Snow White

 どこからか、遠く鐘の音が鳴り響いている。
 重厚で荘厳な鐘の音色は凛と冷えた空気を震わせ、視線を巡らせてもどこにも音を発しているはずの鐘楼が見当たらないというのに、彼の耳にまでしっかりと届けられていた。
 もう一度上空を見上げ、真っ暗な闇の中を響き渡る鐘の音に耳を傾ける。
 吐き出した息が白く濁り、闇夜であるためにそれが尚更目立って白く見えた。つい面白くて、何度も無駄に息を吐くことを繰り返す。
「……っしゅ!」
 しかしやりすぎたのか、喉と鼻が冷えてしまったのか、小さなくしゃみが飛び出してしまった。
 空は一面の闇。太陽が沈んでしまっている時間帯であることもあるが、厚い雲に覆われてしまって月や星の光が地上にいる彼の手元にまで降り注いでくれていない事もある。冬場の大気は澄んでいるから星々が綺麗に見えるのに、と残念そうに吐息を零して彼は冷えてしまった己の身体を両手で擦った。
 両腕で反対側の腕をさする。そうすることで手の平と、薄い布一枚しか羽織っていない身体を温めようとするのだがなかなか上手くいかなかった。指先が痺れかけているのか、感覚が遠い。
 鐘の音が反響を残して次第に薄れていく。あれは時刻を告げるための鐘ではないのだろう、おそらく。
 それは今日のこの夜が聖なる日だから響いた鐘の音だ。大昔、聖なる人がこの地上に誕生した事を祝う神聖な一夜を告げる為の。
 皮肉げに微笑んで彼は腕を抱く指先に力を込めた。薄い布に阻まれた肉を握り、爪を立てる。ギリッと噛みしめた歯が軋み、音が奏でられた。
 ここは寒い、とても。けれど離れる事が出来ない、まるであの鐘の音に心が縛られてしまったかのように足が動かなくなっていた。
「……降れ」
 睨むように見上げた空に向けて呟く。
 ここは寒い。けれどもっともっと冷えて、何もかもを凍えさせてしまえばいい。そうすればきっと、きっと。
「ユーリ」
 きつく噛みしめた唇を小刻みに震わせている彼の背後から、窺うような声色が投げかけられた。彼はしかし振り返らず、ただ視線を足許へ落とし首を小さく振るだけに止まる。
「お前に用はない」
「ユーリになくても、ぼくにはあるんだよ」
 ほら、と言葉と一緒に差し出されたものはユーリが外出するときによくまとっている、黒のコートだった。柔らかな素材が使用されていて、薄手なのに意外と暖かくデザインも要所が凝っているので彼はお気に入りだったはずだ。
「風邪引くよ?」
 早く受け取れ、とコートを持っている腕を振ってスマイルはユーリの顔を覗き込む。しかし彼はふいっ、と顔を逸らしてしまって視線が被ることはなかった。そしてコートを差し出す手も押し返して拒んでしまう。
 怪訝な顔をしながら、スマイルは大人しく腕を引っ込めた。しかしその場から立ち去ろうとはしない。
 ゴーン……と、遠くなった鐘が最後の一音を響かせて風に流されていく。冷たく肌に突き刺さる風に顔を顰め、シャツ一枚でこの寒空の下に立っているユーリにスマイルは溜息をはっきりと分かる格好でついた。
「あぁ、日付変わったみたいだねぇ」
 薄れていく音色に大した感慨も抱かないらしく、スマイルが何の気無しに呟いた。風に巻き上げられる前髪を押さえつけ、落ちかけたユーリのコートを持ち直す。その部分だけ余計に布地を抱き込んでいる為、変に暖かいのが奇妙な感じだった。
 ユーリがゆっくりと、スマイルを見る。
「……さっさと戻ったらどうだ」
 不機嫌だという事が一発で分かる声で言われ、スマイルは苦笑する。
「ユーリがこれ、着てくれたら戻るよ」
 そう言って彼はまだ腕に抱きしめている黒のコートをユーリに向けて差し出した。しかし一瞥するだけでまた視線を逸らしてしまったユーリに、困ったものだと肩を竦める。
「そんなに聖夜が嫌い?」
「別に……」
 ただなんとなく苦手なだけだ、騒がしいばかりの夜が。明るく照らされる夜は、闇の中に在るべき存在には疎ましいだけであり、苦手でない方がどうかしている。
 だから平気な顔をして其処に立っている男も今夜ばかりは苦手で、なるべく近付きたいとは思わなかったのに。
「イイじゃない、お祭り。にぎやかなの好きだよ、ぼく」
「お前の事を聞いているわけではない」
「じゃ、ユーリはどうなのさ。嫌い?」
「嫌い……ではない、が」
 ただこんな夜は自分の存在がひどく疎ましいものに思えてならない。聖者の生誕を祝う夜に、自分がこうして在る事が。奴らにとっての彼は消すべき、厭うべきものであるはずだから。
 そしてもしかしたら、向こうの方が正しく自分の存在が誤りであるのかもしれないと、考えてしまうから。
 だから。
「消えてしまえ、とは……思う」
「なに、を?」
 やや含みを持たせたような、何かを企んでいそうな顔でスマイルは短く言葉を切って言った。ユーリが表情を窺い見ると、楽しそうに単眼を細めて笑っている。そして不意に上空を仰ぎ見た。
 真っ黒い空。分厚い雲は重そうに天頂を覆い尽くしている。
 もう鐘の音は聞こえない。
「降りそうだね」
「――――え?」
「雪」
 空を指さし、彼はユーリの視線に戻って微笑んだ。
「……そうだな」
「ダメだよ?」
 言葉を濁しながらも同意して視線を落としたユーリに、畳みかけるようにスマイルが告げる。やはり微笑んだまま、彼のコートを抱きしめて。
「スマイル?」
「ユーリは、消えちゃ、ダメ」
 一歩、距離を詰めて彼が言う。思わず退きそうになったユーリだったが、ここで逃げたところでどうせどこまでも追いかけてくるだろう相手の性格を考え、やめた。しかし息を呑んでしまい、無意識に身体が強張ってしまうのは。
 彼に心を見透かされていると錯覚してしまいそうだから、か。
 冬の夜という寒さでない寒気が走って背が震える。スマイルがゆっくりと手を広げ、抱いていたコートを広げてそれをユーリの肩にそっと引っかけた。
 そしてそのまま、真後ろから抱きしめる。
「ダメだからね」
 念を押すようにまた耳元で囁かれ、聞きたくないユーリは固く目を閉じて首を振る。だのに、抱きしめてくる二本の腕をどうしても拒みきる事が出来なかった。
 白く冷え切ってしまった指先が弱々しく、前に回されて結ばれたスマイルの手首を掴んでいる。それも少しする間にスマイルに解かれ、焦げ茶色のグローブを嵌めている彼の手の中に包み込まれてしまう。
 温めるようにして揉み解され、大切に抱かれて。
 それでもまだ、消えない不安と孤独感と、それから。
 それから。
「ユーリ、雪が降る」
 はらり、と彼らの目の前をスマイルの言葉通りにひとひらの雪が舞い降りた。
 それはとても積もりそうにない儚いばかりの雪だったが、次第にその数が増して淡いスノーパウダーが彼らと世界を包み込む。
 音もなく、静かに。
「積もればいい……」
 真っ暗闇の中に浮かび上がる白い雪を見上げ、ぽつりと彼は呟く。差し出した手の平で降り続く雪のひとかけらを受け止めるけれど、それは少しだけ暖かさを取り戻した手の平の上ですぐに溶けて、消えて無くなった。
「積もらない、この雪は」
 夜半には雨に変わってしまうだろう雪空を見上げてスマイルが返す。無機質な声に感情は込められていない、ただ抱きしめている腕に力が込められただけ。
 熱が伝わってくる、息苦しい。
「スマイル」
「ダメ、ユーリ」
 行かせない、と彼は呟く。右の肩口に預けられた彼の額が微かに震えている事に、ユーリは今頃気づいた。それは決して寒さからくる震えではなく、ましてや言葉を発するために身体が揺れたからでもなく。
 ただ、不安で。
「積もる、この雪は」
 ひんやりとした感触が残る手の平をぎゅっと握りしめ、ユーリは微かな希望をもって告げた。幾らか自嘲気味な笑みを浮かべた後、右腕を回してスマイルの頭を抱く。
「行かせたくないのならば、しっかりと捕まえていろ」
 二、三度撫でてからユーリは自分の肩に引っかけられているだけの、今にもずり落ちてしまいそうなコートを引っ張った。抱きついたままだと彼がコートを着ることが出来ないと気づき、慌ててスマイルが退く。
 しんしんと降り続く雪の、その降り続く音だけがその空間を覆い尽くしていた。
 黒の中の、白。まるで闇の中に佇むユーリのようだとスマイルは思ったが、口に出すと殴られそうなので自分の心に思いはしまっておくことにする。
 コートに袖を通し、前もしっかりと留めて髪に積もってしまっていた雪を軽く払いのけたユーリが、黙り込んでしまっているスマイルに不思議そうな顔を向けた。取り繕うように笑顔を返すものの、どことなくぎこちなくなってしまった彼にユーリはいぶかしんだが、最終的には放置する方向に決めたらしい。
 白い息を吐いて、次々に落ちてくる雪の欠片を見上げる。
 その背中に、またスマイルが無言のままに抱きついた。
「スマイル?」
「捕まえてるから」
 ずっと、いつまでも、なにがあっても。
「こうやってたら、ユーリが雪に隠されちゃっても見失わないから」
「積もらない雪なのだろう?」
「さっき、ユーリが雪に魔法をかけた」
 ユーリが断言した通り、雪は徐々に粒を大きくして足許の枯れかけた芝を覆い尽くそうとしていた。この調子で降り続けば、明日の朝には一面銀世界が広がっていることだろう。
 スマイルの勘は外れた、見事に。
「魔法か?」
「そう」
 なんだか可笑しくて、笑いながら問い返すとやけに自信満々にスマイルは頷いてきた。その表情は真剣そのもので、尚更可笑しくてユーリは口元を覆い更に笑った。
「あんまり笑わないでよね~」
 不満そうに言いながらスマイルはユーリの肩に置いた顎をグリグリと回した。痛いよりもくすぐったくて、ユーリは今度こそ声を立てながら笑ってしまった。
「だから笑わないでってば~~」
 抱きしめる両腕で力一杯ユーリを押さえ込んでスマイルが拗ねた顔をする。腹を押さえられて苦しげに一度藻掻いたユーリは、最後の一息を笑いと共に吐き出してようやく落ちついたらしく荒く肩を上下させた。
「お前が笑わせるからだろう」
「笑わせようとしたわけじゃないんだけどねぇ……」
 不満そうに頬を膨らませながらスマイルがぼそぼそと言葉を繰り返し、耳元で囁かれているために吐息が当たってまだくすぐったいのを我慢しながら、ユーリは彼の手を握り返した。
 この手を掴んでいる限り、迷うことはあっても、見失う事はないだろう。何故かそう思えた。
「暖かいな……」
 まだぶつぶつ文句を零しているスマイルに小さく笑み、独り言を呟く。
 聞きそびれたけれども、彼が何かを口にした事には気づいたらしいスマイルが顔を上げ、肩越しに様子を窺ってきた。しかしユーリは首を黙って横に振り、なんでもないと誤魔化してしまう。
 そして、吸い込んだ冷たい空気をゆっくりと吐き出した。
 胸に回されているスマイルの両手を抱きしめて、静かに目を閉じる。
「ユーリ……?」

「Merry Christmas , Smile」

 しんしんと、静かに降り続く雪の音の中を凛とした声が通り抜けて行く。
 一瞬ぽかんとしてしまったスマイルだったが、すぐに表情を綻ばせて口元に笑みを浮かべ、同じように目を閉じた。

「Merry Christmas , Yuli」

 お互いに今更言い合って、向き合って笑いあう。自然と零れ出た笑みは収まることを知らず、声を立てていつまでも笑っていた。

Snow Light

 見事なまでに降り積もった雪は、窓の外を一面の銀色に染めていた。キラキラと太陽の光を反射して、葉を落とした木々の枝にも積もった雪が輝いている。
「寒いよ」
 窓を開けて庭先の光景を眺めていたユーリの背後から、震えながら両手で身体をさすりつつスマイルが近付き、振り返ったユーリの文句を聞く前にさっさと15センチほど開いていた窓を閉めてしまった。
「おい」
 気づいた時にはもう鍵までかけられてしまった後で、不平を言おうとした彼からスマイルはさっさと逃げていく。そしてリビングの片隅を占拠している、巨大なクリスマスツリーの傍で立ち止まった。
 今は外が明るいので電飾も消されているけれど、頂点に飾られている大きな星型も、緑濃い枝々につり下げられた装飾品も、天井から降り注ぐシャンデリアの明かりと窓から差し込む雪に反射された光で眩しいくらいだった。
 昨夜は一晩中、このツリーはにぎやかな明かりを灯していた。
 赤、黄色、緑、青、紫、オレンジ、白。どぎつい原色の明かりも、あの時間帯だけはとても暖かく柔らかな気分にさせてくれた。
 でも、それも今日で終わりだ。
 今日が終われば、このツリーは片付けられて来年のこの季節が近付くまで人目に触れることもなく、スイッチを入れてられて輝く事もなく薄暗い、埃臭い物置の一角に押し込められる事になる。それはなんだか少し物悲しくて、同じように遠くからツリーを見上げたユーリは表情を曇らせた。
「スイッチ、入れてもいいかな」
「今からか?」
 ツリーの根本に膝をついて、壁際にまで伸びている緑色の電源コードを手に取ったスマイルがユーリを見上げて尋ねる。思わず怪訝な顔をし、壁に掛けられている時計で現在時刻を確認してしまった彼に、スマイルは「うん」とひとつ頷いた。
 そして電源コードを持ったまま、本物と見紛うばかりに良くできているツリーの、けれど触れれば偽物と分かってしまう幹に手をやった。
 表面を軽くなぞり、手の平で優しく撫でてやる。
「だって、このツリーが輝けるのって、さ」
 ゆっくりと手を上下させて気の表面を愛撫しながら彼は小さく肩を竦め、どことなく皮肉げに笑んだ。
 ユーリが眉を寄せる。彼が次ぎに言おうとしている言葉は予想がついた、しかし口には出さず、表情を曇らせるだけに留める。
「クリスマスの今だけじゃない」
 良いながら、彼は結局ユーリの了承の声を待たずにコードを壁のコンセントに差し込んだ。
 途端、目映いばかりの照明がツリーを明るく輝かせ始めた。
 間近で光を浴びてしまったスマイルが、片方しかない目を何度もしばたかせて手の甲で擦る。直視してしまったのだろうか、瞼をしきりに擦って口元を面白く無さそうに歪めている。
「どうした?」
「ん~……」
 無視しても良かったのだが、つい気になってユーリは尋ねてしまった。しかし直ぐに言葉は返されず、右目の直ぐ下を人差し指の第一関節で何度も押す動作を繰り返しているスマイルは、小さく呻いただけだった。
 片方だけしか視界が確保されないというのは、こういうときに不便だ。
「残照になっちゃったや……」
 気になるのか、手を離した後も瞬きを繰り返して彼が零す。その間も、光を灯された電飾は明滅を繰り返して喧しいばかりの色のマーチを奏でている。室内の照明を落とせばもっと目立つのだろうが、生憎とそこまで気が回る存在はこの場に居合わせて居なかった。
 ただ空虚なばかりに、明るい中で更に明るい光が色を発しているだけだ。
「大丈夫か」
 ユーリが近付き、スマイルの傍に膝を折って腰を落とす。並んだ視線に見つめられ、もう一度強く掌で右目を押さえた彼はかぶりを振って平気、とだけ返す。
「油断した」
「そうか」
 なんとなくだが、そこで会話が途切れた。
 お互いにツリーを前にしてふたり黙り込んでしまう。向き合って座っているはずなのに、視線さえ噛み合わない。
 外を埋め尽くしている一面の銀世界は、誰が最初に踏みしめて足跡を残すのだろう。ガガーリンのように人類で初めて宇宙を旅し、人類最初に月面に降り立ったアームストロング船長のように。
 あの真っ白に降り積もった雪を最初に汚すのは、誰?
 視線を上げる。そんな気がしていたら、相手もまた同じように目線を持ち上げて向き合っている存在を見つめていた。
 言葉など生まれてこなかった。
 ただ、そう、本当に。
 なんとなく。
 お互いの吐息が触れあうような距離に居たから、それでだと思う。
 キスを、した。
 触れあうだけの、存在を確かめるだけのキス。
 それだけなのに。
 重なり合った唇から漏れる吐息が、無性に熱いのは何故?

 足跡が
 刻まれる

「ユーリ」

「なんだ?」

「あとで、一緒に外に行かない?」

「寒いのは嫌なのではなかったのか」

「根に持たないでよね……」

「持ってなどいないぞ。そうだな、散歩に行くのも悪くない」

「外、真っ白だね」

「思ったよりも積もったようだ」

「滑るかもよ?」

「貴様の方こそ、足許不如意にならぬよう心がけることだ」

「気を付けます」

「ああ、だがその前に」

「なに?」

「大したことじゃない」

「……そう?」

「そうだ。不満か?」

「内容聞いてから判断するよ、それは」

「それもそうだな」

「で。なに?」

「……黙っていろ」

「そう言われてもさー、気になる」

「…………」

「ユーリ?」

「うるさい、黙れ」

「はい」

「…………」

「………………」

「……………………」

「…………………………」

「…………スマイル」

「…………」

「返事くらい、しろ」

「ユーリが黙ってろって言ったんじゃないか」

「呼ばれた時は返事をしても構わん」

「我が侭」
「何か言ったか?」

「いいえ、とんでも御座いません?」

「…………欲しいか?」

「なにを?」

「鈍男」

「だからなにをー」

「今日は何の日だか言ってみろ」

「あ、クリスマス」

「…………」

「え、なにかあるの?」

「欲しくないのなら、やらん」

「誰もそんなこと言ってないでショ~!?」

「そう聞こえたぞ?」

「言ってないよ」

「そうか、残念だ」

「そんなこと言わないでよ~。で、なに?」

「なにが」

「クリスマスプレゼント。くれるんでショ?」

「欲しいのか?」

「拳骨とかは遠慮するけどね」

「……なら」

「?」

「目を、閉じていろ」

 言われたとおり、スマイルはゆっくりと静かに右側しか露見していない瞼を下ろして目を閉ざした。丹朱の鮮やかな色が隠され、彼の顔の左半分を覆っている真っ白い包帯にツリーの電飾の明かりが、影を落とす。
 先程の約束も律儀に守っているのか、彼はそれ以後一言も言葉を発しなかった。ただ黙ってユーリの次の動きを待っている。
 胸を締め付けられるような、苦しいけれども暖かなものをユーリは感じていた。
 吐息が零れる、軽く握った拳を地震の胸元に押しつけて、彼もまた、目を閉じた。
 手を広げる、それを床に置いた。
 指先を前方へと這わせる、細くしなやかな指が同じように床に添えられていたスマイルの掌を見つけるのに、さほど時間は掛からなかった。
 体温が重なった瞬間にだけ、ぴくり、と彼は反応した。けれど約束を破るつもりはないらしく瞼を開こうとも、言葉を発しようともしない。その律儀とも頑固とも取れるスマイルに微笑んで、ユーリは手探りで彼の手を握りしめた。
 触れあう体温は、昨夜のものとなにも変わっていない、暖かい。
 どんなに冷えてしまった心も、この熱に触れた瞬間にきっと氷が溶けてしまうように温められてしまうだろうから。
「スマイル」
 だから、これは約束。
 吐息が掠め合う距離にまで近付いて、秘やかにユーリはその名前を紡いだ。
 そして彼が返事をしようと唇を開くより前に、その唇に触れた。
 一瞬だけ、スマイルの右目が驚愕に彩られ、見開かれる。けれどすぐに瞳の彩は柔らかく染まり、再び静かに伏されていった。
 静かに受け止めて、握られた手を握り返す。それ以上は求めず、ただ触れあえる事に胸が詰まりそうな歓びを感じるだけの時間。
 たった五秒にも満たない時だったはずなのに、随分と長い時間に思えて離れた瞬間にぶつかった視線はどちらから先でもなく、笑っていた。
「これがプレゼント?」
「不満か?」
「いえいえ、とんでもございません」
 茶化したように言いながら首を振り、スマイルが先に立ち上がってユーリに手を差し出した。掴むと、真上に引っ張られる。
 少し痺れてしまっていた膝を軽く屈伸して、照れ隠しなのか今頃赤くなってしまっている顔を隠しユーリは自分の髪を掻き上げた。目の前で笑っている男の目を直視できなくて、今更恥ずかしいことをしてしまったと後悔してしまいそうになる。
「散歩、どうする?」
「……行く」
「火照っちゃったの冷ますのにも、ちょうど良いもんね~」
「言うな!」
 ごちん、と怒鳴り声と一緒に頭を殴られてしまってスマイルは痛そうに一声鳴いた。しかしユーリが手を出しながら怒るときは大抵図星をさされたときである。あまりに分かりやすい彼に微笑んでから、スマイルは片手を上着のポケットに突っ込んだ。
 ごそり、と動かして中に納められていた小さな箱を抜き取る。
 掌に収まってしまいそうな大きさである、丁寧にラッピングされていて中身は分からない。
「ユーリ」
 そっぽを向いてしまった彼の背後に近付き、その頭上に箱を持った手をやってそっと、箱を支えている三本の指を解く。支えるものを失った箱は、ユーリの目の前をゆっくりと降下していった。
「っ!」
 咄嗟のことに、思わず反応して落ちてくるものを両手を差し出して受け取ってしまったユーリは、直後「しまった」という顔を作ったがスマイルは気にしなかった。
 手の中に収まった小箱に、形の良い眉を顰める。真っ白い包装紙にくるまれ、飾り気は皆無と言っていいほどない。ただ唯一、上部に当たることを示すかのように、こぢんまりとした赤いリボンの形をしたシールが貼られているだけで。
「これ……は?」
「さっきユーリがくれたものへの、お返し」
 ツン、と人差し指でユーリが持ったままの箱の表面を小突いたスマイルが隻眼を細めて彼を見た。どきり、と心臓が鳴りそうになってユーリは慌てて視線を外し箱を改めて見つめる。
 それほど重くはない、が箱の外見からだけで判断するとそこそこ重い感じもする。試しに軽く振ってみたが音はしなかった。
「イイよ、開けても」
「……ぁ、ああ」
 好奇心が刺激されていることを口に出せなかったユーリの横顔にスマイルが囁き、ドウゾ、と続ける。しかし彼は立ち去ろうとはせず、未だユーリの背後にべったりと貼り付くようにして立っていた。
 恐る恐るユーリは包装紙の継ぎ目に指を這わせ、爪の先でシールを剥がす。ピッ、と簡単にそれは外れ、箱をくるんでいた真っ白い紙は見る間にユーリの掌に広げられていく。
 中心に残るのは、やはり同じように真っ白いジュエリーケースだ。
「まさか指輪だとか言わないだろうな」
「違うよ」
 見た瞬間嫌な予感を覚えたユーリの危惧を一蹴し、スマイルはまた手を伸ばしてユーリの脇から彼の手に載るケースの蓋を開いた。
 現れたのは、銀色の輝きをしたブレスレットだった。だがシルバーではない輝きをしていて首を捻っているうちに、七つのプレートをつなぎ合わせた格好になっているそのブレスレットはスマイルの指先によって持ち上げられていた。
 箱を持ったまま立っているユーリの左手首に回し、留め金を重ね合わせる。
 ひんやりとした感触は、だが思った以上に柔らかい。
「ホワイトゴールド、だよ」
 奮発しちゃった、と彼は何でもないことのように笑って言った。
 ユーリは左手首を軽く揺らした。金属と肌とがぶつかり合う不快感は無い。
 細いプレートにはふたつずつ、ビスのように微かな虹色の光を放つものが填め込まれていた。ラインはシャープで、流れるような流線型をしている。腕に嵌めると余計にその形が際立って滑らかだった。
 右手を持ち上げ、ブレスレットの上から左手首を包み込む。
「こんなものを今から持ち出したところで、もう私からは何も出ないぞ」
「あ、しまった。先にあげておけば良かったのか」
 そうすればもう少し強請れたかも知れないのに、と指を鳴らして心底悔しそうに呟くスマイルに、ユーリは柔らかな微笑みを向けた。
「気に入った?」
 微笑みに気づいたスマイルが、表情をいつもの笑顔に戻して問いかける。しかし変に格好付けたポーズを取ったために尚更ユーリに笑われ、そんなに変だっただろうかと彼はむくれた。
「仕方がない、受け取っておいてやる」
「それだけー?」
「仕方がないから、使ってやる。有り難く思え」
「……はいはい、ドーモ」
 御礼の言葉など返ってくる事は無いと踏んでの、投げやりの返事しかしてこないスマイルに目をやって。軽く持ち上げた左手首を左右に振ったユーリはその場で背伸びをした。
 唇にではなく、包帯に隠れていない方の頬に、キス。
 ちゃんとしたキスよりも照れくさいと思ったのは何故だろう?
「ユー……」
 感激に目が潤み、両腕を広げて目の前のユーリを抱きしめようとしたスマイル。しかし一歩早く後方へユーリが退いたために彼の腕はスカッ、と空を切ってしまっていた。
 何もない空気を空しく抱きしめた彼に、高らかに笑ってユーリは踵を返した。
「コート、取ってくる」
 散歩、行くんだろう?
 機嫌良さそうに叫んで彼は小走りにリビングを出ていってしまった。残されたスマイルは、存在を忘れ去られながらも健気に輝き続けているツリーを思い出して見上げ肩を竦めた。
「ま、いっか」
 渡すものは渡したし、貰うものももらったし。
 呟きながら人差し指で唇と、右の頬をなぞる。まだあの柔らかい感触が残っているような気がして途端に恥ずかしくなった。
「おい、行くぞ?」
 だから戸口からかけられたユーリの呼び声にもすぐに反応を返すことが出来ず、名残惜しむように頬を一度だけ撫でてから肩に無意識に込めていた力を抜いた。
 チカチカと輝くツリーの電飾に目をやり、ぽん、と手近な場所に吊されていた可愛らしいサンタの飾りを叩く。衝撃を受けて揺れ動いたサンタが、文句を言っているようにツリーの枝を揺らす。カサカサという乾いた音はしかし、耳に残らなかった。
「行こっか」
「コートは?」
「取ってきてくれたんじゃないの……?」
「甘えるな。待っていてやるからさっさと取ってこい」
「はーい」
 叱られて、けたたましく足音を立てながらスマイルも自分の部屋へと走っていく。
 ひとり残されたユーリはダッフルのフードが型くずれしているのを直しながら、何気なく扉の向こうに見えたツリーを窺った。
 誰に見られることが無くても、輝き続けるクリスマスツリー。誰にも振り向かれなくなっても、一年に一度だけ誰からも必要とされる、どうでも良いはずなのに大切な、存在。
 そこに居ないと、何かが足りないと感じてしまうもの。
 外はまだ雪が残っているのだろうか。穏やかな日の陽射しは徐々に大地の雪を溶かしてしまうから、早く行かないとぬかるんでしまうだけ。
 まだだろうか、と視線だけを上向かせてフードを直し終えた手を下ろす。冷たいはずなのに何故か暖かさのある金属が、袖の下で揺らめいた。
 傍にあるときは気づかないのに、傍から居なくなると物足りないもの。
 ユーリはクスッ、と笑う。
「早く来ないと、置いていくぞ?」
 囁いて彼はそっと、左手首に口付けた。
 

Dear

 秋の空は高くどこまでも澄んだ色が続いている。鳶が円を描いて舞っている下で吹き抜けていった風は思いの外冷たく、濃緑色のマントの下で彼はひとつ身震いをした。
 数年ぶりの故郷への帰還。それは本来の予定にはない行動だった。
 だけれどあの時、ここに戻ってくる以外に何の罪もない少年の命を救う手だてがなかったのだ。小さないが確かな命と、自分の行き場のない怒りとも悲しみともつかない感情を秤にかければ、どちらに傾くかは最初から明らかだろう。
 しかしやはり帰るべきではなかった。物言わぬ墓標の前で彼はその想いだけを噛みしめ立っている。
 理路整然と並べられた、ある意味美しく整えられた墓碑の群。グレックミンスターの外れに位置する広々とした墓地は、いつだったか最後に生母の墓参りに訪れたときよりも墓標の数が圧倒的に増えている。手向けられる花は今も絶えることがない。
 その事実が、かつてわずか3年前までこの町が戦乱の中心にあったことを思い出させてくれる。町の人々も努めて明るく振る舞っていたが、心の底で忘れたことはないだろう。
 戦いは長く辛いものでしかなかった。戦火の中心にいたのは紛れもない彼自身であり、その苦しみは痛いほどに感じている。
 戦いが始まるきっかけを生んだのは彼。戦争を終結させ今の体制を導いたのも、彼。
 自分がここにいたらいつかまた、新たな争いの火種を生み出してしまうから……だから、彼は自分から望んでこの町を離れた。二度と……戻ってこないつもりでいたのに。
 運命など信じない。しかし、これが運命の悪戯というのであればそれ以外に表現の方法が思いつかない。
「父様……」
 ふたつ綺麗に並んだ墓標の片方は、まだ新しい。そこに刻まれた名前は彼の愛して止まない、そして望まざる戦いの中で死んでいった彼の大切な父親。
 生前の彼がいかに人々に愛されていたのかが分かる、まだ瑞々しい色とりどりの花が手向けられた墓は、定期的に誰かが掃除をしてくれているのだろう。多少の風による傷はあったものの、建てられた当時の姿を保っている。もちろん、その横に並ぶ、彼の妻の墓も同様だった。
「母様と、会えたのかな?」
 物心つく頃にはもういなかった母を、自分は肖像画でしか知らない。とても美しい人だったと、いつだったか父は照れながら教えてくれた。
 美しく、気丈で気高い人だったと。
 父の背中はとても大きかった。いつか自分があの背中を追い越して行くのだと、漠然とした想いはあったけれどその日があんなにも早く訪れるだなんて、きっと誰も想像していなかったに違いない。
「こんな事を言ったら、怒られるかもしれないけれど……それでも、僕は戦いたくなかったんだ」
 父との、あの戦いで。自分が何を失ったのかがよく分かるから。先に進むためには避けて通れない、必要なことだったのかもしれないけれど、それでも、本当はずっと戦いたくなんてなかった。
 生きていくことはとても重い事なのだと、教えられた。
 たくさんの人を殺して、たくさんの人から恨みを買って、それでも立ち止まらずにすすまなければいけなかった。それが、戦争というものだから。
 いっそ狂ってしまえたらどんなに楽だっただろう。だけどそうさせてくれなかった。この世界が、星々が、未来が。
「ごめん、愚痴るつもりはなかったのにね」
 風が吹いて、彼のバンダナの結び目を揺らす。前髪が浮き上がり、それを追いかけるように上向けた視線の先で彼は思いがけない人物を見つけた。
 向こうも彼の存在が意外だったようで、両手いっぱいに抱えた花束を危うく風に飛ばしてしまうところだった。
「おや、これは珍しい」
 最後に会った時――3年前の解放戦争終結時よりも、いくらか身にまとう衣装には派手さを欠いてはいたが、それでも他の人よりは充分目立つ服装のミルイヒが、花束を抱えなおしてつぶやく。
「昨日城下の方がなにやら騒がしかったようでしたが、あれは貴方だったのですね」
「僕が騒いでいたんじゃないさ」
 彼が帰ってきたことを耳ざとく聞きつけたかつての仲間たちが集まってきただけだ。騒がれるのは本意ではなかった。それに。
「後ろめたいことでもあるのですか?浮かない顔をしている」
 こういうときのミルイヒは鋭い。伊達に帝国5将軍をやっていたわけではない。見た目はふざけているようにも映るが、剣の腕は他の列強と比べてもまったく不遜無いのだ。それどころか、戦い方にもどこか花がある。いや、妙な意味ではなく。
「察しがいいね、さすがに」
「テオとはつきあいが長かったですしね。貴方はテオとよく似ている。考え込むときの癖や、表情がね」
「そう、でしょうか?」
 自分では分からないし、あまりそういうことを人に言われたことがない。どちらかといえば、亡くなった母に顔が似ている、と言われる事の方がずっと多かった。
「将軍、やめたんだって?」
 昨日の夜に聞いた、自分がグレックミンスターにいなかった間の出来事の数々。その中で特に驚かされたのが、ミルイヒが将軍をやめてしまったということだった。帝国5将軍のうち、生き残った他のメンバー3人は今でも将軍職にあり、各方面で以前と変わりない力を発揮しているのに。カイやカミューが将軍になっていることにも、驚かされたが。
「意外でしたか?」
 そう聞き返されて、彼は口をつぐむ。
 ミルイヒは5将軍の中でも、特別バルバロッサへの忠誠心が厚かった。それは、ミルイヒがバルバロッサの亡き妻に恋心を抱いていたからだ、というのがもっぱらの噂だが。それがあながち嘘ではないことを、彼は知っている。
「バルバロッサ皇帝が亡くなって……それで?」
 仕えるべきはバルバロッサのみ、だったのかもしれない。ミルイヒは帝国を裏切って解放軍に参加してくれたけれど、その本心は帝国をうち破ることではなくて乱心したバルバロッサを救いたかったから、だったはずだ。
「……ええ、それもあります。ですが、それだけではありません」
 花を抱き、ミルイヒはほほえんだ。そして彼を促し、バルバロッサの墓へと導いてくれた。
「………………」
 墓地の最奥、歴代の皇帝の墓が並ぶ一帯の中央に、バルバロッサの墓があった。しかし彼は知っている。その下には誰も眠ってなどいないことを。
 バルバロッサの遺骸は発見されなかった。グレックミンスター城の空中庭園からウェンディを道連れに身を投げたかの偉大な皇帝は、崩れた城の残骸に埋もれ、結局どちらの遺体も見つけだすことが出来なかったのだ。彼が持っていた筈の王者の紋章も、ウェンディの門の紋章の片割れも、見つけだすことが出来なかったという。
 バルバロッサは晩年こそ愚王だったかもしれない。しかし彼にはその分を引いても余りあるほどの偉大すぎる功績があった。今あるトラン共和国も、バルバロッサが築き上げた礎の上に立っていると言ってもいい。
「治める者が変わっただけ、と言われるのも無理無いことかもしれない」
 それだけ、バルバロッサの存在は大きかった。その証拠に、解放軍や圧制を受けていた民衆からしてみれば敵であったはずのバルバロッサの墓には、テオのそれ以上の花が手向けられている。未だにバルバロッサは民衆にとって忘れ難き人なのだろう。いい意味であれ、悪い意味であれ。
「日課になっていましてね。ここに来るのは」
 将軍職を退いたとはいえ、ミルイヒは多忙な毎日を送っている。貴族制が廃止され、一市民になったものの、彼に知恵を求めてくる人は多い。財産は没収されなかったので今のところ新しく職を求めなくても何とか生活していけるのだそうだ。
 トレードマークだったひげを剃り、こざっぱりした顔になったミルイヒは抱えていた花束を供えると、振り返って微笑んだ。どことなく寂しげな、憂いを含んだ笑顔だった。
「ミルイヒ……」
 名を呟き、彼はバルバロッサの墓の傍らに小さく建つ墓を見た。まだ新しいが、王族の墓と言うにはあまりにも質素すぎる、隠されるように建てられた墓はよほど注意していないと見逃してしまいそうだった。
「ああ、気づきましたか」
 体ごと向き直り、ミルイヒが彼の前に立ってそれからその小さな墓の前に跪く。伸びかけの雑草を手で払い、刻まれた名前を彼に示す。
「ウェンディ…………」
 思いがけない名前に、彼は一瞬息をのんだ。
「ここの下にも、やはり何も眠ってはいないのですが。なにもしないのは哀れでしょうし、何よりもバルバロッサ様が悲しまれるでしょうから」
 黄金皇帝は彼女を愛していた。たとえそれが、亡き妻の面影を追い求めた結果に生まれた感情だったとしても。
 自ら死を選んだ皇帝の、最後の言葉を思い出し彼は言葉をなくす。
「彼女も犠牲者だったのではないでしょうか。もちろん、彼女がしたことを正当化しようとは思いません。利用されていたとはいえ、私も自分がしてきたことを許されるとは考えていませんし。ですが、彼女があそこまで追いつめられる前に手をさしのべてやれなかったのか、と思ってしまうと…………」
 そこでミルイヒは言葉を切った。振り返って彼を見上げる。
「分かっている。だけど、憎んだところでなにも始まりやしないから……」
 だから憎むのはやめた。ひとつを憎んでしまったら、他のことまですべてを憎んで恨んで、そんな感情を抱いている自分さえ許せなくなってしまいそうだったから。
 木の葉散る木々を見上げ、彼は呟く。いつの間にかミルイヒは立ち上がっていた。
「ありがとう、ラスティス」
 さっきの微笑みよりも少しだけ嬉しそうな笑顔を見せ、ミルイヒは頭を下げてきた。
「違うさ」
 首を振り、彼は否定する。自分は人に感謝されるようなことはなにひとつしてはいないと。
「僕は僕の答えを探して戦った。誰かのためとか、平和のためとか、そんなものを掲げて戦っていたんじゃない。僕は、自分自身のためだけに戦っていた。だから、僕は礼を言われるような立派な人間じゃない」
 俯いて答えた彼を、ミルイヒはふと寂しげに見る。
「ひとりで罪を背負っているわけではないのですよ」
 唐突にミルイヒは言った。
「この世の中には、正しい事なんて本当はどこにもないのかもしれません。人として生きて、生き抜くこと、己の正義を全うすることだけが正しいことなのかもしれません。他人から与えられた未来を生きるのではなく、自分で選び取った道を歩んでいく。そうすることが、己の正しさを証明できる唯一の方法」
「ミルイヒ?」
「うわべだけの世界を見て行くよりは、貴方の選んだ道はずっと正しかったのだと私は思います。平和だとか世の中の人のためだとか言っている、偽善ぶった押しつけがましい正義よりはずっと、貴方の生き方に共感がもてます」
 迷うことがあっても、立ち止まることがあっても、自分さえ疑わなければまっすぐに進んでいける。
「そうだろうか……?」
 独白した彼をミルイヒは暖かい瞳で見つめた。それから、何かを思いだしたらしく口元をほころばせる。
「?」
 不思議そうな顔をして見つめかえしてくる彼に気づき、ミルイヒはなんでもない、と手を振った。
「いえ、ね。貴方に言うことではないのでしょうが……私はね、ラスティス。本当はあの時、すべてが終わったら死ぬつもりでいたのですよ」
 バルバロッサが死に、200年以上続いた赤月帝国の歴史が終わりを告げたとき、ミルイヒは自分に課せられていた役目も終わったのだと思ったという。将軍をやめたのもその考えがあってのことだった。
「でも、言われてしまいました。死ぬことで罪を償うという考え方は、逃避でしかないと。本当に罪を認め、償うつもりでいるのならば生きて、天より与えられた己の生涯を全うして死ね、と」
 誰に、と問いかけてラスティスはやめた。想像がつく。ミルイヒにそういうことを言える人間は少ないから。
「いいね、そういう考え方……」
 マントを羽織り直し、ラスティスはそれだけを言葉にした。微笑みを浮かべると、ミルイヒも表情を和らげた。
 迷った。生き続けることに。でも生きることでしか生きる意味を見つけることが出来ないと悟ったとき、迷いながらも生きることを選んだ。その選択が正しかったかどうかはまだ分からないけれど、それでもあの時死んでしまわなくて良かったと、すくなくとも今はそう思える。
 悲しんでも、死んでしまった人は戻ってこない。涙を枯れるまで流したとしても、死者が甦るはずがない。
「悔やむことがあっても、僕は進むしかない。だけど、それでも……」
 この命があり続ける限り、ソウルイーターは彼の愛するものを奪い続けるだろう。一度は逃げ出したグレックミンスターに再び足を踏み入れることも、心のどこかで拒否したい感情が残っていた。この町には思い出が多すぎるから。
「ならば、ソウルイーターが新たな犠牲を求めたとき私の所にいらっしゃい」
 テオとも話しておきたかったことが沢山あったから、とミルイヒはウィンクして言った。
「冗談、過ぎるよ」
「でもね、ラスティス。これだけは忘れないで下さい。誰も喜んで犠牲になったわけではないのです。皆、愛するものや大切な人を守るために駆け抜けていっただけなのです」
 誰かのためではない、すべて自分自身のために。
「ね?」
 だから大丈夫ですよ、とミルイヒはラスティスの手をそっと握りしめた。その温かさに心を救われた気分になり、ラスティスはただ頭を垂れて彼に感謝の言葉を繰り返し続けた。

 記憶の中にあるものよりもいくらか色がはげ落ちて、くたびれた印象を与える、でも懐かしい門を押し開けてラスティスは重厚な造りの玄関を見上げた。
 何も変わってはいない。ただ少しだけ、年月が過ぎただけだ。
 ドアノブに手を伸ばし、彼は深呼吸する。自分の家のはずなのに、扉を開けることだけでもこんなに緊張するなんて、信じられなかった。
 それは自分が長い間この家に帰ることがなくて、そして二度と帰ってくるとは思っていなかったからだと、ラスティスは自覚する。昨日はグレミオが門を押し開け、扉を開いて中に導いてくれたから気付かなかったけれど。
 何もかもが遠くに行ってしまった気がして、ラスティスはドアノブを握ったままため息をつく。視線はずっと手元を見下ろしたままで、まるで凍りついてしまったみたいに動かない指に力を込めた。
 躊躇する。
 一瞬、この家はもうずっと昔から空き家になっていて、中は荒れ放題の廃墟で誰も住んでいないのでは、と錯覚してしまった。
 待っている人は誰もいない、誰も帰ることのない家。そこに自分たちが住んでいたことを誰も覚えていない、遠い世界の記憶を垣間見た気がして、ラスティスは空いていた片手で顔をおさえた。
 汗が噴き出す。冷たい汗だ。
「駄目だ……」
 開けられない。
 恐い。
 怖い。
 コワイ。
 逃げ出したかった。今すぐ、この家から離れたい、町を飛び出してまた知らない村に逃げ込みたい。
 そうだ、分かっていた。グレックミンスターを避けていたのは、認めるのが嫌だったからだって事を。
 過ぎ去って行くばかりの時間を否応がなく見つめなければいけないから。自分の知らない世界に行ってしまった故郷を見たくなかった。まるで、自分はそこの住人じゃない、旅の中で偶然立ち寄っただけの異邦人のような感覚にさせられるから。
「…………」
 変わってしまっているのが怖い。何も変わることのない自分を認めるのが怖い。自分の中にある止まった時間を見つめるのが怖い。
 逃げたい。
 自分のことを知る人のいない世界に逃げ出したい。それが自分の弱さだ。
「僕は、こんなにも弱い」
 今も誰かがこの扉を開けてくれるのを待っている。自分では開けられないこの扉──それはトラン共和国成立から過ぎ去った3年という時間そのもの。
 認めないわけにはいかない。だがその勇気が持てなかった。
「坊っちゃん……」
 すぐ後ろでグレミオの声がして、振り返った瞬間不意にラスティスの両目に涙が溢れた。
 買い物袋を置いたグレミオが、優しげな微笑みを浮かべてラスティスを抱きしめる。背中をさすってやりながら、
「大丈夫ですよ、坊っちゃん。少しずつでいいですから、焦らなくてもいいですから……」
 子守歌のように繰り返し彼は囁く。
 そして彼は屋敷の扉を開いてラスティスを中に誘う。
 昨日と何ら変わらない──3年前、最後に夜を過ごした日とほとんど変化していない家だ。ラスティスが生まれ育ち、父と親友の思い出がいっぱいに詰まった屋敷だ。
「クレオさんに感謝しなくてはいけませんね」
 テオが亡くなり、ラスティスとグレミオも去って、パーンまでもが修行の旅に出てしまったこの屋敷をただ一人守り続けてくれた女性。強く、優しいクレオ。彼女が守ってくれた家は、昔と同じ姿のままで在り続けていた。
「すぐに夕食の仕度をします。それまで、待っていて下さいね」
 玄関前にある2階への階段の前で、グレミオはラスティスから手を放した。
「……うん」
 やんちゃで、甘えん坊で、寂しがり屋で。ラスティスはそんな子供だった。それは今も変わらない。グレミオの前でだけ、ラスティスは今も幼子のままだ。
「今夜はシチューですよ」
 ラスティスの大好物で、グレミオの得意料理。体だけでなく心までも温かくしてくれる料理だ。
「ありがとう」
 彼の心遣いに感謝しながら、ラスティスは2階の、自分の部屋に向かった。
 鍵のかかっていないドアを一瞬の逡巡の後、押し開ける。開け放たれた窓から夕方の涼しい風が流れ込んでいて、前髪をすくい上げられたラスティスは眩しいものを見つめる目で室内を眺めた。
「僕の、部屋だ……」
 昨日はここで眠った。ピンと張られたシーツは真っ白で、太陽の匂いがした。ふかふかの布団があったかくて、よく眠れた。
 悪夢は見なかった、そういえば。
「僕の部屋だ」
 もう一度、呟き彼は室内に入った。
 3年間誰もいなかった部屋なのに、ずっと自分がここで生活していた感覚が残っている。
「ああ、僕の部屋だ……」
 間違いない、ここは自分の部屋だ。還ることの許された、自分だけの居場所だ。
 嬉しい。
 ベットに腰掛け、その感触を楽しむ。横になって、天井を見上げて。この白い空を見ながら、彼はテッドと沢山の話をした。お互いの将来のこと、赤月帝国のこと、これまでの生活、遊び、勉強、知らない町、知らない世界に心躍らせた。
「テッド、僕は君みたいに生きられるだろうか……?」
 300年という時を生きてきた彼の強さを、今更ながらに思う。
 寝返りを打ち、うつぶせになって顔を上げたラスティスは枕元にあるサイドテーブルを何気なく見た。
 革製の鍵付きの日記が置かれている。
「僕の、日記……」
 手を伸ばして表紙を撫でる。柔らかい感触が掌に伝わって、懐かしくなる。
「鍵、どこにやったけ……?」
 ずっとつけていなかった記憶しかない。確か、最後に書いたのは……いつだっただろう?
 鍵を探してラスティスは立ち上がった。反対側に置かれた机の引き出しを順に見て、一番下の引き出しの裏側に小さなポケットがあったことを思い出す。手を伸ばして探れば、金属の感触があった。
 思った通り、金色の小さな鍵が出てきた。
 鍵を手に、ベットまで戻る。日記を持ち上げて鍵を鍵穴に差し込み、廻す。カチッ、という音を立てて日記は開かれた。
 数年前の稚拙な自分の書いた文字が並んでいる。内容は日常で起こった些細なことばかり。テッドと喧嘩をした、グレミオに怒られた、父様が久方ぶりに帰ってきた……数年前の記憶が生き生きと蘇り、ラスティスの表情は自然とほころんでいった。
 だが、ページをめくる手が突然止まった。
『テッドと僕だけで、サラディに行った。グレミオにも誰にも内緒で。二人だけの冒険だ。大変だったけど、楽しかった。でも、テッドは僕に何も話してくれない。聞いても、きっとテッドは嫌がるだろうし、かわされるだろうから聞かないけど……でも、本当は知りたい。テッドのことをもっと知りたい。いけないことなんだろうか?僕が知りたがっていることをテッドが知ったら、テッドは僕から離れてしまわないだろうか。そんなのは嫌だ!テッドと一緒にいられなくなるくらいなら、僕は何も知らなくていい。このままでいられるのなら、僕は何も知らないままでいい』
 思い出す、あの日の記憶。テッドは雪の中でこう言った。「いつかお前を殺してしまうかもしれない」と。
 冗談だと思った。だから彼はこう返した。「僕は生きる。だって、テッドが守ってくれるんだろう?」と。
 図らずも、その言葉は現実となった。そんなつもりはなかったのに、ラスティスの言葉は真実となって彼の前に現れた。
 シークの谷での、テッドの言葉。何も言えなかった、自分。
 そうだ、日記を書いたのはこの日が最後だった。それからラスティスは日記を開いていなかった。
 なのに気になって、彼は次のページをめくる。そこには何も記されていない真っ白のページがあるだけのはずだった。
 けれど。
 はらり、とページの間から何かが落ちる。ゆらゆらと揺れながらラスティスの足の上に落ちたそれは、短冊状の紙だった。
「これ……」
 拾い上げ、裏返してラスティスは目を見張り、そして俯いて日記を抱きしめる。
 白い紙に貼り付けられた、四つ葉のクローバー。幸運をもたらすお守り。ずいぶんと古いものらしく、ぱりぱりになって指で触れたら崩れてしまいそうになるクローバーに、ラスティスは覚えがあった。
 そしてなによりも、空白だったはずの日記に乱暴に書き殴られたラスティスのものではない文字。
 たった一言だけ、そこに。

Dear my best Friend

 涙がこみ上げる。けれどラスティスはそれを止めようとは思わなかった。
「テッド……」
 日記帳とクローバーを抱きしめ、ラスティスは床に跪いた。
 夕食の仕度が整ったと、彼を呼びに来たグレミオが扉の向こうで主人の泣き声を聞き、そっと立ち去る。帰り際に階段を上がってきたクレオとパーンに、騒がないように注意して、彼は台所に戻っていった。
「テッド、僕は強くなる。君と同じくらいに、強くなるから」
 涙が止まらない。
「今だけ、弱い僕を赦して……」
 夜はやってくる。そして朝が再び巡り来るだろう。二度と戻らない時だけを遺して。還ることのない記憶だけを遺して。

クローバー

 多分、一生で一番、笑顔でいられた時間だから
 君を失いたくないと願った俺のわがままは
 こんな迷信でしかないただの草に叶えられるものではないと
 よく分かっているけれど
 クローバー、お願いだ
 この時間を俺から奪わないでくれ

 それはいきなりの計画だった。
 だけれどその家の人間はこれがいつもの事らしく、特に慌てふためく様子もなく「それじゃ、準備しましょう」というグレミオの言葉を号令に一斉に動き始めた。ただひとり、マクドール家に厄介になり始めたばかりの俺を除いて。
 戦火の中に一人放り出され、行く当てもなく彷徨っていた俺を見つけたこの家の主、テオ・マクドールは一言で言えばいい人だ。赤月帝国の5将軍の一人として、恥じることのない実績を上げているし、何よりも人望がある。家でも決してぐーたらな人間にはならずにてきぱきと仕事をこなしている。
 彼には住み込みの部下……というよりも、弟子か? という人が二人いた。一人が格闘家のパーンで、もうひとりが快活な性格をしている女性、クレオ。それからテオ様の一人息子であるラスティスの付き人をしながら、この家の家事一切を引き受けているグレミオ、という男性の計5人がマクドール家に住んでいる。
 だが俺は、一緒に住もうというラスの提案を拒否している。この身に宿る真の紋章を見られるわけにはいかないからだ。だから、無理を言ってこの家から少し行ったところにある家を借りて住めるように手配してもらった。もし俺一人でこの町で家を借りようとしても、きっと無理だったに違いない。いくら300年を生きてきたとはいっても、所詮見た目は13,4才の子供のままなのだから。
 だから、テオ様と知り合えたのはとても都合のいいことだった。しばらく安住の地を得ることが出来た。あとは、怪しまれないように数年後、出ていけばいいだけのこと。
 そういう風に、彼らをどこか冷めた目で見ていた俺を誤解した奴がいた。それが、ラスだった。
「テッド、僕のこと嫌い?」
 ある日突然、顔を合わせるなりそう言ったラスは、びっくりして返す言葉に詰まっている俺を見上げて何故か涙ぐんだ。
「やっぱり、そうなんだ」
 勝手に納得されて、俺はますます分からなくなる。
「ちょっと待て。なんでいきなり、そう来るんだ?」
 朝起きて、飯を食って、する事もないしマクドールのみんなに挨拶にでもいくか、と門を押し開けてドアをノックして。少し背伸びをしてドアを開けたラスが俺の顔を見るなり泣き顔になるのは一体どういうわけだ?
「おや、テッド君。来てたんですか?」
 奥から天の助け、とばかりにグレミオが似合いのエプロン姿で出てくる。いい匂いが台所から流れてきているから、きっと昼食の準備中だったのだろう。
「来てたの。な、こいつどうしたの?」
 ぐず、と鼻をすするラスを指さし、俺はグレミオに聞いた。するとグレミオは、手にしていたおたまを唇に押し当て、なにやら思い出したらしく笑いをかみ殺した。
「な、なんだよ!?」
 不安になるような笑い方をされて、俺は焦った。もしかして、俺が彼らの好意を利用していることがばれた? それとも、紋章のことがばれたのだろうか……と留めない疑念がわき起こってくるが、冷静に考えてみたらそう言う雰囲気ではないことぐらい、すぐに分かる。
「いえ、坊ちゃんはテッド君がなかなか笑ってくれないから、すねていたんですよ」
「はい?」
  ずいぶんと間抜けな声で俺はずり、と肩に羽織ったマントを落としてしまった。
「なんだよ、そんなこと?」
「そんな事じゃないよ!」
 髪を掻き上げ、俺は呆れたように言ったが、直後に真下から怒鳴り声がしてまた驚かされる。
「別に……俺が笑わなくてもお前、困らないだろ」
 そういえば、いつの頃からだろう。笑わなくなったのは。
 思い出せなくて、俺は一瞬そこにいるラスやグレミオのことを忘れた。頭を押さえながら、うつむき加減の視線は俺の足下ではなくもっと別の、時間を通り越した果てしない過去へと向かっていた。
 ──じいちゃん……。
 少なくとも、祖父が生きていた頃はまだ、自分はどこの誰よりも子供らしい子供だった。閉鎖された空間に生まれ育ったために、外の世界に過大な興味を持っていて、外から来た人を遠巻きに眺めていたこともあった。そう、あの頃はまだ、俺は笑っていられたはずだ。
「テッド?」
 すぐ近くで呼ばれて、俺ははっと我に返る。
「大丈夫? どこか具合が悪いの?」
 心配そうに俺の顔をのぞき込むラスに、俺は今が今であることを思い出す。
「平気。なんでもないから」
 そう言ってまとわりつくラスをどかそうとするが、彼はなかなか離れてくれない。俺のシャツの裾を握って、じっと俺を見つめてくる。その視線が探られているような感覚で、俺は顔を背けた。
「テッド、僕のこと嫌いならそう言ってよ」
「だーかーらー。どうしてそういう解釈するかな、お前は」
「だって、さっきからテッド、全然僕の方を見ないじゃないか」
「そ……そう?」
 幼いと思って甘く見ていたら痛い目を見る、とラスを評価していたのは誰だっけ。えっと、ラスの棒術の師匠で、カイ……だったけ?
「坊ちゃん、テッド君が困ってますよ」
「だって、グレミオ! テッド、僕はテッドのこと好きだよ。だからさ、……そうだ! ねえ、テッド。今日って暇?」
「はい?」
 まったく話の脈絡が見えない台詞に、俺はまたしても間抜けな声を出す。しかしラスは聞いちゃあいなくて、後ろのグレミオを振り返り、玄関前の騒ぎを傍観に回っていたパーンやクレオにも向かって、
「ピクニックに行こう!!」
 お天気もいいし、あったかいし、家の中で腐っているのはもったいないし。でも、だからって何故ピクニック!? しかも今から!?
「おっ、いいですね」
「今の季節だと、西側の丘なんて、どうでしょう」
「そうですね。それじゃあ、お弁当の用意をしましょう。クレオさん、手伝って貰えますか?」
「分かった、ちょっと待ってくれ」
「はい。坊っちゃん、お弁当に何か注文はありますか?」
「卵焼き、入れて。あとソーセージ、タコのやつ」
「承知しました。パーンさん、荷物を作って貰えますか?」
「シートだろ? どこにしまったけなぁ……」
 皆それぞれにいきなりの提案をなんの疑問もなく受け入れて、その準備に向かっていく。俺一人を置き去りにして。
「なんだ、お前達。玄関になんかで立ち止まって」
 そこへ、どこかに出かけていたらしいテオが戻ってきて玄関のドアの前を占拠していた俺とラスを不思議そうに見下ろす。
「父様! ピクニック、一緒に行こう!」
「そうか、楽しそうだな。テッド君も来るのか」
「うん! 今グレミオがお弁当作ってるよ」
「…………」
 駄目だ、この人も。やっぱりマクドール家の主なだけあって、そこに住む個性的な面々と比べてもまったく違和感がないくらいにとけ込んでいる。少しは疑問に思えよ、なんでいきなりピクニック? って。
 だが俺はその疑問を口にすることなく、準備を整えた彼らに半ば引きずられるようにしてグレックミンスターの西にある小高い丘の頂きに連れていかれたのだった。

 クローバー、クローバー
 お願いだ、俺から彼を奪わないで
 この時間を壊さないで

 緑の草の上のパーンが倉庫から引っぱり出してきたシートを広げ、その上にグレミオお手製のお弁当が並べられる。人数分よりも量が多いような気がしたが、人並み以上に食べる奴が一人いたことを思い出し、俺は納得する。
「いっただっきま~~っす!!」
 両手を合わせて、まず大合唱。それからめいめい、好きなものへと箸をのばしていく。
 お日様は気持ちがいいくらいにぽかぽかと地上を照らしている。時折吹く風は心地よく、見た目も味も申し分ない料理に舌鼓を打ち、俺はしばしの幸福を満喫していた。
 こうやって、誰かと一緒に野外で食事をするのもずいぶんと久しぶりな気がする。……いや、初めてかもしれない。
 俺はこれまで意図的に人との繋がりを絶ってきた。そうしなければ、俺の左手に宿るソウルイーターが、俺と親しくなった者の命を奪おうとするだろうから。それを見るのが苦痛だったから。
 ──だから、か?
 それがラスに伝わってしまったのだろうか。俺が必要以上にラスに近付こうとしないことが、あいつにはばれていたのだろうか。だから、嫌われていると思った?
「テッド君、箸が止まっているよ?」
 クレオが優しげな微笑みを浮かべて俺を見る。
「早く食べないと、パーンに全部食べられてしまうよ」
 一向に箸を止める気配のないパーンを指さし、彼女は俺の手の中にある小皿にソーセージを載せた。
「タコさん……」
 ラスが向こうで恨めしげな顔で俺を睨んできた。ひょっとして、狙ってたとか?
 こくん、と無言で頷くラスに、俺は心の中で嘆息した。これは俺が取ったのではなく、クレオが選んで勝手に皿に載せただけなのに……どうして俺が恨まれなくちゃいけないんだ?
「やるよ」
 ほれ、と皿ごとソーセージを渡してやると、ラスの顔がぱっと華やぐ。でも、こいつ確か、今年で13じゃなかったか?
 グレミオがクスクスと笑っている。でも、悪い気はしなかった。
 昼食が終わり、続いて各自が好き勝手出来る時間がやってくる。パーンは食後の運動でその辺を走り回り、クレオは食器の片付け。グレミオとテオはどこから出したのか、碁盤を挟んで碁をうちはじめた。なにもここでやらなくったって……と、俺は思う。
「テッド、こっちこっち」
 かくいう俺は、ラスに引っ張られて草原を走った。
 緑の匂い、風のささやき、大地のぬくもり、空の声。全てが懐かしく、温かい。
 ──こんなんだったっけ……
 草原を誰かに追い立てられることもなく走るのは、こんなに気持ちがいいものだったか? 周りばかりを気にして、警戒を解くことなく太陽の下で思い切り駆け回ったのはいつ以来のことだっただろう。
 ずっと、忘れていた。
 気付かなかった、こんなにもすぐ近くにあった『当たり前』がこんなにも遠くになってしまっていたことに。
「ちょ、ちょっと待った……ラス、俺もう駄目……」
「えーー!? もうばてちゃったの? テッド、体力なさすぎだよ」
 それは違う、お前の方が馬鹿みたいにスタミナがあるんだ、と言いたかったが呼吸するのも苦しくて声が出なかった。大きく肩を上下し、吸って吐いて、俺はその場に倒れ込んだ。
「テッドぉー」
 不満そうなラスが戻ってきて、俺を真上から睨み付ける。ちょうどそのラスの頭が俺にとっては太陽の光を遮る庇のようになっていて、まぶしさから解放された俺は数度瞬きを繰り返してラスを見た。
「怒るなよ」
 ふてくされた顔のラスに笑いかけ、俺は何気なしに手を伸ばした先にあった草を引きちぎった。
 シロツメ草が一面に生えた草原で俺とラスが笑っている。こんな風に、誰かと笑いあうことも久しぶりすぎて、溜まらなく嬉しくて、哀しかった。
「これ、やるから」
 今摘み取った草を、腕をのばしてラスに差し出す。
「こんなので誤魔化されないよー……あれ?」
 ふん、とそっぽを向きかけたラスが一瞬で顔を戻す。そして俺の手を──いや、俺の手に握られている草をまじまじと眺め始めた。
「な、なに?」
 そんなに変だったか? と焦る俺にラスは顔を輝かせ、
「テッド、凄い!」
 と言った。
「へ?」
「だって、これ四つ葉のクローバーだよ」
 何が凄いのか分からなくて、身を起こした俺にラスが速攻でまくし立てる。
「四つ葉?」
 だけど俺は知らなかった。ラスがなにをそんなに興奮しているのかが。
「そんなに珍しいものなのか?」
「テッド、知らないの?」
「なにを」
 手にしていた草を見つめ、俺は首を傾げる。その姿にラスは俺が四つ葉のクローバーの伝説を知らないことを察したようだった。
「四つ葉のクローバーはね、願い事を叶えてくれるんだよ」
 滅多に見付かるものではない。普通、クローバーは三つ葉だのだそうだ。たしかに、よく見ると俺の手の中にあるクローバーは四つ葉だった。綺麗に葉の形も揃っている。
「ふーん」
 大して興味なさげな俺に、ラスは「あれ?」という顔をする。
「嬉しくないの?」
「なにが?」
「四つ葉のクローバー」
 それ、とクローバーを指さしてラスは俺の顔を真っ正面から見つめてくる。また、俺はいたたまれない気分にさせられて視線を逸らした。
「だって、迷信だろ?」
「でも、本当かもしれないじゃないか」
 滅多に見付からない四つ葉のクローバー。そんなものに願いを託せる小さな人間達。
 ──本当になんかなりっこない。
 俺は知っている。俺の願いは、絶対に叶えられることのない願いだっていうことを。だから願うのはやめたんだ。悲しみたくないから、何かに縋って生きていくことは出来ないのだと、俺は知ってしまったから。
「テッド……」
 哀しげなラスの声に俺は顔を上げる。気がつけば、ラスはクローバーを握る俺の手を両手で包み込み、祈るように俯いていた。
「ラス?」
 俺の手に額を押し当てて、ラスは囁く。
「絶対、絶対叶うから。テッドの願いはきっと叶うから。だから、だからテッド……」
 泣いているのか、と思った。
「そんな顔で泣かないで」
 違う。泣いていたのは俺。未来に絶望するしかない俺の心が、声を殺して泣いていたんだ。

 日が陰る。夕暮れが近付き、俺達を呼ぶパーンやクレオの声が響き渡る。
「戻ろう」
「うん」
 願いは叶うだろうか。いや、きっとそれは永遠にあり得ないこと。
 でも俺はそのことを告げることはないし、ラスも気付いていたとしても絶対に口に出すことはしないだろう。
 俺の手の中には今も四つ葉のクローバーがある。こんなちっぽけな草に俺の願いが叶えられるだけの力はない。けれど、一瞬でもいい。俺が今の時間の中で、彼らと共に生きられるのであれば。
 それはきっと、クローバーの見せた奇跡。

 クローバー
 四つ葉のクローバー
 どうか奇跡を示して
 俺の未来に光を見せて

いつか君に還る願い

 白い雪が舞い降りる。まだ平野部ではそれが舞うには早い季節だったが、道端にはいつ降ったのか、既に溶けかけた雪の固まりが山になっていた。恐らくこの先の村の人々が通りやすいようにと、道に積もった雪を脇に除けたのだろう。だが、この調子では明日辺り、また雪かきが必要かもしれない。
「へへっ、やったぜ!」
「僕達だけでここまで来たんだ!」
  少年がふたり、そんな道を危なっかしい足取りで駆けていく。よほど嬉しいのか、ジャンプしたり、叫んだり。道行く人がいないことを良いことに、好き放題だ。
 サラディという村がある。赤月帝国の領地だが、山に囲まれて訪れる人も少なく、目立った観光名所もない。特産物にも恵まれず、一年のうち半分近くが雪に閉ざされてしまう辺境の村だ。その村が、この先にある。
 何故彼らがこんな何もない場所を訪れたのか。身なりもよく、家出をするにしてもそういう悲壮感や切羽詰まった表情はふたりからは伺えない。
 そのうち、退屈したらしい少年のひとりが後ろを振り返った。
「ラス、競争しようぜ」
 少しばかり背の低い、薄い茶色の髪の少年が緑のバンダナをした少年に持ちかける。
「いいよ。絶対に負けないから」
 緩やかな登り道の先に、こぢんまりした集落が見え始めていた。暖炉に火が入っているらしく、白い煙が空へ上っていく。
「お先に!」
バンダナの少年が頷いたのを見て、もうひとりの少年はにやりと笑った。そして、スタートの合図も何も無しに、いきなり駆けだした。下り坂を、一気に。
「あ、ずるいぞ、テッド!」
 少年を追いかけ、ラスと呼ばれた少年も慌てて走り出した。
 吐く息が白い。足を踏み出すたびに頬を刺す冷たい空気は容赦ないけれど。それでも彼らは、それさえもが楽しかった。
 ふたりはいつも一緒だった。初めてあったときから、無二の親友になれると信じて疑わず、そしてその通りになれた。周りの大人達でさえ、彼らを見てその中の良さを羨むほどに。彼らは何をするにおいても一緒だった。
 赤月帝国の5将軍がひとり、テオ・マクドゥールの嫡子として生まれ、それ相応の教育を受けてきたラスティス。だが父親の権威の強さが災いしてか、彼の周りには常に大人が控えており、同年代の友人には恵まれなかった。だからと、心配したテオがちょうどその時に北で起きていた争乱の中で村を焼け出されたらしい少年を引き取ってきた。それが、テッドだった。
 ラスティスは今でもはっきり覚えている。初めてテッドと会った日のことを。
 釣りから帰ってきた彼の前に、予定よりも早く帰還した父親と一緒にテッドがいた。一瞬驚いた顔をして、それから紹介を受けた彼の差しだした手を、わずかの躊躇の後力強く握り返してきた。それまでずっと、友達になろうとして差しだした手はいつもその子の親やその子自身によって拒絶されてきたラスティスだったから、なおさらテッドの手の温かさが嬉しかった。
 それから、もう何年が過ぎたのだろう。
 いつの間にかラスティスはテッドの身長を抜き去り、体力も腕力もとっくにテッドを追い越してしまった。今もまた、先に駆けだしたはずのテッドを簡単に追い抜いて前を走っている。
 きっとこのままゴールしてしまったら、テッドは怒り出すだろう。甘やかしているつもりはないが、それでも時々、自分がひどくテッドに甘いような気がした。
「くそっ!」
 背中から、テッドの悔しそうな声がする。直後、迫ってきた足音の大きさに驚いているうちに。
「うわ!」
 振り抜いていた右腕を思いきり引っ張られ、バランスを崩したラスティスは後ろからのテッドの力に体の右側を持って行かれてしまう。何とか倒れないように足を踏ん張ろうとしたが、そこは生憎と凍りついた地面の上。
 ──駄目だ!
 このままでは背中から倒れてしまう。いくら多少雪が積もっているとはいえ、整備もされていない石がごろごろしているような地面。倒れたらちょっと痛いだけでは済まない。衝撃に備え、ラスティスは歯を食いしばると目をしっかりと閉じた。
 しかし、予想していた衝撃はそんなに大きくなくて。
「いって~~!!」
 かわりに、暖かい柔らかなクッションを背中に感じてラスティスは目を見張った。それに、この鼓膜を突き破るかというほどの悲鳴は。
「テッド、大丈夫!?」
 やっぱり、とラスティスは自分の下を見て顔を覆った。急いでテッドの上から退き、地面の上で痛がっているテッドの傍らに膝をついて彼を抱き起こす。
「なんであんなことしたの」
 責めるような口調の理由は、いきなり走っている自分の手を彼が引っ張ったこと。あんな事をすれば、こうなってしまうことぐらい簡単に予想できたはずなのに。テッドの背中を優しく撫でやりながら、ラスティスはため息をついた。
「いてて……一生のお願いだから、もっと優しくやってくれよ」
 さすってやっていた手がぶつけたところに当たったらしい。痛がるテッドだったが、その口調はまるで悪びれていない様子でラスティスはむっとなった。
「悪かったよ、機嫌直せって」
 分かりやすいラスティスの反応に、面白がっている感の拭えないテッドの言葉。しかし、そんな軽口ででも謝られてしまうと、許してしまえるところがラスティスという人だった。
 だいぶ痛みも引いてきたのか、テッドからほっとした様子が見られた。
「で、なんで危ないって分かってるくせにやったのさ」
「……案外しつこいな、お前って」
 悪かったね、とラスティスは心の中で悪態をつく。
 ひどければ骨が折れていたかもしれないのだ。今回は打ち身程度で済んだけれど、もう一度やって同じように軽い怪我で済む確率は100%ではない。危ないと分かっていてやりたがるほど、彼らは子供ではない。それなのに。
 しかしよほど言いにくいのか、テッドは視線をうろつかせなかなか口を割ってくれなかった。
「……いや、なんか……な。笑わないか?」
 恐る恐る、といった様子でラスティスを見上げてくるテッドは、なんだか彼が知っている親友よりもひどく幼く見えた。
「俺さ……いつか…………もしかしたら、俺、お前を…………その、なんて言うのかな……」
 言葉を選んでいるらしく、彼の口調はひどくたどたどしい。
 雪ははらはらと勢いをなくしたまま降り続けている。肩や、髪に積もった雪の欠片は、ひんやりとした一瞬だけの存在感を残し、消えてなくなってしまう。儚い、夢のように。
「テッド?」
 ラスティスは親友の少年を見た。定まらない視線は絶え間なく宙を漂い、落ち着きのない手がマントの端をいじっている。
「言いにくいなら……言わなくていいから」
 テッドはあまり自分のことを口にしない。ラスティスは、だから自分と会う前のテッドについては「村を焼け出され、家族を失った」という事ぐらいしか知らなかった。
 どこから来たのか、どこで生まれたのか。家族は何人いて、いつからひとりだったのか。そして……時折彼が見せる、あの物憂げで切なく、哀しい瞳の見つめる先に何があるのか。テッドは何一つ教えてはくれなかった。
 聞かれたくない過去や、想い出があるから無闇に詮索するのは良くないし、悪いことだと分かっている。だからテッドが自分から話してくれる日が来るのを待った。話したくないことを無理に聞き出して、それでテッドの気持ちが自分から離れていってしまうのが嫌だったから。
 でも……本当は聞きたかった。知りたかった。
 ラスティスはテッドに自分のことは全部話した。テッドに会うまでがどんなに退屈で面白くない毎日だったか、テッドに会えてどんなに嬉しかったか。父との想い出や、母の記憶や、グレミオやパーンやクレオ、家族がどんなに大事で失いがたいものであるかを、ラスティスは飾ることなくテッドに語った。
 テッドに、隠し事なんてしたくなかったから。
「……俺……いつか、お前を殺してしまうかも……しれない」
 ささやきがこぼれて、ラスティスは自分の耳を疑った。
 ──なん、て……?
 誰が、誰を殺す? いま、テッドは何と言ったのか。
 テッドは何も教えてくれない。彼が何を想い、何を考えているのか。時々、ラスティスはひどくテッドを遠く感じることがあった。
「……テッド…………それは……」
 冗談で言っているのではないことぐらい、声の調子から分かる。それに、テッドは冗談でそんなことが言える奴じゃない。ラスティスが親友に選んだくらいなのだ。テッドは、悪ふざけはするけれど絶対にラスティスに嘘はつかなかった。
「ラス……俺……」
 でも、本気だったらそれはそれでとても困る。
「……テッド、それはとても困ったね」
 だから、口について出たのはそんなどうしようもなく緊張感に欠ける台詞だった。
「ラス……?」
 上を向いたテッドと視線がかち合う。戸惑った表情がそこにあって、ラスティスは咄嗟に、
「うーん」
 と唸り、それから軽く首を傾げると、
「だって、僕の方が強いよ」
 腕力も、体力も、技術も。戦いにおいて必要なものすべてがテッドよりもラスティスの方が優れている。
「テッド相手だったら殺される前に僕がテッドを殺してしまうかも」
「……………………」
 かくん、と聞いていたテッドが首を落っことした。頭を抱えている。きっと呆れているのだろう。だがラスティスだって、今の自分には心底呆れてしまいそうだった。もっと他にいい切り返しの仕方はなかったのか、と。
 でも……とラスティスは思った。
 もしかしたら、これが初めて見たテッドの本心かもしれない。
「……でも、さ。テッド。僕は死なないよ、君が僕を殺そうとしても」
 だから自分を慰める意味合いも込めて、ラスティスは彼にささやいた。
「お前の方が強いもんな」
「違う、テッド」
 ひがんだような言い方をするテッドに即答で否定して、ラスティスは視線を外そうとするテッドの両頬を手で包んだ。まっすぐに、テッドの目を見つめる。
「僕は生きる。だって、テッドが僕のことを守ってくれるんだろ?」
  自信があった。テッドは絶対に自分を裏切らないと。テッドはラスティスを殺すぐらいなら、自分から死を選んでしまえる。
 だって、彼らは親友だから。
「だから僕は死なない。そしてテッドのことも絶対に殺したりしないし、失うつもりもないから」
 君を失いたくない。一緒にいよう、ずっと。この先何が起きたって。
「……お前……それ、自信過剰」
「確信犯と言って欲しいね」
 笑みがこぼれる。
 雪は降り続き、大地を銀色に染め変えている。
 この時、彼らは子供だった。いつまでもこの時が続くことを疑おうともしない、彼らはただの子供だった。

 赤月帝国皇帝バルバロッサ・ルーグナーからの勅命を受け、北へと旅だったテオの後任としてラスティスが選ばれたことは、本来喜ぶべき事なのだろう。しかし彼が帰ってくるのを待つ間、テッドは複雑な気持ちを抱えていた。
 ラスティスの部屋はいつもきれいに片付けられている。育ちがよく、躾けも行き届いており申し分ないくらいのテオの後継者。その期待の大きさはテッドの想像をはるかに超えているのかもしれない。自分は彼の友人として本当に相応しいのか……たまに疑問に思った。
 サラディに行こうと誘ったのだってテッドからだ。ふたりだけで行ったこともない場所に行ってみたかった。誰にも邪魔されないで、見たことのない世界を見てみたかった。結局、帰ってきたら待っていたのはグレミオのながーい説教だったけれど。
「早く帰ってこないかなー」
 ごろん、とピンと張ったシーツの上に寝転がり、テッドは天井を見上げて呟いた。
 ラスティスはサラディまでの小さな冒険を、楽しかったと言ってくれた。だから説教を受けている間もそんなに苦痛じゃなかったけれど。今になってそれがはたしてラスティスの本心だったのかが気になった。
 寝返りを打ち、枕に抱きついたテッドはそこで、置きっぱなしにされた本を見つけた。ベッドと壁際の間に置かれたサイドテーブルの上、無造作にペンと一緒に置き忘れられた本は丁寧に革張りで作られていて、初めはなにか難しい専門書かと思ったが。顔を近づけてみるとどうやら違うようだった。
 表紙に金文字で「Diary」と書かれている。しっかりと鍵付きのそれは、ラスティスの日記だった。しかも迂闊なことに鍵が外れている。
「………………」
 いけないこととは知っている。しかし、こんなにも無防備に日記を放り出している方が悪いのだ。
 テッドは起きあがった。そして閉まっているドアや窓をきょろきょろと見回して誰もいないことを確認し、ラスティスの日記に手を伸ばした。
 さすがに良心が痛むので最初から読むような真似はしない。ただ、あの日……ふたりだけでサラディに行った日を探す。
 几帳面に丁寧な字で書かれた日記を読むにつれ、テッドの表情が哀しげなものに変わっていく。あれから数日が経っているのに、日記はサラディから帰ってきた日で途切れていた。
「……あいつ、そんなこと考えて……」
 そこには、テッドに対する率直な気持ちが綴られていた。テッドが何も話してくれないこと、それを知りたがっている自分。だけど、知ってしまうことでテッドが離れてしまうことを怖がって、それならば知らないままでいいと、このままで良い、と。
「馬鹿だな、ほんと。馬鹿だよお前……」
 涙が自然にこぼれてきて、テッドは日記帳を抱きしめていた。そして、何かを思いつきサイドテーブルに置かれていたペンを手に取る。
 だが、直後階段を登ってくる足音が聞こえテッドは心臓を跳ね上がらせた。
「うわあああ!」
 日記を隠さなければ、と大慌てでどこか隠す場所がないかと探している間に、足がサイドテーブルに引っかかって派手な音を立ててテッドは床に転がった。更に、倒れたサイドテーブルが本棚にぶつかって……本の大洪水がテッドを襲う。
「テッド!?」
 自分の部屋からした轟音に驚き、走ってきたラスティスが戸を開けて見た光景……それは、本に埋もれ、結果的には日記を隠すことに成功したテッドの、「おかえり」と手を振る情けない姿だった。

 初仕事で訪れた魔術師の島。そこに住む占い師から星見の結果を受け取るという仕事は、予想外に手間取らされた。
「ふーん。新顔だね」
 森を抜けた先の占い師が住むはずの塔の手前で、ひとりの少年が彼らを待ちかまえていた。
 緑の法衣に身を包み、黙っていれば目を見張るほどの美少年なのだが。値踏みするように5人を見回した少年が次にしたことは……なんと。
「真なる風の紋章よ……」
 短い呪文を詠唱した彼の前に風が吹き抜け、大地から一体のモンスターが現れたのだ。表面は固い岩のようで、これまで誰も目にしたことのない種類の化け物だった。
「なんだ、こいつは!」
「気を付けて!」
 突然のモンスターの襲撃に、一同はパニック寸前にまでなる。しかし襲ってくる敵からラスティスを守るのが彼らに与えられた役目、と体が反応してかグレミオは咄嗟にラスティスの前に出て斧を構えていた。
「お前!」
 その中で、テッドだけが離れた場所で怒鳴っていた。そして何を思ったかそのままクレイドールの元へ駆け出そうとする。
「テッド、危ない!」
 クレイドールが人の頭ほどの大きさのある岩を取り出し、それをテッドに向けて投げつける。反射的に叫んでいたラスティスの声に反応し、岩と正面衝突する寸前でテッドはかろうじてそれを避けたが、バランスを崩して倒れてしまった。
「テッド!」
「大丈夫だ」
 不安を隠さないラスティスの悲鳴に、テッドは顔を上げて平気だ、と合図を送る。それを見てほっとするラスティスの向こうでは、パーンとクレオがふたりがかりで必死にクレイドールの相手を務めていた。
「大丈夫でしたか?」
 飛んでくる岩に注意を払いながらラスティス達の元に戻ってきたテッドに、グレミオがおくすりを手渡しながら尋ねる。
「平気平気」
 もらった薬を、転んだときに作った擦り傷に大量に塗りつけ、染みる痛さに耐えながら彼は言い返した。
 クレイドールは防御力が高く、パーンの自慢の拳もほとんど受け付けない。クレオの飛刀もことごとく跳ね返され、グレミオの斧はなんとかクレイドールの表面を削り取っているに過ぎない。隙を狙うラスティスの攻撃も、あっけなく跳ね返され反撃を喰らいそうになり、慌てて距離をおくしかなかった。
「無理するな、テッド」
 そう言ってくれる気持ちはありがたかったが、だからといってその好意に甘えてばかりでは気分が悪い。分が悪いことは分かり切っているのに、それでも諦めようとせず何度でも果敢に挑んでいく彼らの姿を見て、何もしないでは男が廃る。
「俺だって!」
 矢筒から矢を取り出し、弓を持って弦を引く。その彼の周りに、黒っぽい霧のようなものが集まりだしていた。
「テッド……」
 不吉な気配を感じ、ラスティスが振り返った先にいたのはテッド。歯を食いしばり、大地に足を踏ん張らせている彼の周囲を、まるで死に神が舞い踊っているような黒く濁った気配が漂う。
「ソウルイーター……お前の力を、この一撃に!」
 その声はラスティスには届いていない。だが、テッドが隠しているものがなにか、ラスティスはなんとなく、その瞬間に理解した。
 それはとてもとても重く苦しいもの。
 テッドから放たれた矢は、黒い霧を裂いてクレイドールに襲いかかる。それまで獣を一撃でうち砕くパーンの拳や、グレミオの斧をまるで受け付けなかったクレイドールの胸に、たった一本の矢が突き刺さった。
 ぼろり、と土塊がこぼれ落ちる。
「今だ!」
 ラスティスは叫んだ。
 どうしてテッドの矢がクレイドールに届いたのか、その理由を詮索するのはいつだって出来る。だが、まだ動こうとする奴を完全に沈黙させられるのは今を置いて他にない。
 ラスティスの渾身の力を込めた一撃がテッドの矢の上を直撃する。矢羽が折れ、残された部分がさらにクレイドールの奥へと押し込まれ、それに合わせて表面を覆う岩に亀裂が走った。ラスティスが離れる。彼が着地した瞬間を逃さず、グレミオとパーンの協力攻撃が既に動きを停止していたクレイドールを襲う。ひびの入った岩はあっけなくうち砕かれ、ただの土塊に戻っていった。
「ふーん。まあまあかな」
 少年がようやく終わったか、と呟きながら前に出てきた。ずっと彼らの戦いを傍観していた彼は、自分が召還したモンスターがやられてしまったのをたいして気にしていないようだった。
「ま、認めてあげなくもないかな。レックナート様がお待ちだよ。早く行くんだね」
 塔を指さし、少年はいけしゃあしゃあと言い放つ。パーンが怒り出しそうだったが、クレオがそれを先に牽制していさめた。ラスティスも、かなり戦いに時間が取られたことを気にして、グレミオを連れて塔へと向かった。
 吹き出た汗を拭い、ひとり遅れているテッドを昇りかけた階段の上から見下ろすと、彼は少年と何かを話しているようだった。
「喧嘩でなければいいんですが」
 フッチともあれだった。そんなことを気にするグレミオに、ラスティスは複雑な顔をする。
「大丈夫だよ、きっと」
 テッドは戦っている間、ひどくあの少年を気にしていた。
 自分にはないテッドとあの少年の共通点。何かは分からないけれど、きっと彼らには同じ何かがあるに違いない。そう思えて、ラスティスは苦しくなった。

 レックナートの言葉は、ラスティスにとって忘れがたいものだった。
 自分を信じて、自分の思うままに進むこと。誰にも出来るようで決して簡単ではない生き方を選ぶように、彼女はラスティスに告げた。
 白いローブから覗く優しげな微笑み。どことなく、遠い記憶の中にいる母の面影を感じ、ラスティスは頷いた。
「あなたの運命は常にあなたの手中にあります。忘れないで下さい。あなたが正しいと思えることを選び取るのです」
 それは厳しく辛い道となるだろう。だがそれでも人は進まねばならない。たとえ何を犠牲にしても、自分を偽ったままで生きることだけはしてはならない。そこに……どれほどの悲しみが待っているのか。それは、レックナートであってものぞき見ることのかなわない未来。
 誰かが決めるのではない。自分が決める未来。
 運命なんてものはそこにはない。すべてが、偶然の導き出した奇跡。
 君に出会ったこと、自分がここにいること。あらゆるものが、自分で見つけた世界。自分たちで作ってきた歴史。
 レックナートに命じられ、少年──ルックはラスティス達を森のスタート地点までテレポートさせた。途中、若干一名にいたずらを加えたのだが、それは黙っておく。
「レックナート様」
 これまで紡がれてきた永い人間の歴史の中で、常に27の真の紋章は争いの中心にあった。だから門の紋章を受け継いでいるレックナートはこうして結界の張り巡らされた小さな島に引きこもり、ルックもここにいる。北のハルモニア神聖国のようにはいかない。政治の中心に真の紋章を掲げることは、一時は強大な力を恐れた民衆をまとめ上げるのに役立つだろう。
 だが、ハルモニアのような半ば盲目的な紋章に対する信仰心でも無い限り、民衆は力に抑圧された生き方を拒否するようになる。
 真の紋章は両刃の剣。使いようによっては善にもなり、悪にもなる。力を利用するだけで済まそうとして、気がつかないうちに紋章に逆に取り込まれることだって起こりうるのだ。そして、歴史は如実に語る。
 真の紋章が集うとき、それは新たなる争いが起こる前触れであることを。
「嵐が来ます。とても大きな、嵐が……」
 ラスティスがその中心にいることはレックナートの表情からもすぐに分かった。そして争いの火種を蒔くのは、赤月帝国にいるウェンディとそして……彼であることも。
「時が動き始めます。ルック、仕度を」
「はい」
 遠くを見つめるレックナートに言われ、ルックは静かに頷いた。
『あいつらに……ラスには言わないでくれ』
 苦しそうに呟いたテッド。彼が持つ紋章が何であるのか、見なくてもルックには分かった。あれほどの禍々しい気配を内に抱く紋章はひとつしかない。呪いの紋章──ソウルイーターに間違いなかった。
『俺はこれでも300年生きてるんだぞ!』
 テッドの言っていた時の永さを思う。真の紋章を持つものはその身に流れる時を止める。全く成長しなくなる。置いて行かれるのだ、何もかもから。
「嵐か……」
 その嵐の中にいる自分の姿を想像し、やるせない想いを抱いてルックは小さくため息をついた。

 雨が降っている。遠くでは雷が鳴り響き、まぶしい光に窓際に立つ僕は目を閉じた。
「遅いですね、テッド君」
 清風山から戻ってきてすぐ。テッドは報告のために城に出向くカナンに連れられていった。一体何故か、その理由を問うことを奴は許さず、すぐに帰してやると言った奴の言葉も裏切られた。
 雨は止まない。
 グレミオが用意してくれた料理はすでに冷め切ってしまって、空腹に耐えかねたパーンの為にも、僕達は先に夕食を済ませてしまった。ただ、テッドが戻ってきたときにみんなが満腹だったら怒るからと、僕だけがいつもの半分の量だけを食べるに留めた。テッドがひとりぼっちで食事をしなくて済むように。
 けれど、そのテッドは帰ってこない。
 窓を見つめ、その向こうに今は見えないグレックミンスターの町並みを思い浮かべていると、僕の胸がなぜかちくりと痛んだ。
 哀しい、寂しい。
 君が、遠い。
 クイーンアントを倒した君の、黒い力。それが何かを聞くことは君自身によって拒まれてしまった。帰ったら話すからと、先に用事を済ませてしまおうと誤魔化したテッドの顔が消えない。
 それが君の隠してきたものなのか。それが、君がずっと隠さなければいけないことだったのか。
 僕じゃ駄目だったのか?君の秘密を共有できるほどの親友にはなれなかったのか?
 僕は君の……重荷だった?
 雨の匂いがする。風が吹いてきて、窓がカタカタと鳴った。
『……俺……いつか、お前を殺してしまうかも……しれない』
 僕を殺してでも守らなければいけない秘密なのか。それとも、君の秘密が僕を殺してしまいかねないから?君は……ずっとひとりで苦しんでいたのかな。
 僕じゃ、駄目だったのかな。
 僕達、本当の親友にはなれなかったのかな。
 君の苦しみに気付いてあげられなかった……僕は悪い友達だったね。
 知りたい。知りたくない。
 君が遠い。
 物音がして、僕は振り返った。
「なんでしょうね」
 グレミオがテーブルの上を片付ける手を休め、僕を見る。
 扉を開け、階段を下りる。冷たい雨の香りと、むせ返るような熱い血の臭い。
 世界が闇くなる。
 君が遠い。
 君が、見えない。

それはいつか君に還る願い
時代は動き始める
大きな悲しみの歯車は
軋んだ音を立て今
ゆっくりと回り始める

それは切ない想い
願い
叶えられることのない
儚い夢
それでも彼は祈り続ける

……ずっと一緒にいようね……

いつか君に届く想い

 はらはらと空を雪が舞っている。この季節、平野に降るにはまだ早い雪もこの山間部では関係ないらしい。道端には溶けかけの先日降り積もった雪の名残が白く輝いており、見知らぬ世界に初めて訪れた冒険者達は、わくわくした気持ちを抑えきれずついに駆けだした。
「へへっ、やったぜ!」
「僕達だけでここまで来たんだ!」
  ジャンプしながら叫んだのは、まだいくらか幼さの残る顔立ちの少年ふたり。道をすれ違う人の姿もないから、彼らの大声を聞き咎める人もいない。口やかましいお付きの青年もいないものだから、ついハメを外してしまいがちだった。
 サラディという村がある。赤月帝国の領地だが、山に囲まれて訪れる人も少なく、目立った観光名所もない。特産物にも恵まれず、一年のうち半分近くが雪に閉ざされてしまう辺境の村だ。
「ラス、競争しようぜ」
「いいよ。絶対に負けないから」
「それはこっちの台詞だね」
 峠の先に村が見え始め、先を歩いていた茶色の髪の少年が言い、後ろに続く緑のバンダナをした少年が頷いた。
「お先に!」
「あ、ずるいぞ、テッド!」
 駆けだした少年を追いかけ、彼も急いで速度を上げた。吐く息が白く曇り、吹き抜けていく風は肌に痛いけれど。彼らはそれすらも楽しんでいた。
 無二の親友だと、彼らは思っていた。周りの大人達もそう思っているだろう。この数年間、彼らは何をするにも一緒だった。
 戦災孤児としてラスティスの父であるテオ・マクドゥール将軍に拾われたテッドは、ラスティスと同年代であったことから、友人の少ない息子のために彼の家に引き取られた。それは本当に偶然でしかない出会いだったが、テッドはそこに運命的なものを感じずにはいられなかった。
 ──運命ねぇ……。
 言葉にしてしまうとひどく陳腐な響きしかしない、絶対的な人生行路。けれどもしそれを決めているものが神だなんて言うのであれば、テッドは運命なんて信じない。見たこともいるかどうかも分からないような奴に、自分の生き方のすべてを先に決められるなんてそんな生き方は最低だと、彼は思っていたから。
「くそっ!」
 上向こうとする顎を力任せに下に戻し、テッドは乱れた息の合間に吐き捨てるように言った。
 先にスタートして先行したはずなのに、もうラスティスに追い越されて置いて行かれた。体力には自信があったのに、いつの間にか身長も、腕力も何もかもがラスティスに抜かれてしまった。
 確実に時は流れている。今は良くても、いつか必ず、この体の異常を彼らは気付くだろう。
 その時、ラスティスは今と変わらないまま、自分のことを“親友”と呼んでくれるだろうか。
 前を見る。霧が出て霞み始めた地上に、ラスティスの背中がうっすらと浮かんでいる。
「……!」
 息を切らし、テッドはスピードを上げた。必死になってラスティスに追いつき、その手を思い切り掴んで引っ張った。
「うわ!」
 進もうとする自分と後ろに引こうとするテッドの力がぶつかり合い、わずかに勢いに乗せたテッドが勝利。見事、ラスティスはテッドを下敷きにしてその場に転がった。
「いって~~!!」
「テッド、大丈夫!?」
 石がごろごろしている道の真ん中での出来事で、しっかりと石に背中を打ち付けてしまったテッドがラスティスの下でうめき声を上げた。慌ててラスティスはそこから退いたが、地面とラスティスのサンドイッチの具にされてしまったテッドはすぐに復活出来そうになかった。
「なんであんな事したの」
 責めるような口調でラスティスは身を起こしたテッドの背中を撫でやり、尋ねる。
「いてて……一生のお願いだから、もっと優しくやってくれよ」
 ぶつけたところに手が当たったらしい。顔を歪めつつも軽口を叩くことを忘れない彼に、ラスティスは少しだけむっとなった。
「悪かったよ、機嫌直せって」
 分かりやすい性格をしている、とまた笑うテッドは本気とはとうてい思えない謝罪の言葉を口にする。だが、それだけでもラスティスの機嫌は上方修正されてしまうのだから、現金といえば現金。
「で、なんで危ないって分かってるくせにやったのさ」
「……案外しつこいな、お前って」
「テッドがはぐらかすからだろう。一歩間違ってたら大けがしてたかもしれないのに」
 今回はたまたま打ち身だけで済んだが、もしかしたら骨の一本や二本、折れていたかもしれないのだ。当たり所が悪ければもっとひどい状態になっていた可能性だって否定できない。
「……いや、なんか……な。笑わないか?」
 一瞬ぶれた世界。霧と雪に閉ざされ、何も見えなくなってしまう──いや、何もなくなってしまう世界。その中でたったひとりで生きる自分がいる。
 見えなくなると思った。いなくなってしまうと感じて、焦った。そんなはずはないのに。ラスティスは絶対にテッドを置いていったりしないと言い切れる、それだけの強さと信頼をこの数年間で勝ち取ったはずだったのに。
 まだ、駄目なのか。それとも、どう足掻いても無駄なのか?
「俺さ……いつか…………もしかしたら、俺、お前を…………その、なんて言うのかな……」
 雪は舞い散る。彼らの肩に、髪に、頬にひんやりとした一瞬だけの存在を残して。
「テッド?」
 言いにくそうな親友の姿に、ラスティスは「言いたくないのならいい」と小声でささやいた。
 彼は優しい。テッドが話さないことを無理に聞き出そうとしない。テッドがどこから来たのか、家族はどうなったのか、そして……時折テッドが見せる物憂げで哀しげな眼の見つめる先に何があるのかさえも。
 過去なんて関係ない。大切なのは今この時なのだと彼は教えてくれた。だからこそ、彼になにも教えずにここまで来たことに罪悪感がまったくないとは言い切れなかった。
「……俺……いつか、お前を殺してしまうかも……しれない」
 俯くテッドの見つめる先は、白く霞んだ大地のかけら。
 こんな事いきなり言ってもラスティスを困らせるだけだと分かっているのに。大事だから、失いたくないけどテッドの右手を支配する呪いの紋章はそんなこと全くお構いなく数多の命を奪ってきたから。ラスティスだって、危険なんだ。
「……テッド…………それは……」
 下を向いたままのテッドにはラスティスの表情が見えない。だが声の様子から、当惑していることは伺えた。
「ラス……俺……」
「テッド、それはとても困ったね」
 至極真剣に、おもいきり真面目に言ったつもりで、顔だって切羽詰まって悲壮感漂わせていたテッドだったのだが。顔を上げて見たラスティスは腕を組んで、本気に受け止めているのかどうかも怪しい態度だった。
「ラス……?」
 もしもし、と声をかければ、ラスティスは「うーん」と軽く唸って首を微かに傾げ、
「だって、僕の方が強いよ。テッド相手だったら殺される前に僕がテッドを殺してしまうかも」
「……………………」
 かくん、とテッドは首を落とした。駄目だ、これでは。
 伝わらないのだろうか、やはり。300年も生きてきてようやく出会えた大切な友にも、この苦しさは伝わらないのか。
「……でも、さ。テッド。僕は死なないよ、君が僕を殺そうとしても」
「お前の方が強いもんな」
「違う、テッド」
 すさんだ気持ちで顔を背けて言えば、即座にラスティスが否定の言葉を口にして無理にテッドの顔を自分の方に向かせた。まっすぐに見つめてくる双眸の輝きは、誰にも負けない強さを秘めている。
「僕は生きる。だって、テッドが僕のことを守ってくれるんだろ?」
 だから死なない。そしてテッドのことも絶対に殺したりしないし、失うつもりはないと彼は眼を逸らすことなく言い切った。
「……お前……それ、自信過剰」
「確信犯と言って欲しいね」
 そうしてふたり、道の真ん中で声を上げて笑いあう。雪は途絶えることなく降り続き、世界を一面の銀世界に変えていく。
 この時、彼らは子供だった。いつまでもこの時が続くことを疑おうともしない、彼らはただの子供だった。

 赤月帝国の北に存在するジョウストン都市同盟が不穏な動きを見せている、その対処に当たるためにテオ・マクドゥールが王都を離れている間、そのかわりを務める事になったラスティスに与えられた最初の仕事が、星見の結果を受け取りに行くという内容だった。
「なんか簡単すぎてつまんねーよな」
 無理矢理にラスティスにくっついてきたテッドが、星見役がいるという塔へ続く森の中であくびをする。
「なにを言うの。星見の結果は赤月帝国の政治に欠かすことの出来ない大切なものなのよ。届けるのが遅れたら、それだけで問題になるんだからね」
 迂闊なことは言わないの、とクレオに説教されてしまい、テッドはこっそりと舌を出した。しかもラスティスにその瞬間をばっちり見られてしまった。
「テッド」
「……あ、なに?」
「フッチと一緒に待っててくれても良かったんだけど」
 生意気な竜騎士見習いの少年は、愛竜ブラックと共に島の入口で待っている。
「冗談。あんな奴と一緒にいるくらいなら、退屈でもラスたちと一緒の方が俺はいい」
「そんなに嫌わなくてもいいのに」
 グレミオがフッチを思い出して呆れ顔で言う。彼にしてみれば、テッドがどうしてあそこまでフッチを毛嫌いするのか、その理由が分からなかった。
「子供の喧嘩だ、放っておけ」
 パーンが笑いながら言うのを聞き、テッドはふん、とひとつ鼻を鳴らした。
「あんなガキと一緒にしないで欲しいな。俺はこれでも……っと。」
 何かを言いかけ、慌てて彼は自分の口を手でふさいだ。どうしたのか、と皆がテッドを振り返って見るが、彼は「もういいよ」と諦め顔で首を振った。
 森の小道には時々モンスターが出てきたが、どれも大した強さではなく、パーンやグレミオ、それにラスティスの敵ではなかった。もちろんテッドやクレオも後方から援護攻撃を欠かさず、5人は大きな傷を負うことなく森を抜けることに成功した。
 しかし。
「ふーん。新顔だね」
 森が途切れ、塔への入口が見えたまでは良かったのだが。塔の手前にある土の露出した広場に、ひとりの少年が立って彼らを眺めていた。
「誰でしょう」
「まさかこいつが星見役の?」
 とてもそうは思えない、ラスティスよりも年下らしい少年は、まるで品定めをするように彼ら5人を順に見やる。そして最後にテッドを見て──彼はわずかに形の良い眉をひそめた。胸の前で組んだ右手の人差し指を唇に当てて、なにやら考えている様子。
「……まあ、いいか。ちょっと試させてもらうよ」
 だが答えが見付からなかったようで、少し不本意そうに言うと両腕を解いて右手を頭上高くに掲げた。
「真なる風の紋章よ……」
「……!」
 少年の紡いだ言葉の意味を察したのは、彼らの中でテッドただひとり。
 ──まさか、こいつ!
 グローブの上から右手の甲を抑えつけ、そこに感じるチリチリとした痛みに顔をしかめた。
 少年の要望に応え、風がわき起こり大地が隆起し中から一体のモンスターが現れた。岩で全身を固めた、今まで見たこともないモンスターだ。
「なんだ、こいつは!」
「気を付けて!」
 パーンとクレオが叫び、グレミオは咄嗟にラスティスの前に立って彼をかばった。
 土色のモンスターの向こうで、少年が満足そうにこの様を眺めている。テッドと視線がぶつかると、最初は意外そうな顔をしたがすぐに嫌味な笑いを浮かべるようになった。
「お前!」
 まさか、試すというのは……
「テッド、危ない!」
 だが前に出て少年の許に駆け寄ろうとしたテッドを邪魔するように、クレイドールが岩を投げつけてきた。
「うわ!」
 あと少しラスティスの声が遅ければ、テッドは岩の下敷きになっていただろう。転がっていく岩をすれすれのところでかわしたテッドは、ほっと息を吐くと急いでラスティス達の許へ向かった。
「大丈夫でしたか?」
 グレミオにおくすりをもらい、テッドは転んだ時に擦った傷に乱暴に塗りたくった。かなりしみて涙が出てきたが、おもいきり息を吸い込む瞬間に涙ごと押し戻して彼は弓を持つと背中の矢筒からまとめて3本、矢を取り出した。前を見れば、パーンが得意の拳法でクレイドールに果敢に挑んでいるが、表面が岩で出来ているクレイドールに思ったほどダメージを与えられていないようだった。クレオの飛刀も跳ね返されて地面に突き刺さっていた。
「無理するな、テッド」
 グレミオの斧が、かろうじてクレイドールの表面を削っている程度で、ラスティスの攻撃もさして通用しているように見えない。だが諦めずに何度でも挑戦していく彼に、テッドだけが戦わないわけにはいかない。
「俺だって!」
 弓に矢をつがえ、彼は歯を食いしばり弦をギリギリまで引き絞る。
 ──あれは紋章で……27の真の紋章で召還されたモンスターだ。いくら程度の低いモンスターだからといっても、油断できない。だったら……!
 ここで紋章の力を使うのは危険だ。テッドの持つ呪いの紋章は効果は絶大だが、その分範囲も広い。この状態で紋章の力を解放したら、ラスティス達にまで被害が及んでしまう。それだけはさけたい。
 だったら、こうするしか方法がない。
「ソウルイーター……お前の力を、この一撃に!」
 弦が切れてしまうその一歩手前で、テッドは想いのすべてを打ち込んで矢を放った。
 風を切り、空を裂き、矢はそれまで堅固な守りを誇っていたクレイドールの胸部に深々と突き刺さった。
 ぼろり、とクレイドールの中心部分が崩れる。その瞬間を見逃さず、すかさずラスティスがテッドの矢の上に棍を打ち込んだ。
 もろくなっていた部分に追い打ちをかける。それは戦闘の常套手段であり、もっとも効果的な攻め方のひとつだった。もちろんラスティスはそんなところまで頭が回っていた訳ではなかったが、ラスティスの一撃はクレイドールにとって致命傷となり、パーンとグレミオの協力攻撃を受けて完全に沈黙した。
 土塊の山となったクレイドールの残骸を囲み、5人はそれぞれ深く息をついた。まさかこんなところでこんなに苦戦を強いられるとは思っておらず、まだまだ自分たちが未熟者であることを各自思い知ったことだろう。テッドを除いて。
「ふーん。まあまあかな」
 やっと終わったか、と小声で呟いて少年は前に進み出てきた。自分が召還したクレイドールがやられてしまったことを悔しがる気配すらない。
 よく見れば美少年なのだが、どうも表情に乏しい感じがする。それに、この態度。生意気以外のなにものでもなく、初対面の相手にいきなりモンスターをけしかけてくるところからして、フッチには友好的だったグレミオも少しばかり怒っているようだった。
「ま、認めてあげなくもないかな。レックナート様がお待ちだよ。早く行くんだね」
 塔の方を指さし、少年がいけしゃあしゃあと言い放つ。これにはパーンも怒りマークが頭上に浮かんだが、
「時間がないんだ。行くぞ」
 クレオにたしなめられ、不満げに少年を睨み付けると先に塔へ向かって歩き出していたラスティスを追いかけて走り出す。グレミオとクレオは先頭にいるラスティスと並んで歩いているから、そこに残ったのは必然的にテッドだけとなった。
「行かなくていいのか?」
 階段を登り、塔の中に入っていってしまったラスティス達を示し、少年が動こうとしないテッドに尋ねる。
「お前……あれは俺を試したのか?」
 右手を左手で包み、そこにある疼くような痛みに耐えてテッドは逆に聞き返す。少年は「なんだ」と言わんばかりに退屈そうな顔をして、
「だったらどうするのさ」
「……言うな」
 27の真の紋章を持つ者は、互いが近くにいれば紋章同士が共鳴を起こすために存在が分かり合うようになっている。もっとも、300年間も各地を放浪していたテッドであっても真の紋章を持つ者に会ったのはこれが初めてだったので、今さっき知ったことなのだが。
「言うな……って?」
「あいつらに……ラスには言わないでくれ」
「ふーん。あいつらは知らないんだ」
 もう姿が見えない4人の入っていった、塔の入口を見上げて少年は呆れたように呟く。それから、やれやれと首を軽く振り、
「生憎僕は無駄口が嫌いでね」
 誰かに話すつもりはないと、少年はため息混じりの声で語った。
「嘘じゃないだろうな」
「……うるさいなあ。さっさと行けよ」
 疑り深いテッドの顔に指を突きつけ、少年──ルックは面倒くさそうに言う。
「分かったよ。けどな、これだけは言っとく。俺はこれでも300年生きてるんだぞ!」
 お前なんかよりもはるかに年上なんだからな、と大声で怒鳴ってテッドは走り出した。耳のすぐ近くで叫ばれたルックは思い切り顔をしかめ、むすっとしたまま右手で風を呼ぶとテッドに向かって、何も警告しないまま解き放った。
「おわわっ!」
 足下を風にすくわれ、テッドは階段の手前ですっころび鼻を石段に打ち付けてしまった。
「こらー!!」
 また怒鳴って後ろを向くが、反撃を恐れた(ソウルイーター相手ではルックでも分が悪い)ルックはさっさとテレポートで逃げ出していて、どこにもいなかった。
「くそ、やられた!!」
 心底悔しそうにテッドは空に向かって吠え、打った鼻の痛みにしばらくもだえなければいけなかった。

 雨が降り続ける。路上の石畳は水たまりをあちこちに作り、足を地面につける度に泥が跳ねる。
「……逃げ、なきゃ……早く、逃げないと…………」
 腕から流れる血は雨と混じり合い身に纏う服を重く湿らせていく。腕だけでなく体中が傷だらけで、一歩進むごとに激しい痛みが俺を苦しめる。それでも、立ち止まらなかった。
「逃げないと…………遠くへ、とお……く、へ…………」
 傷から生じた熱は冷たい雨にさらされ、奪われていく。凄く熱いのにひどく寒い。
 隠されし紋章の村を襲った女、ウェンディとの予期しなかった再会。それは、今まで忘れかけていた忌々しい記憶をあざやかによみがえらせてくれた。
 己の復讐のためにソウルイーターの持つ絶大な力を欲したウェンディ。彼女に紋章を渡さないために、俺は祖父を、生まれ育った村を失ったのだ。平和だった生活が過ぎ去り、放浪というひとりぼっちの日々を行くしかなくなったのも、すべてこのウェンディの所為だった。
 渡せない、この紋章は。祖父が、村の人々が命を賭してまで俺に託した想いを無駄にしたくない。これをウェンディに渡すことだけは、何としてでも阻止しなくてはいけなかった。たとえ、それが自身の命を失うことになっても。ソウルイーターがウェンディの手に落ちれば、もっとずっとたくさんの人が苦しみ悲しむことになるって分かっているから。
「……にげ、なきゃ……」
 バランスを崩し、俺は石畳に倒れ込んだ。雨を吸い重くなった髪が頬に張り付く。涙が一粒、こぼれ落ちた。
「駄目、なのに……」
 ここから先に行ってはいけない。頼ってはいけないのだ。これ以上迷惑はかけられないってよく知っているのに!
「ラス……」
 数年前お前にあったときお前はまだ小さくて、人のズボンで涙を拭いたり、迷子になっているくせに図々しくて親を捜してやっている人の背中で呑気に眠ったり、どうしようもない奴だと思った。
 テオ様に連れられて再会したとき、お前は俺のことが分からなくて(当たり前だけど)一緒に住めるって分かったときは凄く嬉しそうに笑ったよな。握手したときに掌の暖かさが変わっていなくて、俺はずいぶんと安心したんだ。
 友達になれて、良かった。お前に出会えて、本当に良かった。もう俺にはお前しかいないんだ。迷惑だって分かってる。お前を苦しめるだけだって分かってる。でも。
『……俺……いつか、お前を殺してしまうかも……しれない』
 サラディの村で言ったよな、俺。違うんだ、本当は俺、お前を失うのが怖かった。ずっと黙ってたこと、お前が知ったとき俺のことを嫌いやしないかって怖かった。今のままでいたかったから、今の関係が壊れてしまうのが怖かったんだ。俺、お前のことを信じ切ってなかった。それを認めるのが嫌だった。
 でも、お前は言ってくれた。
『僕は生きる。だって、テッドが僕のことを守ってくれるんだろ?』
 俺はお前を守りたい。お前を失いたくない。
 だから逃げなくちゃいけない。ここではないどこかへ、ウェンディも追いかけてこられない程に遠い世界へ。お前を、守りたいから。
 でも駄目なんだ。見付からないんだ、どこにもそんな場所が。
 気付いてしまっている、あの女から逃げ切る事なんてできっこないって。諦めてしまっている、こんなに弱かったのか?俺って。
「ラス……ごめん、ラス。ごめんな……」
 涙が止まらない。顔を上げればそこにはマクドゥール家の門が見える。
 俺は立ち上がる。行ってはいけないと分かっているのに、もう俺にはそこしかなかった。
 そこしか、還る場所が思いつかなかった。
 ごめんな、ラス。俺の所為だね、お前が苦しむのは。でも……もう俺にはお前しか残っていないから。
 お前を悲しませることになるってよく分かってる。俺、悪い友達だったな、きっと。
 でもな、俺……300年も生きてきたけど、お前と一緒にいられたこの数年間が一番幸せだった。本当だぜ?
 俺、お前に会えて良かった。楽しかった。
 だから、ごめん。

 それはいつか君に届く想い

 時代は巡り始める
 大きな哀しみと苦しみを紡いで
 今また歴史は繰り返される
 
 それは切ない想い
 願い
 叶えられることのない
 儚い夢

 それでも彼は祈り続ける

…………ずっと一緒にいたかった…………

SWEET

 昼時には遅く、夕時にはまだ早い時間帯――それは俗に言う、おやつの時間というタイミングだったろう。
 カチャリ、と閉じられていた鍵のない扉のノブを回して押した瞬間、鼻先を掠めて通り抜けていった甘ったるい香りに嫌な予感を覚えた。
 こういうときの嫌な予感というものは大抵当たるもので、今回も御多分に漏れず不吉な予感は的中してしまいそうな雰囲気だった。しかし、扉を潜って半分向こうの部屋にはみ出てしまっているこの片足を引っ込め、何事もなかったかのようにノブを引いて立ち去る事は、もうすでに許されなくなってしまっていた。
 扉の向こう側で音に反応した人物が、しっかりとその紅玉の双眸で扉の端からはみ出ている自分の姿を確認している事など、例えその表情を見ずとも分かってしまう自分が少し哀しい。
「なんだ」
 立ち去ってしまいたいのにそれも出来ず、かといってそのまま進む事もままならぬ精神状態でいる自分を見透かしたわけではないだろうが、まるで逃げ場を封じ込めるかのように扉の向こうにいる人物は静かに、声をかけてきた。
「貴様が、台所に何の用だ」
 それはこっちの台詞です、とは流石に口が裂けても言えなかった。
「あぁ……ぅん」
 曖昧な相槌を打って仕方なく、彼はドアを引くために若干力を込めて握っていたノブを押した。それはすんなりと開き、彼を壁一枚しか隔たれていない台所へと導く。
 開けた視界に見えるのは、シンクを中心として壁際にL字型に配置されているキッチンと、部屋の中心にどん、と置かれている少し大きめのテーブル。そして、台所の中央に鎮座坐しているテーブルに向き合う格好でハイチェアに腰掛けている、紅い瞳の背に双翼を持つ、銀糸の髪の青年。
「なに、してるのさ」
 珍しいね、と言葉をかろうじて返したものの、その質問が愚問であることを彼は自分でも良く理解していた。
 なぜなら、ユーリの目の前には幅の広い大皿がどてん、と置かれておりその皿の上にはこれまた、どどん、という効果音が似合いそうなケーキが載っていたからだ。更に付け加えておくと、ユーリの右手には生クリームが付着した三つ又のフォークが握られている。
 一目瞭然、とはまさにこの事だろう。
「見て分からんか」
「いえ、分かります」
 さらりと流され、あぁやっぱり、と彼はその場で頭を垂れた。苦笑しようにも、どうにも頬が引きつっていて上手くいかない。
「食べるか」
「…………遠慮しとく」
 ぷすっ、とユーリは言いながら手にしているフォークをケーキに突き刺した。
 ホールのままの、恐らくそれはアッシュに手作りなのだろうか、生クリームたっぷりのケーキを切り分けもせずに彼はスポンジを抉り、口へと運ぶ。
 甘ったるい香りが一瞬、台所を占領した。
「…………」
 うぅ、と彼は声に出さずに呻く。こめかみに置いた指先が、頭蓋の下の鈍痛を主張しているがどうにもこうにも、逃げ出せそうにない。
 さらにふたくち目をユーリはフォークに掬い上げる。三段組になっているスポンジは、階層ごとに真っ赤な苺を挟み込んでいるらしく、一緒のベリー系のソースも詰め込まれているようだった。白のクリームが所々で甘そうな色に染まっていた。
 ユーリはそれを、あまり美味しいと感じているようには見えない仏頂面で口に運び、数回咀嚼して呑み込んでいる。
「……美味しい?」
 だから思わずそう聞いてしまって、扉口に立ったまま動こうとしない彼をユーリが怪訝な表情で見返した。
「飽きる」
 ただひとこと、それだけを告げて彼はまた、事務的な動きでフォークをケーキに突き刺した。だが、今までと違って掬い上げる事はせず、生クリームを抉るようにぐりぐりとその場で回し始めた。
 当然、クリームは削がれてフォークの位置を中心としたサークルがケーキの上に描かれる。折角綺麗にデコレーションされていた生クリームの角が崩れ、その上に載っていた苺も倒れてしまった。
 もっとも、ホールのケーキをひとりで食べきるのは余程好きでない限り、苦痛だろう。
「食べるか?」
 まるで火山口のようになってしまったケーキの表面から、生クリームの壁を突き崩してそれだけを掬ったフォークを、ユーリは彼に向けて突き出す。ハイチェアから立ち上がることはないので、テーブル上からそれがはみ出て彼に迫る事は無かったが、その瞬間からすでに、彼はフルフルと必死の形相で首を横に何度も振っていた。
「遠慮します」
「するな」
「いえ、させていただきますってばぁ!」
 半ば泣きそうになりつつ、彼は壁にべったりと貼り付いた。そのまま真後ろにある扉を開けて出ていけば済むことであろうに、そんなことをしたら後がもっと恐ろしいからと、最初から選択肢には入れられていなかった。だから、少しでもユーリから遠ざかろうとして壁に貼り付くしかなかったのだ。
 だがユーリにはそんなこと関係ない。
「食え、貴様も」
「アッシュはどうしたのさぁ!」
「……配りに行った」
 曰く。
 クリスマスケーキの試作品を作っていたら止まらなくなり、自分たちだけでは到底処理しきれない数になってしまったため、ご近所さんもとい、知り合い各位へお裾分け、という名を借りた押しつけに出かけてしまったらしい。しかも車で。
「一体どれだけ作ったのさ……」
「片手では足りぬ」
 凝るのは構わないが、回りに迷惑をかけるのは少々難ありである。
 ぱくり、とスマイルに拒否されてしまった生クリームを口に入れてユーリは眉間に皺を寄せたまま呟いた。
 成る程、それで食べたくもないケーキを食べさせられて彼は不機嫌なのか。
 ユーリはある程度甘いものも平気だが、ホールでケーキを進んで食べたがるほどの甘党でもない。箸(実際はフォークだが)も進んでいないようで、ケーキはまだ三分の二近く残ってしまっている。
「辛い?」
「貴様も食え」
 同情してしまって尋ねたら、即答でフォークを突きつけられてまた慌てて首を振る羽目に。
「ぼくが甘いのダメだって知ってるでショ?」
 苦笑いが引きつっている。本当は、この甘い甘いケーキの匂いが充満している台所から、一秒でも早く立ち去りたい気分なのに。
「食え」
「……吐くよ?」
「それでも食え」
 無茶を言う。
 視線を外して遠い目をしてしまった彼に、苛立った様子でユーリはフォークにこびり付いていたクリームを舌先で舐め取った。その甘さに、眉間の皺が深くなる。
「吐いても良いから、食え。でないと」
「でないと?」
 アッシュはまだ帰らない。どこまで回っているのか想像もつかないが、五つ以上ケーキがあるのだとしたら少なくとも五軒は確実にご訪問、だろう。
 壁際の時計を見上げると、おやつの時間と言われている時を半刻ほど回ろうとしている時間だった。
 ぱくり、と抉っておいたスポンジを口にして、不機嫌な顔と声のままユーリは言い放った。聞いた瞬間、聞かなければ良かったと思うような事を。
「今夜の夕食が、これになるそうだ」
 つんつん、とフォークの先でケーキを突っつきユーリは壁際の彼を見上げて言う。瞳が真剣なので、恐らく嘘ではないはずだ。
 だが。
「……嘘ぉ……」
「貴様に嘘を言ったところで、ケーキは減らん」
 愕然とする彼を放っておいて、ユーリはまたひとくち、ケーキを口へと。だが味覚もそろそろ鈍ってきて、これが美味いのか甘いのかさえ判別が難しくなろうとしていた。口腔を舌先で舐めると、甘さだけしか伝わってこない。
「美味しい?」
 この期に及んでユーリの神経を逆撫でしそうな事を問いかける自分の気が知れなかったが、つい口に出してしまった問いかけは慌てて唇を噛んで手で覆ったところで、取り戻せるはずもなく。
「なら、」
と、ユーリはこめかみをやや痙攣させて形の良い眉を片方、ぴくつかせて。
 フォークいっぱいに、シロップがたっぷり染みこんだスポンジに絡みつく砂糖たっぷりの生クリームと、苺、をかき集めたものを。
 にこりと、満面の笑み(もちろん作り笑顔なので、何処かしら強張っているけれど)を浮かべたユーリがそのフォークを彼に向かって突きつけた。
「食え」
 美味いと思うのであれば、食え。
 鬼気迫る表情のユーリに、嫌々と首を振って彼は逃げ場を捜す。だが逃げようにも、隣の部屋と繋がっているのは彼が背中に背負っている扉だけで、あとは巨大冷蔵庫が占拠している一角に勝手口ならぬ裏口があるだけだ。そしてそれは、遠い。
 すでに背中の扉のことはすっかり頭から抜け落ちてしまっている彼は、どうにかしようと頭の回転を速めてひたすら、この状況を打破する言い訳を考えていた。
 そして。不意に思いついた言葉が推敲を重ねられることなく、口から吐いて出てしまう。
「あっ、じゃあちょっとだけ味見して甘くなかったら」
 食べるよ、と。
 舌先を滑り落ちていった言葉に、いぶかしむ表情でユーリは持っているフォークを突きつける。たっぷりのクリーム甘い香りとと苺の僅かな酸味を抱く香りが混じり合い、恐らく甘い物好きには堪らない香りなのだろう。だが彼にとっては、別の意味で堪らない香りとなっていた。
「いや、それはちょっと……」
 さすがにそのフォークの上に載っている分だけでも食べるのは辛いかな、と胸の前で両手を振って降参のポーズ。
「むぅ……」
 ユーリも彼が甘いものを不得手としていることを知っているので、あまり強くは押しつけてこず結局それも、彼の口の中へと吸い込まれていった。唇の端についた白いクリームを紅い舌先が舐め取る。ちろり、と一瞬だけ覗いたそれは蛇のような素早さであっという間に口の中へと消え、交替で鈍い銀色のフォークが抜き取られた。
「甘そうだねぇ」
「甘くないはずがなかろう」
 しかも味が単調でつまらないから、半分も食べきらないうちに飽きてきてしまった。そう言ってユーリはフォークを皿に置いて片肘をついた。 
 皿に残っているケーキは、あと五分の三ほど。それだけでもよく食べたものである、感心しそうになったがまた墓穴を掘ることになりそうなので彼は黙って置いた。そしてユーリも、肘をついてその上に顎を置いた状態のまま、黙ってケーキを眺めている。
「…………」
「……………………」
「…………………………………………」
「……………………………………………………………………………………」
「……何をしている」
 長い永いお互いの沈黙の末、我慢が出来なくなったのはユーリの方だった。
「なに、って」
「さっさと食え」
 カツン、と彼の指先が皿の上に逆さまにして置かれたフォークを弾いた。銀色が跳ね上がり、すぐに落ちてまた元通りの場所に収まった。そしてまた動かなくなる。
「いや、あの……」
 咄嗟に口から出た言葉なので、ユーリが真に受けているとはあまり考えていなかったらしい。彼は口淀み、視線を当てもなく漂わせた。
「スマイル」
 名前を呼ばれて視線を戻す。ユーリは変わらず、苛々した様子で彼を見上げている、ハイチェアの脚を爪先で何度も蹴りつけていた。
 壊れなきゃいいけど、と心の中で呟いて嘆息し、スマイルはふぅ、と瞳を伏せた。
「甘いんでショ?」
「何度も言わせるな」
 すでに何度目かも分からない同じ質疑応答に、膝の上に置いていた方の手で膝を叩いたユーリが睨む。
「残りのソレ、全部ぼくに食べさせる気じゃないよね?」
「食え」
 命令口調、しかも即答で断言された。その台詞さえ何度聞いたかもう数え切れない。
「……無理デス」
「良いから食え」
 さめざめと泣きたくなった。しかしここで拒否し続けたらそのうち雷が落ちる。アッシュが帰って来てくれることを本気で神に祈りたくなったが、こういうときに限って神様は笑顔で手を振ってくれる。
「味見をしたら食べる、と言ったのは貴様だろう」
 先程の口が滑った台詞を引き合いに出してきて、ユーリはスマイルから逃げ場をどんどん奪っていく。前言撤回はさせてくれそうになく、半分泣きそうになりつつスマイルは片手で顔を覆った。
「味見だけだってば……」
 ぼそぼそと反論を試みるが、効果無し。諦めるしかないのだろうか、と思わず天井を仰ぎ見てしまう。
 口から出てくるのは溜息ばかりで、聞かされているユーリの方までつられて億劫になってしまう。それもこれも、作りすぎるあのバカ犬が悪いのだ。
「それが夕ご飯、ってのだけは勘弁して欲しいんだけど」
「私に言うな」
 スマイルが甘いものを極端に苦手にしていることを知っているから、アッシュも出て行くときに彼に声をかけなかったのだろう。だがその事を今は恨みたくなる。知っていたなら、彼は絶対に台所に喉を潤しになど来なかっただろうから。
「いい加減腹をくくったらどうだ」
 男らしくないぞ、と険のある表情でユーリが言い、はふぅ、とスマイルはまた溜息。諦めが肝心とも言う、しかし苦手なものは苦手のまま、そっとして置いて欲しい気もする。
「吐くよ……?」
「飲み込め」
「無理ばっかり言うし」
 くすっ、と微かに笑みがこぼれてスマイルは片手を外した。しかし、いかにも「甘いです!」と主張しているかなりクリームの飾りも崩れてしまっているケーキを直視するとうっ、と口元を押さえたくなってしまう。
「……本当にダメなんだな」
「と言うよりも、……むしろ匂いが」
 甘いものも、控えめなものは食べられるのだ。だが見た目以上に臭覚を刺激して甘さを主張する類は、顔を近づけるのさえ苦痛だった。
 そして、人が嫌がっている事をやらせるのはかなり楽しい(?)もの。
 その時ユーリの頭の中に、小さな嫌がらせが浮かび上がった。
 置いておいたフォークをまた持ち上げ、先端をスポンジではなく生クリームが山を為している箇所に差し込んだ。そのまま上へ流すと、固めにホイップされたクリームの表面に三本の筋が出来上がる。
「……?」
 スマイルが怪訝な顔をしている前で、ユーリはフォークを自分の口に押し込んだ。甘い香りと味が彼の舌先に充満する。
 ちょいちょい、とフォークをくわえたままという行儀の悪い格好で彼はスマイルを手招きする。未だ怪訝な表情を崩さないものの、呼ばれたからには行かないわけにもいかずスマイルはゆっくり、ユーリの座るハイチェアの目の前に進んだ。見下ろすと、丁度彼がフォークを口から抜き取ったところだった。
 鈍色の銀が皿へ戻される。カチャリ、と硬質な音を立ててそれを手放したユーリの右手が、弧を描いてスマイルの襟元を掴んだ。
 そのまま、斜め下へ向けて引っ張る。
 鼻先を掠める吐息が甘い。そう思った時にはもう、違いに瞼を閉じることなく見つめ合ったまま、口付けが交わされていた。
「んぅ……」
 ちろり、と伸びた舌先が閉じられているスマイルの唇の隙間を求める。応じてやれば、必然的に重なりは深くなり同時に甘い味が舌先を伝って喉元へ流れ込んできた。
「ふっ……ん、っ……」
 絡み合う視線と、甘いクリームを流し込んでくるユーリの舌先に眩暈がした。襟を引っ張られているために呼吸が苦しい、前屈みの姿勢なので腰も少々、辛い。体制を維持しようと左手を伸ばしテーブルの縁に沿えると、若干体位がずれてお互いの前歯がぶつかり合い、変な音がした。
「……っ」
 歯列に伝わる鈍い痛みに目元が笑む。
「甘い」
 唇の表面にべたつくクリームを指で取り除き、スマイルは大きく息を吐きながら言った。一方のユーリもまた、ぬるつく口元を手の甲で拭い息を吐く。その息も、お互い甘い。
「甘過ぎ」
 もうひとこと、笑いながら呟いて。
 スマイルは、普段から青い顔を青白くさせた。右手で口を押さえ、前屈みになる。
「甘すぎて…………気持ち悪ぅ…………」
 うぇっぷ、と。
 今にも吐き出しそうな感じで青ざめているスマイルに、一瞬呆気に取られてしまったユーリもはっと我に返って椅子を引いた。
 だが、なんだかとても気分が悪いのは何故だろう。
「……気持ち悪い、か」
 そうかそうか、成る程そういう事を言うわけか貴様は。
 ぴくぴくとユーリのこめかみが引きつっていく。腕を置いた先のテーブルには、ちょうど良い感じで生クリームたっぷりの食べ差しのケーキが。
 にこり、と。
 引きつった笑顔でユーリはその大皿を両手に抱え上げた。
 スマイルの頭上に蔭が落ち、嫌な予感パート2を覚えた彼が顔を上げたときには、もう。
 目の前に真っ白い物体が迫っていた。

 アッシュがようやくケーキの配達を終えて城に帰り着いたのは、もうそろそろ夕食の支度を始めないと間に合わないかもしれない、という時間帯だった。
 なかなか楽しかったケーキ作りの余韻も冷めやらぬ中、鼻歌などを口ずさみながら彼のテリトリーである台所の扉を開けた瞬間。
「なんなんスかこれはー!!?」
 床の上に、頭からケーキを被ったスマイルが、あまりの甘さに堪えかねて気を失ってひっくり返っているのを発見したとき、アッシュは城中に響き渡るような叫び声を上げてしまった。
 そしてユーリは。
 アッシュの雄叫びが聞こえた瞬間、リビングで広げていた新聞で自分の顔を隠したそうな。

 
 甘いケーキ、甘いキス。

 でも今回は少し、甘すぎた?

gift

 道端で、ふと足が止まる。
 大きなガラスのウィンドゥ、その向こう側に飾られているのはスペースに所狭しとディスプレイされた、クリスマスのイルミネーション。
 クリスマスツリーはもちろんのこと、煙突屋根のミニチュアハウスが四棟並んでいる。それらの屋根にはちゃんと雪が降り積もり、うち一棟の煙突にはこれからお家にお邪魔しようとしているサンタクロースが片足を突っ込んだ姿勢で固定されていた。その家の窓からは、ベッドで良い子で眠る子供の人形が飾られているのが見える。
 サンタクロースのそりとトナカイも、ちゃんとセットされていた。サンタクロースの訪問を心待ちにしている子供が別の家の窓から覗けた。その窓の前には、降り積もった雪で作ったのだろう雪だるまが、赤いバケツを逆さまに被っている。
 手の込んだセットに、思わず見惚れてしまった。止まった足が暫く動かなくて、並んで歩いていたはずの人は気づかないまま五歩ほど先を行ってしまってから気づいたらしく、不機嫌な顔で遠くからこちらの名前を呼んだ。
「スマイル」
「んー……」
 けれど、生返事しか返さずにいると、案の定彼は益々表情を剣呑にして自分たちの間に開いていた五歩半分の距離を一気に詰めてきた。
 デパートのショーウィンドゥなど、手の込んでいるものに決まっている。ただでさえ、そうでなくともこの季節は掻き入れ時である。少しでも一目に止まるようなデザインとセットを用意してくるはずだ。
 そんなものにわざわざ引っ掛かってやるほど自分たちは暇ではなかったと、戻ってきた彼はつまらなさそうに口にしたが、その声は左の耳から入って右の耳から出て行ってしまった。溜息が聞こえる、向こうもこちらが聞いているようで、そうではないことを理解したのだろう。
「面白いか」
「まぁね」
 腕組みをした彼の右手には、紙袋がひとつぶら下がっている。先程、このデパートで購入したものだ。
 中身は、玩具。
 クリスマスまでそう間もない為、子供に贈るプレゼントを買う親で店はかなり込み合っていた。人気のある商品は大抵売り切れてしまっていて、ようやく目的のものを見つけた時にはもう、四件も店をハシゴしたあとだったので彼はかなり不機嫌そうだった。
「見てよ、よく出来てる」
「人前に出すものだから、良いものであって当然だろう」
 ウィンドゥを指でつついた彼に、不機嫌な声が重なる。
 そうかもしれないけど、とスマイルはガラスを叩いていた指先を戻して自分の左目、今は眼帯に隠されているそれをなぞった。
「ギミックは、精巧であればあるほど人は安心するんだよ」
 やや皮肉げに微笑むと、彼は明らかに不快を現す表情を作って見返してきた。
「種が知れれば、興ざめするだけだ」
 細められた瞳が色の濃いサングラスの向こうに見える。相変わらず無愛想で反論のし甲斐もない返事に肩を竦め、スマイルはやや屈めていた腰を伸ばした。眼帯に触れていた手は今はコートのポケットの中で浅く握られている。
「あと買うものは?」
「ツリーの飾りと、それから、アッスの……」
「あぁ、自転車?」
 姿勢を正して向き直ると、身長差がはっきりと現れてきて半歩彼はスマイルから離れた。何故か身構えられてから頷かれて、スマイルの苦笑が更に深まる。
「流石に、それは持って帰れないねぇ」
「だな」
 子供用といえ、自転車は相応に大きい。車で来ているならまだしも、今日は運転主役が留守番なので公共機関を利用してここまで来た。だから帰りも当然、それを使うことになりそうだ。もっとも、荷物の大きさによってはタクシーを拾うという方法も残されているが、それはあくまでも最終手段だろう。
「何処に行く?」
「確か、少し行ったところにコーナーがあったと……」
 玩具を買うのとはまた趣が違うし、変な飾りや余計なイラストが入っていたりするものではなくちゃんとしたものを買い与えてやりたい。長く使えるように。なら、ちゃんとした専門店に足を向けるべきだろうか。
 二言三言、そんな会話をしてからどちらが先と言うこともなく歩き出す。
 人混みは途絶える事がなく、すれ違う人とも度々肩がぶつかり合う。それほど狭い道でもないはずなのに、通行整理が為されていない為に人波が一定していなくて、非常に歩きにくい。下手をすれば隣を歩いている人ともはぐれてしまいかねない。
「手でも繋ぐ?」
 少しだけ空いたスペースで歩調を緩め、斜め後ろを行く彼に笑いかける。途端にむっと頬を膨らませて、彼はぷいっとそっぽを向いてしまった。そのあまりに分かりやすい態度に、思わず声を立てて笑ってしまう。
「ごめんごめん」
 笑いながら謝られても、誠意など感じられないのだろう。彼はまだそっぽを向いたまま、スマイルを置き去りにして歩き出そうとする。
 その濃い色のコートの袖から覗く、白く細い指が。
 時々空気を掴むように握り開きを繰り返しているのを見て、スマイルは片方だけしかない目を細めた。
 自分が持っている紙袋の取っ手を握り直し、持ち直して彼はまた開いてしまったユーリとの距離を大股で詰める。会話は交わされず、ユーリはちらりと視線を流してスマイルの存在を確認しただけで、また前を真っ直ぐに向いてただ歩いていく。
 目的地がちゃんと頭の中で地図となって現れているのかは、不明。
 薄く口元だけで苦笑って、こっちの道を行く方が近いのにな、とやはり表通りからの道順しか覚えていないらしいユーリの背中を眺めやる。彼は気づかずどんどんと人混みの中を突き進んでいくが、黒髪の中にひとつだけ輝くような銀色の髪の毛は目立つから余程でない限り見失う事もないだろう。
 そう、余程でなければ。
 空を気紛れに見上げてみると、さっきまではまだ薄く日が差していた雲間が完全に埋め尽くされていた。鈍色の曇天がビル群の間を心細い空一面に広がっている。天気予報は見てこなかったが、雨かあるいは雪が近いのかもしれなかった。
「早く帰った方が良いかな……」
 荷物を持った身で雨の中を歩き回るのは苦労だ。それに、あまり天候を気にせずに出かけてしまったので、彼らは傘を持ってきていない。その場で購入するにしても、余計な出費と荷物が増えるのは極力避けたかった。
 視線を戻し、息を吐く。白く濁った空気が一瞬だけ視界を横切り、直ぐに消えた。さっきから気温も下がってきている、まだ夕方までしばらくありそうな時間帯であるに関わらずだ。
「どっちかと言うと……雪、かな」
 ぽつりと呟き、スマイルはまた開き気味になっていたユーリとの距離を詰める。ちらちらと後ろにちゃんと彼がついてきていることだけをユーリは確認しているけれど、まだ機嫌が悪いのか声はかけられない。
 その揺れる手は、まだ不必要に思える運動を行っていて。
 視線が、脇に逸れた。
「ユーリ、待った」
 目に入った瞬間、足が止まって口が開いて声が飛び出ていた。
「……?」
 出しかけていた脚を中途半端に引っ込め、怪訝な顔をしたユーリはスマイルの二歩半前で振り返る。声が大きかった所為ですれ違っていく人々も一緒になって彼の方を振り返る、続いてユーリも。
 大の男ふたりが買い物袋を手に提げて。それでなくとも目立つ風貌をしているのに、余計に変な目立ち方をしてしまったユーリは益々むっとした表情でスマイルに歩み寄った。
「大きな声を出す……」
「ちょっとこれ持って、ここで待ってて?」
 な、と最後の一言を口に出す前にユーリの言葉を遮って、スマイルは手袋のはまった片手で謝罪のポーズを取ると持っていた紙袋をユーリに押しつけた。
「貴様、何を……」
「直ぐ戻ってくるから。そこ動いちゃダメだからね!」
 ユーリは方向音痴なんだから、と余計な一言を付け足してスマイルは反論を喰らう前にさっさと走りだして人混みの中に姿を消してしまった。とは言っても、目の前にあるテナントのふたつ先くらいへ駆け込んでいったのが見えたから、居場所だけはしっかりと把握はされていたのだけれど。
 そのテナントが何を扱うどういう店なのか、ユーリは知らなかった。スマイルのことである、どうせ無駄としか言いようのないがらくたでも突発的に購入する気になったのだろう。その程度に考えて、ユーリは押しつけられた紙袋と自分で持っていたそれを揃えて持ち直した。
 片手で持ち紐を握り、もう片手でその甲を覆う。軽く擦り合わせると、摩擦熱が発生して少し暖かくなる。だがそれも直ぐに消え失せて、また指先の感覚が遠くなってしまった。
「冷えてきたな……」
 ぽつりと呟いて、ユーリは空を見上げた。
 すっかり雲一色に覆い尽くされた町の中の天井は薄暗い。商店の照明で地上は照らされて明るい為に、今が曇り空であることも忘れてしまいそうになるけれど、あの雲の色は雨か、雪が近い色だ。
「降るかもしれんな」
 早めに帰った方が良いだろう、買い物と用事をさっさと終わらせて。あの男が戻ってきたら、その事を教えて寄り道をしている時間など無いことを分からせてやらないといけない。
 妙な責任感を覚えたユーリは、力を込めるついでとして紙袋の紐を更に強く握った。同時に、重ねている手を動かして熱を呼び出す。息を吐くと、白く濁って直ぐに消えた。
「ばか者が……」
 何をしているのだろう、と少しだけ身を乗り出してユーリはスマイルが入っていった店舗を伺う。だがこの場所からでは入り口だけしか見えず、彼が出てきたのかまだ店の中なのかさえ分からない。動くな、と言われた以上は不用意に動かない方が良いだろうけれど。
 あの店の前まで行くくらいなら、良いだろう。
 自分に言い聞かせ、ユーリはひとつ、履いているブーツの踵を鳴らした。
 けれど。
「動かないでって、言ったでショ?」
 からかうような、笑い声が何故か真後ろから聞こえてきた。
 振り返る、いつの間に現れたのかそこにはユーリの前方にある店に入っていったはずのスマイルが立って朗らかに笑っていた。
 唖然としてしまったが、彼が元来透明人間であり姿を消したりして人を欺くのが得意であることを思い出し、逆に憮然として強い眼で睨み付ける。
「貴様、目立つような真似はするなと」
「ぼく、あっちの出口から出てきたんだけど?」
 カラカラと笑って、自分が後ろから出てきた事への誤解を解くための言葉を発しながら、スマイルは自分の後方にあるビルの出入り口を指し示した。それは割と大きなビルで、出入り口もひとつきりではない。わざわざ大回りをして余分な距離を歩いて来た事になるが、元々人をからかって遊ぶのが好きな彼はそう言うことを苦にしない。
「…………」
 揚げ足を取られた格好になり、ユーリはまた拗ねたような膨れっ面を作りスマイルをまた笑わせた。
「拗ねない、怒らない。ストレス溜まるよ?」
 軽い調子で早口に告げ、彼はユーリの、紙袋を下げていない方の手を素早く掴んで持ち上げた。突然のことに驚き、咄嗟に腕を引っ込めようとした彼の踵が後方のビルの壁にぶつかって、微かな音を響かせる。
 分かってやっているのだろう、スマイルの口元が歪んだ。確信犯の笑み、しかし彼がユーリの手にした事と言えば。
「はい、これ」
と、ひとことのおまけ付きで。
 ばふっ、とやや力任せに真新しい茶色の手袋を押しつけた事くらいだった。
「……は?」
 何を想像していたのか、肩を強張らせて顔も引きつり気味だったユーリがそのままの顔で間の抜けた声を出す。一瞬の出来事だったので、通り過ぎていく人の殆どは誰も気にしていなかっただろうが、ビジュアル系にあるまじき滑稽な表情に、スマイルでさえその笑みがやや止まった。
「……いや、だから。寒いんでショ?」
 手を無駄に握ったり広げたりして動かして、時々両手を擦り合わせたりもして。
 しっかりとコートを着込んで暖かそうではあるけれど、ユーリの指は空気に露出している。普段よりも白さが際立って見えるのは、血流が悪いためか。
 だから、としっかりとユーリに今買ってきたばかりの手袋を握らせ、スマイルは距離を置いた。そのついでに、ユーリに持たせていた荷物をすべて自分が引き受ける。
 重くはない、軽くもないが。
「これを買うために、わざわざ?」
 手すきになったもう片手にも手袋を持たせ、試しに片方だけ嵌めてみる。五本分、指がちゃんと別れておりスリムなタイプだけれど、ちゃんと暖かい。指も動かし易い。
「今すぐ使うから袋も要らないし、値札も外してくれって頼んで置いて正解だったかな」
 新品の手袋の具合を確かめているユーリに向かうわけでもなく、スマイルはひとりごちた。
「あ」
 だが前置きもなく、ユーリがひとことだけ声を上げてそのまま止まってしまったので視線を落とし、彼に目を向ける。しっかりと両手分手袋を嵌めた彼は、それを眺めつつ向こう側を見つめていた。
「気の早いクリスマスプレゼントだな」
 カレンダーではその日までまだ一週間以上ある。プレゼントをもらうには早すぎるし、かといって他にものを贈られるようなイベントごともない。
「そんなつもりで買ったんじゃなんだけどねぇ」
 困ったように呟き、スマイルはユーリを見る。遠くを見ていた紅玉の瞳が彼に向き直り、伺うように細められた。
「なにが、欲しい」
 ギブ・アンド・テイク。与えられたのなら与え返す。見上げてくる瞳は真剣であり、茶化した返事では怒らせるだけで彼はきっとまた考え込んでしまうだろう。律儀なのは分かるけれど、本当に深く考えての行動ではなかったスマイルは余計に困った。
 欲しいものなど、特にない。彼は自分がしたいと思ったことをしただけであり、見返りを求めていたわけではないから。
 けれどユーリは、そんな返事を求めてはいないだろう。
「いいよ、もう返してもらったから」
 にこり、と一度だけ微笑んでスマイルは少し頭を回転させてはじき出した答えを口に出した。
 ユーリに何かを求めているわけではない、ただ与えたいだけだと言っても納得してくれそうにない。だから、与えることでユーリから返ってきている事を告げようか。
 また、怒らせるだけかもしれないけれど。
「返してなどいない」
「うぅん、返してもらった。だって、ユーリ」
 それ、と彼が嵌めている茶色の手袋を指さして。
 スマイルはもう一度笑った。
「ちゃんと、使ってくれてるでショ?」
 その為に買ってきたのだから、ちゃんと使ってもらえる事が一番嬉しい。それが、与えた側の答えだ。
「だからって……」
 言っていることは分かるけれど、とまだ納得がいかない顔をしているユーリの歩調は鈍い。
 空の重さは時間が経つにつれて増していく、雨にしろ雪にしろ、降り始めるまでにそう長い時間は残されていないだろう。
「ほら、ユーリ。早く買い物終わらせて、帰ろう」
 子供達と、留守番を押しつけてきたアッシュが首を長くして待っているはずだから。
「ケーキでも買って帰ろうか。折角だし」
 何処から話が飛んだのか、そんなことまで言いだしてスマイルはユーリを早く、と促す。残りの買い物を済ませるために選んだ店にも、もうじき到着できそうだ。
「無駄遣いは許し難いが」
 すでに今日は予算オーバーだ、予定にないものを買ってしまったので。
 しかし、ユーリは何かを吹っ切るかのように笑って頷いた。
「偶には、それも良いかもしれん」
「じゃ、決まり」
 楽しそうにスマイルが笑って頷き返し、彼らは人混みの中、道を急いだ。

 その後の事は、また別のお話。

邂逅

 小春日和の午後の町を、薄手のコートを羽織った少年がひとりで歩いていた。
 年の頃は13,4歳だろうか。見た目はもう少し若いかもしれないが、うつむき加減で大通りを北に進む少年の眼は、とても十余年しか生きていない子供が宿せる彩ではなかった。
 突風が吹き、舞い上がった砂埃に町行く人が立ち止まり、顔を背ける。煉瓦造りの家々の窓が、カタカタと乾いた音を立てていた。少年も片腕を上げて目をかばい、風が行き過ぎるまでやり過ごした。
 幾分古めかしいコートの裾がはためき、茶色の髪が逆立つ。長く櫛を入れた様子がないが、髪には艶やかさが失われていなかった。
「かー! 埃っぽい!」
 口に入った砂粒を唾と一緒に吐き出し、道の往来で彼は悪態をついた。この町の住人らしき女性が、くすくす笑いながら通り過ぎていく。
「この季節は東からの風が砂を運んでくるのよ」
 穏やかな声で、今度は目だけじゃなくて口もふさぎなさい、と女性は告げて去っていった。
 荒野の真ん中に作られた小さな町。街道沿いのここはめぼしい産業がないものの、首都に向かう旅人への土産や宿・酒場なんかでそれなりに繁盛していた。山賊や盗賊の類は、グレックミンスターを守る首都警備隊がたまに遠出をしてやってくることもあって出現せず、治安も他の町や村に比べて格段によかった。
「これからどうすっかなー……」
 目的がある旅じゃない。ただ無駄にある時間を潰すだけの、夢も希望もへったくれもない寂しい旅。だが今の少年の呟きは、どちらかというと残り少ない路銀でどうやってこの先を過ごしていくか、という意味合いが強かった。
 馬小屋でもこの際文句は言わない。屋根のある場所でただで眠りたかった。
 大通りはやがて町の中心部、噴水のある広場へと入っていった。
 テントがいくつも張られ、商店が軒を並べている。夕暮れ近い広場はにぎわっていて、子供から大人でごった返していた。
 人混みは嫌いだと、広場から伸びる細い路地に逃げ込み、少年はコートの襟元を広げた。年期の入ったコートはよく見ればあちこちがすり切れてほつれている。
 壁に背中を預け、ポケットに両手を突っ込んだ状態で少年は深々と息を吐いた。どうも、ああいう親子が手を取り合って仲良く歩いている光景を見るのは苦手だ。自分がいかにひとりきりで、あんなのどかな世界とは無縁の存在であるかを思い知らされてしまうから。
「ふぇ……」
 しかし、少年の思考はそう長く続かなかった。
「ふぇーん……」
 か細い泣き声。
「…………」
 少年は自分の足元を見た。色の抜けたズボンを、全く見知らぬ子供が掴んで、泣いていた。
「……………………」
 これは、……どういうことだろう。
「ふえ、ふぇーーん……」
 大声で泣き叫ばれないだけまだマシかもしれない。しかし……どうして自分の足下で、見た感じ5,6歳の子供が泣いているのか?
 冷や汗がたっぷりと少年の背中を濡らし、しがみついてくる子供を見下ろしながら彼は混乱する頭で必死に現状を理解しようとした。しかし、思いつくのが「まさかこいつ、俺の隠し子!?」「でも俺にそんなはずないよなあ」「じゃあ、なに、こいつ。まさか俺のソウルイーターを狙った刺客!?」などという支離滅裂な事ばかりで、
「…………迷子?」
 そこに至るまで、実に20分以上かかってしまった。
「お前、迷子?」
 少年のズボンを涙と鼻水でぐしょぐしょにした子供が、問われてこくんと頷いた。そしてまた、大きな目をウルウルさせて涙をいっぱいにたたえ始め、少年を慌てさせた。
「わー!分かった、俺が一緒に親探してやるから、頼むから泣くな!」
 急いで子供を抱きかかえ、引きつった顔のまま少年は大声で叫んだ。
「ほんと?」
「ああ、だから泣くな」
「うん」
 子供は素直だ。少年が味方になると分かるとすぐに泣きやみ、にこにこし始める。
「……で、お前って、どっから来たの」
「知らない」
「……この町に住んでるんじゃないのか」
「うん!」
 着ているものは質素だが上等な布でしっかりと縫われている。こんな小さな町で暮らす町人がそう簡単に手に入れられる服ではない。だとすると旅人……それもグレックミンスターにでも居を構える人間の子供だろう。
「宿屋を当たる方が早いか……?」
 だが、思い出してみればこの町には宿屋が果たして何軒なるのだろう。南から町に入り、中央広場まで来るだけですでに4,5軒はあったのだから。街道沿いだし、王都に近いし、それもある意味仕方がないのだろうが。
「親がどこにいるのか分からないのか?」
「うん……」
「そっか」
 ため息しかでない。子供を抱きかかえ、さっきよりも人通りが少なくなった広場を歩き回る。
「誰か、この子の親御さんを知りませんかー!?」
 叫んでみても、町の人は振り返るだけで反応は芳しくない。仕方がない、と広場だけでなく町中を歩き回ることにしたが、やはりどこへ行っても反応は同じだった。町行く人を捕まえて尋ねてみても、皆首を振るばかりで収穫らしいものは何一つとして得られなかった。
「いないのかよ、こいつの親は」
 まさかひとりでグレックミンスターから来たとか?などと考えてみて、そんなはずはないと首を振って否定する。自分ならまだしも、6歳そこらがひとりで、数日かかる道のりを歩いてくるはずがない。すると考えられるのは、グレックミンスターから出ている荷馬車に潜り込み、この町で下りたとか……?
 夕暮れが迫り、通りを歩く人も少なくなっていく。影が長くのび、いい加減自分の今夜の寝床をどうにか確保しないといけない時間が近づいていた。腹も減ったし……。
「疲れたー!」
 スタート地点、広場の噴水前に戻ってきて、少年はベンチにどっかと腰を下ろした。
 途中腕が疲れたために背負いなおした子供を横に座らせるが、すでに疲れて眠っていたこの子は起きる様子がなかった。
 黒い髪、利発そうな大きな瞳。その上やんちゃで、自分が迷子になっていることも忘れて町中をはしゃぎ回った。あれは何、これは何を連発し、もしかしたら周囲には、自分たちは仲の良い兄弟に見えていたのかもしれないと思うとなんだかおかしい。
 ずっと、こういうこととは無縁だと思っていたから──。
「……たまには、良いかもな」
 毎日がこんなのだったらさすがに嫌だけど、と自分の膝を枕にして静かに寝息を立てているこの子の黒髪を指で梳いてやる。弟がいたら、きっとこんな感じだったのだろうか。
 赤く染まる空を見上げ、少年は右手を掲げ上げて見つめた。茶色の革製のグローブの下には、この命を縛り付ける呪いの紋章が刻み込まれている。持ち主には死を与えず、持ち主以外の人間を死に追いやる忌まわしき──そしてとても強きもの。逆らうことを許さず、失うことを許さず。鎖のように少年を縛り付けて放さない27の真の紋章──その名はソウルイーター。
「こうしてる間にも、俺はお前の命を奪っちまうかもしれないんだぜ?」
 すやすやと眠る子供の顔を見下ろし、少年は右手で彼の頬にかかる髪を払った。
「ん……?」
「……起きちゃったか?」
 むっくりと身を起こした彼に、少年が尋ねる。まずあくびが飛び出し、眠たそうに目をこすって、彼は少年を見上げた。
「……ぐれみお……?」
 寝ぼけているのか、少年のものではない名前を呼び、首を傾げる。
「………………ちゃーんっ!」
「?」
 遠くから雄叫びのような声が聞こえ、二人してそちらを向く。
「あ、ぐれみおー!」
「ぼっちゃーん!!」
 走ってきたのは金髪の、頬に傷のある細身の若い男だった。男の子が嬉しそうに手を振り、男を迎え入れる……が、なんだかおかしい。
「ぼっちゃん、ご無事でしたか!おのれ、坊ちゃんを誘拐しようだなんて、このグレミオの目が黒いうちは二度と許しませんよ!」
 斧を少年の前に突きつけ、とんちんかんな事を叫ぶ男に、少年は反射的に両手をあげたものの、
「ちょっと待て!なーんで俺が誘拐犯になってんだよ!」
 怒鳴り返すと、男はぽかんとした。
「……違うんですか?」
「当たり前だろ!俺はこいつが迷子だってゆーから、一緒に親探ししてやってたんだよ」
 それが何故、誘拐犯に間違えられねばならないのか。感謝されこそすれ、この待遇はあんまりだ。
「……そうですか……。よかったー……」
 なのに、男は勝手に誤解し、勝手に納得し、勝手に脱力した。少年はますます分からない。
「……あんた、こいつのオヤ?」
 まさかな、と思いつつも一応確認のため尋ねてみる。
「まさか!坊ちゃんは坊ちゃんですよ!」
 即答でオーバーな首振りアクション付きで答えた男だったが、混乱しているのかやっぱりよく分からないことを叫んだ。
 ──なんなんだ……?
 だが、とにかくこれで保護者は見付かったわけで、少年はお役ご免と言ったところ。
「良かったな」
 男と少年の間に立つ男の子の頭をこつん、と小突き、少年は笑った。
「うん!」
 本当に嬉しそうに言い、彼は最高の笑顔を見せてくれた。
「じゃ、俺はこれで。もう迷子になんかなるなよ」
「坊ちゃん、勝手に出ていかないで下さいよ。びっくりしたじゃないですか」
 男に抱き上げられ、男の子が背を向けて歩き出した少年に手を振る。
「ばいばーい、お兄ちゃん!」
 彼は少しだけ立ち止まり、小さく手を振った。
 宿を探そうと角を曲がり、しばらくして彼はふと思い出して足を止めた。
「そういえば……名前、聞いてなかったよな」
 だが後ろを見てももうそこに広場はなく、闇に染まりだした町の姿が広がるだけ。
「ま……いっか」
 もう二度と会うこともなく、いつかはこの記憶も色あせてやがて思い出すこともなくなるのだろう。あの二人にとっても、自分はただの通りすがりの旅人でしかなく、忘れ去られるだけの思い出にもなれない存在でしかないはずだ。

 ────しかし、数年後────

「戦で村を焼け出されたらしい。行くところがないと言うから、連れてきた」
 戦場から帰ってきたテオが、茶色の髪の少年をそう紹介した。
「はあ……。私もテオ様のお世話になっている身ですし」
 頬に傷のある青年が、エプロンで手を拭きながら玄関先に立つ少年を見つめる。
「坊ちゃんにはこのことは……」
「今から説明するが、いるか?」
「いえ。釣りに出かけています。もうじき帰ってくると思いますが」
 探してきましょうか、とエプロンを外しにかかった青年だったが、それよりも早くテオの後ろで閉まっていた玄関が開いた。
「ただいまー!……れ、父様?」
 12.3歳の赤い服、緑のバンダナ姿の少年が、釣り竿を手にテオを見上げて首を傾げる。
「……お帰りなさい。早かったんですね」
「ああ、お前の顔を見たくてな。城に上がる前に寄ったんだ」
 今夜遅くに帰ってくるだろうと思っていた父の思いがけない姿に、少年は破顔しかけた。しかけた……が、テオの横に見慣れない少年の姿を見つけ、今度は眉をひそめる。
「紹介しよう。テッドだ。村を焼き出されたらしくてな、お前さえよければうちで預かろうかと思っている」
 テオの大きな手に背を押され、テッドと呼ばれた少年が前にでる。彼の顔は……驚きに満ちていた。
『ばいばーい、お兄ちゃん!』
 忘れかけていた記憶。もう二度と会うこともないと、思い出さないようにふたをして鍵をかけていた思い出が目の前によみがえってくる。
「…………」
 名前さえ聞かなかった。でも、たしかにあの時に会ったのは…………。
「僕はラスティス、ラスで良いよ。よろしく、テッド」
 無邪気に差し出された掌は、あの時に握ったものよりもずいぶんと大きくなっていたけれど。
「……ああ、よろしく。ラス」
 握り返したときの暖かさは、あの頃と何も変わってはいなかった。