Holiday2
散歩に行こうかと、誘ったのは彼。
久しぶりの完全休日、朝から夜まで予定は一切無し。何処へ行こうと、何をしようと誰も咎める事をしない。咎められる必要の無い日の午前、少し遅い時間帯。
漸く起き出してきた城の主にそう声を掛けた彼は、ゆっくりと遅い朝食の珈琲を啜っていた城主が頷くのを待ってから楽しそうに微笑んだのだ。
彼が差し出したのは、黒髪のウィッグ。付け足すように、普段の城主であれば絶対に袖を通したがらないようなカジュアルデザインの服をワンセット。踵のないスニーカーまでしっかりと揃えられていて、辟易したように溜息を零した城主に彼はそそくさと逃げ道を封じ込めた。
そして完璧だ、と勝手な自己満足をされた変装で繰り出したのは平日であるに関わらず、暇を持て余している人がごった返す街中。滅多に来ることがない――来ることの適わない場所に連れ出された。
通り過ぎていく人は誰も、其処に立っている存在が現在も芸能界で驀進中の人気アーティストだと、気付かない。時折似ているな、と振り返っていく人はあっても声をかけてくるまでには至らない。
目立つ銀糸の髪はウィッグと、抑え込むように被っている帽子で完全に隠されている。ルビー色をした鮮やかな紅玉の瞳も、若干色を含んだレンズを填め込んだ眼鏡に遮られて見えない。黒一色で身を固めている画面に映し出された彼とは、明らかに一線を画している服装。
人目を忍ぶ必要性がない、今の状況。
「ど? 面白いでしょ?」
濃い黒のサングラスを僅かにずり上げて、その下に隠されている色違いの瞳を細めた彼は笑った。
対する彼は黒尽くめ、季節外れのロングコートを軽やかに着こなしている。彼の一番の特徴である白い包帯はすべて取り除き、左目を隠す分も今はない。眼帯さえも今日は装着しておらず、青白い肌も人並みに。
少々異質な感じのする服装である事は否めないが、だからといってそれを彼がdeuilのベーシストだと決定付けるには要素が足りなかった。
若い女性の多くはこの奇妙な取り合わせのふたり組を見かけ、色めき立ったがやはり誰も、その名前を呼ぶことはなかった。
それは今までの彼らにはなかった事であった。駅から町の中心部までを歩いてきたというのに、騒ぎ立てられたりする事がまるでない、スムーズに道を行くことが出来る。
ユーリにとっては珍しい光景であり、またある種の快感ともなっていた。
こんな風に自由に街中を、人混みの中を行くことの出来る経験に乏しかった彼。だからこそ最初は訝んだスマイルの行動だったけれど、今ではすっかり楽しんでいる。
誰かに気付かれるだろうか? 誰も気付かないだろうか。見つけて欲しい気もするが、誰にも気付かれないで一日が終わるのもわくわくする。
細い糸の上での綱渡りをしている気分でもあり、珍しいものを見る目で街中を練り歩く。それにこの服装は歩きやすかった。踵がない靴はまだ慣れるのに少し時間がかかりそうだったが、不用意な出っ張りで転ぶ事は少ないのは嬉しかった。
目的地は特にない。だから行ってみたい方向を決めて、あとは適当に歩く。信号が青だったら真っ直ぐ、赤だったらその道を曲がって。
好きなように、気の向くままに。
行けるところまで、行ってみよう。今日は仕事の事を全部横に置いておいて、何も難しいことを考えず。
風の吹くまま、道の続く限り進んでみよう。そして面白い発見があれば見つけ物で、逆になにもなかったとしてもそれはそれで、今日の時間が無駄になったとは思わない。
暇を持て余すくらいなら、歩き回るだけでも動いていよう。その時に隣に、貴方が居てくれればそれはもっと、楽しくなるだろうから。
人混みが目の前に現れる。顔を上げればサングラスの向こう側に見えるのは赤信号だ。隣の車線にも自動車がエンジンを喧しくさせながら、列を作って並んでいる。
ちらりと視線を隣へ流せば、同じように見上げられて自然と苦笑が浮かんだ。
「曲がろうか」
「そうだな」
数列に渡って出来上がっている人の塊を避けて道路の端に近付き、隙間を潜り抜けて左に曲がる。表通りから裏路地に入ったらしく、人影は一気に薄くなった。
それでも構わずに歩いていく。コートのポケットに両手を突っ込んだまま、左右へ視線を巡らせて。半歩後ろを歩いているユーリも、物珍しげに両側に並んでいる住宅を眺めながらついてくる。
時々忘れた頃にひょっこり顔を出す店舗は、ブティックだったり雑貨屋だったり、或いは美容院だったりで。その統一感の無さを話題にしながら、道は左に曲がった。
途端にトラックが目の前を行き過ぎる。いや、車道の間にはちゃんと歩道があって、街路樹も整備されていたものの、通り過ぎていく車がどれも高速度であった為に間近に感じてしまったらしい。エンジン音と排気音も騒々しく、自分たちが街から外れてしまった事に今更ながら気がついた。周りを見回しても、自転車が駈けていっただけで歩く人の姿は見当たらない。反対側へ渡ろうにも、横断歩道さえ見える範囲内にはなかった。
やれやれと肩を竦めてため息を零す。どうやら戻るしかないようだと、隣で難しい顔をしているユーリに目配せしようとしたところで。
不意に視界の端を、何かがすり抜けていった。
サングラス越しの視界でそれを追い掛ける。ふわりふわりと、頼りない動きで空へと登っていこうとしてそれは、途中で街路樹の枝に糸をひっかけたらしくバランスを崩しながら止まった。
今度はサングラスをずらして、色つきの視界で確認する。
赤い、風船。
「スマイル?」
「あ、いや……あれ」
まだ気がついていないらしいユーリが怪訝な顔をして声を潜めるのを、顎をしゃくることで風船へと彼の注意を向けさせた。
またトラックが走り抜けていく。その生温い風を感じ取りながら、スマイルは風船が引っ掛かった街路樹へと視線を流した。そしてどうも自分の視線の高さでは見落としてしまっていたらしい、幼子の姿を見つけだす。
ユーリも気がついたようで、眼鏡の下で眉間に皺を寄せていた。
子供は男の子で、五、六歳だろうか。野球帽を被り、ひとりだった。街路樹の枝に糸を絡ませて揺れている風船を見上げ、茫然としている。
親はどうしたのだろうと周りを見渡してみるものの、近くにそれらしき姿は見当たらない。まさかあんな小さな子供がひとりで、こんな車ばかりの危険な通りへやってくるとは思えず、恐らく途中で家族とはぐれてしまったに違いない。そんな風に考えながら子供の様子を窺っていると、最初はきょとんとしながら風船を見上げていた彼は徐々に表情を曇らせていった。
あ、泣くぞ。そう思った瞬間、見事に予想は的中して男の子は顔をくしゃくしゃにさせ、大声をあげて泣きじゃくり始めた。しかし間近を走っていくトラックの音にそれは掻き消され、周りには響かない。
「ユーリ」
「嫌だぞ、私は」
折角のフリーディなのだ、あんな何処の誰ともしれない子供のために労働してやる義理は何処にもない。スマイルの言いたいことを先取りして彼は反論し、腕組みをしてそっぽを向いた。そのまま今来た中心街へ戻る道を、進み出そうとする。
けれど一緒に行くはずのスマイルがまったく動こうとしない事に気付いて、二歩ほど前へ出た後に立ち止まって振り返る。この上ない不機嫌そうな顔を隠そうともしないで。
いつもならば、スマイルはこんな風に感情をむき出しにするユーリを珍しがり、からかってくるのだけれど今日に限って、それはなかった。
彼はじっと、ひとりで泣きじゃくっている子供を見つめている。ユーリはそんな彼の横顔を見つめ、盛大にため息を零した。
「スマイル」
強めの声で彼を呼ぶ。引っ張ってでも連れて行こうと、腕を掴むために伸ばしたユーリの手はけれど、直前でするりと躱された。
スマイルの左手が、黒のサングラスへと導かれた。僅かに位置をずらせば、丹朱と金沙という組み合わせをした双眸が白日に晒される。そのままの姿勢で、スマイルはユーリを振り返った。
「イイヨ、ユーリが行かないなら」
ぼくが、行くから。
そう呟いて彼はサングラスを取り去ろうとした。
咄嗟に、ユーリが前に出てスマイルの両手を拘束する。両の手首を掴んで慌てて自分の方へと引っ張り、間に滑り込んだ身体を伸ばして真下からスマイルの顔を覗き込んだ、そのユーリの顔がいやに真剣に逼迫したものを含んでいて。
今度こそスマイルは、彼を笑った。
ユーリがはめられた事に気付いたのは、その直後。スマイルが本当に笑い出すのを見てからで、してやられた気分で唇を浅く噛むと、御免ね、と言いつつスマイルは本気の目でユーリを見下ろした。
今日はオフで、誰にも見付からないように行動するのが今日の目的なのに、と。
いつからそう決まったのかも分からない約束事を恨みがましく口にして、ユーリははぁ、と息を吐く。掴んでいたスマイルの両手を解放して、もう一度彼を睨んで。
ユーリは靴裏をアスファルトに擦りつけるようにして歩いて、未だ泣き続けている子供の直ぐ側へと歩み寄った。
もう一度、溜息。
スマイルも若干遅れて彼の後ろに続く。その耳に、喧しく地鳴りを立てているトラックの群れからは別天地としか言いようのない、軽やかな羽根の音が届けられた。
アイボリーのシャツの隙間を縫うようにして伸縮自在の、黒い羽根が広がった。
一瞬、だけ。
ユーリは爪先で強く大地を蹴った。
跳び上がる、しかしその身体は重力を無視してふわりと空へと浮き上がった。
腕を伸ばし、枝に絡んだ糸を指先の動きで解いた。そして人差し指に二重に巻き付ける。同時に身体は浮力を減退させて地上へ引き戻されて。
縮み、消え失せた羽根によってバランスが崩れてしまった後方に倒れそうになりながらの着地は、背中にスマイルの手の平を感じてなんとか無事に迎えることが出来た。
赤色の風船が目の前で踊る。
遠くから、車の音に掻き消されそうになっている若い女性の声。
「ほら」
周囲の変化にまるで気付かないで居る子供の頭を小突いて、ユーリはぶっきらぼうに今自分が回収した風船を彼に突きだした。
顔をあげた子供は、帽子の下で真っ赤になった目を擦りながら暫くきょとんとしていた。
けれど自分たちの間でゆらゆらと揺れる風船を見つけて、現金なくらいにパッと顔を輝かせた。
「ゆう君!」
母親なのだろう、女性がひとり大急ぎで駈けてくる。男の子も声に反応して、ユーリから受け取った風船をひょこひょことさせながら両手を振り回した。
視界に母親を見つけて、元気良く走り出す。すっかり泣きやんだ子供は、けれど自分たちを見送るふたり組を突然思い出したのか、足を止めてくるりと身体の向きを変えた。
トラックの騒音になど負けない元気いっぱいの声で、やはり風船をしっかり握った手を振り回して叫ぶ。
「ありがとう、お姉ちゃん!!」
そのあまりの元気の良さに、彼らは咄嗟に男の子の間違いに気づけなかった。
母親に抱きしめられ、子供はなにかを囁いたのだろう。風船を揺らしながら彼らに目線を向けた男の子を抱き上げ、女性は小さくふたりに頭を下げた。
ここに来てようやく、ユーリが我に返る。
はっと、空っぽの手を握りしめて怒鳴った。
「私は“お兄さん”だ!!」
けれど子供とその母親の姿はもう既になく。
背後では次々と列をなしてトラックが走り抜けて行くばかりで。
当然、人通りの寂しい歩道を行く人も見当たらず。
隣で、スマイルが口元を左手で隠しただけだった。
「笑うな!」
「お姉さん……お姉さんだって!」
「だから笑うなと言っている!!」
一体この格好のどこを見てそう判断したのか、といきり立つユーリは悔しげに地団駄を踏んだが、スマイルはまだ当分笑い止みそうになく。
「笑うなー!!」
ユーリの怒鳴り声だけが虚しく、晴れ渡った空に融けて消えていく。
そんな休日の、午後。
Wood
彼は今日も、その場所にいた。
小高い丘の頂上にぽつんと、寂しげに腕を空へと伸ばしている木の下。
まるでそこが彼の定位置であるかのように、決まってその場所の西側に座っている。ほんの少し根が盛り上がって、土と緑の草の間から顔を覗かせている、その隙間に腰を落ち着ければ直接地面に座る必要もないから。
それは彼が座る為に、この木がわざわざ彼のために用意してくれた椅子のようだった。
以前、彼が居ないときに。
こっそりと黙って座ってみたことがある。けれど彼女には少し窪みが大きすぎて、丸まった根の表面に滑ってしまった腰が窪みに落ちてしまった。
それ以来彼女はその場所に座らなくなった。彼に内緒で座ってみたことも、その後の事が恥ずかしくて誰にも言えなかった。
今日は彼が居た。いつもの場所で、いつものように木の根っこに腰を預けて地面へと両足を投げ出している。背中をゆったりと伸ばして木の幹に預けて、とても心地よさそうに目を閉じていた。
そっと近付く。
けれど、彼まであと五歩という距離で無情にも吹き付けた突風が彼女を包み込み、左手で持った空白の鳥籠をかしゃん、と揺らした。
鍵の無い扉が開かれ、そして閉じられたその音だった。
あ、と彼女が細く微かな声を出す。
気付かれただろうか、と不安げに音を立てた鳥籠から前方へと視線を戻した彼女は、おっとりとした動作で閉じていた瞼を開く彼を見つめて、残念そうに溜息を零した。
数回の瞬きのあと、彼はまだ少し眠たげに目を擦って欠伸をひとつだけ。左腕だけを頭上へと持ち上げて、軽く首を左右へと回した。
それから、改めてまだ五歩分の距離を詰められずに居る彼女に向かって、微笑みかける。
「おはよう」
「こんにちは」
時間で言えばもう昼をとっくに通り過ぎて、本日二度目のおやつの時間。けれど今の今まで木の下で浅い眠りを楽しんでいた彼にとっては、今が目覚めの時間なのである。
すれ違ってしまった挨拶に、彼はやれやれといった感じで肩を竦めて見せた。
彼女が微笑む。左手一本だけだった鳥籠を持つ手を両方に増やすと、やはり揺れ動いた所為で鳥籠の扉がかしゃん、かしゃん、と喧しく喚いた。
「お散歩?」
「ううん」
ちがうよ、と囁き声で返して彼女は思いきって三歩分の距離を詰めた。
足の裏にカサカサと新緑の葉が擦れる。柔らかな地面の上で育つ彼らもまた、とても柔らかく優しい感触がした。
「あなたは?」
手を伸ばせば届きそうな距離で立ち止まる。鳥籠が膝の頭にぶつかった。
木の根本に腰を下ろしている彼を、立ったままの彼女が見下ろす。彼がこうしている時しか見ることの出来ない彼を、ほんの少しだけ物珍しそうに眺めながら彼女は小首を傾げた。
青く透き通った風が通りがかり、艶のある彼女の黒髪を幾本か掻き乱して逃げていった。浮き上がってしまった髪の毛を右手で押さえ込み、僅かに重みが増したように感じられる鳥籠を左手でしっかりと握りしめる。
彼は、笑った。
座れば?
そう言いながら彼は、自分が腰掛けている木の根の直ぐ横の空気を叩く仕草をした。本当にそこにクッションでもあるかのようなパントマイムに、つい頷いて返してしまった彼女は彼へ真っ直ぐ向いていた爪先の方向を若干、軌道修正させる。
彼の隣、右側。
彼女の、定位置。
言われた通りにその場所に立って、すとんと腰を落とす。彼の居る場所よりはちょっとだけ低い位置になる地面の、乾いた草が生い茂る土の上に。
鼻の先を、ほのかな緑の匂いが漂っていく。土の匂いがそこに混じり、あとは時折吹き付ける風が遠くから、何処かの草原に咲き乱れる花々の薫りを届けてくれる。
身体から力を抜いて、鳥籠を大事に自分の右側に置く。スカートの下の両足を膝で折り曲げて足首を抱いて引き寄せると、自然に三角形が出来上がる。頂角へ顎を乗せると、そのまま彼女も目を閉じた。
なにをするわけでも、なにかをしたいわけでも、なくて。
ただ、此処にいる。
目を閉じていると色々なものが感じられる。目に見えるもの以外に存在している沢山のものを感じ取って、掴み取るのが好き。
時間に無駄なものはない。
こうやってじっと、なにもせずに居る時間もきっと、なにか意味があってとても大切な事だから。
彼女は吐き出した息をスカートの布地に染みこませ、それが地面に落ちて吸い込まれて消えるのを待った。膝が受け止めた熱も、五秒とすれば呆気なく冷えてしまう。
「なにか」
ふと、彼がぽつりと音を言葉にして転がした。
彼女は目を開き、顔を上げて首を曲げる。彼の方を見上げれば、澄んだ空の色に混じって赤い鮮やかな色が見えた。
片方だけの、アンバランスさが宿った彼をじっと見つめ、次の句を待つ。
彼は困ったように苦笑いを浮かべて、珍しく言葉を躊躇しながら、それでも。
視線を逸らそうとしない彼女の、黒い髪で覆われた小さな頭を撫でながら、言った。
「嫌なことでも、あった?」
どきり、と。
一度だけ高鳴った心臓はすぐに元通りの速さに戻ってしまう。けれど俯かせてしまった視線は誤魔化しようがなくて、彼女は一瞬逡巡したあと、控えめに頷いた。
彼は、けれど、それ以上は何も言わずに。
ただ、そうなんだ、と相槌を打っただけで彼女の頭をひととおり撫でた後、彼は自分の胸の上に手を戻してしまった。
なんとも肩すかしな彼の動作に、軽くなった頭を自分で押さえてみた彼女は、自分とは大きさから全然違っている彼の手を思い出しながら自分で撫でてみた。
違う、と呟く。
「え?」
「うぅん」
聞こえてしまった彼女の呟きに、思わず問いかけの視線を投げつけてしまった彼に首を振って返し彼女は目を伏せる。一緒に唇も浅く噛みしめて、呼吸と一緒に吐き出してしまいそうになった言葉を呑み込んだ。
そうしなければ、とてもとてもたくさんの泣き言を言ってしまいそうだったから。
けれどそんな事をしてしまったら、きっと彼は不必要な自分の色々とした事まで抱え込んでしまいそうで、彼にそんな事をさせたくなくて。
させるわけには、いかないから。
だから、言わない。
「なんでも、ないよ」
少し無理をして微笑んで言うと、彼は難しい顔をして彼女を見つめた。木の幹に預けっぱなしだった背中を立たせて、膝の上に肘を載せて頬杖を付いて。
鮮やかな血の色にも似た瞳が、彼女だけを映し出している。
居心地が悪くなって、揺れた彼女の踝に伸び盛りの緑色をした草がゆらゆらと揺れた。
柔らかならかな表面が白く、陶器のような彼女の肌を擽っている。昼間の太陽からいっぱいの栄養を集めて背伸びをしている若草が、まるで彼女を慰めているかのようだった。
彼女はそんな青草に手を伸ばし、白く筋の走っている裏側を爪の先でなぞる。短く丸く整えられた爪の間に、若草の先端が突き刺さる。
ちくりとした痛みは一瞬、血は出ない。
自然界の幼子は、彼女を慰めこそすれ傷つけることは限りなく、不本意なのだろう。どこまでも優しい彼らに、痛んでしまった右手を抱きしめて彼女は再び俯いた。
彼はその間もずっと黙り込んでいた。彼女を見つめていた事は、感じる視線で彼女自身も気付いていただろうに言葉を求める事もなく、時間だけが過ぎていく。
風が吹く、時々鳥が頭上を駆け抜けていく。飛行機のエンジン音は遠くて聞こえない、白い雲は西から東へゆっくりと。
太陽は、静かに地平線へ。
からっぽの鳥籠。
それと同じくらいに、からっぽなもの。
やがて、彼は吐息と共に頬杖をやめて背中を木の幹に凭れ掛けさせた。穏やかに過ぎていくだけの時間に目を閉じ、時間と一緒に通り過ぎている色々なものへ耳を傾ける。
例えばそれは風の声だったり、今から芽吹こうとしている植物の産声であったり、木の根から吸い上げられた水が枝葉まで届けられる音であったり。
そんな、身の回りにあるけれど見失いがちな色々な事。
隻眼を閉じた彼の横顔を眺め、彼女は膝を伸ばして両足を草の上へと放り出した。少し考えてから、脇に置いている鳥籠を取って胸に抱きしめる。
背中を、真後ろの優しい木に預けて。
彼と同じように、目を閉じた。
からっぽの鳥籠を抱きしめる。
からっぽの自分の心を愛おしむ。
それほど背の高くない、幹も太くない、まだ生まれて長くない木ではあるけれど、それでもまだ彼女よりはずっと年上で、大人で。
何も言わずに、抱きしめ返してくれる。
風が吹く度に豊かに緑を茂らせている枝がわさわさと、控えめながらも喧しく騒ぎ出す。彼女に降り注ぐ優しい木漏れ日が、涼しさと暖かさの中間という空間を作りだしている。
彼がこの場所を好む理由がなんとなくだけれど、分かった気がした。
この場所は、とても静かだ。俗世から遠く、町並みの喧噪も聞こえず、無機質で硬質な機械処理されたノイズは届かない。
けれどまるで騒々しいわけではなくて、自然の音色やあって当たり前だと皆が忘れてしまっているものがこの場所では、手をのばせる距離で残っている。
小高い丘の上で、この木だけがぽつんと寂しげに見えるのは錯覚なんかじゃない。
本当はこの木は孤独なのだ、周囲から孤立して、大勢の中に混じることが出来ずに置いて行かれてしまった、忘れられてしまった存在だから。
彼がこの木の根もとに腰を下ろすのは、同じだから。
では、やはり同じようにこの場所に来る自分は……?
彼女は自問して、答えが見付からずに首を振った。
からっぽの鳥籠を抱きしめる。
とりかごのとりは、まだみつからない。
Vanish/2
黒々とした闇が世界を染めている。
ライブまで残り日数もいよいよ十日を切り、準備や打ち合わせに忙しいメンバーの為に食事を用意するアッシュもまた多忙を極めていた。
健康に気を配りながら、栄養価の高い、しかし食べやすい食事を揃えるのはかなり気苦労が必要になってくる。その上、彼もライブではソロを披露するシーンが用意されているのでその練習もあり、時間が幾らあっても足りない状態が数日続いていた。
明日の朝食と昼食分までの下ごしらえを終え、鼻歌で曲のメロディーを奏でていた彼は台所の定位置に立ち、両腕を頭上に高く伸ばした。そのまま背を仰け反らせると、腰骨がぼきりと嫌な感じで一度だけ鳴り響く。その音の大きさに自分で驚き、彼は苦笑を漏らした。
運動不足だろうか。
頭の中に浮かんだ言葉に苦虫を噛み潰した顔を作って、ふと気になり服の上から自分の腹部を軽くだが指で抓んでみた。
引っ張られ、皮が伸びる。その度合いが以前よりもほんの少し、大きくなっている予感に晒されて彼はぴしり、と凍り付いた空気にヒビを走らせた。
「これが終わったら、ジムにでも通うっスかね……」
筋力トレーニングでもしておかないと、どんどん太って行くばかりの気がして彼は大袈裟に溜息を零し、項垂れて頭を掻いた。
だが実際にジムに行くとなると、ひとりで通うのは気恥ずかしさというか、とにかくそう言うものが付きまとってくるので誰か一緒に行ってくれそうな人物を想像してみる。
ユーリはもとより、動くことを毛嫌いするから無理だろう。
では……と考えかけたところでアッシュの卓越した聴力を持つ耳に、キィ……というさび付いた金物が擦れ合うような音が飛び込んできた。
「?」
小首を傾げ、考え事を中断させたアッシュは音の発生源を探ろうと周囲を見回した。
しかし一度きりだった音を頼りに探すことは困難であり、だがかろうじてこちらからだったような、という予測だけで台所の小窓を開けて外を窺ってみた。
何処までも深く、月明かりさえ遠い夜の裏庭が見える。
ユーリの城は大きい、それを取り囲んでいる庭もまた巨大だ。城を囲む一帯だけは芝を植えて植樹の手入れもかろうじて行き届いているが、一角を越えた先にある雑木林となってしまっている場所は昼間でも光が届かず、かなり不気味である。しかも林の向こう側にはかつてこの一帯で生活していたという種族の墓地が広がっているのだ。
その墓地さえもが、ユーリの所有地。
ユーリは死なない、領地に墓地を持っていてもその無数有る墓の下に収められる事はない。
彼は墓守、永遠に死者を慰める唄を諳んじ続ける存在。
薄笑いを浮かべてそう言っていた人物を思い出す。だがその人物もまた、ユーリと似ていない境遇で死なないさだめを背負わされていたはずだ。
死なないひとたち。
対して自分は命を長らえさせる事はあっても、いずれ天に還り地に眠る存在となる。
無意識で作った拳を握りしめたアッシュだったが、覗き見た窓の外にふと、横切る闇と同化した影を見つけた。
目を細め、影を追い掛ける。それは俊敏な動きをして、二度目のさび付いた金音を起こし消えていった。
音の発生源は台所裏にある雑木林と庭とを区切る、古びた金属製の扉だったらしい。それは通り過ぎていった影に揺らされて寂しそうに数回揺れ続けた後、元通り静かに忘れ去られた存在として闇の中に吸い込まれて行ってしまった。
「なんだったんスかね」
首を傾げながら彼は自問する、しかし答えなどはっきりと存在を確かめる事が出来なかったのだから出るはずがない。
彼は無視しようかと考えた。疲れているのだし、いい加減ベッドに潜り込んでゆっくりと眠ってしまいたい気分は大きい。そして普段であったならば、彼は本能の赴くままに眠りを求めて部屋へ戻る道を選んでいたはずだ。
だが今の彼は、着々と近付いているライブや、ライブ上で上映するビデオ撮影が明日に予定されている事もあって、良い意味で興奮状態にあった。眠る前に夜風に当たってみるのも良いだろう、とまで考えてしまっていた。
あの影が何であるのか、追い掛けてみたくて彼は台所の勝手口を開け、爪先を裏庭の芝生に踏み込ませる。軽い感触を靴の裏に感じながら、明かりも乏しく心細さが一面から伝わってくる庭と、夜闇を背負って一層不気味さを増している雑木林とを見た。
今はかろうじて、点けっぱなしにしている台所から漏れてくる明かりがあるが、雑木林に一歩でも踏み入ってしまえば光は頼れそうにない。振り返った彼は、今此処で引き返すべきか一瞬だけ悩み、そして林へ向かって歩を進めた。
影が揺らした錆だらけの門を押す。腰までの高さしかないそれは、少しでも強い力を加えるとボロボロに砕けてしまいそうなくらいに朽ちかけていた。
「…………」
ごくりと唾を飲み込み、アッシュはゆっくりと慎重に進んでいく。鬱蒼と茂った木々の枝は曲がりくねり、風が吹く度に呻り声を上げながら揺らめく。今にも木陰から何かが飛び出してきそうな感じがして、彼は沸き上がってくる震えを懸命に堪えねばならなかった。
心で呟き続けるのは、自分は一応、これでも、勇猛な狼人の血族なのだぞ、という有る意味痩せ我慢のような台詞だ。
ヒュゥゥ……
風が木々の隙間を通り抜けて寂しげな声を上げる。
びくりと背を震わせたアッシュが振り返った先にあるのは、ただ暗い闇ばかり。しかしその闇の中で、息を潜めながら鋭い牙と赤い瞳を爛々と輝かせている存在がいるのかもしれないと、そう考えると足が竦んだ。
闇は苦手ではないはずなのに、この雑木林は別格だった。
闇の眷属である自分がこうも恐怖を覚えてしまう闇。底が無く、獰猛であり、囚われたら二度と抜け出せない。そんな印象を抱え、アッシュはすっかり乾いてしまった口腔を潤そうと唾を何度も飲み込んだ。
やはり来るのではなかったと後悔する、けれど今となってはもう遅い。
だって帰り道が分からない、さっきまでは見えていたはずの荒れ果てた道がもう、彼の眼には映っていなかった。
進むしかないのだろうか、彼は覚悟を決めて闇の中に伸びる一本の細い獣道を再び進み始めた。
奥歯がガチガチと鳴る。握りしめた拳が痛む事でかろうじて、自分がまだ現実に在るのだと理解する。
不意に目の前が明るくなった。
いや、違う。正確に言うと、乱立するように聳えていた木々の列が途絶え、広い場所に出くわしたのだ。上空から弱々しい光を放つ月の光も、遮るものがなければ随分と明るいものだと今更気付く。
アッシュはホッとしたように吐息を吐いた。胸をなで下ろし、もしかしたらスタート地点に戻ってこられたのかと周囲を伺う。
だが彼が期待していたものは一切周辺には見当たらず、代わりに長く風雨に晒されて角が落ちてしまっている高さ1メートルもない石の柱や、表面が削れて読むことも困難な碑や、そして。
月明かりの下で煌々と存在を知らしめている、無言の十字架の群れ。
アッシュはぞわっとしたものを感じて全身の毛を逆立てた。唾を飲み込もうとしたが、口腔内は乾ききって一滴も絞り出すことが出来ない。声も上げられず、彼は目の前に空虚に広がる墓地を茫然とした面持ちで眺めるしかなかった。
話し声が聞こえたのは、まさにその瞬間であり。
「……ぁ」
声に聞き覚えがあった彼は助けを求めるように、足を声のする方向へ向けた。
しかし。
「……まだ……えるわけにはいかないんだ」
乱立する墓碑の間を抜け、視界の片隅に彼の存在を見つけたアッシュはその名前を呼ぼうとして、聞こえてきた言葉に動きを止める。
そのまま上げようとした腕を凍り付かせる。
――え……?
聞き違いだろうかと最初は思った。しかし彼の聴力は抜きんでており、余程でない限り聞き間違えるような失態はしでかさない自負がある。
だけれど、この時ばかりはその自負も嘘にしてしまいたかった。
アッシュの位置からは、彼の背中が半分ほどだけ見える。彼が向いている方向には、他のものよりもずっと立派で大きな墓石があった。墓石の上、平らなその場所には更に別の黒い存在が見える。
しなやかなラインを月闇に浮かび上がらせているそれは、巨大な猫の姿をした獣だった。右目が金色で、左目が血のような鮮やかすぎる赤色の。
「……あれは」
掠れる声でアッシュは呟く。さっき鉄柵を揺らして雑木林に消えていったのは、恐らくあの獣なのだろう。
その獣と、彼とがどういう関係なのか計りかね、アッシュは首を捻る。出ていくタイミングを見失った彼はそのまま現在地に留まり、進むことも帰ることも出来ぬまま聞こえてくる会話に耳を澄ませた。
「限界は知っておろう? 他ならぬ、貴様の身体だ」
「知ってるよ」
朗々とした声が闇に吸い込まれていく。思わず聞き惚れてしまいそうな穏やかで、けれど強い意志を感じさせる声は、妙齢の女性のものに思われた。続く声はふてくされたような、拗ねた印象を与える。
「逆らわぬ事だ。逆らってみたところで、どうにかする事の出来るものでもない」
それも知っているだろう? と女性は薄く笑いを含んだ声で彼に告げる。からかっているような調子だが、告げる言葉にはそんな雰囲気が一切含まれていない。
盗み聞いているアッシュでさえも生唾を呑み込んだ台詞に、声が重なる。
「それでも、ぼくはまだ消えたくない」
「我が侭も過ぎると、可愛くないの」
「可愛い息子の頼みでも?」
「誰がいつ、貴様なぞを産み落としたと?」
黒い猫が機嫌を損ねたらしく、言葉を返しながら彼の方へ身を乗り出す。墓石から落ちない程度に首を伸ばした四つ足の獣に、けれど彼はケラケラと笑いながら手を振った。
「ぼくをぼくにしてくれたのは、貴方でしょう?」
ね? と笑った彼に毒気を抜かれたのだろう。怒る気も失せた表情で黒猫は身体を退いた。
そしてふっと、アッシュが居る方向を見つめる。
「どうかした?」
見付かっただろうか、と心臓を跳ね上げて慌てて墓石の裏に小さく身を潜めたアッシュの耳に、彼の怪訝そうな声が飛び込んでくる。
別に隠れる必要はないはずだ、しかし何故かあのふたりの間に割り込む事は憚られた。それでなくとも、なにやら神妙で……聞いてはいけない場面に出くわしたようであるのに。
「いや、なんでもないよ」
問いかけに否定を返し、黒猫はふふっ、と小さく笑った。
その場でしゃがみ込んだアッシュがふー、と全身の緊張を解き放つ息を長く吐き出した。
どうやら気付かれなかったようだと肩の力を抜き、再び聞き耳を立てて向こう側を窺う。
「貴様なぞ、拾わぬ方が良かったやもしれぬな」
「酷いな~、ぼくのこと、愛してくれてないわけ?」
「貴様こそ」
軽口の応酬に、黒猫が笑う。
「ぼくはちゃんと、愛してるよ」
するりと彼の口から零れ落ちた言葉に、アッシュの胸が不意にずきりと痛んだ。
「嘘は休み休み言え」
「本当だってば、信じてよ」
彼は続ける。この世で、愛しているのは貴方だけだと。
その言葉を聞くごとにアッシュの胸は痛む。理由は分からない、だけれどアッシュは今まで彼と一緒に過ごしてきた思いの外短くて長い時間の中で、一度として、その言葉を告げられた事はない。
無論、自分から告げた事もなかったが、違うのだ。
彼は「好き」というような、彼から好意を抱いて貰っている――それが恋愛感情などではなく友情や、仲間意識に基づくものであっても――とはっきり明言する言葉を貰った事がなかった。
一度として。
付け加えるとしたならば、彼がユーリに告げている場面に遭遇したこともない。
彼は言わなかった、誰にも。軽口の中であっても、冗談と分かる場面であっても、如何なる時であっても。
そんな彼に愛してると言われる存在、それがあの黒猫だと言うのなら、あのふたりの関係は一体如何なるものなのか。
好奇心をそそられながら、アッシュは気配を殺しつつ様子を探る。
「百万歩譲るとして、だ。儂が貴様と同じ風に思っているとは限らんぞ?」
「え~~、そんな寂しいこと言わないでよ」
ぼくと貴方の仲じゃないか、と笑いながら彼は言う。ひらひらと振られた彼の左手が、そのまま彼の顔へと消えていった。アッシュの位置からでは見えないが、常日頃から包帯に隠されている彼の左目に、触れたものと想像できた。
黒猫が黙り込む。左右の色が異なる双眸が揺れた。
「痛むか」
静かな問いかけに、彼はやや間を置いてから小さく、一度だけ、首を縦に振った。
「でもまだ、平気だよ。まだ……消え去るわけには行かないから」
「痩せ我慢も過ぎると、可愛くないぞ」
「そりゃどうも」
ご心配痛み入ります、と茶化した台詞を投げ返せば、黒猫が不機嫌に顔を顰めてはぁ、と盛大な吐息をその場に落とす。
誰が心配なぞするものか、とぼそりと言うものの聞き流す彼は未だにカラカラと愉快そうに笑い続けている。
アッシュは立てていた膝の力を抜き、背中を墓石に預けてずるずる滑らせ、地面に腰を落とし座り込んだ。中腰気味の体勢が疲れた事もあるが、そうやって聞いている事が苦痛になり始めていた。
頭の中で整理する。
あの黒猫は、血は繋がらないものの彼の、母親のような存在なのだろう。
そして彼は、痛む左目を抱えてそして……消えゆこうとしている。
改めて考えて、彼は脳天を超弩級のハンマーで思い切り殴られた感覚に晒された。それがもし本当なのだとしたら、彼は。
「死ぬ……?」
彼は死なないと、ずっと思っていた。
自分は彼を置いて先に逝ってしまうものだとばかり考えていたから、彼が先に存在を消滅させてしまう可能性など、考えた事はなかった。
否。
考えたくなかったから、考えないようにしてきた。そしていつも、自分が逝く時に彼が少しでも哀しんでくれればいいと、そう思っていた。
裏切られたような感覚だった。
そう思って、首を振る。
違う、自分が彼を裏切っていたのだ。勝手に彼の姿を自分の中に創り上げ、その通りの存在だと彼を型に当て嵌めようとしていた。それ以外の彼を、否定した。
「いつまでも薬だけで持ち堪えられるものではなかろう」
「知ってるさ」
なにせ、自分の身体だからね。
彼は嘯き、自分の胸を叩いた。黒猫が呆れた顔で彼を見下ろす。
「ライブが終わるまで……あと二週間程度で良いんだ。それ以上は、望まない」
見上げた彼の瞳はどんな風に揺れていたのだろう。自分の位置からそれが見えないことを歯がゆく思いながら、アッシュは臍を噛んだ。
諦めたのだろうか、黒猫がまた静かに左右へ首を振った。どこか遠くを見つめている、哀愁に満ちた双眸で彼を見つめている。
「スマイル」
その唇が彼を呼んだ。
「なに?」
微かに首を傾げる動作と共に、彼は問い返した。
「15日だけだ。それ以上はないと思え」
「充分デス」
にっ、といつもの彼らしい笑みを浮かべて居ることだろう。彼がほんの少し声のトーンを高くして返事をし、頷く。
十五日間。
それは予定されている自分たちのライブが最終日を迎えるまでの、その日数に他ならない。
それを彼は、充分だと言って笑う。
「一週間が倍の長さになるんだ。充分すぎるくらいだよ」
「今、どれだけの量を飲んでいる」
心臓がどきどきと拍動を強めるのを左手で押さえながら、アッシュは収まらない呼吸を必死に整えようと肩を何度も激しく上下させた。滲み出る汗は止まらず、目の前の闇が霞んで見えた。
黒猫の問いかけに、スマイルは少し考え込んで唸った。
「えっと……前までは一週間に一錠だったんだけどねぇ」
自分の台詞に肩を竦めて呆れながら、彼は諂いもなく言い切る。
今は一日で、五錠か多いときには十錠近く、と。
アッシュには彼らが言う“薬”が如何なるものなのか分からなかった。だけれどその音の響きや、スマイルの告げる分量を聞かされたと同時に顰めっ面を作った黒猫の様子から、それがあまり大量に服用すべきものではない事だけは、分かった。
次の言葉を待つ。案の定、黒猫は彼の行動を叱った。
「飲み過ぎだ」
「だって……飲まないと、今すぐに消えちゃいそうで」
「それで眠っていないのか」
彼の台詞に、得心がいったのか猫が呆れ調子に言う。アッシュは驚き、見付かるかも知れないという事も忘れて墓石の裏から身を乗り出してしまった。
彼が眠っていないとは、どういうことなのか。確かに少し眠そうなところはあったが、それはいつものことだったし寝不足気味なのはライブが近い時誰しも同じ事。現にアッシュだって最近の睡眠時間は平均で五時間を切っているし、ユーリだって似たようなものだ。
だけれど、丸々眠らずに過ごす事はしない。いくら仕事が押し迫っているとはいえ、眠らずにいると出来る仕事も捗らなくなるから。
「だってさー……」
見抜かれてしまったことが不満らしい。恐らくは唇でも尖らせているだろう彼が視線を泳がせ、首をフラフラとさせながら言い訳がましい言葉を連ねた。
黒猫が、止めないかと言いたげに右腕を持ち上げて振った。
「だって?」
「眠ったら、さ。眠っている間に自分が消えてたりしそうで……恐いんだもん」
ぼそぼそと、小声で。
およそ彼らしくもない気弱な解答に、持ち上げた腕を止めた黒猫がやんわりとした微笑みを表情に浮かべた。
それこそ、まるで愛し子を見つめる母の瞳に他ならなかった。
アッシュが息を呑む。その前で黒猫は細かった瞳を更に細め、予告もなく唐突にアッシュの方へ向き直った。
ぞわっと、雑木林の中で感じたものとはまた異なる悪寒を覚えてアッシュは全身の毛を波立たせた。人型の時は消えているはずの尻尾までもが現れ、怯えたように毛をぶわっと広げて股の間に潜り込ませてしまった。
様子を知り、黒猫が楽しげに顔を綻ばせて笑みを浮かべる。見るものが見れば恍惚と見惚れてしまいそうになる妖艶な笑みであったが、今のアッシュはそんな余裕などどこにも存在していなかった。
逃げよう。咄嗟に頭に浮かんだのはその一言に尽きる。
だけれどまるで囚われたかのように、黒猫の双眸に見つめられて身体が動かなかった。
「姫姜?」
スマイルが黒猫の様子に気付いて訝しげに、名前らしき響きを持つ単語を口にする。そして彼女が見つめている先を自分も振り返り、アッシュを見つけて小さく声を上げた。
「……なんでさ」
どうしてアッシュが此処にいるのか分からないという顔をし、珍しく茫然とした顔を見せてスマイルは後ろに半歩、退いた。
「なんで君が、居るのさ」
「それは……その。なんでっスかね?」
胸の前で立てた人差し指同士をつんつんと突き合わせ、アッシュは苦笑を浮かべながら逃げたい素振りを見せているスマイルに言った。他に説明のしようがなく、自分だってまさかこんな緊迫した場面に出くわすとは想像していなかっただけに、返答に困った。
助けを求めるように視界を巡らせた先に、黒猫を見つける。元凶はすべて、彼女にあるはずだ。こうなってくると、最初からわざとこうなるように仕向けたのも彼女ではないかと勘ぐりたくなってしまう。
「丁度良いではないか。そいつに、お前が眠っている間も消えないかどうか、見張って置いてもらえ」
「はぁ!?」
アッシュと、そしてスマイルの口からほぼ同時に素っ頓狂な声が飛び出した。そのあまりのタイミングの重なりように、黒猫は婀娜な笑みを浮かべながらふたりを交互に見つめる。
「スマイル、逃げるんでないよ?」
「っていうか、アッシュ! なんで君ここに居んの!?」
答え聞いてないよ、と誤魔化すように声を張り上げる彼に窮しながらアッシュは苦笑いを浮かべ続けるしかなかった。黒猫の様子を窺っても、彼女もまたたおやかな笑顔を満面にたたえているのみ。
その真意は計り取れそうにない。
観念して、アッシュは立ち上がりズボンにこびり付いた土を払った。身体を支える為に手をついた脇の墓石が、彼の重みを受けてぼろりと端の方を崩す。非難するかのように直後、生温い風が吹いた。
ひゅうひゅうという木々の隙間を通り抜ける風が呻り声を上げる。背筋に薄ら寒いものを感じ、無意識に身体を抱きしめたアッシュに黒猫が険しい表情を見せた。
「そろそろ戻った方が良さそうだね」
虚無な墓地が広がるだけの周辺を見回し、彼女は短く言った。
騒ぎすぎた所為で、眠っている連中が目を覚まそうとしている、と。
ひぃっ、とアッシュが小さな悲鳴を上げて尚更強く、自分の身体を抱きしめた。先程から感じている悪寒の原因を教えられて、踏みしめている大地から跳び上がって逃げたい気分にさせられる。
嫌そうな顔をしてスマイルは一度、強く地面を蹴りつけた。
「おやめ。そんな事をして、余計に怒らせると厄介だ」
「どうするのさ」
「とりあえず、今日の所は退散かね」
「薬」
「ほらよ」
墓石の頂点から飛び降り立った黒猫は、間近で見るとかなりの大きさがあった。猫、と言えるサイズを通り越してむしろ、黒豹のような印象をアッシュに持たせる。
久方ぶりの柔らかな大地を足裏で感じ取った彼女を今度は見下ろしたスマイルの、不機嫌極まりない言葉と手を差し出す仕草にやれやれ、と言った風情で彼女は二股の尾を振った。
途端、どこからともなく現れた小瓶がスマイルの手の平に落とされる。
透明な小瓶の中に、びっしりと白色の錠剤が詰め込まれていた。瓶に内容を顕すラベルは一切貼られていない。薬効も、成分も、なにもかも。
小瓶を認めた瞬間、アッシュは黒猫を振り返って見た。漫然とした仕草で身体を揺らし、彼女は彼の視線を受け流す。
「飲み過ぎるんじゃないよ。次はもう、ないからね」
「分かってる」
短く答えたスマイルは、その場で瓶の蓋を開けて一錠取り出すと口の中に放り込んだ。水もなく、唾だけで呑み込んだ彼を見て嘆息する彼女は、ひょいっと軽い動作で次の墓石へと飛び乗った。
「ともかく、忠告はしたからね。あとはお前次第だよ」
「それも、分かってる」
「ちゃんと眠るんだよ」
「それは保証しない」
「そいつのこと、しっかり見張っておいてやってくれないか」
「はいぃ? 俺っスか?」
スマイルとの会話を交わしている彼女が唐突にアッシュへと言葉を差し向け、蚊帳の外で聞いているだけだったアッシュは予想外の事にまたしても素っ頓狂な声を張り上げて時分を指さした。
そう、と頷く彼女の返事にスマイルを窺い見ると、彼は不満らしく顰めっ面をしている。
「それじゃあね。ライブは、気が向いたら観に行ってあげるよ」
「それはドウモ」
最後まで機嫌を取り戻さなかったスマイルを笑い、彼女は言いたいことだけを言うとくるりと身体を反転させて闇の中へ消えていった。その動きは素早く、あっという間に見えなくなってしまう。
彼女を見送り、スマイルもまた言葉なく歩き出す。アッシュが慌ててそれを追い掛ける。
今此処で置き去りにでもされたら、日が昇ってからでも無事に城へ帰り着ける自信がなかった。
「スマイル」
大声で呼びかけ、雑木林に差し掛かった彼を必死に視界内に留める。見失うと大変だから、懸命だった。
「スマイル!」
しかし呼びかける度に彼は歩調を速め、アッシュを置き去りにしようとしているとしか思えない速度で進んでいく。なれているらしく、彼は地面を突き抜けている木の根に足を取られる事もない。
すぐに転びそうになる自分を叱咤激励しながら、アッシュはスマイルを追い掛けた。
そして不意に、彼は立ち止まる。スピードを上げていたアッシュは、急激に停止した彼の背中に危うくぶつかりそうになったところを寸でで躱し、激しく鳴り響く心臓を抑えて息を吐いた。
「うるさいよ、アッシュ」
不機嫌なまま、彼は肩越しに振り返っていった。
「ぅあ……申し訳ないっス」
先程黒猫が言った言葉を思い出し、彼は声を潜めてしゅん、と頭を垂れた。騒いだから墓地で眠っているものたちが目覚めようとしていたと、彼女は言っていたではないか。もしかしたら、そういう類のものがこの場所にも在るのかも知れない、そう考えたのだ。
しかしスマイルは、アッシュが考えている事を理解したらしく盛大な溜息を吐きだして盛大に首を左右に振った。
「どこから聞いてたわけ?」
「スマイルが、消えるわけにはいかない……そう言っている時辺りからっス」
「じゃあ結構、最初から聞いてたわけだ」
悪趣味、とじろりと睨んでくるスマイルから逃れるように視線を浮かせ、アッシュは居心地悪げに身体を揺すった。
「その……」
「なに」
「本当、なんスか?」
スマイルが、消える事。それも期日は定められ、二度と伸ばしようがないという事実も。
やはりどうしても信じ切れなかったアッシュの問いかけに、一瞬だけ苦悶の表情を作ったスマイルはぷいっと彼から顔を逸らしてしまった。
聞いてはならなかったのだろうか、と胸が締め付けられるような思いのアッシュに、彼は背を向けたまま頷くことで肯定を示した。
「そう……っス、か……」
他に言える言葉が思い浮かばず、なんとか相槌だけを乾いた声で返してアッシュも黙り込む。
生温い風が吹く、遠くでは世を恨むような物悲しい叫び声に似た、風の呻り声が轟いている。
月明かりも、見えない。
暗い。
「他のみんなには、内緒だからね」
「どうしてっスか?」
「だってさ~……今更、こんな事でやめたくないじゃない?」
「こんな事、って」
どこが“こんな事”なのかと叫ぼうとしたアッシュだったが、振り返って自分を見上げる彼の眼が哀しそうでありながら、寂しそうでありながら、未だ絶望を感じ取っていない、諦めない強さを秘めている事に気付いて言葉を飲んだ。
丹朱の瞳が、一層強く輝いている。
「こんな事、だよ。他に言いようが無いじゃないか、ぼくが……消えることなんて」
存在しているものが消滅する。それは自然の道理であり、曲げることの出来ないさだめでもある。だから自分が消えることは当たり前のことであって、その時間が迫っていることには焦るけれど、でも。
消えること自体は、恐くない。
嫌なのは、今みんなが必死になって成功させようとしているライブを自分の所為で潰してしまうこと。それが済んでしまえば、確かにもう少し生き延びてみたいとは思うけれど……構わない。
さだめには、逆らえない。
「どうにもならないんスか」
「なるんだったらどうにかしてると、思わない?」
現にどうにかしようとして、出来ることを探した結論があの白い錠剤だ。薬で身体と意識をつなぎ止める事は以前から続けてきた事であり、実際としては昔と変わらない事ではあるけれど。
他に、良い案が思い浮かばない。
もとより、自分は存在しないはずの存在だったのだから。そう考えることで、妥協点を見出している。
「スマイル……?」
「誰かに言ったら、アッシュとは絶交だから」
「それで、良いんスか?」
問いかけられても、スマイルは曖昧に微笑んで首を縦に振るだけに留まる。後ろ手に結んだ手を弄りながら、彼は夜闇が濃い林を見上げた。
そこに、空は無い。
「良いよ、それで」
とんとん、と、調子に合わせて腰の上でスマイルの手が飛び跳ねている。普通に落としているだけのように見せかけた彼の両腕は、けれど肩の辺りからしっかりと緊張で力んでしまっている事が分かってしまう。
無理に平然と振る舞おうとしている彼の仕草を眺めていたアッシュの耳が、自分も、そしてなによりスマイルが誰よりも大事にしている存在の名前を聞いた。天を仰いでいたはずの彼の顔が、いつしか己の足許だけを見下ろしている。
「でも彼に……ユーリにだけは、絶対に」
知らせないで、と。
ぽつりと呟かれた彼の言葉がずっしりと、アッシュの胸にのし掛かる。ちくちくとした痛みはずっと続いており、時々息が詰まった。
言いたいことはあるはずなのに、言葉が続いてくれない。歯がゆさを覚えながら、アッシュはスマイルを見つめる。
視線が重なり合おうとはせず、スマイルは姿勢を戻すとまた歩き出した。
今度は、アッシュも充分ついていける速度で。
彼の背中を見つめながら、アッシュは何度も彼と、黒猫の会話を思い出していた。そして彼女に言われた言葉や、スマイルが自分に投げつけた言葉のひとつひとつも。
吐息を零す。
「スマイル」
呼んでみたが、彼は返事もせず立ち止まろうともしない。仕方なく歩き続けたまま、アッシュは物言わぬ彼の背中に語りかけた。
「俺が見てる前でくらいは、眠ってくださいっス」
もし消えそうになった時は、自分が起こしてあげるから、と。
控えめに告げたアッシュにやはりスマイルは返事をせず、立ち止まって振り返りもしなかった。
けれども。
雑木林の切れ目が目の前に見え始めた頃、風に乗って流されながら、消え入りそうな声で。
ありがとう、と。
確かに囁かれた言葉を耳に、アッシュは少しだけ救われた思いで、微笑んだ。
Natural
がたがた、ごとごと、ぐしゃ、ばたん。
「ん~……?」
外出先、本屋で買ったばかりの雑誌を早速廊下で待ちきれずに広げていたスマイルは、紙面を眺めていた目線を持ち上げて同時に障害物のない場所を、前に進むことだけに使っていた両足を止めた。
耳を澄ます、ぱたんと雑誌を閉じて入っていた紙袋に口を少々草臥れさせつつも押し込んで、脇に抱えて音の発生源を探った。さほど離れた場所にあるわけではない、城内の一室がどうやら音の所在らしい。
首を傾げる、目に付く扉の中がどういう構造になりなにが収められている部屋だかを理解したものの、だからこそ疑問符が頭の上に浮かんだ。彼処はこんな風にものを巻き散らかしたり、暴れるようなものはなにひとつ無いはずなのだが。
反対側へ再度首を捻って姿勢を戻し、脇に挟み持った雑誌入りの紙袋を持ち直して扉まで残っていた距離を数歩で詰める。扉のノブを回そうと手を近づけたら、触れる前に向こうから勝手に開いた。
どうも巧く扉が壁に噛み合っていなかったらしい。彼が扉前に来た事で起こった風圧で押し開かれ、音もなくそれは内側へ開かれてしまった。
「…………」
少し躊躇したのち、結局好奇心に負けて三十センチほど出来上がった空間から室内を覗き込む。
だけれど、またしても彼は首を捻って眉間に皺を寄せるだけに終わった。
「なにコレ」
扉は最後まで開かず、途中で何かに突っかかって止まっていた。覗くことの出来る範囲内で音の発生源を見出せなかった彼は、故に自然の成り行きで徐々に落としていった視線の先に、扉を詰まらせている正体を知る。
はぁ、と溜息がひとつ溢れ出したのは致し方のないことだっただろう。呆れ調子の呟きも、無理ない。
床の上に山を成していたものは、クリーニングのタグがついたままの黒いコートだった。そしてそれは、確か彼の記憶が間違いなければ扉の向こう側にある衣装室の、クローゼットの中にハンガーに吊されていたはずだ。
今はこのコートを着る程寒い季節ではない、だから年間の半分ほどをこの衣装部屋で過ごすことになったこの外套は紛れもなく、彼の所有物だった。なにせ自分で、この部屋に防虫剤と一緒にしまった覚えがあるだけに、間違うはずがない。
「…………」
黙して語らず、無言のまま床の上に散っているコートを傷つけぬように、扉と床の間に挟まれている生地を片手で持ったままドアノブを引く。一瞬だけ布地が抵抗を示したけれど、それはさほど長く続かずなんとか無事、救出に成功した彼は挟まれていた箇所に傷が出来ていないかを確かめてホッと安堵の息を吐いた。
邪魔になる雑誌を廊下の壁に添わせて置き、コートを右腕にひっかけて扉を押す。今度はなにものにも邪魔されず、音もなく扉は最後まで開いた。
しかし扉の向こう側で彼を待っていたものは、彼が知る限りの衣装部屋の光景とはかけ離れた世界だった。思わず、コートを持ったままの右手をだらんと落としてしまい、一緒に布が滑り落ちていく事にも暫く気づけなかったくらいだ。
「な……」
唖然と、室内を見回して彼は叫びそうになった声を慌てて呑み込んだ。
衣装部屋は、床という床がすべて、それこそ足の踏み場が見当たらない程に布で埋め尽くされていたのだ。しかもその一部は山となっている、更にそれはひとつやふたつではない。
布の合間にはそれらが収められていたであろう透明プラスチックの衣装ケースの空箱だったり、絡み合って堆くつまれているハンガーだったり、中身がばらまかれたあとひっくり返されている箪笥の引き出しだったりが散らばっていた。
まるで泥棒が家捜しをして散らかしていったあとのような光景が広がっている。いや、昨今の泥棒であればこんな見ただけで荒らされた、と分かるような仕事はしないだろう。
頭が痛くなる気分で、彼は掴みなおしたコートを脇に抱き、左手でこめかみを押さえた。
余り考えたくはないが、考え至る結論はひとつきりしか彼の中には存在していない。だからこそ頭が痛むわけであり、一緒になって重く色の濃い溜息が溢れ出した。
フルフルと首を横に振り、再度の溜息を誤魔化すように顔を上げる。
ごとん、と新たに音が室内から響いた。
目を向ける、隻眼を細めれば山積する布の間に小さく動くものが見付かった。案の定、想定していた通りの色の髪がさらさらと揺れている。
いったい、なにをしたいのだろう彼は。
心の中で結論の見えない疑問を呟き、その場で壁に凭れ掛かる。少しだけ視線を左に流せば、壁一面のクローゼットが扉を全開にしており、あまつさえ中身もすべて空っぽになってしまっているようだった。
ざっと室内に目を通し、そこにつまれている布の量と衣装室に収納されている各々の衣服の量とを秤に掛ける。若干全体量の方が重いようだったが、天秤が傾く角度は恐ろしいくらいに平坦に近い鈍角だ。
ごとごと、ばさっ。
ぽいぽいっ、ざざざー。
見ている分には愉快極まりない光景であるが、後始末のことを考えると頭の痛みは激しくなる一方である。こめかみに添えた指に力を込めて押し、隻眼に映る光景を見守り続ける 見ている分には愉快極まりない光景であるが、後始末のことを考えると頭の痛みは激しくなる一方である。こめかみに添えた指に力を込めて押し、だのに隻眼に映る光景を見守り続ける。
新たに築かれた、投げ放たれた服の山がバランスを崩して雪崩を起こしている最中だった。
「うあ!?」
短い悲鳴が聞こえ、それを耳にすると同時に彼は長い長い溜息を吐き出す。こめかみを押さえていた手を広げ、それで顔全面を覆ってみた。壁に凭れる時に使っている右腕が、体重を預けられすぎて扉の溝に嵌り、痛んだ。
「なにをやってるのさ……」
それは独白、限りなく自棄に近い。
三日前、ここに冬物がクリーニングから返ってきたものをしまいに来たときは、こんな光景ではなかった。整理整頓が行き届き、どこになにが収納されているのかを区別するラベルもしっかりと貼られていた。個人の所有物が混じらないよう、境界線も設定されてはみ出さないように収納する方法を、数時間かかって考え出したのに。
その苦労も僅か三日で霧散する事になろうとは、誰が予想できただろう。
いやそれにも増して、彼はなにをしたがっているのか。子供のように引き出しやクローゼットの中を掻き回し、散らかして、遊んでいるとしか思えない。
「ユーリさーん?」
小声で呼びかけてみるが、ちょうど中身が空の引き出しが床の上に放り放たれる音と被ってしまい、聞こえなかったようだ。プラスチックの引き出しは床に散る上着の山を突き崩し、布地の表面を滑って落下した。カコン、と軽い音を立てて角が鳴る。
記憶が正しければ、あの中に収納されていたのはアッシュの秋物の服ではなかったか。
ユーリがアッシュの服に何の用、と顰めっ面になってしまっている頭の片隅で関連性を想像してみるものの、では今、自分の腕に抱かれているコートはじゃあ、なんだ? という事になって、考えるのを途中で放棄した。
見渡す限りで、散乱している服はなにもアッシュや、ユーリのものだけではない。当然ながらとある一角には、どう考えても自分の服以外なにものでもないものが積み重ねられているのに。
だから、ユーリが、どれが誰のものであるのかをちゃんと見分けられているとは、言いにくいが非常に考えづらいのだ。
捜し物でもしているのだろうか。
止まらない思考は算盤を弾いてそういった仮説を組み立ててみるものの、いったい彼がなにを探しているのかがさっぱり不明だ。そもそも、アッシュや自分の服がしまわれている棚やクローゼットまで漁る必要性があるのかどうかも……
いや。
もしかしたら、だけれど。
ユーリは、自分の服を探しているだけだけれど、そもそも肝心の。
彼自身の服が収納されている場所が、分からなくて全部引っかき回してひっくり返して、こうなってしまったのか、と。
そう考えたら、彼の行動も分からなく、ない、のだけれど……も。
「………………………………………………………………………………………………」
長い沈黙を経て、更に長い溜息を吐きだして、一気に疲れた肩をがっくりと地に落とす。一緒になって落ちてきた前髪を掻き上げて右目を露出させ、額に手を置いたままフルフルと数回首を横に振ってみた。
どことなく絶望的な心境に陥ってしまった自分に、秘やかな嫌悪を覚えてしまっている自分が更に嫌だった。
ああ、ひょっとしなくてももしかしなくても、この想像が正しかったのなら。
見なかったことにしたいかもしれないと、心から切に願った。願って、それだと言うのに。
「スマイル!」
向こうが、入り口の扉横で壁に凭れながら立っている彼に気付いてしまった。
目の前にあった衣装の山が雪崩を起こして頂点を崩し、高さが下がった事で視界を遮るものがなくなった事が原因らしい。雪崩が起こったのも、上にものを積み上げすぎた所為でバランスが崩れたから、のようだったが。
「はいぃ……」
やや気の抜けた声で、向こうに名前まで呼ばれた以上無視することも出来なくなった彼は返事をした。随分と小さかった彼の声に、ユーリはしかし気にした素振りはなく、手元にあったらしい白いシャツを後方へ投げ捨てた。それは山の表面を舐めるように滑り落ち、床に沈んで他と混じって見えなくなった。
ユーリはその場から立ち上がらなかった。手は忙しなく動いているから、まだ他の服を漁っているのだろう。視線をこちらに投げかけたままで、器用な事だ。
壁から背中だけ離したスマイルは、どこか疲れた目でユーリを見返し、なに? と首を捻った。
「あの服を知らないか?」
「どの」
そんな代名詞だけでは分からないよ、とあまり大きくなってくれない声で問い返す。また別の服をぽいっと投げ捨てたユーリは、問われてまったくだ、と頷きことばを探すように視線を巡らせた。
果たして彼の眼には、この室内の惨状が映し出されているのだろうか。
……無理、だろうな。心の中でスマイルは呟いた。
こめかみの鈍痛が甦ってくる。限りなく百パーセントに近い確率で、衣装室の後片付けは自分と、アッシュの仕事になるだろう。まったく無関係だというのに、巻き込まれてしまう彼の事を哀れに思ってつい、胸の前で十字を刻んでしまいそうになった。
「先週の収録に着ていった服だ、あの十字架が……」
スマイルが胸の前に立てた人差し指の動きを見ていたわけではないだろうが、ユーリが言葉を紡いで一瞬、スマイルはどきりと心臓を鳴らした。焦って吐き出した息を吸い込んでしまい、咽せる。
「どうした?」
「あ、いや……なんでも。それより、その服って」
急に咳き込んだ彼を怪訝な目で振り返ったユーリに、手を振って平気だと返事をしてから彼は喉を数回指先で揉む仕草をした。その後、やはり考え込むときのクセでこめかみ近くへと指を置き、眉間に深い皺を刻む。
「黒地に、ええと……襟元に赤で十字架の紋様があったやつ?」
シンプルだったけれど、アクセントの使い方が印象的でそこそこユーリは気に入っていた事を思い出す。
彼の言葉にその通りだ、とユーリは深く頷いた。
しかしスマイルは、彼のその動作を見ていなかった。記憶にはまだ続きがあったからだ。
「でもユーリ、確かその服って」
休憩の時にコーヒーを零してしまったから、染み抜きも兼ねてクリーニングに出したんじゃなかったっけ?
「……え?」
聞き間違いでなければ、ユーリはかなり間の抜けた素っ頓狂な声を出したことになる。
スマイルは半眼していた目を開いた。ユーリを見る。彼はやはり、床の上に直に座って衣装の山に囲まれていた。
但しその表情が驚きから、次に納得顔へと変化していたが。
ぽむ、と手を打つ動作。
「ああー」
そういえば、そうだったような気がするな、と。
得心のいった顔と声で言われて、スマイルはずるっと壁に預けたままでおいた肘を、最初の位置から三十センチほど下方に滑らせてしまった。
「ユーリさ~ん……?」
じゃあ、あれですか。貴方はその、この部屋にあるはずのない服一枚を探すために衣装室の中を荒らし回ったわけですか?
なんたること。
どこまでも深く長い溜息を吐きだして、スマイルは顔を片手で覆った。首を振る、力無く。
一応知っているつもりではいたけれど、まさか此処までとは思っていなかっただけにショックは大きい。天然にも程がある。
「悪かったな、手間取らせて。そうか、そうだったな」
ここまで部屋を漁っておきながら、その事を恥とは思っていないらしい。薄く笑いながらユーリは膝の上に溜まっていた服を脇に退け、立ち上がった。
足の踏み場もない床の上で、不用意に足を進めようとして。
「あっ」
短くスマイルが声を張り上げた瞬間、スローモーションのようにユーリの躰が後方へ斜めに傾いていった。
ずべしゃっ。
山が崩れ、軽い布が浮き上がってまた沈む。掴むものもなく虚空を彷徨ったユーリの手が二本、揃えられて肘もぴんと伸びたまま彼の身体からワンテンポ遅れ同じように服の山へ沈んでいった。
一番最後に、ユーリの右足とその右足に蹴り飛ばされる格好となった、肌触り滑らかなサテン地のシャツが落下する。
はぁぁぁぁ……と、スマイルの溜息がおまけで添えられた。
「ユーリさぁん?」
もしもし、大丈夫ですか?
一応尋ねかけてから、自分は転ばぬように足許注意で室内に入り、身体半分が山の中へ埋もれてしまっているユーリを真上から見下ろした。沢山の布地がクッションの役目を果たしていた御陰で、彼に怪我はないようだったがかなり不満そうな顔をしている。
「ダイジョブ?」
「う~」
低く喉を鳴らす呻き声を漏らすユーリの傍らにしゃがみ込んで、スマイルは彼の頭に被さっているスラックスを追い払ってやった。
そしてしゃがんでいる自分の、折り曲げた膝の上に両手を戻す。
「あのさ~、ユーリ」
君ってば、もしかしなくても、さ。
恨めしげに彼を見上げているユーリを冷ややかな目で見つめ返して、ひとこと呟く。
「君って、頭悪い?」
直後。
すぱっこーん! と。
かなり小気味の良い音が、埃舞う衣装室に鳴り響いた。
slowly glowing
日差しがゆるいと思った。
気だるさを覚える空気が肌に張り付いて離れない。まとわりつく不快感に舌打ちし、金臭いドアノブを引いて少しばかり湿気が薄い屋内へ足を踏み込んだ。玄関で靴を脱ぎ、一段高い板敷きの床につま先を落とす。そのしぐさを視線で追った後、顔を上げて奥を伺う。
「ただいま」
短い言葉を口に出して告げれば、台所から顔を見せることなく末の妹の「おかえり」という声だけが返ってくる。診療所になっている方向にも視線を向けるが、あそこは他よりも防音が出来ているのか、こちらの声が届いていないらしく無反応だ。
上の妹はどこかにでも遊びに出ているのだろう。玄関を振り返ると彼女が愛用しているスニーカーが見当たらない。だがもうじき日も暮れるから、近いうちに帰ってくるだろう。
右肩にだけ担いでいた重たいリュックを抱えなおし、短い廊下を抜けて自室のある二階へ続く階段へ向かう。道中、台所からお玉を持った下の妹が廊下と台所をさえぎっている暖簾から顔を覗かせた。
「あ、お兄ちゃん」
年相応のトーンの高いかわいらしい声。一段目に足を運ぼうとした動きを止め、視線を流す。お玉を口にくわえそうな距離に持った彼女は、背の高い兄を上目遣いに見上げていた。
もじもじした態度に、なにやら不穏な気配を感じた一護はまさか、と冷や汗を背中に垂らす。
だが予想に反し、彼女は今日のおかずがあまり凝ったものに出来そうにないという侘びの言葉を告げただけだった。今日は帰ってきてから家の用事が忙しく、買い物に行けなかったのだとの言い訳に、別に構わないと返してやると、彼女は安堵を浮かべて奥に引っ込んだ。
気を取り直し、一護は階段を上っていく。狭い廊下を少しだけ進んで、しっかりと閉められた見慣れた自室の扉を開けると、中から生ぬるい風が流れ出てきた。他の人とは文字通り毛色の違う前髪が数本揺れ動き、視界を邪魔する。
扉を入って直ぐの位置からはちょうど死角になっている区画、机の横にある窓が開け放たれ、薄色のカーテンがゆらゆらと裾を揺らしている。夕方自分が帰ってくる前に、小学生の妹に頼んで換気目的という理由で毎日あけてもらっている窓は、本来の目的と異なる役目が今現在もうひとつ加わっていた。
一護より少し先に女子生徒数人と連れ立って帰っていった筈の女性が、窓に寄りかかるような格好で佇んでいる。腰をわずかに机に載せるようにして凭れ掛かり、物思いにふけって外を眺める横顔は、室内への侵入者に気づく素振りすらない。
一護はひっそりと息を吐いた。自分の部屋のはずなのに他人の部屋に間違って入ってしまったような錯覚に陥りそうになる気持ちを抑え、後ろ手に扉を閉めて空間を遮断させる。
戸が閉まる音で、窓辺の彼女――ルキアも一護の存在に気づいた。
「おかえり」
首から上だけを振り返らせ、ルキアが言った。背中に担いでいたカバンを先ず下ろした一護がああ、という相槌を返す。
会話はそこで終了し、お互い制服のまま気だるい夕暮れの時間を何をするともなしに過ごさねばならなくなった。カバンの中から借りてきた雑誌や、教科書の一部を抜き出して端を意味もなくそろえたりという作業をしてみたが、最終的に行くべき場所である机はルキアが占領していまっているようなもので、行き先に困って結局床に直接無造作に積み上げて放置された。退いてくれと言えば良いだけの話ではあるのだが、何故かそう言い出すのも憚られる空気が彼女の周りには張り詰めていて、見惚れるわけではないが、ひとたび見つめてしまうとなかなか目がそらせなくなる。
ルキアはそんな一護に全く気づきもせず、彼が部屋から入ってきたとき同様、ぼんやりと窓から外の夕暮れを眺めていた。
もう十何年と過ごしている自分の部屋だから、窓からどんな景色が広がっているのかなんて分かりきって見飽きている一護にとっては、何をそんなに見つめるものがあるのだろうかと不思議でならない。けれど彼女は外の、何の変哲もない光景に目を向けたまま、生きて動いている一護になんの興味も示そうとしない。それはある種の屈辱にも近くて、開け放たれたままの窓から時折忘れた頃に流れてくる風を鬱陶しそうにかき乱した。
机の後ろ側、窓とは反対側の壁に置かれているベッドに居心地悪く腰を落とした彼は、右ひざに肘を立ててルキアごと外へと視線をやる。別にカラスがカーカー鳴いているわけではないが、少しずつ暮れ行く西の空は朱色に染まり、それはそれで、それなりに美しくある。
ああ、そういえば彼女の故郷の話はほとんど聞いた覚えがないが、やはり日暮れ時はこんな風に空が夕焼けに染まるのだろうか。ふとそんな事を思う。
しかし物思いは一瞬で、死神の世界に日々の通念などあるものかどうかも疑問に感じられ、ましてや死後の世界で朝に日が昇り夕方に暮れていくという光景が繰り広げられている様は、どうにも不可思議だ。だから一護はこの時、彼女はあまりこういった夕暮れ時に縁がなかったのだろうと考えた。
それにしても夕暮れという時間帯は微妙なもので、その輪郭が曖昧になる光加減具合から逢魔が時とまで言われているだけに、この世とあの世の境界線が薄まった錯覚さえも起こりそうになる。ルキアがそんな事を知っているとは思えないが、夕暮れに郷愁の念が重なっているのかもしれぬと、どこを見ているのかも分からない瞳の色に、感じさせられた。
彼女にも親しい間柄の存在はあったろう。今も会いたいと、戻りたいと思っているのだろうか?
「窓」
不意に口を突いて出た言葉は、けれど考えていたのとは全く無関係に感じられる単語だった。
自分でも何故そんな単語を口にしたのかが分からない。だが、言葉の意味を理解しきれなかったものの音が発せられたことだけは分かったらしいルキアが、わずかに首を傾がせて一護の方を見た。
様子を伺い、一護が次の句を継がないので自分に向けて発せられたものではないと自分で判断した彼女が再び窓を向き直った後姿に、一護ははっとなって、先程の自分が呟いたことばの意味をようやく理解する。
「閉めろよ、窓」
自分が外から帰ってきているというのに、まるで自分が居ない時のままのごとく振舞う彼女が許せなくて、そして彼女の気持ちを一心に集めている、自室の窓に少なからず嫉妬したのだ。
はっきりと音を成して発せられた一護のことばに、今度こそしっかり振り返ったルキアがやや右側に首を傾けて、その意味を咀嚼する。数秒後浅くうなずいた彼女は、
「ああ、そうだな。すまない、日も暮れて風も冷たくなっている。寒かったか」
さっきからずっと、どこか不機嫌そうな顔をしている一護に向かって、彼の思いには全く気づかず自分の解釈を口にして、それから細い白い腕を伸ばし、窓を閉めた。
ふたりの頬を撫でていた生ぬるく、けれど冷たさを感じさせる風は止んだ。それでもどこか名残惜しそうに彼女は窓を見据えて、夕日に照らされたルキアの横顔をもう暫くの間だけ、一護は眺め続ける。沈黙はやがて闇に溶け、遠くから上の妹の帰宅を告げる声が響くまで穏やかで、けれどどこか物悲しい空気は続いた。
程なくして、夕食の準備が整ったと一護を呼ぶ声が。夕暮れはもう既に遠く、名残惜しそうに地平線の雲が薄紅色を濁らせている。膝の上にひじを立て、頬杖をついていた一護は、先程までのルキアのようにどこか遠い場所を眺めていた事に気づく。思わぬ近くから、彼女の声がしたからだ。
「良いのか? 行かなくて」
我に返り顔を上向かせれば、手を伸ばせば直ぐに届きそうな位置に彼女の姿。あまりに無防備に彼女の接近を許してしまっていた自分に慌て、一護は思わずベッドの上で後ずさりしてしまった。その態度に、ルキアは失敬な、とでも言いたげな目を彼に向ける。
耳を澄ませば、階段下からの呼び声は繰り返し何度も行われていたようで、もうあと数回待てば部屋まで呼びに来てもおかしくない雰囲気になりつつあった。一護は急ぎ立ち上がり、入れ替わるようにしてベッドの端に腰を下ろした彼女の小さな身体を見下ろす。
彼女は一護が階下で家族との団欒を過ごす間、ひとり此処で待たねば成らない。彼女は本来、この家にあるべき存在ではなく、居ない筈の存在でもあるから。
広くもないが決して狭くないこの家で、彼女が自由に動き回れるのはこの部屋だけなのだ。
「すぐ戻る」
ベッドのやわらかさに身を預け、僅かに身体を上下させている彼女に告げると、自分は気にせずに家族でゆっくり過ごして来いと言う。事も無げに、表情を変えもせず。
「いや。直ぐ戻る」
けれど同じ言葉を再度繰り返し言えば、彼女は少しだけ寂しそうな、それだけどどことなくうれしそうな微妙な表情を一護に見せる。薄く微笑んで、仕方ないやつだと首を振る。
いつも、そうやって、彼女は部屋を出て行く一護の背中を見送るのだ。
やがて軽い音を短く立てて扉は閉められ、部屋は沈黙に落ちる。誰も居ないという風に表向きは設定されている一護の部屋では、不用意に明かりをつけて怪しまれたりしないようにルキアはずっと、暗くなりつつある部屋の中で身動きもせずに待ち続ける。
視線は、再び窓の向こう側へ。
けれどさっきまで明るかったはずの空はとうに夕焼けも薄まり、天頂から侵食を開始した闇に飲み込まれ思うほど遠くまでの景色は見渡せなくなっていた。ガラス窓に写る小さな自分の姿を皮肉そうに微笑んでみて、ふっと息を吐く。まつげを伏せて僅かに瞼を閉ざした。
半眼のまま、己の膝元だけを見下ろし続ける。制服のスカートの皺を右から順番に数えて左端に届きそうな頃になってから顔を上げ、何かを思ったわけでも無し、開かない扉に目を向ける。
一護が出て行ってからどれくらいの時間が経過したのか、彼女には分からなかった。短いようで長いようで、やはりまだ幾ばくも経っていないのだろうと思い直して、首を振る。以前ならば多少の時間を一人で過ごす事など造作なく、当たり前の日々だったはずなのに。
今は心のどこかで、今すぐにでもあの扉が外側から開かれることを願っている。
「一護……」
呟きは夕闇に溶け、かなたへと消えていく。
もう窓の外に、太陽は見えなかった。
Vanish/1
かしゃん、と薄い音が響く。
「あ」
間を置かずに零れ落ちた声色に目線を上げると、やや離れた場所に立つ彼がどこか茫然としたように床と、自身の視線との間にある己の手とを見下ろしている最中だった。
首を傾げ、広げていた新聞紙から視線を本格的に外し遠くの床を見やれば、彼の足許に割れたグラスと恐らくグラスの中身だったであろう水が散乱していた。向こう側からは、グラスの割れる音に敏感に反応したアッシュが雑巾を握りしめ、小走りに駆け寄ってきている。
「大丈夫っスか!?」
心配そうに声を上げたアッシュをゆっくりと見て、それから彼は再度己の足許へと視線を移した。ただ、グラスを落としたときのままであるらしい右手の位置だけがまるで変わることなく、中途半端に胸の前で持ち上げられたまま固まっている。
「…………?」
怪訝な表情を作ってしまったのは、その彼の手先が僅かに震えているように見えたからだ。ただこの距離では確認する術もなく、仕方なく新聞を畳んでテーブルに置き、椅子から立ち上がる。
微かに床を擦った椅子が引かれる音に、彼はびくりと過剰に反応して肩を揺らした。慌てて利き手で右手首を掴み、胸元に引き寄せる。
アッシュがまた、何かを言った。怪我はしていないか、との問いかけに彼はコクコクと三度、縦に大きく頷いた。
未だ立ちつくした感のある彼の前でアッシュは膝を折り、雑巾で濡れてしまったフローリングを拭きなら飛び散ったガラスの破片を集めていく。水滴を浴びたそれらは天井からの照明を浴び、キラキラと歪に輝いて綺麗だった。
「スマイル?」
「あ……ごめん。割っちゃった」
食後に、テーブルの上に残されていた水差しからグラスへと水を注ぎ込み、透明な液体を喉に潜らせている最中。彼の足は使い終えたグラスを台所に戻す為、そちらへと向けられていた。だから食卓で新聞を読んでいたユーリには、スマイルがコップを落とした瞬間を見ることが出来なかった。台所へ行こうとするスマイルは、彼に背を向ける格好になっていたから。
そしてアッシュもまた、片付けの為に扉は開けたままだったものの、壁を挟んでいる台所で作業をしていた。
手を滑らせただけと言えば、それきりである。他のことに注意を向けていたとしたら、手元が疎かになっていても別段、不思議な事ではない。
しかし微妙なところで、ユーリは怪訝に思わざるを得なかった。
何故彼は、グラスを割ってから暫く動かなかったのか。いつもなら自分の失敗を笑いながら、なるべく他人に迷惑をかけないように処理しようとするのに。
今日に限りアッシュの手を煩わせて、後始末も全部任せてしまって。自分は立ち尽くし、震えている手を握りしめて。
「スマイル……?」
「ごめん、本当。ボーっとしてたみたい」
「しっかりして下さいっスよ。いくら春だからって」
「うん、だから謝ってるじゃないかさー」
最初のユーリの疑問符は、カラカラと笑うスマイルと雑巾の上にガラスの破片を集め終えたアッシュの会話で掻き消された。こうなると最早スマイルに事を追求することは出来ない、問いかけたとしても巧くはぐらかされるだけだ。
スマイルはまだ右手首を左手で押さえ込み、掴んでいる。胸元から下には下げられたけれども、両の手の結びつきが解かれそうな気配は感じられない。
ユーリがじっと彼の手元を見下ろしている事に気付いたのだろう、スマイルは伺うような目線をユーリに一瞬だけ投げつけ、そして直ぐに逸らした。
「片付けさせちゃって御免ね~」
「構わないッスよ、それより怪我がなくて良かったっス」
まるでユーリから逃げるように彼はアッシュへ語りかけ、雑巾にくるんだガラス片を抱え上げた彼の肩を、ようやく解き放った左手で軽く叩く。その間、彼の右手は脇に力無く垂らされたまま。
「うん、アリガト」
心配してくれた事への礼を告げ、スマイルはスッとアッシュとユーリの間から抜け出した。
空気が流れる、彼の回りで湧き起こった気流が乱れる。
「スマイル」
「部屋に戻るよ」
慌てて振り返ったユーリが彼を呼んでも、スマイルは振り返らなかった。左手を軽く振り、足早にリビングを出て行ってしまう。
カシャンと音を立ててアッシュの手の中のガラス片がぶつかり合い、軽い透明な音を立てた。床に巻き散らかされた冷水は雑巾で拭い取られ、残っていた水気もすっかり乾いてしまっている。
ユーリは視線を落とした。
アッシュが破片を片付けるために台所へ向かう。彼が歩くたびにガラスは互いを擦りつけあって、耳に残る音を喚き散らして、ユーリは奥歯を強く噛みしめた。
彼は、カレンダーを眺めていた。
薄暗い自室で、壁に吊された今月のカレンダーの表面を左手でなぞりながら、今日の日付を探す。そして目的の日付までの残り日数を、口に出して数えていた。
「いち、にぃ…………なな、はち、きゅう……じゅうさん」
最後の呟きと同時に指がぴたりと止まった。その日付には大きく目立つように、赤い丸印が書き込まれている。数字の下には、びっしりと几帳面な文字で時間と、場所が記されていた。
今度は声に出さず心の中で文字を読み上げる。確認するように、二度繰り返して。
最後に漏れたのは、重い溜息だった。
「…………あと、十三日」
今月末に予定されたライブまでの日数。三会場で合計五公演。チケットは既にソールドアウトしており、予定は天変地異でも起きない限り覆されることはまずないだろう。
今回はスタッフも今までにないくらいに最高の者を用意したし、会場だっていつもより奮発してみた。セッティングだって趣向を凝らし、誰にも退屈だったとは言わせないくらいに興奮して感動できると、ユーリは自信を示している。
だから、頑張ろうと思う。他のメンバーだって気持ちは同じだろう、常に最高を目指しそれを目標にして、突き進んでいく。よそ見をしている余裕はない、今はがむしゃらなくらいに前を目指すだけの時期だ。
新人アーティストは吐くほど居る、その競争の激しい中で生き残るために自分たちが出来ることを、最高の演出で表現するだけだ。負けるつもりはない、絶対に頂点に在り続けてみせるという思いは限りない。
この椅子は譲らない、この場所は守り通してみせる。
ただ、もしかしたら。
「まだ……ダメだよ」
微かに震えている右手を左手で掴み、指先をそっと唇へ押し宛てて呟く。吐き出した息が包帯でくるまれた指に染み渡り、皮膚の内側へ融けていく。
薄暗い照明も灯らない室内で、ひとり。
空気は冷えて少しだけ寒い、もう春先であるに関わらずこの場所だけは時間が冬のまま止まってしまっているようだ。
「ぼくは、まだ…………わけ、には」
震えが止まらない右手を握り、爪を立てて彼は言葉を紡ぐ。自分へと必死に言い聞かせる瞳は瞼に閉ざされ、隻眼の丹朱は今は見えない。
緩く首を振る。
今は、まだ、ダメ。
だから、絶対に、誰にも、気付かれてはいけない。
右手を手の平で包み込む。胸へと押しつけてカレンダーに額を押しつけ、視線を足許へ落とした。
ブゥン……と、薄く開いた瞳の隙間に、己の足許が揺らいで映る。
「……!」
はっとなって、隻眼を見開いて、彼は自分の足を睨むように見下ろした。けれど、一瞬の幻であったのか彼の足はしっかりとそこに二本とも揃っており、幽霊のように消えてしまっているなどという事態にはなっていなかった。
その代わり、納まり始めていた右手の震えが再びきつくなる。
触れていなくても、目で見てはっきりと分かるくらいに彼の指先が震えていた。肘の先が硬直したように、曲がらない。慌てて左手で手首を取るが、指先に生まれる感覚は冷たく、そして固い。
肉を掴んでいるという感触ではない。
「うあぁ!」
悲鳴を上げ、彼は振り上げた右手を思い切り壁に叩きつけた。
しかし叩きつけたはずの腕は壁をすり抜け、感触を何も生み出さぬままするっと下方向へ滑り落ちていった。
「いや、だ……まだダメだ!」
肘の内側を掴んで彼は叫ぶ。ヒステリックに。
包み込むものを失った右手に巻かれていた包帯がはらはらと解け、床に渦を描いていく。
「ダメだ、消えるな。消えるな!」
そうだ、薬を。
虚ろげに虚無を彷徨った彼の視線が、やがて何かを思いだしたらしく机の上に向けられた。ヨロヨロと垂れ下がる包帯を引きずり、乱暴に椅子を退かして引き出しを力任せに引っ張り出した。
細長い箱形の引き出しを床に投げ捨てる。収められていたメモやノート、ペンが床の上に勢いで散乱してけたたましい音を立てたが、彼は構おうとしなかった。固い木の引き出しがやはり床に直撃してフローリングの一部をへこませたが、それさえにも気付かない。
奥歯をガチガチとならして、彼は引き出しのその奧から隠し箱を抜き取った。左手一本で巧く噛み合わない作業に焦れながら、頑丈に閉じられている蓋を外す。
中から転がり出てきたのは、手の平に収まるサイズのガラス瓶。透明なガラスの中に収められているのは、残り少ない白い錠剤だった。
瓶の表面には、中身を示すシールがない。錠剤の名前も、効能も、主要成分もなにひとつとして。
彼は瓶の蓋を焦る気持ちを抑えながら外した。瓶を傾けると、残数が十を切っている錠剤が一粒、彼の手に転がり落ちる。
左手に握った錠剤を躊躇もなく口へ運び、唾で呑み込む。一度だけ上下した喉から長く深い息を吐きだして、彼は漸く人心地がついたらしい。激しく上下させていた肩も徐々に落ち着きを取り戻していく。
床の上にへたり込んでいた彼は緩やかに首を振り、握りしめた右の拳で軽く床を叩いた。がんっという音と衝撃がその瞬間、その一帯にだけ伝わり、再度彼は深い息を吐きだした。
持ち上げた右手を目の前に翳し、窓から僅かに差し込んでいる光に照らして透き通っていないことを確認。軽く握り開きを繰り返してから、ゆっくりとそのまま身体を後方に傾けて行く。
幸いなことに床に散乱させた物品にはぶつからなかったようで、耳元にひっくり返った引き出しを感じつつ床の上に寝転がる。右手を胸の上に落とすと、質量と感触を確かに感じ取れた。
目を閉じる、迂闊にも泣いてしまいそうになっている涙腺を誤魔化そうとして。
蓋を外されたままの小瓶は、未だ床の上で同じように寝転がっていた。中身は少ない。
「まだ……ダメなんだ」
自分へ言い聞かせるように繰り返し、呟く。左手を目の上に置いて目の前の世界から光を遮った。
闇が覆い尽くす、闇が迫る。
カレンダーを思い浮かべた。残り日数を数える、重ね合わせるように錠剤の残量とそして、自分の身体を計算式に加えた。
足りない。
「ダメだよ。まだ」
左手をずらし、包帯にくるまれて隠れている左目の表面をそっと撫でる。軽く指先に力を込めて押してみた。
押し返す力がそこには、存在していなかった。
ぽっかりと開いた空洞、何もない場所。
出来上がった穴を埋めるものはもうどこにもない。今は薬で、誤魔化し誤魔化し繋いでいるだけの、虚しいこの身を。
お願いだから、奪わないで。
コンコン、というノック音。
少し慌て気味に背中を床から引き剥がし、身を起こしてそれから周囲を見回す。今になって気がついたものが散らばる惨状に口をあんぐりと開き、そして閉じて、立ち上がると同時に薬瓶を回収して蓋を閉めた。
ズボンの後ろポケットにとりあえず突っ込んで置いて隠し、大股に歩いて先に扉の横にある照明のスイッチを押した。
俄に明るくなり、まばゆさに目が慣れずにいる間にもう一度急かすようにノック音がして、二秒待ってから扉を開けた。
「はい?」
誰であるのか確認をせぬままに開けた先で、見下ろした場所にいたのはユーリに他ならず。
「あ……なに?」
「いや」
一瞬跳ね上がった心臓を誤魔化そうとやや上擦りながらの声で問いかけると、ユーリは怪訝な顔をしてスマイルを見上げた。眉間に寄った皺に彼の不機嫌さを感じ取り、スマイルは思わず反射的に半歩後ろへ下がってしまった。
だけれど、追い掛けてユーリの白い手が彼に迫る。
ひんやりとした感触を額に感じ取って、スマイルは唖然とユーリを見つめた。不機嫌そうに口元を歪めつつも、彼は真剣な眼差しでスマイルの額に置いた手で熱を計ろうとしていた。
「ユーリ?」
「熱はないようだな」
「……なんの話?」
さっぱり行動の意味が読めないのですが、と強張っていた肩から力を抜いたスマイルの言葉に、手を離したユーリが腕を組んでふぅむ、とひとつだけ唸った。
「さっき」
お前の様子がどこか可笑しいような気がしたから、とユーリはぼそぼそと呟く。腕組みをして、視線を落とし気味に考え込む素振りをしたままで、だ。
独り言を呟いている感覚なのだろうが、しっかりとスマイルの耳にその声は届いていた。
「ユーリさん?」
「体調が悪いので有れば、遠慮せずに言う事だ。今は大事な時期なのだから」
あと、十三日。
ライブが全部終わるまで、約二十日。
「大丈夫、アリガト。心配してくれたんだ?」
「べっ、別にそういうわけでは……私はただ、リーダーとしてメンバーの健康管理をだな!」
扉に身体の半分を預けて凭れ掛かったスマイルがにっ、と笑った途端、ユーリは狼狽して慌て始めた。苦しい言い訳を連ねながら、それが余計にスマイルを楽しそうに笑わせている事にも気付かない。
「は~いはい、ご心配ドウモ。う~ん、でも言われてみれば少し怠いかもしれないなァ」
「なんだと!?」
「でも、ユーリがキスしてくれたら治るかも♪」
顎をなぞりながら呟いたスマイルの台詞に、思わず身を乗り出したユーリが必死の形相になっている事を横目で薄く笑って、彼は言った。
直後。
「調子に乗るな!」
という怒鳴り声とともにユーリの鉄槌が彼の頭上に下された事は言うまでもないのだが。
「った~~!」
「自業自得だ!」
心配して損をした、と鼻息荒く肩を怒らせたユーリをケラケラと笑って、スマイルは殴られた箇所を撫でた。瘤にはなっていなかったが、触れるとひりひりする。
ふっと、ユーリが微笑んだ。
なに、と視線を彼に向ければ、やや肩を竦めて呆れ顔をしているユーリの紅玉色をした瞳にスマイルだけが映し出されている。
「その分だと、心配なさそうだな」
「あ……」
「本当に体調が優れないときは、休むんだぞ」
お前は時々、無茶をするからな。そう言い残しユーリはひらりと手を振って廊下を去っていった。階段を下りて、背中はやがて見えなくなる。
スマイルは無意識のうちに緩む口元を手で隠し、足許へと視線を落とした。
ユーリが心配をしてくれていた、その事がどうしようもなく嬉しいと感じてしまっている。
そして、同時に。
彼に悟られてしまった自分の愚かさを呪いたくなって。
尚一層強く、なにがあっても決して消え去ることは出来ない自分の存在を認識する。
「まだ……ぼくは、消えられない」
右手を握りしめ、それを胸に押しつける。
誓いの言葉を聞く者は、どこにもいない。
Hypnotize
騒々しくもそれなりに楽しく、美味しかった夕食も終わって一息つく時間帯。
アッシュは風呂の準備と夕食の片付け、そして明日の朝食の下ごしらえと慌ただしく走り回っては、鼻息混じりに台所を占有している。忙しいはずなのにこれらの家事をまったくそつなくこなすものだから、すっかり彼は疑問も持たずに城の使用人に成り下がってしまっていた。しかも誰も、その事を指摘しない。
ユーリは当然家事など出来るはずがないし、スマイルは城に来るまでひとりで生活していたからそれなりに問題なくこなすことが出来るものの、しなくて済むことはしたくない、との観点から一切手出ししない。
必然的に、家事全敗はアッシュに委ねられることになる。そして誰も文句を言わない。
完全には閉じ切れていない台所と食堂との遮る扉から漏れてくる、水音に紛れたアッシュの機嫌良さそうな鼻歌を肩を竦めて笑い、ユーリはブックラックに収まっていた雑誌を取ってリビングへ向かった。
食堂とリビングの間には明快な境界線は引かれていない。無駄に縦に長く広い空間を、食事スペースとくつろぎ空間に分けて使っているだけで、違いと言えばリビングに使っている場所にはふかふかの毛並みをした絨毯が敷かれているという事くらいだ。
靴のままその絨毯を踏んだユーリは、雑誌を膝の上にしてどかっと弾力の良いソファのクッションに身体を沈めた。表面が滑らかな為に滑りかかった身体を持ち上げ、座り直し雑誌を広げる。同時進行で彼の片手はたまたまソファの上に置き忘れられていたテレビのリモコンを掴んでいた。
こんな踏んでしまいそうな場所に置いておくのは、スマイルくらいだろう。後でちゃんと叱っておかなければと思いつつ、ユーリの右手親指はテレビの電源スイッチを押していた。ぷつっ、という独特の短い電子音を起こし、それまで黒一色だったテレビモニターに色が宿る。
映し出されたのは、どうやらどこかのスタジオらしい。モノトーンで統一されているセットはどこか重々しく、シリアスな雰囲気を演出している。それでいて所々に配置された機械的な部分が異質さを増し、視覚効果を与えていた。
ユーリはひととおり他のチャンネルも回してみたものの、興味のないスポーツ番組や騒がしいばかりのお笑い芸人が多数出演している番組ばかりで仕方なく、最初に映し出されたチャンネルに戻す事で落ちついた。しかしこのスタジオで収録された番組がどんな種類のものか、未だに掴めない。折角広げた雑誌にも目をやらず、彼はプラズマの美麗な画面に見入った。
頬杖を付き、マイクを構えて喋っている司会者のコメントに耳を傾ける。どうやら、実験台になってやろうという人物を募っているらしい。蝶ネクタイをした司会者の言葉に、数人の男女が観客席から立ち上がった。
カメラが切り替えられると、平たいタイルの上に人数分の椅子が用意されていた。椅子に座る一般募集の素人を横舐めでアップを写しだした後、カメラは切り替わり司会者とは別の人物を写しだした。
これまた、明らかに怪しいと思わせる服装と化粧をした痩身の男だ。顔の幅に釣り合わない大きなサングラスが表情を隠している。
「…………?」
テレビの前でユーリは怪訝そうに眉を寄せた。その間も司会者は喋り続けている。呼吸の合間を感じさせない喋り方の方に感心していると、痩身の男がなにやら取りだしてそれを、一般席から呼び出したひとりの前に吊した。
バカにしているのか、とユーリは呆れる。どうやら番組は、催眠術を実践してみせるという男の特集だったらしい。痩身の男が椅子に座る男の目の前に垂らしたものは、糸に結んだ五円玉だった。
一時期流行したけれど、最近ではあまり聞かなくなった方法である。そのあまりの古くさい手段を笑ったのはユーリだけではなかったらしい、テレビの中の会場も俄にざわめき始めた。
しかし痩身の男は自信があるのか、まるで後方の騒々しさを気にしない。右手に五円玉を結んだ糸の端を持ち、左手は意味不明な動きをさせて椅子上の男の前で五円玉を左右に揺らし始めた。
司会者が黙り、会場内も静まりかえる。その中で痩身の男が告げる呪文めいた言葉だけが繰り返し響き渡った。若干エコーが加えられているのも、演出のひとつだろう。照明も落とし気味にされ、薄暗く嫌でも緊張感が漂うように切り替えられていた。
ふぅ、とユーリは溜息をついた。莫迦らしく、チャンネルを変えようとリモコンへと手を伸ばす。
しかしその前で、画面上にアップで映し出された椅子上の男が突然、フラフラと立ち上がった。痩身の男が一際大きな声で語りかける。
貴方は今鳥になっています。さあ、その翼を力強く羽ばたかせてください。
マイクを通して告げられた言葉に、どこか虚ろな目をした男が椅子の前で唐突に両手を広げ、上下に動かし始めた。ぱたぱたと小刻みに足を動かし、空を飛ぼうとしているのか勢いをつけるために助走を始めた。
しかし当然のことだが、男は飛ぶことなど出来ない。みっともなく両手をばたつかせて会場内を走り回るだけだ。
会場内にざわめきと笑いが戻る。
ふぅむ、とユーリはリモコンから手を離し頬杖を付き直した。雑誌の上に肘を置くと、平らな紙が拉げた。
ポケットを手で探ると、薄い財布が出てくる。札束とカードばかりの中で、小銭入れに百円玉数枚と五十円玉がころん、と転がっていた。糸はあるだろうか、と見回したけれど適当なものは見あたらず、少し考えて首に巻いていたネックレスのチェーンを穴に通してみる。
即興で出来上がった、催眠術の道具を目の前に垂らして揺らしながら、ユーリはふぅん、とまた息を吐く。
本当にこんなもので人を好きに操れるのだろうか?
テレビの中では次の出演者が催眠術を受け、床の上で転がり腹這いで前に進もうと躍起になっていた。司会者の解説では、アザラシらしい。むしろトドか? と失礼ながら転がっている男性の体格を見て思ってしまい、咳払いをしてユーリはまた銀のネックレスと五十円玉という奇妙な取り合わせを見つめ直した。
「なにやってるの~?」
そこを、ソファの背後からユーリの肩を叩く存在が。語尾が間延びした暢気な声の持ち主はひとりしか思い当たらず、ユーリはどきっとした胸の中を隠し首から上で振り返った。右手の中にチェーンを握り込み、隠すようにしてスマイルを見上げた。
彼は風呂上がりなのか、ラフな格好をして髪も少し湿り気を残している。僅かに湯気を立てる身体を持ったスマイルに、ユーリは暫く考えて手招きをした。彼はなんだろう、と首を傾げつつも促されるままにユーリの座るソファを回りこんで隣に座った。
ぷつっとテレビが切られる。急に静かになったリビングにスマイルはまた首を傾げ、首にひっかけたタオルを引っ張った。するりとタオルは片側を床に落とす。
「ユーリ」
「スマイル、これをじっと見ていろ」
「は?」
何の用? とユーリを呼んだスマイルの目の前に唐突にチェーンに通した五十円玉を突きつけ、ユーリは命令口調で短く告げる。益々怪訝な顔をして意味が掴めません、となる彼に有無を言わせない視線を向け、ユーリはスマイルを黙らせた。
「良いか、じっと見て絶対に視線を外すなよ」
「だから、これが何なのさ」
「良いから!」
ちょん、とつり下げられている五十円玉を指で弾いたスマイルに、貴様は黙って見つめていれば良いんだ、と語気をやや荒立てて彼を再度睨み、ユーリは左右へと五十円玉を揺らし始めた。一方頭の中では、痩身の男が呟いていた呪文のような言葉を思い出しながら、少しだけ照れを残しつつ繰り返し呟き続ける。
貴様は猫だ、と。
スマイルは眉間に皺を寄せていた。しかし律儀にユーリの言いつけを守って揺らめく五十円玉を凝視している。そのうちに、彼の瞼が少しずつ落ち始めた。
テレビ画面の中に居た人物に共通してみられた兆候である。ユーリは我知らず逸る気持ちを抑えつつ、呂律が回りにくくなるまでスマイルに向かい、猫だ、猫になれ、と呟き続けた。
カクン、と予告無くスマイルの首が前に落ちた。
いや、本当に落ちたのではなく前のめりに一瞬だけ身体が傾ぎ、倒れかかっただけなのだが。
ユーリははっとして、五十円玉のチェーンを握り直し横に座っているスマイルを見下ろした。
柔らかいクッションがふたり分の体重を受けて沈み、皺を幾重にも刻み込んでいる。その上で、スマイルの身体がそのまま斜めに沈んだ。
「スマイル?」
まさか変な効果でも生まれてしまっただろうか、それとも眠ったとか? 予定外の事になってしまったらどうしようと、深く考えていなかった自分の行動の結末にユーリは狼狽する。その間に彼の方へ倒れ込もうとしたスマイルの身体を、どうにかソファからの落下だけは防いでやろうと手を伸ばし掴もうとしたその、矢先。
「にゃ~……」
は?
一瞬、なにか違う世界の言葉が聞こえたような気がした。
目を丸くし、効果をつけるとしたら星でも飛び出してきていそうな雰囲気のユーリの前でぽてん、とスマイルの身体が彼の膝を枕にして沈む。結局彼を掴み損ねたユーリの手が、湿気を含んでいるスマイルの髪に落ちる。わしゃわしゃと掻き混ぜると、彼の額がユーリの膝頭にぐりぐりと押しつけられた。
「スマイル?」
「にゃ~」
返事のつもりなのだろうか、しかし彼の口から発せられたのはひとの言葉ではなかった。
ころんと身体を転がし、ソファの上に完全に乗り上がったスマイルが喉を鳴らす。ユーリの手に頭を押しつける動作をして、隻眼を糸になるまで細め、口は笑みを象らせて。
鳴き声は、猫の泣き真似。
ユーリはしばし硬直した。そして、十秒ほどかかって右手の中に握り込んでいた五十円玉と銀チェーンを見つめる。更に十五秒ほど必要として頭を捻り、結論。
催眠術は、成功した、らしい。
試しにもう一度彼の名前を呼び、猫がキモチイイと感じるらしい喉元に手をやってみると、スマイルはにゃ~と鳴いてゴロゴロと喉を鳴らした。表面を撫でるようにユーリが手を動かすのに合わせ、本当に気持ちよさそうにスマイルは笑った。
本当に猫のようだった。城に寄りつく猫はいるが、飼っているわけではないのでいつも一緒というわけではない。だから猫の行動に事細かに詳しいわけではなかったが、ユーリの目にした猫の動きに今のスマイルは一致しているように見えた。
頭を撫でてやると、湿気が指先に伝わってくる。彼が風呂上がりだったことを思い出し、床に落ちてしまっていたタオルを拾って頭に被せてやった。するとスマイルは、嫌がって首を振り丸めた手も使ってそれを振り落としてしまった。
「こら」
ちゃんと乾かさないとダメだろう、と叱りつけてタオルを拾うが、スマイルはまるで気にした様子もなく自分の手を舐めている。すっかり猫になってしまっている彼に、ユーリはこっそりと息を吐いてもう一度頭にタオルを被せたてやった。
やはりスマイルは嫌がる素振りをするが、振り落とされる前にユーリの手がタオルを上から抑え込み、ごしごしとやや乱暴気味に彼の髪を拭き始めると途端に大人しくなった。けれど嫌がっている事に違いなく、がりがりと爪を立ててソファの生地を引っ掻いている。
「やめないか」
片手でタオルを押さえ、もう片手を使いスマイルの手を押さえ込む。けれど片方だけしか塞ぐ事は出来ず、スマイルの左手はユーリの膝元でカリカリと彼の履くスラックスの布地を擦っていた。
微妙にくすぐったい。
ひととおりタオルで水気を抜いたスマイルの頭からタオルを外し、すっかり逆立って乱れてしまっているスマイルの髪を撫でる。ユーリの手に従って落ちついていく濃紺の髪の毛に添うように、スマイルもまた頬をユーリの股付近に押しつけて気持ちよいのか喉を鳴らした。
傍目から見ればその光景は膝枕に等しかったが、ユーリ自身すっかりスマイルを猫扱いしていたので気にしなかった。
「ふにゃぁ……」
指の間をすり抜けていく髪の毛の動きを楽しみながら、ユーリは猫スマイルの喉を指先で引っ掻くように撫でてやった。くすぐったそうに猫スマイルは身体をくねらせ、喉を鳴らす。
爪研ぎのつもりなのか、舌を伸ばして自分の手の甲や指先を舐めたりと、完全に猫化してしまっている彼を見るのはなかなか面白かった。
しかし、はたとユーリは気付いた。
どうすれば、彼は元に戻るのだろう……?
テレビではそこまでやっていなかた。いや、もしかしたら戻し方も放送していたかもしれないが、その前にユーリはテレビの電源を落としてしまった。だから見ていない、つまり分からない。
さーっと顔から血の気が引いていくユーリを見上げて、猫スマイルは何をどう思ったのだろう。動き止んでしまったユーリの手をぺろり、と舐めた。
「スマイル」
名前を呼ぶと、自分が呼ばれていることが分かるのか彼はにゃぁ、と鳴いて大きく背を仰け反らせ伸びをした。顔を上げる。
「にゃー」
「スマイル……お前がもし、元に戻らなかったら私は……」
「にゃ?」
人が真剣に、沈痛な面持ちで万が一の事を考えているのに猫スマイルはまるで人の気を知らないまま、差し出されたユーリの手を弄ったり舐めたりとして遊んでいる。頬を撫でてやれば顔をすり寄せて来るし、指を一本だけ伸ばして前に差し出すとかりっ、と軽く歯を立てて噛みついたりもする。
猫だ。
完全に猫であり、最早これは“スマイル”とは言い難い。
もし戻らなかったら、どうしよう。一生彼がこのままだったら、どうすればいいのだろう。不意に泣きたい気持ちにさせられたユーリだけれど、まったく気にしていないスマイルがのんびりと首を伸ばして甘えて来た。目線を上げると、真正面に微笑んでいるスマイルの隻眼があった。
「スマイル……」
「にゃー」
全然戻る気配を見せない彼の頭を撫でながら名前を呼び、スマイルが嬉しそうに返事をして。
顔を、寄せて。
ぺろっと伸ばした舌で、ユーリの鼻の頭を舐めた。
「!?」
咄嗟に状況が把握できず目を丸くしたユーリに、続けて。
ちぅ。
触れるだけのキスが、落ちてきた。更に付け加えるようにして、一旦離れた後また舌で唇を舐められる。
反射的に閉じようとした目を見開いて、ユーリは心底楽しげに笑っているスマイルを見つけた。停止してしまっていた思考能力が稼動を再開する、次の瞬間彼の頭脳が導き出した結論、それは。
「貴様、最初からっ!!」
スマイルはユーリの催眠術になど最初から、かかっていたわけではなく。
真剣なユーリに付き合ってわざと猫になった演技を振りまいていた、と。
つまりは、そういう事。
「にゃ~~」
しかしスマイルは未だ猫の真似を解かず、猫啼を続けながら喉を鳴らして笑い続けた。そして怒り心頭を起こすユーリの唇をまたもう一度舐めて、ひょいっと軽い身のこなしでソファから飛び降りた。殴ってやるつもりでユーリが振りかざした拳は、虚しく狙いを外して空を切る。
一段とけたたましく床の上のスマイルが笑った。
「スマイル!!」
「にゃ~」
いつまでもどこまでも猫真似を止めようとしない彼に、ユーリも雑誌を蹴り飛ばしてソファから立ち上がった。それを見てスマイルが逃げ出す。勿論、四足走行で、だ。
どこまでも律儀に猫真似を続けている彼に、どこか怒りの調子も狂ってしまうユーリ。けれどこのまま逃がしては調子に乗るだけだから、と解きかけた拳を握り直して彼は逃げるスマイルを追い掛ける。
「待たんか、スマイル!」
「騒がしいっスけど、どうかしたんっスか?」
「にゃ~~」
かちゃ、と台所仕事が片づいたのかリビングへ顔をだしたアッシュに向かってスマイルが突進する。何事か咄嗟の判断が出来ず停止したアッシュの前で、彼を躱しスマイルは直前で右折。しかし、追い掛けていたユーリは止まり切れず。
振り上げていた拳を、そのまま下ろしてしまった。それももの凄い勢いのままに。
「あっ!」
「がはぁ!!」
「にゃは!」
三者三様、叫びと悲鳴と笑い声が城内に響き渡る。
今夜もどうやら、静かには済まされそうにないらしい。
Chink
人がふたり、言い争うような声。
たまたま、特別な目的地も定めぬまま探検する気分であちこちを歩き回っている途中で通りがかった、部屋の、前。
扉越しに聞こえてくるのは紛れもなく、この巨大な城の所有者である銀糸のヴァンパイアと、白い包帯で己の存在を主張する存在希薄な透明人間の声だ。どちらかと言えば、アンパイアが一方的に怒っているようで、彼の怒鳴り声ばかりが耳殻を打って神経を刺激する。
時折合いの手を入れるような、宥めようとしている透明人間の声を掻き消すほどに、荒立てた声を振りかざす誇り高きヴァンパイアの青年――とはいえ、その年齢はゆうに数百歳に達しているとかでこの、人間の平均年齢と外見に依るしかない表現方法をそのまま彼に当てはめて良いものかは甚だ疑問が残るのだけれど――は、忌々しげに一度言葉を切り、舌打ちしたようだった。
フローリングの床を踏みならす足音がそれに続く。
はっとなって、慌てて身を引いた。外側に開かれようとする扉に挟まれぬよう、壁に出来る限り背中を押しつけて息を殺すと、間髪入れず扉は内側から押し開かれた。
蝶番の隙間からかろうじて一瞬だけ観ることの出来た城の主は、透けるような白い肌を僅かに紅潮させており、彼がいかに興奮状態であるのかを如実に顕していた。乱暴に後ろ手に扉を閉め、それがか細い悲鳴を上げて彼へ抗議するのも聞かず、廊下をこちらに背を向けたまま歩き去っていく。
足早で、やや大股気味に。
ここに立つ彼女の存在にすら気付く様子もなく姿を消した彼の背中をそぉっと見送って、彼女は今、彼が閉じようとした扉がしっかりと閉まりきっていない事に気がついた。勢いが良すぎたのだろう、それは壁と扉を繋ぐ凹凸を巧く噛み合わせる事が出来ず、宙ぶらりんにゆらゆらと揺れている。
そろりと足を前に出し、背中を壁から離す。思いの外自分の耳には大きく響いてしまった己の足音に小さな肩を竦め、ほんの微かに覚えた寒気に両腕を擦り合わせる。
未だ閉じられようとせず半端に開いたままになっている扉の隙間から、部屋の中を覗き込んだ。そしてオーディオ機器と室内の中央にある、古めかしいグランドピアノに占領されている間にぽつりと座っている、彼を見つける。
軽く、気付いて貰えるか貰えないかの瀬戸際な音量で一度だけノックをし、ドアノブを引いて抵抗を見せない扉を開けた。自分が通り抜けられるだけの空間を作りだし、すり抜ける。
「スマイル?」
声をかけると、今まで床の上に直に座り込み膝の上で広げたなにかに見入っていた彼は漸く、彼女の訪問に気付いた。顔を上げ、自分の髪を引っかき回していた右手を下ろす。
「なに?」
「じゃま?」
「え……と、そんなことないよ」
今は、と付け足して呟いた彼に多少の引っかかりを覚えつつ、彼女は前へと進み出た。ひんやりとしたフローリングに一歩一歩足をつけ、座ったままの彼へと近付く。
そしてそれが自然であるかのように、すとん、と彼の一歩半手前の位置で腰を落とした。ふわりと空気抵抗で浮き上がったスカートの裾の中に白い素足をすっぽりと隠し、折り畳んだ股の脇に両手を下ろす。指先は、濃い茶色一色の床の上に押しつけられて。
身長差の所為で下になってしまった視線で、彼を射抜くように見上げる。
「さっき」
「ユーリ、出ていくの見たんでショ?」
言葉の出だしだけを口にしただけなのに、彼女がなにを言いたいのか察した彼が膝の上に広げている雑誌、だろうか。英文が並ぶ紙面を捲りながら先手を打って言った。こくりと頷き、彼女は彼が読んでいる雑誌へと視線を落とす。
当然のことだけれども、そこに掲載されている写真が何を映しているのかを理解するだけで、何が書かれているのかまでは読むことが出来ない。写真の人物の格好からして、海外のアーティストのようだが。
「けんか……したの?」
彼は紙面から顔を上げてこない。彼女の訪問に気付いた時にしか、今のところ彼女を見てもいない。まるで避けられているようで、彼女は少しだけ哀しくなった。
問いかけは、吐息に混ぜられる。
解答は、溜息の中にあった。
「聞いていたんだ」
彼女はふるふると首を横に数回振った、聞いていたのではなく聞こえてしまったのだ、と訂正する。たまたま、だったのだから。立ち聞きをするような嫌な趣味は持ち合わせていないと、態度だけで表した彼女に彼は些か自嘲気味に苦笑した。
「そ」
短い、合いの手。
そしてまた、沈黙が訪れる。彼女の問いかけは肯定も否定もされぬまま、彼によって遠くの壁に放り投げられてしまったようだ。だから彼女は、またそれを拾って戻ってくる。
「どうして、けんか……したの?」
喧嘩というよりかは、ユーリが一方的に怒鳴って怒っていただけのような印象を持ったけれども。
殆ど終わりのほうだけしか耳にすることがなかったから、具体的に彼らが何を口論していたのかは知る術がない。彼がユーリを怒らせたのか、ユーリが彼のなにかに怒っていたのか……発端は、想像の範囲から出ることがない。
ぱたん、と彼は開いていた雑誌を両手を使って閉じた。
「さぁ……」
曖昧に、視線を遠くに投げやって言葉も濁す。
「どうして、だったんだろうね」
やはり自嘲気味に、笑う。
理由など些細なことでしかなかったはずだ、それこそ直ぐに直接の原因が思い出せないくらいに微細な事。時々ユーリはいたく神経質であり、彼は無神経になりがちだったから意志疎通が巧く行かないことも少なくなく、だからこそ衝突しあう。
喧嘩の行く末は、どちらが原因のものであってもユーリが怒る一方であり、彼が宥める側に回る事で終わる。
いつものことだから、と、彼は透ける声色で呟いた。
「スマイルは、ユーリのこと、きらいなの?」
「それはまた、どうして?」
突然飛躍した彼女の問いかけに、幾らか目を丸くして驚きを表現した彼が逆に問い返す。今の今まで喧嘩の理由を尋ねられていたはずなのに、今度は唐突に喧嘩をしていた相手の事を嫌いか、と問う。
一貫性を欠いた彼女の質問に、彼は雑誌を脇に置いた。両手を背の後ろにある床へ押しあて、上半身を反り返して天井を仰ぐ。細かな光を大量に掲げたシャンデリアが、目に眩しい。
「だって」
視線を泳がせながら、ことばを探して彼女は床の上だった手を膝の上に移した。指を互いに絡ませて、爪先を弄る。
「きらい、だから……けんか、するんでしょう?」
好きと、嫌い、との関係は微妙。
好きな相手とは仲良くして、嫌いな相手とは喧嘩をするという目に見えて解りやすい関係に例えてしまえば、今の彼とユーリはまさに互いを嫌いあっている関係に収まってしまう。彼女はその事を問いたかったようで、ゆっくりと理解した彼は「ああ」と呟き、少し乱暴に右手で固めの髪を掻き回した。
「それは、う~ん……ちょっと違うかな」
厳密に言えば、彼はユーリのことを嫌いではない。嫌いであるはずがない。嫌いだったら最初からバンドメンバーとして彼に関わりを持とうとしなかっただろう。
もともと、彼は単独行動を好みなにものかに拘束される事を嫌う自由人なのだから。
「じゃあ」
好きなの?
目線を持ち上げて純粋な黒を向ける彼女に、彼は髪から放した手で頬を二度、人差し指の腹で撫でる仕草をした。引っ掻こうとしたのだろうけれど、その爪先が包帯で綺麗に包まれてしまっているので出来なかったのだ。
黒のワンピースの上に置かれている彼女の白い手が、指を絡め合って握りしめられている。なにかを覚悟しているような、祈るような時の仕草に似ている。
ちらりと彼女の、そんな細い手を見下ろしてから再度黒髪の少女を見つめる。隻眼を細めてやると、同じように彼女の黒真珠の瞳が和らいだ。
「好き、とも少し違う」
多分、だけれど。
君が考えているような“好き”とは違う。
断言し切れていない彼の解答に、彼女は少しだけ顔を顰めて首を捻った。分からない、という仕草だろう。眺めていた彼も、黙ったまま肩を竦める。
「好きでも……きらいでも、ないの?」
確かめるようなゆっくりとした問いかけに、彼は逡巡を見せながらも縦に頷いて返した。益々彼女は顔を顰め、なんとか理解しようとして俯く。口元に片手をやり、必死に思考を巡らせている姿は健気にも映る。
「君は、じゃあ、さ。ユーリの事、嫌い?」
考え中に中断させてしまって申し訳ないんだけど、と前置きをしてから彼は膝の上に肘を載せて問いかけた。伏せていた瞳を持ち上げた彼女が、また黒い瞳を翳らせて考え込む。
若干の間があって、彼女は首を縦に振った。
「きらい?」
それはそれは、意外だったと彼は驚きを隠さずに彼はことばを紡ぐ。彼女の声がそれに続いた。
「だって、あのひとは、スマイルのこと……」
きらい、なんでしょう?
最初の堂々巡りに戻る。
喧嘩をするから、相手のことを嫌いだと認識している。単純な二次方程式に絡まった彼女の思考に、彼は苦笑を禁じ得ず口元を隠した。
「別に、好きあっている同士でも喧嘩をすることはあるよ?」
自分は自分であり、他者にはなれないのだから完璧に相手と同調することは限りなく不可能の領域に近い。故に意志疎通のずれが必ず発生して、そこから生まれた軋轢により人は、不和を作り出す。
テレビなんかのドラマでも、恋人同士が喧嘩をしているシーンがあるでしょう?
たとえ話を持ち出そうとした彼だけれど、その瞬間に彼女が首を横に振ってまた驚いた。見たことない? と続けて尋ねると、今度は縦に首を振る。
あらら、という声が一瞬だけ響いた。
「本当に?」
「うん」
しつこく問い質しても、それ以外の返答は期待できそうになく。
成る程、これでは人の感情に鋭敏でありながら理解出来ずにいるという、ちぐはぐな彼女の心理状態が形成されていった経過も分かる気がする。ぽりぽりと頬を撫でた彼がひとつため息を零し、そして床の上の胡座を組み直した。
「ぼくと、ユーリが喧嘩をしていたのはね」
まず其処に戻る必要がありそうだった。だから記憶を巡らせ、先の喧嘩の理由を思い出す。
「ふたりとも、譲れないところがあったから、だよ」
好き、嫌いの問題外の場所で。個々に別々の道を歩んで生きてきたからこそ、その間に出来上がった他人に曲げられたくない信念のようなものが相手を理解するときに邪魔になることがある。
生きる道が平行して横並びになる事はあっても、決して道そのものが完全に重なってひとつになるわけではないのだから。片方の道にでこぼこがあっても、もう片方にはそれがなくって並んで歩いていたのに少しだけ速度がその瞬間だけ違ってしまって、そこからすれ違いが誕生することだってあり得ない話しではない。
曲げられないもの、譲れないものがあるから喧嘩もするし、口論もするし、でもだからこそ、相手の事を理解しようとする努力も生まれてくる。
そこから新しい関係が作り出せるかもしれない。
「…………そうなの?」
「そうなの」
君の数十倍を生きているぼくの言うことを、信じなさい、と。
茶化したような態度で彼は笑った。つられるようにして彼女も、口元を綻ばせる。
「じゃあユーリは、スマイルのこと、好きなの?」
だからそんな、微笑みながらの無邪気な問いかけに一瞬彼は顔を硬直させて、それから微妙に困った顔をして視線を浮かせた。あてもなく彷徨わせ、しきりに頬を指先で弄る。
決して彼女と目を合わせようとしないままに。
「あ~……どうだろう。そう、だと嬉しい……んだろう、けど」
複雑そうに呟き、自分のことばに照れたように微かに頬を赤らめて彼は視線を伏した。
不思議そうに彼女は首を傾げる。
「わたし、は……スマイルのこと、好きだよ?」
これはこれで、思いがけない告白である。立て続けに動揺しないで済むはずがない事を言われ、彼は苦笑しながら頬を引きつらせた。
「アリガト……」
そうとしか返す言葉を見つけられず、そのままの顔で告げると些か彼女は反感を覚えたらしい。膝の上から床の上へ手をスライドさせ、僅かに身を乗り出して彼を下から覗き込む。
「うそじゃ、ないよ」
至って真剣な顔をして告げる彼女は、可愛いし健気で純粋だ。例え彼女の言う“好き”がどの分類に属している“好き”なのかは別問題としても、真正面から本気でそのことばを差し出されると、照れもするし嬉しくなるのは致し方ない。
「ありがとう」
今度こそちゃんと微笑んで、礼を告げる。
彼女は漸く満足したようで、姿勢を戻した。
「ぼくも、君のことは好きだよ」
軽い調子で、言う。微笑んだ隻眼は、横に伸びて細くなっていた。
「ほんとうに?」
あまりにすんなりと差し出された彼の返事に、彼女は幾分驚いたようで、けれど素直に喜んでいる顔をしながらもなお、確認を求めてくる。追求されて、彼は二度、同じ仕草で頷きもう一度同じことばを繰り返してやった。
そして、彼女から目を逸らし。
半端に開いたままでいる扉の外を見やって。
「ユーリは、“大切”」
好きや嫌いの領域だけで判断することの出来ない場所に居る、“大切”な存在。
彼は瞳を伏せた。傍らに置いた雑誌の表面を指でなぞりながら、ことばだけを続ける。
「ぼくが“好き”って思ってる存在はこう見えても、結構少ないから、自慢しても良いよ?」
それは本当、嘘じゃない。
誰かを嫌うか、好むかの以前の問題で彼は相手のことをどうでも良い存在、と認識してしまう。そして一旦そちらに分類されてしまった相手は永遠に、余程努力を示さない限り、彼からは“どうでも良い相手”とだけしか認識してもらえなくなる。
だから、彼の“好き”という領域はかなり入り口が狭い。その上で、中は有り余るくらいに広い。
「ありがとう」
嬉しい、と素直に感想を述べる彼女の頭を撫でてやり、彼は微笑んだ。
開きっぱなしだった扉から、階下でアッシュが昼食の支度が出来たと告げる大声が流れ込んできた。それを耳にした瞬間、彼はぽん、と彼女の方を叩く。
「行こうか、遅れたら怒られちゃう」
「うん」
促されるままに彼女は立ち上がった。スカートの埃を軽く叩き落とし、くるりと素足の踵で方向転換してぱたぱたと、軽快なリズムで床の上を小走りに駆けだした。
扉の前で一度立ち止まり、ようやく立ち上がったばかりである彼に声をかける。早くね、と急かして彼女は振り返りもせず部屋を出ていった。足音は、階段に敷かれた赤い絨毯に吸い込まれてじきに聞こえなくなる。
彼もまた階下へと向かおうとするけれど、今度は開かれた扉の前で立ち止まってくくっ、と喉を鳴らした。
「立ち聞き?」
「聞こえただけだ」
細長い廊下を垂直に二分している扉を挟み、顔を見合わせることなく会話の絨毯が広げられる。不機嫌そうに言い返したユーリに、彼はまた喉を鳴らして笑った。
「そ?」
「随分と……」
短い合いの手を破って、ユーリは地上階へと降りたってそこからリビングへ向かおうとする彼女の小さな後頭部を見下ろし、言う。
「ご執心のようだが」
人間の娘に興味を持つとは、どういうつもりだ?
扉があるので当然見えないのだけれど、そこにいる彼を向いて問いかける。胸の前で君だ腕を指で叩きながらの彼に、
「だって、可愛いじゃない」
娘がいたら、あんな感じかな~、って思ってさ。
随分とらしくない事を言いながら、彼は更に笑う。眉間に皺を寄せたユーリの顔を想像したのだろう、秘やかに笑う声を次第に殺して、息を吐く。
「心配?」
「なにを」
「べ~つに?」
抽象的で曖昧な、主語を著しく欠いた彼の台詞に応対しながらも、ユーリはこんなやりとりは自分たちらしくないような気がしていた。それでいて、酷く自分たちらしい光景であるようにも、感じられて。
組んでいた腕の片方を持ち上げ、鼻筋を押さえる。
「安心しても、良いよ」
つと、告げる声が妙に柔らかい。
「彼女のことは“好き”な相手のひとりだけど、さ」
キィと扉が軋んで緩やかに、弧を描きそれは閉じられる。
本当に間近に立っていた彼に驚き、ユーリは目を見張った。
そして視線を逸らす。
意識しないままに顔が赤らむのが分かった。
耳元に吐息を感じる。その瞬間、背筋が震えた。
「他のものに比べられないくらいに“大切”なのは、ユーリだけだから」
囁かれ、掠めるように頬にくちづけされた。
瞬間的にその場所から熱が生まれていく。湯気が立ちそうなくらいに赤くなってしまった自分に気がついて、ユーリは今触れられた場所に手を置きなるべく強めに、彼を睨み上げた。
「バカなことを」
「バカですから」
知ってるでショ? そう言って彼は笑う、屈託無く。
階下から再びアッシュの呼び声が響き渡って、今行く、と大声で返事をした彼はまだ頬を片手で押さえたままのユーリに、左手を差し出した。
「行こ?」
楽しそうに、顔を綻ばせて。
ユーリは一瞬だけ迷ったものの、一秒ほど彼の差し出した手を見つめ、それから彼の隻眼を見つめる。
ふっ、と零した吐息にどんな想いが詰まっていたのか。
「痴れ者が」
笑いながら呟き、そしてスマイルの手を取った。