深き心の ほどは知られめ

 冷えた空気が鼻先を掠めた。
 息を吸えば、一瞬で熱が奪われた。凍えた気管に噎せかけて、奥深くに沈んでいた意識が激しく揺れ動いた。
 棍棒で思い切り頭を打たれた気分だ。
「ううう」
 喉の奥で低く呻いて、小夜左文字は布団の中で大きく身じろいだ。
 踵と肩で体重を支え、一瞬だけ背中を浮かせた。仰け反り、弛緩していた筋肉に電流を走らせて、瞼を開くと同時に重い腕を持ち上げた。
 額に掛かる髪を掻き上げて、確保した視界で辺りを窺う。
 そこが良く知る天井なのを確認して、彼は力の抜けた体躯を布団に横たえた。
「朝、じゃ、ない」
 瞬きを数回繰り返しても、目の前が明るく染まることはなかった。一番鶏が鳴き、東の空から太陽が顔を出したわけではないと知って、驚愕と落胆に眉を顰めた。
 時計がないので現在時刻は分からないが、部屋の外が静まり返っているところからして、丑三つ時を過ぎた辺りか、もう少し経った辺りと思われた。
 空が白々とし始めるのは、当分先だ。
「むう」
 こんな真夜中に目覚めて、嬉しいはずがない。
 仕方なく寝直そうとして、彼は無意識のうちに左側を探った。
 仰向けから横向きに姿勢を変えて、あるべき熱を求めて手を伸ばす。
 しかし求めた温もりは失われ、蠢かせた指はいずれも空回った。
 掴むものを見つけられず、柳のように細い腕が布団の中を彷徨った。上に、下に何往復かさせても、目当てには行き当たらなかった。
 思い切り肘を伸ばしたところで、指先に触れるものはない。
「あれ」
 さすがに可笑しいと疑念を抱き、短刀の付喪神は闇の中で目を凝らした。
「歌仙?」
 遠慮がちに呼びかけ、改めて室内を見回した。
 けれど応じる声はなく、気配すら感じられなかった。
 どこへ行ってしまったのか、姿が見えない。
 眠りを妨げられた原因に思い至って、小夜左文字はもそもそと上半身を起こした。
 肩からずり落ちた寝間着を引き上げ、気だるさを残る肉体を叱咤した。仄かに暖かい布団を撫でて、室内を支配する冷えた空気に小鼻を膨らませた。
「どこに」
 ぽつりと零すが、勿論返事はない。
 三角に折り畳んだ膝に顔を寄せて、小柄な少年は音の響かない空間でじっと丸くなった。
 自身の呼吸を数え、耳を澄ませた。厠に出ているならすぐに戻ってくると期待したが、床を踏みしめる足音は聞こえてこなかった。
 注意して観察すれば、衣紋掛けにあった綿入りの上着が消えている。寒さをしのぐべく用立てられた一品は、裾が長く、表は茶色で地味ながら、裏一面には紅白の牡丹が艶やかに咲き乱れていた。
 外からは見えないところに意匠を施し、これが粋だと笑っていた。
 大輪の牡丹の絵柄を見せびらかし、得意げに胸を張っていたのを思い出して、小夜左文字は布団から足を引き抜いた。
「世話の掛かる」
 あの男のことだ。きっとどこかで、夜に濡れた光景に目を奪われているのだろう。
 風流な景色を前にしたら、歌仙兼定は動かない。時間を忘れて、月星の彩に見とれているに違いなかった。
 それはそれで構わないが、なにぶん夜も遅い。
 しかも気温は下がる一方だ。刀剣の付喪神である彼らは風邪を引くことなどないけれど、寒さで体調を崩すことは、ままあった。
 身体の関節が硬くなって、思うように動けなくなる。
 明日の畑当番に支障が出ては困るのだ。そう言い訳をして、小夜左文字は枕元にあった自身の上着を掴み取った。
 衿を広げ、袖を通した。膝小僧まで包み込む褞袍は何枚もの布を縫い合わせて作られており、模様は一定ではなかった。
 紺絣の隣に千鳥模様、その向こうには縞模様。
 使い古しの布を集めて作ったものであるが、様々な色や文様が混ざることにより、貧乏臭さは失われていた。
 たっぷり綿を詰め込んで、もこもこに膨らんでいた。胸元の紐を結んで隙間を潰して、彼は皺くちゃの掛け布団を軽く整えた。
 戻ってきた時すぐ眠れるようにしておいて、障子を開く。
「寒い」
 その直後、冷風に鼻っ面を叩かれて、小夜左文字は爪先立ちで竦み上がった。
 咄嗟に自分自身を抱きしめて、足元から駆け上がってきた悪寒を耐えた。全身に鳥肌が立ち、一瞬で鼻が詰まった。まるで冷えた空気を体内に取り込むのを拒むかのように、息を吸えば、ずび、と音がした。
 体温があっという間に奪い取られ、しかも簡単には戻ってこない。
「止めようか」
 迎えに行こうと決めた矢先に、心が折れた。
 屋外で長時間過ごすのは、歌仙兼定自身の判断だ。無理矢理連れ戻されるのも本意ではなかろうから、放っておくのが親切だった。
 どうせそのうち、帰ってくる。
 それまで布団に包まって、ぬくぬくと過ごそう。なんなら朝が来るまでもうひと眠りしても、文句は言われまい。
「……あれ」
 だが引き返そうとした彼を、頭上で瞬く星が引きとめた。
 すい、とか細い輝きが藍色の闇を撫でた。あ、と思う前に視界から消えた光に、踵を下ろした少年は目を丸くした。
「流れた」
 時間にして、ほんの一秒足らず。
 ぼんやりしていたら見逃してしまうような、微かな光の軌跡を確かめて、小夜左文字はぶるりと身を震わせた。
 それは寒さから来るものではなかった。呆気に取られて口をぽかんと開いている間にも、またひとつ、一瞬の煌めきを残して星が流れた。
 空気は澄んでおり、静かだった。
 誘われるまま軒先に進み出て、短刀は開けっ放しの口を閉じた。
 飲みこんだ空気は、仄かに熱を帯びていた。興奮に四肢が戦慄き、鼓動が速まるのを抑えられなかった。
「すごい」
 紺色に染まる夜空を、数えきれないほどの星が埋め尽くしていた。
 昼ほどの明るさはないけれど、足元を十分に照らしてくれていた。
 数百、数千の星が連なり、太い筋となって天を走っていた。川の流れのように緩やかに蛇行して、その周辺にも細かな光が散りばめられていた。
 白っぽい輝きだけでなく、赤や、青に見える星もあった。ひと際強い輝きの周囲に小さな煌めきが集まって、さながら鍛練中に飛び散る火花のようだった。
「ああ、また」
 唖然としながら見上げている間に、またひとつ、星が天を駆けた。
 気付いて目で追いかけようとした時にはもう、スッと闇に溶けて消えてしまう。身を乗り出しても間に合わず、願い事を唱えるなど、どだい無理な話だった。
「そうだった」
 流れ星を見かけたら、消えるまでに三回願い事を唱える。見事成し遂げられたら、願いは叶う。
 そういう話が、古くから言い伝えられてきた。けれど瞬き一回にも満たない時間で、どうやって三度も繰り返せというのだろう。
 そもそもすぐ消えてしまう光に託したとして、祈りが通じる保障などどこにもない。
 根拠のない、まやかしだ。
 馬鹿げたことに時間を使ったと苦笑して、小夜左文字は緩くかぶりを振った。
 外に出た目的を思い出し、疲れ始めていた首を戻した。正面に向き直り、左右を確認して、見慣れた顔が紛れていないか調べた。
 短刀がいくら暗闇に強いとはいえ、慣れないうちは遠近が掴みづらい。特に暗色は区別がつきにくく、樹影に重なられたらお手上げだ。
「殺気でも放ってくれたら、分かりやすいのに」
 夜更けに部屋を抜け出した男が戻らない理由が、よく分かった。
 これなら足を止めたくなるのも仕方がない。次々流れ落ちる星々に納得して、小夜左文字は目を眇めた。
 自然と緩む口元を意識して引き締め、じっとして動かない影を順に探った。
 気配を殺し、忍び足で廊下を行く。だが縁側に佇む男は見当たらず、もっと範囲を広げるべきか悩み始めた矢先だった。
「いた」
 ふっと脇に流した視線の先で、それらしい輪郭を発見した。
 歌仙兼定は、建物と建物の間に作られた、小さな庭の中にいた。屋根が頭上を覆う場所ではなく、真上を観察するのに充分な環境に身を置いていた。
 茶色の外套で肩を覆い、両手は布の内側に隠していた。不定期に白い息を吐き出して、一心不乱に上空を眺めていた。
 すぐ傍で自身を見る刀があると、まるで気付く様子がない。
 それだけ夢中になっていた。
 戦場では鬼神の如き強さを発揮する打刀も、この時ばかりは子供の顔に戻っていた。
「歌仙」
 邪魔をするのは悪いと思えたが、折角来たのだから黙って引き返すのも惜しい。
 三度呼びかけても振り向かなければ諦めることに決めて、小夜左文字は吐息に混ぜてそっと囁いた。
 気付いて欲しいような、気付かないでいて欲しいような。
 絶えず揺れ動く天秤を胸元に掲げて、少年はピクリともしない男の影に目を細めた。
 首を横に振り、鼻を啜った。面映ゆげに首を竦めて、今度は声に出さず、唇だけ動かした。
 は、と息を吐き、大きく開いた口を横長に窄め、最後に閉じる。
 音には出さず、心の中で「歌仙」と呼びかけたところで、当然相手に届くわけがなかった。
 案の定、歌仙兼定は無反応だった。冷たい風に怯むことなく立ち向かい、明滅を繰り返す星の終焉を逃すまいと、決死の覚悟で空に挑んでいた。
 そこに水を差すような真似が、どうして出来るだろう。
「あまり遅くならないでください」
 これくらい熱心に、畑仕事に取り組んでくれたら嬉しいのだが。
 そんなことをふと思って、小夜左文字は冷えて赤くなった頬を擦った。
「かせん」
 彼を探しているうちに、こちらもすっかり冷えてしまった。
 乾いてカサカサしている指を擦り合わせて熱を呼び、少年は掠れる小声で名を呼んだ。
 これで、合計三度。
 振り向かない男に視線を投げて、無人の部屋に戻るべく、踵を返した。
「お小夜?」
「――!」
 その瞬間に、呼び止められた。
 不意打ちにも程があるひと言に騒然となって、小夜左文字は驚愕に染まった眼を後方に投げた。
 寸前まで全く反応していなかったくせに、どうして分かったのか。にわかには信じ難く、幻聴を疑って、受け止めきれない現実に四肢を竦ませた。
 だが歌仙兼定は、ちゃんと彼の方を見ていた。惚けた顔で目を瞬いた後、ぱあっと満開の花にも負けない笑顔を浮かべた。
 彼の周囲だけ、急に明るくなった気がした。
 天から注ぐ星明かりがそこに集中し、打刀を照らす幻を見た。
「お小夜。はは、どうしたんだい。こんなところで」
「それは、……こっちの台詞です」
 彼が動く度に、きらきらと光が舞った。
 あまりの眩しさに尻込みして、小夜左文字は歌仙兼定から顔を背けた。
 合間にぼそりと言って、恐る恐る様子を窺う。
 打刀は特に気にする様子もなく駆け寄って、軒下から短刀に向かって身を乗り出した。
「それより、お小夜。見てごらん。凄いことになっているよ」
 冷気を長時間浴びた影響か、彼の肌は雪のように白かった。しかし頬の中心部だけは鮮やかな紅色に染まって、興奮に心が沸き立っていると教えてくれた。
 早口に捲し立てて、言うが早いか手を伸ばした。戸惑う小夜左文字の手首を攫って、力任せに引っ張った。
「危ないです」
「早く」
 思わず抵抗してしまい、つんのめった。力負けして転びそうになったのを堪えて、爪先立ちで縁側の端から背筋を伸ばした。
 残る手も打刀に差し出し、迎えに来た腕と胸に凭れかかる。
 慣れた仕草で抱き上げられて、ふわっと甘い香りが漂った。
 衣や髪に焚き染められた香が、鼻腔を掠めた。特徴ある匂いは短刀の胸にスッと染み込んで、緊張を和らげるのに役立った。
 茶色の外套の表面は冷えていたが、すぐに気にならなくなった。膝を軽く曲げて、踝から先を男の腰に擦りつける。膝の裏に回り込んだ左腕に支えられて、不定期に揺れる椅子を確保し、ほうっと息を吐く。
 太く逞しい首に抱きつけば、頬同士がぶつかった。
 ヒヤッとする感触は固く、凍り付いているのでは、と危惧するほどだった。
「どれくらいいたんですか」
「探させてしまったかな」
 小夜左文字が部屋を出て、まだそれほど経っていない。
 それでもこんなに冷えている男を懸念していたら、何故だか嬉しそうに笑われた。
 彼が寝床を抜け出しさえしなければ、中途半端な時間に目を覚ますことはなかった。夢さえ見ず、朝までぐっすり眠れたに違いなかった。
 ただその場合、次々に流れては消えていく夜空の星を仰ぐことはなかった。
「迷惑です」
 どちらが良かったか、結論は出ない。
 すぐそこにある男の耳朶目掛けて熱風を吹きかけて、華奢な短刀は口を尖らせた。
「すまなかったね」
 拗ねているのは形だけと、見透かされていたようだ。歌仙兼定の謝罪には、あまり心が籠もっていなかった。
 紙よりも薄く、軽い言葉に眉目を顰め、暖を求めて男の頸部に擦り寄る。
 猫の子になってゴロゴロ喉を鳴らした彼を笑い、骨太の打刀は背筋を伸ばした。
 首をやや後ろに傾けて、天頂を仰ぐ。
「あそこ」
 指差す代わりに右腕を揺らされて、背中で振動を受け止めた少年は仕方なくそちらに目を向けた。
 教えられた流れ星は、消えた後だった。
 墨を塗りたくったような暗い空で、星々だけが明るい。
「今度はこっちだ」
「うわ」
 いつ落ちるか分からない星を待っていたら、別方向を向いていた男が、抱きかかえた短刀を思い切り揺さぶった。
 急にガクン、と振り回されて、驚いた。
 遠くへ放り投げられる恐怖を覚えて萎縮して、小夜左文字は両腕にぎゅっと力を込めた。
「苦しいよ、お小夜」
「うるさいです」
 それが結果として、歌仙兼定の首を絞めることになった。喉を圧迫され、頚椎を折られる危険を感じた男に責められて、短刀は自業自得だと頬を膨らませた。
 前触れもなく動き回るから、悪いのだ。
 ひとりきりで佇んでいるのとはわけが違うと訴えて、安全運転を要請した。
「……悪かったよ」
 膝から先をぶらぶらさせて、男の腰骨を数回蹴る。
 一度や二度ならまだいいが、五度も、六度も繰り返されて、さすがの歌仙兼定も降参だと白旗を振った。
 今度は本当に申し訳なさそうにして、小柄な体躯を抱え直した。落とさないよう腕の配置を少しだけ変えて、許して貰おうとしてか、短刀の額に鼻先を擦りつけた。
 甘えた仕草で肌を重ね、一瞬だけ唇を添えて離れていく。
「歌仙は知ってたんですか」
「ん? なにをだい?」
「星が、こんなに」
「ああ」
 すぐには消えない微熱を意識の片隅に留め、小夜左文字はもぞりと身じろいだ。
 打刀の肩から視線を上に転じ、右から左に駆け抜けた光の軌道を瞳に焼き付ける。
 ほんの僅かな時間だけ、他のどの星よりも眩しく輝き、そして呆気なく燃え尽きた。しかしここに居るふた振りの記憶には、星々の刹那の瞬きが永遠に刻まれた。
 これまでにも何度か、いくつか見たことはあった。
 けれどここまで、大量ではない。ひとつ、またひとつと、息きつく暇もなく天を駆け巡る軌跡に酔いしれ、寒さを忘れるほどだった。
「知っていたわけでは、ないけれど」
 歌仙兼定が深く息を吐き、呟いた。
 短刀にも空が見え易いよう抱き方を変えて、小ぶりの尻を両腕で支えた。交差する二本の手首を椅子代わりにして、華奢な少年は右腕だけを男の首に残した。
 左手は自身の胸に添え、衿を掴んだ。喉元から入り込もうとする冷気を追い返し、鼻が詰まった状態で、ずび、と息を吸い込んだ。
「偶然ですか?」
「いや。主がそういう話をしていたのは、覚えていたから」
 近いうちに流星群が見られると、何かの折に小耳に挟んだ。
 具体的な日どりは、記憶になかった。しかしそう遠くない時期というのだけは、鮮明に覚えていた。
 半分が必然で、半分が偶然だ。たまたま夜中に目が覚めて、流星の話を思い出し、様子を見に出て、戻れなくなった。
 もしこの件を思い出さなかったら、彼は部屋を出たりしなかった。上着一枚を羽織り、寒空の下で満天の星を見上げることもなかった。
 なにか目に映らないものに導かれたと言われたら、信じてしまいそうだ。これは天啓、と大袈裟に語られたとして、真っ向から否定するのは難しかった。
 それくらいの奇跡だった。
「夜更かしも、たまには悪くないな」
「早起き、では?」
「んん、そうなるのかな?」
 感嘆の声を漏らした男に、短刀がそれは違うと疑問を呈する。
 指摘を受けた歌仙兼定は小首を傾げ、数秒としないうちに思考を放棄した。
「また流れた」
 そんな事はどうでも良いと、ふっと掻き消えた光に目を細めた。
 つられて視線を持ち上げて、小夜左文字も頬を緩めた。
「凄い量です」
 こんなにも沢山の流れ星を、ひと晩のうちに見たことがない。知っていれば粟田口の短刀たちや、長船派の刀たちも、眠い目を擦りながらこの時間まで起きていただろうに。
 なんと贅沢な時間か。
 宝石箱をひっくり返したかのような無数の輝きを瞼の裏に刻みつけ、短刀は左手を天に伸ばした。
 届くわけがないと知りながら、掴み取ろうと指を蠢かせた。流れ行く星に向かって、ここに落ちて来い、と願った。
「そういえば、お小夜は知っているかい?」
「なにをですか」
「流れ星が瞬く間に、三度願い事を言えたら、叶うと」
 落ちない程度に暴れていたら、歌仙兼定も動きに合わせて身体を揺らした。それにより短刀の起こす振動を相殺して、姿勢を維持した。
 ゆりかごに転がされている気分を堪能して、小夜左文字は緩慢に頷いた。星空から打刀の顔に焦点を移し、不敵に口角を歪めた。
「知らないと思いますか?」
 それしきの知識、当然有している。
 馬鹿にするなと睨みつければ、男は声を上げて笑った。
「それもそうだね」
 愚問だったと反省して、彼は深呼吸して肺を冷やした。赤くなっている鼻の頭を慰めてやれば、驚いた風に短刀を見た。
 触れた位置が位置なだけに、目潰しを真っ先に警戒したようだ。それが杞憂だと知って即座に安堵して、強張りを解き、気恥ずかしげにはにかんだ。
 寒さにやられたのだろう、頬以外だとそこが際立って赤い。
「お小夜の鼻も、赤い」
 そろそろ部屋に戻った方がいいかと悩み、言い出す機を探っていた。
 男の鼻を撫でながらぼうっと考えていたら、その手を押し退け、男が首を倒した。
「だからって、齧ることはないでしょう」
「はは」
 がぶり、とはいかないけれど、前歯で表面を削られた。
 生温い唾液が瞬時に冷えて、寒さを覚えた短刀は仕返しに右手で打刀のうなじを抓った。
 とはいえ男の首の肉は薄く、皮には張りがあった。摘もうにもあまり伸びてくれず、攻撃としては弱かった。
 さしたる痛みを与えられず、損をした気分だ。歯型が残っている気がして撫でて確かめるが、それらしき窪みには行き当たらなかった。
 歌仙兼定は愉快だと声を響かせ、最後にふっ、と表情を緩めた。
「お小夜は、なにを願う?」
 真っ直ぐ目を見て問いかけられて、鼻ばかり気にしていた少年は瞳だけを上空に向けた。
「そんなもの、決まってます」
 掌に息を吹きかけ、悴む指先を温めた。
 この胸に渦巻く黒い感情を、どうやれば消せるだろう。いつになれば、どれだけ待てば、夢にまで見る復讐を果たせるだろう。
 本当に叶うのだとしたら、願うはそれひとつのみ。
 ほかにはなにも要らなかった。
「そう」
「歌仙こそ、なにを願いますか」
 迷うことなく言い切った短刀を、歌仙兼定は複雑な表情で見つめた。眇められた眼は彼の心の内を雄弁に語っていたが、小夜左文字は敢えて気付かない振りをした。
 無視し、問い返す。
 茶器に花器に掛け軸と、見た目に寄らず浪費家な男は、意地悪い眼差しにムッとして、そそくさと顔を背けた。
「そんなもの、決められるわけがないだろう」
 小夜左文字とは正反対の返答を口にして、小鼻を膨らませた。
 欲しいものがあり過ぎて、決めきれない。
「お金ですか?」
 ならばその欲しいもの全てを集めきれる財力があれば、彼は満足か。
 続けざまの質問に、歌仙兼定は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 奥歯をカチカチ噛み鳴らし、鼻の孔を膨らませた。言いたいことがあるけれど、上手くまとめきれない、という雰囲気で短刀を睨んで、ぐっと仰け反り、直後に顔を伏して首を振った。
 目の前で藤色の髪が揺れた。
 鼻先を擽られて、小夜左文字は出そうになったくしゃみを堪えた。
「ふ、しゅっ」
 咄嗟に手で口を塞ぎ、息を止めた。
 それでも防ぎ切れなくて肩を震わせた彼を見詰めて、歌仙兼定は小さな身体を抱きしめ直した。
「戻ろうか」
 外套の袖で短刀を包み込んで、寒さから守りながら囁く。
 頭上では相変わらず星々が瞬き、流れ、消えていったが、最初に見た時ほどの感動は得られなかった。
 爪先の感覚が遠くなり、冷気が身体の内側にまで侵食していた。息を吹きかけた程度では、指先に血の気は戻らなかった。
「歌仙」
 大事に包み込まれて、男の体温が微かに流れ込んで来る。
 赤い鼻から息を吐いて、小夜左文字は探るような眼差しを投げ返した。
 打刀は願い事を語らなかった。億万長者になる夢には頷かず、言葉を濁し、誤魔化した。
「台所に寄っていこうか。温かいものが欲しい」
「そうですね」
 話題を変えて、縁側へと戻った。履いていた共用の草履を脱いで、ひんやり冷えた床板の感触には「ひゃっ」と小さく悲鳴を上げた。
 首を竦めて縮こまった彼につられ、小夜左文字までビクッと身を固くする。
「……ふ」
「はは」
 数秒が過ぎてから間近で顔を見合わせて、どちらともなく相好を崩した。
 凝ったものは作れないが、湯を沸かし、茶を煎れるくらいは出来るだろう。種火は保管されているから、炭に火を点けるのにもさほど手間取らない。
「酒粕があったかな。甘酒というのも、悪くないな」
「温まりそうです」
 自他ともに認める料理上手の打刀が、目下の台所にある食材を頭の中に並べて、候補を挙げる。
 聞いているだけで不思議と熱を覚えて、小夜左文字は穏やかな振動に頬を緩めた。
 抱き上げられたまま廊下を運ばれ、間もなく空が見えなくなる。次、今宵のような流星群を見る機会が来るかどうかは、誰にも分からなかった。
 直前になって名残惜しくなり、闇に目を凝らした。白い息を吐き、首を伸ばして、後方に意識を傾けた。
 そんな少年の祈りに応えるかのように、すうっと、鮮烈な光が軌道を描いた。
「――!」
 それは他の流れ星よりもずっと眩く、強く輝いていた。
 細長い軌跡を残し、地上に向かって真っすぐ突き進んでくる。
「歌仙。かせん、かせん!」
「ええ?」
 ほんの一瞬で終わってしまうはずの流れ星が、この時だけは違っていた。
 発作的に打刀の衿を掴んでいた。力任せに引っ張って、小夜左文字は台所を目指す男を引き留めた。
 急に首を絞められて、歌仙兼定が怪訝に眉を顰めた。興奮に頬を紅潮させた短刀をその場に認めて、小首を傾げ、スッと闇に溶けて消えた星の名残に息を呑んだ。
「見えましたか?」
 最後の瞬間だけだったが、辛うじて見えた。
 どの星々よりも力強い輝きを放って、その星は建物の屋根に迫り、直前でふっと消滅した。
 地上に落ちたのではないかと、そんな風にさえ思えた。
 瞬きしている間に終わる大多数の流れ星と違い、発光している時間は圧倒的に長かった。
 珍しいものを見た。
 寒さを吹き飛ばして息巻く少年に、歌仙兼定は相好を崩した。
「綺麗だったね」
「はい」
「ところで、お小夜」
「はい?」
「今、三回……言った?」
 率直な感想を言い合い、ふとした疑問を呈されて眉を顰める。
 なんのことかすぐに分からなくて困惑し、沈黙した短刀は、そこから一秒としないうちにハッとして、藍色の髪をぶわっと逆立てた。
「そういうのじゃ、ないです!」
 流れ星が消える前に三度願えば、それは叶う。
 確かに小夜左文字はあの強い光が瞬く間に、歌仙兼定の名前を三回繰り返した。
 だがそれが、いったいどんな願いになると言うのだろう。彼はすでにここに居て、短刀の体躯を抱き上げ、愛おしそうに見つめているのに。
「なんだ。違うのか。僕の代わりに、願ってくれたんだとばかり」
 静かになった星空を眺め、男が囁く。
 残念そうに告げられた台詞を奥歯で噛み砕いて、小夜左文字は数回に分けて飲みこんだ。最後にふっ、と短く息を吐いて、甘える仕草で逞しい肩に擦り寄った。
 頬を寄せ、目を閉じた。
「まだ足りないんですか?」
 長い時を経て、不可思議な巡り合わせで再会を果たした。
 ひとつ屋根の下で暮らし、戦場では互いに背中を預け合った。
 これほどの贅沢はなく、これ以上の幸いは思いつかない。
「欲張りだからね」
 耳元で紡がれた問いかけに、歌仙兼定がさらりと言い返す。
 男は歩みを再開させた。華奢で軽い体躯を大事に、大事に扱って、光の届かない場所へと運んで行った。

思ひ余り言ひ出てこそ池水の 深き心のほどは知られめ
山家集 雑 1241

2018/01/07 脱稿

夢路をさへに 人はとがめじ

 小刻みに全身を震わせる揺れは、不安定に波立つ心を存分に掻き乱した。
 左右に、上下に、若干の配慮を匂わせつつ、無遠慮に揺すられている。
 まるで赤子をあやす揺り籠のようだ。そんなものに入った記憶などないというのに連想して、平野藤四郎は喉の奥で低く呻いた。
「う……」
 心地良い温もりに包まれているのに、どうしようもなく切なくてたまらない。
 相反する感情を同時に抱え込んで、短刀の付喪神はか細い息を吐いた。
 懐かしく思える匂いがした。どこかで確かに嗅いだことがあるのに、心当たりになかなか行き着かない。ゆらゆらと波間を漂う海月の気分で、当て所なく彷徨っている感覚だった。
 行きたい場所に行けず、ただ潮の流れに寄り添って進むだけ。
 抗わなければ楽なのに、そこで足掻いてしまうのうが生き物としての定めか。
 ならば心を持たぬはずの鋼の身である自分は、いったいいかなる存在なのだろう。
 答えの見い出せない問いに惑って、平野藤四郎は噛み締めていた唇を解いた。
「ふ、はぁ……んっ」
 深く息を吐き、吸い込んだ。
 揺れ続ける身体を立て直そうと身じろいで、目を瞑ったまま伸びあがった。
 首を傾け、背筋を逸らした。爪先を蹴り上げて、あるはずの布団を押し退けようとした。
 だが、そうはならなかった。
「……ん、う?」
 右足はなにもない場所を空振りし、落ちた。踵に当たるものはなく、どこまでも沈んでいきそうな錯覚に陥ったところで、膝裏がなにかに引っかかって止まった。
 いや、膝を支えるつっかえ棒は最初からそこにあった。
 ここは寝床ではない。
 記憶と異なる環境にあると自覚するまでに、若干の時間が必要だった。
「え……え?」
 こうしている間も、一定の間隔で揺れは続いていた。
 下から突き上げられるような衝撃は弱く、ふわりと宙に浮きあがる感覚が連続して襲い掛かってくる。
 雲の上を泳いでいる夢でも見ているのかと疑ったが、夢にしては四肢を見舞う振動があまりにも生々しい。ならばこれは何事か、と騒然となって、平野藤四郎はカッと目を見開いた。
「ひっ」
 ゾクッと悪寒が走り、背筋が一斉に粟立った。
 闇の中に浮き上がる影に竦み上がって、弛緩していた肢体を一気に強張らせた。
 頬が引き攣り、恐怖に悲鳴を上げそうになる。
 全身に鳥肌を立てて萎縮した少年を見下ろし、淡々と歩んでいた男は初めて口を開いた。
「ああ、起きてしまったか」
 緩慢に頷いて、足を止めた。
 もれなく短刀の体躯を支配していた揺れも収まり、静かになった。
 なにがなんだか分からなくて、平野藤四郎は凍り付いた。聞き覚えのある声に唖然と目を見開いて、丸めた両手を胸の前で擦り合わせた。
「え、ええ?」
「起こさずに連れていくというのは、存外難しいのだな。一期一振は凄いな」
「うっ、鶯丸様?」
 寝起きで頭が働かない中、次々と情報が入って来て、理解が追い付かない。
 廊下の真ん中で立ち止まった男の正体を把握して、短刀は驚愕し、素っ頓狂な悲鳴を上げた。
 途端に笑っていた男が真顔になり、「しぃ」と、窄めた口から息を吐いた。本当は人差し指を唇に当てたかったのだろうが、生憎と彼の腕は両方とも塞がっていた。
 太刀の長くしなやかな腕が抱え持つのは、平野藤四郎に他ならない。寝間着姿の少年を横向きに支えて、頭部がちょうど左胸に当たるように形作っていた。
「静かに、平野」
「す、すみません」
 その状態から身を乗り出した短刀を叱り、鶯丸が目を細める。
 状況が掴めないまま謝罪して、平野藤四郎はそうっと左右を確認した。
 暗い廊下には、所々に灯りが用意されていた。夜に不慣れな刀剣男士たちのために、足元を優しく照らし出していた。
 これは短刀や、脇差たちが暮らす一画にはないものだ。
 彼らは闇に強く、暗い場所でも視界が利く。だからここは、平野藤四郎が暮らす短刀部屋区画ではない。
 夜灯りが配置されているのは、太刀以上の刀剣男士が住まう一帯のみ。
 その事実から現在地を推測して、短刀の付喪神は恐る恐る視線を戻した。
 遠くからか細い光を浴びて、闇の中に鶯丸の顔がぼうっと浮き上がっていた。陰影が濃く出ており、些か不気味だった。
 もしこの場ににっかり青江がいたら、妖しい奴、と言って斬り捨てられていた。
 幽霊斬りの逸話を持つ大脇差を思い浮かべて、平野藤四郎は下ろしてくれるよう、さりげなく主張した。
 足を動かし、自身を抱き上げている男の腕を揺らした。しかし鶯丸は気付かなかったのか、それとも分かった上で無視してか、懇願を無言でやり過ごした。
 どこかの部屋から鼾が聞こえる。
 そちらに顔を向けて、鶯丸は小さく頷いた。
「良い子だ」
 言いつけを守り、静かになった。
 優しい笑顔で囁いた男に、平野藤四郎は喉まで出かかっていた質問を飲みこんだ。
 どこへ連れて行かれるのかは、予測が可能だった。あの鼾が大包平のもので間違いなければ、目的地はもう目と鼻の先だ。
 事の次第は、そこに辿り着いてから聞けば良い。
 急く心を宥め、息を吐くことで緊張を緩める。短刀の強張りが解けたのは太刀にも伝わったらしく、鶯丸は休めていた足を前に繰り出した。
 予想した通りの部屋に入っても、彼は短刀をすぐに降ろさなかった。足で開けた襖を足で閉めて、敷いてあった布団の上まで運んで、ようやく膝を折った。
「うわ」
 そうして床の上に寝かせようとしたものの、腕を外す際に失敗した。急に下半身の支えを失って、平野藤四郎は尻餅をついた。
 ドンッ、と骨に衝撃が走ったが、痛み自体はそれほど大きくない。
「不作法ですまないな」
「いえ。大丈夫です」
 詫びの言葉に苦笑で応じて、彼は廊下と違って赤々と明るい室内を見回した。
 鶯丸の部屋は、短刀や脇差たちに与えられる個室より少しだけ広い。床の間も立派で、作り付けの棚が付随していた。
 置かれているのは奇妙な造形の人形や、不思議な形をした石などなど。衣服は表裏が逆になった状態で脱ぎ捨てられており、丸められた靴下が片方だけ、いやに離れた場所に落ちていた。
 障子の桟に埃は積もっていないけれど、整理が行き届いているとは言い難い。
「片付けないといけませんね」
 数日訪ねなかっただけでこの有様かと肩を竦め、平野藤四郎は直後にハッとなった。
 自然と赤くなる頬を叩き、ぺちりと音を響かせた。それでも治まらないと知ると今度は爪を立て、柔らかな肉を引っ掻いた。
「平野」
 それを止めさせ、鶯丸が手を伸ばす。
「あの、鶯丸様。僕は、部屋に」
 手首を掴まれた少年は咄嗟に抵抗し、腕を奪い返して後退した。
 皺だらけの布団に太い溝を掘り、距離を取った。三角に折り曲げた膝で牽制して、いつでも立ち上がれるよう腹に力を込めた。
 彼は刀派を同じくする短刀たちと一緒に、広い座敷で肩を並べて眠っていた。粟田口は数が多いからと大部屋を与えられており、別に私室を持つ一期一振も、時折枕を持って泊まりに来ていた。
 今宵は長兄は不在であったが、部屋の中には前田藤四郎を初めとして、十振り近い短刀が眠っていたはずだ。
 その中から連れ出され、しばらく気付かなかった。抱き上げられた時点で目を覚まさなかったのは不覚だが、残る兄弟刀が誰も起きなかったというのも、かなり無防備だ。
 本丸は結界の中にあり、時間遡行軍は侵入出来ない。限りなく安全な空間で、だからこそ油断していたとしか言いようがなかった。
 こんなことでは、出陣先で簡単に不意打ちを食らってしまう。背後から敵に襲撃される未来を夢想していたら、胡坐を崩し、右膝を抱えて座った太刀が嫣然と微笑んだ。
「問題ない。お前の兄弟たちには、あらかじめ了解を得ている」
「は?」
「その様子だと、あいつらはちゃんと約束を守ってくれたようだ」
「……い?」
 何を思い出してかクツリと笑い、悪戯っぽく首を竦めながら囁く。
 不敵な眼差しを向けられた少年は絶句して、行き場のない両手を空中で蠢かせた。
 予想外の事実を知らされて、寒気がした。ぶるっと大袈裟に震えあがって、平野藤四郎は顔を引き攣らせた。
 言われてみれば寝床を整えている時、やけに兄弟刀が構ってきた。眠る場所は特に定まっておらず、その日の気分であちこち入れ替わるが、部屋の奥側から次々埋められて、出遅れた彼は入り口近くに追い遣られた。
 隙間風が入って寒いから嫌だったのだが、頼んでも替わってもらえなかった。
 今思えばあれは、このための布石だったのか。
「なんてことでしょう」
 鶯丸から相談を受けた兄弟刀が、嬉々として悪知恵を出し合う姿が思い浮かんだ。
 知らなかったのは自分だけというのもかなり衝撃的で、穴があったら入りたかった。
「良い兄弟だな」
「まったくです」
 普段は協調性など皆無なのに、こういう時だけ一致団結して事に当たるから、厄介だ。
 敵に回す真似は止めようと密かに決めて、彼は深々と溜め息を吐き、寝間着の裾を整えた。
 布団の上で正座して、鶯丸に向き合った。眠っていたところを連れ出された経緯については詳らかになったが、肝心の、何故連れ出されたかについては、ひとつも答えをもらっていなかった。
 こうなった以上、ジタバタ足掻くのも見苦しい。
 潔く向き合う姿勢を示した彼に、太刀は面映ゆげに目を細めた。
 上半身を前方に傾け、頬杖を着いた。口角を持ち上げて不敵な笑みを浮かべたかと思えば、突然背筋を伸ばし、仰け反りながら深く息を吐いた。
「最近、平野は冷たい」
「いきなり、ですね」
 そうやって天井を向いたまま告げられて、平野藤四郎は面食らった。
 前置きもなにもなかった糾弾にヒクリと頬を引き攣らせ、どう反応して良いか分からず、居心地悪そうに身を捩った。
 それは畑仕事に駆り出された歌仙兼定が、小夜左文字に向かって良く言っている台詞だ。平野藤四郎も畑にいる機会が多いので、彼らのやり取りは頻繁に耳に入っていた。
 嫌だ、やりたくない、これは刀の仕事ではないと言いながら、あの打刀は小夜左文字が働いているところを見かけると、文句を言いながらも手伝っていた。時に恩着せがましい台詞を吐いて、短刀に軽くあしらわれては、冷たいだのなんだのと拗ねていた。
 平野藤四郎には理解が難しいのだが、彼らはあれで仲がいい。
 不思議な関係もあるものだと感心した思い出が、不意に頭に蘇り、消えていった。
「冷たいから、冷たいと言っている」
「えええ……」
 苦笑しつつ黙っていたら、繰り返された。
 責められるようなことをした心当たりが浮かんでこなくて、短刀は重ねた足指をもぞもぞ蠢かせた。
 膝に置いた両手ごと左右に身じろいで、正面に向き直った太刀と目を合わせる。表情は普段の彼と違い、至って真剣だった。
 飄々として捉えどころがない、というのが、鶯丸に対する大多数の評価だ。真面目なように思えて不真面目で、律儀かと思えば存外いい加減なところがあった。
 服の裾がはみ出ているなど、可愛いものだ。
 それでいながら急に悟ったようなことを口にして、落差が凄まじかった。
 平野藤四郎も初めのうちは戸惑った。短刀として、高貴な身分にある人々の守り役を引き受けて来た手前、だらしない格好で過ごす太刀を見過ごせなかった。
 お節介を焼くようになって、鶯丸はそれを許してくれた。
 傍にいるのが当たり前になるまで、さほど時間はかからなかった。
 だが近頃は、あまり彼の部屋を訪ねていない。最後に掃除しに来たのはいつだったか、それすらも思い出せなかった。
「お前が来てくれないから、見ろ。この有様だ」
 眉を顰めていたら、太刀が右手で空を薙いだ。衣服が散乱している室内を示して、責任は平野藤四郎にあると断言した。
 けれど脱ぎ散らかしているのは、鶯丸自身だ。部屋の片づけも、掃除も、あくまで短刀が善意でやっているだけであり、仕事として任されているわけではなかった。
 そもそもここは、鶯丸の部屋だ。彼の都合で汚すのなら、綺麗にするのは彼の役目だった。
 ところがそういった一切を棚上げして、悪いのは平野藤四郎と言って聞かない。
 思わぬ説教を受けて、当の短刀は愛想笑いを浮かべるのが精一杯だった。
「そう言われましても……」
 しばらくここを訪れなかったのは事実だが、夜中に寝床から連れ出してまで言うことだろうか。
 この程度のことで叩き起こされたのだとしたら迷惑極まりなく、鶯丸の常識を疑わねばならなかった。
「俺が嫌いになったか?」
「――」
 返す言葉に苦慮していたら、不意に声を潜めて問われた。
 凛と冷えた空気に乗って、小声でありながらはっきりと聞き取れた。
 射抜くような眼差しに、平野藤四郎の右人差し指が、ぴくっと反応した。だがそれ以外は微動だにせず、短刀はすう、と息を吸い、太刀を見詰め返した。
「そのようなことは、ありません」
「では何故避ける」
「避けた覚えもありません」
「誓えるか?」
「……」
 正面に向いていた視線は、やり取りを続けるうちに段々と下がって行った。
 嘘を言っているのではないと宣誓するよう求められたところで、平野藤四郎は拳を作った。膝を覆う寝間着を握りしめ、湧き起こる感情を必死に食い止めた。
 奥歯を噛み、唇を引き結んだ。丹田に力を込めて、細い肩を小刻みに震わせた。
「鶯丸様は、僕と居ても、楽しくはないでしょうから」
 声を絞り出し、喘ぐ。
 大きくかぶりを振った少年に、じっと見守っていた太刀は驚いた顔で目を丸くした。
「唐突だな」
 先ほどと、立場が逆になった。
 呆気に取られた男が言って、交差させた足首に両手を置いた。丸くなった短刀に身を乗り出して、姿勢を低くし、横から覗きこもうと試みた。
 平野藤四郎はふいっと顔を背け、逃げた。目尻に浮いた涙を荒っぽく削り落とし、深呼吸して、取り乱した件を丁寧に詫びた。
「お見苦しいところを、お見せしました」
 膝から布団に両手をおろし、深々と頭を下げた。すぐには顔を上げず、その状態で数秒間停止して、心が落ち着くのを待って居住まいを正した。
 但し彼の瞳は、鶯丸を写さない。なにもない場所を彷徨って、一定しなかった。
 気まずそうな表情で、肌色は翳っていた。後ろめたいことがあるとひと目で分かる態度を見せられ、今度は太刀が心当たりを探す番だった。
「平野は、俺と居るのは楽しくないか」
 しかし、これといって思いつかない。
 そんな風に受け取られかねないことがあったか考えるが、何ひとつピンと来なかった。
 分からなくて、結局訊ねた。
 すると間を置かず、短刀は首を横に振った。
 ふるふると揺れ動く頭部に合わせ、亜麻色の髪が耳元で踊った。現れては消える白い耳朶に意識を絡め取られて、鶯丸は無意識に伸ばそうとした利き手を、左手で押さえこんだ。
「では、どうしてだ?」
 姿勢を崩し、右肩だけが変に突っ張った状態で重ねて問う。
 平野藤四郎は一瞬だけ顔を上げ、すぐに伏し、表情を隠した。
 声ひとつ漏れ聞こえて来ず、これでは彼の考えが分からない。他者の評価など気に留めたこともなかった鶯丸だが、目の前の短刀にだけは、悪い風に受け止められたくなかった。
 平然としているようで、問いかけが僅かに上擦っていたと気付かれただろうか。
 内心の動揺に睫毛を震わせて、鶯丸は大人しく返事を待った。
「平野。言いたくないか」
 十秒を数えた辺りで焦れて、質問を止められなかった。
 押さえつけていた利き手を解放し、胡坐から正座に作り替えても、沈黙は続いた。
「そうか」
 それが彼の答えだと、納得は出来ないが、理解した。
 深く追求して、困らせたいわけではない。胸に渦巻くもやもやしたものを一旦脇へ追いやって、鶯丸は小さく頭を下げた。
「夜中に、すまなかった」
 もう帰って良いと暗に告げて、背筋を伸ばした。立ち上がり、襖を開いて道を作ってやろうとして、顔を伏す少年が歯を食い縛っている事実に気が付いた。
「平野」
「そうやって、……だから。やっぱり、そうなんじゃないですか」
「平野?」
「でもこうやって、鶯丸様を困らせて、いる、自分が。一番……嫌いです!」
「平野!」
 捻っていた腰を戻し、肩を掴もうと腕を伸ばした。
 それより早く顔を上げて、平野藤四郎は鼻声で喚き、続けて自分自身を掻き毟った。
 爪を立て、皮膚に突き刺した。肉を抉るべく力を込めて、止めに入った太刀にぶんぶん首を振った。
 瞳に涙をいっぱいに溜めて、頬に流すまいと鼻を啜った。上唇を噛み、下顎を突き出して、正座を崩して膝の間に突っ伏した。
 背中を丸め、貝になった。小さくなって、膝立ちになった太刀の接触を拒んだ。
「大包平様といらっしゃる鶯丸様は、いつも楽しそうです」
「なに?」
「僕には、あんな風に笑いかけてくださらない」
「平野?」
 顔を覆い、耳も塞いで、幾分早口に捲し立てた。鶯丸に目を向けず、殻の中に閉じこもった。
 視界を閉ざし、目の前を塞いだ短刀の言葉は低くくぐもっていた。
 拒絶されて、声は届かない。
 古備前の太刀は困惑に眉を顰め、その場にストン、と尻を落とした。
 座り直し、頭を掻いた。後頭部にいくつも円を描き、右を見て、左を向き、肩を落とした。
「大包平が、なにか言ったのか」
 隣の部屋で高鼾中の太刀は、鶯丸と古くからの知り合いだ。天下五剣に勝るとも劣らないと評価されながら、そこに加われなかったことに鬱屈した感情を抱いている太刀だった。
 声が大きく、態度もでかい。懐も広いが、意外に細かいところを気にする事もある。
 自身の物差しに絶対の自信を持ち、何事にも一番にならないと気が済まない。熱血漢で責任感もある男だが、真面目であるが故に融通が利かず、度々騒動を引き起こした。
 傍から見ていると、これほど面白い男はない。
 一緒くたにされて、巻き込まれるのは迷惑だが、観察して楽しむ分にはもってこいだった。なにかしら面白い出来事に遭遇した時などは、彼がいたらどうするだろうと想像を膨らませていた。
 悪い奴ではない。
 だが愚直すぎる所為か、言葉を飾ることを知らなかった。当の刀に自覚がないまま、失礼な発言をしている可能性は非常に高かった。
 平野藤四郎を傷つけるようなことを、彼が言ったとは思いたくない。
 親しくしている刀同士が仲違いするのは、哀しかった。
「いいえ。大包平様は、関係ありません」
「だが、今」
「僕が勝手に、そう思っているだけです」
 ところが読みは外れた。肩透かしを食らった気分で唖然として、鶯丸は拾い損ねた短刀の言葉を、急ぎ掻き集めた。
 鼻を啜る音が二度、立て続けに響いた。
 平野藤四郎は今、どんな顔をしているのだろう。無数に散らばる感情の欠片を積み上げて、鳥の名を持つ太刀はキラキラ眩しい無数の宝石を両手に包み込んだ。
「……つまり」
 先が尖ったものは、軽率に触れたら怪我をする。
 だがその尖った部分は、他よりかなり跪くなっていた。
 慎重に手繰り寄せ、大事に抱きしめた。折れてしまわないよう、砕けてしまわないよう注意して、透き通る欠片を覗きこんだ。
「平野は、俺と大包平が一緒にいるのが、気に食わない、と」
「――違います!」
 核心に近いと思われる場所を、小突いた。
 案の定平野藤四郎は大きく反応し、声を荒らげた。
 ガバッと身を起こし、膝で布団を蹴った。勢いよく身を乗り出して、淡々と言葉を紡いだ太刀に詰め寄った。
 唾を飛ばし、吼えた。激しい怒りを内包し、鋭い眼光で鶯丸を責めた。
 物静かで理知的な、普段の姿とは異なる荒々しさだ。
 喉元に切っ先を突き付けられたような錯覚を抱かされて、鶯丸は堪え切れずに噴き出した。
「ははっ」
 平野藤四郎がこうも感情を剥き出しにすることが、過去にあっただろうか。
 思いがけない発見だと両手を叩き合わせた彼に、憤って歯軋りしていた少年は惚けて目を点にした。
「鶯丸、さま」
「平野は嘘が下手だな」
「そのような!」
 唖然として、茶化すように言われたのには激昂した。
 否定したのを嘘と断じられて憤慨したが、その後に続く言葉はなかった。
 行き場をなくした握り拳が膝に落ち、解けた。小さくてか弱い掌を見詰めて、鶯丸は眩しそうに目を眇めた。
「いい。だいたい分かった。嫌な思いをさせた。すまなかった」
 手を伸ばし、真ん丸い頭を撫でた。寝癖ひとつついていない髪を手櫛で梳いて、後頭部を抱き、引き寄せた。
 短刀は抗わなかった。謝罪された瞬間だけ身を固くして、力なく首を横に振った。
「謝らなければならないのは、僕の方です」
「なぜだ?」
「鶯丸様が大包平様と会える日を、ずっと楽しみにされていたのを、僕は知っているのに」
 頻繁に息継ぎを挟み、平野藤四郎が喘ぐ。
 後悔を口にして涙ぐむ少年を優しく抱きしめて、鶯丸は華奢な背に掌を押し当てた。
 心臓の裏側をそうっと包み、撫でた。とんとん、と赤子をあやす仕草で数回叩き、彼が落ち着くのを辛抱強く待った。
「そうだな。そして俺は、大包平がいない時間を誰と過ごしていたか、忘れていたわけだ」
 合間に囁き、反応を窺う。
 顔を上げた短刀はなぜかムッとしており、涙目なのも忘れて小鼻を膨らませた。
「鶯丸様は、それだけ大包平が来られるのを、心待ちにしておられたのです。そうなって当然です」
「――――」」
 己の軽率さを悔やみ、平野藤四郎の心に寄り添ったつもりが、逆に怒られた。続けて詫びようと思っていたのに、言葉を封じられて、鶯丸は対応に苦慮して目を泳がせた。
 彼の心理が読み解けない。
 こういう時はどう語り掛けるのが正解なのか、千年を越えて存在する付喪神でさえ、さっぱり見当がつかなかった。
 仕方なく黙り、短刀の怒りが静まるのを待った。
「僕が許せないのは、僕自身です」
 やがて平野藤四郎はぽつりと言って、太刀の胸元に額を埋めた。
 力を抜いて寄り掛かり、甘える仕草で頬を擦りつけた。ごろん、と斜めに転がって、鶯丸の膝に身体を預けた。
 猫の子を真似て丸くなり、下唇を噛む。
 血の気が失せて白い足首が寒そうで、鶯丸は捲った布団をそこに被せた。
 短刀の身体を中心に、自身の下半身を布で覆った。窓の隙間から忍び込む空気は冷たくて、もしかしたら雪が降っているのかもしれなかった。
 部屋の中にいるのに、吐く息が一瞬だけ白く濁る。
 熱を求めた指が柔らかな耳朶に触れた瞬間、平野藤四郎がひゃっ、と首を竦めた。
「すまん」
「いえ。大丈夫です」
 冷たかったかと慌てて引き剥がし、どくりと跳ねた鼓動に息を呑んだ。
 慌てて謝った太刀に緩く首を振って返し、細身の少年は淡く微笑んだ。
「ふふ」
 ちょっと前まであんなに怒っていたのに、もう機嫌が直っている。
 この変わり身の早さにも驚かされて、鶯丸は眉目を顰めた。
「平野」
 大包平が本丸に顕現して、彼の生活は劇的に変化した――わけではなかった。だが縁側で日向ぼっこをしながら茶を飲む時間は短くなり、ひと振りきりで過ごす機会は著しく減っていた。
 隣に並ぶ刀が変わることで、それまで縁遠かった他の刀剣男士とも接触を持つようになった。
 気が付けば平野藤四郎と過ごす時間が短くなっていた。
 振り返れば笑いかけてくれた少年が、にわかに遠くなった。
「避けていたわけではない。気が付いてやれなくて、悪かった」
「いいえ。いいえ」
 改めて謝罪して、爪跡が薄く残る頬を労った。
 指先で凹んでいる箇所を辿っていたら、平野藤四郎は首を振り、目を閉じた。
「僕は大包平様のように、鶯丸様を笑顔にできなかった。それだけです」
 掠れる小声で呟いて、横になったまま身じろいだ。凸凹して不安定な寝床で寛げる体勢を探し、曲げていた膝を伸ばした。
 赤髪の太刀がなにかしら騒動を起こす度に、鶯丸は馬鹿をやったとからかい、笑った。腹を抱え、声を上げ、時に涙まで流して横隔膜を痙攣させた。
 平野藤四郎が一緒の時には、まず見ない光景だ。
 彼があんな風にも笑えると、平野藤四郎は大包平がやってきてから知った。
 悔しかったし、哀しかった。
 寂しかった。
 辛かった。
 そんな風に感じてしまう自分が、嫌になった。
 勝手に嫉妬して、勝手に疎外感を覚えた。卑屈な感情が受け入れられなくて、見たくないから一方的に距離を取った。
 心が狭い奴だと、自分でも思う。分かっている。だから自分が嫌いだし、許せなかった。
 訥々と音を紡いで、短刀は口角を歪めた。
「御存じなかったでしょう」
 几帳面で義理堅く、面倒見が良くて、責任感が強い。
 そういう評価を得て来た短刀に、こんな醜くてどろどろした一面があった。
 表に出さないよう頑張ったが、もう無理だ。観念して白状し、呟くと同時に顔を伏した少年を見据えて、鶯丸は目尻を下げた。
「そうだな。知らなかった」
「うっ」
 言って、俯せ気味だった短刀の肩を掴んだ。ぐいっと力任せに引っ張って、強引に身体の向きを反転させた。
 乱暴にひっくり返され、平野藤四郎が顔を歪めた。無理を強いられた関節が悲鳴を上げて、やむを得ず流れに従った直後、視界が一気に暗くなった。
「あ、あ!」
 目の前に迫る影に臆して、咄嗟に手が出た。
 掌の真ん中に柔らかいものを感じて、押し返してからその正体に気が付いた。生暖かい呼気を指の股に浴びせられて、少年はサーッと青くなった。
 鼻から口の一帯を潰されて、鶯丸は不満顔だ。指の隙間から覗く眼は、苛立ちに染まっていた。
「し、失礼を……」
 しどろもどろに謝って、たらりと冷や汗を流す。
 くちづけを阻止された男は深々と溜め息を吐き、苦笑いの短刀の額を小突いた。
「あいた」
「傷ついたぞ、少し」
「申し訳ありません」
 拒否するつもりはなかったが、思わず防いでしまった。
 返す言葉もない少年は首を竦めて小さくなり、肩まで被さっていた布団を引き上げた。
 顎まで隠した彼に、鶯丸は口元を綻ばせた。本気で怒っているのではないと告げて、亜麻色の前髪をサラサラと撫でた。
「なあ、平野」
「はい」
 名前を呼ばれ、少年は即座に返事をした。丸い瞳を頭上に投げて、穏やかに微笑む男の顔に見入った。
「思うんだが、俺はどうやら、お前といると気が緩むらしい」
 柔らかな髪を梳りながら、鶯丸が呟く。
 考えながらの発言はゆっくりで、声色は優しかった。すぐに意味を介せなかった少年は何度か瞬きを繰り返し、真上から覗き込む双眸に照れて布団の端を鼻に引っ掻けた。
 段々と上に移動する掛け布団を呵々と笑い、太刀は一瞬余所を見た。
 その方角に大包平の部屋があるのは、平野藤四郎も承知していた。ふっと太刀の表情が和らぐのを見て、彼がなにを思い浮かべているのかも楽に予想出来た。
 それが叶うくらい、鶯丸の事を見て来た。
 湧き起こったもやもやした感情は、どうやっても消せない。悔しさと腹立たしさが半々に混じりあって、どろっと濁り、嫌な臭いを放っていた。
 こんなものが自分の中にあったのが驚きだった。
 こんなものを抱えている自分が恥ずかしくてならず、惨めで、情けなかった。
「鶯丸様」
「大包平は、良い奴だ。見ていて飽きない。面白い。だがな、少し疲れる」
「つかれ、る」
「ああ。お前も思ったことはないか。なにせ暑苦しい男だ。見ている分にはいいが、な」
 池田輝政に見出されたのをなによりの誇りとしている太刀は、相手が短刀であれ、勝負を挑まれたら受けて立たずにはいられない男だ。
 内容は剣を交わらせるに限らず、飯の早食い競争であったり、潜水の持続可能時間であったり。時には紙相撲に真剣に取り組み、紙飛行機の飛距離を伸ばす術を懸命に模索していた。
 どんなことでも馬鹿にせず、精一杯努力する。
 その姿勢が評価されて、彼は短刀たちの遊び相手として重宝されていた。
 鶯丸はそんな彼らを眺めるのが、好きだ。面白いし、楽しい。だが無理矢理引っ張り出され、巻き込まれるのは御免だった。
 傍観者でいたいのに、大包平はそれをよしとしない。
 思いがけず苦労話を聞かされて、平野藤四郎は小さく、ぷっ、と噴き出した。
 丸めた手を口に当て、頬を緩めた。目を眇めて上を覗けば、太刀は一層優しい顔をして、短刀の目元に影を落とした。
 赤みを帯びた肌を擽り、鶯丸が小さな耳朶を軽く捏ねる。
 くすぐったさに首を竦めた少年は、顎の輪郭を伝い、途中で進路を転じた男の指にハッとなった。
 唇をなぞられた。
 弱い力で二往復し、離れて行く。その行く先を追いかけて、彼は見るのではなかったと後悔した。
 微熱を残す人差し指を、鶯丸は自身の唇に重ねあわせた。静かに、という合図に見せかけて右に、左に泳がせて、平野藤四郎が見ている前で不遜に口角を持ち上げた。
「お前と居ると、疲れない」
 詰まることなくすらすらと述べた彼は、正面を向いており、視線は交錯しなかった。
 すらりと整った顎の輪郭を見上げて、短刀は一度だけ頷いた。耳元で髪を梳く指に時折意識を寄せて、猫になってゴロゴロと喉を鳴らした。
 暖かな熱に擦り寄り、瞼を閉じた。大きな掌に自分から頬を埋めて、心を埋めた優しい光に顔を綻ばせた。
「はい」
 平野藤四郎は、大包平にはなれない。
 だが大包平だって、鶯丸にとっての平野藤四郎にはなれない。
 それで充分だった。
 比較して落ち込む必要などなかったと、彼は薄れて行く黒い感情に手を振った。
 これは完全に消えたりしない。しかし今しばらくは、蘇ることもない。
「さて、では寝るか」
「あっ」
 すっきりした顔になった短刀に相好を崩し、鶯丸は突然立ち上がった。膝を枕にしていた平野藤四郎は振り落とされて、直後に周囲が闇に染まり、二度驚いた。
 もそもそと身じろぐ音がして、一度は遠ざかった体温がすぐに戻ってきた。
「やれやれ。すっかり冷えてしまったな」
 部屋の灯りを吹き消して来たと理解して、いつだって唐突な太刀の行動に苦笑を禁じ得ない。
「知ってますか。短刀は、懐に入るのが仕事です」
「そうだったな。では存分に、温めてもらうとするか」
 冗談めかせて囁けば、布団を被り直した男の腕が伸びて来た。背中に回し、緩い力で拘束して、狭い場所に平野藤四郎を閉じ込めた。
 この檻が、殊の外心地良い。
「明日、お掃除しましょう」
「よろしく頼む」
「鶯丸様も、一緒にやるんです」
「それは……つかれるな……」
 散らかり放題の部屋の件を思い出し、目を瞑ったまま囁く。
 前言撤回とばかりに呻いた太刀の腕を枕にして、短刀はこみ上げる笑いを堪えた。

限りなき思ひのままに夜も来む 夢路をさへに人はとがめじ
古今和歌集 恋3 657

2017/12/29 脱稿

中空にのみ ものを思ふかな

 玄関先が騒がしい。
 人、ならぬ男士が押し合いへし合いしている光景を遠目に確認して、山姥切国広は眉を顰めた。
「なんなんだ、これは」
 第一部隊が出陣先から帰って来た、というような物々しさはなく、遠征部隊が戻ってきた晴れ晴れしさもない。多くの刀剣男士が我先にと詰め寄って、なにかを奪い合っている雰囲気だった。
 混雑に弾き飛ばされた包丁藤四郎が、金切り声を上げて喚いている。
 耳障りな高音に眉間の皺を深め、金髪の打刀は碧眼を細めた。
 屋内だというのに風を感じて、飛んで行かないよう目深に被った布を引っ張った。小さく開いた穴を通して様子を窺って、賑わいの中によく知った顔を見つけて首を捻った。
「兄弟?」
 広々とした玄関の片隅に、黒髪の脇差が真剣な顔で立っていた。顎に手を置き、一点を見詰めて、集中している様子だった。
 その前方では太刀に打刀、短刀といった面々が集い、身を屈め、中腰状態を維持していた。
 包丁藤四郎がその中に強引に割り込んで、押し出された乱藤四郎が迷惑そうに悲鳴を上げた。
「ちょっと。危ないでしょ」
「うるさい。俺の、お菓子は、どこだあ~?」
 背後から突き飛ばされ、倒れそうになった短刀がすんでのところで踏みとどまった。
 大声で叱られても反省せず、甘いものが大好きな少年が懸命に腕を伸ばす。それを乱藤四郎が邪魔して、殺伐とした空気が強まった。
 放っておけば、粟田口同士で喧嘩が始まってしまう。
「ええと、はい。あった。包丁君のは、これかな?」
 それを止めたのは、堀川国広だった。急に膝を折って屈んだかと思えば、積み上げられた大量の箱からひとつを選び、半泣き状態の短刀に差し出した。
 にこやかな笑顔と共に渡されて、包丁藤四郎は惚けた顔で目をぱちぱちさせた。脇差の顔と手元を数回見比べて、表面の記述を確認し、やがてコクリと頷いた。
「俺の、お菓子」
「そっか。よかった。あ、乱君のはこれかな?」
「そう、それ。よかった~。潰れちゃわないか、心配だったんだ」
 驚きを隠せないまま呟いた短刀の次に、乱藤四郎へも別の箱を差し出す。
 膨れ面だった少年は途端にぱあっと目を輝かせ、嬉しそうに飛び跳ねた。
 他の刀剣男士にも、堀川国広が手際よく引き渡していく。
 山盛りだった荷物が見る間に減って行き、同時に人垣ならぬ刀垣も解消された。
 ごった返していた空間が、すっかり静かになった。
 玄関から外に出るのも、随分と楽になった。見晴らしが良くなって、その分遠くからも山姥切国広の姿が分かるようになった。
「あ、兄弟」
 ひと段落ついたと汗を拭っていた脇差に、存在を気付かれた。
 爽やかに呼びかけられて、無視して通り過ぎることも出来ない。仕方なく、彼は足裏を床板から引き剥がした。
 数歩で距離を詰め、まだいくつか残っている大小の箱を上から眺める。
「これは、万屋からのか」
「うん。注文が立て込んでるとかで、配達が遅れちゃったんだって」
 掌に載る大きさのものから、両手で抱えなければならないものまで、様々だ。表面にはこの本丸の主である審神者の名前と、商品名を記した札とが並んで貼り付けられていた。
 とはいえ、全て審神者が注文したものではない。これは単に、配達先を示す住所のようなものだ。
 商品名の札の横には、小さいが発注者の名前も書きこまれている。但しこれを判読するのは、かなり近くまで寄らないと難しかった。
 なかなか届かない荷物に焦れていた面々は、配達が来たとの報せに浮き足立っていた。自分の注文したものはどれか、分からないまま山を崩して、更なる混乱を引き起こした。
 堀川国広が居なかったら、今も荷物を探す刀剣男士で混雑が続いていたはずだ。
 六畳ほどある式台は箱で埋まり、足の踏み場もなかったろう。
 割れ物だってあるかもしれないのに、乱暴に扱って、中のものが粉みじんになったらどう責任を取るつもりだったのか。
 後先考えない仲間に肩を落とし、騒動が早々に終息したのに安堵する。
 布の上から頭を撫で、吐息を零した山姥切国広を見上げて、堀川国広は箱の位置をいくつか入れ替えた。
 残ったのは、出陣などで屋敷を留守にした刀たちの依頼品。
 そして屋敷にいるけれど、面倒臭がって取りに来なかった刀の注文品だ。
 不在の刀と、そうでない刀とで大雑把に分けて、そこから更に細かく分類していく。
 どういう基準で選別しているのか気になって見つめていたら、脇差の少年は小首を傾げ、不思議そうに目を細めた。
「兄弟も、なにか頼んでた?」
「え? あ、いや。俺は、特には」
 彼は届けられた荷物の一覧に山姥切国広の名前があったか探り、記憶を辿って顰め面を作った。
 必死に思い出そうとしている兄弟刀に驚いて、思わぬ誤解を受けた打刀は慌てて否定した。
 両手を胸の前で振り回し、そうではないと頭を掻いた。ずり上がった布を引っ張って元の位置に戻して、顔を背け、顔の火照りが収まるのを待った。
「その……手伝うこと、とか。あるか」
 玄関まで出て来たのに、格別な理由はなかった。単に近くを通りかかったら騒がしかったので、様子を見に来ただけだ。
 頼まれていた風呂掃除は終わった。後は夕餉まで、急ぐべき用件はなにもなかった。
 言ってしまえば、暇だった。この後は誰とも約束していない。かといって部屋でぼうっと過ごすのは寂しく、つまらなかった。
 心の中で言い訳を並べ立て、屈んでいる脇差の前で膝を折った。
 恐る恐る布の下から前方を探れば、堀川国広はぽかんと開いた口を閉じ、ひと呼吸してから深く頷いた。
「うん。お願いしてもいいかな?」
 そうして嬉しそうに声を弾ませ、握り拳を作った。肘をバタバタ上下させて、勢いよく鼻から息を吐いた。
「あ、ああ」
 気まぐれで言ったことなのに、ここまで喜ばれるとは思っておらず、勢いに圧倒された。
 安請け合いするのではなかった、とほんの少し後悔したが後の祭りだ。こちらが惚けている間に、堀川国広はぱぱっと両手を動かした。
 大きい箱に小さい箱を、塔になるよう順に積みあげる。
「これ、配達してきてくれると助かるな」
 最後に厚手の袋をひとつ追加して、打刀の方へ押した。
 もっとも崩れては困るので殆ど力は入っておらず、幅一寸も動いていなかった。だが、ずすい、と巨大なものが迫ってくる感覚に見舞われて、山姥切国広は目を瞬いた。
「配達?」
「取りに来なかったひとたちの分ね、ここに置いておくわけにもいかないし。お願いしてもいいかな」
 鸚鵡返しに呟いた彼に、脇差は箱の横から身を乗り出した。両手を合わせて可愛らしく頭を下げて、上目遣いに訴えた。
「そういうことか」
 遠慮がちの依頼に、山姥切国広は小さく頷いた。
 万屋の配達は終わっているのに、何故また配達か、と疑問に思った。そういう意味ではなかったと悟って、床に着けていた膝を起こした。
 確かに、玄関脇に大量の荷物が置いてあるのは問題だ。出入りの際に邪魔で仕方がない。
 最終的な届け先が分かっているのであれば、持って行ってやるのが親切だろう。一方で遠征に出ている連中の分は、ここに置いておけば、帰還時に自分で持って行くはずだ。
 それで脇差は、出陣組と居残り組とで荷物を選り分けていた。
 納得だと膝を叩いて、打刀は高く積み上げられた箱を両手で抱きかかえた。
「気を付けて、兄弟」
「分かってる」
 一番下になっていた箱の角を掴み、上に重ねられた分もまとめて持ち上げた。倒れそうになったのは胸で受け止めて、最後に紙袋を引き取った。
 堀川国広が差し出した持ち手を、右人差し指と中指に引っ掻けた。おっとっと、と崩れかけた姿勢をどうにか維持して、宛先を調べようと最上段の箱を覗き込んだ。
「明石さん、膝丸さん、燭台切さん、大般若さん、小狐丸さんで、一番下が三日月さんだよ」
 だが目で見て確かめる前に、横からすらすら諳んじられた。
 小さめの箱をいくつか抱きかかえた脇差は、唖然とする兄弟刀の眼差しに、屈託なく微笑んだ。
「よろしくね」
 どういう記憶力をしているのか、驚かざるを得ない。
 出陣組かそうでないかに加えて、刀種別でもちゃっかり分けていたらしい。太刀の荷物ばかり任されたと、山姥切国広は後になって気が付いた。
 一方の脇差はといえば、短刀や脇差の荷物ばかりらしい。
 手にする箱の大きさからして全然違っていたが、手伝うと自ら言い出した手前、交換を申し出るのは憚られた。
「ちゃっかりしている」
 そもそも小柄な脇差に、大きい荷物を運ばせるのは心苦しい。
 ここは手伝いを買って出て正解だった。そうやって自分で自分を慰めて、彼はよろめきつつ、鈍い一歩を踏み出した。
 最初は軽く感じていた荷物も、移動距離が長引けば腕が痺れてくる。早く片付けることにして、教えられた太刀らの部屋を目指した。
「……ふう」
 いくつも角を曲がり、廊下を進んで、階段を上下した。時に行き過ぎて慌てて戻ったが、偶々通路で遭遇するという幸運にも恵まれて、配達は案外あっさり終わりそうだった。
 大般若長光は不在だったので、部屋の前に袋ごと置いて来た。
 動かす度にカチャカチャ固い音がしたので、中身は瓶だろう。あれが一番重く、運ぶのに苦労させられた。
「般若湯って、……酒のことだったか?」
 袋の表面に貼られていた商品名を思い出して呟き、首を捻る。
 記憶はおぼろげで、断言できるほど強い根拠があるわけではない。
 憶測で決めつけるのは宜しくないと頭を切り替えて、山姥切国広は残った荷物に視線を移した。
「あとは三日月と、小狐丸か」
 比較的大きめの箱と、小さめの箱がふたつ。どちらも重さはさほどではなく、最初に比べれば随分と腕は楽だった。
 片方には煎餅詰め合わせとの印があり、もう片方は手入れ道具、と注意書きがあった。小さい方が小狐丸の荷物で、大きい方が三日月の手配したものだ。
「あいつらの部屋は、こっちだったな」
 片手でも楽々抱えられる荷物を手に、分かれ道で右を選んだ。
 本丸内は度重なる拡張工事の影響で、色々な場所に部屋が分散していた。ちょっとした迷路であり、山姥切国広でさえ、時折道を間違えた。
 ここに暮らして長い打刀でさえそうなのだから、新入りの刀は一旦部屋を出ると、自室に戻るのも容易ではなかった。その為廊下のあちこちに矢印が貼られ、その先に住まう刀剣男士の名前が随所に書き込まれていた。
 あまり訪れることのない一画に足を踏み入れ、合っているかどうか不安になった。
 緊張気味に顔を強張らせて、山姥切国広は『三条』と書かれた部屋の札を睨んだ。
「小狐丸、三日月。いるか。山姥切だ」
「おお、これはこれは。少々お待ちを」
 悪戯好きの太刀が妙な細工をしていないか心配したが、杞憂だった。
 呼びかけに応じた声は小狐丸に間違いなく、返事にあった通り、程なくして内側から襖が開かれた。
 長く白い髪を背に流し、獣じみた顔つきの男が姿を現した。寒さを感じていないのか鍛えられた腕を晒し、素足だった。
「なんですか、こぎつねまる。あ、やまんばきりではないですか。どうかしたんですか?」
 その後ろからは愛らしい少年声が響き、遅れてひょこっ、と今剣が顔を出した。左右で微妙に色が違う瞳を爛々と輝かせ、大きな箱を手にしている打刀に向かって首を伸ばした。
 興味津々な眼差しに気圧されて、山姥切国広は半歩後退した。両名との距離を僅かに広げて、ハッと我に返って持っているものを軽く揺らした。
「万屋から、荷物だ」
 ここは玄関からかなり離れているので、あの大騒ぎも届かなかったようだ。
 なんのことかと訝しんでいた太刀は暫く黙った後、思い出したらしく、嗚呼、と両手を叩き合わせた。
「そういえば、確かに。わざわざご足労、痛み入ります」
 自分で注文しておきながら、忘れていたらしい。
 曇っていた眼を途端に煌めかせて、彼は上にあった小さい箱を迷わず手に取った。
「なんですかー?」
 今剣の興味の対象が即座にそちらへ移り、見せろとばかりにぴょんぴょん飛び跳ねた。太刀の服を掴んで引っ張って、行儀が悪いことこの上なかった。
 しかし当の男は慣れているのか、意に介する様子はなかった。鋭く尖った爪で包装を破ると、中に入っていた柄付きの櫛を取り、嬉しそうに顔を綻ばせた。
 手入れ道具と書かれていたが、中身は髪を梳くものだった。
 刀や防具を磨くものとばかり思っていただけに、意外だ。
「おお、これは良い。早速主様に梳いていただかねば」
 予想外の品が出て来て、驚いた。
 呆気に取られている打刀の前で、小狐丸は自身の髪で梳き心地を試し、満足そうに首肯した。
「山姥切殿、ありがとうございます」
 潰した箱を小脇に抱え、今剣を押し退けながら頭を下げる。
 荷物を届けただけでここまで感謝される覚えはなくて、山姥切国広はしどろもどろに捲し立てた。
「いや。礼には及ばない。それより、三日月はいないのか」
 彼の手元には、箱がまだひとつ残っていた。
 これを依頼主に渡さない限り、仕事は終わらない。けれど覗き見た部屋の中には、それらしき人影はなかった。
「みかづきだったら、おさんぽですねー」
 天下五剣の筆頭に数えられる太刀を探していたら、下から答えが飛んできた。
 身体を左右に揺らし、少しもじっとしていない短刀の言葉に目を丸くしていたら、櫛を左手に持ち替えた太刀が利き手を差し出した。
「どれ。渡しておきましょう」
「そうか。すまん、頼んだ」
 代わりに受け取っておくと言われて、断る道理はない。
 三条派に属する刀は、皆この大部屋で暮らしている。彼らに預けておけば、いずれ戻ってきた三日月宗近に渡るだろう。
 安請け合いした仕事も、目出度く終了だ。無事やり遂げられたとホッとしていたら、背伸びをした今剣が、なにを思ったか脇から割り込んできた。
「あっ」
 猫を真似てひょいっと腕を出し、箱の底を叩いた。
 衝撃で山姥切国広の手から箱が浮き、小狐丸も突然のことに慌てて利き手を伸ばした。
 双方が捕まえようとして、お見合いになった。目が合った瞬間仰け反って、互いが揃って譲り合った。
 一瞬のことだった。
 咄嗟に肘を引いた打刀の前で、足元に沈むはずだった箱がサッと掠め取られた。
「うわあ、おせんべいですねー?」
「今剣!?」
「やったあ。おせんべい、おせんべい」
「こら!」
 横から奪い取った今剣が、中身を知って高く跳び跳ねた。ぎょっとする山姥切国広を無視して嬉しそうにはしゃぎ回り、三日月宗近宛ての荷物だというのに、勝手に梱包を剥ぎ取ろうとした。
 表面を覆う畳紙に爪を立て、糊付けされている部分を引き千切った。
 ビリッと紙が裂ける音に騒然となり、打刀は大急ぎで短刀から箱を奪い返した。
「なにするんですかあ」
「それはこっちの台詞だ」
 力技で取り戻し、頭の上に掲げて距離を作った。
 今剣からは抗議の声が聞かれたが、強気に言い返して、一部が破れて中身が見えている箱に肩を落とした。
「これは、三日月の荷物だ」
 宛先に指定された太刀は、不在にしていた。
 同部屋の太刀が引き受けてくれるというから、安心して任せた。それを勝手に開封し、中身を出すなど言語道断だ。
 この様子では、三日月宗近に断りを入れる前に煎餅の一枚か二枚、或いはもっと大量に、食べられてしまう。
 配達を引き受けた手前、見過ごせなかった。
「でも、どうせみんなでたべるんですよ?」
 空になった両手を振り上げて、今剣は不満顔だ。楽しみを邪魔されて憤慨し、ぷんすか煙を噴いていた。
 そんな彼の言い分も、分かる。三条派の刀剣男士は仲がいい。三日月宗近もきっと、先に食べられたからと言って、眉を吊り上げ怒ることはなかろう。
 それでも山姥切国広は、許せなかった。己が胸に秘める正義感が、短刀の横暴ぶりに反発していた。
「だったら俺が、三日月に訊いてくる」
 彼らに煎餅を預けることは出来ない。
 ならば取るべき手段はひとつしかなかった。
「えええー?」
 一分の迷いもなく言い切った打刀に、今剣は面白くないと口を尖らせた。
「随分と真面目であらせられる」
「そういうのじゃない」
 小狐丸は呆れ気味だったが、特に反対はしなかった。
 苦笑混じりに言われ、山姥切国広は顔を背けた。布の端を抓んで引っ張って、一旦この場を辞そうとして、一秒後に三条の刀を振り返り見た。
 踏み出そうとした足もさりげなく戻し、廊下の真ん中で棒立ちになる。
 赤く染まる顔を布で隠した青年を見守っていた太刀は、やがてなにを気取ったか、にやりと口角を持ち上げた。
「三日月でしたら、恐らくはあちらに」
「……恩に着る」
 髭の無い顎を撫で、笑いを押し殺した声で告げる。
 自分から切り出せずにいた打刀は素早く頭を下げ、踵を返した。廊下は走るな、という決まりを律儀に守って、気忙しく脚を交互に動かした。
 後ろで小狐丸が腹を抱えている気配を感じつつ、振り返るのは避けた。我ながら情けないと耳まで朱色に染めて、山姥切国広は教えられた道を突き進んだ。
 三日月宗近に直接渡しに行くと決めたは良いが、肝心の太刀の居場所が分からない。
 本丸は庭や畑を加えるとかなりの広さを誇り、当てずっぽうで探し回ったところで、見つけられる保証はなかった。
 そして山姥切国広は、三日月宗近が行きそうな場所に心当たりがない。
「引き受けるんじゃなかった」
 最後の最後で、思わぬ罠が待ち構えていた。
 堀川国広とのやり取りを心底悔やんで、彼はふわりと香った微かな匂いに顔を上げた。
 冬場だというのに、春を思わせる香りだった。
「梅……?」
 どこかで嗅いだことがある気がして、しかし具体的には思い出せない。
 適当に、思いつく花の名前を口ずさんで、彼は誘われるまま視線を泳がせた。
 縁側の左手には、小規模な庭園があった。四方を建物に囲われており、光と風の通り道を確保すべく設置された、横長の空間だった。
 その立地上、背の高い木々は植えられていない。せいぜい肩に届く程度で、枝が伸びすぎないよう定期的に剪定されていた。
 本丸の大座敷から眺める庭は落葉樹が中心な為、この時期は寒々とした様相を呈していた。しかしここでは艶やかな緑が生い茂り、一瞬だけ現実の季節を忘れさせた。
 梅ではなかった。
「あれは」
 咲いていたのは、雅やかな紅色の椿だった。
 肌寒い季節にも拘わらずふっくらした緑の葉を従えて、凛とした表情を見せていた。足元には南天の実が、こちらもまた美しい緋色を奏でていた。
 生命力豊かな色艶に誘われて、思わず身を乗り出す。
 その際、両手で抱えた箱のことをうっかり忘れた。するり、と指先からなにかが滑り落ちる感触で、慌てて我に返った。
「うあ、あっ」
「ん?」
 焦ってお手玉した彼の声に、反応する気配があった。無事確保して冷や汗を拭った打刀の斜め前方で、木陰に屈んでいた男が首を伸ばした。
 明日にでも花が綻びそうな蕾を撫でて、曲げていた膝をゆっくり伸ばした。袴の皺を払って整え、狩衣の裾を指で弾いた。
「山姥切ではないか。どうした?」
「え!」
 夜明けを匂わせる藍色の瞳を眇め、三日月宗近が先に声を上げた。
 まさか探している刀の方から呼びかけられるとは、夢にも思っていなかった。手元に集中していた青年は大袈裟に驚き、わたわたしながら左右を見回した。
 大きめの箱をしかっと抱きしめて、布の所為で視界が阻害されていると遅れて気付き、必要以上に激しい動作で首を振った。
 揺れ動く布の隙間から中庭を見やり、先ほどまでいなかったはずの刀剣男士に目を丸くする。
 不思議そうに見つめ返されて、山姥切国広はかあっと顔を赤らめた。
「あ、い……やっ、その。おっ、お前に。荷物だ」
 不意打ち過ぎて、心構えが出来ていなかった。
 三日月宗近といえば、天下五剣の筆頭だ。数多存在する刀剣の中でも最上位に位置し、多くの刀工たちのあこがれの存在でもあった。
 国広の最高傑作と呼び声が高い山姥切国広でさえ、彼を前にしたら緊張せざるを得ない。
 急に現れられたのにも動揺して、声が変に裏返った。
 もう少し言い方というものがあるだろうに、口調もぶっきらぼうで、愛想がなかった。庭に佇む太刀に箱を突き出し、早く受け取るように促す所作も、随分と横暴だった。
「荷物。はて。なにかあったか」
 もっとも三日月宗近は、特別機嫌を損ねたりしなかった。小狐丸と似たような反応を見せて、思い出せないらしく、首を僅かに傾けた。
 長い指を顎に添え、探るようにじっと見つめられた。
「万屋から、だ。煎餅と、書いてある」
 それで言葉が足りなかったと思い至り、急ぎ必要な情報を追加する。
 この頃には幾ばくか冷静さが戻っていた。少しは落ち着いて対応が出来たと、山姥切国広は密かに自画自賛し、頬を紅潮させた。
 重くない箱を上下に揺らし、間違いないかと確認を求めた。
 それでも三日月宗近は心当たりがないのか、長い時間をかけて視線を泳がせ、俯いて停止した。
「ああ!」
 そこから更に十数秒が過ぎた辺りで、ようやく両手を叩き合わせた。
「そういえば、そうであった。ははは、俺のだな。間違いない」
 沈黙に不安を覚えた山姥切国広を嘲笑うかのように、調子良く言って、歩き出した。南天の枝を避けて袖を持ち上げ、植物の隙間を縫うようにして進み、沓脱ぎ石の上に立った。
 草履を脱ぎ、静かな所作で縁側に上がった。立ち尽くしている打刀に笑顔で近付いて、無邪気に両手を差し出した。
「すまんな」
「いや。構わない」
 にこにこしながら礼を告げ、大振りの箱を引き取る。
 そこで包装の一部が破れていると知り、怪訝な顔で視線を戻した。
「それは、すまない。今剣が」
 月夜を抱く太刀の眼は、酷く魅惑的だ。
 その瞳に映る価値が、自分にはない。先ほどの失態を思い出して後悔に喘ぎ、山姥切国広は額に掛かる布を思い切り引っ張った。
「俺は止めたんだが、間に合わなくて。悪い。お前への荷物を守れなかった」
 表情を隠し、三日月宗近の顔も見なかった。俯いて自分の足だけを視界に入れて、自分自身の情けなさに奥歯を噛んだ。
 呻くように謝罪して、深々と頭を下げた。
 罵倒を覚悟してぎゅっと目を閉じ、罰を受ける覚悟で返事を待つ。
「なあに、これはどうせ破く物だ。それより、部屋に寄ったのか。それをわざわざ、探して」
 ところが太刀は、怒るどころかあっさり受け入れた。
 今剣が破いた箇所から梱包を剥ぎ取り、その場に膝を突く。不要になった畳紙は小さく畳んで脇に置き、銀色の、金属を薄く加工した箱の蓋を両手で開けた。
 中身はちゃんと、煎餅だった。
 ぎゅうぎゅうに詰め込まれ、隙間さえない。散々振り回されたというのに、一枚も割れていなかった。
 味が違うのか、色合いが微妙に異なるものが四種類。運び歩いている時は一切感じなかった香ばしい匂いが、蓋を外すと同時にふわりと周囲を漂った。
「今剣が、勝手に食べても困るだろう」
「構わんよ。それに、俺ひとりで食べるものでもないしな」
「ぐ」
 堀川国広が買ってくる安物の煎餅と、似ているようでどこか違う。
 いかにも贈答用の高級品な匂いを嗅ぎ取って、山姥切国広は小さく呻いた。
 よかれと思って取った行動が、ここでも裏目に出た。今剣に言われたのと同じことを三日月宗近にも告げられて、とことん空回っている自分が恥ずかしかった。
 精一杯気を遣ったつもりが、やらなくて良い努力だったと教えられ、哀しかったし、悔しかった。
「どうせ俺は、写しだからな……」
 やることなすこと、巧く行かない。
 たまらず愚痴を零していたら、足元からぬっと何かが伸びて来た。
 布に覆われた視界で、膝先に突き付けられた。丸くて平たいその正体が何か、咄嗟に理解出来なくて、山姥切国広はぎょっとなって後ずさった。
 その流れの中で顔を上げれば、三日月宗近と目が合った。バチッと火花が散ったような衝撃を受けて、彼はたたらを踏み、仰け反った。
「なっ、なんだ!」
 口元を腕で覆い隠し、唾を飛ばして喚く。
 見苦しい姿を見せた打刀を笑いもせず、優美で名高い太刀は嫣然と目を細めた。
「なに。届けてくれた礼だ」
 山姥切国広がなにに動揺しているかを探りもせず、のほほんと言って、煎餅を顔の横で揺らしてみせる。
 緊張感など欠片も有していない男に絶句して、金髪の青年は碧眼をパチパチさせた。
 あれこれ考え過ぎて頭がいっぱいだったのが、ぽんっ、と泡のように弾けて消えた。全てがどうでも良く感じられて、四肢を支配していた力みが一気に抜け落ちた。
「なんなんだ、お前は」
「三日月宗近という。うちのけが多い故に――」
「……もういい」
 立っていられなくて、その場でガクリと膝を折った。崩れるようにしゃがみ込み、布から右目だけを露出させ、眼前の男を睨んだ。
 それでも三日月宗近は飄々として、ひとを食ったような台詞ばかり吐く。
 真面目に相手をしてやるのが馬鹿らしくてならず、山姥切国広は深々と息を吐いた。
「食べるか?」
「食べる」
 脱力していたら、再度訊かれた。
 差し出された煎餅を鳶のように奪い取って、打刀はひと口、焦げ色のついた表面を齧った。
 バキッと、小気味の良い音がした。歯で押さえ付けたのとは違う場所が割れて、平らな満月は大きくふたつに分かれた。
 断面から細かな滓が零れ落ち、膝や床に散らばっていく。それを軒下へと払い落として、山姥切国広は結構な固さの煎餅を噛み砕いた。
「美味いな」
 表面には醤油が塗られていた。それが火に炙られて、丁度良い味わいに仕上がっていた。また細かく刻んだ海苔が貼りつけられており、微弱ながら触感に変化が生まれていた。
 癖になりそうな味だ。
 残っていたもう片割れも頬張った彼に、三日月宗近は嬉しそうに頷いた。
「そうか、そうか」
 太刀自体は煎餅に手を伸ばさず、美味そうに食べる打刀を眺めるだけだった。
 箱の中にはまだまだ大量に詰め込まれており、一日や二日で片付きそうにない。今剣が多少つまみ食いしても、本当に問題ない数量だった。
「あんたは食わないのか」
「俺は茶がないと、固いものはな」
「ああ。爺さんだもんな」
「うむ」
「……すまん」
 ただあまり長時間放置すると、湿気ってしまう。
 自分ばかりが食べるのは申し訳なく感じていた山姥切国広は、何気なく続いた会話に数秒してからハッとして、薄汚れた布ごと顔を押さえつけた。
 口の中に残っていた煎餅を飲みこんで、あまりにも失礼千万な発言に青くなる。
「ん?」
 だが三日月宗近は気付いていないのか、突然黙り込んだ青年に首を傾げた。
「どうかしたか?」
 きょとんとしながら見つめられて、返す言葉が見つからない。
 答えられずにいたら、焦れた太刀が膝立ちで擦り寄って来た。煎餅の箱を押し退け迫り、臆して逃げ腰になる打刀を捕まえ、斜め下から覗き込んだ。
 ふわっ、と鼻腔を甘い匂いが掠めた。
 梅かなにかと勘違いした香りの発生源を今更悟って、山姥切国広は掴まれた手首を激しく振った。
「は、なせ。失礼を言ったのは詫びる。だから」
 三日月宗近の眼は、綺麗だ。その美しい輝きに、写しである自身の姿が映し出されるのが、どうしようもなく恥ずかしくてならなかった。
 山姥切の本歌であれば、きっと並びあっても遜色ない輝きを放つのだろう。
 ふとそんな情景を思い浮かべて、彼は締め付けられるような胸の痛みに息を呑んだ。
 背筋が粟立ち、全身の産毛が逆立った。ゾワッと来る悪寒に襲われて、湧き起こる熱を抑えられなかった。
 内臓が沸き立ち、心拍数が上がった。
 頭の中が茹で上がり、地上にいながら溺れている気分だった。
 握られているところが熱い。
 軽く掴まれているだけで、やろうと思えばいつでも振り払えた。だのに重なった部分から硬化していくようで、抵抗はじわじわと弱まった。
 鉛と化した腕を膝に落とし、無垢な眼差しに臍を噛む。
「あんたを、爺さんと……」
「ああ、なんだ。そんなことか。よいよい。俺が爺なのは、間違いないからな」
 顔を背け、蚊の鳴くような声で呟く。
 三日月宗近は直後にぱっと手を広げ、山姥切国広を解放した。
 朗らかに言って、屈託なく笑った。なにが面白いのか呵々と声を響かせて、唖然としている打刀の肩を叩いた。
 事実をありのままに受け入れているのが窺えた。本作長義の写しとして存在することに劣等感を抱き、鬱々としたものを振り払えずにいる刀とは大違いだった。
「あんたは、……凄いな」
「ん?」
「なんでもない。荷物は渡した。もう行く」
 素直に感嘆し、天下五剣の偉大さを痛感すると同時に、自己の卑小さを思い知った。
 長居するとまた要らぬ感情が湧き起こって来そうで、それも恐ろしい。まだ鳴り止まない鼓動を耳の奥で数えて、彼は膝を起こし、立ち上がった。
 布の位置を微調整し、踵を返そうとしたところで、煎餅の箱に蓋をした太刀をもう一度見た。
 目が合ったが、火花は散らなかった。
「いつでも訪ねて来い。今度は美味い茶も合わせて、部屋でゆっくりもてなそう」
「ああ」
 両手で箱を抱えた太刀が、嬉しそうに囁く。
 安請け合いかと思いつつ、山姥切国広は頷いた。

初雁のはつかに声を聞きしより 中空にのみものを思ふかな
古今和歌集 恋一 481

音にぞ人を 聞くべかりける

 遠征任務から戻った部屋に、見知らぬものが増えていた。
 時間を遡って向かう時代が古ければ古いほど、移動のための時間は長くなる。結果、本丸を丸一日以上留守にした大典太光世は、見慣れない品に眉を顰めた。
「なんだ、これは」
 手にした荷物を畳におろし、具足も解かずに歩み寄る。
 窓辺に置かれた文机の片隅にあったのは、瓢箪のように胴の真ん中がくびれた、透明な硝子の置物だった。
 中には細かな砂らしきものが入っており、揺らしたところで音はしない。
「いったい、誰が」
 試しに耳元で振って確認して、大柄の太刀は目を眇めた。
 彼が不在にしている間、無人の部屋に立ち入る存在は限られている。同じ光世作と伝わるソハヤノツルキウツスナリか、世話役を引き受けてくれている短刀のどちらかだ。
 そして目の前にある置物の形や、大きさからして、持ちこんだのは短刀の方で間違い無い。
「なにに使うものだ?」
 小柄な少年の顔を思い浮かべて、大典太光世は眉間の皺を深めた。
 無精髭が残る顎を撫で、ザリザリした感触でハッと我に返る。
 遠征中は碌に風呂に入れず、髭を剃るのも一苦労だった。身体もあちこち煤けており、服は埃まみれだった。
 現地で数日を過ごしたが、任務を終えて戻ってみれば、壁に吊した暦は一枚しか進んでいない。
 お蔭で感覚が鈍って困る。櫛を通していない髪を掻き毟って、彼は簡単に壊れそうな小物を机に戻した。
「先に風呂だな」
 まずはどこの浮浪者だ、と言われそうなこの身なりをどうにかしなければ。
 天下五剣の威厳など欠片も感じられない外見を鏡で確かめて、無造作に放置していた刀を床の間に移した。
 汚れた上着を脱ぎ、着替えの類を鷲掴みにした。あらかじめ一式用意されていたものを小脇に抱えて、疲労を訴える太腿を叱咤した。
「前田に、礼を言わないと」
 帰り着く時間帯を計算して、準備してくれていた。
 先のことまで見通している短刀の聡明さに感嘆して、彼は敷居を跨ぎ、風呂場へ向かった。
 泥と汗と、大量の垢を丹念に洗い流し、歩き詰めだった両足を労った。筋肉を揉みほぐしながら湯船に浸かっていたら、同じ遠征部隊にいた仲間たちが次々に現れ、去って行った。
 ほかにも演習帰りと思しき打刀の集団に出くわし、洗い場が若干混雑した。
 広々とした湯船も、むさくるしい男ばかりだと窮屈でならない。逆上せる前に出るのが吉と判断して、しっかり水気を拭き取った後は、湿った髪をひとまとめに縛った。
 雫が背中に垂れないように、毛先を上にして固定した。歩いている最中に落ちていかないよう、広げた手拭いを巻きつけて、額のやや右側で結び目を作った。
「……ふう」
 陽はまだ高く、地平線より上に位置していた。
 部屋へ戻る道すがら眺めて、大典太光世は向かいから来た短刀たちに道を譲った。
「あ、大典太さん。お帰りなさーい」
「聞いたぜ。任務、大成功だったんだってな」
 ドタドタ騒がしく駆けて来たのは、この本丸で最も大きな派閥である、粟田口の短刀たちだ。先頭を走っていた秋田藤四郎が元気よく右手を振って、続けて通り過ぎた薬研藤四郎が、すれ違いざまに肘で小突いて来た。
 眼鏡の奥から意地悪く笑いかけられ、どう返事をして良いものか分からない。
「ああ」
 結局無難な相槌ひとつでやり過ごすしかなかったが、薬研藤四郎は特別気にする様子を見せなかった。
 ひらりと手を振って、弟たちを引き連れて去っていく。
 喧騒は一瞬で止んで、手を振り返そうとしていた太刀は、行き場を失った右手に肩を竦めた。
「聞けば良かったか」
 集団が通り過ぎてから、ちょっとした後悔に見舞われて、つい声に出た。
 あの輪の中に、栗色の髪の少年はいなかった。肩より少し短く切りそろえたおかっぱ頭の短刀は、どこにいるのか、姿が見えなかった。
 部屋に残されていた、奇妙な置物のことを聞きたかった。
 しかし今更後を追いかけて問い質すのも気が引けて、悩んだ末、彼はガシガシ首の後ろを掻いた。
「そのうち、顔を見せるだろう」
 探しに行きたいところだが、具足の手入れやらなにやら、やることがある。
 時間が必要な、面倒なことから片付けようと思い直して、大典太光世は踵を返した。
 素足で床を踏みしめ、長い渡り廊を抜けて、私室を目指した。耳を澄まさずともあちこちから色々な音が聞こえて、賑やかな話し声が尽きなかった。
 何振りかは遠征に出て不在だが、それでも屋敷には四十振り近くが居残っている。畑仕事に駆り出されている刀もあるだろうが、そうでない刀も多かった。
 特に短刀や脇差の、甲高い笑い声は遠くまでよく通った。
「大典太さん、遠征お疲れ様でした」
「頑張ったな」
「ああ。ありがとう」
 鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎の兄弟とも顔を合わせたが、呼び止める暇もなく行ってしまった。
 単に自分が、話しかけるのが遅いだけだ。長く蔵に閉じこもっていた弊害と自嘲して、大典太光世は小さくなっていく背中から目を逸らした。
 粟田口の刀は仲が良いから、自分がいなくても、前田藤四郎は寂しくない。
 遠征は無事終わったが、調査自体はまだ続いている。今後も定期的に部隊を派遣すると、審神者から言われていた。
 当時の大典太光世は、京の都にあった。若干なりとも土地勘があるという理由で、次回の任務も率いるよう、すでに命令されていた。
 次回は、今回よりも戻りが遅いかもしれない。
 調査対象を未だ完全に絞り切れていないから、少々手古摺りそうだった。
「俺がいなくても、前田は問題ないだろうが」
 石鹸の匂いを漂わせて、小声で呟く。
 口にしてしまうと、途端に胸が締め付けられて、大典太光世は緩く首を振った。
 ずり落ち掛けた手拭いの結び目を解き、長さが不揃いな黒髪を背中に垂らした。鴨居に頭をぶつけないよう軽く屈んで、閉めた覚えのない部屋の襖を開けた。
「あっ」
 ぼうっとしていた。
 風呂場で温めた身体が徐々に冷めて、入れ替わりに睡魔が押し寄せて来ていた。
 怠さと眠気が合わさり、思考を阻害した。布団に横になれば、三秒で眠りに落ちる自信があった。
「……ん?」
 大きいが薄い足で畳の縁を踏み、ひと呼吸どころか三呼吸ほど置いたところで顔を上げた。
「お帰りなさい、大典太さん」
 部屋の真ん中に敷かれた布団の向こうで、正座した少年がにこやかに微笑んだ。
 淡い栗色の髪が、肩の上で揺れていた。くりっと丸い瞳は真っ直ぐ大典太光世を射抜き、両手が膝の上から滑り落ちると同時に、深々と頭を垂れた。
 三つ指揃えて出迎えられて、顎が外れそうになった。
「まえ、だ」
 妙なところで息継ぎが挟まった。
 手にした手拭いと落としそうになって、垂れた片側が畳に触れた。
 よろめいた際に踵で踏んでしまい、カクン、と身体が落ちかけた。自分の身に何が起きているか咄嗟に理解出来ず、結局彼は足がもつれるまま、その場で尻餅をついた。
 敷居を跨いだすぐの場所で転んで、衝撃に目を点にする。
「大丈夫ですか」
 驚いたのは向こうも同じで、前田藤四郎は慌てて膝立ちになり、駆け寄って来た。
 正面ではなく、左脇について、惚けている太刀の背を撫でた。小さな手をやや荒っぽく上下させて、放心状態の男の意識を引き寄せた。
「前田?」
 長く止まっていた息を吐き出し、大典太光世が唖然としたまま口を開く。
「はい」
 前田藤四郎は満面の笑みと共に頷いて、改めて正座して、腿に両手を揃えた。
 頭は下げず、じっと太刀の顔を見詰めた。窺うような、探るような眼差しを浴びて、蔵入り太刀は放り出していた足を集めた。
 よもや部屋で待ち構えられていようとは、思ってもいなかった。予定よりずっと早く顔を合わせられたのは嬉しいが、不意打ち過ぎて、咄嗟に言葉が出なかった。
「ああ、いや。ええと」
「お疲れでしょう。床の用意を調えておきました。夕餉まで、お休みになりますか?」
 言いたいことが沢山あったはずなのに、肝心な時に限って上手く喋れない。
 返事に困ってひとり喘いでいる間に、前田藤四郎は少し早口に言って、準備万端な布団を掌で示した。
 短刀とは、主の懐に控える刀。となればその身の回りの世話をするのは常識であり、手慣れているのも頷けた。
 ただ、大典太光世は彼の主ではない。
 こうも尽くされる道理はないのだが、何度注意しようと上手く言いくるめられ、ずるずると世話をされる日々が続いていた。
 布団くらい自分で敷けるのに、また甘やかされてしまった。
 もう充分だと言いたいのに、口に出せなくて、大典太光世は右手で頭を抱え込んだ。
「……大丈夫、だ」
 部屋に入る寸前までは眠かったのに、完全に消し飛んでいた。欠片すら残っていない眠気に苦笑して、彼は心配そうにしている短刀に首を振った。
「そうですか」
 長旅を終えて戻って、風呂に入って、きっと眠さでふらふらしているに違いない。
 そんな風に予測して、先回りして準備していた少年は、少しがっかりした顔で頷いた。
 見込みが外れて、落ち込んでいた。しかし十秒と経たないうちに気持ちを切り替え、ならば、と勢いよく鼻から息を吐いた。
「お腹が空いてはいませんか。温かいお茶と、すぐに準備致します」
 両手を強く叩き合わせ、ぱしん、と音を響かせた。言うが早いか早速膝を起こし、立ち上がろうとした。
 何かしていないと、落ち着かないのだろう。気忙しく働こうとする前田藤四郎に呆れて、大典太光世は目を細めた。
「いい。ここにいろ」
 中腰になった少年の手を掴み、引き留めた。代わりに自分が立ち上がって、開いたままになっていた襖を閉めた。
 前田藤四郎の前で出口を塞ぎ、改めて座り直した。胡坐を掻き、胸元に空間を作って、膝頭をぽんぽん、と二度叩いた。
「前田」
 名前だけ口にして。じっと見つめ返す。
 鮮やかな緋色の瞳に映る少年は、数秒間固まった後、ハッと息を吐いて顔を赤くした。
「も、もう!」
 凛々しく引き締まっていた表情が一瞬緩み、すぐに戻った。抑えきれない嬉しさに、勝手に出来る笑窪を両手で隠した。
 裏返った声で叫んで、ドスン、と一度畳を蹴った。折角用意した布団に背中を向けて、にじり寄った後、勢いつけて太刀の膝に飛び乗った。
 分厚い胸板に身体を預けて、膝を揃え、畏まる。
「無事、戻った」
 緊張でがちがちの彼を解してやりたくて、大典太光世は華奢な肩に額を沈めた。
 脇腹から腕を入れ、臍の前で緩く結んだ。いつでも逃げられる程度に束縛して、久方ぶりの匂いをいっぱいに吸い込んだ。
 毎日風呂に入って、清潔さを保っているためか、前田藤四郎の体臭は薄い。
 けれど、皆無というわけではない。恐らく他の刀たちは嗅ぎ分けられないとひとり笑って、天下五剣に連なる太刀は薄い肩甲骨に鼻梁を埋めた。
「……っ」
 ずい、と上半身を前に押し出されて、短刀が一瞬呻いた。
 声にならない声を上げた彼を知らず、大典太光世は服の上から骨の形をなぞり、露わになったうなじに唇を添えた。
 軽く押し当て、跡はつけない。
 見えないながら、何で触られたのか理解したのだろう。前田藤四郎は茹で蛸並みに赤い顔で振り返り、首筋を右手で覆った。
「そんなつもりで、用意したんじゃありません」
 若干鼻声で訴えて、潤んだ瞳で睨み付ける。
 熟れた林檎のような艶色に気を取られていた太刀は、しばらくして、嗚呼、と緩慢に頷いた。
「……すまん」
 それからさらに間を置いて、小さな声で謝罪した。
 挨拶程度のつもりだったが、刺激が強かったようだ。そういう意図があってのことではなかったが、誤解させたと素直に詫びて、膨れている短刀の頭を撫で梳いた。
 よく手入れされており、髪はさらさらだ。どこも絡まっておらず、指通りは滑らかだった。
 乾かすのを面倒臭がり、濡れたまま眠って朝を迎えて後悔する太刀とは、根本からして違っていた。
 思慮深く、面倒見がよく、心優しい。
 あまりにも勿体ない相手だ。だが、かといって他に譲り渡す気は起こらない。
 束縛をほんの少しだけ強め、短刀のこめかみに顎骨を擦りつけた。傷つけないよう注意しながら頬擦りすれば、落ち着いたのか、前田藤四郎は控えめに笑った。
「ふふ」
「……いつも、助かっている」
「それが僕のお役目ですから」
 機嫌が直ったと安堵して、目を泳がせ、言葉を探した。
 ぎこちない感謝に更に笑って、短刀からも頬を擦りつけて来た。
 暫く互いに押し合って、引っ張られた皮膚が痛み出す前に離れた。短く息を吐き、慎重に様子を窺って、膝の上の温もりに目を細めた。
「ありがとう」
 面と向かっては言い難いことも、背中越しなら言えた。
 日頃からきちんと伝えてきたつもりだが、どうにも足りていないと感じられて、ここぞとばかりに繰り返した。
「いつも、面倒ばかりかける」
「そんなことは、ありません」
 細い首筋に額を預け、顔を伏して滔々と告げた。
「お前がいないと、俺は、なにも出来なくなりそうだな」
「……!」
 時折挟まる反論に苦笑して、甘やかされ過ぎて駄目になる自身を想像した。
 やっと蔵から出られたというのに、蔵の中にいる時よりも自堕落な生活を送る様を妄想したら、急に目の前の存在がビクッ、と背筋を震わせた。
「前田?」
 大袈裟な反応に、首を捻る。
 前田藤四郎は絹のような肌を朱に染めて、小刻みに肩を震わせた後、時間をかけて息を吐いた。
 強張っていた四肢の力を抜き、投げ出していた膝を寄せて抱いた。俯いたまましばらく動かず、三度目の呼びかけでやっと振り返った。
 熱に潤んだ眼が、斜め下から太刀を射た。
「大典太さんが、僕なしじゃなにも出来なくなれば、いいって。そんなのは、……いけないこと、ですよね」
「ん?」
「分かってます。そんなことになったら、大典太さんは、主君に蔵に入れられてしまいます」
「……」
 艶を帯びた眼差しにどきりとしている間に、感極まった少年が一層早口になった。途中で左薬指の第二関節を噛んで、自身の発言を否定し、首を横に振った。
 刀剣男士は、審神者の求めに応じて顕現した付喪神だ。自在に動く現身を得る代わりに、審神者並びに時の政府の求めに従い、過去を巡って時間遡行軍を討伐するのが役目だった。
 彼らは常に、戦うことを求められた。
 いや、それだけではない。遠征任務の内容は戦闘に限らず、炊き出しといった支援や調査と、多岐に亘った。
 本丸にいる間もぐうたら過ごすわけではなく、食事の用意や掃除、洗濯とやることは幅広い。畑仕事や馬当番もあり、休んでいる暇がなかった。
 この本丸では、自分で出来ることは自分でやる、というのが基本だ。
 誰かに依存し、委ねていたら、あっという間に周りから置いて行かれてしまう。
 それは大典太光世にとって、良い事とは言えなかった。
 だから彼の世話を焼き、彼がなにかをする前にその段取りを整えてしまうのは、本来は宜しくない。やるべきことを横から奪い続けていたら、後に残るのは自発的に行動出来ない木偶の坊だ。
「前田」
「すみません。忘れてください」
 随分と傲慢で、勝手なことを言った。
 直前の発言を悔いて呻いた少年に、大典太光世は一瞬の間を置いて、短く息を吐いた。
 眉間に寄った皺を解いて口元を緩め、珍しく本音を吐いた短刀の頭を抱き寄せた。
「構わない」
「大典太さん」
「遠征先で、嫌というほど働かされている。ここに居る間くらい、甘えさせてくれ」
 情報を得る為には、相手の心を開かなければならない。だが此処にいる太刀は、そういうのが苦手だ。
 図体は大きいのに声は小さく、見た目の割に小心者で、自身を卑下しがち。危害を加えるつもりなど毛頭ないのに、近付いただけで怯えられて、その度に傷ついて来た。
 武器を手に戦うだけなら楽でいいが、遠征任務はそうはいかない。毎回苦労し通しで、必要以上に疲弊させられた。
 本丸は刀剣男士の帰る場所であり、争いを一時的に忘れられる空間だ。
 その中でも特に心を許した相手に依存するのは、最高の喜びであり、疲れを癒やす最上の手段だった。
 微かに湿った黒髪で首筋を擽られ、前田藤四郎は身じろいだ。肩を抱く大きな手に視線を落として、そこに掌を重ねた。
「本当は、……寂しかったです」
 出陣もなく、ずっと本丸で過ごしていた短刀にとって、大典太光世が居ない夜はたったひと晩だけ。
 しかし心に吹く隙間風を止められなかった。ぽっかり穴が開いたような気がして、なんとか埋める方法を模索し、足掻いた。
「そうか」
 手の甲に軽く爪を立てられて、太刀はささやかな痛みに目尻を下げた。傷をつけられたのに嬉しそうな顔をして、甘い匂いを放つ短刀の髪を鼻先で押し退けた。
 朱色に染まった耳朶を発掘し、柔らかな皮膚に唇を寄せた。付け根に向かって吐息を吹きかけ、華奢な体躯がビクッと震えた隙を見計らい、唇で甘く食んだ。
「っ、ん……」
 膝の上で跳ねた前田藤四郎の腰を右腕で抱きかかえ、左手はその先へ伸ばした。短い洋袴の裾から覗く柔い腿を掌で覆い、赤みが強く出ている膝小僧の裏を擽った。
「前田」
 前屈みになって逃げた耳朶を追いかけ、熱い息と共に囁く。
 伸ばした舌で固い耳殻をちろりと舐めれば、悪戯な左腕に爪を立てられた。
 痣になりそうな力加減だが、爪自体は短い。そこまで深く食い込むことはなく、諦めて離れていった。
「いいか」
 悪足掻きの抵抗が弱まるのを待って、訊ねる。
 前田藤四郎は肩を数回上下させると、深呼吸を挟み、束縛する腕の中で身体を半回転させた。
「前田?」
 腰を大きく捻り、身体に無理を強いた。キッと気丈な眼で睨みつけて、直後に太刀の胸に手を伸ばした。
 乱暴に揉み洗いを繰り返した結果、若干伸びて草臥れてしまっている布を捕まえ、握り締めて。
「寂しかったと、申し上げました!」
「!」
 空気を読むのが下手な男を面と向かって罵倒して、背筋を伸ばし、直前で目を閉じた。
 強引に唇に唇を押し付けて、三秒としないうちに離れた。身長差の所為で姿勢の維持が叶わず、小柄な少年はみるみるうちに小さくなった。
 癇癪を爆発させ、行動に出たまでは良かった。
 しかし慣れないことをした結果、遅れてやって来た羞恥に支配され、顔を上げることさえ出来なくなった。
 大典太光世も突然のことに呆気にとられ、凍り付いて動けなかった。
 茹で小豆よりも鮮やかな赤い肌を下に見て、何度も瞬きを繰り返した。言葉もなく口を開閉させて、かなりの時間が過ぎてからハッ、と背筋を正した。
 行き場をなくした両手は空中で蠢き、怪しい踊りを披露した。掴む物を欲して空中を彷徨った末に力尽き、丸くなっている短刀の背に落ちた。
「……すまなかった」
 任務で止むを得なかったとはいえ、ひとりにさせたこと。
 汲んでやれず、言わせてしまったこと。
 まとめてひと言で謝罪して、鈍感ぶりも天下一品の太刀は細い背骨をゆっくり撫でた。
 上から下へ、下から上へ。
 赤子をあやす仕草で宥めて、残る手で膝に陣取る尻を掴んだ。
「穴埋めを、させてくれ」
 軽すぎて心配になる肢体を抱き上げる際、前田藤四郎はなにも言わなかった。驚きもせず、抵抗の気配すらなかった。
 彼が低い囁きに小さく頷いたのに、太刀は気付かなかった。濡れた手拭いをその場に残して、大男は綺麗に敷かれた布団を蹴り飛ばした。

 気が付けば日は暮れて、月が出ていた。
 中庭に建つ灯篭に火が入り、その光が辛うじて室内を照らしていた。
「夕餉、終わってしまいましたね」
「そのようだ」
 昼間は静かだった誰かの部屋が騒がしくなり、逆に賑やかだった部屋が静かになった。五月蠅かった複数の足音は遠ざかり、今は寝支度に忙しい気配が伝わって来た。
 あの騒々しさは、仲間が夕餉の席に向かう時のものだった。
 それがひと段落した、という事実を受け止めて、大典太光世は腹を撫でた。
「なにかお作りしましょうか」
「いや。問題ない」
 隣で横になった短刀が、動きを察して囁いた。それに首を振って答えて、彼は枕にしていた右腕を外した。
 寒さに耐えきれず、途中から布団を被った。互いの熱で事足りたのは最初だけで、最後の方はひたすら抱きしめ合っていた。
 離れていた時間を埋めるかのように。
 その間に出来た穴を、互いの身体で塞ぐかのように。
 微睡み、少しだけ眠った。目覚めた時、すぐそこに愛しい存在がある喜びを、改めて噛み締めた。
「よろしいのですか?」
 やや強引に前田藤四郎を引き寄せれば、驚いた風に訊かれた。吐息が交差する近さから覗きこまれて、大典太光世はその美しい艶に相好を崩した。
「久しぶりだったから、無理をさせた。お前は休んでいろ」
「そのようなことは」
「たまには、俺に甘やかされていろ」
「……はい」
 顕現した直後は出来ることが少なかった太刀も、周囲にみっちり鍛えられ、料理もある程度まで上達した。
 凝ったものは作れないが、粥は得意だ。大きさが不ぞろいな青菜と、卵が入ったものを思い浮かべて、前田藤四郎は照れ臭そうに頬を緩めた。
 言葉通り甘えて、分厚い胸板に顔を埋めた。ドクドクと音を刻む左胸にそっとくちづけて、そのすぐ横に自分が作ったと分かるひっかき傷を見つけて、耳の先まで赤くなった。
「どうした?」
 急にしがみついて来た少年に目を丸くし、大典太光世が身体を起こす。
 薄い掛け布団を押し退けた男に、彼はふるふる首を振った。
 本丸で数ある短刀の中で、前田藤四郎は小さい部類に入る。最小ではないものの、恵まれた体格とは言い難かった。
 一方の大典太光世は、太刀としても大柄な方だ。猫背なのであまり目立たないが、背が高い。蔵に長期間引き籠もっていた割には骨太で、筋肉に厚みがあった。
 だから短刀の腕は、太刀の背に回り切らない。辛うじて指先が衝突するくらいで、ぎゅっと抱きしめるには足りなかった。
「昨日は、平野と一緒に寝たんです」
 胸に突っ伏す少年の髪を撫で、太刀は布団に座った。
 前田藤四郎も彼の腿に座り直して、羨ましいくらいに逞しい胸筋に凭れかかった。
「そうか」
 数多い藤四郎兄弟の中で、平野藤四郎は特に前田藤四郎と仲が良かった。
 大典太光世も、加賀前田家で一緒だったことがある。外見が非常に似通っており、慣れないと見分けがつかないと周囲は言うが、生憎とこの太刀は間違えたことがなかった。
 生真面目で、いつも背筋がピンと伸びている。あんなに気を張り詰めていては疲れないかと心配になるが、近頃心許せる相手が出来たらしく、その男の前では子供の顔で笑っていた。
「そうしたら、今朝。僕の手が、なにかを探しているようだった、と」
「探す?」
「平野に抱きついている時に、手が、泳いでいたそうです」
 言いながら、前田藤四郎は両手をブラブラさせた。手首から先の力を抜いて、照れ笑いを浮かべ、鼻を啜った。
 笑っているのに、泣いているような顔だった。
 言い終えてから手を背に隠した少年をじっと見て、大典太光世は情景を思い浮かべた。
 彼が兄弟刀と寝床を共にすることに、なんら不満はない。それでいいと思っている。間違っても嫉妬めいた感情を抱くことはなかった。
 どうしてそんなことを説明されたのか、その理由を考えて、脆弱な脇腹をするりと撫でた。
「んっ」
 くすぐったかったらしく、短刀が鼻にかかった息を吐いた。触れた皮膚の奥では、筋肉が収縮したのが感じられた。
 握れば簡単に折れそうな腰は細く、太刀が指を広げて囲えば、半分近くが覆えてしまえた。片腕で抱き上げるのも容易で、両腕を使えば束縛の堅牢さは二倍になった。
 なんと小さくて、なんと愛おしいのだろう。
「探させてしまったか」
「いつの間にか、……馴染んでしまっていたみたいです」
 短刀と太刀の腰回りはまるで違う。
 大典太光世に抱きつき慣れていた少年は、自身と同程度の体格を代わりにした時、無意識に差を埋めようとしていた。
 妙な動きをしていたと、起床してしばらくした後に教えられた。
 原因も一緒に指摘された時は恥ずかしくてならず、余計なことを言わないでくれ、と兄弟刀を責めた。
 今思えば、不条理なことを言った。後で謝ろうと決めて、前田藤四郎は目を閉じた。
 力を抜いて寄り掛かって来た少年の肩を抱き、大典太光世もまた、すっかり身体が覚えてしまった大きさ、熱、柔らかさに下唇を噛んだ。
「そういえば、前田。あれは?」
「はい?」
「お前のものじゃないのか」
「ああ……」
 手放し難い温もりに顔を伏し、脳裏を過ぎった記憶にそっと息を吐いた。振り返り見た窓辺の文机には、帰還直後に見付けた奇妙な小物が、そのまま残されていた。
 仄明るい月の光に照らされて、輪郭だけが浮かび上がっていた。
 太刀が見ているものを把握して、前田藤四郎は身動ぎ、居住まいを正した。
「砂時計です」
「時計? あれが?」
「はい。三分間だけ、計れるそうです」
 太刀の膝から降りて畏まった後、裸のまま文机へ歩み寄った。最初は四つん這いで、途中から膝立ちになり、戻ってきた時は二本足で立っていた。
 夜も更けて、気温は下がっている。肌寒さにぶるりと震えた彼は、急いで布団に潜り込み、取って来たものを遠い光に晒した。
 硝子の表面が淡く橙色を帯びて、昼間よりも砂の色が濃くなって見えた。
「三分」
 時計なら、本丸にもある。大座敷の壁時計は螺子巻き式で、毎朝短刀が、交代制で発条を回していた。
 刀剣男士のうち何振りかは、携帯に便利な大きさの懐中時計を所持していた。遠征任務で持たされることもある。万屋で売っているが、かなり値が張る品だった。
 細かな部品を組み合わせた機械式のものに比べれば、砂が入っているだけの容器は随分原始的だ。
 本当に時計なのかと疑っていたら、くすっと笑った少年が、平らな場所にそれを置いた。
 軽く揺らして砂を均し、かと思えばえいや、とひっくり返した。
「こうやって、砂が落ち切るまでの時間が、三分なんだそうです」
 説明を受けた時は、前田藤四郎も信じられなかった。しかし壁時計の前で計ってみたら、本当にぴたりと三分だった。
 精巧な造りの懐中時計に比べたら、十分の一以下の金額だった。それくらいなら、と手を伸ばして、気が付けば砂が落ちていく様を眺める癖がついた。
 ひとりきり、広々とした部屋で。
 砂が落ち切るまでの僅かな時間を、机に寄り掛かりながら静かに待ち続けた。
 たかが三分。されど三分。
 落ち切った後はひっくり返して、ひたすらその繰り返し。
 あと何十回、何百回すれば、あのひとは帰ってくるだろう。
「我ながら女々しいと思うのですが」
「前田」
「砂のひと粒分の時間だけでも、早くお帰りにならないかと。そんなことばかり考えてしまって」
 自分でも虚しい行為だと分かっている。自嘲気味に言って、前田藤四郎はサラサラと流れていく砂時計を小突いた。
 大典太光世の顔は見ない。影になって、太刀の目には短刀の表情が映らなかった。
 寂しかったと、前田藤四郎は言った。初めて言われたかもしれないと気が付いて、大典太光世は布団の下で膝を曲げた。
 緩く角度をつけ、その上に手を置いた。しばらく遠くを眺めて、横で砂時計がひっくり返されるのを待って、息を吐きながら天を仰いだ。
「主に、頼んでみるか」
「え?」
「近いうちに、また同じ時代へ向かう」
「ああ。次はもっと、長引くかもしれないという話ですね」
「なんだ。知っていたのか」
「は、い」
 彼にしてみれば大層な計画を口にしたつもりだったが、前田藤四郎は際立った反応を見せなかった。驚く様子もなく返事して、砂時計を胸に抱き寄せた。
 右肩を下にして寝転がり、太刀の太腿を枕にした。赤子のように丸くなって、突き刺さる視線に苦笑した。
「ひらのが、言ってました」
 大典太光世が率いる部隊には、鶯丸がいた。長丁場になりそうな任務の内容は、彼から平野藤四郎を経て、前田藤四郎に伝わっていた。
 しどけない表情に眉を顰め、天下五剣のひと振りがその頬を撫でた。
 長く太い、節くれだった指で輪郭をなぞられて、短刀は静かに頭を振った。口を噤み、目を眇め、心地よい温もりを忘れないよう、胸に刻みつけた。
 我が儘を封印し、理性的であるようにと戒めた。
 贅沢な願いは身を滅ぼす。欲を出せば、必ず報いが訪れる。
 寂しさは、次に会えた時の楽しみに置き換える。もやもやと膨らむ不安は、信頼という盾で食い止める。
 気丈に振る舞おうとする短刀を憐れみ、愛おしんで、大典太光世は足りなかった言葉を補った。
「一緒に行くか」
「どこにですか?」
 強い決意の下で紡いだ勧誘は、空回りして、横滑りした。
 きょとんとしながら聞き返されて、太刀は自身の口下手具合を大いに反省した。
「……遠征任務」
「御冗談を」
 ぼそっと付け足せば、呵々と笑われた。
 本気で言っているのに、伝わらなかった。真面目に受け止めようとしない短刀にムッとして、男は珍しく早口になり、微妙に噛み合わない会話に小鼻を膨らませた。
「今回、思い知った。俺はどうやら、立っているだけで怯えられてしまうらしい」
「大典太さんは、大きいですからね」
 どう言えば分かって貰えるのか、足りない頭で懸命に考えた。
「俺は、情報収集に向いていない」
「そのようなこと、ありません」
「お前の方が、余程」
「主君が御認めになりませんよ」
「決めつけるには早いだろう!」
「うわっ」
 しかしあれこれ悩むのは、性に合わなかった。
 やり取りの最中に我慢ならなくなって、吼えた。前田藤四郎の右手を取ってぐいっ、と強引に釣り上げて、力技で正面から向き合わせた。
 砂粒をいっぱいに詰めた時計が短刀の手から落ちて、掛け布団の海に沈んだ。横倒しになった硝子の器の中で、視覚化された時は静かに停止した。
 見た目の割に物静かな男が、外見通りの荒々しさを発揮した。
 地平線に沈む夕焼けよりも鮮烈な赤を間近に見て、射抜かれた少年は大袈裟に息を呑んだ。
「大典太さん」
「まだやってもないことを、簡単にあきらめるな」
「ですが!」
 牙を覗かせ、男が叫ぶ。
 凄まじい気迫に圧倒されかけて、前田藤四郎は負けじと声を荒らげた。
 感情が高ぶり、涙が出そうだった。鼻の奥がつんとして、言葉を続けられなくなった彼を見詰めて、大典太光世はゆっくり目を閉じた。
「寂しかったのは、俺の方だ」
「――え」
 握りしめていた細い手首を解放し、赤くなっている場所をなぞった。優しく抱きしめて、その胸元に額を埋めた。
 右回りの旋毛を下に見て、前田藤四郎が絶句する。
 言葉を失った少年は十数秒の間を置いて、嗚呼、と深く息を吐いた。
 胸の奥底から湧き起こる、この暖かな感情はなんだろう。きっと素敵な名前が付けられているに違いなくて、彼は腕を伸ばし、男の頭を抱き返した。
「ええ、はい。明日、一緒に」
 黒髪に頬を寄せ、囁く。
 束縛が僅かに緩み、隙間から太刀が瞳を覗かせた。探る眼に頷けば、肩を抱く手に力が籠もった。
「ん……」
 縋り付く体勢から伸び上がり、直前で目を瞑った。軽く重ねるだけのくちづけに、身体の内側から熱が迸った。
 長い舌が顎を舐めた。
 悪戯な唇を叱って軽く噛みついて、前田藤四郎は潤む眼を瞼で隠した。

あひ見ずは恋しきこともなからまし 音にぞ人を聞くべかりける
古今和歌集 恋四 678

2017/12/10 脱稿

わが影をもや 思出らん

 高いところにある窓から、明るい光が射しこんでいた。
 室内の埃がそれを反射し、きらきらと輝いた。ちょっとした空気の流れですぐに動きを変えて、くるくると回転し、美しかった。
 積もってしまえば邪魔者でしかないので、手放しに賞賛はし辛い。しかし太陽の欠片が降り注いでいるのだと思えば、無碍に追い出すわけにもいかなかった。
「よい、っと」
「気を付けてください」
 入り口の木戸を全開にしているので、少しくらいは風が流れてくる。
 黴臭さを耐えて呻いた少年に、小夜左文字は小声で注意した。
 五段近くある梯子を下りて、篭手切江が抱えた荷物を床に置いた。途端に大量の埃が舞い上がり、視界が濁って暗くなった。
「うわ、げほっ」
 箱の上に積もっていたものが、衝撃で飛び散ったのだ。短刀の付喪神も慌てて口を閉じ、目を塞いで、鼻から入り込もうとした分を払い除けた。
 ふた振りで一緒に腕を振り回し、ひと段落してからホッと息を吐く。鼻腔を埋める細かい毛に塵が大量にこびりついているようで、気道が狭まり、呼吸し辛かった。
 詰まってしまった鼻をズビズビ言わせ、苦虫を噛み潰したような顔をして、肩を落とす。
 弾みでずり落ちた眼鏡を直して、篭手切江は足元の箱に視線を戻した。
 蓋を覆う埃は、まだ残っていた。大きな塊がこびり付いて、自分の陣地だと主張しているようだった。
「これ、なんでしょう」
「なにも、書いてないですね」
 汚れ具合からして、軽く一年以上は放置されていたに違いない。
 納戸の奥、壁際に据え付けられた棚の隅に押し込まれていた箱には、持ち主の名前も、中身についての記載もなかった。
 仲間が増え、それに合わせて各刀剣男士の所持物が多くなった影響で、倉庫の中は大混雑だ。どこになにがあるか分からなくなることも多くなり、いつの頃からか、収納箱には所有者の名前や、内容物を書いた紙を貼る決まりになっていた。
 ところがこの箱には、印となるものがなにもない。
 木で作られており、蓋は釘打ちされていなかった。
 脇差どころか短刀でも楽々抱えられる大きさで、それほど重さはない。一辺が一尺ほどで、高さは八寸程度。振っても音はしない。中身は、見当がつかなかった。
「勝手に開けても良いんでしょうか」
 大勢が使う納戸だから、時々整理しないと、すぐに置き場がなくなってしまう。特に奥の方はなかなか手が回らず、長らく放置されてきた。
 今日はそんな重い腰を上げ、大掃除を兼ねて片付けることにした。隣の納戸でも、何振りかが協力し合い、せっせと働いていた。
「いいんじゃないでしょうか」
 誰のものか分からないのに、無断で開けて良いものか。
 悩む篭手切江にあっさり言って、小夜左文字は濡れ雑巾を手に取った。
 大座敷のその先に設けられた納戸は、いわば公共の施設だ。ここにあるものは、屋敷に住まう刀剣男士が共有できるものばかり。中を見られたくないのであれば、その旨を書き記して、箱を封印すればいい。
 けれどこの小箱には、なんら対処が施されていなかった。
 納戸の使用規約が定まる前に置かれたものだろうが、今の本丸での約束事に照らし合わせて処理するしかない。
 理路整然と理由を説明されて、篭手切江も成る程、と頷いた。
 箱の埃を拭き取った短刀の手元を注視して、高まる期待に胸をときめかせる。
「そんなに良いものは入ってないと思いますが」
 興奮に頬を紅潮させている脇差を一瞥して、小夜左文字は被せられていただけの蓋をそっと持ち上げた。
 棘に注意しつつ抱えて、現れた内部を覗き込む。
「これは?」
 篭手切江も首を伸ばして、出て来たものに眉を顰めた。
「古紙ですね」
 詰め込まれていたのは、使い古しと思われる紙だった。どれもぐしゃぐしゃに丸められ、潰され、皺だらけだった。
 全てに墨で文字が書かれているが、途中で終わっていたり、部分的に塗り潰されていたり。いずれも書き損じと分かるものだが、これを後生大事に取っておく理由が思いつかなかった。
 見たところ、それほど重要な書類というわけでもない。粟田口の短刀と思しき名前や、下手な落書きも紛れていて、その辺の屑入れにあるものと相違なかった。
 端の方に黄ばみが目立つ古紙に首を捻り、小夜左文字は試しに一枚、引き抜いた。
「あ」
 すると、空いた空間の先に、なにかが埋もれているのが分かった。
 思わず声を上げて、彼は二枚、三枚と詰め込まれていたものを取り払った。
 裏返しにした蓋に放り込み、古紙の海に隠されていたものを取り出す。
「茶碗、でしょうか」
 緩衝材に囲われていたのは、黄土色と焦げ茶色が混じりあった、いやに独創的な茶碗だった。
 口縁部は丸いのに、胴は拉げ、横から見ると四角くなっていた。高台は低く、全体的に斜めに傾いている。腰の一帯が激しくくびれており、これで茶を点てるのは難しそうだった。
 名のある陶工の手によるものとは、到底考えられない。
 随分と特徴的で、個性が強い――と言えば聞こえは良いが、要するに作品としてはとても下手だ。
「茶碗、でしょうね」
 自信無さげに呟いた脇差に同意して、小夜左文字は大事に隠されていた茶碗に目を眇めた。
 触り心地はザラッとしており、口縁の厚さは一定ではない。一部分だけ白の釉薬が掛けられて、そこだけ膨らみ、艶々していた。
 なにかしら景色を出そうとして、試行錯誤を繰り返した結果だ。もっとも作り手の熱意が出来栄えに反映されているかといえば、首を横に振らねばなるまい。
「どうしてこんなものが、ここにあるんでしょう」
「さあ……」
 明らかに駄作なのは、篭手切江も分かっている。
 その上で何故箱に入れられ、納戸にひっそり隠されていたのか。疑問を呈して、彼は口をへの字に曲げた。
 見詰められても答えられず、小夜左文字は茶碗の底を覗いた。裏返して落款がないか調べたが、なにも彫られていなかった。
 持ち主を探そうにも、手掛かりが少なすぎる。
 箱があった一帯を見上げて、短刀の付喪神は茶碗の縁をなぞった。
「どこかで、見たことがあるような」
 落とさないよう手の中で回転させて、全体像を眺めながら呟く。
 この独特の形状に見覚えがある気がしたが、なかなか合致するものと巡り合えなかった。
「こんなもの、店が並べるとも思えませんし。誰かが作ったんでしょうか」
「あっ」
 空箱を調べていた篭手切江が、お手上げだと当てずっぽうで言った。
 それでピンとくるものがあって、小夜左文字は目を丸くし、背筋を伸ばした。
 うっかり茶碗を落としそうになって、急ぎ胸に抱え込んだ。無事を確かめ、表面をそっと撫でて、思い出したと鼻息を荒くした。
「歌仙です」
「はい?」
 今度は彼が、興奮に頬を染める番だった。
 声が上擦り、歓喜に震えていた。感情をあまり表に出さない少年が、珍しいことだった。
 驚いた篭手切江が目を丸くし、きょとんとしながら短刀を見詰め返す。その眼差しを無視して、小夜左文字は不格好な茶碗を恭しく両手に掲げた。
 時の政府が審神者なる者に命じ、刀剣男士による時間遡行軍の討伐が開始されて、丸三年が過ぎようとしていた。
 長いようで、短かった。当初歌仙兼定と小夜左文字だけだった本丸は、いつの間にか六十振りを越える大所帯となっていた。
 ここに来て日が浅い篭手切江は、当時のドタバタ劇を知らない。
 小夜左文字が何を懐かしんでいるのかも、さっぱり見当がつかなかった。
「歌仙が作ったんですか?」
 小首を傾げながら問いかければ、小柄な少年は間髪入れず頷いた。
「かなり前ですけど」
 言って、お粗末としか言いようがない茶碗を小突く。だが篭手切江は納得がいかないのか、眉間に皺を寄せ続けた。
 風流を好み、雅さを追求して止まない打刀の姿から、この茶碗を連想するのは至難の業だ。
 脇差の心境も分かると苦笑して、小夜左文字は腕を下ろした。
 壊さないよう慎重に、箱に戻した。古紙はどうしようか一瞬迷って、結局触れずに済ませた。
「どうするんです?」
「歌仙に聞いて、考えましょう」
 彼らは宝探しをしているのではない。必要ないものを見つけて、棄てるか、残すか決める為に動いていた。
 木箱を納戸に押し込んだ犯人は、分かった。後は所有者に問い合わせて、引き渡す。彼らの役目はそれで終わりだ。
 誇り高く、変に拘りが強い打刀が、このへたくそな茶碗を見て、どうするか。
 なんとなく想像はついて、篭手切江は肩を竦めた。
「陶芸なんて、やってたんですね」
「少しの間だけです。僕も、すっかり忘れてました」
 今の屋敷のどこを探しても、そんな気配は微塵も感じられない。
 知らなかったと感嘆した少年に、小夜左文字は目を細めた。
 屑入れとして使っている袋に古紙を移し、箱には蓋をした。安全な場所に一旦移して、床に残る埃を雑巾で集めた。
 歌仙兼定が最初にこの本丸に顕現し、続けて小夜左文字が降り立った。初めのうちは人型での生活に馴染めず、苦労することが多かった。
 だが順調に仲間が集まる中で、出来ることも日増しに増えていった。食事の用意で大騒ぎする回数は徐々に減って行き、忙しなかった日々に、少しだけ余裕が生まれるようになった。
 打刀が陶芸を始めたのは、ちょうどその頃だ。
 一念発起して、窯造りから開始した。庭のあちこちを掘り返し、最適な土を探して、試行錯誤を繰り返した。
 しかし結局、上手く行かなかった。
 手に入る土の質がさほど良くなかったこと。当時の本丸がまだ資金繰りに苦しかったこと。
 なにより歌仙兼定自身が、土を捏ねて形を作る技術に劣っていたこと。
 複数の要因が積み重なって、折角作った窯から足が遠のいた。二か月ほど頑張って続けてみたものの、三ヶ月目には殆ど手を伸ばさなくなっていた。
 この不格好な茶碗は、そんな彼が唯一、まともに完成させたものだ。
「どこにやったのかと思っていたら」
 僅かな期間だけ、歌仙兼定はこれを部屋に飾っていた。けれどしばらくするうちに、ぱったり見かけなくなった。
 棄てたのかと思われたが、違った。地面に叩きつけて割るのも、費やした時間や努力が無駄になる気がして、出来なかったようだ。
 壊すのは忍びない。
 手元に置いておくのは、耐え難い。
 そういう葛藤の末に、誰にも見つからないよう、こっそり納戸の奥に押しやったのだろう。
 歌仙兼定自身、忘れているのかもしれない。まさかそれを、小夜左文字たちが見つけることになるなど、夢にも思っていないはずだ。
「驚くでしょうね、歌仙」
「笑わないであげてください」
「……善処します」
 出来栄えがいまいちだったからといって、作った側が手を抜いていたわけではない。真剣に向き合い、孤独と戦った結果、出来上がったのがこれなのだ。
 彼が流した汗を笑う権利は、誰にもない。釘を刺された篭手切江は目を泳がせ、自信なさそうに呟いた。
 首の後ろを誤魔化しに爪で掻いて、口笛でも吹きそうな感じで口を窄める。
 白々しい態度の脇差に苦笑して、小夜左文字は梯子の位置を横にずらした。次の棚を確認しようと一段目に足を置いた時、コン、と後方で音がした。
 中に居る刀の注意を引こうとして、わざと鳴らしたようだ。振り返れば納戸の入り口に、よく見知った男が立っていた。
 今の今まで、話題に挙がっていた打刀だ。
「ふっ」
 彼の顔を見た瞬間、篭手切江が噴き出した。
 咄嗟に手で口を塞ぐが、生憎と間に合わない。目が合った途端に笑われた男は訳が分からず、不思議そうに眉を顰めた。
「篭手切」
「なんだい、藪から棒に」
 約束したばかりだというのに、早速裏切られた。
 注意すべく袖を引いた小夜左文字と時同じくして、歌仙兼定も怪訝にしながら言葉を紡いだ。
 怪訝にしてはいるものの、機嫌を損ねてはいないようだ。それにまずホッとして、短刀は丁度良い、と脇に退けていた小箱を取った。
「歌仙、少しいいですか」
「なんだい。力仕事かい?」
「ああ、いえ。ちょっと、これを」
 戸口に佇む男を手招き、こちらに来るよう促す。
 呼ばれた打刀は疑うことなく応じて、白の胴衣の袖をまくった。
 襷はしていないが、懐からちらりと顔を出していた。どうやら短刀と脇差が納戸の整理をしていると知って、手伝いに来てくれたようだ。
 確かに小夜左文字と篭手切江だけでは、少々心許ない。重いものを持ち上げるのは苦でないものの、大きいものを動かすとなると、やはり体格が良い刀が有利だった。
 彼の協力が得られるのは、有り難かった。
 ただその前に、先ほど発見した茶碗の処遇を決めてしまおう。
 床板を軋ませ近付いて来た男は、短刀が持つものに気が付き、首を捻った。きょとんとした顔でしばらく見つめた後、心当たりを探っているのか、目を眇めて眉間に皺を寄せた。
 考え込む素振りに、蓋を取ってやるべきかで少し悩む。
「歌仙のものだと、思うんですが」
 それとも不出来な茶碗の所有者は、彼から余所に移った後だったのか。
 なかなか表情が晴れない打刀を不安げに見守って、小夜左文字は箱の側面をそっと撫でた。
 篭手切江が黙って注視する中、言われた歌仙兼定が二度、三度と立て続けに瞬きした。
「僕のだって?」
「そこの、上の棚の奥にありましたよ」
 胡乱げな打刀に、脇差が元あった場所を指し示す。
 つられて視線を上げた男は、目に飛び込んできた眩い光に顔を顰め、その状態で停止した。
 高い位置に設けられた明かり取りの窓から、束の間の日差しが差し込んでいた。季節は巡り、暦は冬だ。昼の時間が短くなって、長い夜は人肌が恋しくなった。
「歌仙?」
 顎を撫でていた男の腕が、ゆっくりと沈んでいく。
 呼吸さえ忘れて硬直している男に不安を抱き、小夜左文字は半歩、摺り足で前に出た。
「まさか!」
 直後、打刀は甲高く悲鳴を上げた。一瞬で顔面蒼白になり、ぐるっと振り返って、短刀の手から箱を奪い取った。乱暴に掴んで抱え込み、大慌てで蓋を持ち上げた。
 中にある不出来な茶碗を確認して、唇を戦慄かせ、声もなく立ち尽くす。
 大量に詰め込まれていた古紙は、すべて取り除かれていた。一枚も残っていない。隙間を埋め、ぱっと見ただけでは中身が分からないよう隠していたものが、白日の下に晒されていた。
 ただでさえ不安定な茶碗が、震える男につられてカタカタ揺れた。
 部屋の外にまではっきり響く音量に、小夜左文字と篭手切江は顔を見合わせた。
「歌仙の、ですよね?」
 こんな反応は想定しておらず、恐る恐る問いかけた矢先だ。
「見たのか!」
 急に声を荒らげた男に、小柄なふた振りは揃って身を竦ませた。
 蓋が壊れるくらいに強く握りしめて、歌仙兼定が床を踏み鳴らした。ドン、と床が抜ける勢いで足元を揺らして、青白かった肌を一気に赤く染め直した。
 鼻息は荒く、奥歯を噛み締める音が聞こえてくるようだ。ギリギリと顎を軋ませて、吊り上がった眼は仁王像を思わせた。
「見たのか、これを。こんな、こっ、こ……あああああ!」
 感情のままに吼え、途中で言葉を失って、ただの獣と化して泣き喚く。
 絶叫の果てにガクリと膝を折って崩れ落ちた彼に、篭手切江はヒクリ、と頬を引き攣らせた。
「なんなんですか、いったい」
「見るな。見るんじゃない。こんな、恥を晒すことになるだなんて。忘れろ。今すぐ忘れるんだ。早く! 早く!」
 あまりの狼狽ぶりに唖然とし、脇差の眼鏡がずるりと下がった。歌仙兼定は茶碗入りの箱に覆い被さって、嫌々と赤子のように駄々を捏ねた。
 今にも泣き出しそうな声で懇願し、惚けているふた振りの前で丸くなる。
 どうやらこれは、禁断の箱だったようだ。
 思いがけず、歌仙兼定が消し去りたかった記憶の蓋を開けてしまった。困った顔で短刀を窺って、篭手切江は肩を竦めた。
 小さく嘆息して、わなわな震えている打刀を見詰める。
「忘れろ、と言われても。そんなに恥ずかしがることですか?」
 二年以上前、彼はこの地で陶芸を始めた。しかし思ったような作品に仕上がらず、いつの間にかその事実までもが忘れ去られた。
 残ったのは、この茶碗だけ。それも箱に押し込め、誰も手を出さないような場所に隠した。
「何事も、挑戦してみるのは悪いことじゃないと思いますけど」
 両手を広げ、脇差が訥々と言った。
 出来は悪いが、きちんと完成させているのだ。本人なりに努力して、最後まで立派にやり遂げた証しではないか。
「まあ、……ぷっ」
「笑うんじゃない!」
 そこまで告げて、彼は堪え切れずに噴き出した。慌てて顔を背けるものの、誤魔化しは利かず、歌仙兼定は真っ赤になって怒鳴った。
 右手を振り回して叫び、目尻に浮いた涙を瞬きで弾き飛ばした。鼻をずびずび言わせて奥歯を噛み鳴らし、唇を真一文字に引き結んだ。
 子供の粘土細工のような茶碗しか作れなかったと、周囲に知れ渡るのが耐えられなかったのだ。風流を愛する打刀が、この程度のものしか作り出せないのかと、嘲られるのが怖かったのだ。
 だから隠した。
 自分では思いきれなかったから、誰かが不用品と判断し、知らないうちに捨ててくれるのを期待した。
 目論見は外れた。
 事情を知っている刀に発掘されて、却って生き恥を晒す羽目になった。
「いっそ殺してくれ……」
 力なく項垂れる男がなんとも憐れで、何とか慰めてやりたい。
「僕は、歌仙の作った茶碗、嫌いではないですけど」
 黙って動向を見守っていた小夜左文字は、意を決して口を開いた。胸の前で両手の指を擦り合わせ、言葉を探し、目を泳がせた。
 茶の湯の席に出すのは憚られるが、日常使いとして、花を活けるのになら充分使えるのではないか。
 独特な形状は、見る側を愉快な気分にさせる。嫌なことがあったとしても、これを見れば笑顔になれるのではなかろうか。
「お小夜。いいんだ、無理に褒めようとしなくても」
 だが懸命の労いは、逆効果だった。
 余計に落ち込むと言われて、ハッとなった。慌てて脇差を振り返れば、篭手切江は曖昧に笑っただけだった。
「す、すみません」
 良かれと思ったことが、裏目に出た。
 失敗したと耳の先を赤くして、気落ちして俯く。
 両手で顔を覆って頻りに頬を擦る彼に、歌仙兼定はようやく口元を緩めた。
「情けないことに、僕に陶芸の才能はなかったようだ」
 萎れた花のようだった背筋を伸ばし、箱を手に立ちあがった。どれだけ念じても美しく変化しない茶碗を取って、深々と溜め息を吐いた。
 茶の道をこよなく愛した元の主を見習って、色々挑戦してみた。しかし上手く行った方が少なく、陶芸はその最たるものだった。
 汗水たらして窯まで作ったのに、宝の持ち腐れだ。
「別にいいんじゃないでしょうか。出来ないことがあった方が、なんだか安心します」
 料理が出来て、武芸に優れ、茶道に通じ、歌を詠む。
 傍から見て完璧とも思える相手には、微妙に接し辛い。機嫌を損ねてしまわないか戦々恐々して、話しかけるにも勇気が要った。
 だがそうでないと分かったら、親しみが湧く。彼だって失敗することがあると知って、篭手切江は相好を崩した。
 もっとも弱点を晒した格好の打刀は、あまり嬉しくなさそうだ。なんとも言えない顔をして、茶碗を箱に戻した。
「どうしますか?」
 それを待って、小夜左文字が口火を切った。
 今後使う予定があるなら残しておけばいいし、二度と見たくないのであれば、自分が捨てておく。
 選択を迫って両手を差し出した少年に、歌仙兼定は困った風にはにかんだ。
「正直なところ、要らないんだけど、ね」
 奥歯にものが挟まったような、歯切れの悪い返事だった。
 使い道がないので置いていても仕方がないけれど、やはり心のどこかで惜しく思っている。捨てると言われて素直に応じるのは難しく、かと言って手元に残しておきたいわけでもなかった。
 天秤は常に揺れ動き、安定しない。
 微妙な男の心理を嗅ぎ取って、小夜左文字は空の手を緩く握った。
「では、僕がもらってもいいですか」
「お小夜が?」
「はい。さっきも言いましたが、僕はその茶碗、嫌いじゃないです」
 一度胸元に添えたその手を、彼は再度前方に放った。掌を上にして、揃えた指先を重ねあわせた。
 渡すよう促され、歌仙兼定は眉を顰めた。手元と、短刀の顔を交互に見て、物言いたげに口をもごもごさせた。
「こんなものが、かい?」
「歌仙が作った茶碗です」
 改めて確認し、不格好な器を指差す。
 自虐的な台詞を訂正して、小夜左文字は真っ直ぐ男を見詰め返した。
 空色の瞳に迷いはなく、同情や憐れみの類は感じられなかった。心から欲していると分かる輝きに、傍で見ていた篭手切江は簡単の息を漏らした。
「最高の褒め言葉ですね」
 意味もなく眼鏡をくい、と押し上げ、噛み締めるように呟く。
 横で聞いていた打刀は途端にカアッ、と赤くなり、憎々しげに脇差を睨んだ。
 とはいえ、その眼差しに力はない。篭手切江はふっ、と鼻で笑って、やれやれと首を竦めた。
「羨ましいですね。僕も早く、僕の歌を聞きたい、と言ってくれる相手が欲しいです」
「僕は篭手切の歌、嫌いじゃないです」
「お小夜」
「おや、ありがとう。お世辞だとしても、嬉しいよ」
 癖なのか、眼鏡を弄りつつの独白に、すかさず小夜左文字が合いの手を挟んだ。聞いていた歌仙兼定はあまり良い顔をしなかったが、割って入るのは諦めて、遠くに向かって溜め息を吐いた。
「お世辞じゃないです」
「それ以上は歌仙が怒るから、今度ね」
 謙遜されて、短刀が尚も言い募る。
 和歌に傾倒し、篭手切江が好む歌謡には関心がない打刀は、敢えて聞こえなかった振りをして、咳払いを数回続けた。
 一方で人差し指を唇に当て、脇差が目尻を下げた。
 それで難しい彼らの距離感を悟り、小柄な短刀は頷いた。
「面倒臭いですね」
「ですって、歌仙」
「うるさい」
 率直な感想を述べれば、篭手切江が歯を見せて笑った。
 槍玉に挙げられた男は不機嫌に怒鳴り、木箱の蓋を閉めた。
 最初は上手く嵌まってくれず、何度かカタカタ揺すって、ようやく綺麗に収まった。それを両手で持ち直して、変に畏まった表情で短刀に向き直った。
「お小夜が、その。……使ってくれるのなら」
「はい」
「君に譲るのは、やぶさかではない、と言うか」
「ふふふっ」
「だからそこ、笑うんじゃない」
 目を泳がせ、ぎこちない口調と動きで木箱を差し出す。
 見ていられなかった篭手切江がまた噴き出して、打刀はくわっ、と牙を剥いた。
 但し迫力は皆無に等しく、まるで怖くない。照れ隠しだと分かる仕草に、脇差は腹を抱えて丸くなった。
 憤った歌仙兼定が肩を震わせ、振動が手に持つ箱にまで伝わった。中で割れるのではないかと危惧した短刀は、急いで箱の底を支え、そうっと大事に引き取った。
 掌に圧を感じ、打刀がハッと息を吐いた。瞳だけを動かして、手元から去っていく箱を追い、爪の先で空を掻いた。
 古くから付き合いのある少年なら、駄作であろうと大切に扱ってくれる。へたくそと笑って、見世物にすることもない。
 信頼し、任せた。
 心からの感謝を込めて、歌仙兼定は瞑目した。
「ありがとう」
 蚊の鳴くような小声で礼を言って、窄めた口から息を吐く。
 胸のつっかえが取れた気がして、心持ち身体が軽くなったようだった。
「そういえば、歌仙が作ったその窯。どうしたんですか?」
 心底ホッとしている男に目を細め、好奇心から篭手切江が訊ねた。ところが当時を知る刀ふた振りはきょとんとするだけで、明確な返事は得られなかった。
「どうなりましたか?」
「言われてみれば、ずっと放ったままだね」
 今の今まで気に留めもしなかった彼らに、脇差の頬がまた引き攣った。
 興味がなくなった途端、足を向けすらしなくなった。負の遺産であり、出来るなら二度と見たくない。そんな心理も働いて、現地を訪ねようという気が起こらなかった。
 すっかり忘れていたと、打刀が首を捻る。
「場所、覚えてるかい。お小夜」
「だいたいは」
「まったくもう……」
 所在地の記憶さえ曖昧と聞いて、篭手切江はがっくり肩を落とした。
「手入れもしていませんし、壊れているかもしれません」
「それはそれで、勿体ないな」
 二年以上風雨に曝されていたのだから、無事では済むまい。今頃は雑草に覆われて、原形を留めなくなっているに違いなかった。
 想像し、歌仙兼定が舌打ちした。大量の煉瓦を組み上げた日々の辛さを思い起こして、自分で放り出したくせに、今更惜しがった。
 何とも自分勝手な男だと呆れて、脇差は黒髪を掻き回した。
「折角だし、もう一度始めてみるのはどうでしよう。案外、今なら上手く出来るかもしれません」
「どうだか」
 提案し、外へ誘ってみる。
 打刀は最初あまり乗り気ではなかったけれど、低い場所から期待の眼差しを向けられて、難しい顔で考え込んだ。
 きらきら眩しい双眸に、嫌だとは言い難い。
 萎えていた陶芸への熱意をむくむく蘇らせて、彼は分かった、と頷いた。
「どうなっているか、見るだけ見てこよう」
「あっ。僕も行きます」
「僕も」
「やれやれ。掃除はいいのかい?」
「歌仙が手伝ってくれれば、すぐですよ」
「こういう時だけ、調子が良いな。君たちは」
 善は急げという。半日経った後では、やっぱりやめよう、となるかもしれない。
 気もそぞろに足踏みし、踵を返した男を追って、脇差と短刀も戸口へ急いだ。追いかけてくる足音に歌仙兼定は嫌そうな顔をしたが、無理強いはしなかった。
 好きにするよう身振りで告げて、段差を跨ぎ、廊下を急いだ。
「お小夜は、それ、どうするんだい?」
 三振りが横に並ぶと、それだけでぎゅうぎゅうだ。対面から来る刀に道を譲るべく、打刀は途中から短刀を抱き上げた。
 玄関へ行く道すがら、箱を大事に抱く少年に訊ねる。
「花を活けます。小さな、野の花が似合うと思うので」
 中身を揺らさないよう気を配りつつ、小夜左文字は有様を想像し、静かに微笑んだ。

昔見し野中の清水かはらねば わが影をもや思出らん
山家集 雑 1096

2017/12/03 脱稿

影に添ひつゝ 立も離れじ

 すい、と影が動いた。
 足を動かせば、その通りについてくる。一度本体から分離したそれは、爪先が床板に接すると同時に無事合流を果たした。
 光があれば、どこかで影が生まれる。切っても切れない関係だ。どちらかが失われたとしたら、それはもう、この世にはない、ということだ。
 ならば自分たちは、まだ世界に必要とされている。
 己の存在意義をそうやって定義して、歌仙兼定は視線を上げた。
「お小夜?」
 遠くに小さな人影があった。本丸でも際立って小さく、華奢な体躯をそこに見出して、彼は怪訝に眉を顰めた。
 自室に帰る道中で、短刀に遭遇するのは珍しい。それもそのはずで、この本丸に集う刀剣男士は、刀種別で私室が割り振られていた。
 短刀は短刀ばかり、脇差は脇差ばかりの区画で生活している。打刀もそうだ。
 もっとも何事にも例外というものはある。部屋の数が足りなくなり、増築する敷地もないということで、ある時を境に二階部分が建て増しされた。以後顕現した刀は、刀種に関係がなくそちらに放り込まれていた。
 ただ小夜左文字は、早い時期から本丸に降臨している。歌仙兼定などは、最初に顕現した刀だ。
 例外には当てはまらない少年を、打刀が見つけた。
 この偶然に小首を傾げていた男は、ふとあることを思い出し、合点がいったと頷いた。
 彼が目指す自室は、短刀が佇む場所より奥にある。
 手前の部屋で暮らしているのが誰かを想像して、歌仙兼定は小さく肩を竦めた。
「宗三左文字の部屋、か」
 口の中で呟き、緩く首を振った。わざと足音が目立つように歩みを再開すれば、半開きの襖を前にしていた少年が、ビクッと大袈裟に反応した。
 高く結った髪をぶわっと膨らませ、ひと呼吸置いてからこちらを向いた。
 緊張と警戒で尖っていた眼差しは、一秒後にはホッとしたものに切り替わった。
「こんなところで、なにをしているんだい?」
 強張っていた肩を落とし、安堵の息を吐いた少年に問いかける。
 回答は分かり切っている。だのに敢えて質問して来た打刀に苦笑して、短刀の付喪神は無人の部屋に視線を戻した。
 襖は、彼が開けたのだろう。そして敷居を跨ぐことも出来ず、立ち尽くしていた。
 入室の許可が得られないのだから、迂闊に立ち入るのは許されないとでも考えているのか。兄弟刀なのだから遠慮しなくても良いはずなのに、その辺りが妙に義理堅く、他人行儀だった。
 室内は灯りなどなく、薄暗かった。障子越しに差し込む光も僅かで、床に落ちる影は曖昧だった。
「なにを、というわけでも、ないんですが」
 小夜左文字と同じものを眺めていたら、下から声がした。急ぎ焦点を手前に合わせ直して、歌仙兼定は首肯した。
 襖に左手を預け、短刀が目を細めた。微かに漂う香の匂いを嗅いで、呼びかけても返事がない部屋をじっと見つめた。
 小奇麗に片付けられた部屋の主は、昨日、修行へと旅立った。審神者に暇を請うて許され、僅かな荷物を手に、屋敷を出ていった。
 これまでの例に従えば、宗三左文字の帰りは明後日。だが気まぐれな籠の鳥がきちんと戻ってくるかどうか、誰にも分からなかった。
 出発は、酷く素っ気ないものだった。
 見送りは不要と言って、兄弟刀さえ拒み、一度も振り返らなかったという。
 先を越されたへし切長谷部が、随分と悔しがっていた。日本号を誘って珍しく酒を飲んでいた男を思い浮かべて、歌仙兼定は佇む少年の肩を叩いた。
「帰ってくるよ」
 宗三左文字とはあまり交友がなく、彼の真意がどこにあるかは分からない。
 だからこんな発言は無責任だと分かっているが、言わずにはいられなかった。
「知ってます」
 兄刀が本丸を離れ、便りはまだ来ない。
 不安に駆られて留守の部屋を訪ねて来たと予想していた打刀は、思いの外しっかりした受け答えに目を瞬いた。
「お小夜」
「兄様は、帰ってきます。必ず」
 驚いていたら、小夜左文字が振り返った。斜め下から真っ直ぐ空色の瞳を射抜き、一度も揺らがなかった。
 力強い宣言に、迷いや不安は感じられない。確信を抱き、信じているのが伝わって来た。
 左文字の兄弟は太刀を筆頭に、打刀、短刀の組み合わせだ。いずれもあまり恵まれた境遇を経ておらず、世の不幸を集めて注ぎ込んだ末に完成した、と揶揄出来そうな経歴だった。
 末の短刀は復讐に餓え、中の打刀は元主の名が刻まれたが故に権力者に囲われた。上の太刀は元主の奮闘も虚しく、争いが止まない歴史を間近で見続けた。
 世を憂い、世を儚み、世を憎み続けてきたのが彼らだ。
 そんなだから、宗三左文字は戻らないのでは、という懸念が本丸内にはあった。
 ところが弟刀は、微塵も心配している様子がない。当てが外れた格好で、歌仙兼定は二の句が継げなかった。
「そう、なんだ?」
 辛うじてそれだけを声に出したが、若干裏返っており、間抜けとしか言いようがない。
 唖然としている打刀の反応は、短刀には想定外だったようだ。
 ほんの数秒きょとんとした彼は、じきに頬を緩め、改めて頷いた。
「帰ってきます、兄様は」
 無人の部屋に視線を戻し、繰り返す。
 両手を背に回して指を絡ませ、彼はその場で二度、三度と背伸びした。
 縦に身体を揺らした後は、横にゆらゆらさせた。一定の間隔で往復させて、最後は歌仙兼定にトン、と寄り掛かった。
「おっと」
 不意打ちだったので、受け止め損ねるところだった。
 予期せぬところから凭れかかられて、打刀は慌てて両手を伸ばした。
 華奢な肩を左右から抱いて、緩い力で固定した。小夜左文字は体重の半分を男に預け、僅かに低くなった視界で動くもののない空間を眺めた。
 出発前に掃除をしたのだろう、中は綺麗に片付いていた。
 物は多いが、きちんと整えられているので、不快感はまるでない。表に出る調度品はあまり華美ではなく、かといって質素過ぎるわけでもなかった。
 枯れてしまうのを嫌い、花瓶に花は活けられていなかった。衣紋掛けは空で、木製の枠が寒そうに主の帰りを待っていた。
 残り香はするのに、姿は見つからない。
 部屋の中のそこかしこに、宗三左文字の気配が染み付いていた。
 彼が当たり前のように本丸にいるうちは、気付きもしなかった。
 振り向けばそこに居る気がして、歌仙兼定は思わず息を呑んだ。有り得ないと分かっていても、左右を確認したくなった。
 首を振り、目を泳がせる。
 真上で打刀がなにをしているのか知って、小夜左文字はクツリと笑った。
「兄様も、僕も。ここしか、ありませんから」
「お小夜?」
「本当は、僕は、山賊のところに行きたいと思ってたんです」
 挙動不審な男を嘲ったのではなかったらしい。過分に自虐を含む言葉を吐かれて、歌仙兼定は目を剥いた。
 それは初耳だった。思いがけない告白に騒然となって、彼は咄嗟に、再度左右を見回した。
 他に聞く者がないのを確認して、唇を舐めた。息を顰め、頭頂部しか見えない短刀に焦れて、膝を折って屈もうとした。
 それを短刀が、未然に防いだ。男に寄り掛かったまま、両の腕を背後に回し、袴の上から太い腿を押さえこんだ。
 腕の長さが若干足りず、完全な輪にはならなかった。ただ打刀を躊躇させるのには十分で、束縛された男は無理強いも出来ず、右往左往して、最終的には諦めた。
 一旦離した手を小夜左文字の肩に戻し、そこから胸元へと滑らせた。しゃがむのを止めて、背後から抱きしめる道を選択し、静かな室内に目を凝らした。
 彼らの前方にあるのは、宗三左文字の部屋だ。
 けれど復讐に囚われた少年は、行こうと望んで許されなかった、全く別の場所を見ていた。
「それは、……復讐のためかい」
「はい」
 彼が修行先としてどこに出向いたか、歌仙兼定は当然知っている。戦国大名細川家の祖を築いた、細川藤孝の元だ。
 そこで彼は隠居していた男の話し相手となった。僧形の小坊主に、警戒心などなかったらしい。色々な話をしてくれたと、本丸に帰還した少年は語っていた。
 その話の中には、当然『小夜左文字』と名付けられた短刀の逸話も含まれていた。
 現地で付喪神がどのような感想を抱いたか、それは語られていないので分からない。推測するよりほかにないが、想像するのは難しかった。
 故に思索を放棄した打刀は、迷わず頷いた少年の頭に顎を置いた。猫背になり、小柄な体躯を包み込めば、肩が辛くなったらしい短刀が腕を解いた。
 お蔭で膝の曲げ伸ばしが楽になった。歌仙兼定は中腰になり、右手を伸ばして襖の引き手に指を掛けた。
「君が復讐を遂げていたら、歴史改変になっていただろうね」
「はい」
 音も立てずに戸を閉めて、姿勢を正す。後頭部をぽん、と叩かれた少年は俯き、僅かに遅れて頭を撫でた。
 結った髪を押し潰し、毛先を掻き回した。根本を縛る赤い紐をぴん、と弾いて、歩き出した男を慌てて追いかけた。
 小走りに距離を詰め、横には並ばず、半歩下がったところをついてくる。
 外套を翻して振り返った歌仙兼定は、目が合う瞬間サッと逸らした少年に首を傾げた。
「なにも持ってないよ」
「食べ物を強請るつもりは、ないです」
 思ったことを率直に口にすれば、拗ねられた。菓子があると期待したのではない、と向きになって反論した短刀の顔は、いつにも増して子供じみていた。
 彼の方が年上である事実を、うっかり忘れてしまいそうだ。
「そう? どうぞ」
 喉の奥で笑いを堪えて、打刀は辿り着いた自室の襖を開いた。
 先に入るよう促し、小夜左文字が躊躇なく敷居を跨ぐのを待って、自らも中に入った。出入り口を閉め、外套を外している間に、勝手知ったる少年は文机の下から座布団を引っ張り出した。
 一枚しかないそれを部屋の真ん中に移動させて、次に窓の障子を開けた。中庭に面する縁側に道を作って、光と空気を通した。
「寒いよ」
「平気です」
 外套を脱いだのを、早々に後悔した。羽織っておけばよかったと嘆息して、歌仙兼定は素足で畳の縁を跨いだ。
 用意された座布団に腰を下ろせば、待っていたとばかりに短刀が駆け戻ってきた。体当たりする勢いでぴょん、と飛び跳ねて、空中でくるりと半回転し、そのまま打刀の膝に潜り込んだ。
 慣れた動きで座られて、衝撃が骨に響く。
「そりゃ、お小夜は温かいけれど」
「博多藤四郎だったら、小判三枚ですね」
「高いな……」
 手加減なしの動く懐炉を膝に抱いて、歌仙兼定は天を仰いだ。
 赤眼鏡をかけた粟田口の少年は、武人というより、商人気質の持ち主だ。金に目がなく、日々なにかしら稼ぐ手段を考えている。
 その執念を、たまには違うところにぶつけてみてはどうか。と、そんなことを言えば、お前だって風流を探すより先にやることがある、説教が飛んできそうだ。
 なにかと手厳しい年嵩の短刀をぎゅっと抱きしめて、髪の分け目に顎を置いた。背中を丸めて寄り掛かって来た打刀の膝で、小夜左文字は脚を伸ばして座りを安定させた。
 胸元に回った腕はきつくもなく、緩くもない。無意識に力加減が出来るくらい馴染んだ体勢に、少年はくく、と喉を鳴らした。
「さっきの話だけど」
「はい?」
「君が山賊のところに行かなくて良かったと、心から思うよ」
 調子よく寛いで、機嫌が良さそうだ。
 だからというわけではないが、一度は終わった話を引っ張り出した打刀に、短刀は一瞬、四肢を強張らせた。
 健をピンと伸ばし、停止した。直後に弛緩して、首を右に傾がせ、預かっていた男の顎を落とした。
「ぐ」
 ガクン、と上半身を深く沈め、歌仙兼定が呻く。
 思わぬしっぺ返しを食らって、彼は渋々猫背を改めた。
「君を斬らずに済んだわけだし」
「だから僕は、今でも復讐を諦めきれないでいます」
「君から復讐を取ったら、なにが残るんだろうね」
「左文字の短刀、です」
「それは、お小夜。君かい?」
 短刀の胴に回していた腕も解き、座布団の後方に置いた。膝に重石を乗せたまま、ぐうっと仰け反って、距離を作り、右目だけを眇めた。
 これまで間髪入れずに返事があったのに、最後の一問だけは無言だった。
 随分と意地悪な問いかけをしたものだと、自分でも後悔した。丁々発止のやり取りの末に、つい口が滑ったようなものだった。
 しかし歴史修正主義者ではない彼は、己の発言を取り返せない。撤回したところで、完全になかったことには出来なかった。
 しばらくの間、沈黙が流れた。小夜左文字が開けた障子から初冬の冷たい風が紛れ込んで、末端から熱を奪っていった。
 指先が悴み、感覚が遠い。血の巡りが悪くなっているのを自覚して、歌仙兼定は嘆息の末、腹に力を込めた。後ろに傾いだ上半身を真っ直ぐにして、つっかえ棒にしていた腕を取り戻した。
 襟足をがりがり爪で掻いて、丸くなっている短刀の頭をぽんぽん、と撫でた。
「宗三兄様も、同じです」
「……うん?」
「主に依存している」
 それが引き金になったのだろう、小夜左文字がぽつりと言った。髪を梳く手を振り払って、下を向いて動かなくなった。
 巨大な団子虫と化した少年を見詰めて、歌仙兼定は眉を顰めた。四方に瞳を泳がせて、告げられた台詞を精査した。
「依存?」
 審神者は、この本丸の主だ。器物に宿る思念を増大させ、具現化する能力を秘めている。刀剣男士とは、それを現身に宿らせたものだ。
 招聘された付喪神の使命は、歴史修正主義者の目論見を挫くこと。時間遡行軍を討伐し、捻じ曲げられた歴史を修正し、正しい流れを維持することこそが、彼らの目的だった。
 審神者がいなければ、刀剣男士は顕現しない。
 あの者に依存しているのは、本丸のどの刀も同じだ。
 だから小夜左文字が言っているのは、そういう意味合いではない。もっと別の、行動原理としての部分だ。
「僕は復讐を果たせなかった。復讐したい相手もいない。でも、復讐を求めてしまう」
 研ぎ師の男は、その手で山賊を殺害した。仇を討った。目的はそこで遂げられている。だが小夜左文字には、この男の積年に渡る恨みや、願いが染み付いていた。
 決して取り除くことが出来ないこの衝動を、彼はずっと胸に抱えて歩んできた。どこかに仇はいないか、復讐すべき存在がないかと、血眼になって探し続けていた。
「だから僕は、主の敵に復讐すると決めた。主が歴史を守ると言うなら、歴史を歪めようとする奴らに、僕は復讐できる」
 彼は戦う大義名分を、主に委ねた。復讐相手が見つからないのであれば、新しく作れば良いと、その相手の選択を審神者に任せた。
 それが彼の言う、依存だ。
 では宗三左文字は、どうなのか。
「兄様は、ここでなきゃ戦わせてもらえないから」
 まるで心を読み取ったかのように、小夜左文字が言葉を紡いだ。俯いているのに飽きたのか、顔を上げ、身体を左右に揺らした。
 爪先を交互に上げては下ろし、常にどこかしら動かして、じっとしない。
「兄様は、憐れまれたくないんだと思う。刀として戦わせてもらえないで、ずっと部屋に飾られているのが、屈辱だったから。可哀想に思われたくないけど、そう思われても仕方がないってどこかで諦めてて。でも主は、兄様を戦場に連れていった」
 まとまりを欠いた台詞は、考えながら発言しているからだろう。手探りで次兄の心理を紐解こうとして、それが上手く言葉に出来ずにいた。
 なんとかしっくりくる単語を探して、短刀の手が空を掻いた。
 その小さな手を捕まえて、力任せに抱きしめた。
「かせん」
「いい。分かった」
 今川義元を討ちとった織田信長に奪われた刀は、磨り上げられた挙げ句、戦勝品の証しである金象嵌が入れられた。
 本来の形を失い、主を失った刀は、左文字兄弟の中では異質だ。雰囲気が似る残りふた振りとは大きく異なり、本当に兄弟かと疑いの目を向けられることさえあった。
 逃げることが出来ないまま炎に巻かれ、刀としての有用性を失った。再刃されはしたものの、見た目の美しさとは裏腹に、彼は戦えない刀と化した。
 周囲から憐れまれるのを拒みながら、彼自身が己を憐れんでいる。
 自らを籠の鳥と嘲っていた彼を、審神者は容赦なく戦場へ叩き出した。
 だから彼は、修行を終えて帰ってくるのだと、小夜左文字が言う。
 他に行き場がない。他に武器としての彼を求めてくれる存在がない。
 飾られて、愛でられるだけの存在から脱却したければ、彼はここに戻るしかない。
 主を守りたいから、という思考からはかけ離れた理由だ。自己の存在理由を他者に求め、自己を守るために他者を利用しているのだから、あまり褒められたものではない。
 審神者に心酔している刀が聞けば、怒ることもあるだろう。
 滅多に口にすべきではないと釘を刺して、歌仙兼定は短刀を黙らせた。
 右手で小さな口を覆い、塞いだ。鼻の孔は残しておいたので、窒息とはならなかった。
 多少の息苦しさを堪え、小夜左文字がふっと遠くを見た。
「歌仙は」
 太い指の隙間から息を吐き、退かせた。微熱を含んだ指先を捕まえて、少年は肩越しに振り返った。
「帰ってきますか」
 戸惑い気味に揺れる眼が、打刀を大きく映し出す。
 問われた意味がよく分からなくて、歌仙兼定は一瞬ぽかんとなった。
「うん?」
 どこから、という一番大事な部分が欠落した質問だった。勿論これまでの話の流れから、修行のふた文字が当てはまるのは楽に想像がついたが、この時何故か、両者を結びつけられなかった。
 小首を傾げ、疑問符を頭上に生やして数秒。
 小夜左文字の表情が険しくなるのを見守って、彼はようやく、嗚呼、と顎を上下させた。
「そりゃあ……」
 彼はまだ、修行に出る許しを得ていない。
 けれどすでに、もう一振りの兼定がかつての主と対面を果たしていた。共に時を過ごし、前の主の死に際を見送って、本丸に帰って来た。
 和泉守兼定は帰還時、晴れ晴れとした表情をしていた。憑き物が落ちたとでもいうのか、ずっと抱いていたわだかまりが消え失せた、という雰囲気だった。
 小夜左文字も、修行をひとつの区切りとした。かっての主のひとりと向き合って、号の由来を聞き、名前を受け入れる覚悟を決めた。
 復讐の逸話に、この名前はあまりにも風流が過ぎる。
 しかしこの名前なくして、小夜左文字は小夜左文字たり得ない。
「帰ってくるよ」
 瞳を宙に投げ、歌仙兼定はひと呼吸置いて答えた。
 仲間が次々旅立つ中で、最初に顕現した打刀は未だ留守役から脱せられない。後から来た刀たちに追い抜かれ、置き去りにされている気分は否めなかった。
 早く、と心が急いている。
 見透かされたようで、少し照れ臭かった。
 気恥ずかしげに微笑んだ彼に、けれど短刀の表情は険しかった。疑わしげな眼差しで、じろじろと探るように見つめて来た。
 ちくちく刺さる視線は、あまり快いものではない。
「お小夜?」
 疑念をぶつけられる理由が分からなくて困っていたら、小夜左文字が窄めた口から息を吐いた。
 ふー、と時間をかけて肺を空にした。続けて鼻から吸い込んで、凹んでいた頬を戻した。
「歌仙は、違いますから」
「ん?」
「歌仙は、僕だちとは違いますから」
 一気に告げて、訊き返されて、同じ言葉を繰り返す。
 ふいっと顔を背けた彼を追いかけて、打刀は前のめりになった。
 横から覗こうとすれば、小夜左文字はサッと避けた。反対側に首を向けて、目を合わせてくれなかった。
「……僕が、違う?」
「はい」
 それは意外なひと言だった。
 何が違うのか、具体的な例示はひとつもない。修業に際しての心構え云々かと想像したが、どうにもしっくり来なかった。
 短刀を覗き込むのを諦めて、自分自身を指差した。人差し指で鼻の頭を小突いて、突き立てたまま首を捻った。
 怪訝にしている男を、小夜左文字が盗み見る。
 完全には振り返らず、斜めを向いた状態で瞳だけを後ろにやって、彼は伸ばした膝を引き寄せた。
 踵で無防備な男の踝を踏んだ。骨が突き出ている部分をゴリッと虐めて、察しが悪いのを責めた。
「痛いよ」
「歌仙は、主は必要ないでしょう」
「んんん?」
 嫌がった男が、片膝を伸ばした。爪先を遠くへ退避させて、聞こえたひと言には眉を顰めた。
 意味が分からない、という顔をすれば、小夜左文字はふっ、と窄めた口から息を吐いた。嘲笑と言うべきか否かで迷う表情を浮かべて、痛めつける先がなくなった足を畳に擦りつけた。
 あのまま足を放置しておかなくて良かったと思い、その傍らで短刀の表情の真意に疑念を抱く。
 ふたつのことを同時に処理しようとして、歌仙兼定の眉間に益々皺が寄った。
 険しい顔つきで見下ろされ、小夜左文字は持ち上げていた口角を下ろした。引き結ぶでもなく、力を込めずに捨て置いて、一瞬の間を置いて打刀に寄り掛かった。
 ずるりと下がった体躯をそのままにして、両足を遠くに投げ出した。
「歌仙は、審神者に縋らず、自分で立っていられるから」
「それは、……ええと……」
 左右に踊る爪先を見たまま、少年が囁く。
 小刻みに揺れる小さな足指を眺めて、歌仙兼定は言葉を切った。
 言いかけたが、上手く整理出来なかった。掴もうとしたら、するっと指の隙間から逃げられた感覚だった。
 実際は動かしてもない自身の手に視線を移し、考える。
 刀剣男士が顕現し、現身に宿った状態で居続けるには審神者が必要だ。それは拭いようがない事実であり、それ故に刀剣男士は審神者から逃れられない。
 けれど小夜左文字が言いたいのは、そういった部分ではない。
「歌仙には、僕たちが気付きもしないものが見えてる。季節の変化なんか、戦うだけの武器には必要ないことなのに」
 風流を好み、雅を追及する刀は、どんな状況であっても敵以外のものに目を向けた。遠征先では本丸で見るのが叶わない景色を楽しみ、時間遡行軍に攻め込む瞬間でさえ、火花散る戦場の光景に目を輝かせた。
 小夜左文字は、敵しか見ない。他の刀剣男士の多くもそうだろう。
 彼は、ものの見方が違う。
 審神者の機嫌を窺い、これに尽くそうという意識が薄い。代わりに己の欲求に正直で、自身に理解を示さないものに対しては、審神者が相手でも容赦なかった。
 彼は審神者越しにものを見ない。
 誰もが優先順位の最上にあの人間を置く中で、歌仙兼定だけは自分の欲望に忠実だった。
「褒められている気がしないのは、どうしてだろう」
 淡々と紡がれる言葉に、男は目を泳がせた。当て所なく彷徨わせ、膝に抱く短刀の身体を引き上げた。
 斜めになっていたのを戻してやり、腹に腕を回し直した。自分から寄り掛かりに行って、猫背になり、藍色の髪に顎を埋めた。
「褒めてないからです」
「酷いなあ、お小夜は」
「歌仙は、修行に出たらきっと、帰って来ません」
「どうしてそう思うんだい」
 抑揚なく告げられた真実に、傷ついている暇もなかった。
 素早く話を本筋に戻した短刀は、僅かに身動ぎ、潰されるのを拒んで首に角度をつけた。
 渋々背筋を伸ばし、歌仙兼定は問うた。短刀を抱えたまま離さず、結い上げられた髪の根本だけを見詰め続けた。
 小夜左文字は振り向かなかった。まっすぐ前を、遠くを見据えて、厳かに口を開いた。
「歌仙には、この本丸は、狭すぎます」
 ここは言うなれば、審神者が作った箱庭だ。審神者が望むように形作られた、居心地のいい檻だった。
 戦う刀剣男士の為に用意された、安らぎの空間と言えば聞こえはいいが、そこに刀たちの意見は反映されない。全ては審神者の気まぐれで決まり、審神者の裁量が無ければ覆せなかった。
 だが刀剣男士の大半は、この環境におおむね満足していた。そもそも彼らは、人から創り出された身。自らなにかを産み出すという創造性に欠けた、木偶人形だった。
 その中で歌仙兼定は、常に筆を持ち歩き、心に留め置くべきものを書き記す習慣があった。
 和歌を詠み、後代に遺そうと足掻いていた。
 小夜左文字には真似できない芸当だ。
 彼にしか出来ないことだった。
「だからきっと、外に出たら――」
 それまで訥々と語り続けていた少年が、ここで言葉を詰まらせた。
 唇を戦慄かせ、音になるくらい大きく息を吸い、吐き出した。
 華奢な体躯がか細く震えていた。抱きしめているので、よく分かる。藤色の髪の男はスッと目を細め、耳の後ろ辺りに頬を擦りつけた。
 潰すのではなく、寄り添って、押し付けた。微熱を分け合い、吐息を浴びせ、立ち上る微かな体臭を吸いこんだ。
 急速に膨れ上がる感情を、どうやって押し留めれば良いのだろう。
 為す術が見当たらないと心の中で絶叫して、彼は狂おしいほどに愛しい少年を抱きしめた。
「帰ってくるさ」
 頬を寄せたのとは反対側の頭に手を添え、藍色の髪を梳きながら囁く。
 目を閉じて視界を闇に塗り替えても、小夜左文字の気配は色濃く感じられた。
「帰って来ません」
 頑なに主張する短刀をどう宥めようか悩み、果たして本当のところはどうなのかと想像する。
「お小夜には、僕がそう見えるのか」
 彼の瞳には『歌仙兼定』がそんな風に映っていたと、知れたのは幸運だった。
 小夜左文字はあまり本音を口にしない。復讐に餓えた獣と化しているけれど、それは複数ある彼の表情の、そのうちのひとつに過ぎなかった。
 芸術に傾倒し、茶や和歌に親しむ側面も持ち合わせている。山に対する知識を有し、そこに棲む動植物の扱いにも慣れていた。
 どれもこれも、小夜左文字の一部だ。
 そんな短刀の中に、歌仙兼定という像が存在していた。
 その事実を喜んで、打刀はぐい、と頭で押し返して来た少年に顔を綻ばせた。
「歌仙は勝手で、我が儘ですから」
 拗ねたような口調が続いて、噴き出しそうになった。喉を突き、外に飛び出しかけた息を寸前で閉じ込めて、彼は詫びる気持ちで短刀を撫でた。
「そんなに?」
「そんなに」
 戯れ口調で問えば、真剣に返された。
 それほど業突く張りで、身勝手なつもりはなかったのだが、小夜左文字にはそう思われていた。今後は極力気を付けることにして、打刀は瞳だけを上空に投げた。
 微風が頬から首筋を擽った。
 カア、と烏が鳴くのが聞こえた。郷愁を催す声に一瞬だけ思いを馳せて、男は短刀に巻き付けた腕を解いた。
「歌仙」
「お小夜の言っていることは、一理あるね」
 急に束縛がなくなって、不安でも覚えたのか。遠ざかる体温を追って、小夜左文字が腰を捻った。
 振り向いた少年に目配せして、顔の中心に陣取る鼻の頭をちょん、と小突く。すると短刀はムッとして、素早く腰を浮かせたかと思えば、身体を反転させた。
 背中を預けていた座椅子の上で、背凭れに向かって座り直した。歌仙兼定の左足を跨ぎ、膝から脛全部を使って左右から挟んだ。
 短刀の左膝が、股のすぐ先に迫った。
 上から圧迫するのも、横から突くのも楽に狙える位置取りに、打刀はひやりとしたものを背中に覚えた。
「でも、帰ってくるよ」
 真下から射るように睨まれて、あまり生きた心地がしない。
 思わず両手を肩の高さまで掲げて、歌仙兼定はきっぱり断言した。
 脅されたから、その場凌ぎを口にしたつもりはない。そういう安易で、半端な覚悟で告げられるものではなかった。
「そもそも、お小夜は勘違いしている。僕は確かに、美しい景色に心惹かれるし、もっと色々な世界を見たいとも思っている。けど」
 腕を下ろし、短刀の手を取った。掌を重ね、指先を軽く揉んで、小さいけれどちゃんと爪があり、関節があり、細かな皺や傷に覆われた肌を確かめた。
 触れれば温かかった。
 魂の無い木偶人形だとは、どうしても思えなかった。
「けど?」
「歌を詠んで、それを聴いてくれるひとがなければ、これほどつまらないものはないと知っている」
 深爪を弄られるのを嫌い、小夜左文字が拳を作った。深追いするのは止めて、歌仙兼定はぽこっと出張った指の根本を擽った。
 優しく包み込み、熱を閉じ込めた。
 左右集めてひとつにして、短刀の丹田に移動させた。
「かせん」
「僕の歌は、日記じゃないからね」
 誰の目にも触れないようでは、歌集を編む意味がない。
 歌い手がいて、読み手がいて、両者の間で感情が交錯しなければ、なんの価値も生まれてこない。
 旅先には、歌仙兼定が求める相手が居るだろう。己を見極め、強くなるために、乗り越えなければならない存在と出会うだろう。
 道中では四季折々の景色が拝めるはずだ。屋敷に引き籠もっていては一生目にする機会を得ない、記憶に焼き付くような光景を、いくつも目の当たりにすると期待している。
 それらを語らうのは、旅の果てに待っている人物だけではない。
「聴いてくれるかい?」
 今度は短刀の手を、高く引き上げた。祈るように頭を垂れて、歌仙兼定はそこに額の中心を据えた。
 目を瞑り、囁きは微かだった。
 聞き取れるか否か、ぎりぎりの境界線上だった声色を拾って、小夜左文字は息を吸うと同時に肩を跳ね上げた。
 少年が目を見張るところを、打刀は見そびれた。
 しかし雰囲気が伝わって来て、口元は自然と綻んだ。
「僕で、……いいのなら」
 やがて恐る恐る短刀が呟いた。
 息を殺し、様子を窺っているのを感じながら、ゆっくりと顔を上げる。
「勿論だ」
 歌仙兼定は一度だけ頷いた。
 まっすぐ目を合わせながら告げた彼に、小夜左文字は頬を緩め、首を竦めた。

月にいかで昔のことを語らせて 影に添ひつゝ立も離れじ
山家集 雑 1505

2017/11/23 脱稿

涙もよほす 小牡鹿の声

 写経に集中していた意識が、ふっと途切れた一瞬だった。
「やったー!」
「うわー、美味しそ~」
 それほど遠くない場所から、甲高い声が上がった。大喜びして飛び跳ねているのか、ドスン、バタン、と激しい足音のおまけ付きだった。
 すっかり聞き慣れた声なので、誰が騒いでいるかは見ずとも分かる。包丁藤四郎、それに信濃藤四郎の顔を思い浮かべて、江雪左文字は握っていた小筆を置いた。
 居住まいを正し、文机の下に隠してあった小箱を取り出した。両手を揃えて蓋を持ち上げ、中に収めていた小さな包みを、多めに膝へ移し替えた。
 転がり落ちて行かないよう片手で押さえて、蓋を閉め、元の場所へと押し込む。
「お邪魔しま~す」
 そうしている間に足音が迫って、襖がそろりと開かれた。
 幅一寸にも満たない隙間から室内を覗かれた。
 距離があるものの目が合った気がして、江雪左文字は座布団の上で身体の向きを変えた。
 座ったまま、腕の力だけで下半身を浮かせ、九十度回転する。
 役目を終えた拳を解くと同時においで、おいでと手招いてやれば、恐る恐る様子を窺っていた短刀が、襖を左右に押し開いた。
「トリック・オア・トリート!」
「お菓子くれなきゃ、悪戯しちゃうぞ~」
 バン、と入り口を大きく開き、待ってましたと声を張り上げた。
 早口で捲し立てられた太刀はその勢いに一瞬驚き、すぐに我に返って頬を緩めた。
「おふたりで、よろしいですか?」
 入って来たのは、予想していたふた振りで間違いなかった。
 ただパッと見ただけでは、本当に彼らかどうか疑わしい。それもそのはずで、短刀たちはいつもの洋服ではなく、今日の為に用意した衣装を身に纏っていた。
 包丁藤四郎は三角形の帽子を被り、蝙蝠を模した黒い翼を背負っていた。信濃藤四郎は色違いの帽子を被って、表が黒、裏が赤い外套を羽織っていた。
 白粉を塗りたくった肌に赤や黒、緑で模様が描かれて、特に口元の装飾が奇抜だ。
 次郎太刀が朝から張りきっていたのが、記憶に新しい。
 化粧ひとつでこうも違うと感心して、江雪左文字は膝に置いた菓子の包みを数えた。
 ふた振りとも籐編みの籠を持ち、半分近くが色鮮やかなもので埋まっていた。すすす、と摺り足で近付いて、期待の眼差しで太刀を見た。
「どうぞ」
 その包みをひとつずつ持ち上げて、籠の中に置いてやる。
「これ、なあに?」
「私は、あまり……あなたがたの、好きなものに、詳しくは……ありませんので……」
 白地に花模様を散らした懐紙が、雫型に捻られていた。中身が零れないようにと、端を捩って留められていた。
 振ればカサカサ音がして、数個入っているのが分かる。
 短刀の掌にすっぽり収まってしまうその正体に、江雪左文字は肩を竦めた。
「落雁、は……お嫌いでしょうか……」
 今日は本丸で年に数回行われる祭りの日。それも西洋の影響を過分に受けた、特別な祭りという話だった。
 ただ生憎と、江雪左文字はその辺りに詳しくない。由来を聞かされても、さっぱり理解出来なかった。
 分かるのは、思い思いに仮装した短刀や、脇差に、一部の大太刀が仲間の元を訪れ、大声で合い言葉を口にする、ということ。
 その合い言葉を告げられた刀は、菓子を与えるか、悪戯を受けるかを選ばなければならない。
 悪戯の中身は、各刀の自由だ。相手が相手だけに、そこまで酷い事にならない場合が多い。
 もっともそれで高を括っていたとある太刀が、一昨年に散々な目に遭っている。彼の失敗は教訓となり、翌年からは菓子を用意する刀が圧倒的多数となっていた。
 江雪左文字も誘われて万屋へ出向き、あれこれ吟味して来た。
 とはいえ、洒落たものは手が出しにくい。短刀たちに配るものだというのに、つい自分好みのものを選んでしまった。
 今になって反省の弁を述べた彼に、信濃藤四郎は小さく噴き出した。あからさまに不満げな顔をした弟の足をさりげなく踏んで黙らせて、お手本のような笑顔を維持した。
「ううん、好きだよ。ありがとう、江雪さん。大事に食べるね」
「いった~。なにするんだよう」
「ほら、包丁。次行くよ、次。じゃあ江雪さん、またね」
 足指の付け根を思い切り圧迫されて、包丁藤四郎が怒るが意に介さない。
 ぷんすか煙を噴く短刀の肩を押して、彼はひらりと手を振り、一礼して部屋を出ていった。
 外から襖が閉じられて、程なくして、隣の部屋から例の合い言葉が聞こえてきた。
 彼らはああやって、各部屋を回っていた。全ての刀を捕まえて、菓子を強請っているとしたら、最終的にはとんでもない量になるのではなかろうか。
 それだけの数を、ぺろりと食べてしまえる。
 身体は小さいが胃袋は大きいと苦笑して、江雪左文字は自身の腹を袈裟の上から撫でた。
 とてもではないが、自分はあんなに食べられない。
 食が細いのを自覚している太刀は、次に来る刀のためにと、文机の端に落雁入りの包みを置いた。
 筆先に墨を吸わせ、写経を再開させる。
 だが二文字目を終えたところで、再び外から声がかかった。
「江雪さーん、いる~?」
 甘ったるい猫なで声は、乱藤四郎のものだ。文字通り猫の耳を生やし、尻尾を揺らした少年は、包丁藤四郎らと揃いの籠をいそいそ差し出して、嬉しそうにぴょん、と飛び跳ねた。
 後藤藤四郎に平野藤四郎、前田藤四郎も立て続けに姿を現した。
 五虎退は虎の格好を、秋田藤四郎は可愛らしい恐竜の格好をしていた。
 愛染国俊と蛍丸は荷物持ちとして明石国行を伴い、太鼓鐘貞宗は気乗りしない様子の不動行光を引っ張っていた。
 謙信景光が意気揚々とやってきて、厚藤四郎は渡された菓子をその場で食べた。薬研藤四郎の分も、と受け取って去った後で、その薬研藤四郎がやって来たのには苦笑せざるを得なかった。
 用意した落雁は、あっという間に底をついた。
「……来ませんね」
 空になった小箱を覗きこみ、閉じられている襖を見る。
 耳を澄ませても足音は響かず、聞こえてきたのは塒へ急ぐ烏の声だった。
 カア、カア、とどこか哀愁を漂わせる声色に、時間の経過を悟った。障子越しに差し込む光は斜めに長く伸びて、僅かに紅色を帯びていた。
 この時期は、陽が沈むのが早い。
 ぼんやりしていたらあっという間に、空は闇に飲みこまれた。
 もうじき夕餉の時間なので、短刀たちの狂乱も終わりだ。
 ところがまだひと振り、残っている。風変わりな衣装で身を包み、年に一度の祝祭を楽しんでいるはずの弟が、江雪左文字を訪ねて来ていなかった。
「どうしたのでしょう」
 今日は特別だからと、短刀たちは出陣も、遠征も任されていない。畑仕事や馬当番も免除されていた。
 朝餉の席にはちゃんと居たし、昼餉も食べていた。
 だというのに夕暮れが西の空を茜色に染めても、小夜左文字は菓子を取りに来なかった。
 彼の為に、特別なものを用意した。贔屓だと言われるのを覚悟で、落雁ではないものを準備していたのに。
「お小夜」
 もともと小夜左文字は、騒がしいのを好まない。自分は復讐の刀だと言って、晴れの舞台には相応しくないと主張していた。
 だから正月も、他の刀のようにはしゃがない。ただ去年は粟田口の短刀らに連れられて、狼の仮装をして菓子を取りに来た。
 今年もそうなると期待していたが、誰も彼の手を引いて現れなかった。
 さすがにおかしいと眉を顰め、口をへの字に曲げる。
 中断したまま再開の機を得ない小筆は、すっかり乾いていた。
「どうしましょうか」
 今から写経に取り掛かっても、どうせ集中出来ない。
 ため息をひとつ吐いて、彼は重い袈裟を揺らし、膝を起こした。
 立ち上がろうと中腰になったところで、襖越しに気配を感じた。ハッとして身構えた彼の前方で、入り口はゆっくり開かれた。
 隙間を作ったのは、短刀の可愛らしい手ではなかった。
「江雪兄様、宜しいですか?」
 肉が薄く、骨張っている指を操るのは、もう一振りの弟だった。薄紅色の髪を持ち、左右で瞳の色が異なっている。胸元には決して消せぬ刻印が刻まれているが、今は着物に隠されて見えなかった。
 敷居の手前で室内を覗きこみ、左右を確認してから正面に向き直る。
 なにかを探す素振りに、江雪左文字は騒然となった。
「宗三」
「お小夜、来ましたか?」
 もしや、と思って問いかけるより先に、宗三左文字が本題を切り出した。
 声を潜め、辺りを窺いながらの質問に、戦嫌いの太刀は身体をよろめかせた。
 立ち上がるのを諦め、座布団に尻を沈めた。正座出来ず、足を崩した状態で文机に寄り掛かって、手本とすべく積み上げていた経文の山を崩した。
「兄様」
「そちらにも、ですか」
 この祭りは、なにも菓子を集めて回る短刀たちばかりが楽しむものではない。日頃あまり接触がない相手と会話する、貴重な機会だった。
 江雪左文字は気難しい性格をしていると思われており、小柄な短刀たちからはあまり懐かれていなかった。遠慮のない刀ならばまだしも、見た目同様中身も幼い謙信景光とは、実は今日初めてまともに喋った。
 弟である小夜左文字とも、さほど会話が弾まない。
 お互い口下手で、口数が多い方でないのが災いして、どう頑張っても盛り上がりに欠けた。
 きっかけがあれば、変わるかもしれない。
 そう期待して、特別なものを用意した。ところが待てど暮らせど、肝心の短刀がやってこなかった。
 宗三左文字も部屋で楽しみにしていた。いつ来るだろう、と正座して構えていたのに、気配さえ掴めなかった。
 薬研藤四郎を捕まえて訊ねたら、今年は一緒に仮装していない、という話だ。自分で用意すると言っていたのでそれを信じて、粟田口は一切関与していなかった。
 けれど現実には、小夜左文字の仮装姿を、誰ひと振りとして目撃していない。
 彼は最初から、やるつもりがなかったのかもしれない。去年も、一昨年も、巻き込まれて参加しただけであり、表情はあまり楽しそうではなかった。
 乗り気ではないのに、無理矢理列に加えられるのは、不本意なのだろう。
 三度目ともなれば、周囲に流されずに振る舞う術も思いつく。江雪左文字たちは、まんまと末弟に騙された、ということだ。
「そんな。僕は三月も前から、ずっとこの日を楽しみにしていたんですよ?」
 仮装の内容は当日まで内緒、との一点張りで、宗三左文字たちはなにも知らされていなかった。
 それで余計に楽しみを膨らませていたのに、裏切られた。心に深く傷を負った打刀はその場でよろめき、大袈裟な身振りの果てに膝を折った。
 四つん這いになって涙を呑む弟を憐れんで、江雪左文字は深く溜め息を吐いた。
「お小夜の気持ちも、汲んであげましょう」
「ですが、兄様。本当にそれでよろしいんですか?」
 喧騒を嫌い、孤独を好む短刀に、無理強いは出来ない。
 やりたくないものを押し付けるのはいかがなものかと訴えれば、宗三左文字は色違いの瞳をキッと眇めた。
 悔しさに唇を噛んで、気色ばんだ肌は薄い紅色だった。小鼻を大きく膨らませ、握り拳で畳の縁を殴った。
 江雪左文字だって、今日を楽しみにしていた。自分が用意した菓子で喜んでもらえるのが嬉しくて、戦とは無縁の、平和なひと時に満足していた。
 その中に小夜左文字が混じっていれば、これほど幸福なことはない。
「……それは」
 相手の気持ちを考えれば、この仕打ちも止むを得なかった。だが本音を言えば、残念でならない。
 図星を指摘されて、太刀は押し黙った。
 言葉に窮し、目を泳がせる。
「失礼するよ」
 そこに、軽やかな男の声が紛れ込んだ。宗三左文字が開けた襖に手を添えて、顔を覗かせたのは歌仙兼定だった。
 鮮やかな外套を翻し、紫紺色の袖を揺らして江雪左文字の部屋を見回す。
 誰かを探している素振りに、姿勢を正した太刀は嗚呼、と頷いた。
 もうこれだけで、探し刀が誰なのか分かってしまうのが嫌だった。
「お小夜でしたら、こちらには」
「やっぱり、そうかい?」
 言わずに済ませられるならそうしたいが、教えてやらなければ打刀はここを去らないだろう。
 覚悟を決めて口を開けば、歌仙兼定は意外にもあっさり納得した。
 それどころか、前々から知っていた口ぶりだった。左文字のふた振りとは違い、こうなることを予想していた雰囲気だった。
 意外な反応に、蹲っていた宗三左文字が身体を起こした。唖然とした表情で打刀仲間を見上げて、何かを言わんとして口をパクパクさせた。
 餌を欲しがる鯉になった彼に苦笑して、歌仙兼定は困った風に頬を掻いた。
「仮装をすると言っていたのに、道具を買いに行く様子もなかったからね。お小夜は、こういうのが好きではないから」
 直接短刀に言われたわけではないが、直近の様子を観察していれば、想像は可能だ。
 兄刀以上に弟のことを見ていた男は、諦めがついたのか、深く息を吐いた。
「もしお小夜を見かけることがあったら、台所に焼き菓子を用意してあるから、取りに来るよう、伝えてはもらえないだろうか」
 無理に探し出そうとはせず、歌仙兼定は伝言を残し、踵を返した。
「承知しました」
 後ろ姿に頷いて、江雪左文字は袈裟の裏で両手を握りしめた。
 弟のことを常に気にかけているようで、さほどちゃんと見ていなかった。同じ屋敷で暮らしていることに安心して、どこに行き、誰と会い、どうやって過ごしていたか、あまり把握していなかった。
 兄刀だということに胡座を掻いて、それらしいことをなにひとつして来なかった。
「なんなんですか、あの男は。お小夜が可愛くないんですか?」
 一方で宗三左文字はプンスカ煙を噴き、歌仙兼定に対して怒りをぶちまけた。
 今日は短刀が年に一度、可愛らしい格好になるのを許された日だ。ところがあの男は、小夜左文字が仮装をしない可能性に気付いておきながら、手も口も出さなかった。
 むざむざ見過ごしたのかと、腹を立てている。
 些か自分本位が過ぎる発言に肩を落とし、江雪左文字は力なく首を振った。
「あの子が、それを……選んだのです」
「じゃあ、僕たちの気持ちは、どうなるんです?」
「お小夜が、心から笑ってくれないものを……無理に押し通すのは、どうなのでしょう?」
 気持ちはわかるが、ここは堪えるべきだろう。あまりしつこく食い下がれば、その分、小夜左文字が苦しむことになる。
 復讐を追い求め、仇を探し続ける短刀とはいえ、冷血漢ではない。相手を思いやり、慈しむ心を持ち合わせた守り刀は、宗三左文字たちが今日を心待ちにしていたのを当然知っている。
 その上で、この道を選んだのだ。
 微塵も迷わず、葛藤しなかったわけがない。
「それは、……分かりますが」
 自分の楽しみの為に、誰かを犠牲にするのは間違っている。
 滔々と説かれた宗三左文字は自身の髪を弄り、兄刀から目を逸らした。
 未だ納得がいかない様子だが、激しい憤りは失われていた。小夜左文字の立場に立って考えて、己の感情に折り合いを付けようとしているのが窺えた。
 毛先を指に巻きつけては解き、巻きつけては解き、を繰り返す弟に目を細めて、江雪左文字は今度こそ立ち上がった。
 袈裟の皺を撫でて伸ばし、机上の隅に置いていた巾着袋を懐に収めた。
 転がり落ちないように位置を安定させて、彼はゆっくり、摺り足で歩き始めた。
「兄様、どちらへ」
「歌仙殿の伝言を、届けなければなりませんから」
 脇をすり抜けて行った太刀を目で追い、宗三左文字が首を捻った。
 江雪左文字は敷居を跨いだところで振り返り、大きく開け放たれていた襖を半分、閉めた。
 残りは弟に任せて、静まり返った廊下を行く。五歩目を刻んだところで背後から、
「僕も、行きます」
 我に返った打刀の大声が響いた。
 立ち止まり、腰を捻って、僧形の太刀は静かに首を振った。
「宗三、あなたは部屋で。あの子が、もしかしたら、来るかも……しれません」
 日暮れが迫り、夕餉まで間がない。どこかに身を隠していた短刀が、良心の呵責に苛まれた挙げ句、姿を現すかもしれなかった。
 その時、兄ふた振りとも部屋を留守にしていたら、寂しいではないか。
 淡い笑みを浮かべた江雪左文字の言葉に、宗三左文字はハッと息を呑んだ。喉まで出かかった反論を堰き止めて、唇を戦慄かせ、身体全部を使って頷いた。
「……分かりました」
 肩を怒らせ、拳を震わせた。随分と仰々しく首肯して、乱暴に襖を閉めた。
 大股でずんずん進んで、あっという間に兄を追い抜いた。荒々しい足取りで角を曲がり、自身が寝起きする部屋を目指した。
 嫌な役を押し付けてしまった。宗三左文字はなにより待たされる――部屋でひとり、来るはずがない時を待ち続けるのが、嫌いだった。
 刀でありながら、その身に刻まれた刻印のために、戦場に出るのを許されなかった。珍しがられ、世の支配者に愛されても、渇きが癒えることはなかった。
 彼の魂は、今川義元が討たれた桶狭間に縛られたまま。
 元の主の下で華々しく戦う日々を夢見ながら、永遠に叶わないという現実に苦悩している。
 表には出さないけれど、激しい怒りを胸に秘める弟刀に心を寄せて、江雪左文字は懐をそっと撫でた。
「私に、出来ることがあれば、良いのですが」
 不運な境遇に甘んじて、己の望むものとはかけ離れた現実に苦しめられてきた弟たちを、どうにかして救いたい。
 だがそう思うことそのものが、傲慢で身勝手なことなのでは、と懸念して、身動きが取れなかった。
 それでも、一歩を踏み出すのを躊躇していては、状況は変わらない。
 僅かでも希望がある限り、諦めない。無益な争いを避ける術を模索し、身を粉にして働いたかつての主の教えを守って、江雪左文字は己を奮い立たせた。
 彼が最初に向かったのは、屋敷の南に広がる庭だった。
 紅葉が始まり、そこかしこで赤く色づいていた。まだ全体が染まり切らず、斑模様になっているけれど、これはこれで美しかった。
 茶室を兼ねる庵を訪ね、池に架けられた橋を渡った。飛び石が配置された散歩道を辿って、晩秋の空気で胸を満たした。
 ただ見える範囲に、弟刀の姿はなかった。
 隠蔽能力に優れる短刀を、あっさり見つけられるとは思っていない。雪駄の裏で小石を踏んで、視線を巡らせ、次に向かう先を選んだ。
 畑にも、道場にも、目当ての刀はいなかった。
 地面に落ちる影は色を薄め、赤焼けた空はじわじわ藍色に侵食されていく。烏の鳴き声に誘われて天を仰ぎ、江雪左文字は唇を引き結んだ。
「お小夜」
 大声で名前を呼べば、返事があるかもしれない。
 だが彼はあまり声を張ったことがなかった。
 毎日読経しているものの、声量は大きくならなかった。どうすれば出せるようになるか、山伏国広に訊ねたことがあるけれど、教わった特訓は効果がなかった。
 忌まわしい喉を撫で、自分なりに頑張って、弟刀を呼ぶ。
「お小夜、どこですか。お小夜」
 両手を口元に添え、地面を踏みしめた彼の声に触発されたのか。ざざ、と地面を舐めるように風が吹いた。
 巻き上げられた砂埃が、太刀の長い髪を押し上げた。咄嗟に両手で顔を庇って、無力な自分を隠した。
 同時に、ズザザ、となにかが擦れあう音がした。
 沈む夕日を浴びて、庭木の輪郭が影絵のように浮き上がっていた。
 黒一色のそれには、大きな瘤があった。しかももぞもぞ動いて、地面に落ちる影も大きく形を変えていった。
 太い枝にしがみつくものがある。
 腕を下ろした江雪左文字は、その形状に息を呑み、大慌てで庭木へと駆け寄った。
 とはいっても、彼はさほど足が速くない。精一杯急いだつもりでも、足に絡む衣が邪魔で、転ばないよう進むのがやっとだった。
 そうこうしている間に、枝にぶら下がっていた影が、ひょい、と地面に降り立った。両手をパンパン、と数回叩いて、捩れ、捲れあがっていた着物を順次整えていった。
 複雑に入り組んだ模様が、夕焼けの中で黒ずんで見えた。
 斜めに寄っていた皺を伸ばして、短刀は早歩きで近付いてくる男に目を眇めた。
「お小夜」
「江雪兄様」
 陽が沈むこの時間帯は、逢魔が時との別名がある。
 光と闇が入り組み、現と幻の境界線があやふやになった。魑魅魍魎が跋扈して、良く知る相手でさえ顔を見失うことがあった。
 だが江雪左文字は間違えなかった。
 小夜左文字も、正しく兄刀の名を紡いだ。
 息を弾ませて、太刀は斑に染まった広葉樹を仰いだ。真下からなら枝の配置がよく分かるが、遠くからでは茂る葉に阻まれ、内側は望めなかった。
 小夜左文字はずっと、ここに居たらしい。
 西洋由来の祭りがひと段落するのを待ち、ほとぼりが冷めるのを待っていた。
 そのうちに、暇を持て余して眠ってしまったのだろう。枝からずり落ちた経緯は分からないが、一直線に転落しなかったのは幸運だった。
 どこも怪我がないのに安堵して、江雪左文字は胸を撫で下ろした。乱れていた息を整えて、首筋を伝った汗を拭った。
「探しました」
「……」
 畑と屋敷を繋ぐ細い小路を抜けて、厩舎に向かう道中だった。台所からは見えず、玄関からも分かり辛い。
 近くはないが、遠くもない場所だった。祭りだと騒ぐ仲間の動向を窺いながら、時間を過ごすのに最適とも言える位置だった。
 見つけられたのは偶然だが、御仏の思し召しのような気がした。
 仏の慈悲に感謝して、太刀は黙り込んだ短刀に手を伸ばした。
 頭に触れようとしたら、ビクッと肩を跳ね上げられた。叱られると思っているのか、怯えていた。
 拳で殴られるのを覚悟して、身を竦ませ、構えている。それがあまりにも憐れに思えて、江雪左文字は指の行き先を変更した。
 敢えて掌を見せて、指を揃えた。弟刀の視界を横切るように動かし、緩く曲げた関節部で柔らかな頬を撫でた。
 スッと触れて、下へ滑らせた。顎の輪郭はなぞらず、表面を削るようにして数回、同じ仕草を繰り返した。
「ごめん、なさい」
 無言で撫で続ける兄に驚き、小夜左文字が唇を震わせた。蚊の鳴くようなか細い声で謝罪して、自分から筋張った指に頬を押し付けた。
「なにを、謝るんですか?」
 短刀の体温が、指先を伝って四方に広がった。あまり熱が高くないのは、ずっと外にいたからだろう。
 天気は良かったが、日蔭は肌寒い。木から滑り落ちたのも、寒さが原因のような気がした。
 手首を返し、掌側を頬に添えれば、小夜左文字がそこに指先を重ねた。両手を使って掴み、握り締めて、離れていかないように固定した。
「兄様たちを、がっかりさせました」
 その上でぽつり、ぽつりと呟いた。顔を伏して、一度も太刀を見ようとしなかった。
 矢張り彼は、端から仮装する気がなかったのだ。特に宗三左文字が楽しみにしているのを知りながら、これを裏切った。
 今更どんな顔をすればいいか、分からない。
 それでいながら逃げようとはせず、正直に謝った彼に、江雪左文字は口元を緩めた。
「構いません。お小夜がどうしても、というものを、無理強いするなど……私たちには、とても」
 弟の愛らしい仮装が見られなかったのは、確かに残念だ。
 けれど宗三左文字に言ったように、小夜左文字に笑顔が伴わないのであれば、それは避けるべきことだった。
 祭りの主役は、あくまで短刀たち。弟刀が望んでいないのに、自分たちがはしゃぎたいがために強引に参加させるのは、あまりにも無責任だ。
 ゆるゆる首を振り、左文字の長兄はしどけなく微笑んだ。
「ですが、やはり。……お小夜」
「すみませんでした」
 そう言いながら、撫でていた頬を、軽く抓る。
 当日まで本音を隠していたのは悪手だったと責められて、小夜左文字はしおらしく頭を下げた。
 ほんのり赤くなった箇所を労わって、江雪左文字は小さく頷いた。分かっているなら良い、とこれ以上はなにも言わず、代わりに預かっていた伝言を述べた。
「歌仙殿が、お小夜のために菓子を作ってくださったそうです」
 軽く膝を曲げて、短刀の背丈に合わせて屈んだ。
「知ってます」
「宗三も、あなたにと」
「それも、……分かってます」
 小夜左文字は苦虫を噛み潰したような顔をして、矢継ぎ早に返事した。
 俯いて、小さくなった。ただでさえ華奢な体躯を縮ませて、息を詰まらせ、鼻を啜った。
 ずび、と比較的大きく響いた音に、江雪左文字は眉を顰めた。仮装はしなくても、菓子を受け取るくらいは問題ないと考えていただけに、この反応は想定外だった。
「お小夜」
「僕は、復讐の刀です。それなのに、貰っても、僕は、……なにも、返せない」
 訝しみながら名を呼べば、短刀が堪えていたものを吐き出した。鼻を愚図らせ、喘いで、大きく頭を振った。
 短刀たちは思い思いに仮装して、打刀や太刀らの間を練り歩く。珍しい格好を対価にして、菓子を強請り、用意していない刀には悪戯を敢行した。
 小夜左文字はなにもしていない。
 対価を支払えない。
 いや、そもそも彼には、祭りに参加する資格すらなかった。
 歴々の所有者に愛され、慈しまれて来た短刀だちとは違う。小夜左文字は簒奪者だ。血に汚れ、黒い澱みを引き連れた、所有者に不幸を招く忌まわしき存在だった。
 そんな刀が天の恵みのおこぼれを預かろうなど、烏滸がましいにも程がある。
 両手で顔を覆い隠し、小夜左文字は唇を噛み締めた。情けない表情を見せまいと身を捩って、長兄に背を向けた。
 仲間が声を立てて笑い、喜び、はしゃぎ回るのを遠くから眺めていた。
 木に登ってぽつん、とひと振りで過ごしている自身と比較して、想像以上に衝撃を受けた。
 自分で選んだ結果なのに、疎外感を覚えた。哀しくて、切なくて、苦しくて、痛かった。
 後悔した。
 これで良かったとも思った。
 一番欲しいものは復讐相手であり、仇討ちを果たすことだ。だのに欲張って、結局なにも手に入らなかった。
「お小夜。なにも私たちは、見返りが欲しくて、貴方と過ごしているのでは、ありませんよ」
「……兄様」
「こちらを向いては、もらえませんか」
 小坊主姿ではない短刀を見てみたかった気持ちは、否定しない。
 けれどそれがなくとも、江雪左文字は弟に施しを与えていた。
 全ては自己満足のためだ。
 そうすることで短刀は腹が、太刀は心が満たされる。
 目には見え辛いが、釣り合いはちゃんと取れていた。だから気にしなくて良い。むしろ受け取ってもらえないと、折角用意した品々が駄目になってしまう。
 食べ物はいつの時代でも貴重だ。
 餓えに苦しむ辛さを知っている短刀が、ものを粗末にして良いのか。
「でも」
 真摯な訴えに、小夜左文字は口籠もった。目を泳がせて、言いかけた言葉を途中で切った。
 短刀が要らないからといって、棄てなければならない道理はない。本丸には六十を越える刀剣男士が暮らしている。希望者はいくらでも現れるはずだ。
 代わりに食べてくれる存在がある状況で、江雪左文字の言葉は説得力を持たない。
 一番肝心の『小夜左文字に受け取らせたい』という認識が抜け落ちている短刀に、太刀は眉を顰めた。
「お小夜」
「はい」
 優しく名を呼んで、彼は藍色の髪を梳いた。頬に掛かるもみあげを指で払い除けて、露わになった耳朶をふにふにと捏ねた。
 こんな風に触れてくるのは、珍しい。
 日頃の太刀らしからぬ行動に戸惑った少年は、それ以上にらしくない太刀の言葉に騒然となった。
「鳥喰い、媼と、李杜……でしたか?」
「え?」
 酷く覚束ない、たどたどしい発音だった。
 耳に馴染みのない単語を、無理矢理知っている言葉に変換した江雪左文字の囁きに、小夜左文字は目を点にして凍り付いた。
 全く意味をなさない言葉の羅列だったが、何を言わんとしていたかは、薄らぼんやり理解出来た。
 今日だけで何回、その台詞を聞いただろう。短刀たちの大合唱は、しっかり耳に貼りついていた。
「とりっく、おあ、とりーと……ですか?」
 それを太刀は間違って覚えていた。
 どうやればそんな合い言葉になるのかと苦笑して、小夜左文字は首を傾げて訊き返した。
「ええ。そうです。それですね」
 訂正されて、太刀は鷹揚に頷いた。嬉しそうにはにかんで、なにかを期待し、弟刀をじっと見た。
「……え」
 口よりも雄弁に語る眼差しに、短刀は一瞬置いて頬を引き攣らせた。ひく、と上下に震わせて、背中を駆け抜けた悪寒に総毛立った。
 嫌な予感がした。
 生真面目で冗談が通じない男が、洒落で口にする台詞ではなかった。
「えええっ」
 意図を推し量り、小夜左文字は大慌てで胸元を叩いた。腰や背中、腹の辺りも次々撫でて、なにかひとつくらい入っていないかと探し回った。
 だが今日に限って、飴玉ひとつ持ち合わせていなかった。
 出陣する時は、非常時に備えて一食分の兵糧は持ち歩くようにしていた。
 けれどここは本丸。安全地帯の中で非常食を携帯する方が稀だった。
 すっかり腑抜けになっている自分に気が付いて、復讐を追い求める短刀は大きく身震いした。顎をカチン、と噛み鳴らし、鼻から息を吸いこめば、引き攣った表情を見た太刀がしてやったりと口角を持ち上げた。
 江雪左文字がこんな顔で笑うところを、初めて見た。
 驚き、声も出ないでいる弟刀に目尻を下げて、懐に手を入れた。
 絹の巾着袋を取り出して、紐を緩めた。
 中から姿を現したのは、艶を帯びた橙色の塊だった。
 灰褐色の蔕を被っており、上から見れば丸いが、横からだと四角い。
 上下に挟んで圧力を加えたかのような、扁平に潰れた物体の正体は、柿だ。
 しかもつるりとした表面には、墨でなにかが描かれていた。
 小さな四角形や三角形を幾つも組み合わせて、目と、鼻と、口が表されている。
 見覚えがあった。粟田口の短刀たちが南瓜を使って作った灯篭が、ちょうどこんな顔をしていた。
「これって……」
「お小夜の好物に、悪戯をしてみました。どうですか?」
 恐る恐る手を伸ばせば、太刀がどうぞ、と置いてくれた。中はくり抜かれておらず、ずっしりと重かった。
 皮に描いてあるだけなので、剥いてしまえば食べられる。思いもよらぬ贈り物に目を見張って、短刀は柿越しに兄を凝視した。
 江雪左文字の頬は、ほんのり茜色に染まっていた。それが西日の影響ではないと信じて、小夜左文字は鼻をスン、と鳴らした。
「ひどい、いたずらです」
 自然と綻びそうになる頬を引き攣らせ、誤魔化すように呟く。
 巾着袋を握りしめて、銀髪の太刀は照れ臭そうに目を細めた。

さらぬだに秋はもののみかなしきを 涙もよほす小牡鹿の声
山家集 秋 432

2017/10/28 脱稿

都の人や 夢に見ゆらん

 ごろり、と寝返りを打った所為だろうか。
「う……」
 微かな振動が脳に伝わって、小夜左文字は小さく呻いた。閉じていた唇を数回開閉させて、一歩遅れて瞼を薄く開いた。
 眠りに入るのは大変だったのに、目覚める時はとてもあっさりしている。簡単に打ち破られた安寧に機嫌を損ね、仏頂面で眉を顰めた。
 なにもない空間を撫でて、ふう、と深く息を吐いた。いつの間にか頭の下から移動していた枕を回収し、首を安定させて、もう一度と祈りを込めて瞼を閉ざした。
 しかし睡魔はどこかへ立ち去った後で、全身に残るのは微妙な倦怠感だけ。
「ぬうう」
 これでは眠り損だと唸って、短刀の付喪神は横向きだった身体を仰向けに作り替えた。
 額に右手を置いて、眉の少し上を軽く擦った。前髪は重力に引っ張られて下向いており、枕に挟まれた後ろ髪はあらぬ方向に曲がっていた。
 きっと朝になったら、寝癖が凄まじいことになっている。
 けれど案外、これでも大丈夫かもしれない。
 相反する想像を同時に頭に並べて、小夜左文字は暗闇に支配された天井を眺めた。
 夜明けはまだ遠く、外は暗い。虫の声さえ聞こえて来ず、静かだった。
「……ん?」
 いや、騒がしい。
 一秒後に撤回して、彼は小振りの鼻をヒクつかせた。目を眇め、壁に阻まれたその先に意識を向ける。直後にまた、大勢の笑い声が聞こえてきた。
 調子外れの歌に合わせ、手拍子が響いた。下手な琵琶の音が重なって、非常に耳障りだった。
 もしや眠りが妨げられたのは、これの所為か。
 寝床で横になったまま考えて、小夜左文字はムッと口を尖らせた。
 どこかで、誰かが騒いでいる。おおよそ素面とは思えない歌声からして、かなり酔っていると思われた。
 酒を飲み、上機嫌になって、夜半を過ぎてもまだ起きている。
 なんとはた迷惑なのかと腹を立てて、血濡れた逸話を持つ刀はむくりと上半身を起こした。
「復讐、しないと」
 せっかくひとが、気持ちよくはなかったけれど、眠っていたのだ。それを邪魔してくれたのだから、相応の報いを受けて貰わないと困る。
 大体、夜遅くまでの宴会は、禁じられたのではなかったのか。放っておくと朝まで飲み続ける刀が出て、翌日の任務に障るからと、反対意見が出る中で強行採択されたではないか。
 本丸を運営していく上での約束事は、刀剣男士の総意で決められる。勿論最終的な決定権は審神者が握っているが、意見を集約するという目的で、月一回、全体会議が行われていた。
 その席で、随分前にそう決まった。
 五月蠅くて眠れない、という不満が各方面から噴出したのだ。酒好きの、宴会好きが必死に反対したけれど、こちらの意見は通らなかった。
 何事も節度を弁え、ほどほどに。
 そういうお達しが審神者から出されて、この一件は決着を迎えていた。
 あれからもう、一年以上が過ぎている。だからといって、決まり事が失われたわけではない。
 実害を被ったのだから、文句を言うくらい、許されるはずだ。酔っ払いの相手は面倒だが、反論するようなら、力技で黙らせるまで。
 どこかの文系のような発想をして、小夜左文字は拳を作った。乱れていた寝間着の衿を整え、防寒対策として上に一枚羽織った。
 今年新しく誂えたのは、濃い藍色に波模様が薄ら浮かぶ長着だ。綿は入っていないけれど、木綿で保温力が高い。裾が長く、踝まですっぽり覆ってくれるので、重宝していた。
 選んでくれたのは、篭手切江だ。着付けが得意と自慢するだけあって、短刀に似合う品を数ある中から探して来てくれた。
「あったかい」
 眼鏡の脇差にひっそり感謝して、寝床を簡単に整えた。戻ってきてすぐ横になれるよう、斜めになっていた掛け布団を真っ直ぐにして、襖を開き、廊下に出た。
 短刀ばかりが暮らす区画は見事に静まり返り、廊下には灯りひとつ見えなかった。
 隙間風を嫌い、どの部屋もしっかり襖が閉められている。粟田口の短刀らが寝起きする部屋の前を通れば、複数の刀の寝言が聞こえた。
「う~ん……それは、食っちゃ、駄目だって……」
「厚兄さんだけ、ずるい、で……すう……」
 本当は起きているのでは、という会話がしてぎょっとなったが、直後に寝息が続いた。眠っている時でさえ仲が良い彼らに感心して、兄弟刀とは部屋が違う短刀は肩を竦めた。
 江雪左文字や宗三左文字は、弟である彼に良くしてくれた。
 ただ接し方は少し余所余所しく、遠慮が残り、未だに探り合っている雰囲気だった。
 宗三左文字などは、小夜左文字よりも薬研藤四郎の方が仲がいい。へし切長谷部とは口論が絶えないが、つかず離れずの距離を保っていた。
 兄刀を前にすると、いつも口籠もってしまう。変なことは言えないと緊張して、ただでさえ少ない口数が、益々減ってしまった。
 そのうち時間が解決してくれる、と言われているものの、難しい。
 歩み寄ろうとしても、双方にその意思がなければ果たせない。片方が努力しても、もう片方が逃げているようでは、決して叶わない夢だった。
「宗三兄様でなければ、良いけど」
 今から向かおうとしている場所に、次兄が混じっている可能性は零ではない。
 あれで案外騒がしいのが好きな打刀は、織田ゆかりの刀らに誘われて、頻繁に宴に参加していた。
 へし切長谷部が長く世話になった黒田に縁が深い日本号は、戦場にまで酒瓶を持ちこむ男だ。この長身の槍もまた、かなりの頻度で酒宴を主催していた。
 喧しいのを静めるために、暴力に訴え出るのも辞さないつもりだった。
 眠りを邪魔された恨みを晴らす気で部屋を出て来たが、足取りはいつしか鈍くなっていた。
「どうしようか」
 未だ止まない歌声を頼りに進んでみれば、この先にあるのは打刀部屋だ。
 その中のどこが該当するのかはまだ分からないけれど、可能性が大きく膨らんだのは間違いない。躊躇して、小夜左文字はその場で足踏みした。
 膝同士をぶつけ合い、摩擦で熱を起こして冷えた身体を温める。
 吐く息が白く濁る幻を打ち消して、彼はぐっと腹に力を込めた。
 ここまで来たのだ、なにもせずに引き返すのは悔しい。
「復讐、してやる」
 仇討ちに用いられた短刀が、これを諦めるなどあってはならない。己の逸話に託けて、次の一歩を踏み出した。
 長い廊下をずんずん進み、漏れている灯りにこめかみをピクリ、と痙攣させた。
 段々と大きくなるだみ声に眉間の皺を深くして、小夜左文字は最終的に安堵の息を吐いた。
 短刀部屋区画まで聞こえるくらい騒がしいのに、隣近所の部屋の主が苦情を出さないのが不思議だった。
 だが、それもそのはずだ。喧騒の発生源の両隣に暮らす刀も、向かい側さえも、等しく同じ部屋に集まっていた。
 何故禁を破り、夜更けまで酒を飲み明かしているかについても、分かった。
 今夜は無礼講でいきたい気持ちは、重々理解出来た。そうならざるを得なかったのも、大いに頷けた。
 だが矢張り、迷惑極まりない。
「五月蠅いです!」
 意を決し、小夜左文字は襖の引き手に指を掛けた。力任せに一気に右へ滑らせて、目の前がハッと明るくなると同時に怒鳴った。
 眉を吊り上げ、牙を剥き、少しでも迫力を足すべく努力した。
「今、何時だと思ってるんですか」
 声を低くし、眼力を強め、狭い部屋に集まった刀剣男士を一様に睨みつけた。
 端まで跳んだ襖が、壁に当たって跳ね返った。ドンッ、と近所迷惑な音を一度だけ轟かせたそれに、中に居た男たちは揃って肩を跳ね上げた。
 まさか怒鳴り込んでくる刀があると、思っていなかった様子だ。
 一斉に振り返り、見つめられた。ぽかんと惚けた眼差しは酒の影響かどれも潤んで、頬は鮮やかな朱色だった。
「え、……あれえ?」
「なんじ?」
「なんじだろ?」
 呆気にとられた顔をして、堀川国広がまず首を捻った。視線を向けられた加州清光は不思議そうに首を傾げ、隣に居た大和守安定は顎に人差し指を突き立てた。
 長曽根虎徹は空の酒樽を抱いて、胡乱げな様子で小夜左文字を睨み返した。
 輪の中心に居た打刀は酒杯を右手に掲げたまま、ひっく、と大きくしゃっくりした。
「はえええ~?」
 その後くだを巻き、乱入者をねめつける。
 完全に出来上がっている和泉守兼定は、こんな時間でありながら、戦装束を解いていなかった。
 浅黄色の羽織に袖を通し、胸当てを身に着け、長い黒髪は高い位置で結ったまま。自慢の刀を膝に抱いて、呼ばれればいつでも出撃できる格好だった。
 もっともこの状態では、刀を抜くのさえ難儀するだろう。
 頭どころか身体全体が前後左右に揺れている彼は、ほんの一刻半ほど前に修行から戻ったばかりだった。
 行き先は、幕末。堀川国広と同じ、かっての主の元だ。
 そこで彼は何を見て、何を聞き、何を感じたのか。
 新たな姿を得て戻ってきた彼の話を聞きたがる刀は多く、自然とこの部屋に集まった結果が、この有様だろう。
 床には空の酒瓶が無数に転がり、肴として持ち込まれた食べ物の食い残しが散乱していた。干し肉の臭いと酒臭さが混じりあい、長く居座ると鼻が曲がりそうだった。
 露骨に顔を顰め、小夜左文字は不満げな刀を見渡して肩を落とした。
「迷惑です」
 たった数日とはいえ、本丸を離れていた仲間が帰って来たのだ。歓迎したい気持ちは痛いくらい理解出来た。
 小夜左文字も修行から戻った際、兄弟刀を初めとして、大勢に出迎えられた。無事な姿を喜んで、江雪左文字も、宗三左文字も、とても嬉しそうだった。
 ただこれまでは短刀や、脇差ばかりが修行に出ていたので、深夜まで宴席が続くことはなかった。
 今回、和泉守兼定は打刀として初めて旅立った。
 元々弱いくせに酒好きな彼のことだから、こうなるのは当然だった。
 部屋が近い仲間らも、今夜だけは我慢して、見逃すことにしたのだろう。そうでなければ自分が修行に出た時、宴会を開き難くなる。
 苦情を言いに来たのは、小夜左文字ひと振りだった。一度眠ってしまえば朝まで起きない短刀たちが多い中で、常時眠りが浅い少年だけが、止むことのない喧騒に腹を立てた。
 盛り上がっていた中で水を差されて、集まっていた新撰組に関わる刀たちは面白くなさそうだ。
 正論を言われて反発し、拗ねている。ひと晩ぐらい我慢するよう目で訴えて、譲る気はないようだった。
「いいじゃないか。和泉守がやっと帰ってきたんだしさ」
「そんなに五月蠅くした覚え、ないんだけど」
 大和守安定の言葉に乗っかり、加州清光が徳利をぶらぶらさせながら口を尖らせた。赤ら顔で、若干ろれつが回っておらず、発音は聞き取り辛かった。
 時間の経過も忘れて、話に花を咲かせていたようだ。もう子の刻を過ぎていると言っても、信じてくれそうになかった。
「お前さんだって、祝ってもらってたじゃねえか」
「僕は、こんな夜更けまでやってません」
「こいつは、帰りが遅かったんだ」
 ずっと黙っていた長曽根虎徹の口調には、小さからぬ棘があった。親指で和泉守兼定を指し示し、夕餉が終わってからの帰還だったと訴えた。
 小夜左文字は夕刻の帰還であり、夕食の席がそのまま修行お疲れ様会になった。ほかの短刀たちも、大体そんな感じだった。
 脇差の中には深夜の帰還もあったが、その時は翌日に、会が催された。
 時間帯のせいもあり、和泉守兼定の出迎えに出た刀は多くなかった。お披露目は明日、という話になって、格別なにかが開かれることもなかった。
 それが可哀想だったから、自分たちだけでも慰労会をやろう、となったようだ。
 言い出しっぺと思われる打刀に凄まれて、小夜左文字は深々と溜め息を吐いた。
「とにかく、これ以上続けるのでしたら、僕にも考えがあります」
 話し合いは平行線を辿り、解決の道筋は得られなかった。
 極力避けたかったが、分かってもらえない以上、力技でなんとかするしかない。最終手段をちらつかせて、本丸で最も練度が高い少年は長着の袖を捲った。
 出て来たのはさほど筋肉がついているわけでもない、柳のように細い腕だ。捻れば簡単に、ぽっきり折れてしまいそうだった。
 しかしこの細腕がどれだけの力を秘めているか、この本丸で知らない刀はいない。
 修行を終えて戻った刀剣男士の中で、練度が最も優れているのは彼だ。刀こそ握っていないけれど、一撃の重みは凄まじかった。
 殴られたら、一発で撃沈する。
 朝までぐっすり寝かせてやると態度で告げられて、強気一辺倒だった打刀らの間に緊張が走った。
「あ、あー。僕、そろそろ眠くなってきちゃったかも」
「ちょっと、堀川。お前だけが頼りだってのに」
「僕だと、小夜ちゃんのは受け流せないよ!」
 この中で唯一修行を終えている脇差が、真っ先に降参だと白旗を振った。
 己がなんたるかを見極め、旅から帰って来た少年は、だからこそ同じく自己を確立させた短刀の強さを肌で感じ取っていた。
 とても勝てないとあっさり諦めて、縋る仲間にぶんぶん首を振った。空っぽの皿を積み重ねて抱きかかえ、いそいそと部屋を辞す準備を開始した。
 和泉守兼定の帰還を一番喜んでいた少年が、真っ先に宴会の終わりを宣言した。
 勝ち目が見込めない敵を前に退散を決めた彼に触発されて、残る打刀らも渋々立ち上がった。
「あー、小夜。ちょい、ちょい」
「はい?」
 どうやら分かってくれたようだ。
 暴力に訴え出る前に復讐を終えられたと満足していたら、部屋の主でもある背高の打刀が短刀を手招いた。
 千鳥足の加州清光が部屋を出て、大和守安定が後に続いた。ぎゅうぎゅう詰めだった空間は少し広くなって、それまで埋もれて見えなかったものが姿を現した。
 物が散乱して足の踏み場もないところに入るのは、勇気が必要だった。
 欠伸をひとつ零した男が指差す巨大な塊に歩み寄って、小夜左文字はこれまで以上に深く、長い溜め息を吐いた。
「なにをしているんですか、歌仙」
「連れて帰ってくんねーか。こいつに居られちゃあ、俺が眠れねえ」
 片隅に追いやられた布団に、藤色の髪の打刀が寝転がっていた。掛け布団を丸めて胸に抱いて、ついでに枕にもして、すうすうと寝息を立てていた。
 鼻の頭だけが異様に赤く、だらしなく開いた口元からは涎が垂れている。幸せな夢でも見ているのか、時々「ふへ、ふへ」と笑うのが不気味だった。
 あれだけ喧しい連中を傍に置いて、よくぞここまで熟睡できるものだ。
 彼まで居るとは思っていなかった。驚きを通り越して唖然として、小夜左文字は痛むこめかみを叩いた。
 この部屋にある布団なのだから、持ち主は和泉守兼定に他ならない。それを歌仙兼定に占領されては、確かに彼は眠れなかった。
「もしかして、歌仙が、ですか?」
「おーう。こいつが一番乗りだったぜ」
 嫌な予感がして、振り返る。
 酔っぱらって上機嫌な打刀は不敵に笑い、肌色を悪くした短刀の頭をぐしゃぐしゃに撫で回した。
 皆の夕餉が終わってから帰還した和泉守兼定を労い、食事を提供したのは歌仙兼定だった。折角だから一献、と燗にした酒も持ちこんで、それが加州清光らを招き入れる遠因となった。
 元凶は、ここにあった。意外な真実に目を見張っていたら、不意にずしっ、と身体が重くなった。
「うわっ」
 急激に体重が増えたのではない。単に凭れかかられただけだ。
 背後から圧し掛かられて、小夜左文字は咄嗟に足を肩幅に広げた。潰されまいと膝を曲げて重心を落とし、呵々と笑う男の髪を払い除けた。
 馬の尻尾かと言いたくなる房が、押し退けても、押し退けても、すぐに戻ってきて首に絡みついた。
「和泉守さん、重い」
「はははっ、ははっ。そーれ、そうれ、っと」
 じゃれ付かれても嬉しくなくて、鬱陶しいだけだ。じわじわ圧力を加えてくる打刀に吠えて肘を繰り出すが、和泉守兼定は脇腹を攻撃されても怯まなかった。
 なにが楽しいのか高らかと笑って、首に腕を巻きつけて来た。体格差を考えずにぎゅうっとしがみつき、短刀の頭に顎を置いた。
「苦しい」
 一歩間違えれば、首を圧迫して折ろうとしているようにも映る。
 大型犬に絡まれている自分を想像して、小夜左文字はもう一発、肘鉄を叩きこんだ。
「いってえなあ」
 同じ場所を続けて狙ったからか、効果はあった。途端に不機嫌になった打刀はスッと身を引いて、拗ねたのか顔を顰めた。
 端麗な姿形が歪んで、急に見た目が幼くなった。強くなって帰ってきたはずなのに、圧倒的に小柄な短刀を組み伏すのさえ難しい現状に、不満を覚えている様子だった。
 そもそも酒が入って、四肢が上手く扱えていないのだ。
 べろんべろんの酔っ払いに負けてやるつもりは、小夜左文字には毛頭なかった。
 不敵な笑みを口角に浮かべ、まだやるのかと打刀に向き直る。
 挑発的な眼差しに負けじと応戦して、和泉守兼定が素手で身構えた直後だった。
「ぶひゃうっ」
 突如目の前が暗くなって、小夜左文字は変なところから悲鳴を上げた。ぐいっと後ろから引っ張られて、逆らえなかった。
 仰け反って、天井が見えた。仰向けに倒れた体躯は、意外にも衝撃が少なかった。
 一瞬真っ暗だった視界はすぐさま光を取り戻し、長く伸びた影を映し出した。行燈の火がゆらゆら踊って、船に揺られている気分だった。
 目をぱちくりさせて、大の字のまま凍り付く。
 何が起きたのか理解出来ない短刀の視界に、黒っぽい影がぬっと割り込んできた。
「おざよ!」
 酒焼けしただみ声で吼えられて、ようやく誰の仕業か分かった。
 鼻が詰まっているかのようなくぐもった声は、普段の歌仙兼定とはかけ離れたものだった。
 いったい彼は、どれだけの量を飲んだのか。物凄く強いわけではないが、決して弱くはない男が酔い潰れて眠るくらいだから、相当なものと推察できた。
 それがいつの間にか目覚めて、短刀の肩を押さえつけていた。不意打ちで背後からむんずと掴み、力任せに引き倒したのだ。
 転がった際に痛みがなかったのは、落ちた先が布団の上だったからに他ならない。和泉守兼定が本丸を離れている間、堀川国広が日向で干していたので、ふんわりと空気を含んで柔らかかった。
 なにはともあれ、怪我をせずに済んだ。
 受け身を取る余裕もなかったので、幸いだった。ふかふかして心地良い布団は暖かく、朝までぐっすり眠れそうだった。
 悔しいが、羨ましい。
 煎餅のような薄っぺらい布団と交換して欲しくて、小夜左文字はさりげなく柔らかな布を撫でた。
「なあにやってんだ、之定あ」
「おざよにざわるな」
 目の前にいた短刀にいきなり消えられた打刀は、四つん這いから身を起こした歌仙兼定に向かって怒鳴った。もっとも半笑いでの発言であり、別段機嫌が悪いわけではないようだった。
 反面、二代目兼定の打刀は不機嫌そのものだった。
 寝起きというのもあって、いつもより眉間の皺が深い。ずず、と大きく鼻を啜ったかと思えば、牙を覗かせて威嚇して、まるで人語を話す獣だった。
 唖然としている短刀に覆い被さる姿勢を維持し、会津兼定をけん制して腕を振るった。
 打たれる前に半歩下がった男は仰々しく眉を吊り上げ、何を思ったのか、にやりと口角を持ち上げた。
「なあ、小夜。いーこと教えてやろうか。こいつってば、自分だけ修行に出させてもらえねえって、わんわん泣いてやがったんだぜ?」
 膝を折って座り、ゲラゲラ笑いながら歌仙兼定を指差した。あれほど滑稽なものは滅多にないと腹を抱えて、上半身を起こした短刀の肩をバシバシ叩いた。
「痛い、です」
 酒の力は大きく、遠慮がまるでなかった。
 一発ずつはそれほどではないけれど、加減なしの連打は流石に堪えた。
 自分の肘鉄がいかなる痛みを与えたか、少し申し訳なくなった。ただ当の和泉守兼定は、そのことはもう忘れているようだった。
 下品な笑い声を響かせて、まだ歌仙兼定を指差している。
 本来なら不快感を露わにし、力尽くでも黙らせようとする打刀は、今日に限って大人しかった。
 振り返り見れば、顔が赤い。酒の影響かとも思ったが、眠っている時よりも明らかに色合いが異常だった。
 鼻の頭だけでなく、頬も、目尻も赤かった。耳朶どころか首筋まで、紅葉も真っ青な色付き具合だった。
「ん?」
 肩を叩かれる痛みでうっかり聞き逃していたが、和泉守兼定はなんと言っていただろう。
 右から左に素通りした台詞を慌てて追いかけて、小夜左文字は目を点にした。
「ぢがあう! 泣いでなど、ぬわい!」
 にわかには信じ難い発言に絶句し、酔っ払いを交互に見比べた。
 歌仙兼定は舌足らずに喚き散らして、足元の布団をポカスカ殴った。
 その度に埃が舞い上がり、布団の凸凹が増えた。果てには枕を鷲掴みにして、大きな動作で放り投げた。
 癇癪を爆発させて、完全に子供に戻っている。刀剣男士に成長という概念があるかどうかは疑問ながら、やることはその辺の短刀よりも幼かった。
 幼児退行した打刀の一撃は、和泉守兼定を直撃した。喧しく笑っていたところ、顔面に枕をぶつけられて、怒りからというよりは、埃を吸いこんだことで激しく噎せた。
「ゲッホ、ゲホ、うぇっ」
 ぼとっと落ちた枕を膝に乗せ、目の前を忙しく手で扇いだ男に歌仙兼定がしたり顔を作った。
 瞬間、ガシッと枕を掴んだ男が少ない動作で投げ返した。
「なにをずる!」
「そいつあ、こっちの台詞だ」
 売り言葉に、買い言葉。
 だみ声で怒鳴った打刀に、和泉守兼定が勝ち気に応じて、間に座っていた短刀はがっくり肩を落とした。
 背が低くて良かったと、こんなことで思いたくなかった。頭上を行き交う枕を追うのは止めて、彼はあまり馴染みのない室内を見回した。
「なにしに来たんだっけ……」
 和泉守兼定の部屋は、それほど汚くなかった。
 酒宴で出された料理の臭いが充満し、食べかすがそこかしこに散らばっているが、それは最近のものだ。
 不在にしている間に、面倒見の良い脇差が掃除していたのだろうか。棚は綺麗に片付けられて、埃はあまり落ちていなかった。
 何度か入ったことがあるけれど、記憶に残るほど鮮烈なものではなかった。物は意外に少ない。元主の影響か、歌を詠むのが好きな刀だが、出来栄えはまだまだだと歌仙兼定が言っていた。
「和泉守さん」
「んあ?」
 蕎麦殻の枕は打刀の間を何往復かした後、すっぽ抜けて壁に当たった。
 拾いに行くか迷っていたところに話しかけられて、和泉守兼定は間抜けな顔で鼻から息を吐いた。
 飛び道具を警戒していた男も、突然割り込んできた短刀に興味を示した。構えを解き、首を傾げて、藍色の後頭部を食い入るように見つめた。
「楽しかった、ですか?」
 その視線が、僅かに上にずれ動いた。
 静かに問われ、男たちはハッと息を呑んだ。
 酒の勢いに任せて笑いっ放しだった打刀は、ほんの一瞬固まって、じきに表情を引き締めた。弛緩していた筋肉に電流を走らせ、微睡んでいた眼に光を宿した。
 沈黙はそれほど長くはなく、けれど短くもなかった。
「どうだろうな」
 ふっ、と笑った男は、ここではない場所を見ていた。
 瞬き一回分の時間で様々なことを思い出したのか、哀しげで、切なげで、苦しそうだった。
 俯いていたかと思えば突然背筋を逸らし、なにもない天井を見た。胸の前で腕を組んで、喉仏を晒して停止した後、疲労を訴える首を慰めながら肩を回した。
「けど、行って良かった。それだけは間違いねえ」
 ひと言ひと言を噛み締めながら呟いて、骨をぼきりと鳴らした。
 首の後ろを撫でながら嘯いた彼に、小夜左文字は満足げに頷いた。
「つぅか、てめーこそ、どうなんだ。満喫してきたのか?」
「お小夜」
 布団に正座して畏まった少年に、自分ばかりが話すのは不公平だと和泉守兼定が水を向ける。
 大人しく聞いていた歌仙兼定も興味があるようで、呼ばれてもないのに姿勢を正した。
 ふた振りから痛いくらいの視線を浴びて、半年以上前に修行を終えて帰って来た短刀は、居心地悪そうに身を捩った。
「どう、でしょうか」
 答えは帰ってきたばかりの打刀と、そう変わらなかった。
「楽しくは、なかったです。でも、行かないで済ませるよりは、良かったと……今は思います」
 血に濡れた逸話を持つ短刀は、時に有り難がれ、時に煙たがられた。高値で取り引きされて、珍重されて来たけれど、その事は別段嬉しくもなんともなかった。
 各地を転々とする中で、自分が存在している意味はなにかと、ぼんやり考えていた。
 号など欲しくなかった。
 仇討ちを果たした短刀として、研ぎ師の男の手によって葬られてしまった方が良かった。
 だが過去に跳んで、名付け親である男に会って、少しだけ考えが変わった。
 小夜左文字が本当に復讐したかったのは、己自身だ。最初の主を守れず、次の主となった山賊までもを自らの刃で殺した、自分自身を消してしまいたかった。
 けれど願いが果たされることはなかった。細川藤孝の手に渡った際には風雅な号を与えられて、自らを殺す術は失われた。
 会いに行った男には、恨みしかなかった。仇討ちの短刀を『小夜左文字』にした男が、憎らしくてたまらなかった。
 だがいざ顔を合わせてみれば、男は嬉々として語り掛けて来た。その腰に差す短刀は、と指摘すれば、来歴からその刃の美しさまで、口角泡を飛ばす勢いで喋り続けた。
 愛されていた。
 慈しまれていた。
 復讐心に囚われて、ずっと昔に置き去りにしたものを、まざまざと思い出した。
 良い事ばかりではなかった。だが、悪い事だけでもなかった。
 満足いく旅路だったかと言われれば首を横に振るが、物足りない旅路だったかと訊かれても、同じく首を横に振るだろう。
 しんみりした気持ちになって、和泉守兼定と向き合い、しどけなく微笑む。
「ずるいぞ」
「え?」
「ふたりだけで分かり合った顔をして。狡いじゃないか!」
 そこに唐突に割り込んでくる男がいて、ふた振りは一斉に振り返った。
 歌仙兼定はまたもや癇癪を爆発させて、綿入りの掛け布団を握りしめていた。爪を立て、噛みつき、力いっぱい左右に引っ張った。
「馬鹿、止めろって。破れるだろ」
「こんなもの、こうして、こうして、こうしてやる!」
 この中で、彼だけが修行に出る許しをもらえていない。何度か審神者に掛け合っているものの、色よい返事は得られていなかった。
 仲間外れにされて、拗ねていた。背高な打刀に合わせて丈が長い布団をぶんぶん振り回して、地団太を踏んで、喧しい事この上なかった。
 酒の力というものは、かくも凄まじいものなのか。
 理性を忘れて暴れる彼を押さえつけ、和泉守兼定が寝具を引き剥がした。
 投げて寄越されたのを抱き止めて、小夜左文字はじたばた藻掻き続ける男に苦笑した。
「歌仙もそのうち、お許しが出ます」
「いつだ。明日か。明後日か」
「そうやって暴れているうちは、出ないと思います」
「おざよがづべだあい」
「ぶははははは!」
 粟田口の短刀たちが次々旅立つ中、小夜左文字もかなり待たされた方だ。
 歌仙兼定にも、いずれ沙汰が下るだろう。ただしいくら酔っぱらっているからとはいえ、こうも見苦しく騒ぐようでは、能力不足として先送りにされても仕方がなかった。
 冷静に言い切った短刀に、打刀が鼻声で愚図った。
 和泉守兼定は腹を抱えて笑い転げて、直後に閉まっていた襖がドーン、と開かれた。
「ちょっと! うっさい!」
 先ほどまでここで騒いでいた加州清光が、こめかみに青筋を立てて怒鳴り込んできた。
 喧しいからという理由で酒宴が解散したのに、まだ騒がしいとはどういうことか。あまつさえ文句を言いに来た短刀まで一緒で、道理に合わないとはこのことだ。
 罵声を浴びせられて、室内が水を打ったかのように静まり返る。
 言いたいことを言ってスッキリしたらしい。加州清光はふんっ、と鼻を鳴らすと、開けた時同様の荒っぽさで襖を閉めた。
 どしどし五月蠅い足音は、すぐ聞こえなくなった。
 ひと組しかない布団の上でもつれ合っていた三振りは、互いに顔を向け合い、数秒の間を置いて噴き出した。
「しゃーねえ、寝るかあ」
「寝よう、寝よう」
「そうしてください」
「おやおや。どこへ行くんだい、お小夜」
「そうだぜ、小夜坊。帰るだなんて、寂しいこと言うなって」
「ちょ、え。うわあ」
 和泉守兼定がいかにも渋々といった感じで頭を掻き、歌仙兼定が皺の寄った敷き布団を撫でた。小夜左文字は部屋に戻るべく立ち上がろうとして、またもや後ろから引っ張られて倒れた。
 二度目の仰向けでの万歳姿を、ふた振りの兼定が仲良く覗き込んできた。
「いえ、僕は……」
「泊まってけよー」
「そうだ、お小夜。もう遅い。ここで休んでいくといい」
「つ~か、之定。てめえは部屋帰れよ」
「やめろ、蹴るんじゃない。貴様とお小夜を、ふたりだけに出来るわけがないだろう」
 断ろうとするが、押し切られた。最後まで言わせてもらえず、左右から抱きつかれて、ぺしゃんこに潰れてしまうのでは、と恐ろしかった。
 挙げ句にひとを挟んで蹴り合いの喧嘩まで始まって、ゆっくり休むどころの騒ぎではない。
 あらゆることが面倒臭くなって、小夜左文字は溜め息を吐いた。和泉守兼定が身に着ける防具は固く、今のまま横に来られると当たって痛かった。
「和泉守さん、胸当てが、痛いです」
「おっと、こいつはすまねえ。待ってろ、今脱ぐからよ」
「よし、お小夜。剥ぎ取ってしまえ」
「ぎゃっ。なにしやがんだ、之定。って、小夜坊も、こら。やめろ、やめ……ぶひゃはははっ」
 指摘すれば、打刀は素直に応じてくれた。寝転がっていたのを起き上がり、外そうとして、歌仙兼定の擽り攻撃を受けて身悶えた。
 着替えを手伝っているのか、邪魔をしているのか、それすらもよく分からない。
 嗾けられた短刀はふむ、と頷いて、羽織を脱がせるついでに後ろからしがみついた。
 艶やかな黒髪に鼻筋を埋めて、ぐりぐりと擦りつけた。三振り団子になって布団に倒れ込んで、降って来た大きな手に首を竦めた。
 歌仙兼定はもう、誰を撫でているのか分かっていない様子だった。
 短刀が修行を終えて帰って来た夜は、江雪左文字や宗三左文字と、珍しく枕を並べて寝た。
 昔馴染みのこの刀は、翌朝なにも無かったように笑いかけて来た。けれどもしかしたら、話したいことや、聞いて欲しいことがあったのかもしれない。
「歌仙が修行に行って、帰ってきたら。お祝い、しましょう」
 和泉守兼定の向こう側に居る男に手を伸ばすが、指先しか届かなかった。
 それでも構わず撫で返して、部屋を照らす行燈の火を吹き消した。
 程なく聞こえ始めたふた振り分の寝息を数えて、小夜左文字も目を閉じた。

草枕旅なる袖に置く露を 都の人や夢に見ゆらん
山家集 雑 1009

2017/10/22 脱稿

我かと行きて いざとぶらはむ

 ふわりと香る夜風に、頬を撫でられた。
「ん、む……?」
 深く、暗いところに沈みこんでいた意識が、僅かに波立つ。潮の満ち引きが始まって、流れが起こり、導かれるまま水面へ上昇を開始した。
 瞼がぴくぴく痙攣を起こし、縁を彩る睫毛が躍った。薄く開いていた唇から吐息が零れ落ち、うつ伏せの体躯がぶるりと戦いた。
 弛緩していた筋肉に、弱いながら電流が駆け抜ける。
 ビクッと四肢を震わせて、前田藤四郎は薄い瞼を開いた。
 最初はおぼろげだった視界を、瞬きで徐々に明るくしていった。ぼんやりした輪郭を明らかにして、涎で濡れた顎を敷き布団に擦りつけた。
「あふ」
 そこで一旦意識が遠退き、折角開いた瞼が落ちた。ストン、と吊り上げ式の窓が落下するかのように、ぴしゃりと閉ざされた。
 そのまま意識も沈黙し、再び眠りに入るかと思いきや。
「んー……?」
 ちょっとした違和感が、二度目の就寝を阻止した。
 口をへの字に曲げて、短刀の付喪神はもぞもぞ身じろいだ。顔面を敷き布団に押し付けて、なにかを探し、右手をバタバタさせた。
 傍目には寝床を海とし、泳いでいるように見えた。けれどこれを面白がり、笑う存在はなかった。
 確かにあるはずの気配が途絶え、見付からない。
 何度やっても空振りする右腕に眉を顰めて、前田藤四郎は不機嫌に頬を膨らませた。
「おおれんら、さん」
 廻り切らぬ舌を操り、不満を込めて呟く。
 被っていた布団ごともそりと起き上がって、彼は眠気を残す目を頻りに擦った。
 合間に大欠伸を挟み、二重、三重にぶれている世界に首を傾げた。まだ夢の続きなのかと剣呑な目付きを作り、静まり返った空間を見回した。
「いない」
 耳を澄ませば虫の声が五月蠅いが、それは部屋の外の話だ。
 短刀にはかなり大きい布団に正座して、彼は掠れた声で呟いた。
 八畳ほどある室内の真ん中に陣取り、灯りを探して目を泳がせた。枕元の行燈の灯はもう消えて、油の匂いもしなかった。
 それでも広々とした空間を認識できるのは、彼が人の身でありながら、人間ではないからだ。
 歴史修正主義者が歴史改変を目論み、時間遡行軍を編成して過去への介入を開始して、もう二年と半分が過ぎた。
 初めのうちは戦力が揃わず、あちらの横暴を許した時期もある。しかし時の政府側も、手をこまねいて見ていたわけではない。審神者は順調に、所属する刀剣男士の数を増やしていた。
 前田藤四郎が顕現した直後には居なかった刀剣男士が、本丸には随分と増えた。
 この部屋の主である太刀も、後からやって来た刀のひと振りだ。
 大柄な男の体格に合わせられた布団は、短刀には広すぎる。
 身の丈に合わない空間は落ち着かず、居心地が悪かった。
「どこへ」
 次第に明朗さを取り戻していく意識に合わせ、鼻が詰まったかのような声も、はっきりと響くようになった。
 肩からずり下がっていた寝間着を整え、緩んでいた帯を結び直す。少しもじっとせず、身体のどこかを動かし続けて、彼は見つからない大きな影に小鼻を膨らませた。
「厠でしたら、起こしてくださればよかったのに」
 いつの間にか、共寝をしていた男が姿を消した。
 こんな夜更けにいなくなる原因が他に思いつかなくて、前田藤四郎は不満を露わに呟いた。
 太刀は、夜目が利かない。夜間の戦闘でも不利益を被るので、陽が暮れてからの隠密行動は、短刀や脇差の出番だった。
 本丸の屋敷には随所に常夜灯が設けられているものの、死角が全くないわけではない。男士らの眠りを妨げないようにとの配慮から、各自の私室に近い場所には設置されていなかった。
 だからすぐそこの廊下は、とても薄暗い。
 短刀なら難なく歩き回れる場所も、大典太光世らにとっては脅威だった。
 どこかで転び、小指を打って悶えているのではなかろうか。
 そんな事を考えて、前田藤四郎は畳にはみ出ていた掛け布団を回収した。
 手早く寝床を整え直し、綿の間から爪先を引き抜いた。
「冷えますね……」
 途端に末端から熱が逃げて行って、彼は季節の変化に首を竦めた。
 ひと月半前だったら、裸でも平気だった。あまりの暑苦しさに負けて、薄衣一枚羽織るのさえ億劫だった。
 ところがこの数日はめっきり冷え込んで、二枚や三枚着込んでいないと、肌寒い。ついこの間まで鋭かった昼間の陽ざしも、昨日あたりからとてもまろやかになっていた。
 穏やかで、過ごし易い気候になった。
 ただそれは人間や刀剣男士に限った話ではない。
 収穫期を目前とした農作物を前にして、大地を踏み荒らす野分が、ここぞとばかりに襲撃を繰り返していた。
 獣ならば行動がある程度予測できるが、自然災害はそうはいかない。
 次はいつ押し寄せて来るか分からず、農作業は空模様を確認しながらだ。雨戸の補強や、雨漏りの調査も、随時行われていた。
 夜が明けたら、新しい一日が始まる。
 危険に備えての準備に加え、野菜類の収穫と、やることは山積みだった。
 たとえ半刻だけであろうとも、しっかり休み、眠らないと、体力は戻らない。
 廊下で転がっている太刀まで想像して、前田藤四郎は臍を噛んだ。
「大典太さんになにかあってからでは、遅いですから」
 本当に小指を角にぶつけたのでは、と疑いたくなるくらい、太刀の帰りが遅い。
 用便だけなら、ここまで掛からないはずだ。いよいよ疑念が膨らんで、短刀は膝同士を擦り合わせた。
「迎えに行きましょう」
 いかにも仕方なく、を装って独白し、立ち上がった。寝起きとは思えない機敏さで、捲れあがった寝間着の裾を叩いて伸ばした。
 鼻から息を吐き、唇は真一文字に引き結ぶ。世話の掛かる太刀の面倒を見るのは自分の役目と、決意を込めて一歩を踏み出した。
 隙間なくぴったり閉ざされた襖に向かい、丸型の引き手に指を掛けようとして、ふと瞳を泳がせる。
 彼を目覚めさせたのは、太刀が寝床を抜け出したからではない。布団は冷めており、大典太光世の体温は残っていなかった。
「……あれ」
 違和感を強め、彼は眉間の皺を深くした。目を眇めて俯いて、思案の果てにくるりと身体を反転させた。
 便所へ行くには、廊下に出なければならない。だがこちらには、風を通す隙間はなかった。
 するとあの時、鼻先を掠めた夜風はどこから迷い込んだのか。
 もっと早く気付くべきだった。まだ頭が眠ったままだったのかと自省して、彼は畳の上を走るか細い光にため息をついた。
 太刀部屋は正方形の中庭を囲む形で並んでおり、縁側に出る窓も設けられていた。打刀や脇差部屋より少しだけ広く、床の間の構造も立派だった。
 障子に出来た隙間は、寝入る前にはなかったものだ。外から侵入者があったとは考え難くて、前田藤四郎は自身の迂闊さに力なく首を振った。
「決めつけは、良くないですね」
 灯台下暗しとは、よく言ったものだ。
 ひとつのことに頭が向いて、他に気が回らなかった。最初の段階で別の可能性を考えておけば、こんな単純な間違いは犯さなかった。
 失敗した。
 舌を出して首を竦めて、彼は今来た道を戻った。いつでも潜り込めるよう整えた布団は迂回して、細く、長く伸びる光の筋を辿った。
 すい、と横に押し開いた障子の前方は、黒い塊で埋まっていた。
「こちらにいらしたんですね」
 縁側はさほど幅がなく、大柄な太刀が座ると、それだけでいっぱいだ。仕方なく障子の開きを大きくして、前田藤四郎は男の胡座を掻く男の右足を跨いだ。
 蹴らないよう注意して、砂埃が散る床の上で飛び跳ねる。寝間着の裾があまり広がってくれず、理想と現実が乖離して、跨いだ後の着地は綺麗にいかなかった。
「便所でなくて、すまなかったな」
「意地が悪いですよ、大典太さん」
 思ったほど歩幅が確保出来ず、転びそうになった。すんでのところで堪えて事なきを得たが、続けて底意地の悪い台詞が飛んできて、不満が膨らんだ。
 跳ね上がった鼓動を寝間着の上から撫でて宥め、短刀が口を尖らせる。
 不機嫌な声で叱られた太刀は声もなく笑って、額を隠す前髪を掻き上げた。
「……あ」
「どうした」
「いえ、なんでも」
 そのまま手を頭に置いて、淡い月光に瞳を晒した。
 内番の時でも隠れている生え際が表に出ており、白い肌が透けるように美しかった。
 思わず見惚れて、怪訝に見つめ返された。慌てて誤魔化して、前田藤四郎はとくん、と跳ねた鼓動に息を呑んだ。
「寝起きには、刺激が強すぎます」
「前田?」
「どうぞお気遣いなく!」
 自動的に赤く染まる頬を両手で隠し、ボソボソ言って、直後に声を大きくした。
 急に怒鳴られた方は呆気にとられ、ぽかんとして、上げていた右腕も膝に下ろした。
 もれなく黒髪が額に戻り、緋色の双眸も半分隠れた。開きっ放しだった唇がキュッ、と引き結ばれて、横向きに寝かされていた左膝が起き上がった。
「どうせ、俺など……」
 そこに額を預けて丸くなり、大典太光世がしょぼくれた声で呟く。
「ああ、いえ。大典太さんはなにも悪くないです。ご心配いただき、ありがとうございます」
 落ち込んで、蔵に戻ると言い出しかねない雰囲気を察して、前田藤四郎は大慌てで弁解した。
 顔の前で両手を振って、慰め、その隣にいそいそと腰を下ろした。最初は正座だったが、板敷きの上に直接は負担が大きく、すぐに取りやめた。
 縁側の中ほどに座す太刀より前に出て、軒下に向かって足を垂らした。頭上を仰げば月は雲に隠れ、夜を照らす光は儚かった。
 星も見えず、かなり暗い。両側も、真向かいの部屋も総じて灯りは消えていた。
 鼾が聞こえたが、どの部屋からなのかは分からない。
 少なくとも大典太光世ではない、と横目で隣を窺って、少年は安堵の息を吐いた。
「お休みにならなくても、よろしいのですか」
 中庭は苔生した地面に覆われ、同じく苔で覆われた大きな石が複数、並んでいた。背の低い木が意図的にばらばらに配置され、白い小石が境界線を描き出していた。
 この白い筋を境にして、庭を構成するものの高さが分けられていた。
 片方は低く、片方は高く。
 なんらかの思想が背景にあるのは明白だが、具体的にどのような考えあってのことなのかは、短刀には分からなかった。
 そんな石庭を眺めて、大典太光世は足を崩した。胡坐を組み直し、傍らに座す前田藤四郎を一瞥する。
「よくはない、が」
 視線を前方に戻したところで、短刀が再び太刀を見た。
 なかなか交わらない視線に焦れることもなく、彼らは思い思いに見たいものを視界に収め、穏やかに流れる時間を楽しんだ。
「虫の声が、美しくてな」
 夏が終わり、暑さは遠くなった。昼の時間が日増しに短くなっていき、地面に落ちる影は長くなる一方だった。
 季節の流れに敏感な虫たちは、種を残すべく躍起になり、毎夜の如く鳴き耽っている。
 こうしている今も、りーん、りーんと、軽やかな音色を響かせていた。
 この石ばかりの庭にも、何匹が紛れているらしい。途切れ途切れに聞こえて来て、前田藤四郎は感嘆の息を吐いた。
「本当ですね」
 空気が冷えているので、余計に澄んで聞こえるようだ。こんなに美しい演奏が聴けるのなら、夜更かしも存外悪くないと思えた。
 眠りは必要だが、急くことはない。心安らげる時間は、同じくらい重要だ。
「綺麗です」
 音は形を持たず、目にも映らない。だがぼんやりした月明かりの下で奏でられるそれらは、玻璃のように透き通り、淡い輝きを放っているように感じられた。
 きらきらと光を反射し、踊っている。
 目を閉じ、不要な情報を一切排除して、短刀の付喪神はうっとり頬を緩めた。四肢の力を抜き、風に身を任せてゆらゆら揺れて、荘厳な音色の中に魂を泳がせた。
「くしゅっ」
 しかしそれも、長く続かなかった。
 寝間着一枚で、夜気を浴びたからだろう。
 不意打ちのようにくしゃみが飛び出して、防げなかった。
 窄めた口から唾が飛び、声に驚いた虫がぴたりと鳴き止んだ。警戒してか、息を潜める。
 鼻の下を擦って、前田藤四郎は深く溜め息を吐いた。
「寒いか」
「平気です。……いえ、少しだけ」
 指先に呼気を浴びせ、捏ねて温める。
 一連の仕草を見守っていた男が、囁くように問うた。一旦は否定したものの、短刀はひと呼吸挟んで訂正した。
「そうか。では、そろそろ」
「いいえ。大典太さん、もう少し」
 首肯を受けて、大典太光世が起き上がろうと腰を捻った。障子の向こうに視線を投げて、袖を引かれて顔を顰めた。
 床に戻ろうと促した男を制し、短刀が掠れる小声で告げる。
 中途半端なところで言葉を切り、俯いた彼に、太刀は思う所があったのか、縁側に座り直した。
 下半身に体重を集め、裾が乱れるのも覚悟で胡坐を掻き直した。隙間から逞しく、雄々しい太腿や脛を晒した男を見上げて、前田藤四郎は嬉しそうに目を細めた。
「懐、お邪魔します」
 信濃藤四郎のようなことを言って、垂らしていた脚を回収した。四つん這いになって短い距離を進んで、待ち構えていた太刀の膝に腰を下ろした。
 どっしりとして固い胸を背凭れにして、両膝を揃え、懐に潜り込む。
 すっぽり収まった少年に苦笑を漏らして、大典太光世は華奢な体躯を包み込んだ。
「随分と冷えている」
「大典太さんこそ、こんなに冷たくなって」
 触れ合った肌を、示し合わせたわけでもないのに擦り合い、互いの体温を確かめた。
 そのうちに手だけでなく、足や、頬まで使って擦り始めて、ふた振りはもつれ合うように丸くなった。
「くすぐったいです」
 頬を捏ねられて、前田藤四郎が子供らしい声で笑った。
 きゃっきゃとはしゃぐ姿を眩しそうに見つめて、大典太光世は姿勢を正した。
「ここは、広いな」
 そうして緩慢に頷き、ぽつりと零した。
 中庭は、言うほど広くない。本丸の公的設備が揃う南棟と、刀剣男士の私室が集まる北棟との間にある庭の方が、余程広かった。
 だからきっと、彼が言いたいのは、面積がどうという話ではない。
 推測し、短く息を吐いて、短刀の付喪神は四肢の力を緩めた。
 立派で温かい椅子に身を預け、不意に落ちて来た睡魔に抗い、闇に目を凝らした。
 虫の声は止まず、近くなったり、遠くなったり、忙しかった。
「厚兄さんが」
「厚が、どうかしたか」
「いえ。たいしたことではないのですが」
 それで思い出したことがあって、前田藤四郎は呟いた。興味惹かれた太刀が合いの手を挟んできたのに首を振って、一瞬躊躇し、諦めて肩を竦めた。
「万屋で、虫かごを沢山買ってきて」
 それは、日付的には一昨日のことだ。
 粟田口の短刀のひと振りが、万屋で竹製の虫かごを大量に購入して来た。
 ひとつひとつはさほど大きくないけれど、並べると相当に場所を取る。これでいったい何をするのかと聞けば、鈴虫を捕まえて、飼うのだそうだ。
 そうやって手元に置いておけば、いつだってあの軽やかな鈴の音を楽しめる。多く捕まえれば、良い音を出す虫を厳選するのも可能だ。
 話を聞いていた歌仙兼定が、なんと風流なのかと褒めていた。
 それで厚藤四郎は上機嫌になって、早速虫取り網を手に取り、庭の草むらを駆け回っていた。
 秋田藤四郎や、後藤藤四郎らも一緒に地面に這い蹲っていた。
 金になる匂いを嗅ぎつけたのか、博多藤四郎も途中から参戦していた。
 前田藤四郎はその場にいたが、なにか違う気がして、加わらなかった。
「そうか」
「はい」
 淡々と説明して、言葉を切る。
 さほど面白くもない話だ。だからどうしたと聞かれたら、答えられない。
 だが大典太光世は、特になにも言わなかった。黙って虫の音に耳を澄ませて、前田藤四郎を優しく抱きしめ続けた。
「大典太さんだったら、どうしますか」
 退屈だったのではないかと懸念しつつ、沈黙を嫌い、敢えて問いかけた。
 勇気を振り絞った短刀に、前を見据えていた太刀は、瞳だけを彼に向けた。
「俺は、……そうだな。お前と同じだ」
 一瞬だけ目線を外し、淡々と音を紡ぐ。
 息継ぎの合間を縫うようにして虫の声が響き、リィィン、と余韻を残して消えていった。
 その後続いた沈黙は、そこまで息苦しいものではなかった。不思議と心が安らいで、ホッとできる時間だった。
「厚兄さんがやろうとしていることは、分かります。でも、僕は」
「ああ」
 緊張がほぐれて、楽になったからだろう。兄弟には言えなかったことを口にして、前田藤四郎は男の腕に頬を擦りつけた。
 ささやかに甘えて、芋虫のように丸くなった。手足を折り畳み、小さくなって、居心地が良過ぎる空間に身も心も委ねた。
 大典太光世はそんな彼の頭を撫でて、癖のない髪を梳った。
「狭いところに閉じ込めて、自分の好きにするのは、おかしいのではと」
 虫かごは小さく、簡素な構造だった。隙間はあるけれど、逃げられない幅に設計されていた。
 飼われる方は餌の心配がなく、捕食されることもないので安全かもしれない。だが虫らは、本来は野の中に在って、自在に駆け回るもののはずだ。
 こちらの都合でどうこうするのは、間違っている。
 しかし言い出せる雰囲気ではなく、ずっとしこりとなって残っていた。
「そうか」
「はい」
 先ほども交わしたやり取りを繰り返し、吐息を零す。
 ふっと目の前が暗くなった気がして顔を上げた短刀は、一瞬のうちに通り過ぎた微熱に頬を赤らめ、拳を作った。
 猫を真似て、ぺちん、と悪戯な男の胸を叩く。
 大典太光世は声もなく肩を震わせて、拗ねてしまった少年に目を細めた。
 どさくさに紛れて、なにをしてくれるのか。気持ちよく眠れそうな雰囲気だったのに、一発で頭が冴えてしまった。
「酔ってるんですか?」
 彼がこんなことをするのは珍しく、酒の力によるものかと疑った。だが共にひとつの布団で眠っていたのだ。彼が酒臭さを纏っていなかったのは、前田藤四郎が一番よく分かっていた。
 では自分で用意し、こっそり飲んだのかというと、それもない。
 灯りなしで夜の本丸をうろうろ出来るほど、この男は器用ではなかった。
「虫の声に、な」
 だからこれは、酒に酔ったからではない。
 秋の深まりを告げる虫たちの語らいに紛れ、当てられただけだ。
 虫が鳴くのは、番を探すため。己の魂の一部を受け止めて、命を引き継ぐ卵を産んでくれる相手を求め、呼びかけている。
 そこに情愛の類は、ないのかもしれない。本能に従うまま、そうすべきと組み込まれた遺伝子が、そうするように駆り立てているだけなのかもしれなかった。
 だとしても、夜空に響き渡る声の美しさは変わらない。
 一心に雌を欲する雄たちの熱意に毒されたのだと、太刀は密やかに微笑んだ。
「……では」
 真上から覗きこんでくる緋色の瞳を見詰めて、前田藤四郎は顎を引いた。仰け反り、分厚い胸板に後頭部を埋めて、右手を先に伸ばした。
 僅かに遅れて左腕も伸ばして、固くてごわごわしている黒髪を掬い、骨太な輪郭をなぞった。
「僕も、当てられてしまったようです」
 自身や、長兄である一期一振とはまるで違う逞しさを肌で感じながら、ぐん、と背筋を伸ばした。
 首を後ろに倒し、顎を突き出して。
 淡く微笑む男を確認して、目を閉じる。
 ちゅ、と吸い付いたのは、唇ではなかった。背丈に差があり過ぎて、この体勢からではどうやっても届かなかった。
 大典太光世が協力的であれば叶ったが、彼は行動を見守って、動いてくれなかった。
 触れた場所が少しザリザリしていたのは、髭が伸びて来ているからだ。
 毎朝丁寧に剃っているが、たまに剃り残しが飛び出ていることがあった。
 指摘してやれば、太刀は恥ずかしそうにして鏡に向かってくる、と言う。だが前田藤四郎自身は、ジョリジョリした感触が嫌いではなかった。
 再び顎に吸い付いて、ざらりとした感触を舌の腹で楽しんだ。先端を窄め、特に伸びている一本を探り当て、その周囲を擽った。
 それがまるで本物の猫のようで、くすぐったい。
「前田、こら」
 ねっとり舐られ、塗された涎が垂れていくのを感じとり、大典太光世は短刀の頭を押さえこんだ。
 反対の手で喉を拭ってやり、濡れた肌は寝間着の裾に擦りつけた。悦に入っていた前田藤四郎は、邪魔されて不満顔を作り、可愛らしく口を尖らせた。
「いけませんか?」
 何故止めるのかと、窄めた唇から息を吐く。
 膝を胸に寄せ、その前で両手の指を小突き合わせた彼に、上から眺めていた男は深く溜め息を吐いた。
 一旦遠くを見やり、なにを考えているのか、前髪を梳き上げた。あまり広くない額を晒し、灼眼を眇めた。
 りーん、りーん、と鈴虫が鳴いていた。近くにいる雌を誘い、惑わせんとしていた。
 夜明けはまだ遠く、虫たちの営みはこれからが本番だった。
「……お前の兄に、怒られてしまうな」
「いち兄に、なにか言われましたか」
「いや」
 ため息混じりの呟きに、前田藤四郎がムッとする。
 数ある藤四郎を率いる太刀の名を出されて、ドキリとするより、反発心が勝った。
 一期一振は時に厳しく、時に優しく、弟たちに接していた。前田藤四郎も彼を尊敬しており、兄として慕っていた。
 だから大典太光世との関係を快く思って貰えないのは哀しいし、悔しかった。どうして分かってくれないのかと苛立って、大好きな刀と刀が仲良く出来ずにいるのを憂いでいた。
「言われたわけではない、が」
 嫌味のひとつやふたつ、ぶつけられたのかと思ったが、違うらしい。
 口籠もり、歯切れの悪い太刀に首を捻って、前田藤四郎は男の胸に寄り掛かった。
 仰け反ったままだと苦しくて、頚椎も悲鳴を上げていた。楽な姿勢を作り、体重の大半を太刀に預けて、伸ばした膝の上に両手を転がした。
 足首から先だけが縁側からはみ出し、なにもない空間を横切った。足の裏に冷えた空気が触れて、末端を走る血管が一斉に萎縮した。
「大典太さんは、もっと、堂々とすべきです」
 仮にも天下五剣に名を連ねているのだ。自信無さげでおどおどしているのではなく、胸を張り、威風堂々として、肩で風を切るように歩いていればいいのだ。
「難しいな」
 血気盛んに吠えた短刀に、隈が消えない太刀は苦笑した。
 怪異も、病も、烏さえもが彼を恐れ、逃げていった。強すぎる力は時に不幸を招くというが、その典型だった。
 だが虫は、数が多いからか、それとも霊力に対して鈍感なのか。大典太光世を恐れることなく近付き、蔵の傍でも遠慮なく鳴いていた。
 りーん、りーんという鳴き声は、当時も、今も、変わらぬ響きで彼を楽しませた。
「この本丸が、今の大典太さんにとっての、蔵、ですか」
 感じるものがあり、前田藤四郎が声を潜めた。
 あまり口にすべきではない疑問を述べた彼に、太刀は紅蓮の瞳を細めた。
 自分の足で立ち、歩むのを許されなかった付喪神は、この地に至って、自在に動き回れる現身を得た。
 けれど行動範囲は、審神者によって制限されている。本丸の内側と、指令を受けて向かわされた過去の時代のみ、だ。
 規範から逸脱し、歴史を変えてしまうような行動を起こせば、処罰される。彼らを顕現させた時の政府の目的が、時間遡行軍の討伐なのだから、当たり前といえば当たり前だった。
 刀剣男士は、審神者に忠誠を誓う。新たな主の役に立とうと奮起して、この当然の決まりごとを無条件で受け入れた。
 しかしそれは、裏を返せば、己の行動に枷を嵌められている、ということだ。
 彼らに自由はない。
 この本丸は、審神者が作った箱庭だ。
 小声での問いかけに、大典太光世は少し困った顔をした。他に聞くものがないかと素早く左右を確認して、肩を竦め、短刀の丸い頭を撫でた。
「お前にこうして触れられるのだから、随分と居心地が良い蔵だな」
 栗毛色の髪をくしゃくしゃにして、告げた台詞は早口だった。
 前田藤四郎が漂わせた、不穏な空気を乱暴に薙ぎ払った。そういう考えを持つべきでないと叱って、太い指で頭皮を揉みしだいた。
 優しく触れられる分は良いが、適度に力が籠もっていたので、最初は良くても、段々と痛くなってくる。そのうち素手で頭蓋を破壊されるのでは、と恐怖に駆られて、短刀はかぶりを振って逃げた。
 緩く曲げた膝に向かって倒れ込んで、じんじんする箇所を庇い、涙目で後ろを振り返る。
 視界に入った男は呆然として、空になった右手を当て所なく揺らしていた。
 もしや無意識だったのでは、と後から気が付いた。加減知らずの触れあいは、彼なりの照れ隠しだったのかもしれなかった。
「ああ、もう」
 そんな顔をされたら、怒るに怒れない。
 膨れ上がった苛立ちは、一瞬のうちに弾け飛んだ。真面目に考えるのも馬鹿らしくなってきて、前田藤四郎は背筋をしゃんと伸ばし、膝に両手を揃えた。
「大典太さんがそうおっしゃるのなら、もっと居心地良くするために、頑張らねばなりませんね」
 無制限の自由は、とてつもなく重い責任が付きまとう。何をしても良いということと、なにをしても許される、ということは、決して同義ではない。
 鈴虫の鳴き声が弱まった。リィィ、リィィ、とか細くなって、静かな夜に溶けて行った。
 前田藤四郎としても、大典太光世と離れ離れになるくらいなら、いつまでもこの本丸に留まり続けたい。たとえここが箱庭だとしても、沢山の兄弟や、仲間と笑いあえるのであれば、不満はなかった。
「さあ、明日のためにも、そろそろ休みましょう。床を整えてまいります」
 気持ちを切り替え、血気盛んに宣言した。
 いつまでも夜風に当たっていては、冷える一方だ。眠気はさっぱりだが、横になっていればいずれ眠くなるはずと、彼は座り心地抜群の椅子から起き上がろうとした。
「前田」
「大典太さん」
 それを制して、大典太光世の腕が動いた。
 堰き止められた少年は中腰を止めて、仕方なく太刀の胸に舞い戻った。
「明日に、響きます」
 一度は自分から誘ったが、もうそんな雰囲気ではなかった。
 背中越しに感じる鼓動と熱に頬を赤らめて、燻っていた感情を力技で抑えこんだ。
「分かっている。少しの間で良い」
 だというのに、大典太光世はその努力をあっさり吹き飛ばした。
 懇願されたら、断れない。顔を見せないで、耳元で低く囁くのは卑怯だ。
 ぞくりと来て、背筋が粟立った。寝間着の裾を払い、太腿に触れた節くれだった指の感触に、電流が走った。
 左足が引き攣って、爪先が空を蹴った。耳朶を甘噛みされて、全く関係のない場所がゾクゾクした。
 咄嗟に開きそうになった膝を閉じ、右足を床板に押し付けた。内股になって侵攻を防ぐがさほど効果はなく、ぴったり貼り合わせたはずのものが、簡単に左右に割れてしまった。
 狭い空間を突き進み、骨張った手が深く沈んだ。
「……あっ」
 やり方は強引なのに、触れ方は存外優しくて、そのちぐはぐさがおかしかった。
 幼い柔肌を擽り、暗がりの中で掌が蠢く。
「前田、……いいか」
 僅かに乱れ、低さを増した声が耳元で跳ねた。
 質問の瞬間だけ、まさぐる手の動きが止んだ。敏感な場所のすぐ脇に添えて、まだ引き返せると暗に伝えていた。
 本気で嫌がるのなら、ここで終わらせる。
 言外に込められた思いを汲んで、少年は斜めに崩れた姿勢はそのままに、首を傾け、上を見た。
「なんて顔を、しているんですか」
「前田」
 覗き込むようにして待っている男の表情を確かめ、笑みが零れた。相変わらず自信無さげで、心細げな姿に相好を崩して、彼は両手を伸ばし、太刀の頬を挟んだ。
「大典太さんが望むことが、僕の、願いです」
 この箱庭は、心地いい。
 願わくばこの先もこのまま、共に在りたいと祈る。
 一度掴んでしまった以上、手放し難い感情を膨らませて、前田藤四郎は首を伸ばした。
 今度こそ、大典太光世は協力的だった。
 背を丸め、顔を伏した。
 唇を重ねた彼らを羨むように、りーん、りーん、と虫が鳴いた。

秋の野に人まつ虫の声すなり 我かと行きていざとぶらはむ
古今和歌集 秋 202

2017/10/15 脱稿

そゞろがましき 秋蝉の声

 朝晩の冷え込みは激しくなり、布団から抜け出すのが苦痛になり始めた季節だった。
 それでも日中、陽が射しているうちはまだ暖かい。特に南向きの縁側などは、日向ぼっこの特等席と言えた。
 但しそういう場所には、大抵先客が陣取っている。いったい何時からそこにいるのか、と言いたくなる程朝早くから、その場所は大勢でごった返していた。
 三日月宗近や鶯丸に始まり、果ては五虎退の虎や、鳴狐のお供まで。
 獅子王の鵺がそこに混じれば、もふもふが大集合だ。ふかふかして柔らかく、しかも温かいとあって、短刀や脇差が挙って隣を奪い合った。
 火鉢が出て、掘りごたつの出番が来れば混雑ぶりは多少和らぐが、それはもう少し先の話。
 冬はもうすぐそこに迫っている。
 険しい寒さの気配に気づかない振りをして、刀剣男士たちは残り少ない陽気を楽しんでいた。
「相変わらず、あそこは大混雑だねえ」
 そんな密度の高い縁側を眺めて、歌仙兼定が苦笑する。
「混じりますか?」
 小夜左文字がそれに応じて、淡々と問いかけた。
 打刀からどのような返答が得られるか、分かった上での質問だ。意地の悪い少年に肩を竦めて、藤色の髪の男は袖口に両手を差し込んだ。
 胸の前で腕を交差させ、指先を外気から守った。外に逃げる一方の体温を閉じ込めて、足袋を穿いた踵を擦り合わせた。
 夏場は素足だったが、今はこれがないと爪先が寒い。胴衣の下に着込む肌着も、実は一枚増えていた。
 本格的な冬が来れば、更に一枚か二枚、上に羽織ることになる。さすがに厨当番の時は身動きがし辛いので脱ぐが、屋敷でのんびり過ごす時間は、着膨れて真ん丸だった。
 一方で小夜左文字はといえば、夏の盛りと大差ない格好だった。
「お小夜は、それで寒くないのかい?」
 素足に包帯を巻き、裾の短い着物姿。尻端折りを止めて腿は隠れているけれど、膝小僧が歩く度にちらちら顔を出していた。
 中に着こむ肌着を増やした気配もなく、首元から細い鎖骨が覗いている。襷を外しても袖は肘の先までしかなくて、剥き出しの腕を隠す素振りは見られなかった。
 子供は風の子、という言葉があるらしいが、とても信じられない。
 打刀以上に温もりが必要な短刀に問えば、彼は少し悩む素振りを見せた。
 眉間に浅く皺を寄せて、なにも無い空間に視線を這わせた。壁から天井を巡って歌仙兼定に顔を向け直し、嗚呼、と緩慢に頷いた。
「着ると、暑いので」
 言われて気が付いた、と言わんばかりに手首を撫でさすり、摩擦で暖を呼んで呟く。
「薄手の羽織を、貸してあげようか」
 あまりにも自分自身に関心がない発言に苦笑して、打刀は組んだ腕を解き、左手を揺らした。
 親切のつもりで言ったのだが、お気に召さなかったようだ。小夜左文字は一瞬渋い顔をして、目の前で揺れる袂を押し退けた。
「歌仙のだと、僕には大きいです」
 暖簾のように脇へ払い除け、不要だと告げる。
 機嫌を損ねて若干低くなった声色に、歌仙兼定は目を細めた。
 左文字の末弟は本丸でも際立って背が低く、小柄だ。歌仙兼定との身長差は二尺近くあり、打刀の着物をそのまま羽織れば、裾を擦るのは間違いなかった。
 十二単を着ろと言われているようなもので、短刀が拗ねるのは道理だ。
 案の定の返答に肩を揺らして、男が声もなく笑う。すると小夜左文字は益々ムッとして、反撃として無防備な爪先を思い切り踏んだ。
「いづっ」
 全体重をかけて踏み潰し、そのまま通り過ぎる。
 いくら華奢とはいえ、短刀はそれなりに体重がある。決して軽くはない一撃に悲鳴を上げて、歌仙兼定は臍を曲げた少年に苦笑した。
「お小夜、この後は暇かい?」
 昼餉が終わり、厨での作業はひと段落した。
 これから夕餉の準備が始まるまでは、格別予定は入っていない。万屋へ出向くのもよし、防具を磨くもよし、のんびり過ごすのも各刀剣男士の自由だった。
 以前はこの空き時間を使い、八つ時の甘味を作っていた。
 だが今は、それもなくなった。本丸に集う刀が増えて来て、手が回らなくなったからだ。
 ごくたまに、暇を見つけた料理自慢が自作することがあるが、完成品の数は限られている。とてもではないが、全振り分を用意するのは無理だ。
 なので最近は、万屋で各自が好きに買ってくるようになった。幸い、現在の本丸の懐は若干ながら余裕がある。毎月支払われる給金も、初期に比べれば上昇していた。
「僕ですか?」
 それに万屋は、取り扱う品が多い。
 季節ごとに商品が入れ替わり、定番ものから風変わりなものまで、多種多様に扱っていた。欠点はといえば、品数が多過ぎるので目移りし過ぎてなかなか決められない、ということだろうか。
 ついつい使い過ぎて、毎回のように兄弟刀に泣きついているのは包丁藤四郎だ。
 そろそろ新作が出回る時期というのもあり、少し前には脇差たちが、連れ立って出かけていた。
 彼らに倣うわけではないけれど、久しぶりに足を運んでみよう。
 そんな提案をした打刀に、小夜左文字は顔を背け、即答しなかった。
「……どう、かな?」
 迷う理由はないと判断して誘ったのに、躊躇された。
 二つ返事で了解が得られると期待していただけに、意外だった。
「お小夜」
 藍色の髪の短刀は、復讐の逸話を持つ刀だ。仇討ちはとうに果たされているというのに、今でも仇を探し求め、矛盾する現実に苦しんでいた。
 彼を少しでも慰め、気が紛れるのであれば、いくら浪費しても惜しくない。
 本当は自ら作ってやりたいところだが、生憎と今現在、台所は燭台切光忠が占拠している。場所を借りるのは、難しかった。
 妥協案として万屋行きを提示したのだが、反応は芳しくなかった。
「……あまいもの、食べたくはないかい?」
 断られる未来は想像していなかった。
 声を潜め、不安を露わにした打刀に、小夜左文字は若干困った風に頷いた。
「さっき、あの。篭手切が」
「篭手切?」
 言い難そうに口をもごもごさせて、小さな手を左右で結びあわせた。胸の前で指先を細かく動かしながら彼が告げたのは、少し前に顕現した脇差の名前だった。
 篭手切江は、小夜左文字や歌仙兼定と所縁を持つ刀だ。共に戦国大名細川家に厄介になった経験がある。但しこの三振りが、同時期に同じ場所にいたことはない。
 歌に造詣が深い刀でもあるが、それは和歌のことではなかった。
 剣の腕を磨きつつ、歌いながら踊る練習も欠かさない彼は、お陰で歌仙兼定と折り合いが悪い。面と向かって罵倒し合うようなことはないけれど、独特の価値観が未だ理解出来ないようで、会話はギクシャクしがちだった。
 そんな脇差の名前が短刀の口から出て、打刀は露骨に顔を顰めた。
 見ているだけで不機嫌と分かる表情を見せられて、小夜左文字はやれやれ、と溜め息を吐いた。
「篭手切が、なんだって?」
 こうなると分かっていたから言いたくなかったのだが、仕方がない。
 諦めて天を仰いだ少年は、声を低くした打刀に目を眇めた。
 歌仙兼定に話しかけられる、四半刻ほど前のことだ。
「万屋で、買ってきてくれると」
「はあ?」
 玄関先で偶々すれ違った時、せっかくだから、と言ってくれた。
 今頃は目当てのものを購入し、本丸に向かっている最中ではなかろうか。
 先に欲しいものを決めておき、あれこれ迷わないでスパッと選んで買ってくる彼は、万屋にはあまり長居しない方だ。歌仙兼定など、どちらにしようか散々悩んだ挙げ句、最終的には両方買う、という選択肢を取りがちなのに。
 今日の小夜左文字は、既に甘味が約束されている。
 自ら出かける必要は、どこにもなかった。
「先を、越された」
 まったく知らなかったと唖然として、歌仙兼定は瞠目した。絶句し、がっくり肩を落として、惚けた顔で天井を仰いだ。
 虚ろな眼差しが中空を彷徨い、ぽかんと開かれた口元は間抜けだ。覇気が失われた姿は格好悪くて、小夜左文字は困った顔で嘆息した。
「どうしますか?」
 もうじき帰ってくる篭手切江の為に、寛げる場所を確保したかった。
 だけれど縁側は、見ている限り、空きそうになかった。
 他にゆっくり過ごせる場所が、どこかにあっただろうか。探せばいくらでもあるのだけれど、これという場所が思いつかない短刀に問われて、歌仙兼定は渋面を作った。
 篭手切江のことだから、きっと打刀の分も買って来てくれる。
 彼の良心に期待するか訊かれて、打刀は苛々しながら床を蹴った。
 全身を小刻みに揺らして、数秒悩んだ末にふー、と長い息を吐いた。様々な葛藤を一緒に外へ追い出して、姿勢を改め、背筋を伸ばした。
「茶の準備をして、待っていようか」
 険しかった表情を緩め、微笑みながら告げる。
「そうですね」
 小夜左文字は深く頷いて、庭に並べられた床几を指差した。
 あちこちに植えられた桜や楓は、まだあまり色付いていない。しかしいずれ燃えるような赤色に染まり、朝な夕な、皆の目を楽しませてくれるだろう。
 その時にのんびり観賞できるよう、準備は着々と進められていた。
 気の早い観覧席には、毛氈が敷かれていた。日除けとして赤い番傘が立てかけられているけれど、飾りとしての意味合いが強く、役立っているかどうかは微妙だった。
 縁側には劣るけれど、あちらも充分温かい。
 今年最後の青紅葉を眺めて過ごすのも悪くないと、歌仙兼定は鷹揚に頷いた。
「ではお小夜、場所取りをお願いするよ」
「分かりました」
 今は無人の床几も、いつ誰かに占領されるか分からない。
 分担を決めて一旦は別れて、歌仙兼定は台所に向かった。
 甘ったるい匂いに酔いながら湯を沸かして茶を煎れて、三振り分の湯飲みを盆に並べた。篭手切江が何を買ってくるかは分からないが、舌が変になっては困るからと、請われた味見は断った。
 新しく来た短刀のためにと、毎日のように菓子を作る太刀に若干辟易しながら草履を履き、庭に出た。
 日差しは穏やかで、風は涼しく、心地よかった。
 こうやって屋外でのんびり過ごせるのも、あと僅かだ。
 雪が降り始めたら、縁側は一気に空いた。今あそこを占拠している集団が、代わりに火鉢や、炬燵に群がるまで、そう間がなかった。
 火鉢用の炭は、充分だっただろうか。
 へし切長谷部がぬかりなく手配してくれているはずだが、後で自分でも確かめることにして、歌仙兼定は砂利を踏んだ。
 夏場ほど背が高くない雑草を蹴散らし、小夜左文字が待つ床几を目指す。
「ああ」
 そこには見慣れた短刀の他に、もう一振り、眼鏡の少年の姿があった。
 どうやら、帰ってきていたらしい。この時ばかりは日頃のわだかまりを忘れて、安堵に頬を緩めた。
 まさか万屋からの帰路で迷子になることはないだろうが、篭手切江は本丸に来てそろそろ三ヶ月。この少々慣れた頃合いが、間違って余所の本丸に行ってしまう失敗が起き易い時期だった。
「歌仙」
「戻っていたようだね」
 無事の姿を確認して、ホッとした。
 細川所縁の刀としてではなく、本丸最古参としての顔を見せた彼に、小夜左文字はなぜか複雑な表情を作った。
 短刀の右側に座っていた脇差も、ふた振りのやり取りを受けて振り返った。
 その膝には、万屋で買ってきたものと分かる袋があった。中身が取り出され、包み紙はぺしゃんこに潰されていた。
 笹の葉を皿代わりにして、並んでいるのは拳ほどある饅頭だ。
 ただ、二個しかない。
 それがどういう意味を持つのか。
 申し訳なさそうに首を竦めて、短刀は棒立ちの打刀に頷いた。
「今から、……行ってきます」
 言葉もなく立ち尽くしている歌仙兼定に言って、小夜左文字が床几から飛び降りた。両足を揃えて着地して、凍り付いている男に駆け寄った。
 袖を引かれて、盆の上の湯飲みが互いにぶつかり合った。かちゃん、と乾いた音を立て、急須の中身が激しく波立った。
 蓋の隙間からじわ、と液体が染み出して、濃くなった湯気にハッとする。歌仙兼定は立て続けに数回瞬きをして、開けっ放しの口を閉じた。
「え、あ。え。え?」
 状況が上手く整理出来ず、理解が追い付かない。
 動揺して目を泳がせた彼に、床几に座った脇差が呆れ顔で溜め息をついた。
「歌仙のお茶が、冷めてしまいますよ」
 混乱する打刀を無視し、短刀にだけ呼びかけた。隣に座るよう、大きく開いた空間を叩いて、突っ立っている少年を手招いた。
 屈託なく微笑んで、楽しそうだ。なにが歌仙兼定を戸惑わせているのか、理解した上での態度のようだった。
「でも、篭手切」
 そのあまりの意地悪ぶりに、小夜左文字は声を高くした。珍しく感情を露わにして、責めるような眼差しを投げ返した。
 もっとも睨まれても、脇差は平然と受け流した。全く悪びれる素振りはなく、手招きを続けて、硬直が抜け切らない男には不遜な笑みを浮かべた。
「いいじゃないですか。もともと八つ時の菓子は、短刀と、脇差を中心にしていたんでしょう?」
 それは本丸の食事事情が大きく変わる前の話。
 歴史修正主義者との戦いが始まって二年が経過した辺りから、守れなくなることが多くなった不文律のことだ。
 今ではすっかり形骸化し、最近顕現したばかりの刀剣男士は知らないことの方が多い。昔は菓子が配られ、争奪戦になっていたと言われても、にわかには信じ難かろう。
 篭手切江の言う通り、以前は短刀と脇差が、菓子をもらう中心的立場だった。しかし粟田口が総勢十振りを越えた辺りから雲行きが怪しくなり、包丁藤四郎が加入した頃には、出来あいの菓子を配る方が多くなっていた。
 やがて一部の刀が身銭を切って用意するのはおかしい、という話になり、菓子の配布そのものがなくなった。
 食べたければ自分で作るか、自分で買うか。
 誰かに作ってもらいたければ、材料代くらいは自前で用意すること。
 それが今現在の、本丸の決まりごとだった。
 だから昔の約束事を例に出しても、なんの意味もない。
 けれど歌仙兼定は脇差のひと言に反応し、ビクッと大袈裟に肩を跳ね上げた。
 短刀の頭上で目に見えない火花が飛び交い、無言の応酬が繰り広げられる。間に立たされた小夜左文字が困惑する中、盆を片手で支え持った男が、不安げな少年の肩を優しく包み込んだ。
「ああ、そうさ。僕は文系だからね」
 軽い力で床几の方へ押し出して、自らも足を繰り出した。
 意味が分からない台詞を堂々と吐いて、初期刀である青年はゆっくりと盆を下ろした。
 横長の床几の端に置いて、その隣に腰かけた。急須を手に取り、湯飲みに順に注いで、まだ座っていない少年に差し出した。
「お小夜も、座ると良い」
「え、ええ。はい」
 表面上はとても穏やかで、笑みが絶えないのが、余計に不気味だ。
 いつもなら癇癪を爆発させ、遠慮なく怒鳴り散らすくせに。
 そんな光景ばかり見て来たから、今回もそうなると危惧した。だのに思いもよらぬ展開になって、動揺が否めなかった。
 渡された湯飲みを両手で抱いて、彼は躊躇の末、打刀と脇差の間に座った。若干窮屈だが、我慢出来ないほどではない。むしろ番傘が作る影の境界線が顔に掛かり、そちらの方が鬱陶しかった。
 右目と左目で、光の量が違う。
 半分明るく、半分くらい環境を嫌って身体を右に振れば、番傘側に座っていた篭手切江と肩がぶつかった。
「おっと」
 膝に置いていた饅頭を咄嗟に庇って、その上で短刀の体重を受け止めた。
 細身なようで、案外肉付きはしっかりしている少年を反射的に仰いで、小夜左文字は謝罪の代わりに頭を下げた。
「ほら、そっちも」
「はい。ありがとうございます」
 そのやり取りを横目で睨んで、歌仙兼定が仏頂面で言った。眼鏡の少年はにこにこしながら返事して、湯飲みに半分少々注がれた茶を受け取った。
 明らかに量が少ないが、篭手切江は特になにも言わなかった。それで小夜左文字も敢えて指摘はせず、程度の低い喧嘩にひっそりと溜め息を吐いた。
 白い湯気を吹き飛ばしてひと口啜れば、煎茶の良い香りが咥内に広がった。
「あちち」
 歌仙兼定も湯飲みに口を付け、冷まし方が足りなかったと肩を竦めた。
「それで、小夜。どっちがいいですか?」
 飲まなかったのは、篭手切江だけだ。彼は熱々の茶を冷ますべく、傍らに置いて、先に饅頭に手を伸ばした。
 幅広の笹の葉ごと持ち上げて、煎茶に息を吹きかけている少年に訊ねる。
 味がそれぞれ異なるのは、見た目の色が違うので、最初から分かっていた。だけれど中身がなんなのかについては、未だ言及がなかった。
 それでどちらかを選べというのも、なかなかに意地悪だ。
「あの」
「篭手切、先に味を説明すべきではないのかい?」
 すぐには決めかねて躊躇した短刀を庇い、打刀がぐっと身を乗り出した。頼んでもないのにお節介を焼かれて、小夜左文字は呆れつつ、少し助かったと吐息を零した。
 ただ篭手切江としては、面白くなかったようだ。
「歌仙には、関係ないでしょう」
 どうせ打刀は食べないのだから、どんな味であろうと、どうでも良いことだ。
 短刀に訊いているのだから割り込んでくるな、と言わんばかりで、口調には棘があった。
 スッと目を細めて睨んだ彼に、歌仙兼定は悔しげに奥歯を噛んだ。膨らむ一方の苛立ちに拳を作り、太腿に押し当てて、左の踵で何度も地面を蹴った。
 振動が床几全体に伝わるが、反対側に座る脇差はなにも言わなかった。改めて戸惑う短刀に饅頭を示して、
「さあ、小夜。選んで?」
 歌仙兼定などこの場には居ない、という体で会話をやり直した。
「……はあ」
 周囲の空気がピリピリして、和やかな雰囲気とは程遠かった。左側では打刀が貧乏ゆすりを止めず、右側にはわざとやっているとしか思えない脇差の笑い顔がある。
 歌仙兼定をからかい、面白がっている気配をありありと感じながら、小夜左文字は仕方なく左側の饅頭を指差した。
「そっちで良いんだね?」
 自分に近い方を示しただけであり、格別深い意味はない。
 どんな味が当たろうと、文句を言うつもりはなかった。念押しした脇差に黙って頷いて、短刀の付喪神はちらりと隣を窺った。
 正面を向いて茶を飲んでいる男は、こちらに関心を示していないようで、実際はそうではない。全神経を耳に集中させており、少しでも気に障ることがあれば動く心づもりだった。
 この環境で食べる饅頭は、さぞや美味かろう。
 皮肉めいた想像をして、彼は両手を空にすべく、左肘を外向きに広げた。
「う」
「置いてもらえますか」
 もれなく脇腹を突かれて、歌仙兼定が呻いた。不意打ちを食らった打刀は変なところから声を出し、取りこぼしそうになった湯飲みを慌てて抱き直した。
 それを冷めた目で眺めて、小夜左文字は自分の湯飲みを差し出した。
 床几は元々二人掛けで、三振りが並ぶと殆ど隙間が残らない。真ん中に座る短刀は、尚更だ。
 湯飲みを置きたいが、腿の間に挟むわけにもいかない。饅頭を受け取る方法を模索した結果、隣に頼るしか道がなかった。
 面倒臭いが、止むを得なかった。
 濡れた口元を拭った打刀は、数秒してから意図を察して、嗚呼、と頷いた。
「承知した」
 何故か得意げに言って、空の方の手を差し出した。自分の湯飲みと揃えて盆に並べて、量があまり減っていないのを確かめた。
 急須を揺らして残量を調べ、注ぎ足すかどうかでしばし悩む。
 その横で、小夜左文字は差し出された饅頭を取った。
 表面はこんがり小麦色をして、底は白い。つるりとした外観で、中身は見当がつかなかった。
 篭手切江の手元に残った分は、こちらよりもっと肌が黒ずんでいた。全体的に艶があって、陽を受けて輝いていた。
「初めて見ます」
「人気の商品だそうだよ」
「はあ」
 茶色と、黒、といったところか。燭台切光忠が作る洋菓子に似ているが、歌仙兼定が得意としている焼き饅頭にも近いものがあった。
 見た目よりもずっと重く、食べ応えがありそうだ。夕餉までに消化されてくれるか少し心配になったが、大丈夫だと己を鼓舞し、短刀はえい、と噛みついた。
 大きく口を開け、がぶりと食らいつく。
「むんっ」
 一気に頬張るのは難しく、三分の一を少々越えた程度で噛み千切った。鼻から息を吐き、ボロッと咥内で崩れ落ちた菓子の意外な柔らかさに瞠目した。
 舌先に触れただけで、甘さが伝わってきた。塊を唇に押し当てたまま二度、三度と瞬きを繰り返して、ゆっくり口を閉じ、饅頭の断面に焦点を定めた。
 中は、黄色だった。
 卵黄のような鮮やかさが眩いが、味は別物だ。過去に食べた経験がある風味だと眉を顰め、彼は正体を探りながら咀嚼した。
 ごくりと飲みこみ、ひと息ついて、左右から注がれる視線にカアッと赤くなる。
「かぼちゃ、……ですか」
 食べているところをまじまじ見られるのは、恥ずかしい。口の端に残っていた欠片を払い落として、小夜左文字は自信無さげに呟いた。
 栗に似た甘さだけれど、そこまでさらりとしていない。深みがあり、ねっとりして、いつまでも舌に残る感じだった。
 かぼちゃの煮つけが、一番近い。裏ごしされて原形を留めないので確証が持てないが、恐らくこれで間違いなかろう。
 こんな風に加工すれば、菓子にも使える野菜だった。
 ごつごつした、武骨な外見からは思いつかない味わいだった。
 最初にこれを思いついた人は凄い。手放しに感心して、小夜左文字はひと口目で変に尖っていた箇所を啄んだ。
「おいしいですか?」
「はい。初めて食べます」
 じっくり味わいながら食べ進める少年に、脇差が興奮気味に問いかけた。短刀は素直に頷いて、脇差の手元に残る饅頭に意識を傾けた。
 ひとつは南瓜だった。ではもうひとつは、何が入っているのか。
 歌仙兼定もこっそり視線を送る中、眼鏡の少年はふふん、と若干偉そうに胸を反らした。
「こっちは、ほら。薩摩芋です」
 笹の葉から引き剥がした饅頭の真ん中に爪を立て、左右に割り開いた。ボロッと崩れたのは最初だけで、塊は綺麗にふたつに分かれた。
 中から現れたのは、小夜左文字が食べているものより若干色が薄めの餡だった。
「うん、美味しい」
 それを良く見えるようふた振りに示した上で、片方をぺろりと頬張った。難なく口に入れ、顎の動きを徐々に小さくしていった。
 湯飲みを取って歯の隙間に残った分を押し流し、ひと息ついて、淡く微笑む。
「小夜も、食べますか?」
「え」
 そうして残り半分となった饅頭を示し、朗らかに言った。
 思わぬ提案に驚いた短刀の向こうで、打刀が一瞬、凄い顔になった。偉丈夫ぶりが嘘のように崩れ落ち、羅刹が如き表情を見せたかと思えば、短刀が振り向いた瞬間にはすっかり元通りになった。
「歌仙、お茶をください」
「ああ、はい。どうぞ」
 頼まれて、歌仙兼定は鷹揚に首肯した。余裕ぶった態度を取って、盆に並ぶ湯飲みをひとつ手に取った。
 差し出され、小夜左文字は受け取りを一瞬躊躇した。右手に饅頭の残りを持ち、左手で掴もうとして、先ほどと形状が違うような気がして眉を顰めた。
 打刀が持ち込んだ湯飲みは、三つとも似たような形をしていた。灰色の釉薬が掛けられて、素朴な風合いが持ち味だった。
 茶の残量も記憶と異なっているものの、歌仙兼定が寄越したものだから、大丈夫だろう。
 降って湧いた疑問を無理矢理捻じ伏せて、彼は温くなった茶を数回に分けて啜った。
「篭手切、僕はもう、貰っています」
 ほう、と息を吐いて四肢の力を抜き、右に向かって囁く。
 噛み跡がはっきり残る饅頭を揺らして答えれば、眼鏡の脇差は苦笑しながら首を振った。
「構いませんよ。そっちの、少しください」
 既に饅頭一個を譲られているのに、更に半分追加するのは、いくらなんでも多すぎる。
 そう言って断ろうとしたのだが、篭手切江は妥協案を提示して、短刀が持つ饅頭に人差し指を向けた。
 再び歌仙兼定の顔が凄まじいことになっている中で、小夜左文字は慌てた様子で脇差と手元とを見比べた。
「でも、齧ってしまってます」
 食べ差しを与えるなど、失礼極まりない。ならば新しいものを、と考えるが、人気の商品となればもう売り切れているだろう。
 薩摩芋味の饅頭も気になるが、歯型がくっきり浮き上がっているもので構わないのか。こうなることが分かっていたなら、篭手切江のようにふたつに分割して食べたのに。
「気にしませんよ。いいですか?」
 食いかけを渡すなど、兄弟刀相手でもやったことがなかった。行儀に五月蠅い歌仙兼定相手なら、尚更だ。
 ところが篭手切江は、そういうところに頓着しないらしい。
 もう既に、食べる気満々だ。首を竦めて姿勢を低くしている彼に、小夜左文字は困った顔で目を細めた。
「じゃあ……」
 彼が良いと言うのであれば、構わなかろう。
 押し問答が続くのは不毛で、諦めた少年はおずおずと饅頭を差し出した。
「!」
 歌仙兼定が悲哀と憤怒、両方が複雑に混じりあった顔をする中、篭手切江の口元へ運んでいく。
 脇差は唇を開くと同時に目を閉じて、小夜左文字が齧ったその上から、固めの皮と柔らかな餡を削り取った。
 もみあげが前後に揺れて、額を覆う黒髪がさらりと踊った。
 思った以上に長い睫毛に驚いて、短刀は静かに離れて行く脇差をじっと見守った。
「どう、……ですか」
「うん、こっちも美味しいですね。買えて良かった」
 恐る恐る訊ねれば、眼鏡のずれを直した少年が感極まった様子で呟いた。特に汚れてもない親指をぺろりと舐めて、笑顔に嘘偽りは感じられなかった。
 万屋の人気商品は、ぼやぼやしているとすぐ売り切れてしまう。
 今回も争奪戦だったと肩を竦めて、彼は残っていた薩摩芋餡の饅頭を更に半分に割った。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
 彼が齧ったのは、四分の一にも満たない量だ。これでは公平な配分とは言えないが、短刀は敢えて指摘しなかった。
 好意は、素直に受け取っておくべきだ。遠慮ばかりしていては、相手が嫌な気分になる。
 それはいつぞや、太鼓鐘貞宗に言われた言葉だ。
 彼の言い分はもっともだと思ったが、実行するのは難しい。けれど今がその時だと自戒して、短刀はスッと口を開いた。
 右手に食べ差しの饅頭、左手に湯呑みを持った状態では、こうするしか方法がない。
 背後の打刀の顔が一段と悪化したとも知らず、小夜左文字は突き出された饅頭の欠片を、脇差の手から直接受け取った。
 舌に転がった瞬間唇を閉じ、前歯で半分に砕いた。餡と皮を分離させて、磨り潰してひとつに戻し、口をもごもごさせて蕩けるような甘さを堪能した。
 皮自体にも練り込まれているのか、味が違った。香ばしさが加わって、こちらの方が弾力があった。
「美味しい」
 歌仙兼定が作るものとは一味違って、新鮮だった。
 思わずぽろっと呟いて、感嘆の息を吐く。
 直後にハッとした彼は、振り返り見た先で打刀が異様な姿勢を取っているのに首を捻った。
「なにをしているんですか、歌仙」
 男は両腕を高く掲げ、手首から先を地面に向かって垂らしていた。それだけだと幽霊画のようだが、背筋はしゃんと伸びており、目を吊り上げた形相は地獄の鬼に近かった。
 牙を剥き、短刀さえ丸呑み出来るくらいに大きく口を開けていた。
 血走った眼は爛々と輝いて、不気味でありながら、どこか滑稽だった。
「い、あ……えっ、と」
「ふふっ」
 不味いところを見られたと、歌仙兼定は顔を引き攣らせた。腕を下ろして背中を丸め、床几に座り直した彼の肌は、どこもかしこも真っ赤だった。
 羞恥に喘いで小さくなった彼に、篭手切江が堪え切れずに噴き出した。
「小夜。歌仙も、食べたいみたいですよ」
 短刀と脇差の、仲睦まじいやり取りに嫉妬したとは、口が裂けても言えない。
 人見知りが過ぎて未だ親しい刀が少ない男の心理を読みとって、黒髪の少年は意地悪く囁いた。
 耳打ちされて、小夜左文字は目をぱちくりさせた。そうなのか、と急ぎ打刀に向き直って、手元に残る饅頭の欠片を揺らした。
「でも、歌仙は。前に」
 歌仙兼定は日頃からなにかと行儀に五月蠅く、小夜左文字のみならず、あらゆる刀に説教を繰り返して来た。
 彼の言葉を真に受けて実践する刀はあまり多くないけれど、皆無ではない。
 その数少ない短刀は、脇差の言葉に絶句した。小首を傾げて丸まっている男を覗き込んで、苦虫を噛み潰したような表情をそこに見出した。
 これまでの強気で、傲岸不遜な態度が薄れ、気弱な子供の顔になっていた。図星を指摘されて、恥ずかしさに呻いていた。
「……食べますか?」
 小夜左文字と篭手切江が齧った菓子を口にしたら、彼が今日に至るまで積み上げてきた価値観が軒並み崩れることになる。
 以前回し食いの現場に遭遇した際、彼は口角泡を飛ばす勢いで説教していた。だがここで自らが実行すれば、二度と他者を咎められない。
 それでもいいかとの問いかけに、歌仙兼定はぐっと息を呑んだ。
 深い葛藤を瞳に滲ませて、逡巡し、口を開けては閉じる、を何度も繰り返した。
 なかなか決心がつかない様子で、肌色は優れず、目尻には薄ら涙が滲み始めた。
 その優柔不断ぶりが女々しく、鬱陶しい。焦れったさに負けた短刀は溜め息ひとつ吐き、右手を伸ばした。
「えい」
「むぐ!」
 食べても、食べなくても後悔するのだ。だったら迷うだけ時間の無駄だった。
 そもそも、そこまで深刻なことなのか。付き合ってやるのも馬鹿らしくなって、ぐるぐる悩んでいた男の口に、饅頭の残りを強引にねじ込んだ。
「うわ、えぐい」
 無理矢理突っ込んで、吐き出さないよう掌で押さえ付けた。咀嚼し、飲みこむのを確かめるまで離さなかった。
 身を乗り出して見ていた篭手切江は、小夜左文字の強引なやり口に引き攣り笑いを浮かべた。自分は気を付けよう、と肝に銘じて、すっかり冷めてしまった茶を啜った。
 ずずず、という音を横で聞きながら、復讐の逸話を持つ短刀は腕を引いた。湿っている掌を打刀の袴に擦りつけて、惚けた顔の男を睨みつけた。
「どうですか」
「……うまい」
 感想を訊ねる表情ではなかったが、誰も何も言わなかった。
 ぽろっと零れ落ちた独白を聞いて、篭手切江は口元を綻ばせた。
「小夜、はい」
 笹の葉の皿に残した四分の一を手渡し、顎をしゃくる。
 それだけで意図を察した少年は、引き取った饅頭を打刀に突き付けた。
 歌仙兼定はもう迷わなかった。即座に口をパカッと開いて、当たり前のように舌で受け取った。
「んむ、ん……ああ。こちらも、なかなかどうして。悪くないな」
「どうですか、歌仙。あなたなら、同じ物を作れそうですか?」
 行儀の話などすっかり忘れて、意外性が高い甘味に舌鼓を打った。初めての経験だとしきりに感心して、横から飛んできた質問には自信満々に頷いた。
「やってみるよ」
 完全に同じ物は難しいが、近いものなら作れるだろう。
 明日にでも材料を揃え、試作に取りかかる。その決意を聞いて、篭手切江はしてやったりと歯を見せて笑った。
 小さく握り拳を作ったのを、小夜左文字は見逃さなかった。
 人気の菓子は、なかなか手に入らない。季節限定ともなれば、争奪戦は更に激しくなる。
 だが手近なところに作れる刀がいれば、わざわざ万屋に出かけなくても良い。
「小夜、ありがとう」
「最初から、そのつもりだったんですか?」
「小夜が美味しいって言ってくれたら、歌仙は絶対、断らないからね」
 どうやら自分たちは、彼の策略にまんまと嵌められたらしい。
 小声で耳打ちされて、小夜左文字は苦笑した。
 舌に残る味を頼りに、男は材料を探っていた。芋の種類から作り方まで想像して、真剣に考え込んでいた。
 後日、味見役として徴集されるのは間違い無い。案外狡賢い脇差を一瞥して、彼は歌仙兼定のものだった湯飲みを抱き、煎茶で喉を潤した。

山里のそともの岡の高き木に そゞろがましき秋蝉の声
山家集 秋 295

2017/10/08 脱稿