幸せについて本気出して考えてみた

 いつの間にか慣れてしまった空間で、沈黙を破るテレビのスイッチを入れる。
 日が長くなったとは言え、この時間帯では外も暗さを増している。街中なので光が途絶え暗やみに沈むことは無いとは言え、心細く灯る街灯だけの道をひとりで行くのは寂しいと感じさせてくれる。
 そんな時間に、家にも帰らず他者の敷居を跨いでのうのうと、テレビを見つめる。しかも膝の上に抱き込んで両腕で挟み込み、顎を預けてくつろぎたい所為を整えるのに使用されているのはこの家の住人が愛用しているオレンジ色のクッションだ。楕円形のそれは丁度立てれば、膝の上から背を伸ばしても顎を置いて疲れない大きさをしている。
 テレビから流れ出す少し騒々しい歓声を聞きながら、ブラウン管に見入る。画面上ではバッターボックスに立つ選手がズームアップで映し出されており、彼はバッドの構えに入るところだった。
 実況中継が入り、その選手のコメントに続き今まさにセットアップに入った投手の説明に入った。解説役の元プロ選手へコメントを仰いでいるうちに、画面では投手がキャッチャーミット目掛けて硬球を投げ放つ。
 さすがに“ズドン”とは言わなかったが、かなり良い感じで球はスピードに乗っていた。素人目にもそう映ったのだから、バッターボックスに立つ選手にはもっと良い感じで映ったことだろう。現に実況も、そんな感じのコメントをやかましく早口に捲し立てていた。
 今日のこの投手は中五日であり、良い具合に調子も上がってきている。おまけに後方支援もばっちりであり、曰く。
 今日は負ける理由がないひとつない、と。
 それは褒めすぎだろう、とクッションに顎を沈めながら聞いていると右頬にひんやりとしたものが触れた。
「んあ?」
 顔を上げて視線を持ち上げると、後方から前方へ回り込んできたそいつが氷の入った麦茶のグラスを差し出した。しかも無言で。
「サンキュー」
 軽い調子で礼を言って受け取り、冷たい水滴をグラスいっぱいに滴らせている麦茶をひとくち喉に押し流す。かなりひんやりとした感覚が口の中から胃の中へ流れ落ちていき、アイスを食べたときのようなきーんとした感じが脳天を刺激する。
 けれどこの冷たさが、放課後の部活を終えて疲れ、火照っていた身体にはちょうど良い具合だ。
「面白いか」
 斜め向かいのソファに腰を下ろしたそいつが、俺の見ていた画面を自分も眺めて呟く。ブラウン管の中では、直球勝負で三振を取った投手が小さくガッツポーズを作る光景を映し出していた。どうやらまだ五回表であるに関わらず、三振の数がこれで八を数えるらしい。頭の中で、最終的には片手も使って計算する俺に、横から、
「十五人中、八人だ」
 手厳しいツッコミが入り、それくらい俺だって分かるっての、と本当は計算が終了していなかった事実を隠して俺は舌を出した。そのまま水滴で濡れた右手を傾け、グラスの麦茶を煽る。
 ごくり、と喉が大きく上下した。
「おばさんは?」
「同窓会」
「ふーん」
 リビングを見回して尋ねるが、単語だけの返事に折角広げようとした会話はそこで終了。新しい話題を振る気分にもなれず、俺はグラスを両手に持ったままやや前傾姿勢になってソファの上からテレビを見つめた。
 スリーアウトチェンジの後に挟まれたCMが終了して、五回裏の攻撃が始まろうとしていた。そして先頭打者が第一球をセンター前に弾き返す。
 効果音を附属させたら「カキーン」となるだろう、見ていてもナイスバッティング、と唸りたくなるような腰の回転と巧く球をバッドに合わせた打ち方を、解説者が頻りに褒め称えている。思わず解説の言葉ひとつに頷いてしまい、俺はふと、視線を感じて斜め前を見た。
「なんだよ」
「面白いのか」
 野球をやる者として、プロ野球を観戦して(テレビだけど)何が悪いのか、とこちらの方が聞きたくなった。それくらいに興味なさそうに、テレビではなく俺の方ばかりを見ているそいつに首を捻り、俺はとりあえず頷いておいた。
 本当は、あまり興味がなかった。けれど参考になるプレイもあるからと、先輩方に強く勧められて最近は見るようになった。御陰でバラエティが見られなくなってしまったけれど、確かに野球が分かるようになれば見ているとそこそこ、プロ野球も面白い。外野スタンドで応援機を振り回している人の気分も、少し分かるようになった。
 多分俺は、そこまで熱中出来ないだろうけれど……。
 俺は初心者で、野球は素人だけれど、でもこいつはそうじゃない。だからプロ野球は試合があれば必ず見ているだろうと今まで思っていたのに、違うのだろうか。首を傾げている俺に、そいつは見られてることに気まずさを覚えたのか視線を逸らす。
 なんだよ、一体。
 俺はグラスの氷が溶け始めた麦茶をふたくち喉に流した。画面はいつの間にか、ワンアウトだけれど一、三塁とチャンスが巡っていた。マウンドのピッチャーは紺色の帽子を被り直し、深呼吸を繰り返している。
 ベンチの動く気配はありませんね、と実況が誰に言うとも無しに呟く。打順は、タイミング良く四番打者に巡ってきていた。
「面白いのか?」
「当たり前だろ」
 緊張の一瞬である、ここで勝負が決まるかも知れない。今守備についているチームは再三ピンチを迎えてきていたものの、悉く凌いできたのだ。今日三度目のピンチを無失点で抑えられるか否かで、今日の勝敗の行く末が決定されかねない状況である。
 思わずグラスを持つ手に力が籠もる俺を尻目に、あいつは涼しい顔をして俺から画面へ視線を移した。
 直球、球速は138キロを記録した球が直後に打ち返された。球は高く上がり、センターが落下地点へと走る。三塁走者がタッチアップ体勢に入るのが画面左端に、小さく映し出された。
「行け!」
 つい叫んでしまった俺の前で、まるで俺の声を合図にしたかのようにセンターがフライをキャッチ、そして三塁走者が駆け出す。センターからの返球はショートでカットされるだけだった。一塁走者はそのまま塁に釘付けにされたけれど、一点が奪われて均衡が崩れた。
「よっしゃ!」
 また短く俺は叫んだ。
「面白いのか?」
 また、問われる。いい加減にしつこいと睨みを利かせた俺に、しかしこいつは平然と受け流して、それから画面を指さして言った。
「お前、今負けてる方のファンじゃなかったのか」
「あ」
 指摘されてから気付き、俺は顎を外しそうな間抜けな顔を作った。ぷっ、とそれを見てあいつが笑う。
「バカじゃねーの?」
「うっせぇよ!」
 恥ずかしさを紛らわせようとして大声で叫び、俺は麦茶をグラスに残っていた分、一気に飲み干した。氷の隙間に残った茶以外は胃に押し流し、乱暴にソファ前のテーブルにグラスを置く。
 力任せの動作に家主のあいつは渋い顔をしたけれど、それ以上は何も言わなかった。単にまだ笑っていて、喋るのが辛かっただけかもしれないけれど。
「ちぇ」
 舌打ちし、俺は膝の上に頬杖を付いてまた画面に見入る。
 一点が加わった後の打者は内野ゴロで凡退し、六回表に入る前にまたCMが挟まれる。乗用車のCMにビールのCM、生命保険と続き、ようやく野球場の近影が映し出された。
 マウンドでは、目深に帽子を被った投手が一点貰い、さっきよりも更に落ちついた調子でボールを手で扱っていた。打者がバッターボックスに入り、構える。
 今日はいくつの奪三振記録を作るだろう、と実況がやや興奮気味に喋る前で、カーブが投げ込まれた。打者のバッドは虚しく空を切り、ストライクが宣告された。
「あ~、畜生」
 自分が今攻撃に入っているチームの応援者だと言うことを思い出してからは、俺はなるべく打者に打て、打て、と心の中で願うように心がけた。
 しかしそれ以上に、今投げている奴が格好良いのだ、とにかく。
 まだプロになってから二年目か三年目かだとさっき実況が言っていた。高卒でプロ入りしたらしいから、まだ二十歳そこそこなのに自分の倍以上をプロで過ごしている選手から、ばんばん三振を奪っている。
 これを格好良いと思わずして、どう思うのか。
 結局いつの間にかピッチャーを応援してしまっている俺は、自分の中で、チームとして応援してるんじゃなくてこの投手個人を応援しているだけだ、と折り合いをつけて素直に声援を送ることにした。しかし途端に、あいつがソファの上でふてくされたような顔をしてそっぽを向いた。
 空になったグラスの中で氷が溶け、カラン、と音を立てた。
「犬飼?」
 あまりに不自然なあいつの態度に、俺は首を捻って名前を呼んだ。俺の分と自分の分、麦茶のグラスはテーブルにふたつ並んでいるのにあいつの分は、ちっとも嵩が減っていない。氷が溶けてかなり水っぽくなってしまっているそれに目をやって、俺は手を伸ばした。
「貰うぜ?」
 飲む気がないのなら、と問いかけるが返事はなかった。仕方なく無返事を了承の意味と受け止め、俺はテーブルの上でグラスを動かす。水滴がテーブルの透明な板の上に散りばめられる。
 テレビ上からわっという歓声が上がり、直後に実況の本日九個目の三振、と鼻息混じりのコメントが寄せられた。解説者もひたすら、凄いですねと繰り返している。
「凄いよな」
 俺もつい、グラスを手で遊ばせながら呟いた。
 あいつの眉間に皺が寄る。それを見て、漸く、なんとなくだけれど、あいつの不機嫌の理由が分かった気がした。
 もしかしたら、と思って俺はカマを掛けるつもりで更にことばを重ねてみた。テレビを見ているような素振りで、実のところはあいつを観察しながら。
「このピッチャー、まだ若いのにもうエース級なんだってさ」
 ぴくり、とあいつの片眉が持ちあがった。
「他にもベテランは沢山居るのに、それを押しのけての登板なんだろ?」
 ぴくぴくと、あいつの顔が不機嫌さに拍車をかけて歪んでいく。
「しかも高校からいきなりプロ入りで連続開幕一軍なんだろう? カッコイイよな、さすがだよな」
 ぴくぴく、ぴく。
 腕組みをして必死に抑え込もうとしているのが、見ている方にも嫌というくらい伝わってくる。痩せ我慢は得意じゃないクセに、いじらしいというか莫迦らしいというか。
 俺は含み笑いをして、トドメのヒトコトを口に出した。少し言い過ぎだろうかとは思ったけれど、別に、構わないし。
 これしきでダメになるような奴なんかには、興味ないし、俺。
「誰かサンとは、大違いだな」
 ふっ、とテレビ画面はまだ着いたままで実況も忙しなく続いているはずなのに、空間から音が消えた気がした。勿論俺の錯覚だろうけれど、一瞬にしてこの場の雰囲気が変化した事には違いない。
 あいつがやや剣呑な顔をして俺を見た。
「なんだって……?」
「別にお前のことだなんて、俺はヒトコトも言ってないぜ?」
 にやりと笑い、俺はグラスの中の氷を揺らした。カラカラと音を立てるそれは、まるで俺の代わりに笑っているようでもあった。
 不機嫌さに輪をかけたあいつが俺を睨む。しかし言われて直ぐに自分のことだと了解したあいつは、その分少しは自覚しているのだろう。
 上級生を押しのけてまで十二支高校の野球部でエースナンバーを取れないでいる自分の、何が足りないのか。
「じゃ、お前はこのピッチャーよりも凄いのか?」
 怒る前に、身の程を知れと俺は笑いながら、けれど目は笑わずに言ってやった。ソファから腰を浮かせて立ち上がろうとしていたあいつは、けれど数秒後考え直したらしく再びクッションに背中を預ける。
 返事はなく、俺は重ねてもう一度問いかけてやった。意地悪だろうか?
「お前は、この人より凄いピッチャーなのか?」
 高校野球の部内エースにもなれない奴が、プロの舞台で活躍している人よりも凄いはずは、絶対に無い。けれど、でも、否定して見せろよ。心の中で俺は呟いている。俺は絶対に、誰も文句の言えないような投手になるんだと、言ってのけてみせろよ。
 そういしたら、少しは見直してやるよ、お前のこと。
 あいつはふーっと、長く息を吐きだした。気怠そうに腕を持ち上げ、前髪を掻き上げる。
 銀色の髪の毛が、浅黒い肌の上をはらはらと舞い散っていった。なんだよ、こんな時にカッコつけてどうするよ。
 俺しか見てないんだぜ?
 テレビ画面の野球中継は、いつの間にか七回の表に入っていた。未だに得点は動かず、最小点差でゲームは続いている。奪三振記録も、着々と積み重ねられているらしい。
 一点差なんて、ホームランが出れば簡単に追いつける、もしくは逆転できる点差だ。けれどその一点をもぎ取ろうとして、ベテラン選手が悉く若手投手に翻弄されている。
 確かにうちの野球部の上級生は凄い、みんな個性があって特徴があって、天性の才能以外でもちゃんと練習を重ねて努力している。だから俺も負けていられないと思わされてやる気になれる。
 でもそれ以上に、同じ学年のみんなが俺よりも頑張って、レギュラーポジション奪取を目指して練習しているから。俺だけ置いて行かれるなんていう格好悪くて情けない事だけは御免だと、躍起にもなる。
 なあ、俺にもっと夢見させてくれよ。
 俺のやる気に火をつけてみせろよ。
 言えよ、お前の言葉で。お前の口から、負けないって、言ってみせろよ。それを実現させるだけの力を見せてくれよ。
 俺の、目の前で。
 あいつは溜息を零した。さっきよりも深くて長い溜息だった。
「バカ猿」
「んだとぉ!?」
 俺の叫びが画面中の打者の、セカンドフライに終わる音と重なり合う。場内の観客が一斉に諦めに似た吐息を漏らす中で、あいつはいやらしくも、不遜な態度で笑いやがった。
「俺を誰だと思ってんだ?」
「犬っころだろ」
「言ってろ、猿」
 即座に切り返した俺の言葉を鼻で笑い飛ばし、あいつは口元を歪めて顎を上げ、尊大な態度で俺を見下ろした。悔しいが、座っていても座高のある分あいつの方が、俺よりも遙かにでかい。
「俺はいずれ、世界を制してやるさ」
「ほー。……言ってろ、バカ」
 自分を親指で指し示して言ってのけたあいつに、俺は冷淡な口調で返す。他にコメントのしようが無かった俺は、けれど意志に反して顔は笑っていたらしい。
「ばっかじゃねぇ?」
「俺は日本なんかで収まりきるタマじゃねーって事だ」
「テメ、これ以上でっかくなってどうする気だ!」
「そっちじゃねぇ!!」
 すぱこーん、と履いていたスリッパで頭を殴られた俺だったけれど、不思議に悪い気分にはならなかった。けたたましく笑う、二点目となるホームランをはじき出した打者を包み込む歓声も室内から掻き消される程に。
 庭先で鎖に繋がれている犬が数回吠える。ピンポーンという呼び鈴が鳴り響き、まだしつこく俺にちょっかいをかけていたあいつが途端に、舌打ちして顔を上げた。
「親父だ」
「じゃ、俺は帰るな」
 結局何しに来たんだか分からなかったけれど、退屈はしなかった。疲れた身体を休めるという目的は達成出来たわけだし、それに加えて少し楽しませてもらったから、悪くはない。
 床の上の鞄を拾い、立ち上がった俺を見てあいつはつまらなさそうに顔を歪める。そんな顔するなよ、と言おうとしたけれど立て続けに呼び鈴が鳴り響いて、早く開けろと急かす人が邪魔をした。
「また明日な」
「ああ」
 ぱたぱたとスリッパをならしてフローリングを滑るように歩く。さほど広くも狭くもない一戸建ての玄関で靴に履き替え、鍵を開けると雪崩れ込むようにほろ酔い気味のスーツなオジサマが入ってきた。入れ違いで、俺は外に出る。
 夏も近いけれど、半袖だと夜の空気は若干冷える。一瞬肌を竦ませた俺に、あいつは父親を受け止めて玄関に寝かせたあと追い掛けて門のトコまで出て来やがった。
「猿野!」
「んあ?」
 そのまま帰るつもりだった俺は、呼び止められて門の前で振り返る。道路とは少しだけ段差がある門の手前で、あいつは母親のものらしき小さなサンダルに足を突っ込んで立っていた。
「バイバイ」
「俺、さっきの冗談のつもりはないからな!」
 別れの言葉が欲しかったのかと早合点した俺がひらひらと手を振る前で、あいつは暗やみの中、それでも分かるくらいに顔を赤くして叫んだ。ぽかんと口を開けて呆気に取られる俺を見下ろし、コホン、と咳払いをひとつして。
「今、決めた。とりあえず、それだけだ」
 また明日、遅れるなよ。
 そう言い残し、あいつは俺に返事をさせる間も与えず家の中へ戻っていってしまった。わん、と犬小屋の手前でトリアエズがひと声鳴いた。
「なんだよそれ……」
 くっ、と喉を鳴らして俺は笑う。噛み殺した息を飲み込み、俺は寒気も忘れて歩き出した。
「ばっかじゃねぇ?」
 呟く。顔は笑ったままで。
「ちくしょー。俺も負けてらんねぇか!」
 本格的な夏の訪れを前にして、俺は帰り道ひとり叫ぶ。
 この夜、あの投手は十三奪三振を達成して見事、今期九勝目を飾った。

02年4月26日脱稿

小休止5

 コトン、と彼は片手に抱いていたマグカップをテーブルに置いた。
 少し温くなってしまっていたコーヒーの苦みが彼の口の中いっぱいに広がり、いつも以上に目立つ匂いのきつさも合わさって彼の眉目には深い皺が刻まれてしまっている。
 ややして、彼は大きな溜息をついて膝の上に広げていた分厚い専門書を閉じる。少々かび臭い紙面がぶつかり合って起きた風が彼の鼻先を掠め、二度目の溜息にかき消された。
「まったく……」 
 やれやれ、と彼は呟いて本をマグカップの脇に置く。そして背もたれに手を置き自分が座っていた椅子を引くと立ち上がった。その爪先に、中途半端に開かれて床の上に落ちてしまっている本の角が当たり、彼の苦笑を誘う。
「こんなところで寝るんじゃない」
 危うく蹴り飛ばすところだった、これもまたそれなりの紙数を持っている召喚術の専門書を拾い上げる。そして埃を軽く手で払い退け、閉じて片手に持ち直すと、その親指ひと関節分はありそうな背表紙の角でコツン、と机の脚に凭れ掛かって眠り込めている存在の頭を叩いた。
「起きるんだ」
 けれどそれは僅かに身じろいだだけで、口元をむにゃむにゃと動かすのみに留まる。すっかり夢の世界の住人になってしまっている弟弟子に、彼は三度目の溜息を長々と零した。
 一緒に勉強したい、と言い出したのは向こうの方だったのに、たった二時間も持ち堪えられなかった。最初の頃はまだ真剣に本と向き合い、分からない箇所を示して積極的に質問をしてきていたのだが。
 気が付けばうつらうつらとし始め、舟を漕ぎだしてはカクン、と首が落ちそうになって慌てて目を覚まし首を振っていた。しかし今やそれも無駄な足掻きだったらしく、完全に気持ちよさげに眠り込んでしまっている。
「マグナ」
 何度か肩を揺すってみたけれど、反応は芳しくない。四度目の溜息は、マグナの前に膝を折った時点で零された。
「こんなところで眠ったら風邪を引く」
「…………ZZZ…………」
 ぺちぺちと数回頬を叩いてみても、効果はなかった。今度こそやれやれと肩を竦め、彼は眼鏡を正すと両腕を伸ばし何時横倒しに床に寝転がるかも分からない、不安定な姿勢で眠っているマグナを抱きかかえた。
 出会った頃に比べれば身長も伸びて随分と大きくなったけれど、まだかろうじて抱き上げる事が出来るマグナをしっかりと両腕に抱えて、彼はゆっくりと立ち上がる。
「まったく……」
 そして慎重に彼を、部屋に据え付けられているひとり用のベッドへと運ぶ。綺麗にシーツも伸ばされて整えられたベッドにマグナを下ろし、疲れてしまった腕を揉みほぐす。そして彼もまた、そのベッドサイドに腰を下ろした。
「マグナ」
「……ZZZ……」
「狸寝入りは構わないが、今日出した問題は明日までにちゃんと回答を提出するんだぞ」
「………………………」
「出来なかった時はどうなるか、分かっているな?」
「………………………ケチ」
「うん? 眠っているんじゃなかったのか?」
「…………ZZZ…………」
 片手を伸ばし、さっきまで自分が読んでいた本とマグカップを引き寄せ、ネスティは栞を挟んであったページを開く。
 そのうちにまた整った寝息が後ろから聞こえだしてネスティは小さく微笑むと、マグナの身体にそっと毛布を掛けてやった。

墓標の花

 昔、むかし戦争があった
 たくさんの人の悲しみと、たくさんの人の憎しみと、たくさんの人の苦しみが生まれ
 たくさんの歓びと、たくさんの希望と、たくさんの想いが平和を創り出した
 しかしひとりきりの英雄にゆだねられた未来は、諸刃の剣でしかないことに
 そのとき誰も、気付けなかった

「この場所は変わらないね……」
  吹き付ける風に髪を揺らし、少年は久方ぶりの笑顔を作った。
 広大な湖の南にある、湖に突き出すような崖の上に建てられた、古い城。すでに人が住まなくなって長い年月が経過しているのか、方々は荒れ放題で緑の草が膝丈よりも高く伸びている。城の外壁には蔦が被い茂り、野鳥の巣が見受けられる。壁は所々崩れ、雨風にさらされて無惨な様をさらしていた。
 その古城の脇に、見事に咲き誇る花畑があった。
 そこだけは人の手が加えられていた。さまざまな色の花が、所狭しと首を伸ばし、太陽の光を一身に集めている。温暖な気候も手伝い、また種を飛ばす風にも困ることが無く、花は毎年毎日、美しく咲き続けた。
 湖の風、それも変わらないもののひとつだった。
 人の心は移り気で、あれほどに望んでいたはずの平和も、すぐに物足りない物へと変えてしまう。くだらないもめ事は後を絶たず、やがて昔の事をあれこれ掘り返し、他人のあら探しに心を砕く者も出始めて……いったい、何のための戦いだったのか分からなくなり始めていた頃、終わらない争乱の矛先は、矛盾をはらんだ少年に向けられるようになった。
「どうして、かな……?」

 ルルノイエで獣の紋章を封じた後、セレンはハイランドの皇王となった親友を、その手にかけた。
 約束の地で、彼らは最後の悲しい戦いを終わらせた。ハイランドの皇王としての役目を全うしたジョウイは、セレンの手である場所に葬られた。セレンの義姉であり、ロックアックス城で彼をかばい命を落としたナナミもまた、ジョウイと同じ場所に先に葬られていた。
 そして、デュナン湖を挟む広大な大地は統一され、ラストエデン国が成立した。セレンはその国のリーダーとして各地に残っていた紛争の火を消してまわり、二度と戦いが起こらないようにと尽力し続けた。
 だがそれは、決して楽な道のりではなかったのだ。
 かつてハイランドと呼ばれた大地では特にラストエデン国に統合されることを快く思わない者が多かった。いくら戦争に敗れ、皇王が倒され皇家の血筋が絶えたとしても。ハイランドの貴族として生きてきた彼らが、早々にその地位を棄てられるわけがない。会談の場に現れたセレンを待っていたものは、かつてと同じ様な待遇を求める貴族達の傲慢な態度だった。
「ふざけないで頂きたい。では貴公はハイランドに納税の義務がないとでも思っておいでか!?」
 シュウが乱暴に机を叩き、怒り心頭と言った表情で怒鳴り声をあげた。
「そうは申しておらぬ。ただ、ハイランドは長年の戦争により、農地を耕す者が乏しく、荒れ地が増えるばかりだった。今は領民を餓えさせないようにする事がせいぜいで、とてもそちらが求めているほどの額を出すことが出来ない……そう申し上げているのです」
 タヌキオヤジ、と表現するのにぴったりな貴族の代表者が、飄々とした語り口でシュウに言い返す。
「それは分かります。ですが旧同盟の地も似たような条件にあるのです。その各都市が苦しい財政状況の中でも納税の義務を怠らないでいるのです、ハイランドだけを特別扱いすることは出来ません!」
 拳でテーブルを再び殴りつけ、シュウは老貴族を睨み付ける。が、彼よりも明らかに2倍以上生きている老貴族にはまるで通用しない。
 こういう場合、怒った方が大体負けるのだ。いつもは冷静沈着の看板を背負っているシュウも、机上の勝負といえるものではいつもの強気が通用しない。単純な性格をしている事の多い軍人よりも、胸の内を決して悟らせないで言葉の駆け引きに執着する貴族達の方が万倍扱いにくい。
「しかしですなぁ。確かグリンヒル市は今年どころでなく、ここ数年分の税金を支払っていないと聞き及んでおりますぞ? わがハイランドをあれこれおっしゃられる前に、まずそちらを回収されてはどうですかな?」
「話を逸らさないで頂こう! 今はグリンヒル市のことを問題にしているのではありません」
 シュウの握り拳に血管が浮かんで見えた。
 そんな二人の発展のない不毛な口争いに、セレンはため息をこぼす。
 まだラストエデン国は出来たばかりの国、いわば赤ん坊の状態。少しでも外的からの脅威を払い、守ってやらなければすぐに弱体化してしまう。ましてや内部からの造反など、あってはならない事だった。
 南のトラン共和国とは、ラストエデン国成立と同時に向こうから友好条約を結ぶことを申し出てきた。勿論断る理由が無く、即刻条約は締結された。ティントの西、グラスランドとは正式な国交がまだないが、向こうは国内情勢に必死のようでラストエデン国にまで目を向けている余裕はなさそうだ。問題は北、ハルモニア神聖国だが、これも何もいってこない。ハイランドはハルモニアから分離した国だし、戦時中も友好の証のような形で軍が出されている。その国が言ってしまえば併合されるように滅んだというのに。
 それほどラストエデン国が重要な国ではないと思っているのだろう、というのがシュウの判断だ。何もしなくてもその内無理が出て自滅する国だと思っているのだと、彼は語気を強めて言っていた。
 だからこそ、彼はこんなにも必死になっている。ラストエデン国を滅ぼさないために。民衆の希望を潰してしまわないためにと。
 しかし、現実は甘くない。いつだって人間のエゴが国を滅ぼしてきたのに、それに気付けないでいる愚か者が多すぎる。
 これでは、何のためにセレンがジョウイと争い合い、この国を創ったのか、分からないではないか。ジョウイが求めていた世界が、簡単に音を立てて崩れていくのを認めたくない。墓標に誓った希望にあふれる未来を、実現できないままで終わらせるわけにはいかなかった。
 だがこのままでは。
 ハイランドの地は自然に離れていってしまいかねない。
「ハイランドは敗戦国ですぞ。国民は一様に傷ついている。傷心の身にむち打って働けと、どうして言えましょうや」
「ルカ・ブライトが同盟の地をどうしたか、お忘れか!? 罪もない命がいかに無碍に扱われたか、我々は忘れない。ルカ・ブライトの凶行を止めることが出来なかった貴公らにも、その責任の一環はあるのです。だが我々はあえてそれを問うことをしなかった。なぜだかお判りか!?」
 机に爪を立て、シュウは老貴族にくってかかることを止めない。
「ハイランドが反旗を翻し、ラストエデン国から離脱することを避けるため……でしょう?」
 ひくり、とシュウの眉がつり上がった。
 老貴族の指摘は正しい。正しすぎて、しかも言葉を飾らず率直すぎたため、反論も出来なかった。認めることは出来ないし、かといって下手に否定してはまた突っ込まれる。
 言葉に詰まったシュウを見て、貴族陣の表情に一様に勝利の笑顔が浮かんだ。ずっと黙っていた、セレンの横にいたクラウスが、苦々しげに唇を噛む。シュウが勝てないような相手だ。クラウスが何を言ったところで通じるわけがない。
 軍を動かすようにはいかない。彼らは本来、平和な時代には不要の軍師だ。いきなり政治をやれ、と言われても出来ないことの方が多い。
 ──せめてジェスさんがいてくれたら……。
 若いながらアナベルの片腕として働いていた彼が、すべての役職を断って一市民に戻ってしまったことが惜しまれる。フィッチャーを連れてきても良かったが、復旧の続くミューズ市を長くあけることは出来ないと言われてしまっていた。やはり無理にでも引っ張ってくるべきだったかと、後悔してももう遅い。
 ふう、とセレンは小さく息を吐き出した。
「分かりました、良いでしょう」
 もうこんな無駄な論議を続けることは苦痛だった。
「セレン殿!?」
 シュウが驚いた声を上げ、座ったままのセレンを見下ろす。
「ほう?……どうやら、国主殿のほうが心が寛大でいらっしゃるようですな」
 嫌味を口にする老貴族の口元に醜い笑みが浮かんでいる。勝ち誇った表情に、セレンはまたため息をついた。
「ですが、交換条件があります。もはやハイランドという国はこの地上には存在せず、あるのはラストエデン国のみ。そしてラストエデン国には貴族といった身分の格差が存在していません。お判りでしょうが、ラストエデン国に貴族は不要です」
 一息で言ったセレンの台詞に、会議場にざわめきが起こる。
「お約束しましょう。この3年間、ハイランドからは納税の義務を外します。しかしその代わりとして、貴族諸侯の方々からは不要と思われる私財を提供していただきます。一家に必要な生活費を試算し、超過分を徴集します。生活費に含まれるのは、衣食住における最低限度の保障までにします」
「……それは、つまり……」
 老貴族の声が初めて震えた。
「ええ。貴族制は廃止します。そのつもりで来たのですから」
 生まれながらにして一生の生活を保障され、ぬるま湯に浸かる生き方に慣れてしまったからこそ、現実の危機感に乏しいのだと思う。自分が特別な存在であると思いこんでいるから、何をしても良いと信じ込んでいる。その考えを改めさせたかった。
「そのようなこと、認められるわけがなかろう!」
 声を荒立て、老貴族が叫ぶ。彼の後ろに控え、横に座す貴族達からも、一斉にセレンを非難する言葉が立ち上がり始めた。
「セレン殿……」
 クラウスが不安げにセレンを見る。しかし彼はキッと前だけを見つめ、揺るぎない意志を全身から発し続けていた。
「あなた方の了承を得るつもりはありません。それとも、規程通りに税を納められますか? あれほど民のためを思った言葉を申されていたのに、今更撤回されるような事はありませんよね? 民を守るのが貴族の役目なのでしょう。でしたら、最後の役目ぐらい盛大に果たしてみてはいかがですか!」
 議場全体が震えるほどの、セレンの怒気が貴族達の口を黙らせる。あれほどに詭弁を得意げにふるっていた老貴族も、セレンの気迫に気圧されて言葉がない。
 シュウが前髪を掻き上げ、どかっと席に腰を下ろした。
 これで会談は終わりだった。勝敗は決し、しばらくの沈黙の後、貴族達はうなだれながら静かに議場を出ていった。最後にあの老貴族が席から立ち、そのままの状態でセレンを見つめ、
「これで終わったとは思われぬ事です。我々ハイランドの誇りは、何人であろうとも砕くことは出来ませぬ。それだけはお忘れにならないよう、心に留め下さい」
「分かっています」
 感情のこもらない声でセレンは答え、老貴族に座ったまま、深々と頭を下げた。老貴族も同じように礼をし、去っていった。
 あとはセレンと、シュウとクラウスだけになった。
「……心臓が止まるかと思いましたよ」
 はああ、とため息をつき、クラウスが肩の力を抜いて呟いた。何もしていないくせに疲れたと、テーブルに突っ伏す。
「ですが、よくあそこであのような言葉を返されましたな。これで交渉を有利に運ぶことも出来るでしょう」
 ハルモニアの影を気にして強気に出ることが難しかったハイランドとの交渉も、これで一気に進展するだろう。素直に喜ぶシュウに、しかしセレンの表情は冴えなかった。
「あれはボクが考えた事じゃない」
「セレン殿?」
 二人を見ず、相変わらずもういない貴族達の席ばかりを見つめたままセレンは呟く。
「ハイランドの貴族制を廃止したかったのは、ボクでなくジョウイだ。ハイランドの政治形態に絶望していたのは、ジョウイだった」
 すくっ、とセレンは立ち上がった。
「帰ろう」
 短くそれだけを言い、彼は振り返って二人を待たず、歩き出す。
「あ、はい」
 慌ててクラウスも立ち上がり追いかける。会談が終わったのだから、いつまでもここにいる必要はない。ルルノイエにいることもない。さっさとミューズに帰り、今回のことを報告してその後のことを話し合わなければいけないのだ。
 外に出れば、壁に身を寄せ今後のことを相談しあっている貴族の姿が目に付いた。わざとらしく視線を送り、聞こえるように非難を口に出す。正直言って気持ちのいいものではないが、気にしていても仕方がないことでもあった。
「堂々と言いに来ればいいのですよ。あんな風にしていても、自分たちの意見が通ることなどありはしないのに」
 不満げにクラウスが言うが、セレンは首を振って止めさせた。
「それが出来ないのが貴族という者なんでしょう」
 その言葉からはあきらめしか感じられない。
 いつの頃からか、セレンは笑わなくなった。いつも難しい顔をし、たまに違う表情を見せたと思っても、それは言い表しようのない哀しげな瞳だった。
「大丈夫だよ」
 クラウスの心を感じ取ったか、セレンが彼を見ずにささやく。
「こんな事は痛くない。ボクは裏切るわけにはいかない、止まることは出来ない。ボクが求められている理由がそこにある限り……」
 シュウは黙って聞いていた。クラウスはただ哀しいばかりで、悔しそうに唇を噛む。
 ──違うのです。違うんです、セレン殿……
 だが言葉になって出てこなかった。
 いつからかすれ違うようになっていた。目指すものは同じのはずなのに、彼らの心はかみ合わなくなっていた。
 時間だけが過ぎ、人は過去を忘れていく。だが時を持たない少年はあまりにも過去に捕らわれすぎ、望まれる英雄像を振る舞おうとしすぎた。
 止まったままの記憶はいつしか重荷になって行き、そして耐えきれず崩れていく…………

 風が吹き、花びらが一斉に空に舞い上がる。手で顔を覆った少年は、しかしその手の向こうに懐かしい人々の姿を見つけ、目を見開いた。
 おかっぱ頭の元気にあふれる少女が、手を振っている。
 長い金髪の青年が少女の横で微笑んでいる。
 クマのような顔の男の人、青いマントにバンダナの人。黒髪を後ろで束ねた長身の男性、眼鏡の似合う少女、たくさんの人達……。
 笑顔で手を振り、早く来いと手招きをしている。花畑の中で、少年を待っている。
「ナナミ、ジョウイ!」
 涙がこぼれた。一体どれだけの時を彼は独りで生きてきたのか。しかし決して忘れることの出来なかった仲間達が、もう良いからと、彼を呼ぶ。
「ビクトール、フリック、シュウ、アップル!」
 二度とあえないと思っていた。自分にはその資格はないのだと、あきらめていた。けれど仲間達は、彼を許してくれる。両手を広げ、彼を待ってくれていた。
「みんな!」
 セレンは駆けだした。友の亡骸の眠る花畑の中を、昔に還って──
「……よろしかったのですか?」
 グレミオが傍らのラスティスに呟く。
「良いんだよ、これで」
 湖の風を身に受けながら、彼は右手の紋章を見つめる。そしてそっと、ソウルイーターに口づけた。
「良い夢を、セレン……」
 天高く花びらは舞い、風は空へと還っていった。

小休止2

 夕焼け小焼けの赤とんぼ
 とまっているよ 竿の先

 一面のススキヶ原にお前を見つけた。
 草むらの中に埋もれるようにして、その中に一本だけ忘れ去られたように立っている小さな棒に向きあっている。その顔はとても真剣そうで、見つけた時に思わず呼びかけようとした声を呑み込んでしまった程だ。
 だけれど、声は抑えられても進み続ける足が掻き分けるススキの音は止めることが出来なかった。
「あ」
 短いお前の声が耳に届く。その手前を、ひとつの細長い何かが飛び去っていった。
 追いかけるように上向いた視界の片隅を、透明な細い羽を震わせて小さな何かが空を駆け上っていくのが見えた。だがやがてそれも、赤く色が染まった夕暮れ時の雲間に紛れて見えなくなってしまう。
「ソル」
 先に、お前が俺を呼んだ。視線を戻すと苦笑いを浮かべたお前の顔が目に映る。
「なにしてたんだ」
 だから反応に困っている様子のお前に今度は俺が問いかけた。苦笑いが益々深くなる、照れたように片手で後頭部を引っ掻いてお前は「そうだね」と相槌を打つ。
 それから徐に、お前は俺の顔の前に利き腕の人差し指を突きつけてきた。
 思わず後ろに半歩下がる。そんな俺を無視して、お前は突きつけた指をくるくると、俺の顔の前で渦巻きを描き出した。ぐるぐる、くるくる。
 俺は反応に困ってしまう、こいつは本当に、時々意味不明な事をやらかすから。これもその一環だろうと呆れかえった俺は、力の抜けた表情でその手を押し返した。
「なにやってるんだよ」
「ソルが聞いてきた事」
「はぁ?」
 間抜けな声を出してしまった俺は、やはり同じくらい間抜けな顔をしてお前を見上げた。その表情は笑っている、穏やかでそして、どこか人を食ったような顔だ。
「蜻蛉が居たんだ、さっきまでそこに」
 そう言ってお前は俺に押しのけられた手でそのままさっきの、地面に突き立てられている棒の一本を指さした。すると、俺の気配に驚いて飛び去ったのはトンボだったのか、と俺は赤い空を見上げて思う。そんな意識が向こうを向いてしまった俺の前で、お前はまた指で空中に渦巻きを書き始めた。
 今度こそ怪訝な顔をして尋ねる、何をしているのか、と。
「僕が居た国ではね、ソル。こんな風に蜻蛉の目の前で渦を描けば蜻蛉は目を回すって言われているんだ」
 偶々蜻蛉を見かけて思い出して、実践してみたんだと彼は軽い調子で笑った。内情を聞いて更に俺は呆れかえる、言い返す気にもなれなかった。ただバカだ、と思いながら自分の前髪を掻き上げる。
「そんなはずないだろ」
「僕もそう思ったんだけれどね。何事もチャレンジしてみるべきかな、と」
「……で、どうしてさっきからトンボじゃなくて俺の前で指を回してるわけ?」
「いや、だからチャレンジ精神?」
「……トウヤ、殴られたいのか?」
 にっこりと、対外的な商売用の笑顔を浮かべて俺はお前を見返す。お前も、表面だけの乾いた笑みを浮かべて俺を見下ろしていた。……なんか、むかつく。
「俺、帰るから。お前はそうやって、ずっと落ちもしないトンボでも追いかけてろ」
「つれないなぁ、ソル」
「殴って良いか?」
「それは困る」
 夕暮れの空、蜻蛉の群は穏やかに空を駆けめぐっていくばかり。

Paper

 緩い陽光に照らし出されたテラスは、庇の影に紛れて少しだけ気温が低くなっている。
 まだ本格的な夏には遠く、幾分過ごしやすい天候が続いているが気温が低いのは日陰である以外にも、夜中中降り続いていた雨が止んだ事にも理由があるらしい。
 天頂には程遠い太陽を東の空に眺めながら、足を向けた先でテラスの床面が僅かに湿り気を残している事でその事を知る。
 昨夜眠りにつく前は、降りそうな空模様だったけれどまだ降っていなかった雨。そう長時間激しく降り続いていたわけでは無さそうで、ならば雨音に気付かなかったのもある意味仕方のないことだろう。
 普段ならば小気味よく響き渡る足音も、どこか湿り気を含んで重く感じられた。
 ばさっ、と左斜め手前から紙を広げる乱雑な音が聞こえて視線を太陽から音の発生源へ向ける。
 テラスには日よけのパラソルと、その下に独り掛けの椅子がふたつ向き合わせに置かれた白いテーブルがある。丁度今自分の方に向いている――つまりはテラスの下に広がる庭に背を向けて城の外壁を向く形で座っている人物が居た。
 テーブルの上には湯気を昇らせるコーヒーカップがひとつ。ミルクポッドとシュガーポッドがその手前に。何かを食べていた名残か、空の皿がその脇に。
「おはよう、ユーリ」
 もう一度、ばさっと、手にしていた新聞を一度折り畳んでページを進めてまた広げる。ちょうどその時に畳まれた新聞紙の向こうから顔を覗かせたスマイルが、まだテラスの入り口近くで立ったままの彼に朝の挨拶を贈った。
 けれど彼の興味は其処で途切れてしまったらしく、ユーリから視線を今朝の朝刊に戻すと腕を広げて新聞で上半身を隠すようにし、ふたりの視線を遮る壁を作り出してしまう。
 煎れられてまだそう時間の経っていないだろうコーヒーが、物憂げに熱を外へ零し続けているがスマイルはそんな音もない訴えに耳を傾ける事もしない。それほどに面白い記事でも載っているのか、とユーリは目にかかる、落ちてきた髪を掬い上げてテーブルへ向かって歩き出した。
 カツカツと鈍い足音が響く。
 まるで当てつけのように床面に擦り合わせて歪な音を立てさせ、やや乱暴に椅子を引いてそこに腰掛ける。雨の露はしっかりとぬぐい去られた後で、背もたれにも座面にも湿り気は残っていなかった。
 ただまとわりつく朝の風が少しだけ思い感じがして、昨夜が雨であったことを伝えてくれる。
「雨だったようだな」
 続けられなかった会話を再開しようとしたわけではないが、背もたれに預ける身体の形を何度か作り直して一番楽な姿勢を見つけたユーリがそんな事を呟く。
「みたいだねぇ」
 ぱさっ、とスマイルが片手を新聞から放し手探りでテーブル上のコーヒーカップを捜す。その間もずっと彼の視線は片手に残った新聞紙面に貼り付いたままだ。
 かちゃっ、と彼の手がコーヒーカップではなくミルクポッドに当たる。その横に並んで置かれているシュガーポッドに揺れたミルクポッドがぶつかって、彼の失態を責めるように乾いた陶器の音を響かせた。
「あー」
 自分が違うものに手を当てた事に気付き、新聞を膝とテーブルの間に寝かせてスマイルは自分の手が何処にあるのかを確認する。手はてんで方向違いな場所を探っていて、コーヒーカップは新聞と卓上の腕の間でぽつんと、勢いを失いつつある湯気を立てていた。
「良かった、倒れてない」
 音の具合からして、それは無いことは予測済みだったのだろうが実際目で見て確かめて、テーブル上に何も零れていない事に安堵の息をもらす。そして行き場を失って困っている手でトントン、と意味もなくテーブルを小突きようやく、当初の目的地たるコーヒーカップを持ち上げた。
 見た目からもかなり温くなっているのが分かるコーヒーをひとくち口に運び、スマイルはまた新聞をつまみ上げた。かちゃん、と軽い音を鳴らしてカップをソーサーへ戻し、また新聞で顔を隠す。
 本人にそのつもりは皆無なのかもしれないが、少なくともやや斜めではありながらも向き合う形で席に着いているユーリにはそう見えた。
「貴様が人間の政治や経済に興味があったとは知らなかった」
 テーブルに肘をつき、嫌味のつもりでユーリは言うが返事はなかった。
 余程読むことに熱中してしまっているのだろうか、聞こえないフリとは少し趣が異なるスマイルの無視に、彼は綺麗に整っている眉目に浅く皺を刻んだ。
「スマイル」
 立てていた肘を寝かせ、中指の爪でテーブルを神経質に叩く。やや語気の強まって不機嫌そうなユーリの声に、
「え、なに?」
 片側に新聞を寄せて顔を出し、スマイルが小首を傾げた。
「なに、とは?」
「あれぇ? 今呼ばなかった?」
 名前を呼ばれたような気がしたんだけど、とユーリの顰めっ面にも気付かず不思議がる彼。
「私が意味もなく貴様を呼ぶはずがないだろう」
 それはそれで酷い扱いなのだが、読みかけの新聞記事に気が回っているのか深く追求せずスマイルは納得したように頷いた。
「それもそうだねぇ……」
 曖昧に苦笑いを浮かべているところからして、意味は理解しているらしい。けれどそれ以上の言葉を発する事無く、スマイルはまた新聞へ視線を落とす。ちょうど何処かの企業トップと新聞記者との対談記事を読んでいたところだったらしい、ちらりと見えたタイトルでユーリはそう判断した。
 面白い話しでも書かれているのだろうか、スマイルの熱心ぶりは普段の行動からして異様に映る。もっとも、一度ステージに立てば彼は別人のような存在に変わるから、その変化に似ていると言えばそれまでだが。
 テーブルの広さは腕ひとつぶんほど、それほど大きくない。上に載っているのはスマイルのコーヒーセットと、空の皿。あとは水色硝子で作られた一輪挿しに挿されたマリーゴールド。その花の向こうに、スマイルが広げている新聞があって、彼の身体はその新聞を持つ手と頭の先しか見えない。
 時折新聞を捲る紙の擦れる音だけが聞こえてくる以外はほぼ無音状態。半分ほどに量が減ったコーヒーはすっかり冷め切ってしまっていて、今飲んでもきっと味はよろしくないだろう。逆に、ミルクポッドが日の光で温められているような気配が見られた。
 頬杖を付き、持てあます時間を象徴するようにユーリは自分に一番近い一輪挿しの花を弄る。軽く押して、反動で返ってくるのを待ってまた押して。今度は戻ってくる前に花弁を摘んで引っ張る。
 黄色のはなびらが軋み、茎が無理な負荷を訴える。八重に重なり合った花弁は皺だらけに顔を顰めて、文句を言っているようにユーリの目に映った。
 ぱっと手を放すと不自然に曲がっていた花茎が伸び上がり、向こう側へ反動で跳ね返ってしばらく不器用なバネのように揺れた。だが少しの時間が経てば、その動きも安らぐ。
 頬杖をついて見上げた先では、まだまだ読み終わりそうにない新聞が広がったまま。
 第一面と、その反対側のテレビ欄しか見えない。大きく黒字に白抜きの文字で書かれた見だしは、昨今調和を乱している某国と某国との当主対談がようやく実現したと伝えている。
 愚か者の人間は、己の力量に無いものを求めて争い無駄な血を流す。
 反対側の腕で頬杖を付き直したユーリは、この距離でもかろうじて読みとれる第一面の内容をぼんやりと眺めながら読み出した。時折混じる画数の多い文字は読み飛ばすが、それでも大体の記事内容は把握できる。
 スマイルが動くたびに紙面が揺れて読みやすい箇所と読みにくい箇所が影を入れ替える。波のように揺れる薄い新聞紙に、眉間に皺を刻んでまでいつの間にか必死に読み解くことに真剣になっていたらしい。
 唐突に、遠くにあったはずの紙面が間近に迫ってぺたん、と平らなテーブルにちゃんと自分に向かって下向きになるように置かれた。
「?」
 驚いて顔を上げると、椅子からいつの間にか立ち上がっていたスマイルが、完全に冷えてしまっているコーヒーを飲み干しながら新聞の角のずれを直していた。
 思わずマジマジと見上げてしまい、見つめられているスマイルの方が怪訝な顔をしてしまう。
「読むんでしょう?」
 とんとん、と指で新聞紙の上からテーブルを叩く。
「あ? ああ……」
 何を言われたのか、咄嗟に理解できず叩かれた新聞の第一面を見下ろしてユーリは、ようやく自分がどれ程熱心に新聞に意識を向けていたのかを思い出した。
「お前は」
「読みたいところは全部読んだしねぇ」
 記憶に残る最後で、スマイルがまだ新聞の真ん中辺りを読んでいた事を思い出し、再び顔を上げたユーリに、スマイルは小さく肩を竦めた。
「それに、ユーリにそんなに熱い視線を送られたら、譲らなきゃ恐いしねぇ」
 こっちを、どうやら言いたかったらしい。呆れたような、そんな口調でやれやれと首を振るスマイルにぴきっ、とユーリの中で何かがひび割れる音が響いた。
「それほど私は熱心だったか」
「そりゃぁ、もう新聞にヤキモチ妬きそうになるくらいにねぇ」
 どこから気付いていたのか。最初からか、それともついさっきか。どちらにせよ、始末が悪く頭に来る。
 テーブル上に置いたままだった新聞を、握りしめて開いた手で掴みユーリはガタン、と席を立った。カップをソーサーに戻そうとしていたスマイルが、一瞬ぎょっとなって振り返る。
 その顔面に、ユーリは持ち上げた新聞紙を押しつけた。
「むがぁ!?」
 息が詰まり、視界が真っ暗に染められたスマイルがカップの取っ手を滑らせて、がちゃん、と不協和音がカップとソーサーの間で響き渡った。
 前方から加えられる力に、倒れそうになるのを足を堪えて踏ん張るスマイルだが、その手応えを感じ取ったユーリが更に新聞を押しつける手に力を込めるためにどうしても呼吸が苦しくなる。
 ユーリが彼を解放したのは、それから時計の秒針がほぼ三回転を終える頃だった。
「ぶはぁっ……!」
 顔から落ちていく新聞を見下ろしながら、肺の中に溜まっていた息を一気に吐き出し新しく空気を吸い込む。ばさばさっ、と連続して新聞紙はバラバラに彼の足下に積み上がっていった。
「酷いや、ユーリ」
 こういう事をするのは自分の役目のはずなのに、と的の外れた文句を口に出すスマイルだったが、ふと、目の前にいる彼が懸命に笑いを堪えて肩を小刻みに振るわせていることに気付いて首を傾げた。
「あのぉ、ユーリ……?」
 もしもし、どうしたんですか。
 一体何を笑っているのか教えて貰いたくて手を伸ばしたスマイル。そこへナイスタイミングで食器の回収に回ってきたアッシュがテラスへ通じる窓を開けて入ってきた。
「スマイル、そろそろ片付けたいんッスけどー……あ、ユーリも居たんスか」
 テーブルの脇で向き合っているふたりに気づき、歩み寄ってきたアッシュだったがスマイルの顔を間近で見てぴたりと足を止めた。
「す、スマイル……その顔」
 ぴくぴくと頬の筋肉を引きつらせ、アッシュは徐に彼の顔を指さした。笑いたいのを無理に堪えているように見えた。
「顔?」
 自分の顔は自分では見えない、それは世の中の常識である。そしてこの場に鏡などあるはずがない。
 仕方がないと、まだ笑いを堪えているユーリと自分で言うのは憚られるらしいアッシュを横目に、スマイルは部屋とテラスを区切っている窓まで行ってそこに映る自分の顔を覗き込んだ。
 反射光の所為もあってかなり見づらい。だが、浮かび上がった半透明の己の姿に二秒後、スマイルはばんっ! とガラス窓に手を叩きつけて悲鳴を上げていた。
「なにコレー!!?」
 途端、背後からはどっと笑い声があがる。
 窓に映し出されたスマイルの顔には、包帯にもそうでない箇所にもくっきりと、反転された新聞の文字が写っていた。
「酷いや、ユーリ!」
 これはまず間違いなく、先程ユーリに新聞を押しつけられた時に写ったものだ。
 勢いよく振り返ってユーリを非難するスマイルだったが、新聞を転写された顔で叫ばれてもまったく迫力に欠ける。むしろ余計に滑稽で益々笑いを買っただけだった。
 こうなったら……と、スマイルの心に逆襲の火が灯される。
「ユーリ!」
 だだだっ、と駆け出して咄嗟に対応できないでいるユーリにがばっと抱きつく。そのまま両腕で抱き込めて頬ずり。勿論、新聞のインクがまだ浮いて乾燥しきっていない方で。
「やめろ、やめないかスマイル!」
 自分よりも体格的に勝っているスマイルに抱きしめられ、後ろによろけたユーリの背中がテーブルにぶつかる。
「あ、ああ暴れないで欲しいッス! テーブルが倒れるッス!」
 両者から制止の声が入るが、そんな事で止まるスマイルではない。ぐりぐりと頬に残るインクをユーリに擦りつけながら、役得とばかりに強く抱きしめる。一方のユーリは逃げようと後ろへ下がって益々テーブルを揺らし。
 アッシュの心配そのままに、テーブルが音を立ててひっくり返った。凭れ掛かるように上半身を乗せていたユーリごと。
 コーヒーカップも、花瓶もなにもかもを巻き込んでふたりが床の上に転がる。割れた花瓶の水を被って、スマイルが弾かれたように床に仰向けになって大笑いを始めた。彼に抱えられる形で衝撃からなんとか逃れたユーリも、前髪に少しミルクを被っていた。
「ばかもの」
 ごつん、とお仕置きだと笑い止まないスマイルの頭を一発殴るユーリ。
 その行動が一層スマイルの笑いをけたたましいものにさせる事に、いい加減気付いても良いのだが。
 テーブルと一緒に倒れかけたパラソルを支えながら、アッシュはそっと溜息をついた。

導きの手

 おちた。

 ひろおうと、した。

 つかまった。

 つかまって、

 それから?

 それから……

 身体中が、痛い。その上に、重い。
 ずっしりと胸の辺りから腹にかけてのし掛かっている、まるで漬け物石のような重みに思い切り顔を顰め、彼は朧気にしかならない視界を懸命にクリアにしようと試みた。
 だが、出来ない。
 眼鏡を捜す、けれど腹の上の重しによって身体を起こすことが出来なかったので、やむを得ず手探りでサイドテーブルの上を適当に探ってみた。
 見付からない。
「…………」
 思わず舌打ちをしてしまって、その気配を感じ取ったのか腹の上に乗りかかりそれまで動かなかったものが、動いた。
「ぅ……」
 微かな呻き声と、もぞもぞと動く細いもの。腹の上、毛布一枚でしか隔てられていない場所をうごめいている。その動きに意志らしきものは見当たらず、ただ無造作に裏返り、また止まる。安定できる場所を見つけたのか、そのまままたぴたりと動かなくなってしまった。
 重いことに、変わりない。
 零したため息も、重かった。
 手探りを再開する。眠る前確かに此処に置いたはずだ、という曖昧な記憶を掘り返して必死になって手首を動かす。そうこうしているうちに、小指の先がとても細い金属の棒に触れた。
 見つけた、と思った。
 思わず力が入り、背が浮く。その弾みで、腹の上にのさばっている物体がまた動いた。
 気を取られた。しまった、と思ったときにはもう、思いがけない動きにより眼鏡は彼の指によって弾き飛ばされてしまっていた。
 サイドテーブルから落下する音が聞こえる。下はフローリング、もしかしたら衝撃でレンズが割れたかも知れない、と不安になったがその気配はなかった。
 ホッと、安堵の息が零れ落ちた。
 けれど。
「んぅぅ~~……」
 上がったり、下がったり。僅かな動きであったものの彼がベッドの上で動くものだから、その彼に乗りかかっていたものが嫌がり、また呻き声をあげた。そして、どうやら頭を振ったらしい。
「ふぁぁぁ……」
 大きなあくびが聞こえて、唐突に身体が軽くなった。一緒に、彼は眉間に刻んでいた皺を更に深くさせる。
 この声に覚えがある。いやそれ以前に、自分にこんな事をしてくる存在は目下たった独りしか想起できない。
 彼の、問題ばかり起こす手のかかる、弟弟子だ。
「マグナ」
「んぁ~……ぁ、ネス。おはよう」
 人の部屋で、人のベッドに寄りかかって眠って置いて「おはよう」の返事はないのではないか。そもそも、いつから此処にいたのか。
 窓の外を見てみる。カーテンが引かれているが、間から差し込んでくる光は眩しい。もう朝に相当する時間帯だろう、細かい時間までは分からないが少なくとも太陽は昇っているのだから。
 怪訝に思っていると、身体を起こしたマグナが左手を伸ばしてきた。益々奇妙に思う彼の前で、広げた掌を彼の額に押し当てた。前髪をすくい上げ、皮膚に密着させる。
「……うん、下がった」
「マグナ?」
「良かったー。ネスってば、全然言ってくれないんだもん」
 もしかして、気づいてなかった?
 彼は椅子の上に座り直し、ひとまず安心したらしく手を離して笑った。目を細め、口元に笑みを形作ると白い歯が零れて見えた。
 彼は首を傾げた。いったい何のことを彼は言っているのだろう。
 奇異に思っている表情を察したらしい。マグナが椅子の天板を両手で持ちながら脚を揺らし、リズムを取りながら言う。
「ネス、昨日熱あったから」
 やっぱり気づいてなかったんだ。
 素直な感想として追加して呟き、彼はまた左手を伸ばしてきた。
 触れてくる掌は、仄かな暖かさに包まれている。正直他人の体温を心地よいとは思わないので、彼は眉間の皺を解く事が出来ず、かろうじて視界におさめる事が出来る弟弟子のはにかんだ笑顔を見つめた。
 熱は下がったと、さっき自分で確認しておきながら何故また触れる必要があるのか。その意味を探りかねて、彼は吐息を零す。
 それは毛布の上を転がり、彼の座っている椅子の足許に落ちていった。
 落ちる。
 おちる。
 おちていく。
 何か忘れている気がして、彼は皺ばかりが刻まれている眉間に指を押し当てた。上半身を起こし、枕を背もたれにして座り直す。
「ネスってば、俺が熱出してるときは直ぐ分かるくせにさ」
 自分のことには結構無頓着だよな。
 椅子の上で揺れながらマグナが続けている。けれど一度バランスを崩し、ベッドの方へと倒れそうになった。
「うぉっ!」
 慌てて右足を前に出して突っぱね、倒れ掛けた椅子を無理矢理支えて立て直す。だが、その時に。
 ぱきっ、という乾いた音が小さく、響いた。
「あ……」
 しまった、というマグナの小声がそれに続く。
 嫌な予感が彼の背中を汗と一緒に下っていった。もとから薄暗かった視界が、輪を掛けて暗くなった気がしたのは恐らく錯覚ではないだろう。
 マグナが動く。サイドテーブル脇に突きだした己の右足を、怖々と持ち上げた。
 パラリ、パラパラ。
 薄く、細かく、砕かれたレンズの破片が彼の靴裏から剥がれ落ち、床のフローリングに散っていった。透明だったけれど白く濁ってしまった細かな欠片のほぼ中央部分に、真ん中から見事なまでにぐにゃりと曲がってしまった、眼鏡が落ちていた。
 片方のレンズは完全に砕け散り、もう片方もヒビが入ってしまっている。彼は細かい部分まで見えなかったのだが、惨状がどのようなものかは弟弟子の雰囲気で察知できた。
 どうやら、復帰不可能なくらいになっているらしい。
「……マグナ」
 怒りよりもむしろ、心底呆れかえった声で彼は弟弟子を呼んだ。びくぅっ! と大袈裟なまでにマグナが背を震わせるのが分かる。
 あえて表現するとしたら、怯えて耳をぺたんと伏せ、上目遣いに見上げてくる子犬か何かか。
 これは、子犬と呼ぶには少々憚られるサイズではあるが。
 おいでおいで、と手招きをしてその手を、掌を上にしてマグナの前に差し出す。彼は本当に申し訳ないと思っているのか、きゅぅ、と鳴きながら今さっき、自分で踏んだものを彼に手渡した。
 床の上に散らばっている、恐らく手では拾いきれないであろうガラスの破片もいるか、と間の抜けた事をその後に言われ、絶句するよりも笑いそうになったのを堪えて彼は首を振った。
 そんなものを手に入れたとしても、眼鏡が元に戻るわけではない。
 掌の上に載せられた、重量もあまり感じさせない眼鏡を見下ろす。左手でフレームを持ち上げると、落ちきらなかったガラスの破片が広げた掌を滑り落ちて毛布の上に散った。波だったベッドの上に紛れてしまうと、もう何処に行ったのかも分からない。あとで日向にでも干しておく必要がありそうだ。
「ネス……その、ゴメン」
「不可抗力だろう」
 狙ってやったわけではないことは分かっている、ずっと一緒に居たのだから。それに狙って出来るほど、この弟弟子は器用じゃない。
「そうかもしれない、けど」
 もごもごと口ごもる子供に目を向ける。はっきりとした輪郭を捕らえることが出来ないのに、瞳にはしっかりとそこに座っている彼が、今どんな顔をしているのかが見えていた。
 お前はなにか失敗をやらかしたときはいつもそんな顔をする。
 苦笑が漏れた。それが不思議だったのか、マグナは片眉を持ち上げて彼を見返す。
 眼鏡を壊されたのに、笑っている兄弟子を変なものを見る目で見つめる。失礼だな、とロクに見えてもいないはずなのに彼は空いている手でコツン、と彼を小突いた。
 眼鏡にはもう、重さを感じない。
 役目を終えて、命を飛ばしてしまったあとのような感じだった。
「しかし」
 口元に手を戻し、彼が独白する。
 もう怒っていないのだとなんとなく感じで理解したマグナが、スッと身体を寄せてくる。覗き込んでいるのは彼の手の上にある壊れた眼鏡で、艶やかな黒髪が今度ははっきりと彼の眼に見て取れた。
 揺れる、揺らめく。
 音もなく。
「弱ったな」
 本心からの呟きを零し、彼は人差し指の第二関節を唇に押し当てた。
「なにが」
「この眼鏡は予備なんだ」
 壊れた眼鏡は、使い慣れている眼鏡ではなかった。予備として、普段使用している眼鏡になにかがあったときにしか使うことのない眼鏡だった。
 そして普段の眼鏡は、留め具が緩んできていたので修理に出している最中。手元に戻ってくるのは早くても、明日だ。修理に出したのが昨日の事だったので。
 そういえば体調が怠いと思ったのは、眼鏡を替えてからだったような気がする。
 そう、確かに昨日は体調が優れなかった。だがそれもよくあることだったので、大して気にも留めずに放っておいたのだ。
 怠い体を休めるために、眠りに入ったのも早い時間だった事を今更ながら思い出す。
 マグナの言うとおり、発熱していたのかもしれない。いや、実際そうだったのだろう。ただ単に気にしなかっただけで。
「予備って……」
「今何時だ」
 時計さえも見えない。
 次ぎに紡ぐ言葉に迷っているマグナに、頭を押さえながら彼は尋ねた。質問を受けて、慌ててマグナが室内を見回して時計を捜し、時刻を確認する。
 まだ朝食の時間には少し早い。眼鏡の修理を急かそうにも、店が開くのはもっと遅い時間になってからだ。
 どうしよう、とマグナがぺたん、と椅子の上で小さくなり呟く。困るのは彼ではないのに、自分のことのように彼は落胆している。
「他に眼鏡は?」
「予備の予備は、ない」
 予備が壊れる事は想定していなかったと、彼ははっきりと通る声で断言した。取り付く島を与えない返事に、マグナがまた肩を落として耳を伏せる。いや、耳は違う、耳は。
「じゃあどうするのさ」
 どうにもならないな、とだけ答えて彼は壊れてしまった眼鏡をサイドテーブルに載せた。掌の肉に貼り付いたガラス片も払い落とすが、はたしてそれがすべてテーブルのボード上に落ちてくれたかどうかは分からなかった。
 マグナがはらはらした面もちで見守っているのが分かる。自分はいったいどうすればいいのだろうか、と考えている様子だ。
 彼は薄く笑った、自分以外には分からない笑みだ。
「マグナ」
 眼鏡を踏んだのは君だろう。
 改めて事実を突きつけると、しゅん、と彼は頭を垂れる。けれど彼は、その頭を優しく撫でてやった。
 もっとも、目測を誤って頭頂に触れるつもりが、若干手前にずれてしまって中指の先がマグナの耳殻に引っ掛かってしまったが。
 誤魔化すためにそのまま手を少しだけ引き戻し、耳の辺りを包み込むようにして掌を広げ、ゆっくりと癖のある髪を掻き回してやる。くすぐったさを覚えてマグナは肩を揺らすが、嫌がらずに受け止めている。
 そのうちに、撫でるばかりの手を自分から掴んで引っ張り、彼の細く長い指に浅く口付けた。
 彼は気づいていなかったが、そこには傷が出来ていた。ガラス片ではなく、眼鏡のフレームの、曲がって尖っていた部分に引っかけたらし。血は出ていなかったが、浅く切れた部分から肉が覗いていた。
「マグナ?」
「俺、なにすればいい?」
 殊勝な申し出に、今度こそ他人にも分かる笑みを彼は浮かべた。
 マグナに取られたままの手を返し、改めて握りしめる。少し驚いたように彼は掌を緊張させたが、拒まずに受け入れる。
 彼は身体を起こし、膝を折ってベッドの上にある体の向きを変えた。両足を揃え、ベッドから下ろす。
「ネス……」
「ひとまず、僕の着替えを取ってきてくれないか」
 部屋の配置は覚えている。何処に何があるのか、住み慣れた自分の城だ、目を閉じていても服を取り出す事に困る事はない。けれど今は敢えて、マグナに仕事を与えるためにそう告げる。
 それから。
「食堂までの道案内と、眼鏡店に行くのにも付き合ってもらうぞ」
 身に纏っている夜着から袖を抜き、彼は椅子から立ち上がって箪笥として使っている棚へ向かったマグナの背中に声をかけた。
 分かった、という声が返される。返事までの間は殆どなかった。
「俺に出来ることだったら、なんだって言ってよ」
 はい、これ。
 そう言ってマグナは彼に棚から引っ張り出してきたインナーを手渡す。外に着るものはいつも同じ、派閥の制服なのでそれはハンガーに引っかけられ、棚のすぐ脇に吊されていた。
「ぁ、と……俺、外で待ってるな」
 夜着から袖を抜きはしたものの、そのままの格好で止まっている彼に気づき、ばつが悪そうにマグナはベッドから後ろ足で離れていった。彼が他人に、たとえそれが弟弟子であるマグナであっても、着替えているところを見られたがらないことを思い出したからだ。
「あぁ、終わったら呼ぶよ」
 吐息と一緒に言葉を吐き出し、彼は頷いた。
 マグナの気配が遠ざかっていく。体温が休息に冷えていくようで、やがてパタン、と開かれた扉が閉じられる音が小さく響いた。
 部屋が、寒くなる。
 吐息が続く。彼はシャツを脱いだ。
 人には、理由を見られたくない傷があるからだ、と伝えてある。確かにこれは傷だ、人ではないものとしての、人の世界に紛れて暮らしているリスクという傷だ。
 知られたくないから、隠す。マグナは何も聞かない、言わない。触れないようにしているのは、彼自身が傷について触れようとしないから。
 腫れ物に触れるように、遠巻きにいつも見ているだけ。けれど近い将来、知らせなければならない時が来るのかも知れない。
 予知能力など無いが、そう思った。
 インナーを身につけ、ベッドから立ち上がる。ハンガーから制服を下ろし、手際よく身に纏っていく。それは毎朝自分でやっていることだから、目が見えなくても身体がどう動けば良いのかを覚えており、苦労はなかった。
 ただ、制服を外したハンガーを元の場所に引っかけようとして出来なかった事以外は。
「マグナ」
 ベルトを締め、マントを片手に彼は扉の向こうにいるはずの弟弟子を呼んだ。しかし、返事はなく扉が開かれる気配もない。
「マグナ?」
 もう一度、今度は強めに名前を呼んでみた。けれど結果は同じで、彼は首を傾げながら部屋を進んだ。
 慣れた部屋だ。扉まで一直線だと言うことも手伝い、転ぶこともなくドアノブの前に辿り着く。
 左腕に掛けたままのマントを持ち直し、落とさないように注意してから彼はノブを取り、回した。
 そのまま自分の方へと引き寄せる。
「うぅわ!?」
 絶叫がこだまして、咄嗟にドアノブから手を離した彼の目の前に巨大な物体が転がり落ちてきた。
 受け止めきれず、胸に抱え込む格好になって一緒に床に転がってしまう。強かに背を打ちつけてしまい、息が詰まった。
 肋骨に衝撃が響く。上に落ちてきたものは床に落下すると同時に横へと転がり、慌てて起きあがって彼に被さった。彼の両脇に手を置き、真上から顔を覗き込んでくる。
「ゴメン、ネス!」
 俺ボーっとしてたから! 
 なんとか取り繕うとしているのだろうが、気が動転しているらしくいまいち支離滅裂な言葉を羅列させるマグナが顔をどこまでも近づけ、怪我はないか、痛い場所はないか、と繰り返し何度も聞いてくる。怪我をしているのかを気に掛けているはずなのに、何故かマグナの掌は前髪に隠された彼の額に押し当てられたりもして、苦笑を誘った。
「マグナ」
 とりあえず、心配してくれるのは有り難いが先にそこを退いてくれ。
 手で追い払う動作をし、彼は身を起こした。身体を退き、彼の動きに合わせて起きあがるのを助けながらマグナも一緒に立ち上がる。
 引き上げるために握られた手は、冷たすぎることも熱すぎることもなく、暖かい。
 彼は、その手を離さなかった。
「ネス……?」
「食堂へ、連れて行ってくれるのだろう?」
 怪訝な顔をするマグナにささやかな笑みを向ける。途端現金なもので、それまで不安がって心配顔だったはずのマグナにパッと花が咲いた。
「うん、俺もうお腹ぺこぺこでさ~」
「それはいつものことだろう」
 社交辞令だよ、とマグナは突っぱねる。そしてぐいっ、と握った手に力を込めて歩き出してしまった。
 苦笑するネスティが続く。
「そんなに急がないでくれ」
 僕はちゃんと前が見えていないのだから。
 そう背中に声をかけると、だから俺が手を握ってるんだろ、と返される。
「役に立つのか?」
 さっきから失敗ばかりしているくせに。街に出るとき、迷子にならない保証はあるのか?
 矢継ぎ早に嫌味を繰り出す彼に、マグナも二の句が継げない。苛めすぎただろうか、と押し黙ってしまった弟弟子を伺っていると、やがてぽつりと、彼は言った。
「だって、今のネス、俺が居なくなったらどうするのさ……」
 俯き加減に、消え入りそうな声で。
 聞いた瞬間目を見開いてしまった彼は、けれど少ししてから口元を綻ばせた。それがあまりにもあからさまになってしまいそうだったので、慌てて空いている手で口元を隠す。
「そうだな。そう、だったな」
 この手を離されたら、きっと自分はとても困ってしまうだろう。だから離すことなく、しっかりと握りしめておかなければならない。
 この手が離されたとき、迷うのは、きっと自分だけではないだろうから。
 迷ったときも、ひとりでいるよりもふたりで居る方がずっと、安心できて心強いだろう。
「頼りにしている」
 囁いて、手を握り返す。
「分かったなら、それで良いんだよ」
 そっぽを向き、ぶっきらぼうに言い捨てて、マグナはまた少し強引に歩き出した。

非具象的恋愛実証論・牛尾編

 昼間の練習でへとへとに疲れた身体を引きずりながらではるものの、合宿中の数少ない楽しみである夕食を終えて以後の、就寝までという本当に短い自分の自由になる時間帯。
 如何せん成長期でもある健常なる高校生男児の食欲というモノは凄まじく、その大量と言うしか他にない料理を盛りつけていた皿も当然の事ながら大量、となるわけであり。
 十二支高校野球部一年、只今青春真っ盛りと顔にでかでかと書いて憚らない猿野天国はそれらの、自分たちが平らげた食事の片づけをせっせとこなしてくれているマネージャーの傍らにいた。
 疲れているくせに、自ら望んで手伝いを買って出た彼はかごに山盛りとなっている汚れた食器を抱えながら、あまり平坦とは言い難い細い道を進む。少し遅れて彼の後ろには、マネージャー達がやはり同じように食器を両手に抱えて歩いていた。
 そして、そんな薄暗い照明も乏しい中を黙って歩くのもそれなりに苦痛なものだからと、天国を綺麗に無視しながらマネージャー達は話題に事欠かないお喋りに熱中していた。
 野宿組の野営地点から、宿泊組の居る民宿までの僅かな距離。けれどずっしりと重く腕を痺れさせる食器が入ったかごを抱えている状態では、なかなか歩みも普段通りにはいかない。ましてや夜道、その上舗装されていない獣道を少し拡大したような道である。天国は後方で姦しく喋り続けている彼女たちに溜息を時折零しながら、足許を確かめて不注意に彼女たちが転んで仕舞わぬよう、落ちている大きめの石を蹴り飛ばした。
 そんな中で。
 もみじが不意に、
「あ、そうだ!」
 と一際甲高い声を上げた。隣を行く凪がどうしたの、と彼女に声をかけると、檜が横でぽつりと代わりに呟く。
「今日はキャプテンの誕生日なのかも……」
 語尾が夜闇の中へ融けて吸い込まれていく。がしゃん、と天国の両手の中で、かごに入った皿が数枚ぶつかり合って激しい音を立てた。
「テメ! 割ってねーだろうな!?」
 素早くもみじが反応して声を荒立てたが、足を止めてかごの中を見下ろした天国は一秒後、身体半分で振り返って首を横に振った。かろうじて、衝撃を受けてクラッシュ、という事にはならなかったらしい。凪がホッとした顔で息を吐く。
「大丈夫ですか?」
「あ、ヘーキっすよ。ちょっと段差があって蹴躓いただけっすから」
 なはは、と自分の失敗を誤魔化すようにして笑い、天国は抱えたままのかごを揺らした。かしゃんかしゃんと、皿が表面を擦り合わせて不協和音を起こす。もみじが嫌そうな顔をして天国を睨んだ。
「注意力散漫」
「なにをぉ!?」
「早く行かないと、民宿の人に迷惑がかかるかも……」
 へっ、と鼻を鳴らしながら嫌味を口にした彼女に、まさに食ってかかろうとした天国を制するように小さく、檜が反論の返しようがない台詞を呟いた。お互いに両手が塞がっているはずなのに喧嘩を始めそうな雰囲気になっていたふたりを見、どうしようと一瞬思考が止まってしまっていたらしい凪がまた、吸い込んだまま吐き出せないで居た息をふわりとその場に落とす。
 そのまま檜を見下ろすと、彼女もまた呆れたようにして吐息を零しもみじをせっついていた。早く行って、ゆっくり休みたいとの意思表示である。
 分かったよ、と檜の訴えに頷いたもみじは、まだ自分たちを振り返ったままでいる天国をまたひと睨みし、べーっと舌を出した。
 むっと来そうになった天国だけれど、下からやはり強い調子で檜にまで睨まれてしまい、これ以上逆らっても自分に不利な状況になるだけだと気付いて身体の向きを戻した。そして、段差があったはずの、だけれどそんなものはどこにも存在していない場所を越えて歩き出す。
 再び黙った天国の後ろでは、やはり会話を再開させたもみじがしきりに、今日誕生日だからと用意しておいたプレゼントを、主将に受け取って貰えたと繰り返している。笑顔でお礼を言って貰えたことが余程嬉しかったらしく、凪が良かったね、と言えば彼女は天国には見えないものの、満面の笑顔で頷いたようだった。
 そしてその凪もまた、ささやかながら用意して置いたプレゼントを今日の早いうちに、既に手渡していた事を告げる。檜も同様だった。
 天国の腕の中で、重たいばかりの食器が歩く振動に揺すぶられ、表面をぶつけ合って金高い音を零し続けている。しかしその音量はごく微細なものであり、どうしても聞こえてしまう彼女たちの笑い声を掻き消すほどのものにはなり得なかった。
 それこそ、先程の音くらいのボリュームでなければ、無理だろう。だけれど同じ事をやれば、確実にこの皿類は割れてしまうに違いない。全部とまではいかなくても、数枚は。そしてこれらは全部、宿からの借入品であり勿論割りでもしたら自費で弁償する必要がある。
 天国にそんな財布の余裕があるはずがなく、だからなるべく慎重に運び続けているのだけれど。
 一瞬の動揺だけは隠しようがなかったらしい。
 はぁ、とため息を零す。後ろの女子達の話題は、主将に送った品の中身に至っていた。なにを、どこで、どんな風に見つけて、悩んで、どうしてそれに決めたのか。
 本当に話題は尽きることを知らず、どんどん発展して行って一体どこからその話題が派生したのか分からなくなる。
 天国の目に、宿の窓から漏れる明るい光が映った。心持ち、進む速度が上がった。マネージャー達も気付いたようで、一旦話題を断ち切り早足で宿の裏手にある勝手口へと向かう。
 出入りしやすいように半開き状態で固定されていた勝手口の扉から中を覗き込むと、賄い途中だったらしい料理人がひとり、近付いてきた。
「ご苦労さん。大変だったろ」
 これだけを運ぶのは、と天国が抱えていたかごを引き取ったその青年は軽く笑っていた顔を引きつらせた。見た目とは予想外に、天国のかごが重かったからである。両足を広げて腰を落とし、なんとか落下だけは防いだ彼だけれど、歯を食いしばる様子からして相当の重量であるらしい。
 ようやく軽くなった肩を回していた天国の方が、大丈夫ですか、と問いかけてしまう。もしかしたら、自分で中まで運ぶべきだっただろうか、と。
 遅れて中に入ってきたマネージャーも、新たに寄ってきた人にかごを手渡す。そして最初の天国からかごを受け取った人が、後から来た人に追い抜かれていく様を見て、天国は溜息混じりに頭を掻いた。
「あの、オレ持っていきます」
 よたよたと千鳥足になってしまっている彼の背中を見ていると、折角自分が無事に運んできたものを呆気なくうち砕いてくれそうで不安が募る。土足でも立ち入れる造りになっているので、数歩進んでもう一度かごを引き受けるとその人は全身から汗を吹き流してふー、っと長く息を吐きだした。
「君、本当にこれをひとりで?」
「そうですよ」
 よいしょ、と軽い掛け声をひとつしただけで、軽々とかごを抱えてしまった天国に感心の声が周囲から沸き上がった。
「猿野さん……」
「凪さんは戻ってくれて良いですよ。オレは、これ運んでから戻りますんで」
 今日も野宿組の天国は、だからもう随分と長い間屋根の下で寝起きしていない。だから宿に無条件で部屋を与えられている彼女たちとは、ここでお別れ。もう少し一緒にいたかったけれど、自分が折角運んだ苦労を水泡に帰してしまう事態を見逃してしまうのも、悔しい気がしたので。
 どうせ明日になれば、また会える。
 笑顔を向けると、凪も戸惑い気味ながら笑顔を返してひとつ、頭を下げると去っていった。扉の向こう側から、もみじが早く行こう、と彼女を急かす事が聞こえた。
 凪が見えなくなるのを見送って、天国はまだ隣に立ったままでいる二十歳代の割烹着姿の青年に声をかけた。
「これ、どこに持っていけば良いんですか?」
「大量だしな、悪いけどあっちの流し台まで頼むよ」
 そう言って彼が指さしたのは広い厨房の、現在地とはほぼ反対側。一瞬言い出すんじゃなかったと後悔しそうになった天国だけれど、手伝ってくれた礼に飯でも食って行け、と今さっき夕食を終えたばかりの彼に告げる声があって。
 競走の激しさから夕食もあまり食べたとは言い難く、物足りなさを覚えていた天国はつい、張り切って大声で了解の返事をしてしまった。
 そして余り物で悪いんだけれど、と出された山盛りの米飯やおかずをそれこそ流し込む勢いで綺麗に片付ける。箸を置いて威勢良く両手を合わせ、ゴチソウサマのひと鳴きにまた厨房からは、おおーといったどよめきが湧き起こった。
「美味かったっす!」
「そりゃーそうだ。なんてったって、俺達が作ってるんだからなぁ」
 最も年かさの、厨房を取り仕切っている人物が豪快に笑い、つられて他の面々と天国も一緒になって笑った。口元の汚れを手の甲で拭い、出された水も一息に飲み干すとようやく満腹感が広がって、げっぷが出た。
「最後に、こいつも持ってけ」
 ほらよ、と放り投げられたものを放物点の最終地点でキャッチ。さすがは野球部、と囃し立てる声に苦笑して掴んだものを改めて見直した。
 コンビニなどでも市販されている、ミルクティーのパックだった。しかも賞味期限が今日までだ。
「日付が変わる前に飲み干せよ?」
 からかうような台詞に、天国は肩を竦める。しかし折角くれると言っているのだし、返す義理もないので有り難く受け取っておくことにした。野営地に戻る前に飲み干せるだろう、あの飢えきった連中に発見されたら奪い取られかねない。
「ありがとうございます」
 軽く一礼をすると、がんばれよという声があちこちからかけられた。
 普通ではない無謀とも言える合宿ではあるが、応援されると心地よいものであると感じた天国は、また礼を言って騒がしく明るい厨房を出た。
 途端に視界が闇に染まり、空気もどこか冷えて肌を突き刺してくる。我知らず身震いしてしまった天国は、早くみんなのところにもどろうと、来た獣道を探して視線を巡らせた。
 時間ももう遅く、宿の窓から溢れている光だけではなんとも足許が心許ない。張り出した木の根に引っ掛かって転ばぬように進み出そうとした天国だったけれど、不意に自分のものではない砂利の上を擦る足音が聞こえた気がしてその場で停止した。
 ゆっくりと振り返る。
 黒ばかりが支配する寂しい民宿の庭の片隅で、誰かの影が動いた。
 また音がする、強く何かを地面に擦りつける音だ。踏みつぶしている……ようにも聞こえる。天国は首を傾げたまま、なるべく大きな音を立てぬように注意深く、影に近付いてみた。
 もしかしたら別の宿泊客かもしれない。だから距離を残して、足を止める。
 だけれど先に、影が天国の存在に気付いて声を上げた。
「チェリオ君?」
「え? あ、キャプテン?」
 薄明かりの下では余程注意深く見なければ相手の顔など判断が付かない。それなのにあっさりと天国を見破った人物は、闇に目が慣れてくるとその陽の下では眩しいばかりの金髪を僅かに揺らして、首を捻った。
「こんな時間に、こんな場所でなにをしているんだい?」
「それは……こっちの台詞っすよ」
 まさか厨房で食事を奢って貰っていたとは言えず、天国は咄嗟に右手に持ったままだった紅茶も背中に隠した。そしてわざとらしく身を乗り出し、御門が立っている位置を見つめる。
 だが素早い動きで御門はサッと、それを隠してしまった。尤もこの暗がりでは、何がそこに転がっていたのかなど天国に分かるはずがないのだが。
 怪訝な顔をした彼に、御門はいつもの調子でやんわりと微笑む。
「早く休まないと、明日が辛くなるよ」
 日付が変われば合宿の最終日、である。疲れもピークに達しようとしている中での一日は、今まで以上にきついものになるだろう。屋根のある宿の一室へという誘いの言葉はさすがに出てこなかったが、それなりに気を配ってくれているらしい御門の言葉に、天国は曖昧ながら頷いて返した。
 けれども。
「あ」
 オヤスミナサイ、と御門に言いかけたところで天国ははっと、とある事を思い出して変な風に声をあげてしまった。裏返った声に、こちらも去ろうとしていた御門が眉根を寄せる。
「どうしたんだい?」
「キャプテン、今日誕生日だって!」
 食器を返却しに行く最中、もみじたちが盛んに口にしていた事を今頃になって思い出した。そしてその事実は、天国にとっては初耳の事だった。
 誰かの誕生日など、特に気にした覚えはない。親友である沢松の誕生日でさえ、実のところ記憶としては曖昧だったりする。さすがに自分自身や、親の誕生日まで忘れる事はしないものの。
「ああ……そうだけど」
 やや苦笑して肩を竦めた御門の態度に、天国は微かに顔を顰めた。あまり喜んでいる様子が見られず、しかし確かに誕生日もこんな合宿で、むさ苦しい男にばかり囲まれた中で過ごすようなら嬉しくもないか、と自分と立場を置き換えてみて至った結論につい頷いてしまった。
「誰かから、聞いた?」
 御門自身も自分から天国に誕生日の話題を振った覚えはない。だから当然、誰かから聞かされた事になる。柔和な笑みを崩さずに問いかけてくる御門に、天国は素直に頷いた。
「凪さん……マネージャに、聞いて」
「ああ」
 成る程ね、と得心がいった様子で御門は数回頷いた。脇に垂らしていただけの腕を胸の前で組み、一旦視線を足許に落とす。彼が見下ろした先には、踏み荒らされたように形を崩している土が散っていた。
「キャプテン……?」
「なんだい?」
「いえ、その……なんだか、あまり嬉しそうじゃないかな、って思って」
 言いにくくて視線を逸らし、しきりに頬を引っ掻きながら言った天国に、けれど御門は「そうかい?」と逆に問いかけてくる。頷いた天国に、彼は溜息を零した。
「どうだろうね。あまり年の事は考えていないけれど……今年が最後だということは、改めて認識させられたよ」
 最後、という部分でぴくりと天国は反応した。
 御門は三年生である。そして、彼が高校生活で許された期間はあと一年しかない。重ねて言うとしたら、天国が彼と一緒の学生生活を送ることが出来る期間も、残り一年を切っているという事だ。
 そう考えると途端に、天国は気持ちが沈む想いに駆られた。
 何故だろう、そう考えると凄く寂しくて哀しい気持ちにさせられる。まだ知りあって一ヶ月も経過していないというのに、もう随分と長い間一緒に野球をプレイしてきていた気持ちになっていたらしい。
 つい手に力が籠もって、握りしめていた紅茶のパックが非難めいた振動を微かに起こした。
「あ……」
 ほんの少し温くなってしまっている紅茶を、漸く思い出して天国はばつが悪そうな顔をした。御門が小首を傾げ、そんな彼を見下ろす。
「えっと……俺、今日キャプテンが誕生日だって聞いたから、マネージャーみたいになにも用意してなかったんですけ、ど……良かったらコレ!」
 なんだか自分でも、やっていて滑稽だと想ってしまう事だったけれど、天国は咄嗟に吐き出してしまった台詞に退くに退けなくなって、さっき人から貰ったばかりのパックの紅茶を御門に差し出した。握りしめていた分、少しだけ角がへこんでしまっていた。
 一方の唐突に予期していなかった天国の行動を受けた御門は、一瞬だけ目を見開いて驚きを表現したものの、即座に普段の冷静さを取り戻し苦笑を浮かべた。
「これは?」
 なにも用意してなかったと言いながら、では彼が自分に差し出しているものはいったい何?
 突き出された紅茶のパックを人差し指でつつきながらの言葉に、天国はばつが悪そうにもう一度視線を彷徨わせて結局、厨房で食事にありついていた事を素直に白状した。
 最後まで黙って天国の告白を聞いて、御門はふっ、と笑みを零す。怒られるかと覚悟していただけに、天国は恐る恐る彼を見上げ、笑っている事を確認してからホッと肩から力を抜いた。
「ちゃんと“ご馳走様”は言った?」
「言いました」
 小学生低学年の保護者みたいな事言わないで下さいと、必要以上に人を年下扱いする御門にふんっ、と鼻を鳴らした天国をまた彼は笑う。
「ありがとう。これは、じゃあ受け取っておこうかな」
 天国の手から紅茶を受け取り、己の胸元に収めて表面に印刷されている文字へひととおり目を通したあとで。
 御門は再び、天国を見た。
「ところで、チェリオ君」
 未だに根に持っているのですか、と聞きたくなるそのあだ名で呼ばれて天国も彼を見上げた。
 夜の深い闇の中で、御門の金色をした髪だけが異質に浮き上がって見えた。まるでこの世のものではない錯覚を覚えそうになり、天国は慌てて頭の中で否定する。
 ただ、どうしても消せなかった感想が、ひとつだけ。
 男の人を相手に、変だとは思ったけれど。
 今の御門は、綺麗だと思う。いや、普段の御門も充分凄い人なのだけれど。
「なんすか?」
 見つめられたまま問いかけられたから、見つめ返しながら尋ね返す。にっこりと微笑まれ、知らぬうちに頬が赤く染まった。
「“おめでとう”は、言ってくれないのかい?」
 すっと顔を寄せて言われ、咄嗟に天国は反応が出来なかった。間近に迫った綺麗な顔と澄んだ瞳に魅入られたように、ボーっとしてしまう。我に返るまで、五秒ほど必要だった。
「へ? え、あ……まだ言ってませんでしたっけ!?」
 情けなくも心臓がばくばくと音を立てて拍動を速めている。無意味に動き回る両手を律して、天国は吐いた空気をそのまま吸い込んだ。喉の奥で一度溜め、さっきよりも一層赤くなってしまっている顔で、御門を見る。
 相も変わらず、表情の読みにくい笑顔。
「おめでとう……ございます」
「聞こえないよ」
「誕生日おめでとうございます!」
 夜の、それなりに遅い時間であるに関わらず、周囲への迷惑顧みない大声で天国は半ばやけっぱちになりながら、叫んだ。
 御門が笑う。ほんの少しだけ、嬉しそうに。そして同じくらい、楽しそうに。
 つられて天国も一緒になり、笑った。
「有難う、チェリオ君」
「だからその呼び方、やめてくださいよ~」
 まだ笑い止まぬまま言う御門に、その肩を軽く叩いて天国は唇を尖らせた。それから今は御門が持っている紅茶の賞味期限が今日までである事を、背伸びをして彼の耳元に告げる。
 思わぬところに感じた息に多少驚きはしたものの、御門は微かな光でかろうじて見える印刷面に、確かに自分の誕生日と同じ日付を発見して頷いた。パックの側面にセットされたストローを、素早く抜き去る。
「じゃあ、今のうちに飲んでしまわないとね」
 パック上部にある差込口へ、先の尖った方を突き刺して御門が言う。頷いて返した天国を見下ろして、頭の横でそれを振った。
「半分こにしようか」
 もともとこれは、天国が手伝いをしたご褒美として貰ったものであり。今は御門が天国から誕生日の贈り物として貰い受けたものになっているけれど、飲む権利は天国にも残されているだろう。笑みを絶やさない御門の言葉に、天国は瞬間的に返答し損ねて曖昧に笑うだけだった。
 その顔を見てどう判断したのだろう。御門はパックを持ち直し、ストローに口を付けてひとくち、薄い黄土色をした液体吸い込んだ。そしてふっ、と息を吐いて一緒に咥えていたストローを外す。
 天国が茫然と、それを見上げていた。
 頬を撫でられ、目を閉じると同時に暖かな吐息を間近で肌に直接感じた。
 触れあった場所から流れ込んでくる液体を舌の上で受け、喉へと流し込む。コクン、と小さく上下した喉仏に御門が薄くだが、くちづけの合間に笑ったようだった。
「美味しい?」
 一旦離れたものの、吐息が交差する距離を保ったまま問いかけた御門の声に、天国は更にどこかボーっとした頭で呟く。
「なんか……熱いっす」
 温くなっているだけの紅茶が、酷く熱い。喉が焼けるかと思った。
 天国の返答に、御門は意外そうに、けれど楽しそうにしながら目を細める。
「それだけ?」
「え、と……」
 必死にことばを探そうとする手前で、御門は再び天国へと口付けた。今度は紅茶無しに、直に触れてその柔らかさに目を閉じた。
 身体の力が抜けそうになるのを堪えながら、天国もまた彷徨わせていた瞳を結局闇に閉じ込める。
 その直前に見つけてしまった、踏み潰された可愛らしいラッピングの箱の事など、次の瞬間最早頭の中になど残っていなかった。

02年4月22日脱稿

永遠の行方

 “大丈夫だよ”という言葉がこれほどまでに空々しいものだと、思い知らされた気分だった。
 そういえば、僅か数年しか経過していない昔にも似たような事件が起こっている。その現場には自分も――今回同様に――立ち会っていたのに、どうして今の今まで思い出さなかったのか不思議に思えた。
 同時に、彼にそんな言葉をかけられる人間が居ることも奇異に思えてならなかった。
「ほら、あの子だったら絶対大丈夫だって」
 また、だ。
 その言葉が決して彼の心を軽くしないものだと、学習しない人間がどうしてこの場所にこんなに多いのだろうか。出来ることなら今すぐ、奴らをこの場から放逐してしまいたい。けれど、一応あんな学のない連中でも、不本意ながら同じ宿星の下集った仲間であることは否定しがたく、自然と汗ばむ手をきつく握りしめる事しかできない。
 いや、違うか。
 ふっと頭の端を掠め過ぎていった考えに一瞬目を丸くし、直後自嘲の笑みが自然と零れてきてしまって、無意識のうちにそれを隠すため左手が持ち上がっていた。
 彼にかける言葉が見付からず、ただ何も語らず此処に立っていることしかできていない自分も奴らと同罪だ。それともあの場に居合わせながら何も出来ず、呆然と立ちつくしていた自分は、ひょっとしたらもっと罪が重いのかも知れない。
「だからさ、セレン……その、元気出して」
 戸惑い、同情、憐憫……そんな感情が入り交じった声が耳の奧を叩いていく。けれど放心したように一点だけを見据えて動かない彼には、その声さえ届いていないのだろう。
 結局過去の事件でも、こうやって自分は何も出来ず何も言えず、遠くから見守るだけだったような気がする。否、実際に何も出来やしなかったのだ。
 悔しいとか、そういう感情ではない。哀しい、とも少し違っている。解らないのだ、本当に。かける言葉が見付からない、それだけではなくて。この先彼を支えていく自信が無いとか、彼自身が今までと同様に真っ直ぐ前を見て立っていられるのかどうかへの、不安でもなく。
 顔を上げて、大勢の仲間に囲まれている彼の背中を見つめる。
 もとから小柄で、人並みに隠れてしまいがちだった彼の姿が今はより一層、小さくなって見えた。とても心細く、寂しげで哀しげで……けれど、きっと、今の彼の抱えている気持ちをそんな陳腐な言葉で表現して良いはずがない。
 やがて医務室のドアが低い軋み音を立てて内側から開かれ、周囲がどよめき立つ。けれど彼らの僅かばかりの期待をうち砕くように横に静かに振られたホウアンの首に、その場にいた全員が顔面を蒼白にさせた。
「嘘……だろ?」
 誰かが掠れた声で呟いた。それは、この場所に居合わせる全員の気持ちを代弁していたように思う。
「いいえ、残念ですが……」
 言いにくそうに、とても言いにくそうに俯いたままホウアンは言葉を返した。同時に、誰かが嗚咽を漏らし、それに呼応するようにあちこちから涙を懸命に堪える声が聞こえ始めた。
 その中心に居る、医務室の扉の真正面に立っていた赤い衣の少年は、逆に自失呆然として言葉もなく立っていた。
 立っているだけ、だった。
「セレン?」
 様子がおかしい事に気付いた少女が彼の名前を呼ぶ。だが反応は無い。もう一度呼ぶ、矢張り結果は同じ。
 ――同じだ……
 記憶がまざまざと甦り、重なり合う。
 本当に哀しいとき、人は涙を流すことさえ忘れてしまうのだという。あの時の彼がそうだったように。
 そして今目の前に居る彼も、同じになってしまうのだろうか。
 感情を押し殺し、自分を消し、ただ前ばかりを見て後ろを振り返り時には立ち止まって休むことさえ忘れてしまった、あの時代を生きた人のように。
「セレン」
 出そうとした声は、呑み込まれて喉の奥に萎んで消えていく。伸ばしかけた手は反対側の腕で押さえ込んだ。
 言えるのか、言えるはずがない。
 哀しいことなど経験したことがない自分に。大切な人を失うどころか、その大事な人さえ持ったことがない自分に。彼が沈んでいるであろう闇から引き上げられるだけの言葉も、力も持ち合わせていない自分に。
「セレン、しっかりしなよ、セレン!」
 返事のない彼の肩を揺さぶり、少女は叫ぶ事を止めない。事態の異常さに気付いた他の仲間達も泣くのを止めて、彼を見守る。
 泣けない事ほど辛いことはない。何時だったかあの彼が言った。
「セレンを部屋へ!」
 確かにあの彼が泣いている姿は一度も見たことがなかった。
 親友が死んだとき、父親が死んだとき、母親代わりだった男が死んだときでさえ――彼は涙を人前では流さなかった。
 でも泣いていたのだろう、何処かで。一人きりになれる時間を見つけて、泣いていたのではないか? 
 それとも彼の言葉通り、彼は泣かなかったのか? 一度も、一滴たりとも涙を零しはしなかったのか?
 リーダーであるがための、それが宿命?
 莫迦らしい、と握りしめた手の皮が裂けて血が流れるのにも気付かずに力を込め続ける。
 泣けない彼の代わりに、赤い雫が床を濡らした。

「ルック」 
声がして、少し遅れて階段を下りてくる足音が聞こえてきた。
「セレンだったら、上に居るよ」
 屋上へ出る階段の踊り場に立っていたルックは、上から降りてくる緑のバンダナを頭に締めた青年を渋い顔で見上げる。薄明かりの中で彼の表情を目聡く把握した青年は、カラカラと笑い声を上げて踊り場までの数段を一気に駆け下りてきた。
「君でもそんな顔するんだ」
 随分と長いこと一緒だっただし、肩を並べて戦ったこともあるからある程度は君のことを理解していたつもりだったけれど、と余計な言葉を付け足して青年はルックの肩を不躾に叩いた。
 最初に見かけたときのこの青年は、今よりももっと小さくて頼り気もなくて無口だった。けれど最後に見かけてからのこの三年間で随分と喋るようになった気がする。表情も豊かになっているし。
「ん?」
 仏頂面で見返しているルックに気付き、首を傾げた彼はそれでも彼の肩に置いた手を離さずにいる。
「何をしていたんだ?」
「世間話をしにね」
 言葉の足りないルックの問いかけに、即座に彼が何を聞きたいのか理解した青年はふっと表情を緩めて言う。その顔がいかにも嘘臭く、益々嫌そうに眉を寄せたルックを彼はまた笑った。
「随分と変わったな」
「昔に戻ったと言って欲しいね」
 少なくとも君に出会うような事件が起こる以前は、自分は今のように良く喋るし、笑うし、表情もコロコロ変わって我が侭三昧の生活を送っていた。事も無げに言い切った青年に溜息をつくと、まだ肩の上にある自分のものではない体温を押しのけ、ルックは片手で顔を覆う。
「ルックは変わってないみたいだ」
「ラスと違って、僕は昔から今みたいだったんだ」
 趣旨返しのつもりで言い、緩く首を振る。
「あ、成る程ね」
 ぽん、と手を打って納得顔で頷いた青年に一瞬むっとなったが、ルックは彼に怒っても意味がないと思い直して感情を押しとどめる。その一連の感情の動きは一秒にも満たない間に行われたのだが、彼の前に立つ青年には読みとられてしまったらしい。
「言いたいことがあるときは言った方が良いよ」
 ルックの心を見透かした青年のひとことに、軽く肩を揺らしても彼は答えない。答えるべき言葉が見当たらなかったからだ。
「ルックの、悪い癖だから」
 どうでも良いことには多弁なのに、肝心なとき君は口を開こうとしない。言えるはずの言葉や言いたいはずの言葉さえ呑み込んで、消し去ってしまう。そうやって君は、自分が大切だと思えることから絶えず目を逸らし、それをどうでも良いこととして納得させて消化させて来た。
「違うかい?」
 最後は、問いかけ。けれどそれまでの青年が口にした内容は確信を持って放たれた残酷なまでの現実を表沙汰にする、彼の心を抉る言葉だった。
 そういえば、彼はおおよそ優しいとはかけ離れた性格をしていたな、と今頃思い出してルックは舌打ちした。
 彼は確かに優しい、だがそれは無慈悲なまでに平等な優しさだった。
 慰めを与えない、慈悲すらも。
 彼が与えるのは強さだ、自分自身で立ち上がるだけの、己を奮い立たせるだけの、本来人が持つ勇気や、希望と言ったものを外側から擽ってやる、そういったものが彼の持つ優しさの本質なのだ。
 彼は選ばせる、常に人に、自信の運命というものを。
 だから彼は強かった、誰よりも強くあった。
「狡猾さは、相変わらず」
「御陰様で」
 皮肉で言ったつもりだったのが、にこりと微笑み返されてしまって二の句が継げない。
「……それで、その狡猾極まりないラスはセスに何を吹き込んできた?」
「酷いな……まるで僕が悪者みたいじゃないか」
「事実だろう?」
 卑屈な目を向ければ、青年はやれやれと肩を竦めてみせる。毒舌なのは自分の持ち味と理解しているルックだけれど、どうやら三年間各地を放浪してきたこの青年はそれを上回る智慧を手に入れたらしい。確かに、口八丁は世の中を生きていくための重要な手段である。しかしこんな場面で使われるのはどうも、悔しい気がしてならない。
「言っただろ? ただの世間話」
 それだけだよ、本当に。
 カラカラと本当に良く笑う。砕けた表情に訝しみの顔を向けルックは一段、上へ続く階段を登った。
「僕は」
 いい加減無駄な会話を終わらせてやろうという意識が見え見えのルックの背中に、ラスティスは声をかけ続ける。
「君が変わっていないとは思わない」
 時間は流れて、その間に生きた人は良くも悪くも成長する。もしくは経験を積み重ねている。時間の経過は決して無駄ではない、譬え一瞬、一日、一年の時が無意味のようにただ過ぎるだけのように感じていたとしても、十年後、二十年後にその日を振り返ったとき、必ずそこには無駄ではなかったと思える一秒が存在しているはずなのだ。
 自分では気付かないとても些細な事かも知れない。どうでも良いようにその時は思える刹那かも知れない。それでも、確実に人は成長する、変わっていく。それが、ヒトという生き物の宿業なのだ。
「ルックは変わったよ、充分」
 君は気付いていない……気付きたくないと思っているのだろうけれど。そう付け足してラスティスもまた、下へ続く暗い階段を下り始める。
「変わった……僕が?」
「うん」
 振り返った先で、ラスティスが背中を向けたまま頷く。何処が、と聞きそうになったルックは自分が思いのほか動揺していることに気付いて慌てて言葉を呑み込んだが、空気は伝わってしまい、またしてもラスティスの肩が揺れて笑みが聞こえてきた。
「そうやって……直ぐに顔に出るところとか」
 優しい目つきが出来るようになったとか、人の話をちゃんと聞くようになったとか、相手の事を考えられるようになったとか、そう言うところが。
「生意気なのは変わってないけどね」 
 くるり、と体の向きを変えて不意打ちでにっこり微笑んできたラスティスに思わず赤面してしまい、彼の言葉が案外図星であることに実は気付いてしまっていたルックはまだ傷が塞がっていない手を握りしめると騒音妨害で訴えられそうな声で怒鳴っていた。
「どうせね!」
「あはははは!」
 実に愉しそうに、ラスティスは笑った。腹を抱え、あまつさえこぼれ落ちた涙を拭ってまでいる。その姿に憤慨して更に怒鳴ってやろうとしたルックだったが、石組みで案外音響効果が宜しい城内に自分の声が薄く反響しているのを聞いて、咄嗟に我に返った。
「…………っ」
 まさに一生の不覚、と言いたげなルックの顔を天井に近い明かり窓から差し込む月明かりだけで見据えたラスティスは、笑うのを止めるとふっと表情を真顔に戻した。
「良いと思うよ、それで」
 囁くように、ラスティスは告げる。
「ルック……君を変えたのが誰か解っているのなら……」
 それは呪文のようであり、過去の出来事を記した書物を読み上げているようであり、またこれからの未来を占う予言のようでもあった。
「君も、その誰かを変える力を持っているのだとは、考えられないだろうか?」
 問いかけのようであり、確信を込めた言葉だった。
「随分と性格が歪んだみたいだね、ラス」
「お互い様」
 皮肉は、またしても満面の笑みでかわされてしまった。
「世間話で良いんだよ」
 ひらり、と手を振ってラスティスは体の向きを戻すと階段を下りる動作を再開する。次第に闇に溶けていく背中を、階段の手すりに身を乗り出して覗き込んだルックは、その無意識とも言える己の動きに戸惑いながらも声を掛けることだけは止めなかった。
「ラスは、それで足りたのか!?」
 あの時、あの日。
 城中が哀悼の意味で沈黙した日。何も語らず、何も告げず、ただ背中越しに互いの存在を感じあいながらも一言も言葉を交わさなかった自分たち。
 そこに、居るだけの自分たち。ラスティスが言うような世間話さえ、あの空間にはあり得なかった。
「ルックは言っていたよね、『自分を信じろ』って」
 はっとなって、言われた言葉を頭の中で反芻しルックは目を見開く。
「世間話だったんだよ、本当に単なる。ちょっとした思い出話も兼ねた」
 ラスティスが何のことを言っているのかようやく思い出したルックは、微かに顔を赤らめて余計なことを、とまたしても笑い出した背中に愚痴をこぼした。
「良い言葉じゃないか」
 レックナートからルックへ、ルックからラスティスへ、そしてラスティスからセレンへ。受け継がれる言葉は、感情は、何もひとつきりではない。
『君の思いに従って集まってくる人が絶えない限り、君の選んだ道は正しい。少なくとも、君が諦めてやめてしまうまでは』
 約束の石版の前で告げられた、限りなく優しく限りなく心強い言葉は今もラスティスの胸に息づいている。それはきっと、ルックだって同じはずだ。
 自分を信じ、他人を信じ、思いやり、諦めず、前を見据えて、哀しみを乗り越えて、優しさという強さを手に入れた。
「信じてあげて」
 彼の強さを。そんな簡単に折れてしまうような心じゃないはずだから、でも今は横で黙って支えてくれる柱があった方が良い。あの時の、あの日の君のように。
「古い話を持ち出して……」
「良い思い出じゃないか」
「何処が」
 僕にとっては忘れたい思い出だよ、と呟いてルックは手すりから身体を離した。
 また笑い声がする、けれど次第に足音と共に遠ざかっていって何故かホッとしてしまった。
 そして思い出し、とまっていた足を持ち上げてラスティスとは逆にゆっくりと階段を登っていく。恐らく、この城の主でありラストエデン軍のリーダーである少年がいるだろう屋上へ続く暗い階段を。
 正直言えばあまり気が進まない。足は重いし、かける言葉だってなんどシミュレートしても思いつかない。こういう役目は自分に向いていないと解っていながら、なのに身体は自然とこの先を目指している。
 これも宿業なのか、と考えたら莫迦らしくて笑いたくなった。
 扉を開けて、外に出る。吹き込んできた風に顔を顰めて踊る髪を手で押さえつけ、後ろ手に扉を閉めれば月夜の下で赤い衣の背中が見えた。
 相変わらず、細くて小さくて頼りなさそうな印象しか与えない。
「セス」
 その背中に、思い切って声をかける。随分と時間がかかって、ようやく寂しげな表情を隠そうとして余計に寂しそうな顔をしている少年が振り返ってルックを見た、どこか遠慮がちに。
「…………」
 その顔を見てしまうと、出そうとして用意していた言葉が一気に萎んで何処かへ行ってしまった。思い出そうにももはや記憶の彼方へと飛んでいってしまったらしく一向に浮かんでこない。
 どうしようか、と我ながら格好悪いと思いつつ焦っていると向こうが不思議そうな顔をして小首を傾げるものだから、余計に何かを言おうと必死になっていた。だから、
「世間話でも……しよう」
 そんな言葉が口から飛び出してきて、ルックはその瞬間、ラスティスの笑い顔を思い出し非常に不愉快な気分にさせられてしまったのだった。
 対するセレンもまた、呆気にとられた顔をしていた。が、不意に吹き付けた風に星月夜を仰ぐと柔らかく微笑んだ。
「有り難う」
 そう、呟きながら。

jester

 独りで居るよりは、誰かと触れあってその温もりに安心していたい。
 けれどその環境に慣れてしまったとき、失った時の喪失感はとても大きくて自分は酷く脆く砕けてしまいそうになる。
 だから、求めないことにした。
 温もりを手にしさえしなければ、自分は何処までも強くあることが出来ると信じていた。そうやって生きてきたし、これからもその意志を貫くつもりで居た。
 表向きは良い奴を演じていれば楽。少しだけ変な奴を装えば、周囲は道化を喜んで受け入れてくれるしあっさりと馴染んでくれる。道化の仮面の顔を鵜呑みに信じ込んでその内側まで入り込んでくることがない。
 だから、楽でいい。
 いつの間にかどれが本当の自分であったのかも忘れるくらい、そうやって自分を飾り立てる時間が長くありすぎて、初めから自分はこうだったのだと自分でも思うようになった頃になって。
 ……いいや、やめておこう。
 考えても栓のないことだし、答えなんて出てくるものじゃない。少し悩んで出てくるような答えが正しかったのなら、きっと今自分はこうしてこの場所に存在することもなかっただろうから。
首を振って腕を伸ばし、反動を利用して身体を起こす。寝転がっていた為に地面に接していた背中から、千切れた細い草が幾本か揺れて落ちていった。
 はらはら、はらはらと。
 そして若草色一面に彩られた大地の中に、千切れた草は埋もれて姿を隠し見えなくなる。それはやがて腐り養分となるべく土に還るのだろう……長い年月をかけて。
 掌を埋めている草の間から腕を引いて、地面の微かな湿り気を伝えている手袋を外す。けれど本来人であるものならばその下にあるはずのものが、彼の瞳に映し出される事はない。
 其処に確かにあるけれど、目に映らない不確かなもの。
 少しだけ力を入れて、指先を曲げ握り開きを繰り返してみる。けれど矢張り、周辺に伝わる空気の動きは微々たるものでしかなくそこにあるはずのものを確かに存在すると証明するだけの根拠を、与えてくれない。
 触れることは出来るのに、あるはずなのに、無いもの。
 掌を頭上に掲げて、傾きかけている太陽に透かしてみる。けれど陽光を遮る事もなくひかりはそのまま彼の瞳へとこぼれ落ちてきて、彼は自然と目を細めた。そのまま目を閉じる。
 持ち上げていた腕を下ろして脇に落とすと、長く深い息を吐き出した。閉じた瞼の向こうで風がサラサラと流れていくのが分かる。落とした腕の先は草の中に再び隠され、風に薙いだ草の葉に擽られていた。
 草木は確かに、彼の見えない手のひらを感じてくれているのだと思えて、安心した。
 息を吐ききって、吸い込む。微かに熱を持っていた喉の奥が冷やされていく感じが胸いっぱいに広がっていく。緑の匂いが混じった風は心地よく気持ちが良い。それに、此処は人が滅多に訪れないから静かで自然も豊かだ。
 偶に、此処に来る。特別何をするわけでもなく、ただぼんやりと座ったり寝ころんだりして空や、大地や、草花を眺めて時間を潰す。流れる雲を数え、どんな形に似ているか考えたりして時には笑みを浮かべあるいは、風の中で佇み一時間も二時間も同じ姿勢で目を閉じ続ける。
 なにかをするわけではない、ただ自分というものを感じていたいから此処に立っている。
 けれど酷く曖昧で朧気な自己というものは、案外簡単に足下を危うくさせて崩れていく。時折真剣に悩んでしまうのは、ひょっとしたら自分というものは“居る”と自分が感じているだけで実際はもう何処にも居ない存在なのではないか、という事。
 道化を演じる自分が長すぎて、本当に自分らしい自分がいかなる姿形を持ってこの世に存在していたのかを忘れてしまったように。
 自己という確固たる何かは空気の中へ風と一緒に溶けだしてしまったのではないか。
 そんな疑念が頭を過ぎり離れない。
 自分が何処でどのようにして生まれたのか、その記憶すらぼんやりと薄れて今となってははっきり思い出せない。最初から存在しなかったのでは? そう考えるとでは今こうやって考えているこの自分という意志はなんであるのかが見えない。
 迷いを吹っ切るように、瞼を開いた。
 眩しすぎる太陽の光は、けれど日中の痛いばかりの日差しよりは幾らも和らいでいる感じがする。
 夕暮れが近いのだろう、西に大きく傾き始めている太陽は地平線上を漂っていつもより大きく見えた。柔らかな朱色を棚引かせて薄く伸び広がる雲を染めている、そのコントラストは毎日眺めていても飽くことのない自然が生み出した天然の絵画だ。
 そっと溜息をつき、首を振る。まだ頭の上に残っていたのだろう、草の葉が一枚ひらひらと落ちてきた。
 それを着地寸前で手の平に受け止め、指先で細くなっている部分を抓み持ちくるくると回す。表と裏、微妙に色や手触りの異なる葉をじっと目を細めて見下ろしてもう一度溜息をつきかけたとき、何処かで誰かの泣いているような声が聞こえた。
 気のせいだろうか、人の気配は相変わらず微塵とも感じられない。
 座ったまま見える範囲内で視線を巡らせてみるが、声の主は矢張り見当たらない。風の音だろうと自分で納得させて、持ち上げたもう片方の手で首の後ろを引っ掻くように撫でる。だがまた、声は聞こえた。
 今度こそ、はっきりと。
 はっとなって、腰を軽く浮かせて後ろを振り返る。
 どきり、と胸が高鳴り同時に針で刺されたときのように痛んだ。
 子供……それも、かなり幼い。泣いているのだろう、両手で顔を覆って俯きながらゆっくりとおぼつかない足取りで歩いている。紺碧の髪がその度に左右に軽く揺れた。
 けれどなによりも特徴的なのが、所々擦り切れている衣服から覗く手足や頸部、あらゆる箇所を覆い尽くすように巻かれた包帯であろう。全身大火傷、という様子ではない。そのような痛々しさは幼子の中から感じ取ることは出来ない。
 ただ何処までも深く底のない哀しみだけが伝わってくる。

 アレハダレ

 ちりり、と頭の奧で鈴が鳴った。
 幼子は泣きやまない、声も立てず息を殺して涙を流さぬよう懸命に堪えながら、歩き続けている。
 手を伸ばし、いつもの戯けた調子で幼子を慰め笑わせようという精神が麻痺したかのようにまったく反応を返さない。ぴくりともその場から動くことも出来ず、息を呑み見守る事しか。
 幼子は明らかに迷子だった。けれど彼は誰かを捜している素振りもなく、また彼を捜しに来る存在もない。
 ひとり――――独り。
 還る場所もなく、また行き着くべき場所も持たずに彷徨い続けている。当てもなければ頼るところもない。それでも一箇所に留まるよりはまだマシと、歩き続けて立ち止まり休むことを忘れた、子供。
 手を差し伸べられることもなく。
 誰かに支えてもらう事もなく。
 優しさに触れて、裏切られる事を覚えて誰も信じなくなっていく子供。
 そう、子供だ。
「ぁ……」
 自己存在を否定し、なにもかもを拒絶して自分を生み出した世界を憎んだ。
 薄れていく、自分という個。今にも風に飛ばされて消えてしまいそうなくらいに確実性に欠ける自分。曖昧で境界線を持たない、だからこそ自分が、今何処にいるのか本当に此処にいるのかを自分で疑ってしまう。
 幼子は泣きやまない。涙を流さず嗚咽も漏らさず、ただ心で泣いている。だのに歩くのを止めようとしたい姿に胸が痛んだ。
 止めてやりたい、出来るのならば。もう良いんだと言ってやりたい、けれど出来ない。
 あれが誰であるか、本当は知っているから、嫌というくらいに分かってしまえるから。
 呆然と幼子の背中を見送る。結局声を発することも出来なかった意気地なしの自分が哀しくて、半開きになっていた唇を噛みしめようとした。
 のだ、けれど……。
 唐突に世界を切り裂くような強烈なクラクションとそして。
 目の前を星が飛び散るような後方からのこれもまた強烈な一打が同時に彼の世界を打ち壊していった。
「って!!」
 数度瞬きを繰り返し、三秒ほどかけて今自分の身に何が起こったのかを順を追って理解しようとした彼の後頭部にまた、容赦ない鉄槌が下された。クラクションの音も、最初の時よりはインパクトが薄れているもののまだ喧しく鳴り響いている。
「目が覚めたか、スマイル」
 ぽかーんと情けなく口を開いたまま、彼は自分に二発も放り込んだ相手を見上げた。
 中腰に近い状態で後ろを振り返るために腰を捻っていた彼は、今姿勢を正して正面を向いていた。その手前には黒いコートで身を包み、偉そうに腰に手を当ててふんぞり返るという、一見尊大な態度の美貌の青年が立っている。
 風になびく銀糸がキラキラと夕日を受けて輝いていた。
 強い意志を秘めた紅玉の瞳が、苛立たしげに彼を睨む。まだ響いているクラクションの発生源である、現在地から少し離れた細い車道に停車中の車に「喧しい!」と怒鳴る姿もどこか優雅だ。
「この私に、貴様如きを捜させるとは良い度胸をしている」
 無理に笑顔を作ろうとしているのだろうがその努力だけは認めるけれど、という米神に青筋を何本も立てた顔で青年は彼に言う。
「今日のスケジュールを、よもや忘れていたとは言うまいな」
 高慢で威圧的な物言い、その発言内容に「あれ?」と首を傾げたのは他でもない。
「スマイル?」
 仮面のような笑顔を浮かべている青年がとても怒っているのだと、スマイルは容易に察することが出来た。
「え、あ、その……ねぇ?」
 両手を合わせて指を互い違いに忙しなく弄りながら、視線を泳がせてスマイルは無意識のうちに座ったまま後退しようとしていた。しかし、座っているものと立っているものとのコンパスの差は歴然としている。
「忘れていたのだな?」
 確認の言葉を口に出すと同時に、青年の拳が問答無用でスマイルの脳天を砕いた。
「まだ何も言ってないってば、ユーリ!」
 頭を押さえ、非難の声を上げるスマイルだったがどのみち、返事をした瞬間に殴られていただろうから痛みが少し早く訪れただけである。
「今日はプロモーションの撮影があるからスタジオに集合。私は確かに伝えて置いたはずだが?」
 ぺしぺし、と自分の手を叩き合わせているユーリの声に棘がある。目が据わっている、完全に頭に血が上っている。
「そうだったっけねぇ……?」
 惚けてみせるが、今のひとことでしっかりと思い出していた。確かに、そんな事を言われた記憶がある、昨日の夕食の後だったはずだ。それに、撮影の予定はもうずっと前から決まっていて、昨日伝えられたのは集合場所と時間だけ。日取りは二ヶ月近く前から決定していた。
 だから、これは単純に自分のミス。
 誤魔化し笑いを浮かべてみても、ユーリには通用しない。相変わらずの引きつった笑顔のまま、もう一発殴る体勢を整えている彼にスマイルの背中には冷たい汗が流れていった。
 逃げた方が、良いかも知れない。このまま此処にいては確実に殺されるような気がする。だけど逃げても殺されそうな予感がしてどうも動くことが出来ない。
 ああ、こんなところで人生終わりを迎えるのかと信じても居ない神に祈りを捧げかけたところで、アッシュの騒々しい声が響き渡った。あの、クラクションのように。
「ユーリ、スマイル! もう遅刻どころの時間じゃ無いッスよ!」
 腕時計を指さしながら駆けてくる彼に、ユーリがはっとして自分の時計を見る。スマイルは手元にそれがなかったので、替わりに成るものとして沈みかけの太陽を見た。
 記憶にある限り、撮影開始の時刻は正午前だったはず。
 ……確かに、既に遅刻云々の時間ではない。
「しまった、行くぞ!」
 時計で現在時刻を確認し、一瞬途方に暮れかけていたユーリだったがものの一秒も経たない間に我を取り戻す。そして自分たちを呼びに来たアッシュと、そしてすっかり怒っていたことも忘れてスマイルの襟首を掴むと信じられない剛碗ぶりをはっきりて駆け出した。
「いでっ、いててててっ!」
 引きずられて強かと背中を打ちつけるスマイルと、なんとか自力で走りながら引きずられることだけは回避したアッシュ。同情に似た目が地面で跳ねているスマイルに向けられた。
 プロ意識だけは非常に高尚なユーリは遅刻を嫌う。時間には厳しいし、やるからには常に全力投球。その彼が、仕事を放り出して。
「急げ、アッシュ!」
 此処まで乗ってきたアッシュ運転の乗用車、後部座席のドアを開けてスマイルを車内に放り込むと彼は反対側の扉から車に乗り込む。べしゃっ、と投げ出された状態でシートに顔を埋めていたスマイルを気の毒そうにバックミラーで眺めたアッシュは、ユーリに扉を閉めてくれるよう頼みエンジンをかける。
 ドゴゴ、と低い音を立てて車体が揺れエンジンが起動を始める頃ようやく、立ち直ったスマイルは痛みを堪えながら起きあがりシートに座った。
「飛ばすッスよ~!」
 シートベルトは締めましょう。
 ギアを入れアクセルを全開にしたアッシュが叫び、瞬間、黒塗りの乗用車は猛スピードで走り出した。
 見る間にあの草原は遠ざかり、間もなく太陽も地平に消えて闇が訪れる。表通りに合流して、テールランプが穏やかに流れる中に三人を乗せた車は目的地を目指す。
 決して乗り心地は良いとは言えない規定速度オーバーの運転に肝を冷やしながら、スマイルはふと、隣に座るユーリを見た。
 どうして、彼は仕事を蹴ってまで自分を捜しに来てくれたのか。清麗な彼の横顔を眺めながらの問いかけに、運転中のアッシュが少しだけ速度を緩めて小さく笑ったようだった。
「だって、三人揃わないと意味が無いッスから」
 今回の仕事は単独のものではなく、deuilとして受けた仕事だった。だから、三人全員が揃っていないと仕事にならないのだと彼は言う。
 ユーリは、前をじっと見据えたままだ。アッシュの言葉に頷くでも否定するでもなく、聞いているのかいないのかさえその表情から読みとることは難しかった。
 けれど、とスマイルは思う。
 そっと伸ばした手を、シートの上に投げ出されたユーリの手に重ねた。手袋を外し、姿を失っている手の平で包み込むと一瞬だけ、ユーリの方が僅かに揺れ動いた。けれど彼の瞳は揺るがず、スマイルに向けられる事もない。
「ありがとう」
 探しに来てくれて。
 顔を向き合わせることなく呟いて、握り込む手に力を込める。諦めたように、ユーリは長い息を吐き出した。そして背中をシートに凭れ掛けさせる。
「仕方がないだろう、お前が居ないと仕事が始められない」
「仕方なく?」
「そう、仕方なく」
「仕方無いッスよね~、スマイルだから」
 ハンドルを軽やかに操作しながら、アッシュも調子を合わせて言う。
「ぼくだから?」
 不思議そうに自分を指さしてスマイルは首を傾げた。横目でユーリを見ると、彼もアッシュの言葉に同意しているのか何度か浅くだが頷いている。
「そっかぁ」
 ぼくだから仕方がない、から。
 理由も特別なく、ただ一緒にいることがもう当たり前になってしまっている。だから、誰かが居ないと落ち着かなくて、仕方がないから探しに行く。それも、当たり前になってしまっていることのひとつ。
「本当、仕方ないよねぇ」
「お前が言うな」
 コン、と横からユーリの手が小突いてきた。
 痛くはなかったけれど、かわりに心が温かくなった。
 手を、差し伸べられた気がした。この暖かさを心地よく思った。失いたくないと思った、信じたいと願った。
 久しぶりに道化師でない自分を思い出した気がして、それが可笑しくて、また笑った。

小休止

 夕焼け小焼けの赤とんぼ
 負われて見たのはいつの日か

 一面のススキヶ原で君を見つけた。
 草むらの中に埋もれるようにして、その中に一本忘れ去られたように立っている小さな棒に向き合っている。その顔はとても真剣そうで、見つけた時に思わず呼びかけようとした声を呑み込んでしまった程だ。
 だけれど、声は抑えられても進み続ける足が掻き分けるススキの音は止めることが出来なかった。
「あ」
 短い、君の呟きが耳に届く。その手前を、ひとつの細長い何かが飛び去っていった。
 透明な羽を震わせて空を駆け上っていく、振り返ることも何かを遺すこともせずそれは夕焼けに染まる赤い空を飛び去っていってしまう。
 とても残念そうな君の顔が向こう側に見えた。悪いことをしてしまっただろうか、僅かな後悔が胸を過ぎる。だからそれ以上進むことが出来ずに立ちつくしていると、悔しげに舌打ちして空を仰いでいた君が先に僕に気付いた。
「あれ、どうしたんだよ」
 暢気で明るい、今までの表情が嘘のような気楽そうな声が聞こえてきて、顔を上げる。視線がかち合って、こっちは気まずい思いを抱えているというのに向こうはまるで気にした様子がなかった。
「なにを、していたんだい」
 けれどそれが君なのだろう、気を取り直してひとつ息を吐き、言葉を呟くついでに歩き出す。
 ススキの穂が揺れる、風に棚引き夕暮れの朱に金色が映えた。
「ん? あぁ、トンボ」
 言葉の意味を一瞬理解しかねたらしい君はほんの数秒考え込み、じきに答えを導き出して何でもないことのように、本当になんでも無いことを口に出す。
「蜻蛉?」
「うん、そう。居ただろ、今さっきまでここに」
 そう言って君は、自分の目の前にある地面に突き立てられた棒を指さした。何に使われていたのか分からないが、何かの境界線を示すかのようにこのススキ野原には何本もの棒が無造作に、あちこちに突き立てられている。そのうちの一本の先に蜻蛉が留まっているのを、少し前発見したのだと君は笑った。
「それで?」
「だから、さ。こうやって……」
 先を促すと、君は苦笑いを作って人差し指を立てた。そして空に向かって指先で渦巻きを描く。意味を計りかねて首を捻ると、やっぱり分からないよな、と予め予想していたらし僕の反応をまた君は笑う。
「いや、さ。俺の居たところじゃこうやって……トンボの前で指を回したらトンボが目を回すって言われてたから」
 試しに実践してみていたんだ、と軽い調子で笑い飛ばしながら君は言った。聞いていて呆れてしまう。
「そんなはずがないだろう?」
「やっぱキールもそう思う?」
 自分でも無理な事だと分かっていたらしい、君が困ったように頭を掻いた。だけれど、僕は思う。
「けれど、君らしいと言えば君らしいかな」
「バカにしてないか、なんかそれって」
「そんなことはないよ、ハヤト」
 微笑みながら告げる、拗ねた顔をしている君はやや頬を膨らませたまま暫く僕を恨めしげに睨んでいたがそのうちに飽きたらしくいつのも表情に戻る。
 どこか子供っぽさを残した、けれど青年の表情へと。
「さ、帰ろう。みんなが待っている」
「そうだな」
 ススキ野原に長い影が伸びる。ふたつ並んだそれは、やがてひとつに繋がって去っていった。