刹那な日常

 レイクウィンドゥ城は、古い。
 とにかく、古い。あちこちは叩けば崩れるし、壊れる。最初の頃よりはだいぶ改善されてあまり目立たなくはなっているものの、人目に触れにくい場所は後回しにされてそのまま、なんて事が未だにある。
 それにここはもともと、要塞だった。今も、だけれど、今以上に本格的な要塞としての役目を持っていた。まさしくここは、最後の砦だったわけだし。
 そんなわけで、探しようによっては当時の隠し通路や、秘密の抜け穴なんかを見つけだすことが出来る。そしてそれはもっぱら、好奇心旺盛な子供達の役目だった。
 子供だけの秘密、特権。大人になったら出来ない、でも今大人になってしまっている人達も子供の時一度は体験した、楽しいこと。宝探し、探検ごっこ、そんなわくわく出来る事がレイクウィンドゥ城には溢れている。
 楽しまないのは、損でしょう?

 発見者は、フッチ。
 城の周囲に広がる森を散歩中、抱いていたブライトが突然暴れ出したらしい。フッチの両手から逃げ出した白い竜の子供は、柔らかい草と腐葉土の中をちょこちょこはい回って、飼い主にその穴を教えた。
 いや、実際の所は枯れ葉に隠れていた穴に、ブライトが落っこちかけただけなのだが。
「でー……、これがその穴?」
 穴が単なる自然に出来た──モグラか何かが掘った穴だったら、間違いなくフッチは無視しただろう。危ないから、と穴を土で覆い隠すぐらいはやっただろうけれど。だけどそれが人工的に、明らかに誰かが手を加えたものだと分かったら?
 放って置くはずがないのが、彼の友人達だろう。
「そうだよ?」
 サスケの一言に頷き、フッチは草で隠して置いた穴……もとい、古井戸跡のような入口を皆の前に示した。
 赤茶色のくたびれた色をした煉瓦が、明らかに人の手によるものと分かる形で綺麗に並べられている。ただ、井戸にしては場所が森の中の人が滅多にやってこないような地点だし、釣瓶も何も見当たらない。長年の風雨にさらされて腐って崩れてなくなった、という風でもない。それに、
「なにこれ。蓋?」
 面白そうに穴の回りを眺めていたセレンがとある事に気付き首を傾げる。しゃがみ込んで穴をのぞき込んでいた彼の後ろに回り込んだルックは、セレンが指で示すそれを見て、形の良い眉をひそめた。
「蓋と言うよりは、扉だったもの、のようだね」
 煉瓦の端にわずかに残っていた気のクズと鉄の欠片に指で触れ、ルックは穴の底をのぞき込む。深くてとても底まで見えなかったが、よくよく眼を細めてみると、少し地上部分から下がった辺りに、梯子のようなものが見えた。
「秘密の抜け穴だったんでしょうか……」
 キニスンが後ろの方から控えめに言うと、途端にサスケの眼が爛々と輝き出す。
「抜け穴? ひょっとして、宝の隠し場所に通じてるとか!?」
「そこまで一気に飛躍させられる、君の頭が羨ましいよ……」
 サスケの脇でフッチが呆れた顔で呟いている。
「行ってみようか」
「……言うと思った」
 わくわくして振り返るセレンに、中腰から背を伸ばして体勢を戻したルックが諦めた口調で言う。
「言って置くけど、何かあったときに怒られるのは僕なんだよ?」
「怒られないようにすればいいじゃんか」
「……君に言った僕が愚かだったよ」
「むかっ」
 軽く頭を掻きながらこぼしたルックの台詞を聞き逃さなかったサスケが握り拳を作ってルックを睨む。だが当のルックはまったく気にする素振りも見せず無視を決め込んでいて、それがますますサスケの癇に障った。
「前々から言おうと思ってたんだけどさ、お前、むかつく!!」
「はいはい」
「この辺で一回勝負しておく必要があると、断然おれは思う!!」
「それで?」
 意気込んで叫ぶサスケと、気のない返事で受け流す一方のルック。見ている3人にしてみればいつもの不毛な喧嘩だ。
「もー、ルックもサスケも、止めようよぉ」
「そうそう。どうせやっても無駄なんだし」
「あはははは……」
 呆れ顔で仲裁に入るセレンとフッチを、まだどうもこの喧嘩に慣れられずにいるキニスンは乾いた笑い声を立てながら眺めている。サスケのプンスカした感情はまだ収まっていないようだが、フッチに巧みに言いくるめられて握り拳を下ろした。
「行くんでしょ?」
「……分かってるよ」
「サスケが行きたくないんだったら、止めるよ? 僕は別にどっちでもいいんだから」
「分かりました。行くよ、行くってば!!」
「うむ。よろしい」
 ぽんぽん、とサスケの肩を叩き、フッチは満足そうだ。一方のルックの方も、セレンが例の如く、
「駄目だよ、ルック。もうちょっと相手のことを考えて言わないと」
「…………」
「あんな風に言われたら誰だって怒るよ。ルックだって、嫌でしょう?」
「…………」
「聞いてる?」
 返事のないルックを下からのぞき込んで、セレンは怪訝な表情を作る。だが、いきなりしたから伸びてきた手にわしゃわしゃと髪を掻き回され、彼は「わひゃぁっ!」というよく分からない悲鳴を上げた。
「何するの!」
「別に。君に説教されたのが面白くないだけだよ」
「なにそれ!!」
 普段の立場が逆転して、少し面白くなかったらしい。それが分からないセレンは澄ました顔でいるルックに牙を剥くが、慌てたキニスンになだめられ、頬を膨らませてはいるものの、大人しくなった。
「それで、行くの? 結局」
「おう!」
 入口の横に立ったルックの言葉に、ガッツポーズで返事をするサスケ。彼の後ろでフッチも苦笑いを浮かべながら頷く。
「セスは?」
 振り返って訊くと、彼はまだ拗ねていたが、
「どうするの?」
「……行く」
 重ねて尋ねられて、渋々と言った感じながら頷いた。そのセレンの頭を撫でてやっているキニスンも、ルックの視線を受けて和やかに頷く。
「それで、ルックは来るのか?」
「仕方ないだろう。君たちだけじゃ、何をしでかすか分かったものじゃないしね」
「いちいち気に障る言い方をする奴だな、お前って」
「今頃気付いたのかい?」
「こいつ殴っていいか?」
「勝てないからやめておいた方がいいよ」
 こめかみに青筋を立ててサスケはフッチに言うが、フッチは諦めろと小声で囁いて彼の方を力無く叩いた。
「それにしても、深い穴ですね。どこに繋がっているんでしょう?」
「それを今から確かめにいくんだろう」
 下手に城の地下なんかに繋がっていたら、そしてそれがハイランド側に知られてしまったら、ここを通って侵入者が現れるかもしれない。以前暗殺者が城に忍び込んだことがあってから警備はいっそう厳重になったが、こういう抜け道までは人手を割けずにいるのが現状。
「このことはシュウ軍師には報告したんですか?」
「まだ」
 キニスンの素朴な問いに即答で否定したのは、ラストエデン軍リーダーのはずの、セレンだった。
「まだって……」
「ここが隠し通路かどうか、まだ分かんないし。ゴールがどこか調べてからにしようって」
「それにさ、あいつ等に言ったらここ閉鎖されて、俺達入れなくなるじゃん?」
 セレンの台詞をサスケが引き継ぎ、あっけらかんと言ってのける。キニスンは少し、頭が痛くなった。
「気持ちは分からなくもないですが……」
「じゃ、いくぜ! 俺いっちばーん!!」
 まだ何か言いたげなキニスンを置き去りに、一番身軽なサスケがあっという間に地面にぽっかり空いた暗闇の底めがけて飛び込んで行ってしまった。
「じゃあ、お先に」
「一度に行くと梯子が崩れないかな」
 フッチがそれに続き、ぎしぎし言っている梯子の音を不安げに聞くセレンが穴に潜る。人ひとりが通るので幅がいっぱいの穴は、実に滑りやすい苔がいっぱいに生えていた。
「やれやれ」
 ぬめり感を確認し、ルックは自分に風の魔法をかける。そして彼もまたキニスンに声をかけることなく穴の中に入ってしまう。但し彼だけは梯子に手を触れず、空中を浮かぶ要領でゆっくりと地底世界に沈んでいった。
「滑るな、結構」
 穴は存外に深かった。崖の上に建てられた城だから、もしかしたら絶壁の真下の海岸線に出るかもしれない、と思いながら慎重に梯子を下りていたサスケだったが……。
 ぱらぱらと頭に粉のようなものが降ってきて、一瞬不安に駆られた。
「まさか、な……」
 いくらなんでもそれはないだろう、と思って声に出すが、思いの外その声は枯れていた。そう言えばさっきから妙に梯子が揺れているし、みしっみしっていう音も大きくなってきているし……。
「うわ!!」
 遙か頭上で、でも反響してくる所為で意外に大きくセレンの悲鳴みたいなのが聞こえた。直後、サスケは上を見て絶叫。
「くるな、馬鹿!!」
「ひょええええええーーーーーーー!!!!!!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーー!!!!!!?」
 セレンと、フッチと、ふたりが折り重なるようにしてサスケめがけて降ってきた。逃げ場は、ない。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!!」
 苔で足を滑らせ、バランスを崩したセレンに追い打ちをかけるようにして3人分の体重を支えきれなくなった梯子が切れた。そのまま彼の下にいたフッチとサスケは団子になり、穴の底へまっしぐら。
 ばしゃーーーんっっ!!!
 だが、幸か不幸か穴の底は長年降り溜まった水が結構な量で敷き詰められており、水に衝撃を吸収されたおかげで3人ともびしょぬれになったものの、怪我はなかった。ただひとり、一番下になったサスケはもろに水面に顔を打ち付けてむせ返っていたけれど。
「げほ、げはげはげは!!」
 鼻から水が入ったらしく、つーんとした痛みに耐えて咳き込むサスケ。その背中をさすってやりながら、フッチはかなり広い地下空洞を見上げた。入ってきた穴がとても小さく見える。
「なにをやっているんだか」
 真上から声がして頭を上げると、空中に停止したルックが呆れ顔で全員を見下ろしている。
「あ、ずるい」
 ひとりだけ、と文句を口に出して彼につかみかかろうとしたセレンだったが、するりと空中を移動されて逃げられ、悔しそうに水面を叩く。
「大丈夫ですかー!?」
 遠くから声が響いてきて上を向くと、入口の穴でキニスンがのぞき込んでいるのが小さく見えた。
「へいきー」
「でもつべてー!」
「上がればいいじゃないか」
 犬のように頭を降って水気を飛ばすサスケに、ルックがほら、と自分の右手を示す。すり鉢状になっているらしい地下空洞の壁面近くは、水から出て歩けるようになっていた。
「あそこ、通路になっているみたいですよ」
 フッチが更にその奥を指さし、声を上げる。確かにこの暗がりで見えにくいが、どこかへ通じているのか、道があった。見渡す限り、どうもそこ意外に道はなさそうだ。
 するすると細いロープが下りてきて、しばらくするとそのロープを伝ってキニスンが下りてきた。彼は水面の直前で手を止めて、体ごと大きく左右に振ると勢いをつけて地面に降り立った。
「ずっけー」
「落ちる方が間抜けなんだよ」
 濡れ鼠のサスケの言葉に、ようやく下りてきたルックがすかさずいらぬ突っ込みを入れる。
「くしゅっ」
 セレンが小さくくしゃみを一つして身を震わせると、直後どこからともなくタオルが降ってきた。少し遅れて、フッチとサスケの頭にも同じようにタオルが落ちてきたのだが、何故かサスケの分だけが濡れタオルだった。
「なんでー!?」
「…………」
 ルック、無言。おそらくわざとではないのだろうが……。
 水に落ちた組3人が体を拭き終わるまで待ち、5人揃って再出発。準備がいいキニスンが手際よく火をおこし、落ちていた枯れ枝(結構古そう)に灯してそれを頼りに、一行は進んで行く。
「人の手で整備された跡があるけど、基本は自然に出来た洞窟みたいだな」
 こういう場所は得意なのか、サスケが興味津々で壁を触りながら呟く。
 彼の言うとおり、天井にまでは手が施されていなかったが、明らかに床部分は歩きやすいように補正されている。これを引き抜くと洞窟自体が崩れてしまうような大きな岩はともかくとして、小さなものはほとんど見受けられない。一体どれだけの年月放置されてきたのかは分からないが、大して朽ちた様子もなく、洞窟はしっかりと存在していた。
「自然の力でしょうか」
 フッチが感心したように言い、セレンも不思議そうにきょろきょろと辺りを見回している。
 と、突然先頭を行っていたキニスンが止まった。
「どうしたんですか?」
 フッチが尋ねると、キニスンは何も言わず松明の火を前方に向けた。小さな明かりに照らし出されたその先は、どこまで続くか分からない底知れぬ闇ではなく、赤い炎を反射してやけに明るく輝く壁だった。
「行き止まり!?」
 セレンが大声を上げ、ルックが眉をひそめる。
「じゃ、なに? 俺達って濡れ損?」
 サスケも唇を尖らせて文句を言うが、こればっかりは仕方がない。壁が何かの拍子に崩れ、それまであった道が塞がってしまっているのだとしたらまだ救いはあったかもしれないが。
「どうします? 戻りましょうか」
 松明を持つキニスンが皆を見回して尋ねる。だがその横を、いくらかいぶかしみの表情を作ったフッチが通り過ぎた。そしてなんのつもりか、道を閉ざす壁の前に立ち、まじまじと観察を始めた。
「フッチ?」
 セレンが彼の名前を呼ぶが反応がない。腕組みをしたルックも動きはしなかったが、黙って壁を睨み付けている。
「あれ?」
 サスケが首を傾げる。とてとてと小走りに駆けてフッチの横に並び、高い壁を見上げた。手を伸ばしてそっと触れ、それから両サイドを囲む壁に目を向ける。
「あれ?」
 もう一度首を傾げ、サスケは唸った。
「なんか、この壁だけ土質が違う」
 こっちの壁は磨かれたようにすべすべしているのに、これまで歩いてきた道の両脇の壁はざらざらしていた。炎の反射率も違う。
「どう言うこと?」
 分からないらしいセレンが答を求めてルックを見た。ため息混じりに彼を見返し、ルックは腕をほどく。
「つまり、この壁は人工的なもので……まだ先に道は続いている可能性が大きい、って事だろうね」
 恐らくどこかに壁を抜ける為の隠し扉か、仕掛けがあるはずだと続けると、途端にセレンの表情に光が宿った。
「なんだか、わくわくしてきた」
 ますます探検らしくなってきた、と嬉しそうだ。はしゃぐセレンを見て、キニスンが苦笑する。と、その時。
「こいつか!」
 サスケの楽しそうな声が響き渡る。だが。
 ゴゴゴゴゴゴ………………
 低い轟音を上げ、現れたのは壁を抜けるための道ではなかった。
 ぽっかりと、彼らの足元に空洞が出現。
「へ?」
 一瞬、誰もが事の成り行きを理解できず眼をぱちくりとさせて凍りついた。
「ひょええええええええーーーーーー!?!?!?!?!?」
 絶叫の五重奏が地下深くに消えて行く。
「またーーー!!!!?」
「サスケの馬鹿――――!!!!」 
「俺の所為じゃねーーーっっ!!」
「…………まったく…………」
「……あはははははは………………」
 五人五様の叫びを上げながら、全員が抜けた床から落ちたのを見送り、それまで床だった天井はぱたん、と閉じられた。誰も気付いている余裕なんてなかったけれど。
「風よ!」
 さっきの時とは比べものにならない深さで、このままではもし地底に水が溜まっていたとしても無事では済まされないとルックは判断した。その瞬間、彼は早口に呪を紡ぎ、落下する5人を包み込むように風を呼び込んだ。
 ふわり、と言う感触が全身を包み込みいくらか落下速度が緩まる。だがさすがのルックもこの状況で5人まとめて浮かせることは無理だった。速度は緩まったものの、落ち続けていることには変わりなかった。
「うわぁっ!」
 どっぼーーーーんっっ!!!
 巨大な水柱が高くまで立ち上り、水泡がわき上がる。
「ぺっ、ぺっ」
「つめたーっい!!」
「いってーー!」
 それぞれ好き勝手な事を口にしながら水面に頭を出す。深さはさっきとはやはり比べものにならないほどに深い。水の冷たさと透明度も同じく。
「なんなんだよ、もう……」
 水を吸って重くなった髪を掻き上げ、ルックがひとりごちる。あまり泳ぎが得意でない彼に、側にいたセレンはすかさず助けの手を出す。サスケもフッチも、周りを見回してここがどこかを探ろうとする。
「波が立っている……?」
 キニスンが呟き、波が押し寄せてくる方向を見て眼を細める。
「外だ!」
 サスケが叫んだ。
「ここ、……デュナン湖ですよ」
 天高くもう見えない天井を見上げてから、明るい光を射し込ませている岩の透き間を覗いてフッチが言う。まだ水に浮かんだままの残り四人は、そろいも揃って「へ?」と言う顔を作った。
「なんで……?」
 訳分からん、と言うサスケにキニスンが少し考え込んで、
「そうか。ここは抜け道は抜け道でも、脱出用の道だったんですよ」
 城が万が一敵の手に落ちてしまった場合、安全に脱出できるようにこの道が造られたのだ。自然にあったものを出来るだけ利用して。
「だとしても、少し乱暴なコースだな」
 呆れ顔で言い、ルックはさっきと同じ呪文を唱えて自分を支えているセレンごと水中から脱出した。波に削られた岩の上に降り立ち、服の裾をつまんで絞る。
「ルック、タオル」
「僕は便利屋じゃないよ」
 セレンにそう言われ両手を差し出されて、不満げに答えたものの自分にも必要だからと空中からタオルを取り出す。きっと今頃、城の洗濯物干場ではタオルが一気に行方不明になって小さな騒ぎになっていることだろう。
「風邪ひきそう」
「馬鹿は風邪ひかない……ああ、これは間違いだったんだっけね」
 両手を抱えて震えながら水から上がったサスケに、ルックが以前の事を皮肉って言った。
「こっちから出られそうですよ」
 キニスンが戻ってきて岩の上に上がる。洞窟の出入り口を覗きに行った彼は、この先に湖へ通じる穴があったことを教えてくれた。
「崖沿いに行けば、船着き場に着けそうです」
 タオルを受け取って顔をふいたキニスンが言った。
「結局、宝の隠し場所じゃなかったんだな」
「またそんなこと言って……。そういう感じじゃなかったでしょ?」
 つまらなそうに言ったサスケにフッチが突っ込み、皆して岩場から陸地に降り立つ。狭い通路でない道を壁にへばりつくようにして進み、風がざわめく外にでたときにはもう、太陽は西の空にだいぶ傾いていた。
「もうこんな時間なんだ」
「暗闇の中だと時間の感覚が狂うって言うからね」
 感心したセレンの言葉をルックが補う。キニスンに導かれて波が打ち寄せてくる岩場をしばらく行くと、見慣れた船着き場が見えてきた。
「なんか、あっけない幕切れだよな」
「もうちょっと一波乱あってもよかったのにね」
 頷きあうサスケとセレンをため息ついたルックが眺めて、フッチの苦笑を買う。
「まあ、いつものことですから」
「これ以上のことをされたら、僕の身が持たないよ」
「そう言うなよ。俺達のお目付役なんだろ?」
「ちゃんと責任持ってついてきてよー」
 好き勝手言うふたりに一瞥を与え、ルックは空を見上げた。
 平凡ではないけれどいつも通りの日常が今日も過ぎていく。明日は何があるのだろう? 考えて、ルックは頭を振った。恐いから、考えないでいよう、と。
「あ、タイ・ホーだ!」
「おーい、こっちこっち!!」
 船に乗った漁師の姿を見つけ、セレンが大きく両手を広げて叫ぶ。その声に気付いて、小舟がこちらに向かってくるのが分かった。待っていればこれ以上歩かなくて済みそうで、足元を襲ってくる波から逃げるように岩場に背を貼り付ける。
 夕暮れを背景に小舟がいくつも波間に浮いている。
 今日が終わり、また明日がやってくる。
「明日はどうしよっか?」
「そーだ! 俺この前、面白いところ見つけたんだ」
 子供達の日常には、退屈なんて存在しない。
 明日もまた、大騒ぎ。

コトノハノマホウ/司馬葵の場合

 空は見事に晴れ渡っている。普通ならば、弁当をバスケットに詰め込んでどこかピクニックにでも出かけたくなるような、そんな気分にさせられる快晴。
 けれど今は学期中であり、健全なる高校生は真面目に机に向かって勤勉にノートと睨めっこをしていなければならない時期だ。
 梅雨も明けて、これから夏真っ盛りを迎えようとしている季節。甲子園を目指す高校球児にとっては、予選大会を間近に控え追い込みに余念無い大切な時期でもある。
 今はかろうじて、一息つける昼休みの終盤に差し掛かった時間帯であるけれど……
「りんご、ゴリラ、ラッパ……ぱ、パイナップル」
 首を逸らし僅かに上向いた視線の先で、どこまでも澄み渡る綺麗な青空を眩しそうに見つめながら天国は語尾を若干伸ばし気味の、独特の口調でことばを連ねていく。単語を刻むたびに彼の身体は前後にリズムを刻んで揺れ、背凭れにしている物体がその毎に彼とは反対の動きをとる事にも構わずに。
 生温い空気は身体にまとわりつくばかりで、流れようともしない。その場には、天国の紡ぐ単語の羅列だけが音として響いていくばかりだ。
「る、る……ルビー、ビル、る……ルックス」
 昼ご飯も終えて、半分近く余ってしまった昼休憩を悠々自適に過ごす。それが屋上を訪れた彼の本来の目的だった。
 いつからだろうか、特別約束を交わしたわけでもないのに自然と、彼が昼をひとりきりで、特別教室棟の屋上で過ごしていると知ったときからだと思う。気が付けば、昼休みはここで時間を潰すようになっていて、もう随分と経つのに。
 未だに自分が一方的に喋り、彼は視界を遮る分厚い色つき眼鏡を外す事も一度として無く、交えたことばも片手で足りるほど。煙たがって嫌がられている様子はないから、少なくとも自分は彼の傍に居ることを許されているのだと、天国は勝手に予想して想像して、納得しようと試みた。
 でも、やっぱり。
 ことばは、交わしたい。思いを交錯させたい、何を考えてどんな風に物事を見ているのか、聞きたい。
 喋りたい。声を聞きたい。
 背中越しに感じる体温を受け止めながら、天国はそう思う。空を見上げて、彼の髪と同じ色をした晴天を見つめ、静かに瞼を下ろす。
「す、スコーン……だと終わっちまうから、えっと、なんだろう」
 退屈を紛らわせるために自分で始めた、ひとりしりとり。始めたのも一方的なら、終わらせるのも簡単だけれど、でもそれだと悔しいし、余計につまらなくて頬を膨らませたくなる。だから無理に続けようと無い知恵を絞って単語を探そうと、思索する。
 ほぅ、という溜息に似た吐息を感じ取ったのはその直後。
 天国に背中を預けられていた存在が、凭れ掛かってくる彼の体重を押し返して背を真っ直ぐに座ったまま伸ばした。
 お、と目を丸くして見開いて天国も姿勢を正す。若干前のめりになってしまった姿勢を正し、もう休憩時間は終わりだろうかと腕に嵌めた時計を見た。
 だがまだ午後の始業時間まで、あと七分弱の時間があった。
「……猿野」
 柔らかな、穏やかな春の午後に吹く風を思わせる声が降る。天国はあ、と呟いたあと慌てて自分の吐きだした息を呑み込んだ。
「楽しい?」
 ひとりで、しりとりを続けていて。
 言葉尻に含まれる、問いかけ以上の質問に天国は背をピンと伸ばし、振り返って司馬の顔を見つめ返した。
 サングラス越しの視線を感じる。彼がじっと、自分を見ている。
 天国は唇を開いた。さっきまであんなにも饒舌だった舌がいつの間にか乾ききり、ことばを放つのにも不自由している事に気付いて慌てて唾を飲み喉を潤そうとする。
 彼のひとことに、こんなにも緊張させられるだなんて。
 彼に見つめられると、普段の五月蠅いばかりの自分が嘘のように消えてしまう。信じられない現象だった。
 楽しい、と問われた。
 答えは決まっている。
「楽しく……ない」
 だって、しりとりは本来ふたり以上でするものだ。詰め将棋とか、そんなものと同じ類の遊びではない。相手が居て、自分が居て、初めて成立するゲームのはずだ。
 一人きりのしりとりだなんて、虚しすぎる。
 声が震えているのを意識しながら、けれどどうしようもなくて、天国は乾いたままの舌をどうにか操りながらなんとかことばになる声を紡いだ。
 目の前で腰を捻り、背合わせの状態から振り返って天国を見つめている司馬がそう、と相槌を返す感覚でひとつ頷く。ことばは無い。いつもの、彼だ。
 だから天国は、もしこのまま彼を黙らせたままで居たなら、きっとこの先も彼は自分に語りかけてくれないのではないだろうか、と危惧した。傍に居ることを許してくれているわけだから、少なくとも嫌われてはいないのだろうけれど、でも好いていてくれているわけではないから。
 だから、現状を変えるためにも。
 彼を、黙らせたくなかった。
「楽しくない、っけど!」
 必死にことばを探し、天国は太陽熱で温められた屋上のコンクリートに添えた手を握り締めた。一瞬だけ悩んで、指を解き、司馬の上着を掴む。
 軽く、引っ張る。強請るように。
 俯いた。彼を見つめたまま、言えるはずがなかった。
「お前が……返してくれたら」
 オレのことばを、返してくれたら。
「退屈じゃ、なくなる……から」
 くいっ、と彼の上衣を引っ張る。俯いたまま、赤い顔を隠して。
 ふっ、と彼が息を吐いた。
「じゃあ、猿野から」
 続きをどうぞ、と掌を返していわれた。
 一瞬何のことか分からず、きょとんとしてしまって、司馬を見つめ返した天国は直後、あ、ともう、ともつかない声を上げてから腕を無茶苦茶に振り回し、それからコホン、と咳払いをした。
 自分はどのことばでしりとりを中断させていただろうか。咄嗟に思い出せず、ちらりと司馬を見上げて、見られている事に気付いてまた困惑して赤くなり、焦げ付いた煙を吐き出しつつ記憶を掘り起こす。
 す、だったはずだ。
 途端、「す」で始まることばがひとつきりしか思い浮かばなくなったのは何かの策略のような気がする。
 ちらりと司馬を見る。黙って待ってくれている彼の表情は、いつになく穏やかだ。
 サングラスさえ無ければな、と整っている彼の顔立ちを半減させている瞳を隠す存在を恨めしく思いながら、けれど今こうやってかろうじて冷静を保てるのも彼がサングラスをしてくれている御陰だろうから、複雑な思いは禁じ得ない。もし素顔の彼に微笑まれでもしたら、自分が平静で居られる自信など天国には無かった。
 勿体ない、とは思う。でも自分以外の誰かに彼が素顔を晒す様は、多分、見たくない。 
「す…?」
 問うように先頭のことばを告げると、彼は頷いた。
 よりにもよって、このことばとは。
 時計を見た。昼休憩の残り時間は五分を切ってしまっている。相変わらず風はなく、穏やかな晴天が恨めしいばかりに広がるばかり。
 空が好きだと思うようになったのは、彼を見るようになってからだ。
「す……す、き……」
 心の中で、これは決して感情的なものを言っているのではなくて、農具の、あれだ。あの畑を耕すのに使う奴の事だ、と必死の言い訳をして掠れる声で、言う。
 彼の手が静かに持ち上げられた。
 サングラスが外れる。
 どこまでも澄み渡る、優しい笑顔が天国の眼前を埋め尽くした。そっと、壊れ物に触れるような柔らかな感触が一瞬だけ、記憶が飛びそうなくらいに唐突に、過ぎ去っていく。
 キス、が。
 ことばに代わって伝えられた。
 久方ぶりの風が吹いた。
 夏を思わせる風が過ぎ去っていく。耳の傍を、心地よい風の声が駆け抜けていった。
 チャイムの音が鳴り響く。
「続きは、放課後だ、ね」
 やや残念そうな彼の声がどことなく遠い。手を差し伸べられて、立ち上がる事を促された間もどこか夢幻の中で浮かんでいるような錯覚に陥っていた。
「え、今の……って」
「しりとり、だよ」
 くすっと口元を綻ばせて、彼は笑った。
 好き、だから。
 それに続くことばで返しただけだと笑う。
「なっ……!」
 お前それ自意識過剰。
 赤くなったままで言い返すと、彼はチャイムに掻き消されてしまいそうな声で柔らかな笑みのまま、重ねて言った。
 天国の耳元に、息が吹きかかる距離で。
「でも、違わない……よね?」
 好きだよ、と囁かれる。
 声を返すことも出来ず、天国は黙り込む。
 どうやら彼の前では、雄弁な自分も立場が逆転してしまうらしいと今更ながら新発見してしまった。
「ちっ……くしょー」
 赤くなった頬を抑え込み、天国は舌打ちをひとつ。既に離れていった司馬の背中は階段へ向かっており、本鈴のチャイムも間際に迫っていて彼もまた慌てて教室へ向かい走り出した。
「負けねーからな!」
 一体何に対しての台詞なのか。自分でも分からぬまま叫んだ天国を一度振り返り、サングラスを再び装備し終えていた司馬は静かに、微笑んだ。

刹那のカケラ

 生きるって、何?
「えー? 食って、寝て、遊ぶことだろ?」
「よくは分かりませんけれど、呼吸して動いている事じゃないんでしょうか」
「今、ここにいること」
「生きている自分を感じることです、僕の場合では」
 死ぬって、どんなこと?
「えっと、なんだろ……いなくなるって事か?」
「呼吸しなくなって、動かなくなってしまうこと……でしょうか」
「個としての存在の消滅」
「大地に還ることです」
 未来は見える?
「明日のことは、明日考えるさ」
「どうでしょう、僕には分かりません」
「常に不安定。見えたところで、それが真実かは分からない」
「見えない方がいいですね。その方が、楽しみがありますし」
「難しいね」
 そう言うと、みんなはまったくだと頷いた。

 ひとつ妙なことに気がついたのは、ルックだった。
「おかしい」
 一言、ボソッと呟いた彼が立ち止まり、空を見上げる。ルックを置き去りにする形で先に進んでいた残りのメンバーも、すぐに彼に気付いて足を止めた。
「どうかしましたか?」
 フッチが代表でルックに声を掛ける。しかし聞こえていないのか、ルックは上を向いたまましきりに何かを呟いているようだった。
「ルック?」
 近付いて、セレンがルックの袖を引っ張る。サスケはルックの見上げる空に何かあるのか、と同じように上向いたが、特に目立って珍しいものを見つけることは出来ず、肩が疲れたと首を回した。
 そんな中、最年長者のキニスンが周囲を見渡して顔をしかめる。
「変、ですね」
「え?」
 ルックと同じ様なことを口にしたキニスンを、セレンが振り返る。
 キニスンの足元では、シロが周りを警戒しているのか、身を低くして耳を立てている。いったい何が起きているのか、さっぱり分からなくてセレンとサスケ、それからフッチは互いの顔を見合わせた。
「……ちがう」
 ルックがゆっくりとささやき、眉間に皺を寄せた。腕を組んで考え込む。
「おかしいです、ここは」
 警戒を解かないシロの首元をさすってやりながら、キニスンがセレン達を見て言った。
「変って、どこが?」
 サスケがもっともな疑問を口にして、キニスンを困らせる。彼も、どこがどう、おかしいのかを具体的な言葉で説明できないのだ。ただ、奇妙だとしか。
「気がつかないのか?」
 そこへ、サスケを小馬鹿にする声が割って入ってきた。言わずとしれた、ルックだ。眉間の皺はそのままに、彼にしては珍しく困った表情を浮かべている。
「何があったの?」
 かちん、と来ていつもの如くルックにつかみかかろうとするサスケは、いつものようにフッチに押さえ込まれている。背中に感じるサスケの怨念に苦笑しながら、セレンはルックに尋ねた。
「迷った、なんて言うなよ」
 ルックが答える前に、嫌味を込めたサスケの台詞が飛ぶ。ここまで、森の中とはいえ一本道を地図の通りに進んできたのだ。どう考えても迷うはずはなかった。しかし。
「残念だけど、その通りみたいだよ」
 両腕を広げ、肩をすくめるポーズでルックが言い切った。一瞬、間の抜けた顔になるサスケとセレン。
「嘘でしょう……?」
 フッチも、信じられないという顔をする。その時にサスケを拘束していた力が緩んで、彼に逃げられた。
「どうして、迷うんですか。ここまで分かれ道もなかったし、たしかに見た目正しい道かどうか分かりづらいですけれど」
 森の中の一本道。獣道さえ見付からなかった、緑濃い木々の隙間を縫うように走る細い道。踏み固められ、黄土色の土が露出して、草の一本も生えていない道がどこまでも続いている。単調な、絶対に迷ったり出来る道ではなかった。
「それなんですけれど。思ったんですが、同じ場所をぐるぐる回っているような気がするんです」
 キニスンが控えめな口調で言った。
「はえ?」
 分からない、とサスケが彼を見上げる。
「つまり、僕達は迷ってしまっている、ってことですか?」
「だから、どーしてそうなるの?」
 フッチが言い、サスケが抗議の声を上げる。セレンもよく分かっていなくて、答を求めてルックを見た。
「要するに、僕達は同じ場所をループさせられているんだよ。どういうわけかは知らないけれど」
「どうやって?」
「僕が知るわけないだろう」
「そっかー」
 やや投げやり的なルックの答に、セレンが「ふーん」と声を出す。たぶん、まだ分かっていない。
「ループって?」
「同じ場所を延々と巡り続けること」
 サスケの質問にはフッチが答える。
「なんでそんなことになってるんだ?」
「それが分かったら、苦労しないって」
「そうですね。それに、まだループしているっていう確証もないですし」
 慰めるようにキニスンが言うが、その向こうでルックは首を振った。相変わらず難しい顔をしている。
「ともかく、ここにいても始まりません。どこか休める場所を探しましょう」
 道の真ん中で立ち止まっていても、解決する問題ではない。そろそろ日暮れ時でもあるから、万が一野宿になった場合も考えて、全員で横になれるスペースを確保しておきたかった。
 キニスンの提案に異議を唱える者はなく、全員で再び移動を開始する事になった。
「このまま進んでいくの?」
 セレンがキニスンに尋ねると、彼は首を振った。
「いえ。こっちに獣道の跡があります。これをたどっていけば、たぶん巣穴の跡くらいは見つけられると思うんです」
 彼が示したのは、今いる場所から少し後ろに戻った場所にある脇道だった。確かに、背の高い草の陰に隠れるようにして何かに踏み固められた道の跡が残っていた。シロが先に、道が安全かどうかを確認しに走っていった。
「本当に大丈夫なのか?」
 半信半疑でサスケが呟く。彼はまだ、自分たちが奇妙な空間に閉じこめられてしまったこと納得していないようだ。それも、無理ない話だが。
「良いから、行くの」
 渋るサスケの背中を押して、フッチがシロの待つ獣道へ連れていく。セレンもキニスンと並んで歩き出したが、ルックだけが何かに気を取られて、別の方を見ていた。
「ルック、行くよ?」
「……分かった」
 立ち止まって呼びかけたセレンの声にすぐに反応を返してきたから、ルックが何を見ていたのか、セレンには分からなかった。だが、ルックの視線の先にあった茂みの中に、なにか灰色のものがあったような気は、した。
 だがそれ以上ルックは後ろを気にしなかったので、セレンも深く追求しなかった。
 彼らが森の中の茂みをかき分けて消えていったあと、彼らがいた道の真ん中で、薄靄のかかったなにかが浮かび上がり、すぐに消えてしまった。

「村……?」
 獣道をたどってきたはずなのに、たどり着いた先にあったのは意外なことに、小さな集落だった。いや、それはもはや集落とは言えない。何故なら、そこにはもう誰も住んでなどいないから。
「ひっでぇ」
 腰に手を当てたサスケが思わずそうこぼすのも無理のないこと。
「棄てられてから、ずいぶんと経っているみたいですね」
 一通り村の中を見て回ってきたキニスンが言う。彼の足元ではシロがいつものように主人に甘えて寝そべっている。
 全部で二十軒ほどあった家屋は、ことごとく屋根が落ちて壁も崩れている。床は埃だらけで、長年雨風にさらされて来たのだろう。残されていた家具も腐ってぼろぼろになっていた。試しにかろうじて原形をとどめていたテーブルに手を置いてみると、音を立てて崩れ落ちてしまった。
「誰もいないね」
 ただ寂しげに、風が吹くだけだ。何故かこの辺一体の気温が下がってきているようで、身震いしたセレンは自然と自分の体を抱きしめていた。
 ──なんだろう……。
 なにかが、変。そんな感じがするけれど、それが何か分からない。言いようのない不安に駆られ、セレンはぎゅっと両腕を強く握りしめた。少し痛んだが、その痛みが自分の存在を主張しているみたいで、安心する。
「今夜はここで休むしかないようですね」
 幸い雨が降る様子もない。村に残っている家は全部屋根が抜けてしまっているし、床もぼろぼろでとてもではないが眠るには適さない。かろうじて村の中央広場だった一帯が、無事に森の木々にも浸食されずに残っていたから、今夜はそこで眠ることになった。
「この村を突っ切ったら、さっきの場所に着くのかな」
「気になるんだったら、やってみたら? 止めないから」
「言ってみただけだって」
 サスケとフッチが言い合いをしている横で、キニスンがなれた手つきで夕食の準備に取りかかる。セレンも彼に付き合って、持っていた荷物から今夜の食材を取り出した。
「水、あるかな」
「村だったんですから、探せば井戸があるでしょうね。枯れているかもしれませんけれど」
 飲めなくても、手や顔を洗う水が欲しい。そうこぼし、セレンは立ち上がった。
「ちょっと探してくるね」
 食事と言っても、持ってきた保存食ばかりだ。だから特別調理の必要もない。ここにキニスンやシロが狩ってきた獣や、サスケが見つけてきた果物でもあれば、また話は変わってくるのだが。生憎とこの森には、食べられそうな果実がなっている木はなく、鳥のさえずりさえもひどく遠い場所だった。
「気を付けて下さいね」
 キニスンに見送られ、セレンは歩き出す。周囲を見回しながら、井戸がないか探し回った。
 そして、見つけた。土に半ば埋まったようにして、石組みの井戸が村の外れにぽつんと沈んでいた。そばには底の抜けた桶が転がっている。割れた水瓶も、そこかしこに見られた。
 棄てられた村にしては、奇妙な感覚がそこに広がっている。
「使えるのかな?」
 試しに井戸の底を覗いてみるが、地上から数メートルも行かないところで光が届かなくなり、真っ暗で底は見えない。もっと見えるようにと、体を前屈みに井戸に頭を突っ込もうとしたら、後ろから誰かに引っ張られた。
「何をやっているんだよ」
 ルックだ。後ろにバランスを崩してふらついたセレンを見て、呆れた声で言う。
「なにって、井戸に水が残っているかどうかを……」
「落ちても、誰も助けてくれないんだよ」
 少し怒っているみたいなルックの口調に、セレンはしゅんと小さくなる。
「大体、水のあるなしを確認するのにもっと簡単な方法があるだろ?」
 言って、彼は足元に転がっていた瓶の破片を拾い上げた。それを腕を伸ばして井戸の中に落とす。
 だが、井戸の深さから考えてそろそろ破片が底にたどり着いたはずの時間になっても、なんの音もしなかった。水があれば水音がするし、すでに枯れてしまっていて井戸の底に敷き詰めた石が露出していたら、陶器の破片が跳ね返る音が響くはずだ。なのに、なんの音もしないなんて……。
「どゆこと?」
「泥が溜まっているってこと、だろうけど……」
 底に溜まった泥が、破片の衝撃を吸収してしまったと考えるのが妥当だろう。しかし、ルックはどうも腑に落ちない。
「駄目かぁ~」
 残念、とセレンが肩を落とす。
「おーい、飯だぞ!」
 村の中心からサスケが大声でふたりを呼ぶ。
「今行く!」
 サスケに負けないくらいの大声で返事し、セレンは駆けだした。だが、ルックはゆっくりとした歩調でしか進まず、セレンと一瞬で距離が開く。まだどこか、上の空だ。
「絶対に、変だ」
 口元に指を押し当て考え込むルックの後ろで、白い靄が浮かび上がり、またすぐに消えてしまった。

 夕食は糒(ほしいい)、塩漬けの乾燥肉、デザート代わりに果物の砂糖漬け。水は貴重なので、少しだけで済ませる為にスープはあえて作らなかった。
「かって~~」
 乾し肉にかぶりつき、サスケが文句を言う。
「黙って食べられないのかなぁ、君は」
 横に座っているフッチがそれを注意しながら、糒をしきりに噛み潰す。堅いが、仕方がない。日持ちさせるための手段なのだから。味に文句を言うよりも、こうやって何かを食べられることの方を感謝しなくてはならない。
「明日、道に戻ってまた進んでみましょう」
「で、また同じ場所に戻ってきたらどうするんだ?」
「それは、……その時に考えよ」
 水をひとくち含んで、歯の隙間に残っていた糒を飲み下す。砂糖漬けを噛むと、甘い匂いが口の中いっぱいに広がった。
「…………」
 食事の最中も、相変わらずルックは無口だ。咀嚼するのに必死だから、皆も自然と口数が減るが、それでも言葉を交わしあっている。しかしルックは一度も話に混じってこない。ずっと考え込んでいる。
「なにか、分かったの?」
「…………」
 セレンに尋ねられても、彼はちらりと一瞥を加えると、自分の口を指さしただけ。ものを口の中に入れているときは喋らない。行儀が悪いから。
「あ、そう」
 なんだか妙なはぐらかされ方に、セレンは返す言葉が出ない。しかし確かに、自分も幼い頃にゲンカクにそういう風にしつけられたから、それ以上追求はしなかったけれど。
「はー、食った食った」
 ぱんぱん、とお腹を叩いてサスケが後ろ向きに草の上に横になる。
「牛になるよ」
「ならねーよー」
 フッチに見咎められても、サスケは堪えない。自分で腕枕をして、空に浮かぶ星を見上げている。
「ちゃんと着けるといいけど」
「そうですね。あんまり到着が遅れると、皆さん心配しますからね」
 片付けをしながら、キニスンとセレンが言う。
「近道のはずが、とんだ遠回りになってしまいましたね」
「予定だったら、今日のうちに着けるはずだったもんな」
「やっぱり、いつもの道を行けば良かったんでしょうか。楽をしようとしたから、罰が当たったとか」
 街道ではない、その一帯に昔から住んでいる人達が生活道路として使っていた道があるから、と教えられて面白そうだとたどってみたのだが。思わぬ落とし穴があるとは、出発したとき誰も予想しなかった。
「あのおばさん、このこと知ってて俺等に教えたのかな」
「まさか、そんなわけないよ」
 全員でたき火を囲んで横になり、夜空を見上げて声が飛び交う。
 そのうち誰のものともしれない寝息が聞こえだし、遠くからのフクロウの鳴き声だけがやけに大きく廃墟に響いた。

 誰かが泣いている
 子供が、泣いているんだ

「誰だ?」
 暗闇の中、サスケは顔を上げる。
 星明かりのひとつもない周囲にいぶかしみながら、彼は寝癖のついた頭を掻きむしった。いつの間にか、横で寝ていたはずのフッチやセレン達の姿が見えなくなくなっていることにも、眉を寄せる。
 泣き声は、まだ聞こえる。
 どこからしているのか、注意深く辺りをうかがうと、自分の左側に白い光が淡く浮かび上がった。
 女の子が、両手で顔を覆いながら泣いている。
「オイ、どうした?」
 自分よりも年下の、10歳前後の女の子を見捨てる事なんて、サスケであっても出来るはずがない。近付いて尋ねると、しゃくりをあげて少女は顔を上げた。
「あのね、なくなっちゃったの」
 涙でぐしゃぐしゃになった顔で少女が言う。「なにを?」と更に尋ねると、少女は黙って首を振った。
 言ってくれなければ分からないと、膝を折ってかがみ込み、サスケは少女と視線を合わせて加えて尋ねかける。
「あのさ、俺、一緒に探してやるからさ。何をなくしたのか、教えてくれないかな」
 出来るだけ優しく。女の子はすぐに傷ついてしまうから優しくしなきゃ駄目だぞ、と彼に教えたのはシーナだ。幼い頃からロッカクの隠里で修行に明け暮れた日々を過ごしてきたサスケは、だから女性の扱いはひどく不慣れだった。
「いっぱいあったの。でも、みんななくなっちゃった。消えちゃった、全部」
 泣きながら喋る彼女の声は聞こえにくい。
「だからさ、俺も一緒に探してやるよ。な? だからもう泣かなくていいんだぜ」
 おかっぱ頭の少女の髪を優しく撫でてやり、いつになく真剣な顔で彼は言った。たぶん、この姿を見たら、仲間達は笑い転げるのではないかと、自分で思うくらいに。
「ほんと?」
 少女が目をこすっていた手を離し、サスケを見上げる。
「ああ。俺さ、仲間がいるんだ。今はどっかに行っちまっていないけど、あいつ等も使ってさ、探そ? 大丈夫、すぐに見付かるって」
 大船に乗ったつもりでいてくれて良いから、と胸を叩いて自信満々で答えるサスケに、少女は一瞬きょとんとなった。
「な? だからもう泣くな」
 ぽん、と少女の頭を軽く叩いてサスケは笑った。それを見て、ずっと泣いていた少女もふっと顔を和らげて────

「誰ですか?」
 暗闇の中、フッチは身を起こし周りを見渡した。
 あれだけ空を覆い尽くしていた星がひとつも見えないことに首を傾げ、フッチは立ち上がる。
「セレンさん? サスケ? みんな、どこに行ったんですか?」
 横で眠っていたはずの仲間がひとりもいないことに気付き、彼は大声で呼んでみた。しかし返事はなく、替わりにどこからか幼子のすすり泣く声が聞こえてきた。
「誰か、いるんですか?」
 周りを見回して泣き声の主を捜すフッチに背後で、白い光が浮かび上がる。
 きゅっ、とフッチの服の裾を引く力に気づき、振り返ってはじめて彼はそこに少女がいたことを知った。
 いつの間に、という疑問が浮かんできたが、泣いている女の子を前にしてそれはすぐに消え去った。体ごと向き直って、片膝を折ってしゃがみ込む。
「どうしたの? お母さんとはぐれちゃった?」
 小さい子が泣いている時は、大抵親とはぐれたか転んだりして痛い思いをしたか、そういう理由からだ。だからフッチも、てっきりそんなところだろうと思っていったのだが、違う、と少女は泣きながら首を振った。
「ないの」
 主語を省いた舌っ足らずな言葉に、フッチは顔をしかめる。
「なくなっちゃったの、大切にしてたのに」
「なにを、なくしたのかな」
 フッチは少女の肩に手を置いて尋ねる。しかし少女は頭を振るばかりで、何をなくしたのか、肝心のことを教えてくれない。困って、彼はため息をついた。
「じゃあ、ね。僕の仲間を先に捜そう。ここにいてもさ、しょうがないだろ?」
 暗闇の中で、フッチは見知らぬ少女とふたりきり。見当たらない仲間とも合流しなくてはいけないし、少女の親も、探してやらなくてはならない。こんな場所に幼い女の子ひとりで来るとは信じられないから。
「それから君の両親を捜して、なくしものを見つけようよ。僕も手伝うし、僕の仲間もきっと助けてくれるだろうから。ね?」
 優しく語りかけると、少女は涙をいっぱいに溜めた目でフッチを見た。
「ほんと?」
「うん。約束する」
 指切りしてもいいよ、と右手の小指を立てて前に出すと、少女は一瞬躊躇した。それから、涙で真っ赤になった頬を喜びで更に真っ赤にして────

「うん?」
 暗闇の中、キニスンは遠くから誰かの泣き声を聞いたような気がして彼は目を開いた。
 月がない。星も見えない。変だ、と思って立ち上がる。常に傍らに控えているはずのシロの姿がない。セレンやルック達もいない。さっきまで一緒にいたはずなのに。
 泣き声が聞こえる。
 妙だ、と彼は怪訝な顔をして唇に指を当てた。
 風がない。ここは自然の大地に存在する場所にしては、あまりにも違和感に満ちている。まるで。そう、まるでここは……。
 泣き声が止まない。気がつけば、目の前には顔を両手で覆う少女がいた。
 泣いている。見付からない、なくしてしまった、と。
 ふたりの間には距離がある。縮まることはない。キニスンが歩み寄ることも、少女が近付いてくることもない。
「君は……」
 彼女が生きている人間でないことは、すぐに分かった。でも、だから彼女は幽霊だと、決めつける理由も見当たらない。幽霊かもしれないけれど、そうでないかもしれないから、キニスンはかける言葉に迷った。
「見付からないの」
「それが見付かれば、君は自由になれるんだね?」
「わからない」
「でも、探しているということは、見付かれば少なくとも君にとって何か、変化があるということだよね?」
「わかんない」
 フルフルと首を振る少女。少し性急すぎたか、とキニスンは思ったが、今更だと思い直す。
「それじゃあ、探そう。なくしたものが君をここに縛り付けているのだとしたら、見つけだしてあげるよ」
 幸い、彼には沢山の仲間がいる。失せもの探しを得意とする人も、いるだろう。シロの嗅覚を最大限に発揮すれば、それほど苦にならず、発見することも可能だろうし。
 だから、とキニスンは悩んだ末、少女に向かって手を差しだした。
「一緒に行こう」
 立ち止まっていないで、進んでいくために道を示してやることは出来る。共に歩んでいくことは無理だろうが、背中を押してやることぐらいならキニスンでも出来るだろうから。
「いいの?」
「いいよ」
 微笑んで答えると、少女はおずおずと顔から手を離し右手を伸ばした。その表情はもう泣いていなくて────

 ルックは自分の周囲を取り囲む空気の微妙な変化を静かに感じ取っていた。
 仲間達が闇の霧に飲まれ姿が消えていくのを閉じた瞼の裏で感じながら、彼もまた、意識を保ちながら暗雲に身を委ねる。
 少なくとも、これをどうにかしない限り、無限にループする空間からは抜け出せない。道の次元を歪めたのも、村中に漂うねっとりとした異物感も、すべてこの闇の奥にいる奴がやっていることだろうから。
 村にあった井戸、あの底は果てしなく続く次元の穴だ。落ちたらきっと戻ってこられない。生きて世界に戻ってこられても、そこが今自分たちのいる世界とは限らないし、そうだとしても遠く離れた別の大陸の辺境にでたらまず帰ってくることは無理だ。
 こんな大がかりな細工が出来る人間は少ない。しかし悪意がまったく感じられないから、きっとこれは人が起こしたことではない。確信はある。
 目を開けると、何もない闇。一歩先も見えないはずの暗闇で、しかしルックの目にはきちんと己の姿が捉えられている。
 不思議でおかしな、都合のいい世界。
 見えないはずなのに、見える。人の視覚とはそこに光がないとなにも映し出せないはずなのに。
「…………」
 考えるだけ無駄か、とため息をついてルックは首を振った。
 ここは自分たちの常識ではかれる場所ではない。あくまでも、この世界を作りだした存在に都合のいい空間なのだから。
 白い霧が浮かび上がり、それが少女の形を取る。
 泣いている、ずっと。
「見つけて欲しいの」
 なくしたものを探して、と泣きながら懇願する少女に、ルックはまたもうひとつため息をついて、
「無理だ」
 彼には、少女が何であるのか大方の見当がついていた。そして、彼女が求めているものも。
 だから、断言できる。少女がなくしたものはもう戻っては来ない。望んで手に入れられるものではないから、ルックが手伝ったところで、無駄な努力に終わるだけだ。
「欲しいの」
 返して欲しい、と少女は泣きやまない。ふと、ルックは自分が冷たい人間だと評価された過去を思い出した。
 本人は現実で実現可能なことと、そうでない絵空事を区別しているだけだったのだが、周囲はそうは思ってくれなかった。ただ、ひとりだけ。
『ルックはさ、深く考えすぎるんだよ』
 そう言った人間がいた。深く考えることはいけないことか? とその場で返したら相手は返事に窮していたけれど。
 そんなものだろうか、とルックは前髪を指ではじいた。

 両手を広げ、セレンが泣きやまない少女をそっと抱きしめる。
 疑わない、彼は。すべてを受け入れ、認めて、赦して、愛おしむ。それが彼の強さの根源。皆が彼を必要とし、求める理由。
「だいじょうぶ」
 ふわり、と少女の体が浮かび上がった。
 セレンに抱き上げられ、少女の視線がセレンのそれと重なり合う。
「ボクも探すの、手伝うよ。みんなもきっと分かってくれる。だから、諦めないで探そう。大切なものだったんでしょう?」
 大切だったから、なくしてしまって哀しい。失いたくなかったから、探そうとしている。そういう人を、セレンは決して見捨てたり出来ない。お人好しと他人に言われたって、これが自分だと分かっているから、セレンは己を貫いていける。仲間も、呆れながらそんな彼に付き合ってくれた。
「だから、だいじょうぶだよ」
 ぎゅっと少女を抱きしめ、彼女の流す涙を胸に受けながらセレンは繰り返しくりかえし、少女の背中を撫でて優しく囁く。
「見付かるよ、君が探しているんだもん。君が大切にしていたんだったら、相手もきっと、君を捜しているよ」
 こんなにも泣いて、探していたのだから、なくしたものも絶対にどこかで彼女を待っている。見つけてくれるのを今か今かと待っているはずだから。
 諦めてしまわないで、やめてしまわないで。
「泣いてばっかりだと、君の大切なものまで哀しくなってしまうから、ね、もう泣かないで」
 指で少女の涙をすくい取り、セレンは微笑みを浮かべる。

 闇が晴れる。少女を中心に渦を巻き、ひとつにまとまって、そして……。

 セレンの手の中で、サスケの、フッチの、キニスンの前で、少女は嬉しそうにはじめて笑った。
「ありがとう」
 そう、呟きながら。

 光が生まれる。少女を包み込むようにして、いくつもの、光のカケラが。

 ルックは表情を少しだけ和らげ、光に包まれる少女を見送る。
「見付かったみたいだね」
 その光が、お人好しの自分の仲間達から届けられたものだと気付いたルックが少女に言うと、彼女は小さく頷いた。
「みんな、いい人だった。私が欲しかったもの、くれた。優しくて、あったかい気持ち。ずっと寂しかったけど、もう平気」
 胸を抱き、少女の輪郭がぼやけはじめる。
「あなたも、くれたね。私のこと心配してくれた。冷たくないよ、優しいから、そう見えるだけで。あったかいよ、ちゃんと」
 光の霧に消え、闇もまた薄れて行く。
「伝えて。いっぱい迷惑かけてごめんなさい。それから、ありがとうって」
 光がはじける。その瞬間眩しくて、腕で顔を覆ったルックは次に目を開けたとき、自分たちが眠る前と変わらない廃墟の村の広場にいることに気付いた。
 横を見れば、何も知らず呑気にいびきをかいているサスケや、毛布にくるまって小さくなっているセレンがいる。
「帰してくれたか……」
 上半身を起こし、頭を掻いたルックは澄み渡った空を見上げて呟いた。じき、皆ももぞもぞと起きだしてきて、寝ぼけ眼のまま朝食が始まる。
 夕食と大して変わりばえのしない食事を簡単に済ませ、彼らはすぐに出発することになった。
 獣道を通り抜け、昨日散々悩まされたあの道に戻ってくる。
「今日は大丈夫だといいけど」
 目的地にたどり着けないのはあまり楽しい事じゃない、とサスケは意気込む。
「大丈夫だと思うよ」
 ルックが呟き、四人の視線を一斉に集めた。しかし彼はまったく意に介した様子はなく、マイペースに獣道の反対側に生えている老木の足元にしゃがみ込んだ。
「彼女は、満足したみたいだったから」
 棄てられた村、その存在すら近隣の村の住民から忘れ去られてしまっていた村を、ずっと見守ってきた小さなもの。置き去りにされた事にも気付かず、皆が帰ってくると信じて待ち続けてきた少女。
 この一帯が昔、ゲンカクがまだ都市同盟の英雄として現役だった頃、ハイランドの前線基地として制圧されたことがあったと彼らに教えたのは、次に立ち寄った村に古くから住む老人だった。
 道の脇でかがみ込んだルックが、生い茂る草をかき分けてその中に沈んでいた何かを見つめている。後ろからセレンがのぞき込んで、「あれ?」と声を出した。
「お地蔵様?」
「本当だ」
 フッチも顔を出して頷き、ルックによって草の中から取り出された、通常よりもかなり小さめの地蔵を見つめる。
「女の子みたいな顔をしていますね」
 幼子の表情に似た、柔和な顔の地蔵様にキニスンが素直な感想を口にした。
「なんだか、嬉しそうだね」
「嬉しいんだろ?」
 誰も通らなくなって久しい道の脇に、たったひとつ残された小さなお地蔵様。拝む人もなく、存在さえも忘れ去られてしまっていた、哀しいお地蔵様。
 でも、もう平気。気付いてくれる人がいたから。気にかけてくれる人がいたから。
「もっと見える場所に置いて上げましょうよ」
「そうだな。草の中じゃ、かわいそうじゃん」
 ここなんかいいんじゃないか、とサスケが木の裏に転がっていた平たい石を持ってきて道に面した場所に置く。フッチが注意しながらお地蔵様を石の上に置くと、なんとなく、箔がついた感じがした。
「うん。いい感じ」
 セレンが満足そうに言う。それから、新しい場所に移されたお地蔵様に手を合わせる。他のみんなも、それに倣って頭を垂れた。シロも四肢を地に着け、頭を下げる。

 気のせいか、幼い顔のお地蔵様は嬉しそうに微笑んだ。

僕らの刹那

 今は一瞬。

 でも、永遠。

 深夜のレイクウィンドゥ城はひどく静かだ。
 見張りの兵はそこかしこに立っているが、皆侵入者などありはしないと安心しきっているのか、中には立ちながら船を漕ぐ、という器用な事をやってのける兵士もいた。
 平和そのもの、といった時間がまどろみの中を通り過ぎていく。
 だから誰も、この静寂が破られる事を予想していなかった。
 最初にそれが目撃された時は、寝ぼけた兵士の見間違いだろうという形で収まった。しかし次の夜も、またその次の夜も複数の人間によって目撃されるようになったそれは、瞬く間に城の住人の間に噂として走り抜けていった。
 つまり、幽霊が出る、と。

「大変大変大変ーーーーーー!!!!!!」
 朝。
 壮絶なまでに騒々しい少女の声で、レイクウィンドゥ城の城主は目を覚ました。……否、正しくは叫びながらベットの上に容赦なくジャンピングアタックしてきた少女の体重に潰されて、なのだが。
「お、重い……」
「ま、失礼ね。あたしそんなに重くないもん」
 布団とナナミの下で呻いたセレンにすかさずひじ鉄を食らわし、前言撤回させて、ナナミはようやく可愛い義弟の上を退いた。
「おはよ、セス」
「……おはよう……」
 寝癖のついた頭をわしゃわしゃと掻き回し、ベットから身を起こしたセレンはにこにこ笑顔の義姉を見上げた。上機嫌……に見えるが、どこか変。そういえばさっき、「大変」を連呼していなかったか?
「なにかあった?」
 ナナミの愛情あふれる起こし方はこの際置いといて。ベットの縁に腰掛けたパジャマ姿のセレンは、その問いかけの瞬間に笑顔をひくつかせた彼女の表情を見逃さなかった。
 なにかあったらしい。
「…………」
 しばらくふたり、微妙な笑顔で向かい合う。にこにこにこにこにこにこ……。
「セス!」
 だが唐突にナナミはがばっ!とセレンに抱きついてきた。そのまま彼の肩をしっかりと掴み、ぶんぶん前後に揺さぶり始める。
「お願い!!今夜から一緒に寝て!!!!」
 寝起きに頭を揺らされて、言われた方のセレンは堪ったものではなかった。脳味噌が揺れている。頭の中で教会の鐘が盛大な音を立てて鳴っていた。
「出たのよ出たのよ出るのよーーーーー!!!!!」
 ナナミは混乱すると見境がつかなくなる。手加減を忘れる。本人はかなり必死だから、相手をするときはいつも命がけだ。
 気が付けば、セレンはナナミの腕の中でぐったりと魂を飛ばしていた。白い煙も見える。一瞬セレンは花畑の中で死んだゲンカクが手を振っているのを見た。
「……死ぬかと思った……」
 ぼそり呟き、前にいるナナミが恐縮する。泣きそうな声で「ごめんねー」と上目遣いに言われたら、許さない方が悪役のようだ。
 力任せに振り回された所為でボタンが飛んでしまったパジャマを脱ぎ、いつもの赤い服に着替えると、セレンはドア前に逃げた義姉を迎える。最近、彼女はセレンの裸を見るのを嫌がるようになった。ただし、セレンの方はかなり昔からナナミの裸とは縁を切っている。いくら仲がいいとはいえ、この歳になると照れが先行する。
「で、何が出たの?」
 新同盟軍──ラストエデン軍が巨大化するに連れ、レイクウィンドゥ城も拡張工事が繰り返された。そのなかで城主たるセレンは最上階に個室をもらい、ずっと一緒の部屋だったナナミとは別の部屋で眠るようになっていた。
「うん。あのね……」
 ナナミは恐がりだ。幽霊とかお化けとか、怖い話を聞いた夜は決まって一人で眠れなくなりセレンの布団に潜り込んできた。いつもは度胸満点で見ている方が冷や冷やさせられる行動を平気でとるくせに、こういうときだけは年相応の女の子の反応を見せる。そこがまた、可愛いのだが。
「衛兵さんが話してるの聞いちゃったの」
 今や衛兵だけに留まらず、沢山の人が目撃している幽霊。城のあちこちに出現し、消える。噂は際限なく広がり、昔ノースウィンドゥで殺された人だとか、ハイランドに殺された亡霊だとか言われている。
「長い黒髪の、白い服を着た女の人なんだって。ふらーっと現れて、ふっと消えちゃうの。後にはなんにも残ってないんだって。それでね、『うふふふふ』って笑うんだって!」
 恐がりのくせに興味だけはあるようで、あちこちで人に聞いて回ってきたようだ。
 ナナミの説明は身振り手振りが満載で、ただ見て聞いているだけならかなり楽しかったが。
「幽霊……か」
 いろいろいわくつきの城だから、そういうのが現れてもおかしくないような気がする、とセレンは思った。しかし、何故今の時期に?
「ね、怖いよね、こわいよね?」
「でも何か悪さをしてる訳じゃないみたいだし……」
 害がないのなら放って置いても構わないのでは?
 だが、目の前で必死に訴えてくるナナミの視線にセレンは嘆息する。よく考えてみたら、幽霊がいなくなるまでずっとナナミはこの部屋で寝起きするつもりだろう。ベットがひとつしかない状態でそうなれば──セレンは床の上で寝なくてはならなくなる。
「分かった」
 幽霊相手に話が通じるとは思えないけれど、兵士達まで怖がって、軍の士気が下がるのも困る。すみやかに正体を暴き、出ていってもらうしかないだろう。
「なんとかしてみるよ」
「本当!?」
 ため息混じりに言ったセレンの言葉を聞き、目をきらきらさせたナナミが飛び上がらんばかりに喜ぶ。
「ありがとー!さっすが私の弟なだけはある!」
 勝手に握り拳を作って納得している義姉を見上げ、もう一度こっそりとセレンはため息をついた。
 さて、どうするか。

 とにかく、情報を集めないことには始まらないと、セレンは部屋を出るとまず食堂に向かった。朝食を取るためと、食堂にいる人達から話を聞くためである。
 目覚めてからだいぶ時間が経ってしまっていて、朝ご飯と言うよりも昼前の軽いおやつ、みたいな時間だったが食堂はいつも通りに人であふれていた。腹が減っては戦は出来ぬ、とばかりに料理を注文すると、彼は堂内をぐるりと見回した。
「ねえねえ、聞いた?また出たんですって」
「出たって……幽霊?」
「決まってるじゃないの。で、どこに出たと思う?」
「えっと……ホールかな?」
 ケーキセットを前に少女達が話し込んでいる。その内容が例の幽霊騒動に関係している事だと気付くと、セレンはしめた、とばかりに聞き耳を立てる。
「ちがうのよ、それが。確かに今まではホールが多かったけど、今度はなんと!道場に出たんだって」
「うっそー。あんな汗くさいところに!?」
 運ばれてきた紅茶に口を付けていたセレンは、その少女の叫び声にぶっ、と吹きだしてしまう。だがそんな彼にまったく気付く様子なく、彼女達の話は終わらない。
「ええと、なんて言ったっけ?赤月帝国から来た忍者の人……」
「カスミさん?」
「ううん。おじさん」
 ──モンドさんだ……。
 心の中でセレンは呟き、名前すら覚えて貰えていない彼に同情した。
「その人が、見たらしいの。腰を抜かして、寝込んじゃったらしいよ」
「へー、そうなんだぁ」
「モンドさん……」
 幽霊を見てびっくりして腰を抜かし、動けなくなって、幽霊が消えた後も一人道場に取り残されて風邪をひいてしまったらしい。朝訓練に出てきたマイクロトフに発見された時は、マイクロトフの方が彼をお化けか何かだと思ったとか。哀れすぎて涙が出る。
「あとでお見舞いに行こう……」
 食事を終え、セレンは席を立つ。
 食堂を出ると彼は少女達が話していた、幽霊のよく現れるという場所に向かった。廊下ですれ違う人達も、幽霊話を気にしているのだろうか、どことなく表情が沈んでいる。
 途中立ち寄った見せ物部屋で、セレンはフリックに会った。
「よう、元気か?」
 ステージではさっきまでカレンが踊っていたらしい。彼女目当ての男達がまだそこかしこに陣取っている。その会話も、やはり幽霊話が多いようだ。
「フリックさんは、どう思う?」
 いきなりそう聞いたセレンに、彼は一体何のことかと考えた後、
「ああ、幽霊ね。俺は見てないけど……どうだろうな。戦場じゃ気が高ぶってありもしないものを見るっていう話は聞くがな」
「でもここは戦場じゃないよ」
「分かってるって。生憎と俺は霊感とかそういうものとは縁遠くてね」
 幽霊の正体なんてさっぱり見当が付かない、と彼はお手上げと両手を上げた。
「そっかー……」
「ビクトールにでも聞いてみろよ。今なら酒場にいると思うぜ」
 落胆の表情を見せるセレンに、フリックは言った。ビクトールなら、ノースウィンドゥ時代のこの城を良く知っているはずだ。彼ならば、何か有益な情報をもっているかも知れない。
「うん。ありがと」
「頑張れよ」
 フリックに見送られてセレンはホールへと向かった。酒場へ行くにも通り道になる。エレベーターの前ではアダリーがメンテナンスをしていた。
「なんじゃ、エレベーターなら今は使えんぞ。まったく、あれほど重いものを一気に詰め込むなと言っておいたのに……」
 近づいてくるセレンに一瞥すると、彼はまた手元に視線を戻して言った。どうやら重量オーバーで故障してしまったらしい。今日は階段を使って下まで降りてきたから、気が付かなかった。
「いえ、アダリーさんは幽霊って見ましたか?」
「幽霊?ふんっ、そんな非科学的なものなどありはせんわ!まったく、あいつらはすこーし便利な道具と万能のものとを誤解しておる。今度見つけたら百叩きマシーン『ばくばくクン』の威力を試す実験台にしてくれるわ」
 独り言を止めどなく続けるアダリーに、セレンは話を聞くのは無理、と判断。そろりそろりと逃げ出した。
 ホールの中央、階段下には約束の石版とルックがいる。いつもそこにいるから、きっと幽霊を目撃しているはずだとセレンは踏んだのだが……。
「あれ?いない……」
 珍しくルックは石版前にいなかった。何処ヘ行ったのだろう、ときょろきょろしていると、不意に後ろから肩を叩かれた。
「うわっ!」
「おわあっ!!」
 びくぅ!と過剰反応を見せたセレンに、肩を叩いた方もびっくりして階段から足を滑らせた。ずでん、と大きな音を立てて尻餅を着いたのは、サスケだった。
「いって~~!!」
 幽霊がよく出現する、という場所だから知らずに緊張していたのだろう。セレンに悪気があったわけではないのだが、大声で叫んだサスケに彼はつい、反射的に謝っていた。
「ご、ごめん!サスケ、大丈夫!?」
「大丈夫じゃない!」
 手を伸ばしてサスケを助け起こすが、よほど痛かったのか彼はジト目でセレンを睨む。
「ごめん。わざとじゃないんだ」
「あとでなんかおごってくれたら、忘れてやる」
「……はいはい」
 現金な取引を持ちかけてきて、肩をすくめた。そういえば、こいつはこういう性格だった。
 しかし、こんな真っ昼間。普段ならサスケは道場でモンドにびっちりしごかれているはずの時間だ。何故こんな所にいるのだろう?
「あれ?聞いてない?モンドの奴、お化けにびびって寝込んでるって」
「風邪ひいたんじゃなかったの?」
「そうとも言う」
 師範であるモンドが休みなので、サスケも堂々とさぼっているというわけだ。
「サボりじゃないって。ちゃんとした休みだ」
「はいはい」
 言い訳がましく続けようとしているサスケの肩をぽんぽんと叩く。
「そう言うことにしておくよ」
「だから、違うって」
 うがー、と牙を出して吠えるサスケを黙らせ、セレンは歩き出した。別に誘ったわけではないがサスケもついてくる。
「どこ行くんだ?」
「レオナさんの所」
「おっ、不良か?」
「違うってば。ビクトールに用があるの」
 行き先が酒場と聞いて、からかいの言葉を口にしたサスケに簡潔に今までの事を説明すると彼はしばらく黙っていた。そしてホールを出て倉庫の前で左に曲がる頃、
「面白そうだな、俺も手伝ってやる」
「言うと思った」
 ボソッと呟き、セレンはサスケを振り返らず酒場の扉を押し開いた。
 むわっとした空気が流れてくる。人いきれと酒の臭いが充満していて、あまり長居していると気分が悪くなりそうだった。
 カウンターにはレオナがいつものようにいて、その前にはアニタがグラスを片手に座っていた。
「おや、珍しい」
 彼女たちから見れば、まだまだお子さまの域を出ないふたりの姿に、アニタが嬉しそうに振り返った。
「なんだい、お姉さんになにか用かい?」
「え?あ、いえ……ビクトールさんって、います?」
 フリックに教えられて来たのだと告げると、レオナはキセルで表への入口近くを示した。その側のテーブルに、酔いつぶれて眠りこけている情けない姿をさらしたビクトールがいた。
「なんだかねえ。あの幽霊騒ぎで、あいつに皆があれこれ聞いて来るんだよ。ノースウィンドゥで死んだ誰かじゃないのか、ってね。でも思い当たる事がありすぎるんだろうよ、答えられなくて、あれさ」
「やけ酒……か。いい大人が情けねぇ」
 豪快ないびきを立てているビクトールを見やり、サスケが呆れた声を出す。
「大人だからね、色々あるのさ。もしその幽霊が本当にノースウィンドゥで死んだ人だったら、まだ浮かばれずにいるって事だろ?」
 ネクロードを倒した今も、魂が救われずにいるのだとしたら、ビクトールが懸命にやっていた事は無駄だったことになる。幽霊は女性だと言うし、もしそれが彼の大切な人だったなら、尚更やりきれないだろう。
「そっか……」
 セレンも彼に幽霊のことを聞こうとしてやってきたわけで、ビクトールの気持ちなんてまったく考えていなかった。だが確かにレオナの言うとおり、彼にとっては生まれ故郷を汚されているのと同じで、嫌な事だったのだろう。
「他、当たろう」
 あのままビクトールは寝かせて置いてあげようと、セレンはサスケの袖を引っ張った。最初はビクトールの醜態を見て呆れていた彼も、話を聞いてしまうと無下にこき下ろせなくて素直に頷いた。
「ビクトールさんが起きたら、謝っておいて下さい」
「伝えておくよ」
 城で起きた不祥事は城主のセレンにも責任がある。不愉快にさせてしまって済まなかったと、セレンはレオナに言付けるとサスケと共に酒場を後にした。
「……で、どうするんだ?これから」
 頼みの綱だったビクトールもハズレで、この先の展望がまったくなくなり振り出しに戻った彼らは、どこに行くともなく庭を歩いていた。
「どうするって言われても、どうしようか」
「俺に聞くなって」
 考えるのは苦手だと、サスケはセレンから話を振られて言い返した。
 足下に転がっていた石ころを蹴り飛ばし、転がっていく石に合わせて視線を前に流していくと、晴天の空をバックに白いものが飛んでいるのが見えた。だがそれはすぐにスーっと下に落ちていった。
「フッチ?」
 白いものを両手で受け止め、抱きしめたフッチがふたりに気付く。
「ぴ」
 ぴょこ、とフッチの腕の間からブライトが顔を出した。さっき空を飛んでいたのはどうやらこの子だったらしい。
「ブライト、もう飛べるの?」
「いえ、浮かぶだけで精一杯みたいで。すぐにばてちゃうんですよ」
 近づいてブライトをのぞき込んだセレンにフッチはそう答えた。
「本当に竜なのかな、こいつ」
 つんつんとブライトをつつき、サスケが言うとフッチの表情が少し暗くなる。
「まだ分からないよ。竜は竜洞でしか生まれないはずだし、白い竜なんて聞いたこともないから」
「でも、もし竜だったらすっげーんだろ?」
 白い竜が今までいなかったのだとしたら、ブライトが最初の白竜になるのだ。そう言われると俯いていたフッチが顔を上げてきょとんとした表情でサスケを見返す。
「なに」
「ううん。そういうこと、考えてもみなかったから」
 訝かしむサスケに答え、フッチはブライトの頭を撫でた。
「ぴー」
 気持ちよさそうにブライトが小さく鳴く。
「ところで、セレンさんは何をしてたんですか?」
「俺はどうでもいいのかよ」
 聞く相手をセレンに限定したフッチの言い方に、サスケがすぐに唇を尖らせて不満を口にしたが、
「だって、サスケはセレンさんについて回ってるだけじゃなかったの?」
「……どーせっ」
 ぐさりと胸に突き刺さる事をさらりと言われ、サスケはいじけてしまった。うずくまって地面に「の」の字を書いている。
「えっとね。フッチは見た?幽霊」
「いえ。でもあれって、いたずらじゃないんですか?」
「いたずら?」
 至極平然と当たり前のようにいったフッチに、セレンは素っ頓狂な声を出してしまった。ブライトがびっくりして首を引っ込める。
「違うんですか?僕はてっきり、シドさんの新しいいたずらだとばかり思ってましたけれど」
 そう言って彼は城の南側に建つ物見の塔を見上げた。城壁の塔の屋上に、シミのような一対の黒い羽根が見える。
「…………なるほど」
 言われてみれば、そんな感じがする。いたずら好きで、しかもそのどれもが余りいい趣味をしているとは言えないシドならば、幽霊騒動くらい起こしても変ではない。どうしてい言われる今まで気が付かなかったのか、不思議なくらいだ。
「その手があったか……」
 すっかり立ち直っているサスケが塔を見上げて腕を組む。
「よーっし。早速捕まえてやるぜ!」
 意気込む彼を眺め、セレンとフッチは互いに肩をすくめあった。
 だが。
「シドが幽霊?」
 塔にはシドはおらず、かわりにチャコがいるだけだった。さっき庭から見えたのはチャコの羽根だったのだ。
「違うの?」
「あいつ、生きてるじゃん」
「そうじゃなくてだなぁ。最近城を騒がしてる幽霊、あれがシドじゃないのか、って聞いてるんだよ」
 ウィングホードの少年は荒っぽいサスケの説明に不機嫌に顔をしかめ、それはあり得ないと首を振った。
「どういうこと?」
 そんなはずない!と叫んで暴れるサスケを押しのけ前に出たフッチが尋ねると、チャコは「うーん」と首をひねったあと、
「だって、シドの奴、最近は夜中にここで逆立ちして森に向かって遠吠えする、ってのが気に入ってるみたいで夜はずっとここにいるぜ?それにさぁ、その幽霊って女なんだろ?シドがやってるんだったらもっといたずらとかするだろうし」
 何かをするわけでもなく、未練を訴えるわけでもなく、ただ突然現れては消えるだけの幽霊。もしシドだったらもっと驚かせてくるだろうし、悪ふざけをしてくるだろう。それはつきあいが長いチャコが一番良く分かっている。
「かばってるんじゃないだろうなぁ」
「まさか。俺の方こそ、いい迷惑してるんだ」
 幽霊を捕まえる前にシドを牢屋につないでくれ、と切実な声で訴えてくるチャコはどうやら本心からそう言っているらしい。
「けっきょくまた最初に戻るのか」
 塔を出て、憎々しげにサスケは吐き出す。
「こうなったら俺達で捕まえるっきゃないな」
 ぱしん、と両拳をぶつけ合って音を鳴らし吠えた彼に、
「え?」
 セレンとフッチが同時に振り返る。
「誰が、って?」
「俺達」
 恐る恐る聞き返したセレンに、サスケはわざとらしくゆっくりと言いながらセレンとフッチを指さした。
「ここまで来といて止める、なんて言わないよな?」
「うっ……」
 言葉を詰まらせ、セレンとフッチは渋々頷いた。満足そうにサスケは微笑み、夕陽を指さす。
「っつーわけで!今夜10時、約束の石版前に集合だ!よし、作戦会議するぞ」
 やる気満々なサスケに引っ張られ、作戦会議場に急遽決定されたレストランへ彼らは向かった。途中、石版前に戻ってきていたルックを巻き込むのを忘れないで。

 そして深夜。
「なんで僕が……」
 偶然、レストランへ向かう彼らとぶつかってしまったが為に巻き込まれてしまったルックは、石版の前で長々とため息をついた。
 多くの人が寝静まった夜。人の行き来がなくなった為に、元から広々としていたホールは更にだだっ広く感じられる。明かりは窓から差し込んでくる月明かりのみで、幽霊が警戒してはいけないのでランプは使っていない。だからかなり薄暗かった。
「冷えてきたな」
 昼間はまだ暖かかったが、日が沈むと一気に気温が下がる。自分の腕で体を抱きしめてサスケは天井を見上げた。
「くしゅっ」
 セレンが小さくくしゃみをして身を震わせた。3人の視線が一斉に彼に注がれ、顔を上げたセレンは大丈夫だと笑った。しかし一瞬渋い顔をしたルックはおもむろに立ち上がると、指を立てて空中に何かを描いた。
「わっ!」
 ばさり、と何かがセレンの頭に落ちてくる。それは茶色のすべすべした肌触りで、首を出したセレンは両手に掴んだそれが何か気付くと驚いた顔をしてルックを見返した。
「風邪でもひかれたら、僕が怒られるんだよ……」
 このメンバーで最年長であるルックが、今は要するに彼らの保護者代わり。ラストエデン軍リーダーのセレンは特に、なにかあったら大変だ。
「嬉しい。ありがとう」
 毛布を肩に掛けて体を包み込ませたセレンが礼を言うと、ルックは照れたのかぷいと顔を背けてしまった。
「なあ、俺のは?俺も寒いんだけど」
「……馬鹿は風邪をひかないっていうだろ……?」
「むかっ」
 サスケが「はいはい」と手を挙げて自分の分の毛布をほしがったが、そんなつもりはないらしいルックに冷たく言われて握り拳を作る。今にも殴りだしそうな気配にフッチが慌てて間に入って彼を止めた。
「止めるな!俺は前からずっとお前が気に入らなかったんだよ。今日こそ決着をつけてやるーーーー!」
 がうがう。吠えるサスケを押さえ込み、その向こうに見たものは涼しい顔でよそをむいているルックだった。下の方ではしゃがんだままのセレンが毛布にくるまれ、苦笑い。
「寒いんだったら、ほら、この毛布大きいし一緒に入る?」
「放っておいていいよ。忍者のくせに、これくらいの寒さを堪えられないなんて、修行が足りないんじゃない?」
「むっか~~!!!」
 堪忍袋の緒がちぎれる音がした、ような気がした。
「押さえて押さえて!」
「うるさい!放せぇ!!」
 必死にサスケを止めるフッチだが、じたばた暴れる彼を押さえきることは出来なかった。いや、途中で手を放してしまった、それも唐突に。
 すぽん、とフッチの腕から解放されたサスケは前に行こうとしていた勢いを止めきれず前のめりに倒れた。べしゃっ、と顔面から床に突っ込み、鼻を潰す。相当痛かったのだろうか、しばらく彼は起きあがれなかった。
「……あ……」
 一方のフッチはというと、ホールの入口の方を見つめて体を硬直させている。
「あ?」
 なんだろう、とセレンも立ち上がってそちらを見た。気付いたルックもセレンに並んで立ち、南側を見やる。
 薄暗いホールの真ん中に、白い霧のようなものが浮かんでいた。
「……あ…………」
 ごくり、とセレンが唾を飲む。
「うぅ、痛てて……」
 ようやく起きあがったサスケも、場の異様な雰囲気にすぐ気付いて鼻を押さえて立ち上がった。フッチの肩越しに同じ場所を見る。
「ひぇ!」
 小さな悲鳴が彼の口から漏れた。瞬間、それまで朧だった白い霧の輪郭がはっきりと現れ出した。
 ゆっくりと、ゆっくりとそれは女の形を取り始める。
 黒くて長い髪の毛は乱れて顔にかかっている。その表情ははっきりと探ることは出来ない。暗い所為もあるが、髪の毛に隠れてよく見えない所為でもあった。そして、噂通りの白い服。スカートだろうか、長めの裾が風もないのに揺らめいていた。
「うふ。うふふふふ」
「ひゃぁ!」
 誰が上げた悲鳴か分からない。だが、彼らを振り返ったその幽霊が不気味な笑い声を立てたとき。
「あれって……」
 ルックだけが冷静に幽霊を観察していたが、
「出たーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!」
 絶叫を上げて3人は一斉に、一目散に逃げ出した。階段をものすごい足音を立てて駆け上がり、申し合わせた訳ではないに関わらず、彼らは城の最上階、セレンの部屋に飛び込んだ。そのままベットの上にきれいに整えられていた布団をひっぺがえして潜り込む。
「むぐっ」
 三人向き合う形でベットの中央に顔を揃えたが、よく見れば一人足りない。
「あれ?」
「ルックは?」
 布団の下で顔を見合わせたセレンとサスケだったが、そのセレンの下で藻掻いている白い手をフッチが見つけて肩を落とした。
「セレンさん、下……」
「え?下……うわっ、ルック!?なんでそんなトコにいるの!?」
 多分、一番階段に近い位置にいたルックを、その横にいたセレンが脇に抱えるような形でかっさらって行き、そのまま本人が気付かないまま彼を下敷きにしてベットに滑り込んだのだろう。だから「なんで」と言われてもルックは無言でしか答えられない。
「いい加減、どいてくれないかな……」
 重いんだけど、と気怠そうないつもの口調で真下から言われ、セレンは顔を赤くしながら横にずれた。気付かなかったとはいえ、かなり失礼なことをしてしまったと、しばらくまともにルックを見られなかった。
「でも……まさか本当に出るとは思いませんでした」
「ああ、びっくりしたー」
 あんなに至近距離で、前触れも何もなく気配さえ感じさせずに出現できるのは、幽霊以外の何物でもない。しかもあんな笑い方をされてしまっては、どんな屈強な戦士でも肝を冷やすだろう。モンドが腰を抜かすわけだ。
「幽霊じゃないよ」
 だが、興奮冷めやらぬ彼らに水を差す台詞がルックの口からこぼれ落ちて、一斉に3対6つの瞳が彼を見つめた。
「幽霊じゃ、ない?」
「あれが?どう見たって幽霊そのものじゃんか」
「違うとしたら、あれはなんなんですか?」
 4人が一度に目撃したのだ。決して見間違いとか、そういう類のものではない。だが自信にあふれるルックは彼らを見回して、
「明日、幽霊の正体に会わせてあげるよ。僕はもう寝る。お休み」
 セレンのベットは普通サイズよりも広いけれど、4人並んで寝るのには少しどころかかなり狭い。しかし寒いし、ベットから出るのも億劫なので、彼らは自分の体に誰かの足が載っかったりその逆になったりするのを我慢して、朝になるまでしばしの休息に着いた。
 ただ朝の日の出前には、フッチに蹴飛ばされたらしいサスケが床に転がって、歯を食いしばりずり落ちている布団の端を握りしめてはいたけれど。

「くしゅっ!」
 ひとりだけ床で眠るハメになってしまったサスケがくしゃみする。
「馬鹿は風邪ひかないって言うのは嘘だったみたいだね」
 並んで歩くルックがくしゃみで飛んでくる唾を避けて言った。フッチが苦笑いを浮かべている。
「良かったね、サスケ。馬鹿じゃないんだって」
「……セス、本気で言ってるのか、それ」
 にこにこ笑ってセレンが言い、鼻をすすり上げたサスケは彼を軽く睨んだ。天然ボケが入っているセレンは、たまにこういう冗談を真に受けて本気にするから、妙なことを教えると後が大変だった。
「それで、幽霊の正体ってなんなんですか?」
 ねぼすけのセレンにしてみたら奇跡に近いような早い時間帯から行動を開始した彼らは、朝食を取る前にルックを急かして幽霊の正体を確かめに行くことにした。
 エレベーターはまだ不調のようで動いておらず、4人は揃って階段を下りていく。途中すれ違う人は少なく、人々がまだ活動時間帯に入っていないことを教えてくれた。
 そして着いた先は、昨夜幽霊を目撃したのと同じ場所、約束の石版前だった。
「ここって……」
「なんで?」
 フッチとサスケが顔を見合わせ、それからルックを見る。彼は床に落ちていた茶色の毛布を拾い上げているところだった。
「幽霊は?」
「待てって。どうせ逃げやしないんだし」
 早く正体を教えろ、とせがむサスケを黙らせ、毛布を出したときと同じように空中に消し、ルックはさてと、と振り返った。ゆっくりとしたペースで歩き出した彼を3人が横一線になって追いかける。
 だがまたしてもルックの足はホールの出口付近で止まった。
「おい、どうしたんだよ」
「着いたんだよ」
 急に立ち止まったものだからルックの背中にセレンがぶつかり、その肩にサスケが顎をぶつけた。昨日から痛い思いばかりしている、とぼやいた彼にフッチは憐れむような笑顔を作る。
「でもここって……」
 倉庫の手前、という場所に立ち止まったルックの後ろでセレンが首を傾げ、それから左を見た。そこはテレポートで仲間をあちこちに送り届けてくれる、ビッキーの指定席がある場所だった。今も立ったまま器用に眠っている彼女がいる。自分の前に4人も人がいるなんて、これっぽっちも気付いていないらしく、幸せそうな寝顔だ。
「……待って下さい。もしかして、幽霊って……」
 3人の中で一番察しがいいフッチが最初に気付き、声を上げた。
「だよ」
 短く肯定したルックに、さっぱり分からないとサスケが避難の眼を向ける。しかしビッキーの方をまじまじと眺めていたセレンは、とある事に気が付いた。
 なんだか、いつものビッキーの立ち位置よりもすこし左にすれていやしないか?
「ひょっとして、そういうこと!?」
 ぴん、と来た。そういえば夜中、ビッキーはいつも寝言で変な笑い声を立てていた。
 白い服、長い黒髪、不気味な笑い声。そして極めつけの、うっかりテレポート。
「そういうこと……だね」
 魔法を使えばその分、微量であるかもしれないが大気に乱れが生じる。風の紋章を身につけているルックはその微妙な変化を読みとって、幽霊の正体が寝ぼけてテレポートを繰り返していたビッキーだとすぐに察したのだ。ただ、そう説明する前に皆が驚いて逃げ出してしまったから……。
「ごめん」
 思いだし、セレンは赤面して謝ってきた。
「いいけど、もう……」
 過ぎたことだし、ルックはため息をついた。
「でも、どうするんだ?幽霊の正体は分かったけど、根本的な解決にはなってないぜ?」
 サスケが珍しくもっともなことを言い、
「そうですよ。ビッキーさんだと分かっても、あれはちょっと……失礼かもしれないけど、怖い、ですよ?」
 フッチもすやすや寝息を立てているビッキーを盗み見て頷いた。
「鎖でも付けるか?」
「テレポートされたら意味ないよ」
 犬じゃあるまいし、と答えてセレンは首をひねった。さて、どうしよう?
「いっそルルノイエにでも行ってくれてたらいいんでしょうけど……」
 敵側であるハイランドの首都を口に出し、フッチが何気なくそうこぼした。瞬間、その場の空気が止まった。
「え?え?」
 思わぬ事に焦るフッチ。だが、良識派の彼を置き去りに残る3名の中ではひとつの決定が瞬時になされていた。
「それで行こう!」
 円陣を組んで頷きあう3人の計画などまったく知らず、ビッキーはまだ当分、目覚める様子はなかった。
 それから数日後。
 レイクウィンドゥ城をあれだけ騒がせていた幽霊はぱったりと姿を見せなくなり、かわりに遠く離れたハイランド皇都ルルノイエの王宮では、夜な夜な不気味に微笑む女の幽霊が目撃されるようになったとか、ならなかったとか。

Shake!

 普通に彼は歩いていたはずだった。
 ユーリの城はそこそこ歴史があって古く、一部建て付けの悪い箇所があることは知っていた。最近、どこぞの床が抜け落ちそうだから気を付けるように、とアッシュから連絡は受けていた。
 だが、まさかその箇所を自分が踏み抜くことになろうとは、直前までスマイルは考えても見なかった。
 と、言うか。
 出した右足に体重を移動させて左足を前に出そうとした瞬間、平らのハズの床がめりっ、と不気味な音を立てて身体が不自然に前に傾いだあと、目の前が急に薄暗くなった時になって初めて。彼はアッシュが、床が抜け落ちそうになっている場所がある、と言っていた事を思い出した。
 思い出したが、総ては遅かった。
「…………………っ!!!?」
 ひくっ、と顔が引きつる。
 めりめりめりっ……と右足の下で次々と何かが折れ曲がり歪み、崩れていく音が大きくなっていく。
 そして、がくんっ、と身体が沈んで。
 
 どがらがっしゃーん!!!!

「なにごと!?」
「な、なんスか!?」
 自室でくつろいでいたユーリも、台所で夕食の準備をしていたアッシュも、広い城内に響き渡った轟音に慌てて手にしたものを放り出し飛び出してきた。
 巨大な冷や汗を背中に背負い、ユーリもアッシュも一階の、倉庫代わりに使っていた部屋に飛び込んで顔を見合わせた。そしてゆっくりと、最初に部屋に飛び込んだときに見えたものへ視線を戻す。
「す、スマイル……?」
「大丈夫、っスか……?」
 使い古しの家具やらなにやらの真ん中に、ほぼ逆さまになる形で突き刺さっているバンドメンバーに無事を確認する声をかけるが、返事はない。
 パラパラと彼らの頭上には、見事に天井をぶち破り薄暗い室内に明かりを差し込ませている穴から木くずが降り注いでいた。城の構造を思い浮かべ、アッシュはスマイルが自分の忠告を忘れて床を踏み抜いてしまった事を察する。
 しかし、ものの見事に突き刺さったものである。ある意味感心してしまいそうになった自分に慌てて首を振り、アッシュは恐る恐る、家具の山を崩さないように気絶してしまっているらしいスマイルへ近付いた。
 ユーリはと言うと、呆気に取られた顔で天井の大穴を見上げている。自分の城がここまでボロくなってしまっていた事にショックを受けているらしい。
「スマイル~?」
 名前を呼んでやりながらアッシュはスマイルを引き抜いた。見事に、目が十字架になって頭に星が飛び回っている。ぺちぺち、と何度かその頬を叩いてやると、少しだけ呻いて彼はうっすらと目を開けた。
 何度か瞬きを繰り返し、ぼんやりとする視界をクリアにしてから彼は、積み上げられている家具の上から身体を起こした。ぶつけたらしく、痛む後頭部を撫でつつ傍らに控えているアッシュを見て首を傾げる。
「どうかしたの? アッシュ」
「どう、って……大丈夫っスか」
「なにが?」
「なにが、って……」
 頭をぶつけた時の後遺症か、記憶が混乱しているらしいスマイルに困惑しつつアッシュは天井の穴を見上げた。明るい光が落ちてくる穴は、まだ周囲から木くずなどを零して外輪を広げようとしていた。
「凄いねー、あんな穴、何時出来たの?」
 完全に覚えていないらしいスマイルが感心したように、自分の踏み抜いた穴を見上げている。
「今さっき、貴様がぶち抜いたんだろう」
 それまで下で会話を聞いていただけのユーリが、眉間に皺を刻んだ顔で話しに割り込んできた。両腕を胸の前で組み、顔は不機嫌そうだ。余程、自分の城を傷つけられたことが気にくわないらしい。
「…………」
「もの凄い音がしたっス。驚いて見に来たらスマイル、ここに突き刺さってたっスよ」
「そういえば、さっきから頭が痛い……」
 ユーリの言葉には沈黙し、アッシュの言葉には頷いてスマイルはもう一度自分の後頭部に手をやった。指先に、微かにふくらみが感じられる。
「たんこぶになってるっス。あんまり触らない方が良いスよ?」
「いたたぁ……」
 アッシュに言われたものの、触ってしまったスマイルが思い切り顔を顰めた。
 言った先から、と呆れ顔のユーリも近付いてきて肩を竦めて首を振る。見上げた先でスマイルと視線がぶつかって、バカだなと鼻で笑ってやろうとしたのだがそれよりも早く、彼はユーリから視線を外しアッシュに振り返る。
 そしてユーリを指さして、
「ねぇ、アッシュ。あの人誰?」
 そんな事を言うものだから。
 再びユーリ、そしてアッシュが凍り付く。
「え……?」
 聞き間違いだろうか、とアッシュは冷や汗を浮かべながらスマイルを見返すが、彼は真剣な顔をしてユーリを指さしており、冗談にしてはタチが悪い。それに、スマイルがユーリの事でこんな風にからかう事は絶対にないはずだ。
 ユーリも、天井の大穴を見つけたときよりも唖然となり、何か言おうとしているのだろうがなにも言うことが出来ず、スマイルの指先を茫然と見つめているだけ。
「スマイル……?」
 掠れ、震えた声でユーリはスマイルの名前を呼んだ。だが、彼の反応は芳しくなく、小首を傾げたスマイルが怪訝な顔をしてまたアッシュを見返す。
「だれ?」
「……本気で言ってるんスか?」
 アッシュの方が聞き返してしまう。スマイルの様子は何処までも真剣そのものなのだが、その真剣さがあまりにも滑稽で間抜けに見えてしまうのは気のせいではないだろう。
 よもや。
 スマイルが、アッシュのことは覚えているのにユーリのことを忘れてしまうなど。逆なら充分あり得そうなのに!(……とアッシュは自分で考えて傷ついたらしい)
「アッシュ」
 なにやら不穏な空気が下の方から漂ってくる。怖々と下を見たアッシュは、見なければ良かったと後悔したがもう遅い。
 全身から怒りのオーラを漂わせたユーリが彼を睨んでいる。別にアッシュが悪いわけでもなんでもないはずなのに、何故かユーリの怒りはアッシュへ向けられてしまったらしい。普段立ち上がっているアッシュの耳が、すっかり怯えてぱたんと閉じてしまっていた。
「あうぁ……ユーリ、お、落ちつくっス!」
「ねぇ、アッシュってば。あの人誰なのさ」
 事態の緊迫さをまったくもって理解していないスマイルの、長閑な質問が繰り返される。その度にユーリが放つ怒りのオーラはどす黒さを増し、アッシュは今すぐ、出来るならばあの大穴を飛び越えて逃げ出したい気分に駆られた。
 出来るはずがないのに。
「スマイル、あの……本当に、ユーリのこと忘れて……」
「ユーリ? あの人ユーリって言うんだ、ふーん。……で、どういう人?」
 バンドのリーダーでこの城の主で……と律儀に説明してやりたいところだったが、ユーリのオーラが恐くてアッシュはそれが出来ない。フルフルと首を振り、どこからか飛び出している尻尾を足の間に挟んで怯えのポーズを取りながら彼は泣きそうな顔で後ろ向きに退こうとする。それを、答えを求めるスマイルが付いて回って、ユーリのオーラは更に黒く染まっていって。
 不安定に積み重ねられているゴミの山が、上に登っているふたりが居場所を変えたことでバランスを崩した。
 ぐらり、と一番上に積み上げられていてスマイルが突き刺さっていた棚が大きく揺れ動き、続いてその下にあった足の取れたテーブルが傾いて……。
「あ」
「あ゛」
「……あ?」
 三者三様、けれど同時に。
 連続して、ゴミの山が崩れる音が城中に鳴り響いて地面までもが揺れた。
 埃が濛々と立ち上り、視界が白一色に染め上げられる。目を開けている事も出来なくて、崩落地点から一番遠い場所にいたユーリでさえも咄嗟に腕で頭と顔を庇い、埃に咳き込む。その中で彼は、絶対にこの部屋に放り込まれているがらくたやゴミ関係は次の粗大ゴミの日に処分してやる、と心に誓った。
「…………どうなった……?」
 数分待って、ようやく視界が晴れだしたユーリは小さく声を出し、すっかり見る影もなくなってしまったゴミ山の跡を見回した。そこに、山の頂にいたはずのふたりの姿は見当たらない。
 慎重に、崩れてしまったゴミ山を成していた家具類を掻き分け、ユーリは部屋を見渡した。そして自分が立っていたのとはほぼ反対方向に、半分崩れたゴミ山に埋もれた格好で重なり合っているスマイルとアッシュを発見する。ふたりとも気を失っており、スマイルはアッシュの上に被さっていた。
 なんとなくその光景を見た瞬間むっとした事はさておき、ユーリは怒りを取り戻して思い切り、靴の先でスマイルの頭を蹴り飛ばす。埋もれているのを引っ張り出してやろう、という親切心は生じなかったらしい。
 更にごんっ、と音を立ててスマイルの額に落ちてきた板きれにぶつかった。
「……ったぁ~~~~!!!」
 二重の痛みに、意識を飛ばしていたスマイルも耐えられなくて飛び起きた。起きた途端、ズキズキどころががんがんに響き渡る痛みと下半身を埋め尽くしている瓦礫の山に呆気に取られたが。
 両手で後頭部のたんこぶ、天頂部のユーリに蹴り飛ばされた箇所、額に落ちてきた板きれの角でぶつけた傷を順番にさすり、乱暴に足を引き抜いて出来上がっていた小さなゴミの山を突き崩した。その影響で、スマイルの下敷きになっていたアッシュの上半身にまでゴミが積み重なり、彼はその重さに呻いた。
「目が覚めたか、このうつけ者」
「……ユーリ、酷い……」
 フラフラする頭を何とか叱咤して、スマイルは痛みを堪えながら下からユーリを睨みあげた。そして、額が切れて血が流れている事に気付き思い切り嫌な顔をする。
 一方、当たり前のようにスマイルに名前を呼ばれたユーリは再度呆気に取られ、ぽかんと彼を見返した。その表情に、スマイルの方が変な顔を向ける。
「どうしたの。……あー、ところでユーリ、この惨状はなにゆえ?」
 事態の展開を理解できていないらしいスマイルが、散乱する粗大ゴミの惨状に首を捻って問いかける。しかしユーリの方も状況についていくのが精一杯で、咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。
 ユーリが返事をくれるまでの間、スマイルは痛みで生理的に浮かんだ涙を拭い、頭を上向けて天井に見事に出来上がっている大穴を見て口をぽかんと開いた。そういえば、あそこから落ちたんだっけと思い出すが、穴の真下では無い場所に倒れていた自分も思いだし、反対方向に首を捻る。
 そして、自分の直ぐ傍に倒れ未だ気を失っている存在に気付いてまたまた、怪訝な顔をし眉根を寄せた。
「スマイル、ひとつ聞くが……私は誰だ?」
「ユーリ、寝ぼけてる?」
「……」
 どうやら、さっきまでの記憶喪失は一時的なものだったらしい。恐らく頭を打った衝撃で抜け落ちてしまった記憶が、再び落下してぶつけた衝撃で戻ったのだろう。
 密かにホッと安堵の息を吐いたユーリは気を取り直し、前髪を掻き上げる。
「失礼な、何を根拠に」
「……そう」
 先に聞いたのはユーリのくせに、偉そうにふんぞり返り聞き返してくる彼は何処までも彼らしくて、スマイルは心の中で呆れながら傍らのアッシュを見やった。そして、マジマジと彼を見つめながらユーリに声だけで問いかける。
「ねぇ、ユーリ。ひとつ聞いて良いかな」
「なんだ」
 今は機嫌がいいから何だって答えてやるぞ、と尊大な態度を取るユーリに、では、とスマイルはひとつ咳払いをしてから、
「これ……誰?」
 アッシュを指さして、至極真剣な顔をして。
「…………は?」
 一瞬、ユーリは顎が外れるのではないかという顔をしてしまった。
「ユーリ?」
「覚えて、いないのか……?」
「覚えるって、なにを。ぼく、この人知らないんだけど……」
 つんつん、と伸ばした指でスマイルは気絶したままのアッシュを突っつく。
「…………………」
 ユーリは無言だった。スマイルも、無言でアッシュを見下ろしていた。
 やがて、なにかを結論付けたらしいユーリが苦笑いを浮かべて手を振った。そして、ひとこと。
「いや、私もこやつなど知らん」
 恐らくアッシュが聞いていたら泣き叫び、走り去ってしまいそうな事をさらりと涼しい顔で言い放って。
 彼は朗らかに笑うと、埃臭い部屋から出るために歩き出してしまう。スマイルも、どこか釈然としない気分ではあったがユーリに逆らうのも恐いので、曖昧に相槌を返して立ち上がり、服の埃を叩き落とした。
 そして最後に、ゴミ山に身体を半分以上埋められてしまっているアッシュを見つめ、
「誰だか知らないけど、そんなトコで寝てたら風邪引くよ~?」
 そう言い残し、彼もいそいそと部屋を出て行ってしまう。
 あとには崩れ落ちたゴミの瓦礫と、ぽっかり開いた天井の穴と、置き忘れられ挙げ句存在自体も忘れ去られたアッシュだけが取り残された。

 合掌。

君の笑顔は僕を殺す

 いろいろあったけれど、今日もなんとか無事に終わった。
 騒々しい毎日にもようやく慣れて、戦うことにも違和感を持たなくなった。
 けれどそれは多分、良くないことなのだろう。戦うことが日常に組み込まれている――それはまず間違いなく、異常なことなのだから。
 でも……向こうが仕掛けてくるのだから、降りかかる火の粉は払わなければこちらが一方的に火傷するだけだ。
「難しいなぁ」
 頭を掻きむしり、トウヤは呟いた。
「なに? 何が難しいって?」
 広間のテーブルに肩肘をついてため息をついていた彼に、後方からリプレが声をかけてきた。振り返り見ると、パジャマに着替えた彼女からはほかほかと湯気が立ちこめている。その後ろでは、フィズがラミの濡れた髪の毛をタオルで拭いているところだった。
「あ……お風呂?」
「うん。あと入ってないの、トウヤとソルだけだからね」
 肩に湿ったタオルを掛けて、彼女は笑う。
「ちょっとぬるくなってたから、少し焚いた方がいいかもしれないよ。でもあんまり熱くしても、ふたりしか入らないからもったいないかな」
 薪の数にも限りがあるし、そこまで湯は冷めてないから暖める程度でいいはずだと、彼女は椅子から立ち上がりかけたトウヤに言った。
 リプレはトレードマークの三つ編みをほどき、背中に垂らしている。案外髪は長くて、腰よりも下まであった。こうしてみると昼間とはがらりと雰囲気が変わって、新鮮な感じがする。
「な、なに……? じろじろ見て」
「いや、三つ編みの時と、印象が違うから……」
 椅子の背もたれに手を置いたまま、上半身だけを振り向かせているトウヤの視線が気になって問いかけた彼女に、彼は臆面もなくそう答える。
 風呂上がりでいくらか上気していた彼女の頬が、また少し赤くなった。
「そう? 変かなぁ」
「変じゃないよ。うん、可愛いよ」
 にっこりと目を細めて言ったトウヤだったが、
「なーに女を口説いてんだよ、お前は」
 ぼこっ、と予告無しに後頭部を殴打されて前のめりに倒れそうになった。
 浮き上がった椅子の後ろ足が空しく中を掻く。背もたれに顔をぶつけたトウヤは顎を抑えて呻いた。殴られた頭も痛い。しかも平手ではなく、握り拳だった上、容赦なく力を込められた。
「痛い……」
 両手で顎を包み込むようにしていたので、必然的に声がくぐもる。しかしトウヤをぐーで殴った張本人にはしっかりとその一言は聞こえていた。
「ほー? まだ殴られたいのか、そうかそうか、よし、ご期待に応えてやろう」
 何故そうなる、とトウヤは心の中で悲鳴を上げた。が、実際にそんなことをしたら恥ずかしいだけなので(これでも体裁を気にする方なのだ)、声には出さない。
「ちょ、ちょっとソル! どうしてトウヤを殴るの!?」
 あまりに一方的に見えるソルの横暴に、はっと我に返ったリプレが慌てて止めに入る。
「別に理由なんてねぇよ。ちょっと気にくわなかっただけだ」
 むくれたような声が返され、そんなことは理由にならないとリプレはなおソルにくってかかろうとした。仲間になってまだ日は浅いが、ひとつ屋根の下で共同生活を送る家族同様の人を、そんな単純な動機で殴ってもいいわけがない。それが彼女の言い分。
「リプレ、いいよ。そんなに痛くなかったから……」
 上手に嘘をつくことにも慣れている。人をだますのはとても簡単だ。それが裏に特別な画策でもない限りは、嘘も時に優しさになる。
「本当に? 大丈夫なの、トウヤ」
「平気だって。な、ソル?」
 本気で殴った訳じゃないもんな、と微笑みながらトウヤはソルに言う。だが彼はぷい、とそっぽを向いてしまった。
「…………」
 対処に困って、トウヤの微笑みは苦笑に変わる。
 さっきのソルは、多分本気で殴っていたに違いない。まだじんじんとその箇所が鈍い痛みを発しているのだから。ただ、トウヤとソルとでは鍛え方が根本的な部分から違っているため、ソルの本気はトウヤの手加減と同じレベルであったりする。
 結論から言うと、痛くないと言ったら嘘になるが、かといって頭を抱えて悶絶するほどの痛さではなく、我慢できてしまえる痛さ、だ。
 もしかしたら、ソルはプライドを傷つけられたのかもしれない。トウヤがソルの事を、本気で扱っていないとでも誤解したのだろうか。
「ソル?」
 トウヤに謝りなさい、と子供達やガゼルを叱るときと同じトーンでリプレが言う。だがソルは心なしか頬を膨らませたまま答えようとしない。
「ソル!」
 ついにリプレが堪忍袋の緒を切りかけた。
 やばい、と思ったときにはもうトウヤは椅子から立ち上がって、ふたりの間に割って入りしかっ! とソルの腕を掴んでいた。
「ほら、ソル。早くお風呂に入らないと……。あとは僕達だけなんだからさ」
 凍りついた笑顔を張り付かせて、トウヤはずるずると大して抵抗もせず、そのかわり素直に自分で歩こうとしないソルを引きずってその場を後にした。
 食堂から角を折れて、自分の部屋の前に来たところでトウヤは止まる。それを待っていたのか、ソルは途端にぶんっ、と腕を振り回してトウヤから逃げた。いや、それは正しい表現ではないかもしれない。ソルはトウヤから2,3歩分離れただけでそこに留まったのだから。
「ソル?」
 訝しんで彼の顔をのぞき込もうとすると、ふっと直前で避けられた。
「怒ってるのかい?」
「べつに……そんなんじゃねぇよ」
 ぶっきらぼうに答えるその調子からは、自分は不機嫌です、というオーラがありありと伝わってくる。
 ――素直じゃないんだから、まったく。
 軽く息を吐き、トウヤは肩の力を抜いた。これは、しばらく放っておく方がいいだろう。下手に触って、余計に機嫌を損ねられると困る。
「じゃあ、お風呂に入ってしまおうか。みんなもう上がってしまったみたいだから」
「知ってる」
 だからアジトの中に戻ってきたんだ、と小声で呟いたソルは、相変わらずトウヤと視線を合わそうとしない。
「どこか行ってたのかい?」
 問うと、ソルは「別に」としか答えない。だからトウヤも、
「そう。あまり夜ひとりで出歩くのは感心しないけど」
 南スラムは北スラムほどではないにしろ、やはり浮浪者や犯罪者が隠れ住む場所でもある。その中を一人きりで、しかも明かりも少ない夜に出かけることは危険なことだと、ソルはどこまで理解しているのかトウヤは気になった。
「お前に言われたくないぞ」
 お前こそひとりでたまに出かけているじゃないか、とソルに言い返されてトウヤは苦笑いを浮かべる。確かにその通りだが、やはり自分のことは無頓着になっても他人のことはどうも気にかかってしまうらしい。
「お前は俺の親か」
 過保護にも程があるぞ、と言われてしまい、トウヤは返す言葉が見付からなかった。
「親……はちょっとね、遠慮したいな」
「当たり前だ。俺だって御免だ」
 だから返事に困ってそういうことを言ったら、即答でソルに一刀両断されてしまった。取り付く島もないとはこのことであろうか。
「そうだ。お風呂、入らなくちゃね」
 会話が続かなくて、トウヤは最初の話題に戻ることにした。だが、
「やだね」
 再度即答で拒否され、トウヤは目を丸くする。
「どうして?」
「お前と一緒は、い・や・だ」
 理由を尋ねると、何故かやけに強調した言い方で突き返されてしまった。
「それに、俺は温い湯になんてつかりたくないからな。トウヤは、裏で火の調整してこい!」
 げしっ、と。
 頭にやったらそれほどダメージが行かないことを先程学んだ所為だろう。ソルは思い切り、今度はトウヤの脛を蹴り上げて怒鳴ってきた。
「☆△×∞∠@¥∩∃ρτ!?」
 声にならない悲鳴を上げ、トウヤは片足でぴょんぴょんその場ではね上がる。今蹴られた箇所を抱き込むようにしたせいで、途中バランスを崩して倒れそうになった。それが偶然か不幸か、ソルが立っていた方向だったから……。
 てっきり、ソルは逃げるだろうとトウヤは想像していた。でも、違った。
 差し出された腕は細く、とてもトウヤを支えきれるものではなくてふたり一緒にきりもみ状態で床に倒れ込んだ。ただ、どういうわけか上からおちてきたはずのトウヤが、床の上ではソルの下敷きになっているのは不思議といえば不思議。
「いてて……」
 またしても後頭部をしたたかと床に打ち付けたトウヤが、今度こそ顔をしかめて痛そうな表情を作る。どうやら、先程ソルにやられた箇所の上をまたぶつけてしまったらしい。コブになっているかもしれなくて、トウヤはもぞもぞと身体を動かして頭に指を添える。
「いちっ!」
 皮膚が赤く腫れ上がった部分に少し触れただけで、痛みが脊髄を突き抜けていく。これは完全にたんこぶになってしまっている。血が出ていないのは幸いか。
 それにしても……。
「ソル、いつまでそこにいるつもりかな……?」
 トウヤにまたがるようにしてのし掛かっているソルを見上げ、トウヤは表情を引きつらせた。腹部を圧迫されて、かなり苦しい。
「え? あ、ああ……悪い」
 慌ててソルがトウヤから離れるが、まだどこかぽーとしている。倒れたときにどこかぶつけたのだろうか。しかし、トウヤが下敷きになったおかげでソルには実質的な被害は及んでいなかったはず。
「ソル?」
 痛む腹を堪えて身を起こし、トウヤは傍らでまだ座り込んでいる彼に手を伸ばした。鍛えられている割に細めの指が、ソルの頬を滑り耳元まで伸びる。薄茶色の髪が触れ、途端にぴくっ、とソルの身体が小さく竦んだ。
「?」
 耳を包み込みようにして、さらにうなじに指が向かおうとしているところでようやく、ソルはトウヤの手を払った。
「馬鹿……! 触るな!」
 ぱしん、と打たれた手の甲を押さえたトウヤが首を傾げる。
 ソルは自分だけが怒っていて、しかも肝心の相手にまるで自分の気持ちが伝わっていないことが癪に障る。自分ばかりが浮き足立って、空回りしている気分でいらいらした。
「お前はさっさと、風呂を沸かしてきたらいいんだよ!」
 泣きたい気持ちを誤魔化してソルは怒鳴った。素直になれない自分の性格を恨めしく思いながら。
「……分かった」
「――!?」
 いつになく剣呑で低い声でトウヤが答え、服についた埃を払いながら彼は立ち上がった。見上げるソルの、縋るような目つきにも気がつかないフリをして、彼を無視する。
「じゃあ、少ししたら風呂場に来てくれ」
 一度もソルを見ようとせず、トウヤは冷たい足音を立ててその場から立ち去ってしまう。ソルは呆然と彼の背中を見送るしか出来ず、床に腰を下ろしたままひどく後悔した。
 置いて行かれた気がした。
 そんなつもりはなかったのに。
 嫌われた……だろうか。
「トウヤ!」
 呼んでも、返事はなかった。

 周りには大人しかいない環境で育った所為で、ソルは感情表現が下手だった。
 毎日が召喚術の研究と実験の繰り返しで、思い切り遊んだりはしゃいだりすることもなかった。
 楽しいことも、哀しいことも特別なかったし、嬉しいと思えるようなことは召喚が上手くいったりしたときくらいだった。実験が失敗して苛立って物に当たることが少なからずあったものの、誰かに対して怒りを憶えることもほとんどなかった。
 正直なところ、ソルは自分の感情を持て余している。どう表現すればいいのかを知らないから、素直に表に出すこともはばかられて後込みしてしまう。これは言葉にしてもいいことなのか、それとも押しとどめるべきなのか、そういう考えが先に出てしまって結局言い出せないまま、会話は終わってしまう。
 本当のことを口に出したら相手が怒ることも、フラットに来てから知ったことだし、かといって嘘ばかりつくのも良くないと学んだ。
 だから人間関係は煩わしく面倒くさいと、ソルは最初思った。
 そうとばかりは言えないことに気付いたのは、つい最近のこと。同時に、扱いに苦慮する感情が芽生えたのは言うまでもない。
「俺、変なのかな……」
 思いため息をつき、ソルは離れにある風呂場の扉を開ける。中には誰もおらず、天井に吊されたランタンの明かりが室内を照らし出していた。床に敷かれた簀の子は水に濡れ湿っており、洗濯籠には乱暴に皆の服が詰め込まれている。
「ソル」
 ガラッ、と一度ソルによって閉められた風呂場の入口がいきなり開き、トウヤが顔をのぞかせたので上着に手を掛けていたソルはどきりとした。だが彼は中に入ってくる素振りを見せず、扉と壁に両手を押しつけるような体勢で立ったまま、
「入る前に、よくお湯を掻き回した方がいいよ。上だけが熱くて下は冷たいまま、ってことがあるから。それと、今沸かしている最中だから、もう少ししてから入ってくると寒い思いをしなくて済むよ」
 それじゃ、と用件だけを言い終わるとトウヤは扉を閉めて出ていった。上着のボタンに指を添えたまま、ソルは寂しい気持ちを感じて慌てて首を振った。
 ――馬鹿! 何考えてるんだ俺!
 自分から一緒に入浴するのを拒んで置いて、今更ひとりで入るのは寂しいだなんて、虫が良すぎる。だがやはり、ここの風呂はひとりで入るには広すぎる。もっとも、無色の派閥本部にある風呂も、無駄なくらいに馬鹿広かったのだが。
 だからかもしれない。広い場所に一人きりになると急に不安になるのは。
「トウヤ……」
 一緒にいたいだなんて思う人が出来るなんて、考えてなかった。でもあまりにも側に寄られるとどうしていいのか分からなくて突っぱねてしまう。嫌われたくないのに嫌われるような事ばかり言って、憎まれ口を叩いて相手を傷つけて。本当に不器用なこの性格が恨めしい。
「はぁ」
 ため息をつき、ソルは乱暴に服を脱ぎ捨てた。山盛りの洗濯籠に強引に突っ込むと、タオルを手に浴場に入る。
 むわっとした湯気が立ちこめ、ソルは白に染まった視界に頭を振る。湯の温度を確かめようと手を浴槽に伸ばして、
「あちっ!」
 その熱さに手を引っ込める。
「あ、そうか……。掻き回すのが先か……」
 先程トウヤに言われたことを思い出し、ソルは浴場の片隅の置かれていた長めの棒を取った。それを湯の中に突っ込み、乱暴に掻き回す。水面が荒く波立ち、溢れた湯がソルの膝にかかる。だが温度はさっきよりも比べものにならないくらいに下がっていて、ちょうどいい具合に沸き上がっているようだった。
 湯桶に持ち替え、先に身体に湯を浴びせかける。石鹸を取って泡立て、慣れた手つきで身体の各所を洗ってから、風呂桶に足を入れる。
 温かい湯に肩まで浸かり、顔を濡らす。浴槽の壁に背中を預けて天井を仰ぐと、そのすぐ下側に小さな窓があった。鍵がかかっておらず、湿気が籠もらないようにするためか、わずかに開けられていた。
 その窓に、ぼうっと人影が映る。
「!」
 微かに開かれていた窓の隙間に手をかけて、その不埒者はあろうことか窓を開けようとしているらしかった。
 反射的にソルは湯殿から立ち上がり、洗い場に置かれていた手桶を掴んでいた。
 がらっ。
 すこーん!!
 窓が開かれた瞬間、振りかぶったソルの手から投げ放たれた手桶がその小さな窓枠を越えて不埒者にクリーンヒット。
「うがっ!?」
 だが聞こえてきた情けない悲鳴に、ソルは釣り上げていた目を丸くする。その声はよく聞き覚えのある人のものだったから。
「トウヤ!?」
 てっきりのぞきかと思ってしまったソルだったが、よくよく考えてみればこの窓は窯のある方向に設置されている。ここを通して、風呂の中にいる人と火の調整をしている人が会話出来るようになっているのだと、彼はすっかり、綺麗さっぱり忘れていた。
「ト、トウヤ!? 大丈夫か!?」
 ソルは大慌てで窓に駆け寄り、外を伺う。すぐ下で、手桶を片手にトウヤは顔をおさえてうずくまっていた。
「あ……悪い、トウヤ……」
 謝ってももう遅いのかもしれないが、ソルは何度も謝罪の言葉を口にした。本当に後悔しているようで、聞いていたトウヤもまだ顔がじんじんしているものの、可哀相に感じて平気だと手を振って見せた。
「大丈夫だよ」
「でも……」
 窓を通して手桶をソルに返し、トウヤは微笑む。まだ鼻の頭が赤くなっているくせに、やせ我慢もいいところだ。
「ごめん、俺……」
 勘違いも甚だしい、と俯き加減になるソルに、トウヤはそんなに気にすることはないとしか言えない。自分は打たれ強い方だから、と。
「それに」
 小さな窓であるものの、積み重ねられた薪を足場にしたトウヤには風呂場の中がすべてのぞくことが出来た。
「なかなかいいものを拝めたしね」
 にっこりと。細い目を更に細くして言ったトウヤの言葉の意味がすぐに理解できなかったソルだったが。
「…………」
 トウヤの視線が自分の顔ばかりを見ているのではないことに気付いて、徐々に顔を赤くさせた。同時に沸き上がってきた何とも表現しがたい怒りと羞恥に身を任せ、戻ってきたばかりだった手桶で素早く浴槽の湯をすくい上げると。
「トウヤのばかたれーーーーー!!!!!!」
 怒声と一緒に手桶ごと湯をトウヤの頭上に放り出した。
 かこーん。
「あうっ」
 すぽっ、と。トウヤの頭に手桶がはまった。中のお湯は彼の全身をびしょぬれにするのに充分だった。
 鋭い音を立ててソルが窓を閉める。しっかりと鍵もかけて頭まで湯の中に沈んだ。
 ぶくぶくと気泡が水面に浮き上がって弾け散る。耳まで赤くなって、一気に上昇した心拍数を必死に抑え込もうとするが上手くいかない。
「ソールー」
 外で、トウヤの情けない声が聞こえてきた。
「寒いんだけど……」
「知るか! 一生そこで反省してろ!」
「そんな冷たいことを言わないで……お風呂に入ってもいいかい?」
「絶対に嫌だ!」
 お前なんかもう知らない! 叫んでソルは、残っていたもうひとつの手桶を取るとまた湯をそこにすくい取った。鍵を外して窓を開けると、腕だけを外に出して真下に向かって湯を捨てる。
「うわっ!」
 湯が何かにぶつかって染み入る音が聞こえたが、ソルは敢えて無視しまた先程と同じように窓にしっかりと鍵を掛けた。
「トウヤのばかたれ」
 呟きは湯に溶けてソルにも聞こえなかった。

Moonshine

 廊下を歩いていると、ふと風を感じた。
「……?」
 小首を傾げ、スマイルは周りを見回した。微かだが屋内に吹き込んできている風が彼の前髪を揺らしている。冷たい、秋を思わせる風だ。
「あ、と……」
 少しだけ歩を進め、もう一度辺りを見渡して彼は其処から幾ばくか先にある窓が僅かに開いている事に気付いた。白いレースのカーテンがゆらゆらと裾を揺らめかせている。
 誰かが閉め忘れたのだろうか、肩を竦めた彼はゆっくりと窓へ歩み寄った。ふかふかの赤い絨毯に足音は消され、周囲は静まりかえっている。自分の呼吸する音だけが耳障りに響き、月明かりが薄く影を棚引かせている一角へ進み出る。
 はためいているカーテンの端を指先で摘み、開いている窓を閉めようと彼は腕を伸ばした。
 けれどその動きが一秒後、停止する。
 窓の外、それほど広くもないテラスの辺に人影を見つけたからだ。
「…………」
 何をしているのだろう、こんな遅い時間に。まず思い浮かんだ疑問はそれ。
「ユーリ?」
 控えめに、彼は声を出してテラスに佇んでいる人影を呼んだ。語尾が上がっている、何をしているのかという疑問を呼び声の中に含ませた為だ。
 人影が、緩やかな曲線の動きで振り返った。月明かりは窓の外に出ると思った以上に強い、昼間のようとまでは行かなくても、平らに均された足許に影が伸びる程の明るさを保っていた。少なくとも、手元に困ることは無さそうだ。
「お前か」
 手摺りに片手を置いたまま振り返り、ユーリはスマイルの姿を月光の下に認めて微かに微笑む。
「なに、してたの?」
 もう一度、今度はちゃんと言葉に置き換えて問いかける。すると彼はスマイルから視線を外し、東の空に高く輝いている月を見上げた。
「見ろ」
「ああ、今日は満月だっけ……」
 顎をしゃくる動きで綺麗に円を形作っている月を示したユーリに同調し、視線を持ち上げたスマイルが納得顔で頷いた。
「ウサギが見えるねぇ」
「ウサギ?」
 何気なく、闇空にぽっかりと浮かぶ月を見上げながら呟いたスマイルに、ユーリが怪訝な顔をして聞き返す。スマイルは月から紅玉の双眸を見つめ返し、肩を竦めた。
「昔話さ」
「ウサギとカメ?」
「ああ、それも確かに昔話」
 ウサギの昔話、と聞いてまず思い浮かぶものをつい口に出したユーリだったが、肩を更に竦めた上に溜息までつかれてしまって、思わずむっとなりスマイルを睨んだ。
「いや、ねぇ……お月様にはウサギが棲んでいて、餅つきをしてるって、それだけの話なんだけど」
「……本当か?」
「……アームストロング船長がアポロ11号に乗って月の、静かの海に降り立ったのはもう三十年以上前の事だよ」
 まさか真に受けられるとは思っても居なかったスマイルは、やや脱力気味に呟いた。力無く首を振り、風に揺れる前髪を掻き上げる。
「なんだ、嘘か」
「本当だったらある意味恐いよ」
 素っ気なく、だけれど何処かつまらなそうに言ったユーリを小さく笑う。そして髪に差し込んだままの右手の隙間から、スマイルはもう一度月を見上げた。
「そう言えば、満月になると墓場から生き血を吸いに出てくるのがノスフェラトゥだって言われてるらしいね」
「ノスフェ……?」
「分かりやすく言えば、吸血鬼」
 つまりは君のこと、とユーリの胸元に人差し指を向けたスマイルの笑顔に、ユーリはあからさまに嫌な顔をする。一緒にするな、と言いたげであり、それが尚更可笑しくてスマイルは喉を鳴らして笑った。
「笑うな」
 笑いすぎて、ごつん、と手痛い鉄槌を頭に貰い受け、ようやくスマイルは顔から笑みを消す。拳骨を喰らった部位を手でさすりながら、再度月を仰ぎ見た。
「狼男も満月を見て変身するらしいねぇ……」
 そういえばアッシュは確か狼男だったはず。そして彼の姿は夕食の席から見ていない。案外、何処かで変身していたりして。
「アッシュならさっき、庭先を犬の姿で歩いていくのを見たぞ」
「犬じゃないってば……」
 確かにあの姿でオオカミだ、と言い切るのは憚られる部分が強いが、それでもあれで、ちゃんとした狼人の血を引いているはずなのだが、彼は。理解を得られないと、リカントロープも辛いものである。
「……で、話を戻すけど」
「何処に?」
「……ウサギ」
「ああ」
 すっかり逸れてしまった話を戻そうとしたところ、ユーリ自身が何処で話がずれたのかを忘れてしまっていて、呆気に取られる。仕方なく、コホンと咳払いをひとつしてから気を取り直し、スマイルはテラスの手摺りに背中を凭れ掛けさせた。
「ええと、何処まで話したっけ……」
「確か、月にウサギが棲んでいて餅をついていると」
「カニ、って話もあるよ」
 他にもインディアンが住んでいる、と表現する国もある。総て満月の表面に浮かぶクレーターのでこぼこが表現する陰影が、そんな姿に見えるだけなのだ。中国も日本と同じ、月にウサギと伝承が語るけれどこちらは、薬草を挽いていると表現するらしい。
「ふぅん……」
 話半分に相槌を打ち、ユーリも一緒になって月を見上げた。
 夜の闇にコントラストとして浮かぶ月の光は、今は見えない太陽の光を受けて煌々と輝いている。星明かりが霞む程に。
 言われてみれば確かに、月の表面がウサギや、カニの形をしているように見えてくる。言われないと意識しないのであまり気にしたことが無く、物珍しい気分でユーリはしばらく月を眺め続けた。
 その横顔を見つめ、スマイルは膝を折りテラスにしゃがみ込む。三角に曲げた膝の上に両手を置き、軽く結び合わせる。その形は祈りに似ていた。
「月は自転と公転の周期がまったく同じだから、常に同じ顔しか見せてくれないんだよ?」
「?」
 何気なく、ぽつりと呟かれたスマイルの言葉に気付いたユーリが視線を足許に向ける。見上げてくるスマイルの隻眼と視線がぶつかって、何故か先にユーリは逸らしてしまった。
 けれどスマイルは気にすることなく、言葉を続ける。
「太陽系の天体には軌道運動力学的に規則があってね……月の自転周期と公転周期は1:1……全くの同数なんだ」
「良く解らない……」
「ぼくも巧く説明できない」
 ただ、月は常に地球に対して同じ顔を向け続けている。裏側を見せてはくれない、その向こう側に何を隠しているのか、まるで分からない。
「…………似ているな」
「?」
 今度はユーリはぽつりと呟く番だった。
 スマイルが小首を傾げ、ユーリを見る。
「お前に」
「なにが?」
「月……お前も、裏側を見せないだろう」
「そう?」
 疑問符を投げかけてみるが、ユーリは投げ返してくれなかった。受け止めて、そのまま胸に抱き込んでしまう。困って、スマイルは曖昧に苦笑した。
「お団子、欲しいかな」
「なんだ、急に」
「お月見と言ったら、やっぱり月見団子とススキでしょう」
「…………」
 両腕を伸ばし、うーん、と背筋を伸ばしたスマイルが話題を一気に変えてきた。逃げたな、とユーリは渋い顔をするがスマイルは見なかったことにしてそのまま流してしまう。
「あー、思い出したらなんだか食べたくなっちゃったかも」
「甘いものは苦手では無かったのか」
「別に、お餅自体は嫌いじゃないよ?」
 あんこが苦手なだけで、と言い訳がましく言ってスマイルは立ち上がった。そして再び手摺りに身体を凭れ掛ける。
「ススキはどうする」
「その辺で生えてないかなぁ……」
 荒野に群生するススキの図が思い浮かび、スマイルは背伸びをして城の周りに広がる光景を一望した。だが月明かりでは地上の端端まで見渡すことは不可能で、直ぐに姿勢を戻し諦め顔で笑った。
「そうそう、月といえばもうひとつ有名な昔話が」
「?」
「竹取物語、知ってる?」
「大体は……」
 話の脈絡を掴み切れていないユーリが小声で返すと、スマイルはにっ、と笑って月を指さした。
「竹から生まれたかぐや姫は、竹のようにすくすくと成長してそれはそれは美しい姫に成長しました」
 姫の美しさを聞いた貴族達はこぞって彼女を妻にと、宝を持ち寄って求婚を繰り返すが、彼女はその全てを拒んでしまう。ついに時の帝までが姫を求めるが、彼女は月に帰らねばならないと言い満月の夜に迎えに来た車に乗り、行ってしまう。彼女を守ろうとした帝の兵士達は一斉に金縛りにあい、動くことが出来なかった。
 かぐや姫が残した不死の薬は、だが彼女が居なくては意味がないと残された人々が峰高い山の頂で焼いてしまう。
「有名な話だろう」
 スマイルが語り終えるのを待ち、ユーリは言葉を挟んだ。その顔は、今更何故そんな話をするのか、という疑問に満ちている。
「似てると思ってね」
「なにが」
「ユーリに」
 求めてくる人々は多いのに、その全てを拒んでひとり行ってしまう人。その人が残したものが例えどんなに素晴らしくても、その人が居なければ何の意味も持たない。だから。
「似てると思った。だから話したんだ」
「そうか……?」
「うん」
 自分の口元に手をやり独白するユーリに頷き、スマイルは最後に月を睨みあげ、そして手摺りから離れた。いい加減、屋内に戻らないと風に体温を持って行かれて風邪を引いてしまう。
「ほら、ユーリも」
「ああ、そうだな」
 二歩前に出てから、ユーリを振り返りスマイルは左手を差し出した。最後まで月を眺めていたユーリも、視線を前方へ戻し、二歩分進んだ。
 それから、右手を伸ばし差し出されているスマイルの、グローブを嵌めていない左手の甲を指で思い切り抓った。
「ったぁ!」
 爪の伸びた指二本で遠慮なしに抓られたのだ。痕がくっきりと残って、スマイルはあまりの痛さに涙目になりながら左手に息を吹きかける。
「酷いよ、ユーリ」
「その手を取って、危ない場所に連れ込まれては困るのでな」
 さらりと返し、ユーリは今さっきスマイルを抓った手を振る。そしてひとりさっさと、未だ閉められずにいた窓を開けると薄明かりの廊下を抜けて行ってしまった。
 残されたスマイルが恨めしげに窓を睨み、再度その場に腰を落とした。片膝を折り、もう片足は投げ出す。肘をつき、思い出したように細めた目の先で望月を見た。
「そうそう、満月は人を狂わせるって言うしねぇ……」
 楽しげに喉を鳴らして笑って、薄い雲に隠されようとしている月を見送る。
 遠くで、獣の遠吠えが聞こえた気がした。

紅い月

 闇はどこまでも闇。
 今は月の明かりさえ激しく遠い。風のうなり声が妙に空々しく大きく聞こえ、一瞬身を震わせたキールは空を仰ぐと小さくため息をついた。
 寒いわけではないが、全身を覆い尽くすこの言いしれぬ恐怖心と興奮に体が震えているのが分かる。深く底の見えない闇の中に一人佇み、彼はふっと、視線を頭上から足元に落とした。
 荒れ果てた、草さえ生えぬ荒野のまんなかに突如現れる異形の陣。複数の線と点、図形といびつな文字とで組まれた魔法陣を囲むようにして、さらに大きな魔法陣が描かれている。
 だが外側の魔法陣は、明らかに内側の魔法陣とは趣が異なっている。召喚術に知識のない人間が見ても、それは一目瞭然としていた。
 禍々しさが違う――
 内側のやや小さめの魔法陣には、見るものに恐怖と不安を植え付けるような邪悪さを秘めた文字や図形が規則正しく並べられている。かつて共に戦った仲間達がこの魔法陣を見れば、おや、と首を傾げるかもしれない。それは以前、ハヤトが召喚されたあの大穴を囲むようにして描かれていた魔法陣に酷似していた。
 だがサイズが違う。これはもっと小規模のものだ。だが外を囲む複数の魔法陣をあわせれば、全体としては以前のものと同じほどの大きさになるだろう。
 その魔法陣の最中央に、今キールは立っている。
 月のでない夜は何処までも闇。
 だが敢えて新月の夜を選んで、キールはここに来た。この夜の、一瞬のためだけに果てしない時間と力を注ぎ込んできたのだから。
 魔は闇を好む。
 本来人間という生き物には必然的に内面に闇を持つのだという。だがそれを隠すように光の面が生まれ、通常の暮らしを送る上では、内に潜む闇の顔は表に現れることはない。
 だが何かの拍子にたがが外れ、光の顔だけでは対処できないような事態に陥ったとき。人は自然と、まるでそれが初めてではなかったように――闇の顔を露見する。
 ひょっとしたら彼は、この世界に来てしまったときにその足かせをどこかに落としてきてしまったのかもしれない。でなければ、自分たちに見せてくれた明るく花を咲かせたような笑顔はすべて偽りであったというのか。
 星が力無く輝く空を見て、キールは首を振った。そんなはずはない、と。
 今でも自分は彼のことを信じている。たとえ彼が魔王であったとしても、彼と過ごした時間は嘘にはならない。だったら、それで良いではないかと。
 自分にはまだ彼を信じられる強さがある。今はそれに縋るしかない。
「…………帰ってこい」
 虚空に向けてキールは囁いた。
 彼の立つ魔法陣はサプレスの悪魔達を召喚するためのものだと、知識を持つ人間は理解するだろう。だが召喚に必要な、肝心のサモナイト石が見当たらない。それに紋章の組み合わせも、本来の召喚の際に使用される組み合わせとは少しずつ異なっていた。細かく言うなら、呼び出した召喚獣を使役するために必要な契約の紋章が欠けているのだ。
 そしてなによりも、内側の紋章を包み込む外側の紋章は。
 攻撃系の魔法陣。それも、通常戦闘で必要とされる紋章を更に強化し、すべてを破壊しつくす地獄の業火を呼び出すためのもの。攻撃範囲は、紋章の内側全体だ。
「…………」
 首魁オルドレイクを失いちりぢりになった無職の派閥は、すでに空中分解の状態にあった。彼の数多くの子供達も、それぞれに戸惑いながらも新しい自由な生き方をすでに選び取っている。キールだけが、時間を止めているのだ。
 無人となっていた無職の派閥本部へ戻り、書籍を読みあさって見付けた、おそらく今のキールが使える最高レベルの魔法がこれだった。だが完全にマスターしきる前に新月の夜が来てしまい、補助的な役目として魔法陣を強化するしかなかった。
 それでも、使えるのは一度きり。二度も使う魔力はキールにはない。それに、…………。
 無意識に右手が腰元に伸びていて、指先が冷たい無機質な物体に触れた。かちゃり、と金属が擦れ合う音がやけに大きく響き、キールははっとなる。
 視線をずらし、ズボンのベルトにつり下げられたナイフを見る。その表情には悲しみが満ちていた。
 このナイフは、キールの覚悟の証だ。
「守ると、約束した……」
 月夜の屋根の上で交わされた言葉に嘘はなかったと、今も思っている。
 自分は彼に出会えて幸せだった。彼に出会って初めて、自分が生きているのだと実感した。そしてもっともっと、生きていたいと願った。
「約束したんだ……」
 一緒にいたい。一緒に笑いたい。話したいことはまだまだ沢山ある。君のいた世界の事も知りたい。サイジェントの町だけじゃない、リィンバウムに広がる大地を歩き回り、冒険をしてみたいとさえ、思った。
 戦いが終わったら海へ行こうと、言ったじゃないか。
 地平線の向こうまで続く大きな水の大地だと、海を見たことのないキールに彼はそう説明した。蒼くて、冷たくて、水は塩っ辛くて中に入ったら体が自然と浮き上がる。波が引いては押し、太陽が沈むときには蒼い水面が一面の赤に染まるのだと。
 見てみたいと呟いたら、君は笑って言った。
『じゃあ、一緒に見に行こう』
 何気ない日常の雑談だったかもしれないけれど、キールにとって何物にも代え難い時間だった。
 君があんなにも楽しそうに話してくれたから、きっと海とは美しく面白い物なのだろうと感じた。君が一緒なら、たとえ世界の果てにだってたどり着けると思っている。
 君がいてくれたら…………。
「会いたい」
 薄くたなびく雲は星を隠し、一面の闇を地上に示す。まるでキールをあざ笑っているようで、彼は意識しないままに唇を噛んでいた。
「会いたいよ」
 こんなにも恋い焦がれている。ただひとり、君を思い出すだけで。こんなにも胸が苦しい。
 夜空を仰ぎ、キールは目を閉じる。呼吸を整え、静かに、意識を集中させる。
 この魔法陣に特別な手法はいらない。サモナイト石も、契約の言葉も書簡の呪文も必要ない。
 ただ、その名を心から紡ぐことで――――
 彼は、来る。
「ハヤト」
 闇に向けて、遠く界を隔てた先にいる君に向けて。
 キールは呼ぶ。彼の名前を。
「ハヤト」
 たったひとりだけの、キールの大切な人の名前を。
「ハヤト」
 この声は届くはずだ。
 約束した。必ず守ると。
 その約束を、果たさせてくれ――――!!
「煩い」
 こみ上げてくる涙を必死にこらえ、何度でも、何百回とでも彼を呼び続ける覚悟だったキールの背後で、暗い重い声が響いた。
「五月蝿い」
 同じ言葉が繰り返され、キールは息を呑む。
「貴様の声は、煩い」
 彼の声ではない。だが、一度だけ聞いたことがあった。
 月は見えない。何処までも続く闇だ。
 汗が流れる。足が動かない。何かを言おうとしていたはずの言葉が一瞬にして頭から吹き飛び、渇いた喉がかすれた音を吐き出しただけに留まる。だが逆に、それが彼に悲鳴を上げさせなかった。
 いや、今のキールには悲鳴を上げるだけの余裕すら許されていなかった。
 闇が重い。
 この一瞬で魔法陣の中の空気が変わった。
 息苦しい。瘴気を思わせる密度の濃い空気が、息をする度にキールの肺を焼く。重くのしかかる大気が彼の体を締め付け、冷たい汗がどっと、体中の汗腺から噴き出るのが分かった。
「ハヤ……ト……」
「五月蝿い、と言ったはずだ」
 直後、不可視の腕がキールの腹部にめり込んでいた。
「う……!?」
 内臓器官が一気に上部に押しやられ、吐き気に襲われたキールはあえなく背中から大地に倒れ込む。
「げほ、ぐぅ……がはっ!」
 背中から落ちた衝撃も加わり、こらえきれずキールはうつぶせになった瞬間胃の内容物を嘔吐していた。舌がつーんとした痛みを訴えかけ、鼻につく悪臭に自分でも顔をしかめる。
 固形物はほとんど見られない吐瀉物のうちわけに、自然と唇は歪んでいた。最後に食事を摂ったのは昨日の昼間だったから、吐き出すものは水と胃液ばかりだ。
「汚いな」
 すぐ真上で声がして、振り仰ぐより先にまた腹を蹴られた。
「ぐっ!!」
 息が詰まる。さっき殴られたのとまったく同じ箇所をつま先で蹴り上げられ、更に細い痛みに言葉もでない。倒れ込んだときに切ったらしい唇が赤い血を流し、鉄錆びた味が麻痺している舌に広がる。
「おい」
 地面に伏したまま立ち上がれないでいるキールの髪を乱暴に掴み、上向かせた相手と初めて視線が交わった。
 懐かしい人の姿。
 屈託なく笑う真昼の太陽のような彼は、もうそこにはない。
 あるのは冷たい深淵の闇だけだ。
「ハ……ヤト……」
「五月蝿いと言っている!」
 苛立たしげに吐き出し、キールの髪を掴んでいた手で魔王は彼を容赦なく殴った。鈍痛がキールの右頬の感覚を失わせ、小さな砂埃を上げて彼はまた倒れた。
 じゃり、という音を感じ薄目を開ければ、今殴られたばかりの右頬に固く冷たい物が押しつけられた。それが魔王の足だと理解するのに、キールは数秒かかった。
 歪められた視界を必死に持ち上げようとするが、上から押さえつける魔王の力は強大で、とても彼の力では抗いきれない。だが必死になって目玉を動かし、自分を今踏みつけているものの姿を視界に収める。
 闇を背に、表情は見えないが凛とした輝きを持つ彼に、身震いすると同時にキールは、彼が美しいとさえ思えた。
「何を笑っている」
 今から貴様は死ぬんだぞ、と降ってくる声にキールは自分の表情を知る。
「泣きわめくなり、哀願するなりしてみせたらどうだ。人間らしくよ」
 す……と軽くなった頬に驚く間もなく、3度目の衝撃がキールの脇腹に突き刺さった。
「ガぁ!」
 吐き出した息に容赦なく第二波が襲ってくる。かわす余裕もなく、やられるがままにキールは大地にのたうち回るしかなかった。
「貴様の声は五月蝿いんだ」
 まったくの無慈悲な声に、腹部を押さえながら顔を上げたキールの表情は、しかし魔王が望んでいるような恐怖で歪んだ見るに耐えないものとはかけ離れていた。
 人間は弱い。ちょっとつつけばすぐに死ぬ。そのくせ生きることに執着して見苦しく泣きわめき命乞いをする。それが魔王にとっての人間の価値観であり、絶対だった。だからキールが少しも彼を恐れていない素振りに、腹が立つ。
 ねじ曲げて、その顔を屈辱と恥辱に満たしてみたい。
 魔王の中に歪んだ感情がもぞりと首をもたげる。
 ふたりの距離は約五歩分。魔王ならその気になれば一瞬で間合いを詰めて攻撃を仕掛けられる距離だ。だがキールにとっては、地平線よりも遠い距離。
 地面に力無くうなだれたまま、キールは服の中から小さな宝石を取り出した。その輝きに目を留め、魔王は目を細める。
「反撃するって言うのか? 貴様が?」
 嘲笑う声に耳を傾けず、キールは片手で体を支え身を起こした。
 息をするのさえ苦痛で、全身がぎしぎしと悲鳴を上げている。肋骨が何本かひびが入っているのだろう、ひょっとしたら折れてしまっているかもしれない。裂けた上着の下からは赤く濡れた皮膚が顔を覗かせている。痛みは何も内側からだけじゃない。
「くっ……」
 息が漏れ、ダメージの大きさに苦笑する。
 だが、魔王がまだ油断しているのならそこを狙うしかない。
 チャンスは一度きりだ。
「人間如きが、むかつくんだよ!」
「ポワソ!」
 魔王が吠え、地響きを立てて不可視の闇がキールに襲いかかろうとした。しかし寸前にキールが召喚したポワソがそれを阻み、わずかにそれた衝撃波がキールの髪を激しく揺らしただけに留まる。
 召喚したポワソはひとかけらも残らず消滅していた。
「つっ……」
 もともと盾にするつもりで召喚したのだから、キールはさしてダメージを受けていない。逆に魔王の方が、自分の暮らすサプレスの同胞を使い捨てにされたことに腹を立てている様子だった。
「貴様……」
 魔王の瞳が初めて揺れた。
 冷たく底の見えない闇の中で、黒い炎がちろちろと踊る。ぞくり、とキールの背に悪寒が走った。
 同じ顔なのに……。
 ――ハヤト……
「五月蝿いと、何度言えば分かる」
 声に出したつもりはないのに、魔王にはキールの声が聞こえてしまう。否、キールが呼ぶハヤトの名前が通じてしまっているのだ。
 念じるだけで……心に思い描くだけで相手を呼びだし、心を通わせる。かつてハヤトとキールの間に流れていた空気がまだそこに、微かではあっても残っていることが不謹慎だがキールは嬉しかった。
「絶対に助ける……」
 かちり、と手の中のサモナイト石が擦れ合う。
 魔王が奇妙なものを見る目で彼を向いた。
「返してもらう……彼を、ハヤトを……」
 キールが言った瞬間、魔王は思いきり嫌な顔をした。そして、唐突に笑い出す。
「返すだぁ? この体をか?」
 自分の胸元を指さして魔王はキールを睨み付けた。
「どうやって? 俺様を攻撃するのか? だがそれじゃ、貴様が守りたいって言うこいつの体も傷つくんだぜ?」
「知っている」
 大切な体を自分から傷つけるような真似はするまい、とタカをくっている魔王をキールは一蹴する。
「うるさい、黙れ」
 幾度となく魔王がキールに向けて言い放ってきた言葉をそっくりそのまま投げ返し、キールはよろめきながらも立ち上がった。ふらつく足を叱咤し、乱れる呼吸を必死になって落ち着けさせ魔王を正面からにらみ返す。
 その瞳は、まだ死んではいない――
「お前の声は耳障りだ」
 彼の体で、彼ではない声で語るんじゃない。そう言葉の裏に含ませたキールに、魔王の顔は見る間に赤く怒りに染まっていく。
 絶対的な力の差を前にしながら、未だ勝負を諦めず抗おうとする彼が気にくわない。それは明らかに、サプレスを力で手中にしている魔王にとって、初めての屈辱に他ならなかった。
 キールの全身は傷だらけで、本当なら立っているのがやっとというはず。一方の魔王はまったくの無傷で、魔力も泉の源泉のようにわき出て尽きることがない。
「気にいらねぇ」
「お前に気に入られようとも思わない」
 呟きに即答で返され、魔王はぎりり、と唇をかみしめた。余りに強く噛んだ所為で、もともとハヤト――人間の体は赤い鮮やかな血を流す。
「貴様を殺し、この世界を徹底的に破壊してやる。でなくちゃ、俺の腹の虫がおさまらねぇ」
 忌々しげにそう吐き出し、魔王は赤く染まった唾を捨てた。その動作にわずかにキールが顔をしかめたが、魔王は気にしなかった。
「そんなにこいつが大事か?」
 ぴく、とキールの眉が片方つり上がる。
「だったら、リィンバウムをぶっ壊すのに手を貸してみせろ。そうすりゃ、返してやらなくもないぜ」
 リィンバウムに住む人々すべてと、ハヤト一人の命を天秤に掛けろ、という。露骨に顔をしかめたキールを、魔王は嗤った。
「どうした? 死ぬほどに大事なんだろう?」
 こいつのためだったら何でも出来るんじゃなかったのか、と嘲り嗤う魔王にキールは小さく首を振った。
「お前は何か誤解している」
 囁くように、ゆっくりと。キールは静かに言葉を紡ぐ。
「僕は一度も、返して欲しいとは、言っていない」
「?」
 彼の言葉が一瞬理解できず、魔王は目を細め唇を歪める。
「なんだと?」
 では何故キールはここに来て、魔王を呼んだのか。この体を――ハヤトを返して欲しいが為に、勝負の見えている戦いに敢えて臨んだのではなかったのか?
「約束した、必ず守ると。誓った、必ず助けると。
 僕は……貴様に請うために来たんじゃない。ハヤトを取り戻す為にここに来た!」
 キールの吠え声に呼応し、召喚用魔法陣が動き出した。
 白く淡い光を自ら発し、魔法陣を構成する紋章がそれぞれに輝き出す。
 キールは握っていたサモナイト石を空中に投げ放った。
「ヘキサボルテージ!!」
 機界ロレイラルの道が開かれる――
 効果範囲から逃れるために、召喚を行った瞬間キールはその場から大急ぎで逃げ出した。向かうは、あらかじめ決めていた特殊な魔法陣の中。
「ちっ」
 魔王が舌打ちする。
 キールにとって最高魔力を消費する最強攻撃魔法も、魔王にとってはそよ風程度のものでしかない。頭上に現れた複数の腕を持つ機神に向けて右手をあげると、ちらりとキールの背中を一瞥した。
 ドゴォォォォォォォン!!!!!!
 すさまじい爆音と衝撃がキールの全身を容赦なく襲いかかる。飛び退いて身を低くし、地面にしがみつくような格好で爆風をしのいだキールはもうもうと煙の立ちこめる後方を一度だけ見つめ、再び立ち上がり走り出そうとした。
 しかし。
 目的地である結界の手前に魔王の姿を見付け、足を止めるしかなかった。
 魔王は無傷。所々、防ぎきれなかった爆風による石つぶてで作った服の裂け目は見えたが、その下はきれいなまま、傷ひとつついてはいなかった。
「何処ヘ行く?」
 砂をかぶった髪を掻き回し、魔王はうざったそうにキールに言った。
「…………」
 じりじりとその場所から後退しつつも、キールは答えることが出来ないでいる。魔王にはすでにばれているはずだ。この先に、いかなる魔法をもはじき返すことの出来る結界陣が敷かれていることに。
 キールがそこに向かっていることは、問わなくても容易に想像できるはずだ。そしてそれは同時に、キールにはまだ何か秘策が残されていることを意味する。
 己を守るための結界なくしては使うことの出来ないような――そんな厄介な代物が、まだ切り札として彼の手の中に納まっていることを。
 彼は悩んだ。
 次の一手は本当に最後の賭だ。これで魔王が倒せるかどうかさえ分からない。それ以前に、全開で使用するのは初めての魔法なだけに、どれだけの効果を持ち、どれだけの被害を与えるのかさえ、キールには計算できていない。
 だから彼は、この魔法は結界の中で使う道を取った。取らざるを得なかった。
 この魔法は術者さえ巻き込む。自分もタダでは済まされない。この召喚術で駄目だったときは本当に、奥の手を使うしかない――が、それだけはなんとしてでも避けたい。
 キールの手が腰元を彷徨う。触れたナイフの冷たい感触に、彼はそっと目を閉じた。
 ――ハヤト……
 君は怒るだろうか。
 ――ごめんな
 心の中で泣きそうな顔をしているハヤトに謝り、キールは目を開く。そこにもう迷いは感じられない。
 かつて、リィンバウムがまだエルゴの王によって統治される以前。訪れた危機をしのぐために、一人の有能な召喚師がその命すべてを賭けて使ったとされる魔法があった。
 だがそれは、彼と敵対していた鬼人のみならず、周辺に存在していた無数の村や町、多くの人々を巻き込んで一面を草木の生えぬ荒野に換えてしまった。山は抉れ、大地は穿ち人は死に絶えた。
 以後その術は禁忌とされ、長く封印された書物の中で眠りについていた。キールが見付けたのは、本当に偶然だったのだが、そんな書までオルドレイクが持っていたと考えると、彼はあるいは最初は魔王の力を借りるではなく、自力で世界を破壊しつくそうと考えていたのかもしれない。
 サプレスの魔王に、サプレスの召喚術でどこまでやれるかは未知数だが……
「沈黙の闇、紅き月……」  
 袖から出したサモナイト石を握りしめ、キールは淡々と言葉を紡いで行く。その様に、その言葉に、魔王は顔を歪めた。
「白と黒に染まりし世界、サプレスの紅き月よ……」
 天使と悪魔が互いに争い傷つけ合う世界サプレス。その中で唯一、白でも黒でもない存在は魔王にとっても、脅威であることはすでに調査済だ。
「待て、貴様……」 
 ややうわずった魔王の声に耳を貸さず、キールは書物に記されていた通りに呪を唱え続ける。
 体が重い。空気が冷たい。全身を貫く痛みはもはや遠くに消え去り、感じられるのは通り過ぎて行く風の音だけだ。
 静かだった。
「止めろ、貴様、死ぬつもりか!?」
 死ぬ気で取り戻しに来たことはすでに魔王も承知の上だったはずだ。今更何を言うのか、と薄く開いた目でキールは彼を見た。
 だがそれが、キールにとって命取りだった。
 ――ハヤト……
 魔王ではなく、彼が叫んでいるように見えたのだ。
 一瞬、本当に一瞬キールの集中に波が立つ。
 ――しまった!
 後悔したときにはもう遅かった。
 呪文は完成している。あとは最後の名前を告げればいい。だが一度切れてしまった集中はすぐのは戻ってこない。
 暴走する――!
「ブラッディ・ムーン!!」
 血染めの月。
 闇の中に真っ赤な月が現れる。リィンバウムの白い月ではない。禍々しさを全身から放つ、サプレスの、紅い月だ。
 ――抑えきれない!
 悲鳴を上げたかった。だけれど声が出ない。その場に呆然と立ちつくしたまま、キールは紅い月を見上げていた。
「貴様ぁ!!!」
 魔王がキールに飛びかかり、胸ぐらを掴んで押し倒し馬乗りになって容赦なく拳を彼にたたき込む。抵抗も忘れたキールを、彼は何度も何度も殴りつけた。
 紅い月が怪しげに輝く。
 朦朧とする意識の中、キールは痛む両腕を掲げハヤトの体を抱きしめた。
「貴様、何を!?」
 狼狽する魔王を、どこにそんな力が残っていたのかと驚くほどに強い力で抱きしめ、抵抗を封じて逆に今度はキールが彼を押し倒した。ハヤトの体に覆い被さるように、キールが全身を使って紅い月から彼を隠す。
「止めろ、やめろぉぉ!!!」
 半狂乱になって叫び暴れる魔王を決して離さず、キールは固く目を閉じる。持ち上げた魔王の腕にぬるりとした感触が伝わって、暗がりの中見るとそれはなま暖かいキールの血だった。
 紅い月が不気味に嗤う。
 反撃も出来ずに地上でのたうち回っているだけの魔王を見下し、勝ち誇っている。
「放せ、殺してやる、今すぐに殺してやる!!!!」
 拘束されていない片腕で必死にキールを殴るが、彼は力を緩めようとはしなかった。ならば、とキールの脇腹付近――血を流す傷口めがけて拳を振り下ろしたが。
「……っ!」
 微かに身じろぎしただけで、キールは苦しそうに息を吐き出しつつも魔王を放そうとはしなかった。
 すでに、意識は無いのかもしれない。
 血がまとわりつく。不快な感覚が胸の奥からわき起こって、魔王は悲鳴を上げた。
 紅い炎が見える。すべてを焼きつくし、すべてを無に帰す地獄の炎が。空から落ちてくる――
「……いやだ……」
 知らない感情に押し流され、魔王は首を振った。透明な液体が頬を伝い、紅い血溜まりに波紋を描く。
 キールが熱い。開ききった傷口から流れる血は止まらない。白かった彼のローブは真っ赤に染まり、空を覆い尽くす紅い炎と一体化して、どこまでが彼なのか判別がつかなくなっていた。
 すべてが紅く染まっていた。キールも、ハヤトも、空も、大地も。
「いや、……いやぁ……」
 涙が止まらない。思い通りにならない自分自身を持て余しながら、魔王はキールを抱きしめ返した。ぴくっ、とわずかだったが反応が返ってくる。 
 手が、頬に触れた。
 土と血で汚れてざらざらになっているキールの手が、ハヤトの頬を優しく撫でる。いつものように髪を梳き、穏やかな微笑みを向けてくれる。
「キール……」
 涙で潤むハヤトの目には、キールだけが映っている。闇よりも深く、光よりも強い瞳が、キールだけを見つめている。
「おかえり、ハヤト」
 真っ赤に腫れあがり痛々しい姿でありながら、キールの表情は柔らかかった。
 新しい涙が溢れてきて、ハヤトはの肩に顔を埋める。その背中を何度もさすってやりながら、キールはとても穏やかな声で笑った。
「海を、見に行こう……。ふたりで、きっと空よりも蒼い海へ……」
 炎が踊る。
 ハヤトは黙って頷き、涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭うこともできないまま、目を閉じた。
 唇が重なり合う。ついばむような、触れるだけのキスが繰り返されて吐息が混ざり合った頃、角度を変えて深く口づける。
 飲み下せない唾液がハヤトの頬を伝い落ち、歯列を割って入ってきたキールの舌にハヤトは意識を翻弄される。何も考えられなくなる。
 そのまま静かに、ハヤトはゆっくりと意識を手放した。

「うそつき」
 紅い服をまとった少年が荒野に座り込み、泣いている。
「海に行こうって、約束したのはキールじゃないか……」
 優しい嘘。彼のつく嘘はいつもハヤトの胸になだらかな傷を残していく。
「うそつき」
 言葉は風に運ばれ、どこかへ消えていった。
 静かに、ハヤトはキールのベルトに手を伸ばした。そこにつり下げられていたナイフに触れ、鞘から抜き取る。
 鈍色の光を放つその刀身に、彼は見覚えがあった。
「サモナイト・ソード……」
 刀工ウィゼルより受け取った剣は、あの戦いの中でまっぷたつに折れてしまったはずだった。それがここにあるということは、きっとキールがウィゼルに頼んで鍛え直してもらったのだろう。
 彼がこのナイフを何に使おうとしていたのか、気付いてハヤトは苦笑した。
「ばーか……」
 語尾が弱くなる。
 彼は相打ち覚悟で、このナイフで魔王に挑む気だったのだ。最後の、あの紅い月が駄目だったときのために。
「ほんと、馬鹿……」
 涙が止まらない。
 寂光の中、ハヤトは目の前に横たわるキールを見つめた。
「……海、見に行こうな……」
 最後の約束だから。
 そしてハヤトは、己の胸に深くナイフを突き立てた。

『な、海って蒼いだろ!?』
『ああ、本当だ。どこまでも続いてる……』
『あの先に、何があるのかな』
『さあ、どうだろう』
『行ってみたいなー、海の向こう』
『じゃあ、行こうか』
『え?』
『一緒に、海を渡ってみようか?』
『本当に? いいのか?』
『ああ。君となら何処ヘでも行けそうな気がするんだ』
『俺も、キールとならどこだってきっと平気だよ』
『ハヤト……』
『これからは、ずっと一緒な?』
『ああ、約束する。ずっと、一緒だ』