Calling/3

 ピアノの音色が響いていた。
 それは本当に微かで、ホールから音の発生源を探ろうとしたユーリは高い天井のシャンデリアを中心に視界をぐるりと一回転させた。けれど分からず、首を捻ってしまう。
 城の中にある一室に控えているグランドピアノが奏でている音とは、少々趣が異なっている。それにあの部屋は防音設備を整えてあるから、扉を全開にでもしておかない限り、外へ音が漏れ出てしまうことはないはずだ。
 だからこれは、誰かがどこかでCDを聴いている音だろうと、ユーリは判断する。そして上を見上げすぎて疲れてしまった後ろ首を、指で軽く揉んで解してやりながら姿勢を正した。
 一番音響設備が無駄に整っているのは、リビングである。しかし現在その場所には誰も居ないことを、今さっきまでそこで時間を潰していたユーリは了承済み。それに音は上からこぼれ落ちてきている。だから上の階に暮らしている誰かが、クラシックを特大ボリュームで鳴り響かせているのだ。
 思い当たる存在は、ひとりきり。そもそも、アッシュは夕食の準備で買い出しに出かけており、城内に残っているのはユーリを除外するとひとりしかいないわけだから、消去法からいっても結論は変わらなかっただろう。
 赤絨毯を踏みしめ、ユーリは階段を登り始めた。一段進むごとに、気のせいかもしれないが音が大きくなっているような気がした。実際それは錯覚などではないのだが、徐々に巨大になっていくピアノソナタ曲のタイトルを思うとこの音量で聞くのは如何なものか、と眉間に皺が寄っていく。
 とは言え、この曲を聴いているだろう存在はこの音量を調節出来ないのだから、仕方がないと言えばその通りだったりするから始末が悪い。
 何故に聞こえもしない音楽を、周囲の迷惑を顧みず響かせるのか。次第に減っていく頭上の階段を睨み付けながら、やや大股で床板を踏みならすように(実際には、音はすべて起毛の絨毯に吸収されてしまっているのだけれど)してユーリはスマイルの部屋となっている一室に続く廊下へと降り立った。
 遠目に眺めれば、扉はきっちりと閉じられている。けれど音は、ホールで聴いたときよりも遙かに尊大にふんぞり返っていた。
 無意識にむっとなる。その行動理念が理解できず、彼は早足に廊下の、けれど階段とは違って絨毯が途切れてしまった床板をずんずんと進み出した。古めかしい城は所々建て付けが悪くなっており、下手なことをすれば床が抜けるという事態も発生しかねないというのに、その事すら忘れて。
 ユーリはスマイルの部屋の扉を開けようと、鈍い金色をしたドアノブを握ろうとした。
 けれども。
 その手は目的のものへと到達せず、掴むために伸ばした指は虚しく空を切ってしまった。触れるか触れないかの距離まで近付いていたはずの物体が、するりと彼の目の前で彼から逃げて行ってしまったからだ。
 反射的に息を呑み、背を強張らせてユーリは後ろに上半身を退かせる。
 キィ、と恐らく彼にしか聞こえていないだろ扉を開く音が低く、ピアノの音色に掻き消されながらもかろうじて周囲に響き渡った。
 丁度音源が奏でている譜面は第三楽章へと移行し、鍵盤使いが激しさを増している時。よくぞこの微かな音が聞こえたものだと自分の耳の良さにある意味感心してしまいながら、ユーリは予告もなく内側から開かれた扉の先にあるものを睨み付けた。
 どうして分かったのか、そこにはスマイルが立っていたから。
「ぅ……」
 自分が開けようとしていた扉を先に開けられるのは、どうも気まずい。それにどうして自分の接近を察知できたのか、もしかしたらたまたま偶然だったのかもしれないけれど、ユーリはどうもそうは思えず、つい後方へまた下がってから上目遣いに中途半端に開いていた扉を今度こそ全開にさせたスマイルを睨む。
 扉が完全に開かれた所為もあって、大音響はユーリの頭に直接響いてきて身体全体が痛い。
 しまいには段々と苛立ってきて、ユーリは部屋の奥を指さすと思い切り、音が大きいんだ! と聞こえていないはずの相手に向かって怒鳴ってしまっていた。
 無論、聴覚を完全に喪失してしまっている現在のスマイルに怒鳴り声が届くはずがない。しかしユーリの剣幕(顔の表情だけ)と、彼が指さす方向とを総合的に見て答えが見付かったのだろう。やや間があってから、彼はぽん、と暢気に自分の手を叩いた。
 そのまま返事をせず、くるりと踵を返して室内に戻っていく。三秒後、ようやくあれ程城中にがなり立てられていたピアノの轟音は消滅した。
 音が消え失せると、途端に周囲が静かになりすぎて逆に気味が悪かったがまたあのボリュームで再生されてしまっては耐えられないので、ユーリは黙ったままひとつ頷く。それからやっと、スマイルの部屋に足を踏み入れた。
 相変わらず飾り気の少ない、モノトーンで統一された部屋だ。その中で一際異彩を放つギャンブラー関係のものは、部屋の一角に並べられた棚の中に丁寧に陳列さられており、どうもユーリはそこに近寄り難いものを感じてしまう。どうせ触ろうとしたら怒られるのだからと、そちらを避けるようにして歩きながら、彼は音の発生源を探ろうと視線を巡らせた。
 現在スマイルは自分の机の前に据えられている椅子に腰を下ろし、どことなく居場所を定め切れていないユーリを見上げている。
「なに……」
 したいの? そうスマイルが続けようかと小さな声を紡ぎかけたとき、ユーリの視点が一箇所で固定された。するりと伸びた白い指が、数多く並ぶオーディオ機材の間に埋もれかかっている、けれども存在はやたらと主張しているレコードプレイヤーに伸ばされる。
 黒の円盤、その中央に貼られた曲名を言葉にせず、ユーリは読み上げた。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調作品27-2
別名、『月光』
 

 ユーリがその曲を知らないわけがない。だが改めてレコード盤を見て曲名を確認し、余計に怪訝な想いが湧き起こってきてしまう。
 円盤に刻み込まれた細かい溝に指の腹で触れながら、ユーリは椅子に深く腰を落として気楽そうに座っているスマイルを上半身だけで振り返り見た。すると彼もまた、ユーリの問わんとしている内容を理解するのに数秒ほど時間を費やし、改めてユーリの指が触れているものを想起させてまたしても、無駄な行為としか思えない手を打つ動作をしてみせた。
「ベートーベン」
 スマイルが単語だけ、口ずさむ。
 それは分かっている、と聞いていたユーリは顔を顰めて不機嫌そうにスマイルを睨んだ。けれど相手は平然としたまま、自分の右耳をしきりに指さしている。
 ベートーベンと、耳。そして『月光』。このみっつが何を意味しているのかを思い出すのに、ユーリは一分少々の時間が必要だった。
 かの大作曲家が『月光』を発表したのは、彼が31歳の頃。
 そしてベートーベンが自身の難聴を訴え始めたのもちょうど、その時期だった。
 気が付いたとき、今度はユーリの方が手を打ちそうになって慌てて自制する。叩きかけた手はさっと背中へ回って誤魔化され、どことなく赤くなった顔を隠しながらユーリはまた、今は物言わぬ黒の円盤へ紅玉の双眸を向けた。
「うるさかった?」
 スマイルが尋ねる。弾かれたように身体ごと彼に向き直って、ユーリは反射的に首を横に振りそうになった。けれどもどうせ向こうも分かっているだろう事なので、中途半端に横向きになった首を今度は縦に落とす。
 椅子の背もたれを軋ませながら、スマイルは苦笑した。そして御免、と呟く。
 もしかしたら聞こえないだろうかと、そう思ってね。
 ふっと視線をユーリから逸らし、遠くへ――それもこの部屋の中ではないどこか別の場所――やって、彼は続けた。聞き取りづらいだけの、その独白に。
 ユーリの胸がキリリと痛んだ。
「アッシュは?」
 痛む場所を服の上から抑え込み、俯いていたユーリは不意にかけられた声に驚き、咄嗟に反応が出来ずどもってしまう。焦っている事が丸分かりの態度に、スマイルは右目を細めて首を傾げた。
 大丈夫、だから。ユーリは自分にそう告げてからなんでもない、と首を振りそして今問われた事に応えようと唇を開いた。
 だが第一声を放とうとしてから、それが相手に届かないことを思い出す。しかも今彼の手元には、伝えたいことを相手に知らせる術としての筆談用の手帳さえ無かった。大急ぎで回りを見渡して、何か代用できるものが無いかと他人の部屋であるに関わらず探し回るユーリに、スマイルはしばし沈黙してから机の上に置いてあったメモ帳をペンと一緒に差し出してやった。
 素直にそれを受け取り、受け取ってからそれを渡したのがスマイルである事に気付いて、ユーリはややむくれたような顔をする。それがおかしくてつい笑ってしまった彼を更に強く睨み付け、ユーリはメモ帳の開かれているページに文字を書こうと下を向いた。
 本当にスマイルは使いかけのページをそのままにして差し出してくれたようで、半分ほど紙面は文字で埋め尽くされていた。うち、右端の方に小さく走り書きされた日付に目が行って、彼はついその周辺に書き込まれている文字を読んでしまった。
 日付はちょうど来月の今頃。取り囲むように記されているのは、予定されている自分たちのライブ開催地、時間、チケットが既にソールドアウトしてしまっている事等々。
「あ」
 リーダーでありながらすっかりその事を忘れてしまっていたユーリは、つい声を出してしまって開いた口を慌てて手で隠した。スマイルの方も、開いていたページに何を書き込んでいたのか思い出したらしく、困ったような表情を浮かべてユーリを見返していた。
 言葉が続かなくて、先に問われていた内容にも答えられなくて彼は己の足許ばかりを見つめてしまう。握りしめた手帳の端が曲がってしまうことにも構わず、指先に力を込めていた。
「ユーリ」
 呼ばれてもすぐに顔を上げる事が出来なかった。
 忘れていた、確かに否定出来ない。だけれどひょっとしたら、意図的に考えないように頭の中からこれからのスケジュールを追い出していたのかもしれないと、ユーリは気付いた。
 だってこのままじゃ、スマイルはステージに立てなくて。
 けれどそれじゃあライブは中止にするしかない。だけれど、楽しみにしてくれているファンの事を思うと早まる事も出来ずに。
 スマイルが舞台上で演奏しないなんて事は許されず、彼だけを不在にしてライブを決行してもそれはもう、deuilのライブではない。
 彼の居ないステージなど考えられず、けれど彼を立たせる事は出来ない。だって周囲にはスマイルの不調を知らせていない、余程つき合いが深く、また仕事上の関係がある相手以外――特にマスコミ関係には一切情報を漏らしていなかった。
 耳の聞こえなくなったベートーベン、彼は聴力を失ってもオーケストラのタクトを揮ったという。そのステージ上には彼以外にもうひとり別の指揮者が立ち、実際の指揮はその人物が執っていた、とも。
 音を拾わない耳を持ったベートーベン、彼の指揮は滅茶苦茶だったと。けれども彼は最後まで、そんなになってまで舞台に拘った。
 彼はどんなになっても、そこが自分の居場所だと譲らなかったのか。
「ユーリ」
 はっとなって、彼は顔を上げる。握りしめて危うく潰しかけていたメモ帳を思い出して慌てて力を解き、何も書かずにスマイルに突き返してしまった。
 胸の前で受け取った彼は、ユーリがなにを見ていたのかを改めて確認し、開いていたページを閉じた。ペンと並べて机に戻し、上向けていた真新しい譜面も裏返しにしてしまう。
 そして緩慢な動作で椅子から立ち上がった。
「スマイル?」
 急に縮まったお互いの距離に驚いて及び腰になっているユーリに苦笑を浮かべて、彼は椅子を机の下に押し込んだ。返答はせず、立ちすくんでいるユーリをその場に置いて机とは反対側の壁、クローゼットへと向かって歩いていく。
 壁と同化している戸を引いて広げ、さほど深くない奥行きをしている中へ片足を突っ込んだ。
「?」
 なにをしているのだろう、とユーリが見守る中彼は一着の上着を引っ張り出してきた。膝下丈で薄手の、黒に近い焦げ茶色をしたコートだ。
「散歩」
 時計が指し示す時間は、夕食までまだ間がある。太陽は傾いているけれども地平線に潜ってしまうのは早く、棚引く雲が朱色に染まるのにも幾ばくか猶予が残されている。
 取りだしたコートに片腕を通し、彼は短く告げてユーリに視線を向けた。反射的に逸らしてしまった彼に小さく微笑み、首を振るともう片腕も袖に通す。
 久方ぶりに着るものだから、少々押入臭いのはご愛敬か。匂いを確かめたかったらしい、スマイルは襟元を掴んで鼻先に近づけそして思い切り嫌そうな顔をした。どうやら本当にかび臭かったらしく、そんなになるまで彼は外に出ていなかったのだな、と改めて思い知らされた。
 世界は音に溢れかえっている、或いは音があることを前提として建築されている。だが今のスマイルは、そうやって出来上がっている世界の半分も知ることが出来ないのだ。
「散歩、って……」
 ひとりで行くつもりなのか? とユーリは続けようとした。だけれど途中でスマイルが首を振るのを見、どうしようかと逡巡する。手元に筆談の道具が無い事がこんなにも不便だとは思わず、スマイルの机に戻ろうかとした矢先、そのスマイルがユーリの手を掴んで引き留めた。
「スマイル?」
 顔を向けると、その眼前にぬっと彼の広げられた左手が突き出された。何事、と理解不能に陥っているユーリを置いて、スマイルは広げた手を床と水平にして改めて彼へと差し出す。反対の手の人差し指で、手の平にものを書く動作をする。
 ここに書けと、そう言いたいのだろう。声で伝えられないもどかしさを胸の中に感じつつ、ユーリは彼の包帯にくるまれた手の平に指で文字を書き始めた。
 けれども二文字目にも行かないところで、スマイルが難しい顔を作った。頭の中で物事を考えまとめているのだろうけれども、見ている方には百面相をしているみたいでどこかおかしい。彼は真剣なんだから、と笑ってしまいそうになるのを懸命に堪え、ユーリは辛抱強くスマイルの次を待った。
 そして唐突に、スマイルは差し出していた手を引っ込めてユーリの背後に回った。
「スマっ……」 
 それこそ何事か、と問おうと振り返ったユーリを遮るように彼の脇からスマイルの左手が伸びた。
「……あ」
 ポーズとしては、五指を伸ばして手の平を上向けに。つまりさっきまでと同じ、ただ違うのはスマイルがユーリと同じ方向を向いて立っている、と言うことくらいで。
 要するに、逆位置から書かれると読みづらかった、ただそれだけの事。
 それだけの事なのに、こうも拍子抜けさせられたり緊張させられたりしていては身が保たない。ユーリは深々と息を吐き出して肩から力を抜き、スマイルの左手を自分の左手で掴んで右手の人差し指をペン代わりに文字を書き始めた。
『ひ と り』
 書き難さと、相手の手から伝わってくる体温や背中越しに感じる拍動にいちいち気が行ってしまう事で、やり辛さは普段の倍以上。どう急いでも相手にちゃんと伝わるように、と書くのもゆっくりになってしまう。
『 で ? 』
「うぅん」
 書く方は時間がかかっても、返事をする方は一瞬だ。苦労して尋ねたユーリに彼はあっさりと否定の言葉を後ろから差し向けてくる。
 ふぅん、そう、行ってらっしゃい。そう口から言葉が出そうになって、けれど直前になってユーリはそれを呑み込んだ。
「誰と!」
 アッシュは現在お買い物で留守。そうなると、スマイルと一緒に出かける事の出来る存在は消去法でもひとりきり。他の方法で考えたとしても、物理的に可能なのはユーリだけ。
 そして案の定、ユーリが叫んだ事だけは感じ取れたスマイルがにっこり微笑みながら彼を指さす。
 ユーリから一気に力が抜けていった。スマイルを掴んでいた手を放し、それで頭を抱え込んで彼は深々と、非情に長い息を足許に向けて吐き出す。それはどんよりと曇り、彼の爪先を濡らす雨を降らす雲になるのではとさえ危惧させてくれた。
 一方のスマイルは、ちっとも気にした様子のないままに微笑んで、たそがれているユーリを見つめている。
 まず間違いなく、確信犯。
 こいつ、耳が聞こえなくなってからなんだか性格曲がったんじゃないのか? そう思えてならず、片頬を押さえてユーリは上目遣いにスマイルを睨んだ。
 けれども、差し出された左手を振り払うことなど出来るはずがなく、肩を落としたままユーリは首を振って前髪を梳き上げた。伸ばされたままでいるスマイルの手をぱしん、と叩き落として服を着る動作をしてみせる。
 スマイルだけコートを着ているのに、自分がこのまま外に出るなどそんな寒い事、出来るものか。
 不機嫌なままのユーリを見下ろして彼はまた微笑み、ひとつ頷く。
「玄関で待ってる」
「勝手にしていろ」
 車のクラクションさえ聞こえない奴をひとりで行かせるわけにもいかない。結局突き放せないユーリの優しさに甘えたスマイルが本当は珍しくて、少しだけ嬉しくて。
 どうせスマイルは聞こえないのだから言うだけ無駄なのに、いつも通りの受け答えをしてユーリは部屋を早足に出ていった。自室へ上着を取りに行ったのだろう、その背中を見送ってからスマイルもまた部屋を出る。
 扉を閉じる寸前に一度だけ室内を振り返って。
「    、   」
 唇だけを開閉させて、音にならないことばを呟き。
 もう、振り返らなかった。

 ふたり、並んで歩く。
 ただそれだけの事なのに妙に緊張している自分が居て、ユーリはどうも落ち着かなかった。それもきっと、いつもだったら絶対にしない事をしているからに他ならない。
 手なんて繋いで歩いたこと、今まで無かった。
 だのに今は、しっかりと結ばれている。彼の左手と、自分の右手と。お互いの利き手を預けあって、なにをやっているのか。
 会話はない、ただ黙々と歩いている。行きたい場所でもあるのか、先を歩くのはスマイルだ。並んでいるとは言え、彼の方がコンマ数秒ほど早く足が前に出ている。だからユーリは引っ張られるように、彼の左手に導かれながら道を進んでいくだけ。
 周囲を取り囲む音が聞こえない事もまるで気にしていないようで、スマイルは涼しい顔をしたまま遠くを見つめていた。
 その横顔を見上げてから、ユーリは前方から吹き付けてくる風に煽られる自分の前髪に視線を移した。銀色の細い髪が、沈んで行こうとしている日の光を受けて本来の色とは若干異なった趣に輝いている。
 夕暮れはこんな空をしていたんだな、とこの時間帯に出かける事など滅多になかったユーリはぼんやりと、前髪の隙間から覗く空色と朱色とが混じり合った空間を眺める。薄く広がる雲は緩やかな輪郭を描いており、その白さが一際眩しくて目を細めてしまう。
 不意にくっ、と結ばれている手の熱が強くなった。
 握る力が強くなったのか、と理解すると同時にユーリはスマイルの方へと身体が傾く。これは引っ張られたんだ、と頭の思考回路が繋がった時にはもう、彼はスマイルに右肩を預ける格好で凭れ掛かってしまっていた。
 そのまま、開いている右手も使われて胸の中に封じ込められる。
「スマイル!」
 久しぶりに声を出した、けれどそれがこんな非難めいた怒鳴り声になるとは思って居なかった。
 どこか裏切られたような錯覚に陥り、どうにか無言でいる彼から抜け出そうとユーリが藻掻く。けれど解放してもらえず、握った左手で彼の胸元を思い切り叩こうとした、その時。
 彼の背後を一台の乗用車が走り抜けていった。
 ユーリの腕が中途半端に持ち上げられた状態で止まる。いわゆる凍り付いた、という表現の相当するだろう。筋肉を弛緩させて腕を下ろすと、もう接近する危険物は無いことを確かめたのか、スマイルもユーリを解放した。
 視覚も聴力も持ち合わせているユーリが気付かず、聴覚を失っているスマイルが先に迫ってきていた乗用車に気付いた。今進んでいる道には歩道が無く、車道と一緒にされてしまっているので車が接近すると、路肩に寄らなければ危ないのだ。
 本来ならユーリが気付き、スマイルに警告を与えなければならなかったのに逆になってしまった。ひとりででも大丈夫だったんじゃないだろうか、と一瞬考えてしまってから、ユーリは疑問を抱いてスマイルの左手を放し手首を取った。
 胸の位置まで自分の力で持ち上げ、人差し指で広げさせた彼の手の平に文字を書く。
 スマイルが、見えやすい位置にと首を伸ばしてきた。
『ど う し て』
 ユーリが彼の部屋を訪れたとき、ノックもなにもなかったのに先に扉を開ける事が出来たのか。
 クラクションも鳴らす前の車の接近を察知し、ユーリよりも早く行動に移ることが出来たのか。
 その疑問が重なり合って、ユーリの目が問いかける。
 ルビー色をした瞳に真摯に見つめられ、スマイルは返答に窮したらしく、困ったように頭を掻いた。どう答えたら伝わってくれるのだろう、とそんなに難しいことなのかとユーリが怪訝に思うくらいに迷ってから、トントン、と二度ばかり足許を覆い隠しているアスファルトの大地を爪先で叩いた。
「?」
 ユーリが首を傾げる。伝わらなかったらしい。
 スマイルは肩を竦めた。もう一度足許を叩いてからそこを指さし、
「振動」
 それだけを告げる。
 足の裏を伝わって、遠くからでも接近するものの振動を感じ取ることが出来れば先回りする事は可能だと、言外に彼は言っているらしい。ようやく合点がいってユーリはふぅん、と小さく頷いた。
 言われてみれば確かに、あの時自分は随分と床を踏みならしながら廊下を歩いていた気がする。車だって、その重量を考えれば大地を震わせるものに他ならないだろう。但し、ユーリはまったく気づけなかったが。
 やっぱり自分は必要なかったのではないのか。心底そう思えてきて、ユーリはスマイルの手を振りほどくと乱暴に放り投げ、ひとりずんずんと歩き始めた。
 けれど後方を歩くことになったスマイルは歩調を速めようとはしなかった。ユーリの進んでいる方角が彼の目指していたものへ続いているのだろうか、ともかくユーリはしばらくの間そうやって孤独に、前ばかりを睨み付けながら進まざるを得なくなってしまう。
 釈然としない。
 最初は大股に、いらつきを全身で現す歩き方だったのも、そのうちにペースは落ちて普段と変わらない調子に戻っていった。そうすればスマイルは自然とユーリに追いつき、再び、手を結びあっていない事以外が出かけた直後と同じになっていた。
 幾つかの角を曲がり、通りを抜け、そして。
 唐突に目の前が開けた。
「……ここは……」
 そこは、言ってしまえば何の変哲もないただの広場。
 けれど違うのは、誰か人の手が入っているのか分からないけれど、青緑の草が一面を覆い尽くしている事。更にそこかしこにコントラストを描き出す、白や黄色、薄いピンク等々の色とりどりの花々が咲き誇っている事、だろう。
 花はいずれも小さく、下手をすれば地表を覆い隠す草に埋もれてしまいそう。懸命に茎を伸ばして葉を広げ、太陽の光を一心に集めて誇らしげに咲いている、花たち。
 夕焼けは色濃さを増し、平面さを失った草花に囲まれた地面に落ちる影はいつの間にか、自分たちの倍以上の長さになっていた。
 あと半刻もすれば陽は地平線へと沈んでしまうだろう。その先に訪れるのは、一面の闇だ。それまでの僅かな時間も、必死に太陽光を求めているのだろう草花が風に煽られて大きく波立った。
 斜めに傾いだ草の表面を撫でる風の音が周囲一帯を支配する。耳に入ってくるのはその音ばかり、ユーリはしばらくの間その中に佇むスマイルの姿を茫然とした思いの中で見つめていた。
 濃い色のコートも、夕日を受けて少しだけ明るさを増した色合いに変化している。黒がより強まり、けれども明るく。裾が風を受けてなびいている、前身頃も後方へと流されて何もないときはコートに隠されてしまう彼の膝から下が見えた。履いているズボンの裾と靴は脛の辺りまで伸びている草に埋もれているが、その姿はどことなく印象派の絵画を思わせた。
 夕暮れの色を背負って、彼がそこに立っている。
 両手はコートのポケットに両方突っ込まれ、そこから上が風に流されぬように抑え込んでいるようだった。前髪がしきりに風に揺らされ、露出する右の瞳を時々隠してしまう。
 風の音がうるさいくらいだ、ユーリは自分の銀糸を抑え込みながら思った。
 でもスマイルにはこの自然の音でさえ届かない、そう思うと胸が痛み出す。
 原因が分からない。治療も対処の方法も分からない。回復する見込みがあるのかどうかさえ、分からない。
 残された時間は、あと大きくて一ヶ月。それを過ぎてしまえば、もう世間に隠しておくことは出来ない。
 この先がどうなるかなんて、未来の事などなにひとつ展望があるわけでもなく。
 ただ確実に言えることが、ひとつ。
 今までのままでは、いられない――それだけは、はっきりと分かるから。
「ユーリ」
 スマイルは沈んでいこうとする太陽を見上げながら、彼を呼んだ。
 ユーリが顔を上げて彼を見る。けれどその丹朱色をした隻眼はユーリを見つめることなく、変わらずに眩しいばかりの太陽を見つめていた。
 青白さが特徴である彼の顔も、こうしていると普通に赤く染まって見えるから不思議だと、ユーリはどこかぼんやりとしてはっきりまとまらない頭の中で感じた。
「なんだ?」
 聞こえていない相手に言葉を返す。あまりにもスマイルの態度が普通すぎたので、ユーリは一瞬、彼の耳の事を忘れてしまった。
 スマイルが草花の間を縫うように足を進め、ユーリから遠ざかっていく。自分から呼びかけたくせに置いていくのか、と彼は慌てて同じように歩を進めた。なるべくつぼみを付けている花は踏まないように注意を払いながら、ゆっくりとスマイルへと近付いた。
 また風が吹く。今度はさっきよりも穏やかだったものの浮き上がった前髪が跳ね返ってユーリの目に直撃し、彼は急いで瞼を閉じて右手の指先に銀色を輝かせている髪を絡め取った。生理現象で浮かんだ涙に僅かに霞んでしまった視界にスマイルをおさめ、けれど少し今までとどこかが違っているように感じ取られて、ユーリは首を捻った。
 スマイルを凝視する。
 その姿が、透けて見えた。
「ス……っ」
「ユーリ」
 息を吸い、それと同時に叫ぼうとしていたらしい。咽せた。
 静かなスマイルの声が夕暮れが終わり闇に変わろうとする時間に響き渡る。
 ただひとつ言えること、今までと同じじゃいられない。
 ただひとつ分かること、このままじゃダメになるだけ。
 ただひとつ、願うこと。
 君の声が、聴きたい。
「ユーリ」
 ゆっくりと彼は振り返る。ユーリへと、向き直る。
 その表情は現すなら笑顔、そして哀しさ、寂しさ、悔しさ、それから。
 それから……
 日が沈む。夜が来る。太陽を背にした彼が翳る、表情が隠される、今どんな顔をしてユーリを見ているのかが、分からなくなる。
 黒のシルエットが赤い空に浮き上がってユーリの目に映った。唯一はっきりと見えていた隻眼が閉ざされ、彼から完全に表情が失せたとき。
 冷たい風が、ふたりを包み込んだ。
「ぼくはね、ユーリ。今、一番、君の声が聴きたい」
 空洞となった耳を指さし、彼は言った。持ち上げた腕を下ろさず、広げた手の平で眼帯に覆われた左目に触れる。強く抑え込んで、皮肉そうに笑う口元が印象的だった。
 ユーリは何も言わず、聞いていた。魔法でも使われたかと感じるほどに、彼の足は鈍く重く、その場に貼り付けられて少しも浮き上がってくれない。冷たすぎる風に身を震わせる事も出来ず、ただそこに立ちつくしてスマイルの声を聞く事だけしか。
「それから、ライブも中止や失敗にしたくない。ぼくは、あそこに立ちたい」
 熱気と歓声に包まれたあの空間に立ち続けることが、数少ない自身の“生”を感じ取ることの出来る場所。そこを失ったとき、自分が生き続けていける保証がどこにも無いことを、スマイルは気づいている。あの場所は手放せない、誰にも譲れないしdeuilというバンドの中に在る自分を失うのは絶対に、嫌、だから。
 君の声が聞きたいんだ、ユーリ。
 君と一緒にあのステージに立っていたいんだ、これからもずっと。
 ずっと、ユーリが許してくれる限り。
 永遠に。
 彼は瞳を伏せた。ユーリが唾を飲み喉を上下させる。
 太陽が沈む。
「ぼくを呼んで、ユーリ。ぼくはきっと、応えるから」
 闇が来る、光が消える。影が去り、彼の顔が見える。
 微笑んでいた、どこまでも優しくて哀しくて切なくて、愛しくて。寂しくて、暖かくて、柔らかくて、泣きそうな――そんな笑顔で。
 彼は、言った。
 声は風に解け、闇に染まる空へと消えていった。

「明日、出ていくよ」

「だからさようなら、ユーリ」

Vial

 少しばかりの沈黙の後、彼は戸棚から掌にかろうじて収まるサイズの小箱を取りだしてきた。
 今まで散々口げんかをしていた中での、ある種突飛に感じさせてくれる彼の行動に眉目が歪む。そんな彼の表情を眺め見て、彼は小さく苦笑した。
「プレゼント」
 そう言って、取りだしてきたばかりの小箱を差し出す彼に、怪訝な表情はそのままに、箱と、それを差し出している存在とを交互に見つめて首を捻った。そもそも、自分たちは今の今まで喧嘩をしていたのではなかったか。
 彼の部屋で、特別な用事はなかったけれど。
 偶々前を通りがかったその扉が中途半端に開いたままだったから、扉を開けて覗き込んでみたら部屋の主は床の上で、真新しいオーディオ機材を既にある機材に組み込んでいる真っ最中だった。そのくせ、侵入者を振り返って誰だかを認めた瞬間、開口一番。
 埃が上がるから、出てって。
 だったものだから、つい頭の中でぷちん、と何かが切れてしまって。
 埃を嫌う機材を前にして、思いっきりその場で地団駄を踏んでみた。床を思い切り蹴りつけて、目に見えない埃を巻き上げてやる。案の定向こうは怒りだして機材を丁重に床に下ろすと、立ち上がってヤメナサイ、と固い調子で告げてきた。
 喧嘩の発端はそこにあり。
 やがて新しい機能が附属した機材が発売されると、それとほぼ同時に買いに走る彼の悪癖を罵るものへと取って代わり。
 どうせ使いこなせてもいないくせに、と言うに至って。
 唐突に、彼は立ち上がった。
 やるか、と身構えた彼を静かな瞳で見つめ返し、沈黙すること約三十秒。いや、本当はもっと短い時間であったのかも知れないが、ともかくそれ以上は時間があったような錯覚を覚えてしまいそうなくらいに、気まずくて重い空気がその中にあった。
 彼が背を向けて壁の方へ向かっていくのを見たとき、ホッとしてしまったのは確かに事実。口では勝てても実力行使に出られた場合、自分に勝ち目が薄いことを彼は熟知している。体格的にも劣るし、それになにより自分は、心の底から本気で彼に反抗できるとは思っていない。
 もっともそれは、相手側にとっても似たようなものだろう。
 結局お互いに同じ弱みを持っているわけであり、だから喧嘩をしてもいつの間にか前と同じ状態に戻っている事が多かった。一緒にいられない時のことを考えたことなど、実を言えば無かったりする。
 それ以上に、彼と一緒でなかった自分の事が思い出せない時が圧倒的に多くなってきていた。口に出して伝えれば、間違いなく向こうは調子に乗って来るだろうから教えた事はないけれど、多分言わなくても伝わってしまっているだろう。
 それくらいに、自分たちの存在はいつの間にか近くになっていたから。
 滑りの良い棚から取り出された小箱は、随分と厳重に閉じられていた。プレゼント、と言われてしまい、受け取らざるを得ずに左手を差し出してやるとその上に載せられる。中に何が入っているのかは分からないが、見た目以上にずっしりとしていて軽く見ていた左腕が幾らか下方に沈んだ。
 だけれど、恐らくその重みの殆どは箱と、箱の中身ではないのだろう。正方形をした小箱を何重にも包み込み、絡んでいる鈍色の鎖の所為だ。
 天井から降り落とされる照明の明かりを反射して、それは恐らく陽の明かりの下よりもキラキラと、そして重苦しい感じで輝いていた。
 一重どころの騒ぎではなく、それこそ下にある箱の外装が見えなくなるまで巻き付けられている鎖の始めと終わりはしっかりと重ね合わされ、小さな南京錠で固定されていた。試しに指で触れて弾いてみたが、鎖はビクともせず南京錠も微かに揺れ、下の鎖に擦れ合っただけだった。
 いったいこれはなんなのか。疑問を顔に出して、少しだけ自分よりも上にある隻眼に問いかけてみる。すると彼は益々苦笑して、小さく首を振った。
 むぅ、と彼は唸った。では仕方がないと、箱を持った左手はそのままに右手を彼に差し出してみる。開いた掌を上にして、親指以外の四本指を揃えると軽く上に向けて曲げ、そして伸ばす仕草を繰り返した。
 ポーズとしては、“よこせ”というもの。けれども彼が何を求めているのかを理解できているはずなのに、目の前の存在は緩く首を振るだけでそれ以上を彼に与えようとはしなかった。
「鍵」
 剣呑に彼は呟いた、目の前に壁のようにしてそびえ立っている男に向かって。
 けれどまだ首を振られるばかりで、いい加減苛々してくる。先程までの喧嘩の名残があるためか、簡単に胸の中に沸き上がる怒りに火が入った。
「スマイル、鍵は」
 贈り物をしておきながら、それを開けるために必要な肝心のものを渡さないとは何事であろうか。誰にだって分かる理屈をわざわざ口に出して説明してやっていると言うのに、それでもスマイルは静かに首を振り続けていた。
 終いには、ユーリの方が疲れてくる。もうこんな男なんて知るものか、とさえ思ってしまう。
 その頃になってようやく、スマイルがずっと閉じたままだった唇を薄く開いた。
「鍵、ないから」
 それは必要のないものなんだよ、と聞いただけでは理解に苦しむことばを告げ、彼はユーリの手の中に眠っている箱を指さす。つられるままにユーリも、手元の箱を凝視した。そして右手で試しに、南京錠の接続部分を弄ってみたり鎖を軽くだけれども引っ張ってみたりした。
 だが、当然ながら鎖は無反応で、南京錠も施錠を解く気配が微塵にも感じられない。
 ユーリは綺麗な顔を思い切り歪めた。
「開かないぞ」
「うん、だろうね」
 理解に苦しむユーリを前にして、スマイルひとりが納得顔で頷いている。その意味深で意味不明な笑顔はなんだ、とまたしても彼をねめつけてユーリは手の上で、鎖にがんじがらめにされている小箱を転がした。
 音はしない。むしろ中のものが転がっていたとしても、それは頑丈な鎖の所為で外に音が漏れ出て来てはくれないような気がした。
「それはね、鍵が必要ないんだ」
「開かないぞ」
「うん、だから」
 ユーリにあげる、と呟く。脈絡の感じられない彼の言い分に、ユーリはいよいよ本格的に機嫌を損ね始めた。いっそこの箱を床に叩きつけてやろうか、否あの新品の、スマイルに目下一番構われている機材を壊す目的で投げつけてやろうか、と物騒な事まで考え始める。
 そんな彼の思考を先読みしたわけでは無かろうが、スマイルの身体がすっと動いて床に山積みになっている機材とユーリとの間に割って入った。そして無音のまま、ユーリの手に握られたままでいる小箱を彼の手ごと包み込む。
 まるで祈っているようだと、眼前に佇む男の顔を見上げながらユーリは思った。それくらいに真摯なまでに、スマイルは片方しか現れていない瞳を閉じていたから、何も言い返すことも出来ずにただ茫然としたまま、彼は立ちつくす。
 静かに、スマイルの唇が音を刻む。
「鍵は、ぼく自身」
 そして、と彼は一度そこでことばを途切れさせて深く長く息を吸った。
 吐き出す、その時間はほんの瞬きの間だったはずなのに酷く長く、冷酷な時間にように思えてならなかった。
 聞いてはならない気がした。本能がそう告げる、けれど握られたままの手をユーリはどうあっても、振りほどくことが出来なかった。
 掴まれている場所が恐ろしいほどに熱い。全身が炎に包まれているかの如くであり、また絶対零度の境地に晒されている錯覚がすべてを支配する。
 言わせてはならないと、心の中で何かが激しく警鐘を鳴らしていた。だのにユーリは一歩たりとも動けず、手を振りほどくことも出来ず、制止の声を上げることさえ出来なかった。
 ただ目の前に立つ男の微笑みが、寂しげに広げられるのを凝視する以外に道はなく。
「ぁ……」
 ことばなど、形にならなかった。
「ぼくが、もし居なくなったら」
 言わせてはならない、きっとことばとして明確な形を誘ってしまったらそれは本当になる。嘘を本当にしてしまうだけの力が、ことばには溢れているのだから。
 彼にそのことばを言わせては、駄目。
 だのに動けない。唇は震えているのに、喉は詰まって声が湧き起こってくれない。言いたい事は沢山あるはずなのに、身体中が麻痺してしまったかのようにすべての感覚が、遠い。
「ユーリが一番欲しいと思うものが、この中に入ってるから」
 にっこりと。
 優しく微笑んで。
 ああ、なんと愚かな男だろう、こいつは。
 どこまでも愚かで、鈍くて、それでいて鋭くて、狡い。卑怯で、あざとく、ずる賢くて、とてつもなく優しい。
「その時まで、だから」
 この鎖は解けることが無く、鍵の錠は外れる事もない。その必要がないから、箱は開かれる事を拒んで永遠に近い時を眠り続けるだろう。けれど一度封印が外され、必要とされる時が訪れたときは。 
 遠慮も危惧もなにもなく、箱はひとりでに開かれてそこに収められているものを所有者に示すだろう。
 所有者が、最も必要だとして心の奥底から欲しているだろうものを、与えるだろう。
 箱を包み込んでいる鈍色の鎖を縛っている南京錠の鍵は、彼自身の命。 
 だから彼の命が潰えたとき、自然と箱は封印を解かれて開かれる。
「君が、持っていて」
 本当は誰にも渡すつもりはなかったんだけれど、と小さく付け足してスマイルは笑った。底の見えない、甚深な微笑みだった。
 要らない、とは言えなかった。握りしめてしまった箱をユーリはどうしても、手放すことが出来なかった。投げ捨てる事も最初考えていたはずなのに、いつの間にかそれはユーリの手に貼り付いてしまって取れず、そのまま彼の胸元に沈んで消えていった。
 一緒にユーリの顔も暗く沈み、視線は足許へ落ちていく。けれどスマイルはそれ以上のことばを告げず、膝を折って座り直すと中断していた作業に戻ってしまった。
 物言わぬ背中をぼんやりと眺めてから、ユーリは抱きしめている鎖にがんじがらめにされている箱を両手に持ち直した。出来得るのならば、今すぐこの箱ごと中身を握りつぶしてしまいたかったから。
 けれど、出来ない。
 もし予想が違わなければ、この箱の中に籠められているものは……。

 そして。
 気の遠くなるような時間が流れ過ぎて。
 彼の周囲に誰ひとりとして居なくなったときに。
 透明な風が一陣、彼を取り囲むようにして通り過ぎていった。
 それは遠く高く、眩しいばかりの空へと吸い込まれて消えていく。まるで早く来い、と誘っているかのような風に目を細め、彼は掌の上で小さな箱を転がした。
 黒く塗られた箱の外観は、初めて目にした時には気付かなかったくらいに細かい飾り模様で彩られていた。それだけでも充分な芸術品であろう小箱に巻き付けられていた鎖は、もうどこにもない。
 気が付いたとき、棚の引き出し奥深くに仕舞っておいたものを引っ張り出した時にはもう、周辺にさえ鎖の残骸は見つけられなかった。
 あれほどに強固で、どれだけ破壊しようと力を尽くした南京錠も、綺麗さっぱりと消え失せていて彼を拍子抜けさせた。
 残されていたのは、綺麗な綺麗な小箱ただひとつ。
 掌に載せると、まるでその時を待っていたかのように小箱はひとりでに、蓋を広げた。
 現れたのは、水晶のように澄み渡った虹色のガラス瓶。ガラスではないのかもしれないけれど、材質はこの際どうだって良かった。
 箱から取りだした小瓶を光に透かして、中身を確かめる。
 厳重に幾重にも巻き付けられた鎖と、それを縛る南京錠に守られた小箱に包まれていたクリスタルの小瓶。細長く、一見すると香水の瓶かと思わせる外見。揺らしてみると小瓶の半分ほどに満たされた液体が揺れた。
 半透明、けれどそれは小瓶のクリスタルに遮られてそう見えるだけで、本当は無色なのかもしれなかった。兎も角、栓をしている矢張り細長い蓋を抜き取ってみないことには、中身が何であるか明確な判断は難しい。
 けれどユーリには、それが何であるか分かっていた。箱を開く前から、箱を受け取った時から既に、分かり切っていた。
『ぼくが居なくなったら、ユーリが一番欲しいと思うものが、この中に入っているから』
 その台詞に偽りはないだろう。
 無限に近い時の中を独りきりで生き続けるのは、苦痛以外のなにものでもないから。その時の呪縛を享受している彼が持っていた、残される側の存在の為に与えられるべきものだったから。
 ユーリは、静かに空を見上げて小瓶から蓋を捻って外した。ちゃぽん、と瓶の中に詰められた劣化さえも消去された液体が揺らめき音を立てた。
「本当に……使う日が来るとはな」
 きっとお前も思っていなかっただろう? 
 そう空を過ぎる風に向かって問いかけてみる。
 ユーリは、笑った。心の底から、寂しげでそれでいて、満たされたような充足感を溢れさせる笑顔で。
 小瓶を、傾ける。
 喉の上下が、一度だけ。
 それで終わり、だった。
 それが、始まりだった。
 ゆっくりと彼の身体が後方へ傾いでいく。その途中で、透明な腕が彼へと差し出されてその倒れそうになる背中を支えた。
『本当に使うとは、思ってなかったよ』
 軽口を告げて、後ろから抱きしめる腕が。
『だとしたら、お前が私のことを甘く見ていた、と言うことだな』
 泣きそうになるほどに愛しくて、切なくて。
 風が吹く。
 どこまでも空は高く、青く澄み渡りそして、永遠に静かだった。

懐かしい人

「坊ちゃん、どこに行っていたんですか?」
「探しましたよ」
 トラン湖に浮かぶ古城、レイクホーン城の中で今日もまた、解放軍のリーダーを巡る過保護な会話が始まっていた。
「探した……って、僕になにか用?」
「いえ、用とかそういうことではないのですが……」
「勝手にいなくなられると心配になるでしょう」
 解放軍リーダーであり、今は亡き5将軍のひとりテオ・マクドゥールの嫡子であるラスティスに尋ねられ、長年彼のそばで仕えてきたクレオとパーンはほぼ同時にそう答えた。
「城から出る訳じゃないんだし」
 そこまで心配しなくても大丈夫だと、ラスティスは苦笑いを浮かべる。だが付き人で母親代わりだったグレミオを失い、今度は実の父までも──それも自らの手にかけることで失ったばかりのまだ10代の少年のその表情は、どこかしら哀しげに見えて苦しかった。
「……それで、どちらに行っておられたのですか?」
 こほん、とひとつ咳払いをしてクレオが尋ねる。話題がそれたことを、ラスティスは正直ありがたいと感じた。
「ああ、アレンとグレンシールの所にね」
 死んだテオの部下であり、今は彼の遺言で仲間に加わった二人の名を口にする。しかしパーンはぴくり、と眉をつり上げた。
「なにか、されませんでしたか?」
「……大丈夫だよ、パーン」
 あの二人は心底テオのことを信頼し、敬愛していた。だからこそそのテオを殺したラスティスのことを憎んでいるかもしれない。そう憶測したパーンの多少強まった語気に、ラスティスは微笑みながら首を振った。
「嫌味事はね、言われたけど。でも楽しかった。話がしてみたかったんだ、彼らとは」
 今は5将軍のうち生き残っている半数が、この城にいる。そして彼らは解放軍のために戦うことを約束してくれた。一度は恨んだ相手でも、恨むだけでは何も解決しないから、ラスティスは彼らをそのままいけ入れた。
 戦いの始まるきっかけなんて、その時はとても重要なことに思えたかもしれないけれど後でゆっくり冷静に思ってみれば、ひどく稚拙でくだらないことだったりする。争い会う理由など、本当は初めから無かったのかもしれない。でも譲れなかった。この道だけは、誰にも。お互いに。
「父様の話を、聞きたかったんだ。ずっと……考えてたから」
「坊ちゃん……」
 自分に正直に生きて、それを全うできたからテオの死に顔は穏やかだった。それでもラスティスは確かめたかった。自分が解放軍を導いていると知ったときの、父の顔を。
「こんにちは」
「何をしにこられました」
 にこやかな声と、むっつりとした声と。右と左から同時に声が降ってきてラスティスは冷や汗をかいた。
「……少し、話がしたくて……いいかな?」
 困りながら上向いて答えると、またしても奇妙にはもった声が下りてくる。
「我々とですか?」
「貴公と話すことなど、ありません」
 優しげな笑顔の金髪の青年が、グレンシール。
 多少棘のある物言いの青年が、アレン。
「アレン、失礼だぞ。テオ様のご子息であり、解放軍のリーダーに向かってそれはないだろう」
「失礼も何も、俺はまだ認めていないぞ」
「あ、二人とも、…………」
 止めようかとも思ったが、自分がここでしゃしゃり出たら余計にこじれると思い直し、やめておくことにする。ただ彼らの前で盛大にため息を付いてやれば、通りがかったミルイヒが何事かと首を伸ばしてきた。
「おやめなさい、みっともない。テオが見たらなんと言うか」
 大体の事情をラスティスから聞き、呆れた調子でミルイヒが仲裁に入った。
「ミルイヒ様……!」
 テオと同格の存在に気付き、二人揃って敬礼するがミルイヒはそれを首を振ってやめさせた。
「いいですか。テオはあなた方にご子息を任せたのですよ。その重要性をもっとよくかみしめてみなさい。今はラスティス様をお守りすることが、テオを守ることにもなるのですよ」
「それは……そうかもしれませんが」
 アレンがまだ納得がいかないように唇を噛む。グレンシールはそんな同僚の肩を叩き、顔を上げるように言った。
「ご忠告、痛み入ります。ラスティス様、どうぞ中にお入り下さい。ここではゆっくりと話もできませんから」
  先にミルイヒに頭を下げ、グレンシールは言葉なく動向を見守っていたラスティスを誘って城の中に入っていった。
「……どうぞ」
 アレンも彼を促し、マントを翻してグレンシールに続く。残ったラスティスだが、
「大丈夫です。彼らだって本当は分かっているんですよ。ただ、まだ少し心の整理が付いていないだけで」
 ミルイヒに背中を押され、彼はひとつ頷いて中に入った。
 真昼だが城の中は薄暗い。壁にいくつもの燭台が並び、蝋燭の火がゆらゆらと揺れている。兵舎として使われている一角を改造して広くした部屋には、簡単な食事を作るための水場も用意されている。向こうにクワンダ・ロスマンの姿も見えた。
「お茶、どうします?」
 慣れた手つきでティーポットの用意を始めたグレンシールに、「いります」とだけ返事をしラスティスはアレンが腰掛けたテーブルに近づいた。
 空気がぴりぴりしている。しかしここで引き返しては、多分もう、ゆっくりはなせる機会が作れないような気がする。ラスティスは自然と握り拳を作って、アレンの真向かいに座った。
「……」
 無言でアレンはラスティスを見、そして視線を外す。交わされる言葉もなくただ沈黙が流れ、ラスティスはいたたまれない気持ちにさせられた。
「おやおや、まったく。なにをやっているんだ? アレン」
 3人分のカップとポットを載せた盆を持ち、戻ってきたグレンシールは呆れ声で同僚を笑った。
「ラスティス様も、気にしないで下さいね。こいつ、本当はすっごく喋りたくて仕方がないんですよ」
 テーブルに盆を置き、ぐに、とアレンの頬を指で突いて、グレンシールはまた笑う。
「こら!」
 その手をはたいたアレンだが、勢い余って盆に載せたカップが転落しそうになり、慌ててテーブルに身を乗り出してギリギリのところでカップを掴んだ。ちょうど、ラスティスのすぐ手前で。
「あ、…………大丈夫……?」
 4人掛けのテーブルはそれほど大きくない。それにカップが転がったのはラスティスのいる方向で、なにも反対側のアレンが手を伸ばし、届かないからと行ってテーブルに体を載せてまで捕まえる必要はなかったはず。それなのに。
「アレン……」
 ぷぷぷ、と笑いがこみ上げてくるのを必死でこらえるグレンシール。ポットの中の熱湯がこぼれないように、アレンがテーブルに乗りだしたときにさっとポットだけを持ち上げていた彼だったが、まさかここまで彼がするとは予想していなかったらしい。だん、とポットをテーブルに戻し、こらえきれなくなって腹を抱えてその場にうずくまった。
「なんだ、それ。おまえ、何をやって……」
 肩が震えているのが鎧の上からでも分かる。大笑いされなかっただけ、まだ周りの注目を集めないで済む分良かったかもしれないが、ここまでウケられると正直、呆然としてしまったラスティスだってどう反応を返せばいいのか分からない。やはり、笑うのはまずいだろうが……ノーリアクションでもアレンは多分、怒るだろう。
「笑うな!!」
 顔を真っ赤にしたアレンが、テーブルからいそいそと下りてうずくまるグレンシールに怒鳴りつける。だが火に油を注いだ結果しか生まず、目尻に涙まで浮かべたグレンシールはそれから約5分してようやく立ち上がったのだった。
「お茶、冷めてしまいましたね」
「誰のせいだ」
 ポットに触れて温度を確かめたグレンシールの呟きにアレンが速攻で嫌味を返すが、
「お前だろう」
「…………」
 間髪置かず言い返され、彼はそっぽを向いた。
「悪い悪い。俺が悪かった、機嫌を直せ。ラスティス様の前だぞ」
 からから笑いながらという、とても本心から言っているとは思えない口振りだったが、グレンシールの言葉にアレンは仕方なく、といった顔で前を向いた。
「それで、お話とは?」
 ポットからカップに、いくらか冷めたお茶を注ぎながらグレンシールがラスティスに尋ねる。
「……父様のことが聞きたくって」
 渡されたカップを両手で包み込むように持ち、彼は真向かいに座る二人を見ながら言った。
「テオ様のことですか?」
「知らないのか?」
 意外、という響きを込めたアレンの言葉にラスティスは首を振って違う、と否定した。
「家での父様のことは良く知っている。戦場で何があったとかも、よく話してくれた。僕が知りたいのは……」
「ラスティス様が反乱軍……いえ、解放軍のリーダーとなられた時の、テオ様ですね」
 お茶を一口含み、グレンシールが穏やかな声でラスティスの言葉をつないだ。こくん、とラスティスが頷くのを待って、彼はアレンを見る。
「なんだ」
「君が話せ」
「どうして」
「その方が早いからさ」
 どういう意味だ、とアレンはグレンシールを睨んだが彼はカップの紅茶を優雅に口に運んでいる最中でアレンの視線を完璧に無視していた。
「あとで覚えていろ」
 苦々しげに吐き捨て、アレンは黙って待っているラスティスを見る。
「報告が入ったとき、テオ様は『そうか』とだけ、呟かれた。それだけだ」
 横で聞いていたグレンシールが微笑む。
「本当に?」
「ああ、本当にそれだけだ」
 しつこいぞ、と険のある表情で言い返されたラスティスは、そのまま視線を泳がせて微笑むグレンシールを見た。しかし彼も、
「私もその場にいましたが、アレンの言うとおりですよ。その後すぐ、我々は退室しましたから」
 後のことは知らないのだと暗ににおわせ、グレンシールは言葉を切った。
「……そう」
 ラスティスが俯くのを眺めながら、グレンシールはポットから新しいお茶をカップに注ぐ。3つあるカップのうち、中身が減っているのは彼のものだけだった。
 アレンが言ったとおり、テオはそれ以外の言葉を口にしなかった。しかしその表情はどこが苦々しく、そしてすがすがしくもグレンシールの目には映っていた。それは独り立ちしていく息子をそばで見守ってやれない事への苦悩と、いつか互いの進む道がぶつかり合うことが避けられないものであることを予想しての苦しみ。そして、自分を越えていく道を見つけた息子への深い愛情を感じさせる表情だった。
「後悔、なさっていますか?」
 もう湯気も立たなくなったカップを見つめ続けるラスティスに、グレンシールは問いかける。
「……分からないよ、今はまだ」
「してもらっては困る」
 むすっと、アレンが言った。
「テオ様のことを後悔するようでは、お前は解放軍を導く事なんて出来るはずがない。テオ様の死を後悔するようなことがあれば、テオ様の死を無駄にするようなことになったら……俺はお前を許さないからな!」
 ばんっ!とテーブルに拳を叩きつけ、アレンはまたしても身を乗り出してラスティスに怒鳴った。
「はい!」
 反射的に頷いてしまったラスティスに、グレンシールのこれで何度目か分からない笑い声が聞こえた。
「……笑うな!」
 耳まで真っ赤になってアレンが叫ぶが、グレンシールは聞いちゃあいない。
「いいな、その性格。俺には絶対……マネできない……」
 熱血漢なのは良いが、勢いに流されたのは分かるが……リーダーを「お前」呼ばわりし説教くらわせられるその性格、グレンシールはとうてい真似できないと痛感した。
 熱くなると周りが見えなくなるのが、アレンの良いところであり、欠点でもあった。グレンシールは冷静沈着である分、余計なことにまで気が回ってしまう性格だった。だから、彼はアレンにテオの言葉を伝えさせたのだ。
 あの一言にテオがどれだけたくさんの想いを込めたのか。それは、現実に知るものはもういない。テオにしか分からないことだったから。しかしおそらく、ラスティスには伝わったのではないかと彼は思う。アレンの飾らない言葉が、言葉の向こうに隠された様々な想いを見せてくれたはずだ。そう信じたい。
「……最後にひとつ、聞いても良いかな」
 また喧嘩を始めそうな二人に、冷め切った紅茶を飲み干して気持ちを落ち着けたラスティスが尋ねかける。
「なんでしょう」
「なんだ」
 また声がハモっている事につい表情が緩んだ彼は、静かに、
「二人はどうして、父様の部下になったの?」
 それで幸せだったのか、と彼は問いかけた。
 ほんの一瞬の沈黙。そして、ふん、と鼻を鳴らすアレン。
「なんだ、そんなことか」
 つまらない質問だな、と彼はラスティスを笑う。グレンシールがそれを咎め、
「その質問は、例えばあなたに『どうしてテオ様の子供に生まれてきたのか?』と尋ねるのと同じ事ですよ」
 優しい微笑みと共に、グレンシールはそう答えた。
「それって……」
「ええ、そういうことです」
 ラスティスがテオの息子として生まれてきたのが運命なら、アレンとグレンシールがテオの部下として働くこともまた、天命だった。ラスティスがテオの子で幸せであったのなら、アレンもグレンシールも、当然テオの部下であることは誇りだった。
「テオ様は今でも我々の誇りです。そして、あなたも」
 お茶を勧めながら、グレンシールが微笑みかける。その向こうでアレンも、頭の後ろで手を組むというやる気のないポーズではあったが、
「まあな」
「照れ屋なんですよ」
「グレンシール!」
 ぶっきらぼうな言い方をしていますが本心からではないですから、とラスティスに耳打ちする同僚の声はばっちりアレンに聞こえていた。
「本当のことだろう」
「言っていいことと悪いことがある!」
「いつかはばれることなんだ。早いほうがいいに決まっているだろう」
「そういう問題ではなくてだなあ……」
 どうしてこうも口論の多い二人が仲良く一緒にいられるのだろう。ついに噴き出したラスティスに、立ち上がってグレンシールに詰め寄っていたアレンはばつが悪そうに頭を掻いた。
 ラスティスが笑ったのは、本当に久しぶりだったから。
「照れてるな」
「いちいちうるさいんだ、お前は!」
 茶化すグレンシールにまた怒鳴るアレン。ラスティスの笑顔は当分、途切れそうになかった。

Calling2

 ベッドの上に、横になって天井をぼんやりと見上げる。
 不意に思いついて、右腕を持ち上げて手の平を広げてみた。真っ直ぐに伸ばして天井へと突きつけ、包帯に五指すべてがくるまれた自分自身の指をぼんやりと見つめる。
 近い場所にある指へと焦点を合わせれば、見上げていた天井がぼやけて映った。逆に天井へ焦点を合わせれば、指が歪んで見える。
 一分もしない間に、腕はパタン、と閉じられてベッドのスプリングに沈んでしまった。腕を持ち上げ続けることに疲れたこともあるが、同じくらいに、そんな事をしていても意味が無いことを思い出したからだった。
 気怠い。
 鈍痛は相変わらず目覚めている間、終わりがないくらいに頭の片隅に存在を誇示し続けている。吐き出す息は色も鈍く重いものばかりで、身体のどこかを動かすたびに関節が痛んで頭もズキズキと小さな痛みを響かせた。
 なにもやる気が起きない、とはこの事を言うのだろう。
 かろうじて眠りから目覚めた後、ベッドから起きあがり着替えだけは完了させたものの。
 それが完了したのち彼は再びベッドへと舞い戻り、踵を踏んで履いていた靴を放り出して素足のまま柔らかなスプリングと、その上に敷かれている蒲団の上に倒れ込んでいた。それから現在まで、時刻に換算すると約一時間と少し。
 彼はずっと、こうやってベッドの上で怠惰に寝転がったままだった。
 偶に寝返りを打ってうつ伏せから仰向けになったり、横向きになったり。目を閉じて、開いて、何もない空間を凝視してみたり目を細め、わざと焦点が合わないように視界をぼやけさせたりして、時間を潰していた。
 起きあがろうと、上半身を起こしたのはこの間で二度。けれど一分もしない間にまた後ろ向きにベッドへ倒れ込んで、ふかふかで居心地の良い蒲団にくるまっていた。
 なおかつ、その間彼はひとこともことばを発していなかった。
 どうせ、自分には聞こえない声だから、と。
 この数日で、幾つかのことが判明していた。
 まず、どうも耳が聞こえなくなった原因はこの頭痛にあるらしい、という事。
 痛みが酷いときは起きあがることも出来ず、全身が言うことを聞かない、という事。
 自分の発する声さえも、脳内で処理されている感覚としての機能で聞こえているだけであり、実際には彼の耳が一切の音も拾っていないこと。
 発音が若干、変になった事。
 彼の口数が、目に見えて減ったこと。同時に彼の顔から表情が消え始めている、という事と。
 食事の回数と量さえもめっきり減ってしまった事、等々。
「…………」
 吐息をつき、彼は下ろした腕を自分の頭上に翳した。力を抜き、目の前に落として包帯に隠れている瞳とそうでない瞳の両方を光の下から隠してしまった。
 身体は疲れ切っている、特別なにか運動をしたり働いたりもしていないのに。むしろその正反対で、彼はこの数日殆ど部屋の中に籠もりきり、なにかをしていた記憶も乏しい。
 だのに、節々は痛みやる気も起きない。ベッドから降りて立ち上がり、階下へ出向くことさえひどく億劫だった。こんな事をしていたところでなにかが変わるわけでも、改善されるわけでも無いことは彼だって分かっているのに、何をすればいいのかも分からないから、なにかをする気にもなれなかった。
 寝返りを打ち、手が届く位置にあった枕を引き寄せてそれを胸に抱く。顔をそこに埋めさせて、吐き出した息をその中へ流し込んだ。
 空気は冷えている、その上で重い。
 はみ出した視界の端で見えた窓の外は明るく、時刻が既に午後に達しているのだと彼は直感で察した。
 だけれど、それがどうした、という気持ちだけしか胸の中に沸いてこない。
 三度目の吐息を落として、枕を放り投げた。
 それは軽いクッションで床に落ち、重さに形を崩して床に沈み込んだ。反論を返そうともせず、自分が受けた無体な扱いに文句も言わず受け入れて、黙り込んでしまっている。
 それが彼には不満で、まるで自分もそうすべきだと言われているように勝手に感じ取って、勢い良く身体を沈み込ませていたベッドから上半身を起こした。
 埃が軽く舞い上がり、窓から薄いカーテン越しに入り込んでくる光を受けて筋が出来あがる。彼はその中を数歩で進み、フローリングの床に落ちた枕を拾い上げようとした。だけれど直前で考え直し、左足を持ち上げて後方に流した。
 思い切り、勢い任せに枕を蹴り上げる。
 音はしなかった。ただ爪先の甲に感じた柔らかさと重みが、無言の非難を彼にくれているようで嫌な気分しかしなかった。
 蹴られた枕は己の重みですぐにまた床に落ちた。彼の立っている場所から僅か、一メートルと離れていない距離へと。
 だけれどやはり、どう耳を澄ましたところで一切の音は彼に届くことがない。
 子供じみた八つ当たりを受けた枕は、沈黙したまま彼の次の行動を待っている。外は明るいかも知れないが、照明を灯していない室内はいくら自然光を取り入れているとはいえ、影も薄いほどに暗い。
 短く舌打ちする。腰を屈めて枕の端を掴み取ると、それを振り返りもせず彼はベッドへと放り投げた。
 三度目の衝撃を受けつつも、柔らかいそれは抵抗せずに彼の思うままに宙を舞った。着地点がスプリングの上と、そちらも柔らかかった事からそれは二度ほど小さく跳ねる。脱ぎ捨てられていた夜着かわりのシャツの合間に埋もれて、それはようやく、居心地悪そうにだけれども居場所を定めたようだった。
 部屋の中央に近い場所に佇み、彼は静かに息を吐き出して重い左腕の肘を曲げた。細く長い中指を伸ばし、顔の中心に位置する鼻筋を撫でて左に方向をずらす。
 カサカサと、布地同士が擦れ合う感触が指の腹に伝わってくる。
 下唇を、浅く噛んだ。
「――っ!」
 そして一気に、指先にひっかけた包帯を引き千切った。
 何本か、関係のない自分の髪も巻き添えになったらしい。頭皮にまで痛みが響いたがそれ以上に、顔半分を覆っていた包帯に切れ目が走り、あるいは強引に千切られてばらばらに床に落ちていった。余裕があったわけではない空間に指を差し込んで引っ張ったのだから、当然自分の肌にも傷は行く。
 巻き付けていた頭部全体が、痛いと言っても過言ではなかった。
 けれど彼は噛んでいた唇を更に強く、奧まで引き込んだ以外に表情の変化を作らなかった。瞳は曇り、鮮やかな色をしていたものも今は鈍色に沈んでいる。
 千々になり、中途半端に外れあるいは肌に張りついたまま残っていた包帯の影から見え隠れする金沙色までもが、暗い彩をしていた。
 包帯の覆いを失った左目の上に再び手を置き、目の外周を爪の先でなぞっていく。頭に響いている痛みは、その奧から発生しているようだと最近、彼は気付いた。
 この義眼の奧に、すべての根元があるのだとしたら。
 いっそ、引きちぎってしまおうか。
 どうせあったところで、この義眼がものを映し出す事はないのだ。その能力は失われた、ただ空白を埋めるためだけに今もこうして、身体の一部として埋め込んでいるだけであり理由など、特別あるわけではないのだ。
 最初からものを見るために、埋めたわけではない。
 けれど自分には、必要だった。
 閉じた瞼の上に握った拳を置いて、彼は奥歯が軋むくらいに強く歯を噛みしめる。肩に降り落ちた包帯の切れ端を払いもせず、青い肌と紺碧の髪、紺色のシャツの上に白を散らばらせる。
 もし、本当にこの義眼が今回の原因であった時。いや、まず間違いなくそうだと仮定できるけれど。
 この金沙を失って、果たして自分は今のままで居られるのだろうか。
 その自信が彼にはなかった。
 失って手に入れたもの。手に入れて、失ったもの。そのバランスが崩れる事が、なによりも恐怖。
 今のままではいられない、けれど過去に戻るために今を失う事も避けたい。けれどそれが叶う確率は半々かそれ以下だと簡単に、自分で予測がついた。
 右の瞳が、薄暗い室内の壁際に置かれている年代物のLPプレイヤーを映し出した。本来はリビングに置いてあるものだったが、個人的に鑑賞したい楽曲のLPをいくつか入手したのでそれ用に、と自分で持ち込んだ事を思い出す。
 その時は、よもやこんな未来が待っているとは考えもしなかったから。
 暢気に、プレイヤーに立てかける格好で並べられているジャケットに視線を移す。海外のアーティストがマイクと楽器を手にポーズを決めている、恐らくはライブのワンシーンを使ったものなのだろう。
 照明を浴び、汗を弾かせて唄っている彼らと自分たちの姿が重なった。
 だけれど今彼の脳裏に浮かんだ光景の中に、ベースを構えている自分の姿が見当たらなかった。
 当然だ、こんな状態で舞台に立てるはずがない。
 立てるはずなど、ないのだ。自分はその資格を失ったに等しい、耳の聞こえないアーティストが、どうやってリズムを取り周囲の音と合わせて演奏出来る?
 自分が掻き鳴らしている楽器の音の音程が狂っているか否かを、自分で確かめる術さえ持ち得ていないのに。
 失ってしまったのに。
 気が付けば彼は、買ったばかりのまだ封を開けても居なかったレコードを手に取っていた。
 ジャケットに見入る、非常に動きのある写真が使われているそれをぼんやりと眺めながら、心の底で湧き起こる感情をどうにか制御しようとして彼は目を閉じた。
 見るな、見ちゃいけない。
 望んではならない、求めてもならない。
 ようやく手に入れた場所を、自分から手放さなければならないのかもしれないと考えたとき、訪れるのは破壊の衝動。
 レコードを握りしめている両手に力を込めて下方に向ければ、それは軋んで撓み、そして中央で真っ二つになる。パッケージの上からでも分かる、指先から伝わってくる衝撃に彼は目を細め、そして哀しげに伏せた。
 ジャケットの表面に縦皺が刻まれる。それを指でなぞり、包装しているフィルムを剥がして中身を取りだしたがやはり、綺麗に中央で割れてしまっていた。自分でしでかしたくせに、哀しい気持ちになるのは筋違いだと分かっていながらも、押さえきれなかった感情に悔しさが隠せない。
 こんな事をしても意味はないだろうに。
 さっきの、枕を相手にした八つ当たりの続きをしでかしただけであり、それが尚更自分のゆとりの無さを照明しているようで腹が立った。
 どうすればいい、どうしたらいい。
 治るのか、治らないのか。ずっとこのままなのか、そうじゃないのか。それだけでも分かればまだ、救いはあるのかもしれないがそれを得る術を、彼は持たないから。
 医者に診せたところで、原因不明としか言ってくれないのであれば行く意味など無い。ただ虚しくなるだけだ。
 使い物にならなくなったレコードを、プレイヤーのケースの上に置く。半透明の蓋は上部が平らで、中身が薄く透けて見えた。かなり使い古されているが今でも充分に働いてくれるそれに彼は愛着を持っていたけれど、このままではプレイヤーも、埃を被って打ち捨てられてしまいかねない。
 今時レコードを聴く存在は、目下この城に在籍中の面々でも彼だけだったから。あとのメンバーは皆、CDやMD等の機材を使っている。
 古めかしい磁気テープも、もう使うことはなくなってしまった。
 要らないもの、使わないもの、使えないものから順番に捨てられて忘れられていく。いつか自分もそうなるのかと考えると、やるせない気持ちだけが胸を支配する。今でさえ充分、使い物にならない役立たずに成り果てている自分を、今後も仲間達が仲間として受け入れ続けてくれるかどうか、拒否されることが恐かった。
 もうどこにも行く場所がないのに。
 やっと見つけた、自分の居場所がなくなる。
 彼は乱暴に、握った拳を壁に叩きつけた。恐らく、音は凄かっただろう。壁から返された痛みも相当なもので、彼は奥歯を噛みしめてそれを堪えた。
 存外に間近にあった存在にも、気づけずに。
「    !」
 一瞬だけ生まれた空白が、彼の驚きと自己嫌悪を物語っているようだった。
 恐らく彼に触れて、それで自分の存在を物音を拾うことが出来ぬ彼に知らせようとしていたであろう腕が、中途半端に空中を泳ぎそして、引き戻されていく。その一部始終を視界におさめて、彼は気まずそうに己の髪を乱暴に掻き乱した。
「    」
 刻まれたことばが彼に届くことはないと知っているはずなのに、それでもなお、なにかを告げながら引き戻した腕を抱いて来訪者は彼を見上げる。自嘲気味な笑みを唇に浮かべている彼に何か言いたげな目を向けて、それからゆっくりと視線を逸らしていった。
 絡まない視線が、そのまますれ違うお互いの心情を現しているようで寂しい。
 彼は、目線を戻してなにかを、呟こうと最初の一音を発するために口を開いた。
 だけれど、ゼロコンマの秒間があって、結局彼の唇はなんの音も発さずに再び固く、貝のように閉じられてしまった。合わされた唇が赤黒く染まっているのは、ここ数日ずっと、彼が同じような仕草を繰り返すたびにきつく前歯でかみ締めてしまうためだ。
 相手の名前さえも呼ぼうとせず、彼は片方だけしか視界を確保できない瞳を床に落とす。
 目に入るのは、濃い茶色をしたフローリングの節目ばかり。
 現れた彼は、まだなにか言いたげだったが途中でことばを切り、視線を空中に彷徨わせてから今さっき、彼が自分で割ってしまったレコードに気付いたようだった。
 手を伸ばし、プレイヤーに添えられた真新しいのにもう使えないレコードを取って、胸の前に持っていき眺める。
 ユーリ、と彼は呟こうとして顔を上げた。しかし最後までことばは音となって大気を震わせる事がなかった。
 ん? という顔をしてレコードを手に、彼は目線だけを持ち上げて薄暗い中にその存在を確かめようとする。ジャケットの中央に走った一本線を指先で辿らせ、薄いビニルの向こう側で折れ曲がってしまった厚紙の感触を肌に覚え込ませながら。
「    」
 名前を呼ばれた気がした。視線が僅かな時間だけ重なり合ったけれども、すぐに彼の方が先に外してしまって、結局それ以上にことばも絡み合うことがない。暗い沈黙が続き、息苦しすぎて逃げ出してしまいたかった。
 いったいユーリは、何をするために部屋を訪れてきたのだろう。おそらくノックをしたはずの彼だが、そのノック音さえも聞き取ることの出来ない自分が返事を出来るはずもない。勝手に入ってしまった事を詫びただろうユーリの台詞さえ聞き取れず、その間も自分はレコードに向き合って胸の中にあるもやもやとした感情の捌け口を探していただけだ。
 スマイル、とまたユーリの唇がその名前を形作る。
 LPをもとの場所の戻したユーリは、些か控えめに笑みを作って後ろ手に手を結んでいた。その彼が顎で、扉口付近を指し示す。促された方角に目を向けると、きちんと閉められた扉の手前に二段式のワゴンが止められていた。
 天板の上にはまだ湯気を立てているスープを筆頭に、バゲットやサラダボール等々が並んでいた。しかもどう考えてもスマイルひとりが食するには、少々量が多い。
 首を捻る。
 誤魔化すように、ユーリが苦笑を浮かべて後ろ手に結んでいた手を解きスマイルの前で交差するように振った。それから自分の左手首に巻かれている左右非対称の腕時計を指さし、続いて天井に近い位置の壁にぶら下がっている古ぼけた時計を指し示す。
 現在時刻を確認しろと言いたいらしい、スマイルは促されるままに壁時計を見上げたが、暗がりの所為で分針の上を通過した秒針くらいしか見つけられなかった。時針が見えない。仕方なく彼は頭を振ってユーリの左手首を掴んだ。
 断りもなく触れられた事に一瞬だけ、彼は表情と身体を硬くする。けれど優しく触れた反対側のスマイルの手がユーリの、白い肌に巻かれた腕時計に触れた事で緊張は解かれた。
 半円と鈍角の三角形を組み合わせたようなフォルムをした、一見すると不思議な形をしている腕時計が刻んでいる現在時刻を見て、スマイルはユーリの顔を見返す。
 分かったか? と彼は入り口に置き去られているワゴンに目配せした。言葉無く、スマイルはひとつだけ頷く。
 そして直後、二度、首を横に振った。
「  ?」
 ユーリが目を見開いた、問いかける視線が真下からスマイルを覗き込む。けれどスマイルは黙ったまま首を振るばかりでユーリに応えようとしない。掴んでいた手も放し、首を振ったときに視界に入った己が脱ぎ捨てた靴を拾うために歩き出した。
 数歩と行かないうちに片方分の靴へ辿り着き、彼は腰を屈めてそれを取る。後方でまた、ユーリがなにか叫んだようだった。直後、背を向けていたユーリにシャツの後ろ襟首を掴まれる。
 そのまま、力任せに後ろへ退き倒された。
「――――っ!」
 咄嗟になにかを掴もうと伸ばした腕は、無情にも宙を泳いだだけで視界の中から消滅した。訪れた衝撃はまず臀部に、そして背中に来た。頭から落ちることだけはかろうじて忌避したらしい自分の反射神経に、なにより自分が一番驚き彼は目を見張り二段階でやって来た苦痛に苦悶の声を零す。
 呻き声を声と言って良いのかはさておき、スマイルが倒れる寸前で手を放しバックステップの要領で後ろに退いたユーリのある種満足した顔が、薄暗い天井が支配するスマイルの視界の中で浮き上がって映し出された。両手を腰に据え、角度六十で黒光りするローファーの爪先を広げて立つ彼を半ば茫然として見上げながら、スマイルは最後の砦として床に落としていなかった頭をも首の力を抜いて、こんっ、と平らなフローリングに預けた。
 打ちつけた場所の、特に肉が薄く骨が突起している脊髄部分が痛くてきっと、通常であってもまともに声は出せなかっただろう。今なら尚更、呻き声が微かに漏れ出る程度だ。 
骨を通した痛みはダイレクトに内臓に伝わって、涙が出てきそうなくらいに、本当は痛い。
 長い時間をかけてスマイルはゆっくりと、肺に溜まっていた息を吐き出した。ユーリはその間もじっと彼を見下ろしている。起きあがろうと両腕を床に這わせ、突っ張らせるスマイルの一挙一動を見逃すまいと凝視しているだけで、ならば手を差し出すことくらいしてくれても良いだろうに、という想いはスマイルの中で却下された。
 そもそも、自分を床に退き倒したのは彼である。その彼に手を貸して貰うのは釈然としない。それに一番気になっている、何故自分がこんな目に遭わされなければならないか、という理由もまだ不明のままだ。
 思いつきで、突発的に突拍子もないことをするのは彼もスマイルも大差ないけれど、実力行使的な暴力に似た力の行使に訴え出る事はどちらとしてでも希な事。抱きついたり、飛びかかったりするのはスマイルが多く、唐突にとんでもない事を言い出すのがユーリだから。
 力任せの暴挙にユーリが出なければならないようなことを、果たして自分はしただろうか?
 腕の力を最大限に利用して身を起こし、同時に膝を折り曲げて三角にして床に座り直したスマイルが首を振る。ぶつけた背中の出っ張りに指を辿らせたが、まだズキズキと残る痛みに気が引けて途中で止めた。再度吐き出された息は、随分と長い。
「       」
 ユーリがワゴンを引き、まだ座り込んでいるスマイルの傍へ持っていく。床板から微かに伝わる振動に顔を上げた彼は、しかしなおも首を振り、拒絶を示す。ユーリの表情が俄に険しくなって、ナイフの入っていない長いままのバゲットを掴んだ。
 バゲット、別名フランスパン。
 ぱこん、と軽い衝撃が側頭部に走って、スマイルは二秒後に自分がユーリにバゲットで殴られた事に気づいた。
 食べ物をなんだと思っているのか、不満顔でユーリをねめつけた彼だったが、刹那、苦情を述べようとした唇は開いたまま放置される事となる。
 正確には、開かれたまま塞がれたのだ。
 最初は驚愕に染まっていた彼の瞳が、徐々に緩んでいき静かに閉ざされる。
 触れあった熱が流れ込んできて、染み渡っていく。それだけで満たされた気分に陥るのは、今までの自分がどれだけ沈んでいたかを思い出したからだろう。床に添えたままだった左手を持ち上げて、同じように床に身を沈めているユーリの右手に重ねると、微かに彼は震えたようだった。
「……」
 呼吸するために時々離れていく唇を惜しげに追いかけ、舌を伸ばす。赤く染まっているユーリの柔らかな肉に舌を這わせて、浅く下唇に噛みついた。
 ユーリが笑う。お返しとばかりにスマイルにも噛みついて、その箇所を舐め取った。ずっと、スマイルが噛み続けていた為に出血の痕が見られる場所、へ。
 がちっ、と前歯がぶつかり合った最初のキスが静かに、離れた。床の上で重ね合わせていただけの掌は、いつの間にか下にあったユーリの掌が裏返されて指を絡め合わせ、結ばれていた。
 熱の籠もった息をひとつ吐き出し、幾分潤んだ紅玉の双眸でユーリはスマイルを見上げる。
 露わにされている金沙に、すぅっと目を細めた。
 左手を持ち上げて恐る恐る、そこに触れる。伸ばした人差し指の腹で左目の輪郭をなぞるその指を、視力を有している右側の目でどうにか眺めながらしばらくして、スマイルは両方とも目を閉じた。
 途端、ユーリの手が遠ざかっていく。
 間近で空気が震えた。
「    」
 目を開く。すぐそこにユーリの顔があった。
 開かれ、閉じられる唇から漏れ出ている息を被ってスマイルの前髪が本当にささやかに震えていた。
 ゆっくり、ゆっくりとユーリは言葉を紡いでいる。その意図するものがなんであるか、瞬時に察し取ることが出来なくてスマイルは横に、首を傾げてみせた。
 それでもなおしつこく、ユーリは口を開閉させる。けれどそのうち疲れてしまったのだろう、自分の顎ごと口元を手で抑え、考え込むように視線を落とした。
「?」
 疑問符を浮かべているスマイルの前で、しばしの沈黙。
 本格的に置き忘れられている食事の載ったワゴンを気紛れに、スマイルは見やった。まだ暖かみを残していたスープもいよいよ湯気を失い、折角アッシュが作ってくれたのであろう料理は恐らく食されることなく、残飯処理に回されてしまうのだろう。
 なにより、今のスマイルには食欲というものがない。
 食べること、という生きるための根元的な欲望が失われてしまっている。代わりに覚えるのは眠気ばかりで、それがなにに直結しているのかくらい、スマイル自身だって本当は分かっているのだ。ユーリがさっき、乱暴に自分を退き倒して怒りを露わにした事の理由だって、きっとそこに原因があるはずだ。
 明確に食事を拒絶した事。時間感覚が正しければスマイルは既に丸二日、水くらいしか口にしていない事になる。後日、三日と半日だったとユーリとアッシュが、揃ってスマイルの認識を訂正させなければならなかったが。
「              」
 ユーリが俯いたまま長いことばを吐き出す。まるで泣いているようで、切なくなったスマイルは背を伸ばし小さくなっているユーリの、薄暗い中でも銀に輝く髪にそっとくちづけを落とした。
 彼の手が控えめに持ち上げられ、スマイルの服の端を掴む。引っ張りはせず、ただ掴むだけのその行為に微かに微笑んでスマイルはそのまま、ユーリの額にもキスをした。目尻に、頬に、鼻の頭、それから、
「   」
 くちづける手前で、ユーリがなにか囁いた。
 彼の吐き出した息が唇に当たって跳ね返る。
「  」
 服の裾を掴んでいるユーリの手を、両手で解いて行く。再び重なり合った体温に、ことばなど必要などなく、五指を絡め合わせて。
 強く、握りしめる。
「   、   」
 顔を上げたユーリの、真っ直ぐな瞳がスマイルを映し出している。鏡のように澄んだ色をしているそれを真正面から見返して、彼は一瞬口を噤んだ。
 逡巡が彼の中を駆けめぐる。
「…………」
 本当は、恐ろしいのかも知れなかった。この口から紡がれる声が自分のものでなくなってしまうのが。それ以上に、ことばさえも失ってしまっているかもしれない、という事が。
 自身の吐き出す声が、本当に、相手に届いているのかを確かめる術を持たない事が。
 とてつもない恐怖となって彼を襲っている。
「   」
 ユーリが笑う、はにかんだような優しい笑顔で。
 なにかが崩れていくような気がした。懸命に自分を保つために築き上げていた、堅固のようで痛いくらいに脆い最後の砦が崩れていく。
 ユーリに、崩される。
「ユーリ……っ」
 胸の奥から迫り上がってくるものを抑え込みながら、スマイルは吸い込んだ息を格好悪いと自分でも笑うしかない声で吐き出した。
 ユーリが、笑う。
『やっと、呼んだな』
 彼の唇が、そう音を刻んだ。
 聞こえてはこなかった、けれど何故か分かった。
「ユーリ」
 もう一度、ちゃんと呼吸を整えてからスマイルは彼の名前を呼んだ。途端、彼の表情がすっと柔らかくなる。
「      」
『聞こえている』
 彼の唇がその音を刻んでいた。
 分かる、聞こえていなくてもスマイルには分かった。ユーリがなんと言っているのか、なにを言いたいのか。自分の声がちゃんと相手に届いていることも、伝わっている事も。
「ユーリ」
 何度も、何度もスマイルは彼を呼んだ。
 その度にユーリは頷いて、微笑み返して、彼の手を握りしめてくれた。
 強く、握り返す。
 再び触れたキスはいつになく甘くて、そしてしょっぱい味がした。

Sweet Valentine Kiss

 ボゥルを片手に、もう片手にゴムべらを構え、悪戦苦闘している様子は一見すると微笑ましい限りなのだろうが。
 なにせその両方を持ってガチャガチャと不協和音を奏でている本人は、鬼のような形相をしているものだから笑うに笑えず。もし笑おうものなら、すぐさま睨まれると石下しそうな目を向けられるだろうから、彼は苦笑を噛み殺して自分も作業を進め、手を動かす。
 けれど彼の手の中にも同じようなボゥルがあるというのに、静かにカチャカチャと可愛らしい音を響かせているだけで、横に立って頑張っている人との差は歴然だった。
 それが悔しいらしく、隣の彼は邪魔になる髪を三角巾で抑え込むという普段ならば絶対に見ることの叶わないだろう格好にも構わず、歯を食いしばりながらボゥルの中の茶色い液体を掻き混ぜている。けれど力を込めればその分ボゥルを支える手にも力が必要で、しかも中身は柔らかくなった半液体だから下手な力配分を行えば簡単に、飛び跳ねていってしまうから。
「あっ!」
 つるん、と彼の手を滑った金属製の銀色のボゥルが床の上を跳ねた。慌てて手を伸ばし彼は掴もうとしたが、彼の目の前でそれは転倒し、生クリームと半分混じり合ったチョコレートは床の上に巻き散らかされてしまった。
「ああぁ……」
 アッシュが膝を折り、屈んでテーブルの下に潜り込んでしまったボゥルを引っ張り出す。フローリングでもとから茶色かった床のが、更に濃さを増してなおかつ甘い香りを放っている。
 甘いもの大好きのアッシュでさえ、眩暈がしそうなくらいに強烈な芳香だ。
「すまん」
 頭を垂れて三角巾を外しながら、ユーリは小さな声で申し訳なさそうに詫びのことばを口に出す。こびり付いていたチョコ以外は全滅のボゥルを手の平で返しながら、アッシュは仕方がないっス、と曖昧な笑みを浮かべながら返した。
 実を言うと、ユーリの失敗はこれで三度目だった。
 料理に関してはてんで不器用なユーリだから、失敗する事を見越して材料は多めに用意して置いたが、果たして足りるだろうかとアッシュは心の中で不安を覚える。素早く残りの材料と時間とを計りに載せて計算し、まだ大丈夫と自分に安心させてから、落下してしまったボゥルを流し台に置いた。
 水をかけ、汚れを落とす事から再開させるためだ。
「すまない、本当に」
 顔に出さないように心がけていたアッシュだが、全部を隠し通すことは出来なかったらしくユーリが彼の背中に声をかけ、自分から雑巾で床の上を拭き始めた。甘い香りに、酔いそうになる。最初は白かった雑巾も今はすっかりチョコレート色に染まり、香りまでカカオが染みついてしまっている。
 彼が身につけているエプロンも、おろしたてのはずだったのにマーブルチョコの色を表面に描き出していた。洗濯をして漂白しても、もとの色を取り戻すことは難しいかも知れない。
 だんだん自分が惨めに思えてきて、ユーリは雑巾を畳みながら壁時計を見上げた。
 昼食が終わってから直ぐに始めたから、もう三時間以上経過している。だと言うのに、未だ完成品には程遠く最初の段階で躓いたままだ。これでは間に合うどころの問題ではない。
「大丈夫っス、ユーリ」
 その為に俺が居るんスから。
 気落ちしていることが丸分かりの背中を向けているユーリに気付いて、アッシュは水に濡れた手をタオルでくるみながら右腕に力瘤を作った。基本的にお人好しで面倒見の良い彼が、今更引き受けた仕事を放り出すはずがなく、なんとしてでも目的は達成させてみせるという意気込みを、自分でも作り出そうと彼は鼻息を荒くする。
 ひとりの料理人としての意地も手伝っているのだろう。なんとしてでも、夕食までにこの一品を完成させてみせる、と。
 だがこのままでは、今晩の夕食はこれひとつに終わってしまいかねないことを、彼は知るべきだっただろう。
「まだまだ時間はたっぷり有るっス。ゆっくり、行きましょうっス」
「……分かった」
 言い出したのはユーリだし、それを撤回するにはプライドが邪魔をする。たかがお菓子ひとつ、作れなくてどうする、と自分に叱咤して彼は再び綺麗に磨かれたボゥルと対面を果たした。
 ぴかぴかの表面に、歪んだ顔の自分が映し出される。
 先に生クリームを沸騰させるために鍋に入れて火をかけ、その間にクーベルテュールチョコレートを細かく包丁で刻んでボゥルの中へ。これはアッシュの作業であり、ユーリはひたすら鍋と睨み合ってクリームが沸騰するのを待つだけ。ユーリに包丁を持たせると、その包丁が宙を舞うという事例が過去に何度か発生しており、へたに怪我をされるよりは、というアッシュの配慮である。
 だがユーリはやはり、最初から最後まで自分でやりたいという想いがあって、その辺の気配りは不満が残っていた。
「アッシュ、沸いたぞ」
「はいっス」
 鍋の外縁から泡が発生し始めたのを確認し、ユーリはアッシュに呼びかけてからガスを切って片手鍋を両手で慎重に掴み、持ち上げた。
 零さぬように気を配りながら、刻まれたチョコレートが待つボゥルに湯気を立てている生クリームを流し込む。濃い香りがして、熱せられたクリームがチョコレートの表面を溶かしていくのが湯気の中で見て取れた。
 今度はそれを、ゴムべらで掻き混ぜていく。そこからはユーリの仕事であり、完全に混ざりきるまで彼の作業は続く。ようやく解放されたアッシュはというと、自分が引き受けた仕事に戻っていった。
 出来上がっていたメレンゲをもう一度掻き混ぜて角を確かめ、それを卵と粉を混ぜて馴染ませておいたボゥルに少しずつ、分け入れていく。
 ユーリはガチャガチャと相変わらずの、強すぎる力加減でボゥルの中のチョコクリーム作成に懸命になっていた。
 やはりその光景だけを見ていると微笑ましい感じがする。
 ユーリが「作りたい」と言い出したのは昨日の夜のことであり、どうやら偶然見ていたテレビ番組に触発されたらしい。別にこれでなくとも良いのではないかと、一応アッシュは止めてみたのだがユーリは聞かなかった。
 どう考えても、このお菓子は甘すぎて食べられないメンバーが約一名いる、と説得してみたものの。
 別にあいつのために作るのではない、と突っぱねられた。
 シーズン的に、また、彼が見ていたテレビ番組からしても、その言い訳は苦しいものであったはずなのに。
 そんな渋るアッシュをやる気にさせたのは、ユーリの「料理人の風上にも置けない奴」というひとことで、それに逆に奮起してじゃあ作ろう、と話がまとまるのにものの五分もかからなかった。あとからアッシュは後悔したが、お菓子でもなんでも作るのは楽しいから、今は構わないと思っている。
 珍しいユーリも沢山見られたことだし。
「アッシュ、これは……どうすれば良いのだ?」
 苦闘の末、完全にチョコレートとクリームが混じり合ったボゥルを差し出しユーリは物思いに耽っていたアッシュに呼びかけた。
 慌てて我に返った彼は、テーブルの端に置いてあるふるいを顎で示した。それを使って、クリームを濾すのだ。
「それが終わったら、常温で冷やす……ってのも変な話っスけど、そのまま置いておいてくださいっス。じゃ、次の行程っスね」
 四度目の正直で完成したガナッシュを横目で見て、あれは固くなってしまうのでは、とアッシュは正直思ったが折角ユーリが頑張ったのであるから、使ってやるべきだろう。どうせ生地に塗るだけだ。
 ユーリを尻目に、自分の手元で溶かしバターを流し込んだ生地を掻き混ぜ終えたアッシュはそれを、クッキングペーパーをあらかじめ敷いて置いた角形のオーブンプレートに流し込んだ。表面をへらで均し、温めて置いたオーブンに押しこむ。
「次は?」
「シロップと、バタークリームっすね。どっちをやりたいっスか?」
 興味津々にオーブンを眺めてから顔を上げ、頬にクリームを付けたユーリが尋ねる。ついていることをアッシュが教えてやると、彼は慌てて両手で頬を拭った。
「どちらが……その、簡単だ?」
 自分が不器用であることをようやく認めたらしいユーリの発言に、アッシュは笑みを表に出して粉末コーヒーの入った袋を指さした。
「じゃあ、シロップの方お願いするっス」
「分かった」
 生地が焼き上がるまでの間に、両方の準備が終わるはずがなかったが、それでも少しずつものは揃い始め、太陽が西に傾き出す時間帯にはなんとか、飾り付けの段階まで進むことが出来ていた。
 タイムリミットまで、あと一時間ほど。
 間に合うか否か、ギリギリといったところか。アッシュも多少なりとも焦り始め、ユーリはパレットナイフを握る手に力が籠もった。
 目の前でコーティング用のチョコレートを均等にまんべんなく、ビスキュイ生地に塗り広げていく。更にその裏側にもたっぷりと、先程作ったコーヒー味のシロップを滴る寸前まで染みこませ、ガナッシュクリームを広げた。二枚目の生地を被せ、その上にもシロップを染みこませてバタークリームを塗り、この行程が二度、繰り返されて。
 最後に塗ったバタークリームの上にラップを敷き、綺麗に表面が整うように重しを載せて冷蔵庫へ。
 一段落。
 時間は、予定ではあと三十分ほど。
 ユーリがほっと一息ついている間もアッシュは休まず、最後のコーティング用チョコレートを熱して溶かしていた。台所に、彼が作業する音と壁時計が秒針を刻む音だけが混じり合っていやに大きく響き渡る。
 高椅子に腰掛け、テーブルに頬杖をついてユーリは溜息をついた。
 そもそも、何故こういう事をしようと思ったのかを思い出す。
 昨夜、彼はリビングでテレビを見ていた。番組を選んだ覚えはなかったが、気が付けば番組の話題がバレンタイン、というイベントに至っていたのだ。
 この季節になると、街中がどこかソワソワした雰囲気に包まれて甘い香りも、あちこちから漂い始める。今までユーリも、仲間達もあまり気にしたことのない人間達のイベントに、今更交わろうという気はさらさらなくて、ただユーリは画面に現れるチョコレート菓子の数々にばかり目をやっていた。
 この季節でしかお目にかかれないチョコレートも確かにあって、その日のためだけに用意されるチョコレートケーキに目を奪われた。
 そんな中で、取り扱われていたケーキ。
 コーヒーと、ガナッシュチョコのコンビ。
 甘そうなチョコレートの数々にうんざりした顔をしながらも、ユーリにつきあって一緒にテレビを見ていた彼が、そのケーキを見た瞬間に何気なく呟いた、ひとことに。
 何故あそこまで過敏に反応してしまったのか、自分でも不思議だった。
『これだったら、食べられる……かな?』
 あくまでもその呟きは疑問型だった。生クリームで失神するような男が、チョコクリームに耐えられるはずがない。それはユーリとて重々承知しているはずだ。
 画面が直ぐに切り替わってしまったこともあって、会話は発生しなかった。頬杖をついて番組を最後まで見ていた彼は結局その後、あのケーキに関してひとことも口に出さなかった事からまず間違いなく、自分の発言を記憶していないだろう。
 それなのに、ユーリはその日のうちにアッシュを掴まえ、午前中に買い出しを済ませて午後からは台所に籠もり、悪戦苦闘を果たしている。
 事の発端となるひとことを吐き出した男は本日、お仕事でお出掛け中。本当ならユーリも一緒に行くはずだった打ち合わせは、彼の仮病でスマイルひとりが出向くことになってしまった。
 彼はユーリの仮病に気付いていたようで、アッシュがなにか我が侭に引き込まれていることも察していたらしい。出かける直前、なにをするつもりなのかは知らないけど、という前置きつきでアッシュに、ヨロシク頼むよ、とまで言っていた。
 贅沢者め、とまでは言い返さなかったがアッシュは少し、彼が羨ましく思ったり、も。
「ユーリ、なにか書く事あるっスか?」
 冷やし固まったケーキの表面に、更に熱して溶かしたコーティングチョコを塗り均してアッシュは尋ねた。どういう意味か、と首を傾げて聞き返すユーリに、彼はボゥルの中にまだ僅かに残っていたチョコレートをゴムべらで掬い上げた。
 これで、と器用にオーブンペーパーの切れ端を丸めて三角錐を作り、その中にチョコレートを流し込んで先端の細くなっている部分を切り取る。中のチョコレートを絞り出しながら、ケーキの表面に文字を書くことが出来るのだと彼は簡単に説明した。
 そして試しに、と形を整えるために切り取ったケーキの端に作ったばかりのコルネでサラサラと、慣れた手つきでユーリの名前を、アルファベットで書き記して見せた。
 感心したように、ユーリが手を叩く。だが目の前に新しい紙のコルネを差し出されて、彼は固まった。
 人がやるのを見るのと、自分がやるのとではわけが違う。その上、初めてやることだ、失敗したら取り返しがつかないではないか。
「あぁ、平気っス。表面に塗ってあるチョコと同じやつっスから、ミスっても馴染ませればばれないっスよ」
 アッシュは軽い調子で笑って、ユーリにコルネを押しつけた。さあ、と手を広げてケーキへと彼を導く。
「うぅ……」
 まさか最後の最後でこんな仕打ちが待っているとは予想だにせず、ユーリは小さく呻きながらも促されてやむなく、ケーキの前に出た。
 しかし、書くことばが思い浮かばない。
 時間は迫っている。夕食前には帰ってくるはずだ、奴ひとりに行かせると打ち合わせも早く終わるから下手をすれば今このタイミングで、玄関に帰宅を告げる彼の大声が響くかも知れなかった。
 後ろで、ようやくアッシュが夕食の支度を何も出来ていない事に気付いて愕然とし、顎を外していた。それどころか台所は、まるで戦争があった後のように見事にものが散乱していて、壁にまでクリームが飛び散り、こびり付いている始末。
「アッシュ!」
「はいぃ!」
 唐突な呼び声に過剰に反応して、背筋をぴーんと伸ばしたアッシュがユーリを振り返った。
 きつい色合いの双眸で、ユーリが彼を睨んでいた。なにか悪いことをしただろうか、とアッシュは怯えて逃げ腰になるが、ユーリは奥歯をぎりっ、と強く噛みしめたあとひとことだけ、言った。
「見るなよ?」
 態度とは随分と違う、気弱で小さな声で、だ。
 聞き違いかと呆けてしまったアッシュも、瞬きを三度繰り返してから「はいはい」と大仰に肩を竦めて笑った。
 その笑い方が気に入らなくて、ユーリは腕を伸ばして彼を突き飛ばした。一日で殆ど中身を使い切ってしまった大きな粉袋に彼の巨体は倒れ込み、白い粉を撒き散らして一瞬、視界が白く染まる。
 ケーキにまで飛んだのではないかと不安が過ぎったが、粒子の細かい粉はケーキに大した被害を与えていなかった。むしろ、頭が真っ白になったアッシュの方が余程酷い。床の上で座り込み、けほっ、と咳き込んで彼は涙目になっていた。
「酷いっス……」
「お前が笑うからだ」
「それより、夕食どうするっスか?」
 時計を見る、あと半刻で通常の夕食タイムが訪れてしまう時間帯だった。どう考えても、今晩の夕食は諦めるしかなさそうな雰囲気。
「なにか、作れないのか……?」
「簡単な奴で良いのなら、なんとかなるかもしれないっスケド」
「なら、それで頼む」
 今から道具を片付けて、器具も洗浄して、同時進行で材料の下ごしらえもして……。考えるだけで頭が痛くなりそうなアッシュを尻目に、ユーリは完成してあとは最後の飾り付けを済ませるだけのケーキを皿に移し替えた。先程渡され、使っていない紙のコルネも一緒に皿に載せ、ぐるりと作業台のテーブルを回り込み台所とリビングを遮る扉へと向かう。
 粉まみれのアッシュになど、目もくれない。
「トホホ」
 軽く粉を払ってまた咳き込み、アッシュは苦笑した。
 たまには、こういう事も悪くないか、と。
「自分に子供が出来たら、こんな感じっスかね~」
 ユーリが聞いていたら拳が飛んできそうな事を笑いながら呟き、彼は立ち上がった。

 玄関を抜け、広い吹き抜けのホールを通り過ぎる。そのまま普段なら真っ先に尋ねるリビングには足を向けず、彼は先に階段を登って自分の部屋に戻った。
 飾り気のないシンプルなキーホルダーにぶら下げたバイクのキーをベッドに投げ出し、もう一方の手で抱えていたものは慎重に大事に扱いながら、机の上に置いた。それから上着を脱ぎ、やはりベッドの上に放り投げる。
「ん~~、疲れた」
 部屋に入った瞬間に放り投げていた鞄を広げ、幾種類かのファイルを抜き取る。そのうち、必要と思われるものだけを選別して残りは鞄に押し込み、踵を返した。
 いつもなら開けっ放しにしておくドアに鍵を掛け、それをズボンの後ろポケットに押し込みファイルを片手に登ってきたばかりの階段を下りる。
 そうしてようやく、スマイルはリビングのドアノブに手をかけた。
 開けた瞬間、甘い香りが鼻腔を掠めていってうっ、と唸ってしまったが。
 嫌な予感がする、本能的に彼は悟った。
 しかし開けた扉の向こう側にユーリが座っているのが見えて、しかもしっかり扉の方を向いていたからまず間違いなく、発見されてしまっているに違いない。背中に垂れる冷たい汗を堪えつつ、彼は唾を飲み込んでリビングに入った。
 絨毯の感触が柔らかい、だが無性に、甘い薫りがする。
「ユーリ?」
「…………」
 リビングのソファ、扉に向かう格好で並んでいるひとつに深く腰を沈めている彼は難しい顔をして、スマイルを見上げていた。膝の上に置いた両肘を顔の前で組み、その上に顎を置いている。
 彼は何も言わず、目線だけでこちらへ来い、と告げていた。
 怪訝に想いながら、スマイルは三人掛けソファの背後から前に回った。ユーリの座っているソファの真向かいに居場所を定め、腰を下ろす。
 ふたりの間には、クリスタルガラスのテーブルが、ひとつ。
 その上に、真っ白い大皿に乗ったチョコレート色の、ケーキがどでん、と。
 偉そうにふんぞり返っているのをその目で確かめて、スマイルは一瞬眩暈がした。甘い薫りの発生源に今ようやく気付いて、近付くのではなかったと思い切り後悔する。
 が、遅い。
 そう、「おそい」。
 ケーキの表面にチョコレートで書かれていた文字が、それで。
 笑うに笑えなかった。
「なにコレ……」
「見ての通りだ」
 ケーキに対してか、ケーキの表面を飾っているあまりにケーキに不釣り合いなメッセージに対して尋ねたのか、もうスマイル自身にも分からない。ただユーリが仏頂面で返して、苦笑が漏れる。
 そんな脳裏の端で、昨夜の出来事が不意に思い起こされた。
 多少形が違っている事や、表面に書かれている文字が違っているという点はあるが、このケーキには見覚えがある。
「ああ、もしかして」
 いや、もしかしなくてもその通りだろうが。
「ぼくに?」
 売っているケーキがこんな、気の利かない随分と直接的なメッセージを書き記してくれるはずがない。それに、職人であったならもっと綺麗な字を書くだろう。
 だからこのケーキが、今日の打ち合わせをユーリが仮病でサボった理由なのだと、彼は瞬間に悟った。
 自然と顔が緩んでしまう。
 だが同時に、心の中で冷や汗がどんどん増えていく。
 どうしよう、もの凄く嬉しいけど、もの凄く困る。
 スマイルは甘いものがだめだ。アレルギーが出るわけではないが、もれなく気分が悪くなって胃の内容物を逆流させてしまう事になる。今現在も、ケーキから漂う甘い香りに既に酔いそうになっているというのに。
 見るからにチョコレートだらけのこれを、どうやって平らげろと言うのか、ユーリは。
 天国だが、地獄だ。
「……やはり、駄目か?」
 黙り込んでしまったスマイルを上目遣いに見やりながらユーリが尋ねる。三角巾は外していたが、まだら色になっているエプロンはそのままだったユーリの姿に、グラグラ来ている事は事実だ。こんなになるまで頑張って作ってくれたケーキを、どうやって食わずに過ごすことが出来ようか。
 だが哀しいかな、確実に食べればそのまま水場に直行である。
 未だ嘗て無い激しいジレンマに、彼は襲われた。
「そう、だな……。すまない、忘れて」
「待った」
 皿を片付けようと手を伸ばしたユーリを遮り、スマイルは素早く更に乗っていたフォークを手の中に収めた。
 ユーリが顔を顰めるのを視界におさめ、銀色のフォークを逆手に持ちスマイルは、四角いケーキの角へとそれを差し込んだ。
 切れ目を付け、掬い上げる。
 チョコレートとバタークリーム、それに生地からしみ出たシロップがたっぷりのケーキ、ひとくち分。それをフォークに載せ、空中に浮かせた。
 じっと、見つめる。ユーリまでつられて、じいっとフォーク上のケーキを見入ってしまった。
「ユーリ」
 先に口を開いたのは、スマイル。
 ユーリはてっきり、ひとくちだけでも彼がケーキを食べてくれるものだと思って、視線をケーキから外し隻眼の丹朱を見つめ返した。けれど、次に言われたことばに意味も理解できずただ言われたとおりにしてしまって。
「あーん」
「あ?」
 ぱかっ、と開かれたスマイルの口を見た瞬間に何故か自分の口まで開いてしまっていて、ユーリが慌てて閉じようとした寸前、彼の舌の上に甘ったるいチョコレートの味が広がった。
「ん」
 閉じた唇から茶色をまぶした銀色のフォークが引き抜かれる。目を丸くしたユーリだったが、身体の構造は現金で、舌の上にものが載せられたと判断した途端彼は数回咀嚼して、口いっぱいにチョコレート味を広げてしまっていた。
 それは、先程スマイルがフォークで掬い上げたケーキに他ならず。
 どういうつもりか、と問おうと再び視線を持ち上げた瞬間、くちづけが降りてきた。
 カシャン、と皿の上に戻されていたフォークが、テーブルに置かれたスマイルの両手から伝わる振動に反応して音を立てた。両手をつき、身体を支えて身を乗り出した彼が、テーブルの向こう側に座っているユーリに伸び上がり、くちづけている。
 唇は、甘い。
「これくらいなら、まだ平気なんだよね」
 離れる瞬間に伸ばした舌で唇の表面を撫でてから、スマイルはそう言った。
 見る間にユーリの顔が赤くなり、「あ」とも「う」ともつかない声を絞り出しながら口をぱくぱくと開閉させる。
「もうひとくち、行ってみる?」
「バカ!!」 
 茶化しているのだろう、再び手に取ったフォークでケーキを指し示したスマイルの楽しげな顔に、ユーリはようやく呼吸を正常に戻してひとこと、叫んだ。
 どこまでも顔が赤い。
「ばかもの……」
「うん。でも折角だし、勿体ないし、ね?」
 夕食が出来上がるまでまだ当分時間もかかるだろうし、とちらりと壁時計と閉められたままの台所に通じる扉を交互に眺め、スマイルは笑った。どこまでも、聡い。
 ユーリはばつが悪そうに俯いて、上目遣いでスマイルのことを睨んだ。けれど彼にダメージはなく、渋々、頷いて返す。
 口の中はどこまでも甘い。けれどそれ以上に、触れられた唇が熱く、甘い感じがした。
「あーん♪」
「言わなくて良い、それは」
 ひどく楽しげにフォークを向けてくるスマイルをねめつけてから、ユーリは口を開いてケーキを受け入れた。
 ケーキもキスも、同じくらいに甘くてくらくらしそうだった。

 余談。
 次の日。目が覚めたユーリの枕許には眠る前にはなかったはずの真っ赤な薔薇の花束があって、笑うに笑えず彼は起きあがったばかりの枕に沈没し、頭の先まで蒲団を被って昼まで起きて来なかった。

涙酒

――敬愛せし君に捧ぐ――

彼の死に様は、伝えられていた。
その表情は鬼神の如くあり、一歩もそこを退かないという固い決意を秘めた眼は一度たりとも揺れ動く事はなかった。
いったい何が彼をそこまで奮い立たせたのか、彼亡き今となっては、知るすべは遺されていない。
だが、少しならば理解出来る。
彼が何を信じ、願い、闘って死んだのか。
無数の矢を全身に浴び、斬りつけられた傷口からは止めど無く血が流された。片足は落馬した時の影響で皹が入っていたはずなのに、「痛い」の一言もついぞ彼は口にしなかった。
白銀の鎧は赤黒く染まり、幾つもの傷を作って、最期まで彼に従った騎士のように彼を守り続けていたけれど、結局止め具まで破壊されて分解されたそれは、重い音を立てて主よりも先に地面に沈んだ。
すさまじい戦いだったと聞いている。おそらく歴史に残るほどの。
だがあまりにも生存者が少ないために憶測ばかりが行き交い、結局彼の死の真相も、多少の捏造が含まれているだろうというのが、現在の見解だ。
彼は立ったまま死んだらしい。
砦に通じる唯一の道の真ん中で、押しても倒しても尽きない無数にも錯覚させるほどの敵を前にしてもなお怯む事なく。たった独りきりになってもその場から動こうとせず。
彼が仁王立ちのままとっくの昔に息絶えていることにハイランド軍が気づいたのは、かなり後の事だったと伝え聞いた。
死してもその場に残りつづけた彼の闘志は、見事に我が軍の勝利を導いた。囮という役目を立派に終えた彼に、言える言葉は少ない。
せめて彼の死が無駄にならなかった事だけが、幸いなのか。
それとも、彼ほどの武将を失ってまでも決行しなければならない作戦だったのか。
今となってはもうその判断はつかない。戦争は終わってしまったし、彼の遺骸は焼け野原となった砦跡で辛うじていくつかの骨を拾う事が出来たに留まっていたのだから。
彼を失わねばならなかった戦いは、もう遠い記憶の空に漂っている。
あるいは、彼こそが真に英雄と呼ぶにふさわしい存在だったのやも知れない。だが判断するのは後に生まれ育つ人々で、一様に彼のような歴史の裏側で死んでいったものたちの記憶は残りにくいのが時代の常だった。
だから、歴史が名を刻む英雄には真の紋章などに運命をいいように操られて、躍らされただけの哀れな生き人形たちが顔を揃えている。
真実は多くを語らない。
ただ、静かに歴史を見守るのみ――

城の、酒場で。
夜も耽け、人々は見張りの兵士を残してその多くが眠りに就いた時間帯に、彼はひとり静かに酒をあおっていた。
立派な髭を蓄えた精悍な作りの顔立ちだが、その表情はどこか冴えない。あるいは酒のせいかも知れぬ。どこか浮かない表情のまま、彼は無言で酒を継ぎ足しては飲み、飲んでは盃に酒を注いでいた。
店内の照明は落とされ、僅かにテーブルに置かれた蝋燭と壁に並んだいくつかの燭台に火が灯るのみ。薄暗く、手元を確認する事がやっとのような明るさの中で、しかし彼は周囲の状況になど全く目を向けずにいる。
「ふぅ」
空になった酒瓶を床に置き、新たな酒を求めて彼は重い腰を上げた。よいしょ、と小さく掛け声を出してテーブルに置いた両の手に力を込め、膝の裏で座っていた椅子を押し出して立ち上がる。
だが酔いの回った身体は思った以上に平衡感覚を失っており、危うくテーブルを巻き込んで転倒する直前にまで行った。しかし長年の武人としての誇りが勝ったのか、寸前で足を踏みとどめ、寸でのところで醜態を晒さずにすんだ。
もっとも、酒場の主であるレオナでさえ眠りに就いたこの場所で、彼以外に動くものなどなく。
無論のこと、彼が大袈裟なまでに音を立てて転ぶ様を見て笑う者も、ない。
しかし彼は常に、いつ何処で何があってもいいように自分を戒めている。けっして恥ずかしい真似だけはするなと教えられて育ち、事実そのようにして生きてきた。齢は初老の域へと向かいつつあるが、未だ若いものには負けないという自負がある。たとえ誰のいない場所であっても、己を固持し、失態だけは避けなければならないのだ。
「いてて……」
だが、ふんばる時にぶつけた膝の痛みだけは抑える事が出来ず、つい口に出してしまった言葉を慌てて飲みこむと、赤く染まった顔を上げて小さく息を吐いた。
言葉に出来ない感情を飲み下して頭を掻き、新たに酒を求めてカウンターに向かいかけた足が、床の上に散乱す酒瓶にぶつかった。
カラン、ごつん。
すでに空瓶は片手を越えており、あと数回カウンターとテーブルを往復すれば今度は両手でも足りなくなりそうな雰囲気だ。しかし誰もいないということは、つまり誰も彼を止めたり咎めたりするものがいない事でもある。散々止めておけと忠告していたレオナでさえ、最終的には匙を投げてさっさと眠ってしまったほどだ。
「どこに仕舞ってあるのだ……?」
蝋燭を片手に掲げ持ち、彼はカウンターの内側に回りこんでお気に入りの銘柄の酒を探す。しかしなかなか見つからず、数分ほど悩んだすえ、ついに発見にいたる事が出来なくて仕方無しに彼は、手前にあった初めて見る銘柄の酒瓶を掴むとテーブルに戻った。
酒瓶の栓は既に開けられており、中身は三分の一近く減っていた。おそらくレオナが閉店前に来ていた兵士に出していた酒の残りだろう。彼らが何を注文して、この酒にどういった評価を下していたかを彼は知らない。興味も無かったし、その時にはもう彼は半分できあがっていて、人の話を聞いてもまともに記憶に止めておく事など不可能な状態であったから、無理も無い事なのだろうが。
 残量の少ない酒瓶をもうひとつ確保して、カウンターに蝋燭を置いたまま彼はテーブルに戻る短い道のりをのろのろと歩き出す。薄暗い店内のテーブルには、普段は床に置かれて人を座らせるための椅子が今は逆に、掃除がしやすいようにと逆さま向けにされてテーブルに鎮座していた。
 何故これほどまでに彼が今夜に限ってこれほどまで荒れているのか、理由は誰も知らない。レオナも一応問いただしてみたが、彼が黙って首を振るばかりで一向に理由を語ろうとしなかった。おそらく何かいやな作戦でも任せられたのだろう、というのが仲間内で出された結論で、然からば触らぬ神に祟り無し、と以後誰ひとりとして彼に近づこうとはしなかった。
 彼が酒場に来る直前まで、筆頭軍師のシュウから呼び出しを受けていたという話は、皆が知っていることだったから。
 しかし荒れている、にしては妙に静かな飲み方で首をひねる者も少なくなかったのだが。
 ただ、酒をあおるだけ。他人に絡むこともなく、愚痴をこぼすのでもなく。ひたすら酒を飲み何かを忘れようとしている雰囲気に、確かに近寄りがたい空気を感じていたのは確かだろうが。
 閉店の間際に彼の息子が様子を見にやってきたのだが、一言二言、言葉を交わしあって息子はあえなく退散した。息子にしてみれば、父親の体調を心配しての忠告をしにやってきたはずなのだが、彼の方が何か言いくるめられてしまった感じがあった。困った顔をして、それから「程々にして下さいね」と諦め口調で呟いて帰っていった息子の背中を見つめる彼の瞳は、酒に酔っているせいもあったろうが、少々潤んでいた。
 ごとん、と乱暴にテーブル上に酒瓶を置き、椅子に座り直そうとして彼は赤く染まった顔を上げた。
「よう、ひとりか」
 酒場の城側からの入り口に、男が立っていた。
 精悍な顔つきと引き締まった体躯。飄々としてどこか掴めない表情をした男の出現に、それまでどことなく虚ろだった彼の眼に僅かばかりの光が戻る。
「珍しいな、こんな時間に。なあ、キバ将軍」
目上の者であっても変わることのない馴れ馴れしい、と聞く者によっては感じる口調で言い、男――ビクトールはキバが座る席に歩み寄った。
「珍しいのはお互い様だろう」
 やや憮然として言い放ち、椅子に腰を落ち着けたキバは取ってきたばかりの酒を早速盃に継ぎ足し一口飲む。
「……むぅぅ……」
 だが、予想していたのとはかなり違う味に一気に眉を寄せ顰めっ面を作った。
「ははは、どうやらお目当ての酒にはぶつからなかったらしいな」
 その姿を見てビクトールが声を立てて笑い、更にキバの顔を渋面にさせる。仕方なくキバは別の酒に注ぎ変えて試し飲みをしてみたが、こちらも先ほどの酒と大差ない味に彼の表情は益々厳しくなるばかりだ。
「不味いか」
「ああ、不味い。この程度で酒を名乗るとは烏滸がましいにも程がある」
 断りもなくキバの向かいの席に腰を下ろしたビクトールの問いかけに即答し、キバはまだ十分に残りのある酒瓶二本を脇に避けた。
 別段この酒が不味いのではない。単にキバが好むアルコール度数の高い酒では無かっただけのことなのだ。故に、一般の消費者に取ってみればキバの飲む酒こそが強すぎて飲むには絶えられず、この程度の酒で丁度いい具合、なのだろうが。
「困ったな」
「ああ、明日店主に言ってやらねばなるまい」
「そりゃあ、見物だ」
 カラカラと笑い、ビクトールは自分が持っていた一升瓶を揺らした。あのレオナとキバ将軍との一戦は、下手をすればハイランド軍との戦闘よりも見る価値があるかもしれない、と言いながら。
「ふん、勝手ぬかしおって。貴様こそ、その不抜けた顔を引き締めたらどうだ」
「そんじゃあ、お言葉に甘えさせていただくとしようかな、俺も」
 どん、と彼は持っていた一升瓶を乱暴にテーブルに置いた。衝撃で卓が揺れ動き、つまみが入っていた(言うまでもないと思うが、今はすでに空だ)皿がからん、と傾きキバの酒にぶつかる。
「躾のなっておらん男だ」
「おいおい、酒を飲むのに行儀が良いも悪いもないだろう?」
 酒の席は無礼講に決まっている、と言外に告げた男の不敵な笑みにキバもにやりとやり返し、ならばとビクトールの酒に無遠慮で手を伸ばす。
「おっと、俺に注がせてくれよ」
 しかし寸前でビクトールに瓶を攫われ、ならば、と反対の手に持っていた空になった盃を差し出す。
 なみなみと注がれる透明の液体をうっとりとした表情で眺めたキバは、ビクトールが注ぐのを止めた次の瞬間にはもう、盃を口元に送ってぐいっと一息に飲み干してしまっていた。
「おいおい、ちょっとペース速すぎやしないか?」
 これにはビクトールも呆れ顔だ。しかし止めようとはしない。まるでキバが今夜独りきりで飲み明かしている理由を知っているような眼差しで、目の前に座る一日で数年分も年を重ねてしまった男を眺めつづけるだけだ。
「こりゃあ、なかなかいい酒だ。どこで手に入れた」
「気に入ってもらえたのは嬉しいが、俺も出所は知らないんだ。もらい物、だな」
 本当はゴードンの店でくすねて来たのだが、その事は口にしない。倉庫に山積みされていたワインの片隅で、忘れ去られたようにぽつんと転がっていた一升瓶を拾ってきて、試しに飲んでみたら意外にいけたので持ってきただけなのだ。
「貴様も飲め。そのつもりで来たのだろう」
 酒場に酒を持ってきていながら、飲まないのはおかしい。赤い顔と熱にうなされた声でしつこく酒を勧めてくるキバの申し出を断る理由も、ビクトールには無く。
「じゃ、遠慮なく」
 もともとはビクトールが持ち込んだ酒だ。遠慮するのはキバの方だろが、そんなことは二人、どうでも良かった。ただ互いの寂しさを紛らわす酒と、愚痴を聞き流してくれる相手がいてくれさえすれば。
「……セレン殿は……」
「?」
 そしてしばらく無言のまま酒を酌しあう行為が続いた後。ぽつり、とキバが先に呟いた。
「セレン殿は、この戦で誰かが欠ける事を、考えてはおられぬようだ」
「………………」
 半分ほど盃の酒を飲み干したビクトールが、答えないまま杯を卓に戻す。酔いの回りかけた瞳におぼろげに、卓上の蝋燭の火が揺らめき映る。
 だいぶ、燭台に差し込まれた蝋の長さも頼りなくなってきていた。
 しかし夜明けまでまだ早い。
「今後、戦況は今以上により熾烈、かつ過酷なものとなってゆくだろう。当然、失われる命の数も多くなる。だが……」
 ぐい、とそこで言葉を切ったキバは杯に残っていた酒のすべてを一口のうちに飲み下す。
「セレン殿は、たったひとりの兵を失ったことでさえ、大いに悲しまれるようなお方だ」
「ああ、そうだな」
 短い相槌を返し、ビクトールは促すように残り少ない酒をキバに注ぐ。
 風さえ吹かない静か過ぎる夜。見張りの兵士も立ったままうつらうつらと舟をこぐような、そんなとても戦争をしている人間の本拠地には思えない長閑過ぎる城の、闇。
「セレン殿はお優し過ぎる」
 ことん、と一升瓶を置く音とキバの言葉が重なり合って奇妙に寂しげな音を作り出した。
「そうだな」
 だから人は、彼の優しい心に惹かれ、同調し、守るために彼のもとに集ってくる。とてもそれまでの人生に共通項を見て取れない人間が、この城には溢れている。各々の目的を持っていながら、セレンの心に導かれて寄り道とも言えない戦いに駆けつけてくれる多くの、同胞たち。
 その一人ひとりが愛しく、大切であるからこそ、セレンは誰も失いたくないと泣く。涙を見せないままに、心で悲鳴をあげて血の涙を流している。
 それが不憫でならない。
 そして、その優しさこそが彼の最大の弱点だった。
 優しさは確かに強さにつながる。だが、裏を返せばとても弱い部分でもあるのだ。
 一番人間らしい感情だからこそ、人間であることを忘れて鬼人となり血に飢えた亡者の如く剣を振りかざして戦うことができない。殺すべき相手のことを考えてしまうような戦士は、生き残ることなど到底不可能だ。
 もし、友たる者が失われたとき。
 もし、家族同然の存在が失われたとき。
 彼は――セレンは、壊れてしまうかもしれない。
「奴は、そこまで弱くはないだろう」
 空になった瓶を指ではじいて、ビクトールは呟く。頬杖をつき一見やる気のなさそうな態度を見せているが、隙の感じられない瞳の輝きに酔いはない。
「傷は引きずるかもしれないが、あいつは……自分がリーダーであることをよく承知しているさ」
 人前で涙を見せない。気丈に振舞えるその姿は、見方を変えればとても痛々しく映る。
 彼はまだ16歳の少年なのだ。本来なら戦うことを強要されるような年ではない。ただ偶然――皮肉にも真の紋章を継承し、義父がかつて英雄と称された男であったが為に。
 彼の人生は彼の思いとは裏腹の道をたどってはいないか。この生き方が果たして本当に、彼にとって幸せだったのだろうか。
 あるいは壊れてしまったほうが幸せなのかもしれないとさえ――
「セレンは、壊れないさ。壊れるとしたらもうとっくに――親友だった男が敵に寝返った時点ですでに、壊れていただろうさ」
 いや、寝返ったのとは少し違うか、と顎に手をやって視線をずらし自問するビクトールを一瞥し、キバは今ビクトールが言った青年を思い出した。
 細身で、華奢で、その体躯のどこにあのような燃え盛る炎を宿しているのかとしきりに不思議に思ったもう片方の真の紋章を継承した青年。確かにソロン・ジー以上の器を持っていた事は否定しようの無い事実だが、彼がハイランドの皇王にまで上り詰めるとは夢にも思わなかった。
 そして、彼がセレンと親友である事実が消えない限り、キバの不安も消えることはないのだろう。
 いつかあのふたりがぶつかり合ったとき、その先に輝ける未来は残されているのだろうかと。
「信じよう、奴らを」
「…………」
 すでに酒は切れ、あとはふたりとも酔いが冷めるのを待つしかない。
 夜はまだ明けない。
「わし等にはそれしか出来んか……」
 寂しげに、キバが呟く。
「……願わくば、あのふたりには生き残ってもらいたい。先の長い若者こそが、わし等の築いた平和を育てて行ってくれる存在なのだからな」
「おいおい、それじゃまるで、自分は老い先短くて死ぬみたいな言い方だぜ?」
「……ああ、すまんすまん。どうも、飲みすぎたらしいわ」
 俯き加減にキバが小さく笑った。
「そろそろ寝るとしよう。いささか疲れたわ」
 とんとん、と肩を叩いてキバはふらつく足取りのまま立ち上がる。引いた椅子の脚が床に転がる酒瓶を押し込め、ごろん、と転がって向かいの壁にぶつかってようやく止まった。
 この惨状は誰が掃除するのだろう。ビクトールは一瞬考えたが、自分でやってやろうという気分にはなるはずがない。結局彼は見てみぬふりを決め込んだため、朝になって出勤してきたレオナが怒り爆発させるのだろう。
「大丈夫か? 送ってってやろうか」
「結構。貴様の手を借りねばならんほど、ワシは落ちぶれておらん」
 千鳥足のキバの背中に声をかけるが突っぱねられ、ビクトールはやれやれと肩をすくめた。ならば勝手にするがいいさ、と口の中で言葉を濁してキバが酒場から完全に見えなくなるのを待ち、自分も立ち上がった。
「誰も死んで欲しく無いってのは、何もセレンだけの願いじゃないんだぜ……?」
 聞こえない言葉は永遠に届くこともなく、虚空をいつまでも彷徨い続けてやがて、静かに消えていく。
 キバが死んだのは、それから数日と経たない日だった。

 そして時は流れ――――
「久しぶりだな、ここに来るのも」
 懐かしさをかみ締めながら、傍らに立つ青いマントの青年が呟く。
「ああ、そうだな」
 すべての始まりはここにある。
そして、ある勇敢な戦士の最期はここで訪れた。
「寄っていくか」
「先に行っててくれるか。俺はちょっと、やることがある」
よいしょ、と背中に背負っていた重そうな荷物を抱えなおし言ったビクトールに、フリックは最初怪訝な顔をしつつ、分かった、と言い残して先に焼け野原となった砦に向けて歩き出す。
一本道の細い筋。砦に真っ直ぐ伸びるこの道を死守して、あの男は散った。その壮絶な最期は目を閉じれば容易に想像でき、そしてどんな言葉を使って飾り立てても陳腐なものに感じられてしまう。
「ここらへんか」
 焼けた地面を見下ろし、ビクトールは背中の荷物を降ろした。
 片口縛りの荷袋を解き、中から薄茶色の瓶を取り出す。口の長い特有の形状をしたその瓶は、あの夜彼がここで死んだ男と共に飲み明かした酒そのものだった。
「探し出すのに苦労したよ、なにせどこもかしこも焼け野原だ。だが、やっと見つけた。美味いって言ってただろう、だから、持ってきてやったぜ」
 彼の墓は別にちゃんとある。骨も収められ、彼の息子が定期的に掃除と花を捧げるために参っていると聞いている。
 しかしビクトールには、彼の魂は今もここに在り続けているのではと思えてならなかった。
 戦場で死んだ戦士の魂は、永遠に戦場をさ迷い出ることはないのだと。
 すぽん、と瓶の栓を抜いて彼は一口、盃も使わずに瓶を逆さまにして中身を仰いだ。
 焼けるような熱が喉を通り過ぎる。残るのは痺れた舌と、程よい清涼感だった。
「ふう」
 濡れた口元を手の甲で乱暴に拭い、ビクトールは酒瓶の底で地面を打ち付ける。どっかと腰を据えて座り込む彼の前には誰もいないが、もし見えたのなら、そこに誰かいるのかもしれなかった。
「もう止めやしねぇ。好きなだけ、飲めばいいさ」
 一升瓶を持ち上げ、地面に向けて首を傾ける。栓のない口からは透明な液体がとめどなく流れ落ち、焼けた大地に染み込んで消えていく。
「あんたのために用意した酒だ、遠慮せずやってくれ」
 一本目が空になれば、また荷物を漁って二本目を取り出して栓を切る。そうやってビクトールはずっと、彼の為に酒を注ぎ続ける。
 彼の背中を見る者はいない。
 静かな、午後。
 平和になった世界の中で、そこだけが奇妙に純粋だった。

「俺は、将軍、あんたの事を一生忘れねぇ……!」
 酒に混じり、塩っ辛い水も大地に染みていく。

月魂

 湖から常に吹き続ける涼しい風が葉を揺らし、太い幹から伸びる枝に腰掛けた少年がこぼれてくる日差しに目を細めた。
「気持ちいーっ!」
 そこは彼のお気に入りの場所だった。
 古戦場の中心、幾度となく繰り広げられてきた南の大国との争乱で、この村にそびえる砦は文字通りの守りの要とされてきた。湖に突き出すように伸びる半島の先に建てられた古城は難攻不落として知られ、今でも湖の南に広がるサウスウィンドゥの防衛のシンボルとして扱われてきた。
 今はしばらくぶりの平和が続き、古城はその役目を離れているが、いつの日にかまた必要とされる日が来るかもしれない。だからノースウィンドゥの村人は、いつそんな事になってもいいように城の手入れを怠らない。けれど遊びたい盛りの少年にとってみれば、昼間でも日の入らない城の中は格好の遊び場であり、隠れ場所でもあった。
「ビクトール!」
 だが、枝の上で呑気に幹に背を預けて寝転がった少年をげんなりとさせる声が遠くから響いてきて、少年はむっくりと身を起こした。見慣れた──いや、見飽きた感じのする少女が走ってくるのが見える。
「またこんなところでさぼって!掃除当番、ビクトールでしょ!?」
 城の中庭。湖を望む広場にそびえ立つ古木の上に居座る少年の真下にやってきて、青い髪の少女が怒り心頭といった感じで声を荒立てる。
「やだね。それに、俺がやるよりディジーがやった方が早く終わるだろ?」
「そういう問題じゃないでしょ!」
 高い場所にいる分、彼女よりも年下ではあるものの立場を上に感じている少年があっけらかんに言い放ち、少女は拳を握りしめて彼に下りてこい、と怒鳴った。
「えー?」
「さぼってたこと、長老に言いつけるわよ!」
「うう……」
 説教が始まると長い、少年の大の苦手とする人物を引き合いに出され、彼は枝の上で唸った。彼女ならやりかねない。長老に捕まれば、彼女に怒られるよりもずっとひどい目に遭う。それだけは嫌だった。
「分かったら、早く下りてきなさい」
「はーーい」
 間延びした気のない返事をして、彼は両足を揃えて枝の上に腰掛けなおした。吹き止まない風が彼の頬を優しく撫でる。
「ビクトール?」
 なんだか様子がおかしい事に気付き、少女は怪訝な顔をして木の上の彼を見つめる。途端、少年の体が大きく後ろに傾いだ。このままでは、落ちる──!
「きゃぁ!」
 茂る枝が激しく揺れる音がして、緑豊かな葉が舞い散る。少年が後ろ向きに地面に落ちる姿を想像して、少女は反射的に両手で目を覆い顔を背けた。
 しかし。
「……はははっ!」
 どすん、ともぼとん、とも音はせず、代わりに楽しそうな笑い声が聞こえてきて、少女はおそるおそるといった風情で手をどかし、視線を古木に戻した。てっきり落っこちたとばかり思っていた少年が、枝に足をしっかりと挟み込んだ形で逆さまにぶら下がっていた。
「だまされてやんの」
 してやったり、という顔で笑う少年とは対照的に、少女の顔がみるみる真っ赤になっていく。
「ビクトール、今日の晩ご飯抜き!!」
「えーー!!?」
 そんなあ、と少年は一気に泣きそうな表情になったが、少女は発言を撤回してくれそうになくぷん、とそっぽを向いている。
「ごめん、謝るよ。俺が悪かった、いえ、悪うございました。どうか、どうかご容赦下さい!」
 枝に腕を伸ばし足を外して天地を元に戻した少年が、地面に足をつけて慌てて少女の元に駆け込んで頭を下げるが聞き入れてもらえない。すがりついて泣きついてみても効果はなくて、ようやく彼は自分が度を超した悪ふざけに興じてしまっていたことに気付く。
「頼むよー、ディジー。育ち盛りのオトコノコに、それはひどすぎると思わないわけー?」
「思わないわ」
 つっけんどんに突き放す少女に、ますます彼は泣きそうになった。
「許してあげないんだから」
「そうだ。許すもんか」
 少女の声に、暗い男の声が重なる。
「──え?」
 少年は振り返った。いつの間にか、そこにそびえていたはずの巨木が消え、深く暗い闇が広がっていた。満々と水をたたえていた湖も見えない。
「許すものか。お前ひとりだけが生き残るだなんて」
「どうしてだ。どうしてお前だけが生き残った」
「私たちはまだ生きたかったのに」
「お前だけが生き残った」
「お前だけが……」
 闇に浮かび上がる、うつろな姿の人々。だらんと両手をぶら下げて、生気を感じさせない瞳で彼を見つめている。そげ落ちた肉が頬骨に引っかかり、白い骨が下に覗いている。それは、使いを終えて帰ってきた彼が見た、変わり果てた村人の──家族の姿。
「ぁ、ああ、あああ…………」
 彼は嫌々と首を振る。
「やめろ、やめてくれ。俺だって、俺だって好きで……」
「替わってくれ」
「私と替わって」
「おくれ」
「お前の体をおくれ」
「お前の命をおくれ」
 群がってくるかつての家族、村人たち。彼の肉を喰らい、命の果てまでも食い尽くそうと彼にのしかかる。
「やめろ。終わったんだ、もう終わったんだ!」
 だが彼は村人を振り払うことが出来ない。叫ぶことしかできない。
「終わったんだ!敵はとったじゃないか!どうして……どうしてまだ俺を苦しめるんだ!!」
 はっと、彼は虚空を掴もうとした右腕に気付き自分は今、ベットの中で、夢を見ていたのだと数秒かけて理解した。
「…………夢…………」
 ぽつり、呟く。
 横を向けば、同室の仲間がすやすやとのどかに寝息を立てている。
 汗びっしょりだった。肌に髪や衣服が張り付き、気持ち悪い。だがそれ以上に……夢の内容を思い出し、彼はやりきれない思いを抱かずにはいられなかった。
 ネクロードは倒した。ようやく、本当に、今度こそ。それなのに、あの夢。
「…………」
 彼は重い息を吐き、ベットから出た。本当は着替えたかったのだがそれには明かりを付けなくてはならず、それをすれば折角眠りについた仲間を起こしてしまう。だがまたベットに潜り込み眠りにつけそうにはとても思えず、彼はしばらく逡巡したのち、立ち上がると忍び足で部屋を出た。
 昔、探検ごっこで散々走り回った古城は今ではハイランドに抵抗するラストエデン軍の居城となり、昔よりもすっと立派になってその姿を誇示している。あの頃の面影を追おうにも、余りに代わりすぎていて同じ部分を探す方が難しかった。それでも、あの古木だけは残っていた。
 今でも緑濃い葉を茂らせ、涼しい木陰を人々に供給している。だがもう、彼はあの木に登ることはなかった。
「……何をしておる」
 真夜中だ。見張りの兵でさえこっくりこっくりと船を漕ぎかけている時間帯に、自分以外の人間が活動しているとは思わず、女性特有の高い声で話し掛けられたとき思わず彼は身構えてしまった。
「なんだ、お前か」
「なんだとはずいぶんな挨拶じゃな」
 振り返った彼は、そこに立っていた少女の姿に気の抜けた声を出した。しかし少女──の姿から成長を止めてしまったシエラは不満そうで、いつもの堅苦しく古めかしい言葉遣いで切り返してくる。
「こんな時間に、何をやっておる」
「そっちこそ、こんな時間まで起きてていいのか?」
「わらわは今頃が活動時間帯じゃ」
「……そらま、そうだったかな」
 バンパイアとして生きる彼女は昼間はもっぱら眠って過ごし、夜起きていることが多い。ラストエデン軍に合流してからはなるべく他の連中とあわせるようにしているようだったが、それでも昼間はかなり眠そうだった。
「……眠れんのか……」
「…………」
 彼は返事をしなかった。ただ彼女からわずかに視線を逸らし、窓から見えるうっすらと光に陰る月を見上げていた。
「昔のことでも、夢に見たか?」
「!」
 ばっ!と彼は勢いよく振り返り、彼女を驚かせる。
「…………ぁ……」
 だが、驚いたのはシエラだけではなかった。彼身さえも、自分の反応に驚いている。だが、
「……ああ、そうさ。その通りだよ」
 嫌になるほど、笑いまでがこみ上げてきて彼は髪を掻きむしった。シエラが形の良い眉をひそめ、彼を見つめ返す。
「俺は、俺はずっとネクロードを追ってきた。奴を殺すために、俺は強くなった。敵をとって、奴に殺された皆の恨みを晴らせば、それで終わると思っていた!なのに連中は……俺にまだだとささやいてくる。まだ足りないと俺を責め立てる!!」
 両手を大きく広げ、言葉荒く彼は叫んだ。
 シエラが、静かに彼を見つめ続ける。月の光を受け、まるで月の妖精のように。
「……では、おんしはどうするのだ?」
 ふっと、彼女はため息に乗せて言葉を運んだ。
「次は誰を殺すのだ? ネクロードめを止められなんだわらわを殺すか? それで村人の恨みが晴れるとでも言うのか?」
「ちがう! そんなんじゃねぇ!」
 最後まで言わせず、彼は怒鳴り返す。
「どこが違うと言うのだ」
「それは……」
 言葉を詰まらせ、彼は視線を泳がせた。真摯に問いかけてくる彼女の目を、まっすぐ見返して答えることが出来なかった。
「わらわを見て話せ。出来ないと言うのなら、それはおんしの心が本当は、もっと違うものを求めているからであろう」
「…………」
 答えられない。
 自分を苦しめているものの正体も、シエラが言いたいことの意味も。彼は分からなかったから。
「おんしはこのまま一生、ノースウィンドゥの住人の魂に縛り付けられて生きて行くつもりか」
 彼らが死んだのは、彼の責任ではない。彼が助かったのはただ単に運が良かっただけで、使いに行くのが一日ずれていたら、彼だってネクロードにいいように殺されていたはずだから。村が全滅したのは彼が悪い訳じゃない。悪いのはネクロードで、たったひとり生き残ったからといって彼が死んだ村人に呪われなくてはならない理由にはならないはずだ。
「それでも……」
 生きている自分が許せなくて、悔しかった。
 そう苦しげな声で呟く彼に、シエラはそっと息を吐く。
「おんしは旅に出た。南へ下り、トランの解放軍に加わった。そしておんしらは見事に赤月帝国から民を救い出したであろう」
「…………」
 彼は黙って彼女の声を聞いている。月明かりに照らされた二つの影が長く廊下に伸びていた。
「あの戦いでおんしの果たした役割は大きい。裏返せば、おんしがいなければ解放軍は勝利しなかったやもしれんということ。そして、おんしはノースウィンドゥが全滅せなんだら、トランへ渡ることもなかったであろう」
 すべては『もしも』の話。しかし、それはすでに現実化された『もしも』の世界。
「おんしはネクロードに殺された、ノースウィンドゥの民の命をせおって生きておる。おんしがトランで果たした仕事、そして再び都市同盟に戻りこの地を救い出そうとしているのも、すべてノースウィンドゥに生きた者達がおんしの背中を押しているのやもしれんと、どうして考えようとせんか」
 ふう、と彼女は息を吐く。顔を上げれば彼の少し意外そうな表情があった。
「なんじゃ」
「いや……さすが人より長生きしているだけあって、良いこと言うな……と」
 どげし。
 シエラのパンチが、容赦なく彼の右頬にクリーンヒット。
「い……ってーな!誉めてやったのになんで殴るんだ」
「うるさいわ!反省が足りんようならば、もう一発受けてみるか!?」
 両手で腫れあがった頬をかばう彼に、更に殴りかかろうとシエラが牙を出す。その右手には、先日ネクロードから取り返したばかりの月の紋章が輝いていた。
 ふと、懐かしい感覚に襲われる。さっきまでの気が狂いそうになる時とは違う笑いがこみ上げてきて、彼は壁に肩からぶつかり喉をならした。
「ビクトール……?」
 ついにおかしくなったかと、そんなに強く殴ったはずはないのだが……と自分の手を見たシエラに、彼はちがう違うと首を振った。
「いや、な。昔に……よく今みたいに殴られてたな、って。思い出したらさ、なんだか……嬉しくなっちまって」
 片手で顔をおおう。その指の間から覗く彼の深い色合いの瞳から、一筋の光が流れ落ちた。
「……わらわは何も見ておらん……」
 そっと囁き、彼女は彼から窓の外へ視線を移す。
「ちぇっ。格好つけすぎだ、お前は」
 首を傾ぎ、天井を仰いだ彼が悔しげにこぼす。
 月は変わらず空で淡い光を地上に降り注いでいる。昼間の太陽とは違い、どこまでもやさしく、包み込むような光。心を安らげてくれる、静かで柔らかく暖かな、母のぬくもりに似た輝きだ。
「ビクトール」
「なんだ?」
「かがめ」
「はぁ?」
「わらわが屈め、と言っておるのだ。さっさと屈め!」
 突然名前を呼ばれて、なんだろうと返事をすれば、いきなり訳も言わずしゃがめと怒鳴られ、なんなんだと思いながらしかし逆らうと怖いことは実証済みなので彼は渋々彼女の言うとおりに膝を折り、その場に座ろうとした。
 しかし、その前の中腰の状態で彼女に抱きしめられ、彼は目を丸くする。
「シエラ!?」
 一体何のつもりかと叫ぼうとして、頭にやさしい手のひらのぬくもりを感じ彼は戸惑った。この、胸に頭を押しつけられた状態は非常に危険であるような気もするが……。
「いい加減、自分を赦してやれ」
 すぐ近くで声がする。彼を抱く彼女の手が、絶えず彼の頭をなで続ける。やさしく、どこまでも優しく。
 こんな事が免罪符になるとは、彼女だって思ってはいないだろう。しかし今の、自分を責めて自分を苦しめるしかできないでいる彼を救う方法を、これ以外彼女は思いつかなかった。
「おんしは立派に戦った。それを誇りに思え。おんしがいなければこの戦いだってどうなっていたか分からぬ。おんしはすでに、ノースウィンドゥで救えなかった以上の多くの命を救ってきておるではないか」
 体から力を抜き、彼はそっと、彼女の背に腕を回した。彼女は何も言わなかった。
「そろそろ……おんし自身の命も救ってやれ。その資格は、とうの昔に手に入れておろうに」
「そう……だろうか」
「そうじゃ。わらわが言っておるんじゃ、間違いなかろう」
「……そうか」
 言葉の端に笑いが伺えて、シエラはぎゅっと、彼の耳をつねってやった。
「いててててっ」
「反省が足りん!」
 ばしい!と頭をはたかれ、彼は床に沈没した。
「そこで頭を冷やしておれ」
 冷たく吐き捨てられ、見捨てられた彼が情けない顔で彼女を見上げる。
「生憎と、俺は生まれつきこういう性格なんでね」
 にやりと笑えば、彼女も同じように笑い返してきた。
 月は、変わらず輝いていた。

Jealousy

 日が沈むとこの城は一気に闇に包まれる。確かに夕食の時間帯はまだシャンデリアの明かりも煌々と室内を照らしてはいるが、それが片づき各々が自室に引きこもり始める頃になると本当にあっという間に、沈黙と闇がすべてを支配する。
 普段よりも約一名、それも前もって招くことを約束していたわけではない突然の来訪者を加えての夕食の席は、微妙に重苦しい空気に満ちていた。
 テーブルに並べられる食事は唐突な来客であったに関わらず、どういうわけか全員分、普段と同じだけの量が用意されていてスマイルとユーリに首を捻らせた。並んでアッシュの、嬉しそうな顔を眺めながらやはり反対側に首を捻るものの原因を問うたところで自分たちに分かるような回答を得られるとも思わず、結局謎は謎のまま処理された。
「どうっスか?」
 アッシュに興味は専ら、料理の味付けなど殆ど感知しないで平らげるだけのふたりではなく新参者、と呼ぶ事も出来ない黒髪の少女に向けられていた。
 上品に音を立てず食器を操る姿は、彼女の育ちの良さを伺わせる。小さな唇に吸い込まれている細かく刻まれた料理を数回咀嚼して嚥下し、彼女はアッシュの問いかけに微かに頷いた。
「美味しい」
「そうっスか!」
「本当のこと言ってあげても良いんだヨ?」
 テーブルに肘をつき、逆手に持ったフォークを揺らしながらスマイルが茶々を入れ、アッシュに睨まれた。ユーリは我関せずを貫き、会話には混じってこない。一方の少女も問われれば返事をするが必要以上に口を挟まず、黙々と食事を片付けている。
 奇妙に浮かれた、そして一部は不満そうな食事会が済めば、あとは各自個人の時間。アッシュは後片付けに台所に籠もり、ユーリは早々に自室へ引っ込んだ。スマイルは本来ならば、リビングで大音響に包まれながらテレビ鑑賞が常なのだが今日ばかりはそうもいかない。
 少女を連れ帰って来たのは彼だから、彼女の面倒を見るのも必然的に彼の役目となってしまうからだ。
 少女の家族に電話はした、連絡も付いた。
 しかし、迎えは出せないと言われた。帰りたければ自分で帰ってこいと、そう伝えられた。それが出来ないからこうして連絡をしているのではないか、と言い返すけれどもその前に電話は切られてしまった。
 がちゃん、と乱暴な音を立てられて耳が暫く痛み、そして茫然となってしまう。親というものを知らないスマイルだけれど、もう少しましなものだと思っていた。彼女は電話の内容を伝えられても感情を表には現さず、「そう……」と小さく呟いただけだった。
 あるいは、帰りたくなかったのかも知れない。
 仕方が無く、今夜は城に泊めて明日の朝に送っていくことになったのだが、問題なのは彼女が泊まる部屋だった。
 ユーリの城は広い、無駄とも思われるほどに。しかし使用されている部屋の数は限られており、それ以外の部屋は片付けも掃除も為されていない状態。付け加えておくと、来客用のベッドさえ、ないという状態なのだ。
 まさか彼女を床の上に寝かせるわけにも行かず、どうするか食事前に論議が交わされて最終的な結論は。スマイルが、自分のベッドを明け渡すというものだった。
 しかしこの案に頑固に反対したのが、少女本人だった。
 空きベッドがない以上、スマイルは彼女にベッドを譲った場合必然的に彼はリビングかどこかで眠ることになる。けれど自分のために彼をそんな場所で眠らせるわけにはいかないと、いつになく言葉数を多くして主張する彼女に、三人の大人は困ってしまった。
 最後には、一緒に寝れば問題ないから、とまで言い出す始末でユーリは飲んでいた紅茶を吹き出してしまっていた。
 彼女の言い分としては、一緒に昼寝をしたときと同じような感覚のようだったが、いくらなんでもベッドで並んで眠るのはダメだろう、という事で速攻却下された。その代わり、スマイルは自分の部屋で余っているシーツを敷いて眠る、という代替案が提示されてようやく、少女は納得してくれた。
「アッシュ君、お風呂どうなってる?」
「大丈夫っス……って、まさかスマイル……」
「その目は何さ」
「いや、一緒に入るつもりっスか?」
「…………アッシュ君までぼくを犯罪者にしたいわけ?」
 にっこりと微笑み返しているが、スマイルの隻眼は細められて怒りが満ちていることを察知し、アッシュは人型の時は出ていないはずの尻尾を股間に挟み込んで怯えた顔をし、何度も激しく首を振った。分かれば宜しい、と言いたげにスマイルは笑んだまま頷き、だが間を置かず困ったように顔を顰めさせた。
 問題は、パジャマその他の着替えだろうか。
 大体この城には野郎しかいないので、女性ものの着替えなどあるはずがない。さて、どうしよう。
「じゃ、新しいTシャツでも下ろすっス」
「下は?」
「と、トランクスで良いッスか……?」
「それはぼくに聞かないで」
 全員が全員、女の子をまともに相手にしたことがないのである。まるで腫れ物を扱うような対応で、スマイルは自分の頭を押さえながら溜息混じりに返した。
 リビングに戻ると、ソファに座って待っていた少女が手持ち無沙汰そうに、周囲を見回しながら足をぶらつかせていた。黒のワンピースから覗く肌は透けるように白いが、病的な白さとは違っていて柔らかそうだった。
「お風呂入っておいで、案内するから」
「わたしだけ?」
「……君までそういう事言うわけ……?」
 いくらなんでも、それはダメだろう。疲れた調子でスマイルは首を振り、彼女を促して歩き出した。
 途中、階段を下りている最中のユーリに出会って表情が固まったけれど。
「犯罪者め」
「だからそれは誤解だってばー!」
 ちらり、と少女を見てからスマイルを見直してユーリが告げ、彼は怒鳴り声で返す。まったく城に帰ってからは散々犯罪者扱いを受け、彼もかなり疲れてしまっていた。こんな事になるとは思ってもみなくて、どうしたの? と問いかけてくる少女に曖昧に微笑みを返すけれど溜息までは誤魔化すことが出来なかった。
「わたし、迷惑?」
「違うよ。単に、みんな慣れてないだけ」
 来客にも、自分たちよりも遙かに幼い存在にも、そしてなにより女の子を相手することに。スマイル以下全員が、慣れていない。だから迷惑に感じる前に、どうしても扱いに困ってしまって態度が冷たくなってしまう。
 約一名は、違う理由を含んでいるような気もするが。
 ふっと難しい表情を顔の隅に浮かべてスマイルは首を振った。ユーリが消えていった方向、今自分たちが出て来たばかりのリビングを振り返って小さく肩を竦める。
「君は、こっちね。ゆっくり浸かっておいで、疲れたろう?」
「良いの?」
「なにが」
「あのひと……怒ってるみたいだった」
 少女――かごめもまた、ユーリが消えていった扉を振り返りながら呟く。
「君に怒ってるわけじゃないから、気にしないでいいよ」
 あれは単に、多分、拗ねているだけだろうから。心の中で付け足して、スマイルは彼女にまで見抜かれてしまっているユーリの不機嫌さに苦笑し歩き出した。
 あれもなんとかしておかないと駄目かな、と思いつつ。

 本当に彼女は、スマイルを眠るまで離そうとしなかった。
 自分だけが彼の部屋を占領してしまうのが嫌なのか、単にこの闇一色の室内が嫌だったのかは分からないけれども、彼が何処かに行ってしまわぬよう、眠りにつくまでずっと彼女は彼の手を掴んで放さなかった。
 寝入るまで何度も、彼に「どこにも行かないよね」と問いかけ続け、その度に彼は頷いて返していた。けれど穏やかな寝息が響きだした頃を見計らい、彼はそっと、気づかれぬように自分の右手を掴んでいる少女の指を解いてしまう。
 蒲団からはみ出していた線の細い肩に毛布を被せてやり、安らかな寝顔にオヤスミ、と小さく呟いて彼はベッドサイドから音を立てぬように遠ざかっていった。気配を消すのは得意中の得意であり、やはり音を立てることなく扉を開いて出来上がった隙間から身体を滑らせ、廊下に出て閉める。
 泥棒も顔負けの動きに、吐息をついたのはけれど彼ではなかった。
 天井の高い玄関ホールを囲むようにして広がっている個々の部屋、それを繋いでいる廊下とホールとを遮っている手摺りに凭れ掛かるようにして立っていたユーリが、組んでいた腕を解きながら彼を睨む。スマイルも、まさかここにユーリが居るとは思ってもみなくて意外そうな顔を向け、首を捻った。
 その顔が「なに?」と彼に問いかけている。
「一緒に眠ってやるのではなかったのか?」
「まさか」
 どこまでも人を犯罪者にしたいらしいユーリの物言いに、いい加減にしてくれと彼は大仰に肩を竦めさせてユーリを見返した。軽く睨み付けてやると、ユーリの方が先に視線を逸らしてしまう。
 掴んだ腕を覆っている服に皺が刻み込まれていた。
 俯き加減のユーリに一瞥を加えてから、スマイルは髪を掻き上げるとくるりと方向転換させた。自室でもなく、ユーリの方向でもなく反対側――階下へ行くための階段に向かって歩き出す。
 弾かれたようにユーリが顔を上げ、背中に問いかけた。
「どこへ?」
 最初の一歩を階段に落としかけたところで、スマイルは緩慢な動作で振り返る。
「決まってるでショ」
 右手を手摺りに置いて、丹朱の目を細める。告げたことばに、ユーリは意外そうな顔をしてそしてまた、視線を外し床を睨んだ。
「寝るんだよ、リビングでね」
 それは予測できたはずのことばだ。けれどユーリは考えてもいなかったようで、俯きながら口元に指をやり、それを浅く噛んだ。
 スマイルは待たず、さっさと階段を下りる作業を取り戻した。後ろから、ユーリが追いかけてくるのが分かる、けれど彼は声をかけられない限り振り返らないと決めていた。
「何故」
「決まってるじゃない」
 三階から二階へ。踊り場はない曲線を描く緩い階段を下り終えてようやく、スマイルは両手をズボンのポケットに突っ込んだ体勢で階段半ばのユーリを振り返った。
 これで分からなかったら、ユーリのこと、嫌いになりかねないな、と厄介な事まで考えながら彼は笑う。
「誰かさんに、これ以上犯罪者呼ばわりされたくないし」
 ポケットの中で手が無意識に、煙草を求めて蠢いていた。そこに隠されているわけではないというのに、指先になにかが触れて欲しくてしつこく動かしてしまう。見上げた視線は即座に外し、スマイルはまた姿勢を戻して歩き出した。
 煙草を掴むことが出来なかった手を出して、ひらひらと振る。
 けれど、その手が。
 背後から強引につかみ取られ、力任せに引っ張られたものだから。
「――――っ!」
 右足が滑って身体が大きく後方へ傾いだ。悲鳴を上げる事も出来ぬ瞬間技で、どうにか身体を反転させて腰を打つというような状況だけは回避するものの、目の前に見えた景色に驚愕して落下を防ぎきることは出来なかった。
 なんとか膝を強引に曲げて自分の身体と階段の最上段との間に隙間を作るが、しこたま角に膝の皿を打ちつけてしまって痛みに、全身が痙攣した。声を出そうにも喉まで痙攣してしまっているようで、呻くような短い息が吐き出されただけ。
「……ったぁ……」
 奥歯を噛みしめて痛みを堪えながらスマイルが零す。彼の下敷きになりながらも、潰されるのだけは回避されたユーリが、これ以上階段から身体が落ちていかないように後ろ手で身体を支えながら眉間に皺を寄せる。怪訝な表情は、しかし見る間に怒りに溢れていった。
「誰が、犯罪者だ!」
「ユーリがそうぼくに言ったんじゃないか!」
 夜間の怒鳴り声は驚くくらいによく響く。
 互いに反響し合う自分たちの声を耳にして慌てて口を噤み、息を潜めて音が消えていってくれるのを待つ。滑稽な時間をそうやって過ごし、スマイルは未だ傷む膝をずらして立ち上がろうとした。
 だのに、下側にいるユーリが彼の襟首を掴んで放さないから出来ない。
「ユーリ」
「本当になにかやったのか」
「なにを、さ」
「あの娘と、お前が」
「だから、あの子にはなにもしてないし、するつもりもないってば」
「だったら」
 スマイルにはユーリがなにをムキになっているのかが分からない。ユーリはスマイルがどうして分からないのかが、分からない。
「どうして」
 お前は、あの娘を連れ帰ってきたのか。普段なら他人などに殆ど興味を示さないし、どうでも良いと見捨てる傾向にさえあると言えるスマイルが、今日に限って、あの人間を連れてきた。追い出そうともせず、保護してその上自分の寝床まで提供してみせる。
 スマイルの胸ぐらを掴んだまま、ユーリは歯がゆい想いを噛みしめながらスマイルを睨み付けていた。
「お前は、あの娘が」
 “好き”なのだろう?
 次にユーリの口から飛び出たことばに、スマイルは一瞬目を見開いてことばを失った。
 随分と飛躍したようにも思われるユーリの台詞に、だがそれもこれまでの自分を思い返してみれば仕方がないかも知れないと思われて、スマイルは吐息を零した。
 ようやく合点がいって、掴まれる一方だった胸元に手をやり、ユーリのそれに重ね合わせる。
「確かにね」
 指を一本ずつ解いていきながら、彼は短く言った。ユーリが、そらみろ、という顔をしてからふいっと視線を横向けた。背中が当たる段差が痛いのか、表情も険しい。
 スマイルはそんなユーリの背にもう片手を添えて軽く力を込めて自分の方へ引き寄せた。見る間にユーリの表情が訝みに満ちていく。苦笑を浮かべ、スマイルは自分と一緒にユーリを階段に座り直させた。
 服の埃を手で払ってやり、自分は彼よりも二段分低い位置に膝をついて、座っているユーリを向く。曲げた膝の上に肘を置いて頬杖を付き、企むように笑っている顔は油断無い。
「好きだよ、あの子の事は」
 きっと、数ある人間の中では上位ランクに位置するだろう。そう人間の知り合いが多いわけではないので一概に比較も出来ないが、その他大勢の中では抜きんでているはずだ。あの特徴的な容姿や透明な心、底の見えない深い闇の色をした瞳には、魅せられている事を自覚しなければならないだろう。
 ユーリの表情が厳しくなり、そしてどこか哀しげに歪められる。
 スマイルは頬杖を解いた。
 お互いに出来ていた距離を一段分、詰める。ユーリは逃げるように階段からずり上がろうとした。
 けれどその手前で、スマイルは彼の手を掴み取った。
「好きだよ、あの子も……アッシュも、みんな。大好き」
 掴んだ手の冷たさにスマイルは顔を顰めた。いったい彼はいつから、この廊下に立っていたのだろう。その不器用さがおかしくて、嬉しく思えてしまう。
「アッシュ……?」
 今まで話題にも上らなかったもうひとりのメンバーを唐突に提示され、ユーリは目をしばたかせた。
 うん、とスマイルが頷く。
 距離が更に狭まる。吐息が掠め合う距離で見つめ合って、触れるだけのキスを彼に贈った。
 見開かれたユーリの紅玉色の宝石を見つめながら、彼は丹朱の瞳を細める。
 それからもう一度、くちづける。
「ん……」
 ユーリは拒まなかった。恐る恐るではあるが、せっつくように舌で上唇を押し上げると彼は自ら唇を開いて、彼を招き入れた。口腔内に濡れた音が小さく響く。
 自分から招いたくせにユーリは逃げ回るので、スマイルは追いかけねばならずそれが余計にくちづけを深くさせて追い上げられる方のユーリが途中、苦しそうに首を振った。弾みで外れた唇の隙間から赤い舌が覗いて、直視できなかったユーリがパッと顔を背け彼を押し返した。
 表面が濡れているユーリの唇にもう一度舌を伸ばして湿り気を奪ってから、スマイルは離れて行く。わざとらしく音を立てての彼のキスに、ユーリは軽く彼をねめつけた。
 しかしまったく気にした様子をみせず、スマイルは引き剥がされた分の距離を一層狭めてユーリの肩に己の額を押しつけた。
「ね、ユーリ。分かんない?」
 今彼が言ったことばの、正しい意味。
「ああ、分からん」
「分かってよ、それくらい」
 素っ気ない彼の物言いに、スマイルは苦笑を禁じ得ない。本当に分かってくれていないのか、それとも分かっているけれど自分に言わせようとしているのかまでは掴めない表情で彼は、真下にいるスマイルを見返していた。
 どことなく、その表情は楽しげにも映る。
 多分後者だろうな、と勝手に解釈してスマイルははっきりと分かる溜息をついた。
 結局自分はどこまでも彼に勝てないのだろう、永遠に。
「本当に分からない?」
「くどい」
 下から覗き込んで問いかけるが、ユーリの返事はつれなくてスマイルはむぅ、と頬を膨らませた。
 いっそこのまま言わずにいてやろうかとさえ思ったが、そんなことをしたらユーリがまた拗ねそうで、自分の首を絞めるだけだからやめておいた。
「だからさぁ……」
 分かってよ、ともう一度彼の耳元で呟いて。
 スマイルはユーリを抱き寄せた。
 抵抗もみせず、ユーリは大人しく彼に引き寄せられる。お互いの顔さえ見えない距離に、心音が重なって耳にうるさかった。
 けれど、嫌じゃない、こんな感覚も、気持ちも。
「ところでさっきのアレ、ヤキモチって思っても良いワケ?」
「…………誤魔化すな」
 肝心のことばを告げる前に間を置いて、スマイルはクスクスと笑いながらユーリの耳に息を吹きかけた。彼は居心地が悪そうに身体を揺すり、不機嫌な声を出して彼を小突く。それが尚更彼を笑わせて、ユーリは益々不機嫌を募らせていく。
「ユーリだけだよ」
 だからあんまり彼を怒らせてしまう前に、スマイルは笑ったままの声で言った。
「ぼくが、“好き”じゃないのは」
 分かってよね?
 もう一度、しつこく同じ単語を繰り返して彼はそっと、ユーリの頬に口付けた。
「ユーリだけだから、ね?」
 ゆっくりと視線が重ね合う場所に移動して、スマイルは隻眼で微笑んだ。
 薄暗い闇が包み込む廊下で、けれど階段に座ってスマイルに抱きしめられているユーリの頬が赤くなっていくのが分かる。もう一度その、赤い頬に口付けるとユーリは「そこじゃない」と聞こえるか聞こえないかギリギリの境界線上にある音量で呟いた。
 スマイルが顔を離し、ユーリを見返す。
「分かった?」
「…………聞くな」
 ぶっきらぼうに返し、ユーリは瞳を伏せた。
「キスして良い?」
「言うな」
「俯いてたら、キス出来ないもん。ね、していい?」
「だから、お前という奴は……」
「なに?」
 にこにこと微笑みながら、照れもせずにユーリに問いかけるスマイルを彼は恨めしげに、上目遣いにみやった。開き直ったとも思われる彼の態度の変化に、ユーリですら呆れ返ってしまう。
「きらい、だ。ばかもの」
「あ、ひどーい」
 わざわざ“嫌い”のひとことを強調してユーリが舌を出し、スマイルは傷ついた顔をして頬を膨らませた。
 そして直後、ふたりして声を出して笑って。
 もう一度、キスをした。
「ユーリだけだから、こんな事したいって思うの」
「分かっている」
「ね、ユーリはどうなのさ」
 重ね合わせるだけの軽いキスの合間に囁き合って、唇をぺろり、と舐める。問われたユーリはふっ、と表情を緩ませた。
「さあ、どうであろうな?」
 意地悪い口調で告げて、スマイルがなにかを言い返すよりはやく自分から首を曲げ、顔を寄せて口付ける。
 驚いたらしく、隻眼を見開いた彼に微笑みかけると、彼は「ちぇっ」と悔しそうに一度舌打ちをした。
 狡いよ、それ。
 呟きは、キスに紛れて声にならなかった。