生活の雑音は其処に人が居る限り消え失せることはない。
誰かの呼吸する音でさえ、雑音である。たとえ静かな場所を好み無音状態に身を置こうとしても、己が生きている限り雑音から離れることは出来ない。
薄く瞼を開き、人が行き交う空間に視線を巡らせてルックはひとつ息を吐いた。
それは溜息のようでそうでないような、酷く境界線が曖昧な吐息。
なにをしているのだろう、自分はここで。
時折考えてしまう自己の存在意義と理由。戦わなければならない相手と、戦う理由がある限り好みは存在し続ける理由はある。だが意味はない、戦いを終わらせたときに待つものが空虚な世界でしかないことを知っているから。
背中を向けていた約束の石版を振り返る。もうじき空欄が総て埋まろうとしている石版は、彼のこれまでの歩みと重なって時の証人となるだろう。
だが、こんなものに果たしてどれだけの意味があるのだろう。宿星が全員集まったところで、何かが変わるわけでもない。心強さは増すだろうが、結局戦争に置いてものを言うのは屈強な軍事力であって仲間同士の信頼感や共有感などといった生温いものは、弱さを招くだけでしかない、
それでも、彼はこの道を行くのだろう。目に見えるだけの強さだけを求めるのではなく、心の強さをも仲間に求めている。口で言うのは簡単だけれど、彼の選択は限りなく酷なものだ。
裏切りは許されない、彼のためにも己自身のためにも。
案外、内側から切り崩せばこの同盟軍は呆気なく崩壊しそうな気がする。外からの攻撃には強固でも、中は外見からは想像が付かないほどに生温い。
だから嫌いなんだ。
足音がする。石版を眺めながら刻まれている名前のひとつひとつを指でなぞっていたルックは、視界の端を通り過ぎ石版の裏側に回り込んだ人影に形の良い眉根を寄せた。
「……なに、やってるの」
爪の先が天間星の名前を軽く削る。人の力程度でその名前を削り取る事なんて不可能だけれど。
「しー!」
少年ひとり分の身体を簡単に隠してしまえる石版の裏側で、天魁星に名前を刻まれた少年が唇に人差し指を押し当てていた。黙れ、という合図らしい。
ルックは再びため息を零しいつもと同じように、石版に背を向けて立ち直した。
外から射し込む光は暖かく穏やかだ。今が戦争のど真ん中、両国の力関係が拮抗しいつ本格的な衝突が再発するか分からない状況であることを忘れてしまいそうになる。
この城の中だけは、外でどれだけ人と人が争い血を流し合う無益とも思えてしまう戦争を繰り返していても無関係な、別世界のような和やかさが漂っている。
生温い環境、だがこれがあるからこそ人はこの世界を守ろうとして戦えるし、戦いを終えて戻ってきたときに安堵感を覚えることが出来るのだろう。
戦争という非常事態だからこそ、その非日常的な空間に慣れてしまった心を癒せる場所が必要になってくる。麻痺した感覚を元に戻して、“いくさびと”が“ただびと”に戻るために。
「…………」
会話は起こらない。黙れ、と言われたルックはもちろん何も語りかけようとしないし、セレンの方もあまり大きな音や声を立てるわけにはいかない理由があった。
「……なにしてるって、聞かないんだ」
「さっき聞いた」
けれど、其処に人が居るのに黙りが続くのは楽しくない。小声で、姿勢は石版の裏側で膝を抱え座ったままセレンは呟いた。即座にルックの冷たいひとことが戻ってきて、あうっ、と小さく呻く。
「……で。なにしてるのさ」
同盟軍のリーダーでありこの城の主であり、今このデュナン湖を囲む一帯を平和に導くかそうでないかの瀬戸際を演出している張本人が、城の中でこそこそと隠れて。
「あのね……かくれんぼ」
「…………………………………………」
「……今、呆れたでしょ」
無音状態のルックを気配だけで読みとって、セレンはむぅっと唇を尖らせる。折り曲げた膝を更に抱き寄せ、背中を石版に押しつける。全体重を預けても、石版が揺らぐことはない。
「盟主としての威厳などあったものじゃないね」
相当呆れた声で、ややしてからルックが答えた。見えはしないが、もしかしたら肩を竦めている事くらいはやっているのかもしれない。
「こんな御子様に先導される同盟軍も先が知れている」
嫌味を歯に着せぬ言葉で飾り立てるルックに、セレンだって言わせたままではない。顔は変わらずむくれたままだが、ぼそぼそと反論を返す。膝の間に顔を埋め、かなり聞こえづらい声ではあったけれど。
「ボクだって、時々人間に戻りたい時があるよ」
「…………」
ルックは何も言わずに、背中で聞いている。
セレンの声は微かだが震えていた。誰にも明かすことの出来ない苦しい胸の内が伝わってくる。
同盟軍のリーダーになったのは彼の意志だが、そうならざるを得なかった事の方が大きい。望んで手に入れたわけではない力に見えない糸で操られ、気が付けば周りばかりが盛り上がり断ることなど出来るはずがなかった。
運命などない、だがこの道はあまりにも皮肉な出来事に満ちすぎていた。
敵である国の王は生涯を通して親友だと誓い合った友であり、いずれ近いうちに見を交える事になるのは確実だった。お互い譲れないもの、守りたいものを手にしてしまった以上、この戦いを回避することは不可能。
だからこそ辛い。
この戦いの意味を何度も何度も問い直し、別の道を模索しても答えはどこにも見当たらない。
彼はまだ、たった十六歳の少年なのに。
「まるで僕たちが、セスを人間じゃないものにしているみたいな言い種だね」
確かに、セレンは同盟軍のリーダーであっても実質的に軍の動きを掌握しているのは軍師のシュウであり、以下将軍や軍隊長たちの方で、別にリーダーがセレンである必要性はないのだ。
けれど、セレンが抜けた時同盟軍は支えとなる柱を失い内部から瓦解する。
カリスマ、という言葉で飾られた傀儡。
「ボクだって、遊びたい時がある」
顔を上げたらしく、くぐもりの抜けたセレンのひとことにルックは何を思ったのだろう。
「……ま、いいんじゃない?」
大して興味が無さそうな声で彼は短く言った。
え、とセレンは振り返る。だが大きな石版に視界を遮られ、彼の姿は視界に映らない。
「笑っていれば」
子供であるとか、大人であることを抜きにしても。
傀儡だとか、お飾りだとか見せかけだけとか紋章の力だからとか、そう言うことは別にして。
真の紋章の所有者だから同盟軍の皆が従ってくれている、という考え方は卑屈だ。もっと自信を持てばいい、これは自分の実力であり人間性を慕ってくれたからこそ出来た仲間だと。紋章の力は二の次に置いておけばいい、そんなものが無くても、人の心は人に惹きつけられる。
「君が笑っていれば、みんなはまだ大丈夫だと思える」
一番頂点に立つ人間が、四六時中悲愴な顔をしているとそれを見上げている人々はどう思うだろう。
「へらへらするな、って言われる事もあるけど」
「話しの腰を折るね、君も」
堂々としていろ、という意味だと言い直してルックは小さく咳払いをした。
かくれんぼは継続中。ルックは前を見据えたまま、セレンは石版の裏に隠れたままの会話で互いに相手の顔は見えない。
再び背中を石版に預けて膝を抱いたセレンはふと、上を見た。高い天井の光取り窓から差し込むのは柔らかい陽光だ。この光に照らされて、ホールはいつも明るい。
あんなところに窓があったのかと、初めて気付いてセレンは少し感心した。
「続きだけど」
ルックの声は密やかで、だのによく耳に通る。石版を挟み込んでの会話はそれなりに声を大きくしなければ聞き取り辛いはずなのに、とセレンは不思議に思ったが彼の声と一緒に少しだけ風が吹いている事に気付くと目を細めた。
音は空気の振動。空気を動かすものは風。風は、ルック。
「戦場でもそうでないときと変わらない態度で居るリーダーと、負けることを考えているような奴と、君はどっちが仲間を鼓舞できると思う?」
「そりゃ……」
遠回しだったルックの言いたいことをなんとなく理解できたような気がして、セレンは膝の上に顎を置き微笑んだ。
ルックなりに気を回してくれているのだと、分かりづらい表現方法に可笑しくなる。
「あのさ、ルック」
今のままで居て良いんだよ、そう言われて嬉しくなる。背中合わせではなくちゃんと顔を見て御礼を言いたくて、顔を石版の裏から覗かせようとしたセレンだったが。
「ったくー、どこに隠れたのー!?」
正面玄関の方から、ぶつぶつと大声で文句を言ってナナミが入ってきたのに気付いて慌てて首を引っ込めた。
様子に、ルックも彼がかくれんぼの最中で隠れ場所を探してここに来たことを思い出す。そしてどうもナナミが鬼役であることも悟った。
ナナミは壁に並ぶ空の酒樽や積まれた空箱、死角になっている場所を片っ端から覗き込みながらこちらに向かって進んでくる。通行人にセレンの居場所を聞く事は、ルールで予め禁止と決めているのだろうか、しない。
いつもと同じ態度の無愛想な表情でルックはそれを見守る。やがてホール内の適当な場所は総て探し終えて、ナナミは顔を上げて疲れたように首を振った。跳ね上がったサイトの髪が一緒になって揺れる。
ばちっ、と視線がぶつかったのをルックは感じた。
ナナミが近付いてくる。足音で分かる彼女の接近に、石版に身を擦り寄せて小さくなったセレンは身体を緊張させる。少しでも物音を立てたら気付かれると思って、息まで止めてしまっていた。
「…………?」
ナナミはルックの目の前で立ち止まると、腰に手を当てて首を捻る。上半身ごと身体を斜めに傾がせて、なにかを探っているのかまじまじとルックを観察して、視線の不躾さに彼は不機嫌さを募らせた。
「……なにか用?」
声もいつになく不機嫌。表情は変わらないけれど。
「ん~……気のせいかもしれないんだけど」
顎に手をやって、ナナミが呟く。自問するように。
「なにか、楽しいことでもあったの?」
唐突に、また突拍子もないことを聞かれてルックも一瞬面食らう。何処からそんな発想が飛んで出てきたのかと、不思議で仕方がない。
「どうしてそう思うわけ?」
ゆっくりと腕を持ち上げて胸の前で組む。問いには答えず、問いかけで返した彼にナナミはまた逆方向へ身体を傾がせた。
「なんとなく、そう思っただけ」
理由なんかないのよ、と笑いながら彼女は顔の前で手をひらひらと振った。そして気にしないで、と言い残し彼の前から離れる。
「それにしても、もー。セスってば、何処に隠れちゃったのよー」
完全にルックへの興味は失せたらしい。階段へ向かい手摺りに手を置きながら、彼女は文句を繰り返している。トントン、と一定のリズムで階段を登っていく音がそれに続いた。
「…………行った?」
石版の裏でじっとしていたセスが恐る恐る、尋ねる。まだ身体は動かせない、緊張しすぎた所為で筋肉が硬直してしまったようだった。
「そのようだけど」
ナナミの姿が見えなくなるのを、階段を仰ぎ見て確認したルックが変わらない小声で返す。そして上半身だけで振り返り、痺れてしまった片足に苦労して床の上に伏せているセレンを発見してまた唖然となった。
「なにやってるのさ」
「……痺れちゃった……」
身体の下敷きになっていた右足が軽い痙攣を覚えていた。立ち上がれなくて、バランスを崩した結果このざまらしい。今度こそ心底呆れたルックはやれやれ、と首を振り膝を折って彼の傍に跪く。
仕方がないな、という顔をしているルックはいつもと違っているところなどないように見えた。
ナナミが言い残していった言葉を思い出し、セレンは床の上に伸びたままルックを見上げる。見つめられる方もそれに気付いて怪訝な視線を返した。
「……なに」
「楽しいこと、あったの?」
とてもそうは見えない。どう考えても呆れている以外の表情が読めないルックに、セレンは隠しもせずストレートな言葉で問いかけた。
「…………」
沈黙。
ルックの心情としては、「この姉弟は揃いも揃って……」という感じ。言った方のセレンは、静まりかえってしまったルックを気まずそうに見上げて空笑い。
……気まずい、非常に。
どうしよう、このままでは両方とも動くに動けない。困ってしまったふたりの間へ、天の助けではないが本当に頭上から声が降ってきた。
「セス、みっけ~~~~!」
ホール中の空気を震撼させるけたたましい、甲高い叫び声にルックは思わず両手で耳を塞いだ。
キンキンする頭を上向かせると、中二階の手摺りに凭れ掛かり真下であるこの場所を覗き込んでいるナナミが居た。にこにこと嬉しそうに笑っている。
「あ……」
硬直が溶けた途端、別の硬直が待っていてセレンは咄嗟に反応できなかった。
「こんな事だと思ったのよねー」
乗り出していた身体を引っ込め、二段とばしで階段を下りながらナナミが言う。どういう意味だ、とルックが眉間に皺を寄せて彼女を見返すが、ナナミは気にした様子もなく彼らの前に戻ってきた。
「セス、みっけ」
捕まえた、と床の上にようやく座ることが出来たセレンの腕にタッチして彼女はカラカラと声を立てて笑う。気を取り直したルックが衣服の埃を払って立ち上がり、居場所を石版前に移動させた。続けて、座っていたセレンも立ち上がる。
「どうして分かったの」
一度は見逃したくせに。
不思議そうに尋ねたセレンに、ナナミはチッチッと舌を鳴らして人差し指を立てて左右に揺らす。
「甘いわね。このナナミ様が気付いてないと思った?」
最初から怪しいとは思ってたのよ、と言葉に含ませて彼女は胸を反り返した。そして徐に、我関せずを決め込んでいたルックを指さす。
「だって、ルックが笑ってるんだもん。絶対なにかあるに決まってるじゃない」
「え!?」
そうだったの? とセレンは目を丸くし、槍玉に挙げられたルックはぎょっとして身を引いた。
「待て。僕が何時笑って……」
「えー、だってさっき笑ってたじゃない」
控えめに言い返そうとしたルックだったが、倍以上大きな声を出すナナミの前では彼の皮肉も無力。何事か、と通り過ぎようとしていた人も振り返って彼らを興味深そうに見ていく。
「笑ってた……?」
ずっと石版の後ろにいたセレンはその瞬間を見ていない。会話をしていた時は全然気付かなかった、呆れられていただけだと思っていたのに。
セレンはルックを見た。視線がかち合って、先にルックの方がそっぽを向いた。
「本当に?」
「お姉ちゃんが嘘吐いてるって言うの?」
片手に握り拳を作りながら言われては、首を横に振るしか無くてセレンは苦笑いを浮かべた。
そしてもう一度ルックを見る。相変わらず向こうを見たまま。
「見たかったな」
ぽつり、呟く。聞こえたのか、ルックがゆっくりとセレンの方を振り返った。
少しだけ彼が微笑んでいるような気がして、少し照れくさそうにセレンも笑い返した。
そして僕らは旅に出る
具体的に、夏がいつからいつまで、だなんて知らない。
けれど学生にとってその区切りは大抵夏休みで、それが終わると同時に夏も終わったような感じがする。
一ヶ月半ぶりに出会うクラスメイトの、それだけの短いはずの期間で驚くほど違ってしまっている姿に驚いたり、思い出を語り合ったりする中でぽつんと、置き去りにされたような錯覚。確かに自分たちは長期休暇に入る前よりもずっと日に焼けて逞しくなった、そんな印象を見る側に与えているらしかったけれど。
夏、という季節が知らぬ間に終わってしまったような、夏に置いてけぼりを喰らわされたそんな気持ちが、心の何処かでくすぶっている。
だから、オレ達は。
土臭いグラウンドで白球を追い続けた夏から自分たちを取り戻すべく、旅とも言えない旅に出た。
高校球児の夏は七月で終わるか、八月で終わるかで大きく違ってくる。そして大抵の球児は八月を迎える前に、夏場の大きな山を通り過ぎてしまう。八月にはもう秋に向けての準備を始め、新チームでの練習が繰り広げられる。
三年生は引退し、冬場、もしくはそれ以前での受験に向けて頭のスイッチを切り替えて。二年生以下は新たに選定されたキャプテンの下、レギュラーを目指してひたすらにボールを追い掛ける日々が続く。
県立十二支高校の夏は、七月で終わった。今年も、その先に進むことが出来なかった。
三年生が去り、人数も減って少し寂しくなったグラウンド。けれど変わらない練習量とそれ以上に、もう負けないための自主トレーニング。その連続を繰り返すうちに世間一般で言う夏は終わり、学生の本業は勉強である、という姿勢に戻らねばならなくなっていた。
結局どこかに遊びに行くこともなく、皆が集まる機会は大抵、大量に提出しなければならない宿題を解決するために知恵を出し合おうと、足りない頭を補い合ってああだこうだと言いながら問題集と格闘したくらいで。この時ばかりは、辰羅川の存在が非常に有り難く、練習後帰宅してからこつこつと少しずつノルマを片付けていった子津のノートも重宝された。
夏休みの最終日、監督の恩寵で練習が休みになった日、持ち込まれた手をつけていない宿題の量が一番多かったのは案の定猿野で、その次は兎丸だった。何事も大抵そつなくこなす司馬は三分の一を残すばかりで、辰羅川と子津は当然すべて終わらせていた。犬飼は、兎丸よりも少なく司馬よりは多い量、残っていた。
騒がしかった子津の家で夜が更けるまで宿題に取り組んだ彼らは、いつの間にか過ぎ去った夏を思ってふと、薄暗い庭を見る。風はまだ熱っぽさを残していたけれど、八月の半ばに感じたあの茹だるような熱さは遠ざかり、季節は間もなく秋を迎えようとしている。それが分かる空気を肌で受け止めた彼らは、誰もが一様に静かだった。
来年こそ、と誓いを新たにした三年生の引退の日。自分たちが叶えられなかった夢を必ず見せてくれ、と言い残したキャプテンの姿は暫く忘れられそうにない。
「夏、終わっちまったな」
忙しくノートに向かっていた猿野が、視線を落としたままぽつりと呟く。誰もが言わなかった言葉を口に出した彼に集められた視線が合計して、十。勿体ぶったように彼は笑い、自分を見つめている仲間達を見上げた。
悪戯を企んでいる時の、笑顔。歯を見せて笑う彼に怪訝な表情を浮かべる者も少なからずいたが、誰ひとりとして新たに声を発せようとしなかったのは恐らく、考えている事が皆同じだったから、だろう。
「まだ終わってないよな、夏」
夏期休暇が終わり、学校が始まっても。
夏の高校野球が終わり秋の県大会へ向けて、新チームで優勝すべく練習を積み重ねていても。
空気が含む熱が薄れ、喧しく鳴き喚いていた蝉の声も遠ざかり、闇の中で羽根を擦り合わせ鳴く虫の声が響き渡るようになっていても。
夏は、まだ。
終わらない。
そう思っている限り、今年の自分たちが過ごした夏は途切れない。
黙っていても秋はやってくる、三年生が抜けた穴を埋めて新チームでの試合がこれからも目白押しだ。秋の大会結果如何によっては、春野選抜で対象高校に選ばれる可能性だって低くない。
この先も永遠に、準決勝や決勝止まりの高校でいない為にも。
自分たちが在学している間に、大きな花火を打ち上げてやりたいではないか。けれどその為にも、気持ちを切り替える必要がある。
夏を終わらせる為に。
「行くか?」
皆を見つめながら目配せをした彼に、拒否を発言する存在は居なかった。
「そうですね、折角ですし一度くらいは良いかもしれません」
くいっと眼鏡を押し上げて、辰羅川が浮かんだ汗を首から吊したタオルで拭き、言った。
「面白そーだし、ボクは賛成!」
身を乗り出して座卓に片手を置いた兎丸が、元気良く声を弾ませて挙手しながら笑う。
「良いっすね。でも練習を休むわけには……」
「…………」
「ちっ。とりあえず、ついてってやらないこともないがどうする気だ?」
賛成の意見を表面した残りの三人だったが、子津が申し訳なさそうに言った練習をさぼるのは良くない、という意見もまた全員一致。一日でも休めばその分を取り戻すのに三日必要だとかなんとか、言い出しそうな勢いのある先輩方と監督を説得する事は難しい。休日は前日、朝から晩まで練習と試合が既に組まれていてそこから予定を立てるのは不可能だろう。
口澱んだ子津に、猿野はしかし何を言っているんだ、と目を丸くした後意地が悪そうににやりと口元を歪めさせた。座卓の下で組んだ胡座を解き、握っていたシャープペンシルを投げ捨てて。
「明日行くんだよ」
「えぇ!?」
明日、9月1日。俗に言う始業式。但しその日も例外なく朝練はあり、夕方からの練習も自主参加だが予定されている。グラウンドは七時まで使えるように手配されており、いつ来ても構わないと昨日の段階で言い渡されていた。
朝練が終わって、夕方の練習を始めるまでの時間は大体で六時間。
「海くらいなら、泳げずとも行くことは出来ると思いますよ」
珍しく積極的に参加の意思を表明している辰羅川が、頭の中で学校へ行くための電車の沿線経路を思い浮かべながら言った。すると兎丸が、その中にあるひとつの駅名を口に出してそこへ行きたいと言い放つ。
夏場は海水浴客で賑わうけれど、それ以外のシ-ズンでは乗降客は地元の人たちだけ、という小さな駅だ。海の目の前で、背後を振り返れば山も近く、幼い頃何度も親と一緒に遊びに行ったと彼は続けた。
異論は出ず、真面目という形を切り取ったような性格をしている子津も最初は渋っていたが、他の面々の勢いに押されて頷き了承の返事を出した。
始業式、長い校長の挨拶が中心の朝礼があって、その後は学校内の大掃除と一部の宿題提出。大抵午前で終わってしまうその日しか、彼らが外へ飛び出せる日は思い浮かばなかった。
いっそ授業をサボってしまうのも良いかと思ったのだが、それは辰羅川と子津が許してくれなさそうだった。
「じゃ、決まりな。朝練が終わってから、朝礼が始まるまで部室で身を隠してだな……」
こういう悪巧みを発案する事だけには才能を存分に発揮する猿野が、声を潜め明日の予定を素早く組み立て始める。皆は顔を近づけ猿野のひそひそ話しを聞きながら、時折合いの手を入れ欠陥があるように思われる計画には茶々を入れつつ訂正を加えていく。
夜も耽り、いい加減帰らねばならない時間帯になってようやく話はまとまり、まだ宿題が写し途中だった猿野だけが子津の家にお泊まり決行、その日は解散。
明日の持ち物。
練習着。始業式限定で提出が決められているプリントと宿題数点、これは同じくラスの他の野球部員に提出だけを頼む事にする。交通費、海までの往復分に食費なんかの経費をプラスしていつもより多めに財布に入れて置こう。地図は要らない、全然知らない場所じゃないし迷ったら迷ったで、その時考えればいい。
みんな一緒なのだから。
朝練、見慣れすぎて飽きてしまった面々と汗を流し、一般生徒が登校を始める時間帯にそれぞれ引き上げて。みんなが先に着替えて教室に向かう中、のろのろと制服に袖を通しロッカーに荷物を押し込んで。宿題関係をクラスメイトに頼んで、理由を簡単に説明して、仕方ないなと笑う彼らに土産という賄賂を約束して、チャイムが鳴るのを待つ。
スピーカーから流れてくる、グラウンドに集合するように告げる声を聞き過ごして、人気がないグラウンドを一斉にダッシュで横切り校門とは反対の、いつも閉められている裏門をよじ登る。
「脱出成功!」
校舎からは生徒達がざわつく声が聞こえてくる。こんな日だから、見回りに来る先生も居ない。呆気ないほどに学校から抜け出した総勢六人、鞄を背負い直して顔を向かいあわせて頷いて。
猿野の威勢の良い声に、大声を出すなと犬飼が怒ってそれを辰羅川が宥める。ここで見付かったら元も子もないだろう、という子津の忠告に猿野は悪い、と小さく舌を出して謝り兎丸は速く行こう、と急かす。
九月一日。
まだ夏の暑さが抜けきらない太陽が眩しい空の下、彼らは急ぎ足で駅へ向かう。人の流れに逆らって、遅刻決定で学校へ走りながら向かう、見知らぬ生徒とは正反対の方角を目指して。
アスファルトをスニーカーの底で蹴り飛ばし、ホームに滑り込んできた電車にスライディングで乗り込んで。全員が乗り込む前に閉まりそうになった扉を、猿野が持ち前の怪力でこじ開け、隙間から辰羅川が慌てて駆け込んだり。
ラッシュアワーもとっくに終わった時間帯、ガラガラの車両で長座席を高校の制服で埋め尽くしたり。
白く塗られた車両の床、窓から差し込む光を浮かべた四角形が徐々に菱形になって足許に吸い込まれるように消えていく。カーブを曲がり終えた電車の向こう側、兎丸が座席を逆向きに座って開いた窓の先に、白く輝く雲を頭上にした青一面が見えた。
ざわめきが六人の間を通り過ぎ、「海だ」と誰かが呟く。
他に誰も降りる人の無かった駅で切符を回収されて、降り立ったアスファルト。照り返しの熱も強い海辺の道路、吹き付ける風は潮の香りを紛れさせて彼らの鼻腔を擽った。
「おおー」
海など見慣れていたはずなのに、随分と長い間ご無沙汰だったような気がして猿野は感嘆の声を漏らす。隣で司馬が聞いていたMDの電源を切り、犬飼は車内でひたすら眠そうにしていたのが嘘のように目を冴えさせて目の前に広がる一面の海を見つめていた。辰羅川は眼鏡を外してまたかけ直し、子津が落ちそうになった鞄を背負い直して浮かんだ汗を拭う。兎丸が、ぴょんっと小さく跳ねた。
「ね、行こうよ!」
「当然だ!」
その為に来たんだ、と兎丸のひとことに猿野が相槌を打って握り拳を空に突き上げた。
海を目の前にした駅、とだけあって本当に海岸まで道路一本を挟んだだけの場所に建っていた駅舎を駆け出し、彼らは防波堤へ降りる階段を下る事さえ面倒だとばかりに一気に飛び降りた。
柔ら無くもない砂の上に着地し、靴の中に潜り込んだ砂粒にも構わず引いては寄せ、と繰り返す波間へ迫った。色を変えた砂浜の境界線まで近付き、波間に浮かぶ白っぽい透明の物体に気付いた兎丸が悲鳴を上げた。
何事か、と眼鏡の向こうでそれらを確認した辰羅川が、やれやれといった感じで肩を竦める。犬飼がその場で拾い上げた木の枝を使い、柔らかくでぶよぶよしているそれを掬い出そうとして、見事に失敗した。
夏が終わった海に大量発生するもの、水海月。
「こりゃー、泳ぐのは無理だな」
海岸に打ち上げられているものだけでもかなりの数になる。沿岸に出ればもっと沢山いるだろう、水海月とはいえ、これだけ大量に発生している連中に囲まれるのは気分が良いものではない。水槽で少しだけ、優雅に泳いでいるのを見るのはまだ耐えられるけれど。
「兄ちゃん、泳ぐつもりだったの?」
予想外だったらしい猿野の言葉に、兎丸が笑いながら聞き返す。
「海に来ておいて、泳がない方がおかしい!」
自信満々で言い返した猿野だったが、司馬にくらげだらけの海を首指して首を振られ、渋々といった感じで諦めたらしく肩を落とした。
「ふん、バカ猿は考え方が単純だな」
「なんだとー! テメーこそ、泳げるのかよ。あ、犬だから犬掻きは出来るのか」
腕を組んで猿野を笑った犬飼に、彼は即座に反論を返して喚き、自分で言いながらツボに入ったらしくぷっと吹きだした。子津が言い過ぎだと一触即発になりかけたふたりの間に割って入って止め、聞きながら楽しげに笑っていた兎丸が足許から貝殻を拾い上げる。
その隣で、司馬が砂に埋もれた花火の残骸を拾った。
「花火かぁ、したいよね」
折角海に来たんだし、と何気なく呟いた兎丸に、辰羅川はまだ昼ですよ、と返す。犬飼との口論を中断させた猿野が、けれど、
「良いじゃねーか、花火。昼だけどしようぜ」
「しかし花火は……」
「花火を昼にしちゃいけないっていう法律はない!」
びしっと反論しようとする辰羅川に指を突きつけ、猿野はにっと笑いながら言った。迫力に負けた辰羅川が後ろに下がりながら頷き、聞いていた犬飼がその強引ぶりに嘆息する。子津はもうなにも言わずに苦笑を繰り返し、兎丸はやったと喜び勇んで防波堤を振り返ってコンビニがあったかどうかを思い出す。司馬が東の方角を指さし、じゃんけん大会が始まった。
3対3で勝ち組は海岸に残って荷物番、残り三人が買いだし組でコンビニへ。ちゃっかり勝ち組に残った犬飼と子津にぎゃんぎゃん吼えた猿野は、辰羅川と兎丸に引きずられるようにして階段を登っていった。
見送った三名はめいめいに場所を決めて砂浜に座り込み、司馬はMDの電源を入れて、犬飼は小さな貝殻を見つけては投球フォームをゆっくり描きながらそれを波間へ放り投げる。子津は三人分の荷物を前にして、今頃学校はどなっているだろうと思考を巡らせ時間を潰した。
昼間の花火、はしゃぎ回る彼らを咎める人は居ない。時折犬の散歩をさせている地元の人が笑いながら通り過ぎていき、片付けていくようにとだけ忠告して去っていく。
猿野は打ち上げ花火を両手に持って皆の方に向け、兎丸が逃げ回り子津は砂に足を取られて派手に転んだ。犬飼が階段の隅で線香花火の消化に務め、派手な色の変化をする煙を出す花火を手にした司馬が、サングラスの向こう側にある瞳を細めた。
辰羅川に引っ張られて輪の中に戻ってきた犬飼に向け、猿野が飲み干した缶に刺したロケット花火を発射。危ういところで避けた彼は、もれなく反撃と称して猿野目掛けネズミ花火を投げ放った。
砂に沈んだネズミ花火は、巧く回転できぬまま火薬を燃えつかせ消えた。
藻掻いて、足掻いて。最後まで諦めずに頑張って、けれど燃え尽きてしまった花火。それはまるで自分たちのようで。
夏が終わる。
秋が来る。
頭上、道路を挟んだ先にある線路から、快速電車が駅を通過して走り去る警笛が聞こえる。自分たちは立ち止まらずに夏の頂点を目指し、けれど急ぎすぎて目的地を素通りしてしまった。
「来年は」
既に炎の消えた花火をゴミ袋に放り込み、猿野が呟く。
「そうっすね」
最後まで告げなかった彼の言葉に、子津が頷いた。見上げた先に、仲間達が居る。
悔しげに顔を歪め、そして瞑目し、笑顔を作って。
「来年こそ、だな」
犬飼が己の左手を見つめながらいった。この手で掴み損ねた硬球の感触を思い出そうとしているような仕草に、静かな辰羅川の視線が被さる。ベンチで過ごさねばならなかった夏は、今年で終わりにしたい。だからこそ、明日からは気持ちを切り替えて上を目指す為に。
たとえマウンドに立てなくても、グラウンドで皆と一緒に野球を続けると決めたのだから、少しでも長くその場所に自分も居続けられるように今まで以上の努力を子津は心に誓う。兎丸は一番打者としての役割を痛いほど思い知り、だからこそその重要性を忘れないように更なる精進を決める。守備の要である場所を任せられるだけの存在になれるよう、司馬は静かに響く波の音を聴きながら唇を噛みしめた。
猿野が、海に向けて握った拳を突き出す。
「そうだ、来年こそ!」
女の子と一緒に海に来るぞ、と。
熱い宣誓を叫んだ彼の後ろで、五人が一斉に転んだ。
「違うだろっ!」
真っ先に復活した犬飼が猿野に怒鳴りつけたが、彼は至って真剣な顔をしてしきりに海を指さして熱弁を振るうことをやめない。曰く、女の子と夏の海に来るのは男の野望だろう、と。
「ああ、真っ青な空と海に映える女の子の白い肌ときわどい感じの水着、跳ね返る水飛沫にちょっと照れたように恥ずかしそうな顔をする彼女。オレはその彼女をそっと抱き寄せて……」
夢想の世界に入ってしまった猿野を呼び戻すべく、兎丸が後ろから容赦ないチョップをかました。子津がゴミ袋の口を締めて帰り支度を始め、司馬がそれを手伝い辰羅川が潮風で汚れた眼鏡のレンズをタオルで拭いた。犬飼が呆れた顔でそっぽを向く。
一瞬だけ皆が猿野に抱いた幻想は、彼自らの手でうち砕かれた。
「た~っ! なんだよ良いだろ、オレら健全な高校生だぜ!?」
野球ばっかりも良いけれど、少しくらい潤いってものを持とうぜ、とわめき立てる猿野を置いて、五人はさっさと防波堤の階段を登っていく。ノリの悪い仲間の背中を見送り、唇を尖らせた猿野はけれど、ふっと表情を隠すと視線を海へ流した。
青く、どこまでも澄み渡って広い世界。彼はその青をうち破る思いで握った拳を突きだした。
夏、最終戦、空を切ったバッド、キャッチャーミットに収まった白球。遠い歓声、目の前で抱き合う対戦高校の選手達。無言のまま項垂れる仲間、バックスクリーンで風に棚引く旗、動かない足。
やって来なかった奇跡。
二度と、あんな思いをしないと誓う。
誰にでもない、自分自身に向けて。
「猿野君、電車が来ちゃうっすよー!?」
防波堤の上から子津が大声で彼を呼ぶ。拳を戻して胸に置いた彼は一呼吸置いてから振り返り、いつもの笑顔を浮かべて手を振った。
砂浜を駆け出す、全速力で。
夏の悔しさを海に投げ捨てて、新しい想いを抱く。
来年も、またこのメンバーで海に来よう。その時はもっと笑顔で居られるように、昼間の花火よりも輝いた笑顔で海に来よう。
やはりがらがらの車内で、六人横並びで座席を占領して過ぎる景色を見つめる。
いつの間にか眠ってしまって、降りる駅をみっつほど越えてしまって慌てて引き返して。始業式をサボった事は後から怒られたけれど、彼らの顔は潔いまでに晴れ晴れとしていて結局反省文提出でそれ以上のお咎めはなかった。
夏が終わる。
そしてぼくらは、
旅に出る
02年7月中旬脱稿
Shell
唐突、に。
「海に行きたい」
なんて君が言うから。
「は?」
聞き間違いかと思って間抜けな顔をして振り返ってしまった。
けれど意外に近くにあった君の顔は至極真剣で、からかうような彩は紅玉の瞳にまったくなかった。
だからこそ、戸惑いは大きくなってしまったのだけれど。
「何処に、行きたいって?」
「海」
完結に、単語ひとことだけを口に告げて。
それきり黙ってしまった君が真正面からぼくを見つめている。偽りを見抜き、相手の心を束縛する魔力を持った瞳の前ではあらゆる生者がひれ伏すことだろう。ぼく自身も、そのうちのひとりだ。
自覚症状がある方が厄介だなんて、自覚する前は思わなかったな。
「うみ?」
鸚鵡返しに反芻すると、彼はこっくりと頷く。
どうやらぼくの聞き違いなどではないらしい、ましてや彼の言い間違いなどでもなく。
「もう泳ぐには遅いと思うけど」
海=海水浴。
そんな方程式が頭の中に成立したぼくの疑問を、彼は少しだけ不機嫌になった顔で首を振る事で否定した。
「何故私が泳がねばならない」
だって、海と言えばまず海水浴が頭に浮かぶでしょ。喉元まで押し上がってきていた言葉を無理矢理に呑み込んで、ぼくは曖昧に頷いた。確かに、君が水着で泳いでいる姿は想像しがたい。と言うか、出来ない。
似合わないから、君がそんな風にしている姿は。
「海に行きたい」
もう一度、最初の言葉をそのまま繰り返す。今度はぼくが黙って聞いている。
ちらり、と壁時計を見た。昼食を終えてからまだ時計の針は一周し終えていない。今からでかければ、一番近い海岸まで行って帰ってこられるだろうか。
素早く頭の中だけで地理と交通状況を計算して、二つ返事で君へ頷き返す。
「海、だね」
「そうだ」
確認のために最後に問いかけると、間髪入れずに君は返事をくれた。相変わらず、双子の紅玉はまっすぐにぼくを見据えている。
鏡のように、君の瞳の中にぼくが居る。
「なんだ?」
じっと瞳を見返していると、君の方が少し困ったような顔をしてぼくに尋ね掛けてきた。
理由なんかなかったので、返答に窮してぼくは苦笑い。
「でもどうして、海?」
季節外れになってしまった、人の居ない場所へ行きたがるなんて。
彼の問いかけには答えず、逆に問いかけを返したぼくに君は曖昧に表情を変える。困った顔は相変わらずだけれど、ぼくが浮かべた苦笑いに似たものを含んでいる気がした。
「なんとなく、だ」
やっぱり。
理由なんて無い、ただの思いつき。
少し気まずそうに「駄目か?」と目で尋ねられたけれど、ぼくは首を振って小さく笑った。
全然問題ない。この季節海岸線通りの交通量はそう多くないし、さっき計算したとおり今から間を置かずに出発すれば夜には城に帰り着けるだろうから。
そう言葉少なに説明すると、君は嬉しそうに笑った。
その眩しすぎる笑顔を見ていると、ぼくは幸せになれるのだ。だから、ぼくが君の申し出を断れるはずが、ないんだ。
知ってる、だろ?
だからぼくに、頼んだんだろう?
初秋の空気は、暖かいけれど風を切る中に身を置くと流石に少し冷える。
交通渋滞に巻き込まれるのだけは遠慮願う、という事で。海岸までの交通手段はタクシーや自家用車ではなくバイクになった。
色違いのヘルメットを被って、いざ出陣。出かける前に地図の確認だけは怠らず、ろくな準備も出来なかったけれど路線マップだけは忘れずに鞄の中へ。その鞄は今、後部座席で必死にぼくにしがみついている彼の背中に背負われている。
交通ルールは守ろう、とは裏腹のルール違反ギリギリな速度で滑走するバイクは、カーブにさしかかる度に膝がアスファルトに擦れるのでは無いかという角度まで落ちる。海へ続く道はどうしてもカーブが多くなるから、必然的に危険な路線取りが多くなる。
後ろの君は、カーブが視界に入るごとにぼくの腰に回した腕にぎゅっと力を込めて、振り落とされないように必死にしがみつく。時々、ぼくの方が苦しいくらいに。
安全運転、したいんだけど。
少し急がないと、間に合わないんだよね。日暮れに。
そうこうしているうちに、唐突にサッと目の前の景色が広がって。
ぽっかりと空いた空。右手には相変わらず山肌がうざったいくらいに続いているけれど、反対側は。
蒼と碧のコントラストが眩しい、空と海が混ざり合った世界が広がっていた。
「うわっ」
景色に魅入っていたらハンドルを取り損ね、危うく反対車線にバイクの車体を向けてしまうところだったのを、寸前で止める。
よろけた車体を立て直し、冷や汗を風に飛ばしてぼくはこっそりと苦笑い。必死になって抱きついている君は、今の危ないシーンも目を閉じていた所為だろうか、全く何の反応も示してこなかった。
ちょっとだけ、強く抱きつかれたくらいで。
ぼくは、しばらく直線道路が続く事を確認して左の肘で腰に回されている君の手を小突く。そして首の動きだけで左側を見るように教えてあげた。
ブレーキを握り、速度を落とす。丁度目の前に緊急時用の駐車スペースがあるのを見つけたので、そこに寄せてバイクを停めた。
多少型は古めだけれど、燃費は良い中型バイクを降りる。ヘルメットを被ったままガードレール越しに眼下に広がる海を見下ろすと、横で君は暑かったのかヘルメットを脱いで首を振った。
風にはためき、君の銀糸が揺れる。透き通る白さを持った髪が光を反射して輝くのをしばらく眺めていたけれど、時間を思い出しぼくはまた、バイクに戻った。
「海、まだ着いてないよ」
目指している海岸へは、まだもう少しかかる。見下ろす光景もまた良いものだけれど、君に見せたいと思った海は此処じゃない。促すと、君は渋々と言った感じで後部シートへと戻った。
そしてバイクはまた走り出す。今度はほんの少し、速度を緩めて景色を楽しめるように気を配りながら。
追い越していく車を見送りつつ、何度か坂を曲がりくねって小さな町へたどり着く。そこから細い道をゆっくりと進んで、時々地図を確認しながらそのうちバイクを降りて押しながら、進んで。
ふっと、途切れた町並み。
潮の匂いが一気に押し寄せてきて、細波立つ音が耳に重く響き渡る。
真っ白い砂浜と、それに融ける水の輝き。岩に打ち寄せて砕かれる波と、砕かれて千々になった海水が太陽光を反射させて見える虹のような光。
世界が、不意に遠くそして近くなった気がして、ぼくたちはバイクを挟んでしばらく呆然と、その場に立ちつくしていた。
その沈黙を破ったのは、君。
まだ動けないで居るぼくを置いて、ひとりさっさと駆け出して行ってしまった。
バイクのハンドルを掴んだままだったぼくは、君の背中が遠くなるのに慌ててスタンドを立てて道端の邪魔にならない場所に停めた。ふたり分のヘルメットを鍵で固定して、追いかける。
砂浜の途中で、雑に脱ぎ捨てられた君の靴を拾い上げて、ぼくは途方に暮れた。
波打ち際で、スラックスの裾を持ち上げて君がぼくを見ている。ぼくは、君に呼ばれた気がして君の靴を片手に一足ずつ持って近くまで行く。
けれど、水に触れるような位置までは行けない。
「冷たくない?」
「気持ちが良いぞ」
お前も来い、と言われている気がしたけれど、ぼくは首を振って丁寧にその申し出は辞退させて貰った。
「スマイル?」
いつもと雰囲気が違うことを察したらしい君が、怪訝な顔でぼくの名前を呼ぶ。
ああ、君に名前を呼ばれると逆らえないんだよね……ぼくは。
「だって、さ」
なんだか海って、恐くない?
言うと、君は呆れたような顔をしてぼくを見る。そして何を思ったのか、腰を屈めて両手で海水を掬い上げるとそれをぼく目掛けて、放り投げた。
ぱしゃん、と水が跳ねる。ぼくの髪を、ほんの少しだけ濡らす。
「海が恐い?」
「溶けるよ」
「ナメクジじゃあるまいし」
「そう、なんだけどねぇ……」
塩辛い水。塩をかけて溶けるのはナメクジ。間違っても、透明人間や吸血鬼は、溶けたりしない。
ただ。
生き物は、海から生まれた。だから、命が還る場所があるのだとしたら、それは海なのかもしれない。
母なる海、と言われる所以はそこにあるのだから。
君は笑って、そう言う。掬い上げた水を、今度は自分の頭上へと放り投げて。
夕暮れに近い空の光を受けて、千切れた水がキラキラ光って君の上に降り注がれる。
綺麗だと、思う。言わないけれど。
「魂が還る……」
「ああ」
「ぼくは、でもやっぱり海は嫌かなぁ」
「何故」
理由……問われて、しばし考える。漂わせた視線は空を薙ぎ、水平線と注がれた。
「ぼく、は……還るとしたら、空が良い」
太陽が沈もうとしている空を見上げたまま、ぼくは呟く。徐々に薄暗くなっていく東の空と、太陽の光を受けて朱色に広がりだした西の空。そして最後に、ルビー色の君の瞳を見て。
笑った。
ぼくは、知っている。自分が死ぬときどんな風に死ぬのかという事を。
ぼくは海に還れない。ぼくは空気に溶けるように消えていくのだ、この身体ごと、記憶ごと全部。透け通る大気に混じって完全に見えなくなったら、ぼくは本当に消えてしまう。
ぼくの死とは、そういうこと。
君には理解できないこと、だろうけれど。
そう告げると、君は予想通りに不本意な顔をしてぼくを見上げる。ぱしゃり、と水が跳ねた。
君がぼくの傍へ戻ってくる。君の足を濡らす波が、押しては寄せ、寄せては戻る。空気に冷やされた君は、少し寒いのか顔色が良くない。
「海と、空では」
還る場所が違っては。
永遠に、届かない。
「逢えるよ」
俯いた君の髪を梳いて、ぼくは囁く。
「だって、ほら。海と空は」
見て、と日が沈み赤く染まる夕暮れの海上を指さしてぼくは微かな微笑みを君に向けた。
「水平線で、交わるから」
そこに境界線はなく、そこに互いを拒絶する理由は無い。何もかもがひとつで、何もかもが混じり合う。混沌とした世界のなかで、海と空は永遠の逢瀬を迎える事が出来るのだから。
ひとりきりじゃ、ない。
逢える、よ。
「今日はまた、一段と」
海の香りに当てられたか? と君が笑い飛ばして今度はぼくが拗ねる番だった。結構、真面目に真剣に答えたつもりだったんだけど……?
「分かっている」
君は後ろ手に手を結んで、波打ち際をぼくの居るとは反対方向へと歩き出した。相変わらず裸足のまま、水を含んで重くなった砂の上に浅い足跡を残していく。その足跡も、波に攫われて呆気なく消えていく。
君の、ように。
「消えたりはしない、貴様じゃあるまいし」
私にそんな奇特な特技はない、と君が笑う。もっともすぎる返事に、ぼくは曖昧に笑ってすべてを誤魔化した。
何かを見つけたのか、また君は膝を折って砂浜に手をついた。後ろをゆっくりと、波に濡れないように歩いていたぼくは彼の白い指に挟まれた同じように白い、渦巻き状の小さな貝殻を見た。
「それ……」
「珍しいな」
こんなにも大きな貝殻を拾うなんて。手の平に収まる大きさの貝殻を手の上で転がして、ユーリはカラカラと笑いながら言う。そして右手に持ち替えて、右の耳にそれを押し当てた。
貝殻は、海の音を伝えてくれるから。
「聞こえる?」
「ここじゃ、波の音が大きすぎる」
「そりゃ、海だもん」
君から視線を広大無辺の海へと流して。その大きさに気圧されて、またぼくは君だけを見つめる。
「帰る?」
「海へか?」
「だから、ぼくは空に還るんだってば……」
「なら、私は虹にでもなるか」
「どうやって」
「さあ、な……」
意地悪く見上げてきた君は、貝殻を大事そうに鞄へしまった。そしてぼくの手から靴を取り戻し、濡れた足を拭いもせずに革靴へと足を突っ込んだ。
城に帰ったら、アッシュに言ってちゃんとクリームを塗って手入れをしてもらわないと二度と履けなくなりそう……そんな事を考えていたら頭を鞄で殴られた。
「いたっ!」
「なにをしている、帰るぞ」
さっきは自分から話をはぐらかしたくせに、現金な君は大声で叫ぶと鞄を抱きかかえて一足先にバイクを停めてある歩道へ走っていった。
またぼくは、置いてけぼりにされる。
でも、君はバイクを運転できないから結局はぼくが、君を連れて帰ってあげなくちゃいけなくて。君は、ぼくがいないと帰れないから。
だから、少しだけぼくは優越感に浸ってしまいそうになる。
この日拾った貝殻は、今も君のベッドの枕許で波の音を響かせている。
雨の日の午後の憂鬱
雨が降っていた。
ハヤトがリィンバウムに来てから、これで数度目の雨。そういえばまだ両手で余るくらいしか、雨の日は体験していないなと、ぼんやりと外を眺めながらハヤトは考えた。
さして気にしたことはなかったけれど、確かにサイジェントの町は降雨量が格段に少ない。それでも水に困らないのは、すぐ横を流れるアルク川のおかげだろう。
北の山脈を水源とするアルク川は年中豊かな水量を保ち、サイジェントの町の発展に大きく貢献してきた。しかし、町が流す汚水の影響で、サイジェントよりも南の大地は死の荒野と化してしまっている。
雨の日はなるべく外に出ないで、雨水も頭からかぶらないように、と最初に雨が降った日にリプレからお達しが出ていた。理由を問うたら、彼女は即答こそしなかったものの、あまり健康に良くないから、と言った。
つまり、酸性雨か。
「そうだよな……工場から煙をあれだけ上げておいて、空気も汚染されてないわけ、ないよな」
どんよりとした空を見上げて、ぽつりとハヤトは呟く。
雨の日は暇だった。する事がないから。
掃除をしようにも、窓を開けたら雨が吹き込んできて余計に床が汚れるだけだし、かといって窓を閉めたまま掃除をしたら、埃が舞い上がってそれどころではなくなる。部屋の片付けをするにしたって、片付ける必要があるほど荷物が沢山あるわけでもなく。本を読もうにも、ハヤトはまだこちらの世界の文字に精通していない。せいぜい、ラミなんかが読んでいる絵本が精一杯だ。それも、絵があって初めて文章の内容を理解できる程度でしかない。
「退屈だな」
広間の窓から庭をぼんやりと片肘ついて眺め、ハヤトは呟く。周りには誰もいなくて、彼の独り言に答えてくれる人もない。
「はぁ」
子供達は書き取りの勉強だし、キールは部屋で調べもの。リプレは台所で食事の支度だし、ガゼルはさっさとふて寝を決め込んでしまった。エドスとレイドは仕事。今ハヤトに構ってくれる人は誰もいない状況で、それが余計にハヤトを暇にさせていた。
自分も勉強すればいいではないか、とも思うのだが、どうも子供達と一緒に、というのは気恥ずかしさが先に立つし、いい男が情けない、とも思う。以前レイドに教わった剣の手入れをしても良いのだが、やはり水分の多い雨の日は不向きではなかろうかと考えると踏ん切りがつかない。
昼食を終えて、はや数時間。夕食までにはまだ早いが、おやつなんて気に利いたものをここで期待するのは酷というもの。しかし、何もしていないのに関わらず腹の虫は容赦なく空腹を訴えてきていて、ハヤトはため息をついて肩をすくめた。
「なにやってるんだろう、俺って」
こんな自分は情けなさ過ぎると愚痴をこぼしても、だから何か仕事が見付かるわけでもなく、嫌になる。
雨は嫌いだった、昔から。
外で遊ぶのが大好きだったから、雨が降ってグラウンドに出られないときは学校も楽しくなかった。小学校の時に廊下でドッジボールをして、窓ガラスを割って先生に怒られたのも、雨の日だった。
もともと一箇所に留まり続けることが苦手な性分であるから、こうやってただ雨を眺めているのも実は結構、疲れるのだ。じっとしているよりも体を動かしている方が気も紛れるし、楽しい。それが仲間達も一緒となると、楽しさは倍以上に膨れ上がる。
でも、今ハヤトはひとりきりで、外に出ることもままならない雨の日の午後を過ごしている。こういう日に限って、時間が経つのが遅く感じるのも嫌いだった。
ガゼルのようにふて寝をしても構わないのだが、それだと夜に眠れなくなってしまう。
「はー、退屈」
ごろん、と床に転がって左右に揺れながら天井を見上げる。年期の入った造りをしている孤児院は、あちこちにシミを残しているがそれも、ここを巣立っていった身よりのない子供達の勲章であろう。
吊されたランタンの光がほのかにハヤトの顔を照らし出している。昼間でもランタンが必要なくらいに外は薄暗い。もし今眠っていて目覚めたとしたら、もう夜かと錯覚してしまう程に。
でも、ハヤトの部屋には窓がないから起きた瞬間に現在時刻を知ることはほぼ不可能だたりする。
「暇は平和な証拠、って誰が言ったんだっけ……?」
ランタンのまぶしさを片手で遮り、ぼうっと天井を見上げながらハヤトは呟く。床の上に直接寝転がっているため、背中が痛いし汚れるかもと思ったものの、他に寝転がる場所もないので移動はしなかった。
「なにをしているんだい?」
そのまま目を閉じれば、眠ってしまいそうなくらいに意識が遠く沈んでいって、片手を顔の上に残したままだったハヤトの真上から声が降ってきたときは、正直とても驚いた。
「あれ? キール」
「あれ、じゃないよ。危うく踏んでしまうところだった」
ここは広間のど真ん中で、人が眠る場所ではない。そのまま下を見ずに歩いていたら、確かにキールはハヤトを思い切り踏んづけてしまったことだろう。無論、そんな馬鹿な真似を彼がするとは思えないが。ガゼルだったら、絶対に嫌味も込めて踏んで通ったことだろう。
第一発見者がキールで、良かった。
「特に、なにも」
していないからこうして寝転がっているのだ。そう答えると、真上から見下ろしてきているキールは肩をすくめたらしい。呆れた表情が見て取れた。
「とにかく、起きて。僕だったから良かったけれど」
手を差し出してキールがハヤトに起き上がることを促す。最初は面倒そうに不満げな顔を作ったハヤトだったが、じろりときつめの視線で睨まれてしまい、渋々その手に捕まった。
しっかりと握り返されたことを確認し、キールは力を込めてハヤトを自分の方へと引っ張った。ハヤトも足を引いて立ち上がる動作を手伝う。
「よっ、とっとっと……」
だが二本の足だけで立つのは実は数時間ぶりだった所為で、ハヤトは立ち上がった瞬間に足をもつれさせてキールに寄りかかった。わずかにキールの方が上背があるのだが、ハヤトを引き上げるために腰をやや屈めていた為に、キールの顎にハヤトの唇が掠めていった。
「あ、ごめん」
歯がぶつかる感覚があったので、反射的にハヤトは謝っていた。
「いや……」
キールもさして気にする素振りもなく、それだけで会話は終了してしまう。微かに感じる物足りなさは、この陰鬱な雨のせいだろうか。
相変わらずのペースで降り続く雨は、土の地面を容赦なくぬかるませている。これが俗に言う恵みの雨でないことは、昨日の段階では元気があった草花が急に萎れてしまったように見えることで分かる。
これは毒の雨だ。植物を弱らせ、人を苦しめる毒水だ。
だがその毒を作ったのも、紛れもない人間自身だ。自分で自分の首を締めていることにも気付かない、愚かな人間の行為が自然を破壊していく。その後に残るものが、荒れ果てた大地とすさんだ心だけだということを、理解しようとしない。
目の前の現実にばかり目をやって、私利私欲に走り全体を見ようとしないからこういう結果が生まれてくるのだ。
「ハヤト?」
キールの腕に支えられるようにして立ったまま、ぼんやりと物思いに耽っていたハヤトだったので、彼は不審げに名前を呼んだ。途端、はっと我に返ったハヤトがキールの腕の中でびくっと震えた。
「あ……ごめん」
さっきと同じ調子で謝罪の言葉を口にし、ハヤトは髪を乱暴に掻き上げるとキールから離れた。なにをこんなにも苛立っているのか、ハヤト本人にも分からなくて、だから余計に苛ついている。
「ハヤト」
そのハヤトの頭を、キールがいきなり、何を思ったのかわしづかんだ。
「キール!?」
一体なんだ、と非難の目を向けて叫ぼうとした瞬間、キールの手はハヤトの髪を、これまた乱暴に掻き回した。
やや癖のある、見た目以上に剛毛の髪の毛はわしゃわしゃと音を立てて変な方向に曲がっていった。
「いたい痛い、痛いってば!」
力加減を忘れたキールの無体な行動に、ハヤトは両手を使って彼の右手を押しのけた。刺激を受けすぎた頭皮はひりひりしている。離れていったキールの指の間には、数本の黒髪が混じっているのが見えてハヤトは泣きたい気持ちになった。
何故に、こんなことに?
「キール……」
「いや、特に意味はない」
「……俺がそれで納得するとでも?」
「だが気は紛れただろう?」
それだけのためにあんな事をしたのか、と問えば素直にキールは頷き返してくれた。かなり痛かったのに。動機がそんなところにあるようでは、怒るに怒れないではないか。
「紛れたけど……なんか釈然としない」
「だろうね」
「そう思うんなら、最初からやらなかったらよかったのに」
「あの時はああする意外、方法を思いつかなかった」
淡々と交わされる、特に意味のあるように感じられない雑多な会話。だがひとりでいるときよりもずっと心は安らいで満たされる。
「なんだよ、それ」
「さあ……」
それじゃあ、今ならもっと別の良い方法を思いつくのかと敢えて問うてみたら、もう君の機嫌は直ったから考える必要はないだろう、と返されてしまった。
「なんか納得いかない」
「だろうね」
先程とほとんど変わらない台詞が繰り返されていることにも気付かずに、ふたりは場所を移してテーブル前の椅子を引いた。そのまま向き合って座る。
リプレが台所でせわしなく動き回っているのをちらりとのぞき見て、それからハヤトはちゃんと椅子に背を預けて座り直した。まだ頭はひりひりしていて、触ると痛いが触らずにいられないのも、人間の性分という奴か。
「大丈夫かい?」
「お前がやったくせに」
「その前に君も、自分で掻きむしっていただろう?」
「それとこれとは話が別」
すっぱりとキールの言い訳を一刀両断し、ハヤトは癖がついてしまってはね上がった髪の毛を指で軽く引っ張った。
「そういえば、キールの髪の毛も外に跳ねてるよな。それ、わざと?」
「いや、これは勝手に……」
「ふーん。その割に綺麗にはねが揃ってるケド?」
「今日はやけに絡むね」
逃げたな、と明らかに分かるキールの話の転換ぶりに、ハヤトは苦笑する。だが確かに、今日はやたらとキールに突っかかっているような気がする。
多分、雨の所為。
それと、今までずっと暇を持て余していたからだろう。
せっかく話し相手が出来たのだから、少しでも長く話を続けたい。それは欲張りな強請りではないはずだ。
「でも嫌じゃないんだろ?」
「まあ、ね」
たまには悪くない、と呟いてキールはテーブルの上に肘をついた。横向きにハヤトの顔を眺めて微笑む。
「なに?」
「いや、特には」
「じゃ、なんで俺ばっか見てるわけ?」
「他に見るものが見当たらないから、かな」
強いて言うならば、と付け足して彼は意地悪げに笑ってみせる。ハヤトは決まりが悪くなって、一度は頬を膨らませてそっぽを向いたものの、すぐにまた姿勢を戻してキールと向き合う。
しばらく、会話は途切れた。
一度切れてしまった糸をつなぐのは苦労で、ともすればクロストークになってますます言い出しにくくなってしまうのは良くあること。それに、今は取り立てて話さなければならない事も思いつかない。
どうしよう。
それが、今のハヤトの率直な気持ち。ついでに言うなら、キールが今何を考えているのかもさっぱり分からない。だから、迂闊に言葉を発せられないのかもしれない。
だが沈黙は重いわけでも苦しいわけでもなく、むしろ誰かと一緒にいる安心感を覚えてハヤトはホッとする。こうやって、ひとりではないことを体感している自分に安堵しているなんて、きっとリィンバウムに召喚される前は考えもしなかったことだろう。
地球の、日本にいたときはひとりでいる事なんてほとんどなかった。
学校に行けば友人に会えるし、クラブに出れば先輩や後輩がいて、体を動かして余計なことを考える余裕もないほどに忙しい。家に帰ったらテレビがあって、一日中自分の周りには、そう、音が溢れ返っていた。
「そっか……」
感慨深げに呟いて、ハヤトはキールから視線を窓の外に向けた。降り止む気配の見えない雨空は遠く、静かだ。
水の音だけが耳に響いている。
「音が……しないんだ」
車の排気音、飛行機のエンジン音、テレビの無駄とも思える大音響に生活に密着した、例えばガスだったり電気だったりの稼働音。そういったものがここには一切存在していないのだ。
「音?」
「そう、音。静かだ」
自然の音しかしない。人工物の無機質で味気ない、それでいて冷たい感じのする音がしない世界だ。
「確かに……静かだね」
キールも相槌を打って、でもきっとハヤトとは違う部分を感じて呟く。
彼はハヤトのいた世界を知らないから、それも仕方のないことだろうけれど。それでも彼がハヤトの気持ちに同調してくれたことは、素直に嬉しいと思える。
「変だな。今まで気付かなかったなんて」
この世界がいかに音に溢れ、満ちているか。そして自然音の柔らかさがどれほどに心休まるのか、ハヤトは知らなかった。だから今、そのことに初めて気付いたことに素直な驚きと感激を覚えている。
「珍しいのかい?」
「珍しいとかそういうのじゃなくて……うーん、でも上手く説明できない」
言葉にしたくて喉のすぐそこまで上がってきている感情は、だがきちんと相手に伝えられるような言葉を持たなくてハヤトを困らせた。
「いいよ、無理をしなくても。なんとなくでしかないけれど、分かるから」
僕も、ここに来たばかりの時は音の数の多さに圧倒されたから、とキールが笑う。
「ああ、それの逆……俺の場合」
「そうだろうね」
音がする。それは、そこに何かが生きている証拠。命が宿っているという、一番簡単な証明の仕方。
「僕達が生きている事を示す最初の音……」
「それ、俺も分かる」
キールが言わんとしていることを先読みし、ハヤトは右手を伸ばしてキールの心臓部分を、彼の服の上から触れた。
「いのちの鼓動、だろ?」
「ご明察」
小さく笑って、キールもまたハヤトと同じように彼の胸に手を添えた。
感じる、相手の拍動。生きているということを何よりも如実に、雄弁に語りかけている。そして安心する。そこに確かに彼が生きているのだと。自分も同じように生きているのだと。
「すごい……なんか、どくどく言ってる」
「君こそ」
「俺の所為?」
「さあ、どうだろう」
短い会話、だけど不満はなかった。
感じている、相手を、そして自分を。心音が重なって、ひとつに繋がったような気がする。
「な、キール」
「うん?」
「俺のこと、好き?」
「どうして?」
「理由なんてないけど……な、俺のこと好き?」
もう彼は椅子になど座っておらず、キールの足元に来て膝を折ってしゃがんでいて、下からのぞき込むような体勢から囁く。ともすれば雨音にかき消されてしまいそうな程の声は、キールにしか聞こえない。
「……どう答えて欲しい?」
「好き、って」
「何だか誘導尋問みたいだ」
「からかうなよ」
「仕掛けてきたのは君の方だろう」
互いの吐息が顔にかかるくらいの距離を保ったまま、ふたり向かい合ってささやき合う。キールの手がハヤトの胸から離れ、まだ自分の胸の上に残されていたハヤトの掌をそっとすくい上げた。
ちゅっ、と軽い音を立ててそこにキールがキスを贈る。
「部屋、行こうか」
「返事は?」
なかなか言ってくれないキールに焦れて、ハヤトは唇を尖らせる。会話がかみ合わない。
「ここで?」
「俺、言ったぞ」
ハヤトの指先がキールの唇にいいように遊ばれている。甘い刺激がほんのりとハヤトを包み込むが、その程度で誤魔化されては悔しいだけだ。たまには主導権を確保してみたい。だがどう足掻いてもハヤトの頭脳ではキールには勝てそうになかった。
「いいのかい? 聞かれても」
「今こうして、お前がやってることを見られる方がずっと恥ずかしいだろ……」
キールの赤い舌がハヤトの指の間に入り込み、一本一本を丁寧に舐め上げている。ハヤトの言う通り、この様子を見られたときの方が、言い訳に困るかもしれない。
「誰も来ないよ」
人の気配には敏感なキールだから、誰かが近づいてきたらハヤトよりも先に気付く。確証を持って言われてしまったハヤトは、左手で顔を覆った。
「じゃあ、いいだろ。言えよ」
赤くなった頬を押さえ、ハヤトはわずかに緩んだ瞳でキールを見上げる。
くすっ、と彼は笑った。
「愛してる」
きっぱりと、いつも以上に甘い声で、しかも耳元で囁かれてしまった。がくり、とハヤトの膝が折れてぺたんと彼は座り込んでしまう。
真っ赤だ。
「信じらんねー」
ずるりとキールの手から落ちた右手も使って、顔を覆い隠すようにしたハヤトからはそんな感想がこぼれる。
「腰に来た…………」
一瞬きょとんとなったキールも、数秒後に理解して困った表情を浮かべる。
「立てるかい?」
「無理かも……」
「せがんだのは君の方なのに」
「だからって、いきなりそれは……不意打ちだって」
「そうなのかい?」
真剣に応えたつもりだったのだが、どうもそれが悪かったらしい。
「俺、耳が駄目なの知ってるだろ」
「…………済まない」
「謝る前に、手、貸せ。このままじゃ立てない」
左手を差し出して今度は自分から、立ち上がるのを手伝ってもらう。キールに引き上げられたハヤトは、まだ頼りない足で椅子にしがみつく。
「部屋に行こうか」
「誰のだよ」
「君の行きたい方へ」
「……じゃ、お前の部屋」
なんだかこの一瞬だけでものすごく疲れてしまった。
「了解」
力の抜けたハヤトの身体を支え、キールはゆっくりと歩き出した。
雨はまだしつこく降っているが、西の空は少しだけ雲間が切れて明るくなってきているから、夜遅くにはこの雨雲も消え去るだろう。明日はきっとまた、良い天気だ。
「……ま、いっか」
「なにが」
「こういう暇な日も、たまになら」
悪くない。
まだらの雪
あれからどれだけの時間が経ったのだろう。
数えることも忘れた、毎日の生活。ただ自分たちが生きるだけで精一杯で、無機質に繰り返される日々に飽きもせず、土に鍬を入れ、額に汗して生きていくための糧を作り出す日常に。
慣れてしまった、今。
かつてともに戦い、苦楽を分かち合った仲間達のことを思い出す事もだんだんと少なくなっていく。日が昇れば川に水を汲みに行き、畑を耕し、日が暮れるまで働き続ける。あのころを懐かしむ余裕さえ持つことが出来ないまま、時間だけは容赦なく過ぎていった。
その事に気づきもせず、ただ、ある日。
夜半やけに冷え込んだとは思っていたけれど、まさかもうこんな時期から。
「わー、雪だぁ」
山の中の小さな丸太小屋、ふたりだけの家。訪れる人もなく、里に調味料や衣服を買いに行くとき以外は滅多に出歩くことも忘れてしまった幼い姉弟。その片割れが早朝、戸口を開けて空を見上げ感嘆の声を上げた。
「見てよ。ほら、雪だよ」
「うん」
寒いから早く閉めて欲しい、とは口にも出さず彼は粗末な暖炉に薪をくべて火を付ける。薄い紙に灯された小さな火は乾いた小枝に燃え移り、そして太い薪に火が宿る。表皮の爆ぜる音がして、小屋と評するべき家の中はにわかに明るくなった。
「なによー、つまんないの。もっと喜べばいいのに」
「だって、寒いよ」
唇を尖らせて振り返る姉に肩を竦め、薪が燃えさかるのを見届けた彼は立ち上がった。
「風邪引くから、何か羽織った方がいいよ、ナナミ」
「うー」
まだ面白くなさそうな顔をして不満ありありのナナミに言い、彼は壁に並んだ小さな行李の蓋を開けた。中から毛皮のコートをとりだし、それを持って戸口に向かう。
「もうこんな季節なんだね」
弟からコートを受け取り、素早く袖を通した彼女はぽつりと呟いた。
「山の中だから、ね。本当ならもうちょっと遅い時期だったと思う……まだ冬支度終わってないのにな」
ナナミの横に並んで彼は言った。視線は外、遙か上空に向けられている。
しんしんと降り続く雪、地表にはうっすらと白い膜が出来上がっていた。穢れることを知らない白さが眩しすぎるくらいで、彼はふっと哀しげに表情を曇らせた。
「セレン?」
上目遣いにナナミが彼を呼ぶ。この数ヶ月の生活ですっかり鍛えられた彼女の弟は、信じられないほどに背が伸びた。少し前までは肩を並べていられたのに、今では見上げなくてはその表情を伺えない。
少し、悔しい。
彼だけが大人になっていくようで、置いてけぼりをくらった感じがする。
「ナナミ?」
黙り込んだ彼女に声をかけ、セレンは再度空を仰いだ。
薄暗い灰色の空から小さな小さな雪が舞い降りる。それはとても綺麗だけれど、降り積もると人を殺しかねない自然の驚異と姿を変える。幸いにも肉の塩漬けはこの前作り終えて床下の貯蔵庫にしまい終えたばかりだし、野菜もいくらか同じ場所に用意した。小麦や、調味料が心細いのでもう一度か二度は里に下りていかなければいけないだろうが、冬支度はおおむね順調に進んでいる。
「道が見えなくなる前に、買い出しに行かないと」
吐く息が白い。ナナミにだけコートを羽織らせて置いて、自分は厚めのシャツを着ているだけのセレンのひとことに曖昧な笑みを浮かべて彼女は頷く。
「今度は私も一緒に行くね」
「うん、お願い」
ほんの少し前までは私の方がしっかりしていたのにな。ナナミが呟く。
「なに?」
「なんでもない」
フルフルと首を振ってナナミは笑った。
「もう冬なんだねー」
「そうだね」
あれからどれだけの時間が経ったのだろう。
もう数えるのも忘れてしまった毎日の生活。忙しさに言い訳して、あの日々を忘れようとしている自分たちがいる。
それは罪の意識を心の何処かに遺している証拠。思い出さないのは、思い出したくないから。思い出すたびに胸が痛むから。
こんな人里離れた山奥にまでも、都市同盟とハイランドの戦況は伝わってくる。多少時間的ずれがあっても、人々の興味がそれだけ深いということの現れなのだろう、思った以上に正確な情報が伝わって来ている。
その多くは里に買い出しに出かけたとき集めてくるのだが、たまに狩りに山に入ってくる男達が休息の場所を貸してくれとやって来たときにも、噂好きの女に負けないほどに色々なことを教えてくれた。おかげで知りたくもない戦況を知ることになる。
彼らのようなお人好しの狩人も誰も、セレンとナナミが現在苦境に立たされている同盟軍の元メンバーだった事を知らない。知らないからこそ、あの戦術のどこが悪い、あの指揮官のどこがいけない、と好き勝手批評できるのだ。
そしてかつての仲間達が真実を何も知らない無知な人々に貶されるたびに、彼らが心を痛め罪の意識に苦しめられていることにも、気づかない。
難民は増え続ける。暴挙止まないハイランド軍の侵攻は休むことがない。大地が荒れ果てていく、耕し手を失った田畑は草が生い茂り容易くは昔のような耕作地に戻ることが出来ない。下草を刈るものがいなくなった山林もまた、荒れる。枝打ちをしないまま放置された樹は曲がりくねり、建築資材諸々の用途には適さない。病気にかかった樹を治療する人間がいなければ、山肌は見る間に枯れ草色に染まるだろう。
鉱山で働く男達が戦場に奪われる、そうして鉱物は減少、貴重化して値が跳ね上がる。
穀物も手に入りにくくなる。貧しい人を相手に商売をする卑しい輩が現れて、暴利をむさぼり私腹を肥やす。
戦場でもない場所で人が死ぬ。
飢えと、絶望と、強迫観念と恐怖に殺されていく。
一度でも土を耕し、自分で食べ物を拵えて生きていく術を知っている人間は、その大変さや生命を育むことの難しさ、大地の恵みと厳しさ、優しさ、暖かさ、そしてなによりも生きることの楽しさを知っているから。
絶対に、戦争を起こそうなどという気を起こさない。
戦争を起こし、争いの火種を作り出し、血に飢えた獣のように戦場を駆けめぐるのは、上から見下ろすことに慣れてしまって、大地から離れた生き方しか知らない傲慢で愚かしい人間だけだ。
そのことが、ここに来てよく分かった。
土と木の匂いに包まれて草のベッドに横になり、小川の冷たい水で顔を濯いで恵み豊かな森に暮らす。雨が降れば蛙の大合唱を聞き、晴れれば畑でミミズとモグラを相手に格闘、お昼には大きなおにぎりを頬張って、暑ければ小川で水浴びをして、釣りをして夕ご飯のおかずを手に入れる。
素朴で、単調で、繰り返すだけの毎日だけれど。
それはとても平穏で柔らかくて、心地よい。
けれど時折思い出す仲間の笑顔と、旅の道中で出会った多くの人たちが苦しむ姿、解放されたときの喜びの表情に表情は翳る。
忘れようとしても忘れられるものではない。
あそこに捨ててきたものは大きすぎて、抱えきれなくて、逃げ出した夜。
荷が重すぎたとか、自分には向いていなかったとか、そんなことを考えていたのではなくて。ただ、本当に純粋に、彼女が泣くのが嫌だった、それだけ。
「冬だね」
もう一度ナナミが呟く。空を見上げ、太陽のない灰色の雲に包まれた雪を降らせる一面の雲を眺めて。
つと、彼女は右手を軒下からその先へと伸ばした。
「ナナミ?」
同盟軍の行く末は険しい。リーダーだったセレンがいなくなった穴は予想以上に大きかったらしい。
懸命に残ったメンバーが建て直しを計ったものの、軍内部の動揺は激しく一部の部隊にはこの戦争は勝敗が決したと言って同盟軍から抜けた人間が少なからずいるという。シュウやビクトールが頑張って残った兵士を纏め上げているそうだが、彼らはもとからそういう職に適していたわけではない。
戦況は苦しさを増し、ハイランドは勢いを加速されるばかり。ノースウィンドゥの古城も、敵の眼前に晒されて裸同然だと。遺された道はデュナン湖に船を漕ぎだしてトゥーリバーへ逃げ延びるか、背水の陣を挑んで散るか、ふたつにひとつだと半月ほど前にやって来た猟師の男が言っていた。
「ね、セレン……本当に、これで良かったの?」
同意を求めるような眼を向けられ、セレンは口澱んだ。なんと答えて良いのか解らない、それはセレンもずっと自問し続けてきた問いだったから。
たったひとつ、解ることは。
「今更、だよ」
あの時彼らは逃げることを選んだ。敵を前にして、ただ己を守るために背を向けて走った。仲間の好意に甘えて、無我夢中で山道を進んだ。
後悔することぐらい最初から承知の上だった。それでも、あの時はこの道が最善だと思った、その気持ちに偽りはない。
それに、これ以上ナナミの哀しい顔を見ていたくなかった。泣きたいだろうに気丈に振る舞って、人の心配までしてしまう彼女の無理に笑おうとする姿を見るのが辛かった。
仲間よりもナナミひとりを選んだ。たった独りの家族を選んだ。
差し出されたナナミの手の平に雪が舞い降りる。白い結晶はだがすぐに熱に溶かされて水になり、消え失せてしまう。
あまりにも儚く、脆い。まるで人の心のようだと自嘲げに感じ、セレンは目を伏せた。
昨日は茶色の土がむき出しになっていた場所が、もう雪の白に覆われて見えない。これはひょっとしたら根雪になるかもしれない、と空模様が途端に不安に思えてきた。
「今日のうちに薪を倉に集めて、それから買い出しに行こう。大急ぎになるけど、明日が晴れるっていう保証もないから」
ナナミの肩を叩いて注意を自分に向けさせて、セレンは早口に言った。
「うん、そうだね」
コートの端を掴んで握りしめ、彼女は頷くと最後にもう一度雪空を見上げて暖炉の火が暖かい屋内に戻っていった。
開け放たれたままの戸を閉めるためにノブ代わりの木の取っ手を引き寄せたセレンは、残り僅かになった隙間から降り止まない雪を眺める。
「ねー、セス。セスのコートってどこにしまってあったっけー?」
行李に頭を突っ込んで詰め込まれた衣服を荒らし回っているナナミが、大声を上げて彼を呼んだ。彼女は散らかすことに関しては天才的だったが、整理整頓、収納に関しては全くその逆だった。
「そこじゃなくて、そっちの大きい方だってば」
ベッドの上に容赦なく撒き散らかされた衣服に肩を竦め、呆れ顔のセレンはまだ蓋が閉められたままの残る行李を指差す。
「いいよ、僕が自分で探すから」
「だめー! たまにはお姉ちゃんに頼りなさい」
セレンが行李に近付くと、ナナミは飛んでその行李の上にのし掛かってしがみつき、頬を膨らませて唇を尖らせた。
「ナナミ……」
「お・ね・い・ちゃ・ん」
一字一句を区切って、強調して言うナナミに睨まれて、セレンは結局すごすごと退散した。頭を掻いて、ベッドの上に乱雑に積み上げられている季節はずれの服を畳むことに専念することにした。
これでは、買い出しに行く時間が無くなってしまう。
「まぁ、いっか」
けれど自然とこぼれた笑みにセレンは呟いて、ベッドに腰を下ろした。その時、怪我をしているわけでもないのに包帯が巻かれた右手が視界に入ってきた。
重い沈黙、そしてため息。
いつか、決着をつけなければいけないのだろうか。その日は来るのだろうか、逃れる術はないのだろうか。
ちりり、と焼けるような小さな痛みに顔を顰めセレンは俯いたまましばらく動けなかった。
輝く盾の紋章――だから、どうしたというのだ。27の真の紋章がもたらすものは戦乱と悲劇ばかりだ。そうと知っていたら、こんな禍々しい力、絶対に欲したりはしなかった。
――強さが欲しい。力が欲しい。この子を守れるだけの力が、僕には必要なんだ。
ジョウイ、君は君の選んだ生き方に迷いはないのか、後悔は無かったのか。この戦乱の時代が君の求めた世界だと信じたくはない、だけどもう、何もかもが遅いのかもしれない。
ふたりの生き方はあまりにも離れすぎた、わかたれた紋章が引き合う力さえ届かないほどに。
だがもし、決着をつけるときが来たとしても。
白い包帯の上から、セレンは紋章に爪を立てる。新たな痛みにもうひとつの痛みがかき消される事を期待して、彼は容赦なく自分の甲に爪を押し込む。
苦々しい表情に、哀しみの色が消えない。
「お前の、思い通りにはさせない……絶対に」
吐き出すように囁かれたセレンの言葉に、手を止めて黙っていたナナミはやはりなにも、言わなかった。
猫的な午後の過ごし方
一面の青空は何度も見たことがあるけれど、リィンバウムの青空は地球の、日本から見上げる空とは、色も、透明度もまったく違う。
空の蒼がこんなにも澄んだ美しいものだと知ったのは、リィンバウムに来てからだ。同時に、夜の空──星の輝きにも目を奪われた。
大きな月に、それを飾る星々の彩。それはきっと、日本にいたままでは見ることのなかったものだろう。
大気は澄み、咲き乱れる花の香りを漂わせた本来の風の匂いがハヤトの鼻孔をくすぐる。
いい天気だった。ぽかぽかした日溜まりの下で寝転がっていると、時間が過ぎるのも忘れてしまいそうになる。何をすることもなく、ただ空を見上げて流れ行く白い雲の行方を追いかけるだけでも、退屈だなんて思わなかった。
フラットのアジトを出て、南スラムを抜けてこっそりと誰にもいわずに一人でアルク川の畔にやってきたのは、昼食を終えてすぐのこと。特にしなければならない仕事もなく、今日はエドスがいるからアジトで留守を守る必要もない。たまにはこういうのもいいかな、とのんびりしたくてここに来た。
だけど、一ヶ所になにもせずに留まっておくのは、やはりハヤトは苦手だったようで。
暖かな日差しと適度に涼しさをくれる木陰、それに微かな花の香りを乗せた風に包まれて、いつの間にかハヤトはすやすやと眠り込んでしまった。
だから彼が、いつからそこにいたのか、まったく気付かなかった。
「う、ん……」
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。頭上高くにあったはずの太陽はいつの間にか西に傾きはじめている。
「ん……あ、れ?」
まだ半分頭が眠ったままの夢うつつの状態で寝返りを打とうとしたハヤトは、だが自分が今転がった方向に何か暖かなものを感じて重い瞼を持ち上げた。同時にその何か、を手で掴み撫でてみる。軽い衣擦れの音がした。
「なに、これ……」
寝ぼけたままの声が唇からこぼれる。数度まばたきを繰り返して、ぼやけていた視界を明確にさせて行く中で、朧気に今彼が両手でむんず、と掴んでいるものがはっきりと見えるようになった。
白い……日に焼ける気配のない、白い手。柔らかくてサラサラしている。
感触が気持ちよくて、そのままその手に触れたまま、頬を寄せる。すると手はくすぐったかったのかハヤトから逃げようと動いた。
駄目。逃がさない。
追いかけて、捕まえる。すると観念したのか、その手はハヤトの頬を逆に撫でてくれた。目にかかっている前髪をすくい上げ、脇に逸らす。その動きの中で指先がハヤトの顔に触れ、なんだかくすぐったい。
まるで飼い主に撫でられて上機嫌の猫みたいだね、とからかう声が遠くから聞こえたけれど、それさえも心地よくて。もうちょっと、聞いていたい気がした。
膝を折って胸に引き寄せ、丸くなって温かいそれに身を寄せる。
「にゃ~~」
猫の鳴き真似をしてやれば、頭上から苦笑が漏れた。今、白い手はハヤトの癖のない髪を優しく梳いている。
日が沈みかけているから、空気も少し冷えてきた。でも、ハヤトは少しも寒いとは思わない。むしろこの温度差が気持ちいいとさえ思う。
自分に触れてくる手から流れてくる体温が、自分を暖めてくれる。それだけで充分。
彼の膝に頭を移動させると、かさり、と紙が擦れ合う音がした。堅い感触が頭皮に触れ、顔をしかめる。するとすぐに気付いた彼はそれまで自分の膝を占領していた書物を脇に追いやり、ハヤトを迎え入れてくれた。
もう、それだけで嬉しい。
「ん……」
背中を柔らかな草の上で一回転させ、向きを変える。ごろん、と彼の膝の上でハヤトは仰向けに寝転がった。やや立て気味だった膝がゆっくりと下りて行く。
「ん~~」
まだ少し、眠い。
起きたくない。
このままでいたいけど……
だめ、かな……?
白い手は相変わらず飽きることなくハヤトの髪をいじっている。少し日に焼けて色の抜けた黒髪が、時折吹く風にさらわれて軽やかに踊る。
夕焼けが西の空を覆い尽くすまで、ふたりはずっとそうやっていた。
日が暮れる。
帰らないと、みんなが心配する。出かける事を誰にも言わずに来たから、多分、このまま帰らなかったらみんな大騒ぎで探し回るに違いない。
でも、まだ起きたくないんだ。
彼が起こしてくれるまでは…………
「ハヤト」
物静かで、柔らかな響きがハヤトの耳をくすぐる。
彼に名前を呼ばれるのは、好き。
「ハヤト」
困った顔を見るのも好きだけど、たまに見せてくれる笑った顔も好き。怒った顔も好き……って言ったら、君はどう答えるかな?
「そろそろ戻らないと……」
困らせるのも、好き。君に心配をかけさせるのは正直心苦しいけど、でも、それだけ君が俺のことを思ってくれているって分かるから、好き。
好きが、こぼれてくる。
なあ、これって俺だけなのかな?
「ハヤト……」
彼の膝を抱き込むようにして目を閉じたままのハヤトに、彼は戸惑いを隠せない。
もう起きているはずなのに、目を開けないのはわざと。まるで何かを待っているみたいに、甘えて、すり寄って。
──好きだよ。
甘えるのも、困らせるのも、怒らせるのも、喜ばせるのも。全部、君が好きだから。
欲しいのは、その答え。
本当はもう知っているけれど、何度でも知りたい。君の気持ち、知りたいんだ。
ため息が聞こえる。呆れているのだろう、彼はそう言う性格だから。でも、そこもひっくるめて好きになった。だから、いい。
瞼を閉じたままでも、外の世界の明るさや暗さは認識できる。昼間よりも暗くなっているハヤトの閉ざされた視界が、更に落ちてきた影でいっそう暗くなる。
重なったのは、ほんの一瞬。
「けち」
思わず、口からこぼれていた。
「猫のご機嫌を取るのは、これぐらいで充分だろう?」
ぱっちりと見開かれたハヤトの視界いっぱいに、キールの笑顔が広がっている。
「じゃあ、じゃあもう猫は止めるから。もう一回!」
がばっ、と起きあがって早口でまくし立てると、目をぱちくりさせたキールが途端に破顔する。珍しく、声まで立てて笑いはじめた。
「な、なんだよ……キールのけち!」
笑われたことに拗ねて、草の上で胡座を組んだハヤトがそっぽを向く。そこへすかさず、キールが頬へ優しいキス。
「……けち!」
「いいのかい? ここで本気になったら、困るのは君だろう?」
「…………キールの意地悪…………」
にこりと微笑んで言われ、ハヤトはむくれたままながら諦めるしかなかった。確かにキールの言うとおり、この時間からだと……困る。
「それじゃあ、帰ろう。遅くなるとみんながうるさいからね」
夕食はみんな揃って、いただきます。だから誰かが予定外に遅くなると、待ちぼうけをくらったみんなからは非難轟々。
「けち」
でも、まだ根に持っている。立ち上がったキールはクスクスと笑った。
座ったままのハヤトに手を差しだし、彼を立たせる。
ふたり、夕闇に染まる空を背景に歩き出す。けれどハヤトはまだ機嫌が直っていなくて、町に戻りアジトが目の前に来るまでお互い喋りもしなかった。その割に、ハヤトの手はしっかりとキールの手を掴んで放さなかったけれど。
こういうところが可愛くて、キールはついついハヤトをからかう。反応が素直すぎて、たまに引っ込みがつかなくなることもあるけれど……ハヤトは絶対にキールには口ではかなわない。
アジトの明かりは煌々ときらめいている。そろそろ、つないだ手を放さないといけない。
ハヤトはこの瞬間が、一番嫌い。
「ハヤト」
ゆっくりと離れて行くキールの指、キールの体温。それを感じるのがイヤで、いつも視線を遠くに逸らす彼をキールが呼ぶ。
「こっち、向いてごらん」
キールは勘がいいから、そんなハヤトの気持ちは良く知っている。でも自分は思いを言葉にするのがとても苦手だから、彼に誤解させてしまっているかもしれない。でも……。
──好きだよ。
多分、君が思っているよりもずっと、何倍も、何十倍も君のことが好き。大好き。
この手は放したくない。
一緒にいたい。
失いたくない。
奪われたくない。
君が誰であろうと、なんであろうと、僕は君が大事。君が、好き。君だけが好き。
ゆっくりと振り返るハヤトの肩をそっと抱き寄せ、キールは顔を寄せる。一瞬驚いた顔を見せたハヤトも、すぐに小さく頷き、瞳を伏せて瞼を閉じた。
吐息が重なり合い、溶けて行く。混じり合い、熱が伝わってくる。
ふたりのキスはひどくたどたどしくて、不器用で不慣れだけど、それでもそこに込められた想いはなによりも大きいから。
ハヤトはキールのキスを欲しがる。
一つになった影が長く路上に伸びて、月が空を照らし出す。
「帰ろう」
絡め合った指はずっと紡がれたまま、離さずに。そっと囁かれた言葉に、ハヤトは今度こそ素直に、頷いた。
小休止
その影は、歩いているこちらに気付くと途端に脇道に逸れ、姿を隠してしまった。けれど気配は遠ざかっていく様子がないので、恐らく自分が気付かなかった事を期待して隠れただけなのだろう。隠れ場所は、そう、あの緑生い茂る巨木の枝の間か。
仕方のない子ね、と肩を竦めてカスミは小さく吐息を吐いた。そして彼が期待しているとおりに、この場を無言で立ち去ろうとした彼女だったが向こうから、息ひとつ乱すことなく走ってくる大柄の人物に目が留まって足を止めないわけには行かなくなってしまった。
ちょうど、彼が隠れたはずの巨木の傍らで立ち止まる。向こうもカスミに気付いたらしく歩調を緩めて止まった。
顎を覆う髭。鍛え上げられ引き締まった肉体は彼の年齢を想像させない、熟練の技術を持つ、里でも有数の実力者として輝かしい戦歴を保持している人物。
「モンド、どうかして?」
なるべく穏やかに、何があったのか無知を装ってカスミは問いかけた。
だが実際は分かっている、彼がこんな風にして城内を駆け回る理由はひとつしかない。あのまだ年若い、けれど将来を嘱望されている少年の事だ。
「どうにもこうにも。カスミ殿、サスケの奴を見かけませんでしたか」
額に薄く浮かんでいた汗を拭い、モンドは一呼吸でカスミに問い返す。彼はまだ、自分たちを見下ろせる位置にいる若者に気付いていないようだった。
向こうも必死だろう、気配を気取られないように懸命に息を殺し、髪の毛の一筋でさえ動かさない心づもりでやり過ごさねばおそらく、モンドから逃れる事など出来ないのだから。
「サスケがどうかして?」
「あ奴、またしても修行をサボりおって」
「ああ、それで……」
カスミに言うよりは、むしろ自分への独り言のように呟いたモンドの言葉に彼女は小さく頷いた。そしてやはりモンドに気取られないようにしてちらり、と自分たちの上に木陰を提供してくれている巨木を盗み見る。
「けど、サスケだってまだ遊びたい盛りでしょうし。無理強いしても逆効果にしかならないと思うわ」
「ですが……カスミ殿は甘すぎます。奴にはこれからどんどん仕事をこなして強くなって貰わねば」
その為に、一人前として認められていない少年忍者である彼を里から出したのだ。多く見聞を広めさせ、的確な状況判断が出来るように。そして偏見に捕らわれず確固たる意志を持ち任務に忠実である事を求められている。
矛盾している、自分の考えを持っていながら、それに反する任務であっても任務である限りは必ず成し遂げなければならない、という。
少年が抱えるには大きすぎる、矛盾。けれど知っておかなければいつか、この先今よりも苦しい立場に置かれたとき身動きが出来なくなってしまうだろう。なにをまず持って最優先させるのか……それが分からない限り、戦場では生き残れない。
「……サスケは強い子よ」
首に巻いたマフラーを弄りながら言う。モンドが怪訝な顔をして彼女を見下ろした。
「それに、トラン解放軍に居たときの私も時々、サスケみたいに城を抜け出してあちこちを見て回ったりしていたわ」
クスクスと、思い出しながらカスミは笑う。困ったようにモンドは顔を顰めたが特に叱りはしなかった。
「だからね、モンド。悪い事じゃないと思うの、偶には見逃してあげて?」
最後に木立を見上げて彼女は言った。つられてモンドがそちらに視線を向けようとしたが、彼女が何を見て笑っているのかを察するとやれやれ、と諦めた調子で首を振る。
「お甘い……」
「でも、偶に、よ?」
「承知しております。明日は今日の分も含めみっちりと、朝から晩までメニューを用意いたしましょう」
「頼もしいわね」
うげぇ、と居ないはずの誰かさんの呻き声が聞こえた。カスミはまだ笑っている、モンドも胸の前で腕を組み豪快に笑った。
もしも願いが叶うなら
もしも願いが叶うなら
貴方は何を願うのだろう
もしも願いが叶うなら
私は何を、願うだろう
それは、たまたまだった。
広いリビング、誰の号令があったわけでもなく集まった仲間達、取り留めて語るべき話題もなかったタイミング。幼い少女が言い出した、心の残る思い出は何かという問いかけ。
言い出しっぺのミニスが、薄桃色の頬をほのかに染めて両手を胸の前で組み合わせた。うっとりとした表情で瞳を閉じる様は、恐らくその時のことを思い出しているのだろう。彼女が語った思い出は、五つの誕生日に母が用意してくれたとても大きな縫いぐるみだった。
独りぼっちで過ごす夜が寂しくて、けれど忙しい母はあまり彼女に構ってやれなくて。だから最終手段のつもりだったのか、あの金髪でのほほんとした表情を浮かべる女性が幼い我が子に贈ったのは当時の娘よりも大きな、クマの縫いぐるみ。
霊属性を代々受け継いできたはずの召喚師一家で、ミニスだけがぽっと出たように獣属性を持ち合わせていたのはもしかしたら、買い与えられた縫いぐるみを愛おしみすぎた所為かもしれない。そんな事を悪戯っぽく舌を出して笑って言った彼女に、ソファでめいめいくつろぐ人々から笑いが漏れる。
次に語りだしたのは、記憶を失った姉を持つ異界から招かれた黒髪の娘。隣に座る姉の顔を盗み見てそっと微笑み、やはり懐かしむように目を細めたカイナが訥々と語り出したのは、彼女がまだリィンバウムへやってくる以前の事。幼かった彼女の誕生日に、姉が紙で折った人形を作ってくれた事だった。
特別珍しくもない、紙人形だったけれど彼女の中でそれが、数少ない家族との思い出として心に刻まれているのだという。静かに語ったカイナに、ケイナは囁くような声で妹の名前を呼び、膝の上で結ばれた彼女の手を強く握りしめた。
過去を一切取り戻せない彼女にとっては、カイナの告げる記憶さえも遠い靄の向こう側だ。そんなことが在ったかも知れないと想いながらも、確固たる記憶として胸の中に甦ろうとはしない。
複雑な姉の心情を悟った聡明な妹は、控えめな笑みを浮かべて良いのです、と首を振った。
静かになってしまった空気を解そうと、この場を提供している召喚師の片割れがぱんぱん、と手を叩いた。次は私ね、と大きな眼鏡を押し上げて豊かな胸を揺らした彼女は言ったものの、仲間に語る内容に次の瞬間困ってしまって天井を仰いだ。
苦笑いが周囲から漏れる。困ったように頬を引っ掻いたミモザの隣で、明るい茶色の髪をした青年が微かな吐息を零した。
ミモザが、僅かに重いその空気を読みとって彼を見下ろす。視線に気付かないマグナが再度、悟られぬように両手で隠した口元から溜息を注ごうとした瞬間、最初に話題を取りだした少女が甲高い声をあげた。
「ねえ、マグナは?」
貴方は誕生日、どんなお祝いをして貰ったの?
最初の問いかけから若干趣旨が外れてしまっている事にも気付かない幼い質問に、弾かれたようにマグナは顔を上げた。しかし数秒も置かぬ間に彼はまた俯いてしまって、居心地悪げにソファの上で身体を揺らした。
「マグナ?」
ミニスの訝む声が響く。同時に、向こう側で閉じられていた白い扉が誰かの手で押し開かれた。現れたのは紅蓮色のマントを纏った細い眼鏡をかけた高身の青年で、変に静まりかえっている場の雰囲気に気付き扉前で足を止めた。怪訝な表情を浮かべて、広間に並ぶソファでくつろいでいる人々を順番に見つめていく。
最後に、唐突に立ち上がった己の弟弟子を見つけて顔を顰めた。
マグナはネスティの登場で仲間達の意識が彼に向いているうちにとばかりに、ソファから立ち上がって荒々しい歩調で、ネスティが居る廊下へ通じる扉に向かっていったのだ。
「マグナ!」
彼の、あまり彼らしくない行動にミニスが悲鳴のような声で彼の背中に叫んだ。けれどマグナは振り返らず、それどころか広間に居るすべての人の視線から逃れたがっているかのように、足早に姿を消してしまう。
退け、とも言われずに肩で扉前から押し出されてしまったネスティが答えを求めるように残された仲間を振り返り、けれど誰もが肩を竦めて首を振る。そんな中、ミモザだけが顎に手をやって難しい顔をしていた。
「先輩、どうかしたんですか」
フォルテ達から答えを得る事を早々に諦めたネスティが、ひとりどうやら分かっているらしいミモザに矛先を定めて問いかける。ミニス達も揃って彼女の解答に興味を示し、黙って彼女が口を開くのを待つ。
ほんの少し躊躇を示し、ミモザは側に近付いてきたネスティを見上げてそっと溜息を零した。
これは憶測なのだけれど、と前置きをした上で彼女はこの場に揃っている全員を見回して、最後にネスティへ目配せをした。
その日、そしてその翌日も。
マグナは自分に宛われた部屋に引き籠もって外に出て来ず、彼の護衛獣であるバルレルまでもが中に入れてもらえないという事態にまで発展して。
仲間達はどうしたものかと思案した後、ネスティが思い出したように告げたひとことに賭けてみる事にした。
もしも願いが叶うなら
何を願えば良いのだろう
もしも願いが叶うなら
何を望めと言うのだろう
もしも願いが叶うなら
甘く良い匂いがする。
いい加減引き籠もりにも飽きて、空腹も耐えかねるようになってきていて、そっと閉じっぱなしだった扉を内側から開けて外を窺ってみる。
大勢の仲間が今や共同生活を送るこの場所で、けれど廊下は嫌になるくらいに静かさを保っていた。
誰も居ないはずはないのに、誰も居ないような錯覚を覚えてしまう寂しさを胸に抱いてマグナは部屋から足を踏み出した。両手を広げても端から端まで届かない幅を持つ廊下をゆっくりと進み、幾らかすれば兄弟子が使っている客間の前に到達した。
他人との交わりを拒絶する傾向にあったのネスティは、ひとりで部屋を使っている。彼はマグナが引き籠もった日、辛抱強くドアの前で呼びかけてきてくれたけれど今日は日が昇ってから一度も、声を聞くことがなかった。
なにかあったのだろうか。それともこんな自分に呆れて見捨てられたのだろうか。
心配と不安とが入り交じった顔を伏せ、マグナはネスティの部屋を控えめにノックする。けれど返事は無く、暫く待ってからもう一度ノックしても結果は同じだった。試しにノブを回してみるが、鍵がかけられているようでびくりともしない。
溜息が溢れた。
「居ない?」
自問を言葉に出して、その事の重さに首が垂れた。額を物言わぬドアに押しつける、ぬくもりを感じ取る事の出来ない扉に、跳ね返った彼の吐息だけが滴り落ちていく。
何処へ行ってしまったのだろう、出かける用事があったのだろうか。暫く待てば帰ってくるだろうか、会えるだろうか。
色々とごちゃごちゃ考えて、もしかしたら別の部屋に居るかもしれないと淡い期待を抱き直す。屋根裏部屋を改造した書庫は、派閥の本部に出入りする事が難しくなっている自分たちにとって、書物に触れる数少ない場所でありネスティのお気に入りでもあったから、そちらに居るのかもしれない。マグナは踵を返し、屋根裏へ続く階段を求めて廊下を歩きだした。
途中にも幾つか客間が両側に広がっていて、仲間がそれぞれ寝起きしているはずなのだがそのどこからも人の気配を感じ取ることが出来なかった。まさか自分だけを置いて、皆でピクニックにでも出ていったのではなかろうか。嫌な想像は次から次へと無尽蔵に溢れ出て、彼の心を締め付ける。
結局、薄暗い屋根裏部屋には誰も居なかった。
方向を変え、テラスに出てみる。晴れ渡ったとは言い難いどんよりとした曇り空は、まるで彼自身の心を写し取った鏡のようでもあり、尚更彼の心を沈み込ませた。部屋を出る直前、最初に感じ取った甘い香りはそこにも漂っており、眉間に皺を寄せたままのマグナは己の右手の、台所がある方向を振り返った。
屋根と壁で視界は遮られて当然見えるはずもなかったが、甘い匂いは絶えず空中を彷徨っている。廊下を歩いている時はさほど気にも留めなかったが、ここに来て急にその匂いが強くなったような感じがした。
台所に行けば、きっと誰か居るに違いない。今にも泣き出しそうな色をした空に背を向けて、マグナは歩き出した。そして思った通り、台所ではアメルを始めとし、ミニスやカイナといった女性陣ががやがやと雑談を繰り広げ、時には悲鳴を上げながらなにかをやっているようだった。
甘い匂いの発生源は、どうやら彼女たちが作っているなにかのようである。銀色の大きなボールを両手で抱えたミニスが、鼻の頭に白いクリームを飛ばしてアメルに拭い取って貰っていた。
マグナは、台所の扉口からその光景を見ていた。
彼女たちはとても楽しそうで、笑顔を振りまきながら熱心に料理をしている。アメルが率先して指揮を執り、ケイナが不器用な手付きでジャガイモの皮を剥き見事に半分の大きさにしてしまってカイナに怒られている。ミニスは飛び散った生クリームをつまみ食いしつつ、オーブンの中でじっくりと焼き上げられつつあるなにかに心奪われたかのように、アメルにまだかまだかとせっついていた。
あの輪の中に混じる事など、どうして出来ようか。
マグナは無言のまま、彼女たちに見付からぬよう台所に背を向けた。
ひとり、取り残されたような気持ちになる。自分が居ても居なくても、彼女たちの生活には変化がないのだと思い知らされる。
きっと、自分は。
誰からも必要とされず、求められることもなく、存在を否定され、居ないものとして扱われ、やがては不要なものとして排除の対象となり、憎悪され、嫌悪され、いつか。
いつか。
忘れ去られていくのだと、そう思った。
「ふっ……」
きっと、きっと。
自分が知らないだけの、過去に。調律者として君臨した自分の祖もこんな風に人々の心から忘れ去られ、消え去っていったのだろう。
そう、自分も例外ではないのだと。
戻ってきた部屋に入ることも出来ず、鍵の掛かったネスティの部屋の扉が開いているという一縷の望みを託した願いも叶えられず。
ひとり、マグナは俯いたまま兄弟子の部屋の前で蹲り膝を抱いた。顔を伏せ、膝の間に表情を隠し誰にも見付からぬよう、けれど誰かに見つけて欲しいと願って、小さくなり震えて待つ。
名前を、呼んで。
せめて名前だけでも呼んで欲しい。
外は雨が降り出したのだろうか、微かに水の香りが鼻先を掠めていく。けれどマグナは顔を上げず、じっと石のようにそこで座り続けた。
やがて。
遠くから足音、湿った空気に若干響きが変わってしまっているもののすぐに彼のものだと分かる音色を響かせた存在に、マグナは弾かれたように顔を上げた。
そして、泣いていたと分かる赤い目をした彼を見下ろして一瞬顔を顰めたネスティは、物言わぬまま手を差し出してマグナを強引に引き立たせた。
「ネス?」
「来るんだ、マグナ」
いつになく険しい顔と声色をしたネスティに、途端マグナの表情が哀しみの色に染まった。捨てられることを宣告された子犬のように瞳を泳がせて伏せ、嫌々と首を振り拒絶しようとする。
けれど強く握られた兄弟子の手を振り解く事も出来なくて、力負けしたマグナはぐいぐいと導かれるままにネスティに引きずられ、廊下を進む羽目に陥った。
どこへ連れて行かれるのか、自分はどうされてしまうのか。降り続く雨の下に放り出されて、二度と帰ってくるなと言われた記憶が甦る。
あんな古い記憶など、呼び覚ましたくもなかったのに。
「ネス!」
悲鳴のような声を上げ、最後の抵抗を見せたマグナが広間の手前でネスティの手を振り払う。
その声に、フライングしたらしいフォルテの野太い声が被さった。
「誕生日おめでとうマグナ!」
本当は全員が揃って、マグナが広間に入った瞬間に言う手筈だっただろうに、マグナの声につられてしまったフォルテの失態を、ケイナが手痛い仕置きと一緒に叱りつける声が直後に響いた。
まだ廊下があと一歩半分残っていたマグナは、聞こえてきた声に目を見張りそして、ネスティを見た。
額に手を当てて、驚かせる作戦を失敗させた言い出しっぺに頭を悩ませたネスティが困惑してやまないマグナの背中を押す。動揺が収まっていなかったマグナは簡単に広間へと突き出され、なんとも間の悪い気まずい雰囲気の中、もう一度「誕生日おめでとう」の大合唱が起こった。
フォルテは床に撃沈していたが。
「え……?」
誕生日とはいったいどういう事なのか。訳が分からないまま、広間中央のテーブルにどん、と置かれた巨大なケーキの前に連れて行かれたマグナは、そこに書かれた不器用な文字にまた面食らった。
先程の大合唱と同じ文面が、茶色のチョコレートで線書きされている。輪郭を飾るように並べられた蝋燭の数は十七本、ちょうどマグナの推定年齢と同じ数だ。
テーブルとマグナを囲むように並んだ仲間達が、口々に誕生日おめでとう、と彼に告げる。ミニスが、これは私が書いたのよとへたったケーキの文字を指さして自慢げに言った。ケーキ以外にも沢山並ぶ料理は、カイナとアメルがふたりで協力して作ったのだとはにかんだアメルが笑った。ケイナは邪魔をしていただけだったがな、と床の上で呟いたフォルテは、彼女に足蹴にされてひっくり返った。
ルゥがぱんぱんに膨らんだ紙袋をマグナに差し出す。中身は甘い御菓子で、大好きなやつだけど貴方にあげる、と少し悔しそうに言う。カザミネは所持金が少なかったので、と釣りをした成果をまるごとマグナに手渡した。なかなか立派な魚で、これはもれなくアメルの手に渡り台所に運ばれていった。
ミモザとギブソンからは、もう少し頑張りましょうと召喚術の教本が。バルレルからは、とっておきだったんだぞという愚痴と一緒に大瓶の酒が。彼は直後、子供が酒を飲むなとモーリンに手痛い一撃を食らってフォルテと仲良く床に沈んだ。
ロッカとリューグ兄弟からは磨きに出しておいたから、と使い慣れたマグナの剣が手渡され、パッフェルとシオンからは後ほどまたしてもケーキと、口直しにと蕎麦が届けられる予定。
「みんな……」
両手いっぱいの贈り物を抱え込んで、けれどまだなにがなんだか分かっていない様子のマグナが落ち着きのない顔で皆を見回した。
床の上で胡座をかいたフォルテが、困りっぱなしのマグナを後ろから見守っているネスティに笑顔で目配せをする。微かに微笑んで、彼は頷いた。
「今日は、君が派閥にやって来た日だろう?」
確かそうだったはずだ、と決して忘れることのない記憶を甦らせたネスティが呟く。あの日も今日のように、雨が降っていたと。
振り返ったマグナが、じっとネスティの目を見つめ上げた。驚きと、困惑と、哀しみが入り交じった視線に、ネスティは手を伸ばして跳ね上がっている弟弟子の髪を撫でた。
「結局、派閥の調査でも君の正確な誕生日までは分からなかった。だから今まで、君の誕生日なんていうものを祝った事など、なかったと思ってね」
もとより派閥の中で彼らは毛嫌いされて来た。祝ってくれる仲間もなく、親も家族もなかったマグナたちにとって、誕生日などという日は存在しないものに等しかった。
けれど、それはあまりにも哀しすぎるから。
だったらいっそ、マグナが派閥に引き取られた今日という日をいっそ、彼の誕生日にしてしまってはどうかとフォルテが言ったのだ。親知らずの子供でしかなかったマグナではなく、ネスティやラウル師範と出会い今居る大勢の仲間とも出会う根本的なきっかけとなった、召喚師マグナとなる第一歩を踏んだ、その日を記念日にしてしまおうと。
いかにも彼らしい大雑把な提案だったけれど、仲間達は誰ひとりとして反論を返さなかった。
「みんな……」
こんな感情は、知らない。
仲間がいるという事を、これほどに誇りに思ったことはない。
たくさんの人が側にいてくれてこんなにも嬉しいと思ったのは、初めてだった。
目頭が熱くなる。両手に抱えたプレゼントの山に顔を埋めたマグナの頭を、ネスティの手が優しく撫でる。
「おめでとう、マグナ」
ぽんぽん、とその背中を数回叩いて、ほら、と促す。
テーブルの巨大ケーキに立てられた蝋燭に火が入り、仄明るく周囲を照らし出す。早く、とミニスが急かしマグナは一息に消すんだぞ、と下から囃し立てるフォルテの言葉に頷いた。
生まれて初めて、自分の誕生日を彼は祝った。
最後に残された蝋燭の火が掻き消える。割れんばかりの喝采が広間を包み込み、照れくさそうにマグナは笑った。
ありがとう、と。
「俺、みんなに会えて良かった」
心からのことばに、拍手はいつまでも鳴り響き続けた。
Are You Happy?
夏休みが始まって、しばらく経って。
去年までならば、毎日寝て過ごすだけの日々を送る長期休暇も今年から少々趣が変わった。毎朝決まった時間に起き出して、家を出て学校に行って、グラウンドで汗を流してボールを追い掛けて。
自分でも信じがたい毎日を送るようになってから、もう三ヶ月になる。この健康的な生活の御陰で、今では目覚ましがなくても勝手に身体が目を覚ますようになった。
けれどその日は、何故かそれとは少し違う感覚で目が覚めて、天国はまだ覚醒仕切っていない頭を怠そうに持ち上げ、仰向けになっていた上半身を起こした。
もぞもぞと右腕を伸ばし、寝る前に枕許で充電させて置いた携帯電話を取って引き寄せる。
高校入学の記念にと、親に強請って買って貰った最新機種にはいつの間にか、部員全員の電話番号とメールアドレスが記録されていた。自分から教えてくれるように頼んだものから、気がつけば勝手に登録されていた番号まで多数。
二つ折りタイプの携帯電話の小さな液晶サブウィンドゥがちか、ちかと着信を示す点滅を繰り返している。どうも先程目覚めた時に感じた違和感の正体は、この着信にあったらしい。眠りを邪魔されたくないからと着信音をオフ設定にしてあったのだが、届いた電波が微細に身体で感じ取れたのだろう。
被っていた薄手のタオルケットを足許に押しやり、改めて身を起こし座り直して携帯を開く。ショートカットのボタンを押して着信画面を呼び出すと、最初に表示されたのは至極簡潔な、一文だった。
送った本人の人格をそのまま象徴しているような、用事だけを伝える短いメッセージに、今日がどんな日であったのかを天国は思い出す。
「アイツ……」
そういえば、そうか。
首を捻って壁に吊したカレンダーを見る。毎日が忙しく、慌ただしい事や休暇期間中であって授業が無いことから曜日の感覚が薄れてしまっていたらしい。今の今、メールのメッセージを見るまで彼は今日が、7月の25日だという事を忘れていた。
7月25日、それは自分がこの世に産まれ出た日。
天国は蒲団を出て、寝間着代わりに着ていたTシャツを脱ぎ捨てると片手で器用に携帯を操り、素早くボタンを押して返信を打ち込んでいった。確か、前に聞いた彼の誕生日は今日からまだ五ヶ月も先だったはず。
誕生日おめでとう、のそれだけのメッセージに天国はやや表情を緩めながら、クリスマスイブ生まれの彼に電子処理された言葉を返す。
『おう。しばらく俺のが年上だな。兄貴と思ってくれても良いぜ? ありがとな』
彼はどんな顔をしながら、自分にメールを送ったのだろう。もしかしたら、目覚めてすぐに自分へのメールを送って来たのだとしたら、彼も丁度自分と同じ時間帯に目を覚ましていたのかもしれない。
そんな事をぼんやり考えながら、着替えに入ろうとしたところでまた着信が。片方の袖に腕を通したところで、携帯を開く。
画面いっぱいに表示された文字。それは彼の、司馬からの驚くほどに素早い返事で。
『頼りにしてるよ、天国兄さん?』
冗談のつもりだったのに、冗談で返されて。
「なんだよ、それ……」
ややにやけた口元を隠し、締まりの悪くなった顔を押さえ込んで天国は暫く、携帯電話から目がそらせなかった。
声を出して言われたわけではないはずなのに、その呼ばれ方が異様なまでに恥ずかしかった。
*
素早く朝食を摂る。母親が早起きして用意してくれた食事は、とても簡単に作れるものばかりだったけれど、育ち盛りの自分にとっては、こうやって自分よりも早く起きだして用意してくれるだけでも充分有り難かった。
エッグトーストを牛乳で胃袋に押し流し、ヨーグルトとブルーベリーを混ぜたものを一気のみして、それから荒っぽく歯磨き。
「行ってきます!」
鞄をひっ掴み、靴を履いて玄関から飛び出そうとしたところで水筒を放り投げられて慌ててキャッチ。危ないから止めろ、と母親に叫び返すとそれくらい掴めなくてどうする野球少年、と言い換えされてぐうの音も出ず。
恰幅の良い体を揺すって豪快に笑う母を軽く睨み付け、行ってきますと短く呟き玄関を開けて外に一歩踏み出す。空は青く、快晴。今日も一日暑くなりそうだと予感させる空模様に舌打ちし、鞄を背負い直して安っぽい門構えを押し開き、公道に出ようとしたところで呼び止められた。
「猿野君」
この青空と同じくらいに爽やかなオーラを、朝っぱらから余すことなく全身から発している存在を目にした瞬間、感じたのは「げっ」とか、とにかくそういうなんで貴方が此処にいるんですか、という疑問だった。
顔に出てしまっていたのだろうか、天国の表情を読みとった相手がやや不満げな顔をして両者の間にあった距離を自分から一方的に詰めてきた。あと二歩で完全に横並びになるだろう位置で彼は立ち止まり、若干だけ上にある目で天国を見下ろした。
「おはよう」
「お、おはようございます……」
だからどうして、貴方が此処にいるのでしょうか。確か貴方のご自宅は、学校を挟んで自分のこの家とは正反対側にあるのではなかったでしょうか。
言いたい事はぐるぐると天国の頭を巡ったものの、爽やかな笑顔を無駄に振りまいている先輩の顔をまともに見上げる事も出来ず、天国はごもごもと口ごもりながら朝の決まり切った挨拶だけはなんとか返した。
にっこりと、牛尾が微笑む。
「良い朝だね。今日も寝坊せず、ちゃんと起きて来られたようだし、偉いね」
毎朝のラジオ体操に遅刻しなかった小学生を褒める大人のような、そんな口振りについムッと来て天国は顔を上げた。目の前に満面の笑みを浮かべた、自分よりもふたつ年上の先輩がいる。表情に湛えている笑顔は、どんなに怒っていても毒気を抜くのに充分な威力を持っていて、今の天国も例外ではなかった。
柔和な笑みを向けられ、微笑みかけられると何故か不機嫌さも吹き飛んでしまうくらいに照れてしまって、恥ずかしくなって小さくなってしまう。
「遅刻したら……グラウンド外周10周、でしょう?」
「そうだね」
厳しい練習でも知られている十二支高校野球部は、規則と時間にも割と厳しい。一分でも遅刻すれば、基本トレーニングに加え、グラウンドの外周ランニングも追加される。それも遅刻した時間が長ければ長いほど、周回数も増えていく罰則だった。
天国は最初の頃に、数回、外回り50周なんていう事を連続でさせられてそれだけでへばってしまい、以後よっぽどの事がなければ遅刻はしなくなった。むしろ今では、誰よりも早くグラウンドに出てトンボ掛けをするようになっていた。
それもすべて、他の部員に迷惑をかけたくないことや、野球のスタートラインが皆よりも遙か後方になってしまった自分を少しでも高い場所へ連れて行きたくて、という気持ちからだ。けれどそれ以上になにより、目標とする人に一歩でも近づけたならと思ったから。
真似からしか入ることが出来ないけれど、あの人が自分から進んでやる事を自分もやれば、あの人の考え方に近づけるかもしれない、なんて浅はかに考えた事がきっかけだった。
誰よりも早くグラウンドを目指すのも、トンボ掛けに精を出すのも、ちょっとでもあの人の側であの人を見ていられたらと思うから。
でもまさか、その当人に朝、自宅の前で遭遇するとは予想だにせず。これで驚くな、と言う方が無理だろう。
「で、今日は一体なんの用ですか?」
「用が無ければ、猿野君に会いに来てはいけないのかい?」
「なんですか、それ」
一瞬、天国の心臓がどきりと跳ね上がった。けれど常ににこやかな笑みを絶やさない彼の表情からはその心内は読みづらく、何を考えての発言か探りきれなかった天国は、内心の動揺を隠しつつ肩を竦めて呆れてみせた。牛尾が口元に手をやってくすっ、と笑った。
「いや、ね。この辺りをうろうろしていたら、確か君の家が近くだったと思い出したんだよ。それで、どうせなら一緒に学校に、と思って誘いに来たんだけれど。どうかな?」
こんな朝早くから近所をうろうろしているなんて、挙動不審だと言い返し笑い飛ばして誤魔化そうとした天国だったけれど、それよりも早く牛尾があれでね、と言いながら右手で後方を指さした。
そこには通り過ぎる車の邪魔にならないよう、道路の端に寄せて停められた一台のバイクがあった。中型の、ブラックメタルの外装をしたかなり高そうな、そしてまだ新しいバイクだ。
「え……」
まさか、と天国は牛尾を見上げ直した。にこりと、微笑んだ彼が頷く。
「買ったんですか!?」
というか、その前にあなた免許持ってたんですか、という疑問が先だった。誰よりも熱心に部活動に勤しみ、朝早くから夜遅くまで野球三昧だと思われていた人の意外な一面に、天国は素直に驚きそれを隠さない。
コロコロと変わる天国の表情を満足そうに見下ろし、牛尾は天国の唇へと己の人差し指をそっと押し宛てた。
「他にみんなには、内緒だよ」
どこまでも優しい笑みで囁かれ、天国は反論出来ぬまま頷いた。
*
昼休憩。暑さも盛りで、日陰に皆してこぞって集まり弁当、もしくはコンビニで購入した食糧を各々広げる時間帯。
今日は母が持たせてくれた弁当があって、天国はグラウンド端のひときわ大きな木の根本で中身を楽しみに蓋を開けた。二段重ねの大きな弁当箱、一段目には白飯がてんこ盛りにギュウギュウ詰めにされ、真ん中にちょこんと赤い梅干しが埋め込まれている。二段目にはおかず。熱さで傷んでしまわぬよう、なるべく火を通したものを中心に栄養バランスもある程度考えられているメニューに、母への感謝を心に浮かべながら両手を合わせた。
「猿野君、隣良いっすか?」
箸を持ち、早速食べようとしたところで足許に影が伸びてきて、顔を上げると同じような弁当箱を持った子津や兎丸たちがそこに立っていた。断る理由もなく、天国は了承の意味をかねて頷く。
「おう、一緒に食おうぜ」
軽い調子で頷いて、天国は膝の屈伸運動で居場所を変え、場所を広げた。ぐるりと一本の木を囲む形で、野球部の一年生メンバーの半数近くが集まってしまった格好になる。
けれどそれは大抵いつもの事なので、天国も特別気にも留めず自分の弁当に意識を集中させていた。さて、どれから食べようか……悩み、冷凍物なのだろうけれど好物に違いない海老フライからまずは食す事に決めた瞬間。
横から伸びてきた手が、天国の狙い定めていた獲物をかっさらって行った。
「ぬあ!?」
「いっただき~」
至極楽しげな調子で笑い、今天国から奪った海老フライを即座に口に運んだ兎丸が頬袋を上下させる。もぐもぐ、と数回咀嚼する動きに続き、小さな喉仏が膨らんだ直後に凹み、嚥下されてしまった事を天国は知る。一瞬の出来事につい反応しきれなかったが、兎丸のご馳走様、という言葉にぷちん、と何かが切れた。
「てめっ、スバガキ!」
「ガキじゃないもんっ」
同い年なんだからその言い方は止めてよ、と叫んだ兎丸と天国の間で戦争が勃発しそうな勢いで、反対側に座っていた子津がやめましょう、と声を張り上げる。その更に隣に座っていた辰羅川が呆れた顔で眼鏡を持ち上げた。犬飼は我関せずの顔でもそもそと食パンを囓っている。
まだ御立腹の様子さめやらない天国に、子津はやれやれと肩を竦めて溜息を零した。そして自分の弁当箱を開け、やけに今日は見栄えの良い中身をしているおかずの中から照り焼きのハンバーグを箸で摘んだ。それを、天国の弁当箱に押し込む。
「これで、我慢してくださいっす」
控えめな笑みを浮かべる子津の優しさに、ささくれ立っていた天国の心がじーん、となった。感動を隠さないキラキラとした目で子津を見つめ、両手を結んで有難う、と何度も連呼する。
一方の兎丸は、自分の右隣に座っている司馬の涼しい顔を恨めしげに見上げてから、自分が買ってきたコンビニの袋に手を突っ込んだ。がさがさと中身を探り、自分の食事以外のものを取りだす。
「はい」
これ、あげる。そう言って彼が天国の膝の上にぶっきらぼうに置いたのは、天国が好きなチョコレート菓子だった。熱でも溶けないのに口の中では溶ける、という謳い文句がついている菓子で、他のチョコレートよりも少し値段が高めに設定されているものだからなかなか、貧乏学生には手を出しにくい一品でもあった。
「良いのか?」
しかし確かこの菓子は兎丸も好物だったはずで、本当に貰っても良いのかと封も開けていない箱を振った天国だったけれど。兎丸は良いの、と一点張りで発言を撤回する様子はなかった。そのうちに本格的に拗ねてしまったらしい兎丸がサンドイッチを豪快に貪り始め、苦笑を漏らした天国も弁当に箸をつけ直す。
「んじゃ、これ食べ終わってから半分こ、な」
俯き加減で食べている兎丸の頭をぽむ、と軽く叩きながら天国は笑って言った。
直後、前触れなしに兎丸に脇腹から抱きつかれて箸で掴んでいた卵焼きが落ちてしまって、振り出しに戻る。
今度は辰羅川からカレーコロッケの差し入れがあって、事なきを得る。
犬飼だけが、もそもそとコーヒー牛乳で食パンを胃に押し流していた。
*
夏場は夜7時を過ぎても、まだ外は充分に明るい。東の空から徐々に広がりつつある闇を背に、家路に向かうのはもう慣れた。
昼間の熱気を未だ孕んでいるアスファルトを踏みしめ、土で汚れたスニーカーを引きずるようにしてゆっくりと歩く。チカチカ、と点灯を始めた街灯を見上げ、足許に落ちる影が色を薄くして行くのを見下ろし、天国は不意に立ち止まった。
そのまま静かに振り帰る。すると、自分の真後ろ数メートル向こうを歩いていた人物もまた、同じように足を止めた。
嫌でも目立つ高身、浅黒い肌に際立つ銀色の髪。不良ですか? と何も知らずに街で出会ったらそう聞いてしまいそうな風貌をした人物が、じっと見つめる天国の視線に居心地悪そうに身体を揺らした。
なにかを言いたそうにしていながら、なにも言わずに口澱んで視線を泳がせている。暫く天国は立ち止まったまま待ったが、一分後にはまた身体の向きを戻して歩き出した。
すると、案の定後ろの人物もつかず離れずの距離を保ちながらしっかりとついてくる。多分今駆け出しても追い掛けてくるのだろうな、と考えると溜息しか出なかった。
重い鞄を背負い直し、練習後に猪里から分けてもらった田舎から直送して貰った野菜で作った、と言っていた野菜ジュースを思い出す。色味は悪かったが味はなかなかのもので、一発で気に入ってしまった天国は、事もあろうに二杯目を要求し明日も作ってきてくれるよう、強請ってしまった。
更に、虎鉄からは身体が固いから、と柔軟を手伝って貰った上に筋肉の凝りをほぐすマッサージまでサービスして貰った。蛇神には守備練習をつきっきりでコーチして貰い、三象からはバッティングの時に効果的な力の運び方を教わった。鹿目には、多少は使えるようになったと褒められたのか貶されたのかいまいち分からない言葉をもらった。
てく、てく、てく。
かつ、かつ、かつ。
ふたり分の足音が人気の少ない住宅地の間をすり抜けていく。交差点で信号にぶつかっても、しっかり距離を守って近付いて来ない彼の徹底ぶりはいっそ呆れを通り越して感心してしまいそうで、天国はふぅ、と息を吐いた。
家まで、あと数百メートル。そろそろ遠目に自分の家の屋根が識別出来そうな距離になっていて、ちらりと視線だけで後ろを窺うと、やはり彼は最初から変わらない距離を保ったままゆっくりと歩いていた。
まったく、と分からない程度で肩を竦める。家まであと百メートルを切った。早くしないと追いつけなくなるかもしれないのに、彼は一向に動く気配がない。いっそ意地悪でこのまま逃げてしまおうか、そんな事を色々と考え巡らせているうちに本当に、家の門前まで辿り着いてしまった。
外からでも見えるリビングの窓から明かりが漏れている。カーテンが引かれているので中まではちゃんと見えないけれど、人影が動いていたからきっと父親も帰っているに違いない。キィ、と控えめに閉じられている門を押し開けて僅かな段差を登る。
後ろで、呼吸する音が聞こえた。
段差の上に立ち、門を閉める動作と一緒になって身体ごと振り返る。ようやく距離を詰め終えた彼との視線の高さの差が、ほんの少しだけ埋まっていた。
「ストーカー?」
「……うっせぇ」
人の家まで何も言わずについてきたくせに、しかも下手でばればれな尾行で。軽くバカにしたように笑い飛ばしてやると、犬飼は不服そうに言い返しそっぽを向いた。また黙り込む。
口べたなのは知っている、あまりたくさん喋ることが好きでないことも。
でも、だからと言って言いたいことを言わずにいるのも、結構辛いことじゃないだろうかと思う。俺は言いたいことは考え無しに言っちまうからな、と犬飼を見つめながら天国は考える。
「あ、そう。んじゃ俺は帰るし」
と言っても、玄関はすぐそこだ。間違っても寄って行け、とは言ってやらない天国がふわりと笑って踵を返すのを見て、犬飼は慌てて手を伸ばした。
けれど門越しになった事や、天国がするりと躱してしまった事もあって彼の手は、虚空を滑り結局届く事がなかった。引き戻されていく腕と相まって、彼の視線もまた沈んで行ってしまう。
「あ……」
言いかけた言葉が、続かない。喉元まで出てきているのに再び呑み込んでしまった彼の銀色い頭を、家の中から溢れてくる光の中で見つめ、天国は幾度目か知れない嘆息を零した
「じゃーな」
いい加減不毛な会話を終了させて、夕飯にありつきたいのだけれど。空腹を正直に訴えかけてくる腹に片手を置いて、ぶっきらぼうに別れの言葉を口に出した天国に対し、犬飼が弾かれたように顔を上げた。
「お前」
今日……、と。
そこまで言って置いて犬飼の台詞がまた止まった。言いにくそうに、口元に手をやって表情を懸命に探している彼をこれ以上苛めるのも、かわいそうかもしれない。ふとそう思った。
こちらとしても、空腹だし。眠いし。シャワーも早く浴びたいし。
ぽりぽりと頭を掻いて、色々と考え倦ねた結果、最終的な結論として自分から折れてやるしかないと導き出された。
大人しく待っているだけなんて、性じゃないし。
だから、笑って言ってやった。
「テメーなんかに祝ってもらったって、嬉しくなんかねーっての。んじゃな!」
言葉だけを乱暴に、けれど彼の言いたい事だけはちゃんと分かっている。彼も、自分も、面と向かってこういう事を言い合えるような性格をしていないから。
今は笑って、全部誤魔化してしまう自分は卑怯かもしれない。
「けっ。こっちだって頼まれたってお断りだ」
吐き捨てるように、あ、今コイツ本気で唾吐きやがった。暗がりで見えづらい犬飼の台詞と態度に少々むかつきを覚えたりはしたが、それはそれで、いつもの事、だし。
憎まれ口を叩き合って、それからお互いに顔を見合わせ合って、笑って。
軽く手を振って天国は玄関を開ける。犬飼は踵を返し、夜の住宅街をまた歩き出した。
*
「疲れたー」
荷物を置きに一度部屋に戻った天国は、鞄を下ろすと同時に敷いたままだった蒲団の上にぼすん、と倒れ込んだ。頭が着地した反動で足が浮き上がり、それも収まると愛おしげに枕に頬を擦り寄せてズボンの後ろポケットから固い触感を引っ張り出した。
ごてごてとした、キーホルダー付きストラップが無駄に大量にぶら下がっている。その分重いのだけれど、ひとつずつに色々な思い出が残っているものだから、外すに外せない。
その中でも、特に真新しい今日貰ったばかりのストラップを見つけて指ではじきとばす。眠そうな顔をした羊の飾りが跳ね上がった。
一体あのヒゲオヤジはこんな可愛らしいものを、どんな顔をして買ったのだろうかと想像して、不気味なものを感じつつおかしくて笑ってしまう。
寝返りを打った天国は、そのまま二つ折りの携帯を広げてメール送信画面を呼び出した。メモリに登録されている番号から、手早く目的の人物を見つけだす。
階下から母の、夕食だと呼ぶ声が飛んできて今行く、と返事をしながら大慌てでメッセージを打ち込んだ。短く、たったひとことだけ。
今日はありがとう、と。
いつもと大差ないけれど、いつもより少しだけ嬉しさを感じられた一日だった。その中でも、特に「彼」との触れ合いが一番、嬉しかったから。
面と向かって言えなかったお礼を、電子処理されたことばに頼って返したかった。
ばたばたと着替え、天国は汚れ物を掴んで階段を駆け下りた。その後方で、部屋に置き忘れられた携帯電話から着信のメロディが静かに流れ、そして止まった。
開きっぱなしの携帯画面に表示された、こちらこそ、というタイトルがつけられたメールの送信者は……
02年7月末脱稿