花碑

 何処へか行かん
 我はとうに
 この地より心離れたり
 何故に汝らは我をおし留めん
 すでにこの地は
 我の手を放れたり

 ノースウィンドゥの古城からネクロードを追い払い、軍師シュウを仲間にすることに成功。さらに攻め込んできたハイランドの白狼軍に勝利したことで、ようやくセレンとナナミは逃げてばかりの生活から解放された。
 しかし、セレンはシュウから新たな同盟軍のリーダーとなることを求められ、その答えを見いだすことが出来ないままでもあった。
「ね、セス。探検しよっ」
 堅苦しく重苦しい雰囲気しかない議場を出て、まだ悩んでいますと顔に書いてある義弟に、ナナミは思い切り明るい声で言った。
「探検?」
「そう! だって、私たちってこれからここで暮らして行くんでしょ。どこに何があるか、ちゃんと調べておかなくちゃ」
 口ではもっともらしいことを言っているが、ナナミの態度はどこをどう見ても、お上りさん。
 捨てられて久しい荒れ放題の古城。しかし、かつては南の旧赤月帝国との戦乱で最終拠点としてその堅固さを誇っていたノースウィンドゥ城は、ハイランドの片田舎であるキャロの町でも昔話のひとつとして伝えられていた。
 湖に突き出るようにして伸びる半島の先端に建てられ、北・西・東の三方を湖に囲まれ、さらに波止場を除く一帯は断崖絶壁。攻め込むには南側の限られた陸地から行くしかなく、しかも森に囲まれて大軍で一気に押しつぶすという策も通用しない。まさに天然の砦を上手く利用した守りを重点的においた最後の拠点に相応しい造りをしている。だが逆を言えば、こちらから攻め出るのにも不向きといえる城だ。
「ね、行こう。久々にゆっくり出来るんだしさ」
 ぐいぐいセレンの手を引いて、早く、とせかすばかりの義姉の姿に、セレンはそれまでずっと考えていたリーダーになるかどうかという悩み事を手放すことにした。
「いいね、それ」
 リーダーには、恐らくどう嫌だとだだをこね、自分には向かないと理屈を述べたところで断りきることは出来ないはずだ。あのシュウという人はそういう人だと、自分の思ったことは必ず実行し達成してしまう人だとセレンは感じていた。たとえそこにどんな非難や罵倒を投げかけられたとしても、己が一度抱いた信念を曲げることはしないだろう。自分というものに絶対の自信を持っている。だから、セレンが反抗したところで無駄なのだ。
 それに、今自分に求められているのはシュウや他の人々への自分の心を潰した返事などではなく、ナナミというこの世界でたったひとりの自分の姉、大切な人からの少しばかり子供じみた好奇心だ。
「よし、行こう!」
 元気いっぱいに──本当は戦いが終わったばかりでとても疲れているはずなのに──右手を掲げ、ナナミは左手でしっかりとセレンを掴んだままずんずんと歩き出した。
 絶対に放すもんか、と言葉がなくとも伝わってくるナナミの体温は、とても暖かく優しかった。

 崩れた外壁、埃だらけの床、蜘蛛の巣が張り巡らされた天井。穴が開いて風が吹き込んでいる壁に、蝶番が壊れて傾いた扉や腐りかけた木製の家具。
「うわっ!」
 錆びて開かなくなっていた扉を無理に引きあけようとしたセレンが、勢い余って扉に使われていた一枚板ごと後ろにひっくり返った。茶色にくすんだ取っ手を両手でがっちりと握っていたため、背中から床に転がった彼のおでこを、壁から引き剥がされた板が直撃。一瞬お星様が目の前を飛び交い、上にのしかかる板を放り出すと彼は汚れた手で頭を押さえ込んだ。
「大丈夫?」
 見せてみて、と額を隠すセレンの手をどかし、ナナミが斜め上から傷を見下ろす。
「コブが出来てる」
「いてっ」
 つん、と腫れあがった箇所を指でつつかれ、セレンは堪らず悲鳴を上げた。他にも転んだときに打った背中や腰が痛い。きっと、絶対これは青あざになっているはずだ。明日、ちゃんと起きられるか今から不安になってくる。
「ごめんごめん。ほら、掴まれ」
 両手を合わせて軽く謝るナナミだが、目が笑っている。そりゃあそうだろう。なんてったってたんこぶは、セレンが頭にはめている金環の真上に出来ているのだから。
 差し出されたナナミの手を素直につかみ、彼女の力も借りてセレンは立ち上がった。その時やはり背中が痛んで上手くバランスが取れなくなり、ナナミにもたれかかるように支えられたのだが、なんだか照れくさくてセレンはすぐに離れてしまった。
「どしたの?」
 なにも勘づいていないナナミがのほほんとした口調で尋ねてくる。
「別に……」
 ナナミももう16歳だ。本人の自覚が足りないとはいえ、そろそろ”お年頃”。それは同い年のセレンだって同じだ。いくら義姉弟とはいえ、油断しすぎではなかろうか。
 赤くなった頬を持て余すセレンに首を傾げ、ナナミはもう一度セレンの額に手を伸ばした。ただし今回はたんこぶではなく、そのもう少し上の方。ちゃんと傷に触れないように気を払いながら、彼女は手のひらをセレンのおでこに押し当てる。
「……なに?」
「熱はないようだけど……」
 がく、とセレンは脱力した。
 自分のおでこにも余っていた方の手を当てて熱を計り、セレンのそれと真剣に比べているナナミを眺め、ため息をこぼす。
「平気だよ、なんでもないから」
「本当?」
「うん」
 ナナミの見た目よりもずっと細くて華奢な腕をそっとどかし、セレンはしつこく食い下がってるナナミに微笑んだ。
 ──大好き。
 いつも一緒にいてくれる、彼女がとても大事。
 そりゃあ、口うるさいしおてんばだし、味音痴だしお節介でわがままで夜中でもなんでも訓練だ!とかいって他人の迷惑顧みず運動したりする、ちょっぴりどこかずれた感覚の持ち主ではあるけれど……それでも、セレンにとってナナミは、誰よりも大事で大好きなヒト。
「埃だらけだね」
 ぱんぱん、とセレンの赤い服を手ではたいていると、風が吹いた。屋内なのに。
「どこか外につながってるのかな」
 周りを見回しても風の入ってきた場所を見つけだせず、ナナミはさっきセレンが扉をひっぺがした部屋をのぞき込んだ。そこも、他と同じように乱雑に木箱やなにやらが積み上げられ、埃をかぶっている物置のようだった。
「あそこ、扉があるよ」
 ナナミの横に並んで部屋を覗き、先に白くなった床に足を踏み入れたセレンがちょうど入ってきたのとは反対方向の壁を指さしていった。
「本当だ」
 置かれていた箱の中身が何かを探っていたナナミが、言われて顔を上げそちらを見る。そこには先ほどセレンが開けたものとは又作りのちがう、もっと頑丈な大きめの観音開きの扉があった。
「外に出るドアかな」
 蜘蛛の巣が所狭しと張り渡る窓の向こうを見てナナミが言う。はめ込み式の窓は長い間放置されていたこともあってすでに壊れたあと。どうやらさっきの風はそこから入ってきたものらしかった。窓のすぐ下の床は、入り込んできた雨で腐食が激しい。
「ねえ、セレン」
「…………」
 舌っ足らずな猫なで声を使いだしたナナミに、セレンは返事をせず視線も逸らして足下に転がる木箱を拾い上げようとした。
「セレンってば」
「…………」
 ねだるように体をすり寄せてきて、ナナミはしつこく彼の名前を呼ぶ。
「気にならない?」
「…………」
 こういう風にナナミが甘えてくるとき。それは彼女がまた厄介なことを始めたり、興味を持ったりしたときだ。
「やだ」
 ナナミが次に何を言ってくるのか分かり切っているセレンは、先手を取るつもりでぷい、とそっぽを向いた。
「なんで」
「だって、どうやってあんな頑丈そうな扉を開けるの! ボクもうやだからね」
 おでこはひりひりするし、お尻はじんじんしている。背中だってずきずき痛むのに、その上またあんな事になってみろ、今度こそセレンは明日起きあがれなくなってしまう。
「ふーん。そう」
 だがナナミは意外にあっけなく引き下がった。もっと食いついてくるかと思っていたセレンは肩すかしをくってしまう。
「ナナミ?」
「いいよ、もうセスには頼まないから。ここから先は私ひとりで行くね」
 行くね、と言っても彼女ひとりの力ではあの扉をこじ開けることは出来ないはずだ。いったい何を根拠にそんな自信に満ちあふれた発言が出来たのか。
 不思議に思うセレンを置いて一人歩き出したナナミは、道をふさぐ木箱をいくつか蹴り飛ばし、観音開きの鉄の錠前付き扉の前に立ち止まった。一体何をする気か……まさか自慢の怪力(?)でぶち破ろうだなんて考えてないよな……といらぬ心配をするセレンの気持ちをしったか知らずか、ナナミはずっと握っていた左手を開いた。
 中から取り出したるは──鍵。
「…………」
 がく、と今度こそセレンは頭を抱えて膝を折りうずくまった。
「ナナミ!」
 冗談過ぎる。絶対ナナミはわざとやって、こちらの反応を楽しんでいたんだ。振り返ったナナミの不敵な笑顔がそのすべてを物語っている。
「お姉ちゃんを甘く見るなよ」
 しっしっし、と歯を見せて笑うナナミはしてやったりと満足そうだ。それから、忘れていたと急いで手にした鍵を錠前に差し込む。錆びついていたためになかなかはまらず、また無事はまっても簡単に錠前は外れてくれなくてかなり苦労した末、ようやく音を立てて扉が開放されたとき、錠前と鍵は何故かナナミではなくセレンの手の中にあった。ま、要するにナナミの力では鍵がまわってくれなかったということ。
 扉の外は林だった。
「すごーい!」
 荒れ放題だった城から出て新鮮な空気をお腹いっぱいに吸い込み、ナナミは嬉しそうに両手を頭上に掲げて叫んだ。
「なんか、道場の裏山みたいじゃない?」
「そうだね」
「そうだよ!」
 懐かしい故郷、離れてまだ数ヶ月と経っていないはずなのにもう何年も帰っていないような気にさえさせられる。それほどに、このわずかな時間で色々なことがありすぎた。
「ねえねえ、この向こうって何があるのかな」
「あんまり城から離れない方がいいと思うよ」
「大丈夫だって、お姉ちゃんがついてるんだから。ね、行こ?」
 さっきとはちがうナナミの駄々。でも、それはセレンにとって決して不快なものではなかった。
 夕暮れが押し迫り、闇が東の空から少しずつ空を浸食していく中、更に薄暗い地上の光もろくに届かない林の中をセレンはナナミに手を引かれる形で走っていた。もう、戦いの疲れなんてどこかに置き忘れてきていた。
 その林は本当にキャロの裏山に似ていた。いや、生えている樹木の種類や数、土の感覚さえ全く異なっている。だが同じだった。セレン、そしてナナミにとって、静かで誰もやってこない緑濃き場所はすべて、育った町の山につながっているのだ。
 そして唐突に樹木の並木は途切れた。
「……うわぁ…………」
 感嘆の声がナナミの口からこぼれ落ちる。セレンもまた、突然目の前に現れた光景に言葉を失い呆然とそこに突っ立った。
 そこは一面の花畑。前方は暗く色を落とした湖の水面。しかしそこにたどり着くには断崖絶壁を下る必要があるようで、まるでここだけが地上から切り離された別世界のような色鮮やかな大地だった。
「すごいすごいすごーい!」
 夜が近く、多くの花がつぼみを閉ざしていたがそれでも、多種多様な草花のあざやかさにナナミはそればかりを叫び続ける。
「こんな場所があったんだ……」
 信じられない、とセレンは後ろを振り返り、そして前方の視界を埋め尽くす湖を見つめた。
 人が長らく訪れた形跡のない花畑。だからこそ、こんなにもたくさんの種類の花が一斉に咲き乱れていたのだろうか。湖の風を受け、飛んできた花の種が林の木々に邪魔されてこの場所に落ち、芽を吹き花を咲かせる。そしてまた種を落とし新しい花が咲く。その繰り返し。温暖なサウスウィンドゥの気候も手伝っての自然が産んだ偶然の奇跡だ。
「すごいすごい! ねえ、セス。ここ、私たちだけの秘密の場所にしない?」
 一通り花畑の中を走り回って戻ってきたナナミが、息せき切らして膝を持ちながらそれでも興奮冷めやらぬうちにそう提言してきた。
「秘密の……?」
「うん。誰にも内緒。なんかちっちゃい頃のこと思い出して、わくわくしない?」
 でも、どの道この一帯には新同盟軍が見回りの兵を出したりする。秘密といっても、いつか絶対にばれるだろう。
「もう、夢のないこと言うようになって」
 すねたらしくナナミは腰に両手を当ててセレンを睨み付ける。だが、すぐに良いことを思いついた、とにんまりして、
「じゃあ、さ。セスがリーダーになってこの辺を立入禁止にしちゃうとか。どう?」
「ナナミ……」
 ずっと悩んでいた(忘れていたが)ことをさらりと言われ、セレンはまた頭を抑えた。しかもやはり忘れていたたんこぶの上に思いっきり指を当ててしまったため、またずきん!と痛みがぶり返してきた。
「……セス、成長しよ?」
「…………」
 ナナミには言われたくなかったが、今は痛みをこらえるのに必死でセレンは反論できなかった。
「駄目?」
 下からのぞき込んで頼んでくるナナミに、セレンはわざとらしく盛大なため息をつく。
「考えてみる」
 本当はもうとっくに答えは出ている、いや、諦めている。しかし……ナナミのわがままを叶えるために、という理由ならばそれも構わないかと思えてきた自分がなんだか馬鹿らしくて、セレンは苦笑した。
 どさっ、と地面に腰を下ろしてまだずきずきしているおでこを気にしていると、ふとナナミが遠くなったような感覚を覚えセレンは顔を上げた。
「ねえ、セス…………」
 湖を見つめて、闇のためにぼやけた輪郭のナナミが風に押し流されて消えてしまいそうな声で告げる。
「私が死んじゃったら、そしてキャロに帰れなかったら……私をここに沈めて」
「……ナナミ?」
 よく聞こえなかったと、セレンは膝を立てて立ち上がろうとした。しかしそれよりも早くナナミが振り返り、いつもと同じいつもと変わらない笑顔でセレンに手を差しだした。
「帰ろ。暗くなっちゃった」
 もう太陽は見えない。空には月が替わって朧気な儚い光で地上を照らし、星がそれを手伝うかのように瞬いている。花畑も眠ったように静かで、時折吹き付ける風にゆらゆらと重いつぼみを支えて茎が揺れていた。
「ナナミ、さっき……」
 何を言ったの。そう聞こうとしてセレンは手を伸ばしひとりで行ってしまおうとする義姉を止めようとした。しかしその手は空を切り、彼女には届かない。
「セス……」
 何故か心が痛んだ。凄く近くにいるはずなのに、手が届かない。遠くまで来てしまった。遠くなりすぎた、そんな気がしてセレンは足がすくんだ。
「駄目だよ、立ち止まっちゃ」
 声が聞こえる。
 泣きたい、泣いてしまいたい。嫌だと、こんなのは嫌だと。
「セスは強い子でしょ、私の弟で、じいちゃんの孫で、ジョウイの親友でしょ。泣いちゃ駄目、泣いたら負け、泣いたらそこで終わっちゃう」
 声が遠い。そこにいるのに、とても遠い。
「大丈夫」
 ふわり、と空気が優しくなった。
 抱きしめられたのだと気が付いたのは、自分を包み込む暖かさがナナミだと分かったから。決して忘れたり間違えたりしない、自分だけが知っているナナミの優しさ、暖かさ。
「セスのかわりに私が泣いてあげる。セスが支えて欲しいとき、ずっと側にいてあげる。セスをひとりぼっちになんてしないから。何があってもお姉ちゃんだけはセスの味方だから」
 大好きだから。なくしたくないから一緒にがんばろ?
「大丈夫、セスは間違えたりしないから」
 花に刻まれた約束。
 泣かない、負けない、諦めない。
 一緒にいよう、いつまでもどこまでも。一緒に帰ろう、あの町へ、あの山へ、あの場所へ。

大好き

 戦い終わりて何を望む
 欺瞞にあふれし世界に何を求む
 真に愚か者は我也
 疑い知らぬ愚者は我也
 すでにこの地に我はなし
 我を求めし声はなし

白い羽根の幻

 世界中の幾億万人の中で、ただひとりだけで構わない。

 この胸の中にある、儚い想いと願いに気付いてください。

 ただいま、とこの場所で暮らすようになってからもう一年近くが経過しているというのに、未だに慣れることの出来ないでいる言葉を控えめに口に出す。
 後ろ手で閉めた戸が蝶番で軋み、嫌な音を立てることは毎回のこと。それにも関わらずなるべく音が響かないように注意深く閉める彼を、台所から顔を覗かせて出迎えてくれた少女の領域をそろそろ脱しようとしている赤毛の女性がクスクスと笑って眺めていた。
「おかえりなさい、キール」
 外出先から帰ってきた白いマントを羽織っている同居人から、頼んでいた荷物の一部を受け取って彼女は笑ってごめんね、と軽い調子で謝罪した。
 キールは残り半分の荷物を片手に抱いたまま、緩く首を振る。別段気に障った覚えはないと告げると、彼女はホッとしたように肩から力を抜いて麻袋に入れられた荷物を調理台の上に置いた。口を広げて中身を確認し、依頼の品が揃っている事に頷く。
「お金、足りた?」
「充分だったよ」
 これはお釣り、とキールは言ってリプレに数枚の硬貨を手渡した。予想以上のその額の多さに彼女は目を見張ったが、キールは黙ったまま柔和な笑みを浮かべて首を振るだけだった。
「……ごめんなさい」
 受け取った硬貨を握りしめ、リプレは頭を垂れる。そんな彼女に彼はまた首を振って、気にしなくて良いからと言った。
 孤児院の財政状況は、以前よりは幾分改善されたとは言え未だ苦しい。これから成長期を迎えてどんどん物が入り用になっていくだろう子供達の将来を思うと、必要経費は抑えたいところではあるものの一番の出費である食費を削るのは忍びない。
 大人達や、ジンガなどが働きに出てくれているし、アカネやスウォンも時折差し入れをしてくれる。けれどもあの事件で一気に増えてしまった孤児院の人数をとても賄いきれているとは言い難い。
 税率は下がっても、働き口の無い少年たちやそれから、はぐれ召喚獣などの食費を考えれば下がった分を回しても足りない。
「あるものを、使っているだけだよ」
 本当に申し訳なさそうな顔をしているリプレの肩を軽く叩き、気にするなともう一度告げて、キールは振り返り隣の食堂を見た。いつもそこで遊んでいるはずの子供達の姿はなく、首を捻っていると漸く結んでいた唇を解いたリプレが教えてくれた。
 今子供達は、ハヤトに強請って彼の世界に伝わるお伽噺を聞かせて貰っているところなのだと。
 孤児院にはその施設の目的に即して絵本の類は沢山あった。多少古いものの、数はかなりのものになる。けれども新しく出されたものや、シリーズなどで定期的に買い足していかなければならないものは除外されてしまっている。また、途中で購買をやめてしまったらしく続編が見当たらない本も何冊かあった。
 そしてこの家で暮らす子供達は繰り返し、それらの本を読み重ねて来ているわけだが最近ついに年かさのフィズが読み飽きた、と言い出した。つられるように、アルバも新しい本が読みたいと言って聞かなくなった。
 そこで迷惑にもお伽噺を語る絵本の代役に立てられたのが、リィンバウム以外の世界からやって来た少年――と呼ぶのもそろそろ失礼かもしれない、青年、ハヤト。
 最初はキールが適役かと誰もが思ったのだが、生憎と彼は無職の派閥では召喚術の知識、歴史や文化といった知恵しか養って来ていなかった。子供達が聞いて喜びそうな話はなにひとつとして所持していない事を素直に明かした彼は、だから大人しくお話をするのは苦手と言えるハヤトに随分と睨まれてしまった。
「ところで、それは?」
 リプレが頼んだ食材はすべて、キールの所持金によって購入されリプレに渡された後だ。しかし彼はまだ他にも袋を抱えていて、しかも四角くて少し大きい。
 興味引かれた彼女の問いかけに、彼は微笑んだ。
「これは、ハヤトからの頼まれ物」
「ハヤトだったら、子供達の部屋に居るわよ?」
「ありがとう」
 礼を述べ早速部屋に向かおうとしたキールの背中に、リプレはもう一度頭を下げた。礼を言わなければならないのはむしろこちらの方であり、彼女は両手で包み込んだ、出かける彼に手渡した額と変わっていない硬貨を強く握りしめた。
 キールは時々、こうやって孤児院にお金を出してくれている。その出もとは無職の派閥が解体された後、こっそりと彼らが持っていた財産の一部を処理して作ったものだ。
 引け目があるのだろう、だからこそ彼はあまり大っぴらに出資を申し出ない。けれどこうやって希に、会計を助けるような真似をしてくれる。彼なりの世話になっている返礼として。
 廊下の角を曲がって消えていった背中を見送り、彼女は台所の自分の仕事場へと戻った。
 キールが持っていたもの、あれは恐らく新しい絵本なのだろう。今ハヤトがキールに頼むものといえば、それくらいしか思いつかない。
 あとでどんな話だったのか子供達から聞き出そう。そう決めて、彼女は使い慣れた包丁を握った。

 コンコン、と二回のノック。間を置かず室内からどうぞ、という声を頂いてキールはドアを開けた。
 天井から吊されたランタンの光に照らし出されている室内には、ハヤトを囲むようにして子供達とそれから、今はハヤトをマスターとしている召喚獣の少女達の姿もあった。
 一番扉に近い場所に座っていたウサギ耳の少女が、ほんわかした笑顔で座ったまま顔だけを彼へと向けた。
「キールさん、おかえりなさいですの~」
 やや舌っ足らずな可愛らしい声でモナティが言い、他の面々も口々に同じ単語を口にした。まるで蛙の合唱を聴いているような気分になって、苦笑しながらキールはただいま、と返した。
 声にほんの僅かだけれど照れが残るのは、やはり帰宅した時に迎えてくれる存在がある環境に、未だ慣れ切っていない事が原因だろう。
 モナティが座っている場所から左にずれ、場所を空けてくれる。マントの裾を踏まないように注意しながらそこに腰を下ろしたキールは、ちょうど真向かいになっているハヤトの睨み顔になんだい、と首を捻った。
「遅かったな」
「リプレの買い物も、あったからね」
 町に行くのならついでに頼む、と出掛けに捕まったことを説明するとハヤトはつまらなそうに舌打ちし、そっぽを向いた。それ以上会話が続きそうになくて、キールは抱えていた本の入った袋を膝の上に置くとモナティとは反対側に座っているフィズに、今まで何をしていたのか尋ねてみた。
「白雪姫ってお話、聞いてたの」
「お姫様が王子様と幸せになって、うっとりですの~」
 元気良く返事をくれたフィズの言葉を補うように、夢見顔になったモナティが両手を頬に当てて言う。その向こう側でエルカがやや退屈そうにしていた、アルバも同じく。
 あのふたりには、女の子が夢見るような物語はつまらないのだろう。そんなアルバがハヤトに聞いた話の中で一番気に入っているのは、一寸法師。エルカも似たようなものだ。
「俺もう、ネタがないぞ」
 もとより話し下手で、国語の成績もいまひとつだったハヤトが知っているお伽噺の類には限りがある。しかも幼少の時代に眠りに就く前、親が短い時間に読み聞かせてくれたものばかりで、記憶の面でもかなりいい加減さが目立つ内容になっていた。
 例えば、白雪姫の小人の数が八人になっていたりして。
 けれどそんな事を知るはずがないリィンバウムの純真無垢たちは、ハヤトの語る物語をそのまま素直に信じ込んだ。
 ふてくされた顔をするハヤトに苦笑して、キールは袋の中から数冊の大判の本を取りだした。なかなか体裁もしっかりした作りがされている、色使いも鮮やかな表紙が目に飛び込んで子供達は一斉に目を輝かせる。
 ろくにこの世界で通用している文字が読めもしないハヤトさえも、興味深そうにキールが持っている本を覗き込んだ。
「ねぇ、どんなお話!?」
 せっかちなフィズがキールに詰め寄って彼の袖を掴み、ぶんぶんと荒っぽく揺すった。後ろから妹のラミが止めるように小声で囁き、気付いた彼女はパッと手を放してごめんなさい、とすぐに謝る。
「構わないよ、破れたわけでもないし」
 少し皺になってしまった服の表面を撫で、彼はしゅんとしてしまった彼女の頭を撫で、それから買ってきたばかりの絵本のうち、一冊を彼女に差し出した。表紙には続き物の四冊目を意味する数字が記されている。
 それは彼女が続きをとても気にしていた、孤児院では途中で購入が止まってしまっていた本の続巻だった。タイトルを表紙に見つけ、彼女は、
「本当!? ありがとうキール!」
 今にも彼に飛びつかんばかりに喜んで渡された本を胸に抱きしめた。
「あっ、それオイラも読みたい!」
「私が先よ」
 素早く横から手を上げて本を読みたがったアルバに、身体で阻止してフィズはとことこと部屋の端へと逃げる。追い掛けるアルバに、ハヤトがふたりで仲良く読めばいいだろう、と老婆心を利かせて声をかけた。
「取り合いして、折角キールが買ってくれた本を破くの、嫌だろ?」
 充分あり得そうな事を指摘され、既に掴み合いを始めそうな雰囲気を出してモナティをおろおろさせていた子供達は、彼の言葉に渋々と頷いた。
「他に、どんなの選んだんだ?」
 大人しくなったふたりを見つめて頷いてから、ハヤトは視線を戻し残りの二冊を床に並べたキールへ問いかけた。なんとかタイトルだけは読める彼だが、その短い文字と表紙に描かれているイラストからでは、さっぱり内容が分からない。
 彼の隣で同じように本を眺めていたラミが、キールを見上げてクマの縫いぐるみをぎゅっと抱きしめた。エルカが退屈そうに欠伸をして、リプレが普段は使っているベッドにごろんと横になった。
「みんながまだ、読んだことが無さそうな本を探してみたんだけれど」
 そう言ってキールは左側に置かれた本を先に指さす。表紙には『王様の泉』というタイトルと湖の側に建つ白亜の城の絵が描かれていた。対して右側の本には『天使の森』というタイトルと、美しい白の翼を持った女性天使の姿が描き込まれている。
 ハヤトは首を捻った。
「どんな話なんだ?」
「どちらから読んで欲しい?」
 簡単な単語や文章なら読めるものの、古めかしい言い回しや特有の単語が出てこられるとお手上げ状態のハヤトは、今でも子供達と同様に絵本であっても読み聞かせてもらわないとダメだった。
 問いかけたのに逆に尋ね返されてしまい、ばつが悪そうに頭を掻いた彼は興味津々にしているラミの視線を辿った。
 彼女はクマの縫いぐるみを抱いたまま、天使の絵をじっと見つめていた。
「じゃあこっち、先に」
 ひょいっと床に直置きしていた絵本のうち、右側の『天使の森』を持ち上げたハヤトは言いながらそれをキールに差し出した。ラミが驚いたように顔を上げ、それからお互いに頷き合った青年ふたりに微笑まれ照れくさそうに俯いた。
 ありがとう、と小さな声でお礼を言って、彼女はその場で座り直した。モナティも近付いてきて、アルバ達はと視線を向けると彼らは彼らで、ふたり仲良く並んで本を熱心に読んでいる最中だった。エルカはというと、ベッドの上で眠りの体勢に入っている。
 キールは苦笑した。そして自分に読みやすく周りの面々にも絵柄が見える角度を作って、本を膝の上に広げる。
 一枚目には、戦いの絵。

 むかし、むかし。
 リィンバウムにエルゴの王様が現れる、ずっとずっと、むかしのこと。
 この世界に、たくさんの悪魔や、鬼神たちがリィンバウムをほろぼそうとやってきていたのです。
 人間は必死で立ち向かいますが、悪魔たちのちからにはとてもかないません。
 大勢の人がころされて、世界はかなしみにあふれていました。

 子供向けに作られているだけあって、絵本の絵柄は軽いタッチで、なるべくむごたらしさが出ないように描かれている。画面いっぱいに広がるのは荒涼とした大地と、黒い稲妻が走る薄暗い空ばかりだ。
 だけれど、ハヤトの頭の中に思い描かれた世界にはこの大地に無数の死体と、戦いの跡が展開されていた。例え召喚術を駆使したところで、余程の力を持った術師が居なければ異界の侵略者と対等に闘うことは出来ない。
 恐らくは血みどろで陰惨な戦いが、繰り広げられていたに違いない。想像に過去の出来事がだぶって見えてしまい、ハヤトは気を取り直そうと軽く首を振った。
 深く息を吐きだし、視線を戻す。キールがこちらを見ていた。
 目線だけで問いかけられ、ハヤトは大丈夫だと口元を緩める。直後にキールは視線を戻し、絵本を捲った。
 二枚目には、戦う人間の姿。それから、空を覆うようにして浮かんでいる黒い翼を持った無数の悪魔たち。

 けれど人間は、あきらめませんでした。
 自分たちの世界をまもろうと、必死に抵抗をつづけます。
 けれど今日も明日も戦いつづけることにつかれはじめた人間の前に、悪魔の大軍があらわれました。
 やっとのことでそれまで戦っていた鬼神をたおしたばかりだった人間達は、空を覆い尽くすほどのたくさんの悪魔を前に、ついにあきらめそうになります。

 朗々としたキールの声を聞いていたラミが、恐怖を覚えたらしくブルッとその小さな身体を震わせた。無意識にだろう、縫いぐるみを抱きしめる腕にも力が込められていた。
 そんな幼い少女の反応に少なからず動揺を覚えつつ、キールはぺらり、と次のページを開く。
 ラミの肩は、そっと腕を伸ばしたハヤトが優しく抱きしめた。その温もりにホッとしたらしい彼女の顔を盗み見て、続きを読み聞かせて良いものかどうか悩む素振りを見せたキールに、ハヤトが首を振って答える。
 頷いて、キールは次のページを読み始めた。
 三枚目は、暗やみに包まれた空の中に浮かぶひとつの光と、驚いた顔をする地上の人々の姿。

 そんなときでした。
 悪魔の軍勢の前にとつぜん、まばゆいひかりが起こったのです。
 人間達はなにがおこったのか分からず、ぼうぜんと空を見上げていました。
 誰かが言います、あれは悪魔のこうげきにちがいない、と。
 別のひとがさけびました。
 いや、あれは天使だ、と。
 そのとおり、まばゆいひかりの中にはひとりの、うつくしい天使がたっていたのです。

 ラミの震えが止まった。モナティが手を握って速く続きを、と急かす目でキールを見上げる。
 同じような目線をラミからも貰って、キールはページを捲った。
 四枚目には、悪魔と勇猛果敢に戦う天使の絵が。やはり表紙にあった通りの美しい横顔が描かれ、背中の翼も精緻な描き込みが成されていた。
 その天使の顔を眺めながら、ハヤトは以前になにかの機会で訪れた教会にあったステンドグラスを思い出した。あの教会で見上げた天使の顔も、そういえばこんな風に綺麗だった。

 天使はたったひとりでしたが、悪魔の軍勢を相手にしても負けませんでした。
 人間は、最後の希望となった天使を必死に応援します。
 彼女が負けてしまったら、リィンバウムは悪魔に支配されてしまいます。
 天使は人間を守りながら、ついに悪魔の総大将との一騎打ちにまでたどりつきました。
 悪魔の軍団をひきいている大悪魔は、ほかのどの悪魔よりもつよく、ずるがしこく、天使は今までのように簡単に勝てませんでした。
 しかし悪魔もなかなか天使をたおすことができず、戦いはとてもとても、ながいじかんつづけられたのです。
 

 悪魔は狡猾そうな笑みを浮かべ、天使に向かって攻撃を繰り返す。天使はそれを躱しながら、地上の人々を守りつつ悪魔を攻め返す。
 けれど決定打は双方共に出ず、膠着状態が続いていた。
 天使は疲れ知らずなのか、どれだけ傷つけられても躊躇することなく悪魔を攻撃し続ける。悪魔は、失われた体力を地上の人間が絶望するエネルギーを吸収することで、補って逆に力を増していく。
 終わりが見えそうにない戦いに決着がついたのは、見守っていた人間が疲れ果て始めた頃。
 キールが五枚目を捲る。現れた絵は、悪魔を串刺しにした天使と、天使の美しい翼をもぎ取った悪魔の絵。

 天使は、悪魔によって戦う力をうばわれました。
 悪魔は、天使によって自由に動く体をうばわれました。
 空がかなしみにつつまれ、空からはたくさんの雷がなりひびきます。
 悪魔は、けれどまだ生きていました。さいごのちからを使って、地上の人々を巻き込んで恐ろしいことをしようとしたのです。
 天使は、さいごのちからをふりしぼってそれをとめようとしました。

 恐ろしいこととは、なにか。
 子供向けの絵本にはそこまで描かれていない。ただ肌で感じる悪魔の薄気味悪さで、それが尋常ならないものであることだけが伝わってくる。
 天使は最後まで人間を守ろうとしたのだろうか。キールの手が捲った最後のページには、空一面に広がる光の粒子とその光が降り注がれる、緑豊かな森が描かれていた。
 

 天使は、ひかりになりました。
 凶悪な悪魔をふうじこめて、二度とでられないようにとても深い森の中にとじこめたのです。
 悪魔は最後まで抵抗しましたが、天使の力をやぶることはできませんでした。
 たくさんの、天使のいのちが地上にひかりとなって降り注ぎます。
 長くつづいた戦いでぼろぼろになってしまった地上は、天使のひかりをあびてみるみる元気をとりもどしていきました。
 こうして、天使のおかげでリィンバウムは悪魔からまもられたのです。
 天使によって緑をとりもどした森は、こうして『天使の森』と呼ばれるようになったのです。

 話はそれで終わりだった。
 語り終えたキールがほうっと息を吐き出す。きつく抱いていた縫いぐるみから力を抜いたラミも、良かった、と呟いた。モナティも似た反応を示している。
「この話は、これでおしまい」
 言いながらキールは本を畳んだ。裏表紙は天使の森をイメージしたのであろう豊かな緑が塗り込められている。
「ありがとう……」
「どういたしまして」
 たった今読み終えたばかりの絵本をラミに手渡し、キールはもう一冊をモナティに預ける。そしてゆっくりと、座り疲れた足を解しながら立ち上がった。
「もう一冊は読んでくれないんですの~?」
「ちょっと疲れてしまったからね。また明日」
 買い物で街中を歩き回って、帰ってきてそのまま休みもせずに朗読をしたキールである。彼の言い分はもっともであり、モナティは残念そうに唇を尖らせた。しかしやや手持ち無沙汰にしているラミの視線に気付いてにっこりと微笑むと、手招きをして彼女を呼ぶ。
 どうやら一緒にふたりで読もう、と誘っているらしく、気付いた彼女は嬉しそうに頷いてモナティに歩み寄っていった。
 ハヤトも疲れを一気に吐き出して伸びをし、立ち上がる。先に部屋を出ていったキールを追い掛けて子供部屋を出て、マント姿を探し庭に出た。
 夕暮れの一歩手前の空は少し色がくすんでいて、重そうだった。
「キール」
 庭の中心に近い場所にある、薪割り用の切り株に腰を下ろしていた彼を呼んで近付き、ハヤトは悪かったな、と一言先に告げた。
「なにがだい?」
「お前だけ買い物に行かせた事と、お前に金出させた事、と。あと」
 変な話しをさせてしまったこと、と。
 俯いてしまったハヤトを見上げたキールは、彼が言いたがっていることを想像して「あぁ」と短く相槌を打った。脚を組み、膝の上に肘を置く姿勢を作って、苦笑いを浮かべながら静かに首を横に振る。
 気にしていないというポーズは、しかしあまりにも形だけになってしまっていた。
「あの話……本当なのか?」
「実際にあったことだと、聞いているよ」
 昔語りの内容には、一部だけでも真実が含まれている事がある。もしくはなにかしらの暗喩が。そして『天使の森』が示しているのは前者である可能性が高い。
 ハヤトも曲がりなりに召喚師の端くれであり、エルゴの王を継承した存在である。子供向けの絵本が語りきらない部分にも、うっすらとではあるが感じるものがあった。
「ただ僕は、詳しいところまでは知らない」
 更に追求しようとするだろうハヤトを牽制する格好でキールは口を開き、それから申し訳なさそうにまた首を振った。ハヤトはそれを信じ、そうか、と呟いてまた謝罪の言葉を口にする。
 ゴメン、と。
 キールは確かに天使の森がどこにあるのかを知らない。
 しかし絵本では触れられていない天使の名前がアルミネであり、彼女に倒された悪魔がメルギトスという名前であり、そして。
 疲れ知らずの天使アルミネが実際は、自分の意志から戦いの場に姿を現してメルギトスとの一騎打ちに挑んだのでは無いことは、知っている。
 それがかつて、エルゴの王と同等の力を所有していたと囁かれた一族が産みだした禁忌の存在であった、という事さえも。
 戦いに散った天使、敗れ去った悪魔。
 天使を利用した人間、追放されて歴史から姿を消したひとつの一族。そして栄え出す召喚術と、現れたエルゴの王。
 ようやく訪れた平穏、そして破られる時。
 ふたりの頭上を一瞬、影が東の方角へと横切っていった。見上げた先にはもうなにもなく、ただ広いばかりの空がどこまでも続いているだけだったがひらりと、視界の端を漂うものがあった。
 白い、羽だった。
 あの影は鳥だったのだろうか、再度視界を空へと向けるもののやはりあの影の主はどこにも見当たらない。
「鳥……?」
 キールが不思議そうに呟くのを聞きながら、ハヤトは落ちてくる一枚の羽根を取ろうと手を伸ばした。
 ひらり、ひらりと空気の抵抗を受けながら左右に不安定に揺れる羽根。もうあと少しで指先が届きそうな距離まで来たそれを、唐突に吹き付けた風が押し流した。
「あ!」
 短い悲鳴を上げ、ハヤトは咄嗟に手を伸ばし羽根を掴もうと空中で指を藻掻かせた。しかし届かず、羽根は再び空へと浮き上がりどこかに消えていった。
 まるで今の一瞬が、すべて幻であったかのように。
「あー……」
 溜息なのか落胆なのか分かりづらい声を伸ばし、ハヤトは出した手を引っ込めた。行き場を無くした指先が、虚しく宙で踊る。
 ふたり、影が走り抜けていった方角を同時に見つめていた。その先になにがあるわけでもないのに、何故か揃って。
「……キール、俺なんか嫌な予感がする」
「奇遇だね、僕もだよ」
 切り株から立ち上がったキールが答え、ハヤトの横に並んだ。
 まだ夕暮れが訪れるには少し早い。それなのに、東の空は薄闇に沈んでいるように見えた。

花火の夜

 色々なことがあった。
 色々なことが在りすぎて、頭の中が整理し切れていない面も大きい。
 けれど分かることは、これだけは言えるって胸を張れる事はある。
 俺は自分が決めた道を今ようやく歩き出せたこと、守りたいものを見つけたこと、一緒にいたいと思える仲間を作ることが出来たと言うこと。
 戦いは正直、好きではない。
 争わずに済むのならそれに越したことはない、戦争なんて……本当は起きない方がずっと良いんだ。
 国家とか政治とか、そういう頭の遙か上にある世界の話を振られても、正直そんなものに興味を持ったことがない俺にはいまいちピンとこない。青の派閥と金の派閥が争い合う理由も、正直なところ良く解らない。
 お互いを認め合い、競争しあうことでより高い場所を目指すのであれば、まだ少しは理解できる。けれど派閥間の争いはそういった、純粋なものではないのだと改めて教えられた。
 俺は、こういう世界では本当に無力だと教えられている感じがした。
 だからバカだって、ネスに怒られるんだよな……。
 なあ、俺ってそんなにバカ?
「そう言う質問を僕にぶつけること自体、既にバカである証拠だとは思わないのか、君は」
 隣を歩く人に問いかけると、即座にそんな言葉が投げ返されて、俺は「はいはい、そうですとも」と膨れっ面を隠しもせずに呟く。
「背筋をしゃんと伸ばせ。拗ねると猫背になるのは君のクセだぞ」
 ぺしっ、と軽く背中を手の平で叩かれてその痛みに自然と前屈みになっていた体勢が戻る。けれど膨れっ面が戻ったわけではなくて、恨めしげににらみ返すと彼は涼しい顔で受け流してしまう。
 毎度のことだからいい加減、慣れたけれど。
 もう少し労ってくれても良いのでは、とも思う。駄目なんだろうか。
「甘えるな」
 今度は軽く握った拳の背で頭を小突かれてしまった。何も言っていないのに、視線を向けただけなのに俺が何を考えていたのかお見通しらしい。
 流石に十年近く一緒に居るだけはある、あまり嬉しくないけれど。
 だって、俺のことばっかりネスに伝わって、俺はネスのことがちっとも分からないまま。これって不公平じゃないのか?
「僕は君の愚痴を聞きに出てきたんじゃないぞ」
「分かってるってば」
 小突かれた箇所を手でさすり、俺は頬を膨らませつつネスに声を投げ返す。まったく、どうしてこう、愛想がないかなぁ……。祭の夜くらいもっと楽しそうにしても良いと思うのに。
 そんな風に考えているうちに、大通りへと辿り着く。
 派手に飾られた山車がいくつも並んでいる、照明に光が灯されて此処だけが昼のように明るい。
 聖王都に負けず劣らず、きらびやかでにぎやかな祭。ほんの少し前この場で俺達はケルマの決闘を受けて戦ったのだけれど、そんなことは微塵も感じさせない。人々は互いに微笑み会い、騒ぎ合っている。酒を飲み、振る舞われる食事に舌鼓を打ってある人は踊り、ある人は唄い、それを見ている人たちはやんやの喝采を送っている。
 人々の営みが確かに此処にはある。
「戦争……」
 遠巻きに騒ぎを眺めている俺達。ぽつりと呟くと、ネスが「なんだ?」という顔を向けてきた。
 眼鏡の奧にある知的な瞳に影が走っていることを、ずっと俺は気にしていた。
 なぁ、その危惧の中身はなんなんだ? 俺にも言えないことなのか? 俺じゃ、ネスの力になれないのかな?
「どうした」
 大人しいな、と身体ごと向きを変えて俺の顔を覗き込んできたネスの視線から逃れようと、俺は首を振って一歩下がった。
 だって、「戦争なんて起きなければ良いのに」という言葉は、この祭の最中には似合わない。みんな、年に一度の祭に浮かれて、楽しんでいるというのにその賑わいに水を差すような事は言えない、言いたくない。
 俺だけが楽しめていない感覚が嫌だった。
 何のために、ネスを祭に連れ出したって言うんだ。少しでも今までの、そしてこれから起きるだろう戦いを忘れて楽しんで貰うためじゃないのか。
 俺がこんな事を言ったら、余計にネスは気にするだろう。そういう性格だから、責任感が強すぎるって言うのかな、兎に角そんな感じ。
 俺、バカだからこんな事しか分からないけれど……ずっとネスが何かを悩んでいて、ひとりで苦しんでることくらいは、分かる、から。
 出来るなら話して欲しい、ずっと一緒に居たのに。
 ネスは俺のことは全部知ってるくせに、俺はネスのこと、全然知らないんじゃなかったのかな。旅に出てからは特にそう思う。俺、ネスのこと何も分かってやれてない。それが悔しい。
「なんでもない、よ」
 苦笑いを隠して手を振る。そして視界の端に映った出店を理由に俺はいぶかしんでいるネスの手を取って小走りに駆けだした。その出店は、こんな祭でなければ見かけることのないお菓子を扱っていて、俺はそれが大好きだった。
「なんだ、またこれか」
 王都で祭がある度、俺はネスにこのお菓子を強請った。やれやれ仕方がないな、そんな顔をしながらもネスは財布を取りだして店の主人に代金を払う。
 甘い匂いを漂わせているそれは、俺の手の中でほこほこと湯気を立てる。ネスはこの甘すぎる味が苦手らしいが、俺は大好きだった。祭でなければ食べられないこともあって、確かに大きくなるに釣れて味は舌の上にしつこく感じるようになってはいたけれど、毎回俺はこれを食べる。これがなければ祭ではないとさえ、俺は思っている。
「虫歯になるぞ」
「これ一個だけじゃならないって」
 大口を開けてかじり付くと、甘さが舌の上いっぱいに広がっていく。どこか懐かしくて、甘いのにほろ苦い感じがした。
「ネスも、ほら」
 俺が囓った跡のくっきりと残る菓子を差し出すと、ネスは眉間に皺を寄せて不機嫌さを露わにする。
 彼がこれを苦手にしている事を知った上での嫌がらせであることを、彼はちゃんと理解しているのだろう。鼻先に突きつけられるだけでも嫌そうな顔をするネスを軽く笑い飛ばして、俺は二口目を囓ろうとした。
 けれど、その手をネスが遮る。
 横から伸ばされた彼の手が、俺の手首を掴んで後ろから、ネスが近付いた。
 カリッ、と硬めの表面を囓る音が耳の直ぐ傍で聞こえた。
「え、ネス……?」
「やはり甘すぎる」
 俺が囓った分よりもずっと少ない量だったけれど、ネスは確かに、俺が食べかけていた菓子を食べた。わざとなのかそうでないのかは分からないけれど、俺の囓った箇所の直ぐ横を。
 何故か顔が赤くなっていくのが分かった。
「嫌いじゃ、なかったのかよ」
 気のせいか声が上擦っている。ネスがしつこすぎる甘さに気を取られているのが幸いして、彼は俺の変化に気付かなかった。
「そうは言っていない」
 絶対に食べたくないというレベルではない、と眉間のしわをそのままに呟く彼の声を聞きながら、俺は菓子を囓った。最初のひとくちをどうしても避けてしまう、歪な形になってしまった円形の菓子が何故か恨めしく思えた。
 一緒にいることは当たり前だった、その当たり前が崩れるのが恐かった。
 派閥の決定で俺が旅立つことになった時、本当はどうしようもなく不安で心細かった。ネスが一緒についてきてくれると知ったとき、跳び上がりたくなるくらいに嬉しかった。
 また独りぼっちになることよりも、ネスと離れなければならない事の方が辛かったのだと今なら思える、分かる。
 孤児だった俺に初めて出来た家族、友人……心を許せる人。大切な、守りたい人。
 足は自然と騒がしい祭の中心部から離れて海岸へと向かっていた。
 人混みは消え、喧噪も遠ざかる。水平線の上にいくつもの舟が浮かび、灯された船上の光が淡い蛍の輝きに似て見えた。
 豊漁祭は本来、海に暮らす民が豊かさをもたらしてくれる海への感謝の思いを示すものだと教えられた。山間に暮らしていたアメル達が、実りの秋に豊穣祭をするのと同じ事だと言っていた。
 俺はずっと、街で暮らしていたからそういうものとは無縁で、年に一度の祭の意味も深く考えたことが無かった。
 ただ出店が出て山車が並び、観光客も多くやってきて珍しいものが見れて、食べられて、あちこちで騒ぎがあって兎に角みんなが笑い合っている日だとしか、認識していなかった。
 総ての行動にはなんらかの意味があって、意味のないことなどひとつもないのだと改めて実感する。
 だったら俺が此処にいること、此処にこうして生きていることにも、何か意味があるのだろうか。
 船上から打ち上げられた花火が夜空に花を咲かせる。
 王都の花火は建物や観光客の頭で邪魔されて、あまりちゃんと見たことがなかった。だから尚更、何も邪魔するものがない海岸から見る花火は今まで見てきた中でも、ひときわ綺麗で印象深いものがあった。
「な、ネス。俺さ」
 隣に立つ人を見る。少し俺よりも高い位置にある瞳が、俺を見下ろしている。
 花火が上がる、ふたつの大輪の花が夜の空を鮮やかに飾っている。
「俺、沢山守りたいものが出来た」
 仲間、友人、この街に暮らす人たち、この世界に暮らす総ての人たち……はちょっと言い過ぎかな?
「誰が何と言おうと、譲れないものが出来た」
 ぎゅっと握りしめた手の平に汗が滲む。
 どうして何も答えてくれないのだろう、いつもだったらこんな風に急に真面目になった俺のことをからかうのに。
 今日に限って、ネスは静かに俺を見ている。それって、結構卑怯じゃない?
 俺だけ、こんな風に必死になって頑張ってる。今ネスがどんな顔をしているのか見たのに、臆病者の俺は足許の砂ばかりを見て折角続けざまに連発されている花火もちっとも見ちゃいない。
「俺、さ」
 聖王都に来たばかりの頃、迷子になった俺をどうやってかいつも探し出して連れ帰ってくれたネス。
 わがままを言ってばかりの俺を辛抱強く見守って、つき合ってくれたネス。
 祭の夜に抜け出した俺を見つけだして、面倒見てくれたネス。強請る俺にお菓子を買い与えてくれたネス。
 な、知ってる? 俺ってさ、結構ひとりじゃ何も出来ないんだぜ?
 こんな事言ったら、自慢にもならないんだけど。その辺には自信ある、俺は俺ひとりじゃきっとこんな風になれなかった。
 ネスが居なかったら……もっと早くに色んな事から逃げ出していた。
 守りたいものは、アメルやレシィや、一緒に戦ってくれる人たち。
 譲れないのは、この場所。
「俺、ネスと一緒に居られて良かった」
「過去形にするんだな、君は」
 精一杯の勇気を詰め込んだ言葉は、けれどネスに呆気なく一蹴されてしまって俺が顔を上げる。
 見つめているネスの顔はいつになく優しいものに見えた。
 花火が上がる、今度はしだれ柳のような絵柄が空に描き出される。
「これからは一緒に居たくないって?」
「違う!」
 腹の底からの叫び声は花火の打ち上げ音に紛れて霞んでしまった。一瞬の光に照らし出されたネスの横顔が眩しい。
「俺、俺、は……」
 言いたい言葉は沢山あるのに、思い浮かばない。頭が回らなくて、もっと色々勉強して色々な場面になれていれば良かったと今頃になって後悔する。
 自然とまた俯いていく俺の頭を、ネスの手が優しく撫でた。そのまま柔らかい手つきで髪を掻き回される。
「心配しなくても、僕の隣は君の特等席だ」
 永遠に。
 ぽんぽんと優しく叩いてくる手は何処までも優しくて、俺は不本意にも泣きたくなってネスにしがみつくことでそれを誤魔化した。
 きっと、ネスには見透かされているんだろうけれど。
 彼は何も言わずに、傍に居てくれた。

Paradox

 色のない空間が、何処までも、どこまでも。
 最果ては見えず、地平線のその向こうがどうなっているのかは皆目見当が付かない。もしかしたら、その先は断崖絶壁でその昔、人々がまだ純粋に神話を信じていた頃の想像された世界の端があるのかもしれない、そう考えて自分の頭の滑稽さを笑う。
 そんなはずなど無い。
 16世紀にコペルニクスが提唱した地動説がガリレオ・ガリレイの天体観測によって実証されて、バスコ=ダ=ガマが世界一周を達成して地球が丸いことを照明したのはもうずっと昔の話。
 世界の果てなど無い、緩やかに円を描くこの大地はまっすぐ歩み続ければいつしか歩き始めた場所に帰り着いてしまう。
 言うなれば、始まりの地こそが最果ての場所。永遠に繰り返されるパラドクス。
 ひととはなに。
 自分とはいったいなに。
 生まれてきたものの魂は何処から来て何処へ還るのか。巡り合わせの中で出会い分かれを繰り返す、同じ道などひとつとして存在しない世界の中で、時間だけは人の上に平等に積み重ねられていく。
 運命など、信じない。
 鐘楼の窓に硝子はない、煉瓦が積み重ねられた隙間にぽっかりと空間が空いていて其処から風は自由に出入りを繰り返している。縛られるものを持たない風も、休む場所を与えられていないから不自由だ。
 魚は水の中を自由自在に泳ぎ回ることが出来るけれど、回遊魚の中には泳ぎ止むと死んでしまうようなものもいるからそれらもまた、不自由。
 予め定められた生き様に縛られて、其処から逃れる術を持たずまた逃れようと抗う事もない。甘んじて受け入れ、そのなかに満足し一生を終える。人は、そんな与えられた不自由の中の自由を享受しきれない存在。
 行き場所は自分で決める、行き方は自分で選びたい。
 だけれど、果たしてそうやって決めた行き方のどれだけが、本当に自分でつかみ取った選択だったのだろう。
 許されている時間に限りがあるから、どうしても何処かで妥協する心を見つけてしまっている。口ではいやがっていながら、結局は敷かれたレールを雑草に隠れて見えないように、見ないようにして進んでいるだけではないのか。
 高い天井、見上げれば鐘がそこに吊されている。けれど今は誰もそれを撞くものはない、それに鐘を鳴らすと言う作業は見た目以上に体力とコツが必要なのだ。
 その技術を伝える存在は失われて久しい。だから、折角綺麗な音色を響かせるはずの鐘も無用の長物と化している。
 古めかしい鐘楼の内壁に凭れ掛かると、空に近い場所であるに関わらず空気は冷たく背中に伝わる壁の温度も冷ややかだ。風は変わることなく時折欲しいと思ったときに吹き込んできて、熱を攫って何処かへと去っていく。
 繰り返し、繰り返す。
 何百年か前までは、きっとこの鐘楼も周囲に暮らす人々に時刻を知らせる為に活躍していた事だろう。だが今は、誰もが選り好んで気に入った時計を手に入れることが出来る時代だから、一時間毎に鳴り響く鐘の音を聞く人はいなくなってしまった。
 左足を伸ばし、右膝は引き寄せて軽く腕に抱きしめる。投げ出したもう片方の手の中には、緩く握られた白い包帯が無秩序に絡み合っていた。
 狭い視界内に収まる世界は、薄明かりの中で寂しげに微笑んでいるように見えた。
 カツッ、カツッ……
 煉瓦造りの鐘楼に、鳴り響く足音。
 ぼんやりと身体を壁に預けたまま天井につり下げられている、忘れ去られた鐘を見上げていた彼は気怠そうに小さく頭を振ると、近付いてくる足音の発生源を探るために視線を下ろした。
 鐘楼の出入り口はひとつだけ、地上へ戻るには今彼がいるとはちょうど点対称に当たる向こう側にある階段を使うしかない。あとは、吹き抜ける風が出入りしている窓から飛び降りるしか。
 だが、地上まで何十メートルとあるこの高さから飛び降りて無事に済むとは、あまり考えつかない。窓の直ぐ真下が地上ではなく、別棟の建物の屋根がいくつも並んでいるものの、それですら他の建物に比べて鉛筆のように細長い鐘楼から落ちてただで済むはずがない。
 カツン、カツッ……
 足音が不意に止む。階段からまだ音の主は現れない。完全に立ち止まっているらしく、微かに感じる人の気配は動く様子がなかった。
 なにをしているのだろう、そもそもこんな辺鄙な場所へわざわざ出向くような物好きは誰。
 それを言ってしまえば自分だって、好き好んでこの場所へよく足を向けているのだから人のことをとやかく言う筋合いは無いのだろうが。
 何処よりも空に近く、静かなこの場所はお気に入りだった。
 空は水色だと言うけれど、それは光の屈折率の所為でそう視覚が認識しているだけで実際大気に色はない。海が青いというのは空の光を反射しているからであって、水が本当に水色であるはずがないのと同じ事。
 色のない世界、此処から見えるのはそればかりだ。
 色々なことをこの場所で考えた。なんかに行き詰まると、必ずと言っていいほど。それ以外でも、時間を持て余してしまえば少しの飲み物と食べ物を持ち込んで何時間も此処に座って空ばかりを眺めていた。時々、酒を飲みながら月夜を見上げたりも。
 包帯を外したのは、ただの気紛れでしかない。
 顔の左半分を覆い隠しているそれを人前で外すことは滅多にない、今はひとりきりで時間が過ぎるのをただ待ち惚けている。見ようとする相手も、見られて困る誰かが居るわけでもないから、白々しい嘘で固めた自分で居る必要がない、それだけ。
 紺碧の髪が緩やかに、吹き込む風に揺れた。左耳のピアスがぶつかり合って小さな音を奏で出す。
 カツッ……
 音が、聞こえた。
 それが誰であるのか想像するに難くない、彼も大概物好きな分類に入る。けれど階段から徐々に姿を現す様を見る気にはなれなくて、上半身を捻り視線を階段とは反対側へと流した。
 右半分の視界は壁に覆われる。左目が映し出すのはささくれ立った雲が支配する空。
 身体を捻ったときにもまた、ピアスが一緒に反動で揺れて音を立てた。自分の耳にしか響かない些細な音。
 カツッ、カツッ、カッ……
「矢張り此処に居たな」
 足音が止まる一瞬前に朗々と響いた淀みのない済んだ声にも、視線を持ち上げることなく彼は空だけを見ていた。
「スマイル、ミーティングの時間はとっくに過ぎているのだぞ」
 反応を返さない彼に少々苛立った調子で彼は言う、片手は腰に添えられて御立腹の様子だ。しかしスマイルは相変わらずも空だけを見ていて、自分を叱る存在を自分の世界から除外してしまっているようだった。
「スマイル」
 いい加減にしろ、と首を振った彼は視線を床に流して、そこでスマイルの投げだしている右手にほどけた包帯が絡まっている事に気付いた。
 もう一度顔を上げ、今度はじっくりと横を向いているスマイルの顔をじっと観察。そしてようやく、彼が常に包帯で覆って隠している顔の左半分を露わにしている事を知った。
「珍しい、な」
 感嘆の声で呟くと、ようやくスマイルが彼の方を見る。
「今、何時」
「時計は」
「持ってない」
 ほら、と左腕を持ち上げて何も絡んでいない手首を彼に示す。
「持ち歩け」
「嫌いなんだよねぇ……」
 時間に縛られるようで。
 腕を下ろしたスマイルの前まで歩を進め、彼は其処でまた立ち止まる。蹲ったりして視線の高さを揃えてやる親切心は端から無いらしい。
「子供の我が侭のようなことを」
「子供でも良いよ、別に」
 それで困ることはなにひとつとしてありはしないのだし。
 即答で返したスマイルを呆れ顔で見下ろし、彼はさっきまでずっとスマイルの見ていた窓から外を眺めた。別段、何かが見えるわけではなく白い雲ばかりが目立つ普段と変化無い空があるだけだ。
「なにかをしていたわけ……でもないようだが」
 ミーティングを放り出してまで此処に留まり続けた理由を彼は知りたいらしい。これでももし、忘れていたから、とでも答えようものなら容赦のない鉄拳が飛んでくることは間違いないだろう。
「なにをしていた?」
 何もしていなかった事をつい今し方認めたばかりの彼が、それでもスマイルに問いかける。薄く自嘲気味な笑みを形作って、スマイルはまた目線を空へ飛ばす。
「ぼくたちは、なにで出来ているのかな、て」
 考えていたのだと呟くと、溜息が聞こえてきた。
「教えてやろうか」
 再び彼へと視線を戻す。綺麗な銀の髪が雲間から射し込む光を浴びてキラキラと輝いている。
「石鹸七個分の脂肪、鉛筆の芯九千分の炭素、二寸釘一本分の鉄分、マッチ棒の頭二千二百個分のリン。あとは水か」
「そうじゃなくってー……」
 確かに人間の肉体を構成する成分を別物質に転換すると、それだけのものにしかならないことは事実だが。尤も、これだけのものを揃えれば人間を作り出せるはずがないことも、確かだ。
 早口に捲し立てた彼に苦笑すると、彼は不満げな表情でスマイルを見下ろす。
「土くれ、という答えが欲しかったのか」
 旧約聖書で知られる創世神話で、神は土くれで形作った人形の鼻に息を吹き込んで人間を作り出している。もともと、「大地」が「アダーマー」、そして「人」が「アーダーム」と現されるヘブライ語の言葉繋がりから、それは発生したと考えられている。そして神によって土から人間になったアダムのあばら骨からその妻イブが誕生し、人間がこの世界に現れたとするのが旧約聖書だ。
 ヒトは神の息によってヒトとなった。だからヒトは死ぬと神の身元へと還る、そういう信仰もある。
「それもちょっと違う、かなぁ……」
「ではどの答えが欲しいのだ」
「ユーリは」
 苛立ちを募らせる事を隠そうとしない彼に、スマイルは伏せてばかり居た顔を上げて真正面から彼を見返した。
 濃い色の髪の下に輝くのは右の丹朱の瞳と。
 そして。
 左の、金沙色の瞳がユーリをじっと見据える。もっとも、その派手な色使いの瞳は飾り物でしかないことをユーリは知っている、実際には視覚補助を担う機能が殆ど働いていないことも。
 がらんと空いてしまった穴を埋めるためでしかない。色は綺麗だが、見つめていても還ってくるものが無くて空虚だ。スマイル自身もその事が分かっているから、普段は包帯の下に隠して人目に晒そうとはしない。
 この義眼が綺麗だと言われるのは、嫌いだった。
「なんだ」
 呼びかけた段階で止まってしまったスマイルの言葉の先を促し、ユーリは彼の右の瞳だけに焦点を絞って見返した。
「……あ、やっぱりいいや」
 だけれど、言ったときのユーリの反応が簡単に想像できてしまってスマイルは苦笑いとともに手を小さく振った。途端、不機嫌だったユーリが益々眉間のしわを深くした。
「この私がわざわざ聞いてやろうというのだ、言え」
 今すぐに、と付け足される。言わなければどうなるか分かるな、とも目が脅している。
 苦笑いが顔に貼り付いて冷や汗が背中を伝い落ちていった。逃げようにも背後は壁で、しかもこの場は断崖絶壁とも表現できそうな鐘楼の最上階。まさに袋の鼠。
「あー……、うん。あの、さ……ユーリは、今」
 楽しい?
 無意識に右手の包帯を握りしめていた。
「…………」
 彼は答えない。黙ってスマイルの問いかけを聞いていたが、考え込む素振りでもない。眉間の皺は変化無く深く刻まれたままだ。
「楽しくない?」
 返事が無いことをそう判断するには軽率だとは思ったが、スマイルは内心の不安さを押さえきれなくてつい口に出してしまっていた。途端。
 ぼごっ。
「いっ……!?」
 悲鳴は吸った息と一緒に肺の中に押し込められてしまった。
 握られた右拳がスマイルの頭の上でグリグリと押しつけられている。殴った箇所を更に上乗せする形でダメージを与えているわけで、当然痛みは倍増する。
「痛いいたい痛いってば!!」
 ぎゃあぎゃあと叫んで、スマイルは自分を床に沈めようと力を真上から込めてくるユーリの手を懸命に追い払った。殴られた部分に指先で軽く触れると、たんこぶになっているというよりもむしろ、陥没している感じがした。
「スマイル、貴様莫迦か」
 いや、莫迦だったなずっと。 
 問いかけているはずなのにスマイルが答えるのを待たず自分で勝手に納得してしまって、ユーリはやれやれと肩を竦めてみせる。頭を押さえて、これ以上殴られるのは御免だと涙目になりつつ睨み上げるスマイルを見て笑い、
「愚問だ、貴様の問いかけは」
 きっぱりと断言する。
 今彼の腕は胸の前で組まれており、ずっと頭に手を載せているわけにもいかないのでスマイルは仕方なく、腕を下ろした。ずっと握りしめていた包帯を思い出して手を解くと、それはくしゃくしゃになって皺だらけだった。
「楽しくない事をして、なにが楽しいというのだ」
 ああ、やっぱり予想通りの反応。人を莫迦にする尊大な態度は変わらないユーリに気付かれないようにそっと吐息を吐いたスマイルだったが、続けて発せられた言葉に目を見張り反射的に顔を上げていた。
「お前だって、楽しいからここにいるのだろう?」
 同意を求める、けれど限りなく断言に近い言葉。
 返事が出来なくて、ただ見返すことしかできない。
「そう……なのかな」
「自分のことだろう」
「そうなんだけどねぇ……」
 いまいち自信を持って頷き返すことが出来ない今の自分に苦笑すると、今度こそあきれ果てたらしいユーリが綺麗な指で自分の髪を掻きむしる。しばらく何処か此処ではない場所を見る目で悩んだ後、スマイルに戻された視線は力を持った紅玉の瞳だった。
「楽しいのだ、お前は。今を楽しんで生きている。私が言うのだから間違いない」
 一言一句を区切りながら、力強く。最後は深く頷いて言い切った彼に思わず拍手を送りたくなって手を押さえ込んだ。俯くと、ものを映し出す機能を持たない無意味な飾り物の先が揺らいで見えた。
 彼に言われると、そうだと思える。思いたい、今が楽しいのだと。
「昨日は楽しかったと、お前は思わないのか?」
「……思う」
 昨日はギャンブラーZの放送日だった、だから楽しかった。夕食はカレーだった、嬉しかったし美味しくて幸せだった。
「明日がもっと楽しい日であるとは想像しないのか?」
「……する、かなぁ……」
 それに関しては即答できなかった。明日のことなど、あまり今日のうちから考えないから。けれど、楽しい日であればいいと思う事は、ある。否定しない。
「今生きていて良かったと、思うのだろう?」
「思う……ねぇ」
 誘導尋問を受けている気分だ、そう笑うとその通りだとユーリは認めた。
「なにをぐだぐだと考えているのかは知らないが、そんな事で貴重な時間を潰すな、勿体ない。そんな暇があるのなら、新曲の練習でもしたらどうだ」
「あー、そっか……それがあったっけ……」
 今日のミーティングだって、新曲の打ち合わせが主だった内容になっていた。誰かが来なくて、結局お流れになってしまい明日に持ち越されてしまったが。
「我々は忙しいのだぞ」
「そうだっけねぇ」
「自覚が足りない、貴様は」
「そうかも~。あ、ねぇ、ユーリ」
「うん?」
 まったく、と溜息をついた彼に笑う。ずっと座りっぱなしだった場所から壁に手を置いて立ち上がると、間にあった距離が一気に狭まった。顔が、目の前に来る。
「キスして良い?」
「は?」
「キス。したくなった」
 包帯を握ったままの手で自分の唇に指を触れさせて微笑む。一瞬呆けた顔になったユーリも、半秒後には我に返って迷惑そうな顔をしてスマイルを見返した。
「話の脈絡が少しも感じられないぞ」
「だって、ねぇ……」
 急にしたくなったのだから仕方がない、そう言い訳にもならない説明を口にすると、呆れ調子のままのユーリがまたひとつ盛大な溜息をついた。
「あとでな」
「ケチ」
 照れもせずにさらりと受け流したユーリが踵を返す。そのまま振り返りもせずに階段まで行くと、最後にひとことだけ、
「左目、隠してから降りて来い」
 スマイルの左目の秘密を知っているのは今のところ、ユーリだけ。アッシュにも教えていないし見せたことのない左目は、ふたりだけの内緒話。
「は~~い」
 間延びした返事をすると、ユーリは笑ったらしかった。そのまま階下へと姿を消していき、再び空間にスマイルひとりの時間が戻ってきた。
 西の空が赤焼けに染まっている、逢魔が時がいつの間にか訪れようとしていた。
「…………」 
 沈んでいこうとする太陽を見つめていると、不意に真後ろから風が流れ込んできて握りが甘くなっていた右手の平から皺だらけの包帯を攫っていった。ひらひらと、細長い白が夕焼けの空に紛れやがて見えなくなる。
「あーあ……」
 でも、別に良いか。
 溜息の中にも開き直りの言葉を込めて。
「ユーリにまき直してもらおうっと」
 そしてくるりと体の向きを変えて今去っていったばかりの彼を追いかけ、駆け出した。
 煉瓦造りの鐘楼に少しだけ騒がしい足音が鳴り響く。それもやがては消え失せて、月空に忘れ去られた鐘撞き堂のシルエットが浮かび上がった。

 今が楽しい?
 それこそ永遠のパラドクス

いつか君の手を掴むまで

 普段からそれなりに大所帯で、にぎやかの盛りにある孤児院も今日ばかりはいつも以上に賑わっていた。
 理由は幾つかあるが、第一は長い間孤児院を離れていた大切な仲間――モナティが無事に帰ってきた事。第二は、彼女がはるばる聖王都から辺境と言っても過言ではないサイジェントの街へとてもとても大事な、それでいて大勢の客人を招いた事。
 現在はその役割を果たしているとは言えなくても、かつては孤児院だった建物。それなりに広さを備えているものの、それでも客人すべてにベッドを用意立てられそうな大人数が一同に集まっては、静かに過ごしたくともそうは行かない。
 とりわけ孤立感が強く、落ち着ける静寂を好む召喚師の青年は深々と溜息を吐き、すでに年長者同士で始まった酒盛りからも早々に離れて庭先へ避難を決意した。
 酒盛りでの話題は、主に自分たちのこれまでの冒険。大方、今まで話したくてもそうは行かなかった数々の、有る意味突拍子もない現実味に欠ける、だが真実の戦いを各々自慢したくて持ち出された酒だったに違いない。それに、孤児院だっただけあって幼年者が多い分、通常は子供の前で大人は失態を隠そうとするもの。幼子の目を憚って呑むに飲めなかった酒を、この場良しとして持ち出してきたに違いない。一体いつ、どうやって入手したのかそこそこ高価な酒までテーブルに並んでいるのを尻目に肩を竦め、白いマント姿の青年は庭へ続く大きな窓を潜り抜けた。
 いつもならば、行儀が悪いから玄関を迂回しなさいと言う少女も、今日ばかりは初っぱなから酔いどれを楽しむ男達の相手に苦戦しており、彼の行動を咎める事もしない。ぱたぱたと小気味の良い足音を響かせ、赤いお下げ髪を揺らす少女を手伝って、物静かそうな少女がその脇を反対方向へ通り過ぎていく。
 聞けば、彼女は“聖女”なのだとか。そんな風にはおおよそ見えない穏やかな外見だったが、有る意味それこそが聖女の風格なのだろうかと思考の片隅に思い描き彼は数段の段差を降りて下草の茂る庭へ降り立った。
 昼間で有れば日の光を浴び、キラキラと輝く若葉が目に眩しかったかも知れない。だが今は生憎の夜。いつ見上げても満月の空が、深く闇の手を広げていた。
 その中で、月だけがぽっかりと、異形。
 薄闇に沈む庭は、昼間の子供達の遊び場とはうって変わって静かでその上物悲しく、薄ら寒さを覚える異質さを控えている。座る場所を探し、適当に視界を巡らせた彼はふと、孤児院のリビングから漏れる光を浴びて僅かな陰影を浮かび上がらせている存在に気付いた。
 昼間にはなかった形。当然であろう、それは自由自在に動くことができる人間だったから。
 しかも、昼間まではこの孤児院には居なかった人。
 いや、彼を果たして人と分類すべきか、否か。
 恐らくは水であろう、透明な液体を湛えたコップを手にぼんやりと、どこかしら虚ろに夜空を見上げている姿を脇から眺め、青年はふむ、と小さく頷く。
 偶然の一致か、彼の手にもグラスが握られていた。中身は同じく透明な液体、但し多少年月をおいて発酵させているものだったが。
 とどのつまりは、乾杯の席だけでも同席するように強要されて無理矢理握らされた、酒の入ったグラスだ。
「今晩は」
 彼はひとくちも飲んでいないグラスの中身を零さぬよう気を配りつつ、大してあるとは言えなかった距離を詰めた。なるべく足音を立てぬよう、草を寝かしつけての忍び足に案の定、間近に至るまで気付かなかったらしい存在は驚いた顔をして、眼鏡越しに彼を見上げた。
 つい意地の悪い笑みで口許が緩んだが、幸いな事に夜で暗かった事やリビングからの明かりを背負っていた事が手伝い、庭の切り株に腰を下ろしていた彼には気付かれなかった。彼の足許には、幾つかの切り損じが見受けられる丸太だっただろう木くずと、使い古された斧が突きたてられている。おおよそ座るには居心地も悪いだろう、薪割りの土台に腰を下ろしていた存在は、頼りない光にどうにか声を掛けてきたのが誰であるかを把握したらしい。数秒後にやっと、緊張を解いて安堵の息を零した。
 青年は苦笑して、切り株の傍らに腰を下ろす。遠慮なく、若草の上に真っ白いマントが汚れるのも構わず。
「お邪魔、かな?」
 口をつけていなかったグラスを僅かに傾け、あまり好みでない味に渋い顔をしつつも問いかけた青年に、眼鏡を直した彼は間を置いてから首を振った。横に。
 大人しく、目立たない動きだったが青年には充分伝わった。どうやら彼は、この青年と同質の存在らしい。種族や、生い立ちや、そういうものはひとまず傍らに置いていくとして。
「騒がしいのは嫌いかい?」
 まず間違いなく年上であるはずの彼に問いかけ、ちびちびと青年はグラスを開ける努力を試みる。舌先で舐める程度の飲み方に、今度は青年が苦笑して膝の上に抱いたままだったグラスを、改めて両手で抱き直した。
「そう……だな。あんな大勢の中に混ざるのは、得意じゃない」
 派閥で学んでいた頃は、同窓が多く居たがいずれも彼を避けて通っていた。人とは違う彼だった事を知るのは、大人の本当にほんの一握りだったけれど、感覚が鋭敏な子供はそれとなく大人の態度で悟ってしまう。だから皆、彼を嫌って近付こうという努力をなさなかった。その理由の一因に、外からやって来た彼の弟弟子が絡んでいた事も言わずもがな。
 溜息混じりに吐き出された台詞にうっすらと微笑んで、彼はマントの皺を軽く指でなぞり、立てていた膝を片方そのまま横倒しに寝かせた。やや行儀悪く、庭の冷たさを感じ取りながら座り込む。
「それにしても」
 後方から大きな歓声が起こり、やんやの喝采が続いた。首半分を振り返らせ、眉根を顰めた青年を切り株の上から見下ろし、一切口に付けないでいるグラスが揺れる様をしつこいまでに見下ろした彼が、吐いた息を吸って呟いた。
 視線を戻した青年の先で、月を見上げた彼が幾らかの葛藤を思わせる間を置いて、
「まさか、モナティが伝説の誓約者の召喚獣だとはね」
 ほわほわしていて、穏和でおおよそ戦闘向きの性格とは言えず、おっちょこちょいでドジで、どうしようもなく役立たずにしか見えないのに。
 言外に色々なニュアンスを含ませた彼の台詞に、グラスから口を離した青年はああ、と頷いた。
「まぁ……正式な契約を結んでいなかったから、ああいう事になってしまったんだけれど」
 それに関してはこちらのミスでもあると重ねて言い、青年は杯を煽った。と言っても、グラスの中身はまだ半分以上残っている。
「嫌いなのかい?」
 明らかに呑むペースの遅い青年を眺めやって、揺らぐ杯の水面を揶揄った彼が自分も未だひとくちたりとも口に運んでいないグラスを少しだけ傾ける。もっとも呑む気配は微塵とも感じさせない仕草で、青年は崩した姿勢のまま首を振った。
 縦に。
「酒自体は嫌いではないんだけれど、どうにもこの、シルターン仕込みだとかいう酒に舌が合わなくて」
「そうか」
 シオンが持ち込んだ酒は瓶ひと樽もあって、けれどあの調子では今夜一晩だけで空になっていそうだ。けたたましく騒ぎ立てている男の群れを窓越しに影で見て、ふたりとも揃って肩を竦める。
 お互い、あの中に混じりたくなくて庭に逃避してきたのだと今更に思い出したからだった。
「君は」
 船の上で辿々しい説明をしてくれた、ウサギに似た耳を持つ少女のことばを思い出し、彼はやや温まってしまったグラスを手持ち無沙汰に揺する。
「なにか?」
「いや。先輩の言っていた、レナードと同じ世界から来たという人物が誓約者その人だとは、思いも寄らなかった」
「その上モナティの主人で、あんな若い青年だとは思っても居なかった、と」
「…………」
 図星をそのままことばに表され、彼はばつが悪そうに視線を逸らし口を噤んだ。傍らで腰を落とす青年が、上着の合わせを手繰り寄せつつ、草を均した上に杯を置く。倒れぬよう注意深く、その瞬間だけ息を潜めて。
 彼は遠くを見据えたまま、何も言わなかった。
 代わりに青年がいつになく雄弁に、計らずとも少ない酒が回っているのか、舌を巧みにことばを放つ。
「僕としても、まさか伝承に名高い調律者に会えるとは思ってもいませんでした」
「皮肉のつもりかい」
「まさか」
 グラスが揺れる、音もなく。波は立たず、ただ緩やかに水紋が絡んだだけ。
「怖いですか」
「…………」
 前触れも、話題を変える間投詞も無く、ただ唐突に。それでいて静かに。
 闇の中に青年の声が溶けていく。
「何をして、怖いと」
「それは色々と」
 辛うじて答えを放った彼に、青年は夜空を仰いでことばを返した。何処までも深く、手を伸ばせば届きそうなのに果てしなく遠い夜空に浮かぶ月は大きい。これまで、幾度あの月を見上げただろうか。 
 この庭で、皆が寝静まった後の屋根の上で。茨が行く手を阻む森の中で、足を取られれば一生上がって来られないかもしれない沼の畔で。深い雪の谷間で、瘴気濃い魔の大地で。
 心を苛む呪が渦巻く、一片の緑も見当たらぬ荒野のただ中で。
 どれ程に心が荒み、悩み、悔い、哀しみ、悼み、涙した夜でさえ月は絶えず変わらず、穏やかな淡い光を湛え続けていた。
「貴方が怖いと感じるものすべて、に対して」
 一度途切れさせたことばを継いで、青年は明るい月から切り株に腰を下ろす彼を見返した。
「……君は」
「キール、です。自己紹介はしたと思いますが?」
 穏やかに笑みながらも、どこか気の抜けない表情を崩さずにいるキールを見つめ、眼鏡の奥に控える瞳を細めた彼は吐息をひとつ、零す。
「では、キール。改めて聞こう」
「色々と、あるでしょうが。貴方が一番恐れているのは、つまりは必要とされない事では?」
 質問を繰り出す前に答えを返され、彼は吐き出す寸前だったことばをすんでの所で呑み込んだ。喉を上下させ、やや不機嫌気味の目尻を吊り上げる。声を潜め、キールは薄く笑った。
「少し昔話をしましょうか。お時間は、あるのでしょう?」
 どうせ今更戻ったところで、あの大音響で繰り広げられるはちゃめちゃな宴会に乱暴に巻き込まれるだけだ。それならばほとぼりが冷めるまで、この庭で過ごすのが無難というもの。拒む理由が思い当たらない彼に目を細め、キールはグラスを再度傾けた。乾いた喉に、更に乾きを呼び込む酒を流し込む。
 ほう、と吐いた息が若干白く濁っていた。
「僕は、サプレスの魔王を召喚するための贄として生まれ、その為だけに育てられました」
 昨日の天気は雨でしたね、とでも言う具合に。多少陰鬱な響きを残しつつも、どこか現実意味の薄い調子でキールが呟く。聞き間違いだったのかと、疑った彼が振り返って目を見開く様に気付いていたが、キールは無視した。
 饒舌になっている自分を心の何処かで笑って、彼は続ける。
「生け贄には強い魔力や、魔王を受け入れるに堪えうる肉体、あらゆる知識と知恵、そういうものが必要と言われ否応が無く、僕はそれらを満たすための教育を受けました。其処に僕の自我は無く、いずれ来る“死”を受け入れるためだけの教えが施され、僕も疑う事を知らずただ受け入れて来ました」
 サプレスの魔王は身体を持たない。リィンバウムに呼ばれた魔王がまず必要とするのは、その強大な魔力と邪悪な意識を受け入れてなお壊れない強固な器。その器となるべくして、キールは生み出され、育てられた。
 彼の存在意義は、やがて実行されるだろう魔王召喚の贄。死ぬ時の為だけに生きる事。
「…………」
 瞳を見開いて相槌を打つことさえ出来ずにいる彼を置き去りに、キールは淡々と、自分の事のはずなのに聞きかじった伝承を語るかのように、続ける。
「だから僕は、あの瞬間まで本当に、儀式が始まるまでぼく自身に与えられた運命というか、とにかくそう言うものを疑いもせず、死を受け入れるつもりで挑んでいたんです」
 けれど。
 実際に儀式が始まって。
 荒野の風だけが喧しく渦巻く夜の闇に晒されて。其処に浮かぶ、ひとつだけ異質な月を見上げているうちに。耳に貼り付く呪を聞いている間に、不意に胸の奥で不安が首を擡げた。
 自分は果たして、ここで何をしているのだろう。
 これから死ぬのに、何故それを甘んじて受け入れているのだろう。
 どうして、自分がこの世界が壊れる最初の犠牲者にならねばならないのだろ。
 このまま死んで、誰にも名前も、姿も、声も、顔も、何もかも覚えて置いて貰えないままに。なにひとつこの世界に遺せないうちに、ただ壊すばかりの存在に成り果てるのか。
 違うだろう? 自分は、本当は自分は、そんな事の為だけに生まれてきたわけじゃないのだろう?
 空がやがて本当の闇に包まれる。月は気付けば見えなくなっていた。
 いつ、どんな時だって静かに見守ってくれた月さえも失ったとき、辛うじて掴んでいたこの世界に於ける自分自身という存在の空しさに気付いた。同時に、悔しいと。
 死にたくない、と。
 初めて、思った。
 それまで当たり前だった自分に与えられるはずの死に疑問が生まれた。死ぬことを怖いと思った、死にたくないと強く願った。
 誰でも良い、助けて、と。
「僕はそれまで、誰に対しても無関心でした。だからあの中で、高い壁に覆われた閉鎖空間で僕を助けてくれる存在など、有りはしなかった。僕は誰にも興味がなかったから、とどのつまりは、そういう事で」
 自分が誰かに与えた事もない優しさや、いたわり。だのにこんな時に限って自分にはそれらが与えられる事を祈ってしまう、自分の浅ましさ。
 キールほどでないにしても、そのことばに重なり合う自分を感じて彼は握り締めたグラスを更に強く両指の腹で押し込めた。均等ではない力の加え具合を受け、木製の杯が軋む。
「けれど僕は、願い祈らずにはいられなかった。死にたくない、生きたい、助けて、と。その間も魔王召喚の儀式は着実に進行していて、巨大な界を繋ぐ門が開こうとしていた」
 やがて朦朧とし始めた意識の中で、観たことのない光景を見た。錯覚だったかも知れない、しかし誰かが、その光景の中で振り返った。
 必死に呼びかけ続ける彼の声に、驚いた風に。
「助けて、と。死にたくない、僕を……この世界を救ってくれ、と。身勝手だと知りながら僕は、誰も居ない場所に向かって叫び続けていた」
 見えたはずの景色は歪んで直ぐに消えた。けれど、届く宛てのないはずの声に、答える声が確かにあって。必死に虚空を掻き、振り絞る限りの声で叫んで千切れんばかりに腕を伸ばした。
 何も無いはずの、何処に続くかも知れぬ空間目掛けて、ただひとつの願いだけの為に。
 助けて、と。
 そうして差し出した手は、暖かく力強い、今までに感じたことのない感覚を彼に与えて握り返された。
「それが、ハヤト」
 感慨深げに呟いて、キールは窓に映るいくつもの影絵に混じった一際小さな姿を探し目を細めた。自然と緩む頬を引き締め、残りがやっと半分を切ったグラスを回す。
「…………つまり」
「言ったでしょう、昔話だと」
 昔と呼べる程昔のことではない。けれどそれまで空虚すぎる日々を過ごしてきたキールにとっては、ハヤトと出会ってからの数年の方が遙かに有意義で、意味のある時間だった。
「僕はハヤトと出会って初めて、世界が広い事に気付きました。自分のしてきたことの過ちを客観的に観る事が出来た、同時にそれが如何に愚かな事であるのかも」
 ぐいっと杯を煽ってキールがことばを吐き出す。黙ったまま聞いていた青年が、喉元を押さえて暫く咽せたキールをやや心配げに見下ろす。大丈夫と手を振られ、彼は若干悩んだ挙げ句手にしたままのグラスを差し出した。
 鼻先に差し出され、落ち着き初めていたものがまたぶり返したキールの咳き込みように、彼はただ困惑するばかり。
「貴方は、水と酒の区別がつかないんですか」
「……すまない」
 嫌味のつもりでグラスを押し返し言ったキールに、にべもなく謝って頭を下げた年嵩の青年をみやり、困った風に顔を歪めキールは口許を拭った。この間にひっくり返してしまった自分の杯を草の間から拾い上げ、完全に空になってしまった中身を確かめて更に吐息をひとつ。
「呑むか」
「お断りしておきます」
 再度差し出されたグラスから漂う香りに悪酔いしそうな気がして、突っ慳貪に言い放ったキールに苦慮したまま彼は手を引いた。両手で包み込み、呑みもせず握り続ける。
「話が中断してしまいましたけれど。ああ、どこまで話しましたか」
「君が、誓約者の彼と出会ったところまで、だったか」
 眼鏡を押し上げた彼が言う。頷いて、思い出して、キールは口角を若干歪めさせた。
「大袈裟に……ああ、失礼。そのまま続けさせて貰いますが、僕にとっては、大袈裟に聞こえるかもしれませんが、彼と出会ってからの時間こそが、僕のすべてなのですよ」
 さりげなく、飾りもせず、あっさりと、しかし言い切って。
 ことばの重みや意味の深さを即座に理解できなかった彼の視線を、幾重にも隠された意味深なにこやかな笑みで躱して、キールは空っぽの杯を掌で遊ばせた。
「それまでの僕の世界は、すべてが白黒の……灰色の景色でしかなかった。何故なら、先にも言いましたが、僕にとって僕以外の、いや、僕自身でさえもさしたる興味を抱く事のない、どうでも良い存在だった」
 遠くを見据え、キールがことばを淀みなく連ねていく。息を呑んだ彼の横顔を盗み観て、反応が思った以上のものであることに、他人事のようにほくそ笑む。
 似ていると思ったのは、ひょっとすれば錯覚だったかも知れない。
 ならば、何故こんな風に。今まで誰にも語ることのなかった、醜く浅ましいばかりの己の本心をさらけ出す、その意味は。
 或いは信じたかったのかもしれない。彼ならば理解してくれると、痛ましいばかりの切望を抱いたのか。
「僕は、ハヤトと出会って初めて、この世界が色の溢れる美しい場所だと気づけたんですよ」
 すべては、彼が居てこそ。
 ハヤトと巡り会えたからこそ。
 故に。
「だから僕には、ハヤトが居る世界こそがすべて。ハヤトと出会って僕は世界の彩を知った。ハヤトが居る世界だからこそ、僕は生きていき守りたいという意識が生まれた」
 夜空に輝く巨大な目映い月に目を細め、キールはそっと、背後――光と騒音でにぎやかな孤児院の窓を窺った。小さく吐きだした息はやや呆れ気味だったものの、安堵にも似た穏やかさが感じられる。
 彼は目を細めた。キールの言わんとしている事が、僅かにだが理解できた気がした。
「誓約者の彼が、結果的にそうなってしまったと……このリィンバウムを救おうという意識を持って戦いに勝利したわけではないのと、同じ意味合いと、言うことかい?」
 静かに問う。身体半分を振り向かせたままでいたキールがゆっくりと姿勢を戻し、向き直って曖昧に笑った。控えめに、幾分自嘲気味に、それでいて子供のように。
 ハヤトが戦ったのは、自分を助けてくれた人々――彼を取り巻く環境に偏在した仲間と、彼を中心にして繋がりあいを計らずとも持ったひと達を守りたいという、本当にささやかな気持ちからだった。裏返せば、戦わなければ自分も、仲間も守れないという逼迫した状況が其処に在ったと言える。
 望んで戦ったわけではない、決して戦う事が好きだとかそういう意味合いは含まれない。ただ時には人を傷つけてでも、守らねばならない時がある。ハヤトはその度に悩み、苦しんで、結論を出した。
 皆が決して、好んで争いを引き起こしているわけではないのだ、と。
 理由がある。意味がある。掌で踊らされていても、その真意に気づけずに盲目なまま振るわれる剣もある。逆にあらゆる策略をはね除け、強靱な精神で確固たる自分を貫き通す剣もある。
「あらゆるものへの責任を負い、守ろうとしたところで脆弱な人間の双肩に任せられる範囲などごく、僅か。貴方がこれまでに抱えてきた歴史や、精神を苛むほどの罪の意識を忘れとは誰も、言えません。でも」
 キールは一度ことばを切った。草を踏む足音が近付いてくる、それは微妙にリズムの狂った千鳥足で、両者揃って顔を上げた先には目映い孤児院の明かりを背負った年若い青年が立っていた。
 ひっく、としゃっくりをひとつ。月明かりの下でも分かる赤らんだ頬に、上気した瞳。黒い髪と揃いの瞳が僅かに潤んでキールを睨んでいた。
「やぁっと、見つけた」
「ハヤト……」
 嘆息に混じった呼び声に、ハヤトは嬉しそうに表情を緩めて彼との距離を一層詰める。
「こんなトコで何やってんだよー、お前もこっち来て呑むの。俺の酒、飲めないってのか?」
「呑んでいるよ、充分」
「嘘ら~~」
 若干呂律の回らないでいる口調で、最後には草の隙間に埋もれていた石に足を取られてハヤトがつんのめった。そのままバランスを崩して倒れ込む。キールの上に。
「…………大丈夫か」
「ええ、慣れていますから」
 思い切り体重に押しつぶされたキールが、それでもしっかりと腕の中に脱力しきったハヤトを抱えて声を返す。見た目以上にダメージが少ないらしい彼の応対に、ささやかな感心を覚えつつ彼は苦笑した。
 似たような状況は、彼も弟弟子との間で幾度か繰り広げた事があった。尤も、弟弟子がこんな真似をしでかした直後に、彼は雷を轟かせていたのだけれど。
 充分甘やかしてきたつもりだったが、思っている以上に自分は彼に対して冷たかったのかもしれないな、とふたりのやりとりを眺めていて思う。
「あ、えーっと……誰、だっけ」
「ネスティさん、だよ。ハヤト」
 キールに両脇を支えられて座り直したハヤトが、切り株上の彼に気付いて首を捻る。物覚えが決して悪い彼ではないが、酔いが手伝って記憶が曖昧になってしまっているのだろう。横から囁かれたことばに大仰に頷き、手を打って大袈裟に頷いた。
 それから屈託無い笑顔で、御免、と謝る。
 感情にストレートで表情がコロコロと変わるのはネスティの弟弟子と同じだが、心根が正直で素直に謝罪も口に出せるところは、違っている。マグナであれば、恐らく悪びれはするものの、こんな風に頭を下げる事はしないだろう。彼は妙なところで、強情だから。
「キールも、さ。こっち来いってば。ええっと……ネスティさんも!」
 腰を浮かせたハヤトがぐいっと力任せにキールの腕を取り引っ張る。だが力負けしていないキールが笑いながら堪え、そうだね、と相槌を打ってちらりとネスティを振り返った。そこから更にハヤトへと視線を流し、
「無理強いは良くないよ、ハヤト。誰か呼んでいた?」
「あー……えっと、そっか。リプレがさ、ちび達寝かすから休むなら早めに、って」
 最初の声は頷いて、それから緩んだ瞳を細めて考え込み、孤児院を仕切る少女の姿を思い浮かべて小さく舌を出す。そうか、と頷き返したキールはハヤトを促し、彼の背中を押した。
 自分も立ち上がって、柔らかい草を踏みしめる。空になったグラスを取り、マントやズボンにまとわりついていた土を払い落とした。
「君は……」
「僕は、だからハヤトが戦うことを選ぶのならそれに従います。彼を、彼が守りたいと思っているものすべてを守るために、ね」
 それが自分の存在意義だと言い切って、キールは千鳥足気味なハヤトの手を取り導きつつ、明るさの抜けない孤児院屋内へ向かって歩き出した。振り返りもせず、ひとり闇夜に残されたネスティを気に掛ける素振りも無い。
 本当にキールの目には、ハヤトだけしか映し出されていないようにも思えて。
 些か自嘲気味に、ネスティは口許を抑え込んで笑った。
 果たして自分は、彼ほどに強い思いで戦いに臨んできただろうか。これから、臨むことが出来るだろうか。
 隠し通す事ばかりを考えて、冷たく当たる事しか出来なかった自分に。
 果たして。
「ネーッス!」
 がばっ、と。
 闇に沈みそうになっていた思考を唐突に地表へ引き戻したのは、背後から奇襲に近い形でのし掛かってきた、ある種慣れ親しみすぎている重み。衝撃を受けたグラスから、激しく波立った液体が飛び出す。それは大半が土に散ったが、一部が彼のマントと、膝の上に薄いシミを作った。
 肩越しに紫がかった紺色の髪が見えて、多少酒臭い息が鼻につく。上腕から半身を包み込んで胸の前に組まれた第三者の両手を眼鏡の向こうから眺めて、まるで他人事のように吐息を零す。
「マグナ。君は、まったく」
 離れるように告げても応じてくれる素直な性格をしていない弟弟子を窺い見て、自由の効かなくなった腕でどうにか眼鏡を押し上げた。大半が呑まずして無くなってしまったグラスを持て余し、吐息が更に重ねられる。
「ん~~?」
 酒臭い息でもって頬をすり寄らせてくるマグナの顔を押し返し、けれどふと、思い至って手を止めた。怪訝に顔を顰めたマグナの前で、背中からの拘束を振り解いた腕を持ち上げる。
 そっと、癖のあるマグナの髪を撫でた。
「ネス?」
「君と初めて会ったとき、僕は何を考えていたのだろうね」
 背負い続けてきた数多の記憶と、責務と罪と、抗い切れない運命への疲弊感と、それから。
 野良猫のように警戒心をむき出しにした、薄汚れた子供に対する哀れみに。
 透明な牢獄に似た場所の外で生きてきた彼への羨望。
 これから自分と同じように、軟禁に等しい空間で常時見張られながら自由に自分の道を定めることの出来ない。窮屈なまでに居心地の悪い、けれど自由の扉を押し開く両腕は腱を切られ、動かない。
 ただ生かされ、死ぬのを待つばかりの日々を送る事になるだろう彼を見下ろした時、思ったのは絶望と、虚無。
 でも、ひょっとしたら。
 ずっと一人きりだった場所に、彼が至った事によってなんかが、大々的ではなくても微細な箇所で少しずつ、変わっていくかもしれないと期待していたのかもしれない。僅かずつ、本当に亀の歩みであっても、確かに自分は。自分たちは。
 今、派閥の籠を抜け出して自分たちの足で歩き、道を見定めて進んでいる。
「そう……そう、だな。そうだったな」
「ネス、どうしたんだよ。さっきからひとりでぶつぶつ」
 しがみつくのを止めないマグナを無視して、独り言を続けるネスティに弟弟子は頬を膨らませ、子供じみた仕草で拗ねた。悪かった、と苦笑を隠さずに彼の頭をもう一度撫でて、ネスティは首に巻き付く腕を解いた。
 突き放すような冷たさの感じられない動きだったので、渋々マグナも従う。
「マグナ」
「ん?」
「君に会えて、良かった」
「は!?」
 唐突にしんみりと言われ、一瞬目を丸くしたマグナがどうしたんだよ、と熱の有無を探って失礼な手をネスティの額に押し当てた。不躾な指先を追い払い、ネスティは眼鏡を正すと、なんでもない、と仏頂面で押し黙った。
 一気に飛んでしまった酔いに、違う赤味を頬に差してマグナは困った顔で頬を掻く。
「ま、いっか」
 深く考え込む時間は数十秒も続かなかった。
 気の抜けた笑顔で小首を傾げ、マグナは降ろした腕をネスティへと差し出した。
「な、行こう。みんなもネスが居ないと、締まらないって」
「それは、僕の気苦労を知っての弁か?」
 マグナにそう言った人物は楽に想像できる。剛胆に笑う仲間の姿を想起させ、どうやって彼の口を黙らせようか思案し始めたネスティの横顔に破顔して、マグナは広げた手で彼の腕を取る。力を込めて引っ張り、立ち上がらせた。
 途中からは自分の力で立ったネスティが、マントの土埃を払う。ところが、急に傍で黙り込んだマグナがその布端を掴んだ。
「マグナ?」
 俯いた頬に色付く朱が、淡い。月明かりに照らされて、彼の髪色は一層濃く闇に映える。
 離すように言い聞かせても彼は首を黙って横に振る。まるで子供で、突然訳も言わずに駄々を捏ねる様はまったく成長を感じさせない。けれど彼がこんな風に、実年齢よりもずっと幼い仕草を取るのはネスティの前でだけだと、彼も知っているから。
 唇を噛みしめているマグナの頭を、撫であやす。
「心配ない、大丈夫だ」
 世界を救うとか、守るとか、そんな大義名分はかなぐり捨ててしまえばいい。名も知られぬ英雄で良いではないか。
 ただ自分と、自分に繋がる僅かな人の手を、守り通せればそれで、構わない。
「君は、君の信じる道を貫いて行けば良いんだ」
 その背中を自分は守ろう。澱みのない真っ直ぐな目で挑む未来へ、臆せずに進めるように手を差し伸べよう。
 あの時。
 幼かった自分たちが、出会って。
 籠の鳥でいる自分を不幸だと思わなくなった、あの時の。
 掴まれた手の温かさは、決して嘘じゃないから。

Eyes/2

 太陽が昇って、沈んで、毎日は変わらないサイクルで誰の上にも平等に訪れる。
 今日が永遠に続けばいい、明日なんか来なければいい。そう祈っても願いは叶わない。そして、明日になればこの目は見えるようになっていると願っても。
 目覚めても薄明るい真っ白な世界しか見えないまま。
 ベッドの上で半身を起こし、ユーリは憂鬱そうに溜息を吐いた。
 もそもそと上掛け蒲団を抱き寄せ、再び横になる。固く瞼を閉じるとぼんやりと見えていた光は消えて闇だけが残った。違う、あれは光などではない。
 白い闇だ。
 外が朝を迎えていることは、閉じているカーテンの隙間から差し込んでくる光の加減や、聞こえてくる鳥のさえずりでなんとなく分かる。だが時計を見る事が出来ないから、今が何時で、朝食の時間なのかそれとももうじき昼食の時間になりそうなのかが分からない。
 曖昧な境界線しか掴むことの出来ない自分。
 頭まで蒲団をかぶり、膝を曲げて小さくなってユーリはもう一度、想い息を吐き出した。
 それで気が晴れるわけではない、むしろどんどん気持ちは沈んでいく。こんな調子では駄目だと分かっているのに、それを鼓舞するだけの気力も元気も残っていない。周囲のメンバーに対する虚勢もそろそろ限界に近かった。
 今日はこのままベッドの中で一日を過ごそうか。蒲団を巻き込んで丸くなったユーリがそう思いかけた頃、控えめに扉をノックする音が静かに響き渡った。
「ユーリ、入るよ?」
 声と一緒に、ドアを開けてスマイルが入ってくる。
 入り口からベッドまでの距離は、ゆっくりと普通に歩いて約十七歩。途中彼は寄り道をして窓に引かれたカーテンを開け、窓のカギを外して少しだけ押し開いていく。涼しい風が室内に流れ込んでくるが、爪先から頭まで布にくるめているユーリにはそれが分からない。
「起きてる?」
 寝てる? という問いかけではない。見た目だけでもユーリが目を覚ましていることは一目瞭然だった。こんな風に無意識で蒲団にくるまって小さく団子になるのには、余程器用な寝相をしているとしか表現方法がない。そしてユーリはそんなに寝相が悪くない。
「もうじきお昼になっちゃうよ」
 タイマーセットが外された目覚まし時計を片手にスマイルはベッドサイドに立った。ユーリは答えない、不貞寝を決め込んでいる。
 時計をサイドボードに戻し、指で軽く弾いたスマイルはやれやれと肩を竦める。そしてスプリングの効いたベッドに浅く腰を下ろし、右手を伸ばしてタオルケットの上からユーリの背中をそっと撫でた。
 母親が子供をあやすときの動きに似ている。もっとも、スマイルにもユーリにも、親と過ごした記憶はあまり残されていないのだが。
 もぞり、とユーリがスマイルの手の下で動いた。だが顔は出さない、姿勢を楽にしただけらしい。
 イモムシのようなその動きに小さく笑って、スマイルは優しく彼を撫でながら呟く。
「アッシュがご飯片付けないで待ってるよ?」
 いつもなら早く片付けて次の仕事に手を進めたがる彼が、だ。少しでも目に良くて栄養があって、そして食べやすいものを懸命に考えて献立を作ってくれている。
「……食べたくない」
 どうせそんなものでこの目が見えるようになるはずがないのだ、ただの気休めだったら欲しくない。何もない方がまだマシだった。
 ぼそぼそと呟き返すユーリのくぐもった声に吐息をつき、スマイルはトントン、と軽い調子で彼の背を叩く。痛くない程度に力を加減して、それから手の位置を変えて今度は頭があると思われる場所を見つけ、そこを撫でる。
 今ユーリは直接的な接触を拒んでいるから、無理に被っている蒲団をひっぺがそうとするのはむしろ逆効果に当たるのでしない。その代わり、このままでも良いんだよと伝えるために、手を休めずに彼を撫で続けている。
「そんな寂しい事言わないで」
 折角アッシュが心を込めて作ってくれたのだし。彼の料理が今まで不味かった事はなく、それは彼をメンバーに選んで連れてきたユーリだってよく分かっているはずだ。
「美味しいんだよ?」
「……要らない」
 ユーリの意志は固そうだ。困ったように表情を曇らせ、スマイルは深く息を吸い吐き出す。動き続けていた彼の手も、一緒に止まった。
 スプリングが軋み、沈んだ。スマイルが身を乗り出し、片膝を載せてベッドのほぼ中央に横になっているユーリの傍に寄ったのだと、近付いてきた彼の呼吸音で知る。
 しばらくの間見下ろされて、やがてどすん、と大きくベッドが揺れた。何事か、と蒲団の端を持ち上げてみるが勿論見えるはずがなく、何が起こったのか咄嗟に捕らえきれなかった。だが、聞こえてきた息づかいが思いの外近くて、手を伸ばすと肘が伸びきらないうちにスマイルの身体にぶつかった。
 そしてようやく、彼が自分の真横に寝転がったのだと気付いた。
「なにをしている」
 怪訝な声で問いかけると、スマイルは笑った。
「ユーリのベッドって柔らかくて気持ち良いなって、思っただけ」
 だからこうして寝転がって感触を確かめているのだと、彼は言う。その声は本気で言っているようにしか聞こえなくて、彼の脈絡のない会話の流れにユーリは呆気にとられた。
 しばらくスマイルが居るとおぼしき方向をじっと向く。途切れた会話は、不意にスマイルのひとことでまた戻ってきた。
「蒲団の中って、退屈でしょ?」
 ぽつりと、油断していると聞き逃して仕舞いかねない音量で。
 ハッとなり、ユーリは息を呑む。
「お医者は安静にしていろとは言ってたけど、ずっと寝ていろとは言ってなかったよね。ユーリは本当に、治りたいって思ってる?」
 気配が近付いてきて、頬をそっと撫でられた。包帯の感触が肌に伝わってくる、くすぐったい。
「治り……たい」
「だったら、諦めちゃだめだよ」
 おずおずと小声で囁き返したユーリに微笑みを返し、スマイルは少しだけ言葉の語気を強めた。ユーリの頬を撫でる手は、変わらずに優しさを湛えたままだけれど。
「可能性はゼロじゃないんだから。1を100にするのは難しいかも知れないけれど、1を2にすることは出来るでしょう? 何もしないでいるよりは、2を4にする努力をしなくちゃ」
 強引な理屈では合ったが、スマイルの言いたいことは伝わってくる。山を越える為に人は空を飛ぶことは出来ない、自分の足で一歩一歩登っていくしかないのだ。近道は無いし、許されない。
 明日になれば治るかも知れないし、駄目かも知れない。出来ることから初めて、積み重ねていくうちに道が見えてくるかも知れない。
 なにもしないよりは、なにかを目指している方がずっと良い。
「ぼくの言っていること、なにか変?」
「いや……変じゃない」
 小首を傾げたらしいスマイルに微笑み返し、ユーリは身を起こした。被っていたケットを足下に溜め、再サイドに降りたスマイルの手を借りて立ち上がる。
「着替え。すぐに食事をする」
「はいはい、っと。此処で食べる? それとも下に行く?」
 下、とはダイニングの事だ。平常時は皆そこで食事をとるが、最近はユーリが部屋を出たがらない傾向にあったため、ここまで食事を運んでくる事が多かった。天気の良い昼間であれば、ベランダに出ることも偶にあった。
「いや、下で食べる」
 着ていたパジャマの釦を外しながらユーリは短く告げた。スマイルが用意してくれた着替えに、不器用な手つきながらも自分で袖を通す。その脇で、脱ぎ捨てられたパジャマをスマイルが拾い上げていた。
「じゃ、行こうか」
 ユーリの着替えが完了するのを待ち、スマイルは彼にいつものように左手を差し出した。だが彼はやんわりと首を振ってそれを断る。
「お前は、見ていてくれないか」
 自分の部屋の配置はもう覚えた、初日のようなミスはもうしない自信がある。階段も、少しずつだがコツを掴んできていた。
「ユーリ……」
「私だって、今までなにもしていなかったわけではない」
 言い切って、ユーリはまだ戸惑っているスマイルを置いて歩き出した。
 顔に窓から吹き込んでくる風が当たる。それで方向を計り、歩幅を計算しながら右手を前に差し出し障害物が無いかを確かめつつゆっくりと、進む。
 ベッドから扉まではゆっくり目に進んで十七歩、時々十八歩。
 数えながら進み、十六歩目で指先が扉の金属の取っ手に触れた。その間、転ぶ事も方向を違えて何かにぶつかるような事もなかった。
 第一段階クリア。ホッと息を吐き出し、ユーリはドアノブを回して廊下に出る。少し遅れてスマイルがそれに続いた。
 次の難関は、階段だ。十五段近くある階段をひとりで下りきるのは相当の勇気が要る。失明の原因は駅の階段から落ちた事だし、城に戻ってきた初日早々にも、滑り落ちそうになって危ういところでスマイルに救われている。
 あの瞬間の気持ちを、ユーリは忘れることが出来ない。
『ぼくが、君の目になるから』
 そう言ったスマイルの言葉に偽りはなく、彼は本当に良く尽くしてくれている。ユーリが心苦しさを覚え、もう良いからと何度も言いたくなるくらいに。
 スマイルがそんな言葉で一度決めたことを撤回するとは思えなくて、言いたくても口に出せないまま今日まで来てしまった。彼はユーリが少しでも生活しやすいように、色々な部分で気を遣ってくれている、手助けをしてくれる。時には冗談を交えて笑わせながら、ユーリに負担が行かないように心がけて。
 その事が彼から、彼自身が使うべき時間を奪っているような気がしてユーリは嫌だった。
 彼の時間を、生き様を自分のために使わせたくない。その為には何より、この眼が見えるようになることが一番なのだがそれが果たせない以上、どんなに些細な事であっても、スマイルの手を煩わせる事のないように自分で出来ることを増やしたかった。
 着替えも、最初はひとりで出来なかった。自分の部屋を自由に歩き回る事も出来なかった。
 けれど今はそれが出来る。
 手摺りに手を下ろし、握りしめる。そろりと足を伸ばして一段低くなっているスペースへまず左足を下ろして、しっかりと体重を移動させてから右足を下ろす。それだけの行動を非常に時間をかけてゆっくりゆっくりとこなし、終了させたところでユーリは長い息を吐き出した。
 だが、それ以上に深い安堵感を覚えたのは二段下でユーリを見守っているスマイルだ。彼はまたユーリが足を滑らせても大丈夫なように、真下で待機している。ゆっくりなユーリの動きを見守りながら、自分も後ろ向きに階段を一歩一歩下りていく。恐らくこの光景を別の誰かが見る機会を得ていたら、どちらも危ういと感じた事だろう。ユーリは目が見えていないし、スマイルも下を見ていなかったから。
 だが肝心の当人達はそんなこと一切お構いなしに、五分以上の時間を掛けてユーリが階段を下りきるまでそうやっていた。彼が一番下の段を降り平らな床に降り立ったとき、スマイルが思わず拍手をしてしまったくらいだった。
「馬鹿者」
 照れくさそうにユーリが笑い、叱られたスマイルの方も苦笑いを浮かべて左手を伸ばした。
 未だ手摺りの最後の部分に捕まったままのユーリの右手を取り、軽く握る。顔を上げたユーリに小さな声で、「ついてきて」と告げると、こっちだよと彼を今向いている方向から右に約百二十度、爪先の向きを変えさせた。
「ゆっくり行くけど、覚えるまで何度でもつき合うから」
 そう言い、彼はユーリの手を引いて歩き出す。向かう先は食堂で、彼は宣告通り本当にゆっくりと進んでいった。
 スマイルはさっきのユーリの行動を見て、考え方を変えた。
 ユーリは、自分で出来ることから出来るように努力している。だったら、自分もそれを手伝うべきではないだろうか。これまでのように、なんでもかんでも全部自分が先にやって、ユーリはそれを受け取るだけの生活では彼は何もする事がない。
 諦めるな、と自分で言っておきながら今までのスマイルは彼から自由を奪っていた。彼の役に立つと思ってしていたことは、実のところユーリの心を締め付けていただけだった。
 彼は歩数で、距離を測っている。何処から何処までが、何歩の距離。この場所から彼処へ行くにはどの経路を使ってどれだけの距離を進めば良いのか、彼はこの数日の間に計算して記憶していた。今までは部屋に閉じこもってばかりだったので、室内だけを知り尽くせば良かったかも知れないが、外に出るとなれば移動距離も、覚えるべき感覚も増える。
 その手伝いを、するためには。
 目に見えるものが簡単に通り過ぎてしまえる道も、視覚を奪われた存在にとってはとてつもなく長い道のりになる。どうすれば障害物を避けて目的地にたどり着けるか、分かりやすく覚えやすい道順を彼に教えてあげるにはどうすべきか。
 一緒に、目を閉じてみる事も時には必要なのかも知れない。
 階段から食堂までの道は、本当に短い。玄関ホールをまっすぐ突き抜ければそこがもうリビングになっていて、その隣が食堂だ。台所は更にその奧。
 柔らかい絨毯の毛並みを足裏で感じながら、スマイルに導かれつつも彼を意識することなく、ユーリは自分の歩調を変えないように進むことに神経を注いだ。何歩目で右に何度曲がり、次に何歩進んで今度は左に旋回、扉を開けて壁沿いに進む。テーブルの位置は、壁に並ぶ棚が二つ目に切り替わってから幾歩。ユーリの席は、そこにあった。
「到着」
 彼の為に椅子を引き、ユーリが座るのを待ってからスマイルが冗談めかせてそう言った。
ふたりの姿を台所から覗いて発見したアッシュが、慌てて食器を両手にやってくる。スマイルとは足音が違うから、直ぐに分かった。
 トーストの香ばしい匂いが鼻腔を擽り、あれ程食べたくないと言い張っていた事が嘘のように今は食欲に満ちていた。以前より食は細かったものの事件後益々ものを口にしなくなっていたユーリだが、こんな風に何かを食べたいと思うのは本当に久しぶりだった。
「冷めないうちにどうぞッス」
 何往復かして料理を全部テーブルに運びきったアッシュが、声を弾ませる。ユーリが食堂に出てきて食事をするのは事件の日の朝以来これが初めてだったので、やはり嬉しいのだろう。しかし彼がテーブルに置いた食器の数は、自分ひとり分にしては多すぎる事にユーリは椅子に座り直して首を捻る。
 それに気付いたわけではないだろうが、アッシュの暢気な声がユーリの耳に響いた。
「スマイル、それ食べたら直ぐお昼ご飯になっちゃうスけど。どうするッス? 少し時間を遅らせるッスか?」
 コトン、と小さなものがテーブルに置かれる音の直後にアッシュの声が間近に聞こえる。
 え? という顔を作ったユーリに、スマイルの「しー!」というアッシュに黙れと合図を送る音が続いてようやく、ユーリはスマイルが自分に合わせて朝食を待っていてくれていたのだと気付いた。
トーストを千切っていた手が自然と止まり、スマイルが座っているだろう方向を向く。スマイルも、見えていないくせに見えている時と同じように自分の方を向いているユーリに気付いて気まずそうに、動きを止めていた。
「……お前、バカだろう」
 冷たいひとこと。
 言い放って、ユーリは食事を再開させた。
「言われちゃったッスね」
 アッシュがおかしそうに笑い、スマイルが「君が余計なこと言うからでしょ」と拗ねる声が続いて、ユーリは久しぶりに食事が楽しいものだという事を思い出して、笑った。

 遅めの昼食を久方ぶりに三人揃って終えると、アッシュはソロ活動での打ち合わせがあるとかで出ていった。戻ってくるのは夕方か、手間取ればもっと遅くなるかもしれないからと、温めれば直ぐ食べられるように朝から仕込みをしていたらしいカレーを彼は台所に残していった。
 今は弱火でコトコトと煮込まれている鍋は、あのまま放っておけば夜飯時には具もトロトロに溶けてしまっているのではないだろうか。食堂まで薫って来ていたカレーの匂いを思い出しつつユーリは白と黒が整然と並ぶ鍵盤を指で弾いた。
 ポーン、と軽い音が鳴り響く。それによって自分が今、どの音階の上に手を添えているのかを大体把握する。今度は両手を軽く握り込むようにして鍵盤上に浮かせると、頭の中で簡単なメロディーラインを描き出してその通りに指を動かし始めた。
 主旋律と、それを補助する程度に付け足された和音が絡み合う。あくまでも即興なので、細かい部分は抜きにしていくつか似たようなメロディーを繰り返し、指先で踊らせるうちに気に入ったものが見えてきたのか形が定まり始める。
 低音から一気に高音へと抜けてまた低音に戻ってくる、少し踊らせるようにリズムを刻んで、テンポはそう、なるべく早めに砕けすぎず。
 個人所有としては勿体なさ過ぎると言いたくもなるが、既に一般市民とはかけ離れた生活環境にあるユーリが所有しているのであれば納得出来はしなくても頷けてしまう、フルコンサート仕様のグランドピアノ。一般家庭には場所をとるだけで維持費も莫迦にならないだけのピアノを、城の一室にどん、と放置していた彼もまたある意味心臓に毛が生えているような存在だ。
 一体幾らすると思っているんだろう、このピアノ……。
 良い音色を奏でるから、というそれだけの理由でユーリが選んだのはスタインウェイ。クセが強く個性的な音を響かせるこのピアノの調律は、買った本人があまりにも無頓着であるために仕方なく、こっそりとスマイルが人を呼んで月に一度程度見てもらうようになっていた。
 弾かなくても音はどんどん狂っていくんだよー、と心の中で呟いてスマイルは柔らかい絨毯の上で伸びをした。
 天井が高く、窓も広い華美ではないけれど豪勢な一室。この部屋の主役は他でもないスタインウェイで、ユーリは今楽しそうにピアノの鍵盤と戯れている。スマイルはその様子を少し離れた場所で、邪魔にならないように見守っている最中だった。
 目が見えなくても、鍵盤の並び順と音階を覚えておけばピアノは弾ける。楽器なんてものは形と音の出し方を覚えてしまいさえすれば、大抵目を瞑っても演奏が可能なのだ。
 このピアノはユーリが作曲活動用に自分で用意した代物。もっとも、その割にはあまり使用された形跡がなくて宝の持ち腐れの感が強いが。
 つい一昨日、調律が施されたばかりのピアノは久しぶりに弾いてもらえて嬉しそうに音を奏でている。ユーリ自身も、実際楽しそうに演奏していた、内容は少々ピアノ独奏曲とは言い難かったけれど。
 彼にピアノ演奏を勧めたのはスマイル。それくらいなら出来るでしょう、と誘いを掛けてみたところユーリは簡単に頷いた。
 作り出した音楽は譜面に興さないとアレンジがしにくい。だがユーリは現在譜面を見ることも出来ないし、勿論盲人用の点字に移し替えた楽譜も読めるはずが無くまた作ることも出来ない。
 だから、スマイルはラジカセを持ち込む事にした。今作った音楽を録音して置いて、視力が戻った時にそのテープを聴きながら譜面に興せばいい、と。どうせアルバム作成の時に沢山の候補が必要になってくるのだから、今からそれ用に用意して置いても困るものではない。
 今、出来ることを。
 それほど間があったわけではないのに、随分と久しぶりに感じる音楽との触れ合いを楽しみながら、ユーリはふっと、スマイルが居るだろう方向に視線を流した。
 外から差し込んでくる光で室内は明るい。ユーリの視覚を占めているのはその光にぼやけた白い世界だけだ、他には何も映らない。
 なのに、奇妙に感じてしまう程にスマイルが其処に居るのだと彼はしっかりと認識した。
 淀みなく奏でられる音楽が磁気テープに閉じ込められていく様を、興味深げにじっと見つけていたスマイルもユーリの手の動きが少しだけ鈍った事に気付いて顔を上げた。
 絡まない視線が交差する。自分をすり抜けて壁まで行ってしまいそうなユーリの視線に首を捻り、彼はカセットデッキを片手に立ち上がった。
「……止めるの?」
「お前は」
 きっと、この会話も録音されている。演奏を中断するのかと思っていたスマイルは、停止ボタンの上に指を置いて彼に問いかけた。だが違う、と小さく首を振ってユーリは顔を真正面のピアノへと戻してしまった。
 演奏は止まらない、だからこのテープも回り続ける。
 ボタンから指を離し、ピアノの脚もとへデッキを置き直してスマイルはまたその場に腰を下ろした。中途半端で止められたユーリの台詞は、まだ話しに続きがある事を教えている。どうせなら近い場所に居た方が良いだろう、そう思って彼は新しく居場所を定めた。ユーリが腰掛けている、背もたれのない黒い革張りの、椅子の真後ろに背向かいで。
 両足を伸ばし、くつろいだ姿勢で耳はユーリの演奏に傾けたまま。
 やがて軽やかな音色に混じってユーリの声が鳴り響いた。
「左目を失ったとき、恐ろしくなかったのか」
 強く叩きつけられた鍵盤が、それでも彼の力を総て吸収して独特の音を醸し出す。オーケストラで使用される事の多いこのピアノは、もとより多くの楽器と共演しても独自の音色を損なうことがないよう、どこまでも強く設計されているのだ。
「忘れた」
 背合わせでいるために、スマイルもユーリの表情は見えない。彼がどんな顔をして、どんな風にピアノを弾いているのか分からない。ユーリも、光の明暗だけしか把握することが出来ない瞳では彼の表情を伺い知ることは出来なかった。
 ぽつりと、ピアノの音量に負けてしまいそうな声で返したスマイル。けれどユーリはしっかりと彼の返事を聞き止めていて、少しだけ鍵盤を叩く腕の力を緩めた。
 音色は、先程までの荒々しさを含んだものから柔らかいものへと形を変える。
「もう思い出せない」
 記憶は時間の経過とともに色あせていく。思い出さなくなった思い出はやがてそれ以外の思い出の中に埋もれて、簡単に思い出せないくらいに深い場所へと追い込まれそして、消えていくのだ。
 それを不幸だとか思わない。人はその人生で出会った総ての人の顔を覚えることは出来ないし、通り過ぎていった時間を忘れずにいる事も不可能な生き物なのだから。
 ある意味、便利な構造をしている、記憶というものは。自分の都合の悪いことは簡単に忘れ去ってしまえて、都合の良いことばかりを覚えて思い出す。思い出は美化されて、真実は失われる。
 今日という日もやがて思い出の1ページとして、そのうち「こういうこともあったな」としか思わなくなるのだろうか。
 ぽろん、と音が零れた。
 ユーリの手が止まる、顔を上げたスマイルは背中に微かな振動を感じて彼が椅子から立ち上がった事を知る。
 カセットデッキに手を伸ばす、録音ボタンを押そうとしたスマイルだったが真上から落ちてきた声に動きを止めざるを得なくなってしまった。
「お前が」
 ポーン、と。
 レの音を指で弾いたユーリが呟く。
「弾いてみせてくれ」
 残響が耳の奧に響き、やけに強く鼓膜を揮わせる。
 冗談でしょう、と笑い飛ばそうとしたスマイルは、しかし見下ろしてくる彼の光を持たない赤いだけの瞳に不意に哀しげな表情を作った。
 深紅の宝石に似た輝きを放っていた彼の瞳は、今影を作ることもなく濁っている。確かに彼の瞳はスマイルの姿を映しだしているけれど、ユーリは彼を見ては居ない。あくまでも、居るだろう方向を向いているだけ。
 視覚を失った人間は、その分を補おうと別の感覚に鋭くなる。聴力がその代表であることは知られているし、だからこそ本来盲目の人はものを映し出さない目ではなく耳を、注意すべき方向に向けるはずだ。
 ユーリがスマイルの方へ、さも見えているように顔を向ける行為に実は意味はない。ただ、見えていたときの感覚がそのまま強く身体に記憶されているが為に反応してしまうだけの、それだけの事に過ぎない。
 けれど、それが分かっていたとしても人とは計らずとも異なる種族に存在しているユーリは、瞳に力を持っているから、一度射抜かれてしまうと逃れることは実質不可能だった。
「……違う曲に、なっちゃうよ」
 それでも良いか、と問い返せばユーリは迷うことなく頷いた。
 困ったように息を吐き出し、ラジカセを止めようかどうか悩んで結局スマイルはそのまま録音を続けることにした。同じ曲で色々なバリエーションを試してみたいだけだろうユーリが、自分のアレンジでは物足りなさを覚えたのだろう。そして別の存在であればどういう具合に形を変化させて曲を組み立て替えるか、聞いてみたいだけに違いないから。
 だったら、多少下手くそな演奏でも後で少しは参考になるかもしれないから、と停止を示すボタンから視線を逸らし立ち上がる。
 交替で、ユーリは椅子から降り座らずにピアノに凭れ掛かった。
 鍵盤に触れるスマイルの邪魔にならない程度の距離は作るが、良く聞こえるようにと離れすぎることもなく。
 相変わらずユーリはスマイルの方を向いている。たとえ彼が見えていないと分かっていても、それなりにやりにくさを覚えてしまう。
 もう一度吐息を吐いて、彼は二日ぶりに触れる鍵盤へ指を添えた。
 リズムを弄って、変調気味に軽いリズムで。ユーリが何度も演奏していたものだから、メロディーのラインはほぼ完璧に耳で覚え込んでしまっている。だが聞いただけで演奏するのは案外難しくて、そのうち思い出せない箇所が現れると仕方無しに自分の好きなように変化させていった。
 原型は残しつつ、けれど最初にスマイルが宣告したとおりにユーリの曲とは全く別のものへと。
 同じ。でも、違う。
「この瞳がものを映し出さなくなって、私は少し変わったかも知れない」
 ピアノに預けていた片手を持ち上げ、ユーリは自分の瞳を隠す。スマイルは聞きながら、ユーリの曲を奏でている。
「見えなくなって、初めて見えてくるものがあると知った」
「……見えないのに?」
 そう、と聞き返したスマイルに小さく頷き、彼はピアノに今度は背中で凭れ掛かった。白濁した世界しか移さない彼の瞳が、天井近辺を彷徨う。
「たとえば、この城が案外綺麗に整理されているようで実のところ、効率の悪い配置が施されていること」
 あちこちに調度品が飾られていて、しかもそれが一定ではない。見た目は悪くないかも知れないが、壁沿いに進むことが多くなるとどうしても不便さが増してしまう事に気付いた。
「アッシュが使う調味料の傾向も知れてきた」
 クセの強い香辛料を隠し味でいくつも使い分けているらしい。これまで全く気にしたこともなかったのに、今ではどれに何が使われているのか香りだけでも粗方想像が付いてしまう。奇妙な特技が生まれたものである。
「あと、は……そうだな」
 彷徨わせていた虚ろは瞳を鍵盤から目を離さず必死に演奏しているスマイルへ向け直して。
「お前が意外に面倒見の良い存在であったことや、お節介であったこと。それに」
 リズミカルな演奏は止まらない。聞き流している風情のユーリが、身体の右側を軽く捻って上半身だけを彼の方に改める。
「お前が、私が思っていた以上に私のことを好きだ、と言うことか」
 疑問型でも何でもない、断定の形で。語尾を軽く上げるなどという小細工も一切無しの、むしろ溜息混じりで呆れていますと言いたげな口調。
 そのラストにダーンっ! という合計十本の指が無茶苦茶に鍵盤を叩いての不協和音が被さった。
「わざとか?」
 残響凄まじい轟音に眉根を寄せつつも平然とした顔を続けるユーリが、鍵盤の上で沈没しているスマイルに尋ねる。
「……それはユーリでしょ……」
 心の動揺がそのまま音に現れてしまったスマイルが、居心地悪そうに身体を揺すった。完璧に中断されてしまった演奏を再開するか、それともこのまま中止してしまうか悩んでいるようだ。
 カセットテープはまだ回っている、だがテープの残量からしてもうじき自然と止まるだろう。
 あの会話も録音されてしまっただろうか、あとで編集して消してしまおう。そう心の中で呟いて、間を持たせる為に仕方なくスマイルはまた鍵盤に指を踊らせた。
 だが曲が違うものになっている。動揺が収まっていない所為だろう、軽快なリズムに違いはないがそれは子供向けに練習曲で多用されるものだった。
 クスリ、と笑みを零しユーリは再び背中を重厚なピアノに預ける。黒光りする艶やかなピアノの肢体を指で辿り、緩やかに湾曲するラインに沿って移動する。今日は開かれていなかった蓋に両手を置き、背の翼を動かして空気抵抗を生み出すと軽い動作で、彼はスマイルがまだ演奏中のスタインウェイに腰かけてしまった。
 彼ひとりが全体中を預けてもびくともしない。多少の振動はあって、音が籠もり気味になったような感じはするがそれも微妙だ。変化無いと言ってしまえば、頷いて返すしかない。
 ちらりと視線を上げてスマイルはユーリを見た。端整な横顔が見えるだけで、彼が何を考えているのかまでは読みとることが出来なかった。
「お前の音は変だ」
 不意に、前触れもなくユーリがそう呟く。
 ぴくり、と反応したスマイルの手がゆっくりと止まりそうになったが、寸前で気を取り直したのかまた同じように引き続ける。
「鍵盤は苦手なんだよ」
 ベース担当だから、弦を弾くのには手慣れているけれど。座って演奏する、という事にもあまり慣れない。
「そういう意味で言ったのではない」
 ピアノの天板上で優雅に腰を落ち着け、脚を組んだユーリが微かに微笑む。
「お前の音は、笑い声のようでうるさい」
 それはそれで失礼な表現に変わりないと思うのだが、ユーリとしては褒めているつもりでいるのだろう、その表情に邪気はない。
「先の続きだが」
 話が取り留めもなくポンポンと移動する。何処から何処までが一括りで、どこまで進んで何処に戻るのか掴み所がなく戸惑いを覚えながらスマイルはユーリの言葉を黙って聞いている。
 曲の終わりが、近い。
「目に映らないお前が、奇妙なことに以前よりもずっと確かに見えるものとして感じるようになった」
 メロディーが終幕へと向かうラインに乗る。軽やかに鍵盤上で指を踊らせていたスマイルは、しかし表情に変化を見せることなく沈黙のままだ。
 ユーリも返事がないことを気にした様子もなく、言葉を紡ぐ。心なしか言葉のリズムがスマイルの奏でる曲に重なっている感じがした。
「以前は、お前が見えないとその存在すら危ういものに感じていたのに」
 “居ないもの”として。
 簡単に消せてしまえる存在としてそこに在る彼。彼を消すのは彼自身であり、それ以上に彼を取り囲む環境だ。見えないものを信じることが出来ない人々は、己の肉体が透明である彼の存在を否定する。否定されてまで存在し続ける事の意義を、彼は持ち合わせていない。
 彼は簡単に消してしまえる、自己というものを。
 呆気なく。
「見えなくなって、ぼくが見えるようになったってコト?」
 ぽろん……と緩やかに最後の音を零し終えて、スマイルはようやく口を開いた。
 室内には残響が。だがそれも直に消え失せる。
「そういうことになるのか」
 ユーリが答える、無感情に。否、自分の言葉を呟くことで確かなものであると確認しているのだろう、必要以上に主観を交えないように心を尽くして。
 けれど、結局そんなことをしたって。
「自分でも分かってないんじゃない」
 ふっ、と。
 空気が流れる。
 会話が途切れると、防音効果が高められている室内に音は無くなる。ただずっと回っていたラジカセがぷつっ、と音を立てて突然止まったくらいで。
 テープの容量が最後まで行ってしまったのだろう、オートで録音が停止したのだと思い出した時にはもう、スマイルの気配はユーリの掴むことが出来る範囲から消え失せていた。
 一瞬の、些細な音に気を取られていた隙に見事に隠れてしまった彼に小さく舌打ちをして、ユーリは天板に腰を据えたまま床に届かない脚をぶらぶらと前後に揺らした。
 部屋を出ていった形跡はない、ピアノから扉まではそれなりに距離があるし何より、蝶番が軋む音は聞こえてこなかった。
 沈黙。ラジカセが発していたノイズ混じりの機械音も完全に沈黙した、あとは自分と彼しかこの部屋で音を奏でるもとになるものは存在していない。
 なにも見えないことの、恐怖。
 想像することは容易いが、実際の経験を踏まえてみるとそれが想像とはかけ離れた、想像以上のものであることに気付いてしまう。出来れば知らずに居たかったと後になって切に願ったとしても、その祈りは儚い明け方の夢として露と消える。
 誰かが背後に立っていて刃を振りかざしていても、その事に気づけない。遠くで誰かが自分の悪口を囁いていても分からない、知る術がない。向こうから知り合いが歩いてくる、けれど自分はその相手が声を掛けてくれるまで相手が誰であるか、それどころか向こうが自分を目指してやってくる事にすら気づけないのだ。
 心の準備をする時間を与えられない、常に緊張と隣り合わせの疲れる時間だけが過ぎていく。だから誰とも会いたくなくなる、ごく親しい間柄の中に埋もれてしまい世界が狭くなる。
 外に出ることもままならない、危険は家の中の何十倍も何百倍も付きまとってくるのだから。
 聞こえてくる音に反応するのに、耳ではなく見ることの出来ない目を音の発生源に向けてしまうのは、そんな恐怖を他人に諭されないための自衛策なのかもしれない。そんな事を思いながら、スマイルはそっと、音を立てぬよう細心の注意を払ってユーリへと手を差し伸べた。
 息を殺し、自分が存在している事さえも消してしまいかねないくらいに気配を断ち切って。
 しかし指先が彼に触れる寸前になって。
 ユーリの唇が動いた。
「わからなくても、構わない」
 ぴくり、とスマイルの手が止まった。代わりにユーリの左手が持ち上げられる。そのまま、迷いも探りもなく彼の手は自分よりもやや右斜めに立っているスマイルの頬へ辿り着いた。
「見えないままでも、良いって?」
「そうは言っていない」
 優しく撫でるように動かすと、行き場を失っていたスマイルの手が戻ってきて彼の手に重ねられた。軽く握りしめられて、動きが止む。
「ここに居るな」
 指に力を込めて、輪郭を確かめて触れる。手を離して動きを許すと、ユーリは両手を使ってスマイルに触れ始めた。
 顔、髪、首筋、腕、手、指、肩、胸、そして。
「居るな?」
「ユーリが触れているのは、じゃあ、なに」
 伸ばされた人差し指がゆっくりと、スタインウェイに腰掛ける自分よりも下にいる彼の唇をなぞった。返事をするために口を動かした彼に危うく指先を飲まれそうになって、からかうようにわざと顎へと大回りをしてユーリは手を離す。けれど引き戻す寸前でスマイルに邪魔されて、捕らわれると爪の先に軽くキスを贈られた。
 変に唇にされるよりもくすぐったくて、笑みが漏れる。
「お前だ」
 問いかけに対する返答を口にして、彼は居場所を変えぬままスマイルの首に両腕を絡みつかせた。軽く引き寄せるとスマイルの半歩前に出てピアノとの距離を詰める。
「お前が、近い」
「そりゃ、そうでしょ」
「そうじゃない」
 こうやって触れあっているのだからと笑おうとしたら、ユーリが首を振ってスマイルの言葉を否定する。何故だろう、としばらく考えているうちに答えが出てくる前にユーリが先に言ってしまった。
「今の方が以前よりもずっと、お前を近くて確かな存在に感じられる」
 強く抱きしめると、高さの位置関係の都合でユーリの胸元にスマイルの顔が収まる。薄い胸板に左頬を押しつけさせられている形のスマイルは、苦笑いのような複雑な笑顔を作って彼の背に、自分も腕を回して抱きしめ返した。
 熱が交錯する。
「ユーリ、ぼくは君が」
「言わなくていい。言えば……嘘になる」
 絡み合わない視線に色はない。相手の嘘は見抜けない、お互いに表面だけのつき合いが出来るほど大人ではないし、内側深くまで入り込まないと満足できないほど子供でもない。綺麗な嘘は、形だけが立派で簡単に信じてしまえる。
 欲しいのはそんな言葉ではなかったはずだ。
 互いの熱だけがどんどんと高くなっていって、抱きしめられる力が強くなると息が詰まって、眩暈がした。

ヒトの闘い

 力がないとか
 戦う勇気がないからとか
 そういう事で立ち止まっているわけではない
 戦場に行くことだけが強さではない
 戦わないことも強さだと
 それを知らない愚か者が
 戦場を広げていく──

 広大に広がるデュナン湖をバックにそびえ立つ城は、数ヶ月前までは誰一人として近づこうとしない廃墟だった。それは、その城を囲むようにして広がる村が十数年前に一晩にして壊滅してしまったからに他ならない。だからその事実を知るサウスウィンドゥの人間達は、ノースウィンドゥには好んで立ち入ろうとはしなかった。
 誰が予想したであろうか、この現在のノースウィンドゥ、いや、レイクウィンドゥの姿を。
 かつての荒れ放題だった気配は微塵にも感じられない。不吉だから、と人をまったく寄せ付けなかった雰囲気も完全に払拭され、この城は遠い昔、赤月帝国との争乱に明け暮れていた時代を取り戻しているかの如くだった。
 ただ、それが良いことなのかどうかは、分からない。
 太陽の光を浴び風にはためく旗を見上げ、彼はそっとため息をついた。
 重い足を引きずるようにして、栗色の髪の男はレイクウィンドゥ城の門をくぐろうとした。しかし、案の定門の脇に構えていた兵士に見咎められ、誰何の声を上げられる。
「私は……」
 葦毛の馬の背から地面に降り立ち、彼はふたりの門番を交互に見る。まだ若い兵士で、血気盛んな年頃だ。ニキビ跡の残る顔立ちはまだ幼さがあり、彼らを戦場に送り出さねばならない現状を歯がゆく感じた。
「失礼ですが、どのようなご用件でしょうか」
 丁寧な口調だが、慣れないためかどこか棒読みの具合がある。言葉の端はしに訛があって、この兵士がサウスウィンドゥの東に当たる地域の出身であることが読みとれた。
「私はサウスウィンドゥ市の代表として、この城の当主殿にお目通りを願いたく……あれは」
 護衛の一人もつけず、馬一頭だけでやってきた彼を兵士達は不審の目で見つめている。サウスウィンドゥとここでは、急げば一日あればたどり着ける距離だ。しかし今は自他共に認める非常事態であり、何が起こるか分からない時でもある。たしかに迂闊だったかもしれないが、彼にだってこうしなければならない理由だってあったのだ。
「フリード?」
 門の向こう側を何気なく通り過ぎていこうとしている眼鏡の男性の名前を呟き、彼はもう一度、今度はさっきよりもずっと大きな声で呼んでみた。
「フリード、フリード!!」
 父の部下であった男が、門衛の前で大声を上げて手を振っている彼に気付き、目を見開く。一瞬呆気にとられて間抜けな顔になり、それからすぐにいつもの生真面目な表情を取り戻した。
「アルフレッド様!?」
 驚きを隠さずにフリードは彼の名前を叫び、慌てて駆け出す。
「フリード、久しいな。元気そうでなによりだ」
「アルフレッド様こそ。ご無事とは伺っていましたが……」
「ああ。この通り、ピンピンしている」
 何事か理解できていない兵士を置き去りに、嬉しそうなフリードが彼──アルフレッドを見てわずかに涙ぐむ。
「大の大人が、泣くことではないぞ」
「ですが……私は、グランマイヤー様をお守り出来なかったのです。あの時私がお側に控えていたなら!」
「……過ぎたことだ。それに、お前がいたとしても父の決意は変わらなかったはずだ。私でさえ、止めることは出来なかっただろう。最後の最後で、頑固だったな」
 この時代には優しすぎた人だった、とアルフレッドは思う。たとえ自分が臆病者と死後までも誹られようとも、己一人の命で数百人の命を救えるのならば、と彼は喜んで命を差しだした事だろう。それは、ただ闇雲に闘いに突き進むことしかできない人間よりも遙かに、強さを必要とする事だったに違いない。
 あの日、彼は偶然か運命か、サウスウィンドゥ市にいなかった。川を越え、山を越えたその先にあるティント市に用事があって出かけていた。その用事というものが、近々本格的になるであろうハイランドの攻撃を防ぐための増援を求める、といったものだったから悲しくもなる。結局、交渉が成立するしない以前の時点で、ハイランドはサウスウィンドゥを戦うことなく手に入れ、更にラストエデン軍によって撃退されてしまったのだが。
 アルフレッド・グランマイヤー。それが彼の名前だった。
「トゥーリバーと繋がっている橋は全て落とされたと聞きましたが?」
「落ちていたよ、まだ。王国軍が撤退して、渡し船が出ていたからそれに乗って戻ってきた。本当はもっと早いうちに訪ねようと思っていたのだが、父が死んで政務が混乱していて、その収拾に当たっていたらこんな時期になってしまった」
 連絡をいれようかとも思ったのだが、とアルフレッドはフリードを見て呟く。
 フリ-ドに案内されて厩に馬を預け、彼らは城に入った。まだあちこちが改修工事中らしく、小気味の良い槌の音がそこかしこで鳴り響いている。
「ここの城主は、まだ子供だそうだな」
「セレン殿ですか?」
 辺りを見回しながらアルフレッドが尋ね、フリードは立ち止まって振り返った。
「そういう名前だったかな」
「そうですよ」
 ソロン・ジーの大軍を打ち破った英雄は、その右手に、かつての英雄ゲンカクと同じ輝く盾の紋章を宿す若干16才の少年だった。
 流星の如く現れた救世の勇者に、ハイランドの横行にただうなだれるだけだった人々は希望の光を見いだしたという。
 しかし、アルフレッドにはそれが信じられなかった。
 英雄とか、勇者とか、そういうものに縋りたがるのは、いつの時代でも変わらない人間の浅ましさだ。現代に勇者と呼ばれている歴代の人の中で、真に勇者と呼べる者はその半分にも満たない。その多くは時代が作りだした妄想であり、人の弱さの象徴だ。
「お前に言うことではないのだろうが……私は、あまり良いことだとは思っていない。それは不幸な事だと、考えている」
 新同盟軍の盟主は力を持っているかもしれないが、それが曲がった方向へいかないかを危惧している。そう付け足すように言うと、フリードは少しばかり曖昧な表情で首を振り、それから決意を秘めた瞳をアルフレッドに向けた。
「そうならないように支えるために、我々がいるのです」
 グランマイヤーの元で働いていた頃とは違う、フリードの力強い眼に、アルフレッドはふっと息を吐いた。
「頼もしいな」
 どことなく頼りないところがあったフリードが、今はたくましく見える。彼の変化が好ましいことなのは分かったが、その原因が戦争にあるのだとしたら、悲しい。
「それで、今日はいかようなご用件で?」
 階段の前で立ち止まり、フリードが尋ねる。今頃思い出したのか、とアルフレッドはこのまま彼が気付かなければ自分はどこへ連れて行かれたのだろう、と不安になった。
「代表の方に目通り願えたら、と思ってきた。相談がある」
 あらかじめ連絡もなにもやらずに突然やってきておいて、この要求がいかに自分勝手な申し出かは分かっているのだが、グランマイヤーの死によってサウスウィンドゥの市政は混乱の極み。更にフリードまでいなくなったとあっては、重要書類がどこにあるのかさえ把握できなくなっていた。
 他にも逃げ出した市民が戻って来て、周辺の村々からの避難民も押し寄せて、一気に人口が増した。新同盟軍から送られてくる指令書の内容も、そのままそっくり受け入れることのできないものになってきている。
 アルフレッドは何度か、レイクウィンドゥに親書を送っている。しかし返事はない。手紙では駄目だと思い知り、ならばいっそ直接会って話し合える機会を持ちたかった。絶対に断られない、図々しいと思われても代表者との会談の席を持つために、彼は予約もなく一人でやってきた。
 それだけの覚悟があっての事だと、少しは物わかりのいい人ならば理解してもらえると踏んでの事だった。
「セレン殿は今、トゥーリバーに行っていて留守なんですよ」
「そうか」
「でも、大丈夫ですよ。シュウ殿がいらっしゃいますから」
 フリードの言葉に落胆を見せるアルフレッドに、彼はすぐにフォローを入れた。
「シュウ?」
「軍師殿です」
「軍師……戦争屋か」
「…………ですが、シュウ殿がいらっしゃらなかったら、我々は今こうして生きていないでしょう」
 戦争を商売道具にしている軍師に対し、アルフレッドはあからさまに不快感を示す。フリードの言うことも分かるが、心が追いつかない。
「シュウ殿、よろしいでしょうか?」
 二階に上がり、重厚な扉をノックしてフリードはノブを回した。中は薄暗く、床にまで本や書類が散乱している。部屋の中央に置かれたテーブルの前に、一人の男性が座っていた。
 長い黒髪、整った顔立ち。しかしどことなく冷たい印象を与える。顔を上げた男はフリードを見て入るように眼で合図した。
「失礼します」
 几帳面に礼をし、フリードがまず中に入る。続いてアルフレッドが、床に散った紙を踏まないように注意しながら中に入り扉を閉めた。狭い。
「そちらは?」
 読んでいた本にしおりを挟み、男──シュウはアルフレッドを見て聞いた。
「はい。サウスウィンドゥ市長グランマイヤー様のご長子であらせられます、アルフレッド様です」
 死んでしまった人間をまだ市長の座に置いているのは、なにもサウスウィンドゥだけではない。グリンヒル市だって、現在も市長職は不在だ。かわりに代行が市政をとっている。アルフレッドもそれと同じ状態にあった。
「……そうか」
 本を閉じテーブルに置いて、シュウは立ち上がった。ゆっくりとした歩調で歩み寄り、アルフレッドを値踏みするように見つめる。
「お初にお目にかかる。私はこのラストエデン軍軍師筆頭をやっているシュウと申します」
 右手を差しだして握手を求めてくる。それに応じながらも、アルフレッドは居心地の悪さを感じていた。
「軍師……では戦争が終われば、政界にでも?」
 だから、そう言う皮肉を言ってしまいたくなった。
「生憎と、人煩わしい世界には興味がありませんので。以前のように、一介の商人に戻りますよ」
「それは、残念です」
 軍師なんかよりもずっと政治家に向いている、というのがアルフレッドのシュウに対する第一印象だった。そう、この人の腹の内を探り合う話し口や態度や、人を見下し自分の優位性を常に確保できる度胸と技術。これらは軍師と言うよりもずっと政治家に必要なものだ。もちろん、軍師にだって必要な要素なのだろうが。
「それで、そのサウスウィンドゥ市長代行殿が、このような城にいかようなご用件で?」
 グランマイヤーの息子であるから、市長代行を任せられている、とでも言いたげな口調のシュウに、アルフレッドは胸の内でため息をついた。
「これを……ご存じでしょうか」
 懐から取り出した手紙をシュウの前に差し出し、アルフレッドはフリードをちらりと見た。彼は退出する様子がない。ここにいるのが当然だと思っているのかもしれない。それともサウスウィンドゥの現状を聞く権利があるとでも思っているのだろうか。
 アルフレッドから渡された手紙を広げ、そこに記されている文面を流し読みしていくシュウの顔に、やがて厳しい表情が加わる。
「3日ほど前、市庁舎に届けられました。ひどい冗談だ。悪ふざけもいいところだ」
 吐き捨てるように言ったアルフレッド。シュウの顔も険しい。ただ文面を知らないフリードだけがおろおろし始める。
「あの、一体なにを……?」
「確かに、悪い冗談だと……言いたいですな」
 テーブルに片手をつき、シュウがこめかみを押さえる。アルフレッドはその様を見て、それが芝居ではないことを実感した。
 ──知らなかった、ようだ。
 ならばこの手紙は、シュウの名前を語った、まったく別の人間によって書かれたものに他ならない。いや、確かめに来る前からそのことは薄々感じていたのだ。しかしそうでない可能性も捨てきれなかった。
「読んでみろ」
 まだおろおろしているフリードに手紙を突きつけ、シュウはため息をつく。こめかみを押さえて彼はフリードが読み終えるのを黙って待った。
「これは、シュウ殿、これは一体……?」
 予想していた通りの反応を見せるフリード。彼は書状とシュウ、そしてこれを持ってきたアルフレッドを交互に見る。その視線は困惑に染まっていた。
「心当たりは無い、と?」
 その一方でアルフレッドの態度はひどく冷静だ。今の彼の視界にはシュウしか入っていない。慌てふためくだけのフリードには、用がないとでも言いたげだ。
「申し訳ないが、これは私が書いたものではない。捺印もまったく別のものだしな。……心当たりがあるのは、そちらではないのかね?」
 椅子に座り直し、腕を組んだシュウが試すようにアルフレッドを見上げる。視線を受け、アルフレッドは沈んだ表情で小さく頷いた。
「残念ながら、と言うしかありませんね。貴方が出したものでないとしたら、導き出される答えはひとつしか残らない」
 そしてアルフレッドがため息と共に吐き出した名前の主は、それまで半ば呆然と話を聞いていたフリードを更に混乱させるのに十分すぎる人物だった。
「サウスウィンドゥ防衛軍総司令官……なるほど。そういうことか」
 名を聞き、納得がいった様子でシュウが頷き返す。
 サウスウィンドゥの軍事力は大きくはないが決して小さいわけでもない。軍の最高責任者はその時の市長に与えられているが、実際の指揮を執るのは市長より任命された司令官だ。司令官は市長の決定した大まかな目標を達成するために、軍を動かす。今回、彼らはグランマイヤーが戦いを放棄したために、戦うことなくハイランドの白狼軍の配下として吸収されてしまった。それは戦士として屈辱以外の何物でもなかっただろう。
 だが、市長制を敷くサウスウィンドゥの軍は、規律で定められているままに市長の命令には絶対でなくてはならない。戦えと言われれば戦い、戦うなと命じられれば、絶対に敵に剣を向けてはならないのだ。
 そして歴史が物語るように、戦争がひとたび始まってしまえば、勢力を持つのは平和的な解決を望む穏健派ではなく、軍事力で物を言おうとする強行派なのだ。
 サウスウィンドゥ市はグランマイヤー亡き後、新たな市長を立ててはいない。すなわち、軍部を牽制し押さえつけられる人物がいないことになる。いくらグランマイヤーの息子であるといっても、アルフレッドはまだまだ若輩者の域を出ない存在でしかなく、軍部にとっての脅威とはなりえなかった。
「率直に聞きます。貴方は、サウスウィンドゥをどうされるおつもりか」
 現在サウスウィンドゥ市は独立を保ったままであるものの、ラストエデン軍の存在はすでに視界から取り除くことの出来ない存在になっている。新同盟軍の旗を掲げる以上、両者の関係を早い内に確固たる物に定義付けしておく必要がある。それが無かったから、あのような勝手極まりない内容の書状が届くのだ。
「軍の存在はこの戦況にあっては外すことの出来ないものであることは認める。だが軍はあくまでも人民を守るためにあるのであって、軍あっての民衆では決してあり得ないのだという認識が足りなさすぎる」
 軍部に提供される食糧の大幅増量と、人員補給。資金提供の増額までも要求項目に入っていた。それら全てを叶えようとしたら、税率が現行の二倍以上に膨れ上がってしまう。そんなことをすれば、どうなるか。下手をすれば暴動に発展しかねない。
「私たちは、ラストエデン軍が白狼軍との交戦の際にハイランドから離反したサウスウィンドゥの軍は、既にラストエデン軍に吸収されているのだと判断していました。現実に、市を守るために戻ってきた一部の隊を除いた兵員は今もこの、ノース……レイクウィンドゥ城に残っているではありませんか」
 だから、アルフレッドは書状の内容を読んだとき、これが本当にシュウの書いたものであるのかそうでないのか、判断に窮したのだ。
「私の中では、サウスウィンドゥ軍はサウスウィンドゥ市の判断の下、当軍に参加しているものだととらえている。こちらに軍の指揮官達が残っているのは、サウスウィンドゥにいるよりも此処にいる方が各地の状況をより早く手に入れられるからだと、私はそう、聞いているが」
「私の知る限りでは、そのような話はこちらには届いていません。だから私は、それを確かめたくてここに出向いたのです」
「つまり、軍部が独自の判断で動いていると?」
「いいい、一体何のために、そんな事を!?」
 フリードが横から話に割って入って来た。彼の頭の上にはいくつものクエスチョンマークが飛び交っている。
「いいか、司令部の連中は私の名で市に対して増税の要求を出す。市がそれを受け入れれば、増やされた分だけ自分たちの取り分が増えるだろう。サウスウィンドゥの軍は我々の傘下に入っていると、市の方は勝手に思いこんでいるのだからな」
「何故シュウ殿の名で出されなくてはならないのです。おかしいではありませんか」
「言っただろう、フリード。サウスウィンドゥ市側は軍部が、すでにラストエデン軍に組み込まれていると思いこんでいた、ということを。ラストエデン軍宛に送られてきた兵糧は、だが実際は我々の手に届く前にサウスウィンドゥ軍によって隠される。もちろん、私たちは我々に対してサウスウィンドゥが食糧を送ってきたということを知らないのだから、誰かに気付かれる心配もない。市は混乱が収まりきっていないから、無事に届けられているかどうかの確認もろくに出来ないと、踏んでの事だろうが……」
 そこまで言い、シュウは一旦言葉を切った。フリードは話の半分ほどを何とか理解できた程度らしく、まだいくらか頭の上にはてなマークが浮かんで見えた。
「奴の目的はなんだと思う」
 誰の、とは聞かないシュウに、アルフレッドは首を振る。
「分かっているのだろう。それを認めない限り、軍は増長するだけだぞ」
 厳しい言葉に、アルフレッドは視線を足下に落とした。それを見てますますフリードが慌てふためく。いい加減、見苦しく感じられた。
「いい、構うな。シュウ殿の言う通りなのだから……」
 まるで虐められているようなアルフレッドをなだめようとするフリードを押しとどめ、彼は前髪を掻き上げた。
「ええ、そうです。私は知っています。サウスウィンドゥ軍司令部が何を狙っているのか。彼らは、……父が戦いを避けたことを、恐れをなしての事だと散々に批評していた。父がどんな思いで白狼軍との戦いを回避したか、何故無血開城を許したのか。父は巻き込みたくなかったんだ、町が戦場になれば市民に犠牲者が出る。家を失い、路頭に迷う人々が出る。戦争をしていい事なんて何もない、だから父は……」
 拳を握りしめ、今までずっと胸の内に秘めてきた本音を吐きだしたアルフレッドは、だが途中で自分が何を言っているのかに気付き、口をふさぐ。
「…………貴方に、言うことではなかった……」
 自ら民衆の先頭を切って戦いに出向いているシュウとラストエデン軍を前にして、戦争批判をするなんて、矛盾している。
「我々とて、望んで戦場に立っているわけではない」
 重い口を開き、シュウが呟く。
「だが、誰かがやらなければいけないことだ。自分を守るために、大切なものを守るために。人は時として戦わなければならない。それが今なのだと、私は考えている」
「知っています……」
 だがそれは自分の行為を正当化するための逃げの口上だと、アルフレッドは心のどこかで思っていた。
 シュウの言うことは分かる。しかしそれと同じくらいに、その考え方は間違っているのだと思えるのだ。
「それで、君は私に何を望むのかね?」
 テーブルを指で叩き、シュウがアルフレッドを見上げる。その瞳の冷たさにアルフレッドは一瞬息を呑んだ。
「…………それは…………」
 言おうと思っていた言葉が出てこない。シュウの視線に気圧されて、アルフレッドはつい、一歩引き下がってしまった。だが彼を思いとどまらせたのは、亡き父が愛したサウスウィンドゥの市民の笑顔だった。
 戦時下に入り、民の表情からは日毎に笑顔が消えていく。暗く沈んだ表情で昼間でも家の中に引きこもってしまっている人々を、何とか昔のように明るい空の下に戻してやりたい。だが戦う力を持たないアルフレッドは、彼らを守ってやることさえ出来ない。
 軍隊が必要なのだ、守るためには。だが、守るために別の誰かを傷つけていいはずがないから。
 だから、自分に出来る戦いを、彼は選ぶ。剣を握り戦場で血を流すだけが戦いではないのだと。
「私は……サウスウィンドゥをこれ以上戦乱に巻き込みたくはない。もちろん、それがいかに難しいかは分かっています。ですが、私は皆を守りたい。あなた方とは違うやり方で!」
 力を持つ者が力のない者を守る。それは当然のことだろうか。この世の中で、本当に力のある人間なんて存在するのか? 人間は弱い。弱いから強くなれる。己の弱さを補ってくれる仲間がいるから、人はどこまでも進んでいける。不可能が不可能でなくなるのだ。
「ですから、当然ながらこの手紙は受け取ることが出来ません。そして、サウスウィンドゥ市に対して造反の疑い有る司令部もこれ以上我々の手元に置いておくこともできません。私はサウスウィンドゥ市の代表として、サウスウィンドゥ軍を正式に、ラストエデン軍の一部隊に加えていただき判断を任せたく思います」
 腕を組み直したシュウが小さく唸る。
「ラストエデン軍は、ゴミ捨て場ではないぞ」
「無論、見返りは出しましょう。ですが、不当な請求は止していただきたい。我々にも日々の生活というものがある。援助は惜しみませんが、サウスウィンドゥ市がラストエデン軍に吸収されるのだけは願い下げですから」
「……考えておこう」
 政治的野心を持っている人間を押しつけておいて、それはないだろうというのがシュウの本音だったが、それを口にするのは彼のプライドが許さない。結局はアルフレッドのいいようになってしまった、というわけだ。
「ご理解いただき、感謝の言葉もありません」
 言いながらアルフレッドは笑っている。シュウは面白くなくて、もう一度彼を睨み上げた。しかしもう慣れてしまったのか度胸が据わったのか、彼はまったく堪えた様子なく、さっぱりした顔をしている。
「あの、それでは……」
 話に完全に置いて行かれていたフリードが腰を低くして聞く。
「サウスウィンドゥ軍の司令部は、ラストエデン軍の中に組み込まれるのですか?」
「そういう事になるな。不本意ながら、仕方あるまい。どの道、いつかは決着をつけなくてはならない事だったのだしな。だが、簡単に納得はしてもらえないやもしれん」
 嫌味をまじえたシュウの言葉に、アルフレッドは笑うのをやめてシュウをまっすぐに見返す。
「それが軍師殿の役目でしょう。生憎と私は戦いや軍人に関しては素人以下でしかありませんから」
 完全にシュウに押しつけてしまえ、という気持ちがありありのアルフレッド。思わずシュウは歯ぎしりした。自分と同年代の男に言い負かされるのは好きではない。だが軍師としての才能には溢れていても、シュウは政治家としての言葉の駆け引きはまだまだだった。売り言葉に買い言葉は、商人として生活していたときからしてはならないことの五箇条に数えられていたというのに。
「シュウ殿が話の分かる方で、本当によかったですよ」
 ふふふ、と笑いをこぼしながら言うアルフレッドを、歯ぎしりしながらシュウは見上げた。
「君こそ、父君以上の市長になれるだろう」
「それはどうも」
 皮肉をさらりと受け流し、アルフレッドはお辞儀をする。いつもらしくない、やられっぱなしのシュウを、フリードはちょっぴり憐れむ眼で見つめていた。
 ──シュウ殿とアルフレッド様は、タイプ的によく似ておられるから……。
 そういう問題ではないのだが、フリードにはそれくらいしか言えなかった。
「それではよろしくお願いいたします。私にも何かと公務がありますので、今日のところはこれで。また後日正式な通達を持って伺わせていただきますので、その時にお会いしましょう」
 トドメを刺さんばかりの満面の笑みを浮かべるアルフレッドは、完全に己の勝利を確信していた。ついでに、この確信が揺らがない内に退散を決め込んでしまう。彼はシュウが時間を置けばすぐに復活してしまうだろうことを、すでに予測済だった。
「それでは~~」
 楽しそうだ、アルフレッド。
 そそくさとアルフレッドが立ち去り、扉が閉じられるのを待ってからシュウは思い切りばん!とテーブルい拳を叩きつけた。
「屈辱!!」
 シリアスモードでテーブルを睨み下ろすシュウを、フリードは一抹の不安を持って見守る。だがすぐに、触らぬ神にたたり無し、と彼もアルフレッド同様にそそくさとシュウの部屋から退散した。
「おのれ、この恨みいつか晴らしてやる……!」
 ぎりぎりとテーブルを引っ掻きながら、シュウは不気味な笑い声を立ててちょうど前を通りかかったアップルに気味悪がられてしまった。

 数日後。
 約束通りにレイクウィンドゥ城を今度は公式訪問したアルフレッドは、だがシュウの部屋でまた何故かにらめっこをするハメに陥っていた。
「シュウ殿?これはどういうおつもりですかな?」
 ぴらぴらと先ほど会議場で渡された一枚の書類を揺らし、こめかみに怒りマークを浮かべながらもなおかつ笑顔なアルフレッドが尋ねる。
「見ての通り、ですよ。サウスウィンドゥ市に対する予算編成の要望書です。この程度の字も読めないと?それはお気の毒に。なんでしたら今代読して差し上げようか?」
「結構です!」
 にやり、とシュウが嫌な笑みを浮かべアルフレッドの神経を逆なでする。
「あなた方は、我々サウスウィンドゥを食料庫か何かだと勘違いなさっているのでは!?」
「援助を約束して下さったのはそちらでしょう。私は正当な請求をしたまでのこと」
「これのどこが正当なのですか!!」
 テーブルが割れるのでは、と思わせるくらいに強く卓を殴りつけアルフレッドが吠える。シュウが示した食糧支援額は、かつてサウスウィンドゥ市が軍に対して供給していた額のその約2倍だったからだ。
「こちらは命を張っているのだ、当然の権利でしょう」
「あなた方が戦場でのたれ死ぬよりも先に、サウスウィンドゥの市民が飢えて餓死しますよ、これでは!」
「これだけは譲れませんな。サウスウィンドゥは農耕で栄えている一帯なのだから、倉庫をあさればこれくらいは出せるでしょう」
「我々が出し惜しみしているとでも!?」
 今にもとっくみあいの喧嘩になりそうな険悪な雰囲気で睨みあうふたり。それをまたしてもおろおろと見守るだけのフリード。そのさらに向こうでは彼の妻ヨシノが、何を勘違いしたか、
「あらあら。お二人はとっても仲良しでいらっしゃるのですね」
 とにっこり。
「大体君は文句が多すぎる。たまには苦労を味わってみてはどうかね」
「それとこれとは話がまったく別問題でしょう。それに私だって苦労のひとつやふたつ、背負って生きています。周りが格下ばかりの貴方には、到底想像もできないような苦労がね!」
「格下!?私を侮辱するならまだしも、兵達を侮辱するのは聞き捨てならん!」
 もしここでふたりの間に流れる効果音を言葉で表現するならば、『ズゴゴゴゴゴゴゴゴ!』であろうか。
「あ、あ、ふたりとも、やめて下さいよぅ」
 ひどく弱腰なフリードが一応止めにはいるが、彼の声なんてシュウにもアルフレッドにも届くわけがない。
「貴方とは一度はっきりと決着をつけておく必要が有りそうですね」
「それは良かった。私もちょうどそう考えていたところなのだよ」
 ふっふっふ……という怪しい笑い声がふたりの口からこぼれてきて、辺りが一気に黒く歪んだ世界へと変貌する。
「あああ、早く帰ってきて下さい、セレン殿……」
 きっとこのハブとマングースの戦いを止められるのは、あの少年だけだとフリードは涙した。

 戦いが正義だと誰が決めた
 逃げることが罪だと誰が決めた
 血を流し涙を流し傷を負い心をえぐられ
 それでも戦う意味が何処にあるのだ
 忘れてはならない 人は常に己と闘っている事を
 戦場に生きるだけが全てではない
 残された者達も君のあずかり知らぬ場所で闘っている
 それは ヒトの闘い──

未来へ続く道標

 麗らかな日差しが心地よい午後。
 レイドとエドス、それにジンガは仕事で夕方まで帰ってこない。普段ならば孤児院は子供達の騒がしい声に満ちているところだ。
 けれど、今日ばかりは少し様子が違う。
 孤児院で暮らしている子供以外にスラムに住む他の子供達が混じって、食堂のテーブルを片付けて総勢十人弱が床に座っていた。先頭にアルバとフィズが並んで座り、最後尾にラミとモナティ、それからエルカに挟まれる格好でひとつだけ飛び出した、茶色の頭がひとつ。
 カリカリと携帯用の黒板にチョークで書き込む音だけが静かに響き渡る空間で、ハヤトは居心地悪そうに肩を揺らした。
 狭い場所に大人数が詰め込まれている所為でモナティにぶつかってしまい、彼女になんですか? という目線を向けられる。なんでもないよ、と苦笑しながら小さく手を振って、ハヤトは再び自分の手元にある黒板へと目を落とした。
 紙は一度しか使えない上に効果だからと、代替用品として用いられる事がこの度決定したのがこの黒板。但しハヤトが日本で、学校なんかで見かけたものとは少し材質が違うようだった。チョークも粉がさほど指につかない。
 顔を上げる。端に寄せられたテーブルの上に置かれ、倒れないように角度を着けて壁に凭れ掛けさせられている大きめの黒板は元々孤児院にあったものを流用させてもらった。ハヤトが持っているものを四つ並べたくらいの大きさのそれには、大きめで読みやすい字が並んでいる。
 今はその文字を書き取る練習だった。だがハヤトの手はなかなか進んでくれない。横を盗み見れば、モナティも必死ながら上手くいかないようで、書いては消し、消しては書くの繰り返しだった。
 ラミに目を向ければ、幼さが手伝って作業は遅いものの、いつものクマの縫いぐるみを手放して一所懸命にチョークと格闘している。少なくとも彼女の書き出す文字はモナティより、幾らか綺麗だ。
 ふぅ、と溜息をついて黒板へと視線を戻す。日本語にはない書き順が多く慣れるのには時間がかかりそうで、書き順を思い出そうと空中に指で字をなぞってみる。
 だが途中でどうしても引っ掛かってしまい、顔を顰めていると背後から声をかけられた。
 孤児院で寺子屋紛いの勉強教室を実践するに辺り、教師役に抜擢された人物が。
「ハヤト?」
「う……わかんねぇんだけど」
 疑問符のついた声で名前を呼ばれ、ハヤトは気まずい気持ちを抱えながら振り返った。予測通りそこに立っていたのは他でもないキールであり、彼はハヤトの言葉に柔らかな微笑みを浮かべた。
「どれが?」
「えっと……右から三番目」
 キールから黒板へと視線を向けてチョークを持ったままの指で指し示す。キールは理解したようで、スタスタとハヤトの背後から前へ向かって歩いていき、そして教室となっている食堂全体を見回した。
 子供達の何人かも顔を上げて彼を見る。
「他に分からない子は居るかい?」
 限りなく優しい声でキールは子供達に視線を返しながら告げた。途端、三人分の手が上がり彼は頷いた。
 自分用のチョークを持ち、黒板に身体を半分向ける。
「じゃあ今からもう一度書くから、よく見ておくように」
 静かだけれど張りのある凛とした声に、子供達が「はい!」と威勢良く返事をした。モナティも顔を上げ、食いつくようにキールの指が書き出す文字を追いかける。
 流暢な手の動きでキールは黒板に、既に書かれているものと同じものを書きだして更に説明をくわえる。穏やかな気候は勉強をしているとどうしても眠気を誘うものの、ハヤトにとって席を同じくして勉強している相手が、自分よりも遙かに年若い子供達である以上、居眠りなどしていられない。
 ハヤトは聞き取りが出来ても、書き取りは出来ないのだから。これでは遠くにいる仲間から手紙が届いても、自分で読むことが出来ない。その為に一念発起してキールに更なる勉強のランクアップを願ったのだが。
 それが何故か、いつの間にか、近所の子供達の勉強会になっていた。
 どうやらリプレが、買い物で一緒になったご近所の奥様方に話題として出したところ、それが一気に広まってしまったらしい。金の派閥の締め付けが多少緩みだしている今日日、学さえ有ればなんとか食い扶持には困らなくなる可能性も出てきたからだろう、と言うのがレイドの解釈だった。
 最初はハヤトがキールに勉強を教えてもらうだけの事が、いつの間にやら南スラム地区の子供達を一堂に集めての勉強会。故にレベルも当然最初は低くなり、まずは基本的な書き取りの練習から。
 あとは算数だったり、街の歴史だったり。後者はともかく前者に関してはハヤトは当面問題ないので、その間彼は暇。文字書きの練習をしつつ、横で生真面目に子供の相手をしているキールの横顔を眺める程度だ。
 最初の頃は人付き合いを極端に苦手としていたはずのキールも、この数ヶ月で驚くほど変わった。
 人と交わる事に慣れだして、会話を発展させる事を覚えて、人の心を理解して分かろうとする努力をして。それも全部フラットの仲間達が居てくれた御陰であり、少なからずハヤトも彼に影響を与えたはずだ。
 だけれどここまで面倒見が良く、子供に好かれる奴だとは知らなかった。
 ぼんやりとしながらハヤトはキールの講釈に耳を傾ける。簡単な計算を教えている最中であり、これさえしっかり出来るようになれば、商店街で買い物をした時に釣り銭を誤魔化される事も無くなるだろう。結局社会が良くなる為には、そこに暮らす人々の知識を増してやる必要があるのだ。識字率が上がれば必然的に人々の向上心も上昇するだろうし、そこから生まれてくる新たな発想もあるはずだ。
 だから子供達がキールから色々な知識を学び、吸収していく事はサイジェントの未来を考えれば良いことのはずだった。
 それなのに、ハヤトはどことなく不満を覚えている。
 キールはハヤトを見た。手が止まっているよ、と彼の音を紡がない唇が告げる。ハッとして、慌ててハヤトは自分の手元に目線を戻した。チョークを折れる限界まで握り込み、乱暴にがりがりと黒板へ字を書いていった。
 基本は大事だから、とハヤトが子供達の勉強会に混じることを彼は勧めた。実際ハヤトはなんとか読めても、書き取り能力も微妙なところだったからキールの勧めは理にかなっている。喋れて、読めても、書くことが出来なければ不可能なコミュニケーションだって存在する。
 それは分かる。充分に理解できる。
 だけれども、どこか納得がいかない。
 それはきっと、自分やキールと言った当事者に了解無しで話が勝手に進んでいき、孤児院が寺子屋状態になってしまった事や。
 孤児院が経営に苦しくなってしまった時に手を差し伸べもしなかったくせに、今になって手を差し伸べるどころか利用しようとしてきている事、や。
 キールを独占された、とか。
 ……最後のは、無かった事にしよう。
 再び止まってしまった手を動かしながら、ハヤトはキールの背中を盗み見る。彼は今手を使って計算しようとしている子供に、それは良くないよ、と教え諭しているところだった。
 自分の指を使って数を数える事は便利だし、最初はそれでも良いかも知れない。
 けれど数が大きくなって指が足りなくなったとき、咄嗟に対応できないようでは困るのはその子だ。だからなるべく早いうちから、頭の中で計算できるように慣れさせて置く必要がある。
 子供は渋ったが頷き、キールも優しくその子の頭を撫でてやる。最初はきょとんとしていた子も、次第に嬉しそうに顔を綻ばせた。
 あ、畜生。
 光景を見ていたハヤトは何故かそう思った。
 なんだかつまらない。気分が乗らなくてハヤトはチョークを黒板上に投げ出して一緒に足も前方に伸ばした。後ろ手に床に手を置き身体を傾がせ、天井を仰ぐ。少し疲れたのかもしれなかった。
「慣れない事するもんじゃないかな」
 リィンバウムに来る前は毎日のように学校に通い、同級生と机を並べて勉強をしていたはずなのに。
 たかだか一年前の事のはずなのに、もうその世界が遙か遠い。そしてリィンバウムでの日々は、過ぎるのが驚くほどに速い。
 溜息混じりに呟き、ハヤトは投げ出していた足を引き戻して抱えた。その脇を通り過ぎる足音が聞こえ、顔を上げると間近にリプレが立っていて彼を見下ろしていた。
「お疲れさま?」
「え? あ、うん」
 にこやかな笑顔を浮かべる彼女に曖昧に頷いて居住まいを正す。ちらりと後方へ視線を向けると、丁度キールもこちらを見ていて理由もないのに慌てて顔を逸らしてしまった。
 どうしてだろう、気まずい。
「捗ってる?」
「あんまり」
「そうみたいね。ガゼルも一緒にすればいいのに」
「無茶言うなー」
「だって」
 あいつったら、また買い物からも薪割りからも逃げたのよ? 腰に手を当て、腹も据えかねると言った風情で言うリプレに苦笑を零す。それから瞬きを数回して普段の優しい表情に戻して、彼女は一所懸命に勉強している子供達を見た。
 母親のそれに似た、暖かな視線で。
「案外、キールって先生が似合ってるわね」
「そ……だな」
 いまいち歯切れの悪い返事をしてしまい、ハヤトは唇を浅く噛んで俯いた。子供達の質問の声はひっきりなしであり、その度にキールは何度も丁寧に説明を繰り返している。
 我慢強く、そして律儀。きっと俺だったらマネ出来ないよな、とハヤトは心の中で苦笑した。
「そうそう、今夜のお夕食はなかなか豪勢だから期待しててね」
「へ?」
 なんでまた、という顔でハヤトはリプレを見上げた。すると彼女は楽しげにウィンクをひとつして、立てた人差し指を左右に振った。その行動に意味はなかったようだが、ともかく彼女が楽しそうで、嬉しそうな事だけは分かった。
「あの子達の親がね、授業料代わりで申し訳ないんだけどって」
 先程玄関にやってきて、応対に出たリプレに僅かな量だったが食糧や、古着であるものの衣服を差し入れてくれたのだという。そして、あの時は本当に済まなかったと詫びて帰っていったのだと。
 あの時……孤児院の院長が連れて行かれてしまった時。スラムに暮らす人々は自分たちにまで取り締まりの矛先が向くのを懼れ、取り残された子供達にまったく手を貸さなかった。もしレイドや、エドスの助力が無ければ今頃リプレ達はこうやっていられなかっただろう。
 原因は力の独占と、横暴な階級社会にあった。そしてそれが間違っていると声高に叫ぶことが出来なかったのは、人々に正論を告げさせるだけの知恵が足りなかったからと置き換えられるだろう。
 だからこれからは、二度とそんなことが起きないように。
 次の時代を生きる子供達を正しく導いてやる必要が、ある。
「あ、そっか」
 ストン、と妙に胸の中でしこりになっていたものがすっきりと落ちていくのが分かって、ハヤトは呟いた。口元にやった指を浅く咬み、リプレが頑張ってね、と言い残して台所に戻っていくのを見送る。
 勉強会の方に改めて目を向ける。もしかしたらこの中から、サイジェントをより良くしていく逸材が生まれるかもしれないと考えると、ほんの少し嬉しくなった。
「ハヤト?」
「キール、あのさ。これ、分かんないんだけど」
 放り出していたチョークを持ち直し、ハヤトはキールを手招きする。側に近付いて上から覗き込んでくる彼に指で質問箇所を指し、問いかける。
「機嫌、直ったみたいだね」
「まあな」
 ハヤトはにっ、と歯を見せて笑って答え、聞き出した説明を頭の中で反芻させる。没頭し始めると回りのことなどまったく意に介さない彼に遠慮して、キールは子供達の方へと戻っていった。
 結局初日から大分時間をオーバーして勉強会は終了。夕方暗くなる前に子供達は家路へと急ぎ、リプレは貰った食材を活用して美味しそうな香りを孤児院に満ちあふれさせた。
 間もなく仕事先から大人達も戻ってくるだろう、ガゼルも腹が減ればひょっこり戻ってくるに違いない。
 静かになった食堂を片付けながら、ハヤトは少し白くなってしまっているキールの指先に気付く。
「明日からも大変だな、キール“先生”?」
「からかわないでくれないか」
 少し照れくさそうにしながらも、まんざらではない顔でキールは答える。
「ただいまー! 腹減ったー!」
 程なくしてジンガの大声と共に玄関が押し開かれ、そこで一緒になったとレイドとエドスも並んで帰ってきた。いつの間に居たのか、テーブルと椅子を並べ終えたばかりの食堂にはちゃっかりとガゼルも居て、アルバたちも部屋から出てくる。
「今日は豪華よー」
 リプレが台所から顔を出し、俄に室内が活気づいた。事情を知っているハヤトが小さく肩を竦めながら、お疲れさま、とキールの肩を叩く。
 その日の夕食は、キールの分だけほんの少し量が多かった。

非具象的恋愛実践論・兎丸編

 朝、眠い目を擦りながらの登校の最中オレは背後から予告もなく、タックルを喰らった。
「ぬぉお!!?」
 眠気もすっ飛ぶぞ、というな感じでオレは勢いを殺しきれず背中に貼り付いたものをそのままにして思い切り顔面をアスファルトに強かと打ちつけた。鼻が潰れた気がする。
 野球部の朝練の時間は決まっているから必然的に、周りにはぽつぽつと見慣れた顔の高校生が。彼らは毎朝のように繰り返される、オレと、それからオレにタックルをかましてきた相手とのやりとりに肩を竦めて笑っていた。
 笑う前に助けろよ、お前ら。あとで体育館裏に呼び出すぞ、と本気で怒鳴りたくなったオレだったが、のし掛かってくる奴がちっとも動かない為になかなか起きあがれずにいた。いつもならオレが倒れる前に横に逃げる癖に、今日に限ってはしっかりと上からオレを潰しに掛かっている。
 一体なんだって言うんだ、オレになんの恨みがあって毎朝こんな事してくるんだと前に尋ねたら、愛情の裏返しだよ、なんて笑いながら言われて、それ以来オレは深く突っ込む事をやめた。どうせこいつは御子様なんだから、と諦めモードに入っていると耳元で大声を喚き散らされる。
 トリップしかけていたオレはその声に現実へ引き戻され、漸く軽くなった身体を起こし向こうの方へ放り投げてしまっていた鞄を拾いに行く。埃まみれになった制服を払ってから歩き出そうとすると、無視されたと思ったらしいあいつはぱたぱたと被っている帽子の耳を揺らしながら慌てて追い掛けてきた。
「待ってよ~、兄ちゃんってば」
「うっせぇ、スバガキに構ってやるほどオレ様はボランティア精神豊かじゃねーんだ」
「新しいゲーム、もう貸してあげない」
「鞄お持ち致しましょうかお坊ちゃま」
 即座に揉み手の低姿勢体勢に入ったオレを呆れた顔で見上げて、兎丸はもう、と頬を膨らませた。両手を腰に当て、それなりに大きいオレと自分との身長差を少しでも埋めようと背伸びをし、オレの額を小突いた。
 調子良いんだから、と拗ねた口調で言いはするがこういう時の兎丸は大抵、本気で怒っていない。
「ねぇ、兄ちゃん。今日は何の日か知ってる?」
 学年も一緒だと言うのにオレのことを「兄ちゃん」と呼ぶ兎丸。だが身長差やどこまでも子供っぽい性格をしている所為か、周囲にもオレ自身にも、そう呼ばれることに違和感を持ったことがない。
 まぁ、野球の練習中のコイツはちっと黒い気がする事は否定しないけど。
 でもそれ以外の時はもの凄く素直で、からかった後の反応なんかが楽しかったりするからオレはよく、兎丸で遊んでた。こいつも悪い気はしていないみたいで、オレにお著繰られてはその度に拗ねて、本当に兔みたいにぴょんぴょん飛び跳ねたりしている。休日なんかにあいつの家にゲームしに行った事もあるくらいだ。
 沢松や子津とはまた違った感じの友達……いや、弟が居たら多分こんな感じなのかもしれない。
「今日って……5月31日?」
「そう」
 頭の中でカレンダーを思い浮かべたオレの言葉に、隣を遅れないようにあるく兎丸が大きく頷いた。
 今日は五月の最終日で、明日からは六月が始まる。単純にそれだけしか思い浮かばなかったオレは、何故かわくわくとした顔で待ちかまえている兎丸を見下ろし、人差し指を立てた。
「明日からは、衣替えで夏服だ」
 今の女子の制服も良いが、夏服のあの汗で透ける白い薄手の生地がまたたまらなくセクシーなのだと、オレは頭の中で凪さんの夏服姿を思い浮かべた。おっと、いけねぇ。涎が出そうになった。
 緩く開いた口から垂れそうになった涎を拭い、妄想を端に追いやったオレだったが、兎丸が期待していた答えとはどうやらかけ離れていたらしい。明らかに不満です、と分かる顔をしてオレを睨んでいた。
 そりゃあ、衣替えは正確に言うと明日だから今日の事には当てはまらないだろうけれど。そう睨む事もないじゃないか、と思っている間にオレ達は学校に到着していた。時計を見ると、朝練開始までもう余裕がない。早く着替えてトンボ掛けをしておかないと、先に来て準備をしている連中に文句を言われかねない。
「おい、スバガキ、急ぐぞ!」
「ああ、待ってよ兄ちゃんってば!」
 まだ答えを貰ってないよ、と後ろから叫ぶ兎丸を置き去りにしてオレは走った。どうせ競走したらオレが負けるんだから、先手を取って駆け出しても部室に到着するのは殆ど同時刻。
 それから大急ぎでユニフォームに着替えて、グローブを持ってグラウンドに走り込む。案の定先に来ていた犬飼や司馬達がトンボを手にグラウンドに散らばっていた。
 オレは息を切らして肩を上下させながら残っているトンボを取りに走る。上級生の姿もちらほらと見える中、予定時刻が来て監督が姿を現すともう無駄口を叩き合う暇もなく練習に突入する。
 始業時間ぎりぎり寸前までグラウンドをかけずり回り、つかれた身体を引きずるように教室へ向かう。一時間目は睡眠時間だな、と欠伸を噛み殺すオレはだから、恨めしげに見つめてくる兎丸の視線にも殆ど気付かなかった。
 あいつはオレ以外の連中にも今日は何の日か聞いて回っているようだった。しかし誰もあいつが期待する答えを告げてくれず、最後は拗ねたまま部室を飛び出して行ってしまった。
 あれを見ると、もうちょっと構ってやれば良かったかなとも思うわけだが、オレにだってオレの都合があって他の奴に気を配ってやれるほど余裕綽々でもないわけで。
 悪いと思いつつ、オレは昼まで兎丸の事をすっかり忘れていた。
 思い出したのは、昼飯を沢松とつつき合っていた時。偶然頭の中を早朝の出来事が過ぎったものだから。
 試しに尋ねてみただけだったんだが。
「なー、沢松」
「お前ピーマンちゃんと食え……なんだ?」
 手製ハンバーグにさりげなく混ぜ込まれていたピーマンの細切れを器用に退かしていくオレの手を遮り、沢松が視線を上げてオレを見る。つい睨み返してしまうが、奴の目が先を促すように動くものだからオレは渋々、塊になっていたピーマンを口に運びつつ呟いた。
 今日は何の日か、と。
「冬服最後の日」
 ほら、やっぱり誰だって最初はそう思うってば。オレだけじゃなかった事に安堵しながら、苦虫を噛み潰す思いでピーマンを奥歯ですりつぶす。その様子を沢松が笑ってから、片付け終わった弁当箱を仕舞い始めた。
 あの黒い学生服を着るにはいい加減暑苦しい季節である、オレ達は当然ながらあんなものを着ているはずがなく白の開襟シャツを着ているわけだが、女子は合い服がないからなかなか大変そうだ。
 またしても凪さんと、何故か女マネの残りふたりの夏服姿まで頭の中に浮かび上がってきてオレは慌てて、凪さん以外を消し去ろうと両手を振り回した。その挙動不審を呆れ顔で見守り、沢松が頬杖を付く。
「あとは、なんだっけ。世界禁煙デー」
「お前、なんでそんなもん知ってるんだよ」
「朝のテレビでやってた」
 どうせオレは朝練でその時間にテレビを見てませんよ、と心の中で舌を出して拗ねたオレの頭を沢松が苦笑しながら撫でる。子供扱いされた気分でむっとするが、はね除けようと言う気持ちにはならずそのままそっぽを向くだけに留めた。
 付け足すように奴は言う。
「あとは、蕎麦の日とか」
 他にも今日が誕生日の有名人を数人挙げられたものの、それが兎丸の言っていたものに合致するとはとても考えられない。なにせ奴の存在からこれらの記念日は縁遠く感じられたから。
 そもそも奴が世界禁煙デーが今日だぞ、なんて言うガラか?
 絶対に違うと、オレは妙な自身を持って頷いた。だが同時に、疑問が残る。
 じゃあ一体、奴が当てて欲しがっている事って結局、なんなんだ? オレに関係することか?
「案外すっげー簡単かもよ」
「沢松、お前分かったのか?」
 教えろよ、と向かいの席で涼しい顔をしている親友兼幼なじみの顔を覗き込む。だが少々底意地が悪いところのあるオレの幼なじみは、舌打ちしながら顔の前で立てた人差し指を左右に振った。
 仕草が古くさいぞ。
「まあ、多分あれだ」
「どれだ」
「俺で言うところの、1月30日って奴だな」
 憶測だけど、という念押しをした上で沢松が片目を閉じた。
「はぁ?」
 一瞬分からなくて俺は素っ頓狂な声を出してしまった。クラスに居た他の連中が何事か、という顔を俺に向けてきたのを笑って誤魔化し、声を潜めて沢松に再度問いかける。
 今度も、アイツは笑うだけで答えなかった。いや、むしろ忘れてるんじゃねーと笑顔で怒られた。
「だから、何の日……あ」
「思い出したか、この親友不幸者」
「勝手な造語作ってんじゃねーよ」
 ジト目で睨みながら俺を突っついてくる沢松を鬱陶しげに追い払い、唇を尖らせながらオレは溜息を零す。ネタが分かってしまえば、なんてことのない問いかけだ。
「多分、だけどな。確かあのちっこいのの誕生日、近かったはずだし」
「なんでお前がそんな事詳しいんだよ」
「新聞部の特権」
 にやっと笑ってピースマークを作った沢松の頭を軽く殴り、オレは空になった弁当箱を片付け始める。まだ舌の上でピーマンの味が残っている感じがして、あまり良い気分ではなかったがひとまず、謎は解けた。
 次の問題は、どうするか、だ。
「購買のパンでも買い与えてみるか」
 財布の残高を計算しながら頭を掻く。外へ買いに行こうにも学校から出るわけにはいかないし、放課後はまた練習だ。それまでに用意できるものなんてたかが知れている。今の今まで知らなかったのだから、気の利いたものを用意しておく方が無理ってものだ。
 当日に強請るくらいなら、先に言っておけよと愚痴りながら午後の始業を告げるチャイムの音を聴く。
 そしてぼんやりとしている間に授業は全部終わって、放課後がやって来て。
 必然的に、兎丸とも顔を合わせる事になる。オレはなけなしの金で買った購買の売れ残りパンを鞄に隠し、他の面々よりも若干遅れて部室の扉を開けた。
 途端、甘ったるい匂いがオレの鼻先を掠めていってうっ、と息を詰める。
「あ、兄ちゃん!」
 部室の中央、匂いの発生源に居た兎丸がいち早く扉前で凍り付いているオレを発見して手を振った。振られている手の中には食べかけのチョコレートが握られていて、よくよく見れば奴の周りには大量の菓子が山を成していた。
 更に、山を取り囲むようにして苦笑を浮かべている野球部の面々。
 どうやら兎丸は、お誕生日お強請り攻撃をオレ以外にも仕掛けて皆が隠し持っていた菓子類をほぼ強引に、奪い去ったらしい。なんというか、逞しいというべきか……呆れる。
「おい、スバガキ」
「なに?」
 ベンチから立ち上がった兎丸がオレの方へちょこちょこと歩いてくる。途端にチョコレートの匂いもきつくなってオレは思わず後退してしまった。甘いものは嫌いではないが、こうも匂いがぷんぷんして近付いて来られると、腰が退けて仕方がない。
 だけれど完全に逃げ切る前に兎丸に飛びつかれ、オレは今朝のように倒れ込みはしなかったもののかなり危うい体勢で小さな身体を受け止める。首に回された両腕をしっかりと結んだ兎丸の身体は、ぶらりと爪先立ちでオレにぶら下がる事になった。
 既にユニフォームに着替え終わっている兎丸からは、チョコレートに混じって土の匂いもした。
「スバガキ、そのよ、なんてーか……」
「いいよ、プレゼントなんか用意できてないんでしょ?」
 言いにくそうに口澱んだオレの表情を読みとって、先手を打つように兎丸は笑った。相変わらずオレにぶら下がって顔を近づけたままだったものだから、奴が吐き出す息がダイレクトにオレの顔にぶつかってくる。
 鼻先を擽られている感じがして、なんだか落ち着かない。
「いや、一応……大したもんじゃないけど。誕生日オメデトウ」
「アリガト~」
 先に定例の祝福の言葉を口に出して言うと、微妙な照れが混じってオレは自分の顔が赤くなっていくのを自覚した。間近で聞いた兎丸が嬉しそうに目を細めて笑うものだから、一緒になってつい、オレも表情を緩める。
「あのね、兄ちゃん。プレゼント代わりにお願いしても良いかな?」
 兎丸はどうやら、オレが何も用意できていないものと勘違いしているらしかった。子供の仕草で首を傾げて問いかけてくる奴に、オレは仕方がないなと笑って頷く。簡単な頼み事だったら聞いてやっても良いだろう。この売り残れパンは部活が終わってからこっそり手渡して吃驚させてやるのも悪くない。
 オレがそんな事をあれこれ考えているのに気付かないまま、兎丸はぶら下がった姿勢のまま呟いた。
「偶には、ちゃんとぼくの事名前で呼んでみてよ」
 最初に会った時、試合中にオレが名付けた「スバガキ」っていうあだ名じゃなくて、奴の本名で呼べ、と。つまりはそういう事らしく、随分と可愛らしいお強請りだなぁと軽く笑ってオレはそんな事で良いのか、と逆に問い返してしまいそうになった。
 だが。
 はたと、気付く。
 そういえば兎丸の下の名前って、なんだっただろう、と。
「兄ちゃん?」
 固まってしまったオレの顔を真下から見つめ、兎丸は目を細める。その瞳がどこか剣呑な、薄ら笑いを浮かべているように見えたのは多分、気のせいなんかじゃない。
 背中をじっとりとした汗が流れていく。
「と、兎丸君……」
「下で、呼んで?」
 底意地が悪い笑みを浮かべたまま兎丸はオレに顔を寄せてきた。さっきよりも熱っぽい息が顔に降りかかってくる。
 部室内で一見和やかそうなオレと兎丸の戯れが少々様子を違えてきている事に、一部の人間が気付いたようだった。俄に向こう側が騒がしくなる。
 兎丸が舌打ちした。
「兄ちゃん、ひょっとしてぼくの名前、覚えてない?」
 否定したかったところだが、実際に覚えていないわけだから呼んでみて、と言われても当然呼べるわけがない。冷や汗が倍の量だらだらと流れていくのを感じつつ、オレはなんとか逃走を試みた。
 しかしがっちりと、その小さな身体のどこにそんな力があるのかと思うくらいにしっかり、オレの下半身を兎丸の両足が囲い込んでいて逃げようにも動かせなかった。
 泣きたくなる。今オレは、無性に目の前の悪ガキが恐ろしい。
「覚えてない?」
 涙目でふるふると首を振ったオレだが、兎丸の目は既に据わってしまっている。
 誰かが、離れろ、とかなんだとか叫ぶ声が聞こえたがそれもオレの耳には、果てしなく遠い島からの絶叫にしかならなかった。
「ふーん……そうなんだ。兄ちゃんってば、ぼくの名前知らないって言うんだ」
 ぼくなんか、兄ちゃんの誕生日から身長体重中間試験の点数、風呂に入った時にどこから洗うのか、まで知ってるのにさ。
 と。
 さりげに空恐ろしいことを呟いて兎丸は不意に、にっこりと、笑った。
 虚をつかれた格好で、オレは目を見開いて真正面から兎丸を見つめてしまった。微笑んだその顔があんまりにも無邪気だったものだから、さっきまで感じていた恐怖を一瞬忘れ去ってしまう。
 思えば、それも兎丸の策略だったのだろうけれど。
 ああ、オレのバカ。
「しょうがないから、こっちで許してあげる」
 そう言って、兎丸は。
 オレの首に絡めた腕に力を込めて自分の方へ、オレを引っ張った。身長差の分だけ、オレの身体は前方へ沈み兎丸へと傾ぐ。
 触れた。
 その、唇、に……。
 オレと、兎丸の唇とが、一瞬だったけれど。
 背後で悲鳴が轟く。しかもそれはひとつじゃなかったから、結構笑えない。オレ自身もかなり茫然としてしまっていて、オレを解放した奴が舌なめずりをしながら「ご馳走様」なんて呟かなければ多分、ずっと惚けたままだったように思う。
 って、言うか。
 なんか、こっちの方が名前を呼んでやるって事よりもずっとお高いものだと思うんですけどー……
「みんな、早くしないと遅れるよ~?」
 ひとり元気な兎丸がからからと笑ってグラウンドの方へ走っていく。はっとなったオレは、自分だけがまだ制服姿である事に気付いて慌てて鞄を掴むと自分のロッカーへと急いだ。
 背後で犬飼が咽び泣いてるのがなんか、引っ掛かるけど今はひとまず、それは置いておく事にする。
「ちくしょー。スバガキめ、あとで覚えてろよ」
 自分の手でごしごしと唇を擦りながら悪態をつくオレの肩を、司馬が叩いて注意を促す。着替えを邪魔されてムッとなったオレに司馬が差し出したのは、一体どこに保管してあったのか冷気を漂わせているアイスクリーム。
「……ピノ?」
 六個入り、のあのアイスをいきなり突き出されたわけで、オレは当然ながら困惑する。
 すると司馬は、スッと右手を持ち上げて兎丸の名札がついているロッカーを指さした。
「スバガキ?」
 両者を繋ぐものが見えてこなくて頭を抱えたオレに、司馬は繰り返しアイスと兎丸のロッカーを交互に指さす動作を見せる。それが四度目に至ったところで、ユニフォームを着替え終えたオレはやっと気付いた。
「兎丸……ピノ?」
 コクン、と司馬が頷く。
 途端、オレは脱力。
「そういう事はもっと早く教えてくれよ~」
 がっくりと床の上で項垂れたオレに、司馬が無言のままアイスをオレに押しつけて去っていった。梅雨の湿気と気温を受けてアイスは既に溶け始めており、今これを貰っても部活が終わる前にどろどろになってるよなぁ、と考えると蓋を開けるしかない。
 振り返ればまだ泣きやんでいない犬飼が居て、仕方なく慰めにひとつ分けてやり、オレも一個口へ放り込んだ。舌の上で冷たい温度が広がるのを感じつつ、そういえば、と呟く。
「アレ、オレのファーストだ」
 横で聞いていたはずの犬飼がその瞬間何故か床に撃沈した。反対にグラウンドからは、兎丸の随分とはしゃいだ声が聞こえてくる。オレはもうひとつ、アイスを口に入れた。
 まぁ、でも。
 溶けかけの柔らかいアイスを噛み潰しながら考える。
 アイツなら良いか、と。
 そうオレが思っている事は、この際、秘密にしておこう。

02年5月30日脱稿