優れない。放っておけばもっと自分を傷つけると直感して、打刀は手を伸ばし、短刀の手首を掴まえた。
 振り払おうと暴れるのを、力尽くで捻じ伏せた。嫌がって身を捩るのを強引に押さえつけ、嫌々と首を振るのは、額に額をぶつけることで封じた。
「お小夜」
 ガンッ、と骨同士がぶつかる音がした。衝撃で中身が揺れて、一瞬くらりとなったが、気を失うところまでは至らなかった。
 それは、短刀も同じだ。
「お小夜!」
「……かせん」
 力任せの頭突きに、霧散していた意識が一箇所に集まった。ひとつに固まり、形を取り戻して、色を失っていた眼には鈍いながら光が戻った。
 数回瞬きを繰り返した後、彼は短く息を吐いた。全身からしなしなと力が抜けていくのが分かって、カクン、と膝が折れ、軽い身体が急激に沈んだ。
 歌仙兼定が手を掴んでいなかったら、地面に倒れ伏していただろう。実際、その手前まで至って、幼い体躯はぶらぶらと不安定に揺らめいた。
「急に、どうしたんだ」
 直前までなんともなかったのに、いきなりだった。
 何がきっかけになったのか分からず、困惑する打刀を呆然と見上げて、支えられて二本足で立った少年は嗚呼、と呻いた。繋いだ手の大きさ、逞しさを指先で辿って、太さや長さがまるで違う現実に皮肉な笑みを浮かべた。
「お小夜?」
「僕の、手は。……こんなにも小さい」
 撫で回されて、男は怪訝に首を捻った。眉を顰め、掌を裏返せば、短刀の手はその中にすっぽり収まった。
 まるで赤子と大人のようだ。玩具のような小さな爪と、しなやかながら男らしい骨格とを見比べて、小夜左文字は自嘲気味に呟いた。
 鼻声で、泣いているのでは、と錯覚を抱かされた。歌仙兼定は渋面を作ると、瞼を伏し、もう片方の手で顎をなぞった。
「僕は、君の手は、とても好きだけれど」
「ありがとうございます」
「……なるほど。違うか」
 短刀の独白がどういう意味を持つのか探るべく、当たり障りのない感想を述べて確かめる。
 間を置かずに礼を言われ、的外れな意見だったと悟り、最初から考え直す。
 落ち着きなく動く左人差し指を見上げて、小夜左文字は分かり易くて仕方がない男に肩を竦めた。
 こんな時でさえ、歌仙兼定は百面相を止めない。感情の起伏の激しさが、ひとつ残らず表面に現れていた。
 裏で策略を巡らせるのが苦手で、計算ができない。正直すぎて、思い立ったが吉日と即座に行動に移すから、あれこれ準備している周囲がいつも大わらわだ。
 けれどそういう実直さが、彼の美点でもあった。
 とても真似できない。
 羨むことさえもが、烏滸がましかった。
 小夜左文字は本丸で最も地獄に近く、天から遠いところにいる。崇高な理念を掲げるわけでもなく、ただ己の境遇に固執し、過去の亡霊を追いかけ続けている。
 だから彼が見る景色は、いつだって狭い。
 指で囲えば尚のこと小さく、惨めだった。
 己の視野の狭さを痛感し、歌仙兼定の大きさに嫉妬した。
 羨み、双方の間に横たわる溝の深さ、広さに戦いた。
 到底飛び越えられない亀裂に、足が竦んだ。身動きが取れなかった。心が悲鳴を上げて、絶望に押し潰された。
 あんなに赤や黄色で鮮やかだった景色が、みるみる灰色に染まっていく。虫に食われて枯れていく病葉のように、斑に染まり、朽ちていく。
 彼を待っているのは、冬の白く輝く世界ではない。
 黒く穢れ、濁った、芯まで冷える凍えた世界だ。
「もう、戻らないと」
 自分で選んだ道なのに、進むのを躊躇した。行きたくない、けれど行かざるを得なくて、何故こんな風に創りあげたのかと、命名者に恨みさえ抱いた。
 鼻を大きく啜り、小夜左文字は歯を食い縛った。
 唸るように呟いて、真顔で思案する男の手を引っ張った。
 それを、逆に引っ張り返された。
「うあ」
「ああ、なんだ。そういうことか」
 つんのめり、短刀は悲鳴を上げた。爪先立ちで飛び跳ねて、男の足を踏まないよう腰を捻った。
 その隠れた努力を知りもせず、歌仙兼定は感嘆の息と共に呟いた。
 導き出した答えに満足げな顔をして、虚を衝かれて目を丸くした短刀ににっこり微笑んだ。いつもの楽しげな表情で口角を持ち上げて、有無を言わさず繋いだ右手に力を込めた。
「え、あ。ちょ、歌仙?」
 そのままくるりと反転して、合図もなしに歩き出す。
 半ば引きずられる格好になり、少年は素っ頓狂な声を上げた。
 何度も転びそうになって、その都度片足立ちで跳ねて、体勢を立て直した。歩幅が全然違うのに考慮してもらえず、ずんずん行く打刀がどこを目指しているかさっぱりだった。
 屋敷に戻るのかと思えば、そうではない。むしろ遠ざかっており、聞こえてくる音の種類は限られていた。
 鳥の囀りさえもが遠い。響くのは己らの足音と、木の葉が踏み潰される音。木々のざわめき。そして。
 とぷん、と水の音がしたのは、気の所為だろうか。
 大きなものが波穏やかな水中に沈み、優しく包まれていく。温かく、心地よい感覚が胸の辺りに広がって、小夜左文字は瞠目した。
「かせん、どこへ」
 前を行く男は左右をきょろきょろ見回し、なにかを探しているようだった。
 この辺りに特別ななにかがあったとは、記憶していない。一面秋色の森が広がるばかりで、吸い込む空気は土の匂いが濃かった。
 白っぽい花が樹上で咲き誇り、通り過ぎる時に爽やかな香りがした。しかし歌仙兼定は関心を示さず、無言で素通りしてしまった。
 様子がおかしくて、不安になった。いつの間にか知らない誰かに成り代わってしまったのではと、有り得ないことを考えて、背中が寒くなった。
「歌仙、待って」
「あれが良いかな」
 恐ろしくなって、声が震えた。
 必死の思いで吼えるが届かず、歌仙兼定は自分の調子を崩さない。我田引水の趣で、男は遠くを見やって呟いた。
 小夜左文字もそちらに顔を向けたが、どれのことを指しているのか分からない。これまで潜り抜けて来た紅葉の洞窟と、景色は殆ど違っていなかった。
 彼が見る世界と、自分が目にする光景は違う。
 愕然となって、短刀はサーッと青くなった。
「お小夜」
 その手を引いて、打刀が足を速めた。冷たく凍える指先を温めて、彼はとある木の下で立ち止まった。
 四方に枝を広げて、根本には無数の木の葉が散っていた。ずんぐりとした楕円形をしており、それが隙間なくびっしり地面を覆っていた。
 手を触れる者は誰もおらず、獣ですら踏み荒らしていない。風に踊らされるのではなく、自然と降り積もった落ち葉が一帯を埋めていた。
 一本の木を中心に、黄色が広がっていた。
 歌仙兼定はそのただ中に腰を下ろし、小夜左文字を膝に座らせた。逃げられないよう右腕で腰を抱いて固定して、短刀には右手を高く掲げるよう求めた。
 拳を解き、関節を伸ばして指を広げるよう促した。中指、薬指、小指の三本を折り畳むよう言って、親指と人差し指を真っ直ぐ伸ばすよう訴えた。
 そして彼自身もまた、左手を広げ、三本を折り畳んだ。
「歌仙」
「そら、出来た」
 完成したのは、上辺と底辺で長さが違う、やや歪な四角形だった。
 歌仙兼定と小夜左文字で二辺ずつを分け合った、それぞれの長さが違う枠だった。
 打刀ひと振りで作るものよりは小さく、短刀だけで作るものよりは大きい。
「どうだい、お小夜」
 ただそれだけで、どうと訊かれても困る。彼が何を意図してこんな行動に出たのかも、さっぱり読み解けなかった。
 詳細な説明が一切省かれており、なにがなんだか分からない。意味不明過ぎてどう切り返すべきかも思いつかず、頭はまるで働かなかった。
 だが歌仙兼定は屈託なく笑い、満足そうだった。
「ああ。もう」
 彼はそれを押したり、持ち上げたりして、短刀を翻弄した。空中で指の枠が分離して、慌てて追いかけて顔を上げて、小夜左文字は思わず息を飲んだ。
 ずっと、四角形は四角形のまま、形を維持しなければいけないと、そう思い込んでいた。
 けれど歌仙兼定の指が離れて、その延長に線が見えた。青く澄んだ空と、黄色と赤に彩られた光景が眼前いっぱいに広がって、指の動きに合わせて徐々に狭まって行った。
 再び歪な四角形に戻って、閉じ込めた景色は黄色一色だった。
 角度を変えれば、赤に埋もれた。今度は小夜左文字から動かして、青を織り交ぜ、緑を探して紛れ込ませた。
 打刀は首を伸ばしたり、縮めたりしながら瞳を動かし、変幻自在な枠の中身を追いかけた。その振動が背中を通して伝わって、小夜左文字は堪え切れずに噴き出した。
「歌仙は、本当に」
「うん?」
「いえ。なんでもありません」
 少し前まで胸を埋めていた黒い感情は薄れ、奥へと引っ込んでいた。白黒だった世界は色を取り戻し、目を見張る光景を演出していた。
 指の長さ云々の話ではなかったのだけれど、どうでも良くなってしまった。
 相変わらず馬鹿で、認識がちょっとずれている男に苦笑して、短刀は眩しい光に目を細めた。

もみぢ葉の散らでしぐれの日数経ば いかばかりなる色にはあらまし
山家集 秋 479

2017/08/31 脱稿

花咲きてこそ 色に出でけれ 結

 物吉貞宗は憂いでいた。
「やっぱり、みんな、買い被りすぎです」
 ぽつりと愚痴を零し、整えていた寝床から視線を上げた。
 落ち着いた調度品で揃えられた室内は広くもなく、かといって狭くもない。床の間には幸運を招き入れると言われる脇差が、鞘に収まったまま飾られていた。
 気になって手を伸ばし、少しだけ刀身を引き出した。
「はあ……」
 鏡のように美しく研がれているものが、いつになく曇って見えたのは、彼の心がそのまま表れていたからだろう。
 思わずため息を零して、元に戻した。綺麗に折り畳んだ戦装束を避けて、部屋の真ん中に敷いた布団と転がり込んだ。
 風呂に入って身を清め、今の彼は湯帷子一枚だった。
 細めの帯を二重に腰に巻き、それ以外は身に着けない。丈は踝までで、袖は少々短かった。
 ほんのり肌寒いけれど、我慢出来ない程ではなかった。上着を羽織ると逆に暑いくらいで、なにより身動きがし辛くなった。
 どんな時でも、あらゆる事態に対処できるよう、極力身軽でいたい。それは刀剣男士として、当たり前の考えだった。
 ただ今は、そういうことに頭が向かなかった。
 久しく使っていなかった自分の布団を撫でて、彼は室内を照らす細い灯明に目を眇めた。
 淡い橙色が、行燈の内側で揺れていた。黒い影がそれにつき従い、右に、左にと床や壁を這う。瞼を閉じても光は消えず、網膜に焼き付いて離れなかった。
 まるで、あの男だ。
 鮮烈な輝きを放つ霊刀は、お調子者で、元気が良い。それでいて己の役目に真摯に向き合い、全うした。
 写しであることに引け目を覚えず、むしろ誇りにしている雰囲気だ。本歌に劣るつもりはないと豪語して、それに見合う立ち位置を確立していた。
 彼は強い。
 気高く、眩しい。
 太陽のようで、直視出来なかった。太刀を手に敵を斬り伏せる姿は獅子さながらで、凛々しく、益荒男と呼ぶに相応しかった。
 それに比べ、脇差の線の細さはなんなのか。
「僕なんか、釣り合いませんよね」
 右手で左手首を撫でて、指を回し、太さを測った。
 楽々一周出来てしまう華奢な体格に、劣等感が膨らんでいく。嫌な感情が倍増して、とても眠る気になれなかった。
 外はすっかり闇に覆われ、月は姿を隠していた。星の煌めきは弱く、屋敷を照らすのは常夜灯や、吊り行燈の光だけだった。
 左右の部屋は静まり返り、話し声は聞こえてこない。そもそも隣室の部屋の主である鯰尾藤四郎は、弟らが暮らしている大部屋で眠っているので、静かなのは当然なのだが。
 残る脇差たちも、とっくに寝入った後らしかった。
 共同部屋に最後まで陣取っていたにっかり青江も、少し前に私室へ戻っていた。
 縁側に光が漏れるのは、今や彼の部屋だけだ。
 遠く、耳を澄ませば笑い声が聞こえたが、それは打刀か、太刀部屋のものだろう。
 きっと加州清光や大和守安定たちが、仲間たちと飲み明かしているのだ。一番可能性が高そうな刀剣男士を思い浮かべて、彼は寝間着の裾を引っ張った。
 油断すると、何故かすぐに肌蹴てしまう。
 帯は苦しくない程度に、しっかり結んでいた。寸法だって、体格にちゃんと合っている。
 だというのに、寝ている間に袖から腕が抜け、肩が露出した。胸元が広がって、太腿は丸出しだった。
 寝相は元々酷かったが、ひとりで寝ている間は、特に問題視してこなかった。他の刀たちもきっと同じと、身勝手に信じていた。
 そうではないと知ったのは、割と最近だ。堀川国広たちと遅くまで盛り上がり、そのまま彼の部屋で眠って、朝になって指摘を受けた。
 自分だけ違うと判明し、動揺した。以来なるべく気を付けていたのだが、ソハヤノツルキの前では決意も形無しだった。
 太刀だって、きっと呆れているに違いない。注意しても一向に改まらないものだから、三日目くらいからはなにも言わなくなってしまった。
 見るに見かねて、衿を整えられている時に目を覚ました時は、死ぬほど恥ずかしかった。
 ソハヤノツルキは飛び退いて、出来心でつい、と言い訳していた。
 それくらい、見るに堪えない状態だったのだ。
 思い出すだけで顔が熱くなるやり取りを頭から追い出して、物吉貞宗は両手で顔を覆い隠した。
 とんだ醜態を曝したものだ。もっと早い段階で、こうしておくべきだった。
 もう大丈夫と言って、今宵からはひとり寝を選択した。もともと太刀の部屋に出入りしていた理由が、仲間内からの入れ知恵による嘘なのだから、これで良かったのだと思っている。
 しかし今、とても心細い。
 敷き布団は脇差の体格に合わせたもので、太刀が使っているものより若干小さかった。
 にも拘らず、とても大きく感じられた。こんな広い空間で、ひとりで朝まで過ごすと考えると、気が遠くなりそうだった。
 ぶるりと震えが来て、袖の上から腕を擦った。二度、三度と往復させて、摩擦で身体を温めた。
 けれどとても足りなくて、逆にどんどん冷えていく。爪先の感覚が薄れて、端から崩れていくようだった。
「ソハヤさん」
 押し寄せる夜闇に、潰されてしまう。
 前のめりになって首を竦めて、彼は自分自身を抱きしめた。
 眠らなければいけないのに、寝るのが怖かった。灯りを消し、真っ暗な中で目を瞑るのが、どうしようもなく恐ろしかった。
 ずっと平気だったものが、急に駄目になった。たかが一週間、ソハヤノツルキと同衾しただけで、こうも変わってしまえるものかと、驚きが隠せなかった。
 許されるなら、今すぐにでもあの男の元へ走りたい。つまらない嘘を吐いたと白状して、思いの丈をぶちまけたかった。
「どうして、受け入れてしまったんでしょうね」
 堀川国広の口車に乗せられて、選択を誤った。
 押しても駄目なら、引いてみる。太刀の本心がどこにあるかを探るには、一旦距離を置き、遠くから観察してみるのが効果的、と教えられた。
 これまで当たり前だったものが失われて、向こうがどんな反応を見せるか。それにより、ソハヤノツルキの心が読み解けると力説され、つい頷いてしまった。
 助言に従い、一歩引いてみた。
 結果は、どうだろう。太刀はあっさり承諾し、期待したほど追及してこなかった。
 理由を聞いて、簡単に納得した。言葉の端々からは、役に立てたかどうか分からない、といった雰囲気が感じられた。
 必死に否定し、感謝を述べたが、伝わっただろうか。
 あの時のやり取りは、あまりはっきり覚えていない。変に思われないよう、平常心を保つのがやっとで、心臓はずっとバクバク言いっ放しだった。
 一方的に押しかけておきながら、一方的に終わりを宣言した。
 身勝手な刀だと呆れられ、嫌われてしまったらどうしよう。
 後悔が後から、後から押し寄せて来て、なにが正しかったのか、さっぱり見当がつかなかった。
「ぜんぶ、僕が悪いんです」
 ひとりで決められなくて、仲間に頼った。それで上手くいかなかったからと、仲間を責めるのは筋違いだ。
 それでも、恨み言が出てしまう。あそこで思い止まっていたならと、自分の決断を、他者の責任にすり替えて、強い言葉で詰りたくなった。
 明日からどんな顔をして、ソハヤノツルキと会えば良いのだろう。
 きちんと挨拶が出来るだろうか。
 ちゃんと目を見て話せるだろうか。
 素っ気なくされるのが嫌で、なんとかしたかった。急に他人行儀になった理由が知りたくて、でも聞けなくて、どうすれば良いか分からなかった。
 頭の中はぐちゃぐちゃで、ひとつのことに集中出来ない。目を閉じれば太刀の顔が浮かんでは消えて、締め付けられるように胸が痛んだ。
 知れず涙が溢れ、目頭がじんわり熱を持った。
 泣きたくなくてかぶりを振って、物吉貞宗は荒っぽく目尻を擦った。
「気分転換、しましょう」
 早く眠らなければならないというのに、睡魔が訪ねてくる気配は皆無に等しい。
 目が冴えて、心は静まらず、落ち着かなかった。
 涼しい風を浴びて、気持ちを入れ替える必要があった。荒療治で頭を冷やし、清々しい気分で朝を迎えたかった。
 それには身体を動かすのが一番だ。最も手っ取り早い方法を選択して、彼は言うが早いか立ち上がった。
 夜の庭を散歩するのもよし。屋敷内をうろうろして、飲み明かしている刀らの部屋へ押しかけるもよし。
「どうしましょう」
 障子を開け、縁側へと出た。音を立てないようそうっと閉めて、素早く左右を確認した。
 案の定、どの部屋も灯りは消えていた。中庭に設置された常夜灯はおぼろげな光を発して、大脇差に斬られないかとビクビクしていた。
 絶えず揺れ動く薄い影を眺め、恐る恐る一歩を踏み出す。
 鴬張りではない床はさほど軋まず、足音は響かなかった。
 それにまず安堵して、脇差は寝間着の上から胸を撫でた。一枚羽織って来た方が良かったと悔やむが、取りに戻る気は起きなかった。
 動いているうちに、自動的に温まると頭を切り替えた。さらには手っ取り早く暖を取る手段を考え、目的に定めた。
「台所、でしょうか」
 宴の賑わいに背を向けて、母屋へと進路を取る。こういう決断だけは迷わないのか、と自嘲して、左右の脚を交互に動かした。
 この本丸は、ふたつの建物が広い中庭を挟み、向かい合う形で構成されていた。
 南側が大座敷などを揃える母屋で、北側が刀剣男士の居住区。審神者は西側の竹林に別邸を構え、そこから滅多に出てこなかった。
 だから今夜も、この建物には刀しかいない。奥座敷には近侍が寝ずの番として控え、終わらない饗宴の声に苦々しい顔をしているはずだ。
 それに少なからず同情して、今日の近侍が誰だったかを思い出す。
「獅子王さん、だったでしょうか」
 太刀としては小柄な青年は、鵺退治の褒美として贈られた逸話を有する。どこぞの太刀と同じ金髪で、明るく元気な性格も似通っていた。
 そういえば彼は、ソハヤノツルキと仲が良かった。
 茶の一杯でも差し入れてやろう。日頃世話になっている礼だと思いを巡らせて、物吉貞宗は南北の棟を繋ぐ渡り廊を潜り抜けた。
 左右に広がる中庭は暗く、虫の声さえ聞こえなかった。常夜灯も消えており、星明かりだけが頼りだった。
 但し彼は、脇差だ。短刀には若干劣るものの、夜目が利く。この程度の暗さならば、慣れれば全く問題なかった。
 すいすいと段差を乗り越え、母屋へ繋がる木戸を潜った。正面に大きな衝立が現れて、急に明るくなった視界に瞬きを繰り返した。
「うう……」
 衝立の向こうは玄関で、行燈がふたつ、左右に据え付けられていた。油はたっぷり用意され、朝が来るまで火が消えることはなかった。
 夜遅くに遠征から戻る部隊があるので、彼らを出迎えるための措置だ。
 その為、ここだけが昼のような雰囲気で、頭が混乱した。
 左胸に手を添えて深呼吸し、瞳から入ってくる光の量を調整する。静まり返っている座敷の方を一瞥して、物吉貞宗は左に進路を取った。
 奥座敷や手入れ部屋に通じる廊下に背を向けて、東に進んだ。明るい空間が遠ざかり、足元に伸びる影は徐々に薄くなった。
 再び周囲が闇に呑まれ、静謐に包まれる。
 だがそれも一瞬で、顔を上げた彼の視界には、台所から漏れ出る光が映し出された。
「あれ?」
 深夜と呼ぶにはまだ早いけれど、それに準ずる時間だ。風呂を使う刀もないようで、窓から見える湯屋は真っ黒だった。
 だのに台所には、灯が灯っている。
 酒の肴を探している刀でもいるのか想像して、脇差は首を傾げた。
 夜遅くに腹を空かし、食べ物を漁る刀が居るとも聞いている。貴重な保存食をぼりぼり貪り、翌日使うはずだった食材を駄目にされた過去もあるとかで、物吉貞宗は警戒して息を殺した。
 慎重に歩を進め、壁に背中を預けた。開けっ放しだった引き戸に貼りついて、時間をかけて首を伸ばした。
 内部を窺い、目を凝らす。
「……ん?」
 真っ先に見えたのは、眩い金色だった。
 それが低い位置で、ひょこひょこ踊っていた。手前にある調理台に大部分が隠されて、頭の一部だけがはみ出していた。
 どうやら調味料などを保存している棚を開け、中を探っているらしい。
 塩や砂糖、醤油がぎっしり詰め込まれているそこに、食べ物は保管されていない。それは普段から料理当番として包丁を握る刀なら、誰もが知る事実だった。
 ということは、滅多に台所に立たない刀で間違いない。
 その上で金髪となれば、おのずと対象は絞られた。
「そんな。どうして」
 髪の毛を見た時は、近侍である獅子王かと思った。
 だが、違う。彼ではない。物吉貞宗よりずっと前から本丸にいる彼は、比較的料理が得意だった。
 となれば、残る刀はひと振りしかいない。
「ん~、ここじゃねえのか?」
「!」
 想像を巡らせ、悶々としている間に、目当てのものが見つからないのか、家探し中の刀が呟いた。不満を端々に感じさせる口調で、とても聞き覚えのあるものだった。
 散々脳内で反響していた音声が、くっきり、はっきりと耳朶を打った。
 膝を折って屈み、顎に手を置いて、眉を顰める姿までもがはっきりと思い浮かんで、物吉貞宗は騒然となった。
「ソハヤさん」
「んお?」
 無意識のうちに呟いて、それが思いの外大きく響いた。
 夜というのもあり、空気が冷えている。静かに広がっていった声に自分自身も驚いて、脇差は直後、ゴズッ、と轟いた振動に首を竦めた。
「いって~~~~!」
「ソハヤさん、大丈夫ですか!」
 反射的に立ち上がろうとした太刀が、抽斗の底に激突したのだ。
 自分で引き出しておきながら、失念していた。凄まじい音がして、棚どころか、物吉貞宗の足元まで揺れた。
 星が散らして蹲ったソハヤノツルキに、一秒後にハッとなって呼びかける。けれど返事はなく、痛みに悶絶しているのが窺えた。
 急ぎ調理台を回り込み、駆け寄った。彼が頭を打った抽斗を棚に押し込んで、跪き、姿勢を低くして顔を覗き込んだ。
 この場合、患部である頭部を真っ先に気にするべきだった。しかしそのことに気付いたのは、床すれすれの位置から太刀を仰ぎ見てからだった。
 苦痛に歪んでいた眼が、脇差を映した途端に大きく見開かれた。仄暗い中でもしっかり相手を認識して、表情を強張らせた。
 太刀は脇差と違って、夜目が利かない。それを証拠に、台所に配置された壁行燈や、蝋燭の殆どに、明るい橙色の炎が宿っていた。
 廊下を移動する際、手元灯りとして使ったのだろう。長い柄を持つ燭台が、調理台の上に残されていた。
 油の燃える微かな臭いが、鼻腔を擽った。
 しばらく無言のまま見詰め合って、先に身を引いたのは物吉貞宗だった。
「こんな、時間に。なにをなさっているんですか」
 語尾の上がらない問いかけは、質問というより、責めている印象を抱かせた。
 夜半遅くに部屋を抜け出し、台所の棚を漁っていた。目的は明白で、本来は訊く必要がないのだけれど、敢えて口にした時点で、彼の心理を読み解くのは容易だった。
 怒っている、と気取ったソハヤノツルキは、一部が乱れた金髪から腕を降ろした。未だじんじん響く痛みを耐えて、諦めがついたのか、照れ臭そうに笑った。
「まさか、お前に見付かるとはなあ」
 答えを濁すが、否定しないところからして、間違いない。
 盗み食いの現行犯で捕まった太刀は大人しく白旗を振って、力なく溜め息を吐いた。
「なんか、眠れなくってよ」
「ソハヤさん」
「寝酒の一杯でも、って思ったんだが。いや。ははは……はあ」
 両膝に手を置いて、乾いた笑みを浮かべた。明るく振る舞おうとして、結果的に失敗して、最後は溜め息で締めくくられた。
 肌色は優れず、瞳には覇気がない。口調は静かで、いつもの闊達さが感じられなかった。
 伏し気味の眼が、床の上を這った。物吉貞宗を見ない。それが哀しくて、脇差の少年は唇を噛んだ。
 直後に思ったのは、彼が眠れない原因が、もしや自分にあるのでは、ということだった。
 自分と同じように、ひとり寝に違和感を覚え、落ち着かないのではないか。ふた振りで一対の関係に慣れてしまい、単独での行動が馴染まなくなっているのではないか。
 もしそうだとしたら、嬉しい。
 そうであって欲しいと願い、腹の奥深くから歓喜が湧き起こった。
 にわかに興奮して、鼻息が荒くなりかけた。勝手に緩みたがる頬をけん制して、物吉貞宗は己を強く戒めた。
「あの、僕、も」
「うん?」
「なんだか、眠れなくて」
 勝手な想像で期待して、違っていたらどうする。後から哀しい思いをしたくなくて、暴走しそうになる心を律した。
 それでも口は、自然と動いていた。
 左胸に右拳を押し当てて、彼は昂ぶる感情を必死に抑えこんだ。
 膝立ちでにじり寄り、蹲る男に迫る。
 左手は宙を泳ぎ、太刀の太腿へ落ちた。指を大きく広げても半周させるのがやっとの筋肉を寝間着の上から探って、伸びあがり、間近から顔を覗きこんだ。
 呼気が肌を掠めた。
 彼が吐き出したものを飲みこんで、脇差は思いの丈を眼差しに込めた。
「おかしい、です、よね。平気だって……思ったのに」
 怖い夢を見たのは、ソハヤノツルキの寝床に潜り込むための作り話だ。
 だというのに、今では本当に、悪夢を見た気がした。
 かつての主が幸運の象徴である脇差を使い、腹を切る。それは物吉貞宗に恐怖心を抱かせるだけでなく、彼に与えられたふたつ名の否定をも意味していた。
 主君を介錯しておいて、なにが幸運を運ぶ刀だ。
 そんなことになれば、誰も彼を欲しがらない。形見分けの席では逆に厄介者扱いされて、不吉と誹られ、呪詛を受けていただろう。
 審神者だって、戦力として期待しない。そもそも、喚び出しもしないはずだ。
 こうやって数百年の時を経て、ソハヤノツルキと再会することもなかった。
 悪い方へ、悪い方へ思考が傾き、沈んでいく。それに合わせて視線も下がって、胸に添えていた右手が滑り落ちた。
 拳を解いて、だらんと脇に垂らした。笑おうとして失敗して、頬の筋肉がぴくり、痙攣を起こした。
 ソハヤノツルキへの思いが大きくなり過ぎて、自分で自分の過去を改変していた。記憶をすり替え、ねつ造して、これが真実であったかのように頭が誤認した。
 狡く、卑怯な手だとは分かっていた。けれど止められなかった。
 ぽっかり空いた穴を埋められるなら、なんだってする。彼を繋ぎ止められるなら、歴史に介入し、改竄するのだって厭わなかった。
「ひあっ」
 最低最悪なことを想像して、直後襲ってきた寒気に四肢が粟立った。
 ゾワッと内臓が沸き立ち、足元がぐらついた瞬間、伸びて来た腕が、華奢な体躯を強引に引き寄せた。
「物吉」
「――っ、あ」
 右腕一本で脇差の背を抱いて、ソハヤノツルキが前のめりになった。分厚い胸板に小柄な少年を抱え込み、細い肩に顎を置き、額を擦りつけた。
 狭い場所に閉じ込めて、熱で覆った。左腕も遅れて合流させて、掻き抱いた。
「すまない。お前を、あの時。俺は行かせるべきじゃなかった」
 昼間、部屋でのやり取りが目まぐるしく頭の中を駆け回った。
 後悔を口にした太刀に鼓動が跳ねて、物吉貞宗は零れ落ちそうなくらい、目を丸くした。
 最初に部屋を訪ねた時も、こんな風に抱き寄せられた。いや、それよりももっと荒々しい。義務感、正義感といったものだけでは説明出来ないなにかが、男の中に蠢いていた。
 再び彼に抱きしめられたのが嬉しくてならず、同時にそうさせたことへの申し訳なさが増大した。
 こうなるよう仕掛けたくせに、実現した途端に心苦しさで一杯だった。本当は違うのに、か弱い刀を演じて騙しているのが耐えられなかった。
「ちが、……ちがう。違うんです」
「物吉?」
 胸躍り、心が沸き立つのに、別のところが暗く澱んでいく。
 身体は熱を抱き、疼いて止まない。だのに頭の片隅からは、サーッと音立てて血の気が引いていった。
 自分がふたつに分裂したようだった。相反する感情を同時に抱え込んで、彼は堪え切れなかった涙をひとつ、頬に零した。
 かぶりを振り、ソハヤノツルキの胸を押し返した。
 薄い湯帷子一枚なので、鍛えられた身体がよく分かる。できるならずっと手を添えて、その熱に触れていたかったけれど、辛うじて残った理性がそれを許さなかった。
 束縛を振り解き、後ろへ逃げた。目の前に戸惑う男の顔が現れて、行き場を失った両手を彷徨わせていた。
 緋色の瞳は宙を泳ぎ、困惑がはっきり見て取れた。
 彼は純粋に、脇差を案じていた。不安を訴える少年を助けようと、義侠心を奮い立たせていた。
 そこに付け込んだ。
 なんと小賢しく、傲慢な考えだろう。
 己の気持ちばかり優先させて、太刀の優しさを利用し、踏み躙った。看過出来る行為ではない。許されて良いものではない。
 もしこの先ずっと、ソハヤノツルキが同衾を許したとしても、物吉貞宗はこのことを忘れない。それどころか、益々罪悪感を強めていく。
 もう二度と彼の顔を、真正面から見られない。
「どうした。何故泣く」
 静かに涙を流す脇差に、太刀は動揺を露わに声を震わせた。
 青褪めて、自分が原因かと的外れなことを言い出した。強く抱きしめすぎたか、乱暴だったか。痛かったのかと、矢継ぎ早に言葉を並べ立てた。
 焦り、怯え、顔を拭う少年に必死に弁解した。自分がいかに粗暴であるかを力説して、すまなかったと頭を下げた。
「違う、違うんです。ソハヤさんは、なにも。なにも悪くありません」
 それが余計に、物吉貞宗の心を締め付けた。
 こんなにも優しい太刀を騙し続けるなど、できない。辛い。苦しい。哀しくて、切なかった。
 両手を交互に動かし、涙を拭うけれど、感情は高ぶる一方で、次から次へと溢れて止まらなかった。
 息苦しさから鼻を啜り、喘ぎ、嗚咽を漏らす。口元を手で覆って、肩を上下させ、しゃくりあげ、下唇に牙を立てた。
「泣き止んでくれ、物吉。頼む。お前が泣いているのを見ると、こう……俺は、どうしていいのか分からない」
 たとえソハヤノツルキが原因でないとしても、目の前で涙を流す刀がいれば、助けたいと思うのがこの男だ。
 泣いている理由を教えるよう、真摯に訴え、眼力を強めた。唇を真一文字に引き結び、どんな言葉が投げかけられても良いように、腹の底に力を込めた。
 あらゆる状況を想定し、身構えた男の真剣さが伝わってきて、それで尚更涙が零れる。
 押しても駄目なら引いてみろ、と言われたが、それ以前に物吉貞宗が耐えられなかった。
「うそ、なんです」
「え?」
「全部、……嘘、なんです」
 下手な小細工を仕掛けたばかりに、自縄自縛に陥った。相手の善意を利用して、それで得た環境に満足出来なかった。
 本当に欲しかったのは、もっと別のものだ。だのに一時の感情に流されて、見て見ぬふりをした。気付いていたのに、目を逸らし、そこに胡坐を掻いていた。
 心地よかったから。
 都合がよかったから。
 そこで留めておけばよかったのに、欲を出した。
 我が儘を振り翳したばかりに、周りを巻き込んだ。迷惑を振りまき、自滅した。
「うそ?」
 掠れる小声を拾い上げ、ソハヤノツルキが目を丸くする。
 呆然と見つめ返す緋色の眼に、物吉貞宗は喉を引き攣らせた。
「ごめん、なっ、さい」
 息を詰まらせ、呻くように言った。僅かに遅れて頭を下げて、その体勢のまま動かなかった。
 顔を上げられなかった。太刀が今、どんな表情を浮かべているのか、目で見て確かめるのが怖かった。
 いっそこのまま、塵となってしまいたかった。彼の前から姿を消して、どこかに隠れてしまいたかった。
 相談に乗ってくれた脇差仲間にも、合わせる顔がない。こんなに惨めで、罪深い刀を、審神者はきっと許さないだろう。
「嘘って、なにがだ。なんのことだ、物吉」
 強い言葉で咎められ、責められると思っていた。しかしソハヤノツルキは、突然の話題転換に頭がついていかなかった。分からない、と首を捻って、床に落ちた小さな手に手を重ねた。
 微熱が触れた瞬間、心に積もる澱がスッと溶けていく気がした。優しくされる資格などないというのに、彼の気遣いが嬉しくて、つい顔が緩んだ。
「物吉、言ってくれ。でないと俺は、なにも分からない」
 それでも俯いていたら、急かされた。言葉で説明するよう催促して、太刀は指先に力を込めた。
 遠慮がちに握られて、それがまた心地いい。
 だが数秒後にはこれが失われるのだと思うと、背筋が凍え、止まっていた涙がぶり返した。
 大粒の涙が目尻に溜まり、床へ落ちた。衝撃で雫が砕け散る様になにを連想したのか、ソハヤノツルキは必死の形相で捲し立てた。
「言ってくれないか、物吉。俺は、馬鹿だから。お前にどうしてやればいいのか、分からないんだ」
 空いている手で胸を叩き、吼えた。顎を軋ませ、歯を食い縛り、目の前の脇差を救おうと必死だった。
 そんな彼だから、好きになった。
 想いを寄せた相手が彼で良かったと、心の底から思えた。
「内府様の、……夢を、見たと」
 全身から力が抜けて、ホッと息を吐いた。
 押し潰されそうだったのが嘘のように軽くなって、清々しい気分だった。
 顔を上げ、涙混じりに微笑んだ。重ねられたソハヤノツルキの手に手を添えて、弱い力で引き剥がした。
「え――?」
 男はぽかんとして、硬直した。抵抗を忘れ、床に置き去りにされた自身の手を直後に握りしめた。
 物吉貞宗は背筋を伸ばし、胸の前で左右の手を結びあわせた。掌を重ね、指を互い違いに絡ませ、ひとつの塊として頭を垂れた。
「騙していて、すみませんでした」
 祈り、或いは贖罪の仕草で告げて、目を瞑る。
 どんな罰でも受ける態度を示されて、ソハヤノツルキは瞬きを繰り返した。
「嘘? どうして。ええ?」
 真実を暴露されて、動揺が隠せなかった。一度として疑わなかったものが、偽りだったと言われても、にわかには信じられなかった。
 根底が覆され、訳が分からなかった。挙動不審に目を泳がせて、開きっ放しだった口を強引に閉じた。
 首筋に脂汗を流し、下向いている脇差をじっと見る。自身の頬をぺちりと叩き、爪で引っ掻いて、口元を覆って指先に息を吹きかけた。
 ずるずる滑り落ちていく手を放置して、肩の力を抜いた。床に沈めていた尻をもぞもぞ動かして、上半身を少し左に傾けた。
 倒れそうになったのを堰き止め、もう一度顔を覆った。状況を整理しようと懸命に頭を働かせ、指の隙間から覗く右目だけを脇差に投げた。
 深呼吸を三度繰り返してから、躊躇を投げ捨て、口を開いた。
「嘘、だったんなら。それはそれで良い。だが、なんだってお前は、そんな嘘を吐いたんだ」
 物吉貞宗が軽率にひとを騙す刀でないのを、ソハヤノツルキは知っている。だからこそ苦しみ、真実を吐露したのだ。
 それでも彼は、嘘を吐いた。
 後から辛くなると分かっていたはずなのに、太刀を、そして自身をも欺かなければならなかった理由は、いったい何なのか。
「物吉」
 それが分からないことには、先へ進めない。
 脇差を責めることも、糾弾することも出来なかった。
 男の声は落ち着いており、感情の起伏に乏しかった。懸命に怒りや苛立ちを抑えつけている、というよりは、未だ戸惑い、混乱している雰囲気だった。
 ないことを、あるように装って、何がしたかったのか。
 望みは何か。
 そうまでして叶えたかった願いとは、なにか。
 記憶から薄れつつあるやり取りを振り返って、ソハヤノツルキは眉を顰めた。
 渋面を作った彼に、物吉貞宗は苦笑した。照れ臭そうに首を竦めて、涙をまたひとつ、零した。
「すみませんでした」
 告げたのは、そのひと言のみ。
 詳細な事情の説明一切を拒んで、深く息を吐いた。
 言うつもりはないと、態度が語っていた。無責任となじられるのを覚悟して、思いを内に隠した。
 賢しい真似をして近付いておきながら、心まで欲しいと、どうして言えるのか。好きが高じてのことだったとは、言い訳にはならない。
 全ての咎は、自分にある。
「僕がいけなかったんです。僕が弱かったから。……ごめんなさい」
「物吉」
 ソハヤノツルキには、なんら非はない。彼が責任を覚える必要もない。
 彼は、被害者だ。
 言葉だけで許されるわけなどないけれど、頭を下げずにいられなかった。他に謝罪の術を持たず、これ以外思いつかなかった。
 説明がないまま謝られても、太刀は納得しないだろう。それでも、口を割るわけにはいかなかった。
 この想いは、穢れてしまったのだ。
 これから先、幾度となく、物吉貞宗は彼への感情を再認識する。眩い輝きに惹き付けられ、焦がされ、今日という日を思い出すのだ。
 それが罰だ。決して公に出来ない、してはいけない脇差が背負う罪だった。
「教えては、くれないのか」
「……すみません」
 だんまりを決め込む少年に、太刀は声を落とした。力の抜けた口調で囁いて、重ねて頭を下げられたのを受け、項垂れて背中を丸くした。
 ため息を吐き、鬣のような金の髪を掻き上げた。緩く首を振りながら舌打ちして、沸き立つ苛立ちを誤魔化した。
 失望させてしまったのが悔しくて、胸が痛んだ。彼がこんな顔をするところは見たくなかったのに、自分がそうさせてしまったのが、堪らなく恥ずかしかった。
「なあ、物吉」
「はい」
 やがて、ソハヤノツルキは静かに呼びかけた。
 罵詈雑言の気配を嗅ぎ取って、脇差は神妙な顔で頷いた。
 どれだけ罵られても構わなかった。それで太刀の気が済むのであれば、殴られるのも本望だった。
 居住まいを正し、肩から落ちかけた衿を引っ張った。眠ってもないのに勝手に着崩れる湯帷子を整えて、呼吸を鎮め、頭の中を空っぽにした。
 何を言われても、もう心は揺らがない。泣かない。喚かない。
 だからどうか、罪を背負わせて欲しかった。傷つけたこと、裏切ったことをなかったことには出来ないから、この先永遠に、罪業を胸に刻み続けよう。
 久しぶりに真っ直ぐ見つめた顔は、困っているようだった。言わんとしていた内容を忘れたのか、がりがりと頭を掻いて、ソハヤノツルキは首を振った。
「俺はさ、馬鹿だから。言ってくれねえと分からねえんだ」
「……すみません」
「だから、先に言っておく。逃げるなら、今のうちだ」
「はい」
「言ったぞ。逃げてもいいんだぞ。本気で、俺のこと殴るなり、ぶっ飛ばすなりしねえと、どうなっても知らねえからな」
「大丈夫です」
「本当に良いのか? 知らねえぞ。後からやっぱり嫌です、なんてのは言いっこなしだからな」
 くりゃりと髪を握り潰して、呻くように言った。次第に口調を荒らげ、早口になって、唾を飛ばして物吉貞宗に訴えた。
 理性で繋ぎ止めていたものを解き放ち、感情のままに怒鳴った。
 繰り返し確認し、何度も念押しした。少し諄いのではないか、と思うくらいに釘を刺してきて、都度脇差はしおらしく頷いた。
 どんな責め苦でも受けると決めた。
 罵倒され、打たれても、抵抗するつもりはなかった。
 勢い任せに吼えた太刀は、膝立ちになり、苛立たしげに床を蹴った。ダンダンと音を響かせ、脇差を驚かせた。
 わざと怯えさせ、こちらから逃げ出すように仕向けている。
 いったいなぜ、と目を丸くした直後、彼は顔を伏し、すぐに視線を上げた。
「っ!」
 その眼差しに、どきりとした。
 これまでとはまるで違う、戦場で垣間見るような鋭く、険しい、敵という名の獲物を見つけた時の眼光だった。
 射抜かれて、内側から震えが来た。全身がゾクッと波立ち、圧迫された心臓が悲鳴を上げた。
「ソハヤ、さん」
 呼ぶ声が震えた。押し潰されそうな恐怖におののいて、物吉貞宗は指先を痙攣させた。
 一度目が合ったが最後、逸らせなかった。緋に濡れた瞳に映し出された己の姿に、魂までもが囚われた気分だった。
 初めてこの太刀を、怖ろしいと思った。
 それと同時に、酷く憐れで、哀しい存在に感じられた。
 畏怖と愛慕が混じり合い、複雑な色を作り出す。それは虹色に輝くようで、斑に汚れているようでもあり、美しい一面と、そうでない一面が入り乱れた、なんとも言い表し難いものだった。
「……ソハヤさん」
「俺は、ちゃんと言ったぞ」
「はい」
 嗚呼、と脇差の少年は深く息を吐いた。
 その倍の量を吸いこんで胸に留め、頬を緩めた。
「ソハヤさんの、気が済むように」
 優しく告げて、目を細めた。顔をくしゃくしゃにして笑って、小さく頷いた。
 息を飲む音が聞こえた。ソハヤノツルキは驚いたのか、僅かに仰け反って、なにかを言いかけ、唇を噛んで堰き止めた。
 目を泳がせ、明後日の方角を見た。力なく首を横に振って、観念したのか頭を垂れた。
 そして。
「俺は、馬鹿だからな。すぐ勘違いしちまう」
「!」
 何度も繰り返される自虐的な台詞を、咄嗟に否定しようとして、物吉貞宗はぐっと堪えた。
 余計な合いの手を挟まないよう自制して、締め付けられるように痛む胸に手を添えた。
 ここに、心があるのだろうか。そんなことをふと考えた。
 刀剣男士は、刀剣の付喪神。器物に宿った想いの欠片の集合体だ。
 だから本来、刀自体に心など、ない。あるのは持ち主や、それに連なる人々の祈り、願い、憎悪、恐怖。
 ならばこれも、他の誰かが、他の誰かに抱いた感情なのだろうか。物吉貞宗自身に生じたものではなく、借り物の感情を、自分のものと錯覚しているだけなのか。
 違うと思いたかった。
「物吉」
「はい」
「俺は、今から。お前を抱く」
「……はい?」
 そうやって物思いに耽っていたから、ソハヤノツルキのことを忘れかけた。眼前で繰り広げられる百面相を見損ねて、聞こえたひと言には素っ頓狂な声を上げた。
 目を点にして、凍り付いた。
 あれやこれやと悩んでいたものが、遙か遠く彼方へと、まとめて吹き飛んだ。
 絶句して、動けなかった。頭の中は真っ白で、今し方告げられた台詞ひとつが、耳の奥で反響し続けた。
 間抜け面を曝して、瞬きを繰り返す。
 笑顔が引き攣った脇差を奇異に思ったのか、太刀は一呼吸置いてから眉を顰めた。
「ん?」
 清水の舞台から飛び降りる覚悟だったのに、どうも反応が鈍い。
 もっと驚くなり、嫌がるなりすると思っていたのに何故、と振り返って、彼は渋かった表情を徐々に強張らせた。
 それから約三秒後。
「……ち、ちちち、ちが、ち、ちがああああぁああ!」
 己が犯した重大な間違いに気が付いて、両手で顔を覆い、大声を上げて身悶えた。
 瞬時に顔を真っ赤に染めて、羞恥に打ち震えた。一番大事なところで言い誤ったと、台所の床に横倒しになって、海老が海底で飛び跳ねるかのように、膝を折ったり、伸ばしたりと繰り返した。
 勿論ここは地上なので、そんな事をしても逃げられない。
 この場から消え去るべきは自分だったと喘いで、泣きたい気分で歯軋りした。
「違う。違う、物吉。そうじゃない。そうじゃなくて、そうじゃなくて」
「だ、大丈夫、です。大丈夫です、ソハヤさん」
 自分よりも狼狽する相手がいると、妙に冷静になれるらしい。 
 ハッと我に返った脇差は、なにが大丈夫なのかと頭の片隅で思いつつ、悶絶する太刀を懸命に宥めた。
 ドッタンバッタン暴れ回られ、衝撃で埃が舞った。
 それを右手で薙ぎ払って、物吉貞宗は想像もしていなかった発言の主に手を伸ばした。
 言われた時は驚いたが、間違えた、と言われて少し安心した。ドキッとしたのは確かだけれど、今はそこまで頭が回らなかった。
 思考を放棄して、動揺したまま太刀の肩に触れた。仰向けに寝転がった男の膝を避けて、起き上がるよう促すつもりだった。
 ところが、だ。
「うっ」
 次の瞬間、手首が痺れた。骨が折れそうなくらいの痛みに、息が詰まった。ぐらっと来た直後、急変した視界に、意識は爆発寸前だった。
 男の顔が、すぐそこにあった。
 咄嗟に後ろへ下がろうとしても、強固な枷に阻まれて、右にも左にも、身動きが取れなかった。
「えええ?」
 理解が追い付かず、どうなったのか自分でも分からない。戸惑い、焦り、声を上擦らせて、物吉貞宗は真っ赤になっているソハヤノツルキに瞠目した。
 肩を掴もうとした手を、逆に奪われ、引っ張られた。重心が傾き、太刀に向かって倒れ込んだところで、腰に腕を回された。
 捕らえられた。
 脇差程度の力では振り解けないくらい強固に、華奢な体躯を束縛された。
「そ、ソハヤ、さん?」
「逃げろよ、物吉」
 これをどう解釈して良いか分からず、再び頭の中がぐちゃぐちゃに乱れた。
 そこへ追い打ちをかけるようにして、耳元で低く囁かれた。
 顔を伏した男が、物吉貞宗を抱きこんだまま身体を起こした。背中を浮かせ、床にどっしり腰を下ろした。
 手首は解放されたが、代わりに後頭部を抱えられた。色素の薄い髪に指を潜らせ、頭がい骨の形を確かめているようだった。
「早く。逃げてくれ」
 低く掠れた声は、太刀の心理状態を的確に伝えてくれた。
 切に祈り、懇願された。そのくせ脇差を抱きしめる腕は一向に緩まず、圧迫感は増す一方だった。
 逃げろと言いながら、逃がさないと態度が告げていた。言動不一致のソハヤノツルキに目を白黒させて、物吉貞宗は行き場のない手を蠢かせた。
 耳朶を擽る息遣いは荒く、苦しそうだった。
 どうにか救ってやりたくて、彼はその広い背に自らの腕を巻き付けた。
「っ!」
 触れた瞬間、太刀が大きく震えたのが分かった。
 耳を澄ませるまでもなく、肌を通して鼓動が伝わってきた。雄々しく、強く脈打ち、それでいて繊細に震えている。常よりもやや小刻みで、呼吸の間隔は短かった。
「なに、やってんだ。俺は、さっさと逃げろって。そう言ってんだ」
「いいえ」
「止めろよ。変な慰めとか、そういうのは欲しくねえ」
「そんなつもりはありません」
「勘違い、しちまうだろうがっ」
「構いません」
 この大きくて、小さな子供のような太刀への愛おしさが膨らんだ。
 駄々を捏ねて頭を振った彼を宥めて、物吉貞宗は太刀の湯帷子を握りしめた。
 布の皺に指を絡め、貼りついていた埃を撫で払った。下に隠れる皮膚さえ巻き込むくらいに力を込めて、深く吸い込んだ息をゆっくり吐き出した。
 静かに告げられて、ソハヤノツルキがまた震えた。
 後頭部にある手の所為で、顔を上げられないのが残念だった。彼が今どんな表情をしているのか、瞼の裏に思い描いて、脇差は声を殺して笑った。
「ふふ、……んふふ、ふふっ」
 けれど、我慢できない。抑えきれず、溢れ出るのを止められなかった。
 鼻から息を漏らし、喉を震わせた。小刻みに肩を揺らし、横隔膜を引き攣らせて、こみあげてくる感情に身を躍らせた。
「もの、よし」
「構いません。してください。……だから、僕も。勘違い、していいですか」
 突然笑い出した彼に怯えて、ソハヤノツルキが息を飲んだ。拘束が僅かに緩み、息がし易くなって、その隙を使って脇差はひと息に捲し立てた。
 背に回していた腕を胸元へ移し、衿を掴んだ。腕を動かした余波で右肩からするりと湯帷子が落ちたが、構わず、物吉貞宗は背筋を伸ばして太刀に縋った。
 胸に胸を押し当て、真下から覗きこんだ。
 緋色の瞳があらぬ場所を彷徨い、視線が合わないのに焦れて、勢い余ってその胸倉を掴んだ。
 直後。
「お前、……なで肩なんだな」
「それって今言わなきゃいけないことですか!?」
 衝撃で、残っていた左肩からも袖が落ちた。
 もれなく上半身が露わになって、布が肘の内側に集まった。あまりに場違いなことを言われてカッとなって、怒鳴り返し、それと入れ替わりに迫り上がってきた可笑しさには突っ伏した。
「ふっ、ふふ……はは。あははは、はは、あはははは」
「っは、ははは。くっそ……笑わせんじゃ……はははっ」
 真顔で言われただけに、拍子抜けだった。
 緊張が瞬く間に緩んで、数日分の笑いが襲い掛かってきた。
 あんなに悩み、苦しみ、辛さに耐えてきたことが、不意にどうでも良くなった。なんてくだらないことに悶々として、馬鹿みたいに考え込んでいたのかと、過去の自分を叱りたかった。
「はは、あはははは、ひはっ、やべ。苦しい」
「もう、変なこと、急に言うから。ふふっ、んふ、はは」
「変、じゃ、ねーだろ。お前の、はは、それ。なんでかって、ずっと、かんが、ってたけど……やべえ。なで肩かよ。すげえ」
「放っておいてください。好きでこうなったんじゃありません」
 白い歯を見せ、ソハヤノツルキが腹を抱え込んだ。目尻に涙まで溜めて喘がれて、物吉貞宗はムッとしながら衿を整えた。
 だが急いで直した所為か、上手くいかない。持ち上げ、手を放した途端にまた滑り落ちていって、それを見た太刀が一段と大きな笑い声を響かせた。
「ああ、もう!」
 上手く出来ない自分に、そして笑い転げる太刀に苛立ち、いっそ最初から全部やり直してやろうかと画策した。
 だが気取った男が一足先に衿を掴み、広げられようとしていたものを、逆に閉じた。そうっと左右の身頃を重ねあわせ、余った分は帯の下から引っ張った。
「そういうのは、村正の奴だけで充分だ」
「僕が脱ぐのは、駄目ですか」
「だめだ。俺の理性が危ない」
 黙って身繕いされて、不満が否めない。すぐに脱ぎたがる悪癖を持つ打刀を例に挙げられて、物吉貞宗は後に続いた小声に頬を膨らませた。
「べつに、いいのに」
 さっきは驚き、否定されてホッとしたが、今思えば勿体ないことをした。
 言質を取ったと迫り、既成事実を作ってしまえば良かった。
 否、急いては事をし損じる。
 機が熟すまで待つのは、嫌いではない。これから先もずっと、彼と一緒なのだ。
「このまま、……部屋に行って、いいですか」
 きっともう、ひとり寝でも平気だ。けれど寂しい。物足りない。
 熱が欲しかった。すぐ傍で、手を伸ばせば届く近さで。
「ああ。俺からも、頼む」
 同じ気持ちなのか、間髪入れずに返事があった。がりがりと金髪を掻き毟って、照れてか鼻を赤くして、ソハヤノツルキが頭を下げた。
 その仕草ひとつさえ、たまらなく愛おしい。
 ここで笑ったら拗ねるだろうと我慢して、不自然にならない程度に深呼吸を繰り返した。務めて平静を装って、抑えきれなえい喜びに胸を満たして、物吉貞宗は相好を崩した。
「はい。喜んで」

2017/08/27 脱稿

花咲きてこそ 色に出でけれ 続

 ソハヤノツルキは悩んでいた。
「う~~ん」
 胸の前で腕を組み、頻りに首を傾がせる。喉の奥から呻き声を響かせて、ガンガンする頭を懸命に支え続けた。
 目の前が暗いのは、瞼を閉じているだけが理由ではない。出口のない迷路に迷い込んだ気分で、憂鬱で、吸い込む空気はどれも苦かった。
 夜は良く眠れず、度々目が覚めた。暗がりの中で小さく、丸くなって、息を殺し続けるのは苦行だった。
 朝になればなったで、頭痛の種が待っている。
 額に脂汗を流し、唸って、彼は懸命に答えを絞り出そうとした。
「まだか」
 それを急かし、向かいから声が掛かる。
「待ってくれ、兄弟。あと少しなんだ」
 仕方なく目を開けて、ソハヤノツルキは右手を真っ直ぐ伸ばした。
 しばしの猶予を求めた彼の膝元には、将棋盤が鎮座していた。持ち運び易いよう軽量化されたもので、収納時は折り畳んで小さくなった。
 盤面はソハヤノツルキの一手を待ち、沈黙していた。状況はほぼ五分五分だが、若干大典太光世の方が有利に傾いている。それが分かっているからか、相対する太刀の表情にはどこか余裕があった。
 長くて邪魔な前髪を後ろに押し上げ、緋に濡れた鋭い眼光で兄弟分を射抜く。
 隙のない眼差しに怯みそうになって、ソハヤノツルキは懸命に己を鼓舞した。
「ええい。ままよ!」
 散々悩んだところで、決定打は見えてこない。
 ならばいっそ、思い切った行動をとるのみだ。
 覚悟を決めて、彼は桂馬で盤面を叩いた。
 パチン、と小気味よい音を響かせ、どうだとばかりに大典太光世を窺い見る。
 この手は予想していなかったようで、蔵入り天下五剣は神妙な顔で顎を撫でた。
「ふむ……」
 今度はあちらが、黙り込む番だ。目を眇め、戦況を端から端まで確認して、どこを攻め、どこを守るかの検討に入った。
 ひとまずこれで、窮地は脱した。ほっと胸を撫で下ろして、ソハヤノツルキは乾いた唇を舐めた。
 聞き取れない独り言をぶつぶつ言いながら、大典太光世が次の手を探して人差し指を躍らせる。それを向かい側からぼんやり眺めて、彼は胡坐を崩し、上半身を仰け反らせた。
 倒れないよう腕を支えに使い、深い意図がないまま視線を縁側に向けた。半端に開いた障子の隙間から明るい日差しが覗いており、むさくるしい男ふた振りが集う室内を優しく照らしていた。
 鳥の声はせず、獣の声も遠い。
 その原因たる太刀を一瞥して、パシッ、と響いた音に眉を顰めた。
「お前の番だ」
「……げえ。そう来るか」
 熟考の末に選び取られた答えに、ソハヤノツルキの顔がサーッと青くなった。
 折角切り開いた端緒を潰されて、強引に攻め続けるのが難しくなってしまった。
 状況が一気に不利に傾き、玉座の足元がぐらついた。このままでは数手のうちに詰んでしまうと冷や汗を流し、緋色の瞳を左右に走らせた。
 だが、妙案は浮かばない。目の前の勝負に集中したいのに、瞼を閉じる度に薄桃色の影がちらついて、気持ちが掻き乱された。
 今日も白い肩は細く、しなやかで、艶っぽかった。
 寝起きに垣間見た光景がふとした拍子に蘇って、どうしようもない雄の部分が力強く反応しかかった。
「どうした? 顔色が悪い」
「あんたに言われたくは、ねえな」
 そこへ声が飛んできて、咄嗟に言い返した。生意気な口ぶりで強気に構え、飛車に全てを任せた。
 この苦境を切り抜けるためには、ひたすら大胆に行動するしかない。慎重に行き過ぎて出遅れてはならないと腹を括って、意表を突く形で攻めに出た。
 ところが。
「本当に、それでいいのか」
「しまったあああああああ」
 大典太光世は淡々と言って、ソハヤノツルキが見落としていた歩を動かした。ここぞ、という場所で投入したつもりだったのに、あっさり捕縛されて、想定外の事態に彼は絶叫した。
 逆立っていた髪の毛を掻き毟り、頭を抱え、項垂れる。
 およそらしくない太刀の姿に眉を顰め、大典太光世は回収した飛車を手の中で躍らせた。
「近頃、少し、おかしいぞ」
 暇潰しの将棋は、これが初めてではない。これまでにも頻繁に、互いの手が空いた時に対局してきた。
 実力差は殆ど無く、勝敗は五分五分。けれどこの一週間近くは、ソハヤノツルキの一方的な敗北が続いていた。
 これでは遣り甲斐がなく、つまらない。
 もっと白熱した勝負を期待して、大典太光世は眉を顰めた。
 長い脚を斜めに投げ出し、楽な姿勢で飛車を自陣に置く。
 若干傾いている兄弟分を横目で窺って、鎮護の霊刀は小さく溜め息を吐いた。
 最早勝敗は決したようなものだが、悪足掻きを続け、盤面を操った。
「なあ、兄弟」
「なんだ」
「ひとつ質問なんだが。……物吉貞宗のやつを、どう思う」
「どう、とは?」
 ぱちん、ぱちん、と音が連続し、盤上の駒が少しずつ減っていった。玉座は丸裸に近くなり、王手は目前に迫っていた。
 それでもなんとか建て直そうとして、質問を返されたソハヤノツルキは指を引き攣らせた。
 触れる直前だった角を素通りして、なにもない場所を爪で削った。
 物吉貞宗は、徳川家康に所縁があり、所持者に幸運をもたらす脇差だ。世話焼きで、面倒見がよく、働き者で、いつも屈託なく笑っていた。
 最近は夜になると、ソハヤノツルキの部屋を訪れている。ふた振りで寝床を共にして、朝になると部屋に戻っていた。
 大典太光世は一時、それを勘違いした。後から必死の弁解を受け、誤解だと判明したが、その時の切羽詰まった様子もまた、今思えば奇妙だった。
「だから、その。良い奴だ、とか。あっと、……かわいい、とか」
「ああ」
 訊かれた内容が大雑把過ぎて、どう答えて良いのか分からない。具体例を求めた天下五剣の太刀は、例を示されて首肯し、何故か顔が赤い兄弟刀に目を眇めた。
「愛らしい刀だな」
「っ!」
 他者には分かり辛い笑みを零し、ぼそぼそ小声で言ったソハヤノツルキに同意する。
 直後に大袈裟に反応されて、彼は首を傾げた。
「かっ、かわ、かっ」
「どうしたんだ、兄弟。落ち着け」
「かかか、かわいい、とか。もももっ、もの、物吉がか?」
「お前が先に言ったんだろう」
 呂律が回らず、言葉になっていない。
 何度も息を詰まらせ、捲し立てて、手振りも交えて騒々しかった。
 膝立ちで暴れられて、将棋盤の上で駒が跳ねた。隣の駒とぶつかって、盤面が乱れた。
 下手をすると、ひっくり返ってしまう。慌てて手を伸ばし、盤の角を押さえて、大典太光世は狼狽激しい太刀に胡乱げな眼差しを投げた。
 ソハヤノツルキは肩を大きく上下させ、ぜいぜいと息を吐いた。合間に鼻を啜って、咥内の唾を飲み干した。
 顔は茹で上がった蟹よりも赤く、瞳の色に勝るとも劣らない。唇はわなわな震えており、そこだけ血の巡りが悪そうだった。
「……言った、か」
「ああ、言った」
「そうか。言ったか」
 やがて彼は、ぽつりと漏らした。
 力のない声に首肯してやれば、ソハヤノツルキはがっくり肩を落とし、畳の上に崩れ落ちた。
 立てた左膝に額を押し付け、俯いて、動かなくなった。両腕で頭部を囲って壁代わりにして、鼻を愚図らせ、言葉を発しなかった。
 沈黙が広がり、物音ひとつ響かない。
「物吉と、なにかあったか」
 勝負は決まっていないが、大典太光世の勝ちでほぼ決まりだ。これ以上は意味がないと諦めて、彼は問いかけを投げつつ、盤に散らばる駒を集め始めた。
 表裏を揃え、専用の小箱へ片付けていく。
 それを指の隙間から眺めて、ソハヤノツルキは右膝も起こした。
 三角に折り畳んだ脚を抱きしめて、その真ん中に顔面を押し込んだ。背中を丸めて小さくなって、低くくぐもった声で白状した。
「このままだと、俺がやばい」
「なぜ」
「……言ったよな。悪夢が怖いからって、あいつ」
「ああ。聞いた」
 切迫した状況を表現しようと、音量を絞った。大典太光世はそれをしっかり拾い上げ、淡々と切り替えした。
 皆が寝静まる時間帯、脇差の少年が太刀の部屋を訪ねるのには、理由がある。かつての主が己を使い、腹を切る悪夢を見た物吉貞宗が、それが現実になるのを恐れたからだ。
 彼ら刀剣男士は、歴史介入を目論む歴史修正主義者を討伐するのが仕事だ。けれど時間遡行軍は数が多く、どれだけ倒しても、倒しても、駆逐し切れなかった。
 ぼんやりしている間に、奴らはどんどん過去を変えていく。
 天下統一を成し遂げた武将もまた、奴らの格好の標的だった。
 夢で見た光景が、いつ現実と成り代わるかも分からない。
 怯える彼があまりにも哀れで、助けてやりたかった。自分にそんな力があるかは知らないが、己が霊力で悪夢から守ると、ソハヤノツルキは彼に約束した。
 以来物吉貞宗は、ソハヤノツルキの布団で共に眠るようになった。
 問題は、その後だ。
「なんでか、分かんねえんだけど。あいつ、すっげえ寝相、悪いんだよ」
「それも、聞いた」
 苦悩を押し殺し、金髪の太刀が吼える。
 淡々と合いの手を返して、大典太光世は役目を終えた将棋盤を半分に折り畳んだ。
 物吉貞宗は、それはそれは良い刀だ。性格は言うに及ばず、他の刀の為にいつも一生懸命だ。親切で、困っている刀がいれば放っておかない。料理の腕も悪くなく、教えられたことはすぐに覚えた。
 だが彼は、致命的に寝相が悪かった。
 暴れるのではない。頭と足の位置がひっくり返るわけでもない。
 ただ眠る前にきちんと着ていたものが、朝になると悉く肌蹴ているだけだ。
 それが原因で、ソハヤノツルキはあらぬ誤解を受けた。
 脇差にも繰り返し注意を促したが、一向に改まる気配がなかった。
 彼がひと振りで眠っていた時は、誰も問題視しなかった。聞けば太鼓鐘貞宗にも、同じような悪癖があるらしい。そこから類推するに、亀甲貞宗にも備わっている可能性が高いが、確認しようとは思わなかった。
 どれだけ腰帯をしっかり結んでおいても、衿を綺麗に合わせておいても、ひと晩過ぎればいつも通り。
 目覚めた瞬間に目にするものが、絹のように白い柔肌というのは、太刀でなくとも心臓に悪かった。
 しかもすやすや眠る顔は、成長しきらない少年特有の可憐さだ。
 適度に露わになった素肌と、安心しきっている無防備な寝顔。
「あんなの、目に毒過ぎるだろ」
 思い出すだけでも腹の奥が疼いて、背徳感は凄まじかった。
 抑えきれない欲望がむくりと首を擡げるのを、どうやって防げと言うのだろう。
 相手は自分を頼り、救いを求めて来た脇差だ。大切な仲間であり、本丸で共に暮らす家族のような存在だった。
 だというのに、近頃は彼の顔をまともに見られない。
 頻繁に戦場に出向き、敵と戦って発散出来ていたなら、問題はなかった。だが近頃は出陣の機会を短刀たちに奪われており、屋敷で留守番、という日が多かった。
 行き場のない欲望が高まって、昂ぶって、どうしようもなかった。
 眠る物吉貞宗を見ながら自身で処理した時の罪悪感は、半端なかった。
 もう駄目だ、止めようと思うのに、止められなかった。彼が起きてしまうのでは、とビクビクしつつ、荒ぶる熱を御し切れなかった。
「このままじゃ、俺は。あいつのこと、どうにかしちまいそうで」
「なら、別々で眠ればいいだけの話ではないのか」
「なんて説明するんだよ。お前をおかずにしてますって、言えるわけがないだろ」
 今はまだ、自分だけで熱を処分出来ている。
 だが放置すれば、いずれ過ちを犯す日が巡ってくるだろう。
「なぜだ。俺は、前田に言ったぞ」
「一緒にすんじゃねえ!」
 その前にどうにかしたいのに、助言を求められた男はさらりと言い放った。
 昔馴染みの短刀と懇意にしているのを、周囲に一切隠す気がない男の発言に、ソハヤノツルキは我慢ならずに大声で喚いた。
 咄嗟に空の湯飲みを掴んで、投げようとしたところでぎりぎり思い止まった。さすがにこれは不味いと我慢して、丸い盆にゆっくり戻した。
 と同時に深々と息を吐き、脱力して頭を抱え込んだ。
 大典太光世はなぜ怒鳴られたのか分かっていない顔で、不思議そうに瞬きを繰り返した。
「一緒にしては、いけないのか」
 率直な疑問を正直に述べて、疑問の解消に努める。
 それで益々頭痛を酷くして、ソハヤノツルキは苦々しげに口元を歪めた。
「そもそも、前提が違うじゃねえか。前田藤四郎は、兄弟、あんたを慕ってる。あんだだって」
 互いに好きあっているのであれば、別段問題ないだろう。肉欲を伴わない関係もあるにはあるが、ここにいる天下五剣と、彼と過去に所縁を持つ短刀は、それを大幅に飛び越えていた。
 本丸で再会を果たした後、両者の距離は急速に縮まった。現身を得た直後の不慣れな段階から、前田藤四郎は大典太光世を献身的に支え、精神的な拠り所となっていた。
 そんなふた振りが、特別な仲になるのに、障害が皆無だったわけではない。
 最難関は粟田口一派を率いる太刀、一期一振。
 しかしあの男でも、弟の懇願を退けるのは容易ではなかった。
 そうして現在、彼らは度々、隣の部屋で褥を共にしている。抱き枕、湯たんぽ代わり云々と表向きには言っているが、それだけでないのを、ソハヤノツルキは知っていた。
 彼らを羨ましく思ったのは、一度や二度ではない。
 あんな風に堂々と触れられたら、と幾度も願い、その度に虚しさを覚えてきた。
「お前は、物吉貞宗に惚れているのではないのか?」
「は?」
 口惜しさに唇を噛んでいて、問いかけを聞き漏らすところだった。
 きょとんと目を丸くした彼に、大典太光世は深く頷き、真顔で問い詰めた。
「んなっ、な、なに。ななななに、なにを、ここっ、こん、こん、きょ、に」
「違うのか?」
 それでカアッと赤くなって、ソハヤノツルキはしどろもどろに捲し立てた。何度も息を詰まらせて、動揺を露わに身を捩った。
 挙動不審が過ぎる態度に淡々と問い返し、将棋盤を撫でた太刀が眉を顰める。鋭い眼光で兄弟刀を射抜いて、返答を迫った。
 威圧されて、ソハヤノツルキは竦み上がった。ぶるっと全身を震わせて、奥歯をカチカチ噛み鳴らし、鼻から息を吸って、口から吐きだした。
 仰け反って後ろへ倒れた身体を整え、足を組んで座り直した。猫背になって頭をガシガシ掻き回し、落ち着きなく視線を泳がせ、口元を覆い隠した。
「よく、分かんねえ……」
「好意があるから、身体が反応するんだろう」
「ただの生理現象かもしれないだろ」
「ならば同衾する相手が、物吉貞宗以外でも、同じになると言えるのか?」
「それは」
 言葉に迷い、断定を回避する。
 それが臆病に映ったのか、追及する大典太光世は珍しく多弁だった。
 再び言葉に詰まって、金髪の太刀は己の掌を見た。中途半端に指を曲げ、なにかを掴む寸前の仕草で固定して、空っぽの内部に焦点を定めた。
 目を瞑らずとも、脇差の姿がそこに現れた。子犬のようによく走り回って、ころころと表情が変化し、見ていて飽きない。笑顔が一番似合うが、刀を手にし、敢然と敵に立ち向かう横顔は凛々しかった。
 控えめな照れ顔、大喜びする仕草。困った時には首を右に傾がせて、嬉しい時は両手を叩くのが癖らしかった。
 短刀たちの面倒をよく見て、中でも包丁藤四郎には特に気を掛けている。
 慣れた手つきで縫い物をする光景が浮かびあがり、不意に顔を上げてソハヤノツルキを見た。
「っ!」
 幻に微笑みかけられて、どきりとした。
 心臓を鷲掴みにされて、動悸が止まらなかった。
 他の刀が相手では、こうはならない。ましてや寝所を共にしようなど、絶対に思わない。
 物吉貞宗だけだ。
 彼だけが、ソハヤノツルキの心を波立たせた。
「ちっくしょ……」
 外堀を埋められて、認める以外術がない。両手で頭を抱え込んで、彼は潔く白旗を振った。
 降参だ。よりによって兄弟刀に言い負かされた。蔵の中で黴臭く湿気ていたくせに、さすがは天下五剣と言うべきなのか。
 失礼千万な評価を心の中で並べ立て、ある程度落ち着いたところで深く息を吐く。
 自分で乱した髪の毛を雑に整えて、額を晒し、苦虫を噛み潰したような顔をする。
「ああ、そうだよ。惚れてるよ。あいつは世界一、可愛い奴だよ」
 長らく腹の底に溜め込んでいた思いを膨らませ、正直に吐き出した。右腕を横薙ぎに払い、ぐっと拳を作った。
 その宣言に、大典太光世の眉がピクリと反応した。
「それは違う。世界一愛らしいのは、前田だ」
 本題とは異なる部分に反応し、食って掛かった。この世で最も慈しむべき存在を声高に告げて、真っ向から否定した。
 力強く訂正されて、看過できなかった。聞き捨てならないと小鼻を膨らませて、ソハヤノツルキは拳を作った。
「冗談言っちゃあいけないぜ、兄弟。物吉の方が、百万倍可愛いに決まってる」
「それこそ、戯言だ。前田の愛らしさが、お前には何故分からない」
「物吉だ」
「前田だ」
「もーのーよーしーだー!」
「前田において、他にいない」
「正直に認めろよ。物吉が一番だっての」
「お前こそ、常識を理解しろ」
「兄弟こそ、現実を見ろよ。絶対に物吉だって」
「前田以外有り得ない」
「だから――」
「あ、あのぉ……」
 互いに譲らず、口論が熱を帯びていく。
 殴り合いの喧嘩にまで発展しかかったそれを止めたのは、廊下に通じる襖から顔を出した少年だった。
 申し訳なさそうに首を竦めて、ぴたりと停止した太刀ふた振りに恐縮し、頭を下げる。
 ひと房だけ色が異なる髪を揺らして、物吉貞宗は困った顔で目を細めた。
 苦笑いを浮かべ、邪魔をしたかと仕草で問うた。それではたと我に返って、拳を振り上げていた太刀は熟れ過ぎた林檎のように赤くなった。
「も、もの、よし。お前、いっ、いつ。いつから」
「ええっと。今、です。名前が、聞こえたものですから、つい」
 狼狽しつつ問いかけて、下ろした腕を支えに四つん這いになった。崩れ落ちかけた身体を支えて蹲り、明後日の方向を見ている脇差に目を白黒させて、スススと動く影に急ぎ振り返った。
 見れば大典太光世が、将棋盤を抱えて縁側から出ていくところだった。
 去り際にひらりと手を振ったのが、健闘を祈る、と告げているようだった。
 もっともソハヤノツルキには、無責任に逃げ出したようにしか映らない。無言の声援も糧にはならず、目の前が真っ暗に沈んでいくようだった。
「あの、……?」
「うわあ、すまん!」
「え?」
 中庭の方ばかり見て、物吉貞宗の存在を頭から消していた。
 呼びかけられて反射的に謝ってしまい、部屋の中で飛び跳ねた太刀は、きょとんとする脇差に総毛立った。
 お互い、なにを謝り、謝れているかが分からない。
 咄嗟に出た言葉なので格別意味はないのだが、後付けで理由を探そうとして、ソハヤノツルキは虚空を見た。
 謝罪する必要があるとするなら、明け方、彼の半裸を前に自らを慰めたことだろう。大切な仲間なのを承知で情欲を抱き、彼が淫らに乱れる光景を、頭の中で幾度となく思い描いた。
 純粋無垢という言葉がぴったりくる少年を、己の欲望で穢した。
 この事実が知れたら、軽蔑されるだけでは済まない。
 そういう後ろめたさが、無意識に働いていた。
「いえ、こちらこそ。勝手に入ってしまって」
「違うんだ、物吉。ええと、その……そういうんじゃ、なくてだ」
「はい?」
 両手を揃えて頭を下げた脇差に、更なる弁解を試みて、墓穴を掘った。
 そもそもなにを言おうとしていたのかすら思い出せず、言葉を詰まらせて、ソハヤノツルキは意味もなく両手を振り回した。
 一旦深呼吸して落ち着こうとするものの、琥珀色の瞳に見つめられた途端、全身が戦慄いた。あらゆる汗腺からドッと汗が噴き出して、身動きが取れなかった。
 きちんと身なりを整え、一分の隙もない物吉貞宗の姿に、今朝目にした寝乱れた像が重なった。不思議そうに首を捻る顔が、頬を上気させて目元を潤ませる妄想と混じり合い、ゾワッと背筋が寒くなった。
 聞いたことなどないのに、甘く濡れた声で名を呼ばれた錯覚に陥った。
 欲情し、快楽に溺れ、淫らに喘ぐ吐息が耳朶を擽り、寒気が止まらなかった。
「ソハヤさん?」
「いや、えっと、そのう……めっ、珍しいな。俺になにか、用、か」
 そこに、凛とした少年の声が割り込んできた。
 至って平々凡々とした、普段耳にするのと同じ調子で呼びかけられて、ソハヤノツルキは溢れ出そうになった様々なものをぐっと押し留めた。
 丹田に力を籠め、歯を食いしばった。体内で蠢いている熱を懸命に抑えつけ、早口で問いかけた。
 言ってから、自意識過剰だったかと不安になった。彼が寝起きする部屋は太刀部屋区画の中にあり、左右や向かいにも沢山部屋がある。他の刀剣男士に用事があったのかもしれないのに、自分を訪ねてきたと早合点して、口が滑ったのが恥ずかしかった。
 もっとも、これは杞憂だった。
「僕の名前が、聞こえた気がしたので。ソハヤさんに用があったのは、確かですけど」
「あ、あははははは。そ、そうか」
 脇差が入室の許可を得る前に襖を開けたのは、室内から大声でのやり取りが響いていたから。
 大典太光世との白熱した論議に。周囲の環境のことをすっかり忘れていた。部屋の主である太刀は乾いた笑いを浮かべ、声が大きい自分を密かに恨んだ。
 もっと早い時点から盗み聞かれていたら、どうしよう。
 懸念は拭えないものの、物吉貞宗が嘘を言うとも思えない。
 今は信じることにして、胸の中で神仏に祈り、行き場のない手で鼻の頭を掻いた。
「いや、ちょっとな。兄弟と、誰の煎れた茶が、そう。茶を上手く淹れられるのは誰か、ってな」
「はあ」
 なんとか誤魔化そうとして、不意に思いついた案を素早く舌に転がした。
 大典太光世が短刀の名を連呼していたのも、間違いなく聞かれている。このふた振りに共通する事案を探して、出て来たのが茶の話だった。
 どちらの刀も、太刀らの面倒をよく見てくれた。小腹が空いた時には、間食と共に温かい茶を供してくれた。
 その話題から発展したのだと、調子良く告げて、真実を覆い隠す。
 物吉貞宗は緩慢に頷いて、しばらく黙った後、面映ゆげに首を竦めた。
「僕なんか、まだまだです。前田君の方が、ずっと美味しいお茶を煎れてくださりますよ」
「へええ。なら今度、頼んでみるかな」
「でも、ソハヤさんがそう思ってくださったのは、とても光栄です」
 手作りの料理や、菓子の感想なら述べたことはあるが、茶にまで及んだことはなかった。咄嗟に出た嘘だったのだが、脇差は素直に信じて、嬉しそうに頬を緩めた。
 それがあまりにもあどけなく、無垢なものだから、二の句が継げなかった。
 純粋過ぎる笑顔が胸に突き刺さって、罪悪感は半端なかった。
「ぐぅぅぅ」
「ソハヤさん? どうかしたんですか?」
 自身の穢れぶりをも強く意識して、心が激しく痛んだ。押し潰されそうな感覚に呻いて、伸びて来た白く細い手を咄嗟に跳ね返していた。
 黄金色の瞳が、蒼白になっている太刀の姿を大きく映し出す。
 たったそれだけのことでも、彼を汚している気分になって、ソハヤノツルキは口籠もった。
「なんでも、ねえ。大丈夫だ。それより。用って、なんだ」
 そんなつもりはなかったのに、咄嗟に叩いてしまった。さほど力が入っていなかったので、痛くなかったとは思うが、自分が物吉貞宗を打ったこと自体が衝撃的で、動揺が否めなかった。
 脇差の方もしばらく惚けた顔をして、訊かれたのに答えなかった。呆然と突っ立って、数秒してからハッと息を吐いた。
「えっと、そうですね。えっと。あの」
 急にピンと背筋を伸ばしたかと思えば、間誤付いて、慌ただしく両手を振り回した。挙動不審に身を捩って、猫背になって顔を伏した。
 胸の前で結びあわせた手を弄り、爪の生え際を頻りに撫でて、黙り込む。
 変なところで言葉を切った彼に、ソハヤノツルキは眉を顰めた。
「物吉?」
「今夜、なんですけど」
「え? あ、ああ。なんだ。遅いのか?」
 沈黙が重く、気持ちが落ち着かない。訳もなく緊張して、汗が止まらなかった。
 空気がピリピリして、棘のように腕に刺さった。ようやく聞こえた小さな声に無性にホッとして、金髪の太刀は唇を舐めた。
 ここ一週間ほど、物吉貞宗はソハヤノツルキの部屋で眠っている。悪夢に怯え、ひとり寝を怖がった彼の為に、寝床を提供していた。
 今宵も、当然訪ねてくるものと疑わなかった。遠征か、もしくは屋敷内の仕事で遅くなる可能性を考えて、待てばいいのか、先に休んでいようかと、頭の中で計画を立てた。
 ところが、だ。
「いえ」
 投げかけられた疑問に、脇差は首を振った。動きに合わせて言葉を紡いで、握り締めた両手を胸に押し当てた。
 口を真一文字に引き結んで、顔を上げた。覚悟を決めた表情で見つめられて、雰囲気の変化に、ソハヤノツルキは戸惑いを露わにした。
「物吉」
 嫌な予感が膨らんで、言わせてはならない気がした。
 根拠はないが、直感した。反射的に手を出して、華奢な肩を掴もうとした。
「もう、あれから、嫌な夢は見ていません。だから。これ以上、ソハヤさんにご迷惑をかけるわけには」
「――え」
 けれどそれより先に、告げられた。
 ひと息のうちに捲し立てられて、あまりの早口に、全部を聞き取れなかった。
 いや、聞こえていた。だが頭が理解を拒んだ。目の前が真っ白になって、行き場を失った手が虚空を掻き回した。
 指先を蠢かせ、ゆっくり引っ込めた。物吉貞宗はそれが見えていたはずだが、特に言及はせず、瞬きを減らして太刀を見詰め続けた。
 きゅっと唇を噛み締めて、真剣な眼差しで男の反応を窺った。息さえ殺し、一挙手一投足を逃さず確認して、荒れ狂う鼓動にごくりと唾を飲んだ。
 ソハヤノツルキは軽くふらついて、左足を後ろにずらした。爪先を畳に擦りつけて重心を低くし、右手で頭を抱えて、金色の髪をくしゃりと握り潰した。
「なんだ。そう、か」
 その可能性を、どうしてだか一度も考えたことがなかった。
 物吉貞宗はこの先もずっと、自分の寝所で夜を明かしていくものと、勝手に決め込んでいた。悪夢がいつ忍び寄ってくるか分からないから、未来永劫、自分の霊力で彼を守り続けるものと、信じて疑わなかった。
 たった一週間。
 けれど一週間、脇差の身にはなにも起こらなかった。
 もう安心だと、彼が思うのは当然だ。霊刀はその実力をいかんなく発揮して、結果を残した。
 物吉貞宗は、端からそれが目的だった。それ以上は望んでいない。太刀は晴れてお役御免となった。ひと組の布団を分け合って、狭苦しい思いをしなくて済む。
 万々歳だ。
 だのに、この虚無感はなんだろう。脇差の役に立てたというのに、ちっとも嬉しくない。それどころか衝撃が強すぎて、息継ぎさえ巧く出来なかった。
 頭がくらくらした。全身から血の気が引いて、倒れてしまいそうだった。
「そうか。そりゃ、よかった」
 それとももしや、気付かれたのだろうか。
 白一色の寝間着から覗く太腿に興奮し、鼻息を荒くしていたことを。
 見てはいけないと思いつつ、衿から覗く細い鎖骨や、薄い胸板、小さくて可愛らしい臍までを目に焼き付けていたことを。
 男としての欲望の捌け口に使ったことを。
 無防備で、無抵抗なのを良いことに、こっそり柔肌に触れ、絹のような滑らかさを堪能していたことを。
 彼に、知られてしまったのか。
「……すまねえ」
 謝って済まされる問題ではないが、意図せずして声に出していた。
 情けなくて、惨めで、この世から消えてしまいたかった。
 事が露見したら、本丸にはいられない。最低な奴との謗りを受けて、後ろ指を指されながら過ごす日常は地獄だ。
「どうして、謝るんですか。ソハヤさんのお陰で、僕は、……はい。とても。とても、幸せでした」
「物吉?」
 けれどどうやら、心配は杞憂だったようだ。
 脇差の少年は太刀を糾弾することなく、逆に深々と頭を下げた。言葉尻は小声過ぎて聞き取れなかったが、背筋を伸ばした彼の表情は晴れやかだった。
「迷惑だなんて、俺は。全然」
「でも、やっぱり、嫌でしょう。僕、……寝相が悪いですし」
「俺は気にしてねえって。むしろ御世話に……げふんげふっ、んんっ」
「大丈夫ですか?」
 取り越し苦労だったのは助かったが、このままでは寝所が別になる。迷惑に思ったことは一度もないと、引き留めを図ったが、口が滑り掛けて青くなった。
 それに、あまりしつこく言い過ぎると、却って怪しまれる。
 これ以上墓穴を掘らないためにも、ここは一旦、引き下がるべきと思われた。
 下手を打ち、嫌われたくなかった。
「大丈夫だ、すまん。またなにかあれば、言ってくれ。俺に出来ることなら、力になろう」
「はい。ありがとうございます」
 表面上取り繕って、平静を装い、告げる。
 細かく震える手で肩を叩かれて、物吉貞宗はにっこり微笑んだ。
 咲き誇る花でさえ色褪せる笑顔を浮かべ、改めて頭を下げた。深々とお辞儀して、上手く笑えずにいるソハヤノツルキから離れた。
 追い縋ろうとする手を堰き止めて、太刀は奥歯を噛み締めた。顎が砕けるまで力を込めて、襖が閉まるまでその場に立ち尽くした。
 小さな足音が徐々に遠退いて、やがて完全に聞こえなくなった。直後に膝から力が抜けて、彼はへなへな、とその場に崩れ落ちた。
「うあっ」
 尻餅をつき、痛かったが、動けなかった。腰が抜けたようで、腕を支えにしても、起き上がれなかった。
 惚けた顔で瞬きを繰り返し、脇差がつい今しがたまで立っていた場所を見る。
 そこにはなにもなく、ただ白一色の襖が陣取るだけだった。
「なにやってんだ、俺は」
 あそこで聞き分け良く振る舞わず、思いの丈をぶつけていたら、どうなっただろう。
 当たって砕けるのが、自分の性分だ。思い切って突き進む、突っ走る。脇目も振らず、己の力を信じて。
 それなのに、臆病風に吹かれた。およそ自分らしくない。決めかねて、二の足を踏んだ。本音を隠し、ごまかし、取り繕い、逃げた。
 あれこれ屁理屈を捏ねて、意志を撤回させることだって出来たのに、しなかった。動揺して、少しも冷静でなかった。
 秘めた思いを悟られて、気味悪がられるのが怖かった。嫌悪感を向けられ、笑いかけてくれなくなるのを恐れた。
 好きだから、踏み出せなかった。
 好きなのに、踏み込めなかった。
「あ~~~……」
 立ち上がるのを諦めて、ソハヤノツルキは仰向けに寝転がった。部屋の真ん中で大の字になって、木目がはっきり表れている天井を何とはなしに眺めた。
 横になったまま上着の袖を伸ばし、皺を手繰った。枝に引っ掻けて破り、縫い繕われた場所を探り当てて、ほんの少しだけ違う色味に目を細めた。
 これがなければ、彼を特別視しなかった。
 冗談のつもりで茶化した時、いやに可愛らしい反応を見せられた。今思えば、それが始まりだった。
「やべえ。地味に、きつい」
 時間が経つにつれて、物吉貞宗に言われたことが頭をぐるぐる廻り始めた。
 今宵から、別々で眠ることになった。元に戻っただけなのに、この一週間が濃密すぎて、付き合ってもいないのに別れ話をされた気分だった。
「まじで……死にそう」
 いつになく落ち込んで、涙が滲んだ。それを手の甲で擦って、彼は額の上で腕を交差させた。

人しれず思ふ心はふかみ草 花咲きてこそ色に出でけれ 
千載和歌集 恋一 684

花咲きてこそ色に出でけれ 始

 ここ数日、物吉貞宗の顔が随分と面白いことになっている。
 簡素な造りの卓袱台を挟んで、にっかり青江は湧き起こる笑いを懸命に堪えた。
 右斜め向かいに座る短髪の脇差は、俯いて溜め息を零したかと思えば、突如背筋を伸ばしてぶんぶん首を横に振った。懸命に自身を奮い立たせようという素振りを見せて、その数秒後には猫背になって深く肩を落とした。
 百面相とは、こういうことを言うのだろう。
 うっかり噴き出さないよう腹筋に力を込めて、大脇差は頬杖つく手を入れ替えた。
「ただいまです~」
「喜べ。豊作だ」
 そうしているうちに、障子が開き、脇差仲間が帰ってきた。常に行動を共にしている鯰尾藤四郎と、骨喰藤四郎の登場に、にっかり青江は嗚呼、と首肯して居住まいを正した。
 一方で物吉貞宗は物思いに耽り、下を向いたままなにやらぶつぶつ言っている。
 丸めた人差し指を口元に添えて、黄金色の眼はどこか別の場所を見詰めていた。
 心此処に在らず、と表現するのが正解か。
 再び頬杖ついた大脇差の前で、藤四郎ふた振りは運んできた盆を卓袱台に並べた。
 直径一尺弱の丸盆をふたつ置いただけで、卓上はいっぱいになった。最初からあった菓子盆はほぼ空で、遠慮の塊となった煎餅が、落ち着かない様子で身を捩っていた。
 その菓子盆を隅に追い遣り、鯰尾藤四郎が胡麻団子を大量に盛り付けた皿をどん、と真ん中に置いた。
 空になった丸盆は卓袱台の足元に置いて、細く湯気を立てる甘味相手に胸を張る。
 骨喰藤四郎は大きめの茶瓶と、小さめの湯飲み茶碗を次々に並べ、手際よく茶を注いでいった。
 茶碗自体は六個だが、今ここにいるのは四振りだけ。
 余った二個には何も注がず、片隅に避けて、物静かな少年は浮かせていた腰を下ろした。
「こんなに沢山、入り切るかな……口にだよ?」
「鼻から突っ込んで欲しいんですか?」
「耳じゃなかっただけ、良かったと思うことにするよ」
 台所へ八つ時の菓子を受けとりに行っていた彼らに感謝しつつ、ちょっとした冗談に真顔で返されたのには苦笑を禁じ得ない。
 大袈裟に肩を竦めて首を振って、にっかり青江はまだ熱を持っている団子に手を伸ばした。
「ありがとう」
 横から温かい茶を差し出され、先にそちらを受け取って、改めて胡麻団子を抓み取る。
 表面をサッと油に潜らせただけのそれは、外側がカリッとして、内側はもっちりした柔らかさを残していた。
 中心部に漉し餡が入っており、三段階の触感と味わいが楽しめて、なんとも言えない美味しさだった。
「これは、誰が?」
「獅子王と、小烏丸さんです。といっても、小烏丸さんは胡麻を塗してただけですけど」
「弟たちも手伝っていた」
「へえ。どうりで、小さくて可愛らしいと思ったよ」
 太刀としては小柄な部類に入るふた振りを中心に、短刀たちが集まって、賑やかに作っていたのだろう。光景は楽に想像出来て、にっかり青江は二個目の胡麻団子をまじまじと見つめた。
 口の中に放り込んで、胡麻の香ばしさと、餡子のまろやかさをじっくり堪能する。
 すっかり甘くなった咥内を茶で濯ぎ、ひと息吐いたところで、彼は置物状態の同胞に視線を戻した。
「物吉?」
 物吉貞宗は依然として明後日の方向を見詰め、菓子にも、茶にも、反応しなかった。
 さすがに可笑しいと思ったらしく、骨喰藤四郎が眉を顰める。
「どうしたんですか? あれ」
 鯰尾藤四郎も脇差仲間を指差して、声を潜めた。
 なにか知っていると思われたようだが、にっかり青江だって事情は良く分からない。場所柄の所為か、脇差ばかりが集まる共同部屋を訪ねてきた時から、彼はずっとこの調子だったのだ。
 この本丸の建物は大きくふたつに分かれ、南側にあるのが大座敷や台所などが備わっている母屋だ。一方北側には刀剣男士らの私室を集めた居住区があり、ここは脇差が主に生活する区画の中だった。
 向かいには中庭があり、縁側から緑豊かな景色が堪能出来た。
 少し前までそこで後藤藤四郎が竹刀を握って素振りをしていたが、鯰尾藤四郎たちと一緒に台所へ向かい、そのままだった。
 かれこれ半刻近く、物吉貞宗は物憂げに座り込んでいる。
 呼びかけにも碌に反応せず、昏く澱んだ双眸には光が宿っていなかった。
 魂が抜け落ちているような雰囲気は、以前よりも遥かに酷い。
 ため息を数える気も起こらなくて、にっかり青江は苦笑した。
 放っておいても良いのだが、それはそれで冷たいだろうか。
 対処に困って口出しせずにいた大脇差だが、お節介で、悪戯好きの脇差はお構いなしだった。
 口の横に両手を置いて、ずずい、と卓袱台越しに身を乗り出す。
「おーい」
「……ふえっ?」                        
 ほぼ正面から風を吹きかけられて、前髪を煽られた少年は途端にビクッと肩を跳ね上げた。
 頭の天辺から飛び出した、と思える甲高い声を響かせて、四度も、五度も瞬きを繰り返した。息を飲み、竦み上がって、状況が理解出来ないのか、慌ただしく左右を見回した。
 正座から中腰になり、直後に力が抜けたのか、尻餅をついた。どすん、と傾いた上半身を両手で支えて、怯えた様子で目を泳がせた。
 本当に、周りの変化に一切感付いていなかったらしい。
「え? え、あれ? えええ?」
 素っ頓狂な声を上げた彼は、部屋にいる仲間を順繰りに見つめ、右の頬をヒクヒク痙攣させた。
 笑顔が張り付き、強張っていた。じりじり後退を目論み、畳の縁に指が引っかかったのにも大袈裟に反応した。
 何もない場所に恐々として、萎縮していた。
「大丈夫か」
「んー? また、なんですかねえ?」
「そうだねえ。ほかに思いつかないねえ」
 見かねた骨喰藤四郎が心配して歩み寄る中、卓袱台を挟んで反対側にいたふた振りは顔を向け合い、揃って首を右に倒した。
 ほんの数日前も、物吉貞宗は今と似たような状態になった。昔馴染みでもある太刀、ソハヤノツルキとの関係性に悩んで、終始憂鬱な顔をしていた。
 それを面白がった――もとい、案じた脇差たちが、彼に策を伝授した。幸運をもたらす脇差はそれを実行し、目論見通り、ソハヤノツルキに彼を意識させるのに成功した――はずだった。
「ソハヤさん、最近は露骨なくらい、物吉のこと、意識してますよねえ?」
「そうだねえ。見ていて、こっちが恥ずかしくなるくらいにねえ」
「聞こえてますよ!」
 ところがたった数日で、物吉貞宗は元通り。
 狙い通りの状態になったのに、なにが不満なのかと首を捻った鯰尾藤四郎たちに、槍玉にあげられた少年は声を張り上げた。
 どんな時でも朗らかに笑っている脇差が、珍しく声を荒らげた。目を吊り上げ、歯を食いしばり、鼻息を荒くして凄んでいた。
 ただ元々が愛らしい容姿なため、怒ってもあまり迫力がない。
 しかも肌色は紅を帯びて、羞恥に溢れているのが丸分かりだった。
「ソハヤノツルキと、なにかあったのか」
「ぐっ」
 傍らで見守っていた骨喰藤四郎に淡々と訊かれて、息を詰まらせたのは図星だからに他ならない。
 みるみるうちに尖っていた気配が薄れ、盛りを過ぎた花が萎んでいくかのように小さくなった少年に、にっかり青江は苦笑を漏らした。
 なんと純で、分かり易いのだろう。
 思わず頬杖を解き、背筋を伸ばして座り直してしまった。両手を膝に揃えて聞く体勢を整えた彼に倣い、鯰尾藤四郎も正座して、抑えきれない好奇心に目を輝かせた。
 否応なしに注目が集まって、物吉貞宗は両手で顔を覆った。
 墓穴を掘ったと思い知り、湧き起こる恥ずかしさに、耳の裏まで真っ赤だった。
「嫌なら、言わなくて良いぞ」
「こら、骨喰」
 それを間近で確認して、唯一同情を抱いた骨喰藤四郎が細い肩を叩いた。
 咄嗟に鯰尾藤四郎が割って入るものの、物静かな脇差は譲らなかった。
 もともと、最初に物吉貞宗へ協力を申し出たのは、彼だ。大事な仲間から笑顔が失われるのは嫌だと言って、どうにかしたい、と珍しく積極的に関わろうとした。
 今も、苦しむ仲間の側に立って、これを守ろうとしている。
 昔の記憶がない分、彼は本丸に集う仲間をなにより大切にしていた。藤四郎兄弟でなくとも、刀剣男士は皆家族だと言って、執着めいた感情を抱いていた。
 不躾な好奇心で、触れてはいけないものはある。
 鋭い眼で睨まれて、鯰尾藤四郎はばつが悪い顔をした。
 長い黒髪を雑に掻き回して、首を竦めて小さくなった。反省する態度を示し、小さく頭を下げ、冷めかけていた茶を飲んで場を濁した。
 ずずず、と啜る音がさほど広くない座敷に広がり、途絶えた。
 にっかり青江も胡麻団子をひとつ抓んで、目で合図した。
「……いえ」
 この話題は、これで終わり。
 折角の出来立ての菓子があるのだから、これを食べつつ、別の話題で盛り上がろう。
 そういう意図があったのだが、顔を伏していた物吉貞宗には届かなかった。彼はゆっくり両手を膝に降ろすと、静かに首を振り、毅然と顔を上げた。
「いえ。みなさんには、大変お世話になったのに、あれからなんのご報告もなくて。こちらこそ、すみませんでした」
 骨喰藤四郎にも座るよう促して、早口に告げた。最後に深々と頭を下げ、卓袱台の縁に額をぶつける失態を犯したが、誰も、なにも言わなかった。
 ゴッ、とそれなりに良い音がして、物吉貞宗が背筋を伸ばすのに、五秒近く猶予があった。
 その間、残る三振りは噴き出したいのを必死に堪えて、誤魔化しに胡麻団子を二個、三個と頬張った。
 山盛りだった菓子が、次々に消えていく。
 残り少なくなった茶を鯰尾藤四郎が注ぎ足そうとしたところで、額の一部を赤くした少年が覚悟を決めたのか、重い口を開いた。
「すみません」
「うん?」
 重ねられた謝罪の意味を、正しく理解出来た刀はいなかった。
 怪訝にしながら首を捻った仲間を左から右へと眺めて、物吉貞宗は両手を強く握りしめた。
 こみあげる恥ずかしさと、親身になって相談に乗ってくれた脇差たちへの義理を天秤に掛け、感情を押し殺した。
 目まぐるしく状況が変化したこの数日間をざっと振り返って、怒らせていた肩を落とし、四肢全体から力を抜いた。
「みなさんに、ご報告出来るようなことが、その。なにも……ないんです……」
 拳を解いた両腕を脇に垂らし、下を向く。
 尻窄みに小さくなっていく声を最後まで拾い上げて、にっかり青江は隣にいた脇差と顔を見合わせた。
 そういう意味での謝罪だったのか、と納得しつつ、解けない疑問に眉を顰めた。顔半分を覆っている長い髪を意味もなく弄って、足を崩し、頬杖を再開させた。
 鯰尾藤四郎はなみなみと茶を注いだ湯飲みを取り、口を窄めて吸いに行った。一期一振が見れば行儀が悪い、と一蹴しそうな仕草で音を響かせ、幾分量が減った器を卓袱台に戻した。
 骨喰藤四郎はなにも言わず、なにもしなかった。黙って物吉貞宗の横顔を見詰め、気を利かせたつもりなのか、胡麻団子の皿を彼の方へ押し出した。
 陶器が木目を削り、がりがりと嫌な音がした。
 どうにも気まずい雰囲気に、皆して牽制し合い、相槌を打つ役目を押し付け合う。
 兄弟から無言で顎をしゃくられて、鯰尾藤四郎は困った顔で天を仰いだ。
「いやあ、ええっと、そのお」
「でも君、最近はずっと、あっちで眠っているんだろう?」
 仕方なく合いの手を返そうとしたけれど、咄嗟に言葉が出てこない。
 空っぽの両手をうねうねさせながら声を発した彼の隣で、にっかり青江が代わりに問いかけた。
 人差し指を伸ばし、物吉貞宗の胸元を指差した。そのまま空中に円を描き、最後に遠くへと跳ね飛ばして、太刀部屋区画を暗に示した。
 天下五剣を兄弟に持つ太刀は、写しでありながら、性格は明るい。己の存在を肯定的に解釈し、前向きに受け止めていた。
 もっともそれは表向きの話で、心の内でどう思っているかは、誰にも分からない。
 案外山姥切国広よりも根深いものを抱えているのでは、と危惧したくなる。だが面と向かって相談されたわけでもないので、看過するより他になかった。
 そんな晴れやかで、元気が有り余っているソハヤノツルキに対し、並々ならぬ感情を抱いているのが、そこにいる物吉貞宗だ。
 彼は太刀を意識しているのに、太刀は彼を意識していない。一方的にどきどきさせられるのは不公平で、面白くないとの不満を聞かせられたのが、ほんの一週間ほど前のこと。
 ならばと脇差内で相談し合い、一計を案じた。
 ソハヤノツルキにどうすれば物吉貞宗を意識させられるか考えて、計略を巡らせた。
 結果、ああいう手合いには回りくどい方法は通じない、との結論になった。
 やるとするなら直球で、真っ向勝負。恥ずかしがらず、大胆に攻めろ、という方針が固まった後は、案外あっさり内容が定まった。
 ソハヤノツルキは豪快で、心が広い。己を鎮護の礎に指名した、かつての主への忠義心もそれなりに厚い。
 物吉貞宗は、最後まで元の主の名を出すのを嫌がったが、にっかり青江たちが押し切った。その名前さえ口にすれば、あの太刀はあっさり寝所へ彼を招き入れる。きっと疑わない。絶対に大丈夫だ、と太鼓判を押した。
 結果、狙いは的中した。
 以来毎晩のように、物吉貞宗はソハヤノツルキの部屋を訪れている。朝が来るまでひとつの布団に包まって、寝入るまで他愛無い話を繰り返した。
 これを大きな進展と言わずして、なんと言うのか。
 報告事項がなにもないなど、有り得ない。現実に、ソハヤノツルキは脇差を強く意識している。これまで話しかけられても飄々としていたのが、露骨に反応し、頻繁に顔を赤くしていた。
 あからさまに意識していると、傍目にもよく分かった。
 ところが物吉貞宗は不満があるようで、部屋でぼうっと過ごす時間が着実に増えていた。
「でも、ソハヤさん。あれから全然、抱きしめてくれないんです」
「……は?」
「布団の、端に逃げて。話しかけても上の空で、振り向いてもくれないし。仕方がないから僕から抱きついたら、そうしたら、凄い声で飛び起きて」
「う、う~ん」
 初めて同衾した翌日から、ソハヤノツルキは余所余所しくなった。
 これまで気軽に身体に触れて来たのに、ぱたりと途絶えた。事あるごとに頭を撫でてきたのがなくなって、軽々しく肩を組んだり、手を繋いだりする機会が激減した。
 以前の彼は物吉貞宗が台所で食事の用意をしていると、頻繁に覗きに来ては、味見を所望して雛鳥のように口を開いた。それがあの日を境に一変し、直接箸で食わせてやろうとしたら、嫌がるようになった。
 汚れ物を洗濯してやろうと引き取りにいったら、これからは自分でやるからいい、と断られた。
 万屋で並んで商品を眺めている時、肩が触れる距離だったのが、一気に遠くなった。
「なんか、俺たち。もしかして、惚気られてます?」
「しっ、静かに」
 指折り数え、一週間のうちにおきた変化を羅列する物吉貞宗を前に、鯰尾藤四郎が小声で囁く。
 唯一聞き取ったにっかり青江は短く息を吐き、むずむずする尻を踵に擦りつけた。
 膝をもぞもぞ動かしても、卓袱台が壁となっているので、向かいからは分からない。妙に揺れている彼らを怪訝に見やって、骨喰藤四郎は右隣に座る友人の肩を叩いた。
「急に、態度が変わったんだ。辛かっただろう」
「えええ~?」
 ソハヤノツルキの急変に対し、胸を痛める物吉貞宗に心を寄せて、声援を送る。
 それに鯰尾藤四郎が反論したそうに顔を歪め、横から肘鉄を喰らって卓上に突っ伏した。
 太刀の態度が変わったのは、狙い通り、彼が脇差を強く意識するようになったからだ。
 物吉貞宗が枕を抱きしめてソハヤノツルキの元に押しかけた夜、なにがあったのか、相談相手となっている三振りには分からない。けれどそこが分岐点になったのは、間違いなかった。
 そうなりたいと頼まれたから、手伝った。意見を集め、助言をした。
 だのに今、それが余計な御世話だったかのように言われるのは、面白くない。
「ひとつ、確認しておきたいんだけど」
「はい」
 卓袱台に顎を乗せ、頬を膨らませた鯰尾藤四郎の脇で、黙って考え込んでいたにっかり青江が口を開いた。
 今度は人差し指で卓を小突き、爪先を押し付けたまま盤面を滑らせた。自身からまっすぐ、物吉貞宗へと向かって進めて、円形の卓袱台の中心手前でぴたりと止めた。
 三振り分の視線がそこに集まり、なにかを気取った少年が神妙な顔をした。
 居住まいを正した物吉貞宗に、大脇差はその名に相応しからぬ、真剣な眼差しで応えた。
「君って、さ」
 もっと早い時点で気が付いて、問い質しておくべきだったのかもしれない。
 あれやこれやと謀略を巡らせ、想定した通りの展開になったのに喜んで、一番大事な部分を見落としていた。
 当たり前すぎて、考えもしなかった。灯台もと暗し。完全に盲点だったと内心反省して、にっかり青江は仲間が固唾を飲んで見守る中、厳かに問いかけた。
「君、ソハヤ君に、ちゃんと『好き』だってこと、伝えたのかい?」
「……え?」
 要らぬ茶々は挟まず、余分な言い回しも使わなかった。
 相手の目を見ながら質問を投げた彼に、返答を要求された側はきょとん、と目を丸くした。
 意外なところを攻められて、ぽかんとして、数秒間凍り付いた。惚けた顔で、瞬きも忘れて硬直し、じっと見つめ続ける仲間を呆然と見返した。
 やがて。
「え? え?」
 落ち着きなく身を捩り、物吉貞宗はボンッ、と顔面を真っ赤に染めた。火を噴く勢いで色味を強め、かああっ、と熱を持つ肌を両手で覆い隠した。
 広げた指の隙間から目を覗かせて、耳から湯気を噴き、集まる視線から逃げるように仰け反った。上半身を後ろに傾け、腹筋を引き攣らせ、縋るような気持ちで骨喰藤四郎の方を見た。
「言っていないのか?」
「つっっ!」
 それを、彼は素で問い返した。
 親身になって寄り添ってくれた相手に首を傾げられて、無垢な眼差しに耐えきれなくなった脇差は、ついに頭を爆発させた。
 耐えきれなくなって、先ほどの比ではない勢いで卓袱台に突っ伏した。ゴゥン! と強烈な音を響かせて、反対側にいた鯰尾藤四郎の顎を押し上げた。
 大きく傾いた卓を慌てて押さえたにっかり青江は、苦笑を隠しきれない。ただ凭れかかっていただけなのに、手痛い一撃を食らった少年は倒れかけた湯飲みを捕まえると、ひりひりする箇所を撫でて涙を堪えた。
 物吉貞宗の額からは、ぷすぷすと細い煙が上がっていた。
 開いていた指を閉じ、本格的に顔面を覆って、少年は蚊の鳴くような声で呻いた。
「言えるわけ、ないじゃ、ないですか」
 今にも消え入りそうな音量が、彼の精神状態をそのまま表している。
 大袈裟が過ぎる反応に失笑して、にっかり青江は結った髪を毛先まで梳いた。
「それで、じゃないのかなあ?」
「それで、……とは」
「ああ、そうか。ソハヤさん、物吉君がソハヤさんのこと好きって気付いてないから」
「うんうん」
「連呼しないでください!」
 最初は、物吉貞宗の片思いだった。
 それが嫌で、脇差の方から積極的に仕掛けた。
 結果として、太刀の側にも特別な感情が芽生えた、と思っていい。はっきり確認したわけではないけれど、露骨なくらいに態度に変化が生まれているので、ほぼ間違いないだろう。
 問題なのは、太刀の中に生じた感情に名前があると、太刀自身が認識できているか、否か。
 その想いがなんであるか、正しく把握出来ているのかどうか、だ。
 刀剣男士は、刀の付喪神だ。人に似せた器に宿り、活動しているけれど、人間とはまるで違う存在だ。
 内包する意識も、当然人間のそれとは異なる。なにに重きを置き、なにを軽んじるか。
 元々が器物である彼らは、持ち主に対する忠誠心に厚く、判断基準の全てをそこに求める傾向がある。時代や環境により物事の解釈は大きく異なって、倫理観が他の刀と大きく乖離している場合も、少なくなかった。
 武器として、命を奪うものとしての意識は強いが、育む側としてはどうか。
 守り刀としての役目がある短刀ならいざ知らず、戦場でこそ最も輝ける打刀や太刀となると、利己的な考え方が中心となり、相手の心情を汲むのが難しくなるようだった。
「なんだか分からないまま、混乱してるだけ、ってことも、ありますねえ」
「ですから、僕は別に、ソハヤさんが好きとか、そういう」
「好きではないのか?」
「ああああああああ!」
 大典太光世の方は、前田藤四郎が巧く情緒面を操っているが、ソハヤノツルキはどうだろう。
 この期に及んで悪足掻きを止めない物吉貞宗は、骨喰藤四郎からの致命的な一撃に悶絶し、絶叫した。
 屋敷の外まで響く大声に、花を啄んでいた鳥が驚き、逃げた。にっかり青江たちもビクッとなって、半狂乱に陥った仲間に青くなった。
 喧々囂々の騒ぎを中断させて、息を殺し、静かに待つ。
 吃驚して仰け反ったままだった鯰尾藤四郎が、そろそろ両腕を下ろして良いかと悩み出した辺りで、物吉貞宗はぽつり、掠れる小声で呟いた。
「……好き、です……」
 顔を覆ったまま、ようやく認めた。
 誰にも決して見せられないような顔をして、目を潤ませ、音を立てて鼻を啜った。
 合間にひっく、としゃくりあげ、他より幾分赤くなった鼻の頭を擦った。濡れていない目尻を拭い、肩で息を整えて、唇を舐め、ぺたんと尻を着いて畳に座り込んだ。
「好き、です。ソハヤさんのこと、すごく。だから……だから嫌なんです。もう嫌なんです。あんな風に僕の顔を見て、逃げられるのって、哀しいです。寂しいです」
 張りつめていたものが切れたのか、一度認めた途端、言葉が溢れた。
 早口で捲し立て、度々息継ぎを挟んだ。空っぽの左手を胸に押し当てて、両目をぎゅっと瞑り、唇を噛んだ。
 痛々しいその姿に、下手な合いの手は挟めない。
 骨喰藤四郎が黙ってふわふわの髪を撫でてやれば、物吉貞宗は嗚咽を堪え、その肩にしがみついた。
 彼が望んだ未来に手を貸したつもりだったが、自分たちがやったことは、本当に彼の為になったのだろうか。
 軽率な真似をしただけではないか。過去の行いを悔やんで、にっかり青江は力なく肩を落とした。
 ところが鯰尾藤四郎は、違う受け止め方をしたようだ。
「だったら、尚更。言わなきゃ駄目だと思います」
 いつもおちゃらけている彼にしては珍しく、口調は真剣で、眼力は強かった。語気は落ち着いているが、声自体は普段より低い。背筋は凛と伸びて、表情は何故か悔しげだった。
 腹を立てているようにも見えて、にっかり青江は目を見張った。斜向かいの骨喰藤四郎も驚いて、物吉貞宗を背中に庇った。
 それに更にムッとして、彼は握った拳で空を叩いた。
「だって、こういうの、言わなくても分かってもらえるっていうのが、傲慢なんですよ。俺なんか特に、馬鹿だから、言ってくれなきゃ分かんないですって。それで向こうが、俺の知らないところで嫌な思いしてるんだったら、余計に。言って欲しいって、俺は思います」
 直後に広げた手を上下に振り回し、前のめりになって力説する。唾を飛ばし、ひと息に言い切って、深呼吸して、ギリリと奥歯を噛んだ。
 過去に覚えがあるのか、言葉には厚みがあった。
 悲壮感とでも言うのか、切迫したものが込められていた。心の底でわだかまっていたものを全部吐き出して、息継ぎは荒々しかった。
 濡れてしまった口元を拭って、後からこみあげてきた照れ臭さに余所を向く。
 仄かに朱を帯びている横顔を唖然と見つめて。
「鯰尾君、君」
 にっかり青江は、ごくりと息を飲んだ。
「もしかして、好きな子が出来た?」
「違いますよ!」
「ブフッ」
 あまりにも的外れな疑問をぶつけられて、似合わない熱弁を恥じていた脇差が吠えた。
 間断ないやり取りを聞いていた骨喰藤四郎が堪らず噴き出して、背中を丸め、畳に突っ伏した。
 必死に声を殺しているが、細かく震える肩は隠し切れない。卓袱台の下はそこまで広さがなく、潜り込めないと知っていながら入り込もうとする兄弟に、鯰尾藤四郎は地団太を踏んで埃を撒き散らした。
「変な想像しないでください。違いますって。いち兄が、前に、愚痴ってるの聞いちゃっただけです」
 にっかり青江にも繰り返し訴えて、本当のところを仕方なく白状する。
 曰わく、馬当番であろうとなかろうと、馬糞をせっせと集める弟を度々叱って来たが、一向に行動が改まらない。五月蠅く言い過ぎたのが却ってよくなかったのかと、注意するのを止めてみたが、通じていないようで、困っている、と。
 そういう話を兄がしているのを、偶然耳にして、衝撃を受けた。
 てっきり一期一振は認めてくれたのだとばかり思っていたので、当時の驚きは、言葉では言い表し難い。
「それは、うん。どちらかというと、君のお兄さんに同情するな。僕は」
「なんでですか~~」
 懸命の弁解に頬を引き攣らせ、にっかり青江は首の後ろを掻いた。肌を伝う温い汗を拭い取って、ぽかすか殴りかかってくる脇差を遠くへ追い払った。
 腕を目一杯伸ばし、掴みかかろうとする鯰尾藤四郎の顔面を押さえて距離を保つ。
 滑稽なやり取りに本題をずらされて、物吉貞宗はしばらく惚けたまま動けなかった。
 間抜けに開きっ放しだった口を閉じ、きゅっと引き結んで一文字にする。
「まあ、行動するのは、君だからね。外野である僕たちがとやかく言う事ではないけれど、どうするんだい?」
 その変化を垣間見て、大脇差は訊ねた。しつこく足掻く元薙刀の額を指で弾いて転がして、残り六個まで減っていた胡麻団子を二つ、左右の手に持った。
 それを近づけたり、遠ざけたり。
 片方を寄せて、同じだけもう片方を引き離す。
 またはその逆で、終わらない鬼ごっこを延々と繰り返した。
「僕としては、君が満足できる答えを見つけるまで、協力は惜しまないつもりだよ」
 最後は互いをちょん、とぶつけ合わせて、ひとつに繋いだ。左右から押して一塊にして、黙って聞いている脇差へと差し出した。
 物吉貞宗は両手を揃えて受け取って、しばらくじっと、ひとつに繋がった胡麻団子を見詰め続けた。
 結論を急かさず、ゆっくり考えるよう諭された。
 心遣いに感謝しながらも、彼は期待に応えられない自分を悔やみ、唇を噛んだ。
 そこへ。
「一度、引いてみるって方法も、ありますよ?」
「――うわあ!」
 突然、四振り以外の声が降ってきた。
 思わぬことに騒然となり、にっかり青江までもが大仰に竦み上がった。鯰尾藤四郎などは腰を抜かし、挙動不審に畳の上を這いまわった。
「堀川国広」
 唯一無反応だったのが、骨喰藤四郎だ。物吉貞宗などは胡麻団子を握り潰す寸前で、卵形に丸まった指先を恐る恐る広げ、中身が無事なのに安堵した。
 開けっ放しの障子から、五振り目の脇差が顔を出していた。いつからそこに居たのか、屈託なく笑って、唖然としている仲間を掻き分けて卓袱台の前に座った。
 空だった湯飲みを引き寄せて、すっかり温い茶を注ぎ、ひと口飲む。
 周りが騒然としているのを一切無視して、己の調子を崩さなかった。
「あー、美味しい。今日は胡麻団子なんですね。嬉しいなあ」
 ひと息ついた後、あと四つまで減った胡麻団子に目を細めた。湯飲みの縁を指で拭い、早速ひとつ口に入れて、もぐもぐ咀嚼する姿は幼い子供じみていた。
 実際彼は、この五振りの中では若い部類に入った。名工、堀川国広作の脇差と言われているけれど、贋作の嫌疑は晴れておらず、浦島虎徹とどちらがより若いかについては、判断を保留するしかなかった。
「えっと。堀川君、ちょっと」
「はい? ああ、すみません。なんだか話が盛り上がってたんで、入るのを躊躇しちゃって」
 この部屋は誰の部屋、というわけではなく、元々は空き部屋だ。そこを勝手に借用して、寄り合い部屋のように使っていた。
 立ち入りは自由で、特別な許可も必要ない。
 だが入る機会が掴めなくて、堀川国広は今の今まで、部屋の外で話を盗み聞いていた。
「全然知らなかったです。物吉君、夜になるといなくなるなって思ってたけど、そんなことになってたんですね」
「うっ」
 前回の話し合いの時、彼は場にいなかった。広く言いふらす話題でもないので、仲間たちも黙っていた。
 そうと気付かないまま、蚊帳の外に捨て置かれていた。それを別段責めるわけでもなく、淡々と言って、堀川国広は胸を押さえて呻いた物吉貞宗に微笑んだ。
「す、すみません」
「やだな、なんで謝るんですか。それより、もっと早く言ってくれたら、僕だってお手伝いが出来たのに」
 それが却って、怒っているように聞こえてしまった。
 反射的に頭を下げた仲間にひらひら手を振って、彼はもう一つ、団子を口に放り込んだ。
 もぐもぐ咀嚼して、唇に付着した胡麻ひと粒を舌で絡め取った。奥歯に挟まった分も穿りだして、茶と一緒に喉の奥へと流し込んだ。
「そういえば、君。さっきの」
「ああ。押しても駄目なら引いてみろって、言うでしょう?」
「言う?」
「さあ……」
 すっかり寛ぐ体勢に入った彼に、唖然としたままにっかり青江が問いかける。
 あっけらかんと答えた堀川国広の弁に、鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎は顔を見合わせて首を捻った。
 意外に反応が鈍いのに目を丸くして、年若い脇差はふむ、と顎を撫でた。数滴分だけ残る湯飲みの縁をぐるりとなぞって、借りて来た猫のように大人しい少年に視線を投げた。
 見つめられて、物吉貞宗が盛大に身を竦ませる。
 緊張でカチコチに硬くなっている彼を笑いもせず、遅れて登場した少年は卓上で両手を握り合わせた。
「それで、先に確認したいんだけど。物吉君って、ソハヤさんと、どうなりたい?」
 盗み聞きの時点で、誰と誰の話で盛り上がっていたのかは、分かっていたらしい。
 細かな説明を求めず、逆にずばり聞いて来た彼に、傍で見守っていたにっかり青江は緩慢に頷いた。
「どう、……とは?」
 対する物吉貞宗は、質問がピンと来なかったようだ。戸惑いがちに聞き返して、首を右に傾けた。
 琥珀色の瞳が宙を泳ぎ、手元に落ちた。じわじわ分離を開始した胡麻団子が、小さな掌の上で、手持ち無沙汰に転がっていた。
 外側から圧力を加えただけなので、完全に張り付いたわけではなかった。
 放っておけば、いつかは独立した団子に戻るだろう。それを惜しみ、思い切って二個まとめて口の中に押し込んで、彼はさほど噛み砕かないまま飲みこんだ。
 喉に閊えそうになったのは、茶を使って押し流した。圧迫感から脱してホッと息を吐き、肩を二度、三度と上下させ、返答を待つ脇差に向き直った。
「どう、って、いうのは。どうにかなる、ってことでしょうか?」
 こちらから切り出さない限り、なにかを語ることはなさそうだ。
 ならば、と質問をより具体的にした彼に、堀川国広は深々と頷いた。
「うん。そうだね。詳しく言うと、今みたいなままでいいのか。それとも、ソハヤさんと睦みた――」
「あ、あああああ、あ、あお~~んっ!」
 そして、ゆっくり言葉を紡ぎだした矢先。
「どうした、兄弟」
 突如鯰尾藤四郎が雄叫びを上げ、堀川国広の声をかき消した。
 あまりに不審な動きに、兄弟刀の骨喰藤四郎が青くなった。
 彼は慌てて立ち上がり、駆け寄った兄弟の袖を引いた。遠吠えでぜいぜいと息を切らせた少年は、攫われかけた腕を奪い返すと、残っていた胡麻団子を煎餅の菓子盆へ放り込んだ。
 既に中身がない茶瓶を引き寄せ、後方に置いていた空の盆に置いて急ぎ立ち上がった。
「かっ、片付けてきますね。骨喰、お茶、新しいの貰ってこよう」
「うん? ああ、そうだな」
 真っ白い皿を回収して、骨喰藤四郎を誘う声には焦りが現れていた。だが呼ばれた方は気付いていないようで、何の疑いもなく同意した。
 バタバタと足音を立て、縁側を駆けていく。
 一陣の風のように去って行った彼らを目で追って、話を中断させられた少年は首を捻った。
「どうしたんでしょう?」
 少し狭いくらいだった部屋が、にわかに広くなった。舞い上がった埃が落ち着くのを待って疑問を口にした彼に、にっかり青江は乾いた笑みを浮かべ、目を細めた。
「彼らは兄弟のこともあるし、生々しいのは、嫌だったんじゃないかな?」
 勝手な憶測でものを言って、散々食べた胡麻団子の代わりに、湿気りかけていた煎餅を抓んだ。
 残るふた振りは分かったような、分からなかったような顔で首肯して、楽な姿勢で座り直した。
 煎餅を割る音が一度だけ響き、後は静かだった。中途半端なところで途切れた会話を再開させるか、否かでしばし迷って、堀川国広は目を泳がせた。
 偶々にっかり青江と目が合って、なにやら合図を送られた。
「?」
 だが意図を測り切れず、少年は首を傾げた。他力本願だった大脇差は小さくため息を吐き、残った胡麻団子ふたつを引き寄せて、左右で離れていたものを横に並べた。
 物吉貞宗に渡した時のように、外側から軽く押して、両者をひとつに張り合わせる。
 その上で半分に割った煎餅の片割れを右手に持って、尖った一端を団子の合わせ目に近付けた。
「要するに、君はソハヤ君と、こうなりたいか、ってことだろう?」
 そうして断ち切るのではなく、擦りつけた。くにくにと隙間を広げようと動かして、時に下から掬い、煎餅の角を操った。
「……え?」
「うわあ」
 露骨過ぎる説明方法に、物吉貞宗は目を点にした。
 堀川国広は、自分から言い出したことにも拘わらず顔を赤くして、団子を甚振る男に苦笑を漏らした。
 最初のうちは惚けていた少年も、やがて合点がいったのか、じわじわと首の根本から赤くなっていく。
「そっ、そん、な。そんなこと。考えた、ことも、ありま、せん!」
 声を張り上げて否定するものの、甲高く響いたそれは完全に裏返っていた。目元を潤ませながら怒ってみせるが、迫力に欠けて、説得力は皆無だった。
 ソハヤノツルキでなくとも、愛らしい刀だと思えてしまう。
 うっかり生じた悪戯心を封印して、にっかり青江は煎餅を頬張った。
 バリバリと噛み砕き、息せき切らしている少年に相好を崩した。堀川国広も笑いを堪え、真っ赤になって煙を噴いている脇差に風を送り付けた。
 手で扇ぐ程度では微風にすらならないが、落ち着くよう諭され、物吉貞宗は腰を落とした。額を流れる汗を袖で拭い、とんだ爆弾発言に背筋を寒くした。
「でも正直なところ、ちょっとは期待してたんだろう?」
「し、て、ま、せ、ん!」
 日が暮れた後、初めてソハヤノツルキの部屋を訪ねた時のことを揶揄されて、一言一句区切りながら断言する。
 あの時は教えられた通り出来るかどうかで必死で、他に考える余裕などなかった。布団に横になった後は、抱き寄せてくる腕の力強さにドギマギして、頭は真っ白だった。
「第一、ソハヤさんが、僕なんかに。そ、その。そんな風に、なるなんて」
 そもそも、睦むには相手が必要だ。
 あちらも同じ気持ちを抱いてくれるかどうか、物吉貞宗には分からなかった。
 しどろもどろに吐き捨てて、言っているうちに羞恥に負けて顔を伏す。
 両手を腿の間に挟んで小さくなった彼を卓袱台越しに眺め、堀川国広は緩慢に頷いた。
「その辺、大丈夫だと思うんだけどなあ」
「どうしてだい?」
「最近、ソハヤさん、自分で下着、洗濯してるじゃないですか。あれって、……ああ、いえ。僕が勝手に思うだけですけど」
 そうしてひとりごち、にっかり青江に訊かれて声を落とした。口元を手で覆い隠し、物吉貞宗に聞こえないよう注意しつつ、囁いた。
 彼は本丸の洗濯当番で、自ら洗おうとしない刀から汚れ物を預かっては、綺麗に畳んで返却していた。なので洗い場事情には詳しく、そこで聞き集めた情報にも精通していた。
 勿論、突然姿を見せるようになった刀の動向にも、注意を怠らない。
 今まで物吉貞宗に任せっきりだったソハヤノツルキが、不慣れな手つきで肌着を洗う光景は、なにか裏があると常々思っていた。
「へええ。怖いねえ。気を付けないと」
 他者には知られたくない秘密が、こうやって当人の知らないところで広まっていく。
 共同生活を送っている以上、すべての目を欺けるわけではない。情報を積み重ねれば、どんなに隠し通そうとしても簡単に見抜かれると教わって、にっかり青江は含みのある笑みを浮かべた。
 しっとり濡れた微笑みに、堀川国広は目を細めるだけ。
 なにやら親密なやり取りを前にして、物吉貞宗は眉を顰めた。
「あの……」
 堂々とコソコソされるのは、あまり良い気分がしない。漏れ聞こえてくる単語も気になるものが多くて、落ち着かなかった。
 腰から上を揺らし、上目遣いに呼びかける。
 それで我に返ったらしく、大脇差らは居住まいを正した。
 再び向き合ったが、途切れた会話はなかなか再開されなかった。
 ただでさえ恥ずかしい話をしていたのに、間を置かれると余計辛い。言うべきでなかった、と後悔がむくむく膨らんで、嫌な汗が止まらなかった。
 腋の辺りがしっとりして、肌触りが気持ち悪かった。背中も一面布が張り付き、ねっとりと湿った空気が絡みついた。
 心臓はトトトトト、と早鐘を打つように拍子を刻み、息苦しくてならない。頭の芯がぼうっとして、眩暈がして、気を抜くと意識が遠退くようだった。
 話の流れから、少なからずソハヤノツルキに劣情を抱いていると、知られてしまった。
 一介の付喪神であれば持ち得なかった、現身に宿った時点で初めて生じた感覚に意識を奪われ、逃げられなかった。
 非常に認め難いが、認めざるを得ない。
 皆の前で黄金色が眩しい太刀への思いを告白した時よりもずっと、身体の芯が熱くてならなかった。
「こんなの、変。……おかしい、ですよね」
 あの男の姿を思い浮かべるだけで、顔が火照り、赤くなった。笑いかけられたら鼓動が跳ねて、声がしたらつい聞き耳を立ててしまった。頭を撫でられると首の後ろがくすぐったくなり、手を握られた時はどきりとして、その指の長さ、太さ、分厚さ、逞しさが頼もしく、誇らしかった。
 彼が誉れを取って帰って来た時は、張り切って御馳走を用意した。
 傷ついて帰ってきた時は心配で、手入れ部屋を出てくるまで安心出来なかった。
 自分たちは刀剣男士、審神者に忠誠を誓った道具だ。今の主の願いを叶えるべく、歴史修正主義者の目論見を挫くために集められた、戦うための武器だ。
 それだというのに、主君ではない相手に心を奪われている。
 否、心だけでなく、身体までもが、ソハヤノツルキを欲していた。
 なんと強慾で、なんと傲慢で、なんと罪深いのか。
「それは別に、変でもなんでもないと、僕は思うけどねえ?」
「僕も、可笑しいとは思いませんよ」
 ところがにっかり青江と堀川国広は、ほぼ同時に否定の言葉を口にした。物吉貞宗が懊悩すること自体を笑い飛ばして、人差し指をくるくる回転させた。
「でも」
「んっふふ。それにねえ、考えてみなよ。君の以前の主の、家臣たちだって、ちゃあんと所帯を持っていただろう?」
「え、あっ」
 含みのある眼差しと、緩く綻んだ口元が、なんともいえない妖しさを放つ。
 長い髪に隠していた片目を露わにして、大脇差はぽかんとしている少年に口角を持ち上げた。
 目から鱗が落ちた、という顔で、物吉貞宗が瞬きを繰り返す。
「それに僕たちの主さんは、僕たちのこと、武器としての輝きが鈍らない限りは、干渉しない方針みたいですしね」
 堀川国広も言葉を補い、肩を竦めて苦笑した。なにやら心当たりでもあるのか、小さく舌を出し、クスクスと声を漏らした。
 そんな彼らを交互に見やり、物吉貞宗は膝の上で手を握り、広げる動作を何度か繰り返した。
 しっとり汗ばんだ肌が互いに吸い付き、引っ張り合っていた。幾分落ち着きはしたものの、まだ熱を蓄えている腹の奥底を軽く撫でれば、不安と期待が混ざり合い、なんとも言えない色を作った。
「そんな、簡単で。良いんでしょうか」
「難しく考えたって、結局答えは出ないんだよ。だったらあれこれ迷うだけ、時間の無駄じゃないかな」
「即断即決。潔いねえ」
「僕らが悩んでいる間も、時間は動いてるんです。立ち止まっていたら、置いて行かれる。それで後悔するのは、やっぱり嫌じゃないですか。その先にどんな未来が待っているのかは、誰にも分からないんだから」
 選んだ道を信じて突き進むしかないのは、遠い昔も、今も同じだ。踏み出すのを躊躇し、足踏みをしたところで、状況は変わらない。
 だったら自ら選び、決めて、行くしかなかった。
 辿り着いた先が破滅であっても、己を信じ抜いた結果なら、悔いはないはずだ。
 にっかり青江の相槌を躱して、堀川国広が朗々と告げる。
 まさしく躊躇し、足踏みしていた少年は反射的に背筋を伸ばし、投げかけられた言葉に表情を引き締めた。
 ただそれも、長くは続かない。
 正面を向いていた金の眼は緩やかに下降して、腿に転がした両手へと落ちた。
「だとしても、僕は。やっぱり、怖いです」
 皆が声援を送ってくれるのは、とても有り難いし、心強い。
 けれど未だ決心がつかず、二の足を踏んでしまうのは、ソハヤノツルキがこの気持ちを真剣に受け止め、扱ってくれる保証がないためだ。
 根が真面目な男だから、きっと茶化しはしない。むしろなんとか応えようとして、そのつもりはないのに相手を務めようとするのでは、という危惧があった。
 困らせてしまうのが嫌だった。
 嫌われるよりも、同情されて、前より優しく扱われるのが、耐えられなかった。
「物吉君って、結構、怖がりだね」
 肩を丸め、首を竦めて小さくなった脇差に、堀川国広が目を細める。
 それをどう受け取ったのか、彼は口を尖らせた。
「慎重だと、言ってください」
 臆病なのではなく、用心深いだけ。
 外堀を埋めてからでないと、安心できない。勢い任せに突っ走って自爆するなど、絶対に御免だった。
 幸運をもたらす刀と言われ、本人も周囲に幸運を届けると言って憚らないのに、自身の幸運については若干懐疑的。
 難儀なものだと苦笑して、にっかり青江は菓子盆を堀川国広の方へ押し出した。
「それで? 妙案があるんだよね」
「ああ、はい」
 駄賃代わりの胡麻団子を提供して、先を促す。
 間髪入れず首肯した少年は、騒々しく戻ってきた藤四郎たちに一瞬だけ顔を向け、胸の前で手を叩き合わせた。
「ソハヤさんが、物吉君をどう思ってるか、確かめるのに丁度良いと思いますよ」
 そうして悪戯っぽく笑って、重ねた両手を右の頬に添えた。
「名付けて、押しても駄目なら引いてみよう、作戦です」
「……そのままなんだね」
 登場した直後に口にしたと同じ台詞を朗らかに歌って、にっかり青江からの突っ込みには耳を貸さない。
 状況がいまいち掴めず、不思議そうにする鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎の前で、彼は物吉貞宗に向かい、パチン、と右目だけを閉じてみせた。

博戯

 ずっと気配は感じていた。
 ドアの前に留まったまま、一向に動き出す様子はない。用があるのか、ないのか、時折衣擦れの音が聞こえてきた。
 もぞもぞ身じろいでいるところからして、決心がつきかねているのだろう。
 軽く五分近く待ってもノックが聞こえないのに焦れて、雲雀は深く溜め息をついた。
「追い払いますか?」
 室内にいた草壁が気を利かせ、問いかけてくる。
 こちらの顔色を窺っている雰囲気に、並盛中学校風紀委員長は小さく首を振った。
 書類チェックの手を休め、どうしようか思案する。あと三分待っても動きがないようなら、と握ったボールペンを揺らし、彼はスッと目を細めた。
 不意に尖った空気に、草壁も事務仕事を中断させた。慎重に雲雀を窺って、ハッとなって沈黙する扉に顔を向けた。
 それから一秒となかった。
 コンコン、とドアをノックする音が二度、彼らの耳朶を擽った。
 随分と控えめな音色で、来訪者の性格が感じられた。喋っている最中であれば聞き逃していたかもしれず、不用意に話しかけなくて良かった、と草壁は密かに安堵した。
「誰?」
 すぐ近くで胸を撫で下ろす存在があるとも知らず、雲雀が姿勢を変えないまま声を上げた。
「あ、あ……えっと。俺、えっと。沢田、です」
 誰何を受けて、ドア越しにおどおどした声が響く。
 俺です、と言いかけて途中で訂正したと分かる口調に、聞き耳を立てていた草壁は危うく噴き出すところだった。
 どこの詐欺だ、と笑いたいのを懸命に耐え、口元を手の甲で覆ったままちらりと傍らを見る。黒髪の風紀委員長はいつもの鉄面皮を崩さず、揺らしていたボールペンで机を小突いた。
 書類も何もない場所を数回叩いて、やおらそれを机上に放り投げた。細長い棒がコロコロ転がって、卓上カレンダーにぶつかって止まった。
 小さいながらも予定がびっしり書き込まれた紙面を一瞥し、不機嫌な眼差しを前方に投げる。
「どうぞ」
 表情通りの不愉快そうな声で告げて、彼は椅子の背もたれに身を預けた。
 肘掛け付きのシックな椅子をギシギシ言わせ、鍵のかかっていないドアを一心に見つめた。
 何故か草壁までもが固唾を飲んで、銀色のドアノブに注目した。
 部屋の前で散々思い悩んでいただろう来訪者は、今度も躊躇に躊躇を重ねるかと思われた。
 しかし一度踏ん切りをつけた後は、思い切りが良くなるらしい。ノブはゆっくり回転して、隙間が出来るまで十秒とかからなかった。
 キイイ、と蝶番が軋み、嫌な音を立てた。そろそろ油を、と草壁が考える前で、扉を開けた少年が小さく頭を下げた。
 リーゼントヘアの男が中にいるとは思っていなかったようで、目が合った途端、意外そうな顔をした。だがすぐに気を取り直し、雲雀に向き直って、右足を踏み出した。
「しっ、失礼、します」
 敷居を跨ぐ寸前に思い出したらしく、片足を宙に浮かせた状態でもう一度、御辞儀をする。
 俯いた体勢で器用に一歩目を刻んで、中学生としては小柄な少年が緊張気味に顔を上げた。
 明るい亜麻色の髪は四方を向いて跳ねており、さながら針山のようだ。大きな眼は琥珀色をして、引き結ばれた唇は緊張で色が悪く、青紫に染まっていた。
 学校指定の制服を着込み、シャツの裾は出ていない。ネクタイの結び方が少々雑であるが、まだ許容範囲内だった。
 両手は空で、鞄はなかった。白の上履きは些か黒ずんでおり、しばらく持ち帰っていないのが推測出来た。
「なんの用?」
 風紀委員は揃いの学生服に身を包むのが決まりなので、彼は委員ではない。
 髪色は明らかな校則違反ながら、これが地毛だというのを入学時点で報告していた。
 瞳の色が薄いのも、異国の血が僅かながら入っているからだと言われれば、納得がいく。
 その割には背が低く、肉付きも悪い子供体型なのは、とまで考えて、雲雀は内股でもじもじしている少年に目を眇めた。
 来訪の理由を問うて、返事を待つ。
 どこからどう見ても平凡な中学生たる沢田綱吉は、胸の前で弄っていた手をぎゅっと握り、覚悟を決めて毅然と背筋を伸ばした。
 なにをやってもダメだから、との理由でダメツナの異名まである少年には、実はもうひとつの裏の顔がある。彼はイタリアで九代続くマフィア、ボンゴレの次期後継者であり、初代の生き写しとまで言われる存在だった。
 そして雲雀は、ドン・ボンゴレを守護する六人のうちのひとりに指名されていた。
 雲雀としては強い相手と戦える環境が得られたのは、有り難いと思っている。しかしそれで他の守護者から仲間面をされるのは御免だし、仲良しごっこをするつもりはなかった。
 それでもなにかと、大空の守護者は雲の守護者に絡んできた。
 最初のうちは面と向かって話をする機会は殆どなかったが、最近は時々、こうして応接室に顔を出すようになっていた。
 彼の家庭教師である赤ん坊に、なにか入れ知恵をされたのだろうか。
 鼻息を荒くしている少年から時計に視線を移して、雲雀は転がしたボールペンを拾った。
「あの、ひ、ヒバリさん。ひとつ、その。お願い、が」
 人差し指と親指で抓み、握り直す。
 仕事を再開させようとしている気配を悟り、綱吉は早口に捲し立てた。
 頻繁に息を詰まらせながらも言い切って、無関心を装う男の興味を惹きつけた。
「僕に?」
 雲雀はボールペンをくるりと回転させて、頬杖ついて相槌を打った。
 よもやの展開に、隅で聞いていた草壁はぎょっとなった。雲雀恭弥という人物を良く知るだけに、綱吉の申し出が恐ろしく図々しいものに思えたからだ。
 次の瞬間、トンファーで滅多打ちにされる下級生を想像してしまい、ぶるりと震えて息を飲む。
 だが、意外にも雲雀は続きを促し、黙って顎をしゃくった。
「ええと、その。試験、で。次の」
「ふうん?」
 頼みごとの内容を求められ、綱吉がブレザーの裾を握りしめた。視線を外して俯いて、次の瞬間には壁に吊されたカレンダーを見た。
 そちらにも、並盛中学校の予定が書き記されていた。
 横に長く引かれた線は、試験期間を意味している。来週の中頃からスタートで、今日から部活動は一切禁止だった。
 お蔭で普段は五月蠅いグラウンドが、いつになく静かだ。
 聞こえてこない野球部の掛け声を脳裏に思い浮かべて、雲雀は椅子から腰を浮かせた。
 膝の裏で押して隙間を広げ、立ち上がる。
「試験内容を教えろ、なんて。随分と良い度胸じゃない」
「ひぃっ!」
 左手は背中に回り、羽織っている学生服の内側へと潜り込んだ。
 そこに収納されているものが何であるか、知らない綱吉ではない。想定していなかった返答に彼は青くなり、大袈裟な身振りを交えて声を高くした。
「ちち、ちっ、ちが、違いますってば!」
 ダメツナの異名をとる少年は、運動神経が皆無であり、成績も平均以下だった。これといった得意分野を持たず、いつもビクビクして、孤立していた。
 それが変わったのは、リボーンという名の家庭教師が現れてからだ。雲雀も認める実力者を味方に付けた彼は、勉学は相変わらずながら、非凡な才能を開花させた。
 トンファーでの一撃を警戒して、綱吉は大声で否定した。
 そんなつもりは毛頭ないと叫んで、摺り足で数歩、後退した。
 あの隠し武器で脳天を痛打されたら、折角試験対策で覚えた内容まで忘れてしまう。
 強烈な痛みは過去に経験済みで、綱吉は必死に訴えた。顔の前で両手を振り回して、途中で力尽き、ぜいぜい言いながら肩を上下させた。
 表情は悲痛で、切迫感が滲み出ていた。なんとしてでも一撃を喰らうのは避けたい、との雰囲気が窺えて、嘘を言っているようには見えなかった。
 それで雲雀も納得して、左腕を戻した。膨らんでいた学生服を軽く撫でて、露骨に安堵した少年に眉を顰めた。
 年に数回ある定期試験で、沢田綱吉といえば赤点の常連だ。授業中は居眠りばかり、課題は提出せず、ダントツで学年最下位をひた走っている。
 鬼のような家庭教師を得て、一時期よりはマシになっているものの、それでも平均以下から脱出できていない。
 この調子では、中学校を卒業できない可能性もある。
 だというのに切迫した様子が見られなくて、雲雀にとっては頭痛の種だった。
 そういう事情があり、試験直前の訪問に疑いを持った。
 媚を売り、或いはドン・ボンゴレ十代目の権力を笠に着て、試験問題を事前に入手しようと目論んだ、と勘繰った。
「じゃあ、なに?」
 それ以外に、彼が敢えて放課後に、応接室にやってくる理由が思いつかない。
 一秒でも早く帰宅し、机に向かえばいいものを。
 寄り道している暇があるのか、と腹立たしさを堪えた雲雀に、綱吉は深呼吸を数回繰り返した。
 胸に手を当て、急上昇した体温と鼓動を整えた。額の汗を拭い、上着に寄った皺を伸ばして、惚けた顔で立つ草壁に一瞬だけ視線を投げた。
 傍聴者を気にしつつ、咳払いで心を落ち着かせた。唇をひと舐めして踵を揃え、気を付けの姿勢で両手を身体の脇に寄り添わせた。
 お手本のような姿勢を維持して、まっすぐ雲雀を見詰めて。
「あの、俺。次の試験、が、頑張るんで」
 途中から力が入り、右手が拳を作った。
 頬を紅潮させ、両足で踏ん張って。
「だから、あの。ひゃ、百点、取ったら。俺のお願い、聞いてくれませんか!」
 段々早口になって、一気に言い切った。ぎゅうっと閉じた両目をカッと見開いて、身を乗り出し、勢い余って右足を踏み込んだ。
 ダン、と靴底で床を蹴る音が大きく響いた。
 振動が伝わって来るようで、勢いに圧倒された雲雀は呆然と目を丸くした。
 草壁まで一緒になって唖然となり、小さな目を素早くパチパチさせた。持っていた書類を落としてから我に返って、慌てて身を屈めて拾い集めた。
 慎重に隣の様子を探って、大それた願いを申し出た少年を見詰める。
 綱吉は脇を締めて拳を固くし、血気盛んに勇んでいた。
 彼が獲得した最高得点は、七十二点。それは中学一年の時点での、保健のテストだった。
 もっともこれはただの偶然であり、そもそもテスト自体が簡単だった。選択問題が大半で、設問を理解しなくても、当てずっぽうで何点か稼げる内容だった。
 幸運に恵まれたこの一件以降、彼は目を見張るような点数を取れていない。
 記憶している過去の記録をざっと辿って、雲雀は緩慢に頷いた。
「百点。へえ。自信あるんだ?」
 その彼がこんな風に宣言すること自体が、異常だ。
 相当な自信がないと出ない発言であり、気合いの入れ方もこれまでと少し違う。
 並盛中学校の平均点を押し下げていた少年は、嘲笑うかのような眼差しにも臆さず、はっきりと首を縦に振った。
「とります」
「へえ?」
 雲雀の目を見ながらきっぱり言って、右手で胸を叩いた。
 任せろ、と言わんばかりの態度に興味を示し、泣く子も黙る風紀委員長はふかふかの椅子に座り直した。
 悠然と足を組み、頬杖を着いた。綱吉を上から下までじろじろ眺めて、決意表明した少年に口角を持ち上げた。
「分かった。良いよ」
「本当ですか!」
「うん。どの教科でもいいよ。本当に百点取れたら、どんな頼みでも聞いてあげる」
 急にやる気を出したところが怪しいが、全体の底上げになるのなら出し惜しみはしない。どうせ無理な話だが、挑戦する意志は尊重すべきだ。
 どんな頼みでも、とは言い過ぎた気がするが、撤回するのも癪だ。草壁が心配そうに横目で盗み見てくるのを無視して、雲雀は頬杖を解き、その手を膝に置いた。
 綱吉はといえば、案外あっさり承諾を得られて、ぽかんとしていた。
 もっと渋られると思っていただけに、呆けて立ち竦み、二秒後に我に返って猫背を正した。
 びしっと姿勢を良くして、睨みを利かせる男にしどけなく笑いかける。
「約束ですよ」
「分かってるよ」
「約束しましたからね」
 頼みごとの中身は、まだ言わないつもりらしい。
 しつこいほどに念を押してくる彼が鬱陶しくなって、雲雀はつっけんどんに言い返した。右手をひらひら振って退室を促し、草壁には目で命じた。
 視線だけで察して、ずっと見守るだけだった男が動いた。書類を置き、繰り返し釘を刺す生徒の肩を押して、応接室から追い出した。
「聞きましたからね!」
 それでもなお、綱吉は叫んだ。見苦しく喚いて、ドアを閉められてもしばらく立ち去らなかった。
 こんなにも念押しする辺り、余程の自信があるのか、それとも別の意図があるのか。
 安請け合いしたかと一抹の不安を覚えるが、目を瞑った瞬間、雲雀はその疑念を掻き消した。
「よかったんですか?」
「いいよ。どうせ、聞くだけなんだから」
 上機嫌にボールペンを回転させて、問いかけて来た草壁に言い返す。
 不遜な態度と台詞に一瞬固まって、意味を解した男は少し困った顔を作った。
「それでは、沢田が……ああ、いえ。なんでもありません」
 頼みごとを『聞いて』やると約束したが、『叶えて』やるとは言っていない。
 こじつけも良いところの上司の台詞に、草壁は綱吉に同情を寄せ、睨まれて急ぎ口を噤んだ。
 その後一週間は、綱吉は応接室に姿を見せなかった。試験期間は滞りなく過ぎて、採点の終わったものから順次返却が始まった。
 カンニングの報告もなく、大きなトラブルはひとつも起きなかった。試験中に様子を覗きに行ったが、綱吉は教室で真面目に取り組んでおり、横顔は真剣そのものだった。
 あれなら満点とはいかずとも、平均点くらいは期待できるのではなかろうか。
 そう期待して取り寄せた全学年の結果を眺めて、雲雀は眉間の皺を深くした。
「恭さん?」
「前回よりは、……だね」
 数百人分ある中で、真っ先に確かめた名前は沢田綱吉で間違いない。クラス別で集計されたリストで、その欄は神々しく輝いていた。
 残念ながら、満点は見当たらなかった。
 ただ、いつもはある零点が、ひとつもなかった。
 平均点には遠く及ばないけれど、一桁さえザラだったものが、全て二桁に乗っていた。一教科だけだが赤点を脱しており、前回の試験よりはかなり改善されていた。
 努力は認めるべきだろう。
 椅子に深く凭れかかって、彼は手にした一覧表を机に放り投げた。
 途中まで水平飛行していたそれは、やがて力なく滑り落ちた。端が卓上カレンダーに当たって跳ね返り、机上のほぼ中央に着地した。
 遠くまで飛んで行かなかった偶然に目を見張り、愉快だと頬を緩める。
 珍しく表情豊かな雲雀に苦笑で応じて、草壁はコンコン、と鳴ったドアに顔を向けた。
 今回は、五分も悩み、迷わなかったようだ。
「失礼します」
「開いてるよ」
 間髪入れずに声が聞こえて、ドアノブが回る音がそれに続いた。
 嫌な軋みを立てることなく、応接室のドアが内側に開いた。散々なテスト結果だというのに、現れた少年は妙に得意げで、表情は自信に溢れていた。
 約束した百点にはとても足りなかったが、落ち込む素振りは全くない。逆に嬉々として、どことなく嬉しそうだった。
「……うん?」
 それが意外に感じられて、雲雀は眉を顰めた。
 風紀委員の特権により、全校生徒の試験結果は把握している。そのことを、綱吉はとっくに承知していた。
 長くはないが、短くもない付き合いだ。互いのことは、そこいらの一般生徒らよりは深く認識していた。
 なにやら様子がおかしい。
 想定していたのとは正反対の態度に戸惑っていたら、綱吉はふふん、と居丈高に胸を反らした。
「とりましたよ、百点」
 そうして嬉々として宣言し、彼は合計五枚の答案用紙を鞄から取り出した。
 高々と掲げて、不敵に笑った。いつものおどおどして、小さく震える小動物らしさが薄れ、さながらサル山で威張るボス猿の風格だった。
「なにを言ってるの、君」
 その豪快さに唖然としつつ、雲雀は問い返した。事実と大きく異なる発言に眉を顰め、堂々と嘘を吐く彼への不信感を膨らませた。
 不愉快と言わんばかりの表情で睨みつけ、苛々しながら机の角を叩く。
 いつトンファーを取り出して襲い掛かるか分からない雰囲気に、巻き込まれるのを嫌った草壁がこっそり壁際へ後退した。
 だが超直感の持ち主は、至って冷静だった。
 それどころか不機嫌を露わにする雲雀を嘲笑い、良く見ろ、と並べて持った答案用紙を指差した。
 教科までは見えないが、赤文字で記された点数ははっきり読み取れた。
 左から順に、二十二点、十三点、十四点、四十点、十一点。
 どれもこれも自慢にならない点数で、一般家庭の親が見れば卒倒ものだ。事実、雲雀でさえ、最初見た時は頭を抱えたくなった。
 あらかじめ調べて、知ってはいたものの、いざ目の当たりにすると相応にショックだ。どんな勉強の仕方をすればこんな酷い点が取れるのかと、逆に聞きたいくらいだった。
 家庭教師役の赤ん坊は、いったいどういうつもりなのだろう。
 沢田家の教育方針に甚大な疑念を抱き、彼は鼻息荒い少年を睨みつけた。
「百点、です」
「……ん?」
 それをものともせず、綱吉が誇らしげに告げた。
 隠し切れない興奮に頬を染め、雲雀が待つ机に五教科分を広げた。
 言っている意味が分からなくて、風紀委員長の右の眉がピクリと持ち上がった。胡乱げな眼差しを投げかければ、綱吉は屈託なく笑って、赤ペンで記された数字のひとつを指差した。
「百点でしょう?」
「十一だよ」
「違います。よく見てください」
 同じセリフを繰り返されて、混乱した雲雀は苛立たしげに舌打ちした。眼力を強め、右手で武器を掴みに行こうとして、スッと横にずれ動いた視界に眉を顰めた。
 五つ並んだ数字は、リストにあったものと同じだ。
 放り出したままなのを思い出し、急ぎ回収した。直後にハッとして、彼は喜色満面とする下級生に瞠目した。
「ふざけないで」
 ようやく理解して、湧き上がったのは感嘆ではなく、怒りだった。
「ふざけてません。ちゃんと、百点です」
 吐き捨てられた言葉に反応し、綱吉が強固に言い張った。なにも間違っていないと訴えて、空になった両手を腰に据えた。
「冗談も大概にしなよ。五教科の合計って、そんなもの、認められるわけないだろう」
「俺、一教科で百点だなんて、一度も言ってません」
「ブフッ!」
 早口に捲し立てられても、正面から受け止めた。気持ちで負けないよう奮い立たせて、堂々と言い放った。
 彼らのやり取りに噴き出したのは、壁際にいた草壁だ。慌てて口を塞いだのだが、間に合わなかった。
 直後に雲雀に睨まれて、背高な男は猫のように首を竦めた。恐縮して小さくなって、早足で応接室を出ていった。
 そそくさとドアを閉めた背中にため息を零し、雲雀は痛むこめかみに指を置いた。ずらっと並んだ解答用紙を左から順に眺めて、合計値が綺麗に百になっている現実に肩を落とした。
 一教科で百点満点も難しいが、五教科で合計百点も、相当難しいのではなかろうか。
 計算して狙えるものでもなくて、器用としか言いようがなかった。
「がんばりました」
「その才能、別のことに使ったら?」
 努力するにしても、方向が間違っている。どうせなら百点を越えて欲しかった、と愚痴を零して、彼は右手で首の後ろを掻いた。
 もっとも雲雀にしても、詭弁を弄するつもりだったのだから、責められない。頼みごとを聞いてやるが、叶えてはやらない、との趣旨で押し通すつもりでいたから、お互い様だった。
「なにはともあれ、百点です。俺のお願い、聞いてくれますか?」
「断るって、言ったら?」
「ヒバリさんは嘘つきだって、骸に教えてきます」
「へえ……」
 念のために訊ねれば、この世で一番聞きたくない名前を告げられた。
 先にやり取りを想定し、答えを用意していたのだろう。滑らか過ぎる口調に頬を引き攣らせ、雲雀はこめかみを数回、爪で小突いた。
 力尽くで妨害しても、彼の行動全ては縛れない。四六時中見張るわけにはいかなくて、誹謗中傷の流布は免れなかった。
 あの南国果実が勝ち誇った顔で、こちらを嘘つきと罵りに来るのだけは、御免蒙る。
 想像するだけで腹が立ち、はらわたが煮えくり返るようだ。露骨にイラッと顔を歪めて、雲雀は止むを得ないと首を振った。
「聞いてはあげる」
 叶えてやるかどうかは、内容次第。
 そう言葉尻に含ませた彼に、綱吉は構わない、と勢いよく頷いた。
「ありがとうございます」
「忙しいんだから、早く」
 元気よく礼を言って、畏まって頭を下げた。行儀よく膝を揃え、四十五度に腰を曲げる仕草は見事だった。
 それはそれで妙な特技だと、内心呆れつつ続きを促す。
 今日は仕事などしていないくせに、ともう一人の自分からの指摘は無視して、雲雀は無邪気な笑顔に視線を移した。
 昔は、目が合っただけでもおどおどしていたくせに。
 いつの間にか堂々とした態度を取るようになった小動物に嘆息し、急かして机を叩いた。
 少しでも調子に乗ったことを言おうものなら、遠慮なく殴り飛ばしてやる。ボンゴレ十代目云々は関係ない。彼が並盛町にいる限り、全ての法は雲雀の支配下にあった。
 不敵な笑みを能面に隠し、掬い取ったボールペンの先を斜め前に向けた。
 いつでも眼球目掛けて発射できる準備を済ませ、綱吉の次の言葉を待った。
 彼のことだから、戦いたい、というのはないだろう。
 ならば成績の改竄か、いじめっ子への報復か。
 大声で公言すべきではない依頼ばかり想像し、予想した。風紀委員長に内々に頼みに来るのだから、よほどのものと思われた。
「握手、してください」
「――?」
 しかし、違った。
 軽く腰を捻って両手を合わせられて、雲雀はぽかんとなり、首を右に倒した。
 甘えた仕草で強請った方は、揉み手を続け、神に祈る仕草で頭を垂れた。心からの願いだと言って、叶えてくれるよう念を送った。
 その電波を受け取って、雲雀は瞬きを二度、三度と繰り返した。数秒の間を置いてパチパチと繰り返し、惚けた顔で真剣な表情を見詰め返した。
「握手」
 手と手を握り合う、それにどんな意味がある。
 百点を取る、と壮大なことを言って、謀略を経て掴み取った唯一のチャンスを、そんなことに使うとは。
 自分の手に、そこまで価値があったのか。ふと思って、彼は思わず右手を見た。
 握っていたペンを手放し、片手を宙に浮かせたまま、正面に向き直る。
 綱吉はうんうん頷くと、自身の利き手をズボンに擦りつけた。
 汗を拭い、汚れを落として、軽く息を吹きかけてから差し出してきた。
「そんなので、いいの」
 物を強請るだとか、そういう類でもなかった。
 当てが外れてがっかりしたような、そうでもないような変な気分で問い返し、雲雀は椅子を引いて立ち上がった。
 特になにもしないまま、肘を伸ばした。指先を揃えないで宙に揺らしていたら、綱吉がそれに合わせて腕を伸ばした。
「ちゃんと、やったこと。なかったと思うので」
「そうだっけ」
「いつも、沢山、助けてくれて。ありがとうございました」
「君に礼を言われることなんか、してないよ」
 指先が交錯して、一瞬だけ触れて、すれ違った。
 巧くタイミングが合わなくて、綱吉は照れ臭そうに首を竦めた。
 改めて重ねた肌はカサカサしており、体温はそれほど高くなかった。直前にあれだけズボンで擦ったのに、仄かに汗で湿って、触れ合った場所から吸いついて来た。
 小さな手だった。
 指は短く、掌は薄い。これといって運動をしていないと分かる、実に子供じみた手だった。
 こんな拳では、誰かを殴ったとして、自分にもダメージを受けてしまう。皮膚が裂け、肉が千切れ、骨が砕け、あっという間に使い物にならなくなる。
 それなのに彼は、臆することなく拳を振るった。
 自身が傷つくのを恐れず、悔やまず、立ち向かい続けた。
「ヒバリさんは、思ってないかもしれないけど。でもオレは、ヒバリさんに助けられたと思ってます。だから、お礼、言わせてください」
「好きにすれば?」
「好きにします。それで、お願いなんですけど」
「ワオ、図々しいね。もう売り切れだよ」
 綱吉は感触を噛み締めるように、何度か力を入れては緩める、を繰り返した。
 その厚み、熱、固さを確かめ、ぱっと見ただけでは気付けない古傷を数えた。
 感謝を述べて、屈託なく笑った。百点を取った交換条件の願い事はもう叶えてやった、と言われても、怯まなかった。
 振り払われそうになった手を握りしめ、離さないとの意志を伝えた。雲雀が右の眉を持ち上げたのを見逃さず、目を細め、頭を下げた。
「これからも、よろしくお願いします」
 顔を合わさぬまま、ひと息に捲し立てた。
 今日一番の勇ましい声で吼えて、指の隙間から抜け落ちそうになった雲雀の手に縋った。
 告げられた言葉に、雲の守護者の指先から力が失われた。だらりと垂れ下がろうとしたそれを引き留めて、大空の守護者は毅然と顔を上げた。
 再び視線が交錯した時、バチッ、と火花が散った気がした。
 迷いのない真っ直ぐな瞳に、雲雀の顔が大きく映し出されていた。
「……いやだね」
「ヒバリさん」
「これからも、僕は勝手にやるよ」
 それを真正面から受け止めて、自由気ままな青年は素っ気なく言い捨てた。
 繋いだ手を一瞬だけ強く握り返し、そして今度こそ払い除けた。仲間になったつもりはないと拒絶して、大胆不敵に口角を歪めた。
 これまでも、これからも、群れる気はない。好きなように暴れ、気ままに相手を選び、好きなだけ戦いを繰り広げる。
 その場に誰がいようと、関係ない。
 雲雀は、雲雀が楽しいと感じることだけを選び続ける。
 振り解かれた手をじっと見つめて、綱吉は肩を竦めた。肌に残る体温を大事に抱え込んで、相変わらずの男に目尻を下げた。
「分かりました」
 ふたつめの願い事は、贅沢だった。
 あっさり引き下がって、彼は後ろ向きに距離を取った。
「せいぜい、僕を退屈させないことだね」
 立ち去ろうとする綱吉に、捨て台詞として雲雀が告げる。
 それがまるで、引き留めたがっているかのような響きになった。失敗したかと内心悔いた矢先、綱吉は。
「がんばります」
 肩越しに振り返り、百点満点の笑顔で頷いた。

2017/05/03 脱稿

つつあるものと 思ひけるかな

「さよくん、さよく~ん」
 声は突然、彼方から降ってきた。
「え?」
 だというのに姿が見えなくて、小夜左文字は困惑した。辺りをきょろきょろ見回しても、それらしき影は見つからなかった。
 いったいどこに居るのだろう。とても近くから聞こえるにも拘わらず、隠れられる場所はない。広い庭の一画で、左手には屋敷の屋根が見えた。
 縁側で何振りかが寛ぎ、軒先では粟田口の短刀たちが球蹴りで遊んでいた。遠くへ飛ばさないよう、地面を転がして、相手の正面に届けられるかを競い合っていた。
 思わずそちらに注目して、すぐに意識を引き剥がした。違う、と首を振って、もう一度左右に視線を走らせた。
「ここですよ、ここ」
「今剣?」
 それでも、声の主は見つからない。
 早く、と誘う声に焦りを覚え、彼は辛抱出来ずに助けを求めた。
 あの短刀は、どこへ行ってしまったのか。ふと怖くなって、小夜左文字は足元に生える草を踏み潰した。
 青草が拉げ、鼻につんと来る臭いがした。
 草履の裏が緑色になっているのを想像して、顔を上げれば太陽の光が目に飛び込んできた。
「うっ」
 その痛烈な眩しさに、自然と顔が歪んだ。顰め面を作って、苦々しげに天を睨みつけた。
 視界の中心が、周囲の明るさに反して、黒く染められていく。
「こっこで~すよ~」
「今剣!」
 そこに再び声が降って来て、小夜左文字はゾッとなった。
 嫌な予感がして、腰が引けた。一刻も早く逃げ出すよう、本能が警句を発した。
 頭の中で鐘の音が鳴り響く。縁側からの歓声が瞬く間に遠ざかって、彼はヒクリと頬を引き攣らせた。
 戦場では敵に臆することなく突っ込んでいけるのに、どうしてこんな時ばかり、身体が凍り付いてしまうのだろう。
 直感に背筋を粟立て、冷や汗を流し、短刀の付喪神は耳元を駆け抜けた風切り音に四肢を硬直させた。
 そこから瞬き一回分もなかった。
「ぐぎゃっ」
 潰れた蛙のような悲鳴を上げて、小夜左文字はズドン、と落ちて来た衝撃に呆気なく押し潰された。
 受け止めきれず、仰向けに倒れた。受け身を取る暇はない。避けるなど不可能な状況下で、凶悪な圧迫感にひたすら悶え苦しんだ。
 背中と後頭部を痛打して、咄嗟に息が出来なかった。臓器が一斉に跳ね上がって、肋骨を突き破って外に飛び出すのではないか、と恐怖を抱いた。
 それは上から降ってきたものが押さえつけ、封じてくれたわけだが、かといって助かったとは言い切れない。
 上からと、下からの両方の圧力に背骨はギシギシ音を立て、痛みに貫かれた筋肉が揃ってひきつけを起こしていた。
「いづ、つうう」
 悲鳴を上げたいのに、息を吸い、吐くだけでもあちこちが引き攣る。
 声もなく喘いで、彼は霞む視界に光を取り戻した。
 何十回と瞬きを繰り返して、圧し掛かってくる悪代官を懸命に睨んだ。
 けれど今剣はまるで悪びれる様子なく、逆に目が合ったのを喜んだ。
「うえですよ。う、え」
「おも、い」
 得意げに言って、頭上を指差す。
 その間も彼は小夜左文字の腹に座り、全体重を預けて来た。
 いくら小柄とはいえ、紙より軽いわけがない。そもそも彼は、小夜左文字より目方があった。背丈も、僅かながら上回っていた。
 それが弾丸と化して降ってきたのだから、体当たりされる方は堪ったものではない。早く退くよう促すが、にこにこ笑う短刀は全く耳を貸さなかった。
 彼らの近くには年老いた槐の木があった。
 幹は細く、頼りない。枝振りはまだまだ元気だが、あまり花を咲かせない、という話だった。
 止血剤として薬に使うので困ると、薬研藤四郎が言っていた。そんな事をぼんやり思い出しながら、その樹上から飛び降りて来た烏天狗に歯を食いしばった。
 渋面を作り、眼力を強める。
 ふふん、と鼻を鳴らした今剣は、少しも怯えてくれなかった。
「ぼくをさがして、うえをみないなんて、よくないですよ」
 それどころか舌足らずの声で捲し立て、小夜左文字の観察不足を叱った。そばに木があると分かっているのだから、真っ先にそこを探すべきだと懇々と説いて、偉そうに人差し指を立てた。
 指先を振り回しながら滑らかに告げて、どうだ、とばかりに口角を持ち上げる。
 ついムッとなって、小夜左文字は仕返しだと蹴り上げた右足で烏天狗の背後を狙った。
「うわあ」
 膝頭を叩きつけ、不意打ちを喰らわせた。
 予期していなかった短刀は、背中を打たれた衝撃に悲鳴を上げた。肩甲骨のやや低い場所に一撃を食らい、前倒しになった体躯をわたわたさせた。
 両手を振り回して崩れた重心を立て直し、してやったりとほくそ笑む短刀仲間をねめつける。
 今度は小夜左文字が余裕綽々として、不遜な態度で今剣を見詰め返した。
「も~」
「退いてください」
「さよくんの、けちんぼ」
 拗ねられても、意に介さない。最初に非礼を働いたのはそちらだと責めて、なじられても耳を貸さなかった。
 今剣はぶすっと頬を膨らませると、渋々膝を伸ばして立ち上がった。千切れて散った青草を払い落とし、ようやく小夜左文字の上から退いた。
 直前に、名残惜しげに腹を撫でられ、その瞬間だけは悪いことをした気分になった。けれど正当性は自分にあると思い直し、藍の髪の短刀はぐずぐずしている仲間の胸を押した。
 突き飛ばし、出来上がった隙間から下半身を引き抜いた。
 絶対に安全だ、と分かる距離まで後退して、股袴の白を緑に染め変えた。潰れた草の汁が繊維に絡みついて、吸着を止める手立てはなかった。
 斑色になって、まるで夜尿症をした跡のようだ。あとで目いっぱい擦り洗いしようと決めて、小夜左文字は注意深く相手を窺った。
 今剣は口を尖らせ、いかにも不満があると言わんばかりの態度だった。
「どうして、おこるんですかー?」
「どうして、あれで怒られないと思うんですか」
 ぶーぶー文句をぶつけられて、つい皮肉で返してしまった。
 彼の思考回路はどうなっているのか真剣に悩んで、まだズキズキする背骨を宥めた。
 腕が回る限りの範囲で撫でて、張り付いていた青草を払った。関節の至る場所がぎしぎし軋んで、少し動かすだけでも激痛が走った。
 当分の間、立ち上がれそうにない。雑草生い茂る地面に座り込んで、小夜左文字は呼吸を整えた。
 左胸に手を添えて、慎重に回数を重ねた。骨に響かないようゆっくりと、少しでも変調を感じれば吸い込む量を減らした。
 今剣は真正面に腰を下ろし、黙ってこちらを見詰めていた。
 袖のない貫頭衣に、大きな腕輪を三つも、四つも腕に通していた。木登りの邪魔になるからか、一本足の下駄は履かず、白い足が緑の大地に転がっていた。
「さよくん、あそびましょうよ~」
 だがものの数秒としないうちに、沈黙に飽きたようだ。己が引き起こした悪事を忘れ、暢気に誘いを掛けてきた。
 手を伸ばし、掴み取るよう言った。五本ある指を大きく広げ、空を掬い取る形で二度、三度と動かした。
 催促されて、小夜左文字は頬をピクリと動かした。怪訝に相手を覗き見て、特に意味もなく脇に視線を流した。
 座り込んでしまったのもあり、屋敷の縁側は一気に見えにくくなった。だが声は続いており、前田藤四郎と包丁藤四郎のやり取りが、途切れ途切れに聞こえてきた。
 遊ぼうと言われたが、なにをして遊ぶかまでは言及されなかった。
 胡乱げな眼差しを今剣に投げ返せば、彼は一瞬ムッとして、余所見した短刀を責めた。
「さよくん~?」
 自分が話しかけているのに、どうして他に意識を向けるのか。
 ただでさえ不機嫌だったのに、一層の不快感を表に出して、強引に手を掴み取ろうとした。
「ちょっと、待って」
 それを咄嗟に跳ね除けて、小夜左文字は悲鳴を上げた関節に息を詰まらせた。
 急に動いたから、反動が凄まじい。どんっ、と後ろから突き飛ばされた錯覚を抱いて、冷たい汗が背筋を伝った。
 木から飛びかかってきた短刀の、その衝撃がまだ消化し切れていない。足に力が入らず、立つことさえ難しいのに、力尽くで来られるのは許容できなかった。
 友人だと思っているのなら、少しは労って欲しい。
 強引すぎる今剣に毒づいて、彼はバクバク五月蠅い心臓を内番着の上から撫でた。
 首筋に汗が伝い、そこに張り付く髪の毛が鬱陶しい。吹く風は生暖かくて、こちらも甚だ不愉快だった。
「さよくん」
「今日は、いやだ」
 悪いことをしたら、きちんと謝り、許しを請うべきだ。
 だのに今剣は、上空から勢いつけて飛び降りて来たのを、悪いと思っていない。それにより小夜左文字がどんな被害を蒙ったのか、まるで頭にないようだった。
 彼はこんなにも、想像力が欠如した刀だっただろうか。
 分からない。思い出せない。
 修行に出る前の今剣がすぐに浮かんで来なくて、小夜左文字は喉を掻き毟った。
 勢いを増す一方の鼓動に喘いで、足りない酸素を懸命に集めた。金魚のように口を開閉させて、溢れて止まらない唾液を一気に飲み干した。
 あまり目立たない喉仏を上下させ、沈黙を保つ短刀を盗み見る。
 拒絶された後の彼はぴくりとも動かず、真ん丸い目をいっぱいに見開いていた。
「今剣」
 それがとても不気味で、空恐ろしく思えた。
 彼が自分の知る今剣とはまったくの別物になってしまった気がして、全身からサーッと血の気が引く音がした。
「あそびましょうよ」
 そこに、無邪気な声が響いた。
「ぼくといっしょに、のやまをかけめぐりましょう」
「今剣」
 淡々と紡がれる声に、感情はさほど籠められていない。抑揚なく告げられて、小夜左文字は瞠目した。
 ゾッとして、背筋が粟立った。ただでさえ五月蠅かった鼓動が爆音を奏で、耳鳴りがして、くらりと眩暈を覚えた。
 意識が遠退きかけて、寸前で引き留めた。僅かに仰け反って、またもや伸びて来た手を必死に拒んだ。
「今日は、いやです。今剣」
 これといった用事はなかった。どちらかといえば暇だった。身体が万全であれば、裏山を駆け回るくらい、なんてことはなかった。
 いつもなら断らない。しかし今回は意地が勝った。向こうが謝らない限り、誘いには乗らないと誓って、伸びてくる手を悉く叩き落とした。
 当初の目的を忘れ、それが遊びになればと願っていた。遠出するのでなく、この場で、座り込んだままでも出来る内容に切り替わればと、心のどこかで祈っていた。
 そうはならなかった。
「さよくん!」
「うっ」
 痺れを切らした今剣が、突如身体ごと前に出た。
 鋭く突き出した手で反撃を封じ、強引に小夜左文字の手首を拘束した。
 信じられない力だった。
 同じ短刀とは思えず、大太刀や槍に抓られている気分だった。骨が折れそうなくらいぎゅうぎゅうに絞められて、血流を阻まれ、指先がみるみるうちに白くなった。
 感覚が遠くなり、思うように動かせない。奪い返そうと躍起になるが、腕一本取られただけで全身が痺れ、凍り付いた。
「い、った……」
 元々あった痛みに上書きされて、衝撃は二倍だった。
 精神的にも圧倒されて、脂汗が止まらなかった。
 全身の汗腺が開き、だらだらと流れていく。やがて干からびてしまうのでは、と危惧する勢いで、息も巧くできなかった。
 はあ、はあ、と漏れる呼気が頭の中で渦を巻いた。
 とてつもなく強大ななにかと対峙している感覚に、全身が「逃げろ」と叫んでいた。
 けれど、出来ない。
 恐怖に呑まれ、身動きが取れなかった。
「あそびましょう?」
「いま、の、つるぎ……」
「ぼくといっしょに、あそんでくれますね?」
 そこに居るのは、今剣だ。大切な仲間だ。顕現してすぐの頃、本丸で出会った、頼れる友人だった。
 顔は同じだ。声も同じだ。
 だが雰囲気が違う。気配が違う。
 瞳の奥に、底知れぬ闇が見えた。
「今剣っ!」
 小夜左文字が背負う、黒い澱みと似て非なる色だった。
 どろりとして、全身にまとわりついて離れない。こびりつき、絡みつき、動きを封じて呑み込もうと蠢いた。
 頬を撫でられただけで悪寒が走り、己を形作っているものが崩れていく予感がした。奪われ、吸い取られ、別物に置き換えられていく、そんな雰囲気だった。
 そうして最後に行き着く先は、無。
 虚妄を剥がされた付喪神は、空っぽの世界でさらさらと崩れ落ちた。
「――うああああ!」
 絶叫し、飛び上がった。
 この世のものとは思えぬ存在から必死に逃げて、小夜左文字は全身を戦慄かせた。
 ぜいぜいと肩を上下させ、一瞬のうちに乱れた息を整える。ど、ど、ど、と脈打つ心臓に何度も唾を飲み下して、真っ白だった視界に輪郭を浮き上がらせた。
 全体的にぼやけていた空間が、じわり、じわりと形を取り戻していく。
 狂っていた遠近を瞬きで調整して、彼は手首に落ちた汗に背筋を震わせた。
「ううっ」
 震えが来て、首を竦めた。全身を伝う汗に身体が冷やされて、寒気が止まらなかった。
 堪らず己を抱きしめて、肩や上腕、あちこちを撫でた。五体満足であるのを無意識に確かめて、まるで痛まない背中と、失われた関節痛に疑問符を投げた。
「あ、……え?」
 見えていたのに意識しなかったものに気付き、目を瞬く。
 ぱっちり丸く見開かれた眼に映るのは、青々と茂る雑草でもなければ、不気味に笑う今剣の姿でもなかった。
 投げ出した足の裏には畳の感触があり、ひんやりと冷たかった。身を起こした時に跳ね飛ばしたのは洗いざらしの単衣で、大きさから薙刀のものと思われた。
 開け放たれた御簾の向こうに、日差しを受けた庭が広がっていた。蝉の声が遠く聞こえて、やぶ蚊が飛ぶ羽音が存外近くから響いた。
 発作的に顔の横で手を払って、不快な音を遠ざける。
 そうしている間も頭は状況を整理し切れず、小夜左文字は惚けた顔で座り込んだ。
「ここ、は」
 ひとりで暮らすには些か大きい部屋は、三条派に属する男の私室だ。身体が他の刀より大きい分、広めの空間を宛がわれて、それを良いことに、刀派を同じくする短刀が入り浸っていた。
 お蔭で小夜左文字の私室の隣は、いつ訪れても蛻の殻。
 たまには屋敷の中で遊ぼうと誘われて、出向いたのがここだった。
 ようやく記憶が繋がって、彼は違和感を覚えて首を叩いた。
 一歩遅く、血を吸われた。後から痒みが起きるのを想像して、深々とため息を吐いた。
「うう~ん……」
「今剣」
 ぺちん、と小さな音を響かせ、足に被さっていた薄衣を退ける。
 左斜め後ろに寝転がった短刀は、目を瞑り、午睡を楽しんでいた。
「あれは、夢?」
 寝顔は無邪気で、幼い。左右で僅かに色が異なる瞳は瞼に隠され、見るのは叶わなかった。
 短刀の中で誰よりも年上ぶる少年は、現実には存在しない刀だ。後の人々が創り上げた物語の中にのみ存在し、時代を経て語り継がれるに従って、形を成したのが彼だった。
 その話を聞いた時、小夜左文字は複雑な気持ちになった。
 自分と似ているようで、まるで違う。逆だ。正反対もいいところだった。
 小夜左文字にまとわりつく黒い澱みは、彼が背負う復讐に取り込まれた人々の怨念だ。山賊に殺された人、そして小夜左文字が殺した人々が、彼に寄り添い、物語を成した。
 小夜左文字から物語が剥がれ落ちても、刀は残る。それが最早『小夜左文字』とは言えぬものだとしても。
 あまりにも現実味が強すぎた夢が、頭に残って消えなかった。
 本当に目覚めているのか、こちらが現実なのかどうかを疑って、上腕の肉を抓めば、しっかり痛かった。
 しかし夢の中でも、充分過ぎるくらいの痛みを覚えた。
「胡蝶、か」
 虚と実が混じり合い、どちらが真実なのかは判然としない。
 蝶になる夢を見た詩人が、自身は蝶の見ている夢ではないかと疑った故事を思い起こして、小夜左文字は畳にごろ寝する今剣に単衣を被せた。
 客人だからと、譲られていた。これは本来、彼が使うべきものだと首肯して、まだ引かない汗を拭った。
 鼓動は幾ばくか落ち着き、冷静さが戻って来た。深呼吸を五度も繰り返して、家主がいない部屋をぐるりと見回した。
 近くには盤双六があり、白黒に塗り分けられた小石が転がっていた。双子の賽子が手持ち無沙汰にしており、勝負の続きを催促した。
 あれで遊んでいる最中に、眠ってしまったようだ。
 三日月宗近が持って来たまんじゅうを食べ、石切丸が煎れてくれたほうじ茶で喉を潤した。小狐丸が稲荷寿司をこっそり分けてくれて、満腹になったのが良くなかった。
 撫でた腹は、まだ丸い。部屋の中ほどまで差し込んでいた日差しは、今は随分手前へ流れていた。
 どれくらいの時間が過ぎたのか、ぱっと思いつかない。
 未だ半分夢の中にいる気分でいたら、御簾を揚げ、背高な男が部屋に入って来た。
「んん? なんだ、起きたのか」
「岩融さん」
 言わずと知れた、薙刀だ。本丸でも屈指の背丈を有しており、その剛腕ぶりは目を見張るものがあった。
 彼のひと振りで、敵が一斉に薙ぎ払われていくのだ。見ていて壮観だが、自分たちの出番が失われるのは面白くなかった。
 居住まいを正し、小夜左文字は背筋を伸ばした。上着を貸してくれた礼を込めて頭を下げて、声を立てずに笑う男に相好を崩した。
 後ろを見れば、今剣はまだ寝ていた。ふにゃりと笑ったかと思えば、急に顰め面になって、百面相は見ていて面白かった。
「今剣は、眠ってしまったようだな」
「すみません。とんだ失礼を」
「なあに、構わぬ。寝る子は育つと言うしな」
 その短刀を上から覗き込み、黒手袋を外しながら岩融が呟く。
 賽の目を数えていた覚えはあるのだが、途中から記憶は曖昧だ。確実に言えるのは、先に眠ったのは小夜左文字の方、ということくらいだった。
 他者の部屋に邪魔しておいて、睡魔に負けるとはなんと情けない。だが薙刀は大きな手で短刀の頭を撫でると、器用な手つきで今剣に衣を掛け直した。
 大柄な彼だけれど、仕草は気配りに満ちている。
 笑い方や闘い方は豪快だが、それ以外は意外に細やかだった。
「拗ねておったぞ。続きができない、と」
「すみません」
「俺に謝ることではない。よく眠れたなら、それでいい」
 布団代わりの衣を被せられたばかりなのに、今剣は早速寝返りを打ち、裾を乱した。白い手が畳の上を這い回って、なにかを探しているようだった。
 その指に触れるか否か、という場所に、岩融は己の手を置いた。尻を浮かせた状態で屈み、物語から産み落とされた刀を優しい顔で見詰めた。
 ふた振りが見守る中、今剣が力強く、頼もしい男の手を探り当てた。
 指を絡め、きゅっと握りしめる姿は、赤子が母の乳房をまさぐっているようでもあった。
「今剣は」
「ん?」
 双六の盤面は、眠りに落ちる直前のまま、動いていなかった。
 やろうと思えば、いくらでも細工が出来たはずだ。勝負は小夜左文字優勢で、今剣は必死に挽回しようと足掻いていた。
 勝負の続きを強請り、舟を漕ぐ短刀を起こそうと躍起になった。夢の中で感じた衝撃は、もしかせずとも、体当たりで目覚めさせようとした影響だろう。
 岩融の手を握って、今剣の表情は安定した。穏やかで、心地よさそうで、安心しきっているのが伝わってきた。
「どこにも、行かないですよね」
 独り言のつもりだった。
 質問の体を取ってはいるが、返事は期待しなかった。ふと頭に浮かんだ不安が音となり、舌の上をするりと零れ落ちた。
 足を崩して座る少年を一瞥し、大柄な男はすぐに視線を戻した。すやすや眠る幼子に相好を崩して、空いた手で乱れていた髪を整えてやった。
「ここ以外の、どこに行けと言うのだ?」
 そうして低く、小さく、けれど朗々と響く声で問い返した。
「そんな、つもりは」
 鋭い眼光に射抜かれ、小夜左文字はハッとなった。
 恐ろしく残酷で、不躾もいいところの質問をしたと気が付いた。深く考えないまま、傲慢な想いを抱いたと思い知らされた。
 光も届かない、深い谷底へ突き落とされた気分だった。背筋が寒くなり、夢の中の痛みが現実になった錯覚を抱き、発作的に自分の身体を抱きしめていた。
 か細く震え、唇を戦慄かせる。
 歯の根が合わない奥歯をカタカタ言わせた短刀に、死地にあっても忠義を貫いた男の薙刀はふっ、と短く息を吐いた。
 険しかった表情を一瞬で緩め、目を眇めた。
 怯えさせて悪かったと詫びて、小夜左文字の頭をぽんぽん、と優しく叩いた。
「冗談だ」
 最中に言って、控えめにガハハと笑う。
 しかしその横顔はどこか哀しげで、寂しげに映った。
「岩融さん」
「そんな顔をするな、小夜左文字よ。心配ない。今剣は、今の主を今生の主と定めた。どこにも行かぬ。無論、俺もな」
 拭いきれない不安が、表に現れていた。下を向いた薙刀は噛み締めるように呟いて、尻を落とし、畳に胡坐を掻いた。
 少し高くした左膝に肘を置き、健やかな眠りを楽しんでいる短刀を眺める。表情は和らいで、小夜左文字がよく知る男の貌に戻っていた。
 ふた振りを交互に見やって、復讐を背負うと決めた短刀は少し赤くなっている腿を掻いた。いつ蚊に刺されたのか、全く覚えがない場所に爪を立て、十字になるよう跡を作った。
 右肩を下にして寝転がる今剣は、むにゃむにゃとなにかを呟いたが、聞き取れなかった。言葉にならない音を刻んで、相変わらず幸せそうだった。
「なんだか、不思議です」
「なにがだ」
「……いろんなことが」
 今剣は本来、存在しない刀。
 それなのに彼は、今、ここにいる。
 付喪神として審神者に喚ばれ、現身を得て顕現した。よく喋り、よく眠り、よく笑い、良く拗ねる。喜怒哀楽が激しい、ほかの刀剣男士と並べても違和感ない刀だった。
 とてもひと言でまとめきれなくて、小夜左文字は曖昧に濁した。
 寝入る短刀を見詰める少年にふむ、と頷き、岩融は今剣に握られた指をぶらぶら揺らした。
「こやつは、今は、主殿の守り刀だ」
「はい」
「確かに、義経公の刀ではなかったかもしれん。だが後の世に編まれた物語に、こやつは存在した。それは何故だ? 必要とされたからだ」
 物語には語り手がいて、聞き手がいた。
 語り手は、なにも真実を広める役目だけを担っているのではない。聴衆もまた、面白おかしく脚色された内容を欲した。
 現実に存在しなくても、物語の語り手たちにとって、今剣は必要だった。聞き手たちは、今剣が加わることで新たな一面を開いた物語に心を寄せて、その活躍と悲運に一喜一憂した。
 もし『今剣』というものが存在しないままであったら、義経公の生き様は別の伝承となっていた。時の権力者に睨まれ、語り継がれることもなく、消滅していたかもしれなかった。
「だからこやつは、やはり義経公の守り刀よ」
 時代の荒波にもまれながらも、ひとりの若者の生き様は後世へと伝えられた。
 形を変え、本来はなかった寓話が挿入されもしたけれど、源義経という男が存在した事実は消えなかった。
 歴史は保たれた。
 今剣が守った歴史だ。
 そう語る岩融の横顔は、我が事のように誇らしげだった。嬉しそうで、楽しそうで、とても晴れやかだった。
 見ているこちらまで胸が高鳴り、温かい気持ちになった。男につられて頬を緩めて、小夜左文字はひとつ、深く頷いた。
「そうですね」
 馬鹿なことを聞いた件は、なかったことにしてもらおう。今剣にも秘密にして、時の彼方へと投げ捨ててしまえ。
 すっと軽くなった心を撫で、岩融の隣に並んだ。膝立ちで距離を詰めて、鼻をヒクヒクさせている短刀の傍らに陣取った。
「今剣、双六の続きをしよう」
 そうやって手では触れず、語り掛けた。夢の邪魔をするつもりはなくて、けれど出来れば目覚めて欲しかった。
 祈りを込めて、そっと囁く。
「僕の勝ち逃げで、良いんですか」
 滔々と語り掛ければ、穏やかな寝顔がピクリ、反応した。しどけなく緩んでいたものが急に険しくなって、見守っていた岩融も「おお」と驚き、肩を震わせた。
 声を漏らさぬよう口を閉ざし、愉快だと腹を抱え込む。
 その隣でふふん、と鼻を鳴らして、小夜左文字は意地悪く口角を持ち上げた。
「今剣は、双六、弱いです。つまらない」
「ううう~」
 ここぞとばかりに言い放ち、短刀との距離を一段と詰めた。面と向かっては絶対に言えない悪口を並べ立て、反応を窺った。
「もう、今剣と遊ぶのはやめます」
 声が届いているのか、今剣はみるみるうちに顔を顰め、悔しそうに唇を噛んだ。
 勿論本心ではないけれど、彼のしつこさには時々辟易させられた。気が向いた時に、こちらの都合などお構いなしに突撃してくるので、迷惑に感じることがあったのは事実だ。
「今剣なんか、知りません」
 夢の中で見た、真っ黒い闇と、その向こう側に広がる虚無が脳裏を過ぎった。
 あれがただの夢であるよう切に願って、次の言葉を探し、口を開いた直後だった。
「あああああー!」
「うわっ」
 突如雄叫びを上げたかと思えば、顰め面で眠っていた短刀がガバッ、と単衣を吹き飛ばして起き上がった。
 握りしめていた岩融の手ごと高く持ち上げて、獣が威嚇する仕草と共に絶叫した。両腕を振り回してジタバタ暴れて、埃を撒き散らし、飛んでいた蚊を追い払った。
 耳元で囁こうとしていた小夜左文字は唖然とし、殴られる寸前に避けて尻餅をついた。
「あっはっはっはっは」
 無事指を取り戻した岩融は、今度こそ高らかに声を響かせた。ずっと我慢していた分も合わせ、愉快痛快と歓声を上げた。
「あ、あれ?」
 対する今剣はといえば、目をぱちくりさせて辺りを見回した。己を取り巻く環境が即座に理解出来ないようで、きょとんとしながら瞬きを繰り返した。
 下肢に被さる薄衣を揺らし、惚けている小夜左文字と、笑い転げる岩融とを交互に見る。
 それを五度か、六度も繰り返した後、彼はハッとして、大き過ぎる単衣を放り投げた。
 彼が向かったのは、双六だ。囲碁や将棋のように、四つの足がついた四角い盤面を覗き込んで、慌ただしく状況を確認し、目を吊り上げて小夜左文字を睨みつけた。
「さよくん、ずるはだめです!」
「ええ?」
「なんで、なんでですかー。なんで、もどってるんですか。ここから、ぼくが、ばびゅーんってぎゃくてんして、さよくんをこてんぱんに、やっつけたのに」
「あ、ああ……」
 いきなり怒鳴りつけられて、訳が分からない。
 だが話を聞くうちに事情が理解出来て、藍の髪の短刀は身振りが大袈裟な友人に肩を落とした。
 岩融は腹がよじれると、苦しそうに笑っていた。それにも今剣は煙を噴いて、失礼な男だと薙刀を責めた。
 一気に喧騒が戻り、室内が賑やかになった。
 堪え切れず噴き出して、小夜左文字は目尻を擦った。
「今剣。それは多分、夢です」
 頬に畳の跡が残ったままなのに、彼は気付いていない。それも滑稽で、笑わずにはいられなかった。
「ゆめ?」
「僕は、ずるなんかしてません」
「ほんとうですか?」
「本当です」
 歯が見えないよう口元を手で覆い隠し、肩を小刻みに震わせながら必死に言い返す。
 今剣は意外にもあっさり引き下がって、両腕を胸の前で組んだ。うんうん唸って、進行が止まった双六に向き直った。
「わかりました。じゃあ、いまから、まさゆめにしてみせます」
 記憶より傾いた太陽、足元に打ち捨てられた岩融の単衣。そういったものを見て、自分が今まで眠っていたのを把握したようだ。
 小夜左文字が先に睡魔に負け、必死に起こそうとしているうちに己も寝こけてしまったのも、しっかり認識できていた。
 だから、理解が早かった。すんなり納得し、けれど諦め悪く言って、小夜左文字目掛けて双六の賽を投げた。
 ふたつあるそれを振るよう、催促された。
 寝起きだというのに頭はシャキッとしているようで、表情は不敵で、尊大だった。
「僕だって、負けない」
 それで俄然やる気になって、小夜左文字は息巻いた。拾った賽子を掌で転がして、いざ尋常に勝負、とばかりに力いっぱい放り投げた。
「おお~?」
 ふたつ並んだ賽の目を確認すべく、横から回り込み、今剣が身を屈めた。
 小夜左文字も上に来た数字を調べて、楽しそうに笑う短刀仲間を覗き込んだ。
 色違いの瞳の奥には、きらきら輝くものがいっぱいに溢れていた。

夢とこそいふべかりけれ世の中に うつつあるものと思ひけるかな
紀貫之 古今和歌集 834

2017/07/19 脱稿

恋は世に憂き こととこそ聞け

 耳鳴りが止まなかった。
 地を震わせる咆哮が、四方八方から轟いた。圧倒的多数の悪意に晒されて、全身がびりびり痺れ、握力が一瞬鈍ったようだった。
 雨の中、ただでさえ足場が悪い。小回りの利かない馬は市街地では使えず、徒歩での移動が思った以上に体力を消耗させていた。
 戦闘中にのんびり傘をさすなど、できる訳がない。濡れ鼠という状況が、体温を奪い、疲労を増幅させていた。
 目的地までまだ遠いのに、こんなところで足止めを食っている暇はない。
 そう叫んだのは、厚藤四郎だっただろうか。
 主君の為にも、押し通る。力強く吠えたのは、前田藤四郎だったはずだ。
 視界が悪く、跳ねた泥水にも悩まされた。一撃で屠れなかった敵の反撃を受け、ばしゃりと突っ込んだ水たまりが第二の敵だった。
 細かな飛沫が目に入り、ほんの僅かな時間でも、視力を奪い、行動を阻害した。
 恐ろしく重い打撃を辛うじて受け止めたものの、がら空きになった胴を守り抜く術は、残念ながら持ち合わせていなかった。
「ふぐっ」
 短刀の胴回りくらいはある太い脚が、回転しながら襲いかかって来た。
 まるで巨大な棍棒だ。上にばかり意識が向いていた所為で、避けることも、構えることもできなかった。
 敢え無く吹っ飛ばされ、地に転がった。角の尖った砂利が肩に当たって、衝撃を二重にも、三重にも膨らませてくれた。
 そのまま泥水を巻き上げて滑り、勢いが弱まる機を狙って後ろへ跳んだ。一秒前には自分がいた場所に刃毀れが酷い刃が突き刺さり、ザクザクザク、と連続して追いかけてきた。
 他の仲間がどうなったか、なにも分からない。
 こんなに狭い道で大太刀を振り回す時間遡行軍に辟易しながら、小夜左文字は口に入った雨を吐き出した。
 爪の先ほどもない石が咥内に残り、舌の上を転がった。不快感から顔が歪み、続けて吐き出そうとしたけれど、相手はそれを待ってくれなかった。
「……くっ」
 袈裟切りに振り下ろされた刃を躱そうとしたが、ズキリと来た痛みに足が止まった。
 先ほど蹴られた時、あばら骨を痛めたらしい。
 咄嗟に動けなくて、瞬時に方針を転換した。ぎりぎりまで引きつけたところを屈んで避けて、一撃必殺を狙い、意を決して大太刀の懐に飛び込んだ。
「復讐してやる。復讐してやる!」
 折れた肋骨の痛みを堪え、感情のままに吼えた。
 己を、仲間を傷つけた者たちへの怒りを爆発させて、小夜左文字は握りしめた短刀に左手を添えた。
 狙いを定め、左脇腹へと突き立てる。
「僕を怒らせたんだ。復讐されて当然だろ」
 渾身の力を籠めて、ぶすりと突き刺した刃を上向かせた。歯を食いしばり、全神経を集中させて、怪しく輝く赤い瞳目掛けて短刀を振り上げた。
「はああああああああっ!」
 ぐおおおおお、と断末魔の声がこだまする。
 真上から放たれた大音響にビクッとして、彼は反射的に顔を上げた。
 目で確認するより先に、直感で動いておくべきだった。
 この僅かな差が、致命傷を産むことだってある。
「があっ」
 決死の覚悟を決めた大太刀が、最後の力を振り絞って華奢な肩を掴んだ。接近しないと攻撃できない短刀の欠点を嘲笑い、逃げられないよう骨を砕いた。
 バキッと、身体の内側で嫌な音がした。
 刹那、地獄の釜で茹でられているような、凶悪な熱さが突き抜けた。内臓がひっくり返り、精神の核ともいうべきものが破裂して、心臓が一瞬止まった錯覚に陥った。
 痛い、などという生易しいものではなかった。
 ビクビクと痙攣を起こした短刀に、敵大太刀がにたりと笑った。逆転勝利を確信した時間遡行軍を、小夜左文字は鋭く睨みつけた。
「死んでよ!」
 あまりにも強烈な痛みが、痛覚そのものを彼から奪った。左肩を粉砕され、指がピクリとも動かなくなってもなお、辛うじて自由が利く右腕を振るい、大太刀から引き抜いた短刀で再度貫いた。
 ぐぢゅう、と血ではなく、別の何かが傷口から噴出する。
 それを顔面に浴びながら、左文字の短刀は抵抗を止めない大太刀を引き裂いた。
 脇腹に十字の傷を作り、時間遡行軍が断末魔の叫びを放った。
 直後にふっと身体が軽くなったのは、命脈を絶たれた大太刀が砂粒となって形を失った所為だった。
 奴らは骸を遺さない。もとよりこの時代には存在しなかったものだ。細かな粒子となって飛び散って、それさえもやがて消えた。
 その瞬間だけ、あの歪で醜悪な時間遡行軍も、綺麗だと思えた。
 ただこの雨の中では、あまり風情が感じられない。がっかりしたような、ほっとしたような、よく分からない感覚が短刀の胸を満たした。
「そうだ。みんな――あぐっ」
 ようやく倒し終えて、集中力がぷつりと途切れた。
 意識が遠退きかけて、すんでのところで踏み止まった。共に出陣した仲間の行方を気にして、直後に全身を切り裂くような痛みが戻って来た。
 熱い。
 息が出来ない。
 身体のあちこちで変な音がした。だらりと垂れ下がった腕が千切れ、地面に落ちる幻を見た。
 皮一枚で繋がっている左腕が力なくぶらぶら揺れて、右手で庇いたいのに、それさえもできなかった。
「あっ、ああ、あがっ、ううううう」
 獣のように呻き、喘いだ。どっと溢れ出た汗が、元から濡れていた身体を一層湿らせていく。視界は右に、左に大きく歪んで、目を瞑っていても同じだった。
 眩暈がして、立っていられなかった。膝に力が入らず、一歩も歩けない。遠くで剣戟の音が続いており、乱藤四郎のものらしき悲鳴が空を裂いた。
 今すぐ向かいたいのに、足が動かなかった。
 一番大きく、力がありそうな敵を引き受けたが、時間をかけ過ぎた。
 頭がぼうっとして、鼻から突っ込んだ水たまりから顔を上げる余力も残っていなかった。
 辛うじて横向き、気道を確保したものの、そこから先が続かない。
「い、か……な…………と……」
 悪足掻きを止めず、横倒しの状態で地面を蹴る。しかしぬかるんだ大地では踏ん張りが利かず、爪先はずるずると後退し、浅い溝が増える一方だった。
 破れた笠に雨が当たり、跳ね返すその振動さえもが激痛を産んだ。
 意識が薄れて行くのが分かる。
 懸命に堰き止めようと抗って、小夜左文字は自然と溢れる涙に頬を濡らした。
 噛みしめた砂利は、血の味がした。

「っ!」
 背中を突き飛ばされたような衝撃が、全身に襲い掛かった。
 それで沈んでいた意識が浮上して、小夜左文字は一気に水面から飛び出した。
 乖離していた精神と肉体がぶつかり合い、目の前で火花が散った。見開いた世界が真っ白に染まって、ひと呼吸後には真っ暗闇に切り替わった。
 噴き出た脂汗は生温く、感触は不快だ。ど、ど、ど、と耳元で銅鑼を叩く鼓動に瞠目して、彼は混乱のままに瞳を蠢かせた。
 すぐそこに敵が潜んでいる気がして、恐怖が先行した。微かな灯明ひとつに照らされた室内は不穏で、却って底知れぬ闇を感じた。
 奈落に落とされたのかと勘繰り、己の呼吸音ひとつにさえ背筋が粟立つ。
 自分でも驚くほど竦み上がって、小夜左文字は必死に辺りを見回した。
 暗すぎるせいで景色は見えず、ここがどこだか分からない。
 覚えのある匂いが鼻先を掠めたけれど、惑乱した状態で嗅ぎ分けられるわけがなかった。
「あ、あ……あぐ、うっ」
 柔らかな布団の中で身動ぎ、起き上がろうとして激痛に襲われた。
 喉の奥で潰れた悲鳴を上げて、彼は少しも浮かなかった背中を敷き布団に押し付けた。
 蘇った痛みで、これが現実だと知った。傷口に触れようとした手は空中を彷徨いもせず、布団の中で身悶えていた。
 左腕は、繋がっていた。ただし指先に力が入らない。感覚も、ほとんどなかった。
 止血すべく傷口を圧迫する包帯は、二重どころか四重にも、五重にも巻きつけられていた。折れた場所には添え木を当てて、固定している。不用意に動かないよう拘束して、その上から綿入りの布が被せられていた。
 知らないうちに下穿き一枚にされ、着衣は取り払われていた。それも止む無しで、包帯が巻かれていない場所を探す方が難しかった。
 腕も、足も、胴も、どこもかしこも傷だらけだ。切り傷に加え、打ち身が酷く、無理が祟って右足は肉離れを起こしていた。
 こんな状態でよくぞ戦い続けたと、我がことながら呆れるしかない。
「いき、て……る……」
 気を抜くと持って行かれる意識を懸命に引き留めて、小夜左文字は低い天井をじっと見つめた。
 呼吸を整え、千々に乱れる心を静めた。ズキズキと止まない痛みから注意を逸らし、酸素を掻き集め、目を凝らした。
 短刀としての能力が復帰して、微かな光ひとつでも場を見渡せるようになった。天井板の木目からここが自室だと判断して、奥歯を噛み鳴らし、鼻から息を吸いこんだ。
 それがきっかけになったのか。
 部屋の隅で丸くなっていたものが膨らんで、もぞもぞと動き始めた。
「お小夜?」
 壁に寄り掛かり、眠っていたらしい。掠れた声で呼ばれた後、灯明が動き、続けてパッと部屋が明るくなった。
 行燈に火が入って、薄い紙越しに橙色の光が広がった。油皿の上で踊る炎がゆらゆらと影を作り、布団から動けない短刀を淡く照らし出した。
「か……せ、ん……?」
「具合は、どうだい」
 置き行燈を枕元へ移動させて、歌仙兼定が真上から小夜左文字を覗き込んだ。寝間着ではなく、内番着姿だったが、藤色の髪は結われていなかった。
 急いで着替えたらしく、襷の結び目がいつもより大きい。袴の襞も乱れて、おおよそ彼らしくなかった。
「ぼく、は」
「ああ、いい。喋らなくて。無理はするものじゃない」
 布団の右側に立ち、昔馴染みの打刀は顔の前で手を振った。自分で訊いておきながら失礼な態度だが、それを責める気力は短刀に備わっていなかった。
 とてつもない疲労感に、なにもかもがどうでもいい、と投げやりになっていた。
 考えることすら面倒で、男に向けようとした視線もすぐ正面へ戻した。
 そうやってまた天井を眺めて、引いてくれない痛みの波に眉を顰める。
「すまないね、お小夜。もうしばらく、我慢してくれ」
 表情の僅かな変化を悟り、枕元で灯りの位置を微調整した打刀が囁いた。
「……どう、して……」
 影の揺らぎが大きくなり、右に、左に彷徨った。暗さの所為か、男の表情も翳って見える。喉の奥から絞り出した質問に、歌仙兼定はすぐに答えてくれなかった。
 どこから説明するかで悩んでいるのが、気配から伝わってきた。
 小夜左文字自身、なにから知りたいのか、よく分からない。江戸城下で戦闘中のはずが、気が付けば本丸に戻っていた。しかも手入れ部屋に放り込まれることもなく、重傷を負ったままの状態で寝かされていた。
 時系列を整理して、途切れている記憶の谷間を覗き込む。
 溢れて止まない疑問に口元を歪めていたら、傍らからふう、と長い溜め息が聞こえた。
「君たちの窮状に、主が強制退避を命じてね。結果は、重傷五振り、中傷ひと振り。もっとも、中傷とはいえ、限りなく重傷に近い負傷度合いだった」
 訥々と語る口調は穏やかで、淡々としていた。務めて平静を装っているのが伝わってきて、告げられた内容がすぐに頭に入ってこなかった。
 彼らの背後を急襲した敵は、いつもと様子が違っていた。猛然と突き進んで、短刀たちの隊列を真っ先に乱した。
 守りの要である刀装を剥がされ、仲間と分断された。合流を急ぐこちらの心理を利用して、誘いをかけ、猛攻撃を仕掛けて来た。
 これまでの力押し一辺倒のやり方とは、明らかに違っていた。
 間違いなく、時間遡行軍に指示を出す者が近くに居た。姿は確認出来なかったけれど、そうとしか思えなかった。
 いつもとは違う道に誘導され、本来の経路から大きく逸れてしまったのが、総崩れとなった遠因だ。あそこで一度立ち止まり、冷静に対処しておけば良かったのだが、自分たちは修行を経て強くなった、という慢心が、引き際を見誤らせた。
「主は帰還後すぐに、今回の件の報告をするよう、政府に呼び出されてしまってね。手入れ部屋の鍵は開いたが、――知っての通り、主がいなければ手伝い札は使えない。君と、薬研藤四郎には、しばらく我慢してもらうことになった」
「……そう、ですか」
 己の力不足と、傲慢さを思い知らされた。
 足元を見事に掬われた格好で、言い訳のひとつもできなかった。
 時間遡行軍に統率者が在る可能性は、以前から指摘されていた。数に任せた戦い方を止め、方針を転換したとの噂が、まことしやかに囁かれていた。
 今回、それを実感した。
 あんなにも簡単に蹴散らされたのが衝撃的で、屈辱的だった。
「復讐、して……やる……」
 腹の奥底から声を絞り出し、決意を固め、奥歯を噛む。
 ガチリと音を響かせた彼に、歌仙兼定は愁眉を開いた。
「そう言えるようなら、良かったよ」
 この借りは、必ず返す。そう誓った短刀に相好を崩して、打刀は清潔な手拭いで小夜左文字の額を拭った。
 木綿のさらっとした感触が通り過ぎ、僅かだが熱が引いたようだった。錯覚とはいえほっとして、彼は深く息を吐いた。
 鉄の味がする唇を舐め、瞼を閉じる。黒一色になった視界に浮かんだのは、消滅寸前まで抗った大太刀の姿だった。
 奴らも、必死だった。絶対に歴史を変えてみせる、という強い意志が垣間見えて、圧倒された。
 向こうの方が、強い信念を抱いていた。
 その差が、今回の結果だ。
 最初から負けていたのだ。敵の戦力がどうだとか、指揮者の有無は関係ない。
 敗れるべきして、敗れた。調子に乗って、誰が一番誉れを獲得するか、というくだらない競争に興じた罰が当たったのだ。
「みん、な、は」
「呼びに来る者がないところをみると、まだ手入れ部屋だ。待てるかい?」
「……待つしか、ありません。いっつ……」
「すまない、お小夜。ああ、そうだ。痛み止めがある。飲めそうかな?」
 厚藤四郎、乱藤四郎は、折れなかったのが奇跡といえる傷の深さだった。前田藤四郎、平野藤四郎も同様だ。帰還時に意識があったのは薬研藤四郎だけで、彼が無理を押して小夜左文字を応急処置し、薬を処方してくれた。
 あの戦場育ちの短刀がいなければ、痛みはもっと酷かったに違いない。
 説明しつつ、顆粒状の薬を見せて、歌仙兼定は困った顔で微笑んだ。
 聞きはしたが、飲めるわけがないと分かっているのだ。
 首さえ碌に動かせない状態で、起き上がれるはずもない。小夜左文字は視線をスッと脇へ逸らすことで、返事の代わりとした。
 沈黙が落ちて、灯明油の焦げる音と臭いが強まった。
 行燈の灯りが一瞬大きくざわめき、一秒後には何事もなかったかのように大人しくなった。
「薬研藤四郎には、宗三左文字と、へし切長谷部が付き添っている。江雪左文字殿は、数珠丸恒次殿と江戸だ」
「……え」
「心配はいらない。戦いに行ったのではないから。――君たちが敗れ去ったことで、歴史になんらかの影響が出た可能性がある。それを調べに向かわれた」
 歌仙兼定は腰を浮かせて遠くの何かを取り、座り直した。相変わらず感情の籠もらない声で淡々と言って、首の長い水差しから玻璃の器に水を注いだ。
 そこに薬研藤四郎の指示を受け、宗三左文字が出して来た鎮痛剤を溶かし込む。
 匙で掻き混ぜなくとも、それは瞬時に溶けて消えた。底に残らず、水は僅かに白く濁った。
「少し、失礼するよ」
「お願い、……します」
 一礼した打刀に微笑まれて、小夜左文字は嗚呼、と頷いた。顎を引いて吐息を零し、喉に力を込めて咥内の唾液を飲み干した。
 それを承諾と解釈し、男は玻璃の器を持ち上げ、その中身を口に含んだ。喉仏は動かない。飲み込むのではなく、内部に溜め込んで、空になった茶器は水差しの傍らへ戻した。
 続いて身を乗り出し、前屈みになった。横たわる短刀を潰さないよう腕を柱に据えて、狙いを定め、最後まで目は瞑らなかった。
「……ん、っ」
 鼻先に微風を感じたと思った瞬間、唇を覆われた。ほんの少し角度をつけて合わせれば、用意しておいた隙間から熱い舌が潜り込んできた。
 ぬるりとした感触と、他者の熱に、ぴくりと右肩が跳ねた。それを気取り、安心させるかのように、大きな手が傷だらけの頬に触れた。
 広範囲に及ぶ擦り傷を避け、表皮を軽く撫でただけだった。それでも意外に低い体温が心地よくて、小夜左文字は流れ込んできた温い液体に喉を鳴らした。
 口の中がいっぱいになり、溢れないよう、打刀は送り込む量を調整してくれた。筒状に窄めた舌を通して少しずつ、少しずつ注いで、短刀はその度に柔らかな媚肉に牙を立てた。
 軽く噛みつき、擽って、飲み込む瞬間は口蓋との間に挟んで潰した。意図的ではなく、そうせざるを得なかっただけだが、後から思い出せば、随分と意地の悪い行為だった。
 眉間の皺を深くして、歌仙兼定が渋面を作る。
 全てを飲み干した後もしばらくちづけを解かず、舌を擦りつけて来たのは、意趣返しのつもりだったようだ。
「は、……あ」
「効くのに時間がかかる。もうしばらく、眠ると良い」
 長い口吸いを終えて、脱力感が全身を包んだ。
 僅かに乱れた布団を整えて、水差しなどを片付けに入った男に、小夜左文字は動かない手を伸ばそうとした。
「かせ――つっ、う……」
「だから言ったのに」
 完全に無意識だった。五体満足の自分を想定して身動ぎ、全身を駆け抜けた激痛に身悶えた。
 歌仙兼定は呆れ顔で、嘆息の後に苦笑した。噴き出た汗を丹念に拭ってやって、短刀の枕元から去るのを諦めた。
 水差しを安全な位置まで退避させて、布団との距離を拳ひとつ分詰めた。額だけでなく、首筋にも手拭いを押し付けて、自由が利かない短刀の身体を慰めた。
 なかなか引かない痛みに意識が掠め取られ、視界に靄がかかった。輪郭がぼんやり朧になって、打刀の姿が滲んで見えた。
 一瞬だけ気を失って、強まった痛みで目を覚ます。
 気力がじわじわ削られて、肉体まで摩耗し、薄くなっていく感じだった。
 とても眠れる状態ではなくて、時間の経過が恐ろしく長かった。普段の数十倍にも、数百倍にも感じられて、いっそ折れてしまえたらと、そんな風に考えた。
「お小夜」
 心が細り、自分が保てなくなりそうな時。
 傍にいる男が静かに名前を呼んで、頬を撫でてくれた。
 戦場で浴びた雨は冷たく、骨まで沁みるようだった。
 敵の攻撃は容赦なく、受けた傷は膿んで、芯から疼いた。このまま腕が治らなかったら、足が元通りにならなかったらと考えると怖くて、戦えない刀の行く末に胸が締め付けられた。
 痛み止めを飲んだのに、なかなか効いてくれない。
 早く、と急かせば急かす程、効能が遠退いて行く。引き裂かれ、貫かれ、粉微塵にされる己を想像して、背筋が寒くなった。
「お小夜、大丈夫だ」
「……かせん」
「夜が明ければ、主も戻ってくる。それまで、どうか」
 祈るように囁かれて、勝手に涙が溢れた。激痛に身悶える刀が目の前にいて、見守るしか出来ない男の心を思うと、余計に苦しかった。
 あそこで折れていたら、楽だった。
 生きながら地獄を味わうこともなく、誰かの悲しむ顔を見ずに済んだ。手入れ部屋に入った弟らを案じて眠れぬ夜を過ごし、後悔に喘ぎ、すすり泣く太刀の声を聞かずに済んだ。
 この痛みは、かつて小夜左文字が傷つけた者たちの痛みだ。
 山賊の掌中に落ち、私欲の為に使われた。無辜の民を襲って、数多の血を浴びてきた。
 自身にまとわりつく黒い澱みが、この結果を引き寄せた。ひとりだけ幸福になるなど許さないと、呪詛を吐き、仲間を巻きこんだ。
 守り刀としてのあるべき姿を奪った盗賊を呪った。
 決して取り払えない逸話を背負わせた、研ぎ師の男を恨んだ。
 罪に汚れた短刀に『小夜』という号を付した、名付け親を忌んだ。
 こんなに苦しまなければならないのなら、いっそ消えてしまいたい。
 大太刀に骨を砕かれた瞬間、諦めかけたのは嘘ではない。このまま折れてしまったなら、誰かを恨み、憎み、謗り、怒りをぶつけるだけの日々から解放される。
 自由になる。
 救われる。
 ずっと探し続けていた境地に、辿り着ける。
 ようやく、呪縛から抜け出せる――
 だのに最後で、抵抗した。死に物狂いで敵を倒し、仲間に加勢しに行こうとした。
 諦めきれなかった。
 捨てきれなかった。
 背負わせられなかった。
 背負わせたくなかった。
 自分が折れることで、主に、仲間に、喪失がいかなるものかを教えてしまう。ずっと小夜左文字が抱え続けていたものを、別の誰かに引き継がせてしまう。
 本丸で日々を送るうちに、気がついたことがあった。
 数百年の時を放浪した短刀にとって、ここでの時間はほんの僅かなものでしかない。瞬き一回か、二回か、せいぜいそれくらいの短さでありながら、これまで目を瞑って来たもの、逸らしてきたものを否応なしに直視させられた。
 復讐の連鎖は、自分で終わりにしなければいけない。
 だったら、手放せない。
 棄てられない。
 この黒い澱みは、最期の時のその後も、自分が地獄へ連れて行く。
「君が折れてしまわなくて、よかった」
「歌仙……」
 心を見透かしたように、歌仙兼定が呟いた。
 今にも消え入りそうな掠れ声に瞠目して、小夜左文字は嗚呼、と頬を緩めた。
「折れても、良いと。ずっと、思ってました」
「お小夜」
「でも、いざとなったら」
 雨の中で意識を失う直前、走馬灯を見た。目まぐるしく駆け抜ける記憶は、山賊に囚われた時から始まり、各地を転々とする日々へと続いた。
 やがて景色が大きく変わり、現れる顔ぶれにも変化が生じた。
 歌仙兼定、宗三左文字、江雪左文字に、今剣や薬研藤四郎。太鼓鐘貞宗や蛍丸、愛染国俊、加州清光、それ以外にも大勢が。
 次々と現れては消えて、消えては現れた。
 笑いかけられ、叱られ、褒められ、呆れられ、頭を撫でられて。
 最初のうちは戸惑いの連続だった。なぜ刀である自分が、と思いながら日々を重ね、経験を積み、仲間たちと交流を深めた。
 孤独でありたいと願っても、本丸の中にいる限り、そうはいかない。ひと振りだけで何もかも出来る、というのは傲慢であり、思い上がりも甚だしかった。
 嫌ではなかった。
 楽しかった。
 もうあそこに帰れないのではと想像して、身の毛がよだった。
 死ぬ覚悟は、常に出来ていた。そのつもりで出陣し、敵に挑んだ。
 だのにいざその瞬間に直面して、恐怖した。
 臆病になった。
 消えたくないと、切に願った。
「未練が、出来てしまったんだね」
 今思い出すだけでも、全身が震えた。汗が流れ、それが冷えて寒さを覚え、内臓から凍りついて行く雰囲気だった。
 歌仙兼定は小さく頷き、手拭いを広げ、畳み直した。湿っていない部分を表にして、動けない短刀の身体を丹念に拭っていった。
「未練」
「繋がり、と言った方がいいのかな。それとも、業だろうか」
「……わかりません」
 彼らは人の手によって産み出された、刀剣に宿る付喪神。かつての主の生きざまを映す鏡であり、想いを受け継ぐ存在だった。
 その刀身には、数多の願いが込められている。祈り、嘆き、希望、あるいは憎しみといったものが絡みつき、積み重なって、曖昧で酷く心許なかった存在を、確固たるものに変えていた。
 物事には、すべてにおいて因と縁がある。因があることにより、縁が結ばれ、それがまた新たな因となり、次の縁へと繋がっていく。
 己を中心に、織りなされた世界。その各所に交友を持った、或いはなんらかの関わりがあるものたちが配置され、広大無辺に広がっていく。
 きらきらと輝く因縁もあれば、黒く澱んでしまった因縁もあるだろう。
 業とは、それらをひっくるめたものだ。
 決して綺麗なものではない。軽いものではない。時に引き千切り、投げ捨てたくなることもある。目を背け、否定せずにはいられない時だってあるだろう。
「お小夜が、世界から切り離されなくて、よかった」
 もし彼が、すべてに疲れ、足掻くのを止めてしまっていたら。
 世界の方から、彼との繋がりを断ち切ってしまったかもしれない。
 嗚呼、と歌仙兼定は頷いた。万感の思いを込めた笑みを浮かべ、背筋を伸ばして姿勢を正した。
 そして。
「もし、君が抱いた未練の、そのひと欠片の中に」
 少し照れ臭そうにはにかんで。
「僕が含まれていたのなら、嬉しい、かな」
 華が綻ぶとは、こういう笑顔を言うのだろう。
 僅かに身を揺らしながら告げた男をぼんやり見上げて、小夜左文字は音を刻みかけた唇をきゅっ、と引き結んだ。
 確かになにかを言いかけたのに、瞬き一回分にも満たない間に見失った。どういった系統の言葉だったのかすら思い出せないのに、どうしてだか無性に気恥ずかしさを覚え、耳がかあっと赤くなった。
 喋っている間に気が紛れたか、全身を覆っていた痛みは幾分薄らいでいた。
 痛み止めの効果も、じわじわと広がり出している。瞼が自然と重くなって、回復を目論む身体は眠りを欲した。
 けれど、眠りたくない。
 今寝てしまうのは、とても惜しい気がしてならなかった。
「さあ、お小夜」
 だが思いに反し、うつらうつら舟を漕ぎ始めた短刀に、打刀が寝かしつけようと手を伸ばす。
 痛まないようぽんぽん、と軽く胸の辺りを撫でられて、藍色の髪の少年は駄々を捏ね、首を振った。
 鼻を愚図らせ、すぴすぴと音を立てて。
 ろくに身動きが取れない状況に臍を噛み、眼差しだけで男をその場に留めた。
「お小夜?」
 名を呼ばれ、先ほど言い損ねた言葉を思い出した。
「歌仙。……しましょう」
「ああ、そうだね。しよう…………――なにを!?」
「うぐっ」
 夢うつつに囁いた直後、大声で怒鳴られた。唾を散らして叫ばれて、大音響に頭がくらっと来た。
 左右から同時に平手打ちを食らった錯覚に、脳みそがぐわわん、と激しく波打った。眩暈がして、激痛が大挙して押し寄せて、背中が僅かばかり宙に浮きあがった。
 身体がくの字に折れ曲がったのは、幻だった。
 もっとも精神的にはそんな状況で、息ひとつするだけでも関節のあちこちが悲鳴を上げた。
 身体中がギシギシ軋んで、捩れ、引き千切れるようだった。
「あああ、すまない。すまない、お小夜」
 苦悶に顔を歪めた短刀に、男は土下座する勢いで頭を下げて、何十回と謝罪を繰り返した。
 その顔は青ざめ、唇は土気色だった。左右を泳ぐ瞳は動揺をありありと伝えており、両手は落ち着きなく畳の上を這い回っていた。
 慌てふためき、この後どうすればいいか分からないでいる。
 死ぬよりも辛い痛みに耐えている短刀を前に、右往左往して、心は定まらなかった。
 そういう動転ぶりが、無性に懐かしく思えた。
 痛いのに、不思議と笑いがこみあげてきて、小夜左文字は辛うじて動く手を布団から引き抜いた。
 持ち上げるのは、叶わない。腹筋に力が入らず、腕の筋肉を支えるのに不十分だった。
「……お小夜」
「し、ましょう……歌仙」
 こんな薄い掛け布団一枚すら、押し退けられなかった。それだけ重い傷を抱えながら、無理を強いて、彼は気もそぞろな男の指先をちょん、と小突いた。
 それが精一杯だった。
 掠れる小声で訴えて、ハッとなった男を見詰めた。歌仙兼定の肌に血の気が戻り、またすぐに青白くなって、横に揺れる藤色の髪で隠された。
 俯き、頭を振って、打刀は嗚咽を堪えて息を詰まらせた。
「なにを、馬鹿なことを」
「……僕、は。まじめです」
「だったら、尚更だ。自分の身体を考えてみろ。できるわけがないだろう」
 呻くように言って、反論されて吠えた。勢い任せに畳を殴って、下から来る振動で短刀を攻撃した。
 怒鳴り声ひとつでも頭に響くというのに、本当に容赦がない。そういう考えなしの、力任せなやり口は、是非とも改めて欲しかった。
 だが、叱りたくても声が出ない。
 ビリッと来た痺れに胸が締め付けられて、小夜左文字は渋面を作り、喉の奥で息を詰まらせた。
 呼吸を止めて荒波をやり過ごし、痛みが穏やかになるのを待って四肢の力を抜いた。ふー、と薄い敷き布団に全身を委ねて、怒りで肩を戦慄かせている男を仰いだ。
「歌仙」
「こんな冗談、二度と御免だ」
「……歌仙」
 吐き捨てられた台詞から、本気で機嫌を損ねているのが感じられた。
 その激情すら嬉しく思っている自分に苦笑して、復讐以外を知った短刀は目を細めた。
「でも、僕は。あなたを、……歌仙。もっと近くで、感じたい」
「お小夜」
「繋がりたい」
 言葉を重ねて行くたびに、何故か胸が熱くなった。鼓動が高鳴り、内側から熱が迸って、その意図はないのに涙が溢れた。
 どうか聞き入れて欲しい。溢れて止まらないこの想いを、否定しないで欲しい。
 祈って、再度肘を伸ばした。畳に据えられた男の手を探して指を蠢かせ、薬指で見つけた固いものにありったけの気持ちを込めた。
 擦り寄り、縒りつき、絡め取った。
 実際には表面を爪で掻いた程度だったが、その間打刀は一切動かず、瞬きひとつしなかった。
 眉間に皺を寄せ、難しい顔で唇を引き結んだ。寄る辺を求める手を掴み取るまで、短くも長い時間、彼は小夜左文字の顔を見詰め続けた。
 やがて、男は深々と息を吐いた。
「……わかった」
 それだけを絞り出して、内出血で二倍近く腫れあがっている短刀の手を取った。
 赤黒く変色し、ぶよぶよと柔らかな皮膚を労わり、布団の中へと戻した。
「歌仙」
「だが、それは君の怪我が癒えてからだ。僕は、生憎と、重傷者を甚振るような趣味はない」
「……ふふ」
 敵に向かって首を差し出すよう言い放っておいて、まるで説得力がない。
 それを敢えて指摘せず、聞き流して、小夜左文字は布団から出て行こうとする手を引きとめた。
 今度は小指を、狙って探り当てた。なかなか曲がってくれない関節に焦れつつ、爪の先で引っ掻いて、違えた時の罰を彼に伝えた。
 歌仙兼定は肩を竦め、遠くを見ながら頷いた。取り戻した手で前髪を掻き上げて、尻を浮かせて膝立ちになった。
「約束、しました」
「ああ、約束だ。お小夜」
 真上から覆い被さる影に、短刀が相好を崩す。
 間を置かずに首肯して、打刀は慎重に身を屈めた。
 先に鼻の頭に挨拶をして、すぐ横に唇を移動させた。空中を滑るように飛び移って、弾むようにくちづけた。
 浅い谷間に舌を走らせ、隙間が開いたと見るや、がっぷり食らいついた。中にあった僅かな空気を奪い取り、薬湯の代わりに己が呼気を流し込んだ。
「んっ、あ」
 温んだ粘膜を絡め取れば、そこからちゅくり、音がする。
 くにくにと柔らかな表面を捏ね回して、溢れる唾液で橋を架けた。
 透明が糸が伸びて、千切れてしまうのが悔しかった。ずっとこのまま繋がっていればいいと願って、小夜左文字はいっぱいまで舌を伸ばした。
 その表面を舐め取って、歌仙兼定が前歯を浅く突き立てた。
「ひゃ」
 軽く噛まれただけなのに、電流が駆け抜けた。短刀は反射的に身を竦ませて、ビリリと来た疼きに息を乱した。
 大粒の涙が目尻に浮かび、流れ落ちる前に掠め取られた。頬を舐る熱が心地よくて、身体も、心も、此処にあるのだと実感できた。
「お小夜。もう僕は、君を見送りたくない」
「分かって、ます。んっ。僕、も……」
 口吸いの合間に囁いて、互いに吐息をぶつけ合った。混ぜ、奪い、与え、飲み込んだ。
 自由の利かない身体で、精一杯の感情を叩きつけた。この腕が思い通りに動かせたなら、抱きしめて、擦り寄って、出来ることを全部したかった。
 足りない。
 くちづけだけでは満たされない。
「身体、直ったら……。なか、に。ください」
「承知した。もう嫌だ、と泣いて謝られても、離さない」
「上等です。根こそぎ搾り取ってあげます」
 思うままにならないのが悔しくて、負け惜しみで囁いた。近くて遠い未来の約束をして、額を重ね、至近距離で笑いあった。

死なばやと何思ふらん後の世も 恋は世に憂きこととこそ聞け
山家集 雑 1318

2017/05/03 脱稿

住めば住みぬる 世にこそありけれ

 夜明けとともに、ごく自然と目が覚めた。怠さを残す身体をのっそり起こして、大典太光世は自動的に目尻を擦った。
 現身を得て以降、目覚めと共に繰り返して来た所為で、癖になっていた。しかし今日は小さな欠伸すら出ず、いつもは長く居座る眠気まで、早々に退散を決め込んでいた。
 そもそも寝入ったのが、ほんの一刻ほど前のことだ。寝床に入ってもなかなか寝付けず、繰り返し、繰り返し寝返りを打っては、固く目を閉じて羊を数え続けた。
 妄想の中の羊は全体的に丸みを帯び、もこもこしていた。
 あれを枕にするのは、さぞかし気持ちよかろう。
 しかし有り余る霊力が邪魔をして、想像の獣ですら、彼に近付こうとしなかった。
 触れようと手を伸ばせば、一目散に逃げられた。懸命に追いかけて、捕まえた途端、それはボロッと崩れて灰になった。
 空想の産物であり、真面目に受け止める必要はないと分かっている。けれど衝撃を受けた。哀しくて、苦しくて、余計に眠れなくなってしまった。
「金輪際、羊を数えたりしない」
 決意を声に出して呟いて、彼は枕元を探った。後ろ髪を結んでいる紐を無事発見し、手櫛で梳くこともなく大雑把に縛って、薄い布団から足を引き抜いた。
 掛け布団もまとめて三つに折り畳み、最後に枕を上に置いた。部屋の隅の、邪魔にならない場所に寝具一式を移動させて、あらかじめ用意しておいた着替えに袖を通した。
 皺だらけの寝間着を、これまた雑に畳んで、枕の隣に並べた。前髪はどうしようか考えて、面倒臭さに負けてそのまま放置した。
 兄弟刀であるソハヤノツルキと揃いの上下に身を包み、襖を開けて廊下に出る。
「いつっ」
 途端になにも無いところで躓いて、彼は誰もいないと知りながら、かあっと顔を赤くした。
 部屋に灯りは灯っていなかったが、障子越しに朝の光を感じて、動き回るのにさほど苦労しなかった。
 しかし廊下側は、そうではない。両側が壁で、窓が遠い。明るさが足りない所為で、足元不如意だった。
 いつもなら夜目が利く短刀が迎えに来てくれるのだけれど、彼は昨晩、出陣だった。
 もう帰ってきているはずだが、姿は見えない。手入れ部屋かもしれない、と背筋を伸ばして、大典太光世は薄暗い天井を仰いだ。
「蜘蛛は、俺を恐れないのか」
 その天井板に、動くものがあった。小さく、素早い。見つかったと言わんばかりにサササ、と逃げて、あっという間にどこかへ行ってしまった。
 そういえば蔵にも、蜘蛛は多数、生息していた。
 烏さえ近寄らないと言われていたけれど、昆虫は違うらしい。
 けれどさすがに、昆虫を愛でる気は起こらなかった。
「膝丸に斬られては、可哀想だ」
 それにこの本丸には、土蜘蛛殺しの逸話を有する刀がいる。
 あの太刀に見付からないよう、早く立ち去るように心の中で呟いて、彼はヒリヒリする爪先を軽く振った。
 気を取り直して歩みを再開させ、慎重に廊下を進んだ。他の部屋の主はまだ夢の中らしく、物音はほぼ聞こえず、響くのは己の足音だけだった。
 ギィ、ギィ、と重みを受けて床板が撓んでいるのが分かる。
 大太刀や薙刀らと殆ど同じ音を奏でて、大典太光世は角を曲がり、二階へ通じる階段脇を通り抜けた。
 そこまで来ると、幾分明るさが増した。
「今日も、天気は良さそうだ」
 見上げた空は、東側から白み始めていた。
 夜闇は西の空へ追いやられ、劣勢に陥っていた。地平線近くで微かに星が瞬いているが、それもじきに消え失せそうだった。
 月はとっくに姿を消して、艶やかな藍色は光に飲みこまれようとしている。
 本丸に来る以前は見るのも叶わなかった景色に目を奪われて、彼はしばらく、窓の前から動かなかった。
 蔵から見えるのは、いつも同じ風景だった。
 四季の巡りは辛うじて感じられたものの、目に映る範囲は限られていた。山や谷が日暮れの時間、何色に染まるのかを、彼は長い間、知る術すら持たなかった。
「綺麗だ」
 ここに来てから、毎日が驚きの連続だ。
 勿論良いことばかりではないけれど、それさえも新鮮だった。
 かっては一喜一憂することすらなかったのだから、変化があるだけでも素晴らしいと思える。
 じわり、じわりと明るい範囲を広げていく空に目を眇めて、彼は今更出て来ようとした欠伸を噛み殺した。
「ふう……」
 代わりにため息めいた吐息を零し、目尻を擦る。寝不足のお陰でいつもより隈が酷いが、鏡を見ていない彼は気付かなかった。
 眠気覚ましも兼ねて肩をぐるぐる回し、首も振って骨を鳴らした。何気なく目を向けた方角は依然静かで、雨戸が開くのは当分先と思われた。
「前田は、どうしているだろう」
 隙間なく閉ざされた板戸の向こうで、粟田口の短刀たちは枕を並べ、眠りこけているに違いない。
 その中に良く知る短刀が紛れていることを切に願って、彼は直後、憂鬱そうに肩を落とした。
「いつかは回ってくると、承知していたが」
 歴史改変を目論む時間遡行軍の討伐を目的として、審神者なる者は時の政府の求めるままに、刀剣男士を顕現させた。
 時間を遡れるのは、刀剣のみ。過去を巡り、歴史修正主義者の目的を挫くのが、大典太光世らの使命だった。
 だが彼らの役目は、それだけに限らない。刀を手に、勇猛果敢に戦うだけでなく、本丸の維持管理もまた、大事な仕事だった。
 即ち炊事、洗濯、掃除、諸々だ。
 農作業もある。戦場で頼もしい味方となる馬の世話も、欠かせなかった。
 刀装具を作るだけならまだしも、何故こんなことまで、と言いたくなる内容が多々あった。力任せに暴れるだけでは済まされず、繊細な手仕事が各方面に求められた。
 そして大典太光世は、そういった作業がとてつもなく苦手だった。
 身体が大きいだけでない。長い間蔵に引き籠もっていた余波もあり、彼は俗にいう世間知らずだった。
 これまでは大勢いる仲間たちが率先して引き受け、彼は遠巻きに見ているだけで済んだ。
 しかしいつまでも、好意に甘えているわけにはいかなかった。
「俺に、包丁が扱えるのか……」
 目下最大の懸念材料を口にして、助けを求めて左右を見る。
 けれど願い虚しく、近くを通りかかる刀はひと振りもなかった。
 天下五剣に名を連ねる大典太光世は、本日目出度く、初めての調理当番を言い付かっていた。
 話を聞かされたのは、昨日の夜だ。夕餉の席で発表されて、大広間がざわついた原因がなんであるかは、想像に難くなかった。
 きっと誰もが、不安を抱いたに違いない。本当に大丈夫なのか、と言いたげな視線があちこちから感じられて、非常に居た堪れない気持ちになったものだ。
 だが皆がそう思うのも、仕方がないこと。なにせ大典太光世には、料理を作った経験などなかった。
 簡単な内容を手伝ったことならある。だがせいぜい野菜を洗うだとか、えんどう豆を莢から取り出す程度だった。
 味見をして感想を求められたことならあるけれど、その味がどうやって作り出されているのかは、知らない。
 お節介で世話焼きな短刀たちが、不器用な太刀でも作れそうな料理を見繕い、絵入りで作り方の説明書まで作ってくれたが、巧く行くだろうか。
 忘れないよう、昨日のうちから服に潜ませていた数枚の紙を取り出して、彼は丁寧で読み易い文字に頭を垂れた。
「やるしかない、か」
 幸いにも、当番は彼ひと振りではない。他に打刀の長曽根虎徹や、大倶利伽羅、脇差の骨喰藤四郎などが一緒だった。
 会話が弾む気がしない組み合わせであるが、決めたのは審神者だ。文句は言えなかった。
 間違って落とさないよう、手順書を折り畳んで握りしめて、彼は刀剣男士の私室が連なる北棟から、台所のある南棟へ向かった。
 長い渡り廊を抜けて、母屋に入った。日中は騒がしく、出入りが激しい玄関も、この時間はひっそりと静まり返っていた。
 大量に並べられた靴を順に眺め、ひと通り揃っているのを確かめる。例の出陣部隊の分も、邪魔にならない場所に、整然と並べられていた。
 誰の仕業かは、簡単に想像がついた。几帳面が過ぎる短刀を思い浮かべて、彼は安堵に頬を緩めた。
 どうやら全振り、無事に出陣先から帰って来たらしい。
 そうなると俄然手入れ部屋の様子が気になって、見に行こうかどうか、悩んでいた時だ。
「なにをしている」
「うっ」
 突然後ろから話しかけられて、不意を突かれた太刀は四肢を戦慄かせた。
 いつの間にか背後を取られていた。油断し過ぎも良いところであり、これが戦場であったなら、彼の首は胴から切り離されていた。
 嫌な想像をして、発作的に肩を掴んだ。頭と胴体が無事繋がっているかどうかを確認して、長い襟足を押し潰した。
「何処へ行くつもりだ」
 心臓がバクバク言って、冷や汗が止まらない。口から飛び出しそうになった悲鳴は辛うじて捕獲出来たが、動揺から来る挙動不審ぶりは、隠し通せなかった。
 目を白黒させて、恐る恐る振り返る。
「骨喰、藤四郎」
「台所は、あっちだ」
「あ、ああ。知っている」
 そこに立っていたのは、淡い藤色の髪をした脇差だった。
 長い睫毛に彩られた、大きな眼を上向かせていた。戸惑う太刀をじっと見つめて、自分からは逸らさなかった。
 口数は決して多くない脇差だが、その分目力が強い。体格では圧倒的な差があるのに、気圧されて、大典太光世は首を竦めて口籠もった。
 前田藤四郎や平野藤四郎、信濃藤四郎らの兄弟刀であるけれど、雰囲気は随分異なる。
 振り返ってみれば、彼とはあまり話をしたことがなかった。鯰尾藤四郎とは、短刀たちと一緒に居る時に何度か話しかけられたことがあるが、骨喰藤四郎とはなかった。
「そうか」
 口籠もりながらの返答に、脇差は淡々と頷いた。スッと目線を下にずらし、斜めだった首を正面に据え直すと、くるりと反転し、さっさと歩き出した。
 一度も振り返らず、一緒に行こう、といった誘い文句もなかった。
 一応右手を伸ばす準備だけはしていた太刀は、行き場を失った掌を呆然と見つめ、力なく項垂れた。
「俺は、嫌われているのだろうか」
 骨喰藤四郎は、誰に対してもあんな感じと分かっていても、考えずにはいられない。
 小声でぼそっと呟いたら、余計に心が傷ついた。うじうじ、ぐずぐず落ち込んで、黴臭い蔵に引き籠もりたくなった。
 だがそれは、許されることではない。
「……行こう」
 ちょっと嫌なことがあったからといって、すぐに逃げ出すのは、あまりにも迷惑過ぎる。引っ張り出す側の身にもなれ、と信濃藤四郎に説教されたのを思い起こして、大典太光世は気持ちを切り替えた。
 短刀たちが、時間がないというのに相談し合い、調理手順書を作ってくれたのだ。
 それを無駄にするわけにはいかないと腹を括って、彼は心持ち早足で台所に向かった。
 一歩ごとに床板を軋ませて、藍染めの暖簾を潜る。
「おっ、遅い出勤だなあ。遅刻は厳罰だぞ」
 真ん中の切れ目に手を入れ、首から先を前に出した彼を振り返って、長曽根虎徹が豪快に笑った。
「すまない」
 自分なりに早起きしたつもりだったのだが、遅かったようだ。それを証拠に、台所には残りの調理当番が全振り揃っていた。
 大倶利伽羅は竈の前にしゃがみ込み、燃え盛る炎と睨めっこの最中だった。骨喰藤四郎は自前の割烹着に袖を通して、手を洗うべく洗い場に向かっていた。
 兄弟刀と難しい関係にある打刀が、どうやら一番乗りだったらしい。献立を決めて、さっさと調理に入っており、強火で野菜を炒めていた。
 放置された俎板には、ざく切りの野菜の一部が残されていた。男らしく、豪快に刻んで、とにかく火を入れてしまえばいい、という雰囲気だった。
 味付けも大雑把で、味見すらしない。
 調子よく鉄鍋を振る男に唖然として、大典太光世は手にした紙束を背中に隠した。
 そんな料理で良いのか、と言いたくなったが、ぐっと堪えて飲みこんだ。完全に出遅れてしまって、短刀たちが選んでくれた一品を作るどころではなかった。
 そうでなくとも、台所は狭い。いや、充分広いのだが、大柄な男が複数いる所為で、そう感じずにはいられなかった。
「後は何を作る」
「そうだなあ。野菜炒めだけじゃあ、物足りないだろうし」
「なら俺は、味噌汁を作ろう」
 惚けている間に、準備を終えた骨喰藤四郎が戻ってきた。巨大な鉄鍋を難なく振り回す打刀に話しかけて、慣れた調子で段取りを整え始めた。
 大鍋に水を張り、湯を沸かすところから開始だ。具材とする茸や、味噌の準備も滞りなく進めて、惚れ惚れするくらい手際が良かった。
 考えてみれば、彼らは大典太光世より、この本丸での生活が長い。当然調理当番を命じられたのも、これが初めてではなかった。
 いつも前田藤四郎らがいる時しか台所に近付かないので、他の刀たちがどんな風に料理をしているのか、気にかけてこなかった。こんなにも雰囲気が違うのかと唖然として、なかなか入り口から動けなかった。
「なにかしたらどうだ」
 それを見咎めて、火の番がひと段落した大倶利伽羅が声を上げた。
 低い声で責められて、ぼんやりしていた太刀はハッと息を呑んだ。
「ああ、すまない。なにをすればいい」
 慌てて背筋を伸ばし、三方向に問いかける。
 だが背高な太刀の質問に、即答してくれる刀はひと振りもなかった。
 炒め物の手を休め、長曽根虎徹が骨喰藤四郎を見る。その脇差は言い出しっぺの打刀を窺い、大倶利伽羅はなにもない壁を見た。
 各々自分がやるべきことを定め、行動していた。そこに手伝いが必要かと聞かれれば、勿論と頷くだろう。だがそれは、相手側が台所作業に慣れているのが条件だ。
 初体験の太刀に逐一説明しながら作るのは、案外面倒だ。なにかやらせて、失敗されて、それが取り返しのつかない事態を引き起こすことだってあった。
 彼らが作っているのは、屋敷に住まう全刀剣男士の胃袋を満たす食べ物だ。自分だけの分であればどうとでもなるが、六十振り分が一気に駄目になったとしたら、目も当てられない。
 必然的に、彼らは押し黙るしかなかった。
「……おい」
 返事がないのを訝しみ、大典太光世が半歩前に出た。
 じり、じり、とにじり寄る天下五剣に頬を引き攣らせて、長曽根虎徹は焦げそうだった鍋の中身を急ぎ掻き混ぜた。
「そ、そう……だな。なにをしてもらおうか、大倶利伽羅」
「慣れ合うつもりはない。俺は俺で、勝手にやる」
 自分は炒め物作りで手一杯だからと、責任を丸投げした。しかし大倶利伽羅は受け取りを拒否し、急ぎ足で竈の前へと戻った。
 誰とも目を合わせてもらえず、優しい言葉もかけて貰えない。
 自分から何かを手伝う、という行動を起こそうにも、大典太光世は台所について、それほど詳しいわけではなかった。
 戸惑い、唖然とし、困り果てて脇差を見る。
 割烹着の少年は難しい顔で腕組みをすると、今にも泣き出しそうにしている大柄な太刀に嗚呼、と頷いた。
「卵が欲しい」
「たまご」
 猫背が酷くなった大典太光世にぽつりと言って、鸚鵡返しに聞き返された脇差は間髪入れずに頷いた。至極真面目な顔をして、やおら右腕を挙げ、勝手口を指差した。
 正確にはその先にある鶏小屋を、なのだが、骨喰藤四郎はその辺の説明は省いた。
 黒髪の太刀は唖然としながら目を泳がせ、背筋をピンと伸ばした少年と、窓の外とを見比べた。
 片や威風堂々として、片やビクビク震えて小さくなっている。これではどちらが天下五剣か、分かったものではなかった。
 やり取りを見ていた長曽根虎徹は声を殺して笑い、大倶利伽羅は呆れ顔で溜め息を吐いた。
「卵、を。取ってくればいいのか」
 ようやく脇差が何を言っているのかを理解して、大典太光世が呟く。
 骨喰藤四郎は鷹揚に頷き、足元に視線をやると、手ごろな大きさの編み籠を手に取った。
「よろしく頼む」
 それを差し出して、相手の目を真っ直ぐ見ながら告げた。
 外見はあまり似ていないながら、数ある藤四郎の短刀の中のひと振りを何故か思い出して、大典太光世は渡されたものを胸に抱きしめた。
 押し潰してしまわないよう注意しつつ抱え持ち、いざ勝手口から外に出ようとして、出しかけた足を引っ込める。
「ところでその、卵というのは、どこにある」
「ブッ!」
 外なのは分かっているが、具体的な採取方法までは、理解が及ばなかったらしい。
 基本的な知識すら有していなかった彼に、長曽根虎徹が堪え切れずに噴き出した。
 大量の野菜炒めを、鉄鍋ごとひっくり返すところだった。それを持ち前の腕力でどうにか防いで、顔の前で右手を振った。
「いやあ、すまん、すまん。鶏小屋があるのは知っているだろう。今の時間なら、産みたてが沢山転がっているだろうから、踏まないように気を付けるんだな」
「あいつらの攻撃は、容赦がないからな……」
 照れ笑いで誤魔化して、早口に助言を述べる。
 大倶利伽羅もぼそっと言って、事情が良く分かっていない大典太光世を焦らせた。
「攻撃? 踏む? 産みたて? 待ってくれ。まさか、卵というのは」
「鶏の卵に決まっているだろう。茸みたいに、木の根本に生えているとでも思っていたのか?」
 これまでにも何度か、卵料理は食卓に上っていた。けれどそれらはどれも調理された後のもので、元がどういう形状をし、どうやってこの世に現れるのかまで、彼は把握していなかった。
 頼まれたので安請け合いしたが、今になって後悔に襲われて、脂汗が止まらなかった。
 若干馬鹿にしたような問いかけに返事をせず、唇を戦慄かせて凍り付く。
 顔面蒼白で籠を落とした彼に、骨喰藤四郎は再度拾って押し付けた。
「卵焼きは、兄弟の大好物だ。急げ」
 彼が何故硬直したのか、理由を考えた形跡はない。ただ大典太光世が藤四郎の名を持つ何振りかの短刀と親しくしていると知った上で、行動を促した。
 脇差が卵集めを頼んだのは、烏さえ寄りつかなかった蔵の主だ。有り余る霊力による加護を期待され、且つ恐れられて来た刀だ。
 周りがどれだけ大丈夫と言って背中を押そうと、彼は己が与える影響を恐れ、動物に近付こうとしなかった。当然、日中は庭で放し飼いにされている、一部は凶暴と知られている鶏に対しても、だ。
 鳥除けとして畑仕事で重宝されている太刀に、よりによって鶏小屋に入れ、という指令が下された。
「俺には、無理だ。なにか他の仕事を」
「いいから、行け。時間がない」
 懸命に抗うが、受け入れられなかった。多忙を極める調理当番は、朝早く起きねばならなかった恨みもあって、気が立っていた。
 無駄話に付き合っている暇はないと、彼らは大典太光世の反論に耳を貸さなかった。
 率先して仕事を見つけ、動けない男に構っている場合ではない。時間との戦いに明け暮れて、打刀たちは目の前のことに必死だった。
 縋るような目を向けた脇差にも、一蹴された。コクリ、と頷き、腰を叩かれて、引き籠もり体質の男はビクッと背筋を伸ばした。
 両手で抱えた籠の底を覗きこめば、前田藤四郎が美味しそうに卵焼きを頬張る姿が見えるようだった。
 信濃藤四郎や、平野藤四郎らも嬉しそうに顔を綻ばせている。愛染国俊も満面の笑みを浮かべて、出された料理を全て綺麗に平らげた。
 あと半刻もすれば、座敷で見られるだろう光景だ。
 それを台無しにしたくなくて、ごくりと息を呑み、大典太光世は奥歯を噛み締めた。
「行ってくる」
 喉の奥から声を絞り出し、意を決して歩き出した。右手に籠をぶら下げて、土間へ降り、共用の草履に爪先を押し込んだ。
 彼の足には小さくて、踵がはみ出たが、気にならなかった。じゃり、じゃり、と音を響かせながら勝手口に向かい、会釈するように頭を下げて敷居を跨いだ。
 部屋を出た時よりも、外はずっと明るさを増していた。地面に落ちる影は濃く、輪郭は鮮やかだった。
 外に出て五歩ばかり進んだところで足を止め、左右を見回す。記憶を頼りに鶏小屋を探して、左に行こうとして、直後に思い直した。
「こっち、だったか」
 馬にさえ、極力近付かないよう心掛けている彼だ。家畜小屋に立ち寄った経験など、無いに等しかった。
 顕現した直後、敷地内を案内された時以来ではなかろうか。
 懐かしい記憶を辿りながら慎重に歩を進め、やがて現れた小屋の前で、彼はひく、と頬を引き攣らせた。
 それは板葺きの屋根を持つ、三方が壁で囲われた建物だった。左端に出入りの為の扉があり、今は隙間なく閉ざされていた。
 残る一面は金網で覆われ、糞と、餌に使われている米糠の臭いが辺り一帯に色濃く漂っていた。コケー、コココ、と姦しい鳴き声が絶えず響いており、現れた大男相手にも全く怯む様子がなかった。
 本丸には大典太光世より上背がある刀剣男士がいるので、慣れてしまったのだろうか。
 岩融や太郎太刀が、身を屈めながら小屋に入る姿を想像して、それよりは幾分小さい太刀は緊張に四肢を竦ませた。
 今や全身に汗が滲み、少し動くだけで関節がギシギシ音を立てた。薄暗い小屋の中から外を窺う獣の眼差しは鋭く、大典太光世を観察し、値踏みしている雰囲気だった。
 その数は、余裕で二十羽を越えるだろう。
「うおっ」
 端からざっと数えていたら、一羽が突然羽を広げた。飛べない癖に懸命に空を叩き、太刀目掛けて突進した。
 高く跳び上がり、他の鶏の頭を飛び越えた。直後にガシャッ、と金網に激突して、巻き込まれたくない鶏たちが一斉に壁の方へ移動した。
 勢いと音に驚き、大典太光世は卵を入れる籠を落とした。逃げ腰で身構えて、本当にこの中に入るのか、と閉まっている扉を横目で見た。
 彼は台所当番が初めてなら、卵の回収作業も初めてだった。
 だから先に餌を用意して、小屋の外に配置しておく、という手順を知らない。鶏たちがそちらに気を取られ、一斉に小屋から出ていった隙に中に入り、安全に卵を集める、というやり方を学んでいなかった。
 骨喰藤四郎は、てっきり前田藤四郎たちが教えたものと、思い込んでいた。
 その前田藤四郎は、本丸内を案内する際に簡単に説明したのだが、大典太光世は覚えていなかった。
 小屋の脇に桶や糠の入った袋があるのにも気付かず、鶏の前で右往左往して。
 散々躊躇し、懊悩して。
「……前田の、為だ」
 愛らしい短刀たちが喜ぶ姿を脳裏に描き、固い決意の下、太刀は思い切って鶏小屋の戸を引いた。
 直後。
「う、お……お、痛っ」
 待ち構えていた鶏数羽が、一斉に外に飛び出した。我先にと、普段から餌が用意されている場所を目掛けて突進した。
 目当てのものがないとも知らず、猛進し、砂埃を巻き上げる。一方で何羽かの鶏は、見慣れない男に疑問を抱いたのか、小屋の中で警戒する動きを見せた。
 足元を駆け抜けていった鶏の勢いに圧倒されて、大典太光世はしばらく動けなかった。
 もうこの時点で、帰りたい気持ちでいっぱいだった。しかし目的を果たさないことには、台所に戻れない。
 昨晩、わくわくしながら訪ねてきた短刀たちの為にも、期待を裏切るわけにはいかなかった。
「たまごとやらは、どれ……どれだ?」
 なんとしてもやり遂げると誓いを新たにして、落としたものを拾い、意を決して小屋に入った。中に残っていた鶏が警戒を強め、壁際へと後退するのをいいことに、目を皿にして辺りを探った。
 ぷわん、と漂う臭気を堪え、足元に敷き詰められた藁をそっと払い除ける。
 鳥たちの寝床でもあるそれはほんのり湿っていて、動かした途端に臭いが強まった。あまり嗅ぎ慣れない、獣特有の臭気に眉を顰めて、紛れていた柔らかな糞に渋面を作った。
 片隅に集まった雌鶏が、険しい目つきで男を見ていた。
 餌が用意されていないと気付いた雄鶏のうち、数羽が、いじけた足取りで小屋に戻って来ようとしていた。
「これ、か?」
 そんな中で籠を片手に、ガサガサと藁を掻き分けていた男が、白い塊を見つけて目を見開いた。
 藁の中に隠すように収まっていたその表面には、産み落とした雌鶏のものらしき羽が付着していた。表面はつるりとして、完全な円形ではなく、やや縦に長い楕円状だった。
 恐る恐る身を屈め、掴み取るべく腕を伸ばす。
 キラーン、と闇に潜む獣の目が一斉に輝いたのは、勿論錯覚だ。
 だが後に、大典太光世はこう証言する。奴らはこの身に宿る霊力を、一切恐れなかった、と。
「よし、まずはひとつ……いぢっ!」
 無事一個目を回収して、安堵の息を吐いた刹那。
 突如真後ろから攻撃を受けて、彼はガクン、と膝を崩した。
 倒れそうになって、すんでのところで踏みとどまった。ぐしゃ、と顔の前で音がして、生暖かい感触と同時に、太腿に鋭い一撃が突き刺さった。
「ぐあ」
 時間遡行軍に攻撃されるよりは優しいが、不意打ちで、避けられなかった。いったい何が、と思って辺りを見回した直後、視界いっぱいに白い羽が広がって、痛烈な蹴りがこめかみを直撃した。
 膝の裏側を嘴に突かれた。肉の薄い部分を抉られて、別の個体には臑を啄まれた。
「いっ、な、あ。止めろ。お前たち、止めるんだ!」
 知らない間に五、六羽の鶏に囲まれていた。群がられ、おしくらまんじゅうの真ん中に追い込まれ、大典太光世は混乱に声を上擦らせた。
 堪らず腕を振り回せば、指の間からぼたぼたと雫が垂れ落ちていく。細かな破片が皮膚に刺さって、そちらもチクチクとした痛みを発した。
 ぬるっとした感触は不快だけれど、怖ろしさが先に立ち、手を広げて状況を確かめられない。
 ゾワッと悪寒が駆け抜けて、大柄な太刀は顔を引き攣らせた。
「止めろ、止めてくれ。いたっ、こら、お前たち、大人しく……うぐ!」
 ばさばさと羽ばたく音がこだまして、白いものが大量に宙を舞った。蹴散らすわけにもいかず、力技で払いのけることも出来なくて、大典太光世は跳び上がった鳥の一撃に悲鳴を上げた。
 自在に空を飛べなくとも、跳躍力は凄まじい。顔面を狙って強靭な脚が突き付けられて、彼は咄嗟に腕を払った。
 迫り来る危機から逃れる為の、止むを得ない措置だった。しかし手首を襲った衝撃と、直後に響いた甲高い鳴き声に、太刀は騒然となって立ち尽くした。
 瞠目し、床に叩きつけられた雄鶏に唇を戦慄かせる。
 わなわなと全身を震わせて、彼は押し寄せる後悔に仰け反り、倒れそうになった。
「さあ、こっちです。こちらへ、早く!」
 意識が遠くなり、このまま消えてしまいたい衝動に駆られた時だ。
 小屋の外から勇ましい少年の声が飛び、地面になにかが撒き散らされた。
 バシャ、と扇状に広がって沈んだそれに、大典太光世を取り囲んでいた鳥の大半が反応した。攻撃の手を緩めてぴくっ、と固まったかと思えば、それまでのことなど忘れ、外目掛けて走っていった。
 歓喜と思しき雄叫びを上げ、雄鶏も、雌鶏も一斉に扉を潜り抜けていく。後には飛び散った藁と、糞と、ふわふわ宙を泳ぐ羽、そして呆然と佇む刀剣男士だけが残された。
 唖然として、瞬きも忘れていた。
 持っていた餌入りの桶を地面に置いて、前田藤四郎は放心状態の男の元へ急いだ。
「大典太さん」
 呼びかけ、服の裾を引っ張った。だらんと体側に垂れ下がっている片手が濡れて、透明な糸が複数滴り、白い破片がこびり付いている様には、眉を顰めた。
 なにが起きたのかを大雑把に把握して、惚けている太刀の腿を軽く叩く。
「う」
 力を込めたつもりはなかったが、鶏に囲まれた際、ここも突かれたらしかった。大典太光世は痛そうな顔をして、首を振り、長い息を吐いて傍らの短刀を見た。
 内番着に着替えたおかっぱ頭の少年に、驚いた様子で瞬きを繰り返す。
「前田」
「骨喰兄さんから、話は聞きました。すみません。もっと早く、やり方をお教えするべきでした」
 何故ここに、という顔をされ、前田藤四郎はぺこりと頭を下げた。何も悪い事はしていないのに謝って、小屋の外で飛び跳ねている鶏を一瞥した。
 彼が地面に撒いたのは、米糠を少量の水で練ったものだ。いつもは量を量って、身体が小さい個体にもちゃんと行き渡るよう注意するのだけれど、今日ばかりは構っている暇がなかった。
 大典太光世が鶏小屋に向けて出発して暫く後、身支度を調え終えた前田藤四郎は遅れて台所に顔を出した。眠い目を擦り、見当たらない太刀の行方を兄に訊ねて、返ってきた言葉に顎が外れそうなくらい驚いた。
 慌てて外へ出れば、案の定の事態が起きていた。
 救出作戦は、無事完了した。
 ホッと息を吐き、相好を崩して、短刀の付喪神は落ちていた編み籠を拾い上げた。
「前田、俺は」
「大丈夫です、大典太さん。どの鶏も、元気です」
 貼りついていた羽を払い落とし、青褪めている男を慰める。
 実際、太刀に打たれた鶏は、外で必死に餌を啄んでいた。
 彼を取り囲んでいた分も、そうだ。一羽たりとも調子を崩していない。大典太光世の霊力の封印は完璧で、外に漏れだすことはなかった。
 なんら影響を与えていないと念押しして、前田藤四郎は一呼吸置いてから首を捻った。太刀の反応が鈍すぎるのを気にして、可愛らしい顔を曇らせた。
「仕方がなかったんです。大典太さんが気に病むことは、ありません」
 彼が気にしているのが、成長を遂げた個体でないと察して、声を潜めた。
 手に取った瞬間、襲われたのだ。握り潰してしまったのは、不可抗力以外のなにものでもなかった。
 だが大典太光世は傷つき、哀しんでいる。じきに台所で潰える命と知っていても、自身の手で粉々にしてしまったのを悔やんでいた。
 慰めの言葉も、心に響かない。
「俺はやはり、蔵から出るべきではなかった」
 食事の準備で何ひとつ役に立てず、貴重な食材をむざむざ駄目にした。ひと振りでは対処出来ず、混乱するばかりで、能無しの謗りを受けて当然だった。
 自虐的思考が強まった。両手で顔を覆おうとして、直前で思い出し、割れた殻が貼りつく手を震わせる。
 たった一度の失敗で、この世の終わりのような落ち込み具合を見せられて、前田藤四郎は溜め息を吐いた。
 けれど彼の気持ちが、全く分からないわけではない。強すぎる霊力で周囲に害が及ぶのをひと際恐れている男だ。鳥小屋の中に入るのだって、かなりの勇気が必要だったはずだ。
 細心の注意を払ったのに、守れなかった。
 潤む眼から涙が零れ落ちるのも時間の問題と、短刀の付喪神は眉を顰めた。
「分かりました。では、練習しましょう」
「……練習?」
「はい」
 あまりのんびりしてもいられなくて、持っていた手ぬぐいを差し出しつつ、打開策を模索した。鸚鵡返しに呟いた男に頷いて、少年は近くにあった卵をひとつ、手に取った。
 他にも数個、見える範囲にあったものを拾って籠に入れ、差し出す。
「む、無理だ」
 これを持つよう無言で促されて、大典太光世はぶんぶん首を横に振った。
 すっかり怖じ気づいてしまっている彼に、前田藤四郎は渋面を作った。と同時に、いきなり本物からでは敷居が高いかとも考えて、目を泳がせた。
「では、こうしましょう」
 ぐるりと円を描くように瞳を動かし、足元に向かう途中に偶然見えたものに、望みを託した。
 現物が駄目ならそれに近しいものを、との発想に、これ以外ない、と確信した。
 卵が入った籠を置いて、彼は羽織っていた丈の短い外套の裾を掴んだ。大典太光世が怪訝にする前で鼻息を荒くして、膝を折ってしゃがむと同時に、手にしたものを頭に被せた。
 栗色の髪の毛を巻き込んで、外套の裏を表にした。背に垂らすべきもので頭部全体を覆い、弛まないよう真下に向けて引っ張った。
「前田?」
「僕を卵と思って、触れてみてください」
 屈んで小さく、丸くなって、呼ばれても顔を上げない。自分は卵だ、と己にも、太刀にも言い聞かせて、肩幅に広げた膝の間に胴体を押し込んだ。
 粟田口派の短刀はひと振りを覗き、生成り色の上着を内番着にしていた。彼の外套もだが、それらは卵の殻の色と近しい色だった。
 実物に触れるのが怖いのなら、まずはそれに似たものから順番に。
 徐々に慣れていけばなんとかなる、との発想から来た行動に、前田藤四郎は得意になって頬を赤らめた。
 我ながら妙案だと意気込み、大典太光世の役に立てるのを喜んだ。出陣の疲れがまだ残っているが、早起きして良かったと微笑んで、大きくて分厚い手が伸ばされるのを、今か今かと待ち続けた。
「……おや?」
 しかし待てど暮らせど、太刀の手は下りて来なかった。
 辛うじて見える爪先は、先ほどからピクリとも動かない。鶏に踏まれた際に出来たと分かる傷が甲や、足首に散見して、赤い筋が痛々しかった。
 早く消毒して、薬を塗ってやりたかった。
 だというのになかなか動こうとしない男に焦れた。言葉が足りなかったかと想像して、短刀は外套の下で百面相を繰り広げた。
 拗ねて唇を尖らせて、早くして欲しいと頬を膨らませる。
 鼻から荒い息を吐き、奇妙な事態に首を捻る。
「大典太さん?」
 試しに呼びかけてみたが返事はなく、代わりに大きな足指がピクッと動いた。
 前田藤四郎の倍くらいありそうな親指を一瞬浮かせて、草履からはみ出ている踵を地面に押し付けた。
「くっ」
 押し殺した声が聞こえた。
 懸命に笑いを堪えている気配が、空気を通して伝わって来た。
 きっと彼は、丸めた拳を口に当て、腹が捩れる感覚に耐えているに違いない。
 あまり聞くことのない太刀の笑い声にハッとして、短刀はカーッと駆け上がってきた羞恥心に真っ赤になった。
 これ以外にない、と自信満々だったのが、一気に萎んで小さくなった。もしや自分は、とてつもなく恥ずかしい事をしているのではと、冷や汗が止まらなかった。
 動物の鳴き真似や、仲間の癖を真似るのは、良くあることだ。酒宴の席でも度々披露されており、都度大きな笑いがこだました。
 だが卵の物真似など、聞いたことがない。
 冷静になって考えると、なんて馬鹿らしいのだろう。大きさからして全然違うのに、手触りも、構造自体も全くの別物なのに、どうして練習台に使えると思ったりしたのだろう。
 大典太光世が笑うのは当然だ。
 恥ずかしさと惨めさから、顔を上げられなかった。
 すぐにでも、この茶番を終わらせたい。だが今更止めるとも言い出せず、にっちもさっちもいかなかった。
 一秒も早くこの生き地獄から脱したいのに、その術が思いつかない。このまま後退して距離を取ろうにも、身を低くして、視界も碌に確保出来ない状態では、転んで尻餅をつくのが関の山だった。
 そうなったら余計、恥を曝すことになる。
 加賀百万石の前田家に伝来した守り刀としての矜持を傷つけず、この窮地から逃れるのには、どうすれば良いか。
 思いつきで行動するべきではなかった。後悔で頭をぐるぐるにして、前田藤四郎は上唇を噛み締めた。
 愚図り、涙を飲む。
 そこに、ぽん、と。
 軽い衝撃があった。自分の足元ばかり見ていた少年はハッとして、両手と外套の隙間から見える足を探した。
 直後に、よしよしと撫でられた。右に、左に狭い範囲で往復する手は、彼が良く知る感触と全く同じだった。
「あ……」
 絶句して、手の力が緩んだ。収縮性がない布は指先を離れ、するりと背中側へ流れていった。
 栗色の髪の毛が現れた。
 瞳いっぱいに光を宿して、前田藤四郎は控えめな太刀の笑みに四肢を戦慄かせた。
「大典太、さん」
「お前に触れるように、やれば良かったんだな」
「……はい。はい!」
 感極まった声を上げ、飛び上がった。得られた感想に相好を崩して、今度は頬に伸ばされた手に、自分から擦り寄った。
 存分に甘えて、太くて逞しい腕にしがみついた。
「さあ、行きましょう。皆が首を長くして待っています」
「ああ、そうだな」」
 卵は無事回収出来た。屋敷に集う仲間も、いい加減布団から抜け出している頃だろう。
「まるで、雛だな」
 片腕の動きを封じられても、太刀は嫌がらなかった。慎重に卵入りの編み籠を持ち上げて、楽しそうにじゃれ付く少年に目尻を下げた。
「はい?」
「いや、なんでもない」
 聞き取れたが意味が分からなくて、前田藤四郎が首を捻る。
 誤魔化され、歩き出した男のすぐ後ろをついて行こうとして。
 はたと我に返った少年は、真っ赤な顔を外套に隠した。

白雲のたえずたなびく峰にだに 住めば住みぬる世にこそありけれ
古今和歌集 945

2017/07/09 脱稿

いはけなかりし 折の心は

 長閑な昼下がりだった。
 天気が良く、風は少し強めだった。気温は高めながら、茹だるような暑さは度々吹く風が、随時遠くへ運び去ってくれていた。
 昼餉が終わり、めいめいに寛いでいるところだった。本日の出陣は午前中に一度だけで、午後からの予定は組まれていない。第四部隊が遠征に出ているくらいで、大半の刀剣男士が屋敷で過ごしていた。
 道場からは勇ましい声が響き、台所からは八つ時の甘味を作る、甘い匂いが漂っていた。
 嗅いでいるだけで腹が空く。今日の当番は燭台切光忠なので、珍しい異国の菓子が堪能出来そうだった。
「まったく、忌ま忌ましい」
 ところが隣に座す刀は、この香りに不快感を示した。嫌そうに舌打ちして、嗅ぎたくない、とばかりに顔の前で手を振った。
 空気を撹拌して、別のものと混ぜて誤魔化した。もっともこの場に漂う匂いで、焼き菓子の香ばしさに勝るものなど、ありはしないのだけれど。
「そう毛嫌いせずとも、良いのでは」
 隻眼の太刀は元主の趣味もあり、料理が好きで、異国かぶれのところがあった。何につけても格好良さを優先し、男らしさを求める短刀たちからは絶大な支持を集めていた。
 伊達藩ゆかりの刀とは特に親しくしているが、人当たりが良いので、他の刀剣男士からも好かれていた。
 そんな太刀に敵対心を隠さない打刀に、小夜左文字は小さく溜め息を吐いた。
 肩を竦めて囁き、様子を窺ってちらりと盗み見る。
 歌仙兼定は不機嫌の度合いを強め、むすっと口を尖らせていた。
「お小夜まで、あんな奴の味方をするのか」
「燭台切光忠さんは、良い方です」
「お小夜!」
 目の前で露骨な肩入れをされて、藤色の髪の打刀は声を荒らげた。信じられない、とばかりに両手を振り回して、悔しげに吼えると同時にぴょん、と座っていた縁側から飛び降りた。
 草履の裏で砂埃を撒き散らし、滑りそうになった体躯を支えた。ぷんすかと煙を噴いて歩幅を広くして、どしどし歩く姿は関取のようだった。
「どこへ行くんです」
 この後取り立てて用事はないけれど、聞かないといけない気がした。
 一応引き留めて問いかければ、歌仙兼定は仁王の如き形相で、ひと言「散歩だ!」と怒鳴った。
 何がそんなに気に入らないのか、すっかり臍を曲げてしまった。短いやり取りを頭の中で振り返って、短刀は後を追うかどうか、躊躇した。
「歌仙」
 迷っているうちに、男の背中はどんどん遠くなる。その足取りは速く、緑生い茂る桜の脇を通って、ちょうど掃き掃除中だった太郎太刀の真横をすり抜けようとした。
「ああ、もう」
 傍を通りかかった刀に、竹箒を手にした大太刀が会釈した。
 それで一瞬足を止めた打刀の姿に決心して、短刀も縁側に飛び降りようと身構えた直後だった。
「――ん?」
 目に見える世界に違和感を覚えて、咄嗟に人工物の空を仰いだ。
 なにかがおかしい。奇妙な感覚に背筋を震わせ、あるはずのない敵襲を警戒し、漂う雲を睨み付ける。
 けれど実際には、異変は足元から訪れた。
「う、わあっ!」
 突如、地面が揺れた。ゴゴゴゴ! と凄まじい音が上から、下から、山から、屋敷から轟いて、華奢な体躯は鞠のように跳ね上がった。
 立っていられず、両手は掴むものを求めて彷徨った。先ほどまで腰かけていた縁側にしがみついて、縦に、横に、揺れて、歪む屋敷に騒然となった。
「なんだ、なんだあ。何が起きてるんだ!?」
「うわああん、怖いですうううう」
 建屋の中にいた刀たちも、異常を察して飛び出して来た。各々両目をカッと見開いて、或いは頭を抱えて小さくなって、止まない地鳴りに肝を冷やした。
 右に、左に傾いて、屋敷ごとひっくり返るのではと恐怖した。天井から埃がパラパラ落ちて、どこかで屋根瓦が滑る音がした。つっかえ棒などしていない家具が横にずれ動き、或いは倒れる。運悪く下敷きになった刀を、他の刀が懸命に助け出していた。
 台所からは野太い悲鳴がしたが、誰が発したものかは分からない。
 突き上げるような衝撃は十秒近く続き、ゆっくりと薄れていった。徐々に落ち着いていく揺れに瞬きを連発させて、軒先で蹲っていた少年は爆音を奏でる鼓動に生唾を飲み、冷や汗を流した。
「いったい、なにが」
「小夜、大丈夫か?」
 足元から抉られるような地震は、本丸に来てからは初めての経験だ。時の政府が用意した空間は強固な結界で囲われており、天変地異とは無縁だと、無意識のうちに思い込んでいた。
 そうではなかったと絶句して、駆け寄ってきた厚藤四郎に頷いて返した。その後ろには、泣きじゃくる五虎退を宥める信濃藤四郎の姿があった。
 秋田藤四郎に抱きつかれた後藤藤四郎の顔は真っ青で、後ろに隠れている平野藤四郎はカタカタ震えていた。乱藤四郎は腰が抜けたのか、廊下にへたり込んでいた。
 僅かに遅れて骨喰藤四郎や、蜂須賀虎徹たちが現れた。大倶利伽羅や、獅子王たちの姿もあった。
 共通するのは、いずれも呆然として、言葉も出ないでいることだ。
 誰もが事態を正しく飲みこめないまま立ち尽くし、二度目の激震に備えて屋外で時を待った。
 その中に、先ほどまでここにいた刀は見当たらない。
「歌仙は?」
「うわあああああ!」
「なんだってんだ、今度は!」
 ハッとして、小夜左文字は身体ごと振り返った。そこに絹を裂くような甲高い悲鳴が突き抜けて、庭に出ていた刀たちは騒然となった。
 またもや異常事態かと警戒し、各自身構えて周囲を窺った。その中で小夜左文字だけは、とある一点に注視して凍り付いた。
 何が起きているのか、全く理解出来ない。およそ有り得ない事態に絶句して、立ち上がることすら出来なかった。
 彼に遅れて数秒後、蜂須賀虎徹が真っ先にその存在に気が付いた。どことなく見覚えがあるようで、知らない短刀がいると遠くを指差し、居合わせた大勢が一斉にそちらを見た。
 向こうもまた、助けを求める顔で居並ぶ仲間を見た。
 距離があるのに目が合った気がした。全身の産毛をぶわっと逆立てて、小夜左文字は歌仙兼定らしき存在に竦み上がった。
「ちょっと、これ。どういうこと……?」
 その隣には、太郎太刀らしき存在もある。
 だがにわかには信じ難い状態になっており、誰もが目を疑った。訳が分からないと混乱して、地震のことなど頭から吹き飛びそうになった矢先だった。
「なんや、あんたら。どないゆうこっちゃ。蛍が、愛染が、こない縮んでしもうたんやけど!」
「みなさん、大変です。ソハヤさんが。ソハヤさんが、ちっちゃく!」
「あの、変なんです。どうしましょう。大典太さんが、子供になってしまいました」
「みなさーん、びっくりですよー。いしきりまるが、あかちゃんになっちゃいました」
「てーへんだ、お前ら。次郎の奴が、地震が終わったと思ったら、こんな大きさになってやがった」
 ドスドスドス、と各方面から足音が五月蠅く轟いた。別の場所にいた刀剣男士が、素っ頓狂な声を上げ、顔面蒼白のまま駆けて来た。
 明石国行は蛍丸と、愛染国俊らしき赤ん坊を抱きかかえて。
 物吉貞宗は金髪の少年の手を引き、前田藤四郎は顔色の悪い少年を背負っていた。今剣は足の遅い少年を連れて飛び跳ねて、日本号は酒瓶を抱く髪の長い子供を引き連れていた。
 そして屋敷の南方に広がる庭の一画には。
「ううう、なんなんだ。なんなんだ、これは!」
「これは奇妙な。霊力が、私の身体から失われている」
 混乱に陥った少年が喚き散らし、小さな掌をじっと見つめた少年がひとり嘯く。
「え?」
 その背丈は、小夜左文字よりも少し高いくらい。大勢いる短刀の平均ほどであり、脇差にはぎりぎり届かない大きさだった。
 体格は縮んでも、身に着けていたものはそのままだ。歌仙兼定、太郎太刀が着けていた袴は地面に落ちて、胴衣の裾が膝の辺りを覆っていた。紅白の襷はずりおちて、太郎太刀の腕を覆っていた布も、手首付近で弛んでいた。
 誰も彼もがぽかんとして、目を丸くする以外なにも出来ない。
「どうやら、なにかあったようだねえ」
 今剣と似た背丈に縮んだ石切丸だけが、のほほんとした調子を崩さず、緊張感のないことを言った。

 しゅるり、と細長い帯を両手に頂き、小夜左文字は小さく溜め息を吐いた。
 そうと悟られぬよう肩を竦め、目の前で棒立ちになっている少年の腰に、手にした帯を添えた。二重に巻き付けて、腰骨の上辺りで蝶々結びに仕上げた。
 細心の注意を払ったが、右側の輪が少し大きくなった。けれど結び直すのも面倒と、そのまま放置した。
「むう……」
 藤色の髪を揺らして、幼い少年が両腕を広げた。肘よりは長いが、手首には届かない中途半端な袖の長さを確かめて、面白くなさそうに頬を膨らませた。
「本当に、僕ので良いんですか?」
 上に羽織った黒の直綴もまた、丈が短い。膝から上が丸出しで、筋肉質な太腿が露わになっていた。
 褌の上に白の股袴を着けているものの、こちらもぎりぎりだ。いくら背が縮んだといっても、骨まで細くなったわけではないようだった。
 下手に動けば縫い目から裂けそうな雰囲気に、見ていて複雑な気分になった。
 面白くないのはこちらだ、との不満は内側に隠して、小夜左文字は歌仙兼定に重ねて問うた。
 今現在、彼の背丈は四尺二寸ほど。そこにいる短刀より、ひと回り大きいといったところだった。
 本来の姿からだと、実に一尺以上縮んだ計算になる。当然彼が所持する着物は、どれもこれも裾余りだった。
 それで止む無く、本丸に暮らす他の刀の衣装を借りることになったのだけれど。
「ぐ、う……もう少し大きいのはないのか。お小夜」
「無茶を言わないでください」
 出来上がった姿を鏡に映して、想像よりも遥かに無理がある格好に、歌仙兼定は呻いた。苦虫を噛み潰したような顔をして、前を、後ろを、くるくる回りながら何度も確認した。
 小夜左文字は本丸でも際立って小柄で、華奢な体格をしている。その着衣を借りようという時点で、無謀なのは目に見えていた。
 いくら身長が削られたとはいえ、それでも短刀との差は半尺を越えている。
 分かり切った結果に抗議されて、小夜左文字は痛むこめかみに指を置いた。
「他の方々のように、粟田口の――厚藤四郎や、後藤藤四郎の服を借りれば良かったんです」
「なにを言うんだ、お小夜。僕があんな西洋かぶれ、着られるわけがないだろう。雅じゃない」
「なら今のあなたのその姿は、雅だというんですか」
「うぬううう」
 短刀と変わらぬ体格になってしまった打刀が駄々を捏ねるから、わざわざ持ってきてやったのだ。それで不満しか言われないのは、はっきり言って納得がいかなかった。
 着付けてやる前に、何度も確認した。まず間違いなく小さいから、止めておいた方が良い、と。
 それなのに歌仙兼定は、洋装など嫌だ、絶対に着ない、と言って譲らなかった。
 この本丸で、和装を基本とする短刀は小夜左文字と、今剣だけだ。粟田口の皆も、不動行光も、元主の好みが反映された洋装を基本としていた。
 脇差においては、浦島虎徹くらいしか該当しない。だがあの、地味に露出が多い格好も、歌仙兼定は嫌がった。
 そうなると、もうお手上げだ。どうすることも出来ない。この異常は一時的なものらしいので、万屋で寸法の合う新品を購入するのは、無駄な出費でしかなかった。
 正論で責められて、打刀は悔しそうに唇を噛んだ。反論出来なくて顔を真っ赤にして、足を高く掲げて地団太を踏んだ。
「破れます。止めてください」
 ただでさえ丈が合っていないのだ。下手な動きをされたら、ビリッと盛大に行きかねなかった。
 舞い上がった埃を払い除け、小夜左文字が鋭い目つきで叱った。
「うっ」
 途端に歌仙兼定はぴたりと停止して、浮かせていた右足を下ろした。
 普段ならなんだかんだではぐらかし、聞き入れようとしないくせに、珍しい。どうやら身長差が狭まったお陰で、短刀の眼力が届きやすくなっているようだった。
 睨まれてしょんぼり落ち込んで、歌仙兼定は縦長の姿見を覗きこんだ。
「どれくらい待てば、戻るんだい?」
「分かりません。ですが霊力が回復すれば、自然と直る、という話です」
 鏡面に浮かび上がるのは、心細さに震える幼い少年だ。頬の赤みはいつもより強く表れ、気の所為か眼も、元の姿より大きかった。
 外見が変わっただけで、内面の変化はないと聞かされていた。しかし見た目に引っ張られて、精神面も若干幼くなっている雰囲気は、他の刀にも見受けられた。
 彼らがこうなった原因は、無数に存在する本丸を維持する管理機能が、一時的に処理不全に陥ったからだ。
 これが長引けば、いくつかの本丸が消滅する、という事態になりかねなかった。その為、最悪の事態を回避すべく、時の政府は緊急措置を実行した。
 各本丸の霊刀から霊力を集め、欠損してしまった本丸維持に必要な霊力の代替えとした。勿論非常事態だったので、事前連絡がなければ、許可申請もなにもなかった。
 先に発生した地震は、維持管理機能が停止した際の障害だったようだ。
 今は全て復旧しているらしいが、そこに費やされた霊力は、すぐには戻ってこない。
 他の本丸でも、大騒ぎになっていることだろう。情景を想像して、小夜左文字は不運な打刀に目を細めた。
 本当なら、縮むのは大太刀や、大典太光世たちくらいだけ、という話だった。
 ところが歌仙兼定に加えて、愛染国俊まで小さくなってしまった。彼らはあの瞬間、大太刀と肩が触れるほどの距離にいたので、運悪く巻き込まれたのだ。
 地震の際に体勢を崩し、互いに支え合っていたのが、災いした。一気に赤ん坊ふた振りの父親になった明石国行は、大変そうであるけれど、どこか幸せそうだった。
 三条の皆も、小さくなった石切丸に構い倒し、案外楽しんでいる雰囲気だ。太郎太刀に次郎太刀は、滅多に見る機会のない低身長者の視線を面白がっていた。
 三池のふた振りも、世話をしてくれる刀がいるので、特に問題はなさそうだ。こちらも最初こそ戸惑っていたが、二度とない経験だと笑い、小さくなって過ごす日々を満喫している雰囲気だった。
 つまりは、許可なく縮められたのに怒っているのは、歌仙兼定ただひと振り。
「まったく。どうやればいち早く、霊力が回復するんだい」
「焦ったところで、なにも始まりません」
「そうは言うが、お小夜」
 正直あまり似合っているとは言い難い小坊主姿になって、彼は苛々と親指を噛んだ。行儀が悪い行為だが、気付いていないらしく、日頃の悠然さはすっかり失われていた。
 そういえば細川の屋敷で一緒だった頃も、ちょうどこんな感じだった。
 せっかちで、勘違いが多い付喪神だった。
 思い込んだら一直線で、融通が利かず、頑固だった。
 今もさほど変わっていないが、余裕があるか、ないかだけでも随分違う。
 このまま元に戻らなかったら、という不安が頭の隅にあるのだろう。苛立ちを隠さない打刀を観察しながら、小夜左文字はそんな事を考えた。
 恐らくは問題ないと思うのだが、時の政府側でどのような処置が取られたのかは、刀剣男士には一切分からない。
 あの地震が時間遡行軍の攻撃だったかどうかも判然としない中で、憶測だけで迂闊なことは言えなかった。
「失礼するぜ」
 落ち着いて欲しいのだが、かける言葉が思いつかなかった。
 困ってひとり眉を顰めていたら、閉めた襖の向こうから声が掛かった。
 と同時に、襖が勝手に開いた。入室の許しが得られていないのに、どうせ断られないと高を括って、敷居を跨いだのは和泉守兼定だった。
「げっ」
「おお!」
 長い黒髪を躍らせて、背高の打刀が目を輝かせた。それに対し、姿見前にいた少年は頬を引き攣らせて、露骨に嫌そうな顔をした。
 迫り来る巨人から逃げて、歌仙兼定が小夜左文字の背後に回った。座っている短刀の陰に隠れようとして、横からぬっと覗きこまれて悲鳴を上げた。
「なっ、なんだ。貴様」
「へええ。之定、まじで小さくなってやがる。うへえ、おっもしれ~」
 なんとか遠ざけようと腕を振るうが、狙ったところへ行かず、指は空を切った。
 背が縮んでいるのに、大きい頃の感覚で動かすから、そうなるのだ。腕自体が短くなっていると彼が気付くのはそのずっと後で、攻撃を軽々躱した男は愉快だと破顔一笑した。
 地震が起きた時、彼は畑にいた。その為、屋敷で起きた珍妙な事件を知らされた時にはもう、歌仙兼定は庭から部屋に引っ込んだ後だった。
 屋敷中の片付けを手伝って、ひと段落ついたので訪ねて来たらしい。
 和泉守兼定が開けっ放しにした襖の向こうには、他にも堀川国広、加州清光、大和守安定の姿まであった。
「うわあ、本当だ。歌仙さん、小さい」
「ちょっと、吃驚なんだけど。かわいすぎない?」
「すごい。歌仙さん、かっわい~~」
「可愛いと言うんじゃない!」
 図々しく部屋に入ってはこないが、室内を覗きこんでは黄色い歓声を上げた。当然言われ慣れていない打刀はぷんすか煙を噴いて、山姥切国広のような台詞を吐いた。
 耳の裏まで真っ赤にして、両手を振り回しながら怒鳴るけれど、迫力に欠けた。どこからどうみても可愛らしいのひと言に尽きて、やり取りを聞いていた小夜左文字は黙って肩を落とした。
 私室に避難するまでにも、色々な刀から散々同じように言われていた。
 皆、珍しいから面白がっているだけだ。いい加減諦めて、受け入れれば良いものを、矜持が傷つくのか、彼は絶対に認めようとしなかった。
「歌仙はいつも、可愛いです」
「お小夜!」
「おー、おー。之定じゃねえみたいだな」
 喧しいやり取りに呆れつつ、小夜左文字がぼそっと呟く。
 耳聡く聞き付けた少年が吠えたが、赤らんだ顔と、無駄に大袈裟な仕草が相俟って、他の表現が見つからなかった。
 和泉守兼は珍獣でも見る雰囲気で、膝を折ってしゃがみ、歌仙兼定と目線を揃えた。幼い顔をまじまじと眺めて、大きい頃だとやる機会がない悪戯を繰り出した。
 要はぷっくり丸い頬を、指で小突いたのだ。
「おお、やーらけえ」
 感嘆の声を上げ、嫌がる二代目和泉守兼定の打刀を高速で突く。
 仰け反って逃げても、やめて貰えない。同じ場所を繰り返し攻撃された少年は、元々不機嫌だった表情を更に剣呑なものに作り替えた。
 そして。
「いい加減に……しろ!」
「ぎゃあっ」
 ついに我慢の限界を迎えて、歌仙兼定は会津兼定の袖を引っ張った。長くて太い、男らしい腕に抱きついて、身体を捻り、素早く懐へと潜り込んだ。
 瞬間、大柄な男の身体がふわっと宙に浮いた。一秒後には畳に叩きつけられて、一度だけ跳ね上がり、すぐに沈んで動かなくなった。
 見事に決まった一本背負いに、見守っていた小夜左文字も、他の刀たちも騒然となった。
 しかもこれだけでは終わらない。
「万死に値する!」
 仰向けでぴくぴく痙攣していた男目掛けて、歌仙兼定が跳び上がった。腕を畳んで右肘を槍に変え、全体重をかけて突き刺した。
「ぐほおっ」
 肋骨を避け、臍の辺りを狙ったところが、なんとも恐ろしい。
 内臓を直撃した一打に悶絶して、和泉守兼定は白目を剥いて泡を吹いた。
 歌仙兼定がもし本来の大きさだったなら、彼は折れていたかもしれない。まさに不幸中の幸いであるが、意識を飛ばした男にとっては、あまり大差なかった。
 蟹と化している相棒に苦笑して、堀川国広が代わりに頭を下げた。
「ごめんなさい、歌仙さん。兼さん、調子に乗り過ぎちゃったみたいで」
「次は首を差し出してもらうと、伝えてくれ」
「分かりました。ちゃんと、きつく言い聞かせておきます」
 些かやり過ぎではあるが、元は和泉守兼定が撒いた種だ。因果応報と謝る気はない打刀に両手を合わせて、脇差の少年は深く頷いた。
 幾分青褪めている加州清光と協力し合い、気を失っている打刀を肩に担いで部屋を出ていく。最後に残った大和守安定もそれに続くかと思いきや、彼だけは動かなかった。
「あのさ、歌仙さん。これ、僕が前に万屋で買った着物なんだけど」
「うん?」
 小さかろうと、なかろうと、歌仙兼定は凶暴だ。
 力技でなんとかしようとする悪癖は、一切変わっていなかった。
 肩で息を整えている少年を、どう宥めてやろうか考えていた。不意に始まった会話に背筋を伸ばして、小夜左文字は大和守安定が差し出したものに眉を顰めた。
 歌仙兼定も興味を示し、首を伸ばした。良く見えない、と身体を右に、左に揺らして、背伸びまでして覗きこんだ。
 それは青みがかった、緑色の長着だった。
 上には焦げ茶色の帯が、購入した時そのままの状態で重ねられていた。
「これは?」
「内番着が汚れた時、代わりに着ようと思ってたんだけど。なんだかんだで、使わないまま箪笥の肥やしになってたの、思い出して」
 言いながら、彼は着物を広げた。肩の部分を持って裾を垂らし、自分の身体に重ねあわせた。
 目立った柄はなく、どちらかといえば地味だ。汚れても惜しくないように選んだと言われれば、納得の品だった。
 既に仕立てられており、随所に仮縫いの糸が残っていた。ただ彼が縫ったとは思えないので、恐らく堀川国広にでも頼んで、寸法を合わせて貰ったのだろう。
 だが彼の背丈だと、現状の歌仙兼定では裾も、袖も、余ってしまう。
 怪訝に眉を顰めた短刀に、あちらも同じことを考えたようだ。
「丈は、仕立て直してくれていいよ。どうせ置いておいても、着ないだろから、歌仙さんにあげる。面倒なら切っちゃってくれて構わないよ」
「いいのかい」
「そんなに高いものじゃないし。それに歌仙さん、そのままじゃ困るでしょ」
「ううっ」
 朗らかに笑って、大和守安定は広げたそれを雑に畳んだ。苦々しい顔をした打刀にはい、と差し出して、受け渡しを終えて目尻を下げた。
 後ろから突き刺さる冷たい眼差しに、歌仙兼定の顔は赤を通り越して青くなっていた。
 あれだけ要らぬ動きはするな、と釘を刺されていたのに、言いつけを破った。勢い任せに和泉守兼定を投げ飛ばした時、彼が身に着けた僧衣は、あっさり限界を突破した。
 今や彼は、短刀以上に襤褸布を纏った状態だった。
 直綴だけでなく、下に着込んだ白衣の脇までぱっくり裂けていた。股袴も尻の部分が破れ、桃色の肌が覗いていた。
 とてもではないが、こんな格好で外を出歩けない。
「感謝する。代価は、いくらだろうか」
 思いがけない好意に礼を述べて、歌仙兼定は神妙に頭を下げた。恐縮しながら問うて、顔の前で手を振られて困惑に目を泳がせた。
「いいよ、お金は。僕としても、箪笥が空くから助かるわけだし。それに、歌仙さんは……」
「すまない!」
 呵々と言って、大和守安定が小夜左文字の後方を見る。
 直後に声を張り上げて、暫定で本丸一小柄な打刀は深々と腰を折った。
 地震の余波で、彼の部屋もぐちゃぐちゃだった。簡単に片付けて、寝床を作る場所だけは確保したが、倒れた棚に飾られていた茶器や、花器は見るも無残な有様だった。
 これらの補填が、時の政府側からなされるかどうかは、分からない。問い合わせているが、快い返事が来ると期待しない方が良さそうだった。
 まさに泣きっ面に蜂。
 今後買い直すことを考えると、少しでも出費は控えたい。そんな中での申し出は、闇の中に射したひと筋の光明だった。
「良かったですね」
 大和守安定の善意に表情を和らげ、歌仙兼定が嬉しそうに笑った。
「ああ。まさに捨てる神あれば、拾う神あり、だ」
 和泉守兼定のような訪問者は二度と御免だが、こういう来訪は、大歓迎だ。
 行儀よく一礼して部屋を辞し、襖もきちんと閉めていった打刀を思い浮かべて、彼は鼻息を荒くした。
 早速着丈を測るべく、小夜左文字から借りた分を脱ぎ捨てた。虫食いの箇所がないか調べつつ袖を通して、床に擦った分は抓んで吊り上げた。
 色味は、悪くなかった。歌仙兼定の髪色に良く映えて、申し分なかった。
「なかなか、見どころがある」
 雅か、そうでないかの判断が厳しい自称文系も、無事気に入ったようだ。
 布地自体にはなんら問題なく、後は丈を詰めるだけ。裾を手放し、くるりと回って、彼は満足げに頬を紅潮させた。
 袖口からは指先が覗く程度で、褌一丁で羽織っている点を除けば、どこぞの姫君のようでもあった。
 但しそれを言えば、烈火の如く怒り出すだろう。ならば触れずに済ませる以外に道はなく、小夜左文字は喉まで出かかった感想を飲みこんだ。
「襦袢も、用意しないといけませんね」
「だったら、僕のものを詰めよう。一枚くらいなら、支障ないさ」
「そうですね」
 代わりに残る課題を口にして、行李を指差した打刀に首肯した。蓋を持ち上げ、一枚取り出して、着せてやるべく布を広げた。
 折り畳まれていたものを伸ばし、なにも言われていないのに長着を脱いだ少年の肩に掛けてやる。
「……ふむ」
「歌仙?」
 衿の位置を見ようと前を合わせていたら、されるがままになっていた歌仙兼定が不意に真顔になった。
 真っ直ぐな目で見つめられて、どうにも居心地が悪い。彼が縮んでくれたおかげでいつも以上に顔が近くて、屈まれてもないのに吐息が届きそうだった。
 出来れば手元に集中したいのに、じろじろ見られて落ち着かなかった。身を捩って抗議しても通じず、打刀の視線は小夜左文字に固定された。
 仕方なく目と目を合わせれば、凛々しかった表情が急に和らいだ。
「うん」
「なんですか、歌仙」
「いや。お小夜の顔をこうやって近くから眺められるのなら、この体格も、案外悪くはないかな、とね」
 ひとり納得している彼に、嫌な予感が膨らんだ。警戒して及び腰になった短刀に、打刀はカラカラと声を響かせた。
 不満しかなかったが、良い点があった。
 初めて嬉しそうな顔をした彼に、小夜左文字は呆気にとられて目を丸くした。
 白の薄絹一枚羽織った少年は、短刀より頭ひとつ分大きい。けれど打刀としての本来の姿に比べれば、視線の高さは圧倒的に近かった。
 いつもは遠い顔が、今日はよく見える。
 記憶にあるより幼い笑顔が目の前にあって、面白いというよりも、変な感じだった。
 小夜左文字自身、この感覚は慣れない。これまではドタバタしていたのもあり、あまり意識せずに済んだけれど、諸々落ち着き始めた途端、尻がむず痒くてならなかった。
「確かに、首が疲れなくて済むので、助かります」
 だがそれを正直に言うのは、癪だった。
 咄嗟に口を突いて出た皮肉に、歌仙兼定は右の眉を持ち上げたが、特になにも言わなかった。
 一瞬だけ視線を上向かせて、なにかを考え込んだ後、ふむ、と鼻から息を吐く。それが元の体格では正面に来る衣紋掛けの高さを確認していたと、小夜左文字は後になって気が付いた。
「仕立て終わるまで、どうしますか」
 一旦途切れた会話を繋ぎ、短刀は床に沈んでいた着物を拾った。皺にならないよう袖を合わせて畳んで、首を捻った。
 寸法に合った着物が出来上がるまで、彼は着るものがない。頼みの綱だった小夜左文字の着物も、早々に破いてしまっていた。
 裸で過ごすのは雅ではないと、彼はきっと言うだろう。ならば、と訊ねた彼に、歌仙兼定はあっさり答えた。
「部屋で大人しくしているよ。お小夜、頼めるかい?」
 出歩いて笑いの種にされるくらいなら、多少窮屈でも、部屋で静かに過ごしたい。
 割れてしまった陶器と、無事だった茶器の選別作業も、まだまだ残っている。やることは沢山だと笑って、彼は襦袢を脱ぐと、代わりにいつもの内番着を羽織った。
 白の胴衣は、臑まですっぽり覆ってくれた。その前を合わせ、大和守安定が残していった帯を締めて、歌仙兼定は手早く一時しのぎの衣装を完成させた。
 これでも充分見栄えがするが、本人は気に入らないらしい。
 なんと贅沢なことか、と苦笑して、小夜左文字は差し出された襦袢を手に取った。
 柔らかく、上質な生地を掴み、軽く引っ張る。
「歌仙?」
 だが打刀はこれを手放さず、ぎゅっと握り続けた。
 綱引きになってしまい、このままでは破れてしまう。慌てて力を緩めた短刀は、こちらの顔をじろじろ見てくる少年に、不快感を露わにした。
 仕立て直すには、まず糸を解かなければいけない。何枚もの布を組み合わせて作られたそれを分解して、再度縫い合わせる必要があった。
 道具は、この部屋にはない。裁縫を趣味にしている刀を訪ねて、借りて来なければならなかった。
 時間が惜しかった。
 他の誰より急いでいるだろう相手に引き留められて、小夜左文字の顔が険しくなる。
「――!」
 それを待っていたかのように、打刀が首を右に傾けた。
 ちゅ、と唇に唇が触れた。身を屈めずとも楽に触れられるのを実証して、突然の暴挙に戦く短刀にしたり顔を作った。
「うん、なるほどね。良い感じだ」
「歌仙!」
 もしや彼は、こんなことをずっと考えていたのだろうか。
 小夜左文字が親身になって彼の身を案じている間も、縮まった短刀との身長差の使い道を、真剣に思案していたというのか。
 これまでは、どうやっても打刀がしゃがまなければ出来なかったことだ。膝を折り、視線の高さを揃える前準備が欠かせなかった。
 それが今回の騒動のお陰で、しなくて済むようになった。これまでは歌仙兼定が座っている時しか出来なかった不意打ちが、いとも容易く仕掛けられるようになった。
 朗報だと、打刀は顔を綻ばせた。先ほどまであんなに怒っていたのが嘘のように、小さくなった体格を受け入れてしまった。
「それでいいんですか、歌仙は」
 しかもその理由が、小夜左文字との距離が近くなったから、というもの。
 あまりにも短絡的すぎると呆れて、彼は二コニコしている打刀に肩を落とした。
「仕方がないだろう。いつ戻れるか分からないんだ。だったら、今の状況を楽しまないと、勿体ない」
「なら、別に着物の丈を詰めなくても」
「おっと。それは別問題だ」
 完全に開き直っており、歌仙兼定は尊大に胸を張った。洋装については改めて拒んで、面倒臭がった短刀に釘を刺した。
 それに大和守安定の善意を、無駄にするわけにはいかない。
 着物を持ってきてくれた打刀の名前を出されて、小夜左文字は渋々頷いた。
「分かりました」
「さすがは、お小夜。助かるよ」
「んん!」
 意外に適応力が高かった少年にため息を吐いていたら、賞賛されると同時にまた唇を奪われた。下から掬い取るように触れられて、予想していなかった短刀は目を白黒させた。
 長い睫毛が、かつてないほどはっきり見えた。
 離れて行く間際に吐息を浴びせられて、掠めた場所からじわじわ熱が湧き起こった。
 俯いていたのに、くちづけられた。
 これまで彼が寝転んでいる時でもないと、下からの口吸いはされたことがなかったのに。
「これはいい。ああ、とてもいい」
「歌仙!」
「お小夜はどうだい? 首を傾けずとも済んで、楽だろう?」
 先ほどの台詞を揶揄して、揚げ足を取られた。意地悪く笑って口角を持ち上げた彼に、小夜左文字は絶句して、なにも言い返せなかった。
 その後も調子に乗って、彼はちゅ、ちゅ、と繰り返し唇を吸いに来た。短刀が嫌がって後ろに逃げても追いかけて、肩を掴もうとして跳ね返された後は、頬や耳朶に狙いを変えた。
「ちょ、歌仙。やめてくだ、さ、あぶ、危な、あっ」
 後退してもついてきて、そろそろ逃げ場所がない。
 壁際へと追い込まれそうになった短刀は竦み上がり、抱えていた長着の裾を踏みつけた。
 柔らかな布と、丁寧に編まれた藺草の二重奏により、軽い体躯は呆気なく滑り、天を向いた。
「お小夜」
 咄嗟に身を引いて巻き込み事故を回避した打刀が、突如視界から消えた少年に総毛立った。
 藍色の髪の毛だけが下の方に少しだけ見えるのが、半日すら経っていないのに既に懐かしかった。
 派手に尻餅をついて、小夜左文字は膝の間に若葉色の長着を挟んだ。足元では白い襦袢が扇状に広がっており、花畑に座り込んでいるようでもあった。
 内股になって顔を真っ赤にしている少年が愛おしくて、歌仙兼定はふっ、と微笑んだ。
 身体が縮んでしまったのはやはり面白くないが、こういう状態の小夜左文字を、至近距離から眺めるのは楽しかった。
「悪くない、な」
 他の刀たちから「可愛い」を連呼されるのは癪だけれど、和泉守兼定を懲らしめた件が知れ渡れば、茶化してくる連中は減るだろう。
 この体格での楽しみ方を学んで、彼は満足げに顎を撫でた。
 一方で短刀はといえば、荒い息を吐き、口惜し気に唇を噛んだ。
「おや?」
 そうして持っていたものを投げ捨てると、やおら打刀に抱きついた。
 腰を畳に沈め、しゃがんだままだった。両膝で、今度は歌仙兼定の足を挟んで、腿の辺りに腕を回してしがみついた。
 顔は、臍より若干下に来た。兵児帯に鼻を埋めて目を閉じて、ぴくりとも動かなかった。
「お小夜、どうしたんだい。お小夜?」
 呼びかけても、返事はない。真ん丸い頭ではなく、余裕で届く肩を掴んで揺さぶっても、結果は同じだった。
 困惑して、歌仙兼定は眉を顰めた。怪訝に首を捻り、肩ではなく、藍色の髪をとん、と叩いた。
 馴染みのある感触と、普段とは異なる肘の角度の違和感は凄まじかった。
「お小夜、顔を見せてはくれないのかい」
 顔を伏した少年の耳は赤かった。呼びかける度に背に回った手がピクリと動いて、間違っても眠っているわけではなさそうだった。
 触れられるのが嫌なら、抱きつくような真似はしないはずだ。ならばなぜ、と考えて、歌仙兼定は頻りに首を捻った。
「……て、……さい……」
「うん?」
 その時、掠れる小声が響いた。殆ど音になっておらず、一部しか聞き取れなくて、打刀は目を丸くして胸元を窺った。
 小夜左文字の頭の位置は、奇しくも彼が大きかった頃、双方が立っている時にぎりぎり届く場所だった。
 今は身長差が縮まっているけれど、こうして短刀が座れば、再現は可能だ。
 昨日までとはまるで違う体勢ながら、お互い、こちらの方が不思議と落ち着いた。歌仙兼定は繰り返し短刀の頭を撫でて、様子を窺い、時を待った。
 耳を澄ませば、どこかで誰かの笑い声がした。木々が風に踊り、ざわめきが通り過ぎていった。
「はやく、元に……戻ってください」
 視線を遠くに投げた打刀を知ってか、知らずか、小夜左文字が呻くように呟いた。
「でないと、僕の、心臓が……もちません」
 精悍さと幼さが混じった笑顔が、予想以上に近いところにあった。
 首を傾けて見上げなくても済む高さに、ついつい見惚れてしまう顔があるのだ。
 身長差は、防波堤だった。それが失われた今、小夜左文字は押し寄せる波に翻弄され、溺れる一方だった。
 耐えられそうにない。
 正直に真情を吐露した少年に目を丸くし、直後に破顔一笑して。
「なら、もうしばらくこのままで過ごそうかな」
 今日一番の表情を浮かべて、歌仙兼定は嬉しそうに言った。

恋しきを戯れられしそのかみの いはけなかりし折の心は
聞書集 174

2017/07/02 脱稿