鬼哭

 大地は血に濡れてどこまでも赤く。
 空は嘆きに埋もれどこまでも暗い。
 失われたる平穏と、奪われたる楽園は今、果たして何処にか在らん。
 捜し求めることはもはや無意味なのか。失われたものを取り戻すことは叶わないのか。
 救い主を求める無数の手を逃れて荒野を駆け巡り、無情なる天に向けて咆哮に似た叫び声をあげたところで、いったい誰の耳にその声は届くのだろう。
 忘れがたき願いと、忘れたくない想いが胸のうちにある間は平気だと信じてきた過去が愚かに思えてならない。一体どこで間違えたのか、それすらも分からないまま夜は耽けていく。
 救いたかったものは何。
 守りたかったものは何。
 確かにあの闘いの中で自分達は掛け替えのない何かを手に入れただろう。しかし、同時に失うものも多すぎたから。悔やまずにいられない。もっと力が有ったのなら、と。
 そう、自分達には力があった。使うことを許された、天に与えられた無比の力が有ったはずだ。なのに今、この手の中に有るのは虚無に似た寒さを訴えてくる心だけで、それすらも指の間からさらさらと、砂が零れ落ちるように流れ出て消えてしまう。
 何も残りはしないのだと気づいたときには、もう手後れだった。取り戻そうと足掻いた報いだけはきっちりと罰として与えられて。
 なにも残りはしなかった。
 虚無だけが心を流れて行く。
 静かに、しんしんと。
 雪が降るように心は白に包まれて。
 もうなにも見えない――

 古い伝承。
 ただの噂、けれど長く伝えられた物語。
 大きな谷。年中霧に包まれた山奥深く。風が吹き付けて不気味な音が響くその谷は、遠い時代から人々の口でこう語られてきた。
 あの音は風の音などではない。そうであろう、あれほどに腹の奥に響く薄気味悪い声が風であるはずがない。
 しからばあの音は何か。
 合いの手を返す口がこう告げる。あれは鬼の声だと。
 死して死にきれなかった生者が現世に未練を持って嘆いている声なのだと。
 人の命は魂魄。魂は死して後天に帰るが、魄は肉体に残るという。魄が陰の気の地に埋められると鬼になる。鬼は死者、あの声は鬼の声。
 鬼が哭く声。
 故にか、いつ頃からかこの谷は死者の世界と繋がっていると言われるようになった。嘆きの死者に逢える谷だと、人は口々に噂した。
 どうしても別れがたい人と死に別れた人は、再び相手と見えようと願って谷を目指した。
 そして誰一人として谷を行った人は帰ってこなかった。
 だからこの谷には二つの名前がある。
 霧深い鬼の哭く死者の還る谷。そして、生者を食らう凍りの谷。
 その谷を目指し、今日もまた人影が静かに歩んでいた。
 まだ年若く、華奢な体躯の少年である。とても死んだ人間に縛られている風には見えない年格好だ。
 荷物は何一つ持っていない。否、おそらく山に入った頃にはまだ食料も水も十分なだけ持っていたに違いない。しかし現在の彼には、それらのものが失われている。
 よろよろと頼りのない足取りは如実に疲れを物語っている。しかし少年は虚ろな瞳ながら足を止めようとはせず、もはや義務と化した歩みを繰り返している。
 一歩一歩、前へ、前へ。
 汗は涼しい風が浚っていく。薄汚れた衣服は所々摺り切れており、汗が結晶化した塩がこびりついていた。
「はぁっ、はぁっ」
 喉が渇く。最後の食料を口にしてから、はたしてどれほど時間が経過したのであろう。太陽の光も届かない霧がかった谷の奥底を目指した時から、二度と国には戻らないことは覚悟してきたけれど。
 目的の場所に辿り着けないまま自分が死んでいくのだけは避けたかった。
 だから、もはや棒となり、痛覚も何もかもが失われて久しい足にむち打ってこうして歩き続けている。
 口内に堪った唾を飲み下し、少年は激しく咳をしてその場にしゃがみ込んだ。血が、押さえた手のひらに滲んで、惨めな自分を見せつけている。
 あれから、あの日からどれだけ年月が経過したのか。無理と苦痛に耐えてきたこの肉体は、自然の法則を歪めて保たれた若さにも限界を受け止めようとしていた。
 それは報いだと少年は感じた。
 ただ一人だけ生き残った罪、償いきれなかった大きすぎた罪への、償い。
 だからこれは仕方のないことなのだ。罪は甘んじて受けよう、どれほどの痛みとなろうとも。
 けれど、ひとつだけ。悔いが残るとしたら君のこと。
 もう一度、一瞬だけでいい、君に会えるのなら。
 民間のたわいもない伝承でしかないとしても、それに縋るのは自分の弱さだと認める。けれど、どうしても、君に会いたい。
 許されるなら、もう一度だけ君に。
「ジョウイ……」
 唇を濡らす血を拭い、少年は立ち上がった。荒い息を吐き、震える膝を叱咤して前をまっすぐに見据える。この霧の向こうに、目指す場所があると信じて。
 ゆっくりと歩き出す。
 背後を風が吹き抜けた。静かだが、重い風だった。
 そしてやがて、少年は目の前に開けた河原のような場所に出会う。
「ここは…………」
 呆然として、少年は足を止め呟いた。
 河原、という表現は正しくあって間違っている。そこは今まで彼が歩んできた道と同じく、大小の石が転がる荒れ地だった。しかし異なるのは、その場所が道の幅を五倍した広さを持っていることと、奥行きも先を見ることが出来ないほどにある、ということ、だ。
 霧がまだ周囲を包んでいる。視界は至極悪い。しかしその白くぼやけた世界の中に、幾重にも積み重ねられた石の塔が見えた。
 賽の河原を思い起こさせるその塔は、よく見ればひとつきりではない。ふたつ、みっつ、……数え切れない程の石積みの小さな塔が、まるで墓石のように並んでいる。
「ここが、…………鬼哭の谷…………?」
 自失呆然のまま声に出して呟いた少年は、はたして右手前方の霧の中に己のものではない人影を見た。
 白く濁った世界。夢と現実が入り乱れる、虚ろな空間。だからこそ、人はこの地を現世と死者の国とが交じる場所だと感じたのかもしれない。
「ジョウイ……」
 遠き時代に己の手で命を奪ったはずの親友の名を、彼は無意識のうちに口に出していた。
 そんなはずがないと、心のどこか冷静な部分が警鐘を鳴らす。しかし理性で制しきれない感情が、渦を巻いて少年の心を支配した。
「ジョウイ!」
 すべては、彼に会うために。
 それだけのための旅だったのだから。
 嘘であっても良い、彼に会って、もう一度だけ、君と…………
 視界が歪む。霧が少年を包み込む。何もかもがこの中に消えてしまう、そんな感覚が大地を支配している。
 なのに。
「ジョウ…………っ!!」
 あとほんの数センチ、という距離で少年は突然、背後から自分のものではない力によって後方に思い切り引き戻された。
 風が吹き、不気味な音が周囲を響きわたる。
 霧が、流れた。
 ジョウイのものに見えた影も、同時に掻き消える。
 なるほど、確かに鬼が泣くような音だったと、ぽとん、と落ちた涙が笑った。
「ジョウイ、待ってジョウイ!」
 もう見えない人影に向かって必死になって手を伸ばし掴もうとするけれど、どこにもいない相手を求める事の空虚さはこの数百年間で痛いくらいに感じてきたはずだ。幻を見ることだって、今まで何度だってあったのに。
 今は、あれが幻などではないと信じている。
「ジョウイ!!」
 人影の見えた場所に再度走りだそうとした少年を、また後ろから伸ばされた力が拘束する。今度は腕を引くだけでなく、二本の腕でがっちりと身を捕まれた。
「放して、放せ! ジョウイが、ジョウイがいたんだ!!」
 疲れ切っていたはずの肉体のどこにこれだけの力が残っていたのかと呆れるほどに、少年は見知らぬ力の拘束の中で必死に抵抗した。けれどやはり、限界は近かった。程なくして空腹と疲れと眠気に同時に襲われた少年はぐったりとし、膝を崩して倒れ込んでしまった。
 叫び疲れたのだろう、もう声も出ない。
「………………」
 指先さえ動かすこともできなくなった少年を確認して、それまで彼を縛り付けていた力は消え失せた。ずるずると崩れていく少年の肉体にそっと手を伸ばして支えてやりながら、ふたつの黒い瞳は悲しげに揺らめく。
 視線を足下に移せば、少年が暴れたときに崩れたらしい石の塔の残骸が山になっていた。
「君には、ここに来て欲しくなかったんだけれどね…………」
 少年を抱き上げた力の主の声が、霧の中に消えて行った。
 その口調のどこかに、聞き覚えのあるものを感じ取り少年は慌てて顔を上げ、振り返る。しかし既に立ちこめていた霧によって視界は閉ざされ、声の主の気配すらつかみ取ることが出来なかった。
「今のは……」
 涸れた喉は声を発することもままにならない状態だった、かろうじて音となった空気は呆然と立ちつくす少年の耳に外側から刻み込まれた。
 遠い記憶、かつて少年は何度もあの声を聞いたはずだった。
 しかし、もしそれが彼の記憶する中にある人物のものだとしたら、通常あり得ない現実となる。何故なら、少年が知る記憶の中の声の主と出会ったのは今から果てしなく遠い昔の事。そう、幾重にも重ねられた歴史が示す、過去の遺物として語られることも少なくなった、古すぎる時の出来事だったから。
 片手の指の本数に、百を足してもなお足りないかもしれない程の、昔。最近では思い出すことも殆ど無くなった懐かしく、暖かかった時代の記憶だ。
 忘れていた現実がよみがえってくる。郷愁が胸をよぎり、何とも表現し難い感情が交錯する。けれど涙は流れなかった。すでに枯れ尽くしている涙腺は干涸らび、赤い血だけに満たされている。
 痛みさえ、今は遠い。
「……待って!!」
 叫びは天を裂く。
 勢いに余り足に引っかけた石が転がって、その上に枯れ草のように細い少年の肉体が崩れ落ちた。膝を折って身を翻し頭を庇いながら地に伏せる――そんな動作を心に描いたとて、油の切れたブリキのおもちゃにも劣る痩せ衰えた躯体となった今の少年では、実際にそれを実行することは甚だ難しい。
 石の角に打ち付けた皮膚が裂け、うっすらと紅色の血が滲み出る。
 悔しさが何より先に出た。なぜ、と。
 与えられた時間は無限のはずだった。本来、このような事態が訪れるはずはなかった。それなのに、この有様は。
 誰かが囁いていた。それは爾が滅びを望みしが為――――
 終わりを求めているというのか。始まりを告げる紋章をこの身に宿しておきながら、滅びというなの終焉を欲しているというのか。
 愚かな。
 言葉を一蹴してその場から足早に立ち去りはしたものの、では何故心が痛むのか。その身が震えるのか。涙が止まらないのか。
「待って、…………ラスティスさん!!」
 己と同じ、魂を束縛する呪いを受けた青年の名前を呼ぶ。それは確信めいた傲慢な思いこみだったのかも知れない。だが、少年は確かに知っていた。今彼を夢の谷間から現実に引き戻した人物が、遠い昔に別れたきり行方も知れぬ存在であったかつての英雄であることを。
「ラスティスさん!」
 もう一度、立ちこめる霧の世界に向かって。
 大地に膝をつき両腕も岩だらけの地表に置き去りにして、それでも尚、彼は虚空に向けて悲鳴にも似た叫びを続ける。
 助けて、とも言えない。ただ姿を見せて欲しかった。安心したかったのかもしれない、今の彼が自分と同じような惨めな姿をさらしていればいいと。この苦しみを味わってきた同胞として、迎え入れてくれることを夢見て。
 そして、惨めなのが自分だけではなかったことを知り、自分と彼を比較して、彼を嘲笑い己の慰めとするために。
 そんなことのために、彼は一度は心通わせて肩を並べ戦った相手を、求めた。
 落ち窪んだ瞳が映し出す世界はとても狭く、暗い。
「いずれ、こんな時が来るだろう事は予想していたけれど……いざ現実のものとなると、哀しいものだね」
 寂しげな声がこだまする。顔を上げた先には、いくつもの石の塔。濃い霧に映し出される影は徐々に大きくなり、やがて白い背景を割って青年が姿を見せた。
 記憶の中の人物と何一つ変わっていない、青年がそこにいた。
「久しぶりだね、セレン」
 数百年ぶりの再会は、静かに果たされた。

 鬼が哭く
 死者の声が響き渡る
 恨めしい、憎らしいと
 今を生きる者たちを呪っている
 だから彼はそこにいる
 ただ静かに
 死者を宥め、生者を生かすために

「ここの霧は、ほら、太陽の光を背に受けた本人の影を映し出すんだ」
 ラスティスは告げる。
 この谷に死者が還るのは迷信だと。
 霧に映った影と、谷間を抜ける風の音に驚いた旅人が作り出した、ただのおとぎ話でしかないのだと。
 だが迷信と知っていても、時として人はそれにすがろうとする。今まで、多くの生ける人がこの谷を訪れ、己の影を死者と思い違いし、追いかけ、そのまま谷底に落ちて命を落としていた。
 谷を目指した人間が何故揃って戻ってこなかったのか。多くはこの霧に道を失い、そして霧の影に惑わされてそうと知らず、死の道を走り抜けていったのだ。
 ラスティスはそんな光景をずっと見ていた。そして可能な限り、影に死者を追い求める人々を止めに走っていた。
 それでも止められなかった人のために。道に迷わぬように彼は石を積み上げて塔を作る。小さな塔に、小さな願いを一つだけ。せめてあの人が来世で幸福な日々を送ることが出来ますように。
 慰めにもならない自己満足でしかないだろうけれど、何も出来ない自分の不甲斐なさを思い知りながら、彼は今日も塔を作る。
「命は、棄てるためにあるのではない」
 ぽつりと呟いた彼の瞳に、力無く蹲り己を見上げている小さな少年が映る。いや、年齢的にはとうの昔に少年という時代は過ぎ去っていただろう。しかしだとしても、目の前にいるこの人物を、少年以外の呼び方で表現する手段を、ラスティスは持ち得ていなかった。
「判っています」
 声は涙に濡れる。
 既に枯れ果てたはずの水が彼の頬を濡らしている。
「判ってます。けど……それでも! 貴方にならボクの気持ちが分かるはずですっ!」
 同じ生き方をしてきたはずだ。年をとることのない肉体と、反対に朽ちていく精神を抱えて、ただひとりきり。この大地で生きてきた。
「ラスティスさん!」
 この人であれば理解してもらえると思っていた。それなのに彼は、セレンに死ぬことを許してくれない。
 唇を噛みしめ、声を殺して泣く少年を見下ろしてラスティスは寂しげな表情を作り出す。
 どう言えばいいのか、何を告げても彼には救いにはならないのだろうけれど。
「そうだね……」
 結局選ばれた言葉はそんな曖昧な同調で。
「けれど僕は、もう目の前で誰にも死んで欲しくない」
 続けられたことばは、セレンを突き放すものにしかなれない。
 セレンは大地の石を握りしめた。天を睨み、ラスティスを見据える瞳は怒りにも似た感情が宿っている。それは行き場を失った悲しみの欠片。
「親友だったんです!」
 血を吐くような想いで、言葉を紡ぐ。
「大切だったんです。失いたくなんか、なかった……なのにボクは、彼を…………ジョウイを、この手で!」
 握りしめられた拳を広げれば、そこには大勢の人の血で染まった鮮やかな、朱。
 罪の色。
「この手で、ボクはジョウイを……」
 それは本当に必要なことだったのか?
 あれから幾度と泣く繰り返された自問には答えなど無くて、ただ空しさだけが心の中を埋め尽くしていった。
 彼はもう居ないのだと、なにかが耳元で呟いている。彼を殺した罪を糾弾する。
 オマエガシネバヨカッタノダ、と。
 建国の英雄などと呼ばれるたびに、あの戦争で死んでいった幾多の人々の顔が視界を埋め尽くした。彼らはこちらをじっと見つめたまま何も語ろうとはしない。暗い双眸を闇に残して、無言のまま彼の罪を責め続けている。
 悪夢は、消えることがない。
「ジョウイが冷たくなっていくことを、ボクは止めることが出来なかった。ボクにはその力があったのに、彼を助けようとしなかった。ボクは、こんな気持ちになるために戦っていたわけじゃないのに!」
 誰だって幸せな未来を夢見て今を生きている。それが裏切られたとき、果たして人は素直にそれまでの自分を許すことが出来るのだろうか?
 全ての罪、数多の命を受け入れるほどに、彼は強くなかった。彼は幼すぎた。純粋すぎた。英雄と呼ぶにはあまりにも、弱すぎた。
「僕にも親友が居た」
 ふいに風が起こる。霧が広がる。視界の全てを包み込み、白に染め上げようとして。
「彼は三百年という時をたった一人で彷徨っていた。僕は彼が大好きで、大切だった」
 けれど今なら思う。彼は本当に、ラスティスが彼のことを思うのと同じくらい、ラスティスのことが好きだったのだろうか、と。
「何も知らなかった僕は、ただ無邪気で、彼の前で平然と彼には失われて久しい家族と共に過ごしていた。僕は……知らなかったとはいえ、彼にとても酷いことをしていた」
 右手に宿る紋章、ソウルイーター。そして始まりの紋章。
「だから僕は、彼が遺していったこの生命が今では、彼に対しての僕なりの罪滅ぼしなのだと気づいている」
 託された想いを実現し、果たして、残されたものはそれくらいしか思いつかなかった。
「だから僕はここにいる」
 鬼――死者の哭く谷。
「ここに死者はいない。けれど切に求めてきた人には、己の影を求める死者の姿と錯覚する。哭いている者が居るのだとしたら……それはこの地で死んだ多くの哀しい人々の魂だろう」
 だからこそ、もう誰にも死んで欲しくないと言う我が儘が彼をこの谷に足止めしている。
「だけど、ボクは……」
 嗚咽を漏らし、セレンが泣く。
 風が吹く。霧が散る。
 死者の哭く声がする。生ける者を憎み、恨む声がする。
 その全てを幻と片付けるにはあまりにもリアルすぎて、跪く少年は唇を噛んだ。血が一滴、大地に染みこみ融けていく。
「ボクはただ、ジョウイにもう一度会いたかった……っ!」
 会えたとして、話すことなどあるのか。許しを請うこと以外にどんな声が出ようか。
 少年の咽び泣く声が谷を響き渡る。返すものは、なにもない――――

お昼寝をしよう

 良い天気だった。
 本当に、実によい天気だった。
 空は一面の青空、時々煌々と地上を照らす太陽の側を白く薄い雲が流れていくが、空全体の、この澄み渡った色を隠してしまえるほどの広さはどれも持ち合わせていない。風も少なく、ポカポカ陽気はなにものにも邪魔されず地面を温めてくれた。
 陽射しは強すぎず、また弱すぎず。直視するのは耐え難いが、視界の片隅に映っていても邪魔にならない光を満たして溢れている。時折高い位置を飛ぶ鳥の影が、目線の端を横切って東へと消えていく。
 春麗らか。
 まさしくその形容詞がぴったりと来る午後。マグナは口うるさい兄弟子に見付かったらこっぴどく叱られ、緊張感が足りないと説教されそうな顔で眠そうに欠伸をした。
 両腕を頭上に持ち上げ、前屈みになっている背を思い切り伸ばす。背骨がボキボキと小気味よく音を立て、ついでに首も左右に振るとやはり思い切りいい音がした。
「ふぁ~あぁ……」
 フォルテ辺りが見たら、弛んでるぞ、のことばを与えられそうな感じだ。カザミネであれば修行が足りないでござるぞ、だろうか。アメルであれば、単に眠そうですね、で済みそうだが。
 厄介なのはネスティに見付かる事だよな、と自分でも自覚しながらも、堪えきれない欠伸を零しつつマグナは視線を空へ巡らせ、進めていた歩みを止めた。また目に映る世界の端を、鳥が駆け抜けていったからだ。
 巣が近いのかな、とさっきからひっきりなしに往来を繰り返している鳥の姿に首を傾げ、鳥が去っていった方向に顔を向ける。
 下町の住宅地から少々距離を置いているこの屋敷――ファナンにあるモーリンの邸宅には、殊の外緑が多い。敷地を囲むようにして裏手には少々高い藪が広がっていて、それを抜ければ迂回せずに海岸にも出られる。だがあの、果たして何年手入れが為されていないのか分からない藪を突き抜けるのには些か勇気が必要であり、いつもは苦笑しながら眺めているだけだったのだが。
 そう言えば、藪の中にも幾本か背の高い立派な木立があったっけ、と記憶を掘り返しながらマグナは制止させたままだった歩みを再開させた。
 目指すのは、鳥が消えていった方角。
 平屋建てのモーリンの家をぐるっと半周する格好で、土が露出している庭をゆっくりと進んでいく。途中井戸の前でカザミネと会い、何処へ行くのかと訪ねられた。
 どこにも行かないよ、ただ歩いているだけ。
 そう本当のところを口にしたものの、意味は通じなかったようで彼は不思議そうな顔をしながら、そうでござるか、とだけ返してくれた。手には釣りの道具を持っていたから、恐らく海岸にでも行くのだろう。精神鍛錬には最適、と言っていたがマグナは単に、アレは彼の趣味だと思っている。
 出会ったときも釣り糸を垂らしてたしな。
 胸の内で記憶を甦らせて彼の背中を見送り、また歩き出す。少しも行かないうちに、ミニスに会った。
 やはり何してるの? と訊かれる。
 散歩、と言い返すと庭で? とまた問い返される。散歩するのなら、街の方へ行けばいいのに、とも付け加えられる。あと、なんだったら案内してあげようか、とも。
 聖王都ゼラム育ちのくせにファナンにそんなに詳しいのか、と尋ねてみたら、だから一緒に探検しようよ、と言い換えられた。
 なんだ、そういう事か。でもだったら、ロッカやケイナさんにでもつれて行って貰えばいいのに。そう言ったら、あのふたりは自分のことを子供扱いするから嫌だ、と突っぱねられる。
 そうかぁ? 
 口ではそう言いつつも、マグナ自信も彼女はまだ子供じゃないか、と思う。表情に出てしまったのか、途端にミニスは頬を膨らませて拗ね始めた。
 良いですよ、いいですよーっだ!
 べぇー、と舌を出して言われる。
 良いわよ、ひとりで行って来るもん。頭から湯気でも立ちそうな感じで怒り、ミニスは可愛らしい頬をぷぅ、と風船のようにしてその場で二度、地団駄を踏んだ。それきり、マグナに背を向けるとさっさと歩き始める。
 どこ行くんだよ、と一応問いかけてみた。
 散歩! そう勢い良く返されて苦笑が漏れる。それも聞こえてしまったらしく、ぴたりと足を止めた彼女は半分泣きそうな、怒った顔で振り返った。
 絶対、ついてこないでよ!?
 あー、うん。分かった。
 曖昧に返事をして頷くと、彼女はマグナをもう振り返ってはくれなかった。足早に固い土を踏みしめて去っていく。
 その姿が道場の角を曲がり見えなくなるかという瞬間、つい、迷子にはなるなよ、と余計な一言を口に出してしまったものだから。
 益々怒らせてしまったらしい。
 ミニスの姿が見えなくなったと同時に、マグナの頭上にスライムポットが落ちてきた。
 げっ、と逃げる間もなく、うにょん、と出てきた緑色の半透明な生物がにやり、と笑うのが目に映る。
 ぽわん、ちゅぽん、ぽはん。
 妙な効果音が連続して、マグナは途端に歩みが遅くなった。呻き声までもが遅く、低く獣のようになってしまう。これはミニスが呼び出した召喚獣の効果ではなく、単にマグナの気分の問題が原因なのだろうけれども。
 ああ、足が重たい。
 踏んだり蹴ったりだな、と思わぬ小さなお姫様の反撃にぽつりと零し、けれど放っておけばそのうち効果も薄れてくる事を知っているので、特別に慌てたりもせずこのままでいる事にした。歩みが遅くなる事以外に、毒に汚染されたりする効力があるわけでもないので、困る事もさほど多くない。どうしてもダメだったら、あとでルゥにでも助けてもらおう。
 そうしてマグナはまた、ずるずると重い足を引きずるようにして庭を進み出した。
 固く均された土の上に、薄い線が二本残る。空は相変わらず、絶好調に澄み切っている。暖かな陽射しは少しだけ眩しさを増していたけれど、やはり外に出ているのが嫌になる暑さでもない。
 力の入らない爪先で地面を蹴って、その勢いと反動を使って顔を上向ける。
 黒い線が空を駈けた。あの鳥だ。
 はっとなり、慌てて首を動かしてその行く先を確かめる。道場の裏手、下草が高い小さな雑木林の手前でそれは消えた。正確には、雑木林の樹木に視線を遮られ、それ以上鳥を追いかける事が出来なくなった、という事。
 もしかしたらあの鳥はこの藪の中にある木ではなく、海岸線に近い場所に育つ木に巣を張っているのかもしれない。そういう可能性に思い当たって、マグナは疲れ切った足を膝で曲げ、そこに手を置くことで脱力して倒れそうになるのをどうにか防いだ。
 スライムポットの効力は、まだ当分切れてくれそうにない。
 答えが出てしまった、さてこれからどうしよう。
 あの藪を乗り越えるのは甚だ難だ。かといってまた正面に戻り、道を迂回して海岸に出て鳥の巣の在処を確かめてみようとは、この状態だと気力が続かなくて思わない。こんな事になるのだったら、ミニスの誘いに乗って街に行くんだったと、少しだけ今更に後悔した。
 だけれど、すぐに姿勢を戻して伸びをする。頭を軽く振った、沈みそうになる落ち込みは早々に追い出してしまう。
 ポジティブに、前向きに行こう。でなきゃ、……辛いことが多すぎる。
 さっきまでの気分を一新して、空を改めて見上げてみる。太陽が眩しくて陽射しを遮るために手を目の上に翳す。細めた眼、その隙間から欠伸がまたひとつ。
 暖かい気候、穏やかに流れる時間。今が非常事態であることなどまったく無縁の、限りなく平和で優しい午後のひととき。
 ネスティに見付かったら事だよな、と思いつつ足は近くに聳える一本の古樹へと向いていた。幹の中腹にはちまきのように注連縄が巻かれているそれは、恐らくこの道場を守る御神木の一種なのだろう。枝は広く横に伸びていて、根の周辺に伸びる草も柔らかく、背が低い。
 怒られるかもしれないが、昼寝をするには持ってこの場所だ。
 まだ引きずらずにいられない両足を必死に動かし、マグナはその古樹へと歩み寄る。だけれど、途中である事に気付いた。
 彼の視界から死角になる位置からひょこっと、少しだけ覗いている白い耳の先。
 そういえば昼食のあとから一度も姿を見ていないような。
 一瞬だけ立ち止まって考え込んで、考えていても仕方ないからとまた歩き出す。ずるずる、がスタスタ、へいつの間にか変わっていた。
 前へと回り込む、なるべく音を立てぬように気を配りながら。そしてやっぱり、とひとつ深い息を吐き出す。
「ハサハ」
 名前を呼ぶと、微睡みの中に居たらしい彼女が薄目を開けて顔を上げた。
 両膝を丸め、大事にしている水晶球を胸に抱き込みながら頬を寄せ、御神木である古樹に寄りかかり地表に突きだした根に庇われるようにして。とろん、とした視線がやがてひとつの事に気付いて徐々に覚醒していく。
「おにいちゃん……?」
「昼寝か?」
 誰何の声に頷いて、マグナは膝を折って彼女の前に腰を落とした。木漏れ日がマグナの頬に落ちて随所を白く輝かせる。ハサハはそんなマグナを暫くじっと見つめた後、戸惑いがちに頷いた。
 そっか、とマグナは膝の上に手首を置いたままにこりと微笑み返す。そして少しだけ場所を作ってくれるかな、と頼んで自分の身体を反転させた。
 背中を古樹に明け渡し、どかっと温まっている地面に座る。背中が少しだけざりっとした感触を受けたが、不快ではない。むしろ心地よいくらいだ。成る程、ハサハが昼寝の場所に選ぶだけのことはある、と秘やかな楽しみの場所を見つけた気分になってマグナは微笑んだ。
「おにいちゃん……?」
「昼寝、起こして悪かったな」
「ううん」
 マグナの微笑みが理解できなかったらしいハサハに、やはり彼女の問いかけを理解できなかったマグナが言葉を返す。さすがにこの意味は通じ、彼女は遠慮がちに首を横に振った。
 抱きしめていた水晶球を持ち直し、自分も身体を起こして座り直す。膝を寄せると、胸と足の間に出来上がった僅かな空間に水晶球を抱えた両手が埋もれた。まだ随分と眠そうなのに、しかし彼女はなにやら必死に、その眠気を追い出そうと頑張っているように見えた。
 今度はマグナの方が首を捻る。
「ハサハ?」
「……?」
 名前を呼ぶと、やはりどこか必死な彼女が首から上だけを向けて来た。どうしたんだ、と問いかけると、彼女は静かに一度首を振る。
「だって」
 ハサハは、おにいちゃんの護衛獣だから、おにいちゃんを守るのが、ハサハのお役目だから、と。
 実にたどたどしい文節で彼女は懸命な顔をし、マグナに言った。
 言われた方が、目を丸くしてしまう。
「……あ」
 そうだった、っけ?
 かねてから召喚師としての自覚に欠けている、と兄弟子に呆れられているマグナは、どうやらハサハが自分の護衛獣として召喚された存在である事をすっかり、今の今まで忘れていたらしい。
 マグナの中にあるハサハという存在は、守られるというよりも守らねばならない存在に置き換えられて久しかった。
「おにいちゃん……?」
 しかしこの少女は忘れていなかったらしい。必死になって、今もマグナの事を守ろうとしている。その純粋な想いが意地らしくて、尚更守ってやらねばと思ってしまう。
 ふぅ、とマグナは息を吐いた。彼女の心がけはありがたいことこの上ないが、眠くて仕方がないでいる彼女をこのままにしておくのも心苦しい。さて、どうしようか。
 悩みそうになって、マグナは自然と視線を上向けていた。澄み切った青空がどこまでも続いている。ちらっと、視界の片隅を鳥の影が流れて消えた。
「ハサハ」
 ことばは空を見上げたまま、さらりと風のように流された。
「じゃあ、交換ごっこでもしようか」
 片膝を寄せ、その上に肘を立てて頬杖を付く。彼のことばにハサハは水晶球を口元まで持ち上げてから、小首を傾げた。
「こうかんごっこ?」
「そう、今だけ。俺と、ハサハの役目を交換してみよう」
「……?」
 我ながら妙案と思った発言は、しかしハサハの問いあげる目線に行き詰まる。どう説明したものか、とまた視線を泳がせて頬を引っ掻き、マグナは吐息を零す。
「要するに……今、だけ。そうだな、夕食までの間、俺がハサハの召喚獣で、ハサハは俺のご主人様。分かるか?」
 自分とハサハとを交互に指さして説明するマグナをじっと見つめながら、言い終えて息を吸い込む彼にひとつだけ、小さく頷いた。
「でも……」
 素直に受ける事は出来ないと、伏し目がちに瞳で告げる彼女に、マグナはまた壁のない笑顔を向けた。
「ごっこ、だよハサハ。今だけだし、な?」
 昼寝をするハサハを守っていてやるから、その間ゆっくりお休み?
 ゆっくりと、優しくことばを重ねるマグナを見つめていたハサハが、こくん、と遠慮がちに首を縦に揺らした。途端、マグナが破願する。そして折り曲げていた膝を横に倒し、その上を手で叩いた。
「…………」
 ハサハが逡巡する。マグナはまったく気にする様子がない。
「土の上が枕って、痛いだろ?」
 彼にしてみれば、思考は単純明快でそれ以外のなにものも含んでいない行動なのだろう。もう少しだけ考え込んで、結局彼女はまた縦に首を振った。
 陽射しはどこまでも穏やかで、柔らかく優しい。御神木に守られた空間は空気も清涼であり、澄んでいる。耳を澄ませば砂浜に打ち寄せる波の音、そして下町の人々が活気で賑わう喧噪が聞こえてくる。
 世界はこんなにも優しく、暖かい。
 マグナはそっと目を閉じた。己の膝の上ですやすやと眠っている少女の髪を、少し考えてから撫でてみた。
 艶やかな黒髪が、指の間から零れるようにして逃げていく。
 非常事態の中でも、今の瞬間はそれを忘れるくらいに平和で、長閑だった。
 欠伸が漏れる。なるべく身体を揺すってしまわぬよう気を配りながら、右手を持ち上げて口を塞いだ。
 太陽の角度を見て、腹に手を当てて空腹具合を確認し、夕食までの時間をざっと計算する。まだかなりあるようだ。
「ん~~……」
 スライムポットの影響か、身体中が凝ってしまっている。欠伸は止まらない。
「あったかいなぁ……」
 再度太陽を見つめた。ごく自然に、瞼が降りていく。その後の記憶は、残念ながらマグナになかった。

 そして。

「まったく、仕方がないな」
 夕食の少し前。
 姿を見せない弟弟子とその護衛獣を探してその辺りをうろうろしていたネスティは、道場の裏手ですやすやと仲良く眠っているふたりを見つけ、苦笑した。

小休止4

 どっと。
 エドスとガゼルが一斉に笑い出して、場は一斉に盛り上がりを見せていた。
 笑われてしまったアルバが顔を真っ赤にしてガゼルに反論する。けれど年齢差は則ち経験値の差、である。アルバが口でガゼルに勝てるはずがない。
 それでもムキになって泣きそうな顔をしながらも叫ぶアルバに、エドスがまた笑う。見ている側に回っているリプレは困り顔で、フィズは呆れかえった様子で肩を竦めていた。
 その輪から少し離れた場所で、ハヤトはラミの相手をしてやっていた。
 要らない紙を正方形に切って、それを折り紙の要領で折り畳んでいく。男子高校生でしかないハヤトが知っている折り方と言えばせいぜい鶴と風船くらいしかないのだが、それでも平面が立体になる様子が珍しいらしく、ラミは興味津々でハヤトの手先を覗き込んでいた。
 けれどアルバとガゼルを中心とした笑い声の渦にハヤトの手は止まり、ラミは少々怯えたようだ。クマの縫いぐるみをぎゅっと抱きしめ直す。
「なにやってんだか……」
 大人げなくアルバをからかっているガゼルに溜息が零れた。そのうちリプレが止めにはいるだろうが、もう既にあの子は半泣きになっている。
「ったく……」
 床の上に直接座っていたハヤトは、上半身を捻ってテーブルの方を振り返ろうとした。けれどその途中で彼の視線は止まる。
「おにいちゃん……?」
 中途半端な格好で止まってしまったハヤトを、ラミが不思議そうに見つめる。
 かわいらしい、けれどとても小さくてガゼルたちの声にともすればかき消されてしまいそうなその声に我に返ったハヤトは、慌てて首を振った。そしてラミに、ごめん、と言って立ち上がる。
「リプレのところに行っておいで」
 手早く散らかしていた紙をまとめて片付け、ハヤトはそれらを胸に抱き込んだ。
 まだラミは不思議そうな顔をしている。けれどハヤトは次の彼女の句を待たずにやや小走りに歩き出した。それも、話が弾んでいる輪の中心方向ではなく。
 各人の寝室がある部屋が並ぶ廊下へと。
 そして。
「キール!」
 今まさに扉を開け、部屋に戻ろうとしていた人物の横顔に声をかけた。
 三分の一ほど開いた扉を前に、キールが首から上だけでハヤトを見た。表情はなく、其処から彼の心情を読みとることは難しい。
 けれどハヤトは構わず彼の傍らへ近付いた。落ちそうになる腕の中のものを抱え直し、少し自分より高い位置にある双眸へ微笑みかける。
「なんだい」
 にこにことしているくせに、自分から何も話しかけてこないハヤトを、キールは不可思議なものを見る目で見下ろした。だのに彼は気にする様子もなく、かわらずキールを見上げていた。
「ハヤト、僕に何か」
「用はないけど、さ。みんなと一緒に話はしないのか?」
 その為に部屋の外に出てきたはずなのに、キールは今また自室へ戻ろうとしている。
 半端に開かれたまま止まっている扉。けれどその広さではまだ人ひとりが通り抜けることが出来ない。
「僕が行っても、場を白けさせるだけだよ」
 だから自分から遠慮したのだと暗に告げ、キールはドアノブを引いた。
 開こうとする扉。しかしハヤトは反射的に足を出して、それを途中で阻止してしまった。ぽとり、と反動で腕の中の鶴がひとつ落ちる。
「…………ぁ」
 一瞬キールが固まり、ハヤトも自分の突飛な行動に表情を凍らせてしまった。無意識に取ってしまったことで、やったあとでハヤトは「しまった」と思ったけれど、もう遅い。
「……ぁ、あ、いやこれはその……」
 がんっ、と止まってしまったドアから手を放し、焦って言い訳を作ろうとして出来ないで居るハヤトを前にして。キールは足許に落ちた鶴を拾い上げた。それを片手にして、物珍しげに眺める。
 ハヤトはまだ慌てた様子でおたおたしていた。クスッ、とその様子を、鶴を手にしたキールが笑う。
「ハヤト」
「うぇ……はいっ! なんでしょう!?」
 思わず身構えてしまったハヤトをまた穏やかな表情で見つめて。
「これ、作り方を教えてくれないかな」
 手の上の鶴を転がしてキールが問いかける。ハヤトは直ぐにその言葉の意味を理解できなかったようだが、約十五秒後に。
「おう! まかせろ!」
 ガゼルの笑い声に負けない声で叫んでいた。
 叫び声と一緒に胸をどん、と叩いて咽せ返ってしまい、キールにもうひとつ苦笑を買ってしまったのだけれど。

Eyes/1

 ユーリが、失明した。
 人通りの多い駅の階段で後ろから押されて、急いでいた所為もあったのだろうけれどバランスを崩してそのまま一番下の踊り場まで落下。大体十段ほどは落ちたのではないだろうかと、見ていた人が言っていた。
 ぶつかった方は事態の大きさに気付いて逃げ出したけれど、その前にアッシュが追いかけて捕まえた。もっとも、わざと狙ってやったわけではないので警察に突き出したところで未必の故意という事でそいつが罪に問われることはないだろう。
 ラッシュアワーの時間帯ではよくあることだと、駅員も言っていた。
 ただ、落ちたのがユーリだったからちょっとした騒ぎになってしまって、病院に行くにも一悶着だった。
 身体の傷はちょっとした打ち身と擦り傷だけで済んだ。
 けれど、落ちたときに打った場所が悪かったのだろうか。ユーリの瞳からは光が失われていた。
 医者は一時的な外的ショックに因るものだろうと言った。念のために数日入院して、脳波をチェックする等の精密検査をしてみて様子を見る。そう前置きした上で、医者は。
 保護者など居ないユーリの、その保護者代わりとしてのスマイルとアッシュにこう言った。
 いつ、もとのように見えるようになるかは全く予想が付かない、と。
 網膜や角膜、視神経に傷が出来ているわけではないのは診断済みだ。だからこれは脳の方に問題がある。ただ脳というものは非常にデリケートな部分だから、簡単に弄る事なんて出来ない。
 一時的なもの、と言ったが運が悪ければ一生眼は見えないままだろう、と真剣な面もちでカルテを片手に羽咋の医師は言い、聞かされる方のふたりも言葉無く聞いていた。
 何が言えるのだろう、こんな酷いことを教えられて。
「……見えるようになる可能性は……」
「五分五分でしょうな」
 カルテを捲る医師の手を見つめながら問いかけたスマイルは、普段の様子からは想像できないくらいに切羽詰まっていて聴いている方も息苦しさを覚えるほどだった。彼の後ろに立ち、滅多に訪れることのない病院の診断室という場所に落ち着かないものを覚えていたアッシュも、背中に冷たい汗が流れ落ちていくのを感じた。
「明日には治っているかもしれませんし、一ヶ月後か一年後かそれ以上か。もうしばらく様子を見て、こちらも何らかの対処法を検討します」
 事務的な手つきで書類になにかを書き込んでいく医師。恐らくドイツ語なのだろう、崩された書体では何が記されたのかさっぱり想像できない。
「やっぱりあの男、もっと痛めつけておけば良かったッス」
 事態の深刻さは時間が経つに連れて明らかになっていく。腹立たしげに言って足を床にたたきつけたアッシュの乱暴は言葉に、控えていた看護婦がびくっと震えた。
「止めよう、アッシュ。そんな事してもユーリは喜ばないよ」
 最後まで階段から落ちたのは自分が足を滑らせたからだと言い張ったユーリ。スマイルが男の動きを見ていなければ、誰もがその言葉を信じていただろう。
 誰も悪くない、自分がトロトロしていたのが悪いのだと痛みを堪えながら笑っていたユーリだったが、抱き起こしたスマイルの手を握るとずっと震えていた。アッシュが逃げた男を追いかけて捕まえて、人垣が出来る事を嫌って場所を駅長室に移した時にはもう、彼は気を失っていた。
『スマイル……か?』
 大丈夫か、と声を上げて踊り場で横たわり自分で立ち上がることも出来なかったユーリが発した最初の言葉は問いかけだった。思い返せば、あの時から既に彼は見えていなかったのではないか。
 守れなかった、という自責の念が襲ってきて苦しい。
 話は終わったと、次の患者が待っているから早く出て行けと言わなくても雰囲気で伝えてくる医者の前を辞退して、彼らはユーリが入院している個室を訪れた。
 扉を静かに開けると、反対側の壁に据え付けられた窓が開け放たれていて涼しい風が真っ白いカーテンを揺らしていた。
「ユーリ、身体……どう?」
 数歩進んでから尋ねる。その声のする方を見たユーリの両目には、包帯が巻かれている。
 あの綺麗な輝くばかりの瞳が見えない。
「遅かったんだな」
「うん、ちょっと」
 お医者さんの話が難しくて、頭が悪い二匹だと理解するのに時間がかかったんだ。スマイルがそんな事を冗談めかして言うと、アッシュは不満そうにしたがユーリは小さく笑ってくれた。
「二日ほど入院して、身体のどこが悪いのか調べるって。この際だから、お疲れ気味のユーリにはゆっくり休養を取ってもらおうかなって思ってる」
 眼のことは極力触れないように。ベッド脇のパイプ椅子に腰を下ろしてスマイルが告げると、アッシュは揺れるばかりのカーテンが気になるのか壁に固定しようと動く。
「駄目だ」
 だがユーリはスマイルの提案を一蹴する。
「レコーディングが近いし、ライブの打ち合わせだって期限は決められている。新曲の音源だって」
「それはぼくたちでするから」
 矢継ぎ早に仕事のことを口に出す彼を遮って、スマイルは少し哀しげな瞳を作る。
「そうッス、ユーリはこのところずっと働きづめだったッス。こんな事でもなければ、ゆっくり休む事もしないでしょう?」
 アッシュもベッドの反対側からスマイルに賛同する言葉を口に出すが、それがユーリには神経に障ったらしい。不機嫌そうな顔をして、恐らくそこにいるのだろうという予測でアッシュの方を見る。
「私の眼が見えないのが、こんな事?」
 苛立ちがありありと伝わる声に、アッシュは息を詰まらせて出しかけた声を呑み込んだ。自分の失言に気付いて口をパクパクさせている姿は、水槽で空気を求め喘いでいる近所のようだった。状況が状況なだけに、笑えなかったけれど。
「いえ、あの、そうじゃ無くって……」
 おたおたしながら言い訳を考えるアッシュだが、案の定何も出てこない。手を上にしたり下にしたりと、大げさに慌てる様は見ていて滑稽なのだがユーリには見えない。
「ユーリ」
 アッシュを苛めるのもその辺にして欲しい、とスマイルが間に入って彼の名前を呼んだ。声にだけ反応して、ユーリは振り返る。
 包帯に隠されていても邪眼はきっちりと効力を発しているのだろうか、逃げられない状況に苦しいだけだったアッシュは自分からユーリの視線(実際彼は見えていないのだが)から解放されて、ホッと息を吐く。
 もとから音楽という業界に生きていただけあって、ユーリは音には敏感に反応する。それが視力を失ったことで余計に強く出ているのだろう、見えている時と遜色ない反応でスマイルの座っている位置を把握してのけた彼に、しばらく何も言えないでいた。
「スマイル?」
 呼んだくせに、何も言ってこないスマイルにユーリが怪訝な表情を浮かべる。はっと我に返ったスマイルは取り繕うように、見えない相手に向かって苦笑した。
「ユーリは、自分が落ちた階段が何処の階段だか覚えてるよね」
 前振りもなく話題を変えてきた彼に、変な顔をしながらもユーリはひとつ頷く。
 かなり大きな駅だ、朝の通勤通学の時間帯を外してもそれなりに人手はある。彼の転落事件を目撃した人間も多いはずだ。
「ユーリが病院に運ばれたって言うニュース、ちらほらだけど表に出始めてる。目撃者も沢山いたことだし、今更否定できないからその事に関しては認める発言をしておいた」
 到着した先の病院に何人か、耳ざとく事件を聞きつけたゴシップ誌などの記者がいて病院側も迷惑していた。だから、信用の置ける三人とも良く知っている記者に電話をして情報を少しだけ流した。
 ユーリが階段から落ちたこと、病院に搬送されたこと、今は大事を取って休んでいるけれど軽傷であること、そして入院先には一般の入院患者も大勢居るから取材は一切断ること。
 スマイルの言葉をユーリは黙って聞いている。
「ぼくの言っている事の意味、分かるよね?」
 敢えて軽傷であると事実を誤魔化し、一時的であるとはいえ失明した事を伏せた意味。
「騒がれたくないでしょう、ユーリ。ファンに心配させたくないでしょう?」
 事実はいつか知れ渡るだろうが、時間は稼げる。その間に解決方法を捜せばいい、今事態を大事にして収集が付かないような事にしてしまうのは得策とは言えない。
 眼の見えないままのユーリを外に出歩かせる事も出来ない、隠しておきたいことを外に漏らして仕舞いかねない外部との接触もなるべくさせたくない。
「私は城で、大人しくしていろと」
「酷いことを言っているのは分かっているけど、その通りだよユーリ」
 遠回しに告げても、直接的に告げてもユーリを傷つけてしまうのは同じ。だったら回りくどい方法は取らずに置きたい。率直な言葉で飾りけなく言い切ったスマイルに、アッシュが「あっ」と声を出した。
 だが言われた方のユーリは静かな顔のままで聞いている。
「私がそれで、納得すると?」
「状況が分からないわけじゃないでしょう」
 包帯で隠された紅玉の瞳。たとえ見えていなくても見えているのではないかと錯覚させる迫力を秘めた彼に、物怖じする様子もなくスマイルは言葉を繋げた。自分では出来ない芸当だと、見ているだけのアッシュは完全に傍観者に回る事を決める。
「仕事に穴を開けろと言うのか」
「この場合、仕方がない」
「待ってくれているファンになんと説明する」
「言い訳はあとでなんとでも考える。今は、君がこれ以上悪くならない為の手段を講じる事を最優先にするべきだ」
 見えないままでいて良いのかと、言葉の裏に隠された意味をスマイルの強い語気に感じて、ユーリは下唇を噛み言いたかった台詞を呑み込んだ。
「幸い、お医者の方も色々と治療法を考えてくれてる。視神経や眼球に傷があるわけじゃないから、落ちたときに頭を打ったことが理由なんだって。明日精密検査を受けてみて、それが終われば直ぐにお城に帰れるよ」
 ベッドサイドの小さな棚に置かれていた、自分の鞄を手に取ってスマイルは立ち上がった。
「アッシュ、帰ろう」
「え、もうッスか?」
「分かった、アッシュはもうしばらくユーリの傍に居てあげて。ぼくは一度戻って、着替えとか持ってくるから」
 洗面道具やタオル一切も、入院患者自身の持ち込みだ。今は借り物のパジャマを着ているユーリだが、やはり自分の持ち物の方が良いだろうし借りたままでは気持ちが悪い、譬え検査だけの入院だとしても。
「ひとりで大丈夫ッスか」
「もちろん」
 何故今日に限って車で移動しなかったのだろう。複雑な気持ちは消えない、偶然の連なりで起きた事件だと分かっていても、その偶然のひとつひとつが故意に引き起こされた事のように思えてきて。
 息苦しい。
「……………………」
 スマイルが部屋を出ていくまで、ユーリはひとことも言葉を発しなかった。早く帰ってこいとも、二度と来るなとも、気を付けて、とも。
 拒絶されただろうか、こんな風にしか言えないし動けない自分を。
 扉を静かに閉めて、其処に背中を預けて天井を仰ぎ見る。染みひとつない真っ白い壁と天井と微かに匂う消毒薬臭さが、ここが現実世界とは少しだけ異質な空間であることを改めてスマイルに教えた。
 行き交う入院患者は少ない、ユーリを大部屋に押し込むことは出来なかったので入院費の額面も気にせず個室を用意させた。そして個室に入院している患者の多くは、病状が重かったり人嫌いだったり、もしくはユーリのような理由だから見舞客も希なのだ。
 ナースセンターの角を曲がると、エレベーターがある。下りのボタンを押してエレベーターが昇ってくるのを待つ間、その一角に飾られている絵画を見上げる。花瓶に生けられた黄色い大きな花を描いているそれを見て、戻ってくるときに一緒に花でも買ってこようかと一瞬考えた。
 けれど、チン、と音をたてて到着を知らせ扉を開いたエレベーターに乗り込むときには、そんな考えもかき消えていた。
 花など持っていったら、それこそ彼は自分を病人扱いしていると怒るだろう。
 少しだけ混んでいたエレベーターの片隅に居場所を決めると、スマイルはこれからの事を考えて憂鬱になりそうな気持ちをうち消そうと眼を閉じた。
 今は一秒でも早くユーリの瞳に光が戻ってくれる事を祈るしかなかった。

 数日ぶりに戻ってきた城は、主の留守をしっかりと守って変わらない姿で其処に聳えていた。
 だが見えない、ユーリには。
 結局脳波にも異常は見られなくて、ユーリの失明の理由は明かされぬまま彼は退院した。病院前で捕まえたタクシーに乗り込むときも降りるときも、彼はずっとスマイルに手を引かれたまま。その居心地の悪さをそのまま顔に出しているユーリを横目にしながら、気付かないフリでスマイルは彼を促す。
「ほら」
 アッシュは今、ユーリの代わりにツアーのスタッフとの打ち合わせに出ている。最初彼は渋ったのだが、退院手続きや次の診察予約の手続き等とどっちが良いかとスマイルに聞かれて泣く泣くそちらを選んだのだ。
 どうやら彼は病院というものが嫌いになったらしい、スマイルだってあまり好んで足を運びたいとは思わない場所だったのに。
 二日分の入院で使った身の回りのものを詰め込んだ鞄を置き、スマイルはゆっくりと扉を開ける。ギギギ、という聞き慣れていたはずのその音がやけに物々しく聞こえて、一瞬ユーリは自分が全く別の場所に連れて来られたのではないかと勘ぐってしまった。
 だがタクシーの運転手にスマイルが告げた目的地は、間違いなくここだった。到着を知らせた運転手も、この住所を口にしていた。
 身体が緊張で震えている。たかが、自分の家に帰ってきただけなのに。
 あいかわらず世界は暗い、何も見えない。かろうじて明暗の差だけは分かるが、ものの輪郭を掴む事は出来なかった。
 一時的な外的ショックによるもの、とそれだけしか説明しないあの医者を心底嫌いになった。医者であればちゃんと治療してみせろ、と叫びそうになったのを何度も堪えた。ベッドから降りて窓を開け閉めする、カーテンを引く、そのいつもであれば何でもない行動をひとつ起こすにも勇気が要る、時間もかかる。
 そして、誰かの手がなければ歩くこともままならない。
 こうしてスマイルの手を引かれていても、夜闇の中を彷徨っている感覚が抜けない。自分は迷っているのではないか、目的地とは違う場所に導かれたとしても気付くことが自分には出来ない。右手で繋がれているこの男を信じる以外に、道がない。
「階段、昇るから」
 止まって、と合図をされて足が止まる。少し右足を前に出すと確かに階段があるらしく、段差に爪先が当たって跳ね返ってきた。
 玄関から上の自室へ行く為の階段とは、それほど距離はないはずだった。てっきりもう、階段を上り下りしなくても辿り着くことが出来るリビングの方へ到着する手前だと思っていたユーリは、言われた事と自分の感覚が大きく狂ってしまっていることに気付いて愕然となった。
 あれほど歩いたはずなのに、まだこれっぽっちも進んでいない。
 左手を手すりに置き、右手はスマイルに預けたまま一歩ずつ階段を登る。歩幅を確かめるように、一段一段に右足を載せ左足を置き、次の段に足を掛けては同じ事の繰り返し。たかだか十数段しかない階段を登りきるのに一体どれだけ時間をかければ良かったのか。
 懐かしさを覚えてしまいそうになる自室へ到着したときには、ユーリはくたくたに疲れていた。
 住み慣れ、配置も完全に覚え混んでいると思っていたはずの城が、全く別のものにしか感じられない。スマイルは、入院中に家財道具を移動させたりした事はないと言っていた、その言葉に嘘はないだろう。
 ユーリを柔らかいクッションの利いたベッドに座らせ、持っていた鞄を床に置くとスマイルは彼から手を離す。途端に、命綱を断ち切られた感じがしてユーリは心の中に何か冷たい風が流れていく錯覚を覚えた。
「飲み物でも用意してくる。紅茶でいい?」
 アッシュが居ればもっと気の利いたものを用意できただろうが、彼はまだ帰ってくる気配がない。夕食までにまだ時間は残されているが、あまり遅いようではあり合わせで先に済ませてしまうしかないだろう。ユーリがやっと帰ってきたというのに、と窓を見やってスマイルが溜息をついた。
「…………」
 ユーリは黙って聞きながら羽毛の掛け布団に片手を添えて撫でている。感触を確かめているのだろうが、どこか表情は朧だ。
 返事を待っていても意味がないことを悟ったらしい、もう一度分からない程度に溜息をついてスマイルは部屋を出ていった。今のユーリが視力を失った分を補おうとして、身体が勝手に普段よりも聴力を発達させている事を彼は失念していた。
 スマイルの溜息は彼に知られた。
「…………っ!」
 かちゃりと閉じられた扉の向こうで気配が遠退いていくのを待ち、ユーリは拳を引き寄せた己の枕に叩きつけた。
 軽い衝撃はクッションの弾性に吸収されて痛みは無い。それが尚更悔しくて何度も何度も枕に拳を叩きつける。そのうち何処かに穴が空いていたらしく、其処に爪が引っかかって布が一部裂けた。
 綿がはみ出る、溢れ出す。浮き上がって散乱する、部屋中に。
 けれど見えない、動いているものを感じ取れるのに見ることが出来ない。音もなく四方に散っていく真綿が何処へ落ちたのか、分からない。
「ここは、私の城だっ」
 無性に泣きたくて、それを堪えるために大声を出して叫ぶ。
 立ち上がる、床の上にひとり。バランスが悪い、数歩進むだけで倒れそうになった。伸ばした手は虚空を流れて右から倒れた。
「っ!」
 床に打ちつけた箇所が鈍く痛みを訴えてくる。だが押し殺して再び立ち上がる、何か支えになるものを捜して右に伸ばした指の先に棚の縁があった。
 もし此処に頭でもぶつけていたなら、そう考えてぞっとしたものが背中を通り過ぎていった。
 目を閉じていても分かると信じていた自分の部屋の間取りでさえ、今は酷く朧気にしか思い出せない。この棚は確か扉のすぐ左にあったはずだ、いや間にサイドボードがあったかもしれない。ドアノブの高さはどれ程だった、其処を出てすぐのところに何があった、なにかがあったはずなのにそれが思い出せない。
「…………っ」
 泣きたい。
 泣けない。
 負けたくない、こんなことで。
 手探りで扉を探しだし、ノブを回す。予想以上に勢い良く開いた扉に腕を持って行かれ、取り残された身体が傾ぎまた転びそうになった。
 心臓が跳ね上がる、そろそろと足を出して足裏の感触が変わってそこから先が廊下であることを確かめる。一歩の距離が僅か三十センチにもならなかった。
 扉を閉める、そのアクションだけでも一分以上かかったような気がする。
 スマイルは台所にいる、自分はひとりでも大丈夫だと言うためには其処まで辿り着けなければならない。
 誰かに縋る事でしか生きられない、そんな自分は絶対に嫌だ。ひとり取り残されてぽつんと、空白の中に埋めるもののないまま自分が生きているのか死んでいるのかも分からなくなってしまうあの時間に戻るのは嫌だ。
「……はっ……」
 息を吐き出す、手を伸ばし空中で探って手摺りを掴む。足を前に伸ばせば、まっすぐ平らな廊下が唐突に床を失っていた。階段だ。
「…………」 
 唾を飲み込むとごくりと音がする。
 両手で手摺りをしっかりと握りしめて、身体を横向きにして左足を真横に伸ばす。ゆっくりと下ろしていくと、一段下がった場所に幅の狭い床があってそこに下ろす。次に股を閉じる感覚で右足を左足に添えるように下ろしていく。
 階段をたった一段降りるだけなのに、一生分の勇気を費やしたような気がして汗が出た。疲れてしまって、その場に座り込みたくなる衝動に駆られる。だが思い直し、すぐに次の段へ降りる動作を再開させた。
 手順は先程と同じ、一段一段降りていく。ただ昇るときとは違って、足下の不安定さと心許なさは格段に大きい。
 見えることと見えないことの違い、病院にいる間はそれほど不自由に感じなかった。だから平気だと思って、過保護すぎるまでのスマイルやアッシュの行動が気に障った。
 だが違ったのだ、あの時は周りに沢山の人が居て、困っていれば看護婦がそっと横から手を差し伸べてくれて居たし、出来る限り時間を作ってスマイルたちも傍にいてくれた。
 奢っていたのだろうか、自分は。
 今何段目まで来ただろう、残りは数段だけだと思っていた。
 遠く、自分の呼吸の合間に別の音が混じって聞こえる。陶器がぶつかり合うような音、多分食器の。
 スマイルが戻ってきたのだ、お茶の準備を終えて。
 早く、早くこの階段を下りきってしまわなければ。早く、早く。彼が戻ってきてしまう前に。
 焦りを覚えていた、出来るものと過信していた。残りは少ないと思いこんでいた。
「…………あっ」
 階段にまで律儀に敷かれた絨毯をこれほど恨んだ日があっただろうか。少しだけ、本当にほんの少しだけ前に出しすぎた左足が絨毯の滑らかな毛に滑ったのだ。
 一瞬、身体が下に沈む。踏み外した左足が重力に引かれて斜めに、まるで自分の身体から抜け落ちようとしているかのように階段下へ向かって落ちていく。
 近く、いや、遠く?
 なにかが砕け散る音が聞こえた。
 スマイルの、声にならない悲鳴が耳の奥底まで響いて心が震えた。
 衝撃は、来なかった。
 暖かなものに身体が包まれていて、それはとても小刻みに震えていた。
 自分は悲鳴をあげなかった、それは光を移さない瞳が状況を教えてくれなかった所為でしかなかった。
 スマイルが震えている、この腕は彼のものだ。分かる、分かってしまう。
「……泣いているのか……?」
 何故かそんな気がした、抱きしめられているだけだし、自分の目は彼の表情を映し出してくれないのに。泣き声や啜り泣く音も聞こえてこない、ただ肩口に埋められているらしい彼の呼吸と心臓の鼓動が少し大きいような気がするだけ。
 だけれど、泣いているように思えた。
「泣いてない」
 ようやく彼は呟いたが、抱きしめてくる腕の力は緩まない。
「スマイル……?」
 怪訝な、問いかけの声をあげると彼はようやく少しだけ力を抜いて、顔を上げユーリを階段の上に下ろした。だがまだ完全に解放してくれたわけではなく、腰に腕を回されたままだった。
「ユーリ、君は」
 台所から戻ってきたスマイルが階段で見たのは、ひとりでフラフラと頼りなさげに階段を下りていくユーリの姿だった。
 本人はしっかりと握っていると思っていた手摺りも、半分ほどしか指は回っていなくて握り込めていなかったし、それになにより残りの段数があと少しと思っていたユーリの予想は、大きく外れていた。
 彼はまだ、五段ほどを降りていたにすぎなかった。
 スマイルは全身の血の気がサッと引くのを感じた。直後だった、ユーリが左足を滑らせて彼の身体が宙に浮いたのは。
 持っていた茶器は盆ごと投げ捨てた。陶器のカップやポッドは粉々に砕け、適温に調節された紅茶は玄関の床一面に大きな衣魚を作り湯気を立てた。
 落ちて行こうとするユーリの顔は落ちついていた、何が起きているのかを把握出来ていなかったのだろう。
 駆け上った、階段を三段とばしで。
 腕を伸ばした、千切れても良いとも思った。この手が二度も君を逃してしまうのだけは絶対に嫌だった。
「君は、ぼくに二度も……君が落ちていくのを見ろと言うのかい!?」
 あの日の記憶は今でも生々しく遺っている、瞼を閉じれば直ぐにでも浮かんでくる、伸ばした手をすり抜けるようにして階段を落ちていくユーリの背中を。
 掴めなかった手を、何度も恨んだ。憎んだ。
 ユーリは考えていなかった、今回の事で傷を負ったのは自分だけだと思っていた。そう思いこむことで、自分を守ろうとしていた。
 けれど違う。一番傷つけたくなかった人が傷ついていた、あんなにも近くに居たのに少しも気付いてやれなかった。
「スマイル……」
 今頃になって身体が震えてきた。あのまま落ちていたら次はどうなっていたのか、想像するのも恐くて出来なかった。
 手を伸ばし、其処にいるスマイルの服にしがみつく。彼は優しく背を撫でてくれた。
「スマイル、私は、私は……」
 それ以上言葉が繋がらなかった。ただこみ上がってくる嗚咽だけが押さえても押さえきれなくて口から溢れ出るばかりだった。
「もういい、もう良いからユーリ」
 背を撫でた手が髪を梳き、頬に添えられてこぼれ落ちた涙を拭ってくれる。
「ぼくが、君の目になるから」
 世界で一番言わせたくなかった言葉は、この世で一番優しい言葉だった。

空駈ける風の声に

 自分が沢山のことを同時に出来るほど器用な人間ではないことくらい、もう十五年とちょっと生きているわけだからいい加減、分かっていた。
 自分の失敗を素直に自分の所為だと認めて、相手の顔を真正面から見つめて謝罪の言葉を口に出来るほど、素直で正直な自分では無いことも、分かっていた。
 全部、分かっている。
 自分が悪いって事。みんなが非難して、糾弾して、けれどそうされる程に自分が突っぱねて余計に謝る機会を見失ってしまう、不器用な人間だって事くらい。
 このオレ自身がなにより、よく分かってる。
 言われなくても、ちゃんと分かってるよ。けど、どうしようもないくらいにオレのこの性格は板に付いてしまっていて。
 せいぜい、背中を向けたまま自分の失敗は自分で取り返すと、格好つけるのが精いっぱいだって事も。
 失敗は、取り返す。オレのバッドで。
 オレにはそれしかなくて、本当にそれ以外にみんなへ返してやれる事が見当たらないから。
 それくらいしか、出来ないから。
 分かってるんだ、本当はオレみたいな奴がこの場所に立って居ちゃいけないって事くらい。みんな一所懸命で、勿論オレだって頑張ってるけれど、それでも追いつけないくらいにみんなは今までの沢山の時間を野球に費やしてきた。オレが莫迦みたいにはしゃいで、無駄にしてきた時間をみんなは野球ってスポーツひとつに賭けてきてるんだから。
 今更追いつけるだなんて虫の良い話し、考えた事はない。
 ただ今は、みんなと少しでも肩を並べられる位置に辿り着ける事だけを、目指してきた。
 オレにはバッドしかなくて、バッドを振り回してボールに当てて、それをスタンドへ放り込むだけの事しか出来ないから。それで少しでもみんなが喜んでくれるのなら……。
 ああ、違うな。
 オレ、嬉しかったんだ。あの入部試験の最後で、ギリギリの緊張感を突き破った一打を叩き出した後。塁を回ってホームベースへ戻ってきたオレを迎え入れてくれたみんなの顔がもの凄く嬉しそうで、楽しそうだったから。
 こんなオレをあんな顔で迎えてくれる奴らが居るって事が、オレ自身もの凄く意外で、だからこそ嬉しかったんだと思う。
 結局はそうなんだ、自己満足。
 オレが周りに認めてもらえるなら、何だって良かったんだろう。たまたまその手段が野球だったってだけ、で。
 空を、見上げてみた。
 嫌になるくらいに晴れ渡って、頭上を遮るものなんかどこにもない。
 視線を戻す、土のグラウンドはみんなが駆け回り、スライディングを繰り返したりした所為であちこちが色を変えて抉れていたりする。それはベースの周辺では特に顕著で、オレは黙ったまま間近にあるファーストベースを見下ろした。
 出塁した選手がまず一番に踏む、そのベース。
 誰もがこの場所へ真っ先に到達しようとして、懸命にバッドを振り回し恥も忘れて駆け込んで来る。ここを通過しないことには、誰もホームへ戻ることなんて出来ない。
 そして野球ってやつは、ホームベースへ戻って得点を重ねない限り、永遠に終わりが訪れないゲームなんだ。
 ホームベースは、スタート地点であり同時にゴール地点だ。ファーストはその一番目の経由地。オレは、そんな場所を守っている。
 野球で一番重要なポジションは、どこだ?
 打席に立つバッターを三振に仕留めるピッチャーか? そのピッチャーをリードして、尚かつゴールを守る最後の砦たるキャッチャーか? 
 違う、差なんかない。みんなみんな、自分が守っている場所を一所懸命に守っている、どこかを突破されればそれで終わる、なんて場所は何処にもないんだ。逆を言えば、
どこを突破されても致命傷になりかねない。
 外側から眺めているときは、ただ突っ立っていればいいだけだと思っていたものが実際に内側に入ってみると、決して楽な物ではないことを教えられた。ファーストは、簡単に見えて辛い。
 オレに、なにが出来るだろう。
 オレは、何をしてやれるだろう。
 ここに居て良いのだろうか、時々思う。こんな風に試合中、何度も青空を見上げながらグラウンドの広さを思い知る。
 この土の大地の上で、オレは限りなく、誰よりも小さくて頼りない存在なんだと知らされる。
 オレはグローブのはまっていない手を握りしめた。カラカラに乾いた空気が、拳の間からするりと逃げて行く。照りつける太陽は眩しくて熱かったけれど、そんな事にかまけてなど居られなかった。
 まだ真新しさが抜けないグローブを広げ、その中に握りしめた拳をたたき込んだ。
 視線を巡らせ、マウンド上でひとり孤独に耐えながら立っている子津の背中を見つめた。アイツに言った言葉は、嘘にしたくない。
 オレ達は一緒に入部試験の日に奇跡の大逆転を演出しあった仲間だろう? こんなトコでつまんなく負けてっちまうような、軟弱な気持ちで野球やってるんじゃないんだろう?
 負けるなよ、子津。オレも絶対、取り返すから。
 次の打席、オレの奇跡をもう一度見せてやるよ。だから、頑張れよな、子津。
 ふぅ、と息を吐き出す。ゆっくりとセットポジションに入った子津の向こう側で、腰を落とし気味に構えを作る司馬の姿が見えた。
 相変わらず無表情で、サングラスの奧の瞳がどこを見ているのかはこの場所からじゃ全然見えない。
 あいつにも悪いことをした。オレは結局、司馬の奴に謝ることが出来なかったわけだし。気にしてる……よな、やっぱり。この回が終わったら、打席に向かう前にちゃんと謝ろう。じゃないとすっきりした気持ちで打席になんか立てない。
 折角あいつの十八番である守備で良いところを見せてくれたのに、それにオレが応えられなかった。本気で、悪いと思ってるんだ。
 けれどオレって奴は、そんな風に分かっていても周りから矢継ぎ早に責め立てられて言い訳を封じられると、余計に言いたいこととは逆の事ばっかり口にしちまって本音を隠しちゃって、それで結局喧嘩したままお別れ、なんつーことが何度もあった。
 沢松の奴はいい加減長いつきあいだから、オレの性格とか全部知られてる所為でまだ見限られてないけれど。他の奴ら、野球部の連中とかは知りあってまだひと月しか経ってないわけで。直さなくちゃって思ってる性格も、どうしようもないままだし。
 いつみんなから完全に見限られて、嫌われるのか内心びくびくしてるオレがココにいる。
 みんな知らないだろ、オレって案外小心者なんだぜ?
 はーっと吐き出した息が風に押し流されてどこかへ飛んでいった。攫われていく吐息の行方を確かめていたら、オレの視線に気付いていたらしい司馬がサングラス越しにファーストの方をじっと見つめて立っていた。
 いや、勿論今は試合中だからアイツに限ってオレに意識取られるような莫迦な事はしていないはず、なんだろうけれど。
 気がついた時には、アイツはオレを見ていて。
 ガラにもなく照れながら、居心地悪そうにオレは辰羅川の方へ視線を流してしまった。
 頼むから封じ込めてくれよ、子津。そう切に祈る。そんな傍らで、しっかりとショートポジションへ目を向けてオレは、またばっちり司馬と視線をぶつからせたように、感じた。
 もともとアイツってばサングラスを掛けっぱなしだから、どこを見てるのかさっぱりだ。だからひょっとしたら自意識過剰なオレの思いこみなのかもしれないけれど。
 司馬は、オレを見てる。オレの事、気にしてる。
 オレが謝りたくて、出来なかった事……もしかして、ばれてるのかな?
 そんな事を考えながら、話しかけたくても出来ない状況を呪いたくなった。側に駆け寄る事も出来ない、オレはこのファーストベースを死守しなくちゃいけないんだから。
 今度アイツが投げはなったボールは、絶対に受け止めてみせると誓い直す。同じミスは二度として堪るもんか、辰羅川にだってこれ以上余計な心配やフォローをさせるわけにはいかない。
 みんな勝ちたいんだ、負けたくないんだ。
 だから必死なんだ。
 オレも、負けたくない。
 青空が心に染み渡る。不思議に喧噪が遠く感じられた。
 視界の片隅で、ベンチに座る不機嫌そうな奴が見える。胸の前で両腕を組んで、司馬に負けないくらいの無表情さの中にマウンドに立つことが出来ない状況に苛立ちを隠せないでいる、アイツ。
 そうだ、犬飼だってまだ投げてない。
 あいつがマウンドに立つときは本当に、子津がどうしようもなくダメになった時だろう。子津には最後まで頑張ってもらって、九回まで投げさせてやりたい気持ちはでかいけれど。
 でも。
 やっぱりオレ、犬飼の野郎が投げてるトコもちゃんと見たい、かな?
 あ、悪い子津。お前がさっさとダウンしちまえとか、そういう意味じゃ決してないからな? 違うから拗ねんなよ?
 聞こえても居ないだろうオレの心の声に、思わず子津の背中へと謝罪してしまってからオレは改めてバッターボックスの打者に目をやる。
 今一番、オレが追いついて追い抜かすべき相手がそこに立っている。
 色々と認めたくない部分が多い先輩だけれど、純粋の野球選手ってところだけを抜き取って考えれば、素直に凄いって認めても構わない人、だ。悔しいことにあの人は、それだけの実力を持っている。
 だからこそ、オレはあの人が目下の目標であり、追い抜くべきライバルだから。
 負けない、絶対。
 もう一度握り拳をグローブに叩き込んだ。
「っしゃぁ!」
 唐突な威勢のいい掛け声に、隣のポジションであるセカンドを守っている兎丸がびくっ、と肩を震わせた。
「スバガキ、つまんねーミスなんかするんじゃねーぞ!?」
「んもう。急にどうしたのかと思えば……それは、お猿の兄ちゃん自分の事じゃないの?」
「うっせぇ。とにかく、ぜってーに、この回は零点で終わらせるからな!」
 ツーアウト、ランナー二塁。バッターは雄軍の三番打者、クリーンナップの一番手を飾る虎鉄。彼を塁に出してしまっては、次に待ちかまえるのは四番、牛尾。
 絶対に彼まで回してはならないという意識は、グラウンドに散った九人の一年生全員が感じている事だろう。だからなんとしてでも、虎鉄は打ち取っておかなければならない。
 オレの叫び声に兎丸はやれやれと肩を竦めながらも、しっかりと頷いて返してくれた。見れば、ショートの司馬もまた同じように、真っ直ぐにオレを見つめながら頷いている。
 子津が苦笑しながら、手の中のボールを握りなおした。辰羅川がキャッチャーミットを構えた。
「ちっ」
 ベンチ上で、ひとりぽっちの犬飼が舌打ちをする。
 オレは、笑っていた。
 握りしめていた拳を開く。指の隙間を風が流れていった。
 どこまでも澄んだ蒼が、邪魔者の居ない天空に広がっている。
 オレは顔を上げて深呼吸をした。
「ぜってーに、勝つ!」
 力いっぱいに叫ぶ。
「「「おう!!!」」」
 グラウンドに、青臭い声が響き渡った。

02年5月21日脱稿

Youthful Days

 その日、久しぶりに太陽が明け方の空に輝いていた。
 カーテンを引いて窓を開け、濃い色をした雲の隙間から覗く赤い太陽を見上げた彼は、自分が両手を置いているその窓枠にこぢんまりと鎮座していたものに気付いて身体を半分、後ろに引いた。
 僅かに湿り気を残した風が室内に流れ込んでくる。水の匂いを大量に含んでいるその風は重く、彼の身体にねっとりと絡みついてきた。
 けれどその事にも気を配ることなく、彼は、あと十数センチ左手を動かせば衝突して床に落下してしまいかねない場所に置かれていた、茶色の小さな鉢植えをやや茫然とした面持ちで見下ろしていた。
 中学卒業の時に、野球部の後輩だった女子マネージャーが部員全員に餞別と、プレゼントしてくれたサボテンだ。
 緑色の綺麗な丸い形をしたそれは、どことなく野球ボールに似ているから、というのがその理由だったらしい。値段もかなり手頃なもの、だから野球ボールと言うのはかなりサイズが小さかったけれどなんとなく、外見に愛嬌があって気に入っていた。
 水をやらなくても育つ事も、部屋に置いている理由に数え上げられる。
 卒業式には他にも、色々な人から様々なものを貰ったけれど、植物系のもの――花束は早々に母の手に委ね、いつの間にか枯れてしまったらしく処分されてしまったようだ。
 モノトーンで統一された彩りに欠ける部屋の中で唯一の、緑色をしたサボテンを手にとって両手で慎重に抱く。顔の前に持ち上げて掲げて見つめる、指を使ってくるくると回転させて球体の各部を眺めて、最後にほぅ、と息を吐いた。
 風がカーテンを揺らす、空は少しずつ晴れ間を広げて太陽の光は眩しく地上を照らしつけていく。
 随分と久しぶりの晴天を拝めそうだと言うのに、彼は窓の外よりも目の前の小さな植物を凝視し、あるいは感動でもしたかのように複数回、吸い込んだ息を重ねて吐きだしていた。
「へぇ……」
 やがて感嘆の声を零し、サボテンの鉢を今までの置き場所であった窓枠から、昨日予習をやったそのままノートを広げた状態で放置されていた机の、かろうじて残っていたなにも重ねられていないスペースにそっと置く。乱雑に積み重ねられているレポート用紙を乱暴な手付きで片側に集め、天板に手を置いて膝を折って腰を低くする。
 机上のサボテンと視線の高さを揃えて、彼はもう一度吐息を零した。
 ガラにもなく感動しているらしい。
 じっと見つめられて、恥ずかしいのかサボテンの花が窓から流れ込む風に照れたように揺れた。
 そう、彼の小さなサボテンは、今。
 小さな可愛らしい、情熱の赤い色をした花を咲かせていた。

 雨の降らない、朝から晴れた日は本当に久しぶり。
 多少雨水が残り、水たまりがあちこちにあったところで最近ずっと屋内でストレッチ中心だった部員達は皆、元気が有り余っているようだった。
 久方ぶりの土のグラウンドで出来る練習に、いつもは大人しい部員もが大声を張り上げている始末。いつもは微笑ましく見守っているだけのキャプテンも、今日ばかりは率先して泥にまみれていた。
 結果として、十二支高校野球部員のうち誰ひとりとして、顔を白くしたまま練習を終える人間は居なかった。その汚れ具合は凄まじく、剛気なマネージャーでさえ近付いて来なかったくらいだ。
 濡れタオルで拭う程度では泥を落としきる事は出来ず、全員が数に限りあるシャワー室を順番に使う事になる。
 優先順位は、当然ながら上級生から。先輩方が気持ちよく全身の汚れを洗い流している間、一年生は自分たち同様に泥にまみれてしまったボールをひとつずつ、磨く作業に駆り出される。
 かごに山盛りのボールを、古布で丁寧に泥を拭っていく。こびり付いた土を削り落として、退屈な単純作業に皆黙々と手だけを動かし続けて。
 最初に痺れを切らしたのは、案の定堪え性のないと定評の高い猿野であり。
 呆れたように犬飼がため息を零しながら肩を竦める。それを見た猿野が怒鳴り声を上げ、握っているまだ汚れの落ちきらないボールを彼目掛けて投げつけた。
 スッと、けれど犬飼は身体を横にずらして簡単にそれを躱してしまった。
 投げ放たれたボールは、不幸にも彼の向こう側にいた子津の横っ面にぶつかって落ちる。
 一番慌てたのはボールを投げた本人で、まさか彼にぶつかるとは予想しておらず狼狽しながら頭を抑える子津の元へと駈けていく。
 大丈夫か、平気っす。
 嘘だろ、思いっきり当たってたじゃないか。
 そんな事ないっすよ、見た目ほど痛くなかったっす。
 その場にいた誰もが子津の嘘を見抜く中で、猿野だけが素直に騙されてくれた。 
 ひょこっと、ふたりの間に兎丸が割り込んでくる。
 痩せ我慢はみっともないよ、と兎丸の泥まみれの右手が子津の、少し赤くなった頬を押した。
 途端強まった痛みに子津が短い悲鳴を上げ、慌てた猿野が更に慌てふためいて子津の顔を覗き込んだ。
 全然大丈夫じゃねーだろ、オマエ。
 上目遣いに心配しています、という顔を振りまく猿野を間近に見て、子津は耳の端まで赤くして本当に大丈夫だから、と不要な大声で叫んで誤魔化した。
 兎丸が悪戯っ子の笑みを絶やさないまま、猿野の腰に抱きつく。
 子津と猿野の間をそれとなく広げながら、自分が幾つボールを磨けたかをやや自慢げに猿野へ報告する。その数、ざっと猿野が磨き上げたボールの倍以上。
 褒めて、と目を細くして猿野に迫る兎丸の肩を、MDの電源を切った司馬が叩いた。
 なんだ、とふたりが見上げた視線の先には司馬が持つボールの入った籠が。中に収められている、泥磨きの終わったボールの数は、兎丸が磨いた数のざっと倍。
 遠くの方で辰羅川がため息を零しながら、ずり落ちる眼鏡を持ち上げた。彼の手前で、犬飼は必死になってせっせとボールを磨いている。
 なにをやっているのだか、と呆れ果てる辰羅川の手の中で、司馬が磨いた数をひとつ分上回る事になるボールが踊った。
 お前ら、次さっさと使えYo。
 身体から仄かに湯気を立てる虎鉄がバンダナ代わりにタオルを頭に巻いて姿を見せた。後ろには、やはり肩にタオルを掛けている猪里が続いている。
 お先でした、と未だに泥人形のようになっている後輩に笑いかけ、最後に猿野の肩を叩き早く綺麗になっておいで、と猪里が言った。
 良く解らない顔のまま猿野が頷き、立ち上がる。それを見て、他の一年生も続いた。
 磨き終わったボールの始末を二年生に任せ、一年生は連れだってシャワールームへと向かう。部室からさほど離れていない体育館の中に設置されたシャワー室の前では、虎鉄たちよりも少し遅れて出てきたらしい三年生が数人、彼らを待ちかまえていた。
 順番は守るように、お湯は出しすぎず必要な分だけ使うこと、くれぐれも悪戯はしないようにね、と。
 小学生に諭すような口調で、牛尾が一年生にシャワー室の使用方法と注意事項を簡単に説明する。そして聞いていた一年生もが、揃いも揃って元気良く返事をして頷いた。
 一列になってシャワー室に突撃する元気いっぱいの彼らを見送り、牛尾は楽しげに微笑んでいる。
 これ、使うと良いよ、と。
 こっそりと猿野にだけ、ボディーソープを手渡して。
 猿野は首を傾げたけれど、好意は素直に受け取って礼を言いぺこりと頭を下げる。犬飼が、早く来い、と急かす声を上げるので踵を返す彼の背中を見送る牛尾から、蛇神は肩を竦めて視線を外した。
「おい、猿」
 個別になっている、けれどそれほど高くない仕切りしかない湯気が籠もるシャワールームで、水音に掻き消されないように犬飼が猿野を呼んだ。
 牛尾から借りたボディーソープの蓋を外していた猿野が、億劫そうに犬飼を見る。
 湯を浴びて逆立っていた髪が寝ていた彼の顔を見て、一瞬で彼は視線を逸らした。なかなか中身が出てこないボトルの胴体を強く握りすぎて、借り物のそれはぐにゃりとまんなかで変な風によじれてしまった。
 なにやってんだ、莫迦猿。
 犬飼がシャワーのコックを捻って湯を止めて言う。
 うるせぇ、オマエがいきなり話しかけてくるから悪いんだろう。
 悪態をつく猿野をしきりの上から眺めて、犬飼は少しだけ声を潜めた。
 彼の隣を使っている辰羅川が、勢い良くシャワーから溢れ出す湯で頭を洗い始めた。喋り声が水音に一瞬だけ紛れ込む。
「今日、このあと暇か?」
 猿野にだけ聞こえる声で、問いかけた。
 五秒後、辰羅川のシャワーが止むと同時に猿野が一度だけ、縦に首を振った。

 下り坂のアスファルトを、ふたり乗りの自転車が勢い良く駆け抜けていく。
 学生服姿の、しかも大きな鞄をふたつ、ステップに立つ側が背負っているという状態で、規定スピードを軽くオーバーした銀輪は車の少ない道を走っていた。
 ペダルを踏む銀色の髪をした学生が、時折後ろを気にしながら角を曲がる。ブレーキを握るたびにふたり分の負荷を抱える自転車が悲鳴を上げたが、あと少しの距離だから我慢してくれと、長年連れ添っている愛車を心の中で労った。
 青のランプを点滅させている横断歩道を横切り、夕焼けが照りつける公園を右手にしながら町を走り抜ける。
 あまり水はけが宜しくないらしい一帯で、でこぼこの中に残っていた昨夜の雨が水たまりを作っているのが目の前に見えた。
 うわっ、避けろ!
 後部座席の彼が叫ぶ。でこぼこ道をまともに進んで行かれると、ステップに立っている上に荷物をふたり分も抱えている自分は落ちかけないと、悲鳴を上げた彼を笑って、運転手はペダルを踏む足に力を込めた。
 道を直進する。
 肩に置かれた彼の手に力が込められるのを感じながら、犬飼は勢い良く水たまりの中へ銀輪を突入させた。
 水しぶきが車輪の両側に広がる、さながら天使の双翼の如くに。
 跳ね上がった飛沫が乾いている路面を幾らか濡らした、極少量が彼らの靴とズボンの裾を汚す。
 犬飼が笑う、声を立てて。
 猿野も笑った、ポカリと足として使っている犬飼の頭を小突く事を忘れずに。
 けたたましく、声を立てて、心底愉快そうに。
 ふたりの笑い声が夕暮れの町に重なり合う。声が途切れる頃になってようやく、犬飼の銀輪は目的地へ到達した。
 犬飼の部屋、モノトーンの彩りが足りない味気ない空気の中で咲いた、赤いサボテンの花。
 見に来ないか、と猿野に声をかけたのはただの気紛れ。
 ただなんとなく、あの赤い色が犬飼の中で猿野を連想させただけ。
 他に理由など無く、考える必要もなかった。まさか猿野が乗ってくるとは思っていなかったから、意外な感じがしたことは否めないけれど、サボテンが咲いたと知れば好奇心の塊である彼が、惹きつけられないはずがないという自信もどこかにあった。
 カーテンの掛けられた薄暗い室内の照明を灯す。
 部屋は今朝、犬飼が学校に出かける前に雑多に片付けた時のまま。母がお節介に掃除をした形跡も見当たらなかった。
 急激に明るくなった部屋に瞬きを数回繰り返して目を慣れさせ、猿野が数度目の訪問になる部屋を改めて見回す。
 彼は、犬飼の部屋にサボテンがあることをちゃんと知っていた。
 これ、どうしたんだ? 
 最初に部屋を訪ねたとき、彼が窓辺でひっそりと飾られているサボテンに興味を示した事は、犬飼も覚えている。余程部屋の雰囲気に馴染んでいないと目に映ったのだろう、猿野はこの部屋を訪ねるたびに毎回、小さな鉢植えのサボテンに話しかけていたから。
 な、オマエのご主人様はちゃんとオマエのこと、面倒みてくれてるのか?
 犬だから、甲斐性なしで困るよな。
 苛められたら俺に言えよ、百倍返しで敵を取ってやるからさ。
 サボテンは植物なので喋る事なんて出来ないことくらい重々承知しているはずなのに、猿野はいつも、無口な部屋の主を無視してサボテンと遊んでいた。
 そのサボテンが、花を咲かせたのだ。
 彼が見たがらないわけがない。
 猿野はまず、いつもサボテンが置かれている窓辺に目をやった。けれどそこには見当たらず、答えを求めるように入り口前で自分の後ろに立つ犬飼を見上げる。
 犬飼が無言のまま、顎で机の上を指し示した。
 振り返った猿野が机を見る、乱雑に積み上げられているプリント類と参考書の隙間に埋もれるようにして、確かにサボテンの鉢はそこにあった。
 だけれど。
「おい、犬飼」
 一瞬だけ明るくなった顔にすぐさま暗く影を落として、猿野は声を潜め背後に立つ犬飼の名前を呼んだ。
 返事を待たずに、数歩で距離が詰められる机の前へと進み出る。
 両手で掬い上げ、胸の前に中身が零れない程度に傾けたサボテンの表面に指をそっと這わせて、彼は犬飼を待った。
 怪訝な面持ちを作り、彼は猿野の横に並んで彼が抱くサボテンを見つめる。
 花は、なかった。
 ただ花が咲いていたという残骸は残されていた。萎んでしまった花びらが机の上に数枚、散っている。うち一枚がサボテンの、緑の刺に引っ掛かるように下向きに垂れていた。
 猿野が無言のまま、鉢を机に戻した。
「あ……」
 直ぐに言葉が出てこない犬飼が、なにかを言おうと必死になって視線をその辺りに彷徨わせた。しかし気の利いた一言も思い浮かばず、こういうとき自分が辰羅川であったなら良かったのに、と人任せな勝手なことを考えてしまう。
 視線を持ち上げた猿野と、まだ台詞を見つけられない犬飼のあちこちを当て所無く巡る視線がぶつかった。
「ゴメン」
 反射的に呟いていたのは、一体何に対してなのかもさっぱり不明な謝罪の言葉。
 ぽかんと惚けてしまっている猿野を見下ろし、犬飼はどうも居たたまれない気分に陥ってしまう。
 折角呼んだのに、その目的であるサボテンの花がまさか、半日で枯れてしまうだなんて思ってもみなかったから。来てもらったのに、無駄足を踏ませてしまった彼に申し訳ない気分がいっぱいであり、それにも増して枯らせてしまった花が可哀想に思えてならなかったのだ。
「悪い」
 重ねて紡がれた犬飼の謝罪の声に、猿野は惚けていた顔を元に戻すと、片手を腰に添えて胸を反り返らせた。そうすれば自然と首の角度も上がって、無理なく犬飼を見上げることが出来るからだ。
 再び重なり合った視線の向こうで、猿野がふっと微笑む。
「なに謝ってんだよ。お前が悪い事したなんて、俺思ってねーぜ?」
 犬飼はなにもしていない。確かにサボテンの花は枯れてしまったけれど、それは予想し得なかった事だ。
 机上に手を伸ばし、猿野はサボテンの表面を撫でた。指の腹にちくちくと感じるだけの感触を楽しみながら、瞳を細める。
「それに、さ」
 お前が俺を呼んでまで見せたいってくらいに、綺麗に咲いてたんだろう?
 にかっと歯を見せて、猿野は笑った。
 明け方、東の空から雲間を割って光を空へと奏でた太陽のような。
 険しい砂漠の環境下で健気に生きるサボテンが、ひっそりと咲かせた赤い小さな花のような。
 そんな、笑顔で。
「な?」
 次の瞬間。
 胸の前に背中から、肩越しに回された両腕に抱きすくめられて猿野は、サボテンに伸ばしたままだった手をぎくりと揺らした。
 背中越しに自分のものではない体温を感じる。皮膚と身に纏う衣服を挟んで伝わってくる心音に、無意識のうちに自分のものが被さってシンクロし始めるのが嫌でも分かる。
 自分に分かるのだから、きっと相手側にも伝わってしまっているだろう。
 サボテンに触れる指先が、ちくりと痛い。
「おい、こら。犬のくせになに、人間様にじゃれついてやがる」
「犬だから、に決まってるだろ」
 言い返され、猿野は二の句を告げず黙り込んだ。
 再びサボテンの表面を撫でる。落ち着きのない動作で、同じ事を繰り返す彼の手首を犬飼が、緩い仕草で掴み取った。
 引き寄せる、肩の上にまで持っていって土の匂いが残る彼の指先に、そっと口付けた。
「痛ぇんだから、あんまり触るな」
 逃げたがって力を込め、指を振る猿野が反対側へ首を傾けながら言う。茶色のややクセが強い髪の間から覗く彼の耳は、先の方まで赤く染まっていた。
 口元を綻ばせ、犬飼が笑いながら逃げ回る猿野の手を一層強く握りしめた。
「棘でも刺さったか?」
 サボテンをずっと撫でていた手だ、あるいはそれもあり得たかも知れない。けれど頑丈の代名詞を背負っている猿野が、手の平サイズのサボテンに傷を付けられるとは考えにくい。
 棘が刺さったとしたら、恐らくはもっと別の場所か。
 黙りこくったままの猿野が、こくり、と一度だけ首を縦に振る。
 犬飼が声を立てずに気配だけで笑った。
「なら、ちゃんと消毒しておかないとな」
 先程までのどもり様が嘘のように、わざとらしい台詞を連ねて犬飼が猿野の手を更に引き寄せる。
 指先に彼の吐き出す息の熱を感じ取った猿野が、咄嗟に手に力を込めて強引に犬飼から、自分の手を奪い返した。
「そっちじゃねぇよ!」
 思わず、そんな言葉を口走って。
 言ってしまってから猿野は自分の言った台詞に目を丸くした。
 言われた犬飼は、言われた事の意味を咄嗟に把握しきれずやはり目を丸くして体勢を逆向き、つまり自分の方へ顔を向け直した猿野を見下ろした。
「え……?」
 言うべき言葉がすぐに見付からず、犬飼は僅かに上気した頬を持て余しながら猿野を見つめる。
 犬飼よりももっと赤い顔をした猿野が、拗ねたように彼をねめつけていた。
「つまり?」
「もう知らん!」
 どこまでも鈍い犬飼を怒鳴りつけて、猿野は机と彼とに挟まれているというある意味屈辱的な現在位置から抜け出そうと藻掻いた。
 しかし犬飼は退かない、机も当然ながら動かない。
「悪い」
 三度、犬飼が謝った。
 彼の手が猿野の脇を抜けて机の端に置かれた。完全に拘束されてしまった猿野がきゅっ、と目を閉じるのを待って、顔を寄せる。
 熱が触れあった瞬間。
 サボテンに残っていたひとひらの花びらが、風もないままに落ちた。
 

02年5月5日脱稿

粉雪

 その日は真夜中から冷え込んでいた。
 湖に面し、常に北側から風が吹き続けるレイクウィンドゥ城は、温暖な気候のサウスウィンドゥ市にある。だから朝、普段よりもずっと冷たい空気に震えて目覚めた城の勇士達は窓の外の光景を見てさらに震え上がったことだろう。
 雪が、舞っていたのだ。
 はらはらと、切ない感じを身に纏いながら、小さな雪の結晶は空から地上へと舞い降りている。
「雪だー、雪だぞー!」
 コボルトのゲンゲンとガボチャが、鼻をひくひくさせて城の庭を走り回っている。その中にキニスンの愛犬シロも混じっている辺りが何ともほほえましいが、寒さになれていない南方の出身者達は、彼らのはしゃぐ様を見る余裕さえなかった。
「セス! 雪、雪が降ってる!」
 だが、中には雪降る寒さに慣れている者もいる。
「知ってるよ、ナナミ。おはよう」
 ねぼすけで有名なラストエデン軍のリーダーである義弟を起こしに、大声で叫びながら走り込んできたナナミだったが、すでにベット脇に立ち、着替えも完了していたセレンの姿を見てがっくりと肩を落とす。
「なーんだ。つまんないの。折角びっくりさせてやろうって思ってたのに」
「ごめん」
 レイクウィンドゥ城の最上階に位置するこの部屋からも、雪降る空の光景はよく見える。あまりの冷え込みにいつもより早く目が覚めたセレンは、しかしナナミと同じように、この冬の空を懐かしく思った。
 彼らの育ったキャロの町は、山に囲まれた高地にある。夏でも涼しいためハイランドの貴族達の避暑地として有名で、それが町の重要な収入源でもあるわけだが、冬になると一転して厳しい寒さと降り積もる雪で、観光どころか旅の行商人さえ近づきたがらない町に変わってしまう。昼間でもどんよりとした雲が上空を覆い、絶え間なく雪が降り続ける。そんな町で彼らは育ったのだ。
「ねえねえ、積もるかな」
「うーん、どうかなぁ」
 湖の湖畔に降る雪は、地面に触れるとその瞬間にひやり、と地面の熱で溶けてしまう。かなり前から降っているような感じだが、いまだ積もる気配は見られない。
 いつもよりも少し厚手の服装で部屋を出て、エレベーターで二階へ下りる。朝食を取ろうとレストランへ向かうが、その間にすれ違う人は皆、寒そうに身を縮こまらせていた。
「いらっしゃいませー!」
 いつもの明るい声も、どこか寒そうだ。
 レストランは相変わらず混んでいたが、幸いにも壁際のテーブルがあいていた。ぐるりとレストラン全体を見回すと、やはりみんな寒いからか、温かいシチューを注文している人が多い。湯気がレストランの天井まで漂い、熱気で他の部屋よりもいくらか気温が上がっている感じがする。
「何にする?」
「やっぱりシチューかなあ。グレミオさんのシチューに決まりだよ、すっごくおいしいもん」
 最初のオープンしたての頃よりもかなり増えたメニューを眺めながら、ナナミが思い出しながら言う。
 今はグレックミンスターにいる、トラン共和国建国の英雄の付き人ののグレミオがくれた、特製シチューのレシピは、特にこんな寒い日には役に立つ。ただ、セレンにしてみれば、いくら寒いからと言って朝から胃に重いシチューはどうか、と思うのだが。あえてそれは言わないでおいた。
「じゃあ、ナナミは特製シチューでいいね。ボクは、そうだなあ……」
 注文をそれぞれに決め、テーブルに料理が来るまでしばらく待つ。今日は誰もテラスで食べようという者はいないようで、窓も閉め切られている。まだ雪は降り続いているが、目覚めた頃より少しだけ、勢いがなくなってきている気がした。
「うー、寒い寒い」
 震えた声がして振り返ると、そこには南方出身の代表格とも言える、アマダが立っていた。
「寒そうだね、アマダさん」
「ええ? そりゃあ、そうさ。雪が降るなんて、聞いてないって」
「もしかして、雪を見るの、初めて?」
 ナナミの問いかけに、アマダはぶんぶんと大きく首を縦に振った。
「俺っちの生まれた村じゃ、雪でも降って見ろ。村中総出で大騒ぎになっちまう」
 サウスウィンドゥ市でも、雪が降ること自体珍しい。湖を越えた先のミューズ市だとどうかは分からないが。それが群島諸国にでもなったら、雪どころか冬があるのかさえ、疑わしい。
「そうなんだ。じゃ、他にも雪は初めての人、いるかもね」
 運ばれてきたシチューを早速胃に収めながら、ナナミが嬉しそうに言った。
 雪はまだ、やみそうにない。
 朝食を終え、テーブルを次の人に明け渡したセレンとナナミは、一階に下りて酒場へと向かった。食堂に入りきらなかった人が、せめてもの暖を求めて朝っぱらから酒を仰いでいると聞いたからだ。
「あれ? セレンじゃないか。どうしたんだい?」
 倉庫の前を曲がり、城の中から酒場に入ったふたりを見つけて先に声をかけたのは、旅芸人一座の一員であるアイリだった。横にはリィナの姿も見える。
「ボルガンは?」
「あいつは、雪が珍しいからって外にいるよ。風邪を引くから止めておけって言ったんだけどね。聞かなくて」
 もうひとりの旅芸人の姿はなく、アイリの言うには、酒場の外でゲンゲン達と一緒にはしゃいでいるそうだ。念のためにコートを着せたらしいが、あまり効果はないかもしれないと、アイリはひたすらにぼやいている。
 酒場は暖炉に火が入って、暖かい。何も酒を飲んでいる人ばかりではなく、朝食代わりに軽いつまみを口に運んでいる人もいた。アイリもそのひとりだったが、リィナの前には酒の入ったグラスが置かれていた。
「暖まるにはこれが一番ですから」
 悪びれもせずに微笑む彼女に、アイリがため息をこぼす。
「ふたりも、やっぱり雪は珍しいの?」
 わくわくと言った雰囲気でナナミが椅子を引き寄せて腰掛け、ふたりに尋ねる。ちゃっかりアイリのつまみに手を出して。
「ああ、初めてじゃないけどね」
「そっか。いろんな所を回ってるもんね」
「でも、好きじゃないな」
 ボソッと言ったアイリに、ナナミが怪訝な顔をする。雪国とも言える町で育った彼女には、雪は確かに放って置いたら屋根を押しつぶす厄介者だが、遊ぶものの少ない冬場では、大事なおもちゃでもあった。だから雪が嫌い、と言う感覚が分からない。
「どうして?」
 なんだか怒りだしそうなナナミをなだめ、セレンが尋ね返す。
「え? そりゃ、雪が降ったら寒いだろ?」
「うん」
 何を当たり前なことを……と思いかけ、セレンははて、と首を傾げた。
「もしかして」
「そう。寒いとみんな家の中にこもっちまって、誰もあたしらの芸を見てくれないだろう」
「あ、なんだ」
 納得、とナナミがポンと手を叩いた。その光景をずっと黙って見ていたリィナが、グラスを片手にくすくす笑う。
「姉貴?」
「……いえ、なんでも。でもね、寒い地方は私は嫌いではないのよ」
 琥珀色の液体を口に流し込み、リィナがおかしそうに言った。
「だって、寒い場所の方がおいしいお酒が多いって言うでしょ?」
 もちろん暖かい地方にだって美味な酒はあるけれど、と言ってまた笑う。聞いていたセレンとナナミはポカン、と口を開けて絶句していた。ただひとり、慣れっこなのかアイリだけが困ったように頭を掻き、
「……姉貴…………」
 ため息をついていた。

 酒場のふたりに別れ、彼らは庭に出た。聞いた通り、ゲンゲンやボルガンが仲良く雪の下ではしゃぎ回っている。
「積もるのかなあ」
 起きてからだいぶ時間が経過しているが、積もる気配は一向に見られない。手のひらを前に差し出し降りゆく雪を受け止めるが、結晶は形を遺さず水に戻ってしまう。
「これは粉雪ですから、積もるには不向きでしょうね」
 たとえ積もったとしても、すぐに溶けて消えてしまう。そう言ったのはいつの間にか側に来ていた、カミューだった。マイクロトフもいる。
「そっか」
「もっと結晶が大きければ、積もっていたかもしれませんが。この地方で、粉雪が降ること自体、珍しいことなのですよ」
「サウスウィンドゥがこの様子では、ロックアックスは大変なことになっているかもしれんな」
 カミューの後を受け、マイクロトフが空を見上げながら呟いた。
「ロックアックスにも、雪が降るの?」
「ええ、山の中ですし」
 セレンに尋ねられ、赤騎士団長は楽しそうに言った。
「しかし洛帝山は活火山ですから、その一帯には雪は降りません。その代わり霧が凄いですよ」
 洛帝山の活動状況により、ロックアックスの降雪量は決まるといってもいい。今年はわりあい落ち着いているそうだから、雪は相当降るだろうとマイクロトフは言った。特に山岳地帯は、麓の村に降りることさえままならないほどだと。
「ふーん。キャロと似たようなものだね」
 ナナミが言い、彼女は北東の方角を見つめた。その方向に、自分たちの生まれ育った町があるのだ。
「雪、積もってたらどうしよう。今年は誰も雪下ろししてくれる人、いないんだよね。道場大丈夫かな」
 年季の入った道場は、下手をしたら雪の重みに耐えきれずぺしゃんこになってしなっているかもしれない。
「大丈夫だよ、きっと。町の人達を、信じてよう」
 親切にしてくれた町の人達を思いだし、セレンがそっと微笑む。老人と子供ふたりという頼りない力仕事を見るに見かねて、よく町の人達は手伝ってくれた。その親切さがまだ残っていることを、セレンは信じたかった。
「……そうだね。でも、残念だな」
「なにが?」
 気を取り直し、いつもの明るい口調に戻ったナナミに、セレンがまた首を傾げる。
「だって、積もったらみんなで雪合戦とか、出来ると思ってたもん。雪だるま作ったり、かまくら作ったり。楽しいと思ったんだけどなー」
 心底残念そうに言い、彼女はあきれ果てたセレンの前で恨めしそうに空を睨みあげた。

 ナナミと別れ、ひとり自室へ戻ろうとしたセレンは、しかしそのまま屋上への階段を上った。
 そこが、城の中で一番空に近い場所。視界を遮るものは何もなく、広がる湖の向こうには、遠くなだらかな山脈が見える。かつて旅芸人の仲間と、そしてジョウイと共に越えた、燕北の峠。その向こうにキャロの町があるはずだ。
「ムー」
 ぼんやりと北西ばかり見ていたら、足下から泣き声がして驚かされた。
「ムクムク……」
 近づくと逃げていくムササビが、寒さに震えて今はセレンの足下にいた。
「寒いの?」
 ひょい、と抱き上げるとふっくらとした毛皮が気持ちいい。でもムクムクはそれでも寒かったらしく、セレンの胸に抱き寄せられると、ほっとしたように身体の緊張を解いた。
 雪はもうじきやみそうな雲行きだが、気温の低さは相変わらずで、長く外にいたセレンも少しばかり身体が冷えていた。寒さになれているとはいえ、昨日まで暖かかったのが急に冷え込んだのだ。身体がついて行くはずがない。
 ふと視線を感じて横を向くと、まるで守り神のようにレイクウィンドゥ城の屋根にずっといるフェザーが、じっと彼を見ていた。そしてまるで手招きしているみたいに、右の羽根を広げたのだ。
「入れ、……って事?」
 ききみみの封印球を持たないセレンに、フェザーの言葉は分からないが、向こうはセレンの言うことが理解できているらしい。頷くように首を動かされ、セレンはムクムクを抱いたまま、おそるおそるフェザーの胸元に潜り込んだ。
「あったかいや……」
 セレンを包み込むようにフェザーは翼を畳む。ムクムクが苦しくないように、ちゃんとセレンの胸の辺りには空間が作られていて、セレンは嬉しくなった。
「ありがとう、フェザー」
 礼を頭上に向けて口にし、彼は前を見た。
 湖とは反対側の、なだらかな平原が続く世界。雪は静かに降り続くが、北の空は少しずつ明るさを取り戻していた。
「降れ……雪、もっと降ればいい……」
「ムー?」
 背をかがめ、小さくなったセレンの呟きに、ムクムクは不思議そうに顔を上げた。しかし、セレンは気付かない。
「降り続けて……地上の汚いもの、争いごとも何もかも、埋め尽くしてしまえばいい」
「ムムムー?」
 ぎゅっと、彼はムクムクを抱きしめた。顔を埋め、唇をかみしめる。
「……ボクの、ボクの心の……黒くて醜い部分も……ぜんぶ、雪の白さで消してしまって…………でないと、ボクは…………」
 北からの湖の風が吹き抜ける。
 空を舞う雪を消して、風は吹き続ける──それがさだめだと、呟きながら。

小休止6

 喧嘩をしてしまった。
 自分らしくなかったと、後から十分反省するに足りる程にその時は激昂して怒鳴りつけてしまった。喧嘩というよりもむしろ、彼の行動とその行動を取る原点に当たる考え方が気にくわなくて、珍しく声を荒立ててしまっていた。
「ネスの分からず屋!」
「君はバカか!?」
 怒鳴り返されて思わずむっと来た。カチン、と頭の上で何か固い音がして眉間に皺を刻んだネスティが怒鳴り声と一緒につい、普段は絶対に出さない手を出してしまう。ぱしぃん、と乾いた音が響き渡った。
 はっとして、驚きに顔を歪める。殴った方も殴られた方も呆気に取られ、しばらく何が起こったのかお互いに理解出来なかった。
「あ……」
 ふわり、とマグナの手が持ちあがって僅かに赤くなっている己の頬に添える。じんわりとそこから広がっていく、痛み。けれど本当に痛いのは其処じゃなくて。
 急激にマグナは自分の視界に収まる世界が崩れていくのが分かった。目の前にいるはずのネスティの顔さえ、今じゃ見えない。
「……ネスなんかだいっきらい!!」
 反射的に怒鳴っていた言葉は、本心を裏切って勝手に暴走している。けれど止められなかった、どうしようもないくらいに頭の中が混乱して崩れてしまっている。自分が自分じゃなくなってしまったようで、マグナは片頬を押さえたまま走り出した。
 茫然と動けないで居るネスティにわざと半身をぶつける形で彼を押しのけ、向こう側へと駆けていく。その速度は戦場を離脱する逃げ足のようにスピードに乗っていて、ようやく我に返ったネスティが振り返ったときにはもう彼は何処にも見当たらなかった。
「…………」
 しばらくマグナが去っていった方角を見つめていたネスティだったが、彼が戻ってきそうにない事を了解して溜息をつく。眼鏡に被さってきた前髪を掻き上げ、視線を足許に落とした。
 何故か、マグナを殴った左手がずきずきと痛んだ。

  悶々としていて、考えたくないはずなのに考えてしまって。
 このままずっと仲直りできなかったらどうしよう、とか。
 このまま永遠に顔を背けあって言葉を交わすこともなくなって、いつか彼が自分のことを忘れてしまうんじゃないだろうか、とか。
 そんな事を考えてしまうととまらなくて、嫌な風にしか考えられなくて不安になっていく。「ごめんなさい」のひとことがとても遠くて難しい言葉に思えてならない。
 謝りに行こうとして、彼が自分を無視して通り過ぎていってしまったらと思うと、益々恐くて会いになど行けない。逢いたいのに足が竦んで動けない。
 喧嘩の理由なんて些細なこと、ちょっとした考えの行き違い。ちゃんと向き合って話せばきっと分かり合えただろう事なのに、何故あの時に限ってあんな風にムキになって言い返したりしたのだろう。
「…………ちぇ……」
 ぽつりと零して、マグナは足を抱きかかえてその間に顔を埋めた。座り込んだ床と背中を預けている壁が冷たい、空気も一緒に冷えていく。そういえばもうじき日が暮れるな、と心の何処かで思った。
 主の居ない部屋の入り口横で、蹲って部屋の主人が帰ってくるのを待つ。足音が聞こえるたびに顔を上げて身構えて、逃げる用意も万端にしておいて近付いてくるのが待ち人と違っていることにいちいち安堵して。いい加減疲れてくるのに、反射神経だけは鋭敏になっているらしく聴覚までいつもより過敏だ。
 多分、今ならネスティの足音を聞き分けられるような気がする。ぼんやりと膝の上に顎を置いて壁とは反対側にある小さな庭園を見つめながら思う。ああ、確かに自分はバカなことこの上ないと。
 あげていた視線を落とし、マグナは強く膝を抱きしめる。身体を縮めて殻を作って、外敵から心を守ろうとしているようだった。
 この場所で自分を守ってくれる人はネスティと師範だけだったから。そのネスティが離れていってしまったら自分はきっと、もう此処で生きていけなくなる。
 無性に哀しくて、泣きたくなったけれどそれは負けたことになるから懸命に我慢した。吹き付ける風が冷たい。
 寂しかった。
 かつん、と足音が小さく響く。かつん、かつん、と、ゆっくり近付いてくる。マグナは顔を上げなかった、小さく身体を丸めたまま身動きがとれない。
 かつん、かつん、かつん。
 足音は彼の直ぐ傍で止まった、そしてしばらくの間無音が続いた。
 やがて、かちっと金属音がふたつ続いて、ぶわっとマグナの上に何かが降り注がれた。柔らかな空気と、少しだけ暖かくなる自分の周囲。癖毛を優しく撫でる、布の肌触り。
 かちゃり、とこれはドアの鍵を外す音か。続いてノブが回され、扉が開かれる音が布越しに聞こえた。マグナは顔を上げた、けれど視界は見事にネスティのマントに阻まれてしまっていた。
「なにをしている」
 不機嫌そうな、けれど彼らしい声が聞こえてくる。
「いつまでもそんなところに居ては風邪を引く。君を看病するのはこの僕なんだぞ」
 余計な仕事を増やすんじゃない、と告げる声は冷淡だがどこか暖かかった。
 マグナは自分に被せられたネスティのマントを握りしめる。頭からすっぽりと被っているので、自分の表情がネスティに見えないのが救いだった。
 今の自分がどんな顔をしてどんな風になっているのか。自分でさえ見たくないと思うくらいに恥ずかしかった。
「ネス、あの、俺……」
「そうそう、それから。……悪かったな」
「うん。あのさ、ネス……あれ……嘘、だから」
「分かっている」
 マントの上から頬を撫でられた。不意に泣きたくなった。痛かっただろう、と言われてマグナはフルフルと首を振る。
 もっと別の痛かった場所が、今ので痛くなくなったから。
 もう良いんだ、と言った。やっと笑えた気がした。

Fortune

 最近どうも、仲間達が冷たい気がする。
 リビングのソファでくつろぎながら、ユーリはそんなことを考えていた。
 忙しそうに室内を掃除して回っているアッシュも、何故かユーリの方を見ようとしない。いつもならユーリの視線に気付くと振り返って愛想笑いくらいは浮かべてくるのに。
 おかしい。
 自然と眉根に皺が寄って、顔が不機嫌になる。
 アッシュだけではない、普段からユーリに様々に悪戯を掛けてくるスマイルまでもが、このところ不気味なほどに静かだった。こちらから声を掛けても、どこかよそよそしく離れていってしまう。
 なにか嫌われるような事をしただろうか、それもdeuilメンバー全員に対して。
 ここ最近の自分の行動を振り返ってみるが、多少意見の衝突があったとは言えそれはこれまで何度も繰り返してきた事と同レベルであって、こんな風に変にユーリが孤立するような程度のものではなかったはず。思い当たる節がなくて益々不機嫌を表に出していると、不穏な空気を感じ取ったのか、アッシュが掃除機を片手にこそこそと部屋を出て行ってしまった。
 文字通りひとり取り残されてしまい、今更居場所を変えるのも面倒なのでユーリは力を抜いてソファに深く身体を沈めた。憂鬱な面もちで天井を見上げるが、それも持ち上げた右手を顔の上に落とすことで視界を遮ってしまう。
「もうじきなのだがな……」
 呟いた声は覆いにした右手に跳ね返って響かなかった。

 その頃、スマイルはずっと悩んでいた。アッシュも他の仲間達も同様に悩んでいたのだが、スマイルの悩み様は端から見ていると可笑しいのではないか、と思うくらいに彼は悩んでいた。
 今日もまた、悩みながら歩いていた所為で電信柱と正面衝突を繰り返すこと、幾数回。そろそろぶつけすぎておでこにたんこぶが出来てもおかしくなさそうだ。
 そして、また。
 ごんっ。
 見るからに痛そうな音を立ててスマイルは店頭に立てられていた看板に頭から突っ込んだ。一緒に歩いていたアッシュが、またかという顔で数歩先から振り返る。
「大丈夫ッスか~?」
「…………いった~い!」
 反応が、遅い。
 ぶつけてから二秒ほど経過してからの悲鳴に、アッシュは肩を落として溜息をついた。額を押さえて看板から離れたスマイルが、涙目で痛みを堪えながら彼の方に近付いていくが、通りがかりの見物人はクスクスと口元に手をやって笑っている。正直、一緒に歩いていると恥ずかしい。
「歩いてる時ぐらい、歩くのに集中したらどうスか?」
 こうも何度も頭をぶつけていては、考えている事も途中で忘れてしまわないだろうか。余計なお節介とはいえ忠告を口にしたアッシュに、スマイルも曖昧に笑って頷くが様子は上の空でアッシュの言葉など殆ど聞こえていないに違いない。この一週間ずっとこの調子で、ひとりで出歩かせるのは不安だからとなるべくアッシュが付き添うようになっているのだが。
 これでは城に置いてきた方がまだマシだったかも知れない。
 買い物袋を両手に抱え直してアッシュはそっと息を吐く。スマイルもそれなりに両手に荷物を抱きしめているが、中身は洗剤だったり石鹸だったりと多少ぶつけても問題ない生活雑貨ばかり。あちらの袋を彼に持たせて正解だったと、心の中で呟いた。
「ほーらー、もうじきスから」
 このまではまた別の障害物にぶつかっていきそうな勢いのスマイルの腕を半ば強引に掴み、アッシュは家路を急ぐことにした。夕暮れは間近に迫っている、早めに城に帰り着いて夕食の支度を始めてしまいたかった。
 体格的にも体力的にも勝っているアッシュに引っ張られる形で、スマイルも道を急ぐ。その間も彼の頭の中は、いよいよ明日にまで迫ってしまったユーリの誕生日プレゼントを何にするかでいっぱい。
 アッシュは得意の料理の腕を揮ってご馳走を作ると言うし、音楽業界の仲間達もそれ相応のプレゼントを用意してくるだろう。そんな大勢の人たちからのプレゼントとひとつも重なることなく、なおかつ誰よりもユーリが喜んでくれそうな贈り物は一体なんだろう。
 それが、ここ数日スマイルがずっと悩み続けている内容だった。
 いっそユーリ本人に何が欲しいのか聞いてしまえば楽なのだろうが、今回は彼を驚かせる為に当日までパーティーの内容は秘密、とみんなで口裏を合わせているから迂闊に聞き出すことは出来ない。
 全員が全員、ユーリの誕生日に関しては口を紡ぎ隠そうとするから、逆にユーリは周りからひとり浮いてしまった感覚に陥ってしまっている事は誰もが気付いていた。だがだからと言って今彼に秘密を知られるわけにもいかないので、心苦しさを覚えつつも無視を決め込んでいる。
 すべては、明日という一日の為だけに。
 ご馳走の献立はもう決まっているらしく、買い物もいつもより量が多いアッシュは気が楽そうだ。自分にも彼のような音楽以外の特技がひとつくらいあれば良かったのに、とスマイルはどうしても思ってしまう。
「心がこもっていれば、ユーリはなんだって喜んで受け取ってくれるッスよ」
 未だ贈り物が決まらないスマイルを推し量って、アッシュは振り返り努めて明るい口調で言う。
「そうかもしれないけどねぇ……」
 いくつか候補はあった、だがどれもありきたりすぎたし、何時でも手に入るようなものばかりだった。アクセサリー、宝石、洋服、時計、その他諸々。
 雑誌やテレビ、色々な人にアドバイスを仰いだりもしたけれどどれもイマイチしっくり来なくて、結局買わずに来てしまった。
 タイムリミットはあと一日。明日の夜はもうパーティーが始まってしまうから、それまでに決めてしまわなければならない。だが、今になっても何が一番良いのか思いつかない。
「スマイルは考えすぎッス。一度、別のことを考えて羽を伸ばしてみたらどうッスか?」
 捜し物は捜している時には見付からなくて、諦めて捜すのを止めたときに見付かる、という話を例に出してアッシュは笑った。そうかもしれない、とスマイルも頷く。
 あまり時間は無いけれど、試してみても良いかも知れないと。
「明日、街の中をうろうろしながらもう一度ゆっくり考え直してみる」
「それが良いッス」
 にこりと笑い合うと、心が少し軽くなったような気がした。
「あ、そっち半分持つよ」
 よく見ればアッシュの方が荷物は大きくて重そうだ。スマイルがぼうっとしていたから今まで気付かなかったが、アッシュも随分とスマイルに気を遣ってくれていたらしい。
「じゃあお願いするッス」
 三つあったスーパーの袋のうち、一番中身の軽いものをスマイルに手渡し、アッシュは荷物を抱え直した。
 顔を上げると、目の前の空に夕焼けが綺麗に広がっていた。

 
 次の日。
 スマイルは朝食を誰よりも早く平らげると「行ってきます」の言葉もなく城を出て街へ向かった。そして人通りが徐々に増えていく大通りを眺めながらぼんやりと、プレゼントをなににしようか考える。
 アッシュはああ言っていたが、実際考えるのを止めようとすればするほど、スマイルの頭の中はユーリのことでいっぱいになってしまう。
 ユーリならきっと、どんなにつまらないものでも喜んで受け取ってくれるだろう。だがそれでは不満なのだ。もっと、一番彼が喜んでくれそうな……他の誰にも見せたことのないような笑顔を見せて欲しくて、我が侭と知りながらそう願ってしまう。
 誰にも負けないこの世でたったひとつの贈り物を君に。贅沢な願いはそう簡単に叶えられるはずがなく、当日になっても未だ良い答えは見えてこない。
 ガードレールに凭れ掛かり、溜息をついて彼は視線を上空に向けた。青空の中を、小さく飛行機が飛び越えていくのが見える。
 世界はこんなにも小さいのに、人の心は広すぎて掴み所がない。ねえ、どうすれば君は笑ってくれるのかな。
 問いかけたい言葉を呑み込んで、視線を戻したスマイルはもう一度盛大に溜息をついた。そして立ち上がり伸びをする。
 もうじき昼飯時だ、コンビニ帰りらしいOLやスーツ姿の人が目立ち始めたオフィス街を離れ、彼はショッピング街へと足を向けることにした。
 人混みは一気に増す、酔いそうな程の人の多さに軽い眩暈を覚えつつ、ユーリの為、と自己暗示をかけてスマイルは店のひとつひとつを覗き込みながらピンと来るものがないかと歩き続けた。
 洋服。ユーリはブランドを固定しているし、ステージ衣装は専属のデザイナーに依託しているからパス。
 アクセサリー。既にユーリは沢山持っているし、プレゼントの中身は実はコレが一番多い。どれが誰の贈ってくれたものか把握出来ていないことも多くて、使い道にも困ったりする事が多かったりするので論外。
 食べ物。アッシュの料理に勝てるものって、ある?
 宝石。魔力が込めやすい石は相性があるので、ユーリが自分で選んだものでないと結構危険。問題外。
「どうしよっか……」
 溜息しか出てこなくて、人波を避け路地の奥まったところに身を寄せたスマイルは心底困った顔で呟いた。昼を過ぎても、ナイスアイデアは一向に浮かんでくる気配がない。
 このままでは本当にプレゼントが間に合わないかも知れない。それだけは避けたいのに、その可能性が歩み寄ってくる足音を背後に感じて、冷や汗が流れる。
 きっとプレゼントが無くてもユーリは怒らない、そのかわり、悲しむだろう。君にあげたいのは笑顔なのに、それが出来ない自分が不甲斐なくて悔しい。
「ねぇ、ユーリ。君は、なにが欲しい?」
 ここにいない人に向かって問いかける、勿論返事などない。
 分かっていても問わずには居られなかった、答えが知りたくて。
 おめでとうの言葉だけでも君は笑ってくれるかもしれない、喜んでくれるだろう。でも、形が欲しい。ちゃんと後になってからでも思い出せるような、はっきりとした形のあるものを贈りたい。
 証拠を求めているなんて、そんなものが無いと安心できないのは自分の方だ。
 ちゃんと伝えられたよ、と自分に言えるようなものを自分が欲している。
 コンクリートの壁に背を預けて、目を閉じて少し黙り込む。深呼吸を繰り返してみて、狭い路地の天井から見える空をしばらく眺めていると、不意に音楽な耳に流れ込んできた。
 それは少し古めかしい感じのするリズムを刻んだ、恋の歌だった。
 哀しいほどの片思い、伝えることの叶わない想いならいらない、どうか受け止めてください――精一杯の勇気を、この四つ葉のクローバーに託します、貴方に。
 時折通り過ぎていく乗用車の排気音に邪魔されながらも、断片的に途切れながら聞こえてきた歌詞は切ない片思いを胸に秘めた少女を謳っていた。もうずいぶん前に、それほど流行もせずに消えていった歌手の唄だろう、ラジオのDJが告げた名前に聞き覚えは無かった。タイトルも聞こえなかった。
 だのに妙に心の中に残る歌詞。
 ああ、そうか。そういうものなんだっけ、恋をするって。
 今更に自分が胸に抱えていた感情の名前を思い出して、スマイルは苦笑いを浮かべた。壁から背中を離し、雑踏の中に紛れる。向かう先は、もう決まった。
「間に合うよね、絶対」
 誓うように力強く呟き、彼は少し足を速めて先を急いだ。

 パーティーは随分と華やかなものになっていた。
 ユーリが出かけている一瞬の隙に、押し寄せた全員でリビングを飾り付け、アッシュが用意した料理を並べて。プレゼントはファンから届けられたものも合わせると本当に山積み状態で、中になにが入っているか調べるのだけでも時間と労力が必要になりそうな程だった。
 お祭り好きの面々が揃ったこともあって、しかも場所がユーリの城とあって、ご近所迷惑を気にすることなくみんながみんな、大騒ぎ。唄え、踊れ、騒げ、食え飲め一発芸やらなんやらかんやら。喧々囂々、好きなだけ騒ぎ周り、未成年者が門限を気にして帰っていったあとも、時間を気にする必要のない大人達は静まるどころか益々ヒートアップ。
 本日の主役、ユーリさえ忘れ去ったような勢いでどんちゃん騒ぎの大宴会は続いている。
 いつもなら、誰よりも大騒ぎをして輪の中に飛び込んでいく存在が欠けている事は、誰も口に出さなかった。
 なによりユーリ自身が、その事を酷く気にしていたから。
 みんな、スマイルが誰よりもユーリへの贈り物に悩んでいたことを知っている。アッシュが準備時間の間に、彼が朝から出かけている事は教えられていた。
 ユーリはこの秘密にされていたパーティーにとても驚いて、喜んでくれた。ひとりひとりからプレゼントを受け取っては礼を言い、笑顔で答えてくれていた。
 けれど、その笑顔もどこか少し、寂しげだった。
 たったひとりの存在が其処に居ないだけで。
「何処まで行ったんだろーねー」
「案外、その辺で遊びほうけて忘れてたりして」
「まっさかー。アイツに限ってそんなこと無いって」
 残り少ないアッシュの手料理を口に運びながら、みんな好き好きに勝手なことを言い合っている。ユーリが傍を通るときには声を潜めて別の会話に切り替える気遣いくらいは見せるけれど、時計の針が夜十時を回ってもスマイルが帰って来る気配がないと知ると、段々と彼を責めるような言葉が増え始めた。
 みんな、ユーリが好きだから。
 そのうち酔いつぶれた人間から順に脱落していって、騒ぎも次第に静かになっていく。リビングは食い散らかされて皿がテーブルを埋め尽くし、その下に酒瓶を抱きしめた泥酔者が転がっているという始末。それも一つや二つだけではなく、傍目から見ていると非常に見苦しい状態であった。
「明日の朝は大変そうだ」
 寝こけている人々の中にアッシュの姿もあって、お人好しの性格から勧められた酒を断り切れなかったのだろう、赤ら顔で幸せそうに眠っている。
 庭に面した一面のガラス窓に片手を添え、薄明かりにした室内を眺め回しつつユーリは苦笑を浮かべた。本当なら、もしかしたらあの中に自分も混じっていたのかも知れないと思うと、複雑な気持ちを抱いてしまう。
 今日は、自分のために皆が集まってくれてこんな風に祝ってくれたのに、肝心の自分が楽しむことが出来なかった。
 それが非常に申し訳なくて、彼は瞳を伏せると窓硝子に額を押しつけた。
 時計は間もなく、日付が変わる時刻を指し示そうとしている。それなのに彼はまだ帰らない。
 今日はまだ一度も姿を見ていない。朝目覚めたときにはもう、彼は出かけた後だった。
 たったひとことだけで良いのに。本当は言葉さえもいらなくて、傍にいてくれるだけで充分すぎるのに。
 プレゼントなんていらないから、早く、帰ってきて。
 固く目を閉じて切に祈る。もう時間はないのに、誕生日の奇跡をガラにもなく願ってしまっている自分が嫌いになりそうだった。
「スマイル……っ」
 コン、と。
 硬質の音が小さく腕に響いた。
 コンコン。今度は立て続けに。
 目を開け、顔を上げる。窓の向こうに、暗い闇の中に、スマイルが立って硝子を叩いていた。
 目が合うと、彼は少し困ったような顔をして頬を引っ掻く。そして左手の動きだけで、窓を開けてくれとユーリの頼むのだ。右手は何故か、背中の後ろに隠されたままで。
「スマイル、貴様今まで何処でなにを!」
 今頃になって帰ってくるなんて、遅すぎる。
 さっきまでのしおらしさも忘れて、怒鳴りながら窓の鍵を外したユーリは、けれど庭に出ようとした瞬間それを塞ぐ形で突き出されたスマイルの右手に、目を見開いた。
 ゆっくりと、出した足を庭に下ろす。ストン、と今まで下に見えていたスマイルの顔が身長差の所為で今度は上になった。
「遅くなっちゃったけど、お誕生日おめでとう、ユーリ」
 薄明かりの中で、泥をあちこちにつけたスマイルが笑った。
 彼の差し出した右手の中には、緑色の鮮やかな四つ葉のクローバー。幸せを呼ぶと伝説で伝えられる、クローバーがこぢんまりと大切そうに握られている。
「お前、まさかずっとこれを捜して……」
「簡単に見付かると思ったんだけど、なかなかなくってさ。こんな時間になっちゃった」
 そろりと手を差し出し、スマイルの手を両手で包み込んでユーリは俯いた。
 言葉が出てこない、こんな時どんな顔をしてなにを言えばいいのか思い出せない。
「お前、実はバカだろう」
 顔を上げて笑いながら言おうとしたユーリだったが、嬉しくて涙がこぼれそうで、それを懸命に堪えるからまた顔が変になってしまって、困る。
 本当に、どんな顔をすべきなのか分からない。
「スマイル」
 ぐいっ、と半ば強引に手の甲で涙を拭い、ユーリは無理に笑った。照れ臭さが入り交じった、泣き笑いの表情にスマイルの静かに微笑みを返す。
「クローバーの花言葉を、知っているか?」
 自分の涙を拭った手で、今度はスマイルの頬に付いた泥を払ってやりながらユーリは問いかけた。スマイルが「知らない」と首を振ると、口元を少しだけ綻ばせる。
「勉強しておけ」
 そして、贈られたクローバーを見つめて、彼にしか聞こえない声で告げるのだ。
「返事は、…………もうとっくに、想っている」
 一瞬間があって、ユーリが息を呑み込み決意して言ったのだと言うことが見て取れた。ただスマイルにとっては、少し意味不明で首を傾げなければならなかったけれど。
 でも、分からなくても、ユーリが喜んでくれたのだとは知れた。
 だから嬉しい。
「誕生日おめでとう、ユーリ」
 もう一度、祝福の言葉を最愛の人に贈る。照れたようにユーリは微笑んで、「ありがとう」と口にした。
 そして少しだけ背伸びをして、御礼のキスをスマイルへ。
 そっと抱き寄せるとそれ以上の力で抱きしめ返されて、スマイルの胸に身体を預けながらユーリは幸せそうに目を閉じた。
 

『クローバーの花言葉~?』
 後日、スマイルは一番知っていそうな相手という事でキャンディに尋ねに行っている。
『え~っとねぇ、たしか~……』
 しばらく悩んでから、彼女はこう言った。
『そうそう、「私を想ってください」だったかな?』
 この答えを聞いて、スマイルは一瞬赤面したとか、しなかったとか。

小休止3

 キョロキョロと、その背中は落ち着きなく周囲を伺っていた。
 廊下の角で、その向こう側の様子をそうと分からないように見ているようだ。しかし彼の後方から見つめている双眸の存在にはまったく気づいている気配がない。
 意識が前方に向きすぎている所為だろう。普段は警戒心の固まりのような彼が、珍しく。
 何をしているのだろうか-否、何をしたいと思っているのだろう。
 怪訝な顔を隠さず、トウヤは片手を置いたままのドアノブを軽く押した。建て付けの悪いとは軋みをあげて空気抵抗を生み出しつつ、閉まる手前の位置で止まった。慣性の法則により、閉まりきらなかった戸は少し開きかけるものの、それほど動くこともなく静止する。最初に加えた力が弱すぎた所為だ。
 びくり、と彼の背が反応した。
 怖々とした態度そのままに、彼は上半身を捻ってこちらを振り返る。
「?」
 表情にクエスチョンマークを浮かべてやったトウヤが、ほんの僅かに小首を傾げる仕草をしてソルを見る。気のせいか、トウヤを認めた瞬間彼の表情から怯えが消えた気がした。
「どうしたんだい?」
 ソルが自分に気づくように仕向けただけの戸を今度はきちんと閉め直し、トウヤは尋ねた。
「あ……いや、なんでも」
 ばたんと扉が閉まる。空気の流れは絶え、同時に会話が消えた。気まずそうに逸らされたソルの視線の意味が、今部屋から出てきたばかりのトウヤには分からない。
「何でもない人間が、そんな場所でうろうろしているのかい?」
「そりゃ……」
 自分に割り当てられた部屋の戸からトウヤはソルへ向き直る。ソルもまた、完全に身体ごと彼へ向いていた。握りしめられた両拳は固い、表情と同じくらいに。
「なにかまずいことでも?」
「そうじゃない、けれど……」
 言いにくそうに視線を床の上に漂わせ、歯切れの悪い台詞を彼は吐き出す。益々眉間のしわを深くして、トウヤはソルの方へと歩を進めた。
 ソレとほぼ同時に、廊下の先にある広間からどっと笑い声が上がった。
 エドスとガゼルの豪快な笑い声に、子供達の叫び声が混じっている。その勢いは歩き出していたトウヤの足を止めるのに充分な効果を持っていた。
 それから、ソルは居心地悪そうに遠くを見やるのにも。
 彼の表情の変化を見て、トウヤは「ああ」と心の中で頷いた。そう言うことか、と。
 理由が知れると、途端にトウヤの顔が明るくなる。逆にソルがトウヤを見て思い切りいぶかしみの目で見つめ返した。
「なんだ、気色の悪い」
「……酷いな」
 上目遣いに不機嫌を露わにしたソルのひとことに、けれどトウヤは笑ったまま返した。
「何笑ってんだ」
「いや、可愛いなぁと思って」
「誰が」
「ぼくが自分のことを”かわいい”なんて思うと思うかい?」
「…………」
 随分遠回しな言い方にソルが黙り込む。目は剣呑に光っていて、彼が牙のある獣だったならトウヤはもう、喉仏を噛み砕かれていたかも知れない。しかしその倍以上に凶暴な術を使うことの出来るソルはされど、そうしなかった。
 ただ怒りを隠すことなく、トウヤへぶつける。無言の圧力を持ってして。
「ソル、そんな顔してると子供たちも恐がって近づけないよ」
 それなのにさらりと視線を受け流してトウヤは、微笑みを浮かべながら膨れっ面のソルの頬を指で小突くのだ。
「あの中に混じりたいのなら、まず君が先に微笑みかけてあげないと」
 ね? と、目を細めてトウヤが言った。そして黙ったままのソルを置いて、ずっと彼がそこから先へ進めずにいた廊下の角を曲がって行ってしまう。
「楽しそうだね、何の話しだい?」
 笑いが絶えない空間へ自ら飛び込んで、そして。
「ほら、ソルも来なよ」
 振り返って、まだ角から出られないで居る彼へと手を差し出す。
 大丈夫だよ、と瞳が告げている。
「あ……」
 呼ばれた以上出ていかないわけにも行かない。彼は自分のそう言い訳をして、一歩足を踏み出した。
 トウヤに、手を引っ張られるようにして。