Solitude

 シィン……と静まりかえった城内。
 床の大半は柔らかな絨毯が敷き詰められているはずなのに、それでも嫌というくらいに響き渡る自分自身の足音。冷え切った空気が肌に突き刺さる感覚が嫌で、追い払えるはずもないのに無駄に手を振ってしまう。
 誰も居ない、城。
 驚くほどに、そして恐ろしいほどに静かな。
 彼の、城。
 自覚のないままにため息を零し、彼は高い天井の末に聳えている豪奢なシャンデリアを見上げた。今は外も明るく、炎を灯す必要もない為それはただ無駄なガラスの固まりとなり天井からぶら下がっているだけだ。
 あのシャンデリアも、この城が建造された当時からあるもののはずだが歴史を感じさせない優美さが、ガラスひとつひとつの曲線から滲み出ているようで彼はよく好んで、首が痛くなるのも構わず真下から見上げていたものだ。
 けれど今は、その行為さえも空しく思えてならない。
 またため息を零す。今度は気づいて、しっかりしろ、と自分に言い聞かせながら頬を片手で叩いた。乾いた音が短く、音響効果の非常に宜しいホール内を響き渡っていくがじきに、消えて失せた。
 すべての窓は閉じられ、風さえも流れてこない。
 まるで時間から置き忘れられ、世界からも切り落とされてしまったような空間にひとり佇み、彼は苛ついた調子で己の髪を掻き上げた。
 指の隙間から癖のない銀の髪が滑り落ちていく。それをまた掻き上げて鬱陶しそうに後ろへ流すが、結局留めるものなどなにもない彼の髪は、どんどん指の間から零れて行くばかりだった。
 舌打ちし、一度苛立たしげに足をその場で踏みならす。ホールの角、目立たなくだが存在感はしっかりと誇示している古ぼけた巨大な柱時計がボーン、と、彼の足に調子を合わせたかのように低音の長閑な音を数回鳴り響かせた。
 思わず驚いてしまい、ガラにもなく肩を竦ませて警戒してしまった彼だったが、二秒後に音の発生源が柱時計にあることを思い出し、指し示されている時刻を改めて確認する。
午後、三時。
 いつもならば、台所から芳しいおやつの良い香りが漂ってくる時間帯。
 いつもならば、リビングの大型テレビから喧しいと眉を顰めたくなる大音響が響いている時間帯。
 だのに今日に限って、その両方が欠けていた。
 泣きたくなるくらいに、静かすぎる城。
 再び虹色を輝かせているシャンデリアを見上げて、彼は首を振った。
 なにを考えているのだろう、自分は。そんな自嘲気味な想いが心を過ぎる。踵を返し、一旦は自室へ戻ろうと階段へ足を掛けたが三歩と進まぬうちに気が変わった。
 手摺りを押して身体の方向を変える。そして彼は、今戻って来たばかりのホールへと進み出た。
 だがシャンデリアの真下も、古時計の前をも素通りしてしまう。彼が目指したのは、更にその向こう側にある今はリビングとして使用されている大きな、間仕切りのない一室だった。
 そこはかつて、晩餐会などが開かれていた部屋。けれど今は、城主の社交性と協調性の乏しさから大勢が集まる機会も必然的に減り、本来の目的で使用される事は滅多になくなった。
 かわりに、一角に巨大スクリーンを中心としたソファセットを擁するリビングとして使用されている。
 常に誰かがそこに居られるように。誰かがそこに居れば、みんなが集まることの出来る空間があればいいと。いつの間にか、誰が言い出したのか一角を占領している映像、及び音響機器はかなりの質と量に達していた。
 何故かアンプがふたつもあり、スピーカーが六つもあったりする。御陰で音はかなり臨場感を持って聞き取る事が出来るが、反面騒々しいというマイナス面も生じてしまったのだが。
 壁が厚く扉もしっかりとしているので、きちんと閉めてさえいれば案外外に音は漏れない事を発見して以来、城主は口やかましく言わなくなった。彼自身、次々に買い足され取り替えられる最新機種に興味を抱き、その音響効果の良さを気に入っている事も手伝っている。
 ただし、あまり浪費してくれるなと釘を刺したりはするが。
 扉を、開ける。
 がらんとした空間が目の前に広がるのは、正面玄関前のホールと同じだった。
 なにか期待したものがあったらしいが、呆気なく裏切られて彼は吐息を零す。けれど開いてしまった扉をそのまま閉めて立ち去るのも気が引けて、彼はリビングへ足を踏み入れた。
 壁際に並ぶチェストの半分は、レコードが占領している。残りはCDとDVD、各種雑誌等々。ジャンルもレベルもてんでバラバラで、買い込んでくる当人のアバウトな性格が偲ばれる。二流でもたまに、当たりがあったりするのだと毎回弁解する顔が目に浮かんだ。
 その言葉を否定する気はないが、当たりはずれが大きいのもまた事実。結果的に無駄な出費になってしまう事が多く仲間を苦笑させるだけだった。
 今日もまた、電気街へ買い物だろうか。それとも、中古CDショップを荒らし回っているのか?
 いや、案外どこかの道端でバイクを停めて昼寝を楽しんでいるのかも知れない。そちらの方が多いにあり得そうで、想像して彼は口元にやった指を咬んだ。
 もうひとりの方も、ソロ活動が目立ち始めており今日も彼だけがオフを返上で仕事に出ている。なんでも最近デビューしたばかりの歌手とセッションだそうで、悔しいがその辺の仕事は彼の方が巧い事は認めざるを得ない。
 人付き合いはもともと好きではないし、騒々しいのも道理と礼儀を弁えない人間は更に嫌いだし。
 手近なひとり掛けのソファにどかっと腰を落とし、彼は目に付いた雑誌を手に取ってみた。
 誰かが置き忘れていったらしい、それはここ数日間のテレビ番組を一覧化したものだった。クリスタルのテーブルに一際異彩を放つ色調の表紙を広げ、適当にパラパラと紙を捲ってみる。
 さして興味も抱かなかったものの、手を伸ばせば届く範囲にテレビのリモコンがあったものだから、今日の日付を探し出しテレビの電源を入れてみた。すぐさま真っ暗だった画面に光が宿り、見慣れない人物が数人現れた。
 壁際の時計と雑誌の時刻表を交互に見つめ、それからリモコンを操作してチャンネルを確かめ今放送されている番組を調べる。だが見事に、知らぬ人間ばかりが現れてテーブルを囲み、なにやら訳の分からないトークを繰り返すばかりだった。時々差し込まれる映像も、彼に好奇心を抱かせる内容ではなかった。
「…………」
 重い溜息と同時に、彼はリモコンのスイッチを押した。
 プツッ、と短い音を立てテレビは再び沈黙する。そうすれば、尚更今まで以上に城内の静かさが際立って感じられて彼の神経を逆撫でした。
 思わず手にしていたリモコンを壁目掛けて放り投げてしまい、気づいた時にはもう、それは硬質の音を立てて壁の一角を僅かに凹ませ、床に沈没したあとだった。落下地点がまだ絨毯の上だった分、衝撃が吸収されて壊れては居ないようだったが、へこんでしまった壁は元に戻りそうにない。
 自分が嫌になりそうで、彼は額を左手で押さえ込み俯いた。膝の上に肘を置き、靴の先を見つめる。それで気分が晴れたり落ち着きを取り戻せるわけではないのだろうが、他に見るものもないので仕方がない。
 それでも、ものの五分もしないうちに飽きてしまう。
 ゆっくりと曲げていた背を伸ばし、そのまま後ろに体の重心を傾けてソファの柔らかいクッションに身体を沈める。頭までぶくぶくと沈み込ませれば、自然と腰がずり落ちていく格好になり天井を仰ぐ事になる。
 ここにも、シャンデリアがある。ホールを飾っているものとはまた違い、低めの天井に合わせて平たい格好で作られている。それを端から端まで目で追って、また戻っていく。仰け反っている頸が次第に痛み出す頃になってようやく彼は姿勢を正し、脚を組んだ。
 腕も組み、無言のまま沈黙を続けているテレビの黒いばかりの画面を凝視。恐らく見つめられているテレビの方が困惑してしまいそうな雰囲気で、彼はまた暫くそのポーズを保った後、足を組み替える時についでに広げたままだった雑誌をもう一度手に取った。
 テレビ欄ではなく、番組の特集ページを開いてみる。目が行くのは、やはり音楽番組のコーナー。よく見れば隅の方に、今日アッシュが仕事に行かねばならなくなった原因である新人アーティストが写真入りで紹介されていた。
 見目は良いが、唄を聴いた感じではあまり巧いと、世辞でも言えない小娘としか感想を覚えなかった彼に、アッシュは苦笑を返すだけだった。スマイルは、もとから興味さえ抱かずにいたからもしかしたら、その娘の名前すら知らないかもしれない。
 物知りなくせに、情報の範囲が恐ろしく偏っている奴だから。
 どうでも良くなり、今度は雑誌をソファの真後ろへ放り投げた。紙が擦れ合う音がしたが、それも一瞬だけで終わる。
 沈黙は、茨のように痛い。
「…………」
 本日何度目か、すでに計ることも忘れてしまった溜息を落として彼はゆっくりと立ち上がった。一度ソファの上で座り直してから、両足に同時に力を入れて膝を伸ばす。急に遠くなった足許に心細さを覚えて頭を振り、落ちてきた銀糸を掬い上げてそのまま、持ち上げた手で凝りもしていない肩を数回叩く。
 今日は本当にどうでも良い行動が多い。無駄に時間を潰しているだけで、だのに時間の経過は非常に遅く時計を見れば、まだ三時半を少し回った程度だった。
 その時に零したため息にもし色を付けることが出来たとしたらそれは、どんよりとして重そうな、雨雲に似た薄暗さを秘めていただろう。
 背を伸ばして真っ直ぐになり、彼は時計から視線を外してまた床を見た。
「今まで……ずっとひとりだっただろう……」
 自分に向けて、呟く。
 声はカラカラと転がり落ちてどこまでも床を滑り、拾う者もない。やがて壁にぶつかって砕け散り、欠片さえ残らなかった。
 ひとりきり。
 その環境には慣れていたはずだ。眠りに就く前もひとりだったし、眠りから目覚めてもしばらくはひとりだったではないか。
 そうしているうちに退屈に飽き、なにかをしようと思い至って唄うことを始めたはずだ。唄も、仲間集めも、退屈しのぎの一環でしかなかった。
 だから自分が唄に飽きてしまえばそれで終わる。仲間も去り、城から音は消え去って彼はまたひとりに戻る。
 今のように。
 今のように?
 広いリビングを見回す。誰も居ない空間、音を発するのは自分自身と、変わることなく時を刻み続ける時計の秒針くらいだろう。
 緩く首を振り、彼はまた歩き出した。今度はリビングを通り抜け、食堂として利用している一角も素通りし一枚扉に隔てられている台所へと、入り込む。
 主に使用しているアッシュの性格が解るような、几帳面に片付けられたキッチンを一通り見回して彼はまず、シンクへ向かった。
 傍らの調理台に置かれているケトルを取り、蓋を外す。水道の蛇口を捻って水を出し、ケトルに適当に……半分近くまで水を溜めて蛇口を締めて蓋も閉める。弾みで揺れた時、中でちゃぽちゃぽと水が跳ねる音が嫌に大きく響いた。しかも少し重い。
 滅多にしない事なので水の重さに驚きつつ、彼はそれを今度はコンロの上に置いた。スイッチを捻り、強火のまま調整もせずにその場を離れる。次に彼が目指したのは、コンロの右側角を経て壁に寄り添って並ぶ棚だった。
 視線を泳がせ、上から順に下を見ていく。目当てのものは片方だけなら直ぐに見付かったのだが、もうひとつがなかなか見当たらなくて、やむを得ず彼は適当に棚を開け、引き出しを引っ張り始めた。
 テーブルの上には、先に取りだしたコーヒーカップがワンセット。銀のスプーンも三つ目の引き出しで発見してそれもソーサーの上に置き、最後に肝心なものを探し求めて右往左往。
 本当ならミルから挽いてちゃんと煎れたものを飲みたいのだが、自分で出来ないことは承知しているので諦めるしかない。だから自分で飲めるコーヒーを、彼は捜している。
 要するに、インスタントを。
 がさごそと台所を家捜しすること、十数分。気が付けばケトルは湯気を撒き散らし喧しく泣き喚いていた。ようやく目当てのインスタントコーヒーの粉を発見した彼は、意気揚々としてその瓶を開け銀スプーンで粉をカップに放り込んだ。
「……多いか……?」
 あまりしたことがないということは、インスタントコーヒーをいれるのも同じ。目方が解らず、少ないよりは良いだろうと考え二杯と半分、スプーン大さじを、熱されていたケトルを熱がりながらも持って湯を注ぎ入れ、溶かす。
 見る間に黒い渦が白いカップの中に生まれた。
 縁ギリギリ下にまで湯を注ぎ、スプーンでもって掻き混ぜる。普段彼が飲んでいるものよりも格段に色の濃いそれに怪訝な面もちをしながらも、きっとこういう種類なのだろうと勝手に自分で納得して、白く細かい泡が消えて無くなるのを待ちスプーンを置いた。
 カチャリ、と透き通った音が小さく響く。
 そっと両手を使って持ち上げ、指先に伝わる熱さに顔を顰めつつ彼はそっと、息を吹きかけた。
 立ち上る湯気が棚引き、彼とは反対方向へ伸びていく。一瞬だけ目の前が白く濁り、また透明に戻るその動作を数回連続で繰り返したのち、恐る恐るだが唇をカップにつけた。
「あつっ!」
 しかし舌先をちろり、とカップの縁、なみなみと注がれているコーヒーの表面に微かに触れただけに関わらずその熱さに驚いてしまった彼は、慌ててカップから顔を引き剥がした。咄嗟にカップまで手から離し、落としてしまうところだったのは寸でのところで思い出した事により回避されたものの、ひりひりと舌に残る感覚は火傷をしたときと同じものだった。
 不安定に片手で持っているカップを一旦テーブルに戻し、彼は今まさに火傷をしてしまった舌を伸ばして空気に晒した。そうしたところで、室内の空気もさほど体内と温度差があるわけではなく、されど冷やすことも易々と行かない場所である為他に方法も思いつかなくて、彼は暫くテーブルの前で犬のように舌を伸ばしたまま立ち続けなければならなかった。
 その間にも、室温に冷やされてカップに満ちているコーヒーから昇る湯気は次第に少なくなっていく。恨めしげに自分で煎れたコーヒーを見下ろし、痛みが若干和らいだところで彼はもう一度、カップを両手に挟み持ちひとくち啜ってみた。
 ぬるい。
 それから、苦い。
 コーヒーという飲み物独特のあの苦みではなく、ただ単に本当に、濃すぎて苦い。しかも温い為に味が微妙だった。思わずカップに口を付けたまま眉間に皺を寄せ、硬直してしまった彼だったがややして思い直し、そのまま残りの液体を胃に押し流した。
 口いっぱいに気持ちの悪い苦さが残り、喉にもコーヒー滓がこびり付いているような感じがして、喉仏の辺りを軽く指で押さえ込み、咳を数回。簡単には去ってくれない感覚にまた顔を顰め、額に皺寄せて彼はやや剣呑とした面もちで乱暴に空になったコーヒーカップをテーブルに叩き置いた。
 どすん、とテーブルが一度大きく揺れる。
「はぁ」
 零れるのはどうあっても溜息に限定されてしまうらしい。難しい顔のまま、カップの縁に残っていた自分の唇の後を指で拭い取って一緒に浮かんだ汗も返した手の甲で拭う。ちらっと視線の端で見上げた時計は間もなく四時を指し示そうとしていたが、玄関が押し開かれた様子も、帰宅を告げるベルの音が鳴り響く気配も全くない。
 そのまま下に視線を落とせば、自分で使うのは諦めざるを得なかったミルがある。思わず蹴り飛ばしてしまいたくなる衝動に駆られたが、これを壊してしまうと明日からまたコーヒーが今日のようないがらっぽい、滓だらけのコーヒーを飲まされる事を思い出して止めた。代わりに、収まりきらない衝動は別の、何が入っているのかも解らない紙箱を蹴りつける事でなんとか解消する。
 されど彼が蹴り飛ばした箱は数回床の上で不吉な音を立てた後、完全に陶器が砕ける音をがなり立てて沈黙した。
 冷や汗が、垂れる。
「………………」
 衝撃で僅かに開いてしまったらしい蓋の隙間から、白い陶器の破片が見えた気がした。
 しかし彼は、それを気のせいとして見なかったことにした。どうせ台所の主が帰ってきたときにはばれてしまうのに、その事にまで頭が回らない。大体こんな蹴りやすい所に転がっているのが悪いんだ、と無生物の箱に責任転嫁をして自分の心を落ち着けさせるのだが、元々ちゃんと棚に片付けられていたものを引っ張り出したのは彼自身で、どう転んだと手彼に責任があるのは間違いない。
 それは分かっているはずなのに、最終的に彼の思考が行き着く先は、自分をひとりにした奴らが悪い、という非常に他力本願な答えだった。
 もう一度、今度は何もない空間で足を蹴り上げて彼はその場にしゃがみ込んだ。
 膝を抱え、テーブルの下、影になっている空間に転がっている箱をただじっと眺める。喉はまだガラガラしていてコーヒーが絡みついている感覚が残っており、舌先も火傷とコーヒーの苦さで諸々の感覚が遠くなってしまっているようだった。
「……くそっ……」
 ひとりには慣れていたはずなのに、今はこんなにも独りで在ることが辛い。
 取り残される命だと分かっているはずなのに、置いて行かれてしまうことが恐い。
 なにもない空虚な、音さえもない空間に忘れ去られる事が、哀しい。
 ……寂しい。
 否定したくて、彼は抱きしめた己の膝に額を押し当てたその状態のまま首を振った。背中の羽根が抵抗するようにぱさぱさと羽ばたく。だけれど、それは虚しく空を切るばかりで彼の願うままに、この場所から彼を連れ出す事はなかった。
 失われた力は大きい。
 手に入れた多くのものと引き替えにした代償に彼が失ったのは、永い孤独に耐え忍ぶ心の強さか。
 認めたくなくて唇を浅く噛みしめる。そこに残る苦さに思い切り顔を歪ませ、ますます背を丸め込ませて彼は床の上に本格的に座り込んでしまった。
 出来るものならばヒステリックに、回りのものすべてに当たり散らして壊してしまいたい。今ある環境を壊して、すべてを、今までの事何もかもを否定して拒否して、ゼロにすれば昔のような、強かった自分に戻れるのだとしたら。
 そんなことが出来ないことは、分かっているのに。
 名前を呼んでもらえないという孤独。誰の目にも留まらないという恐怖。そのまま忘れ去られてしまうかもしれないという懼れ。
 独りで居る時は感じなかったもの、知らなかったものを大勢と交わり、仲間を得ることで覚えてしまった。そしてそれらの感情はきっと、この先永遠に消え去ることはないのだろう。
 目覚めなければ良かったと、ふと、思った。
 顔を上げる。視界の中心に、あの箱から飛び出した陶器の欠片が転がっていた。
 右腕を伸ばす。肩が抜けるかというギリギリまで伸ばせば、今の位置から動かずともかろうじて掴むことが出来た。指先で伸び上がっている一角を手前に弾き、そうやって数回自分の方へと引き寄せてから、二本指で摘み上げる。
 さほど大きくはない破片、だが落下の衝撃で木っ端微塵に砕けたそれは角という角がすべて、鋭く尖っている。掴んだ時にその一角が刺さったのか、鈍い指先の痛みに目を向ければ人差し指の爪の直ぐ下、腹側に小さな赤い粒が生まれていた。
「ぁ……」
 零れた息は淡い。
 表面張力により出血はそこで止まる、溢れ出すことはない。たった一点、切れただけの傷は彼の回復力を持ってすれば数分後には綺麗に消えて無くなっていることだろう。
 しかし彼はその赤い一点を凝視したまま右手に持った欠片をくるり、と持ち替えた。一瞬だけ息を止め、そして深く吸い込み、また止めて。
 強く破片を握りつぶそうと全身に力を込めて――――
「はい、そこまでね」
 ぽすっ、と込められようとしていた力は呆気なく上から降ってきて包み込んだ手の平に回収され、分散されて消えていった。
「…………ぁ……」
 首だけを上げ、己の真上を見上げる。そこには、彼に影を落とす格好で背後にそびえ立つ白と青の存在があった。
 表情は厳しく右だけの隻眼はスッと細められており、丹朱の瞳は彼を見下ろしたまま睨んでいるようでもあった。なんてタイミングの悪いときに、と今自分がしようとしていたこととを思い出し、ユーリは気まずそうに視線を逸らし疲れてしまう首も一緒に下向けた。
「いつから、居た……」
「さっき」
 沈みきっているユーリのことばに短く返し、彼は掴んだユーリの手の平を解いて中に籠められたままの破片を指先で取りだした。朱の痕が僅かに残るその白光りする鋭利なものに変わらず目を細めたままの視線を向け、溜息とも落胆の呼気とも取り得る息を数回吐き出した後、それをシンク脇に蓋もなく置かれている巨大なゴミ箱に投げ入れた。
 縁にぶつかり、空中に一度小さく跳ねたものの、それは感嘆に他のゴミに紛れて分からなくなってしまった。
「怪我は?」
「……いつから見ていた……」
 ぱんぱん、と片づけが終わったばかりに両手を叩く仕草を見せた彼に、ユーリは床の上に腰を落としたまま尋ねる。
「君が机の下から破片を拾い上げる辺りから」
 だとしたら、随分前になる。彼はその間、ユーリの背中に声もかけずに気配を断ってことの顛末を見守っていたということか。
「悪趣味な」
「ちゃんと止めてあげたじゃない」
 致命的な傷を負う前に制止の声と手を出した彼は、咎められる理由などなにもないといわんばかりに肩を竦めて首を振った。しかしユ-リにしてみれば、それ以前に人の背後でそうと知られぬように立っている事自体が、既に悪趣味極まりないということになる。
「あぁ、それとも」
 止めて欲しくなかったの? そう問い返す視線に気づきユーリは返事もせず、また視線だけを逸らした。特に目的もなく向けた先には、棚の手前で乱雑に山積みされた箱と食器類が散らかっていた。
「アッシュに怒られるね」
「それはっ」
 ユーリが何を見ているのか、同じように壁際に目をやった彼がカラカラと喉を鳴らしながら笑って言う。即座に誰の所為だ、と言いかけてしまったユーリは気づいて慌てて中途半端に息と言葉を途切れさせた。出かけた言葉は咄嗟に持ち上げた手で口を塞ぐ事で呑み込む。
 怪訝な目を向けてユーリを見る彼に、反射的に首を振ってから一呼吸置き、今度は縦に首を振った。
「ふぅん……」
 まぁ良いんだけど、とひとりごちて彼は頭を掻いた。それから改めて、台所の惨状を見回して盛大に肩を竦める。
「ところでさ、ユーリ。君はいったい台所で何をしようとしていたわけ?」
 テーブルの上には飲み終えたコーヒーカップがひとつ。コンロの上には残り湯も大量のケトル、シンクの横にはインスタントコーヒーの瓶。見ただけで答えは出てきそうなものだが、彼は敢えて直接本人から答えを聞こうとした。
 床の上のユーリが、ジト目で彼を睨み上げている。
「だから、だな」
「うん」
 ユーリは「見て分かれ」と言いたげな顔をしながら言葉を濁した。どうしても視線が泳いでしまうのは、やはり台所をこんな風に荒らしてしまった事に対する引け目がどこかにあるからだろう。
「それで?」
「アッシュも、お前も居ないから……」
「ぅん?」
 モゴモゴと言葉を喉に詰まらせつつ、ユーリは床にぺったりと貼り付ける格好で置いてある自分の膝辺りをしきりに指で弄る。さっき出来た傷はもう癒えて、痕すら残っていない。
「だから、だっ」
「はい?」
 会話の途中だったはずなのに、いきなり経過がすっ飛んで結論とも言えない完結を見せたユーリの怒鳴り声に、彼は素っ頓狂な声で返すしかなかった。いったいなにが「だから」なのか、さっぱり見当がつかない。
 台所で何をしていたのかを聞いていたはずなのに、返ってきたのは「自分やアッシュが居ないから」では、まったく答えになっていない。彼は困ったように顔を顰め、頭をしきりに掻き乱しながらもう一度、ゆっくり台所内を見回した。
 吐息が、ひとつ。それから、
「えぇと……ぼくの勝手な推測を言わせてもらうとね、ユーリ。つまり君は、ぼくもアッシュも誰もいないから自分でコーヒーを煎れようとしたらこうなった、と。しかも自分で作ったコーヒーはあんまり美味しくなかったものだから、ものに当たり散らしてたって、そういう事だと思って構わない?」
 構わないもなにも、ユーリにとって今言われた事はものの見事に図星である。否定しようにも、今否定したら余計に肯定してしまいかねなくて彼は何も言わず、また床の上に視線を這わせた。その言葉以上に雄弁にものを語る彼の仕草を一部始終見守って、彼はまた大仰に息を吐き出した。
「言いたくないのなら別に良いんだけどさ」
 軽く左手を振り、彼は腰を屈めて床の上に置きっぱなしにされていたコーヒーミルを片手で持ち上げた。途中バランスが悪くなり、落とす手前で両手に持ち替えたそれをシンク台に乗せた。
「コーヒーで良いの?」
 ユーリに背を向ける格好になった彼が言い、その言葉が含む意味を理解しかねたユーリは少し茫然としながら彼の背中を見上げた。返事がないことを焦れったく感じたのか、首を右に振りながら振り返り、そのまま軽く曲げて問いかける動作を見せた彼に、ユーリはようやく彼が、コーヒーを煎れようとしている事に気づいた。
 唾を飲み込むと、さっき飲んだインスタントコーヒーの苦さがまだ残っていたらしくつい眉根が寄ってしまう。
「……あぁ、うん」
 小さく頷くと、確認のためにもう一度目を見つめられたのでユーリは改めて今度は大きく、はっきりと伝わるように頷いた。
「じゃぁ、ちょっと待っててね。部屋も片付けなきゃいけないし……豆どこにしまってあったっけ……」
 返事だけを聞いてしまうとあとは自分の世界に戻ってしまったらしい。独り言をぶつぶつと呟きながら彼は頭上の戸棚を開けて、左右を見回しつつ何かを捜している。
「あっ」
 けれど唐突に、ユーリが何かを言おうとしてその勢いだけで顔を上げてしまい、彼は自分でも「あ?」という顔をして振り返った。 
 必然的にすれ違った視線。けれどユーリは自分から呼び込んだはずなのに自分から外してしまって、言おうとしていた言葉も呑み込んだ。
 不自然な沈黙。彼は何も言わず、黙ったままユーリの次の言葉を待っていた。
 おずおずと、ユーリは顔を上げ上目遣いに彼を見る。
「悪い、なんでもない」
 しかし口をついて出た言葉はそんな台詞で、自分でもがっくり来てしまったユーリに反して彼は「ふぅん」と相槌にも似つかない相槌を返すに留める。そしてまたすぐに視線を前方に戻し、棚を探り始めてしまう。
 視線と注意から外されたことにユーリは舌打ちしたくなるような思いを抱えつつ、何故か安堵さえも覚えていた。
 居住まいを正しつつも未だ床の上に直接座り込むという格好のままで居る彼に、ようやく目当てのものを発掘したらしい人物は隻眼を細めながら再び振り返って現在のユーリの状態を軽く笑った。
「向こうで待ってて良いよ。時間掛かると思うし」
 ミルで豆を挽いてからネルを使って煎れるつもりらしい彼の調子に、ユーリはまともな言葉のひとつも返すことが出来ぬまま頷いた。
 立ち上がろうとして、前のめりに身体が一瞬傾ぐ。ずっと座ったままで居たことと、緊張が解けてしまった事が原因らしい。軽い眩暈に似たものを覚え、浮かせた腰がまた床のお世話になってしまう。
「…………」
 重い重いため息を零し、ユーリは前髪が被る額を片手で押さえた。いっそこのまま身体ごと地底の底に沈んでしまえばいいとさえ、頭の中を思考が過ぎる。
「ユーリ」
 中断させたのは、相変わらず背を向けたまま手だけを動かしている男の声。
「明日はずっと、城にいるから」
「出て行け……」
「一緒に出かける?」
「うるさい」
「分かった」
 じゃあ黙るから、リビングで休んでおいで? 愛想を振りまこうともせず、淡々と告げて彼はコーヒー豆を挽き始めた。香ばしい香りが僅かに登り始め、だけれど匂いに思わず眉を顰めてしまったユーリはもう一度膝に力を込めて立ち上がり、フラフラする身体を支えるためにテーブルに手を置いた。
 最後に彼の背中を思い切り睨み付けて、台所からリビングへ繋がる唯一の扉を潜って出ていく。
 ちらりと浮かせた視界の片隅で様子を伺い、ユーリがちゃんとリビングへ向かった事を確かめてから彼は、深く長い息をゆっくりと吐き出した。天井を仰ぎ、ミルのハンドルを回す手に力を込める。
「ここも片付けなきゃね……」
 別の意味の溜息も一緒に零して、彼は黙々と作業を続けた。
 一方のユーリは、言われたとおりに半ば台所を追い出される格好で訪れたリビングのソファにどかっ、と身体を沈めた。
 座る、というよりは倒れ込んだ、という格好だった。肘置きに膝裏を置き、仰向けって丁度手を伸ばした先にあったクッションを抱き上げ、腹に据える。両手を回して抱きしめると、軽い圧迫感が腹部に生まれた。けれど構わず、更に強く力を込めてクッションを抱きしめる。
 同時に固く目も閉じた。
 寝返りを打てば、幅が狭いソファの上から当然足が先にはみ出す。投げ出したままの足を結局はフローリングとソファとの間に出来た空間に浮かせ、彼は瞼の裏に出来上がった闇をただ睨み付ける事に終始した。
 考えても、考えるべき事が思い浮かばない。不必要な事ばかりがまとまり無く次々と浮かんでは消えて行くばかりで、真面目にひとつずつに対応していたら飽きる前に疲れてしまいそうだった。
 ちらっと見上げた時計は間もなく午後四時を通り過ぎてから半刻を過ぎようとしている。いつの間にこんなに時間が経過したのだろうと、さっき台所で見上げたはずの時計の時刻から逆算して考えてしまって、途中でやめた。
 惨めになりそうだったから。
 どれくらいそうしていただろう。動くものの気配を感じ取って薄目を開けると、先程とまったく同じように、目の前に自分を覗き込んでいる隻眼の丹朱があって、驚いてしまう。
「なっ、なんだ!?」
 反射的に怒鳴り、身体を持ち上げて狼狽を隠そうとしたユーリに、最初からそんな反応は予測済みなのか簡単にぶつかりそうだった身体をずらして避け、彼は左手に持っていたマグカップをユーリに差し出した。仄かに湯気を立てているそれを受け取ってしまい、ユーリはソファに斜め座りという体勢のままカップの中を覗き込んだ。
 コーヒーにしては、色がかなり薄い。それに香りも微妙に違っている気がする。
 ひとくち、試しに少しだけ息を吹きかけて表面を冷まし飲んでみる。
「……ぁ」
 疑問は即座に解消した。
「これ、カフェオレ……」
 よくよく色を見ながら考えてみれば、飲まずとも分かったかも知れない答えに自分で苦笑を禁じ得ず、ユーリはカップを持たない方の手で口元を隠した。また、ユーリにカップを渡した彼もまた、自分のカップを持ち直して向かい側のソファに腰を落ち着けさせた。
 ちらっと見えた限りでは、向こうのカップに入っているのはブラックコーヒーのようだった。
「カフェオレが良かったんじゃないの?」
「それは……そうだが」
 まだインスタントの苦さが口の中に残っているユーリは、次も同じように濃いブラックコーヒーを飲む気になれなかった。しかし言えば自分が失敗したことを認めるようだし、第一ミルクがたっぷりと入ったカフェオレはどこか子供じみているような気がして、言えなかった。
 何故分かったのだろう、と両手に持ったマグカップでカフェオレを飲みながらユーリは上目遣いに真向かいの彼を見た。彼は床に落ちていた雑誌を拾い上げ、適当に広げて眺めている最中だった。それから、やはり床の上に落ちていたものを回収したテレビリモコンでもってテレビにスイッチを入れる。
 数回チャンネルを切り替えて、結局ネイチャー番組に落ちついた。静かな音楽が背景に流れている、無駄な音声を省いた画面はどこかの草原を映していた。
「アッシュ、さ」
 唐突に話を振られ、ユーリは呑み込もうとしていたカフェオレを気管に流してしまい咳き込んだ。幸い量も少なく咽せていた時間もさほど長いものではなかったが、心配げな瞳に気づいて大丈夫だ、と無理矢理に作り出した笑顔を相手に向けた。
 安堵はしていなかったが、大丈夫かと追求しても無駄だと悟ったらしい彼は雑誌とカップを一緒にクリスタルのテーブルに揃えて並べた。それから、中途半端に途切れさせた言葉を続ける。
「今日遅くなるから、夕食勝手にしてくれって言われてるんだけど」
 どうする?
 問いかける視線にユーリは眉間に皺を寄せた。
「食べたいものがあるのなら、作るけど」
 もっともアッシュみたいに上手じゃないけどね、と先に断って彼は笑った。調理師免許まで持っているアッシュと並べられるのは、彼としても本意ではないだろうしまさか料理の腕で勝てるとも思っていないのだろう。それに、自分の下手の横好き程度の料理できちんと学んだアッシュよりも美味い、等といわれでもしたら、それこそアッシュに立場がないというもの。
 彼の自嘲気味な笑みを一通り眺め終え、ユーリはカフェオレをひとくち飲んだ。
 コーヒーの香りと、ミルクの円やかさが舌先に踊る。
「カレー……」
「ん?」
 聞き取れなかったらしい彼は、少しだけユーリの方に身を乗り出した。コーヒーカップから立ち上る湯気が揺れる。
「お前だから、どうせ……カレーなんだろう……?」
「嫌だったら違うのにするけど」
「それでいい」
 控えめな彼の提案を一蹴するようなユーリのひとことに、彼は瞠目してしばらく言葉を途切れさせた。
「……なんだ」
 その態度を不機嫌そうに睨み、ユーリはまたカフェオレを啜る。少しだけ冷め掛かっていたそれは、案外喉の通りも良く滑るように彼の心ごと身体を温めてくれた。
 ほぅっ、と吐き出した息は柔らかい。
「いや……なんかユーリがそんなこと言うなんて」
「変だとでも言いたいのか?」
「そういう事じゃないけど」
 悪態をつけば、それに応じた言葉が返される。それは独りで居るとき決して楽しむことが出来ない、時間と空気だ。
 ユーリの睨みに肩を竦めて小さくなり、居心地悪そうに彼はカップからコーヒーを啜った。
「本当にソレで良いの?」
「くどい」
 確認を求めてくる彼の問いかけを一蹴し、ユーリは一気に飲み干したカフェオレのカップをテーブルに置いた。コツっ、とテーブルのガラス面に底が擦れて音がする。
 前を向くと、彼はまだコーヒーを飲んでいた。けれどユーリの視線に気づいて「なに?」という顔をする。
「いや……」
 言おうかどうか、彼は一瞬悩んだ。けれど不思議そうな目を向けられたままで居るのも気にくわないので、コホンとひとつ、わざとらしく咳払いなどをしてしまった。益々彼が怪訝な表情を作る前で、カップに残っていた自分の唇の痕を指でなぞりながら小さく呟く。
「スマイル」
「はい」
 名前を呼ばれて返事をするのは当然のこと。だが今回は、それが妙に滑稽に思えた。
「あ、そうだ」
 呼ばれて、思い出したことがあったらしいスマイルが片手で膝を打ってカップを置いた。やはりテーブルのカップの底が刷れる音が響く。
「タダイマ」
 にっこりと微笑んで、彼は言った。
 なんの躊躇も迷いもなく、実にあっさりと簡単に、当たり前の言葉として彼はユーリに笑いかけた。
 唖然としてしまって、ユーリは言葉を失う。
「ユーリ?」
 ぽかんと間抜けなくらいに口を開けて、だのに黙っているユーリを訝み、彼――スマイルは首を傾げた。はっと我に返ったユーリが、慌てて取り繕うようになにかを言おうと口を開閉させた。
 けれど咄嗟には言葉がでてこない。
 そんな彼を正面から眺めながら、スマイルは肘をついて頬杖を付き、微笑みかける。
「まだ言ってなかったよね。ただいま、ユーリ」
「あ、あぁ……」
 聞こえなかったのかも知れないと誤解したスマイルが言い直し、ユーリはようやく冷静さを取り戻した顔になって頷く。
「おかえり」
 言葉はするっと、さっきまで散々躊躇させていたはずの言葉にも関わらず、簡単に飛び出していた。
 またコーヒーを飲もうとカップに手を伸ばしていたスマイルが、驚きつつも嬉しそうな顔をして笑みを浮かべた。
「おかえり、スマイル」
 今度こそちゃんと顔を向き合わせながら、ユーリもまた、微笑んだ。

Fellow

 夕暮れが終わると、闇は一気に押し寄せてくる。足許に長く伸びていた影も、やがて日が沈むと同時にゆっくりと薄くなり、やがては闇に同化して消えて行ってしまう。
 そして、世界は闇に包まれる。 
 けれど、闇は優しい。
 まだ少しだけ日の暖かさを残している大地を、そこに伸びる緑の草を踏みしめながら彼は先に立って歩いていく。
 やがて草地は途切れ、人の暮らす世界――緑の境界線が目の前に広がり始める。彼は足を止め、振り返った。
 ほの暗い世界の中で、黒を纏った少女が同じように足を止めた。そして彼を見上げ、不思議そうな目をしながら小首を傾げた。
 動きに相まって、彼女が持っている白い鳥籠が揺れて音を立てた。
「家は?」
 送っていくよ、と彼は言った。しかし少女はまだ首を傾げたまま、答えようともしないで彼を見上げ続ける。
 闇よりも深い漆黒が彼を見上げている。
「おうち……?」
 冷え冷えとし始めた空気に肩を震わせ、少女は呟いた。
 視線が彼から逸れ、揺らめく。何もない空間を彷徨い、足許に落ちたまま戻ってこない。
 空の鳥籠が揺れる。吹いた風が彼女の足許を覆う草を波立たせて去っていった。
 彼は眉根を寄せた。怪訝な面もちで少女を見下ろし、それからもう見えなくなってしまった太陽を追いかけるように西の空を仰ぐ。
 沈黙の空気は重く、湿っている。
「おうち……」
 まさか、解らないなどと言いやしないだろうか。
 少女の周囲に漂う雰囲気を探りながら、彼は戻した視線の先に居る彼女の黒髪を見つめる。艶のあるそれは綺麗で、よく手入れも行き届いている。パッと見、少女の身元を証明できそうなものはなにもなく、この様子では問い質しても答えを導き出すのは至難の技のように思えた。
 彼女はまだ、視線を虚空に漂わせていた。なにかを紡ごうとしている口元は、しかし音を発することなく閉じられる。
「……じゃぁ、さ」
 質問の内容を変えてみることにした。
「どこから、来たの?」
 膝を折り、少女の視線に重なるように姿勢を低くして問いかける。だが即答は、案の定無かった。
 けれども、返されなかった視線が戻ってきたので無駄ではなかっただろう。
 彼は辛抱強く少女の返答を待った。
 闇は濃さを増し、青紫から濃紺へと空は様相を変化させる。雲が多く星は疎らにしか見えない。だが雲間から覗く月は下弦、細い身なりを人々の目に晒している。
「おうち……」
 ぽそり、と少女は自分の手で覆い隠した口元から音色を零した。
「……?」
 彼は一度大きく瞬きをし、少女を凝視する。
 どこから来たのか=家。では、その家は?
「……わからない……」
 がくっ、と彼は聞いた途端膝の力が抜けてその場に倒れてしまいそうになった。少女がまたより一層不思議そうな顔をし、彼を見つめる。
 悪気があって言っているのではないから怒られないが、さすがに脱力してしまうのは仕方がなかろう。冗談を言っているともとても思えないし、少女がそこまでする性格をして居るとも思えない。
 本気で、迷子なのだろう。しかも無自覚に。
「解らない? どっちから来たか、とかだけでも」
 地面の上に座り直し、彼は三度目の問いかけをする。少女は今度は、即座に首を横に振った。
 お手上げかも知れない。
 こんな事だったら、日が暮れる前に彼女を帰すんだったと後悔してしまうが、一緒に昼寝をして気が付いたときにはもう夕方だったのだからその後悔は、はっきり言って無駄である。
 警察に連れて行くべきか。
 判断に悩み、彼は左手で髪を掻き乱しながら少女を見上げた。漆黒の双眸は、まったく疑問も疑いさえも抱かずに彼を見つめている。
 足許へ目を伏せ、それから彼は膝を打ち立ち上がった。唐突だったその動きに驚いたのか、少女は珍しく目を丸くして半歩後ろに下がった。片手にぶら下げていた鳥籠を引き寄せて、反射的に抱きしめる。
 恐がらせてしまったようで、彼は困ったようにまた髪を掻き回した。セットが崩れ、長めの前髪が落ちてきて唯一露わにされている右目を覆い隠そうとする。
 それを指先で弾き飛ばし、大丈夫だよ、と言わんばかりに笑顔を振りまく。少しエセ臭いと自分でも自覚できるほどの笑顔だったが、少女は強張っていた肩から力を抜くのが解って、自分まで安堵してしまう。
 振り回されているな、とガラではない今の自分がおかしかった。
「どうしたの……?」
 少女が近付いてきて、尋ねる。どうやら今の自嘲気味な笑みを察知されてしまったらしい。普段ならば誰にも悟られないはずなのに、この少女の勘の鋭さには舌を巻いた。
 なんでもないよ、と顔の前で手を一度横に振って、それからまた思案顔で空を仰ぎ見る。
 この時間帯で警察に連れて行っても、家族と連絡が取れて引き取りが来る頃には夜半に達している可能性がある。今の彼女の調子では、ちゃんと家族と連絡が取れるとも限らない。
 それになにより、警察はこの場所から、少し遠い。
 むしろ城の方が近いくらいだ。
「………………」
 長い永い沈黙の末、落ちた溜息は諦めに近かった。
 ぼさぼさになり掛かっている髪をまた掻き回し、隻眼を細めて彼は少女を改めて見直した。
「うち、来る?」
 正しくは、彼の家では決してないのだけれども。
 あの無駄に広い空間になら、突然の訪問客があっても余るくらいの普段使用されていない客間が大量にある。そのうちのひとつを、今夜だけ借用させて貰おう。
 少女は迷っているようだった。それも、迷っている種類が「この人についていって大丈夫だろうか」というものではなく、どちからと言えば「自分が行っても良いのだろうか」という類のものらしかった。何度も彼の目を見て、抱えている鳥籠へ視線を落とす。
 吹き付ける風はかなり冷たい。昼間の暖かさが嘘のようで、彼女が鳥籠を抱きしめているのは決して不安だからという理由だけではなさそうだ。
「おいで? 明日、明るくなってから送って行ってあげる」
 城に帰れば電話もあるし、そこから家族に連絡をすれば大丈夫だろう。
 なるべく少女を刺激しないように言い、彼はにっこりと微笑んだ。それを見て、ようやく少女も固かった表情を和らげる。
 微笑み返して、頷いた。
「おうち……あなたの」
「ぼくの家……城じゃないんだけどね」
 家主にはなんと言い訳しようか。きっと怒られるだろうな、とその顔を思い浮かべて彼は小さく肩を竦めた。
「……?」
 少女が疑問符を頭の上に浮かべ、真下からじっと彼を見上げる。瞳にはまだ、彼の申し出を本当に受けて良いのかどうか迷っている色が残っている。
 安心させたくて、彼は自分の中にあった不安を頭の中から追い出した。
 この子は、勘がいいから自分の心の中にある不安や、恐れを敏感に感じ取ってしまうのだ。そしてそれは少女の心にまで間接的な影響を与えてしまいかねない。
 鏡のようだと、思った。
 そう、澄んだ水のように黒い――鏡だ。
 彼は自分が着ている上着を脱いだ。襟の部分で持ち替え、少女の肩にひっかけてやる。彼女はまた不思議そうに彼と上着とを交互に見つめ、小さく首を振り鳥籠を下に置いてまでして、上着を外して返そうとする。
 だがそれこそ、彼に遠慮しなくて良いよと伸ばした手を上着ごと押し返されてしまい、引っ込めるしかなかった。
 素直に受け取り、自分から袖のないワンピースの上に着込む。
 やはり男性用の上着は大きすぎて、袖の先からは彼女の指先さえも現れてこなかった。
 苦笑して膝を折ってまたその場にしゃがみ込み、彼は今は少女が身に纏っている自分の濃紺色をした上着の袖を三重に折り曲げた。
 そうすれば、ようやく少女の小さな可愛らしい、白い手が現れて鳥籠を持つ事が出来るようになった。少女もホッとしたようで、足許に置いてあった空の鳥籠を右手に持ち直す。
 カラン、と鍵の掛かっていない扉が開いて閉じ、小さな音が転がり落ちた。
とり……
 少女がそんな鳥籠を見下ろして呟く。
 もう完全な夜、鳥たちも巣に戻って羽を休め眠りに就き始めているはずだ。
「明日、日が昇ってからね」
 少女の頭を優しく撫で、彼は言った。少女も理解したようで、黙ったままひとつ頷く。
 撫でてやった手を下ろし脇に流すと、横から伸びてきた体温が触れた。
 少し驚いて下を向くと、同じように不安顔で見上げてきた少女と目が合う。にこりと微笑み返してやれば、ぎゅっ、と握られた手が更に強く握られた。

「ただいまー」
「遅い!」
 かけ声と一緒に扉を押し開けると、待ちかまえていたらしい人物の声が飛び込んできてその場で彼は固まった。
 正面玄関前、広く天井も高いホールのど真ん中で仁王立ちしているその人の姿が嫌でも目に入り、思わず回れ右をしてしまいそうになったが自分の背後に居る存在を思い出して、首を振る。
「ゴメンナサイ」
 しゅん、と小さくなって頭を下げ、謝る。言い訳はとりあえず後、先に謝ってしまった方が向こうも出鼻を挫かれて強く出ることが出来なくなるのだから。
 それから頭を上げ、ホール内部に足を踏み入れる。けれど途中で立ち止まり、振り返って後ろへ手招き。
「?」
 ホールで待ちかまえている銀糸の人は、怪訝な顔をして首を傾げ、彼の向こうから歩いてくる人物に目を凝らした。
 小さな、綺麗な黒髪をした少女を視界におさめ、途端に表情が不審なものに変わる。
「そこまで地に堕ちたか、貴様」
「ちがーっう!」
 いったい何を誤解したのか、腕組みをしてさらりとそんなことを言った彼に思い切り否定の声を飛ばして。びくっと声の大きさに驚いた少女に、君に怒鳴ったんじゃないと囁いてから開けっぱなしの扉を閉めに行った。
 背中で押して閉め、苦笑う。
「迷子」
「……誘拐か」
「ユーリさん、ちゃんと人の話聞いてます?」
 むしろ聞こえていないフリをしているらしいユーリに肩を竦め、彼は不安げに彼と、ユーリと、あとはあまり明るい雰囲気とも言い難い城の内装とを見比べている少女に微笑みかけた。
「大丈夫。別に取って食べたりしないから」
「スマイル、帰ってきたんスか?」
 彼の声に、奧から顔を覗かせた青年の声が被る。だが、どうも妙な雰囲気を悟ったようで、奧へ続く扉から出てきた彼は、ホールで不機嫌を隠さずにいるユーリと、それから扉の前で止まったままでいるスマイルとを交互に見つめた。
 最後に、スマイルの前に居る少女にようやく気づく。
「あれ、かごめちゃん……だったっスか」
 どうして此処にいるのか、と疑問符を乗せた調子で言った彼に、ユーリは「知り合いか?」と目を向ける。
「知り合いっていうか、最近話題の子っス。前に一度仕事で一緒になったこともあるっス」
 ソロでの仕事で会ったからユーリが知らなくても無理はない、とあまり世情に詳しくないユーリが顔を顰めるのに苦笑して、彼は少女へ歩み寄った。
「俺のこと、覚えてるっスか?」
 鳥籠を抱きしめている少女の前で止まり、自分を指さしながら尋ねる。彼女は視線を泳がせてスマイルを見上げてから、もう一度アッシュを見た。しかし明確な返答は得られず、アッシュ自身も困ってしまって助けを求めるようにスマイルを見た。
「なんでぼくを見るのさ……」
 ふたりから同時に見つめられ、困惑を隠せぬままスマイルは溜息をついた。
「スマイルは、かごめちゃんとどういう知り合いっスか?」
「一緒に昼寝しただけ」
「……犯罪者め」
「なにもしてないってばー!」
 正直に本当のことを告げただけなのに、即座にユーリが小声で呟くものだから、またスマイルは大声で否定してぷんすか、と頭から湯気を出す。アッシュが空笑いを浮かべて大人げないやりとりをやっている大人ふたりを交互に見る。
「ええと……俺は、アッシュ。前に一緒に仕事したことあるっスけど、覚えてないっスか?」
 その場でしゃがみ込み、彼はもう一度少女に問いかけた。彼女は小首を傾げながら懸命に記憶の海を掘り返し、やがてなにか引っ掛かるものがあったのか、数回瞬きを繰り返した。
 短く、小さな声で呟く。
「おいぬさん……?」
「イヌー!?」
 傍で聞いていたスマイルが、途端に大笑いを始めた。そういう認識しかされていなかった事を知らされ、アッシュの方はショックで石になってしまっている。一方、少女は自分が言ったことがまずかったのかと、口元に手をやって心配そうにアッシュを見つめる。
 ユーリだけが、置き去りにされた格好でひとり不機嫌に佇むばかりだ。
「あ、でも。君、かごめちゃんって言うんだ」
 まだ落ち込んでいるアッシュをよそに、スマイルは振り返った少女を見下ろして今知ったばかりの彼女の名前を呼んだ。
 少女はコクン、と頷く。それから鳥籠を持たない方の手を伸ばし、スマイルの手を取る。
「……スマイル……?」
 そういえば、自分だって彼女に名乗っていなかったではないか。今彼女に呼ばれてから思い出した事実に、自分でも愕然としてしまってそれから可笑しくなってまた笑った。
「そう、スマイル。ぼくは、スマイル」
 よろしくね、と微笑みかける。そして傍でまだいじけている真っ最中のアッシュを指で指し示し、
「あれは、アッシュ。イヌだよ」
 本人にとっては否定して欲しかっただろう事をあっさりと肯定し、更にアッシュを崖から突き落としてスマイルは意地悪く笑った。それから、ホールの真ん中から動こうとしないユーリへ視線を持ち上げる。
 気づいたユーリは、組んでいた腕を解き遠くへと視線を逸らしてしまったけれど。
 そんなリーダーの態度に肩を竦めて、
「あっちに居るのが、この城の主人のユーリ。知ってる?」
 スマイルのことを知らなかったのだから、ユーリのこともひょっとしたら知らないかもしれない。直接面識があったはずのアッシュの事でさえ、まともに記憶していなかったのだから。
 彼の問いかけに、少女――かごめは案の定、頷いて肯定した。横目で事の成りを見ていたユーリが、不満げに舌打ちをしていたのをスマイルはちゃんと見ていた。
「そこ、拗ねない」
「五月蠅い!」
「でも、まぁこれで覚えて貰えただろうし。良いじゃない」
 カラカラと笑ってスマイルは手を振る。かごめも、よく解らないという顔をしていたがスマイルが笑っているので表情を和らげる。
「なにはともあれ、今後ともヨロシク」
 ね? と微笑んで相槌を求めると、彼女は同じように微笑んで大きく頷いた。

咎人の祈り

 ハイランド王国皇都ルルノイエ──
 白亜の王城は、美しくきらびやかであるが、どことなく冷たい印象を見る者に与える。それは、ハイランドの歴史が戦争の繰り返しという事実が故の、絶対の力の象徴だったためかもしれない。
 人生の最期に、長すぎた戦乱に終止符を打とうとしたアガレス・ブライトも。
 世界の全てを混乱と恐怖で破壊し尽くさんと欲した狂皇子ルカ・ブライトも、もういない。
 血塗られたブライト皇家に最後に遺されたのは、ジルという、たった一輪の紅い華。
 彼女はひとつの手段でしかなかった。罪悪感を覚えることは、いつだって出来る。しかしこの、荒れ狂う大地を平定出来るのは今という時しかない。
 後悔はしないと決めた。自分の選んだ道は、とても険しく、厳しい道のりであることが分かるからこそ、後悔なんて出来なかった。もう、選んでしまったのだから。二度と戻れない道を。
 相次ぐ支配者の死。
 暗殺されたアガレス・ブライト。その跡を継ぎ、ラストエデン軍を猛追したルカ・ブライト。だが彼の夢は半ばで砕け散った。
 ルカのめざしたものは全ての破壊。人も、獣も、森も湖も山も何もかもを奪い尽くし、破壊し尽くし、誰も生きることのできない沈黙の世界を作り出すことだった。そして、ブライト家に伝わる獣の紋章は、それが可能になるほどの力を秘めている。
 今は黒き刃の紋章で、首をもたげ、すぐにでも地上に影響を及ぼそうとする獣の紋章をかろうじて封じていられる。だが、27の真の紋章それ自身と、二つに分かたれた真の紋章の力の差は歴然としている。いつか、封じきれなくなるときが来るかもしれない。それはそのまま、ここルルノイエ、強いてはハイランド全体の崩壊をも意味しかねない。
 ルカ・ブライトの死後すぐに取り行われた、ジルとジョウイの婚礼の儀は、指導者を失ったハイランドが内側から倒れてしまわぬようにとの、苦肉の策でもあった。
 狂皇をうち破り、勢いづいく一方のラストエデン軍をこれ以上勝手にしておくことは、ハイランドの諸侯達も快いものではない。しかし、国の代表として軍の先頭に立ち、すすんで前線という危険極まりない場所で指揮を執ろうとする者は、ついぞ現れなかった。
 だがキャロの一豪族の息子でしかなく、策にはまったとはいえ一度はハイランドを裏切った若干17歳の少年を国の主権者とする事にも、貴族達はあからさまに不快感を表明していた。
 ジルとの婚約は、アガレス・ブライトがまだ生きていた時に成立したことであり、本人も了解してのことだ。しかしその直後にアガレス王は死亡した。ルカ・ブライトの時だって、内通者がいてラストエデン軍に情報をもたらした為に、待ち伏せにあって反撃を受け、戦死したという噂もある。その内通者がジョウイの手の者だった、というのだ。
 ジョウイは否定している。根拠のないことだと言って。
 しかし噂が消えることはなかった。
 あまりにも都合が良すぎたのだ、ジョウイにとって。ルカの死も、ジルとの婚姻も、そして転がり込んでくるハイランドの王位の坐も。まるで狙っていたかのように全てが一瞬にして納まってしまっていた。それが、古くからハイランドの中枢を担ってきた貴族達の気に入らない部分だった。
 自分を差し置いて、あんな若造に国を任せるなどと……。
 ルルノイエの城を歩いていると、周囲からそんなひそひそ話が聞こえてきて、ジョウイを落胆させる。
 それまで権力が皇王一点に集中し、好きなよう権威をふるえなかった貴族達。ルカの時代になると更に軍部の影響力が増大したせいで、ますます肩身が狭くなる一方だったのが、ルカが死んでジルしか遺らなくなったことで締め付けが緩むと、恐らく諸手をあげて喜んでいたに違いない。
 けれど現実には、ジルは皇王の座をジョウイに明け渡し、政権を担うことはしなかった。
 ジョウイはルカの下、軍を指揮し都市同盟に多大なダメージを与えてきた。そのことは認めざるを得ない。ジルとの婚約も、そういったところの成果をみて決まられた事だと思われている。つまり彼のバックには、ルカ・ブライトが遺した強力な軍部がそのままつく形になっているのだ。貴族連中が望んだような、規制の甘い貴族中心の政治からはほど遠い。
「ジョウイ様……」
「気にするな」
 あまりにもあからさまな彼らの言葉に、不愉快を顔に出したのはジョウイではなく、一緒に歩いていたシードの方だった。
 烈火の猛将としても知られているシードは、こういう陰に隠れてこそこそ不満を言うような人間が嫌いだった。言いたいことがあるのなら、正面切って堂々と言いに来ればいい。そう思っている。
「しかし」
「口だけしか能のないような人間に、いちいち気を向けていても疲れるだけですよ」
 冷淡な反応を返したジョウイに不満そうなシードだったが、クルガンにも追い打ちをかけられ、「はいはい」と肩をすくめた。
 彼らが向かっているのは、城の正面門だった。戴冠式を済ませたジョウイがもうこんな、腐りきった貴族の巣にいる必要はない。
 城には戴冠式に参列するために、多くの貴族諸侯が集まっていた。その中にアトレイド家の当主の姿は当然あるはずがないが、ハイランドにこんなにも税金食いの虫がいたのか、と呆れる思いがジョウイの中に芽生えるに十分すぎる数だった。
 今は戦時中、つまり非常事態だ。それなのに彼らの纏う衣装は派手な飾り付けがされ、きらびやかで悪趣味な宝石が全身を飾っている。食べるものに乏しく、その日を生きるのだけでも懸命な人々がいることを、彼らは知らないのだ。
 そして自分たちの生活が、一体どういう人々の支えに上に成り立っているのかすらも……。
「愚かしい……」
 城の中を徘徊する貴婦人の姿を視界の端に認め、ジョウイは呟く。
 彼女らが期待していた、戴冠式後の豪華絢爛なパーティーは、行われなかった。非常事態であること、こうしている間にも多くの前線の兵士が苦しみ、戦っていることを考えると非常識極まりないことから、ジョウイが中止を決定したものだ。だが時間がなく、その通達が全てに回っていなかったらしい。新王の姿を見た婦人達は、折角新調したドレスの活躍の場がなくなってしまったことを、恨むような目で訴えかけてきたのだった。
 戦場は遠く、ハイランドを離れることのない人々にしてみれば、戦争は対岸の火事でしか無いのかもしれない。しかし戦場で必要な食料は加重された国民からの税金でまかなわれていて、そのことを考えればどうしても、ジョウイは無駄な食料や予算を浪費したくなかった。
「あーああ、つまんねえの」
「折角わざわざ来てやったっていうのに、なんだよ。俺らにオモテナシはなしってか?」
 まだ若い、おそらく貴族の嫡子であろう青年が、近づいてくるジョウイ達に気付かないまま大声で喋っていた。
「ちょっと功績あげたぐらいで皇王になれるんなら、俺もいっとけばよかったかもな」
「後ろの方でああしろ、こうしろって言ってるだけなんだろ? 楽勝じゃないか」
「でもよ。あんなぱっと出の奴の言うこと聞いてる軍に入るのは御免だよな」
「俺もそう思う……っ! お、おい……」
「え? あ!」
 青年の集団と数歩の距離にまで来て、ジョウイは立ち止まった。彼らもようやく3人の姿に気付き、慌てて口をふさいだ。
「お前達……」
 シードが我慢ならないと、爆発寸前の形相で青年達をにらみつける。クルガンも静かな表情だったが、眼は明らかに怒りを含んでいた。
「不満か?」
 その中で、ジョウイの声はよく響いた。
「戦場で安全な場所など、ありはしない。将として求められるのは部下をいかに使い、生き残らせ、勝利するか……その技術だ。功績ばかりを求める者は自滅する」
 そのいい例が、ソロン・ジーだろう。家名だけで軍を任せることは危険だという証拠でもあった。
「国を支えるのも、貴族ではない。土を耕し、土にまみれ、土と共に生きている人々だ。僕たちの食べるもの、身に纏うもの、すべてのものが彼らの生み出したものであり、彼らなくしてこの国はあり得ない。民への感謝の心を忘れたとき、国は簡単に覆される」
 都市同盟の南、かつて権力を欲しいままにした強国赤月帝国が滅びたのは、そこに大きな原因があった。
 民衆に求められなくなった国は滅びるしかない。そうさせないためにも、ジョウイは知恵を絞らねばならなかった。
「……さっすが、庶民出のオウサマは言われることが違いますねぇ」
 静かに言ったジョウイに、リーダー格の青年が口元を歪めて言った。
「貴様!」
「おっと、俺に殴りでもしてみな。あんたの首ぐらい、どうにだって出来るかもしれないぜ?」
 拳を振り上げたシードに、臆しもせず青年は吐き捨てる。彼の身分に思い当たったクルガンが、止めるようにシードを制した。
「俺達は生憎、土の上で汚れたことがなくってね。さすが田舎町で育たれたことだけあって、平民の事をよく分かっておられる。我々では、とてもとても考えが及びませんでしたよ」
 大仰なポーズをつけてそう言い捨て、口元に薄笑いを浮かべる。はっきりとジョウイにも見えるように。
「……言いたいことをいわせておけば……」
 クルガンに押さえつけられたシードが吠えるが、手を出せない相手な為、吠えるだけ。悔しくて唇を噛むと、力を入れすぎて血が出た。
「…………でしたら、これから理解していただきたいものですね。いつまでも無知のままでおられては、将来のハイランドを担われる方としては、恥ずかしい限りでしょうから」
 ふっと表情を緩ませ、顔を上げたジョウイが笑う。
「なっ!?」
「違いますか?」
 よもやそう切り返してくるとは思ってもみなかった青年が言葉を失い、、真正面からジョウイに見つめられて凍りつく。
「確かに、そうですな。ご自身の無知ぶりを改善されないようでは、いくら良い家柄の出であろうとも、ハイランドを任せることは出来かねますな」
 クルガンもシードの拘束を外して、ゆったりとした口調で青年を見下ろした。シードも、ざまーみろとばかりに勝ち誇った表情でふんぞり返っている。
「時間が惜しい。クルガン、シード、行くぞ」
 どちらが勝者かは、明らかだった。
「畜生!!」
 歩き出した3人の後方で、青年の悔しがる声が聞こえたが、もう誰も振り返ったり気にしたりしなかった。
 しかし、ジョウイに傷が全くなかったわけでは、なかった。
 後悔はしない。選んだ道を悔やむことはしない。信じてくれた人のためにも、歩みを止めることは許されない。それでも時々、胸の奥がちくりと痛むことがある。
 ──ちがう、平気だ。
 それは必ず、一人きりになった日、月のきれいな夜に訪れた。
 ──痛くない。こんなのは痛くない……。
 罪悪感など、あるはずがない。これは皆が望む未来のための戦いだ。これは正しい未来のための戦いだ。誤りなど……あってはならない。
 戦いは平行線のまま、ラストエデン軍のリーダーを殺すこともできないまま、いたずらに時だけが流れていく。よどみなく進んでいた計画の歯車が、少しずつずれていってはいないか? そう考えて、急ぎ首を振って否定する。
「僕は間違えてなんか、ない。こんな事でつぶれてなどやるものか。僕には……力があるのだから…………」
 だがその呟きはどこか寂しげだった。
 消せない想いが、まだ心のどこかでくすぶっている。棄てたはずの想いが、嵐の前触れのように静かに時を待ち、たたずんでいる。
 ジョウイは右手を胸の前に掲げ、その甲に浮かぶ紋章を見つめた。
 右手を抱き寄せ、彼は背を壁に預けて全身から力を抜く。
 まるで祈るように……窓から差し込む月の光を浴びながら、彼はそっと目を閉じ、紋章に爪を立てた。

風の訪れ

 時代は変革を望み、嵐は平穏を望む人々を容赦なく呑み込んでゆく
 争いある火種はすでに高くまで昇り、あとは全てを捧げる哀れなる羊を待つばかり
 選ばれし事を幸運とは言わぬ それは限りなく不幸である
 汝はその魂の欠片までもを、時の求めし未来のために奪われるのだ
 これが最後の賭だった。
 もしこれが失敗すれば、ハイランドに抵抗する人々の想いは潰える。都市同盟の大地は血に染め上げられ、残るものは絶望の涙だけになるだろう。
「頑張ろうね、セス」
 隣で義姉が明るい声で言い、背中をばしばしと叩いてきた。
「ダイジョーブ、ダイジョーブ。お姉ちゃんがついてるんだから、ね? なんとかなるよ、きっと」
 かつてノースウィンドゥと言われ、デュナン湖の畔に建つ城から船に乗り、攻め込もうとしている敵軍の背後を突く。それがこの戦いでセレンが求められた行動だった。
 船で移動する事から、連れていける仲間の数は必然的に少なくなる。もし反撃にでもあえば、たちどころに包囲されて殲滅されてしまうだろう。後方からの援助もない、独立した一軍を任されたことは、危険もそれだけ大きく、また成功したときの効果も莫大なものとなる。
 圧倒的な数の不利をはねのけるには、これくらいの奇策をもってしか対応できないのだと、シュウは言った。そしてこの役目はセレンにしか任せられないのだとも。
「…………」
 ラダトで、シュウはセレンの右手の紋章を見て驚いていた。輝く盾の紋章と言い、今は行方不明の親友の持つ黒き刃の紋章とは対の存在である、27の真の紋章のひとつ。
「……セレン……」
 ナナミの声に反応せず、黙ったままグローブをはめた右腕を見つめる義弟に、ナナミは不安の色を隠せなくなる。
 キャロを逃げ出してから、ずっとただ逃げ回るばかりだった。トトの町を焼かれ、ピリカひとりを助け出すことしか出来ず、ミューズではアナベルを失い、ジョウイさえも見失った。ただ逃げることしかできなかった。事態の深刻さや、緊急性に全く気を止めることがなく、その結果戦いは避けられないものとなった。
「……逃げる?」
「え?」
 今セレンが何を考えているか、ナナミには分からない。ジョウイが遠くへ行ってしまったときのように、セレンもいつかナナミの手の届かないところに行ってしまうのではないか。それだけが気がかりで、彼女はつい、そんなことを口にしてしまった。
「ナナミ?」
「……あ、うそうそ。ちがうの、ごめん。何でもないよ」
 よく聞こえなかったと、もう一度言ってくれるように頼んでくるセレンに慌てて首を振り、だが言葉とは裏腹に彼女の表情は暗く沈んでいく。
「どうして……セレンなのかな」
 独白だったが、今度はちゃんとセレンにも聞こえた。湖の風が穏やかに、二人の心をかき鳴らす。陸地が近づいてきていた。
 遠くから戦いの怒号が聞こえてくる。湖の上までは流される血の臭いは届かないが、もうじき自分たちもあの中に放り込まれるのだと二人に自覚させるには十分すぎるものだった。
「ビクトールさんや、フリックさんの方がずっと強くて、頼りになるのに。……あ、別にセレンが頼りないとか弱っちいとかって訳じゃないからね」
「知ってるよ」
 大急ぎで否定したナナミに、セレンは苦笑する。言うことに悪気がないことは、つきあいが長いからよく分かっている。
「ナナミはボクが守るから。心配しないで」
「それ、私の台詞だよ」
 セレンはすぐにへたばっちゃうから、お姉ちゃんの後ろに隠れてなさい、とナナミは偉そうに胸を張って言い切り、周囲の兵士達からも和やかな笑顔が生まれる。二人はこれから戦いの場に赴くことの意味の深さを、知らなかった。
 ビクトールの砦では、かばってくれる人達がいた。彼らは後方で援護するだけでよく、その時はまだジョウイもいてくれた。大丈夫だと、心強かった。
 しかし今は違う。共に戦う兵士の数は、砦での負け戦の時の比ではなくなったが、セレンは先頭に立って戦うことを強いられた。彼が兵を導かねばならない。セレンが敵に背を向けることは許されない。たとえどれほどに危険で、命が危うくても。
 危なくなったらすぐに逃げてこいなどと、ビクトールは言っていたが、そんなことが出来る立場にない事は、彼だって本当は分かっていたはずだ。まだ16歳の少年に全てを託さなければいけないことに、彼は彼なりに罪悪感を感じていたのかもしれない。時々ビクトールやフリック、そしてアップルまでもが、セレンを見ながら別の誰かを思い浮かべているような気がしていた。問いただしても三人は口を濁すだけで、時間もなかったし聞き出すことが出来なかったけれど。
 船が陸に接岸し、あわただしく兵士達は下船していく。かなり送れて、セレンが漁船を下りようとしたとき。ナナミが止まったままなのに気がついた。
「ナナミ?」
 振り返り、いつも元気印の義姉の名前を呼ぶ。
「……セレン……」
 顔を上げた彼女は、思い詰めた表情で義弟を見つめる。
「ね。やっぱり……止めにしない? セレンが戦う事なんて、ないよ」
 他の船はすでに全員下船し、役目を終えて港へ帰っていく。兵士達はあらかじめ決まられていた隊に別れ、陣を組み、セレンの合図を待っている。
「ナナミ……」
「だって、関係ないじゃない。確かにハイランドは悪いことをしていて、それは許せないって思う。でも、だからってセスが苦しい思いまでして戦わなくちゃいけない理由になんか、ならないよ」
「…………」
 戦争の声はすぐ近くに響いている。油断したソロン・ジーを倒せば、頭を失った敵は烏合の衆と化すだろう。ここで王国軍をくい止めることには大きな意味がある。時間が稼げる。ミューズ陥落で覇気の薄れた都市同盟内にも、再び剣を取り、戦おうとする勢いが戻ってくるに違いない。でもそれは、たったひとりの小さな存在であるセレンや、ナナミには何にも関係のないことなのだ。
「セレンさん……」
 隊長を任せられている三十代後半の兵士が、いつまでも船を下りてこないセレンを呼びに戻ってきた。
「ナナミの気持ち……凄く、嬉しい。でも、ボクは……」
 今戦わなければ生き残れない。そう思って船に乗った。でも実際にここについてしまったとき思ったのは、王国軍が背を向けているこの場所からなら、上手く逃げられるかもしれない。そんな弱気な考えだった。
 逃げたところで、危険が全部去るわけではない。いつ、どこでだって人は命の危機を感じている。終わらないのだ、戦いは。
「……もう、逃げたくない」
 信じてくれたみんなを守りたい。ここで逃げたら、もう誰にも顔を向けられない、ただの弱虫で終わってしまう。
 ナナミを、守りたい。ずっと一緒にいてくれる、心の底から心配してくれる、優しくて温かいナナミを。そしてジョウイに、会いたい。逃げ出した弱虫としてではなくて、ちゃんと前を向いて、どんな辛いことにだって乗り越えられる、強い人間になって。君を……探したい。
「ピリカちゃんのためにも、ここまで僕たちを守ってくれたたくさんの人のためにも。逃げたくないよ、ボクは。怖いけど……不安だけどでも、ボクは闘う。ナナミを守りたいから」
「……だから、それはお姉ちゃんの台詞なんだってば」
 セレンを守るのは私なの、とずずいっと身を乗り出してきて、船に上がってきた隊長さんに変な顔をされてしまった。
「……あの、よろしいでしょうか?」
 二人が義姉弟だということは知っているだろうが、ここだけを切り取ってみたら、ずいぶんと仲がいいように見えただろう。
「あ、……はい。すいません」
 なんだか照れているみたいな顔で尋ねられ、顔を見合わせたセレンとナナミはようやく妙な誤解を受けてしまったのだと気付く。
「よーっし、頑張るわよー!」
 照れ隠しで大声を上げ、セレンを突き飛ばしたナナミは勢いよく駆けだした。着地の際に勢い余って下にいた兵士を何人か巻き込んだようだが、湿地だったこともあって誰も怪我をしなかった。
「よし、行こう!」
 セレンが高らかに宣言し、少年に奇跡を求めた戦いはようやく今始まった。

「後方を取られただと!?」
 ソロン・ジーの隊に衝撃が走り、軍団長は己の策の甘さを思い知らされることとなった。
「ええい、何をしている! 前衛に出している隊を引き戻させろ。早くするんだ!」
 将の動揺はすぐに軍全体に感染する。まとまりを欠き始めた王国軍は、すぐにまた、新たな衝撃に大きく揺れた。すなわち、サウスウィンドゥで徴集した旧都市同盟軍が寝返ったのだ。これにより軍の総数はいまだ王国軍が優位であったものの、勢いは完全に都市同盟軍が勝った。しかもソロン・ジーは挟み撃ちにあって逃げ道をふさがれたに等しく、また前衛の隊を戻そうにも、反旗を翻したサウスウィンドゥ軍が進路を遮っているため、上手くいかない。
 かろうじてソロンの側に隊を置いていたクルガンだけが、彼を守ろうと戻ってきた。
 セレンの部隊に、クルガンの隊が空へ向けて放った矢が降り注ぐ。遠距離攻撃は、歩兵で組まれたセレン達には脅威でしかなかった。反撃が出来ないからだ。
「いったん、後退して下さい!」
 盾を頭上に掲げても、勢いのある矢は簡単に木製の盾を貫通する。防ぎきれないと判断したセレンは、声を振り絞って全軍に後退を指示した。
 ──あとちょっとだったのに……。
 ソロン・ジーの部隊を倒さない限り、奴らは撤退しないだろう。それでは駄目なのだ。しかしこのまま無闇に突っ込んでいって、隊を全滅させるわけにもいかない。なんとかしてソロン・ジー本隊に接近する手だてはないものか。必死になって敵を駆逐しながら考えるが、兵法を学んだわけでないセレンに、すぐに妙案が浮かぶはずがなかった。
「風向きが変わってくれれば……」
 湖から吹く風は、今はセレン達には向かい風だ。風はクルガンの放つ矢を後押しし、勢いを与えている。これが逆になれば矢の届く距離は一気に短くなり、セレンはソロン・ジーに接近できる。
 しかし風は自然の産物。いかに輝く盾の紋章といえども、風向きまでを変えることは出来ない。
 打つ手なし。圧倒的に兵量で勝っているハイランド軍は、戦いが長引けば現在の混乱も収まり、反撃に移るだろう。そうなったらもう同盟軍に勝ち目はない。じりじりと体力を削られてつぶされるのを待つだけ。
「どうすれば……」
 勝たなくてはいけない、この戦いだけは。
 負けるわけにはいかない、もう逃げ出さないためにも。
 自分に胸を張れるように、自分を誇れるように。強くなったのは大切な人を守るためのはずなのに!
「セス!」
 ナナミの声が、はじけた。
 悔しくて、つい戦いから意識を飛ばしていたセレンの頭上に、風を受けた矢がうねりをあげて迫っていた。
「危ない!」
 セレンの体にナナミの体が覆い被さる。強くセレンを抱きしめて、ナナミは祈るように固く眼を閉じた。
「ナナミ!?」
『セレンはすぐにへたばっちゃうから、お姉ちゃんの後ろに隠れてなさい』
 船の上で言っていた言葉が、鮮やかにセレンの脳裏によみがえった。
 ちがう。こんな事をされたかったわけじゃない。一緒に生きるんだ。一緒に生き残るために、セレンは戦場に立つ道を選んだのに……!
 ナナミの心音が聞こえる。暖かい。その暖かさが失われるのは、セレンにとって地獄にも等しかった。
 風が……変わったのはそんなときだった。
 頬に受けていた風の感覚が変化したことに、セレンは閉ざしていた眼を開く。いつまでも訪れない衝撃は、追い風が向かい風に突然変化したことで矢が空中で失速し、彼らまで届かなかったためだった。
「なぜ……」
 湖の風がこんなにも狙ったように変わるはずがない。何か作為的なものを感じたのはセレンだけではなかったが、クルガンも原因を掴むことは出来なかった。
「兵を密集させろ! 来るぞ!」
 風向きが変わり、兵の覇気も都市同盟軍に追い風となった。前衛部隊からの連絡も途絶えがちになり、戦いの行方は見え始めていた。
「ここまでですね」
 すぐ近くにまで同盟軍が迫っているのが見えて、クルガンは嘆息した。彼の部隊は弓隊で、接近戦になると弱さが露呈する。ソロン・ジーがこの状況で冷静さを取り戻すとは思えず、なるべく被害を少なくできるように隊を組み直し、撤退経路の確保に向かわせた。
「風を味方につけたか……」
 クルガンが頭上を見上げ、忌々しげに呟いた。

「珍しいですね。あなたが自分から戦いに介入するなんて……」
 レックナートの静かな声に、傍らに立つ緑色をまとう少年は「違いますよ」と肩をすくめてみせた。
「ここであいつに死なれたら、困るのでしょう? せっかく時代が選んだ人間をむざむざ死なせては、レックナート様に申し訳ありませんから」
「……またそのようなことを言って……」
 口元に手をやった女性は、しかし言葉とは裏腹に微笑みを浮かべている。
「行くのでしょう? 天に魅入られた哀れな子羊の許に」
「ルック」
 少しだけ険しい声でレックナートは咎めたが、それを否定することは彼女には出来なかった。彼女もまた、分かってしまっている。ルックよりもずっと。この戦いがいかに苦しく悲しいものになるかということを。
「彼を助けてあげるのですよ」
「もう助けましたよ」
 皮肉気に言い、ルックは真下を見下ろした。そこに大地はなく、レックナートが広げた次元の界が扉を開けて、ノースウィンドゥの城と広がる湖と、戦いに勝利し喜び勇む人々の姿が映し出されている。
 ひとりの少年が大きく現れる。彼は空を見上げていた。
「セーッス! 早くしないと置いてっちゃうわよ!」
 城へ戻る兵の列からはみ出し、白い雲の漂う空を不思議そうに見上げていたセレンは、ナナミに大きく手を振られて慌てて走り出した。
 ──あの風……。
 セレンを守るように上空を消えることなく駆けめぐっていた風。
 ──いったい誰が……?
 セレンは右手をグローブの上から握りしめて、もう一度だけ空を見上げた。もうそこに風はなかった。

Prepare

 ぼんやりと見上げた先には、無表情な天井。
 無機質な部屋は、少しだけ熱が籠もっている。窓を閉め切っているから、換気も悪い。けれどきっと、今窓を開けて外気を取り込もうものなら大目玉を喰らうことは明らかであり、彼は諦めざるを得なかった。
 けほっ、と咳き込む。肩までしっかりと被っている毛布から左手だけを取りだし、彼は軽く自分の喉を押さえた。
 ざりざりした感覚が皮膚の内側に溜まっている、外から触れたくらいでは取り除けそうにない。
 退屈だな、と呟く。しかし声は掠れ、きちんとした発音にならずただひゅーひゅーと空気がホースから漏れる音になっただけに終わる。
 まさか自分が風邪を引いてダウンするとは思っても見なかったことで、その意外すぎる結果に一番驚いたのは、仲間達ではなくこの自分自身だろう。幸い熱は無かったが、喉が荒れて声が出にくい。非常に。
 喋ろうとしたら喉が詰まって、声が出ない。吸い込む空気が冷たく、痛い。
 一応安静にしておけば大丈夫だろう、と自己判断でこうして大人しくベッドに横になっているのだけれども。
 する事がない事がここまで苦痛だったとは、予想外。
 つい、手持ち無沙汰ならぬ足持ち無沙汰で、毛布の下の両足をぱたぱたと上下させてしまう。柔らかな肌触りの毛布が波立ち、そして埃が舞い上がる。
 けほっ。
 また咳き込んだ。
 自業自得、といえばそこまでだがかなり、辛い。結果が見えていた事のはずなのに、結局やってしまうこの退屈さは、充分彼を殺せそうだった。
「ひまー」
 なるべく喉にダメージが行かないように工夫させ、呟く。喉にやっていた左手は、上方へ投げ出され枕の端っこを引っ張っていた。
 目を開いていても、見えるのは単調な天井ばかり。テレビを見ようにも、寝ころんだままでは変な姿勢で身体に負担をかけてしまう。それに、一度やろうとして雷を喰らった時に、お仕置きだ、と言ってリモコンは取り上げられてしまっている。
 だったらせめて、ラジオでも流していってくれれば良かったのに、と今はこの部屋にいないリモコンを持ち去った人物の顔を思い浮かべて頬を膨らませた。
 安静にしておくことが一番だと言うことは解っている。しかし、こうも暇を持て余すのも、どうかと思う。腐ってしまいそうだ、と彼は天井をぼんやりと眺めた。
 しかしそれにもじきに飽きてしまう。
 せめて作詞か作曲活動でも出来れば、まだ救いはあったのだろうけれども。現在押して迫るような仕事は何もない状態。ただ唯一、ソロ活動も行っているバンドメンバーのうちの、ドラムス担当のはずの約一匹だけは、大忙し状態であるが。
 あぁ、確か今日の夜放送の生番組に出演なんだったっけ。熱のためかどうも朧になってしまいそうになる意識の片隅でそんなことを思う。彼の出番までに、果たして自分はテレビのリモコンを奪回できるだろうか?
 毛布にもそもそと潜り込みながら彼は素早く、とも言えぬスピードで計算してみた。
 ……無理かもしれない。
 ビデオの予約でもしておくか。幸か不幸か、ビデオのリモコンまでは取り上げられていないので、タイマー予約くらいは出来るだろう。
 毛布の切れ目から壁に引っかけられている丸時計を見上げた。昼は過ぎているが、夕方にはまだ早い時間だ。昼食は結局、取り損ねた。
 朝食の席で具合の悪いことが指摘され、ベッドに押し込まれたのが午前十時過ぎ。その後、彼がベッドで大人しくなるのを待ってアッシュは仕事に出かけていった。
 つまり、今現在、この城に居るのはベッドに貼り付け状態の彼と、城の本来の持ち主であるユーリだけだ。
「お腹空いた……」
 ぽつりと、本音が漏れた。
 時計を見上げてしまった所為もあるだろう、時間を認識した途端に腹の虫が急激に機嫌を損ね始めてしまった。忘れたままで居れば良かったのに、変に思い出してしまったものだから中途半端な時間帯であるのに、ぐぅ、と腹が鳴った。
 苛々する。
 退屈は嫌い、何もしない生活なんて想像さえしたこともない。
 有り余る時間、今日のような日があっても可笑しくないはずの、ただ無益なまでに長い永い命。それなのに、たった一日――否、半日でしかない余暇が許せない。
 眠ってしまえばまた話は変わるのだろうけれど、空腹を思い出してしまった為にそう易々と意識を眠りの床に横たえられそうにもなかった。
 あぁ、どうしよう。
 このままだと本当に退屈で灰色になってしまいそうだ。あり得ないはずの事にまで頭が回り、余計なことをどんどん考えついてしまう彼は、いい加減うんざりしてきて、
「もう、いい」
 投げやり的に言葉を吐き出し、頭の先まで毛布を被った。
 視界を強制的に闇に閉ざしてしまう。放っておけば、そのうち空腹も消えて眠れるだろう。そう判断したためだ。
 しかし。
「…………」
 自分が静かになれば、その分周囲の音が嫌なくらいに目立ち始めてしまう。
 時計の秒針。天井で淡く輝く照明の、フィラメントが焼けこげていく音。窓を叩く外で荒れ狂う風の音色。その他、諸々。
 世の中には音が満ちあふれている、普段は意識していないから忘れてしまっているだけだが、自然界だけでも充分騒々しいのだ。
 溜息しか出ない。

 ……ぱりーん……

 ふと、どこかで何かが割れる音がした。それは、彼の記憶が正しければ、食器が床にでも落ちて割れる音に似ていた。
 ぱりーん、ばりばりっ、どんがらがっしゃん。
「…………」
 最初は、無視できた。どこかで風でも吹いて、飾ってある花瓶でも落ちたのかと思えば(それでも滅多にあることではないのだろうが)それで済んだ。
 しかし、音は断続的に途絶えることなく、続く。
 しかも徐々に、音が不気味なくらいに巨大になっていっている気がする。
 冷や汗が、ベッドの上で横になっている彼の背中を流れていった。
 握りしめている毛布の端が、しわくちゃになってしまっている。彼の眉間の皺もまた、随分と深い。
 頭が痛くなりそうだった。
 思わず寝返りを打ち、左の耳を枕に押しつけた。しかし右の耳が上を向いてしまうので、音は消えることなく彼に吸収されて脳裏に響く。
 もはや、気のせい、というレベルでは収まりそうにない。現実にこの音は何処かから響いてきているのだ。
 彼は怠い体にむち打って、がばっと身を起こした。膝を蹴り上げ、毛布を弾き飛ばす。夜着代わりのシャツとズボン姿のまま、靴ではなくスリッパに素足を突っ込みベッドから飛び降りた。
 しかし、すっかり乱れてしまったベッドに手を戻して自分で蹴り飛ばし落ちそうになっている毛布を引っ張り、次に戻ってきたとき直ぐに眠れるように整えるという、妙に義理堅く律儀なところは、忘れておらず。
 急に立ち上がったものだから貧血を起こしかけたのも、無理に遠くへ押しやって。
 彼はこめかみに指を置き、音の発生源を探った。
 この部屋の中では当然ない。自分以外の誰も居ない部屋で騒音がしたら、それはポルターガイストに他ならない。だがそんな超常現象が起きた様子はないし、起こる気配も感じられない。そもそも人外の存在である彼が、幽霊などというものを怖れるはずがないだろう。
 耳を澄ませば、静かだと感じていても実に雑多な音が世界に満ちていることが思い起こされた。その中でも、特別異彩を放つ不協和音、陶器が砕ける音と、あとはなにか良く解らないけれどもどことなく不気味な音の不連続。
 階下、からだ。
 彼はスリッパの底を床に擦らせながら歩き出した。ともかく音の発生源を探らなければならない、そして音を遮断させなければ。
 おちおちゆっくり眠ることも難しい。
 重厚な扉を押し開け部屋を出て、廊下に姿を晒す。音は、断続的に今も聞こえてくる。扉一枚を抜けただけでも随分と、音ははっきり耳に届くようになっていた。
 だから音は、城内から響いていることになる。吹き抜けになっている回廊の手摺りに手をやって身を乗り出し下を伺うが、そこに人の気配はなかった。そのかわり、音がどこから響いてきているのかは大体、目測がついた。
 玄関ホールを抜けた真正面、リビングへの扉。開け放たれたそこの奧には食堂と、台所がある。
 騒々しいばかりの正体不明な音は、どうもその辺りから聞こえてくるらしかった。反対側の入り口方面からは、何も聞こえてこないから。
「……アッシュ、じゃないよねぇ」
 彼は今仕事の打ち合わせとリハーサル中のはずだ。では、いったい誰が。
 答えは、ひとつきりしか思い浮かばなかった。けれど、まさか、という思いの方が先に立つ。
 何故なら彼が今想像した人物は、料理どころか包丁さえまともに握れないはずだから。
 彼はゆっくりと慎重に階段を下り始めた。手摺りに右手を置き、一段一段確実に降りていく。そして天井も高いホールに到達したとき、一際巨大な音が彼の鼓膜を激しく波立たせた。
 どがらがっしゃーん!!
 ……いったい、何を落として砕いたのか。
 想像するのも恐ろしい音に反射的に肩を窄めて首を引っ込め、膝まで折り曲げて姿勢を低くしてしまった彼だったが、幸いな事に轟音は城内にまで影響をもたらさなかったらしい。ただ、見上げた先にあった豪奢なシャンデリアが左右に大きく揺れていたのだけが、妙に印象的。
 音が通り過ぎ、反響も収まってから彼は膝を伸ばしまた歩き出した。階段の手すりから離れ、リビングへ通じる扉を潜る。そこをスルーパス、食堂をも素通りして、ただ向かう先は。
 台所。
 普段なら、アッシュの城。
 けれど、今は。
「……………………」
 お見事、と拍手でももらえそうなくらいに、台所は悲惨な状態に陥っていた。
 さっきの轟音は、電子レンジが破壊された音だったらしい。黒い煙を薄く吐き出して、扉が半開きのまま放置されていた。
 よくぞ火を噴かなかったものだ、と扉口に立った彼は思った。
「ユーリ……」
 しかも、その電子レンジ前では少し黒く煤けている頬をまったく気にした様子なく、忙しそうになにやら手鍋と格闘している人が。
 あぁ、やっぱり。
 危惧は当たっていたらしい、ユーリの姿をそこに認めた途端彼にはどっと疲れが押し寄せて来た。
「スマイル? 貴様、あれほどベッドで大人しくしていろと!」
 名前を呼ばれて初めて気づいたらしい、扉口の存在にユーリは慌てて胸に抱き込んでいた手鍋を自身の背後に隠した。そして誤魔化すようにいつもより大きめの声で怒鳴る。
「……五月蠅かったから、なにしてるのかな、って」
 実際天井を揺らすほどの轟音が連続していたのだ、気にしない方が変と言うもの。もっとも、音の発生源にずっといたユーリがその事実に気づいていたかどうかは、激しく不明。この様子では、どうやら気づいていなかったようだ。
 喋る度に喉がひりひりとした痛みと熱を訴えてくる。その上に四半日近くベッドに寝転がっていた事で怠さを覚えてしまっている身体に、声の調子も今ひとつ。彼のトレードマークであった笑顔でさえ、今の彼からは消えてしまっていた。
 むっ、としてユーリは手鍋をテーブルに置き、ツカツカと戸口に立っているスマイルに歩み寄った。この角度と距離では手鍋の中が何であるのか、まるで見えない。内側の縁近くにこびり付いている物体は、失敗作なのか、焦げたように真っ黒だったが。
 まさかアレは食べ物ではあるまいな。一抹の不安を覚えているところに、ユーリの両手が伸びてきた。
 そのまま、台所から押し出される。
「……ユーリ?」
「病人は大人しく、寝ていろ!」
 普段ならば絶対に力負けしないだろうに、今は抵抗力も失せてしまっているのか、スマイルは存外に呆気なくユーリによって部屋を追い出されてしまった。バランスを崩して斜めに崩れそうになったのを、戸口の直ぐ外にあった電話台を掴むことで堪えたスマイルの怪訝な表情に、彼はひとこと、そう怒鳴る。
 耳の中でいつになく、ユーリの声は反響した。
 思った以上に体調は宜しくないらしい。こんな事で自覚して、スマイルは電話台から離した手で眉間を押さえ込んだ。
 確かにユーリの言うとおり、自分は病人でベッドで安静にしているべきかもしれない。
 だが。
 だが、しかし、だ。
 ユーリが現在仁王立ちしている台所の扉から覗く、あの惨状を見て大人しく寝ていられると、本当にユーリは思っているのだろうか。
「ひとつ、聞いて良い?」
 コホン、とひとつ咳払いをしてスマイルはわざとらしくかぶりを振った。
 なんだ、とユーリが怪訝な目で彼を見上げる。その紅玉の双眸うを見つめ、スマイルは彼の背後に広がる台所だった場所を指さした。
「あのさぁ……」
 シンクが見える、冷蔵庫も見える。中央に置かれているテーブルも、場所は多少ずれ動いているようだがちゃんとそこに収まっている。
 しかし。
 綺麗に整理整頓が行き届いていたはずの台所は、もう見る影もなかった。アッシュが帰ってきたときにこの惨劇を見て、正気を保っていられるだろうか。
 そこまでは流石にスマイルは言わなかったが、やや声の調子を落とし(もともと風邪の為、かなり掠れた声になってしまっていたものの)ユーリに問いかける。
 スマイルの指さす方角に目を向けたユーリが、背中でその問いを聞く。
「なにしてた、わけ?」
 聞かずとも、答えは分かり切っている。台所ですることと言ったら、数は限られてくる。その上今料理番のアッシュは留守で、もうひとりのまともな料理を作れる存在は風邪でダウン中……そこに居るが。
 残ったユーリが台所でなにをするのかくらい、見なくても想像はつく。
 だのに聞かずにはいられない、聞かなければ良かったと思ったとしても。
「……寝ていろ」
「お腹空いたんだったら、ぼくが何か作るから」
「病人は大人しく寝ていればいい!」
 とりあえず、精神面で優しくなるようにスマイルはユーリが自分で食するために何かを作ろうとしている、と考えることにした。しかし彼は明確な回答を導き出さず、益々顔を怒らせて今度こそスマイルを台所から追い出した。
 突き飛ばされて、スマイルは後ろに数歩よろめく。その瞬間を見計ったわけではないだろうが、ナイスなタイミングでユーリは台所の扉を思い切り力一杯、閉ざした。
 バタン! と戸は大きな音を立て、吐き出された空気がスマイルの前髪を浮き上がらせる。直後、扉一枚を隔てただけの台所からまたもの凄い音が響いていた。
「おのれ!!」
 いったい何に向かって怒鳴っているのか、ユーリの怒号がそれに続く。
 けれどその声は怒りと苛立ちの向こう側に、どことなく焦りと必死さが込められている気がした。
「…………もぅ」
 あとでどうなっても知らないから、とその場で呟きを零し、スマイルはしばらくじっと、閉められたまま開かれない扉を見つめた。
 悪戦苦闘しているらしいユーリに、苦笑が漏れる。
「自惚れちゃうよ?」
 持ち上げた右手で扉の木目をなぞる。額を預けると、少し冷たさを感じて心地よかった。
 相変わらず、扉の向こう側からはユーリの悲鳴のような叫びと、同じように悲鳴を上げる食器や調理器具だろう、の音が絶え間なく聞こえてくる。
 少しだけ扉を開き、中を覗き見てみた。
 ユーリは覗いているスマイルにも気づかず、テーブルに向かって量りと鍋、そして牛乳と睨めっこをしていた。その向こう側では、別の鍋がコンロの上で煙を巻き上げている。
 気づいた彼が慌ててガスを止めに手を伸ばしたが、なにをどう間違えたのか、ガスの勢いは弱まるどころか逆に強まって上にかけられていた鍋が火を噴いた。
「!!?」
 驚き、腰を抜かしそうになったスマイルは咄嗟に飛び出そうとしたが、珍しく正しい判断で近くにあった濡れ雑巾を広げて鍋に被せたユーリは、消火に成功。ほっと安堵の息をもらすが、心臓が止まるかと思ったのはむしろ見守っていたスマイルだけだったろう。
 ……なるほど、台所が滅茶苦茶になるわけだ。まだガス爆発や城炎上、にまで至っていないだけマシだと思うべきかも知れない。
 一秒でも早く、この風邪を退治しないと本当に、そのうち城が爆発して木っ端微塵になってしまいそうな気がする。髪を掻き上げながら、スマイルは静かに扉を閉めた。
 瞑目し、必死に頑張っているユーリに心の中でだけ応援してそのまま踵を返す。
 騒音は消えず、続いている。仕事で疲れて帰ってくるアッシュには気の毒だが、彼には後始末を頑張ってもらおう。どうせユーリがするはずがないのだから。
 不慣れな事をそれでも懸命にやろうとしているユーリに、笑みがこぼれる。それが自分のためであるかもしれないと考えれば、なおのこと表情は緩んだ。
 リビングを抜ける手前で時計を見上げて時刻を確認した。ソファの上に置き棄てられていた新聞を拾って広げ、テレビ欄だけを確認してアッシュが出演する番組のコードをビデオに覚えさせてから出ていく。
 今更、欠伸が出てきた。
「けほっ」
 けれど喉を突いて出てきたのはいがらっぽい咳だけで、思わず苦笑して肩を竦め、スマイルは少しペースをあげて階段を登っていった。開けっ放しにしていたらしい扉を開けて、スリッパを勢い良く弾き飛ばす。
 壁にぶつかり、それは床の上に落ちた。
 モノトーンの、飾り気もなにもない質素とも言えばその概念に当てはまらなくもない、必要なもの以外にあるのはギャンブラー関係の品々、というちぐはぐな部屋に潜り込む。ベッドに寝転がると、もうひとつ大きな欠伸が出た。
 先にベッドメイクをしておいて良かったと、心から思った。
 よくよく見れば皺だらけだったが、眠る分にはまったく問題ないベッドのスプリングに身を沈め、スマイルは片方だけの目を閉じた。一気に闇が押し寄せてくる、退屈を覚える前にどうやら眠りに入れそうだ。
 耳を澄ませば階下からの騒音は微かに響いて聞こえてくる。けれどそれさえも安眠を与えてくれる母の心音に似て捕らえられ、やがて彼の耳には何も届かなくなった。
 時間だけが、今は過ぎていく。

 夢と、現とを、行ったり、来たり。
 風の音が聞こえたかと思うと直ぐに消え、人の騒ぎ声が聞こえたような気がしたけれど、瞼を開いて確かめる前にまた消え失せて。
 そうやって、どれだけの時間が経過したのだろう。
 たかだが十分ほどの時だったように思えた、けれど久しぶりにベッドから見上げた時計の針は夕方を回り、夕食に近い時間帯を彼に教えてくれた。
 そんなにも眠っていたのか、と身体を起こしながら彼はぼんやりとしている視界をこらそうと瞬きを繰り返した。右目を擦りながら、もう片方の腕を頭上に上げて背筋を伸ばす。
 背骨がぼきぼき、と音を立てた。肩を回すと、やはり同じように骨の音がする。運動不足だろうか、今度は首を回しながら思った。
 最後に喉仏の上に指をやり、わざと咳き込んでみる。
 良くはなっていない、だが悪化もしていないようだった。何度か発声練習の小型版で声を控えめに出してみるものの、第三音で喉が詰まった。
 無理は禁物、と自身に言い聞かせてもうひとつ咳き込み、姿勢を正す。寝癖がついてしまっていた髪の毛を手櫛で直し、カーテンの向こうに見える夕暮れに染まった空を見やった。
 ひと眠りしたからだろうか、少し気分も軽くなった気がする。もう一度、今度は両腕を伸ばして身体を軽く逸らせた。
 そのタイミングで、控えめにドアがノックされた。
「スマイル、起きているか?」
 ユーリである。待ちかまえていたかのようなタイミングの良さに苦笑し、スマイルはベッドの上から「どうぞ」とだけ返した。
 ゆっくりとドアノブが回され、扉が開かれる。
 瞬間。
 ……言い表しようのない、微妙で絶妙で、非常に曖昧かつ形容詞が見当たらない奇妙な匂いが室内に流れ込んできた。
「腹が空いただろう?」
 片手に茶色の盆を持ち、入ってきたユーリが随分と上機嫌でにこやかな笑顔を振りまきながらベッドに近付いてきた。同時にあの香りも強くなる。
 むわ~~ん、と。
 どことなく風呂場に漂う湯気のような煙がユーリの頭上に立ち上っていた。しかも、色がまた、珍妙。
 黒い。
「ユーリ……?」
 ひくっ、とスマイルは喉を鳴らした。
 ユーリの持つ盆の上に置かれている土鍋、だったと思われるなにやら怪しげな焦げを一面にこびり付かせている食器から、もわわ~~、と怪しげな湯気が漂っていたからだ。しかも、土鍋にはしっかりとスプーンらしき銀食器が差し込まれている。
 あれは、食べ物なのだろうか……?
「力作だ!」
 自信満々に彼は盆ごと、それをスマイルの居るベッドに置いた。途端、鼻を刺激する酸っぱいようでしょっぱいような匂いが彼に襲いかかった。
 思わず咽せそうになる。
「あ、あの……ユーリさん」
 ひとつお聞きしたいことが。
 背を丸めて口元を抑え込んだスマイルが、ベッドサイドで意気揚々と立っているユーリに問いかけた。これは、いったい、何という料理?
「ミルク粥だ」
 問われ、ユーリは即答した。腰にやった手は彼の自信の現れだろう。
「以前私がダウンしたとき、アッシュが作ってくれたものがあっただろう。あれを真似てみた」
 言われてみればそんなことがあったような気も、する。だがミルク粥は、色が白くないだろうか。これは、この物体はどう考えても、……真っ黒い。
「少し煮込みすぎたようだが、栄養のあるものも一緒に詰め込んであるしな」
 人差し指を立てながらユーリは懇意に説明してくれた。色々と放り込んだから色が少々不気味になってしまっているが、栄養価は保証する、とこれまた断言。自慢げな彼から視線を落とし、スマイルは試しに、土鍋に突き刺さっているスプーンを持ち上げてみた。
 ……例えるとするならば。
 汚れきった河の底に溜まりに溜まっているヘドロ、か。どれが米で、どれが具なのかも解らず、それ以前に本当にこれは食えるのか、食べたあと本当に自分は生き残れるのだろうか。
 冷や汗を背中に流しながら、疑問は尽きない。
「あのぉ、ユーリさん……」
「食え?」
 にっこり、にこにこ。
 悪気はないのだろう、悪気は。一所懸命作ってくれたのである、慣れない台所に立ち包丁を握り、レンジを壊し鍋を炎上させたりもしていたが。
 彼なりに努力して、必死になって、作ってくれたのである。
 見上げ直せばユーリの手は傷だらけだ。折角の綺麗な指先が赤くなり、前髪の一部も焦げたのか、チリチリに縮れてしまっている。頬には墨で擦ったような黒い線が三本、斜めに走っていた。
 これは、ユーリの汗と涙の結晶なのだ(違う、それは絶対)。
 ごくり、とスマイルは生唾を呑み込んだ。怖々とスプーンを握り直し、ヘドロ……もとい。ユーリ曰くミルク粥、を掬い上げる。
 そのまま、非常にゆっくりゆっくりとスプーンを口に運んでゆく。
 心臓の音が徐々に高鳴り、拍動が早くなっていくのが解る。耳鳴りが酷い、嗅覚はもう完全に麻痺してしまっていた。
 いや、見た目はこれだが案外口に入れてしまえば平気かもしれない、と自分に暗示をかけながら。
 スマイルは、スプーンを口の中に押し込んだ。
 そのまま、咀嚼もせずに呑み込む。
「…………どうだ?」
 緊張気味に、けれど期待に満ちた眼差しでユーリは身を乗り出しスマイルの様子を窺う。
「…………」
 涙目になっていた。スプーンをくわえたまま、スマイルは何も言えずユーリをただただ見返すのみ。
 しかし、彼はどうやら思い切り誤解したらしい。
 涙ぐむくらい、感激してくれたのだ、と。
 スマイルは何も言わなかった、否、言えなかった。
 ユーリの瞳は問答無用で、全部平らげることを期待して輝いている。ひとくち目の感想を素直に吐き出せなかったスマイルは、文句も言えず涙を呑み、スプーンを吐き出して土鍋に突き刺した。
 もうひとくち、掬う。口へ運ぶ。……呑み込む。
 ベルトコンベアで運ばれる家電製品のように、あくまでも無機質で単調な動きの連続が数十分間、続いた。
 不味いとは、とても言えなかった。いいや、不味いどころの味ではなかった。
 甘く、辛く、酸っぱくて。正直表現に困る味が口の中いっぱいに広がり、喋ろうにも不用意に口を開けば吐き出してしまいそうでそれも出来ない。
 空になった土鍋にスプーンを放り投げ、最後にグラスいっぱいの水を一気飲み。スマイルの目は完全に潤み、ボロボロになっていた。
「ご馳走様……」
 しかし礼儀正しく、食後の挨拶忘れずに。
 本当に綺麗に食べ尽くしたスマイルに、ユーリは感心したのか嬉しげに盆を引き取った。
「どうだった?」
「……おいしかったよ……」
 天国が見えそうなくらいにね、と視線を逸らし黄昏ながらスマイルは呟く。無論、その正しい意味をユーリは知らない。
「じゃあ、片付けてくる。大人しく寝ていろよ?」
「はいはい……」
「夕飯も楽しみにしていろ?」
 今、夕方なのでは……? というスマイルの素朴な疑問は質問として形作られるより先にユーリの笑顔で却下された。
「期待してます……」
 ぽそぽそと返事をし、スマイルはユーリが立ち去ると同時にベッドに倒れ込んだ。口と腹を押さえ、通常を遙かに凌ぐ真っ青な顔を枕に押しつける。
「…………天国、見れそうかも…………」
 そう呟き、彼は途端に意識を失った。
 そして一週間、彼は高熱に魘されて生死を彷徨い。
 仕事を終えて帰宅したアッシュは、ものの見事に破壊の限りを尽くされた台所を見て絶叫、胃痛を再発させ。
 その後、ユーリの単独での台所立ち入りは禁止された、という。

Blue

 気分転換にギターを片手に、もう片手にギャンブラーZのフィギュアを持って公園に出かける。
 公園と言っても、そこは何もない一面の平原。ぽつりぽつりと聳えるのは背が低い割に枝は広い、名前も覚えていない樹木ばかり。その隙間を埋めるように、緑濃い背の低い芝が一面を覆い尽くしている。
 地面の茶色は、あまり見えない。けれど草の間に指を差し込んで左右に揺すれば、確かにその下には暖かな大地が横たわっている。
 そのうちの、特別枝振りが立派だとか背が高いだとか、そういう事はなにひとつ特徴として持っていないけれど、なんだかそれが逆に親近感を抱かせる木にいつもように背を預けて、座り込む。
 太陽の陽射しは燦々と、暖かい。流れる雲は真っ白で、何処までも澄んだ青空が地平線の向こうまでなだらかに伸びている。
 お気に入りのフィギュアを横に置いて、ギターケースを開ける。年代物のかなり古めかしいギターは、ユーリたちと出会うよりもずっと以前から愛用しているものだ。
 軽く弦を指先で弾く。ピックは使わない、その必要がないからだ。
 少し音が可笑しくなっているらしく、弦を一本ずつ弾いて調整していく。そうしている間も、風は流れ空は一刻一秒ずつ表情を変えて彼を見下ろしている。
 太陽の光は眩しいが、頭上の木立が光を緩和してくれているのでそれほど苦にもならない。
 一応の調整が終わり、彼は満足そうに微笑んだ。
 けれどそこで手が止まる。やや高くした膝にギターを立てかけ、頬杖を付いて空を眺める。
 あぁ、新しい五線譜とペンも持ってくるべきだったかな。そんな事を考えながら、風に押し流されてゆっくりと東に流れていく雲を見送る。
 あの形、少しだけ何かに似ている。
 なんだろう……。

 とり。

 あ、そっか。
 ぽん、と手を打ち彼は右側を見た。
 そして柔らかな笑顔を浮かべる。
「やあ」
 にこやかに、彼の右側に立っている少女に微笑みかけて、微かに左向きに首を傾げて見せた。
 同じように少女は右側に首を傾げてみせ、一緒になってふたりで微笑み合う。
 決して声は立てず、ただ少しだけ口元と目元を綻ばせるだけの、笑顔で。
 彼は手を振った。促されるままに少女は彼のとなり、ひとりぶんのスペースを空けて腰を下ろす。
「…………」
 唄?
 問いかけるような視線に気づき、彼ははにかんだ。ギターを見ているのだろう、自分を素通りしている彼女の気持ちに苦笑して、彼は古めかしいクラシックギターを手に取った。
 曲げていた膝を伸ばし、背中を木の幹に預ける。
 そのまま真正面を向いていれば、ただ緑と青だけが目に映る。
 リクエスト、ある?
 尋ねると、少女は黙ったまま首を振った。
 けれど最後にひとこと、ききたい、とだけ。
 風に攫われて消えて行ってしまいそうな声で少女は呟いた。
 彼は頷いた。そして視線を彼女の黒髪から真っ青な空へ流す。
 なにか、唄おうか。
 なにを、唄おうか。
 なにか、出来そうかもしれない。
 今日みたいな空がどこまでも青くて綺麗な日は、特に。
 弦を爪弾く。気紛れに、音を奏でてみる。
 それは間もなくひとつの音楽となり、左手の中指がアルペジオを唄い出した。薬指が主旋律を奏でる、ベースラインはしっかりと踏み下ろされた足のようにそれらを後押しし、なにもない空間に微かな音色だけが響き渡った。
 どこかで聞いたことのあるような。
 どこでも聞いたことがないような。
 懐かしい。
 けれど、新しくて。
 楽しくて、少し切なくなる、音が。
 風に乗ってどこまで流れて消えていく。
 零した吐息は、ブルーに染まる。
 一定しないリズム、アンバランスな調子。けれど、それだからこそ純粋に流れる心のメロディーが聞き取れる。
 少女は目を閉じて、それを黙って聴いていた。
 やがてギターの音色は途絶え、風の吹き付ける耳に痛い音だけが残った。
 少女はゆっくりと瞼を開き、その黒曜の瞳で彼を見上げた。
 彼もまた、どこか困ったような顔をして少女を見下ろしていた。
「おわり」
 ポロン、と最後にもう一度だけ戯けたように弦を掻き鳴らし、それで本当に終わり、と彼は笑った。
 少女は無感動のようで、それでいて言葉を探しているように視線を巡らせた。
 空が見える。
 どこまでも青い空が広がっている。
「音が、ね……?」
 ぽつりぽつり、と少女は告げる。
 ことばは音色となって大地に吸い込まれる。
「風に、なっていったんだよ」
 その白く細い両手を広げ、まっすぐに目の前に伸ばす。まるで、届かない空の雲を掴もうとしているかの如くに。
 彼は黙って、それを見守っていた。
 少女が言う。唄うように。
 あぁ、この声こそがまさしく唄ではないのか。
 静かに吐き出した息は、ブルーに染まる。この青い空に解けていく。
 目を閉じてもあの青は消えない。少女の声は、どこまでも澄んでいる。入り込んでくる。
「風になって、流れて、解けていったの」
 きゅっ、と握られた小さな掌。それをゆっくりと自分の胸元に引き寄せて、そして抱きしめる。
 愛おしそうに、目を閉じて。
 抱きしめている。
 空を
 風を
 雲を
 音を―――――
「そうして――――」
 静かに、ことばは続く。
 彼は瞼を開き少女を見た。少女の漆黒の瞳は彼を見つめていなかったが、それ以上のなにかを見つめているのだろうと察することは出来た。
 彼女は目の前にない、とても遠い場所にあるものを見つめる事が出来るのだと。
 見えないものを視る事の出来る人なのだと、そう思えた。
「今、ここで」
 少女は瞳を閉じて、また開いた。胸の前で結んでいた手を解き、広げる。
 そのてのひらの中には、なにもない。だけれど、確かにそこには、“なにか”があった。
 例えば空、例えば風、例えば雲、例えば――――唄、が。
 少女のてのひらの中には、それだけのものが詰め込まれていた。
「わたしは」
 緩やかに、ことばは少女の唇から零れ落ちていく。
 それらは大地に転がり、彼の膝の前でカラリと音を立てながら跳ね上がっていった。
「いま、」
 風が吹く、木立が揺れる。
 彼らを照らす太陽は眩しい。緑の草に散る木漏れ日の光はまだらを描きながら、けれど優しくふたりに降り注ぐ。
 少女は重ねた手の平を彼の前に差し出した。
 なにもない、空間。
 けれど彼はそこを見下ろし、穏やかに微笑む。
「あなたの音を、抱きしめているよ」
 そっと、少女は再びてのひらを胸に納めた。
 澄み渡る青が輝きを放つ。
 そう、と、だけ先に呟いて。
 彼は吐息を零した。
 整理を付けるように、視線を足許で一巡させ、緑の草の先端を指先で擽り、ギターを下ろす。動きのどこかでなにかにぶつかったのか、立てていたフィギュアが転んだ。
 苦笑して、抱き上げる。角の部分を弄りながら、不思議そうにしている少女を見返し。
 丹朱の隻眼を細めて。

 ありがとう

 と。
 それだけを告げて。
 彼は照れくさそうに、視線を逸らした。

業であるが如く

 暗い闇の中で、君はいつも、そうやってひとりぼっちで泣いていたのかい……?
 泣いている。
 泣いているんだ、子供が。
 声を殺しながら、自分が泣いていることを誰にも悟られないように、泣いている。
 暗いくらい闇の中で、たった一人で、泣いている……
「誰?」
 誰が泣いているの?
 闇の中で問いかければ、目の前がぼんやりと明るくなった。
 うずくまっている子供。
「テッド?」
 口に出して呟いて、しかしすぐに違うと首を振る。
 彼は泣いてなんかいない。分かる。かの親友の魂は、今も僕の右腕の……呪われた忌まわしき紋章の中で静かに眠っている。だから彼は、泣いてなんかいない。
 僕は少しだけ足を前に踏み出した。もっと近くで、泣いている子供を見るために。
 赤い服……黄色のスカーフ。
「帰りたい……」
 泣きじゃくる少年。顔はまだ、見えない。
「帰りたい…………還りたい。もう誰も、傷つけたくなんかない……」
 声が聞こえた。足が止まる。
「……あの頃に帰りたい……みんなと一緒にいられた……何も知らないままでいたかった…………」
 薄く日に焼けた黒の髪。少年がしゃくりを上げるたびにゆらゆらとゆれる。
「キャロに……三人でいられた、あの日に……返して……ボクの心を返して…………」
 軽い痛みを右手に覚え、僕は眠るとき以外は外したことのないグローブを、そっと外した。
 淡い輝きを放つ、27の真の紋章。争いを呼び起こし、死者の魂を奪い去る、呪われた紋章。そして、足下でうずくまったままの少年の右手にも、緑色に優しく、そして切なく輝く……この世でたったひとつきりしか存在しない紋章の姿があった。
 共鳴するように輝き光る、二つの紋章。その意味を理解し、僕は重い息を吐き出した。
「助けて。誰か……誰でもいい。ボクを助けて」
 胸をえぐる少年の声。
 言えなかった言葉だ。三年前、僕が言えなかった言葉を少年は泣きながら口にする。
「ボクを帰して。ボクを還して……」
 あの場所に、あの時間に、あの友の元へ。
 なくしてしまったたくさんのもの。もう戻らない、たくさんのもの。解っているのに、願わずにはいられない。そしてその願いは、決して誰の中にも明かしてはならない……禁断の、想い。
「……だれか…………たすけ…………て…………」
 苦しくて、悲しくて、僕は痛みをあいかわらず訴えてくる右手を抱きしめた。左手で包み込み胸元に引き寄せ、指の上から紋章に語りかける。
「また……同じ事が繰り返されようとしているのか…………?」
 哀しいだけの戦いが。争い合うだけでは誰の心も救えないことに、どうして人は気付けないのか? 
 少年の姿が薄くなっていく。消えていく名も知らぬ少年を見送りながら、僕はただ、答えのない問いかけを続けるだけだった。

「……ああ、すいません」
 身じろぎをし、まぶしい朝の日差しを片手で遮ると、枕元から声がした。
「起こしてしまいましたね?」
 聞き慣れた、そしてどうあっても聞き飽きることのない声にほっとし、僕は軽く首を振った。
「着替え、ここに置いておきます。朝ご飯の支度ももうじき出来るそうですし、早く着替えてしまって下さいね」
 黄金色の長い髪を背中に揺らし、一度は失った人が去ろうとするのを、僕はベットの中か手を伸ばして捕まえた。
「グレミオ」
 名前をよぶ。確かに、彼が今ここにいることを証明したかった。
「どうかしましたか、坊ちゃん?」
 不思議そうな顔で見返されたが、グレミオは向きを変えてこちらに戻ってきてくれた。まだベットで横になったままの僕に会わせ、膝を折って傅き、僕の目にかかりそうだった髪を横にすくい流す。
 微笑みを絶やさない彼の手を握ったまま、僕はようやく身を起こした。僕よりずっと背の高い彼の頭が、今は僕よりも低い位置にある。
「坊ちゃん?」
 じっとグレミオを見ていたら、無性に昔のことを思い出してしまった。あの夢を見たせいだろうか。
「グレミオ……」
 そっと抱きしめる。彼の肩口に顔を埋め、泣きたい気持ちを押し殺しながら。
「坊ちゃん、どうかしましたか? 怖い夢でも見たんですか?」
 突然のことに驚いたグレミオが、慌てて僕を抱き返しながら尋ねてくる。あやすように背中をなでて、寝癖のついた髪を優しく梳いてくれる。
 グレミオは還ってきてくれた。そのことが嬉しくて、だからこそ、夢の内容がとても哀しかった。
「……ありがとう……」
「坊ちゃん?」
 泣き声で呟いた言葉は、彼に届いていなかったかもしれない。それでも言いたかったことが解ったのか、グレミオは少しだけ腕に力を入れて僕を抱きしめた。
 下の階から、朝食の用意が出来た事を知らせる声がした。
「グレミオ、今日は釣りをしよう」
 何もない山奥の村だけれど、静かでここは好きだった。でもそろそろ、長く居すぎたかもしれない。
 ──ソウルイーター……
 戦いの臭いはこの村にも届いている。北の国で起こった戦争は一段落着いたと聞くが、それで終わるような戦いではないと、他の何よりも人の生き死にに敏感な右手の紋章は教えてくる。
 ──ただの国盗り戦争ではない、ということ……?
 夢で見た緑の紋章。ソウルイーターと反応しあった事を考えれば、あの紋章が北の戦争にどこかで関係しているのだろう。
 星が騒ぎ、地上は荒れる。いつまでもどこまでも、愚かでしかない。犠牲の上に立った平和など……。
 それでも、戦うことに意味があるのだとしたら、僕はまた、そこに立たねばならないのかもしれない。二度と泣かないために。
 浮きが水面に揺れる。グレミオが後ろの方で誰かが来るのを阻んでいて、僕はボーっとそんなことを考えながら釣り竿を握っていた。
 と。
「たすけてーーーー! とくにそこのおにいさーんっ!!」
 村の裏、鬱蒼と木の茂る森の中から幼い少年の、甲高い悲鳴が響き、名指しで呼ばれたグレミオが驚き、慌てて走っていった。
「なにごと……?」
 置いて行かれた僕は、首をひねって後ろを向いた。
 桟橋を軋ませ、数人の集団が僕に近づいてくる。それぞれにとまどいにも似た表情を浮かべているが、一人だけ、つまらなそうにしている顔があって、僕はすぐにその意味を知った。
 赤い服。村の男の子が僕を見て誰かと誤解していたことを思い出し、そういうことかと納得する。
「あなたは……」
 先頭を歩いて来た少年が立ち止まった。
 夢の中では解らなかった顔。思っていたよりもずっと幼く見えて、またひとつ僕の胸は苦しくなった。
 ゆっくりと膝に力を入れて立ち上がり、ほんの少しだけ僕よりも背の低いその少年に微笑みかける。
「こんにちは」
 言葉と一緒に差し出したのは、グローブをはめたままの右手だった。

世界が変わるとき

 彼は願う
 願いは想いになる
 想いは力となり、力は彼を強くする
 その瞳の彩は鋭き刃のよう 気高き獣のよう
 全てを切り裂き、己が信念を決して忘れ去らぬ
 亡者のごときその力強さ
 ──黒き刃の紋章よ。もし本当にお前が27の真の紋章で、僕に力を与えてくれるのだと言うのなら……
 幸せな日々が待っているのだと思っていた。戦争は終わったのだと、疑いもしなかった。
 あの夜までは。
「う、っく…………」
 口の中が切れている。金臭い味がして、目を閉ざしたままジョウイは眉を寄せた。左頬に冷たい土の感触がある。
「ほう……? こいつは確か……」
 頭上で男の声がする。身じろぎし、体を起こそうとしたが上手くいかない。どうやら、意識を失っている間に両手を背中で縛られているようだった。
「えっ、ええ。どうやら今度こそ、本当に都市同盟軍の手先に成り下がったようで…………」
 おべっかを買うようなこの声は知っている。ラウド隊長だ。
「ふん。死に損ないのブタどもめ。こんな奴を送り込んできたところで、この俺を止められるはずがないことがまだ分からんらしい」
 自身に満ちあふれた、それでいてとても冷たい声。これは誰だ?
「お、気がついたようです」
 薄目をあけたジョウイは、瞬間飛び込んできた光のまぶしさに急速に意識を覚醒させていく。自分が意識を失う直前のことを、少しずつ思い出して行った。
 ──そうだ。僕はセスを逃がすために時間をかせごうとして……紋章の力を解放して、それから…………それから?
 そこから先の記憶を、ジョウイはどうしても思い出せなかった。当然だ。彼は紋章の力を使ったあと、力つきてその場に倒れてしまったのだから。
 ──ぼくは、捕まったのか……?
 殺されるのだろうか? このままラウド隊長が見逃してくれるとは、過去のことから考えてもとても思えなかった。だけれど。
 約束したんだ。絶対に生きて帰るのだと。帰って、セスとナナミと、ピリカを悲しませないためにも、僕は……。
「おい、貴様」
 鉄靴で顎を蹴り上げられ、ジョウイは思考を中断させられた。重い瞼を持ち上げ、目の前に立つ男を見る。
 逆光の中、純白の鎧がまぶしい。だが、そのシルエットは忘れようにも忘れ得ない、憎悪すべき対象である人物をそのまま無言のうちに物語っていて、ジョウイは反射的にその場から飛びずさった。反動を利用して、身を起こす。足までも拘束されていなかったことが幸いだった。
「ルカ・ブライト……!」
 憎々しげに吐き出された自分の名前を面白そうに聞き、狂皇子は一歩、ジョウイへと歩み寄った。
 ここは王国軍のキャンプ。しかも皇女であるジルまでもがいたのだ。軍の最高指揮官であるルカ・ブライトがいても何もおかしくない。いや、むしろいない方がおかしい。だが……これで、微かに望みをつなぐ逃げ道を、ジョウイはいっそう細くされてしまった事に違いなかった。
 武器は取り上げられている。周囲は完全に王国兵でふさがれていた。
「どうした? 貴様らお得意の命乞いをしてみたらどうだ?」
 喉元に広幅の剣を突きつけ、ルカ・ブライトが狂気に染まった瞳でジョウイを見下している。
 はたしてこの剣は、一体どれだけの人々の血を吸ってきたのだろう。どれほどの人達の思いを汚してきたのだろう。
「僕は……」
 声が乾く。全身から大粒の汗が噴き出し、肌に着衣が張り付いてくるが、その気持ち悪さも何もジョウイは気にならなかった。
 どうすればいい? 
 死にたくない。帰るんだ、みんなの元へ。僕がここで死んだら、ナナミが泣いてしまう。セスが悲しんで、苦しむ。
 そんなことはさせない。させたくない……!
「僕は……僕は……死なない! 貴様なんかに、殺されたりはしない!」
 キッと睨み上げた視線の先には、狂皇子がいる。誰よりも強く、誰よりも激しく、誰よりも冷酷な男が、いる。
「僕には生きる理由がある。僕には生きなければいけないだけの理由がある。貴様なんかにそれを奪わせたりはしない。僕は貴様に負けない!」
 強く強く唇を噛んで、片足立ちのジョウイは吠えた。気迫だけでも負けるわけにはいかないと、一生分の度胸もなにもかもを使い切って。ジョウイは、ルカ・ブライトを睨んだ。
「………………フン」
 だが、狂皇子はジョウイを鼻で笑っただけだった。そしておもむろに、剣を引く。
「なにを…………」
 傍らのラウドが、ルカ・ブライトに尋ねようとした刹那。
「!!」
 彼の蹴りが、ジョウイの腹部を強襲していた。
「ぅぐっ…………ガハァッ!」
 衝撃に内臓が圧迫され、胃の内容物が食道を逆流。こらえきれず、ジョウイはその場で吐き出した。
「ウ……、ゲハッ、ゲホッ!」
 両手を拘束されているため、口元を拭うことさえ出来ない。苦しくて、涙さえ目尻に浮かんできたジョウイだったが、これだけでルカ・ブライトが終わりにしてくれるはずが、なかった。
 続いて、鉄の篭手がはめられた拳で容赦なく顔を殴られた。踏ん張りのきかない体勢だったこともあり、ジョウイは簡単に吹っ飛ばされてしまった。肩に激痛が走り、顔を歪めたところで髪を掴まれ、頭を持ち上げられた。
「う…………」
 もう、彼を睨む体力も気力もなかった。
「どうした? 俺に負けないのではなかったのか?」
 先ほどきった啖呵のことを揶揄されたが、もはや言い返すだけの力さえ残っておらず、ジョウイはただ呆然と、目の前にある狂皇子の眼だけを、眺めていた。
 ──強い……
 惑うことのない瞳。狂気のままに、思うままに。この男は果てしなく強い。
 ──僕は……弱い…………の、か?
 力を手にしたはずだった。セスを、ナナミを守るはずだった。二人を悲しませないためにも、僕は生きなければいけないのに。
 ──僕は……負ける…………のか?
 強くなりたかった。この男に負けないだけの力が欲しかった。セスとナナミを守る力が欲しかった。ピリカのような子が二度と現れないような世界を、作りたいと願った。……僕には、それだけの力が宿ったのではなかったのか?
 ギリ、と噛んだ唇が切れ、血が流れる。
 思い出すのは、あの祠で決断を迫られたときの親友の横顔。強固なまでに力を欲した僕に、セスは少し悲しげな表情を見せた。
『力……なんかなくても、ぼくはジョウイがいてくれるだけで強くなれるよ。……でも君は、…………それでは納得出来ないんだね』
 見えない絆という力を信じたセレン。僕は、君が羨ましかった。そう、とても。
 けれど僕はどうしても手に入れておきたかったんだ。誰にも負けないだけの、はっきりとした形のある強さを。
 なのに今、僕はルカ・ブライトの前に無力な存在として横たえられている。いったい、僕にはなにが足りないのか……?
「クズめ。やはり貴様も、生きるに値しないブタどもと同じか!」
 どこか怒りを感じさせる荒々しい声に、ジョウイははっとなった。
 目の前にいる男。とても強く、そして……
「同じ……じゃない」
 切れた唇から出た血を飲み下し、ジョウイは呻くようにして呟いた。
「僕は……強く、なる……。お前なんかよりずっと、強い存在に……なることが、出来る……」
 僕に足りないものがあるとしたら、それはなんだ?
「ほざけ。たかが数発殴られた程度で死にそうになっている貴様が、この俺よりも強くなるだと?」
 カチャリ、と剣を握る手に力を込めた狂皇子の顔を、ジョウイはひどく冷め切った表情で見つめる。
「僕には力がある。僕にはそれが分かる。今ここで僕を殺せば、後々後悔することが必ず起きるはずだ」
「ほう……? えらく自身があるようだな」
 面白そうに目を細めたルカ・ブライトを、斜め後ろで控えているラウドが不安げに見ていた。
「自分が役に立つとでも、言いたそうだな」
「少なくとも、そこにいる木偶の坊よりはずっとお役に立てるでしょうね」
 ちらり、と自分たちの運命を大きく動かす原因ともなった、愚かしく見苦しくもある男──ラウドに目をやり、ジョウイは皮肉気に唇を歪めさせた。
「な、なんだと!?」
 馬鹿にされたことに気付いたラウドが、耳の先まで真っ赤になって怒鳴り、ジョウイに殴りかかろうと拳を上げたが、
「…………!」
 すでに思いを半ば以上固めてしまっていたジョウイに睨まれ、情けなくも凍り付いてしまう。
 くだらない、と硬直したラウドから視線を外し、挑むように狂皇子に目を戻すと、
「なんでしたら、今ここで僕の持つ力の一部をお見せいたしましょうか?」
 表情の見えない凍てついたマスクをかぶり、ジョウイはルカ・ブライトを真正面から見据えた。そして静かに瞼を閉じ、縛られたままの右手の紋章に触れ、そっと語りかける。
「黒き刃の紋章よ……今一度、僕に力を。僕にチャンスを。僕の願いを叶える力を……!」
 ──セス……。
 共にあることが当たり前だった親友を思い出す。
 ──僕は君を、……裏切ったのかもしれないね…………
 チリチリと焦げたロープがゆるみ、両手の自由を取り戻したジョウイは、自然と自身の右手を胸元に抱き寄せていた。
「……おおお…………」
 周囲からはどよめきが起こり、それまでジョウイのことを、弱者を見るときの目で見下ろしていた兵士達は、一瞬にして彼を新たな恐怖の対象とした。凶悪な肉食獣から、一斉に餌にされることを恐れ、茂みに身を隠すしかない草食獣へと変貌する。
「……たしかに。殺すには惜しいやもしれん」
 感心したようにジョウイの背後に広がる光景を見やる狂皇子の声も、今ばかりは彼の耳には届かなかった。彼は決して、今自分が望み、その通りにもたらされた結果を見ようとはしなかった。
 黒こげの死体。焼けた地表。異臭漂うその空間は、ジョウイが最も嫌う地獄絵図に等しかったから。
 それでも……。
「おわかりいただけましたか?」
 この思いは変わらない。紋章の力を手にする、その選択肢を自分が選び取ったときから、戦うことは避けられなかったのだと。
「面白い」
 尋ねられた狂皇子は、率直に答えた。
「だが、まだ信用はできん」
 きっぱりと言い切ったルカ・ブライトの横で、ラウドがしきりに頷いている。
「そうですとも。こいつは都市同盟の送り込んできたスパイです。私たちに取り入って、情報を横流しにするつもりに決まっています」
 そんなせこい真似をするのはお前ぐらいだろう、とジョウイが思っているのも知らず、ラウドはさっさと処刑してしまうべきです、と唾まで飛ばしながら力説する。だが、狂皇子はまともに聞いていないようだった。まっすぐ、ジョウイを見下している。
「同盟軍のスパイである貴様が、この俺に従うというのか?」
「僕はハイランドで生まれ、ハイランドで育ちました。都市同盟に従う義理など、初めからありはしません」
 迷いなく答える。言葉はすらすらと口からこぼれ出ていった。
「ほう。ではその証拠を見せてもらおうか」
 なにを企んでいるのか、面白いことを思いついたとばかりに、ルカ・ブライトが嗤う。
「ミューズ市の市長、アナベルの命を獲ってみせろ。そうすれば信用してやらんこともない」
「アナベルさんの……?」
 予想外の言葉に、ジョウイは一瞬声を失った。
 彼女のことなら知っている。ミューズを守るため、失わないために戦っているのだと答えた、真っ直ぐな瞳を持った人。強い女性だ。でも……おそらく、彼女ではこの大地を、救いきることは出来ない。都市同盟の諸都市でさえ、まとめあげる技量を持たない彼女では……。
 黙り込んだジョウイに、ラウドがしてやったりと舌なめずりをした。
「出来るわけがありませんよ。こいつは正真正銘のおぼっちゃまで、暗殺なんて出来る度胸を持ち合わせてなんか……」
「分かりました」
 ラウドを遮るようにして、ジョウイの澄んだ声は大気を震わせた。
「それくらいのことでよろしいのでしたら、ご期待に添えて見せましょう」
 後悔はしない。これは自分で選び、決めた道だから。
 野に放たれた獣のごとき光をその双眸に宿し、ジョウイは揺るぎない信念をもって答えた。
 ラウドが目を丸くしている。ルカ・ブライトは面白い退屈しのぎを見つけた子供のような目で、ジョウイを品定めしていた。
「ならば、やってみせるがいい……」
 彼は指を鳴らし、奪っていたジョウイの武器を兵に持ってこさせた。更にもう一つ音を鳴らせば、いずこからか黒装束の男が現れ出て、ジョウイの顔をしかめさせた。
「こいつを連絡役にする」
 カゲ、と名乗った黒装束の男は、またすぐに現れたときと同様に、唐突に姿を消した。
 夕暮れが近づいていた。

「アナベルさん。あなたの命を……もらいに来ました」
 手にしたナイフが冷たい光を放ち、困惑の表情を浮かべる彼女を映し出す。
 全ては、あらかじめ決められていた事なのかもしれない。
 僕は力が欲しかった。そして僕は、力を手に入れる術を見つけてしまった。
 それは君の目に、いったいどう映るのだろう。
 でも、分かって欲しいんだ。僕が決して、君たちを悲しませたっかたんじゃないってことを。
 願わくば、君に昔と同じ、安らかな笑顔を…………

Barefoot

 吹き付ける風が、少し冷たくなった。寒さを覚え、彼は肩を振るわせる。
 一瞬出そうになって身構えたくしゃみは、実際ただのポーズだけで苦笑してしまう。鼻の頭を擦りながら、彼はなるべく下半身を動かさぬように心がけながら腕を頭上に伸ばしてのびをした。
「ん~~~」
 気分としては、よく寝た、というのがまず第一歩。
 それから、とても恐ろしく微妙な間が空いて、困ったな、という感想が二番目に。
 ゆっくりと視線と仰いだ夕暮れの空から、己の足許へと落としていく。
 膝の上で交差された彼の二本の脚の横に、小さな白い足が、ふたつ。
 綺麗な、真っ白い、素足。
 果たして寒いからなのか、それはこちらが困惑する程に密着している。こちらは一応、こんなでも“雄”なのだから、もう少し警戒心を抱いてくれた方がむしろこっちが助かるのに、と思いつつ。
 彼は小さな足からまた別の方向へ、視線を動かした。
 彼の脇に、寄りかかるようにすやすやと眠っている、少女。
 真っ黒なワンピース、真っ黒な髪の毛。あと、今は閉じられてしまっているけれど、その瞳も本当に綺麗な漆黒色の黒真珠。
 だのに、その心はどこまでも白く、透明だと彼に感じさせた、ひとりの少女が。
 眠っている、心地よさげに。
「……夕焼け小焼け、の」
 西日が赤い空を見上げ、歌いかけたが残念ながら赤とんぼはこの空には舞っていない。ただ遠く、棚引いた雲が鮮やかな朱色に染めあげられ、流れていくのが見えるだけだ。
 今何時だろう、ぼんやりと思った。
 そこそこ遅い時間だろう、夕暮れはあっという間に終わり直にここは闇に包まれる。
 時計を持ち歩かない事が仇となった感じだ。思わず舌打ちしかかり、けれど眉を顰めるだけに動きを留める。
 右脇に寄りかかる存在が、微かな振動を感知したのか、僅かに身じろいだ。
「ん……」
 そういえば、名前を訊いていない。
 覚醒に向かおうとしている少女の肩を軽く揺すってやりながら、今更にそんな現実を思い出す。
 随分とのんびりしたものだ。最初の会話の中で聞いていても良かった事だろうに、名前を知ろうとは一度も思わなかったとは。
 案外、名前など結構どうでも良いことなのだな、と改めて思い直す。
 知らなくても困らない事は、多い。けれど、知っていればより深い場所へ行くことが出来る事もまた、多い。
「おはよう?」
 彼に肩を揺らされ、まだどこか遠い近くを見ている少女に語りかける。
 少女は少し眠そうに瞼を擦り、瞬きを幾度か繰り返す。そして目の前に自分以外の彼の姿を認め、不思議そうに小首を傾げた。
「…………?」
 本当に、不思議そうに。
 瞳が、貴方は誰? と問いかけている気がした。
「……おはよう」
「…………おはよう……」
 まるで鸚鵡に言葉を教えている時の気分だ、とやったこともないくせにそんな風に考えつつ、彼は返事があったことを嬉しそうに笑った。
 また少女が不思議そうに彼を見上げる。
 空が赤い、西の空は真っ赤で燃えているように見えた。逆に、東の空は薄暗く紫と紺を混ぜたような色が空一面を覆い尽くそうと触手を伸ばしている。
 もうじき、星が瞬き月も天頂を巡るだろう。
 そんなじかんに、“おはよう”という挨拶もどこか妙な話だ。
「日が暮れるよ」
 いや、もう暮れている。
 自分で言いながら心の中で突っ込みを入れ、彼は綻んだ口元で告げた。それは理解できたようで、少女はコクン、とひとつ頷く。
 そして彼女は、西の地平を向いた。
「まっか」
「夕暮れだからね」
「おなじだね」
「…………?」
 すっ、と少女の視線が空から彼へ戻ってくる。見上げる瞳は、綺麗な綺麗な黒水晶か、黒ダイヤか。どこまでも澄み、深い。
「あか」
 鳥の次は赤か、と彼は心の中で呟く。
「赤?」
 夕暮れのことでは、どうやらなさそうな雰囲気に彼は自分の中で赤いものを想起させた。並べてみる、だがその数はそう多くない。
 赤。彼が身に纏うその色は専ら。
 人では無いことを証明する如く輝く、この隻眼くらいだ。
 そして案の定、彼女が伸ばした細い腕からまっすぐ向けられた人差し指が示した先にあったのは、彼の右目。
 驚きはしない。だが意外ではあった。
「おんなじ、いろ」
 夕暮れと同じ色をしていると、彼女は言う。
 そう言われたのは、実は初めてだった。大抵の存在は、彼のやや濁った感じのする彼の赤を“血”の色だと評する。それも大動脈を流れる真っ赤な血の色だ。
 夕暮れを表現するには少し、毒味が強すぎる。
「違うよ?」
 これは、違う。
 自分の瞳を指さして彼は首を振った。力無く。
 益々、彼女は不思議そうな顔をして彼を見つめた。
 どうして、と問いかけられる。
 クリスタルのように何処までも澄み、染みこんでくる声は心地よい。流されてしまいそうなくらいに。
 どうしてもだよ、とだけ答えた。
 どうして、とまた問いかけられる。本当に鸚鵡を相手にしている時みたいだ、と思う。
 納得してもらうには、なんと答えるべきなのだろうか。どう説明すれば、彼女は違うことを、認めてくれるのだろう。
 ……否。
 認めたくないのは、自分の方ではないのか。
 この赤が、丹朱が夕焼けほど綺麗ではない事が。自分自身を映し出す鏡である瞳が、醜く濁っている事を認めることで、綺麗なものから目を逸らしている事を。綺麗でないと、自覚しているから。
 崩されそうで、恐くなる。
「ゆうやけ」
 太陽の熱をまだ少しだけ残している、柔らかな草の上に両手を置いて彼女は彼を、真下から覗き込んだ。澄み渡る黒真珠の双眸に、隻眼の彼が映る。
「あんまり見ると……移るよ」
 世界から見捨てられ、忘れ去られ。今は懸命に、人々の記憶に住みつこうと藻掻いているばかりの自分の、過去が。
 見透かされているようで、恐くなる。
「なに、が?」
「ぼくはね……見えないんだよ?」
 ほら、と彼が指し示したのは自身の足許、柔らかく暖かな大地の上。
 西日が眩しい、太陽は今にも地平線へ沈もうとしている。背を預けている木立の影は、彼らの後ろにどこまでの長く伸びている。
 けれど、彼の足許には。
 彼の影が、なかった。
 傍に座る少女はしっかりと、緑の草に陰影を落としている。けれどそこに並ぶはずの彼の影は、どこにもない。
 彼女はまるで捜すかのように、掌を草の上に滑らせた。しかし、触れる事が出来るのに草の上に転がる影は伸ばされた彼女の手だけ。
 答えを求めるように、少女は彼を見た。
「ね?」
 ぼくは、此処に居るけれど居ないのと同じなんだよ、と。
 どこか寂しげに彼は笑った。
 少女が難しい顔をする。そして背中に置いていた鳥籠を抱きかかえ、自分の膝の上に置いた。
 なにもいない鳥籠の空間を、ただ見つめる。
 とり、と呟いた。
 居るけれど、居ない、もの。
「みえないの……」
「世界がぼくを、忘れている限りはね」
 そして恐らく、世界が彼を思い出す日は永遠にやって来ない。
 世界が忘れてしまった彼だから、太陽の陽射しも彼に気づかないまま彼を通り過ぎていく。
 だから、影は生まれない。彼の足許には、影がない。
「でも」
 鳥籠から目を上げ、少女はまたしても小首を傾げた。しかも今度は反対方向に。
「いる、よ?」
「うん」
 存在している、それは確か。だから触れられる、見ることが出来る、声も聞こえる。
 けれど、実在しない。
 見えている、けれど見えない。
 居る、けれど居ない。
 ここにいるのに、居ないことと同じ。
 いるはずなのに、居ない。少女の鳥籠の鳥と、同じ。
 赤の時間が終わる、世界は闇に覆われる。
 鳥の声など、もうとうに聞こえない。彼らは巣へと戻り、浅い眠りを愉しむために羽を休めている事だろう。
 影が、薄くなる。
「いる、よ……」
「うん、そうだね」
 今度こそ少女は彼の手を握った。グラブ越しに伝わる感触は、確かにそこに彼が居ることを彼女に知らせる。
 夜が、来る。
「もう、お帰り」
 そして二度と来てはいけない。
 彼はゆっくりと、優しい動きで少女の手を解きながら言った。けれど膝の上で鳥籠を抱いた、黒いけれど真っ白な少女は静かに二度、首を横に振った。
 とり、と。
 彼女は呟く。
 捜さなければ、だめ、と。
 彼は困った顔をして少女を見下ろす。重なっている視線の先にある黒真珠は、本当に底が見えないまでに透き通っていた。
 吸い込まれそうだ、と感じた。
「闇が来る前に、今日はもうお帰り」
 鳥は明日、明るくなってから捜した方が良い。夜になってから飛ぶ鳥は希だ、彼らは闇の中でものを見ることが出来ない。
 そう言っても、彼女は首を横にしか振らなかった。
 とり。
 素足のまま、彼女は立ち上がった。両手で大事そうに鳥籠を抱きかかえている。
 真っ白な、鍵のない鳥籠。
 彼女はあの鳥籠に、いったいどんな鳥を入れるつもりなのだろう。
 そう考えて、彼はふと思った。
 もしかしたら、同じなのだろうか。
 居る、けれど、見えない、もの。
「鳥……」
 彼は呟いた。
 見付かればいい、そう願った。
 彼も立ち上がった。やはり影は伸びなかった。
「行こうか」
 何故、そう彼女に言葉を投げかけたのかは解らない。ただの社交辞令か、気紛れか、それとも、本心か。
 きっとそんなことでさえ、どうだって良いのだろう。
「……うん」
 少女は頷いた。
 カサリ、と素足の少女が踏んだ草が揺れた。
 闇が空を覆い隠し、日の光は消え失せた。
 いつしか、少女の足許からも影は消えていた。
 今は月明かりさえ、遠い。