「ユ~リ~」
間延びした、猫なで声。聞くタイミングを誤れば全身に鳥肌が立ちそうな声を背中で受け止め、ユーリは握ったペンを持ち直した。
はぁ、と吐きだしたと息は今日これで何度目だろうか。
ここはユーリの部屋で、部屋の主たる彼は今机に向かい新曲の作詞作業の真っ最中であった。期日は残り少なく、書いては捨て、捨てては書きがここ数日続いていた。曲のテーマは決めてあっても、そのイメージに合う歌詞が出そろわなければどんなに流麗なメロディーも駄作になってしまう。
それが分かっているから、ユーリはここ数日部屋に引き籠もり朝から晩まで、頭を悩ませ戦っているのだが。
それなのに、この男と来たら。
「ね~、ユーリさぁん?」
べったりと、ユーリの座る背もたれ肘置きつきの椅子ごと抱きしめる格好で今日も朝からこの調子。耳元で延々と聞かされる、彼の己を呼ぶ声もいい加減聞き飽きた感があり最初こそ覚えた寒気も、今では暑苦しい限りだ。
季節としては、人間界では初夏に届こうとしている気温が上昇する坂道の丁度その途中。湿度も高く、メルヘンランドにあるユーリの城ではあまり関係ない気もするが、気分的に快適とは言い難い時期だ。
城がじめじめしているのは昔からだ、というツッコミはこの際綺麗さっぱり無視を決め込むことのして。この暑苦しい季節に、余計暑苦しくなるような事をしてくる男をも無視し続ける事は、かなり体力が必要な事だった。
額から滲み出た汗が珠になる。ある程度の大きさになって頬を伝い落ちたそれが、彼の握るペンの先端近くに沈んだ瞬間、ユーリの堪忍袋の緒がついに切れた。
バンッ、と乱暴にペンを机に押しつける。大きく揺れた彼の身体に、後方から腕を回して抱きついていたスマイルがびくっ、と肩を竦ませた。
けれどユーリの肩越しに前へ回していた腕は、彼が意識した以上にしっかりと互いを結びあっていたようで、簡単には解けなかった。絡め合わせていた指を解こうとしている間に、ユーリが怒りの込められた笑顔で振り返った。
氷に貼り付けたような作り物の微笑みに、ただならぬものを感じたスマイルが左頬の筋肉を引きつらせる。ようやく解き終えた手を広げ、ユーリをパッと解放するがもう遅い。
矢よりも速く飛ぶユーリの拳が、スマイルの顎にクリーンヒットする。弾き飛ばされこそしなかったものの、数歩後ろによろめかねばならなかったスマイルは、殴られて仰け反った背と変な風に上を向いた顎をそのままに暫く固まった。天井付近に七色の星が飛び交っているように見える。
「がぁっ!」
気合いの一声を腹の底から押しだして後ろに傾いた姿勢を前傾に戻し、それから背筋を伸ばして。殴られた顎を痛まない程度に軽く撫で、スマイルは片方だけ露出している瞳を椅子に座ったままでいるユーリに戻した。
夕焼けよりも鮮やかな紅玉色の瞳がふたつ、射抜くように彼を睨んでいる。スッと、彼の細く白い腕が持ち上げられた。
黒く塗られた爪を持つ人差し指を残し、他の指を折り畳んだ状態で彼は部屋の、閉じられている重厚な扉を向く。扉へ向けて突き立てられた人差し指が物言う口を持たずに語るのは。
出て行け、と言うそのひとことに限られる。
固く結ばれたユーリの唇は、ただ一言だけを告げるのさえ億劫だと言わんばかりに強固な姿勢を崩さない。無言の圧力に耐えかねたように、スマイルは渋々と頷き表情から笑みを消した。
朝からずっとユーリに貼り付いていた彼の目的は、よく分からない。甘えているようで、邪魔をしている以外のなにものでもなかった彼の行動にユーリが苛つくのも無理ない事だ。
彼が口にしていたのは、ユーリの名前と、ひたすら自分の暇ぶりを主張して遊んで、だの構って、だの、どこか行こう、だの。とにかくそういった部類のことばばかりだったのだから。
人が仕事に煮詰まって、けれど仕事だから投げ出すわけにもいかないと必死に取り組んでいる後ろで、こんな言葉を言い連ねられて気分を良くする存在は少ないだろう。誘いに乗って仕事を放り出してしまう人間も居るだろうが、生憎とユーリはそこまで無責任になれない。
任された以上、引き受けた以上役割は全うする。自分で満足がいくものを仕上げてみせる、それが多少無理を必要とするものであっても。
だからスマイルは邪魔なのだ、他の時ならまだしも、今は。
出て行けと告げる指は扉ただ一点を指し示したまま動かない。腕が下ろされる様子もない。
同情を引くつもりなのか、寂しげに伏せられたスマイルの隻眼が一度静かに閉じられた。何を思っているのか、瞑目した彼は数回小さく息を吐きだし肩を落とした。再度開かれた瞳は、飄々として何を考えているのか相手にまるで読ませない彼に戻っていて、だから尚更ユーリは怪訝そうに眉根を寄せる。
「つまんない」
「だからと言って、私の邪魔をして良い理由にはならない」
肩を竦めながら言った彼に、ユーリが険のある表情と声でぴしゃりと言い切る。聞いていたスマイルは、相槌を返して頷いた後それでも遠くを見るように目を細めた。
「つまんない」
「スマイル」
邪魔をするだけなら、出て行け。今度こそことばにして告げたユーリに、スマイルは殊更大袈裟に両手を広げて首を窄めるように肩を竦めてみせた。まるで人を莫迦にしているような態度に、余計ユーリは腹を立てる。
つい、机の上にあったペンを取ると握りしめて、スマイルに向けて放り投げた。
ようやく顎を殴られた時の痛みが消えかかっていた彼は、これ以上ダメージを受けるのはゴメンだと早口に呟いた。その瞬間にはもう、彼の姿は空中に流れた煙の如く掻き消えていて、速度を緩める事が出来ぬまま投げ放たれたペンが虚しく空を横切った。カツン、と壁の手前で床に落ち、跳ねて止まる。
「ざ~んね~ん」
からからと笑う声が響き、キィと誰も居ないのに扉がひとりでに開かれた。
「スマイル!」
拳を握ったユーリの怒鳴り声を笑い飛ばして、彼はどうやら自分で開けた扉を抜けて廊下に出て行ってしまったらしい。足音は響かず、けれど気配だけは遠ざかった。
取り残された格好になったユーリが、荒々しく肩で息をしてから力を込めていた両手を解く。びっしょりと指の間には汗が浮かび、感触の不快さに眉根を寄せて履いているスラックスに押しつけるようにそれを拭いた。
スマイルは扉を閉めてゆかず、だから開け放たれたままの扉からは生温い空気が、同じように生温い室内の大気に流れ込んで混じり合っている。ほんの数歩しかないその距離を大股で歩き、ユーリは乱暴な手付きで大きな音を立てさせて扉を閉じた。
途端、訪れる沈黙。
誰か自分以外の何者かが居るような感じがするけれど、錯覚で終わってしまう奇妙な既視感。息を殺し気配を探ってみても、自分以外の呼吸する音は聞こえてこない。
零した吐息は、安堵なのかそれとももっと別のものなのか。判断しかねて、ユーリは考えないようにしようと決めた。緩く首を振り目に掛かる艶やかな銀糸を手櫛で後ろへ流し、進んだ分だけの歩数を逆向きに戻る。
行きよりも多く必要だった歩数を数え、横向いていた背もたれを戻し椅子に腰掛け直した。
床に転がしたままのペンを途端に思い出したが、座ったばかりでまた拾いに立つのも気分がよくない感じを受けたので忘れる事にした。筆立てに並ぶ別のペンを引き抜いて、インクの出を確かめてから試し書きの横に筆の先を押しつける。
思い浮かべていたはずの単語はしかし、喉元を通り過ぎた熱湯の熱さが遠ざかっていくように、静かに掠れて消えた。イメージはそこに漠然とした形で残っているのに、それを表現するための最も適していた言葉が思い出せない。
まるで最初から、なにも思いついていなかったのではないかと疑ってしまいたくなるくらいに鮮やかに、ユーリの頭から一切のアイデアが消えて無くなっていた。それこそ、今し方部屋を出ていったスマイルが横からかすめ取って行ってしまったような感じだ。
そんなはずは、当然だがあり得ないのに。
疑ってしまう。
さっきまで知っていたのに、急に知らなかったかの如く思い出せなくなる。ヒントは頭の中でいくらでも転がっているのに、それらをパズルのピースとしてぴったりと組み合わせる方法が分からなくなっている。
いらつきを隠せないまま、ユーリは軽く握った手の甲を頭に押さえつけた。こめかみに指の関節を押しつけ、ぐりぐりと弄ってみるが効果は期待できそうにない。ペンの尻で押してみても同じだった。
なにかが足りない感じがしてならない。だがその足りないなにかが、先程まで鬱陶しいくらいに背中に存在を感じさせていた誰か、だとは思いたくなかった。
彼がいたから仕事が捗らなかったのに、彼がいなくなっても僅かとして改善されないのはおかしい。そんなはずはないのに、心のどこかが自分の想像を正しいと主張している。
あり得ないのに、そんな事。
自分の邪魔をしてくるだけの存在だったのが、邪魔をしなくなった途端に寂しいと思ってしまうなど。
ああ、けれど。
少しだけ、分かった。彼が「つまらない」と口にした理由が。
確かに、そうかもしれない。
彼がいなくなった室内はとても静かで、あれだけ暑苦しい空気を感じていたのに今では少し肌寒いくらいだ。無意識に抱きしめた身体をさすり、シャツの七分丈の袖から覗く腕に手を這わせて自分を自分で温めながら、吐息を零す。
それでさえ、冬の冷気に晒された時のように白く雲っているように感じられた。
彼がいる時と居なくなった今とでは、朝から唐突に夜がやってきたように、あまりにも劇的な変化が一度に訪れてしまって感覚が麻痺する。
何も思い浮かばない、魅惑的なフレーズも真摯に心へ訴えかけるメッセージも、なにひとつ。
つまらないな、と。
握っていたペンを手放し、机上に転がしてユーリは嘯いた。肘をつき、その上に顎を置く。頬杖をついた姿勢で目の前にある壁と、そこに吊した時計を見上げる。
朝から一緒だった時間をざっと頭の中で計算して、片手で足りない事に今更気付いて苦笑う。鬱陶しいだけのように思えていたが、本当に邪魔だと思っていたならもっと速くに追い出していただろう。
そう思ってしまうと、もうダメだった。
肘の脇に静止しているペンをもう片方の指先で弾き飛ばす。それは偶然か故意か、彼に出て行けと言ったときに扉を指し示した指だった。黒のマニキュアの先端が、少しだけ剥げ落ちてしまっている。彼を殴ったときに、どこかで掠ったのかもしれなかった。
ほんのりと赤みを帯びている指の背を見つめ、転がって壁の行き止まりにぶつかったペンをもう一度手元に引き寄せる。先端の汚れを屑紙の端で拭ってから最初にしまわれていた通りに、ペン立てへと戻した。
頬杖をやめ、両手を机の天板に伏せると肘に力を込めて腰を浮かせ、立ち上がった。
うだうだと考え込むのは性に合わない、椅子から完全に身体を離すと踵を返して先程通った道のりを、先程よりも更に大股で進む。自分で閉じた扉を開けて廊下に出て、靴跡の残らない、一面に敷かれた赤い絨毯を踏みしめる。
彼はどこへ行ったのだろう。少し考え込んで、ユーリはまず台所から順番に巡ってみる事にした。そして最終的に、最後に訪れたスマイルが自室として勝手に借用している部屋の中で、目的の姿を見つけだす。
彼は床に直に座り、古新聞紙をその前に広げ、隻眼の視力を補うべく眼鏡を鼻の上に引っ掻け、手は神経質に動いて細かなパーツを組み立てていた。側には、中身を全部取りだした後と思われる空箱が蓋をしたにして転がっている。
かろうじて側面に印刷されていた文字が示すところは、彼が愛して止まないあのキャラクターの60分の1サイズプラモデル。全関節が可動式とあって、発売と同時に飛びついて居たことを過去の記憶から引き出して来たユーリは、真剣な表情をしている彼の背中を見つめ、嘆息した。
「スマイル」
呼びかける、しかし閉められていた扉が外から開かれた事に気付いているはずの彼は無反応、振り返りもしない。
「スマイル?」
もう一度呼びかける、けれどやはりなんの返事もなく彼は忙しそうに、ペンチを片手に繋がり合っているパーツをひとつずつバラシながら説明書を食い入るように見つめていた。
その彼のあまりに真面目な様子に、これ以上声を掛ける事を憚らせるような印象を抱きそうになるが、このまま黙って引き下がれるわけもなく。
人のことを散々振り回しておきながら、ここに来て無視を決め込むとは良い度胸をしている。腹を括り直したユーリは、ならばこちらにも方法がある、と後ろ手にまず扉を閉めた。天井から部屋を照らす明かりに足許へ影を落としたユーリは、部屋のほぼ中央に座り込んでいるスマイルの真後ろまで進んで、立ち止まった。
両手を腰に当て、まずはこうなってもスマイルが反応しない事を確認する。
他人の気配に敏感な彼は、余程深く集中していない限り側に誰かが近付こうとしていたらすぐに気付く。見たところ、今の彼はそこまでの集中力を発揮しているようには到底思えず、時折窺うようにこっそりと視線をこちらに流しているのがユーリでさえ分かるくらいだった。
ぱちん、と、繋ぎ合っている梱包当時の状態から個別のパーツに分解するペンチの音を響かせたスマイルの背後から一度彼の手元を覗き込んだユーリは、それが完成にはまだ程遠い事を、分からないなりにも理解した。組み立て上がっているのはまだ足の部分だけのようで、他は何がなにやら分からない状態のまま、新聞紙に広げられていたからだ。
「ふぅん……」
彼はきっと、このプラモデルを作りおえるまでこの場所から立ち上がる事はないだろう。そこまでしてでも創り上げたい玩具というものに、どんな意味があるのかユーリにはさっぱり分からないのだが、彼の趣味をとやかく言うつもりは今のところ、ない。
それが悪い事だとは言わない。
ただ、そう。
今の自分が置かれている状況をひとことで簡略に説明するとしたら。
「退屈だ」
ぽつりと零し、ユーリは身体の向きを反転させると膝を折った。腰を落とし、床の上に直に座る。片膝を立てて両手でそれを抱き込み、上半身の体重はしかし自分にではなく背中を接し合わせているスマイルに、預けて。
当然、後ろから凭れ掛かられた格好になるスマイルは、ユーリの体重を最初受け止めきれず胸と膝がくっつきそうなくらいに前屈状態になってしまった。その後力を取り戻してぐぐっと押し返したものの、上から体重を載せる側の方が強いのは仕方がないわけで。
「ユーリさぁん?」
少し情けない声を間延びさせ、スマイルは腹筋を震わせ彼を呼ぶ。
「なんだ?」
しれっとした顔と声で、ユーリは自分の目には見えない今のスマイルを想像しながら返す。
「重い……んですけど」
「気にするな」
若干くぐもり気味のスマイルの、本当に苦しそうな声にユーリはさらりと言い返した。喉の奥で笑っているような調子に、自分の指をニッパーで切りそうになったスマイルが苦々しげな様子で吐息を零す。
多少の違いはあるものの、これは先程までの自分たちの立場を逆にした状態に似ている。ただ、あの時のスマイルは煮詰まっていい加減頭がパンク寸前になっているのに、自分の体調を気づけないでいるユーリをどうにかしたかっただけなのだが。
どこかで、少し狂ったようだ。もっとも当初の自分の目論見は達成出来たようであるが。
ユーリは籠もりっぱなしだった部屋を出て、寄せっぱなしだった眉間の皺を広げている。それが出来ただけでも万々歳と言うべきか。
しかしこの、背中にユーリの全体重を押しつけられる、という状況はあまり、宜しくない。
「気にしマス」
「気にするな。私は居ないと思っていればいい」
こうも背中を押されっぱなしでは、危なっかしくてニッパーもロクに動かせない。完全に止まってしまった作業に困惑顔のスマイルを笑って、ユーリはぐりぐりと浮き上がった背骨を彼に押しつけた。くすぐったいような痛い感覚が、全身に広がっていく。
殊更高い声でユーリが笑った。
呆れたように、スマイルはまたため息を零した。
「退屈だぞ、スマイル」
「そんな事言われても~」
作り始めたばかりのプラモデルをここで止めてしまっては、どこまで作ったのか、細かなパーツをどこに置いたのか忘れてしまいそうで困るのに。彼が腕を動かすたびに、ユーリはタイミングを合わせて背中を擦り合わせて来て邪魔をする。背中に目でもあるのか、と思ってしまいそうなくらいにスマイルの動きに細かく反応して、ユーリはひたすら彼を邪魔する事に精を出した。
完全に逆転した立場に、苦労しながらプラモデルを組み立てるスマイルはずっと苦笑いを浮かべ続けるしかなかった。
そうやっているうちに本当に退屈し始めたらしいユーリは静かになり、不意に思いついたらしい唄を小さく口ずさみ始めて。
やっと落ちついて作業に戻れるとホッとしたのもつかの間、今度は今の歌詞だとどうだ、こうだ、とユーリが言い出して。
そのうちにふたり、背合わせだったのがいつの間にか向かい合って古新聞の角なんかにメモ書きを埋め尽くしながら、歌詞を論じあって。
夕食、アッシュが呼びに来るまで続いたその結果。
ユーリは一仕事が終わったと満足そうに立ち上がった後ろで、作成途中のプラモデルを思い出したスマイルは泣きそうになりながら、結局今日中の完成を諦めたのだった。
Embrace
フローリングに敷き詰められた絨毯は、柔らかな感触を触れる側に与えながら柔軟に衝撃に対処し、かつ吸収してくれる。その手触りは、どこかの誰かの毛並みを少しだけ思い出させる。
抱きしめると結構気持ちいいんだよな、暑いんだけど。そんなことを考えて、両手を拡げて絨毯の上に俯せで寝転がる。伏せた顎の周囲を、薄茶色の絨毯が擽った。
手を伸ばしても届かない、少し離れた場所にはお気に入りのフィギュア。手の平サイズ、よりはちょっとだけ大きい。両手で抱きしめるとちょうどいい具合に収まる感じが好きで、大抵一緒に居る。
玩具を相手に「居る」という表現は可笑しいのだけれど。
これはもう自分の一部みたいなものだから、無生物を生物扱いした言語表現も構わないだろうと言い訳を、して。
拡げた右腕を伸ばして、掴まえようとして、けれど包帯にくるまれた指先は空を切った。ぽとりと力無く絨毯の沈む。もう動かない。
ああ、もし今此処でユーリがやって来でもしたら自分は容赦なく、彼の足に踏まれかねないぞ。自分の怠惰な現在の姿勢を思い浮かべ、苦笑おうと唇を横に真一文字で引っ張ると、薄く開いた唇の隙間に絨毯の毛が潜り込んできた。
けれど寝返りをする気にもならなくて、起きあがるのは更に億劫で。
届かなかった右手をまた指先だけ持ち上げて、虚空を引っ掻いてからまたぱたりと落とす。
届け、と念じてみたところで腕が伸びるわけではない。いや、のばせるのだけれど実質それも、面倒臭くて。
むしろ向こうからこっちへ寄ってきてはくれないだろうかと、そんな風に考え方が目まぐるしく変わる。そこから、だったらフィギュアが自力で立ち上がって自分のところまで歩いてやって来てくれたらいいのに、と思考が巡るのにさほど時間は必要でなかった。
首だけを捻ってフィギュアを視界に収める。半分ほど、起毛も豊かな絨毯で見える範囲は酷く限られてしまったけれどそれでもちゃんと、デフォルメされた小型ロボットが見えた。
「来い~」
口に出して念じてみた。
無駄だと知っての自分の行動に、真剣みは当然足りない。けれど、万が一も億が一でも可能性があるかもしれないと思ったら、それは素敵な事なのだろう。
念じて、フィギュアを凝視する。相手がもし無生物などではなくて、なんらかの命を持たされた存在であったなら、こんなにも真剣に相手に見据えられて冷や汗くらいは流していたかもしれない。
蛇に睨まれた蛙、ではないけれど。状況は似ている感じがする。
睨まれて動けない正義の味方を象徴するロボット。考えるとどんどん愉快な方向へ流れていって、俯せのままクスクスと喉を上下させて笑ってみた。
「なにやってるんスか」
呆れ声はそんな最中に、頭上高くから降ってきた。
寝転がっている自分と、立っている彼と。並んで立っても負ける身長なのだから、首を捻って見上げた彼の顔は随分と遠い場所にある。濃い緑色をした髪が重力に逆らって逆立って、彼の動きに合わせてわさわさと茂みのように揺れる。
彼の髪を見ていると、夏場に嫌になるくらいに茂る庭の芝を思い出す。刈り取りが面倒なのだけれど、刈り取らねばどんどん伸びる一方だから、根から引き抜くしかないのだけれどそれだど、庭は茶色の土色に埋められてしまうから味気ない。
ちょっと髪の毛、伸びてきてるんじゃないかなぁと見上げながら考えていると、答えないでいる事を怪訝に思ったらしい彼がその場でしゃがみ込んだ。
膝を折り、その上に両手を置いて、爪先を立ててすぐに立ち上がれるようにはしながらも、視線を近づける。
「スマイル?」
「アレ」
小首を傾げながらの呼びかけに、彼よりもまだ向こうにあるギャンブラーZのフィギュアを指さす。振り返った彼は、視界の中心に絨毯で足許が埋まった人形を見つけ、また首を捻った。
視線を戻して、口を開く。
「ギャンブラーZが、どうかしたっスか」
「ううん」
届かないの、と、ぱたぱたと絨毯に沈んでいる指先を数回漕ぐように上下させて、また沈める。
「はぁ……」
分かったような分かっていないような顔をして、彼は生返事をした。そしてまたフィギュアへと視線を向けてから、取って来ましょうかといつもの口調で尋ねた。
けれどその申し出を有り難くも断り、立てた人差し指と中指で人の足が動くときの真似をしてムーンウォーク。
「届かないの」
「そりゃ」
手の長さが足りないからではないのか、とどことなく呆れ調子の彼が返す言葉を聞いて笑う。それは至極その通りなのだけれど。
でも。
「動いたらナ~、ってね」
思ったんだ、と。
軽い笑いに含ませて呟く。
「玩具が、っスか?」
「うん」
動くはずがないんだけれどね、とから笑う。からかっているつもりはないのだけれど、真面目に聞いていた彼の周りで空気が冷えていくのが分かる。
本当に思ったのだ。
ぼくらのような、紛い物にも似た魂、が。
ある、の、だから。
念じれば、きっと、どんな存在にも。
擬似的であったとして、も。
魂は、宿る、と。
思いたかった。
目を閉じた。
深く息を吸う。
吐きだした。
目を開いた。
そこに、届かなかったはずのフィギュアが居て、驚きに目を見開き、それから瞬きを繰り返して間違いでない事を確認して。
それから。
さっきより少しだけ浮かせた腰の高さが違っている彼の、笑っている顔を睨んだ。
「アッシュ君」
「動いたっスよ、スマイル」
ほら、とフィギュアを後ろから指で挟み持って左右に揺らし、さもフィギュア自らが動いているような真似をして、戯けた調子で言う彼。睨んでもへこたれた様子は無い。
脱力して絨毯に顔を埋める。柔らかい感触が肌に心地よい。
「スマイル?」
「あ~……うん」
すごい、すごい。
わざとらしく怠そうな素振りで言って、重たい両手を頭上に掲げて拍手の真似。音を鳴らさない両手の間に、スポッとギャンブラーZが収まった。
顔を上げる、重なった目線の向こう側でアッシュが笑っていた。
そう言う意味じゃなかったんだけどなぁ、と奥歯を噛み合わせて一瞬だけ頬を膨らませつつも。
反応を楽しげに待っているアッシュを前にすると、愚痴を垂れる気力も失せた。
右手でフィギュアを抱きしめて、左手を床に押し当てて身体を起こす。起毛に埋もれた指先が、霞んでいた。
苦笑う。
命、など。
願いさえしなければ、形になりはしなかっただろうに。
「スマイル?」
遠い微笑みを浮かべていた自分に、彼の声が響く。染み入る、無駄に深く広く。
「なにかあったっスか」
心配していると、聞いているだけでも解る声のトーン。莫迦正直に、損なくらいに彼は純粋に、優しい。
「なにもないよ」
笑う。
嗤う。
あざといまでに、心を隠して。
「嘘っス」
「どーして」
即答で否定した彼を真正面から見つめて、座り直して、膝の上に居心地悪そうなギャンブラーZを抱いて、問う。
何故嘘だと言い切れるのか。
アッシュは笑わなかった。
「スマイルの顔が、そう言ってるっス」
自分の言うことはすべて嘘だと、何もないと告げる笑顔が言っているから、と。
見透かしたように、言う。
全部を分かったような顔をして、言う。
そんなだから君は、損な性格をしているっていうんだ。もっと上手な行き方が出来るはずなのに、わざわざ無駄な回り道ばかりを繰り返す遠回りな選択肢を選んで、自分の事は後回しにして。
「ね、アッシュ」
膝の上でフィギュアを弄り、可動式の腕を回して遊ばせる。
「犬になってよ」
「……嫌っス」
「なんで~」
拒否されて、頬を膨らませる。ギャンブラーZのロケットパンチを飛ばす要領で、フィギュアの腕を動かしアッシュの眼前に突きつけて、軽く睨む。彼は苦虫を噛み潰した時の顔をして、頬を引っ掻いた。
鋭く尖った長い爪が、彼の浅黒い肌に白い筋を残す。
「あんまり俺が楽しい事じゃなさそうっスから」
「そんなことナイって。犬になってよ」
「どうするんスか」
「抱っこ♪」
両手を拡げて、無邪気に笑いかけると今度は彼が脱力して大きく肩を落とすとがっくり項垂れた。
ふさふさの柔らかな毛並みがお気に入りなのだと、その笑顔が物語っている。抱きしめて、撫でて、擽って、遊ぶのだ。
「俺がスマイルを抱きしめる、じゃ、ダメっすか……」
「それはまたアトデネ」
さらりと流された言葉に、頷きかけたアッシュが仕草の途中で固まった。
「スマイル?」
「わんこ♪」
そっちが先だよ、とお気に入りフィギュアを傍らに置いて、また両手をアッシュの方へと拡げる。
頭を掻いた彼は、諦めたように息を吐いた。
Daybreak
かりかりと神経質にも思われる音を響かせながら、分厚い木の机に重ねた譜面へ音符を写し取っていく。落書きや訂正の二重線、それに書き損じ等々が雑多に混ぜられて正しいラインを探るのでさえ難しい、下書き以前の問題である譜面から、必要なオタマジャクシだけを拾い上げていく作業に、もうどれくらい時間を費やしたことだろう。
ふと、思い出したように顔を上げた。机上だけを照らす仄明るいライトの光をまともに右目に浴び、反射的に細めた赤い瞳をそのまま壁の方へと流した。
白のレースカーテンが遮蔽している窓の向こう側が、僅かに薄明るくなっている。
「あ……」
呟きが零れ、窓とはほぼ反対側に当たる壁につり下げられた時計へと首を捻った。午前五時を半分近く回った頃合いだろうか、天井のライトを消している事で明かりが乏しい室内で、正しい現在時刻を読みとることは不可能に近かったが、それでもおおよその目安はついた。
再度窓を振り返る。先に見た時よりもカーテンから漏れ入る光は増したように感じられた。
朝、か。
彼は背もたれを掴んで椅子を引き、利き腕に握っていた万年筆を手放すと同時に両膝の力を込めた。手元を照らし続けて熱を持ったライトを消す。
ずっと座ったままでの作業だったからか、立ち上がったその瞬間にだけ立ち眩みにも似た眩暈が頭を襲ったがなんとかやり過ごし、思った以上に疲れているらしい身体を叱咤して机の前から離れる。
僅か五歩にも満たない距離が、恐ろしいまでに遠く感じられた。
カーテンの上から窓硝子越しに空を見る。細かい編み目の隙間から見える世界は、外界と室内の明るさの違いもあってか幾分見えづらくはあったけれど、先程感じたほどまだ明るくなかった。
東の空でこそ、昇り始めた太陽の影響を受けて白みだしているものの、反対側の空はまだ濃い紺と紫が混じり合った微妙な色合いをたたえている。窓の真正面に見える空は、南だ。まだ暗い。
窓を抱える白壁に凭れ掛かり、カーテンを引く。差し込んだ明かりは、けれど照らすものをなにも持たなくなった室内にとっては、まだ外の方が明るかったようだ。うっすらと床に影が浮く。
ぼんやりと朧気に床に出来上がった窓の輪郭を見下ろし、彼は観音開きの窓を施錠している閂のような鍵を外した。軽く押すだけで、抵抗もなく窓は外向きに開いていく。
凭れていた壁から肩を離し、開かれたまどの前に立つ。薄いサッシの窓枠に両手を置き、外の世界に胸から上だけを送り込んで風を吸い込みながら目を閉じた。
肌を撫でる大気は夜に包まれた名残を抱き、まだ冷たい。けれど徹夜明けのどことなく火照った身体をシャキッとさせてくれるには、それは充分な程有り難かった。
閉ざした隻眼を開く。特別不自由を感じたこともない片側だけの視界に、ふわり、と何かが影を落とした。
続いてぱさぱさと、何かが羽ばたく音。
「退け」
ぎょっと、驚きを隠せない表情のまま窓の真上を見上げる。けれど狭い視界に収められたのは黒い靴の裏と広げられた漆黒の翼が一対だけだった。
頭上から落ちてきた太々しいまでの命令口調に、反応が遅れる。けれど声の主は構わずに距離を縮めてくるものだから、危うく靴底に顔面を蹴られる直前で、彼は慌てて身を壁側に退いてさほど大きくもない窓から飛び込んでくる黒を纏った何か、を避けた。
それは彼の前を素通りし、窓枠を抜けると同時に背に広げていた薄い蝙蝠の翼を畳んだ。どういう理屈なのかは知らないが、音もなくサイズを半分以下にし、それは彼の背中にこぢんまりとアクセサリーのように収まってしまう。
空を駆っていた名残を惜しむのか、ぱさぱさとそれは暫く微風を起こしながら彼の背中で藻掻くように羽ばたき続けていた。だがもう、彼が空に舞う事は当分なさそうだ。
乱れた銀糸を手櫛で無造作に整え、夜明け前の無粋な窓からの来訪者はまったく彼の存在を意に介した様子もなく、図々しいくらいに当たり前のようにそこに立っていた。その背中を見つめ、彼はやれやれと諦め調子に肩を竦める。
「オサンポ?」
跳ね上がった前髪がなかなか元に戻らないことを気にしていた彼が、声に振り返る。にんまりと笑う蒼色の肌をした彼を見据え、ややしてから頷いた。
ふぅん、と相槌を打つ。だが、彼が散歩に出ていったのは間違ってもこの部屋の窓ではない。ましてや、此処は玄関から程遠いただの客間を改装した一室だ。
「オカエリは玄関から~……って、教えて貰わなかった?」
「教わったな」
肩に落ちている埃を払いつつ、彼が答える。ゆっくりと振り返った彼と視線がかち合い、色の違う赤が重なりあった。
「此処、ぼくの部屋」
「知っている。人の城を勝手に改造されたのだからな」
城主の断りなく、と棘のある口調で言い返されて彼は薄ら寒いものを感じ片手で己の身体を抱いた。その仕草に、ユーリがふっと表情を和らげる。冗談だ、と。
とてもそんな風には思えなかったのだが、口に出すとまた厄介なので黙って置いてスマイルはひとつ吐息を零した。話題が逸れてしまった事を思い出す。
「此処は玄関じゃないヨ」
「知っているさ」
良い改めたスマイルが頭を掻くのを見つめ、ユーリが顔を綻ばせた。なにが彼を悦ばせたのかは分からないが、会話の流れが気に入ったらしい。瞳が上機嫌な色に揺れている。
「じゃ~……さ」
どうして玄関から戻ってこなかったの、と。いやユーリの事だから夜明け前の空に散歩だし、正面玄関から出ていかなかったのかもしれない。だとしたら、彼の部屋から出ることの出来る大きなテラスが出入り口代わりか。そちらに戻れば済むだけの事なのに、何故わざわざ翼がつっかえかねないサイズの窓から帰ってきたのか。
分からない、という顔をするスマイルをユーリが軽く笑った。
「ちょうど、お前が窓を開けるのが見えたからな」
自分で押し開けるのが面倒だったから使わせて貰ったと、彼はさらりと言ってのけた。途端、スマイルが顎を抜かんばかりに唖然と口をあんぐりと拡げた。
「ソレだけぇ……?」
「他に理由が必要か?」
散歩から戻ってきた城で、ちょうどいいタイミングで窓が開かれたからそこから入ったら、たまたまそれが貴様の部屋だっただけのことと、ユーリは笑って言う。顎を手で押して戻したスマイルが、呆れ顔で頭を掻く。
「じゃあ」
窓が開いていたら、どこでも良かったの、と。
問いかけたスマイルの背中から光が溢れ出した。
眩しそうに目を細めたユーリを見て、自分にとっては逆光になった窓を振り返り彼も同じように隻眼を細め、片手で視界を遮る。
紫紺色の空が光に薄められ、掠れていく。替わって訪れるのは、白い光と澄んだ蒼とに満ちた朝の色。月と星々の時間は今暫く去り、朝が来る。
夜明けだ。
「お前の部屋だったからだよ」
スマイル、と。
目まぐるしく移り変わろうとしている世界の色に魅入っていた彼の背へ、不意にユーリの言葉が投げつけられた。
聞き取り損ねたスマイルが窓から視線を戻す。ちょうどユーリは眠そうに欠伸を、右手で隠しながらしている最中で、嫌なタイミングで見られてしまった事にユーリは不満顔で頬を膨らませた。
「もいっかい言って?」
「断る」
聞こえなかったのだと告げると、益々不服そうに彼は表情を渋らせ、目尻を擦った。本当に眠そうな仕草に、つられてスマイルも欠伸を零す。そう言えば徹夜明けだったなと思い出すと、途端に眠気が襲ってきた。
けれど、何を思ったのか。
スマイルが眠ろうと向かいかけたベッドに、ユーリが先に倒れ込むようにして潜り込んだのだ。
靴を足だけ使って乱暴に脱ぎ捨て、整えられていたシーツを剥ぎ取りもそもそと身体を縮めながら上掛けを頭まで被る。
「ユーリさぁん……?」
「寝る」
「って、ここぼくの部屋!」
「知っている」
頭に響くから騒ぐな、と上掛けからルビー色をした瞳だけを出して叱りつけ、彼は堂々と他人のベッドで寝息を立て始めてくれた。
困ったのはスマイルで、ベッドサイドに立ち尽くし頬を引っ掻く。
セミダブルだから、ふたり並ぶと狭さは感じても片方が押し出される事はないのだが。恐らく今、ここで隣に潜り込もうものなら容赦なく蹴り出されるだろう。その光景が楽に想像できて、苦笑が漏れる。
眠いのに。
眠かったはずなのに、不思議なくらいに今眠くない。
むしろ笑いたかった、怒鳴られるので声は立てられないけれど無性に今、いくら笑っても笑い足りないくらいに嬉しかった。
窓の外を見上げる。
朱と青と白が混じり合った光が西から空全体を覆い尽くし、世界の支配者が月から太陽へバトンタッチ完了していた。
窓から射し込む光の眩しさに隻眼を細め、吹き込んでくるまだ冷たい風を遮ろうと窓を閉めるために歩み寄る。それから床に横向けに転がっていたユーリの脱ぎ捨てられた靴を揃えてベッドサイドに並べると、傍らに腰を落とす。
背中をベッドに預け、膝を寄せて立ててその上に肘を置く。
瞳を閉じれば、朝に似つかわしくない闇が視界を覆った。
ベッドは奪われてしまったけれど、部屋を出ていけとは言われなかった。側に居ろとは言われなかったが、向こうに行けとも言われていない。
これくらいの妥協は許してもらえるだろう。それに、此処は借宿とはいえ彼の部屋なのだ。自分の部屋でなにをしようと、勝手。
微笑みを浮かべたまま、頭をベッドのスプリングにひっかける。程なくして彼からもまた、ユーリと似たり寄ったりな静かな寝息が零れ始めた。
夜が終わり、朝が訪れる時間。
ベッドから零れ落ちたユーリの白い手がスマイルの頬に触れる。存在を確かめるように表面をそっと撫でた彼の表情は、眠っているはずなのにどこか幸せそうだった。
Observe
ふとした瞬間に気付くことは、未だに多い。
それはクセのようなものだったり、習慣になってしまっている事だったり。服の趣味だったり読む本の傾向だったり、好んで耳に入れたがる音楽のジャンルだったりと様々。
もう数えるのも面倒になるくらいになる程長い間の時間を共にしているようで、案外思うほどには時間の経過は短いのだと思い出させられる瞬間。自分はまだまだ彼のことを知り足りていないのかと、実感させられる。
例えば今、テレビを見ている彼。
リビングの中央にあるソファにどん、と腰掛けて目の前の最新式テレビモニターを凝視している彼が見ているものは、御多分に漏れず彼が大好きで愛して止まないロボットアニメである。彼曰く、正しくは「痛快ロボットヒーローアクションアニメ」らしいのだが、その辺は実害が出ないのでどうでも良い事にしておく。
どう考えてもおおよそ現実的ではないフォルムをした、ずんぐりむっくりのロボットが合体し敵側の悪のロボットやバケモノを倒したりする、単純明快な内容だ。その単純ぶりが幼児層に受けているのかどうなのか、番組自体は結構な長寿ものになっているらしい。やはり興味がないので良く知らないが。
彼が何処をどう間違ったのか、という経過については触れないでおこう。「カッコイイじゃない?」という彼の説明だけでは、価値観がまったく違ってどう見てもそう思えない自分には理解できない。
ともあれ、彼はこのアニメが好きだ、大好きだ。
そして彼はこのアニメが放送されている時間帯には、必ずテレビにかじり付き、ビデオデッキは当然ながら標準録画がセットされ、音量は最大に近いまで引き上げられる。かなり広く音響効果も抜群に宜しいリビングルームと、隣り合わせで尚かつ壁で区切られていないダイニングルームでは聞こえてくる音量もさほど違わない。
そのリビングに座っている彼を、遠くダイニングの椅子に腰掛けて自分は眺めているわけだが。
温くなってしまった珈琲カップに口を付け、苦みが増しただけのあまり美味しいとは言えなくなっている黒い液体を喉へ押し流した。リビングから漏れに漏れてくる音楽は、いまいち効果音と台詞ばかりで騒がしい限りだ。
眉間にも自然と皺が寄ると言うものだ。
けれど彼はテレビ画面に釘付けで、握りしめた拳を小刻みに振るわせながら乾いてしまったらしい喉を潤そうと、喉仏を上下させて唾を飲み込んだらしかった。そのうちにトスン、と右手だけが下に落とされてまた跳ね上がってくる。ソファの背もたれで見えないだけで、あれは膝の半月板を軽く叩いて戻した時の仕草だ。
左手は左右にフラフラと揺れる。上下に動き膝を叩くのは、何故か常に利き腕とは反対の右手の仕事だった。その事に気付いた時、それとなく尋ねてみたのだけれど彼自身はそのクセに気付いていないようだった。無意識のうちに動かしてしまっているようで、そのアンバランスさがおかしかった。
他にもある。
彼はソファに深く腰掛けるときは、背中を半分近くまで沈めて通常は肩胛骨よりも下に来るソファの背もたれに、後頭部を預けるようにして座る。逆に浅く腰掛けるときは本当に身体の一部をソファにひっかける程度にしか座らず、体重移動がスムーズに出来るように配慮しているようだった。当然今は深く腰掛けている。
ただテレビを、特にギャンブラーZ絡みを見ている時だけは違っていて、深く腰掛けていても背筋はピンとしっかり張って伸びているのだ。綺麗な姿勢で、真っ直ぐにテレビを凝視している。ただし内容がギャンブラーZ関係ではあるが。
膝は角度を保ち、行儀正しい。ただ右手が膝を叩いた直後にだけ、叩かれた右の膝がひょいっと持ちあがる。踵が上がる所為だ。その反動も使って右手を再び胸の高さまで戻しているようなものだが、タイミングの良さには辟易させられる。そしてこちらもまた、彼にとっては無意識の産物らしい。
見方によっては貧乏揺すりのようでもあるが、興奮した状態がもたらす一時的なものだから注意するにも値しない。放っておいても実害はないのだから。
しかしあの大音響だけは、やはりどう考えてもいただけないものがあるけれど。
言って聞くような性格だったら、とっくの昔に状況は改善されているはずだから、今までの注意も生返事だけで実がなった過去はない。彼がテレビに熱中している間は、彼になにを言っても馬耳東風なのだから。
テレビを見ている時以外でも、ギャンブラーZ関係での注意事項に関しては完全にシャットアウトしてくれているのか、暖簾に腕推し状態。効果が期待できないと随分前に察した段階で、注意するのは無駄なので余程でない限りしないようになって久しい。
音量も、ライブステージでの爆音を考えればまだ可愛い方だろう。
難聴になるのでは、と危惧させられる事は多々あるものの。むしろ彼の耳の方が遠くなる可能性があるだろうに、勘の良さも手伝って彼はなかなか耳聡い。
テレビに釘付け状態の今なら、まだマシであるけれど。
今週放送分も佳境に入ったらしく、効果音と絶叫音声が交互に入り乱れている。そこへ更に、バロック調の重々しい雰囲気が伝わってきそうなイメージでバックミュージックが挿入されて、画面を見なくても展開がある程度予想出来た。成る程、確かにお手軽単純な勧善懲悪アニメである。
彼の握り込む手に力が込められる。はらはらと心配そうに揺れていた口元が開かれ、画面内部のキャラクターに合わせて巨大ロボットの必殺技が叫ばれた。
例えるなら、今の一瞬だけで城内に特急電車が走り抜ける時の高架下で測量されるだけの大きさが、響き渡ったことに相当する。
あっさり言うなれば、騒々しいの一言で片づくが。
眉間を押さえ、皺を寄せてこめかみに指を置く。軽く推すと微かな痛みが発生した。視線を戻せば必殺技が敵を粉砕した爆発音の直後、清々しいばかりの笑顔を彼は浮かべていた。ようやく彼の頭がソファの背もたれに沈む、脱力した時のポーズだ。
とりあえず今日の一番の波は去った。子供に戻ってしまっていた彼も、半刻もすれば普段の彼を取り戻すだろう。本当に彼はこの時だけ、純粋無垢で馬鹿馬鹿しいほどに愚かなまでに、子供になる。
好きなものを好きと言い張り、主張する子供になる。
画面上では最後のシメが展開されているようで、音楽も一転して静かで穏やかな調子のものに切り替えられていた。普通に面と向かって言われでもしたら、赤面するだけでは済みそうにない台詞が、ぽんぽんとスピーカーから流れてくる。
暑苦しいも此処まで来ればいっそ潔いくらいで、感極まった笑顔で画面上のヒーロー達に「良かった」を繰り返す彼もそこまで行けば茶化す気も失せてくるものだ。毎回毎回お約束な展開を続けていながら、いつまで経ってもそれに慣れようとしない彼に拍手を送りたくもなる。
密やかな溜息を零し、本編のラストからCMを挟んで次週予告とエンディングが流れ出した画面を見入っている彼を、横から見つめる。口の中に残っていた珈琲の苦みも、いつの間にか消え失せていた。
もうひとくち飲もうとテーブルに手を伸ばし、けれど持ち上げたカップの中身が焦げ付いたように黒くくすんで、タールのように底に貼り付いているだけなのを見てしまうと、飲む気力も萎えた。
もとより飲めるほど、残っていなかったわけなのだが。
視線を戻す、エンディングは最後のテロップを長し終える寸前だった。当然彼はまだ終わりきっていない番組を見ていると、今までの経験上思いこんでいた。
だから視線を持ち上げたと同時に彼と視線が合ったことに、テーブルへ戻そうとしていたカップを危うく取り落とす寸前まで驚いた。その上こちらが驚く事も見越していたのか、目があった瞬間ばっちりにこやかに微笑みかけられてしまった。
不意打ちも甚だしい。
我知らず赤面しそうになっている顔を片手で押さえ、もう片手で無事にカップをテーブルに救済した後、彼に向き直る。だけれど、もう終わってしまった番組後に流される無為のようなコマーシャルの一部を彼は眺めていて、拍子抜けしたと同時に赤面をもたらしていた顔の熱も引いていった。
彼はソファから立ち上がり、ビデオの録画を止めてテープを取りだし、電源を切ってまたソファへ戻る。座る直前にクリスタルガラスのテーブルに無造作に置かれていたリモコンを拾い、チャンネルを変えてニュースへ切り替えた。
音量も下げられる。一気に室内が静かになった。水が跳ねる音まで聞こえてきそうだ。無論、無茶だが。
再び彼がこちらを向く。ニンマリと笑う。
「ナニ?」
ヒトの顔ずっと見てて、ぼくってばそんなにオトコマエ?
いけしゃあしゃあと自分を指さしながらケタケタ笑う彼の台詞に、自分は首を振って肩を竦めてみせた。そんなはずはないだろう、と鼻で笑い飛ばす。
「消えたり出たり出来る特技を持った奇妙な動物が、ひとり百面相をしている様を観察していただけだ」
「あ、ひっどー」
ヒトの事、そこまでこき下ろして言うかなぁ。ぶぅ、と唇を尖らせた彼が途端に不満顔で文句を連発させるが、その間も百面相は続いていてこちらの笑いを誘うばかりだ。
斜に構えてクールを装っているように見える彼でも、時としてこんな風に表情豊かになる。それはきっと、あのアニメが影響して子供の部分が強調されてしまっている時間が、今もまだ彼の中で続いているから。
物静かで、時として意地悪く茶目っ気もそこそこに持ち合わせ、けれどむき出しの感情は滅多に露わにしない彼と。
今のようにくるくる変わる表情を持ち、声も高く笑ってじたばたと手と足を同時に動かす子供のような彼と。
本当の彼がどちらなのか、分からなくなってしまう時がある。
どちらも彼なのに、どちらかの彼を目の前にした時もう片方の彼は演技という仮面を被った偽物ではないのか、と疑ってしまいたくなる。
だから、信じたくて彼を見つめる。
今まで自分が知らなかった、彼さえも気付いていない彼を見つけたいと想うから。
「ユーリってば、そんなにぼくの顔が面白い?」
「愉快だな」
腕と足を組んで椅子にふんぞり返った自分をソファの上に膝を立て、背もたれに肘と頭を置いて拗ねている彼が見つめている。距離は遠いが、互いの視線は充分なくらいに近いところで絡まっていた。
尖らせた唇を更に突きだし、彼はぷいっと視線を逸らした。右側だけの瞳も閉じられたようだけれど、彼は左に首を捻ってくれたので結局のところ、自分に見えたのは包帯に包まれた顔左半分と濃紺の髪だけだった。
苦笑う、子供の一面が抜けきっていない彼がどうしようもなく可愛く思えてくる。
まともに見つめれば、可愛いなどという言葉も鳥肌が立つ立派な大人で、しかも男であるのに。口に出して言えばきっと彼はまた拗ね直すので言わないが、口元に浮かべた笑みだけでも何を想像していたのか、しっかり予測されていたらしい。
「ユーリ」
怒気の込められた彼の声が耳を打つ。
「ぼく、もの凄く傷ついたんですけど」
ソファの背もたれに両手を載せ、顔を半分まで手の高さよりも低くする。見えるのは髪の毛と丹朱の隻眼、左目があるはずの位置を覆い隠している白い包帯。見事なまでのコントラスト。
そういう仕草が、だからいい大人のくせに可愛いと思えてしまうところで、笑みを崩す事なくユーリはもう一度肩を竦めた。
「傷ついたのか?」
「ウン、そう。ユーリの所為」
こくんとソファの向こうから頷いて返す彼に、今度は溜息。呆れているのではなく、笑いを誤魔化す為の吐息だ。
仕方がないな、と首をゆっくりと左右に振って立ち上がった。途中背中をぶつけたテーブルが、テーブル自体は揺れたりしなかったもののソーサー上のカップがかちん、と小さな音を零した。
椅子を戻す、振り返った先の彼はまだ顔半分でこちらを見ている。背もたれに邪魔されて見えない口元は、けれど案外笑っているのではないだろうかと想像出来た。
「では、慰めてやらないといけないな」
穏やかな歩調でダイニングルームからリビングルームに向かって歩き出した自分が言った言葉に、彼が一瞬間の抜けた顔をする。隻眼を見開き、こちらを凝視してから「おやまぁ」と妙に感極まった呟きを漏らしてくれた。
「雨が降るかも」
ユーリ自らそんなことを言うなんて、と。
感心したような驚いたままのような、なんとも判別のつきにくい声で呟かれ、ついこめかみに力が加えられる。ひくっ、と引きつった右の頬に彼はすぐに気付いた。
「ほぉ?」
「あ、今の嘘」
もう少しで手を伸ばせば届くだろう距離に達していた自分を見上げ、彼は慌てて首を振り同時に手も振り回して必死に否定しようとした。だがもう遅い、その本音はしっかりと聞かせて貰った。
撫でてやろうと思って構えていた右手で、殴ってしまおうかとも考えたがそれは止めておく事にした。代わりにめいっぱい指を広げ、柔らかなクッションのソファに彼の頭を上から押しつぶし、思い切り革張りの表面に埋め込んでやった。
皮なので密着性もそこそこ宜しく、なおかつ通気性は悪い。
一分もしないうちに彼は呼吸困難を訴え、ギブアップとロープ代わりとばかりにこちらの腕をばしばしと叩いてきた。余程苦しいのか、力もさほど強くなくてまるで痛くなかった。
手を離してやると、彼は首を伸ばして天井を仰ぎ、ぷはーっと声を上げながら息を吐いて、吸った。胸の上下が服の上からでも分かるくらいの深呼吸を、五度ほど繰り返す。
それから、やおらこちらを振り向いて。
「ユーリってば、鬼!」
「そうだ、私は吸血鬼だが?」
「……ソウダッケ?」
「血を吸われたいか?」
「遠慮しマス」
ひとこと怒鳴られて、けれど淡々と返してやると出鼻を挫かれた彼はあっさり降参の旗を振り回した、それこそ盛大に。大漁旗のように。
そういう仕草も、おかしい。
けれど彼らしいとも思う。
やがて怒ったり拗ねたりする事に疲れたらしい、彼はソファにふんぞり返って深く腰掛けた。いつものように背中を沈め、頭を背もたれに預けて気持ちよさそうに足を伸ばす。
「ねェ、慰めてよ」
さっきの分も含めてね、と彼は笑って言った。
彼の真後ろから若干左にずれた位置、背もたれ側に腰を引っかける格好で体重を預ける。条件次第だな、と答えると彼は身体を丸くして膝を抱えて座り直し、それから自分の横を軽く叩いた。ひとり分のスペースが空いているソファの黒光りする表面が、彼の手に合わせてぱこんぱこん、と浮き沈みを繰り返す。
座れとの意思表示に、腰を上げるとまだ芯が入って固くしっかりしている背もたれの、一番後ろの部分に利き腕を置いた。爪が食い込まない程度に握り込み、床を蹴る。その瞬間に背中の翼を動かして気流を作れば、自分のこの身体は簡単にソファを飛び越えた。
すとん。
綺麗に彼の示した場所に落下する。まさかこういう手段に出るとは思っていなかったらしい彼が、手を引っ込めるタイミングを誤ったらしく尻で踏んでしまったのはこの際、ご愛敬と思って貰うしかない。
引き抜いた手をぷらぷらと揺らした彼は、横目でこちらを見ると上半身を左右に揺らした。持ち上げていた足を真横に投げ出し、バランスを取りつつこちらに頭を倒す。
綺麗にそれは、膝の上に収まった。
「ひとつめ。膝枕」
行儀悪く足だけで靴を脱ぎ捨て、完全にソファに乗った彼がにっ、と笑う。膝の上に頭を載せられ、動くに動けなくなっていたこちらはまともに彼の企んだ笑顔を見落としてしまった。
視線を逸らそうにも、向こうは自分の膝に乗っていて、仰向いたままの彼には今の自分がどんな顔をしているのか筒抜け状態に他ならない。誤魔化すにも限度がある。
赤くなっている事なんて、見られなくてもきっともうばれているのだろうけれど。
悔し紛れに口元を手で隠す。それで少しは彼の視界を遮られるだろうと考えていたら、甘かったようで下から伸びてきた左手に囲いは奪われた。
「ふたつめ」
無邪気なままの笑顔で、彼は告げる。
「唄って?」
ギャンブラーを、と言われた時には瞬間で裏拳が彼の脳天に送り込まれていた。無意識と言うものは、げに恐ろしきものなれど。
殴られた方はケタケタと愉快そうに笑っていて、なんだか怒る気が萎んだ。
彼は、と言うとひとしきり笑ったあと両手を伸ばして身体との角度を直角にした。つまりは、天井に向けて腕を持ち上げただけなのだけれど。
指を広げ、天井からの明かりを遮るようにして、顔に手を翳す。
目を閉じる。パタン、と落ちた彼の両手は片手だけ頭上に残され、人の上着を抓んで放さなかった。
「じゃー、ユーリの好きな曲」
唄ってよ、と、もう一度。
彼はねだり、そして一緒に唇までも閉ざしてしまった。もう口を利かないつもりなのか、反論は聞き入れない姿勢を全身で表示してくれた。
ふぅ、と息を吐く。これで何度目の溜息だろうか、そんなことをふと思った。
「何が良い」
「なんでも?」
「なら、子守唄だな」
嫌がるかと思ったが、返事は「それで良い」のひとことだけ。苦笑って、自分もまた目を閉じた。
歌詞を脳裏に思い浮かべながら、胸の中でリズムを刻む。舌の上を転がって唇から溢れ出すのは、穏やかなテンポの優しい唄。
微睡みが溶けていくように、唄声も心に融けた。
Vanish/4
すべてを代償にしても
叶えたい願いはありますか
永遠に色褪せさせないで
想い続ける勇気がありますか
奇跡を
望みますか?
あの夜からどれだけの月日が流れたのだろう。
人気絶頂期にあったバンドグループDeuilは、あの夜のライブを最後に唐突に一切の活動を停止した。
理由は明かされることなく、元々がバンドリーダーの『暇つぶし』だった活動に、彼自身が飽きてしまったからだろう、というのが現在では定説と化している。当然熱狂的なファンは収まらず、またゴシップ好きの記者達も暫くの間は口やかましく、彼らの身勝手とも思われる行動を非難したりもした。
だがユーリも、アッシュもまた一様に口を閉ざし、闇の中へ姿を消した。
最早日溜まりの下で彼らを見かけることは出来ず、一時期まことしやかに囁かれた復活情報も空振りに終わる。ファンを期待させる情報は日増しに少なくなり、世間も徐々に彼らを忘れていく。
周囲が静かになっていくのを見下ろしてから、ユーリは物憂げな瞳を空へと流した。
この場所は、空に近い。
彼はここがお気に入りだったようで、暇があれば――本当は暇なんかどこにもなかったのだけれど――ここに来てぼんやりと空を見上げていた。特別なにかをしているというわけでも、考え事をしている様子でもなく、ただ空だけを片方だけしかない視界に収めていた。
蒼い、広い空。
城でも最も空に近い建物、鐘楼には古びた鐘が吊されているもののそれが鳴ることは最早ない。遠い昔に、撞き手を失ってからは忘れ去られたままさび付き、今となってはどれだけ力を加えてもぴくりと動いてくれないからだ。
修繕すればなんとかなるかもしれないが、そんな気力もなく放置されて久しい。
狭い鐘をぶら下げた空間と外界を遮る壁は大きく四方に開かれ、風を防ぐ窓についたてはない。風雨に晒され続けた結果がさび付いてしまった鐘であり、憂鬱な瞳で自分に尻を向けている鐘を見上げてから、ユーリはふっと息を吐き首を振る。
風に掬われた前髪を抑え込み、片手で身体を支えながら立ち上がった。
バンドを解散させてからは、する事が極端に減った。火急に対処しなければならない事が見事になくなった為、日々時間の消費に頭を悩ませなくてはならない。それなのにやりたいことは見当たらず、興味を惹かれるものも見付からない。
ただ眠り、目覚め、また眠る単調な時間の繰り返し。
アッシュは城に残った、しかし自分の店を持つという夢は諦めていないようで今までに稼いできた資金を元手に、こぢんまりとした料理店を開くに至っている。ユーリも何度か足を運んだが、そこそこに評判が宜しいようで客足が伸び始めた頃からはもう出かけていない。
彼はユーリの事を案じ、毎日毎食、彼のために手の込んだ料理を用意してくれている。生活時間帯がずれた所為で顔を合わせることまで極端に減ったものの、彼の心遣いは有り難いとユーリは感じている。
それでも、食事の量は一時期に比べて激減した。
空腹は覚える、だが食欲が起こらない。血を求める事は今までと変わらず定期的に発作のように現れる、その時は本能に赴くまま夜の食事に出る事はあった。
しかし絶対的な回数と一度の食事量は、減少傾向から一向に改善されない。一日の睡眠時間は長引き、余裕で三日程度なら眠り続ける日も現れ始めていた。
いっそこのまま永遠に眠り続けてみようか、そんな事を考えて自嘲気味な笑みを浮かべてユーリは一段ずつ階段を下りる。最上階と違って窓の無い螺旋階段は暗く、通気も悪い所為で湿気が籠もっている。じめじめとした空気を肌に感じながら、外よりも若干気温の低い中で息を吐いた。
吐息は重く沈み、足許で跳ねて飛び散り消え失せた。
ともすれば、あの日々こそがすべて幻ではなかったかと思えてしまう一瞬がある。
誰も覚えていないことは、自分の中にある記憶を根底から揺るがすに充分足る事なのだと、幾度と無く痛感させられた。
どの雑誌を広げても、自分のインタビューで彼の言及したところは別人宛にすり替えられてしまっていた。知りもしない相手を、さも繋がり深い仲間だと告げている自分の、覚えもないコメントに嫌気が差した。
あんな事を言った覚えはないのに、自分以外の万人が記事を信じて鵜呑みにしている。否定したところでその声は届かない。
違うのに、あの言葉は顔も知らない相手に向けて発した言葉ではないのに。
たったひとりに向けて告げた言葉が、異なるものへすり替えられてそれが受け入れられてしまっている現実。
最初はまだ耐えられた。けれど次第に苦痛になって、表に立つ事をしなくなった。マイクを向けられてもコメントする事などなくて、一時期は自発的に言葉を断った。
誰ひとりとして自分の本当のことばを耳にしてくれないのなら、ことばなど要らない。そう思った事さえあった。
世界中から裏切られた気分だった。世界は正しくて、自分だけが過ちの記憶を引きずっているのだと無言のままに責め立てられている気分に苛まれた。
だって、誰もが彼は最初から居なかったと言う。
共に歌い、飲み明かし、語らったあらゆる仲間達が口を揃え、彼を知らないという。そんな存在は無かったと、互いに確かめ合って頷き、存在を否定する。
何故、と。
どうして覚えていないのか、と。
怒鳴りたい気分を果たしてどれだけ押し殺した事だろう。今では外界との関わりの大半を遮断し、ひとりで過ごす時間だけが増えた。そうしていないと、彼が居たという自分の記憶に自信をなくしてしまいそうだったから。
信じるものの根底を覆されてしまいそうで、だからユーリは何度も、何度もあのビデオテープを繰り返し再生させた。再生のしすぎでボロボロになりかけたテープは、アッシュが慣れない機械を必死に操作してデジタルで録画し直し劣化を防いでくれたけれど、最初のテープの方が遙かに彼の姿をくっきりと、はっきりと映し出してくれていて。
だから、棄てる事も出来ずユーリはそれを抱いて眠る事さえあった。
他に彼の存在を確かめる術を持たなかった。
世界中から忘れ去られてしまった彼を、自分たちまでもが忘れ去って、或いは一瞬でもその存在を疑ってしまったときにどうなるか。
それを考える事が恐ろしくてならない。
だから信じている、彼は確かに自分たちとともに“在った”のだと。
忘れ去らないために、覚えている限りの彼の行動や言葉を紙に書き綴りもした。
階段を下り、城内に戻ったユーリは真っ直ぐにリビングへと向かう。あの日があった月から捲られる事がなくなったカレンダーには、大きな赤い丸印が幾つか並んでいる。すっかり色褪せて黄ばんでしまっているそれは、カレンダーという本来の役目を最早果たしていなかったけれど、これもまた、棄てることが出来ずにいるひとつの証だった。
彼が消えた日を記したカレンダーを目の前に見据え、ユーリは紅玉の瞳を緩めた。
よくよく気をつけてみれば、彼が在った小さな証は幾つか残っていた。彼が使っていた部屋は埃に埋もれた押入にすり替えられてしまっていたけれど、その中にはどう考えても彼以外に持ち込んだとは思えないフィギュアなどが混じっていた。
作曲者のサインがない彼の譜面は、そのまま作曲者不明として残されていた。
ユーリとの喧嘩の中で、彼が放り投げた椅子が作った傷がカーテンに隠れるようにして壁にそのままにされていた。
そんなとても小さな彼の証をひとつずつ確かめながら、ユーリはリビングを出て庭へ降り立った。
あれから、どれだけの時間が過ぎ去ったのだろうか。
時間の感覚さえも衰え始めているユーリの瞳に、更に遠くなった空が映る。耳に車のエンジン音が響き、やがて停止した。アッシュが帰ってきたのだろう、庭を経由せずに玄関から城内に入っていたはずの彼を思い浮かべながら、ユーリはひっそりと微笑む。
瞼を閉じ、首を振った。
風が吹く、穏やかで暖かい。
「スマイル」
その名前を呼んでみた。心の中では間を置かず呼びかけ続けていても、こうして声にして風に流すのは久しぶりだった。
「スマイル」
風に攫われた前髪が日の光を浴びてキラキラと銀色に目映く輝く。台所へ向かおうとしてリビングを通りかかったアッシュが、開け放たれた窓の向こう、庭に降り立つユーリを見つけてなにかを呟こうと口を開いた。
しかしユーリの双眸が決して自分に向けられる事がない様子を察し、嘆息して荷物を抱き直しそのまま台所へ姿を消した。途中、色褪せたカレンダーの前でもう一度足を止める事を忘れずに。
彼もまた、過去に縛られている。
あの夜に消えた存在に囚われ続けている。
もし忘れる事が出来たなら。もし、あの存在を過去のものとして割り切ってしまえたなら。
今という時間はなにか変わっていたのかもしれない。もっと違う未来が開かれていたかもしれない。
それでも、彼らは。
自らあの存在に縛られることを望み、解き放つ事を拒絶した。
何故なら、彼が在って初めて自分たちは自分になれるのであり、彼の居ない未来を思い描こうとしても到底出来るはずがなかったから。
彼が居なければ、何も始められないし、終えることも出来ない。
「スマイル」
三度、ユーリは彼を呼んだ。返事などないと分かり切っていても、呼ばずに居られない名前だった。
消せない、消さない。
忘れない、忘れさせない。
無くさない、失くしたくない。
取り戻したい、戻りたい。
あの日に。
あの頃に。
自分たちに。
Deuilに。
「スマイル」
呼ぶ。
声が嗄れるまで、喉が潰れるまで。いや、例え喉が潰れて声が出なくなったとしてもユーリは呼び続けるだろう。アッシュは叫び続けるだろう。
その名前へ、帰ってこい、と。
ここに、帰っておいで、と。
だって、彼はあの夜にサヨナラを告げた。けれど、彼以外の誰もがまだ、彼に、さよならを告げていない。
まだ別れは済んでいない。
終わっていない、なにも。
言いたかった言葉、言えなかった言葉。彼に最後まで教えてやれなかったことばが、まだ山のように積み上げられているのだ。
そのすべてを嘘にして、過去のものとして抹消するなどという器用な真似がユーリに出来るはずがない。自分で考えて、苦笑を浮かべながらユーリは庭に咲き乱れている薔薇に目をやった。
不器用ながらに、暇を持て余す結果庭いじりに時間を費やすようになってから随分と経つ。その間にひととおり植物は育てられるようになって、今では薔薇もそこそこ綺麗に咲かせられるようになっていた。
濃い赤色を中心に育てているものの、小振りな淡いピンク色をした薔薇やもっと色の薄い白っぽい薔薇も、枝を広げて花を咲かせている。
彼はこの光景を見たら、なんと言うだろうか。驚くだろうか、それとも感心するだろうか。凄いね、と褒めてくれるだろうか。
「お前に、見せてやりたいのだがな……」
花に興味がないアッシュは、単純に凄いとしか感想をくれない。しかし他にユーリの咲かせた花を見てくれる誰かなど居らず、結局薔薇も百合も、ユーリの前に枯れていくばかりだ。
愛でて、美しいということばをかけてくれる相手はどこにも居ない。
「スマイル」
ユーリは手を伸ばし、棘に注意を払いながらピンク色の薔薇を一輪摘もうとした。しかし枝を手折る時、気をつけていたに関わらず鋭利な棘が彼の薄い皮膚を刺し、傷を付けた。
折られようとした薔薇の最後の抵抗を受け、微かな痛みに顔を顰めたユーリはけれど半分まで茎を捻って千切っていた花を手放すことも出来ず、そのまま枝の半ばで無理矢理引きちぎってしまう。
日の光を受けてより白さが際立つ指に、ぷっくりと赤い粒が小さく出来上がていた。それが尚更腹の色の薄さを強調しているようにも見えて、彼は傷口に舌を這わせ唇で血を掬い取る。
鉄錆に似た香りが甘く鼻腔にまで伝わってきて、眩暈がする。じりじりと内側から肌を焦がす痛みのような、けれど悦楽にも似た感覚に奥歯を噛みしめ、彼はなにかを振り払うかのように目の前で一段と際立って咲き乱れている淡いピンクの薔薇を、一輪のみならず、両手で抱きかかえるようにして引き抜いた。
繊維質の茎が力任せに砕かれていく。下手をすれば全身傷だらけになりかねない行動にも構う事無く、ユーリは無数の花びらで顔が埋めてしまえるくらいの薔薇を、抱きしめた。
泣きたくなって、けれど泣きたくなくて、酷く甘い匂いを奏でる薔薇に顔を埋めるようにユーリは膝をついた。無数の棘が腕に突き刺さる。土埃が彼を容赦なく汚したが、それすらもどうでも良かった。
「スマイル……っ」
形も色も申し分のない薔薇をいくら咲かせても、それを見つめる瞳がどこにもない。不器用、と自分を笑った声が聞こえない。こんなにも自分に出来る事が増えたのだと、自慢できる存在がない。
どこを探しても、求めても。
手に入らない、戻ってこない。
一番に見せてやりたい相手は、永遠に邂逅を果たせないと。無言の空が風に乗せて耳元で囁いてくる。そんな言葉を聞きたい訳じゃなくて、もっと違う祈りを紡ぎたいのに。
絶望が先立ちそうになる崖の上で、自分はこうやって掴むもののない虚無に手を伸ばし続けている。
ここはこんなにも、空が遠い。
「スマイルっ!」
切ない思いで彼を呼ぶ。胸を引き裂かれる程に強く、彼を呼ぶ。
「スマイル!」
彼、を。
「スマイル」
どうか。
「スマイル……」
お願いだから。
「…………ルっ……!」
彼を、返して。
返してください。
この身体が砕かれてもいい。
この命が潰えても構わない。
だから、
彼を、
返して
不意に嵐が吹いた。
今までの穏やかな風とは趣の異なる風に、ユーリは驚き顔を上げる。
聞こえるはずのない鐘の音色が頭上で湧き起こった。
空を見上げていた黒猫が静かに目を閉じた。
数回、吹き抜けていった風に煽られた二股に分かたれた尾が揺れる。
次に彼女が瞼を持ち上げたとき、右目にあったはずの鮮やかな丹朱の瞳は綺麗に消え失せていた。
遠くから耳慣れぬ鐘の音色を聞き、彼はキャベツを剥く手を止めて顔を上げた。
視線の先には当然ながら天井しかなくて、ライトの明かりをまともに受けた瞳がちかちかと奥の方で明滅する。
なにかを感じた心が無意識に唇を動かし誰かの名前を紡いだが、それは音になることはなかった。
風が吹き荒れる草原の中で、彼女は浮き上がったスカートの裾と肩の上で切りそろえられている黒い髪を同時に別々の手で押さえた。
スカートに押しつけられた左手からぶら下がる空っぽの鳥籠がかしゃん、と何度も風に煽られて揺れて音を立てる。
かしゃん、かしゃんと。
鳥籠がなにかを訴えるように泣き続けた。
薔薇の花園がざわめく。
無数の花びらが嵐にもぎ取られて攫われ、宙を舞った。
鐘が鳴り響く。数百年の間忘れ去られ、一度として涼やかな音色を奏でる事がなかった錆び付いた鐘が、今。
彼の頭上へと荘厳な音色を降り注いでいる。
何故、と見開き仰いだ頭上に影が走った。深紅色の薔薇の花が空を翔る。鐘楼へ向かって、まるで自由を得たばかりの鳥が翼を強く羽ばたかせるかのように。
弾かれたように、ユーリは腕に抱えた薔薇をそのまま胸の中に押し込んで駆け出した。
芝生を飛び越え、開け放たれた窓から城内に飛び込む。鐘の音色を聞きつけたアッシュが台所から顔を覗かせたが、彼の呼びかけにも気付かないでユーリは一心不乱に、先程自分が通ってきた道のりを逆走した。
ホールを抜けて、半螺旋状階段の階段を二段飛ばしで駆け抜ける。少しでも速度が増せば、と背中の翼を広げて風を呼んだ。
髪が乱れる、四方に跳ね上がった毛先も顔の全面にのし掛かってくるもの以外はすべて無視した。
閉め切られた鉄製の黒い扉を勢いのままに押し開き、蝶番が軋むのも構わず石組みの内部へ滑り込む。じめじめとした湿気は変化なかったが、それでも確かに。
なにかが。
さっきまでとは違っている。
一旦足を止めたユーリはごくり、と喉を大きく上下させて唾を飲み込み口の中の乾きを誤魔化した。逸る気持ちを抑え、一歩一歩を確実にさせながら階段を登り始める。
鐘の音はまだ響いている。それが決して妄想や幻聴の類でないことを何度も目を閉じ、首を振って確かめてからようやく右手を開き、手の平が汗でびっしょりになっている事に気付いた。
抱きしめていた薔薇を強く持ちすぎた為か、摘んだばかりだというのに萎びた印象を与える。指先から両の手首に掛けて出来上がった無数の棘痕の赤さに瞳を細めて、けれど不思議にもまるで感じない痛みが彼の背中を押した。
「……スマイル」
願いは願い続ければ叶うと言った。
想いは強ければ強いほど、形になって戻ってくると言った。
ならば。
その言葉を実証するためにも。
ユーリは階段を登る。一歩を踏みしめながら、少しずつ歩調がまた駆け足になってしまう気持ちを抑える事もせず、光に満ちた外を目指す。
空に一番近い、彼が好きだったあの場所へ。
もう一度、あの場所へ。
初めは、光が反射しているだけのようだった。
頭上で揺れる鐘が喧しく、けれど苦痛ではない音色を奏でる中、それは太陽の光を受けた鐘の表面が反射しているだけのように思われた。
乱れてしまった息を肩で整えつつ、最後の一段を登り終えたユーリが見たのは白いようで、空色のようで、朧気に掠れた空間だった。真夏の蜃気楼のようにゆらゆらと頼りなく揺れているそれは、二次元のようで三次元のようでもある。
目を見張り、瞬きを数回行って、長い息を吐く。
「スマイル」
彼の名前を、呼ぶ。
「スマイル……?」
あの日々はすべて夢ではないのか、と思う事があった。もしくは、今のこの時間こそが長い長い夢の合間であり、目覚めればきっとそこに自分が起きあがるのを待っている彼がいるのだと何度となく、それこそ夢にまで見た。
しかし現実は程遠く、掴み損ねた手が今もユーリの中でくすぶっている。あの夜にステージで拾った小瓶の中身が何であったかを知らされた時は、どうして自分だけが蚊帳の外に置かれたのかと憤慨したものだが。
恐らく彼の立場が自分であったなら、自分もそうしていたような気がすると最近になってから思うようになった。
「スマイル」
薔薇の噎せ返るような匂い。甘く、切ない。
今となっては、彼の想いを知っているのは自分だけだから、と。この花だけは枯らすまいと必死になった時を思い出す。笑われるかも知れないが、あの時は至って真剣だったのだ。
そして自分の抱く思いもが、出来得るならば、彼の中にだけ在ればいいと願った。
瞳を閉じる。薔薇に顔を伏せた。
もう一度彼の名前を紡いだ。頭上で一段と高い鐘の音が響き渡る。周辺の空を駆り、遠く果てしない平原の向こうまでこの音は届けられるだろう。空を突き抜け、雲の上に踊る世界にももしかしたら届いているのかもしれない。
なにかが特別変わるわけではない。ただひとつの真実が戻ってくるのなら、それだけで構わない。
閉じた目を開く。鮮やかな紅玉の双眸に、彼が見えた。
薄青い肌、クセが強そうな濃紺の髪、トレードマークだった白い包帯こそ解かれ存在しなかったものの、身に纏った服はあの夜、ユーリの前でサヨナラを告げたときとなにひとつ変わっていない。
直立不動だった彼が、静かに瞼を開く。
双眸が、朱に染まった。
「…………」
なにかを言いかけて口を開き、しかし呼吸の仕方でも忘れてしまったのかぼんやりと半開きの口をそのままにする。最初は虚ろだった瞳に輝きが戻るのと、唇が閉ざされるのは同時だった。
瞬きを。
直後に、彼はユーリを見た。
丹朱の双眸を見開いて、驚いた顔をにわかに作り出す。視線の先、焦点が結んだ薔薇を両手に抱えるユーリという映像に目を見張る。
「あれぇ!?」
第一声が、それ。
「ユーリ、……え。あれ? なんで昼?」
第二声が、これ。周りをキョロキョロと見回す動作付き。ユーリの頬がひくっ、と引きつった。
これは、あれだろうか。つまり彼には、あれ以後の記憶が一切存在していないと、そういう事になるのだろうか。彼にしてみれば、ユーリ達が経験したあの長い時間は無かったものとして、あの夜から直接記憶が繋がっている、と。
まだ理解不能に陥っているスマイルを前に、ユーリは肩を戦慄かせた。どうしようもない怒りがこみ上がってくる。胸に抱いた薔薇を、彼は強く握りなおした。
「この……馬鹿者がーーー!!!」
両手を振り上げ、棘のある薔薇の花を思い切りスマイル目掛けて投げつける。ぶわっと吹き上がってきた風に煽られ、見事に花はスマイルに激突する前に大半が飛び散った。
けれど被害がまるでなかったわけでは当然なくて、何本かの薔薇に攻撃されて目が覚めたらしいスマイルが、石畳の床に落ちた薔薇の間に尻餅をつく。
「ユーリ?」
肩を怒らせて目の前に仁王立ちしているユーリを見上げ、スマイルは彼を呼んだ。涙目になりながら彼を睨んでいるユーリと、その向こうに見える青空、頭上で鳴り響き続けている鐘楼の鐘。順番に見つめ、最後にまたユーリの紅玉を見つめて。
彼は。
ようやく自分の置かれた状況を知った。
「ばか!」
「……うん」
傷だらけの両手を握りしめ、ユーリが怒鳴る。悔しげに唇を噛みしめる姿が痛々しくて、困った顔を作りながらスマイルは頷いた。
「自分勝手、我が侭、無責任、愚か者!」
「……うん」
否定せずスマイルは受け止める。自分が貶され、罵倒されるだけの事を彼にしたのだと理解しているから。だから甘んじて受け入れる、あの日からどれだけの時が流れているのかはスマイルには分からなかったけれど、それ相応の年月は過ぎているだろう。
だけれど。
その年月を経てもまだ、自分が彼の中に在り続けていたのだと。
それが分かっただけでも充分だった。何故自分が再びこの大地に舞い戻ることを許されたのかは分からないけれど、今しばらくの猶予が与えられたのであれば。
次は、絶対に。
「ユーリ」
彼はユーリへと左手を差し伸べた。一歩前へ出たユーリが、傷だらけの右手を伸ばす。
一度は空を切った指先が、今度こそひとつに結ばれた。力を込めて引き寄せると、抵抗もなくユーリの細い身体が彼の胸元に滑り込む。
割れ物に触れるような慎重さでスマイルの両手が彼の背に回された。けれど完全に彼の腕に拘束されてしまう前にユーリは膝を立て、手を伸ばしスマイルの頬に添えた。
確かめるように、赤く腫れあがった指で彼の頬を撫でる。輪郭をなぞり、肉に触れて軽く押しながら弾力を計り、毛先を絡める。
「ユーリ……?」
「居るな」
此処に、と。
独白めいたことばを零しユーリは思い切り、何を思ってかスマイルの髪を思い切り真下に向かって引っ張った。頭皮から耐えかねた髪が数本抜け落ち、禿こそ出来はしなかったもののかなりの痛みがそこから広がった。それこそ、スマイルの方が涙目になるくらいに。
ユーリが笑い、指の間に残った彼の抜けてしまった髪を風に流す。
「酷いなぁ」
「お前の方が、よっぽど」
違うか? と真正面から見上げられて問われ、スマイルは返答に窮し視線を逸らした。
「私に言うことは?」
「……ゴメンナサイ」
勝手なコトしました、勝手に居なくなりました、勝手に貴方の前から消えました。みんなの中から消えました。自分ではどうすることも出来ない事だと知っていても、口に吐いて出るのは謝罪の文言。
だがユーリは違うだろう、と首を横に振ってスマイルの両頬を挟み持ち自分の方へ視線を戻させた。
色の違う赤が重なり合う。
「タダイマ」
「おかえり」
スマイルとしては、恐らくまだ実感が沸かないのだろう。けれど真摯に見つめてくるユーリにやんわりと微笑みかけると、彼もまた厳しかった表情を和らげてスマイルの頬を何度も撫でた。
鐘の音色が鳴り響く。彼らの周囲を埋めている薔薇の花に視線を落としたスマイルに気づき、ユーリはばつが悪そうに手を下ろす。一本を拾い上げたスマイルが顔の前でそれを何気なく見つめ、そしてユーリを見た。
「この花、ユーリが?」
「お前が居なくなって、暇……だったから」
けれど誰も見てなどくれなかったと、愚痴になりそうな事は頭の中でだけで留めたユーリの気持ちを察したわけではないのだろうけれど。スマイルは痛んでしまったものの、それでもまだ綺麗に咲いている薔薇をひとしきり眺め双眸を細めた。
愛らしく咲く薔薇へ、そっとキスをする。
「綺麗だよ」
囁いて彼は再度、ユーリを抱きしめた。丹朱の双眸を細め、閉じ、彼の頬を寄せる。
「ユーリ」
呼んでくれてありがとうと、彼は呟いた。
傷だらけになったままのユーリの手を取り、唇に寄せてそこにもくちづけを落とす。愛おしげに労りながら、細かく無数に上る傷のひとつひとつを傷めないように心配りながら、なぞっていく。
くすぐったげにユーリは肩を揺らした。スマイルは目を閉じる、記憶が途切れて戻ってくる僅かな時間を思い出し、闇に溶けていったはずの自分へ思考を巡らせる。
あの夜、自分は確かに世界から消え去った。
そして今、此処にいる。
彼の声を、聞いたような気がする。自分の中では一瞬だった時の中で、幾度と無く自分を呼ぶ声を聞いた気がする。
「お前が言ったんだろう」
あのビデオに残っていたスマイルの、告げたひとこと。絹よりも細い糸に縋る思いで残したメッセージ。瞳を閉ざしたユーリの呟きに、彼は薄く笑った。
「ずっと?」
「次は絶対、呼んでなどやらない」
全部を言わせてもらえず、遮ってきたユーリの決意が込められたひとことに笑みが苦くなる。けれどその気持ちは充分分かってしまうので、スマイルは彼の肩口に額を預けると喉を震わせるような笑いを必死に噛み殺した。
「絶対?」
「絶対だ」
くぐもった声で問い返す。ユーリは断固として発言を覆さなかった。その頑なさにまた笑いが止まらない。
「笑うな!」
絶対に、絶対なんだからなと何度も強調し、ユーリは自分に凭れ掛かってくるスマイルから視線を外し、遠くの空へ流した。
「呼んでやるものか……」
「うん。ごめんね?」
それから。
ありがとう。
顔を伏せたまま呟き、ユーリの背中を強く抱きしめる。逆らわずに胸に納まった、以前よりも小さく感じられる彼の身体を感じながら、スマイルは鼻先を髪に寄せてそこに微かだが秘められていた花の香りを楽しんだ。
ありがとう、ともう一度呟く。
包帯の絡まない右目の赤を揺らめかせ、そして閉ざす。
この瞬間が夢でない事を祈る、願う。
再び彼に触れられる喜びを胸に抱けた事を感謝する。二度とこの手を放さずに済むように、切望する。
想い続ける。
思いは力になる。
奇跡は偶然じゃない。
「ユーリ」
その背中を繰り返し撫でながら、スマイルは腕の中に収まる彼を呼ぶ。顔を上げたユーリの頬にくちづけをして、別の場所にもしても良いかと問うた。
真っ赤になったユーリが、聞くな、と怒鳴り返す。スマイルが笑った。
「 」
鐘の音、頭上に鳴り響く音に掻き消される中で彼にだけ聞こえることばを耳元に囁き、そっとくちづける。
「ばかもの……」
俯き加減になったユーリが言った。声は鐘の音色に溶け、空へ流れていった。
人の願いが強ければ強いほど、
思いは形になって還ってくるとしたら
貴方の願いは、叶いましたか?
Grasp
落ちる
おちる
おちていく
どさっ。
「……って」
あれ? と。
背中から肩に掛けて、と、後頭部がずきずきと痛い。左足が膝の裏からベッドの端に引っ掛かっている、左手の手首から先だけがかろうじてベッド上に残っていた。縁を掴んでいるのは多分、無意識というよりも夢中での最後の抵抗だったのだろうか。寝入る前、昨夜……とはいえ、時間は深夜二時を回っていたように思うが、その時にはちゃんと胸の辺りまで被せて置いたケットは右手にしっかりと握っているものの、大半は床の上に塊を成していた。
現状把握、終了。力を抜くと持ち上げていた後頭部がまた床に沈んだ。ごちん、とさして柔らかくない音が静かに響く。
寝相は悪くないと思っていたのだが、それは自分の認識違いだったのだろうか。目覚めた時とほぼ同じ姿勢を作ったまま、ぼんやりと薄暗い天井を見つめて思う。いやまさか、とこれまでの数百年に及ぶ自分の活動を思い返し、否定はするが説得力に欠けている事は間違いないだろう。
なにせ、眠っているときは自分がどんな風に動き回っているのか分からないのだから。
ただ数回入れ替えがあった自分の同居人は、ひとことも自分の寝相の悪さに言及した事がなかった。だから勝手に、自分は眠っているときは余程お行儀がよいのだと思っていたわけだが。
どうなのだろう、現在の同居人に聞いてみるべきか。
ケットから手を放し同時にいい加減疲れてきた左足を身体と同じ高さに下ろして、ぶつけた頭を押さえ込み起きあがる。衝撃ですっかり頭が冴えてしまっていたが、それでも身体は眠気を訴えてくるので欠伸が出た。
素足を床に貼り付けて立ち上がって、傍らで山にしていたケットを無造作にベッドへ放り投げる。枕の上に落ちたそれは、根性無くべっしゃっと潰れた。
嫌な夢を見ていた気がする。
目覚めたときの、あの衝撃があまりにも衝撃的だったので内容は忘れてしまったけれど。
とにかく、寒気を覚えるくらいに嫌な感じがする夢だった。
「なんなんだろ」
ぼんやりとしたまま呟き、半眼で考える。顎にやった人差し指が唇の下を弄り、考え込むときの習慣で眉間に皺が寄る。
並んでベッドサイドに置かれてあったスリッパを蹴り飛ばして、着ているシャツを素早く脱ぎ捨てる。着替えを探して目線を揺らし、閉じていなかったズボンの釦をはめる。クセが出来あがってしまった髪を手櫛で梳いて、クローゼットを開けた。
扉の内側に填め込まれている鏡で一度自分の上半身を映し出す。あまり血色が宜しくないのはいつもの事だ、寝癖は昨日ほど爆発していない事を確かめて黒の長袖シャツを取りだし扉は閉める。素早く袖を通し、一瞬だけ考えた末釦は上から三番目をひとつだけはめた。
靴に乱暴に足を突っ込んで、踏みつぶしすぎて潰れてしまっている踵を今日は珍しくちゃんと履いて、ベッドの上に沈んでいたシャツを拾い上げると窓を覆っているカーテンを一気に引き開いた。
眩しい太陽光が差し込んできて、隻眼を細める。シャツを握っているとは反対の右手を庇にしてしばし光を見つめ、ゆっくりと首を振ると体を反転させる。そのまま真っ直ぐ進めば、部屋と廊下を繋ぐ扉がある。
ノブを掴んで回そうと、彼は右手を伸ばした。
伸ばした姿勢のまま、なにかが頭の中を過ぎって身体が硬直した。
「……あ」
夢を、思い出した。
夢の中でも自分は、こんな風に手を伸ばしていた。何かを――間違ってもドアノブのようなものではない――掴もうとして、必死に腕を伸ばした。
それなのに、掴もうとしたものはするりと指先をすり抜けて行ってしまった。
なにかを叫んだようにも思う、必死の形相だったはずだ。夢の中でも自分視点だったから自分の顔を見ることなど出来ないはずなのに、まるで目の前に鏡でもあったのか、その時の自分の表情が手に寄るように浮かんできた。
ただ、なにを叫んだのかまでは記憶をたぐっても糸が途中で切れてしまったようで、分からない。想像はつくけれど。
ドアノブに引っ掛かり中途半端なままでいる己の右手を見つめる。意識を紛らせれば、すぐに存在を見失ってしまう透明な肉体がある。ぶぅん、とノイズを走らせているテレビ映像のように輪郭がぶれた。
「っ」
反射的に左手からシャツを放し右手に重ねた。見失う、というよりは存在そのものを失ってしまいそうな危機感を感じて、強く力を込めすぎた左手に右手が悲鳴を上げた。
軋んだ骨の痛みに顔が歪む。
痛みに耐えかねてパッと手放した自分の格好はあまりに滑稽で、なにをやっているのかと見ている者が居たなら絶対に思った事だろう。自分でさえそう思うのだから、尚更だ。
捻ってしまった手首を今さっきまで捻っていた手でさすり、矛盾するその仕草に苦笑を浮かべて今度こそ扉を開けて廊下に出た。真っ赤な絨毯の敷かれている廊下を暫く進めば、やはり中央のラインが絨毯に埋め尽くされた半螺旋状の階段に出くわす。
手摺りに右手を添え、掃除が行き届いている埃ひとつない木彫のそれに体重を僅かに預けながら降りていく。誰も居ないわけではないが、ヒトの気配を感じるにはあまりに広すぎる城内に、自分の呼吸する音ばかりがやたらと大きく響く。足音は綺麗に絨毯に奪われ、耳に残らない。
階下を見下ろせば、灰色の大理石が敷き詰められた広いホールがある。上を見れば吹き抜けの真下につり下げられた、豪奢なシャンデリアがあった。今は吹き抜けの向こうにある明かり取りの窓から陽光が緩やかに差し込んでおり、無数の燭台に火は入っていない。クリスタルガラスがきらきらと陽射しを反射させ、輝いていた。
眩しさに目を閉じ、しかし足は休めず階段を下りていく。漸く平らなホールにたどり着いた身体を休めることをせず、真っ直ぐにダイニングへ足を向けた。
扉を開ける。
初めて、自分以外の存在が発する音がそこにはあった。
かちゃかちゃ、と無機質な食器を動かす腕がそこにあった。
時間帯的にはそれなりに遅い朝食を咀嚼する口と、嚥下する喉と、残り少ない食事を見つめる双眸の所有者がそこにいた。
「ユーリ」
夢を思い出す。
この手は届かなかった。
けれど、今は。
夢じゃない。
「ユーリ」
ふっと、視界がぼやけて輪郭が霞んだ。そのまま大気に煙が溶けていく時のように姿が掻き消える。しかしユーリは気付いているだろうに顔を上げず、黙々とソテーされた厚切りのハムにナイフを通していた。
差し込まれたフォークの数ミリ脇をナイフが横切っていく。端から端までを切断されて四角くなった厚切りハムを口に運ぼうとしたところで、背中からどすん、と何か固く大きなものに衝突されてユーリの手が止まる。
中途半端に開かれた口を溜息の末に閉ざし、ハムの刺さったフォークはそのままにしてナイフを握っていた右手だけをテーブルに下ろした。
「スマイル」
「掴まえた」
朝からいい加減にしないか、と呆れ調子で言おうとしたユーリの耳元でスマイルは、そんなことを呟いた。両手を肩の上からユーリの胸元へ落とし、左右から挟み込む格好で椅子の背もたれに凭れ掛かってきている。体重を預けられている側の椅子と、その椅子に腰掛けているユーリが嫌そうに同時に身体を揺らした。
軋んだ音が小さく響く。だがスマイルは意に介した様子もなく、余計にユーリへ抱きついてきた。
透明になったまま頬を寄せ、ユーリの項を擽る。
「スマイル」
もう一度ユーリは彼の名前を呼んだ。姿は見えないが、そこに居ることは明らかだ、なによりも存在を感じる。
目には映らないけれど。
「掴まえた」
しかしスマイルはユーリの、いい加減に離れろと揶揄する呼びかけにも応じず更に強く彼を抱き、肩口に顎を埋めてきた。聞こえてくる彼の声は、むずがる子供のように一本調子でしかも意味が掴み獲れない。
眉間に皺を刻み、持ったままだったフォークを思い出してユーリはひとまず先に、食事を終えてしまうことにした。少々重い荷物を背負わされていると思えば、苦にもならない。
まず角切りにした厚切りハムを口に放り込んで、フォークだけを抜き取る。数回咀嚼して原型を崩し、唾とよく交わらせてから飲み下す。
スマイルはぼんやりと、自分の右目の真横で上下したユーリの喉元を見つめていた。彼の左肩に顎を置いたまま、右手を解いてそっと、手袋を嵌めたままで触れてみる。途端、びくりとユーリは大袈裟なまでに背を震わせたあと激しく咳き込み、前のめりになって苦しそうに荒く肩を揺らした。
「げほっ……っは! かはっ!」
よもやここまで過剰な反応を返されるとは思っておらず、驚いてユーリから退いたスマイルが姿をやっと取り戻し、誰からも視覚出来る状態に戻って心配そうに横から、彼の顔を覗き込んだ。椅子の足許にしゃがんで、不安ですと顔に書いた表情を浮かべている彼を涙目の視界に見つけたユーリは、まだ苦しい呼吸をなんとか平静の一歩手前まで強引に引き戻した。
乱暴にフォークを落とした右手で胸元を数回叩き、深呼吸を繰り返し、最後に長い息を吐いて背中を椅子に押しつける。
「スマイル」
「……ごめんなさい」
怒っていると分かる感情表現に欠けた冷たい声で名を呼ばれ、ユーリの足許に居たスマイルはしゅん、と小さくなったまま謝罪を口にした。こういう場合、下手に言い訳をする方がユーリは倍怒る。だから先に、悪いことをしたと自分で認めてしまう方が、許してもらえる確率は格段に上がるのだ。
ふぅ、と息を零してユーリはナフキンで口元を拭った。咳き込んだときに荒らしてしまった食器を手早く戻し、唾も飛ばず無事だったサラダにフォークを伸ばして、レタスの芯に近い固く白い部分に刺した。
食事を再開させたユーリをまだ最初のポーズのまま見上げていたスマイルだったが、膝を抱いて座り込んでいる姿勢に飽きたのか立ち上がった。ユーリの斜め向かいにある自分の朝食へ向かうのか、と一瞬だけ思われたが彼はそちらへは向かわず何故かユーリの背後へ回った。
両の腕を伸ばし、ユーリの肩越しにまた抱きつく。
「掴まえた」
本日三度目の呟きを耳にして、だからそれは一体どういう意味なのだ、と後ろも振り返らずにユーリは問う。案の定返事はなく、半分にカットされたミニトマトを奥歯ですりつぶして溢れ出た果肉に舌を濡らした彼は、そっと息を吐き自分の左肩に顔を埋めているスマイルの髪を撫でた。
クセの強い髪質が、珍しく指に絡んでくる。
「どうした?」
「掴まえた」
「私を?」
「うん」
逡巡も迷いもなく肯定したスマイルは、けれど顔を最後まで上げなかった。
右手のフォークで残っているトマトの半きれを転がしつつ、左手は自分にじゃれてきている巨大な猫を宥めている。しばらくそのまま撫でてやると、くすぐったいわけでもないだろうにスマイルは身動いだ。
「掴まえた」
「そうか」
幾度と無く繰り返すスマイルだが、どうあっても顔を上げるつもりはないらしい。そのついでに、ユーリを解放する事もしない。
少し考え、最後のトマトを呑み込んだユーリはフォークを手放し、同時にスマイルを撫でていた左手も下ろした。僅かにスマイルが反応し、額を上げるもののまた沈んでしまう。
ユーリは苦笑した。両手で、今は自分の胸の前で結ばれているスマイルの手を握りしめた。
焦げ茶色の手袋の内側は、存在するけれど見えないもの。
見えないけれど、確かに在るもの。
スマイル、とユーリは彼の名前を呼んだ。他でもない、彼という存在を他と区別付け個として確立させている名前を、静かな音色で。
「私は、捕まったのか?」
スマイルは答えなかった。答えずに、ユーリに握られた手を強張らせている。彼の微かな震えを直に感じ取りながら、ユーリは口元を緩めた。
彼がなにを懼れているのか、それはユーリには分からない。スマイルがなにも言わないから、理解しようにも限度がある。勝手な判断は勝手な思いこみと大差ない。
「私はお前の前から逃げ出したのか?」
「ちがう」
低く小さな声で彼は返した。ふっ、とユーリは微笑み握った両手に力を込める。
はっきりと指の先まで感じることの出来る肌だ。当然暖かく、目を閉じて呼吸を整えれば皮膚越しに彼の脈打つ息吹も感じ取る事だって出来る。
彼は確かに此処に在るし、自分も此処にいる。
それが紛れもない真実であって、偽りなどではあり得ない。それなのに彼は、なにかを懼れている。
「違うのなら、何故お前は私を掴まえねばならないのだ?」
ふるふると、スマイルはユーリの肩に額を押しつけたまま首を振った。
彼の夢の中、ユーリは逃げたのではない。ただ漠然とした闇色の世界の中で、彼が、落ちていったのだ。
伸ばした腕は届かない。掠れた指先は絡まない。彼は、落ちていく。自分にそれを止める術がない。彼を掴み取る術がなにもなかった。
届かなかった左手。意識していなければ姿を掻き消し、あまつさえ存在さえも失いかねない曖昧なものである自分はもしかしたら、掴み損ねたのではなく掴む腕を最初から持ってなかったのかもしれないと、そう思って。
恐怖した。
「スマイル?」
再び黙り込んだ彼の手の平を撫でながら、ユーリは嘆息した。さて、自分はここで何を言ってやれば良いものか。
勝手な思いこみと判断は危険だ。万が一地雷を踏んだ時は目も当てられない。だから慎重に考え、言葉を選ぶ。
瞑目し、ユーリは絡んでいるスマイルの両指を解いて右手に左手を、左手に右手をそれぞれ重ね合わせた。指の間に指を挟み込み、握る。交差した腕がユーリの前で祈りの十字を切った。
「掴まえたぞ」
薄く笑い、ユーリは言った。スマイルが驚いたように瞠目し、顔を上げて首を一度だけ横に振った。結ばれた手を振り解こうとしたが、握り込むユーリの力は思いの外強く、叶わない。
まだなにか言いたげにしているスマイルの気配を読みとりながら、ユーリは笑い続ける。離れようと藻掻く彼を引き留め、引っ張り自分の背中に寄せた。絡み合わせた指はそのままに、少しだけ首を曲げて振り返った。
視界にスマイルの、青白い肌が捕らえられる。
「お前の中で私がどうあったのかは知らんが、今の私はこうして、お前を掴まえているぞ?」
掴まえられる一方は気にくわないからな、と軽い調子で笑い、ユーリは椅子ごとスマイルへ凭れ掛かった。ステンシルの軽い素材とは言え、一応は金属である。固く冷たい感触を身体の全面に受け止め、後ろに倒れてしまいそうになるのを堪えながらスマイルは、笑った。
「ぼくが捕まっちゃった?」
「そういう事だな」
「ユーリに?」
「他の誰かに見えるか?」
うぅん、と首を振りながらスマイルはユーリに頬ずりをしてきた。肌の間に挟み込まれた髪がくすぐったくて、逃げようと首を捻ったユーリだったが、先に後ろからスマイルが彼の両肩を腕で押さえ込み必要以上の動きを封じてしまった。
キスはなく、ただ後ろから改めて抱きしめ直される。
「なら、もう良いや」
ユーリが掴まえてくれるのなら、きっとこの手は届くはずだ。二度と見失わない、手放さない。だからどうか、貴方も伸ばしたこの手を掴んでください。
祈るような思いを胸に、スマイルは右目をそっと閉ざした。
「……そうか」
明確な答えも、なにもなかったもののスマイルはひとつの事に悩み、それを解決させたらしい。だったらそれで構わないとユーリは結ばれたままになっている自分たちの手を見つめながら思った。
漫然とした疑問は残るものの、今はこれで良いと。
静かに目を閉じた。
おちる
おちていく
おちたのは、誰?
Funeral
雨が降っている。どうやら風もそれなりに出ているようで、雨の滴が窓をしきりと叩く音で目が覚めた。
ぼうっとしたままの意識を数回の瞬きで覚醒させ、それでも依然として重いままの身体をゆっくりと起こした。引き寄せた膝に巻き込まれた薄手のケットが皺を刻み、くしゃくしゃになってしまっている枕許のシーツを握って、反対側の手で前髪の掛かる目を擦る。
小さな欠伸を零して、緩く首を振った。再度欠伸を噛み殺してから、五秒ほど瞼を閉ざして目を開く。紅玉色の双眸は恐らくまだ眠気を完全に取り除けてはいないはずだが、それでもさっきまでよりは随分と意識がはっきりして来て、同時に窓をうるさく叩いている雨音も大きく聞こえるようになっていた。
視線をカーテンの向こう側にある観音開きの窓へ向ける。陽射しはそこになく、墨汁を垂らした水の色をした空と、景観をぼやかせている雨水の流れる無数の筋が透明なガラスに浮き上がっているだけだった。
それだけでも充分陰鬱な気分にさせられて、額を押さえながら頭を振って身体からケットを押しのける。素足で床へ降り立ち、窓辺まで歩いてカーテンを全開にした。やはり空は濁って、雨水が外の景色を邪魔している。
カタンカタンと絶え間なく降る雨が、風に煽られて窓や壁にぶつかっている音が続いている。さすがにこの状態で窓を開ける気分にはなれず、カーテンを閉め直すと再度ベッドへ向かい、意識との同調が完全ではない身体を投げ出した。
頭の中で思い描いた自分のイメージよりも、ゼロコンマ数秒遅い反応でベッドに沈んだ頭を強くシーツに押しつけ、手探りで枕を探し胸の中に掻き抱く。膝を寄せて身体を縮めこみ、母体の中に眠る胎児の姿勢になって自然と降りてくる瞼で視界を閉ざした。
雨の音は止まらない。落とした吐息も室内に紛れ込んだ湿気に吸い込まれ、手元に残らなかった。
冷たい雨音に掠れながら、遠くで乗用車のエンジン音がしたような気がした。けれど彼の意識はこの時既に半分、夢の中に沈み込んでいて現実なのかそうでないのか、の区別すら出来ない状態にあった。だから無視した。
暫くしてから、控えめにドアをノックする音。けれどやはり彼は応じず、より強く胸の中で潰れている枕に顔を埋めて外界の音を自分の中から排除する。ノック音は数分、辛抱強く繰り返されたが最終的には諦めたらしく、ドアノブが回される事は最後まで無かった。
雨は降り続けている。
数時間後、またドアをノックする音が一度だけ響いた。
けれど彼は夢の中から覚醒する事をせず、ドアの外で流れた溜息と彼を呼ぶ声も届かない。
長い夢を観ていた気がした。
二度目の目覚めが訪れた時には、時計の針が午後の早い時間を指し示していて寝癖の出来上がっている頭を掻きながら、浮き上がってこない気持ちを叱咤してベッドから立ち上がった。のろのろと服に着替え、食事をする気分ではなかったので珈琲でも飲もうと階下へ降りたところで、初めて彼は気付いた。
人気のない城内、雨の音だけが響き渡るホール。空気は冷え切り、決して寒い時期ではないのに吐き出す息は白く濁っていた。
誰も居ない城。
広く、住み心地も悪くないけれどひとりで暮らすにはあまりにも無機質で、寂しすぎる。昔はもっと、それなりににぎやかで住人も居たはずなのにいつの間にかそれらの影は姿を見せなくなった。
あれは、いつのことだっただろう。
何故誰も居なくなったのだろう。何処へ行ってしまったのだろう。
雨の音がうるさい。
「誰か居ないのか?」
口に出して虚無な空間に呼びかけてみても、返事が投げ返される事はない。自分自身の声が控えめに、壁に反響して上に登っていくだけだ。
「誰も居ないのか?」
もう一度、人気の失せた広すぎる空間に問いかける。ホールの奥まった位置に置かれた、この城で起きた事のすべてを見守ってきたであろう古ぼけた大きな柱時計が控えめに、時刻を告げる鐘の音を鳴らす。
顔を上げて、時間を確かめて、彼は少し大股に歩きながら今はリビングとして使用されている部屋の扉を押し開けた。
ソファが並び、中央にテーブル、反対側に液晶の大画面テレビとスピーカーが並んでいる。壁に添って背の低いチェストが幾つか置かれて、中にはDVDやビデオが無尽蔵に押し込まれている。上にはレコードプレイヤーにアナログ盤が積まれており、埃もなくきちんと片付けられていた。
しかし、誰も居ない。クリスタルのテーブルには読み忘れられた雑誌が無造作に放り出されて、その上にテレビのリモコンが背中を上にして落ちている。照明は灯っていないので、引かれたカーテンの向こうから微かに外の明かりが入ってきているものの昼間であるに関わらず、かなり薄暗かった。
壁のスイッチを探して、天井のライトに光を入れる。途端眩しくなった室内に瞬きを繰り返して目を慣らし、改めて室内を見回すけれどやはりそこに人の姿を見出すことは出来なかった。
誰か居たという形跡は残っているのに、それを証明してくれる存在が欠落してしまっている。リビングに色は溢れかえっているのに、彼の眼に映し出される景色はすべて色が抜け落ちたセピア色だった。
「どうして……」
歯抜けになってしまったパズルを前にしているような気分で、のろのろと歩を進め彼は台所の戸を開いた。
以前に起こした失態の所為で立ち入りを厳重に禁止されてしまったのだが、今、彼の行動を咎める人はどこにも居ない。微かな音を立てて抵抗もなく開いた扉を抜ける。
綺麗に片付けられている食器棚を見上げていると、間近で随分と大きな水音が聞こえてきて背筋が震えた。何事か、とまだ強張っている肩ごと身体をシンクへと向けると、なんてことはない、水道から漏れた水が流し台に落ちただけ。
音の発生源を認識し、緊張していた身体から力を抜いてほっと安堵の息をもらす。流し台の横にある食器乾燥用のラックには、もう充分水気が抜けている食器が数点逆さまや縦置きにされて並んでいた。そのうち、透明ガラスのコップをひとつ取って水道の蛇口に手を伸ばした。
外から聞こえてくる雨音を誤魔化す気分で一息に蛇口を捻る。受け皿代わりにしたコップに勢い良く水が流れ込み、程なく縁を乗り越えて水は溢れ出した。
彼の手を充分なまでに濡らし、水はせき止められる。彼は雫をこぼすコップを傾けて生臭い水を煽った。身体の奥の方でまだ眠ったままで居るなにかを叩き起こすつもりで、呑み込みきれなかった水が口端から溢れる事にも構わずに。
顎を伝った水はそのまま彼の少しだけ出っ張った喉を撫で、細いラインを横切って消えていった。
空になったコップをその勢いのまま台に叩きつけ、周辺の空気を震えあがらせる。強く握りすぎた指の先端が白く変色していた。
乱暴に口元を手の甲で拭い、袖の釦に唇を引っかけてしまう。微かな痛みが起こったが気にせず、無視を決め込んで彼はコップをそこに置き去りにして踵を返した。
誰も居ない台所を出て、誰も居ない食堂を通り抜けて、誰も居ないリビングに戻ってくる。食欲の無さは変わらないので、台所の十人掛けかと思われるようなサイズをしているテーブルには近付かなかった。ユーリがいつも座っている席の前に、埃を被らないようにカバーを掛けられた食器が並んでいたが手をつけるどころか、視線を向けることもしない。
もう何もする気が起きなくて、倒れるように今度は三人掛けソファに身体を投げ出す。肘置きに立てかけられていたオレンジ色のカバーを被ったクッションを引き寄せ、額を押しつける。
雨の音は変わらず、耳の奧まで響いてくる。屋根を打ち窓を叩く雨粒は幾重にも筋を産みだし、混じっては別れ、別れては交わる、を繰り返しながら地面へと吸い込まれていくのだ。
聞いていたくなくて、より強く頭をクッションへと埋める。だがひたひたと迫る雨音を追い出す事は出来なくて、不意に泣きたくなる気持ちを殺しながら唇を浅く噛んだ。
ちりり、とした痛みを覚える。釦で擦った傷に触れたらしい。
「雨は、嫌い……だ」
ぽつりと吐き出すように呟いた言葉が思った以上に胸に沈み込んできて、ごろりとクッションを抱えたまま狭いソファの上で寝返りを打った。仰向けになった瞼の裏側にまで、天井のライトが侵入を試みてくる。
顔が歪むくらいに強く瞼を落として、傷口を噛んでみた。
舌先に錆びた鉄の味が僅かに伝わる。
どこかで、鐘の音がしたような気がした。
雨が、降っている。
その中を、ふたつの黒い棺桶が運ばれていく。
見覚えのある光景、だった。夢の中でしか見ない、夢に繰り返し見るのに目覚めたときには絶対に覚えていない光景だった。
自分の視線は随分と低い位置にある。自分は黙ったまま、運ばれていく棺桶をぼんやりと見上げているのだ。側には数人の、黒い上下で身を固めた大人が立っていたが、彼らは一様に押し黙って無言だった。
雨が降っている。水を吸って重くぬかるんだ地面を、泥を跳ね飛ばしながら棺桶を担いだ男たちが通り過ぎていく。
どこへ向かっているのだろうと視線を巡らせて、自分の見ている光景に色が無いことに気付いた。すべてがモノクロであり、白と黒と灰色で構成された世界だった。
音はしない、ただ打ちつける雨の奏でる音楽が痛いくらいに冷たく、寂しい。
誰もが下を向き、言葉を発しない。間近に立っている女性を下から見上げてみれば、啜り泣いているのか声を殺して目頭を白いレースのハンカチで押さえているのが見えた。彼女の隣の年老いた女性も、反対側に立っている女性もほぼ同様だった。
黒いレースの服で全身を覆い隠し、黒い傘を控えめに頭上に掲げて雨を凌いでいる。目頭を押さえている表情は、やはり黒の細かいレースで出来たヴェールに阻まれてしまって殆ど見えない。
世界のすべては黒と灰色に埋め尽くされ、空でさえ重苦しい色をして濁ってしまっている。
鐘が、鳴った。
顔を上げる。棺桶が遠くになってしまっているのが見えて、誰か――自分に傘を差しだしてくれていた――の制止する声を振り切って駆け出した。
大粒の雨が頭を、顔を、肩を、全身を容赦なく殴りつけてくる。ぬかるんですっかり泥の海と化した地面に足を取られ、顔から転びそうになったのを後ろから伸びた大きな手に抱き留められて掬われた。
水気を吸って顔に貼り付いた今は鈍色の銀髪を撫でられ、傘の下に収められた自分はほら、とその男が指さす先へと目をやった。
地面に深く掘られた穴の中へ、今まさにふたつの黒い棺桶が収められようとしていた。周辺には無数の逆十字が並び、無言のまま光景を見据えている。
鐘が雨の中で響いている。
ああ、あの鐘の音色は城の鐘楼に据えられた鐘の音ではなかったか。よくよく見れば、この場所は城の裏手にある墓地ではないか。
男が自分へ、目線の高さを揃えながら何かことばを紡いだ。しかし雨と鐘の音によって声は遮られ、耳には届かない。返事の代わりに首を振った自分に、男は重ねてふたことばかりの言葉を告げる。目の前に、雨に濡れた白い百合の花を差し出された。
子供の手には大きすぎる花を受け取って、それでも自分は嫌々と何度か首を振り男を困らせる。
雨は強さを増すばかりで、一向に止む気配は見えない。
白い百合の花が雨に濡れ、大きな水滴を花びらの先から滑り落とした。
雨の音が耳に響く。鐘の音色がそれに混じる。
Deuil
不意にその音だけがすべてを突き破って聞こえてきた。誰が発したことばだったのかなど分からない、振り返っても気がつけば誰もそこに立っていなかった。無数に居たはずの葬式の参列者はひとりとして残っておらず。
傘を貸してくれた存在も消え失せ、自分ひとり、墓地へ置き去りにされて。
誰も居なくなった。
それでも雨は止まない。
誰も残らなかった。
雨は降り続けている。
濡れた白い逆十字が、紅玉の瞳の中で痛いくらいに目映かった。
何故自分も、あの下で眠ることが出来なかったのだろうと思い、悔いた。
ひとりだけ遺されて、けれどそこになにか理由が在ったとはとても思えなかったから。
自分自身さえ消してしまえたらと願った。
誰も居なくなるのなら、自分が此処にいる理由なんてどこにもないと思った。
だから眠ることにした。なにもかもを忘れて、なにも残らないように眠ってしまうことにした。
おやすみ、の言葉もなく。
さようなら、のことばを呟く相手も無く。
見送ったのは、正面玄関に据え付けられた大きな古時計だけ。
あの時も、時計は寂しげに一度だけ鐘を鳴らした。
鐘楼の大きな鐘は、撞き手を失いさび付いて動かなくなった。だが構わない、どうせ誰ひとりとしてあの鐘の音を必要とする存在は残らなかったのだから。
時間を告げる相手を失い、存在意義を奪われた時計は鳴くことをやめた。
夢を見ていた。
目覚めた時、決して覚えている事のないようにと約束された夢を、見ていた。
雨の音だけが永遠と思える時間、耳の奧で木霊していた。
寝返りを打つ。緩やかな傾斜を抜けて朧気だった意識が覚醒へと向かうと同時に、持ち上げた瞼の向こう側に広がる光景が閉じる前、自分の目の前にあったものと異なっている事に気がついた。
身体を持ち上げる、最初の目覚めよりはずっと軽い身体を起こして首を巡らせれば、なんてことはないそこは自分の部屋。但しカーテンは開かれ控えめな陽光が零れ落ちてきていたが。
ひんやりとした空気を感じて身震いをする。よく見れば襟の間にある第一釦が外されて呼吸が苦しくないように首許を緩められた形跡があり、右手で合わせを抓んでベッドから立ち上がって再度室内を見つめ返してみた。
誰かが居たような気がする。だが錯覚だったような気もする。
リビングのソファの上で寝転がっていたはずの自分が、まさか瞬間移動でもしたわけではあるまいし、何故ベッドで寝かされていたのかが分からず首を捻った。寝ぼけたまま戻ってきたとは、考えにくい。
雨は、やんでいた。まだ雲は空に広がっているが隙間が幾つも出来上がり、そこから太陽が顔を覗かせているのが窓越しに見えた。ガラスはまだ若干雨粒の痕を残していたけれど、一時間もしないうちに全部蒸発するか流れ落ちて消える事だろう。
釦を留め、靴を履く。トントン、と爪先を床に打ちつけて部屋を出た。
廊下に足を進めた瞬間、良い匂いとそうでない匂いと実に判断が微妙な香りが鼻先を擽って通り抜けていった。眉間に皺を寄せ、彼は口元をぎゅっと締めると階段を下りる。
広い玄関ホールを素通りし、真っ直ぐ台所に向かう。間に見かけた柱時計は夕食に若干早いけれど、支度をするには少し遅いかも知れない時間帯を指し示していた。
出入りを禁止されてしまった扉は、開けっ放しになっていて匂いは容赦なくそこから流れ出ている。近付くに連れて香りは強まり、目頭がツンと来る程の刺激になっていた。
香りの正体が何であるかも、テーブル上が片付けられていた食堂に至った時点で気付いた。
カレー、だ。しかも市販のレトルトなどではない。
「あ、ユーリ。おはよ」
自分から声を掛けようと思ったのに、扉口に立ったところを目聡く発見されてしまう。それだけで一気に脱力したユーリは、深鍋の前で紺色の無地エプロンを纏っているスマイルにため息を零した。
「アッシュは」
「今日も遅くなるんだって~」
ぐりぐりと鍋をおたまで掻き回しながら上機嫌に彼は言った。からからと調子よく笑っているのは、余程自分の大好物を好きな味付けで作れる事が嬉しいからだろう。
スマイル曰く、アッシュの作るカレーは甘すぎる。しかもタマネギが入っていない、と文句が途絶えないからだ。ユーリはそれほど感じた事はないのだが、スマイルはそれが多いに不満らしい。
だからこうやって、偶に台所の主が不在の時に彼は自分流の味付けでカレーを作ったりする。そもそも多趣味多芸の彼は料理もアッシュには劣るものの、上手で好きだったりするのだ。ただ普段は、面倒臭いし言わなくても作ってくれる存在が居るので手を出さないだけで。
「そうか……」
「ユーリ」
無意識に両腕で身体を抱きしめていたユーリに、スマイルは背中を向けながら彼の名前を呼んだ。顔を上げた彼に、けれどスマイルは振り向かず鍋を掻き混ぜ続けながら言う。
どんな夢を見ていたのか、と。
「私を部屋に運んだのはお前か」
「あんなトコで寝てたら、襲ってくださいって言ってるようなモノだよ?」
これからは気をつけてね、と笑うスマイルに舌打ちをしてユーリは視線を逸らした。目線だけでユーリを窺ったスマイルが、肩を竦めて口元を緩める。
「で、どんな夢だったの?」
「……覚えていない」
夢を見た意識は残っている、それがとても哀しくて寂しい、苦しいものだった事も覚えている。だのに夢の中身はまるで思い出せない。隠さずに告げると、スマイルは「そう」と相槌を打っただけで深く追求してくる事はなかった。
逆に何故夢を見ていたのを知っているのか、とユーリが問えばおたまにカレールーを少しだけ掬い、味見をしながら振り返ったスマイルがわざとらしく笑って見せた。
「魘されてた」
随分と苦しそうに、嫌々と何度も首を振って。大粒の汗を額に浮かべて唇を噛みしめている姿を眺めた時は、さすがに叩き起こすべきか悩んだとさらりと告げ、スマイルはまた鍋に向き直ってしまう。
その背中を見つめて、ユーリは昼間の事を思い出す。
彼は今日、居なかった。
「ユーリ、起きなかったじゃない。ぼくが出かけるとき、ちゃんと起こしに行ったんだよ?」
何度もドアをノックして、呼びかけたけれど返事はついぞ得られず仕方なく、書き置きを食卓に残して出かけたのが午後に入る少し前。だが帰宅後、リビングで無防備に寝転がっているユーリを発見した時テーブルの食事には一切手がつけられた跡がなく。
ひとり寂しくて不貞寝をしているのだな、と勝手に解釈して部屋に運んだのだとスマイルは至極簡単に、事の経過を説明してくれた。
揺すっても起きる様子がまるでなく、よっぽど深い眠りに入っているのだろうとスマイルは単純に思ったようだ。が、ベッドに下ろそうとしたときユーリは顔を歪め、彼の袖を掴んでなかなか放そうとしなかった。言葉にならない声を漏らし、泣いているのかと思わせるくらいに必死な様子だったと、微笑む。
勿論ユーリは覚えているはずがない。だがそんな事があったような気はして、気恥ずかしくなり顔を赤くしながらスマイルの頭を意味もなく殴ってしまった。
からからとスマイルが笑う。殴られたところを後ろ手に何度かさすりながら、カレーを掻き混ぜては時々味見。試しにユーリもひとくち貰ってみたが、案の定口の周りがひりひりとする辛さだった。
「痛っ……」
辛みが昼間、自分で作った口元の傷に触れたらしい。つい声を出してしまったユーリにスマイルは怪訝な目を向けた。直ぐに半分は塞がっているものの、周辺を赤くしている傷口に気付いて隻眼を細めた。
コンロの火を止め、ユーリに向き改めてスマイルは彼の顎に手をやった。親指で傷口の下に触れ、確かめるように首を傾げる。
「痛い?」
「辛くて痛い……」
正直なユーリの感想に苦笑して、スマイルは顔を寄せた。舌を伸ばして下唇の傷口を舐め、離れていく。
反応できなかったユーリは目を見開いたまま、暫くスマイルを凝視せねばならなかった。
「消毒」
「阿呆が!」
しれっと言って微笑んだスマイルにもう一発拳を叩き込み、ユーリは床板が抜けそうなくらいに足を踏みならして台所から出ようと歩き出す。鍋の前で、今度は本気で痛がっているスマイルがそれでも、蹲りつつ喉を鳴らして愉快そうに笑っていた。
「ユーリ」
出ていく間際、呼び止められて足が止まる。調理台のテーブルに顎を置く格好で座り込んだスマイルが、ひらひらと利き腕を揺らしていた。
さっきまでは痛みに耐えかねた涙目だったはずの右目が、なにかを見透かしたように怪しく輝いている。
ぞくりとした寒気を背筋に覚え、ユーリは無意識に唾を飲んだ。
「大丈夫」
だけれど彼が口にしたのは、怯えて構えようとしていたユーリが想像した言葉とは随分と違ったもので。
「ぼくは、置いていったりしない」
呆気に取られたユーリに、更にスマイルの言葉が続く。ただ、彼はその言葉の真意を測りかねたようで首を傾げるに終わったのだけれど。
スマイルは気にした様子もなく、立ち上がると再び鍋に向き合ってユーリを隔絶してしまった。不思議そうにしながらも、これ以上会話が続くことはないだろうと判断し、ユーリは台所を出る。
あと一時間もしないうちに、夕食がテーブルに並べられるだろう。スマイル特製、激辛カレーが。
悔しいので、アッシュの分も残して置いて彼に食べさせてみようと心に誓う。甘党のアッシュは、以前にスマイルが作ったカレーを食べて悶絶した事があった。彼だけがあの激辛から逃れるのは狡いと、光景を想像して笑っていたら珈琲を持って来てくれたスマイルに見付かった。
また笑われて、けれどさすがに三発目は避けられた。
Vanish/3
襟裏に通した細いネクタイを前で揃え、綺麗な形になるように鏡と睨めっこをしながら結ぶ。結び目を固く作ってから一度手を離してバランスを確かめ、若干右下がりだったのを修正してから椅子の背もたれに掛けていた上着を手に取る。
テーブルサイドに立てかけられている小振りのトランクを掴み、反対側の腕に上着をひっかける格好で彼は背筋を伸ばした。
「よし」
自分自身を鼓舞するように呟いて息を吐きだし、歩き出す。
扉を潜ると、廊下には光が満ちあふれ彼らの先行きを予兆させた。
リビングにある今月のカレンダーには、大きな赤い丸印が合計みっつ。そのうちの最初の印が明後日となった今日、城を出て今回のライブが行われる開催地へ向かう。半日を使って移動、その後打ち合わせで明日は本番ステージを使ってのリハーサル。
次にこの城へ戻ってくるのは、一週間後だ。
暫く住み慣れた我が家を留守にする時は、どうしても緊張が付きまとう。普段と同じように振る舞えるかどうか、ゆっくりと休むことが出来るかどうかも怪しい出先で、だからこそ平素と変わらないメンバーと顔を合わせて過ごせる事がありがたいと何度も思った。
合計するともう何度目か分からない、ライブ。しかし今回はいつにも増して演出に拘り、細部にまでユーリの考えを反映させている。その分彼に与えられる負担は大きかったが、彼がなによりも今回のライブを楽しみにしていたから出来るだけ、サポート出来ることは手を貸すことにみんなで決めた。
成功させたい、なんとしてでも。ユーリの為にも、それ以上にこのdeuilというバンドに関わった自分たちの為にも、と。
ユーリは階段を下りていく、玄関前の広いホールに先に準備を終えていたらしいアッシュの姿を見つけた。彼もまた、この一週間分を過ごすための品を詰め込んだトランクを足許に置き、仲間が揃うのを待っていた。いつもならば一番遅れて現れるのがユーリで、だからユーリが降りてくる事イコール、出発という図式が組み上がっていたのだが。
今日に限って、ラストはスマイルのようだった。ひとしきり視線を巡らせてみるが、あの透明人間の姿が何処にも見当たらない。
「スマイルはまだなのか?」
アッシュの近くまで行って問いかけると、この狼男は城主でありバンドのリーダーの言葉に苦笑を浮かべながら頷いた。珍しいこともある、とユーリが呟くのを聞いて何故か曖昧に、言葉を濁しながら同調の言葉を口にする。
「呼んでくる」
「あ……」
トランクを置き、身軽になった身体を振ってユーリは踵を返した。途端アッシュが何かを言いたげに顔を歪め、しかし結局声を呑み込んでしまったのを眺めることになりユーリは怪訝に思いながら首を捻った。
振り返って顔を見上げても、アッシュは何も言わず、だが何か言いたげに。困惑に近い表情を浮かべてユーリを見返していた。
「なんだ?」
「いえ、なんでも……」
言いにくそうに言葉を濁して彼は頬を引っ掻いた。感じる微かな痛みに、自分が思いの外指先に力を込めてしまっている事に気付いて気まずそうに手を引っ込める。
ユーリはその間無言で、アッシュの一挙一投足を見守っていた。そして短い息を吐きだしてから、徐に、
「お前は、私に何かを隠してはいないか?」
唐突な問いかけに、アッシュの方がぎょっとして身体を強張らせた。
「そんな事……っ」
「本当に?」
明らかに何かを隠しています、という態度を表明するアッシュの否定しようとする台詞に詰め寄って、ユーリは眉間に皺を刻み込む。不機嫌になりつつある彼に大急ぎで何度も首を振ってアッシュは否定しようとしたが、そのムキになってもいるような仕草こそが肯定を意味している事には、残念ながら気付かなかった。
ユーリの目つきが剣呑な色を含み始める。
「なにしてんの~?」
ちょっとした衝撃でひび割れてしまいそうな緊迫の空気を横から破り去ったのは、今までまったく存在の気配を悟らせなかった存在自身。間延びした暢気な声に肩すかしを食らい、思わず前のめりにつんのめってしまったユーリは倒れそうになった身体をかろうじて保った。アッシュもまた、どこか拍子抜けた顔をして発言者の姿を探した。
彼は、ビデオカメラを抱えてふたりの足許にしゃがみ込んでいた。本当に、一体いつからとふたりに言わせたがっているような居場所とタイミングである。
下からのアングルでユーリと、アッシュの顔を映像に収めたスマイルは最新式のカメラを片手ににっ、と表情を笑みで形作った。一気に毒気を抜かれ、ユーリはへなへなと身体から力を抜きながら数歩後退した。
「ユーリ?」
「遅いぞ貴様」
「ぼく、ずっと居たけど?」
気付かなかったのはふたりの方だよ、と右手を振って肘から下を透明化させて彼は笑った。その肩が小刻みに震えている。
「だったら、さっさと出てこい。出発するぞ」
額を片手で押さえ込んで悪態をつくユーリさえもカメラに収め、スマイルはゴメンね~と誠意の感じられない表情で謝った。アッシュが後ろで吐息を零す。
スマイルの右手は、消えたまま戻ってきていない。
「時間過ぎちゃってるっス、もう出発するけど忘れ物はないっスね?」
ホールの奧に鎮座している柱時計を見つめ、アッシュはユーリとスマイルの顔を交互に見た。ふたり同時に頷いて、少なくまとめられた手荷物をそれぞれ持ち上げる。その間もスマイルはカメラを手放さず、ずっとふたりの動きを映像に収めていた。
ライブがあるごとに、彼はこうやってカメラを取りだしてあちこちを録画して回っていた。ステージ袖、裏、その時のスタッフ面々、まだ組み上がっていないステージが完成していく様子、それからバンドメンバーの一喜一憂などを。
つまらないものを撮るな、とユーリはいつも言うのだけれどスマイルはやめなかった。そうやって撮り溜めされたビデオテープはもう随分な数になっていて、リビングのビデオラックの大半を占拠するようになっていた。
最近スマイルはそんなビデオを良く見返している。夜中にこっそりと見ているようで、ユーリは気付かないフリをしていたが本当は知っていた。
彼が、何かを自分に隠しているような気がしたのは、そんな事が背景にあったから。そしてアッシュが、ユーリの知らない事を知っているみたいで。
腹が立つ。
「撮るな」
レンズを向けてくるスマイルを手で押し返してユーリは足早に車に乗り込んだ。スマイルが遅れて続き、彼がドアを閉めるとアッシュはキーを捻ってエンジンを始動さる。背中に感じる振動に身を任せていると、運転席のアッシュがスマイルを振り返った。
「あとでそのカメラ、使い方教えてくださいっス」
エンジンが暖まるまでの間、暇つぶしの感覚で喋り掛けてきたアッシュにスマイルは苦虫を噛み潰した顔を作る。嫌がっている事が丸分かりの顔に、けれどアッシュはしつこく食い下がってきた。
「やだよ~」
「どうしてっスか」
「だってアッシュ、すぐ壊すもん」
台所の電子レンジ、今使っているものは三台目なのだが前の二台を壊したのは他でもない、アッシュである。リビングのビデオデッキも彼によって一度破壊された経験がある。洗濯機に関しては五台目。
彼は凶悪なまでに機械音痴だった。だからスマイルがビデオカメラを貸すのを渋るのも致し方ない事であり、ユーリも何故今になって唐突に、という思いでアッシュの横顔を眺める。
「今回はちゃんと気をつけるっス」
「やだってば~」
嫌がってカメラを胸に抱き込むスマイルから、強引に機械を奪おうと彼は腕を伸ばす。暫くじたばたと車の中で格闘が行われ、被害を被らない場所へ退避していたユーリの目の前で数分後、諦めたスマイルの電源を落とされたカメラをやっと差し出した。
ほくほく顔で受け取ったアッシュは、珍しそうにカメラを眺めてから簡単な操作方法を教えられる。
「時間は良いのか?」
腕時計の表示を眺めてユーリが尋ねる。アッシュの悲鳴があがって、彼は持っていたカメラを慌ててスマイルに押し返すと容赦なく、アクセルを床と平行になるくらいにまで踏み込んでくれた。エンジンが一瞬空回りし、直後、恐ろしいスピードで彼らを乗せた大型バンが路上へ飛び出す。
激しく上下運動を繰り広げた車内で、スマイルはカメラを胸に抱き込みながらユーリの方へ転がっていった。受け止め損ねたユーリは彼ごと反対側の扉に身体を押しつけられ、一瞬呼吸を詰まらせる。
ただ不思議なくらいに、スマイルからは重みを感じられなかった。
「アッシュ、安全運転!」
「了解したっス!」
なんとか身体を起こしたスマイルの叫び声に、全然聞いてもいないアッシュがアクセルを踏み込んだままハンドルを左に回した。また車体が傾ぎ、今度はユーリがスマイルの上に倒れ込んでくる。
ハンドルを握ったら豹変する性格さえなければ、と呟きながらスマイルは大事そうにカメラと、膝の上のユーリを抱きしめた。
居心地の悪さを感じたユーリは彼の手を振り払おうとしたものの、思った以上にスマイルの手に込められた力は強かった。抵抗を早々に諦めて彼の膝に居場所を改めると、目を閉じる。
「ユーリ、寝ちゃえ」
「無理を言うな」
この運転で眠れるはずがないだろう、と嘯くけれど。
優しく撫でてくるスマイルの手の平を感じているうちに、眠気が戻ってきてユーリはひっそりと欠伸をすると押し寄せてくる波に意識を委ねる事にした。
間も置かず夢の世界に沈んでしまった彼を見つめながら、スマイルは左目を糸のように細める。バックミラーにふたりの姿を観たアッシュが気付かれないように息を吐いた。
「いいんスか」
「なにが」
「いえ……」
前を見たまま問いかけるアッシュの声に短く返し、スマイルは震える右手を握りしめた。しばらく考え込むように視線を俯かせたのち、思い出してカメラを回し始める。
手始めにユーリの寝顔を収めようとして、さっきまでのアッシュを思い出し顔を上げた。ちょうど赤信号で車を停止させた彼も振り返ってきて、ぶつかり合った視線に気まずさが浮かび上がる。
「なに……」
「いえ」
言葉をかけようにもなにも浮かんでこなくて、唇を歪めたスマイルにアッシュは小さく微笑みかけた。スマイルの左手に収まっているカメラを指さして、ちらりと不安定に姿を現しては消す、を繰り返す右手に目をやる。
「今日からは、俺がカメラマンっス」
「どういう風の吹き回し?」
「その身体では、無理があるって……そう言って欲しいっスか?」
スマイルは口を噤んだ。恨めしげにアッシュを睨むが、青に切り替わった信号に促されて視線を戻してしまった彼には通じなかった。
運転を再開させて会話を一方的に中断させたアッシュに舌打ちし、スマイルは入れたばかりのカメラの電源を切った。ひっくり返ってしまっている自分の荷物を爪先で蹴り飛ばし、背中をクッションに沈み込ませる。
ユーリは眠っている、目覚める気配は感じられない。さっきの自分たちの会話とも言えない言葉のやりとりを聞かれた素振りも無い。
安堵したように息を吐く。胸の上からすぅっと力が抜けて、一緒になって全身が薄らいでいくように感じられた。
再度、舌打ち。
「スマイル」
「分かってるよ」
バックミラーに映し出される異変に声を荒立てたアッシュに苛々した様子で答え、彼は上着のポケットから小瓶を抜き取った。
透明な小瓶、飾り気もなにもないその中に押し込められていた白い錠剤は随分と中身を少なくさせていた。アッシュが以前、遠目ながらに見た時の半分以下になってしまっている。
「ちゃんと前、見ててよ?」
ちらちらと感じる視線を睨んで、スマイルは瓶の蓋を取り払い錠剤をひとつ手の平に転がした。水も使わず唾だけでそれを呑み込む。
瓶に残されている錠剤が車の振動でカタカタと揺れ、瓶の内側に身体を打ちつけていた。飲み過ぎを叱っているようで、スマイルは身体が落ちつくのを待ってから荒々しい仕草で小瓶をポケットに押し戻す。
その間、彼は一言も言葉を発しなかった。アッシュもまた、気に掛けながらも運転に集中して無言。ユーリに至っては夢の中、だ。
「大丈夫……っスか」
恐る恐るな問いかけを投げかけてくるアッシュに、スマイルは意地が悪そうに口元を歪める。ユーリを見下ろし、銀色の髪を撫でてふっと視線を外へ流した。
高速で走り抜けていく車の窓から見える景色はぼやけていて、形を捕らえきる前にあらゆるものが後ろへ流れて行ってしまう。
「大丈夫じゃ、ない……正直言えば。でも」
これだけは、譲れない。
最初は微かに震えた声で、けれどしっかりと迷いのない瞳で断言する。無意識に握るハンドルに力を込めながら、アッシュは黙って彼の言葉を聞いている。
スマイルの膝の上でユーリが身動ぎした。けれど目覚めようとしているわけではないと判断して、彼はひとつ息を零すと言葉を続けた。自分自身に言い聞かせるかのように、真っ直ぐに見つめる先にあるものは果てしない虚無。
「昔、言われた。人の願いは強ければ強いほど、想いは形となって還ってくる、と。だからぼくは諦めない、まだ最後だと決まったワケじゃないんだから」
決して諦めない、迷わない、立ち止まらない。例え宣告されて変えられない未来が確約されてしまってても、それが最終地点だと自分で選んでしまわない限り道はまだ、どこかに残されているだろう、と。どれだけか細く頼りない糸であっても、繋がっていればきっとなんとかなる。
自分から断ち切ってしまうような真似だけは、したくない。
「絶対に、成功させてみせる。ぼくが理由になって、ユーリの全部を無駄になんかさせたくない」
今回のライブを形にしようと頑張って、みんなを支えながら突き進んできたユーリの思いに応えられないようで、なにが運命共同体か。彼の努力と、時間と、思いを裏切らないためにも、ライブは成功させてみせる。
それが、境界線になるとしても。
「今回だけじゃなくって、また次も……あるんスよ?」
「それは、君に任せる」
「無責任っス」
時間は果てしない未来へ続く一本道だ。今が終わっても、次がやってくる。明後日から始まるライブが成功で幕を下ろしても、きっとユーリは満足しないだろう。
必ず次のステップを目指したがる。上昇を続けようとするだろう。
その時に、彼が居ないのは如何なものか。そう言いたがるアッシュに首を振って制し、スマイルはまたユーリの髪を撫でた。癖のない艶やかな銀糸がするりとスマイルの指をすり抜けて零れ落ちていく。
拾っても、拾っても溢れ出して掴むことの出来ないもの、そんな表現を象徴しているようだった。
「そうは言ってもねぇ……。それとも、なに?」
困ったように視線を巡らせて言葉を探しながら、スマイルは自分の右肩を抱いた。小刻みに震えていた身体は薬剤の効能で徐々に平静さを取り戻しつつあるが、効果の持続する時間は着実に短くなりつつあった。
一日五錠ではとても足りない。残り一週間、本当に保つのかさえ危うい状況にあることは誰よりも彼自身がよく知っている。アッシュに心配されるまでもなく、スマイルは自分の身体が抱えている問題を理解している。
だからこそ、無責任と詰られようとも怒ることが出来ない。
本当に無責任なのだ、皆を置き去りにしてしまおうとしている自分は。だけれど、それ以上に。
この先に待っている今以上の日々を、想像できても実現させることが出来なくなってしまう悔しさも、大きいのだ。誰にも告げられずに、胸の中に押し殺したまま消し去ってしまおうとしている思いの強さは、今にも彼を押しつぶしてしまいそうだった。
消えたくないと、泣き叫びたくなる。だけれどそんな事をしたって、結局は無駄だから。
運命は決まってしまった。あとは其処へ向かうだけで、抗ってもうち破る事は出来ない。
だったらせめて、僅かながらに残されている時間を自分の思うように、満ち足りた気持ちで終わりを迎えられるようにするしかないではないか。
もうこれ以上、新しい日々への未練を生み出すような事を、言わないで欲しい。
「アッシュの命、ぼくにくれるの?」
茶化すように、本当に冗談の気持ちでスマイルは嗤った。底意地悪く、絶対に彼が頷くことはないだろうと高をくくって、尋ねる。
前を見たまま、アッシュはけれど……頷いた。
「構わないっス」
「……バカじゃないの」
そんなこと、出来るはずもないのに。ちょっと考えれば誰にだって分かることだ、人の寿命を奪う事も与えることも、所詮は不可能な術。だけれど挑むようにフロントグラスを睨み付けながら走り抜ける車線を見据えているアッシュの、逡巡無い返答にスマイルは顔を歪めさせた。
くしゃり、と自分の前髪を握って俯き、顔を隠す。
ユーリは目覚めない。その事に安堵している。今目を覚まされて、泣く寸前になっているこの顔を見られでもしたら言い訳も出来そうになかった。
「今の、笑って過ごすトコだよ」
掠れる声で返したけれど、アッシュは返事をしてくれなかった。最近微妙に意地悪くなっている彼を思って口元を強く横に結び、自分の髪を掻き乱す。
「最後くらい笑わせてくれたって良いじゃない……」
「ダメっス」
不意にアッシュが言う。驚いて顔を上げると、フロントグラスに映し出された彼の顔と視線がぶつかった。
どきり、とした心臓が痛いくらいに締め付けられる。
「スマイルは、絶対に消えたりしないっス」
根拠のないことを、と笑い飛ばそうとしてスマイルはそれが出来ない自分を恥じた。
視線を逸らす。今、アッシュの顔もユーリの寝顔も、真正面から見つめ返す事が出来そうになくて窓の外ばかりを眺める事を徹底させる。
じくじくと胸に刺さった棘が傷口を広げ、周辺を化膿させ始めている、そんな感じ。
痛い。
だけれど声に出して告げる事も出来ず、スマイルは唇を噛んで吐き出そうとした息さえも呑み込んだ。
車は走り続ける。流れていく景色を見つめながら、スマイルはすべてを誤魔化すかのように静かに目を閉じた。
赤い丸印、その最後がやってくるまであと一週間を切った。
忙殺される日々を送るメンバーは互いに自分のことに必死で、打ち合わせがある時以外は短時間の休憩を送ったり、体を動かしたりと周囲に気を回す余裕さえもなかった。
だから、誰ひとりとして気付かない。
夜中にこっそりと部屋を抜け出しているスマイルの事に。
誰かと一緒に居る必要があるとき以外、誰の目の前にも現れなくなった彼を。
今までスマイルの役目だった映像記録の役割はアッシュに任せられ、だからこそ余計にスマイルの存在は人々の頭から抜け落ちる事になってしまっていた。
ライブ初日の終了後に開かれたささやかな酒宴の席に彼は当初、ユーリの横に座って杯を傾けていた。しかし気がつけば彼の姿はどこにも見当たらず、だがほろ酔い気分で上機嫌になっていた仲間達は誰も彼を捜そうと立ち上がらなかった。
ただひとり、アッシュだけは途中で席を立ち、一時間ほど帰ってこなかったのだけれどそれに関しても、何処へ行っていたのかを尋ねる声がついに上がらなかった。
ユーリだけが怪訝な顔をしていたけれど、アッシュは問いかけを巧く誤魔化してすべて躱してしまった。
スマイルが、居ない。
一番騒ぎたがる奴が居ない。
それを誰も不思議と思わない。まるで彼の存在自体を忘れ去ってしまっているような、そんな空気が夜になると訪れる。
ひたひたと音もなく忍び寄ってくるなにかを、身体の奧が感じ取っているのにその中身がまるで分からない。ただ無性に不安になる。
なにか、自分はとても大切なものを失おうとしているのではないか。
そう思っていても、果たして何を失いかけているのかがまるで分からないまま、時間だけが無為に過ぎていく。
ライブの準備、打ち合わせと本番に向けてのリハーサル、それに何よりもファンを前にした派手なステージが忙しさに拍車をかける。考える時間を奪われ、不安だけが膨らみながらも正体を掴むことが出来ないまま、また時間は過ぎ去っていく。
取り戻せなくなる前に気付かなければならないと、心ばかりが焦っていくのに環境がそれを許してくれない。
誰かが、居なくなる。
そんな不安が胸を去来する。それを疲れによる錯覚だと自分に言い聞かせて、考えないようにしているうちにやがてざわざわと頭の中で騒いでいたものも静かになった。
漸く落ち着けて、ユーリは息を吐く。
「ユーリ」
手遅れに、なる前に。
アッシュがホテルのロビーでくつろいでいる彼に声を掛けた時、ユーリはひとりだった。既に時刻は夜半を過ぎ、明日いよいよファイナルを迎えるライブへ気が高まり押さえ切れず眠れなかったのだ。
てっきりアッシュも同じだと思ったユーリは、丁度良い話し相手を見つけたと彼を見上げ、ソファの向かいに座るように顎をしゃくる。けれど彼は首を振り、直ぐに済むからとその場に立ち続けることに固執した。
昼間に散々向けられたビデオカメラは、今彼の手にはない。ただ癖になってしまっているのか、アッシュの手は中途半端に空気を掴んで曲がっていた。
「眠れないのか?」
「ええ、そうっスね……明日、ですから」
明日。
城のカレンダーに描かれた赤い丸印。
あれを書いたのは他でもないスマイルであるが、あの印が隠している本当の意味を知っているのは本人と、アッシュだけだ。ユーリはあれを、ただの単なるライブの日程を意味するものだと思っているに違いない。
スマイルは他の誰よりも、ユーリに知られる事を拒んだ。理由は分かる、言われなくても。だからこそアッシュは彼に言うべきだとスマイルに勧めたが結局は無駄に終わっている。
彼にも意地があるのだ、これと決めたことは貫き通すだろう。
ざわざわする、胸の中が。
自分は、そして彼は、こんなにも沢山のことを考えて苦しんでいるというのに彼独りだけが何も知らされず、気付きもせずに居ることに不平を覚える。
知らない方が良かったのかもしれない。だけれど、知ることで少しでも彼の中にある自分の位置が部分的にであっても、ユーリより高い場所に居られた事にも優越感を感じてしまっている。
ユーリよりも彼のことを、分かってやっているという自負が生まれてしまっている。
だから、こそ。
それが胸の痛みを増幅させているのだと気付く。
真実を教えられる事と、教えられないことの差。それがそのまま、彼の心の中にある自分たちのランクとなっているのだから。
もやもやする。消し去ってしまいたい、この感じを。
「そうだな、いよいよ明日だ」
アッシュの言葉を額面通りの意味で受け止めたのだろう。組んでいる膝の上に結んだ指を弄り、ユーリは胸の中の興奮を抑えるのに必死という声で呟く。僅かに前に傾いでいる彼の身体の、後頭部を見下ろしながらアッシュは荒い息を吐いた。
引き裂いてやりたいと思った、彼の余裕を。
大事にされている、その綺麗な心を塗りつぶしてやりたかった。
「ええ、本当に。明日……スマイルが」
「アッシュ!」
吐き出した分の息を吸い込む。そして呟こうとした言葉は、けれど途中で背後から飛びついてきた人物によって絶妙なタイミングで遮られてしまった。
背中にへばり付き、両腕を肩から前に回してぶら下がる格好で飛びかかってきたのは他でもないスマイル。勢いを殺しきれずに前につんのめり、傾いてしまった身体をユーリが座るソファの背もたれに落とすことで耐えたアッシュが唖然と、首だけを振り返らせた。
そこにスマイルの、笑っているけれど怒っている左目を見つけて表情を凍らせる。
「アッシュ君……今、言おうとしたでショ」
「そんなこと……」
「嘘」
吃驚しているユーリには聞こえないように耳元で囁いて、スマイルはアッシュの尖っている耳の先端に噛み付いた。
小さな悲鳴を上げてアッシュが身体を揺らし、反動で床に降り立ったスマイルが今度はソファ越しにユーリへ抱きついた。甘えるように頬を押しつけ、ゴロゴロとネコ真似で喉を鳴らす。
「ユーリ、眠れないよぉ。一緒に寝よ?」
「なにをバカなことを……」
片目を細めながら言うスマイルに、ユーリは苦笑しながら彼の頭を撫でる。だがきっぱりと拒否の回答を口に出し、暑苦しいからと離れるように彼を押し返した。スマイルはあっさりとユーリから離れ、残念そうに石を蹴り飛ばす仕草を繰り返す。
噛まれた耳を押さえたまま、アッシュは茫然とした面持ちでそれらを見つめていた。だけれど唐突に、スマイルに振り返られて全身が毛羽立つ。
「振られちゃったー。しょーがないからアッシュ君で良いや」
ユーリに軽口を叩いてオヤスミ、と告げる。それからするり、と固まっているアッシュの腕に手を絡めると引きずるように、歩き出す。
「え、あ、ちょっと!?」
「私も寝るか。明日遅れるなよ?」
「分かってる、ユーリこそ寝坊しないようにね。オヤスミ」
狼狽したままのアッシュを置き去りに言葉を交わしたスマイルとユーリはそれぞれ別方向へ歩いていった。フロアごと貸し切っているホテルのこの階には、他に客が居ないので多少騒いだところで苦情が飛んでくる事はない。
フロアの通路、端にある非常出口への扉の前で立ち止まるとようやく、スマイルはアッシュを解放した。後ろ手に回した腕を結び合わせ、上半身を彼の方に突き出す。
瞳はさっきよりもあからさまなまでに、笑っていない。
「アッシュ君?」
ユーリに言ったら絶交だと言ったはずだが。下から見上げて問いかけるスマイルにアッシュは返事を詰まらせ、なんとか逃げ切ろうと突破口を必死に探す。だけれど現場を押さえられた事がなによりも痛い、考えても逃げ口は見当たらなかった。
せいぜい本当に逃げるための階段が、背中を押しつけている壁の隣にあるくらいで。
「だって、スマイルは」
「明日だよ」
さらりと、他人事のように彼は断定してみせた。そしてゆっくりと、アッシュの前に己の右手を翳す。包帯を解いていけば、下から現れた腕はかろうじて輪郭を認められる程度の濃さしかなかった。
十日前に確かめたときは手首までだったものが、今では肘よりも奧にまで浸透してしまっている。喉を鳴らして唾を飲み込んだアッシュを、彼は軽い調子で笑い飛ばした。
「今日、どれくらい飲んだと思う?」
常にポケットに携帯している錠剤の瓶を取りだして振り、彼は問うた。透明な小瓶に残されている量は底が見えるくらいに僅かで、減り方の速さにアッシュは言葉もなかった。 一日十錠どころの数ではないはずだ、絶対に。
答えられないでいると、スマイルは取りだした瓶をまたポケットに戻す。飲まないのか、という視線での問いかけに彼は肩を竦めた。
「残り、少なすぎるからね。明日の朝、まとめて全部……飲むよ」
そうすれば一日、なんとか保つだろうから、と。
ライブのリハーサルを終えて、本番をこなして、それが済むまでで構わない。ライブが無事に終幕を迎えさえすれば、その瞬間に消え去っても構わないのだと彼は笑いながら言う。
どこまでも楽しげに、そして、哀しげに。
彼の表情が揺らぐ。
「本当に……消えて?」
「ずっとそう言ってるでショ?」
抗えないさだめに抵抗を表明して、やっとこれだけなのだ。
「俺の命、分ける事って出来ないんスかね」
「出来たら、分けてくれるの?」
先日、車の中で繰り広げられた会話がこの場に戻ってきて、スマイルは苦笑った。けれどアッシュは真剣な表情のまま頷いてみせ、彼を辟易させる。出来るはずのない事に執着するのは良くない傾向だと諌めてみても、アッシュは否定しなかった。
じっとスマイルを見下ろして、逸らさない。先にスマイルの方が疲れ果て、溜息を零すしかなかった。
「君がそこまで徹底的にバカだなんて知らなかった」
俯き加減で爪先を床に擦りつけるスマイルを見下ろし、アッシュは乾いた声で笑う。スマイルは暫くそのまま下を向いていたが、やがて吹っ切るように頭を振って髪を掻き上げた。同時に視線も持ち上げ、アッシュの事を鼻で笑い飛ばす。
むっ、となった彼を更に笑って、隻眼を緩めて。
長い長い息を吐きだした。
「本当、もうちょっと器用だったら良かったのにねぇ、君ってば」
「俺、不器用じゃないっスよ」
むしろ不器用なのはユーリの方だと言い返そうとしたアッシュを手で制し、スマイルは髪の毛をくしゃくしゃにしながら首を振る。そっちの意味ではない、と。
言外に告げて。
にっこりと、微笑む。
「でもぼく、そういう君のこと結構、好きだったよ」
過去形にされた。
「今は?」
「今も好き。でもさっきは嫌いになりそうだった」
初めて聞く、彼が発した単語。
冗談でもなんでもなく、本音で語られた単語。
お手軽にも、ただそれだけの事なのに嬉しいと感じてしまっている。アッシュは息を呑み、それから手で緩みそうになる口を押さえ、目を閉じた。
感慨深い思いで呼気を吐き出す。目を開けば、微かに霞んだような気がするスマイルがまだ、そこに立ってアッシュを見上げていた。
「だから、アッシュ。ぼくに嫌われたくなかったら……これだけは守って」
我ながら都合の良いお願いだと自分で自分を笑いながら、彼は言った。視線を遠くへ外し、何処でもない場所を見つめている。
非常扉の位置を示す緑色の明かりだけが、夜中である為に押さえられた照明の下で煌々と輝いている。
窓のない世界では、月も見えない。
スマイルは視線を戻した。僅かな躊躇を見せたあと、ゆっくりと唇を開く。
「ぼくを」
どうか。
願いを。
叶えて。
最後の。
祈りを。
届けて。
彼、に。
「忘れないで」
消さないで。
無くさないで。
失わないで。
手放さないで。
例え残らなかったとしても。
確かに在った、と覚えていて。
「ぼくは消える。姿形だけでなく、人々の中から、その存在さえも」
記憶の中から、あらゆるものの中から、“スマイル”という存在が在った事が失われる。
明日が終わって、明後日が訪れる時にはもう、誰もきっと彼のことを覚えていない。最初から居なかったものとして扱われ、誰も思い出さない。
思い出せなくなる。
存在の、消滅。
居なくなる、彼はこの世界から忘れ去られる。誰の中にも残らない、彼はなにも遺せない。
愕然と、アッシュはその場に立ち尽くす。
「きっと君も、ぼくを忘れる。だから、良いんだ」
好きでいてくれて有難う、とスマイルは寂しげに微笑んだ。
でも。
もし。
ほんの少しだけ、期待している。
どうか、忘れないで。
このぼくを、忘れないで。
覚えていて。
消さないで。
「消したりなんかしない!」
アッシュは叫んだ。けれどスマイルは、ずっと微笑んだまま表情を変えてはくれなかった。
「俺は絶対に、スマイルのことを忘れたりなんかしない!」
寂しそうに、嬉しさに紛れさせた哀しみを浮かべて、スマイルは笑い続けた。
「ユーリの事、よろしく頼むね」
それだけが心残りだと彼は言う。ぽつりと、付け足すように或いは、自分への語りかけのような台詞をあとに繋げて。
「ぼくはね、正直言うとユーリのこと、ちょっと苦手なんだ」
思いがけなかった言葉に驚き、アッシュは目を見開いて彼を凝視した。スマイルが苦笑する、右肩が小刻みに震えていた。
「だって、さ。ユーリだけなんだ」
ぼくがぼくで、居られなくなる相手。
一緒に居たいと思うのに、一緒にいると自分を見失いそうになる相手。
誰よりも近くに在りたいと願っているのに、近付きすぎて自分の心を覗き込まれるのが恐い相手。
すべてを知りたいと求めてしまうのに、知ってしまうのが恐ろしくて躊躇を覚えてしまう相手。
ことばに出来ない感情を抱く相手。
それが、ユーリ。
「スマイル……」
「バカなのはぼくも同じだよね。ぼくはずっと、ユーリが恐かった」
変わってしまう自分が、ユーリによって変えられていく自分が。誰にも左右されず、自分ひとりでも生きていけるはずだったのに、いつ消えても構わないと思ってきていたはずなのに。
いざその時が目の前にやって来た時、なによりもユーリと別れなければならないという事実が恐かった。
スマイルが自分の身体を自分で強く抱きしめる。手を伸ばそうとして、アッシュは寸前で止めた。自分にその資格がないことは分かっている、彼に手を差し伸べられるのは自分では決してないのだ。
たったひとりだけが、それを許される。
「明日、さ」
緩く首を振って、ガラにもない事を言ったと笑い飛ばしてスマイルは改めてアッシュを見た。中途半端に右手を浮かせていた彼に気付かないフリをして、告げる。
「絶対、成功させようね」
誰もが忘れられない夜になるようにしよう。誰もが覚えている夜を迎えよう。
アッシュは頷いた。力強く、自分に出来る最高の笑顔を彼に向けて。
彼を忘れる人が誰も現れませんように、と。
祈り続ける。
そして夜が明けて。
運命の日が、訪れる。
ばいばい、と最後の言葉はとても簡単。
悪い冗談だとユーリは初め、笑い飛ばそうとした。人を莫迦にしていないで、さっさと戻ってこいと虚空へ呼びかける。
けれど返事はない。
冷たい夜の風だけが寂しげに空を漂い月を隠して流れていく。思わず身震いしてしまったユーリは自分で自分を抱きしめながら、己の吐き出す息でさえもこだまして来そうな雰囲気を漂わせている空間に視線を流した。
「…………」
なにかを、呟こうとして。否、誰かの名前を呼ぼうとして、ユーリは開きかけた唇を微かに動かした。けれど音に零すべき肝心の名前がまるで思い出せなくて、彼は自分の行動に驚きと疑問を抱きつつ上唇を浅く噛んだ。
誰も居ない暗闇に包まれたステージ。
機材は既に運び出されていたが、大がかりなセットだけは明るい時に解体すべきだという事から骨組みだけがそのまま残されていた。僅か数時間前までは凄まじい熱が立ちこめていたライブ会場も、人が去ってしまってからは空虚で寂しい限りの空間に変貌する。ステージを踏みしめながら歩けば、足音が意外なまでに遠くまで響いていった。
誰も、居ないはずだ。だからこんなにもこの場所は寂しい。
だが、とユーリは数歩進みステージの中央部分、あの熱気が充満するライブの最中に自分が立っていた場所に至って改めて周囲を見つめて、ユーリは違和感を覚え振り返った。
さっきまで、ここに誰かが居たような気がする。
だのに此処に居たのは自分だけだったと、靄に包まれているようなはっきりとしない頭がそう数分前までの記憶を再生する。
誰かと、話をしていたはずだ。乾燥を潤そうと何度も唇を舐めて唾を飲み込んだ感覚が、身体の中に残っている。だけれど頭の方がその感覚を否定して、誰かが居たという思いをうち消そうとする。
ちぐはぐで、噛み合わない。持ち上げた右手の中指で唇に触れ、確かに此処に他者の熱を受け止めたはずだと訴えてみても脳裏にその光景はまったく浮かんでは来なかった。
そもそも、ではいったい誰が居たと言うのだ?
ユーリは顔を上げた。やはりそこに誰も居ない。
暗い闇が両手を広げているばかりだ。だけれど、ふと、自分の足許に異質なものが転がっている事に気付いて首を捻りつつ、ユーリは膝を折って腰を落とした。左手でそれを取り、顔の前にやって薄暗い星明かりに晒してみた。
透明な、小瓶。
中身は、ない。
「薬瓶……?」
そうは呟いてみたものの、小瓶の表面には中身や成分を記すラベルの類が一切貼られていなかった。きつく締められている蓋を取り去って中を覗き込んでも、底の辺りに白い粉が数粒固まっているだけで中身は残っていなかった。手の平に逆さにした瓶を振ってみたが、粉は指先に落ちず吹き込んできた風に流されて夜に紛れた。
いったい何故こんなものがステージに落ちているのだろう。片づけをしていたスタッフが落としたのだろうか、だとしても妙な話でユーリは蓋を閉め直した小瓶を改めて見つめながら首をしきりに捻ってみた。
だが考えたところで答えが出てくるはずがなく、ユーリは中身のなくなった小瓶を胸のポケットに押し込むと立ち上がる。
確かに誰かと話をしていたはずなのに。
自分は、とても怒っていたはずなのに。
実感がわかない。何を怒っていたのかも、誰に怒っていたのかも分からない。そもそもそういった事があったという記憶は、頭の中がきれいすっぱり否定してくれている。
白昼夢でも観ただろうか、と月明かりの遠い夜空を見上げて彼は思った。
ここは街中からかなり外れた場所にあって、だからこそあれだけ派手なステージを演出できたのだけれど、夜が来るとやはり寂しすぎる。早くみんなのところに帰ろうと踵を返そうとして、ユーリは下からの視線に気付いた。
振り返る。ステージに人の姿はなかった。
その代わり、いつの間に訪れたのか音もなく忍び寄っていたらしい黒い毛並みをした猫がいた。
猫、と呼ぶには多少語弊がありそうな巨躯をしているが。言い直すとしたら、黒豹に近いだろう。しなやかな体躯に無駄なものは感じられず、獣の身でありながらユーリに美しいとさえ思わせる雰囲気を纏っている。
なによりもユーリを驚かせたのは、見るものの目を見張らせるその左右不対の色をした瞳だろう。
左目が血のように赤く、右目が目映い太陽の輝きを思わせるくらいに見事な金沙色をしている。だがユーリを驚かせたものはもっと別のところにあった。初めて見えるだろうはずのこの黒い艶やかな毛並みをした猫に、自身が既視感を覚えた事に自分で驚いている。
知らないはずだ。
だのに、自分はこの猫と面識がある。
理由は分からないのに、はっきりと確信出来るなにかが胸の中で塊になってユーリの躰をずん、と重みで引き留めている。
黒猫が、静かに微笑んだ。いや、そう見えただけかも知れない。
嗤う、哀れむように。
ユーリは身震いした。何故か、この黒猫がとてつもなく恐ろしい存在に思えて来たのだ。逃げだそうとさえ思った、しかしそれ以上に知らないはずなのに知っていると、体でも心でもない自分の中にあるなにかが訴えかけてくるこの存在に、興味があった。
知りたいと思ってしまったその好奇心がユーリをこの場に踏み止まらせる。
胸ポケットの中の小瓶が、重くなった気がした。
「覚えていないようだね」
さらりと滑らかな黒髪が手の平から零れていくような、珠を転がすような美しい声が響き渡る。一瞬、誰のものかと誰何の声を上げながら周囲を見回してしまったユーリに、からからと軽い調子の笑い声が被さった。
此処だよ、とからかうように告げる声は確かに、ユーリの足許に在る黒猫から発せられたものであった。
「猫が……」
「狼男がドラムを叩いているんだ、今更何を驚くことがあるって言うんだい?」
揶揄する声に頷き、ユーリは自分らしくなく動揺してしまっている事に気付く。言われてみれば確かにその通りで、自分が驚く事はないと思い直すと唾を飲み込み改めて黒猫を見下ろした。
そして、問う。
「覚えていない、とは」
「お前さんが今の今、ああ、あたしがお前さんの前に現れるちょっと前の事だけどね。誰と話をしていたか、という事さ」
「…………」
ユーリは黙り込む。やはりさっきまで誰かと一緒だったという感覚に間違いはなかったと言うことだろう。だが言われても実感は戻って来ることがなく、本当に彼女の言葉を信じても良いものかと疑ってしまいそうになる。
承知済みなのか、黒猫は婀娜な女性の声で続けた。
「あたしの事も、覚えていないんだろう?」
「……そのようだ」
知っている気はするが、具体的にどこで会ったのか、どういう関係があったのか、名前がなんであったのか、そういった付随する情報がまったく頭の中から導き出せないでいる。こめかみを押さえ込んだユーリを見上げ、黒猫は無理ないことだと嗤った。
そういう風に、仕向けられたのだから、と。
「誰に」
反射的に問いかけて身を乗り出そうとしたユーリをやんわりとした表情で見つめ、黒猫は視線をスイッと逸らした。そのまま誰も居ない観客席だった場所に顔を向け、遠いところをオッドアイで眺める。
「そうだねぇ……」
敢えて言葉で言い表すとしたら、それは”世界”という奴だろうね、と。
寂しげに呟く声はユーリに語りかける、というよりもむしろ彼女が彼女自身へ言い聞かせるような、そんな空気があった。
ユーリは黙り込み、胸に片手を置いた。居場所が定まらず虚空を指先が掻いた先で固いものを見出し、取り出せば先程ここで拾った小瓶が現れる。今となっては中に何が入っていたのかも分からない、誰のものかも分からない瓶。
握りしめると、自分のものでない体温を感じたような気がした。当然、錯覚だろうけれど。
「あの子はね、最初から……居なかった。理論を歪めてあたしがあの子を世界に導いた。だからあの子は、正しい理論によって世界から押し出されて姿を消した。こう言ったところで、お前さんは分かりはしないんだろうけどね」
自嘲気味に嗤ったような気がして、彼女の言葉に耳を傾けていたユーリは整った眉目に皺を刻む。
「それは……貴女が言っているその”誰か”は、私の知っている存在なのか」
「知っていた、だよ坊や」
くるりと顔の向きを戻した黒猫が言う。
過去形。忘れ去られた存在、誰も知らない存在。
だけれど、確かに存在したはずの、誰か。
誰?
胸の中がわさわさしている、何故忘れてしまったのだとユーリを責め立てる声がする。反対に忘れてしまう方が幸せで居られるのだと庇う声もある。
反目するふたつがせめぎ合い、ユーリの中で争っている。
「お前さんは悪くない、勿論あの子もね。しばらくは違和感を覚える事もあるだろうが、それもじきに消えるさ」
居なくなった存在ではなく、最初から居なかった存在に切り替わるだけだと彼女は告げた。
ばいばい、と寂しげに告げた声が耳の奧で響いている。
消えない木霊が頭の中で繰り返し響いている。
どれだけ頭を振っても、消そうとしても、否定しようとしても、この声は無くならない。
「なんの冗談だ、これは……」
知らない存在の声がする。覚えていない誰かが自分を呼んでいる、切なく哀しい声で、狂おしいくらいにユーリを求めている。
それなのに、自分はあの声の主の名前さえ思い出せない。
「覚えているのかい?」
黒猫が尋ねた、ユーリは頭を押さえたまま首を振った。
覚えていない、だけれど忘れても居ない。
思い出せない、けれど否定出来ない。
だって、自分は。
自分は。
彼の手を、掴もうとしたのだから。
彼に、行くなと叫んだのだから。
忘れたくないと、たとえ世界が許さなくても、彼の事を忘れたくないと、願ったのだから。
「覚えてなどいない……だが」
忘れることだって、出来ない。
出来るはずがない。
だって、自分は、彼のことをこんなにも。
こんなにも……?
「……足りないんだ」
胸の中にぽっかりと穴が空いている。そこに填め込まれたピースが自分の許可なく抜け落ち、どこかへ転がって消えてしまった。
なにかが、足りない。自分の中で当たり前のようにそこにあったものが、今そっくり全部消え失せてしまっている。
わさわさする、落ち着かない。
気付いてしまった事で、尚更に。気分が悪い。
いつ、消えていいと許した。勝手に自分の心の中にあれだけずかずかと踏み入ってきておきながら、自分だけ勝手に楽になって置き去りにして、我が侭が過ぎるぞと、顔も思い出せない輪郭さえもおぼろな誰かに向かって怒鳴りつける。
地団駄を踏むように足を床に叩きつければ、ステージが揺れるくらいの音が響き渡った。
黒猫がぎょっとしたようで、それからカラカラと喉を鳴らして笑い出す。その笑い声さえも癪に障って、ユーリは無意識に握りしめた拳をつきだして怒鳴っていた。
「うるさいぞ貴様!」
「目上に対する態度がなっていないようだねぇ、坊や」
ぞくりと背筋が粟立ちそうな迫力を密やかに込めた視線を向けられ、出した腕を引っ込めることも出来ずに硬直したユーリだったが今彼女が発した台詞には、どこか聞き覚えがあるような気がした。
確か、そう。以前に言われたときもこんな風に自分が身勝手に怒鳴り、静かにたしなめられたはずだった。
そして自分の後ろには、自分たちの様子を眺めながらひとり我関せずで笑いながら見つめている存在があったはずだ。そう、彼は確かに……ここに居た。
自分の隣に、いつだって隣に。お節介なくらいに、居て欲しいと思うときに必ず側に居てくれた。
どんなに突き放しても、無視しても。関わらないようにしていても、突っぱねても、拒んでも、どんな時も。
側に居てくれたのが彼ではなかったのか。
思い出した。
何故忘れていたのか、それ自体が不思議に思えてくるくらいに、彼はいつだって空気のように隣に立って笑っていたではないか。自分の隣で、あんなにも笑って、居てくれたではないのか。
どうして、例え一時であっても、彼のことを忘れてしまったのだろう。
あんなにも、求めて止まなかった存在なのに。
何故。
「坊やの所為じゃないさ。世界がそういうさだめをあの子に背負わせていただけで」
涼しい声で彼女が言う。遠くへと流した視線の先に、果たして彼女は何を見据えているのだろう。ユーリよりもずっと長い間彼と共に暮らし、ユーリよりも遙かに彼のことを知っているだろう彼女に、一時嫉妬に似た感情を抱いた事があったのに。今は他の誰よりも、彼の事を案じて探している目をしていると感じられた。
ああ、そうだ。彼女は紛れもなく彼の、母親だったのだ。
「だとしても、いやだからこそ……私は、悔しい」
庇うような事を言われても嬉しいとは思わなかった。握りしめた拳が傷を生み出す事さえ構わずに力を込めて、ユーリは小刻みに震えている己の身体を見下ろした。
「悔しい。どうして、止められなかった!」
「さだめ……だと言っても、納得しないのだろう?」
「当たり前だ!」
消え去る事が逆らいようのない運命だったとしよう、彼がそれを知っていた事も認めよう。だったら何故、教えてはくれなかったのか。一緒に……あんな風な別れ方をしなくても良い方法があったはずなのに。
ひとりだけで悩んで、ひとりだけで受け入れて、ひとりだけで去っていこうとして、だけれど最後の最期だけ、身勝手な事をして。
忘れないで、などと。
自分で言っておきながら。
忘れてくれて構わないと、笑うなんて。
許せないではないか。
現にユーリはこうやって彼を思いだした、忘れてしまっていた一瞬を悔いて恥じた。彼の勝手に振り回されて、言いように踊らされている自分を情けなく思っている。
そもそも自分がここにやって来たのは、どこにも見当たらない彼を捜そうとしてアッシュにこの場所を教えられたからに他ならない。
ライブが終わって、スタッフ一同も交えての打ち上げに一向に現れない彼を捜して、ユーリはあちこちを彷徨った。その結果アッシュに耳打ちされた誰も居ないライブ会場へ足を向けて、ようやく目的の人物を見つけた。
彼は、ユーリが今立っている場所に腰を下ろし、唄を――歌っていた。
懐かしいメロディーを口ずさんでいる。その曲が彼と、ユーリとが初めて出会った雨の日、街中の片隅でギターを片手にした彼が歌っていたものだと気付くのに時間は掛からなかった。
ユーリを見つけ、ゆっくりと立ち上がった彼の姿は半分ばかり闇に溶け、もう既に、存在は希薄になってしまっていた。それでも彼は笑って、ユーリに触れようと手を伸ばした。
凍り付いたユーリに寂しげに微笑みかけて、彼は何度となく悔やみの、そして謝罪の言葉を口にした。ごめんね、と繰り返すごとにユーリを撫でる彼の指先から体温が失われていく。やがて輪郭だけになってしまった彼の手は、存在しているユーリの上を空回りして行くようになって、動けないままユーリは幾度と無く彼の名前を呼び続けた。
ゴメンね、と彼が笑う。
哀しいのに涙が出ない。それが余計に、哀しかった。こんな時にも泣けない自分が恨まれて、唇を噛みしめると寂しげに彼は首を振った。
キスを。
しようと、して。
重なったはずなのに、もう、なにも感じられなかった。
触れあったはずなのに、彼の存在はなによりも遠かった。
君と出逢えて良かった、と彼は言う。
随分と長い間世界中を彷徨った中で、君に出逢えてからの数年がそれまでの数百年よりも遙かに、幸せだったと彼は笑う。
何度も名前を呼ばれた。その度に胸が締め付けられて切なくなった。
それでも、自分は泣けなかった。
今頃になって涙が溢れてくるなんて、卑怯だ。
彼の前で、彼に逝くなとも言えず泣けなかった自分が悔しい。
もし泣けていたら何かが変わっていたかも知れないと思うと、悔しくて、哀しい。
「うっ……」
顔を押さえ、彼女の前であるに関わらずユーリは。
涙を、流す。
彼女は何も言わなかった。茶化すこともからかうことも、慰める事もなく。静かに、過ぎ行く時の風を感じながらユーリを見つめていた。
今でも耳を澄ませば、世界に融けて消えていった彼の声がする。ユーリを呼び続け、笑っている彼の顔が思い浮かぶ。
それなのにもう、彼はどこにも居ない。
探しても、見付からない。
誰も、覚えていない。
彼の事を、誰も、思い出せない。
あんなにも彼はこの世界が大好きだったのに。あんなにも笑うことが好きだったのに、人を喜ばせて笑わせて、愉快な気持ちにさせるのが好きだったのに。
彼が、居ない。
もう、どこにも居ない。
見付からない。誰の心の中にも、彼を見つけだすことが出来ない。
世界から、世界中から忘れ去られてしまった。
「スマイルっ……!」
涙声で名前を呼ぶ。
返事があるはずは、当然なく。
黒猫は双眼を細めた。左側の血の色をした瞳が僅かに色を揺らがせる。
彼女が、言った。
その日を最後に、”スマイル”と呼ばれていた存在は世界から姿を消した。
誰の心にも彼の存在は宿らず、誰ひとりとして彼を覚えているものはなかった。
彼は消え失せた。
世界中が、彼の存在を否定した。
一週間ぶりに帰り着いたユーリの城には、山のように積み上げられていたはずのスマイルが録画したビデオや彼が購入したもの、そういったものが一切残されていなかった。
彼が使っていた部屋は物置になっていて、埃が積もりずっと使われていなかったかのような様相に変わってしまっていた。
今までのdeuilの活動を記録する映像や写真、そういったものからも彼の姿は抹消されていた。代わりに観たこともない、まったく知らない誰かが彼の居た場所に収まっていた。
スマイルを撮影した写真は一枚も残っていなかった。ビデオに関しても同様だった。
ただ、その中でひとつだけ。
アッシュが持っていた、今回のライブを裏から撮影するためにスマイルが用意していたビデオカメラ。その中に、まだ残量が半分以上残っていたテープに、ほんの僅かな時間だけ、彼の姿は残されていた。
まるで奇跡のように。
彼はビデオ映像の中で、笑っていた。
彼らの事を好きだと公言していたファンも、彼と一緒に沢山の仕事をこなしてきたアーティスト仲間たちも、誰もが彼を忘れていた。
ビデオの中で、彼は静かに微笑んでいる。ばいばい、と、あの夜にユーリへと告げた時と同じ笑顔を浮かべ、彼は今もあの場所に佇んでいる。
彼は消えた。
誰も覚えていない。
ただユーリと、それからアッシュと、このビデオテープだけが。
彼の存在を、忘れられないでいる。
黒猫は言った。
もし奇跡を願うのなら、と。
自嘲気味に笑って丹朱色の左目を閉ざす。
ビデオの中で、彼が笑う。
控えめな声で、囁きかける。
右側だけの丹朱が細められる。
闇空の下、ユーリが月を見上げながら呟く。
夜に融けていく誰の耳にも届かない声で。
ルビー色をした鮮やかな瞳を伏せて。
言葉が、重なる。
願いが、重なる。
人の願いが強ければ強いほど
思いは形となって還ってくるでしょう
いつか、いつの時にか、必ず
貴方のもとへと――――――
黎明
東の地平線からようやく、太陽が頭を少し覗かせようとしている。まだ空の頂点は薄暗いが、徐々に明るさを帯び始めた山並みが遠くで輝いている。
凛として、真っ直ぐに張り詰められた糸のように鋭い空気が満ち、人間も、動物も、未だ多くが寝静まり音もなく静かな時間帯。
この時間が、一日の中で一番好きだと、思う。
人が少ない時間帯は、深夜でもそうだけれど(最近は夜中も騒がしいが)、薄靄がかかる空を見上げ徐々に白み明るくなっていく景色の変化を見られる分、やはり朝が一番だと思う。
雲雀恭弥は自宅の門前に出て、日中の喧騒とは無縁の町並みを眺めていた。白のカッターシャツに黒のベスト、左腕にはベストと同色の腕章をつけている。やはり濃い色のネクタイをきちんと歪ませずに結び、腕組みをしながら無表情に仁王立ちしている姿は、初見の人間にとっては不気味かつ言い表しにくい恐怖感を与えてくれる。
下手に顔立ちが精悍かつ整っているだけに迫力は倍増で、見た目通り口を開けば毒舌が飛び出し、情け容赦ない攻撃を加えてくる様は近隣に十分な程知れ渡っている。
彼はその己が生まれた時から持ち合わせた、肉体的、精神的力を存分に発揮して今の場所に立っている。
緩やかに明るくなっていく東の空、一台の古びたトラックが音を響かせてゆっくりと走り抜けていく。運転手はこんな早い時間から襟を正した服装で出歩いている若者を珍しそうに眺め、そのまま目的地へと去っていた。そんな運転手の不躾な視線など一顧にもせず、彼は黒髪をなびかせて坂道を静かに下る。
黒のスラックスに、ローファー。足音は極力立てない、背筋を伸ばした歩き方は教本そのまま。よく躾けられていると、彼の本性を知らぬ近隣の早起きなお年寄り達は感心しながら朝の散歩を続ける。
彼の爪先は幾つかの角を曲がり、進み、再び曲がって、住宅地へと。彼が暮らす高台の閑静な一帯とは違って、開発された土地に並ぶ建売一戸建ては、小さいながら庭もあるけれど、別宅まである彼の自宅には遠く及ばない。
肩を寄せ合うようにしてようにして建てられたパッとしない外観の家と、味気ない灰色の塀を左右に眺めつつ、彼は更に歩を進める。
最初に歩き出した時から歩調は殆ど変わっていない。急ぐでもなく、ゆっくり過ぎるでもない、自分の体調を考えて最も疲れない速度を保っている。
常に自分の能力を最大限発揮できるように、普段はセーブしながらも力を持て余すことはしない。鈍らせることもしない。鋭い視線は地平の彼方まで突き刺すように真っ直ぐ目の前を見据えている。
視界を地面で塞がれるのは、彼にとって屈辱以外の何物でもない。彼はいつだって、前を、そして上を見ている。
もう数えていない数の角を曲がり、漸く目的地が見えてくる。
朝もやは晴れ、太陽も気づけばすっかり登り切った後だ。数区画先に聳える一戸建て住居から、明るい茶色の髪をした小柄な少年がちょうど、玄関を出て門柱を潜り抜けようとしている。後ろには彼の家庭教師を自認する赤ん坊が続く。
更に少し遅れて、眠そうに目を擦る、恐らくはまだ半分以上意識が夢の中にあるだろう子供がふたり、笑顔が似合う女性に抱きかかえられるようにして続いている。
「修行、頑張ってね~」
おおよそ現代の中学生に向けて放たれる母親の言葉とは思えない応援を受け、昼食らしき荷物を渡された少年が、しょげ返るように肩を落とす。彼の肩に軽い身のこなしで飛び乗った赤ん坊が、早く行くぞとばかりに彼の長い癖っ毛を引っ張った。
「痛い、痛いってばリボーン」
それが赤ん坊の名前なのだろう。力任せに髪を弄られ、既に泣き出しそうな顔をして少年が悲鳴を上げた。
自宅に逃げ帰ろうにも玄関前にはにこやかな笑顔の母親が盾となって道を塞いでいる。肩に乗る赤子にも逆らえない。彼は渋々、重い足取りで歩き出した。
まっすぐ、こちらへと。
手近な壁に左肩を預け、腕を組みなおして彼を見据える。なにやら騒々しく赤ん坊へ非難めいた声で言い返し、漸く髪の毛から手を離してもらえた彼の表情は優れない。俯き加減の視線は雲雀の姿を視界に納めてはいないようだ。先に、おおよそ実年齢とは考え方も行動もそぐわない赤子がそこに立つ存在に気づく。
つぶらな、と世間一般では表現するのであろう黒い眼で、瞬きもせずじっと彼を見返し、その真意を探ろうとしているようだ。
ここ数日の、退屈しない騒がしい日々は恐らくあの赤子と、赤ん坊を肩に置いて未だ諦めがつかないのか、ぶつぶつと足元を見ながら小言を零している少年の周囲が原因だろう。中学校を賑わせていた一部の連中が、時同じくして姿を見せなくなったという話も聞く。
トラブルメーカーが来なくなって中学は静かな事この上なく、平和であるのは風紀委員長である雲雀にとって喜ばしいことであるが、その風紀委員長自らがどうやら嵐の前の静けさの真っ只中に、己が意思とは関係なく巻き込まれているらしい。連日の屋上での死闘は、ここ暫くの平穏さから薄れ掛けていた闘志を燃え滾らせてくれて、わくわくする。
今も十分楽しいが、この先何が起こるのか分からない底知れぬ闇が目の前に広がっている、その感覚に背筋が震える。恐怖ではなく、武者震いが止まらない。
乾いた唇を舐め、時を待つ。ゆっくりと歩いてくる茶色い髪の少年が、今頃になってやっと雲雀の存在に気づいたようだ。出しかけた右足がピクリと反応を示し、前に進むことなくその場に落とされる。
頭ひとつ分小さな、小柄な少年。彼に殴り倒された時の屈辱は未だ拭えぬままだ。
彼のこのか弱き身体のどこに、あんな力があるというのか。時折垣間見せる強い意志が、その源であるというのならば。
彼が突き進むだろう闇の道は、彼自身がともし火であるとでも?
あの金髪の男が妙な事を言っていたが、言われずともこんな面白いゲームを自分から投げようなど思わない。退屈なのだ、平凡すぎる世界は。眠くなる。
夜明け前、そして夜明けに感じる凛とした、突き刺さるような冷気を帯びた空気。あの緊張感の中に晒される自分が良い。生温い太陽の下でお気楽に暮らそうなどと、考えたこともない。
群れるのは嫌いだが、巻き込まれてやるのはこの際目を瞑ろう。
「あ、えっと……」
早朝から出会うとは思っていなかった相手と遭遇した事実に、戸惑いを隠せない彼が何か言いたそうで、言葉が思い当たらないらしい。
困惑に彩られた表情は、それはそれで怯えた子兎を思わせて噛み付きたくなる。
泳いだ視線が左右に揺れ、肩に乗る赤子は真っ直ぐにこちらを見つめる。その落差に笑みを零しつつ、口元を隠した人差し指を軽く前歯で噛んだ。
「せいぜい、僕以外の誰かに噛み殺されないようにね」
噛んだ箇所を舌でなぞり、元から細い目を細めて語りかける。
蛇のようだと誰かが揶揄した瞳に見据えられ、やっと正面から雲雀を見据えた彼は途端、惑っていた瞳に力を込めた。キッと唇を引き結び、腹の底から力を入れたと分かる目つきで見上げてくる。
その根拠のない自信か、或いは決意か。そういったものが混在する瞳を向けられるのも、嫌いじゃない。
胸の奥でざわざわと野生の獣が蠢いている感覚、今すぐにでも彼の首元に牙を立てて生暖かな血を啜ってやりたい。狂気にも似た感覚に指先が震え、喉が鳴った。
そのときだ。ふっ、と強張った周囲の空気を撫でるような声が踊る。
「そうですね」
胸元に落とされた彼の視線、幼さが残る横顔を、虚を突かれた様に見下ろす。
「でも」
再び、持ち上がった視線。射抜くように、瞳を向けて。
「負けませんから」
静やかな街中を騒々しく駆け抜けていくタクシー。排気ガスを撒き散らして去っていった背中を恨めしげに見送り、再び彼に目を向ける。
僅かに咳き込んで顔を背けている姿は年相応のいつもの彼そのままで、先ほどの心臓を鷲掴みにされた全身が震えるような感覚はどこにも残っていない。
彼はマフィアの跡継ぎだという話も聞くけれど、なるほどと頷きたくなった。
尚更、楽しみが増す。
「行くぞ、ツナ」
茶色の毛先を引っ張り、馬を操るが如く少年を促して赤子が割って入る。不機嫌に顔を顰めた雲雀に向かい、にっと分かりにくい笑みを浮かべ、
「油断してっとお前も寝首をかかれるぞ」
「ご忠告、痛み入るね」
腕組みを直し、嫌味に嫌味で対応する。
「じゃあ、あの、雲雀さん。また」
彼がどこで何をしにいくのか詳しくは知らないが、あちこちに見える擦り傷の後が大体の事情を教えてくれる。あの母親の放った言葉からも容易に察しがついた。
あの傷口が塞がらぬ間に、傷を重ねて化膿したりしなければ良いが。
ふっと、そんな思いが胸をよぎる間に、彼はぺこりと頭を下げて小走りに駆け出した。風が流れ、見えない残り香が雲雀を包む。
次会った時は、傷薬と絆創膏を用意しておこう。
彼の小さな背中が角を曲がって見えなくなるまで待って、雲雀も歩き出す。
今日はどんな戦いが待っているだろう。どれだけ苦しい戦いであっても、構わない。きっと自分は勝ち残る。
あの瞳を濁らせる輩は、全て地に伏す。
そしてあの瞳に映し出されるのが、自分だけになれば良い。
貫くべきものは、敵か、自分か。
陽光は地表を照らし、闇を隠した。