何処をどう、走ったのか。
藪を掻き分け、腕や足や顔、身体中に傷を作ることにも一切構わずにただ前だけを目指して走った。
生き残るために。
敵から逃れるため、それだけの為に。
気が付けば森は途切れ、でこぼこが多く障害物も多かった場所を抜けていた。だがそれにも構わずに走り続けた。
ひたすらに、遠くを目指して。
何処だって良かったのだ、あの炎に巻かれた血の臭いが充満する場所から無事に脱出できたのであれば。あの、黒衣の男達の目から逃げ切れたのであれば。
心臓が口から飛び出しそうな勢いで拍動している。息を吐き出すことに懸命で、吸い込む方にまで筋肉が回らない。全力疾走なんて随分と久しぶりで、身体中がぎしぎしと歪に軋んでいる。
その場に座り込むと、もう立ち上がれなかった。
それは自分ひとりだけではないようで、戦い慣れ体力もこのメンバーの中でも随一のはずのフォルテまでもが、真っ暗闇の天を仰いで息を切らせていた。彼がこの調子なのだから、もっと体力のない女性達は悲惨だろう。
なのに、誰ひとりとして「疲れた」の声ひとつない。
一様に無言で、静かすぎる夜の平原に合計六人分の荒い呼吸音だけが木霊している。
そのまま真後ろに倒れ込むと、柔らかい草の感触が背中に広がる。少しだけホッとしたけれど、目の前に無限に広がる星空と月の淡い光は聖王都に居た頃となにひとつ変わっていなくて、今度は無性に哀しくなってきた。
いったいなぜ、こんなことになったのだろう。
口の中に溜まったつばを飲み込み、マグナは胸を上下させながら呼吸を整えて考える。
やがて、それぞれに荒かった呼吸が落ちつきだした頃、その中のひとつから今度は嗚咽が漏れ始めた。
「…………」
起きあがることが出来なくて、マグナは寝ころんだままその嗚咽を聞いていた。恐らくケイナだろう、優しい声でアメルを慰める声が小さく響いて彼女も必死に泣きやもうとしているのだろうが、嗚咽はなかなか途切れる事が無かった。
胸が締め付けられる想いで、マグナは目を閉じた。闇が広がる。月や星明かりが僅かでも地上を照らしているような柔らかな闇ではない、光るもの一切から見放された冷たい闇が。
つい、ほんの数時間前まで過ごしていた場所から、ここはあまりにも遠い。
そしてたった数時間だけで世界は此処までひっくり返り変わってしまうのかと、冷たい闇に捕らわれた心で彼は考える。だのにあそこから抜け出してしまったあとの世界は、なにひとつ変わることなくそのままの姿で在り続け、彼を包み込んでいる。
今更になって、身体中に出来上がった傷が疼きだした。熱を持った身体が、末端の神経までをも刺激して乾きかけている傷口の内側をちくちくと刺す。
嗚咽は徐々に小さくなっていって、それを宥める声もそのうち聞こえなくなった。大きな溜息が聞こえてきて、鈍い動きで首を振りそちらを向くと、前髪を掻き上げているフォルテの厳しい横顔がそこにはあった。
彼の前には、草の上で横になるケイナと、彼女に抱きしめられるようにして目を閉じているアメルが居る。
ふたりの身体の上にそっと、フォルテは穴だらけになってしまっていた彼のマントを外して被せ、疲れ切って眠ってしまったらしい相棒の髪をそっと撫でた。起こさないように極力神経を使っての彼の優しい行動に、少しだけマグナの心は軽くなった。
「お前も、眠っておけ」
視線を合わせる事もなく、フォルテはそう告げる。
え、と目を少しだけ見開いたマグナをゆっくりと振り返り、いつものような茶々けた様子とは段違いの真剣な眼差しで彼はもう一度、同じ言葉を繰り返した。
「疲れてんだろ」
アイツももう眠ってる、と彼は握った拳の親指で少し離れた場所に横になっているレシィを指し示す。草の上で背を丸めて小動物のように小さくなって眠っている彼は時々、先程の村での体験を夢の中で追憶しているのか悪夢に魘されているようだった。
「フォルテは」
「俺は良い。誰かが見張ってないと、まずいだろう」
ここは城壁に囲まれた町の中ではない。それに、いくら森の中で撒くことに成功したとはいえ、平原までやつらが追いかけてこないとも限らないのだ。誰かが寝ずの番をしていないと、敵の接近にも気付く事は出来ない。出来たとしても、状況は悪化したあとだろう。
「けど……」
「俺しかいないだろ。お前だってあいつだって、ボロボロなんだから」
そう言いながらフォルテは顎をしゃくった。彼が示した先を見ると、不機嫌そうな顔をこちらに向けているネスティと視線がぶつかる。
月光に反射した眼鏡の所為で彼の表情と感情を深い位置まで探ることは出来なかったが、彼もまたマグナと同様に疲れ切ってその場から動けない状態に近いようだった。
「俺に任せておいて、今は休め。勿論、あとで代わって貰うからそのつもりでいてくれよな」
軽い調子でフォルテは笑おうとしたが、顔の筋肉は硬直したままで酷く不器用な笑顔になっていた。
「マグナ」
カサリ、と草が揺れてネスティはマグナの傍らへ歩み寄った。ほんの五歩にも満たないふたりの間にあった距離を、ネスティは倒れそうな千鳥足で埋める。上半身だけを起こしていたマグナの真横に立つと、限界だったのか彼は膝を折ってその場に座り込んだ。
立てた両膝の間に腕を置き、項垂れる。
「ネス……?」
「彼の好意に甘えさせてもらおう」
それだけを言うために、彼は残り少ない体力を浪費してまでマグナの隣に移動したのだろうか。怪訝な顔をしそうになったマグナだったが、首を上げたネスティの横顔を確認するよりも早く、伸びてきた彼の手に頭を押さえ込まれた。
「ネスっ!」
「分かれ。僕たちが起きていても、役に立てない」
そのあまりにも酷い仕打ちを非難しようとしたマグナの口を押さえて、ネスティは耳元に小声で囁きかけた。あ、と呻いてマグナは自分でも声を抑え込み兄弟子の顔を窺い見た。
「そう、かもしれないけれど」
でも、とまだ何かを言おうとしているマグナをネスティは首を振ることで止めさせる。そして頭を押さえ込んでいた腕を彼の背に回し、少しだけ力を込めた。
背中を押されて、マグナの上半身は傾ぎネスティの胸元に顔が埋められる。密着した肌から、互いの鼓動が聞こえてくるようだった。
まだ少し、早い。
「ネス……」
優しい手が、癖毛の髪を撫で梳いていく。
フォルテは何も言わず彼らから視線を外し、遠くを眺め始めた。視線の先は、途切れた森と平原の長い境界線。そして、時折悪夢に表情を歪めている彼の愛おしい相棒へと。
「早めに休めよ」
「言われずとも、そうします」
ネスティに髪を撫でられ、黙り込んだマグナは両手で彼の上着を握りしめまた、口腔に溢れる唾を飲み下す。けれどなかなか上手くいかなくて、何度も繰り返し続けているうちに違う水が彼の頬を濡らした。
「…………ぁ……」
自分でも呆然としてしまうほど、前触れのない涙が彼の両目から溢れ出す。
拭った手の平が濡れていた事に唖然となったマグナの背中を、ネスティが変わらないテンポで撫でている。
昔、恐い夢を見て夜中に目が覚めたマグナをあやしてくれた時となんら変化無い、兄弟子の変わらない優しさが伝わってきて、涙は止まるどころか逆に水量を増していった。
「うっ……」
泣きたい気持ちなどこれっぽっちもなかったはずなのに、どうしてだろう、涙が止まってくれない。今泣いて良いのはあの村で生まれ育ったアメルだけなのに。
「構わない。好きなだけ、泣くんだ」
しかしネスティの声色も手の動きも優しくて、マグナの勝手な涙を許してくれる。
風が吹き抜けていく。障害物のない平原の上をゆったりと、月に冷やされた空気が静かに彼らを珍しそうに取り囲んでは気紛れに去っていく。
「君は……人が死ぬところを見たのは初めてだったんだろう」
かぶりを振り、懸命に泣きやもうとするマグナへネスティは呟く。無理はしなくても良いから、と絶え間なく撫でる動きを繰り返している彼の手は言ってくれている。
「ショックを受けて、当然なんだ」
あの時はそれ所ではなく、生き残ること、逃げることに必死で思考がそこまで行かなかったから良かったのだろうけれど。
今になって、体と心が落ち着きと本来の思考を取り戻した事により麻痺していた感覚が甦ってきたのだ。
あれだけの人が殺され、噎せ返る血の匂いの中に立たされて己も生命に危機にさらされた。自分を守るためだと思っていた力を、他者を蹂躙するためだけに使われる光景をまざまざと見せつけられた。
マグナもネスティも、武器を持っている。だがそれは、自身に降りかかる火の粉を払うためだけに使うものでしかなく、決して自分の意向で他人を傷つけそれを嘲笑う為に装備しているわけではない。
街道を荒らす盗賊やならず者を相手にするときも、彼らを殺したいと思った事は一度もない。気絶させて、警備の兵士達に引き渡すのが当然だと思っているし、事実そうやってきた。無駄な争いを自分から起こそうとは思わないし、出来るなら騒動に巻き込まれるのも正直言って御免だった。
小さな喧嘩や騒動は、聖王都でも日常茶飯事だ。しかし、村ひとつを焼き討ちして村人を女子供、奇跡を頼ってやって来ていた怪我人や病人までをも容赦なく殺戮していくという光景には、今までに出会ったことがない。
そう言ったものは、聖王国と旧王国との長い対立の歴史に見ても決して多く語られては居ない。非戦闘民を巻き込んだ戦いは、両国家にとっても非難の対象にしかならず、利が見当たらないからだ。
ましてや、たったひとりの少女の身柄を拘束するためだけに村ひとつを滅ぼすなどということは……。
「お前さんは随分と落ちついているようだが」
「そう繕っているだけです」
しゃくり上げて声を出せないマグナへと視線を流したフォルテが、ややしてから控えめな声でネスティに問いかけをした。
「人が死ぬのを見たことは」
「…………」
冒険者としての家業柄、フォルテは死と近しい位置にいると言っても良い。いつ、どこで何が起こるか分からない旅の中での生活は、旅費を稼ぐために危険なトラップが待ちかまえている洞窟や、ならず者相手に懸賞金を狙ったりといった日の連続である。自分の死に過敏な分、他人の死も多く見て経験してきた。
「直接、あんな光景を見たのは勿論初めてですが……人が死んで行く光景は、知っています」
幾ばくかの逡巡の末、ネスティはそう答えた。
「そ、か。俺も……結構長いこと色々な土地を回ってきたが。あんな惨いやつは初めてだ」
フォルテの手が足許の草の上を泳ぎ、緑の若草をむしり取ってそれを風に流した。少しも飛ぶことなく、重さに引っ張られた草は千々に消えていく。
肩を揺らし、マグナが顔を上げる。彼は、ネスティが人の死に様を経験している事を知らなかった。意外そうな顔をしているマグナに、ネスティは曖昧な笑みを浮かべて細い指を彼の髪に差し込んだ。
そのまま上へと流されて、戻ってきた手は親指の腹でマグナの目尻に残る涙を拭って帰っていく。
家族というものを持たなかったマグナは、身近な存在をネスティとラウルにしか求めなかった。人付き合いの少なさがそのまま、彼の人生経験を薄く浅いものにしてしまったとも言い換えられるだろう。
だがよくよく思い返してみれば、マグナもラウルに引き取られるまではひとりぼっちで、ゴミを漁るような生活を送っていた。あのころが彼にとっての、最も死を身近に置いていた時期だった。それが派閥という籠に囲われ、守られる生活を手に入れたことで感覚が遠くなっていたのだ。
それでも、マグナは今まで一度として剣を構えた鎧の存在に追い立てられ切りつけられた経験は無い。本当に死に瀕した事はなかった。そして。
目の前で誰かの命が失われていく光景も、また。
彼は、知らずにいた。
涙が流れた理由が、レルムの村での出来事がショックだった事なのかそれとも、緊張の糸が途切れてしまった所為なのか、もう分からない。
やつらの狙いであったアメルは無事に守り抜けた。だが、それ以上にたくさんの命を守ることが出来ず、なにもしてやれぬまま逃げ出した。
けれどあの時はああするしか他に道はなくて、逃げなければ死体が増えるだけの状況だった。選択肢は他になかった、正しいとか間違っているとかの問題以前の問題だった。
戦うことの厳しさと、生き残ることの辛さと、死ぬ事への恐怖。みっつが入り乱れて混じり合って、言いしれぬ不安ばかりが胸の内に広がっている。
アイツらはきっと諦めない。どこまでも追いかけてきて、この首をかっ切る時を待っている。知らずに自分自身を抱きしめていたマグナの目から、乾いたはずの涙がまた一粒、こぼれ落ちた。
「君がこんなにも泣き虫だとは、知らなかったよ」
落ちついた響きのある声でネスティが呟く。向こう側のフォルテも困ったような顔をして、ボロボロと涙を零すマグナを見ている。気恥ずかしくなって、慌てて泣きやもうと乱暴に拳で目元を拭おうとしたらその手をネスティに止められた。
「泣くことは、悪い事じゃない」
泣きたいときは泣けばいい。むしろ哀しい時や悔しいときに泣けない方がずっと、何倍も辛いのだ。
そしてネスティはこんな風に、自分の感情の思うままに涙を流すことが出来るマグナを羨ましいとさえ思う。彼には、マグナが感じているような人を悼む心がなかなか理解できないから。
泣く、という行為さえ忘れかけているかもしれない自分が、人の死を悲しめるほど優しくないことをネスティは理解している。だからこそ、人間としての感情に溢れているマグナを羨むと同時に、自分の分も彼が泣いてくれているのだと勝手な解釈をして満足している。
ネスティにとっては、赤の他人であるアメルを守ることなどどうでも良い事でしかなく、彼が重要視するのは弟弟子であるマグナを、守り抜くことただそれだけなのだから。
淡い風が吹き抜ける。端を攫われ、ケイナ達に被されていたフォルテのマントは少しだけ位置がずれた。それを、腕を伸ばしてゆっくりと彼が直す。
「あんまり自分を責めるもんじゃない。あの時出来ることを俺達は精一杯やり遂げたんだ。誰も文句を言ったりやしないさ」
この六人の中で最年長であり、最も様々な経験を積んできているフォルテの言葉には重みがある。彼が言うのであれば間違いないと、信じさせる厚みがある。
マグナは、止まらない涙で頬を濡らしながら頷いた。
「あり、がと……」
息を詰まらせながら彼はそれだけを口にするのが精一杯で、またしゃくりを上げて鼻をすすりマグナはごしごしと目元を袖で拭った。ひりひりする手の甲には、何時付けたのかも覚えていない擦り傷がある。涙に濡れて、瘡蓋になりかけていた血が滲んだ。
見かねたネスティが、荷袋を漁って白い布と塗り薬を取り出す。薬の残量は少なく、拒もうと一旦は手を引っ込めたマグナだったがネスティの叱りつけるような視線に渋々と傷のある方の手を差し出した。
乳白色のクリームを、先に別の布で汚れをぬぐい去ったネスティの指が掬い上げる。生傷が絶えなかったマグナが度々お世話になっていたその塗り薬は、見た目とは裏腹に強烈に滲みてくる事を知っているから、マグナはつい構えてしまってぎゅっと硬く目を閉じた。
事情を知らないフォルテは、怪訝な表情でマグナの治療光景を眺めている。それにも気付かず、彼は必死で痛みを堪えて唇を噛んでいた。
慣れた手つきでネスティはマグナの右手に包帯代わりの布を巻き付けると、ほどけないように端をしっかりと結びつける。多少歪な形になってしまって、手を握り込めないという状態になってしまっていたが、応急処置なので仕方がない。
「有難う……」
「他に痛む場所はあるか?」
「うぅん、ない」
本当は心が痛んでいる。けれどいくらなんでもそんな場所にまで薬を塗ることは出来ないから、マグナはネスティの問いかけに首を振って小さく呟いた。
いつの間にか涙は乾いていた。頬には涙が流れた筋が少しだけ赤くなって残っているだけ、それも朝には消えているだろう。
「さ、話しは済んだんだ。もういい加減休まないと、明日が辛いだけだぞ」
フォルテがぽん、と自身の膝を打って言う。ネスティは小さく頷いて返し、蓋を閉めた塗り薬が入った小瓶をぽーんと空中に弧を描かせて彼目掛けて放り投げた。
「うぉっ!?」
綺麗に半円を描き出してフォルテの頭上に落下してくる小瓶を危なげない動きでキャッチした彼は、手の平に収まるサイズの瓶とネスティの顔とを交互に見た。そしてにっ、と歯を出して笑う。
「サンキュ。有り難く使わせてもらうぜ」
軽く片手を持ち上げて礼を述べ、彼は早速小瓶の蓋を外しにかかった。あの見た目に騙された薬の痛さはいっそ潔いものだが、効果はお墨付きなのでマグナも彼に同情しつつ、止めることはしなかった。
六人の中で一番傷を負っていたのは、一団の先陣を切って道を開いてくれた彼なのだから。
彼がいなければ、自分たちはこうして無事ではいられなかっただろう。感謝の心を持って彼を見つめた後、ふっと息を吐いてマグナはネスティに凭れ掛かった。
「眠いか?」
「すこし……」
今頃になって疲れがどっと押し寄せてきた感じだった。布越しに伝わってくる相手の体温が心地よくて、瞼が重くなる。ネスティはそっと手を伸ばすと、幼い頃彼を寝かしつけるときによくしていたように、トントンと背中を心拍と同じリズムで叩いてやった。
空いている手で涙のあとを拭いてやると、くすぐったがってマグナが肩を揺らして微かに笑う。
「なんか、ホッとする……」
居てくれて良かったと、本気でそう思った。
「そうか」
ネスティの声は変わらなかったけれど、頬を辿っていた彼の指がマグナの額を隠している前髪を掬い上げたのを見て目線を上向ける。
ぼんやりとしている間に、オヤスミのキスが降りてきた。
「明日も歩き通しになる。休める間に、休んで置け」
「ネスも……ね」
向こうでは薬を早速たっぷりと傷口に塗り込んだらしいフォルテが、声にならない悲鳴を上げて悶絶していた。予測通りの彼の反応に、二人して笑いあう。
「明日になったら、いつもの俺に戻ってるから」
だから。
今夜だけは、甘えさせて欲しい。
寝ころんだ草の上、柔らかな草と背中の間にネスティのマントが広げられる。こちらもフォルテのものに負けず劣らずの穴あきで、もう本来の機能は果たせそうになかった。
少しだけ開いていた互いの距離を、すり寄る形で詰めるとネスティが頭の上で苦笑いを浮かべて腕を伸ばしてきた。もう片手は彼の枕代わりに使われていて、見上げると視線がぶつかりなんとなく気まずさを覚えて、マグナは自分から目を逸らしてしまった。
「ゆっくり……今は何も考えずに、眠れ」
そう囁いて、ネスティは目を閉じる。それを気配で読みとり、マグナももう一度最後にネスティの顔を見つめて、目を閉じた。
今はただ、明日が晴れる事だけを祈って。
月明かりの下で眠る夜は、決まって夢を見なかった。
夕凪の声
ぱしん、という乾いた音は思った以上に大きく響いた。
いや、きっとその場に居る誰しもが――殴った本人と殴られた当人でさえ――そんな結末になるとは一瞬前でさえ予想していなかったに違いない。
それくらいに、唐突だった。
口論は何度でもあった、意志の疎通が出来ない事に苛立つのはいつものことであり、お互いに相手のことを想っているはずなのに巧く伝えられないそのぎこちなさに腹を立て、なじりあうのもこれが初めてではなかったはずだ。
だけれどいつもなら、大抵は、キールが先に折れてハヤトの言い分を聞き入れて口論はそこで止まる。ハヤトがまだなにか言いたげにする事はあったものの、キールに「ごめんね」と小さな声で謝られてしまっては、それ以上の言葉を紡ぐことも出来なくなる。
結局、ふたりともお互いの事にはてんで弱くて、端から見ているとただの痴話喧嘩にしか思えない喧嘩も日常茶飯事になっていて。
それでも殴り合いだったり、手を出すような真似は一度もなかったから周囲は呆れるだけで口出しする事もしなくなっていた。それが日常だったから、当たり前だと思いこまれていたから。
でも。
始まりは、無職の派閥に属していた、今はどこに属することも出来ず野に下った外道召喚師がその事でキールに逆恨みし、彼と彼を取り巻く環境――仲間にちょっかいを出してきた事だった。
ラミが、攫われたのだ。
その事にいち早く気付いたガゼルが皆を招集し、幸いにも救出が早くて彼女は逃げ出すときに転んで膝小僧をすりむいた、それだけの怪我で済んだ。リプレから攫われた時に落としたクマの縫いぐるみを渡され、それごと強く抱きしめられてようやく緊張のたがが外れたのか、ラミは大声で泣き叫んだ。
もう大丈夫だから、と戦場になるかもしれないと言って止めるガゼルを振り切って一緒についてきたリプレに背中を撫でられ、ぐしゃぐしゃになった髪の毛を手櫛で解いてもらいながらラミは必死に我慢していたのであろう涙を、枯れるくらいに長し続けた。
遅れてレイドに付き添われたフィズとアルバもやってきて、子供達はラミの無事に安堵し、また彼女の泣き声に引きずられる格好でリプレにしがみついて、泣いた。
少し前までは戦いの喧噪で覆われていた廃墟が、今は子供達の泣き叫ぶ声と慰める声に支配されている。
持っていた戦力の総てを呆気なくうち破られ、最終兵器だと言い放った獣型召喚獣も簡単に倒されてしまった外道召喚師は最早戦う術を持たず。後ろ手に両手を結ばれて抵抗の術を奪った上で、ハヤト達はこの男の処分をどうするか、の相談に入っていた。
サイジェントも治安を取り戻し、少しずつではあるが金の派閥に支配されたままだった権力も分散されつつある。あの三兄弟は相変わらずであるものの、多少は騎士団も活動しやすくなっているとはイリアスの弁だ。
仲間達の結論は一致していた。この男は騎士団に引き渡し、然るべき処断を受けて貰う。
自分たちには多少なりとも力があったから、今回の事は自分たちだけで解決できた。しかしもしこれが、戦う力を持たない一般市民を狙ったものであったなら、事件はもっと複雑で難しいものになっていただろう。
こういう輩をのさばらせておく騎士団も案外役立たずだな、と特別顧問を引き受けているレイドを見ながらのガゼルの言葉に、彼はムッとしながらも悪かった、とひとこと返していた。
そんな風に、皆が皆無事であった事を喜び合い、ホッとしていた時だった。
囚われた外道召喚師が嗤いながら言った。
滑稽だと。
何が仲間だ、何が友だ、家族だ。そんなものに頼り縋るから、人は脆くもなり弱くなる。所詮人はひとりであり、自分の弱さを他人に押しつける様は愚かしく滑稽であるとしか言いようがない、と。
嘲笑い、男は。
崩れかかった天井を睨み、そして矢のような雄叫びを上げた。
ぽろりと、廃墟の天井に空いた穴から破片が零れ落ちてくる。引きずられるように上を見た仲間たちは、その穴から一瞬だけ見えた小さな、存在さえも気づけなかった召喚獣に目を見張った。
穴の横には、今にも崩れ落ちそうなヒビがある。更にそのヒビの真下に居るのは、リプレと子供達だ。
ガゼルとエイドが直後、走った。
土煙が上がる。聴覚が麻痺して何も聞こえなくなるくらいの轟音が、続けざまに二度起こった。
粉塵を含んだ風が上から下へ、そして一瞬にして下から上へと気流の方向を変えて彼らに襲いかかった。建造物の固い欠片が細かく飛び散り、むき出しの素肌に幾つも衝突して痛みを訴えかけてくる。
息が出来ない、視界も完全に遮断された。音も聞こえない、ただ廃墟が崩壊する轟音だけが地鳴りとなって脚から響いてくる。
それなのに、あの外道召喚師の高嗤う声だけが嫌に耳に貼り付いて。
どれだけの時間が過ぎたのだろう。時間の感覚が麻痺するくらいには過ぎた時間の中で、漸く晴れだした視界に崩れた天井の残骸が飛び込んでくる。
「エドス!」
ボロボロに砕けた天井の破片に頭の先まで覆われながらも、最初に起きあがった彼の巨躯が左右に揺れた。髪に紛れ込んだ小さな欠片を振り払い、数回咳き込んだ彼の下から身を捩って、ラミがしゃくりを上げつつ顔を出す。
ガゼルに抱きかかえられるようにしてリプレも埃まみれの身体を振り、次々に助け出される子供達が無事であるかを慌てて確認する。擦り傷、切り傷、打ち身……無傷ではなかったが、誰もベッドに磔にされねばならない程の大けがはしていなかった。エドスだけが、打ちつけた背中に大痣を作り、頭からは血を流していたけれど。
「貴様っ!」
ハヤトが、血走った目を外道召喚師に向ける。奴はまだ口端を持ち上げて愉快そうに嗤っていた。
鞘に収められていた彼の長剣が引き抜かれる。レイドが止める間もなく、彼の使い込まれた切れ味も良い剣が、嗤い止めない外道召喚師の喉元に突きつけられた。
それでも男はまだ嗤っている。殺すが良いと、彼を詰り挑発し、嘲笑い続ける。
怒りが、なによりもハヤトを包み込んだ。頭に血が上り、彼は自分が今、どのような顔をして何を考えて望んだかを冷静に判断することが出来なくなっていた。
「ハヤト!」
最も彼に近い場所に居たキールがいち早くその事に気付き、両手を広げて彼と外道召喚師の間に割り込む。寸前で剣先を逸らしたハヤトの剣は、けれど切っ先が僅かにキールを掠めて冷たい音を残しながら大気を切り裂いた。
傷こそ作らなかったが、キールの毛先がほんの僅かに削がれて足許に零れ落ちる。
「退け、キール。そいつはっ!」
声を荒立て、怒り心頭に叫ぶハヤトを強い目つきで睨みながらキールは退かない、と小さく返した。レイドがどうすべきか逡巡した面持ちでいるのを、キールは目配せで高笑い続ける外道召喚師を黙らせるよう頼む。
彼の意図を読みとったレイドは、無言のまま頷き素早くキールの背後へ回り込んだ。睨み合うふたりを愉悦の混じった顔で見上げている男の鳩尾に、固い拳を叩き込む。
「キール!」
そいつは、最低だ。ハヤトが叫ぶ。
エドスに庇われた子供達が、彼を心配して流れる血に右往左往している。引き締まった肉体を保持する彼は心配ないと何度も繰り返すが、それでも頭の傷は深くなくとも血は大量に溢れ出て、見る側の心を痛ませる。土煙ですっかり真っ白になってしまったガゼルが血混じりの唾を吐きながら悪態をついた。
信じられないと呟き、手にしたナイフを天井近くへと投げはなった。様子を見ていて逃げ遅れ、主からの命令も途切れてしまった小柄の召喚獣の腹へ鋭く磨かれた刃は突き刺さり、無惨な屍を床に晒す。
ハヤトはもう一度、己の前に立ちはだかる青年を見上げて言った。そいつを許すことは出来ないと。
誰よりも正義感が強く、仲間を思うからこそのことばだ。それは分かる。大切な家族である仲間を無為に傷つけようとした相手を黙って見過ごす事など、誰も出来るはずがない。
けれどだからと言って、この男を傷つけて何になる? 憎めば憎むだけ、相手からも憎み返される。恨めば恨んだだけ、自分へ還ってくる。
哀しいだけではないか、そんな事。自分たちはそんな哀しみを、身を以て学んだのではなかったのか。どこかで憎しみの連鎖を断ち切らねば、いつまで経っても前へ進めないと気付かされたのではなかったのか。
それなのにハヤトは剣を引こうとしなかった。気を失い動かなくなった外道召喚師へ向けた憎しみをそのままキールに投げつける彼を、仲間達は複雑な思いで見つめるしかなかった。
最悪の状況さえ頭に浮かびそうになった。乾いた音が響いたのは、そんな矢先。
ハヤトは茫然と、痛みを訴える頬に手で触れて彼は握り締めていた剣を足許に落とした。
キールは振り下ろした右手を握り締め、苦虫を噛み潰した顔をしながらそれを胸元に押しつけた。
沈黙が流れる。押し黙った空気の中で、状況が掴みきれない子供達の泣きじゃくる声だけが静かに響いていく。
廃墟は更に崩れそうな様相を呈していて、数分後咳払いをしたレイドが外に出ることを皆に提案した。彼は気を失った男を肩に担ぎ上げ、応急処置で傷口に布を押しあてただけのエドスは泣きやまない子供達を抱きしめて外に向かう。ガゼルとリプレがそれに続いた。
キールは、ハヤトが落とした剣を拾い上げて彼に差し出す。足早に去っていく仲間の背中を追い掛けるように提案した彼にハヤトは頷いたが、言葉を返す事はしなかった。ただ黙って、赤くなった頬を一度撫でると何も言わず、キールを置いて走り出した。
「…………」
無理もない、とキールは遠ざかる背中を暫く見つめて思った。
握り締めていた右手を広げ、掌を睨むように見下ろす。白い、ところどころに傷痕を残すなんの変哲もない手だ。
かつては、この手で人を殺めた事もある。再び指を折って握り込めば、肌に食い込む爪の痛みとはまた異なる痛みが掌全体に響き渡る。
骨が軋み、肉が裂けそうな程の痛みが沸き上がる。
天井にぽっかりと開いた穴の縁からは、絶えず細かい破片が零れ落ち完全に廃墟が崩壊するまでの時間を数えていた。薄暗い空は雲に覆われて太陽は見えず、泣くことの出来ない雨雲が遙か彼方で蟠っているようにも思えてくる。
彼はそのまま、随分と長い間立ち尽くしていた。
己の傍らをすり抜けるように走り去っていったハヤトの横顔は、泣き出しそうな風に歪んでいて、微かに赤くなった頬は気のせいかも知れないが剣で切りつけられるよりもずっと痛そうだった。
人の命を手に掛けた事はある。けれど、面と向かってくる相手に手を上げた事は初めてだ。
右手が痛い。キールは左手を重ねた右手を胸に強く抱いた。
かつて、信じてきた総てに裏切られて絶望の縁に立ったあの時よりもずっと心が痛い。息を吸うたびに胸が軋む。息を吐くたびに喉が焼けるくらいの熱が全身から沸き立つ。
雨は降らない。この場を潤す雨など、降らない。
夕暮れの風は止んだ。
ただひたすらに、静かだった。
外道召喚師は騎士団に引き渡された。気を失ったままレイドによってイリアスに預けられた男の処罰は、いずれ内々に下されるだろう。どうなったかの結末だけは知らせてくれるようにと頼み、レイドは孤児院に戻ってきた。
エドスの怪我は見た目ほど酷いものではなく、セシルの診断と治療を受けて今彼は自室で休んでいる。体力もある事だし、明日目覚めれば普段通りに動き回ることも可能だろう。無茶をしなければ、の話だけれど。
子供達も泣き疲れ、大切な妹が無事だった事への安堵もあり孤児院へ着く前に全員眠ってしまった。軽く汚れを拭ってやったリプレが今もずっと側にいて、時折眠りながらぐずるラミを見守ってやっている。
ハヤトは、帰ってきてからずっと部屋に籠もりっきりだ。
「まさかオマエが、ハヤトを殴るとはな」
食堂で暇を持て余していたガゼルが、ようやく戻ってきたキールを見るなりそう言って彼の顔を顰めさせる。
「ハヤトなら部屋だぜ」
「何故それを僕に?」
「なんだ、教えて欲しくなかったのか?」
見透かしたような事を言い、ガゼルは頬杖をついたままキールを見上げてにやにやと笑う。溜息をついたキールは肯定も否定もせず、黙って纏っていたマントの留め具を外すと埃を払いながら改めてガゼルを見つめ返した。
挑発するような視線は気にくわなかったが、不用意な反論をしても彼を悦ばせるだけだろうから止めておく。それよりも。
「ハヤトは、何か言っていたかい?」
「いいや、特には」
問いかけに簡単に返され、そうか、と呟きまたキールは寡黙に俯いた。腕に引っ掛けたマントにかくれる右手がチリリと痛む。火に焼かれ、焦がされているような痛みに眉根を寄せれば、一転してつまらなそうな表情を作ったガゼルがまた言った。
座っている椅子の背もたれに背中を預け、前脚を浮かせて揺れながら頬を掻く。
「今回のは、ハヤトが悪いから謝ってやる事はないと思うぜ?」
子供達を盾に取り、平気で傷つけようとしたあの男にはガゼルだって腹を立てている。もしハヤトの立場に自分が立っていたならば、やはりハヤトと同じ事を考えて同じ行動に出ていたかもしれない。
けれど、奴を傷つけて、あまつさえ殺してしまって、それでどうにかなるのか?
一時の怒りは納まり、それで気が済むかもしれない。しかし時間が経って冷静に考えられる余裕が出てきた時、傷つくのは自分自身だ。そして、大切な仲間――特に一番守ってやりたかった子供達が、一番傷つくのではないか。
人を殺めること、傷つけること。その責任は重い、考える以上に。下手をすれば一生の苦しみを背負わされることになる。誰かひとりの、自分ではない人間の一生を同時に背負わされるのだ、自分ひとりが生きることでさえ精一杯の世の中で。
だから、キールが殴ってでもハヤトを止めた事は長く広い目で判断すれば、正しい事になる。
「……ありがとう、ガゼル」
けれど、キールは沈んだ顔をして表情を翳らせた。
右手が痛い。とっくに消え失せていてもおかしくないささやかな痛みだったはずなのに、時間が経つに連れて痛みは増していく。消えない、消せない痛み。
ハヤトを殴ったという事実は、正しい行動の結末だったとしても現実として残ってしまう。いつまでも、心に刻まれて癒えない。ああすることでしか彼を止められなかった自分に腹が立ち、憎いとさえ思ってしまう。
「オマエって、損な性格してるよな」
「そう思うよ」
苦笑ってキールはガゼルを振り返った。
「ハヤトに謝ってくるよ」
「修羅場になるなら、外行けよ」
子供達とエドスが寝てるんだから、と軽く笑い飛ばしながら言ったガゼルに、考えておくと返してキールはハヤトの部屋へ向かった。
ドアをノックする。三度、それから間を置いて二度。いずれも返事はなくて、マントを握りなおしたキールはドアノブを押して鍵の無い扉を開けた。
薄暗い。窓のない室内で唯一の光源となるはずのランプに火は灯っておらず、人の気配を探して視線を巡らせばベッドの上に、それらしき塊を見出してキールは後ろ手に扉を閉め、外からの明かりを遮断させた。
「ハヤト」
名前を呼ぶ。やはり返事はなくて、少し困った顔をしながらキールは先に、ランプへ火を入れる事にした。
短い呪文をサモナイト石を使い、異界から炎を呼び出して油に満たされた容器から伸びる細い糸の先に光を宿らせる。ポッと灯った小さな明かりは、けれど室内の一画を照らすには充分の明るさで柔らかな光を放った。
ぴくりと、その瞬間にだけハヤトは身体を強張らせて反応したが、両脚を曲げて引き寄せ、膝に額を押しつけるように座り込んでいる彼は結局顔を上げてくれなかった。
「ハヤト」
しつこいくらいに名前を呼んで、キールは彼の側へ歩み寄る。ベッドサイドに脚を置き、膝を乗り上げて手を伸ばし彼に触れようと指で大気を掻き乱す。
けれど、最後の距離を詰めることが出来ないまま彼の指は虚空を裂いた。
「……ハヤト、顔を上げてくれないか」
ひょっとしたら泣いているのではないかとさえ、思った。
ことばに反応して、おずおずと顔を上げたハヤトは泣いてなどいなかった。けれどどこか怯えたような迷子の子犬みたいな表情をしていて、薄明かりに濃い影を落としている顔は普段の彼らしさを感じさせてくれない。
「ごめん」
痛かっただろう、とキールは伸ばしたまま虚空に漂わせていた右手でハヤトの左頬に触れた。途端、弾かれたように彼は首を伸ばしキールの手を拒んだ。
驚いた顔をするキールが距離を取り、それを見た彼はばつが悪そうに上唇を噛んで俯いた。膝立ちになったベッドの上で、小刻みに肩を振るわせる。
「違うだろっ」
キールが謝る事なんて、なにひとつ無いではないか。
俯いたまま両拳を握り締め、ハヤトは苦しげに声を絞り出して叫ぶ。唖然となるキールを前にして、戸板が外れたように勢い良く胸に積もり積もっていた事を吐きだしているようだった。
「キールは、俺を止めて……止めようとしてくれただけだろう。俺が悪いんだ、俺が、カッとなってあいつの挑発に乗ってそれで、自分でも分かってる。俺、なんてバカなこと考えたんだろうって。もしあそこでキールが止めてくれなかったら、俺自分で自分を止められなかった。頭に血が上って、こいつだけは許せないってそれで、そう思ったらどうしようもなくて」
彷徨わせた両手を額に押しあて、どこかまだ混乱している口振りで彼は喚き散らした。
自分が悪くて、キールは悪くない。そればかりを繰り返すハヤトはひたすらキールに謝り続け、彼に言葉を挟む余地を与えない。どんどんと自分を卑下して傷つける方向へ流れ行こうとする彼に、キールは眉間に皺を刻ませた。
両手を伸ばす。
振り解く隙を与えぬまま、彼はハヤトを抱きしめた。
「キール!」
「もういい、ハヤト」
それ以上言えば君は自分で自分を傷つけて、抜け出せなくなってしまう。あの男が言った事は気にしなくて良い、あんな事は二度と起きないし起こらないはずだから。
「殴ったりしてごめん」
「でも、キールは悪くないっ」
あの行為は、ハヤトを諌め止める為に必要な事だった。言い張るハヤトの左頬を撫で、キールは静かに首を振る。
「それでも、君が僕に手をあげさせるような事をしたのが許せないと同じくらいに、僕も、君に手を上げてしまった自分が許せないんだ」
言い換えれば、あの男の挑発に踊らされたのはハヤトだけではないと言うこと。もしあそこでハヤトがああまでして怒らなければ、キールが男を再起不能にしていたかもしれないのだ。
あそこでハヤトが怒りを露わにしたからこそ、キールは冷静でいられた。ハヤトを止める事が出来た。
「痛かっただろう?」
触れた右手がじんじんとした痛みを訴えかける。
「……あ、当たり前だろっ!?」
頬以外の部分まで赤くなったハヤトが声を荒立て、キールを押し返そうと両手を突っぱねた。しかし抵抗はそこまでで、強く抱きしめられて動きを封じられるともう逆らう事は出来なかった。
「ハヤト、僕を……許してくれるかい?」
肩口に額を押しつけ、くぐもった声でキールが問う。
ハヤトは一瞬、声と息を詰まらせた。その声で囁くのは狡い。腰が抜けて、何もかもがどうでも良くなってしまいそうになるではないか。
「あ……」
顔が熱くなっていくのを感じながら、ハヤトは目を閉じた。握りっぱなしだった拳を広げ、キールの背中に回す。
そっと、彼の上着に爪を引っかけて皺を刻ませた。
「当たり前、だろ……」
そうか、と。
キールは笑った。密やかに、嬉しそうに。
痛かった右手が嘘みたいに軽くなる。その手でハヤトの左頬を撫でると、彼は首を振って嫌がって手を払おうとした。
「ハヤト」
触れたい、と囁く。
右手が熱かった。いや、熱はもう右手だけに収まりはしなかった。
「バカやろ……」
掠れる声を喉から零し、ハヤトは俯いてしまった。キールはそんな彼の漆黒の髪を撫で、手で梳きながら毛先にキスをした。
リビングで、ガゼルが退屈そうに欠伸を零す。
「だから修羅場は、外でしろっつったのによー」
ぐったりとテーブルに突っ伏した彼の様子を、台所から顔を出したリプレが不思議そうに見つめていた。
願いの唄
他に何もない草原で寝転がった上を、透明な風が走り抜けていく。表面を撫でられた青草がお辞儀をするように頭を下げ、遠くどこかから運ばれてきたらしい水の匂いが鼻腔をくすぐった。
青っぽい匂いに混じる水の香りが、ここが城のあるデュナン湖からそう遠くない場所である事を思い出させる。その通り、身を起こせば今すぐにでも、目の前遙かに小さく聳える城が見えるはずだ。
小一時間も駈ければ到着できる、開墾されていない草原。白や赤の小さな花々が咲き乱れる緑一面の平原に寝転がって、ただなにもするわけでもなく空ばかりを見上げてどれくらい時間が過ぎただろう。
太陽を遮る雲の量が多いので、空はさほど眩しくない。時折雲間から覗く光のヴェールは美しく、身を起こしさえすればデュナン湖に零れ落ちた光が反射して輝く様が見えるだろう。小さく浮かぶ船、城からは立ち上る煙は食堂で働くハイ・ヨーがもたらすものだろう。
そして城内の会議場では、今まさに作戦会議が開かれているはずだ。
但し、本来その会議で中心になる席に座すべき存在は今、ここに居るのだけれど。
「なぁ」
頭上から投げかけられた声に視線だけを上向かせたセレンに、落ちた影の主が腰に手を当てて顔を顰める。
「良いのか?」
短く刈り揃えられた黒髪、一般人とは少々異なる服装で身を固めたいかにもやんちゃ盛りといった風貌の少年が、軽く唇を尖らせて彼を覗き込んでいた。その口調は心配しているようで、ゆっくりと上半身を起こしたセレンは頭についた青草を払いつつ、座り直した。
そしてひとこと、良いんだよと返す。
自分が機嫌を損ねていることを、今更思い出した。
「でも、本当に良いんですか? 今日の会議は、確かトゥーリバーの特使が参加していると聞きましたが」
「良いの」
どうせ僕が居たところで、発言権は無いんだし?
頬を膨らませて不機嫌を隠さないセレンはそう言って、サスケの向こう側で座っているフッチからそっぽを向いた。フッチの膝の上に居るブライトが、事態を理解せぬままにきゅぃ、と小さく鳴く。
なんでもないよ、とブライトの頭を撫でたフッチは、まるで話を聞く様子のないセレンを暫く見つめた後、傍らで立つサスケに目配せをして肩を竦めた。
セレンは昨夜、軍の方向を巡って軍師であるシュウと大喧嘩をしでかした。その声は城中に響くくらいで、あっという間に彼らの仲違いは城内を駆けめぐり、色々な憶測を呼び起こして場は騒然となった。その時はかろうじて、シュウがなんとか収集させたけれど、セレンの不機嫌は朝になっても直ってくれなかった。
大事な会議もすっぽかして、彼は朝からずっとこの場所で陣を構えている。巻き込まれた格好のサスケとフッチは、昼食も取り損ねて既に疲れ顔になっていた。
セレンとシュウの意見が対立することは、なにもこれに始まった事ではない。何事にも冷静に、ある時は冷徹だと思わせる判断を下すシュウと、情に甘えて情に走りがちなセレンの判断は、嫌でも度々衝突する。
その度にシュウはあれこれと考えを巡らせ、なるべくセレンの意志を汲み入れながら最悪の事態だけは回避させるように心がけていたようだけれど。
今回は、タイミングが悪かった。
グリンヒルが、来るべき決戦に備えて警備の増援を求めてきた時期に重なるようにしおて、ラダト近郊の村で統制を失った白狼軍の一団が暴れ回っているとの報告が入ったのだ。
シュウが最優先させたのは、グリンヒルとの協定だった。ハイランド軍は依然ミューズ市を占領しており、領土を接するグリンヒルに再び攻め込まれては同盟軍の情勢が悪化する可能性があった。
だからまずは、自陣を守り抜き、ラダトでの事はラダトに駐留させている軍を差し向ける、という事で話は決着するはずだった。
けれど、セレンはそれが納得できなかった。
確かにグリンヒル市を堅守することは、この先の展開を決める大事なカードになるだろう。しかしだからといって、今目の前で惨劇が繰り広げられている場面を見過ごしても良いものだろうか。
ラダトに駐留させている軍は六百弱。うち半数をラダト警備に残しても、白狼軍の残党を追撃できるのはたった数中隊だ。残党軍はひとつとは限らず、各地に出没しているからその一々に対処していたらどうしても人出は足りない。
だからセレンは、強固なまでにラダトへも増援を送るべきだと主張した。けれどシュウは、受け入れなかった。
そして大喧嘩となり、
「シュウの分からず屋!」
という名句を残してセレンは彼の前から立ち去ったのである。
朝食後、不機嫌なセレンに拉致されてここにやって来たサスケとフッチが大人しく彼と一緒に居るのは、まさか彼独りでラダトへ駆け出してしまわないかと心配したからでもある。食堂でほぼ同じタイミングで食事を終えてしまったのが、彼らの運の尽きでもあった。
「大体、シュウは頭が固すぎるんだよ。辛い思いをしている人たちを助ける為に兵を回して、なにがいけないっていうんだ」
親指の爪を噛みながら、セレンが悔しそうに愚痴をこぼす。既に本日五度目の同じ台詞に、顔を見合わせて苦笑を零したサスケとフットが曖昧なままに相槌を返した。
両腕を頭上に伸ばし、セレンはまたそのまま背中を草の海に埋めた。風が通りすぎる、湖からなだらかな坂を上って来た風は僅かな湿り気を伝え、するりと彼を撫でて去っていった。
昼食の時間は過ぎた、腹の虫もしつこいくらいに鳴いている。風が城の立ち上る煙に混じっているはずの、食堂から溢れ出る美味しそうな匂いを伝えてこない事が、かろうじて救いだった。
「腹減ったな~」
育ち盛りのサスケが、空腹を覚える腹を押さえて呟く。よろりと足を動かして尻餅を付く格好で草の上に座り、どすんと落ちてきた彼の身体に驚いたブライドがびくりとフッチの膝で震えた。
悪いな、と怯えた様子を見せるブライトに横から伸ばした手で触れて、サスケは小さく微笑み両足を前に伸ばした。顎を突き出せば視線は自然と空を仰ぐ、白色の度合いが強い今日の空は、カンカン照りの日を思えばまだ過ごしやすい。こんな穏やかな天気でなかったなら、もうとっくに帰ろうと言いだしているに違いない。それはフッチも同じようで、うつらうつらと眠たそうにしているブライトを抱き直し、彼も同じように空を仰ぎ見る。
戦いの日々で荒んでしまいそうになる心を潤そうとしているかのような、白と青のコントラスト。雲間を割って地上に降り注ぐ太陽の光は、静かで綺麗。
こんな風に空だけを見上げていたら、今が戦時中だという事実を忘れてしまいそうになる。いや、忘れたくなる。
あの国の人々は、こんな風に空を見上げる事をしないのだろうか。どこまでも澄み渡る美しい空を見つめていたら、自分たちのちっぽけさや戦うことの無意味さを考えてしまうのに。
「どうするんですか?」
このままここで時間を潰していても、結果的になにも変わらない。時間は過ぎて、会議は終わりセレンの意見は無視されたまま、いずれは戦いが再開される。そうなったとき、リーダーと軍師が仲違いを続けていたら、勝てる戦にも勝てなくなるだろう。
セレンの言い分はフッチたちにだって分かる、助けにいきたいと思う気持ちに嘘はない。しかし勝手な事をして軍を危機にさらすことは出来ないし、シュウだって黙って蛮行を見逃すとは思えない。
今のセレンは熱くなりすぎて周りが見えなくなっている、そんな印象がある。決戦が近く、また、親友だった相手とも決別を選択せねばならなかったことがストレスになっているのかもしれない。
ジョウイと戦う事を決めても、彼にはまだ迷いが残っているようだったから。
その迷いを脱しきれない間は、彼に何を言っても無駄かもしれない。ナナミの言葉でさえろくに聞こうとしないのだから、今の彼は。
フッチの問いかけにセレンからの返事はなく、変わらない調子で吹き抜ける風だけが音を零していく。まるで泣いているように聞こえもする風の声に、フッチは寝転がっているセレンの方を窺って嘆息する。
思い過ごしだと思うのだが、この音色はセレンの想いをそのまま表現しているようで、聞いていて心が苦しい。
「セレンさん……」
眠ってしまったブライトの背を撫で、フッチが小さな声で彼を呼ぶ。
その時、だった。
「うわっ!」
突然予告もなく吹き荒れた突風に髪を攫われ、目を開けていられなくなったサスケが両手を顔の前で交差させて足を踏ん張らせた。フッチもブライトを抱きしめ、身を低くし風に飛ばされぬよう足許の草を強く握った。
寝転がっていたセレンだけが、半回転して俯せになりそのまま両手両足を強く突っ張らせて耐えたのだけれど。
ぱしゃん、と。
おおよそ水辺とは程遠いこの場所では、あり得そうにない事象を体感することになって、顔半分を草の中に沈めたまま目を見開き、唖然となって沈黙した。
ぽたりと前髪を滴った水が落下する。雨が降ったわけでもないのに、全身に大量の水を引っ被ったセレンは驚きを隠せぬまま、暫くそのポーズで硬直する。
風が止んだ。残されたのは、不格好に風を耐えたフッチとサスケ、曇り空の下で濡れ鼠になっているセレン、それから。
涼しい顔で風の名残を見送った、ルック。
となると、今の突風も当然だが風の申し子である彼の仕業という事になる。湖の上空で巻き上げた風であれば、水を運ぶ事も可能だろう。しかもセレンひとりを狙ったピンポイントで。
のっそりと両腕を突っ張らせて身体を起こし、ゆっくり頭を振って額に貼り付いた前髪を振り払って、それから漸くルックを見上げたセレンがなにかを言おうと口を開こうとした矢先。
先手を打つ格好で普段から不機嫌顔のルックが、片手を腰に据えたまま言った。
「頭、冷えた?」
低い声で淡々と告げた彼は徐に指を鳴らす。すると何処からともなく現れた一陣の風が、セレンの頭にコップ一杯分程度の水を落として消えていった。一気に水気を拭くんで重くなった彼の髪がまた肌にべったりと貼り付く。顎を伝い落ちた水はそのまま着ている服の内側に潜り込み、体温に触れて蒸発していく。
髪が落ちた分だけ暗くなった顔をしたセレンが、小刻みに肩を振るわせてルックを睨んだ。けれど自分を見下ろす冷たい視線に居竦まされ、開きかけた口を閉じながら俯いた。
頭だけではない、身体までもが冷えていく感じがする。それは決して、上からぶつけられた水だけの所為ではないだろう。
ルックの視線が痛い。顔を逸らしたまま小さくなるセレンに、ややしてから彼は呆れたように吐息を零して髪を掻き上げた。
雲に隠されていた太陽が顔を覗かせる。彼らの居る草原にも光が立ちこめる。
「シュウからの伝言、片方は伝えたからね」
頭を冷やせ、と。恐らくあの軍師はルックに言葉だけを伝えるように命じたのだろう、だからデュナン湖の水は彼からのおまけと嫌味だ。
「大丈夫か、セレン」
やっと状況を理解したらしいサスケが姿勢を戻し、セレンの背中に問いかける。突風で眠っていたところを邪魔されたブライトがむずがるのを、必死で宥めていたフッチが突っ立っているルックを軽く睨んだ。
これはやりすぎではないかという視線の訴えを、ルックは冷めた調子で受け流して再び俯いているセレンへ視線を戻した。濡れて大人しくなっている彼の髪を見下ろしてから、不意に膝を折ってその場にしゃがみ込んだ。
なるべくセレンの視線と高さを揃えながら、静かに言う。
「シュウから、もうひとつの伝言」
ラダトへは、サウスウィンドゥ市に駐留させている軍の一部を差し向けた、と。報告は適時入っており、白狼軍の残党も最初の報告であったほど大人数ではないとの事。念のために国境警備の軍を増補強するものの、戦後の事も考えてなるべく、地元に根付いた警備軍だけで事態を収拾させたいとの事。
同盟軍が勝利を収めたとしても、地方各地はやはり今まで通り、自分たちの身は自分たちで守るのが大前提になる。だから強いなにかに支えられ、庇護される環境に甘んじて慣れる事はさせられないとの、シュウの考えが訥々とルックの口から語られる。
セレンはルックの言葉を黙って聞いていた。後方のフッチとサスケも同様に、口を閉ざし風が詠うように流れていくルックの声を聞いた。
すべてを伝え終えたルックはひといきつき、それから濡れたセレンの髪に触れてその頭を一度だけ静かに撫でた。
「頭、冷めた?」
手を離す瞬間呟いた彼の声に、セレンは静かに頷いた。
今だけを見ているだけでは、ダメなのだ。もっと先まで見据えて、その場その場での解決策ばかりを追い掛けても、道はやがて塞がってしまう。広く、深く、時には厳しくしながらも長い目で見れば優しい手段で、最善の方法を考える。
それが出来なくなっていたセレンを、シュウは遠回しに責めた。そして、立ち直るきっかけを与えてくれた。
自分がまだまだ子供である事を思い知り、やるせなくなる。大人と呼べる存在には、自分はあまりにも遠く及ばない。
「誰も、君が悪いだとかバカだとかは言ったりしない。君の考えた事は、誰だって思うことだ。間違っていない、むしろ正しい事だろうね」
ルックの声が風に融けていく。
「その気持ちを忘れない事だよ。あとは、これから君がどう動くか、だけど」
どうする? とルックは真っ直ぐな瞳をセレンへと投げつけた。今度は逸らすことを許さない勢いを秘めている視線に、彼は顔を上げても迷いから抜けきれない様子で目線を泳がせた。
彷徨わせた先に、サスケとフッチを見つける。彼らは笑って、そして力強くセレンに頷いて見せた。
「怒られる時は一緒に怒られてやっからよ」
「そうですよ、ひとりじゃないんですから」
だから、戻ろう?
ふたりからルックへと、セレンは振り返る。立ち上がっていた彼が差し伸べた手を、彼は逡巡の後しっかりと握りしめた。
「ゴメン……」
「謝るべきは僕じゃないだろう」
「うん。でも、ゴメン」
セレンの手を引っ張り上げて立たせたルックの、つっけんどんな口調に相変わらずだと笑って、彼はもう一度改めて謝罪と礼の言葉を告げた。手を離したルックが、急に背中を向けて帰るぞ、と言う。
フッチがその様子を見てクスクスと笑った。
「ルック?」
「シュウが会議を中断させて待っているんだ、他の連中も一緒に。今すぐに戻らないとあとでどうなっても知らないからな!」
唐突に声を荒立てて叫んだルックにきょとんとしたセレンも、会議に参加しているメンバーに誰が居たかを思い出して慌てた。席上にはビクトールやフリックも居る、特にビクトールはなにかをやらかすと思ったら本当にやりかねないから、困る。
「でも、その前にやっぱり飯だろ、昼飯」
ぐぅと鳴る腹を押さえたサスケが後ろで叫んだ。言われて、セレンもフッチも自分たちが朝食以後一滴の水も飲まずに居たことを思い出した。そうなると、もう空腹が湧き起こってきて収まらない。
ルックが苛々したように頭をかき、「飯」を連呼するサスケを振り返って怒鳴った。
「五月蠅い!」
その手に宿された真なる風の紋章がにわかに輝きを帯び始め、サスケが自分を取り巻く風の異様な動きに気付いた時には、もう。
彼の姿は忽然とその場から消え失せていた。恐らく今頃、城の厨房に突然降って沸いて現れたサスケに、ハイ・ヨーをはじめとした食堂の人々は騒然とし、サスケ自身も何が起こったのか分からなくて面食らっている事だろう。
残されたフッチが、自分の肌に触れた風に苦笑った。
「ルック」
ゼーゼーと肩で息をしているルックを見上げ、セレンが彼を呼んだ。何だ、と不機嫌極まった顔をして振り返ったルックに、しかしセレンは強者の心臓でさらりと、にこやかな笑顔を浮かべて言った。
「ぼくも、お腹空いたかな?」
ぴしっ、と。
ルックの背後でなにかが音を立ててひび割れるのを聞き、フッチは更に苦笑いを深めた。腕の中のブライトが、窮屈そうに首を振る。
「セレン?」
「お腹空いたな、ルック」
ね? と小首を傾げてお強請りをする姿は、辛かった幼少時に人から同情を得るために彼が独自に培った能力だろう。天然だけに、尚更厄介だ。
「あぁぁ……」
長い溜息をついてフッチは額を抑えた。しかしちゃっかり、自分も運んで貰うためにセレンの側に寄る事は忘れない。彼もこの三年間、各地を放浪して色々なことを学び、処世術も手に入れた。
利用できるものは、なにがなんでも使い倒せ。
にこやかに微笑むセレンと、苦笑しつつもちゃっかりご相伴に預かろうとしているフッチ。ふたりを見つめ、ルックの背後にはなにやら不穏な空気が渦巻いている。いっそデュナン湖の真上に落としてやろうかと、危ない思考に至りかけた彼だったが、思い直してやれやれと肩を竦めた。
勝手にしろ、と鼻を鳴らして指を弾く。
風が起こり、ふたりを包んだ。
笑ったままルックに手を振った彼らの姿が消え失せる。ひとり残されたルックはだるさを訴える腕をだらんとぶら下げ、ざまあみろとばかりに薄く笑みを作った。
その頃、レイクウィンドゥ城では。
食堂の厨房に出現したサスケに続き、沸かしたてで熱々の風呂場にフッチとブライトが出現し、ほぼ同時刻に静まりかえった会議場に置いては。
忽然とセレンがシュウの真上に降ってきて、椅子ごと見事に潰れた彼の上でセレンは暫く目を回し、会議は続行不可能としてそのまま終幕したという。
彼方から来る風の声を聞け
孤児院の裏手にある空き地に猫が棲みついているらしい、という情報は彼がフラットにやって来て間もなく入手出来た。餌をやって手懐けるのは構わないが、連れ込むなと強調してくるガゼルに苦笑って、トウヤは黙ったまま頷く。
自分がひとり増えただけでも経済状況は果てしなく苦しい孤児院に、更にわらわらと人間やそうでない存在が増殖している現在、例え猫一匹であっても食糧を分配できる余裕はないのだ。しかしむしろ、その猫に釣りの餌を分けて貰っているというある意味奇妙な関係にある空き地の猫は、もしかしたら自分たちの苦境を分かっているのかも知れないとさえ、思わせた。
リィンバウムの猫は頭がいいんだな、とそんな風に考えている事を相棒に告げると、彼は呆れたように肩を竦めて首を振ったけれど。
「バカじゃないのか」
ソルはそう言って幾分自分よりも高い位置にあるトウヤを見上げ、鼻を鳴らして笑った。そんなわけがないだろう、と。
同類と思われているんじゃないのか、と聞きようによってはとても酷いことをさらりと言われ、いたく傷ついた顔をしたトウヤにソルはまた笑う。トウヤはどう見ても人間で、大きさから言っても平均並みかそれ以上だ。身長が。リプレには年下に見られてしまったけれど。
自分はそんなに頼りなさそうな顔をしているのだろうか、と鏡に映し出される自分を思い浮かべつつトウヤは空き地へと向かう。ソルが二歩遅れてついてくる。その距離がまだ自分は彼に、完全に信頼されていないのだなと判断するに足る間隔だった。
横に並ばれた事は未だに無い。だが最初の頃はもっと距離が開いていた事を思うと、多少は彼の中にあった自分への警戒心は薄らいだのだろうか。口では責任を感じているから、と言っているけれど彼にはまだ何かありそうだと、生まれつきの感覚が告げているけれども。
大丈夫、彼は信じて良い。そう思おうとして瞼を一瞬伏せた。
「トウヤ」
しかし考え込み過ぎていて目的地を通り過ぎようとしていたらしい。背後から投げかけられた声にハッと我に返って振り返ると、空き地を区切っている廃墟の崩れた壁を前にしてソルが立ち止まっていた。
どうかしたのか、とトウヤが今何を考えていたのかを感知しない表情で彼を見つめている。その細く白い手が真横の空き地を指さした。
「此処じゃなかったのか?」
それともトウヤがいつも猫を相手に戯れている場所とは、もっと先にあるのか。言葉尻に色々な疑問を付け足したソルの問いかけに、トウヤは慌てて取り繕うように笑って首を振った。ソルが指し示している場所こそが正しいのだと表情に浮かべて、小さく頷く。
ごめん、と呟き其処で良いのだと教えて彼は踵を返した。ソルはまだ納得しかねる顔をしていたが、ぼんやりしていたんだよと重ねて告げると、漸く彼はふぅん、と相槌を打って頷き返してくれた。
彼を疑っているわけではない。むしろ今のこの状況にある自分をどうにか出来るのは、彼だけなのだから。
召喚師、そういうものはお伽噺の中の存在だと思っていたけれど。
異世界も、全部絵空事の夢物語としか考えた事が無かったけれど。意外にそういう非科学的な事が蔓延している世界に落とされても、自分が冷静である事に驚く。それもすべて、フラットの仲間たちと彼の御陰なのだろう。
だから信じたいのだ、信じなければ自分はあらゆるものを疑わないといけなくなる。
「トウヤ」
彼はまた名前を呼んだ。特徴的な服装を身に纏った年齢よりも幼く見える顔が、トウヤを見上げている。同学年にもこれくらいの身の丈の男子は居たが、栄養状況が悪いのかトウヤの見知っている誰よりも彼はか弱そうに見えた。
もっとも、見た目だけに騙されると痛い目を見るという事実は知っているけれど。ソルはこれでも、恐らくは優秀な召喚師なのだから。
この世界に於ける召喚術の力は絶大である。一部の特権階級だけが独占している力は、軋轢を産み権力を偏らせる。金の派閥という存在を既に見ているだけに、その思いは大きい。
だがトウヤとて、その特権階級が持ち得る力を無意識に行使できる立場にあるのだ。見る者にとって見れば、学んだわけでもないのにその力の意味を知らぬまま振るっていたに近い彼は、脅威だろう。
争い合いたいわけではないのにな、と自嘲気味に笑みを作る。色々と考え込む間も殆ど声に出さずに頭の中で片付けてしまうトウヤは、ソルからしてみれば百面相をしているようなものだ。
「どうかしたのか?」
「ああ、考え事をね」
少し、と本当のことを言い訳してもソルはやはりふぅん、と相槌を返すだけだ。知りあってすぐに気付いた事だが、彼は殆ど自分のことを話さない上に他人のことにも干渉したがらない。
知りたがらない、交わりたがらない。まるで自分の周りは全部で敵です、と一歩半引いた場所に立ち続けているような。それでは疲れるだけだろうに、彼はその事に気付かない。
いや、知らないだけなのか。
またごちゃごちゃと考え初めたトウヤの眉間の皺に怪訝な顔を作り、ソルは気を取り直して目の前の空き地に視線を流した。打ち捨てられ廃棄された家屋が崩れた残骸が散らばっている、子供達は危険なのであまり近付くなと注意されていたが、トウヤはもう一応、この世界では相応に大人の扱いをしてもらえる年齢だった。事故責任さえ持っていれば、悪い事をしない限り咎められることもない。
乱雑に積み上げられ、汚れも酷く足場も相当に悪い空き地をひととおり見終えて、ソルは嫌そうに顔を歪めた。しかし考えを終了させたトウヤは、慣れた足取りで道を塞ぐ、崩れた梁をひょいっと飛び越えた。
高さの異なる足場に立った所為でトウヤの身体が頭ひとつ分、ソルよりも高い位置に行く。見下ろされる事にむっときて、ソルは躊躇しかけていた足を前に出した。上るのに手を貸そうと差し出されたトウヤの腕は、視界の端に追いやる。
猫の鳴き声は確かに聞こえた。それも意外に数が多い。
「やっぱり同類に思われてるんじゃないのか」
餌を持っているわけでもないのに、空き地の中心に近い場所に向かうに連れて数を増やしていく猫の姿にソルは呟いた。トウヤが苦笑する、もう反論する気はないらしい。実際これだけの猫に囲まれてしまえば、自分もそう感じてしまいそうだった。
或いは前世が猫だったとか。
栓もないことを考えつつ、トウヤはいつも自分が座っている背もたれの壊れた椅子に腰を下ろした。他に座るものはないものか、とソルも周囲を窺ってみたものの、どこも汚れきっていて結局疲れると分かっていても立ち続ける事を選んだ。
ひょっ、と座ったトウヤの膝に黒い毛並みをした猫が飛び乗る。他にも白ぶちだったり虎柄だったりと雑多な猫が集まって、ソルを珍しそうに見上げてきた。
不躾な視線を感じ、居心地が悪い。誘われたから来ただけだが、やはり断っておくべきだったとソルは今更ながらに後悔してトウヤを見た。彼は上機嫌に、甘えてくる猫の喉を撫でている。
フラットの子供達に向けるのと大差ない笑顔だ。
「好きなのか?」
猫が。
問いかけに顔を上げたトウヤに言葉を重ねる。すると問いかけ自体が意外だったらしいトウヤが表情を一瞬だけ凍らせ、そして破願させた。
「なにがおかしい」
「いや、そうじゃなくってね」
憮然となったソルに笑いを必死で押し留めながら、トウヤは手と首を振った。膝の上の猫がなんだろう、と琥珀色の双眸を彼に向けている。媚びるような甘い視線は、人間の女がやれば充分な婀娜っぽさを醸し出すことだろう。
「昔のことをね、少し思い出した」
猫が特別好きというわけではない、ただ今現在の状況に猫以外の愛玩動物が存在しなかっただけだ。ここまで好かれるのは正直意外だったし、自分が猫たちに好かれる理由もさして思い出せない。
やはり本当に、前世は猫だったのだろうか。
「昔?」
「僕の家には犬が居るんだ」
番犬も兼ねて、恐らくはラミよりもずっと大きな体躯をした犬が飼われている。もうかなりの年寄り犬だけれど、多分今も元気に庭をかけずり回っているだろう。トウヤが小学生の時からのつき合いで、今や家族の大事な一員になっている。
そして猫は飼っていない。ただ一度だけ、小学生の時にトウヤは捨て猫を拾って帰った事があった。
見付かれば絶対に捨てられてしまうからと、まだ目も開いていない仔猫を服の中にこっそりと抱いて家に帰った。薄汚れた毛並みをした猫はとても弱っていて、か細い声で親を呼び続けているようだった。
けれど、幾ら当時から聡い子だったとはいえ、小学生程度の知恵で仔猫を守り通すことなど出来るはずがない。夜も更けないうちに祖父に見つかり、その日のうちにトウヤは猫を、拾った場所に戻しにいかなければならなかった。
「……ふぅん」
興味ない声でソルが相槌を打つ。トウヤは小さく笑った。些か自嘲気味に。
「あの時はね、とても悔しくって、それでいて哀しくて。泣きじゃくりながら橋の下まで行って、一晩中蒲団の中で泣いたよ」
祖父とは一週間近く顔を合わせても口を利かなかったし、と幼かった日々を思い出して彼は笑う。ソルは変わらない表情で視線を逸らした。
祖父、父親の父親。自分の血脈の祖。知識として知っているが、ソルはその存在を肌で感じた事がない。ただでさえ親、という存在との関わり合いが希薄だったのに。
「嫌いになったのか?」
「誰をだい?」
「祖父」
何気ない問いかけだった。即答で単語のみで答えたソルの無表情さに隠れた感情を読みとるように、慎重にトウヤは彼を下から窺い見た。膝の上で彷徨った手が猫の背を撫でる。
「その時はね。でも、うちにはもう犬が居たし、お爺ちゃんの言いたいことも今なら分かる気がするから」
あとから母に聞かされた話しでは、祖父はあの後近所で猫を世話してくれそうな人を捜してくれていたそうだ。次の日、トウヤが学校に向かう途中で橋の下に寄ったときにはもう、あの猫は居なかったから。
何も知らない間は、仔猫は保健所にでも連れて行かれてしまったのだと祖父を恨みもした。真実を知ってからは、祖父の厳しさと優しさを思う。
命に責任を持てない間は、好きという理由だけで命を守ろうとする行為も結局は命を弄ぶ事に大差ないと、随分あとになってから諭された。同情や愛護心だけで動くことが危険である事を、教えられた。
「尊敬している、祖父の事は」
遠くの空を見上げてトウヤが呟く。そして不意にソルを振り返り、君は? と問う。
ソルは言葉を詰まらせた。視線を彷徨わせ、足許に落とす。無意識に胸ぐらを掴んだ自分の手を握り、手の平に爪を噛ませる。
「俺は、知らない」
会ったこともなければ、生きているのかも知らない。どうしているのか、何処にいるのかも興味を持ったことがなかった。
他者の命に気を配る事などしたことがなかった。
「ソル?」
下を向いたまま黙りこくってしまったソルを心配げにトウヤが呼ぶ。掴もうと持ち上げた腕が、けれど彼に辿り着く前に弾き飛ばされてしまった。
ぱしん、と軽い音が周囲を一瞬支配する。叩かれたのだと理解するのに、トウヤは少し時間が必要だった。
にゃー、という間延びした猫の声が場に不釣り合いに響き渡る。
「あ……」
気まずげに視線を逸らしたのはソルが先だった。叩いた手を胸に抱き、痛くないはずなのに痛そうに顔を歪めている。トウヤが肩を竦め、膝の上で欠伸をしている黒猫を両腕で抱き上げた。
「ソル」
何気ない仕草で彼を呼び、自分へと注意が戻ってきたソルに向かって抱き上げた暖かい猫をはい、と手渡す。
反射的に受け取ってしまったソルが、何をされたかに直後気付いて顔を紅潮させた。しかし渡された猫をさすがに放り投げるわけにもいかず、落とさないように注意しながら怖々と手だけで抱いてみる。バランスが悪い抱き方に、猫の方が嫌がって暴れた。
「違うよ、ソル。もっと優しく抱いてあげないと」
嫌がっているだろう、とむずがる黒猫を指さしてお手本を示すように、トウヤは足許にすり寄ってくる別の猫をまた抱き上げた。胸と腕で支え、喉を優しく撫でてやる。機嫌よさげに猫は頬ずりし、瞼を落として目を閉じる。
そのあまりに慣れた仕草に、ソルは見よう見まねで猫を撫でてみる。最初は不器用な手付きだったものも、少しすればなんとなく感覚が分かるようで、徐々に硬さが薄れていくのがトウヤの目にも分かった。
「ソル」
猫は好き?
甘える仕草を繰り返してくる猫が気に入ったのか、優しい手付きで猫が好きな場所を探しながら撫でてやっている彼に、トウヤはそんな事を訊いた。意地悪そうな笑みを浮かべていた事に気を悪くしたのか、ソルは黒猫を抱き直してむっと唇を山なりに尖らせた。
「嫌い」
即答で返されて、トウヤは苦笑する。
あの日、橋の下で拾った猫は。
きっと今頃、セントバーナードと一緒に母屋の軒下で日向ぼっこでもしていることだろう。
風の唄、君の声
青臭い草の香りが鼻先を掠めていく。後頭部を預けた緑の草は、体重を受けた分だけ傾き、または完全に根本から倒されてしまっていた。
しかしこういった道端に生える野草は、えてして重圧に強く少々のことではへこたれない力がある。雑草魂とはよく言ったもので、だとしたら自分は、種の段階から大事に花壇で育てられた、英才教育や生え抜きといった連中とは違う雑草なのだろう。
見てくれは悪いし、見栄えもしないし、役立たずかも知れないけれどでも、ちょっとやそっとでは倒れない。そういう自分で良いと思う。
もっとも強がりだと言うことも、分かっているのだが。
経験が無い、実力は疑問符。努力は人一倍、負けず嫌いも誰にも負けない。でも打ちのめされそうになる、その度に負けないと立ち上がる。
雑草だ、まさしく。
「は~~~~」
自分の現在の力具合が良く解る試合だった。六月の中旬、もうじき夏の高校野球県予選大会が始まろうとしている時期の日曜日。午前は練習、午後は他高校との交流、もとい練習試合があった。
その試合相手の学校がまた強く、聞いた話では去年の予選大会決勝で十二支高校と戦い、そして勝利したのだと言う。成る程、県代表に選ばれた高校であれば、強いはずである。近年の甲子園常連校と言われて、そういえばニュースで偶に名前が呼ばれていたから高校名だけは聞き覚えがあるような気がした。
これくらいの知識、高校球児なら知っていて当然だろう、という犬飼の嫌味に過剰に反応してしまったが、確かにもう少しその辺は勉強しておくべきだろうか。
ともかく、オレ達は夏の予選を前にして最終調整に入りつつある、レギュラーの試合を目の前にする事になったわけだ。ゴールデンウィーク中にあった合宿で、多少の変動はあったものの一年で背番号をもらえたのは、やはりピッチャーの犬飼くらいで。
俺はベンチの後ろの方から、絶対に前に出て騒ぐなと釘を刺され重しとして膝の上に兎丸の奴を乗せられて後ろからはベンチ越しに司馬に拘束されて、というなんとも情けない格好で観戦する事のなった。隣では子津と辰羅川がふたりで野球のルールから細かく俺に説明してくれて、両側から流れてくる読経のような解説を聞きながらでも俺は、目の前で繰り広げられる光景に釘付けになっていた。
先輩達の凄さは、合宿での試合でもその後の練習ででも見せつけられていた。あの人達がどうして去年、甲子園に行けなかったのかもの凄く疑問だった。
確かに去年で在れば虎鉄先輩も猪里先輩も今のオレ達と同じ一年生で、レギュラーではなかったかもしれない。けれど牛尾キャプテンや蛇神先輩は多分試合にはフル出場だっただろうし、あのふたりだけでも充分対戦校には脅威だと思う。
その疑問は、今日の試合で解消された。
先週の日曜日もやっぱり練習試合があったけれど、対戦校は確実に十二支高校よりもランクが下で、レギュラーも半分しかスタメンに名前を連ねていなかった。それでも六点差の快勝だった。
でも今日は違った、初回からレギュラーがグラウンドに散っていったに関わらず、十二支高校は一点差で負けてしまったのだから。
俺は目の前で繰り広げられる、信じがたい光景に目を奪われた。いつもの莫迦騒ぎやギャグ連発、それ以前に自分を拘束している兎丸と司馬を振り解こうとか、そういった行動に出ることさえ忘れてしまっていた。ただ茫然と、牛尾キャプテンまでも三振に打ちとった犬飼の高速球が簡単に打たれていくのを見つめるだけだった。
犬飼は三回で連打を浴び、降板。鹿目先輩が後続を打ちとったものの、先取された事があとあと長く尾を引く結果となった。
相手投手は犬飼と違い、鹿目先輩と同じ技巧派変化球タイプ。けれどカーブ以外にもシュートとフォークを巧みに使い分けてくる投手で、球筋の読みづらさに蛇神先輩までもが翻弄されていた。
カーブを打つだけでも苦労していたオレに、果たして打てるだろうか。考え込んでしまって、憂鬱になる。今まで自分は十二支高校野球部という狭い世界にしか居なかったのだと、身をもって教えられた感じだ。
鳥肌が立った。
けれどそれ以上に寒気が走ったのは。
「猿野君?」
あの時の事を思い出してぶるっ、と身震いしたオレの頭上で唐突に声が響いた。その声には充分聞き覚えがあって、けれどまさか、という思いが強くて、オレはがばと寝転がっていた河原の草場から身体を起こした。
振り返る。柔らかな草の上に手を置き、腰を捻る。傾斜のある現在位置よりも二メートルほど高い位置に、牛尾キャプテンが立っていた。
「キャプテン!」
「道草は感心しないよ、猿野君?」
驚いているオレに爽やかな笑顔を無駄に振りまき、キャプテンは河原と道路とを隔てている短い坂道の草むらに足を滑り込ませた。靴裏でしっかりと地面を踏みしめ、右肩にスポーツバッグを引っ掻けジャージ姿のままのキャプテンは、程なくしてオレの横へ到達する。
かく言うオレも、実はジャージのままだったりするのだが。キャプテンのものよりも少し小振りサイズの鞄は、足許に無造作に放り出している。
「キャプテンこそ……」
「僕は帰り道だよ」
「オレだって、そうっす」
嘘だ。オレの家はこっちじゃない。けれど本当のことを言うのは憚られて、隣に腰を下ろして座り込んできたキャプテンの顔から視線を逸らし呟き返す。先輩の頭には、今痛々しい印象を与える真っ白な包帯が巻かれていた。
今日の練習試合、一点差で負けた。その原因は打たれてしまった犬飼にもあるのだが、逆転できる要素は充分にあった。実際、鹿目先輩は三回から一点も相手チームに与えなかったのだから。
だから、負けた原因は。
あの時、打席に立ったキャプテンに向かって、相手ピッチャーが投げた球。キャプテンが強打者だという事を意識しすぎたのだろう、と辰羅川が言っていた。カーブのすっぽ抜けだった、と子津が教えてくれた。
「頭……大丈夫なんですか?」
恐る恐る傍らの存在を窺いながら問いかける。自分へ顔を向けた事に気付いたらしいキャプテンが、にっこりとまた微笑んだ。
「見た目が大層になってしまっているけれど、彼処まで騒ぐ程じゃなかったんだよ」
微笑みを苦笑いに変え、キャプテンは自分の頭に巻かれている包帯を指さした。
危険球で、相手投手は降板した。続いてマウンドに立ったピッチャーは、先発していた投手よりもランクが下がったもののこちらとしても、攻守の要であり十二支野球部の柱である牛尾キャプテンの負傷に、部員全員が動揺した。
キャプテンは問答無用で病院に送られ、同伴で監督までも試合後は各自解散、とだけを言い残しマネージャーに後のことを任せてタクシーで行ってしまった。その後はもう、ガタガタだった。
牛尾キャプテンの存在がいかに部内で大きなものだったのかが、良く解かった日だった。
ヘルメットに当たったのだけれど、微妙なラインだった。表面を切ったらしいキャプは右目の周囲を血で染めていて、ベンチを飛び出したもののそこから動けなかったのは自分だけではなかった。
「血、いっぱい出てたじゃないですか」
「頭は血管がたくさん走っているから、ちょっとした傷でも血が溢れるようになっているんだよ」
あんなに大騒ぎされると、大丈夫だと言っても誰も聞いてもらえないものだね、とキャプテンは笑って言う。あの時はそんな状況ではなくて、大量出血に猫湖は気絶寸前だったし、いつも冷静沈着な蛇神先輩も激しく動揺していた。
近寄って声を掛けることも出来ず、茫然と立ち尽くしていたオレ。心配要らないからと病院へ行くことを拒んだのに、結局監督と相手チームの監督にも推しきられてグラウンドを出ていく背中を見送るだけだった。
場は騒然となり、血気盛んな虎鉄先輩が相手投手に食ってかかるのを、猪里先輩が必死に止めていた。いつもならオレも、虎鉄先輩と一緒に飛び出していて子津あたりに止められていただろうに。
何故だろう、あの時はそんな風に考えることも出来なかった。脳内が麻痺して、全身が凍り付いたように冷えて動けなかった。
もし、万が一のことがあったら、と。
恐かった。
「本当の本当に、大丈夫なんですか?」
しつこく食い下がり、オレは尋ねた。その度にキャプテンは笑う、密やかにオレの顔を見つめて。やがて草の上に置かれたままだった大きな手がオレの髪に触れ、わしゃわしゃと少し乱暴に掻き乱していった。
土と汗と、それから草の匂いが混じり合っている。オレは子供扱いされたような感じで、むすっと唇を尖らせると頭の上にあるものを掴んだ。オレのなんかよりもずっとしっかりしていて、力強さを触れるだけでも感じさせる手に、言えた義理ではないが理不尽さを覚えてしまう。
いつかオレの手も、こんな風に誰かを支え導いていくだけの強さを持ったこの人のような手に、なれるだろうか。
「心配?」
ふっ、と。
間近で吐息を感じて視線を上げると思った以上に近い場所にキャプテンの双眸があって、思わず後込みして腰を引こうとしたものの掴んでいたハズの手を、いつの間にか逆に掴み直されてしまった。
逃げ道を封じ込まれ、オレは真っ直ぐに問いかけてくる綺麗な瞳を見つめながら黙って頷いた。
「大丈夫だよ」
オレの反応に満足したのか、先輩は手を放してくれた。けれど握られていた箇所がいつまで経っても熱いままで、どうにも落ち着かなかった。俯いていると、またぽんぽんと頭を軽く撫でられた。
「医者には暫く安静にしているように、とは言われてしまったけれどね」
だから部活は当分見学だよ、と肩を竦めて嫌そうに言う。それが本気で残念がっていて、だからこそ可笑しくてオレはつい笑ってしまった。途端、見付かって額を小突かれる。
「じゃあ、そうだね。折角だから見学中は猿野君に個人指導でもつけてあげようか」
「本当ですか!?」
思いがけないキャプテンの申し出に、オレの方が驚いて躍り上がってしまう。上げた声がひっくり返ってしまって、微妙な裏声が混じってしまい喉に音が引っ掛かって掠れた。今度はキャプテンが笑う番で、オレは気まずさを覚えながらも前言を撤回されないか不安げに、キャプテンの顔を覗き見た。
二言はないよ、と笑いながら言われて、いまいち説得力に欠けていたもののオレは頷き、へへっと笑った。
まだまだ練習が足りていないオレだけれど、正直なところどこがダメでどこが良いのかさっぱりだ。だから誰かに指導してもらわなければならないのだが、いつまでも子津たちに甘えっぱなしも正直心苦しい。
例え数日間だけであっても、キャプテンに指導してもらえるのは有り難かった。
「よーっし、明日からやるぞー!!」
気合いを入れて拳を突き上げて叫んだオレに、キャプテンが穏やかな笑みを浮かべる。傍らに沈めていた鞄の取っ手を肩にひっかけ、そしてやおら立ち上がった。
「決意も固まったところで、そろそろ帰ろうか。暗くなる」
夏も間近に、日は随分と長くなった。けれど日が沈んでしまえば空はあっという間に闇に包まれてしまう、昼間の暖かさが時として嘘のように肌寒さを訴えるようになる。
言われて時計を見れば、もう午後七時を目前にしていた。試合が終わったのが午後四時ちょっと過ぎだったから、かなり長い間ここに居たことになる。その前に一時間ほど、此処までの道のりを歩いてきてはいたが。
気がつけば自分の家とは逆方向である、名簿だけでしか見たことのない住所を探してしまっていたのだ。
「送っていこうか」
「医者に安静を言い渡された人が、何言ってるんですか」
こういう場合は、送るのはむしろオレの仕事でしょう。そう言ってオレは自分の鞄を担ぐとぐいっ、と先輩が持っているスポーツバッグを引っ張り、半ば強引に奪った。
驚いた目をする先輩に笑いかけ、ふたり分の鞄を肩に担ぎ上げる。普段から力仕事に慣れているオレにとって、こんな鞄は重い部類には入らない。平然と歩き出そうとしたオレは、最初こそ坂道の草に爪先を滑らせそうになったけれど、見越した先輩に背中を支えられてアスファルトの道へと無事に戻ることが出来た。
「持つよ」
「良いッス、持たせてくださいって」
これくらいしか出来ないのだから。あの時、血を流している先輩に声を掛けることも側に駆け寄ることも出来なかった自分が、今この人にしてあげられる優しさは。
困ったように先輩は顔を顰め、それから少し考えて諦めたように息を吐いた。
「なら、猿野君のご厚意に甘えさせてもらおうか」
細い道に夕日を受けた長い影を伸ばし、オレ達は並んで歩き出す。
「そういえば」
ふと、先輩が言った。夕焼け空をキラキラと髪に反射させて、オレを振り返る。
「猿野君の家は確か、逆方向じゃなかったかな?」
「え゛……っ」
しっかりばれていたらしい。変な顔をして変な声を上げてしまったオレを見つめながら、先輩はくすくすと口元を隠して笑った。
「迷子?」
「違います!」
いくら対戦相手の高校の場所が初めて行く方面だったからと言って、途中まではバスを使ったのだ。知っている道をわざわざ迷子になるほど、オレはバカじゃない。憮然として言い返したオレに、突然先輩は笑みを消した。
どうしたのだろう、と怪訝に思っているオレの前で、先輩は不意打ちにようにオレの顔の、目の前でにっこりと微笑んだのだ。
あのまま前に進み続けていたら、あらぬ場所が触れあいかねない状況で。跳ね上がった心臓がセーブをかけてくれた御陰で、あと一センチの距離でオレ達の間隔は保たれたけれど。
何故か残念そうに先輩が離れていく。一体何がしたかったのか分からないで居るオレをまた笑って、目を細める。
「嬉しいね、そこまで心配してくれたんだ」
「うっ」
時間が余ったから散歩していただけ、だとか。その辺をブラブラと歩いていたら昼寝をするのに丁度良い河原があったから寝転がってみたのだ、とか。
そういう言い訳はたくさん頭の中を過ぎっていったのに、口から吐いて出るのは否定できずにいる呻り声だけだった。
いっそ、開き直ってしまった方が楽か。
「……そうっすよ、心配だったんですいけませんか!?」
早口で叫んでぷいっとそっぽを向く。笑い続けていた先輩の声が止んだ。
いい加減熱も冷めていたはずの、右手を、握られる。忘れていた熱が再発して、更にさっきよりも温度が上昇していた。
収まっていた心臓の鼓動が再び速まる。
「嬉しいよ」
さらりと、耳元で囁かれた。吐息が耳殻を擽る、背筋に知らない感覚が走った。
「キャプテン!?」
「ありがとう」
動揺を隠せないまま振り返り見たオレに、最高の笑顔でそう告げるのは卑怯だ。視線が外せなくなってしまうではないか。
「ぅあ……」
赤くなったまま俯いたオレの手を、先輩が促すように引く。オレは導かれるままに道を行く。
足許に薄らいでいく自分の影が見えた。西の空一面だった夕焼けが、夜を顕す濃紺に呑み込まれて行く。
結局オレは、先輩の家に着くまでずっと赤い顔で無言だった。
02年6月19日脱稿
秘密の朝
コンコン、と。
二度の遠慮がちなノックのあと、もう一度立て続けに三度扉を拳で軽く叩いて反応を待つ。
だが、予測通り中から応対の声は聞こえてこない。
「…………」
渋い顔を更に剣呑なものに変え、彼はフレームの細い眼鏡を持ち上げた。ともすれば神経質そうな顔を余計に不機嫌な表情に変えて仕舞いかねない眼鏡を、彼は好んで装着している。聞けば近視だが遠視だかとかで、これがないとものを正しく判別できかねるそうだ。
だがなにも、整った顔立ちを駄目にするような眼鏡を選ばなくても良いではないか、というのは彼の弟弟子に当たる青年の弁だ。その言葉には、男の自分が見た目を気にする必要が何処にあるのか、と彼が尋ね返す事で弟弟子を黙らせている。
はぁ、と言う溜息がひとつ。
ドアノブに手を伸ばし、ゆっくりと左に回す。大した抵抗もなく扉はすんなりと内側に開かれ、雑然とした空気を抱えている割にものはそれほど多くない室内が彼の前に姿を現した。
最奥に、勉強机。その横に窓、更にその横に本棚。本棚から少し手前に戻った場所に、ベッド。あとはサイドテーブルになにも刺さっていない一輪挿しの花瓶が載っている程度か。
召喚術師の家系に生まれたわけではない彼には、親と呼べる存在がない。後見人は彼の師範に当たるラウルが務めているが、ラウルとてそれほど裕福な生活を送っているわけではないので彼へ渡る小遣い等のバームは少ない。
召喚師見習いである彼が、勉学を怠ってアルバイトなどに走らないよう、ある程度の金額は毎月与えられているものの、それは総てどうやら、抜け出した時のおやつ代として消えていってしまっているようだった。
授業には出ない、出ても居眠りをする。彼への評価は最低ランクであり、そのやる気の無さは兄弟子たるネスティの頭痛の種だった。それでなくとも、自分たちへの周りが向ける視線は普通よりも遙かに厳しく棘があるものだというのに。
自分から、その棘をより尖らせるような真似をしなくとも良いものを。それがネスティの感想だった。
ドアノブから手を放し押した勢いで扉が閉まるのを背中で確かめ、ネスティは弟弟子、マグナの部屋へ足を踏み込んだ。入り慣れた……ある意味、部屋の正当な持ち主以上に何処に何があるのかを知り尽くしているかもしれない部屋をまっすぐに横断し、ベッド脇に立つ。
問題の部屋の主は、まだ気持ちよさそうに夢の世界を漂っていた。
案の定、とこれで二度目の溜息が彼の口からこぼれ落ちる。
「マグナ、起きるんだ」
まさか、とは思ったけれど念のために様子を見に来て正解だった。ぺしぺしとマグナの頬を手の甲で軽く叩きながら、ネスティは枕を抱きしめてベッドの上を安住の地と決めている彼を呼ぶ。
無論、この程度で目を覚ますような輩ではないことは承知の上。
ぎしっ、とベッドを軋ませてネスティは心地よさげに眠っているマグナの顔の直ぐ横に腕を置いた。真上から覗き込むように顔を寄せると、窓から差し込む光が遮られてマグナの顔に影が落ちる。
「マグナ」
ふっ、と笑ってネスティは寝心地良さそうにマグナが抱きしめている枕を彼から奪い取った。しっかりと握りしめられている指を一本一本解いていくと、むずがるマグナが寝返りを打った。
鼻先をマグナの癖毛が通り過ぎていく。寝癖が混じっていて、いつもよりも跳ね方が大きい。
「起きないと、知らないぞ」
薄笑いを絶やさないネスティが片手をマグナの手に絡め、もう片手で寝癖だらけのマグナの髪を梳く。触れてくる体温が心地よいのか、すり寄るような動きを見せるマグナにまた笑みがこぼれた。
こういう時の動作が本当に猫のようだと、ネスティは常々思うのだがそれを口にするとマグナはムキになって反論してくる。自分で見られないから分からないのだろう、そして他の人間も彼がこんな風に人に甘えてくる事を知らない。
「んぅ……」
額に掛かっている前髪をすくい上げ後ろへと流し、現れた白い肌に軽くキスを落とす。
重ね合った手から、体温が伝わってくる。ネスティの方が少しだけ、低い。
寝ぼけ眼でマグナが瞼を開いた。とろんとした視線が、間近にあるネスティの顔をしばらくぼうっと見つめている。
だが其処に居るのがネスティだとぼやけた頭の中でかろうじて理解したらしいマグナは、繋がれていない方の腕をのろのろと持ち上げてネスティの背に回した。そのまま体重を乗せると、重さに引っ張られたネスティの身体が彼に近付く。
下から抱きしめられる格好になったネスティは苦笑しつつも、それを拒もうとしない。
「マグナ、起きるんだ」
声色は限りなく優しい、そしてどう考えても彼がちゃんと目を覚ますには足りない音量をきちんと計っている。押さえつけていた手も解放してやると、いよいよ両腕で抱き寄せられた。
「ん……もうちょっとぉ……」
幼い頃はひとりで眠れないと言っては夜中、ネスティの部屋まで枕を抱えてやって来ていたマグナだ。基本的に、彼は人に甘えるのが好きなのだ、育った環境の所為で誰かに抱きしめられた経験が著しく乏しくて。
「知らないぞ?」
苦しくない姿勢に変えて、マグナに抱きしめられたままネスティは彼の髪を相変わらず弄っている。
「今日は君の、召喚師としての承認試験だろう?」
だから起こしに来ているはずのネスティまでもが、マグナの寝坊を助長するような行動を取っているのは矛盾している。兄弟子としてあるべき姿は、こうやって夢うつつの彼を寝かしつけるようなものではないはずだ。
声が聞こえているのか聞こえていないのか、薄く目を開いたマグナはやはりまだとろんとした目でネスティを見上げている。状況が理解できていないようだ。
「ねすぅ……?」
舌っ足らずな声で名前を呼ばれると、どうしても顔が笑ってしまってずり落ちかけた眼鏡を正すことでかろうじてそれを誤魔化した。
「なんだ?」
顔を近づけて問いかけると、ぎゅっと更に強く抱きしめられた。
やれやれ、仕方がない。そんな呆れた顔に変わったネスティが、彼の浮き上がった背中に腕を回して身体を引き起こしてやる。その間もずっと、マグナはネスティにしがみついたままで、楽しそうに小さな声で笑っていた。
「まったく」
何時までも子供なのだから、と呟きつつもネスは彼の背中を二度三度叩き、腕を解いた。いい加減解放されたいと思っての意思表示だったが、マグナは嫌がって首を振った。
「こら。もう支度をしないと間に合わなくなるぞ」
コツン、と頭を小突く。だが嫌々と首を振り続けるマグナはくっついたまま離れようとしない。いったい何が不満なのか、三度目の溜息を零したネスティに、マグナはぼそり、と呟く。
「おはよう……」
どうやら、頭はようやく醒めてきているらしい。前ほど活説の悪くない声で呟かれた言葉の意味に、思わずそのまま同じ言葉を返そうとしてネスティは動きを止めた。
――まさか
「時間が無いと、今言ったばかりだろう」
「やだ。起きない」
首に回された腕に力が込められる。一瞬だが息が詰まった。ネスティの胸に顔を埋める形で、マグナがストライキを起こしている。このまま彼の要望に応えずにいたら、本気で彼は試験を放り出しかねない。
確かに、彼が試験に合格さえしなければまたしばらく、本部での息苦しい生活を彼に強いることになるが一緒にいられる時間が減ることも無くなる。そんな事をネスティが考えていたのは事実だが、だからといって彼の経歴に傷を残したいわけでもない。
今まで何百年と続いてきた蒼の派閥の歴史の中で、召喚師試験に落第した見習いはどれも散々な人生を送っている。そんな悲惨な人生を彼に送らせたいわけではないから、困る。
しかもそれ以上に躊躇する理由があるのだ、ネスティには。いや、どちらかと言えば、マグナにか。
「知らないぞ……」
「ん」
四度目の溜息のあと、ネスティは腹をくくった。彼の返事に嬉しそうな声を返したマグナが顔を上げ、にっこりと微笑みそして目を閉じた。
「おはよう」
そう告げ、ネスティは若干首を傾がせて角度を作った。そのまま顔を寄せ、薄く開いているマグナの唇へ己の唇を重ね合わせる。
「ん……」
柔らかな感触を触れあわせるだけで収めるつもりだったネスティだが、変わることなく首に回されているマグナの手は緩む気配がない。離れようとすると、逆に強く手を結びあわせて彼を逃がさないように拘束する。
ちろり、と隙間から抜け出してきたマグナの舌先がネスティを擽る。
そう、触れあうだけのキスで満足できないのだ、寝起きのマグナは。完全に目を覚ましている時は別だが、今のような半覚醒状態の彼は手に負えない。
しかも、朝は……。
「んぅ、んっ……」
渋々と舌を絡めてやり、ネスティはマグナの開かれた口腔へと入り込む。両手で彼の頬を挟み持ち、より深く唇の繋がりを求めるとようやく苦しそうにマグナはネスティから逃げる動きを見せた。
濡れた音が口内で小さく響き、飲み下しきれなかった唾液が互いの接点から溢れ出して下になっているマグナの喉元に川を作った。少し乱れた寝間着の中まで伝い落ちていくそれを、ようやく彼を解放したネスティが指先で掬い上げた。
びくり、とそれにさえマグナは肩を揺らして反応する。
「起きたか?」
「う……」
鎖骨の辺りを彷徨っていたネスティの手が、赤くなっているマグナの口元も一緒に拭って離れていった。
「起きたのなら、さっさと支度をしろ。試験開始に間に合わなくなる」
時間を気にして、ネスティはマグナの額を小突いた。自分が散々焦らした起こし方をした所為だとは、間違っても口に出したりしない。そもそも、マグナがひとりでちゃんと時間通りに目覚めていられたら、こんな結果にはならなかったわけなのだし。
小突かれた方もしばらく唸っていたが、時間が無いことは本当なのでネスティを上目遣いに睨みながら渋々と準備を始めようとした。
だが。
ネスティから離れようとしたマグナが、ベッドの上で固まる。
はぁ、と本日五度目の溜息。溜息をつくと寿命が縮むと言われるが、毎日十度以上溜息を零しているネスティは、すると余程マグナに寿命を浪費させられているらしい。
「自分でするか?」
「……ネスぅ、お願い、します……」
朝だから。
その上に付け足して、さっきあんな事をしたから。
しっかりと反応していたらしい身体は、このままでは立ち上がって背筋を伸ばす事も出来ない状態になってしまっていた。
「まったく。だから嫌だったんだ」
「うぅ、ゴメン……」
「謝る前に、さっさと終われるように協力しろ」
「はい」
しゅん、と小さくなったマグナにネスティは手を伸ばす。露骨なまでに彼が触れる度に過度な反応を返すマグナを見下ろしつつ、暴走する熱を持てあましているマグナを解放してやるべく、指を巧みに動かし始めた。
そして。
まだ熱が身体に残っていたのかどうかは分からないけれど。
マグナが受けた試験で彼が召喚術を失敗し暴発させ、別に契約者の居る召喚獣と二重契約……ギャミングをしてしまったことは、彼自身と、ネスティだけの秘密。
そう。総ては、秘密の事。
花影の露
思いはいつもひとつだった
願いはいつもひとつだった
多くを求めたつもりはない
多くを望んだつもりはない
それなのに
どうしていつも
失うばかりなのだろう……
ナナミが死んだ。
ロックアックスは見逃しておけない重要な拠点だった。そこがいつまでもハイランドの手中にあるようなら、ラストエデン軍はいつまでもミューズ市を取り戻すことがかなわず、戦乱はいたずらに長期化して行くばかりだっただろう。だから、多少の無理・犠牲が出たとしても、立ち止まることは許されない。それはよく分かっていたはずなのに。
こうなるかも知れないことは、予想がついていたのに。
どうして、守れなかったのだろう。
すぐそこにいたのに。手の届く場所にいたのに。
『泣いちゃ駄目』
目尻に浮かぶ涙を指先で拭いながら、ナナミは弱々しく微笑んだ。
『約束したでしょ、泣かないって』
『ナナミ……』
じゃあ、ずっと一緒にいるという約束は?
一緒に頑張ろうっていう約束は?
側にいてくれるって言ったのに!
ナナミが言ったのに!!
「ずるいよ……」
約束を破るのはいつもナナミの方だった。今も、こんな風にひどい裏切りをしてくれた。それなのにまだ自分は約束を守ろうとしている。ナナミとの約束を守ろうとしている。
仲間達は何も言わなかった。ただ静かに見つめている。セレンが平気かどうか、これからも戦えるのかどうか。
何も言わない。それを優しさだと思っている。傷ついているからそっとして置いてあげようと、それが最良の心配りだと思っている。……馬鹿馬鹿しい。
そんなものが欲しかったんじゃない。そんな事をして欲しかったんじゃない。
「ボクは大丈夫なのに」
みんながそう思っていない。泣かないように、泣いてしまわないように気を使っているつもりかもしれないが、それは全部無駄なことなのだと知らない。知ろうともしない。何も言わないから、何も言ってこないから。
「ボクは泣かないのに……」
彼女の遺骸はレイクウィンドゥ城の墓地に丁寧に埋葬された。本当はキャロの町にあるゲンカクの墓の隣に並べて眠らせてあげたかったが、戦時中でありあの町は今もハイランドの領地であるためにその儚い願いは叶わなかった。
セレンは今、城の4階、ナナミが使っていた部屋にいた。
使用者の性格を如実に物語る、片付けをしたという気配が微塵も感じられない部屋。床には着替えや体力作りのために使用する道具、本や紙、ペンが散乱していた。思い出してみればキャロで道場に暮らしていた頃も、食事の用意と部屋の掃除はいつもセレンがやっていた。ナナミがやるときれいな部屋が逆に汚くなってしまう。それはそれでひとつの才能だな、とゲンカクが下手に誉める(?)ものだから、調子に乗ったナナミが道場を廃墟のようにしてしまった事もあった。
でもそれも、昔のこと。
もうナナミがこの部屋に帰ってくることはない。寝場所がなくなったと叫んで5階のセレンの部屋に押し掛け、ベットから彼を蹴落とすこともない。ラストエデン軍のリーダーのセレンが、自分の部屋でありながら床で寝なくてはいけない日ももうやってこない。
「なんか、へんなの」
まるでそこにナナミがいるような感じがするのに。今にも扉を蹴り飛ばして行儀悪く部屋に入ってきて、中で待っていたセレンを見つけると、「レディの部屋に無断で入ってくるなんて許すまじ!」と叫びさがらセレンを追い回してきそうなのに。
帰ってこない。ナナミはもう、帰ってきてくれない。
抱きしめてくれない。
慰めてくれない。
自分のかわりに泣いてもくれない。
じゃあ、ボクが泣きたくなったとき誰がかわりに泣いてくれるの?
「ずるい。ナナミ、やっぱりナナミはずるいよ……」
たくさんのものを望んでいなかったのに、本当に守りたかったものがこの手から滑り落ちていってしまった。戦う理由が消えてしまった。もうセレンが戦う理由なんてどこにもない。守りたかったものを守れないで、どうして見たこともない人のために戦えるというのだろう。
「どうして、先に逝ってしまったの……」
苦しい。
助けて。
誰か、誰でもいい。この苦しさを悲しさを取り除いて。
このままじゃ全部駄目になる。戦えなくなる、何もかもがどうでもいい。この世界が砕けても、ナナミのいない世界なんて欲しくない。
「うっ…………」
こみ上げる涙、必死で押し戻そうとする心。
約束なのに、絶対に破っちゃいけないと、ずっと心に刻みつけてきたのに。
壁際のサイドテ-ブルの引き出しを引きあけたとき、セレンの涙は頬を伝い、床ではじけた。
「…………ここにいたね」
まるで過ぎ去る風が残していったささやきに似た響きに、しかしセレンは顔を上げることは出来なかった。
そこに誰が立っているのか、みなくても分かる。一緒にロックアックスで戦い、いつもなら用事が済めばその足でグレックミンスターに帰ってしまっていた人。セレンのあこがれの存在であり、目標でもあった人。
「どうして」
「…………」
「どうしてここにいるんですか」
ここは彼の戦うべき場所ではない。しかしセレンは彼といることで安らぎを手に入れていた。自分と似た境遇にあることや、本来望んでいなかった戦いに身を投じなくてはならなかった、そして多くを失っても決して諦めなかった強さを持っているから。自分にはないたくさんのものを持っているから、側にいればいつか自分もああなれるのではと思った。だから巻き込んで、一緒に戦ってもらっていた。甘えていると自分でも分かっていたが、彼は何も言わなかったし。
でも、ここにいるなんて思っていなかった。こんな所をみられるとは思っていなくて、セレンの声は自然と荒々しくなっていた。
「あなたも他の人と同じ、ボクを憐れみに来たんですか!」
責めるような言葉に、言ってしまってからセレンははっとなった。
震える手で引き出しを支え、ひどくゆっくりと顔を上向かせる。
すぐ近くに、整ったラスティスの顔。だがそこに宿る双眸の彩は、哀れみでもなくましてや同情なんてものではなく。ただ言い表しようのないひどく悲しげで切ない、セレンの今の瞳と同じ影を抱いていた。
「……どうして……」
そんな目で見ないで。惨めにさせないで、思い出させないで。
まるで鏡がそこにあるみたいだ。
「同じだったから」
君と、と呟きラスティスはセレンが持つ引き出しに目を向けた。
その中に入っているのは、小さい子が使うおもちゃだったり、使い道のないがらくただったり、本当にどうでもいいくだらないものばかりだった。それらが所狭しとぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
たくさんのがらくた。そしてその数だけの、たくさんの想い出。
「ナナミがこっそり持ってきてたんです。危ないって……言っておいたのに……」
自分に黙ってひとりでキャロに帰っていたのだろう。そして少しずつ、思い出の品をレイクウィンドゥに持ち帰っていた。もしかしたら彼女は気付いていたのかも知れない。セレンが、ナナミと一緒にキャロに帰ることが出来ないことを。
「なんで、教えてくれなかったんだろう……ずるいよ、ナナミばっかり」
ぎゅっと胸元を握りしめ、その下にあるものを手の中で感じながらセレンは俯いた。また涙がこぼれそうになる。でも、駄目だ。絶対に人前じゃ泣かない。
「僕もね……大切な人がいなくなってしまったんだ」
すぐ、壁ひとつへ立てた先にいたのに。遺される方の気持ちも考えず、守るためだけに自分を簡単に投げ出してくれた。何も残らなかった、見届けてもやれなかった。そう呟くラスティスを、セレンは見上げた。
「君と同じだったよ、みんな……僕以上に沈痛な顔をして廊下に並んでるんだ」
でもラスティスは誰とも言葉を交わさなかった。そんなことをして自分をいじめるような真似だけはしたくなかった。
「悲しく……なかったんですか……」
「悲しかったよ、ものすごく」
でも、とラスティスは小さく微笑んだ。
「みんなが悲しんだのは、グレミオを失った僕だった。僕は僕を悲しんだりしない。でも、僕はグレミオを失ったわけじゃないって気付いた」
よく分からない、とセレンは瞼を閉じて唇を噛んだ。その姿にかつての自分自身を重ねたのか、ラスティスが苦笑する。
「いつか君にも分かるときが来る。答えは君が見つけるんだ。こればかりは僕でも教えて上げられないから」
心の問題はその人でしか解決できない。ヒントや助言は与えられるかもしれないが、答えそのものを伝えることは難しく、心を共有させる出もしなければ不可能だろう。
『セスをひとりぼっちになんてしないから。何があってもお姉ちゃんだけはセスの味方だから』
裏切らないで、置いていかないで。
「ナナミ……」
花に刻んだ約束。忘れないために、セレンはよくあの場所に行った。時にひとりで、時にふたりで。あそこは本当に、ふたりきりの秘密の場所になっていた。誰も来ない、誰にも知られないセレンの心を揺るがないものにさせるために必要だった儀式の地。
『ねえ、セス…………』
すぐ近くで声がした。
『私が死んじゃったら、そしてキャロに帰れなかったら……私をここに沈めて』
風にさらわれていったナナミの言葉が、今ようやくセレンの元に返ってきた。
誰よりも優しかったから、誰よりも強かったから。セレンはナナミが大好きだった。大事だった。ナナミはセレンの絶対だった。
「ラスさん。お願い、聞いて貰えませんか」
だからナナミとの約束は何が何でも守りたい。けど、ナナミだって約束を破っているし、ひとつくらい破っても許してくれるかな? そのかわり、他の約束はちゃんと守るから。
「なにかな」
皆寝静まった夜。よく見張りの目を盗んでこっそり城を抜け出したりもした。誰にも見付かったことがなかったし、見付かったとしても今夜なら誰も文句は言わないだろうし、咎めたりしないだろう。
「一緒に来てくれませんか」
約束を守るために、破らないために。それを見届けてくれる人が今のセレンには必要だった。
「どこに?」
「ナナミとの約束を果たしに行くんです。でも、誰にも言わないって約束してくれますか?」
何だかよく分からなかったが、ラスティスは頷いた。
「ありがとうございます」
ぺこり、とセレンは頭を下げた。
引き出しを元に戻し、床に転がるものを蹴ってしまわないように細心の注意を払ってセレンとラスティスはナナミの部屋を出た。この部屋は以後使われることはない。掃除されることはあるだろうが、片付けられることもない。今のまま、変わらないまま残されるのだ。
それがこの城に暮らす者達の心配りだった。今までと同じように、いなくなった人を忘れないように。いつ帰ってきても大丈夫なように昔のまま変わらないように残しておく。居るときと変わらない形で。
セレンはラスティスを連れ、階段を登り自分の部屋へと向かった。まさかここに来て寝るつもり……? と一瞬勘ぐってしまったラスティスだったが、すぐに違うことに気付いた。このまま素直に下の階に向かえば、すぐに見張りに発見されてしまう。そうならないためにはまず、見張りが絶対にいない場所を行くことだ。そしてセレンの部屋の窓を開けると、すぐそこは屋根。
「…………」
ちょっぴり絶句のラスティスをよそに、セレンは慣れた手つきで窓をくぐるとジャンプして屋根に飛び乗る。早く来いと手招きされて、生まれてこの方そんな行儀の悪いことをしたことがなかったラスティスは頭を掻いた。この姿、グレミオがみたら気絶するかも……と。
だが一緒に行くと言ってしまった手前、引っ込みが付かないのも事実で仕方がなくラスティスはセレンに倣って窓枠に足をかけ、屋根に飛び降りた。だが。
「わっ!」
思っていたよりも窓から屋根までの高さがある。しかも滑ってしまい、危うく落ちるところをセレンに腕を掴まれて支えられた。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……」
何事もなく簡単そうにセレンがやってのけるから、自分も出来ると思ったのがまずかったらしい。今のをグレミオがみたら卒倒していたかも。
「こっちです、早く行きましょう」
城の東側、闇濃き林を指さしたセレンにそこまでの経路をざっと説明され、ラスティスは頭がくらくらしてきた。目的地に着くまでに五体満足でいられるだろうか……と本気で心配してしまう。たとえソウルイーターの継承者であっても、こういう事態には対応してくれないのだから。
さらにこの暗闇。足下さえおぼつかない中をセレンに助けられながら部屋を抜け出したラスティスは、幸いなことに大した怪我もなくまた誰にも発見されることなくレイクウィンドゥ城を出ることに成功した。だが息は切れ、普段使わない神経をすり減らしてかなり疲れていた。
「……大丈夫ですか?」
これで何度目か分からない同じ事を聞かれ、ラスティスはかろうじて頷くだけの返事をした。
しかし城を抜けてしまえば、ラスティスが不慣れな忍者のような動きも必要なくなり、足下にさえ気を付けていれば問題ない林の中。セレンの背中を見失わないように走っていれば、やがて前触れもなく樹木の道が途切れ視界が広がった。
月に照らし出され、大地に根を張り懸命に葉を広げる花々の影が足下を覆い尽くしている。風が吹く度にいっぱいに膨らんだつぼみが揺れ、夜に咲く花は見事に闇の中で花弁を広げ月の下その姿をさらしている。
「ここは……」
今まで見たことのない、あまりにも奇異で不思議な光景。天界の楽園の一部がそのまま地上に落ちてきたのかと思わせるほどの、あざやかで美しい花園。
「ここが、ボクとナナミの秘密の場所です」
花畑のちょうど中央に立ち、セレンが月をバックに告げた。
「そして、ここにナナミが居るんです」
彼女が望んだ、最期に眠る場所。
しかしラスティスは首をひねりそうになった。確かナナミはすでにレイクウィンドゥ城に埋葬されてしまっている。ここがナナミの好きだった場所なら、魂がここに還ってくると思うのは自由だが……。
そんな風に考えるラスティスの前で、セレンは自分の懐に手を入れた。取り出したのは、白い布に包まれた手のひらにすっぽり納まってしまうもの。中身は分からない。
「約束、果たすよ。ナナミ……」
湖からは絶え間なく風がながれてくる。この風に乗り、様々な地方から花の種が飛んでくるのだろう。ならば、世界を旅した魂が還ってくるのも、この場所が相応しいのか。
ゆっくりとした動きで、セレンは左手に載せた布を解いていく。そこにおさめられていたものは、黒い糸切れの束だった。
「それは……まさか」
ラスティスは気付いた。セレンが寂しげに微笑み、彼を見返す。
それは髪だった。
「これだけになっちゃったけど……ナナミ、今君の願い、叶えるから……」
両手で布を頭上に掲げ、風が運ぶに任せセレンはナナミの髪を空に放った。
花々が揺れる。新たな仲間を歓迎しているのか、花影は静かに彼女の髪を受け入れていった。
「セレン、君は……」
「泣きません、ボクは。ナナミが許してくれるまで、ボクはもう、泣かない……」
でも、と彼は続けた。闇夜の中で、セレンの瞳だけが異質なもののようにきらめいている。
「もしボクが駄目になったら……本当にボクが駄目になってしまったら……ラスさん。その時は、お願いできますか…………」
それがいつになるかは分からない。しかし、確実にセレンは狂っていく。ナナミを失ったことで、……いや、そのずっと前から、セレンの意識は現実に生きる者達とずれ始めていたのかもしれない。
「……分かった……」
それはラスティスにとっても辛い決断だった。
「……ごめんなさい……」
静かに頷いたラスティスにセレンはまた頭を下げる。
彼を見つめながら、ラスティスはやはりここに来るべきではなかったのかも知れないと後悔していた。まるでもうひとりの自分を見ているような気分だった。もし……グレミオがよみがえっていなければ……こうなっていたのは自分の方だったかもしれないのだから。
失うものなど何もなかった
手に入れるものさえもなかった
求めるものはすでになく
二度とこの手に還ることはない
切ない 哀しい 苦しい
いくら探しても君はもういない
花は今年も咲き乱れる
君の大好きだった花が
今年もまたきれいに咲きました
でも見てくれる人はもういません
喜んでくれる君がどこにもいない
君はずるい
いつもボクばかりが損をする
ボクばかりが苦労する
だから、そろそろ
ボクは休んでいいのかな……?
Eyes/4
朝の雑踏は、大勢の人が一箇所に集まっているくせに声がなくて辺に騒々しいのに静かだった。
込み合った車内から出ると、通り過ぎていく風は涼しい。下り線の到着を告げるアナウンスが聞こえ、そちらに意識が向いているうちに階段へ流れる人波に巻き込まれた。
一斉に押し寄せてくる人波に、一緒にいた仲間達を捜して階段を下りながら後ろを振り向こうとした。いくつかの頭の向こうに他の人よりも頭半分大きいアッシュの姿が見えて、ホッとした。
だがその分、歩くペースが若干だが落ちたのは事実だ。それが、先を急いでいたのであろう自分の直ぐ後ろを歩いていた青年の気に障ったのだろう。
どん、と強く肩を押された。
半分後ろを振り返るような不安定な体勢だった為に、防げなかった。
爪先部分が半分近く階段からはみ出ていた状態で踏ん張り切れなかったことも、要因だろう。
ふわり、と身体が宙に浮くのが自分でも分かった。
やばい、と思ったから羽を出そうとした。そうしたら、反転した世界にお前の顔が見えた。
何が起こったのか、瞬時に察知したのだろう。人をかき分けて彼は何かを叫んでいた。一度脇を見て、別方向を指さし怒鳴る。
周囲が、ざわめいた。
総てがスローモーションになって見えた。
誰かが慌てて走り去る、それを別の影が追いかけて行く。スマイルに押しのけられたサラリーマン風の男が眼鏡を押し上げて文句を言っている。
手が、伸ばされる。
必死に、懸命に腕を伸ばしている。
羽を出そうという意識は、何処かへ吹き飛ばされていた。
階段の上方で起こった事に、下にいた人たちが一斉に振り返った。その間を縫うように、身体が落ちていく。
重力に引かれ、自然の法則に従って。
スマイルの顔が歪む、泣きそうな哀しそうな、怒っているような限りなく絶望しているような。
とても複雑な感情が入り乱れた顔は、見ていられなくて目を背けた。
そんな顔を見ていたくなかった。
音が消える。何も聞こえない。
スマイルはまだ何かを叫んでいる。懸命に伸ばした腕で空中を舞う自分を掴もうとしている。
でも、分かっているはずだ。もう届かない。
衝撃が背中から肩に掛けて、二度。一度落ちただけでは衝撃が収まらずもう更に床の上で跳ねて、今度は頭から落ちた。咄嗟に腕で頭を庇ったが、痛みに意識が遠くなり息が詰まって呼吸が出来なかった。
周囲がざわめいているのが分かる、無関心を装って多くの人はそのまま通り過ぎていく。
彼らを冷たい、とか酷いと咎める気にはなれなかった。彼らにとって自分はあくまでも他人であり、彼らには守らねばならない時間と言うものがある。そして自分たちが出来る事はとても小さく少ないことを理解している。
『ユーリ!』
微かに戻ってきた音が、自分の名前を呼んでいた。
遠くなりそうになる意識をかろうじて捕らえ、音の下方向に首を向けようとした。冷たいコンクリートの床に横たわっている身体を起こそうとしたが、全身がほんの少し力を入れただけで悲鳴を上げて出来なかった。
駆け寄ってくる足音は近くにひとつ、もうひとつはゆっくりとしたものがふたり分。
『大丈夫、ユーリ!?』
『スマイル、か……?』
視界が霞んでいる、瞼を持ち上げ続ける事も難しい。
ただ朧気に見えた彼の顔は今にも泣き出しそうで、不要な笑いをいつも表情に湛えている彼からは想像がつきにくく、見るに耐えなかった。
そんな顔は、見たくないのに。
そんな顔を、させたくないのに。
『足、滑った、な……』
途切れ途切れに息を吐き出すついでに呟く。
『違うでしょ、ユーリ! コイツが、こいつがユーリの背中を押したんだ!』
朝のラッシュアワー。人通りの多い階段の下に陣取っている自分たちはかなり通行の邪魔になっていた。けれどそんなことに構わず怒鳴るスマイルが指さした先には、咄嗟に逃げ出したもののアッシュに追いつかれて捕まった、あの青年が小さくなって立っていた。
けれどユーリには見えない。
『私が自分で落ちたんだ、違う』
彼の責任ではない。
無理をして笑って、起きあがろうとしたらスマイルに止められた。手を取られると、自分が震えているのだと今頃気付いた。
『何事ですか!』
騒ぎに気付いた駅員が走ってくる。事情を説明したアッシュに、ユーリは場所を移動したいと提案してそれは受け入れられた。
駅長室で救急車を呼んでもらい、病院を手配した時にはもうユーリは意識を失っていた。
彼を階段から突き落とした男も、目撃者がスマイルだけであったことやユーリが頑なに自分の過失だと言い張ったことから無罪放免となった。但しスマイルは、彼の名前と住所や電話番号をしっかりと聞きだしていたのだけれど。
あとで知ったことだが、スマイルはこの青年相手に民事訴訟を起こしている。刑事事件として立件できなかったことが悔しかったらしい、せめて病院での治療費くらいは回収してやるのだと息巻いていて、ユーリを呆れさせた。
ユーリは、自分から目を閉じていた。見ることを拒んでいた。
医者は言っていたではないか、視力が失われたことは階段から落ちた衝撃で視神経やその周辺に傷が出来たからではない、と。
外的ショックによる一時的な視力喪失……その説明はある意味正しい。
最後に見た光景が良くなかった、自分から“見たくない”と暗示をかけてしまうような光景だったのが。
スマイルが責任を感じる必要が、完全にゼロだったわけではなかった事になる。結局は彼の所為で目が見えなくなったとも言い換えられるわけだから。
見えなくなったことで初めて見えてきたことは、確かに多かった。
けれど、それ以上に分かったことがあった。
見えることのすばらしさと、見えることで更に多くの事を知ることが出来るという事実に。
そして、見たいと思うようになった。
たくさんのこと、たくさんの想い、たくさんの願い。ちゃんと相手の目を見て伝えたいことに気付いた、瞳を見つめるだけで語るよりもたくさんの言葉が伝えられる事にも気付いた。
近付きたい、支えになりたい。
支えられるだけの存在ではいたくない。
一緒に歩いていける存在になりたい、君の隣に並んでいられるように。自分をもっと誇っていられるように。
今度こそ、嘘にならない言葉で伝えたい。今なら言える気がする。
瞼を開くと同時に全身の気怠さが迫り上がってきて、持ち上げかけた腕は五センチも行かないうちに再びベッドへと突っ伏された。
「うっ……」
身を起こそうと身体を捻ると、全身がズキズキと痛んで声にならない悲鳴が口から漏れる。呻き声のようなそれが本当に自分の発したものだとは信じられなくて、柔らかなクッションのスプリングに埋もれたユーリは深く長い溜息をついた。
長い夢を見ていた気がする。悪夢だったが、不幸ではない夢だ。
「まぶしっ……」
窓から射し込んでくる西日が顔に当たる。引き忘れられたカーテンの隙間から、地平線に沈もうとしている夕日が見えた。
それは見慣れた光景だった。だのに初めて見た時のような新鮮さと感動が胸の中に広がっていく。
視線を返すと、やはり見慣れた天井にシャンデリアがつり下げられている。キラキラと西日を反射させて虹色の光を輝かせていた。その向こうには調度品を並べた棚や、譜面の並ぶ書棚が壁に沿って置かれている。
なんてことはない、見慣れすぎて見飽きた感のある自分の部屋だ。
それなのに、どうしてこんなにも目新しいものとして目に映るのだろう。
今度は慎重にゆっくりと身体を起こす。きちんと肩まで掛けられていたケットを押しのけ、ベッドサイドに腰を下ろすと背中から下半身がやたらと痛んだ。
身につけているものは洗濯されたばかりらしい白の上下、いつも寝間着として着ているものだ。しかし、それを自分で着た記憶はない。
「…………?」
首を捻り、少し考え込む。どうも途中で大幅に途切れてしまっているらしい記憶を呼び起こそうと、とりあえずここ数日の行動を振り返ってみることにした。
途端、誰かの熱い囁きが耳の後ろから聞こえてきたような気がして、右耳を抑え込んでバッと振り返る。だが其処には誰も居らず、幻聴に顔を顰めた。
「幻聴……?」
にしては、やたらとリアルで生々しかった。
なにか変だ、と思った瞬間。
ぼっ、と一気に今までのことが堰を切ったように頭の中で回りだして耳の先まで赤くなった。
「あ、あ、ぅあぁ……」
狼狽した声を出して呻きながら彼は首を振った。あの場で囁かれたことや、触れられた手の動き総てが感覚として呼び覚まされてしまって、何もしていないのに身体がまた熱を持ちそうになってくる。
懸命に押し込んで、深呼吸を繰り返すがその間、正直生きた心地がしなかった。誰も居なくて良かった、と思うと同時にこの場にいない相手のことを思い出す。
部屋に運んだのも、後始末をしたのも全部あの男だろう。
だったら最後まで……こっちが目を覚ますまで傍について居てくれても良いのに、そう思うことは悪いことなのだろうか。
そろり、とベッドから降りて立ち上がる。膝に力が巧く入らなくて崩れそうになるのを堪え、ふーっ、と息を吐き出す。
シャツの襟元を引っ張って僅かに覗く自分の肌を見下ろす。やはり鬱血が凄いことになっていて、当分肌を露出するような格好は出来ないな、と溜息が零れる。この分では首にも大量に付けられているだろうから、ハイネックを箪笥から引っ張り出してこなければならないだろう。
「あのバカ……」
もう一度溜息をついて呟き、ゆっくりと前に進む。目指すのは、夕焼けが広がる西向きの窓。
半端に引かれているカーテンを全開にして、鍵を外す。一段低くなっているベランダへ足を下ろし、駆け抜けていく涼しい夕暮れの風に身を任せる。胸一杯に吸い込むと、今まで鬱積していた胸のモヤモヤが一緒に流れていく気がした。
鮮やかな朱色に染め上げられた空に、雲が棚引いている。空よりも幾分薄めの色に染め上げられた雲も、風に押し流されてゆっくりとした旅を続ける事だろう。
キィ……と低い音を立てて部屋の扉がゆっくりと内側に開かれる。様子を覗きに来ただけの訪問者は、だがベッドの上に目的の人を見つけだせずに首を捻った。そして、しっかりと閉めて置いたはずの窓が半分開いている事に気付く。
「ユーリ?」
声を出し、スマイルは彼を呼んだ。
風で煽られて、レールの半分ほどの位置まで戻ってきてしまっていたカーテンをもう一度引き、スマイルは窓の外を覗き込む。
ユーリはゆっくりと振り返った。
「明日」
「ユーリ……?」
「まだ、私もお前もオフだな?」
「え、あ……うん」
どうしたのだろうと、いぶかしんだスマイルが半開きの窓を押してベランダへと出た。
そして、ユーリがはっきりと自分を認識して見返している事にようやく気付くのだ。
「ユーリ……」
「なんだ」
「いや……間違いだったら悪いんだけど」
「お前の読みは正しいと、先に教えて置いてやる」
ふっ、と意地悪く微笑みユーリはスマイルを見上げた。
「行くのだろう、買い物に」
目が見えるようになったら、一緒に買い物に出てスマイルにピアスを選んでやる。約束は、忘れていない。まさか言い出した方のスマイルが忘れていやしないな、と視線で問いかけるユーリに、スマイルは困ったような、笑って良いのかどうか戸惑っている表情で頭を掻いた。
「あ、そう、うん。行く。行く……けど、その前に病院ね?」
念のために、ちゃんと再検査してもらってからだと説教臭い事を言い出すスマイルは、珍しく動揺しているのか言葉の歯切れが悪い。
「平気……と言っても連れて行くのだろう、お前は。そこまで信用ないか、私は」
「だから念のためだってば……」
腕を組んで不機嫌そうに言うユーリに苦笑し、スマイルは心底困った顔で呟き返した。
「まぁ、良いがな」
さらりと言葉を受け流したユーリがじっとスマイルを見つめる。さて、これからどうしようかと思い悩んでいるうちに視界が影って薄暗くなった。
事態を把握する前に、甘いくちづけをもらう。
「……唐突だな」
「して欲しそうな顔、してたから」
離れていった顔を見つめつつ呟くと、彼は悪戯っぽく微笑んで小さく舌を出した。「違う?」と問われると返事が出来ない。
「そんな顔をしていたか……?」
「鏡でも持ってこようか」
「いや、いい」
これ以上続けていたらどんどんスマイルのペースにはまってしまう。口元を手で隠して、ユーリはぼそっと零した。
見透かされてしまうのなら、もう少し見えないままで居ても良かったかも知れない、と。
非恋愛的恋愛症候群3
目の前に広がるのは、一面の空。空。空、と雲。
見渡す限りの晴天、とはさすがに言い切れなかったものの、視界を占めるのは大部分が蒼く澄み渡った眩しい青空であり、天気予報では充分「晴れ」と断言できる空模様だ。
「あー……」
空が、遠そうで近い。呟いて眼前に映る太陽の眩しさから逃れようと目を閉じた。身体の力を抜くと、後頭部を預けている固い枕にもならないコンクリートの床がごり、という感触を伝えてきた。熱吸収がすこぶる宜しいコンクリートも、幸いなことに日陰になっている時間が長かった御陰で触り心地は悪いものの気持ちは良い。
瞼を閉じた途端に世界は闇に包まれて、あれ程眩しかった空が見えなくなる。身体の上を通り過ぎていく風は初夏の香りを包んでいて、青臭い緑が鼻腔を微かに刺激する。
遠くからはグラウンドで昼の休憩時間を有意義に過ごす生徒の掛け声が。頭上から降り注ぐ光は目映く、明るい。気候はヨロシク、適度に風も吹いていて過ごしやすい。この季節特有の湿気でじめじめした空気も、湿度が低い所為でカラッとしていて心地よかった。
誰も居ない屋上、しかもそれなりに人の出入りがある教室がある第一校舎の屋上ではなくて。いや、そもそも本来屋上への出入りは鍵が施錠されていて、基本的に禁止なのだけれど。
一体誰が壊したのか、ちょっと見では壊れているように見えないようカモフラージュされた南京錠は実のところ、ちょっとコツを掴めば簡単に外れてしまう。そうやら歴代、授業をサボって時間を潰したがる連中に毎年伝授されている技術らしく、彼も入学して間もなく恐らく三年生だろう、見知らぬ先輩から方法を教わっていたりするのだが。
第一校舎の屋上への出入り方法は、案外知っている人間が多いから穴場とは言い難いと、彼は苦笑って本当の穴場を教えてくれた。ご親切に道案内までしてくれた彼に連れて行かれたのが、ここ。
特別教室ばかりが詰め込まれている第二校舎の、南側屋上。
確かにあの三年生が自慢するだけあって、人は殆ど現れなかった。煙草を吸おうが、授業をサボって昼寝に勤しもうが、誰も文句を言わないし注意してこない。そもそも人の出入り自体が極端に少ない第二校舎だ、その屋上へ続く階段の存在もあの三年に指摘されるまで気付かなかったくらいだし。
それくらい目立たないところに階段があって、まるで学校が自ら階段の存在を隠したがっているようでもあった。少々活動範囲から遠いけれど、ひとりでゆっくり出来る上に誰にも見咎められないという利点は、利用して然るべきだろう。この場所を教えてくれた先輩は、受験勉強があるから自分はこれから滅多に使うことはないだろう、と言っていた。
それは事実のようで、その後彼の姿を見かけることは殆どなくなった。
屋上で授業をサボり通していた人間が、今更に受験勉強して足りるのかと笑い飛ばしてやったのだが、向こうは苦虫を噛み潰した顔をして一発小突いてきただけで終わった。
そうして、ここは彼だけの場所になった。
両手両足を四方へ放り投げ、頭をコンクリートに押しつける。ひんやりとした感触を背中に楽しみながら欠伸がひとつ、漏れた。
「ふぁ~あぁ……」
眠そうに口もむにゃむにゃと動かして、生理現象で目尻に浮かんだ涙を擦る。遙か遠くで、昼休み恒例の黄色い悲鳴が響いて聞こえてきた。
あいつ、またやってるのかよ……と、半分夢に落ちそうな意識を寸前で引き留めて考える。依然として状況が打開される様子の見えない、野球部期待の新人ピッチャー君は今日も今日とて女子生徒のお弁当攻撃から逃げ回っている様子だ。
沢松の言うには、奴には本命と呼ぶに相応しい思い人が居る様子だったが、はっきり言ってそれが誰なのかが分からない。沢松は気付いているようだったが、確かめたワケじゃないからと最後まで名前を教えてくれなかった。一度本人にストレートに、「お前好きな奴居るのか?」と聞いてみたことはあったりするのだが、その時の事は今思いだしてもむかっ腹が立つ。
「猿には関係ないだろーが。とりあえず、猿がきーきー喚いてる眼鏡女じゃない事だけは確かだけどな」
そう言った犬飼はスタスタと小走りに去っていってしまい、一瞬遅れて何を言われたのかを理解した彼は両拳を握りしめ全速力で犬飼を追い掛けた。追い越しざまに奴の頭をジャンプしながら殴りつけると、取っ組み合いの喧嘩に発展してしまい、仲介に入ろうとした子津を殴り飛ばして、結果。にこやかに微笑む牛尾キャプテンにふたり揃って外回り十週が宣告されてしまったのだった。
グラウンドを走るのは、まだ良い。問題なのは犬飼と一緒に、という部分で。
奴に負けるのは悔しいからダッシュで引き離そうとすると、向こうも同じようにダッシュしてきて見事なまでにデッドヒートが展開された。兎丸なんかが楽しそうに拍手して、暢気に声援を送ってくれてたりもしたが当人達はそれどころでは当然なく。
終わった頃にはふたりともへとへとで、立ち上がる事さえ出来なかった。
黄色い悲鳴が遠くなる。静かになった地上に、やっと終わったかと息を吐いて寝返りを打とうかと身体を捻った。しかし今自分が横たわっている場所が、自室のキモチイイ蒲団などではないことを直ぐに思い出し、舌打ちをして諦める。
空は、相変わらず青くて広い。
持ち上げた瞼の向こうに見えた、まるで絵の具の青をそのまま塗りたくったような空に溜息が零れた。無意識に、凝視して拳を握りしめる。
ぐっと力を込めたそれを持ち上げ、遮蔽物のなにもない空へ突き立てた。太陽が光のカーテンを揺らし、キラキラとプリズムが拳の周囲に舞い散った。
頭の横には、購買で買って平らげたばかりのパンの袋と、飛ばないように重しに使った珈琲牛乳のパック。残りはまだ半分ほどあって、けれど随分と長い間そのまま放置して置いたから、飲むのも嫌になりそうなくらい温まってしまっていることだろう。
「アイツ、毎日こんなの食ってるから」
見かねて親切心を起こした女子が弁当を作って来てくれるのだろう、と犬飼の甲斐性なしを思い浮かべて呟く。だから自分も真似をしてみたわけではないのだが、やはりこんな食事が連続するのは虚しいと認識を改めただけに終わる。
女子が作ってくれる弁当に箸を延ばさない奴の気が知れない。人の好意は素直に受け取っておいても、困ることはないはずなのに。もっともその好意の受け入れを相手側に誤解されるようでは、問題は肥大していくだけでそれを避けようと逃げているのだという考えにまでは、そういった経験がない彼だと想像する事も出来ない。
ただ単純に羨ましい、という気分が先に立つ。
「ちぇー」
満腹には程遠い腹具合を誤魔化そうと、彼は目を閉じた。身体全体が怠く、意識も半分夢心地に沈んだまま復帰しようとしない。ならばこのまま眠ってしまう方が得策だろう。
入学したての一年生が、まだ六月も中旬の段階からこのような様子では、進級さえも危うくなりかねない。だがそういう事をまるで意に介した素振りもなく、彼は四肢を広げて押し寄せる睡魔に身を委ねる事にした。
梅雨の合間に訪れた晴天である、こんなに気持ちがいい午後をつまらない授業で潰してしまうのは勿体ない。
至極単純明快な思考論理に裏打ちされた結論に満足げに頷いて、彼――猿野天国は再び重い瞼を両方とも閉ざした。
さらさらと吹き抜ける風が床に貼り付くように横たわっている彼の、寝癖がそのままに跳ね上がっている前髪を擽って去っていった。気温は高いが、湿気が低い分体感温度はそれほどに上がっていない。
程なくして、校舎のあちこちに設置されたスピーカーから昼休み終了を告げる鐘の音が鳴り響き始める。五分後には五時間目の始業を宣告する音が。
けれど天国は気持ち良さげに寝息を立て、喧しいくらいに響いてくるチャイムに邪魔される事もなく夢を楽しんでいた。
投げ出した両腕はこの数ヶ月ですっかり日に焼けて、健康的な小麦色に変わりつつある。首もとも同様で、だがシャツの釦を外してしまえば現れる胸板は未だ白い。力を抜いて解かれた拳は中指の爪が割れたままで、指先に出来た肉刺のうち幾つかは既に潰れてしまっていた。
擦り傷、打撲傷は日々絶えず。治癒しきる前に新しい傷が出来上がる始末でなかなか治りが宜しくない。黒ずんだ肌は見る側に痛々しい印象しか与えないのに、当人は痛くないはずなどないのに平気な素振りしか見せない。
彼は誰よりも努力している、それは野球部の皆が口にしないものの誰もが認めるところだった。
けれど彼は、それでも足りないと言い放つ。みんなと同じだけ練習をしても、今までの経験が皆無な彼はみんなに追いつきたいと必死に食いついてくる。
オーバーロードは良くない、そう言われて放課後の練習後の自主練習は控えるように注意されても止めない。
彼の側には、そんな彼よりもずっと努力家な存在が在るから。
誰よりも必死、誰よりも真面目、誰よりも言葉少なく頑張っている。そんな存在を見ていたら、自分も負けていられないと思ってしまう。
他の誰かに嗤われても構わないけれど、彼にだけは自分を認めて欲しいと思っている。だって自分は、彼のことを誰よりも認めているから。
お前のがんばりは凄い、と正直な気持ちで告げられる相手だから。何も知らない奴に好き勝手言われるのは、だから、腹立たしい。
「……の…………ん?」
「ん~~」
「……るの……ん」
「う……」
「猿野君」
地底湖に沈んでいた意識を揺り動かす声がする。耳元間近で何度と無く名前を呼ばれ、天国は身体を捻りながら声から逃れようと頭を抱いた。しかし持ち上げた腕は目的地に到達する前に横から伸ばされた手に拘束され、強く握られてしまう。
「猿野君、起きるっす」
ぱしぱしと頬を叩かれ、さすがに痛みには耐えかねて気乗りしないまま瞼をゆっくりと持ち上げる。しかしまだ寝ぼけているのだろうか、天国の視界は翳っていてあの空がまったく見えなかった。
何故だろう、とぼんやりして輪郭のはっきりしない視界をクリアにしようと瞬きを何度か繰り返した。そうやっているうちに、自分の目の前で遮光の役割まで果たしているそれが、ずっと彼の名前を呼んでいた人物の顔であることにやっと、気付く。
「……子津チュー……?」
「やっと、起きたっすか」
随分と至近距離で呆れたように言われ、彼の吐き出した息が鼻先を掠めていった。思わずくしゃみが出そうになって、顔をくしゃらせると彼はスッと身を引き握っていたままだった天国の手も解放した。
「……しゅっ!」
小さくくしゃみをし、天国は反動も使って身体を起こした。床に座り直し、まだ眠気が覚めきっていない瞼をしきりに擦る。
誰も来ないというふれこみで教えて貰った、秘密の場所だったはずの屋上で。
惰眠を貪っていたはずなのに。
どうして、子津は此処にいるのだろう。
目の前に礼儀正しく座って自分を見ている子津を見返しながら、天国はまとまらない頭で珍しく冷静に考える。だが半分眠ったまま起きてきてくれない脳味噌に思考能力は乏しく、分からないと首を捻っているので気付いたのだろう。
子津は苦笑しながら、西に傾き始めている太陽を指さした。
「呼びに行ったら猿野君、居ないじゃないっすか。困ってたら沢松君が教えてくれたっす」
ああ、そう言えば確かに沢松にはこの場所を教えた記憶があるな、とぼんやり思い出す。しかし呼びに来るとは、自分は子津に用事をされる事をしただろうか。
むしろ自分の方が、子津にノートや教科書を借りに行くことが多くて。放課後の部活に行くときぐらいしか子津は、天国の教室を覗いたりしない。
「放課後っすよ、もう」
「なにぃ!?」
よくよく見れば、確かに太陽の傾き具合からして授業が終わっていても可笑しくない頃合い。時計を確認して、更に脱力。
指摘通り、六時間目の授業もしっかり終わってなおかつ、ホームルームまで終了している時間が無情にも時計の盤面上で刻まれていた。
「嘘だろう……?」
風でひらひらと端を煽られたパンの空き袋が揺れている。飲みかけの珈琲牛乳は、中身が残ったまま廃棄されてしまうことになりそうだ。
顔を片手で覆った天国の呟きに、ショックを受けているらしい彼を笑うのを止めて子津が慰めるようにぽんぽん、と数回背中を叩いてやった。白い開襟シャツの背中にこびり付いていた砂利や埃を払ってやり、そのまま上下に動かして撫でる。
現時刻から部活に出ても、きっと遅刻だ。罰則でランニングが数周分追加されてしまう。
「悪い、ネヅッチュー……」
「どうしてっすか」
何を謝る必要があるのだろう、と子津は首を傾げて項垂れている天国を見る。
「だって、お前まで遅刻」
「良いッすよ、ひとりで走るよりもふたりで走った方が楽しいっす」
にこっと微笑み、子津は繰り返し天国の背中を撫でながら言った。媚び諂いや、ましてや同情などからではないと分かる笑顔と言葉に、天国の胸がじーんと熱くなる。
不本意ながら泣いてしまいそうになって、天国はぐっと堪えるともう一度「悪い」と繰り返した。
子津は変わらず微笑んでいる。にこにこと、両頬に軽く握った手を添えて。天国の左脇に腰を浮かせて座っている。
あんまり深刻な顔を自分だけしているのは莫迦らしいように思えてきて、天国もつられるようににっ、と笑った。
「さ、そろそろ行かないと監督に本気で怒られるっす」
「うぉ、それはやべえ」
羊谷に捕まったら、グラウンド十周では済まないかもしれない。慌てて立ち上がった天国を見上げてくすっと笑みを零してから、子津もまた膝を伸ばして立つ。そして徐に、天国の手を取った。
え、となった天国の不思議そうな顔に自然な表情を向け、子津は握った彼の手に力を込めると軽く引っ張った。同時に、足を階段へ向けて進め始める。
促されるまま、一瞬前のめりになった天国も歩き出した。
「ネヅッチュー……」
「はい?」
「あ、いや」
ごつごつして、固い手の平に包まれている自分の手は、大分野球をやる人間らしくなってきているものの、まだ他の面々には程遠い。何故か気恥ずかしさを覚えて子津の手を振り解こうとしたが、握力だけなら天国にも簡単に負けない子津の手を払うことは出来なかった。
背の高さだと天国の方が若干上なのに、手の大きさだけで言えば子津の方が広いかもしれない。この手で、彼は硬球を力いっぱい投げ放つのだ。
彼の投げるボールはあんなにも変幻自在なのに、球を投げる彼自身はとても真っ直ぐで。
「なあ、子津」
遅刻が分かり切っているからなのか、子津の歩調は急ぎ足であるものの駆け足とは程遠い。最初こそ引っ張られたものの、今は横に並んで人気のない特別教室の廊下を歩きながら天国は傍らの子津の顔を窺い見た。
視線が向けられる前に、逸らしてしまったけれど。
握られている右手を、肘から持ち上げる。逆らわず子津は一緒に繋がれた左手を掲げてくれた。
「俺、お前の手って結構好きかも」
「手、だけっすか」
間を置かずに呟き返された子津の声がいやに寂しそうで、思わず聞き返そうと顔を振り向けてしまった天国だったがその先に居た子津はいつもと変わらず、穏やかな笑顔を浮かべている。あの声こそが幻で聞き間違いだったのでは、と天国に思わせるのに充分な微笑みに、複雑な思いを抱えてしまう。
「ネヅッチュー?」
「なんですか?」
試しに窺うように名前を呼んでみても、あまりに平素のままの様子で問い返されてしかい、天国はそれ以上言葉を紡げなかった。
「や、なんでも……」
「そうっすか」
会話が途切れる。妙にその空白が気まずくて、なにか言うことはないだろうかと視線を泳がせながら天国は必死に考えてみた。
だが焦れば焦るほどなにも思いつかず、心底困ってしまいそうになった時。
ぎゅっと、子津が今までになく強く手を握ってきた。
「猿野君」
「ん?」
どきりとしてしまった、真面目な子津の呼び声にらしくなく緊張した。
「頑張りましょうね」
一緒に、と。
彼の唇はそう言いたかったみたいだけれど、声にはされなかった。
放課後で帰宅しようとしている生徒の数が徐々に増え始める。鞄を取りに戻ってきた第一校舎に入る手前で、子津は自分から手を解いてしまった。
包まれていた体温が遠ざかっていく。風が吹いて、あっという間に子津のぬくもりは天国から奪い去られた。
「あ……」
「猿野君、急ぎましょうっす」
自分の教室を見つけた子津の声に、天国は無意識に胸元へ引き寄せていた右の拳を抱きしめた。
「お、おう!」
間があってから、我を取り戻した天国が叫ぶ。
子津は相変わらず、いつも通りの笑みを浮かべているだけで。
でも、それが何故か。
辛そうだと、思った。
02年6月4日脱稿