虹の橋を渡れ
昔、まだ世の中が今よりも平和だった頃
よく母が語ってくれたおとぎ話
どうしても最後が思い出せない
あれはなんという話だっただろう……
ハイランド王国、ルカ・ブライトとの戦いもいよいよ佳境に突入しようとしていた。
アガレス・ブライトの暗殺によりハイランドの全権は狂皇子から狂皇ヘと移ったことで、ラストエデン軍との戦況も加速的に変化し、軍の一端を担っていたキバ将軍親子の離反に繋がった。彼らは元々、アガレスに忠誠を誓っていた為だ。
キバ将軍はラストエデン軍に与した。
しかし、いくら彼らが優秀な人材であり、リーダーであるセレンが彼らを許したからといって素直に彼らを受け入れられない人間も、新同盟軍の中には存在していた。
忘れることなど出来ない。キバ将軍、そしてその息子であるクラウスは、トゥーリバーを占領下に置かんとして姑息な手段を用いた。小規模ではあったが戦いも起きた。その時に死者が出なかったわけではない。負傷し、二度と昔のような生活ができない体になってしまった人もいる。大切な人を傷つけ、大切な町を戦火に巻き込もうとした彼らを、そう簡単に仲間として受け入れられない。ましてや、彼らはそれまで属していた国を裏切って傘下に下ったわけだ。いつ、また裏切るかも分からないと不安がる声も出ないはずがない。
それを知ってか知らずか、ラストエデン軍の年若きリーダーは、今後の為と南に位置するトラン共和国との同盟を結ぶためにシーナに連れられて、つい先日出発している。
リーダーが不在でも仕事は忙しい。
キバ将軍の参入で兵数は一気に増えた。それだけ兵糧の消費は早くなり、対応策として一人頭に配られる食事の量が少なくなる。当然、以前からいた兵士達の間には不満の声が挙がるわけで、これらに対処するのも軍師の仕事のひとつになっていた。
他にやりたがる人間もいないし、やれると思われる人材も見当たらないためだ。だからシュウの仕事の量は他の人間の倍は軽くいっていた。
「少し休んだ方が……」
ここ数日のシュウの仕事ぶりを側で見てきたアップルは、彼の執務室に入室するなり、そう言った。
薄暗い室内に置かれたテーブルの上には、逐一報告される各地の戦況や状況を記した書類が散乱している。シュウがチェックしたものには印が付けられているが、そうでないものの方がぱっと見、多かった。
背もたれの付いた椅子に腰を下ろして書類の束に目を通していたシュウは、入ってきたアップルに一瞥を向けるとすぐにまた書類に視線を戻す。
アップルの知る限り、シュウは昨日からずっとこの部屋のあの位置に居続けている。ベットに眠りに入ったのは一体いつが最後だっただろう。
「シュウ兄さん?」
返事をしないシュウに、入口で止まったままのアップルが彼の名前を呼ぶ。彼女の手にもまた新しい報告書が束になって抱えられていた。
「聞こえている」
「なら……」
「休んでいられない事はお前もよく分かっているのではないのか?」
視線を合わせない会話に、アップルはいたたまれない気持ちでシュウから目をそらした。
「でも、兄さんが倒れられでもしたら……」
「その時はクラウスがいる」
「…………」
最近仲間になったばかりの人物を思い浮かべ、アップルは小さくため息をつく。
思わず言いそうになる言葉があった。しかしそれを言ったとしてもシュウを困らせるばかりか、自分がますます惨めになるだけだと知っているから、彼女は言えずにいた。
「でも……」
クラウスは、と言いかけてアップルは初めてシュウが自分を見ていることに気付いた。心の底を見透かされた気分になってつい、彼女は後ずさりしてしまう。背中が閉じられた扉にぶつかった。
「……それより、用があって来たのではなかったのか?」
アップルが何を考えていたのか、シュウには大方の見当は付いていた。だが彼女が自分から言ってこない以上、彼もそれを言及する気はない。これは至極個人的な感情によるものであり、軍師としての立場にある今に話し合うべき事ではないからだ。
「そう、……ですね。今、いいですか?」
「かまわない。何かあったか」
言いにくそうなのは変わらないが、その声色が微妙に先ほどまでとは違うものになっている彼女に、シュウは持っていた報告書をテーブルに戻して椅子を引き、体ごと向き直った。そして指で壁際に寄せられていたもうひとつの椅子を示し、座るように言う。
「いえ、ここでいいです」
けれどアップルはその申し出を断り、胸に抱く書類の中からひとつを取りだした。向きを変え、シュウに手渡す。
「ラダトから、最新の情報です。……どう思いますか?」
ここに持ってくる前にアップルは一通り報告書に目を通していた。そこに書かれている事がもし本当なら、由々しき自体であると彼女は考えてすぐにここに持ってきた。だが扉をノックしてから気が付いたのだ。シュウがここのところ働きづめであることを。
本当だったとしても、何も起きないかもしれない。そう思ってしまった。
「…………私に判断を任せる前に、自分でこれは問題がある、と判断したからこそ私に見せに来たのではないのか?」
「はい……」
雑な文字が並ぶ書類に素早く目を通し、シュウが顔を上げてアップルを見る。普段はこういう前線から直接届いたものは、アップル達が簡潔にまとめたものを清書してからシュウに到る。しかし今回、この行程は省略された。
紙面には緊張しきった蛇のようにのたうつ、非常に読みにくい文字が並んでいる。かろうじて解読できる部分と、解読したアップルの文字をつなげていくと、それはラダトの東でハイランドの一部隊が奇妙な動きを見せているという内容になった。
数はそう多いとは言えない。しかし、少ないと言うことも出来ない。ラダト以東のサウスウィンドゥとの国境を監視するだけ、というにはあまりにも説得力の欠ける数字がそこに記されていた。
「約2千か」
ふむ、顎を持って小さく唸ったシュウに、アップルは彼の次の言葉を待って縮こまる。
現在、ラストエデン軍リーダーはラダトの町から渡し船を使ってトラン共和国に行っている。今ラダトがハイランドの占領下に置かれでもしたら、彼らはここ、レイクウィンドゥ城に戻ってくることが出来なくなってしまうかもしれない。それだけは避けなければならないのだ。
「見過ごすことは出来ないな」
ぱさり、と資料を机の上に置きシュウは一言そう言った。
「では……」
「直ちに兵を派遣する。ただし、あくまでも様子見だ。もしあちらに不穏な動きが見られるならば、やむを得なんがな」
最後の方は付け足し程度の語調で呟き、シュウはアップルを見上げる。
「指揮はお前に任せる。もしやりあうとしても、前哨戦だと思えばいい。私は今ここを離れるわけにもいかないしな」
リーダーが留守である以上、ラストエデン軍を統率するのは筆頭軍師である彼しかいない。もっとも、リーダーが城にいても実質的な城の主はシュウなのだが。
「分かっています。それで、シュウ兄さん。数はどれほどに……」
「それは追って指示を出す。編成は私がやっておこう。アップル、お前は休めるときに休んでおけ」
「そんな! これ以上シュウ兄さんに仕事を押しつける事なんて私には出来ません」
休まなければならないのはシュウの方だと、話をだいぶ前に戻してアップルが叫んだ。その時につい、抱えていた残りの書類を床にばらまいてしまい彼女を更に慌てさせた。そんな光景を眺め、シュウはため息をこぼす。
「実戦でそんな調子では困るからな」
呆れたような物言いに、アップルは顔を真っ赤にした。穴があったら入りたい気分とは、こういうときの事を言うのだろう。
「失礼します!」
まだ未整理だった資料と、各部署に配布する指令書をかき集め彼女は逃げるようにシュウの部屋を出ていった。どたばたという足音が床に響き、しばらくしてやけに大きなものが落下する音が聞こえてきたから、多分足を何かに引っかけでもして転んだのだろう。その様を想像して、申し訳ないとは思いながらシュウは声を殺して笑った。
だが、じきにいつものクールな表情を取り戻してアップルが残していった問題の報告書を再び持ち上げると、さっきとは異なるため息をこぼした。
「これは……いい薬にはなるやもしれんな」
組織が大きくなればそれだけ多くの種類の人間が集まってくる。考え方が正反対な人間同士でも、肩を並べて足並み揃えてもらわなければ困る。わだかまりは残るだろうが、恨みを残しておくことは避けたいところ。それには互いを理解し合うのが一番だ。
好きで争いあっていた訳ではないのだと。
「さて……。お手並み拝見といこうではないか」
机の上に肘をつき、久しぶりに楽しいことを見つけたらしいシュウがにこやかに微笑んだ。
次の日、アップルは早々にシュウに呼び出された。
恐らく昨日言っていた事だろうと早足で彼の部屋に駆け込むと、先客がいた。その姿を見た途端、感情は出来る限り表に出さないように指導されていたアップルでも思わずむっとしてしまう。別にその人が悪人だとか、アップルが何かをされたとかそう言うわけではないのだが、まだその人を認めきることはアップルには出来ていなかった。彼女が女であることも、ひとつの原因であったかもしれない。
「来たか」
朝起きて身支度をし終わった途端にかかった呼び出しだった。それから大急ぎでここまで来たのに、先客がいる。つい、自分よりも先に呼び出されていたのでは、と疑ってかかってしまいそうになった。
シュウにもっと近くに寄るように言われ、渋々彼女は先客──クラウスの横に並んだ。
「早速で悪いが、今日にでもラダト東、ハイランドの先発部隊への牽制として2千5百の兵を連れて出発してもらいたい」
「2千5百とは……斥候としては多すぎやしませんか」
ふたりに向き直ったシュウの言葉に、出陣を言い渡されたことよりもその数に驚いた様子のクラウスが尋ねる。
「相手側も同程度だ。ただ確実性を要求して、多少の割増はしてあるがな。今ラダトを占拠されては困る」
昨日の夕方の時点で、伝書鳩によってトラン共和国との同盟が成立したことが伝わっている。だから尚更、ラダトの重要性は増す。もしかしたらそれを見越して、ハイランドは急に国境地帯の増員を計ったのかもしれない。
「マイクロトフとカミュー、それからエイダを連れて行け。念のため、ホウアンにも同行を依頼しておいた。ほかに連れていきたい者がいれば、言ってみるといい。許せる範囲で応じよう」
「……確認でお聞きしますが、私も行くのですね?」
アップルは昨日の時点でシュウから指揮を任されている。しかしクラウスはまだ何も言われていない。今日いきなり呼ばれ、来てみれば突然ラダトへの出陣の話が飛びだした。寝耳に水だっただろう。
「そうだ」
「兄さん!」
クラウスの問いかけになんの迷いもなく即答したシュウに、アップルが怒鳴り声で彼を呼んだ。だが、
「既に決めたことだ。アップル、お前の心配も分かっている。だが、だからこそクラウスには行ってもらわなければならないのだ。それに、クラウスの才なくしてはこの先、ラストエデン軍は勝ち星を取り逃がす事にだってあるかもしれない」
「…………」
悔しげに唇を噛むアップルに、シュウの声は冷たく響く。あえて話に割り込むことをやめておいたクラウスの態度も、アップルには傲慢に映った。
「そんなに……そんなに私では……」
泣き出しそうな顔をして、彼女は口元を押さえた。
「失礼します!」
こみ上げてくる涙を堪えきれなくなったらしい。人前で泣くことは彼女のプライドが許さない。アップルはふたりに頭を下げるとそのまま来たときと同じように駆け足で部屋を出ていった。
ばたん、と扉が力任せに閉じられて行くのを見送ったクラウスが咎めるような目でシュウを見た。
「いいのですか?」
「あれでも軍師の端くれだ。じきに理解してくれるさ」
「そうではなく……」
ここのところアップルの感情はひどく乱れている。その理由に自分が知らないところで噛んでいたことを、今の彼女の態度を見てクラウスはなんとなく理解した。
「もう少し優しくしてあげてはどうですか」
「では君がそうしてやってくれたまえ」
「そのようなことを……」
相手にしようとしないシュウに、クラウスは報われないアップルに心の中で同情した。だが確かにシュウの言うとおり、今は非常事態であり色恋沙汰にうつつを抜かしている場合ではなかった。
「クラウス、君には別個で一部隊を率いてもらう」
拡大されたラダト東部の地図に書き込まれた配置図に指を沿わせ、シュウは話を戻した。
「君には本体とは別行動で、この森を迂回して白狼軍の後方を突いてもらう。数は、そうだな。3百もあれば足りるだろう。カミューとエイダをこの隊に回すから、そのつもりでいろ」
ラダトの東側はなだらかな丘の続く草原と、その両脇に広がる森で構成されている。白狼軍はその丘の麓に陣を張っているらしい。
「アップルには本体の方を指揮させる。前面での交戦に気を取られている隙に、白狼軍の後方を取ることが目的だ」
後ろを取られた軍隊ほど、弱いものはない。前と後ろの両方から攻撃されれば、相手側がいくら強固な守りを持っていたとしても敵ではない。
「いきなりですね」
だが敵だってむざむざ背中を取らせてくれるはずがない。成功すればメリットは大きいが、失敗すればこちらは逆に一網打尽にされてしまう。
「私はまだ、同盟軍の面々から完全に仲間として受け入れられてはいませんよ」
自分に向けられる視線が暖かいものばかりではないことを、クラウスはよく分かっている。自分の立てた作戦により、トゥーリバーでは戦いが起こった。あの時に死者がまったく出なかったはずはないし、命令されていたとはいえ各地での虐殺行為に荷担したことも、消すことのできない事実だ。
「セレン殿が君たち親子を許されたのだ。それでは足りないのかね?」
捕虜となって連行された親子を、ラストエデン軍リーダーのセレンは許し、助力を求めてきた。
相手を憎むことはとても簡単だ。しかし許すことは難しい。その難しいことをそうとは思わないまま、セレンはやってのけた。彼の器の広さに惹かれたからこそ、キバもクラウスも、恥を承知の上でラストエデン軍に寝返ったのだ。
でも。
「私はあなたが思っているほどの人間ではありません。買いかぶりすぎではありませんか?」
ラストエデン軍創設時点からの仲間であるアップルを差し置いてまで、クラウスは自分を前に出すつもりはなかった。所詮は裏切り者。ここにいることを許されただけでももうけものだったのだ。
「君こそ私を買いかぶってはいないかね。生憎、私は人に世辞を言うほど偏屈な男ではないのだよ」
「…………」
どうあってもクラウスの辞退を聞き入れるつもりはないと、態度で示すシュウにクラウスはこっそりとため息をつく。
「分かりました。誠心誠意を持って当たらせてもらいます」
「頑張ってくれたまえ」
クラウスのめいいっぱいの皮肉をなんともせず、自分の思い通りに行ったことをとても満足しているシュウが答えを返す。諦めの方が大きかったクラウスは、ならばやれるだけやってみようと心を決め、シュウの部屋を後にした。
その日、正午を回った頃には全ての準備が整ったと、ほんの少し泣きはらした目をしたアップルは出陣を宣言。レイクウィンドゥ城に詰めていた兵300を引き連れ、湖沿いに馬を走らせた。
作戦内容はアップルにも伝えられていた。ラダトに到着と同時に、彼女は兵を8つに分けてそのうちの1つをクラウスに託した。その中にはシュウの言ったとおり、カミューとエイダの姿もあった。
「白狼軍は報告によると、左翼を前方に突出させた布陣をとっているそうです。左翼を担当しているのは重装騎兵だという可能性が高いでしょう。対抗策としてこちらも右翼は層を厚くし、また騎兵を配置して機動力で相手側を封じ込みます。これは、マイクロトフさんに一任します」
「分かりました」
白狼軍2千を前に、これからの作戦会議を開いたアップルの説明に皆が熱心に耳を傾ける。もちろんクラウスもその中の一人だった。
「左翼はどうするのです?」
カミューが質問し、それにアップルがあらかじめ立てて置いた計画の内容を公表。一部に欠陥が見られると、それはカミューやマイクロトフ達によって修正が加えられ、より完璧に近い作戦へと形を変えていく。
しかし戦場には「完璧」などありはしない。常に、何か予測を越える事態が起こることを考え、すぐさまそれに対処できてこそ、戦場を支配できるのだ。
「クラウス殿の部隊には期待をしてもよろしいのかな?」
マイクロトフが黙ったままだったクラウスを振り返る。
「かつて白狼軍の一軍師として働かれていた貴殿のことだ。今丘の下にいるハイランド将校の考えていることも読みとっておられるのではないのかな?」
冗談のつもりで言ったのかもしれない。マイクロトフに悪気があったわけではない。だからカミューにテーブルの下で足を踏まれなければ、マイクロトフは気が付かないまま喋り続けていただろう。
今回クラウスが指揮する部隊には、もちろんラストエデン軍に自ら協力を申し出てきた兵士達もいる。だが、3百のうちその半数以上までもが、それまで仕えてきたキバ将軍に従って同盟軍入りした、もとはハイランドに属していた兵士達だった。
だからだろう。兵士達の間では、クラウスやその部下が自分たちを裏切ってまたハイランドに寝返り攻撃してくるのではないか、という噂が流されていた。
もちろんそんなものが真実であるはずがなく、ただの流言でしかない。だが戦いを前に神経が高ぶっている兵士達にとっては、まことしやかに流れる噂は十分信じるに値するものとなっていた。
だから、疑われている元ハイランド兵達は行動を持って証明してみせると意気込んでいる。逆にそれが重荷になりはしないかと、噂が噂でしかないことを知っている者達は不安に思っていた。
「明日に備え、各自今日は休んで下さい。見張りの火は絶やさずに、お願いします。解散」
シュウになりかわり軍を指揮するアップルの言葉で作戦会議は終了した。各々、割り当てられたテントに戻っていく。
戦いは次の日の早朝、始まった。
幼い頃に聞いたおとぎ話にこうあった
白い羊と黒い羊はいつもいつも喧嘩をしていた
白い羊は黒い羊が変だと言い、黒い羊は白い羊こそがおかしいと言った
羊は白くなくちゃいけないと、一体誰が決めたのか?
それは神様だと白い羊が答えると
じゃあその神様はどこにいるのかと黒い羊が聞き返す
お空の上だと白い羊は言い返し
お空には誰もいないと黒い羊が笑った
それじゃあ確かめに行こうと白い羊が言って
二匹の羊はお空の上を目指して旅に出た
出会う人全てに尋ねたけれど、誰もお空の上り方を知らない
天にそびえる高い山に上ったけれど
お空の上には届かない
やっぱりお空の上には誰もいないと黒い羊はこう言って
諦めきれない白い羊は空を見上げてこう言った
そうだ、虹の橋を渡ろう!
夜明け前、迂回行路をとって先に出発したクラウス達を見送って数時間後、戦いの開始を知らせる鐘の音が両軍に鳴り響く。
別働隊を除いたラストエデン軍の総数はほぼハイランド白狼軍と並び、勝敗を決定するのはクラウスの行動によるものが大きくなっていた。しかし彼が無事に背後を白狼軍の捉えたとしても、同盟軍がそれまで持ちこたえられなかったら元も子もない。アップルにかかる責任も半端ではなかった。
「……シュウ兄さんはいつもこんなプレッシャーと戦っていたのね……」
以前ビクトールの砦でやっていたような小さな戦いではない。規模は同程度か、少し小さいくらいだがこの戦いの結果によって、もたらされる未来は大きく左右されてしまう。
アップルは7つに分けられた隊を、前面に4つ、後方に3つに配置した。出来る限り層の厚さは均等になるようにしてあるが、昨夜の会議の時に言ったように、右翼のみが他と比べるとやや厚みが大きい。最前列には弓隊が置かれ、軍が衝突する前の牽制役として空にたくさんの孤が描き出された。
盾を構えた兵士達が問答無用で突き進んでくる。中には盾を貫通した矢によって倒れる兵士もいたが、多くは弓隊の攻撃を顧みず突撃してくる。
旗が掲げられ、弓隊は後方に下がった。かわりに盾と槍を構えた歩兵が前に出て、白狼軍を迎え撃つ。
予想通り、白狼軍は左翼に攻撃力の高い重装騎兵を配置、ラストエデン軍の右翼突破を目標にしてきた。これを迎えるのはマイクロトフ率いるマチルダ騎士団の面々だ。
「絶対に先へ進めるな!」
マイクロトフの声が戦場に響き渡り、彼に従う青騎士達の間からも果敢な声があがる。一騎当千とまではいかないにしても、そう言わせるだけの実力を持っている騎士団の各員はよく戦ってくれていた。
戦場では何よりも気迫がものを言う。絶対に負けない、という気持ちを持ち続けることが勝利に繋がるのだ。一瞬でも弱気なことを考えた者は、それだけでずたずたに引き裂かれてしまう。だから気持ちは大切だった。そして勝利を疑わないでいることは、戦場ではとても難しい事だった。
また、戦いが長引くことも戦況を不利にする一因だった。
時間は人の心を狂わせる。疲れは正常な判断力を失わせる。
「クラウスはまだなの?」
太陽が高く昇ってもまだクラウスの部隊からは何の音沙汰もない。予定通りに行っていればそろそろ彼らは白狼軍の後方に出ていてもおかしくない時間だ。
後方で全軍への識見を握っているアップルの顔に、徐々に焦りが出てくる。疑っている訳ではなかったが、クラウスの行動が勝利のカギとも言えたので、尚更彼女は不安を隠せないでいた。そして、それは兵士達にも伝染する。
軍師はその感情をめったやたらに表に出すべきではない。それは基本中の基本とも言えること。だが、ここには叱ってくれるはずのシュウも、師であるマッシュもいない。
アップルはまだ、たった18才の女の子なのだ。
「右翼、突破されました!!」
悲鳴に近い伝令の声に、アップルははっとなって顔を上げた。慌てて遠めがねで自分の右手前方を見ると、土煙が上がっている一帯が確かにあった。
「すぐに右翼に兵を回して!早く!!」
後方待機だった兵士をかき集めさせ、後ろを取られないように白狼軍を押しとどめようとする。前線に出ていたマイクロトフも一端指揮に専念するために後方に回った。彼の青い鎧には、あちこちに返り血がこびりついていた。
「左翼が手薄!?」
両軍入り乱れての乱戦となっている右翼に気を取られ過ぎた所為で、左翼側の守りが薄くなっていた。白狼軍の攻撃の手は止むことなく続き、少しずつではあるがラストエデン軍は押されていた。このままでは総軍退避を知らせる旗を揚げなければならなくなる。
「そんな……!」
そのことを考え、アップルは愕然とした。今、考えるべき事はもっと他に沢山あるはずなのに、一度思い浮かべてしまった撤退の言葉が、何度頭を振っても消えてくれない。
なにも考えられない。
「駄目、これでは駄目。しっかりしなさい、アップル!」
ぱしん!と両頬をはたいてみても、最後の選択ばかりが彼女をさいなむ。
どうしようもないのだろうか。自分にはまだ荷が重すぎたのだろうか。こんな所で負けるわけには行かないのに──!
「助けて……」
人に聞かれないように、アップルは呟いた。
もう、彼女一人ではこの状況を打破する手段を思いつけそうになかった。そんな、ラストエデン軍の中に絶望が漂い始めた頃。
ようやく彼は戦場に姿を現した。この危機を打ち砕くために。
戦闘が始まったことは、遠くまで響く鐘の音で知らされた。夜明けの暗い中を進軍するクラウス率いる隊は、予定通りに順調すぎるまでのペースで進んでいた。
だが、周辺一帯が明るくなり始めた辺りでまずエイダが異常に気付いた。
「森が……静かすぎる」
深き森の防人だった彼女には、森の生き物たちの息吹を感じることが出来る。しかし今彼らが右手に見ている森は、嵐が過ぎ去った後のようにひっそりと静まり返っていた。
「森の向こうでは戦闘が起きています。その所為では?」
馬を並べたカミューが言うが、納得がいかない様子のエイダはまだ森を睨み続ける。そして、おもむろに、
「クラウス殿、現時点はどの辺りですか」
森は広い。迂回コースを終えて彼らが平野部に戻る地点は、ハイランド軍が駐留していた場所から更に東に行ったところのはずだった。そして森の切れ目は間もなく現れようとしている。すなわち、カミューの言うような戦闘はこの森のすぐ南側では起こっていないはずなのだ。
「とすると……」
指摘を受け、カミューは考える素振りを見せる。
行進をやめて立ち止まった指揮官達に、連れられている兵士達の間にも不安が生まれてくる。中には噂を思い出した兵もいただろう。そんな兵士達の心配をよそに、カミューはふっと息を吐き出し、
「待ち伏せ、でしょうね」
「おそらく、間違いないでしょう」
地図を広げて見ていたクラウスも、迷うことなく同意した。森を睨むエイダも同様らしく、ちらりと彼らを見るとひとつ頷いた。
「で、どうしますか」
待ち伏せがあると分かった以上、このまま進むわけにもいかないだろう。かといって引き返す事もできない。戦いは既に始まっているわけだし、クラウス達を信じて戦って待っている仲間達を裏切ることだって出来ない。
答えを求めるカミューとエイダの視線を受け、地図から目を上げたクラウスは深々と長く息を吐いた。
「隊をふたつに分けましょう」
カミュー率いる部隊と、自分とエイダの率いる隊とに。
クラウスの説明はこうだ。
まず間違いなく、この先には白狼軍の伏兵が待ち受けている。このまま進むのはわざわざ罠にかかりに行くのと同じ、愚行でしかない。しかしまるっきり無視をすれば彼らは待ち伏せを読まれたと判断、すぐさま前線に回るだろう。混戦の中での少数とは言え新たな兵力補給は、相手をしているアップルの部隊にはかなりの打撃となりうるだろうから。
「カミューさんには50の騎兵を任せます」
「了解。適当に相手をしたら適当に逃げ出します」
クラウスの意図することを言われる前に理解したカミューに、クラウスはホッとした表情で次の説明に移っていった。
「残りの兵を連れ、私たちはこの森を強行突破します。エイダさん、先導役をお願いします」
「分かった」
鞍の上で地図を示しながらの説明に、エイダもすぐに頷き返してくれた。森歩きの能力を持っている彼女無しでは、きっとこの森を抜けて戦場に出ることは出来ない。他の兵士達には無理をさせることになるから森抜けはなるべくやりたくなかったのだが、この際道を選んでいる余裕はない。
「危険な事をお任せしてしまって……」
「気にしなくても結構ですよ。こういうことは私と赤騎士にしか出来ないことでしょうし。マイクロトフには無理でしょうから」
猪突猛進タイプの多い青騎士では、牽制を繰り返しながら後方に撤退するという戦い方はまず無理だろう。柔軟性に富むカミューだからこそ任せられる事で、逆に言えば彼以外の人間にこの役目は達成できないだろう。
「すべて、シュウ軍師の計画だったわけだ」
あまりいい気はしないな、とエイダがひとりごちる。それを苦笑して聞き流したクラウスはすぐさま今変更したばかりの作戦を全ての兵士に通達した。
そこからの彼らの動きは早かった。
カミューに率いられて約50名の赤騎士達は落ち着いた足取りで予定通りのコースを行き、クラウスはエイダが導くままに兵を連れて森を駆ける。
森の中には獣たちの姿はまったく見当たらず、ハイランドがいかに早い段階からこの周辺に占拠していたかが伺い知れた。
徐々に争乱の怒号や喧騒が大きくなっていく。日の光がわずかしか届かない森の中から再び太陽の下に現れた彼らの前には、血に染まった大地が対照的なまでの青空の下に広がっていた。
「旗を!」
クラウスが叫ぶ。
赤地に白の羽根が描かれた、新同盟軍──ラストエデン軍の旗が白狼軍のすぐ後方で風に乗り翻った。
「あれを見ろ!」
「クラウス殿だ!」
アップルの周りでも、その光景はよく見ることが出来た。もともと丘の斜面で戦っていたわけだから、上から下を眺める分には申し分ない。
「まだやれるぞ!」
「勝てるぞ!!」
一度は意気消沈し、勝負を諦めかかっていた兵士達の間に再び覇気が生じる。また、後方を取られた白狼軍は予想していなかった事だっただけに一気に浮き足立った。
「今だ、行け!!!!」
右翼の形成を立て直していたマイクロトフも、この格好のチャンスを逃すはずがない。後方に一度は引き戻していた騎士達をまた一気に前面へと押し出し、指揮系統に混乱が生じた白狼軍を次々に駆逐していく。
「後ろは気にするな!このまま前に出て、クラウス殿と合流する!」
戦いは大体の場合、指揮官が倒された時点で終了となる。ラストエデン軍では現在アップルが最高指揮官だが、彼女は陣の最後列で守られており、混乱が収まらない白狼軍では到底たどり着くことは出来ないとマイクロトフは判断。彼は今の勢いのまま白狼軍左翼を撃破し、後方に回って完全に相手側を包囲してしまう道を選んだ。
「団長!……ああ、また勝手なことを……」
剣を振り回し、俺に続けと叫んで突っ走っていくマイクロトフの背中を、彼の部下である一人の青騎士は少し情けない面で見送った。ここにカミューがいたら、止めてくれただろうにと思いながら。
だが、そのカミューは現在待ち受けていた白狼軍約2百の兵を相手に、あっちへ行ったりこっちへ逃げたりと忙しくそんなことまで面倒見ていられない状態だった。
「クラウス殿!」
白狼軍後方の一団は今までの中でも最大の混戦のまっただ中に放り込まれていた。軍師であるクラウスも剣を取り、向かってくる兵と斬り合いを繰り返している。もともと軍人の息子として育っただけはあって武術の才も秀でている彼だ。多少危なっかしく見えても後れをとることはなかった。
ただ一番の心配事は、彼が軽鎧しか身につけていないことだろう。
「私の後ろへお回り下さい!」
ハイランド時代から彼に付き従ってきている騎士に言われ、右腕を軽くだが負傷したクラウスは素直に彼の好意を受け取った。口と左手で包帯を荒っぽく傷口に巻き付け、仮の止血を済ませるとすぐにまた敵を警戒して剣を握る。柄は他人の血で赤く染まり、ちょっと力を緩めると簡単に滑って行ってしまう。注意しながら彼は周囲に視線をめぐらせた。
接近戦に不利なエイダは、森を出る直前で隊を離れ、馬を下りると木に登った。今何をしているのかと言えば、木陰に身を隠しての遊撃隊としてちゃんと参戦している。どこから飛んでくるか分からない弓矢での攻撃は、十分相手側に恐怖をもたらす。
「あれか……!?」
数人の騎士に囲まれ、白狼軍の動きを注意深く観察していたクラウスの視界にやけに守りの厚い一個小隊が入った。
旗が風になびく。地に落ちた白狼軍、ハイランドの旗は血と泥にまみれて元の姿を思い起こすのが難しくなっていた。ただ新同盟軍の旗だけが、見事に風を受け止めている。
「大将を狙え!」
逃げだそうとしている一団を指さし、クラウスは叫んだ。
形勢は完全にラストエデン軍の有利に傾き、勝負を捨てて逃げ出すことを選んだ白狼軍の指揮官はすぐに駆けつけたマイクロトフと青騎士達によって討ち取られた。
こうして戦いは夕方までに終了し、指揮官を失った白狼軍は武器を捨てて投降するか森に逃げ出していった。生き残りの白狼軍討伐隊はすぐに編成され、深追いしないようにと釘を刺されたのち、戦場に散っていった。
これにより白狼軍対ラストエデン軍の前哨戦はラストエデン軍が勝利を飾り、それまで疑いの目を向けられることの多かったクラウスと彼の部下達は完全に同盟軍の仲間として認められた。最後まで別行動だったカミュー達も日暮れまでには全員無事で戻ってきて、ラダトの町も歓喜の声に包まれた。
悲しくも命を落とした兵士達はこの場所で葬られ、その夜は弔いの鐘の音が絶えることなく響き続けた。
だが、血生臭い臭いはやがて風にながされて消えていくだろう。この場所で今日、戦いがあったという記憶と共に。
虹の橋を渡ろう
あの橋の向こうにきっと神様はいるから
虹の橋を渡ろう
僕達の答えはきっとそこにあるから
手を取り合って二匹の羊は歩き出す
彼らの空に、虹の橋を描いて
「シュウ兄さんは最初からこうなることが分かっていたのね……」
自分の非力さを思い知ったアップルは、勝利の美酒に酔うことも出来ずキャンプの片隅で小さくうずくまっていた。
「ここにいましたか」
向こうの方では馬鹿騒ぎしている兵士達の声がする。酒盛りを止める事は軍師といえども出来なくて、やりたいようにさせて置いたのはアップルだけではなくクラウスも同じだ。彼は酒は静かに飲むものだと思っている。だから巻き込まれる前に退散してきた。
「お疲れさまです」
鎧を脱ぎ、傷の手当をホウアンにしてもらったクラウスとは違い、アップルは怪我ひとつ負っていない。守られるばかりで何もできなかったことを恥じ、悔いているのだろう。現れたクラウスに彼女は更に膝を抱えて顔を俯かせた。
「……情けないって……思ってるでしょう」
実際、彼女は後半何もしていない。一人で混乱して兵達を動揺させてしまった。軍師失格と言われても仕方がない事をしたのだ。
「いいえ。よくやっていたと思いますよ。……見ていませんでしたけれど」
最後になってようやく本隊と合流したクラウスはアップルの指揮をほとんど見ていない。だが、そう思えるだけの理由はあった。
「あそこまで軍を維持し続けられたのは、あなたの立てた作戦が良かったからでしょう。兵達もよく頑張ってくれていた。持ちこたえられたのは、あなたがいたからです。あなたがいなければこの作戦事態が存在しなかった。言うなればあなたがいたからこそ、シュウ軍師はこの戦い方を選べたのですよ」
アップルの横に腰を下ろし、夜空を見上げながらクラウスは言った。
微かにアップルが身じろぎする。
「もっと自信を持ってもいいと思いますよ」
今回のことがなければクラウスはまだ同盟軍に仲間として受け入れられきっていないままだっただろう。ともに同じ敵と戦い合う事の出来る仲間だと、ようやく認められたのだ。
「本当に……そう思ってる?」
「思っていますよ?」
顔を上げ、クラウスを見て尋ねるアップルに、彼はにこやかな笑顔で答えた。
「……やっぱりかなわないのかなぁ」
「何がです?」
「…………もういいわ」
ため息と共に吐き出し、アップルは立ち上がった。服についた土を軽くはたいて落とすと、大きくのびをしてずれた眼鏡を直した。
「負けないから」
「はぁ」
「さーって。飲むぞー!!」
「……アップルさん、未成年じゃ……」
くるりと踵を返し、大騒ぎの輪に向かって行く彼女を、よく分からないといった顔でクラウスは見送った。それから少し考え込み、小さく首を振ると諦めて自分も歩き出す。
「駄目ですよ、アップルさん!」
ラダトの馬鹿騒ぎはしばらく終わりそうになかった。
翼をもがれた雛鳥は
誰かのために生かされている、という事実が。
この命に与えられた羽根をもぎ取っている。
翼を奪われた雛鳥は、親鳥がもたらす餌でしか己を生き長らえさせる術を持たない。
逃れたくても、叶わないのならば。
いっそ……
ぼんやりと空を見上げていると、後ろから子供達のはしゃぎ声が聞こえてきた。
「あ、キール」
柔らかくて暖かな空気を運んでくる少女の声に名前を呼ばれ、思考を停止させてキールは振り返った。
「邪魔しちゃった?」
アルバの頭を撫でながらやや遠慮がちに尋ねてきたリプレに小さく首を振って、キールは自分が腰掛けていた切り株から立ち上がった。その物言わぬ静かな行動に、ラミがびくっと震えてリプレのエプロンにしがみつく。
「雛鳥が……」
「え?」
そんなラミを見下ろしてぽつりと呟いたキールの言葉は、風に流されて音まではリプレに届かなかった。
「いや、なんでもない」
僅かに頭を振って呟いたキールはそのまま、彼女たちの横を素通りして孤児院に入っていってしまった。
彼がフラットにやってきて、まだ数日。彼は一向にこの環境に馴染もうとせず、逆にこの空間に溶け込むことを全身で拒否しているようにも見えた。同じ時間をフラットで過ごしているハヤトの方は、すっかり一員となってしまっているのとは好対照とも言えよう。
最初は、騒がしいのが苦手なだけだと思われた。しかし、どうも違う気がしてリプレは首を傾げる。
「リプレママ?」
キールの去っていった方向をじっと見ていた彼女のエプロンを、ラミが引っ張って呼ぶ。その瞬間、自分は子供達の遊び相手をしてやるために庭に出てきたことを思い出して苦笑した。
「ごめんごめん、ぼーっとしちゃった」
ぺろっと舌を出して戯けたように笑ってみせ、子供達を安心させると彼女は何時までも自分の回りでとまっている子供達をけしかけた。
「ほーら、子供は子供らしく元気に遊びなさい!」
幸い近くに転がっていた継ぎ接ぎだらけのボールを手に取り、ぽーんとアルバの方に放り投げてやると、それをキャッチした彼はすぐさまフィズへと投げ返した。コントロールの定まらないボールの行方は掴みにくく、あっという間に子供達は庭全体に散らばって行ってしまった。
元気よね、とはしゃぎ回り子供達を眺めながら、リプレはふと、さっきまでキールが座っていた切り株に目をやった。
彼は一体何を見ていたのだろう。興味を引かれ、彼女は試しにそこに腰掛けてみた。足の上に肘を置いて頬杖を付き、丁度少し首を上向けた位置に、通りから庭が見えないように視界を遮る庭木が見える。
「あれ……?」
鳥の羽ばたき音に気付いて彼女は首を持ち上げた。目を凝らすと、並んでいる木のうちのひとつに鳥の巣が掛けられていた。
たった今戻ってきたばかりの親鳥が、生まれ手間もないだろう雛に餌を与えている。
「キールが見てたの、これかぁ」
再び頬杖を付いて呟いたリプレの足下に、ラミが受け損ねたボールが転がって来た。
立ち上がってボールを拾い、彼女はそれを山なりに空に放り投げた。孤児院の屋根の高さまで上がったボールを追いかけ、アルバとフィズが走る。
この輪の中に加われ、とまでは行かなくとももう少し皆と仲良くしてくれたらいいのに、と子供達を見守りながらリプレは思った。
生かされているだけの雛鳥は思いました。
この巣の外はどんな風になっているのだろうか、と。
餌を持って帰ってくる親鳥はいつも、どんな光景を見下ろしているのだろうか、と。
そして何時しか、雛鳥は自分の翼で外へ飛び出すことを望むようになりました。
けれど、哀しいことに雛鳥の翼は既に親鳥の手によってもぎ取られてしまっていたのです。
雛鳥は一所懸命に考えました。
そして、ひとつの答えを導き出したのです。
「キール、居る?」
遠慮がちにドアをノックする音がして、返事を待たず扉は開かれる。
「なにか用?」
椅子を引いて上半身だけで振り返ったキールの淡々とした問いかけに、扉口で片手にノブを持ったまま立ち止まっているハヤトは微妙に困った顔で笑った。
「用ってほどのものじゃないんだけど、さ。天気がいいし、散歩でもどうかなって」
頭を掻きながら何処かで言葉を探しているハヤトの言い訳じみた台詞に、薄暗い部屋で机に向かっていたキールは彼に解らないように小さく微笑んだ。
「構わないよ」
特に何かをやっていたわけではないしね、と付け足すように言うと、ハヤトは途端にパッと笑顔になって部屋に駆け込んでくる。
「じゃ、行こう!」
まだ座ったままのキールの手を取り、早く行こうと促すハヤトはまるでさっきの子供達のようだ。けれど、今のキールの目には、そうは映らない。
――僕にとって、君は……
声にならない声を心の中で呟かせて、キールは立ち上がる。椅子を机の下に戻し、ランプの明かりを消して部屋を出ると、夕食の支度で屋内に戻ってきていたリプレと視線がぶつかった。
「お出掛け?」
「散歩に行ってくる」
彼女の質問に、実に機嫌良さそうに答えたのはハヤトだ。その後ろでキールは苦笑するばかり。
「じゃぁ、ついでにお買い物頼んじゃっても良いかな?」
「いいよ、何買ってくるの?」
お強請りするように微笑んだ彼女の元に駆け寄ってハヤトが買ってくる品物の内容と、その代金をリプレから受け取る。その間、キールは玄関へ続く扉の手前で黙って待つ。視線はリプレと、ハヤトに向けたまま。
「お願いね?」
「解った、行ってきます。ほら、行こうキール」
ポケットに小銭の入った袋を押し込み、ハヤトはキールの腕を取って引っ張った。その背中に、リプレが思い出したように声をかけてきた。
「キール、小鳥……可愛いよね」
何のことか解らないハヤトはきょとんとしたが、彼女の言葉の意味をすぐに察したキールは先ほどの庭でのことを思い出し、曖昧に微笑む。そして何も答えず、今度は自分からハヤトを促して孤児院を出て行ってしまった。
雛鳥は、考えました。
そしてひとつの答えを見つけました。
親鳥よりももっともっと大きな鳥に頼んで、自分をここから連れだしてもらおうと。
大通りに出ると人通りも増えて、ふたりははぐれないようにいつの間にか、どちらともなく手を繋いでいた。
「あ、なぁ……キール?」
二軒目の店での買い物を終え、三軒目を目指して歩き出したハヤトはぽつりとキールに言った。
「さっきの、小鳥って?」
どうやらずっと気に掛かっていたらしい、出掛けでのキールとリプレのやりとりを問われたキールは少し間を置いてからこう言った。
「ヤキモチ?」
「違う!」
即答で、しかもこんな天下の往来のただ中で大声を出したハヤトは、一瞬後自分のやったことに気付いて顔を赤くした。その姿をクスクスと笑って、キールはハヤトの手を引いて歩き出す。一歩遅れて、下を向いたままのハヤトが付いてくる。
「孤児院の庭に、鳥の巣があるんだ」
それのことだよ、と雑踏に紛れてしまいそうな音量で呟やかれたキールの言葉は、しかししっかりとハヤトには届いたらしい。
「え、それ本当!?」
驚いた顔を上げて早足になったハヤトは、すぐにキールの横に並んで顔を覗き込んでくる。
「嘘はつかないよ」
どことなくぎこちなさの残る笑顔を向けると、ハヤトは益々嬉しそうに微笑んでくる。邪気のないあどけなさは、少しずつキールの心を傷つけていくのに。どんどん彼を、割り切れなくしていくのに。
雛鳥は策を練りました。
親鳥に気付かれないように、己の中にとても大きな力を迎え入れるために。
この場所から逃げ出す、ただそれだけのために。
それなのに雛鳥は迷ってしまいます。
翼をもがれたはずの雛鳥は、もしかしたら、そう思いこまされていただけなのかもしれないと。
そう思いこんでいただけなのかもしれない、と。
「日が暮れる前に、急いで帰ろう」
「あと、バノッサに見付かる前に?」
どちらかが先に握ったのかも解らない手を、放せなくなっているのは自分の方だと、キールは静かに目を閉じた。
青き誇り
敵を眼前にしておきながらそれらに背を向けて撤退するということは、騎士としてあるまじき行為であり、最大の恥辱であると彼は考えているらしい。助けられるはずの多数の命を見捨てたという念もあるのだろう。自領へ戻ってからしばらくの間、彼はそれこそ手のつけられないほどに荒れていた。
元々潔癖過ぎる感のある性格をしている。生真面目で、騎士としての誇りを体現しているかのような彼にはファンも多い。
だが、その反面融通の利かない事も多いため、たとえ相手が自分よりも位の高い人であっても、己の信念に反すると思われる行為を見逃すことが出来ず、昔はそれでよくもめた。
あの性格で、よくもまあ、青騎士団の団長などという要職を手に入れたものだ。時々本気でそう思う。
それで思い出したのだが、前青騎士団長、彼はマイクロトフをたいそう気に入っていて、かわいがっていた。
昔から青騎士団には骨太の、言ってしまえば頑固で頭の堅い人が多かった気がする。団長は騎士団の旗であるから、当然の如く頑固者がその職に就く。その為か、対照的に赤騎士団には応用力のある柔軟な考え方をもつ人がつくようになっていた。
そのマイクロトフだが、さすがに部下に当たり散らす事はしなかったが纏う空気はぴりぴりしており、平時よりも遙かに過酷な訓練を自らに科すようになっていた。
あれでは先に体が壊れてしまうと、青騎士団の面々は不安で仕方がないようで、なんとかしてくれと赤騎士団長であるカミューに泣きつく始末。
「やれやれ……」
本来、青・赤両騎士団は別の組織。命令系統も何もかもが別れていて、だから青騎士団の問題は自騎士団内で解決するのが常であるはずなのだが。
「何故、皆私に押しつけるのでしょうねぇ……」
「……人徳でしょう」
窓の外を見上げ呟いたカミューの言葉を、控えていた副騎士団長がさりげなく答える。そこに微かな嫌味が混じっていることを、カミューは追求しなかった。
「あの状況……ミューズ市が所有していた兵力はわずかに一万を越える程度。雇い入れていた傭兵を合わせても一万五千を上回るので精一杯でした。対するハイランド・白狼軍は後方支援部隊を合わせれば三万超。我がマチルダが派遣した青騎士団二千の兵など、焼け石に水でしかありません」
冷徹なまでに当時の状況を繰り返してくれた副団長を手で制し、カミューは「分かっている」と小声で呟いた。
ミューズでの一戦で、青騎士団を派遣したのも、撤退させたのもすべて白騎士団長であり、実質的にマチルダの支配者であるゴルドーの意志だった。
出陣前、マイクロトフは派遣する騎士の数に不満を抱いていた。その頃はまだ白狼軍がどれほどの兵力を持ち出すかが分かっておらず、いうなれば政治的取引としての派遣という意味合いが強かった。ミューズ市が陥落するという事実が読めていなかったわけではないが、ハイランドの真意も掴みかねていたのも、また事実。
何故、この時期に──?
マイクロトフも、カミューもミューズ市があそこまで押さえ込まれ、敗北するとは予想できなかった。騎士団が派遣した二千の騎士は尖兵であり、本隊がそれに続いてハイランドを抑える。それがおそらく、マイクロトフが描いていた歴史だろう。しかし、実際はそれとは大きく外れていた。
青騎士団は、白狼軍を前に撤退──事実上の敗走を余儀なくされた。たとえそれが命令であったとしても、そうと知らない人々の目には敵を前にしっぽを巻いて逃げ出す姿として映っただろう。
マチルダ騎士団領はミューズ市と境界線を接している。ミューズ市が敗戦をほぼ決定してしまった以上、マチルダ騎士団は自領を守るために国境を固めるべき。それが、ゴルドーの言い分だった。
たとえ二千の兵とはいえその中には騎士団長のマイクロトフや、副団長その他、マチルダにとって無くてはならない逸材が含まれている。戦場で失うわけにはいかないし、万が一捕虜になりでもしたらマチルダはそれだけで、圧倒的にハイランドから不利な立場に立たされてしまう。相手側に人質がいるかいないかで、戦い方は大きく変わってくるのだから。
それは、もちろんマイクロトフも分かっているはずだ。しかし心がついていかない。
騎士として、敵前逃亡はやはり許し難い行為であった。カミューとてそれは同じ。しかし……。
「団長殿?」
「……ん? ああ、すまない。なんだったかな」
考え事に没頭していたため、目の前にいる副団長のことをすっかり忘れていたカミューが少し照れながら前に向き直った。
「最近、ミューズとの国境付近にハイランドと思われる兵が目撃されています。それに加え、どうやらミューズ市から逃げてきた難民も、何人か、未確認ですが我が領内に」
「入り込んでいる、と?」
「あくまで未確認ではありますが」
ミューズ市はハイランドの手に落ちたが、マチルダ騎士団は相変わらず独立を保っており、ハイランド側も今のところ特に手を出してくる気配はない。マチルダはジョウストン都市同盟でも軍事力を優先してきた都市であるため、不用意につつけば痛い思いをするのは自分たちであると、白狼軍は考えているのだろう。
だからハイランドは南へ回り、サウスウィンドゥやグリンヒルを落とすことを選んだ。
「国境を軍事力を伴った人間が無許可で越えることは、国際協定で禁じられているはず……」
「拘束力のない、条約ですがね」
ハイランドの兵士が目撃されたという場所を記した地図を指で叩きながら呟いたカミューに、容赦のない副団長の言葉が突き刺さる。
「あくまでも、『せめてこれだけはお互いに守りましょう』という程度の決まり事でしかないか」
その昔、ハルモニアで繰り返されていた戦乱に心を痛めたとある貴族が取り決めたいくつかの短い決まり事。戦争は互いの国家の宣誓を持って始めて実行せらるべきものである、とか、むやみやたらに捕虜を殺すべきではない、とか。
その貴族の心に打たれたらしい、ハルモニアの支配者ヒクサクはこれを全世界の共通の取り決めとしようとしたそうだが、思い通りにいったかと聞けば、そうとは言えないのが哀しい。
「話を戻します。今のところ領民に被害は出ていませんが、念のために国境警備隊の増強を計りたいと思います」
領民に何かあってからでは遅い。そう告げる副団長の言葉を聞いていたカミューの耳に、廊下を駆けるけたたましい足音が迫っていた。
ばんっ! とノックのひとつもなく赤騎士団長の執務室のドアが開かれる。
「何事!」
副団長が声を荒立て、ドアの前で力尽きようとしている若い騎士を叱りつけた。その騎士は、青騎士だった。
はあはあと乱れた息に汗だくの顔。ブルーを基調とした服装を身に纏った騎士の姿に、カミューはそれだけでピンと来た。
──マイクロトフか……。
今度は一体何をしでかしたのか。いちいちもめ事が起きるたびにかり出されては堪らないが、放っておくわけにもいかないので仕方無しにカミューは立ち上がった。そして青騎士に何があったかを聞き出すと、彼は「またか」とため息をつく。
「行ってくるよ」
「……はい」
後ろの副団長に断りを入れ、カミューは執務室を出た。
向かうはロックアックス城最上階、白騎士団長のゴルドーの執務室。そこにマイクロトフがいるはずだ。
今日こそは我慢ならないと、止めようとする部下を振りきり、マイクロトフは荒っぽい歩調で廊下を進んでいく。何事かとすれ違う白騎士が怪訝な顔をするが、追いかける青騎士の慌てようを見て納得がいった様子で去っていった。
「お待ち下さい、団長」
「止めるな!」
すでに本来止めに来るべき副団長が匙を投げた時点で、追いかけている青騎士も諦めるのが正しいのかもしれない。しかし、連日のように無駄な体力と気力を消費してくるマイクロトフを見過ごすことは、彼には出来なかった。
ゴルドーはここマチルダ騎士団の総領である。その意志は絶対で、逆らうことは許されない。騎士としての宣誓をした者の決まりであるから。
だが、マイクロトフは諦めようとしなかった。自分の正義を貫こうとする、その姿勢は立派だ。しかしこれ以上ゴルドーの機嫌を損ね、下手をして青騎士団長を退任させられでもしたら、というのが騎士の正直な気持ちだった。
もっとも、この非常事態。現時点でマイクロトフを上回る技量を持つ青騎士は存在せず、彼を団長職から退かせたら困るのはゴルドーの方なのでそれはあり得ない心配なのだが。
「マイクロトフ様、ゴルドー様はただ今執務中でありまして、あらかじめ約束をされてからでないと取り次ぐ事は……」
「火急の用件である、通されよ!」
ゴルドーの執務室の前に立つ白騎士に怒鳴るようにして言い、マイクロトフは問答無用で閉じられていた重厚な扉を押し開いた。
中にはゴルドーと、他数人の白騎士の姿があり、大音を立てて入ってきたマイクロトフを一斉に振り返る。四対計八つの目が彼を見つめる事となり、しかもそれらが「またか」とでも言いたげな感情を秘めているのがありありで、後ろからのぞく形となった若い青騎士は「あちゃー」とばかりに頭を抱えた。
だが、睨まれている本人はそのことに気付いていないのか、堂々とした態度を崩さずずかずかと部屋の中に入っていく。
勢いに負け、ゴルドーの座する樫材の机の前を譲る白騎士たち。机上にはいくつかの書類の束と、まだ先の乾いていないペンが載せられている。だがゴルドーはマイクロトフの姿を見ると、すぐにそのうちの書類のいくつかを引き出しの中にしまっていた。また、白騎士団副団長の老齢の騎士も、手にしていた書類の束を彼に見えないように背に回していた。
「何事だ」
火急の用件、というマイクロトフの声は室内にも聞こえていた。ゴルドーが念のためと尋ねたことに、マイクロトフは机の前で一礼すると、
「今すぐ、ミューズ市への軍団の派遣を要請したく思います」
きっぱり言い切った彼の後ろ姿を見ながら、青騎士はため息をつき、力尽きて床にずるずるとへたりこんだ。見あぐねた扉前にいた白騎士が手を貸して彼を引き上げてくれたが、ガンガン痛む頭はどうにもならないようだ。
「何度も同じ事を言わせるな。ハイランドは現時点で我々との対立姿勢を明確に顕示しておらん。下手に刺激を与えるような真似が出来るわけがなかろう」
呆れたようにいう白騎士団副団長の言葉を頷きながら聞くゴルドーに、マイクロトフは唇を噛んだ。
答えて欲しいのは副団長ではなく、団長であるゴルドーだったのに。
「しかし! ジョウストン都市同盟の他の都市が次々にハイランドの魔手にかかっている現状を見逃すことは、騎士として、断じて許し難い行為では無いのでしょうか!?」
「貴様! ゴルドー様を侮辱するか!」
ゴルドーの意志はマチルダ騎士団の総意でなくてはならない。たとえ己の意志を潰しても。だからその騎士団の決定を批判することは、ゴルドーその人を批判することに直結した。
騎士は団長に逆らうことを許されていない。
「勘違いするな、マイクロトフ」
机上で手を結んだゴルドーが低い太い特有の声をあげる。
「我々が第一に守るべきは領民であり、騎士団自身。我がマチルダ騎士団領を守ることが、すなわち都市同盟を守ることに繋がるのだ。それを自ら危険にさらすなど、あってはならんこと。自重を知れ、マイクロトフ」
「……っ」
厳しい口調は一切の反論を受け付けないことを伝えている。室内に占める空気もマイクロトフを擁護するものとは遠く離れたものであり、彼がここに居続けることさえも許し難いこととする趣さえ感じられた。
大気が毒の針をもって彼の全身を包み込んでいる。見守ることしか出来ない青騎士の目にはそんな風に映った。
「話は終わりだ」
「最近青騎士団の訓練に滞りが見られるぞ。団長がもっとしっかりしないと、騎士達に示しがつかんのではないのかね?」
別の白騎士が薄笑いを浮かべながらうつむき加減のマイクロトフに追い打ちをかける。これには彼も、そして聞いていた青騎士も一瞬怒りに怒鳴り声をあげそうになったが。
「……おやめなさい」
後ろから肩を掴まれると耳元で静かな声で言われ、青騎士は振り上げかけていた自分の右手に気付き顔を赤くした。マイクロトフも、いつもの激昂しやすい性格をなんとか自力で押さえ込んでいるようで、肩が微かに震えてはいたがすぐにおとなしくなった。
「…………失礼いたします」
口惜しげに礼をし、青騎士団長はみるからにすごすごとその場を退いた。
背中で扉が閉じられる音を聞き、顔を上げた彼はそこに見慣れた人物を見いだし、渋面を作る。
「あそこでよく堪えられたな」
「……………………」
カミューに真剣に言われ、マイクロトフは沈黙をもって答える。まだ怒りは納まっていないのだろう。返事を期待していたわけでもなく、カミューはやれやれと肩をすくめてみせた。
「青騎士の諸君は、もうすこし忍耐力を付けるべきかもしれないね」
「何を言われても反論しない、持論を持たない赤騎士に言われたくはない」
「失礼な。我々だってきちんとした意見は持っている。ただ、時と状況をわきまえているだけだよ」
青騎士を間に挟む形での青・赤の両騎士団長の言い合いに、挟まれてしまった若い騎士は目を回しそうになった。くらくらしていると、ようやく気付いてくれたカミューがしまった、と自分の額を手で覆う。
「ここにいても仕方がない。場所を移しましょう」
なにせ彼らがいるのはゴルドーの執務室の目の前。きっと今の口論も室内にいる白騎士の面々に丸聞こえだったことだろう。
「……小言を言われるのは私の方なんだぞ」
ゴルドーの愚痴を聞かされるのはもっぱらカミューの仕事だった。最近はマイクロトフを何とかしろ、とばかり言われていたが……これではカミュー自身ももっと団長として自覚を持て、とでも言われそうだ。
「ゴルドー様も、お前ももっと騎士として誇りを持って行動するべきではないのか。ハイランドの横暴な振る舞いに大勢の人が苦しんでいるのに、何故それを助けに行ってはならないんだ」
青騎士を途中で解放し(副団長に報告に行かせた)、カミューとふたりきりになると途端にマイクロトフは饒舌になる。しかし口から出るのはゴルドーと騎士団の方針に対する不満ばかりだったが。
「マイクロトフ、声が大きい。公共の場で言っていいことではないぞ」
「だが、事実だ!」
ロックアックス城の廊下を歩いているのは彼らだけではない。他にも多くの騎士が生活しているし、中にはマイクロトフに共感を表す騎士もいたが、そうでない騎士だって大勢いる。ゴルドーへの不平不満を口にするのは自由だが、それを報告されでもしたら、それはマイクロトフが自分で自分の首を絞めたことになる。
「事実かもしれないが、それが全てとは限らないだろう」
「お前は! ミューズでの戦いに参加していなかったからこの悔しさが分からないんだ!」
「マイクロトフ……」
鼻息荒く怒声をあげる彼に、カミューは少しだけ表情を沈めさせた。だが、一瞬後にはいつもの顔に戻り、
「主不可以怒而興師、将不可以慍而到戦」
突然、詠うようにそう言った。
「なんだ?」
「君主は怒りにまかせて軍を興すべきではない、将軍も憤激にまかせて戦争を始めるべきではない。今のお前に必要な事だよ」
「…………嫌がらせか」
「どうとでも」
涼しい顔で言い放ったカミューを睨むマイクロトフの視界に小さく外の景色が入ってくる。城の中庭では、威勢の良いかけ声と共にたくさんの騎士達が訓練に励んでいた。
それに気付いたカミューも立ち止まってそちらを眺める。数年前は、彼らもあのなかのメンバーの一人だった。
「私たちは彼らの命をまかされている。数千の騎士達の、な。彼らを生かすも殺すも団長である我々の裁量如何だ。それを、忘れるな」
とん、とマイクロトフの胸を叩き、カミューが告げる。それから大きく伸びをすると腰に吊した愛剣を指で示し、
「久しぶりに、やるか」
「……そうだな」
中庭に降りる階段へ向かい、そしてマイクロトフが大声で訓練中の騎士達を呼ぶ。すぐにわーっという歓声が上がって中央が開けられた。
晴天がどこまでも広がる中、滅多に見られない騎士団長同士の対決が繰り広げられようとしている。
だが、そこからは見えない遠くの空で、雷雲がわき上がっていることを、この時彼らは知る由もなかった。
それから数ヶ月。
マチルダ騎士団の動向は依然変化が見られず、国境付近の警備隊に多少の増員がみられたぐらいだった。
その一方でサウスウィンドでは新たな同盟軍が決起し、ハイランドと対立関係を明確なものとしていた。トゥーリバー市をキバ将軍の手から守り抜き、グリンヒル市の市長代行であるテレーズをも味方に付けたという噂もある。なんでも新同盟軍のリーダーはまだ年若い少年だそうだが、かつての英雄ゲンカクの宿していたと同じ、輝く盾の紋章を所有しているとか。
そのためか、新同盟軍に味方する人も多く、今ではハイランドに対する民衆の希望の星とされていた。
この話を聞く度に、マイクロトフはやるせない気持ちにさせられた。
本来人々の先頭に立って闘うべきは自分たちであるはずなのに、と。
「一度会ってみたいものだ」
ふと馬上で呟くと、風に乗ったのか小声だったはずの呟きは隣を走る青騎士に聞かれてしまった。
「どうかなさいましたか?」
ただ、何かを彼がささやいたとしか分からなかったようで、その内容までは聞き取れず問い返してきた騎士にマイクロトフは何でもないと首を振った。
手にしていた手綱を握り直し、騎馬に速度を上げるよう指示する。鐙をしっかりと踏みしめて頬に感じる風が冷たくなることも構わず、彼は草原を疾走する。
連日のゴルドーに対する直訴がまったく無駄であることをようやく悟ったマイクロトフは、それからはなるべく若い騎士相手に練習相手を務めるようにし、体を動かして嫌なことは考えないようにする手段に方向転換していた。騎士達も喜んでマイクロトフの指導を受けており、その時点では青騎士団は赤騎士団よりも組織力・技術力共に上回ることに成功していた。
そして今は国境に派遣していた部隊を激励するために、マイクロトフ直々にこの地を訪ねている。
「異常はないか」
「いえ、今のところ特には」
要所要所に設置されている砦を順に回っていくのである。砦はハイランドのミューズ侵攻があってから増設されていた。そこには十人から三十人ほどの騎士が配備されており、交代制で国境を見張っている。敵が攻め込んでくるのには昼夜は関係ないのだ。
「この一帯は安全のようだな」
「これだけの兵が配置されているのです。彼らの目をくぐり抜けて侵入する事など、不可能に近いでしょう」
マイクロトフの呟きに自信満々で答える中年の域にさしかかった騎士。しかしそれまで北東から吹き続けていた風が急に西向きに変わった瞬間、マイクロトフの耳に微かな悲鳴が届いた。
「……?」
顔をしかめ、マイクロトフはそのまま話し続けようとする騎士を手で制した。耳に手を当て、風に乗って届けられる気を抜けば聞こえなくなってしまいかねない声を確認する。
女性のようだ。しかも助けを求めている。
「行くぞ!」
マイクロトフの決断は早かった。
連れていた他の騎士に説明する事もせず、彼は手綱を引き騎馬の進路を変更する。足で馬の腹を蹴り、常の速度の倍をもって草原を次の目的とは逆方向に走りだした。
「団長!」
おいて行かれた騎士達が慌ててそれに続く。マイクロトフが何に気付き走り出したのかは分からないが、説明をしている余裕もないほどに急がねばならない事態が起きているのだと感じたからだ。
青い衣を纏った六人余りの一団が列をなして風を切り駆ける。やがて彼らの前には、明らかにマチルダ騎士団とは異なる鎧を身につけた集団が現れた。
その数、おおよそ十二。剣を抜き、数人の一般人とおぼしき集団を囲んでいる。
「何者!」
「おのれ、発見されたか!」
迫ってくる騎士達に気付き、所属不明の兵士達は一斉にマイクロトフ達に剣を向けた。クロスボウを取り出し、矢を放ち始める。
「おおっ!?」
騎士のうちの一人が肩口に矢をかすらせ、バランスを崩して落馬した。しかしさすが鍛え抜かれた青騎士、すぐさま体勢を立て直して剣を抜くと接近してくる兵を警戒する。
兵士達が騎士達に気を取られた隙に、逃げだそうと囲まれていた人々が蟻の子を散らすように走り出した。だが、それを見逃す連中ではなく背を向けて走る女、子供にも容赦なく彼らは剣を繰り出し、鮮血で緑の大地を染めていく。
「貴様らぁ!!」
その光景を見たマイクロトフが怒りの声を上げて剣を振り下ろした。
兜をかぶった兵の頭を砕き、クロスボウを構える別の兵に騎馬で突っ込む。跳ね飛ばされた兵士は胸を折られ、赤い泡を噴くと悶絶し倒れた。
「うおおおおおおお!!!!!!!」
青騎士団長の肩書きは飾りではない。彼に付き従っていた騎士達も、軒並みならぬ実力の持ち主である。たとえ数はこちらが劣っていても、それを補ってなお余りあるほどの力がある。どこの誰とも知れない集団に遅れを取るはずがない。
勝敗は始まる前より決定していた。
「決して逃がすな!」
勝ち目がないと判断した兵士達はやがて戦いを放棄し逃げ出した。しかしそれをマイクロトフは許さず、部下に追いかけるよう指示する。
戦いは草原を一瞬にして血生臭い戦場へと形相を変えさせ、流された血は大地に染み込んでいく。
「ひぃ、ひゃぁぁぁぁっ!」
草の上にうずくまり、生き残った女性が悲鳴を上げる。彼女の前には騎士によって切り伏せられた兵士の死骸が横たわっていた。つい、今彼女を斬り殺そうとした男の死体だ。
「大丈夫か?」
周囲に危険がないことを確かめ、馬を下りた騎士が彼女を助け起こそうと手を伸ばした。しかし。
「ひっ!」
ぱしん、と彼女は差し出された手をはじき返し、騎士から離れようと四つん這いで草の上を歩いていく。だがほとんど進んでおらず、困惑の表情を浮かべた騎士の前で彼女は滑稽なまでに地上でもがいている。
見えない恐怖から必死で逃れようとしているようだった。
「おい、もう大丈夫なんだぞ。しっかりしろ、おい!」
無理に抱き起こせば彼女は奇怪な言葉を発しながら暴れだし、手がつけられない状態。剣身にこびりついた血と人の油を拭っていたマイクロトフも何事かと走り寄ってきた。
「団長、こいつら、ハイランドの兵士ですよ!」
また別の騎士は倒した兵士の鎧に刻まれている紋章を確かめ、声を荒立てる。
抵抗を止めなかったためにやむなく兵士は全て切り捨てたが、それをマイクロトフは悔やんだ。死んでしまった兵士からは、ハイランド所属ということしか分からない。どの部隊に属しており、何が目的で国境を侵してまでマチルダに入り込んだのか、その一切が不明のままだ。
「駄目です、彼女以外には生存者は……」
更に助けるべきだった一般人もこの気がふれてしまったらしい女性以外、絶望的だった。
「……すぐにロックアックスに戻るぞ」
しかしおそらく、ハイランドの兵士の目的は逃げ出したミューズの難民を追いかけることだったのだろう。国境を越えた難民さえ見過ごせないでいるハイランド──それほどに他に知られてはならない秘密を、ミューズで行っているとでもいうのか?
「ハイランドはマチルダの法を犯している。見過ごすことはマチルダの独立性を揺るがしかねない」
再び騎上の人となったマイクロトフの言葉に、従う青騎士団員達は一斉に頷き返したのだった。
マイクロトフのいないロックアックス城は静かな日々を送っていた。もっとも、だからといって日々が悩み無く平和であるかといえばそうとは限らない。
赤騎士団長・カミューもまた、のんびりする事を許されないでいる人物だった。
「……困ったな」
「ええ、困りました」
肩肘をついて優雅に紅茶を口に含み、ため息をこぼしたカミューに副団長はさらに盛大なため息をもって返してくれた。
「どうしようか」
「どうにもなりません」
ソーサーにカップを戻し、両手を机の上で組んだカミューの問いかけに副団長はまたしてもとりつく島のない言葉を返してくる。
夕方には少し早い時間帯。執務の合間の休憩時間をぶちこわす報告が入ったというのに、カミューは相変わらずのマイペースを崩す様子は見られない。慣れているのか副団長もいつものままだ。もしこれが青騎士団だったら大騒ぎだっただろうに。
報告をもってきた騎士も、報告先を間違えなくて良かったとホッとしていることだろう。
だが、こんなにのんびりしているべきでは本当はないのだ。つい先ほどもたらされた情報はふたつ。ひとつは、国境付近でマイクロトフ率いる一団が所属不明の一団と衝突し、殲滅したというもの。相手はまだ詳しくは不明だがどうやらハイランド兵でほぼ間違いないとのこと。ミューズから逃げてきた人々を追いかけてきたらしく、唯一生き残っている女性は話をすることもできない状態だという。
そして、もうひとつの問題は。
ゴルドーが秘密裏にハイランドと不戦協定を結んでいるかもしれない、というものだった。
カミューは何も知らされていない。マチルダ騎士団領にハイランドの正式な公使が訪ねてきたという事実もない。もしこれが真実だとすれば、ゴルドーは騎士としてしてはならないことをしたことになる。
ハイランドは敵だ。その敵と手を組むというのか。
いや、正しくは手を組むのではない。ハイランドがマチルダに手を出さないかわり、マチルダもハイランドのする事に口を挟まない、そういう取り決めをゴルドーが独断で決定したのだ。
マチルダ騎士団は確かにゴルドーの支配のもと、存在している。しかし、騎士団はゴルドーの個人的な所有物ではない。己に許されている権利が無限大であると、ゴルドーは誤解しているのかもしれなかった。
「マイクロトフには知らせない方が良さそうだ」
顎をつきカミューがこぼす。無言だったが、副団長もこっくりと頷いていた。
執務室の扉がノックされ、入ってきた騎士がマイクロトフの帰還を知らせる。なんでも馬をおくと、そのままゴルドーを目指して走っていったらしい。一緒にいた騎士は力尽きているというのに、一人元気だったそうだ。
「…………はぁ」
副団長が何度目かと知れないため息をつき、カミューを見た。
やれやれ、仕方がない。そんな感じで彼は肩をすくめて立ち上がる。今回は流血沙汰になりかねないから、早めに止めに行った方が良さそうだ。
「行ってくるよ」
「はい」
すでに日常となりつつある会話がなされ、副団長はカミューを見送った。
廊下に出ると話を聞いたらしい騎士達がざわついている。彼らが耳にしているのはマイクロトフがもたらした報告の一部だけだったが、それだけでも十分騎士団を揺るがすに足るものだ。ハイランドの兵が──突き詰めるならハイランドの白狼軍そのものが独立した国家の形態をとっているマチルダに無断で侵入しているという事実。正直、快いものではない。それはゴルドーだって分かっているはずだ。
今回の件、ゴルドーも何らかの対処を余儀なくされるはず。彼が真にハイランドと裏で手を組むなどという馬鹿げた事をしていなければ。
「ある意味、見物ではあるかな」
事件の当事者ではないことを良いことに、カミューは呑気にそんなことを嘯いて最上階へ向かう階段を登っていった。
そして、その当事者であるマイクロトフはゴルドーの執務室で怒り心頭のまま拳を頭上に振り上げようとするのを必死の思いで堪えていた。
「だからどうしたというのだ」
まるで動揺していないゴルドーの冷たい言葉がマイクロトフの怒りに更に油を注ぐ。
「ハイランドの兵士が追っていたのは、マチルダの民ではない。国境を侵したミューズの不法入国者だ。本来騎士団がやらなければならなかった事をやってくれていたのだ、感謝こそすれ、何故彼らを逆に切り捨てねばならない。困ったことをしてくれたな、マイクロトフ」
吐き捨てるように言い切ったゴルドーは机を拳で叩きつける。弾みで机上におかれていたペンが跳ね上がり、足下に転がり落ちた。
「困ったこと……? ご冗談は止めていただきたい! 我らマチルダ騎士団は法の下、独立した一個の国家であります。それを、我々に許可なく国境を越えて侵入してきた武装集団を、見逃せとおっしゃいましたか!」
「ならば貴様が連れ帰ってきたという女、きゃつも貴様の言う許可なくして領内に無断で立ち入ってきた者に他ならんではないか! 女は良く、男はならんでは話の筋がと通らんではないのか?」
「話の腰を折らないで頂きましょうか!」
怒鳴り声の応酬は扉などあって無きが如きもので、それどころか城の最上階には丸聞こえ、窓も開け放たれていたために耳をすませば城の庭にいた者にまで聞こえている始末。階段を一定のテンポで上っていたカミューはだんだん近づいてくる怒声に歩きながら肩をすくめた。
これは、思っていた以上にエキサイティングなものになっているかもしれない。
「ハイランドとの全面対決など、マチルダに不利益をもたらすだけであろう、何故分からんか!」
「騎士として! 向かってくる敵と相まみえそれをうち砕くのは当然の事ではないのですか。ハイランドは敵です、それは変えようのない確固たる事実。ゴルドー様こそ、腹をくくられるべきでしょう!」
「マチルダの領民をむざむざ危険にさらすような真似をすることが、騎士としてあるべき姿だと思うか!」
「このままハイランドの暴虐を見過ごすよりはマシです!!」
扉前に控えている白騎士が、カミューの姿を見つけてホッとしたような表情を作った。それを見てカミューもまた、少し複雑そうな顔をして片手を上げた。
「だいぶ楽しい事になっているね」
「……もう、私ではどうすることも……」
事のすさまじさを最初から聞いていた白騎士は、カミューの登場を救いの神が現れたとでも錯覚したようだ。よれよれと疲れ切り、この数十分だけで数年分老けたような顔をしている。
「ずっとこの調子?」
「はい……」
大声だけで閉め切られた扉がはじき飛ばされそうな勢いが今も休みなく続いている。のどかーな調子を崩さないカミューに、白騎士は少しだけ不安を感じて彼を見返した。にこやかな笑顔は変わらない。だが、なんとなくではあるが……カミューの表情はどこか引きつっている。
「……大丈夫、です……よね?」
「今回ばかりは、私でも止められないかもしれませんね」
あそこまで互いに頭に血を上らせているふたりの間に割ってはいることは相当の覚悟が必要になる。彼らを止められるのはカミューしかいないのだがそのカミューでさえ躊躇してしまうような状況……かなり絶望的。
「殺し合いに発展する前に止めはしますが……しばらくこのまま傍観していましょうか」
「ひぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
優雅に腕を組んで言ったカミューに、白騎士は情けない声で悲鳴を上げた。冗談ですよ、と小声でカミューが付け足していたことには、もちろん気付いていない。
「早くお二人を止めてくださいぃぃ!」
泣きつかれてしまい、カミューはまたため息をつく。女性に寄り添われるのは嬉しいが、むさ苦しい男、それも自分よりも年のいった騎士に泣きつかれるのは遠慮願いたい。
「仕方がありませんねぇ」
眉間に指を立てて首を振った彼はそのまま右手でドアノブを取ろうとした。しかし。
「貴様などもう顔も見たくもない! 出て行け!!!」
「言われなくとも!!」
売り言葉に買い言葉。マイクロトフが二度とゴルドーと顔を合わせないで済むはずがないのだが、言われて即座にそう返してしまったマイクロトフが先に、乱暴に扉を引き開けた。
びっくりしたカミューの顔がすぐ目の前にあって、一瞬何が起きたのか分からなかったマイクロトフはそれまでの怒りも一気に冷めて目をぱちくりとさせる。
「……やあ」
カミューの方もまさかここでマイクロトフが出てくるとは予想しておらず、なんだかとても間抜けな挨拶をしてしまった。だがすぐにマイクロトフの後ろに見えるゴルドーの不機嫌極まりない顔に気付いて慌ててマイクロトフからドアノブをひったくり扉を閉めた。
「ふーーーーーーーー」
長いため息がカミューと側にいた白騎士の口から同時に漏れる。
「何をやっているのだ?」
ただ一人、ふたりの気苦労を知らないマイクロトフだけが不思議そうに首を傾げていた。
マイクロトフはカミューに勧められるがままにマチルダ城最上階から下に向かい、先に体を休めることにした。
執務室ではなく自室のある兵舎へ続く廊下を歩いていると、右へ行く分かれ道の角から話し声が聞こえてきた。どこかで聞き覚えのある話し声の片方は、どうやら自分のすぐ下に当たる副団長で、もうひとりは赤騎士団副団長らしかった。
青騎士団副団長はマイクロトフよりも騎士団に所属する年数が長い、武骨な男である。ただ最近は体調が思わしくないとかで、主に室内で出来る仕事を任されていた。マイクロトフがデスクワークが苦手な分、それを補ってくれているといってもいい。
「?」
陰に隠れるようにして立つ彼らの声は押しこもり、周囲に聞かれてはならないことを内容としているのか耳の良いマイクロトフでもよく注意しなければ聞き取ることが出来なかった。足を止めて眉間に皺を寄せた彼の耳には──
「……真ですか、それは」
「恐らく間違いないでしょう。本当に困ったものです」
「それで、カミュー様はどのような判断を?」
「それが……話の最中にですね、例の……」
「……そうですか。しかしそれは先ほど終わったと聞きましたが?」
「終わった?意外に早く決着がついたのですね。てっきりもっと長引くと思っていたのでこうして貴殿を先に捜していたのですが」
「城が静かでしょう?気付かれませんでしたか?」
「そう言われてみると……確かに」
くすくすと中年の男が声を殺して笑っている。何を話題にしているのかすぐに分からなかったマイクロトフだったが、彼はこういう風に陰に隠れてこそこそ話をすることもされることも、しているのを見るのも嫌いだった。
「おい」
部下であるとはいえ、年上の人物に対しての態度をわきまえているとは言い難い口調で、マイクロトフは見えないところにいるふたりの騎士に声をかけた。
「!」
突然のマイクロトフの出現に、副団長ふたり組はびっくりした顔であわてふためいた。
「こ、これはマイクロトフ様、いつからこちらに!?」
「もしや、ゴルドー様がハイランドと手を組んでいるなどという噂がある、などという所から聞いておられた訳ではありますまいな!?」
「ば、馬鹿!」
「はっ……! いい今のは聞かなかった事に!」
あまりに慌てすぎたのか、彼らは多少(?)混乱していた。そして本来であれば決してしなかったであろうミスを犯した。
ぴくり、とマイクロトフの形の良い眉が片方、つり上がった。口元になんとなく浮かんでいる微笑みは見ようによってはとても凶悪。更に、笑顔とはとても言い表しにくい瞳の彩はものすごく……怒っている──?
「どういうことだ!!!!!!」
一瞬間、そこだけを局地的な地震が襲ったかのように地面が揺れた気がした、と後々副団長は証言している。
ずかずかと荒っぽい足取りでマイクロトフは今来た廊下を戻っていく。
マイクロトフが怒ったときは逆らわずに素直に言うことを聞いた方がいい、というのは騎士団の影の教訓にされていた。だから襟首掴まれた青騎士団副団長は、そのまま首を締め上げられる前に正直に自分の知っている限りのことを全て吐き出した。内容を聞いたマイクロトフがもっと怒り出す事は分かっていて、カミューからも堅く口止めされていたのに。
しかし彼らは自分たちの身の安全を最優先させて、再びマイクロトフ対ゴルドーの争いが勃発する危機を呼んでしまった。
「今度は血の雨が降るかもしれないぞ」
「……私はもう知らん」
咳き込んだ青騎士団副団長が投げやりに呟き、長いため息をこぼす。胃がキリキリと痛み、くらくら来た頭を抱え込んで廊下に腰を下ろした。見上げた先の廊下は静かで、もうそこにマイクロトフの姿はない。
だが幸運なことに第二次青・白騎士団長大戦争は起こらなかった。
「マイクロトフ!」
止めたのはやはりと言おうか、カミューだった。
「何処ヘ行く?休むのではなかったのか?」
穏やかな問いかけを口にしながらマイクロトフに近づいていったカミューは、すぐに彼がただならぬ気配を漂わせていることに気付いた。触れれば一気に爆発する危険因子を今彼は抱え込んでいる。長年の経験からそう感じたカミューは注意深く彼を観察した。
怒っている、とても。──いったい何に対して?
ゴルドーとの喧嘩は一旦中断されている。和解にはほど遠いがカミューが彼を城の最上階から連れだしたときはゴルドーに対する怒りは収まっていた──というか、忘れ去られていた。でも今現にマイクロトフは怒っている。すなわちカミューと別れてから兵舎に戻るまでに何かあったのだろう。こんなに頭に血を上らせるようなことといえば──?
「…………聞いたのか?」
執務室に戻ったカミューはそこに待たせておいたはずの副団長の姿がなかったから探しに出ていた。そしてマイクロトフを見つけた。
今の時点でカミューが持っているマイクロトフが聞いて怒りそうなネタはひとつきりしかない。
「もう我慢ならない。これ以上俺はゴルドーについていくことなど出来ん!」
ハイランドとマチルダとの癒着。その現実は騎士の誇りを常に行動理念としてきたマイクロトフにとって許し難いことであり、ゴルドーを許す理由などもはや彼の中には存在していなかった。
「少し落ち着け、マイクロトフ」
大声で話すべき事ではないと、何度目か知れない注意を口にしてカミューは周囲を見回した。幸いにも彼らの周りには通行人は一人もなく、今のマイクロトフの発言を聞いた人はいないようだった。だが安心は出来ない。
「まだ真実だと決まったわけじゃない」
未確認の情報に踊らされてはならない、とカミューは聞き分けのない子供に諭すように言った。
「火のないところに煙は立たないと言うだろう!」
「ハイランドの罠かもしれない。我々が疑心暗鬼に陥り内部分裂を起こすのを誘っている可能性だって否定しきれない」
「そうであると言い切れるだけの証拠だってない!」
唾を飛ばしてまで言い切るマイクロトフに、いい加減カミューもげんなりしてきた。これでは、いくら言っても聞き入れてはもらえそうにない。
さて、どうするか。
このままマイクロトフを行かせてしまうのは、さっきよりももっと非道い喧嘩を引き起こすだけなのでなるべく避けたい。これ以上ゴルドーとの関係を悪化させるのは騎士団全体から見てもあまりよろしいこととは言えないし、カミュー自身も不要な気苦労を増やしたくない。かといってカミューにマイクロトフをこれより先に行かせないだけの持ちネタがあるわけでもなし。
「………………」
しばらくの間、重い空気を漂わせながらふたりして無言のにらみ合いが続く。それをうち破ったのは。
「こちらにおられましたか」
ホッとしたような第三者の声、だった。
振り返ったカミューが怪訝な顔をし、マイクロトフも眉をひそめて現れた男を見る。白騎士団の鎧とよく似ているが違う服装の若い少年、従騎士だ。
「ゴルドー様からの言伝を預かって参りました。お二人のうちどちらかに行って頂きたいそうです」
そう言って少年は一通の封書をカミューに手渡す。
普段従騎士は騎士団長などに直接会ったり話をする機会など与えられていない。だからか、少年の頬は緊張と興奮で紅潮していた。
「ありがとう」
しかしゴルドーに直接会うことはもっと従騎士程度ではあり得ない事だから、恐らくゴルドーの部下に使われただけなのだろう。どういう理由でかは知らないが……マイクロトフに会いたくなかっただけかもしれない。
封筒を受け取ったカミューは手袋を外し中の通達書を取り出した。目で少年に立ち去るように促すと、彼は物惜しげな顔をして一礼し、去っていった。きっと彼は今日のことを誇らしげに仲間に吹聴するのだろう。
「おや、まあ……」
少年を見送るとカミューは広げた紙面に目を落とす。内容はごく短い文面でまとめられており、一読した彼は何とも言えない困惑した表情を作った。
「なんだ」
不機嫌にマイクロトフがカミューを睨む。するとカミューは無言のまま通達書を彼の眼前に突きつけた。手を放し、
「お前に任せるよ」
ひらり、と一枚の紙切れがマイクロトフの手に収まる。
そこに書かれていたもの。
『ラストエデン軍リーダーとその一行がマチルダ騎士団との交渉の為にグリンヒルよりの抜け道を通ってやってくるとのこと。
よって騎士団の代表者約一名に森の出口にて彼らを待ち受け、彼らをロックアックスまで先導する任を与える』
書かれていた文字はゴルドーのものではなかった。しかししっかりと白騎士団長の印が押されていたので、これは本物と思っていいだろう。
「どういう意味だ?」
「書いてあるそのままだと思うけれど?」
両手を広げて肩をすくめてみせて、カミューはマイクロトフにおどけたように答えた。
「何故俺に行かせる。貴様が行けば済む話ではないのか」
通達書をカミューに突き返して彼は憮然として言ったが、カミューは「ふふん」と鼻を鳴らし、
「ハイランドと独自に組織組んで戦っているというラストエデン軍。ソロン・ジーの軍を退け、トゥーリバーではキバ将軍を相手に一歩も引かず、グリンヒルでは街自体の解放はならなかったが、市長代行職にあるテレーズを救出している。本拠地となっているノースウィンドゥはかつて赤月帝国との戦いで反抗の拠点となったいわく付きの城。興味がないと言ったら嘘になるのではないのか?」
「…………」
勝ち誇ったように言われてマイクロトフは開きかけた唇を引き結んだ。言いかけた反論を呑み込み、じっとカミューを見つめる。
確かに言われるとおり、彼は最近何かと世間の話題をさらっているラストエデン軍に興味があった。すぐ側にハイランドの軍が駐留しているのに、都市同盟の盟約を忘れ自領に引きこもって動こうとしない騎士団との比較対照にもなっている新同盟軍。そのリーダーはまだ若い少年であるという。
「……いいのか?」
なにが、を抜きにしてマイクロトフは伺うようにカミューに問いかける。
「好きにすればいいさ」
呆れたような声で彼は答えた。仕方がないな、とでも言いたげに腰に手を当てて微笑みを浮かべて、
「ただし、騎士としての誇りだけは見失うなよ」
釘を刺すと彼は同僚の背中を思い切り勢い良く叩いた。小気味のいい音がしてマイクロトフは一瞬息を呑む。
「当たり前だ!」
ほんの少しだけ怒って、少しだけ嬉しそうに。マイクロトフはカミューに怒鳴った。
ゴルドーからの命令書を丸めると胸にしまう。ぽんぽんと軽く服の上からその場所を叩くと、満足そうに彼はひとつ頷いた。
「寄り道はするなよ」
「分かっている。なるべく早く戻る」
「そうしてくれ。その間に私はやることをやっておくよ」
「頼む」
「いつものことだ、気にするな」
手を振ってカミューはマイクロトフを見送った。間もなく城の門が開かれて青をまとった青年があわただしく坂道を下っていくことだろう。
「……さて、私もきりきり働きますかねぇ」
ため息をもらしてカミューも歩き出した。
「合於利而動、不於利而止、怒可以復喜、慍可以復悦、亡国不可以復存、死者不可以復生、故明君慎之、良将警之」
──有利な状況であれば行動を起こし、有利でなければやめる。怒りとけてまた喜ぶようになるし、憤激もほぐれて愉快な気分になれる。しかし一度滅んでしまった国はもう戻らないし、死んでしまった者が生き返ることもない。だから聡明な君主は戦について慎重になるし、立派な将は己を戒める……。
古い国の人の言葉は、訓戒を以て後の時代に生まれてくるものを助けてくれる。しかし理想と現実はあまりにも遠くありすぎていて、彼らは地上で足掻くしかなかった。
それでも、運命というものが本当にあるのだとしたら。逆らえない歴史の波の中で、彼らを縛り付ける鎖を断ち切るのは己を持ち続ける、その強さだけだろう。
「誇りを持って……か」
空は深く広い。果てのない未来を表すかのように、白い雲は当て所なく流れて行く──
Flower/3
花を、植えよう
色とりどりの花で飾ろう
この大地を、この世界を
君を包み込む世界を花で埋め尽くそう
鮮やかに、穏やかに、美しく飾ろう
君が決して寂しくないように
君が孤独を感じずに済むように
花を、育てよう
この手で、花を育てよう
この咲き乱れる花々が育て手を必要とする限り
きっとぼくは此処に居続けることが出来るから
君の傍で、君を見守ることが出来るから
けれど、もし
間に合わなかった時は
そのとき、は
この花々がぼくの代わりになって
君の心を癒してくれるのだと
そう信じたいから
君の笑顔をもう一度、見たいから
君にはずっと、微笑んでいて欲しいから
この我が侭をどうか許して欲しい
花を植えよう
色とりどりの花を、沢山
たくさんの花を植えよう
君の好きだった花を咲かせよう
君の微笑む顔にきっと凄く似合うから
君が目覚めたときに独りぼっちで寂しくないように
世界中を君の好きな花で埋め尽くしてしまおう
Flower/3
ぽたり、と。
水が一滴、零れ落ちた。水たまりに落ちたそれは小さなクラウンを作り出し、表面を微かに波立たせて沈んでいく。
……ぴちゃーん…………
微かな反響音が薄暗い空間の奥底へ向かって伸びていく。何処までも永久と思える音が続き、けれど遠くなりすぎてそれはやがて聞こえなくなった。
空気は澄んでいる、そして冷えていた。朝だろうか、日差しはだが感じない。ここではないどこかから風が吹き込んできているらしい、ひゅーひゅーという呻り声が小さく聞こえてきた。
彼は、少し身動ぎした。
身体中が重く鉛のようだった。指先に力を込めて曲げようとしたけれど、どうも勝手が違って上手くいかない、しかし数回繰り返すうちに徐々にそれまで血が通っていなかった部分に血が流れ込みだした感覚を覚えて、爪先が手の平の表面に触れるまで出来るようになった。
次に彼が目指したのは、閉ざしたままの瞼を両方揃って持ち上げる事だった。視界は未だ閉ざされたままで、薄い皮膚一枚を隔てたところで光を感じているに過ぎない。
長い間閉じたままだったからだろうか、まるで接着剤でも表面に塗られてしまっているかのように錯覚してしまう。それほどに重い瞼を、ゆっくりと確実に開いていく。
ふー、と長い息が溢れた。
肺の中に長い間溜まったままだった古びた空気が外へ飛び出していく、その代わりに入り込んできた大気は冷え切っており、彼の内部を一気に活性化させた。
冷えてしまっていた部分を温めるために、長期間活動を最低限に控えていたあちこちの器官が一斉に働き始めたのだ。そのあまりの急激さに今度は彼の意識の方がついていけなくなりそうになり、半分開きかけていた瞼がまた閉ざされてしまった。
深呼吸を三度、拳の握り開きをあと五回。
心臓の音がやたら喧しく聞こえる、耳の奧で響いている。もう二回深呼吸をしてから、彼は一気に瞼を開いた。
「!」
だけれど、その直後また目を閉じてしまう。深く長く息を吸い、その倍の時間をかけてゆっくりと吐き出した。瞳が焼かれてしまうかと本気で思ってしまった、言うほど世界は眩しくなかったはずなのに。
闇に慣れすぎた身体が、光を拒否しているようだった。
彼は右腕を動かそうとした、指先だけではなく肘から上を高くあげて、肩を回し腕を伸ばす。一センチ動かすたびに関節がぎしぎしと、油の切れた機械のような音を立てて軋んだ、痛みも多少感じる。
でもそれは、自分が生きているという何よりの証にも思えた。
深呼吸が繰り返される。息を吸い、一瞬止めて、吐き出すのに合わせて腕を持ち上げ曲げていく。タイミングを見計りながら少しずつ、ゆっくりゆっくりと。
そうやって随分と長い時間をかけて持ち上げられた腕は、手の平を上にして額の上に置かれた。落ちた、とも言う。けれど瞼の下、光を畏れている瞳を庇うには充分だった。
今度は慎重に動く、手の平で落ちた影に庇われて目を開くと真っ先に白い――否、かなり痛んで薄汚れてしまっていたのだが、光に慣れきらない彼の瞳にはそう映って見えた――天蓋が視界に収まった。
どこか見覚えがある、けれど直ぐに頭の中にイメージが湧き起こってこなかった。
記憶に混乱が生じる、一体何処で何時、見たのだろう。ぼんやりとしてはっきりしない意識の中で懸命に思い出そうと、彼は緩やかに首を振った。
その弾みで髪の先が何かに触れた。カサリ、と軽い音を立てる。
それは本当に耳の直ぐ横にあって、彼はまだ起きあがるには辛い身体をほんの少し傾けて視界の片隅にその、銀色の髪が触れたものを認めようとした。
赤い色が、目に留まる。
それは花だった。
一輪の赤い大きくて色鮮やかな……薔薇の花。
「ぁ……」
喉元を掠れながら出た声がきっかけとなったのか、唐突に頭の中に実に様々な、大量のデータが流れ込んでくる。いや、それはむしろ今まで小さなトランクに無理矢理詰め込んでいた中身が、錠前を自ら破壊して外に溢れ出した感覚が正しいだろう。なぜならそれらは本来、彼の中にあったものだからだ。
「 た ……は、…… ま むっ た か …?」
自分ではちゃんと言葉にしているつもりなのに、台詞の端々で声が詰まり音にならなかった。そして言い終わるのを待たずに激しく咳き込む。
咽せた空気がひゅーひゅーとまるで壁の隙間から抜け出ていくように流れ、出ていった分を補うために吸い込んだ空気は今度は、薔薇の強い芳香を含んでいてより一層、彼を咳き込ませた。
苦しい。
吐き気さえ覚えて、そして自分が恐ろしく空腹な事に気付いた。
いったい何時からものを口にしていなかったのか、そもそも自分は果たしてどれだけの時間をこの空間で過ごしたのだろう。
呼吸が落ちつくまでただ静かに、ベッドの上で彼は待つしかなかった。
誰も来ない、誰も気付かない。彼が長い時間を経て再び目を覚ましたことに気付いて駆け寄ってくる人もない。
ああ、またなのか。そう思った。
自分は以前にも今と同じ経験をしている、あの時も目覚めたときはこんな風に身体が凍えきっていて、自由に動けるようになるまでかなり時間が必要だった。違うのは、枕許にこんな風に薔薇の花が置かれていたりしなかった事くらいか。
そう、あの時はこの広い城に自分はひとりきり…………薔薇の、花?
彼は涙でにじんでしまった視界を広げ、まだ其処にある花を見つめた。それは鉢植えではなく茎の途中で手折られた、切り花だった。明らかな人の手による、在り方。この事に気付いて彼は目を見張った。
誰か、自分以外の誰かがこの城にいる。
よくよく見渡せば確かに、この部屋は少し異様だった。今頃になって気付いたが、ベッドサイドには沢山の鉢植えが並べられ綺麗に整えられている。壁際にも似たような感じで、緑が飾り立てられているし枕許の花だって、これ一輪きりではなかった。
彼はうつ伏せになり、ゆっくりと手の平を下にして力を込めて身体を起こした。肘を少しずつ伸ばし、上半身をまず突っぱねさせることで視界を広げる。途中一度力尽きかかってベッドに身体が沈んだが、柔らかいクッションが衝撃を吸収してくれたので痛くはなかった。
代わりに、しばらく呼吸が苦しくて動けなくなったけれど。
それでも徐々に徐々に、身体の端々まで神経が伸びていく感覚で身体が思い描いた通りに動き始めた。二度目のチャレンジでは失敗もなく、時間はかかったけれどベッドの上で足を広げた格好ながら座ることに成功する。
何気ない、他愛もない動作のはずなのにこれだけで疲れ切ってしまった。汗まで噴き出ている。
それを拳で拭い、彼はゆっくりと改めて室内を見回した。
見事に、鮮やかに花々で飾り立てられている。まるで統一感のない、けれど不思議と違和感を感じさせない並びで鉢植えは並べられている、バランスは悪いようでそうとも言い切れなかった。
鉢植えの多くは花を付けていた。赤以外にも白、黄色、ピンク、紫にオレンジ……実に多種多彩の花が咲き誇り彼の瞳を楽しませてくれている。世界観も季節感もてんでバラバラなので、これだけの種類が一度に集まる事自体が非常に珍しい事だった。
いったい誰が。当然の帰結である疑問に辿り着き、彼は眉根を寄せて首を捻った。
ああ、でもそういえば。
ふと思い出した事があって、彼は枕許に置き去りにされている薔薇を引き寄せた。棘は綺麗に抜かれている、その茎を持ってくるくると花弁を回転させた。
長い夢の中で何度も、花を手渡された気がする。顔までは見えなかったけれど、いつも綺麗に咲いた花を一輪ずつ贈ってくれた。
でも結局その花を一度も自分は受け取ることが出来なかった、手を伸ばして掴もうとした瞬間相手は花と一緒に遠くへ流れて行ってしまったから。そのうち追いかけるのも止めて、差し出される花にも興味を示さなくなってしまったのだ。
どうせ手に入らないのだし。
そう思うようになってから、途端にその人と夢で会う回数は減っていった。何か喋っているようだったが、その声も聞こえなかった。
「あ は……」
思い当たる人物は、いる。だけれどそれが正しいのか分からない。
ふっと、前触れもなく。
視線を感じたような気がして彼は回していた薔薇から視線を外した。首を流した先になにかが、いる。
赤と金の色が異なる双眸が。
薄暗い部屋の一角で彼を見つめていた。
扉が開いた気配はなかった。自分が目覚める前から部屋に誰かいた気配も、なかったはずだ。あったならば今頃気付くはずがない、彼は一応一通り、先程室内を見回している。その時にこんな大きな……黒い猫、は居なかったはず。
艶やかな毛並み、アーモンド型をした瞳が彼をしばらく無言で見つめる。そしてまた唐突に、彼から視線を逸らしてしまった。
興味が逸れたのかそれとも、ついてこいとでも言いたいのか。四本足で立ち上がると誰も居ないのにひとりでに開いた扉を抜けて勝手に、出て行ってしまう。
「あ……」
いったいなんなのか。
形の良い眉を寄せ、彼は小さく呻いた。手にしたままの薔薇をまたじっと見下ろす。
ここにこのまま居ても、なにも始まらない。吐息を零して彼は滑り落ちてきた前髪を梳き上げた。記憶に残る最後の時よりも若干、伸びている気がした。
彼は腕の力を利用してベッドサイドへ寄り片足を伸ばした。足の裏が床に触れ、しっかりと全体に体重を移した事を確認してからもう片方も下ろし、立ち上がる。けれど二本足立ちをした瞬間、頭から血が一気に爪先に落ちていってしまい、立ち眩みがした。
「……っ」
かろうじてベッドに手を付き、倒れ込むことは防ぐ。そのまま膝を折った状態で呼吸を整え、眩暈が収まるのを待ってからもう一度立ち上がった。
今度は上手くいった、まだ足許は不安定だが支え歩きならば可能だろうと判断する。そして彼は、今さっき黒い猫が出ていったきり開け放たれたままになっている扉を抜けて、歩き出した。
靴などという便利なものは目にはいる限り、見当たらなかった。パジャマの上に羽織るガウンも見当たらなかった。だから今の格好は、素足に薄いパジャマを直接肌の上に一枚纏っているだけ。少し寒かった。
ぺたりぺたり、と歩くたびに足の裏に床が貼り付いて剥がれていく。扉を抜けると目の前は開けていて、そして暗かった。
一瞬呆気に取られる、自分は異世界に迷い込んでしまったのかと錯覚した。
まるでジャングルである。壁沿いに蔦や根が蔓延り、床は木の根があちらこちらを抉って床石をひっくり返していた。でこぼこ道は元の姿を失って久しく、歩きにくいだろう事は目に見えて明らかである。
だがその所々では、やはり色美しい花々が所狭しと咲き誇っていた。こちらは、狭い鉢の中に根を閉じ込められているものたちとは違ってのびのびと枝を伸ばしている為か、花はどれも大振りで色も艶がかっている。
思わず足を止めて見惚れてしまうくらいに。
だがそれらに手を伸ばそうとして、また視線に気付いた。気配を探るとやはり視線の先にはあの黒猫がいて、彼が気付いた事を知ると直ぐに背を向けてまた去っていく。どこかへ、誘導したがっているように見えた。
彼は遠い記憶を手繰り寄せる、あの猫が向かう先に果たして何があったのかを。
城の内部はかなり変わってしまっていた。あちこちに植物が根を張り、壁を破り天井を貫いている。床が抜け落ちている部分は両手では足りなかったし、今にも崩れそうな箇所はもっと多かった。
足許に注意を払いながら、彼は黒猫が向かっていったであろう場所を目指す。
地上階、以前はリビングや食堂、台所と言った人が集まり最もにぎやかだった場所へと。
そして予想通り、黒猫は彼が辿り着いた場所にいた。
壁一面の窓はガラスが砕け、フレームは朽ち落ちている。その代わりとでも言いたげな巨木が枝を広げ、緑の壁を形成していた。木漏れ日が差し込めている、そこは他の場所に比べて一段と明るかった。
にー……と、猫がひとこえ鳴いた。その横顔が見える、猫は巨木の根本に寄りそうようにして座っている。
彼は猫に歩み寄ろうとした、だがそれより先に猫は彼に場所を譲ってしまう。
近付いたことで角度が変わった根本が見えるようになっていた。猫の動きを追いかけたあと、彼は首を回してさっきまで猫が見ていたものを、そこに見つけた。
眠っている、ひと。
「……ぁ…………」
零れ落ちた、弱々しい声。
がくん、とその場に彼は膝を落とす。力の抜けた足は彼を立ち上がらせる事が出来なくて、這うように彼は根本に眠る人の前に進むしかなかった。そして同じように力の籠もらない右手をかろうじて、持ち上げる。
そっと、触れた指先が伝えてくれる微かな体温。それが、彼がまだ生きていることを教えてくれた。
「スマイル……」
懐かしい、けれど忘れる事のない名前を彼は呟いた。そっと両手で彼の頬を包み込む、柔らかく抱き込んで上下にさすった。
暖かい。
「……スマイル」
確かに、ここにいるのだと感じさせてくれる。
何故か無性に泣きたい気分にさせられた。胸の奥からなにかがこみ上がってくる、言葉では到底表現しきれないなにかが、彼の中に溢れ出していた。
「スマイル」
膝で伸び上がる、両手でスマイルの頬を包んだまま彼はそっと、紺碧の色をした前髪にくちづけを落とした。吐息で細い髪が左右に揺れる、手入れを忘れて久しいのかかなり伸びてぼさぼさになってしまっていた。
笑みがこみ上げてきて、隠すように指先で払いのけた前髪の下、現れた額にもひとつキスをする。誰も見るものが居なくなった所為だろうか、スマイルは包帯で左目を隠す事も止めてしまっていた。
今は閉じられている瞼が開かれれば、金沙の鮮やかな瞳が見える事だろう。そう思いながら彼は、左目の瞼にも口付けて離れた。
「ん……」
微かに、スマイルが彼の下で身じろぐ。肩を揺らし、自分の上にのし掛かる気配を察したのか警戒するように身体を少しだけ後ろにずらそうとした。けれど彼はその動きで開いた分の距離を更に余分に詰める。そして頬を包み込ませていた手を下ろし、スマイルの袖が垂れ下がっている先――そこには本来、スマイルの両手があるはずの場所――に手を置いた。
「スマイル」
吐息が触れあう距離で彼は囁いた。
「……ぅ……」
降りかかる息がくすぐったいのだろう、首を振ってそこから逃げようとするスマイルだけれど彼はそれを許さない。背を伸ばし首を上げ、下から掬い上げるような格好でスマイルの顎を捕らえた。
そのまま、触れるだけの甘いキスを。
「……ん……」
薄くだが、スマイルの瞼が開かれていく。けれどまた直ぐに閉じた。その代わりに、今までなんの反応も示さなかったスマイルが少しだけ顎を持ち上げ、キスに応えた。
触れるだけの、キス。それから、触れては離れ、啄むように相手の唇を求め合う、キス。
「……ふっ、ぁ……っ」
キスが繰り返される、そのうちに彼は腰が引けて後ろへ身体が下がり始めた。だがその途端、今まで何もなかったはずの彼の両手の上に、暖かくて大きな……しっかりとした手の平が降りてきた。
上から握りしめられて、引き寄せられる。
「っ!」
「…………ユーリ……」
一瞬時間が早回りして、世界が空回りした時にはもう彼はスマイルの胸に抱きしめられていた。
「これは、夢の続き……?」
耳元で囁かれる声が、ひどく懐かしい。聞いた瞬間、それまで忘れていた涙が一気に溢れ出てきて彼の眼を容赦なく濡らした。
「さぁ、どうだろう……」
声がくぐもる、隠そうとして俯いたら今度は彼の方が顎を掴まれて上向かされた。そして視線を逸らす間もなく唇が塞がれる。
差し込まれる、熱い吐息。涙が止まらなくて、変だな、と笑ったらそうだね、と返される。失礼な、と言い返したら言い出したのはそっちでしょう、とまたかわされた。
「ね、ユーリ。これは夢?」
優しい右手が彼の髪を梳く。爪の先に引っかかる髪を一本一本解していって、最後に掬い上げた一房にキスされた。
「どうだろう、私に聞くな」
夢か、現実かそれとも幻か。そんなこと、分かるはずがない。
けれど、でも、言えるとしたら。
「だが夢だとしたら、私の夢に割り込んでくるなど貴様、図々しいにも程があるぞ」
いけしゃあしゃあと彼は言い放ち、言われた方はそれ相応にショックを受けた顔をして彼を見返す。少々恨めしげな視線をまた笑い飛ばして、彼は宥めるように今度は自分が手を伸ばし、スマイルの髪を撫でた。
けれど撫でている途中でその手首を拘束される。引っ張られ、顔の前に差し出されると何をされるかと怪訝な顔をしている彼の前で、スマイルは彼の指先に口付けた。
静かな表情で、目を閉じ、穏やかに。祈るように。
彼もまた、それを見守る。振り払うことをせず、じっとスマイルの気が済むまで待ってやる。
そうして、スマイルは顔を上げた。
真っ直ぐな視線を彼に向ける。それからとても嬉しそうに、心の底からの笑顔を作った。
「また逢えて嬉しい」
ユーリもまた、微笑みを返す。
「ならば、思う存分喜べ」」
それからふたり、顔を見合わせて声を立てて笑い合う。そしてちからいっぱいに相手を抱きしめた。
触れあえる体温が、なによりも嬉しかった。
見上げた先に映るもの
夏休み。
それから、お盆。
野球部の練習も、家族揃って田舎へ帰省する面々の事を考慮して、なおかつ監督自身がこの熱い最中に昼間から、やはり暑苦しい高校球児の面倒を見るのは御免被る、という言い分からこの二週間ほど、完全休業となっていた。
もちろん他にも、お盆の真っ最中は学校も閉鎖されてグラウンドを使うことが出来ないから、という立派な理由があった。あとは夏バテ予防と今までの練習で減退してしまっている体力回復を狙っているものと思われる。
ただどう考えても、この長期休暇は監督が遊びたいから、というところにあるようだ。なにせ練習最終日に休日の日数と一緒に告げられたのが、各自自主練習を欠かさないように、という内容だったから。
最初の方は久々に完全休業で昼過ぎまで怠惰に眠って過ごせる事を喜んだ天国だったけれど、後半に入ってくると次第にすることもなくなってしまい、暇を持て余すようになっていた。
なにせ最近はずっと、遊ぶ時間さえないくらいに野球漬けの日々を過ごしていたわけだから、バッドを握らない日というものに初めは嬉しくても、そのうち物足りなさを覚えてくる。その物足りなさは徐々に不安に移り変わって、だからつい、狭い庭先で独り素振り練習なんかをしてみたりもした。
けれど、違う。つまらない。
学校のグラウンドで、練習時間に素振りをするのと同じ事をしているはずなのに、もの凄くつまらないと感じてしまう。壁相手のキャッチボールも、なんだか自分が根暗な性格に思えてきて五分としない間に放り投げてしまった。
そして、はたと気付く。
要するに、相手がいないのがいけないのだ。キャッチボールにしたって、素振りにしたって、近くに仲間が居て会話があって、だから楽しく感じたし退屈と思う事もなかったのだ。
殊の外、自分はあの野球部に慣れ親しんでそれなりに楽しんでいたらしい。意外な発見に天国は自分で驚き、そして同時に溜息をついた。
カレンダーを見る。監督が告げた休暇の終了日まで、まだ48時間以上ある。自然ともうひとつ昇ってきた溜息をそのまま落とし、天国は座っていた軒先の縁側から立ち上がった。
「ちょっと出てくるー」
台所に居るはずの母親に声をかけ、財布だけをズボンの後ろポケットに突っ込んだ。屋内であるに関わらず若干熱を持った床板を踏みしめていた素足を、そのままに靴に押し込んで爪先を軽く叩く。
「どこ行くの?」
「その辺」
「気をつけてね」
「うぃー」
台所と玄関までの短い廊下を隔てている暖簾を上げ、顔を覗かせた母と短い会話を交わして扉を開けた。降り注ぐ眩しすぎる太陽の光に一瞬だけ視界を焼かれ、後退し玄関のフックにひっかけてあった自分の帽子をかっさらう。
「夕ご飯までには帰ってくるのよ?」
「わーってる」
諄い母のことばに振り返らずに返事をして、帽子を被る。黒の布にオレンジのロゴが入った野球帽を、鍔を後ろ向きにさせてはみ出した髪の毛を強引に後ろに流して天国は自転車に跨った。
どこかに行きたいわけではない。ただ、どこかに行けば誰かに会えるかもしれないと思ったから。
確証も保証もどこにもなかったけれど、家でじっとしているよりはなにかを目的にして駆け回ってみたいと思った。たとえその結果が散々たるものであっても、別に気にしない。
監督は自主練習をしていろ、と言った。自転車を漕ぐことも、スポーツであるのだからこれも練習の一環だと頭の中で強引に結論付ける。
天国は力いっぱいにペダルを踏みしめた。車輪がゆっくりと、そして少しずつ滑らかに動き出す。車体が前へと進み、勢いをつけて更にペダルを踏むとそれに合わせて自転車も前へ前へと速度を増していく。
狭いガレージを抜け出して、公道に合流。東西に伸びている家の前の道路を暫く眺めて、進路を東に選んだ。目的地を、ふたつ分先の駅前にある大きめな商店街へと定める。
「いっけー!」
緩やかな下り坂になっている前の道を、全力で走り駆け抜ける。生温い風で飛びそうになる帽子を片手で押さえながら、天国はけたたましい声を上げながら笑った。
駅前の邪魔にならない場所に自転車を停め、天国は商店街へと向かった。
商店街と言えども、自動車二台が充分すれ違えるだけの幅を持っている。頭上は日よけにも雨よけにもなるアーケードがまだ真新しい姿を晒しており、並んでいる商店も綺麗な店構えが多かった。
数年前に一度、大規模な改修工事をして生まれ変わったという宣伝文句通りだけれど、お盆の時期とあってか幾つかのシャッターは降りてしまっていた。
けれどもきちんと営業している店も半分近くに昇り、天国は適当にブラブラと左右を眺めながら歩くことにした。
学校にも近く、何度か団体で帰りに寄り道をしたことがあるのでどこに何の店があるのかは、大体記憶している。まずはCDショップにでも顔を出して、新作を視聴してみるのも良いかも知れない。それともファーストフードで暇を潰そうか。
ポケットに押し込んできた財布の中身を思い出しながら、真向かいから走ってきた主婦運転の自転車を避ける。ちりりん、というベルの音が後ろに流れていき、直ぐに消えた。
「あちー……」
日陰とはいえ、今日の最高気温は三十度後半と予報されていた。体感気温はそれ以上だろうし、彼は今の今までその炎天下の下を自転車で全力疾走してきたわけである。半袖のTシャツ一枚と、膝下丈のハーフボトムという出で立ちであるとはいえ、暑さからは逃れるのは難しい。
やはり今はとにかく、この暑さをどうにかすることが先決のようだ。天国は咄嗟に目に入ったマクドナルドの明るい看板に吸い寄せられるように、足をそちらへ向け直した。
だ、けれど。
とん、と。
前触れもなく唐突に方向転換したばかりの肩を叩かれ、瞬間的に出した足がそのままの格好で止まってしまった。
「?」
怪訝な顔を作りながら、振り返る。変なキャッチセールスや宗教勧誘だったら速攻で逃げ出す体勢を整えて。
しかしその身構えは杞憂に終わる。
そこに立っていたのは、もしかしたら会えるかも知れないと心のどこかで期待していた野球部の、見慣れた顔だったから。
「司馬……」
向こうもまさかこんな場所で会うことになるとは思っていなかったようだ、振り返った先に立っていた彼の顔はどこか驚いていて、贔屓目かも知れないが嬉しそうにも見えた。
相変わらずのサングラス。相変わらずのMDのヘッドホン。けれども、思えば初めて見るかも知れない私服姿。
「久しぶり!」
日付にして十日以上ぶりである。彼とは部活が休みに入ってから一度も会っていなかった。比乃とは何度か、ゲームをしようと言ってお互いの家を行き来したけれども、彼も今は田舎に帰ってしまっていてこの町にはいない。
なんの連絡もやりとりもしていなかった彼もまた、天国はてっきり田舎に帰っているものだと思っていたから、少し意外に感じて彼を見上げる。葵は、そんな天国にいつもの変わらないさりげない笑顔を向けていた。
白の無地のTシャツの上に、薄水色と紺色のストライプ柄のシャツを羽織っている。シャツの前ボタンは全部外しているから、本当に羽織っているだけだ。アイボリーのパンツ姿に、目新しさを覚えて天国は半歩下がり、思わずまじまじと見つめてしまった。
シンプルで大人しい目だけれど、彼らしい服装である。左肩には紺色のリュックを引っ掻け、MDのコードはその中に吸い込まれていた。注意してみれば、サングラスも学校に掛けてきているものとは若干色が違う。
「買い物かなんかか?」
天国の問いかけに、葵は黙って頷いた。そして自分の背後を指さす。彼が指し示した先には昼間に関わらずネオンを輝かせているパチンコ屋……ではなく、その隣に店を構えるCDショップがあった。
成る程ね、と自分も頷いて天国はCD屋から葵へと視線を戻す。葵もまた、持ち上げた手を下ろして僅かに首を左へと傾げさせた。
サングラス越しにじっと天国を見つめる。ああ、と天国は深く頷いて肩を竦めた。
「オレは暇つぶし」
家にいても見るテレビもないし、比乃に借りたゲームも全部クリアしてしまったし、宿題はやる気が起きないし、自主練習は……ひとりでやってもつまらないだけだし。
忙しなく通り過ぎていく買い物目的の主婦から逃げるように商店街の、シャッターが降りた店の前へと居場所を移し天国は最後のことばだけぽつり、と葵を伺うようにして呟く。盗み見るように見上げた視線の向こうに居る葵は、まるで変化の無い柔らかいけれどどこか寂しい笑顔を浮かべている。
「司馬……は、退屈じゃねぇ?」
部活が休みになって時間を持て余しているのは自分だけではないと、確かめたくて天国は問いかけた。
去年までは部活動になんか殆ど参加していなくて、一年前の今頃は家でゴロゴロと過ごしていたはずなのに。今年はそれが出来ないでいる自分がここに居る。
上目遣いな天国の質問に、葵は若干困ったような表情を口元に浮かべて首を右側に傾けた。少し悩む仕草を見せてから、ゆっくりと縦に首を振る。途端緊張していたらしい天国がスッと肩の力を抜き、良かった、と呟いた。
「なんかさー、部活してないと時間過ぎるの、遅すぎて死にそう」
一日が長く感じられるようになった。
なにかをしなくてはいけない、という気持ちに駆られるようになった。なにかをしていたいと、熱中していたいと思うようになった。
グラウンドで、仲間と一緒に、悪ふざけも時にはしながら白球を追い掛けて走り回る事が楽しかったと、思い出した。
そして。
野球をしていない自分を想像出来なくなった。
たった二週間そこらの休みなのに、早く終わってくれと願っている。今までにないくらいに、部活の再開が待ち遠しい。
苦笑いながら巧く説明できない気持ちを語る天国に、葵もまた分かるよ、という顔をして何度も頷いて相槌を打つ。
身振り手振りを繰り返しながら久しぶりに再会できた仲間に、忙しなくことばを送りながらけれど、天国はふと、自分が葵を見上げるその首を曲げなければならない角度に疑問を感じた。
天国は、日本の平均成年男子の身長とほぼ同じ174センチ。多少伸びているとは思うが、それほど大きく変わった様子はない。
対する葵は、天国よりも拳ひとつ分ほど大きかった。とはいえ、冥を前にした時よりも見上げる幅は少なくて済み、少し顎を上げる程度で良かった。
良かった、はずなのに。
十日ほどで身長はそんなに伸びるものなのだろうか。それとも、単に毎日顔を合わせているときは気付かなかっただけで、本当は如実にどんどんと差が広がっていたというのだろうか。
「司馬」
ふっと険の入った声色でトーンを落とした天国の呼び声に、葵は首を傾げながら彼を見下ろす。
「オマエ、さ」
なんか、でっかくなってねぇ?
予想していなかった天国の言葉に、葵は意味を理解しかねて口元を真一文字に結ぶ。分からない、と首を振る仕草で言い表すが、天国は絶対にそうだ、と声を荒立てた。
だって、さっきからオマエを見上げてる首が痛い。
痛いというか、疲れてる。
早口に捲し立てた天国だったけれど、葵はそうなのだろうか、と自分で首を捻っているだけ。痺れを切らした天国は、そんな葵の脇に垂らされている腕を断り無く掴むと、ぐいっと力任せに引っ張った。
休日返上で開けている服飾店のショーウィンドゥの前へと葵を引きずり、天国はその横に並んで立つ。そしてほら、と窓ガラスに反転して映る自分たちを指さした。
見た目だけでは小学生のような、天国。
見た目だけでは大学生に間違えられそうな、葵。
ふたりの姿が並んで窓ガラスに映し出される。その向こう側に展示されている商品が少し邪魔をして見えづらいものの、確かに天国の言うとおり若干、葵の身長は伸びているようだった。
拳ひとつ分だったはずの差が、ひとつと三分の二分ほどに開いてしまっている。
「な?」
同意を求める天国の声に、ようやく理解した葵が小さく頷いた。じっと、ガラスに映る自分たちを見つめてからそして、脇に立つ天国を見下ろす。
何を思ってか持ち上げられた彼の手が、ぽん、と帽子を逆向きに被った天国の頭へと落とされた。
「似合うよ」
不意に囁かれたことばに、天国は一瞬拍子抜けて顎をあんぐりと開いた。
こいつは、今までの会話を聞いていなかったのだろうか。ひょっとしてMDをずっと聞いていて、オレの話しに耳を傾けているフリをして聞いてなかったとか、言うつもりか?
しかし葵は、天国の感じた疑念をふわりと柔らかくした口元でうち消し、更にことばを紡いだ。
「ちょうど、いいサイズ」
言いながら彼は天国の帽子の上から頭を撫でる。
はっと、天国は気がついた。
「ばっ……」
吸うのと同時に吐いた息を、また吸って今度はしっかりと肺の中に溜め込んで。
「バカにすなー!」
商店街のど真ん中、人の往来もそこそこ激しい場所に天国の怒鳴り声が響き渡る。驚いたらしい葵の手を押しのけ、天国は甘くなった顔を隠しもせずカァッと熱くなってしまった身体から汗を流しつつ葵を睨みつけた。
たったひとことしか叫んでいないのに全体力を使い切ってしまった気分に陥りながら、天国はぜいぜいと肩を荒く上下させる。どこか茫然とした感じのある葵が、けれど我に返った途端に口元を手で隠して笑った。
声は立てないものの、小刻みに震える肩が如実に、葵が笑っている事を教えてくれる。
耳まで赤くなった天国が、尚更ムキになって拳を握りしめた。
「笑うな!」
チクショー、そう呟いて地団駄を踏む。
「くっそー。こうなったら、ぜってーオレはオマエよりもでっかくなってやるからな!」
身長で負けてこんなに悔しいのは初めてだぜ、と息巻いて天国はまだ笑い止まない葵をびしっと指さして叫んだ。心の中で、今夜から牛乳と煮干しを実践してやると誓う。
「そのままで良いのに」
葵がふっ、と息を吐く合間に囁いた。
「断る!」
絶対に、卒業までに追いついて追い抜いてやるんだと固く拳を握って、天国は鼻息荒く葵をもうひと睨み。サングラス越しで彼の顔を涼しげに見下ろした彼は、無理じゃないかな、と思いつつも言葉にはせず黙ったまま頷いた。
それが天国には、出来るものならやってみせろという態度に見えてしまい、益々頭から湯気が立たんばかりに地団駄を踏む。
「見てろよ!」
吠え面かかせてやるぜ、と最後に威勢良く叫んで天国は駆け出した。置いてけぼりをくらった格好の葵に、けれど十メートルほど離れたところで天国は振り返る。
「またな!」
大声で、手を振りながら。
走り去っていく天国の元気の良い背中を見送りながら、葵は彼に声をかける直前から止めて置いたMDのスイッチを入れた。耳に流れ込んでくるのは、彼の声に少しだけ似た男性ヴォーカルの楽曲。
「追いついて、追い越してみせる……か」
ぽつりと自分にだけ聞こえる音量で呟き、葵もまた歩き出す。誰も居ない家に帰るために。
「あのままで、充分可愛いのに」
本人が聞けば火を噴きそうな勢いで怒り出しそうな台詞を呟き、その時の様子を想像して葵はまた口元を綻ばせた。
通り過ぎていく人の起こす風を受け、羽織っているシャツの裾がひらひらと揺れる。アーケードを抜ければ、外は眩しいばかりの太陽が照りつける灼熱の世界だ。
「熱いな……」
この中を天国は、どんな顔をして走っているのだろう。暑さにやられて途中で倒れたりしなければ良いけれど、と少し心配を覚える。サングラス越しに見た太陽は、容赦なく地上に照りつけて大地を焦がしている。
首筋に汗を浮かべ、葵は止めていた足を動かし始めた。駅へ続く横断歩道を渡り、少しだけ歩調を早める。点滅する青信号が赤に切り替わる直前に対岸に辿り着き、視線を巡らせた先に自転車で駆け抜けていく野球帽の少年が見えた。
目立つ赤いシャツが、よく似合う。
「猿野……」
こちらに気付いていないらしい彼の背中が、目の前の道路を走っていくトラックに邪魔されて見えなくなるまで待って、葵は駅の階段を登った。時刻表を確認すれば、あと二分もしないうちに電車が到着するらしい。
日陰に入ったことでホッとする。背伸びをして遠くを見回しても、もうどこにも天国の姿を探し出すことは出来ない。
「追いつかれないように……しないと」
空に融けるような澄んだヴォーカルの歌声を聴きながら、葵は秘やかに呟いた。
少しだけ楽しそうに、口元を和らげたままで。
02年4月19日脱稿
Flower/2
昔、男の子が居ました
男の子にはお父さんがいません、お母さんも居ません
男の子は独りぼっちでした
そして
男の子には名前がありませんでした
だから誰も男の子のことを呼びません
誰も男の子に気を留めようとはしませんでした
そのうちに男の子は自分が
本当にみんなに見えているのか不安になってきました
だから一生懸命にみんなに声をかけて回りますが
誰ひとりとして男の子の声に耳を傾ける人は居ませんでした
そうしているうちに、本当に
男の子は自分がだんだん見えなくなっていることに
きづいてしまいました
手が、足が、身体が、顔が
順番にどんどん透明になっていきます
ますます誰も男の子に気付かなくなっていきました
そのうちに男の子は自分が
本当に其処に居るのかさえ分からなくなってしまいました
そんな時です
一匹の黒猫が初めて
男の子に声をかけました
その黒猫は何百年と生きることで不思議な力が使えました
だから、消えようとしている男の子にも気づけたのです
黒猫は男の子に言いました
『お前を必要とし、お前も必要とする誰かが居る限り、決して消えることのない魔法をかけてあげよう』
そして男の子は自分の姿を取り戻し
自分を必要として、そして自分も必要とする誰かを捜し始めたのです
Flower/2
白いシーツが風に棚引いている。けれどそれを干している竿はよくある物干し台ではなく、うねりながら成長した太い木々の枝に引っかけられていた。
木々の間からは緑の蔦が伸び、白い小さな花を咲かせている。そんな光景が暫く続いて、ようやく城の外壁らしきものが見当たった。かつてテラスだっただろう場所では小鳥が羽を休めている、傍には巣があった。
しばらくすると、閉まりの悪くなった窓を開けて人影が姿を現す。小鳥が羽を広げて飛び去った。
「忘れてた……」
ぼそり、と呟き人影は腕を伸ばすとすっかり乾ききって逆に皺だらけのシーツを引っ張り寄せた。途中で枝に引っかかり緑の葉っぱを何枚か巻き込むが、まるで気にする様子はない。
そして手元に戻ってきたシーツを無造作に腕に巻き付けた。よくよく見てみればそのシーツは確かに遠目では白く映るが、実際にはかなり黄ばんで薄汚れていた。鳥の糞らしき染みもいくつか見当たる。いったい何時からそこに干されていたのだろう。
「これはもう、だめだねぇ」
もう一度洗濯してもこの汚れは落ちきらないだろう。それに、また洗濯して干して、回収し忘れていたら笑いぐさにしかならない。もっとも、今この場にその失態を笑ってくれる人は誰ひとりとして存在しなかったが。
窓から屋内へと戻り、建て付けが悪くなってしまってこうやって開閉できる事さえ不思議な窓を閉める。彼はシーツを右腕に巻き付けたまま床を歩いた。
だがその床も、床と言い難い状態になっていた。植物が床を、そして天井を突き破って群生している。太い木々が屋内で成長しているのだ、それに付随する格好であちこちに別の植物も生えている。その大半は、色鮮やかに美しく花を咲かせていた。
季節感を無視した色彩が、薄暗いはずの室内を明るくしている。けれどそれを観賞し楽しむ人はやはり、存在していないのだ。
彼は無言のまま花の群れをすり抜ける。壁沿いに根を張る木の枝を頭を低くして避け、足許をぐらつかせている根にも気を配り転ばないように注意して進まなければならなかった。
まるで屋内がジャングルになっているようで、所々では屋根さえも突き破ったらしい樹木の傍に日溜まりが出来上がっている。そこには小さな花々が細々と咲き乱れ、日光を欲して首を上向けて生きていた。
中にまで鳥が入り込んでいるのか、囀りがどこからか響いてきている。
彼はひとつ息を吐いた、とても疲れているようだった。
だが目の前に、自分を見つめている視線を発見して立ち止まる。光を灯すことを忘れて蜘蛛の巣が張り巡らされたシャンデリアの下、今は砕かれてしまった陶器の置物が飾られていたはずの台の上に一匹の猫が座っていた。
艶やかな黒の毛並み、猫と言うよりは豹を想像させる容貌の瞳は、金と赤のオッドアイだ。
だが視線が合うと、その猫は台から飛び降りて何処かへと去って行ってしまった。
「あ……」
何かを言いかけていた彼だったが、黒猫が闇の中に姿をくらましてしまうのを見送ると重い溜息をついて言おうとしていた事を呑み込んだ。そしてシーツを巻き付けたままの自分の右腕を見つめる。
その視線の向こう側に、一際鮮やかに咲き誇る花があった。
「…………」
赤い花弁はあの人の瞳を思い出させた。
止めていた歩みを再開させ、彼はその花の傍らに膝を折った。そしてゆっくりと左手を伸ばし花弁から数十センチ下の茎に手を伸ばす。
だけれどまるでその行為を咎めるかのように。
棘が、彼の指を刺した。
「……っ!」
反射的に腕を引き戻し、人差し指の腹に浮かんだ自分の血液を驚愕の目で見つめる。小さな粒のように表面張力で膨らんだ血液が、指を傾けるとバランスを失って垂れて落ちていった。
ぽたり、とそれは足許に吸い込まれ消えていく。
「ユーリ……」
彼は寂しげに呟いた。そして出血が続かない事を確かめてもう一度、花を手折ろうと茎に触れる。今度はちゃんと棘に気を付けて軽く指先に力を込めた。
ぽきり。
簡単に花は折れて彼の手の中に収まる。甘い芳香が彼の鼻腔をくすぐった。けれどそれはどことなく、血の香りにも似ていた。
彼は立ち上がった、愛おしそうに大事そうに、手折ったばかりの花を左手に抱きしめるようにして持ちながら。
そうして、来たときと同じように城中を埋め尽くすばかりの緑の巣窟を不自由な足で通り抜ける。
やがて彼の足は今までの荒れ果てた床石の上から、聖地のように綺麗に整えられたままの一角に辿り着く。そこだけは植物の枝も伸びて居らず、壁を突き破る無粋な根も存在していない。中央に、扉があった。
彼はその扉に据え付けられているノブを回した、軽く押す。
軽い軋み音を残して扉は簡単に開かれた。
「ユーリ」
背中で扉を閉め、彼は薄暗い室内の中心部分を見つめて呟く。
白い天蓋、その下にはベッドがあった。誰かが眠っている、とても静かに。彼が入ってきた事にも気付くことなく眠り続けている。
ベッドの周囲にはいくつもの鉢植えがあった、どれにも見事な大輪の花が鮮やかに咲き誇っている。白、赤、黄色、紫、色とりどりの花々がベッドサイドを飾っていた。更に壁際にはもっと大きな鉢植えが幾つも並べられ、みずみずしい緑が立派な枝振りを埋め尽くしている。
その間を彼は無言ですり抜けていく。
所狭しと並べられた鉢植えを蹴り倒さないように歩いているようで、実際彼は殆ど足許を見ていなかった。ただベッドの上で横になっている人の顔をじっと見つめていた。
そしてベッドサイドに立つ、今さっき摘んできたばかりの赤い花を指先でくるくると回転させた。
「ね、ユーリ。見てよこれ……綺麗でショ?」
ベッドに寝かされている人に向かって彼は語りかける、見えるように、とその人の顔に花を近づけてもみる。だけれど、返事はなく反応も一切なかった。
今までと、なにひとつとして変わらない現実。
「ユーリ、ねぇ見て? 綺麗だよ、とっても……とっても、綺麗なんだ。絶対ユーリ、気に入るから……」
好きだったでしょう、この花。
お願いだから、と彼は懇願する。今すぐその瞳で自分を見つめて欲しかった、この花によく似た鮮やかで神々しい、紅玉の双眸に自分の姿をどうか刻み込んで欲しかった。
名前を、呼んで欲しかった。
ぽたり、と。
透明な雫がひとつぶこぼれ落ちた、それは彼の右腕に巻き付けられたままのシーツに落ち、染みこんで消えていく。
彼は持っていた赤い花をユーリの枕許に置いた。そこには昨日、あるいは一昨日彼が摘んできた花が並べられていた。けれど枯れかかったものはない、綺麗なものだけを選りすぐって命が尽きようとしているものはその度に排除していたからだ。
彼は、巻き付けていたシーツを解いていく。布地が弛み、足許に山を成した。
だけれど、シーツを巻き付けていたはずの軸となるものは、其処に見当たらなかった。
なにも、ない。いや、彼が着ている服の袖は見えているのだがその下の、彼の右腕がどこにもなかった。
「ユーリ、お願いだよ。目を覚ましてそしてぼくを見て」
彼は右腕を振った、消えてなくなってしまった自分の指でユーリの、白い陶器のような肌をなぞろうとする。けれどあるはずの指先はユ-リの頬に掠る事なく素通りして行ってしまう。
「ユーリ、早く目覚めて。そしてぼくの名前を、呼んで……」
必死の声で彼は何度も繰り返す、その度に透明な雫は溢れ出てユーリの枕許を濡らしていく。だけれどそれでもなお、ユーリは何の反応も返すことなく眠り続けている。
静かに、綺麗な姿のままで、あのころと何も変わらない姿で。ひどく安らかに穏やかに、切ない程に。
「ユーリ……」
何度も何度も、彼は右手を振ってユーリに触れようとした。しかし空気が空しく流れていくばかりで、彼は一度として目的を達成することが出来ず余計に哀しくなる。
もうこの手は彼の髪を梳き、頬を撫で抱きしめることも出来ないのだろうか。
そんな事はない、いつかきっと彼は目を覚まして自分を見てくれる。信じているけれど、さすがにもう時間が流れすぎた。
その“いつか”が明日なのか、それとも一ヶ月後なのか一年後なのか……百年経っても眠ったままなのかさえ分からない。ユーリがいつ目覚めるのかなど、誰にも分からないのだから。
彼はじっと、眠り続ける愛しい人を見つめていた。
死んでしまっているのでは、とさえ思える静かすぎる表情にふと不安になり、彼はそっと顔を近づける。浅くくちづけ、流れ出る微かな呼気に少しだけ心励まされて彼は離れた。
微笑んでいる記憶の中のユーリよりも少しだけ伸びた気がする前髪を掻き上げてやり、現れた白い額にもくちづけを贈る。こめかみ、瞼の上、鼻筋、そして最後にまた唇へと柔らかな触れるだけのキスを繰り返して、その肩口に彼は顔を埋めた。
ベッドに眠るユーリの上に覆い被さるように半身を預け、しばらくそのまま沈黙する。目を閉じれば瞼の裏には、懐かしい日々が簡単に甦ってくるのだ。
毎日が騒がしかった、楽しかった。沢山の人と出会った、別れる事もあった。辛いこともあった、けれどそれ以上の嬉しくて楽しい事があったから気にも留めなかった。
ただ自分の隣に君が居て、君の隣に自分が居るという事が当たり前になるのが嬉しかった。自分の居場所を、長い間ずっと探していた場所をようやく見つけた気がした、この場所にずっと居られたらと願った。
けれどそれは、こんな風にただ待ち続けるだけの時間じゃない。
「ユーリ、ねぇ……起きて。声を聞かせて、君の声を……」
声がくぐもる、我慢しきれない涙がシーツを濡らしている。それでもユーリにこの声は届かない。
「ユーリ、お願いだから……手遅れになる前、に……」
どうか、神様。そんなものが居るとは思っても居ないけれどもし居るとするのなら、神様。
彼は生まれて初めて、祈った。心の底から、祈りの声を上げた。
「ぼくが、本当に消えてしまう前にどうか……ユーリ……」
君を、ひとりにしたくない。
だから。
お願い、だから。
目を覚まして、そしてぼくを見て。名前を呼んで、抱きしめて。
抱きしめたいんだ、君を。君の瞳に映る自分の姿を見たいんだ、君のぼくを呼ぶ声が聞きたいんだ。その為にだったらなんだってする、なんだって出来る。
君をひとり遺すことなんてできない、したくない。君の笑っている顔を見ていたいだけなんだ。君を哀しませたりなんか、死んでもしたくないんだ。
なのに、どうしてだろう……時間が、足りない。
「ユーリ、お願いだから」
左手でユーリの頬を撫でる。指先に微かに感じる体温が、彼がまだ生きていることを教えてくれる。けれど何時までなら、この手でユーリの頬を撫でることが出来るのか彼には分からなかった。
『お前を必要とし、お前も必要とする誰かが居る限り、決して消えることのない魔法をかけてあげよう』
条件が満たされなくなったときどうなるか、聞かなかった。問えば教えてくれただろうが、今となっては聞かずとも、分かってしまった。
「……ユーリ……」
顔を上げる、人形のような顔のユーリは瞼を閉ざしたまま。まるで世界の総てを拒絶して自分の世界に閉じこもってしまったかのようで、寂しい。
自嘲気味に笑って、彼はユーリにもう一度キスした。少しだけ長く、けれど触れるだけの。涙は、もう乾いていた。
ベッドサイドに立ち、花弁の色も朽ちかけている切り花を集める。乾燥しきったそれらは触れれば呆気なく崩れていってしまう。
物憂げな目でそれを見つめ、ややしてから枯れた花を握りつぶした彼が哀しそうに微笑んだ。手の平の上で崩れていく花の残骸を足許へ零し、踏みつけ、呟く。
「ねぇ、ユーリ」
君の見る夢に、ぼくは居るのかな?
返事は、なかった