獣の闇

 荒い息、激しく上下する肩、したたり落ちる汗。
「はあっ……はあっ……はあっ…………」
 握りしめた剣の柄に温かいものが伝い、指の間に染み込んでゆく。ねっとりとした感触が彼の頬から首筋に流れ、やがて肩に沈んだ。
「……あ…………」
 凍りついたまま閉じることの出来なくなった眼に映る、なつかしい友の笑顔。とても穏やかに彼を見つめ、…………。
「あああ…………」
 彼の肩を掴んでいた友の手が、緩やかに力を失い下方へと垂れ下がった。血にまみれた衣服はより赤く、紅く鮮やかで、美しいとさえ思ってしまって、彼は震える瞳で友の笑顔を凝視する。
 背を貫いたひと振りの剣は、この国の王の証として与えられたもの。ハイランド王国の導き手として立ち、争い、闘い……友を殺した、剣。
「……セ……レン……?」
 ゆっくりと沈んでいく友の微笑み。胸から背にかけて貫いた彼の冷たい剣により、全身から力が失われた今も、友の体は地に崩れ去ることはなかったが、前に垂れた首はもう、彼に優しく笑いかけることはない。
「う……あああっ!!!」
 流れ止まらない、他人の血。足下にはもう、彼が斬り殺した数多の人々の流した血が泉となり、彼の言葉にいちいち波立っている。
 倒れ山となる知らない顔の中に、そうでない死者がいた。
 一時は共に戦った人。ビクトール、フリック、ツァイや、砦で出会ったたくさんの人達。皆、優しかった。
「……ナナ……ミ……?」
 彼のすぐ近くで仰向けに倒れていた幼なじみの少女は、眠っているように見えた。だけれど彼女の胸は斜めに一文字に切り裂かれ、おかっぱ頭は血の池に沈んでいた。
 誰も動かない。彼の中にいる少年でさえ。もう、息をしていない。ただ少しずつ、冷たくなって行くだけ。
「セレン……ナナミ……」
 殺したのか?
「僕が……殺した、のか……?」
 ずるっと、両手の間から剣が落ちた。それはセレンを貫いたまま、どこまでも広がるこの地の海の底へと彼を連れていった。
「僕が……僕がセスを……ナナミを……僕、が…………」
 両手を見る。真っ赤だ。もうそれが誰の流したものなのか分からないくらいに、この手は赤く黒く汚れきってしまっている。
「……僕が…………僕が……殺し、た…………」
 熱にうなされたように、彼は繰り返し繰り返し呟いた。自分で自分の両腕をかき抱き、肉に爪を立てる。皮が裂け、抉れ、血が出ても、彼は全く気にも留めなかった。
 誰もいない場所。誰も生きてなどいない場所。
 彼は、ひとりぼっち。
「ぅあ…………あああああ!!!!!」
 ジョウイの悲痛な絶叫は、闇を切り裂き、天を貫いた。

「っ!」
 目が、醒めた。
 白い天井が視界にいっぱいに飛び込んできて、汗びっしょりになっていたジョウイの意識を急速に冷ましていった。
「…………あ」
 夢?
 そこはハイランド王国の首都ルルノイエ、ジョウイの寝所だった。
 独りで眠るには広すぎるとしか思えないベットの、ふかふかの布団に包まれたその場所で、しかしジョウイはたった今までいた世界こそが、真実であるかのように錯覚した。
 セレンを貫いたときの、剣の肉に食い込む感触も、頬に触れてきたセレンの手の熱さも、体中にまとわりついた血のぬめり感も。ありとあらゆるものすべてが、夢と言い切るにはリアルすぎた。
 そして、夢の中と全く同じように乱れきったこの呼吸は。
 手を見る。
 汗に濡れているだけで、剣を持つには不釣り合いにも思われる白く細い指があるだけだ。けれど。
 自分は確かにこの手に剣を握り、セレンの胸を貫いたのではなかったか──?
「……っは……」
 息が苦しい。
 胸元を抑えつけ、ジョウイは反対側の手でシーツにきつく爪を立てた。見開かれた眼は赤く血走り、全身が小刻みに震えている。
 確かめなくてはいけない。
 はじかれたようにジョウイは頭を上げ、ベットから飛び出した。素足に寝間着のまま、かまわずに寝所を飛び出す。
「誰か! 誰かいないか!」
 静まり返った王城。守衛の姿さえ扉の外に見えず、わき上がる焦燥感に狂いそうになるのをこらえ、再びジョウイは叫んだ。
「いないのか!?」
 早く来てくれ。誰でもかまわない。早くこの場に来て、言って欲しい。
「……いかがなされましたか、ジョウイ殿?」
 荒々しく足音を立てながら、衛兵を伴って現れたのは、銀髪の長身の男だった。かつては王国軍第三軍を率いていたソロン・ジーの配下で、今はジョウイに忠誠を誓ってくれているクルガンだ。
「何かあったのですか?」
 寝間着のままジョウイが外に出てくることは限りなく珍しい。それにこの慌てよう。いつになく取り乱している彼に、クルガンは近づこうとして逆につかみかかられてしまった。
 困惑の表情が、常に冷静沈着でいることをを売りとしているクルガンの顔に浮かぶ。
 紅潮した頬、血走った眼、落ち着きのない呼吸と、もしや眠っているところを敵に襲われでもしたかと、ここに入ってくるときは思ったのだが。どうも違うようで、対処の方法に苦慮していると、
「クルガン、答えてくれ」
 きつくクルガンの二の腕を握り、ジョウイが震える低い声で尋ねた。見上げてくる彼の眼はどこかおびえているようでもあり、クルガンは形の良い眉をひそめさせた。
「お聞きしましょう」
 ともかく今はジョウイを落ち着けさせる事が先決と、彼はジョウイに従った。下手に逆らって何があったかを問いつめても、冷静さに欠けた今のジョウイには意味を成さないと判断したためだ。
 そのまま腕の痛みをこらえて待っていると、
「……僕は、ずっと……ここにいたか?」
「?」
 しかし尋ねてこられたことはクルガンの予想していたことのまったくの範囲外で、殊の外びっくりしてしまったクルガンと後ろにいた衛兵は目を丸くした。
「ジョウイ殿……」
 混乱しているにしても度が過ぎているように思え、クルガンは困って、目の前にいるこの若き国王に言葉の説明を求めた。なるべく穏やかに行こうとしたのだろうが、彼の笑顔は一部引きつっていた。
「答えろ!」
 しかしジョウイはクルガンの言葉を遮って鋭い声で叫び、反射的に身をちぢこませた衛兵が持っていた槍を落としてしまった。
「僕はずっとここにいたか? ずっとこの城にいたか? 僕は……僕はセレンを殺していないな! セスはまだ生きているな!?」
 敵対しているはずのラストエデン軍リーダーの名を叫び、ジョウイはクルガンを掴む手にさらに力をこめた。
 クルガンは痛みに顔を歪めこらえながら、これ以上をこの事情を知らない衛兵に聞かせるのはまずいと判断し、槍を拾う体勢のまま不審そうに二人を見上げていた兵士に、城付きの医者を呼んでくるよう指示した。
「落ち着いて下さい、ジョウイ殿!」
 衛兵が走り去るのを確認して、クルガンは必死にジョウイに呼びかける。
 ジョウイの金茶の瞳が、大きく揺れた。
「……う、あ……」
 ジョウイはクルガンから手を放し、自分の頭を抱え込んだ。一歩、二歩後退する彼の瞳に映るクルガンの姿は、夢の中のセレンと同じように、血にまみれていた。
「ジョウイ殿……」
 よろよろと差し出された彼の手から、ズルリと骨の上を滑り、褐色の肉が地面へと落ちた。あちこちが裂けた衣服の下は、流れ出たまま固まった赤黒い血のあとが一面を覆い尽くしている。筋を失った白骨が、支えを欠いてポトリ、と形を失い、消えていく。
「あああ…………ああああああ!!!」
 痛む頭を振り、ジョウイはそこから逃げ出した。
 足を踏み出すごとに水がはね、彼の服を赤く汚す。嫌な音と感触が足の裏を刺激するが、彼は下を見ながら走る事なんて出来なかった。
「いやだ……やめろ……」
 広がる闇はどこまでも深く、果てが見えない。逃げても逃げても追ってくる。彼の心の全てを呑み込もうと、手を伸ばす。
「うわ!」
 とても大きな何かに足を取られ、彼は不意を付かれた形で前のめりに倒れた。水たまりが派手な音を立てて、彼の全身をびしょぬれにした。鼻孔に入った水で息が苦しくなり、せきこみながら身を起こした彼は、支えるためについた手の下が他にないほど柔らかいことに気が付いた。
「…………?」
 ぬめりが右手の平を包み込む。
 恐ろしいことに考えが及んで、膝をついたまま彼は今右手があった場所を、錆びついたブリキのおもちゃのようなぎこちない動きで見た。
 長く美しい黒髪の少女が、倒れていた。
 好んできていた赤いドレスには、更にきわだった紅い華がいくつもいくつも咲いている。見開かれたままの光が失われた双眸は、ジョウイに向かって優しく微笑みかけようとしない。
「ひっ……あ……ああ…………」
 腰をぬかしたままじりじりと後ずさり、彼はいやいやと、子供のするように首を横に振る。
 泣き声がした。
 はじかれたように、それまで闇く輝きの失せていたジョウイの瞳に、明るさが戻った。
「ピリカ!」
 名前を呼ぶ。あの子はまだ、生きている……!?
「どこだ、ピリカ!」
 初めはあの子を守りたくて戦った。何を犠牲にしても……自分の命が失われたとしても、彼女を守り抜けたら、それだけで戦った意味があるのだと……。
「おに……ちゃ……ジョウ……イ、おにい……ちゃん……」
 途切れ途切れに彼の名を呼び返し、ピリカの声は近づいてくる。泣いているのだから、優しく抱きしめてあげなければいけないと、ジョウイは重い膝にむち打って立ち上がり彼女が闇の中から現れるのを待った。しかし。
「いた……い、よ……お兄……ちゃ…………痛い……いたいよぉ……」
 すすり泣く彼女の声がおかしいことに、ジョウイはその瞬間まで、気付かなかった。
 両足と片腕がもげ、残ったもう片腕も胴とかろうじてつながっているだけのぬいぐるみを抱くピリカ。頭までも半分以上がとれかかり、中に詰まっていた白い綿は、赤黒くはみ出している。黒い目は片方外れて細い糸でぶら下がっている状態で、頭の中に納まっている方も、白濁して今は何もうつしだしはしなかった。
「……ピリ……カ…………?」
「いたいよ……助けて、ジョウイ……お兄ちゃ……ん……」
 見えない眼で必死にジョウイを探し、手を伸ばしたピリカだったが、求める人の手を掴むことは出来ず、そのまま静かに沈んでいった。
「ピリカ……ピリカ……・? 返事をしてくれ、ピリカ、お願いだよ。誰か……誰か返事をしてくれっ!!」
 流れ落ちる涙は、けれど彼を清めてはくれない。
 果てしなく続く闇の奥で、獣の咆吼だけがこだました。

生きるチカラ

 自分の生きる意味がなんなのか、ひたすら考えた時代もあった
 答えなど見付からなくて、ならば創ればいいと考えた
 そして……
 意味などなくとも人は浅ましく生きていくことに気付いた
 何もしなくても腹は空く。何もしなくても人は生きていける。誰かに求められなくても、人は生き続ける。
 風はあいかわらず涼しくて、緑濃い空気は慣れてしまえばもうむせ返ることもない。
 あれからはたしてどれだけの時間が流れたのか。数えるのもおっくうになりかけた頃、体は昔と同じ様な状態に戻っていた。
 傷跡は全部消えたわけではないが、折れていた左腕も骨がくっついて今は何も問題ないし、衰えた筋力も戻ってきている。食べるものが数日に一度届けられるものだけでは足りなくなって、自分で外に出て狩りをしなくていけなくなったことが、良いリハビリになったようだ。
 幸いここは獣が多い。水も澄んでいるし、人も食料を届ける人間以外はやってこなくて、忘れていたのどかさを思い出させる。話し相手がいないことに文句は言わない。煩わしくなくて良いとも思う。
 ルックといった、無口の小僧は何もいわずに食料や薬を持ってくると、何も聞かずに去っていく。彼も何も尋ねないから、恐らく数ヶ月はここで暮らしているはずなのに彼はここがどこなのかを知らなかった。
 でも困らない。自分の現在地を知らなくても、怪我が治るまでここから動けなかった彼には関係なかった。
 ただたまに尋ねてくるセレンは、どうしていたとか、体の具合はどうかとか、とにかくしつこく聞いてくる。振り払っても振り払ってもつきまとって来るセレンを、ルックは止めない。ルカも助けを求めたりしないので、結局根負けしてぽつりぽつりと語ったりするのだが。その時のセレンの興味津々と言った顔を見るのが、いつの間にか楽しみになっている事を、ルカは自覚していなかった。
 こういうのも悪くないと思いかけ、ぶんぶんと首を振る。弾みで手にしていた桶から水があふれ出て、せっかく汲んできた苦労が地面に染み込んでいった。
「俺はハイランドの皇王だぞ」
 それがなぜ、こんなところで水汲みなんぞやっていなくてはいけないのか。
 だが、だからといって代わりにやってくれる奴もいない。自分でしなければ、ためておいた水はいつかなくなるし、食料だって尽き果てる。他人に干渉されないということはいかに孤独であるか、ようやくルカは思い知る。
 今までずっと、自分はひとりなのだと思っていた。父も妹も部下も、何もかもがくだらない浅ましい生き物だと思っていた。生きることに固執する連中はクズだと、思っていた。そして自分もそんな最低な生き物のひとつなのだと……。
 丸太小屋の戸を押し開け、中に入る。昼間でも窓から入ってくる日の光は限られていて、ランプに火が入っていない今は薄暗い。扉の側の大きな水瓶のひとつに、今運んできた水を移し替えると彼は長く息を吐いた。
 最初に比べたらずいぶんと物が増えた。
 テーブルは新しいものに替えられていたし、中身が空っぽだった棚には薬類や衣服の替えや、暇つぶしにと渡された本が山のように詰め込まれている。前にセレンが来たとき、苦笑しながら片づけていってくれたが、わずか数日でごちゃごちゃになってしまった。「整理整頓」、と壁に貼られていたりするのが涙を誘う。
 食料は床板をはがした所に保存してある。もっぱら野菜や肉類が置かれているが、果物や甘いおやつまで持ってこられてもルカは食べられない。そういう物はセレンが来たときに返すことにしているが、前に無理やり口に突っ込まれたときは吐くかと思った。
「流されているな……」
 思いだし、ルカは頭を押さえ込んでベットに腰掛けた。ボロ布に近かった布団類も、いまでは新品同様な物に変わっている。これだけの生活道具を持ち運んでいて、仲間達に不審がられないかと心配までしてしまったが、ルックがテレポート出来るとかで、問題ないと本人が言っていた。
「ハイランドはもはや俺の手を放れた。俺はもう皇王ではない。しかし……」
 穏やかに流れる日々は、戦いだらけだった過去を遠くに押し流してしまう。でなければこんな風に、体力が回復してもここに停留し続ける事はしなかっただろう。
 あの記憶を消すことは出来ない。ただ、遠くなるだけだ。現実感が損なわれるだけだ。
 生きていること。それが恥であり、全てを壊してしまいたかった。
 罪を犯しながらのうのうと生きている奴らが許せない。資格もないくせに偉そうにのさばっている連中に吐き気がした。
 悪夢は消えない。今でも夢に見る。
 黒い記憶。捕らえられ、屈辱を与えられ、そしてようやく見た光は彼を更に絶望の淵に追いやった。
 父が憎い。母を見捨てたあの男が。
 だから殺した。必要なくなったから、殺した。報いを受けたのだと、悲しくも何ともなかった。
 胸の中にぽっかりと空いたなにかを埋めるのは、父親という彼を縛る以外に何もしない男の命だと思っていた。
 しかし実際に奴の座っていた椅子に腰を下ろすようになって感じたのは、言いようのない虚しさだったのかもしれない。
 ──ああ、必要なかったんだ。
 欲しかったのはそんな物ではなかった。そして今では、あの頃何を求めていたのかさえ思い出せない。
 なにを探して、人を殺していたのだろう……?
 胸の底にある獣は、今でも近づいてくる全てのものに対して牙をむこうとする。荒れ狂う嵐のように彼の心をかき乱すが、何故か獣はセレン達には刃向かおうとしなかった。それが、真の紋章を持つ彼らにはかなわないと本能的に悟っているのか、それとももっと違う外的要因に起因しているのか、ルカには分からなかった。
 ただ、いつまでも消えない胸の奥にいる獣の記憶を持て余している、そんな感じだ。
 生きていることが苦痛以外の何物でもなかった時代。
 全てが憎く、恨めしかった。
 自分には与えられなかった物を、なんの疑いもなく甘受している連中を見るのが悔しかった。それだけなのかもしれない。
 風が吹き、窓の外を眺める。昼の光は暖かいが、季節は夏を過ぎ、もう蛍が夜に舞うことはなくなった。

  その日は雨が降っていた。
 ここ数日は食料の配達がなく、自分で狩りに行くこともままならない天気のせいで保存しておいた分もかなり残り少なくなってしまっていた。水は雨水を貯めておけばなんとかなるが、いつまでこの雨が続くのか予測がつかず、薄暗い小屋の中でルカはひとり、暇を持て余していた。
 動けば余計に腹が空く。そう思ってベットに横になったままボーっと天井を見上げていたのだが、それにもいい加減飽きてきた。何も変化のない天井が、せめて雨漏りでもしたら退屈は納まるのかと考えてしまう。しかしそれはそれで大変なことになるので、首を振って忘れると寝返りを打って体の向きを変えた。
 閉ざした窓から、雨の匂いが流れ込んでくる。屋根を打つ雨音は一定のリズムを刻んでいて、まえにこんな風に雨の音を聞いたのはいつだったか、と考え込んだ。思い出せないくらいに昔のことだった気がする。
 昨日の昼過ぎに降り出した雨は一晩中降り続き、今も止む気配がない。ろうそくの明かりが頼りなげに揺れて、ルカの顔に影を落とした。
 ここにある本は全て読み尽くしてしまった。大体がくだらない恋愛小説だったり、子供が好きそうな冒険活劇だったが、中には歴史書や哲学書もあって、それらはかなり読み応えがあった。しかし一読後にもたらされるけだるさは、どの本でも同じだった。
 結局自分は何がしたいのか。それが分からないままでは、何をやっても中途半端でつまらない。
 歴史は今もどこかに向かって突き動かされている。だがその中から脱落してしまったのがルカだ。
 ハイランドはジルを娶ったジョウイの手に落ち、ルカが支配していた時代とはまた違う戦い方でラストエデン軍との戦いを繰り広げている。
 ジョウイとセレンは幼なじみだというのは知っていた。それを利用したこともあった。だが結局、敗れ去ったのはルカひとりだった。いいように操られていたのは彼の方だったのだ。
「……見抜けなかった俺の浅はかさが原因か……」
 思い出すのは昔の事ばかり。
 未来に展望がなくなった今、どこへ行くことも出来ず、生かされる日々に甘えている。それを屈辱と受け止めることも少なくなった。
 生かされているのだと思うことで、かろうじて生きる必要性を求めていた。自分がここに連れてこられたのは、必要とされていたからだと……。
「いつからこんなに弱くなった……?」
 自嘲気味に口元を歪める。必要とされない限り生きていてはいけないのか? 
「馬鹿馬鹿しい」
 重い躰を起こし、軽く頭を振る。しばらくそのままの体勢でじっとしていたが、ふと家の外に人の気配を感じて顔を上げた。
「……?」
 誰か来たのかと思った。しかし待っていても扉が開かれる様子がなく、首を小さく傾げた。気のせいだったのだろうか? しかし……気配はなかなか消えない。
 仕方がなくて、ルカはベットから降りて立つと、雨できしみがひどくなった床を数歩歩き、自分で戸を引きあけた。
 雨は激しく降っている。風が少し流れるだけで冷たい滴が屋根の下にいる彼の頬にも飛んできて、服を濡らす。
「……何を、している……?」
 ずっとそこにいたのだろうか。入口の前に、濡れそぼったセレンが立っていた。
 セレンは返事をせず、俯いたままルカの足下ばかりを見ている。濡れた髪が顔に張り付き、服もびしょびしょで滴が垂れていた。
「とにかく、入れ」
 促すと彼は素直に従った。しかし一言も言葉を発しない。部屋の中央にまで進んだところで足を止め、動かなくなった。
 扉を閉めたルカは、仕方なく棚の中から乾いたタオルを探し出し、セレンに放り投げた。空中で広がったタオルはセレンの頭に着地し、水を吸い込んでしぼんでいく。
 明らかに様子が変だった。
 セレンがひとりで来ることは前にもあったが、こんな風にルカに気付かれるまで扉の前で待っていることなんてなかった。いつも元気いっぱいに扉を押し開けて、部屋の中に飛び込んでくる。たとえルカが着替え中でも、疲れて眠っていてもお構いなしに、だ。
「なにか……あったのか……」
 その言葉は自問に近く、殆ど声になっていなかった。
 タオルを与えられも自分で拭こうとしないセレンに痺れをきらし、何故俺が……と悪態つきながらもルカが拭いてやろうとセレンの前に立ったとき。
 ふいにセレンが顔を上げた。
「ルカ!」
 泣き顔だった。それもかなり切羽詰まった表情で、一瞬ルカは呑まれそうになって足を引き戻した。
「ボクは……もう嫌だ!」
 激しく頭を振って叫び、タオルが床に落ちた。
「もう……戦いたくない! ジョウイと、戦いたくなんてないのに!」
 雨の音が遠くなる。
「みんなが傷ついている。戦って、体も心もいっぱいに傷ついて……。でも戦わなくっちゃ平和にはならないって……そう思ってここまで来たけど、ボクはもう……耐えられないよ。みんなボクを信じてくれている。ボクが戦うことでみんながひとつになれるとか、そんなことを言われても、ボクはちっとも嬉しくなんかないよ。どうして……争わなくちゃいけないんだ、誰だって求めているものは同じなはずなのに……どうして争いあうことしか出来ないの……」
 しゃくり上げるセレンの声がルカの胸に沈んでいく。
「戦いたくない、楽になりたい。もう誰かが傷つけあう姿を見たくない……」
 そしてセレンは静かな声でこういった。「殺して」、と。
「セレン……」
「殺して、ボクを殺して! ボクがいなくなれば戦いは終わる。それで済むんだ! ボクはもう……疲れたよ」
 息が詰まった。
 一体セレンに何があったのか。ルカには想像がつかなくて、ただセレンの震える肩を支えることしかできなかった。
「殺して……ルカお兄ちゃん……」
 切ない哀願。だがその時、ルカの胸の奥底にある獣が、嗤った。
 口元が醜く歪む。冗談ではない、といって。
 これが代償か? 
「ふざけるな!」
 声は、大きかった。
 それまで掴んでいたセレンの肩をはじき飛ばし、呆然といった表情の彼を睨みつける。
「俺を生かしておいた貴様がそれを言うか! 甘えたことを……所詮貴様は、その程度でしかないクズだったというわけだ」
 穏やかだった瞳に炎がよみがえる。
 許せない、許さない。こんな屈辱は初めてだ。
「俺を生かし、それが報いだと言ったのは貴様だったのではなかったのか。生き残ることが罰だと、そういったのは貴様だろう!」
 そのセレンがルカに死を望むなど……悪ふざけもいいところだった。
『生きて下さい。生き続けて、ボクと……ジョウイが成そうとしていることを、あなたの目で見届けて下さい』
『……生きて下さい。生きて…………償って下さい……』
 別れ際、セレンは言った。セレンはルカに生きることを強要した。その彼が先に死を望む……それも自分で生かしておいた人間に求めるなんて、非常識だとは思わなかったのか。
「だって……ボクにはルカしかいなかったんだ! ボクを殺してもその重さに耐えられる人が……ボクを殺しても悲しまない人が…………ルカしか思いつかなかった」
 さらりととてもひどいことを口にする。
「その為に俺を生かしたとでも……?」
 がっ! とルカはセレンの頸部を掴んだ。ギリギリと締め上げればセレンの細い首にいくつもの血管が浮き上がってくる。息が苦しくてセレンは顔を歪めたが、ルカに逆らおうとはしなかった。
 それがますますルカの気に障った。
「馬鹿にするな!!」
 勢いをつけ、彼はセレンを壁にむけて放り投げた。セレンの身体は棚に激突し、中に詰まっていた物を頭からかぶって床に沈んだ。
「決めたぞ」
 肩で荒く息をして、ルカは壁際のセレンに宣言する。
「俺は貴様を殺してなどやらん」
 頭を振り、セレンが本やら着替えやらの中から顔を出した。
「俺を生かしていたことを後悔させてやる。せいぜい苦しむがいい。あがき、嘆け。貴様が傷つきゴミくずのようになって戦場で敗れ去る様を見届けてやる。それが俺から貴様に贈る、貴様への罰だ!」
「ルカ……」
 雨が止み始めていた。
 鼻をひとつ鳴らし、彼はそっぽを向いた。セレンが崩れた荷物の山から脱出し、あちこち痛む身体を気にしながら彼に歩み寄った。
「ごめんなさい」
 頭を深々と下げてこられ、ルカが面食らう。
「それから、ありがとう」
 にっこりと微笑みながら。
「ふざけているのか? 俺は貴様を……」
「うん。おかげで目が覚めた」
 ちょっと痛かったけど、と舌を出して言うセレン。少しも悪びれていない。
「ルカがいてくれて、良かった」
 そんなことまで真顔で言って来て、ルカはますますばつが悪そうに頭をかいた。
「くだらん」
 素っ気なく言った彼に微笑み、セレンは雨の様子を見ようと閉めてあった窓を押し開けた。つっかえ棒を置こうと身を乗り出して見上げた空に、思わず感嘆の声を上げる。
「ルカ! 虹が出てるよ!」
 現金なくらいに明るさを取り戻したセレンに、ルカは思わず表情をゆるめてしまったのだった。

罪人の生

 あの光に包まれて、空へ還ることが出来るなら………………
 蛍が舞っていた。
 淡い淡い光が、闇空を静かに昇っていく。まるで死者の魂が空へ還っていくようで、厳粛な儀式のようで、セレンは何故か胸が締め付けられる思いでこの光景を見つめていた。
 血生臭い光景が目の前に広がっている。大地に染み込む真っ赤な血は、彼の仲間が放った矢で命を落とした、敵だった人達の命のあかし。たった一人の、狂皇とさえ呼ばれた男を守るために、無駄とも思える使命によって死んだ男達。
「何故……」
 勝負はもう決していた。戦うことは無意味で、それは彼らだって分かっているはずなのに。それでも戦い、死んでいく。その意味が読みとれず、セレンは呆然とその場に立ちつくしていた。
 一時はこの都市同盟の大地を争乱の渦に放り込み、数多の罪無き人々を葬り去ってきた男が、彼の前にいる。
 奇襲をかけたものの、仲間であるはずの男によって裏切られ、逆に包囲網を敷かれ逃げ場を失った、哀れな悲しき狂皇。戦い、血に濡れることでしか自分の存在を確かめられない、不器用で寂しい人。
 これまで彼がやってきたことが、全く逆の形でこの場に再現された。狂皇ルカ・ブライトは追われる獣で、セレンは狩人だ。多くの悲しい出来事をこの世に呼び起こした男の、最期の瞬間がせまっていた。
 繰りだされる矢。最後まで君主たる彼をかばっていった兵士の屍の上で、天に向かい蛍が舞い上がる。
「おれは! おれが思うまま! おれが望むまま! 邪悪であったぞ!!」
 天を仰ぐように、口元をわずかに歪めて彼は嗤った。
 ──え……?
 その姿にセレンは目を見開き、声を無くした。
 とても大切なことを思い出した気がした。ずっと、長い間忘れていた何かを、思い出せそうな気がした。
 ……ボクは、この人を知ったいた…………?
 何故かそう思った。いや、違う。この人がボクを知っていたんだ。
「…………さらばだ、セス………………」
 くぐもった声が風に乗って、セレンの耳にだけ届いた。直後、ルカ・ブライトは前のめりに倒れ、地に伏し、動かなくなった。
 蛍が舞う。空へと昇っていく。魂が天へ還るときのように。
「…………ルカ……お兄ちゃん………………?」
 かすれた声がセレンの口からこぼれ落ちる。よろよろと前に運んだ足は、仲間達の制止を無視して、目を閉じたルカの許でがくりと崩れ落ちた。震える両手で血塗れの彼を上向かせると、セレンはそっと血で張り付いた彼の前髪を払った。
 あれから十年以上が経っている。セレンはまだ四歳で、あの後ジョウイとも友達になって、毎日がにぎやかで楽しくて、すぐにルカとの思いでも忘れてしまったけれど。いま、ようやく思い出した。セレンの手の中にいる人は、間違いなくあの時、セレンと一緒に蛍を見た、ルカお兄さん。
「なん……で…………?」
 戦わなくても良かったかもしれないのに。もしもっと早く思い出していたなら……!
 自分が汚れることにもかまわず、ぎゅっとルカを抱きしめたセレンは、ふっとあることに気がついてルカから顔を離した。確かめるように、力無く垂れているルカの右手首を軽く持ち上げる。
「セレン……」
 後ろからルックが心配そうに声をかけてきたが、セレンはすぐに気付かなかった。
 共に戦った仲間達は、不安げにセレンとルカを遠巻きに見守っていたが、しばらくして戦いは終わったという筆頭軍師の言葉に頷き、それぞれ歓びの声をかけあわせながら、湖畔の居城へと帰っていく。朝になれば、別の一団が今日の戦いで死んだ王国軍の兵士を葬ってやるためにやってくるだろう。
「セレン、戻るよ……?」
 いつまでもルカを抱いたまま動かない、ラストエデン軍の若きリーダーにルックは再び声をかけた。今度はぴくりと反応を返し、セレンがゆっくりと振り返った。
「ルック、…………お願いが、あるんだ…………」
 真っ直ぐに見つめられた若い魔法使いは、こういう目をしたときのリーダーは何かを企んでいるときだと知っていて、ちらりと後ろを盗み見ると諦めたようにため息をつく。盗み見られた方の筆頭軍師は、まるで聞こえてこない二人の内緒話に、形の良い眉をひそめたのだった。

 夢を見ていた気がした。
 夢なんて、もう何年も見ていなかったはずなのに。見たとしても、それは過去の悪夢でしかなく、目覚めたときには気分の悪さと共に、この世の全てを恨む程の憎悪が全身に満ちあふれてばかりだった。
 しかし今し方見た夢は、のどかで、心に安らぎを感じるような暖かい夢だった。
 ──蛍…………
 夏のひとときにしか現れない、綿雪のような光を放つ、小さな命。
 重い瞼を持ち上げて、左側の窓から差し込む太陽光に顔をしかめる。
 ここはいったい、何処だろう?
 真正面に見えるのは木組みの天井で、自分が寝かされているのも、藁を詰めたクッションを敷いた粗末なベットだ。窓は壁に穴が作られているだけで、雨よけの板が外側に向かってつっかえ棒で支えられている。流れ込む風は涼しく、緑の匂いの中に水の香りが混じっていた。
「う……っ」
 身を起こそうとすれば全身が大声で悲鳴を上げ、背を数センチ持ち上げただけで力つきてしまった。
 かろうじて動く範囲で顔を上げ、薄いシーツの下に見え隠れする自分の体を観察する。肌の色が見えないくらいに、全身は真白い包帯でぐるぐる巻きにされていた。左腕には添え木がされているし、頭部も、感覚で包帯に包まれていることが分かった。
 外から鳥の声がする。しかし人の気配はない。
 自分は確か、ラストエデン軍への奇襲に失敗し、追いつめられ、セレンとかいう小僧との一騎打ちにも敗れたはずだ。あの時に自分は死んだのではなかったのか?
 だがこの光景は、地獄だとしたらあまりにも滑稽だ。
「なにが、どうなっている…………」
 さっぱり分からなくて、ルカは動く右腕で髪を掻き上げた。そんな些細な動きにさえ、体はぎしぎしと軋んでくる。どれほど意識が無かったのか、太くたくましかった腕はわずかだが細くなってしまっていた。
 途端、空腹感が襲ってきた。腹はさすがに鳴らなかったが、言いようのない飢餓感にルカは自分がいたたまれなくなってしまう。死に面したはずなのに、それでも体は栄養を欲するのかと。
 いつ死んでもいいはずだった。死ぬことが怖いことだと思ったこともない。人はいずれ死ぬのだし、ならば少しでも自分の理想を現実にしてから死のうと決めていた。その為には何だってするつもりでいた。そこに後悔の思いはない。
「俺は、生きているのか…………?」
 空気の匂いを感じ、光をまぶしいと思う。体の節々を襲う痛みは本物で、吐き出す息はわずかに熱を含んでいる。少しずつ現実が見えるようになってきて、ルカはもう一度上半身を起こそうと右腕に力を込めた。左腕は添え木をされているために肘が曲がらない。片腕と腰に残っているだけの力を使い果たし、長い時間をかけて彼はようやく、ベットの上に身を起こすことに成功した。
「いッ……」
 腹部がぎすぎす痛む。背中も、受けた傷が今になって存在を誇示し始め、せっかく起きあがったというのにすぐにまた後ろ向きに倒れてしまいたくなるのを、彼は必死の思いでこらえた。今頃になって、自分があの戦いの中でいかに満身創痍であったかを思い出した。
 本来は死んでいたはずだ。数度の襲撃にあい、しつこいくらいに追いつめられて、あの大きな木の前でセレンと戦った。放たれた矢の多くは、連れていた部下達が身を挺して引き受けてくれたが、それも全部とはいかなかった。
 あの時蛍をつぶしていたら、こんな事にはならなかったかもしれない。奴らは蛍の光を目印に、自分を狙ったのだから。
「………………」
 何故出来なかったのか。思いだし、ルカは苦笑した。まさかと自分を疑いたくなるが、あの時彼は、蛍の中に懐かしい少年の姿を見ていたのだ。
 少年、というにはまだ幾分幼すぎるかもしれない。元気にあふれているようで、実はかなりの寂しがりや。別れるときにした約束は、ルカがそれ以後キャロの町に行くことがなくなったために果たすことが出来ず、長い年月の間に自分も、そしてあの子供も忘れてしまっていた。
 少年は気付いていただろうか。……考え、ルカは首を振った。そんなはずがないと。自分でさえ思い出したのは直前で、だから、戦いをやめることは不可能だった。
 風がながれ、外の木々が静かにそよぎ揺れる。緑の気配がいっそう濃くなったと思った瞬間、突然人の話し声が聞こえてきた。
「……僕は知らないからね」
「分かってる。様子、見るだけだから……」
 ひそひそ喋っているようだが、神経をとぎすましたルカにはちゃんと聞こえていた。青年と呼ぶにはまだ幼さの残る、少年の声だった。
 しばらく待っていると、ベッドの置かれている壁側とは反対の壁にある、外へ出るための唯一の扉がきしみを伴って内側に開かれた。
「………………!?」
 中に入ろうとした少年の足が止まる。大きく見開かれた目は真っ正面にルカを捉えているが、動揺しているのはすぐに分かった。黒曜石の瞳はあの時のままで、十年以上の年月を忘れさせるには十分すぎた。
「……どうし……ああ、なんだ」
 入口で硬直している少年を不審に思い、もう一人の少年が脇から中をのぞき込んだ。しかしこちらの反応は至ってシンプルで、ルカが意識を取り戻していることに驚くどころか、そこにルカがいないような態度だった。そしていつまでもじっとしている少年──セレンを、中にはいるよう促す。
 セレンの手には、籐で編まれた籠がぶら下がっている。もう一人の少年、ルックに背中を押され、前方に蹴躓いて倒れそうになると、慌てて大事そうに籠を抱きしめた。そのまま弾みでルカのいるベッドの前まで進む。
 どこかの狩人の使う山小屋らしきこの建物は、雨風をしのぐ程度には申し分ないが、三人も押し込められるとさすがに少し狭い気がした。
「セス、包帯の替え、ここに置いておくよ」
 同じ様な手籠を扉のすぐ側に置き、ルックは小屋を出ていこうとする。びっくりして止めようかとしたセレンだったが、睨むような目で見返され、出しかけた声を引っ込めた。
 ルックは怒っているのだろう。後でちゃんと謝っておこうと心に決め、彼が去った扉をしばらく見つめていたセレンだったが、
「おい」
 こちらも凄むような声で呼ばれ、びくっとなってセレンはベット側に向き直った。
 すぐ近くにルカがいる。包帯で全身は真っ白だが、目つきはあの夜、蛍舞う木の下で戦ったときと変わっていない。一見痛々しい姿であるのに、そう感じさせない気迫にセレンは息を呑む。
「貴様……どういうつもりだ?」
「どう……って…………?」
 ただ長く意識を回復せず、栄養もろくにとれていなかったせいで、全体的にやせてしまったのは仕方がない。片腕は折れているから動かせないようにしてあるし、体中傷だらけでよく生きていたと感心するぐらいだったがどれもまだ完治には至っていないはず。強がっていても今の彼はセレンに襲いかかる事なんて出来ない。ルカにはそれが屈辱だった。
「何故俺を生かしている。貴様らの目的は、俺を殺すことにあったのだろう!?」
 大声で叫べば、肺が上手く息を吐き出しきれなくてせき込む。そのたびに全身が悲鳴を上げるのだが、それを表情に出すのは彼のプライドが許さなかった。
「ボクは……」
 戦いを本当は望んでなどいなかった、そう言ってもルカは納得しないだろう。自分たちは確かに戦って、セレンが勝ってルカは負けたのだ。その現実を変えることは出来ない。セレンがどうしてルカを生かす気になったのか。その理由はルックにも問われていて、セレンは正直にあの夜の思い出を告げたのだが。本当にこのルカがあの時のルカかどうかなんて、セレンには確かめようがなかったのだ。そして今、本人に確認して否定されるのは怖かった。
「ボクは……あの時、キャロに帰れると思っていました」
 天山の峠、ユニコーン隊のキャンプ地。本当ならば夜が明けて朝が来れば、懐かしい我が家に帰れると信じていた。平和になるのだと思っていた。
「戦いが……終わったのだと、ボクは正直に喜びました。おじいちゃんが死んで、ボクの家族はナナミだけになってしまって、ジョウイと三人で、静かに暮らして行けたら、それで良かったんです」
 淡々と語るセレンの瞳は、悲しみの色に染まっている。無邪気だった少年の面影を見たのは気のせいだったのだろうかと、ルカは唇を噛んだ。
 誰がこの少年をこんな目にしたのかと問えば、返ってくる答えは決まっている。
「明日になれば帰れるのだと……誰も、疑問に思っていませんでした。どうして休戦協定が結ばれたのか、考えたこともありませんでした。ただ、純粋に、戦いが終わり事はいいことで、みんな喜んでいるとばかり思って…………だから、初めは、信じられなかった」
 敵襲だと叫ぶ声にたたき起こされて、慌てて飛び出したテントの外で繰り広げられる光景は、一瞬まだ自分は夢の中にいるのだと錯覚させた。だけれど、燃える木々やテントのくすぶる臭いや、襲い来る兵士達から逃げまどう友達の叫び声や、流れ出す血のむせ返るような熱さが、これが現実に起きている事だとセレンに教えた。
「ボクは逃げた。死ぬのは嫌だったから。やっと帰れると思ったんだ。ジョウイと一緒に、ナナミの待つ家に帰れるって」
 ラウド隊長に言われ、東に伸びる道を走った。途中でジョウイが、待ち伏せの危険性に気付いて引き戻そうと言ったのに素直に頷いたのも、全部、生きて帰ることを優先させたからだった。
「でも…………」
 セレンの言葉が詰まる。
「…………戦いが終わらないのは、憎しみがこの世界に残っているから…………」
 ふと呟いた言葉に、セレンは皮肉気に口元を歪めさせた。
 ──ボクはまだ、ルカを許していないのかな……?
「あなたは、ぼくからたくさんのものを奪った」
 心休まる場所、平和だった世界、大切だった友達、守れなかった笑顔。
「誰かを傷つけるために、ボクは強くなったわけじゃない。ナナミやジョウイや、ボクを大切に思ってくれる人達を守りたいから、ボクは強くなったのに……! どうして、放っておいてくれなかったんですか!」
『……誰かをやっつけるために強くなるのは、……ぼくは、やだな』
 幼かった少年が言った言葉がよみがえる。あの時自分は何と言った? 
「ボクは……あなたを許さない。許せない。ボクから多くのものを奪っていった、あなたを許すことが出来ない」
 ルカは気付かない。セレンが自分で言っている言葉で、自身を傷つけていることに。
「ならば、さっさと殺せばいいだろう。わざわざ俺を生かしておいて、貴様に一体、何の特があるというのだ?」
 まさかこんな事を言い聞かせるためだけに生かしておいた訳ではあるまい。そう言って悪態をつくルカに、セレンはふっと、表情を和らげた。
「?」
 何を思い出しているのか、彼の目はすぐ前にいるルカではない別の場所を見ている。ここではない、ずっと遠くにいる誰か。思い当たる節があって、ルカはそっと瞳を伏せた。
 セレンと、ルカが拾い上げた鬼才の持ち主であるジョウイが幼なじみであることは、ルカでなくとも皆知っていることだった。思えば奴は、色々と策を編みだす所はかなり使えたが、ジルを望んだ当たりからは油断できない奴へと変わっていた。奇襲失敗の一因も、もしかしたら奴にあるのかもしれない。
 ルカが死ねば、王位はジルに移る。だがジルではハイランドを治めることが出来ない。自然に王位はジョウイの許に転がり込む。奴の狙いは、そこだったのだろう。
「ボクは、あなたを……殺しません」
 自嘲気味に過去を思い起こしていたルカは、セレンの言葉で現実に引き戻された。
「なぜだ?」
 そればかりが口について出る。行動の全てが分かりやすいジョウイに比べ、感覚的に幼いセレンのやることを、ルカはどうも読み切れなかった。
「あなたがいなければ……ボクは今頃、静かに暮らせていた。ナナミが悲しむことは無かった。ジョウイが苦しむことも無かった。たくさんの人が傷ついて、殺されて、家を無くして家族を失って……。こんなに泣くことなんてなかったはずなのに!」
 どうして、こうなってしまったのだろうか。平和になるはずだったのに。
「……俺は後悔も謝罪もする気はない。俺は俺が思うままに生きた。なにも知らずにぬくぬくと肥え太る人間どもが何をしてきたか。この俺に何をしたのか。忘れることは許さない。俺は、この世の全てが憎い」
「だから……巻き込んだ? 勝手すぎるよ、そんなの!」 
「貴様らに生きる価値は無い。それを教えてやったに過ぎん!」
「じゃあどうして、殺さなかったのさ!」
 両手を広げ、セレンは怒鳴った。うっすらと目尻には涙が浮かんでいる。唇をきつくかみしめ、黒曜石の瞳を揺らしながら。
「どうして、蛍を殺してしまわなかったの!? ちっぽけな命じゃないか。人間の命は、ちっぽけな蛍よりも意味がないものなの!?」
 今度はルカが言葉に詰まる番だった。
「ねえ、答えて。どうして?」
 ベットの上に手をつき、下からのぞき込むようにルカを見上げてくるセレン。彼はそっと、ルカの左手を握った。
「……!」
 強烈な痛みがルカを襲い、息が詰まってルカは前屈みに左腕を抱き寄せた。
「痛いでしょ? 痛いんだよ、みんな。斬られて、奪われて、とっても痛いんだよ!」
 過去にルカに何があったか、セレンは知らない。知らないからこそ言えることだってある。ルカの抱く憎しみに同情してやれるほど、セレンは大人ではなかった。
「その痛みを、忘れないで下さい。ボクはあなたを許さない。あなたが死ぬことも許さない!」
 死ぬことは逃げることだ。この世の苦しみの一切から解き放たれ、初めて魂が自由になる。それが死ぬことだとセレンは思っていた。だから、死ぬことは全ての責任から逃げ出すことなのだと、無責任なことなんだと、考えた。
 死んでしまったら、全部がそこで終わる。ルカの悪行も、いつかは忘れ去られる。
 傷ついた大地を耕すのも、血を流した体を慰めるのも、全て遺されたもの達の仕事になる。痛めつけるだけ痛めつけ、勝手に死ぬのは許し難い。自分のしたことには最後まで責任を持って欲しい。
 ルカは表向きは死んだことになっていて、戦いは終わったのだと皆信じている。これから先、どうなるかまだ分からないけれど、少しでも長くこの平和なときが続けばいいと、セレンも思っている。自分はラストエデン軍のリーダーとして。ジョウイは、ハイランド国の若き将校として。広い世界をどう変えていくか、それを見届けることこそ、ルカの責任だと、思う。
「あなたには生きてもらいます。勝手に死ぬことはこのぼくが認めない」
 分かたれたひとつの紋章。その意味が未だつかめないままだが、このまま終わるはずがないことは、セレンも何となく感じていた。
 荒れ狂う歴史の中で、自分の成すべき事を見定めるのは難しい。だが、望まれる限りは自分がここにいる意味がある。その結果がどんな悲しみを産むのかは、尋ねても答えは返ってこないけれど、漠然と知っている。
 ひとつがふたつに別れていることは、自然な事ではない。同じ27の真の紋章を持つ人はそう言っていた。
 おそらく、戦いはまだ終わっていない…………。
「生きて下さい。生き続けて、ボクと……ジョウイが成そうとしていることを、あなたの目で見届けて下さい」
 勝手なことを、と呟いたルカを、セレンはいっそう寂しげな表情で見つめた。
「これは……罰です。ボクがあなたに科す…………罰です」
 生きること。それはとても難しいこと。
「これ、食べるもの……少ないですけれど、今日はこれで我慢して下さい。明日になったら、また何か持ってきます。そっちにあるのは薬と包帯で……飲み水は壁際の瓶に入れてあります。足りなくなったら、少し行ったところに小さな泉がありますから」
 セレンはベット脇の簡素なテーブルに籠を置き、中身の説明を始めだした。包帯を新しいものに替えたがったが、ルカが触られることを拒否したため、薬の使い方を簡単に説明して、おとなしく引き下がった。
 ずっと外で待っていたのだろうか。話が一段落着いた頃、ルックが戸を開けて中の様子をうかがってきた。
「そろそろ戻らないと、後でうるさくなるよ」
 ここでルカが生きていることを知る者は、この場にいる人間しか知らないことで、出かけるときも誰にも目的地を言っていない。いくら戦争が小康状態に陥り、新たな展開も当分見えない一時の平和が訪れているとはいえ、終戦宣言もまだの状態。ラストエデン軍のリーダーが、たとえ半日とはいえ行方不明なのは問題がある。とくに筆頭軍師のシュウは、最近は落ち着いてきているものの、あの口うるささはルックでもうんざりする。
「分かった。……明日、また来ます」
 ルックに返事し、振り返ったセレンはまだベットの上で警戒心丸出しのルカにそう言った。本当は他に話したいことが沢山あったはずなのに、いつの間にか自分が、一人の少年でなくなってしまっていることに気がついただけで終わってしまった。
 でも、まだ時間はあると思い直す。これからまた変わっていけばいい。いつかルカを許せる日が来るかもしれない。そう祈ることにした。
「…………セレン………………」
 扉口前に来たところで、かすれたような声でルカが名前を呼んだ。
 立ち止まる。ドアに触れた手は微かに震えていて、セレンは反対側の手で強く手を握りしめた。
「……生きて下さい。生きて…………償って下さい……」
 扉を開け、外に向かって駆け出す。涙がこみ上げてきて、嗚咽が漏れてセレンは近くの木の根本にうずくまった。
「……助けて……助けてよ、おじいちゃん…………」
 何処に行くこともできない少年の悲痛な声は、風に乗り、静かに消えていった。

Bird

 瞼を閉ざす前に見た光景は、澄み渡る、それこそ嫌気がさしそうなくらいに眩しい青空と、それを遮る優しい木立の陰。
 再び瞼を開いた時に目の前にあったのは、陽射しを遮る木立の陰に同化したように、けれど異質さを兼ね備えている黒髪の、小さな、女の子。
 黒い髪の毛、黒い服。あとは……そう。はだし。
 陽射しはまだ暖かい、太陽は位置を確認すると夕暮れにあと約二時間、という場所で輝いていた。
 相変わらず、嫌になりそうなくらいに空は白く眩しい。
 青空だけれど、白い空。
「――――――」
 つと、彼女はなにかを呟いた。微かに開かれた薄い唇が乾いた音をひとこと、ふたこと零して塞がれる。
「……ぅん」
 なにを、しているの?
 彼女はそう告げたらしい。
 風がそよぐ、木立を揺らす。木漏れ日が一緒になってリズムを刻んでスイングを繰り返し、微妙なグラデーションが彼女の真っ黒なワンピースに踊る。
 見つめてくる瞳も、黒。
 あぁ、どこまでも黒づくしの子だな、と。
 最初の感想はそれ。問われた内容や、何故此処にいるのか、という疑問は浮かんでこなかった。
 そういうことは、多分どうでも良いことだろうから。
 寒くない?
 試しに尋ねてみる。憂鬱そうな指先が、青草の大地を踏みしめている一際目立つ白い彼女の足を指さす。
 彼女は、その問いかけの意味を計りかねたのか、小首を傾げた。
 ワンピースの胸元に飾られた、大きな白い花が一緒になって首を傾げている。
 なんでもないよ、とだけ答えておくことにした。多分、これも意味のないことなのだろう。
 どうでもいい、きっと。
「昼寝」
 短く、ただそれだけを改めて言い直した。
 彼女は少しだけ納得がいったように、けれどまだどこか不思議そうな顔をして瞳を向けた。
 漆黒の瞳が鏡になって、彼を映し出している。黒いけれどどこまでも澄んで、真っ白な、双眸が覗き込んでくる。
「おひるね?」
 ガラスのような声が響く。それは風の囁き声のようで、透明なクリスタルの風鈴を鳴らしたときのような、そんな音が小さく遠く、響いていく。
 そう、と頷いてまた目を閉じる。
 そうすれば視覚は闇に閉ざされるけれど、その代わりに他の感覚が解き放たれて広がっていく。
 風、草、大地の香り。遠くの教会が祈りの時間を告げる鐘の音を響かせている、遙か上空では雲を押し流す風が強く東に向かって吹いている。彼を包み込む世界はどこまでも優しく、暖かく、柔らかい。
「おひるね……」
 透明な声が聞こえて、もう一度目を開く。
 少女はまだ其処に居た。
「きみ、は」
 なにをしているの?
 それは最初に問うべき言葉だったのかもしれない。けれど今になるまでまったく思いつきもしなかった質問を、ようやく口に出して尋ねれば、少女は少し困ったような顔をした。
 空を、見上げる。
 雪のように白い肌が、空の白に混ざって溶けて行ってしまいそうな気がした。
 そんなはずがない、ただの人が、そんな器用なことを出来るはずがないのに。
 彼女は何故か、それが出来てしまいそうな気がした。
「――――――」
 とり、と。
 それだけを彼女は呟いた。
 呟きは風に溶けて流れていく。凪ぐことを知らない悪戯好きの風達がざわめかせた木立が揺らめく、地上に落ちる白い点となった光の粒が彼女を照らす。
 白、緑、青、黒。
 色が、ざわめく。
「とり」
 もう一度、自分に言い聞かせているかのように彼女は繰り返し呟く。視線はいつしか下を向き、何も履いていない己の素足を凝視していた。だがやがてそれも、閉ざされる。

 ……捜しているの……
 ……なくしたの?……
 ……うぅん……
 ……欲しいの?……
 ……うぅん……
 ……じゃあ、どうして……
 ……いない、から……
 

 そこでようやく、彼は彼女の後ろに隠れるように、彼女が後ろ手に持っている大きな鳥籠に気づく。
 本当に、何故今まで気づかなかったのかと自分自身を疑いたくなるほどに、鳥籠は大きかった。
 そして、白い鳥籠の中に、本来そこに居るべきものが存在していない事にも。
 今になって気づく。
「逃げたの?」
 凭れ掛かった木の幹から少しだけ身体をずらし、鳥籠を伺いながら問いかける。けれど彼女は、ちがう、と首を横に振った。
 捜している、鳥。
 欲しくはない、けれど居ないから捜している。
 その鳥は、最初から鳥籠には居なかった。
 絡み合わない言葉、つながらない意味。
 ではいったい何故、彼女は欲しくもない鳥を捜しているのか。
 捕らえて鳥籠におさめておくための鳥が先? それとも、鳥をおさめておくための鳥籠が、先?
 とり、と。
 彼女はもう一度呟く。
 風が吹いた、鳥の声は今も聞こえない。
「鳥、ねぇ……」
 些か困ったと、彼は頬を掻いた。
 もとより、鳥は苦手だった。鳥の中でも特に、公園や神社の境内に屯している鳥が苦手だった。近付いてろくな事になった覚えがない。だから自分からは絶対に近付かないようにしている。
 背中を預けているこの樹だって、枝に鳥の巣が無いから選んだだけだ。
 だと、いうのに。
 巣の架からない樹へ、鳥を探しに来た少女。
 いるはずのないものを捜している、少女。
 真っ黒で包み込まれているくせに、どこまでも白くて透明な、少女。
 とり、知らない?
 問われても首を振ることくらいしかしてやれないし、出来なかった。
 本当に、鳥など知らない。見ていない、声は聞いたかも知れないがそれだって夢うつつの時の事で、幻だったのかもしれない。それに、例えそれが本物の鳥だったとしても、彼女が捜している鳥とは違うかもしれないのだから。
 安易な肯定は傷を産むだけ。
 否定されたことに驚きも落胆もせず、彼女は変わらない表情のまま、そう、とだけ返した。
 そしてまた、空を見上げる。
 澄み渡る、青。その中を泳ぐ雲は白。流れて行く風は透き通り、ざわめく木々と地面を覆い尽くすのは青と緑のコントラスト。地平線はなだらかで、広い。
 この中をどうやって、彼女は知りもしない鳥を捜そうというのだろう。
「とり、ねぇ……」
 ぽつりと呟く。移ったのか、言葉使いは稚拙で舌っ足らずになっていた。
 片膝を寄せ、その上に肘をつく。顎を置いたてのひらは草の匂いがした。もう片手を目線の高さに持ち上げて、手首の内側にあった包帯の切れ目に指を沿わせた。
 軽く、弾き飛ばす。
 それだけで支えを失った包帯が撓み、吹き続ける風に靡いて宙を流れた。
 目を細め、風に踊らされている包帯を見つめる。
 とり。
 呟く。瞼の裏に残る、曖昧な形に白い色を乗せて、笑う。
 包帯が踊った、空を風に逆らって遊ぶ。
 視線を落とした少女が驚いたのか、初めて表情を変えた。
 黒い瞳の中に輝く、真珠が微笑む。
 ことり。
 囁いた言葉を合図に、管を巻く包帯の鳥は崩れ落ちてまた風に遊ばれる。形の残らない、一瞬だけの悪戯なとり。
 もう、どこにもいない。
 けれど、確かにここにいた。
 とり、が。
「おひるね」
 つと、彼女が告げる。
 真っ黒な瞳が見つめている。
 デジャ・ヴのような感覚が湧き起こる。
「もういいの?」
 あぁ、うん。
 そういえば昼寝の最中だったんだっけ、と。言われて思い出した自分の先程までの行動に、顔が笑った。
 片方だけしか露出していない瞳が、細くなる。
 日の光の下でも赤い、どこまでも赤い血の色が笑う。
 おひるね、だよ。
 瞼を下ろした。視界が閉ざされる、光を残した闇が広がる。
 眩しい、眩しい、暗い。
 風が吹く、吹き抜ける。
 暖かな陽射し、心地よい柔らかさの大地、眠気を誘う草の香り。
 すべてに、満たされて。
 落ちていく。
 おひるね。
 ガラス玉が、転がっていく。
 おやすみ、とだけ。
 最後に呟いた。
 おやすみなさい、と。
 言葉は、間近でカラン、カラリ、と響いて。
 穏やかに、風が凪ぐ。
 鳥の声が遠く、聞こえた気がした。

蛍火

 綿雪のように降る光。あの中で君は何を願い、祈るのか………………

 昼時を過ぎたキャロの町を、一台の馬車がゆっくりと走っていた。
 控えめながらも荘厳な飾りをあちこちにちりばめ、窓にはカーテンが掛けられているため中にいる人物は見えないが、それ相応の位の高い人物が乗っているのだと、容易に想像が出来た。車を牽く馬は二頭とも、数の少ないと言われる純白の毛並みをしており、御者の姿も、どこか威圧感があった。
 キャロの町は、かつては都市同盟と所有権を争った血なまぐさい過去がある町だが、山に囲まれ、夏でも涼しいことから、皇都に住む貴族達や王族でさえも、こぞってこの町に別荘を建てていた。その為、こんな山間の町だというのに人口も多く、十分すぎるほどに栄えていた。
 町の大通りは馬車でもすれ違うことが出来るようにと幅を広く取っており、石も敷かれてならされている。峠越えの時のような揺れに悩まされなくなり、馬車の中の人物は長旅で疲れた体をそっと動かした。気まぐれに窓おおいを上げてみる。長く訪れることの無かった町並みは、しかし以前とそう変わった様子もなく、彼の心をささやかに安らげてくれた。
「ん……?」
 手に持った布を下ろし、再び羊の毛を詰め込んだクッションに身を沈めようかと思っていた時。彼の目に一人の少年の姿が映った。
 ちょうど馬車は四つ角にさしかかっており、少年は交差する道の手前にいた。必死に何かを追いかけているようで、視線は宙をさまよっている。ふらふらと頼りない足取りは、まったくこの馬車の存在に気付いていない。このままでは……。
「!?」
 ガクン、と強い前後の揺れが馬車内を襲い、窓に寄りかかっていた彼は案の定、前方につんのめり膝をついた。馬の騒ぐ声がやかましく響き、予想が現実になったことを如実に彼に教えた。
「貴様!」
 御者の怒号が聞こえ、彼は普段はしない扉の開け閉めを自分でやらざるを得なくなってしまった。この馬車には彼と、外にいる御者の二人しかいないのだ。
 昼の日差しはまぶしく、外に出た彼は片手で額に手をやり逆行を遮った。数歩歩けば馬車の前方に出る。御者はまだ落ち着かないでいる馬をなだめもせず、路上に転がった少年に頭ごなしに暴言を吐いていた。
「この馬車に乗っておられる方がどなたか知っての狼藉か!?」
 御者の言葉を聞き、彼は嘆息した。この町への訪問は正式なものではない。いわゆるお忍びというもので、彼は静かに頭を振ると、鼻息荒いままの白馬の頭をそっとなでた。
「いい加減にしろ。人目がある」
 このまま御者を放っておけば、自分の身分まで暴露されかねない。それは望まざる事であり、今はこんなところで目立つわけにはいかなかった。
 御者はようやくその声を聞いて彼の存在に気付いたようで、振り返った御者の顔は焦りに染まっていた。
「でん……」
 言いかけ、彼に睨まれて慌てて口を押さえる。目で馬を落ち着かせるように命じられ、はじかれたように二頭の馬のもとに駆けていく。本人にしてみれば、彼の機嫌を損ねさせないために必死だったのだろうが、それが裏目に出てしまった形だ。
 まだいくらか若い御者の背中を見送って、彼は膝を折ってまだうずくまったままの少年を見た。
「怪我……か」
 左足を押さえている。手をどかせると膝が赤く染まっていた。他にも腕にもいくつか傷があった。
「ルカ様」
 御者が戻ってきて彼に声を掛ける。振り返った彼は出発できる事を確認してから、うずくまっている少年を両手で抱え上げた。
「ルカ様、何を……」
 少年も御者も、これには驚いたようだ。
「屋敷に連れていく。貴様の不注意から市民に怪我を負わせたのだ。貴様の不手際は雇い主である私の過失になる。もしここでこいつを放っていったことが知られては、我が王家の名に傷も付こう」
「は、はい…………」
 遠回しに「お前はクビだ」と言われたも同じで、御者はがっくりと肩を落とし、ルカのために馬車の扉を開けた。
 二人を乗せた馬車はすぐに発車し、先ほどよりかいくらか速いスピードで通りを抜け、やがて角を曲がりキャロの町でも最も大きく、豪奢で知られる屋敷へと入っていった。

 待ちかまえていた侍女の一人に少年を預け、ルカは自室に向かった。長旅ではなかったが、山越えもあり、体は疲れていた。
 クローゼットを開くと、かつてここを訪れたときに身につけた衣服はなく、今の自分のサイズに合わせて作られた服が何着も並べられていた。いずれも華美でなく、だが質は最高級の物が使われている。白を基調とした服に着替えると、そのなめらかなさわり心地が気持ちよかった。
 長く使っていなかった部屋は、きれいに片づけられている。彼の訪問は知らされていたから、先に窓は開け放たれていて、風通りも良く、まだ太陽は高い位置にあったが充分涼しかった。窓から覗く景色は緑に包まれ、ここがあの煩わしいばかりの皇都とは違うことを青年に教えてくれる。
 しばらく、時間が過ぎるのも忘れて窓辺から外を眺めていると、遠慮がちに部屋がノックされた。
「入れ」
 視線を動かしてドアの方を見ていると、おずおずと扉が内側に開き、初めて見る顔の侍女が姿を見せた。まだ幼さが残り、年頃の少女といったところの彼女は扉を開けきると、自分の後ろに隠れるように立っていた少年を促した。
「何か御用は……」
「ない。下がっていろ」
 彼女は命じられて少年をこの部屋に連れてきただけだったが、滅多に合うことのないルカをもっと近くで見ていたかったのだろう。なかなか去ろうとせず、仕事がないか尋ねてきたのを、彼は素っ気なく一蹴した。少女は物惜しそうに頭を下げると、連れてきた少年を置いて部屋を出ていった。
「傷は痛むか?」
 少年をここに連れてきたのは、ほんの気まぐれだった。御者にも言ったとおり、世間体の問題もあったが、あの時少年が何を追いかけていたのかに興味があったのだ。
「…………」
 しかし少年はルカの問いかけには答えず、物珍しそうに室内を見回している。恐らく5,6歳。着ている物はどこか粗末で、こういう所には慣れていないのだろう。落ち着きのない態度に、ルカは少しだけ、形の良い眉をひそめた。
「おい」
 声が自然ときつくなり、少年はびっくっ、と肩をふるわせた。話しかけられていたことにようやく気付いたらしい。小さな体を更に小さくして、ルカを見る。
 茶色がかった黒い髪、同じ色の瞳。額に金環をはめているのが特徴的だった。柔らかそうな頬はぷっくりとしていて、大きな目は今は怯えを含んでいた。
「あ、あの……ごまんなさい。ぼく……その、知らなくて…………」
 泣き出しそうな目をして言われ、そんなつもりはないのに、ルカはいじめている気分になった。
「ぼく、蝶々を追いかけてて……とっても大きくて、きれいだったから。でも、捕まえられなくて……それで…………」
 ズボンの裾を握りしめ、少年はついに大粒の涙をぼろぼろとこぼし始めた。
 なるほど、蝶か。そういえば馬車の周りをふよふよと飛んでいた気もする。と、さっきのことを思い出しながらルカは少年に近づき、彼の小さい頭をポン、と叩いた。
「気にしていない。それよりも傷は痛むのか?」
 半ズボンの少年の左足には、真新しい包帯が巻かれている。右腕にも巻かれていて、他にも数カ所、手当をした跡が見受けられた。だが、その大半が治りかけの……今ついたものではなかった。
「…………?」
 急に黙り込んでしまったルカの見ている物が何か分かったらしい。少年は照れたように頬を赤く染めて、
「ぼく、もらわれっ子で……弱いから」
「いじめられているのか?」
「……でも、お姉ちゃんがいつもやっつけてくれるの。ぼくも……強くなりたいけど……でも…………」
 かさぶたの出来た傷をなぞり、少年はうつむいた。ルカは黙って彼がその先を言うのを待っていると、少年は悲しそうな顔をして、
「……誰かをやっつけるために強くなるのは、……ぼくは、やだな」
 その声はささやきだったが、ルカの耳には届いていた。
「だが弱ければ、自分すら守れないぞ」
 反射的に答えていて、ルカは言ってからはっとなった。少年が驚いたように顔を上げて彼を見ている。しかし、少年はルカの言葉をそのままの意味に取ったのか、
「うん。だからぼくは、お姉ちゃんを守れるぐらいに強くなりたいんだ」
 幼子にはルカの境遇は分からない。あの程度の言葉で、ルカの心の底を見定めろというのは、余りに酷なことだろう。
「名は、なんという?」
「セレンだよ」
 すっかりルカに心を許したらしい。そしてまず間違いなく、彼はルカがこの国の皇太子であることに気付いていない。
「お兄さんは?」
 無邪気に聞いてくるセレンの表情は、近所の年上のお兄さんと喋っているそれと同じだった。
「俺は、ルカだ」
 正直に答えても、セレンはルカの正体に気付く気配はない。町の子供にいじめられているような子だ。皇族の顔や名前を知らなくても、何ら不思議はない。それにこの年で国王の名前ならまだしも、王子の名前まで知っている方がおかしいような気もする。
「ルカお兄さんは、きぞくさんなの?」
「どうしてそう思う?」
 正式には少し違うのだが、あえてルカは訂正しないことにした。
「だって、ぼく、こんなにきれいなおうちに入ったことないから。ぼくのうち、みんながおんぼろっていうの。……でもね、ぼく、ぼくの家すっごく好きだよ。だってね、おじいちゃんとお姉ちゃんがいるんだもん」
 両手を広げて、楽しそうにセレンは言った。
「ぼくね、おじいちゃん大好き。とっても優しいの。怒ると怖いけど、でもおじいちゃんがおこる時って、いつもぼくかお姉ちゃんが悪いことをしたときだけなの。それでね、おじいちゃんはぼくに拳法を教えてくれるんだよ。お姉ちゃんと一緒にね、ぼく、頑張ってるよ」
 感情が高ぶって、喋るときに足まで動きぴょんぴょん飛び跳ねる。コロコロ変わる表情に、ルカは新鮮さを覚えないわけがなかった。
 ルカにはちょうどセレンと同じくらいの妹がいるが、彼女はあまりルカになついていない。いや、ルカが彼女を避けていると行った方が、もしかしたら正しいのかもしれなかった。ジルは大事な存在に変わりない。しかし……。
「お兄さん?」
 物思いに耽ってしまっていたらしい。顔をのぞき込んできたセレンの顔が意外なほど近くにあって、ルカは驚いてしまった。
「すまん……どうした?」
 内心の焦りを隠し、ルカは尋ねた。セレンは窓の外、夕暮れに染まり始めた空を見上げていた。
「ぼく、そろそろ帰らなきゃ」
 遅くなるとおじいちゃんが心配する、と幼い声はつぶやく。セレンがここにいることは誰も知らないのだ。もしかしたら町中で見物していた野次馬が知らせに行っているかもしれないが、セレンの言っていたことを思うと、その可能性は低い気がする。
「そうか」
 息と共に吐き出した言葉に、何故か残念そうな気配があって、ルカをどきっとさせた。
「家まで送らせよう」
「ううん。一人で帰れるよ」
 馬車で送ってもらったら、それこそ祖父をびっくりさせてしまう。負けず嫌いの姉は今日のことを根ほり葉ほり聞きだして、自分もここに来ると言い出しかねない。ルカはかまわないと言ってくれたが、そこまで迷惑は掛けられないと幼心にセレンは知っていた。ここはセレンにはあまりにも不釣り合いだということを。
 だが、せっかく仲良くなれたのに、このまま別れてしまうのはセレンも嫌だった。
「……ルカお兄さん……」
 少し考え込んで、セレンは真っ直ぐにルカを見上げた。
「あのね、今夜、会える? ぼくの秘密の場所、教えてあげる。おじいちゃんにもお姉ちゃんにも教えてないんだけど、ルカお兄さんには特別、教えたげるから」
 ルカの袖を引っ張って尋ねてくる。
「特に予定はないが……」
 もとよりお忍びの休暇だ。予定などあってなきが如しもの。そう答えると、セレンはとたんに嬉しそうに顔をぱあっと明るく輝かせ、
「じゃあ、じゃあね! 今夜、町の外の林に来て!」
「林と言っても……この辺りは森で囲まれているだろう?」
「南の入口の所! そこで待ってるから。絶対に来てね。約束だからね!」
 小指を強引に絡め合わせ指切りをすると、セレンは駆けだした。扉口のところで背伸びをしてドアノブを回すと、自分が通れるだけ開けて、それから思い出したように振り返る。きれいな黒曜石の瞳をルカに向けて、
「絶対だよ!」
「あ、ああ」
 勢いに押されて頷いてしまった。
 セレンの消えた扉をしばらく見つめたあと、ルカは自分に呆れて息を吐き、髪を掻き上げた。

 夜。
 星明かりに照らされ、外は思ったよりも明るかった。屋敷の人間に見付かるとあれこれうるさく言われることは分かっていたので、ルカはなるべく目立たない色の服に着替え、息を潜めながら裏口から庭に出た。そのまま通用門を通り抜け、昼間セレンの言っていた南の門を目指して歩き出す。
 夕食を食べないのは不審がられるので、手短に済ませたものの、かなり遅い時間になってしまっていた。セレンは今夜、としか言っていなかったので、具体的な時間は分からない。もしかしたらもう来ているのかもしれない。そう思うと、自然と足が速くなる。
 夕闇の中、道の両脇は一家団欒の明るい炎で揺らめいている。もう外を出歩く人の姿はない。町中とはいえ、夜は危険なことに変わりないのだ。そしてセレンは町の外、林の入口で待っているという。
「ここ、か?」
 警備兵もいない、田舎の町の出口。町の灯りも届かないこの場所で、だが、
「ルカお兄さん!」
 セレンはすぐにルカが来たことが分かったらしい。門の辺りに姿を見せた彼に、小さな少年が飛びついてきた。
「よかった。あんまり遅いから心配しちゃった」
 ルカの胸元に顔を埋め、とても嬉しそうに笑う。一体いつから待っていたのだろう。握ったセレンの手は冷たかった。
「悪かったな。屋敷の連中に見付からないように出てくるのに時間がかかった」
 そっとセレンの両手を握ってやると、照れたようにセレンは舌を出しはにかむ。それからくるりと踵を返して方向転換、ルカの手を引くとおもむろに走り出した。
「何処ヘ!?」
 闇で足下さえ見えない林の中にはいることは、ルカにとっては恐怖以外の何物でもない。だがセレンは慣れた足取りで小走りに獣道を駆けていく。置いて行かれてはたまらんと、ルカも必死でセレンを追いかけるが、何度も足を木の根に取られて転びそうになった。
 やがて闇に目が慣れ始めた頃。突然、彼らの視界が開け、闇が消えた。
 セレンの足が止まり、ルカも数秒遅れで立ち止まる。そこは今まで走ってきた林の中とは、まるで別世界のようだった。
 視界が開けたのは、そこに生える木々がなかったから。闇が消えたと思ったのは、辺り一面を覆い尽くさんばかりの蛍だった。
 そこは森の獣たちが使う、小さな泉のようだった。しかし眠りの時間に入っているのか、森の住民の姿は見えず、代わりに淡い光を放つ蛍が、綿雪のように空を漂っている。
 ルカは蛍を見るのは勿論始めてではなかったが、これほどに大量に、しかもすばらしく美しいこのような光景は初めてで、思わず一歩前に出て目の前の幻想的な景色に見入ってしまった。
「……ここが、ぼくの秘密の場所」
 気に入ってくれた? と聞いてくるセレンに頷き返し、ルカは右手を前に伸ばした。一匹の蛍が彼の指先にとまり、光を明滅させる。真似をしてセレンも両手を伸ばしたが、蛍は彼の思うところにはとまってくれず、癖のない髪にとまった。
「気に入られたようだな」
 ルカが笑って言うと、セレンはすねたように唇をとがらせ、ぷいと横を向いてしまった。
「よく来るのか?」
「うん。危ないって知ってるけど、凄く好きなんだ。ここに来るの。蛍……きれいだね」
 泉の水面に浮かぶ月と、蛍達の一夜の淡い光。夢の中でまどろんでいる時のようで、ルカとセレンはしばらく、無言のまま蛍火を眺めていた。
 どれくらいの時間が経っただろう。先に口を開いたのは、セレンの方だった。
「……もう帰らなきゃ」
「叱られる、か?」
 なんなら一緒に言って事情を説明してやってもいいが、とルカが言うと、セレンは首を振る。
「おじいちゃんは知ってるの。ぼくが蛍、見に行ってること。この場所は知らないみたいだけど。ぼく……蛍の中で拾われたんだって」
 だからこんなに蛍が好きなのかな、とセレンは呟いた。
「この光を見てたら、安心するの。ぼくは一人じゃないんだって、思える。ぼくはここにいてもいいんだって」
 胸元に引き寄せた右手を抱きしめ、ひどく弱々しい声で彼は言う。
 セレンにしてみれば、蛍を眺めることは自分自身の存在を確認する事でもあったようだ。そんな風に思いながら、ルカは何故自分がここに来ることを許されたのかを考えてみた。自分は今日、たまたま偶然に知り合っただけの仲でしかない。それなのにセレンは、誰にも秘密だったこの場所を、ルカに教えてくれた。一体、セレンはルカに何を期待していたのか……?
「ありがとう。嬉しかった、来てくれて」
 にこりと微笑む彼の表情はどこか寂しげで、背伸びをしようとしている子供を思いだして、ルカは苦しくなる。
「なぜ、そんなことを言う?」
 疑問は自然に口からこぼれていた。
「分からない。でも嬉しかったの。ルカお兄ちゃんはぼくを見つけてくれたでしょ?」
 見つけたのはお前の方だっただろう、といいかけて、ルカはやめた。多分セレンが言いたいのはそんなことではないと気付いたから。
 もっと、もっと深いところでセレンはルカの何かを気付いていたのかもしれない。胸の奥に秘めた獣の感情以外の、ずっと忘れていた何かに。
「……帰るか?」
「うん…………」
 小さく頷き、セレンはルカの手を取った。軽く力を込めると、ぎゅっと握り返してくる。その力強さに、セレンはほっとする。
 帰り道はゆっくりだった。闇に慣れた目で道を探し出し、ルカの先導で林を抜ける。街道に出て北に上がり、キャロの町の門まで戻ってきたところで、セレンが何かに気付き、出した足を引っ込めた。
 何事かとルカも前方を見上げる。南門の前に、一人の老人が立っていた。
 いや、老人と言うには少し若いかもしれない。身にまとう雰囲気は隠居者のものに似ているが、ルカを見るその目つきは、未だ充分現役でつとまるものに違いなかった。ふと、皇都にいる、ハーン・カニンガムの姿が思い浮かんだ。
「おじいちゃん……」
 ぽつり、とセレンがこぼす。
 ルカの背中に隠れるように立つ彼と、門の前に立つ老人とを見比べる。どうすべきかとルカが悩んでいると、
「セスが迷惑をおかけしたようですな」
 落ち着いた声を響かせ、セレンの祖父は言った。
「いや、迷惑など……」
 セス、という響きに戸惑いながら、ルカは答えかけた。彼の言葉を途切れたのは、セレンがルカの服から手を離し、俯いたままながらも彼の横に並んだからだった。
「帰ろう、セス。ナナミも待っているぞ」
「うん…………」
 初めてあったときのように、きゅっとズボンを握りしめて、彼は祖父の声に頷いた。ルカは、それを止めることは出来なかった。
 ルカの手を握っていた小さな手は、彼の祖父の手に包まれた。
「それでは、失礼いたします」
 深々と頭を下げ、セレンの祖父は彼を連れ、町の方へと向き直る。だがセレンがすぐに動こうとせず、真っ直ぐに黒曜石の瞳をルカに向け、
「また、一緒に…………蛍、見ようね」
 約束だよ、と右の小指をルカに向ける。
「ああ、約束だ」
 ルカも自分の小指をセレンに向け、恐らく数年ぶりの笑顔を彼に送った。

 そして時は流れ、流れて。
 ひと夏のささやかな思いでは記憶の片隅に消えて久しくなり、あの日の夜の約束は、とても皮肉な形で、二人が望まなかった形で、実現したのだった。

With

 どこまでも続いているらしい、深い闇。
 らしい、という表現にはそこ闇が何処まで、本当に果てなく続いているのか或いはそれとも、一瞬先に唐突に途切れてしまっているのかさえも分からない、という意味が込められている。
 どんなに目を凝らしても先を見ることが出来ない。だからそれを「闇」と言うのだ。
 最終的に彼は視覚で闇の果てを捜すことを諦め、瞼を下ろした。目を閉じる。ひとつの感覚が閉ざされたなら、別の感覚を鋭利にして捜せばいい。セオリー通りの行動に移った彼だったが、しかしそんな彼を嘲笑うかのように闇は果てを彼の前に示さない。
 入ることが出来たのだから、出口だって何処かにあるはずだ。
 その根拠など、実際にはないのに。
 気が付けば彼は其処に居た。今閉ざしている瞼を最初に開いたとき、もうすでに其処は闇一色に染められた世界だったのだから。
 自分の意志で訪れた場所ではない。だから自分の意志云々で出られるという保証もない。
 そして彼には、この闇しかあり得ない場所に心覚えがあった。
 知っている、この場所を。この闇を、この世界を、この感覚を。
 あの時のこんな風に目で捕らえることが出来ないものを捜そうと、瞼を閉じて残る感覚に頼ろうとした。けれど出来なかった。
 どう捜しても、何をやってもこの闇から抜け出すことが出来なくて、最後は諦めてしまったはずだった。
 そして、それから。
 どうなったっけ?
 彼は重い瞼を開けた。相変わらずその向こう側は闇ばかりで何も見えない。いや、見えたところでそこに何かがあるわけではないから、何もない虚無の空間を見ずに済むだけまだこの闇は優しいのかも知れない。
 暖かくはない、けれど寒いわけでもない。冷たくはない、熱くもないけれど。
 しかし肌は冷えている、それは神経が冷えていく感覚に似ている。指先から徐々に、自分の身体が闇に同化して消えて行くような錯覚を覚えてしまいそうになるくらいに。
 否。
 彼は試しに肘を曲げて自分の指先を凝視してみた。
 ものを目に写し取る為には光が必要だ。しかしここにあるのはその逆の性質、闇ばかりである。故に例え目を見開いたところで、どんなに手を間近に迫らせたところで、其処にあるものを見出すことは出来ないのに。
 指先を折り曲げてみた。
 感覚が遠い。繋がっているはずなのに、まるで他人の指を折り曲げようとしているかのような痛みが脳に届けられる。
 侵蝕される――――
 思わず唇を噛んだ。
 手足の感覚が鈍くなっていく。次第に遠くなっていく神経を留めることが出来なくて、それが悔しい。
 二度と来るまいと誓った場所のはずなのに、気が付けば自分はまたこの場所に戻ってきてしまっている。今度も戻ることが出来るという保証などありはしない。一度目、あの時は一体どうやって自分はこの闇を抜け出したのだっただろう。
 何故、ここへ来てしまったのだろう。
 闇の手が伸びる、彼の身体を呑み込む。
 包み込まれる。
 すべてがもう、どうでも良い気分になっていく。
 彼は再び目を閉じた、重く長い息を吐き出す。そして全身を闇に預け、四肢を投げ出した。
 どうでも良かった。
 喰らいたいのであれば喰らえばいい、この身体がはたして美味かどうかは分からないけれど。喰らいたいと思う存在があるのだとするならば、その存在にとって自分は美味なのだろう。
 感覚が遠退く。
 どうせ最初から、あって無いに等しい存在だったのだ、自分は。
 それが跡形もなく消え失せるだけの話し。何も哀しい事、苦しいこと、辛いことはないはずだ。誰も哀しまない、そういう生き方をしてきたじゃないか。
 いつ消えても良いように、いつ誰の目にも見えなくなっても良いように。
 最初から、自分は誰の目にも留まらない卑小な生き物だったではないか。悔やむことはない、寂しいと思うこともない。
 誰も、自分の事を必要としていないのだから。
 ああ、そうだった。
 あの時の自分は確かにそんな風に思って、闇に身を委ねていた。殆ど消えかかっていた。
 引き戻したのは、君の声。
 消えていく、なにもかもが記憶と共に。
 積み重ねてきた歴史、それはとても長いもので君と過ごした時間などそこから計算したらほんの一瞬の、瞬きする間に等しい時間だったはずなのに。
 君が、呼んだから。
 ぼく、を、呼んだから。
 ひとりじゃないと、もうひとりは嫌だと、思ってしまったんじゃなかったのか。もうひとりにならなくて済むと、思ったんじゃなかったのか。
 それなのにどうしてまた自分は、ここにいる?
 彼は眉根を寄せた。思案顔で目を見開く。
 闇、闇、闇。
 しつこいくらいに彼の身体をむしばもうとしているそれらを、軽く全身を振ることで追い払う。その程度で諦めるような淡泊さを持ち合わせていない闇は、また触手を伸ばして彼を捕らえようとする。
 うごめくものがある、それは闇という触媒を得た禍の意志か。
 帰らなくては。
 今はしっかりとそう思った。帰るべき場所があるから、自分はいつまでもこんなところでうかうかと遊んでいる余裕はない。けれど肝心の帰るべき場所がどの方向にあるのかが、分からない。
 あの時のように君が呼んでくれたなら。
 すぐにでも飛んでいけるだろうに。
 浅く唇を噛んだ、痛みが甦ってくる。
 右手がすっぽりと消え失せるような感覚が伝わってきた。目を向ける、闇の中に己の腕さえ見出すことは出来なかった。
 食われた。
 咄嗟にそう思った。だけれど、帰ることが出来るのであれば右腕一本など、惜しくない。君は困るかも知れない、片腕ではベースも弾けない。
 それでも、そうだとしても。
 これは我が侭だろうか。
 ぼくは君の傍に居たい。
「ユーリ……」 
 今度は左足、が。
 消え失せていく。
 闇の侵蝕は止まることを知らない。ここは闇の世界、ここは奴らの領域であって、彼の力でどうにか出来る場所でもない。
「ユーリ」
 駄目なのだろうか。帰ることが出来ず、このまま闇に食われて終わるのだろうか、自分は。
 それがお似合いだと、嗤うのか?
 自嘲気味に彼は口元を歪めた。
 誰が決めた、そんなこと。何処で生きるか、どこで死ぬかを決めるのは自分だ、他の誰でもない自分にしか、その決定権は与えられていないはずだ。
 譲らない、渡さない。
 この命は、ただひとり。
 貴方のためだけに。
「ユーリ!」
 名前を呼んで。
 道を照らして。
 君の声を聞かせて。
 この腕で抱きしめさせて。
 君の傍に居させて。
 君のために生きることを許して。
 君だけの為に。
 この我が侭を、どうか許して。
 左腕が落ちる、右足が食いちぎられた。
 闇が押し寄せてくる、呑み込もうと鎌首を擡げて醜く涎を垂らしている。最後の抵抗のつもりで、睨み付けてやった。
 こころ、で。
 君の名前を呼び続けた。
 そして。
 こころの欠片さえも消え失せようとしていた一瞬に、強く抱きしめられた気がした。

 目を開いた先は、やはり闇だった。
 けれど微妙に違っている。何故だろう、とぼんやりする頭の片隅で考えながら彼は身体の位置を僅かにずらした。
「ん……」
 その途端、自分のものではない小さな呻きのような、寝息のような声が間近で聞こえて心臓が飛び跳ねる程に驚いてしまう。まだ身体ごと飛び退かなかったのは、細く残っていたプライドの為だろうか。
 どちらにせよ、この場所に自分以外の誰かが居ることにまず驚いてしまう。
 少しずつ感覚が戻ってきて、意識も靄掛かっていたものがすっきりと晴れ始めた。同時に、自分が今居る場所と此処にいる理由となった記憶も戻ってきた。
 そう、ここはリビングの片隅にあるソファの上だ。夕べ遅くまでこの場所で部屋から持ち出してきた仕事をやりながら、眠気覚ましにコーヒーを飲んでいた記憶がある。けれどそれも途中でぷっつりと途切れていた。
 いつ、眠ってしまったのだろう。
 そして彼はいったいいつから、自分の横で眠っていたのだろう。
 今目覚めるまでまったく気づかなかった事に不覚を覚え、彼は頬を指先で引っ掻いた。
彼の右肩に頭を預ける格好で、ユーリが眠っている。それも、やはりいつの間に持ち込まれたのか良く解らない、しかもどこから持ってきたのかも少々謎なタオルケットでしっかりと全身をくるんで暖を取ることを忘れていない辺り、ちゃっかりしている。
申し訳程度に、タオルケットの端の方が彼の腰辺りを覆うように掛けられていた。だったらその抱きしめている部分を分けて欲しかった、と今頃に覚えた寒気に身を震わせる。
 暖房を忘れられたリビングは、カーテンが引かれた窓から差し込む僅かな月明かりが仄かに灯るだけで、薄暗く寒い。もう一度身を震わせ、自分に与えられたケットをもっと余分に求めようとユーリが抱きしめているケットを引っ張った。
 ここで彼が目を覚ますかも知れない、と考えなかったのは不覚中の不覚だったろう。だが覚醒したばかりの彼に、そこまで心配りをしろと言う方が無理な話だ。
「ぅん…………?」
 もぞり、と動いたユーリが薄く目を開く。まだ半分意識が眠ったままなのだろう、トロンとした目は焦点が定まっていない。
「さむ……」
 そう呟き、彼は引っ張られて奪われた分のケットを取り戻そうと逆方向へ引っ張り始めた。全身を簀巻きのようにグルグル巻きにしないと、薄手のケット一枚ではリビングと雖も寒い。しかしひとりで暖かさを独占するのは狡いと、彼は思ってしまったから。
 更に強く、ケットを自分の方へと引っ張った。当然、半分眠ったままのユーリよりも殆ど覚醒しきっている彼の方が発揮できる力の分量は大きい。
 ずるっ、と簡単にユーリからケットは引き剥がされてしまう。だが最後までしっかりケットを握りしめていたユーリまで一緒になってコロン、と彼の方へ転がってきた。
 ちょうど膝の間に彼の身体が納まりきる格好になる。
「ん~~」
 眉間に皺を寄せ、寒いのが嫌々という風情でユーリが首を振り、もぞもぞと手を動かす。虚空を僅かに彷徨ったそれは、最終的に自分を抱き込む格好になった彼の肩に辿り着いた。
 抱きしめる。
 胸元に寄せられた頬は熱を求めるかのように、心臓の上辺りで止まった。
「ユーリ……」
 引き剥がしてしまったケットを持ち直し、膝の上にユーリを抱えて彼は彼の身体ごと、自分の肩にかけてケットを掛けた。端を身体とソファの革張りの間に挟み込み、ずれ落ちないように固定してから今度は、乗っかっているユーリの背に手を回して彼が落ちていかないように支えてやった。
 そしてユーリの耳元に顔を寄せる。
「起きてるでショ」
 動きに淀みがないところで、ピンと来た。
 もともとユーリはかなり敏感な方だ、ケットを引き抜かるような事があっては目覚めないはずがない。寝ぼける、という可愛い段階ではなく本当にちゃんと、目覚めているはずだ。
「…………」
「惚けるつもりなら、こうするまで~~!」
 しかし呼びかけても返事が無くて、白を押し通すつもりらしいユーリに彼は一声夜であることも憚らずに叫んで、膝の上に小さくなっている存在を思い切り抱きしめた。肩口に顔を埋め、軽く歯を立ててやる。
「こらっ!」
 咄嗟にそんな制止の声が飛んできて、直後にしまった、と言わんばかりの舌打ちが続く。にぃ、と楽しげに笑った彼に不機嫌そうに、ユーリが視線をあげて軽く睨み付けた。
「やっぱり起きてるじゃない」
「うるさい」
 あのまままた眠るつもりだったのだと、随分と可愛らしい言い訳をしてくれて彼はまた顔の筋肉を緩ませた。どうしても口元が笑ってしまう。
「このまま?」
 そう言って彼は背に回している両腕に力を込め、ユーリを自分の胸に押し込める。密着する部分が多くなって、同時にケットの中を循環するぬくもりが増した。
 触れあう箇所から熱が駆けめぐっていく感じがする。
「うるさい……」
 些か先程よりも声の調子が弱くなり、ユーリは顔を伏せる。彼の鎖骨の下辺りに額を押し当てるので、表情は陰に入り見えなくなってしまった。肩に回したままのユーリの手が、微弱に震えている。
 宥めるように――彼には何を彼が怯えているのか分からなかったけれど――背を撫でてやる。寒がっても無理ない薄着のユーリに顔を顰めてしまいたくなり、代わりに吐息を零す。
 それをなにか別のものと誤解したらしいユーリが、押し当てていた額を離し、代わりにやはり薄着の彼の胸元に頬を寄せた。
 擦りあげられると、一緒になってシャツの布地が彼の頬に引きずられる形で皺を刻む。
「呼んだ、だろう」
 ぽつりと零れ落ちたユーリの呟きに、彼の手が止まった。
「ずっと、呼んでいただろう?」
 お前が、私を、と。
 挑むような視線を感じて下を向く。逸らしたかった視線は紅玉の瞳に捕まってしまい、外せなくなってしまう。魅入られたように見つめていると、ユーリは薄い笑みを浮かべて背を伸ばした。
「今夜だけだ」
 回していた腕を解き、目の前でそう囁いて。
 ユーリが首を傾げた。
 一瞬だけ触れあった、重なり合った唇からの熱が痛いほどに。
「許してやる」
「ぁ……」
 不意に。
 溢れ出したものが止まらなくなって、茫然と彼は自分の唯一になってしまっている右目を押さえ込んだ。けれど、止まらない。
 その右手の上にも、ユーリは優しいキスを落としてくれた。
「今夜だけ、だ」
 間近で囁かれることばは、どこまでも優しい。
「言わないでよ」
 縋りたくなってしまうではないか。続けられず、呑み込んだ言葉を察したのか、ユーリはまた幾らか自嘲気味に微笑んだ。そして右目を隠している彼の右手をゆっくりとした動きで取り払う。
「構わない」
 そう告げて、今は濁ってしまっている丹朱の瞳にもくちづけて。
 そのかいなで彼を抱きしめる。
「今夜だけ、許してやる」
 ここに居ることを。
 傍にあることを。
 縋ることを。
 泣く、ことを。
 すべては今夜一晩だけの儚い夢の事のように。朝日が昇れば泡のように消え失せてしまう、うたかたの夢のように。
 今夜、だけ。
「ユーリ……っ」
 嗚咽が漏れる。隠すことなく、なにひとつとして誤魔化し嘘にしてしまう事なく。全部、吐き出して。
 吐き出してしまえ、と。
 優しい声が囁いている。
「大丈夫だ」
 強く見えるものは案外弱く、脆い。それを隠し通すこともまた強さかも知れない、けれど隠し続ける事で生じる弊害を、彼らはどこで昇華するのだろう。胸の内に溜め込んでしまった暗い部分は、いつか捌け口を求めるに違いない。
 いつか、必ず、そのものを食い尽くすだろう。
 己の中にある闇が、己を喰らうのだ。
「大丈夫だ、スマイル」
 再び首に回した腕で強く抱き寄せて、その溢れ出して止まらない彼のすべてを受け止める。その痛み、哀しみのすべてを引き受けてやる。
 ひとりではないのだと、分からせる為に。そして自分自身が分かる為に、も。
「お前は此処にいて、これからもずっと此処に居るんだ」
 隣に。
 傍らに。
 ずっと。
 永遠に。
 君と。
 一緒に。
 ここで――――――

……ユーリ……

……なんだ……

……ゴメンね……

……………………

……あと、それから……

……それから?……

…………アリガトウ…………

Dandelion

 冬が、来る。
 あらゆる生物が眠りに就き、あるいは朽ち果てて固いからに覆われた種だけを地上に残し、命尽かせるものばかりの。
 殺風景で物寂しい灰色の光景が繰り広げられる、あの季節がまた今年も巡ってきた。
 今自分が踏みしめている大地も生気が薄れ、表面部分を覆い囲んでいた緑鮮やかだった芝も今は薄茶色に霞み、枯れ落ちる一歩手前だ。右足を一歩、裏側を擦り合わせるように前に出せばカサカサと、軽いばかりの音が通り過ぎて行く。
 風が吹く、強い。
 流される前髪を片手で押さえ込み、視線を上向ければやはり風に押し流されていく白い雲が群れを成し、西から東へと漂うのが見えた。速度は目に見えて解るほどに速く、上空では地上よりも遙かに強い風が吹き荒れているのだと教えてくれている。
 雨雲ではないようだが、どちらにせよ地上に暖かさをもたらしてくれる太陽を隠す存在である。雲の大群から視線を外し、己の爪先に視線を落として彼は幾らか自嘲気味に表情を変えた。
 抑え込むだけだった髪を握りしめる。少し力を込めて引っ張ると、頭皮が嫌がって痛みを訴えかけてくる。それで力を緩め、指先から細い銀糸を放ってやったのだがまだ恨みがましく、しばらく痛みは退かなかった。
「冬、か」
 ぽつりと痛みを誤魔化すように呟くと同時に、また冷たい風が吹き抜けていく。
 気紛れな風は庭木を揺らし、残り少なくなっていた枝に絡みつく葉を地上に落として去っていった。
 一緒に、庭の片隅に小さな山を為していた枯葉を崩し、撒き散らして片付けもしない。まったくもって無邪気で迷惑な風のいたずらに目を細め、自分の方へ流れてきた黄土色に近い茶色をしたすでに死んでしまっている葉を一枚、彼は爪先で踏みつけてみた。
 音はしなかった。手応えも空しいくらいに、なにもなかった。
 足をずらしてみる。枯れた芝生の上に踏まれ、抵抗もせずにありのままを受け入れて砕かれた枯葉が一枚、パーツを散らかしているだけだった。
 それも、じきにまた吹き荒れる風に攫われて何処かへ消える。恨み言のひとつも残すことなく、いっそ潔いと笑いたくなるほどに、呆気なく。
 彼はまだ少しひりひりとした痛みを残している、己の頭部に手をやった。指先でその箇所をなぞると、若干痛みが増したような気がした。
 そのあまりの差違に、苦々しい想いが胸を過ぎる。
 冬は、嫌いだった。
 生き物が力尽きる季節だ。何もかもが灰色に染まり、何もかもが同じに見えてしまう季節。色が失せ、味気なく、ただ寂しいばかりの寒いだけの季節に一体どんな意味があるというのか。
 眠りに就いた彼らは、いずれ巡る春という季節だけを求めている。しかしその「春」が本当にやってくるかという保証は、実のところどこにもないことを彼らは分かっていない。
 その眠りが一時的な休眠ではなく、一生目覚めることのない永眠である可能性を、彼らは忘れている。
 その行為が酷く愚かしいものに見えてしまうのだ。
 そして命を尽き果てさせたものたちも。
 彼らの命にどんな意味があったのか、何を残せたというのだろう。ただ次の世代に繋ぐためのひとつの門としてだけの存在だったなら、その意味は未来永劫種を存続させるための道具でしかないではないか。
 そこに、「個」としての存在意義は確立されていない。
 けれど、だからこそ。
 次代に繋ぐために命を張れるそのいじらしさと健気さが羨ましいと、時に思ってしまうのか。
 一世代しか存在しない、子を成すことも種を繁栄させる事も必要なく求めない、ただ己の存在だけを追い求め固執する、輪廻の輪からはみ出してしまっている自分のような存在には。
 野に咲く一輪の花でさえ、時に眩しすぎる。
 色味を失ってしまった己の庭を見回す。地表を埋め尽くすのは薄い灰色、茶色の陰ばかりだ。
 だのにその片隅で、ひとつだけ異彩を放つものを見つめて彼は無意識に眉を顰めた。
 色合いを崩すそれに足を向ける。たった数歩で目の前に届いてしまった彼は厳しい視線を足許に向け、やがて膝を折りその場にかがみ込んだ。
 目に映る灰色の光景に溶け込もうとせず、この寒空の下でなにかを勘違いしているのか健気に咲き誇る、季節外れの蒲公英が一輪。向日葵には到底劣るはずのない、しかし太陽の花とさえ称されるあの大輪の花にも負けることなく、真っ直ぐに上を向いて咲いている小さな花が、そこに。
 あった。
 雑草である。踏まれても踏まれても逞しく首を伸ばし日の光を貪欲なまでに求め、繁殖する。無数の種子を風に乗せて運ばせるのは、それらが生き残るために身につけた知恵だろう。空の一角を白い綿帽子が舞う光景は壮観だが、同時にそうまでして種を散らし生き残る事に固執する種に嫌悪もする。
 だから、か。
 白く細い指先は自然にその、あまりに季節外れで孤独すぎる小さな花へ伸ばされていた。
 無意識に、唇を噛みしめていた。親指と人差し指の腹が、蒲公英の薄毛を蔓延らせている茎を挟み込む。あと少し、本当に少し、力を入れるだけでこの灰色の景観には不釣り合いな存在は消えて無くなるだろう。
「折るの?」
 はっ、と。
 真後ろから聞こえた声に、白昼夢から目覚めた彼は我に返り慌てて右手を退いた。反動で蒲公英は、地面を覆い隠すように広げている葉と深く大地を穿つ根以外の部分を大きく揺らしたが、幸いなことに彼の爪はその茎を傷つけてはいなかった。
 そして彼は、今自分がしようとしていたことを改めて思い知り、愕然と声無くその場から動けなかった。陰を縫いつけられたかのように後ろを振り返ることも出来ず、茫然と揺らめいている蒲公英と己の掌ばかりを見つめている。
「折らないんだ」
 どこか残念そうに声が続ける。近付いてくる気配も、その逆も感じなかった。数歩分の、少なくとも一秒そこそこでは近づけないだろう距離を保ったまま、そこに立って言いようのないプレッシャーを彼に与え続けている。
「どうして?」
 彼は追求を止めない呼気を震わせ、右手を胸元に抱き寄せた。左手で包み込み、庇うように抱き込む。視線が蒲公英から外れ、見当違いの方向を彷徨っていた。
「折りたいんじゃなかったの」
 だから手を伸ばして、茎を摘んで、力を込めるつもりだったはずなのに。後ろから邪魔が入った程度で止めてしまうような事だったら、最初からしなくても良かったはずだろう、と。
 声は無慈悲に続いて、彼は黙ったまま首を振り耳を塞いだ。
 気配が近付く、枯れ芝を踏みしめて一歩、また一歩進んできて。
 背後。
 立った。
「ユーリ」
 名前を呼ばれ、背が震えた。大袈裟すぎる彼の反応に、声の主がカラカラと笑うのが聞こえた。
 そのまま手が伸ばされ、片方が傅いているユーリの左肩に置かれる。まだ薄く笑っているのが空気で伝わってきて、その何をしでかすか分からない雰囲気に背筋が震える。乾いてしまった喉を潤すわけでもなく唾が口腔に満ち、飲み下すと喉が大きく上下して音が響いてしまった、そんな錯覚さえ覚えた。
 右手が、降りてくる。
「冬の蒲公英、ね……」
 彼が何を見ていたのかを改めて確認した声が、楽しげに笑う。
「でも……これは、ダメだね。種にはならないよ」
 すでに寒さでいくらも弱っている様子があった、葉に生気は足りていなかったし花びらにも鮮やかさと輝きが満ちていない。それでも懸命に茎を伸ばして生きようとしているのに。
 残酷な終焉を声は予言する。
「明日明後日には多分、萎れてるね。だったら」
 どのみち近いうちに絶えてしまう命ならば、今此処で絶望を知らぬまま逝かせてやるのが優しさというものではあるまいか。
 声の調子はあくまでも優しく、穏やかだ。微笑みを含ませ、ただ聞いているだけならそれが絶対の真実で正しい道であると思いこませるに足る、それだけの力を持っている声だ。
 けれど。
 降りて、それでもなお、分かっているはずなのに咲くことを止めない、諦めないでいる蒲公英へ、包帯を巻き付けた白い手が触れた瞬間に。
 ユーリは。
「止めろ!」
 短く叫んで、抱き込めていた己の両手でその右手を阻止していた。
 冷え冷えとした風が吹き抜けていく。上空の雲は高速で東へと流れ、時折申し訳程度に漏れ落ちてくる木漏れ日もすぐに消え失せて見えなくなる。その一瞬の光に照らし出された姿を見上げ、唖然としてユーリは彼の腕に抱きついたまま手放すことを忘れてしまっていた。
 微笑みは何処までも深く優しく、自分を見つめる隻眼の瞳は柔らかで穏やかだった。
 膝立ちになっていたユーリの両手を、彼はゆっくりと解いていく。そして力無くその場にへたり込んだ彼の頭を二度、宥めるように、そして謝罪するようにポンポン、と叩いた。
「……ばかもの……」
「ゴメン」
 初めから彼に蒲公英を手折る意志はなかったのだ。けれど自分のやろうとしていた事に動揺していたユーリは、それに気づく余裕がなかった。
 両膝を抱き寄せて顔を埋め、ぽつりと愚痴をこぼしたユーリに彼は素直に謝罪の言葉を口にした。その彼はまだ立ったままで、今は座しているユーリの左隣にいる。気配は動かない、後ろにも前にも。
「嘘だよ」
 やがて沈黙をうち破り、彼が言う。
「なにが」
「蒲公英。種は跳ぶよ、意外にしぶとい花だし」
 少し条件が厳しいかもしれないが、綿帽子が空を舞う可能性はゼロではない。厳しい条件下であっても種族を残すために、子孫を繁栄させるための手段を色々な形で手に入れてきた花だから、この冬にもきっと、負けない。
「お前が言うと嘘臭い」
「失敬な」
 顔を上げ、ユーリが言う。彼は即座に唇を尖らせて不満を口にしたが、怒っているわけではなくその証拠に瞳は微笑んでいた。
「春には……」
「?」
「咲く、かな」
「……きっとね」
 視線を蒲公英へ戻し呟いたユーリに変わらぬ笑みを向け、彼は小さく頷いた。
 根拠などない。それはただの楽観的希望的願いでしかない、自分よがりの身勝手な想いだ。それはふたりとも良く解っている。分かっているからこそ、だからこそその身勝手な願いが成就されるように祈りたくなるのだ。
「ユーリは、さ」
 冷え込む空を見つめ、彼は言葉の矛先を変える。さっきよりは幾分動きが弱まった雲が、密集を始めていた。分厚い灰色の雲に覆われて空は見えない。濁った鉛色の風が吹き荒れ出しているのが遠目に、分かる。
「冬、嫌い?」
 ユーリは答えなかった。彼と同じものを座ったまま見上げ、眉目を顰めているだけだ。
 返事がないことを肯定と受け止めたのか、彼は言葉を続ける。しかし視線はやはりまだ、重苦しい環境を作り出そうとしている頭上遙かを向いたまま。
 ユーリの表情の変化にも、気づかない。
「嫌いだったら、さ……」
 雪深くただ寒いばかりの、色の失せた殺風景で寂しいばかりの光景が通り過ぎたあとの。
 色に満ちあふれ、穏やかで暖かく鮮やかにすべてが輝いて見える季節まで眠る事も出来るのだと、彼は言った。
 それは冬を越すためのひとつの手段だ。獣が巣に籠もり身を寄せ合って寒さに耐えながら春を待つように、固い殻に覆われた種が地面の下で寒さに震えながら暖かくなる日をひたすらに待つように。
 嫌なものから目を逸らし、見ないでいるように。
 クスッ、とユーリは笑った。
「お前は分かっていないな」
 ゆっくりと膝に力を込め、立ち上がる。
 視線が並んだ。魅惑的で挑戦的な紅玉の双眸が、鈍色の丹朱を真っ直ぐに射抜く。
「私は確かに冬は嫌いだが、同じくらいに愛おしいとも思っているぞ」
 冬を越せないものたちは、春に生き残ることなど出来ない。ただ眠るだけではなく、堪え忍び春に伸びるための力を蓄える期間が、それが冬だ。ひとつの試練であると言っても良い、それを乗り越えられないものがどうして春を謳歌することが出来ようか。
 冬を知っているからこそ、春の幸せが理解できる。冬を越したからこそ、春の訪れを歓びと感じることが出来る。
「……そ、か」
「ああ、そうだ」
 告げ、ユーリは彼の胸板を軽く握った拳でトン、と押した。そして緩やかなペースで蒲公英とは反対側の、庭の奧へと向かって歩き出す。
「何処行くのさ」
「ひと雨来そうだ」
 彼の質問に答えず、ユーリは背を向けて歩き続けながら頭上の鉛色が濃くなった空を指さした。促されて空を見上げ、これは雨よりも雪ではなかろうかと一瞬逡巡してしまった彼は、ユーリが向かう先になにがあるのかを思い出して手を打った。
 庭の手入れをするための道具を入れてある小さな小屋が、確か庭の奧に控えめに建っている。例え雨であれ雪であれ、冷たい空からの贈り物は蒲公英にとって恵みになるはずがない。
「何処にあるか知ってるわけ?」
「捜せば見付かるだろう」
「そうやって小屋の中全部ひっくり返して、アッシュが泣くんだね~」
 片付けるのは彼の役目である。瞼の裏にまるで目の前の光景のように楽に想像できる、あの哀れな狼男の泣き顔を思い浮かべ、ユーリは暫く瞑目し、
「なら、お前は知っているのか」
「勿論」
 振り返った先に思いがけず彼が居たことに驚き、半歩退いてしまったユーリが同様を隠しつつ尋ねる。
 返ってきたのは、自信満々に。
「知ってるわけ、ないじゃない」
 一瞬茫然となってしまったユーリも、三秒後には我に返る。この時にはもう彼に追い抜かれていて、慌てて小走りに駆け寄ると何故か向こうの走り出して、いつの間にか競走になっていた。
「スマイル、貴様!」
「なに~?」
「知らないくせに、何故私より先に行こうとする!」
「だってさ~、宝探しみたいで楽しそうじゃない」
「貴様ぁ!」
 叫び返してダッシュを決めたスマイルに大声で怒鳴りつけ、ユーリも負けじと風を切って走る。
 大格闘の末に雪よけを蒲公英の上に完成させた時にはもう、かなり粉雪が舞い散っている時間帯で、二人して何故かズタボロになっておりそれだけでまずアッシュを驚愕させた。
 が。
 翌日、庭が真っ白に染まった中、物置小屋の惨状を発見したアッシュの悲鳴は遠く数キロ先まで遠吠えのように響いたという。
「冬の空気は澄んでるからねぇ」
「そういう問題か?」
 暖かい格好をして、無事に雪の夜を越えることが出来た蒲公英を並んで見つめながらの暢気なスマイルの感想に、ユーリは呆れた顔を向けつつも否定まではしなかった。

遺志

 その町に立ち寄ったのは、本当にほんの気まぐれからきた偶然だった。夕暮れ間近の町の大通りを、今夜の宿を探しながら歩いているときに、突然空から女が降ってくるだなんて、きっと俺だけでなく誰も、予想していなかったに違いない。
「ごめんなさい。大丈夫?」
 頭……いや、正確には俺の背中の上から声がする。
 どうやら俺は見事に、恐らく脇の店の二階から飛び降りてきたらしいこの女の下敷きとなっているようだった。
「ぅぐっ……」
 倒れた時におもいっきり鼻を打った俺は、女が横にどくことでようやく身を起こした。片手で真っ赤になった鼻の頭を押さえ、文句のひとつでも言ってやろうと、涙まで浮かんで来ていた目で俺は女を睨もうとした。が、
「伏せて!」
 叫ぶなり、俺は有無を言わせぬ女の無情な手によって、再びジャリのひしめく道の上に顔を押しつけられてしまった。
「ぐぅ……」
 閉じることもできなかった口の中に小石が入ってくる。容赦ない女の力に逆らおうとすると、ふと、自分のすぐ近くにさらさらで癖のない髪の毛があることに気付いた。明るいオレンジがかった、ブラウンの髪だ。
 別にそれに見とれていたというか、気を取られていたわけではないが、一瞬全身の力を抜いた俺の頭上を、ひゅんっ、と風を切る乾いた音が通り過ぎていった。
「きゃあっ!」
 甲高い女性の悲鳴が上がり、俺の周りで、何事かと騒いでいた町の人々が慌てて走り出した。
「人がいるのに……」
 俺を押さえつけていた女の手がゆるんだ隙に、埃っぽい地面から顔を離した俺は、一体何が起こっているのか分からないまま、何気なしに風の走り去った方向を見た。そこにはテントを張った出店が棚を並べているのだが、店主は騒ぎの中でどこかに逃げてしまったらしく、誰もいない。ただ、暗に存在の異様性を訴えかけるかのように、3本の矢が棚に突き刺さっていた。
「逃げるわよ!」
「お、おい!」
 その出店の反対側、つまり女が落ちてきた方の建物から足音を豪快に響かせて走ってくる人間の姿に舌打ちし、女は状況を全く把握できないでいる俺の手を取って怒鳴った。
「早くっ!」
 いらついた声で躊躇する俺を叱りつけ、彼女は俺を促す。そうこうしている間にも軍靴の音はどんどん近づいてきていて、はっきりと俺の目にも、彼女を狙っているのがこの帝国の兵士達であることが映った。しかも町中であることを全く無視して、新たに矢をつがえ、弓を引こうとしている。
「ちょっと、待て。なんで俺まで……」
「いいから!!」
 俺は無関係だ、と叫びたかったが女の気迫に押され、ついに俺は彼女の言うままに走り出した。
 後方で帝国兵の怒号が聞こえ、足下には放たれた矢が次々に刺さる。狙いが定まらないように通りをぐちゃぐちゃに走り、幾度となく道を曲がった。一体どこをどう走ったのか、まったく覚えていない。とにかく女に置いて行かれまいと必死だった。
 どれくらいの時間を走ったのだろう。ようやく追っ手を完全に撒き、もう大丈夫だろうと足を止めたのは、もう夕焼けが西の空を真っ赤に染め上げた頃だった。
 しかし念のためと、表通りではなく裏路地の、家と家の間の細い道で休むことにし、この時になって俺は初めて、女の顔を真正面から見ることが出来るようになった。
 もう文句は一言ではすまされない。泣くぐらいに言ってやれ、と激しく上下する肩とやかましく耳に響く心臓の鼓動に叱咤して、俺は向かい側にいる女の顔を睨み上げた。だが彼女も相当に疲れているようで、両膝に手を置き、背中を住居の壁に預けるようにしてなんとか立っている、という感じだった。
 けれど、俺が顔を上げたことに気配で気付いたらしい。
 汗で頬にひっついた髪を掻き上げ、微笑みを浮かべながら女は俺を見上げた。
「ごめんなさい。あなたを巻き込んでしまって」
 まったくだ、と言いたいところだったが、俺は初めて見る女の顔に、つい見ほれてしまっていた。
「でも、あのままあなたを放っておいたら、帝国兵達に、私の仲間だと誤解されてしまったかもしれないの。彼らは容赦ないから」
 下手をしたら、逮捕・連行されていたかもしれないといわれ、俺は正直ぞっとなった。
 最近の帝国の荒れ具合は良く知っている。成人の旅の途中で、たくさんの苦しんでいる人々を見てきた。数年前のあの輝かしかった時代は終わり、中央から始まった腐敗した政治が各地で横行している。それを止めるはずの軍部も、私欲に走る連中が後を絶たず、黙認している状態。継承戦争時の英雄達も、北の国境紛争やなにやらで忙しいのか、国民の期待に応える気配はない。
 黄金の皇帝はもういない。それが、赤月帝国の人々の共通する思いとなりつつあった。
「……でも、あの時あなたが下にいてくれて、本当に助かったわ。正直言うと、上手く着地できるかどうか自信がなかったの」
 両手を合わせ、ぺろっと舌を出して彼女は子供のように謝ってきた。
「もういい。それより、どうして帝国兵なんかに狙われたんだ?」
 バンダナをした頭をかきながら、俺は尋ねた。こんな若い女性が帝国軍に追われるようなことをしたなんて、とても思えなかったのだ。
「気を付けていたんだけれどね……。彼らは私が邪魔なのよ。今の状況があまりにも心地よいからといって、多くの人々が苦しんでいることに目も向けないでいる。その間違いを正そうとすることは、決して間違ってはいないはずなのに……」
 後半部分はほとんど自問のような呟きだった。
 呼吸が落ち着きはじめ、俺も彼女も、冷静な判断が出来るようになってきていた。
「この国は傾きだしているわ。夜明けの太陽も、いつか地平線の向こうに沈んでいってしまう。でも苦しむのは町や村に住む人々なのよ。彼らにだって幸せになる権利はあるはずだわ。なのに、圧制を受け、少ない収穫を税として持って行かれ、明日食べるものにさえ苦しんでいる。こんな事を許していてはいけないのよ。このままでは、どんどん駄目になるばかりなの」
 だから、と彼女はそこで大きく息を吸い、吐き出した。真っ直ぐな瞳で俺を見つめる。
「だから、私は戦うことにしたの。まだとても小さな力でしかないけれど、きっとたくさんの人が協力してくれるわ。私たちの考えに賛同してくれる。解放軍という希望に、皆が未来を信じてくれることを、願っているの」
 迷いのない言葉。嘘も飾りもない、心から真摯に訴えかけてくる、優しさと強さを併せ持った声。
「解放……軍……」
 聞いたことがあった。旅の中で何度も耳にした。出来るわけがないと思いながら、それでもわずかな希望を抱いたりもした。
「……ああ、ごめんなさい。そういえばまだ名前を言っていなかったわね」
 ふと、思い出したように唐突に彼女が言った。いたずらをする子供のように、大きな瞳が楽しそうに笑う。
「私はオデッサ、オデッサ・シルバーバーグ。解放軍のリーダーよ」
 通りを、家路に急ぐ人々の影が長く伸びていく。
 にこりとほほえんだ彼女の瞳の中に、俺は真昼の太陽を見た気がした。

 守ると誓い、その名をこの剣に刻んだ。共に戦えることは歓びだった。生まれ故郷に帰るのは彼女の夢を果たし、全てを終えたあとで、彼女と一緒に、と決めていた。
 死んだと聞かされたとき、信じなかった。いや、今でも信じられない。そのうちひょっこりと帰ってくるのではと、がらにもない夢を見たりすることもある。だっておれは、彼女の死に顔を見ていない。
 約束したんだ。必ず二人で幸せになるのだと。平和を、穏やかな日々を手に入れて、静かに二人で暮らそうと。その為に、俺はずっとずっと頑張ってきたのに。
 あのとき君を行かせるべきではなかったと、いったいどれだけ悔やんだことだろう。君から離れるべきではなかったと、どれほど苦しんだことだろう。君のいない世界なんてなんの価値もないと、君が最後に遺してくれたメッセ-ジにも気付けなくて、俺は一瞬でも君を裏切ってしまった。
 許せなかった。ラスティスも、ビクトールも、そしてなにより、俺自身を……。
「どうして死に急ぎたがる!」
 去りゆくテレーズの後ろ姿に、俺は彼女を見ていたのかもしれない。
 オデッサは自分の遺志をラスティスに託した。彼女は決して諦めてはいなかった。たとえ自身の死が隠されたとしても。誰も彼女の死を知らず、誰も悲しんでくれなかったとしても! 彼女は今とこれからを生きていく人々のために、出来ることを全てやってから、死んでいったのだ。
 だがテレーズは違う。彼女のそれは単なる逃げでしかない。周囲からの重圧と、現状の難しさと、自身の弱さという苦しみから逃れるためだけの死。そこからもたらされる思いは、絶望と悲嘆と、そしてあきらめという気持ちだけ。
「まだなんとかなるかもしれない。行こう、セレン」
 あどけなさの残る少年が、義姉の言葉に力強く頷いた。
「ああ。むざむざ死なせてたまるかよ」
 救えなかった命は、彼女の思い描いていた夢を現実にすることで、救うことが出来た。そしてテレーズは、まだ生きている。グリンヒル市民の希望であり、支えである彼女は、まだ死んではいないのだ。
「行くぞ」
 腰に差した愛剣を握りしめ、俺はニューリーフ学院へ戻る道を駆けだした。
 ──すまない、オデッサ。君に会いに行くのは、まだ当分先のことになりそうだ。
 でも、……君なら許してくれるよな?

夜明けの星

 赤き星が静かに輝いている。
 トラン湖をぐるりと囲むようにして成立している巨大国家、赤月帝国の首都グレックミンスターの頭上に、人知れず、いつの頃からか赤い星が現れるようになっていた。
 しかし星の下で暮らす人々の多くはそのことに気付かず、日々の変化に乏しい生活を繰り返している。ただわずかに、少しばかりの先読みの力を持つ一握りの人間を除いては。
 赤き星は、今夜も煌々と夜空高くから人々の営みを照らし出している。
 それは、見るものによっては美しく、誇り高く輝く未来を照らす光にも見え、またある者の目には禍々しく、滅びと乱世を招く凶星の輝きのように映っていた。
 だが星はあくまでも何も語らず、空に浮かんでいるだけだ。己を見た人々が何を想い、何を恐れ、何を求めるか――まるで興味も関心もないままに、光り輝いている。
 やがて東の空が白みだし、月が地平に消えてそれまで空を独占していた星々もゆっくりと姿を隠して行く。けれどグレックミンスターを見下ろす、あの赤い星だけがあたかも誰かの目覚めを待っているかのように――太陽が昇りきるその時まで、凛とした光を放ち続けていた。
 人は言う。その星の輝きこそ乱れきった世を糾すために現れた――――天魁星の輝きであると。

 ラスティスが赤月帝国の近衛騎士団に配属されてから、すでに数日が経過している。
 最初に与えられた任務――魔術師の島に住むレックナートから星見の結果を受け取り、それを持ち帰る――は無事にこなすことが出来た。途中、竜騎士見習いのフッチとラスティスの親友であるテッドが喧嘩をしたり、レックナートの弟子であるルックにいらぬちょっかいをかけられて苦戦を強いられたり、と色々問題は起こったが、なんとかラスティスはくぐり抜けた。
 そして今、彼はでぶっちょのカナンを引き連れて――恐らくカナンにしてみれば、自分こそがラスティスを引き連れているつもりなのだろうが――ロックランドへ向かっている最中だった。
 任務の内容は、ロックランドからの税収が滞っている理由の解明と、その滞っている税の回収にある。内容を聞いただけでは、仕事はとても簡単のように思え、カナンが一緒に来ることの方が遙かに任務の障害になっているような気にさせられた。
 なにせこの男、口やかましく威張り散らすばかりで自分では何もしようとしない。
 食事の準備、寝床の確保、馬の世話やその他諸々、彼は偉そうに命令をするばかりで一向に手を動かそうとしなかった。主に働いているのはラスティスの部下……いや、仲間であるパーンやクレオ、それにグレミオといった面々で、彼らからしてみれば、何故自分たちがカナンに命令されてへこへこしなくてはいけないのか、と不満でいっぱいだろう。口にこそ出さないが、表情や態度からは明らかにカナンへの嫌悪が見て取れた。
 ラスティスもその辺の気持ちは分かる。
 彼としては、働かざる者食うべからず、の精神が働いているから自分から進んで食糧の確保に向かったし、グレミオの手伝いをして食事の支度もやった。それでようやく美味しいとは行かなくても、腹がふくれる食事にありつけるのだから自分の労働が報われる、というもの。だがカナンはまったく、何の苦労もなく食事にありつき、更にはそれが当然のことと思っている。なるほど、それであんなにも太っているのか、と妙なところで納得させられた。
「…………」
 思いため息をひとつついて、ラスティスは空になった食器の片付けに入った。
 ロックランドまで、あと一日。明日中には着けそうだ。そうすれば、こんな苦労とはさよならだし、カナンのお守りもしなくて済む。ラスティスは自分の苦労よりもまず、付き合ってくれた仲間達をねぎらってやりたかった。
 夜闇が深い。
 この一帯は荒野で、人家は近くに存在しない。言ってしまえば、闇を遮る光を放つものが存在していない。あるのはラスティス一行が取り囲むたき火の光だけだ。
 すでに食事を終えていたカナンは、片付けもせずにさっさと寝仕度に入ってしまっている。彼の汚した食器は顔をしかめたクレオによって綺麗に洗われ、他の食器と揃えられると袋にしまわれた。
 パーンが大きなあくびをし、グレミオがたき火に新しい薪を放り込む。空気が爆ぜ、小さな火花がいくつも散った。
 しばらくすれば、カナンの高いびきが聞こえだした。
「なあ、こいつここに捨てていかないか?」
 本気とも冗談ともつかない事を、テッドが真顔でラスティスに言ってきた。
「そんな事したら、怒られるだけじゃ済まないよ」
 苦笑で答え、ラスティスは自分の寝床を作るために馬の背から下ろした荷物をほどくと、中から寝袋代わりに使っている袋を取り出した。それを柔らかな草の上に広げ、形を整える。
「まあ、そりゃそうか……」
 諦めがつかないのか、まだ不服そうな声でテッドが言い、同じように寝袋を広げる。ぱんぱん、と表面を軽く叩けば、今朝畳んだときに紛れこんだらしい乾いた草が浮き上がってきた。
 ラスティスは今、赤月帝国の近衛騎士であり、カナンはその上司に当たる男だ。つまり彼をぞんざいに扱えば、そのままラスティスの首が飛びかねない、ということ。
 近衛騎士になることはラスティスのかねてからの望みであり、夢であった。いずれは父、テオと並んでこの国を守って行くであろう彼の未来を、テッドの勝手な想いから潰すわけにはいかない。
 だがそうは言っても、納得できないことだってある。正直、カナンの態度はむかつくのだ。
 人様から食事を施してもらっていながら、それに対する感謝の言葉がない。俺達はお前の召使いじゃないんだぞ、と叫びたい気持ちを果たして何度、こらえただろう。
 しかし正直に言えば、テッドが現在胸の内に抱いているいらいらの原因はどうも彼ばかりではないようだった。
 言いしれぬ不安がどこかにあった。それは、思い返せば確かに、あの魔術師の島へ行った日から抱いていた感情。だからこんなにもカナンの行動ひとつひとつに腹を立て、同時にストレスを感じつつも感情を押さえ込まなければならなかった。
 自分でも管理しきれない、持て余しているこの並々ならぬ不安を払拭するだけのきっかけを、今のテッドは欠いていた。そして親友であるラスティスもまた、慣れぬ旅の生活と仲間達を守らなければならないという義務感からか、テッドの苦悩に気付くことがなかった。 
 どこかですれ違いが生じていた。それぞれが気付かないうちに、いつからかふたりの心は、微かながらずれはじめていた。
 だからそのことに、ふたりが気付かなかったことはひょっとしたら、幸運なことだったのかもしれない。
 星が今日もまた輝いている。
 闇を遮るものはない。星の光を邪魔する雲の姿も見られない。今夜はちょうど下弦の月で、ほんのりと青白い光をまとい静かに荒野を見守っている。
 広いこの地平の中で、彼らの存在はひどくちっぽけだ。
 星の光ひとつにしたって、本当はずっと遠くの空で輝いているものが気の遠くなるような時間をかけて今、地上に降り注いでいる。あの星の中には、すでに存在が消滅してしまっているものがあるかもしれない。だが星の残した残像が今彼らの目に映っている。
 星さえも、滅びを免れることは出来ない。ましてや、更にちっぽけで弱い人間など。
 テッドは眠れなくて、ひとり夜空を見上げていた。すぐ隣では寝袋にくるまり、小さな寝息を立ててラスティスが眠っている。寝相の良さは折り紙付きの彼は、カナンやパーンのようないびきを掻くこともなく、至って静かだ。時折、静かすぎて不安に駆られることさえ、あった。
 テオに連れられてラスティスに出会って、何度か一緒にベッドに潜り込んで遅くまで話し込んだことがある。たいてい夜明けを待つよりも早く、ラスティスが根負けして眠ってしまうのだが。
 本当にただ眠っているだけなのか、もしかしたらもう二度と目覚めないのではないか、と言いようもない焦燥に駆られ、幾度となくテッドは眠っているラスティスを揺すり起こした。
 自分の右手に宿っている紋章は、所有者の大切な人の命を奪う。奪い、力とする。大切な人でなくても、多くの命を欲して見えない触手を伸ばし、戦乱を招き人を殺す。
 そう、これは呪いの紋章――ソウルイーター。
 人前では決して外すことのない革手袋の上から、テッドは左手で右の甲をなぞった。
 禍々しい力。人が手にするべきではない、過ぎたる力がここにある。二度と使うまいと心に誓い、だがいつかその誓いを破らなければならないときが来ることを、テッドは微かに感じていた。
 望む、望まないの問題ではない。
 ただこの力を使うとするならば、それは自分が最も大切だと思う人を守るために使うのだと。
 そっと傍らで夢の世界にいるラスティスの寝顔をのぞき込み、その呼吸に乱れがないことを確かめ、テッドは寝袋からするりと抜け出した。わずかに湿気を含んだ丈の短い草を踏みしめ、火も消えてくすぶっているだけのたき火を一度振り返ると、彼は月明かりの下、その場を離れた。
 一人で考えたかった。
 この先、自分は果たして何処までラスティス達と一緒にいられるのだろうか。いつ、ソウルイーターの魔の手が彼らに伸びるともしれない。一番守りたい人を奪う紋章、だが、今のテッドにあるラスティスを守る事の出来る力もまた、この忌まわしい紋章だけなのだ。
 夜空を見上げる。星が煌々と輝いている。
 ほのかな光を放ち、月が朧気に揺らいでいた。
 ふっと気が向いて、グレックミンスターのある方向――西の空を見る。何故か、奇妙に心が騒いだ。
 目に飛び込むのは、薄く広がる靄のような雲の中でも、はっきりとその色を識別できる強い赤の光。
 星にしては妙に色が濃く鮮やかで、しかし星でなければ一体あれは何か、と問われたら答えに窮するしかない。天高く、まるで空の頂を飾っているかのようにその存在を主張している、その星から目がそらせない。
「天魁星だよ」
 その時、まるでテッドの心内を読みとったかのような絶妙なタイミングで、まったく知らぬ訳ではないにしろあまり思い出したくもない、それでいてこんな所にいるはずもない人物の声が飛んできてテッドの頭にぶつかり、落ちた。
 振り返れば、もうラスティス達の野営地は見えない。変わりに、いつからそこに立っていたのか。若緑色の衣をまとった、子憎たらしい紋章使いがいた。
「お前、えと……なんだっけ」
「ルック」
 彼が魔術師の島で会った少年だということはすぐに思い出せた。だが肝心の名前を思い出せなくて、憮然とした表情のルックに怒られた。
「そんなことも憶えておくだけの記憶力がないのかい?」
 相変わらずの皮肉っぷりに、一度忘れかけていた胸のむかむかが蘇ってくる。
 そうだ、こいつは今まで溜まりに溜まっているストレスを発散するために天がお遣いになられたんだ! とテッドが思って握り拳を我知らず作っていた頃。
 ルックは冷め切った目でテッドを見ていた。
 夜闇の中でも分かる彼の茶色の革手袋をちらりと眺め、ため息を小さくついてそれから西の空を仰ぐ。
 天魁星は変わらずそこにあり続けている。何かを呼ぶように、訴えかけているように明滅を繰り返し、だが己の存在自体を決して消すことなく。
 そして天魁星の輝きに応えて、いくつかの星が新たに光を見せ始めていた。
 そのうちのひとつの輝きを視界に納め、ルックは静かに首を振った。
 彼はその星の名を知っている。だが、自分からその名前を呟くような真似はしない。彼はまだ、認めていない。
 出来るならば面倒ごとは避けたい。そして避けるためには……彼がいなくなればいい。それだけで、歴史は変わる。今の状況が繰り返し続いて行く。
 確かに国は荒廃し、人々の生活は乱れている。だがそれを正しい方向に持っていくために、ルックは自分の今の生活を犠牲にしたくはなかった。
 不満はない、満足もしていないけれど。ただ穏やかで、変わり映えがしなくて少し退屈ではあるけれど。
 多くは望まない。小さな事も求めない。今が続けばいい。それが偽善であり、自己中心的なひどく勝手な考え方であることは、認める。否定しない。だが、他人に自分の生き方をどうこう言われる筋合いもない。
 天魁星が現れたこと。戦乱が近い。レックナートの予言した通り、いずれ大きな戦いがこの国を突き抜けるだろう。その中心に自分もいる。その姿を想像することはルックにとって苦痛だった。
 何故星に己の運命を決められなくてはならないのだろう。 
 運命は、本当に変えられないのか? それを考えているうちに、ルックの足は自然とここに向いていた。
 現れたのはいいが、次に告げる言葉がない。ずっと黙りこくり、たまに空を見上げてはため息をこぼすばかりのルックに、握り拳をほどいたテッドは不審な目で彼を見つめ返した。
 視線に気付き、空を見ていたルックがテッドに視線を戻す。わずかに、ルックの方が目線は上だった。
「なにか用があったんじゃないのか?」
 でなければ、ルックが散歩でもしていたというのか? こんな時間に、こんな場所で?
「用って程のものでもないけど……いや、やっぱり用があるのかな、君に」
「?」
 意味ありげな視線を流し、ルックは自分の口元に指を押し当てた。しばらく考え込む素振りを見せ、右手を示した。
「戦いが、起きるよ」
 自分の右手に宿る真なる風の紋章と、テッドの右手に宿るソウルイーターと。そして、赤月帝国の繁栄を支える覇王の紋章と。
 27の真の紋章が集うとき、必ず大地は戦乱を産む。まるでそれが世の道理であるかのように、戦争の代理人として、真の紋章を持つ人間が暗躍する。本人にその気がなくても、時代が拒むことを許さない。
「君がいるせいで、この国は戦乱に巻き込まれる……いや、戦乱を起こす。きっかけは、…………」
 言いかけ、ルックは口をつぐんだ。
 目の前にいるテッドの顔色がみるみる青白くなっていく。声を荒立てたり、あからさまに動揺したり、むきになってルックにつかみかかりもせず、反論する素振りさえ見せない。まるで、ある程度自分で予想していたことを、改めて他人から突きつけられた時のような……。
 赤い星がきらめく。周囲に小さな星をいくつも従えて。
 ふたり、言葉なく立ちつくす。冷たい風が吹き抜けても、お互い身を震わせることさえしなかった。

 夜中、ふと目が覚めた。
「うん……」
 もぞもぞと寝袋の中で寝返りを打ち、薄く開けた瞼を閉じようとする。だが。
 そこにいるはずのテッドの姿がないことに気付き、ラスティスは数度まばたきを繰り返してぼやける視界をクリアにした。
 いない、本当に。テッドの寝袋は空だった。
 手を伸ばし、硬い布地に触れてみる。冷たい。
「テッド……?」
 上半身を起こし周囲を伺う。だが完全に火の消えたたき火を囲むようにして、仲間達がすやすやと眠っている以外に人影はない。
 たまに風が吹き、その音がやけに大きく聞こえる。遮るものの何もない荒野だから、以外に遠くで発せられている音でも耳に届いた。
 微かに、話し声。その片方はどうやらテッドらしい。だが、もうひとりは分からない。
「今頃、誰と……」
 見た限りテッド以外のメンバーで欠けている人員はいない。とすると、テッドの話し相手は自分たちと一緒にロックランドに向かっているメンバーではないことになる。だが、では一体誰?
 こんな時間に、こんな場所で、しかも仲間達とは離れた場所で話さなくてはならない相手とは……。想像がつかなくて、ラスティスは身を抱いた。寒かったわけではない。ただ、やけに嫌な予感がした。
 寝袋を抜け出し、立ち上がる。風に耳を傾け、どこからテッドの声が流れてきているのかを大体予測し、ゆっくりと歩き出す。
「う……坊っちゃん……」
 途中、グレミオが呼んでびくっとなったが、
「今日はシチュー……ですよ……」
 どうやら寝言らしい。
「…………」
 そろそろと振り返った状態で凍りついていたラスティスは、途端にホーっと息を吐いて肩の力を抜いた。
 やや露に濡れた草がラスティスの靴に水滴を落とす。小気味の良い音がして、草が左右に割れていく。ある程度たき火から離れると、そこで一旦足を止めて大きく息を吸って吐き、彼は駆けだした。
 風が唸り、ラスティスの髪を揺らした。

 沈黙を破ったのは、テッドだった。
「なんで……どうしてお前が、そういうことを言う?」
 テッドとルックはたまたま魔術師の島で出会っただけで、何の関係もない。戦争が起ころうとも、直接ルックに被害が及ぶとはテッドには思えなかった。
「俺が戦争を招くと?」
 自分の胸に手を当て、テッドはルックを真正面から睨んだ。
「何を根拠に?」
「天魁星が輝きだしている」
 す……と天に向かって突きだしたルックの指先が示すのは、赤い星――天魁星。
 しかしテッドには天魁星という言葉の知識すらなく、ただ不思議そうに首を傾げただけだ。
「あの星は戦乱の前兆。この国はじきに荒れるだろう。だが今なら……前兆だけで納められるかもしれない」
 やけに勿体ぶった言い方をするルックに、テッドは眉をひそめる。怪訝な顔で彼を見返し、空の星と見比べて、最後に肩をすくめた。
「馬鹿じゃない? それがどうして俺と関係あるんだよ」
「君にじゃないよ」
 淡々と、ルックは嘲るテッドに切り返した。
「君が舞台に立つ訳じゃない。君はあくまでも、きっかけをもたらすに過ぎない」
 そして、一度言葉を切る。何か、まだ迷っているのか、少し言いにくそうな素振りを見せつつ、ルックはひとつ咳払いをしてテッドに向き直った。
「巻き込みたくはないだろう、……彼を」
 ひどく落ち着いた、低い声で囁くように、ルックは呟いた。言葉は風に乗り、テッドの耳にだけ届く。
 彼が何のことを言っているのか、テッドはすぐに理解できなかった。だが。
 急にルックが渋い顔になり、テッドからその右手奥の方へ目線を流したことで、彼は悟った。
 ゆっくりと振り返り、月光を背にして立つラスティスの姿を見付け、息を呑む。
「守りたければ、……どうするべきか、分かるだろう……?」
 言葉だけを残し、ルックは風の中に身をくらませた。突風が吹き、テッドは顔を押さえ込むその隙に、彼は完全にこの場所から消えていた。
「テッド!」
 ラスティスが駆け寄ってくる。だが途中で足を草に引っかけ、前につんのめり倒れそうになった。
「ラス!」
 慌ててテッドが手を出し、ラスティスが地面に衝突する直前に自分の体で彼をかばう。背中を打ち付けて、一瞬だったが息が詰まった。
「テッド、大丈夫!?」
 顔を上げてテッドをのぞき込むラスティスの表情は、月明かりのせいでよく見えない。
「平気……けど、重い」
 自分の体を下敷きにしてラスティスをかばったから、今彼の体はテッドの上にのしかかっている。全体重を預けられたら、そりゃあ、重いに決まっている。
「ごめっ」
 謝ってすぐにどくラスティスに苦笑し、テッドは体に着いた草を払った。背中に手を伸ばし、指先で草の端をつまむ。
「それより、テッド。今誰かここにいなかった?」
 暗がりの中では、ラスティスの目にはルックの姿は明瞭に映っていなかったらしい。そのことに、何故かテッドはホッとした。
「いや、誰もいないぜ?」
 嘘をつく。平気ではないけれど、本当のことを言って、どうなるわけでもない。まだ彼には伝えられない。第一、ルックの言葉が何処まで真実なのか、分からないのだ。不安にさせたくない。
「そう?話し声がしたんだけど」
「風の音じゃないのか? それにほら、俺って独り言多いだろ?」
「そう……?」
 まだ疑っているラスティスをどうにか言いくるめ、テッドは彼の背中を強引に押した。歩き出す。
「…………テッド」
 しばらくして、野営地が見え始めるとラスティスは一度だけテッドの手を離した。
「僕に隠していることがあるのなら、聞かないけど……」
 テッドは一瞬どきりとした。
「なに?」
 なるべく心の動揺を悟られないように、平静を装ってテッドはラスティスを見返す。真剣で濁りのない瞳が、眩しく映った。
「いつか、話してくれることを信じてる」
 すっと、息を吐き出すときのように自然に、ラスティスからこぼれたその言葉はテッドの胸に深く突き刺さった。
「僕が言いたいのはそれだけだから」
 すっきりした顔で笑い、ラスティスは先に駆け出した。その場所には、一人テッドだけが残される。
 風が吹く。先程のルックのささやきを思い出させる。
「駄目だ……」
 誰にも届かない声で、テッドは呟く。
「今更だ。全部、どうしようもない……」
 離れる事なんて出来ない、置いて行くこともできない。
 不意に涙がこみ上げてきて、テッドは顔を覆った。
 右手の甲が頬に当たる。冷たい感触が全身を貫く。
「ごめん、ラス。俺……お前を不幸にするかもしれない」
 聞こえないと知りながら、テッドは親友に向かって告げずにはいられなかった。
「でも、守るから。絶対、お前だけは守るから。だから……俺を許してくれ」
 空に赤い星が輝く。禍々しく、それでいて神々しい輝きが空に踊っている。
「許してくれ……」

 夜明けが、近い。