Holiday

 街中を、彷徨う。
 行くあてなど当然ながら、ない。どこへ行こうかという思いすらそもそも頭の中にはなかった、ただ漠然と何処かへ行きたいと、それしか考えていなかったから。
 無駄に山を成している人混みを掻き分けながら、騒然としている世界を歩き続ける。季節外れの黒いロングコートに両手を放り込んだまま、無機質な世界を駆逐するようにただ前だけに進み続ける。
 視界に収まる電信柱と信号とを眺め上げ、あの信号が次赤に変わったら、あの角を曲がってみようと、そういう行き当たりばったり的な思考だけを残してそれ以外は放棄した。もし青だったならこのまま直進する。そして赤信号に出くわすまで、この道をただ真っ直ぐに進むだけなのだ。
 どこへ辿り着くかなど、予想も想像もしない。どこへ辿り着こうと構わないし、どこにも辿り着けなくても良いのだ。
 結局は、何処かへ――ここではない場所へ行ければそれで済むだけの事。
 喧噪と争乱で騒がしい限りの世界から抜け出して、静かに、空虚に時間を乗り越していければ。
 なにも考えずに、苦しみも喜びも遠く離れる事が出来るのなら、どれほどに楽な事か。
 なにも見つめず、映し出さず、また望まれもせず望みもせず、願いすら闇の中に溶けて消え失せる。
 存在さえも虚無に紛れて失われるような、そんな世界を求めていた。
 だというのに。
 ざわめく世界、色付く空間。
 ふと、そんな雑多に混じり合ってなんらかの感慨さえ浮かばせる事のない世界の一角において。
 さらり、と通り過ぎた音色に足が止まる。
 至極自然に、それがあたかも当たり前に設定された事物であるかのように。
 耳殻に流れ込んできた、軽やかでいて重みを含んだ、澄んでいながら色濃い音声に、背筋が震える。
 聞き間違いだと最初は思い、そして思いこもうとして、立ち止まったまま動くことを忘れてしまった足を叱りつける。
 動き止まない街の景色は、歩きすぎていく人々が好き勝手に立ち止まっているこの身体を押しつぶし、邪魔だと心の中で蔑んで去っていく。その声を聞きたくなくて耳を塞ぎたいのに、身体がまるで反応しない。
 聞こえてくるは、君の声。
 爽やかに、楽しげに――形作っている、あくまでも体面上の体裁を整えるためだけに用意された顔を使って。
『ええ、そうですね。音楽というものは、誰かを楽しませるだけのものではなく、なんらかの心に不足してしまっている穴を塞ぐ一因を為すものであると、考えています』
 質問者が差し出すマイクに向かい、伏し目がちに畏まった態度で言葉を紡ぐ君の姿が、目の前に聳える背の高いビル壁面を飾るテレビジョンに巨大に映し出されている。柔らかなクッションに背を預け、脚を組み、その一段高くなった膝の上で両手を結んでいる銀糸の、彼。
 あれは確か、先々週に収録された番組ではなかっただろうか。生番組であるとは到底言い難い編集のぶつ切りだらけな番組に、本当は出演を渋っていたくせに彼は最終的に、体面を重んじて出演を決めた。
 主に喋っていたのは彼だけだったものの、彼の後方に並ぶやはり柔らかな弾力を持つクッションに身体を預けている自分自身の姿も端切れながら、画面に見えた。
 膝から上部分と胸から下部分しか映し出されていないから、かなり滑稽である。
「……ユーリ……」
 営業の笑顔を絶やさない彼に、画面を見入っていたまだ年若い女性が数人、黄色く染まった悲鳴をあげた。彼女たちは今、自分たちの真後ろにその画面に映し出されている面々のひとりが立っていることに、まるで気付いていない。
 当然かも知れない。
 普段外すことがない包帯をすべて取り払い、その上常に隠し通している左目も隠すための包帯や眼帯を除去し、代わりに色濃いサングラスをかけている。黒のロングコートは異様ではあるものの、特徴を隠すのには一役買っていた。青白く化粧している肌も、人並みの色に変えているから、傍目からすれば少々風変わりな男、という程度にしか見えないだろう。
 誰も、この人物がdeuilのメンバーであるとは気付かない。
 彼は踵を返した。いつまでもこの場所に留まり続ける理由はない。収録場所には自分も存在していたのだから、彼が何を喋っていたのか思い出さずとも記憶している。目新しさはなにひとつ存在していないわけで、だから見ていても仕方がないのだ。
 ポケットに入れた両手を軽く握り、そこに汗がじっとりと浮かんでいる事に気付いて苦笑う。サングラスの下で両目が不釣り合いに細められた。
 後方の大型ビジョンでは、未だにユーリが録画された映像の中で喋り続けている。時折合いの手を求めて司会者はユーリの後ろに座る、バンドのドラムでありながらソロ活動も積極的に行っている人物にマイクを差し向けていた。
 思えばこの時、自分はただ座っているだけでひとことも言葉を発しなかったように思う。
 望まれていなかったのだろうし、そもそも自分は極端にバンドメンバーの中でも目立たない。そう仕向けてきたのは自分自身であるから、ある意味仕方ないといえばそれまでだろうけれど。
 リーダーはいたくその事を気にしていたような事を、今頃思い出した。
 誰かに注目して貰おうとも、誰かに好いて貰おうという気もなかったから、別段気にしてこなかったけれど……
「あぁん、どうしてスマイル映してくれないのよ!」
 後ろの方から、不満を口にする女性の声を直に聞いてしまって思わず吹き出してしまう。咄嗟に口元を隠し声も殺したものの、その瞬間に脇を通り過ぎていった人には不審に思われてしまったことだろう。サングラスで目を隠していなかったら、かなり怪しい人になっていたに違いない。
「なにを笑っている、貴様」
 人混みの中、憮然として立つ存在を思い出す。
 自分よりも数歩先を進んでいた背中が、前を向いて戻ってくる。
「べつに?」
「鼻の下が伸びているぞ」
 そんなにも若い女に黄色い歓声をあげられるのが嬉しいのかと、言葉尻に含ませて告げた彼に肩を竦めながら、笑って首を横に振ってみた。それでも納得できないらしい彼が、より距離を狭めて間近から睨んでくる。
「怒りはせん。素直に認めてはどうだ?」
 なにかを勘違いしているらしい彼が早口に捲し立てる横で、青信号に間に合おうと急ぐ人が肩をぶつけて走り去っていく。若干揺らいだ身体を立て直しながら、同じようにずれてしまったやはり顔を隠す薄紫色のレンズが嵌った眼鏡を直した彼に、二度首を振って先へ進むことを促した。
 目の前の信号は、交差点に辿り着く頃には赤に切り替わってしまっている事だろう。だから次の角は、左に曲がることにする。
 仕事が一段落ついて、朝から夕方まで予定が空いてしまった日の午後。
 なにかをするわけでもなく、ただ騒々しい街中を歩き回る事で終わらせてみようと思った、気紛れな時間。言い出したのは、どちらが先だったのか。
「君こそ」
 街中で、嫌というくらいに目立つ銀糸の髪は黒のウィッグで隠して更に念入りに帽子まで被って、眼鏡に普段なら殆ど袖を通さないカジュアルな衣服に身を包んで。
 ただ忘れずに首許には十字架をあしらったネックレス。細い指には少々重そうな印象を抱く、ごつごつした飾りのあるシルバーのリング。踵のない靴に不慣れそうにしながらも、アスファルトを快活に蹴って歩く君の、背中。
 名前を呼ぶことは憚られて、少し悩んで二人称で呼びかけると少し不満げに、彼は振り返る。相変わらずポケットから両手を抜き出そうとはせず、スマイルはサングラスの下で両目を細めた。
 片方だけが金色の瞳が、スモッグに煙る地上に揺らぐ。
「ちゃんと、名前で呼べ」
 この人混みの中でそんな抽象的な呼び方をされても、次からは返事をしないぞと脅しをかけてくる彼に、もし誰かに見付かり出もしたら? と言葉を返すけれど。
 ユーリは不遜に笑んで、自信満々に胸を張った。
「今日はオフだ、仕事は一切無しだ」
 寸分の迷いも逡巡さえなく断言し、人差し指を突き立てる。
 思わず呆れてしまったスマイルにもう一度笑いかけ、彼は踵を返した。
 赤信号だろうと思った目の前の三食団子は、いつの間にか青へと切り替えられている。このままでは直進せざるを得ない。
「行くぞ」
 この道がどこまで続くのかは、知らない。どこかで行き止まりにぶつかるかもしれない、そうなる前に角を曲がって新たな道に交わるのかもしれない。
 どこへ行くのかなんて、今はまだ知らない。
「はいは~い」
 ポケットの中で握っていた手を解く。浮かんでいた汗は、暫く放置しておけば気化して跡形もなくどこかへと紛れた。
 サングラスの色越しに歪んだ世界を見つめる。
 その中で、唯一真っ直ぐに映し出される空間。中心に柱のようにそびえ立つ、君。
 揺るぎない自信と、確固たる信念と、それでいて酷く脆く砕けやすい精神を持ち合わせた、君。
 君はいったい、何処へ行くの? どこまで行くの?
 背中に声無く問いかける。
「あ」
 ゆっくりと進んでいる間に、人波は速度を落として間もなく、信号は明滅して赤へと切り替わってしまった。白とアスファルトの色とが交差するゼブラ地帯に取り残された人々が、大急ぎで駆け抜けていく。また、切り替わった直後であれば対向車線から走り込んでくる乗用車が無いことを確認した上で、違法を承知しながら駆け出す人の姿もいくつか見受けられた。
 速度を落とし、完全に制止した人の群れに背後につき、ユーリはほんの少し退屈そうに背後を降り仰いだ。
「曲がるのか?」
「そうだねぇ……」
 最初から目的地など無い。どこへ行くのかも定まらず、どこか行きたい場所があるわけでもなし。
 ただ歩き回るだけの、そんな時間の過ごし方。
「曲がる?」
「そうだな」
 青信号なら直進、赤信号なら進める方向に曲がる。それが最初に決めた、たったひとつのルール。腹が空いたならその近くにあるありふれた喫茶店で茶を飲み、疲れたならやはりそこらにある店で休み、気が向けば店舗も覗いて、気ままに、好き勝手に、ただ思い立つ道を進むだけ。
 何処へ行くのも自由。
 何をするのも、自由。
「ね、ユーリ」
 道端に掲げられた大きな看板を目にして、スマイルが前を行く背中に声をかける。
 ユーリが見たのは、平日の昼間だと非常にお安く設定されているカラオケボックスの宣伝文句だった。一時間ワンドリンク制で、ふたりで利用しても五百円硬貨でお釣りが来るという値段に、金銭感覚がただでさえ狂いがちなユーリは眩暈を覚えた。
「歌って行こうか」
「今日くらい休ませろ」
 とは言いながら、休日に身体を酷使して行くあても定めず方々を歩き回っているのは誰でしょう。疲れたんだよ、とにべもなく告げるスマイルに、ユーリはこめかみを眼鏡の上から押さえた。
「昨日まで散々歌ってやっただろう」
「チガウヨ、ユーリ」
 片言になりながら、サングラスの裏で瞳を細める。裏道に紛れた所為か先程よりも人波が減った中でも、カラオケに繰り出す若者は多いのか、時折看板の横で立ち止まっている男ふたり組を奇妙な目で見つめながら人は通り過ぎていく。
 さすがのユーリも人目を気にしてか、声を潜めさせた。入り口付近で待ちかまえる店員も奇異な目を向けてくる。
「なにが違うと?」
「だってさ~、昨日のコンサートでユーリが歌ってたのは」
 ファンのみんなのため、でしょう?
 間違っても彼の歌声は、目の前に波模様に広がるファンの為に捧げられたものであって、背景として音を作り出しているバンドの面々の為に紡がれた音色ではなかったはずだ。
「だから、さ。ユーリ」
 唄ってよ。
 ぼくのために。
 他の不特定多数の、顔もろくに見えやしないし知りもしない相手の為に、などではなくて。
 目の前にいる、他でもないこの身の為に、その声を捧げてはくれないか?
「……我が侭」
「それが取り柄ですから」
 ややして、呆れ調子に溜息を零すついでに呟いたユーリに、にっこりと微笑んでスマイルはあっけらかんと言い放った。
「高いぞ?」
「ん。でも料金はお安く設定されております」
 わざとらしく看板を手の平で指し示して、店員の宣伝文句を口にし、それから喉を鳴らして笑う。ようやくユーリもふっ、と表情を緩めた。
「貴様持ちだからな」
「それは授受承知の上。誘ったのはこっちだし?」
「分かっているのなら、それでいい」
 多少汚いように思える店構えではあるが、今日はオフ。行き当たりばったりの散歩を強行しているわけだから、こういうことだって起きても不思議ではない。
 たまになら、良いか、と。
 一旦閉じた目を開いて、ユーリは静かにひとつ頷いた。

Ribbon

 ユーリは、朝が苦手だ。
 時間が許す限り、ずっと眠っている。放っておくと、夕方日が傾くまで起きてこない。日が沈んできてから目覚める事もよくある。そして普通に、時計の長針と短針が重なり合う時間帯にはまたベッドに潜り込む、というのだから奇妙な話だ。
 そのままずっと目覚めなかったらどうしよう、と危惧する事も希ではない。そして不安を覚えるたび、そっと彼の寝室に忍び込んで彼の寝息を確かめてしまう。不安はこれまでずっと杞憂で済んでいたが、この先もそうであると考えるのは浅はかというもの。
 吸血鬼の眠りは、いつも気紛れに訪れるから。
 そして今日もまた、ユーリは起きてこない。
 本日は、お仕事。しかもユーリの苦手な朝早くからだ。
 スタジオの都合とかで、番組収録が早朝スタートになってしまったらしい。いつもならばもっと余裕のある時間帯に設定して貰えるのだけれど、今回限りはどうしようも無かったらしい。平謝りされては、こちらも承諾しないわけにもいかなかった。
 で、一番問題の。
 ユーリが起きてこない。
 彼はこのバンドのリーダーであり、すべての決定権を所有している。彼がノーと言えば反対意見を提示しても結局、彼が決めた通りに行動するしかない。逆らえば、雷が落ちてくる。
 だから一番困るのが、ユーリの居ないところで色々と決めなければならないことが生じてくる場合。勝手なことをしたとユーリに叱られたくはないが、勝手をしないと事が進まないという事態もなるべく避けたいところであり。
 門の前にアッシュが車を出し、エンジンも充分温められた状態でスタンバイされて、そろそろ半刻。ちらりと城の中央ホールから壁に据えられている大時計を見つめ、スマイルはひとつ溜息を吐いた。
 あと四半刻以内に出発しないと、収録に間に合わなくなってしまう。荷物をまとめた鞄に結ばれている、ひも状のリボンを指先で弄りながら彼はまた視線を戻し、今度はアッシュへと目を向けた。
 彼もまた沈痛な面持ちで、落ち着きなくその辺りをうろうろとしている。
 呼びに行けばいい、という問題ではない。こっそり、部屋の主にばれないように侵入して出ていくのは構わなくても(本来はダメである、当然ながら)、主人に断り無く部屋に入る事は許可されていない。ユーリは寝ているところを叩き起こされるのが、なにより嫌いなのだ。
 だから、もし彼がまだすやすやと夢の中であったとしても、ベッドサイドまで行って耳元で「起きろ!」と叫ぶ事は命を失いかねない事。その直後、山よりも重くダイヤモンドよりも硬い怒りの鉄槌が降り注がれるだろうから。
 実際、一度はスマイルもアッシュもその鉄拳の制裁を喰らった事があるため、二度とやりたくない、というのが本音である。
 指先にくるくるとリボンを絡め取り、スマイルはもう一度重苦しい溜息を落とした。アッシュがばん! とその場で勢い良く床を蹴る音が、静かなホールに痛く響いた。
 反射的に肩を竦めてしまったスマイルの指に絡んでいたリボンがするりと、結び目を解いて鞄から外れた。いったい誰が巻いたものなのか、焦げ茶色の手提げ鞄には不釣り合いな薄水色のリボンを改めて見つめ直し、彼は首を捻った。
 まあ良いか、と指に巻いたままのリボンごと手をコートのポケットに入れ、その中に落とす。
 ユーリが目覚めて来ず、このままではスタジオに間に合っても着替えをしている余裕が無さそうなだと判断し、スマイルもアッシュも既に衣装を着込んでいる。車の中で着崩れしないか不安ではあるが、コートなので大丈夫だろう。
 残る問題としては。
 スマイルはそこまで思考を巡らせ、視界を頭上にある螺旋階段へと向けた。そこに人影は見当たらず、空虚な空間がぽっかりと穴を広げて待ちかまえているだけに過ぎない。
 はあぁ、と。
 頬杖を付いて床の上に座り直す。また苛々とした様子でアッシュがくるくるとその場で回り始め、そんなことをしていたら余計に落ち着かなくなるよ、と声をかけるが果たして彼に届いただろうか。
 ふぅ、と。
 今度こそ諦め調子で息を吐き出し、スマイルは無言のまま立ち上がってコートの、床と擦れ合ってしまっていた部分を軽く叩いた。埃を落とし、本当に軽くだけれども皺も伸ばして、それから背筋を伸ばす。ずっと座ったまま待っていたので身体中がその体勢で固まってしまっていたらしく、各所で骨が擦れて音が響いた。
 嫌そうな顔をしてアッシュがこちらを見る。苦笑を零して返し、軽く肩を竦めて首を振ってやった。
 ひんやりとした空気、張り詰めているだけのホールが一瞬緊張する。
 ああ、と古めかしい大時計を見やってスマイルはその元凶を悟った。
 ボーン、と腹の底に響く音色が時計から発せられる。繰り返されること、七回。何故か真夜中にだけ鳴り響くことを控えてくれる便利な機能を勝手に持ち合わせた大時計は、時々予想もしなかった時に音を響かせてくれた。
 まるで人間のように気紛れなところを持つ時計が、午前七時を告げた。同時に、アッシュが盛大な溜息をついてがっくりと肩を落とす。
「じゃんけんでも、する?」
 握り拳を片手分、持ち上げてスマイルは笑った。負けた方がユーリを起こしに行く、という提案に気乗りしない顔でアッシュは彼を見つめ返す。どことなく、視線が死線を彷徨っている感じだ。
 その彼の姿にスマイルは喉を鳴らしてまた笑い、上げた手を下ろす。視線を持ち上げ、何もない空間であるはずの階段上を眺めた。
 にぃ、と彼の唇が歪む。
「アッシュ、車に荷物」
 それから朝ご飯とかも、とバスケットに入れられているサンドイッチ(ひとり分)と飲み物も彼に預け、スマイルはひとり階段へ向かった。数段飛ばしに駆け上る。背後では、数秒遅れで気がついたアッシュが慌てて、荷物を両手一杯に抱え持ち玄関を走り出ていった。
 アイドリング中だった車のエンジン音が、再起動をかけられてけたたましく響き渡る。あの調子だと、規定速度を軽く百キロオーバーで走り抜けてくれそうだ。必死の形相になって居るであろう彼を想像して苦笑し、スマイルは最後の一段を昇り終えた。
「ユーリ」
 着地と同時に、彼を呼ぶ。
 ユーリは、今目を覚ましたばかりです、と顔に書いてあるような表情でうむ、と一度頷くに留まった。
 かろうじて寝間着から衣装……こっそりとスマイルが枕許に用意しておいたのだけれど、それに着替えてくれていて内心、彼はほっと安堵する。
「起きてる?」
「……眠い」
 そりゃぁ、そうでしょうけれども。でも貴方よりも遅い時間に眠って貴方よりも早い時間に目覚めて準備も万端な自分たちは、では一体どうすれば良いのでしょう?
 思わず問いそうになった言葉を笑いで噛み殺し、スマイルはひととおりユーリの服装をチェックしてみた。大丈夫だとは思うが、寝ぼけた頭のまま着替えたようでボタンの掛け違いがあっては大変だからだ。
 もっとも、ざっと見た感じではその様子はなく、またしても安堵の息を零してスマイルは肩に預けていた緊張を下ろした。
 それに伴い、同じように落ちていった視線がふと、ユーリの胸元へと注がれる。
「ユーリ」
 曲がってる、と彼が指さしたのはユーリの胸元に結ばれている細いリボンタイだ。それが見事に、縦結びになってしまっていた。
「ん? あぁ……」
 本当だ、とカメの歩みの反応でユーリは視線を落とし、かなり不格好な結び方になっているリボンを見下ろす。縦に曲がってしまっているそれを確かめ、しゅるり、と片方を引っ張って解いた。
 スマイルが焦れったく思いながら待つ前で、ユーリは不器用な手付きでもってリボンを結び始める。だが眠たさが勝るのか直ぐに瞼が落ちてしまいそうになり、あまつさえ身体までよろめいている彼がまともにリボンを結べるはずがない。
 よくこれで転ばずに着替えられたものだ、と感心しながら眺めて待っていると、階下からアッシュの怒鳴り声が聞こえてきた。もう出発しないと幾ら急いでも間に合わない、という内容の叫び声に、スマイルは頭を掻く。
 今のアッシュの叫びでもってしても、ユーリの眠気は飛んでくれなかったようだ。今にも立ったまま眠りに堕ちてしまいそうな感じを醸し出している彼に、大袈裟に肩を竦めて天井を仰ぐ。
「貸してご覧?」
 仕方なくスマイルは左手をユーリに向けて差し出した。
 とろんとした目でユーリが彼を見返す。しかしそれ以上動かない彼に結局は痺れを切らして、結局のところスマイルは強引にユーリの手から結びかけのリボンタイを奪い取った。
「スマイル?」
「じっとしてて」
 下手に動かれると、首締めちゃいかねないからと、有る意味恐いことを口に出してスマイルはユーリを黙らせた。黙らせるどころか、何かを勘違いしたユーリが呼吸まで止めてしまっていたのには、気付いたときさすがに苦笑うしかなかったけれど。
 細いタイの裏側に人差し指を添え、親指とを使って器用に楕円を作り、間に通して行く。少しでも形を崩してしまっては、胸元というところは人の視線が集まりやすい場所でもあるため、全体のバランスを壊してしまいかねない。だから急ぎながらも焦らず、慎重にスマイルはタイを結ぶ。
 再度アッシュの怒鳴り声がホール内を反響していった。
「はい、出来た」
 ぽん、と出来上がったタイの上を軽く掌で押して叩き、スマイルはにっ、と笑ってユーリを見る。綺麗に出来上がったリボンタイを見下ろしたユーリも、まだ半分頭が眠っているのだろうか。珍しく無防備に笑顔を向けてくれた。
 お願いですから、普段からもっとそういう笑顔を向けてください。切に祈りたくなるのをなんとか押し留め、スマイルは急かすアッシュの方へとユーリを誘い始めた。
 けれど階段を三段ほど降り、先に行くユーリの後頭部を見下ろしてからふと、ある事に気付いてしまった。
 ――跳ねてる。
 そう、ユーリのあの艶のある銀糸の髪がひとふさ、つむじの下辺りで見事なまでに跳ね上がってしまっていたのだ。
 心の中で慌てて、手摺り越しに大時計の文字盤を確かめる。もう時間がない、ドライヤーを持ってきて櫛を通す余裕はどこにも見当たらない。車の中でセットし直すのにも、恐らく楽勝で百キロオーバーのまま走ってくれるだろうアッシュの運転の中でやったとしたら、余計にあちこち跳ね上げてしまいかねない。
「う~ん……」
 しばし、悩む。無意識にポケットに差し入れた左手が、指先になにかを発見して絡め取った。
 取りだしてみると、それは先程、自分で鞄から抜き取ってしまった薄水色をしたリボン。少し結び癖がついてしまっているけれど、全体的に細めなのであまり目立たない。長さも、ユーリの跳ねている髪と見比べてみて申し分なかった。
 彼は怒るだろう、確実に。
 でも、元はと言えば時間通りに起きてこないユーリが一番悪いわけだから、と。
 必死に自分の中で言い訳をして、でも顔はにこやかに楽しげに、それからとても嬉しそうにリボンを真っ直ぐに伸ばし、ユーリが歩いている中を邪魔しないようにだけ気を払って。
 アッシュが玄関のドアノブに手を置いたまま、忙しなく手招きを続けていた。ちらりと最後に大時計を振り返って時刻の確認。玄関の重厚な扉を潜り抜けると、それは自動的に閉まってなおかつ、内側からかんぬきまで勝手にセットされてくれた。
「何してるんスか……」
「ちょっとね~」
 跳ねを誤魔化してるんだよ、と訝むアッシュに笑いながら告げ。
 ユーリの綺麗な髪の毛に、違和感無く溶け込んでしまっている水色をしたリボンをきゅっ、と強めに結んだ。跳ねている髪以外にの回りの髪を少しだけ取り込んで、寝癖を目立たなくさせてみたが案外、おかしくないところが可笑しい。
 アッシュは渋面を作ったが、急いでいるので深くは追求してこなかった。素早く運転席へと乗り込み、シートベルトを装着する。
 スマイルもまた、ユーリを押して車の後部座席に一緒に乗り込んだ。シートの上に置かれていた鞄を思わず蹴り飛ばしてしまい、形が崩れてしまったそれを抱き直して足許に下ろす。
 けたたましいエンジン音が耳に響いて、サイドブレーキを解除したアッシュがクラッチを踏んで一息にアクセルを全開にした。
 ぐわん、と背中がシートに押しつけられるGが発生する。
「アッシュ、安全運転!」
「了解っス!」
 偶にハンドルを握ると人格が変わる、という奴が居るけれども。
 アッシュも実のところ、例外ではなかったりして。
 冷や汗を背中に流しながら、スマイルは内心ドキドキしている心臓を片手で押さえ込みふーっと長い息を吐き出した。目まぐるしく移り変わって背後に流れていく景色に目をやる気力も起こらない。
 ひとまずここまで来ておけば、なんとかスタジオ入りはギリギリだけれど時間に間に合いそうである。例え間に合わない時間であっても、アッシュが強引に間に合わせることだろう。
 スマイルは車の発進時に崩してしまっていた姿勢を直し、それから傍らを見た。そこにはユーリが座って……いなかった。
「寝てるよ」
 三人分並んで吸われるだけのスペースがある座席シートに上半身を横たわらせて、自分の手を枕にすやすやと寝息を立てていた。行儀良く、なるべく衣装を型くずれさせないようにしているのは良いことだったが、緊張感はまったく感じられない。
 あと数十分で仕事が始まる事を、きちんと理解できているのだろうか。不安になった。
 が、やはり起こすのには忍びなく。
 眠っているときは大人しいのにな、と整った寝息をこの、最高時速百五十キロオーバーな自家用車内で立てているユーリをずっと眺めていたスマイルだったけれども。
 だから、わざとではないのだけれど。
 ユーリの髪に結んだリボンのこともすっかり、忘却の彼方へと旅立たせてしまったあとで。
 しかもスタジオに待機していたスタッフの誰しもが、ユーリの雷を知っているので追求しなかっただけかもしれないのだけれど。まさか衣装の一部だと思われていた、という事はないだろうが。
 あのリボンは結局最後まで解かれる事を知らなかった。
 そして、後日。
 収録された分のビデオがユーリの城へ届けられ。更にリビングの大型スクリーンでそれをチェックしていた彼の背後で。
 こそこそとスマイルが姿を隠そうとした中、ユーリの怒号が城を傾けるくらいに響き渡ったと言うことは。
 もちろん、冗談などではない。

Piano

 軽やかに鳴り響くピアノの音色に、広すぎる城内を彷徨っていた彼女はふと、足を止めた。
 案外に近い。防音設備が整っているからだろうか、この距離にまで接近しなければ気づけなかった音色に僅かに首を傾げ、彼女は音がする部屋の扉へと進んだ。そしてなるべく慎重に、ピアノの音色を邪魔しないように心がけながらノブを回して押し開く。
 自分の顔の半分程度開いて、中を覗き込むとやや薄暗い室内に置かれたピアノを前にして座っている背中が見えた。
「あ……」
 小さく声を漏らし、もう少し手に力を込めて扉を開いてみる。ほんの少し起きてしまった蝶番の軋む音に、怯えたように肩を縮めながら彼女はその細い肩に揃えるようにカットされている髪の毛を揺らした。
 髪の色と同じ漆黒のワンピースが裾をはためかせる。ドアノブに両手を預けるようにして添え、ドアに体重の半分を預ける格好のまま、彼女はよりはっきりと視界におさめることが出来るようになった人物を見つめた。
 普段の様子からではとてもピアノを奏でるような性格には思われないのに、ひとたび黒塗りの大きなピアノを前にしてしまうとその思いも呆気なくうち砕かれてしまう。スタインウェイと言われる超高級ピアノを難なく弾きこなす彼の背中は、時折リズムに合わせて左右に揺らいだ。
 じっと、入り口に立ったまま眺め続ける。
 奏でられている曲名は彼女の知らないものだった、だけれど心安らぐようなそんな雰囲気がある。優しいメロディーに心預けていると、不意に音が止まった。
 邪魔をしてしまったのだろうか、びくりと体を震わせて彼女は扉から身体を半歩分退いた。しかし背中を向けたままの存在は左手を脇に伸ばしてペンを取り、手早くスコアに何かを書き込んでいった。ペンが置かれると、再びその手は鍵盤を弾いて多重の音色を奏で始める。
 ホッと、何故かそんな息を吐き出した彼女に、だけれど、
「中に入っておいでよ」
 予想していなかった呼びかけに、またしても身体が緊張を覚えて立ちすくんでしまう。気配を察したのだろうか、次に続けられた言葉には若干の笑みが含まれていた。
 カラカラとまでは行かずとも、楽しげな様子が伝わってくる。
「こっち、おいで。怒ってるわけじゃないから」
 片手だけでメロディーを爪弾きながら、もう片手で手招きをする。その間も彼の眼は前を――ピアノを見据えたままだった。
 恐る恐る彼女は足を踏み出した。扉から離れ、冷たいフローリングの床をゆっくりと進んでいく。足裏に伝わる温度の低さは、彼女がその足を庇うものを一切纏っていない事が原因だった。
 用意されたスリッパは上物すぎて、自分が履くことも憚られたからベッド脇にそのまま置き去りにしてきてしまった。
 ピアノの音色が近付き、鍵盤の白と黒が視界に納まり始めた頃、ようやく彼は片方だけしかない瞳を持ち上げて彼女を見た。血よりも赤い丹朱の瞳が、漆黒に染まる彼女の双眸を見つめ返す。
 にこりと、先に微笑まれた。
「よく眠れた?」
「……ピアノ」
「ん?」
 朝食は食べたの? という問いかけには首を横に振って答える。食堂へ行こうにも、その食堂へ行く道順が分からなかったし案内してくれる人も居なかった。目が覚めれば部屋にはひとりきりで、洗濯を終えてアイロンもきっちりかけられた服が置かれていただけ。それで不安にならずに済む方が可笑しい。
 全部を言葉で説明されたわけではないが、「誰も居なかったから」という返事で一通りの事情を察した彼は薄く笑みを浮かべたまま、困ったように肩を竦めた。
「お腹空いてる?」
 壁に据えられた時計を見上げれば、朝食の時間帯にはほんの少し遅い感じがする時間帯だった。もうじき行けば大工のおやつ時間になってしまう。いわゆる、十時。
 鍵盤を見ずとも音を紡ぎ続ける器用な彼の手を見下ろしたまま、彼女はふるふると二度首を横に振った。そう、と彼はそれだけを短く返し、一旦手を止めてまたスコアになにやら記号とコードを書き込み始めた。
 機械的にも思われる動作を不思議そうに眺める彼女に、彼は乱雑なメモになってしまっている紙を見せてくれた。時折詩のような言葉も書き込まれているそれは、本当にメモ程度としか彼女には分からなかった。
 だけれど彼にとっては、それは新曲を作る為の大事な資料。ノルマの提出が迫っており、残る曲目の作成に彼も彼なりに必死な時期なのである。
「ピアノ」
「ん」
 ぽろん、と表面を撫でるようにコードを順に引いていった彼の耳に彼女の呟きが届く。じっと見つめられたままのスタインウェイもどこか照れくさそうだ。
「……じょうず、だね」
「ああ」
 ちゃんとした曲の形を成したものを弾いていたわけではないので、今のところだけを聞いて上手か下手かを判別されるのは本当のところ、彼としては不本意だった。けれど少女の純粋な感想であり、この場合はありがたく受け取っておくことにする。
 でも、と彼は続けた。
「ユーリの方がもっと上手だよ」
 鍵盤楽器はどちらかというと、不得手な方なんだよと告げると彼女は少し不思議そうに首を右に揺らした。
「そうなの……?」
「うん」
 問いかけに頷いて返し、彼はまた鍵盤へ向き直る。けれど両手をいざ弾こう、と構えたところで空中に停止させた。
 身体はスタインウェイに向けたまま、少女に視線だけを向ける。
「リクエストとか、ある?」
 今だけ特別に、聴きたい曲を弾いてあげると、と彼は笑った。但しぼくが知ってる曲だけだけどね、と後から付け足して。
 少女は少し困ったように顔を翳らせた。彼の座る背もたれのない椅子に寄り添うように立ち、思案顔で俯く。口元にやった右手は透けるように白く、ガラス細工のように細い。
「えっと、ね……」
「これなんかは?」
 結論が出ずに困っている少女に助け船を出すつもりで、彼は言われるより先に指先へ力を込めた。
 両手を器用に動かしながら奏でる曲は、童謡。
 子供達の遊び唄。

 かごめ かごめ
 かごのなかの とりは
 いついつ でやる
 
「その唄、……きらい」
「え」
 ぽつりと、聞き漏らしてしまいそうな程にか弱い声で呟かれたことばに、彼はそのタイミングで手を止めた。中途半端に浮いてしまっている手をゆっくりと鍵盤上に下ろす。
「嫌い?」
 彼女の名前と同じ曲、だけれどそれを嫌いと彼女は言った。俯いたままでいる彼女を暫く眺めたのち、彼は困ったように左手で頭を掻く。隻眼を細めて零した息は、鍵盤の隙間に沈んで音もなく消えていった。
 問いかけに、彼女はひとつ頷くだけ。
「わたしは、いつもまんなかでひとりぼっちだもの」
「…………」
 押し殺すように囁かれた言葉は聞き流して終わりにする。一瞬流れた重苦しい、それでいて居心地の悪い沈んだ空気は、スタインウェイが落とした一段と高い音によって揉み消された。
 とん、とん、とん。
 同じキーを何度も弾ませた彼の指先がやがて、ひとつのメロディーを演奏し始めた。それは耳に良く馴染んでいる楽曲。軽快な音色と、楽しい歌詞でも知られている。
「これ、知ってる」
「知らないは知らないで、凄いと思うけどねぇ」
 苦笑しながら彼はメロディーが一巡すると、調をひとつずつずらしてまた一巡させ、そしてまた調を変えていく。次第に表情を綻ばせていく彼女を見上げて安堵の息をもらし、四巡させて彼は手を休めた。
 面白かった、と彼女は言った。最後の方ではついつい、ピアノに合わせて身体を揺らしてリズムまで取っていたその曲名は『ねこふんじゃった』。
 ふぅ、と長めの息を吐き出した彼は改めて少女を仰ぎ見た。隻眼を緩め、小首を傾げて問いかける。
「リクエストは御座いますか? お嬢さん」
 笑んだ彼に、彼女も笑みを返す。控えめな、春先の野原に咲く小さくて白い花のように。
「あの唄が、いい」
「どの?」
「つばさ、……」
 言いかけ、途中で彼女は口澱んだ。タイトルを言おうとして思い出せなくなったのだろう、視線を泳がせた先がなにもない空間に宿る。窓から差し込む光に心持ち目を細め、困惑を顕すかのように艶のある黒髪を左右に振り、落ち着きなく指を曲げ伸ばしさせた。
 その彼女を眺め、彼は左手で鍵盤を幾つか押した。固めに調節されたそれが抵抗し、半ば程まで沈んでそれ以上進んではくれなかった。
「歌詞は覚えてるの?」
 彼女を見ぬままに問いかければ、控えめに少女は頷いた。返事に視線を持ち上げた彼と目があった瞬間、彼女は避けるように顔を逸らす。
「出だしだけでも歌ってくれたら、多分分かるよ」
「でも……」
「歌うの、嫌い?」
 重ねて問いかけると、彼女は遠慮がちに首を振った。しかし抵抗感が残るようで、口元に手をやって形良いピンク色をした唇を隠してしまう。
 ふっ、と彼は吐息を零して微かに笑った。鍵盤に向き直り、スタインウェイの表面を軽く撫でてやる。
「多分、君の言ってるのはこれの事だと、思うけど」
 違うかな、と呟きながら彼は鍵盤上で軽やかに両手を踊らせた。
『翼をください』
 そう名付けられた曲を、若干のアレンジをくわえて彼は奏で始める。演奏に耳を傾けながら、少女は些か驚いた顔をして彼の手元を凝視した。
「飛んでいきたい?」
 歌詞になぞらえ、彼はそう尋ねた。鍵盤上に指先を滑らせながら、前だけを見据え続けている彼に少女は小さく、頷く。
 どこへ、とは問われなかった。ただ、そう、と短く返されるだけで会話は途切れた。

 今、もし
 この願いが叶うのならば
 私の背中に真っ白い翼を
 そして自由の空へと羽ばたかせて

Fool?

 まさに春爛漫と言わんばかりの穏やかな空模様の午後。ユーリはいつものようにテラスのパラソルの下でのんびりと、午後のティータイムを楽しんでいた。
 陽射しは柔らかく温み、空から地上を見下ろしている陽光も限りなく優しい。パラソルが作り出す木陰に椅子を置きその上に腰を下ろした彼は、ゆったりとした気分で紅茶を口に含む。
 伸ばした片手は真っ白いクロスが被せられた丸テーブルに据えられた、やはりこれも真っ白い平皿の上に盛りつけられた焼きたてのクッキーに触れる。人差し指と中指だけでひとつ摘み上げ、軽く前後に振って形と色を確かめながら口元へと運んだ。
 カリッ、と前歯で囓れば焼きたての芳しい香りと、なんとも言えない仄かに甘い味が舌全体に広がる。まるで魔法の粉を使っているのかと思わせるほどに、それは市販されているものとは明らかに異なる味をしていた。
「アッシュ」
 傍らでまるで執事のように控えているバンドメンバーに声を掛け、半分ほど囓ったクッキーを彼に示す。これを作ったのは彼であり、ユーリが感じた味の秘密を知っているのもまた、作成者である彼だけなのだ。確か、テーブルに運ばれてきた時にオリジナルだとアッシュが自ら口にしていたから。
「これは、どう違うのだ?」
 穏やかな空気が周囲を流れる。時折吹き付ける風は遠く、どこかの青く茂る若葉の香りや、咲き乱れる色鮮やかな花々の香りを運んできてくれる。
 静かに瞳を閉ざし、そして再び開いて、ユーリはアッシュを見た。紅茶のポットを両手で支え持っていた彼は、待っていましたとばかりの顔つきで一歩ユーリへと近付く。
「それはっスね」
 いつもの口調で彼はユーリに語りかける。ポットにまだ沢山残っている紅茶がちゃぽん、と揺れて音がした。
「実はっスね……」
 やけに神妙な顔をして、いかにも秘密ですよ、という雰囲気でアッシュは声を潜めてユーリに近付く。ユーリもつられ、つい真剣な顔になってアッシュに次の言葉を待つ。ごくり、と唾を飲み込む音を立てたのは果たしてどちらだったのか。
 一呼吸置いて、アッシュが喋る。
「隠し味に、鷹の爪を少々……」
「アッシュ」
 しかし、硬質になっていた空気はアッシュが台詞を最後まで言うことなく見事に砕け散った。
 いくらユーリであっても、“鷹の爪”と呼ばれる食材が何であるかくらい知っている。そしてそれが、この微かに甘い味を作り出すものではない事も承知している。
 だからアッシュが言ったのは、紛れもない嘘。
 そう、冗談。
「……ユーリ……」
 最後まで言わせて欲しいっス。
 泣き言を言うアッシュに一瞥を加え、ユーリは手元のカップに残っていた紅茶を飲み干した。溶け損ねた砂糖が底の方に沈殿していたらしく、最後は妙に舌の上で甘ったるい味が残る。
 無言のまま彼はアッシュへ、空になったカップを差し出す。
 アッシュはまだどこか無念そうな顔をしつつもユーリには逆らえず、同じように無言のままカップへ暖かい紅茶を注いだ。
 白い湯気が薄く、春の空へと昇っていく。
 その光景をしばし見送って、ユーリはカップへ自分でミルクを数滴垂らした。ティースプーンで掻き混ぜると、薄茶色い液体の水面に白い渦が描き出される。暫く見送れば、ミルクは完全に紅茶と混じり合って半透明だった液体を薄く濁らせた。
 ひとくち含むと、優しい味が広がって砂糖の甘さをうち消してくれた。
「ふぅ」
 息を吐き、カップをソーサーへと戻してユーリは空を仰いだ。パラソル越しに見える太陽は薄い雲に囲まれて、輪郭を若干ぼやけさせている。だがその分陽射しは落ちついているし、直射日光を遮断してくれていてユーリにとっては救いだった。今日のような天候でなければ、とても外で茶を飲もうという気分にはならなかっただろう。
 日光で灰になる事はないが、苦手である事に違いないのだから。
 一息ついてユーリは食べ差しのクッキーを口に放り込んだ。数回咀嚼し、飲み下す。ごくり、と上下した喉を見送り、アッシュは持ったままだったポットをテーブルに戻した。ティーコジーを被せ、テーブルを挟む格好でもうひとつ置かれている椅子を引く。
 その椅子にアッシュが座ろうとした時。
 午前の早い時間からずっと姿を見かけなかったスマイルが唐突に、屋内と屋外を繋ぐドアを勢い良く開けて現れた。
「此処にいた!」
 扉の蝶番が壊れるのでは、という凄まじい勢いでドアを開け放ち、テラスへの第一歩を果たした瞬間に彼は叫ぶ。そして即座に、何かを握っているらしい左手をサッと背後に回した。
 ユーリとアッシュ、同時に彼を振り返って奇異なものを見る目つきを作り出す。伸ばそうとしていたティーカップへの手を引き戻し、ユーリは眉間に皺を寄せる。だけれどもスマイルは一向に構う様子無く大股で近付いてくる。
 ユーリの方へ、と。
 意外に長かったようで短かった距離を詰め、スマイルは椅子に深く腰掛けているユーリの前で立ち止まった。完全にアッシュは視界に入っていないようで、無視された格好のアッシュは少し寂しげに、ティーコジーの縫い目からはみ出ていた糸を引っ張る。
「ユーリ」
「なんだ」
 不躾に名前を呼ぶスマイルに、彼はまだ険しい表情をしたまま視線を上げる。鋭くなりきれない瞳は太陽を背景にして暗く、表情の見えづらくなってしまっているスマイルを射止めた。
 にこり、と彼は恐らく微笑んだはずだ。そして瞬時に表情を消し、固め、それから。
 今まで隠していた左手をサッとユーリの前へと差し出した。同時に右手を使い、左手で持っている小さな白色の箱の蓋を開く。
 日の光を浴びて、箱から現れた物体が鋭く輝いた。
 表現するとしたらキラン、と。それも嫌味なようで、けれどいやらしくない上品な、それでいて甘ったるいくせに清楚な輝き。
 ユーリは目を見開き、己の目に映し出されたそれを凝視する。それから視線を上向けてスマイルを見つめたタイミングを待っていたように、スマイルはにこにことした顔のまま忙しなく台詞を繰り出してきた。
 息継ぎは、ない。
「ユーリ好きだこの世で一番というか世界中の誰よりも君のことを愛してるだからぼくと是非結婚して欲しいんだけどって言うか結婚しようそうしよう絶対に幸せにするし永遠にこの愛は破れないって太陽に誓えるからいやこの世の生きとし生けるもの全部を敵に回しても君だけを愛して守り抜くって誓うからだからこのぼくと結婚してくれないか必ず幸せにするからユーリ!!」
 全部言い終えてから、彼はふー、と長く深い息を吐いた。言い終えてすっきりしたのか、いつになく爽やかな笑顔を浮かべている。額に浮いてもいない汗を拭う仕草をして、左手の箱をユーリへと差し出した。
 虹色の輝きを放つダイヤモンドがユーリの前で明滅している。
 向こう側でアッシュが、ムンクの叫び宜しく奇怪な表情と仕草を作って硬直していた。ユーリでさえも、アッシュほどではないが呆気にとられた顔をし、ぽかんと開いた口を閉じることも忘れてスマイルを凝視している。
 にっこりとスマイルが笑いかけると、途端に爆弾が爆発する音がして彼の顔は真っ赤になった。
「なっ、なにを!?」
「もう一回言おうか?」
「いらん!」
 すっかり狼狽して混乱の極みに達しようとしているユーリに笑いながら言い返すスマイルに、ユーリは即座に否定の言葉を叫んで差し出されている指輪も箱ごと押し返した。だが否応が無く赤くなる顔は押さえきれず、ばくばく鳴り響く心音も納まりが利かない。
 片手で頬を押さえどうにか平静を取り戻そうとするのはなにもユーリだけではなく、アッシュも危うく前に意味無く飛ばした腕がポットにぶつかってしまいかけ、慌てて引き戻していた。椅子の脚ががごっ、と床と擦れて痛い音を立てている。
 ぷっ、とスマイルが吹き出したのはまさにそのタイミング。
 先に我に返ったのはアッシュが先だった。
「ふっ……!」
 口を右手で押さえ、堪えきれない笑いを必死に噛み殺そうとして肩を震わせている彼の不可解さにユーリも気付く。奇異なものを見る目で彼を見つめ返せば、スマイルは懸命に大笑いしそうになるのを耐えながら後方へ一歩半ほど、退いた。
 その隻眼はユーリも、アッシュでさえ見ようとしない。
「スマイル……?」
 怪訝な表情で名前を呼ぶが、笑いの限界で踏み止まっているスマイルは返事をする余裕もない。肩を小刻みに震わせながら、ついには涙目になっている彼を見つめていたアッシュが先に、ピンときた。
 今日は、4月1日。
 さっき自分がユーリに、程度の低い嘘をつこうとして見抜かれて睨まれた事を思い出す。
 そう、今日はエイプリル・フール。一年で一度だけ、嘘をついても許されてしまう日。
 だから、か。
 ひとり納得顔をして頷いたアッシュはすっかり平常心を取り戻し、だけれどよりにもよってそういう冗談は酷すぎやしないか、とユーリを少しだけ気の毒に思う。彼はまだ気付いていないようで、返す言葉に困る口をぱくぱくさせていた。赤い顔は耳まで綺麗に染まっていて、彼の心内が容易に知れる。
「ユーリ」
 まだまともに喋れないで居るスマイルに代わり、アッシュが言葉を挟んだ。
「今日は、エイプリル・フールっス……」
 自分で嘘をつこうとして失敗していた立場上言いにくかったが、このまま彼を信じ込ませたままで居るのも気の毒に思え結局、弱々しい声ながら彼に告げる。スマイルが言っちゃダメじゃないか、と涙目のままアッシュを睨んだ。
 ユーリが間の抜けた顔をしたままアッシュを見返す。そして約五秒後、冷水を被ったかのように我を取り戻した。
 俄にユーリの顔色が、別の意味での赤に染まっていく。即ち、怒りの赤へ。
「スマイル!」
「だっ、だってユーリってばあんまりまともに受け取るから……!」
 てっきり今日がエイプリル・フールだと知っているものと思っていたスマイルが、言い訳がましく逃げ腰で怒鳴るユーリに言い返した。
 しかしわざわざその為だけに本物のように指輪を用意してくる辺りどうかと思う、とアッシュは言わなかった。
「……で、返事は?」
 未だ逃げ腰気味のままスマイルは問いかける。
 ユーリが頭の上に「?」マークを浮かべ、スマイルを見返す。そこまで意地が悪いかと、アッシュは人知れず肩を竦めた。
 春の風が吹き、ユーリの銀糸を揺らがせる。それはまるで彼の心境を現すような風で、彼を乱し、そして一息置かせた。
「え……」
 今日は、嘘つきの日。
 嘘には嘘で、返しても問題が無い日。
 けれど、スマイルのついた嘘に嘘で返すためには“Yes”と返すしかなく、そしてユーリはその返事を口が裂けても大地が裂けても、言えるはずがなかった。
 だからこそ、アッシュはスマイルの冗談を意地が悪いと感じたのだ。
「はい」とも言えず、ましてや「いいえ」と答えれば肯定の返事と取られかねないこの状況でユーリは、どう返して良いのか分からず低く呻いた。恨めしそうにスマイルを睨み、けれど彼は涼しい顔をしてユーリを見下ろしている。
 テーブルの上に置いたままの彼の指先が、冷たくなってしまったティーカップに触れた。
「それ、は……」
「ユーリ」
 今日は4月1日で、嘘をついても良い日だと言われているけれど。
 スマイルが彼から視線を外し、薄い雲を広げている天頂の青空と太陽を見上げて言った。つられてその場に居るふたりも顔を上げる、風は優しく穏やかで陽射しは柔らかい。遙か彼方の地平からは、春の香りが心地よく伝えられてくる。
 目を閉じれば、光景が思い浮かぶほどに。
 静かに、スマイルは言った。
「だからって、今日は嘘だけを言わなくちゃいけない日でもないんだよ」
 嘘は、嘘。
 けれどあるがままをすべて偽りで塗り替えてしまえるほど、生けるものたちは器用ではない。許される嘘、けれどなにもかもを嘘で固めてしまえるほど、ひとは欺瞞に満ちているわけでもない。
 スッと伏せられた瞳が陰り、丹朱が濁る。
 沈黙したままユーリは彼を見送り、ひとつ息を吐いた。アッシュも視線を前方へ戻し、ふたりを見守る。緩く首を振って右のこめかみを手首の内側で軽く叩いた。
「……そう、だな」 
 嘘ばかりをついていても、疲れるだけだし。
 嘘じゃない事を言っていけないという罰則は、どこにも規定されていない。
 だから、と。
 ユーリはようやく取り戻せた平常心でスマイルを見返した。真正面から彼を見据え、決して逃さない魔の力を秘めた紅玉を輝かせる。
「お断り、だ」
 誰がお前なぞと生涯を共にするものか、と薄く舌まで出して彼は笑った。気持ちよさそうに、春の風に煽られながら。
「ちぇー」
 つまらなそうにスマイルは唇を尖らせた。手にしていた指輪の収まった箱の蓋を閉め、懐に戻そうと動く。
 けれど一足早く、ユーリは椅子の上から手を伸ばして彼の手首を掴んだ。一瞬顔を顰める彼の力が込められていない手の平から、素早く箱を奪い去ったユーリがにっ、と牙を見せて笑む。
 蓋の閉められた箱を揺らし、クッション材に埋もれている御陰で音もしない指輪を彼に示した。親指と人差し指でクッキーを摘んでいた時と同じように前後に揺らして四角い形を確かめ、
「だが、これは」
 嘘だけをつく日ではないのだろう? 先程スマイルが自分から言った台詞を瞳で告げ、箱の表面に軽く口付ける。
「有り難く受け取って置こう」
 パッと見だったので詳細までは目が行かなかったが、デザインからしてどう考えてもこの指輪はユーリ用に設えられたものであろう。明らかにスマイルが身につけたがるジュエリーとは姿形からして違う。そもそも、スマイルはダイヤなど身につけない。
「ちぇー」
 更に唇を尖らせてスマイルは不満を露わにしたものの、ユーリの手から箱を取り返そうとはしなかった。
 アッシュが溜息混じりに肩を竦める。そしてポットからティーコジーを取り去り、布巾の上で裏返していた別のティーカップを表にする。まだかろうじてぬくもりが抜けきっていない紅茶をカップに注ぎ入れ、スマイルへと差し出した。
「ダージリンのファーストフラッシュ、っス」
「アリガト」
 受け取ったスマイルは椅子が無いため、立ったまま紅茶を口に運んだ。春の一番茶らしいみずみずしい香りと味がいっぱいに広がり、何とも言えない気分にさせてくれる。
「これは、嘘じゃないよね」
「本物っスよ」
 苦笑混じりにアッシュは答え、自分のカップにも残っていた紅茶を注ぎ込んだ。ユーリは指輪を胸に納め、すっかり冷めてしまった紅茶をひとくち飲んだ。続けて残り少ないクッキーへと手を伸ばし、口に運ぶ。
 穏やかさを取り戻したテラスで、のんびりとした時間が流れ始める。
「ま、全部が嘘だとか、本当だとか、言わないし」
 すっかり無かったことにされつつある先の出来事を振り返りながら呟いたスマイルに、
「信じる、信じないも貴様の勝手だ」
 ユーリは顔も見ずに答え、クッキーを呑み込んだ。

Gale

 はらはらと、舞い散る薄桃色をした花びらに手を差し出す。
 けれど花びらは、気紛れに吹き荒んだ風に煽られて手の平の手前ですぅっ、と方向を変えてしまった。そのまま足許へ、揺らめきながら落ちていく。
「あ……」
 ワンテンポ遅れて呟き声を零し、視線を既に若草色の中に埋もれてしまった薄桃色へと向けた。が、日の光を受けて眩しく輝いている芝の中に沈んでしまった小さな儚きものを見つけだす事は困難であり、細めた瞳のままそっと息を吐く。
 間際を枝から溢れ出すばかりに咲き乱れた桜の花弁が、細雪のように降り注いでいる。顔を上げれば、太陽の光を遮ってまるで緑の葉の代わりに栄養を集めようとしているような、立派に枝を広げた樹木が目の前に。どれだけの年代を経てきているのか、見事なばかりの枝振りをした桜に、自然と嘆息が溢れる。
「溜息って、さ」
 不意に声がして、けれど振り返らずに桜の花々を眺め上げ続ける。返事が無いことにも気を悪くした様子無く、声の主はゆっくりと歩み寄りそして真横についた。
 ちらりと、目線だけで窺い見る。彼はこちらを観ずに同じように、桜の花を見上げていた。
「溜息が、どうかしたのか」
「ああ、うん」
 自分から話題を振っておきながら、途中で話題を忘れていたらしい。思い出すことを促した彼の声に、苦笑を浮かべて頬を引っ掻く。だけれど相変わらず単眼の丹朱は光を一面に浴び、豊かに花を咲かせる桜に向けられたままだった。
 彼から桜へと、自分もまた目線を戻す。暫く会話は途切れた。
 風が吹き、先の細い枝がゆらゆらと揺れる。五枚の花びらで構成された桜の花が、その度に不安定を訴えるように枝にしがみつく。けれど力無く項垂れたものたちは、足早に地上へと沈んでいくのだ。
 手を差し伸べたところで、それを助ける事は不可能。
 軽く地面の、冬を抜けて春を迎え色鮮やかに緑を奏で始めた芝を踏みしめた。刈り揃えられる前の、背が不揃いな彼らは力を込めて意地悪く潰されたことに苦情を言うように、足の裏からはみ出て来てまた身体を立て直す。
 力強く、決して負けるものかと言わんばかりの姿。
「溜息って、ついた数だけ寿命が縮むんだって」
 知ってた? 問われ、目を向けるといつの間にか彼は自分の方に向き直っていて驚く。顔にはなるべく出さないように、平常を装ってからそれがどうした、と目を細めることで問いかけるが、返事はなかった。
 ただ曖昧に微笑むだけで。隻眼の赤が楽しげに彩られ、見つめている方が不愉快さを覚えさせられる。
 むっと顔を歪ませると、彼は何かを察知したらしく反論を受ける前に予防策として、ゴメン、と小さな声で誤ってきた。
 出鼻を挫かれた格好になり、言いたかった言葉がするりと頭の中から抜け落ちて行ってしまう。結局なにも言い返せなくなって、開きかけた口を固く結んで気を取り直す為に桜を見上げる。
 庭に咲いた、桜。林のような高大な庭を持っているくせに、何故か城内に咲く桜はこれ一本だけ。疑問に感じた事はなかったが、もっと沢山生えていても良いのでは、と毎年この季節になると考えてしまう。
 ただ考えるだけで、行動に移さないから未だに桜はこれ一本だけしか聳えていないのだけれど。けれど例え群生していなくても、この桜は見事な花を咲かせて存在感を主張しており、決してこれ以外の花々に負けているとは言い難く。
 詰まるところ、桜がこれ一本だけであっても他の景色に紛れてしまうことなく、むしろ際立った存在として目に映るのでさして気になるわけではないのだ。それでも、こうやって樹下から咲き誇る桜を見上げていると、そこだけ浮き上がったかのようにうっすらとピンクに染まった白が空に紛れて、なんだか物悲しい気分にさせられるのだ。
「迷信だろう」
「うん」
 溜息の話に戻る。桜を見上げたままぽつりと返せば、同じようにぽつりと言葉が返ってきて横を見れば、薄い笑みさえも消してしまっている彼が神妙な顔つきで空を観ている。
 空と、空の手前にある桜の花々とを。
「そんなもので寿命が減っていたら」
 百年に満たない寿命しか持たない人間など、簡単に死滅してしまうだろう?
 嘲笑うようにして問いかけの形を借りた言葉を告げると、彼は変わらぬ表情のまま言葉もなく、頷いて返すだけに留まった。もし此処で彼の横顔を窺っていなければ、返事を知ることは出来なかっただろう。
 ひとつしかない瞳で、彼は目の前に広がっているこの季節だけしかお目にかかることの出来ない世界を見つめている。その世界には今、空と桜しか見当たらないのだろうか。
 此処にいる、この身体は彼の意識の外だ。
「それとも、お前はなにか」
 私に寿命を尽きさせたいのか?
 愚問だろうと思いながら口に出してしまった言葉は、あるいは自分への問いかけだったのかも知れない。
 溜息程度で寿命が薄れるのであれば、今まで何百何千と繰り返してきた溜息でも尽き果たせられない己の寿命は、一体どれくらい遺されているのだろう。一体どれだけの寿命が、自分の始まりに用意されていたのだろう。
 それはいつ潰えるのか。終わらせてくれるのか。
「ユーリって」
 そういう事、言うんだ。
 呟きを紛れさせる風が吹く。それは枝を揺らし、桜を散らす。折角綺麗に咲いている桜を、無惨に散らしていく。
 出来得るのなら今此処で、吹き荒れる風を止めてしまいたい。けれど温みだした風もまた、春の訪れを告げる大切な季節の変化を告げる自然界の声だから。自分の我が侭だけで世界を変化させる事なんて出来ない。
 生まれるものはいつか滅びる、その滅び去る手前に咲くのが色鮮やかに輝く花か。
 だとしたら、自分はいつになれば輝けるのだろう?
「ユーリ」
 ねえ、知ってる?
 彼方へと飛びかけていた意識を引き戻し、彼は笑う。いつもの、どこか巫山戯ているようで掴み所のない、意地悪げなあの笑顔で。
「なにを」
 主語を著しく欠いた台詞に眉根を寄せ、彼を軽く睨み付ける。春嵐の風は止まず、今も空を我が物顔で蹂躙している。高い屋根の上に据えられた小さな風見鶏がカラカラと騒々しく回っていた。
 丹朱の隻眼がにこやかに微笑む。
「桜ってさ、根本に何が埋まってると思う?」
 それは聞いたことがある、と質問の形を借りた彼の知識自慢に返し、それから腕を組み直した。
 身体の位置を若干変える。踏みしめた青草がじり、と足裏の底で歪む感覚がした。
 息を吐く、秘やかに。一瞬だけ作った難しい顔を解いて同時に腕も自由にする。脇に垂らした右腕が行き場もなく、前後に数回揺らいだ。
 強い嵐に流され、上空を駈ける白色の雲もまた忙しそうに東へと去っていく。風見鶏が目を回す暇もなく回転を続けている。
「死体」
 だろう?
 企み顔に負けないよう、企む瞳を持ち上げて若干だけ自分よりも上にある隻眼を見つめる。上目遣いにしながらも顔自体は俯き加減で見上げれば、問いかけるというよりも胸の中に何かを一物持っているぞ、と相手に示すような態度になる。自然と、行き場を失っていた左手が挙がって顎を掴んだ。
「アタリ」
 さすがは探偵さん、と茶化した態度で彼は肩を竦め苦笑した。
「さすがにこれは知ってたか」
「人を莫迦にするのも大概にしておけ」
「そんなつもりは無かったんだけどね~」
 何かが気に食わなくてつい不機嫌声になっていた台詞に、彼は肩を竦めたまま左右に緩く首を振る。その頬の間際を風に吹かれ、哀れにも散った桜が一枚ゆらゆらと滑り落ちてくる。
 ひらり、とそれは彼の肩に落ちた。
「あ」
 ワンテンポ遅れて、声を出す。気付いた彼が何事、と見つめる先である自分の肩を横目で観た。
 顎を引き、隻眼を苦しそうに端に寄せて口元を歪めてまで己の肩を確かめようとする様は、傍から見守る側からすればかなり滑稽だった。可笑しすぎて、けれど大っぴらに笑うのは彼に申し訳なく思い、顎にやっていた左手を口元に持っていって笑みを隠そうとする。
 だがやはり気付かれてしまい、彼は不服そうに目許を歪めさせた。悪い、と目だけで謝罪し、それから彼の機嫌を直すつもりで手を伸ばした。
 大人しくしながらも気になるのか、手が向かう先へ頻りに目線を向ける彼の前で、彼の肩に落ちた桜の花弁を摘み上げる。軽く持ちすぎたのか、それは自分の胸元に戻す前で風に攫われ、地面に落ちた。
「あぁ……」
 なんだ、という顔をして彼は落ちていく桜を見送った。
 春嵐が吹く、桜が一面を覆い尽くす程に揺らめき、散った。
「…………」
 しばし、また沈黙が続く。ふたりして並んで桜と、荒れ狂う春の空の風を見上げていた。
 言葉など無く、ましてや近付いて熱を確かめる事もせず。そこに立ち、其処に在るだけの時間が永い。なにかをするわけでもなく、しようとするわけでもなく、立ちつくし、桜が散る姿を見守るだけで。
 地表を舐めるように吹いた突風に髪が激しく煽られる。抑え込むために持ち上げた右手が、予測しなかった物体に触れてそこで動きが止まった。
 視界を影が覆う。それは天を過ぎる雲が太陽を隠してしまったのではなく、現に空は未だ澄んだ青色に一面を染めあげていて、目を細めなければ見上げることも困難な日の光が溢れんばかりに視界を埋め尽くしていた。
 だからこれ、雲が産んだ影ではない。ましてや自分の身体が突然膨張を始めたとか、そういう意味合いでもなく。
 難しく考える必要などない、ただ今までじっと動こうとしなかった彼がこの身体を包み込むように、両腕を回してきただけだ。
 軽い力を込められて、引き寄せられる。抗う事も忘れ、その引力に招かれるまま爪先で半歩分の距離を滑った。
 ずっと踏みつぶされていた青草がようやく解放され、曲がってしまった身体を伸ばそうと空を仰いだ。
「スマイル……?」
 風は凪いでいた、恐ろしいほどに静かだった。
 何も聞こえず、何も見えない。ただ視界を埋め尽くすのは白と薄桃の中間にある色をした桜吹雪と、彼の姿。
 いや、近すぎる彼の姿さえ朧にしか見えず、輪郭はぼやけて曖昧だった。
「桜、が」
 耳元で囁く声が告げる。一秒遅れで襟足に触れる冷たい感触、それは恐らく彼の指。
 直後に解放され、視界に光が戻る。見つめる先に立つ彼が二本指で抓み持っているそれを、言葉も無しに差し出してきた。
 反射的に手を差し伸べ、受け取る。それは彼の爪痕が少しだけ黒ずんだ線となって残ってしまっていた、一輪の桜。
「これを……?」
「欲しいのかな、って思ったから」
 さっきからずっと気にしてるでショ、と嘯いて彼は頭上を埋め尽くす桜の巨樹を見上げた。
 遙かに想像に難い年月をこの場所で、孤独に過ごしながらも毎年同じ季節に、同じ色をした花を咲かせる桜の大樹。移りゆく時間の中にあって、その月日を忘却させるばかりに毎年忘れることなく、同じ姿を見せてくれる桜。
「そう、だな……」
 欲しかったのかも知れない、年月を越えても変わることなく同じ景色を見せてくれる桜の、その欠片を。自分もまた同じように、いつまでも変わることなく在り続けるものとして、その強さを羨望していたのだから。
 桜は咲く、毎年春になれば。
 桜は散る、毎年花を咲かせれば。
 移ろう季節の一時期だけの、儚い時間。夢を、桜が咲き乱れる中で眠る夢を観よう。今だけ、この時にだけ許される我が侭だから。
 手の平で花びらを遊ばせる。
 春嵐が空から降りてくる。ひらり、と手の平に眠る桜ひとひらを掬い上げ、簡単に遠く彼方へと飛ばしてしまう。
「あ」
 短く、呟く。けれどもう、追いかける事はしなかった。
 軽くなった右手で乱れた髪を軽く梳き上げ、後ろへと流す。浮かべたのは微笑み、それから。
「来年もまた、咲くだろうか」
 自分へ、それから桜の古樹に向かっての問いかけに、彼が口元を緩める。伏せた瞳のまま少しだけ時間を作って、頷いた。
「咲かせるよ」
「まるでお前が手入れをしているような言い種だな」
「そりゃぁ、ね……」
 庭木の手入れは全部アッシュの仕事になってるけど、この桜だけは特別だから、と。
 彼は数歩開いていた桜までの距離を詰めて太い幹に手を伸ばす。表面をそっと撫で、そして愛おしそうに顔を寄せた。
 沈黙が流れ落ちる。
「さっき、さ。桜の下に埋もれているものが何かって、言ったでショ?」
 含みのある言葉尻で彼は振り返った。大切そうに木の幹に身体を預けたまま、顔だけで振り返る。
 何故かぞっとする寒気を覚えたのは、春嵐の風に体温を奪われたからだけではないはずだ。失った熱を取り戻そうと身体を両手で擦ろうとして、何かが奇妙である事に気付いた。
 彼が笑う、楽しげに。
「この桜は絶対に枯れさせやしないから、安心していいよ」
 来年も、再来年も、十年後も百年後も……一千年後でさえ、今と変わらず花を咲かせ続けるから。
 ひんやりとした汗が背中を流れる。否、それさえも錯覚なのかもしれなかった。
「だから、また来年まで」
 春嵐が吹く、風見鶏の軸が折れてしまいそうなくらいにペンキの剥げたそれがくるくると回っている。
 視界が白と薄桃に染まった。
「ゆっくり、おやすみなさい」
 ユーリ、またね。
 最後にそう囁く声が聞こえて。

また来年……この季節に
 

 そしてそこですべては途切れて。
 桜は散り、樹下には彼独りが遺される。
「また来年……」
 足許に設けられた小さな墓碑を前に、彼は小さく呟いた。
 春嵐は、もう終わりだった。

Hither

 朝から空気は不穏な様相を呈していて、落ち着かない。
 なにが気にくわないのか分からない、ただ城主の彼がやたらと不機嫌そうな顔をしてむっつりと、苛々した様子で居るものだから。
 城中がそんな空気に占拠されてしまって、彼を取り巻く面々は否応が無しに緊張を迫られた。少しでも彼の機嫌を損ねるような事をすれば、即座に轟音が周囲に鳴り響き雷が直撃する。だから皆、腫れ物を触る時に似て遠巻きに、どこか怯えながら彼を眺めるばかり。
 既に朝食の段階で、スープが熱いと文句を言われたアッシュがその熱いスープ皿を、中身が盛られたまま投げつけられている。かろうじて避けたものの、飛沫を被って彼の柔らかい毛に包まれている細長い耳の先が剥げてしまっていた。
 なにが原因なのか、さっぱり分からない。だがユーリは目覚めて部屋を出てきた段階から既に不機嫌のただ中に居た。
 まず口数が極端に少ない。普段から多弁な方ではない彼だが、それにも増して無口になっていた。
 それから、行動が突飛。これも別段今に始まった事ではないのだけれど、それでも普段以上にやることが突然だった。更にやることが少々、凶暴になっている感じもした。現にアッシュに向けてスープ皿を投げつけている。いつもならば口で文句を言い、睨み付ける程度で終わっていた事だ。
 ちょっとどこかおかしいんじゃないだろうか、と思うところは多々あるものの、みんなして雷が恐くて声を掛けられない。
 食事の後の、ミーティング。ひとつの机を囲んでメンバー全員が一同に会する場所でも、ユーリの不機嫌は収まるどころか逆にヒートアップ。
 ここの歌詞が気にくわない、ここのリズムは変だ、云々。あげればキリがないくらいの苦情を口にして、一方的な調子の彼に皆がへこへこしながら時間が来て、午前の打ち合わせはこれにて終了。
 結局決まったのは、歌詞のリテイクと編曲のやり直し、合計して六曲分。自分たちの今までの苦労はなんだったのか、と己の存在意義を疑いたくなるようなダメージを残して、場は一時解散となった。
「ふぅむ」
 次々とメンバーが、脱力した息を吐きながら椅子から立ち上がり去っていく。彼らの背中を眺めながら、最後まで立ち上がろうとしなかったスマイルが腕組みを解いた。けれど完全に解いたわけではなく、組んでいる脚の上に片肘を載せ、そこにもう片手を置き、肘を立てている手の五指でもって顎をなぞる。
 考えごとをしている証拠で、眼を細めて視線を室内に巡らせ、最後は天井を睨むようにして見上げて、深く長い息を吐き出す。それから漸く手を解いて組んでいた脚も解放し、手は結びあわせて頭上へと伸ばした。
 椅子の背もたれに身体を預け、椅子の前脚を浮かせて重心を後方へ移した。
「んん~~……」
 完全に後方に倒れきってしまわぬよう、床に足を貼り付けさせて突っ張る。背骨が良い具合に音を立てた。
「ふぅ」
 短く吐き出した息を合図に、姿勢を戻す。床を叩く椅子の音が、仲間も立ち去って誰も居なくなった室内に無駄に大きく響き渡った。
 今度は両手を前に向け、机の上に散乱させたままだったメモ書きや譜面、それから文房具の類を寄せ集めてひとつにまとめ、ファイルに挟み込んだ。ペンは胸ポケットに差し込み、片手は机上に、片手で椅子を引いて立ち上がる。
 そのついでに首を回して肩の凝りを軽くほぐし、最終的に行き着いた視線の先は壁時計。時刻を確認したと同時に、ぐぅ、と腹の虫が現金な鳴き声をあげた。
 今日の昼食は一体なんだろう、と会議が始まる直前まで泣きそうな顔をしていたアッシュを思い出しながら、自分が立ち上がった事で空席になった椅子を机の下に押し込めながら思う。そのアッシュは、会議中もずっとはらはらという顔をして仲間内とユーリとも対立――と呼べないような、一方的なユーリの王様ぶり――を見つめていたが。
 そのうちあいつ、胃に穴でも開けるんじゃなかろうか、とも考えてファイルを小脇に挟み持ち、頭を掻いてミーティングルームを出る。見事に出たところにさえ、誰ひとり残っていなかった。
 完全に置いて行かれた事に苦笑し、自嘲気味に口元を歪めさせる。歩みは止めず、そのまま進み続けて階段を下りると、見慣れたシャンデリアが頭上に現れる。
 それから、矢を射るような鋭さを持った怒鳴り声。
 反射的に出していた足を引っ込め、身体を半分手摺りから乗り出すような格好で立ち止まった。
 見下ろせば、数人分の頭が見える。一番玄関ホールの中心に近い位置に立っているのは、間違いなくユーリだ。あの特徴ある銀色の髪は絶対に見間違えない自信がある。
 敵対するように徒党を組んでユーリを前にしているのは、それ以外のメンバー。アッシュはというと、両者の中間から少し距離を置いた場所で、相変わらずオロオロした様子で交互に両側を見つめていた。
「ふぅん」
 一通り状況確認を終え、ここでは何を怒鳴りあっているのかが分からないものの、どうやらユーリがかなり強い調子で攻めたてられているらしい事だけは把握する。内容は、確実にさっきの打ち合わせで出たリテイクについての事だろう。
 彼らにしてみれば、どうしてこんな些細な事でやり直しを命じられるかが分からないのだろう。どう考えてもユーリの気紛れから出た発言としか思えない、ことばの応酬に黙るしかなかった彼らが一体なにを起因として胸の内に溜めていた鬱積を爆発させたかは、分からない。
 ただ状況はユーリに不利な方向へ動こうとしているらしい。止めようとしているアッシュのことばさえ聞き届けず、ユーリを弁護する彼を非難する怒号が上がる。
「いい大人が情けないよねぇ……」
 もっとも自分の年齢から換算すれば、成人を迎えている彼らであっても充分子供でしかないのだけれど。苦笑を禁じ得ず、脇に挟んでいたファイルを持ち直して階段を降り切り、ホールへ足を着けたスマイルはにっ、と感情の判別に苦しむ笑みを浮かべたまま近付いていった。
 割り込んできた足音に、今まさにユーリに掴みかかろうとしていたメンバーが顔を向ける。表情が明らかに不満げに、億劫そうに歪められていた。
「皆さんオソロイで、遊びに行くご相談?」
 冗談だと丸分かりの台詞を吐き、スマイルは片手にファイルを持ったまま大袈裟に肩を竦めてみせた。右腕を振り上げていたメンバーが、やる気を削がれたとばかりに手を引っ込め、ユーリやスマイルからも距離を取る。
 にんまり、とスマイルが嗤う。
「嫌われちゃったカナ」
 芝居じみた仕草に、誰かが舌打ちするのが聞こえた。
 一触即発寸前だった状況がひとまず回避された事に、向こう側のアッシュが安堵の息をもらした。
「アッシュ」
 その彼を呼び、スマイルは持ったままだったファイルを空中に放り投げた。中身を満載させたファイルは、しかし投げ方が良かったのか中身を空中にぶちまける前に孤を描き、慌てて手を伸ばしたアッシュの左手に収まった。
「……っと」
 いきなり何をするのか、という顔でアッシュがファイルから視線をスマイルに戻す。その他の面々もスマイルの行動を無言のまま見守る。
 ユーリがじり、と半歩後退した。
 その分、スマイルが三歩分あった距離を一息で詰める。
「ユーリ」
 彼の伸ばした手の腹がぴと、と。
「っ!?」
 目を丸くするユーリの額に押し当てられた。
「!!!」
 三者三様の反応が周辺に立ちこめた。
 アッシュと、deuilを構成するその他のメンバーたちは驚愕の表情を浮かべ、間違いなく三秒後には落下するだろう雷を想像して震え上がった。
 ユーリは、一瞬なにが起きたのか判断できずに瞳を見開いたまま、自分に触れているスマイルの左手を茫然と見上げていた。
 スマイルは、ユーリの額に手を置いた瞬間に、難しい顔をして眉間に皺を刻んだ。
 一呼吸置いて、それから。
 やっぱりね、と呟く。
「アッシュ」
 手の位置はそのままに、彼は惚けたままで居るアッシュを振り返る。
「お昼ご飯、お粥でヨロシク」
「え? あ、はいっス」
 軽い調子でのことばに、慌てたアッシュが頷いて返事をしてから、言われた内容を反芻させて首を捻った。見ているだけしか出来ていない面々も同じような顔をして、互いに見合わせている。
 半秒遅れて、ユーリがようやく反応した。
「なにをする!」
 怒鳴り声をあげながら、置かれたままのスマイルの手を叩き落とした彼の息は微妙に荒かった。顔が、赤いのは怒っているからでも照れているから、でもないはず。
 叩かれた部位をさすって、スマイルはアッシュからユーリへと目線を戻す。
「ユーリ、昨日何時まで仕事してた?」
 明け方は冷え込む、夜も殊更寒かった昨晩。着込む事をあまり好まないユーリが、寝夜着一枚で日が昇る寸前まで机に向かっていたとして。
 ボーン、とユーリの返事の代わりにロビーに飾られている巨大な柱時計が、昼食時間の終了時刻を宣告してくれた。
 にっこりと、無邪気に微笑むスマイルがそこにいる。不機嫌そうに、それでいて居心地が悪そうにユーリは視線を逸らした。
 わけがわからない、とアッシュが怯えた調子でスマイルを呼ぶ。
「うん、だからお粥。あ、でもぼくのは普通のご飯が良いな」
「なんの話……」
「ユーリ、熱がある。自覚してなかったみたいだけど」
 こそこそと立ち去ろうとしているユーリの首根っこを掴んで、スマイルはアッシュに笑いながら言う。なんでもない事のように。
「熱?」
 え、嘘。
 誰かが呟いて、誰かが頷いて、誰かがスマイルの手から逃れようと藻掻いているユーリを見た。アッシュも驚きを隠せずにいる顔でユーリを見る。言われてみれば、彼の顔は微妙に赤みを増しているし、呼吸は間隔が短く落ちつきのない態度も変だ。
 だけれど、今の今、指摘を受けるまで誰も気付かなかった。ユーリ自身も、スマイルの弁を信じるとしたら気付いていなかった事になる。
「朝からずっと苛々してたし、怠そうだったし。疲れてるところに身体冷やして、それででショ。風邪になるまえに、ゆっくり休んでおいで」
 朗らかに告げ、スマイルは足掻いているユーリの首にがっ、と腕を回して完全に拘束した。逃げ切れず、ユーリが地団駄を踏んで肘鉄を背後に居るスマイルに食らわせようと暴れるが、体調不良が災いしてか効果は期待していた一割にも届かなかった。
「そういうわけだから、さ」
 午前の会議、時間の無駄だったと思って置いてよ。
 それで気が済むとは思ってないけど、とも付け足して彼はまだ暴れ止まないユーリの頭を撫でた。
 途端、ユーリが大人しくなる。顔は不服そうだったが、無駄に体力を削る事は止めたようだ。
「お粥、よろしくね」
「う、了解っス……」
 静かになったユーリを抱えるように、あるいは引きずるように、とも言うのかも知れない。微妙な体位で彼を引き連れて歩き出したスマイルに言われ、アッシュは複雑な顔をして頷く。
 残されたメンバーは顔を見合わせ、納得がいかないものの理由だけは解明された事に息を吐いた。これからどうしようか、と目線で相手に問いかけ、けれど答えは出てこない。
「譜面、見直すか」
 誰かが提案して、残りの面々も頷いた。アッシュはスマイルに頼まれた粥を一人前、用意するために踵を返して台所へと向かう。スマイルに促され、ユーリは階段へそろりと足を踏み出していた。
 上階にあるユーリの部屋の扉は、スマイルが押し開けた。手探りで照明のスイッチを探し出し、押す。俄に明るくなった室内に眼を細め、彼はそのままユーリの背中を押してベッドへと真っ直ぐに向かった。
「っ!」
 最後の抵抗を見せるユーリを強引にベッドに押し倒し、靴だけ脱がせて身体に蒲団を掛けてやる。
「スマイル!」
 やや乱暴だった彼に怒鳴り声をあげて上半身を起こそうとしたユーリだったが、間近に吐息を感じて背を強張らせた。
 見開いた眼のすぐ前に、スマイルの鼻先がある。
 触れられているのは額。ただ、その仕草の中でのスマイルの両手は、ユーリの頭部を支えるようにして両側から耳元周辺に添えるのに使われていた。
 触れられた場所が熱を持つ。間近で受け止めるしかない彼の呼吸が、変に熱い。それにも増して、自分が吐き出すものの熱が。
「スマイル……」
 声が震えていて、ようやく目線を落とした彼を見上げるユーリの表情に、笑みを消して真剣になっている彼が低く呟く。
「熱い」
 押し当てられた額を通じて流れてくる体温に眉根を寄せ、そして彼は離れていった。
「はい、寝る」
 茫然とした状態から脱却しきる前に、スマイルの伸びてきた手でユーリはベッドへ後頭部を沈められた。弾力のある枕に頭が埋もれる、肩の上まで蒲団を被せられて、それからやっと目元を抑え込んでいた彼の手は退いた。
 離れていく体温が、妙に名残惜しく感じられる。
 ユーリは片手を蒲団から抜き出して、自分の額に触れてみた。けれど、手自体の体温が高すぎるのか、熱の高低の判断がつかなかった。
 諦めた息を零し、腕の位置を戻す。同時に、ベッドサイドに立っていたスマイルが動く気配があって目線を巡らせた。
 高い天井から、彼へ。見上げる視線に気付いてスマイルはにこりと邪気のない笑みを向け返してくれた。
 その姿勢が、扉側を向いている。上半身だけでユーリの方を見ている彼に気が付いて、反射的にユーリの左手が蒲団からはみ出ていた。
「ユーリ?」
「……午後」
 本当は、午前のうちに打ち合わせをしてしまって昼からは各パートの音あわせが予定されていた。ただこの状況では、それを為し得るのは困難どころか不可能だろう。前もって計画されていた日程が一日、丸々ずれ込むことになる。
 そして午後から、ユーリ以外の面々は時間が空いて予定外のフリー。ユーリにしてみれば、自分ひとりが体調不良だからとベッドに貼り付けにされて、退屈な想いを味わうのは不公平というもの。
 きゅっ、と握られたスマイルの上着の裾に刻まれた皺が、そう告げている。
 ユーリの白い手と、赤い顔をしているユーリを順番に眺めて、スマイルは姿勢を戻した。爪先でユーリの椅子を引き寄せ、ベッドサイドに居場所を決めると座り込む。
「我が侭」
「うるさい。お前さえ気付かなければ、こんな事にはならなかったんだ」
「はいはい、まったくもってその通りで返す言葉もありません」
 膝の上に両肘を置いて、その上で頬杖をつく。
「付き合うから、寝ちゃえば?」
「言われなくても、そうする」
 ユーリは言わなかったけれど。そしてスマイルも問いかけなかったけれど。
 ユーリの手はしっかりとスマイルの服を握ったままで、スマイルも無理にそれを振り解こうとはしなかった。

Butterfly

 ぼんやりと、眺めている月は大きくてそして丸い。
 ふくよかな頬を持った女性のような顔つきをして、のんびりと地上を照らしながら見下ろしている月はとても綺麗。だけれど月は案外表面もでこぼこしていて歪だし、なにより太陽の光を受けなければ自分で輝くことも出来ない、実に曖昧で中途半端であり、その上他力本願な存在だ。
 そう考えて、ことばにした時、聞いていた相手は呆れた顔をして、夢がないな、とだけを呟いて返してくれた。
 そうかもしれないね、とこの時は返したはずだ。自分には夢がない、それはよく分かっている。相手もこの事は熟知しているはずで、だからこそ呟きにして声に乗せたのだろうけれども、そうすることで何かが変わるとはお互い思っていない。
 空虚で、どことなく寂しい関係。
 この関係にひびを入れてみたいと思った事が、果たして今までの無尽蔵な時間の中でどれくらいあっただろう。数え始めようとして左手を持ち上げてみて、けれど指を一本折り曲げたところで止めた。
 こんな事をしたって無意味、そう考えてしまうともう何かをすることなんて出来ない。
 ぼんやりとした思考をそのまま保持し、何もない草の上を歩き続ける。
 そこは現在の借宿として自分が定めた、そして自分には恐ろしく似つかわしくない古めかしく巨大な城の一角。踝の高さで刈り揃えられ、綺麗に整えられた明らかに第三者の手が入っていると分かる芝の上。
 一般的に、庭と呼ばれる場所に相当する。
 月の明るい夜に、ひとりで、通常の感覚では広すぎるけれど放浪するには狭すぎる庭を歩き回る。空を見上げながらの彷徨は首を疲れさせるだけだったけれど、彼は苦にすることもなくその姿勢を保ちながら歩いていた。
 突き当たりに遭遇すると、気が向いた方向に踵を返し、また歩き続ける。あてなど無く、ただ無為な時間をそうやって過ごしているとしか周囲には映らないだろう。
 事実彼もそうやって、有り余ってなお消費に苦しむ時間を浪費しているにすぎないのだから。
 二度目の突き当たりに出会って、彼は首を前向きに戻し左肩を軽く回した。足を止め、目の前に見える鬱蒼とした茂みを見やる。
 枝を伸ばし、お互いに絡め合わせて密接しあっている木々の隙間に白っぽい半透明な糸があった。
 朝にはまだ早く、露に濡れてもいない。だけれどそれは、鮮やかなまでに見事に織られた蜘蛛の巣。六角形が整えられ、その間に僅かな隙間を残しつつ織り絡められた蜘蛛の糸が、月明かりに照らされて輝いて見えた。
 巣の主でさえ今の夜闇の中では就寝中なのか、姿は見当たらなかった。いつ張られたものであるかは分からないが、それほど時間を経過しているとは考えづらい。ここまで見事に形が保たれているという事は、少なくとも日付が変わる直前に張られたものなのだろう。こんな時間に巣にかかる愚かな昆虫があるとは思えず、蜘蛛が何を思って巣をこの場所に改めたのか、少しだけ興味が沸いた。
 ヒラリヒラリと舞い遊ぶように、彼の脳裏に浮かび上がるのは。
 夏の夜の最中、月明かりだけが照らし出す世界に姿を現すアゲハ蝶。
 彩りは鮮やかであり、黄色と青と、そしてすべてを呑み込む闇に似た漆黒の羽を持つ、アゲハ蝶。
「黒アゲハ……」
 ぽつりと呟き、月だけしか見えない夜空を仰ぐ。雲ひとつ見当たらない視界に一点だけ明るい月が、昼の太陽のように眩しい。
 自分は何処へ行くのか、どこへ行こうとしているのか。
 尽き果てることを知らない魂が目指す方向は未だ見えず、なにを目指して良いのかも分からない。ただ手探りに、無闇に突き進む事しか出来ずにいる自分の存在が卑小で、寂しいものに思えてくる。
 胸元に置いた手を握りしめ、視線を逸らした。
 目の前にあるのは、鮮やかに編まれて獲物を静かに待ち続ける蜘蛛の巣。
 この巣に絡め取られたとしたら、自分は終わる事が出来るのだろうか。自分から終わらせる事が出来るのだろうか。
 どこまで行けばいい、どこへ行けばいい。終わりはどこにある、どうすれば終えられる。
 悩んで、考えて、考え続けてそうやって今までずっと見送ってきた終わりを、これ以上重ねないにはどうすればいい。戻ることが出来ない時間を取り戻したいと思うことは愚かすぎて、だからといってこのまま前だけを目指すことも出来ない。
 本当は。
 出逢えただけで良かったのに。
 結んでいた手を解く。力無く脇に垂らすと、指先をスッと冷たい風が掠めていった。
 視線を上向けてみる、空に雲が出てきたらしい、視界は僅かに明るさを減らして目を細めなくても月を凝視することが出来る程になっていた。
 出逢えただけで、それだけで良かった。
 なのに、願ってしまった。
 この願いは罪、この願いを持ち続ける事も罪。この願いを告げる事も、隠し続ける事でさえも、罪。
 罪は積み重なってどんどん大きくなる、やがて自分で抱え上げる事も出来ないほどに膨張を繰り返し、そしていつか破裂するだろう。
 その時自分はどうなるのか、考える事も恐ろしくてそうやって逃げている。
「ユーリ」
 この思いは罪。
 この想いは罪。
 だったら封印してしまおう、誰も到達することの出来ない海の底、荒れ果てた砂漠の彼方、月闇の照らす深淵の世界へ。
 自分自身さえも手を伸ばす事が叶わない場所へ投げ捨てて、無かったことにしてしまおう。そうすればこの罪は消える、今までと同じようにこの場所に在り続けられる。
 終わりを願わずに済む。
「ユーリ」
 もう一度囁く、宝物を包み込むように胸の前で両手を組んだ。
 この場所に居ないあの人のために、今は祈ろうか。あの人を傷つけるものがなにもないように、と。自分自身でさえもあの人を傷つける刃になりかねない、この想いを捨てきれるようにと、祈ろうか。
 出逢えただけで良かった、それだけで世界が満たされた。
 空虚なだけだった世界は光に溢れかえり、音の無かった世界は騒がしい程に豊かになった。その中心にはいつも君が居た、君が居てくれるだけで良かった。
 だけれど、それ以上を願ってしまったから。
「ユーリ」
 目を閉じる、名を呟く事だけでさえ罪。だからもう呼ばない、今呼んだその名前を愛おしく抱きしめて、それで終わりにしよう。
 もう願わない、なにも。なにもかも、今まで通りであるために。
 その為だったらなんだって出来る、なんだってしよう。
 君を傷つける刃にはなりたくない。君を傷つけたとき、きっとぼくは自分を許せなくて自分を殺してしまうだろうから。
 この想いは地の底へと沈めよう。誰にも届かない、光さえも届かないほどに深く暗い闇の底へと棄ててしまおう。
 そうすることで君を守れるのなら、ぼくはなんだってしよう。
 貴方を守るためなら、ぼくはどんな事だって出来る。君を守るためなら、この身が砕け散る事さえ構わない。君を傷つけようとするものがあるのなら、身を挺して君を守る事を誓おう。
 ただひとつ、我が侭を言うのなら。
 どうか消えゆくぼくを忘れないで。
 心の片隅で良い、どんなに小さくても構わない。ただぼくのことを覚えていて、忘れないで居て。ぼくという存在が在ったことを、貴方の心の片隅に置いて。拳大の大きさだけでしか残らないかもしれない、ぼくの心を貴方の傍らに置かせて。
 貴方に出逢えた、それだけで良かった。
 夢の中で会えるだけでも、それだけでも良かった。
 なのに。
 この想いは罪、この願いは罪。
 愛されたいと思った、愛されたいと願った。
 この想いは罪、その結末は残酷。
 答えなど分かっていた、それなのに願ってしまった。救いはない、どこにも行けないしどこにも戻れない。
 誰にも告げることなく、この想いは海の底に沈めよう。誰にも拾われる事がないように、光さえ届かないほどに深く暗い闇の底へと沈めてしまおう。自分自身でさえも手が届かない場所へと、永久に追放してしまおう。
 そうすればこれからも此処に居られる、君の隣に居られる。
 その為ならなんだってしよう、例えこの思いを否定してうち砕いて、心を封印することになったとしても。
 それでも構わない、だからどうか君の隣に居させて。
 それが願い、それが望み。
 ひらりひらりと舞い上がる、夜空に浮かぶシルエット。
 雲が晴れる、月が見える。変わらずにそこに在り続ける、金色で丸い顔をした眩しい光を照らす月。
 だけれどその光さえも、世界から忘れ去られたこの躯を突き抜ける、触れることなく地上へと落ちていく。
 結んだ手を解く、手の平を上にして月へと差し向けた。
 掴もうと藻掻く、けれど届かない。
 この願いはこの行為と同じ。届かない場所に手を伸ばし続け、届かない事を改めて思い知らされて心を空虚に染めあげるだけ。
「ユーリ」
 この呼び声は罪、だけれどこの心に灯った微かな希望の光。
 どうか伝えて、この想いを。罪と知っている、罪と分かっている。それでも届いて欲しいと願ってしまう。
 伸ばした腕を更に空へと突き上げる。足掻くように指を広げ、月へと差し出す爪の先に風が奔る。
 この想いは空と大地と同じくらいにかけ離れていて、決して届かない。だけれど世界の果てで再会を遂げる彼らにかこつけて、いつか自分もと思ってしまうこの心が浅ましい。
 不意に視界が揺らいだ。水の中に放り込まれたように、世界が歪んで滲む。月の輪郭がぼやけ、靄がかかった時のように色が薄くなっていく。
 その片隅で、空を舞う小さなものが見えた。
 ひらりひらりと舞い上がる、夜空に咲いた一輪の花。黄色と青と、そして闇よりも濃い黒を纏ったアゲハ蝶。
「ユーリ」
 祈るように名前を囁く。
 守るように手を差し出せば、蝶は蜘蛛の巣を避けて月が待つ空へと舞い上がっていく。小さな羽を揺らして、色鮮やかな黒に染まったアゲハ蝶は彼を置き去りにして遠く世界を駆けめぐる。
 決して彼が近付くことの出来ない場所へ、一時の戯れで近付いてけれど最後は離れていく。なんて冷たくて残酷なんだろう。
 それでも離れる事が出来ない、離れたくない。
 戯れでも構わない、一瞬のすれ違いだけでも構わない。
 どうかぼくに触れてください、心を与えてください。我が侭だと分かっている、叶えられない願いだとも知っている。
 それでもどうか、届いてください。
 願わくば、愛してください。
 その気紛れな翼を、この肩で休めておくれ。

Thorn

 がしゃん、ごとん、がらがら……ずどん。
 床下を響いてくる怒濤の轟音を足の裏で聞きながら、はてこれはなんだろう、とアッシュはのんびりとした風情で首を傾げた。
 今は午後、昼食と夕食のちょうど中間辺りの時間帯。お仕事の打ち合わせは午前中に片付けて、残るセッション等は夕食後の時間を使おうという事になっての、しばしの自由時間だ。
 ユーリは食後の昼寝にと早々に部屋へ籠もってしまって、アッシュは台所で新作おやつの制作中。前に作ったものはスマイルのみならず、ユーリにまで「甘すぎる」と不評であったため、今度は甘さを控えめにしての再挑戦でもあった。
 今回は自信があるぞ、と腕まくりに意気込んで昼食の片づけとほぼ同時に作成に入った彼だったけれど。どうも普段以上に仕事の効率が悪くて進みが遅い。
 それもこれも、さっきからひっきりなしに足裏に伝わってくる振動と騒音が原因だった。
 ユーリの城は広い、はっきり言って借宿ではあるものの部屋を拝借して住み込んでいるアッシュは城内に、果たしてどれくらいの総数で部屋があるのかを把握していなかった。もしかしたら城主であるユーリ自身さえも知らないのかもしれない、前に城内を探索していたスマイルが階段裏に秘密の小部屋を見つけてはしゃいでいた事を思い出す。
 ここは本当、退屈しないね、というのがその時のスマイルの弁だ。彼は頭に蜘蛛の巣を貼り付け、あちこち擦り傷だらけになっていたのに本当に楽しそうだったから、多分今日もまたどこかから地下に潜り込んで探索を実行しているのだろう。
 暇が無いときは唐突に何処かへ出かけてしまって行方不明になったりするのに、暇なときも予告無く姿をくらましてくれるから、一緒にバンドを組んでいる方としては良い迷惑なのだけれども。
 どがんっ。
「ああ、また……」
 一際大きな音が伝わってきて、アッシュは泡立て器のクリームをボゥルに落としながら苦笑する。悲鳴までは聞こえてこなかったが、多分何かを落としたのか躓いたのかしたのだろう、台所のこの位置でもはっきりと分かるくらいに響いてきたから、本人には相当巨大な音が襲いかかったの違いない。
 風呂を沸かして置いてやった方が良いだろうか、おやつが完成する頃には戻ってくるだろうけれど、彼はきっと埃だらけでもの凄い状態になっているだろうから。
 うん、そうしよう。アッシュはひとつ頷いて自分に決意を表明すると、手早くボゥルのクリームを掻き混ぜていく。コンロの上にフライパンを置いて、薄く油を引いてからコンロの火をセット。
 ちらっと壁時計を見上げ、焼き上がりまでの時間を計算しながらフライパンに薄く広げた生地を載せる。
 さっきまで散々響いていた音は、次第に小さくなってきていた。探索のやりすぎてお腹が空いたのか、それともどこかぶつけて痛みに耐えかねたのかは分からないが、ともかく地下室からスマイルは去っていったらしい。そのうち戻ってくるだろう、とアッシュはフライパン上のパンケーキに意識を戻した。
 薄力粉にバターとクリームチーズを練り込んだ生地は、表面に焼き色を付けて外側をカリッと仕上げるのがポイント。
 鼻歌混じりに上機嫌で焦げ目のついた生地を器用にひっくり返し、裏側にもしっかりと焼き色をつける。さて上にはなにをトッピングさせようか。生クリーム以外にも、ジャムでも案外いけるかもしれないし。
 楽しげに考えながら一枚目を焼き上げて、二枚目に移ろうとしたところで、ガタン、と今度は地下からではなく随分と近い場所で物音がした。
「?」
 コンロのガスを切り、アッシュは音がした方角を見た。開いたままの扉の向こうで、リビングがなにやら騒々しい。
「アッシュ君!」
 物音は足音に変わって、叫び声に似た呼び声にアッシュはフライパンの取っ手から手を放して完全に身体ごと振り返った。薄い湯気を立てている、今まさに焼き上がったばかりのパンケーキの向こう側で、悲壮な顔をしたスマイルが右手を抱えるようにして立っていた。
 なにやら尋常ならぬ雰囲気を感じる。スマイルの頭にやはり前回の如く、千切れた蜘蛛の巣が乗っかっているのはさておいて、彼の表情はやたら真剣で逆におかしいくらいだ。
「どうしたんスか?」
 なるべくやんわりと、彼の気に障らぬ程度に柔らかな表情で問いかける。地下室に潜ってそのまま上がってきたらしくスマイルの全身は、テーブルを挟んで台所のコンロと入り口、というほぼ対角線上にあるアッシュの目から見ても分かるくらいに埃まみれ。その状態で頼むからキッチンに入ってくれるなよ、と言いはしないが切に心で願ったアッシュの気持ちが通じたのか、スマイルは入り口前で足を止めたまま膨れっ面で彼を睨み返していた。
 抱きしめている右手は、そのままで。
「?」
 却ってそれが、彼の右手になにかがあると勘付けさせてアッシュはまた首を捻る。
 焦れったくなったのか、スマイルはその場から叫んだ。
「とげ抜き、どこ!?」
「は?」
「だから、とげ抜きだってば」
 これ、とスマイルは見えない事を承知の上でアッシュに向かい、それまで庇うように抱いていた右手を突きつけた。広げた手の平の、中指が少し赤くなっていることだけかろうじてアッシュは把握した。
 するとさっきのリビングからした物音は、彼がとげ抜きを探して薬箱を求めた時の騒音だったのだろうか?
 焼きたてパンケーキが少し冷めつつあった。
「トゲ?」
「刺さったの!」
 見れば分かるでしょう、と見えていない相手に向かってまた怒鳴ってスマイルは頬を膨らませる。
「そこに無かったっスか?」
「無かったから聞いてるんでショ!」
 どことなく間抜けな会話が展開される。痺れを切らしたスマイルが「ああもう!」とその場で地団駄を踏んだ。
 アッシュの記憶の限りでは、とげ抜きは薬箱の一番端のごちゃごちゃと色々なものが詰め込まれたスペースに押し込んであったはずだ。もとから小さいものであるし、紛れてしまっては見つけるのも大変だろう。
「どんな具合なんスか?」
 とりあえず先にトゲがどんな感じで刺さっているのかを見せてみろ、とアッシュは言った。けれどスマイルはその場から動こうとせず、伺うように室内に目をやっている。
「スマイル?」
「ん、だってほら、ぼく今もの凄く汚いし」
 地下から一直線で上がってきてしまったから、リビングはまだしも食物が並ぶキッチンにまでこの状態で立ち入るのは気が引ける、と彼は出しかけた足を引っ込めた。ああ、とアッシュは頷いてから改めて首を振った。
「そこで、埃払ってくれれば良いッスよ」
 言いながらテーブル上のパンケーキと、まだ焼いていない生のままの生地をシンク台の方へと移す。そしてアッシュはテーブルを回り込み、スマイルの側へと寄った。
「どれっスか?」
「中指」
 差し出された右手を取り、アッシュは尋ねる。返事は先程感じた通りの解答で、またもうひとつ頷いてアッシュは彼の指先、第一関節の腹に目を凝らした。
 刺さっている、確かに。木……だろうか、薔薇なんかにあるトゲとは違う。
「何やったんスか?」
 コレ、と持ったままの彼の手を反対の手で指さすと、スマイルはばつが悪そうに上目遣いになってアッシュを睨んだ。
 言いたくなければそれでも構わないっスけどね、とやや呆れた調子で言い返してやれば、スマイルはむくれた顔のままぼそりと、
「額縁」
 それだけを口にして視線を逸らした。
「額?」
「落ちてきた奴、退けようと思ったら刺さった」
 かなり年代物らしく、作りが甘くなって痛んでいたその木組みの額縁がささくれ立っていた場所に運悪く、スマイルは手をやってしまったらしいとの事だった。初めはもっと大きな刺だったのだが、左手で抜こうと頑張っている間に皮膚からはみ出ている部分が千切れてしまった、とも。
 だから彼の右手中指に刺さった刺は、皮膚の内側に潜り込んでしまっている部分だけが残されている事になる。
 そしてスマイルの見通しは甘く、この深さではとげ抜きではもう抜き取ることが出来そうにないと、アッシュは見た瞬間に思った。多分、途中で折れてしまわなければとげ抜きでも対処出来たかもしれないが、もうこれでは無理だ。
 正直に告げると、スマイルは途端泣きそうな顔を作る。
「え~~~~!!!!?」
 思い切り、不満顔。だけれど彼にアッシュを責める権限は無い。元々初期に対処を誤ったのはスマイル自身であり、アッシュは客観的な立場から事実を言ったまでなのだから。
 けれどじくじくとした鈍い痛みを延々訴え続けている右手をスマイルは抱えており、その痛みをぶつける矛先は今目の前にいるアッシュに向くしかない。不条理だとは思いつつも、どうしようもなかった。
「痛いっスか?」
「当たり前でしょ~~!?」 
 痛くなかったら放っておくよ、とまで言ってのけてスマイルは自分の右手をアッシュから取り返した。
 取れないかもしれない、と言われた途端に痛みが増してきた気がして、効果は期待できないのに息を吹きかけて冷ましてみたりする。確かに刺の刺さった箇所は僅かだが熱を持っていて、小さく膨らんで赤くなっていた。
「抜く方法はあるっスけど」
 ベースを弾くスマイルにとって、右手は例え利き腕でなくとも弦を押さえるのに必要不可欠であるし、なにより傷の在処が中指。放置しておくことも出来かねるので、アッシュはその昔幼い頃に実際、祖母にやられたとげ抜き方法を思い出して呟いてみた。その方法を使えば、とげ抜きだけでは抜けなくなってしまったものでも摘出する事が可能だ。
「本当に!?」
 聞いた瞬間弾かれたようにスマイルが顔を上げる、その片方だけの目がキラキラと輝いていた。
 その期待に満ちた眼差しに、アッシュはほんの少しだけ後悔を覚える。
 正確には抜く、のではないのだ。
「ちょっと待ってるっス、取ってくるっスから……」
 けれど考える以上、他に良い手段が思いつかない。アッシュはスマイルをひとまずその場に置いて、必要な道具を取りに向かった。リビングの床の上に落ちていた薬箱には視線だけを向けて、他のメンバーは殆ど触りもしない箱を開けて、一本だけ抜き取って他は元あった場所にしまい込んで。
 一分足らずで戻ってきたアッシュはやはり今度もスマイルの横を素通りし、フライパンが乗ったままのコンロの前に立った。ボッ、と空いている方に火を入れる。
「アッシュ君……?」
 なにをするのだろう、とスマイルが怪訝な面もちで横からアッシュの手元を覗き込んだ。
 刹那、逃げだそうとした彼の腕をアッシュが先手を打って拘束。
「い……嫌いやいや~~~~!!!!!!!」
 まるで子供のように叫び、じたばたと暴れて逃げ出そうと藻掻くスマイルを片手で掴んだまま、アッシュはコンロの火で加熱消毒したまち針を構えた。
 そう、とげを抜く最終手段は。
 皮膚を裂いて、肉に食い込んでしまっている部分を抉り出す、という方法。
「ずっとそのままでも良いんスか!?」
「嫌だけどそれも嫌~~!」
「我が侭言わない!!」
 じたじたと抵抗を続けるスマイルを足も使ってしっかりと拘束し、後ろから羽交い締め状態にしてかなり強引にアッシュはスマイルの右手中指に熱したまち針の先を突き刺した。
「っ…………!」
 一瞬の熱と、それに続く熱。本当はそんな音なんかしないはずなのに、針が皮膚を貫いて薄い表面の皮を剥いでいく音が耳の奧に響いてきた。
 チリッ、と刺が刺さった最初の傷口である部分に細い、熱された所為で黒く変色した金属が差し込まれる。それは薄皮を裂いて行き、奧に残ってしまっている小さな刺の欠片目指して一直線に進んでいく。
 最終的にスマイルは、その針が進んでいく痛みに耐える方に意識を集中させたので暴れるのをやめた。必死に堪えているのが良く解る、奥歯を強く噛み合わせて更にきつく目を閉ざして、左手は握りしめて口の前だ。
 不覚にも、そんな風に懸命に痛みをやり過ごそうとしている彼があまりに意外すぎてつい、アッシュは刺を抉り取る事を一瞬忘れて彼に見入ってしまった。
 痛みが変な位置で止まってしまった事に気が付き、スマイルがそろりと右目を開く。半分涙目になっているそれでアッシュを見上げると、彼はハッとした様子で慌ててまち針を持ち直した。
 持ち直したときに変な力を入れてしまって、スマイルの指に突き刺さったままだった針先が不必要な個所を抉る。
「ったぁああ~~~~!!!!」
 甲高い悲鳴がキッチンに響き渡った。驚いたアッシュがまたスマイルの指をまち針で抉ってしまい、悲鳴が二段階に重なって反響を繰り返す。
 大急ぎでアッシュは針を抜いた。丁度二度目に抉った場所が本来の目的であった刺の先に触れていたようで、若干赤い液体にまみれてはいたものの、とげ抜きはかろうじて達成されていた。
 その代わり、完全に涙を目に浮かべたスマイルが迫力に欠ける顔で、アッシュのことを睨み付ける事になったけれど。
「……アッシュ君」
「はい」
「……ものすごぉく、痛いんですけど」
「はい」
「なんかさっきまでよりもずっとずーっと、十倍くらい痛いんですけど」
「……スイマセン」
 しょんぼり。まさにその表現がぴったりと当てはまる姿でアッシュは長い耳をぺたん、と伏せた。それがあんまりにも可哀想な感じがするものだったから、反対におかしく思えてスマイルはつい、ぷっと吹きだした。
 そこまで申し訳なさそうな顔をされてしまうと、もうこれ以上責められなくなってしまうではないか。
 確かにかなり痛かったけれど、それも時間を置けば薄れていく。あのまま刺を身体の中に残しておくよりかは、いくらかマシであることは確かだろう。
「けど、血……」
「こんなの、舐めとけば治るって」
 昔からよく言われている事を笑いながら口にする。そしてスマイルはアッシュの前で、ようやく出血が止まったらしい指先を振って見せた。
 だからまさか、本当に。
「じゃあそうするっス」
 そう言いながらアッシュが舌を伸ばして傷口の赤を舐めるとは、予想だにしていなかった事であって。
 唐突すぎることに呆気に取られてしまい、反応が遅れた。
「なっ……」
 茫然と、スマイルはアッシュの舌が自分の中指を絡め取って爪の付近にまでこびり付いていた血液をすべて舐め取り、呑み込むそのスローモーションのような光景を見送ってしまった。
「なにをするかこの犬っコロ~~~~!!!」
 べっちーーーーーん!!!
「キャインっ!!」
 絶叫と、アッシュを叩き倒すスマイルの平手打ちの音と、叩かれたアッシュが瞬間的に犬化して床に倒れ込む悲鳴とが被さりあう。
 きゅ~んきゅ~ん、とアッシュ犬が尻尾を巻いてテーブル下に逃げ込んだのを見下ろし、スマイルはゼーゼーと一気に荒くなってしまった息を整える。何故か浮いていた顎の近辺の汗を拭い、ふぅ、と息を吐く。
 それから、アッシュが手放した所為で床に落ちた自分の血がこびり付いているまち針を拾い上げた。
「アッシュ君、これ戻して置くから」
 反撃を懼れてテーブル下から出る事が出来ないでいるアッシュに向け、顔を見せずに彼は言う。黒く変色したまま戻らない金属部分を爪の先で弾き、随分痛みも遠くなった右手中指を見つめた。
「夕ご飯、カレーで宜しく。それで許したげる」
 ひらひらとまち針を持った手を振ってスマイルはにっ、と笑った。恐る恐る顔を覗かせたアッシュはそんな彼と目が合ってしまって、ぱっとまたテーブル下に潜り込む。
「クゥ~~ン……」
 情けないひと鳴きが合意の合図であり、しっかりと聞き届けたスマイルはにんまりと満足そうに微笑んだ。

Calling/4

 翌朝、目が覚めたときにはもう彼のベッドは空っぽだった。
 綺麗にベッドメイクが為されており、けれどだからこそそこで昨夜まで横になっていたのかと思うと、信じられない気分にさせられた。
 柔らかいクッションに手を置いてみる。体重を乗せると、手の平がゆっくりとその中に沈んでいった。けれどある程度の深みまで進むとそこで手は止まってしまう。そこから先への侵入を拒否される。
 姿勢を直し、改めて室内を見回してみた。
 入ってきて直ぐにカーテンを広げたので、室内は外から差し込む光を受け入れてかなり明るい。天井のライトに光を入れる必要もなく、床の上には薄い影が伸びていた。
 綺麗に整理整頓された、彼の部屋。片側の壁には一体どれだけ浪費したのかと言いたくなる、数多くのインテリア代わりにもなっているオーディオ機器。反対側の壁沿いには、これまた彼の趣味であるギャンブラーZにまつわる品々が、種類ごとに分別されてガラスケースに陳列されている。しっかりと鍵までかけられているその棚に近付いて、ユーリは腰を屈め中を覗き込んでみた。
 正直、これのどこが良いのかユーリには分からない。けれど彼は大好きで、よく大声でテーマソングを歌ったり、必殺技を叫びながらアッシュに飛びかかっていた事を思い出す。
 その本人は、もうこの部屋にいないけれど。
 部屋だけではない、もうこの城のどこを探しても彼は見付からない。引き留めたけれど、無駄だった。
 彼の意志は固く、決定が翻される事はなかった。何処へ行くのか、何をしに行くのか、――戻ってくるのか、それさえも彼は口に出さなかった。
 ただ、「出ていく」とだけを繰り返して。
 それ以外のことばは紡がず、質問も受け付けられなかった。会話にさえならず、広場からの帰り道は往路以上にふたりとも寡黙だった。
 息が詰まり、苦しかった事だけが印象に残っている。日が暮れてしまい、道端に転々と佇む街灯の明かりに薄暗く照らされる中を、黙々とただ前に進むことだけを考えながら。
 その時自分が何を考え、どうしていたのかをユーリは一晩明けた今も思い出せないでいる。きっと色々と複雑に、なにかを整理がつかない頭の中で考えていたはずなのに、そのいずれもが記憶に残っていなかったのだ。
 それどころか、夕食がなんでありどんな味がして、美味かったのか不味かったのかも実のところ記憶が曖昧だった。いつ頃眠りに就いたのかさえ思い出せない。どうにか彼を引き留めようと、夜半に彼の部屋を訪れたことだけは覚えているのに。
 彼以外の事柄がどれもあやふやで、曖昧になってしまっている。
 そして彼はもう居ない。
 朝、ユーリが目覚めたときには彼の気配は微塵とも残っていなかった。そこに彼が居たはずなのに、その残り香さえも全部消して行ってしまったのかと思ってしまいたくなる程に、彼の存在が希薄になっている。
 彼がこの部屋に住んでいた証拠がこんなにもたくさん、確かに残されているのに。肝心の彼の気配がどこにも残っていない。
 だから哀しくなる。
 ユーリはギャンブラー関係の棚から離れ、閉めきられたままでいるクローゼットの戸を広げてみた。天井のレールを滑り、戸は思ったよりもずっと勢い良く開かれた。
 明かりが遠くなってしまい見づらいけれど、中もきっとそのままなのだろう。ハンガーにつり下げられている服はどれも黒やそれに近い系統色ばかりで、モノトーンの色彩は部屋の配置そのままであり、どことなくおかしかった。
 目を細めてユーリはクローゼットの中に、昨日彼が着ていたコートが無いことを確認する。似た色のものがいくつかあったけれど、ユーリが覚えているコートはついに発見できず、こんなところで彼が本当に出て行ってしまったのだと思い知った。
 よくよく見回せば、確かに少々ものが減っている感じがする。一番変わってしまっているのは机の上で、散乱していた譜面や文房具の類が一掃されていた。
 そこだけが生活感を薄れさせていて、異質。つい昨日のこの時間、彼はまだこの椅子に座って机に向かい、なにかをしていたはずだ。後ろでは聞こえもしない耳で拾える音を求めて、レコードを喧しいばかりに大音響で鳴り響かせて。
 彼は、ここでなにをしていたのだろう。
 彼は、ずっとこうする事をひとりで考えていたのだろうか。
「スマイル……」
 お前は、今、どこにいる? どこに行こうとしている? なにを目指している?
 あんなにも切望していた場所を放り出して、自分から捨てるような真似をして置いて、何処へ行こうと言うのだ。他に行く場所などないと自分から否定しておきながら、こんなにも簡単にこの部屋を空白に染めて行ってしまった。
『ぼくを呼んで、ユーリ。ぼくはきっと、応えるから』
 そう言った、けれど呼んだところで返事はない。
 ただ代わりに、と主張しているかのように。
 整頓された机の上に並べられた分厚い書籍の隙間に差し込まれているらしい、紙の端がユーリの目に映し出された。随分と乱暴に押し込められたものなのか、皺が走っているそれに興味を引かれて彼は手を伸ばし、机の角に左手を置いて右手を伸ばした。
 ただかなり窮屈に並べられている本の間から、紙だけを引っ張り出すと途中で破れてしまいそうだった。だから仕方なく、ユーリはその紙を押さえつけている片側の本も一緒に引き出す事にした。
 厚さ二センチはあるだろう専門書の、背表紙の頂点――分厚くなっている表紙の端が少々突起しているところに指をかけて、斜めに引き倒す。摩擦力に引きずられ、挟み込まれていた白い紙も一緒になって前に倒れ落ちた。
「…………?」
 取りだした本を横向けにして机に置き、裏向きに落ちたせいで表面が見えなかった紙を拾う。胸の前まで持っていき、裏返した。
 両手で両端を持ち、視線を落とす。

please call a name ―― my name
Please tell me your voice
It becomes my power
I can make a living
Therefore
please call me ―― your voice
I want to hear your voice
I will do anything, if the wish is fulfilled
I could do anything, if the wish is fulfilled
Therefore, please tell me your voice

 一瞬、なんの笑い話かと思った。
「あの、バカ……」
 他に形容することばが見付からない。掴んだ紙を握りしめながら、ユーリはくしゃくしゃになりかけている自分の顔を片手で押さえ込んだ。
「これが、お前の気持ちか?」
 これから先も、今までと同じである為に。傍に居るために、今一番必要なこと。
 それが見付かったと言うのだろうか、彼に。彼はまた、ここに戻ってくると、そう伝えてくれているのだろうか。
「呼んでやるさ、何度だって……呼んでやる」
 だから、どうか。
 一秒でも早く。
「ここに、帰ってこい」
 ユーリはその紙を抱きしめて囁いた。祈るように目を閉ざし、頭を垂れて唇を固く結ばせる。
 お前が帰ってくるまで、お前の場所は守るから。帰ってきたお前を迎え入れられるように、その席を空けておくから。
 お前のための場所を、作っておくから。
 ちゃんと、帰ってこい。
 お前はお前のまま、ここに帰ってこい。
 呼んでやるから、何度でもお前の名前を、飽きるくらいに大声で叫んでやるから。誰よりも大きな声で、お前に届くように何度でも幾度でも、この喉が潰れるまで呼んでやる、だから。
 どうか応えて、この声に応えて。

 名前を呼んで、私の名前を
 貴方の声を私に聴かせて
 それは私の力になる
 私は生きていける
 だから私を呼んで――貴方の声で
 貴方の声が聴きたいのです
 その願いが叶うのならば、私は何だってするでしょう
 その願いが叶うのならば、私は何だって出来るでしょう
 だから私に、貴方の声を聴かせて

 がやがやと、それでいて喧噪が湧き起こっている空間に佇む。
 空気は震え、熱を含み今にも破裂しそうな勢いで膨張を続けている。その一瞬の緊張感が溜まらなく嬉しくて、心地がよい。
 こんな場所、他に知らない。
 こんな場所、きっと世界中のどこを探したって見付からない。
 ここだけが、帰るべき場所。
 此処こそが、在るべき世界。
 自分を求めてくれる存在が在る事が。
 自分を待ってくれている存在が居る事が。
 自分を必要としてくれる存在を前にする事が出来る、その事がどれだけ恵まれ、幸福な事なのかが離れていてよく分かった。
 だからこそ、もう一度手に入れてみたいと思う。
 ひとたび手を放し、距離を作ってしまったけれど、そのお互いに無言だった時間が無駄ではなかった事を信じていたい。広がって出来上がってしまった隙間を埋める為の時間を、どうかふたりでこれから築き上げていきたいんだ。
 そう願う事が我が侭だと、君は言うだろうけれど。
 きっと、言うだろうけれど。
 ぼくの瞳には、そう言う君が不満そうにしながらも、でもどこかはにかんだ、照れくさそうな顔をしているのが見えるんだ。これは幻でもない、空想や夢でもない。
 それは近い未来に訪れるだろう、確かな記憶。
 だから今はもう少しだけ、この熱気迫る空間を楽しんでいたい。喜びに打ち震える胸を抱きしめていたい。
 君を抱きしめる前に、自分がこの場所へ戻ってきたという事を確かめていたいんだ。一番じゃないことを君は嫌がるかもしれないけれど、分かってくれるだろうと信じている。君だってきっと、最初に求めるのはぼくだけの手ではなくて。
 君を求めて存在を確かにしてくれる、多くの人から発せられる沢山の呼び声なのだろう?
 その呼び声に応えない君じゃない、君はきっとまずなによりも誰よりも、その呼び声に向かって手を振るだろう。その背中を見つめる事は、決して不愉快な事じゃない。むしろ誇りに思えることだと、ぼくは思っている。
 目を閉じる。
 呼び声が聞こえる、沢山の人の声が混じり合い、それぞれが叫ぶ声が空間を震わせて木霊している。この声は偽りではなく、心の底から求めて欲してやまない人々の魂の共鳴。
 なんと心地よく、胸を震わせてくれるものなのだろう。
 帰ってきたと実感させてくれる、確かな質量に包まれて心臓が高鳴っていくのが分かる。
 もう少しここでこうしていようか。君は怒るかもしれないけれど、その時の顔を想像するだけでも楽しいから、うん、悪くない。
 くすっ、と笑う。口元が危うく開きかけて、慌てて意識を集中させて口を閉じた。その代わり、見開いた隻眼が細くなって口元はやはり開きはしないものの、緩んでしまう。見えなくなるように隠す為、右手を持ち上げて軽く広げそれを口の前に翳し、細めた目で眼前の光景を見据えた。
 約束は、伝わったらしい。そして彼は守ってくれたようだった。
 ありがとう、と心の中で礼を告げる。あとで改めて、彼を前にしてもう一度同じことばを繰り返して告げるつもりでいるけれど、こうやって此処に立てる日に再び巡り会えた事を、彼にどれだけ感謝しても足りないくらいだ。
 唇を結び、手を今度は左目に重ねてみた。
 痛みはもう、どこにもない。あれだけ自分を苦しめた痛みも辛さも、すっかり綺麗に消え失せている。頭痛は遠く、鐘が鳴るように頭蓋の内部で反響していた不協和音ももう聞こえなくなった。
 ただこの感覚を得るために、あの鈍痛よりも遙かに酷い痛みに耐えなければならなかったけれど、それはもう過去のことである。思い出さなければ、繰り返される痛みでもない。廃れてしまった神経管を繋ぎ直すために、既に肉と同一化しかけていたこの義眼を、摘出せねばならなかったのだ。
 それが、耳の聞こえなくなった一番の原因。
 医者が原因を突き止められなかったのは、この義眼をくるんでいる神経その他諸々が通常の技術を要して接合されていなかったから。これは全部、人以外の技術によって作られ与えられた、世界にふたつとない代物だから。
 スペアはない。失う事も出来ない。そして、すぐに正常に戻す事の出来るような簡単な仕組みでもなかったから、時間が必要だった。
 タイムリミットは一ヶ月、ギリギリ、間に合った。
 間に合わせた。
 安堵感の息がこぼれ落ちる。吐き出した呼気が熱気の渦に巻かれて空を駆け上って行く。
スタートまで、あと数分。
 君の驚く顔が、楽しみ。

「どうするんスか? このままスマイルが来なかったら……」
 既に満席となっている観客席を袖から見やり、アッシュが切羽詰まった声でユーリに叫ぶ。開演時間はもう間もなくとなっており、時計と睨めっこをしている彼の顔は赤くなったり、青くなったり。
 さすがにこの状況ではそれを面白がって見ているわけにもいかず、マイクを握る手に力を込めてユーリはギリッ、と唇を噛んだ。
 振り返れば、一列になったメンバーが揃っている。その顔は一様に不安を浮かべており、決断を迫られてユーリは益々強く唇を噛む。
「あの……バカが!」
 ユーリが腹立たしげに小さな声で怒鳴ったその対象が誰であるか、聞いている方はひとりとして間違える事はなかった。確実に、此処にいる自分たちではない。この場に顔を連ねあわせている自分たちではなく、此処に居ない存在に対しての、怒りだ。
 不用意に触れたらその怒りが自分に向きかねないので、アッシュ以外は誰ひとりとして口に出さなかったけれど。
「ユーリ、もう時間が」
 アッシュに急かされ、ユーリは瞑目する。伏せた瞳が己の足許を映し出し、視界が歪んだ。
 一ヶ月、ただひたすらに彼の居ない時間を過ごした。彼無しで出来ることは全部やったし、彼が必要だと思われる部分は不本意であったが代役を立てる事でなんとか凌いできた。
 そして約束の、ライブ当日。
 彼はまだ現れない。もしかしたら、このまま永遠に現れないかも知れない。昨夜から考えていた一番最悪なシナリオが現実になりつつあって、ユーリは爪が食い込む寸前までマイクを握り込んだ。
「時間です!」
 スタッフが叫ぶ。
「もう少し待てないか?」
「ですがもう既に、三十分近く押してるんです。観客も限界ですよ」
 予定時刻を押して待ってみても、芳しい報告は届けられない。このまま始めるしかないのかと、アッシュは爪を噛んだ。他のメンバーも揃って浮かない顔をし、ユーリの様子を窺っている。
 彼が決定を下さなければ、他はどうにも動けない。
 俯いていたユーリが顔を上げる。瞳に、怒り以外の強い決意が浮かび上がっていた。
「出るぞ」
 ステージ衣装のコートを翻し、彼は歩き出した。後方で彼の一声を受け、待機していたスタッフとメンバーが一気に動き出す。
 照明の落とされたステージ。自分の立ち位置を確認して、モニターの場所を素早くチェックして、袖までと前方の端までの距離を相互に計算し、間違っても落下しない事だけは念頭に置いて。
 深呼吸を、ひとつ。
 観客席から流れてくるざわめき、熱気、歓声。饗宴の始まりを待ちかねた人々の魂が、無限の大気を震わせて胸に押し寄せてくる。
 それはなんと心地よく、緊張感の走る世界なのだろう。ただ、ここに君が居ないことだけが残念でならない。
 そう思った。
 だけれど、不意に。
 笑い声が聞こえた気が、して。
 ユーリは振り返ってみた。けれどそこにはなにもなく、ただ黒々とした無機質なスピーカーと照明機材を吊したイントレが聳えているだけ。
「?」
 首を捻る、右側へ。
 微かに、大気が揺れ動く。
 ユーリは握っているワイヤレスマイクの電源がオンになっていることを、横目で確認した。赤いランプが点灯している、電波は間違いなくチューナーを経由してミキサーへと届くだろう。エフェクターで処理されたそれはアンプを通過し、最終的にスピーカーで拡大されて“音”になる。そうなる前は、音はただの電子に変換された波に過ぎない。
 だがその波は、一瞬にして空間を駆けめぐる。
「スマイル」
 微かな音色が、会場内の各所に設置された巨大スピーカーから流れ出た。
 会場内が唐突に、水を打ったように静まりかえった。拡大されて聞こえてきたのは、確かにユーリの声だけれど、ライブ開始を告げる声とは少々趣が違っている。観客はいずれも首を傾げ、次の声を待った。
 裏方のスタッフと、ステージ上でセッティングを終えたメンバーも、中央に立つユーリの背中を半ば茫然とした思いで見つめていた。
 透明な笑い声が、聞こえる。
 アッシュも気付いた。もしかしたら、と。
「スマイル」
 マイクを通し、スピーカーで会場全体に彼の声が響き渡る。俄に会場内がざわつき始めた、今までのような開演を待ちわびる人の喧噪とは違うざわめきが広がる。
 お互いの顔を見合わせて、ひそひそとうわさ話に会話が流れていく。この一ヶ月、一切姿を現すことの無かったdeuilのメンバーのひとりが、実は行方不明で所在地不明であるという噂だ。
 これを決定付けるものはなにも証拠として上がってこなかったから、あくまでも噂の域を出ていなかった。けれど薄暗い中でかろうじて見えるステージ上には、ベース奏者が立つ位置が空白のままである。そしてなにより、ユーリのこの呼びかけに似た名前の連呼が。
 クスクスと、笑っている。
 どこまでも性悪で、ひねくれた、人をからかって遊ぶのが大好きな奴の笑い声が聞こえてくる。
 ユーリは深呼吸を繰り返した。最後に思い切り肺の中へこれでもか、というくらいに息を吸い込んで、止めて。
 マイクを構える。
 音響担当のスタッフが、嫌な予感を覚えてユーリが持つマイクのフェーダーを咄嗟に10デシベルほど下げた。
 ゆっくりとユーリは吸い込んだ息を、吐き出す。
「スマイルーーー!!!!!!!!!!!!」
 きぃ~~~ん、とスピーカーが一斉にハウリングし、例えば黒板を爪で引っ掻いたときに出る音のような、耳に耐え難い高音が会場内に翻された。
 予想出来ていたアッシュだけが、あらかじめスティックを外した両手で耳を押さえ込んでいて、かろうじて事なきを得たけれど他の面々はいずれも、重症。それは言うに及ばず観客席にいる人々と、ステージ裏や前方に設置されたイントレに構えるスタッフ等々にも甚大なダメージを与えていた。
 鼓膜を激しく打ちつけさせた高音が消滅するのに、それから一分少々の時間が必要であった。真っ先に回復したのは、滅多に在ることではないけれど(あったら困る)そこそこハウリングにも慣れているスタッフ達だった。
 ただ彼らがいずれも、今のでスピーカーが飛んでしまっていないかどうかの恐怖にさらされ、冷や汗を隠せずにいたのだけれど。それはまた、別の話。
 ふぅ、と吸い込んだ分の息を全部吐き出し終えて、すっきりした顔を作ったユーリが肩を落とす。
 瞬間、笑い声が透明から色を持った。
 クスクス、と入りっぱなしのユーリのワイヤレスマイクがその声を拾い上げる。
 彼はゆっくりと振り返った、肩越しにステージ脇の空白が出来ているスペースを睨み付ける。
「ユーリってば」
 笑い声は止まない。
 なにもなかったはずの空間が、徐々に揺らぎ始める。
 そして。
「そんな大声出さなくったって、聞こえてるってば~」
 心底楽しそうに、彼は笑っていた。
 一体いつからそこにいたのか、しっかりと自分が担当している楽器を両手に抱え持ってステージに腰を据えているスマイルが、隻眼の丹朱を細めてユーリを見上げている。
 スッと、ユーリはまたしてもマイクを構えた。
 反射的に、ミキサー卓前に座っている音響チーフがフェーダーに指を添える。この場合、トリム自体をワンクリック落とすべきではないかと、横に座っていたサブチーフは思ったが、言わない事にした。どうせ間に合わないのだし、と思っていたら本当に間に合わなかった。
「遅いわ!!」
 再び、ユーリの大絶叫がスピーカーに乗って会場内に轟いた。だが先程のようなハウリングも起きず、トーンも些か落ち気味だった。
「え~? だってぼく、みんなよりも早くからずっと此処にいたよ?」
 但し透明で。
 にっこりと無邪気なくらいに微笑んで喋る彼の声も、いつの間にかしっかりとマイクに拾われていた。一体何処で拝借してきたのかも不明な、けれどどういうわけかちゃんとパッチングされてフェーダーにも割り振られているワイヤレスのマイクが、気付いたときにはもう彼の胸元に装備されていて。
 ひょっとしてスタッフの方が先に知らされていて、自分たちは騙されたのだろうかと一瞬、ユーリは凄まじい怒気をその場に立ち上げた。このままでは永遠にライブが始められないと踏んだアッシュが、助け船にもならないかとは思ったがとりあえず、自分の左手方向にあったハイハットシンバルを数回、軽く叩いて鳴らしてみた。
 座っていたスマイルが、口元を綻ばせながら立ち上がる。ユーリは片足分、後方に身体を退いた。
 スマイルの左手が挙がる。
 ゆっくりと、ユーリが後方――つまりはステージの中央である本来の自分の立ち位置へと戻っていく。
 アッシュが全身を使ってリズムを練り始める。
 誰かが特別合図を送ったわけでもないのに、全員がタイミングを見計らって大きく頷いた。
 最後にちらりと、ユーリがスマイルを振り返る。相変わらずの笑顔を浮かべ、彼はユーリに微笑みかけた直後掲げていた左手を振り下ろした。
 照明が一気に点灯する。
 爆音が鳴り響いた。
 静まりかえっていた観客席が熱気に包まれる。歓声が湧き起こった。
 全身でそれらを受け止めながら、ユーリは絶叫した。暗譜している譜面を思い出しながら、スマイルもベースを掻き鳴らす。
 照らされる照明の眩しさにも負けず、目の前を挑むように見つめて。

 Can you hear my voice?
 Has my voice reached you?
 Would you respond to my voice?
 Can my voice which you call you be heard?
 I am continuing calling you.
 I will continue calling you forever.
 Does this voice reach you?
 Does my voice reach you?
 Please respond to me
 I want to hear your voice
 Only it is all
 Therefore, I wish
 Only it is all that I desire

 Does this voice reach you?

 Yes, I am ……