存在理由の隣側
手の震えが止まらなかった。
自分の存在する意味が分からなくて、何度も悩んで躓いて、泣いた。怖くて、必死で、足掻いて、何度も叫ぼうとした。
助けて、と。
でもそれは自分が許さない。それは自分の卑小さを回りに示すことであり、そんな事をしてしまったらみんなはきっとこの僕を嫌いになる。
みんなの隣に、傍に、近くに居られなくなる。
だから気付かれちゃいけない。この腕の震えも、心の恐怖も、逃げ出したいと思っている弱い自分自身も。
みんなと一緒に居たいから。
この場所で野球を続けたいから。
彼らとこの先も白球を追い続けていたいから。
君を見守っていたいから。
でも、この想いはもしかしたら傲慢だったのかもしれないと今なら思う。
あの時僕を支えてくれたのはみんなで、なによりも君で、君はもう僕が手を差し伸べなければならない人ではなくなっていたから。
見守る、なんていうのはもう当てはまらなくなっていた。むしろ僕の方が見守られていたのかも知れない。
僕の背中を君が守ってくれているのだと思えば良かったのだろう。僕は、君の前を守っているという発想ではなくて。
『お前が必要だって言ってんだろ!!』
そう言って肩を叩いた君。
そのことばがどれだけ嬉しかったか、君は知っているだろうか。
僕はずっと、誰かに必要として貰いたかった。レギュラーを取ったこともなくて、いつもベンチから声を張り上げるだけだった僕は、本当にこの場所に必要とされているのかと不安を抱えていた。
僕は要らない人間なのかもしれないと、そう思うことさえあった。
だから、必死に練習した。誰も見ていないところで、誰も認めてくれないかもしれないと知っていながら、いつかは誰かが僕を欲してくれるんじゃないだろうかと淡い期待を抱いて。
僕にはそれしかなかったから。
僕はそうすることしか出来なかったから。
だからどれだけ嬉しかっただろう。君の声がグラウンドに戻る僕の耳に響いた瞬間、必要だと言われた瞬間。期待していると言ってもらえた瞬間。
君のことばひとつひとつを、僕は覚えている。君がぼくに言ってくれた、励ましてくれた数多くの言葉を僕はこの先ずっと忘れないだろう。
願えば、願い続ければいつか夢は叶う。
必ず。
その事を教えてくれたのは君だから、君が身をもってそれを証明してくれた。これほどの心強さを感じた事は無かった、そして恐らくこれからも無いだろう。
君の存在の強さを感じた。その大きさを感じた、僕の中にある君という存在の強さを知った。
君が居てくれて良かったと思う。君が居なかったなら、きっと僕はこの場所に居られなかっただろうから。
あの時。
僕を必要だと言って背中を叩いてくれた君の暖かさを感じた瞬間に、立っているのがやっとだったはずの身体の震えが驚くくらいに綺麗に消え去っていた。心の中にあった悲しみや、不安や、焦燥や、絶望感と言った、とにかくそういった負の要素が一気に消え失せていくのが自分でも分かった。
心が軽くなっていく。ただ君にことばをかけられ、肩を叩かれただけだと言うのに。
外野に走りながら、君に触れられた場所にグローブ越しだったけれど手で触れてみた。そこだけカイロでも仕込んでいるのかと思うほどに、暖かさが残っていた。
勝負が終わった瞬間。
君が五角形のホームベースに倒れ込んでそのまま気を失っている姿を観て、慌てて駆け寄った。とても幸せそうな顔をして、君は大地に横たわっていた。
僕が居たから勝てた、だなんてそれは言い過ぎだと思う。勝てたのは、きっと君が居たから。僕なんて、何もしていない。何も出来なかったじゃないか、結局は。
少しでもみんなと一緒に居たかったから、必死になってなりふり構わずにボールを握って追い掛けて、走って投げて守って打って。
それもこれも全部、君まで繋げば奇跡が起こると思ったからだ。
君は確かに野球に関してはずぶの素人で、だけどだからこそ、僕たちのような幼少時期から野球にどっぷりと浸かった人間には想像出来ないような事をしでかす。僕たちの中に当たり前として出来上がってしまっていた常識という殻を、力業でねじ伏せて破ってしまう。
君と一緒だったなら、何だって出来るような気がする。
僕はこの場所に居たい、この高校で最後まで野球を続けたい。君と一緒に。
君の起こす破天荒な奇跡を、一番近い場所で見続けたい。僕は、君が居なければ今日のこの段階で既に、野球部には居られなかった。あの入部試験の時点で、僕は野球部のユニフォームに袖を通すことなくグラウンドを去らなければならなかったはずだ。
君が居てくれて良かったと、心から思う。口に出して言えば君はきっと、照れて恥ずかしそうに、それで居て当然と言わんばかりに嬉しそうにしながら鼻の頭を掻いて笑うだろう。
君は優しいから、そんな事はない、などと言って。
『オレだって、お前が居てくれて良かったと思ってるぜ?』
そう言ってくれると思っている僕は、思い上がりすぎなのだろうか。
「なーにニヤニヤしてんだよ、ネヅッチュー!」
ばんっ、と背中を強く叩かれる。
僕を現実に引き戻す声は威勢が良く、澄み渡る空にどこまでも広がる明るく元気だ。遠くからでも君の声だと直ぐに分かる、特徴的な呼び声に苦笑って僕は頬を掻く。
「そんなににやにやしてたっすか?」
「おう、そりゃーもう、ばっちり」
いやらしいことでも考えてたのか? と肩を抱いて声を潜めて囁き尋ねてくる君に、そんな破廉恥な事出来るはずがないと真面目な台詞を返す。すると君はつまらなそうに唇を尖らせて僕から離れたけれど、二歩以上の距離は広がらずに並んで歩くことになる。
自分勝手で巫山戯てばかりで、冗談きついし言っていることが時々はちゃめちゃになったりもするけれど。
でも君は、自分の言ったことは必ず守って、実行して。約束は守り果たしてくれる、誰よりも男らしくて格好良くて、とても優しい人。
君が好きです。世界中に沢山の人間が溢れるくらいに居る中でも、スクランブル交差点で百人単位の人が行き交う中でだって、君だけを見分けられるくらいに。
君が、好きです。
君と一緒に、居たいんです。君の見せてくれる奇跡を、これからもずっと一緒に見つめていたいんです。
これは我が侭ですか?
「ニヤニヤしてたんだとしたら、きっと勝てたからっすよ」
みんなで力を出し合って、協力しあって、頑張ったから得られた結果だ。確かに雄軍と一回表から戦っていたなら、どうなっていたか分からない試合だった。上級生相手に、まだ入学したてでチームプレーの練習さえロクに出来上がっていない僕たちがどこまで対等に向き合えるかさえ、微妙だった。
けれど結果は、ギリギリだったものの勝利は勝利で。
ゲームセットを迎えて整列して一例をして、監督からの挨拶も聞いて胴上げもされて。
余韻は深く残っている。これだけの嬉しさを感じられるなんて、試合前では予想にもしていなかった。せめて同点で終われられたなら、という試合当初の弱気な気持ちはもう何処にも残っていない。
残ったのは、自分たちの力も充分に通用するのだという思いと、君と一緒ならきっとどんな危機的場面であってもなんとかなる、という奇跡を信じる想い。
「猿野君の御陰っすね」
にっこりと微笑んで、旅館まで帰る短い道のりを歩く君に告げる。
今まで幾度と無く、この言葉は呟いてきた。口に出した事もあれば、心の中で念じた事もあった。
君は少しだけ照れたようで頬を赤く染めて、暫く黙って言い返す台詞を探しながら視線を彷徨わせる。そんなさりげない仕草を見守ってまた微笑んで、僕は足許の石を蹴り飛ばした。
それは地表を低く飛び、数回跳ねて君の足許手前に落ちた。平たいその石を、今度は君が蹴り飛ばす。
「猿野君が居たから……いえ、猿野君が居なかったら、僕はこうやって今此処を歩くことも出来なかったっすから」
あの日。雨の中の奇跡を引き起こしたのは、君の一途なまでの想い、願い。
君が見せてくれる夢のような未来を、これからも傍で見せてください。君と一緒なら何だって出来るという、君と一緒に居れば自分も無限の可能性を手に入れられるはずだという勝手な思いこみを許してください。
君が、大好きなんです。
君と一緒に居続けたいのです。
「なーに言ってんだか」
そう言って、君はもう一度僕の肩を荒っぽく叩いた。腕を回し、肩を引き寄せて僕の耳元で囁きかける。耳の先まで赤くして、嬉しそうに。
「オレだって、ネヅッチューが居なかったらこうしてられなかったんだぜ?」
入部試験で一緒のチームを組むことになり、落第組だと言われたチームを奇跡の大逆転勝利に導いた。それは捨て身のタックルでホームベースを陥れたお前の見せたガッツが引き起こした事だし、何よりも相手チームを抑え込んだ投手としての技量だろう、と。
オレ一人じゃ絶対に勝てるはずがなかったんだよ、まだ分からないのか?
君が言う。照れくさそうに、けれど飾らない言葉で真っ直ぐに、隠さずに君が言うから。
泣きそうなくらいに、嬉しくなってしまう。
「今日の試合だってそうだろ。ネヅッチューが力投したから、小生意気なレギュラー連中を引っ張り出せたんだ。お前はもっと、自分に自信を持って良い」
お前の実力は、今日みんなに知らしめられたのだ。打者に転向なんて勿体なさ過ぎる、これでもう誰もお前を最低ランク投手だなんて言わなくなるはずだ。
お前の努力は、絶対に誰にも負けない。
「それに……悪かったな。お前があんな想いで投げてたなんて、全然知らなくて」
自分の特訓もあっただろうに、オレの特打ちに遅くまで付き合ってくれて。それこそ、オレの方がお前が居てくれなかったらどうなってたか分からないと。
お前の御陰でカーブ打ちが完成したようなもんだから、本当に感謝している、と。
小さく頭を下げられて、僕は慌てて首を振った。僕だって、君の頑張りぶりに触発されて、此処まで来られたようなものなのだから。
そう言って笑いかけると、漸く君も顔を上げて僕を見て笑ってくれた。
白い歯がこぼれる、太陽のように眩しい君の笑顔を見て、僕は心から嬉しいと思う。
「だったら、アレだな。オレ達、」
運命共同体って奴だな。
するりと君の唇から零れ落ちた言葉に、一瞬だけだったけれど、僕の心が停止した。
君が、好きです。大好きなんです。
一緒に居たいんです、傍に居たいんです。君の隣で、君と一緒に歩んでいきたいんです。
君はそれを許してくれますか、僕の傲慢で勝手な想いを許してくれますか。認めてくれますか。
触れられなくても良いんです、君の瞳が遠くを見据えて僕を振り返らなくても良いんです。
君の背中を、守れる存在で居たいのです。
ただ君の傍で。
近くで。
隣で――――――
02年9月9日脱稿
キミノトナリ
好きだ、と。
ただその一言だけを、今の本心を告げたら奴はいったいどんな顔をするだろうか。
きっと口をあんぐりと開けて、信じられないという風に目を見開いて俺を見返す事だろう。それはあまりにも間抜けな顔過ぎて、俺は見た瞬間に噴き出してしまうかも知れない。
真面目なシーンのハズなのに、きっとその所為で全部冗談として受け流されてしまうだろう。あいつは、とにかく誤魔化すのが巧いから。
だから俺は、本心を奴が感じ取るままに冗談として受け流されることを希望する。それで良いと思っている。
本音は違うかもしれないが、今はそれで構わない。
冗談が、奴の中で冗談でなくなるまで待つ。幸いにも同学年だ、卒業までまだ二年以上残されている。俺達の高校生活はまだ始まったばかりで、だから急激に今ある関係を突き崩そうとも思わない。
卒業、一緒に居られなくなる時間までに望む形を手に入れられたらそれで良い。
俺はもう一度、あいつがするだろう間抜けな顔を想像してみた。自然と頬が緩む、通り過ぎる同級生達が奇異なものを見る目を向けてくるので、慌てて表情を引き締めて俺は、あいつを待った。
好きだ、とそう告げる為に。
あいつの、間の抜けた顔を見るために。
それなのに。
好きだ、と言った途端。
あいつは。
『知ってるさ』
なんて事はないくらいに、平然と、普段通りに奴は不遜な態度で胸を反り返し俺を見上げ、笑ったのだ。
『そんな事くらい、オレが気付いてないとでも思ってたのか?』
いけしゃあしゃあと告げる口元が、心底楽しそうに笑っている。
野球部員たちの目を盗んでの、囁くような告白をあいつはそうやって、笑い飛ばした。俺の胸を軽く拳で叩いて、奴はくるりと踵を返し俺に背を向ける。それっきり、絡んでくる兎丸とじゃれ合って振り返りもしない。
俺は赤くなる顔を隠そうと、持ち上げた右手で口元を押さえた。
辰羅川が、怪訝な表情を俺に投げかけてくる。なんでもない、と小さく首と手を振って俺も部室のある方向へ歩き出すが、頭の中はぐるぐるとロクでもない推測が飛び交い、とても冷静なんかでは居られなかった。
いつ、知られていたのだろう。
何故、気付いていたのだろう。
そんなにも分かりやすかっただろうか、自分の気持ちは。行動は。
知恵熱が起こりそうなくらい、俺は色んなことを短時間で考えこまされた。そして結論など、到底出るはずがなかった。
俺が想像し、楽しみにさえしていたあいつの間抜け顔は結局拝めなかった。
俺が予想していた間抜け顔を作ったのは、他でもない、俺自身だったから。
それから、何かが変わったわけではなかった。
あいつはそれっきり何も言ってこなくて、俺もあいつには何も言わなかった。言えるはずがない、見透かされていたと知っただけでも充分恥ずかしかったのに、今更其処に輪をかける事など。
幸いにもあいつは、俺の告白を茶化したりからかったりする事はなくて、まるで無かったことのように扱われ忘れ去られているようだった。むしろその方が有り難くて、現実の変化の無さにいっそ、あれは俺が描いた白昼夢の幻だったのでは、とさえ思うことがあるくらいだ。
何も変わらない。
俺達は野球部で一緒に練習を重ねながら、時折繰り出される奴の度を超したギャグに身を張って突っ込む子津を傍目にしつつ、俺も俺なりに合いの手を返す日々だ。
ただ。
ただ……そう。ひとつだけ、敢えて変わったところがあるとしたら。
俺達は、前にも増して一緒に帰る事が多くなったという事だろうか。
同じ部活をしているのだから、当然下校時間は重なる。途中まで同じ方向なのだから、道が別れるまで一緒に歩く事は今までにだって何度かあった。
けれど、意識してなのか。
あいつの歩くペースが以前より少しだけ、俺に揃えられるようになった気がした。
前はサクサクと歩いて俺を置き去りに、ひとり家路を急ぐだけだったあいつが、今は俺と肩を並べるようにして歩いている。身長差から当然、本当に肩が並ぶはずがないのだけれど、それはまぁ、この際どうでも良いとして。
今日もまた、俺達は他の面々と別れ家路を急ぐ。部活動が終わる直前から空は雲行きが怪しくなり、正門を出る頃にはぽつぽつと小さな雨粒がばらつき始めていた。
朝の天気予報では、雨は今夜半過ぎからと言っていたので当然ながら、傘など持ってきているはずがない。準備万端に折り畳み傘を鞄に入れて来たのは、同学年の中では辰羅川と子津くらいなものだ。
皆が急ぎ足で駆け出す中、俺達も並んで濡れ始めたアスファルトの道を蹴る。運動靴の底が路上に溜まり始めた水を跳ね上げるようになった頃、俺達は河原の土手に近い、木立の下に立っていた。
雨はいよいよ本降りとなり、止む気配は感じられない。むしろどんどんと雨足は強くなって、完全に降り注ぐ雨を防ぐ事が出来ないでいる木立からはぼたぼたと水滴が塊となり、俺達の頭や肩を容赦なく濡らしていく。
くしゅっ、とあいつがくしゃみを零した。
「寒いか」
「っせぇ」
視線だけを投げかけて問えば、そんな悪態が返される。土手の片隅に聳えているこの木は、さほど樹齢も経過していないようで枝振りは立派だけれど、男ふたりが並んで立つには少々狭い。もう少し先へ行けば川を渡す橋の下に駆け込めたのだが、そこに辿り着く前にここで立ち止まってしまったものだから、もう先に進めない。
雨は強さを増すばかりで、既にびしょ濡れだけれどこれ以上濡れてまで、雨宿りの場所を変えに走る気にもなれなかった。
もう一度くしゃみが聞こえる。小さな、喉の奥に引っ掛けて噛み殺したようなくしゃみ。
そっと身体を揺らして十センチ程近付くと、触れた肩のシャツ越しに熱が伝わってくる。肌に貼り付いたシャツはその下が透けて見えて、雨模様を睨んでいる表情はとても不服そうだ。
「ったく、なんでこんなヤローと……」
近付くな、と詰め寄った分の倍離れられて押し返され、俺達の間には人ひとりが割り込めそうな間隔が出来上がる。ボタボタと緑の葉を垂らして落ちてくる雨粒が、そんなふたりの間に零れ落ちた。
水を吸ってぬかるんだ、アスファルトの切れ目に当たる土手の土に爪先が食い込む。茶色と黒とが交じった、汚れた靴で地面を叩いても、反動も無く靴裏が沈むだけ。
アスファルトの水溜まりを跳ね飛ばしながら、速度を出した乗用車が駆け抜けていく。泥混じりの水が勢い良く水のカーテンを作って、俺達へ襲いかかってきた。
反射的に俺は腕を伸ばして、右足を前に出して踏ん張って、あいつの濡れた肩を掴み引き寄せる。
泥水はかろうじて、俺達に届く前に失速した。色を失った枯れ草を打ちのめしたそれは、傾斜になっている土手を下り川へ呑み込まれていく。
水嵩を増した川の色は濁り、速度も普段何気なく視線を投げかけていたそれとは大きく違っている。まるで別の川を前にしているような気がして、ぼんやりと濁流になろうとしている川の行方を思っていたら右手の、肘の内側を思い切り抓られた。
視線を下向ける。
あいつが、俺をこれでもかというくらいに睨んでいた。
俺の、腕の中で。
「退け」
言うと同時に、足を蹴られた。制服のズボンの一画が泥に染まる、靴裏の土を思い切り擦りつけられたのだ。
渋い顔をして俺はこいつを見下ろした。
「とりあえず、断る」
こんな事をされて、黙って退いてやるとでも思っているのだろうか。無表情なまでに鉄面皮でキッパリと告げれば、コイツは眉間に皺を寄せて更に強く俺を睨み付けた。
雨で濡れた髪が重くなって、普段跳ね上がっている前髪が幾分下がり気味になっている。濡れ鼠とまでは行かないにしても、薄手の開襟シャツから覗く雨に湿った肌が嫌に艶めかしくて、俯けば見えてしまう意外に細い鎖骨のラインに視線の置き場に困った。
ふっと遠くを向けば、コイツは不満を感じるようでまた俺の爪先を踏んでくる。
「退けってんだよ、このバカ犬」
「うるせぇ、少しは黙ってろ猿」
自分たちが向き合って口を開けば、出てくるのはこんな言葉ばかりで。喧嘩にしか発展した事のない俺達の会話から、一体俺のこの感情はどうして生まれてきたのか今でもさっぱり分からない。
それでも、この感情が一瞬の気の迷いでないことだけは確実だろう。
俺は右の肘を曲げて手首を返し、今は奴が背中をぴったりと貼り付けるようにして凭れ掛かっている木の、ごつごつとした幹に押しあてた。雨に濡れた樹木の表皮は、思ったほど毛羽立っておらず柔らかかった。鼻を寄せれば、微かだけれど水の中に緑特有の臭いような、けれど心地よい香りが漂ってくる。
そこに混じるのは、こいつが使っているのだろうシャンプーの匂い。
「……なにやってんだ」
俺の体勢に改めて目をやり、漸くこいつは、自分の頭を庇うが如く木に押しつけられた俺の腕に気付いたようだった。一瞬だけ目を見張り、それから勘ぐるような剣呑な目つきを作る。
まだ俺の足に乗ったままだった爪先を浮かせ、今度は踵で踏みつけて、退け、と繰り返す。その度に俺は断る、と繰り返す。
俺の背中はもう完全にずぶ濡れで、半袖のカッターシャツは水分を絞れるくらいに吸い込んでいる。ぴったりと肌に貼り付いたその感触はかなり気分の悪いものだった。先週散髪したばかりの髪も、たっぷりと水気を吸って重たく垂れ下がっている。こいつの比ではないくらいに。
その代わりとして、こいつに降りかかる雨の量は随分と減った。木立が和らげてくれている雨の大半を、俺が代わりに被っている、そういうわけだ。当然それを、こいつが甘んじて受け入れるはずがない。しつこく俺の足を踏んで、強硬手段で俺の胸を押し返してくる。
車が通り過ぎていく、水溜まりを突っ切る音が喧しく耳に響いた。
「ったく……なんだってんだよ」
不満そうに呟き、こいつは頭を掻いた。指先に水が跳ねる、焦げ茶色をした毛先を絡めて、ぶつぶつと居心地悪そうに視線を揺らしている。
知っている、くせに。
俺がどうして、こんな風にコイツに絡んで、近付いて、一緒に居ようとするのか、知っているはずなのに。
そう言ったのは、こいつ自身だろうに。
俺の気持ちを知っていると言って笑い、笑い飛ばしただけでそれからは音沙汰無し。いつも通りに振る舞って、今まで通りに居ようとして、でもそれは無理な話だ。
表面上は普段通りを装っても、こんな風にふたりだけで近付いてしまったら。
俺は奥歯を噛んだ、音が響くくらいに強く。
「……言ったろーが」
前に。もう随分と昔に感じるくらいの、けれど実際はそれほど遠くない過去に。
「好きだ、って」
照れにも出さず言い切った俺の声を、駆け抜ける車の水を跳ねる音が掻き消す。だが聞こえたはずだ、それを証拠に、あいつは俯いて黙り込む。力のない腕が、俺の左肩に近い心臓の上を叩いた。
「退けよ……そのままじゃお前、風邪引く」
仮にも十二支高校野球部のエースを目指そうって奴が、男庇って雨に濡れて熱だしてぶっ倒れたら、洒落にもならない。
ぽつぽつと人の顔を見ないままに告げる奴の後頭部を見下ろしていたら、奴の、普段は跳ね上がっていて見えないつむじを見つけた。
なんだか不思議な感じがする。雨が降っただけで、水に濡れただけで、こんなにも見慣れた相手が違って見えるだなんて。
鎖骨に引っ掛けるように載せられた手が俺を押し返そうと動く。だが踏ん張っている上に、未だ爪先を踏まれたままの俺はまったく体勢を変えない。
「風邪くらい、良いさ」
それでお前が、濡れないのなら。
俺は、構わない。
それでもし、熱を出して寝込むことになって、学校も休んで部活にも出られなくなったら、それはそれで会えないことが寂しいかもしれないが。
けど、きっと。
「お前は、見舞いに来るだろ……?」
こいつはそういう奴だ。
口では減らず口を叩いて、軽はずみなことを言っているようで、冗談でバカな事しか言っていないように見えて、巫山戯た事しかしていないように見えて。
その実は、誰よりもしっかりしていて誰よりも相手のことを想っていて、誰かを傷つけたり、哀しませたり、痛い思いをさせないように気を配っている。自分を顧みる事さえせずに、ただ誰かのためだけに必死になれる奴。
こいつを動かすのは、自分のためってやつじゃない。
誰かの為、誰かの笑顔のために動く。それだけの為に動ける。
そういう奴だから、俺は。
こいつを、好きになったんだと思う。
「行かねーよっ!」
地団駄を踏んであいつが叫ぶ。
「来る」
「行かねー!」
また押し問答が始まる。そろそろ幹に押しあてた右腕が痺れてきて、左と交換しようと俺は身体を揺らした。
水気を吸った前髪が一房、そんな俺の鼻先を擽る。
「っしゅ!」
小さな、くしゃみ。
あいつが、口を半開きにして俺を見上げた。俺は持ち上げかけていた左手を鼻先にやって、濡れてしまった鼻腔とそこに被さっていた前髪を追い払う。そのまま水分を飛ばそうと指で鼻を擦る仕草をしたら、
「あ……」
あいつは逡巡するように視線を足許に泳がせ、また俯いた。
途切れた会話を繋ごうと、俺が口を開く。しかしそれよりも早く、降りしきる雨に掻き消されてしまいそうなくらいにか細い声で、こいつは、言った。
「め、メロンは持ってかねーからな……」
ぽつりと。
極力素っ気なさを装いながら。
俺の顔が緩んでいくのが自分でも分かる。きっと、今までの人生でも最高傑作なくらい、にやけた顔になっているに違いない。声を出して笑いたくて、けれどそんなことをしたらこいつがどんなに拗ねるか分かったものじゃないから必死で我慢して。
この場に知り合い連中がひとりとして居なかった事を、どれだけ感謝したことだろう。
雨が俺達を包む世界をぼやけさせている。霧立つ雨空の下では、俺達の姿も通り過ぎる人間からは靄がかって見えない。
「かまわねーよ」
お前が、俺を見舞ってくれる。俺のことを少なからず心配して、気にかけてくれる。これほどの幸せが、果たして他に見当たるだろうか?
「あ、あと……風邪、俺に移しやがったら、ただじゃおかねーから」
ぼそぼそと呟き続ける。まるで俺の顔を見ようとしない、こいつらしくない姿。
俺しか知らない、俺だけが知っている、こいつ。他の誰も知らない、俺の前だけのコイツが見せる色々な顔。
まだ雨は止みそうにない。痺れた右腕を下ろし、ほんの少しだけ身体を幹に寄せた。
体温が近くなる。
こいつは……猿野は、拒まなかった。
「好きだ」
そっと耳元で囁く。雨に負けぬよう、ただひとりだけに聞こえる声で。
「……言われなくても、知ってる」
何度も言うな、と。
俯いたままの猿野が答える。
俺は密やかに笑んだ。
今はまだ、俺が一方的に好いていると思わせておいてやろう。少しくらい逃げ道を用意しておいてやらないと、コイツは直ぐに頭をパンクさせて煙を噴くだろうから。
幸いにして、俺は気が長い。俺達の高校生活は、まだ二年半以上ある。
好きだともう一度告げれば、今度こそ猿野は黙ったまま返事をしなかった。
雨が止むまで、まだ少し。
どうか、もうしばらくこのままで。
02年9月5日脱稿
空の青
カツン、と歩く度に硬質の音が石造りの廊下に反響して消えていく。
薄暗い廊下を数分歩き続けると、唐突に規則正しく組まれた石壁が途絶えて眩しい太陽光が彼を出迎えてくれた。
片手をのろのろと持ち上げ、額に翳すことで直射日光をかわした彼はしばらくその場で佇んでいたが、ふと何かを視界の端に見つけたのか軽く眉を寄せて中庭へ降りる数段しかない石段を下り始めた。
彼が動くたびに青い衣がリズミカルに揺れる。腰帯に挿した剣が金属音を変調で奏で、不協和音を足音が消えた土の空間に響かせた。
こぢんまりした中庭の片隅で彼が拾い上げたもの、それは折れ曲がって風雨に晒され続けた結果、全体を赤く錆びさせたひと振りの剣だった。ただし、それは実戦用ではない。兵士の訓練用に刃先を潰されたものだ。
数ヶ月前までは、この中庭でも兵士が日々の鍛錬として剣を振るい、汗を流す姿が当たり前のようにあちこちで見かけられた。かけ声が喧しいくらいにそこかしこで響き渡り、城内が沈黙するのは夜間くらいだと言われていたのだが、今は昼も早い時間だというのに周辺は静まりかえっている。
たった数ヶ月……否、数日でこうも変わってしまうものなのかと心内で呟いて彼は立ち上がった。手には、さび付いた剣を握ったままで。
戦争が終わって、まださほど日は経っていない。彼がこの城を自身の意志で出た日からは数ヶ月。城の……この地域一帯の支配者であったゴルドーが死んだのは終戦日の一月前ほどになるはずだ。
計算をちゃんとしたわけではない。時間はあっという間に過ぎていって、実を言うと城を出て自分で決めた道を歩きだしたのは昨日のことのような感じさえするのだ。
そして裏を返せば、実感がわかない。ゴルドーが死んだこと、戦争が終わったこと、ハイランドが滅んでデュナン湖周辺が統一されたことも。その一員の中に自分の名前があることまでもが、夢のようで幻の中にいるような感覚だった。
だが一番信じがたい事実と言えば、あの幼さの残る少年が戦争という汚れた世界で先頭に立ち、皆を導き通したと言うことだろう。
初めは、こんな少年で大丈夫なのかと思った。だが彼と共に戦う中でその不安は杞憂であると実感し、彼でなくては軍を導けないとさえ思うようになった。
静かな城は、近いうちにまた以前の賑わいを取り戻すだろう。確かにこの城は戦場となり多くの兵士が戦い死んでいった。だがそれ以前に長い時間を掛けて築き上げてきた重みも城には残されている。だから簡単にうち捨てることは出来ない、死んでいった兵士の命が刻み込まれた城は、これまで以上の発展を見せてくれることだろう。
そうでないと、困るのだ。
石段を登り廊下に戻った彼は、手にしたままの訓練用の剣を見下ろし、そして視線を高い空に投げやった。
言葉はない。何も語ることなど……語れることなど残っていない。ただ終わったのだという感情だけが、複雑な形を描いて渦巻いている。
「マイクロトフ」
呼び声に視線を引き戻して振り返る。自然と握りしめた拳は何を意味しているのだろう。
「こんな場所に居たのか」
彼が身につけている衣とは対照的な赤をモチーフにした服装の、穏やかな笑顔を絶やさない青年がゆっくりと歩み寄ってくる。淡い色合いの髪が光に透けて輝いていた。
「カミュー」
「なんだ?」
「用件は」
先に俺を呼んだのはお前だっただろう、とつい今し方自分を呼んだ事を彼に思い出させ、マイクロトフは足の向きを変えてカミューに向き直った。それを受け、彼もまたマイクロトフから数歩分の位置で足を止める。
「哀愁に浸っている所を邪魔して怒っているのか?」
「何故……」
そう思う、と続け掛けた声を内側に消し、マイクロトフは視線をカミューから外した。どうしても目は手の中にある、錆びて折れた剣の向く。剣先を失って持ち主にも見捨てられた物言わぬ剣が酷く重い。
「それは?」
何も言わないマイクロトフに怪訝な表情を浮かべ、その手にある剣に気付いたカミューが首を傾げる。それから陽光差す中庭を見て、なんとなく事情を察したのだろう。小さく頷く。
「武器を棄てるとは、騎士として恥ずべき行為だな」
腰に手を当ててやれやれと肩を竦めたカミューに、だがマイクロトフは首を振る。
「どうした」
「いや……」
マイクロトフの動きに眉を寄せ、視線を戻したカミューが続けざまに問う。しかし彼は自分でも言いたいこと、胸の中にある感情を言葉で表現できないのだろう、難しい顔をしたままマイクロトフはもう一度首を振った。
「俺は……正しかったのかと」
あの時は自分に誇りを持ち、堂々と胸を張って城を出た。その事に悔いはない、今でも。
だが久方ぶりに故郷に帰り、第二の家でもあった城の変わり様をこの目にしてしまっては、その自信も揺らぐ。
「何を言い出すのかと思えば」
予想もしていなかった言葉にカミューは一瞬呆気にとられ、そして大げさに肩を竦めた。
「私たちが正しくなかったのだとしたら、何が正しかったと言うのだ? ゴルドーか? 狂皇ルカか?」
「そう言う意味で言ったんじゃない」
頭を振ることを止めず、マイクロトフはカミューの言葉を否定する。訝しげな表情を隠せないカミューは更になにかを続けようとしたが、開きかけた口をやがて閉じ、言い表せないいらだちのようなものを押し殺すように髪を掻き乱した。
「解らないんだ、カミュー。他に方法は無かったのか?」
ゴルドーは死んだ、この城の支配者は居なくなった。
マチルダ領の行政は新しく成立したラストエデン国に委ねられる。いずれ中央から代理人が派遣されてくるだろう。正式なマチルダ騎士団の復興はそれ以後だ。
だが、果たしてそれが上手くいくのだろうか。事情も、住民の心理や感情を知りもしない連中に、マチルダを任せてしまって本当に良いのだろうか。騎士団が騎士団としてあるべき姿を取り戻し、維持するにはやはり騎士が先頭に立つべきではないのか、と。
「お前は、では此処に残るのか」
「俺はもう、騎士団を辞めた人間だ」
カミューの新たな問いかけに即答し、マイクロトフは中庭の隅に咲く小さな白い花を見つめる。踏み固められた土にも負けず、花は立派に咲き乱れている。
「マチルダが独立を保てない事が不満なのか」
「違う」
「セレン殿が私たちを置いて行ってしまったことが不満なのか」
「違う」
「騎士団への未練を断ち切れない自分が不満なだけだろう、お前は」
「…………」
ぴしゃりと、頭に手をやって必死に考えているマイクロトフを糾弾しカミューは長い溜息をついた。言葉を返せないでいる青衣の彼に、困った奴だと呟いて右の後れ毛を指で遊ばせる。
「違うのか?」
「違わない」
騎士に憧れ、騎士になるために城の門を叩いた。試験に合格して喜び、日々鍛錬に明け暮れて遅くまで汗を流し、理想の騎士像を多くの同胞と語り合った。実力がついていき、多くの人に認められるのが素直に嬉しかった。団長に推薦されたと知ったときは天にも昇る気持ちで、断る理由も無くその日のうちに承諾の返事をしていた。
カミューは違ったのだろうか、ふとそんな事を感じてかれを盗み見る。視線に気付いたカミューは、その意味を即座に察知したのだろう、裏のありそうな微笑を湛える。
「言いたいことがあるのなら、言った方が良いぞ?」
「いや……」
そういえばカミューは赤騎士団長に推薦されてもあまり喜ばず、最初は固辞していた事を思い出しマイクロトフは益々表情を曇らせる。
「マイクロトフ?」
「なんだ」
「私は、旅に出る」
「…………」
言葉を濁すマイクロトフを呼び、意識を引き寄せたカミューは唐突にそんなことを宣告するものだから、言われた方は話の流れが全く読みとれず間の抜けた表情を作った。
「いきなりだな」
「そうでもないぞ」
クスクスと喉の奥で笑いながらカミューは、実は戦争が終わる少し前から考えていたのだ、と続ける。初耳だったマイクロトフは目を丸くし、何か言おうと口をパクパクさせるが言葉にならず、まるで水から出された魚のようでいよいよカミューをわらわせた。
「何がおかしい!」
ついに憤慨して怒鳴ったマイクロトフを宥め、浅い呼吸を繰り返して笑いを止めた彼は姿勢を正し、右手を曲げて左の肘を掴んだ。
「すまない、お前があまりにも想像通りの反応をしてくれたものだから」
全く悪びれた様子も見せずにカミューは言ったが、その内容に不満らしいマイクロトフは腕を組むと失礼な、と足を踏みならした。
「だが、ずっと考えてきたことだ。私はもう、ミューズには戻らない」
だから、その前にマチルダの様子を見ておきたかったのだと今回の訪問の、本当の理由を今頃述べたカミューに、ただ誘われるがまま来ただけのマイクロトフは面食らい、自分の迂闊さを恥じて顔を手で覆う。
「シュウ殿には了解をいただいてある」
かなり残念がられ、引き留められたけれどこちらが折れるつもりがないと理解していただいた、と事も無げに言い切り、その時のシュウの諦め顔が想像できてマイクロトフは親友を差し置いて可哀想な軍師への同情を禁じ得なかった。
「お前は、どうしたいんだ」
戦争は終わった、戦う理由は失われた。
これからは壊れてしまったものを修復し、発展させて行くことに総てが向けられていく時代だ。騎士は外敵から国を守るためにある、ハイランドの脅威は去ったが未だグラスランドや、北方のハルモニアは健在な事から、軍事力の復旧は急務とされていた。だから今は一刻も早く、マチルダを以前のような姿に戻さなければならない。
「俺は……」
どうしたい、と問われ今更ながら、自分には未来の明確なビジョンが見えていなかったことに気付く。目の前の事に一点集中するのがお前の悪い癖だよ、と先代騎士団長達から散々言われ続けてきたに関わらず、その癖は今になっても全く薄れていないことを実感させられた。
「まぁ、シュウ殿にはしっかり念押しされてしまったがね。旅立つと言っても直ぐにはしないさ、先にマチルダの復興がある」
頭を失った騎士団を取り仕切れるのはカミューやマイクロトフしかいない。だからシュウは、カミューの旅立ちは許したが条件を出すことも忘れなかった。つまり、マチルダ騎士団を完全に復旧させること。
完全、なんていうのは一年や二年ではまず無理だ。シュウの言葉の裏に、そのまま旅立ちを諦めてくれることを期待している軍師の感情を読みとったカミューは、頷き条件を承諾しつつも、きっちり、“復興の目処が立つまで”と表現を改めることを忘れなかった。
「このまま此処に残るのも、お前の自由だ」
マイクロトフのことだから、きっと強く頼まれたら受けてしまうだろう。しかしそれは本当の彼の意志ではない。だからカミューは彼に考える時間と、機会を与えたいと思った。
「人はお前を必要としている。必要としてくれる人たちのために尽くすのも騎士の勤めかもしれない。だがお前は言ったな、もう自分は騎士団の人間ではない、と」
だから騎士団のために自分を殺してまで骨を埋めてやる義理はない。
マイクロトフの手にある剣は、さながら置き去りにしてきた騎士団への彼の未練だろうか。
「私は胸を張ってラストエデン軍に参加した。そして今度も、胸を張ってこの国を出ていくつもりだ」
揺らぐことのない信念は、より広く大きな世界を見てみたい素直な好奇心の現れでもある。今できることを今できるうちにやってみる、後悔しないように。生きているのは自分なのだから、自分に正直でありたいから。
「お前は、どうする?」
先と同じ質問を繰り返し、カミューはマイクロトフを見つめる。
「俺は……」
一方のマイクロトフは視線を落とし、握りしめたままの錆びた剣をただじっと見据えるばかりだ。
煮え切らない彼の態度に、しかしカミューは辛抱強く待つ。これはまるであの時と逆だな、とカミューもまた騎士団長になったときの事を思い出して小さく笑った。
「時間はある。ゆっくり……考えればいい」
「そう……だな」
それに先ずはこの静まりきって不気味は城を、前以上ににぎやかで人の往来が多い、立派な城に戻さなければいけないし。
いつか、自分たちが憧れた騎士達が沢山いる城にしたい。それが出来るのも、矢張り今だけだ。
「行くぞ」
とん、とマイクロトフの胸を軽く叩いてカミューは来た道が続く先へ歩き出す。
「あぁ」
頷き返し、マイクロトフも踵を返す。
「ところで、それ、どうするんだ?」
背中に迫り、やがて追いついた足音を聞きながらカミューはマイクロトフが持ったままの剣を指さして訊く。
「置いていかないさ、俺は。全部……持っていく」
「我が侭な奴」
「仕方がないだろう、それが俺なんだから」
静まりかえった廊下をふたり分の足音が反響して消えていく。そして彼らは、胸を張って自分たちの道を歩き続ける。
狭間の生命
朧々とした月の映える空の下で、僕らは、いつもと同じように、けれど今までとは確実にまるで違ってしまった空気を感じながら、屋根の上に座っていた。
お互い、ことばのひとつも発さぬまま、こうやってじっとしているだけの時間が果たしてどれほどの間続いたのか、もう憶えていない。語り合うべき言葉などにはもはや僕らにとってさしたる意味もなく、ただ互いの肌が触れ合うか否かという非常に危うい距離の許、こうしている。
告げられた真実は確かに痛く胸を貫いていったけれど、それはきっと彼も同じかそれ以上のはずで、たとえ何かを語ったとしても、そこには重みを持たない風のような虚しさばかりが残るのみだ。
だからただ、僕は君を待つ。
真実は紛うことなきものであるかもしれないが、だが真実が事実と同義であるとは限らないと以前、なにかで読むか聞いた気がする。故に、彼にとっての事実がいかようなものであったかだけが今の僕にとっての最大の気がかりだった。
現実から目を逸らすのではなく、本当の君と今度こそ向き合いたいから、すでに言葉のない約束となったこの時間の逢瀬にも応じた。
「信じる」と言った気持ちに嘘はない。今でも僕は君を信じている。
けれどそんな僕の願いも、現実のはかなさの前では砂上に建てられた楼閣の如く、今まさに揺らめき崩れようとしている。疑うことの苦痛が、僕の胸をよぎるのだ。
今まで通りの生活がこの先も送ることが可能だという甘い考えが通用するような現実など、どこにも有りはしない。壊されようとしている穏やかな日常を再構築したいと真に願うのならば、なにより君が、君自身の言葉で語らねばならないだろう。
そこに想像もできないほどの苦難が待っているとしても。
そうしなければ、君と共に過ごし笑いあえたあの過去さえも、偽りの姿だったとして記憶がすり替えられてしまうだろうから。
「あのさ……」
月ばかりを見上げていた彼が、ふいに、視線も姿勢もそのままに呟いた。
「俺、死ぬつもりだったんだ」
そう、感情のひとかけらも感じさせない抑揚のない声で。
まるで空想劇のような感覚で、僕は彼の横顔を眺めていた。月の光に冴えた彼の頬が、いっそう彼の白さを際だたせている。どう足掻いても届かないであろう距離を感じさせるに充分な、彼の姿はまさしく、人の常識を遙かに凌いだものに捧げられる供物だった。
「死ぬ覚悟はとうに出来ていた」
ぽつりと、やがて徐々に彼の目線は空から己の手元へと移り、だがやはり僕を見ようとしない彼の言葉はあたかも贖罪を求める懺悔の声に響く。
「その通り、俺はあの時死ぬつもりでいた」
あの時、とは彼が魔王召喚の儀式を実行したときの事だろう。
すべてが始まった、あの時間。僕が彼によって呼ばれ、この世界へ来ることになった直接の原因。サプレスの魔王へと捧げられるはずだった彼の魂は、だが今も僕の前で小さく震えている。
「なのに、俺はこうして生きている」
血の気の引いた両手を広げ、食い入るように見つめながら彼はそう吐き出した。
死ぬはずだった――魔王のものとして捧げられた彼の肉体は、しかし今現に僕の前で動いている。血の通う人間として、体温を持つ生者として、存在している。
「変だよな?」
初めて、彼は僕を見た。
微かに涙を浮かべて、彼の瞳は月明かりの下で美しく輝いている。世界中のいかなる宝石さえも、彼の瞳の前では色褪せて映ってしまうだろうと錯覚して、僕は自嘲気味に笑った。
「どうしてそう思う?」
不自然な笑みを誤魔化すように僕が問えば、彼は少し首を傾げる素振りを見せ、
「俺の時間はあの時に止まるはずだった。なのに、こうして俺と、俺の周囲の時間は何もなかったように着実に過ぎていく。……いったい、何の意味があるんだろうな」
ふい、と遠くの闇に浮かぶ山並みを見やり、彼は呟く。
「死者になるはずだった生き物が、こうやってまだ地上でウジ虫みたいに這いずり回りながら生きている。そこまでして生きながらえようとする意味……もう、俺には分からない」
死と、生との狭間で揺れ動くもの。それが命だと誰かが言った。
人は生まれてきた以上、生きなければならない。しかしやがて人は死を迎える。動かなくなり、冷たくなり、消えてなくなる。それでも人は生きなければならないのかと、いずれ死ぬ命ならば生きていても意味はないと。
……なにかの演劇だったような気がする。もう内容もまるで憶えていないけれど、その部分だけが妙に衝撃的で、忘れられなかった。
同時に、恐ろしかった。
考えたことなどなかったから。生きる意味、死ぬこと、生まれてきたことさえも恐怖なのだと初めて知らされたのだから、それもある意味仕方のないことだっただろう。
それまで、生きていることが当たり前だと思いこみ、死を考えることもなくのうのうと生きてきた自分が、恥ずかしく思えてならなかった。生きることが辛いことだとか、そういう思いをひとつも重ねてこなかった自分のそれまでの人生が、ひどく薄っぺらいものに見えて無性に哀しく、悔しく、そして安堵している自分がいた。
死を考えないのは、まだ自身がそこまで逼迫した体験をしていないからだ。それは己の命の安全が保障された国に生まれ育ったからで、これほどの幸福は考えられないだろう。
だが最初からそのぬるま湯に浸かった状態で育てば、自分がいかに幸運の星の下、庇護されて生きているかに気付かぬまま一生を終えることになる。
死を考えなくても良い生活……それが以前の僕のすべてだった。
だけれど、リィンバウムではそうはいかない。
己の命は己自身が守らなければならない。誰も代わりに戦ってはくれないし、助けてもくれない。協力しあうことはあっても、結局最後にものを言うのは自分の持つ力だけだ。
だから……争いが止まないのかもしれない。
力に頼ろうとするから、その間に軋轢が生じてバランスが崩れる。確かに力による支配は簡単で、一番楽な手段かもしれないが、同時に一番壊れやすく危うい支配体系であることを近代国家の建設者は学んだのだ。故に法による統治体制が成立し、民主主義という型を成して国家は乱立した。
自由を求め、不自由を拒み、力を捨て目に映るものばかりに固執した結果が、僕の生まれた世界だった。
何故に争う、何故に傷つけ合う。未だ平和は遙かに遠く、だが目の前にある現実はひどく穏やかすぎて、紛争を繰り返す地域を報道するテレビ画面を見てもどこか現実味に欠けている。飢饉で苦しんでいる子供達や、兵士として浚われて行く子供達の映像も、まるで作り物のようにしか映らない。
だが、それは今も確実にどこかでひり広げられている現実であることは否定しようがない。映像として入ってくる情報は一方的で、そして無機質だ。そこに感情を挟み込む余地などない。現実を伝える情報は確かに人の心を刺激して、悲しみや怒り、そういったものを呼び起こすかもしれないが。
けれど僕達のような世代では、戦争を知らない世代では、餓えを知らない世代では、伝わらないのだ。伝わりきらないのだ、どうしても。
だから今でも、僕は生きる意味が分からない。
どうして生きているのか、問われても答えられない。ただ生まれてきてしまったから生きているのだと……そうとしか言えない。
多分、それは彼が求めている答とは違うのだろう。
僕達は生まれた世界が違えば、育った環境もまるで違う。考え方も……とても言葉で説明しきれないくらいに、違いすぎて。たまに君が何を考えているのか分からなくなることがあったけれど、それは君も同じ気持ちだっただろうと今なら思える。
なんてすれ違いの多いことだろう。
言葉にしなければ伝わらないことは多いけれど、言葉にしても伝わりきらない感情もあるなんて、なんてもどかしい。
「生きている意味、か……」
呟いて僕は月を見上げる。薄く雲をかぶった月は、朧気に輪郭を揺らめかせて空に浮かんでいる。
地球の月よりも大きい月。重力に引かれて、地球に恋い焦がれながらも決して合わさることのない惑星と衛星の悲恋……なんて表現をしていたのはどこの誰だったか。
「分からないんだよ。どうして俺がまだ生きているのか、お前がここにいるのか、それすらももう……」
そもそもどうして、オルドレイクはリィンバウムの消滅を願っているのか。根本的な動機そのものが僕も、そしてオルドレイクの息子である彼もまったく知らされていない。
世界の消滅を求め、新たな世界の王となる。それが彼の野望であることは確実であろうけれど、ではそこまでして手に入れたいものなのか? 世界とは、そこまでしてでも己の手中に収める価値のあるものなのか?
「考えてもみなかったな……」
生きることが当たり前だったからこそ、生きることへの疑問にぶつかったときになかなかその袋小路から脱出できない。堂々巡りの思考の中で、僕達は立ち止まったまま動けずにいる。
「僕がここにいるのは、君が僕を呼んだから……では、駄目なのかな」
軽くはないが重くもない感情を込めて言えば、宙を彷徨っていた彼の視線は再び僕の前に帰ってくる。
「駄目だ。それじゃあ、俺がどうしてお前を呼んだのか、その理由が見えない」
「魔王召喚の儀式の中、君は無意識に救いを求めていた。死にたくないと」
「言っただろう。俺は、死ぬ覚悟は出来ていたと」
最初に、と付け足して彼は挑むような視線を僕に向ける。強さと脆さを併せ持つ彼の瞳の奥には、数え切れない逡巡と戸惑いが隠されているのだろう。決して表に出ることのない無数の感情が、今の彼を創りだしたのだ。
「俺は死ぬつもりでいた。魔王が俺の身体に入ることは乃ち俺の死を意味する。だが俺は魔王を受け入れる器として生み出され、育てられた。その為だけに、俺は生きてきた。魔王の生け贄となることが、俺の存在理由だったんだよ!」
初めて見た、彼の激昂する姿。だが果たして彼が誰に向かって怒りを憶えているのか、僕には分からない。僕の身体をすり抜けて遠くへ流れて行くばかりの彼の感情を受け止めることが出来なくて、哀しくなる。
まだ僕は本当の君を知らないのだと、思い知らされる。
「存在理由……」
「そうだ。俺は、それだけを求められてきた」
そして疑うことなくその運命を受け入れてきたのだろうか、彼は。
違う、と心の中でもうひとりの僕が告げる。
「ソル、違うよ……人は死ぬことをそう簡単に受け入れきれるものではない」
そこまで強い存在ではない、人は弱いものだ。避けることの出来ない死を目前にしながらも、なお生きたいと抗う生き物が人間と呼ばれる生物ではないのか?
「俺はそこまで弱くない!」
泣き出したかと思える声で、しかし懸命に涙をこらえて彼は叫ぶ。
握られた拳はわなわなと震え、かみしめた唇には強く歯が食い込んでいる。血が出る、と止めさせようと一瞬持ち上げかけた手は、しかし刹那の逡巡の後、僕の胸に納まった。
「でなければ、俺は生まれてきた意味がない!」
求められて生まれてきた子供であると。たとえその先に死しか待っていない運命だとしても、それでも望まれて生まれた子供であると信じる理由が欲しかった。
生まれて、死ぬ。その短い一生の中で、確かに自分は誰かに必要とされたと思えたらきっと、それで充分だった。それ以上を求めたら止まらなくなる。もっと生きていたくなる。だから彼は、死ぬことを受諾したのに。
まだ彼はこうして生きている。僕の隣で、心細げに己を保とうと必死になって、生きている。
人は常に揺れている。生と、死の狭間で揺れ動く魂。
ならば地上は魂のゆりかごか。
「どうしてお前だったんだ……」
一番聞いて欲しくなかった弱さをさらけ出した相手が、何故リィンバウムとはまったく関係のない、どこから来たのかさえ分からないお前だったのかと。彼は両手でついに顔を押さえ込み、くぐもった声で呟く。
「ソル……」
動かない時。消えない闇。冴え渡る月の光も遙かに遠くに感じ、今はただ沈黙だけが優しい。
伸ばした手は、けれど触れる直前に躊躇して結局また届かなくて。何をやっているのだろうと自己嫌悪にさえ陥りかけて僕は髪を掻きむしった。
救いにもならないのであれば、最初からすべきではないこともある。いたずらに相手を傷つけるような真似だけはしたくない、それがたとえ優しさから出た行為であっても。
膝を抱え、また僕はじっと君を待つ。見上げた空にのびる薄い雲は、時折月をおぼろげに隠して通り過ぎて行く。真実を隠そうとする雲と、現実を見せようとする月が密かに喧嘩をしているようで、変な感じだった。
「お前は狡い」
ぽつりと、ほとんど独白だったらしい彼の声に僕は我に返り彼を見る。だが彼は相変わらず顔を俯かせたままで、何かを呟いた気配さえもうそこには残っておらず、僕は嘆息と共に小さく舌打ちしていた。
こういうときに、言いたいことがあるならさっさと言え、と怒鳴りたくなってしまう自分が情けなかった。
彼に必要なのは恐らく時間で、だがひとりで閉じこもっている時間はひたすらに後悔と罪悪感に苛まれてしまうことは、僕も過去に経験済みだったから。ならばせめて僕と一緒にいる時間くらいは心休まるようにしてあげたいと考えていたのに。
これではまるで逆効果ではないかと、やるせなさが心に染み入って己の力量の狭さが恥ずかしくなる。
「お前は……どうして俺の呼びかけに応えたんだ」
恐れるはずのなかった儀式が始まり、しかしやはりまだどこかで生に対する未練でも残っていたのだろう。生きたいと願う心を押し殺すことはもうあの時の彼には不可能で、だけれど、まさかその声が誰かに届くだなんて、思わなかった。
応えてくれるなんて、思いもしなかった。
「なあ、どうしてだ?」
行き場のない魂と、行き場を求める魂とが惹かれ合ったのだとつい、そんな台詞が頭をよぎって僕はおかしくなった。それはあまりに都合が良すぎる解釈で、しかしそれ以上の理由らしい理由も見付けられず、僕は口を濁す。
「君の声が、ひどく切なく聞こえたから……かな」
生きたいと。
死にたくないと。
助けて欲しいと。
救って欲しいと。
守って欲しいと。
「君の声があまりにも真剣だったから……逃げるのは卑怯だと思ったんだ」
こんなにも救いを求めている相手を見捨てて行く事なんて、出来なかった。何もできないかもしれないけれど、何か出来ることがあるのならばそれをしてあげたかった。
同時に、僕自身も救いを求めていたから……。
「居場所が欲しかったんだ」
誰かに必要とされる場所、自分が本当に心休まれる場所、充足出来る場所を。
ただ当たり前の生を甘受するのではなく、生まれてきたことに感謝しながら懸命に日々を生きて行ける場所を、探していた。自分の可能性を確かめたかった。何が出来るか、どうすれば出来るのか、それを知りたかった。
「ただ生きているのではなく、生きたいと思える生き方を見付けたかったんだ」
ゆっくりと流れる時間は、けれど決して歩みを早めることも遅める事も、ましてや止まることもない。万民の上に均等に配分された命の時間の中で、どこまでやれるかを試す場所が、欲しかったのだろう。
でもそれよりもなによりも。
「僕は君を救いたかった……」
助けを求めて来た相手を、見捨てたくなかった。助けてあげたいと思った。だから僕は、今ここにいる。君の横にいる。君と同じ空の下、大地の上で、同じ時を刻んでいる。
「僕達は似ていたのかもしれない」
助けを求め、救いを願い、生きる意味を模索し、生きる必要性を捜し、誰かに必要とされる生き場所を欲しがっていた。駄々をこねる子供のように。
「違う」
今度は彼が否定する番だった。
「俺は……俺はお前とは違う。俺には生きる意味も目的もあった」
首を振り、微かに残る涙で頬を濡らして彼は力無く呟く。でもそれは負け惜しみに似た言い訳であることを、おそらく彼が一番よく分かっているはずだ。
「ソル、それは生きる意味ではなく死ぬ意味だよ」
「!?」
静かに、冴え冴えと空から地上を照らす月の光のように。僕の声は彼の心を優しく傷つけているのだろうか。
「生きる意味ではなく……死ぬ意味だ。そしてそれは君のものではなく……オルドレイクにとっての、君の意味ではないのかい?」
彼はオルドレイクに必要とされている事が、己の生きる意味だと思って信じようとしていたのかもしれないけれど。でも違うのだ。彼が信じてきたものはどれも、全部、オルドレイクにとってだけが都合の良いようにねじ曲げられた現実でしかない。
「気付いているんだろう、ソル。君はオルドレイクにいいように利用されていただけだって」
「言うな!」
ぱしん、と。
乾いた音が闇夜に響き、勢いで立ち上がった彼の身体を僕は下から上に見上げた。叩かれた頬は赤く色づき、鈍い痛みを僕に訴えかけてきているが。それよりもずっと、涙を流しながら荒く息を吐き出して肩を震わせている彼の方がずっと痛々しく映った。
「君はまだ、父親を信じようとしている。僕よりも、自分自身よりも」
冷たく言い放たれる僕の言葉は止まらない。
「ちがうちがう違う!!」
必死になって叫び返す彼の声は僕の言葉を遮り、闇に押し消そうとするけれど。その否定こそが僕の言葉を肯定している事だと、彼は気付いているのだろうか。
認めたくない気持ちは分からないでもない。だが、今ここで逃げたとしてもいつか必ずぶつかる壁なのだ。ならば今打ち破らなければ、いつまで経っても彼はこの壁を越えられない。父親という、大きすぎる壁を。
彼は父親の道具として生み出され、道具になるべくして育てられてきた。だが彼がそれを知っていながらも道具として使われることを了承したのは、抵抗が無駄だと思ったとか、そういう部分に理由があるのではないのだろう。多分、どこかで父親に愛されたいと……思っていたからだ。
愛情を与えられずに育ちながらも、微かに愛情に似た感覚を相手に対して感じたのならば、子供はそれを糧として生きて行けるの。求めて、与えて欲しくて、相手に対してどんどん従順になってゆく。疑うことを知らない純粋な子供である方が、大人は扱い易いのだ。
子供をどんな人間にするかは、親の力量に依るところが大きい。だから子供は、いつも犠牲者だ。好きなように生きてきたと思っていても、必ずどこかで親の影を感じざるを得ない。事実僕もその通りであるから。
特殊な環境で育ち、一般的に流布している常識や感情を知らなかった彼は、おそらくフラットに来るまでは人間とも言えない中途半端な生き物だったろう。だが今の彼はそうじゃない。怒りもするし、笑いもする。悲しんだり喜んだりもできる人間だ。
「ソル!」
答えてくれ、と。
僕の手が彼の腕を掴む。力を込めて引き寄せれば、ささやかな抵抗の後に彼の小さな身体はすっぽりと僕の胸に収まってしまう。
育ちきらない子供の身体だ。骨張っていて、決して抱き心地は良いとは言い切れない体つきをしているのは、フラットに来る以前からだったはずだ。栄養が行き届いていないというよりも、彼はわざと自分の命を縮めようとしているみたいだった。
食が細く、好物がない。嫌いなものも特にないかわりに自分から食事を求めることもない。空腹を訴えてくることなど、一度もなかった。
何故こうも違う。何故こうも君は変わろうとしない。もう魔王の生け贄という運命からは解放されたはずの君なのに、未だ自分から死を求めるような真似をして。
「トウヤ、痛い……」
強く抱きしめられた彼の肉体は、骨と皮ばかりなのが服の上からでも良く分かる。だから抱かれることの痛みがダイレクトに神経に伝わって、彼は僕の中で何度も身じろぎした。
しかし力の差がありすぎることを痛感させられるだけの彼の抵抗も、しばらく黙って待っている間に徐々に弱くなり、そのうち逆に一番苦しくない体勢を見付けて彼はそこに収まった。
ホッとしたような息づかいが聞こえて、僕の心に棘を残す。
君には、きっとこの痛みは伝わらない。その方がいい。君を苦しませるだけならば、気持ちはここに捨てて行く。
その覚悟くらい、とうの昔に出来ている。
守りたい、この命を。自分で守ることを放棄してしまった殻を持たない胎児のような君を、何よりも守りたいけれど。
言えば君は逃げていくだろう。その価値が自分にはないと強がり、突っぱね、迷惑だと叫び、泣いて。君はそういう性格をしている。そんなところだけが君よりも詳しくなってしまった。
「聞かせてくれ。ソル、君がどうしたいのかを」
生け贄として必要とされなくなり、父親からも見放され、求めている愛情がすぐそこにあることにすら気付かないで。生きる意味を持ちながらそこから目を逸らして逃げている君を、どうか壊さないで。
神様なんて信じちゃいないけれど、居るのだとしたら、神様、どうか彼の心を壊さないで。
「君は自由だ。誰も君を束縛することは出来ない。君の生きたいように生きればいい。オルドレイクが求めた君の生き方ではなく、君自身が何をしたいのか、どうしたいのか、僕に教えてくれ」
腕の中に居る彼の身体はまだ震えている。その頭を抱き、彼の肩に埋もれるようにして僕は問い続ける。
「答えてくれ、ソル。君の命だ。生きたいと願った君の命だ!」
血を吐くような想いで僕は叫ぶ。無意識のうちに彼を包む腕に力が入り、苦しげに彼が身を捩らせてきた。だが僕は腕を緩めず、より強く彼を掻き抱く。
「トウ、ヤ……」
「答えるんだ、ソル。でなければ僕は君を放すことが出来ない」
語気が荒くなる。責めるような口調は出来るならば止めたかったのだが、もう今更後には引けないから、そのままにした。傷つけるつもりはなかったのに、結局こうすることでしか君の本心を聞き出せない。
自分の無力さに腹が立つ。
「分からないよ……」
不意に、腕の中の存在が小さくなった気がした。
「俺には分からない……。死ぬ覚悟は出来ていたのに、いざとなったら足が竦んで、逃げ出したくなって……でも周りの連中は冷たい目で俺を見ている。どうしようもなかった、泣くことも出来なかった。死にたくなかった!」
僕の上着に縋りながら、彼は泣きじゃくっていた。
「死にたくない、死にたくなんかない! でももう止められなかった。始まってしまったんだ、俺が始めてしまったんだ!」
魔王召喚の最高責任者、ソル・セルボルト。その身を魔王の生け贄として捧げ、器として魔王を受け入れる為だけの存在だった者。
「恐かった、自分でなくなるのが恐かった。これは俺の身体だ、俺だけのものだ。でも魔王は俺の中に入ってこようとする。俺を追い出して、俺になろうとしてた。嫌だった。吐き気がして、泣きたかった。でも出来なかった。俺は臆病者だ、卑怯なのは俺の方だ!」
無意識に求めていた救いの声は、遠く界を隔てた先にいた僕の脳裏に響き、不安定になっていた地場の影響と魔王の力によって、リィンバウムへの道は開かれた。
通常ならば繋がるはずのない界と界が繋がったのは、魔王の力の成せる業だろう。
彼の迷いが魔王召喚の儀式を失敗させ、そして僕がかわりに召喚された。僕の中にあるこの不思議な力が、本当に魔王のものかどうかは分からない。でも、彼は言ってくれた。この力は危険かもしれないが、僕自身は危険な存在ではないと。
それは僕を信じ、認めてくれたからではないのか?
「僕では君の力にはなれないのか?」
「ちがう……そうじゃない……。
巻き込まれただけのお前に、俺が原因でお前はこの世界に来てしまったのに、そのお前に……そんな風に優しくされる資格なんて俺にはないんだ」
僕の腕の中で、彼は泣いている。涙を隠そうとせず、時折漏れる嗚咽に苦しみながら、彼は初めて本心をさらけ出していた。
「壊したくなかった。俺のせいで、俺が弱かった所為で沢山の人が死ぬ、そんなのは見たくない。だけど……俺一人の力じゃもうどうにも出来なかった……」
だからせめてお前だけでも、元いた世界に還してみせたかった。この界とは何の関係もないお前まで、巻き込みたくなかったと、彼はしゃくりを上げながら呟く。
でも。
「もう遅いよ、ソル」
僕は充分関わってしまった。今から逃げるのは無理だ。それにバノッサに関しては、僕が当事者であるわけだし。すべてを投げ出して、皆を見捨てて逃げるような事をしたら、二度と顔を上げて歩けなくなる。
「……ソルが止めたいのは、オルドレイクだろう?」
「…………なぜそう思う……?」
静かに問い返されて、僕は微笑んだ。
「君が命をかけて叶えようとしたのは、誰の願いだった?」
だから君は、本当はあの男の事が大切で仕方がないのだ。ただ、最後の最後で自分自身の願いが勝っただけで。多分、君が言ったように死の覚悟は出来ていたのだろう。召喚儀式場へ出向いたその時も、君の心は揺らがなかったのだから。
そうでなければ、儀式場へ行く前に君は逃げ出していたはずだ。
「そう……なのかもしれない」
宥めるように背を撫でてやり、月に透ける髪を優しく梳いてやると、くすぐったそうに彼は肩を揺らした。
「よく分からないけど……でも、あんなでも一応、俺の親だから……死んで欲しいとかは、思わない……」
何故オルドレイクが権力に固執し、魔王による世界の破壊とその後の支配を切望するようになったのかは分からないけど。
知識の更なる探求を続けながらも、権力という欲にまで囚われた哀れな男、オルドレイク。何ものにも囚われない無色の派閥を名乗りながら、誰よりも何かに囚われている事に気付こうとしない、妄信者。
「ソルは魔王がどういう存在か、知っているよな」
「んー……まあ、必要範囲だけなら」
尊大で、自分勝手で、絶大な力を所有しそれを余すことなく揮ってみせる。何ものにも屈せず、とらわれず、自由であり無慈悲。破壊を喜びとし、すべてを焼きつくすまで止まらない。サプレスが破壊されずにあるのは、魔王と対等の力を保有する存在が彼の世界にはあるからだ。
「魔王の前では、リィンバウムなんて赤子同然だよ」
抵抗する力さえ持たず、紙切れのように容易く引き裂かれてしまうだろう。それに危惧すべき事は他にもある。
「エルゴの結界が壊れても、魔王はやってくるんだろうな……」
マナに満ちたこの世界は、他の界にとって喉から手が出るほどに欲する世界だから。
オルドレイクは結界が砕けようとしていることを知らない。魔王を召喚してしまったら、恐らく確実に、まず間違いなくまだ残っているか細い結界の糸も切れてなくなるだろう。その先に待つのは、奴が望んでいた世界などではなく、争いが止まない非業の大地だ。それに魔王が素直に奴に従うとも思えない。
「止めよう、オルドレイクを。魔王召喚を止めさせて、そして結界を守ろう」
な? と腕の中をのぞき込んで僕は彼に同意を求めると。
「そう……だな。あんなでも俺の親だし」
好きじゃないけど、嫌いにもなれなかったと、彼は嘯く。本当、素直でない。
「今なら……生け贄に選ばれたのが俺で良かったと、思うよ」
兄弟は沢山居る。会ったことはほとんどないけれど、でも同じ様な境遇で育てられていたことは知っている。そのなかで何故自分が選ばれたのかが未だによく分からないところだけれど、と。行き場のない両手を僕の服に絡ませることで安堵し、彼は小さく笑った。
「お前に会えたから」
この生き方も、あながち悪いものではなかったと。
「まだ先は長いよ。そういう言い方は、心臓に悪いから止めてくれるかい?」
生きている意味など、生きている限り分かりはしないのだろう。何のために生きたのかなんて、死ぬ直前に思い出せばいい。歴史は歩いていく道にあるのではなく、歩いてきた道に遺るものだから。
すべきことは、目の前にある壁を打ち壊して進むこと。
生まれてきた意味は、生きたかったからだ。この魂が、生きることを求めたから僕達は生まれてきたのだ。
「なあ、トウヤ」
「ん?」
「キスしよう」
「は?」
話の脈絡からいきなり外れた彼の言葉に、僕は素っ頓狂な声を出してしまう。
「嫌か?」
「あ、いや……嫌とか、そういう事じゃなくて……」
「じゃあ、いいか?」
畳みかけるように一気に告げて、彼は可愛らしく小首を傾げてみせる。一体彼が何を考えてのことかさっぱり分からず、僕の頭の上ではクエスチョンマークが乱舞していた。だが理由を聞こうにも恥が先に立って言葉が出ない。
すると彼はくすっ、と笑い、
「お前は体裁をすぐ気にするからな」
と言った。
「……だって、お前、俺のこと好きだろ?」
ぐさりと。
その言葉が僕の胸に突き刺さる間に、腕の中にいたソルは背を伸ばして僕に迫った。
息が顎をかすめたかと思うと、柔らかく温かな感触が一瞬だけ触れて通り過ぎて行く。瞬きする暇さえなかった。
「お前、バレバレなんだよ。俺が気付かないとでも思ってた?」
腕の拘束が緩んだ隙に、彼は悠々と脱出して僕から離れていた。月光に下で実に楽しそうに、笑っている。
「正直になれよ。俺はちゃんと言ったからな!」
そう言い残し、彼は屋根裏部屋に下りる窓に身を翻した。
「………………」
唇を押さえ、僕は顔を真っ赤にする。一瞬だったけれど、確かに僕らは触れあった。まだ感触はリアルに残っている。恥ずかしいくらいに、どうやらすぐには忘れられそうにない。
「バレバレ……だったのか?」
自分ではちゃんと隠し通せていたと思っていた。特にソルに対しては慎重になっていたつもりだったのだが。
ポーカーフェイスは得意だった。感情を表に出さず、隠すことには慣れていたはずなのに。まさか本人にばれているとは予想だにしなかった。
「うわぁ……」
これは恥ずかしい。
僕は頭を抱え、鳴りやまない心臓の鼓動をしきりに抑え込もうとするけれど、上手くいかなくて。
でも、と。去り際に彼が言い残した台詞を思い出して眉を寄せる。
「僕の気持ちを知ってて……その上で正直になれっていうのは……どういう意味だろう……?」
「鈍感!」
首を傾げていると窓の方から声が飛んできて。振り向くと茶色の髪が慌てて逃げていった。
「…………ソル!」
僕は立ち上がると窓縁に手を置く。下をのぞき込むが暗くてそこに彼がいるかどうかも分からなかった。けれど多分、隠れて聞いているはずだ。
「いいのかい? 調子に乗るよ?」
からかうような声で告げる。返事はなかった。
「ソル、僕は君と一緒に生きたい。返事を聞かせてくれないか。ソル、いるんだろう?」
「お前……それ言ってて恥ずかしくないか?」
暗がりの中から月明かりの下へ、彼は進み出て僕を見上げる。
「恥ずかしくないよ。聞いているのが君だけだからね」
それに、正直になれ、と言ったのは君の方だろう。即答すると彼は呆れたらしい。肩をすくめて首を振る。
「聞くまでもないって、思わないのか?」
「思わない。ちゃんと聞かないと不安になる。僕はそこまで聡くないよ」
素直でないのはお互い様だと笑って、僕は屋根裏部屋に降り立つ。窓を閉めると月が一気に遠くなって、長い影が床を覆う。
「言わなくても分かれ、馬鹿」
「馬鹿ですから」
戯けた調子で答えると、拗ねたらしく彼はそっぽを向いた。
「僕は勝ち目の薄い賭には出ないよ。いつも勝算を気にして生きてきた。でも今回だけは、そうだね。負けてもいいって思えるよ。君にだけなら、僕は負けても悔しくない」
「すげー台詞……」
「君が言わせたんだろう。返事は?」
目を細めて問えば、彼は少し躊躇した後、小さく頷いた。
「聞くなよ、いまさらだろ……」
「そうだね」
大体お前は気付くのが遅いんだ、と愚痴りながら。それでも僕に抱きしめられるソルはもう震えていなかった。
夜が明ければ、最後の戦いが始まる。
「守るよ」
「それは俺の台詞だろう」
ふたり、ずいぶんと長い間そうやって抱き合って、まるで子供のように、無邪気に。
命の鼓動を感じて安堵する。
大切だから守りたい。失いたくない。ようやく気付いた。ようやく届いた。やっと伝わった。ふたり通じ合えた。
だから。
「俺、生きたい……もっともっと生きたい……」
「うん」
「生きていいのか? 俺、生きててもいいのか?」
「うん」
「俺、一緒にいたい。ずっと、お前と一緒に生きていきたい」
「僕もだよ」
涙は、止まらなかった。
ナツコイ
じりじりと音まで聞こえてきそうな程の熱線が地表を焦がしている。アスファルトの照り返しは予想以上に酷く、路上の打ち水も付け焼き刃どころか撒かれた途端に熱で蒸発し、その部分ばかりが湿度を上げて余計、熱を孕んだ空気を漂わせる事になってしまっている。
蜃気楼でも見えそうだ、と天国は思った。
朝、出かける前にちらりと見たテレビの天気予報は今日の最高気温を35度と予告していた。しかし実際のところ、彼の身体を取り巻く大気はそれ以上の熱さを抱いているに違いなかった。体感気温としては過去最悪、間違いなく己の体温よりも高かろう気温を想像し、まるで犬のように彼は口を開くと薄い舌を伸ばした。
それで体温が若干でも下がってくれれば良いのだけれど、生憎と人間の身体はそれほどに便利には出来ていない。口を開いたことで余計に外界の熱風を体内に吸い込む事になっただけで、額に噴き出た玉のような汗を拭い、天国は恨めしげに空を支配する太陽を睨んだ。
「あちー」
手を団扇にして風を招こうにも、呼び寄せられるのは体温よりも温められた空気だけで、しかも露出する首筋にまとわりついて離れようとしない熱気にうんざりとさせられるだけ。
左手で握り締めたコンビニのビニル袋が、ガサガサと中に押し込まれた荷物の表面と擦り合わせて喧しく音を立てる。その音でさえ湿って生温く聞こえてくるようで、チッと舌打ちした彼は傍らの、自分よりも高い位置に視点を持つ存在を見上げた。
涼しそうだ、と。
彼には熱を感じる神経が欠けているのではないだろうか、と疑ってしまいたくなるくらいに涼しげな表情で歩いている彼の歩調は軽やか、とまでは行かないが天国のそれよりも遙かに調子が良い。両耳を覆っているヘッドホンからは、微かにリズムを刻む低音が漏れ聞こえてくる。
飽きもせずに聞き入る程の音楽であるのかどうかは、天国には分からない。今までに何枚かCDやMDを借りて聞いてみた事はあるけれど、それらの音楽の何処に彼が惹かれ、常日頃から欠かさず耳に流し込もうとしているのかの理由が分からない。
だから時折、自分の声が彼に届いているのか不安になる。彼が音楽に聴き入るのは、もしかしたら自分が喋る音をノイズと判断して、遮ろうとしているからではないかと勘ぐってしまいたくなる。
そんなはずはないと、必死で否定してみても心のどこかに不安は残ってしまう。司馬から視線を戻した天国は、今浮かべてしまった考えを消してしまいたくて、浅く下唇を噛むと左右に首を振った。
照りつける太陽は熱さの絶頂にある。
「じゃんけんなんかに、負けるんじゃなかった……」
うんざりといった面持ちで、数十分前のグラウンドでの出来事を思い出し天国は左手で重さを主張しているビニル袋を握り直した。
その中身は、アイスクリーム。財布の出所は監督のポケット。
午後からも続く練習だったけれど、あまりの暑さに部員一同集中力が著しく欠けてしまい、凡ミスの連発。さすがにこれでは練習にもならないと、休憩に入って途端に誰かが言い出した。
アイスを食べたい、と。
確か言い出しっぺは兎丸辺りではなかったろうか。三年生が抜けて新体制で始まった夏休み期間中の練習は、全体を把握して統制出来る人が抜けてしまった事もあり、どこか子供っぽさが残ってしまった。だから兎丸の発言を不謹慎だと叱る代わりに、彼の発言に同調して食べたい、と連発する部員が続出した。
その蛙の大合唱が如き声に、頭を痛めた羊谷は渋々ポケットから財布を抜き取った。
そして始まる、大じゃんけん大会。
最初はぐー、の合い言葉に始まって、けれどあれだけの大所帯であるに関わらず何故か勝負前で決着がついてしまったのは、ひとえに天国の不運が原因であったろう。
全員が息をぴったり揃えて最初のぐーを出した中で、ひとりちょきを出したバカがいた。それが他ならぬ天国その人であり、パシリはその場で彼に決定した。
『ぬおー! しまったぁぁぁ!!』
天国は地団駄を踏んで激しく悔しがり、もう一度ちゃんと勝負をしようと提言したものの誰ひとりとして彼の言い分を聞く存在は居なかった。誰もが、自分はどの味がいいとかこれは買ってくるな、とか勝手な事を言い放ちメモを手渡していく。どう考えても部員全員分のアイスをひとりで抱えてくるのは重すぎる、と同行者を募ったものの手を上げる存在は心優しい女子マネの凪ひとりだった。
けれど彼女に荷物を持たせるような真似を天国が出来るはずがなく、心優しい彼女の申し出を有り難く断って、ひとりメモと羊谷からむしり取った新渡戸稲造を握りしめグラウンドを出ていこうとした時。
何故か、後ろから無言のままについてきた彼。
一緒に行くよ、という言葉もなにひとつとして無いままに。天国が一緒に言ってくれるのか、と問いかけて漸く首を縦に一度だけ振った彼の心中はあまりにも計り知れない。何を考えているのかさっぱり分からないのは今も昔も同じで、この暑い最中に買いだしにつきあってくれる気紛れの理由もまるっきり不明。
冷房の効いたコンビニエンスストアはまさしく楽園のようであったけれど、黄色い籠いっぱいに詰め込んだアイスを早く持って帰らねば皆からどれだけ文句を言われるか分かったものでもなく。名残惜しく涼しい場所に背を向けて歩き出して、しばし。
学校からコンビニまではさほど離れていないけれど、空の陽光を遮るものはなにひとつとしてない路上で涼を求める事はそもそも無駄だろう。日陰を欲しても太陽は未だ頭上高く、道端に並ぶ街路樹も元気を失って枝が垂れ気味になってしまっている。道路の両側を埋める家々の中の、庭に咲き乱れる向日葵も太陽を向かず、疲れたように花も萎びている。
「アツイ」
アンダーも纏わず、直接素肌にユニフォームの天国が襟元を広げ、前後に揺らしながら呟いた。ふと、そんな時に限って視線を感じてなんだ、と上目遣いに隣を見れば、パッと彼は前を向き直って何事もなかったかのように振る舞ってくれる。
言いたいことがあるのなら言えばいいのに、と心の中で悪態をついて天国は彼の手にも握られている、皺だらけのビニル袋を見下ろした。
袋の膨らみ方は、均等に二分したつもりではあったのだけれど、ほんの僅かに彼の方が大きい。とげとげに袋を突き破ろうとしているアイスの外箱の形をなぞりながら、視線を徐々に持ち上げて天国は白いユニフォームから突き出た、彼の引き締まった腕をなにげ無しに眺めた。
ずっと野球をやっていたからだろう、無駄な筋肉もなく浅く日に焼けたそれは、ところどころに薄い傷痕を見せつけている。そのどれもが古傷であり、既に治癒しきって久しいものばかりであろうことは目に見えて明らかなのだけれど、その傷の分だけ彼が激しく、辛い練習を繰り返してきたのだと思い知る。
あまりにも自分とは違っている腕。あそこまで守備を徹底的に鍛え上げたのにはどんな理由があるのだろう。犬飼のように、速い球を投げてストライクをむしり取っていく事、そこに重きを置くピッチャーのようなポジションとは違って、ひたすらに守りを徹底させる彼の目標は至って見えにくい。
自分のように、バッドに当たれば飛ばすことは難無いが守備はてんでダメ、という両極端なプレイヤーは、守備を極めつつも打撃にもそつない彼にどう映るのか。
がさり、と彼の手元で白いビニル袋が鳴った。一瞬だけ持ち上げて、取っ手を握り治した彼の節くれ立った指が微かに揺れる。僅かに汗ばんだその指先が、彼もまたこの暑さをちゃんと感じ取っているのだと教えてくれた。
じりじりと、地表を焦がす太陽を見上げる。あまりにも眩しすぎて二秒と見つめていられなくて、溜息混じりに俯いたまま歩き続けた天国だったけれど。
唐突に、傍らに感じていた太陽とは違う熱が遠ざかって、驚いた。
振り返る、ほんの少しだけ……一歩と距離が開いていないほどに直ぐ後ろに居た司馬が立ち止まって前でも、天国でもない方角を見ていた。
なんだろう、と視線を彼がサングラス越しに見つめているだろう方向へ向ける。低い垣根の向こう側、誰が住んでいるのかも知らない通りすがりの家の軒先で、恐らくその家の住人であろう男性がゴルフの練習をしていた。
まさか知り合いではなかろうな、ととても正解とは思えない思考を巡らせかけた天国の耳に、若干ノイズが混じった音が聞こえる。ざざざ、という砂嵐が時折混ざり混むラジオが、遠く甲子園で白球を追い掛けている高校球児に声援を送っていた。
誰かがツーベースを打ち、二塁に居たランナーが生還したと力の入った実況が聞こえる。これで点差が一気に狭まったと、しかもまだ二・三塁にランナーが残り次は四番打者で逆転も充分可能だと、恐らくマイクを握りしめているであろう実況の熱弁が生温い大気を漂いふたりの耳にも届けられる。
そう、恐らくは司馬の耳にもちゃんと聞こえているのだろう。
自分たちが望み、求め、手に入れようとした栄冠は両手で掬い上げた砂のようにさらさらと指の間から零れ落ちていった。あの舞台に立つことが出来なかった自分たちは、来年こその願いを抱いて駆け回っている。
地表を焦がす太陽は熱い。けれど、あの球場の、あのグラウンドは多分もっともっと、自分たちが体感した事のないくらいに熱いのだろう。
野球をやる以上は、一度は夢を見るあの大舞台は。
「……司馬」
照りつける太陽は容赦なくアイスを溶かしていく。早く戻らなければ部員に殴られてしまうだろう。彼らだって、この暑い中自分たちの帰りを今か今かと待ちわびているのだから。
例えパシリであろうとも、自分の帰りを待ってくれている存在が居てくれるのは嬉しい。
そしてなによりも、自分と一緒に歩いてくれる存在が在る事も、嬉しい。
「行こう」
夢を求め、追い掛ける先は同じだ。同じ高校で野球を続けている限り、自分たちの最終目標は重なっている。だからその間は、同じ道を歩いていける。
一緒に。
天国は右手を差し出した。軒下に置かれているラジオから視線を外した司馬が、戸惑ったように天国の手を見下ろす。
十二支高校野球部の夏が終わるのは、案外早かった。まだ夏本番の日々が残る中で、自分たちはひたすら秋に向けて走っている。
「しかしあっち~な。オレの分、先に食べちまおっと」
にっ、と悪戯っぽく笑って。出した手を引き戻し左手を持ち上げて袋の口に右手を突っ込む。そこだけひんやりとした空気が漂っている事にホッとしながら、天国は自分で食べようと選んだソーダ味のアイスを探し出した。
肘に持ち手を通して引っ掛け、抜き取ったアイスの袋を破く。案の定表面が溶けはじめているアイスを口に運ぶと、ヒヤッとした冷気が唇の周囲に広がった。舌先に載せたアイスの味よりも先に、冷たさが際立って天国は両肩を縮めた。
大した冷たさでもないはずなのに、これまでの暑さが在ったせいか全身が震え上がりそうなくらいに感じられる。柔らかくなっている角を前歯で崩し、舌の上で転がした瞬間凍ったソーダは体温でじわりと溶けていった。
「ん~……美味いっ」
幸せの絶頂とは恐らくこういう事を言うのだろう。心底美味しそうな顔をしてアイスを囓る天国を見下ろし、司馬は自分が持っている少々重いコンビニ袋を持ち直した。
人差し指が滑らかなビニールの表面をなぞる。表面に残った微かな湿り気は、己の肌から溢れ出す熱の名残だろう。知らず、掌全体に満ちていた汗という名前の熱気を握り締め、司馬はしばし沈黙した。
否、彼は元から寡黙で静かだったけれど。普段以上に、静かに。
天国はそんな彼の様子にも気付かず、薄い気の棒を囲って固められたソーダ味アイスを熱心に囓っている。溶けだした表面を垂れて流れていこうとする僅かな一滴さえも勿体ないとばかりに、舌を伸ばして舐め掬い取って。
赤い舌がちろちろと動き回る。熱気にあてられたように、司馬は目の前が一瞬眩んだ気がした。
道路の両側をびっしりと隙間無く埋めていた住宅が途切れ、目の前に見慣れた高校の校舎が見え始める。ゴール地点まではもうじきで、天国は現在時刻を少しだけ気にし始めた。早く戻った方が良いだろう、アイスが溶けるのと先輩に殴られて怒られるのはほぼ同意義であり、どちらも彼にとっては不本意な結果である。
折角暑い中を買い出しにいってやったのだから、皆にもこの冷たくて甘く、美味いアイスを食べさせてやるのがパシリとしての役目に違いない。どこか論点のずれた感のある事を言い、天国は司馬を振り返り急ごう、と声をかけようとした。
しかし。
司馬が、自分を見ていて。
自分の、特にこの、右手に持って囓っているアイスを、見ていて。
サングラス越しの視線では具体的に、司馬がどの箇所を見ているのかなど天国には分からないから、彼は勝手な思いこみから、司馬もまたアイスを食べたがっているのだと判断した。
三分の一ほど減った、四角形をした棒アイスを彼は不意に、司馬へと差し出した。
食べ差しで悪いけど、と彼の眼が笑って告げる。
「食べるか?」
欲しいんだろ、と。
この暑さだから、冷たいものが食べたくなるのは誰だって同じだよな、と。
勝手に思いこんで、勝手に決めつけて、勝手に納得して、勝手に。
自分と彼とが、同じ事を考えているのだと信じて。
無邪気、に。
司馬が息を呑んだ。サングラスの向こう側にある瞳が揺らぐ。一瞬だけ逡巡を浮かべた表情の意味を、天国は計り損ねた。
耳に心地よい低音が近くなる。リズムだけしか分からなかったそれが、アップビートなテンポの激しい音楽だと気付いた時には、天国の顔に濃い影が落ちていた。
ひんやりとしていた唇に、熱が被る。遠く、木立で休んでいたらしい蝉が突然の大合唱を始めた。
耳鳴りがする。
一瞬の熱はすぐに冷めた。天国を覆っていた影が遠ざかる。
「う……」
耳の先まで赤くなった天国が、何かを言おうとしてけれど言葉が出てこず、もごもごと口を動かした先で溶けだしたアイスが雫を垂らし、棒を伝って彼の指先に流れて行った。
「あー! もう、アイスが溶けるからオレは先行くからなっ!」
オマエはあとからゆっくり追い掛けてこい、と叫び、天国はその場で地団駄を踏んだと思ったらあっという間に駆け出して行ってしまった。司馬もまた、天国同様に頼まれもののアイスをいっぱいに詰め込まれた袋を持っている事など、彼の頭にはこれっぽっちも残っていなかった。
「…………」
どうしたものか、とひとり取り残された司馬は段々小さくなっていく天国の背中と、自分が持っているアイスの袋とを交互に見つめてから自分も少しだけ駆け足気味で、進み出した。
校舎はもう目の前で、正門を抜けて右に曲がれば野球部が使っているグラウンドが見えてくるはず。一足先に辿り着いているはずの天国が、あの真っ赤な顔をどう皆に言い訳しているのかが少し気になったが、あまりにも速く自分が追いついてしまっては、彼もきっと困るだろうから。
と言うよりも、何故あんな事をしてしまったのか自分自身でさえ、理由を問われたら困ってしまうのだけれど。
あの瞬間の彼の顔を思い浮かべる。見る間に赤く染まっていく彼の顔を脳裏に描き出して、急に、恥ずかしさがこみ上がってきた司馬は自分の口元を右手で覆った。
やや土臭い、グラウンドの匂いが染みついた指が鼻先にぶつかる。
大地を焦がす太陽の熱よりもずっと熱い、唇がひりひりと痛い。
先に戻った天国が伝えたのだろう、グラウンドの方から部員の何人かが駆けて来るのが色の混ざった視界に映った。彼らは一目散にアイスへ飛びつき、袋を奪って溶け出そうとしているそれらに食らいつく。
餓鬼地獄に落とされた亡者の如き人混みを掻き分けるようにして進み、ひとり木陰のベンチに休んでいる天国を見つけて近付く。残りひとくち分程度しかないソーダアイスをちびりちびりと舐めていた彼が、司馬の影に気付いて顔を上げた。
自分の分になるはずだったアイスまで奪われてしまって、手ぶら状態の彼を見つめ、ざまあみろとでも言いたげな視線を向けた天国に、司馬は小さく肩を竦める。
けれど。
「ほら」
最後のひとくち分、残されているアイスの棒を司馬に差し向けた天国が悪戯っぽく笑った。
甘い甘い、ソーダ味が口の中いっぱいに冷たさを伝えて広がっていく。
その中で、最後にチロッと舐めたひとくちだけが、どの夏の体感よりも熱い夏をその場に残して消えていった。
02年8月中旬脱稿
Reconcile
カチャカチャと響く金属音以外に、今この空間に音はなかった。
「…………」
「…………」
同じようなむっつりとした顔をし、食器を動かしているのがふたり。その間に挟まれるような形でおろおろと、両方の顔を交互に見ながら食事を続けているのがひとり。
「ご馳走様」
一秒でも長くこの場にいたくない、そんな感情が表立って現れている声で呟き、スマイルは椅子を引くと席から立ち上がった。自分の使用済み食器を重ね合わせ、それを台所の水場へと持っていく間も彼は不機嫌を露わにした表情で無言。
「あ、お粗末様ッス」
通過儀礼的な彼の言葉に一々律儀に返事をしたアッシュが彼の背中を見送り、それからまだ変わらないペースで食事を続けているユーリへ視線を流した。
ユーリもまた、スマイルに負けず劣らず不機嫌を隠そうとしない顔つきでフォークを口に運んでいる。今席を立ったスマイルを見ようともしない。
はぁぁ、と盛大な溜息をついてアッシュは残り少なくなっていた皿の中身を胃に押し込んだ。会話のない食事の席は、自信を持って作り出した食事もあまり美味しいものではない、その事を改めて実感させられてしまった。
スマイルは台所から戻ってくるとそのまま食堂を素通りして、自分の部屋で戻るようだった。普段ならリビングのテレビ前に陣取るはずの彼が、この時間から早々に部屋に引っ込むことも珍しい。
「お風呂、沸いてるッスよ」
「ん~」
自分も席から立ち上がったアッシュに言われ、スマイルは片手を挙げて背を向けたまま返事をした。了解、の意志らしい。
ちらり、とユーリが食堂を出ていこうとするスマイルの背を見た。だが彼が振り返りもせずにそのまま出て行ってしまうと興味が失せたように食事の手を再開させる。
アッシュの作る料理に文句はなにひとつ言わないユーリだが、今日はやけに不味く思えてならなかった。いや、今日だけではなく……もうこれで三日目になる。
きっかけは、ユーリが持ち出した新曲のメロディーラインにスマイルが難癖を付けたことだったはずだ。
このラインは、こっちの方が絶対に良いと彼は譲らなかった。ユーリにしてみれば、自分が自信満々で他のメンバーに示して見せた曲だったから、自分に恥をかかせた形になるスマイルへ反発するのは仕方がないこと。そしてスマイルも、その反発を受け流せなくて真正面から意見がぶつかり合ったものだから。
意見は決裂、一緒にふたりの仲も決裂。
それが、三日前の事になる。その間、ふたりが会話する事は勿論なかったし、アッシュがなんとか仲直りさせようと色々気を配ったりしてみても総て無駄に終わっていた。
なにせ顔をつき合わせてもひとことも会話が発生せず、偶然そうなったとしても嫌味と皮肉、そして悪口の応酬が始まるだけで仲直りどころか、益々彼らの間に広がった溝が深まるだけだった。
気まずい空気の中での食事も、いい加減終わりにして欲しいというのがアッシュの思いである。だがユーリは気位も高く絶対に自分から謝るような性格をしていないし、スマイルも意地になったら梃子でも動かない。
このまま喧嘩が続いてメンバー解散とかになったらどうしよう、と余計な事まで心配になってきて、アッシュまで上の空気味な日々が続いている。胃はきりきりと痛むし、はっきり言って良いところなどなにひとつとしてない。
結局新曲の構想も、リーダーであるユーリがあの調子なので少しも進んでおらずストップが掛かった状態のまま放置されてしまっている。再開の見通しは……立っていない。
「馳走だった」
口元をナプキンで拭い、ユーリも席を立つ。彼だけが食器をそのままにして部屋を辞するのはいつものことで、台所で洗い物を始めていたアッシュは彼の声に食堂を覗いた。
テーブル前で立ち上がったものの動かずにいるユーリの横顔は、何処か影があって元気が感じられない。このところずっとそうで、ひとりきりの彼を見かけるたびにユーリが後悔しているのだと感じさせた。
邪魔になっているのは彼のあのプライドで、それさえ乗り越えてしまえば案外簡単にこの喧嘩も片づくのだろうが。そう上手くいかないし、出来ないのがユーリという人物でもある。
些細な喧嘩は今までにだって起こしてきた。だがたいていの場合、スマイルの方が先に折れて彼から歩み寄ってくる事が殆どだ。たとえユーリがなかなか彼を許そうとしなくても、スマイルは懲りもせずユーリに声をかけ続けなんとか謝罪できる隙間を見つけだそうと努力していた。
だが、今回の喧嘩はそうじゃない。スマイルの方が徹底的にユーリを無視している。視界に彼が収まっていても、居ないものとして扱っているのだ。もしくは、ユーリが部屋に入ってきたら自分は黙って立ち去る、とか。
その度にユーリは拳を握って微かに震わせる。噛んだ唇は悔しそうに歪められていて、尚更彼を意固地にしていた。スマイルだってそれは良く解っているはずなのに、このわざとらしい嫌がらせに似た無視を終わらせる様子がない。
彼らの間にあるピリピリとした空気は見ている方まで居心地を悪くさせてくれて、アッシュが自分がどちらの味方をすべきか、以前に自分がこのまま此処にいても良いのかどうかさえ迷う状態。
「あ、ユーリ。お風呂……」
「あいつが入ったあとの湯は使いたくない。入れ替えてくれ」
「…………はい」
この冷戦状態をどうにかして欲しい、とシュンとしたアッシュは思う。そして彼は自分ではどうにも出来ないことも、分かっていた。
「スマイル、もう許してあげて欲しいッスよ……」
ユーリの為、ではなく自分の精神状態を安定させるために。ぼそりと呟いて、彼はまた痛み出した胃を押さえつつ台所の片付けに戻っていった。
言葉にして、たった三文字。
たかが、三文字。されど三文字。
息をひとつ吐き出す間に片づいてしまいそうな簡単な単語ひとつを口に出す、それだけの作業が出来なくてユーリはもどかしさを隠せない。
何度も言おう、言おうと心に決めて彼の前に立った。だがその度に、彼は無言でユーリを一瞥すると足早に出て行ってしまう。そんな無駄とも言える行動を既に十回近く繰り返しているのに、その全てが空回りをしていて意気込みも宙へ消え去っている。
残るのは益々彼を許せないと思う心と、もういい加減終わりにして欲しいと哀しくなる心だ。相反する気持ちは互いに反発しあい、混ざり合ってユーリの感情を混乱させる。
いっそこのままで良いと諦めてしまいそうになるのをどうにか抑え込んで、彼に無視されるたびに傷ついている心を慰めようとしているのに、出来ない。
彼の丹朱の瞳があれ程冷たく自分を見つめたことが今までにあっただろうか。考えて今になって、彼がどれ程自分に優しく、心広く接してくれていたのかを思い出す。
今頃思い出しても、もう遅いかも知れないのに。
喧嘩は数えきれないほどにしてきた。でも三日も続くような喧嘩は滅多になかった。
いつもはユーリの方が彼を無視して、彼の方から謝って許しを請うてきた。今は立場が逆になっている、無視されているのはユーリの方だ。
相手にしてもらえない、その事の辛さを初めて思い知らされる。いつもスマイルはこんな気持ちで謝罪の言葉を考えていたのだろうか。背もたれのない椅子に腰掛け、目の前に鎮座している重厚なピアノに凭れ掛かりユーリは何もない壁を見つめた。
頬を置いているピアノの蓋が冷たい。頬と蓋との間に挟み込まれている自分の髪が、ざらざらとした感触を肌の上に押しつけてくる。けれど構いもせず、ユーリはぼんやりとした視線を壁に投げつけていた。
それこそ、壁に穴が開くのではないかと思えるほどに。
口を開けば、溜息ばかりが漏れる。何か言葉を発することさえ億劫で仕方がなく、のろのろとした動きで身を起こすと頬に貼り付いていた髪を後ろへと払った。その手で、蓋を開き赤い毛氈を鍵盤の上から取り除く。
数回折り曲げて小さく畳んだそれを足許へ落とし、ユーリは傍らに置いていた楽譜を立てた譜面台に並べた。数枚に別れているそれを順番通りに置き、軽く目を通してから憂鬱な気持ちのまま指先に力を込めた。
感情を込める事なく、ただ譜面に書き記された音符通りに曲を奏でていく。ぼんやりとした意識の中で、それでもキーを間違える事なく弾いてみせる技術には目を見張るものがあるだろう。しかし、その指が途中で止まった。
「……?」
どこか変な感じがする、具体的に何処がどう変なのか言葉では言い表せないのだが、変だ。
もう一度、少し前に遡って鍵盤を叩く。矢張り同じ場所で手が止まった。
メロディーラインにおかしな所は見当たらないはずなのに、並べた音符を一本の線にしてみると違和感が発生するのだ。そしてそこは、スマイルが散々指摘していた箇所と一致している。
「あ……」
気付いて、ユーリは譜面を手に取った。どうして言われるまで気付かなかったのか分からないほど、簡単なミスである。だがこのミスがあまりに小さく些細で、余程耳慣れしている者でなければ違いを把握出来ないものであったことは確かだ。
いつもなら犯さないミスを犯したユーリには、心の何処かにこの曲が完璧であるという慢心があったのかも知れなかった。それだからスマイルに指摘された時、あれ程ムキになって反論してしまったのだ。
「あいつが怒るのも、無理ないことかもしれないな……」
完璧など有りはしない、と常々上昇志向でいるように務めていても、何処かで満足してしまってその位置に安住しようとしてしまう。己の足許を見ることが出来ない存在に、どうして上を目指す事が出来るだろうか。足場がいつ、崩れるかもしれないのに。
自分の非を認めてしまうと、スッと心が軽くなったような感じがした。
一方的に感じていた理不尽が消えただけなのだが、それだけでもさっきまでとは気持ちが違う。
今なら謝れるような気がした。譜面をひとつに束ね、ユーリは勢いよく椅子から立ち上がった。そのままピアノを片付けもせず、譜面もまとめただけで台に置いたまま彼は踵を返す。
やや乱暴な勢いで扉を押し開けると、彼は早足でスマイルの部屋を目指した。開け放った扉を、閉めることさえ忘れて。
けれど、いざ彼の部屋まで来ると緊張する。数秒前の意気込みが急に萎んでしまって、ドアをノックしようとして持ち上げた手がその位置で停止している。呑み込んだ唾の音がやたらと耳に響いて、陰鬱な気持ちがまた迫り上がってきてしまった。
――やはり、もっと自然な遭遇を装って謝る方が効果的だろう、うん。
終いにはそんなことまで考えてしまって、益々駄目ムードが彼を取り巻く。その反面、ここで諦めてしまっては一生かかっても仲直りなど遠い世界の話になってしまいそうで、その両方の感情がユーリの中でせめぎ合っている。
早く決めてくれ、と握ったまま放置されている空中にある拳が我慢できないらしく、震え出して、はっ、としたときにはその手が勝手にスマイルの部屋と廊下を区切る扉を叩いていた。
叩く、と言うよりはむしろ肘を曲げたまま放置していた手が支えとなる筋肉の力を失って、落ちた先に扉があってぶつかってしまった、という方がずっと正しい表現になるだろうが。
「あ……」
しまった、と油断していた自分を呪ったが、ノックしてしまったものは仕方がない。別意味での諦めの気持ちのまま、数秒間が空いてしまった不自然なノックをユーリは繰り出した。
されど。
決死の思いで行ったノックへの返事がない。
「……?」
怪訝に思い、もう二度ほどノックする。返事は、今回もまた、ない。
試しにドアノブを回してみると、鍵が掛けられているらしく扉は開かない。もし中にスマイルが居るとしたら、このノックを無視していることになる。人の意気込みをなんだと思っているのかと、少しだけ腹立たしくなってユーリはがんっ! と扉を蹴り飛ばした。
変わらず、応答の声は聞こえてこない。
ひょっとして本当に、中は無人でスマイルは出かけている最中なのだろうか。爪先にじんわりと来た痛みに耐えつつ、眉根を寄せてユーリはそっと、今自分が蹴ったばかりの扉に片耳を押し当てた。
薄くもないが厚くもない扉の向こうからは、何の音も響いてこない。誰かが中にいる気配も感じ取れず、ではこの爪先に残る痛みは全く無駄なものだったのかと、更に余計に腹立たしくなってきた。
こうも意気込みが空回ると、滑稽としか言いようがない。遊ばれているのではないかと勘ぐってしまいそうになり、背後を振り返ってその辺にスマイルが隠れているのではないかと捜してしまった。幸いそんな事はなくて、今の彼の行動を目にした存在は居なかったけれど。
それでも自分が彼の為に一喜一憂(喜びはしていないのだけれど)させられている事に変わりない。
精神安定上宜しくないむかつきを胸に抱えたまま、彼は気を紛らせようとひとまず何か胃に入れて落ちつこうと考えを変え、前髪を掻き上げると嘆息と共に足を階下へと向けることにした。
今の時間ならアッシュが夕食の下ごしらえに取りかかっているはずである。もしくは、長引いている買い出しからの帰り道のただ中か。今日のメニューはなんであろうか、想像してつい気が緩んでしまいそうになるのを引き締めると、ユーリは少し速いテンポで階段を下りていった。
僅かに右にカーブしている螺旋状の階段を下りきると、広めのホールに出る。其処から置くに行けばリビングと食堂へ繋がる扉があって、食堂側から入れば台所に近い。すっかり頭に中に記憶されている城内の間取りを思い浮かべつつ、ユーリはアッシュが用意してくれているはずのおやつに早くも心奪われそうになっていた。
そう、スマイルとの事も一瞬だけ頭から消えてしまうほどに。
だから。
台所の扉を浮かれた調子のまま開けた瞬間、彼がどうしようもない顔をしてその場に硬直してしまった事は在る意味、仕方のないことなのかもしれない。
そこに、予想に反した人物が立っていたのだ。彼も、まさかユーリが台所に来るなど考えても居なかったようで、お互い気まずい空気の中扉が開いた瞬間の姿勢から動けずにいる。
ユーリは片手をドアノブに置いたままで、スマイルは取りだしたばかりのパックジュースを片手に冷蔵庫の扉を閉めようとしているところだった。
ぶつかり合った視線。思えば、こんな風にお互いの顔をちゃんと向き合わせるのも喧嘩をして以来初めてのような気がした。
しかし先に、ふいっとスマイルが目線を逸らし半開きになったままだった冷蔵庫を完全に閉めた。逆さまにして水気を切るために置かれていたガラスのコップをひとつ手に取り、それを流し場脇の調理スペースに置く。
購入したばかりのジュースはまだ封がされたままで、彼はそれを開けるつもりらしい。壁向きに調理器具は並べられているから、必然的にそれに向かい合うスマイルもユーリに背を向ける格好となる。よく考えてみればそれは仕方のないことなのに、ユーリにはそれが自分を無視しての行動に見て取れてしまった。
むっとした感情がまた、胸の奥からむくむくと立ち上がってくる。
「スマイル」
棘のある口調でユーリは彼の名前を呼んだ。ドアから手を放し、力任せに後ろ足で蹴り飛ばして閉めると彼の方へ大股で歩み寄る。扉は無言の非難を上げるかのように大きな音を立てて閉じられた。その声は、あるいはユーリの胸の内にある怒りを代弁しているかのようでもある。
「…………」
スマイルは返事をしない。無言のまま彼に背を向け、パックの封を開けようと手を動かしているばかりだ。大した力も入れずに紙製のパックは口を開けられ、彼の手の内に収まった。
肘の高さまで持ち上げられたパックが傾く。自然の法則に従って下方へ向かうパック内のオレンジ色をした液体は、透明なグラスへと注がれるはずであった。
だがそれは果たされず、僅かな量がコップから外れてシンクに零れただけに終わる。
スマイルが剣呑な目で、自分の腕を捕らえている人物を見た。若干下に来ている目線を上から睨み付けているが、丹朱の瞳には感情らしき色が見当たらない。何を考えているのかさえ教えてくれない瞳に、咄嗟に彼の腕を掴んでしまったユーリも次の行動になかなか移ることが出来なかった。
「放してくれるかな」
呟かれた言葉は、拒絶を現すものに他ならず。
耳にした言葉が神経を伝って脳へ届けられ、その意味を理解したと同時にユーリは浅く唇を噛んで俯いてしまった。けれど腕は放さない、放せずにいた。
小刻みに、それこそ肌を触れ合わせていなければ気づけぬほどにユーリは震えていた。それは掴まれた腕を通してスマイルにも知れているはずなのに、彼はその間も終始無言なのだ。
「いや、だ」
「放してくれるかな」
ぽつりとこぼれ落ちた拒否の言葉を一蹴するスマイルの冷徹な声が響き渡る。
「いやだ」
「ぼくたち、喧嘩中だって事分かってる?」
俯いたままのユーリは同じ言葉を繰り返すばかりで、段々と声が小さくなっていく彼の襟首を見下ろしながらスマイルは小さく溜息をついた。
そう、彼らは喧嘩をしている真っ最中。そして仲直りとも取れる行動はまだどちらからも発生していない。強いて言うなれば、むしろ仲直りとは逆の事がつい今し方起きたばかりだ。
腕を掴んでいる手には大した力も込められていないから、振りほどこうと思えば幾らでも出来るだろう。そうしないのは、彼自身も心の何処かで彼を許したい、この喧嘩を終わらせてしまいたいという思いが在るからだろう。
意地に張り合いだけになって、元々の喧嘩の始まりが何であったのかも分からなくなってしまっているような、そんな意味のないものはさっさと片付けてしまって心の中にあるモヤモヤは撤廃してしまうに限る。
なのに、意地っ張りはここでもお互い譲り合うことを知らない。
「放して」
「いやだ」
同じ言葉のやりとりがもう既に五回も六回も続いている。いい加減スマイルはうんざりしてくるが、ユーリは相も変わらずスマイルの腕を取ったまま顔を上げることすらしない。
ひょっとして泣いているのでは、と勘ぐりたくなったがそういった様子は見られずこれからどうしようか、と彼はただ困惑するばかり。アッシュでも帰ってこないかな、と他力本願な事を考えてしまう。
「喧嘩中なんですけど」
「分かっている!」
ようやく「いやだ」以外の言葉を口にしたかと思えば、突然顔を上げて怒鳴って来たり。情緒不安定? と感じさせるユーリの態度に益々スマイルは困り果ててしまう。これではまるっきり、自分の方が悪者ではないのか。
「分かっている……だから、絶対に放してなどやるものか」
ぐっ、とそれまでただスマイルの腕に載せているだけに近かったユーリの手に力が込められる。爪が包帯の下に隠れている肌に食い込んできて、痛みがその箇所に広がった。
「ユーリ?」
数日ぶりに聞く、自分の名前を呼ぶ彼の声にだがユーリは反応しない。またしても俯いてしまった彼は、スマイルの怪訝そうな口振りなど全く意に介する様子もなく早口で、捲し立てた。
「喧嘩中だから! お前が嫌がる事をやってやる。お前が放せと言うのなら、絶対にこの手は放さない!」
嫌がらせ……のつもりなのだろうか。
実に子供じみた主張を口にして、赤い顔でぐっとスマイルを睨み上げたユーリにまたしてもスマイルは吐息を零した。
「じゃあ、放さないでくれる?」
「誰が放してなどやるものか!」
諦め口調で逆説を説いてみたスマイルに、ユーリは余計癇癪を起こしたようだった。逆効果だったかと、心の中で今度は嘆息してスマイルはもう片方の自由になる手で、傾がせたままだったパックジュースを持ち替えようとした。
けれどそれがいけなかったのだろうか。
持ち上げられたスマイルの手が、自分を殴るなりなんなりするつもりだとユーリが早とちりしてしまったのだ。
「!?」
反射的にユーリはその手をはね除けようとし、予想していなかった彼の動きにスマイルの反応も遅れる。
まだ掴まれたままだったスマイルの右手に握られているジュースごと、彼らの身体は左右に大きくぶれた。そして、口が開いたままだったパックの中身も、また。
開封直後で量も減っていなかったジュースまでもが大きく波立ち、狭い入り口から溢れ出してしまっていた。しかも、飛び散った甘い液体は彼らの頭上に昇って落下という経路を取ってしまったが為に。
彼らは頭の上からオレンジジュースを被る、という災難に見舞われてしまった。
「うぇぇ……」
口の中に流れ込んできた甘いジュースに舌を巻いたスマイルは、半分近くまで減ってしまったパックを揺らして丹朱の隻眼を細めた。こんな状況になってもまだ、ユーリが自分の腕を放そうとしない辺りに彼の意固地な面を見た気がする。ジュースは、彼の綺麗な銀糸を濡らして雫を垂らしていた。
被ったのは頭だけで、服はさほど濡れていない。飛沫が散った程度で、問題なのは髪に染みこんでいる方だ。放っておけば粘りけが出てきてしまうだろうし、あまり心地の良いものでもない。頭の上から甘い香りが漂ってくるのも、気持ち悪いばかりだ。
「ユーリ、離れて」
「いやだ」
またあの押し問答へと話が戻る。
濡れた髪を掻き上げたスマイルは、単純に自分たちが被ったジュースをタオルで拭いたいだけなのだが彼はそれが分からないらしい。何処までも頑なに拒む彼を見て最早溜息しか出ないスマイルの心情を察したのか、ユーリはスマイルの腕を掴んでいる方の手にまた力が込め、さらにはもう片方の手もスマイルの服を握りしめた。
「…………?」
「お前は、さっきから口を開けば放せ離せとそればかりで」
下ばかりを見ているユーリの表情はスマイルの目に映し出されない。だがその声は震えている、身体と同じように。
「さっきからちっとも、私の話を聞こうとしない!」
話しを……するつもりだったのだろうか、彼は。ふとそんな疑問が聞いていたスマイルの頭に浮かんだが直ぐに消えた。
「ずっと、そうだ。いつもは私がどんなに離れろと言ってもついて回ってくるくせに、今は私が近付いても逃げ回ってばかりだ。私が声をかけてもすぐに会話を一方的に切り上げてまた逃げる。そんなのは、ちっともお前らしくない!」
掴まれている部分をそれぞれに強く引っ張られ、チリリとした痛みにスマイルは眉根を寄せた。なんだか、とても失礼なことを言われているような気がするのだがそれは気のせいだろうか。
「……分かった、分かったからユーリ。一度離れてくれない?」
この濡れた頭、どうにかしたい。半ば投げやりに言ったスマイルは彼を退かそうと唯一自由の利く腕で彼の肩を掴んだ。だが全身でもってそれを拒否され、目を丸くしている間にまたユーリが怒鳴って更に目が点になった。
「絶対に嫌だ!」
勢いよく上げられた声と一緒に真正面を向いたユーリの目尻に、薄く涙が光っている。
「お前がそう言うのなら、私はこれから一生ずっと、お前が嫌がることを永遠にやり続けてやる!!」
多分、彼なりの精一杯の抵抗のつもりなのだろうが。
不覚にもそれを可愛いと思ってしまったスマイルは、一瞬後、自己嫌悪に陥りそうになって片手で顔を覆った。
これって反則技。しかも使用者はユーリで被害者は自分だけに限定される効果範囲の狭い反則技だ。本気でスマイルはそう思った。
一生ユーリから嫌がらせを受け続ける……それも楽しそうだが、生憎と自分はマゾではないからお断りだ。本気で考えそうになった自分を笑って、スマイルは顔を隠していた手で自分のまだ湿っている髪を掻き回した。
オレンジの香りが鼻につく、酷く甘ったるい。
自分の髪を掻き回していた手を抜き取り、そのまま目の前に居るユーリの頬に添える。触れるか触れないかの距離で動きを止めると、彼の方からすり寄ってくるようにして首を傾けてきた。
触れた柔らかな肌をそっと撫でると、じんわりとした感覚が胸の奥から広がり始める。何故かそれだけの事なのに満たされた気分になって、不思議だった。
服を握っていたユーリの手が持ち上がり、スマイルの手の平に重ねられる。そっと彼の目尻に残っていた涙を唇で掬い上げると、くすぐったそうにユーリは肩を揺らしたが逃げようとはしなかった。
「喧嘩中だろう」
「だからユーリが嫌がる事してるんじゃない」
クスクスと笑っているユーリに言い返し、スマイルは隙だらけの彼の唇へ己のそれを重ね合わせた。
「キス、嫌でしょう?」
「んっ……ぅ、当然……だろ、う?」
唇を合わせたまま、隙間から声を発する。息継ぎの合間もロクに与えぬまま、目を細めたスマイルは力を失って落ちていくユーリの手から解放された腕で強く、彼を抱きしめた。
三日ぶりのキスと抱擁は、どうしてだか初めての頃に戻ったようで妙に気恥ずかしかった。