テレビの音量はかなり大きかった。部屋と部屋を遮っている扉を開けた瞬間、通常の人よりもはるかに優れた聴力を持っているアッシュは、うっ、と唸ってしまう。
片手で片耳を押さえる。しかし脳髄を刺激して止まない轟音は収まらず、発生源へと目を向けた彼は案の定、という顔をしてひとつ溜息をついた。
ゆっくりと、テレビを囲むように置かれている革張りのソファセットへと向かう。音量は益々激しくなっており、顔を顰めつつ彼はふたり掛けソファの後ろから腕を伸ばした。
背もたれの部分にもう片手を置く。身を乗り出した彼の手が掴んだものは、テレビのリモコンだった。
「んぁ?」
今アッシュが居るソファに座っていた人物が、今頃になってようやくアッシュが近くにいることを知ったらしい。間の抜けた顔と声で彼を見上げた。ただし、振り返ったわけではなく顎を仰け反らせて――首だけで後ろを向いた感じだ。
その口にはビスケットがくわえられている。なんの味付けも、飾り付けも成されていないただの焼き菓子だった。ソファの向こう側に鎮座しているクリスタルのテーブルの上には、そのビスケットが入っているらしい赤色の鮮やかな箱があった。取り出し口がかなりひしゃげているから、中身は残り少なそうである。
「なにぃ?」
間延びした声は、くわえているビスケットを食べながらなので仕方がない。しかし行儀の悪い事には違いなく、余りよい顔をせずにアッシュは手に取ったリモコンを持ち直した。そしてスマイルの見ている前で、テレビの音量を五段階ほど下げる。
「あぁ!」
「っ!?」
途端スマイルが大声をあげて叫ぶものだから、アッシュはリモコンを落としそうになり慌ててそれを両手に抱え持って何事、と彼を見返す。
その目の前で、三分の一のサイズになったビスケットを口から零すスマイル。叫んだときに挟み持っていた歯から外れてしまったのだ。
「汚いっス」
「いいの、どうせぼくが食べるんだから」
膝の上に欠片を散りばめているビスケットを拾い上げ、それをぱくっと口の中に放り込んだスマイルの顔は、不満に道満ちている。
「それより、どーして音量落とすのさー」
アッシュの抱えているリモコンを指さしながら、スマイルは御立腹であった。荒っぽくビスケットを噛み砕き嚥下する。粉っぽくなってしまった唇も、乱暴に手の甲で拭う。
「今だって充分喧しいっス」
ぴっ、とリモコンのボタンをもう一押し。
画面の右下隅に音量を示すラインが現れ、それがひとつ分左にずれた。
「あー!!」
テレビよりも喧しくスマイルがまた叫ぶ。画面の音量設定変更の鮮やかな緑色の表示が消えるまでそれを穴が開くかと思うほどに見つめ、消えると同時にもの凄い勢いでアッシュを振り返って。
「なんでさー!」
「煩いんス」
「聞かなきゃいいじゃないかー!」
「じゃあ自分の部屋で見てくれば良いじゃないっスか」
「こっちのテレビの方が大きいんだもん!」
「だったらヘッドホンして下さいっス!」
つい応酬の最中でどんどんと声が大きくなっていって、アッシュもスマイルに負けないほどの大声で怒鳴ってしまう。
その瞬間、スマイルがきょとんとした顔でアッシュを見上げるだけに終わってしまうから、アッシュも自分がなりふり構わず怒鳴っていたことに気づいてはっとなり、口元に手をやる。
しかしスマイルがその隙を見逃すはずがない。
「もーらいっ♪」
ぱっ、と消えた左手がアッシュからリモコンを奪い取って彼の胸元へ導く。気づいたときにはもう遅くて、アッシュが止める間もなくスマイルは八段階も音量のボリュームを上げていた。
にぃ、と笑うスマイルの後ろでアッシュが耳を塞ぐ気にもなれないままがっくりと項垂れる。片手で顔を覆うと、泣きたくなってきた。
「鼓膜が破れそうっス……」
「破れたら縫ってあげるヨ~」
ぽつりと呟いたアッシュの溜息を、この大音響の中でよくぞ聞き分けたと言わんばかりに聞きつけたスマイルが、テレビ画面を見つめながら笑う。屈託無く。
果たして彼がアッシュを笑っているのか、テレビに笑っているのかは区別がつかない。確かめようにも、アッシュの現在位置からでは上か横から覗き込まない限りスマイルの表情など見えるはずがない。
「無理っスよ……どうやって縫うんスか」
「そりゃ~、当然」
糸と、針でショ?
また彼は無邪気に笑ってビスケットを口に放り込んだ。
一度前歯と唇で挟み持ってしまうと、あとは手を使うことなく先端から順番に噛み砕いて食べていく。波打ちながら徐々に減っていくビスケットを斜めに見下ろし、同じように内容物を減らしていくビスケットのパッケージを見た。
自分が買い物ついでにおやつとして買ってきたものではない。見覚えがないから、多分これはスマイルが自分で買ってきたものなのだろう。その横には飲み干された缶珈琲が転がっており、更に向こう側ではコンビニエンスストアのビニール袋が無造作に投げ捨てられていた。
「コーヒーくらい、言えば煎れるっスよ」
「ん~……ついでだったし」
コレの、とスマイルが後ろ手にアッシュに見せたものは煙草。真っ赤なパッケージに白色のロゴだけがやたらと目立つ、ボックスタイプだ。封はされたままだった。
「最近多くないっスか?」
「そうでもないよ~」
昔ほどは吸わなくなった方、となんでもないことのように言葉を返すスマイルだが、彼の視線は未だテレビ画面に釘付けになっている。時々身体が左右に揺れたりするのは、画面の動きに合わせての事なのだろう。
アッシュには、さっぱりな内容だったけれど。
「面白いっスか?」
「じゃなかったら、見ないよ最初から」
「それもそうっスね……」
また溜息。聞くだけ無駄だったかと髪を掻き回したアッシュに、スマイルがまたしても笑って見せた。
「分かってるなら聞かなきゃ良いのに」
なんとなく聞いてしまったのだと、言ってから気づいた事はもうこの際黙っておくことにした。どうせいいようにからかわれるに決まっているし、こういう状況では口達者なのはスマイルで、アッシュには分が悪いことこの上ない。
それでなくとも、自分のこの状況は充分彼に遊ばれている。正直言えば、面白くないのが実状だ。
「黙っちゃったね」
ちらり、と久しぶりにスマイルはアッシュの顔を窺い見て呟く。彼の手の上では、黒色の細長いテレビリモコンがくるくると回されていた。
「要らないの?」
あんなに煩いのを嫌がっていたくせに、今はすっかり静かになってしまったアッシュへわざと見せびらかすように彼はクツクツ、と喉を鳴らした。
思わずカチッと来るが、ここで怒鳴るようではまたスマイルの玩具にされること一目瞭然。自分に言い聞かせてアッシュは拳を密かに背中で握り、それを震わせることで堪えようとした。
しかし、スマイルがひょいっと持ち直したリモコンのボタンをまた、ふたつほど押した時には我慢も限界。
いったいスマイルの耳はどうなっているのか。疑いたくなるような窓さえ震え出しそうなボリュームにアッシュは咄嗟に、両手で両耳を押さえ込む。
「スマイルー!!」
「は~い♪」
いい加減にしろ、と怒鳴ってもスマイルは馬耳東風ばりの笑顔で返事をするだけ。その顔はとても楽しそうで、こうやって怒っている自分の方が莫迦らしく思えてアッシュは空しさを覚えてしまう。
「ウルサイいっス~!!」
「うるさいねぇ」
向こうもどうやら分かっているらしい。そのうち、階下での騒音を聞きつけたユーリが怒鳴り込んできそうなものである。そうなったら、とばっちりはこの場にいたアッシュにも及ぶことだろう。
機嫌の悪いときのユーリは兎に角機嫌が悪いから、いい加減この莫迦騒ぎも終わらせたい。
「スマイル……」
「なにぃ?」
お互いの声も、かなり大きめに出さないと近くにいても聞き取りづらい。
「リモコン、貸すっス」
出来る限りにこやかに、穏便に。務めて努力しながら右手を差し出したアッシュだったけれど、
「いや☆」
これまた負けないほどににこやかに、爽やかに、場の雰囲気とはおおよそ相応しくない笑顔でスマイルは胸の中にリモコンを抱き込んでしまう。そして膝まで抱え込んでソファの上で小さくなり、クツクツとまた喉を鳴らす。
なにがそんなに面白いのか。
「…………」
嘆息が零れ落ち、差し出していた右手を軽く握るとアッシュはそれをそのまま返して、スマイルの頭を横から小突いた。さほど力を入れたわけではないはずなのに、調子に乗っているのかスマイルはころん、とソファに転がった。そしてまた笑う。
彼のことはひとまず気にせず、更に重い息を吐き出してアッシュはソファを迂回してテレビへと近付く。ステレオのスピーカーが大音響を奏でている中、人力で聴覚を脳神経から遮断させる腹積もりで彼は画面下の小さなボタンを連打した。
スマイルの位置からだと、スクリーンに彼の身体が被る格好だ。ソファに横になっている今の状態だと尚更に、見えにくい。
「アッシュ君~?」
不満たらたらな声で呼ぶと、仕事を終えた彼がすくっと立ち上がった。
テレビ本体にある音量調整ボタンを押したので、周囲はすっかり静かになっていた。嫌がらせのつもりではないが、通常人が聞くのに充分な音量にする為にはスマイルが設定していた時から十五回ほど、ボタンを押さなければならなかった。
だので、リビングはまるで嵐が去ったあとのように静かに感じられる。
「これくらいでも充分聞こえるっス」
むしろこれが正常値だ。テレビの角を叩いたアッシュのひとことに、スマイルは明らかに不服そうだ。一応座り直したものの、子供のようにソファの縁に手を置いて足もまた、ソファに引っかけている。
カエルのポーズに似ていた。
「そんな顔してもダメっス」
「ちぇ~」
親が子供を叱る図に等しい。むくれた顔でそっぽを向いたスマイルは、左手だけをテーブルに伸ばしてビスケットの箱から、一枚抜き取った。
ぱくり、とくわえる。
胸に大事に抱きしめていたリモコンはもう役立たずだ。ここで音量を上げても、未だテレビの真横に位置しているアッシュが速攻、本体側で操作するだろう。イタチごっこの展開も、こういう状況は楽しくない。
さて、どうしよっか。
無意識に胸ポケットへ手が伸びる。そこに入っているのは例の未開封の煙草だ、ライターもそこにあるし、持ち運べる灰皿も一緒に収められている。
こんな風に意識せぬまま煙草を求めてしまうから、いつまで経っても禁煙できないのだろう。
「座れば?」
もう音量を弄ったりしないから。
その意味を込めて言葉と同時に彼はテーブルにリモコンを滑らせた。そして放り投げて空いた手でもう一枚、ビスケットを掴む。
「食べる?」
座っているスマイルと、立っているアッシュ。視線は必然的に上目遣いで、質問した傍から手にしたビスケットを口に挟み持った彼にアッシュは最後の溜息を零した。
別に空腹なわけでもないけれど、新たな会話を生み出すには受け取った方が良いのかも知れない。それにこのままテレビの横に立っているだけ、というのは無意味だろう。既にスマイルはリモコンを放棄してしまっている。
アッシュはゆっくりとソファへ近付いた。そして座る前に、テーブル上の箱へ手を伸ばす。
しかし。
箱は空っぽだった。
「…………スマイル」
彼は知っていたはずだ、ビスケットがもう残っていないことを。彼が今くわえている、一枚を最後に。
「食べる?」
それなのに彼はにこにこと上機嫌に笑いながら、アッシュを見上げている。彼の仏頂面に構うことなく、あくまでもどこまでもマイペースだ。
そのマイペースさに、毎回狂わされているのがアッシュなのだが。
「食べるって、もう残って無いっス……って」
まさか。
空箱を指さして最後まで言ったものの、話している最中に思い当たる事にぶち当たったアッシュは恐る恐る、スマイルの表情を伺ってみた。
にっこにっこ、にっこにこ。
笑顔は相変わらずで、変わらない。
冷や汗が流れた。
「要らないの?」
前歯で軽く挟み持ったまま、器用に彼は喋る。少しでも顎に力を加えれば挟まれている先端は噛み砕かれるだろう。そしてその分、ビスケットは小さくなる。
彼ならば、やりかねない。
「貰うっス。貰うっスケド」
それでもまだ躊躇していると、ぱりっ、と軽く浅い音がして。くわえられたビスケットが上下に波立つように揺れた。
少し、小さくなる。
「……スマイル」
「ん~~?」
絶対にわざとやっている事丸分かりの笑顔を向けられて、アッシュの中で何かがパキッと音を立てて割れたようだった。
「貰うっス」
「ん~」
どうぞ、とばかりにスマイルが顎を突き出してきたのでアッシュも腰を屈め、片手をソファの背もたれに置いてバランスを保つ。
跳ねているスマイルの髪の毛がアッシュの頬を掠めた。口がビスケットで塞がれているので、もっぱらの呼吸は鼻で成されている彼のその吐き出す空気が次いでぶつかってきた。
カリッ、とビスケットの先端を前歯だけで囓る。
スマイルは丹朱の隻眼を開いたまま、笑みを浮かべてそれを見つめている。逸らすことも、閉じることもしない。
アッシュが“しない”と完全に信じ切っているからだ。その信用を守り抜くのかそれとも、散々からかわれた腹いせに裏切ってみせるのか。
どちらであっても、スマイルにダメージはないだろう。悔しいのはアッシュひとりだけだ。
それが癇に障る。
クンッ、とビスケットが上に少しだけ跳ねた。
舌先に触れる為に口の中にあるビスケット地が湿って崩れてしまったのだろう、バランスを取り直す為にスマイルが下唇を少し持ち上げたのだ。だが予想以上にその動きは大きくて、間近にあったアッシュの鼻先を掠めるようにして降りていった。
「ぁ、ゴメ……」
ぱきん。
口元を緩め、言葉を発しようとしたスマイルの手前で。
アッシュが先に目を閉じた。濃い影が落ちてくる。
目を見開いたスマイルの、吐き出す吐息がアッシュの前髪を揺らしその下の肌を擽った。薄く開いた彼の口の中へビスケットが吸い込まれる。
けれど、でも。
あと五ミリ、の距離でしかしそれは、噛み砕かれて二つに分かれた。
触れあったのは、互いの吐息と前髪だけ。
「ぁ……あ」
一瞬呆けてしまったスマイルは反応を返せない。ただ口の中に残った、ほんの僅かのビスケットを奥歯で一気に噛み砕いて呑み込む事だけは忘れなかった。
かなり彼の取り分は少なかった。大半はアッシュに持って行かれてしまって、少々考えていたことと違う展開に彼は戸惑う。
「意外かも」
「ほっとくっス」
親指の腹で下唇を拭ったアッシュに、もっと根性無しかと思ってた、と酷いことを口にしてスマイルは口の中にまだ残っている欠片を舌先で回収し、それも呑み込んだ。
「ついてるっスよ」
ただ口の横の、頬に近い場所にどうしてかついていた欠片……とも言えないビスケット屑は、また身体を伸ばしてきたアッシュの舌先が攫っていったけれど。
「……イヌ」
「違うっス!」
アッシュは力一杯否定するのだが、それがまた可笑しくてスマイルの笑いを誘う結果に終わってしまう。
「やーい、犬~」
「だから、違うって言ってるっス!」
「お手」
「だ~か~ら~!」
違う、と口に出して叫んでいるくせに手の平を上にして目の前に出された瞬間、反射的に手を出してしまっている自分に唖然としながらアッシュはまた、項垂れるのだった。
また当分、これをネタにして良いようにからかわれる日が続きそうである。
Chain
人混みで雑多な空間を通り抜ける。気温は日に日に寒さを増しており、吐く息も白く曇るのだけれどこれだけ人が居るとその体温だけで周囲の空気も幾らか暖められよう。
買い物の人波でごった返す大通りの片隅で、ショーウィンドーの前に待ち惚けを喰った顔をして彼は頭上を仰いだ。
ともすれば降雪に見舞われても可笑しく無さそうな雲行きである、だがこの都心部では例え雪が降ったとしても地上の舞い落ちてくる前に溶けてしまって雨になるはずだ。それほどに地上は暖かい。
もっともそれは空高くに層を成す雪雲にとっての話であり、地上にいる彼らにはこの気温でさえ背筋が震えるほどの寒さだ。
季節は十二月も半ばを過ぎた、あと幾数日を終えれば年締めの最大イベントクリスマスがあり、それが過ぎて一週間もしないうちに新年が訪れる。街中の人混みはそれに向けての買い物に精を出す人々の群れだ。
そしてそれは彼も同じ。
何処へ行ってしまったのだろう。
ぽつんと、行き交う人の流れへと視線を戻した彼は寒そうに背筋を震わせ、焦げ茶色の手袋のはまった両手を握りしめた。ダッフルコートの襟を少しだけ立てる、首許を覆う手袋と同色のマフラーの端を弄りながらもう一度彼は上空を仰ぎ見た。
向かい側の通りに聳えるテナントビルには、冬のセールを告げる垂れ幕が下がっている。色とりどりに装飾された窓ガラスの中には、やはり鮮やかな色使いでラッピングされた商品が目に痛い。
溜息のように吐き出した息が白く煙る。
目の前を通り過ぎていくのは、手を繋いで楽しそうなカップル。大きなプレゼントを抱えて歩く親子。恋人への贈り物を捜してか周囲を見回しながら歩く男性、女性たち。みなそれぞれ、どこか忙しなく、ソワソワして、それでいてとても楽しそうな顔をしている。
そんな中で彼だけが浮かない顔をして佇んでいるのには理由がある。
ゆっくりと彼は視線を、上空から己の足許へ落とした。ガラスに触れないように壁に軽く凭れ掛かっている彼の右足すぐ脇には、大きな紙袋がふたつも置かれていた。中には、綺麗にラッピングされた玩具が入っている。
買い物は大方済んでいた、あとは帰るか何処かに立ち寄って喫茶店で一服するかのどちらかだったはずだ。
クリスマスツリーを飾り付ける為の星や電球、窓を飾るためのスプレーに、クリスマスイブのお楽しみであるサンタクロースからのプレゼント。
男ふたりで子供用の玩具売り場を彷徨き、ああでもないこうでもないと悩みながら三人分も買い漁っていく光景は、売り場の店員からしたら些か奇異に映ったかもしれない。いや、実際奇妙な光景だったろう。
それも両方とも、黒のコートに黒のスラックス。しかも片方に至っては左目を黒の眼帯で覆っていたわけだし。そしてもう自分は銀髪だ。
「まったく……」
この寒い中、どうしてくれよう。今度は腕組みをしてなんとか暖を取りつつ彼は小さく呻いた。
カモフラージュ用としてサングラスはかけているものの、それでも彼はかなり人目を引いて目立つ存在だった。行き交う人もじろじろと彼へ好奇の視線を投げつけてくるから、それが不快で仕方が無い。見つけたら一発くらいはそのへらへらしている顔に拳を叩き込んでやるべきだろう。
その前に、無事合流しなくてはならないのだが。
そう。彼は現在迷子状態だった。とは言っても、現在位置が分からないわけではない、帰り道もなんとか覚えている。迷子と言うよりもツレとはぐれてしまっただけだ、そして携帯電話は困ったことに向こうが城に忘れてきており、こちらから連絡の付けようがないのが現状。
そして向こうからの連絡はない。
ポケットの中の携帯電話を指でなぞり、彼はまたため息を零した。
「ばかもの」
連絡のひとつくらいしてこい、と携帯にひとりごちて彼は姿勢を正した。ここでこうしていても仕方がない、この荷物をひとりで持って帰るのは苦労だがここまで持ってきたのも自分だからなんとか大丈夫だろう。
考え直し、待つことを止めて彼は身を屈めて紙袋の、垂れ下がっている持ち手に指先を引っかけた。
最初に持ち上げるときは、息を止めて腹に力を入れるくらいの事が必要だった。だが、持ちあがってしまえばそれほど辛いわけではない。むしろ片方の袋が中身の嵩が大きい所為で変に真ん中で膨らんでしまっており、その所為でふたつの袋を片手で一緒に持つとバランスが悪くなってしまう、ただそれだけだ。
けれど両手でひとつずつ持つと、なんだか見てくれが格好悪いのでしたくない。変に拘ってしまうところが彼にはあって、それが自分への負担を増やしている事も実はちゃんと、彼は理解している。
それでも、棄てられない事は誰にだってあるはずだ。
人波の列は途切れない、どこに入れば通り過ぎていく人の邪魔にならずに合流できるだろう。
色鮮やかなはずなのにモノトーンに映る景色と人混みをぼんやりと眺めながら、彼は吸った息を吐き出して意を決し、歩き出そうとした。
その時だった。
*
交差点の終着点と合流する通りだった。
丁度青信号に切り替わった直後だったようで、向かい側の通りからこちらへと横断歩道を渡りきった人々は左右に分かれ、思い思いの目的地へと歩き出そうとしていたその合流点。
たまたまだった、タイミングが悪かっただけなのだろうが別に狙ったつもりは全くない。けれど、そのタイミングに運悪く遭遇してしまった。
並んで歩いていたのだ、ふたりで両手に、あるいは片手に大きな荷物を抱えて。
買い物は殆ど終了していた、あとは小物を幾つか買い込んで帰りを電車に乗るかタクシーに乗るか、考えていた矢先だった。
駅に行くにも、タクシーを拾うにもこの大通りを突っ切らなければならなくてそして当然ながら、大通りは人が多い。特に今の季節は買い物客で普段以上に賑わっている。
クリスマスが近い、そしてクリスマスが過ぎれば間もなく年が変わって正月がやってくる。通りに軒を連ねる商店は一斉にセールを開催し、イベントを狙った限定商品やプレゼントなどを求める人がそれに便乗する。
ごった返す人波の中からたった独りを見つけだすのは苦労だ。それこそ、木を隠すなら森の中、という譬えを思い浮かべざるを得ない状況。
彼は一緒に街へ繰り出した人とはぐれてしまっていた。連絡を取ろうにも自分は携帯電話を忘れて来るという失態を犯した上、公衆電話は最近めっきり姿を見かけなくなったし偶に見かけても、既に誰かが通話中で役に立たなかったりと、まるで意味がない。
重い溜息が零れ、彼が前髪を鬱陶しそうに掻き上げた。その所為で髪に隠れるようにしてつけている黒の眼帯がやたらと目立ってしまう。
黒のトレンチコートに、左目を覆う眼帯。薄く目立たなくしてあるとは言え青い肌にそれよりも尚濃い紺碧の髪。あきらかにその辺りを彷徨いている人種とは異なる存在に、彼と行き違う人々の三分の一ほどが振り返って確認してくるくらいだ。
「どこ行っちゃったんだろうねぇ……」
心底困った顔をして呟き、彼は片手と胸で抱えていた大きな箱を持ち直した。よっ、と小さくかけ声をして胸の上で一度箱を弾ませ、その隙に奧へ手の平を差し込み底辺を支え直す。歩いている中で、少しずつバランスが傾いて箱が前へ前へ飛びだしていって仕舞うのだ。
それでなくとも、整列されていない人の波はまるで障害物で、肩がぼかすかと当たってしまい歩きづらいことこの上ない。
そして彼はもう二回くらい、同じ場所で行っては戻ってを繰り返していた。はぐれた連れと歩いた分をくわえたら、もう同じ光景を三度も目にしたことになる。いい加減飽きてきた。
「まったく」
交差点で、横断歩道から流れ込んできた人混みの所為で既に歩道いっぱいに広がっていた混雑が、もっと大きくなった。お互いの肩と肩がぶつかって誰しもがいい顔をしなかった。
その中で、あの銀色の髪を見失った。いや、向こうも恐らく自分を見失ったに違いない。
はぐれてしまったのだ、その瞬間に。
気が付いて後ろを振り返ったときにはもう、銀色の髪一筋も見当たらなかった。声を上げて名前を呼んでみようかとも思ったが、周囲を流れていく人々とは明らかに種族が異なると分かる名前を、そして己の正体を自分から暴露するような事をするわけにもいかなかった。
連絡を取ろうにも、手段は封じられてしまっている。きっと何処かで待ってくれているはずだけれど、それほど辛抱強くない彼はきっとそのうち、諦めてひとりで帰ることを選びかねない。
その前に見つけださないと。彼の方が持ち物の量は多い、重さは変わらないかも知れないが嵩張るものを持っているのは向こうだ。
それに彼のことである、帰り道で電車を選んだ場合うっかり反対方向のホームで乗り込んでしまうことくらいやりかねない。そうしたら今以上に、彼を見つけだすことが困難になってしまう。
どこかで開いている電話ボックスは無いものか。いっそ、どれでも良いから適当にショップにでも入って、恥を忍んで電話を借りるか。
気温は下がり調子だ、吐く息は白い。空を見上げれば鉛色をしている厚い雲がどこまでも覆っていた、都市部で周囲が背の高いビルに囲まれている所為もあって視界は狭い。山間部ではもしかしたらもう、雪が降り始めているのかも知れない。
上手くいけば今年はホワイトクリスマスかも知れないね、と彼の傍らを通り抜けていったカップルが楽しそうに交わしている会話の切れ端が耳に届いた。そうかもしれない、とぼんやりとしながら彼は歩き続ける。
気象庁の予報は暖冬を宣言していたが、その期待を裏切るようにここ数日の冷え込みは激しい。北の地方では既に吹雪で、山間の里は雪で埋まっているというニュースを朝に見た記憶が新しい。
だが都心でそこまで降雪が記録される日は恐らくこの先、天変地異紛いのことでも起きない限りあり得そうにない。僅か十数センチ積もるだけで、交通機関が麻痺するような現状では、一メートル以上の雪が積もったとき一体どれだけパニックになるのか。
想像してみて滑稽で、薄く口元を歪めながら彼は交差点の、信号待ちで固まりになっている集団を避けようと爪先を左側へずらそうとした、その時。
*
出しかけた足がその途端に止まって、中途半端に開いた唇が声もなく開閉してその名前を呟いていた。
彼が歩き出そうと向いた方向の、ちょうど真正面に。
交差点の信号待ちをしている集団の頭上の僅かに上を行く、そこそこに背の高い彼の丹朱の隻眼が、そこに。
*
あ、と声もなく呟いて吐き出しかけていた息を慌てて彼は呑み込んだ。
交差点の信号待ちの集団から向こう側、かなり見えづらい状態ではあるけれど黒の中でただひとつだけ際立つ艶やかな銀色の輝きがそこに。
音に出さずに心の中で思い切りその名前を呼んで、危うく落としかけた胸に抱き込んだ荷物を支え直して彼は一瞬だけ止まってしまった足を速めた。
*
信号が、赤から青に切り替わった。
*
固まりになっていた人混みが散開する。ほんの一秒にも満たない刹那の時間だったけれど、確かに彼らの間にあれ程鬱陶しいくらいに存在した人だかりが、消え失せた。
「ユーリ、やっと見つけた」
「ばかもの、遅いぞ」
すぐに人波は戻ってきて、彼らをよそに追いやってしまう。流されるように建物の壁に近付いてようやく居場所を決めて立ち止まる。
結局ユーリは、最初にスマイルを待っていた場所に戻ってきた格好だ。そしてそこは、確か何度もスマイルが通り過ぎていた通りに沿ったビルの片隅だった。
あれぇ? とスマイルは首を捻る。何故気づかなかったのか不思議なくらいで、ユーリだってまったく目の前を通り過ぎていく人を見てなかったわけではないのにお互い、相手の存在にまったく気づかなかった事になる。
迂闊と言えばそれまでだ。しかし案外世の中はそう言うもので、ふたりとも相手を責めるような真似はしなかった。ただ、ユーリは持っていた紙袋をまた路上に置き、スマイルも抱えていた巨大な箱を下ろす。
スマイルは軽く肩を回した、コキコキと骨の鳴る音が小さく響く。
「どうする?」
「寒いからもう帰る」
「同感」
散々歩き回った所為でスマイルはそこそこ身体が熱を持っていたが、ユーリはずっと立ったままで居たので冷え切ってしまっていた。手袋を嵌めたその上から息を吐きかけた彼は、手の平を握って開きを繰り返したあと手持ち無沙汰に、スマイルの着ているコートのベルトにぶら下がっている小さなDリングを弄った。
「気になる?」
「そこそこに」
ウェストを締めているベルトを彼は外した。邪魔にならないよう、バックルが付いている方はベルト通しに逆向きに通して固定してそして、Dリングがぶら下がっている側の先端をユーリに差し出した。
なんだ、という顔をしてユーリはスマイルを見上げる。
「迷子札」
にこりと微笑んでスマイルは幅のあるそのベルトをユーリに握らせた。そして置いておいた箱を持ち上げる前に、右腕に片方の紙袋の持ち手を通す。
「持つのに……」
「ぼくが持ちたい気分なの」
いくら軽い方を選んだとは言え、すでに両手を塞ぐように箱を抱えているスマイルにこれ以上荷物を持たせるのはユーリにとって、忍びなかった。だが彼は譲ろうとせず笑顔を浮かべたまま、行くよ、と呟く。
握らせたベルトは、次にユーリが迷わないための鎖だ。本当なら手を握るなりしたいところだが、生憎とスマイルは現在両手とも塞がっている状態だし、ユーリは人前でそんなことをするのは嫌だと突っぱねるだろう。
とは言え、この状況もかなり恥ずかしいことに替わりはないのだけれど。妥協案だし、この人出である。視界の隅に収めても心の中に押し留める人は居ないと思いたい。
「どうやって帰る~?」
「荷物だし、タクシーを拾うか」
「賛成」
横断歩道を渡って反対側車線へ。ガードレールから身を乗り出して走っているタクシーに目をやれば、意志に気づいてくれたタクシーが一台彼らの前に滑り込んできて停車した。後部座席のドアが音もなく開き、先に行けとスマイルが肩で合図してユーリは紙袋だけ、先に車内に放り込んだ。
彼らを乗せたタクシーが、買い物客でごった返す街中を脱出するために走り出す。
間もなく、曇天の空から真っ白い雪が音もなく降り始めた。
sleepy
耳に嵌めていたヘッドホンを外し、ん~、と思い切り腕を頭上に伸ばして背を仰け反らせる。
身体の動きに相まって座っている椅子の前脚が二本とも浮き上がり、上半身の体重を一心に受け止めている椅子の背もたれが悲鳴を上げた。
しかしスマイルは構うことなく、ちょうど背中に食い込んでくる木組みの椅子が気持ち良いのか、左右に大きく体を揺らしてみた。リズミカルに、全身が傾ぎその度にそう頑丈に作られていない椅子が絶叫しながら撓る。
机の上に無造作に放り出されたヘッドホンからは、同じようにリズミカルな音楽が控えめな音量で流れ出している。そのコードが続く先には、床に直置きされたラジカセが机の蔭に隠れるように鎮座していた。
漏れ出てくる音を思い出し、スマイルは椅子の角度を変えて足の指で無機質に動き続けているラジカセのスイッチを切った。そしてようやく、悲鳴を上げっぱなしの椅子を大人しくさせる。
頭上にやったままだった両腕を机の上に投げ出し、右腕の肘あたりに顎を置く。ごりごりと顎を動かせば程良い刺激が腕の内側を走り抜けていくが、やりすぎると今度は痒くなってきたのでやめた。
とりあえず、疲れた。
その一言に尽きる今の自分の体調を苦笑し、垂れ落ちてきた前髪を鬱陶しげに掻き上げる。それからヘッドホンから流れてきていた音楽と同じく、ずっとかけっぱなしで存在すら忘れそうになっていた眼鏡を、外す。
座りっぱなしだったので疲れている腰以上に、眼鏡を支えていた部分が疲れている。指先でそこを揉みほぐし、もう一度片腕だけで伸び。肘から上を後ろ向きに倒すと、ポキポキと骨の鳴る音がした。回してみると、なおのことよく音がする。
「ん~~~……」
折り曲げた肘を伸ばして、もうひとのび。つい口から出た呻き声にはっ、と小さく笑う。
また椅子が鳴いている。そのまま後ろに倒れ込んでしまおうかと一瞬考えたけれど、受け身を取ることが出来そうになく自分が痛いだけに終わりそうなので、止めておくことにする。それではただ、自分から転びに行くようなもので、間抜けな構図だ。
「今、何時~……?」
窓の外は真っ暗で時間を計る材料にはなり得ない。壁時計を見上げようにも、室内の照明も極力絞っている状態なので、すぐに目的のものを見つけて文字盤が刻む時刻を読みとることが出来なかった。
今現在、彼を照らしているのは机の上に置かれている電気スタンドの淡い蛍光灯の光だけだ。それも幅を限っているので、明るいのは机の上ばかり。
その机上にはさっきまで書いては破棄、の繰り返しだった新曲の歌詞を書いた紙が雑多に積み上げられている。同じサンプル曲を何度も何度も聞き回していたものだから、音を切った今も、耳の中に残響が残ってしまっている。油断をすれば鼻歌でも口ずさんでしまいそうだ。
その曲に合う歌詞を、作れ。しかも二日以内に。
リーダーの出した期日はもう残っていない。恐らく日付がもう変わってしまっているはずなので、今日の昼までに提出しなければなるまい。だが切羽詰まれば詰まるほど、良いものが頭の中にまったく浮かんでこない。
「ギャンブラーにしたら、ユーリ、怒るよねぇ……」
当たり前だ。
息抜き程度に書いた歌詞を手に取り、苦笑いをしてそれをくしゃくしゃに丸めて後ろに放り捨てる。カサッ、という紙が床にぶつかって跳ねる軽い音が一度だけ微かに聞こえて、それっきりまた周囲は闇と沈黙に閉ざされた。
その中を、重い溜息が流れていく。
一応形になるものは出来上がったものの、恐らくあのリーダーはこれで満足しないだろう。変に妥協を許さない人であるし、妥協案を提示しても怒られるだけだ。それに、自分だって納得できない。
朝になってから、もう少し納期を延ばしてくれるように頼むしかなさそうだ。その前に、この仮の完成品を見せてどこが良くないかの指示も受けたいところだが。
向こうも曲作りで大変だろうしストレスが溜まっているだろう。あまり刺激するような事はしたくなかったが、やむを得まい。こんな調子のものを提出する方がよほど、向こうを怒らせかねない。
溜息が、もうひとつ。
半分寝入りかけている頭を振って、頬を二度ほど叩いた。寝るのは、ベッドに入ってからだ。そう自分に言い聞かせて椅子を引いて立ち上がる。その姿勢で電気スタンドのスイッチを押すと、途端に室内が真っ暗闇に染まった。
けれど慌てることなくそのまま十秒ほど待つ。そうすれば眼は闇に慣れ、昼間ほどとはいかないけれど視界を確保する事が出来た。もともと闇の世界に住んでいたわけだし、夜目が利かなくては笑い話にしかならないだろう。
いきなりの停電に驚いて犬化した挙げ句、階段から転げ落っこちたバカなら、知っているが。
椅子を机の下に戻し、念のためとメモ帳とペンだけを机の上から回収。それを持ってスマイルは自分用のベッドに歩み寄った。そして枕許にメモ帳その他を放り出し、着ているシャツの裾を引き上げる。
ゴトン、と遠くから音が聞こえたのはちょうどその時だ。
半端に脱ぎかけのシャツを持ったままスマイルは、音がした方向を向く。発生源は遠い、まず間違いなくこの部屋の中からしたものではない。
彼は眉根を寄せた。そして脱ごうとしていたシャツを今一度着直して、闇の中を歩き出した。迷うことなく達した扉のドアノブを回し、三十センチほど外側に開く。
廊下も、闇色一色。点々と壁に灯された燭台の光が、かろうじて足許を照らしているのだけれどそれだけでは視界を確保するのに不十分過ぎるだろう。
顔だけを外に出してスマイルは右を見てから左を向く。音は、弱かったのでどちらから聞こえてきたものかそれだけで判別はつかなかったけれど、恐らくは左から。
けれど物音を立てたものは見当たらず、戻ろうかと思ったけれど念のための確認でスマイルは部屋を出て、扉の真向かいにある吹き抜けに対している手摺りへ寄った。そして、下を覗き込む。
「……ユーリ……?」
眼をしばたかせ、スマイルは眉間を寄せて眼を細めた。
薄暗い廊下に動く影があった。それはどことなくおぼつかない足取りではあるものの、淀みないペースで進んでいく。その先にあるのは、階下へ続く階段だ。
スマイルは上から覗き込んでいる状態で、しかもユーリの背中しか見えないので彼がどんな表情をしているのかは見えなかった。だが恐らく、先程の音はユーリが動いたときに――多分部屋を出たときの――発生したものだろうとスマイルは判断する。
こんな夜半にどこへ、とも思うがユーリの服装が寝間着であったことからして、台所に水でも飲みに行くつもりなのだろう。まさかあの格好のまま外へ散歩、という事はあるまい。いくら散歩が趣味とはいえ。
人騒がせな、と心の中で嘆息してスマイルは手摺りから身体を離した。踵を返し、開いたままの扉を潜って閉める。
その先の世界は変わらず、闇。自分の部屋ながら、こうやって改めてみると不気味だ。
ふぁぁぁ、と小さくあくびを噛み殺す。広げた右手で軽く口元を叩き、頬を引っ掻く間に足は扉口からベッドサイドに到達していた。
履いている靴を、手を使わずに脱ぎ捨てる。左足のブーツがどこかとんでもない方向へ飛んでいったけれど、拾いに行く気にもならなかった。明日の朝、目が覚めたときにでも取りに行けばいい。そう考えつつ、足許の右足分も蹴り飛ばす。だがさして力を入れていたわけでもないので、それほど遠くへは飛んでいってくれなかった。
あくびが、また。
乱暴に頭を掻きむしり、着ているシャツを今度こそ脱ぎ捨てる。それも、ブーツと同じく闇の中に放り投げた。
枕許に手を伸ばすと、指先が固く冷たいものに当たる。なんだろう、と怪訝な顔をして握ってみると、それは先程自分で持ってきたペンだった。傍にはミニサイズのノートも置かれている。
「…………」
いいや、と彼は呟いた。そしてペンとノートもベッドから下に落とした。両方とも、弾みもせず床に沈んでそれっきり。椅子のような文句の声も上げなかった。
どすん、と床の上に散乱したものに目もくれずスマイルはベッドに寝転がった。しばらく床の上からベッドに倒れ込む、その体勢のまま気持ちよさそうに柔らかなクッションに頬ずり。
「ねむーい……」
そういえば、三日前からろくすっぽ眠っていなかった気がする。次から次へと無理難題な注文を受けては、それをこなしていくうちに睡眠時間が削り取られてしまっていたのだ。
普段から時計を持ち歩かないスマイルは、時間の感覚に疎いから眠くならないと眠らない。けれど流石に、そろそろ充電が切れてきた。
「さむ~い……」
自分から上半身裸になっておいて、それはないだろう。
ごそごそと綺麗にベッドメイクされたシーツを剥ぎ取り、蒲団の中に潜り込む。その間彼は一度たりとも身体を持ち上げなかった。イモムシ状態でベッドに貼り付いたまま、一連の行動を成し遂げたわけである。
その方が、暖かかったし。
そして蒲団の中は彼の希望通り、とても暖かかった。自分の体温が加味されると尚暖かい。
至福。
蒲団の端を抱きかかえるようにして目を閉じるのだけれど、あまりに気持ちが良くてついつい表情が緩んでしまう。なにも眠るときまでスマイルしていなくとも良いのだが、自分が幸せなのだから仕方がない。
もう彼の頭の中には作詞のことも、締め切りが迫っていることも、それが今日の昼間であることも残っていなかった。この調子では目が覚めるのは明日の夕方を過ぎてからになりそうな感じだったが、彼はまったく気にしなかった。
この蒲団の中の心地よさには、なにものも勝てない。
「しゃーわせぇ……」
けれど。
がちゃり、と。
鍵を掛けていない彼の部屋の入り口が外側から開かれて。
寝入りばなをくじかれたスマイルは不機嫌な顔をして目を開いた。
けれど顔を半分近く蒲団に潜り込ませているから、目を開けたとしても視界は蒲団の中の闇、侵入者の姿など目に入らない。
いったいこんな遅くに誰だろう。
幸福な眠りを邪魔する不届き者に怒鳴ってやりたい気持ちは、スマイルの中にあった。しかし、である。
眠気がそれを邪魔している。
もうどうだっていい、誰だっていい。兎に角眠い、眠いったら眠い。だから寝る。
蒲団が視界を邪魔していたのが悪かったのかも知れないが、スマイルは侵入者を無視することに決めた。泥棒だったとしても、この部屋に盗むほどの価値あるものはなにひとつとして存在しない。放っておけばそのうち出ていくだろう。そう勝手に決めつけてスマイルはまた目を閉じた。
しかし、侵入者は出ていく気配がない。それどころかどんどん彼の横になっているベッドに近付いてくる。
そして。
ぼすんっ、と。
「どわぁ!?」
何事!? とスマイルは飛び起きた。
いきなり、予告もなく、唐突に。
気持ちよく眠ろうとしていた彼の上に巨大な物体が落ちてきたのである。それもちょうどしっかり、腹の上に。内臓圧迫で危うく死ぬところだった。
「なっ、なっ、なに!?」
心臓がばくばく言っている。眠気が一気に吹っ飛んだ、気がする。
視界は闇、部屋の中は暗すぎて自分の手元さえはっきりとしない。それなのに妙に明るくくっきりと目に映る、銀の髪。
「ユーリぃ……?」
思いっきり怪訝な声でスマイルは、今自分の膝の上に倒れ込んでいるその物体の名前を呼んだ。されど返事はなく。
「ん~~~……」
ただ呼ばれた事だけは分かったらしいユーリが、ずりずりとシーツに皺を刻みながらスマイルの方へすり寄ってきた。
ぺと、と彼の腕がスマイルの身体を捕らえる。
当然だが、それなりに暖かい。
「んんぅ……」
ずりずり、ずり。
ぴと。
「…………」
人肌のぬくもりが気に入ったのか、スマイルの身体を両腕で抱き込んで、ユーリは頬ずり。かなり髪の毛がくすぐったい。
「ユーリさん……?」
「ん~~~」
引き離そうとしたら、いやいやとされて余計しっかりと抱きつかれてしまった。
寝ぼけている、完全に。いや、そもそも戻るべき部屋を階ひとつ分間違えている事自体が寝ぼけている事にならないか。
はぁ、と溜息。どうしようか、と前髪を掻き上げるけれどすぐにまた落ちてきて、イタチごっこ。
まぁ、ユーリもそこそこ温かいし。
別にいっか、と思い直して。
スマイルはユーリにも蒲団が被るように腕を伸ばして、そのまま自分もベッドに横になった。枕に頭を沈めると、どこかに飛んでいったはずの睡魔が一気に呼び戻されてあくびが零れる。
目を閉じると、胸の中に溜まっていた空気を一気に吐き出して。
「オヤスミ、ユーリ」
返事はなかったけれど。
「ん……」
今はスマイルの肩に両手を回して胸元に顔を埋めているユーリが、笑った気がした。
そして、朝が来て。
「何故貴様が私のベッドに居るー!?」
目を覚ましたユーリが、まず初めに叫んだ言葉がそれで。
自分を取り巻く環境を理解しないままに、目の前にある現実だけを把握した彼に思いっきり殴られて目を覚ましたスマイルは、訳が分からないと目の前に星を飛ばしながらベッドから、堕ちた。
英雄の墓標
空はどこまでも青く、広く、穏やかだった。
まるでこの戦乱狂気の時代を嘲笑うかのように、ひそやかにそして艶やかに、空はいつもそこにある。
地上に生きる卑小な人間の愚かな騒乱になどまるで興味を示さないで、風を運び雨を降らせ、大地を見下ろしている。その傲慢限りない瞳を以ってして。
汝の生きる道は何処か。
路上に茣蓙を敷き道行く人からの僅かばかりの布施で日々をやり過ごす行者の問いかけに、ふと足を止めて振り返る。頭の先まですっぽりとかぶり表情の一切を他者の視界から除いていた青年は、怪訝な面持ちで行者を見やった。
己の生き道に満足しているか?
行者は今度こそ青年に向き直り問い掛けてくる。向かい合った両者の間には奇妙な、それでいて並々ならぬ緊張感を感じさせる空気が流れており、息苦しさを青年に与えた。不幸にも現在、彼らの側を通りすぐる人の影はない。
「それを決めるのは今ではない」
一瞬悩んだものの青年は微かに自嘲気味の声でローブを外さぬまま行者に答えた。日に陰る表情は行者でさえ読み取る事はできず、微妙な声の変化によってしか彼の内情は窺い知れぬ。なかなかの存在であると内心舌を巻いた行者は、被っている笠を微妙にずらしで己の素顔を青年の前に晒してみた。
ほんの刹那の時でしかなかったが、青年は確かに行者の面を見て息を呑んだ。そこに刻まれた深い傷痕は眉根から鼻孔近くまで一直線に斜めに走っていた。周囲には皮が引き攣り、直視するに耐えない顔とはまさにこの事か、と青年に思わしめる。
「後悔はせぬな?」
一体何を、と問う前に行きずりの行者はにやり、と不遜に笑った。
「この傷は先の解放戦争の最中、今は英雄と語られる敵の御大将を討ち取らんとした際、側に控えておった敵将によって斬られた傷。今でも夜になれば、戦時に死した我が同胞が仇を取れと枕辺に立ち我に訴えかけてくる」
そっと顔に手をやり、行者は重々しい雰囲気を纏ったまま青年に告げる。青年は男の言葉を聞き、わずかに片足を後方へ流して背に負った武器をいつでも取れるように、そうとはっきりと悟られぬように身構えた。
しかし、行者は小さく首を振るだけにとどまる。
「我はすでに俗に在らぬ身。殺生は戒により禁じられ、もとより我もそのつもり。構えを解きなさるよう、我に敵対心はなし」
淡々と告げる男に最初は警戒を持ったものの、青年は行者に全く殺意がないことを認めると肩から力を抜いた。その様を見て行者は満足そうにひとつ肯く。
真昼の太陽は容赦なく地上の二人を照りつけるが、短い影を足元に落とす彼らは動こうとしない。
行者は告げる。彼は帝国の兵であったが最後の戦いで重傷を負い、気がつけばすでに戦いは解放軍の勝利で終わった後で、多くの仲間が墓石の下で眠りについていたと。職を失い、この傷では新しく職を得る事も難しいと知り彼は、平和になっても些細な争いごとが無くならない俗世間に嫌気が差して、クロン寺で頭を剃り出家したのだと。
彼の枕辺にかつての仲間たちが現れるようになったのはこの数日。そう、青年が行者の前を通りすぎる事を知らせるために、としか考えられない。
「いいのか」
抑揚のない声で青年が問い掛ける。何を、と語って貰わねばならぬほど、この行者は愚かではない。短く問われた事に対して、小さく鼻を鳴らすと、やんわりと肩を竦めて笑った。
「構わぬ。すでに語った通り、我はすでに殺生を禁じた身。それに、民衆に英雄と称えられている存在を私怨のみで討ち滅ぼすのは、後の伝えで我が一方的な悪者として扱われよう。割に合わぬ」
いくらかの自嘲を含んだ物言いに、やりきれないものを感じて青年は口を噤む。もしかしたら唇をかみ締めるなどの事をしていたかもしれないが、行者からはフードによって隠された彼の表情の全てを見出す事は出来なかった。
「恨み言を言われるのだろう」
「そうであろうな」
風がそよぎ一瞬の涼を与えて過ぎ去って行く。揺れた濃緑色のローブの端が広がり、青年は押え込むために片腕を伸ばした。旅に疲れた表情を窺わせる傷だらけの指先が、日に焼けない白い肌に痛々しく映る。
「故に、彼らを供養する事が今我に与えられた唯一の務め」
手にする錫杖の先端を一度強く地に叩き付け、行者は迷いのない瞳を青年に向けた。力強く、いっそ清々しいものを感じさせる眼に青年は複雑な表情を浮かべる。
果たして自分は彼のような眼が出来るのだろうか、と。
未だ迷いの縁から抜け出す事が出来ず、過去を振り切る事も出来ずにただ旅を流されるままに続けている。行くあてなど最初から無いに等しく、本当はあの場所に居たくなかっただけで。中間たちと居るのは楽しく心安らげるのは本当だが、その群れから離れて一人になるとどうしても後悔と失意が胸を覆い尽くしてしまうから。忘れたくないけれど忘れようとしてしまう自分が居て、失ったものを思い出すたびに辛くて悲しいから。そして、悲しんでいる自分を見て仲間たちがまた辛い思いをするのも嫌だったから。
結局は逃げ出したに過ぎない。あのぬるま湯に浸かった場所に居ては、どうしても甘えてしまいその事を後悔するばかりだろうから。
求められてもおそらく応じられない。彼らが望んでいる英雄の役目はもう終わった。自由にして欲しかった。英雄の次は大統領? 冗談は止めてくれ、とどれだけ叫びたかった事か。
どこまで自分を束縛すれば気が済むのだろう、民衆というものは。下手をすれば暴虐な帝国そのものよりも始末が悪い。数が多い分、望みも多く大きい。
英雄が、優秀な国の指導者になり得る確立は恐ろしく低い。彼らは戦う事しか知らず、戦時においては強大な力を発揮するが、ひとたび平和が訪れれば英雄は暴君に変貌する。当然だ。彼の役目は戦う事であって、間違っても民衆を指導することではない。訪れたばかりの平和を、英雄自身が黒く塗りつぶしてしまう。そして再び大地には戦乱が呼び起こされる。悪循環は収まる事を知らない。
空は常に見下ろしている。愚かな人間の所業を。
「死ぬのが恐ろしいか?」
一度切れた会話は新たな問いかけで蘇る。
「僕は死ぬ事を許されなくなった存在故に……」
恐ろしさを感じる前に、生き続けなければならない事の方が恐怖であると小さく語れば、行者は口元を歪めて杓杖を持ち替えた。彼も、青年の右手に宿る紋章の意味を知っているのだろう。知るものは多くないにせよ、全く知られていないというわけでもないのだ。ましてや、帝国軍に所属していた将校ならば知っていても何ら不思議ではない。
「死にたいか?」
青年の言葉の端に感じた思いを率直に、飾る事なく行者は口に出した。直後、青年の体が硬直するのが解った。
「…………」
しかし行者は青年を馬鹿にする様子も、笑い飛ばす気配も見せずただ黙って彼を見つめている。深すぎる漆黒の瞳は呑み込まれそうで、真っ直ぐ見返す事が出来ずに青年は視線を泳がせた。
「だが生憎と、我は殺生を禁じた身。汝が願いは叶えるにあたわず」
「判っている」
今更言われなくとも、と続けた青年の視線は今、空を舞っている。
ため息が聞こえてふと目を前方に戻せば、行者が再度肩を竦めて今度は腕組みまでしていた。袈裟に錫杖、編み笠姿でそのポーズは一見奇怪に映るが、幸いにも道を行く人はなく見咎められる事もない。
「なにか」
言われたような気がしたから青年は行者に視線を戻したのに、今度は行者の方が視線をさ迷わせて青年を見ようとしない。放っておけば口笛さえ吹き始めかねないそのやる気の無さに、青年は訳が分からず口をへの字に曲げた。
「いや……噂に聞いていたのと、実際に話してみるのとは恐ろしく印象が違うものだな」
口調が違っている。どうやら偉ぶるのは止めたらしい。それとも疲れたのか、俗にあらずを貫く姿勢とやらが。
「もうひとつ。戦場でみたあの凛とした空気も感じられん。今の貴様を殺したところで、貴様がかの英雄だったと信じるものはいないだろうな。第一、俺も信じられん」
「僕を、常に戦い求める鬼人のように言わないでくれ」
戦場に立つ時の自分は、確かに普段の自分とは別人である事を彼は否定しない。認めている。それこそ心を殺して鬼にでもなるつもりでいなければ、生き残る事など不可能だっただろう。戦場での優しさは自身の死に直結しかねない最も愚かな行為なのだから。
だが、だからこそ戦い止んで見上げた空の青さが目に痛かった。
人であることを捨ててまで戦うことにどれだけに意味を見出すことが出来ようか。辛く苦しい思いをして、それなのに失うものの方が遙かに大きかったその意味は。何のために戦ったのか、守るためではなかったのか、失わないための戦いだったはずなのに振り返ってみれば残ったのは血塗りの大地だけ。本当に欲しかったものは残らなかった。
「ここでのたれ死んだところで、誰もお前を英雄だとは思わない。哀れに思う旅人が手を合わせるだけの無縁仏として道端の草に埋もれるのがオチであろうな」
錫杖を地に打ち付けて男が小さく肩を震わせて笑う。しかし青年は否定せずに静かに微笑んだのだ。
「それも、悪くない」
そう呟きながら。
一瞬呆気に取られた行者は目を見張り、聞き間違いかとまじまじと青年を見つめたが、彼は間違いないと小さく首を振ることで認め、息を吐いた。全てを諦めてしまったような印象を与える動きに、男は顔を顰める。これではまるで、本当に……。
「別人のようだと?」
男の心を先読みした青年の自嘲めいた一言に眉を寄せ、顔の傷に更に深い皺を刻んだ男が溜息をこぼす。自覚があるのだとしたら、これはわざとやっていることなのだろうか。いや、しかしそのような作り物の感情とは明らかに色の異なる空気が青年の周りに漂っている。だから尚更に男は迷う。
今青年を討ち取ることは恐らく容易であろう。彼は抵抗すまい、自ら望んで死を受け入れよう。しかしそんな生きる死者を倒したとて、どうして誇れるだろう、どうして喜べるだろう。たとえ憎き相手であっても、己の全てをぶつけ合って倒してこそ、その戦いに意味が生じるのだ。
「覇気を感じない。何がそこまで、貴様を堕落せしめた……?」
「堕落とは酷い言い回しだね。だが、否定しない。今の僕は昔のように何か大きな目標を掲げているわけではないから。それに……今更だよ」
今更、そう。今更なのだ。
失ったものの大きさに気付き、喪失感に苛まれた青年は己の無力、無知を嘆き希望を見失った。明日を生きる光さえ見えない深淵の中でぽつりと彷徨っている青年はまるで、手を引く母とはぐれた幼子のようでもある。
「あの頃の僕には目標があった。戦う意味があった。しかし苦難の末に手にした平和な日常の中に、最も求めていた平穏を見出せなかった時、どうすればいい?」
本当に彼は僅か数名の笑顔のために戦っていたのだから、その数名の大半が彼を中心として勃発した戦いの中で失われて、守れなかったと自責の念に苛まれてもある意味仕方のないことだと、あるものは納得もしよう。だが、この行者はその大多数を占めるであろう青年の味方とはなり得なかった。
彼もまた、あの戦いで多くのものを失ったひとりだったから。
そして、戦争終結後に訪れるあの言いようのない虚脱感を味わった存在でもある。
悩み、苦しみ、自責の念に駆られ、何度も死のうと手首にナイフの刃を押しつけたりもした。しかしその度に、死んだはずの仲間達の顔が浮かんできて彼はついぞ己を鮮血で染めることが出来なかった。
彼らは何も語ろうとしない。ただ死に急ぐ彼を寂しそうに見つめているだけだ。この数日のように枕辺で、過去の英雄への恨み言を囁くような事はなかった。
「トランは確かに平和になったやもしれぬ。だが現在この大陸で、どれだけの戦禍が今も人々の頭上に振り翳されているか貴公は知っておるのか?」
「何が言いたい」
英雄として戦った青年にこれ以上何を求めるのか。暗に示された苦痛にしかなり得ない男の勝手すぎる願いに、青年はあからさまに表情を歪めた。
「これ以上僕に何を望む。民衆が勝手に造り出した英雄像を、貴方も僕に押しつけたいのか」
「そうではない。だがそうやも知れぬ。我らは未だに、強き者に縋らずには生きられぬ弱者故に」
「欺瞞だ」
顔を背け青年が吐き捨てるように言った。
支配されることに慣れすぎた人間が、今日からは自分の好きなように生きなさいと言われても混乱するだけだ。何処までが自由であり、何処までが身勝手な我が侭なのかを知らない人間が多いから、世情は落ち着くことがない。所詮平和など見せかけだけの張りぼてでしかないのだと嗤えば、行者は顔をしかめて一言、青年を叱責した。
曰く。
「死者を冒涜することは許さぬ」
それはあの戦いで命を落とした全ての人々に対する愚弄である。戦士も、そうでなかった者も、兎に角全ての死者を侮辱する言葉であるから。
「撤回されよ」
変わらぬ強い語調で行者は青年を睨み付け、動かない。
多くの者が死んだ。罪無き存在もその中には無数含まれている。幼い命を無情に散らしたものが一体どれだけの数に上るのか、調査結果は出たら出たでレパントを苦悩させることだろう。
「爾の命がいかにして保たれてきたか……爾の命のためにどれほどの命が散り急いだか、よもや知らぬとは言うまいな」
「知っているさ……」
力無く青年が応える。視線は変わらず、男から外されたままだ。
「知っている。知っているからこそ重荷にしか感じない。これ以上僕に何を求めるというんだ。僕は課せられた役目を果たしただろう? もう、英雄などと言う幻影で僕を縛らないでくれ……」
悲痛な叫びは風に運ばれて遠くの空へと流され消えて行く。
誰が信じられるだろう。目の前に立つ、背負った数多の重荷に押しつぶされようとするのを必死に耐えているこの青年が、あのトランの英雄だと。
「英雄はその命を朽ち果てさせぬ限り、英雄として残り続ける。生ける英雄ほど、貴公の言うとおり、世情に都合のいい存在はないのかもしれぬな」
天高い空は何処までも澄んでいる。燕が羽を広げて南へと下り、少しだけ傾いた太陽は路上に落ちる影を長く伸ばす。ふたりの間にある時間だけが、時を止めて流れようとしない。
「現に今も、北の大地で新たな英雄が造り出されている。知っておろう? デュナン湖の古城に居を設け、ハイランドに抵抗し続けているラストエデン軍の事は」
問われて青年は小さくだが頷いた。噂程度にしか耳に入ってきてはいないが、確かに現在、トランの北に位置するデュナン湖を囲む一体で都市同盟とハイランドが戦争を始めた、という事ならば。
「近い時期に都市同盟はトランに同盟を申し込みに来るだろう。そしてレパントはその申し出を受け入れるはずだ。両国は長年啀み合ってきたが、既に時は争いごとを好む時期ではなくなっている。トランは未だ政権が安定期に達していないことから、これ以上の無意味な争い事で国内が荒れることは避けたいだろうし、都市同盟も南からの脅威が減れば国境の警備に人員を割かずに済む」
出家者のくせに妙に血生臭い話題に及んだ事に青年は苦笑する。
「それも、枕辺に立つ魂が教えてくれた事かい?」
「まさか。戦略的見解を述べたまでだ、知識さえあれば誰だって思いつくし、想像もつく」
「けれど赤月帝国と都市同盟は長年領土を奪い合って来た仲だ。カレッカの事もある。そう素直に受け入れられない国民感情というものを配慮に入れなければならないのでは?」
思ったことを正直に告げれば、男は乗ってきたなとばかりににやりと笑う。
「矢張りまだ、想いは死んでいなかったな」
興味がないと言っておきながら、話題を提供すればしっかりと応えて意見する。それこそ、彼が未だ僅かばかりでも戦いに未練というものが残っている確かな証拠である。
「本当は行きたいのではないのか? 北に」
そしてこの道は北へ延びる街道にもうじき交わる。更に進めば、その先はデュナン地方――戦火激しい大地が待っているはずだ。
「僕に何が出来る……抜け殻の英雄など、見ても楽しくないだろうに」
「俺には貴様の方が、遙かに自身の英雄という姿に縛られようとしている風に映るが?」
いや、むしろ英雄を捨てた自分というものが考えられなくて英雄であり続けることに心のどこかで執着し、反面他人に求められる事へ強い嫌悪感を抱いている。どっちつかずの中途半端で曖昧な立ち位置。
だから男は青年に迫る。ここで、決めてしまえと。
英雄であることに拘り、囚われてきた青年は一度その束縛から解放されたとき、あまりに自由な風の強さに困惑し、疲弊し、絶望した。見上げた空の広さと、大地の無辺に己の卑小さを知り、大きすぎた戦乱の代価を背負いきれずに道を迷う。本来なら彼に無償の愛を捧げるはずの存在はすでになく、ひとりきり遺された彼の心情を正しく理解できる者ももういない。
今を保つのも、過去に逃げるのも、明日に走るのも。決めるのは彼で実行するのも彼だ。そしていい加減、青年は歩き出さなくてはならない。
時は流れた。今求められている英雄はソウルイーターではなく始まりの紋章を持つ少年であり、その少年はきっと、かつての青年が体感したと同じ苦悩を抱えているはずだ。
「抜け殻だと思うのなら、今この場に捨てて行け。供養ぐらいはしてやらんでもないぞ?」
「じゃあ、そうしてもらおうかな」
くすくすと、初めて声を立てて青年は笑った。フードが揺れて、風に煽られたそれがゆっくりと後方へ流れていく。大地の色に似た髪が日の光の下に晒され、きらきらと輝いた。
「せいぜい大々的に宣伝してくれるかな。英雄は、今この場で死んだ、と」
抜け殻を破り捨て、本来の自分へ還る。いや違う。英雄でないただの人に戻るのだ。そして、彼はこれから人として戦って行くのだろう。英雄という作り物ではない、血肉の通う人間として、生きて行けばいい。その方がはるかに言葉にも、行動にも重みが加わるだろうから。
「俺にとっては重荷だな。布施の代価は高くつくが?」
「なら……僕はこの世界の恒久なる平和を、支払おう」
戦場があるのならば、無償でその地に駆けつけ手を貸そう。苦しんでいる人々がいるならば彼らを助けるためにこの血を流そう。そうやって守れるものがある限り、生き続けてみる。英雄としてではなく、ただのお人好しの人間として。
「それはまた……高い代金だ。手を抜くことも出来そうにない」
「英雄は数多く存在している。僕は、あの戦いで死んでいった全ての人達こそが真に英雄よ呼ばれるに相応しい存在だと、思っている」
歴史に名を刻むことなく散っていった多くの魂を、どうか慰め導いてやってくれ。
そう告げると、青年は再びフードを目深く被った。日は傾き、道端の木立の長い影が彼らの頭上に降り注いでいる。次の宿場町まで、まだ少し距離が残っているから、今のうちに出発しておかないと町に着く頃には完全に日も暮れて暗闇が支配する時間になってしまうだろう。
「貴方はどうする」
一緒に行くか、と言外に問うてみたが行者もまた笠を被り直して首を横に振った。曰く、この近くにある農家に一宿の居を借りているとの事。
「行くのか」
「ええ、もう僕は……僕としてやってみたいことをやりに行くだけです」
ふたりの道は恐らくもはや重なり合うこともないだろう。互いに名乗り合うこともなく、かつては敵同士だったという過去だけを暴いて。それ以上の内情にはどちらも踏み込むような真似をせず。
ただ静かに。
「俺は……我はこの先、数多の地に名のない墓標を刻んで行こう。英雄という名に踊らされた哀れな魂をこれ以上造り出さない為の警告として」
「僕はこれから、英雄などいなくとも平和は導けるのだと証明してみせる。犠牲者は少ない方が良い、英雄の墓標なんていうものも、出来るのならば無くしてみせる」
矛盾しながらも重なり合う目標をふたり、確かめあって。
去りゆく影は二度と交わることはない。
そして英雄という名だけを刻んだ墓標は行者の足跡に沿って遺され。
英雄の殻を脱ぎ捨てた青年はいくつもの戦場に己の名を刻んだ。
Amaze
朝。
そこに、見覚えのない箱があった。
昨日の夜には確かになかったはずなのに、目覚めてこの部屋にやって来たときにはもうそこにあった。
手の平サイズだ、両手を使えば手の中にすっぽりと収まって隠れてしまえるくらいの大きさしかない。カラフルな色が六方を飾っているが、どこから開けるのか、開き口は見当たらなかった。
「?」
小首を傾げながら、ユーリはガラスのテーブルにぽつんと置き去りにされていた箱を手に取ってみた。
軽い。
中身が入っていないのか、と勘ぐりたくなるくらいに軽かった。試しに耳の横に箱を持っていって前後に振ってみるけれど、音さえしなかった。
やはり空っぽらしい。
ころころと手の平上で箱を転がしてみる。六つのそれぞれ色の異なる平方が隙間無く組み合わされ、接着面が見付からない。中身がなんであるかを疑問に思うより先に、この箱がどうやって組み立てられたのかが気になった。
左手の上に箱を置き、右手で蓋ではなさそうだが最初に上を向いていた平方の端を爪で抉ってみる。もしここが接着面であれば、少しは剥がれて来そうなものだ。
しかし反応は芳しくなく。
誰がリビングの真ん中にこんなものを置いたのかは分からないが、開かない箱などに意味はない。
自分では開けられなかった悔しさもあって、負けず嫌いなユーリはもういい、とそれをテーブルの上に放り出した。さいころのようにコロコロコロ、とテーブルの滑らかなガラス面を箱は転がって行き、雑誌の角にぶつかって止まった。
今度は赤色が上を向く。さっきまでは茶色が上を向いていた。
残りの色は、水色、青、緑、黄色の四色。その配置に意味があるとも思えず、箱がテーブルの向こう側に落ちなかったことだけを確認して、ユーリは踵を返した。
そもそも、彼はこの場所へ来たのはリビングを抜けて食堂へ向かうためだったはずだ。其処にはアッシュが居て、朝食の準備を整えているはず。
こんがりときつね色に焼き上げられたトーストにはジャムをたっぷりと。
苦めのコーヒーは眠気覚ましには丁度良い。そうでないときは少しクリームを多めに入れて味を滑らかにすると良い。目玉焼きは双子だと、何か良いことが起きそうでわくわくさせてくれる。
毎日そう代わり映えはしないけれど、一日の始まりを告げる朝食を楽しみに想像しながらユーリは一瞬にして、苦心させられた小箱のことをすっかり忘れ去った。
彼の姿がリビングから食堂の方へ消えたあと、赤色が上を向いた箱がひとりでに動き出した。
コロコロ、コロン。
滑りの良いガラステーブルの上を、雑誌とは反対方向へ三度回転。見事に茶色が上を向いて、箱は止まった。位置と方向に満足したのか、それっきり箱はひとりでに動く事はなくなる。
そして、自分を開けてくれる人をひたすら待つ時間が始まった。
朝食を終えて、食後のコーヒーを楽しんだ後ユーリはふと、気が向いてリビングへ足を運んだ。
テーブルの上に置かれてあった雑誌、あれは彼が自分で置き忘れていたものだ。それを回収してから部屋に戻ることにする。
雑誌には最近の音楽情勢が掲載されており、ランキングからゴシップに至るまで幅広いジャンルを扱っている。そのうちユーリが目を通すものは半分ほどしかない。ゴシップ記事など読んでも面白くないから読み飛ばすのが、彼の信条だった。
クリスタルガラスのテーブルに無造作に裏表紙を上にして置かれていた雑誌を見つけ、手に取る。軽く表面を叩くのは、別に埃が積み上げられていたわけではない。ただの単なる癖のひとつだ。
けれどそれを小脇に抱えて部屋へ戻ろうとしたところで、何処かしら違和感を覚えたユーリは出した足をそのままに、首から上だけで振り返った。
なんだろ、何かが違っている気がする。
違和感の正体が掴めぬまま、ユーリは歩き出すために前に出していた片足を引っ込めて両足を揃えて立った。テーブルに、今度こそちゃんと向き直る。
「…………」
しばし沈黙。
テーブルの上にあるのは、正体不明な謎の小箱と一輪挿しの花瓶がひとつ。それから壁際の大型スクリーンを操作するための黒いリモコン、ビデオ用のリモコンが各々ひとつずつ。さっきまでその一角にお邪魔していた雑誌は、今ではユーリの右脇に挟まれているから別格として。
まるで間違い探しをしているようだった。
眉根を寄せ、ユーリは食事前の光景を懸命に思い出す。
「……………………」
なんだっただろう、確かこの小箱は転がっていって雑誌の角に当たって止まったはずだ。
しかし、ユーリが今雑誌を取ったときその直ぐ傍に小箱は無かった。それに、停止したときに天井を向いていたのは確かに、赤色の面だったはず。
だけれど、今天井を向いているのは茶色だ。
それが違和感の正体だった。
「誰かが動かしたのか?」
自問しながら、ユーリは手を伸ばし小箱を持ち上げた。もう一度手の平の上に載せてマジマジと六方を見つめる。
相変わらず箱に継ぎ目は見当たらず、開けようにも入り口が何処にもない。重さも変わっておらず、先程よりも強めに振ったところで音は発生しなかった。
いったい誰が、何の目的でこんな箱をこんな場所に置いたのか。
思い当たる節のある人物はひとりきりしかいない。そういえばその思い当たる人物に今日はまだ一度も会っていなかった事を、ユーリは今更に思い出した。
大体に置いてユーリの方が目覚める時間が遅いので、スマイルは先に食事を済ませてしまっていることが多い。アッシュも、食事の支度が一通り終われば自分の食事に取りかかる。だから毎朝、ユーリはひとりでパンを囓ることになっていた。
あまりにそれが日常化してしまっていたから、スマイルの行方を聞くのをすっかり忘れていた。ユーリよりも先に起きだしているのなら、夕べには無かったこの箱がリビングにある事にも説明がつく。
けれどやはり気になるのが、この箱の正体だ。
開かないとなると余計に開けたくなる。何も入っていないと思いつつも、何かが入っていそうな予感に駆られる。
ある意味、スマイルからの挑戦状だ。開けられて困るものが入っていたとしても、だったらこんなところに置いておく奴が悪い。
いかにも、開けてくださいと待ちかまえていた箱を開けてなんの罪があろうか。すっかり開き直り、思い直してその上、負けず嫌いな性格に火がついてユーリは雑誌を脇に挟んだまま、どっかりとソファに腰を落ち着けてしまった。
両手を使って箱を隅々まで調べる。その課程で、既に存在を忘れられた雑誌がソファの上に落ちて跳ね、床にまで沈んでしまったのだがユーリはまったく気にしなかった。
赤、青、水、黄、茶、緑。
六色に彩られた、小箱。材質は紙のようだが、叩いても凹むどころか押しているユーリの指を逆に押し返してくるくらいで、結構頑丈に出来ている。プラスチックかと思ったが、表面は少しざらついていて冷たさも感じない。
「むぅ……」
低く唸ってユーリは片手を顎にやった。
さて、此処からどうしよう?
金槌で叩いてみようか。いやいやしかし、それでは中身まで砕いてしまいかねない。
では釘抜きを使って一枚引き剥がしてみようか。いやいや、釘抜きの端を引っかけるための出っ張りが箱にはないからそれは無理。
錐で穴を開けてみようか。……工具箱、どこにしまってあったっけ?
高いところから落としてみようか。それじゃ、金槌で叩くのと結局は同じ事でしょうに。
お湯で温めてみる? くっついちゃったガラスコップ同士じゃないんだから。
……じゃあ結局、どうするの。
あれこれ考えてみるものの、どれも上手くいきそうで行かなさそうで、ユーリは悩む。眉間のしわは増える一方で、いつの間にか真剣な顔をして彼は小箱と睨めっこをしていた。
人差し指と親指で小箱を挟み持って、角度を変えながら表面を穴が開くかと思うくらいにじっと見つめる。睨み付ける、と言った方が正しいか。いっそこれで本当に穴が開いてくれれば良いのだが。
と、思っていたら。
茶色の裏側……つまり、茶色が天井を向いているとき底になる色、緑。そのはじっこの方に小さな、本当に爪の先程もない出っ張りがあることに気づいた。
表面をいちいち撫でていかないと見過ごしてしまうような、本当にちっぽけな出っ張り。丸い形をしていて、油断しているとさっきユーリが自分で抉った箇所がめくれ上がってしまったものと誤解してしまいそうだった。
ひょっとして。
ごくり、とユーリは唾を飲んだ。コレを押したら、あれだろうか。蓋が……開く?
怖々と、ユーリは指先に触れた出っ張りを見つめた。本当に今でも見失ってしまいそうなくらいに小さい突起。それを、伸ばした人差し指の爪で、押す。
…………んが。
なにも、起こらなかった。
別段、箱が開いたときに背後から誰が発したのかもまったく謎な効果音が出現する、とかを期待していたわけではないのだが。こうも無反応だとがっくり来てしまう。
小箱ひとつに気落ちするつもりはなかったが、正直ユーリは少し哀しくなっていた。今まで悩んだ時間はなんだったのだろう、と過去を振り返って黄昏そうになる。
しかし。しかし、である。
最後に目を向けた箱の、ユーリに向いているのとはちょうど反対側――赤色の面に新たな突起が生まれていた。しかもさっき押した緑色の面の出っ張りよりも少しだけ、大きい。
ひょっとして、ひょっとするのか?
二段構えとはやるな、あいつめ。心の中でユーリがそう舌を巻いたかどうかは分からないが、一気にやる気を取り戻したユーリは早々に、赤面の出っ張りを押した。
…………しーん…………
そして、なにも起こらなかった。
「…………」
ユーリのこめかみにぴくぴくと、青筋が走って痙攣を起こす。今にも爆発しそうなこの怒りを、さてどこにぶつけようか。
「なんなのだいったい!!」
悔し紛れに、ユーリは思い切り箱を握って床に叩き落とした。力任せに振り落とされたそれは、くるくると回転しながら床にぶつかった。
赤と、茶色と黄色とが面を接している角を下にして。
その瞬間。
ぼはんっ!!
リビングに軽い爆発音が響いて真っ白な煙が一面を覆い尽くした。視界が見事に白一色に染まり、さしものユーリもこれには動転。
「なんなのだー!?」
思い切り悲鳴のような叫びをあげたユーリは両手を振って、懸命に視界を確保しようと煙を追い払う。
そしてようやく薄くだが見えてきた視界の、彼の足許あたりで。
びよんびにょ~ん、と。
スプリングを揺らしながら楽しげに揺れている、黄色くて丸い、物体。
マジックペンで顔が書かれている。そして唇の間から伸びる舌をイメージしたらしい紙に、でかでかと赤文字で。
『ざんねんでした』
と、ただそれだけが。
ヒッヒッヒ、という笑い声がどこからか聞こえてきて。
キッと、ユーリはかなり怒髪天の表情のままに声の方向を睨んだ。
リビングと廊下とを繋ぐ扉の向こう側で、身体を半分隠した透明人間が実に愉快そうに笑っている。ああ、笑っているとも人の痴態を見て!
「スマイル!!」
「あ、見付かっちゃった」
怒り心頭の声で叫ぶが、スマイルはまったく気にした様子もなく普通に反応を返した。そして怒りで顔を真っ赤にしているユーリを見て、また笑う。
とても楽しそうだ。
そうだろう、そうだろうとも。こんなにも向こうの企んだとおりに罠に引っ掛かったのだから。
カラフルな外装、いかにも開けてくださいと言っているような置き方、人の興味を引く絡繰り。そのどれもが、周到に用意されたびっくり箱の罠だったのだ。
今更だが、引っ掛かってしまった自分が恥ずかしくてユーリは自分に腹が立ってきていた。そしてそれ以上に、こんな子供じみた事を平気でしでかし、自分を笑っているあのスマイルが。
憎たらしいことこの上ない。
「貴様ぁ!!」
「ひゃー、恐い恐い」
本気で怒っているユーリを察し、スマイルはひとしきり笑った後大急ぎで扉の向こう側へ走って逃げた。
いったいどうやって詰め込んだのか分からない、びっくり箱の煙はすっかり消えている。床の上ではまだ、箱から飛び出したバネ仕掛けの顔だけの人形が踊っていたけれど。
ユーリは、ひとつ深呼吸をした。
そして胸の高さまで左足を持ち上げて。
勢いのままに箱を、踏みつぶした。踵でぐりぐりとやって、徹底的に箱を踏みにじってバラバラに解体処分。しかしゴミは拾わない。
「今日という今日こそ、許さないからな!」
スマイルが逃げていった扉を睨みながら、拳を握りしめて決意を新たにし、ユーリは当初この部屋を通りがかった目的も今日の予定もなにもかも、頭から吹き飛ばして。
部屋を駆け出していった。
「スマイル、何処に行ったー!!」
廊下で一旦立ち止まって城中に響き渡る大声で怒鳴り、適当に方向を検討付けて走っていく。
今日も一日、騒がしそうである。
白の版図
子供たちへ
その道は非常に険しく、茨の道であろう
辛く、苦しく、また悲しみに満ちた永い道となるだろう
だが決して諦めてはならない
己自身で決めた道であるならば
最後まで貫き通す事を忘れてはならない
はじめに、なにがあったのか
さいごに、なにをもとめるのか
答えなど見えなくて当然なのだ
それは通り過ぎた道に残る春の残り香のようなものでしかない
それに惑わされても、感傷に浸ってもならない
後ろを振り向く事なかれ
前のみをただその目でしかと見届けよ
その先になにが待っているのか
その向こうになにを見いだすのか
己自身のまなこで確かめるのだ
子供たちよ
迷う事なかれ
急ぐ事なかれ
焦る事なかれ
後悔する事なかれ
ただ、願う
茨の先に緑濃き豊かな大地が広がっていることを
爾らの未来に、栄光のあらん事を
闇の中に、その少年は立っていた。
身の丈から推測するに、年の頃は14,5だろうか。だが松明によってもたらされる僅かな光源に照らし出された少年の表情は、まだ幼さの残る年代とはかけ離れた風貌を呈していた。
暗く沈んだ瞳は、荒れ果てた大地に立つ少年を取り囲むようにして騎乗の人となっている、帝国軍の騎士たちを虚ろに映し出していた。皮肉げに結ばれた口元は、低い嘶きを繰り返す騎馬を見ても動じる様子がない。また、甲冑で身を固めた帝国兵に対しても、どことなく太々しさを全身から醸し出している。
利発そうな顔立ちをしているが、それ故に外見にはおよそそぐわない大人びた雰囲気が少年を包み込んでいる。
焼け野原となったかつては村だった跡地に、独り佇んでいた少年。古ぼけた外套で身を包み、手には同じくボロボロになった革袋が握りしめられている。外敵から身を守るための武器なのだろう、矢筒と弓が、外套の外にはみ出していた。
「何者だ」
誰何の声を上げた年若の騎士を、下から剣呑とした表情で見上げた少年はうっすらと歪んだ笑みを浮かべて今は兜を外して顔を露出させている騎士に告げる。
「俺が敵に見えるのだとしたら、あんたの目はよっぽど節穴なんだな」
俺みたいな子供を、都市同盟の兵士だと思いこむのならその辺の町や村に暮らす人間全部がアンタには都市同盟の連中に映るんだろうな。そう続けられた少年の言葉に、年若の騎士は明らかにそれと分かる顔色の変化を見せた。
「小生を侮辱する気か!?」
この年で中央軍の士官入りを果たした騎士にとって、この戦いは最初の戦いでもあった。しかし緊張し、手柄を取りたいという逸る気持ちが彼にミスを呼び込み、結局この一戦で彼は一度も殊勲を立てることが出来なかった。その苛々が今になって目の前にひとり立つ少年に向けられようとしている。
「俺としてはそんなつもりはこれっぽっちも無かったんだけどな。そう聞こえたのだとしたら、それはアンタが自分に対して何か引け目に似た卑小さを持っていることを認めたって事だろ」
「愚弄するな!」
両肩を竦めて首を振る少年に、騎士は我慢ならないとついに腰に吊された剣を抜いた。仲間の騎士の間にも、一瞬の間に緊張が走り抜ける。
しかし少年は、薄明かりのもとに晒された白刃を見ても動じる様子を見せず、先ほどまでよりも尚一層騎士を馬鹿にした表情で立ち続けている。逃げる素振りも見せず、外見に似合わない冷たい視線で馬に跨る青年騎士を睨んでいる。
「なにをしている」
今にも斬りかかりそうな騎士をはらはらと見守るだけの他の騎士たちは、背後から響いた太く、だが心地よい音を内包する声にほっと胸をなで下ろした。
少年を囲んでいた騎士のひとりが振り返り、こちらに向かってくる栗毛の馬に跨る巨躯の男を確かめた。
「テオ様」
安堵の表情はそれ以外の騎士にも現れ、騒動を聞きつけてやってきたテオに道を譲る。少年も、また抜刀していた騎士もテオの登場に気づきそちらを見やった。
まず、騎士が決まりが悪そうな顔をしてテオから視線を逸らす。だが厳しい表情を浮かべたテオはそれを許さない。
「ヘルクラード、規範は私的理由による抜刀及び民間人に対しての暴力的行為を禁じていたのではなかったか」
「は、い…………」
今にも消え入りそうな声を出し、がっくりと項垂れたヘルクラードと呼ばれた騎士が剣を鞘にしまう。鍔鳴りが耳に残り、俯いたまま馬を下りた彼を少年は黙って眺めている。物珍しそうに。
「ふぅん」
だがさして興味を持たなかったのか、すぐに視線は新たに現れた巨躯のテオに戻った。鬱金色のマントを背に、年季の入った鎧で全身を固めている。腰にささる剣は他の騎士たちのものよりも幅があり、長い。落ち着いた空気が全身からにじみ出ており、表情は厳しいがその奥に優しさも感じられた。
「えっと……」
少年が口ごもる。見上げて顔を見て話そうとしても高すぎて首が痛い。それに気づいたテオは、鎧板を鳴らして馬から下り立った。そうすれば、少しは少年と近い目線を持てることを知っていたから。
「なんだっけ」
怖々と少年は近くなったテオを見つめ呟く。特に何かを言いたかったわけではないので、なかなか言葉が思いつかない。しかし声を上げたのは自分の方が先で、テオや騎士たちは自分が何かを言うのを待っている。
「あんたたちは、赤月帝国の兵士だよな?」
確認するまでもないことだった。少年の目の前にいる騎士たちの鎧には、胸にしっかりと帝国の紋章が刻まれている。それに、遠くを見ればはためいている沢山の旗も、全て帝国側の図柄だ。時折それに混じり、軍隊別に与えられた文様が見えた。
「その通りだ」
テオが答える。見た目に反しない太く力強い声に胸を響かされ、少年は質問に失敗したなと小さく舌を出した。
「なにしに、こんな辺境まで?」
「ジョウストン都市同盟の侵攻による領土内の被害状況を確認するためだ」
短い言葉で完結に少年に問いかけに答えるテオのハキハキした物言いに、いつしか少年の心はいくらか軽くなっていた。長く信頼のおける大人に恵まれなかった所為で、彼がずっと人になじむことが出来ない生活を送っていた。
しかし今目の前にいる男は、少年に対して他と同等の扱いを持ってくれている。それが素直に嬉しく思えた。
「ご苦労だな」
「まったくその通りだよ、少年」
揶揄するつもりで言った少年に、真面目な顔つきで答えるテオがおかしかった。少年を囲んでいる騎士たちは、テオに対してまったく物怖じしない少年の変わらない口調が気に障っていたのだが、テオ本人が咎める様子を全く見せないものだから、口出しすべきかどうかで悩んでいる。
「少年よ」
日は完全に西の空に沈み、ぼやけた月と星が支配する時間。青と紫の混じり合った闇の中で、テオは少年を見つめる。
「君は、どこから来たのだね」
度の最中だと分かる格好をしていることを指しているのだろう。少年の前に歩み寄って膝を折り、目線を少年に合わせたテオが問いかける。
「ここは、数日前まで都市同盟の軍が駐留していた場所だ。住民は虐殺され村は焼き払われた。都市同盟軍は我々が撃退し北へ追い返したが、彼らが、死んだ村人のために墓を掘るとはとても考えられない」
少年の肩にその大きな手を置き、テオは優しい顔で少年の顔を見つめる。慣れていないのか、少年はびくりっ、と全身を震わせてテオから離れようと身を捻った。
「君は、この村の生き残りなのかね?」
「ちがう」
即答で返し、少年はテオから顔を逸らす。その返事はテオも予想していた範囲であり、むしろ当然の答えでもある。先にも言ったが、少年は旅姿でありそれもかなりの年季が入った外套を纏っている。一年や二年の旅で、あそこまで外套は痛まない。だから彼が数日前に襲われたばかりの村の住人であるのは考えにくい事だった。
しかし、現に村の端にはいくつもの墓標が並び、野山に咲く小さな花が控えめに添えられていた。
倒され、焼かれた家屋の廃材を使って組まれた十字架が、いくつもいくつも並んでいる。途中で廃材も足りなくなったのか、間を縫うようにして石の墓標も存在した。
「あれは、君がやったのかね」
質問と言うよりも、確認のために。テオは後方に造られた墓を目で示した。
「……いけないか」
立ち寄ったのは偶然だった。山越えをしている最中に夜なのに明るい方角があって気になったので近付いてみた。
夜の空を照らしていたのは、あの日に似た炎だった。
村を焼き、住人を殺していった惨き炎がそこにあった。フラッシュバックした遠い時代の記憶が、少年の右手に熱を読んだ。
テオはひとつ勘違いをしている。この村を焼いた都市同盟の兵士たちはテオたちが追い払ったのではない。テオが軍勢を率いて都市同盟軍と決死の戦いを繰り広げていた頃、この名も知らぬ小さき村を焼いた小部隊はすでに全滅していたのだ。
長く少年を苦しめてきた空腹感は、今はない。自分自身の過去を投影した炎の村は、虐殺者を退けたもののやはり生者を残しはしなかった。
少年はひとりぼっち、誰も生き残ってはくれない。
呪いの紋章よ、ソウルイーターよ。お前は、それで満足なのか?
ぽつりと呟いた少年の顔が歪む。なにかに必死に耐え、決して弱みは見せまいとするそのけなげすぎる姿にテオは胸を締め付けられた。
彼には、目の前の少年とほぼ同年代の息子がいる。彼は多くのものに愛され、慕われ、日々を健康に過ごしていた。よく笑い、泣き、怒り、余すことなく与えられた喜びを全身で受け止めている。幼き日に母に先立たれた寂しさは今も残っているだろうが、それに足してもお釣りが出るほどに、彼は周囲から大事にされていた。
しかしこの、テオの前で懸命に涙を堪える少年はどうだ。
ひとりきりで生きてきたのだろう。誰にも護られず、頼る相手を持たず、たったひとりで、この荒野を彷徨っていたのだろうか。
その境涯と苦難を想像し、テオは哀れみの気持ちを持つと同時にその強さに感銘をうけた。
この少年は、己が息子の持っているものの多くを持っていない。だが裏を返せば、息子が持っていないものを少年は多く胸に抱いている。誰かに与えられる強さではなく、自分自身で開拓していく強さを。
「少年よ」
テオが、告げる。
「ひとりであるのならば、どうだろう。私と共に来ないか」
手甲を付けたままの右手を指しだして言ったテオに、少年は怪訝な顔をした。
「私には、君と同い年くらいの息子がいる。息子と、……ラスティスと友達になってはくれないだろうか」
「テオ様!?」
彼の言葉を聞き、周囲で見守っていた騎士たちから一生に非難の声が上がる。だが、それを巡らせた視線だけで抑え込んだテオは再び少年に向き直って、もう一度同じ言葉を繰り返した。すなわち、息子の友人として君を迎えたいと。
テオは以前にも、都市同盟の侵略時に両親を殺された少年を拾っている。金色の髪をした細腰の少年は、今はテオの屋敷の使用人として立派にテオの息子ラスティスを世話している。もっとも、そろそろ少年と呼ぶには無理のある年齢に達しているのだろうが。
「なんで、そんなこと……」
少年は、言ってしまえば身元不確かな戦災孤児に等しい。行く当てのない旅を続けることは苦痛で、いい加減ひとつの場所にしばらく落ち着きたいと思っていた矢先だったからこの申し出は少年にとっては、願ったり叶ったりなのだが。
「同情だったら、余計なお世話だ」
優しさに裏切られた時の痛みは、嫌なくらいに体験してきた。下手な同情で優しくされたくはない。それくらいなら、一生ひとりでいる方がマシだとさえ思っている。
だけれど、テオはまっすぐに少年の目を見つめて言う。
「同情ではない、これは頼みだ。君をひとりの人間として、我が邸宅に客人として迎えたい」
この時少年はまだ、テオが赤月帝国の六将軍がひとりであることを知らなかった。テオの言葉の重みがどれほどのものかを、理解し得ていなかった。
ただ、自分を認めてくれたのだというその気持ちだけは伝わった。
嬉しかった。だから。
「……いいよ」
ついそっぽを向いて素っ気ない返事しかできなかったけれど、少年は心の底から久しぶりの喜びを噛みしめていた。
「テオ様は、また…………」
呆れたのは後ろに控えている騎士たちで、また人の良いテオ様の悪い癖が出たと口々に呟いている。しかし本気でそういっている人間は皆無で、誰しもがテオのその優しさと懐の深さを慕っていた。
「少年。君の名前を聞いても構わないか」
「ああ、そういえば言ってなかったっけ」
親子の年齢差を軽く笑い飛ばし、口調を変えないでいた少年もテオの名と将軍であることを教えられると途端に敬語を使うようになったのだが、それはもうしばらく先の話。
「俺は、テッドっていうんだ」
闇の中で、初めて少年は笑った。
反乱軍が勢いを増し、兵力を整えて赤月帝国皇帝バルバロッサに刃を向けるようになって、しばらく経ってから。
仮の執務室を訪れた法務官によって、その知らせはテオに伝えられた。
「もう一度……問う。それは本当なのか?」
グレンシールの表情に焦りが浮かび、反対側に控えるアレンと顔を見合わせてふたりは揃って白髭の法務官に問いかけた。
中央の樫の机に座る、巨躯の男は動かない。眉ひとつ動かさず、じっと腹心の部下たちと法務官のやりとりを聞いている。
「はい、間違いありません。トラン湖の古城を拠点として我々帝国に弓引く反乱軍を指揮しているのは、テオ様の御子息様本人であることが、確認されております」
時折テオの顔色を窺いながら先ほどと全く同じ内容を繰り返した法務官に、アレンはこみ上げる怒りを抑えるのに必死だった。グレンシールも、普段の冷静さが感じられず動揺を隠そうとしない。
「テオ様……」
グレンシールが振り返りテオに目線で問いかける。
法務官の報告を信じたくはない。だが現実に、テオの一人息子ラスティスは数ヶ月前、帝国軍に逆らったとして追われ、グレックミンスターを出奔し行方をくらましている。ラスティスだけではない、その付き人であるグレミオと女性ながら勇ましい戦いぶりでテオの信頼も厚いクレオまでもが、ラスティスと共に帝都から姿を消していた。
そして突然、降ってわいたラスティスが反乱軍を指揮しているとの報告。それはまさしく、帝国に仇なす行為に他ならない。
ラスティスは父であるテオにあこがれ、テオが北方へ赴任する直前に帝国近衛騎士に任命された。その役目を誇り高く果たし、行く末はテオの跡を継ぎ将軍職にまで登り詰めるだろう事を周囲からも期待され、自身もそうなることを望んでいたはずの彼が。
今は帝国をうち崩そうとする反乱軍を率いているなど。
ラスティスの人となりを知るものが、そう易々と信じられるだろうか。
「でたらめを抜かすと、どうなるか分かっているのだろうな!?」
アレンが脅してはないぞ、と剣の柄に手をやって法務官を強く睨む。だがそれを制止したのは、それまでずっと黙って見守るばかりだったテオ本人だった。
「アヴェンタール殿、その言葉に嘘偽りはないと誓えますな」
「諄いですな、テオ殿。これは紛れもなく、我が尖鋭を誇る帝国近衛騎士団が見いだした確固たる事実ですぞ」
その近衛騎士団が調べた事自体が、充分虚偽を捏造している可能性を高くしているんだよ。アレンが誰にも聞こえない声で吐き捨てる。グレンシールも声には出さなかったが、アレンとほぼ同じ気持ちだった。
腐敗の一途を辿る近衛騎士団の力量がいかなるものか、想像するに難くない。
「では問いましょう。我が息子ラスティスは、我が家の使用人であったグレミオと私の部下であるクレオと共にあるのでしょうか」
「はい、それは間違いないでしょうな」
髭を撫でながら得意げに法務官が笑う。だがテオの強い視線に気圧され、直後誤魔化すように咳払いをすると視線を逸らした。
ふう、とテオが息を吐く。
「ではもうひとつ。テッド君は、ラスティスと今も一緒なのでしょうか」
「テッド? はて、そのような輩はいたかのぅ……」
テオが戦場から連れ帰った少年は、最初の屋敷で共に暮らすという申し出だけはやんわりと断ったものの、テオの望み通りラスティスと良い友達になってくれた。
もともと父親の偉大さの所為で友人に恵まれなかったラスティスは、何の気兼ねもなく接してくれるテッドにいたく懐き、心を開くのにそう時間はかからなかった。テッドもまた、初めの頃は戸惑いを隠せずにいたが徐々に慣れ、本当の家族のように暮らすようになっていった。
いつしか、テオの息子はふたりに増えていた。
法務官が天井を見上げながら思い出そうとまたしても髭に手をやり、なにやらぶつぶつ呟き始める。だが結局、テッドに相当する人物を思い出せなかったらしい彼は小さく首を振った後、
「そのような名の人間は、反乱軍にはおりませんな。恐らく何処かで死んだのではないかと」
「…………」
遠慮のない法務官の物言いに、聞いていたアレンが拳を血が滲むまで握りしめた。
樫の机の上で、テオが重い表情のまま腕を組む。
「皇帝陛下は、どうおっしゃられておいでか」
法務官の役目は、本当はラスティスの造反を知らせることではなかったはずだ。テオの動揺を微塵も感じさせない口調に、彼は顎から手を放し勿体ぶったようにアレンとグレンシールを眺めやった。
「そうでしたな、危うく忘れるところでしたわ」
暢気に呟き、彼は懐から蝋印のされた封書を取りだしそれをテオに向かって差し出した。受け取り、テオが封を切って中身を取り出す。
一枚の紙切れに書かれた文字は、バルバロッサのものではない。しかし最後に押された朱印が、紛れもなくこれが皇帝直々の決済だと教えている。
「陛下は、私をお疑いか」
心なしかテオの声は震えていた。一体書面になにが書き記されていたのかとアレンとグレンシールは顔をつきあわせてそれからテオを見る。法務官は、最初から書簡に記されていた内容を知っていたらしい。嫌らしい顔つきをしている。
「念のためですよ、テオ殿。しばらく大人しくしていてくだされば、じきに疑いも晴れましょうぞ?」
法務官の声と、テオが机にバルバロッサからの謹慎を命じる指令書を叩きつける音が重なった。
テオの息子が反乱軍を指揮しているらしい。ならば、もしかするとその父親であるテオも造反する疑いがある。謀反を計画しているやもしれぬ。ならば、今しばらくは動きを封じて様子を見、確かめる必要がある。
それが、赤月帝国中枢部が下したテオに対する処分だった。
「恥を知れ!」
アレンが叫ぶが、にやりと笑った法務官に、
「それは、皇帝陛下への冒涜と受け止めても宜しいのかな?」
皇帝バルバロッサの命令は絶対であり、逆らうことは許されない。法務官の言葉にぐぅと唸ったアレンは、悔しげに唇を噛み己の足下を強く睨んだ。
なにも出来ない自分が心底情けなかった。
「用件も済みましたことですし、私はこれにて失礼させていただきましょう」
なにぶん仕事が立て込んでおりまして、あまり時間を割いている余裕がないのですよと、勿体付けた言い方で法務官は退室の準備に取りかかる。
「グレンシール、門までお見送りしろ」
「かしこまりました」
やり場のない怒りを必死で抑え込んでいるアレンを動かすことは出来ないと判断したテオが、反対側に立つグレンシールに命じて法務官を送らせる。一緒にアレンも退室し、ひとり残されたテオは重いため息をこぼすともう一度、机上のバルバロッサからの指令書を見つめた。
そして、先の法務官の言葉を思い出す。
「一緒ではないのか……?」
ラスティスと、テッド。ふたりは親友であり、仲間であり、家族であったはずだ。だがテッドは、今はラスティスの側にはいないらしい。
何故だ? グレックミンスターでいったいなにが起きたというのだ?
瞼を閉じ、椅子に深くもたれかかったテオは考える。
だが、答えは出てこなかった。
こどもたちよ
その道は険しく、苦しく、哀しいものとなるだろう
幾多の試練が爾らの前に立ちふさがるだろう
だが決して諦めてはならない
己が選んだ道を悔やんではならない
すべては爾の願うままに、祈るままに
道は数多の未来を示している
どの道を行くかは爾の意志次第
こどもたちよ
この選択を強いることは酷であるかも知れない
だが、この真白き版図を埋め尽くすには
今、始めるしかないのだ
晴れの日があれば、雨の日があるように
楽しい日もあれば、哀しい日もあるように
辛いこと、哀しいこと、嬉しいこと、悔しいこと
多くの経験を積んでこの白の版図を埋め尽すのだ
こどもたちよ
我が愛しき子供たちよ――――
sneeze
季節の変わり目は気温の変化も激しくて、昨日暖かければ今日も暖かいというわけにもいかない。突然前触れもなく寒くなって、でも次の日はまた暑くなってそんな日々が繰り返されると流石に、体力が少しでも弱っている人は簡単に倒れる。
御多分に漏れず、deuilのリーダーことユーリも。
風邪を引いて現在、自宅療養中。
病弱ってわけじゃないけれど、ユーリはもともと食が細いから少しでも弱ってくると簡単に病原体に潜り込まれてしまうらしい。吸血鬼なのに風邪? と最初の頃は首を傾げる事が多かったけど、血を吸わない事で免疫力とかなんとか、本来身体が持っているはずの力を充分に発揮できないのだと前に聞いた。
誰に聞いたんでしたっけ……。
そんな事を考えながらアッシュは鍋の中身が焦げないように、グルグルとおたまを使って丁寧に掻き混ぜていく。コトコトとじっくり煮込んだお粥はミルク色をしている、ミルク粥なんだから当然と言えば当然なんだけれど。
おたまを持ち上げて少し掬い上げてみると、丁度良い具合にとろっとしていて、アッシュはうん、と大きく頷いてコンロの後ろ、調理台に用意して置いた粉チーズをパラッと鍋に降りかけた。それから火を止めて、ひとり用の土鍋に移しかえる。
病人はベッドでオヤスミ中なので、下にまで食べに来させるわけにもいかない。だからレンゲと、蓋をした土鍋、それからコップに注いだ冷たい水を載せたお盆を持ってアッシュはキッチンから出た。
ホールに飾られている大時計は昼時を指し示していて、そういえばさっき大きく低い音で不気味に鐘が鳴り響いていた事を思い出した。唐突に鳴り出すから不意を突かれると本気で驚かされる時計に苦笑いしてその前を通り過ぎ、彼は出来たての粥が冷めないうちにと足早に階段を駆け上った。
重厚な造りの扉を遠慮がちにノック、そしてノブを回して室内に一歩足を踏み入れた。
身体の半分を室内に滑り込ませて中を覗き見る。薄暗い内部のほぼ中央に近い位置に、天蓋付きというご大層な巨大ベッドはあった。更にそのサイドに椅子が置かれていて、その上に人が腰掛けている。
「寝てる……っスか?」
「ん? あぁ、うん」
声のトーンを落としたアッシュがゆっくりと盆を落とさないように注意しつつ、彼の傍へと進む。
振り返って相槌を返した彼が、少し困ったように左手を振った。右手は何故か動かない、上半身を捻っているというのに彼の右手は椅子に座っている彼の身体に隠されたままだ。
「でも、多分」
ベッドサイドを通り抜けて、壁際のテーブルに盆を置いたアッシュが身体ごと彼に向き直った。それでもまだ、右手の先は見当たらない。
怪訝な顔をしているアッシュを無視して、彼はベッドに横になって眠っている存在に目を移した。その瞳の色が穏やかなのは、気のせいではないだろう、多分。
「もうじき起きると思うよ」
「どうして分かるんスか?」
今度こそ怪訝さを顔に出してアッシュが首を捻って問うた。彼は更に困った顔をして左手の指を立て、半分ほど包帯に隠れた頬を引っ掻く。返ってきた言葉は「なんとなく」という曖昧なひとことだけで、聞いた方は益々首を傾げるばかり。
けれど、
「……んぅ……?」
男ふたりの会話が騒がしかったのか、それとも増えた気配に敏感に反応したのか、ずっと眠っていた存在が薄く唇を開き、小さく呻いた。
「……あ」
組んでいた腕を解いてアッシュが少し前に身を乗り出す。
「ね?」
ベッドサイドの彼が近付いてくるアッシュを見上げて笑う。片方しか露出していない目が細められると、本当に彼の眼は見えているのかと疑いたくなる時が偶にあった。
そして近付いて漸く、彼の右手が見えなかった理由が分かった。
眠っていた人の手を握っていたのだ、しかも掛け蒲団の下に潜り込まされていた為に見えなかったのだ。
「ユーリ、起きた?」
「ん~…………」
椅子から立ち上がってベッドの上に身を乗り出し、彼はまだ眠そうにしているユーリに問いかける。返答はなくて、かわりに呻き声のようなぐずるような声が返される。けれど数分もしないうちに覚醒は来て、数回の瞬きののちユーリはしっかりとアッシュと、それから自分を覗き込んでいる存在を認識した。
「……あぁ、スマイル……」
「気分どう?」
前髪を払っている存在の名前を呼ぶ声はまだ風邪の影響か掠れている。頬も赤く熱そうだし、瞳もトロンとしていて焦点がイマイチ定まっていない。
「アッシュがお粥作ってくれたんだけど」
食べられそう?
額に手を置いて軽く熱を計った後、スマイルは身体を退いて後ろに立っているアッシュをユーリに見えやすい位置に移動する。気怠そうなユーリの目がアッシュへと移り、彼も心配そうにユーリを覗き込んだ。
「粥……」
「ミルク粥っス」
熱っぽい声で鸚鵡返しに呟いたユーリに答え、アッシュはテーブルに置いた盆を取った。それをユーリの前に差し出す。
「なにかお腹に入れて置いた方が良いと思うよ~」
食欲は無いだろうけれど、何も食べないよりは食べる方が栄養が身体に行き渡る分、回復が早くなる。粥は消化が良い分、胃の負担も少ない。
「……いらない……」
「でも、ユーリ」
今のスマイルの台詞を聞いていなかったのか、ユーリは湯気を立てている土鍋から視線を外し、頭まで毛布を被って横を向いてしまった。なんとかアッシュが食べる気を起こすような事を言おうと言葉を探すけれど、上手くいかない。
「ユーリ、我が侭はダメだよ?」
その横をすり抜け、スマイルが戻ってくる。彼は椅子には座らずに、直接ユーリが寝ているベッドの端に腰を落とした。ぎしっ、とスプリングが軋み沈む。
「スマイル……」
「良いから。あのさ、ユーリ。君、自分が病気してるって自覚してる?」
そんなことをして良いのか、と目線で尋ねるアッシュににこりと微笑んでから、スマイルは手を伸ばしユーリの頭を蒲団の上から撫でた。その仕草は、単刀直入な言葉とは裏腹に優しい。
「ユーリ、ね、ユーリはぼくたちのリーダーだよね? そのリーダーが倒れちゃってたらさ、ぼくたち、動こうにも動けないんだよ。その辺ちゃんと分かってくれてる?」
号令を下すのも、命令を出すのもユーリだ。そのユーリが現在はベッドの虫になってしまっている以上、メンバーはその虫が冬眠を終えてくれるまで待つしかない。正直言えば退屈なのだ。
そして退屈なのは、スマイルの性に合わない。
スマイルは変わらないペースでユーリの頭を撫でている。不貞寝を決め込んでいるユーリは、黙ったままスマイルの言葉を聞いている。見ているアッシュとしては、むしろスマイルの言葉はユーリの逆鱗に触れやしないかと冷や冷やだ。
「ま、ぼくとしては無理に食べなくても良いんだけど。食べたくないものを食べても、全然楽しくないでショ?」
だからぼくが代わりに食べてあげるよ、と挙げ句の果てに彼はそんなことまで言いだした。そして盆を持ったまま立ちつくしているアッシュに、自分に渡すように両手を差し出す。
困ったのはアッシュだ。この場合、どうするのが一番良いのだろう。
困惑したまましばらくスマイルの顔を見つめる。まだ何か企んでいる様子の笑顔に、蒲団から頭の先しかはみ出ていないユーリと見比べて結局彼は、スマイルに任せてみることにした。
食べたくない、と言っている人と食べる、と言っている人と。料理人が皿を差し出すとしたらどちらに対してか、答えは決まっている。
「熱いっスよ」
「うん」
見れば分かるよ、とまだ白い湯気を立てている土鍋を盆ごと受け取ったスマイルはその片隅に載っていたグラスだけ、テーブルに戻した。
コトン、という音が微かに響く。
「さ。自分勝手な誰かさんは放っておいてお昼ご飯にしようかな?」
一際楽しげに笑って、彼は両手を合わせた。いただきます、のポーズである。アッシュは、彼が何を考えているのか理解できぬまま光景を見守っていた。
と、それまでまったく反応しなかったユーリが動いた。
非常にゆっくりとだが、被っていた蒲団を下ろして顔を出す。鼻の頭が覗く程度まで引き下ろした蒲団の下で視線を泳がせ、
「あ、…………」
「食べる気になった?」
にっこり、と。
未使用のレンゲを片手に微笑むスマイルにばっちり見付かって視線が合って、ユーリは蒲団に顔を半分隠したままこくり、と頷いた。
「お腹空いてるんでしょ? ホントは」
「う……」
「食べたいんでしょ?」
「うぅ……」
「あっち向いてるから、食べなよ。ね?」
笑顔のまま言ってスマイルはユーリが身体を起こすのを手伝う。その間、粥の載った盆はアッシュの手の中。そしてユーリが枕を背中に当てて上半身を起こしたあとは、盆の位置は彼の膝の上へ移動。一緒にスマイルも、ベッドの上から椅子の上に戻った。
「えと……」
状況把握が上手く出来ないアッシュは彼の背中を押し、ユーリに背を向けるようにし向けたスマイルからそっと彼に耳打ちして教えてもらって、ようやく合点がいった。
つまりは、人前で見られながら食べるのが嫌だっただけ。
その証拠にスマイルもアッシュもユーリから視線を外すと、彼は食事を始めたようだった。食器が鳴る音が聞こえてくる。
「ちょっと意地悪じゃないっスか?」
「だって、こんな事弱ってる時にしか言えないでショ?」
「楽しそうっスね……」
ユーリが食べ終えるまでの間、ひそひそ話。肩を揺らして笑い声を噛み殺してそれでも笑っているスマイルに、アッシュは盛大な溜息をつく。
「あつっ」
その瞬間を見計らったかのような、ユーリの短い悲鳴。
え、と振り返ろうとしたアッシュの目の前を、雫を垂らしたグラスが通り過ぎていった。それは言葉無く、スマイルの手からユーリへと手渡される。
ごくごく、と一気に半分ほど飲み干してほうっ、とひとつ息を吐くユーリ。そして彼はやはり無言のままグラスをスマイルへと押し返した。スマイルも、文句ひとつ呟くことなく当たり前のように受け取って、テーブルへとそれを戻した。
粥は半分以上なくなっていて、本当に彼は空腹だったのだなと改めてアッシュは実感。
ユーリは火傷した舌がひりひりするのか、レンゲを動かす手を止めて盛んに息を吸っては吐いている。
「誰も盗らないよ?」
「当たり前だ……」
食いかけを盗られて溜まるか、と軽口を言って笑っているスマイルをひと睨みしてユーリはレンゲを口に運んだ。もう周囲の視線を気にした様子はない。それどころか、随分と元気になっている気がする。
「その調子なら、もうじき完治出来そうだねぇ」
膝の上に肘をついて頬杖を作ったスマイルが、数回の咀嚼ののち粥を嚥下するユーリに向かって独り言のように呟く。
「あとは、熱がもうちょっと下がってくれないとね……」
「もう下がっているだろう」
「まだ平熱より一度六分くらい高いよ」
「いつ計った……」
「さっき」
その、彼が言うさっき、とはもしやユーリがまだ横になっているときに額に手を載せたあの時であろうか。
「…………」
ユーリは疑いの目でスマイルを見る。スマイルはにこにことしながらユーリを見返している。アッシュは、と言えば……ひとりだけ疎外感を感じていた。
もの凄く言葉を挟みにくい雰囲気が伝わってくる。しかも向こうにはその自覚が無さそうである。いや、それ以上にここにアッシュが居ること自体、忘れ去られていそうな感じだ。
「ま、それだけ食欲があれば直ぐに熱も下がるよ」
多分だけどね、と付け足してスマイルはユーリの額にもう一度手を置いた。それを上目遣いに見ながらユーリはまたレンゲを口に運ぶ。
払われて耳に引っかけられた自分の前髪へ視線を流し、その先にあるスマイルの指を追いかけていく。土鍋から粥をひとくち分掬い上げて、今度は自分の口元へではなく。
ぱくり、と。
レンゲに食らいついたのはスマイル。しかも彼らの間にはまたしても、一言の会話も存在していなかった。
「俺、お邪魔っスか~……?」
トホホな気分で呟くと、まだレンゲをくわえたままもぐもぐやっているスマイルが不思議そうに彼を見上げた。
「ふぁんじぇ(なんで)?」
きちんと発音できていない質問にまた盛大な溜息を吐くアッシュ。
ユーリがスマイルからレンゲを奪い返して残りの粥を食べ終えた。グラスを要求されたスマイルが応じ、一息で飲み干した彼は、今度はそれを自分で盆の上に置いた。
「馳走だった」
「美味しかったよ」
ふたり同時にそう言って、ユーリは口元を拭いスマイルは見事に空になった土鍋が載った盆をアッシュに手渡す。
「ユーリはもう一眠りね?」
「寝飽きた……」
「ダメ」
不機嫌そうに反論するユーリを押しのけて、スマイルは彼をまたベッドに押し込んだ。そう言えば朝食のあともこんな感じだったような気がする。押し問答が繰り返されるものの最終的には、病気で弱っている為かユーリが折れて素直に従うのだ。
今回も最後にはユーリは蒲団を肩までしっかり被せられ、寝かしつけられてしまう。ぽんぽん、と子供にするように胸の上辺りを数回軽く叩く動作をしたスマイルは、相変わらず無邪気に微笑んだままだ。
一見すると微笑ましい光景なのだろうが、どうも違うように思える。
兎も角、ユーリの食事が終わった以上アッシュが此処に居続ける理由もなくなった。盆を片手に、最後の質問を口に出してみた。
「今日の夕飯はなににするっスか?」
「カレー」
「却下」
質問に間髪入れずにスマイルが答え、更にそこに間髪入れずにユーリが言葉を割り込ませる。
普段の調子に戻りつつあるユーリに安心して、アッシュは部屋を出た。それから、階段を下り掛けたところで振り返る。
これからもう一度眠ると言っていたユーリの部屋から、スマイルは結局夕食時まで出てこなかった。
宕冥
リドリーが死んだ。
その現実の重さがセレンの肩にずっしりとのしかかっている事は誰の目にも明かで、暗く沈んだ空気を感じラスティスは今日何度目か知れないため息をついた。
彼が逃げ出した理由がよく分かるから、あえて止めようとしなかった。いや、実際に自分が出来なかったことをやろうとした彼の背中を押してやったのだ。だから彼を行かせた自分にも罪の一端はある。けれどそれを口にしたら、セレンは余計に落ち込むし傷つくだろう。
3年前のトラン解放戦争。その活動の中心にラスティスはいた。今のセレンとよく似た状況下で、祭り上げられたに等しい形ばかりのリーダーとして。
いや、ラスティスは本当にリーダーの責務を全うしていた。決して諦めず、実の父親を敵に回しても戦いを放棄せず。母親代わりだった人を殺した相手にさえ、操られていた だけで本人に罪はないと逆に仲間として求めた。
正直、まったく恨みが無かったとはいえない。だけれど、恨めば恨むほどグレミオは遠くに行ってしまったような気になったから。結局、恨みきれなかった。グレミオは「殺された」のではなく、ラスティスを「守って」くれたのだと、そう思うことにした。
逃げ出したかった事もある。テオをこの手にかけた瞬間、どこまでも暗く冷たい世界を感じた。けれどそこへ行かずにすんだのは他でもないテオ自身の言葉のおかげだった。
自分は間違っていないと思いこむことで、自分を正当化して、自分を守った。そうしなければ周りからの期待に押しつぶされてしまいそうだったから。
死んでいった者はもう戻らない。二度と会えない。けれど、その人が確かにそこにいた事は忘れないでいられる。この胸の中にいつまでも生き続けてくれる。それが、ラスティスのお守りだった。
けれどセレンはそこまで気持ちの整理をつけられないでいる。
彼にとって戦うことは仲間を、家族を守ることだった。だから、ナナミが全てにおいて優先すべき存在だったのだろう。だけれど、彼女を守ろうとして結果、大切な仲間であるリドリーを失う事になった。
その現実が彼を苦しめている。
「不器用なんだよ」
クロムの村に戻り、ひとりで落ち込んでいるセレンをルックはそう言い表した。
「ひとつを選び取れない。自分の周りにいる人すべてを守ろうとする。それが出来ないとまた自分の所為にして全部抱え込もうとする。不器用すぎて、情けないね」
ルックに悪気があったわけではない。彼も彼なりにセレンのことを心配している。同じ真の紋章を持つ者として、その力の大きさと代償として失うものの大きさを知っているから、ルックはずっとセレンを危惧していたのだろう。いつか、こういうことになりかねないと。
ひとつのものを選び取れない。全てを守り包もうとする。それはとてもすばらしい事かもしれない。しかし人間ひとりが出来ることは限られているし、いくら真の紋章使いだとしても、限界は当然ある。出来ることと出来ないことの見定め方を知らないわけではないはずなのに、それでもセレンはその優しさを捨てきれずにいる。
薄暗い廊下で、ラスティスはどこに行くともなく佇んでいる。本当はセレンを訪ねるつもりで部屋を出たのだが、いざ彼のいる部屋の扉をノックしようとしたらどうしても手が動かなかった。
自分に、彼を慰めるだけの権利があるのかどうか、それが気になってしまったから。
「僕にはその権利はないのかもしれない」
解放戦争のリーダーだったから、その理由でラスティスはセレンと出会った。偶然すぎた出会いは、もしかしたら救いを求める紋章同士が引き合わせた結果かもしれない。けれど、ラスティスはあの偶然が無ければ自分からセレンを尋ねるような真似をしなかっただろう。
出会うべきでは、なかったのかもしれない。
「今更だ……」
悔やんでも遅い。過ぎてしまった現実は受け入れるしかないのだ。そう、リドリーの死も、また同じ。
「そこで何をやっておる」
壁にもたれかかり後ろの窓から肩越しに外を眺めていたラスティスは、少女独特の高い声ながら、古めかしい言い回しというアンバランスさの人物に声をかけられた。
白銀の髪、透けるように白い肌。生きている人間というよりは精巧に作られた人形のような少女が、いくらか憮然とした表情で立っている。
「え……と。シエラ……さん、でしたか」
「そういうお主はラスティスとかいったな。先のトラン解放戦争の指導者と聞いた」
「……指導者……そうですね、そういう言い方もあるかもしれません」
確かに解放軍のリーダーを勤め上げたわけだし、その表現も正しいかもしれない。けれど実際にそう言われてみると何か違う感じがして変な気分だった。
ラスティスよりも少し背が低い。見た目は彼と同じくらいか、少し年上のようにも見えるが、本当の所はそうではない。ラスティスが年をとらずに成長をしなくなったのと同じように、彼女もまたずっと昔に成長することを止めてしまっている。
シエラは吸血鬼だった。27の真の紋章がひとつ、月の紋章に命を縛られた人。ラスティスより、テッドよりも永くこの世界を生きてきた女性。
「不満か?」
「いえ。ただ、自分の知らないところでいろいろ言われているのだなと、改めて実感しただけです。気に障ったのなら、謝ります」
苦笑を浮かべると彼女は「必要ない」と小声で呟き、ラスティスの背中の向こうにある夜空を見上げた。
「それで、お主はセレンとかいったか、あの小僧をどう慰めてやるべきかで悩んでおったわけか」
「…………」
図星を指され、ラスティスは口元を手で隠した。そんなに分かってしまうものだったろうか。自分が、ここで手持ちぶさたにしている理由が。
「少し考えれば分かる事じゃ」
そう言って彼女は窓とは反対側の扉を指さす。普段客間として使われているこの部屋にいる人は現在一人きり。ナナミでさえ遠慮して近づこうとしていない部屋の主を思い浮かべれば、その前でうろうろしているラスティスが何をしにここに来たのかぐらい、誰にだって分かる。
「それも……そうか」
ふう、とまたため息をついて彼はまた壁に背中を預けた。シエラはおかしそうに笑っている。
「……辛くは、ないのですか」
ぽつりと呟けば、彼女はすぐに笑うのを止めてラスティスを見上げてきた。
「何がじゃ」
「生きることが」
奪われた月の紋章。それによって彼女の村は全滅し、始祖であったシエラだけがかろうじて生き残った。己が欲望に従い、同族を死に至らしめたネクロードを追うことが、せめてもの彼女なりの、死んでいった村人に対する手向けだったのかもしれない。いわば、それがシエラがここにいる理由だろう。
だとしたら、それを果たした後は?
ネクロードを倒し、月の紋章を取り戻して、はたしてそれで終わりなのか?
違う。終わりなどではない。紋章を持つ者は不老であり、不死だ。簡単に死ぬことはかなわず、ただ無限の時を流れて行くしかない。
「辛くないと言えば嘘になろう。お主だって、そうではないのか?」
ラスティスがソウルイーターを右手に宿していることは誰もが知っていること。老いることなく、時に置き去りにされた存在であることはシエラとなんら変わらない。違うのはラスティスがまだ紋章の後継者になってから日が浅いということぐらいだろう。そして、セレンはもっと短い。
「死にたいと思ったことはないのですか」
「お主と同じだと先に言ったであろう」
夜の風が吹き込んでくる。
「……そう、ですね。その通りです」
ラスティスにはそうとしか言えなかった。
シエラをまっすぐに見返せない。まるで自分を見ているようだった。
「この世界は暗く澱んでおる」
ふと、突然シエラが言った。
「人の欲望が渦巻いて止まない。昔とちいっとも変わっておらん。人間とは何と愚かで、浅ましい生き物なのか……」
戦争は終わっても消えたわけではない。ひとつになったはずの想いも、いつか離れて砕けてしまう。脆く、儚い存在でしかない。今は良くても、いつまでもこの状態が続く保障は何もないのだ。
「…………」
「わらわは様々な国を見てきた。その中にはもう存在していない国もある。支配者がかわっただけで実体はなんら変わっていない国も多かった。常に苦しむのは民衆であり、栄えるのはほんの一部の人間達でしかない」
赤月帝国の最期は、民衆の反乱から始まった。軍部による独裁的な支配体制に反感を持つ者達が集った事で活動は本格的になり、国の体制に異議を唱える一部の軍人の協力を得て、解放軍は勝利を手に入れた。
そして生まれたのがトラン共和国。
だが、シエラの言うとおり共和国となりはしたものの、各地にはまだ根強く旧支配体制が残っている。かつて赤月帝国が反乱を恐れて公然と行われていた軍力にものを言わせた軍人による地方政治が、地方にまで文政官を派遣するだけの余力がない現在、未だに続いていることは疑いようのない事実だった。
「真の紋章に力があるのは確かじゃ。しかし、それを万能の力と思うのは間違い。真の紋章がもたらすものは平穏な生活などではない」
「……はい」
頷くことしかできない。
ソウルイーターによってラスティスはそれまでの暖かで優しい世界を失った。彼を待っていたのは、血生臭くもの悲しい、暗く重い日々だけだった。
「けれど、僕は皆を救いたかった。僕にその力があるのなら、使わずにいられなかった。たとえそれが呪いの紋章の力だとしても。大切な人を奪っていく忌まわしい存在だったとしても」
必要とされたから、必要とされたかったから。
紋章は自分がそこにいる資格だと思った。自分の存在を確かめたかった。ここにいてもいいのだと、一緒にいる理由にしていたのかもしれない。
「僕は弱かった。知っている人達が次々と死んでいくのを見たくなかった。逃げ出したんですよ、僕も。……そう、逃げたかった。置いて行かれるのが嫌で、見なくてもいいように全てから目をそらしていたのかもしれない」
自分の所為で人が死ぬのが嫌だった。それ以上に、自分だけが置き去りにされる世界にいたくなかった。
変わらない自分、変わっていく世界。
「後悔しておるのか?」
「今更ですよ」
悔やんだ所で、出てしまった答えを覆すことなどできっこない。だったら、せめて後悔しないように生きて行くしかない。
「僕がソウルイーターを受け継いだ理由。こうしてセレンと出会った理由。それがあるのだとしたら、僕は見つけるしかない」
過ぎてしまった時間を巻き戻せないのなら、よりよい未来を模索して行くだけだ。
「人生は道に似ておる。そうは思わんか?」
シエラが窓に手を置き、夜空に輝く月を見上げて言った。
人がたどる道は、無限に広がる可能性。人はその無数にある未来のひとつを選び取って進んでいく。他人との出会いは交差点であり、多くの人が進む道が重なり合って歴史が生まれていく。時代が流れていく。
決して後戻りのできない一本道。しかし、それこそが自分自身が確かにそこにいたという証でもある。
「生きている者はいつか死を迎える。それは、わらわ達も例外ではない。殺されれば、死ぬのだからな」
不老不死とはいえ、不死身ではない。傷つけられれば痛いし、血だって流れる。泣くことも知っているし、喜びを共有することだって出来る。紋章を持っているからといって、それが特別な存在であるとは言えない。
「人の死を悼む想いがあれば、二度と失いたくないと思うことが出来る。それは強さだ」
少しでもたくさんの人を守りたい。自分と同じ悲しみを味わう人が出ないように、自分が出来ることをやりたい。
「無理をすることはない。ひとりで出来なければまわりを頼ればいい。互いを補うことが出来るのが、人間の良い所ではないのか? のう、セレン?」
「…………」
キィ……と低い軋み音を立て、ずっと閉じられていた扉が押し開かれる。
ラスティスが目を丸くしている前で、闇を背負ったセレンが現れた。明かりのひとつもつけないで、ずっと泣いていたのだろうか。目が充血している。
「ずっと……?」
聞いていたのか、と問えばシエラがクスクス笑い出す。
「えと……あの。すいませんでした」
ぺこりと頭を下げてセレンは謝ったが、はたして何について謝ったのか、ラスティスは分からなくなった。
「なんだか、ボク、すっごく駄目ですね。ひとりになって考えてみて、それが凄くよく分かりました」
「…………」
「リドリーさんが死んでしまったと聞いて、ボクは分からなくなりました。何をしたかったのか、ボク自身が何を望んでいたのか、見えなくなっていたんです」
逃げ出して、そして得られたものがなんであったのか。失ったものの方がはるかに大きかったけれど、その中でしか見つけだせなかった答えだってあってもいい。失ったものは還ってこないけれど、それならば失った以上のものを探して行けばいい。
「だが、失ったものを忘れてはならんぞ」
「はい」
リドリーはもういない。けれど、彼の思いはセレンの中に確実に残っている。彼が守ろうとしてくれたものを守っていく。彼が創り出そうとしていた未来を現実のものに変えて行く。それが、セレンのやるべき事なのだ。
「もう後悔したくないから……これからは、ボクの意志で闘って行けるような気がします」
力強く、はっきりと宣言したセレンを、ラスティスはまぶしい想いで見つめていた。
セレンはきっと間違えないだろう。彼には強さがある。流されるだけでない、自分というものをしっかりと持って行ける強さがある。
見上げた空の果ては高すぎて見えないけれど、まっすぐに歩いていけばいつかたどり着ける。自分を間違えない限り、自分を偽らない限り、空はいつでもそこにある。見守っていてくれる。
ラスティスが手を伸ばし、くしゃくしゃとセレンの頭を掻き回してやると、彼は「ふみゅ~」と鳴いてラスティスに抱きついてきた。
「もう大丈夫みたいだね」
「はい!」
紋章は彼らを苦しめるだけの存在かもしれない。しかし彼らは紋章があって良かったと思う事が出来る。
苦しいし、哀しいけれどそれだけじゃない。失う以上に大切なものを手に入れたから。大好きだと言える人達に出会えたから。失くしたくない気持ちに気付けたから。
「いい加減気が済んだのなら、眠ったらどうじゃ。ネクロードを倒す前にへばっても、わらわは知らんぞ」
「は~い」
ふたりの声がハモりあい、シエラがぎょっとなって半歩後ろに下がった。
「…………わらわも休ませてもらう。おんしらと一緒におるのは、疲れるだけじゃ」
くらくらする頭を押さえ、シエラは廊下を歩き出した。
「お休みなさい」
セレンがさっきまでの悲壮感何処ヘやら、な明るい声で手を振る。
「シエラさん」
自分に割り当てられた部屋に戻ろうとする彼女を、ふと思い立ったラスティスが名を呼んで止めた。
「なんじゃ」
不機嫌そうに振り返ったシエラに、彼はわずかに表情をほころばせながら、
「また、話をしに行ってもいいですか?」
きょとんとしたシエラの顔が珍しくて、ラスティスはそれだけで得した気分になった。
「お断りじゃ」
ひらひらと手を振って彼女は無駄な時間を使ってしまったとぼやく。
「わらわの道標なんぞ、おんしらには必要無かろう。おんしらの事まで面倒見ておれんわ。勝手にせい」
「そうします」
笑みがこぼれる。シエラも、ラスティスも、セレンも。
未来は闇の中だけれど、勝ち得た明日は光に満ちているはず。だから、もう迷わない。
「いつか、僕達が選んだ道が交わったとき。また、会いましょう」
別れは「さよなら」じゃない。「またね」と言うための、ひとつのステップ。
「お休みなさい」
もう一度言い、セレンが部屋のドアノブに手を伸ばす。
「お休み。また明日」
泣いてもわめいても太陽は沈み、昇って明日はやってくる。苦しかった今日は楽しい明日を過ごすための試練だと思えばいい。きっと、いいことがあるから。
泣かないで笑っていよう。ボクが笑っていることで君が幸せでいられるのなら。
またあの青空を君と見たい。迷わずに進んでいこう。自分で決めた道を、選んでいこう。
そこに、未来が見えるから。
Flower/5
水音で、目が覚めた。
遠くで響いている、反響の具合から相当遠そうだけれどはっきりと聞こえてきて正直言って目障りだった。
水道の蛇口を誰かが閉め忘れたのだろうか、だとしたらずっと水が漏れていたことになる。何故今まで気づかなかっただろうと不思議に思いながら彼は、ベッドのクッションに沈み込んでいる自分の身体を起こしに掛かった。
けれど、上手くいかない。
全身が凍り付いていたかのように上手く動いてくれなかった。指先に力を込めてみるけれど、ピクピクと先端が痙攣を起こしたように揺れるばかり。寝返りをするのも億劫で、顔が半分枕に沈んだままの視界が半分でしかも横倒し、という状態ではあるがなんとか回りを確認しようと右目を開いた。
飛び込んでくる、朽ちた茶色と灰色の光景。その中でひとつだけ異質な、黒。
その瞬間ハッとなり、彼はそれまでまったく動かすことが出来なかったはずの身体を勢い良く持ち上げた。直後激痛が全身を駆けめぐることとなり、再びベッドに沈没してしまったのは仕方のないことであるが。
「っ~~~!」
苦悶の表情を浮かべたまま必死に歯を食いしばって悲鳴を耐えながら、彼は目に入った黒い物体を睨み付けた。特に痛む右肩を下にして、赤と金という誰かを思い出させる配色の瞳をした猫を凝視する。
だが猫は涼しい顔をして受け流し、微動だにしない。
どれくらいの時間が経過したのだろう。彼の全身の痛みが退き、体の自由が少しずつであるが戻って来る頃まで猫は辛抱強く、まるで置物のように其処に座って彼を見つめていた。その表情は読みづらく真意は分からない、だが待っている、その猫は彼が立ち上がるのを。
そして待ち望んだときが訪れると、足場を飛び降りて猫はゆっくりと、先導するようにして歩き出した。
床の上に置かれている鉢植えはどれも土が露出し、朽ち果てたらしい植物の成れの果てが横たわっていた。薄汚れた天井は暗く、光を差し込むはずの窓の向こうも夜なのか曇っているからなのか、ともかく明るさとは程遠い世界だった。
扉を潜り抜ける。ノブを回す必要はなかった、蝶番が片方はずれてしまっていた扉は大きく斜めに傾ぎ、人ひとりならば楽に通れるだけのスペースを作り出していたから。そして蝶番を押し外していたのは、廊下側から伸びてきている植物の蔓だった。
既に朽ちて久しいらしい木々が枝を散らし、踏みしめると呆気なく砕け散っていった。素足で進む彼はなるべく踏まないように注意しているのだけれど、踏んだとしてもそれは大した痛みを伴わなかった。
色の欠けた、単調な世界。そこに花はなく、葉も生い茂ることはない。どれもが薄汚れた茶色か灰色をしていて、見ていると気分は憂鬱になってくる。
しかし黒猫は後ろを振り返ることなく前へ進み続け、彼も無言のまま追いかけ続ける。かつては階段だったのだろうけれど、床板は抜け落ちて外観だけを曝しているそこを植物の蔓にしがみつきながら降りる。荒れ果てたホールは見る影もなく、天井を飾っていたシャンデリアも総て砕かれ鉄骨だけが残っていた。
壁は崩れ落ち、天井は今にも落ちてきそうだ。
まるで記憶の中とは別世界に居るようだ、と一通り眺め尽くして彼は、いつの間にか黒猫が姿を消してしまっていることに今更気づく。何処へ、と呟きかけて彼は視線の先に、ぽっかりと開いている扉を見つけた。
吸い込まれるようにして、彼はそこへ歩み寄る。
色が、あった。
「ぁ…………」
ぽたり、と頬を伝い落ちるひとしずく。床に跳ねて、細くて甲高い水音が響き渡った。
よろよろと、彼は前へ進む。そして既に枯れてしまっている巨木の根本に、力無く膝をついた。
顔を両手で覆う、その上から涙が溢れ出して声もなく、彼はその場に凍り付いたように動けなかった。
花を、咲かそう
次に君が目覚めたときに
ひとりぼっちでも寂しくないように
君の、ためだけに
花を――――
「夢の中は楽しかったかい?」
赤と金の瞳を持った黒猫が問いかける。
答えることなど出来るはずがなかった。
色の消えてしまった世界で
たった一輪だけ忘れ去られたように咲いていた
蒼い、碧い薔薇の花
名前を呼んでやることすら、できなかった
…………ぴちゃーん…………
微かな耳の奧に残る反響音で目が覚めた。
「……ぅ……」
体を動かそうとして、それが出来ない今の自分を思いだした。既に身体の大半を失っている現在の自分を、もうとっくに霞んでしまっている視界の片隅で思い浮かべる。自嘲気味に心は笑ったけれど、トレードマークだったはずの笑顔は作ることが出来ずに、ただ悔しかった。
「っ……」
それでもなお、苦しげに息を吐き出すと視界が突然薄暗さを増した。なんだろう、と輪郭さえ捕らえるのに苦労する瞳を瞬かせると、何か魔法でも使われたのか目の前にはっきりと存在が分かる姿が現れた。
「……ぁ、ぁ……」
長い吐息と、それにも増した嘲りにも似た感情の入り乱れた笑み。今の自分を笑いに来たの? そう言いたげな自分の目線に気づいてか、それは不機嫌そうな表情で自分を見下ろした。
『随分と、辛そうだな』
艶やかな黒い毛並みを誇る黒猫が、その色を異にする双眸を細めて呟く。
「まー……ね」
くすっ、と口端で笑む。けれど苦しい呼吸は余計に苦しさを増しただけで、咳き込もうとしたらしいのだけれどその咳き込むはずの、自分の肺が何処にあるのかさえもう分からない。
ちろり、と黒猫は視線を外した。おそらく自分のもう大部分が見えなくなってしまった身体の各所を見つめているのだろう。しばらく虚空を彷徨って視線は、再びぼくを見つめる。
『願いを』
淡々とその唇は言葉を刻む。優しい声はあのころと何も変わっていない、変わろうとしない。なにものにも左右されず、己を誇示し続ける事が出来るその姿がずっと、羨ましかったのに。
結局その背中に追いつくことは出来なかった。
『聞いてやろう』
あの時と同じように、ふたつの瞳はまっすぐに僕を見つめている。視線を外すことはない、その色に迷いも戸惑いも、あるいは疑念さえなく。
ただ目の前にある現実を淡々と見据える事が出来るその強さに、憧れた時期もあった。
結局、なにかに自分の存在を定義付けてもらえない限り存在出来ない自分では、彼女に勝るものになるなんて無理な話だったのか。
生かされていたと言えばそれまでになる。最後まで彼女の魔法に、縋らなければならない自分自身が不甲斐ない。とは言え、今のこの状況では彼女に縋るしかもう、手だては残っていないから。
『答えてみよ』
淀みのない澄んだ声が響き渡る、既に枯れてしまって久しい巨木の根本で動くことが出来ずにいるぼくを前にして、貴方は何処までも優しく、冷たい。
『爾の望みは』
「…………なら」
一息深く吸い込んで、吐き出す。視線を外せば天井が見えた、今にも崩れ落ちそうなほどに傷ついている。
「伝えて」
あの頃を思い出す。
多分、きっと、あの頃が一番自分にとって満ち足りた時間であり忘れがたくなにものにも代え難かった大切なぬくもりだった事を。あの日々を思い返すだけで自分の存在は無駄ではなかったことが分かる、思い出せる掛け替えのない時間であった事を。
どうか、彼に伝えて。
きっとこの声は彼には届かない、この言葉を伝えるためにはもう自分に残された時間はとても短すぎるから。
必ず、彼に伝えて。
出逢えて幸せだったこと、あの出会いが無駄ではなかったと、君と知り合えてその時間を共有できた事はなによりも大事で忘れることの出来ない、生きていて良かったと心の底から思えた時間であったことを。
『……承知した』
淡々と感情の変化がない顔で黒猫は告げた。ぼくは嬉しくなって笑おうとした、けれど出来なかった。
笑うことが出来ない自分はもう、名前に相応しくない。もうそれは、多分ぼくの名前じゃなくなってしまった。
「あと、……我が侭言っても良いかな?」
少しだけ咳をして、目を閉じる。暗闇は濃い、もう光に戻れなくなるかもしれないと感じてしまうほどに。
『なんだ?』
「……付き合わせちゃってゴメンねぇ……」
もうかなり長い間、一緒に過ごしてきたはずだ。最初は気紛れから始まったはずの事がこんな風に後に糸を引いてくるなんて、きっと彼女も思っていなかっただろう。思い違いはお互い様で、それが皮肉だった。
けれど感謝している、彼女と知り合えてこうしてつきあえたことが。
『唐突だな、気味が悪い』
目を見開いた彼女が怪訝な表情をする。聞いていてぼくは「へへっ」と笑い、そしてゆっくりと瞼を閉じた。
「寂しく、……ないように」
花を咲かせたかった、独りぼっちになったときに寂しくないように。
彼を和ませて忘れさせてあげられるくらいに、優しく咲き続ける花を。
ひとりぼっちなのは本当に寂しいことで、哀しいことで、そんな気持ちを彼にだけはあげたくなかったから。
我が侭だと、分かっているけれど。
それでも、そうだとしても。
「……枯れない、花を」
世界でたった一輪だけでいい、どんなに時間が経っても決して枯れることがなく咲き続ける花に。
彼の寂しさを忘れさせる事が出来るほどに。
ずっと、一緒にいてあげられる花に。
どうか。
『それが願いか?』
彼女が問う。自分とは逆配置の色をしている瞳が互いに細められ、ぼくは少しだけ首を振った。
「ゴメンねぇ……」
『なにを、謝る』
「だって、ねぇ」
『……退屈しのぎにはなったさ』
会話を切り替えたぼくに、すぐに彼女は反応してくれた。目は細められたまま、柔らかな笑みを口元に浮かべて呟く。
『それに、なかなか面白い見せ物だったしな』
「ひどぉ……」
『事実だろう?』
こっちは真剣だったのだと拗ねた調子で言うと、向こうは分かっている、と小さくひとつ頷いた。そして脚を動かして歩を進め、もう見ることも触れることも出来ず失われてしまったぼくの身体があった場所へ、やってくる。
ふわり、と風が膨らんで艶やかな黒髪が広がった。
「それで? 貴様は私に何を願う」
尊大な態度はどこかあの人に似ている。だからかな、だから……近いと、感じたから。安心できたのかもしれない。
「叶えてやろう、そしてこれが最後だ」
鋭く切れ長の瞳は時としてとても厳しい。けれど優しい。願えば、きっと彼女は叶えてくれるだろう、言葉通りに。それが出来る女性である事を知っている、けれど、もうぼくは。
疲れちゃったんだ。待ち続けるだけの、時間に。
「ゴメンね、って……伝えておいて」
それから、と言葉を切って。
深く長く、息を吸い込む。
目の前に、いる人に微笑んで。
「殺してあげられなくって、ゴメン、とも」
連れて行く勇気を持てなかったのは、自分。置いていく事しか選べなかったのも、自分。この想いのエゴを押しつけて勝手に去っていくのも、自分。苦しめる事しか出来なかったのも、自分。
全部含めて、謝って置いてくれるかな?
伝えてくれるかなぁ、ぼくが謝っていたって。
ごめんね、って言っていたって。
そして、願わくば
世界中で君だけのために咲く
ただ一輪の枯れることを知らない花に――――
そうしてぼくは目を閉じて
世界は暗闇に包まれた
風がどこからか流れてきて
ぼくの意識を吹き飛ばした
そうしてそうしてほんとうに
ぼくの意識はかき消えて
世界の中に溶けていった
なにもかもが消え失せて
ぽとり、と作り物の金目が落ちた
彼女は少しだけ寂しそうに微笑んで
それから金目を大事そうに抱き上げた
金目は彼女の祈りで姿を変えて
願い通りに花になった
決して枯れることのない
世界中でただ一輪の花になった
「…………っ!」
薄闇の中、嗚咽だけが響き渡る。
彼女が、問うた。
「夢の中は楽しかったかい?」
答えは、なくて
「Flower」
The End
陽炎
トゥーリバーからキバ将軍の軍を退けた後、彼らはかつてのノースウィンドゥ、今はレイクウィンドゥと名を変えた城に凱旋した。待ちかまえる仲間達からはよくやったという言葉が雨のように降り注がれ、苦しい戦いに勝利したことを誰もが心から喜び、無事に帰ってきた同胞を祝福した。
そして、セレンという若い少年は名実共にラストエデン軍のリーダーとなった。
兵達は疲れた体を休めるためにたっぷりと休養が与えられ、軍師達は今後の展開を予想して作戦会議に余念がない。しかしリーダーである少年の姿はそこにはなかった。
セレンは確かにリーダーだ。だが今の彼には軍を有効利用できるだけの知識も、技量もない。彼は言われるがままに戦場に立ち馬を繰り、敵陣に切り込んでいっただけだったのだが、彼の姿を見て兵達は自らを鼓舞する事が出来た。彼はいなくてはならない存在になっていた。
まだ兵力は弱く、基盤もいつ崩れるともしれないものだからこそ、兵達の心をひとつにするための存在が必要だった。それには昔、この都市同盟の地を救った英雄の孫であり、同じ「輝く盾の紋章」を右手に宿すセレンが最も良かった。勿論それだけがすべてではないが、この二つが彼になかったらセレンはラストエデン軍のリーダーには選ばれていなかっただろう。彼はリーダーだが、実際に軍を動かしているのは軍師のシュウであり、大人達だった。
雨が降り始めていた。
「嫌な天気……」
隣でナナミが呟く。どんよりとした鉛色の空から大粒の雨がこぼれ落ちてくる。直に本降りとなるだろう雨に、洗濯物を取り込もうと女性達が大急ぎで走り回っていた。
太陽の見えない外は気温も一気に下がったようで、肌寒さを覚える。これから夏に向かおうとしているこの時期、雨は地に生える植物にとっては欠かせないものであるため、曇り空を睨むのは筋違いだとは思うのだが、やはり陰鬱な天気は気分が優れず、嫌になる。
「あれ……?」
ふと、ナナミが遠くを見て首を傾げる。
「なにかな、あれ」
酒場の軒下に立っていた彼らから、前方やや左。解放されたままの城の門の脇に何か大きなものが落ちている。黒い……丸い物体。
嫌な予感がした。
雨はいよいよ本降りで、地面が一気にぬかるみ石畳の上に水たまりが浮かんくる。ひさしを打つ雨音はやかましく、本当ならすぐに屋内に避難した方が無難だと判断していただろうセレンだったが、
「あっ!セス!?」
ナナミが後ろから手を伸ばし、雨の中を走り出したセレンを止めようとした。しかし彼女の手は彼の肩には届かず空を切り、やり場のなくなった手を見つめた彼女はしばらく考え込んだあと、なるようになれ、と弟を追ってやはり土砂降りの雨の中を飛び出した。
「セス、どうし…………!」
門の前、うずくまる彼に追いつき、ナナミはセレンの背中に問いかけようとした。しかしすぐ、どうして彼がこの雨の中をかまわずに走っていったのかその理由に気付き、声を失い立ちつくす。
「……ナナミ、すぐにホウアン先生を呼んできて!」
落ちていると思っていた荷物は、黒くて丸い物体は……それは、まだかろうじて息のある、しかしぱっと見ただけでもとても危険な状態の、傷だらけの男性だった。
「う、うん!」
怒気を含んだ弟の声に、はじかれたようにナナミは踵を返して城に戻っていった。泥が跳ね、来ている服や靴が汚れることすらいとわない。目の前にいる人を救うことが何よりも先決であり、セレンも彼女の背中をしばらく見送った後、倒れたままの男性の右腕を自分の肩に回して立ち上がった。
セレンの身長では男性の体を全部持ち上げることはかなわず、男性の力の抜けた膝が曲がりつま先がぬかるみに二本の線を残していく。途中、ナナミに軽く話を聞いたらしいフリックが見かねて交代してくれたおかげで、男性は比較的早いうちに医務室へ運ぶことが出来た。あのままセレンだけで男性を運んでいたら、冷たい雨に体温を奪われて、それだけで男性の命を更に危うくしてしまっていただろう。
「お二人は先にお風呂で体を温めてきて下さい」
「でも……!」
「ここは私に任せて下さい。それに、これ以上病人を増やされると私の手が足りなくなります」
ホウアンが濡れ鼠のセレンとナナミに言い、ナナミが心配だからと反論するがもっともなことを言い返されて唸る。
「俺もその方がいいと思うぜ。俺達がここにいても何もできないだろう」
濡れたバンダナを外しながらフリックもホウアンの意見に賛成し、ナナミの肩を叩いた。
「うん……」
うつむき加減にナナミは頷いた。セレンは始めからそのつもりでいたし、文句はない。
「大丈夫だよ、絶対」
「うん」
彼女が何を気にしてこの場を立ち去るのを躊躇しているのか、セレンには分かっていた。以前……目の前でまだ息のある人を救えなかったことを思い出しているのだろう。あの時、セレンも一緒だったから。
「ええ、私も全力を尽くして当たらせて頂きます」
柔らかな微笑みの奥にある瞳が強き光を放ち、医者としてのプライドに賭けても彼を救ってみせるとホウアンが頷く。
「行こうぜ」
フリックに促され、二人は医務室を出て風呂屋に向かった。
夜になり、男性の意識が戻ったという知らせを受けてセレンとナナミは再び医務室を訪れた。そこには先に、フリックとビクトール、そしてシュウが来て二人の到着を待っていた。
「まだ危険な状態にかわりはありません。くれぐれも無理をさせぬよう、お願いします」
ホウアンが忠告して、男の横たわるベッドにセレンは向かった。すぐ後ろをナナミが歩き、肩越しに弱々しい息の男性をのぞき込む。
「あなたが……」
「セレンです」
現れた少年の名を聞き、彼は深く安心したように息を吐き出す。
「私は……ラダトの先にある、小さな村で……家族と慎ましく生活、していました……」
途切れ途切れの言葉。しかしゆっくりと確実に伝えることを優先した男性の話が進むにつれ、シュウの眉間にしわが走り、ナナミの唇は青ざめていく。ビクトールとフリックの表情にはあまり変化が見られなかったが、それでもいい感情は抱いていないようだった。
彼の村はハイランド軍に襲われたのだ。
しかし情報が早く伝わったのが幸いし、村人達はハイランド軍が攻め込んでくる前に村を逃げ出すことに成功したという。家族の誰ひとりとして欠けることなく、一時的にかくまってもらおうと彼らはラダトを目指した。その先はハイランドの軍も迂闊に手が出せないだろうと踏んでの行動だった。
途中、同じように村を捨てて逃げ出してきた人々に会い、最終的にその数は200人近くに膨れ上がったという。そうなれば闇に隠れて移動することさえ難しくなる。だがラダトまであと一昼夜も行けばたどり着ける、という所まで来ていた安心感に油断が生じた。
ハイランド軍は彼らの行動を読み測り、ラダトの前で待ち伏せていたのだ。いや、それこそが作戦の真意であり、村を焼き討ちするという情報こそが偽りだったのだ。
焼き討ちを恐れて村人は先手を打ったつもりで村を捨てて逃げ出す。しかし実際に焼き討ちを行うことはなく、逃げていく村人を巧みに誘導し、一箇所にまとめさせた。
リューベやトトの村ならいざ知らず、山間にあったり小規模な村をいちいち兵を差し向けて焼き払うのは余りにも非効率的だと言う観点から導き出された作戦だった。こちらから出向かずとも、向こうから出ていきたい状況を作りだしてやればいい。そうすれば一度で片が付けられる。
「家族は……逃げまどう村人を、奴らは……」
自分だけがかろうじて生き残り、助けを求めてハイランドに弓ひくラストエデン軍を頼りにやってきたという。
「もしかしたら、まだ生きている人がいるかもしれない。お願いです、どうか……どうかハイランドの奴らから、皆を……」
男の頬に涙が伝い、彼は静かに目を閉じた。セレンの肩を掴むナナミの手がこわばったが、息が止まってしまったわけではない。話疲れ、眠ってしまっただけのようだ。
「助けなきゃ」
「ナナミ……」
「助けなきゃ。だって、この人は命を懸けて知らせてくれたんだよ。助けに行かなくてどうするのよ!」
「静かに!」
叫ぶナナミに、後ろからホウアンの鋭い声が飛んできた。肩をすくめた彼女だったが、セレンを睨み付けるのは変わらず、困って彼はベットを挟んで目の前に立つシュウを見た。
「…………」
だが腕を組み考え事をしている素振りの彼はすぐに気付かず、やがて頭を上げて、
「先に場所を移しましょう」
とだけ言い、さっさと医務室を出ていってしまった。
「来いよ」
ビクトールが呆気にとられているナナミと、どうしようか判断に苦慮しているセレンを手招きで呼んだ。
「あ……うん」
ホウアンに頭を下げ、このあとも男性の事を頼むとセレンはまだ納得がいかないと頬を膨らませているナナミの手を引いてシュウやビクトール達のあとを追った。廊下を通り抜け、階段で2階へ上がる。向かうのはどうやら議場のようだった。
「シュウさん!」
だがそこへつくより早く、もう我慢がならないとナナミが先走り、先頭を行くシュウの前に回り込んだ。驚いたシュウが出した足を引っ込め彼女を見下ろす。
「あの人の言うこと、聞いてたの? 勿論助けに行くよね、行くよね!」
拳を握って胸の前にもち、ぴょんぴょんその場で飛び跳ねるナナミの言葉に、しかし彼は余りよい顔をしなかった。
「軍は、出せない」
「どうして!」
ナナミの怒鳴るような問いかけには答えず、シュウは彼女をどかすとひとりさっさと議場に入っていってしまう。ビクトールとフリックも、今は軍を動かせるのはシュウだけだとよく分かっているから何も言わず、議場のドアを押した。セレンだけがやはりまだ困った顔でナナミの前に立ち止まる。
「行こう……」
「セスはなんにも思わないの? おかしいよ、セス。こんなの……冷たいよ」
「ナナミ……」
もちろんセレンだってナナミと同じ気分だった。しかし自分の立場が好きなようにものを言っていい状態ではないことを、彼は教えられたばかりだった。リーダーとして求められるままに振る舞う、その意味を彼はまだ掴みきれていなかった。
「理由を教えてもらおう。多分それを言うために、シュウはここに来たんだと思う」
「そうかもしれないけど……」
医務室で、男性の前で言えなかったことだ。良い内容だとは考えられず、それがますますナナミの癇に障るのだ。さらに、煮え切らない義弟の態度も、彼女は気に入らなかったのも確かだろう。
「なんで軍を出せないんだ?」
とにかくナナミを落ち着かせ、議場に入った彼らの耳に、先に聞きたいことを尋ねていたビクトールの声が入ってきて思わず足が止まってしまった。気付いたフリックに手招きされて議場の中に進むと、アップルの姿も見えた。
「簡単に言うなら、余裕がない」
「それに……ラダトの先は今や完全にハイランドの占領下にあります。言い換えれば、あの地はもうハイランドの領地なんです」
前に立つシュウの言葉を引き継ぐ形で、アップルが苦しげに言った。
「つまり……なにか。ラダトから向こうに行くって事は、国境を侵す事になる、ってことか?」
「そういうことだな」
ビクトールの言葉を満足そうに聞き、シュウはひとつ頷いた。
「気に入らないな。もともと断りなく国境に侵入してきたのはハイランドだろう」
フリックが不満を顕わにするが、だからといってこちらも同じ事をしてもかまわないと言う理由にはならないとも知っており、それ以上は口にしなかった。問題なのはナナミだった。
「なんで、どうして!? 一所懸命助けてもらおうと思って来た人をどうしてみんな助けて上げようとしないの!?悪いのはハイランドじゃない、私たちは良いことをしようとしてるんだよ。なのになんでそれがいけないことになっちゃうの」
「ナナミちゃん……」
アップルが何かを言いかけたがすぐにやめ、顔を背けた。
「良いと思えることすべてが正しいとは限らない」
「シュウ」
表情を変えることなく言うシュウを、咎めるような声でビクトールは名を呼んだ。
「言わなければ分からんようだから、教えてやるしかないだろう。よろしいか、セレン殿も。これは戦争なのです。戦争とは互いの主張が相容れないとき、力ずくで受け入れさせようとして起こるものです。相手側がいかに不条理な事をそらんじて来たとして、当然こちらは受け入れ難く思うこと多数でしょう。しかし、それが通用しないのが戦争というものです。不条理であろうとなかろうと、押し通した方が正しくなるのです」
「分かんないよ、そんなの!」
ナナミが叫び、シュウの言葉を遮る。
「戦争とか、そういうのが知りたいんじゃないの。どうして……目の前で助けを求めている人の手を取ろうとしないの。助けられる命を見捨てようとするの!」
暖かい涙が頬を伝い、床に染み込んで行く。
誰も彼女に答えられるものはいなかった。長く思い沈黙の間、彼女のすすり泣く声だけが議場を支配する。沈黙を最初に破ったのは、眉間にしわを寄せたまま気むずかしい顔をするシュウだった。
「……仕方がない。では、あの男が言っていた事が本当かどうかの確認に、スタリオンを行かせよう」
ぴく、とセレンが反応した。彼の物言いは、まるであの人が嘘を言っていると疑ってかかっていると言っているようなものだったから。
「その可能性もある、と申しているだけです」
「でも疑うんだね」
「それが私の仕事ですので」
すべての可能性を考え、否定しない。万が一が決して起こらないようにするのも、軍師であり、ラストエデン軍の実権を担う彼の役目だった。
「スタリオンね。奴なら足も速いし、敵に囲まれても逃げられるだろ」
偵察にはもってこいの人材だと、ビクトールも頷く。
「軍を派遣するかは、彼が戻ってきたときの報告如何で考えましょう。それでよろしいですね」
「…………」
尋ねられても、セレンは拒むことが出来ない。彼にはシュウがだす案以上のものを考え出す事なんて出来ないし、何がどこまで正しいのかも掴みきれない。ただ、スタリオンが戻ってからでは遅すぎやしないかと、それだけが気がかりだった。
男がラダトを抜け、レイクウィンドゥまで来るのにかかった日数は相当なものだったはずだ。スタリオンがいくら俊速だとはいえ、往復するのにやはり時間はかかる。そこからまた話し合いを経て、もし軍を出せたとしても生き残っている人を助け出せる確率は、低い。
それでもセレンは反論できなかった。ここで疲れている兵を動かし、下手にハイランドと戦闘になって死傷者を出しては今後の活動に支障が出ることも、分かっていたから。
「…………」
答えは、出なかった。
後日、帰ってきたスタリオンの報告の概要はこうだった。
男の言うことに間違いはなく、ラダトから少し行った丘の上に焼けこげた死体が散乱する場所があった。その数は数えきれない程で、恐らく斬り殺されたあと火をかけられたのだろう、ということ。
そしてもうひとつ。まだそこに、ハイランドの軍が駐留していた、というのだ。
「……やはりな」
報告を聞き、シュウはため息をつきながら呟いた。
「やっぱり、……て?」
「あの男は、わざと見逃されたということだ」
ナナミの震える声に対し、シュウの声は冷たく素っ気ない。
医務室の男性は、ホウアンの治療もむなしくスタリオンが戻ってくる数時間前、静かに息を引き取った。結局意識を取り戻したのはあとにも先にもあの時だけで、名前すら分からない男性は、城の共同墓地に埋葬されることが決まっている。
「ハイランドは、男が我々に助けを求めに行くことも読んでいたのだろう。そして我々が軍を派遣すればその場で取り囲み、一網打尽にするつもりでいた。もちろん、そう上手くはいかなかったのだがな」
しかし、ハイランド側の目的はあくまでもラダト以東の村々を空白にすることであり、ラストエデン軍はあくまでもおまけ、来れば叩くし来なければそれまで、という感覚でしかなかったはずだ。
「これでお判り頂けたでしょう。我々は予定通り、グリンヒルのテレーズを助け出し……セレン殿!?」
しかし、セレンが議場に背を向けて断りもなく歩き出したことに、シュウは声を初めて荒立てた。
「何処ヘ行くつもりですか!」
「決まってるでしょ。シュウさんなんて大ッ嫌い!」
問われたセレンではなく、嬉しそうに弟の背中を追いかけるナナミにあっかんべーと舌を出して宣告され、心底困った表情でシュウは頭をだいた。そしてすぐにぼけっとしているビクトールとシュウを叱りつけ、
「早く追いかけろ。まだハイランドの残党がいるかもしれん。あと何人か連れていってもかまわんから、何があってもセレン殿は守り抜け」
「止めろ、とは言わないんだな」
ビクトールがからかうように言ったが、シュウは小さく首を振っただけで、
「ずっと自分を押さえ込んできたんだろう。今は好きにさせておく。それに……荒治療かもしれんが、良い薬になるはずだ」
「逆効果になったらどうするんだ?」
「そこまで弱いような人間なら、この先もラストエデン軍のリーダーをまかせる事は不可能だ」
「相変わらず、手厳しいな」
フリックが肩をすくめてこぼし、シュウに睨まれて「はいはい」と議場を出ていった。今から追いかければ城を出てすぐに追いつけるだろう。あとは誰を連れていくかだが……。
「セレン? ナナミと外に走っていったみたいだよ。途中でキニスンが捕まって、シロと一緒に引っ張られていったけど……何かあったのかい?」
酒場でレオナに誰か手の空いているものを呼んでもらおうとしたら、そんな事を教えられてしまい、ビクトールとフリックは互いに顔を見合わせた。なぜ……キニスン。確かに彼はあの辺りに詳しいだろうが。
「まあ、いい。すまなかったな、レオナ。フリック、急ぐぞ」
早口に酒場の女主人に礼を言い、ビクトールは大慌てで城を出た。途中すれ違った仲間からセレン達の行方を聞き出し、道を下る。だが若者達は足が速い。すぐに追いつけると思っていたが、追いついたのはその日のかなり遅くなった時間帯。セレン達が野営の準備に入って足を止めていたおかげだった。
「帰らないからね!」
「分かってる。シュウからも了解を得ている。俺らは子守だよ」
くってかかるナナミの頭をぽん、と叩き、ビクトールはセレンを見た。たき火の準備に入っていたキニスンがほっとしたように見えたのは気のせいではないだろう。何がなんだか分からないまま巻き込まれてしまった彼らは不幸だった。
「事情は大体聞いています。僕も気になっていましたし……」
食料は城から持ち出せなかったので、その辺に生えている木の実やキニスンが狩った獣をさばいたもの。どんなときでも、何があっても生きていける……そんな感じの夕食だった。
そして数日後。ラダトを抜けた先のスタリオンの報告にあった丘は、すぐに見付かった。
「こいつはひでえや……」
惨状を見慣れたビクトールですら顔を背けたくなる光景が広がっている。
真っ黒に焼けた地表、それを覆い尽くす炭化した死骸。原型を留めず、雨風にかなりさらされてそのどれもが激しく痛んでいた。
幼子を抱く母親だろうか、性別すらはっきりしない死骸の間に、他よりひとまわりもふたまわりも小さな死体が横たわっている。刀傷が見え、直接の死因が火事ではないことを彼らに教えてくれた。
「ひどい……」
それしか言葉が思いつかなかった。
こみ上げる吐き気をこらえながら、ナナミが声を殺し涙を流す。セレンもまた、やり場のない憤りを感じずに入られず、そして同時に、とても悲しくてくやしかった。
また、丘の裾に広がる林の中では、フリックとキニスンがこの一帯にもうハイランド軍がいないかどうかを探っていた。
「……こいつは」
フリックがたき火のあとを見つけ、その上に手をかざして温度を確かめる。まだ、ほんのわずかだが暖かさが残っている。それにたき火を囲むようにして残っている足跡は。
「!」
殺気を感じ、彼は咄嗟に盾を振り返りざまに頭上にかざした。それは本能にも似た、反射的に取った行動だったのだが、鉄で出来た盾に衝撃が走り、自分が囲まれていることを今更ながら自覚した。
しかし。
「フリックさん!」
聞き覚えのない悲鳴が二人分、頭上からしたかと思うとすぐにキニスンの声が間近で聞こえて、フリックは盾を構えたまま声のした方向を見た。手に弓を構え、矢をつがえた状態のキニスンが木の陰に身を隠し立っている。
「気を付けて下さい、まだいます。シロ!」
狼との混血だという純白の犬の名を呼び、彼は弦をいっぱいに引き絞って矢を放った。どうやら木の上から攻撃を仕掛けてきていたらしいハイランド兵は、キニスンの矢を受けて地上に落下、そこをシロの牙に襲われていた。
フリックも愛剣オデッサを抜き放つが、地上の敵ならまだしも頭上の敵には歯が立たないのが実情で、現実はキニスンとシロのコンビネーションを眺めていただけに終わった。
「もういないな」
「ええ、残りは逃げたようです」
倒れた兵士の鎧に刻まれた紋、それが間違いなくハイランドの紋章であることを確認すると、フリックは盛大にため息をついた。
「ここも安全じゃない。ビクトール達と合流して、逃げた奴らが応援を呼んで戻ってくる前に引き返そう」
「……そうですね」
重い息を吐き出し、キニスンも同意する。口の周りを赤く汚したシロが草で血を拭うのを待ち、彼らは周囲に警戒したまま丘の上にいる仲間の元へ向かった。
──シュウの推測は正しかったってことか。
外れていてくれた方がどんなに良かったことか。自分たちがいかに危険な状況にあるのか、を思い知らされた気がしてフリックはまだ自分がふがいない青二才のまま成長していないのでは、とさえ感じていた。
「ビクトール!」
幸い、丘の上の3人は無事で、襲われた様子もなくほっとする。
「ここは危険だ。ハイランドの連中がまだ残っていた」
「やったのか?」
「何人か逃げられました。応援部隊が来られては太刀打ちできません。戻りましょう」
この様子では生存者は絶望だろう。それらしい形跡も全く見つけることが出来なかった。冷たい言い方だが、ここにいても仕方がないのだ。
「…………」
彼らから少し離れた場所で、セレンは彼らの会話を聞いていた。
足下には真っ黒に炭化した、きっと人形だったであろう木の残骸。手にとって拾い上げようとすれば、それは彼の指の中でぼろぼろに崩れ、消えてなくなった。
見殺しにしてしまったのだと、彼は思った。助けられたかもしれない命を、救えなかった。また、あの時と同じように!
太陽がまぶしい。照りつける日の光は容赦なく地上を焼きつくし、彼の思考を停止させる。
力があったはずなのに。大切な人を、たくさんの人を守れるだけの強さがあったはずなのに。助けを求めて命を賭してまでやってきた人の願いさえ聞き入れられず、救えるかもしれなかったたくさんの命が失われて行くのを指をくわえて見ていることしかできなかった。
「ボクの……ボクの所為?」
かすれる声、うつろな瞳。そこに映る、陽炎のように揺れる景色。
助けてと叫ぶ声がする。死にたくないと切望する痛みがある。生きたいという号泣が響く。何故助けてくれなかった彼を責め立てる。
「セレン!」
彼を現実に引き戻したのは、誰よりも泣いていた、この惨劇に涙した彼の義姉。
「セレン、セス……セスの所為じゃないよ」
優しく彼を抱きしめて、肩に顔を埋めた彼女がささやく。
「セスが悪いんじゃない。悪いのは、悪いことを悪いって思わない人達。セスはちゃんと分かってる。分かってるから、悔しいし、悲しいし、苦しいんだよ」
誰よりもセレンの側にいて、セレンの事を知っているから、ナナミは泣けない義弟のかわりに涙を流す。
「セスは神様じゃないんだから、出来ないことだって、沢山あるの。セスは私の義弟で、ジョウイの友達で、ただの男の子なんだよ。セスは頑張ってるよ、すっごく頑張ってるから」
そんなに自分をいじめないで。
「……うん……」
ビクトールが遠くから、ラダトに戻るぞと大声で叫んでいる。その声に促され、ナナミはセレンから離れた。乱暴に涙を拭い、そして何を思ったかその場にしゃがみこんだ。
「ナナミ?」
不思議そうに首を傾げるセレンの前で、ナナミは手を合わせ静かに目を閉じた。
「あなた達が次に生まれてくるとき、今よりも前よりもずっと平和な世界にしてみせるから」
それは祈り、そして誓い。
「だから、見守っていて下さい」
ナナミは優しい。誰よりも。いつだって、何があったって。彼女はその心から優しさを手放した事はない。
「……ナナミ、行こう」
ビクトールが呼んでいるからじゃない。自分が選んだから、進んでいこうと決めたから。行くのだ。
「僕達は今出来ることをやらなくちゃいけない。もう二度と……彼らのような、僕達のような人を増やしてしまわないためにも……」
しっかりと前を見据えて告げた彼の眼に、もう陽炎は映らなかった。