意志なき力の意味

 自惚れていた。
 この力があれば何だって出来ると。
 困っている人、助けを求めている人を救うことが出来るのだと。
 でも違った。
 何もできなかった。
 助けられなかった。
 くやしい。
 俺はなんて無力なんだろう。
 俺はなんて非力なんだろう。
 馬鹿だ、俺は。
 どうしようもないくらいに、馬鹿だ。

「はぁ」
 まだ朝早いというのに数え切れないくらいのため息をついて、ハヤトは広間のテーブルに突っ伏していた。
「何やってるのよ。そんなところで」
 腰に手を当て、やる気のないハヤトを叱ったのはフィズだ。リプレほどではないにせよ、口やかましい相手に捕まったものだと彼は重い頭を上げて彼女を見る。
「寝るんだったら自分の部屋に行って寝なさいよね。ここで寝られるのは邪魔なのよ」
 六歳児とは思えないしっかりとした口調で言い、彼女はハヤトの座る椅子の足を蹴り飛ばす。がくっ、と倒れそうになったのを、両足の裏を床に押しつけることでかろうじて堪え、ハヤトはまたため息をつく。
「そうするよ」
「若いくせに、昼間からだらだらしないの!」
「少なくともフィズよりは年寄りだよ」
 俺は、と小声で呟き彼は立ち上がる。テーブルに手を置いて、つい「よっこらしょ」とでも言いたくなる気分を歪んだ笑みで押し殺す。
 暴動は失敗に終わった。
 そして、暴動は失敗を前提として引き起こされていた。
 アキュート……かつて騎士として守るべき立場にあった領主を敵とし、召喚術師に服従するばかりの民衆に見切りをつけたとも言える行動を取る男、ラムダに率いられた反乱分子たち。
 彼らの言い分は分からなくもない。
 だが、納得もできない。
 理解は出来る。しかし認められない。民衆を犠牲にして、暴動を煽るだけ煽っておいてその後は放ったらかしだなんて。
 力がないことが罪なのか?
 力があるのならば何をやったって許されるのか?
 それだったら、彼らは城の召喚師達と同じだ。求めることは違うかもしれないけれど、力だけを振りかざして弱いものを踏み台にするところはまるで変わらない。
 だけど。
 力があったとしても、弱い人達だっている。
 力があっても何もできなかった。
 自分の力は、みんなを救うためにあるのだと思っていたのに。なにも、出来なかった。
 逃げることしかできなかった。
 結局、自分も彼らと同じなのだろうか。
 答の出ない悩みを抱えたまま、ハヤトは自室へ向かう。だが廊下の角を曲がったところでふと思い直し、自室を通り越してその先の部屋の前に立ち止まった。
 いるだろうかと、ノックしようと持ち上げた手を一瞬躊躇させたが、思い切って扉を叩く。
「はい?」
 返事はすぐに返ってきて、ハヤトは何故かホッとなった。
「どうぞ」
 淡々としたキールの声に促され、ハヤトはドアノブをゆっくりと回した。押し開くと、窓のない部屋を照らす天井に吊されたランタンの光が眩しく見えた。
「君か」
 机に向かって書き物をしていたらしいキールが、椅子ごと向き直って扉口のハヤトを迎える。右手はまだ机上でペンを持ったままだが、作業を中断されても不機嫌な様子はない。
「うん……いい、かな?」
 忙しかったら遠慮するけど、と心なしか小声になってハヤトは尋ねる。するとキールは右手のペンをペン立てに戻し、立ち上がって彼の方へ歩み寄った。
「あ……」
 何かを言いかける前に、キールの手がハヤトの頬に添えられる。ひんやりとした感触が肌に心地よい。親指の腹で鼻の横辺りを撫でられると、くすぐったくて笑みがこぼれ落ちる。だが、
「あまりよく眠れていないみたいだね」
 ぽつりとこぼれ落ちたキールのひと言に、はっとなってハヤトは閉じかけていた目を見開いた。
「顔色が良くない」
 吐き出した息と共に呟かれ、かぁっとハヤトの顔が一気に赤く色付く。
「どうして、そう思うのさ……」
 呟き返せば、キールは僅かに考え込んだ後、もう片方の手も使ってハヤトの顔を包み込むと少し力を込めて彼を上向かせた。キールの白い親指の先が、ハヤトの目尻辺りから鼻の頭までをゆっくりとなぞる。
「目の下に、少しだけど隈が出来ている。声に元気がない。背筋が曲がっていて俯いている。さっきも言ったけど、顔色も優れない。……まだ他にも言って欲しい?」
「いえ、結構です」
 眠れなかったのは本当のことだから、今更隠しても仕方がないとハヤトはさっさと降参の白旗を揚げた。どうもキールには隠し事が出来なくて、気分が滅入る。
 でも、それを知っていながらわざわざ彼を訪ねたのは、多分見抜いて欲しかったからだろう、この憂鬱さ加減を。
「まだ、気にしているのかい……?」
 促されて室内に入り、キールが扉を閉めている間に居場所をベッドの上に確保して、ハヤトは天井のランタンを見上げた。
 短い影が床に伸び、ハヤトの顔に陰影をつけている。机の上には、手元を照らすのがランタンだけでは足りないために、それを補う形でランプが置かれている。油の焦げる臭いが鼻をくすぐるが、嫌いではないとハヤトは思う。
「なにしてたんだ?」
 ベッドに手を置き、後ろに傾ぐような体勢で落ち着いてハヤトが尋ねる。もう机上のランプは必要ないからと、息を吹きかけてその小さな火を消したキールが振り返り、曖昧な笑みを浮かべた。
「大したことではないよ。少し、ね……」
「俺にも言えないこと?」
 言葉を濁すキールに速攻で問い直し、ハヤトは身を乗り出す。困らせていることは承知の上だが、こうも誤魔化されるとかえって気になってしまう。
「……子供達の、書き取りの練習問題を作っていたんだよ」
 やや言いにくそうに(ハヤトにとっては、どうしてこれを隠しておきたかったのかが分からなかったのだが)答え、キールは火の消えたランプを棚の上に戻した。椅子をきちんと机の下に収め、ベッドに座っているハヤトの方へやってくる。
 固い木のベッドも、ふたりが横並びに座ると僅かに軋んだ音を立てて沈んだ気がした。
「それで、君がわざわざ僕を訪ねてきた理由は? まさか気紛れだったとは言わないよね?」
 意地悪にハヤトの逃げ道を先に塞いで、キールはハヤトの顔に垂れ下がった前髪をすくい上げた。そのまま彼の指はハヤトの髪ごと耳の後ろへ流れ、去っていく。
「……俺、馬鹿だ」
 俯いて、折角キールが払ってくれた目にかかる前髪をまた元の状態に戻して、ハヤトが力無くこぼす。
「どうしようもない馬鹿だって、思う。俺、自分にはもっと力があるって思ってた……」
 片手で顔を押さえ込み、必死になって涙を隠そうとするハヤトにキールは肩から力を抜く。
「気にするなと、……君は懸命にやれることをやったと、僕は言わなかったか?」
「でも、そんなの無理だ。俺はあの人達を見捨てた。助けられなかった!」
 扇動されて民衆は暴動を起こした。だが、結局彼らは騎士団によって囚われの身となった。残ったのは、何もできなかった自分たちの力のなさと現実の虚しさだけ。
「ハヤト」
 顔を上げてくれと言っても、ハヤトはいやいやと首を振るばかりで応じようとしない。
 情けないと自分でも思う。こんな姿を晒したくて、ハヤトはキールを訪ねたのではないのに。でも、一目で自分の内心を見破ってしまった彼の前では、もはやこの表現の仕様のない感情を抑えきる事なんて不可能だった。
「悔しい、悔しいんだキール。俺、自分が嫌になる。自惚れてたんだ、なんでも出来るって。助けられるって!」
 ぎりっ、と自分の顔に爪を立てて。ハヤトは堪えきれない涙をこぼして言葉を吐き出す。見る者をも傷つける姿で、彼は悔しいと連呼する。
 しばらくの間、キールは黙ってハヤトの好きなようにさせていた。肌にくい込んだ爪が薄皮を剥ぎうっすらと血が流れても、キールは言葉や手を挟もうとしなかった。嗚咽が続き、頬を、手を伝った涙が綺麗に敷かれたシーツを濡らしても。
 ハヤトが自分で泣きやむまで、キールは辛抱強く待った。
 赤くなった目をこすり、鼻を啜り上げてハヤトが泣くのを止めたのはそれから大分経ってからだった。
「なんで、なにも……言わないんだよ……」
「慰めて欲しかったのかい?」
 優しい言葉で語りかけて、君は悪くないと告げても、それではハヤトは納得しないし立ち直るきっかけに出来るはずもない。そんな会話を求めてハヤトが訪ねてきたのではないことぐらい、キールはお見通しだ。
「安っぽい慰めは、逆に君を傷つける。そうじゃないだろう? 君は何故僕を訪ねてきたんだい?」
 涙の跡が残るハヤトの顔を正面から見つめて、キールは敢えて彼に動機を尋ねた。
「それは……」
 すぐには答えられず、ハヤトはキールから視線を逸らして言葉を詰まらせる。 
 明確な回答など出来るはずがない。本当に、なんとなくだったのだ、最初の気持ちは。ただキールなら、きっと愚痴にしかならないこの気持ちを受け入れて聞いてくれるだろうとは感じていた。そうだ、本当はただ聞いて欲しかっただけなのだ。
 行き場のない、怒りとも悲しみともつかないこの中途半端に浮いたこの気持ちを。
「僕はね、ハヤト」
 これは自分の考えでしかないのだけれど、と前置きしてキールは微笑んだ。
「力には善悪がないと思っている」
 力に意志はない。感情も、心もない。何が善で何が悪かを判断することが出来ないものだと、キールは言う。
「当たり前の事なんだよ、実は。だって、力はそれ自身だけではどう考えても地上には存在できないのだから」
 力があると認識できるのは、必ず力を揮う存在があるからだ。それは人であったり、獣であったり、または自然そのものであったりする。エネルギーだけがあっても、意味はない。それは使われてこそ初めて存在意義を成すのだ。
「だから、力が良くも悪くもなるのは、使う者によるところが大きい」
 強力な破壊力を持つ、例えば自然災害も時には人に豊かさをもたらすことだってある。召喚術だって、最初はリィンバウムを外的の脅威から身を守るために発展した魔法。召喚術を最初に開発した術者は、おそらくこの力が未来により豊かな繁栄をもたらすものになることを期待していたはずだ。
 だが力を手にした人間は、時として歪んだ妄想に取り付かれてしまう。権力や冨に執着し、本来の目的を忘れ去っていく。
 そうやって生まれたのが金の派閥だ。
「…………」
 キールの始めた話の意図がつかめず、ハヤトは首を傾げて彼を見返す。くすっ、と彼は笑った。
「アキュートも、城の召喚師も、みんな力の使い方を間違えているんだよ。力は自分のために使われるものではない。己の理念や私欲の為だけに使っていいものではない」
 そこに何らかの犠牲が生まれることなど、以ての外だ。
「君が使った力は、誰に対して使われた力だろうか?」
 求めて手に入れた力ではないにしろ、ハヤトが召喚術を使うのは己の命を守るため、大切な仲間を守るため、そしていわれなき弾圧に苦しむ人を救おうとして。
「君は誇っていい。君は間違っていない」
「でも……」
「人間ひとりが持つ力なんて、ごく微量でしかないんだよ」
 人が集団で生活するには理由がある。それは、一人きりでは出来ることが限られてしまうからだ。
 狩りをするにも、農作業をするにも。人が集まって協力しあい、仕事を分担する方が遙かに効率も良いし生産性もアップする。寄りかかるのではなく、支え合ってこそ人はよりよい生活を手に入れられるのだ。
「僕達が一緒に生活しているのは、何のためだった?」
 原点に返って考えてみよう、とキールが優しく語りかける。
「一緒に……支え合う為……」
 行き場のないハヤトを、フラットのみんなは暖かく迎え入れてくれた。人の優しさがあれほど胸に染み入ったことはない。キールがフラットに来たのは、ハヤトの力を見極めて巻き込んでしまった彼を元の世界に還すためだったが。それでも、今では欠かすことの出来ない大切な、仲間。
 ひとりひとりでは弱くて、とても生きていくことなど出来ない厳しい現実も、仲間が集まればきっとどんな苦しい局面でも切り抜けられると、教わった。
 支え合って、補いあって。同じ人間などひとりとしていない。ひとりでは出来なくても、仲間の協力が得られればきっと大丈夫だと思えるから。
『ひとりぼっちはだめだよ……』
 ラミが言っていた。行き場所がなければここにいればいいと。ひとりでいたくないから、ここにいるのだ。みんなといれば、寂しくないから。
「なんだ……やっぱり俺、自惚れてたんだ」
 力におぼれていたのは自分の方だ。出来ることとそうでないことの区別が付かなくなっていた。これまでが上手く行きすぎていた、それだけだ。
「自信を持つことは悪いことではないよ」
 ばたっ、と後ろに倒れたハヤトを上から見下ろし、キールが言う。
「必要なのは、己の力量を正しく見極めることだね」
 出来ること、出来ないこと。どこまでが自分の力で、どこからが他人の力と合わさった部分か。その境界をしっかりと認識していれば、行き過ぎた思いを抱かずに済む。
「でもそれって、難しくないか?」
「要はやる気次第だね」
 人は案外、自分のことを知らない。自分がどの程度の人間であるのかを知らないから、過剰な期待を己に抱いて失敗する。
「万能な力なんて存在しないんだから。人は、少し卑屈であった方がいい」
 自分で思っているよりもほんの少し、自分は小さい人間であると考えると世の中渡って行きやすい。無理をせず、かといって楽ばかりを追いかけない行き方が一番安全圏にいられる。冒険をしたければ、話は別だが。
「キールって、安全志向だったんだ」
「自分の力量はわきまえているからね。無謀な真似はしないよ」
 君と違って、とぽつりと付け足された台詞を耳ざとく聞き、ハヤトはがばっと起きあがってキールを睨む。
「それどういう意味だよ!」
「怒るっていう事は、自覚があるって事かい?」
 無茶、、無謀、無計画。しかも無意識にやっているときたらもう手のつけようがないのだろうが。自覚があるのなら、改善の余地はあるかもしれない。
 笑うと、ハヤトはばつが悪そうにそっぽを向いた。
「怒るなよ、悪かったって」
 謝られてもまだキールの顔は笑っているので、本心から謝罪しているようにはとても見えない。
「ごめん、ハヤト。でもきっと、そういうところが君の持ち味なんだろうね」
 欠点は長所の裏返しだとよく言うし。無意識のうちに厄介事を抱え込むのはある意味才能だろう。
「フォローはするから、君は今のままでいてくれないかな」
 ありのままに、いて欲しい。これはわがままか、それとも甘いだけか? 言いながら考え込んだキールを見て、にやりとハヤトは唇を歪めた。なにか、企んでいる笑みだ。
「ふーん……言ったな? じゃ、これからはどんどんトラブル起こしてやろっと。そんで、全部キールが責任取るのな」
「……ハヤト?」
 もしもし? と手を振ってもハヤトは意味深な笑みを浮かべるばかりで。
 これは、不用意な発言をしたものだと後悔してももう遅い。
「よーっし。んじゃ、早速町に買い物だぁ!」
 勢い良くベッドから立ち上がってハヤトは叫ぶ。行き場のないキールの手が空しく空を掻いたが、やがて諦めのため息と共にキールも並んで立ち上がった。
 なにはともあれ、ハヤトが元気を取り戻してくれたのだから。
「出かけるんだったら、顔を洗ってきた方がいいよ」
「へ? なんで?」
 壁のハンガーに掛けてあった上衣を取り、肩に羽織ってキールが言うと不思議そうにハヤトが聞き返してきた。やれやれ、と小さく肩をすくめると、キールは右手を伸ばしてハヤトの頬を指でなぞる。
「涙、跡になってる」
 さっきまであんなに大泣きしていたくせに、とからかうように言えば、ハヤトは赤くなって狼狽えた。
「だって、あれは仕方がなかった……お前、なんか今日、意地悪いぞ」
 ジト目で睨まれてキールは「そうかい?」と誤魔化す。
「顔洗ってくる。玄関で待ってて」
 一緒に行くことがいつの間にか決まってしまっていた。もとよりそのつもりだったキールは、別段文句も言わずに頷くと駆け出したハヤトの後ろを追いかけるようにして部屋を出た。だが扉をくぐろうとして、思い立ち一度室内に戻ると天井のランタンを消した。
 外は夕暮れで、買い物をするには少し遅い時間帯のような気もしたが、ハヤトが一度言い出したことをそう簡単に撤回するとも思えない。
「わがままなハヤト」
 でも嫌いじゃない、と呟いてキールは玄関に向かった。
 こういう日も悪くないかな、と感じながら――――

緑の丘に夜明けを告げる鐘が鳴る

 自分に、世界を変える力があるだとか、平和な世の中を作っていけるだけの力量があるだとか、思ったことはない。むしろ私は小賢しいぐらいで、臆病者で、つくづく事なかれ主義を貫きたがる弱虫だ。
 しかし求められるのは決断力と判断力に富み、人々を導いていくリーダーシップを存分に発揮できる存在であり、特にこの非常事態ではその存在を要求する人々の思いは強く、今更退くわけにもいかない状況に追い込まれてしまった。せめてもう少し、時間がほしかった。そう愚痴をこぼすと、脇に控えていた寡黙な剣士はやや顔の造形をゆがめてこちらを見やった。
 なんでもないわ、と軽く手を振って彼の視線から逃げて、私は今日もまた月のない夜の空を見上げている。
 始まってしまった争いは、悔やんだところで収まりはしない。町の住人が求めた私の虚像を、これ以上演じ続けるのは事実上不可能だ。なぜなら、私はさっさと皆を見捨てて逃げ出したのだから。
 軍隊を持たない緑に包まれたこの町は、ハイランドから派遣されてきた軍人の支配下におかれている。だが、彼らは完全にこの町を掌握したわけではない。だって、町の施政権を所有している私がまだここでこうして生きていて、なおかつ権限を放棄していないのだから。
 だから、彼らは躍起になって私の行方を探している。見つかれば殺されることは目に見えて明らかだから、私はこうして森の中でひっそりと身を隠している。
 まるでおとぎ話に出てくる、城を追い出されてしまったかわいそうなお姫様のようだと自分を揶揄し、でもここには7色の帽子をかぶった小人はいない、と馬鹿らしくなってため息をつく。こんなメルヘンチックな状態ではないことを思い出して、もう一度だけ空を見上げると窓を閉じた。
 屋敷にいた頃のふかふかのベッドが恋しいわけではない。ただあの堅くて背中が痛くなる気組みの粗末なベットは好きになれない。
 しかし眠るためにはどうしてもこのベッドを使うしかなく、もともと猟師小屋として使われていた小屋にはベットも一つしかなくて、私のためにあえて小屋の中では眠らず、見張りもかねて外で毎日眠っている彼にも悪いから、そのことを口にしたことはないけれど。
 たぶん、態度でばれてしまっているはずだ。彼はそういうところには妙にさといから。
「肝心のことには気づいてくれないのにね」
 その辺のバランス具合も気に入っているのだけれど、とひとりごちて私は薄いケットをめくった。この季節、薄着はまだ寒い。
 窓を開けていたせいで流れ込んでいた冷気に身を震わせ、私はベッドに潜り込む。肩までケットをかけて全身をくるむようにすると、太陽の匂いがかすかに鼻孔をくすぐる。そういえば今日はする事がなかったから、大々的に洗濯をしたんだっけ。
 自分のしたことをすっかり忘れていて、おかしくなって私はベッドの上でくすくす笑った。
 明日はどうして過ごそうか。考えて、一気に憂鬱な気分になってしまう。する事は本当はたくさんある。だけれど、やらなければいけないことはどれも余り考えたくないことだった。
 町のこれから、自分の身の振り方、戦争の行方。ハイランドの横行を黙ってみていることは出来ないが、自分が出ていったところで状況が好転すると考えるのはあまりにも愚かしい。そこまで自分を過大評価することは出来ないし、何もできなかったときの民衆の落胆ぶりを考えると胸が詰まる。今でさえ、彼らを絶望の淵から救い出すことが出来ていないのに。
 判断を、何処で誤ったのだろうか。
 ミューズ市の軍隊がハイランドから解放されて、この町を目指してきたと知らされたとき。罠であることは疑う余地もなかった。しかし救助を求める彼らの切ない声を無視することは、グリンヒル市を代表する者として許し難い行為であり、彼らの救済を求める市民の声をないがしろにも出来なかった。
 それが罠だと分かっていながら、おめおめとハイランドの策略にはまってしまったのは、自分の甘さが原因なのだろうか。
 違う、と言いかけて私は言葉を飲み込む。それは言ってはならないことだ。
 確かにミューズ市軍を市内に招き入れ保護することを決断したのは、他でもない私だ。しかしそれをさせたのは、彼らを哀れむグリンヒルに住む市民たちだった。
 あの時、ミューズ市軍を追い返していたならば、こんな醜態をさらさず、惨めな想いをしなくても済んだのだろうか。考えて私は首を振る。そんな都合のいいように世の中は出来ていない。それはグリンヒル市の市政代行の肩書きを手に入れたときから、痛いほど実感してきたことではないか。
 逃げるわけにはいかないのだ。
 立ち向かわなくてはいけない。これが最後の仕事になろうとも。

 夜明けが来る。今日もまた変化のない退屈で憂鬱な時間が始まる。そう思っていた。
 けれど違った。思いもよらなかった訪問者が私の前に次々と現れる。
「貴方を救いに来たんです」
 そう言った、まだ幼さの残る少年と、青い衣をまとった青年。そしてハイランドの手の者達。
 救う? 一体誰を?
 私だけが逃げ出して、それで市民は納得するの? 私に彼らを見捨てろと言うの? 彼らこそが第一に救われなければならない人達。私は最後であるべきなのに。
「出来ません」
 その言葉はひどく冷静に、私の口からこぼれ落ちていた。
「何故!?」
 声を荒立てる少年と、彼に付き添うおかっぱ頭の少女が目を丸くする。その向こうで静かに聞いていた青年は、何かを思い出したのか、唇を噛んでいた。
「理由は……」
「これは逃げじゃない」
 言いかけた私の言葉を遮り、青年が口を開く。まっすぐ、私を見つめて。
「あんたが逃げたくない気持ちは俺にも分かる。だがな、よく考えろ。あんたが身代わりで死んで、それで市民は喜ぶと思うか? 確かに今一時はそれでしのげるかもしれない。だがな、あんたがいなくなるってことは、グリンヒルの支えである柱が消えてしまうことに直結するんだ。平和になったとき、誰がグリンヒルを導くんだ!?」
 両手を広げ、青年が熱のこもった声で吐き出す。
「それでも私は、行かなくてはいけないのです。すべての責任は私にあるのですから……」
「違う!!」
 歩みだそうとした私の進路を身を以てふさぎ、青年が私を睨み付ける。少し遅れて、おかっぱ頭の少女も青年に倣い、両手を大きく広げて私の前に立ちふさがった。
「どいて下さい」
「出来ません」
 少女が首を振る。
「目の前にいる人が死のうとしているのを、止めない人間がどこにいるって言うのよ! そんなの駄目、絶対駄目!!」
 行かせない、と少女は叫ぶ。その目尻にはうっすらと涙が浮かんでいた。
 私は息を呑む。どうして、こんな見ず知らずの人間のために泣けるのか、私には分からなかった。
「行っちゃ駄目、死んじゃ駄目なの! 頑張ろうよ、私たち、まだ生きてるんだよ。頑張れるんだよ?」
 少女の眼から涙がひと雫、線を描いてこぼれ落ちる。それを見て、黙ってみているだけだった赤い服の少年が前に歩み出る。
「テレーズさん……」
 おとなしめの、どちらかといえばとても同盟軍を率いているようには見えない子供が、戦争の最前線に立ち戦っている。その現実を見せつけられた気がして、私は我知らず唇をかみしめていた。
「行かせて下さい。あなた方が言いたいことも分かります。でも、私はこの町の市長代行です。この町にいる限り、たとえあなた方でも、私の下した決定を覆すことは出来ません」
「逃げるのか?」
 強引に彼らの間を抜けていこうとした私に、すれ違いざま、青年が厳しい声で訊いた。
「違います」
「どこが違う! やろうと思えば出来ることを何一つしようとせず、何もできないとやろうとしない自分を棚に上げて、ひとりさっさと死んでしまおうという、それのどこが逃げではないと言うんだ!」
 背を向けていて見えないはずの青年の表情が、俯いた私の瞼の奥にまで入り込んでくる。
「死ぬんなら、勝手に死ねばいい。だがな、これだけは言わせてもらう。お前は自分のしてきたことにちゃんと責任をとったと胸を張って言えるのか? 死ぬんだったら、自分で始めた祭の後片付けまでちゃんと自分でやって、ケリを付けてから誰も知らない場所でやってくれ。誰もあんたがいなくなったことにも気付かないような、誰も悲しまないような死に方を選べ」
「フリックさん!」
 それは言いすぎ、と止めようとした少女を、同盟軍リーダーの少年が手で制し、黙って首を横に振る。
 青年の言葉は、深々と私の胸に突き刺さり、棘を残す。しかもその傷は、かねてから私の中にあった決して人には見せてはならない忌むべき傷の真上を抉っていた。
 動けない。言葉を返すこともできない。凍りついた私に、更に青年がたたみかける。
「あんたの死に場所は、こんなちっぽけな世界なのか?」
 救わねばならない市民を置き去りに、ひとりだけさっさと、人々の干渉できない世界へ逃げ込もうとしている。確かに彼の言うとおりかもしれない。だけれど……。
 振り返らず、私は顔を上げて言葉を紡ぐ。
「ハイランド軍が私を捕らえたがっているのが何故か、あなた方には分かりますか?」
「え……?」
 唐突に話が入れ替わり、面食らった青年が言葉に詰まる。
「ハイランドはすでにグリンヒル市を制圧しています。その気になれば、いくらでも町を好きに出来るはずです。現に今、市長代行である私がいなくても市は平常通りに動いていますよね」
「ああ……」
 ニューリーフ学園は機能しているし、新しい学生も受け入れている。一見すると何も変わっていないような日常が繰り広げられているのだ。違うのは、あちこちにハイランド軍の兵士が立っていて、市民の感情がぴりぴりしていることぐらいだろう。
「問題は、そこにこそ存在しています。私がいる限り──いえ、私が市長代行職にある限り、現状が続くことになります。分かりますか? グリンヒル市の市政を最終的に動かしているのは私なのです。私の署名がなされない限り、どれほど会議を重ねて成立した議案も、施行されることはない」
 私が市長代行である限り、ハイランド側がニューリーフ学園を閉鎖することも、市民に課せられた納税率を引き上げることも、不可能。ハイランド軍が血眼になって私を捜しているのは、その為。私から決定権を取り上げたいのだ、正規の手続きを踏むような、面倒な事になったとしても。
「私が市長として持っている権利を放棄しないまま死ぬようなことになった場合は、市民の中から公平に選出された人間が引き継ぐことになります。でもそうなるためにはまず、グリンヒルで生まれ育った人間であることが前提にされています。だから……」
「あんたが死んでも、無駄骨にはならない、ハイランドの好きなようにはならない、とでも言いたいのか?」
「もちろん、そう上手くいくとは思っていません。彼らは軍事力を背景に、統治権の放棄を迫ってくるでしょうね。そうなればグリンヒルには勝ち目がない。最初からこの町にはほとんど軍隊はいませんでしたから」
 自然と笑みがこぼれてしまう。思い出したわけでもないのに、あの夜、ミューズの帰還兵が町へ押し掛けてきた時の様子が脳裏に蘇ってきた。
 選択権などなかった、初めから。
 だったら今出来る最善の策を選び取るだけだろう。
「どうしても行くのか?」
「時間は稼げるはずです。あなた方が、町を脱出する程度の時間なら」
 ゆっくりと振り返る。まっすぐに見つめ返した先にいる青年は、何かを言いかけて結局口をつぐんでしまった。
「後悔はしないのか?」
「しています。もっと私に力があったのなら、と。でも、そんなことをいくら口にしても、今は変わらないですから。だから私は、悔やまないようにしたい」
 迷わずに告げた私に、少年達は複雑な表情を作る。
 彼らに微笑みかけ、私は小屋を出た。青空が眩しい。
「いい天気……」
 太陽を見上げて呟き、私は歩き出す。何故だろう、恐くなかった。
 後から思い出して考えてみると、もしかしたら、私はどこかで期待していたのかもしれない。誰かが──皆が、私を助けに来てくれることを。私はまだ必要とされているのだと、誰かが教えてくれることを。私の替わりに、この町を救ってくれるのでは……と。
 でも違った。
 救うのでも、救われるのでもなかった。立ち上がらなければいけなかったのだ。
 何かに依存するのではなく、自分自身でちゃんと立っていられたら、そしてそんな人が寄り集まれば何が起こっても大丈夫なのだと。
 自分だけが辛いのではない。辛さを共有しあい、それを乗り越える強さを重ね合って生きて行けばいい。私は多くの人にそれを教えられた。 
 もうちょっと、素直になってみよう。卑屈になるのではなく、自分に誇りを持って、仲間を信じてみよう。
「諦めちゃ駄目、ね」
 緑濃い森の中に、私の大好きな町がある。
「グリンヒル……」
 風を受け、私はその名前を言葉に流す。
「……グリンヒル……」
 何度、戦争の最中で私はこの町の名前を口にしたことだろう。いつかこの町に帰ってくることを夢見て、諦めないで来られたのはきっとこの呪文のおかげだろう。
「私は帰ってきた」
 約束を果たし、私はこの町の門をくぐる。
 戦争が終わり、デュナン湖を囲む大地はひとつになった。すべてを見届けてから、私は町の人々との約束を叶えるために帰ってきた。
 そしてそれは同時に、私の願いでもあった。
「帰ってきたわ」
 沢山の犠牲があった。過ちも繰り返された。でも最後まで諦めない生き方を選び取って、私は今、ここに立っている。
「テレーズ様!」
「テレーズ様、お帰りなさい!!」
「お帰りなさいませ、テレーズ様!」
 鐘が鳴る。緑の丘に、静かに鎮魂と平和の願いを込めた鐘の音が鳴り響く。
 それはまるで、暗く長い夜の終わりを告げるような、静かで力強い祈りの声のように私の胸に染み込んでいった。

コトノハノマホウ/犬飼冥の場合

 暇、だったから。
 理由はそんなところ。退屈しのぎになる、けれど道具もなにも必要のないものをしようと考えていたら、結局そんなものしか思い浮かばなくて。
 この年になって、男ふたり向き合って真面目な顔をつき合わせながら、しりとり。
「……ストーブ」
「ブレス」
「スリランカ」
「カタルシス」
 そんなこんなで、ふたり向かい合わせで膝をつき合わせながら、互いに短い言葉を交互に言い合っている。
 いざ始めてみれば、案外難しいもので。
 しかも。
「す、す……スロベニア!」
「アンタレス」
 向こうは狙って、「す」で終わる単語ばかりを選定して来る。それもこちらが続けた直後に間髪入れずに言ってくるものだから、逆にこっちが追いつめられた気分にさせられる。
「す」のつく言葉くらい、大量にあるはずなのに。そればかりを続けられたら頭の中からどんどん、「す」のつく単語が消失して行っていってことばを返すにも、一瞬息を詰まらせてしまう事が多くなっていた。
「あんたれす……?」
「蠍座の星のひとつ。夏に見える赤い星…小学校で習わなかったか」
 返された耳慣れない単語に首を捻ると、向こうは人を小馬鹿にした顔をして鼻で笑いながら教えてくれた。そう言われてみると、確かに理科の時間に習ったような気がする、星座盤を眺めながら夜の星を観察した記憶も微かだがある。
 けれど街中で星を見る機会など乏しい事限りなく、結局星座盤を胸に夜更かしをしたのもその日だけだったはずだ。
「次」
「え?」
「アンタレスの、次。お前の番だ」
「あ、ああ……そうだっけ。す、す……何があったかなぁ」
 中断したしりとりの続きを促すこいつの視線を受け、上擦った声を零し頬を誤魔化しついでに引っ掻きながら天井を見上げる。体よくこいつから視線を逸らすきっかけを貰ったわけであり、考え込みながら心の中で溜息をそっとこぼした。
 どうして暇だったからといってしりとり、なんて始めてしまったのだろう。後悔はあとに立たないと言うが、その事を今しみじみと思う。
「す……スイング」
「グラス」
「少しは考え込めよな」
「茄子」
「はい?」
「だから、茄子。『な』で終わっただろ」
 ちょっと待て、と思った。こいつはあんな、どう考えてもしりとりの枠からはみ出している会話でさえ、ことば遊びに含ませるつもりなのだろうか。オレの言葉が、丁度あいつが出した単語の末尾に合致したからっていうだけかもしれないが…
 考えて、頭がくらっと来た。
 どこまでが冗談で、どこまでが本気かさっぱり分からない。こめかみを押さえたオレに、こいつはもう一度「茄子」と繰り返した。
「分かってるっての! 考えさせろよ…ったく」
 悪態を付き愚痴て舌を出しそっぽを向いて、オレは腕を組み抑えたままだったこめかみを爪先で数回引っ掻いた。
 茄子、と来た。だからまた「す」から始まる言葉を探さなければならない。そろそろネタ切れも近く、きっとゆとりを持って考えれば沢山思い浮かぶのだろうけれど、無言の圧力を受けている今にその余裕を持て、という方がずっと酷だ。眉間に皺を浮かべ、オレは口をへの字に曲げた。
 この世の中にある「す」で始まる単語を言い尽くした気分になってくる。
「す、す、す……ステータス」
 これならどうだ、とオレはふっと頭に浮かんだ単語を咄嗟に口に出しながら、頭と終わりが同じ単語に自信満々になって鼻から勢い良く息を吐き出した。
 しかしこいつは、涼しい顔をしてほくそ笑むだけ。
「ステンレス」
「うがー!!」
 いつまで経っても終わらない。呆気なく自信をうち砕かれたオレは、両手を突き上げて叫んでいた。
「ほら、お前の番だぜ?」
「うっさい!こんなん、もう終わりじゃ!」
 一方的に終わりを宣言し、オレは立ち上がった。ズボンの埃を叩きながら払っていると、未だ座ったままでいるこいつの顔が見えた。
 横顔だけだったけれど、とても不本意そうでつまらなさそうで、寂しげで。
 これじゃあまるで、オレが一方的に悪いみたいじゃないか。
 いや、実際オレがやろうと言い出して、オレが勝手に止めると言い張っているわけだからオレが悪いんだろうけれど、やっぱり。こいつはオレの我が侭に、付き合ってくれていただけであって。
 でも、このままじゃ。
 オレは本気でこの世から「す」の付く言葉を言い尽くして、たったひとことだけを残すだけになってしまうから。
 言えるはずがないだろう。だって、そのことばは。
「……好き」
 ぽつり、と。
 呟いて。
 瞬間、オレは慌てて両手で口を塞いだ。目を見開き、つい口に出してしまったことばに驚く。
 それはあいつも同じようで、オレよりもずっと細い目を丸くさせながら茫然とオレを見上げていた。
 視線がかち合う。
「ち、ちがっ……!」
 今のは違うから、と両手を交差させながら振り回して否定するけれど。
 立ち上がったあいつの背はオレなんかよりもずっと高くて。足も長くて。
 少しだけあった距離は、あっという間に詰められてしまう。近くなった体温から、心音が届きそうで届けられてしまいそうで、オレは動けなかった。
「続き……」
「はい?」
 声が裏返る。瞼に掛かる吐息がくすぐったい。
 オレは目を閉じた。間近に存在を感じる。
「言って良いか?」
 好き、の続き。しりとりの、つづき。
 あくまでことばあそびの一環を貫こうとするのは、彼なりの優しさと配慮なのかもしれない。けれど、分かっていながらオレは顔を真っ赤にさせて目を開くことが出来なかった。
 鼻先に当たる吐息が、笑っている。
「キス……して、良いか?」
「かっ……」
「か?」
「勝手に……しろよ」
「よーく、分かった」
 目を閉じていても、彼がとても楽しそうに笑っているのが分かる。
 だからつい、オレもふてくされながらも微笑んだ。
 柔らかいキスは、そっと、瞼に落ちて沈んだ。

ソノセナカ、キミノホコリ

 六回表、ツーアウト。ランナー一、三塁。次の打者は、相手校一のスラッガー。
 通算ホームラン数を伸ばし続けている選手が、ネクストバッターズサークル内でぶんぶん、とバッドを唸らせながら素振りをしている。恐らく県下一、二を争うだろうホームラン打者を次に控え、グラウンドは痛いくらいの沈黙に包まれていた。
 土が他よりも少し高く盛られたピッチャーズマウンド上に立つエースが、肩で荒く息をしながら利き腕の甲で額の汗を拭った。帽子の鍔を掴み、左右に揺らして被り直しながら唾を飲み込んだのか、一度頷くように視線を落とし、それからまたもとの高さに戻す。
 最初の印象は、嫌な奴、だった。
 クスクス笑う声も、仕草も、いちいち気に障る物言いとしゃべり方と、人を見下したような考え方。そういうものが全部揃いも揃っていて、嫌いだった。
 あのスパスパカーブに、みんな手を焼かされた。なんとしてもレギュラー陣に勝たなければならなかった、ゴールデンウィーク中の強化合宿の試合。遅れて出てきたエースは十二支高校のエース番号を背負うだけあって、一年軍をまるで赤子をあしらうかのように打ちとっていった。
 あのカーブは、バッターボックスに立つ打者にとっては脅威だ。
 だからグラウンドに散って、サードベース上から見つめたエースの背中は、とても大きかった。
 敵に回せば厄介な相手は、つまり味方であればこれほど頼もしいものはないと言い切れる。背はあまり大きい人ではないけれど、マウンドに立つ彼はとても大きく見えた。
 絶対の自信に溢れて、一人としてランナーを出すものかという闘志を滾らせながら、一球に全力を込めて投げる。それがエースとしての役目だと言い切り、自分に負けは許さないとどこまでも頑固。
 壁のように、後ろに硬球を飛ばすなんて認めないと立ちはだかって。
 その何よりも巨大に見えた壁が、今はヒビだらけに見える。
 荒い呼吸が止まらない彼の背中が、本当の背丈よりもずっと小さく瞳に映る。
 余裕の笑みを浮かべた三塁走者が、退屈そうにベースを爪先で蹴った。つい、むっとなって走者を睨み返すがそう言うことには慣れているらしい彼は、不敵に笑っただけだった。
 オレはもう一度、マウンドを見つめた。
 苛ついたように彼は何度も、マウンドの土を蹴り飛ばす。白いプレートに薄く積もった土をスパイクが横に広げ、表面を削るように何度も行き来を繰り返す。
 ちらりと三塁側ベンチを見やった。自軍ベンチの中心にどっかりと腰を据えている髭面の監督は、腕組みをしたまま動こうとしない。後方ではおろおろと、不安そうな顔をするマネージャーが並んでいた。
 他の選手も何人かは座って見ていられず、立ち上がってベンチ前に陣取っていた。難しい顔で座ったまま事の成り行きを見守る選手も、幾人か見受けられる。
 また、ベンチの向こう側では控え投手が、控えキャッチャーを相手に軽い投球練習を始めていた。それは四回の時点から続いていた事だから、今更なにかを思うものでもないはずだった。しかし今マウンド上に居る彼にとっては、こうしている間も断続的に聞こえてくるキャッチャーミットが、ボールを受ける乾いた音もプレッシャーになっていることだろう。
 監督が今立ち上がれば、どうなるか。
 まだ試合慣れしていないオレにだって、それくらい分かる。
 オレの顎を汗が伝い落ちていった。けれどオレ以上に、マウンドでの孤独に耐えている彼はもっと辛い汗を流しているだろう。
 僅か一分にも満たない時間が、恐ろしく長い時間に感じられる。オレは汗を拭い、空を見上げた。
 嫌味なくらいに雲ひとつない、澄み渡る青空。気温は上昇を続け、湿度もそこそこに。日を遮るもののないグラウンドで、照りつける太陽の眩しさはかなりきつい。
 彼がまた、マウンドを蹴った。キャッチャーマスクを被っている巨漢の先輩が、上半身を浮かせて腰を捻り、主審へなにやら告げた。同時に主審が両手を左右に広げながら頭上に持ち上げる。
 ふーっと、張り詰めた空気が一瞬にして溶けていった。タイムがかかったのだ。
 即座に内野陣は守備位置を離れてマウンドに駆け寄っていく。外野の選手はその場を動かず、静かに動向を見守るだけ。
 マスクを外した三象が、マウンド上で俯いている鹿目を心配そうに見下ろす。その少し離れた場所で、内野のオレを含めた四選手が彼らを囲むように停止した。
「タイムなんか必要ないのだ!」
 焦りを思わせる、苛立った声で鹿目が叫ぶ。
「お前らもさっさとポジションに戻るのだ。あんな奴、僕があっという間に三振で終わらせてみせるのだ」
 ぱしん、と握った拳でグローブを殴った鹿目の声を鵜呑みに出来る人間は、この場にひとりとして存在していない。誰もその場から動かず、沈黙を保ったままだ。それが余計に彼を苛立たせているようで、奥歯を噛みしめながら彼は大きな目で強く三象を睨みつける。
 乱暴に、足許をスパイクで穿った。
「早く持ち場に帰るのだ!」
 駄々を捏ねる子供のように、叫ぶ。
 オレの知っている、誰よりも不遜で自信にあふれていて、その自信を裏打ちする実力を発揮して、この人が味方で良かったと心底思わせてくれた姿からは、程遠い。
 へっ、と笑ってしまった。
 この人は、今、とても小さい。
 オレが笑った事に気付いた彼が、矛先を変えてオレを睨んだ。
「なにがおかしいのだ」
 強気の口調は、今の自分に自信が無い裏返しだ。自分の思い通りにならない事が続くと、彼は地団駄を踏んで悔しがり、苛立ってコントロールを乱し投球に精細さを欠く。それはあのレギュラーを巡っての試合でも既に明らかだ。
 だから今は、彼を落ち着けさせなければならない。平常心を取り戻させて、開き直らせて、本当の強気で打者に向き合う勇気を持たせてやらなければならない。そして今までその役目をになってきた牛尾は、今外野から動こうとしない。
 静かに、見守っているだけ。
 オレは深呼吸をした。長く息を吸って、吐く。
「おかしいっスよ、全部。だって、アンタ今、すっげー格好悪いし」
 少なくとも、オレが知っている十二支のエースの姿ではない。
「なぁ、オレってば素人だからよく分かんなくって、出来れば教えて欲しいんだけど。野球って、ひとりでするもんなのか?」
 マウンド上で独り舞台を演じる、抜け殻のエース。
 同意を求めるように直ぐ近くに立っていた蛇神を振り返ると、彼はまさか自分に話が振られるとは思っていなかったようで驚いた顔をしたが、じきに気が付いて黙ったまま頷いた。
 ぎり、と鹿目が奥歯を軋ませる。
「確かにさー、……オレの守備には不安があるかもしんねーけど。でも、少なくともセカンドとショートは絶壁だろ?」
 後ろに飛ばされても、守備の要がしっかりと目を光らせてくれている。蛇神から視線を流すと、その先に居た司馬がやはり黙ったまま力強く頷いた。
「だNa」
 頭の後ろで手を組んだ虎鉄が笑いながら言う。その上ウィンクまでされて、オレは苦笑するしかなかった。
 改めて鹿目に視線を戻し、背後にそそり立つ三象にも笑いかけて肩を竦め、ふっとライトを見る。
 キャプテンは、ライトの定位置より少し深めで守っていた。そこから動く気配は、まったく感じられない。
 信用されているのだろう、オレも、エースも、みんなも。
 このチームだったら絶対に負けないと、それが彼の口癖になりつつあるくらいだ。そしてオレはその言葉が決して嘘では無いことを、知っている。
「もうちっと、後ろを信頼してくれよな。アンタが打たれても、オレ達がしっかり守るから」
 点差は、僅かに一。十二支のリード、この回が終われば裏の攻撃は、三番から始まる。相手チームを引き離すには、うってつけの打順だ。
 だからこそ尚更、ここで追いつかれるわけにはいかない。追い越される事など以ての外だ。
 それがプレッシャーになる。
「オレさ、ほっぺ先輩の事結構嫌いだったんだぜ?」
 いつも偉そうだし、カーブはよく切れて全然打てないし。嫌味多いし、辛口だし。
 でも。
「エースなんだろ、アンタ」
 今は、嫌いじゃない。
 割と物知り。釣りは巧い。ピッチャーとしての技量は十二支のエースとして申し分なく、頼りになる。安心して、背中を見つめていられる。
 この人が投げ続ける限り、オレ達に負けはないと、そう思える。敵チームには大きな壁となって聳える彼の姿を、見つめるのが好きだ。あのカーブが綺麗に決まって、キャッチャーミットに収まる時のあの音が好きだ。
 ……自分が空振りさせられた時以外は。
「心配すんな、オレはぜってーあいつよりも凄いホームランが打てる」
 ネクストバッターズサークルで待ちかまえる、やたらとごつい体つきの選手を見やってオレは笑った。
「そのオレから三振とったんだろ、先輩はさ。だったら、大丈夫だ」
 根拠にもならないかもしれないが。オレみたいな打ち方をしてくる奴なんて他に居ないだろうし、だからあのカーブを打ち崩すのは、易しくない。
 大丈夫。自分に言い聞かせるみたいに呟く。
 聞くだけ聞いていた鹿目が、ムッとしたまま、けれど口元を不遜に綻ばせた。
 笑う。
「まったく、お前はどこまでもバカなのだ」
 三象から受け取ったボールを右手に持ち、回転を持たせながら頭上に放り投げる。ぱしん、と軽い音を立ててそれは滑らかな動きをした左手のグラブに綺麗に収まった。
「お前に言われるまでもなく、僕は十二支のエースなのだ」
 あいつらごときに、うち負かされるようなやわな投手とは違う、と。
 胸を張って尊大に言い放つ。
 蛇神が呆れたように、安堵したように息を吐いた。黙って固唾を呑んでいたベンチ前の選手達からも、ホッとした空気が流れ出す。
 投球練習を続けていた犬飼だけが、悔しそうにチッと舌打ちをしていた。
 バカと言われてカチンとは来たが、今ここで口に出せば余計な喧嘩に発展しそうな事は楽に想像が出来る。そうなったら試合中断が長引くだけで、だからオレはぐっと堪えて震える拳を背中に隠した。
 勿論、抜け目ない鹿目にはモロバレだっただろうけれど。
 くすっ、と楽しげに彼は笑ってオレを見上げた。
「僕の本気を見せてやるのだ」
「ったり前だ!」
 あんな奴、三球三振にしてやると意気込む。
 正直、この人はオレよりもかなり小さい。でも、こうやってマウンドに立った時オレなんかよりもずっと、大きく感じる。
 その空気が、オレは好きだ。
 オレも負けていられないと思う。その背中に少しでも近づきたいと思う。
「お前達、いい加減ポジションに戻るのだ。この試合、完封でさっさと終わらせてやるのだ!」
 相手チームのベンチにまで聞こえる大声で叫び、彼は両手を振って守備位置へ戻るように命令する。オレは苦笑いを浮かべて三塁へ戻り、くるりと踵を軸にして身体を回転させてマウンドを向いた。
 その途中で、ライトを守っているキャプテンが見えた。彼もまた、笑っていた。
「しまっていこー!」
 グラブに手を叩きつけてオレが叫ぶ。呼応するように声があちこちから上がった。
 主審の右手が上げられ、試合再開が告げられる。
 マウンド上の小さな巨人は、大きなモーションで振りかぶった。

02年9月24日脱稿

真昼の月

 月が出ていた。
 真昼の月は儚く、朧気で、まるで夢の中でまどろむ淡い恋心にも似ているような気がした。だがすぐに、陰鬱な気持ちが押し寄せてきて首を横に、小さく振ると僕は視線を足元に咲く白い花に落とした。
 今日、ひとりの少女が逝った。
 たったひとりの弟と、とても大切な幼なじみを守るために。
 血のつながりや、感傷的な同情からではなく。心の底から相手を慈しみ、愛おしく思うからこそ身を挺して彼らを守り通した。
 命を棄ててまで。
 右手に残る僅かな痺れに似た痛みは、ならば彼女へのせめてもの手向けか。
 僕が彼女を、恐らく彼女が感じていた以上に大事な存在であったと知らしめる為の。
 だとするなら、僕はこの真昼の月に祈ろう。
 この想いが、誰の心にも届くことなく天に還っていくことを。

 ――――竜口の村――――
 彼らは逃げ出すことを、選んだ。
 その選択が正しかったのか誤りであったのかは、僕が判断するところではない。ただ彼らが人に告げることなく宿としていた屋敷を抜け出し、そしてもうどこにもいない彼らを捜し回る同胞が命を落とすような事になっても。決めたのは彼で、悔やむのも彼だ。
 ただ、もし罪が彼らにあるのだとしたら、自分にもその一端はあるのだろうとは、感じている。
 かつて赤月帝国と呼ばれていた国を打ち倒し、新しい秩序をトラン湖の周辺にもたらしたとされる僕は、自分で名乗ったつもりはないにせよ英雄と呼ばれる人間であったから。
 その英雄が、新たな英雄の逃亡を手助けしたのだから。事に真実を知った人々は、恐らく一様に僕を責め、非難し、彼らを侮辱するだろう。
 だがそれは間違いなのだ。
 彼は英雄なのではない。そして僕も、そんなものになったつもりはないし、なるつもりもない。
 英雄なんてものは、人々が困窮の中で見出した一筋の光りに縋るために創り出された哀れな幻想の残滓。期待と羨望の全てを望まないままに背負わされ、もし革命に失敗したときはその偶像にあらゆる罪と犠牲を強いることを求められる、犠牲者。
 なんて身勝手な人々。己の力のなさを棚に上げ、一部の力あるものに縋るしかない無能者達。権力に支配されることを嫌いながら、結局強いものに従うことに慣れてしまい自分自身で動くことを辞めてしまった愚か者達よ。
 お前達のその傲慢な願いが、どれほどの犠牲を生み出しているのかを知っているか?
「なにを考えている……?」
 逃亡の果てにたどり着いた竜口の村で、ぼんやりと空を見上げていた僕にルックが疲れた顔で尋ねてきた。
「さあ、僕にもよく分からないよ」
 曖昧な答を口にし、僕はルックに肩をすくめてみせる。戯けたように他人の目には映るかもしれないその行動は、だが同じ真の紋章を所有し、同じ目的のために力を合わせたこともあるかつての仲間には通用しなかった。
「紋章を持つ人間は、望む望まないに関わらず民衆に求められる。それは身を以て知ったのではなかったのかい?」
「……相変わらず……」
 歯に衣を着せぬ物言いに苦笑し、僕は首を振った。
「セレンは?」
「眠ったままさ。ナナミも、眠った」
「そうか……」
 あの姉弟を助けてやりたい。そう思ったからこそ、僕はここにいるのだ。昔の自分を彷彿させる、身を削って人々を救おうとしているセレンを。そして彼を守るために泣くこともせず気丈に振る舞っているナナミを。
 月が見える。薄い雲をかぶった朧月夜に僕はルックと共に並んで空を見上げている。
「座れば?」
「いや、いい」
 苦笑いを浮かべて傍らに立ち、小屋の壁に背を預けるルックから視線を外す。
「このままで済むと思っているのか?」
 ぽつりと、ルックが呟く。静かに僕は首を振った。
 おそらくラストエデン軍はセレンを逃しはしまい。彼はもはや名実共に新同盟軍のリーダーであり、旗であるのだ。敵であるハイランドの皇王がジョウイという、セレンの所有する輝く盾の紋章と対に当たる紋章を所持している限り、ふたりが対立することは避けられないものでもある。
 惹きあいながらも、対立することを余儀なくさせる紋章の名は、始まりの紋章。厄介なものを身に宿したものだと、事を知ったとき僕は思った。
 だが彼らが力を求めたのも、この時勢では仕方のないことだった。
「望んでいた力を手に入れながら、真に欲していたものを手放さなければならない力。どこまで、真の紋章は人の運命をねじ曲げれば気が済むのか……」
「そんなもの、無いに決まっているだろう」
 ルックが即答で僕の疑問を切り捨て、組んでいた腕を解いて僕を見下ろす。
「紋章にあるのは、己の持つ力を最大限に発揮したいという強欲だけだ。紋章の器に自己主張させてくれるほど、こいつらは懐が寛くないのさ」
 指で右手の甲をはじき、ルックが自嘲げにこぼす。僕は同じように、自分の右手に宿るソウルイーターを手袋越しに眺めた。
 親友テッドの命を、最愛の父を、尊敬する女性を、かけがえのない家族を奪い、僕から平穏を奪い去った憎き紋章。だがこの力が赤月帝国の暴挙から民衆を救い出したこともまた、変えようのない事実。
 栄光と破滅を同時にもたらすもの、それが27の真の紋章なのだろう。
「シュウは、セスを見逃してやるほど優しい性格をしていない」
 きっと明日にでも、彼は部下を引き連れてこの村にやってくるだろう。聞いた話だが、シュウを戦いに引き込んだのは他でもないセレンだ。ならば彼を戦いに巻き込んでおきながら、ひとりで逃げようとしたセレンをシュウは許しはしないだろう。
 そういう性格をしている、あの男は。
 そしてひとたび生じた疑心は後々まで残るだろう。
 仲間を捨て、逃げ出した指導者を一体誰が信じることが出来るのか。
「この選択は間違いであったと?」
「そうとは言っていない」
 間違いだと思うのならば、ここまで付き合っていないと言外にルックは告げ、髪を掻き上げる。
 冷たい夜風が吹いた。雲が流れ、月が隠される。闇が押し寄せてきて視界が一気に狭まった。
「君も……」
 ぽつりと、ルックが呟いた。
「逃げ出したかったのか?」
 いつ、どこで。そういった余計な事を語らなくても、ルックの言葉の意味を僕は正確に読みとっていた。解放戦争の最中で、グレミオを失い、父・テオを自らの手にかけて。それでも戦い続けなくてはならなかった僕のことを彼は言いたいのだろう。
 しばらくの沈黙。
「もう、忘れたよ」
 月日は流れた。時間だけが無為に過ぎる中で、記憶も靄がかかった深い森の置くに消えていく。忘れ得ぬ戦いであったことにかわりはないが、だからといって当時の一言一句を正しく覚えていられるほど、僕の記憶力は優れていない。
 逃げ出したいと思ったことはあった。
 だが、出来なかった。
 求められることで自分の存在意義を見出そうとしていた。必要とされているから、他に行く当てもないから。そして、逃げ出した後で人々にどう噂されるかが恐かった。
 体裁も気にしていただろう。僕は誇り高きテオ・マクドゥールの息子である。その隠しようのない現実を汚し、己の信念を貫いて死んでいった父を侮辱するような真似も出来なかった。
 弱虫。
「愚かなのは僕の方か……」
 何気なく口からこぼれ落ちた言葉に、ルックが訝しげな表情を作る。なんでもないよ、と首を振って僕は小さくため息をついた。
「逃げ出したかったかもしれない。けれど僕は戦い抜いて、バルバロッサを倒した。……いや、ちがうか。僕は逃げていたんだね、やっぱり」
「…………」
 僅かに首を傾げていたルックも、しばらく考え込む素振りの後ひとつだけ頷いた。
「まだ恐いか?」
「おそろしいよ、当然だろう?」
 右手に左手を重ね合わせ、抑え込むように強く握り込めば微かな痛みが手袋の奥に響く。
 本当は来たくなかった。戦乱が花咲く大地こそ、ソウルイーターがもっとも喜び、力を増進させる場所なのだから。故にわざと、バナーの村で時間を潰して戦いが一段落着くのを待っていたというのに。
「言い訳にしか聞こえないだろうけれど」
「まったくね」
 相槌を期待していたわけではないのだが、ルックからは冷ややかながらも合いの手が返ってきて僕を苦笑させる。
「レパント達はまだ、君を大統領にしたいみたいだけど……」
「僕には似合わないよ」
 それに、老いることも死ぬこともない大統領なんて、今は良くてもいつか人々から不審を買う。権力は中央の頂点に集中し、そこからまた新たな歪みが生まれることだろう。そして権力に庇護された人々は、その事実にも気付かない。
「ハルモニア……か」
 思い当たる国家の名を呟き、ルックはやれやれといった表情で肩をすぼめた。そういえば彼はハルモニアの出身だったか。
「…………さて」
 組んでいた腕をほどき、ルックは壁から離れた。
「僕はもう寝るけど」
 どうする? と続けられ、僕は首を振った。
「もう少し、月を見ているよ」
「そう。まあ、程々にね」
「おやすみ」
 見送りの言葉を口にすると、すでに僕に背を向けていた彼が左手をひらひらと振った。愛想はないが、ちょっとした心配りが出来るところは、変わっていない。表情が少しばかり昔よりも軟らかくなったのは、きっと気のせいではないだろう。
 彼もまた、セレンを守りたいと思っている。
 だが現実は容赦なくセレンを責め立てる。
 紋章は所有者を守ろうとして力を行使する。だが、セレンの輝く盾の紋章は真の紋章の片割れでしかない。無限にあるとされる真の紋章の力を使うことが出来ないのだ。だから、紋章は守るべき所有者の命を代償に、力を使う。
 セレンが倒れたのは、これが初めてではない。身体は丈夫であったはずの彼が度々倒れるような事になれば、新同盟軍の基盤は揺るぎかねない。同盟軍がひとつにまとまっているのは、間にセレンという存在が立っているからだ。彼がいなくなれば、ラストエデン軍は瓦解するだろう。
 やはり見逃してはもらえないだろうな、と思う。
 もっと早い時期だったなら――ラストエデン軍がここまで大きな存在となる前であればあるいは、セレンとナナミのささやかな願いは達成されたかもしれないが。
 もう、無理だ。
 ため息がこぼれる。見上げた月は冴え冴えとした光で地上を濡らしている。
 戦いたくない。
 争って欲しくない。
 どうして自分が戦わなければいけないのか?
 どうして、自分だったのか?
 巡り続ける疑問に答は見えない。
 セレンは、普通の少年だ。自分のように、幼い頃から、いつの日か人の上に立つことを求められてそういう教育をされてきたわけではない。後ろ盾もなく、保障もなく。ただ逃れてやって来た地で、逃れきれないと悟ったから意を決し戦っただけだったのに。
 一度狂いだした運命はもう止まらない。
 止められない。
 何故、彼だったのか。何故彼でなければならなかったのか。
 養父の存在か? 真の紋章に選ばれた所為か? 親友がハイランドの将校として敵対するようになったからか?
 違うだろう。そんなもの、どこにも関係していない。セレンが求めていたのは、親友と義姉と平和に、幼かった頃のように肩を寄せ合ってささやかな幸せを分け合える日々だったはずだ。
 戦乱と血に染まった大地で、旗となって立つことではなかったのだろう?
 英雄だなんて。
 なんて空々しい言葉。
「ラスティスさん……?」
 物思いに耽ったまま壁に寄りかかっていた僕を呼ぶ声がして、予想もしていなかった彼女の登場に僕は正直面食らった。
「ナナミ、ちゃん……」
 薄い毛布を肩に掛け、少しだけ寝癖のついた頭でぼんやりと立っている。確か彼女はもう眠ったはずで、だからこそこれは幻か、と一瞬思ってしまった。
「どうしたの?」
「あ、なんか……目が覚めちゃって」
 神経が高ぶっている所為か、ちょっとした物音で目が覚めてしまったらしい。先程ルックが小屋の中に入っていったから、その時の音だろう。だとしたら今、ルックは非常に不本意な顔でセレンの鼻でもつまんでいるはずだ。
「なに、してたんですか?」
 予告無く僕の横に腰を下ろし、彼女は小声で尋ねてきた。毛布を抱き寄せてすっぽりと身を包み、膝を抱き寄せて顔だけを僕に向けている。
「特には、なにも。考え事、かな」
 後は月を見ていたぐらいか。正直に答えると、ナナミは「ふぅん」とこぼして空を見上げた。
「綺麗ですね」
 朧気に闇空に浮かぶ月を見つめ、素直な感想を彼女は口にする。
「月なんて、最近見上げたこと、なかったな……」
「大変だったからね」
「そう、ですね」
 望まざる戦い。だが、やらなければいけない戦い。
 もうこれは自分たちだけの戦いではないのだ。デュナン湖を囲む大地に住む人々全ての運命を賭けた争乱。
「どうして、セスが戦わなくちゃいけないのかな……」
 膝に顔を埋めて彼女が呟く。ほとんど声にもならないささやきだったのだが、この静かすぎる夜の空気は僕の耳に彼女の嘆きを伝えた。それはずっと、僕が抱えてきた疑問でもある。
「どうして、かなんてもう、誰にも分からないのかもしれない」
 答になっていないかもしれないけれど、僕は片膝を抱き寄せて言う。
「決めるのは本人で、本人の考えなんていくら側にいた人でも理解できないものなんだよ、きっと。どれほど相手を思いやっていても、人は他人にはなれないのだから」
 苦しみを共有する事なんて、詭弁でしかないのだ。表情の変わらない淡々とした口調で告げると、ナナミは一瞬呆気にとられた顔をして、それから哀しげに瞳を伏せる。
「ラスティスさんって、冷たいんですね」
「そうかもしれないね」
 他人の本意を知ることは難しい。ほとんど不可能と思っても良いだろう。勝手に想像に、思い描いた虚像を押しつけられるのは迷惑極まりない。
 だが。
「相手をどこまでも知りたい、理解したいと思ってくれる人がいる人は、幸せなんだよ」
 セレンにとってのナナミのように。
「君はセレンを信じてあげて」
 どんなに辛いことがあっても、どんなに苦しいことがあっても、たったひとりだけで良い。自分をどこまでも信じ続けてくれる人がいれば、苦難を乗り越えて生きて行けるのだから。
「ラスティスさんにもいるんですか、そんな人……」
「いたよ」
 にこりと微笑むと、つられて彼女も笑顔を作る。僕の言葉の置くに隠された深い意味を知ることなく。その問いがいかに残酷に僕の心に爪痕を残しているかにも気付かないで。
「あたしは……セレンを信じてます。あの子が頑張っているなら、あたしは応援してあげなくちゃいけないんです」
 姉として。友として。母親として。家族として。
「あたしは、セスの逃げ場所になってあげたかった。あの子が戦ってばかりで、戦っていくことばかりを周りの人達から求められても、あたしだけはセスに『戦わなくても良いんだよ?』って言ってあげたかったんです」
 辛い? 辛かったら言ってね? お姉ちゃんがなんとかしてあげるから。お姉ちゃんに任せておいたら、全然オッケーなんだから!
 だけど、もうナナミの声はセレンにも届かない。ナナミの声は周りの大人達にかき消されてしまって、セレンをひとりぼっちにしてしまう。
 こんなに近くにいるのに、こんなにも遠い。
「あたしの我が儘なんです。あたしはもう、セスが苦しんでいるところを見たくなかった!」
 両手で顔を覆い、ナナミは肩を震わせる。
 元気いっぱいでいつも明るく、落ち込むこともなくて悩みなんてないように映る彼女の姿が、けれど全部が強がりで固めたものだということを、みんなは知っているだろうか。
 彼女の本当の姿を、一体どれだけの人間が気付いているのだろうか。
 泣きたくても泣けないナナミ。泣いたら、セレンに心配を掛けてしまうから。セレンを守るために彼女は、自分の心さえも押し殺してきた。
 大丈夫、絶対なんとかなるから!
 ――なんとかなるよね? また一緒にみんなで楽しく過ごせる日が来るよね?
 お姉ちゃんに任せなさい! 
 ――セスは忙しいんだから、ちょっとは負担を軽くしてあげないとね。
 頑張ろうね?
 ――ここであたしが頑張らなくちゃ、セスに迷惑かかっちゃうよね。
 頑張ってね。行ってらっしゃい。
 ――あたし、セスの力になれないのかな。
 ――なんでセスなの!? 他にもっと、リーダーに相応しい人がいっぱいいるじゃない!
 ――セスをこれ以上苦しめないでよ。セス、お願いだよ、もうやめよ? 
 ――セス、何とか言ってよ。あたしだけなの? こんなに不安になるのって。
 ――苦しいよ、セス。哀しいよ、痛いよ。どうして……セス、ねえ、本当に貴方はあたしの弟のセス?
 ――帰りたいよ、キャロに帰りたい……
 言えなかった言葉たち。告げられることなく消えていった言葉たち。
 一体誰が知っているのか。彼女は泣かないのではない、泣けないのだと。
 こんなにも傷ついている。こんなにも悲しんでいる。こんなにも苦しんでいる。だけど皆の意識はセレンにばかり向いていて、誰ひとりとして彼女を見ようとはしないから。
 彼女は尚更、泣けなくなる。
 泣いて、セレンに向いている視線が自分に向くことを恐れている。セレンの邪魔になることを恐怖している。おそらく、セレン自身でも気付いていないであろう、それがナナミの本心。
 たったひとりでいい。自分を理解してくれる人は。
 ならば、僕は。
 そっと手を伸ばし、濃緑色のマントの裾を掴んで僕は彼女の肩に、触れた。
 びくり、と逃げ出そうとする彼女を力で抑え込み、自分の方に引き寄せる。ささやかな抵抗はすぐに消え、彼女の頭が僕の胸にすっぽりと収まる。
 彼女は、こんなにも小さい。
 気丈に振る舞っているとはいえ、所詮は16歳の少女でしかない。セレンがリーダーとなるべくして育てられたのではないように、彼女もまた、リーダーの姉として生まれてきたのではない。
「泣けばいい」
 低く囁けば彼女からは小さな嗚咽がこぼれ落ちる。
「我慢しなくていい。君は、泣いても良いんだ」
 そんな言葉が免罪符になるとは到底思えないけれど。彼女が背負ったものが少しでも軽くなるのであれば、それでいい。グレミオだったなら、もっと気の利いた言葉を口にしていたかもしれないけれど、生憎と僕は口べたな方だから。
 でも、伝わったのだろう。
 決して大声を上げるのではなく、押し殺すような声で。ただ止めどなく流れる涙が大地を濡らしていく。握りしめられたマントが苦しくなかったというのは嘘だけれど、彼女の受けてきた辛さを思うと手を出すこともできない。
 抱きしめるような、そんな安易な行動を取っても、きっと彼女は喜ばない。
 だから、好きなようにさせておいた。
 泣きたいだけ泣けばいい。気が済むまで、泣くといい。その場所を提供することくらいが、僕に出来るささやかな事だろうから――――

 その彼女が、逝った。
 ロックアックスで。
 一瞬だった。
 たったひとりの弟と、とても大切な幼なじみを守るために。
 血のつながりや、感傷的な同情からではなく。心の底から相手を慈しみ、愛おしく思うからこそ身を挺して彼らを守り通した。
 命を棄ててまで。
 そのまでしてでも守りたかったもの、彼女にとって何よりも最優先されるべきこと。それが、あのふたりを助けること。
 一緒に生きるのではなかったのか?
 帰るのでは無かったのか?
 あの、君が帰りたいと切望した故郷へ、三人揃って帰るのではなかったのか?
 握りしめた拳が震えている。
「ラス?」
 傍らのルックに怪訝な顔をされても、僕は気にしなかった。
 僕は、泣いていたんだ。
 救いになったのだろうか? 僕は彼女の救いになれたのだろうか?
 右手に感じた痺れに似た痛みは、今も僕の心を締め付けている。人の死を感じ取る、呪われし死の紋章ソウルイーターよ。
 爾は我のもっとも愛しく大切な者達の魂を掠め取りしもの。ならば、問う。この痛みは如何なる所存の故か。
 答は出ない。

 ああ、月が見える
 真昼の月が見える
 白い光りに包まれし、それは儚い泡沫の夢の名残
 君は知らない
 僕がどれほどに、君を大切に思っていたのかを
 君は知らない
 僕がどうして、君の側にいたのかも
 君は知らない
 何故、ソウルイーターの中で眠っているのかも
 知らなくてもいい
 僕がそっと呟いた言葉の意味を

 ――――手に入れた――――

Folly

「あ」
 と、だけ。
 正面玄関の分厚い扉を開けようとしていたスマイルは、後ろから伸びてきて一緒になって扉を押す力を加えてきた存在に振り返り呟いた。
 重厚で重い扉を開けるにはちょっとしたコツがいる。そして何故か、理由は不明だがやたらと夜間は開けにくくなるのだ。
 この城に住み、または仮宿としている存在はいずれも本来夜間を活動時間としているものばかりなだけに、ひねくれた扉だと思う。そんなに閉じ込めておきたいのだろうか、自分たちを。
 だけれど、男ふたり分の力を受けてしまうと流石に年季が入っている扉も開かないわけには行かず、ギギギ、と重い軋みを上げながらそれは人ひとりが通れるだけの隙間を生み出した。
 先に、前に居たスマイルが外へ出る。
 追って、彼よりも若干背が高く体格も良いアッシュが続き彼が扉を閉めた。開いたときと同じように重たい音を立てて扉は閉まり、頼みもしていないのに勝手に鍵が掛かる。
 時々、この城がどんな構造になっているのか疑問に思う事があるが、深く考えてもどうせ分からないのだし、考えるだけ無駄だとアッシュは諦めていた。
 ユーリとスマイルなど、まるで気にしていない様子。これが生きてきた年数の差か。
「散歩?」
 夜闇にぽっかりと浮かぶ月を見上げていたスマイルが、そんなことを口に出して唐突に振り返った。てっきり先に何処かへ行ってしまうとばかり思っていたアッシュは、僅かに息を飲み動揺を隠す。
「あ、ああ……そうッス。天気が良いし」
 月が綺麗だから、少し外を出歩いてみるのも悪くない。最近忙しくて自由な時間も殆ど作れなかったから、多少の息抜きは必要だろう、と。
 雲も少なく、月は満月に近い。星は月の輝きに負けじと明滅を繰り返し、比較的澄んでいる空気は穏やかだ。寒くも、暑くもない。むしろ丁度良い涼しさ。
 スマイルが見上げていた夜空を仰ぎ見て、アッシュは頷く。ふーん、と相槌にもならない声が聞こえて、視線を戻し彼を見る。
「スマイルも、散歩ッスか?」
 けれどアッシュの記憶が正しければ、彼はあまり夜間外出しない。ユーリが外で迷子になっている時に呼び出しを受けて探しに行く程度だ、自分から好んで夜の闇に紛れていく事は少なかったはずだ。
 自分は透明人間であるから、闇に身が溶けて消え去ってしまいそうで恐いんだよ、と冗談交じりに言っていた彼の言葉は、あながち嘘ではないのだろうとアッシュは勝手に理解していたが。違うのだろうか。
「あ~、うん。別に?」
 ただ単に面倒臭いから、とあっけらかんとしてスマイルはアッシュの危惧を笑い飛ばす。
 にぎやかで騒がしく、楽しい場所が好きなスマイルはどちらかと言えば夜よりも昼の方が好きだ。夜の住人である自覚はあるけれど、夜になると多くの生き物は眠りについてしまって退屈、だから外へ出てもつまらないので出かけないだけ。
 他の誰かが同じ理屈を告げてもだからどうした、程度にしか思われない事だろうがスマイルが語ると、それもそうか、と納得してしまいそうになってアッシュは頭を振る。
 だったら、どうして今外へ出ようとしていたのだろう。
 問いかけようと、頭を振った所為でまた横にずれた視線をスマイルに戻す。だが、肝心の彼はもう其処には居なかった。
 古ぼけた石畳の道を抜け、鉄格子が不気味な門を潜り抜けた先にもう到達してしまっている。相変わらず、動きだけは異様に速い。
「あ、待つッス!」
 置いてけぼりを喰らった感じがして、アッシュは慌てて彼を追いかけて駆け出した。夜目の利く彼は、薄暗い場所でもさして苦にならず今度はゆっくりと歩いているスマイルに追いつく。
「何処行くの~?」
 けれど、下準備もなく走ったので情けなくも息が切れた。
 ぜいぜい言っているアッシュを横目に足を進めながら、スマイルはだらんと垂れたコートの袖を揺らした。さりげなく、袖に隠れた手で大事そうにギャンブラーZのフィギュアを抱えているあたりが彼らしい。
「何処って……」
 問われて、アッシュはようやく自分が何処に行くか決めていなかったことを思い出した。適当に、気が向いた方向を目指すつもりでいたので、目的地など特にない。
「スマイルは、何処に行くんスか?」
 だから逆に問い返すと、彼は少し言いにくそうに口澱んだ。
「えっと、ねぇ……」
 ユーリに言わない? アッシュだったら、別に良いか。怒らないで聞いてよね。
 そんな小声が聞こえてきてアッシュは首を傾げた。
「アレ」
 照明も殆ど灯っていない、細い月明かりばかりが頼りの夜道の中にぽつん、と。チカチカと明滅する蛍光灯が眩しい、けれど光量が足りず薄暗さはあまり変わらない自動販売機が建っていた。
 それもジュースではなく、煙草の。
 何故彼が言いにくそうにしていたのかを瞬時に理解し、アッシュは思わず納得してしまいそうになった。
 だが、二秒後気付く。確かスマイルはユーリに禁煙を命じられてはいなかったか。
「スマイル?」
「だから~、ユーリには内緒、ね?」
 自分の唇に人差し指を押しつけ、彼はばつが悪そうに笑った。片方しか露出していない彼の目が細められ、丹朱の瞳が見えない。
「そうは言われても……」
「大丈夫だよ、そんなに吸ってないから」
 今は、少し曲のこととかで頭がニコチンを求めているだけで、それが終わればまた禁煙に入るから。そう軽々しく笑って言ってのけたスマイルだったが、道理が可笑しいことくらいアッシュにだって分かる。
 ニコチンは中毒性が高いから、一度止めてもまた手を出せば前以上に抜けられなくなる。
 ポケットからむき出しのコインを数枚取り出し、スマイルは腰を屈めて自販機へ投入する。一斉に点滅したボタンの中で彼が選ぶのは、いつも同じ銘柄。
 真っ赤なボックスに、白地で銘柄が書き込まれているタイプだ。
 煙草を吸わないアッシュにしてみればどれも同じだと思うのだが、微妙に味にクセが出て違うらしい。何種類か吸っていくうちに自分の好みに辿り着いたのか、スマイルが吸うタイプは少し香りが柔らかく甘い感じがするものだった。
 味までもが甘いかどうかは、別として。
「アッシュは吸わないよねぇ」
 ガコン、と音を立てて自販機が煙草を吐き出す。取り出し口に右手を差し入れて落ちてきた箱を抜き取った彼が姿勢を直しつつ尋ねてきて、アッシュは反射的に頷いた。
「料理に匂いや味が移ると困るッス」
 あと、やはり唄を生業としているだけに喉の調子には気を配らねばならない。料理人という肩書きを持っている以上、アッシュはメンバーの中でも格別自分の体調に気を遣う。だから煙草などというものは彼からすれば、百害あって一利無し、と語るに足るものなのだ。
「ぼくは別に気にしないけど」
 右手に持った煙草のフィルムを左手で剥いでいく。右肘と胸の間で抱えていたフィギュアを支えた少しばかりバランスの悪い体勢のスマイルはそんなことを口にするが、彼が良くても他のメンバーは気にするのだ。特に、ユーリは過敏に反応する。
「ユーリに言うッスよ」
「しないよ」
 すっかり剥き終えたフィルムをくしゃっと丸め、スマイルはそれを自販機横に据え付けられていたゴミ箱に捨てる。ようやく顔を上げた彼の瞳は怪しい輝きを放ち、にっこりとアッシュへ微笑みかけている。
 なんともアンバランスな。
「アッシュは、そんなことしないでショ?」
 陰口を言えるタイプではない、間違っても人の悪口を公言するような性格をしていない。むしろ正反対に、誰かが誰かの悪口を言っている現場に遭遇したらやめろ、と声を大にして咎めに入るタイプだ。
 だからスマイルは、自信満々に断言してみせた。アッシュは、自分を裏切ってユーリに密告出来るような奴じゃない、と。
「時と場合によるッス」
 確かに自分は、そういう状況を見過ごすことの出来ない性格をしているとアッシュは素直に認めるが、けれどスマイルの体調を考えればやはり彼が唯一意見を受け容れるユーリの弁から、彼を叱ってもらうべきだと彼は思うのだ。
「でも」
 それでもなお、スマイルは笑みを絶やすことなくアッシュを見上げている。手に持ったままの煙草の蓋を、親指で押し開けて。
「ぼくは“しない”って信じてるから」
 そういう言い方は卑怯だと、咄嗟にアッシュは思った。
 これでは万が一、ユーリがスマイルの喫煙に言及した時真っ先に疑われるのはこの現場に居合わせたアッシュではないか。 
 お願い、という形を借りたさりげない脅しに彼は言葉に詰まり、それを尻目にスマイルはのんびりとした動きで箱から新品の煙草を一本抜き取った。
 にこりと微笑みかけてくるスマイルの瞳が、自分たちは一蓮托生なのだと告げている。
 ごそごそと動き止まないスマイルは、今度はライターを取りだしてカチカチと石をならす。数回試した後ようやく灯った炎で煙草に火を付けると深く吸い込んだ息を一気に吐き出した。
 紫煙が燻る。漂う煙は僅かに後方から前方へ流れていく空気に従って天上へと昇り消えていく。
 人よりも敏感な鼻先を掠める、煙草の煙とそれに混じる微かな甘い香り。けれど煙いことに変わりなく、スマイルはわざわざアッシュの居る方角とは反対に息を吐き出してくれたものの、しかしやはり、アッシュは眉目を顰めずにいられなかった。
「禁煙、撤回ッスか?」
「カンヅメ状態が終わるまでね~」
 ゆらゆらと揺らめき、やがては空に紛れて見えなくなる煙草のか細い煙。それを吐き出しているスマイル。
 存在が、だぶって見えた。
「駄目ッス、やっぱり。止めるッス」
 はっとなって、アッシュは腕を伸ばした。
「どうして?」
 右の手首を拘束され、力任せに握られたスマイルが露骨に嫌そうな顔をしてアッシュを見上げる。間近に見える茜色の瞳が、鈍色に輝いて見える。瞳孔は細く、獣の色だ。
 強引に煙草ごとスマイルの右手を彼から引き離したアッシュは、だが次の動作に移れずにそのままの姿勢で凍り付いてしまう。あまり深く考えずに行動するのは良くないことだと、親からもそしてユーリからも度々注意されていたというのに。
 今回もまた、同じ失敗を繰り返す。
 スマイルから煙草を奪い取って、それから。それから、どうする? どうしたい?
「あ……」
 骨に響くくらいに強く手首を握られているというのに、スマイルはまだ指先二本で挟み持った煙草を手放さない。尤もここでこれを落としてしまうと、道端に生える草に火が燃え移ってしまい火事になりかねないのだが。
「アッシュ?」
 いい加減離して欲しいのに、アッシュは固まったまま動かない。怪訝な顔をして彼を見上げるスマイルだがふと、なにか宜しくない雰囲気を感じて左手に持ち替えていたフィギュアを握りしめた。
 どうする、どうしたい。スマイルが煙草を吸う理由は何だったか、彼は別段ニコチン中毒ではない、ただ時折口寂しい時があるからそれを解消するのにちょうど良いだけだと。いつだったか、聞いた記憶を掘り起こす。
 ぎゅっ、と。
 奪われたままの右手首を更に強く握られ、スマイルは明らかに苦痛の表情を浮かべた。けれどアッシュは構うことなく、僅かに身を、前方へ傾がせる。
 スマイルの真っ白い包帯に、月明かりが落とす影が濃くなる。
 握りしめたものは、なに。
「…………」
 触れた、固い感触。その上冷たい。
「……ダーメ」
 にこりと無邪気に微笑むスマイルを上目遣いで睨み付け、アッシュはスマイルが咄嗟に顔の前に差し出していたギャンブラーZのフィギュアから離れた。
 角が当たった所為で少しひりひりする。スマイルの右手も一緒に解放した彼は、その左手で自分の唇を押さえた。
「先約済み。それに今、ぼく、たばこ臭いよ?」
 薄い煙を棚引かせている右手の煙草を示し、彼は喉を鳴らして笑う。少しも悪びれている様子はなく、むしろアッシュの反応を楽しんでいるかのようだった。
 再び銜え直した煙草を味わうと、彼はまたポケットへと手を突っ込み今度は薄い灰色の金属の筒を取りだした。蓋を捻り、外す。携帯用の灰皿らしく、彼はその中へ長く伸びた灰を落とし続けて煙草もその中へ放り込んだ。
 きゅっ、と蓋を閉めてはい、おしまい。
 再び彼の手元にはギャンブラーZだけが残され、他のものは総てコートのポケットに収められた。
「じゃー、ぼく、帰るから」
 その辺をちょっとぶらぶらして、煙草の匂いを消して。
「アッシュは?」
 どうする? と問いかけてくる瞳は相変わらず無邪気で。振り回されて挙げ句結果が総て空回り、というアッシュはどっと疲れが押し寄せてくる感じがして肩を落とした。
「散歩、だったんでショ?」
 小首を傾げて尋ねてくるスマイルにめっきり疲れ切った顔を向けると、彼はまた一段と楽しそうに目を細める。わざと分かっていてやっているのか天然なのか、区別がつかないからこそ厄介だとアッシュは思った。
「俺ももうちょっとぶらついてから帰るッス」
「そ。じゃ、また明日ね?」
 おやすみ、良い夢を。
 手を振ってスマイルはアッシュを見送る体勢に入る。同じ方向へ行く、という事を考えていないのだろうか。
 目に掛かる前髪を掻き上げ、苦笑を浮かべたアッシュはやれやれ、と小さく肩を竦め仕方がないので来た道の続きに当たる方向へ歩き出そうとした。
 けれど。
「ばいばい」
 笑っていたスマイルが抱きしめていたフィギュアの、先程アッシュが口をぶつけた箇所に頬を寄せて口付けるのを見てしまい、彼は前にも後ろにも動けなくなってしまう。
 またしてもその場に凍り付いたアッシュへ満面の笑みを向け、スマイルはさっさとひとり踵を返して歩き出す。振り返りもしない。
「朝までには帰って来てね~」
 朝ご飯、アッシュが居ないと誰も用意してくれないから。
 それだけを告げ、彼は夜闇に紛れて姿を消す。
 取り残されたアッシュは、困ったように頬を引っ掻き、伸びていた爪に皮膚を抉られて小さく悲鳴を上げたのだった。

夏草の道

 寥々とした荒野のただ中で、ひとり道を失い男が立ちつくしている。
 空は暗く重い雲が一面を覆い尽くし、旅人に道を示す星の明かりすら、今では一条の光もない。
 目印となる巨木や山並みもなく、どこまでも平坦なばかりの地平線が男を取り囲む。その耳に届くのは、死を招き吹く無音の風の声のみだ。
 ともすれば気が狂いそうになる、いっさいの哀れみも感慨もない非常なる荒野の一点に染まるシミの如く、男はそこにたたずんでいる。
 ただ、静かに。
 祈りを捧げるかのようなやや頭を前に垂らした姿勢で目を閉ざし、真一文字に結ばれた唇からは強い決意が窺い知れる。流れ行く風にそよぐ髪を、ややして持ち上げた片腕で押さえ込み、男はそれまで動くことの無かった瞼を、ゆるやかに持ち上げた。
 景色は相変わらず虚空を描いたままであったが、男の瞳は確かに、本に微弱な世界の変革を捉えていた。
 暗闇を貫き、空に照るただひとつの星を。
 それはまごうことなき、彼自身の星であった。
 男は歩き出す。影もまた彼を追った。並び行く歩調で付き従いながら、しかし決して追いつくことのない影に、男は視線を巡らすことなく己が星を旗として原野に記された一本の細い道を渡って行く。
 しかしそれでも良いのだと、影は微かに揺れた。
 自分は常に貴方と共にあるが、貴方の未来は貴方の前にこそある。後ろに伸びゆく影を、追う必要など無いのだと。
 夜明けはまだ遠く、だが迷わず男は歩み続ける。彼の背中を押す細き腕に気づくことなく――――

 日差しが暖かく、気が緩めばすぐにあくびが出てきてしまうようなのどかな昼下がり。だが真っ昼間から営業しているレオナの酒場は、妙な空気と活気に包まれていた。
「んじゃ、貰っていくぜ」
「ちゃんと酒樽は返しておくれよ?」
「分かってるって!」
 煙草を優雅に燻らせるレオナの冷たい一言に、ビクトールはまかせろ、と厚い胸板をどん、と叩いた。
「お前さんの『任せろ』ほど、当てにならないものはないんだよねぇ」
「…………ちったぁ信用しろよ」
「ま、いいさ。早く行かないとまずいんだろう?」
 しっし、と犬を払うような手振りでレオナは言ったが、ビクトールはそうだった、と忘れかけていた仲間たちのことを思い出して、慌てて床に置かれた巨大な酒樽を持ち上げにかかった。
 通常ならば男数人掛かりで持ち上げる酒樽も、食い意地ならぬ飲み意地の張るビクトールの手にかかればひとりでもひょい、とは行かずとも持ち運べてしまえる。少々へっぴり腰のビクトールの力んだ顔を眺めながら、カウンターに肘をついたレオナはふぅ、と煙を吐き出した。
 白く濁った煙が天井に向かって流れていく。それを目で追いかけるうちに、ビクトールの気合いの入った声は酒場を抜けて城の外へ出ていった。
「まったく……これじゃあ開店休業だよ」
 今朝突然、酒場にある酒をありったけ分けてくれ、というビクトール以下数名の願いを無碍に断ることもできず、適当にあしらうつもりがいつの間にか本当にあるだけ分すべて、持って行かれてしまった。今ビクトールが運んでいった酒樽が、最後だったのだ。これで店に残されたのは、数人の酒好きによってキープされているボトルと、少々のワインだけ。これでは商売にならない。
「トランの英雄さんだか知らないけど、もうちょっと早めに注文しておいてくれたら良かったのにねぇ」
 ふぅ、とため息を付き形の良い眉をひそめたレオナに、向かいに座っていたアニタが空になったグラスを揺らしながら笑った。
「たまにはいいじゃないか。ゆっくり休めると思えばね」
「バレリアも、向こうに行ったんだろう? 一緒に行けば良かったんじゃないのかい」
「あたしは、トランの英雄には興味がないしね。それに、招かれたのはトラン解放戦争に参加していたメンバーだけだろう?」
 アニタの良き友でありライバルのバレリアも、今日ばかりはビクトールたちの誘いを受けてそちらに行った。おかげでアニタは一人きり、こうやってレオナと愚痴のこぼしあいである。
 事の始まりは、ラストエデン軍リーダーのセレンがバナーの村に逗留していた、かつてトラン湖を囲む赤月帝国の暴虐から民衆を守り戦い抜いた勇者を連れてきた事にある。
 彼は英雄と呼ばれ、その右手には27の真の紋章が一、ソウルイーターを宿していた。呪いの紋章の二つ名を持つ紋章の影響が周囲の仲間たちに及ぶことを恐れ、新国の大統領に望まれながらその地位を蹴り出奔した青年。それが、トランの英雄――ラスティス・マクドゥール。
 彼がこの城に来ることになったのはほんの偶然の事だった。今ラストエデン軍はハイランドとの闘いで苦しい状況に立たされており、少しでも強い仲間を必要としていた。故に、軍のリーダーであるセレンが彼を求めたのも、至極当然の結果と考えられる。
 意外だったのは、その勝手すぎる申し出をラスティスが受けた事だった。
 戦うことを嫌い、隠遁生活に片足を突っ込んでいた彼が何故自ら戦場に返り咲こうとするのか。物憂げな瞳を遠くの空にばかり向けている彼の横顔からは、その真意が見えない。
 だから、だろう。ビクトールは今城にいる人間のうち、トラン解放戦争に参加したメンバーを集めて騒ごう、と言い出したのは。
「たまには外で飲む酒もいいもんだろう?」
 緑が濃い巨木の下に茣蓙を敷き、中央に酒樽、それを囲むようにして皆が座り料理を摘む。片手に持った杯はどれもなみなみと酒が注がれていて、飲み干せばすぐにおかわりが回ってくる。自然と、皆のペースは早まっていた。
 参加者は皆昔からの知り合いばかりとあって、最初から和やかな雰囲気が立ち上っていた。だが、むさ苦しい男たちの大声での騒ぎ合いには、数少ない女性陣から叱責の声が挙がる。
「まったく……もう少し静かに飲めないものか」
「まぁまぁ、ビクトールさんじゃ、仕方ないですよ」
 バレリアがこめかみを引きつらせて杯の酒を飲み干し、すぐさまテンガアールが相づちと次の酒をよこして苦笑する。
「本当。あの人、今までずっとあんな調子なんですよ? 今日だって、ラスティスさんをいいわけに自分が騒ぎたくて企画したんですから、絶対」
 未成年なのにがぶがぶ飲んでいるアップルが、ここにはシュウがいないせいかいつもより毒舌でまくし立てる。顔が紅潮しており、かなり酔っている様子で、ノンアルコールに徹しているテンガアールは乾いた笑みを浮かべるだけだ。
「ビクトールもわからんが、フリックも分からん。何故あんな男と一緒にいて平気なのだ?」
「腐れ縁だから、でしょ……?」
 次の酌を無言で求めるバレリアに応え、テンガアールは小さな声でつぶやいた。
「フリックさんも、結局お酒が大好きで騒ぐの嫌いじゃないだろうし、なんだかんだ言ってもビクトールさんと仲がいいから~……ひっく」
「ああ、もうアップルちゃん、いい加減その辺で止めておかない? 明日、辛いよ?」
「いいの! どうせ私なんてシュウ兄さんの役にも立てない中途半端な人間なのよ! 飲まずにいられますかっての!」
 目くじらを立ててアップルが叫ぶ。いいぞー、とバレリアまで拍手喝采を送って彼女を煽り立てるので、テンガアールは痛む頭を抱えて助けを求めるように恋人のヒックスを探した。
 しかし。
「にばん、ひっくす、うたいまぁ~~っす!」
 呂律の回らない、すでにかなり出来上がった状態のヒックスを見つけ、盛大なため息を吐いてテンガアールはこりゃだめだ、と頭を振った。
 いっそここにいる連中全員、見捨てて城に帰ろうかとも思ったのだが、ひとりくらい素面の人間がいないと困るだろうと思い直す。
「あの、テンガアールさん……食べます?」
「フッチ君……君だけだよ、僕の気持ち分かってくれるのは」
 ハイ・ヨーお手製の料理を載せた皿を片手に、ジュースを持って大人の男たちから避難してきたフッチとテンプルトンの姿に、テンガアールはつい泣きそうになった。
「大人ってさ、どうしてああも馬鹿なんだろうね」
「……それ、痛いよテンプルトン……」
 だが反面教師、という事で学ぶものが全くない訳じゃないけど、とテンプルトンが可愛くない事をしれっと言い、骨付きカルビに食らいつく。
「馬鹿にするな~!! あたしだってマッシュ先生の弟子なんだから~~~!!!」
「さんばん、ひっくすぬぎま~~っす!」
「……テンガアールさん、止めなくてもいいんですか……?」
 あっちもこっちも大騒ぎである。
「なにを?」
「だってヒックスさん……」
 着ているシャツを脱ぎにかかっているヒックスの目は完全に前後不覚、正気ではない。回りがはやし立てているせいもあるだろうが、彼があそこまで調子に乗るところは見たことがない。日頃おとなしい人間ほど、酔うと本性が出ると言うが……。
「いいんだよ。後でからかって遊ぶから」
「……ヒックス……哀れだな」
「……あはは……」
 テンガアールの冷たい一言に、テンプルトンもフッチも、返す言葉がなかった。

 一方、どんちゃん騒ぎの反対側でも静かに飲んでいる人たちがいた。
「……すまないな」
 フリックが酒瓶を片手に、樹齢百年は軽く越しているであろう木の根本に腰を下ろしているラスティスの元に歩いてきた。
「なにが?」
「いや、俺たちばっかりが騒いじまって、さ」
 本当はラスティスを迎えるパーティーのようなものだったはずだ。それなのにいつの間にか、仲間たちのストレス発散の場と化してしまった。おかげで主役であるはずのラスティスは置いてけぼりをくらい、こうしてひとりで酒を飲んでいる。
「隣いいか?」
「どうぞ」
 体をずらしてフリックに場所を譲り、ラスティスは空になった杯に酒を手酌しようとした。しかし酒瓶はもう空っぽで数滴が口惜しく垂れてきただけ。その光景を見てフリックは軽く笑い、持ってきた瓶の栓を抜いた。
「ほら」
「ありがとう」
 促されるままに杯をフリックの前に出す。透明な液体は溢れる寸前まで注ぎ注がれ、小さく波立った。
「いいの? 向こうに行かなくて」
「それはこっちの台詞だろう。お前が向こうにいないから、あいつらは本来の目的を忘れて騒いでるんだ」
「それも、そうかな」
 注がれたばかりの酒に口を付け、苦い表情でラスティスが笑う。ふと横を見るとフリックと視線があって、「なに?」と目で問いかけると彼は困ったようにはにかんだ。
「いや……やっぱり、迷惑だったか?」
「なにが」
「酒盛り自体が。お前、うるさいの嫌いだっただろう?」
「そうだったっけ」
 自分のことなのにもう思い出せなくて、ラスティスはそのままの姿勢で遠くの空を見上げた。もう長いこと、こういう風に大勢で酒を飲み料理を口にすることが無かったせいで忘れてしまったと、寂しげな声が告げる。
「ああ……特にグレミオが死んだ後は……すまない」
 不用意なことを口に出した、とフリックは言った直後に気づいて口を手で覆った。しかし発言してしまった言葉までは回収することが出来るはずもなく、おそるおそるといった風情でラスティスを見やる。
「謝らなくてもいい」
 だが、ラスティスは少しだけ表情を曇らせていたものの落ち込んだり、悲しんだりしている風には見えなかった。
「フリックのせいじゃないから」
「……だからって、いつまでも自分を責めるのはお門違いだろう?」
 ラスティスがこぼした一言の裏に隠れている微妙な感情を読みとり、すぐさま言い返したフリックは持っていた酒杯に自分の酒を注ぎ一気に飲み干す。
「責めてないよ」
「嘘付け。どこの世界に、そんな顔して自分を責めてない人間がいるんだよ」
 瞳を伏せ、俯き、堅く結んだ唇はだが微かに震えている。膝を抱き身を縮め、寒くもないのに肩を揺らし何かに必死に耐えているその姿。痛々しくて、正視に耐えない。
「そんな顔するな。グレミオが見たら悲しむ」
「僕もそう思うよ」
「じゃぁ……」
「分かってるさ。でも、まだ整理がつかない」
 足下に生える草をむしり取り、それを風に流してラスティスがつぶやく。季節は夏へ向かい、大地は緑に包まれている。これからどんどん、生き物は生気を増していくのだろう。なのにラスティスの心は、ずっと前から深く沈んだままだ。
「…………」
 何も言えず、フリックは一瞬悩んだ後片腕を持ち上げてラスティスの頭を軽く叩いた。予想外の事に、ラスティスも目を丸くする。そうしている間に、くしゃりと髪をかき回された。
「ま、俺もそうだったから……すぐに出来るとは思ってないさ」
「…………ごめん」
「お前が謝る必要なんてないだろう」
 さきほどとは全く立場が逆の会話に、ふたりともなんだかおかしくて笑ってしまう。
「オデッサさん……僕は、彼女が望んだ世界を、本当に作り出すことが出来たんだろうか……?」
 トラン解放戦争の始まりは、オデッサ・シルバーバーグの解放軍樹立から始まる。彼女は不幸なことに、道半ばにして倒れてしまったが、その志はラスティスや多くの仲間たちに引き継がれ、戦いを終焉に向かわせた。
赤月帝国の暴挙に民衆は苦しめられてきた。だが、民はあきらめの境地に立ち抵抗する術を忘れてしまっていた。そんな時代で、彼女はたったひとりから始めたのだ。だからラスティスは、自分ではなく彼女こそが、英雄と呼ばれるに相応しい人物だと思うのだ。
 彼女がいなければ、ラスティスはここにいない。多くの仲間に出会うことも、なかっただろう。
「オデッサ……か。どうだろうな。けど、お前が作った共和国の人たちはみんな幸せそうに笑っている。だったら、それでいいんじゃないのか?」
「そうかもしれない」
 彼女が望んでいたのは、皆が心の底から笑いあえる世界だ。だから、ラスティスが歩んだ道は間違っていない。
「お前は誇っていい。なんてったって、あのオデッサに認められた男なんだからな」
「それは、フリックだって同じだろう?」
「俺は、まだまださ」
「僕も、まだ足りないよ」
 トラン湖の周辺を解放しただけでは、オデッサの願いが叶えられたとは到底言えないのだ。この世界では、未だ多くの戦乱狂句の大地が蠢いている。無益な争いが繰り返され、血が流され、涙が枯れてもまだなお、戦争は止まらない。
「それが、お前がこの城に来た理由か?」
「…………そればかりではないけれど……目の前で苦しんでいる人だけでも、僕は助けたいと思うから」
 戦争が起こる。多くの人が死ぬ。ソウルイーターの喜びは、死者の嘆きを喰らうこと。戦場に立てばソウルイーターは文字通り、魂を人々から奪い去るだろう。
 死を招く紋章――だが、それでも。
「この力が役に立つのであれば……僕はもう、迷ったりしない」
 右手を左手に重ねて握りしめ、祈るように額に押し当てて彼は呟く。傍らのフリックに告げるのではなく、己自信への誓いを新たにするための儀式のようで、フリックはしばらく何も言えずにいた。
「今はオデッサさんの強さがよく分かる……」
 彼女の強さは、古きをうち破り新しきを芽生えさせようとするその第一手を放つことだ。長く構築され守られてきた丈夫な城壁を突き壊すために、一番最初に小さいながらも穴を穿つ、その強さ。その勇気に、憧れる。
「お前だって充分すごいさ」
 もっとも、死者にはどう頑張っても敵いっこないんだろうけれど、と嘯きフリックは酒をつぎ足す。目配せしてラスティスにも酒を注ぎ、並んで空を見上げて笑いあう。
 こんなささやかなことが、今はとても貴重だと思い知らされる。
 明日死ぬかも知れない命を、こうやって慈しめるのだから。
「僕は幸せなんだろうね」
「? いきなり、どうした?」
「いや……なんとなくそう思った」
 くすくすと笑い、流れてくる風に表情を緩めて目を閉じる。火照った顔に冷たい湖からの風は心地よく、間につまみとなる料理を口に運んでまた、酒を仰いだ。
「フリックも、幸せだろう?」
「幸せとか……そう言うのはよく分からないが、今ここにいて楽しいことは確かだな」
 戦いが今日もどこかで起こっているはずなのに、ここはとてものどかだ。現実を忘れ去らせる夏の香りに、フリックも目を閉じて遠くから運ばれてくる夏草の色を思い浮かべる。
「こんな時間がいつまでも続くとは思わないが……幸せとは、こんな日の事をいうのかもしれないな」
 仲間と酒を飲み、くだらない雑談に花を咲かせ、知らなかった友の意外な側面を発見して笑いあえる。そんな時間こそが、本当に必要なものなのだろう。ともすれば見過ごしてしまうようなささやかな幸せが、本当は日常のあちこちで転がっている。それに気づくことが出来る日が来ることが、今の彼らの目標であり生きる意味なのだ。
「俺は、オデッサの夢を叶えたい。あいつが遺した夢を、俺が叶えてやりたい」
 生きる人全てが喜びを分かち合い笑顔で暮らせる世界へ。実現は果てしなく遠い道のりの先にあるだろうが、何もしないよりも何かを――出来ることをやりたい。迷うよりも今は少しでも先に進みたい。立ち止まって悔やむよりも、歩きながら未来を夢見ていた方がいい。
「出来るといいね」
「お前も、手伝えよな」
 こつん、とフリックの拳がラスティスのおでこを小突いた。
「はいはい。是非とも手伝わせていただきます」
「うん。いい返事だ」
 嬉しそうに笑い、フリックは目を細めた。酒の席であり、ふたりともかなり酔っているのだがこの約束だけは、ふたりとも決して忘れることはないだろう。それほどに、オデッサの夢は大きく、そして重い。
「オデッサは言っていた。俺たちは、何もない荒野の真ん中に立っているのだと」
 目印も星印もなく、月すらない暗黒の闇の中で、ただ一人きりで立ちつくす人間なのだと。行く当てを見失い、途方に暮れるしかなくどうすることも出来ずに立ちつくすばかりの弱い人間。
 けれど。
「必ず、信じて待っていれば必ず星は現れる」
 目を凝らしどんな小さな輝きも見逃すことなく、絶対に見つかると信じて探し続ければ星は、必ず応えてくれる。荒れ果てた原野の真ん中で、たったひとつの光が世界の全てを支えているのだ。
 己自信の闇をうち破るための、希望という名の光が。
「その光が見つかれば、荒野は一瞬で草原へと姿を変える。失われた道は青々と茂った夏草の道となって再び現れる。だから迷うことはないのだ、と」
 その言葉が、今のフリックを動かしている。彼の見た光こそ、オデッサの輝きだったのだろう。
「だから俺は、歩き続けられるんだ。行き先が戦場だろうとそうでなかろうと、俺は前に進んでいく。後ろに下がることは、オデッサの夢からその分遠ざかる事になるだろう?」
 振り返らない。立ち止まらない。後悔しても、嘆いても、喚いても、その歩みだけは止めることの無いように。
「いつまでも情けないままの男でいたくないからな。俺は、胸を張って生きたい。オデッサに次に会ったとき、これだけ頑張ったんだぜ? って言えるように、俺は生きたいんだ」
「うん、そうだね」
 遠くでビクトールが酒瓶を片手に立ち上がり、ふたりの方を指さしてなにやら叫んでいる。どうも、騒ぎに参加せず静かに飲んでいる事が気にくわないらしい。
「まったく、あいつと来たら……」
 あきれ声でフリックが呟く。
「変わってないね、ビクトール」
 笑ってラスティスも立ち上がり、空になった酒瓶と皿を持って茣蓙の中心へ進んでいった。
「ごめんごめん、ちゃんと飲んでるからさ」
「……………………………飲め……………………」
 ハンフリーが一升瓶を突き出してラスティスに酒を勧め、苦笑しながら彼は杯を空にした。
「酔ってるでしょ、ハンフリー」
「…………………………………………………そんなことはない…………………………」
「あははっ、酔ってる」
「そういうお前も十分に酔ってるじゃないか?」
「シーナ、君こそ!」
 肩にもたれ掛かってきたシーナに笑いかけ、ラスティスはハンフリーが注いだ酒に口を付ける。顔はかなり赤くなっているが、足取りもしっかりしているし口調も落ち着いている。ただ少し、笑い上戸になっている程度で。
「ラスっていけるクチだったんだな。じゃ、こいつはどうだ?」
「なに? これ」
「いいぜ~~? 俺様特製配合。一気に天国見られるぜ?」
「……遠慮しておこうかな……」
「あ、ひでっ。お前俺を信用してないな!?」
「信用できなくなるようなことを先にしたのは君だろう」
「んな昔のことを今更ほじくりかえさなくってもいいだろ~~?」
「じゅうろくばん、ひっくすおどりまぁ~~~っすぅ!!」
 すでに収集がつかなくなっている。騒ぎの中心に自ら飛び込んでいったラスティスと違い、端の方から眺めるにとどめたフリックは頭を掻いて苦笑した。
「明日が大変だな。ハイランドがお休みなことを、祈るよ」
「あたしは、まけないんだから~~~~!!!!」
 アップルの怒号がとどろく。大宴会は、当分終わりそうになかった。