君がそこにいるその幸せ

 フラットに新しい仲間が加わった。
 動機はどうであれ、心強い仲間であることに違いはない。それにハヤトにとっては、彼――キールが一緒にいてくれることは正直ありがたかった。
 まだ、ガゼルは納得し切れていないみたいだけれど。でも日本に帰る手段を何一つ持たず、ヒントすら掴めていないハヤトにしてみれば、あの召還儀式の場で唯一の生き残りであるというキールだけがただひとつの手がかりなのだ。
 ただキールは人付き合いが苦手なのか、自室にこもりっきりであまり外に出てこない。呼びに行かなければ食事の席にも現れない始末で、なにかと世話を焼こうとするハヤトだったが、どうもキールはそれを煩わしいと感じている素振りがあった。
「もうちょっと分かり合えたらいいんだけどなー」
 キールの部屋の隣――自分の部屋でベッドに横になり、ぶらぶらと足を揺らしていたハヤトは木目のいびつな天井を見上げて呟く。
 今現在、キールの置かれている立場は非常に微妙だった。
 仲間として迎えられていながら、自分からその仲間達に交わろうとしない。言葉をかけてもろくな返事を返さず、一方的に会話を終わらせる。たぶん彼はとまどっているだけなのだろうが、無視をされた方は理解はしても心が追いついていない。特にガゼル、それに子供達。
 ぎすぎすした空気を肌で感じながら食事をすることは楽しくないし、味もおいしいと感じられない。
「慣れてくれたらいいんだけど、すぐには無理だろうな、やっぱり」
 日本では友人も多く、話題も豊富で誰とでも人見知りすることなく接してきたハヤトだったが、それでもすぐにキールは攻め落とせそうにない。今までにない難攻不落なキールの固い殻を、なんとかうち崩せないものか――。
 このままの状況が続けば、先に切れるのはガゼルだ。下手をすればキールが追い出されてしまいかねない。もっとも、そんなことをリプレが許すとは思えないが。
 だが、彼女も困っていることは確かだろう。ほとんど話をしたこともない相手を、そう簡単に信用出来るものではないから。
「難しいなぁ」
 少しずつ、ゆっくり、時間をかけて仲間達とうち解けて行くしかないだろう。だが、それだといつになるか分からない。
 なにか、小さくていい。何かきっかけがあれば――分かり合えるはずなのだ。
 今日の夕食の席でも、キールはなかなか現れなくてハヤトが呼びに行った。彼は部屋で本を読んでいて、ノックして入ってきたハヤトを見るとあからさまにいやな顔をしてくれた。特に何も言いはしなかったけれど、あれは完全に迷惑に思われている。
 ――本に夢中になるのはいいけど、みんなが揃わないと夕飯が始まらないっていうのも分かって欲しいよな。
 食事が終わればさっさと自室に戻ってしまう。家族(じゃないけど)団らんの時間を作ろうという気はさらさらないらしい。そんなに本の方が面白いのか? と考えて何故かハヤトは胸がむかむかした。
 自分が彼の読んでいる本に劣っているのだと、思いたくなかった。
「だーっ!! いらいらする」
 考え事になれていない頭を掻きむしり、ベッドの上でハヤトはのたうちまわった。だがそれにもすぐに飽きて、ぽてんと横になった彼は頭を抱えながらキールがいるはずの部屋と接している壁を眺めた。
 それほど分厚い壁ではないので、ひょっとしたら、今のハヤトの雄叫びがキールの耳に届いているかもしれない。そうしたら、また変なヤツだとか、迷惑だなぁ、とか思われてしまうのだ。
「はぁぁ」
 思いつきやその場の状況だけで事を判断し、先走りすぎだと仲間達からもよく言われる。考えるのが不得手だというよりも、考えるより先に体が動いてしまうのだ。喋るにも、喧嘩の仲裁にはいるのも、困っている人を見過ごせないのも。全部、深く考えてのことではない。
 それはいいことだけど、あまりよろしくないことだな、と中学時代の友人に言われたことがある。その時は彼のこの言葉の意味が良く理解できなかったけれど、今ならなんとなく、分かる。
 勢いで突っ走るのもいいが、それで後悔することだってあるのだと、彼は言いたかったのだろう。
 そういう意味では、彼はハヤトのストッパーだった。高校進学で学校が別れてしまい、会う機会がなくなってそれっきり疎遠になってしまったけれど。元気にしているだろうか、彼は。
「ちょっと、キールに似てるかな……」
 でも彼は話し掛ければちゃんと答えてくれたし、相づちを打って言葉を投げ返してくれた。キールの方がよっぽど難攻不落。
 夜もふけってきている。ともすればそのままベッドの上で眠ってしまいそうなハヤトだったが、木のドアが軽くノックされて呼ばれた。
「はーい、何?」
 返事をしてベッドから勢いづけて立ち上がり、ドアを開ければそこに誰もいなかった――というのは、冗談で。
 確かにハヤトの目線の高さには人の姿はなかったけれど、足元にはやんちゃ盛りのアルバがちゃんと立っていた。
「兄ちゃん、一緒にお風呂入ろ?」
 手にはちゃっかり大きめのタオルと着替えを持って、アルバはハヤトのズボンを引っ張った。
「風呂? ああ、忘れるところだった……」
 日本にいたときは毎日欠かさず入っていた風呂も、ここに来てからはルーズになったのか、それとも疲れているのか風呂に入ることをちょくちょく忘れてしまう。汗を拭くなら別に昼間水浴びをすれば済むことだし。
 田舎の風呂を思い起こさせる薪で沸かす風呂は、元孤児院のアジトの隅の方に、離れとして作られている。水道が完備されているわけではないから、少なくなった分の湯はつぎ足さなければならず、余計に燃料が必要とされるため、なるべく一度に数人が入るよう伝達されていた。
 もっとも、キールはそれを嫌っていつも一番最後に、残り湯にひとりで入っていたが。
「いいでしょ、兄ちゃん」
 物思いに耽っていたハヤトの返事を求め、アルバはまた彼の服の裾を引く。それに慌てて我に返ったハヤトは、ふとあることを思いついた。
「……あ、そっか」
 きっかけ、見付けた。
「裸のつき合いって言うもんな」
 ぽん、と手を打ちひとり頷くハヤトに、アルバは不思議そうな顔をする。
「どうしたの?」
「え? あ、……な、アルバ。キールも一緒に入っていいかな?」
 膝を折り、アルバの視線に合わせたハヤトに問われ、一瞬きょとんとなったアルバだったが、すぐに話の内容を理解したらしく、元気良く頷き返した。
「うん、おいら構わないよ!」
 風呂は大勢で入った方がにぎやかで楽しい。そうここの子供達はインプットされているらしい。
「じゃ、俺はキールを呼んで行くから、アルバは先に行っててくれるか?」
 薪を新たにくべ、湯の温度も見なければ行けない。その辺は昔からここに暮らすアルバの方が手慣れている。持っていたタオルを振り回して喜びを表現するアルバを見送って、ハヤトは立ち上がると一旦部屋に戻った。
 中に入り、小さなチェストから着替えの服とタオルを取り出す。それを小脇に抱え、彼は隣の部屋に向かった。
 もしかしたら、聞こえていたかもしれない。
 ぴっちりと閉じられ、まるで外部からの接触の一切を拒絶しているようなドアの前に立ち、ハヤトは一度深呼吸をした。何故こうも毎度、ドアをノックするだけで緊張しなければならないのか、その理由もよく分からないまま。
 コンコン
 軽い音を立ててドアをノックする。返事がない。
「?」
 不審に思い、もう一度ノックしようかと悩んでいると、軋んだ音を立てながらそのドアは内側に開かれた。
 出しかけていた右手のやり場に困り、そのままの体勢で待っていると、中からキールが何事か、という顔を覗かせた。
 視線が交わる。
「……何?」
「え、あ……」
 どうしよう。言葉が出てこない。
 言うことは決まっていたはずだ。なのに、どうして。キールと顔をつきあわせただけで頭が真っ白になってしまうのだろう。
「えと、その……あれ、なんだったっけ……」
 本当に思い出せなくてハヤトは焦った。ほんの数秒前まではしっかりと、忘れないように脳裏に刻み込んでおいたはずの言葉がひとかけらも出てこない。つい癖で頭を掻き抱こうとして、持ち上げた腕の間から丸めたタオルが床に落ちた。
 ふたり、揃って視線を足元に向ける。
「あ、あは、あははは……」
 乾いた笑いを浮かべたのはもちろんハヤトの方で。怪訝な顔で下から上に目線を戻していくキールの顔は、明らかに呆れていた。
 だが。
「キール!」
 もうこうなっては後に引けない。後悔する前にまず動く、それがモットーのハヤトはあげていた腕を下ろすと同時に、キールのドアノブを掴む手を両手でしっかりと握りしめた。
「!?」
 突然のことに思わず足を強張らせ、反射的に後ろに下がろうとしたキールを強引に廊下に引っぱり出し、下からのぞき込むような体勢でハヤトは笑った。
「風呂、入ろうぜ?」
 瞬間、キールの顔がなんとも照れたような、困ったような、それでいてとても迷惑に思っているような複雑な表情になったのだが、彼は自分の顔を残っている方の手で隠してしまったため、ハヤトには見えなかった。
「……断っても君は無理矢理連れて行くんだろう?」
 ため息混じりに聞こえた声を承諾と受け取り、ハヤトは大いに満足そうに頷いた。

 風呂場は、はっきり言って広い。
 離れが丸々風呂場と脱衣所になっているのだが、その広さは、ハヤトの自宅にある風呂の倍以上。悠に4人は並んで入れる風呂桶を最初見たとき、ハヤトは感動したくらいだ。
 すでに何人かが入浴した後らしく、湯気が立ちこめて湿った空気の満ちる脱衣所は、床が湿ってじめじめしていた。
「兄ちゃん、多分今入るとちょうどいい感じだと思うよ」
 ハヤトがキールを半ば引きずるように離れに連れていくと、裏に回っていたアルバが戻ってきて言った。
「エドスがお湯加減調整してくれるって。ぬるかったら言えってさ」
「いるんだ、エドス」
「うん。薪くべてくれてる」
 こちらからは見えない裏手の窯に、どうやらエドスがいるらしい。ふうん、と目を細めて裏へ出る石畳を見やり、ハヤトはキールの手を握ったまま脱衣所の扉を閉じて中に入った。
 先に脱衣所に入っていたアルバはすでに、さっさとひとり身につけている服を脱ぎ始めている。すのこが湯を吸い、足の裏を濡らす。
 洗濯籠の中はすでに満タンで、乱暴に突っ込まれた衣服の持ち主を想像しハヤトは苦笑する。適当に空いてある小さめの籠に着替えとタオルを放り込み、彼は上着のボタンに手をかけた。
「お先に!」
 すでに脱ぎ終わっていたアルバがタオル一枚を手に、脱衣所と風呂場を仕切る扉を勢い良く開けた。
 むわっとした空気が流れてきて、白い湯気が立ちこめる。この感じだとぬるいどころか熱いんじゃないだろうか、と心配になったハヤトは首を回して風呂場を覗こうとしたが、その前にアルバに戸を閉められてしまった。湿気った空気だけがその場に残り、肌に水分がまとわりつく。気持ちが悪くて、ハヤトは一気にボタンを外すと上着を脱ぎ捨てた。そのまま下に着ているシャツも脱ぐ。次いで、ズボンのベルトに手を伸ばしかけて……動きが止まった。
「キール?」
 タオルを持ったまま突っ立っているキールが視界に収まり、そのままの体勢でハヤトは首を傾げた。
 多分、キールの視線の先にいるのは自分――のはず。
「え?」
 呼ばれてようやく我に返ったのか、キールは焦点の定まらぬ目でハヤトを見た。どことなくうつろで、ボーとしている。珍しく、顔も赤い。
「もしかして体調悪いのか?」
 熱があるようなら風呂に入るのはよくない。近づいて手を伸ばし、キールの前髪をすくい上げて額に触れると、ひんやりとした感触がハヤトの指先に広がる。だがきちんと計る前に、ふいとキールが顔を背けてしまった。
「……なんでも、ないよ……」
 かすれたような声が聞こえ、ハヤトは顔をしかめる。出した手を引っ込め、しばらくキールを見つめたが彼はハヤトの方を向こうとしないので、終いに諦めて自分の脱いだ服を入れてある籠の元に戻った。
 だがその背中を、ちらりとキールが盗み見たことをハヤトは知らない。
 はあ、とため息が聞こえた。振り返ると、ようやく観念したのかキールが上着のボタンに手を伸ばすところだった。だが手元がおぼつかないのか、なかなか最初のボタンが外れてくれないでいるようだ。
 ――何をやってんだ?
 キールらしくない、と思いハヤトはズボンのベルトを抜き取りながらその光景を眺める。
「?」
 それから、妙なことに気付いた。時々キールがハヤトを見ていること、そしてすぐに視線を逸らしてしまうこと。
 今、キールはようやく三番目のボタンに指をかけた。ハヤトは、ズボンの留め具を外して片足を脱いだところ。
 ひんやりした空気が肌をかすめ、思わず身をよじらせた彼はまだしつこくボタンに手間取っているキールを見て頭を掻いた。こんな調子では、アルバが上がる頃にキールが入ることになってしまう。
「キール」
 たまりかねて、ズボンを籠に押し込んだハヤトは彼の名を呼んだ。指でこっちに来るように指示するが、顔を上げた彼は不審げな表情を作ったので仕方無しにハヤトの方からまた近づいて行くしかなかった。
 軋みをあげてスノコが揺れる。
「仕方がないなぁ」
 呟き、ハヤトはキールの手をどけて彼のボタンを指で挟んだ。
「ハヤト?」
 一体何のつもりか、と問おうとしたキールだったがハヤトの手がどうにかボタンを外そうと動いているのを見て、出かかっていた言葉を呑み込んだ。そのまま、自分の胸元で必死に小さなボタンと格闘しているハヤトを見下ろす。自然と表情が柔らかくなっていることに、キール自身、気付いていない。
「あれ? おっかしいなぁ……」
 見た目以上に複雑な構造をしているキールの服は、正しい順序で解いていかないと脱げなかったりする。そもそも彼の着ているローブは、布地に召喚術を強化する魔法が込められていて、更に防御力強化も加わっているものだから、作りが複雑化してしまうのはどうしても仕方のないことだった。
「なんで……あれ? あれれ?」
「あ、そこは……」
 違う、と言い掛かったキールがはたと口を押さえる。
「?」
 顔を上げたハヤトは、天井の方を見上げて視線を泳がせているキールを見つめる。だが一緒に手を動かそうとしてくい、と引いた瞬間キールが眉間に皺を寄せた。
「……あ、ごめん」
 キールのマントを留めている組み紐が、何故かハヤトの手首にからみついていたのだ。それに引っ張られ、キールの首が少し締まったらしい。前につんのめるような形で、キールの顔がハヤトに迫った。
 吐息が鼻にかかる。ほんの一瞬だったが、確かに彼の唇がハヤトの鼻の頭に触れた。
「…………!!?」
 心臓の鼓動が一気に早まり、顔を朱に染めたハヤトが身を引こうとした。だが、彼の手にはまだキールの紐に絡まったままで。
「うわっ!?」
 これ以上首を締められたら息が詰まるキールが一緒にハヤトにくっついて前に出てきたものだから、尚更驚いてしまったハヤトはその瞬間、後ろに退いた右足に何かを引っかけた。
「!?」
 ふたり、派手な音を立てて脱衣所の床にもみくちゃで倒れてしまう。
「いてて……」
 だが言うほどダメージは大きくなくて、衝撃で閉じていた目を開いたときハヤトはそれが何故か思い知った。
 真下にキールがいる。
「あ、ごめん!」
 心臓がドキドキいっている。顔も赤いし、風呂に入る前なのに体が火照っている気がする。やたらと耳にやかましい心音がすぐ下で自分を支えてくれているキールに聞こえるのでは、と急に不安になってハヤトは大慌てで彼から離れようとした。
 だけど。
「え?」
 ぐい、と上に行こうとしていたハヤトの腕を、下からキールが引っ張った。
 とすん、と大した抵抗もないままにハヤトの体ははだけているキールの胸に納まる。触れた彼の肌はやはり白くて、でもその割に意外なほどに余分な肉のない引き締まった体に驚く。
 ――あ……
 キールの胸もドキドキいっている。
 ――なんだろう、この感覚……
 さっきまでの不安とかが一気に吹き飛んで、安らいでくる。キールの心音がとても心地よい。
「ハヤト……」
 耳の横でキールのささやき声が聞こえて、その瞬間だけまた拍動が速まる。キールの上に収まっているハヤトの両脇で何かが動く気配がして、それが何かを理解する前に抱きしめられた。
 ハヤトの体は小さいながらしっかりと鍛えられており、日に焼けてキールよりも少し浅黒い。だが服を脱いでしまうと予想以上の白さが目立ち、その所為でまだ新しい傷跡が赤い線を残していて、痛々しかった。剣を持つには不釣り合いな手はまめだらけで、所々潰れて赤く腫れあがっている。
 キールはそんな彼の手を取って、軽く甲に口づけた。
「キー……」
 ちゅっ、という音がやけに耳に響き、ハヤトの顔はますます赤くなる。
 上向けば彼と目があった。
 逸らせない。まっすぐに見つめて来る瞳の奥に見え隠れする感情を、知りたくて。
「ハヤト」
 胸の奥にダイレクトに彼の声が届く。それだけで心臓は更に高鳴り、もっと呼んで欲しいと心が叫び声をあげる。
 ――なんで、俺、こんな……
 キールの息が顔に触れる。抱きしめられる腕に力が込められ、抵抗を封じているみたいだとどこかで思った。逃げないと、という思いはまるで起こらない。いや、むしろずっとこのまま彼の腕の中で過ごせたら、とさえ感じている自分に気付いてしまう。
 ――俺、もしかして……
 真下にいるキールがわずかに身じろいだ。ハヤトは目を閉じる。その行為に何の疑問も抱かずに。
 すぐ側にキールがいる。肌が触れ合っている。それだけがハヤトの心を満たしていく。もっと、欲しくなる。
 だが。
「兄ちゃんたち、おそーいっ!」
 ガラガラ、と風呂場の扉が開かれ、白い湯気と一緒にアルバの大声が脱衣所に飛び込んできた。
「!」
 はっ、と我に返るふたり。脱衣所の床で抱きしめあい、もう少しで互いの唇が触れ合いそうになっているこの体勢に気付いて……赤くなり、ぱっと離れた。
「あ……ごめん……」
「いや、僕こそ……」
 背中を向けあって、お互いに顔を見合わせることが出来なくて。真っ赤になっている自分をなんとか抑えようと必死になっている彼らに、風呂場から顔を覗かせたアルバは不思議そうな視線を向けた。
「兄ちゃん達……なにしてるの?」 
「………………なんでもないよ……」
 子供は知らなくていい、きっと、……多分。
「入るか、風呂」
「そう、だな……」
 長い間止まっていた脱衣作業を再開して、ハヤトとキールはさっさと風呂に入るとさっさと上がっていった。
 結局疲れをとるとか、そういった付加価値を求めることは出来なかった。その割に、何故かのぼせるぐらいにふたりとも赤くなって湯に浸かっていたけれど。

 ほかほかと薄く湯気をまといながら、風呂上がりのハヤトは思う。
 ――あれ、やっぱ、そういう事なのかな……
 足の先まで真っ赤になり、あれ以後一言も言葉を発しなかったキールは自室に戻り、ベッドの上に力無く倒れ込む。
「なにをやっているんだ、僕は……」
 ふたり、物思いに耽りながら夜は過ぎていく。

刹那の永遠

 作戦会議は嫌い。
 みんな、ぴりぴりしている。空気が重くて息苦しい。
 ボク、なんでここにいるんだろう?
 よーし、今日はさぼっちゃおうっかな。

 日々の修練が嫌い。
 やらなくちゃいけな事だとは分かっているけれど。
 俺、なんで毎日こればっかりやってるんだ?
 いいや、たまにはさぼっちまえ。

  空は晴天。雲ひとつなく青空がどこまでも広がっている。こんな日に、議場にこもって朝から晩まで会議だなんて、もったいなすぎる。
「どうしてみんな、分からないのかなぁ」
 時間になっても議場に現れないラストエデン軍リーダーを捜して回る人達の足音を聞きながら、茂みの陰に身を隠していたセレンはため息をついた。
 見付かったらまたあの重苦しい会議に連れ戻される。折角逃げ出してきたというのに、それだと意味がない。けれどまさかこんなにも早く手配が回るとは思わず、セレンはレイクウィンドゥ城の庭から出るに出られなくなってしまっていた。
「シュウってば……」
 融通の利かない軍師を思い出し、またため息をつくと彼はほふく前進でひとまずそこから離れることにした。酒場に近い茂みではいつか発見されてしまう。それよりも人があまり近づかない池の方に行けば、どうにかなるかもしれないと考えたのだ。
「みんなしてボクをいじめるんだもんなぁ。ボクだってたまには遊びたいし、一人になりたいよ」
 ぶつぶつ愚痴を呟きながら、セレンは手元ばかりを見ていた。だから、すぐ近くに迫ってきていた危機にこれっぽっちも気付いていなかった。

 上空は見渡す限りの青空で、気温も寒くなく暑くなく、ちょうどいい感じ。こんな日に、朝から晩まで道場で修行だなんて、つまらない。
「ったく、やってらんねえぜ」
 時間になっても道場に現れない、年若だが一応村では期待の星の少年忍者を探し回るモンドから隠れながら、サスケはため息をついた。
 見付かってしまったら、またあの暑くてしかも汗くさい道場に連れ戻され、しかも罰として道場の床拭きを一人でやらされることは確実だろう。それでは苦労してモンドやカスミの目から逃れてきたのか分からない。
「あー、くそうっ」
 絶対に逃げ切ってやる、と彼は胸に誓い匍匐前進で前に進み出した。一刻も早くこの道場前から逃げ出さなければ。モンドにいつ発見されるしれない。城さえ出てしまえれば、モンドの目だって届かないはずだ。
「俺だって遊びたいし、のんびりしたいんだ」
 子供扱いされるのは嫌いなくせに、こういうときに限って自分が子供であることを主張する。
 彼の意識は身を隠している茂みの向こうを通る人の方に向けられていたため、すぐ前から迫ってきていた危機にはまったく注意を払っていなかった。

ごちぃん!!

「いったーー!」
「いってぇーー!」
 ちょうど池の前辺り。茂みに隠れながら進んでいたふたりが頭部を正面衝突。そして反射的に叫んでいた。
「?」
 池の側にいた通りすがりの人が振り返り、首を傾げる。はっきりと声がしたのに、はて?と。
「きのせいかな?」
 周囲を見渡しても他に人の姿はなく、目に入った物見の塔の頂上に人影が見えたので、彼はシドがまた何かやったんだろうと一人で納得して去っていった。
 足音で気配が去っていくのを確認し、セレンの口を手で覆っていたサスケはホッと息を吐き、サスケの口を手でふさいでいだセレンは脱力して肩を落とした。
「ふー。あぶなかったぁ」
 ふたりの声が重なり合う。両者とも、冷や汗をかいていた。
「あっぶねえな。もっとちゃんと前見ておけよ」
「それはこっちの台詞だよ。なんでサスケがこんなトコにいるんだよ」
「そっちこそ。会議じゃなかったのか」
「サスケだって修行があるだろ。こんな所でさぼってて……むぐっ!」
 お互いぶつけ合ったおでこを押さえながらの応酬だったが、つい大声になりかけたセレンの口を、またしてもサスケが問答無用で押さえ込み自分ごと草むらの中に体を沈めさせた。
「いたか?」
「こっちには来ていないって。どうするの?シュウ兄さん」
 シュウとアップルの声がすぐ間近から聞こえ、セレンは硬直した。
「しいっ。黙ってろ」
 身を動かしかけたセレンをしっかりと抱き込んで抑え、サスケが息を殺しふたりの動向をうかがう。頭をがっちり掴まれているために目玉しか動かせなくなっていたセレンは仕方なく年下のはずのサスケの言うがまま、体を小さくして可能な限りで自分の気配を殺し、待った。
「裏庭の方かもしれん。行くぞ、アップル」
「あ、待って。シュウ兄さん!?」
 この辺りにはいないだろうと判断したらしい。ようやく諦めて別の、まったくもって見当違いな場所に行ってくれたシュウ達の足音が完全に聞こえなくなってから、サスケはセレンを解放した。
「苦しかったー」
 ようやく胸いっぱいに空気を吸い込んで、後ろ向きに草の上に倒れた。
「なにやったんだ、セレン」
 シュウがアップルを引き連れてセレンを探している。これは何かをやらかしたからに違いない。そうサスケは感じた。
「何って……会議が嫌だから逃げてきただけだよ」
 あんな風に血相変えて探し回られるほどのことではないと、セレンは頬を膨らませて言った。それから、
「サスケこそ。こんな所でなに、こそこそ、と……」
「…………」
 すねたような表情でそっぽを向いた彼に、セレンはピンと来た。
「なんだ、サスケも逃げてきたんだ」
 道場はいつ行ってもモンドやワカバ達が修行している。その中にサスケの姿もよくあった。けれどワカバと比べてもあまり楽しそうな顔をしていなかったから、きっと無理矢理やらされているんだな、と思っていたけれど。
 まさか本当にそうだったとは。
「うるさいなー、お互い様だろ?」
 逃げ出してきたのは。
「けど、まさかセレンが逃げ出すなんてな。なんか、意外な感じがする」
「どうして?」
「どうしてって言われても……なんてーのか、あんまり反抗的じゃないと思ってた」
 人からリーダーであることを求められ、そうあってきたセレンをサスケは見てきた。そこに「リーダーの責務を放棄する」姿は微塵も感じられなかった。そう言うとセレンは少し不満そうに唇を尖らせて、
「そう?ボクだって人間だから、たまには嫌になることだってあるよ。それに……こう毎日毎日会議ばっかりじゃ肩が凝るし、ボクじゃなくても逃げたくなるってば。なんなら今度、ボクのかわりに出席してみる?」
「ヤダ」
 即答で首を横に振り、サスケはセレンの提案を太陽の向こうにけっ飛ばした。セレンがくすくす笑う。
「ほらね、やっぱり」
 自分が嫌なことは他人にとっても嫌なことなのだ。連日の軍議に嬉々として参加している者はいないだろう。いるとしたら……筆頭軍師のシュウぐらいか。その下にいるクラウスやアップルも、さすがに少々疲れが溜まっているようだった。
「軍師殿か……俺、あの人苦手だな」
 人を見下したような態度、自信満々な物言い。確かにそうあるだけの実力を持っている人ではあるが、それが逆に、サスケのような年若の仲間には取っつきにくい印象しか与えていないのもまた事実。
「そう嫌わないであげて。シュウだって一所懸命なんだよ」
「……それを今、お前が言うのか?」
「あはははは……」
 懸命にラストエデン軍を切り盛りしている軍師から逃げ出してきたのはどこのどいつか。セレン、返す言葉もなくただ笑って誤魔化すだけ。
「さて、と。これからどうすっかなー」
 忍び装束のサスケが大きくのびをして空を見上げる。相変わらずいい天気で、ポッカポカの日溜まりが気持ちいい。
「いつまでもここにいたら見つかっちまうだろーし。どこに行くかな……」
 城の外はうっそうと茂る林だ。一部が開墾されて畑になっているが、奥の方はまだ手つかずのまま。狩りをしにハンターが入って行くぐらいで、滅多に人は訪れない危険区域もある。モンスターも、少なからず出現するし。
「そうだ。ね、サスケ。一緒に行かない?」
 隠れるのに絶好のスポットがあることを思い出し、身を乗り出したセレンが言った。
「何処ヘ……って、聞くまでもないか」
 お互い人目をはばかりたい者どうし。ここは仲良く共闘するのも、悪くない。
「よーし、行くか……と、その前に」
 ぐぎゅるるるぅ~~~~。
 サスケの腹が大合唱。一瞬セレンは惚けてしまった。
「俺、朝から何も食べてないんだよな」
「え、そうなの?」
 お日様は既に空高く。どちらかと言えばそろそろお昼ご飯の時間帯だ。それなのに朝を取っていないと言うことは……ずいぶん前から逃げ回っていたらしい。
「しょうがないだろ。俺達、朝が早いんだから」
「そっか」
 ねぼすけなセレンとは違い、サスケは日の出と共に起き出して朝食前にも軽く体を動かすのが習慣になっている。その時点から隠れていたのだとしたら、時計の針が一回りするよりも長い時間、彼は食べ物を口にしていないことになる。そりゃあ、腹の虫も鳴るだろう。
「じゃあ、どうしようか。食堂に行って何か作ってもらう?」
「見つかっちまったらそこでお終いだろー」
「見付からなければいいんだよ。ボクもお腹空いてきたし、ハイ・ヨーにお弁当作ってもらおう。シュウだって、食堂に堂々とボクがいるなんて考えないと思うし。厨房に隠れてればいいんじゃない?」
「けど……」
 サスケが躊躇を見せ、口ごもる。セレンも彼が何を危惧しているのか分かるから、あまり強くは言い出せない。
 要するに、問題の食堂までどうやって発見されずに行くか、という問題が残っているのだ。
 食堂は、そのまんまだが食事をするところだ。そしてこれからはちょうど昼食時。人で込み合っているだろうし、セレンが逃げ回っていることを知る人もいるかもしれない。そういう人がシュウに報告に行きやしないか、という不安だ。
「ビッキーに頼んで……」
「そこに行くまでに誰にも会わないって保障もないぜ」
 ビッキーは城の入口を抜け、倉庫の前を通った先にいつも立っている。そして倉庫には常に誰かが見張り番として立っているだろうし、酒場が近いこともあって人の出入りは殊の外多いのだ。
「そっか、そうだよねー」
 しかし何も持たずに出かけては意味がない。この空腹を満たしてくれるのは、どう考えてもハイ・ヨーの作った食事なのだ。
 ため息しかでない。その間もサスケの腹の虫は定期的に鳴くし、セレンだっていい加減空腹に耐えられなくなりそうだ。人の腹の虫を聞いていると、自分の方も鳴き出しそうに感じてしまう。
「どうする……」
「むー……」
 二人して腕を組み、頭を抱えて考えるが良い案は一向に浮かんでこない。そうこうしている間にも貴重な時間はどんどん消費されていくのに。
 ちりり、とセレンの右手が軽い痛みを発し始めたのはちょうどそんなときだった。
 ふい、と顔を上げて茂みの向こうを見る。
「なに、やってるの」
 そんなところで、と面倒くさそうに訪ねてきたのは。緑の法衣を身に纏った、黙っていたら他に類を見ないほどの美少年──ルックだ。
「え……あ、いや……」
 何をしているのかと問われても、すぐに解答が出てこない。あくせくしているとルックはあからさまに訝かしみの表情を見せた。だが、ふっと右手の痛みを思い出し、セレンの頭に妙案が浮かんでくる。
「ね、ルック」
 にっこりスマイルを向けられて、ルックはぎょっとして半歩下がる。だが、その前にセレンの考えを聞かずとも察したサスケが彼の腕を掴んで引っ張り、茂みの中に問答無用で引きずり込んだ。
「うわっ!」
 予想もしていなかったサスケの行動に、ルックはたいした抵抗もできないまま茂みに頭を突っ込んだ。巻き込まれた哀れな低木は頂の部分の枝を数本失い、奇妙な形にへこんでしまった。
「へへー、ルック捕獲完了!」
 なにがなんだか分からないまま、左右の腕をセレン、サスケにがっちり掴まれ、ルックは枝でこすった時に出来た傷の痛みも忘れて混乱する頭を抱えたくなった。
「……捕獲って……」
 人を獣みたいに言うな、と愚痴をこぼしつつ、彼はひたすらに彼らに話し掛けたの事を後悔した。

 偶然通りかかったルックをつかまえ、テレポートで誰にも発見されないまま食堂の厨房に行くことに成功したセレンとサスケは、いきなり現れた彼らに快く昼食のお弁当を作ってくれたハイ・ヨーに感謝しつつ、またルックを使って今度は城の外に飛び出した。
「さぼり魔コンビ……」
 巻き込まれてしまったルックがボソッと呟くのも機嫌がいいので聞き逃し、サスケは嬉しそうに大風呂敷の中にしまわれた弁当に頬ずりする。
「なんだか、こういうのってすっごく久しぶり」
 友達とピクニック。キャロにいた頃はナナミやジョウイと一緒に裏山に探検に行ったりして、夜遅くなるまで遊んでいたこともあった。もともと山育ちであるため、セレンは石で固められた冷たい壁の城よりも、木々のぬくもりを肌で体感できる森の中の方が安心できて好きだった。
「いい加減、僕は帰りたいよ」
 城はもうだいぶ遠くなった。ルックの役目は彼らが森に入った時点で終了している。なにもこの先ずっと一緒にいる必要はない。しかし、ため息に乗せたルックの呟きは、
「えー!いいじゃん、一緒に行こうよ。ハイ・ヨーのお弁当、ルックの分も入ってるんだから」
 食事時の忙しい時間帯に無理な注文をしたというのに、ハイ・ヨーは少しも手抜きしないで彼らのためにお弁当を用意してくれた。その量は半端ではなく、とてもセレンとサスケだけでは食べ切れそうにない。ルックが加わったとしても、彼は色が細いからそれでも残してしまうかもしれないのだ。
「張り切ってたもんな、ハイ・ヨー」
 天気がいいから外へみんなでピクニックに行くのだ、と説明したら、ハイ・ヨーは「それはとてもいいことネー!」と言って想像していたよりもすごいお弁当を作ってくれた。風呂敷に包まれた重箱の中身は、何故か中華だが。
「5人分くらいはあるよね、これ」
「心配しなくても、俺が全部食べてやるって」
「…………」
 3人、仲良く森の木漏れ日の下をゆっくりと進んでいく。先頭はセレンだ。行く先は以前キニスンに教えてもらった見晴らしの良い丘。
「あれ?」
 しんがりをとっていたサスケが、右手前方で何かを見つけ、立ち止まった。じきにセレンとルックも彼が何に気付いたのかを知り、足を止める。向こうもこちらに気付いたようで、進む方向を変えて近づいてきた。
「なにやってるんだ?」
「……そちらこそ」
 サスケが代表して声をかけると、白い竜の子供を胸に抱いたフッチが3人を順に眺めて小声で呟く。
「僕は散歩の帰りですけど……珍しい組み合わせですね」
 セレンと、ルックと、サスケ。まったく共通点がなさそうな──ともすれば仲が悪そうな(特にサスケとルック)人が集まってどこかに行こうとしている。フッチでなくとも、奇妙に思うだろう。
「そうだ。ね、フッチもおいでよ。これからお昼なんだ」
 両手で抱えた風呂敷包みを示し、セレンが言う。
「ボク達だけじゃ食べ切れそうになくって。お昼ご飯まだなんでしょ?」
「え……そうです、けど……いいんですか?」
 ここからだと、城に戻るよりも風呂敷を広げる場所の方が近い。そう提案するセレンにまだ迷っている様子のフッチ。
「かまわないって。行こうぜ、な?」
「城に戻って君たちに会ったと報告されても困るしね……」
 サスケの誘いの台詞に続き、ルックがどこか遠くの方を見ながら言う。
「は……?」
 しっかりと聞いていたフッチが、何事、と怪訝な顔になったが、セレンがなんでもない、と慌てて首を振ったのですぐにいつもの表情に戻った。
「どうしてそーゆー可愛くないことをいうかな、お前」
「年下に『お前』呼ばわりされる筋合いはないね」
 ぼそぼそと後ろの方でサスケとルックがにらみ合っているのに苦笑いを浮かべ、セレンは「先に行くよ」と言い残しフッチを連れて再び歩き出した。
「待てって。場所知ってるのセレンだけだろー!」
 セレンに置いて行かれたら、森の中で迷うしかない。喧嘩を中断させて、サスケは急いで走り出した。でもお弁当は落とすまいと必死に抱きしめているが。ルックも、サスケほどではないにしろ多少急ぎ足で枯れ草の積もる大地を踏みしめ、歩き出す。
 程なくして、彼らは森を抜けた。
 緑濃い丈の低い草が地表を覆う、湖に突き出るようにして立つ丘。白い清楚な花が咲き誇るそこは、レイクウィンドゥ城からまっすぐ西に進んでいけばたどり着くことが出来る。ただ、そこに行くまでにはモンスターの巣がいくつか確認されており、あまり人に知られていない場所でもあった。
「すっげー。気持ちいー!」
 丘にたどり着いたとき、まずサスケが叫んだ。ルックとフッチも、吹き抜ける風の暖かさと緑の匂いを感じていた。
「ね、良いところでしょ?」
「よくこんな場所、知ってましたね」
 お弁当を草の上に置き、風呂敷をほどきながら嬉しそうに言うセレンに、手伝っていたフッチが感心したように言った。
「教えてもらったんだ、前に。他にもこんな場所がいくつかあるんだけど……ここは特にお気に入りかな?」
 5段の重箱がふたつ。飲み物もちゃんと用意してきている。重かったが、運んできてよかった。おまけで言うと、確かに広げたときの重箱の中身のボリュームは、フッチがいなければ食べきれないであろう量だった。
「いっただっきま~~っす!」
 箸を取り、両手を合わせて食前の挨拶を済ませたサスケが、まず我先にと好物を求めてさまよい出す。
「サスケ、お行儀が悪いよ」
 重箱を突っついて、あれでもないこれでもないと箸を巡らす彼に、セレンは呆れた声で叱る。
「ちゃんと、どれを食べるか決めてから箸をつけなきゃ。はい、お皿」
 取り分けようの小皿を各自に手渡し、それからようやくセレンも重箱に箸をのばす。
 ハイ・ヨーの料理の腕は、今更分かり切ったことを言うようで申し訳ないが、天下一品。どれも味はくどくなく、また軽すぎず、舌の上で転がすと何とも言えない味わいが広がって行く。何を食べても「まずい」としか言わないルックも、空の下で食べる食事はやはり違うのか、黙々と箸をすすめていた。
「これ、結構イケるな」
「これも、なかなか……くせになりそうな味」
「おいしいです、とっても」
「…………悪くはないね」
 食事中はとにかく静か。元気が有り余っている少年が4人も揃っているのだ。あれほど食べきれるか心配だった料理も、30分もしないうちに空箱の方が多くなっていた。残っているのはデザートだけ。
「その中華マン、俺が食べる」
「えー!? ボクも狙ってたんだけど」
「このマンゴープリン、もらっても良いですか?」
「好きにすれば?」
「プリンも駄目ー!俺が頂く!」
「そんなこと言ったって……みんなにひとつずつしかないですよ」
 4種類、各ひとつずつデザートは用意されていた。中華マン・マンゴープリン・杏仁豆腐・月餅の4種類だ。
「サスケは他にもいっぱい食べてたじゃない。これくらい譲ってよ!」
「とにかく、駄目っつったら駄目なの!!」
「ですから一人ひとつずつしかないって、言ってるじゃないですか!」
 甘いものが大好きのサスケは、ガンとしてデザートを譲ろうとしない。セレンも最後の楽しみであるデザートをみすみす手放す気になれないし、フッチだって出来るなら食べたい。三者がにらみ合いを始めると、傍観者に回っていたルックはやれやれ、とため息をついた。しかしその手には……しっかりと杏仁豆腐の器が。
「ボクはラストエデン軍のリーダーだよ。リーダーに従うのが筋じゃないのさ」
「こんな時だけリーダーぶるなよ。職権乱用だぞ!」
「止めて下さいよ、ふたりとも!仲良く半分ずつにすれば良いじゃないですか!」
 殴り合いになりそうな険悪な雰囲気を前にして、ルックの手は更に別のお皿に伸びていた。ぷるるん、と持ち上げれば気持ちよさそうに震えるマンゴープリンにスプーンを差し込み、パクリと口に放り込む。
「…………あ」
 それにセレンが気付いたのは、最後の一口をルックが口に運び込んだ後だった。
「あーーーー!!!!」
 三人、大合唱。
「うそ、うそー!」
「プリンが、俺のプリンが……っ!?」
「杏仁豆腐もないです!」
 晴天の空の下、大騒ぎはますますひどくなっていく。
「ルック、お前というやつは~~!もう勘弁ならねぇ。今日という今日は許さないからな!」
「……馬鹿じゃない?」
 たかがデザートぐらいで、と言いたげなルックの目に、サスケ、怒り状態発動。
「ああ、もう!セレンさん、ふたりを止めて…………セレンさん?」
 もしもし?と俯いているセレンをフッチがのぞき込むと。
 彼のほっぺたはパンパンに膨れ上がっていた。
「…………食べたんですね」
 中華マンが消えている。ちゃっかりというか、卑怯というか。
「フッチも、食べちゃえば?」
 最後のひとつ、月餅を指さし、もごもご言わせながらセレンは口いっぱいの中華マンを呑み込んだ。
「でも……」
「大丈夫、大丈夫。食べちゃったもん勝ち。ね?」
 ルックを追いかけ回しているサスケを見やり、悩むフッチにセレンはけしかける。
「じゃあ、半分だけ……」
 このままではサスケはデザート無しに終わってしまう。それはあまりにも可哀相なので、フッチは重箱に残った月餅を半分に分けることにした。しかし。
「まてこらーーー!」
 空中に浮かんで避難したルックを追い回すサスケが、足下をまったく見ていなかったのは不幸だった。彼が走り去った後には、ひっくり返った空の重箱と、使い終わった箸や皿、めくれ上がった風呂敷が散乱。
「……あ」
「あーーー!!」
 サスケにけ飛ばされた重箱の中身が草の上に散らばっている。その中に、くっきりと足形をつけて半分以下の厚みになってしまった月餅の姿が……あった。
「サスケーー!!」
 馬鹿野郎!とフッチのシグルトが(本来の使い方を誤ってはいるが)空へ楕円を描いて投げ放たれる。
 ぷすっ。
 お見事。槍はサスケに命中した。
「フッチ……」
 おとなしい子ほど、怒ると怖いと言うが……怖すぎる、これは。
 ──これからは気をつけよう……。
 横で事の全てを見ていたセレンは、思わず心の中でそう誓っていた。

 夕暮れを丘の上で見送り、暗くなる前に城に帰ろうと彼らは荷物の片付けに入った。
 風呂敷を広げなおし、重箱をきれいに積み上げて蓋をする。使った皿やコップも全て持って帰る。決して捨てて帰ったりはしない。潰れた月餅も、空の重箱にしまわれた。
「サスケ、頭平気?」
 どくどくと血を流していたサスケに尋ねると、彼は「なんとか……」とだけ力無く答えた。
 フッチのシグルトが刺さった傷は、セレンの輝く盾の紋章とルックの風の紋章によってふさがれたあとだが、流れ出た血はどうしても戻ってこない。危うく三途の川を渡りかけたサスケは、以後おとなしくしている。
 城に帰ればシュウのお説教が待っていることだろう。サスケも、モンドにこってりしぼられるはずだ。
 でも、楽しかった。
「また来ようね」
「そうだな」
「いいですね」
「……まあ、行ってあげなくもないけど?」
 彼らにとって一日は一瞬。けれど、その日起きたことは永遠に彼らの中にあり続ける。
 たとえそれが、刹那の時だったとしても。

コトノハノマホウ/牛尾御門の場合

 暇ですね、と呟いたら。
 そうだね、とだけ静かに返される。ほんの少しだけ笑みを含んだそのことばに、思わず自分まで頬を緩ませてそれから、背中合わせの彼の身体に凭れ掛かった。
 制服の布地越しに、彼の心音を微かに感じる。
 暇、だな。
 もう一度呟く。空に向かって、独白を零す。
 いや、本来は暇であってはならない時間帯なのだ。受験が押し迫り、授業も無くなって自主登校になっている三年生とは違い、自分はまだ一年生。そしてまだ、昼には少し早い本来なら机に向かって黒板とノートを交互に睨み付けていなければならない、授業中。
 欠伸をする。眠そうに目を擦ると、参考書に目を落としていた彼が肩越しに振り返ろうとして身体を捻った。けれど全体重を預けられている所為で出来なくて、真横を向いた段階で諦めてしまったようだ。
「じゃあ、しりとりでもしようか」
 何気ない提案。ぱたん、と分厚い参考書を閉じる音がそれに続く。
 身体を起こした。きちんと座り直し、けれど座ったまま腰から上だけで振り返って彼を見つめる。
 にこりと微笑む彼に、構ってもらえる事が嬉しくてつい、頬が緩んだ。
「はい!」
「じゃあ、僕からね。そうだね……」
 肌寒さを覚えるようになった秋の真ん中。大学の推薦入試はもう間近に迫っていて、彼だって決して暇ではないはずなのに。
「アルキメデス」
「……何ですか、それ」
「アルキメデスの原理。聞いたことくらい、あるんじゃないのかな?」
 紀元前のギリシャの数学者、アルキメデス。浮力に関しての法則を発見した事で知られている。中学の理科で習ったはずだ、と彼が言い、覚えていなくてばつが悪そうにオレは頭を掻いた。
「君の番だよ?」
 参考書の角で自分の掌を軽く叩き、彼が急かす。相変わらずのにこやかな笑みをそのままにして。
 オレは手を下ろし、膝の上に置いた。
「す……スペード」
「ドミティアヌス」
 即答で耳慣れぬ名前を返され、また目が点になる。
「……誰っすか」
「古代ローマ皇帝のひとりで、キリスト教徒を迫害しゲルマン人を討ったけれど、専制政治に失敗して謀殺された男」 
 そんなの知るわけがない、と文句を言いそうになったがこの人に何を言っても言い負かされるだけだろうと思い直し、口を噤む。代わりに、しりとりの続きを考えて視線を空に浮かせた。
 白い雲が静かに流れていく。授業をする教師の声が、どこかの教室の窓が開いているのだろう、ここまで聞こえてきた。
「す、す……すー……スコットランド」
「ドレス」
「また『す』ー!?」
 嫌がらせのつもりで「ど」で終わることばを返してみたのに、見抜かれていたように「す」で終わることばで返されてしまった。つい声を荒立てて天を仰いだオレに、彼はクスクスと笑いながら目を細めた。
 笑うときに目が糸のように細くなるのは、彼の特徴だ。そして本当に優しい気持ちで微笑むとき、彼の目尻はほんの少しいつもより下がる。
 オレの前で彼が目尻を下げて笑うのを見ると、嬉しくなる。
「君の番だよ」
「あう……う~……」
 考え込んでしまう。単純なしりとりだったはずなのに、変な知恵比べになってしまっている気分だった。
 もう少し困らせてやりたい。けれど自分の学力と彼の知力との差は歴然としていて、なかなかやり返せるだけの単語が思い浮かばない。もう一度「す」で始まり「ど」で終わる単語を考えてみるが、考えれば考えるほど何も思い浮かんでこなかった。
 焦ってしまう。もっと単純に考えれば良いはずなのに、難しく考えようとするから余計になにも出てこない。
 オレが困った顔で必死に無い知恵を絞っている間も、彼は静かに微笑みながら待ってくれている。
 呆れたり、見下したり、しない。黙ってオレが答えを出すのを待ってくれる。オレを待ってくれる、いつだって。
 オレが、追いつくのを。オレが追い掛けている事を知って、時々振り返って、手を差し出して、待ってくれている。
 そんな彼だから。
 そういう人だから。
 オレ、は。
「す、す……すき……」
 ぽつり、と。
 ことばが勝手に零れ落ちた。
 一瞬だけ空気が凍り付く。え、とオレは自分が今呟いたことばに驚いて目を丸くして。
 彼もまた、同じような顔をして笑みを消し、オレを見つめ返している。
 かぁっ、と、理解した途端にオレの顔が真っ赤になった。体温が急激に上昇していく、心拍数も同じだった。もし今がもっと寒い冬だったりしたら、オレから上がる湯気が見れたかもしれない。
 とにかくそれくらい、オレは真っ赤になっていた。
「あ……あ、違う今のは、そっ、そう! アレです、農具のっ……!!」
 鍬の事だ、と言い返そうとしたオレが動転したまま両手を左右に大きく振り回す。
 彼がふっ、と優しい表情で笑った。目尻が下がる、恐らくオレが知る限りの中で、一番。
 嬉しそうで、楽しそうに、笑った。
「続けても構わないかな?」
 笑みを隠していた手を退かし、けれど鈴を転がしたような笑みを残した声で告げる。オレは反論を返すことも出来ず、なんとか縦に首を一度だけ振ることに成功した。
 彼はオレの返事を待ち、深く息を吸って、そして吐いた。真っ直ぐにオレを見つめて、笑う。
「キス、して良いかな?」
 今度こそオレの目は点になった。あんぐりと開いた口を、彼は面白そうに見つめる。
「なっ……何いきなり!」
「理由、知りたいかい?」
 面白いようにことばが繋がっていく。後から思い起こして気付いたのだけれど、彼はわざと狙ってやっていたのだろう。思えばしりとりに誘った事さえ、策略だったのかもしれない。
 けれどこの時のオレは、そんなところまで思考が廻るはずなど当然なくて、動転したまま大慌てで彼の問いかけに両手のフリ付きで首を横に何度も振り回した。
「い、良いです! 聞きたくない!」
「……嫌、かな?」
 語尾が掠れるくらいの声で叫び返すと、途端彼の声は沈み寂しそうな表情をくっつけてオレを見下ろしてくる。そういう顔は卑怯だと、言いたかったけれどことばは喉に引っ掛かったままで出てこなかった。
「なんで……そうなるんですか」
「構わない?」
「今更でしょ」
 オレの気持ちはバレバレで。
 彼の気持ちもバレバレで。
 けれど一度としてことばにした事もなかったし、されたこともなかったから。
 正直驚いた。
 でも、驚いた以上に。
 嬉しい。
「しょうがないだろう?」
 僕は臆病者なんだよ、と心臓に毛が生えてそうなくせに、そう嘯きながら笑って、オレの顔に影を落とす。
「嘘つき」
 どこがだよ、と返してオレも笑った。
 ことばはもう、それ以上続かなかった。

笑顔の行方

 マイクロトフ。マチルダ騎士団の元青騎士団長。生真面目な性格の持ち主で、多少頭でっかちな融通の利かない所もあるが心根は優しくしっかりしており、誇りを持って行動する男である。
 ただちょっと、表情の起伏に乏しいかもしれないが。
 背も高いし格好いいし、年頃の女の子にとってはあこがれの存在。元赤騎士団長のカミューと並んで、レイクウィンドゥ城の女性陣からは圧倒的な人気を博している。
 ただし本人にその自覚はない。
 さらに勿体ないことに、彼は女性が苦手のようだった。
 ずっと騎士として生きてきて、さっきも言ったが融通が利かない。精神面で不器用なせいでひとつのことにしか集中できないから女性の扱い方も良く知らないし、あまり興味もないそうだ。彼にとって、今はラストエデン軍を勝利に導くことしか頭にないのかもしれない。
 だからといって、世の女性陣が彼を放っておくわけももちろんないのだけれど。
 マイクロトフはいい迷惑?

「ねえねえ、カミュー様」
 メグが色男で知られるカミューに話し掛けたのはもう少しでお昼時というぽかぽかしたテラス。彼女の後ろにはメグと同年代の少女が数人、頬を赤らめながらもじもじと立っている。
「なんでしょう?」
 優雅な振る舞いで振り返ったカミューがやや腰を屈めてメグの視線に合わせると問い返してくる。にこやかな笑顔をもったいぶることなく周囲に振る舞うことで、後ろに控えていた少女達から黄色い歓声が上がった。
 だが、すぐにキッとメグに睨まれてしおらしくなる。今日はカミューの笑顔にほだされに来たのではない。
「ひとつ質問なんですけれど」
 気を取り直し、メグはカミューに尋ねようと拳を握りしめる。少女達もグッと息を呑んで彼の返事を期待の眼差しで待っている。一体何だろうといぶかしむカミューだったが、
「マイクロトフ様の笑っている所、見たことありますか?」
「はい?」
 真剣に聞いてきているメグに失礼かと思ったが、カミューは思わず変な顔になりかかってしまった。がく、と膝の力が一瞬抜けてしまい、危うく間抜けな様を少女達にさらすところだった。
「ですから、マイクロトフ様ですよぅ」
 聞こえなかったのかともう一度言い直したメグに、カミューはほんの少しこわばった顔を作ってメグを見返した。この顔は冗談を言っている顔ではないし、後ろの少女達もカミューの顔を伺いながら何か待っている。
 てっきり自分のことを聞かれるのだと早とちりしていた彼は、まさかマイクロトフの話題を出されるとは思っておらずすぐにまともな反応を返すことができないでいた。
「マイクロトフが……なに?」
「笑ってるところ、カミュー様なら見たことあるでしょう? どんな感じですか?」
 たしかにつきあいの長いカミューはマイクロトフのいろんな表情を見たことがある。いくら無愛想だと言われるマイクロトフとは言え、まったく笑わないわけではない。
「私たちマイクロトフ様の笑顔が見たいんです」
「どうすればマイクロトフ様は笑って下さいますか?」
 少女達の切ない訴えにカミューは苦笑した。そういうことか、と。
 自分のように回りに愛嬌を振りまくということをあまりしないマイクロトフの笑顔は、彼女たちにとっては貴重なのだろう。しかしどういうときにマイクロトフが笑うのか……考えてみてもすぐに思い出せるものではない。
「マイクロトフか……」
 あまり大口開けて豪快に笑う体質ではない。それはカミューも同じだが。
 考え出したカミューに、メグをはじめミリーやテンガアール、何故か混じっているニナも興味津々で答えを待っている。
「そうですね……。ありきたりですが食事中は表情も朗らかだと思いますけれど」
 なかなか思いつかなかったらしい。羨望の眼差しで見られるのには慣れているカミューも好奇の目で見られるのは苦手のようで、とりあえず今のところはこれで逃げようと適当なことを言ってみた。
 けれど。
「食事……あ、そっかー。そうですね、どうして気がつかなかったんだろう」
「もうじきお昼ご飯の時間よ。マイクロトフ様が食堂にいらっしゃる前に、席を確保しておくのよ!!」
「おーー!!」
 元気の良い声で拳を振り上げて彼女たちは合唱した。そしてカミューをすっかり忘れ去って走り出す。
「あ、あの……」
 おいて行かれたカミューは周りから見てなんだか滑稽だった。
 さてさて、一方のマイクロトフはといえば。
 メグ達一行が食堂に駆け込み、座って食事をしていたマルロとコウユウを蹴り飛ばして作った空席を確保し終えた直後に、午前の訓練を切り上げて汗を拭き拭きやってきた。
「なにすんだよー」
 床の上でサンドイッチを口に放り込むコウユウがわくわくとマイクロトフを見つめる彼女たちに怒鳴ったが、ミリーのボナパルトに残っていたサンドイッチを全部奪われて泣きながら走っていってしまった。可哀相なことに、そのことに彼女たちはまったく気付いていなかったのだが。
 マイクロトフの今日のお昼ご飯はてり焼きサンドにオムライス、スペアリブにトマトサラダでした。
「いよいよだわ」
「そうね」
 メニューを注文することなく、テーブルに張り付くようにしてマイクロトフを凝視する彼女たちの周りには異様な空気が流れている。食堂にいた人達は皆怪訝な顔で彼女たちのテーブルを見ていたが……これが何故か、マイクロトフは気がつかない。
 ごくり、とニナが唾を飲む。
 しかし。
 食べ始めから一定のペースで箸を進めるマイクロトフの表情はいつもと変わらぬ鉄面皮。きちんと咀嚼をして飲み下し、消化が悪くならないように姿勢も正して食事をする彼は、その間よそ見も全くなく無表情だった。ある意味怖い。
「ごちそうさまでした」
 最後に感謝の言葉を忘れずに。両手を合わせて合掌した彼は、きれいに片付けられた皿を返すと足早に午後の訓練に向かっていった。がっくり、である。
 力尽きてテーブルに突っ伏した彼女たち。テンガアールが拳を握りしめて誓う。
「まだまだ……諦めないわよ」

 午後の作戦会議は洗濯物がいっぱいの下で。
 白いシーツがいくつも風にはためいている。ヨシノが忙しそうに物干しに洗いたてのいい匂いのするシーツを並べていくのを横目に、地面にうずくまって彼女たちは次なる手段を講じていた。
「だからさ、やっぱりリラックスしているときが一番でしょ?」
「例えば?」
「お花畑の中とかー」
 ミリーがボナパルトをいじりながらおっとりとした口調で言う。
「どこにそんな花畑があるのよ」
 ニナがむすっとした顔で言い返し、ボナパルトを突っつく。
「きゅぅ」
 小さく鳴いたボナパルトが逃げ出そうとするがそれはミリーが許さない。じたばたする謎の生物を両手に抱きしめ、むすっとしたミリーがニナを睨んだ。
「なによ。ニナはフリックさんを追っかけてればいいじゃない」
「いいじゃないのよ。たまには」
 喧嘩に発展しそうなふたりを前に、最年長のテンガアールがため息をこぼす。
「やーね、余裕のないって」
 この中で唯一の彼氏持ちな彼女の呟きに、3年前からつきあいのあるメグは苦笑した。
「テンガ、ヒックスのことあんまり放っておくと、彼逃げちゃうよ」
「へーき。ヒックスは私がいないとなんにも出来ないから」
 肘をついて当たり前のように言ったテンガアールに、メグは心の中で密かにヒックスに同情した。
「止めなさいよ、ふたりとも。話がちっともすすまないでしょ」
 ミリーとニナの間に手をひらひらとさせて、テンガアールが呆れた声でふたりに言った。むすっとした顔でふたりから睨まれるが、テンガアールはまったく気にしていなかった。
「マイクロトフ様の笑顔よ、え・が・お。どうするの? 諦める?」
「まさか!」
 ふたりの声が見事にはもった。本当は仲がいいのでは? 
「やっぱりリラックスは大事よ。忙しそうだもの、だから食事ものんびりととれないんだわ」
「そうよ、ゆっくりしているときが狙い目ね」
「だから、どんなときなのよ、それは」
 メグが身を乗り出してふたりで妙に納得しあっているミリーとニナに尋ねる。その後ろで、乾いてふかふかのタオルを両手いっぱいに抱えたヒルダがヨシノと話をしていた。
「これ、どこに持って行くんです?」
「お風呂の方にお願いします。テツさんがいますから、渡して下さい」
「分かりました」
 大人の女性ふたりの会話を聞いて、ニナの目がにわかに輝き出す。
「これだわ!」
 ぱちん、と指をならして彼女は良いアイデアがひらめいたと嬉しそうに叫んだ。
「お風呂よ、お風呂! お風呂こそが人間一番リラックス出来るひととき。私もいつかフリックさんと……うふふ」
 ハートマークをいっぱい飛ばして自分の世界に浸りだした彼女に、残る三人は白い目でニナを見上げる。
「アイデアは悪くないけど……」
 困ったように頬を掻きながらメグが苦笑い。
「男湯に入るのは、ちょっと、ねぇ……?」
 テンガアールも同調し、ミリーを含めて三人で引きつった表情のまま向かい合い、そして深くため息。ただニナだけがトリップしたまましばらく戻ってきそうになかった。

 結局頼るものはひとつ、と夕方になってから彼女たちはもう一度カミューの元を訪ねた。
「マイクロトフの笑顔は見られましたか?」
 顔を合わせるなりそう聞いてくるカミューの意地の悪さに上目遣いで睨んだメグ。ははは、と軽い笑い声でカミューは「すいません」と謝った。
「どうすればいいと思いますか?」
 あれから色々考えたけれど、良いアイデアはちっとも浮かんでこない。ああでもないこうでもないと繰り返すうちに、時間は過ぎてもう夕刻。あともう少しすれば日も暮れて夜がやってくるだろう。
「私の方も考えてみましたが」
 こほん、と咳払いをして前置きし、カミューが楽しそうに沈んでいる少女達を見下ろす。その瞬間、一気に暗くなっていたメグ達は浮上してきた。
「何かあるんですか!?」
 がばっ、と顔を上げてニナがきらきらと目を輝かせる。両手を胸の前で結び、期待の眼差しでカミューを見つめる。他の女性達もほぼ同様だった。
 ──すまんな、マイクロトフ。
 同僚を売るような真似はしたくなかったが、女性の期待を裏切ることはやはり出来なかったと、カミューはここにいないマイクロトフに心の中で詫びた。
「彼はあれでも、小動物が好きでね。マチルダにいるときもよく庭に住み着いていたリスに餌をあげていましたよ」
「動物! そうか、その手があった!」
 一斉に少女達から歓声が上がって、カミューも満足そうだ。
 顔に似合わずマイクロトフは小さな動物をかわいがる。弱いものは強いものが守ってやらなければいけないという基本理念に基づく結果らしい。
「ちっちゃくなくちゃ駄目よね」
「城にいる動物っていったら……キニスンさんのシロとか?」
「大きいわよ。それよりももっと相応しいのがいるじゃない」
「頑張って下さいね」
 あつまって相談を始めた4人に、カミューは自分の役目は終わったと去っていった。口元には楽しそうな笑みを浮かべている。なんだかんだ言っても、結局楽しいことが大好きなカミューは彼女たちの味方だ。マイクロトフは不幸な事だが。
 ……てなわけで、彼女たちが連れてきたのは。
 マクマク、ミクミク、ムクムク、メクメク、モクモクのムササビレンジャー……ではなく、ムササビ5匹。捕まえれるのが大変で、終わったときにはみんな、息も絶え絶え。最後は強制的にボナパルトに呑み込ませて捕獲したのだった。
「いい? マイクロトフ様に抱きついて、甘えてくるのよ?」
「ムー??」
「ムー??じゃないの。分かってるのかなあ、本当に」
「大丈夫なんじゃない?」
 ムササビのリーダー、赤いマントのムクムクにしつこく作戦を言って聞かせるニナが不安がるが、ミリーは至って楽観的だ。捕まえるときに体力を使い果たした、何故か訳も分からないままかり出されたからくり丸とヒックスは今にも力尽きそうである。
「とにかくやってみるしかないでしょ。折角捕まえたんだし」
「来たよ!」
 見張りに出ていたメグが手を振って合図する。夕食を取るために道場から出てきたマイクロトフは、すっかり気のあったモンドと明日の修行メニューについて語り合いながら食堂に向かっていた。
「ちゃんとやるのよ」
 最後に念を押してニナはムクムク達5匹を茂みの中からマイクロトフが通り過ぎようとする道の真ん中に押し出した。
「なんだ?」
 赤、ピンク、青、緑、黄色の各色のマントをつけたムササビの突然の出現に、足を止めたモンドがいぶかしみ、マイクロトフも首をひねる。
 茂みの中では青白い顔になっているヒックスと故障寸前のからくり丸のことなどきれいさっぱり忘れ去った4人が今か今かとマイクロトフの笑顔を待ちわびていた。
「ムー」
「ムムー!」
「ムムムーー」
「ムームム!!」
「ムー?」
 ニナによってマイクロトフに抱きつけ、とくどいくらい教え込まれた彼らムササビは、途中からなにかとんでもない誤解をしていたらしい。マイクロトフ達の進路をふさぐように一列に並んだムササビは…………。
 直後、右手を掲げ上げてポーズを取る。
「あっ!」
 この光景を見たことがあったテンガアールが自分の口を手で押さえて冷や汗かいた。視線が泳いでいる。
「ムーーー!!!」
 ムクムクの叫びを合図に、一斉にムササビはマイクロトフに飛びついた。しかしただ飛びついたのではない。それぞれ頭、両手、両足を分担してしかっと掴んで飛び上がる。
「駄目ー!!」
 テンガアールが悲鳴を上げて立ち上がった。びっくりしたメグとニナとミリーの前で。
「ムササビの協力攻撃は、即死効果の利かない相手でも3%の確率で即死させられるのよーーー!!!!」
「ええええーーー!!!!???」
 驚きに目をぱちくりさせている彼女たちの前で、マイクロトフは静かにムササビたちに連れ去られて行った。餌を巣に持ち帰るようだったと、モンドはその時のことを後日語ってくれた。
 とにかく、マイクロトフはムササビにあっけなく連れて行かれてしまったのだ。もはや笑顔どころではない。
「マイクロトフ様ー!!!」
「待ってーー!!」
 口々に叫びながら、4人はムササビを追いかける。しかし城の塀を越え森に向かってだんだん小さくなる彼の姿を追いかけ続けることは不可能で。
「……どうする?」
 高い塀を前にテンガアールが残り3人に問いかけると、
「……見なかったことに」
「何もなかったことに」
「そゆことで」
 おいおい、お前らそれでいいのか?
 しかしどうやらそれで話は片づいてしまったらしい。彼女たちは暮れる夕陽を背に、今日の夕食はなんだろう、と白々しく語り合いながら去っていった。
 結局ヒックスとからくり丸も忘れ去られたままだった。

「……一体何が起こったのだ?」
 森の中、藪の中でマイクロトフは呆然と自分が今作ったばかりの大きな穴を見上げながら呟く。
 ムササビに連れ去られた彼は森の真上でついに重みに耐えられなくなったムササビに捨てられ、真っ逆様に緑の葉が生い茂る木の枝をクッション代わりに地面に戻ってきた。見上げた穴はその時に出来た緑の中の空間。
 体のあちこちがすり切れ、服にはいっぱい葉っぱや細かい枝が付いている。偶然落ちたところが藪の上だったから良かったものの、これが何もない地面だったらと考えるとぞっとする。
 ともかくこのあまりに情けない体勢を何とかしたい。がさがさと藪を揺らして脱出を試みるうちに、近づいてくる足音に気付いた。
「……あれ?マイクロトフさん……?」
 側の木の幹に手を置いて不思議そうに首を傾げているのは……ラストエデン軍リーダーのセレン、その人だった。
「何を……してるの?」
「私にもよく分かりません」
 いきなりムササビにさらわれてこんな所に落とされた、などとどうして言えようか。恥ずかしいだけではないか。
「手伝うよ」
「いえ、それには及びません」
 ズポッと藪から体を抜いて、パンパンと体の各所を叩き服に付いた葉を落とす。彼が沈んでいた藪は可哀相にもぐしゃぐしゃに潰れてしまっていた。
「あ、待って」
 これで全部の葉っぱや枝は落ちたはずだと体を回して確認したマイクロトフに、セレンが慌てて声をかけて彼の腕を引っ張った。
「ちょっと屈んでくれるかな?」
 背の高いマイクロトフの頭に手を伸ばし、セレンが一枚の緑の葉を掴む。
「ついてたよ」
 ちょっと触った感じでは分かりにくい小さな葉だったのでマイクロトフも見落としていたのだ。
「ありがとうございます」
 くるくるとマイクロトフから取った葉を指先でつまんで回すセレンに、マイクロトフが礼を言う。
「どういたしまして。怪我、大丈夫?」
 あちこちに出来ている擦り傷を気にしてセレンは彼に尋ねた。紋章の力があればすぐにこれくらいだったら治して上げられる。そう言ったセレンに彼は微笑みを浮かべた。
「では、お願いできますか」
 ほんわかとした空気をまとっているセレンにトゲトゲした雰囲気のままでいられる人間は少ない。それは、マイクロトフとて例外ではなかったのだった。

away

 けたたましい、乗用車のブレーキ音が周囲に鳴り響いて。
 続いて、慌てて北へと走り抜けていく白い4WDが。
 周囲に人影はなく、車が走り去ってしまうと辺りはまたシン……と静まりかえってしまう。
 彼は、乗用車が消えていった方角を暫く無言のまま眺めた後、視線を前方へと戻した。
 先程、本当につい今し方。
 急ブレーキを踏んだはずの乗用車が猛スピードで駆けて行った理由は、彼の前に広がるさほど幅も広くない、横断歩道さえないアスファルトで固められた道路の上に残されていた。
 血まみれの、肉塊が、そこに。
 彼は黙って歩き出した、周りに彼の行動を見守る存在はない。新たに、この道路を訪れる物好きなドライバーも居ないのか、テールライトは遠目にさえ見当たらなかった。
 チカチカと、間もなく寿命を迎えようとしている街灯が明滅を繰り返し周辺に頼りない明かりを提供している。夜の空は薄い雲が棚引き、月明かりを隠して物寂しく薄暗い。
十歩も行かないうちに、彼はその肉塊の元へと辿り着いてしまった。
あの車が戻ってくる様子はない、至って静かな夜の時間が彼を包み込んでいる。他に動く気配は皆無。
 その中を、彼はゆっくりと膝を折り肉塊に片手を伸ばした。
 触れようとするが、その手前で一瞬躊躇したらしく手が止まる。引き戻されかけた手だったが、やがて恐る恐るといった風情で白い指先が、血に濡れる毛並みをそっと撫でた。
 その瞬間、微動だにしなかった肉塊が僅かに、身じろいだ。
「……っ!」
 気付いたときにはもう彼は己の手を胸元へ引き戻し、湿り気を残す指先をもう片方の手で包み込んでしまっていた。表情にほんの少しだけの怯えを含む色が表れ、けれどそれもじきに、薄れていく。
 にー、と。
 心細げに、その肉塊は鳴いた。
 いや、それは錯覚だったのかも知れない。全身を高速で走っていた乗用車に激しくぶつけられ、その上跳ね上がった身体を再び車体にぶつけて路面に叩きつけられたのだ。全身の骨は砕かれ、鳴く体力すら残っているはずがなかった。
 それともそれは、為す術もなく一瞬にして命を奪われねばならない小さきものの、最後の抵抗だったのか。
 息を呑み、彼は路上の肉塊を凝視する。
 瞬きをすることさえ忘れた彼の、紅玉の瞳に映るそれは弱々しく、儚い。最早立ち上がることさえ叶わず、身体を震えさせる事が精一杯なのだろう。傍らに座す存在を見る事すら、出来ていないはずだ。
 肉塊の瞼は己が流した血によって濁り、固められてしまっている。歪な形で折れ曲がった脚の、裂けた部分から骨が飛び出しているのが薄明かりの下でも分かった。否、折れ曲がった骨が内部から皮を突き破ったのやも知れぬ。
 どちらにせよ、この命はじきに燃え尽き、消えてなくなるだろう。
 もう一度、それは鳴いたようだった。
 彼は目を閉じ、流れていく風の中に紛れてしまったそれの鳴き声に耳を傾ける。切なく、哀しい声は彼の胸を締め付け、同時に残虐な心を呼び覚ます。
 徐に、彼はまた腕を伸ばした。
 今度は両手で、もう自力では動くことの出来ないそれを抱き上げる。胸元へ引き寄せる動きの中で、彼は曲げていた膝を伸ばし立ち上がった。
 振動が辛いのか、またそれはか細い声で鳴いた。
「………………」
 沈黙したまま、彼はその肉塊の身体をそっと、撫でる。血にまみれた毛並みはその指先を受け止めることなく、与えられた力の分だけ沈みそのまま戻っては来なかった。ただ撫で過ぎていった彼の指先が、深紅の色に染めあげられただけに終わる。
 だのに彼は自分の手が、服が、赤く汚れていく事にも構わずそれを撫で続けた。
 そうしてしばらくするうちに、彼の腕に抱かれたそれが苦しげに呼吸をし、血を吐いた。
 今までの比でない程の血液が、彼の白いシャツを赤黒く染める。じんわりと滲みこみ、広がっていく液体に微かに、彼は眉目を歪めた。
 それは誰が見ても分かるはっきりとした、彼の表情の変化だった。
 バランスを取り、彼は肉塊を片腕に抱き直す。そして、喉に血が詰まったらしく苦しげなそれの喉元に、細くしなやかな指を這わせた。
 親指の腹に、喉骨が当たる。反対側へ回した人差し指の腹が、脊椎の出っ張りを確認した。
 少しだけ、力を、込める。
 抵抗は無かった。
 コキリ、と。
 音もなく感触だけが指先を通して彼に伝わり、それだけだった。
 それ以外に何もなく、それ以上なにも起こらなかった。
 そして肉塊は完全に沈黙し、動かなくなる。口の中に残っていたらしい吐き損ねた血液が、だらんと外へ飛び出した舌を伝ってこぼれ落ちる。それは彼の服には落ちず、アスファルトに沈んで闇に紛れて消えた。
 しばらく、彼は其処に佇んでいた。
 まるで時計の歯車が狂ったように、軋んだ動きでただの肉塊になったそれを抱きしめる。瞼を落とし、顔を伏せるが涙は流れることがなかった。
 やがて、長い時間をかけて顔を上げて瞳を開いた彼はゆっくりと、踵を返し歩き出した。
 どこか頼りない足取りで、けれど真っ直ぐに前だけを目指して歩いていく。
 アスファルトの道は何処までも続く果てのない様相を呈していたが、それも何時か終わりを迎えるであろうことを、彼はちゃんと、知っているのだ。

 その人は、なにも言わなかった。
 半分開いたままの扉のノブに手を置いたまま、やや茫然とした顔で彼を見下ろしたあと視線の先を、若干下方向に修正する。
 けれどそれでも、その人はなにも言わなかった。
「………………」
「…………………………」
 お互いに沈黙が続き、絡み合うことを忘れた視線はけれど同じ場所に集約されていた。
 そのうちに扉を閉める音がその人の後ろで低く響いて、暫くぶりに顔を上げるとその先にその人は居なかった。
「こっち」
 戸惑いながら視線を巡らせると、顔を向けていたのとは反対方向から声がして弾かれたようにそちらを向く。その人は背を向けていて、首の上からだけで彼を振り返っていた。
 視線が久方ぶりにぶつかると、その人はおいで、と小さく告げて歩き出してしまう。縋るような思いでそれに続き、彼らは少しだけ歩いた。
 三歩分、彼らの間に距離がある。
 なにも言わない、言葉は交わされない。沈黙が重く、朝靄に沈む大気が湿気を帯びて彼にまとわりつく。鬱陶くて払いたいのに、彼の腕は両方とも埋まってしまっていて動かすことが出来なかった。
 そっと、胸に抱く肉塊に指を這わせる。
 もう暖かくなかった。
 やがてその人は立ち止まり、彼を待つ。三歩分あった距離を詰めきり、横に並ぶと先にその人がしゃがみ込んだ。追いかけて彼もその場で膝を折る。
「埋めてあげよう」
「………………」
 ひとこと、彼が呟く。
 頷くことでしか、返事が出来なかった。
 その人は、穴を掘った。スコップが無いので、柔らかな腐葉土を両手だけを使って掘り下げていく。城の、庭先の土は軟らかくまだその人の指を傷つける事は無かったけれど、肉塊を埋めて覆い被せるだけの量を掘るのには、それなりの時間が掛かった。
 普段から嵌めているグローブを外し、爪先まで覆っている包帯さえ解いた彼の指が、濃い茶色の土を抉り取っていく。
 彼はそれを、ずっと眺めていた。

……車に、撥ねられたんだ……

……うん……

……血まみれで、倒れていた……

……うん……

……撥ねた車は、そのまま逃げていった……

……うん……

……戻っては来なかった……

……うん……

……私は、ずっと、見ていた……

……うん……

……こいつが飛び出すところも……

………………

……車が、勢いよく走り込んでくるところも……

………………

……こいつが、撥ね飛ばされる瞬間も……

………………

……アスファルトに、叩きつけられる瞬間も……

……ユーリ……

……私は、ずっと、見ていたんだ……

……ユーリ、もう……

……空に舞ったこいつが、私を見ていた……

………………

……目が、合ったんだ。一瞬だけだったが……

……うん……

……それなのに、私は思い出せない……

……?……

……その瞬間、どんな顔をしていたのだろう、こいつは……

………………

…………まだ、生きていた…………

……え?……

……まだ、生きていたんだ……

……その子が?……

……ああ。暖かかった……

………………

……重傷だった。もう助からない傷だった……

……うん……

…………だから…………

……ユーリ?……

……わたし、は……

……ユーリ……

……こいつの、首、を……

……ユーリ、言わなくていい……

……こいつの、首を絞め、て……

……ユーリ!……

…………私が、殺した…………

……ユーリ……

……殺した、この手で、私が……

…………うん…………

……殺したんだ……

穴は、十五センチにも満たない深さにしかならなかった。
ユーリは、その中へ静かに仔猫の死骸を横たわらせる。その上に、スマイルはそっと土を被せていった。
 掘る前は平らだった地面は、埋められた仔猫の体積分と空気の分だけ、なだらかな山の形に盛り上がる。墓標となるものはなにもなかったが、せめて、とスマイルは近くに咲いていた小さな花を数輪、摘んできてその前に供えてやった。
 再び、音が消えて沈黙がその場を支配する。
 空気は凛として冷え、朝靄に湿気っていた風も何処かへ姿を消した。静かに、彼らは庭の片隅に座り込み出来上がったばかりの小さな墓に、手を合わせていた。
「ユーリは」
 爪の間に入り込んでしまった土を穿りだしながら、スマイルは傍らにいる彼に目を向けることなく、呟く。
「この子の、苦しみを取り除いてあげたのだと」
 助からない傷だっただろうことは、既に死んだあとだったとは言えスマイルの目にも明らかだった。
 腹部が亀裂し、飛び出していた肋骨の間から内臓が見えた。数回叩きつけられた衝撃でどこもかしこも砕かれ、潰されてしまっていた。虫の息があったことさえ、奇跡だったのかもしれない。
 あとに残されたのは、苦しみ痛みを抱えながら死を待つ短い時間だけだったはずだ。
「そう……考えることは」
 ゆっくりと、スマイルはユーリへと視線を向ける。
 紅玉と丹朱が、重なった。
「出来ないかい?」
 多少不器用な、哀しげな微笑みを見せられてユーリは、横にいるスマイルを見ていた瞳を伏した。幾らか足許を泳いで、それは結局出来上がったばかりの盛り土に、辿り着く。
「だが、それとて……」
 生き残った側の、勝手な解釈に過ぎない。
 けれど、死んだものの心は戻ってこないから、結局どう考え倦ねたところでどれもこれも、生者の解釈にしかならない。
 ならば、少しでも気持ちが軽くなる取り方を選んだとしても、罪に問われる事は無いはずだ。
 風が、流れていく。

……ユーリは、さ……

………………

……誰に対して、赦しを求めているの?……

………………

……それとも、君は……

………………

……本当は、さ……

……なんだ……

……死にたいの?……

………………

……ねぇ……死にたい?……

………………

……じゃあ、さ……

………………

……ぼくが、さ……

……貴様が?……

……殺して、あげるよ……

………………

……ぼくがユーリを、殺してあげる……

……私、を……

……うん……

………………

………………

……殺す?……

…………うん…………

……スマイル……

……なに?……

……出来ると、でも?……

……出来るよ……

……そう、か……

……うん……

………………

……ねえ、ユーリ……

……なんだ……

……君は、さ……

………………

……ぼくに……

………………

……殺されることを……

………………

……赦してくれるの?……

………………………………

……ユーリ?……

「お断りだ」
 振り切るように、彼は言った。
 きっぱりと、はっきりと、断言して彼は立ち上がった。
 まだ低い太陽の光を受け、眩しそうに目を細めて彼は漸く、己の格好に気付き顔を顰める。
 血と獣の毛に汚された洋服はすっかり本来の色を失い、見るも無惨な状態になってしまっている。自分自身の流したものではないにせよ、改めて光の下で見てしまうと気持ちが悪い事この上ない状態だった。
 よくぞ今まで平気だったなと、事故の精神状態を疑いそうになり、ユーリは軽く額を押さえた。その指先もまた、乾いていたものの血で汚れている。
「着替えてくる」
 そして、恐らくもうじき朝食の時間になるだろう。
「ああ、そうだねぇ……」
 頬杖を付き、未だ傅いたままのスマイルが遠くを見つめながら呟いた。地面に置いてあった自分の手袋を拾い上げ、ポケットへと押し込む。
 ユーリは歩き出し、スマイルは立ち上がらない。けれど途中で、ユーリは脚を止めて振り返った。

……スマイル……

……なに?……

………………

……ユーリ?……

…………なんでもない…………

……そう?……

……ああ……

……ふーん……

………………

……あ、ユーリ……

……なんだ?……

………………

……スマイル?……

……やっぱり、なんでもない……

…………そうか…………

……うん、そうだよ……

……そう、か……

……うん……

……………………

……ユーリ……

………………

……あとで、ね……

……ああ、あとでな……

暑くて寒い夏の思い出

 暑い、と。
 誰かが口に出して言った途端熱さが増してきたような気がした。
「うぅ……」
 呻き声をあげながら声のした方を見る。起きあがるのも億劫で、首だけを振って眼球を苦しくなるまで動かして確認した先には、ハヤトと同じように床の上でマグロになっているガゼルが居た。
 その横には、肌が触れ合わない程度の距離を守ってアルバも、少しでも涼しさを得ようと板張りの床に貼り付いていた。
 窓から差し込む陽光の影になる位置に三人、それぞれ思い思いに両手両足を放り投げて寝転がっている。更にその場所は彼らの部屋ではなく大きな窓がある庭に面した居間にあたる部屋の中だった。
 暑苦しい上着を脱ぎ捨て、人目も構わず上半身裸で寝転がっている様は本当に、以前テレビで見た漁港に荷揚げされたマグロのようである。昼間からぐだーっと伸びている男達を後目に、フラットの女性陣は今日も元気だ。
「もう、こんなところに転がられると良い迷惑よ!」
 ぷんすか、と腰に手を当てて姦しくフィズが彼らを叱るが、暑さにやられて立ち上がる気力さえ乏しい男どもは全く無反応。放っておくと夕方を過ぎ日が完全に沈みきるまで此処でこうしていそうな感じだ。
「うるせーよフィズ……」
 怠そうに口を開き、ガゼルが「暑い」に続いて言葉を紡ぐ。面倒臭そうに片手を顔の上に上げて、移動する太陽の光が彼の顔に降りかかり始めているそれを遮る。そのままの体勢で膝の屈伸運動により床の上をずるずると移動するその姿は、雨上がりに這いずり回る蝸牛に似ていた。
「五月蠅いってなによ、ガゼルこそ邪魔だからそこ退きなさい!」
 リプレなみに口達者なフィズにべしっ、と叩かれてガゼルは剣呑な表情で彼女を見上げる。しかし既に彼女は同じように寝転がってへたばっているアルバの脇腹に蹴りを入れていた。
 普段の彼女なら怒鳴るだけに終わるところが、力業にまで至っているところからしてフィズも実のところは暑さに参りかけているのだろう。
 向こう側で、いつものように縫いぐるみを抱えているラミが不安そうに見ている。だがもこもこの布地を使っている縫いぐるみは、見ているだけでも暑さを覚えるくらいだ。
 今日のような暑い日くらい、抱えていなくても良いのにと思うのだが、彼女にとってはあのクマはその暑さに負けないくらいに大事なのだろうか。
「あづいよ~~~~」
 舌っ足らずにアルバが呻く。
「だ~! 言うな、言ったら次から罰ゲームだからな!」
 がばっと起きあがったガゼルが額から汗を噴出させて怒鳴る。かなり苛々している様子だ。
 ようやく自分ものろのろと身を起こしたハヤトは若干跳ね上がったり凹んだりしている後ろ髪を手で押さえた。僅かに湿っている感じがするのは、汗の所為だろう。
「もう、なにやってるの?」
 台所から顔を出したリプレも、半袖の涼しげな服を着ている。邪魔になるからと三つ編みで背に流している髪は珍しくアップで一纏めにされていた。
「リプレ母さん、あのね」
「ガチャガチャ五月蠅せぇんだよガキども!」
 ぶち切れ寸前。暑さで頭に血が回りすぎているらしいガゼルがリプレの元へ走ったフィズに思い切り怒鳴りつける。傍に居たハヤトの耳にキーン、と響くような音だ。
「五月蠅いのはアンタでしょ。子供相手に何やってるのよ」
 びくっと怯えたラミに大丈夫だから、と言ってリプレはガゼルに怒鳴り返す。この場合、正しいのはリプレでガゼルのはただの八つ当たりだ。
「かき氷食べたい……」
 ふたりの口げんかを後目に、床の上に座り直したハヤトは外を見てぽつりと呟く。後ろでは相変わらず暑苦しいのに余計熱を発散させるような口論が続投されているが、間に割って入って止めようという気にもならなかった。火に油を注いでヒートアップされては溜まらない。
「西瓜、かき氷、アイスクリーム、シャーベット、シェイク、チョコバナナも良いな」
 夏の定番おやつを順に思いつく限り口に出し、想像してその冷たさをせめて心の中だけでも楽しもうと思うのだが、逆に食べたくなるばかりで暑さは収まる気配が見えない。口の中の唾を呑み込んでも、喉の渇きは癒せそうになかった。
「ああ、アイス食べたい」
 腕を伸ばしてもう一度床に抱きつこうかと思ったが、次にすると二度と立ち上がる気力が出てきそうになくて止めておいた。ガゼルとリプレの口げんかはまだ終わらない。
「随分と騒がしいけれど、どうしたんだい?」
 少しでも風を呼ぼうと手で扇いでいたら、真後ろから声がした。いつの間にか其処にキールが立っていた、しかも普段と変わらない服装でマントだけを外している。見るからに、暑苦しい長袖長ズボンスタイル。
 一方のハヤトは上半身裸で下半身も膝丈のハーフパンツ一枚。これで暑い暑いと騒いでいたのだが、キールの服装は見ているだけでも充分暑苦しくて汗が出てきそうだった。
「う……」
 人の服装で汗を掻くというのは楽しいことではない、と改めて実感してしまったハヤトだった。
「いや、さ……キールは暑くない?」
「暑いね」
 なんてことはない、今日はいい天気ですね、と返すような涼しげな声で返されてもまるで説得力を感じないキールの声にハヤトはガクッと肩を落とした。
「召喚師って、暑さ寒さを感じないんだろうか」
「僕を人間ではないみたいに言わないでくれないかな」
 これでも一応、暑がっているんだよとキールは苦笑しながら言い返してきたけれど、相変わらず説得力皆無。室内気温は恐らく三十度を超えているはずなのに、全身を覆い尽くして肌の露出も首から上だけ、というような格好の彼は汗ひとつ、流していないのだから。
 絶対何かある、と疑われても仕方がないだろう。
「涼しくなる召喚術って、ないのか?」
 現代日本にはクーラーという便利な機械が存在している。召喚術はなんだって呼び出せるのだから、クーラーのような能力を持ったなにかを呼び出せてもなんら可笑しく無いのでは。
 そんな単純な思考回路からはじき出された疑問を口に出したハヤトに対し、キールは矢張りなんら変化ない顔で、
「あるよ」
 と言うものだから。
「ふーん、そう。あるんだ」
 つい、ハヤトは相槌を打つだけで終わってしまいそうになった。
「……あるの!?」
 三秒後気付いて、素っ頓狂な声を上げてキールを見る。彼は何をそんなに驚くのか、と逆に驚いてハヤトを見下ろしていた。
「あるよ?」
 万能とは言えないものの、召喚術は多少の気候の操作も可能だ。でなければマーン家の屋敷の庭で年中花が咲き乱れるという事実も説明できない。逆に、あれが召喚術の恩恵によるものだと理解してしまえば、温暖な気候を保たせる以外の使い方も出来ると直ぐに分かったはずだ。
「本当に?」
 疑い深く何度も確認してしまうのは、その涼しくなると言う召喚術に思い切り期待を寄せてしまっているからに他ならない。これが、ない、と否定させた時や失敗したときの事を考えるとその落胆ぶりは類を見ないものになるだろう。
 しつこく聞いてくるハヤトにその度に頷いて、キールはやれやれと肩を竦めた。いつの間にか、ガゼルたちも喧嘩を止めて静かに彼らを見守っている。暑さに参っているのは何もハヤトだけではない。
 涼しくなるのであれば万々歳、たとえにっくき召喚術とはいえ、目先の利益に人間は弱いのだから。
「どうやって?」
 早くやってみせろ、とガゼルがせっつく。困ったようにキールは眉間に皺を刻んだ。
「僕はメイトルパの召喚術を使えないんだけれど」
 幻獣たちの世界、メイトルパ。其処に暮らす幻獣に氷を操る事の出来る種族が存在しているのだという。彼らの力を借りることで、この場を一時的に涼しくするのだと言うのがキールの説明だった。
 そして彼が召喚できるのは、機界ロレイラルと霊界サプレスだけであるとも。
「それじゃぁ、無いのと同じじゃないかー」
「サモナイト石はあるんだけれど」
 だから、誰かメイトルパの召喚術を使える人間がいれば問題ないと随分用意よろしくキールはポケットから取りだした緑色の宝石を掌に載せた。それから室内にいるメンバーを見回して結局、一番近いところに居たハヤトにそれを手渡す。
「俺?」
「僕は獣属性を持ち合わせていないから」
 ハヤトは総ての属性を持ち合わせている極めて特異な存在だ。彼ならば、すんなりと召喚が可能だろう。
「あー、うん、分かった」
 サモナイト石を右手で握りしめ、その感触を確かめながらハヤトはひとつ頷いた。
 背中には期待に満ちた眼差しがキールと自分以外の全員分、矢のように突き刺さっていて少し痛い。皆、この熱さに神経が苛立っているのだ。これで失敗などしようものなら、夕食抜きでは済まないだろう。
 なんとしてでも成功させねば。その使命感だけにハヤトは燃えていて、キールに具体的な召喚内容を聞くことをすっかり忘れていた。
「名前は?」
「ええと……確か、大寒波」
 天井を仰いでキールは呟く。名前からして、もの凄く涼しくなりそうな雰囲気がした。
「大寒波、な。よし」
 握りしめたサモナイト石に意識を集中させ、ハヤトは目を閉じた。メイトルパへの門を押し開くイメージを頭の中で想像し導かれるままに名前を呼ぶ。
「注意しておかないといけないのは、あまり規模を大きくしすぎないこと。効果範囲も広いし」
 横でキールが注意事項を口に出して説明をし始めていたが、ハヤトは回りの期待に勢いが先走っていた。キールの言葉など聞いてもいなくて、更にサモナイト石を握る掌に力を込めた。
 キールも、その事に気付かないで説明だけを続ける。
「力調整をしておかないと、大変なことになるから……」
「大寒波!」
 ふたり分の声が重なって、けれどハヤトの声の方が大きかった。
 フラットの本拠地、孤児院の真上だけが唐突に影がかかって暗くなった。太陽光が遮られ、夜が突然現れたかのようだ。
 ひんやりとした空気が開け放たれたままだった窓から流れ込んでくる。
「おっ」
 ガゼルがまずその事に気付いて嬉しそうに声を出した。
 誰もが、これであの茹だるような暑さから解放されると思った。ハヤトも、そう思っていた。とにかくこの暑さをどうにかしたくて強く念じていたから、その分術は彼の気持ちを反映してとても強い効力を発揮したのだ、と教えられたのは全部が終わってからだった。
「だから言ったのに」とキールはひたすら呆れていたけれど。
 ひゅぅぅぅぅ~~…………
 それはまるで、雪山に訪れた吹雪の前触れのような風の泣く声。
 ぞくり、と肌寒さを覚えて鳥肌が立った両腕を擦り合わせた頃にはもう、時既に遅し。
「これ、って……」
 名前は『大寒波』。意味は、冷却された空気が波のように押し寄せてきて気温が急激に低下する現象の事を言う。
 孤児院上空を覆ったのは冷たい空気を満載した雲で、流れ込んできたのは波のように押し寄せてくる冷気。勢いは、突然強まって。
 ごくり、とつばを飲み込む音を最後に妙にリアルに聴いた。

「うわぁぁぁ~~~~~~~!」×6

 涼しい、どころではなかった。
 確かに暑さは何処かへ飛んでいってくれた。だが、今度は
「寒い!」
 ガチガチと歯を打ち鳴らして鼻水を垂らしてガゼルが叫ぶ。リプレも子供達を抱きしめて少しでも暖かさを分け合おうと必死だ。
「だから、出力は調節しないと」
「そう言うこと、先に言ってくれない?」
「聞かなかったのは何処に誰だった?」
「ぅ……」
 窓に氷柱がいくつもつり下がっている。壁に床に、霜が所狭しとつき立っていた。歩くたびにサクサクと心地よい音がするが、素足で霜踏みはかなり、痛い。扉は凍り付いてしまって、食堂以外の部屋に逃げる事も出来ず暖かい服装に着替えることも出来ない。
 故にガゼルとハヤト、それにアルバは未だ床の上でマグロになっていたときと同じ服装だった。
「あの、さ」
 ひとつ質問なんだけど、と唯一この場で長袖のキールにすり寄って、なんとか寒さをしのごうとしていたハヤトが苦笑しながら顔を上げた。
「暖かくなる召喚術も、やっぱりあるんだよな?」
「あるよ」
 出力を間違えると一瞬で孤児院は焼け野原になるだろうけれど、となんて事ないようにキールは頷く。
「やってみるかい?」
 両手でハヤトを抱き込んで彼を温めてやりながらキールは微笑んだ。向こうではガゼルが、ついに観念したらしくリプレと子供達と一緒になって少しでも体温を分けて貰おうとしていた。
「……やめとく」
 孤児院を凍り付けにした上に丸焦げにしたら、彼らに会わせる顔がない。
 結局、その日の夜遅くまで孤児院は氷に覆われたまま。そして次の日の朝には屋内は水浸しになっていて、ハヤトたち男メンバーは問答無用で、部屋掃除に駆りだされたのだった。

Holy Night

 ×印がつけられた手帳は、もうじき街中がネオンに彩られて恋人達が浮き足立つ季節に差し掛かろうとしていることを彼に教えてくれた。
「は~……」
 大きな溜息をつき、窓際の日向で手帳を顔の上に翳し、床の上に大の字で寝転がっていたハヤトは残り少ない今年という年月を思って二度目のため息を零す。
 もうそんな季節になってしまったのか、どうりで寒いはずだ。そう思ったが元々リィンバウムと彼がいた地球とは気候の流れ方が随分と違う。寒いとは言っても、まだまだ東京の真冬には届きそうにない暖かさが漂っている。
 聞いた話では、どうやら雪も山間の地方まで行かないと拝めないらしい。年に数回は降ることもあるものの、ここ数年は工場地帯が撒き散らす排気が影響しているらしくまともに積もるだけの雪が降ったことはないらしい。
 金の派閥がサイジェントで勢いをつけ、町の景観を一変させてしまう前はそこそこに雪も降り、子供達が我先に真っ白い大地に足跡を刻んでいたらしい。
 だがそれも、過去のものになりつつある。
「クリスマスか」
 大きく赤い丸印が付けられている手帳に踊る文字を眺め、三度目の溜息。どうやら今年のクリスマスはこの家――フラットのアジトである孤児院で過ごすことになりそうだ。
「なに辛気くさい顔してるのよ」
 床に寝転がったまま憂鬱そうにしていたハヤトに気づき、口うるさいフィズが近付いてきて彼を真上から覗き込んだ。そして彼が手にしている手帳に気づき可愛らしい顔を顰める。
「どうかした?」
 それが、ハヤトが前の世界から持ってきたものだと感づいたらしい。妙に聡いときがあるこの幼子に心配されてしまい、苦笑しながら彼は起きあがった。しかしまだ床の上に座り直しただけで、膝の上に12月のアドレスを広げて頬杖を付く。
 ハヤトの横に座り直し、手帳を覗き込みながらフィズは見たことのない文字に首を捻った。しかしまるで特別の日である事を誇示するように、小さなリースのイラストと一緒に赤丸で囲まれた24日のマスに目が行き、そこを指さした。
 無数の×印は、その日のみっつ手前で止まっている。
「これは?」
「あぁ、クリスマス」
「くりすますぅ?」
 耳慣れない単語にフィズは素っ頓狂な声を出して鸚鵡返しに口に出した。だがどうもしっくり来ないらしく、何度も小声で繰り返しつつ自分のものに出来るように単語を呟く。そうこうしている間に、ふたりで何をしているのか興味を引かれたらしいラミも、大きな縫いぐるみを抱きかかえてとことこと近付いてきた。
「どうしたの……?」
 顔半分をクマの縫いぐるみで隠してしまう癖は相変わらずだったが、こちらから話しかけなくても言葉をかけてくれるようになった彼女に微笑み、ハヤトはふたりに簡単に、自分が知っている限りのクリスマスについて説明してやった。
 その日はイエス・キリストが誕生した日の前日であり、家族や恋人に贈り物をする日であること。本来は静かに神への祈りを捧げる日であるのだけれど、彼が居た国ではむしろ一種のお祭りになっていて年に一度ご馳走を出してツリーを飾り、赤と白の服を着た髭をたっぷり蓄えたサンタクロースが、良い子にしていた子供にプレゼントを配りに煙突からやってくる、という事、云々。
 それらを手振り身振りを交えながらつい熱が入って語ってしまったハヤトは、しかし終わりに近付いた頃に気づいた。
 フィズとラミ、それから途中から混じってきていたアルバが一様に同じような顔をしている事を。
 つまりは、彼の言葉を鵜呑みにして信じて、自分たちにもサンタクロースなる老人がやってきてプレゼントをくれるに違いない、と。
 だって彼らは貧しいながらも文句を言わず、リプレの手伝いをかって出たりみんなのために一生懸命になって頑張っている。これが良い子でなくて他になんと表現するのだろうか。
 目をキラキラ輝かせ、胸の前に手を結んでハヤトに同意を求める表情は彼をたじろがせた。
「うっ……」
 まさかこんな事になるとは思ってもおらず、予想外の展開に彼は冷や汗を垂らす。もしかして自分はとんでもないことを彼らに教えてしまったのだろうか。事実その通りなのだが、最早後悔先に立たず。完全に手遅れ。
「ねぇ、ハヤト! さんたくろーすって、靴下にプレゼント入れてくれるんだよね!」
「じゃあ、一番おっきな靴下用意しなくちゃ」
「…………(コクン)」
 子供達が勢い良く立ち上がり、ハヤトに最終確認の声を上げる。何事か、と騒ぎに台所から顔を出したリプレが不思議そうにしているのが見えて、助けを求めるような目でハヤトは彼女を見た。
 もっとも、彼女もクリスマスの風習など知るはずが無く、子供達が何を騒いでいるのか皆目見当が付かないでいる。
「どうしたの?」
「あ、リプレ。いやその……」
「リプレお母さん! 大きい靴下ある!?」
 エプロンで手を拭きながら近付いてきた彼女に、ハヤトは説明をしようとしたのだがそれより早く、飛び込んできたアルバが彼女に抱きつく。
「靴下?」
 そんなものをどうするのだろう、と彼女が益々不思議がる前で、フィズが今さっきハヤトから教わったばかりの知識を自分なりの解釈を交えて自慢げに講釈し始めた。
 もうじきくりすます、という日であること。その日はご馳走を並べてみんなで騒いで、子供達はさんたくろーすというお爺さんからプレゼントが貰えてしまうのだと言うこと。
 見事に自分たちに都合の良い分だけを端折った説明に、良く解らない顔をしているリプレが困惑の表情でハヤトを見た。
 しかし彼は言葉を続ける事が出来ず、困ったように苦笑しながら自分の頭を掻きむしるだけだった。

 そして、その日の夜。
 案の定ハヤトはガゼルに怒られた。
「お前なー! なんでそういう事ガキどもに教えるんだよ!」
 ばんっ、と思い切りテーブルに拳を叩きつけて怒鳴るガゼルを前に、ハヤトは小さくなってゴメン、と返すのが精一杯。なんとか宥めようとするレイドにようやく落ち着きを取り戻したものの、ガゼルはまだかなり御立腹の様子でハヤトを睨んでいる。
 しかしそんなことをしていても事態は変わらない。
 テーブルを囲むフラットの大人達はみんなして困り顔で、一通りハヤトの説明を聞いた後でもイマイチ良く解らないクリスマスの仕組みに眉根を顰めていた。
「つまり、ハヤト。その日は本当は聖者の誕生日だけれど、お祭りの日なんだね」
「違う……けど違わない、かな」
 キールが挙手をした後にハヤトにゆっくりと確認する。苦笑しか返せないでいるハヤトが曖昧な回答を口に出すと、途端にガゼルが「どっちなんだよ」と文句を言ってリプレに黙りなさい、と叱られてしまう。
「要するにご馳走とプレゼントがあれば良いのよね。子供達の分だけでも」
「あー……うん。プレゼントは子供達のだけでも良いと思う」
 けれどご馳走――食べ物は。
 みんなが集まって騒ぎ、一年の歓びを語り合い来年に向けての活力を手に入れる日でもある。誰かひとりがご馳走にありつくのではなく、みんなが揃って楽しみ、和を作る日なのだから。
 だから子供達だけの特別メニューが許されるわけではないのだと、ハヤトは頬を爪の先で引っ掻きながら言った。その途端にまた大人達は黙りこくって表情を嶮しくしてしまう。
 フラットの経済状態は決してよろしくない。レイドとエドスがなんとか頑張ってくれてはいるが、それでも食べていくのがやっとの状態だ。それを、一日だけとはいえ全員分のご馳走を振る舞い挙げ句プレゼントまで大盤振る舞いしていたら、孤児院はあっという間に傾いてしまうだろう。
 それが分かるからこそ、ハヤトも申し訳ないと思っているのだ。自分の浅はかな行動がこんな結果を招いてしまったことを、一番悔いているのは彼なのだ。
 何故話してしまったのか。理由を考えるとやはりひとつしか思いつかない。
 懐かしかったからだ。
 クリスマスが近付くと町も人もソワソワして賑わう。あの雑多な空気がハヤトは好きだった。しかしリィンバウムにはそんな風習はないから、季節が近付いてもクリスマスという雰囲気を楽しむことも考えることもなかった。
 けれど手帳に刻まれる×印が増えるに従って――バインダーに挟まれているダイアリーが残り少なくなるにつれて、本当に自分はあの場所に帰れるのだろうかと不安に思うようになっていった。
 そんな時に、クリスマスの話題がポッと出て。
 思い出したら止まらなくなった。日本にいたときはクリスマスを楽しんだ記憶などあまりなかったのに、こんな風に感じるのはやはり年に一度きりのあの日を自分は心待ちにしていたのだと分かってしまった。
「ハヤト……」
 彼の心情を、なんとなく理解してキールは低い声で彼の名前を呼ぶ。しかしハヤトは気づかず、俯いて顔を上げてはくれなかった。
 絶対に帰してみせるからと約束したのに、それが今になっても果たせずにいる心苦しさはキールの胸の中にもずっと残っているしこりだ。自分の不甲斐なさを思うと同時に、ハヤトの感じている寂しさや不安を先回りして拭ってやれなかった自分が、嫌になりそうだった。
 別の意味ででも沈痛な面もちになってしまっているハヤト、それにキールを見てリプレが困ったわね、と吐息を零しながら長い三つ編みの先を弄った。
「料理に関しては、何とかしてみるわ。暫くみんなのご飯、減ると思うけど……構わないわよね?」
「ちょっと待てよ、本気か!?」
 水を打ったように静まりかえっていた空間の沈黙をうち破る彼女の一声に、反発したのはやはりガゼルひとりだけ。大慌てで椅子から立ち上がって彼女に詰め寄ろうとするが、リプレににっこりと微笑まれ、
「構わないわよね?」
 同じ単語を、ゆっくりと力を込めて告げる。そのにこやかなのに恐ろしい迫力に早々に敗れ去り、ガゼルはがっくりと項垂れて「はい」と小さく返事した。
 レイドとエドスが、仕方がないな、という顔で互いを見合う。彼らはもとより、子供達の間に生まれたささやかな楽しみを尊重させるつもりだったのだろう。リプレの提案に異論を唱えることもなく、力強く頷いた。
「ハヤトとキールも、それで良いよね?」
 今度は壁側の椅子に腰掛けていたハヤトとキールに向き直り、彼女は確認のために彼らの目を見つめる。フッ、とキールの表情が綻んだ。
「僕は構わない」
「有難う、リプレ」
「どういたしまして」
 ほぼ同時にふたりから発せられた言葉に満足げに頷き、彼女は右の袖を腕まくった。
 しかしそこで、エドスがふと気になったのか声を上げて彼女の動きを止めさせた。
「そういや、さんたくろーすとかいう奴だっけか? そいつがプレゼントを届けるんだろう?」
 煙突から入ってくる姿を想像しながらハヤトは頷く。彼の後ろには大きな暖炉があるので、子供達はこの煙突からサンタがやってくるのだと信じているのだ。
「……誰がさんたくろーすになるんだ?」
 それは本当に素朴な疑問だった。
 その役目を果たすには、当然煙突を通り抜けられる身体の大きさをしている必要がある。その上、垂直の壁を降りる事の出来る技術も必要だ。サイズ的にはハヤトも充分通り抜けられそうだが、彼には壁のぼりは少々苦労だろう。
 となると、そんな芸当が出来そうな人間はこのフラットに、ひとりしか存在していない。
 一斉に、居間にいる全員の目線が一点に集中した。
「……あぁ?」
 二桁の瞳に見つめられ、当の本人はあまり分かっていなかった顔のまま周りを見回した。しかし徐々に、雰囲気が拒みきれない状況にあることを悟る。
 たらり、と彼の額から汗が落ちた。
「お、俺……?」
 恐る恐る彼は自分を指さして言った。声が震えている。しかし誰ひとりとして否定の言葉を紡ごうとはせずうんうん、と深く何度も頷くばかり。
「じゃあ衣装もちゃんと縫わなきゃね。ハヤト、あとでどんなデザインなのか細かく教えてね?」
「あ……うん。分かったよリプレ」
「僕も手伝える事があるなら手伝おう」
「ありがと、キール。じゃあ御言葉に甘えちゃおうっかな」
 茫然と突っ立っているガゼルをひとり置きっぱなしにして、話はどんどん先に進んでいく。レイドとエドスも疑問は解消されたとばかりに席から立ち上がり、自室へ戻るためにさっさと歩き出していた。
「お、おい……ちょっと待てよ……」
 弱々しい声でガゼルが呼び止めようとするが、ふたりとも完全無視。明日も仕事が忙しそうだ、とか色々と雑談を交わしながら居間を出て行ってしまった。
 残ったハヤト達も、リプレを中心にしてクリスマスの料理やらサンタの衣装についての話し合いが始められており、彼の入る余地は無かった。
「おーい……」
 呼びかけても、誰も反応してくれない。あまりの空しさに、彼はとぼとぼと部屋に戻りそのままベッドで呼んでも起きないくらいに不貞寝を楽しんだのだった。

 そして、クリスマス当日。
 ドスンッ! と盛大な音を立てて煤だらけの煙突から足を踏み外したサンタクロースが、居間に煙をもうもうと立ちこませながら登場。
 折角リプレが手作りしてくれたサンタの衣装も真っ黒けで、掃除しておけば良かったなとハヤトが苦笑する前でしかし子供達はまったく気にした様子もなく、サンタクロースもといガゼルに駆け寄っていった。
 大声を上げながらはしゃいでいる。本当に来るとは思っていなかったらしい子供達に、仏頂面を今は黒くなってしまっている白髭で隠したガゼルは順番に抱えていたプレゼントを渡していった。
 自分が落ちても、プレゼントまで落とさなかったのは流石といえるだろう。
 リプレが用意してくれたご馳走は本当に久しぶりにご馳走と呼べるほどのボリュームで、子供だけでなく大人達も満足させるものだった。散々食べ、呑んで、騒ぎ、遊んで、それから最後のお楽しみにサンタクロースの登場。眠そうにしていたラミも、目を輝かせて渡された小さな包みをしっかりと抱きしめている。
「良いわよ?」
 開けても良い? という目線での彼女の問いかけにリプレが優しい笑顔で頷く。それを合図に、子供達は揃って包みを広げ始めた。
 彼らがプレゼントに集中している間に、ガゼルサンタクロースはこっそり裏口から退場。やはり煙突を登って帰っていくのは難しかったらしい。それにあの煤だらけの中を行くのはもう嫌だと目が告げており、ばっちり視線がぶつかってしまったハヤトは恨めしそうに見ている彼に手を振って早く行け、と合図を送る。
「あー!!」
 一番早く包装を解き終えたアルバが、中に入っていたものを抱きしめて歓声を上げた。続いてフィズとラミも、出てきたものに目を丸くさせてどうして自分たちが欲しがっていたものがサンタクロースに分かったのだろう、としきりに不思議がる。けれどその顔はどれも嬉しそうで、歓びに満ちていた。
「ガゼルだって気づいてないみたいだ」
「そのようだね。まぁ、あの格好じゃ無理もないかな」
 赤と白の衣装で全身を包み込み、真っ白い綿の髭を顎に貼り付けて顔を半分以上隠していたのだ。教えられていなければ、きっとハヤトも直ぐにそれがガゼルだと分からなかっただろう。
 キールと小声で笑いあってハヤトはあとでガゼルに御礼言わなくちゃな、とひとり呟く。
「見てみてー! これ、ずっと欲しかった奴!!」
 練習用の新しい木刀を貰ったアルバは、誇らしげにそれを掲げてレイドに見せに行った。彼はずっとレイドのお古を使っていたから、自分のためだけに用意されたものをずっと欲しがっていた事に対してのレイドの配慮である。だから彼はアルバへの贈り物を知っていたのだけれど、素知らぬ振りをして良かったな、と彼の頭を優しく撫でてやっていた。
 フィズには新しいリボン。ラミには彼女がいつも抱きしめているクマに似せた小さな縫いぐるみが。これはリプレが用意したものだけれど、当然知るはずのない彼女たちはリプレに報告するために駆け寄っていく。
「良かったわね」
 貴方たちが良い子にしていたこと、ちゃんと見てくれている人が居たのよ?
 聖母の表情で子供達の頭を撫で、リプレが囁く。
「これからも、もっと良い子で頑張ろうね?」
「うん!」
 彼女の言葉に力強く頷いて、幼い子供はそれぞれの贈り物を愛おしそうに抱きしめる。向こうからまだ鼻の頭が黒く煤けているガゼルがいつもの格好でゼイゼイ言いながら戻ってきたが、本当に嬉しそうに笑っているアルバ達を遠目に見て苦笑を浮かべた。
「ちぇっ。なんかやる気が失せたって感じだぜ」
 一言文句を言わなければ気が済まないと意気込んでいたはずなのに、子供達の笑顔を見た瞬間そんな気持ちも消え失せてしまったらしい。壁に凭れ掛かり、腕組みをして光景を遠くから見守りつつ彼はあくびをひとつ零す。
「……良かったね」
「本当。子供達、あんなに喜んでくれてる」
「君が、だよ」
 嬉しそうにしているのはなにもアルバたちだけではない。
 キールの言葉に振り返ったハヤトは自分に向けられている彼の人差し指を不思議そうに見つめた後、同じように自分を自分で指さす。小首を傾げ、「俺?」という姿は数日前のガゼルに何処か似ている。ただし状況はまったく異なるが。
「とても楽しそうだ」
「……キールは?」
「え?」
 微笑みながら呟いたキールの顔を下から覗き込み、ハヤトは興味津々の子供の瞳で彼を見上げた。
 何を問われたのか一瞬理解できなかったキールだったが、少しの沈黙の後に先程よりもずっと柔らかく暖かい笑顔をハヤトに向けた。
「とても楽しいよ」
「そっか。……じゃあ来年もしなくちゃな」
 独白したハヤトに、深い考えがあったようには思えない。彼は恐らく思いつきをそのまま口に出してしまっただけだろう、無意識のうちに。
 けれどしっかりとその耳にしてしまったキールははっとなってハヤトを見返した。しかしもうこの時には、彼はキールから目線を外しはしゃぎ回っている子供達を穏やかな目つきで見つめていた。キールの視線と困惑気味な表情の意味にも気づかずに居る。
「……まったく」
 吐息と一緒に呟きを零し、キールは前髪を掻き上げた。そしてハヤトが見つめているものと同じものを、彼と同じような表情で目を細めながら見つめる。
「来年、か」
 そんなことを言われたら本当に、来年も君たちと一緒にこの日を過ごす事を心待ちにしてしまいそうだ。
 彼の独白は誰にも聞こえることなく静かに溶けていった。

aqua

 くらやみ、が

 ひたひたと足音を立てて追いかけてくる

 そこから必死に逃げようと

 胸が締め付けられても走り続けているのに

 やみを振り切ることができなくて

 やがて足に絡みついた

 まっくろい、やみが

 この身体すべてを呑み込んで

 心までもやみにそめあげていく

 たすけて、と

 叫ぶ声もやみにかき消されて

 誰かの耳にもとどかずに打ちのめされる

 伸ばした腕の白い指先に

 見慣れたひとの顔がみえた

 おねがい、この手をつかんで

 懸命に声をはりあげてかれを呼ぶけれど

 でもかれは気付かずに立ち去ってしまう

 いいや、ちがう

 かれは姿を消すその一瞬だけ

 こちらを見た

 やみに呑み込まれようとしているじぶんを見て

 かれは、わらっていた

 わらって、いたのだ

 
 そしていしきはそこで途切れ

 もうなにも、見えはしなかった

 キィィ……、と。
 扉が微かに軋む音ではっと目が覚めた。
 どうやら机に向かったまま眠ってしまっていたらしい、椅子に座った自分の膝に立てかけていたギターが重くて片足が痺れていた。
 それを机に立てかけ直し、だらしなく開いていた口から涎が垂れている事に気付き慌てて袖で拭う。それから、枕にしていた両腕の下に敷かれている五線譜やメモに使っていたレポート用紙が無事である事を薄明かりの下で確認する。
 BGMで流していたリラックス効果があるCDが悪かったらしい、机の上に置かれているデジタル時計が丑三つ時を軽く経過している時間帯を指し示していた。部屋の明かりは消えているが、手元明かりは煌々と光を放っている。
 白色電球が照らし出す一帯だけが熱を帯び、古い重圧感のある机に短い影を落とし込んでいる。そこに転がっているペンを拾うと、下に乱雑に重ねられている五線譜の最後の一角がやたらとミミズがのたまった後のような記号が乱立していた。
 どうも、寝ながら書いていたらしい。しかしこれは書いた本人でも判読不能で破棄するしかないだろう。仕事熱心なのは良いことかも知れないが、と自分がしたことに苦笑してスマイルは片手に持ったペンをくるくると回した。
 変な体勢で眠っていた所為だろう、身体の節々が痛む。右側の肩を軽く揉みほぐそうと左手を伸ばしたところで、だが彼はふとした違和感を覚えて動きを止めた。
 なにか、が、変だ。
 そもそも自分が目を覚ますきっかけとなったあの音は、何処から。
 蝶番が軋む音だった、窓ではない。では、廊下とこの部屋を繋いでいる扉……だがこんな時間にいったい、誰が。
 怪訝に想い、持ち上げていた手で顎を持つ。ぴっ、と右手で回したままだったペンがバランスを崩し勢いよく机の外へ飛び出して行った。
「あ」
 短く声を上げ、彼はそれを拾おうと椅子を引いた。
 闇は、色濃かった。
 ス……と、その闇から伸びてきたふたつの腕が彼の喉元を、唐突に拘束したのだ。
「っ!?」
 咄嗟の事に反応できず、身体を椅子から浮かせていたスマイルは反射的に自分を掴む両手を掴み返す。そして引き離そうとした。
 だが上から組み伏せてくる力は思った以上に強力で強情だ。長く伸ばされた爪が皮膚に食い込み、締め付けてくるだけでない痛みに彼は喘ぐ。
 口をいっぱいに開き、酸素を求めて足掻くが肺に届くのは通常の十分の一にも満たないかもしれない。苦しさに、せめて今自分を理由も告げず襲ってきた相手の顔くらい拝んでやろうと浅く腰を落としていた椅子の足を、自分から蹴り飛ばした。
 がこん、とスマイルと襲撃者の間にあったバランスが崩される。
 自分でしでかしたことだが、椅子が傾いたことによって強かと背を机の角にぶつけたスマイルは、また新たに発生した痛みに苦悶の表情を隠せない。けれどこれにより、若干緩んだ首もとの拘束で呼吸が楽になる。
 スマイルを下にして、机の上に重なり合うようにのし掛かって来た力が再び強さを取り戻した時にはしかしもう、その存在の姿は机を照らしていた小さな明かりによって晒されたあとだった。
 抵抗しようと掴みかかろうとしていたスマイルの手が、ぴたりと止まる。そして前にも後ろにも動けなくなってその場で凍り付いてしまった。
 大きく見開かれた丹朱の隻眼が、目の前に居る彼を今まさにくびり殺そうとしている存在を信じられないという形相で見返しているが、首に回されている手の力はむしろ強まっていくばかりで彼を解放しようと言う気配は微塵も感じられなかった。
 なぜ、とそればかりがスマイルの脳裏を過ぎり正常な思考が何処かへ飛び去ってしまった。
 力を失ってぱたん、と机上に崩れた指先が冷たい闇に触れる。
「……リ……」
 微かに漏れる息で、彼の名前を呼んだ。
「ユー……、リ…………?……」
 ぐっ、と細く白い両腕が更に強く強く、スマイルの喉元を締め上げた。まるで呼ぶな、という意思表示のようで意識が遠退きそうになった彼は、懸命に自分を叱咤してそれを寸前で引き留める。
「……リ、…………ユー、リ……!」
 途切れ途切れにならざるを得ない声で、スマイルは必死にユーリを呼んだ。吸い込む息よりも吐き出し音を載せる息の方が量は多い、眩暈がする、星が目の前に散っている。
 ぱくぱくと水を失った金魚のように喘ぐが、殆ど何も吸い込めない。肺の中が空っぽになって、もう駄目か、と思った。
 その途端、スマイルは抵抗するのも身体を強張らせるのもやめてしまった。
 指一本として動かさない、総てを受け入れる体勢で瞼まで下ろしてしまう。
「いい、ヨ…………―リ、な……ら…………」
 長く生きすぎた命でもある、それに彼に殺されるのであればそれもまた、悪くない最期だろう。
 一瞬は、本当にそう思った。
 けれど彼の抵抗が止むとほぼ同時に、ユーリの両手から力が急速に失われていく事を実感した次の時には。
 スマイルは心の中で「ごめん!」と大声で叫びつつ思い切り、ユーリを蹴り飛ばして自身の自由を確保に走っていた。
 ざざっ、とユーリは床の絨毯に滑り横倒しになる。スマイルはと言うと、蹴りを入れた反動で背を机から引き剥がすことに成功したものの、激しく咽せ返り吸気と排気が一斉に始まろうとしていることに身体が対応出来なかった。
「げほっ、げはげはっ!!」
 赤く痕がついてしまっただろう喉元を片手で押さえ、もう片手は机の縁に置き身体が崩れないように支えつつスマイルは咳き込む。あまりに苦しくて涙が出てきて、背を丸めてどうにか身体を落ちつかせることを優先させていたら前方で何かが動き出す。
「…………」
 最後の咳を吐き出し、顔を上げたスマイルは絨毯上で闇の中倒れているユーリを見つける。彼は起きあがろうとしているようだったが、なかなかそれが出来ないでいるらしい、小刻みに揺れる肩が重そうだ。
「ユーリ……」
 倒れてしまった椅子を跨ぎ、スマイルは手元明かりが照らす空間を出て闇一面に足を踏み出した。
 足裏に伝わってくる絨毯の柔らかさが、何故か今は針の山のようにいたく感じる。
 ユーリの傍らに膝をつき、スマイルはまず彼の上にある埃を払うかのように手を左右に二、三度、振った。苦しげだったユーリの表情が、それで少し軽くなる。
「ユーリ」
 顔を近づけ、背に手を差し込んで彼を抱き起こすと弱々しい動きで彼は身じろぎし、瞼を薄く開いた。
「…………、ル……?」
「そう、ぼく」
 唇の動きで名前を呼ばれたことを確かめ、スマイルはなるべく優しい表情で頷いて返した。ホッとした顔をする、ユーリが。
「嫌な夢でも見た?」
「……鍵……閉めた、はず……」
 記憶が錯乱しているらしい、彼は今自分の部屋に居るつもりで考えているような言葉にスマイルは少し考え込んでから、苦笑いを形作った。
「嘘、開いてたよ?」
「また、勝手に……開けて……」
 寝間着姿のままのユーリは、自室で眠っていたのだろう。だけれど、夢を見ていたという意識は残っているらしい、とびきり嫌な夢を。
「お前が、居なくなる……ゆめ……」
「此処にいるよ、ちゃんと。見えてるでしょ?」
「お前はいつも、嘘を吐く……」
 そっと彼の手を掬い上げ、スマイルは自分の頬にそれを押し当ててやった。肌を押し返す感触を確かめ、ユーリは目を細める。
「お前が居なくて、私は取り残される……お前は笑って、私の前から居なくなる……」
 ユーリを取り込む闇は色濃くて、恐い。何もかもを黒く染めあげてしまう、その心さえ。
「居るでしょ、ここに」
「……ああ、そうだな」
 ゆっくりと一言一句に心を込めてスマイルが言うと、自分でも莫迦らしいことを言っていると思ったらしいユーリがやや自嘲気味に笑った。そして自分で手を動かし、何度かスマイルの頬を撫でて帰っていった。
「腹、いたい……」
「ああ、それも悪い夢だと思うよ?」
 今さっき自分が蹴り飛ばした事も、ユーリが夢うつつだったのを良いことに無かったことにしてしまおうとスマイルが笑う。
「朝になったらいつも通り、何も変わってない一日が待ってる。だから何も心配しなくても良いから」
 けれど少し罪悪感が残るのか、スマイルは左手でユーリの腹部をそっと何度かさすってやった。足形が残っていない事だけが、幸いである。靴を履いていなかったのが良かったらしい、机の向かう時まで履いていたくないと脱ぎ捨てていたのだ。
「ほんとう、に……?」
 見上げてくるユーリの瞳はまだどこか不安そうだ。けれど完全に覚醒していなかった状態での会話にも限界があって、そろそろまた眠りに落ちそうな気配にスマイルは微笑み彼の額に軽くキスを落とす。
「おやすみ、ユーリ。朝までぼくが一緒に居てあげるから」
 悪い夢がこれ以上君の傍に居着いてしまわぬよう、見張って置いてあげる。耳元でそう告げると彼はくすぐったそうに肩を揺らして笑った。
「お前と居る方が、眠れなくなりそうだ」
「失礼な」
「日頃の、行い……だろ、う……」
 語尾が吐息に霞み寝息に切り替わった。下ろされた瞼の下に隠れる表情は穏やかで、再び潜っていった夢の世界はどうやら闇に染まっていなかったらしい。
 すっかり眠りに落ちてしまったユーリを抱え直し、少し悩んで自分が使っているベッドに彼を寝かせたスマイルはそのまま枕許に居座ることにした。
 移動式のライトを持ってきて自分の手元だけを照らし、眠ってしまう前にやっていた作業中の譜面も持ち込んでベッドサイドで仕事を再開させる。
「…………」
 だけれど直ぐに手は動かなくて、しばらく静かに寝息を立てているユーリの横顔ばかりを眺めていた。その表情が穏やかな事に、自分が酷く安心している。
「おやすみ、ユーリ。良い夢を」
 もう一度彼の上に積もる闇を払う動作をして、今度こそようやくスマイルはベッドに凭れ掛かり仕事を始めた。

 おだやかな風がふいていた

 そこはとても静かだった

 心安らげる、ふしぎな場所だった

 かれを包み込むやみはやさしい

 風が止んだ凪のうみのように

 どこまでも広がるいちめんの、やみ

 けれどこころはおちつく、波立たない

 まもまれていると、感じる

 このやみはあたたかくて、安心できる

 水平線のような最果てで

 だれかが手を振っているのが見えた

 手を振り返して、はしりだす

 かれは、ちゃんと笑ってそこにいた

 いてくれた

 いて、くれた

 そしていしきはそこで途切れ

 もうなにも、見えはしなかった