Calling/1

 頭が痛かった。
 昨日の夜のことだ。
 耳鳴りもした。頭の奥の方でなにかが唸っているような、金切り声を上げているような、とにかくそんな感じだった。
 だけどそれはここ数日続いていた事で、今までは蒲団を被ってそのまま痛みも止みに押し込めるみたいに一晩、眠ってやり過ごしてしまえば朝には回復していたから、この日もいつもと同じように、眠ってしまった。
 頭が痛く、耳鳴りもした。それだけだった、それだけのはずだった。
 太陽が東の空に昇り、朝が訪れれば痛みは消え失せているはずだった、いつものように。目覚めは決して健やかなものではなかったけれど、怠い頭を振っていまいち取れない眠気に欠伸を何度も零さなければならなかったけれど。
 それでもちゃんと、何事もなく、頭痛も耳鳴りも消え失せて普段の調子に戻っているはずだったのに。
 今日に限って、何故。
 最初、異変に気づくことは出来なかった。いつもよりも気怠さが全身に残り、目覚めた後もなかなかベッドから起きあがることが出来ず気分も悪くて胃の辺りがムカムカしていた。重たい左腕をかろうじて持ち上げ、崩れてしまっている前髪を目の上から払うもののその手を戻すことも出来ず、関節までもが痛み出してしまってどうしようもなかった。けれどそれだけで、それ以上はなにもおかしいと思う部分は見当たらなかった。
 随分と長い時間をかけて起きあがり、緩慢に首を振って再び落ちてきた髪を後ろへと梳き流した。被っていた蒲団を取り払った事で、何も身につけていなかった半身が冷え、寒さを覚える。ベッドサイドで横向きに腰を下ろした状態で鳥肌が立っていた肌を両手で擦り合わせ、長い欠伸の最後に小さくくしゃみをした。
 その辺りから、だった。
 なにか自分の調子がいつもと異なっていると、そう感じ始めたのは。
 しかしすぐに、その変調がどこにあるのかを見出すことが出来なかった。
 目はしっかりとものを見据えている。試しに両手両足の五指を折り曲げ、広げてみても異変はなかった。身体がようやく眠りから覚め、鈍っていた関節の調子を取り戻す意味も含めて肩、膝を回してみたけれど特別な痛みも感じられない。
 だのに残る、違和感。
 彼は首をぐるりと回した。相変わらず上半身に何も身につけていない為に冷え切った身体はもう一度、彼にくしゃみを強要した。
 寒いな、と呟いて彼は腰を浮かし服を取りに行く為に立ち上がろうとした。
 立ち上がろうとして、その状態で彼は停止した。
 なにがおかしいのかが、分かった気がしたからだ。
 けれど確信も持てなくて、ギリギリと油の切れたブリキの玩具のような動きでもって何もない、壁があるだけの背後を振り返りそして、自分の喉を押さえ込んだ。
 人差し指が喉仏に突き当たる。
 まさか、ね。
 その姿勢のまま彼は呟いた。喉が上下し、肌の下にある気管が肺から空気を押し出して震えるのが指先を伝っていく。
 けれど、彼に耳には。
 ちょうどそのタイミングで彼の部屋の、外とを繋ぐ、窓ではない方の入り口が唐突に開かれた。廊下に続いているその扉の前には、蝶番を壊しかねない勢いで扉を開いた人物が立っている。肩を怒らせ、表情も険しく怒気に満ちている。
 サラサラとしていてよく櫛の入った髪を左右に振り、その人はベッド前で停止したまま動けないでいる彼を指さしてなにやら怒鳴った。紅玉の瞳は勿論怒りに満ちていたし、開閉を繰り返す唇の動きに合わせて彼を指さしている手も激しく上下左右に揺らされている。
 しかし、彼には。
 聞こえてこなかった、なにも。
 相変わらず動けないで居る彼を怪訝に思ったのか、その人はズカズカと荒っぽい足取りで開け放ったままの扉を抜けて室内に入り込んだ。そしてベッドサイドに置かれている小さなテーブルに置かれた目覚まし時計をやはり乱暴に、叩いた。
 きっとテーブルとそして時計は、乱暴な彼のやり方に不平不満をひとしきりぶつけた後黙り込んだ事だろう。
 ユーリ、と無意識のうちに唇が刻んだ音はやはり彼の脳裏には響いても耳からは、何の音も拾いはしなかった。
 振り返る、銀糸が揺れた。その隙間から、強い光を抱く紅玉の双眸がちらちらと覗く。
 彼は漸く、ユーリが鳴りやまないで居た目覚まし時計を止めたのだと気づいた。しかし昨夜、眠りに入る前に彼がタイマー予約をした時間は時計の文字盤が示すものよりも、三十分以上早い時間帯だったはずだ。
 自然と彼の表情が険しくなる。ユーリもその時間のずれに気づいているようで、時計と彼とを交互に指さしながらまたもやなにかを喚いているようだ。
 ようだ――――と、しか言えない。
 なにも聞こえないのだ、本当に。
 今になって現実が見えてきて彼は足許がふらつき、立ち上がったばかりのベッドサイドに再び腰を下ろした。いや、膝の力が抜けて後ろに倒れかけた先にベッドがあった、という方が正しい。それがなかったなら、彼はだらしなくも床の上に転倒してしまっていた事だろう。
 ユーリもいつまで経っても返事をしない彼に顔を顰めた。
 ベッドに倒れ込み、仰向けになって天井を見上げる目も片手で覆い隠してしまった彼を上から覗き込み、なにかを呟く。
 その言葉さえも、彼の耳には届かなかった。
 ――どうなっている?
 冷静さを欠いた思考でどこまで明確な答えが導き出せるか、分からない。そもそも原因はなんだ、病気をした覚えはないし聴覚を麻痺するような高熱を出した記憶もない。あるとしたら、あの頭痛と耳鳴りくらいか。
 頭上ではユーリが何度も彼を呼んでいる。唇が刻む形は、恐らく子音が正しければ彼の名前――スマイル――になるはずだ。違っていたら大笑いだが、とにかく呼ばれているだろう事だけは理解できて、彼は指の隙間から見上げるのは止めてその手を頭の脇に落とした。
「     」
 無音の空気が肌を掠める。
 なにかの冗談だろう、と笑い飛ばせたならどんなに良かっただろう。
 一過性に過ぎない、ただの体調不良で済む問題であればどんなに楽だっただろう。
 原因と理由がはっきりとした上で、治療方法が明確に見出せるものであったなら、どんなに救いがあっただろう。
 だけれど、この時はただ、本当に戸惑いと恐怖と。言いしれぬ不安だけが胸の中でせめぎ合って、彼は巧くことばを紡ぐことも出来なければその場の誤魔化しも通せぬまま、ただ茫然とユーリを見返す事しか出来なかった。
 ユーリが重ねて、小首を傾げながら彼を――スマイルを見つめ、手を伸ばしやはり何かを呟いて指先で額に触れた。どうやら熱を計っているらしい。彼のこの奇妙な反応を、熱でもあるのではないかと予測したようだ。
 但し、彼の熱は平常通り。生死の境を彷徨わねばならない高熱にも縁遠く、吐息を吐いて手を離すユーリの横顔を眺めながら彼は、果たして自分の声が彼に届いているのかさえも、疑った。
 試しに、声をかけてみる。
 名前を、呼んだ。軽く……己の耳は聞き取らずとも、情報を発信している脳は声を発したのだとちゃんと、彼に教えてくれる、声、で。
 すぐさまユーリは反応を見せ、彼を見返した。そして恐らくその唇は「なんだ?」と返したに違いない。
 その耳は音を掴むどころか、空気の流れさえ捕らえてくれなかったけれど。
 返答を待ち、ベッド前に佇むユーリを見上げ、彼は身体を起こして膝の上に左の肘を置いた。その腕を支えにして額を左手の平で押さえ、俯く。
 ユーリは益々訳が分からないようで、困惑の表情を浮かべたまま彼を見下ろしていた。
 状況がまったく把握できていないのは、なにもユーリだけではないのだけれど。
 スマイルは首を上げて、ユーリを見上げた。
 問いかけるような視線が自分に向いていて、果たして本当のところを言うべきかどうか一瞬だけ悩んでしまう。けれど言わずとも、いつかは知られてしまうだろう事だから、彼は二度ほど深呼吸を繰り返して咳払いをした。
 その音も、やはり彼の耳には聞こえなかった。
 ただユーリだけが、いったいさっきからなんなのか、とでも言いたげな目を向けている。
 ユーリ、と彼は膝の上に置いた手を結んだ。唐突に改まった彼の態度に、ユーリはいよいよ怪訝な顔をして眉目を顰めさせた。
 こうしている間にも時間はどんどん過ぎ去っていく。今日は確か新曲の音合わせが正午前から予定されていたはずで、普段は使用しない目覚まし時計をセットしていたのもその時間に絶対に遅れてはならないと自戒していたからに他ならない。
 だけれど、まさかその音自体が聞こえなくなるとは予想だにしなかったこと。それは彼だけでなく、ユーリもバンドの仲間も誰も、考えもしなかった事に違いない。
 それでなくとも、彼はここ数日続いていた頭痛の事を誰にも話していなかったのだから。
 気にするような痛みでも、倒れてしまいたくなるような痛みでもなかった。ただズキズキと、思い出したときに痛み出すようなそんな、厄介ではないけれど鬱陶しい痛みだっただけだ。耳鳴りも気にしなければまったく問題ない程度であり、特に身体機能に影響を及ぼしかねないほどの酷いものではなかったのに。
 なにが悪かったのだろう?
 彼はゴメン、と小さく呟いた。けれど本人は“小さく”呟いたつもりでも果たしてその音量がどれ程で、真向かいに立っているユーリに聞こえたのかそうでなかったのか、判断しかねるものだった。
 現にユーリは、彼の呟きに反応して顔を更に顰める。唇が微かに開閉し、何かを呟いたらしい。
 しかしどう耳を澄ましたところで、己の呼吸音さえも聞こえない状況に変化は訪れなかった。
 もう一度、彼はユーリの名前を呼んだ。
 ユーリが顔を寄せ、「さっきからどうしたのだ?」と普段と違っている彼の様子を訝む。
 かろうじて唇の動きだけでそれらの発言を読みとり、理解して、彼は自分が酷く疲れてしまっている事に気づいた。
 額に置いていた左手はそのままに、緩く首を振る。冷たい汗が、布一枚も羽織っていない背中を流れ落ちていった。
気分が悪い、吐き気は思い出したら途端に甦ってきてしまった。
 ユーリが見つめている、彼の返事を待っている。
 だけれど彼は応えられなかった、なにも答える事が出来なかった。
 いったいなにを言えばいいのだろう、何をどう伝えれば良いというのだろう。自分がどうなってしまったのか、自分でさえ分からないと言うのに。この状況を、どうやって他人に説明できると……?
 助けて欲しい、誰か自分を助けられる人が居るのであれば。
 教えて欲しい、何故こうなってしまったのか、を。
 ユーリ、ともう一度その名前を口ずさんだ。
 やはり自分の耳には、脳裏に直接響く音以外になにも聞こえやしなかった。
 表情を険しくさせるユーリの顔を見ていられなくて、彼は視線を逸らした。けれどユーリの手がそれを許さなくて、頬に添えられた彼の指先が冷たく、スマイルの態度を硬直させた。
 視界の隅で顔を捕らえれば、ユーリの唇が「どうした?」と彼に問いかけていた。
 俯いてしまう。どうしても真正面から顔を見返すことが出来ない。
 無音の世界、寂しいくらいに孤独だった。
 誰も居ないと錯覚してしまう、目の前にあるもの一切が虚空に描かれた虚像であると。
 今自分に触れているユーリという存在でさえ、自分が好きなように想像して生み出された勝手な想いではないかと、疑いたくなるほどに――。
「っ!」
 反射的に、彼は右手を振り上げて触れているユーリの手を払ってしまった。
 スマイル!? と、彼が驚きつつ声を張り上げるのが、想像として、錯覚として、彼の耳に聞こえた気がした。
 実際にユーリはスマイルの名を叫んでいただろう。だけれどその声ですら、彼の耳に届きはしなかった。そしてユーリはその事をまだ、知らなかった。
 スマイルは自身の唇を噛み、払われた手を握りしめているユーリをその隻眼でねめつけてから吐き捨てるように――彼自身にそのトーンは聞こえないものだから、押さえどころもなくていつも以上に、厳しくそして冷たい口振りになってしまっていた――ユーリに言った。
 ぴしり、と音を立てて彼らの間に出来ていた空間がひび割れていく音を、音を聴く術を失ったスマイルは聞いた。
 聞こえないんだ、と。
 ただひとこと、正直な想いを告げる勇気ではなくむしろ、自棄になった心で告げてスマイルはもう一度、吸い込んだ息をすべて外へ押し出すつもりでユーリに、怒鳴っていた。
 なにも聞こえないんだよ!!
 だのに、自分でも分かって大声を張り上げているのに、彼の耳には大気を震わせているはずの自身の声は届かなくて。
 泣きたくなって、彼は更に強く唇を噛んだ。
 ユーリが茫然としているのが見える。だけれど今の彼に、自分自身の状況にショックを覚え、それを制御する力さえ失っている彼には、他人に気をかける心の余裕も失われていた。
 よろりと後ろに身体を傾がせたユーリに、彼はベッドに張り巡らされたシーツを強く握りしめながら、出て行け、と呟いた。
 直後その声は荒立てられ、同じ単語が繰り返される。
 ユーリは再び、押し出されたようにフラフラと二歩ほど後退して弱々しく首を振った。
 微かに開かれた唇がなにかのことばを紡いだようだった。けれど、聞こえないのだ。彼には自身の吐き出す呼気の音でさえ、聞こえないのだ。
 ユーリがまたなにかを呟く。弱々しく首を振る。
 嘘だ、と言っている。冗談だろう、と無理に笑おうとしている。笑い飛ばしてしまおうとしている、いつものような、お前の悪い冗談だろう、と。
 スマイルは返事をしなかった、出来なかった。
 ユーリの声は聞こえない、そして、聞きたくもなかった。
 出て行け。
 再度呟く。
 ユーリは両手を広げ、更に強くなにかを叫んだ。それにスマイルの絶叫が被さる。
 どちらが大きかったのか、スマイルには判断がつかなかった。ただ直後に、ユーリもまた泣きそうな顔をして強く下唇を噛みしめるのが見えて、自分が今、何をしたのかを思い出した事くらいで。
 大きくかぶりを振ったユーリが、その宝石のように輝いていた瞳を曇らせて最後にもう一度だけなにかを叫んだ。
 顔を上げた彼の紅玉の双眸が、鈍く光る。
 冗談だろう、と。
 唇の動きがかろうじてスマイルに、彼の呟きを教えた。
 少しだけ冷静さを取り戻した彼は、けれどユーリの期待に応えることなく、真横に二度、首を振った。
 それから、ゴメン、と。
 一番最初に彼が呟いたことばを繰り返して、終わった。
 それ以上ことばは続かなかった。
 なにを告げればいい? なにを語ればいい? なにを……どうやって説明すればいい?
 どうしてこうなったのか、なにが原因でなにが要因で、なにが引き金でこうなったのか、当人ですら分からないというのに。
 ゴメン、と。
 誰に対してかも分からない謝罪のことばを述べる以外に、スマイルは言えることばが思いつかなかった。
 当たり散らしてゴメン。怒鳴ったりしてゴメン。寝坊してゴメン? 君の声が聞こえなくて……?
 分からない。
 なにも、分からない。
 スマイルは頭を垂れた。かろうじて膝の上に建てた手で頭を支え、全身が崩れてしまうのだけは防ぎながらも、次にどう行動すればいいのかさえも分からなくて動けなかった。
 噛みしめた唇が、ただ痛い。
「       」
 ユーリが呟く。聞こえていない音声に気配だけで顔を上げると、ユーリも今の彼と同じような何も言えぬ、哀しげで悔しげで、状況に当惑している顔をしていた。
 伸ばされた彼の両手がスマイルを包み込む。
 耳元で囁かれたことばでさえ、吹きかけられる息を感じるだけで他に聞こえる音はなにひとつとしてなかった。
 こんなにも近くにいるのに、その吐息さえも感じ取ることが出来ないなんて。
 スマイルは縋るように両手を持ち上げ、ユーリの服を掴んだ。
 その途端に押さえが利かず、堪えていたすべてが堰を切ったように溢れ出して彼は聞こえない声で嗚咽を漏らし、ユーリを力任せに抱きしめると縋り付き、自分には聞こえない声を上げて泣き叫んだ。
 優しい手がその背を優しく、撫でてくれる。
 とまらなくて、どうしようもなくて、スマイルはただ感情に任せるままに声を上げ、ユーリを傷つけた。汚いことばも吐いたし、あらゆるものを呪う呪詛も吐いた。
 それでもユーリは、ずっと彼を放さず離れず、傍にいてくれた。
 彼を抱きしめていてくれた。
 我が子をあやす母親のように彼の背をさすりながら、繰り返し同じことばを彼に囁きかけ、抱きしめる。
 そのうちにただ咽び泣くだけになったスマイルをよりいっそう、強く己の腕に納めて彼は目を閉じた。
 スマイルはそんなユーリの腕を痣が出来るほどの力で握りながら、己の卑小さと弱さを悔やんでいた。
 どうしようもなく、悔しい。
 哀しい。
 辛い。
 恐い。
 ……どうして、自分ばかりが。
 問うても答えは出てこない。
 その日は入っていた予定をすべてキャンセルして、彼らはあらゆる医者を渡り歩き彼の身に起こった変調の原因を探ろうとした。
 自分は大丈夫だからとスマイルがいくら言っても、頑固なまでにユーリと、そしてあとから事情を説明されたアッシュが引っ張るようにして彼を連れ歩き付き添ったけれど、尋ねる先のどの医者も――その中にはメルヘンランドに暮らす者たちを専門とする医者も含まれていたに関わらず――誰ひとりとして、スマイルの異常の理由を解き明かす事が出来なかった。
 ある者は精神的なものだろうと言い、別の者は脳に異常があるのではないかと検査入院を勧め、ある者はただの難聴だろうと笑い飛ばした。
 真剣に診察を受けに来た相手を笑い飛ばした医者は、もれなくアッシュの鉄槌という裁きを受けたものの、結果的にこれといった原因を解明する事には至らなかった。検査入院に関しては、スマイルが嫌がった事で遠慮させてもらい、夕方近くになって三人は住処としているユーリに城へ帰り着いた。
 一様に、暗い顔をして。
 夕暮れの西の空が赤く染まっている。城を出た時には日はまだ東に近い方角にあったはずなのに、時間の経過の早さを思い知る想いで西日を見上げ、スマイルは小さく息を吐いた。
 自分以上に、仲間達の方が沈んだ顔をしている。
 耳が聞こえない事以外に、スマイルの身体にはなんら異常は見られなかった。最初は混乱して気が動転してしまったけれど、彼は天性の明るさから今はさほど、……少なくとも朝よりは悲観的な想いを抱かなくなっていた。
 誰かを、目に見えない運命や神を呪ったりすることはなくなっていた。
 大丈夫だよ、と城に入った直後に彼は務めて明るい笑顔を作りだし、俯き加減に先を歩いているユーリとアッシュに告げた。
 彼の名が示すとおりの、笑顔で。
 ユーリがまず振り返り、アッシュが苦い顔を浮かべるのも見上げてから彼は更に笑おうとして、失敗した。
 だのに無理をして、また「大丈夫だから」と言おうとする。
 笑えなかった笑顔が歪んでいく。
 明日になれば、きっといつも通りに戻っているから、と。
 当てのない予測を告げて彼は両手を大きく横に振り回す。
 なによりも自分の所為で周囲が沈んでしまうことが嫌で、懸命になって彼は仲間を方向違いに励まし明るく振る舞おうとした。
 けれどユーリもアッシュも笑ってくれなくて、居たたまれなくなって彼は聞こえない声を途切れさせ俯いた。
 噛んだ唇が浅く切れ、鉄の味が広がる。
 ユーリ、そしてアッシュがほぼ同時に口を開いてなにかを――恐らく同じことばを――呟いたけれど、それも彼に届くことは決してなく。
 一度強く足を踏みならしたスマイルは、深く息を吸って長い時間をかけてそれを吐き出した。
 ゴメン。
 他にこの場で言えることが見当たらず、彼は自分へか仲間達へかも分からぬまま呟き、歩き出した。
 止めることも出来ないでいるユーリとアッシュの間を抜けて、階段へ向かう。
 見上げた先に見えた柱時計の、定刻を指し示したときに鳴り響く重厚な鐘の音も遠い。
 あらゆるものが空虚であり、偽りであり、それを信じている自分自身さえもが愚かしく思えてならない。
 タスケテ
 そのことばは声にならずに消えた。
 誰かが叫んだように思う。けれど声など聞こえず、だから彼は振り返らなかった。
 そして、次の日も。
 やはり彼の耳はなにものの音も拾いはせず。

 彼は、少しずつ、喋らなくなっていった。

考え事

 ほのぼのするような暖かい日の午後。レイクウィンドゥ城の城主ことセレンは、城の庭にある池の前でボーっとしていた。
 腰掛けるのにちょうど良い高さの石に座り、ぼへーっと池のアヒルを眺めている。彼が何をしているのかは分からないが、大切なリーダーの邪魔をしては悪いと池の前を通り過ぎる人達は皆遠慮してそそくさとそこから立ち去っていく。
 おかげで、セレンはひとりでのんびりとできた。ただし、そのことを本人が自覚していたかどうかは、謎。
 だって、セレンは考え事をしているように見えて実はなんにも考えていなかったのだから。
 自室にいたらナナミが騒ぐし、シュウやリドリーが今後のことを考えろ、と勉強を強要してくるし、道場に行けば修行修行とやかましい人達がいるし。レストランに逃げれば人だかりができて騒々しく、酒場は酒臭い。たまにはひとりでのんびりしたいと、結局落ち着いたのがこの場所だった。
「ねむ……」
 ぽかぽかのお日様が心地よい。あくびが自然とこぼれて、セレンはのびをした。
 たまにはこんな日も良いかな、ほやーっと考え池に石を放り投げる。水紋が広がり、きらきらと光がはねた。
「もうちょっとこうしてよう」
 さぼり癖がついたわけではないが、連日の作戦会議や鍛錬でセレンはくたくただった。とりあえずシュウにさえ見付からなければもう少しはここでのんびり羽を伸ばせるだろう。誰にも邪魔されないというのは、いいことだ。
 だが、そうも上手くいかなかった。
「あっれ? セレンじゃん。なにしてるんだ? そんなところで」
 顎をつき、また一見考え事をしているように見える体勢を作ったセレンをずり、っと落っことした人がいた。
「……シーナ……」
 恨めしげにセレンは、突然声をかけてきた人を振り返る。
 トラン共和国大統領を父に持ち、美人の母に負けず劣らずの美貌を誇る(自称)、超尻軽男のシーナが、セレンの座る石に影を落とす巨木の枝に手をかけて立っていた。
「……何か用?」
「用が無いと話し掛けちゃ駄目なわけ?」
 邪魔するな、と眼で訴えてみるがシーナは軽やかな笑顔でそれをかわした。
「で、何してたの?」
 さりげなく近づきながら、シーナが続けて尋ねてくる。しゃがみ込んでセレンと視線の高さを合わせ、にこにことお得意のスマイル攻撃(笑)。
「何もしてないよ」
「あれ? 考え事してたんじゃないの」
「してたよ」
「何もしてなかったんじゃないの?」
「何もしないことを考えてたの!」
 むかっ。
 いちいちいらないことを言ってくるシーナに、セレンは腹が立ってきた。大体、シーナはマイペースすぎる。たまには相手の気持ちを考えてものを言えば、ナンパ率だってもうちょっと上がるかもしれないのに。
「暇なんだな、今回のリーダーは」
「なんだよ、それ」
「いや、こっちのこと」
 前のリーダーはいっつも難しい顔をして考え事ばっかりしていたなあ、とひとりごちるシーナ。
「わるかったね、どうせボクはなんにも考えてないお子さまだよ」
  一度だけ会ったことのある、門の紋章戦争の英雄。ラスティス・マクドゥールはたしかに、セレンにくべればずっと考え方も上で、統率力もあるように映った。彼と比較して、自分のふがいなさを思い、セレンはずいぶんと落ち込んだことだってあったのだ。
「すねない、すねない。セレンだって立派なリーダーだぜ。俺が保障してやる」
「シーナの保障なんて、ちっとも当てにならないよ」
 可愛い女の子であれば誰だって良いらしく、手当たり次第に声をかけるシーナに言われても少しも説得力がない。言ってやると、シーナは困ったように頭を掻いた。
「じゃあ……オヤジが認めたんだ。安心してリーダーやってろ」
 トラン共和国を立派にまとめ上げているレパントの保障付き、と言い直すシーナ。馬鹿正直。
「そんなこと言われても……」
「どう言ったってセレンは落ち込むもんなあ」
 まるで落ち込むのが趣味みたいな言われ方で、またセレンはむっとなる。
「からかいに来たんなら、いい加減にしてよね。ボク、帰る」
 帰るといっても、ここが彼の家なわけだが。
 立ち上がりかけたセレンだったが、しかしシーナが下から腕を掴みひっぱたためにバランスを崩して見事にシーナの上に落ちてしまった。
「シーナ!」
 ふざけるな、声を荒立てて組み敷く形になった彼に怒鳴りつける。だが、下敷きになったシーナはおかしそうにからからと笑い声を立てた。
「女みたいだな、軽くてちっとも痛くない」
ひょい、と見かけによらない強い力でセレンをどかし、そのまま草の上に寝転がったシーナは憮然としているセレンに言う。
「からかってないさ。セレンはセレンで、ラスと違う。この城にいる連中はみんな、おまえを慕って集まった奴らばっかりだ。おまえならこの国を立て直せるって思ったから、勝ち目の薄い賭けに乗ったんだ。違うか?」
「…………」
 そうかもしれない。そうでないかもしれない。確かめたことなど無かったから。
「今度聞いてみな。おまえは、おまえが思っているほど頼りない存在なんかじゃない」
 シーナの広い手がセレンの頬に触れる。彼はゆっくりと、体を起こした。
「ラスになる必要なんて無い。セレンはセレンのまま、おまえが思うようにやればいい。ラスはトランを救ったけど、おまえが救うのはトランじゃないだろ?」
 比較対象として見る必要なんて無いんだ、とシーナは優しい声でささやく。
「おまえひとりが戦っているんじゃない。俺達がなんのためにいるのかも考えろ。もっと自信を持って良いんだぜ、おまえは」
 こつん、とシーナの額がセレンの額にぶつかった。目の前にきたシーナの顔がやけににやけていることに気付き、セレンははっとする。
「やっぱりからかってるじゃないか!」
 どん!とシーナを押し返し、彼は怒鳴った。びっくりしたようにシーナが目を丸くする。
「……頭固いなあ、見かけによらず」
「悪かったね!どーせ、ボクは頭悪いよ!」
「いや、そーじゃなくて……」
 これは何を言っても逆効果になりかねない。女の子の相手ならいくらでも対処のしようがあるが、セレン相手ではさすがのシーナも形無しだった。
「セレンさあ……もうちっと柔らかく考えた方が良いんじゃないか?」
「…………」
 完全にすねてしまったらしい。シーナの言葉に、セレンは無反応。
「頭悪いって自覚あるんだったら、頭良い奴に考えるのを任せちまえばいいじゃん。戦いたくないんだったら、戦いたがってる奴らに任せちまえばいいんじゃねの?」
「……できっこないこと、いわないでよ」
 しかしちゃんと聞いてはいたらしい。無責任なことをひょいっと言ってのけるシーナに、セレンは顔を上げて反論した。
「それじゃ、ボクは必要ないじゃないか」
「だったら、考えろよ」
 しかし、セレンの返事をあらかじめ予想していたのか、にやりと笑ったシーナが勝ち誇ったように即座に切り返してきた。
「お前が出来ること、考えろよ。ラストエデン軍のリーダーとしてじゃなくて、セレンっていうひとりの人間として、どこまで出来るのかをな。何も自分から重荷をしょって立つ必要なんてないんだぜ、お前、まだ16歳じゃん」
 出来ないことの方が多い年齢だと、シーナは笑った。
「その為に俺達や、シュウやリドリーがいるんだしよ。お前はお前であればいい、それ以上を望む連中なんて、無視してればいいんだよ。俺みたいに」
 それは……良くないと思うが。
「ま、とにかくだ。16歳は16歳にしか出来ないことだってある!要は後悔しなきゃいいんだ。自分が一番楽しいって思える生き方、探せよ」
 よ、っと立ち上がり、シーナは真上からセレンをのぞき込むようにして言った。
「……なんか、シーナが違う人みたいだ」
「どーゆー意味かなぁ?」
 ぐにいとセレンのよく伸びる頬を外向きに引っ張り、額に怒りマークを付けたシーナが尋ねる。
「いふぁい、いふぁい!」
  ばしばい彼の腕を叩いてギブアップを訴えるセレンを見て、ようやくシーナはセレンを解放した。
「俺はいつだって真剣なんだよ」
「…………」
 セレンは真っ赤になった頬を両手で包み、ふんぞり返るシーナを恨めしげに見上げる。悔しいが、今は彼の言うことの方が一理あった。
「……いいのかな、それで」
 でもまだ分からない。リーダーがどういうものか、自分がどうあるべきか。
「聞いてなかったのか?後悔しなきゃ良いんだよ、お前が。他の連中の事なんて気にするなって。お前の人生だぜ?他人にあれこれ言われてその通りにしか出来ない生き方なんて、俺は絶対に御免だね」
「……シーナは、後悔してないんだ」
「ん?……まーな。オヤジには怒られてばっかだけど」
 思い出したのか、頭を掻きながらシーナは言葉を濁らせる。
「シーナ……強いね」
「お前の方が強いだろ」
 リーダーをやっていられるセレンの方が、ずっと強い。シーナの言葉に、セレンは首を振る。
「ボクは強くない。ずっと迷ってる。迷って……答えが見付からない」
 立てた両膝の間に顔を埋め、セレンは唇を噛んだ。肩が小刻みに震えていて、少しだけ考えたシーナは、そのセレンの頭をそっと撫でた。こういうことをすれば、子供扱いしていると彼は突っぱねるのだが、今回はおとなしくシーナの手を受け入れていた。
「迷ってんなら……やっぱり、考えてろよ。時間はあるんだからさ」
「…………うん」
 長い時間をかけて、セレンは静かに頷いた。

Blowing

 両手を伸ばせば届くかも知れない、けれど指先を掠めもせずにどう頑張っても届かない――永遠に手に入らない距離が、確かに存在している。
 きっとその背中に綺麗な真っ白い翼があったなら、届く事が叶うかも知れないけれどそんな高望みをしたところで、大地に貼り付くことでしか生きていけないあの子の手は永遠に宙をさまよい続けるのだろうか。
 いや、違う。
 あの子の背中にありもしない翼を求めているのは、他でもないこの自分自身。
 あの子の願いを叶えてやりたいと思いながらも、その手助けを出来なくて遠くから眺めている事しかできない、自分自身だ。
 そして己もまた、彼女と同様にこの大地に這い蹲って生きている。
 やがて腕を伸ばし続ける事に疲れたのか、少女は小さく首を振って頭上に伸ばしていた手を引き戻した。
 胸の前で両手を握りしめ、冷えてしまった指先を互いに擦り合わせて温める。吹きかける息は白く、僅かに濁っていた。
 擦り合わされる時に肌がぶつかるのだろう、黒一点の飾り気もなにもない少女の服に唯一許された真っ白い花がカサカサと乾いた音を零す。ひとしきり指の強張りが抜けたことを確かめてから少女はそっと、詫びるように花の表面を撫でた。
 ごめんなさい、と呟く声が聞こえた気がして彼は何度か瞬きを繰り返す。
 少女は本当に何かを呟いたようだったが、彼の位置からはその唇が刻んだ音は見えなかったし聞こえもしなかった。だからそれは彼の錯覚であり、幻であったに違いない。
 けれど本当にそう思えてしまったのは、自分が彼女に対して抱いていた幻想に対して詫びの思いを今まさに、胸の中に浮かべていたからかもしれなかった。
 自意識過剰すぎるよ、と自分の額を抑え込んで彼は吐息を吐く。
 少女は再び覚えた寒気に、黒の服から覗く真っ白な肌を震わせて身を小さくさせた。
 彷徨うように宙を泳いだ少女の黒曜色の双眸が細められ、視界の片隅に佇んでいる彼の存在を認めると少しだけ、緩んだようだった。
 鳥を捜す、女の子。
 いつも空ばかり見上げているから、時々歩きながら足許不注意で転んでいるところも目撃したことがある。てんで見当違いの、鳥など居そうにない場所にまで足を運んでいる時があって、しかもキョロキョロと落ち着きなく周りを見回しながら歩いて居るものだから、見ている方が心臓に悪い時もある。
 真っ黒い髪の毛に、真っ黒い服。夜の闇よりも深そうな漆黒の瞳をキラキラさせて、鍵のない白い鳥籠をいつも持ち歩いている、女の子。
 だから、いやでも目立つし、目に入る。
 自分に気が付いた少女が手を振るのを見て、彼も同じように左手を持ち上げて手を振り返した。
 けれど途中で彼女の頭上に黒い影が走り、それが空を駆る鳥であると理解した時にはもう彼女の注意はそちらに奪われてしまっていて、さっきと同じように彼女は両手を空へとつきだした。
 彼女が届く距離の向こう側を、薄茶色の羽に風を受けて鳥が飛び去っていく。少女に気づくこともなく、一目散に逃げるように――無論、その鳥はそんなつもりなどさらさら無かったのだろうが――鳥は東の空へと消えていった。
 彼はゆっくりと少女に歩み寄りながら、やはり今去っていった鳥の軌跡を追って東を見つめる。
 なだらかな丘陵が途切れ、背の低い人工物が無機質に並んでいる空間に紛れてしまった、茶色の鳥。少女はまだ寂しげに、鳥の消えた方角を見つめていた。
「あの鳥は、違うと思うよ」
 だから声をかけるとき、最初に口に出たのはそんな慰めに似たことばだった。
 茶色と、黒のまだらの羽をした鳥だった。遠かったのでしっかりと確認できたわけではないけれど、あれは郊外であれば簡単に見つけることの出来るありきたりな鳥のはずだ。
「ちがうの?」
 振り返った少女が、彼のことばに呼応して呟く。見上げてくる黒曜石は綺麗に輝いたままで、それが彼は少しだけ嬉しかった。
 小さく頷いて、彼は東の空を見上げた。
 青空を途切れさせる大きな雲が、丘陵の先、人工物の波、更にその向こう側に広がるなだらかな山並みの向こうまで続いている。
 しっかりとした厚みを持つ雲は、けれど雨雲とは違い綺麗に澄んだ色をしている。強すぎる碧を中和するように、柔らかな微笑みをたたえながらバランスを保って自然界のキャンパスを美しく飾っていた。
 雲間から時折覗く太陽は眩しく、隙間からこぼれ落ちる光の筋は幾重にも重なって昼間のオーロラのようだった。
「ちがうの?」
 少女が同じことばを繰り返し、左側に小首を傾げてみせた。純粋に疑問に思っている目を向けられ、彼はどう返答をすればよいのかに困り、逡巡する。
 まさか、君に一番似合う鳥は真っ白い羽を持っている鳥だから、と言うわけにもいくまい。それで納得してくれるような子ではなかろう。
 だけれど、彼が考えている短い間に少女の注意はまた別のものに向けられたようで、外された視線が虚空中を彷徨っていた。
 次の瞬間、彼らの佇む地に訪れたのは、一陣の突風。
 吹き付ける風に煽られた地表の塵ほどの大きさしかない小石が巻き上げられ、緑の草のカーペットが折り畳まれながら波立つ。丘陵の頂を飾っている幹は太いが背の低い、丸みを帯びた樹が両腕いっぱいに彼女の子供を抱きしめた。濃い緑が漣だって風を呑み込むほどの轟音を大地に叩きつけ、耳の奧に自然界の和音を響かせる。
 少女は無意識なのだろう、両手で身体を庇うように包み込んだ。足下に置かれている鳥籠の扉がカタカタと風に煽られ、かごとぶつかり合う音をがなりたてていた。
 壮大な自然に対しての畏怖か、あるいはどこまでも広大無辺な自然への憧れに似た想いか。
 過ぎ去っていく風を追いかけて空を仰いだ少女の瞳はどちらともつかずに、見開かれている。
 光も闇さえも関係なくあらゆるものの本質を見抜くことが出来そうな、深淵よりも深い黒が煌めく。
 乱れてしまった髪を片手で押さえ、露出している右目に飛び込んできた塵を繰り返す瞬きで追い出し、彼は長い息を吐き出した。突風は一瞬だったはずなのに、その中に立つ少女の姿を随分と長い間見ていたような錯覚さえ覚えて、瞼の上を軽く擦る。
 あの風の中に何を見たのか、少女はやはり瞬きを繰り返しながらも遠くの空を見据えていた。抱きしめていた自分を解放し、穏やかな普段の様相に戻った風に髪を揺らしながら、どこまでも遠くを。
 あるいは、目に見えるもの以外のなにかを見つめていたのかも知れない。そうであっても不思議でない横顔をひとしきり眺め、彼はまた吐息をついた。
 自分と彼女では、見つめる先にあるものが違うのだろう。彼の右目に映し出されるのものは、青い空と白い雲と、その下に広がる灰色ばかりの世界だ。
 いったい彼女の瞳にこの世界はどんな風に映っているのだろう。
「すごかったね」
 ぼんやりしていると、不意に声をかけられた。
「え?」
 油断しきっていたため巧く聞き取れず、彼は変な顔をしてしまって彼女を振り返った。
 自分を見上げる漆黒の双眸が意外そうに見開かれ、直後笑われた。声までは立てられなかったが、余程奇怪な顔をしてしまっていたのだろう、少女は透明な声を零しながら両手で己の口元を覆い隠し笑みさえも見えないように隠してしまう。
 それが少女の、彼が気を悪くしてしまわないように、という小さな心配りであることが分かるからこそ、複雑な表情を浮かべなおして彼は頭を掻いた。
 だけれど、誰かが怒ったり哀しんだり、寂しかったり嫌な気分で居るよりはずっと、こうやって笑ってくれている方が嬉しくて、好きだ。それが例えこんな、自分の恥をさらすような事であっても、自分の事で誰かが笑っていてくれるんであれば喜んで、自分はピエロになろう。
 哀しい顔を隠したピエロになろう。
「えっと……なに?」
「すごかったね、さっきの風」
 少女がひとしきり笑い終えるのを待ち、彼は頬を爪の先で引っ掻きながら尋ねた。
 返事は即座に戻ってきて、ようやく話が繋がって彼は得心がいき頷いた。
「うん、凄かった」
「包帯、ずれてるよ」
「え、嘘!」
「うそ、だよ」
 クスクスと、少女が心底楽しそうに笑って言った。
 一方言われた方は、今自分がからかわれたのだと理解するのに三十秒ほどの時間が必要で、その間もずっとぽかんとした、間の抜けた顔をしてしまっていて、それが余計に少女の笑いを呼び起こしたようだ。コロコロと小さなピンク色の唇から転がり落ちていく笑い声に、次第に自分でも表情が崩れだして彼はしてやられた、という想いを抱えながらも自分でも笑い出した。
 しかし念のために自分の目では見ることの出来ない箇所に巻き付けられている包帯に触れ、本当にずれてしまっていないかを確かめる事は忘れない。
 信じていないわけではないが、不安になってしまったから。
「その包帯」
 両手を使って頭や、顔に巻いている包帯を確認していると少女が歩み寄ってきて、じっと見上げてきた。
「どうして、巻いてるの?」
 鳥籠を両手で持って、じっと見つめている。
 彼は口元に薄い苦笑を浮かべ、少女を見返した。隻眼で細めて表面だけの微笑みを形作り、けれど誤魔化すように手は少女から逃げて、後ろで組まれた。
 結び合わせた先の指が、空回りを繰り返す。
「これはねぇ……みんなにぼくが見えるように」
「見えるよ」
 彼に最後まで言わせず、彼の声を遮る格好で言った少女の声はいつもより若干、トーンが高く大きかった。
 隻眼を見開き、またもとのサイズに戻した彼が複雑な表情を浮かべて少女を見る。
 彼女は必死に、なにかを言おうと言葉を探しているようだった。けれど見付からないのか、次第に表情を翳らせて俯き始め、弱々しく首を振る。
 完全に下を向いてしまう前にぽつりと、「見えるよ」ともう一度、呟いて。
 困ってしまって、彼は自分もなにを言えば良いのか解らなくなる。引っ掻いた頬が痛くて、緩く首を振り真っ青な空を見上げた。
 雲間から覗く太陽が、眩しい。
 あぁ、違うのかも知れないな。ふと、そう思った。
 だから姿勢を戻し、未だ俯いてしまっている少女を改めて見つめて彼は微笑んだ。ちゃんとした、笑顔を向けた。
「ぼくが、みんなに見えていると思えるように……かな」
 自信がなかったのかもしれない、本当に自分の姿が回りの人たちにちゃんと見えているのかどうか。ここに居るよ、と自分を主張できるように……みんなに見えていると、不安を隠せない自分の心を隠すために。
 少女は顔を上げ、再度首を振った。
「見えるよ……」
「うん、ありがとう」
「ちゃんと……見えてるから」
 ぎゅっ、と彼女は鳥籠を強く握りしめた。白い肌が、力を込めすぎた所為で余計に白さを増すのが痛々しい。
「だから、見えているから……貴方を、信じてあげて?」
 手をどんなに伸ばしても手に入らない、ものがある。
 けれどそれはひょっとしたら、届かないと思いこんでいるだけで途中で諦めてしまっているだけだとしたら?
 この手は、なにを掴めるのだろう。
「信じる……?」
「そう。貴方が、一番に、信じて?」
 にっこりと彼女は笑った。優しい、優しすぎる笑顔が眩しかった。
「信じる、かぁ」
 間延びした声は風に流され、灰色の街の光景に溶けて行く。それは盲点だったような気がする、そもそも自分が包帯を全身に巻き付けている理由自体、ずっと昔に考えたきりで忘れてしまっていたから。
 ずっとこうしていたから、こうすることが当たり前になっていた。こうある姿が、自分の姿だと思っていた。
 違うのだろうか……?
 考え込んでいると、真下から白い手が伸びてきて彼の頬を挟んだ。目線だけを下向けると、背伸びをして少女が立っていた。
「触れるよ? ちゃんと貴方はここにいるから」
 無理をしているのが分かる少女のために、膝を軽く曲げて体勢を低くする。視線を並ばせると、ホッとしたような顔で彼女は改めて居住まいを正し彼に触れた。
 撫でられる、くすぐったい。
「うん、そうだね。分かるよ」
 君が触れてくれているから、ぼくがここにいると、ちゃんと自信を持って言えるよ。
 触れられる掌を包み込むようにして手を重ね、その柔らかさに驚きながらも告げる。彼女は照れたような顔をして、はにかんだ。
 つられて微笑みを柔らかくし、彼は完全に膝を折り曲げて彼女よりも視線を低くし、膝の上に手を置いた。不思議そうにする彼女の前で丹朱の瞳を細める。
「だから、さ」
 お願いがあるんだ、聞いてくれるかな?
 突然方向が変わった話に少女は瞬きを二度繰り返してから、右側に小首を傾げた。暫く考える素振りを見せ、それから縦に深く頷いてくれた。
 ありがとう、と彼は先に告げる。
 そして膝の上で立てた肘を置き、頬杖を付いて悪戯っぽく笑う。
「たまに、ぼくに触れて確かめてくれないかな」
 風が吹いた。先程の風ほどではないにしても、それなりの強風で彼の声は簡単に攫われて奪われてしまった。
 返事はすぐになく、聞こえなかったのだろうかと彼は自分で勝手に納得させた。聞こえなかったのなら、それで構わなかった。
 もう一度言い直すのも、気恥ずかしいし自分でどうしてあんな事を言ってしまったのかと疑いたくなるくらいに、自分らしくない台詞であるような気がした。
 きっと、絶対、二度と言えない気がする。
 立ち上がる。吹く風に流されて空の雲は白さを増し面積を広げている。一度大きくのびをして草間の埋もれた足で大地を改めて踏みしめて、彼はくしゃくしゃのままの自分の髪を掻き回した。
 癖毛が跳ねあがり、何本か抜けて指に絡みついた。払うと、簡単に落ちて埋もれて見えなくなる。
「ん~~、さ、どうするかな」
 天気もいいし、このまま昼寝でも構わないかも。それとも街に繰り出して、買い物でもしてみようか。ボーっとするのも悪くないだろう。
 彼女に質問の声を上げさせないで、早口にこれからの自分の予定を声を上げながら組み立てていく彼に、少女は彼が照れているのだと理解して口元を手で隠し、その下で笑ったようだった。
「いいよ」
 鳥籠がカシャン、と音を立てる。
 扉は、開かれていた。
 一瞬の間があって、彼は少女を見た。彼を見つめる少女の双眸は、漆黒の中に太陽があった。
「どこ、行くの? おかいもの?」
 興味津々に尋ねてくることばに、さっき彼女が告げた了承のことばは一緒に行く、という意味だったのだろうか。聞きそびれてしまって彼は問おうかと思ったが、このままお互いの秘密にしておく方がいいような気がして、黙っていることに決める。
 なだらかな丘陵には常に、優しい風が吹いている。穏やかな陽射しに包まれ、しばらくふたりで何処へ行こうか、何をしようか、相談する。
 だけど結局決まらなくて、そのままふたり、日溜まりの下でお昼寝を決行。まだ少し肌寒かったけれど、ふたりで居れば暖かいから。
 風が吹く。
 空は、どこまでも澄んでいた。

水影

 ただ立っているだけでも、疲れるというもの。他にすることがないとはいえ、城の中央ホールに突っ立っているだけに自分を冷静に考えてみると、かなり、間抜けではなかろうかと思ってしまう。
「いいけどね……」
 頬にかかる髪を手で梳き上げ、気晴らしにその辺を歩き回っていたルックはぼそり、と言った。
 特に行きたい場所があったわけではないが、涼しい場所を求めて自然と彼の足は船着き場へと向かっていた。木組みの桟橋が歩くたびにきしきしと音を立てているが、絶え間なく吹き付ける風は心地よく気にならなかった。
 風の恩恵を受けているルックは、この場所と、あと屋上が好きだった。風を感じているときほど、自分の存在を強く感じる事が出来るからだ。
 右に視線を向ければ、のんきに釣りをしているヤム・クーの後ろ姿が見えた。横には興味深そうに水面を見つめるタイ・ホーがいる。
「いいけどね」
 静かにしていてくれるのなら、それで良い。耳元でやかましく騒ぎ立てられない限り、ルックは他人に干渉しないことにしている。どこかのお節介とは根本的な所から考え方が異なっているのだ。とにかく、彼は騒がしいのが一番嫌いだった。
 斜め前に小屋の建つ小島を望み、桟橋の端に立ってルックは静かに目を閉じた。
 風を感じる。遠く海を渡り、世界中を旅してきた風に交わることで、彼は様々な知識を得ることが可能だった。ただしそれには相当の集中力が必要で、少しでも集中が途切れてしまったら上手く行きかけていてもすべておシャカ。
 だが。
 ──…………。
 精神世界に浮かぶ穏やかな水面に、水紋が広がり始める。

 ぼちゃんっ!!

「!?」
 ぎょっとなり、ルックは閉じていた瞼を押し開け周囲を見回した。
 今ので、折角高めていた集中も途切れてしまった。
「誰だよ、今のは……」
 いらいらした声で呟き、髪を掻き上げる。あの音は、まず間違いなく誰かが大きなものを水に投げ込んだ類のものだ。しかし彼の周りにはそれらしき水紋が見られず、ただ少しばかり高くなった波が2,3度桟橋に叩きつけられただけ。どうやら彼の邪魔を(そんなつもりは無かったのかもしれないが)した人物は、彼の視角に当たる小島の小屋の裏にいるらしかった。
 これは一言で済ます訳にはいかない。あと少しで風と交わることが出来たのだ。二度と自分の邪魔をしないように、しっかりと釘をさしておかないと。
 見た目はそう変わらないのだが、意気込んで小島に渡ったルックはしかし、小屋の陰に誰の姿も見つけることが出来ず形の良い眉をひそめた。
「あ、ルック」
 けれど声をかけてくる者はいて、前を向いたルックは更に眉をひそめて眉間にしわを作る。
「……なに、やってるの……」
 問いかけというよりも、呆れ声しか出なかった。
 例の赤い服を着たままのセレンが、湖にぷかぷかと浮かんでいたのだ。
「気持ちいいよ」
 夏はとっくに過ぎ去ったあとで、水温は低くはないが高くもない。この時期に好きこのんで水泳に興じる人間を、ルックは知らない。……いや、知らなかったが、今知った。
「ルックも来れば?」
「服を着たままで?」
 小島からそう離れていない水面から手を振るセレンに、ルックは飾らない皮肉を言って返す。
「あうう……」
 ぶくぶくと鼻までを水に潜り、泡を立てるセレンは、一応これでもラストエデン軍のリーダーだ。
 バラバラだったかつての都市同盟を再結成させ、以前にも増した強固な団結を約束し、ハイランドの狂皇子ルカ・ブライトさえも倒した。目下の目標はハイランドを完全に沈黙させ、デュナン湖を中心としたこの地に統一国家を樹立すること。そうすれば長く争いの絶えなかったデュナン湖の畔は平和になるだろう、というのが軍の筆頭軍師やその周囲が鼻息荒く主張する、輝ける未来である。
 しかしこのリーダーを見ている限り、どうも統一国家を望んでいるのはリーダー本人ではなく、彼を取り巻く大人達だけのような気がしてくる。……否、実際にそうなのだろう。リーダー……セレンは、平和とかそういうもののために今まで戦ってきたわけではないのだから。
「…………」
 深々とため息をつき、腰に手を当てたルックはやれやれ、と頭を振って小島の端に立った。右手を伸ばし、セレンへと差し出す。
「いい加減、上がってくれば?」
 セレンが自分から水に飛び込んだのではないことは、彼の表情からすぐに分かる。多分足下の注意を怠って、落ちただけだ。
「心配してくれてるの?」
 嬉しそうに足をぱしゃぱしゃさせ、小島のすぐ側まで泳いできたセレンの言葉に、
「……君が風邪でもひいて倒れられたら、軍全体の動きに響くんだよ」
 ルックの返事は素っ気ない。
「あう……」
 また頭半分まで沈没して、セレンが恨みがましげにルックを上目遣いに見上げてくる。
「そんな顔しても駄目だよ」
 早くしろ、と言外に告げて、ルックはセレンに促す。腕を伸ばしているだけでも疲れるのだ。
 頭の先までしっかりと水を吸い込んだセレンは、まだいくらか頬を膨らませていたが確かにルックの言葉は正しくて、それに彼には口では絶対に勝てないことも自覚しているので、ついに諦めて水面から左腕を伸ばした。
 だが、ルックがその手をしっかりと掴む瞬間、小悪魔がセレンの耳元でささやいた。
「……」
 それは、少しばっかりのセレンからの仕返し。
 ルックは元々非力な方で、身長こそセレンより上を行くが腕力は断然セレンの方が上。つながった手を互いに自分の方へと引き合った場合、どちら側に軍配が上がるかといえば……無論、セレン。

 ばっしゃんっ!!

 湖は、いくら陸に近い部分とはいえ急に深くなっている。昔からやんちゃで、泳ぎにも慣れていたセレンは何ともなかったが、そうではないルックにとって突然足下のない場所に放り出されるのは恐怖以外の何物でもなかった。
「ルック!」
 自分でやったこととはいえ、まさかこんなにもルックが泳げないとは知らなかったセレンは、慌てて水面でばしゃばしゃやっているルックを助けにいった。
「げほっ、げほっ!」
 思い切り水を飲み込んでしまったらしく、セレンにしがみついたルックは激しくせき込む。
「……ごめん……」
 それどころではなくて聞こえていないかもしれないが、セレンは蚊の泣くような声でまずルックに謝った。
 彼の服はセレンのものとは違い、使われている布の量が多い。布は水を吸えば当然重くなる。その重みも手伝って、ルックは溺れかけたのだ。
「大丈夫?」
 おそるおそる訪ねるセレンに、
「……な、わけ……ないだろ……」
 鼻に水が入ったらしい。呼吸するのもまだ苦しげなルックが、こんな時でも嫌味な口調を忘れずに言い返してくる。
「ごめん……」
 しょぼん、とセレンは小さくなり横顔しか見えないルックを伺う。
「おいおい。なトコで、なにやってんだぁ?」
 呑気で豪快な声に顔を上げる。小屋の脇で、タイ・ホーが膝を折って二人に視線の高さを合わせる形でしゃがんでいた。すぐ後ろには、ヤム・クーもいる。
「……見て分からない?」
「おう。二人仲良く水遊びか?」
「……ヤム・クー、助けてくれない?」
 話にならないと、セレンはルックの背中をさすりながら、タイ・ホーの後ろにいるヤム・クーの方に助けを求めた。
「なんだ、引っ張り上げて欲しかったのか」
 手の中でサイコロを遊ばせながら、タイ・ホーが薄ら笑いを浮かべて言う。……セレンは彼に言ったのではないのに。
 ようやくいくらか落ち着きを取り戻してきたルックは、セレンにしがみついたままという自分の姿を想像して頭が痛くなった。早くここから脱出したい。
「助けてやろうか?」
 嬉しげなタイ・ホーの言葉に、嫌な予感が背中を走り抜けていく。
「俺様にちんちろりんで勝てたら、助けてやってもいいぜ?」
「この状態でどうやって……」
 やっぱり、と思うと同時にセレンは悲しくなった。どうしてこんな時に側にいたのがこの人達だったのだろう……?
「アニキ……」
 ヤム・クーも呆れている。相変わらずといえばそうなのだが、なにもこんな時に勝負を求められても、水の中にいるセレンがどうやったらサイコロを振れるというのか、少しは考えてもらいたかった。
「風よ……」
 そんなとき、セレンの傍らで風が吹いた。
「……あ」
 重力からの解放。まとわりつくように体を包んでいた水の質量が消え、代わりに優しい風がセレンを包み込んだ。程なく、足下にしっかりとした感触がよみがえってくる。
「……まったく」
 耳元でルックの声を聞き、セレンは顔を上げた。前にいたはずのタイ・ホー達が今度は後ろにいる。ルックが空中浮遊で湖からセレンごと脱出したのだ。
「びしょぬれだよ」
 顔に張り付いてくる髪を後ろに流し、いくらか棘のある台詞を彼はセレンの方を見ずに呟いた。二人の足下にはすでに巨大な水たまりが出来上がっており、どちらも揃って、つま先から頭の先まですっかり濡れ鼠だった。
「早く風呂に入った方がよくねぇか?」
 立ち上がったタイ・ホーがそんな彼らを見て言う。
「うん、そうだね」
 セレンの返事を聞き、服の裾を持ち上げて水を絞り出していたルックが、面倒そうに振り返る。
「……いいけどね」
 手を振ってタイ・ホー達と別れたセレンは、ルックを伴って桟橋を歩き出す。その歩調は少し小走りで、ゆっくり歩いているルックを置いていきそうになり、彼は立ち止まって待たねばならなかった。
「風邪ひくよ?」
「いいよ」
「どうして」
 風邪をひかれては困ると言っていたのはルックなのに。セレンの言葉にそんな意味を感じたルックは、
「……濡れていた方が、気付かれないだろう……」
 そっと右手を伸ばし、指でセレンの目元をなぞった。
「…………」
 ロックアックスの戦いから、まだほんのわずかな時しか経過していない。セレンは泣いても良いはずなのに、誰の前でも泣こうとしなかったから。
「……ありがとう……」
 そうして二人、ゆっくりとまた歩き出した。

 …………後日談。
 ルックとセレン、仲良く風邪をひいてしまい、シュウに説教を延々とされたあげく、ルルノイエ攻略の第一陣に置いて行かれたのでした。

旅立ち

 風がざわめく
 それは新たな時代の前触れ

 良くも悪くも、時代は人を選ぶ。
 時の流れは、それこそまるでひとつの意志でも持っているかの如く不具合の生じた大地に狂者を生み出し、それを打ち破る英雄を創り出す。
 見えない意志に踊らされていることを知らぬまま狂者は倒れ、操られていることを知りながら英雄はその運命にただ流されていく。
 狂者と英雄の違いとはなんだ?
「行くのか」
 階段を下りるセレンへ、ビクトールは少し複雑な表情を浮かべて問いかける。
「この国はまだ生まれたての赤ん坊と同じだ。誰かが守ってやらなければ、すぐに力尽きてしまう。それでもお前は行くのか?」
 責めるような眼差しで問いかけてきたのは、フリックだ。
「そこ……どいて」
 レイクウィンドゥ城一階、中央ホールで彼らはラストエデン軍のリーダーをつとめたセレンを待っていた。去りゆこうとする彼を、止めるために。
 彼らだけが気付いていた。かつてトラン共和国建国の英雄が、建国宣言の前夜に誰に告げることもなくグレックミンスターを去ったように。セレンもまたこの地を捨て、旅立つであろう事を。
「ボクは……ビクトール。英雄でも勇者でもないんだ」
 石版から消えてしまった二人分の名前。すぐ側にいたたったひとりの生命さえ守れなかった人間が、英雄だなんて笑わせる。
 目の前で消えていこうとする生命を引き戻すことさえ出来ず、泣くことすらかなわなかった自分が、それでも今まで戦いを放棄しなかったのは。
「待ってるんだ、彼が」
 守りたいものがあったから、戦うことをやめなかった。
 失いたくないものがあったから、最後まで諦めなかった。
 そして答えを知りたくて、今、この城から去ろうとしている。
「ボクはずっと流されてきた。時代という大きな力の波に、もがきながら。逆らっているつもりでもそれさえも時代のひとつの波にすぎなかった。……もしこのまま城に残ったとしたら、ボクは……時代が創り出したただの張りぼての人形になってしまう」
 流されるままではいたくない。たとえ狂者に堕ちたとしても。セレンは自分で作りだした流れにのって、誰にも惑わされない自分だけの生き方を選び取ってみたかった。
 定められた未来ではなく、常に不安定に揺れる明日の中から、最も自分らしい生き方をつかみ取りたい。だから旅立つ。英雄としてではなく、ただのひとりの少年としての自分を取り戻すために。
「セレン……」
 フリックがのばしかけた手を、一瞬の逡巡ののち引き戻した。
「後悔しないな」
 ビクトールが言う。間を置くことなく、セレンは頷いた。
「どんな道でも、自分がそう望む限り人は生きていける。いつか……お前が本当に安らげる場所が見付かるさ」
 セレンの頭にごつごつした大きな手を置き、ビクトールはわしゃわしゃと掻き回した。
「もし……二人にまた会えるようなことがあったらその時は、胸を張っていられるように頑張るよ」
 あの戦いで自分の何が変わったのか、それすらもよく分からないけれど。変わってしまうことの全部が全部、悪いわけではないのだと気付いた。強くなることの本当の意味と、大切さが分かっただけでもこの長く短かった戦いは、セレンの中では決して無駄にはならない。
『奇跡は信じ、信じ続けて絶対に諦めようとしなかった人にだけ起こるものだから』
 かつて、セレンと同じように英雄と呼ばれ、しかしそう呼ばれることを拒んだ人が言った言葉を思い出す。
『忘れないで。願いは願い続ければいつか……必ず叶うから』
 ナナミが死んだ夜、彼女の部屋でひとり佇んでいたセレンに、彼は優しく教えてくれた。
 彼の願いは叶ったのだろうか。彼は答えを見出せたのだろうか。
「しけた顔するな。これから希望あふれる世界に旅立とうとしてる奴が、そんな顔しててどうする」
 ペシッ、とビクトールに鼻先を指ではじかれて、セレンは彼を睨み上げた。
「お前は間違えない。狂ったりもしない。お前は戦う辛さと失う悲しさを知っている。だから、行ってこい!」
 悩んだり迷ったりする事もあるだろう。そんなときは思い出せばいい、自分には返る場所がちゃんとあるのだと。
 ベシッ!と背中を思い切り強く叩かれて、セレンは今度こそビクトールの脛を蹴りつけてやった。
「うおおっ!?」
 いわゆる弁慶の泣き所というものを力一杯蹴られてしまい、ビクトールは足を抱えて片足でぴょんぴょんその場所で跳ね上がった。フリックが呆れ顔でそんな彼を眺めている。
「行ってくる!」
 セレンは右腕を上げた。今はもう、彼の後ろに付き従う者はいないけれど。見えない手で彼の背中を押す人は大勢いる。
「ああ、行ってこい!」
 痛みをこらえるのに必死なビクトールの代わりに、フリックが走り出した彼を見送る。
 セレンは、振り返らなかった。

Stars

 薄い雲が空を流れていく。
 僅かに肌に感じる風は西から東へと吹きつけ、一本の古木に背を預けている彼らに短い挨拶を送るとそのまま、あっさり過ぎるくらいに立ち去っていく。
 風を縛り付けるものはなにもないから、それも無理無いことだろうけれども少々味気ない思いがして、彼は静かに息を吐き出した。
 気配が変わったことを察したのか、聡い少女が小首を傾げるようにして斜め横に座っている彼の表情を窺い見た。
 彼も、そんな少女の仕草に気づいたようで、「なんでもないよ」と小さく笑って首を振った。そのまま、両脇に放り出していた己の手を引き寄せて胸の上で絡み合わせる。
 それは祈る時の仕草に似ていた。
 ただね、と彼は一度は途切れさせようとした言葉を続けた。
 姿勢を戻し、体重を預けている古木の感触を背中で楽しんでいた少女が数回瞬きを繰り返してから、彼を見る。
 漆黒の髪が風に流されてサラサラと揺れた。
 なんとなく、と、彼は少女を見ることのない視線を空へと向けながら呟く。
 あるいはそれは、独白であったのかも知れない。けれどこの場所に、彼以外の存在――黒髪の少女が居たのであるから、もしかしたら彼は問いかけていたのかも知れない。
 少女は髪と同じ色をした瞳を細めた。
「時間は、どこまでも」
「――とうめい、だね」
 透明。
 言いかけていた言葉を先を越されて呟かれ、彼は意外そうな表情を浮かべて彼女を振り返った。
 ようやく重なり合った視線に、少女は柔らかな笑みを浮かべる。
「ちがう?」
 微笑んだまま、少女は更にことばを重ねた。
 彼は一瞬だけ呆気に取られたあと、長い時間を掛けてゆっくりと頷いた。
 否定できない。確かに少女が口にしたことばは、彼が今まさに紡ごうとしていたことばに他ならないから。
 先読みか、あるいは読心の術でも持っているのかと疑いたくなってしまったが、彼女が紛れもないただの“人間”であることは、彼だけでなく少女自身も重々承知している事だ。
 だたし若干、大多数の“人間”よりは勘が鋭く、また先鋭的である事は認めざるを得ないことだろうが。
 違わないよ、という思いを込めて彼は首を横に振り、絡み合わせていた自身の手を解いた。力を失った両手は、流されるままに胸の上を滑り脇へと落ちた。
 指先がカサカサと、表面の乾いている草に触れる。
 あぁもう結構長い間、雨も降っていないなと空を仰ぎ見ると、それはどこまでも澄み渡った、蒼。
 雨は嫌いだから晴れている、今日のような穏やかな天候は嬉しくて楽しいのだけれど、地上に暮らすあらゆる生き物は空から降り注ぐ雨によって潤わされているから、雨が降らないと困るのも地上に生き物だ。乾いた大地は、人の心さえも渇いたものにしてしまうから。
 それは困るし、哀しい。
「おそら」
 少女が紡いだことばに、彼は自分の膝の上辺りを彷徨わせていた視線を持ち上げた。
 僅かに首に角度を持たせ、少女の横顔を見つめる。
 彼女もまた、空を見ていた。
「喉、乾いてるのかな」
 なにもないはずの虚空に手を伸ばし、なにもない場所をつかみ取ろうと彼女は指先を曲げた。けれどやはり、なにもない場所からなにかを掴むことは出来ず、少女の指は宙を横切った。
 握りしめられた拳は、儚い。
「のど、かわいてるのかな……」
 同じことばを、少女は重ねて呟きそして、空中で握りしめた手の平を胸に引き寄せて愛おしむように抱きしめた。
 彼は暫く、無言のまま光景を眺め、そして乾いている空中を見上げた。
 青い空はどこまでも澄み渡っているけれど、この天候がいつまでも望まれるものではないことはきっと、誰もが無意識のうちに理解している事のはずだ。
 地中深くにまで根を張り、奥底に溜まる水分を吸収することの出来る木々とは違って、地上の表面を舐めるように根を張って生きている草花は死活問題である。
 どんな時でも、場合でも、最初に犠牲になるのは小さく弱い存在ばかり。
 彼は脇に落とした左手の先でそっと、風に煽られる草の表面を撫でた。
 乾ききっているそれは、まだ枯れてもいないのに少しでも力を込めようものなら、呆気なく砕けてしまいそうな感触を彼の指先に伝える。フリーズドライの食物を連想させかねない感触に、彼は整っている眉目を顰めた。
 少女が哀しげに、瞳を伏せる。
「かわいそう……」
 カラカラに乾いた空気は、地上に這い蹲りながらそれでも生きようと懸命に喘ぐ彼らに恵みを与えない。
 座り直して居住まいを正した少女が、手の平で足許の草を揺らしながら呟く。宛てもなく彷徨う彼女の白い手の平を少しの間眺めた後、彼は改めて古木の幹に背を預けて長い息を吐き出した。
 乾く空、乾く大地、乾く心。
 必死になって生きているのに、それなのに彼らを生かそうという天からの啓示は与えられぬまま、すべては枯れ果てて朽ちていくのだとしたら。
 ではいったい、彼らは何のためにこの世に生まれてきたと言うのだろう?
 なんのために?
 なにを為すために?
 その存在意義とは如何なるものか。
 彼は長い吐息の末、隻眼の瞳を閉ざした。
 空間は闇に包まれ、なにも見出せない暗い世界が彼の前に広がる。もし、この世界で一点だけでもいい、光が見出せるのであれば。
 それは、なに?
 二度の深呼吸のあと、彼は目を開けた。
 視線の端に、オレンジ色をした小さな花が見えた。
 意識せぬままに手を伸ばし、彼はその花の茎を挟み持つ。そのまま力を込めて茎を手折ろうとしたところで、横から差し伸べられた白い手に遮られた。
「だめ、だよ」
 僅かに身体を伸ばすだけでお互いに届く距離に咲いていた、一輪の花。ゆらゆらと己の運命など何処吹く風とばかりに風に煽られている花から、自分を制止した少女へと視線を流し、彼は肩の力を抜く。
 少女も同時に、緊張していたらしい表情を緩めた。
「だめ……」
 それでも忠告のことばは重ねられて、彼は苦笑する。
「でも」
 少女が離れていく。それを眺めながら、彼は改めてオレンジ色の花を見下ろした。触れた指先から伝わってくるのは、間もなく種を育てることもなく枯れてしまうだろう、乾いた花の命ばかりだ。
 種を残せない草花に、いったいどんな価値が残されているというのだろう。
 だから、と彼は途切れさせたことばを並べた。
「もし、意味があるのだとしたら」
 この花が生まれて、生きた意味が在るのだとするなら。一瞬でしかなくても、花が存在した事を認めて、なおかつ喜びに変える事が出来るのだとしたら。
 それはそれで、この場でこの時で、この花が生まれた存在理由になりはしないだろうか?
 呟く彼の指の間で、小さな花は呆気なく手折られた。
 一瞬、哀しげに少女が表情を歪める。
 しかし、そんな彼女の黒い髪にそっと、彼は指を差し入れて。
 今手折られたばかりの花が、漆黒の色の中で唯一輝く太陽の色になった瞬間、彼女は驚いたような困惑したような表情を浮かべて彼を見返した。
「たとえば、さ」
 この花が、例えば、君のこの黒髪を飾るために生まれてきたのだとしたらこのまま朽ち果てていくよりもずっと、ずっと、意味のある事なのではないだろうか。
 彼は静かに手を放し、細めた丹朱の隻眼で少女を見つめて問いかけた。
「そう、かな……?」
「どうかな」
 あくまでもこれはぼく自身が思うことであって、君の考え方とは大きくかけ離れてしまっているかもしれないね、と彼は自嘲気味に笑った。
 つられたように、少女の表情が軽くなる。
「そう、なのかな?」
 自分では見えない花を、手を伸ばして指先で確かめて少女ははにかんだ。それからちょこん、と小首を傾げて彼を見る。
 折り畳まれた膝が隠れている黒のワンピース、ゆったりとした布地を弄りながら少女は微笑む。
「おはな……」
 胸元を飾っている、味気ないワンピースに唯一添えられた少女の清楚さを現すような白い花に瞳をやって、彼女は黒真珠の瞳を細めた。
「ありがとう」
 柔らかな微笑みは、風に溶けていく。
 まさかこんな事で礼を言われると思っていなかった彼は呆気に取られたのち、直ぐに我を取り戻して取り繕うように頷いた。
 どういたしまして、と返す声がどこかおかしい。
 少女はくすっ、と口元に手をやって笑った。照れくさそうに、彼もまた手を後頭部にやって、くせに強い髪を掻き乱しながら笑った。
 静かな午後の草原に、笑い声が流れていく。乾いた風がそれらを遠くまで運び、潤いを失いかけていた大地に一刻の安らぎをもたらす。
 あ、と少女が短い声を上げたのはまさにそのタイミングであり。
 彼は笑い止み、ぱんっ、と乾いた拍子を打った少女を訝しげに見返した。
 そんな彼の怪訝な顔を気にすることもなく、少女はあくまでもどこまでも自分のペースで打ちつけた自分の手を広げて、忙しなく右の肘を引っ込めるとワンピースの両脇に設えられているのであろうポケットを探り始めた。
 最初は右から、それで見付からなくて次に左のポケットを探る。
 いったいなにが始まるのだろう、と怪訝な表情を崩せぬままでいる彼の見守る中で、少女はようやく目的のものを見つけだしたらしい、軽く握りしめた左手をポケットから引き出した。
 恐らく和紙であろう、薄い白の紙に包まれたものが開かれた少女の手の平にちょこん、と転がっていた。
 左手の上にそれを置き、少女は右手で結び目にしてある口を解いていく。口、と言っても和紙の四つ隅を折り曲げて重ね、捻っただけである。簡単に解けたそれの中に包まれていたものは、色とりどり鮮やかな、星の形をした砂糖菓子。
「金平糖?」
 包み紙――懐紙の上に散っている星がなんであるかを確かめ、彼は呟いた。少女が、嬉しそうに頷く。
 どうしたの、と持ち上げた視線で問いかけると、彼女はもらったの、とでも言おうとしているかのようにまた微笑む。そして懐紙の載った左手に右手を添え、彼に向かって少しだけ伸ばした。
 え、と彼は目を見張る。
 その途端、笑顔に満ちあふれていた少女の顔が翳った。
「きらい……?」
「あぁ、まぁ……うん」
 弱々しく応え、彼は困った顔をしてまた自分の髪を掻きむしる。少女も伸ばしかけていた両手を引っ込め、自分の胸元に金平糖の載った懐紙を抱いた。俯いている瞳は、哀しげに揺れている。
 心を抉られた気がして、彼は頭を掻いていた腕を下ろした。
 甘いものは苦手、それは本当。生クリームなんて最悪で、あの甘ったるい匂いを嗅ぐだけでも逃げ出したくなる。チョコレートも駄目で、おやつで平気なのはせいぜい、甘さを極力絞ったなにも載せていないクラッカーや、クッキーといった簡素なものばかり。食べられなくても特別困ることがなかったから、この体質を改善しようとも思わなかったのだけれど。
 今はその事を心の底から呪いたくなった。
「そうなんだ……」
 少女は白い懐紙に散らばる金平糖を見下ろしつつ、呟く。その声が尚更彼を切なくさせて、重い息を吐き出させた。
 深呼吸を三度。固く瞳を閉じて「大丈夫大丈夫」と頭の中で同じ単語を反芻させ、自己暗示をかけてから、彼は利き腕を伸ばした。
 自分へ向かって伸びてきた手に驚き、目をしばたかせる少女の手元にするりと割り込んだ彼の手は、懐紙に載る幾つかの金平糖を握りしめて去っていった。
 金平糖を掴んだ手は、彼の胸元にではなく口元へと向かう。意を決したように開かれた唇の隙間に小さな砂糖で出来た地上の星は、間もなくがりがりという乱暴に噛み砕く音に呆気なく粉砕されて、呑み込まれていった。
 ごくん、と彼の喉が一度だけ大きく上下する。
 心なしか青白さを増した顔に、少女は口元を手で覆って唖然としつつ彼を呆れた様子で見送った。
「だいじょうぶ……?」
 つい聞いてしまった言葉に、彼はフラフラしている右手を持ち上げてぐっ、と親指を立ててみせた。が、どう見ても無事ではない様子に、少女は懐紙を折り畳んで彼に近寄った。
「きらいなら、いいのに」
「うん。でもさぁ」
 歯の隙間に残ってしまった甘さに苦悶しながらも彼は、かろうじて作ることに成功した笑顔で少女を見返す。
 右手を持ち直し、今度は間近の少女の髪をそっと撫でた。指先が、先程彼が手折りそして少女の黒髪に飾った太陽の色をした花に触れる。
 伏せた瞳は辛そうだったが、表情は優しい。
「折角、だったし。ね?」
 この場所で、この時で、彼女があの地上に散った砂糖の星を持っていた事もなにかの縁であったのだとしたら。
 受け入れてみてもいいかな、と、少し思ってしまっただけだから。
「おいしかったよ」
「うそ、だよ」
 呟きは即座に否定されて、彼は数回瞬きを繰り返し少女を見た。
 一瞬だけ、彼女が泣きそうな顔をしているように見えて彼は焦った。けれど二度の瞬きのあとにはもう、少女ははにかんだ笑みを浮かべていてそれが錯覚だったのかどうなのか、彼は分からなくなってしまっていた。
「うそ……。あまいの、だめ、でしょう……?」
 そっと伸ばされた彼女の白い手が、彼の額に触れた。僅かに汗が滲んでいたそこを隠しきれず、彼は苦笑を浮かべながら少女の手の平を上目遣いに見続けた。
 優しく撫でられる。心が癒されるようだった。
「むりは、だめ、だよ?」
 子供を叱りつける母親のような事を口にする少女だったけれど、口調はどこまでも底深く柔らかで、暖かい。透明な風に似た声に耳を傾けながら、いつの間にか彼は瞼を閉ざしていた。
 出来るならこのまま、こうしていたいと思ってしまいそうだった。
「ごめん」
 謝罪のことばは自分でも驚くくらいにすんなりと溢れ出て、彼は薄く目を開き自分から手を離していった少女をもう一度見返した。
 優しく微笑まれる。
 黒のワンピースを飾る胸元の白い花と、そして今は漆黒の鮮やかな髪を彩る日の光を具現化したような鮮やかなオレンジの花が眩しかった。
「でも、ね」
 少女は桜色をした唇を動かして、言った。
 まだ残されている懐紙の中の星を大事そうに抱きしめて、彼女は彼から目を逸らして俯いた。
 淡い光が彼女の上に注がれる。
 さながら何処かの教会に描かれている聖女のようであり、彼は見惚れたように少女の次の句を黙って待った。
 どれくらいの時間が流れただろう。頭上を流れる風に乗り、羽ばたいた鳥の羽音が酷く間近に聞こえた頃、少女はゆっくりと顔を上げて彼に笑んだ。
 眩しいくらいの、笑顔で告げる。
「うれしかった、よ」
 にこりと、へつらいもなにもなく言ってのけた少女に彼の方が照れてしまって、真正面から見返すことが出来なくなって思わず脇に視線を流してしまい、鼻の頭を数回指先で引っ掻いた。
 何分慣れていないこういう状況に困ってしまって、なんと返答して良いのか分からずに彼はあれこれ頭の中でぐちゃぐちゃになりそうな思考を納めつつ、必死に考えた。
 その間、少女は自分で金平糖を摘み口に運んでいる。かりっ、という噛み砕かれる音に我を取り戻した彼は問いかけるような少女の瞳に竦み、即座に首を横に振ったものの。
 数秒間だけ考え込んで、考え直して。
 そろりと伸ばした指でひとつだけ、星の形をかたどった砂糖菓子を摘んだ。
「だいじょうぶ?」
「さぁ……ね」
 駄目だったら勘弁してよね、と笑ってから彼は口の中に勢い良く金平糖を放り込んだ。
 がりっ、と砂を噛むような音が響き、彼は甘いものを食べているのに苦い顔をして口を真横一文字に引き延ばした。
 必死に堪えながら、なんとか喉の奥へと嚥下させるが、咳き込んでしまう。
「むり、だめ」
 いつになく厳しい目つきで少女が言い、彼はゴメン、と平謝りで少女に頭を下げた。
 下げられた彼の頭を見下ろして、少女はなにかを考え込むように手を休める。そして彼が顔を上げるタイミングを見計らって微笑みながら、言った。
「あしたは、あまくないのにするね?」
「そうしてくれると、ありがたいよ」
 反射的に答えてから、彼は目を丸くして少女を見返した。けれど彼女はなにも疑問を感じる事なく金平糖を囓っている。
「どうしたの?」
 視線に気づいて顔を上げる彼女は、果たして今さっき、自分で言った言葉の意味をちゃんと理解しているのだろうか。
 聞きたかったけれども、野暮な気もして彼は結局、なんでもないよと首を振るに留めた。少女は暫く不思議そうにしていたが、じきに金平糖にまた手を伸ばし始めた。
「あした、ね……」
 流れていく風に押されていく白い雲を見上げつつ、彼は古木に体重を預ける。
 ま、いいか。
 頭の後ろに両手を組んで、隻眼を閉じる。深く息を吸い込めば、緑と土の匂いが心地よかった。
 そのまま微睡みに落ちていこうとする意識の片隅で、明日の午後の茶会を思い浮かべている自分に気づいて苦笑が漏れる。
 じゃあ明日は、城においでよ、と目を閉じたまま語りかけると、少女は迷うことなく頷いた。
 とても、嬉しそうに。
 彼女は笑って、頷いた。
 それだけで幸せな気持ちになれて、彼も、いつまでも笑っていた。

大地の唄

 空は青くどこまでも続いている
 果てしなく広いこの世界で
 僕達はいったいどれだけの涙を流せば
 この大地を浄められるのだろう

 今でも、あれは全部悪い夢で、目覚めれば昔と何ひとつ変わっていない日常が待っているのだと、錯覚してしまう事がある。特にこんな、天気の良い暖かな日は。
 たまには一人きりになりたい。そう言えば、前ならばなかなか許して貰えなかった散歩も今じゃあっさりと許可が下りる。それこそ張り合いがないくらいで、物足りなささえ覚えてしまうのは、あの日常に慣れてしまった所為だろうか。
 君がいない。
 たったそれだけのことなのに、こんなにも心の中が寂しい。
 日溜まりはとても温かくて心地いいのに、心だけがどこかですきま風を招いている。
 ただ君がいないだけで。
 こんなにも苦しい。
 ふと顔を上げると、いつの間にここまで来たのか、そこは緑に覆われた森の中だった。
「いけない、ボーっとしてた」
 こんな事だから、いつもルックやサスケから天然だって言われるのだ、とセレンは舌を出して頭を小突くと、城に戻ろうと踵を返した。しかし、一歩足を踏み出そうとしたところでまた足を止める。
「……ここ、どこ……?」
 だから天然なんだ、というサスケの笑い声が聞こえてきそうで、セレンは泣きたくなった。
 この年になって、迷子。しかも城からさほど離れていないハズの近所で。これが来慣れない道や町だったらまだ分からなくもないが、普段からよく散歩に来る小さな森の中で迷子になるなんて、はずかしすぎである。いくらボーとしていたからといっても、方向感覚が見事になくなるなんて、珍しい。
「はー」
 盛大にため息をついてセレンはその場にしゃがみ込んだ。膝を抱えて空を見上げる。首がかくん、となって自然に体は後ろに倒れていった。
 とすん、と背中が柔らかな草の上に転がる。それでもまだ膝は抱えたままで、ごろんごろんと体を左右にしばらく揺すった後、彼は横向きに姿勢を落ち着けた。
 緑の匂いがする。
 風が通り抜けていく。
 木漏れ日がまぶしくて目を閉じても、光の残影は瞼の裏にしっかりと焼き付けられていた。
 まるであの日の記憶を消してしまおうとしているように。
 でも。
 駄目。
 忘れない、絶対に。
 彼女の流した涙と、血と。心に染み込んでいった彼女の存在の重さは、絶対に消せない。
 それがたとえ彼女の意志に反していたとしても。
 彼女を守れなかったという現実は、どこまでも彼を縛りつけるだろう。それが、彼を押しつぶしてしまっても。
 だから仲間達は彼に忘れさせようと必死になる。そんなことが出来るハズはないのに、出来ると信じて、疑わない。その押しつけがましい親切心が、さらに彼を苦しめていることにも気付かないで。
『放っておいて』
 だがその願いは聞き入れられない。
 彼はリーダーだから。
 この世界を変える、大きな力の流れの中心にいる、柱だから。
 でももう遅い。彼の世界は変わってしまった。二度と戻らない時間だけを残して、彼の世界は砕けてしまった。
 結んでいた手を放し、両足を解放する。そのまま大の字になって真上を見上げれば、揺れる木々の枝の間から真っ青な空が見えた。
「ねむ……」
 あくびが出て、セレンは瞼を軽くこする。そういえばこの頃、ゆっくりと寝た記憶がない。
 ベットに潜り込んでも、眠らなくてはいけないという強迫観念に犯されて、深い眠りにつく前に目が覚めてしまう。その繰り返しで朝がやってきて、せわしなく動き回る城の中を眺める余裕もなく会議にかり出されていたから。
 こんな風に空を見上げたのはいつが最後だっただろう。思い出せなくて彼は眼を閉じた。
「いいよね」
 誰かに断る訳ではないのに、彼はひとりごちて全身から力を抜いた。ぽてん、と地面からわずかに浮かんでいた指先も草の中に沈めて、セレンは緑の匂いをいっぱいに吸い込む。
「……ごめんね」
 それは誰に向けて言った言葉か。気付かないままセレンは静かに、眠りの世界に入っていた。

「うん?」
 声が聞こえたような気がして、キニスンは顔を上げた。
「クー?」
 足下にいるシロが不思議そうに彼を見上げる。だがキニスンはしばらく空をみあげた後、なにも見つけられなくて黙って首を振り、シロの頭を優しく撫でる。
「空耳だったみたいだ。なんでもないよ」
 敵が近付いていた訳ではないよ、と緊張を解くようにシロに告げ、彼は手にしていた弓をしまった。背負っている矢筒はほとんど空で、目立った収穫もないまま今日が終わろうとしている。
「そろそろ日が暮れる。闇に支配される前に戻ろう」
 たとえ歩き慣れた森の道でも、夜になったらそこは一変して見慣れない恐怖の場所になる。夜になってから行動する獣もいる。出来るなら相手にしたくない敵だ。だからそうなる前に安全な場所に避難しておく必要がある。無闇に突き進むことが勇気でないことを、彼はちゃんと知っている。
「ウォウ!」
 シロが吠え、嬉しそうに先立って走り出す。それを見てキニスンが微笑み、彼もまた今日の数少ない獲物である兎を持ち走り出す。
 だがしばらく行かないうちに、今度はシロが辺りを気にして立ち止まった。
「シロ?」
 ずっと一緒にいた相棒であり兄弟のようなシロの警戒に、キニスンも自然と周囲を見回す。
「なにか……いるのか?」
 しまったばかりの弓を取り出し矢筒から矢を出して構える彼だったが、何かを発見したらしいシロが突然走り出して慌てて追いかける。警戒を解くことをせずにシロが消えた木立の裏側に回り込むと──
「え?」
 思いがけないものを見つけ、キニスンは構えていた弓を下ろした。それまで体中に巡らせていた緊張を一気に解放して、あわば脱力のしすぎで膝が折れてしまいそうになるのを堪えて、彼はシロがしっぽを振って鼻をすり寄せている、地面に横たわり静かに眠っているセレンに近付いた。
「どうして、こんな所で……」
 意外性があって面白い奴、と前に誰かがセレンのことをそう評していたことを思い出し、まさしくその通りだとキニスンは思った。
 弓を置き、膝を折ってセレンのすぐ脇に屈み手を伸ばして彼の呼吸を確かめる。あまりにも静かすぎて、もしやという思いがよぎったからだ。だが、微かにキニスンの掌に届く息が一定のリズムを刻んでいることを確認してホッとする。
「セレンさん?」
 一体いつからここで寝ていたのだろうか。セレンの身体にはそれほど多くはないものの、少ないとも言い難い量の木の葉が積もっている。それらを軽く手で払って、キニスンはセレンの身体を揺すった。
「起きて下さい。こんな所で寝ていたら風邪をひきますよ?」
「うーー?」
 寝ぼけた声を出し、セレンが顔をしかめて瞼を持ち上げる。だがまたすぐに眠りの世界に戻ろうとするので、嘆息したキニスンは向こう側で静かに見ているシロに眼で合図を送った。
「クーン」
 ぺろり、とシロが舌を伸ばしてセレンの頬をひと舐め。
「うーー」
 むずがるセレンがまた少し瞼を上げる。今度はさっきよりも長めに覚醒したらしく、少々寝ぼけ眼で真上にいるシロの顔を見上げていた。やがて重たそうに右手を持ち上げ、シロの首筋を包み込んだ。
「もふもふー♪」
 そのまま、抱きしめる。
「ワウ!」
 びっくりしたシロがひと吠えし、四肢を突っ張らせる。セレンを跨ぐ形で立っていたシロは、いきなり下から引っ張られたのでかなり苦しい体勢にさせられた。キニスンもまさかそう来るとは思っていなかったので、一瞬呆気にとられてしまった。
「セレンさん、寝ぼけないで!」
 大切な相棒が苦しそうな表情で切ない声で鳴くのを放っておけず、慌ててキニスンはセレンからシロを引き剥がした。シロを奪われたセレンは、まだ呆けた顔のまま物惜しげに手を動かす。
「セレンさんってば。大丈夫ですか?」
 シロを地面に下ろし、キニスンがセレンの目の前で手を振ってみる。だがセレンはふっと体の力を抜いて、突然キニスンの方に倒れてきた。
「わっ!」
 驚き、体を後ろに退こうとするキニスンの膝に頭を載せ、セレンが体をごろんと横倒す。その体勢は、俗に言う膝枕。
「……あったかい」
 ぽそり、とセレンの口から言葉がこぼれて、聞きそびれたキニスンが視線を彼に向ける。ぺたんと地面に足をくっつけて座るキニスンの足に頭を預け、セレンは一度体を蓑虫のような動きでずらすと、しっかりとキニスンが逃げないように頭の向きを安定させた。
「あったかいや」
「セレンさん?」
 自分の太股辺りに頬ずりしてくるセレンをいぶかしみ、キニスンは困った声で彼の名を紡ぐ。しかしその手は優しく、セレンの髪を撫でていた。
「シロも暖かかった。キニスンも、あったかい。あったかいのは、生きている証拠……」
 木の葉が舞い降りてきてセレンの肩に積もる。
「落ち葉は冷たい」
 熱を持たないもの、と位置づけてセレンは体を揺すり木の葉を落とす。
 温かいもの、それは生きているもの。冷たいもの、それは命を持たないもの。
「セレンさん……」
 言葉に詰まり、キニスンは自分に身を委ねている少年を見つめる。年はそれほど離れていない。しかし育った環境が違うからか、セレンは見た目よりも考え方や行動理念が、たまにひどく幼いものに感じられることがあった。だが、今の言葉の意味はそれだけに留まらない。
 失ったばかりなのだ、セレンは。一番大切にしていた宝物を。
「守れなかった」
 目を閉じれば、今でも鮮明に甦るあの日のあの場所での、あの戦い。手を伸ばせば、あと少し手が届いていたなら、助けられたのに。守れたのに。
「出来なかった」
 一緒にいることが当たり前だった。離れる事なんて考えてもみなかった。これからも並んで年をとって、生きてゆけるのだと信じていた。いなくなってしまうことを、想像した事なんて……なかった。
「くやしいよ」
 両手で顔を覆い、セレンがくぐもった声で呟く。かける言葉がなくてキニスンはただ優しく、彼の頭をなで続けた。
「なんで……こうなっちゃったんだろ」
「セレンさん」
 あまり自分を責めないで、とキニスンはささやく。
「無理だよ」
 答えはすぐに返ってきた。泣いているのか、声は震えていたけれど、表情はキニスンからは見えない。
「今は無理でも……いつかは。ナナミさんが今のセレンさんを見たら、きっと悲しむでしょうから……」
 セレンを守るために、ナナミは盾になった。彼がいなくなってしまった時、折角ここまで苦労して、悲しみを乗り越えてやってきた意味がなくなってしまうから。だから彼女は命を顧みず、今では自分だけが大切にしているのではない義弟を守り抜いたのだ。
 ナナミはいつも笑っていた。失敗にもへこたれない、強気でたくましい、セレンにとっては自慢の義姉だったはずだ。
 死を悲しむなとは言えない。だが、いつまでも死に捕らわれていたのでは、この先生きてなどゆけない。
「分かってる。でも、ボクにはもう……戦う理由がない」
 ナナミを守って、ナナミと平和になった世界を一緒に歩いて行くために、セレンは戦ってきた。だからそのナナミがいない世界で、セレンは進む道を見失ってしまった。
「セレンさん……。少し、お話をしましょうか」
 キニスンは手を伸ばし、さっきセレンが肩から落とした木の葉を拾い上げた。
「この葉は、少し前まで生きていました。でもこの世に生まれ出たものの宿命として、生きているものはいつか滅びます。それは、人の一生も、人が作りだした国の歴史も、同じです。いつかは滅びがやってくる。それを避けることは出来ない」
 そして彼ははらり、と手から木の葉を落とし、地面の他の落ち葉の中に沈めた。
「ですが、この枯れてしまった葉も、地面に棲む小さな虫の餌になります。細かく砕かれ、または腐って新しい芽が出るための養分にもなります。その芽がやがて大きく成長して実を付けると、今度はそれを食べる鳥や獣がいます。その草食の獣を狙って、肉食の獣が現れます。でも、その凶暴な肉食獣もいつかは死んでしまいます。その肉体は他の動物の餌となったり、新しい植物の苗床になったりするんです」
 暮れかかった空。木立の間から覗く天空は濃い藍色に変わり、目を細めれば気の早い星が輝いているのが見えた。
「命は巡り行くものです。大地より生まれたものは、いつか大地に還る。そして新たな生命が生まれるのです」
 死者を想い、悲しむのは悪いことではない。けれど、死が全ての終わりではないことを、人は知らなければならない。「死んでいった人達は大地に還ったのです。新しく生まれてくる生命を支えるために。そして、今を懸命に生きている人達を見守ってくれているんです」
 セレンが頭を上げ、キニスンを見つめる。優しい笑顔をセレンに向け、彼は後ろ向きに地面に倒れ込んだ。
 両手両足を広げ、うつぶせに大地に横たわる。
「僕は今、大地を抱きしめています」
 膝を寄せてキニスンに近付くセレンに、彼は言った。
「父と母と、ナナミさんと、それに今まで別れてきた大好きな人達が眠る大地を、僕は抱きしめているんです」
 絶えるのではない。ただ還るのだ。常に廻り続けている生命の輪。決して揺るがす事の出来ない、それが自然の法則というもの。
 地面に降り積もった枯れ葉の感触が温かい。キニスンの横で同じように両手を広げて寝転がったセレンはまずそう思った。
「……生きている……」
 懐かしい気持ちがこみ上げてくる。胸の中に染み込んでくる見えない何かに、セレンは泣きたくなった。
「今……ボクはじゃあ、ナナミを抱きしめているのかな……?」
 キニスンを見つめると、彼は何も言わずただ微笑みを浮かべた。セレンも照れくさそうに笑うと、自分の顔の脇にシロの姿を見つけて目を細めた。
「くすぐったいよ、シロ」
 セレンの頬を舌で軽く舐め、顔をすり寄せた。
 温かい、優しい気持ちが満ちてくる。
「消えてしまった訳じゃないんだ。ボク達は、今も繋がっている。この大地で」
 身を起こしシロを抱きしめてセレンは言った。キニスンも起きあがって「そうですね」を相づちを打つ。
「ありがとう」
「……いえ」
 誰にだって迷うことも、悩むことも、悲しむこともあるから。
「人が持っていて当たり前の感情を忘れてしまわない限り、僕は……人は大丈夫だと思っています」
 迷ってもいい。悩んでもいい。それは当たり前すぎる事だから。
「そろそろ帰りましょう」
「うん」
 服についた木の葉を払い落とし、キニスンの提案にセレンもすぐに賛成する。そして二人と一匹は並んで歩き出した。
 途中、一度だけセレンは立ち止まって振り返る。そしてひとこと、風に流されてキニスンには届かない声で彼は何かをささやいた。
「いきましょう」
 夕闇に染まりだした森で、セレンはキニスンの促す声に黙って頷いた。

 ──ボクは君を忘れない。だから君もボクを忘れないで……覚えていて……抱きしめていて…………

大地は唄う
微笑みを絶やさぬよう
見えない未来を信じながら
苦しい今日を乗り越えたなら
きっと明日は輝けるから
昨日よりも今日が嬉しい
今日よりも見えない明日が眩しい
大地は唄う
君を抱きしめて
風は唄う
僕を抱きしめて
未来を信じているから
今日よりも明日が好き

緑陽の杜

 夜。
 ──?
 何かに呼ばれたような気がして、キニスンは目を覚ました。
 身を起こせば、すぐ傍らで同じように浅い眠りについていたシロがうっすらと瞼を持ち上げ、キニスンを見上げてくる。しかしどこか遠くから微かに響いてきた声のような音に気を取られていた彼は、シロの動きに全く気付いていなかった。
「……誰……?」
 ささやくような、かすれた声でキニスンは呟き、体にかけていた薄い毛布をどけた。
 今夜は少し遠出をしすぎたため、森の中での野宿となった。もっとも、ずっと山の中で育ち、狩りをして生活してきた彼とシロにとっては野宿もすでに慣れっこで、いつそうなっても良いように、最低限必要な荷物は常に持ち歩くようにしていた。この毛布もそのひとつで、他にも数日分の保存食や飲み水も持ってきている。足りなければその辺りで自生しているものを食べればいい。狩りをした獲物をその場でさばくことだって、別に珍しいことでもなかった。
「シロ、聞こえる……?」
 体をすり寄せてきた、狼と犬の混血犬の背を撫でやって、キニスンは尋ねた。この場合、獣の方が感覚は鋭い。
 低い声で鳴き、シロは耳を立てる。鼻をひくつかせ、しばらくして一方に首を向けた。
「向こう?」
「クーン……」
 頷くことで肯定し、シロはキニスンから離れた。立ち上がった彼が荷物をまとめ始めるのを眺めながら、やがて自分も、すでに火が半分消えかけたたき火に砂をかけて完全に火種を消してしまう。
「ありがとう」
 兄弟のように育ったシロに礼を言い、キニスンは雑多にまとめた荷物を麻袋に詰め込んだ。片掛けの袋に腕を通し、肩に担いで足下の弓を取る。矢筒を背負うと、準備は完了した。
 もう一度たき火が消えているかを確認して、彼らはその場所から歩き出した。朝日はまだ昇っておらず、森の中は薄暗い。月は出ているが生い茂った木々の葉が光を遮って彼らの足下を照らし出すことはない。それなのに、慣れた足取りでキニスンは森の中を進んでいく。
 シロが何かを感じ取った方向は、キニスンの記憶が正しければ小さな村があるはずだった。地図にも載らないような、本当にちっぽけな数世帯しか住まない村。細々と肩を寄せあって生きていくだけの、狩猟と採取を主として生活を送る人々の集落だ。キニスンも、以前何度か訪ねたことがあった。
「焦げ臭い……」
 やがて、空が明るくなってきてキニスンは首を傾げる。月はまだ高い。夜が明けるにはあといくらも時間が残っているはずだった。それにこの、何かが焦げる臭いは……。
「ウゥー……」
 シロが歩を止め、うなり声を上げた。反射的にキニスンも矢筒から矢を取りだし、弓につがえる。
「誰……ですか」
 返事を期待したわけでないが、どうしても信じがたい疑いが頭をよぎって、誰何の声を出さずにはいられなかった。
「……たす、け…………」
 そして、返事はあった。しかし声はうわずり、きちんとした言葉にならないただの音の羅列にしか聞こえなかった。さらに、どさり、といった重いものが崩れ落ちる音が続く。
「……!」
 弓を下ろし、キニスンは慌てて走った。シロが警戒を解かないまま彼を追いかける。巧みに薄明かりの中で生い茂る木の根や鋭い切り口を持つ葉を避け、キニスンは音がした場所にたどり着いた。
「大丈夫ですか!?」
 木の根本にもたれかかるようにして倒れている、40代後半の男性。苦しげな息をしていて、抱き起こそうとしたキニスンだったが背に回した自分の手がなま暖かい液体に濡れて滑ってしまう。
 何とも言い表しがたいぬめり感。ぞっとするしかない感触に、キニスンは一瞬言葉を詰まらせた。
 よく見れば、男の全身は赤く染まっていた。根本にはすでに血溜まりが出来上がっていて、傷が背中だけでないことを無言のうちにキニスンに教える。
「……村、が……ハイラ…………ドに…………」
 そこで男は事切れた。
 男の顔に、キニスンは覚えがあった。この先の村で、妻と子供4人と一緒に慎ましく暮らす猟師だった。
「どうして……」
 もう動かない男を静かに横たわらせ、キニスンはやりきれない思いで唇をかみしめた。シロが不安そうに体をすり寄せてくる。
「クーン……」
「大丈夫だよ、シロ……」
 そっと頭を撫でてやり、キニスンはこみ上げてくる涙をグッとこらえて立ち上がった。血の付いた手で弓を取り、周囲に気を配る。
 出来るだけ息を殺し、こぼれてくる月明かりからも身を隠して彼らは待った。男の時とは明らかに違う、一定のリズムを持った安定した足取りが近づいてきていたのだ。
 すぐに松明と思える明かりがぽつぽつと見え始める。浮かび上がる姿は、見慣れない鎧に身を包んだ集団だった。
「ハイランド……」
 男が言い残した言葉を思い出し、キニスンは独白する。それはこの山を越えた先にある国の名前だった。
 それがどうして、と彼は訝しみの表情を浮かべた。たしかにここ都市同盟とハイランドとは長年戦争状態にあったが、つい先日休戦協定が互いの代表者の手によって結ばれたばかりだったはずだ。ハイランドの軍人が、確かに国境のすぐ側とはいえ、あんな小さな村を襲う理由は見当たらない。
「何故……?」
 松明の火は近づいてきて、もうじきここも照らし出されてしまう。ばらついた火は、何かを探しているようにあちこちを漂っている。恐らく村から逃げ出した……すでに息絶えたこの男性を捜しているのだろう。もしかしたら他にも森に逃げ込んだ人がいるのかもしれない。
 自然と、握る弓に力が入る。シロも警戒心を顕わにし、いつでも戦えるように構えていた。近づいてきたらその首をかみ切ってやろうと、牙を覗かせている。
 心臓がばくばくと波打つ。汗がじっとりと浮かび上がり、つばを飲み込む音でさえやけに生々しく、大きく響いて聞こえた。
 果たして、勝てるだろうか。
 相手は王国軍で、鎧で武装していて、しかも集団だ。彼らが何をやったかは分からないが、この男性を見る限り穏やかな事ではないはず。夜の森にこうして入ってくる辺り、キニスンを見逃してくれるとも思えなかった。
「…………」
 ひどく長い時間、そうしていた気がした。息を殺し、気配を消し、しかし何があっても絶対に殺されてなるものかという気持ちだけは忘れずに。
 やがて松明の火が遠離り、朝日が昇る頃にはもう、王国軍の姿は森から完全に消え去っていた。
 空が明るくなりだして、ようやくキニスンは長く息を吐き出した。ドサッとその場に腰を落とし、全身に残った疲れを地面に放り出す。だがひとつふたつ深呼吸を繰り返してから、彼は一気に立ち上がった。
「行こう、シロ」
 物言わぬ男に短く黙祷し、彼は振りきるように歩き出した。目的地は、この先。あの男が暮らしていた村。
 だが村は何処にもなかった。ただ一面の焼け野原が森にぽっかりと口を開けて広がっているだけ。
 黒く焦げた地表。かつて畑だった場所は踏み荒らされ、二度と作物が育たないようにされてしまっていた。家だったものは消し炭になって無造作に転がっている。くすぶった煙がまだあちこちから上っていたが、生存者はいなかった。
 逃げまどう子供達を、背中から斬りつけたらしい。村の入口に近い場所に、いくつもの死体が折り重なるように残されていた。
「クー……」
 シロの敏感の鼻も、この臭いに完全に麻痺してしまっていた。
 泣きたい気持ちのまま、しかし拳を握りしめたキニスンはその場に立ちつくす。
 何もできなかった。何もしてあげられなかった。戦うこともできたはずなのに、もしかしたら救える命があったかもしれないのに。彼は息を殺して夜明けを待つことしか出来なかった。
「ごめんなさい……」
 絞り出した声はそれ以外の言葉を拒絶した。ほかに言える言葉が思いつかなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
 謝っても一夜に失われた命は戻ってこない。過去は戻らない、やり直せない。しかしキニスンは謝らずにはいられなかった。彼が悪いわけではないのに。
「クーン……」
 頭を垂れてシロも小声で鳴く。一緒に謝ろうとしていた。彼もまた、戦わなかったから。
 もしここに誰かがいたら、こう言ったかもしれない。彼らが戦うことを選ばなかったのは正しい、と。真正面から戦っても彼らに勝ち目はなく、無駄に命を散らすだけで終わっていただろう、と。しかしそれは彼らだって十分分かっている、分かり切った事だ。
 だからこそ、悔しい。
「どうして、……どうしてハイランドが……」
 自問しても答えが見付かるはずはなく、教えてくれる人もいない。握りしめた弓が軋みをあげ、彼の手に痣を残す。男の血は、もう乾いていた。
 彼らは墓を作った。焼けこげた土を掘り返し、村の、かつて笑顔で狩りの帰りに立ち寄ったキニスンを暖かく迎えてくれた人々を埋めていく。墓標に出来るものは何もなくて、手向ける花さえも見当たらなかったが。何もしてやらないよりはずっと良いだろうと、自分自身に語りかけながら。彼らは、黙々と墓を掘り続けた。
 昼が過ぎ、夕暮れに西の空が染まりだした頃、ようやく彼らはその村を立ち去った。キニスンの両手の爪は割れ、血がにじんで痛んだが彼は化膿止めの薬を付けただけでそれ以上のことをしようとしなかった。まるでそれが、自分に課せられた罪であるかのように。

 あれからどれくらいの日が過ぎただろう。
 今も傷は痛むことがある。跡も残らない程に完治しているのに、それでも傷が痛むことがある。
 リューベの村近くの森に来て数日。まだここの村は安全のようだとほっとしながら、キニスンはシロと共に山道を歩いていた。
「……クー……」
 ふと、シロが道端の木を見上げて立ち止まった。
「シロ?」
 どうしたの、と行きかけていたキニスンが戻ってきてシロの見上げる先を同じように見る。木の枝に、少し形の崩れた鳥の巣が引っかかっていた。今度は足下に目をやる。細い木の枝が散らばっていた。あの鳥の巣と同じ枝だ。
「落ちいてた巣を、誰かが戻してくれた……?」
 地面と木の枝とを交互に眺めながら、キニスンは呟いた。シロが、その通りだと言わんばかりに小さく吠える。
 しばらくそのまま、誰ともしれない好意に感謝をしていると、複数の足音が聞こえてきて彼はつい、いつも通りの警戒を抱いてしまった。反射的に身構えた彼の前に、ゆっくりとした歩調で見知らぬ若者達が近づいてくる。先頭を行くのは、赤い服の少年だった。
「クーン」
 シロが、キニスンの袖を引き鳴いた。少年が立ち止まる。不思議そうな顔をして。
「……君が、巣を戻してくれたんですか?」
「え? そう……ですけど」
 驚いたように少年は答えた。
 明るい色の瞳がキニスンを見上げている。彼の後ろにはおかっぱ頭の元気そうな少女と、金髪の利発そうな少年が、何事かとキニスンとシロを見つめていた。
 ──ああ、そうか。
 なぜか、妙に納得してしまった。
 彼らは言う。自分たちが都市同盟の傭兵部隊に厄介になっていて、協力してくれる仲間を捜しているのだと。近いうちに攻めて来るであろうハイランドを、ここでくい止めておかないといずれ大変なことになってしまうと。そして……故郷であるハイランドに、そんな罪を犯して欲しくない。だからどうか、力を貸して欲しいと。
 キニスンは空を見上げた。たくましく空を目指して、まっすぐに大地に根を下ろして生きる巨木に、彼らは似ていると思った。
 緑葉が風になびき、揺れる柔らかな光が彼らの頬にこぼれる。
「……僕で力になれるのなら……このままハイランドの人達に森が荒らされるのは嫌だから……森を守りたいから、僕も、力になります」
 いいよね、シロ、と傍らに付き添う白い犬に尋ねれば、もとよりそのつもりだとシロは笑った。
「これから、よろしく」
 差しだされた手を握り返せば、もう傷は痛まなかった。

Umbrella

 薄曇りの空からぽとりと、一滴の雫がこぼれ落ちたのは夕暮れ間近の午後。
 ラジオが伝える天気予報は午後から50%の確率で雨、という予測を出していた。しかし実際には、正午過ぎでも雲間から僅かだったものの天頂の青い空が覗いていたこともあり、外出する人々も雨の可能性を忘れたまま玄関を出て行っていた事だろう。
 今目の前にある天候を過信して、数時間後に劇的な変化を見せる空の気紛れさを呪うことになる事も決して希ではないはずなのに。余程痛い目を見ない限り、人は学ぼうとしないのか。
 否、学んでいても“うっかり”は消えることがない。
 色の薄かった灰色が濃くなり始め、やがて疎らに雨が空から舞い降りだした午後。最初に弱い雨足に気づいたのはアッシュだった。
「降り出したみたいっス」
 外に干していた最後の洗濯物、真っ白なシーツを回収し終えてリビングに顔を出した彼がソファに腰掛け、ラジオを聴きながら雑誌を読んでいたユーリに言った。
 ちょうどDJも降り出した雨に関しての事へ話題を伸ばしたこともあり、ユーリは雑誌の紙面から顔を上げてアッシュごと、その向こう側にある大きな窓ガラスを見た。
「こっちでもか?」
 カーペットの上に洗濯物を広げ、雨の被害を最小限に押し留められているそれらを一枚ずつ確認して畳み始めたアッシュに、ユーリは居住まいを正して問いかける。少し草臥れ掛けていたTシャツの袖を折っていたアッシュが、問われるままに首を振り頷いた。
 それからさっきまで自分が居た庭先に続く、大きな窓へ目線を流した。
 その位置からでは見えにくかったが、確かに細い雨の線が窓ガラスの向こう側に何本も走っていた。よく目を凝らし確かめたユーリが、物憂げに息を吐く。
 雨はあまり好きではない。なによりも雨音が五月蠅いし、雨が降ったあとの地面はぬかるんで歩きにくいことこの上ない。だから好きな散歩に行くのも憂鬱になってしまう。
 アッシュは気にした様子もなく、洗濯物が雨に濡れてしまっていないことを確かめながら一枚一枚を丁寧に折り畳んでいく。アイロン掛けが必要なものとそうでないものを分別しながらの作業は、酷く所帯じみていた。
そんな仕事も文句ひとつ零さずに自分から取りかかる彼は、言ってしまえばこの城の家政婦代わりである。バンド活動にソロ活動、その上料理の研究に城の家事その他諸々。忙しさで休む間もないのではと、時折メンバーを危惧させる彼だったが、自分から進んでやりたがるものを無理に辞めさせるのもどうか、という意見もあり好きにさせるしかない。疲れたら自分で休暇を求めてくるだろうし、なによりメンバーの健康管理までやっている彼である、自分の健康管理も当然出来ているはずだ。
 嬉々として洗濯物と向き合っている彼を眺め、ユーリは小さく肩を竦めた。
 手伝ってやろうと言葉をかけたことはあるが、いずれも丁寧な言葉で却下されてきている。今回も断られるに決まっているので、彼は自分から何も言わない。
 ――どうせ、私は役立たずだ。
 少々やさぐれた思いを胸の中で消化させ、ユーリは再び紙面に目を落とす。ラジオのDJは次の曲を紹介し、トークは中断されてしまっていた。雨の模様は伝えられたかもしれないが、ユーリは聞きそびれてしまった格好だった。
 遠く雨音が響く中、ラジオからは20年ほど前のヒットソングが視聴者のリクエストに応じて流される。途中から別の音が混じり込んできて、なんだと思って振り返ったユーリは、それがアッシュに鼻歌だと気づいて苦笑った。
 本人は気づいていないようだったが、今でも懐かしのソングとして話題になにかと上りやすい曲であったことと、メロディーが単調である事も手伝って現在でもよく知られている曲に、ついついリズムに乗ってしまっていたらしい。本当に気づいていないのか、ユーリの前だというのに身体でリズムまで刻んでいる。洗濯物を畳む手の動きも、どことなく唄に合わされているようだった。
 自分たちも曲も、数十年後でも同じように知られて唄われていれば良いのだが、とガラにもなくしんみりとしてしまってユーリは姿勢を戻し、クリスタルテーブルの上に置かれたブルーの小型ラジオを見つめた。伸ばされた銀のアンテナが照明を浴びて鈍色に輝いている。
 雨はまだ降り続けているようだった。室内と外気の気温差が現れ始めたのか、窓が薄くだけれど白く曇り始めていた。
「そういえば」
 最後の洗濯物を膝の上に載せたアッシュが、曇りだした窓を見やって呟く。
 それはきっと、何気ないひとことだったはずだ。
「スマイルは、傘持って行ったんスかね」
 一時間も前には遡らない記憶を偶然にも引き出した彼の呟きに、ユーリは怪訝な顔を作ってまた振り返った。いい加減読まれなくなった雑誌が退屈そうに身体を揺らし、彼が目で追っていたページを隠してしまう。
「出かけたのか?」
 それなりに分厚い雑誌を最初から読んでいたユーリは、午後の食事を終えてからずっとリビングでラジオを相手に過ごしていた。そこそこ音量も大きめにしていたラジオに消されて、城に住みついている誰かが出かける音にも気づけなかったらしい。
 不本意そうに顔を顰めた彼に、今度はアッシュが苦笑する。
「気が付いてなかったんスか?」
 ちゃんとリビングを覗いて、出かけてくる旨を伝えてからでていったと、アッシュは呆れと困惑を内包させた表情で言う。
「そうなのか?」
 まったく気づいていなかったユーリが今度こそ目を丸くして問い返し、ラスト一枚を畳み終えたアッシュは大仰に肩を竦めた。山になった洗濯物を両手に抱えて立ち上がる。
「ユーリ、雑誌に熱中してたっスしね」
 一度トリップしてしまうとなかなか他の音も耳に入らなくなってしまうユーリだから、ちょうどそのタイミングに被ってしまったのだろうと彼は笑いながら言った。言われてみれば思い当たる節はあって、ユーリは口元を押さえ眉間に皺を寄せつつも、頷かざるを得なかった。
「どこに行くと?」
「さぁ、そこまでは。けど、すぐに帰ってくるみたいな事は言っていたからそう遠くじゃないとは思うっス」
 正確なことは言えないものの、出掛けのスマイルが残していった言葉を思い出して頭の中で反芻させながら、天井付近を見上げてアッシュは言葉を紡ぐ。再びユーリに目を戻したときには、その彼は在らぬ方向を見ていた。
 その様子にさえ、アッシュは苦笑を禁じ得ない。
「多分、すぐに帰ってくるっスよ」
 スマイルはよくフラッと突然、断り無く居なくなる。しかしその時は大抵、誰にも何も言わずに出ていくパターンだ。今回のように先に出かける旨を言い残してから出かけるときは、行き先と目的が明確でありなおかつ、用事も直ぐに片づくと踏んでいるパターンが多い。それはつき合いがそこそこ長くなり始めているアッシュもユーリも了解している彼の行動パターンで、その点で疑いを抱くことはまず必要ない。
 今回も、スマイルは直ぐに帰ってくるだろう。
 ただし、雨に足止めを喰らっていなければ、の話。
 ユーリは窓を見た。白く濁り始めている窓の表面は庭先を曇らせている。ソファの上からでは最早見通すことも出来ず、彼は読みかけのページも見失って久しい雑誌を畳んでテーブルに置いた。
 もう聴いてさえいないラジオのスイッチを切る。ぷつっ、と呆気なくそれはただの電気仕掛けの箱に戻った。
 立ち上がって十数歩も必要ない窓までの距離を一気に詰め、彼は曇ってしまっているガラスの表面を手で擦ってみた。しかし水滴が表面に残り、曇りは晴れない。仕方なく彼は、身に纏っているシャツの袖を指先で引っ張って端で軽く、水分を吸い込ませるようにして拭ってみた。
 洗濯物を両手に抱きしめたまま、アッシュがその背中を見守る。
 曇りは完全には消えてくれず、まだ向こう側を隠している窓を睨みながらユーリは外の景色を確認した。雨は、降り続いている。それもかなり雨足は強そうだった。
 通り雨だったとしても、止むまでは時間が掛かりそうな勢いである。
「どうっスか」
 風もそこそこ出ているらしい。窓の反対側に叩きつけられる雨はガラスの表面を冷やし、暖かな室内気温と相まって窓の内側を曇らせる。
 アッシュの問いかけにユーリは背を向けたまま小さく首を振った。
「スマイル、傘持っていってるんスかね……」
 先程とほぼ同内容の事をまた呟き、アッシュはずり落ち掛けた洗濯物を抱えなおした。そして各人の部屋へ配達するため、リビングから出ていこうとする。
 雨音はラジオを消した上、窓辺に寄ったことでユーリの耳にはっきりと聞こえてきた。窓ガラスに手を添えれば、冷たさと一緒に雨の勢いが指先から伝わってくる錯覚さえ覚えてしまう。
 背後でパタン、とアッシュがドアを開けて閉める音が聞こえた。
 反射的に、ユーリは小走りに駆けて閉まったばかりの扉を勢い良く開けた。階段を登り始めていたアッシュが、扉の開く音で足を止め階下を見下ろす。既に二階へ続く階段の半分より上まで達していた彼に、ユーリは首が痛くなる思いで上向きながら、扉から手を放し告げた。
「ちょっと、出てくる」
「雨っスよ」
「散歩だ!」
 雨の日は余程の用事がない限り城に籠もりきるくらいに、雨という天候が嫌いなはずのユーリが今、土砂降りとまでは行かないけれどもそこそこ強い雨が降りしきる外に散歩、とは。
 一瞬考えてしまったアッシュだったが、半秒後に得心がいってまたまた、ユーリに分からないくらいの苦笑を口元に浮かべた。
「多分、本屋っスよ」
 出かける前に確か、今日の日付をカレンダーで確認していたから、とアッシュは問われても居ない事を口に出した。眼下で、ユーリが明らかに嫌そうな、不満げな顔をしたのがおかしい。
「私は、別に……」
「それか、煙草屋の猫と遊んでるかどっちかっスね」
「だから、私は別に」
「夕食までには帰ってきてくださいっス」
「それは分かっている」
 なにか言いたげなのに結局口を噤んでしまって最後まで言えないユーリの為に、アッシュは矢継ぎ早に笑顔のままとりとめのない言葉を投げかけた。最終的にユーリはふてくされた顔で若干頬を膨らませ、唇も尖らせていたが。
 くるり、と階上のアッシュに背を向けて玄関ホールの片隅に小さくある傘立てに手を突っ込むとき、小さく礼を述べるような声が聞こえた。
「ユーリ?」
「行ってくる!」
 聞こえなかった、と身を乗り出し掛けたアッシュを振り返り、彼は少しだけ朱を走らせた顔で怒鳴った。
「行ってらっしゃい」
 思わず破顔してしまいそうになったアッシュが、胸と片手だけで抱えている洗濯物を持ち替え、無理に空かせた手を軽く振った。
 決まりが悪そうな顔でユーリはそんなアッシュをひと睨みし、踵を軸にして身体を反転させると乱暴に、傘立てから自分用の黒いこうもり傘を引っ張り出した。
 傘立てには他にも数本、似たような色をした傘が突っ込まれており、ユーリの傘と一緒になって引っ張られたそれを彼は面倒そうに押しのける。けれど一瞬手が止まったのは、それらの中にスマイルが普段使用している傘が収まっているのを見つけたからだった。
 ちっ、と短く舌打ちをしてユーリは玄関を押した。目の前に開けた薄暗い空に更にまた舌打ちを繰り返し、傘を広げた。
 黒く光沢のある布地が骨組みに支えられ、ピン、と張る。雨の調子はさっきと同じくらいの勢いか、若干増したようである。四角くカットされた玄関先の石の列に、降りしきる雨が叩きつけられて小さく跳ね上がっていた。遠く空の彼方まで続いている雨雲は、上空に流れる風に押されて西から東へ、足早に流れて行っている。
 少しだけ憂鬱な思いを抱えて、ユーリは傘を頭上に掲げた。玄関の扉は自動的に閉まり、ゆっくりと彼は正面門へと向かって歩き出す。
「行ってらっしゃいっス」
 そんな彼の背中を階段の上で見送ってから、アッシュもまた、ようやく本来の目的を思い出し止まっていた足を動かし出した。
「今夜は、シチューにでもするっスかね」
 そんな事を、呟きながら。

*

 吹き付けてくる風に押し流されて、雨粒は傘の存在も無視してユーリに襲いかかってくる。両手で傘の柄をしっかりと握り、攫われてしまわぬように力を込めながら歩くのが精いっぱい。
 やはり出かけるのではなかったと今更ながら後悔するが、引き返すのも癪に障る。挫けそうになる自身を叱咤激励し、彼は一歩一歩前へ進んでいく。
 土の地面はそう多くなく、アスファルトの上に出来上がった水たまりを避ければそう濡れる事もない、はずだった。けれど風の所為で不要な雨粒を全身――主に下半身――に浴びせられ、まだ目的地まで三分の二近くも道のりが残っているに関わらず、帰りたくて仕方がなかった。
 水分を吸収する能力を持ち合わせていないタールで固められた大地に降った雨水は、若干の傾斜が設けられている道路の両脇、用水路にかもしくは、マンホールの溝に呑み込まれて消えていく。アスファルトの大地にとって、空から降り注ぐ雨は決して、恵みの雨にはならないのだ。
 どんよりとしていて、見上げれば気分まで薄暗くさせてくれそうな雨空を視界の端に入れ、ユーリは足許に転がっていた空き缶を蹴り飛ばした。
 水を跳ねながら空き缶が音を立て、数回空中に弧を描いたのちそれも雨水と同じように道端の溝に吸い込まれていった。
 カランカラン、コロン、ぽしゃっ。
 擬音で表現するとしたら、そんなところだろうか。
 溜息を、もうひとつ。パシャンと足許の水たまりも蹴り飛ばし、重い水を含んだ大気に混ぜ込んでそれを飛び越える。右足のスラックスの裾が少しだけ、けれどシミを作るくらいに濡れた。
 軽やかに着地し、ほんの僅かに上機嫌になったのか、ユーリは背の羽をぱさぱさと二回ほど羽ばたかせた。もっとも、動かすだけで空を飛ぶことはない。この雨模様の中、空を駆ったところで濡れ鼠になるのが関の山だ。
 道端に伸びる樹木が雨を受け、緑濃い葉で雨を弾いている。その音色は唄を奏でているようであり、空からの見舞いものを喜んでいるかのようだった。足許に目をやれば、アスファルトが途切れた場所で健気に、懸命に背を伸ばし花を咲かせる小さな生き物たちがいる。
 踏みつぶさぬように気を付けながら、それらを順に見送って彼は歩く。
 天気がよい日は空ばかりを見上げているから、全然気づかなかったと彼は笑った。雨が降って薄暗い空を見ないようにしていたら、今まで知らなかった地面の事が初めて見えた気がした。
 寒いことと、濡れることと、傘が邪魔な事を除けば雨の日の地上を行く散歩も、悪くない。
 傘を打つ雨のリズムを聴きながら、ユーリはゆっくりと、けれどしっかりと地面を踏みしめて前へ進む。
 次第に雨足は弱まり始めていた。上空を吹き荒れる強い風が雨雲を押し流し、この地区一帯か雨を追い出しに掛かったらしい。増えてくる水たまりに対して、それらを揺らす雨の滴は少しずつ減り始めていた。
 角を曲がり、商店が並ぶ一角が近付いたところでユーリは背の羽を畳んで隠した。すれ違う人は居らず、気にする事もなかったかもしれないが習慣になっている行為に些か自嘲気味な表情を作って、彼は視線を巡らせた。
 CDショップを店先から覗き込み、その隣の書店をガラス越しに眺める。けれど見当たらず、小さな溜息を零して彼はようやく緩みだした風の御陰で力を抜くことが出来た傘を持つ手で、くるくると傘を回転させた。縁に溜まっていた水が、遠心力で飛ばされていく。
 散歩に出てきたんだろう、と自分に言い聞かせ捜してしまう自分を叱りつけ、彼は踵を返した。別に迎えに来たわけでも全然ないのだから、と心の中で誰にも問われていないに関わらず言い訳を繰り返し、さっきよりも早めの調子で足を前に運んでいく。
 商店区を抜け、小さな公園を通りすぎ、その帰り道。
 住宅区の、外れ。四つ角の一角、住宅に埋もれてしまいそうな小さな窓ひとつだけの商店、煙草屋の、前。
 にゃぁ、と甘えた調子の猫の鳴き声に彼は自然と、速度を緩めた。
 ぽとり、と軒先から大きな雨粒が滴り落ちていく。
 さほど広くない、煙草屋の軒下に暖を取るように猫を抱きしめてしゃがみ込んでいる大きな影。
 立ち止まったユーリに気づいて、顔を上げる。
 少し驚いた表情を、やがて微笑みに変えて。
「雨なのに散歩?」
 薄く歯を覗かせながら彼は言った。抱きしめている猫の喉を撫でてやり、すり寄ってくる猫に目を細める彼は避けきれなかった雨で濡れていたが、大して気にした様子もなく猫と遊んでいる。
 思わずむっとした顔になったユーリに、彼は冗談だよ、と猫を両手でしっかりと抱きしめながら立ち上がった。彼の背後、煙草屋の窓の向こうに人影はなかった。恐らくこの雨で客が来ないと考えているのだろう、それともこの雨宿り中の男が知らせてくれると思っているのか。
「迎えに来てくれたんでショ?」
「違う、散歩の途中だ」
 傘を回しながら、ユーリはつっけんどんに言い放った。
 彼は笑う、楽しげに声を殺して。猫を撫でている手つきはどこまでも優しい。
 ばつが悪そうにその光景を眺めているうちに、足許が明るくなった気がしてユーリは視線を上向けた。
 傘の位置をずらし、空を仰ぐ。
「あぁ、止んだみたい」
 一緒になって彼もまた空を仰ぎ見、呟く。雲間が裂け、そこから青空と太陽の光が溢れ出し始めていた。
 傘の上に残っていた雨水が雫となって落ちる。ユーリは吐息と共に傘を下ろし、静かに畳んだ。けれど最後に数滴だけ水が跳ね飛んでしまった。
「う~ん……もうちょっと降ってくれてても良かったのに」
 残念そうに彼が言うので、何故だ? という視線を向けると彼は抱いていた猫を地面に下ろしてやり手を振ってさよならを告げ、ユーリに向き直った。そして意地悪そうに微笑みながら、一本しかない傘を指さす。
「だって、さぁ」
 相合い傘で帰れたじゃない?
 照れもへつらいもなく、笑いながら言い切った彼に。
 ユーリは一瞬理解できなくてぽかんとし、1.5秒後に理解して思わず持っていた傘を振り上げてしまった。
 濡れている先端で殴りかかる。
 すんでのところで躱した彼が、心臓の辺りを片手で押さえながらユーリに文句を投げつける。
「危ないじゃないか~~」
「うるさい!」
 怒鳴り声に怒鳴り声で返し、ユーリはぶんぶんと傘を振り回す。けれど大振りのそれらは彼に掠めることさえなく、すべて軽々と避けられてしまう。
 足許の水たまりをジャンプで飛び越え、着地した彼がケラケラと声を立てて笑った。僅かに広がった自分たちの距離を確かめてから、ふと、雨雲が消え去っていく空を見上げた。
「あ、ねぇ、ユーリ」
 ほら、見てよ。そう告げながら彼は手招きをしたあとその人差し指を伸ばし、西の空を指さした。
「誤魔化そうとしたって……」
「違う違う。本当に、見てよ」
 じりじりと距離を詰めるユーリに首と手を一緒に振り、彼は背筋をピンと伸ばして西を仰ぎ見上げた。訝みながらも、ユーリは逆手に持っていた傘を下ろし彼の見つめている方角へと視線を流した。
 瞬間、目を見張り息を呑む。
「ね?」
 言葉を失って佇んだユーリに笑いかけ、彼は隻眼の瞳を細めた。
「綺麗だねぇ……」
「あぁ、そうだな」
 雨上がりの空に、見事な半円の虹の橋が架かっていたのだ。
 七色とまでは行かなかったが、五色は目に見えて判別がつく鮮やかな虹をふたり並びながら、会話も交わすことなく眺める。
 それは暫くすれば色も薄れ、空の青に溶けて消えて行ってしまったけれどそれでも、ユーリはそこから動こうとはしなかった。余程気に入ったのか、灰色が去り青と白に彩られた空間をじっと、見据える。
「ユーリ」
 そんなユーリの横顔をじっと見つめ、彼は名前を呼んだ。
 ゆっくりと首を回して彼の眼を見つめ返す存在に、柔らかく微笑みかける。
「雨の日の散歩も、偶には悪くないでしょう?」
 日の光が射し込む地面からユーリ、そして真っ青な空を順に見上げていって、彼は言った。
「ああ」
 ユーリは頷き、もう見えない虹を追いかけて紅玉の双眸を細め太陽を仰いだ。
「本当に、そうだな」
 心の底からの思いを呟き、彼はもう一度深く頷いて目を閉じた。空に吸い込まれていった虹をいつでも思い出せるように、強く心に刻み込む、その為に。

我が儘な魂

 夕暮れ時のミューズ市庁舎。
 たくさんの資料を挟んだファイルを両手に抱え、クラウスは扉を苦労して押し開けた。かつてミューズ市長として都市同盟を率いていた女傑が働いていたその部屋は、今は数年前に新しく成立したラストエデン国のリーダーの執務室に役割を変えていた。
 と言っても部屋の内装も何も変わっておらず、ただ部屋の主が変わっただけ、の気もするが。
 それほど広くなく、過度な装飾も何もない質素に見える執務室に入ったクラウスは、しかしそこにいるはずの人物が見当たらないことに首を傾げた。
「また、ですか……」
 呆れとも諦めとも取れるため息をつき、彼は主のいない幅広の机に持ってきた資料を積み上げた。几帳面なリーダーによって綺麗に片付けられた机は、一瞬にして書類に埋め尽くされる。この膨大な書面のすべてに目を通し、間違いがあれば訂正させ可能な限り意見を取り入れる。慣れた政務官でさえも音を上げたくなるような大変な仕事を、この国のリーダーは文句のひとつもこぼすことなく黙々とこなしていた。
 ただ少し、難をいうならば……今日のように夕暮れ時、誰にも断らず行方をくらます癖がある、というぐらいか。
「あそこでしょうね」
 重い資料から解放され、疲れた肩をほぐしながらクラウスは呟く。
 こんな風なあざやかすぎるくらいの夕暮れの度、ラストエデン国のリーダーはミューズの城門前にたったひとり佇むのだ。戻ってくるはずのない、かけがえのない友の帰りを待つために……。
 本人もよく分かっているはずだ。彼が待つその友は、彼自身の手でこの世からいなくなってしまったのだから。
 それでも、彼は待ち続けている。あれからもう何年も経ち、戦争の記憶さえ人々の中ではあやふやになり始めている今も。
「セレン殿」
 長い影を引きずり、家路に急ぐ子供達の間を抜け、クラウスは開かれた城門を出て案の定そこにいた幼い顔立ちのままのリーダーの名前を呼んだ。
「クラウス、か」
 後ろで手を組み、壁にもたれていたセレンはすぐに彼に気付き、顔を上げた。短い階段を下りてくるクラウスを待ち、壁から離れる。泣いているようにも見えた表情は実際は穏やかで、クラウスをほっとさせた。
「背、伸びたね」
 横に並ぶと、その差はよく分かる。
「ええ、まあ……そうですね」
 時間は確実にクラウスの中で流れている。それがごく一般のたまに会う友人やらに言われたのならばクラウスも素直に認められただろう。しかし、彼にそう呟いたのは成長、そして死という概念から解放された、セレンだった。
 あの頃から何も変わっていないセレン。幼い顔立ちが立派な青年の表情になることはもう無い。トウタにも身長を抜かれてしまった時にはさすがに彼も苦笑していたが、その胸の内はどれほど複雑な思いでいっぱいだっただろう。
「戻りましょう。シュウ殿も心配していますよ、きっと」
「……どうだろうね」
 促し、セレンを伴ってクラウスは歩き出した。
「迎えに来てくれなくても、日が暮れたら戻るつもりだったんだけど」
「城門前で眠りこけていたのは誰でしたか?」
「うっ……」
 だいぶ前、まだこの国のリーダーになってから日が浅かった頃。セレンがいなくなったと大騒ぎになったことがある。やはり彼は城門前にいたのだが、その時は誰もそのことを知らなくて
 てんで方向違いな場所を皆探し回っていた。そして夜、日もとっぷり暮れた頃、城門前でのんきに寝ているセレンが発見されたのだ。
「だって、あれは……」
 天候もよく、静かで気持ちが良くてついうとうとしていたらかなり時間が経っていたと、それがセレンの言い訳だった。勿論シュウにこっぴどく叱られ、市庁舎からしばらく出して貰えなくなってしまった。
「……ねえ、クラウス」
 市庁舎前まで来て、セレンが急に立ち止まった。数歩先を歩いていたクラウスが、呼ばれて振り返り、戻ってくる。
「手、見せて」
「手ですか?」
 突然何を言い出すかと思えば……と訝しりつつも、言われた通りにクラウスは手を差し出した。
「何をするんですか?」
 差し出された彼の右手の平をまじまじと見つめるセレン。だが一通り眺め終わると、「ごめんね」とだけ言い残し、訳が分からないクラウスを置いてひとりさっさと市庁舎に入っていってしまった。
「セレン殿……?」
 本当に見るだけだった。この手に何かあったのか?と自分の右手とセレンの去っていった市庁舎の入口を交互に見つめ、クラウスは首をひねることしきりだった。
 だが考えていても分からない。セレンは何も言わなかったのだし、問題とすべきことが無かったのだろうと勝手に判断して、クラウスは市庁舎に入った。
 役所の仕事は終了している時間で、申請に訪れる市民の姿ももう見かけられない。明かりも落とされた薄暗い廊下を歩いていると、シュウに会った。
「クラウス」
 呼び止められ、彼はシュウのそばまで進む。
「セレン殿は何か新しい遊びでも考案されたのか?」
「はい?」
 突然何を言い出すのか、とクラウスは怪訝な顔をする。しかしシュウは至って真剣な顔をしていて、笑い飛ばせるような雰囲気ではなかった。
「シュウ殿、いったい……」
「実はな、つい今さっきそこでセレン殿に会ったのだが……」
 彼曰く、クラウスと同じ事をされたのだという。つまり、突然理由を言わず「手を見せてくれ」とだけ頼んで、出された右手の平をじっくり眺めた後「ありがとう」とだけ言い残して去っていったらしい。
「遊び……ですか」
「でなければ、なんだ?」
「私に聞かれても……」
 薄暗い資料室の前で首を傾げる二人の姿は、かなり奇妙だった。
 次の日も、セレンの奇行は続いた。
 市庁舎に勤めている人間に片っ端から「手をみせてくれ」と頼んでいるらしく、あれは一体何なのかとシュウに訪ねてくる者が後を絶たなかった。しかしシュウだって分からないし、出来るなら教えてもらいたかった。が、セレンに訪ねても笑って誤魔化されてしまい、彼が何をしたいのかは分からないままだった。
「何やってるの」
 その答えを教えてくれたのは、意外な人物だった。
「ルック、来ていたんですか」
 クラウスが驚いた顔で言う。
「来ちゃいけない?」
「いえ、そんなわけでは……」
 嫌味は相変わらずで、セレンと同じく昔と大して変化のないルックにクラウスは複雑な笑みを浮かべた。
「ところで、なんだか市庁舎が騒がしいけど……何かあった?」
 仕事をせずに互いの手を比べあい、ああでもないこうでもないと繰り返している市庁舎の職員を指さしてルックが訪ねる。
「それですか。実は……」
 クラウスに説明を一通り受け、しばらく考え込んだ素振りを見せたルックは、ややして彼に手を見せるように言った。黙って差し出されたクラウスの手のひらをゆっくりと眺め、そして一本の皺を指さした。
「これじゃない?」
 ルックが示したのは俗に”生命線”と呼ばれるものだった。
「クラウスって、意外に短いね。早死にするんじゃない?」
「…………」
 ひどいことをさらりと言われ、しかも笑われてしまい、クラウスは撃沈された。

 夕方。
 今日はちゃんと執務室で仕事をさぼっていなっかたセレンの元に、やや顔色の優れないクラウスが訪ねてきた。
 あれから散々ルックに手相占いをされ、彼がいかに受難の相にあふれているかを嬉々と説明されたためだ。おかげでクラウスはその日だけで体重が3キロも減ったとか減らなかったとか。
「大丈夫?クラウス……顔色悪いよ」
 資料の山に悪戦苦闘していたセレンが、その山から顔を出して言った。
「いえ、平気です。それより……」
 ふらふらとした足取りでセレンに近づく。そしてばん、と机の端に両手をつくと、一呼吸置き、
「セレン殿!」
「はい!」
 間近で大声で名前を呼ばれ、怒られるのかと反射的にセレンは背筋を伸ばしてこれまたクラウスに負けない位の音量で返事をした。しかし、セレンに突きつけられたのはミスのあった書類でも怒鳴り声でもなく……クラウスの右手だった。
「あの、クラウス……?」
 なんだろう、とぽかんとするセレンに、顔を上げたクラウスが
「これで良いですか?」
「え?」
「ですから、これで良いのですね!?」
 一体何が……と言いかけて、セレンはようやく気がついた。
 クラウスの手に、太く濃いマジックの線が引かれていたのだ。
「生命線……」
 ぽつり、セレンが呟いた。
「もしかして、自分で書いたの?」
こみ上げてくる笑いをこらえ、セレンが尋ねる。クラウスは耳まで真っ赤になり、小さく頷いた。
 「……馬鹿だなあ、クラウス」
 ついにこらえきれず、セレンが笑い出す。腹を押さえ、目尻に浮かんだ涙を指ですくい上げる。クラウスが必死に、「笑わないで下さいよ」と訴えかけてくるのがまたおかしくて、書類の山が散らばるのも気にせず、机の上で抱腹絶倒。
「セレン殿!」
 セレンのためにやったのに、こんなに笑われては割に合わないとクラウスが怒鳴る。
「あははっ。ごめん、でもやっぱり…………おかし、い……」
 顔を片手で覆い、椅子に戻ったセレンはまだ肩をふるわせている。
「……ありがとう……」
 だから、その言葉がクラウスに聞こえたかどうかは、分からなかった。
 もっともそれは、執務室の扉を開けたシュウが不思議そうな顔をしたため、またセレンが笑い声を立てたせいだったのだが。