死ぬとぞただに 言ふべかりける

 雨戸を閉めていても、虫の声は五月蠅かった。
 耳を澄ませば寝息が聞こえて、誰かが寝返りを打つ音が後に続いた。どすん、と威勢よくひっくり返った先には別の誰かがいたようで、蛙の潰れるような声が短く響いた。
 それでも目を覚ます刀はなく、抗議の声は生まれなかった。ううん、と唸り声は聞こえたが、それも十秒と経たずに止んで、誰かの鼾で掻き消された。
 寝る間を惜しんで鳴く虫は、いったい何を必死になっているのだろう。
 是非とも教えてもらいたいところだが、生憎と昆虫どころか、獣の言葉さえ分からない。意志疎通は永遠に果たせそうになかった。
「眠れない」
 もうかれこれ半刻以上、布団に横になったまま悶えている。
 少しも訪れない眠気に愛想を尽かして、前田藤四郎は溜め息を吐いた。
 仰向けの状態で瞼を開ければ、真っ暗い闇の向こうに天井が見えた。灯りはひとつ残らず消されているというのに、波打つ木目まではっきり確認出来た。
 意識が冴えすぎて、感覚が過敏になっていた。睡魔がやってくると同時に低下するはずの機能は、しかしこの時間になっても、昼同様の効力を発揮していた。
「はあ」
 口を開けば、溜め息の連続だ。
 居心地の悪さに身を捩って、彼は右肩を下にして姿勢を作り変えた。
 すぐ隣に敷かれた布団では、平野藤四郎がすやすやと眠っていた。時々鼻がピクリと動くくらいで、瞼は固く閉ざされていた。
 日中は生真面目を絵に描いたような凛々しさながら、就寝中の表情は穏やかだ。若干緩み過ぎているくらいで、口の端から涎が垂れていた。
 拭ってやりたいところだが、触れて起こしてしまうのは可哀想だ。
 悩んだ末に放置することにして、前田藤四郎は良く名前を間違えられる兄弟に目を細めた。
「……駄目ですね」
 彼に倣って目を閉じてみたが、相変わらず頭は冴え冴えとしていた。少しも眠くなくて、欠伸すら出なかった。
 こんなことは、滅多にない。身に馴染んでいるはずの枕の上でゴロゴロして、吉光が短刀のひと振りは両手で顔を覆った。
 二重に視覚を遮断してみたが、闇の濃さが変わっただけで、他に変化は生じなかった。すぐに結果は出ないとしばらく耐えてみたが同じで、腕が疲れただけだった。
「はああ」
 先ほどよりもずっと大きく、長い溜め息を吐いて、肘を伸ばして大の字になる。
 指先が敷き布団からはみ出して、乾いた畳の縁に爪が当たった。
「どうしましょう」
 このまま朝を迎えることになるのかと思うと、憂鬱でならない。かといって今すぐ眠ろうにも、気力でどうにかなるものではなかった。
 悶々としながら打開策を考えるが、妙案はひとつも浮かばない。ただ悪戯に時間が過ぎる一方で、苛々すればするほど、眠気は遠ざかって行った。
 肘を曲げ、掛け布団の上で両手を重ね合わせた。ちょうど臍の真上辺りに置いて、不気味に映る木目を目で追いかけた。
 辺りが暗いのもあって、模様が動いている風に感じられた。顕現したばかりの頃はそれが怖くて、眠る時はいつも俯せだった。
 どの辺りで、仰向けでも平気になったのだったか。
 はっきり覚えていない過去を振り返って、前田藤四郎は瞬きを繰り返した。
「駄目、ですね」
 またどこかで、誰かが寝返りを打った。嫌な夢でも見ているのか、呻き声がする。虫の声は止まない。五月蠅くて、神経に障った。
 眠りたいのに眠れないのが、精神的にきつかった。これ以上グダグダ悩んだところで何の解決にならないと諦めて、彼はガバッと身体を起こした。
 被っていた布団を跳ね飛ばし、二度続けて深呼吸した。ドクドク言っている鼓動を沈め、鼻の下を擦って、健やかな寝顔を披露する兄弟を見比べた。
 幸い、誰も起き出して来なかった。ホッと胸を撫で下ろして、彼は慎重に立ち上がった。
 視線の高さを変えれば、大部屋に敷き詰められた布団の状況が良く分かった。後藤藤四郎に潰されているのは厚藤四郎で、魘されているのは薬研藤四郎だった。
 博多藤四郎が本来の位置から大きく外れ、乱藤四郎の布団にもぐりこんでいた。信濃藤四郎は被るべき布団を抱きしめて、猫のように丸くなっていた。
 包丁藤四郎は枕に右足が乗っていた。秋田藤四郎と五虎退は並んで仰向けに寝転がり、手を繋いで、すよすよ寝息を立てていた。
 穏やかで、和やかな光景だ。長兄の一期一振でなくとも、この短刀たちの寝姿を見たら、頬を緩めるに違いなかった。
 実際、前田藤四郎も口元を綻ばせた。ふふっ、と小さく鼻を鳴らして笑って、乱れていた寝間着の裾を整えた。
「水でも、飲んで来ましょう」
 眠れないのに、無理に眠ろうとするから、余計に眠れなくなるのだ。
 ここは気分を入れ替えて、別のことをしてみよう。そうすれば緊張もほぐれて、自然と眠気がやってくるはずだ。
 前にどこかで聞き齧った情報を頼りに、根拠もないまま実践することにした。両腕を頭上へ伸ばし、凝り固まった身体を柔らかくして、兄弟を踏まないよう注意しつつ、そうっと敷居を跨いだ。
 襖をゆっくり開け、廊下に出て、注意深く閉める。
「ふう」
 たったこれだけのことなのに、終わるとどっと疲れが来た。冷や汗を拭い、息を整えて、室内に比べると格段に僅かに明るい廊下に目を凝らした。
 曲がり角ごとに行燈が設置されて、この時間でも火が入っていた。
 短刀や脇差といった刀は夜目が利くので必要ないのだが、太刀以上は闇を苦手にしている。彼らは夜になると、灯りなしでは屋敷の中でさえ、自由に歩き回れなかった。
 油はひと晩持たない量しか注がれていないので、これらに火が入ったままということは、思ったほど遅い時間ではないらしい。
 日付が変わる頃か、その前後。大雑把に想像して、前田藤四郎は辺りを見回した。
 小夜左文字や不動行光の部屋は静かだった。愛染国俊や今剣は、同じ刀派の刀の部屋で寝起きしている。太鼓鐘貞宗は、伊達所縁の刀たちのところだろう。
 本丸に集う短刀のうち、その大多数が粟田口だ。その事実を改めて意識しつつ、寝静まった空間を見渡し、彼は居住地として使っている大部屋を振り返った。
 短刀部屋五つ分を繋げて作った大部屋は、ちょっとした大座敷だ。兄弟ということで一括りにされて、なにをするにしても、常に誰かの視線に晒された。
 個室が欲しいと、思ったことは何度もある。けれど言い出し難い。仲が良いと評判の粟田口に亀裂を走らせるような行為は、簡単ではなかった。
 だから、というわけではないけれど、過去に所縁を持つ太刀が顕現した時は、嬉しかった。
 彼の世話を焼く、という理屈を盾にして、堂々と大部屋を抜け出し、太刀の部屋に居座れたから。
 そうやって太刀の寝床に潜り込むようになって、兄弟と枕を並べる機会は次第に減って行った。
「大典太さん、戻ってませんよね」
 今宵大部屋で雑魚寝に戻った理由は、単純だ。
 三池の太刀ふた振りは、ほかの何振りかの刀と共に隊を組み、遠征に出かけていた。
 帰還の予定は、深夜。日付を跨ぎ、夜明けの前という話だった。
 寝ずの番を任されている近侍ならまだしも、他の刀はその時間、夢の中だ。間近で物音を立てたら起こしてしまうから、と申し訳なさそうに言われたら、頷くよりほかになかった。
 大典太光世は、前田藤四郎に気を遣ってくれたのだ。それが分かるから、構わないので出迎えさせて欲しいと我が儘を言って、困らせたくなかった。
 聞き分けが良い振りをして、承諾し、兄弟たちと一緒に眠ることにした。
 だというのに、寝付けない。神経が張りつめているらしく、気持ちは昂る一方だった。
「最近は、添い寝ばかりでしたから」
 現身を得ての生活は、三年を越えた。大典太光世が来たのはそれから一年半ほどしてからのことなので、彼と過ごした日々は、本丸で過ごした時間の半分を占めようとしていた。
 だからなのだろうか。彼が居なかった頃の日々がもう思い出せない。
 彼の居ない暮らしが、上手に心に思い描けなかった。
 ひとつの寝具に並んで横になり、分厚くて逞しい胸に頬を預けて眠るのは、とてつもなく幸せだった。
 太くがっしりした腕が背中に回されて、遠慮がちに抱きしめられるのが心地よかった。
 たった一晩の我慢だ。分かっている。だというのに、胸が締め付けられるように痛んだ。
 大典太光世は不在にしていると知っていても尚、目が彼を探していた。少し低めの体温、物憂げな中に優しさを蓄えた眼差しを、無意識に求めていた。
「落ち着かない」
 昨日まであったものが、忽然と失われた。
 明日には戻ってくると繰り返し自分に言い聞かせるのに、心は受け入れを拒み、頑なだった。
「あれ……」
 そうしているうちに、足指が段差を踏んだ。屋敷を建て増しした際の、建屋の継ぎ目に行き当たったと気付き、彼はハッと顔を上げた。
 台所を目指していたつもりが、うっかり道を間違えた。ぼんやりしていたと耳朶を引っ張って、前田藤四郎は想定外の事態に眉を顰めた。
 転ばなかっただけ、僥倖と言うべきだろう。左に曲がるはずが、どうやら反対に進んでいたらしかった。
 しかも廊下の先に、灯りが見えた。近侍が控える間はここだったか、と薄暗い屋内を見回して、彼はそうっと廊下を進んだ。
 虫の声は遠かった。獣の声も聞こえない。小さな足を前に運ぶ度にギィ、ギィ、と床板が軋んで、不気味な空間に色を添えていた。
「どなたか、いらっしやるんですか」
 灯りの消し忘れだとしたら、問題だ。屋敷の光源は、太陽や星月以外では、蝋燭や油を用いた炎しかない。万が一風で倒れでもしたら、火事は免れなかった。
 屋敷は木と紙で出来ているので、一度火が点けばあっという間に燃え広がる。歴史修正主義者の討伐を目指す刀剣男士が、時間遡行軍と戦うのではなく、火災によって消滅するのは、なんとも情けない末路だった。
 本丸内の規約でも、火の扱いに関しては特に厳しく定められていた。けれど中には、これを忘れ、破る刀も少なからず存在する。
 道を誤った前田藤四郎のように、うっかり失念することは、誰にでもあることだ。
 気付いてしまった以上は見過ごせなくて、確認すべく襖に指を掛け、呼びかけると同時に横に滑らせた。恐る恐る首を伸ばし、中を覗き込めば、夜半の冷たい風が短刀の額を叩いた。
 障子が全開で、月明かりが縁側を照らしていた。行燈は八畳ほどある座敷の隅に置かれ、橙色の輝きが四方に影を作っていた。
「んあ?」
 返事は、かなり遅れて為された。振り返ったのは鼻や頬、額だけを赤く染めた日本号だった。
 黒髪を雑に結い上げ、灰色の繋ぎは上半身脱いで、背や腰に垂らしていた。本体である槍は畳の上に転がして、手にしているのは酒瓶だった。
 窄まった首に荒縄が結ばれて、それを手繰り寄せ、顔の前で傾ける。
 豪快な飲み方で気をよくして、背高の槍は寝間着姿の少年に首を捻った。
「どうした。なんかあったか」
「ああ、いえ。なんでもありません」
 今夜の近侍殿は、真面目に役目を務めるつもりがないらしい。くだを巻きながら問いかけられて、前田藤四郎はこの距離でも感じる酒の匂いに苦笑した。
 右手を横に振り、空気を撹拌させてみるが、あまり効果はない。
 月見酒を楽しんでいた男を邪魔しては悪いと、急ぎ場を辞そうとした。
 一礼し、身体を捻って踵を返す。
「なんだ、相手してくんねえのか。つまんねえ奴だなあ、おい」
「うっ」
 それを見咎められて、夜更かしな短刀は首を竦めた。
 日本号がどれだけ酔っているかは、まるで見当がつかない。厄介な相手に捕まってしまったと苦々しい表情を作って、彼は仕方なく身体をもう半回転させた。
 敷居の手前でくるっと回って、室内に一歩踏み出す。
 夜気を浴びた畳はひんやりして、前田藤四郎の熱を吸い取ってくれた。
「失礼します」
 そのまま座敷を横断して、縁側へ出た。螺鈿細工がきらびやかな槍を踏まないよう注意して、大回りで日本号の隣に並んだ。
 正座しようか一瞬悩んで、板の間では痛いと思い、軒下に向かって足を垂らすことで妥協する。
 本丸でも一、二を争う酒豪は不敵に笑い、左側に置いていた酒瓶を、右側へ移動させた。
「んで、どうしたよ。こんな時間まで起きてるたぁ、悪い奴だな」
 ちゃぷん、と小さく響いた水音は、中身がまだ残っている証拠だ。このひと瓶で何合の酒が入るのか、大雑把に計算しようとしたが、質問に邪魔され、果たせなかった。
 口角を歪めて不遜に笑われて、前田藤四郎は膝に置いた両手を結びあわせた。かと思えばすぐに解いて、掌をぴったり貼り合わせ、腿の間に捻じ込んだ。
 寝間着に皺を作り、狭苦しい空間で指先を蠢かせる。
 視線は虚空を彷徨い、雑草生い茂る庭先へと落ちた。
 悪い奴と笑われたのを、巧く否定できなかった。
 本来刀剣は、眠りを必要としない。だのに現身を得た途端に一日の三分の一近くを睡眠に消費している。それはとてつもなく無駄な時間で、非効率的といえるものだった。
 敵を警戒し、守りを固めるために夜通し起きているのは、悪いことではないはずだ。
 だのに日本号は、短刀の夜更かしをやんわり咎めた。夜は眠る時間だと、意識の奥に摺り込まれてしまっていた。
「僕は、悪い刀ですから」
「へえ? 一期一振の野郎が聞いたら、泣き出しそうだな」
「いち兄は、関係ありません」
 そこに反発して、絞り出した声はいつになく険しかった。前を見据えたまま呟けば、歴戦の槍は興味を示し、酒瓶を担いで傾けた。
 瓶の首に括りつけた縄を取り、片手で器用に操って、零しもしない。
 どれだけの回数、そうやって繰り返して来たのかと呆れて、前田藤四郎はふっ、と頬を緩めた。
 粟田口の短刀を率いる太刀、一期一振は、見た目の派手さに反し、物腰は穏やかだ。数いる弟たちにも優しいが、規律を乱す行為に対しては、厳しかった。
 前の主の影響を受けているのか、自分が決めた約束事を破られると、烈火の如く怒った。どうして守れないのか、と問い詰めて、説教が長引くことも多かった。
 槍玉に挙げられるのは脇差の鯰尾藤四郎や、厚藤四郎に後藤藤四郎、そして薬研藤四郎が多い。
 前田藤四郎はといえば、平野藤四郎と並んで、行儀が良くて真面目と評判だった。
 その評価に不満を露わにして、短刀は肩を怒らせた。むむむ、と闇の彼方を睨みつけて、やがて飽きて、深く溜め息を吐いた。
「眠れないだけです」
 兄に対しての反発心は、長く続かなかった。
 一期一振への苛立ちは、全くないとは言えないものの、さほど大きなものではなかった。
 あれこれ五月蠅いのも、すべて弟たちを案じてのこと。それが分かるから、どうしても強く出られなかった。
 それに眠れない原因は、長兄ではない。軒下で足を交互に揺らして、前田藤四郎は広げた両手を膝に並べた。
 皺の少ない掌を眺め、片方だけ持ち上げて、月へと伸ばす。
 どれだけ頑張っても届かず、掴めないのは承知の上だ。それなのに指を蠢かせた彼に、日本号はスッと目を細め、ひとつ頷いた。
「そうかい」
 近侍を務めているのだから、遠征で留守にしている部隊を率いているのがどの刀なのかも、当然把握しているだろう。
 訳知り顔を見せられて、前田藤四郎は耳の先だけ赤くした。
「別に、……こんな日は、誰にでもあるでしょう」
「俺は、何も言っちゃあいないぜ?」
「うぐ」
 それが少々癪に障って、言わなくて良いことを口走った。背筋を伸ばし、邪推はやめろと言外に訴えて、自ら墓穴を掘ったと気付かされた。
 口籠もり、耳だけでなく首も赤く染めた。唇をもごもごさせて、彼は猫背になって頭を抱え込んだ。
 完全なひとり相撲だった。羞恥に喘ぎ、目をぐるぐる回して、前田藤四郎は膝の間に顎を埋めた。
 卵のように丸くなった短刀を呵々と笑って、日本号は脇に退けていた丸盆を引き寄せた。
 酒の肴が入っていたであろう皿は、とっくに空だった。煎り豆の殻が小鉢で山を作り、天辺にあった分が衝撃でころん、と転がり落ちた。
 丹塗りの盆にはそれ以外に、薄く焼かれた杯があった。
 高台は低く、ほぼ無いに等しい。綺麗な円形で、窪みは浅かった。
 使われた形跡はなかった。一応持ってきたが、逐一注いで飲むのは面倒と、使わずに捨て置いていたものらしかった。
 それをひょいっと抓んで、前田藤四郎へと差し出す。
「ほれ」
「え? いえ、あの」
 膝元でぽいっと手放されて、短刀は咄嗟に両手で受け止めた。
 放っておいたら割れてしまうと、無意識に守りに動いていた。小判よりも軽い酒杯に目を丸くして、彼は隣でごそごそ動いている槍に絶句した。
 続けて差し出された酒瓶に慌てて、反射的に杯を両手で囲った。注ごうとしていた男を制し、戸惑いを露わにして、おかっぱ頭の少年は奥歯をカチカチ噛み鳴らした。
 幼い外見をしているが、短刀はこれでも千年近く、現世に留まっている。審神者のような、せいぜい百年程度しか生きられない人間とは、完全に別個の存在だった。
 勿論、飲酒も可能だ。甘酒ではあったが、不動行光という前例もある。
 だが一期一振は、弟たちが酒盛りに参加するのに、良い顔をしなかった。
 薬研藤四郎は隠れてこっそりやっているようだが、他の刀は律儀に約束を守っていた。前田藤四郎も顕現してからこの方、酒を飲んだのは数回程度だった。
 酒に対する耐性も、個体ごとに異なっている。日本号や次郎太刀は笊だが、中には舐めた程度で酔ってしまう刀剣男士もいた。
「いいじゃねえか、ちょっとくらい」
「ですが、僕は」
「寝酒だよ、寝酒。ちいっとばっかし酔った方が、気持ちよく眠れるってもんだ」
「は、あ……」
 かくいう短刀も、さほど強いとは言えない。
 醜態を晒したくないから、今日まで飲まずに避けて来た。しかし眠気を招く為と誘われたら、なかなかに断り辛かった。
 形だけでも、眠れずに過ごしている短刀を案じてくれているのだから、無碍には出来ない。一杯程度ならば問題ない、という思いも湧き起こって来て、彼はぐらぐらと頭を揺らした。
 まだ飲んでいないのに、もう酔っぱらった気分だ。
「いち兄には」
「黙っててやるよ。俺だって、説教は御免だからよ」
「一蓮托生ですね」
 唯一の懸念材料と言えば、小言が増えている長兄のこと。
 前田藤四郎に飲ませたと知れば、一期一振の怒りの矛先は、日本号へと向かうだろう。槍としても、それは嬉しくなかった。
 この場には、ふた振りしかいない。お互いに黙っていれば、余所に知られる心配はなかった。
 懸案が晴れて、短刀は破顔一笑した。酒杯に被せていた手を外し、水平に構え持てば、慎重に酒瓶を傾がせた日本号が不敵に笑った。
「そいじゃ、乾杯」
「なにに対してですか?」
「んん? そうだな。ここはいっちょ、お前さんの安眠に、て奴だ」
「あはは。ありがとうございます」
 零れない程度に注がれた杯と、大振りの酒瓶とをちょん、と小突き合わせる。
 衝撃で波立ったのを慌てて咥内に引き入れて、前田藤四郎は軽やかに笑った。
 ひと口で飲み干して、すうっと染み込んでいく水分に頬を緩めた。もっと強烈な味わいを想像していたが、意外と喉越しは爽やかで、舌先にびりびり来るような不快感もなかった。
 さらりとしており、鼻から息を吐けば、粘膜に仄かな酸味が広がった。水菓子を思わせる香りが広がって、心地よかった。
「どうだ?」
「おいしい、です」
「そいつは良かった」
 香料を少量混ぜた水を飲んでいる気分だ。ほう、と息を吐いて歯列の裏側を舐めて、前田藤四郎はまんざらではない様子の槍に相好を崩した。
 前に飲んだ酒は、もっと雑味が強かった。飲み干す時にピリッと来て、喉の奥が焼けるように痛んだ。
 それに比べると、天と地ほどの差があった。日本号はこんなにも美味なものを、毎日飲んでいるのかと感心して、少し羨ましくなった。
 身体の大きさだけで飲酒の是非が決められるのは、やはり納得がいかない。
「お前さん、結構いける口かい?」
「どうでしょう。こちらに来てから、あまり機会がありませんでしたから」
 潔い飲みっぷりに感心した男が、満足げに笑った。二杯目を促されて、短刀は恐縮しながら杯を差し出した。
 今度は香りを存分に楽しみ、ちびちびと飲む。
 舌の先を浸しながら舐めていたら、犬のようだと笑われた。
「構いやしねえよ。ぐいっといっちまえ」
 酒ならまだあると、槍は身を屈めながら言った。軒下に向かって腕を伸ばして、空を撫でるように動かした後、なにかを掴んで引っ張り上げた。
 地上から現れたのは、前田藤四郎がおこぼれに預かったのと同じ酒瓶だった。
 荒縄で首を絞められており、まるで釣り上げられた魚だ。虎目当ての狩人ではなく、漁師となった彼に堪らず噴き出して、短刀は濡れた口元を慌てて拭った。
「なにか、つまむものでもご用意しましょう」
「おっ、嬉しいねえ」
「美味しいお酒の、お礼です」
 酒ばかり飲むのも悪くはないが、少し口寂しい。空腹のままだと酔いが進むのも早いと膝を起こして、前田藤四郎は立ち上がった。
 近侍という退屈な仕事に飽きていた日本号は、飲み交わす相手が出来たのを喜んで、かなりご機嫌だった。
 本丸に顕現して長い短刀は、料理の腕もそれなりだ。難しいものは作れないが、酒の肴のひとつやふたつ、造作もなかった。
「すぐに戻って参ります」
「あいよ。楽しみにしてるぜ」
 酒杯を盆に戻した彼に、手ではなく酒瓶を振って、大柄な槍が小柄な少年を見送った。
 寝入ってしまったかと思われた虫たちは再び歌声を奏で始めて、月の明るい夜はとても賑やかだった。

 足元に苦労しながら辿り着いた玄関は、左右に配置された行燈のお陰もあり、かなり明るかった。
 門から屋敷までの距離は、近くはないが、遠くもない。途中まで石畳が整備されており、とても歩きやすい道のりだった。
 だというのに、二度ばかり転びそうになった。爪先が僅かな段差に引っかかり、つんのめって、前を行く兄弟刀に何度も体当たりを喰らわせた。
 もっともソハヤノツルキも、似たようなものだ。夜目が利かないのはお互いさまだと笑って、糾弾されることはなかった。
 帰還が夜遅くなると分かっていたのに、審神者は何故、こんな編成を用意したのか。
 太刀に大太刀という組み合わせに肩を竦めて、大典太光世は仄明るい空間に安堵の息を吐いた。
「戻ったぞ」
 どうせ応じる声はないと分かっているが、念のためと奥に向かって呼びかけた。横では太郎太刀が無表情で履物を脱ぎ、屋敷に上がろうとしていた。
 ソハヤノツルキも靴を脱ぎ、端の方に寄せていた。もう必要なくなった防具類をこんな場所で解きに掛かって、手も、足も、忙しそうだった。
 隊長に任じられた大典太光世はといえば、部屋に戻る前に、近侍へ報告にいかなければならない。
「行くか」
 面倒だが、規約なのでやむを得ない。靴から爪先を引き抜いて、天下五剣のひと振りは上がり框に親指を置いた。
「お?」
「どうした」
 胴丸を外すのに手間取っていたソハヤノツルキは、まだ玄関先に居た。明るいとはいえ、昼には到底及ばない空間で、結び目を探し、四苦八苦していた時だった。
 視界の隅に動くものを見つけて、彼は手を休めて背筋を伸ばした。
 それで大典太光世も気が付いて、廊下からゆっくり現れた男に目を丸くした。
 脱いでいる最中だった左足の靴が、動揺で激しく震え、あらぬ方角へ吹っ飛んだ。玄関の段差で転びそうになったのを懸命に耐えて、彼は右腕を高く掲げた槍を穴が開くほど見詰めた。
 自分に自信がなく、なんでも悪い方向に受け取りたがる癖がある太刀は、その性格故にあまり他者と目を合わせようとしない。
 ところが今は、その習性が吹き飛んでいた。あんぐり口を開けて、瞬きさえ忘れて凍り付いていた。
 カチコチに硬直している兄弟刀に、ソハヤノツルキも苦笑を禁じ得ない。
「お勤めご苦労、ってな。どうだ、景気づけに一杯やるかい?」
 そんな天下五剣を知ってか知らずか、近侍の槍が右手にぶら下げた酒瓶を揺らした。顔の真横でぶらぶらさせて、ソハヤノツルキに断られた後は、大典太光世に向き直った。
 左腕は胸の前で固定され、抱えたもうひとつの荷物をしっかり支えていた。
「んむ、う~~」
 その重くはないが、軽くもない荷物が小さく呻き、嫌々と首を横に振った。眉間に皺を寄せて険しい表情を作り、日本号の胸に額を擦りつけた。
 頬は火照り、赤みを帯びていた。瞼は半分以上閉ざされて、目の前が見えているのかどうかさえ怪しかった。
 彼が首を振る度に、肩の上で切り揃えられた髪が躍った。ひっく、というしゃっくりが聞こえて、それで大典太光世はハッとなった。
 玄関が一気に酒臭くなったのは、栓をしていない酒瓶の所為だけとは言い切れない。
 どこからどうみても酔っ払いの槍が抱える少年もまた、赤ら顔で夢見心地だった。
「前田に、呑ませたのか」
「んな怖い顔すんなって。ちょっとだよ、ちょっと」
 粟田口の短刀に酒を飲ませるのは、一期一振の教育方針もあり、表立って禁止されていた。
 薬研藤四郎などは自分から破りに行っているが、前田藤四郎は違う。無理矢理飲ませたと疑って、黒髪の太刀は拳を作った。
 その剣幕に怖じ気づいて、日本号が後ろへ下がった。うつらうつらしている短刀を両手で抱え直して、背に添えた手をとんとん、と動かした。
 今まさに眠ろうとしている少年を起こし、顎をしゃくって太刀らを示す。
 だが肝心の短刀は、見えていないらしく、頬を膨らませて駄々を捏ねた。
「ほれ、どうした。お待ちかねの大典太の野郎だぜ」
「……おお、れんた、さんは……まられす」
 日本号の腕を掴み、前田藤四郎がぶすっとした声で唸る。呂律は回っておらず、発音は甚だ怪しく、相当酔っているのが窺えた。
 しかも言い終えると同時に、かくん、と首を落とした。一瞬の早業で意識が途切れたようで、力を失った頭部はぐらぐら揺れて、本当に落ちてしまいそうだった。
 頑張って務めを果たしてきたというのに、顔を見てももらえず、まだ帰還していないという風に言われた。
 大事にしている短刀が、刀種も刀派も、なにも関係ない男に抱えられて現れただけでも衝撃的だっただけに、簡単に立ち直れそうになかった。
 思わず涙目になって、大典太光世は日本号を睨んだ。
 後ろ向き思考とはいえ、天下に名を知られた名刀だ。威圧された槍は苦笑いを浮かべて、事情を説明してもらおうと、必死に前田藤四郎の肩を叩いた。
「いや、帰って来てるって。こらこら、寝るんじゃねえ。頼むから、おい」
 こちらは発音もしっかりしており、酔っている雰囲気は薄い。
 あまり飲んでいないのか、はたまた酒に強いだけか。それともこの冷たい空気が漂う状況に、酔いが吹き飛んでしまったか。
 ともあれ日本号は前田藤四郎の頬をぺちぺち叩いて、眠っていないと言い張る短刀を揺り動かした。
 泣く赤子をあやす要領で全身を使い、酒瓶の中身をちゃぷちゃぷ言わせた。けれど短刀は愚図るばかりで、覚醒には程遠かった。
 尚も悪い事に、彼は揺らされるのを嫌がり、日本号にしがみついた。大典太光世に引けを取らない体躯に安堵しているようで、傍観者のソハヤノツルキでさえ冷や汗を流す密着度だった。
 これは、修羅場になるかもしれない。
 今後の展開を想像し、金髪の太刀が引き攣り笑いを浮かべる。
 どんどん不味い方向に進んでいるのを察して、日本号の顔色は青くなる一方だった。
「馬鹿、寝るんじゃねえ。ずっと待ってたんだろうが」
 繰り返し訴えて、貼り付いている短刀を引き剥がしにかかった。しかし安易に振り落とせば、そこの太刀に殴り飛ばされかねなかった。
 遠慮がちに、慎重に。
 だが、それでどうにかなるわけがない。
 一進一退の状況に焦れて、堪忍袋の緒が切れたのか。
「おい、貴様。前田を離せ」
 小夜左文字に勝るとも劣らない黒い澱みを噴出させて、大典太光世が凄味を利かせて腕を伸ばした。
 直後だった。
「寝れましぇん。ぼくは、いま、びょーきなんれす!」
 たどたどしい口調で、前田藤四郎が大声で吼えた。
 甲高い音が夜闇を斬り裂き、天井に吸い込まれて行った。想像だにしなかった発言に呆気にとられて、ソハヤノツルキも、大典太光世も、言葉を失い停止した。
 事情を知っている日本号だけが、苦笑と共に額を覆った。一気に老け込んだ顔をして、ぷんすか煙を噴いている短刀の背を撫で、宥めた。
「あー、はいはい。そうだな、病気だな」
「そうれす。ぼくは、寝て、なんか、ないれす。らって、ぼく」
 酔いが手伝い、感情の制御が出来ていないらしい。喋っているうちに鼻声になって、前田藤四郎は大きくしゃくりあげた。
 涙を堪え、愚図り、唇を噛み締める。喘ぎ、俯いて、槍の胸板に顔を埋めて拳を作った。
 病と聞いて顔色を変えた太刀に向き直って、日本号は肩を竦めた。
「お前さんが居ないと、眠れない病気だってよ」
「……なに?」
 刀剣男士は、外見こそ人を模しているけれど、現実には全く相いれない存在だ。
 その膂力は見た目に比例せず、脚力、瞬発力も並大抵のものではない。更には怪我への耐性が強く、どれだけ深手を負おうとも、手入れ部屋を経れば瞬く間に治癒出来た。
 病気とは無縁であり、罹患することはない――寝不足による疲労や、飲み過ぎから来る頭痛、胸やけ以外は、であるが。
 つまり前田藤四郎が言い張る病は、病の定義の外にある。
 唖然としながら瞬きを繰り返して、大典太光世は苦笑混じりの男に歩み寄った。
「変な心配させて、悪かったな。眠れねえって言うから、ちょっくら付き合ってもらっただけだ」
 黙って腕を差し出せば、意図を察した日本号が短刀を抱え直した。受け渡す準備をすべく、酒瓶はソハヤノツルキに託した。
 大典太光世が日付を跨ぐ遠征に出るのは、これが初めてだった。
 顕現してからこの方、前田藤四郎はずっと太刀の傍にいた。眠る時も、起きる時も一緒で、まさに寝食を共にする仲だった。
「こちらこそ、前田が、その。迷惑をかけた」
 日本号と短刀の間になにかあったわけではないと悟り、幾分冷静さが戻ってきた。
 勝手に赤くなる耳をぼさぼさの髪で隠して、大典太光世は殊勝に頭を下げた。今度こそ眠ってしまったらしく、うにゃうにゃ言っている少年を慎重に引き受けた。
 居場所が変わった途端、険しかった短刀の表情が緩んだ。しどけなく微笑んで、涎を垂らし、心地よさそうに寝息を立てた。
 そんな彼を大事に抱きしめれば、遠征の疲れなど容易く吹き飛んだ。
 汗臭くないかだけを気にして身を捩った太刀に、ソハヤノツルキが苦笑する。身軽になった日本号も歯を見せて笑い、取り戻した酒を軽く呷った。
「迷惑なんて、かかっちゃいねえぜ。いやあ、あんたののろけ話、面白かったぜ」
「なっ!」
「ぶふっ」
「んじゃなー」
 ぷは、と息を吐き、酔いが戻ってきた槍が言う。
 聞いていたソハヤノツルキが噴き出す中、呵々と笑って手を振られた。
 後を追う事も出来なくて、大典太光世はすやすや眠る短刀を、若干恨みがましい目で見つめた。

2018/05/02 脱稿

恋しとはたが名づけけむ言ならむ 死ぬとぞただに言ふべかりける
深養父 
古今和歌集 恋四 698

心は春を 慕ふなりけり

 青々と茂った葉が、地面を覆い尽くさんばかりだった。
 その隙間から飛び出すように、赤い塊が日差しを受けて爛々と輝いている。
 まるで紅玉のようだと目を細めて、篭手切江は真っ赤に染まった苺を摘み取った。
「大きいなあ」
 十分な日光を浴びて、すくすく育った果実はとても立派だ。蔕を残し、果肉部分に傷が行かないよう慎重に抓んで、ずっしり重いそれを脇に抱えた籠に収めた。
 竹で編んだ籠は使いこまれ、かなりくすんだ色になっていた。
 一辺が一尺程度の方形で、底は浅め。その中に胡麻を塗したような赤い塊が、大量に転がっていた。
 一個ずつは軽いが、これだけ集まるとそれなりに重い。
「これくらいで良いかな」
 軍手を取った右腕で汗を拭って、脇差の少年は目を細めた。
 眩い光を放つ太陽を一瞬だけ仰ぎ見て、収穫物を収めた入れ物を地面に置いた。入れ替わりに膝を伸ばして立ち上がり、ずっと屈んでいた所為で凝り固まった筋肉を解した。
 しゃがんだまま、畝に沿って横に進んでいたから、かなり疲れた。
「んー」
 痛みに耐えてぎゅっと目を閉じ、息を吐きながら身体を反らす。
 もれなくボキボキ、と腰の骨が良い音を響かせて、罅でも入っていないか、本気で不安になった。
「よ、ほっ。とう」
 けれど軽く捻っても、特別な違和感は生じない。
 掛け声と共に腕や膝を動かして、問題ないと判断した眼鏡の脇差は、最後に深呼吸で締めくった。
 肺の中を一旦空にして、土の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
 身体の横で腕を広げ、折り畳む動作を数回繰り返し、晴れやかな表情でもう一度汗を拭った。充実した時間を過ごした、と満足そうにひとつ頷いて、摘みたての苺を入れた籠を大事に抱きかかえた。
「篭手切」
「は~い」
 紛れ込んでいたギザギザの葉の断片を取り除き、遠くからの声に元気よく返事する。
 振り返った彼の視界の真ん中で、小柄な少年が手を振っていた。
「休憩にしましょう」
 反応があったと知り、小夜左文字が両手を口元に添えた。大声での誘いに手を振り返して、篭手切江は赤茶色の土に足跡を刻み付けた。
 ふかふかで柔らかな地面を踏みしめ、植えられた植物を避けながらゆっくり進んだ。
 苺畑は途中から空豆畑に切り替わり、緑の合間から白い可憐な花を覗かせた。
 胸ほどの高さがある支柱の列を避け、水路を跨ぎ、ギイギイと五月蠅い水車の脇へと。
 農具などを入れる納屋が提供する日蔭は、程ほどに暑い環境に、ひとときの涼を提供してくれた。
「これからもっと暑くなるというのに」
 冬場はしっかり着込んでいた内番着だが、さすがに前を閉じたままでは暑過ぎだった。袖をまくり、肘まで晒した上で、彼が下に着込む肌着は薄手のもの一枚きりだ。
 本当は上着そのものも脱ぎ捨ててしまいたいのだけれど、それをすると、今後やって来る季節が耐えられなくなる。
 暑さに対する耐性を、少しでも獲得しておくように。
 それが早くから顕現し、本丸での生活を繰り広げて来た脇差仲間からの助言だった。
「お疲れ様です」
「やあ。ご苦労様」
「歌仙も、ですか」
 出迎えてくれたのは小夜左文字だけでなく、歌仙兼定も一緒だった。座って休憩出来るように、と広げられた茣蓙の上で、農作物を運ぶ際に使う四角い木箱がひっくり返っていた。
 その上に布を敷いて、三振り分の湯飲みが並べられている。
 そこにあるもので作った、簡易の机に相好を崩し、篭手切江は運んで来たものを短刀に差し出した。
「これくらいで、どうでしょう」
 歌仙兼定は茶の準備に勤しみ、台所から持って来たと思しき湯で急須を温めていた。湯飲みにも同じく湯を注ぎ、温まるのを待っていた。
 その横で、小夜左文字が小さく頷く。
「ひと振り一個なら、……ぎりぎり大丈夫でしょう」
「少ないですかね」
「多くて困ることはないですし。あとで僕も手伝います」
 脇差が持つ籠を覗き込み、ぎゅうぎゅうに詰め込まれている苺を眺めて首を捻った。
 それで不安になった篭手切江は、上目遣いの少年の言葉に相好を崩した。
「ありがとう、小夜」
 この苺は、夕餉の最後に供する予定だ。甘く、噛めば果汁がじゅわっと溢れ出す水菓子は、この季節の定番の果物だった。
 余れば余ったで、食いしん坊が群がってくるに決まっている。
 高価な宝石にも負けない輝きを前にして、篭手切江は無意識に溢れた唾液を飲み込んだ。
「今年の出来は、どうかな」
 それを知ってか知らずか、小夜左文字が嘯いた。
 背伸びをして、籠の中を利き手で漁った。一番上にあった、手ごろな大きさの一個を掠め取って、表面の細かな塵や汚れを呼気で吹き飛ばした。
「あっ」
 止める間もなかった。
「んぐ、んむ、……ん。ああ、美味しい」
 蔕を抓み、短刀は収穫したての苺にぱくりと齧り付いた。ひと口では頬張れず、表面に歯形をくっきり残して、溢れ出た果汁を逃すまいと舌を伸ばした。
 楕円形だったものが、一瞬で三日月を歪めたような形状に変わった。断面は白さが目立ち、表面を染めている赤色は内側深くまで侵食していなかった。
 残った分も素早く回収して、緑の蔕だけを残し、綺麗に食べきった。
 口を栗鼠に負けないくらい膨らませ、もぐもぐ噛み砕いて飲み込んで、小夜左文字は嬉しそうに唇を拭った。
 食用には適さない蔕部分は地面に落とし、蚯蚓が分解してくれるのを期待して、爪先で土を被せた。
「良い感じです」
 あまりの早業に唖然とする脇差を余所に感想を述べて、さりげなく二個目を狙い、籠へと指を向けた。
「こら」
 そんな悪戯な手を即座に叩き落として、篭手切江は眉を顰めた。
 左文字の末弟である短刀の付喪神は、戦場でこそ雄々しい姿を披露するが、本丸に戻れば物静かで、感情を公にするのは稀だった。
 長兄である江雪左文字が五月蠅いのもあり、行儀は良い方だ。仕事ぶりは真面目で、頼まれていない事でも率先して手伝う少年だった。
 台所仕事にも、昔馴染みである歌仙兼定が料理好きという影響か、頻繁に参加していた。
 ただ彼がつまみ食いをするところを、脇差は見たことがなかった。
 餓えに苦しむのがどういうことかを知っている短刀だから、食に対しての執着は相応に強いとは聞いていた。けれどまさか、こんなところでその片鱗を垣間見るなど、予想だにしていなかった。
「駄目ですか」
 夕餉に皆で食べるために摘んできたのに、ここで数を減らしてどうするのか。
 眼鏡の奥の瞳を眇め、険しい表情を作った篭手切江に、小夜左文字は不満を隠そうとしなかった。
 口を尖らせて拗ねられて、意外な姿に虚を衝かれた。
「そこだねっ」
「あ、こら。なにをするんですか」
 ぽかんとしていたら、籠ごと苺を奪い取られた。素早く身体を捻り、反転した短刀を追いかけて、脇差も慌てて地面を蹴り飛ばした。
 勢い余って滑りそうになったのを持ち堪え、ひなたに出た小夜左文字の背中に手を伸ばす。
 しかし捕まえる直前で速度を上げられ、指は空を掻いた。スカッ、と空振りした手を回収して握り拳を作り、ギシギシ軋んだ音を立てる水車を目指した。
 水路からくみ上げた水は、一段高いところに設けられた四角い木枠の中に注がれる。常に一定の水位を保つその中で、刀剣男士たちは野菜を洗ったり、冷やしたりしていた。
 今は赤茄子が網に入れられて、流れていかないよう、紐で留められていた。
 ぷかぷか浮いては沈む、と繰り返す赤色の野菜のその横で、小夜左文字は篭手切江が収穫した苺を、籠のままどぷん、と水に浸した。
 軽く揺すって細かな砂粒や、葉屑を浮かせ、余分な水と一緒に水路へと流す。
 そうっと掻き混ぜ、大量の苺を一度に洗った少年に、脇差は嗚呼、と肩を落とした。
「それならそうと、言ってください」
「そこまで食いしん坊じゃないです」
「本当ですか?」
 てっきり収穫物を独占し、食べ尽くしてしまうつもりなのだと思った。
 正直に吐露すれば、誤解を受けた短刀がむすっと頬を膨らませた。それを揶揄して笑い飛ばし、篭手切江は差し出された苺に目を眇めた。
 丸々と太って、ほかのものよりひと際大きい。
「良いんですか?」
「また摘みに行けばいいだけです」
 広々とした畑に、今は彼らだけしかいない。
 頑張って働いたのだから、この程度のつまみ食いは許されて然るべきだ。
 労働に対する対価だと囁かれて、脇差は成る程、と手元の苺をじっと見つめた。
 冷たい水を浴びせられ、色味は艶やかさを増していた。細かく残る水滴が日光を反射してキラキラ輝き、本物の宝石のようだった。
 先ほど聞いた、小夜左文字の感想が脳裏を過ぎった。
 復讐以外で固執するものが少ない短刀が、食卓に並ぶまで我慢出来なかったのだ。どれだけ美味しいのかと期待して、彼はごくりと唾を飲んだ。
「い、いただきます」
 実は顕現してから、苺を食べたことがない。緊張に顔を強張らせ、彼は雫が滴る苺を鼻先へと運んだ。
 微かに、嗅いだことのない匂いがした。すうっとすり抜けていく爽やかな香りを先に堪能して、思い切って口を開いた。
「んっ」
 大振りの苺の中ほどまで咥内に押し込み、ゆっくり唇を閉ざした。僅かに遅れて果肉に前歯を突き立てれば、抵抗を感じたのは一瞬だけだった。
 ぷちゅ、と表面が圧力に負けて潰され、その後はなし崩しだ。
 さほど力を入れることなく、前歯が内側に吸い込まれていく。ぐちゅぐちゅと細かな繊維を切り裂いて、最後にぶちん、と塊をふたつに分断した。
 分裂した苺のうち、奥側にあったものがごろん、と舌に転がり込んだ。反射的に奥歯を振り下ろし、右に誘導した塊に叩きつける。一方手前側に残った分を唇から引き剥がして、篭手切江は目を丸くした。
「んんっ」
 食べる直前に嗅ぎ取った香りが、口の中いっぱいに広がった。
 その一部は鼻腔を抜けて、外へと放出されていく。それを再び掻き集めて、彼は左手で口を覆った。
 外に飛び出しそうになった欠片を堰き止めて、ダンダンと奥歯で地団太を踏んだ。臼歯で果肉を砕き、磨り潰し、一斉に溢れ出した甘い果汁を飲み込んだ。
 原形を失った苺が、唾液と共に喉の奥へと流れていく。
「んん~~~っ!」
 表面に埋め込まれた粒々の、ぷちぷちした食感も面白かった。
 話には聞いていたが、こんなにも美味しいのかと驚いて、脇差は息さえ止めて身悶えた。
 喉の下を何度も叩き、舌を操って歯の隙間に果肉が残っていないか何度も確認した。右手に残る食べかけの苺を見詰めて騒然となり、滴り落ちようとしていた雫を急いで舐め取った。
「美味しいでしょう?」
「んっ、こんな……すごい。初めてです」
 だが残念なことに、その水滴は果汁ではなかった。
 洗った際に表面に貼りついていた、水車が組み上げた川の水だった。
 思った味がしなかったのにがっくりしつつ、短刀に問われて気持ちを入れ替えた。外側からは想像がつかない、赤と白が混じり合う内部に目を眇めて、魅惑的な甘さに舌鼓を打った。
 噛んだ直後に微かに感じた酸味は、直後にえもいわれぬ甘みに切り替わった。
 これまで散々、美味しい料理を口にしてきた。しかしそれに勝るとも劣らない味わいが、たったひと粒の苺に込められていた。
「大袈裟だって、笑わないでください」
「笑いません」
 興奮に鼻息が荒くなり、急いで残り半分を頬張った。
 小夜左文字はそう言いながら口元を綻ばせ、漏れる吐息を掌で覆い隠した。
 肩を震わせて、水の中から籠を引き抜いた。上下に振って水滴を飛ばし、その一帯だけ地面を黒く染め変えた。
「お小夜、篭手切。お茶の準備が出来たよ」
「はーい。今すぐ」
 煎茶道具一式を持ち込んでいた歌仙兼定が、日蔭の中からふた振りを呼んだ。
 代表して脇差が、食べながら返事して、小走りに納屋の裏手に戻った。
 簡易的な座卓の上で、湯飲みが細い湯気を立てていた。ふわっと鼻腔を掠めた香りは健やかで、春の彩りを思わせる爽やかさだった。
「いただきます」
 彼が煎れてくれた茶が美味いのは、遥か以前に実証されている。
 今回も期待できると気持ちを昂ぶらせ、篭手切江はいそいそと靴を脱いだ。
 茣蓙に上がり、膝を折った。正座をして、軽く打刀に頭を下げて、丁度良い温さの湯飲みを抱き上げた。
「あ、篭手切。待って」
 僅かに遅れ、小夜左文字が苺入りの籠を抱えて走って来た。草履を脱ぐ前に甲高い悲鳴を上げたが、既に飲む体勢に入っていた脇差を止めるのは叶わなかった。
 なぜか焦っている少年を一瞥して、篭手切江がそのまま湯飲みに口をつけた。
「んん?」
 軽やかな味わいが広がると、これまでの経験と記憶が予告していた。
 だのに舌の上に落ちて来たのは、予想から大幅に外れた苦みだった。
「んんん? んー?」
 我慢出来ないほどではないけれど、不快だった。違うものを飲まされたのかと勘繰ったが、打刀がそのような真似をする理由が思いつかなかった。
 微妙なえぐ味を気にしないよう意識から引き剥がし、急いで咥内の液体を飲み干す。
 それでも違和感が残り、苦味が粘膜に貼りついた。早く忘れたいのに無意識に舌が動き、口蓋を擦っては、不愉快な味わいを連れ帰って来た。
 仕方なく口を開き、だらんと舌を垂らした。勝手な真似をしないよう、打開策として犬を真似た彼に、小夜左文字が呆れ顔で苦笑した。
「苺を食べたばかりだと、お茶がちょっと変な味になるんです」
 濡れた籠を傍らに置いて、歌仙兼定と篭手切江の間に座って囁く。
 首を竦めた彼を呆然と見つめ返して、脇差は湯飲みごと利き手を震わせた。
「そういう大事なこと、先に言ってくださいよ」
「言おうとしたんですけど」
「なんだい、君たち。つまみ食いしてたのか」
 うっかり器ごと放り投げたくなったが、理性で押し留めた。
 沸々と湧き起こる感情に蓋をした少年に、歌仙兼定が神妙な顔つきで肩を竦めた。
 呆れているようで、笑いたいのを堪えているようで。
 ふたつ以上の感情が複雑に交じりあっている男を眼鏡越しに睨んで、篭手切江は薄緑色の液体に口を尖らせた。
「それって、どれくらい待てば治りますか」
「さあ。林檎や、ほかの果物でも、同じです」
「へえ……」
 喉は渇いており、美味な茶を一気に味わいたい想いは残っていた。
 けれど同じ失敗を繰り返したくはない。助言を求めて経験者らしき少年に問いかけるが、得られたのは望んでいたのとは違う情報だった。
 思い返してみれば、水菓子を食べる時に一緒に茶を飲んだことがなかった。
 一度くらいあっても良さそうなのに、記憶を辿る限り、今回が初めてだ。顕現して以降の自身の行動をざっとなぞって、篭手切江は器の底に沈む細かな茶葉に肩を竦めた。
「まあ、いいか」
 舌が馬鹿になったわけではないので、安心した。
 味覚が可笑しくなったのだとしたら、これから先の食事をどう楽しめばいいか、分からなくなるところだった。
「僕もひとつ、もらおうかな」
 ホッと胸を撫で下ろし、恐る恐る煎茶を口に含ませる。
 斜め向かいでは足を崩した歌仙兼定が、苺入りの籠に手を伸ばしていた。
 止めようにも、脇差の位置からでは届かない。間に座っている小夜左文字も、特に注意しなかった。
 苺に残る水滴を振り落として、男が大きく口を開けた。短刀ではふた口必要な大きさをがぶりと咥えて、蔕を捻って引き千切った。
「うん。今年も良い出来だ」
 短刀と同じようなことを頬張りながら言って、咀嚼もそこそこに飲み込んだ。
 立派な喉仏が大きく動き、すぐに静かになった。打刀は満足げな顔で口元を拭って、即座に茶を取ろうとし、視線を感じて指を痙攣させた。
「冷めてしまいますよ?」
「猫舌なんだ」
「初めて聞きました」
「ふふっ」
 直前に交わされた短刀と脇差の会話を思い出し、躊躇したようだ。
 そこに小夜左文字が嫌みたらしく言って、打刀の咄嗟の言い訳に、篭手切江は我慢出来なかった。
 滑稽味に溢れたやり取りに噴き出して、急いで口を塞ぐがもう遅い。今度は彼が注目を浴びる番で、居心地が悪くなった脇差は誤魔化しに煎茶を飲み干した。
 ごくごくと喉を鳴らして、最後の一滴まで流し込んでから、眉間の皺を深くした。
「微妙ですねえ……」
 苺を食べてから、多少は時間が経過していた。
 それでもまだ、足りなかったらしい。煎茶本来の味わいが戻って来ず、あくの強さは変わらなかった。
 舌がピリピリして、どうにもすっきりしない。
 決して不味いのではないけれど、違和感が勝り、美味しさを嗅ぎ取れなかった。
 苺の甘さまで損なわれてしまった気がして、なんとも残念でならない。
 渋い顔をして呻いた彼の所為で、歌仙兼定は結局湯飲みから手を引っ込めた。
「小夜は、平気なんですか」
「慣れです」
「なるほど」
 一方で小夜左文字は特に気にした様子もなく、香り豊かな茶を飲み込んだ。唇の形に添って出来た跡を指で拭い、空の器を戻すと、その手で苺をひとつ、抓み取った。
 あっさり言って、蔕ごと口に放り込んだ。前歯と舌を器用に操り、見事に不要な部分だけを取り除いて、ぺっ、と後ろに吐き捨てた。
「雅じゃないな」
 手際、ならぬ口際の良さに感心した脇差の向かいで、歌仙兼定が渋面を作った。
 だが短刀は嫌味をぶつけられても意に介さず、果汁たっぷりの果物に落ちそうな頬を押さえた。
「篭手切も、どうですか」
「えっ。いや、しかし」
「大丈夫です。まだ、沢山実ってます」
「そう言って、食べ尽くしてしまわないようにね」
「歌仙だって同罪です」
「はいはい」
 小夜左文字がこんなに苺を好いていたと、今日まで知らなかった。
 勧められて戸惑っていたら、打刀がちくりと釘を刺す。それにすかさず反論して、小夜左文字は抓んだ一個を脇差に差し出した。
 篭手切江が恐る恐る受け取った直後、腰を捻り、打刀にも一個渡した。続けて自身は三個目を頬張って、しゃく、と軽やかな音を響かせた。
「柿とどっちが好きだい?」
「今は季節じゃないので、苺が一番です」
 採れたての瑞々しい苺は、歯応えも充分だ。
 さわやかな酸味の後に広がる甘さを堪能して、短刀は悪びれもせず言い切った。
 柿は秋の食べ物で、干し柿にしても長期保存は難しい。
「屁理屈」
 今は食べられないから、旬のものを優先させている。
 その時期になればまた柿が一番に来ると嘯いた少年に、篭手切江はケラケラと笑った。
「お小夜の言うのも、もっともだけどね」
 どんな食べ物でも、最も味が濃いのは旬の季節だ。
 それぞれの季節に応じて、その時だからこそ食べられるのに幸せを感じていればいい。
 鷹揚に頷いた歌仙兼定に嗚呼、と呟いて、脇差は甘酸っぱい苺を齧った。
「いくらでも食べられそうです」
「腹を壊しても知らないよ」
「歌仙、お茶ください」
 鳶らしき鳥が上空を旋回し、黒い影が一瞬だけ脇を横切った。
 屋敷の方からなにやら大きな声が聞こえてきたけれど、畑に居る彼らにはなにが起きているのか、見当もつかなかった。
 三振り揃って屋敷の方角に顔を向け、ほぼ同時に意識から追い出した。問題があるなら呼びに来るだろう、と悠然と構えて、新たに注ぎ足された茶で喉を潤した。
 長閑で、平和な時間がゆっくりと流れていく。
「苺大福が食べたい」
「なんですか、それ。って、歌仙? すごい顔になってますが」
「その単語を口にしないでくれ」
「苺大福」
「お小夜、止めるんだ。あれは邪道だ」
 そんな中で小夜左文字がぽつりと言い、初耳だった篭手切江がきょとんと目を丸くした。
 斜向かいでは打刀が顰め面を作り、繰り返す短刀に嫌々と首を振った。
 なにがそんなに嫌なのか、昨年までのことを知らない脇差には分からない。教えて欲しくて話しかける機会を探すが、向かい合うふた振りに割り込む余地はなかなか見つからなかった。
「いいじゃないですか、苺大福。みんな喜んでたじゃないですか」
「駄目なものは、駄目だ。僕はあんなもの、絶対に認めないぞ」
「どうしてそこまで嫌うんです。美味しいのに」
「味は関係ない。そういう問題じゃないんだ、お小夜」
「なら、どこが問題だというんです。大福に苺です。美味しいもの同士を組み合わせて、悪いことなんかひとつもないです」
「作る側としての矜持の問題だ」
「燭台切光忠さんは、喜んで作ってくれました」
「だから邪道だと言っているんだ」
「だったら歌仙は、あれより美味しい苺のお菓子、作れるんですか?」
「うっ。それは」
「篭手切だって食べたいですよね?」
「えええ?」
 珍しく声を荒らげる小夜左文字に、歌仙兼定は頑として首を縦に振ろうとしない。激しい応酬が続き、脇差は完全に蚊帳の外で、忘れ去られた存在となりかけていた。
 そこに唐突に、水を向けられた。
 困り果てていたところに急に話を振られて、ここでそう来るか、と篭手切江は素っ頓狂な声を上げた。
 眼鏡が吹き飛びそうになり、慌てて左右から押さえた。
「貴様も、邪道だと思うだろう。そうだろう?」
 首を竦めていたら、歌仙兼定にまで問い詰められた。
 脅すような口ぶりで、強引に同意を求めて来た。すると小夜左文字も負けじと身を乗り出し、当惑している少年の手を取った。
 座った位置が近かったので、出来た技だ。一歩出遅れた打刀は不利を悟って青くなり、急須をひっくり返す勢いで前のめりになった。
「お小夜、狡いぞ」
「篭手切も、苺大福、食べたいと思いませんか?」
「いや、えっと。……それがどういったものなのか、分からないことには」
 双方から同時に言葉を発せられ、どちらから返事をすればいいのかすら、判断がつかなかった。
 ともあれ、その『苺大福』なるものがどのような食べ物なのか、教えてもらわないことには話が進まない。
 大福に苺が乗っているのか。それとも苺餡ともいうべきものが、餡子の代わりに詰め込まれているのか。
 あれこれと想像を膨らませ、返事を待ってふた振りを交互に見やる。
 歌仙兼定は思い出したくもないのか渋い顔をして、脇差からサッと目を逸らした。
「求肥の中に、餡子と、苺が丸ごと入ってます」
 その隙を逃さず、小夜左文字が声を高くした。脇差の手を上下に挟んで、肌を温めながら訴えた。
 空色の瞳はきらきら輝き、昼間なのに星が瞬いていた。掴んだ手をぶんぶん振って興奮を伝え、勢いに乗って打刀を振り返った。
「ですよね、歌仙」
「水菓子を入れたら、水っぽくなるだろう」
「そうなる前に、出来立てを食べれば問題ないです」
「餡子の甘さとの兼ね合いで、丁度良い配合を見つけるのは、大変だったんだぞ」
「その頑張りが報われるのですから、いいじゃないですか」
「作るのは僕だ」
「だったら!」
 同意を求めた短刀に、歌仙兼定が過去の苦労を思い出してか声を荒らげた。
 簡単なように思えて、ただの大福を作るのとはわけが違うらしい。確かに苺は水分が多く、それが染み出したら、と考えて、篭手切江は背筋を伸ばした。
 小夜左文字の頭を飛び越え、苦虫を噛み潰したような顔をしている男を射抜く。
 突然の大声に驚いたふた振りが黙ったせいで、彼の声は穏やかな日差しの下で、朗々と響いた。
「私たちも、手伝うので」
 一瞬躊躇して、疑念と期待の眼差しに首肯し、囁く。
 面映ゆげに微笑んだ少年に、歌仙兼定はぽかんと目を丸くして、数秒後にガシガシと頭を掻いた。
「僕も手伝います」
 小夜左文字も打刀に頷き、口元を綻ばせた。
 情熱的な眼差しで見詰め、返事を待つ。
 それで歌仙兼定は降参だと白旗を振り、深々と溜め息を吐いた。
「美味しく出来上がるのを、期待します」
 完成品の姿はおぼろげながら、想像出来た。
 美味しいものに美味しいものを掛け合わせたら、もっと美味しくなる。毎日膳に並ぶ食事を思い返して、篭手切江は艶々の苺をまたひとつ、籠から抜き取った。
 蔕を外し、まるごと口に放り込んだ。噛んだ傍からじゅわ、と口の中に広がる香りに頬を緩め、幸せそうに目を細めた。
「小豆長光や、燭台切光忠たちに頼めばいいじゃないか」
「歌仙が作ったのが、良いんです」
「そうそう。歌仙が作ったのが、食べたいです。ねえ?」
 打刀の最後の悪足掻きを一蹴して、短刀と脇差が顔を見合わせ、示し合わせたかのように頷きあった。
 些か調子が良過ぎる台詞ではあるが、自尊心が高い男には妙薬だった。料理好きで、菓子作りも得意としている打刀の矜持を擽って、ふた振りは湧き起こる感情に耐える男に相好を崩した。
 両刀に持ち上げられて、歌仙兼定は頬が勝手に緩むのを抑えきれないでいた。
 嬉しさが溢れ、隠し切れていない。ぴくぴく痙攣する頬を手の甲で擦って、わざとらしい咳払いでなんとか誤魔化した。
「そっ、そこまで言うのなら、仕方がないな」
 あくまでもしつこく強請られたから、止むを得ない体を装って。
 ふんっ、と鼻から息を吐き、偉そうに胸を張った。大仰な仕草で腕を組んで、得意げに言い放った。
 尊大が過ぎる態度が滑稽で、小夜左文字がクスクス笑いながら囁いた。
「明日は、大福祭ですね」
「ちゃんと手伝っておくれよ。お小夜も、篭手切もだ」
 それにムッと右目を吊り上げて、歌仙兼定が釘を刺す。
「分かってます。苺狩りなら、任せてください」
 自信満々に胸を叩いた篭手切江に、自慢するところはそこか、と打刀が呆れた顔で溜め息を吐いた。
「え? 駄目ですか?」
「ふふふっ」
 思っていなかった反応に、脇差は焦って声を上擦らせた。
 それが尚更おかしくて、短刀は両手で口を覆い隠した。

2018/04/22 脱稿

限りあれば衣ばかりは脱ぎかへて 心は春を慕ふなりけり
山家集 夏 174

春の言葉を 聞く心地する

 カタッ、と耳元でなにかが動く音がした。
「……う……?」
 それで意識がぼんやり浮上して、ごろりと寝返りを打った。呼吸は絶え間なく続けていたはずだが、久しぶりに息を吸った気分だった。
 重く、怠さが残る身体の隅々に、血が巡っていくのが分かる。
 瞼を数回痙攣させて、小夜左文字は布団から利き腕を引き抜いた。
 灯りを求めて瞳を彷徨わせるが、室内の光源は途絶えていた。目尻を擦り、額に拳を押し当てて、彼は伸びをすると同時に深く息を吐き出した。
 踵と後頭部で身体を支え、背中を浮かせて、ゆっくり下ろした。
「朝……?」
 目の前は暗く、黒い靄が立ち込めているようだ。
 目覚めのきっかけとなった物音はもう聞こえない。そもそも枕元には、音が鳴るようなものはなにも置いていなかった。
 ではあの音は、どこからやって来たのだろう。
 頭上にやった腕を引っ込め、布団の中でもぞもぞと身じろぐ。夜明けはまだ先と、醒めきらない頭でぼうっと考えて、短刀の付喪神は膝を丸めた。
 左肩を下にして丸くなり、もうひと眠りしようと目を閉じた。
「……ううん……」
 そのまま意識を水底へ沈めてしまえたら、どんなにか良かっただろう。
 だのに機を見計らっていたかの如く、今度は部屋の外から微かな物音がした。
 複数の息遣いを感じた。
 慎重に、抜き足差し足で廊下を歩いて行く気配があった。
「朝餉、……当番……。そっか」
 向こうは向こうで、十二分に気を配っている。眠っている仲間を起こさないよう注意深く、出来る限り静かに通り過ぎようとしていた。
 けれど、小夜左文字は気付いてしまった。
 大人数で暮らしている粟田口の短刀のうち、何振りかが、今日の料理当番に指名されていた。
 支度を開始するには少々早すぎる気がしたが、寝坊して間に合わないよりは良い。二度寝を諦めた彼らの頑張りは、褒めてやるべきだ。
 寝相の悪い兄弟刀の間をすり抜け、寝間着から内番着に着替えるだけでも大変だ。
 それはひと振りだけで寝起きしている身には、縁遠い苦労だ。若干申し訳なく思いながら、小夜左文字は立ち去った数振り分の気配にホッと息を吐いた。
 彼らが出来なかった二度寝に、自分は挑もうとしている。
 なんと贅沢なのかとほくそ笑んで、行方をくらました睡魔を探し、薄い枕に顔を伏した。
「……む、う」
 常ならものの五秒も、十秒もしないうちに、夢の世界へ旅立っている。
 しかし今日は珍しく、眠気が押し寄せて来なかった。
 全身に気怠さが残り、もう少し眠っておきたい、という欲はあった。起床時間まであと半刻もないと承知しているが、だからといってその半刻をだらだら過ごすのも性に合わなかった。
 どうせならもうひと休みしたい。
 それなのに、ちっとも眠くならない。
「苛々する」
 目を瞑って視界を闇に閉ざしても、変化は訪れなかった。
 眠りたいのに寝られないのは、思った以上に腹立たしい。
 過去に何百回と覚えがある経験を、久しぶりに味わった。嫌な感覚を振り払いたくて、小夜左文字は愚痴を零すと同時にがばっと布団を払い除けた。
 上半身を空気に晒し、ゆっくり身を起こした。使い古して、所々擦り切れている木綿の布団覆いをサッと撫でて、深々と溜め息を吐いた。
「仕方ないか」
 寝足りないのが正直な感想だが、これ以上粘ったところで状況が好転するとは思えなかった。
 朝一番で精神的に疲弊させられるくらいなら、いっそ潔く起きた方がいい。
 頭を切り替え、寝床から抜け出した。隣室は今日も無人だろうが、一応遠慮して物音を立てないよう気を配り、手早く身なりを整えた。
 白一色の湯帷子を脱ぎ、雑に折り畳んだ。布団も三つに折り重ねて、部屋の隅に移動させた。
 白衣に袖を通し、黒の直綴を上に羽織って、帯を結ぶ。
 最後に手櫛で髪を整え、癖に従って結い上げた。
「よし」
 出陣するわけではないので、袈裟は着けなかった。刀剣男士の本体である刀も、床の間に据えたまま動かさなかった。
「ん~」
 ひと通り準備が終わったところで、両手指を絡め、腕を真っ直ぐ上に伸ばす。
 続けて身体を後ろ、前、また後ろ、と数回捻って、眠っている間は沈黙していた筋肉を動かした。
 あらゆる関節が問題なく動き、どこにも痛みが無いのを確かめて、深呼吸をしてから指を解き放った。
 空中に大きな円をひとつ描いて、そうっと襖を開く。
 廊下を包む空気はひやりとして、明かりひとつない空間は清々しいほど不気味だった。
 隣の部屋に宛がわれた短刀は、昔馴染みの薙刀が顕現して以降、ずっとそちらで寝起きしていた。反対側の部屋の主である愛染国俊も、月の大半を蛍丸の部屋で過ごしていた。
 いっそのこと、共同部屋での生活を申請すればいいのに。
 粟田口の短刀たちのように大部屋を使ってくれれば、新しく顕現した刀剣男士が使える部屋が増える。
 何度も増改築を繰り返し、ちょっとした迷路と化している本丸に肩を落として、彼は後ろ手に襖を閉めた。
「さ、て」
 ひんやりした廊下に居場所を移してから、行き先に迷って目を泳がせた。
 髭の生える兆候すらない顎を爪で軽く引っ掻いて、華奢な少年は天井を仰いだ。
 時間が止まったかのような、黒く塗り潰された空間をしばらく眺めるが、特になにも思いつかない。やがて疲れたのと、動かないものを見詰め続けるのに飽きて、ゆるゆる首を振った。
 右手で頸部を撫で、歩き慣れている方の道を選択した。
 私室を出て、本丸の座敷などがある棟へ。目を瞑っていても辿りつける自信がある経路を、陽が登り切らないうちからゆっくりと進んだ。
 気配を殺し、息を潜め、渡り廊に至ったところでホッと安堵の息を吐く。
 この本丸の建物は、近侍が控える部屋や大座敷、台所といった設備を集約させた母屋である南棟と、刀剣男士の居住区である北棟とに大別された。
 両者は中庭を横切る渡り廊で繋がっている。ここまでくれば、就寝中の仲間に遠慮する必要はなかった。
 皆深い眠りの最中らしく、鼾はさほど五月蠅くなかった。
「ああ、そういえば」
 枕を高くしているだろう仲間の顔を順に思い浮かべて、小夜左文字は最後に両手を叩き合わせた。
 一度母屋のある方角を見て、打刀が暮らす区画に視線を転じた。
 本丸にはひと振りだけ、夜闇が支配する時間でも眠るのを許されない刀があるのを思い出したのだ。
 久しぶりの近侍だと、張り切っていた。
「歌仙、ちゃんと起きてるかな」
 時間遡行軍との戦いが始まったばかりの頃は、最初に顕現した刀である歌仙兼定が、近侍の職を独占していた。
 それがいつの間にか、仲間が増え、敵の戦力が増大したのもあり、彼は主力部隊からも外された。
 毎日寝ずの番に任じられていた時は、面倒臭いだの、なんだのと文句ばかり言っていた。ところがいざ近侍から遠ざかった途端、後からやって来た刀たちに向かって偉そうに振る舞い始めた。
 自分ならもっと上手く出来る、しっかり務めを果たせるのにと、尊大な台詞ばかり吐いて、周囲を辟易させていた。
 小夜左文字も説教を受けたうちのひと振りだが、長らく本丸を率いる重責を担った分、彼には彼なりの自負というものがあったのだろう。
 面倒な男を昔馴染みに持ったものだ。苦笑して、短刀の付喪神は明るくなり始めた空に視線を向けた。
 朝餉の準備で忙しい料理当番を手伝いに行くのも悪くないが、歌仙兼定が久方ぶりの近侍を立派に勤め上げているかも、気になるところ。
 どちらを優先させるか、躊躇はなかった。
「日の出がすっかり早くなったね」
 独り言を零し、近侍が控える座敷を目指した。トン、トン、と調子よく足音を響かせて、食事の場として使われている大座敷の前を通り過ぎた。
 雨戸は閉まっており、こちらの廊下も暗い。
 段差に躓かないよう、足元に注意しながらもう少し行けば、前方にぼやっとした明かりが見えた。
 襖の隙間から、行燈の光が漏れているのだ。
 細い筋が斜めに走り、その周辺だけが朧げに照らされている。
 篝火に引き寄せられる虫となり、足取りを速めた。そうして小夜左文字は、座敷を目前にして歩調を緩めた。
 もし打刀が居眠りしていたとして、気配を悟られた時点で、彼は目を覚ましてしまう。
 決定的な場面を目撃できなければ、急襲する意味がない。
 気が急いて、取り返しのつかない失敗を犯すところだった。危なかったと近侍部屋を目前にして呼吸を整え、小夜左文字は左胸をサッと撫でた。
 注意深く床から足を引き剥がし、そろり、距離を詰めた。
 壁に背中を預け、油断している敵を襲撃する心づもりで、座敷へと迫る。
 そうして毛の先ほどの僅かな隙間から中の様子を窺ったが、残念ながら角度的に、室内にいるはずの刀の姿は見えなかった。
「もっと、奥?」
 せめてあと少し、隙間が広ければ。
 障子であれば、濡らした指で小さな穴を開けるのは可能だ。後で露見した場合、説教は免れないが、近侍がきちんと役目を果たしているか確認するためだった、との言い訳は可能だった。
 けれど襖は、そうはいかない。
 表面に襖紙が貼られているだけで、実際は木の板だ。これに穴を、物音を一切立てないで開けるのは、余程の技術が無い限り不可能だ。
 どうにか隙間を広げられないか画策し、静まり返っている座敷を前に背伸びをしたり、縮んだり。
 傍から見れば不審者と間違えられそうな動きをして、小夜左文字は親指の爪を噛んだ。
「やっぱり寝てるんじゃ」
 こうしている間も、隙間からはひと影を確認出来ない。
 これは紛うことなき、近侍が居眠りをしている証拠ではないのか。
 推理して、彼はうん、と頷いた。
 ここまで短刀が接近しても反応がないのは、ぐっすり眠っているから。
 確信を深めて、小夜左文字は隙間に差し入れるか迷っていた人差し指を折り畳んだ。
 拳を作って胸に押し当て、鼻息を荒くして興奮に頬を紅潮させる。
 近侍の役目を放棄して、眠りこけるなど言語道断。
 叩き起こすための台詞を吟味し、いざ突撃と襖の引き手に指を引っ掻けて。
「歌仙、起き――」
「なにをやってるんだい、お小夜?」
「ひゃああっ」
 腹の底から轟かせようとした怒号は、背後からの不意打ちにより、一瞬にして悲鳴へと置き換わった。
 頭の天辺から声を響かせ、短刀はその場でぴょん、と跳ねた。空振りした指が引き手の金具と衝突して、関節が変な方向に曲がる錯覚に背筋が寒くなった。
 飛び退き、着地と同時に身体を反転させ、一気に加速した心拍数に全身を熱くする。
 脇から染み出た汗で白衣をしっとり湿らせた少年に、茶盆を手にした歌仙兼定は不思議そうに眉を顰めた。
「入らないのかい?」
「え、えっ……い、いつから?」
「うん?」
 小首を傾げた打刀の付喪神に問われるが、咄嗟に言葉が出ない。
 混乱した頭で絞り出した質問は、正しく相手に伝わらなかった。
 いつから彼は、部屋の外に出ていたのか。
 冷静に考えれば、小夜左文字が訪ねるより前、との回答が、間を置かず手に入っただろう。しかし予期せぬ事態に動揺していたせいで、小夜左文字はこんな単純なことにも気付けなかった。
 慌てふためき、落ち着きなく辺りを見回して、痛む右手を左手で抱きしめた。
 その間に歌仙兼定は襖をスッと開き、無人の座敷に足を踏み入れた。
 行燈の火が煌々と室内を照らしているが、庭に面した障子の向こうはもう明るかった。
 あと四半刻もすれば、照明は必要なくなる。打刀もそれが分かっているようで、運んできた茶盆を文机に置くと、その足で障子を開けに行った。
 流れるような所作で隙間を広げ、東の空から顔を出した太陽を縁側から窺い見る。
「春はあけぼの、とはよく言ったものだね」
 薄日を受けて明るく照らし出される庭を背負い、彼が笑った。
 古典として有名な随筆の一文を囁かれて、小夜左文字はハッと背筋を伸ばした。
 惚けて固まっていた肉体に電流を流し、開けっ放しだった口を閉じた。特に意味もなく身体のあちこちを叩くように撫でて、雑に結んだ髪を指で梳いた。
 粗末な身なりは今更どうにかなるものではないのに、急ぎ整え直した。前とどこが違うのか、と訊かれたら答えようがないけれど、兎も角敷居を跨ぐための儀式を終わらせて、誘われるままに近侍部屋に入った。
 音を立てないよう襖を閉めて、縁側から戻ってきた近侍を出迎える。
「寝てなかった」
 てっきり居眠りしているとばかり思っていたのに、予想は外れた。
 賭けていたわけではないが、悔しい。
「どうしたんだい、こんな朝早く。当番じゃなかっただろう?」
 短刀が甚だ失礼なことを考えているとも知らず、打刀は文机の前で膝を折った。
 紫色の座布団に腰を落ち着かせて、台所で調達して来たらしい急須から、湯飲みに茶を注いだ。
 訪問者があると思っていなかったから、小ぶりの湯飲みはひとつしかない。急にやって来たのは小夜左文字なのに、なぜか申し訳なさそうな顔をして、彼は温い煎茶をひと口啜った。
 朝食の支度をしに、今日の当番が台所に入ったと知って、湯をもらいに行ったようだ。
 しっかり寝ずの番を勤め上げた男に胡乱げな眼差しを投げて、短刀は畳に直接腰を下ろした。
「早く、目が覚めてしまったので」
 期待していたような、面白い展開にはならなかった。
 だがそれは、小夜左文字が勝手に思い描いたもの。現実は違ったからといって、歌仙兼定を責めるのは不条理の極みだった。
 だから腹立たしさを押し殺し、乱れる感情を踏み潰した。自分で自分を窘めて、早朝の訪問の理由を述べた。
 揃えた膝に両手を並べ、明るさを増していく外を一瞥する。
 去り行く闇と、勢いを強める光の共演は美しく、鮮やかだった。
 夜の間は濃い陰影に囚われ、曖昧だった木々の境界線がはっきりと現れた。墨一色に塗り潰され、平坦だったものが輪郭を取り戻し、立体感を露わにしていた。
 互いに混じりあい、溶けあい、片方は浮上し、片方は沈む。
 昼と夜は明確に線引きされているようで、実際はそうではない。
 両者が共存する時間帯もあるのだと、己の目で確かめて、小夜左文字はほう、と息を吐いた。
 刻々と移り変わる景色を前にしていると、怒りに苛まれているのが急に馬鹿らしく思えた。
 吐息で波立つ感情を整理し、心を落ち着かせた。改めて歌仙兼定に視線を転じれば、彼は湯飲みを盆に置き、静かに微笑んでいた。
「嫌な夢を見た、というのでは、なさそうだね」
「!」
 安堵を浮かべた眼差しに、短刀は嗚呼、と音にならない声を上げた。
 足元から身体の中心に向かってビリッと来る痺れが走ったのは、その昔、小夜左文字が悪夢を見ては飛び起きる毎日を過ごしていたからだ。
 寝つきが悪く、眠り自体も浅い。
 僅かな物音にも反応して、充分に休める状態ではなかった。
 歌仙兼定も彼が夢に魘されているところを、幾度となく目にしていた。最近はそういう話をあまり聞かなくなっていたが、久しぶりに最悪な目覚めを迎えたのかと、懸念していたようだ。
 違うと分かって、ホッとしている。
 打刀の感情の変化が手に取るように分かって、小夜左文字は勝手に赤くなる頬を擦った。
「包丁藤四郎たちの、足音で」
 自分でもすっかり忘れていた過去を、歌仙兼定は覚えていた。
 照れるところはひとつもないのに、熱を持つ身休をもぞもぞくねらせて、短刀はぶっきらぼうに吐き捨てた。
 余所を向いて、口を尖らせる。
「そうか。なるほどね」
 合点が行ったと男は膝を打ち、煎茶が注がれた湯飲みを両手で持ち上げた。
 真っ直ぐ口元に運べばいいものを、一旦大外回りにぐるりと円を描いたのは、小夜左文字に飲むかどうか訊ねたかったからのようだ。
 しかし短刀は気付かなかった振りをして、やり過ごした。打刀も声に出すところまではいかず、黙って香り善い茶を飲み干した。
 濡れた飲み口を指で拭い、茶托に戻してほう、と短く息を吐く。
「平野藤四郎が一緒だから、大丈夫だとは思うが。どうだろうね」
「みんな、起きてましたか」
「皆いたと思うよ。あ、いや……次郎太刀がいなかったかな」
 夜明け前から準備に励む仲間に声援だけ送って、彼は台所を辞した。
 料理当番は総勢五振りか六振りが、日替わりで務めることになっている。そんな少数で毎日、合計六十振りを越える刀剣男士の腹を満たす料理を作らなければならないので、ひと振りでも欠けると大変だった。
 大酒飲みの大太刀は、夜更かしの常習犯でもある。
 あの男が朝早くから活動するなど、出陣を命じられた時でさえ、有り得ない。
「近侍として、起こして来たらどうですか」
 しかも彼の所為で出発が遅れたとしても、反省する気配がなければ、改めようともしなかった。
 初めのうちは口を酸っぱくして言い聞かせていた太郎太刀も、最近は説教しても無駄と諦めたらしく、放任する方向に転換していた。
 そんな大太刀に代わって、近侍である打刀が起こしに行くべきではないか。
 大わらわの台所を想像して言った小夜左文字に、歌仙兼定は露骨に嫌そうな顔をした。
「そんな役目、聞いたことがないよ」
 渋い表情で言って、茶を飲もうとして、湯飲みが空なのを思い出す。
 掴もうとしていたのを途中で断念し、指を空振りさせて、彼は代わりに急須を取った。
 丸みを帯びた愛らしいそれを軽く揺らして、注ぎ口を下に傾けた。
 とぽとぽと流れ出る新緑色の煎茶を眺めて、小夜左文字は口元を手で覆い隠した。
「ここで主張しておかないと、また近侍から外されますよ?」
「いいんだよ、お小夜。あまりやり過ぎると、余計な仕事を増やすなって、文句を言われるんだから」
「あー……」
 零れる笑いを掌で隠して言えば、最後の一滴を湯飲みに落とした男が肩を竦めた。
 屁理屈ではあるが、一理あって、短刀は遠くに視線を投げた。
 近侍の一番の仕事は、時の政府からの連絡を受け取ることだ。審神者からの命令を、本丸全体に伝える役目も重要だ。
 寝ずの番をして、万が一に備える。その日一日の業務報告書を作り、政府へ提出する。
 新たにやって来た刀剣男士を案内し、屋敷で生活する上での注意事項を説明する。
 歌仙兼定が顕現した直後は、近侍がやることといえば、せいぜいこれくらいだった。
 ところが他の刀剣男士が近侍を務めるようになって、業務範囲が一気に拡大した。
 屋敷内での騒動を調停し、備品や食料などを手配する。
 畑の農作物の育成具合を調査し、今後どういった種類の種を蒔くか、どの野菜から収穫するかの裁定を下す。
 家畜の数を管理して、各施設の破損状況を念入りに確認し、必要ならば人員を手配して補修を行う、など等。
 およそ近侍がやるべきことではないものまで押し付けられて、一時は収拾がつかなくなっていた。
 それもこれも、どこかの誰かが張り切り過ぎたからに他ならない。
 これではただの便利屋だ、と爆発したのは和泉守兼定だ。
 脇差の堀川国広に手伝ってもらっても、全てを完璧に終わらせるのは難しかった。すでに各方面から苦情が出ていたこともあり、これがきっかけとなって、近侍の仕事内容は整理されることとなった。
 それでも審神者の覚えを少しでも良くしようと、業務内容を一方的に増大させた張本人は、今現在もあまり反省が見られない。
 なんでも命じてくれ、という態度が仲間内から反感を買っていると、へし切長谷部はいつになれば気付くだろう。
「歌仙は怠け者ですから」
「お小夜には、僕がそう見えているのかい?」
 次郎太刀を起こしに行く気はさらさらない、と主張した打刀に肩を竦めて揶揄すれば、歌仙兼定は両手を広げて大袈裟に身を捩った。
 こんなに頑張っているのに、と態度で主張するが、それのどこが頑張っているのかは分からない。
 少しでも身体を大きく見せて、威圧している風にしか映らず、小夜左文字は目を逸らして聞き流した。
 短刀の反応が鈍いと知り、尻を浮かせていた男は座布団に戻った。座り直し、面白くなさそうに頬杖をついて、壁の染みをじっと見つめてから嗚呼、と小さく頷いた。
「そうだった」
「歌仙?」
 突然の独り言に反応し、振り返る。
 短刀が目を丸くする前で彼は膝を手に置き、悠然とした仕草で立ち上がった。
 文机の前から離れ、近侍部屋の片隅に置かれている棚に向かった。飴色の家具は頻繁に使われる場所だけが艶を帯び、ぴかぴかの金具と、やや草臥れた色合いとで二分されていた。
 抽斗は縦に三段、うち最下段だけ四列あり、上二段は三列だ。短刀でも楽に使える高さで、中に収納されているのは近侍が記す報告書諸々だ。
 報告する内容によって書式が違い、それが各抽斗の使用頻度に変化を生む原因となっていた。
 小夜左文字も何度か近侍を任されたことがあるので、どこになにが入っているか、大雑把に把握していた。
 けれど歌仙兼定が開けたのは、彼には覚えがない場所だった。
 棚本体から離脱するぎりぎりのところまで抽斗を引いて、両手を添えて中身を取り出す。
「それは?」
 現れたのは、紙ではなかった。
 低い位置にいる短刀には、白い皿の中身が見えない。思いがけないものの登場に、小夜左文字は無意識に身を乗り出した。
 顎を引いて上を向く彼を笑い、歌仙兼定は右人差し指を唇に押し当てた。静かに、と合図を送って右目だけを器用に閉ざし、急ぎ左右を確認して、空になった抽斗を肘で押し戻した。
「夜食に、と貰ったものなんだが」
 言って、皿全体を覆っていた透明の包みを引き剥がす。
 使い終えた包みをくしゃくしゃに丸めて、打刀は湯飲みの横に皿を置いた。
 これでようやく、小夜左文字にも棚に隠されていたものの正体が見えた。
「かすていら……」
「時間が経っているから、多少乾いてしまっているが。食べるかい?」
「いいんですか?」
 頭の中で呟いたつもりが、声に出ていた。
 半ば惚けた状態だった少年は、隣からの思わぬ提案に驚き、零れんばかりに目を丸くした。
 吃驚して、背筋をピンと伸ばした。雑に結んだ髪をぶわっと膨らませ、両手を膝に置いて畏まった。
 パチパチと数回瞬きを繰り返して、穏やかに笑う男に疑念を向ける。
 甚だ失礼な眼差しにも拘わらず、歌仙兼定は愉快だと肩を揺らした。
「構わないよ、お小夜。いや、しかし、あれだな。もうじき朝餉か」
 珍しく過剰に反応したのが、面白かったらしい。打刀は鷹揚に頷いて、それから現在時刻を思い出して顎を撫でた。
 全部で三切れあるかすていらの表面には、細かな砂糖の粒が貼りついていた。断面は黄色く、忘れた頃にふわっと甘い香りが漂った。
 思わず溢れた涎を飲み込んで、小夜左文字は平らな腹を撫でた。
「朝餉の献立は、聞いてますか?」
 昨日の夕餉を終えてからだと、眠る前に水を少々飲んだだけ。固形物は口にしていないので、胃は空っぽに近かった。
 そこに見た目も、匂いも美味しそうなものを出された。大人しかった食欲は急速に膨らんで、怪獣のように暴れていた。
 朝餉まで、我慢出来そうにない。
 再び咥内に溢れた唾液を飲み込んで、短刀は気もそぞろに問いかけた。
「いや、残念ながら」
 歌仙兼定は髭を剃ったばかりの顎をなぞり、首を横に振った。
 彼が台所を訪ねた時は、調理当番が準備を開始した直後だった。米を炊く係と、味噌汁の出汁を取る係が忙しくしており、野菜を洗う係が水の冷たさを嘆いていた。
 騒々しいやり取りを振り返るが、並べられていた食材から完成品を想像するのは難しい。
「近侍として、失格かな?」
 どのような料理を作り、提供するかはその日の料理当番の腕に掛かっている。
 近侍が献立に口出しする権利は、現在は与えられていない。
 そんなことまで押し付けられていた当時を揶揄した彼の言葉に、小夜左文字は首を竦めた。
「いつもとそんなに、変わらないでしょう」
「だろうね。味噌汁は、平野藤四郎が見張っていたから、心配ないと思うよ」
「それは安心です」
 この本丸の朝食は、玄米飯に味噌汁、ししゃもなどの小魚を焼いたものが一般的だ。そこになにを足すか、削るかは、各自の自由だった。
 卵が好きな刀なら、朝一番に鶏小屋で集めて来た卵を用いるし、野菜が好きな刀が当番になれば、朝露に濡れる野菜を収穫して、それを使う。
 味付けも顕現して日が浅い刀は大味で、現身での経験を多く積んでいる刀ほど繊細になる傾向があった。
 その点、平野藤四郎は本丸での生活が長い。包丁藤四郎にやらせるより、失敗する確率は低いはずだ。
 膳に並べられた料理を想像していたら、空腹に拍車がかかった。
 ぐう、といつ鳴っても可笑しくない腹を帯の上から軽く叩いて、小夜左文字は目の前の甘味に視線を向けた。
「これくらいなら、問題ないと思います」
 かすていらは結構な厚みがあり、三切れを合わせると一寸を越えそうだ。
 ただ見た目ほど中身は詰っておらず、しっとり濡れた生地は、そこまで重くない。表面に塗られた粗目糖が気になるが、朝餉が食べられなくなるまで腹が膨れる量ではなかった。
「おや。食いしん坊」
「出されたものは、すべて平らげるのが礼儀です」
「生意気を言うのは、この口かな」
「止めてください」
 食べる気満々なのを茶化され、頬をつんつん、と小突かれた。
 放っておくと延々突かれそうで、三度目を前にして払い除けた。懲りずに戻ってこようとした指を威嚇して、目尻を吊り上げれば、歌仙兼定はようやく諦めて手を引っ込めた。
 美味しい菓子を前に、気分を台無しにされたくない。
 眼力を強めた彼に苦笑して、歌仙兼定は皿の上で待つかすていらを指差した。
「僕が一切れ、お小夜がふた切れかな」
「逆じゃないですか?」
「譲られているんだ、素直に受け取ってくれると嬉しい」
「……ありがとうございます」
 三切れをふた振りで、等分にするのは難しい。
 年下のくせに大人ぶった男の気遣いにムッとしたのは確かだが、食欲が勝り、次の瞬間には掻き消えていた。
 礼を述べ、遠慮なく皿へと手を伸ばす。
「しかし、朝餉前にこうやって食べるのは、妙に罪悪感があるというか、なんというか」
 差し入れてくれた蜂須賀虎徹も、まさか東から太陽が顔を出してから出番が来るとは、思ってもみなかったに違いない。
 空腹を満たすと眠気に負けそうだったので、我慢しているうちに忘れていた。放ったままにして黴だらけにしなくて良かったと安堵して、歌仙兼定はあれこれ言いつつ、ぱくりと齧り付いた。
 小夜左文字も大きく切り分けられたひと切れを頬張り、ふわふわの触感と、口の中いっぱいに広がる甘い香りに目を細めた。
「たまには悪くないです」
「内緒だよ」
「もちろんです」
 食事の前に甘いものを啄むのは、打刀の言う通り、背徳感があった。
 頑張って朝餉の準備をしている仲間への裏切り行為にも等しくて、いけないことだと思うが、止められなかった。
 理屈っぽい刀に知られたら説教確実だが、部屋の中には彼らしかいない。お互い今日のことを他者に語らず、秘密を貫けば、身の安全は保障された。
 証拠を残さないために、小夜左文字は膝に落ちた砂粒ほどの欠片を指に貼りつけ、素早く口に入れた。
 行儀が悪いが、歌仙兼定は見なかった振りをして、指摘するような無粋な真似はしなかった。
「三文の徳ならぬ、三切れの得、だね」
「早起きした甲斐がありました」
 代わりに思いつきで口遊み、それに短刀が相槌を打った。
 向かい合い、ひそひそ話の距離でかすていらを頬張る彼ら横顔を、登ったばかりの朝日が穏やかに照らしていた。

2018/04/08 脱稿

白川の春の梢の鶯は 春の言葉を聞く心地する
山家集 70 春

靴擦

 並盛町は沢山の家が立ち並ぶ住宅地であるけれど、郊外に出ればそれなりに緑も多い。
 軒を並べる家々も、小さな庭付きのものが多いので、町中にありながら意外に背の高い木もそこかしこに見受けられた。もっともこの炎天下、灼熱の太陽に降参した植物は揃って俯いて深く頭を垂れていた。
 お辞儀をしているというよりは、力尽きて今にも倒れそうなところを寸前で踏ん張っている、そんな感じだ。あの向日葵さえもが葉を垂らし、辛そうな顔で軒下を窺っていた。
「あー、もうっ」
 昨晩に雨が降ったので、気温はそう高くない筈だった。雲も適度に空を覆い、時折気まぐれに太陽を隠してくれる。
 だが、なにぶん湿気が多い。流れ出る汗は乾くを知らず、だらだらと肌を伝って着衣に次々に染み込んでいった。
 まだカラッと空気が乾燥していれば良かったのだが、多量に溢れる汗は体力も容赦なく奪っていく。水気を吸った布はその分重くなり、肌に張り付き、不快感を助長した。
 じりじりと焦げるアスファルトを蹴り、綱吉は握ったハンドルを力込めて押した。緩い坂道とはいえ、巨大な荷物を抱えていると途端にどんな急峻な岩山よりも険しい道程と化す。歯を食いしばって腹から息を吐いた彼は、全身から湯気を放ち、次なる一歩を前に繰り出した。
「もうっ、やだっ。なんでっ、こんなっ、時にっ」
 一言一句を細切れにしながら恨み言を口にし、またもう一歩、坂道の終わりを目指して突き進む。だが登り終えたところで、サドルに跨って一気に駆け下りることも出来ないのだった。
 額から流れた汗が睫を伝い、視界の上三分の一程度が歪んだ。即座に目を閉じて首を振った彼は、犬のようにだらしなく舌を伸ばして体内に篭もった熱を廃棄し、上唇を舐めて引っ込ませた。
 ハンドルを持つ手も汗まみれで、手の甲からシャツの袖まではすっかり真っ黒だ。
 夏休みが終わる頃には、皮が剥けて散々な姿になっているに違いない。今日の風呂は、湯船に浸かるのも難しかろう。シャワーで汗を流す程度でなければ、全身火傷状態なのだから、悲鳴をあげるのは綱吉本人だ。
「てか、今すぐシャワー浴びたい。冷たいお茶が飲みたい。喉渇いたー!」
 アイスクリームでもいい、兎に角身体を冷やすものが欲しい。
 ぜいぜいと苦しげに息継ぎを繰り返し、綱吉はようやく辿り着いた坂道の終着点でホッと胸を撫で下ろした。
 前傾姿勢から背筋を真っ直ぐ伸ばし、湿って重い髪を掻き回す。並盛の町並みは眼下遠く、自宅まではまだ相当の距離が残っていた。
 蝉の声が時に小さく、時に大きく、耳に響く。体感温度を上昇させる喧しい声に舌打ちして、彼は絞れそうなくらいに重くなったシャツの袖で汗を拭った。掲げた腕を庇にして、憎々しげに太陽を睨む。
 あまり見詰めすぎると目がやられてしまうので程ほどにして、彼は足踏みすると、車体を安定させるべくスタンドを足に引っ掛けた。地面に対してほぼ水平になっていたものを、垂直に作りかえる。斜めになった銀色の車体は、綱吉の手を離れても転がり落ちる事はなかった。
 前部に据え付けられた籠には、リュックサックがふたつ、押し込まれていた。大きいものと、小さいものと。片方は綱吉のものとして、もう片方の持ち主はこの場に居合わせていない。
 綱吉はひとりだった。
「つっかれた……」
 七月半ば過ぎから始まった夏休み、大量の宿題と引き換えにしても充分自由な時間を満喫できる、筈だった。
 しかし綱吉の家には現在、綱吉以上に元気が有り余っているちびっこが居る。部屋でのんびりゲームを楽しむ、なんて事は許されず、隙を見つけては遊べ、構え、何処かへ連れて行け、の連呼で五月蝿いことこの上ない。
 特にランボの構って度が酷くて、家に居る間は四六時中綱吉にべったり張り付いてくる。甘えたいのだろうと最初は許容していたものの、なにせフゥ太のランキングでウザいマフィアのトップに輝いただけのことはある、一日で愛想が尽きた。
 それからは、あれこれ理由をつけて外に出かけるようにしてきた。しかしネタも尽き、金も尽き、一緒に遊ぶ友人との日程も都合つかない日が増えた。彼らにも彼らの用事があるのだから、ランボから逃げたいが為に自分に構えと主張するのは勝手すぎる。これでは綱吉も、ランボと同類だ。
 今日はどうやって過ごそう、悩みながら朝食を食べていた綱吉に救世主の如く現れたのが、リボーンだ。どういう風の吹き回しか、一緒に並盛郊外の川へ釣りに行こうと、そう言い出したのだ。
 水遊びが出来るので大歓迎で、聞いていたランボたちも当然行きたがった。しかしバスも走らない、交通機関に乏しい場所で、移動手段は綱吉の自転車ひとつしかない。それに三人、四人と乗れるわけがなく、物理的な問題で彼らの願いは聞き届けられなかった。
 だが、言いだしっぺはあのリボーンだ。ただの釣りであるわけがない。
 鬼家庭教師の珍しく優しい言葉にすっかり騙された綱吉は、奈々が即席で作ってくれたおにぎりと、倉庫の片隅に眠っていた釣竿を抱え、自転車に颯爽と乗り込んだ。リボーンが良いポイントがあるというので疑いもせず信じ、彼の道案内で山の方へ、山の方へと突き進んで。
 本当に此処か、と初めて疑念を抱いたところで、置き去りにされた。
 小休止として木陰で弁当を食べ、岩場で涼んでいたところ、いきなり自転車ごと放り出された。釣竿は奪われて、タクシーご苦労とだけ言われた。
 何のことだかさっぱり分からなくて混乱する綱吉を他所に、赤ん坊はレオンを肩に載せ、土産を期待しろとだけ言ってちょろちょろと水が流れる小川を上流目指して登っていった。リボーンを後ろの台座に乗せて汗をかきかき此処まで来たのに、なんという無体な扱いだろうか。
 道具を失った以上、釣りなんか出来るわけがない。いつ戻って来るか分からないリボーンを待って、そこに留まり続けるのは正直気が引けた。
 酷い目に遭わされたのだ、帰りの手段を失って途方に暮れてしまえばいい。そういう事で綱吉は、倒された自転車を起こして、折角登った山道を下り始めたわけなのだが。
 あろう事か、自転車がパンクしていた。
 恐らく倒れた際に、落ちていた小石が刺さったのだろう。後輪が見事にぺしゃんこで、タイヤを抓むと熱を帯びたゴムが指に張り付いた。
 試しにサドルに座って平らな路面で走らせてみれば、空気が抜けてしまっているので後輪のフレームに直接衝撃が伝った。がくん、がくん、と尻を突き上げられるようで、とても漕げたものではない。立ち漕ぎをしても、ハンドルを握る手にも衝撃が行くので、意味は無かった。
 リボーンが戻って来たところで、どうにかなる問題でもなかった。まさかレオンに頼んで、自転車のタイヤになってくれともいえない。なにより飼い主が許さないだろう。
 結局綱吉は、なにをしに行ったか分からない郊外の山を、トボトボと役に立たない自転車を押して歩いて下るしかなかった。
 赤ん坊の身勝手さには心底腹が立ったが、彼の甘言に乗ってあっさりと騙されてしまった自分の警戒心の無さにも、ほとほと呆れた。もうちょっと警戒して然るべきだろうと、浅はかだった午前の己を振り返り、彼はがっくり項垂れた。
 パンクしたものが自然と直るなんて事はなくて、坂の頂上でしゃがみ込んだ綱吉の目の前では、相変わらず後輪タイヤはぶらぶら揺れていた。
「帰れるかなあ」
 購入してからまだ一年と経っていない自転車だ、愛着もあるので捨てて帰るなんて出来ない。これに乗って、獄寺や山本や、京子たちとサイクリングに出向いた。大切な綱吉の相棒なのだ。
 思い出が沢山詰まった自転車を、こんな僻地に置いていけない。絶対に持って帰る。最早ただの意地でしかなく、綱吉は深く長い息を吐いて膝を伸ばし立ち上がった。
 燦々と照りつける太陽に臍を噛み、負けてやるものかと自分を勇気付けてハンドルに両手を置く。右足で勢い良くスタンドを後ろへ蹴り飛ばして、彼は重い荷物を前に押し出した。
 下り坂になれば多少楽か、と思ったが、実際は上り坂よりもきつかった。
 常にブレーキを握り、加減を調整する必要があった。でないと、重力に引っ張られた自転車が綱吉を置いて転がり落ちていってしまうからだ。
 車道と歩道の間には掠れた白いラインが走るだけで、仕切る柵は設けられていない。車がガンガン走っていく中、コントロールを失った自転車が車道に飛び出しでもしたら事だ。
 綱吉は顎から汗を滴らせ、顔を歪めた。
 握力が限界に近付こうとしている、歩き続けた足もまるで棒のようだ。
「いって……」
 まだ数回しか履いていないスニーカーは、踵が擦られて靴ずれを起こしていた。一歩進むたびに、あちこちから痛みが生じ、速度は出発直後に比べると格段に落ちていた。
 自宅までは、まだ遠い。幾らかは町に近付いたものの、車以外に通る人の姿もなかった。
 人が住んでいるわけでもないので、バスは走っていても停留所が無い。手を振って合図を送っても、町へ向かうバスは綱吉と同じ方向に進んでいるので、気付いた時にはもう脇を通り過ぎた後だ。
 タクシーも、通るのは人を乗せたものばかり。もっとも所持金が微細なので、乗れるわけがないのだが。
「誰か乗せてくれないかなー」
 自転車を押し押し進む哀れな中学生に同情して、町まで運んでくれる親切な人はいないものか。期待の眼差しを行き交う車体に向けてみるが、誰も彼も急ぎ足で、綱吉に気を向けてくれる優しい心の持ち主はひとりとしていなかった。
 旅は道連れ、世は情けという言葉は、もうとっくに通用しない時代になってしまったらしい。
「はぁぁ……」
 溜息しか出なくて、綱吉は疲れ果てた身体を休めようと、外側に少し張り出してスペースが広がった歩道に自転車を置き、籠のリュックサックを取り出した。
 中を漁り、水筒を取り出す。冷たいものは冷たいまま、熱い物は熱いまま持ち運びが出来る、保温タイプの魔法瓶だ。これが実にかさばる代物で、挙句重い。恐らくは壊れた自転車に次ぐ、綱吉の足を引っ張る荷物だ。
 コップにもなる蓋を外して、出て来た本体真ん中のボタンを押す。注ぎ口を開き、彼はそそくさとひっくり返した蓋をその下に宛がった。
 だが期待したほどの量は出てこず、彼は首を捻り、左手に持った魔法瓶を上下に揺らした。
「えー」
 昼食時、後のことなど考えずにがぶ飲みしたのが良くなかった。おにぎりを飲み込むのに大量のお茶を消費したので、もう殆ど残っていなかった。
 五十CCにも届かない麦茶を前にがっくり肩を落とし、綱吉は仕方なく残っていた分を一気に飲み干した。しかし渇きを訴えた喉はこれだけでは満足しない。唇を乱暴に拭った彼は、ならば、と魔法瓶を片付けてリボーンのリュックサックを手に取った。
 綱吉のものよりは幾らか小ぶりの、保温機能がついていない半透明の水筒が出て来た。残量は半分近く残っている。見た瞬間、彼は大きく喉を鳴らした。
 生唾が溢れ出し、咥内を湿らせる。
「う、けど」
 今これを、欲望のままに飲むのは危険だ。ちゃぷん、と揺らして水音を響かせ、綱吉は奥歯を噛み締めた。
 少しでも生存率をあげる為にも、幾らか残しておく必要がある。けれど、全身が乾いている。関節が悲鳴をあげ、頭の中は熱にやられて真っ白だった。
「ええい、ままよ!」
 飲んでしまえ、と覚悟を決めて、彼は栓を外した。蓋を兼用しているコップは使わず、直接注ぎ口を咥内に突っ込んで水筒を傾ける。
 流れて行く液体を無心で貪り、身体中に染み渡る水分に、彼は歓声をあげた。
「ぷはー」
 こんなに美味しいお茶を飲んだのは、生まれて初めてだ。
 おっさん臭い感想を述べてほぼ全てを飲み干し、綱吉はカンカン照りの空にくらっと眩暈を起こした。
 プラスチックボトルは、外からでも残量が見える。あと一センチ足らずの飲料を顔の前に掲げ、五秒前の愚かな自分を振り返って彼は力なくその場に崩れ落ちた。
 白い車体の車が、唸り声をあげてカーブを曲がって通り過ぎていく。正面衝突を回避させてブレーキを踏み込んだ車体を視界の端に見やり、彼は蜂蜜色の髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回した。
「俺の馬鹿」
 まだ昼の三時を回ったところだというのに、なにをやっているのか。夏場の太陽は長く地上に居座り、日が暮れた後も雨が降らない限り気温はなかなか下がらない。熱中症の危険性は常に付きまとい、こまめな水分補給が求められるというのに。
 休憩所なんてないから、道中自動販売機も無かった。見える範囲にもそれらしきものは存在せず、どうやっても山を下りきり、町に行く必要があった。
「足、いってぇ」
 絆創膏でもあればよかったのに、それすら持ち合わせていない。つくづく運が悪いと嘆き、彼は首の汗を拭った。
 タオルを取り出して広げ、頭に被せて端を前に回す。ほっかむりで格好悪いが、多少なりとも直射日光を軽減させるには、これしか手段が無いのだ。
 背に腹はかえられぬと、喉元で無理矢理タオルを縛って固定させ、跳ね放題の髪の毛を引っ込めた彼は渋々ハンドルに手をやった。足を庇いながらの移動なので、速度が出ないのは仕方が無い。身体は無情に痛めつけられ、リボーンへの怨み節ばかりが増えていく。
 こんなことなら、家でランボの相手をしている方が万倍良かった。
「もう、誰でもいいから助けて」
 贅沢は言わない、自転車ごと自分を並盛まで運んでくれる天使のような人が現れないだろうか。
 へとへとに疲れ果て、しかし残る道程は終わりが見えない。近付いているようで、逆に遠ざかっている錯覚にさえ陥り、綱吉は朦朧とする意識の片隅で懸命にそんな事を祈った。
 神様も仏様も信じていないが、もしここで奇跡が起こったら、今日ばかりは信じてやっても構わない。
 傲慢な事を心の中で呟き、綱吉は通り過ぎる車列に顔を向け、苦笑した。
「……わけないよなぁ」
 奇跡など、神仏が起こすものではない。人が起こすものだ。
 それに綱吉の願い事はあまりにも身勝手で、都合が良すぎる。叶うわけが無いと皮肉に口元を歪めた彼は、長年乗りこなしているのだろう、おんぼろの年代車が低速で走り去るのを見送り、肩を落とした。
「急ごう」
 これでリボーンの方が帰宅が早かったら、良い笑い者だ。
 今はたとえ一歩でも多く進むのが先決で、休んでいる暇など無い。喋るのも、笑うのも、体力の浪費に直結する。
「くっそー」
 負けてなるものか。挫けてなるものかと歯を食いしばり、右に曲がる道を進んでいた綱吉の前で、エンストでも起こしたのか、先ほどのぼろっちい車が一台、端に寄って止まっていた。
 白線を越えて、歩道にまで入り込んでいる。真っ直ぐ進もうにも道が塞がれてしまって、綱吉は嫌そうに顔を歪めた。
 こんなところで大回りさせられるのは迷惑でしかなく、人の苦労も知らない運転手を、せめてひと睨みしなければ、気がすまない。綱吉はハンドルを僅かに右に捻ると、仕方なく車体を回り込んで車道に足を踏み込んだ。
 暑い。
 疲労はピークを通り過ぎ、もう足の感覚も残っていない。踵が血だらけになっている気がしたが、一度脱ぐともう履けなくなってしまう。
 靴が無いと、熱せられたアスファルトを行くなんて不可能だ。だから脱がない、下も見ない。自転車を前に押し出し、遅れて身体を、まるで自転車に引きずられる形で前方に送って、彼はよろよろと左右に視線を泳がせながら、ろくに洗ってもないだろうおんぼろ車の運転席横を素通りした。
 ウィーン、と微かな電子音を引き連れて窓がドアに吸い込まれていく。
「おい」
 声がした。しかし綱吉は事務的に足を動かし、振り返らなかった。
「おい」
 もうひとつ、呼び声が響く。気に触るくらいの低い、男の声だった。
「おーい」
「うるさい!」
「何やってんだ、坊主」
 誰の所為で余分な体力を消耗していると思っているのか。あれほどに自分を乗せてくれる車を懇願していたくせに、すっかり忘れ、綱吉は怒りのままに頭の火山を噴火させて怒鳴った。
 自転車のブレーキを握り締め、勢い任せに振り返る。
 そうして、運転席から上半身を外に出した男の姿に絶句した。
「シャ……っ」
「あぶねーぞ」
 避けろ、と車外に出した右腕を振ったシャマルが、綱吉に後ろから来る車の存在を教えた。車道に出ていた綱吉は、轢かれてはたまらないと大慌てで歩道に戻る。途中、動きの悪い自転車に足を取られ、膝が折れた。
「うあ!」
「なにやってんだ?」
 危うくもんどりうって倒れるところで、寸前で堪えた綱吉に怪訝な声を発し、シャマルは一旦車の中に引っ込んだ。
 今度はドアが開いて、本人が出て来る。自転車を抱え込んで苦しげに噎せている少年に歩み寄り、己の身体で作った影に取り込んだ。
「おい」
「なんで、シャマルが此処に」
「居ちゃ悪いか。テメーこそ、何やって……パンクか」
 奇跡だ。半ば信じられない気持ちで、胸元を撫でて呼吸を揃えた綱吉は彼を見上げた。
 無精髭を、夏休みで学校に行かなくていいからか、いつもより長く伸ばし、ボサボサの頭によれよれのシャツとスラックスを合わせた男は、トイレ用かと目を疑うようなサンダルで地面を擦り、綱吉の前に立っていた。
 立ち上がるのも困難を極め、疲労困憊甚だしい綱吉を眺め、彼は顎をゆっくりと撫でた。視線をひと往復させただけで大雑把に状況を把握し、小さく頷いて両手を腰に据える。
 その上でひらりと右の手首を揺らし、
「じゃあな」
「ええー!」
 くるりと踵を返して言った。
 途端悲鳴をあげた綱吉の、今にも泣き出す寸前の悲壮感漂わせた姿を振り返り、ニヤリと意地悪く笑う。それで出かかった涙は完全に止まり、丸い目をより丸くした彼は、騙されたと気付いて牙を剥いた。
「酷い。シャマル、酷い!」
「うっせーな。ったく、……立てるか」
 渾身の力を振り絞って叫び、振り上げた手で彼の脛を殴りつける。弁慶の泣き所に当たったからか、彼はその場で飛び跳ねて、いかにも仕方が無いという風情で右手を差し出した。
 倒れた自転車の籠からは、背負う主のいない鞄が零れ落ちていた。そちらにも目を向け、膝を伸ばした途端にまた折れそうになった少年を胸に抱きかかえる。
「ひとりか」
 鞄は二つだが、周囲に人の気配は無い。念のため見回してから問うたシャマルに、綱吉は懸命に唾を飲み込んで頷いた。
 結局立てなくて、綱吉は引きずられるようにして運転席のドアから車内に放り込まれた。
 硬い座席に、あまり効いているとはいえない空調。しかし長らく炎天下を歩き通しだった綱吉には、そこは天国のようだった。
 這々の体で助手席に移動して、どうにか頭に巻きつけたタオルを外し、それで顔を拭う。
 開けっ放しのドアから更に鞄をふたつ投げ入れ、シャマルは外からドアを閉じた。後輪が完全に役立たずと化している自転車を起こして路肩に立てかけ、両手を自由にする。
 そのまま車に戻って来ようとする彼に慌てて、綱吉は窓から頭を出そうとしてガラスにぶつかった。
「いてっ」
 こちらは窓が閉まっていたのだった。そんな単純なことも忘れて苦痛を増やした綱吉は、両手で打った箇所を撫で、運転席に戻って来たシャマルを下から睨みつけた。
「んだよ」
「自転車」
「あんなボロっちいの、要らねえだろ」
「要るよ!」
 確かにちょっと砂埃を被って薄汚れているが、パンクの修理さえすればまだまだ乗れる。簡単に捨てていこうとするなと声高に主張し、綱吉は彼に向かって拳を振り上げた。
 膝に置いていた鞄が滑って、足に落ちる。靴ずれの痛みが誘発されて、彼は振り下ろす前に自分の身体を抱え込んだ
 背中を丸めて激痛に呻く少年に嘆息し、シャマルは脂性の髪を撫でた。溜息を連発させて、乗り込んだばかりの車からまた降りる。
「冷房切るぞ」
「えー?」
「後ろ、閉まんなくなるぞ」
 シャマルの車は、二人乗りのミニサイズ。後ろに座席はなく、荷台になっていた。
 座席シートから後ろを見て、その狭さと低さに驚かされる。しかも既に、何がなんだか分からぬものでごちゃごちゃしており、満杯状態に近かった。
 前に向き直れば外に出たシャマルが、自分で立てかけた自転車を抱えて助手席側、つまり歩道側から後ろに回り込むところだった。ハンドルの真ん中を握って、やや乱暴に、ガコンガコンと壊れた後輪で地面を削りながら。
 もっと丁寧に扱えと頬を膨らませるが、動けない綱吉に代わってやってくれているので、あまり文句は言えない。ともかく、これで一安心と言えた。
「あー……」
 力なく息を吐いて座席にもたれかかり、靴を脱いで足を自由にする。履いていた元は白かったはずの靴下は、黒と赤が入り混じって嫌な色に染め直されていた。
 ドン、と音がして車体が揺れて、首を後ろに向けると丁度真後ろの扉が上に開くところだった。シャマルが腰を低くして中を覗きこみ、置ける場所を作るべく中のものを端に寄せる。
 手伝いたかったが、足の痛みがあるので踏ん張れない。邪魔をするだけだと彼にも言われ、綱吉は大人しく座席で丸くなった。
「いってて」
 靴下を脱ごうと膝を寄せるが、捲れた皮が血で布に張り付いてしまっているようで、引っ張るとじくじく痛んだ。奥歯を噛み締めて堪え、熱を持った箇所に息吹きかけるが、遠くてなかなか呼気は届かない。後ろではシャマルが依然ガサガサやっており、車内にあった冷気はどんどん後ろに流れていった。
 こうなると車内は蒸し風呂に近い。折角安息を得たのに、身体は再び火照り始めた。
「あっつーい」
「おし、入った」
 シャツの襟を抓んで広げた綱吉の声を上書きし、シャマルの満足げな声がひとつ響いた。
 振り向けば丁度ドアが閉まるところで、勢い任せのバンッ、という音と衝撃に、彼は反射的に首を引っ込めた。
「あれ……」
 不思議なことに、ちゃんと閉まっているではないか。フレームが斜めを向いて、ハンドルが天井に突き刺さってはいるが。
 後輪はドアの内側ぎりぎりのところに留まっている。元々あまり大きいものではなかったので、なんとか入ったといったところだ。後部ドアを開けっ放しでの運転は、荷物がわらわら落ちて行きそうで怖いから、無理矢理詰め込んだのだろう。
 お陰で元から窮屈だった荷台が余計狭さを増し、運転席まで圧迫されていたが。
「ったく」
 不満顔でシャマルが座席に戻り、乱暴にドアを閉めた。窓も閉まって、出て行く一方だった冷気がまた少しずつ車内を冷やし始めた。
 汗がスッと引いて、綱吉は安堵の表情を浮かべた。
「生き返る……」
「でっけー荷物、拾っちまったぜ」
「えへへ、有難う」
 嫌味を笑顔で受け流し、綱吉は手で顔を扇いだ。滴る汗をタオルに吸わせ、シャマルの髭に絡んでいる分も拭ってやる。
 いきなり横からタオルで撫でられて、ハンドルブレーキを解除しようとしていた彼は面食らった。
「アブねーな」
 運転している時には絶対にするなと言われ、良かれと思ってやった綱吉はしょんぼりと項垂れた。耳を垂らした犬のように大人しくなった彼に嘆息し、大きな左手を広げて伸ばす。頭を掻き回され、綱吉は肩を竦めた。
 助手席に戻り、シートベルトをしっかり腰に回して留めて居住まいを正す。下ろすと痛いので、脚を伸ばし、爪先は宙に浮かせた。
 暗い場所で見えづらいものの、綱吉の傷の具合に眉を潜め、シャマルは壊れた自転車と、ナビに表示されている現在位置に呆れ顔を作った。
「んで、なんだって」
「リボーンが、酷いんだよ」
「……ああ、そうかい」
 理由を問おうとすれば、先を競って綱吉が声を張り上げる。鼓膜を突き破る大音響に、シャマルは渋い顔をして一方的に終わらせた。
 だが綱吉は気が済まなくて、握り拳で膝を交互に叩き、顔を真っ赤にしてリボーンのリュックサックを握りつぶした。
 そのまま胸に抱え込んで、頬を膨らませる。リスかなにかを思わせる表情に苦笑して、シャマルは後部のハザードランプを消して、右にウィンカーを出した。
 車列に合流を果たし、緩やかに波に乗る。
 締め切った車内は、煙草の臭いが染み付いていた。だが、綱吉がいるからだろう、彼は胸ポケットの膨らみに手を伸ばさない。
 暫くじっと真面目な横顔を眺め、綱吉は鞄の中から半透明の水筒を抜き出した。まだ少し残っている、かなり温くなったお茶を飲み干して人心地つく。
 車がカーブに差し掛かるたびに、後ろからはギシギシと、詰め込まれたものが嫌な音を立てた。乱雑に積み上げられた箱や、紙袋の類になにが入っているのかは、シャマルという人物の特性上、あまり考えたくない。
「またろくでもないもの買い込んで」
「んだとー」
 ちらりと見えた紙袋の中身、際どい水着の女性の写真が表紙を飾っていた。これ全てがその類かと思うと、憂鬱な気分が舞い降りてくる。
 呟きに片手運転で拳を振り上げたシャマルだったが、直ぐ後ろから猛スピードで来た車に焦り、慌ててハンドルを左に切った。素早く避けて、荒っぽい運転に愚痴を零す。
 綱吉は感覚が鈍い足を揺らめかせ、窓の外を流れて行く景色に見入った。
 自力で歩くより何十倍も、何百倍も早い。
「ってか、ボンゴレ。他にもっと言うことがあんだろ」
「なに?」
「……叩き落すぞ」
 きょとんとしたまま振り向けば、シャマルが物騒な事を口にした。
 むっとして、一秒考えて、綱吉が足を交互に揺らす。並盛の町に入った車は、頻繁に信号に引っかかるようになった。経路を見る限り、綱吉の家に向かっていると思われた。
 右足を跳ね上げ、ボードの底を蹴り飛ばす。
「ありがと、シャマル。愛してる」
 神様と仏様にも心の中で感謝を表明し、今日ばかりは信じてみようと舌を出す。だが棒読みに近い台詞にシャマルは顔を顰め、青から赤に変わった途端、アクセルを乱暴に踏み込んだ。
 ぶぉん、とエンジンが唸り、急な加速で綱吉の身体が座席に沈んだ。重なり合っていた箱がずれて、それを土台にしていた自転車が引きずられて軋む。天井から埃が降ってきて、綱吉は機嫌を悪くしたシャマルの大人気ない態度に苦笑した。
 もう充分良い歳なのに、時々綱吉よりも子供っぽい。そのギャップがまた面白くて、声を殺して笑った綱吉は、人の事を言えない乱暴な運転を町中で繰り返す彼に舌を出し、遠くに見え始めた覚えのある景色に目を細めた。
 この道を真っ直ぐ行って、二つ目の角を左に曲がれば家に着く。もう少しだと身を乗り出し、綱吉はシートベルトに手を伸ばした。
 赤いボタンを押して拘束を解除し、しゅるっと引っ込んでいくその下を潜り抜けて右の運転席に手を伸ばす。
 通行人を避けて徐行運転に切り替えたシャマルの肘を取り、彼がちらりと横に目を向けた刹那。
「だいすき」
 耳元で囁いた綱吉が、目を閉じて髭面の頬にくちづけた。
 自転車の男性が、気付かぬまま通り過ぎる。綱吉はシートに背中を戻し、減速する車の外に視線を戻した。
「う、わっ!」
 ところがシャマルの車は、予定の角に到達するより早く、いきなり速度をあげた。アクセルを踏み込み、一旦停止のラインも無視して並盛の町を勢い良く駆け抜ける。
 折角近付いた家がまた遠くなって、綱吉は窓に額を押し付け、急変した運転手に怒鳴った。
「シャマル!」
「うっせぇ。どうせオメーん家じゃ、ろくな治療も出来ねーだろうが」
 医療器具が揃わず、包帯すらまともに備わっていない沢田の家では、靴ずれの領域を越えた綱吉の怪我の治療は難しい。張り付いてしまっている靴下を切る鋏ひとつにしたって、ちゃんとしたものを使わないと悪化させるだけだ。
 大声で言い訳を並べ立て、シャマルはハンドルを今度は右に切った。シートの上で飛び跳ねた綱吉は、戻って来た痛みに顔を顰め、慌ててシートベルトを締めなおした。
 僅かに赤くなっている男の、決してこちらを見ようとしない態度に笑みを零し、後部の荷台に目を向ける。
「じゃ、ついでにパンクも修理してね」
「図々しいな」
「ダメ?」
「高いぞ」
 綱吉の怪我と一緒に、自転車の怪我の治療も任せてしまえ。
 ついでとばかりに言い放った彼に、シャマルはブレーキを踏みながら言った。流石に信号無視は事故の引き金になりかねず、交通ルールを遵守して停車させる。
 商店街の向こうに聳える高層マンションをフロントガラス越しに見上げ、綱吉は折角留めたばかりのシートベルトを外した。但し今度は、全部がポケットに吸い込まれる前にベルトを掴んで確保する。
 横断歩道の青信号が点滅を開始する。シャマルは前を見据えたまま、動かない。
 綱吉が笑った。
「じゃあ、これで」
 肘を小突いてこちらを向かせ、無防備な顔目掛けて背を伸ばす。
 足の痛みを堪えて伸び上がった綱吉に唇を塞がれたシャマルは、ハンドルに置いていた手を滑らせて、盛大にクラクションを鳴り響かせた。

2009/8/3 初稿
2018/03/25 脱稿

奥なく入りて なほ尋ね見む

 啓蟄を過ぎて、地中に引き籠もっていた虫たちは盛んに活動を開始していた。
 庭先では秋田藤四郎と謙信景光が並んで座り込み、隊列を組んで餌を運ぶ蟻を真剣な眼差しで眺めていた。
 秋田藤四郎の手には鉛筆が握られ、膝の上には万屋で買い求めた帳簿が広げられていた。寝ぼけ眼で巣から出て来た昆虫を調べて回り、逐一そこに書き記しているらしかった。
 そのなにが面白いのか、歌仙兼定には分からない。
 だからといって咎めるつもりも皆目なくて、彼はぽかぽか陽気の中、縁側をそのまま通り過ぎた。
 どこからか後藤藤四郎の叫び声が聞こえて、直後に厚藤四郎らしき笑い声がこだました。視線を上げ、所在を探って左右を確認するけれど、それらしき影は見当たらなかった。
「襖に穴が開いていなければいいんだが」
 いつだったかは覚えていないが、悪ふざけが過ぎた短刀たちに、襖を叩き壊されたことがあった。
 障子紙の破壊率も、彼らが圧倒的に多い。
 一期一振がその都度頭を下げて回っているが、実年齢に反して行動が幼い藤四郎だちからは、さほど反省の色が見られなかった。
 彼らのお陰で風通しが良くなった過去をさらっと振り返り、歌仙兼定は何気なく視線を泳がせた。
 廊下の突き当たりには、竹を加工して作った一輪挿しが吊されていた。しかし長く放置されたままで、花は活けられていなかった。
 その向かいの壁には、誰が描いたのか、買ってきたのか分からない絵が飾られていた。
 具体的な輪郭を描かない、複数の色を塗りたくっただけの抽象画だ。赤や黄色に、橙と、明るい色合いを中心に構成されていた。
 見る時の気分によって印象が大きく変わる、不思議な絵だ。以前小夜左文字と感想を言い合ったら、合致する意見もあれば、まるで正反対の意見も飛び出して来た。
 良い絵とは決して言い切れないけれど、外す理由が思いつかなくて、ずっとそのままになっている。
 そんなあまり大きくない絵の前を通り過ぎて、打刀の付喪神ははたと足を止めた。
 用事を思い出したわけでも、目の前が塞がっていたわけでもない。
 春になり、麗らかな陽気に誘われて、縁側に面した障子はどこも開けっ放しになっていた。
 角を曲がった先の部屋もそう。三分の二ほど開いた障子の向こうに、黒っぽい塊が見えた。
 一瞬、獅子王が連れている鵺が丸まっているのかと思われた。
 しかしよく見てみれば、それはもっと別のものだった。
「火鉢か」
 ずんぐりむっくりした胴体部分に、斜めに陽が当たっていた。表面は艶を帯びて黒光りして、火箸がぶっすり突き刺さっていた。
 五徳が灰に半分近く埋もれて、炭は置かれていない。
 冬場はここに茶瓶を置いて湯を沸かしたり、網を置いて餅を焼いたりしていた。
 火鉢の周囲は常に人だかりで、ぎゅうぎゅう詰めで混雑していた。誰もが暖を求めて手を伸ばし、中には伸ばし過ぎて火傷する刀まであった。
 後から来た刀が無理に割り込もうとして、押し合いが発生した結果、熱した炭ごと火鉢がひっくり返る事態も何度か起きた。
 黒く焦げた跡が多々残る畳に目をやって、彼は右手を腰に当てた。
「そろそろ、お役御免かな?」
 ほんの一ヶ月ほど前まではちやほやされていた火鉢だが、それも昔。
 今や誰ひと振りとして見向きもせず、温もりを求めて詰め寄って来なかった。
 部屋の真ん中に陣取っていたものが、邪魔だからと隅に避けられているのがなによりの証拠だ。
 陽が長くなり、気温が上昇するにつれて脇に追い遣られてしまった。この火鉢には付喪が宿っていないけれど、もし会話できたとしたら、嫌味や恨み言を散々聞かされそうだった。
 このまま部屋に置きっ放しにしていたら、余計に火鉢が臍を曲げそうだ。
 歌仙兼定だって、もとは刀剣に宿った付喪神。用済みだと捨て置かれ、埃まみれになるのは嫌だった。
 何も語らない火鉢に同情して、顔を上げた。腰にやっていた手で首の後ろを掻いて、敷居を跨がずに室内を覗きこんだ。
「僕だけで運べないことは、ないけれど……」
 納戸に片付ける前に、一応許可を取った方が良さそうだ。
 後で『なくなった』と騒がれるのも面倒くさい。先に近侍に報告して、了解を得てからにしようと方針を変えて、歌仙兼定は踵を返した。
 冬の間に溜まった灰と、煤も洗ってしまいたい。
 それだとひと振りだけでは心許なく、協力し合える仲間が欲しかった。
 どこかで手隙の刀がいないものか。
 暇していそうな刀剣男士もついでに探して、彼は近侍が控える座敷に向かった。
「あれ?」
 けれど残念なことに、へし切長谷部は席を外していた。
 出陣の号令は出ておらず、外出した気配はない。わざわざ自室から持ち込んだと思われる文机には、書きかけの書類がそのままの状態で残されていた。
「すぐ戻ってくるだろうか」
 がらんどうの空間を眺め、首を捻る。
 頭の片隅に、先ほど聞いた短刀たちの騒ぐ声が蘇った。もしかしたらその始末に呼ばれたのかと考えて、歌仙兼定は陽だまりの中、腕を組んだ。
 背中に浴びる温かさが心地よく、油断すると眠気が襲ってきた。しかしこんなところで立ったまま眠るわけにいかず、舟を漕ぎそうになるのを堪え、しばらく待った。
 そうしている間に、すぐ後ろの庭を、洗濯物を回収した堀川国広と物吉貞宗が、談笑しつつ通りかかった。
「こんにちは」
「こんにちは、歌仙さん」
「やあ。ご苦労様」
 振り向けば、目が合った。軽く会釈しつつ挨拶して、火鉢の片付けの件を思い出したのは、彼らが立ち去った後だった。
 しまった、と悔やむがもう遅い。
 またとない協力者が得られる好機だったのに、むざむざ逃してしまった。
 なんとも愚かしい失敗にがくりと肩を落として、打刀は障子に寄り掛かった。
 体重をほんの少しだけ預け、額を押さえて項垂れた。口惜しさに臍を噛み、緩く頭を振っていたら、キィ、と微かに足音がした。
「なにをしている、歌仙兼定」
「へし切長谷部。貴様こそどこへ行っていた」
 ハッとすると同時に、ぶっきらぼうな質問が投げかけられた。それで思わず反発してしまい、発言が刺々しくなった。
 仏頂面で問い返せば、久しぶりの近侍に任じられた男は面倒臭そうに頭を掻いた。朝のうちは嬉々として足取りも軽く、鼻の下が伸びていたのが、嘘のような渋面ぶりだった。
「どうして俺が近侍の時に限って、問題が続出するんだ」
 呟きは完全に、独り言だった。
 聞かれても構わないという心境で愚痴を零した彼に驚いて、歌仙兼定は目を丸くした。
「襖の修繕に、いくらかかると思っているんだ」
「はあ……」
 予想は正しかったらしい。悪戯好きの短刀たちがしでかした後始末に追われて、まだ陽も高いというのに、へし切長谷部の顔は既に疲れ切っていた。
 ほかにも何件か、歌仙兼定が把握していない事件が起きたようだ。
 屋敷の破損状況の確認と、対処に必要な費用の捻出。一切合財の報告書の作成が完了するのは、夜半を過ぎてからと思われた。
 生真面目が過ぎる男とはあまり馬が合わないが、これは同情に値する。
 へし切長谷部はそうでなくとも、自ら本丸の帳簿を預かり、出入金のとりまとめを行っていた。
「君だったら安心して、仕事をしてくれると思ってるんじゃないのかい?」
 そういう男だから、大きな問題が起きても、的確に対処してくれる。
 仲間からの信頼があってこそのことだと言おうとしたのだが、言葉の選択を誤った。
「慰めのつもりか、それは」
「さあ……?」
 案の定、へし切長谷部は眉を吊り上げた。不愉快だと顔に出して睨まれて、歌仙兼定は目を逸らした。
 わざとらしく誤魔化して、顎を爪で掻いた。余所を見たまま惚けていたら、溜め息が聞こえた。
「どけ」
 部屋に入れるだけの隙間は充分残しておいたのに、当てつけのように肘で追い払われた。ぶつからなかったが、肩のすぐ手前を攻撃されて、彼は障子から離れた。
 敷居を跨ぎ、へし切長谷部が上着を脱いだ。畳みもせずに投げ捨てて、日当たりのよい場所に置いた文机に向かおうとして、視線だけを上向かせた。
「なんだ」
 振り返ってみれば、最初に投げかけられた質問に答えていなかった。
 近侍の控え室を訪ねたそもそもの理由を思い出して、歌仙兼定は嗚呼、と頷いた。
「いや、たいしたことではないんだが。火鉢、もう片付けた方がいいんじゃないかと思ってね」
 あのまま出しておいては場所を取るし、誰かが不注意で躓いて、転んで怪我をするかもしれない。
 灰が散乱すれば掃除が大変で、なにかが起きる前に納戸に追い遣った方が皆の為だ。
 言って、先ほど火鉢を見かけた部屋の方角を指差す。
 本当に些細な提案だった、という顔をして、へし切長谷部は頬杖をついた。
「言われてみれば、そうかもしれん。分かった。後で人員を手配しよう」
 空いている方の手で筆を小突き、歌仙兼定への興味を失ったのか、すいっと視線を手元に落とした。態度でこの件は終わり、と告げて、中断していた業務に戻るべく、姿勢を正した。
 薄い座布団に正座して、背筋を伸ばし、書面に向かう。
「いや。僕がやっておくから、その報告に来ただけなんだが」
「は?」
「ん?」
 それを制して意見を述べれば、一瞬の間を置いて、へし切長谷部が変な顔をした。
 ぽかんと口を開き、稀に見る間抜け顔を披露された。そんな表情を見せられる覚えはなくて、歌仙兼定はムッと口を尖らせた。
「なんだい。駄目なのかい」
 あまりにも失礼だと抗議して、声を荒らげた。
 部屋中に響く大声に我に返ったらしく、唖然としていた男は取り繕うように二度、三度と咳払いした。
 取りこぼした小筆を拾い、顎に手を添えた状態で数秒間停止する。
 瞼を薄く閉じて考え込んで、心の整理が終わったのか、やがてへし切長谷部はふーっ、と長い息を吐いた。
「いや、すまない。駄目ではない。むしろ助かる」
 拳を解き、その手を横に振った。非礼を詫びて、感謝に置き換え、よろしく頼むとばかりに小さく頭を下げた。
 だが表情はどこか強張っており、動揺が感じられた。自分の発言の、どこが引っかかっているのかと眉を顰め、歌仙兼定は不機嫌に鼻息を荒くした。
 憤然として、今度はなぜか笑いを堪えている男を見下ろす。
「まさか、お前が、な」
「言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどうだ」
 聞こえてきた独り言に反応して声を上げれば、へし切長谷部は足を崩し、胡坐を組み直した。
 口角を持ち上げ、不遜な笑みを浮かべていた。にやにやと、妙に癪に障る顔でこちらを見上げて、手にした小筆をくるくる回した。
「なに。以前の貴様だったら、自ら片付けよう、など言わなかったと思っただけだ」
「……は?」
 不敵に言って、きょとんと目を点にした打刀を嘲笑う。
 くく、と喉の奥で笑いを押し殺して、彼は右手をひらひら踊らせた。
「火鉢の片付けは了解した。主には俺から報告しておく。そうそう、ついでに炬燵も片付けるよう、小夜左文字に伝えてくれ」
 今度こそ用件は終いだと、顔を背けて早口に言われた。だが思わぬ名前が飛び出して来たせいで、歌仙兼定は動けなかった。
 惚けたまま凍り付き、時間をかけて開けっ放しだった口を閉じた。
 なかなか去ろうとしない打刀に目を眇めて、へし切長谷部は呵々と笑った。
「前に小夜左文字から、似たようなことを言われたが、忘れていた。自分で片付ける、と言い出すのは、貴様ではなくあいつの方だな」
 大きく肩を揺らし、深く息を吸い、吐いた。
 妙に感慨深く呟かれたが、意味が良く分からない。眉を顰めて怪訝にしていたら、今度こそ話は終わりと、前のめりになったへし切長谷部に障子を閉められてしまった。
 せっかくの明るい日差しが遮られたが、打刀が去ればすぐ開けるつもりなのだろう。
 物理的に壁を作られて、歌仙兼定は肩を落とした。
「適当にやっておくよ」
「ああ、頼む」
 釈然としないが、ここに留まっても良いことはない。
 面倒臭くなって告げたら軽口で応じられて、彼は大人しく引き下がった。
 踵を返し、廊下を進んだ。秋田藤四郎はまだ蟻の観察を継続中だったが、謙信景光はいなくなっていた。
 縁側の日当たりのよい場所に鶯丸が陣取り、鳥の声を聞いていた。鴬色の湯飲みを両手で抱いて、眠っているかのように静かだった。
 瞑想のような時間を邪魔しないよう後ろを抜けて、全開になった襖の向こう、建物の反対側の光景に首を捻る。
 信濃藤四郎と後藤藤四郎、厚藤四郎の三振りが横並びになって廊下に正座していた。首には、なにかを記した札がぶら下がっており、罪人が見せしめとして晒されているような状態だった。
「一期一振か」
 頭ごなしに叱ったところで反省しない弟刀を懲らしめるべく、これまでと異なる手法を取ったらしい。
 固く冷たい床の上に正座は、かなりの苦痛だ。しかも通りかかる仲間からは怪訝な目で見られるので、恥ずかしいことこの上なかった。
 自分なら、四半刻でも耐えられない。
 実際信濃藤四郎は相当嫌がっており、我慢ならない、と呻き声を上げていた。
「彼らにやらせてみるかな」
 恥を晒す罰は、精神的にも堪える。
 一期一振に掛け合って、火鉢と炬燵の片付けを彼らに任せるのも悪くない。貴重な労働力を無駄にするのは惜しく、懲罰としても充分かと思われた。
 我ながら妙案だ。頷き、頬を紅潮させて、早速掛け合うべく大家族の長兄を探しに行こうとして。
「……ん?」
 先ほどのへし切長谷部との会話が、突然頭の中で蘇った。
 彼と喋っている時は、いまいち心に残らなかった。なにを言われているのか分からず、深く考えずに置き去りにした。
 そんな話の内容が、急に鮮やかに再生された。多少ながら時間を置いたことで冷静に振り返れて、初めてあの発言の趣旨を理解した。
 足が止まった。
 畳の縁を跨いだ状態で硬直して、歌仙兼定は震える右手で口元を覆い隠した。
 左足首に日差しが当たり、そこだけ明るく、暖かかった。
 影になった場所に立ち竦んで、彼はへし切長谷部が笑った意味を想像した。
 歌仙兼定は馬当番が嫌いだ。畑当番も大嫌いだった。
 本丸を運営していく上で、刀剣男士に任せられた数ある仕事のうち、彼が得意として喜んだのは料理くらいだ。
 掃除も苦手だった。片付けは致命的に下手だった。風呂の湯沸かしをやらせようものなら、湯船に入った仲間が茹で上がるほどの熱湯にした。
 言い訳は、いつもひとつ。
 これは刀の仕事ではない、だ。
 しかし屋敷に住まうのは、彼と同じ刀剣男士だ。彼が『刀はやらなくて良い』と言い出したら、その他大勢の仲間だってやらなくて良いことになる。
 それで散々揉めて、騒動の一部は今も語り草となっていた。
 新しく顕現した刀剣男士に屋敷での生活を説明する際、内番に真面目に取り組まないとどうなるか。面白おかしく語られる過去の中には、歌仙兼定が引き起こした事件が必ず含まれていた。
 当の刀にしたら不名誉極まりないが、元はといえば自らがしでかしたこと。
 いつの間にか薄れていた記憶がまざまざと蘇って、彼は火照って熱い顔を扇いだ。
 もっとも身体が熱を帯びたのは、惨めな出来事の数々を思い出したからだけではない。
 昔――といっても片手にも足りない年数でしかないのだ――の自分なら、へし切長谷部が言ったように、役目を終えた暖房器具を率先して片付けようとはしなかった。
 邪魔だと思いはしても、退かそうとはしなかった。ましてや汚れを落とし、乾かしてから納戸に収納しようなど、欠片も思わなかったに違いない。
 自分自身のことだから、確信を持って言い切れた。断言できる。天に誓っても良いくらいだ。
 ところが実際のところ、彼は今日、忘れ去られた火鉢を目にし、以前と異なる感想を抱いた。
 誰かが不注意から躓き、転んで怪我をしたら、危ない。
 置きっ放しにされるのは、火鉢だって可哀想。
 顕現直後は自分のことに必死で、他を気遣う余裕などなかった。最初に審神者に呼び出された刀剣男士として、短刀たちを守りながら戦うだけで精一杯だった。
 人見知りの性格も災いして、高飛車に思われたのは否定のしようがない。
「なんてことだ」
 それが今や、どうしたことだ。
 率先して屋敷の手伝いに走ろうとしていた自分に気付かされて、歌仙兼定は騒然となった。
 足元から登って来た寒気にぶるっと身震いして、カタカタ鳴って五月蠅い奥歯を噛み締めた。頬は自然と引き攣り、不格好な笑みを形成した。
「僕としたことが」
 そうと知らないうちに、刀としてのあるべき姿を忘れ去っていた。
 長い時間をかけて息を吐き出して、まだ震えている指先をじっと見る。
 それを固く握りしめて額に押し当て、乱れた心を静めようと躍起になっていた時だ。
「歌仙?」
 訝しみつつ名前を呼ばれた。
 声の主には覚えがあった。振り返れば、陽の当たる縁側にひと振りの短刀が佇んでいた。
 前に出した右足を戻して、小夜左文字が首を捻る。動きに合わせて藍色の髪が左右に踊り、ふたつに割れた毛束は犬か、猫の耳のようだった。
 華奢な体躯と相俟って、彼の仕草はどこか動物じみている。
 だがそんなことを口にしようものなら、復讐に燃え滾る彼の本質がにわかに顔を出し、凶暴な牙が襲い掛かってくるだろう。
 愛らしい、とは間違っても声に出さず、務めて平静を装う。
 信濃藤四郎たちは疲れたのか、懲りたのか、静かになっていた。特になにも無い部屋の真ん中で棒立ちだった打刀は、目に見えて異質だった。
「どうかしたんですか」
 具合が悪いかを真っ先に心配した少年に、歌仙兼定は首を横に振った。
 なんと返答するかで少し迷って、探すつもりでいた相手が向こうから来てくれた状況にハッとなった。
「そうだ、お小夜」
「はい?」
 これこそまさに、天の采配と言わざるを得ない。
 自身の強運ぶりを褒め称えて、彼はいそいそと陽だまりの下へ戻った。
「いいところに」
「はあ」
 小夜左文字としては、歌仙兼定がなにを興奮しているか分からない。鼻息荒く近付いて来られるのは、奇妙というか、少し怖いくらいで、無意識のうちに床を後退していた。
 ほんの半歩ほど距離を稼いで、嬉しそうにしている男を仰ぎ見る。
 首を後ろに傾がせる苦労を察して、打刀は即座に膝を折った。
 左足を僅かに引き、右膝は立てたまま残して、そこに右手を置いた。
 正面から真っ直ぐ見つめて来る眼差しに、小夜左文字は一瞬躊躇してから向き合った。
「なんでしょうか」
 彼が打刀に話しかけたのは、変な場所で、変な姿勢で固まっていたからだ。
 細かく震えていたので、どこか痛めたのか危惧して声を掛けたにすぎなかった。
 大事ないなら立ち去りたいところだが、そうもいかなくなった。用件がある、と向こうから態度に出されたのだから、無視して捨て置くのは失礼だった。
 返事を待ち、じっと男を見詰め返す。
「暖房器具を、片付けたいんだ」
 歌仙兼定は手始めにコホン、と咳払いをして、喉の調子を確認してから言った。
 妙に改まった口調に、小夜左文字はぽかんとなった。右から左に素通りした音を慌てて追いかけて、嗚呼、と緩慢に頷いてからハッとなった。
「炬燵ですか?」
 暖房器具という単語に背筋を伸ばし、語尾を上げた。
「それもある。あと、火鉢もね」
 淡々としていたのが、急に表情豊かになった少年を見下ろして、歌仙兼定は鷹揚に頷いた。
 片付けたいものは他にもあると告げて、腰を引いて立ち上がった。
 遠くなった男の顔を追いかけ、小夜左文字が踵を浮かせた。なぜかホッとした表情を作って、二回続けて深呼吸した。
「あ、でも」
「へし切長谷部には、了解を取ってあるよ」
「そうだったんですか」
 直後になんかを思い出し、言いかける。
 彼が気にしている内容を的確に言い当てて、打刀は得意げに胸を張った。
 誇るところではないのだけれど、小夜左文字は特になにも言わなかった。許可が出ているならそれで構わないと、二度、三度、首を縦に振った。
「さすがにもう、雪は降らないでしょうし」
 彼が炬燵を片付けようと思い、へし切長谷部に相談した時は、承諾が得られなかった。なにを渋るところがあるのか、と不満に思っていた数日後、急な冷え込みで小雪がちらついた。
 段々暖かくなってきていたから、皆して油断していた。賑わいが薄らいでいた炬燵の近辺がその日は大渋滞で、もしあそこで片付けていたら、非難囂々の嵐だっただろう。
 毎年の暦をきちんと記録し、管理していた打刀には、春先に突然寒さが戻ってくるのが分かっていた。
 なにも言わず、誰にも相談せずに行動を起こさなくて良かった。
 失敗を未然に防いでくれた男に感謝して、短刀の付喪神は縁側の先に目を向けた。
「桜なら降るだろうね」
「そうですね」
 花の蕾は徐々に膨らんで、来月の今頃は満開だろう。
 桜吹雪を例に挙げた男に首肯して、彼はふっ、と微笑んだ。
「……なんだい?」
「いえ、ちょっと思い出していただけで」
「ん? なにを?」
 力の抜けた表情に、歌仙兼定が食いついて来た。興味津々に訊ねられて、その勢いがまた滑稽で、小夜左文字は咄嗟に口を手で覆った。
 炬燵の片付けを却下されたしばらく後、へし切長谷部に言われた言葉があった。
 大勢でごった返す炬燵や、火鉢を遠目に眺めていたら、いつの間にか傍に来ていた彼に言われた。
「前までの僕なら、ひと言も言わずに片付けてただろうな、と」
 思い切って相談した日、近侍を任せられていたのは彼ではなかった。しかし早い時期から本丸にいた刀であり、屋敷の仔細を理解している男なので、言い易かった。
 恐らく向こうも、同じ気持ちだったのだろう。普段は聞けない本音が漏れたらしく、へし切長谷部は呟いた後、しばらく笑っていた。
 短くも長い歳月を、共に過ごして来た。
 初めの頃は宗三左文字の弟刀ということで変に構えていたが、ほかの短刀たちとそう大差なかった。
 そんな風にも言われた。特別扱いされる謂われはないと反論したら、その通りだと反省の弁を述べられた。
「僕はいつの間にか、誰かと相談し合えるようになっていたみたいです」
 繰り返しのようで繰り返しではない、毎日の積み重ねの中で起きた小さな出来事だった。
 記憶の海に沈んでしまえば、簡単には浮かんでこない。けれどこうやって後から思い出すくらいには、少し特別なやり取りだった。
 深く息を吸い、吐き出しながら囁く。
 万感の思いを込めたひと言を聞いて、歌仙兼定は驚いた顔で凍り付いた。
「歌仙?」
 目を丸くして固まってしまった男が不思議で、小夜左文字は首を捻って袖を引いた。
 白地の布に指を絡めれば、直後に跳ね返され、浮いたところを握りしめられた。
「僕もだよ、お小夜!」
「えええ?」
 そうして猛烈な勢いで、大声で捲し立てられた。
 座敷向こうの廊下で正座中の三振りが、何事かと揃って首を伸ばした。縁側で茶を飲んでいた鶯丸は動かなかったが、隣に座って菓子を抓んでいた平野藤四郎は不思議そうに目を細めた。
 洗濯物の手拭いを被った虎を追いかけ、五虎退と毛利藤四郎が庭を走って行く。
 どこかで、なにかが起きている本丸の中で、歌仙兼定は目をキラキラ輝かせ、両手で短刀の手を包み込んだ。
 膝を折って屈んで、表情はいつになく嬉しげだった。感極まった様子で顔を綻ばせ、握ってくる指の力は凄まじかった。
 骨が折れそうで、振り払おうとするけれど、ビクともしない。
 焦って肩を突っ張らせた小夜左文字を無視して、今度は腕を上下にぶんぶん揺らし始めた。手を繋いだまま離さず、短刀を振り回し、放っておいたら舞い踊り始めそうな雰囲気だった。
「歌仙、歌仙。痛い、です」
 衆目を集めるのは避けたくて、必死の思いで訴えた。
 せめて手を解いてくれるよう切に願えば、苦痛に満ちた声が効果を発揮した。
「ああ、すまない。お小夜」
 自分が何をしていたか、認識出来ていなかったようだ。
 慌てて謝って、打刀は力を緩めた。
 救出された短刀の指は、圧迫された部分だけ見事に赤く染まっていた。明確に線引きされており、藤色の髪の男は衝撃を受けて小さくなった。
 猫背になって俯いて、悔やんでいるのか右手で顔を覆い隠す。
 深い溜め息が聞こえて来て、小夜左文字は手首をひらひら振った。
 どこも異常がないのを確認して、肩を竦めた。そこまで気落ちする必要はないと諭して、途切れてしまった話の続きを強請った。
「それで、なにが同じなんですか?」
 小夜左文字が思うに、歌仙兼定も誰かに相談せず、独断で行動を起こし易い刀だった。
 その傾向は今も続いて、あまり改まった節がない。
 だというのに『同じだ』と言ってくるのは、奇妙な話だった。
 若干混乱しながら視線を投げかければ、打刀は一瞬言葉に詰まり、目を泳がせた。興奮のあまり話の前後を紛失したらしく、宙を泳ぐ手は頻りに開閉を繰り返した。
 動き回る指先に焦点を定め、辛抱強く返答を待つ。
「ええと、えーっと、なんだったか……ちょっと待ってくれ、お小夜。えっと、あー……ああ、それであの男、あんなに笑っていたのか?」
 歌仙兼定も待たせている自覚はあるらしく、懸命に思い出そうとして、独り言の末に首を捻った。
 天井付近を眺めながら、小夜左文字には分からないことを言う。
 ひとり勝手に納得されても、こちらには何ひとつ伝わってこない。意識が逸れ、存在を忘れ去られたのも癪だった。
「歌仙」
 やや語気を強くして、呼びかける。
「あっ、ああ。僕もね、言われたのさ。昔の僕なら、自分から片付けようだなんて言わなかっただろう、とね」
 それでハッと我に返って、歌仙兼定は両手を叩き合わせた。
 誤魔化すように早口に告げて、人差し指で円を描いた。聞きようによっては非常に失礼千万な評価だったが、打刀自身は気にしていない様子だった。
 むしろその通りだと納得している表情だ。
 誰から贈られた言葉か推し量って、小夜左文字は嗚呼、と頷いた。
「同じですね」
 お互いに、へし切長谷部から似たようなことを言われた。
 但し中身については、正反対も良いところ。小夜左文字は黙って行動しがちだったのが改まったと評され、歌仙兼定は利己的な思考が利他的なものに育ったと評された。
 たった数年で大きく変わるものなどないと思っていたが、違った。
 こんなにも自分たちは変わったのだと、教えられて初めて気が付いた。
「お小夜の影響かな」
「僕、ですか」
「そう。お小夜だよ」
 顔を見合わせ、相好を崩した。合間に囁かれたひと言が意外で、驚いていたら、念を押すように繰り返された。
 ついでに額をちょん、と小突かれた。
 頭を前後に揺らした短刀に、打刀はなにが可笑しかったのか、呵々と笑った。
「なら、僕は……歌仙の影響でしょうか」
「え?」
 それが変に悔しくて、言い返した。すると男はちょっと嬉しそうにして、鼻の孔を膨らませた。
「思ってるだけじゃ伝わりませんし」
 興奮に頬が赤らんでいくのが分かる。彼の変化をつぶさに読み解いて、小夜左文字は小さな声で呟いた。
 歌仙兼定は思ったことをすぐ言葉にする。歌にする。内に溜め込まない。全部吐き出して、時にはそれが原因で周囲に軋轢を生んだ。
 沈黙は、美ではない。言葉は万能ではないが、手段としてこれほど有用なものは存在しなかった。
 伝えたいこと、伝えなければならないことは、ちゃんと声に出す。
 なにかと騒動を引き起こす男から学んだのは、そういう基本的なことだった。
「なんだか、素直に喜べないのはどうしてだろう」
「褒めてないからです」
「やっぱり」
 思ったことを正直に述べるのは良いことだが、喋り過ぎは宜しくない。
 時として言葉がきつくなる男をやんわり窘めて、短刀の付喪神は彼の背中を押した。
「炬燵の片付け、するんでしょう」
「火鉢もだよ」
「だったら尚更、急がないと」
 立ち止まっている暇はないと諭し、急かした。
 腰を押された打刀はたたらを踏んで、やがて自身の歩幅で歩き出した。
「篭手切も呼んで来ましようか」
「そうだね。覚えておいてもらった方がいい」
 思いつきの提案に乗って、歌仙兼定が深く頷く。
 そうやってまたどこかで、誰かの影響を受け、変わっていくのだろう。
 それは決して不快ではなく、不安を覚えることでもないのだと、小夜左文字は頬を緩めた。

2018/3/7 脱稿

常磐なる花もやあると吉野山 奥なく入りてなほ尋ね見む
聞書集 186

憂かりしことは 忘ざらなん

 目覚めた時から、異変は感じていた。
「ん、んんっ、ん」
 喉を撫で、口を閉じたまま数回咳き込む。しかし違和感は拭えず、逆により強く存在を主張した。
 なにかが喉の内側に貼りついて、しかも剥がれない。
 指を突っ込んで掻き回したい衝動を堪えて、歌仙兼定は眉を顰めた。
「なん、んっ、なんだ」
 言葉を発しようとした瞬間に違和感が暴れ出し、音が通り過ぎるのを遮った。不自然なところで詰まってしまって、彼はぽこっと飛び出た喉仏に爪を立てた。
 傍目にも目立つ隆起をなぞり、表面上は異常がないのを確かめる。
 首を傾げても、原因は分からない。
 不機嫌に眉を顰めて、彼は飴色の廊下を急いだ。
 仏頂面を改めもせず母屋に入り、すでに大勢でごった返している食堂に入った。畳の縁を踏まないよう進めば、用意された膳に冷めかけた料理が並んでいた。
 人数が増えるに従って襖を取り払い、三間繋いだ大広間に、大きな座卓は並んでいない。料理はひと振りずつより分けられて、箱型の膳の上に控えていた。
 誰のものか容易に見分けがつくように、用いる食器や膳には、個々に特色が強く出ていた。
 歌仙兼定のものは一見黒を主体とした地味なようで、随所に螺鈿の花が舞っていた。
 間近で見れば、卓越した技術によって細かく細工されているのが分かる、値の張る一品だった。
 料理は当番がまとめて作るものの、彼らがやってくれるのはそこまで。基本的に配膳は刀剣男士自身が行い、台所から食堂に運ぶのが決まりだ。
 しかし歌仙兼定の分は、一切の支度が完了していた。
 誰の気遣いか瞬時に察して、打刀は座敷の中を見渡した。
「おさ……んんっ」
 喉の不調を気にし過ぎて、身支度に時間がかかった。気を利かせてくれた相手に礼を言おうとしたけれど、声を張り上げようとした途端、ザリッとした感覚が口の奥に広がった。
 軽石かなにかで、粘膜を削られた気分だ。
 稀有な不快感に見舞われて、その場で立ち尽くす。
「あー、うまかった。ごっそさん」
 惚けていられたのは、ものの数秒だった。
 突然足元で元気いっぱいな声がして、ビクッとなった。大袈裟に肩を震わせた彼の右隣で、食事を終えた御手杵が畏まって両手を合わせていた。
 今日の食事当番と、美味しく料理された食材と、それらを育てた仲間に感謝して、視線を気取って左目だけを打刀に向けた。
「どうかしたか?」
 じっと見つめられるのを訝しんだ槍に、歌仙兼定はハッとなって背筋を伸ばした。
「いや」
 慌てて首を振り、誤魔化した。なんでもない、とまで言おうとしたが、直前で軽い痛みを覚え、出来なかった。
 急いで胡坐を掻き、畳に座った。左右に広げた膝に手を置いて、用意された朝食に目を通した。
 山盛りの玄米に、赤出汁の味噌汁。法蓮草のお浸し、焼いたししゃも。そして沢庵と高菜の漬物が、同じ皿に並べられていた。
 量は決して多くないが、少なくもない。
 彼が顕現した直後の貧しかった頃に比べれば、充分過ぎるくらい贅沢な膳だった。
「あの頃は、んんっ、大根飯も、当たり前だったしねえ」
 畑の開墾もなかなか進まず、作付けしては芽吹かない、という失敗の繰り返しだった。
 それが今や、どうだろう。季節ごとに種々の野菜が育ち、貧しい食卓に涙を呑まずに済むようになった。
 苦労した甲斐があった。
 過去の自分を褒め称え、感謝して、歌仙兼定はそうっと両手を合わせた。
「いただきます」
 瞑目し、心の中で呟いた。
 当たり前のように毎日食べられる幸福を噛み締めて、箸を取り、真っ先に玄米飯に手を伸ばした。
 少々冷めかけているけれど、大振りの茶碗自体は仄かに熱を残していた。
 今剣や愛染国俊らと並んで食べている短刀に向かい、小さく頭を下げて。
 御手杵が去って空いた右側が瞬時に埋まるのを横目で見つつ、大量に掬い取った米を頬張った矢先だ。
「んぐ、っぶ、んう」
 固い米粒を奥歯で噛み潰し、第一弾を飲みこもうとした直後。
 全身が毛羽立つような悪寒を覚え、歌仙兼定は盛大に噎せた。
 咄嗟に箸を握った右手で口を覆い、唇を引き結んだ。大事な料理を飯粒だらけにするのだけは回避して、襲い掛かって来た反動に冷や汗を流した。
 奥にも、外にも出られなかった米の塊が、咥内で暴れていた。まるで栗鼠のように頬をぱんぱんに膨らませて、彼は自分の身に起きた現象に目をぱちくりさせた。
「大丈夫か?」
 台所から来たばかりなのだろう。自前の膳を畳に降ろす直前だった和泉守兼定が、心配そうに横から覗き込んできた。
 しかし、答えられない。今口を開けると大変なことになるのは、目に見えて明らかだった。
 歌仙兼定はまず箸と茶碗を置いて、入れ替わりに味噌汁を取った。
 いちょう切りにした大根と、短冊に切った油揚げが浮いていた。それを避けて口を付け、ぐーっと一気に傾けた。
 もれなく口の中が赤出汁の味に染まった。固まっていた玄米の隙間に水気が潜り込み、喉への流れを滑らかにした。
 汁物の力を借りながら徐々に米粒の量を減らし、最後のひと粒を送り出すのに成功する。
 時間をかけてホッと息を吐いた彼に、和泉守兼定はようやく安堵して、腰を下ろした。
「がっつきすぎだぜ、之定」
「うる、……さ、げほっ」
 一度に頬張り過ぎたのだと、思われたようだ。ある意味正しいが、他にも理由があると言おうとして、歌仙兼定は顔を顰めた。
 喉の奥に潜んでいた、ざらざらとした違和感が消えたように思えた。周辺はじんわり熱を持ち、凝り固まっていたものが緩んでいる雰囲気だった。
「大事ない、か」
 あの不快さは、玄米や味噌汁によって綺麗に洗い流されたようだ。
 確認の意味も込めてぼそっと呟き、彼は歓喜に顔を綻ばせた。
「いただきます」
 食前の感謝からやり直し、改めて箸を取った。玄米飯で失敗したので違うものにしようと、咥内の味を変えるべく、高菜の漬物を摘んだ。
 細く切られた青菜を口へ運び、噛み潰し、ピリッと来る豊かな味わいに舌鼓を打つ。
「あー、国広。茶ぁくれ、茶ぁ」
「はいはーい」
 横では楽な姿勢を取った和泉守兼定が、近くを通りかかった脇差に手を振って合図を送っていた。
 空の湯飲みを振り回し、薬缶を催促して、自らは動かない。
 偉そうな態度を普段は叱る歌仙兼定だが、今日に限って彼は静かだった。
 高菜を食べたそのままの体勢を保ち、随分と時間をかけて嚥下した。柔らかな葉物野菜をじっくり咀嚼して、充分過ぎるくらいその味を堪能した。
 喉仏が上下する際の表情は、いやに強張っていた。
 緊張感たっぷりで、大袈裟だった。そんなに美味いのかと、和泉守兼定は茶を注ぐ脇差にそれとなく目で問いかけた。
 堀川国広は質問の意味即座に理解して、怪訝そうに首を振った。
 高菜は昨日、本丸の畑で収穫したものだ。確かに新鮮で美味しいけれど、こうまでして仰々しい仕草を取るものではなかった。
 すでに朝餉を終えた少年の返答に、背高の打刀は再度隣を盗み見た。
「之定?」
「…………」
 具合でも悪いのかと案じるが、返答はなかった。歌仙兼定は非常にゆったりとした所作で箸を操り、じれったくなるような速度で食べ物を噛み砕いた。
 飲みこむ間際の顔つきは険しく、今まさに崖の上から飛び降りようとしている、的な覚悟を匂わせた。
 ここまで顰め面をしなければならない理由が、和泉守兼定たちには分からない。
 味にうるさく、食べながら感想を述べることが多い彼がこんな風になったところを、誰も見たことがなかった。
「歌仙さん、お茶、飲みます?」
 異常事態を嗅ぎ取りつつも、当の刀から助けを求められていない以上、勝手な真似をして良いものか。
 どう対処すれば正解かも分からないまま、堀川国広がとりあえず話を振った。
 黙々と、少量ずつ食べていた男は一瞬脇差を見ると、迷うように視線を脇へ流した。
 和泉守兼定を通り越し、その先へ。
 談笑している小さな刀たちを窺った後、彼は小さく頷いた。
「よろ、し……んんっ」
 よろしく頼むと言いかけて、途中で言葉を詰まらせる。
 反射的に左手で口を覆った打刀に、茶瓶を傾けた少年は目を丸くした。
 前のめりになった男を避け、盛大に仰け反った。尻餅つく寸前で持ち堪えて、膝立ちになった相棒には心配不要と首を振った。
 行き場をなくした手を持て余し、和泉守兼定が長い黒髪を掻き混ぜた。
「さっきからおかしいぜ、之定。どっか悪いのか?」
 こうも何度も噎せるのは、流石に変だ。
 体調不良を疑って訊ねた彼に、歌仙兼定はまたも返事をしなかった。
 いや、出来なかった。
 喉の奥が焼け焦げるように痛み、待っていても熱が引かない。空気が通り過ぎるだけでもピリピリして、呼吸すらままならなかった。
 無理をして食べ物を飲み込み続けて来たが、そろそろ限界だ。
 度重なる固形物の通過に、柔らかな器官が悲鳴を上げていた。
「喉、が……えふっ」
 したくもない咳が出て、喋るのが辛かった。歯の隙間から食べ滓が飛び出そうになって、急いで袖で覆って醜態を隠した。
 もう二度、三度と咳をして、範囲が広がる一方の痛みに臍を噛む。
 唾を飲み込むだけでも勇気が必要で、液体が喉を通り過ぎる際の感覚が嫌にはっきり感じられた。
 どうしてこんなことになったのか、歌仙兼定自身も思いつかない。
 眉を寄せ、苦悶の表情を浮かべる彼に困惑し、和泉守兼定は目を泳がせた。
 堀川国広は茶を注ぐべきか否かで迷って、座り込んだまま動けずにいた。
 その脇差の背後でスッと影が動いて、途端に歌仙兼定の肩が跳ね上がった。
「歌仙、どうかしましたか」
 騒ぎを聞きつけ、小夜左文字が様子を見にやって来たのだ。
 食事は終わったのか、両手は空だった。白衣に黒の直綴を重ね、袈裟は身に着けていない。いつものように髪を高い位置で結っており、少しの準備でいつでも出陣できる状態だった。
 遠くを見れば、愛染国俊がふたり分の膳を担いで座敷を出るところだった。今剣の姿はない。付近に陣取っていた短刀たちも、揃っていなくなっていた。
 この後一緒になにかする約束を取り付けていた雰囲気なのに、彼だけ輪から外れてこちらに来た。
 申し訳なさを抱いて、歌仙兼定は首を横に振った。
「いいや、お小夜……ん、んんっ」
 強がって平然を装おうとして、失敗した。
 声は喉に引っかかり、掠れていた。全体的に上擦って、咽喉にまとわりつく不快感を押し退けられなかった。
 追い払おうとして咳き込むが、却って頑強に貼りつき、剥がれない。
 無意識に喉に手が行って、撫でさする動きは荒々しかった。
 そこに違和感があると、態度で語っているに等しかった。
「喉、どうかしましたか」
 小夜左文字がそれを見逃すはずがなく、問いかけは心持ち早口だった。膳を挟んで打刀の向かいに膝を突き、三分の一も減っていない料理に眉を顰めた。
 柔らかい葉物野菜が残り半分ほどで、ししゃもは手付かずだった。玄米は最初に食べた後はひと粒も口にしておらず、空になっているのは味噌汁の椀だけだった。
 歌仙兼定は好き嫌いこそあるが、出されたものはきちんと完食する男だ。
 訝しむ少年にじっと見つめられて、打刀はすぐに根負けして白旗を振った。
「んん、んっ、朝から、んっ、ずっと」
 本当は喋りたくないのだけれど、説明するには他に術がない。
 ピリピリ来る熱を我慢しながら訴えた彼に、小夜左文字はひと呼吸置いて頷いた。右手をすっと持ち上げて、それ以上は良い、とでも言うかのように軽く揺らした。
「食べるの、辛いんですか」
 そうして和泉守兼定たちが見守る前で、淡々とした口調で訊ねた。
 それを認めるのは、負けた気がして癪だった。しかし否定して、痛みを堪えながら食べ続ける気は起きなかった。
 正直なところ、食欲はあまりない。
 美味しそうだった料理が急に色褪せて見えて、歌仙兼定は肩を落として項垂れた。
 力なく頷いた彼に、小夜左文字は一度だけ溜め息を吐いた。
「そうですか」
 囁き声で呟いて、不意に顔を上げた。視線を向けられた和泉守兼定はぎょっとなって、訳もなく緊張して頬を引き攣らせた。
 何もしていないし、言ってもないのに、怒られる未来を真っ先に想像した。幼い見た目ながら、打刀より圧倒的に付喪神歴が長い短刀の眼光に臆して、寒くもないのに鳥肌を立てた。
 冷や汗を流して青くなった彼に小夜左文字が差し出したのは、ししゃもが載った皿だった。
「え?」
「歌仙が食べられないみたいですし。余らせるのは、よくないので」
 続けて玄米が山盛り盛られた茶碗も、和泉守兼定の膳に移された。手が付けられていなかった沢庵まで追加して、彼は一気に軽くなった打刀の膳を持ち上げた。
 急にふた振り分の食事を渡された方は呆気に取られ、ぽかんとしたまま凍り付いた。恐縮しながら右手を掲げ、すまない、と仕草で謝った歌仙兼定にも唖然として、残された料理に苦笑を漏らした。
 儲けたと思うべきか、責任を押し付けられたと言うべきか。
 朝から腹いっぱいになるよう強要された和泉守兼定を座敷に残し、戦国大名細川家に所縁を持つ刀は揃って台所を目指した。
「おさ、んんっ」
 廊下は食事を終えた刀の他に、内番へ向かう刀などで混雑していた。
 その流れに乗る形で先を行く少年を追い、歌仙兼定が手を伸ばす。
 呼び止めようとした声は案の定途中で詰まり、痛々しい咳に取って代わられた。
「痛いのなら、無理に喋らなくていいです」
 あれだけやっても懲りず、学ばない打刀に呆れて、短刀が足を止めて振り返った。
 渋さと華麗さを同居させた膳を手に、小夜左文字は眉間の皺を深めた。
 低い位置から睨まれて、図体だけは大きい打刀がしゅん、と小さくなる。見た目こそ歌仙兼定の方が年嵩のようだけれど、実際はその逆で、小柄な少年こそが年長者だった。
 なにかと偉ぶりたがり、居丈高に構える傾向にある男だが、この短刀にだけは敵わない。
 ぴしゃりと切って捨てられて、しょんぼりしながら猫背になった。
 露骨なまでに落ち込んで、歩き出した短刀の後をとぼとぼとついていく。
「薬研藤四郎」
 次に彼が顔を上げたのは、小夜左文字が別の刀を呼ぶ声が聞こえた瞬間だった。
 ハッとして、歌仙兼定は背筋を伸ばした。急ぎ焦点を定めて、洗い物の最中だった短刀を探した。
 薬研藤四郎は白色の上着でなく、割烹着を身に着けていた。黒髪を三角巾で覆って、どこからどう見ても今日の料理当番だった。
「おっ、どうした。小夜助」
 両手を泡だらけにして、近付いてくる短刀仲間に首を捻る。
 隣で手伝っていた同田貫正国に断ってから場を離れて、彼は膳を片付けに入った少年に駆け寄った。
 喉が痛くとも、身体は動く。
「お小夜、僕がや――わっ」
 代わりにやろうとした歌仙兼定を遮って、小夜左文字がそのまま打刀の袖を引いた。
 不意打ちを食らった男は呆気なく体勢を崩し、咄嗟の判断で後退した薬研藤四郎の前で膝をついた。食器類を持っていなくて良かったと冷や汗を流して、一気に加速した鼓動に軽く眩暈を覚えた。
 いくら隙を衝かれたからとはいえ、こうも簡単に組み伏せられるのは屈辱だ。
 奥歯を噛んで耐えていたら、大人しくしているように、との合図なのか、頭をぽん、と叩かれた。
「お小夜」
「歌仙が、喉が痛いらしいので。診てもらえませんか」
「喉?」
 抗議しようとしたけれど、眼力で黙らされた。
 最初から勝ち目がなかったと項垂れて、渋々薬研藤四郎に向き直った。
 胡乱げな少年に無言で頷き、この辺り、とずっとチクチクしている箇所を指差す。
 立ったままでは見づらかったらしく、薬事に通じる少年は中腰になり、すぐに膝を伸ばした。
「ちょっと待ってな」
 言って、なにかを探して割烹着の中を漁り始めた。そこにないと悟ると、今度は下に着込んだ灰色の服を探って、短い洋袴から銀色の塊を取り出した。
 長さ三寸足らずの、細長い筒だった。筆の軸部分に似ているが、素材は金属で、尻の部分を捻った途端に反対側がパッと明るくなった。
「わっ」
 突如目の前で眩しく光り出して、小夜左文字が驚いて悲鳴を上げた。歌仙兼定も騒然となり、奇怪な物体を前に凍り付いた。
 そんなふた振りの反応を面白がって、薬研藤四郎が明かりを灯す不可思議な棒を振り回した。
「面白いだろ。大将に頼んで、譲ってもらったんだ。――さて」
 不遜に笑いながら言って、急に真顔になった。歌仙兼定に口を開けるよう促して、おっかなびっくりの打刀の喉に銀の筒を差し向けた。
 暗く、狭い場所も、これなら奥まで光が届く。
 眩しいが熱くはない光にドギマギしていたら、咽喉を観察し終えた薬研藤四郎が踵で床を蹴った。
 照明を消し、大事に懐に戻した。診察結果を待つふた振りを交互に見て、しばらく黙った後、ふっ、と鼻で笑った。
「腫れてるだけだ。大したことねえよ」
「腫れ、て、……つまり?」
「酒飲みの連中も、たまになるんだよ。酒焼けってやつだな。飲み過ぎて、口からこう、腹ん中に続く管がボロボロになっちまうの」
 過剰に心配する必要はないと告げて、訝しむ小夜左文字に向かって説明する。
 両手を広げて肩の位置で揺らした彼は、心当たりがあるかと歌仙兼定に視線を投げた。
「……酒、など。んんっ」
 小夜左文字からも若干冷たい眼差しが飛んできて、慌てて否定に走るが、巧く喋れない。
 痛みを堪えて鼻から息を吐き、口で言う代わりに首を振った。
 酒の飲み過ぎでこうなったのではないと訴え、誤解だと弁解する。昨日は一滴も口にしていないと身振りで主張して、他の原因を考えるよう、薬研藤四郎に懇願した。
 切羽詰まった打刀の仕草に、彼は今度こそ声を立てて笑った。
 酒が原因ではないと、最初から分かっていたのだろう。それなのに偏見を生みかねない解説を先にして、からかった。
「真面目にやってください」
「おっと」
 意地が悪いやり取りに、小夜左文字の目がつり上がった。
 いつにも増して低い声を聞かされて、薬研藤四郎はひとつ咳払いした。
 割烹着姿で格好をつけて、不意に窓の方を振り返った。まだまだ忙しくしている台所の仲間を少しだけ気にして、短刀の中では立派な方の喉仏を指し示した。
「ここんところ、乾燥してるからな。畑でも藁屑とか、燃えやすいだろ。歌仙の旦那は、察するに夜遅くまで、水も飲まずに過ごしてたんじゃねえか、って」
 本丸の照明は、蝋燭などに頼っている。その上暖房として火鉢を使っていたら、ただでさえ空気が乾燥しているのだ、咥内も乾いて然るべきだ。
 唾液だけでは足りず、喉が荒れるのを防ぎ切れなかった。
 こちらには心当たりがあるかと問われて、黙って聞いていた男は恐々短刀を窺った。
「歌仙」
「……弁解のしようもない」
 強い語気で名前を呼ばれ、隠し通す気力が失われた。潔く認めて、彼はしおしおと小さくなった。
 借りた本を書き写すのに熱中して、時間を忘れた。これだけ素晴らしい内容が、書写することで常に身近なところに置いておけると思うと、気分が高揚し、眠れなかった。
 一文字でも先に進めようと躍起になって、丑の刻が過ぎるまで続けてしまった。
 その間、一度も席を離れなかった。喉が渇いていたのは事実だが、些細なことと無視した。
「自業自得、ですか」
「ううう」
 そうやって朝、眠い目を擦って起きた時にはもう、喉は痛みを発していた。
 ぼそっと呟いた小夜左文字に反論出来ず、歌仙兼定は顔を歪めた。声にならない呻き声をあげて、よろめきつつ立ち上がった。
 診察が終わった薬研藤四郎は、お役目御免と言わんばかりに作業に戻ろうとした。
「治せないんですか」
 それを小夜左文字が引き留めて、治療方法を問い質す。
 珍しく声を荒らげた彼に、行きかけた短刀は首から上だけ振り返らせた。
「人間用のならあるが、効くかどうかは保証しない。それでも良いなら、後で来な。あっと、歌仙の旦那は水分多めに摂って、大人しく寝てるこったな」
 刀剣男士は見た目こそ人間に近いが、母胎から生じた存在ではない。
 この肉体はあくまで仮初めのものであり、頑強さなどは人間のそれを遥かに上回っていた。
 肢体を構成する素材そのものが異なっているから、薬草を煎じた薬を飲んでも効果は殆ど得られない。それでもなんとかならないか、薬研藤四郎たちが試行錯誤を繰り返しているが、現時点で進展らしい進展は得られていなかった。
 喉の炎症を抑える薬は、存在する。
 しかしあくまでも人間向けに調合されたものであって、歌仙兼定が飲んだところで安心出来るものではなかった。
 だから今できることと言えば、せいぜいこれ以上悪くならないよう、気を付けて過ごすことのみ。
 幸いにも今日の彼は、特に役目を与えられていない。部屋で寝転がっていようと、文句を言われることはなかった。
 常にぐうたらしている明石国行を思い出して、打刀は陰鬱な表情で肩を落とした。
「わか、……んっ、た」
 忙しく動き回ったところで、治るものでないのは痛感した。
 渋々承諾し、額を押さえて、彼は背中を撫でて来た手に頷いた。
「すまない、お小夜。んんっ。休ませて、もらうよ」
 無言で慰められて、不思議と痛みが和らいだ。救われた気持ちになって、目を細めた。
「部屋、戻っててください」
 こうなった責任は歌仙兼定自身にあるが、彼だってなりたくてなったわけではない。
 外側からでは分からない痛みを想像して顔を顰めた短刀は、いつも通り淡々と言って、打刀を台所から追い出した。
 言われた通り廊下に出て、歌仙兼定は片付けの輪に加わった少年に頭を下げた。
 心の中で感謝を伝えて、自室へ戻る道を進んだ。喉以外はすこぶる健康であり、足取りに迷いはなかった。
 ただ呼吸がし辛いのが難点で、咥内にじんわり滲み出た唾液を飲むのには苦労させられた。
「難儀なものだな」
 喉に二枚、三枚と、異物が貼りついている感じがした。しかし実際にそんなものはなく、むしろ剥がれている状態だった。
 息ひとっ吐くだけでも四苦八苦して、絶え間なく続く痛みに晒された。
 これなら時間遡行軍を相手にしている方が数百倍楽だと、初めての経験に憂鬱になった。
 人間というものは、常にこんな不便さと隣り合わせで生きているのかと驚かされた。かつての主の苦心ぶりに想いを巡らせて、彼は辿り着いた私室の襖を開いた。
 横に滑らせ道を作り、敷居を跨ぐと同時に閉じた。
 ぴしゃっ、と背後から響く音も、気のせいか普段より元気がない。
 慣れ親しんだ空間も、かなり酷い有様だった。
 食事に行くのを優先させて、布団を片付けるのは後回しにしたのだ。脱ぎ捨てたまま放置されている寝間着を見て、歌仙兼定は存外だらしない自身の生活ぶりを反省した。
 夜も遅くまで読み耽っていた本は、文机の上に開いた状態で残されていた。硯に残った墨が乾いて固まっており、行燈の油皿は空になっていた。
 作業途中で灯りが消えてしまい、それで仕方なく寝床に入った。
 ほんの数刻前の行動を振り返り、彼は乱暴に頭を掻いた。
「んっ」
 油断するとすぐに咳が出て、気道を駆けあがる空気に喉が圧迫された。
 頻りに喉仏近辺を触り、撫でるものの、なにひとつ慰めとはならなかった。
 患部がじわじわ熱を持ち、全身へ広がっていくのが分かる。
 書写の続きをやりたいし、散らかっている衣類を整理したい気持ちもあった。しかし肝心のやる気が湧いて来ず、なにをするのも億劫だった。
 何枚か重ねている衣を一枚脱ぎ、袴の下で縛っている紐を少し緩めた。掛け布団の端を一寸だけ捲って足から入り、横になった途端にどっと疲れが押し寄せて来た。
 もう起き上がりたくないし、起き上がれない。
「ずっと、んん、このままは、……困るな」
 全身に鉛の板が巻き付けられている気分だった。
 目を開けているのも辛くて、枕を引き寄せて瞼を下ろした。喉元までしっかり覆われるよう布団を被り、右肩を上にして楽な姿勢を取った。
 視覚を遮断した途端、残りの感覚が研ぎ澄まされた。愛用している墨の微かな匂いが鼻腔を擽り、庭先で遊ぶ小鳥の囀りがひっきりなしに聞こえてきた。
 薄い布団を通し、廊下を行く誰かの振動を感じた。
 話し声がするが、内容までは聞き取れない。やや荒っぽい駆け足が一瞬だけ紛れ込んで、二階部分で動き回る仲間の気配が絶えなかった。
「ああ、……うるさいな」
 常にどこかで、誰かが活きていた。
 それが煩わしくもあり、不思議と心地良くもあった。
 顕現した直後の本丸は、今と比べるとずっと狭く、小さかった。しかし彼ひとりが生活するには広く、あまりにも大きかった。
 そこに小夜左文字が顕現して、粟田口の短刀たちが後に続いた。あの頃はこんなにも大所帯になるなど、思ってもみなかった。
 あっという間だったようで、とても長い時間を過ごした。嫌なことや、嫌なことや、嫌なこともあったけれど、良いことも沢山あって、総括すればそこまで悪くなかった。
 寝転がる以外になにも出来ないので、色々なことを考えてしまう。
 すっかり忘れていた約束まで思い出して、歌仙兼定はふっ、と相好を崩した。
 目を閉じたまま微笑んで、顔の前に放り出していた右手指を痙攣させた。気配を感じ、眉を顰めて、息を殺して襖を開けた相手に意識を傾けた。
 入室の許可を求めることなく、勝手に入って来た。だがそれを咎めたりはせず、彼は起き上がるべく肩を突っ張らせた。
「どうですか?」
 のっそり身を起こし、布団に座った。膝を緩く折り曲げて、その隆起に腕を置いた。
 小夜左文字は静かに問いかけて、持って来たものを置く場所を探し、目を泳がせた。
 文机に向かおうとして、一歩と進むことなく動きが止まった。盆のひとつを置く隙間もないくらい、物が散乱している状況を見られてしまい、打刀は恥ずかしさに頬を赤らめた。
「熱心なのは構いませんが、やり過ぎは良くないです」
 多少無理をしてでも、片付けておくべきだった。
 今更過ぎる後悔に襲われた。穴があったら入りたい気分で頷いて、歌仙兼定は短刀を目で追いかけた。
「んん、ん」
 その間も咳は止まらず、静かな空間に無粋な音を撒き散らした。
 尖ったもので喉をがりがり擦られる錯覚を抱いて、鎮まらない痛みに臍を噛んだ。
 頑丈に出来ている現身が、たかが乾燥程度で傷ついてどうするのか。
 だが彼らの足元を支える大地だって、雨が降らずに乾き続ければ、いずれひび割れが生じるのだ。
 己の頑強さに甘えて、軽く見ていた。
 この痛みは図に乗った打刀に反省を強い、褌を締め直させるための警句だ。
「どうぞ」
 結局畳の上に盆を置いて、小夜左文字が運んできたものを掌で示した。
 受け取ろうと手を伸ばした歌仙兼定は、大振りの湯飲みに注がれた中身を見て、掴むのを一瞬躊躇した。
 白湯かと思ったが、違う。ほんのり黄味を帯びており、微かに甘い匂いがした。
「葛湯です」
「ああ……っぇふ」
 どういった飲み物か分からず困惑していたら、戸惑いの理由を悟った短刀が教えてくれた。口調は相変わらず淡々としており、裏に隠れる感情を読み取るのは難しかった。
 試しに咳をしても、反応がなかった。余所を見ていた瞳が一瞬だけ向けられたものの、すぐに外れ、右方向へと流れていった。
 彼が何を気にしているか疑問だったが、ここで振り返るのは不自然だ。
 部屋の間取りや、家具の配置を思い返しつつ、打刀は大人しく湯飲みを取った。
 左手を底に添え、右手で胴を支えた。葛湯と言われたがとろみは少なく、器を傾ければ中身もそれに従った。
「これは、お小夜が?」
「喉には生姜が良いと聞いたので、搾り汁、入れてあります」
 飲み易いよう、葛の量を調整してあるのだ。喉の奥から生じるのとは違う熱が湯飲みから広がって、四肢の強張りが溶けていくようだった。
 ホッとして、自然と頬が緩んだ。
「いただきます」
 小夜左文字が自ら考え、作ってくれたのが嬉しかった。
 助言を与えた存在があるのは確実だが、見ないふりをして、打刀は熱々の液体に息を吹きかけた。
 湯気の柱が大きく揺れて、その一部が鼻を通して歌仙兼定の喉を潜り抜けた。
「火傷には気を付けてください」
 喉だけでなく、舌や咥内まで傷めたら大変だ。
 案じる声に黙って頷いて、彼はそっとひと口、温度を測りながら葛湯を啜った。
「あっち」
 十二分に時間を使い、慎重に事を進めたつもりだった。
 しかし、万全ではなかった。回避出来なかった熱さに悲鳴を上げて、歌仙兼定は湯飲みを握り直した。
「歌仙」
 座り込んだまま暴れた彼に驚き、小夜左文字が膝立ちになる。
 中途半端なところで右手を躍らせた少年に目を丸くして、打刀はひと呼吸挟んで噴き出した。
「ふはっ……んん、んっ」
 声を上げて笑おうとして、咳に邪魔され、叶わない。
 葛湯を零さないよう、湯飲みを大事に抱きしめて、彼は一気に噴出した疲労感に肩を上下させた。
 ぜいぜい言っていたら、後ろに回った短刀が背中を撫でてくれた。背骨の隆起を避けて右、左、右、と何度も繰り返し、打刀の呼吸が落ち着くのを待った。
「誰も、盗ったりしません」
 これは歌仙兼定のために用意したものだから、最後の一滴まで彼のもの。
 落ち着いて、ゆっくり飲むよう諭された。幼い見た目の、年嵩の昔馴染みに首肯して、打刀は改めて湯飲みに口を付けた。
 不思議なことに、葛湯から吐き出される湯気を吸っている間は、呼吸が楽だった。
 葛の量が少なめとはいえ、とろみが全くないわけではない。乾燥に奪われた粘膜を代わりに補って、喉元を通り過ぎる熱は驚くほど優しかった。
 痛みが皆無だったわけではないが、米や青菜を飲み込んだ時の三分の一以下だ。驚くほどすんなり滑り落ちて行き、なにかに突かれるような刺激はなかった。
 食事にあれだけ苦労したのが、嘘のようだ。
 もしやもう治ったのでは、と気が急いたが、試しに唾液を飲み込んでみれば、ビリッと来る痛みが遅れてやって来た。
「くう……」
 出陣して負った傷だって、ここまで早く直ったりしない。
 少し考えれば分かることなのに、早計だった。あまりにも愚かしい行為だったとひとり恥じて、彼はちびり、ちびりと残りの葛湯を喉に運んだ。
「なんだか、甘いような」
「蜂蜜を入れてあります。歌仙の秘密のところから、少しもらいました」
「あれか。んっ。お小夜なら、構わないよ」
 この本丸で、甘いものは貴重だ。ほかの短刀や、食い意地の張った脇差たちに所在が知れたら、こっそり盗み食いされて、気が付けば空になっている、となりかねない。
 だから隠し場所を知っているのは、台所仕事に通じて、秘密を守れる刀だけ。
 その最たる少年の告白に微笑んで、歌仙兼定は飲み終えた湯飲みを盆に置いた。濡れた唇を拭い、ふーっ、と長い息を吐いた。
 全身の力を抜き、横になるついでに斜め後ろを振り返れば、置かれていたのは彼の本体とも言える打刀だった。
 先ほどの短刀は、現身に起きた異常が、なにかしら刀に影響を与えていないかと、気にしていたらしい。
 思ったよりも心配させていた。
 申し訳なく感じると同時に、嬉しくなって、歌仙兼定は布団の下で笑みを噛み殺した。
「お小夜?」
 暖かな飲み物を得て、内側からぽかぽか暖かい。
 今なら目を閉じて五秒で眠れる、と変な確信を抱いていたら、短刀の手がするり、と打刀の手を取った。
 敷き布団に転がっていた掌を掬って、両手で挟んだ。親指以外の四本の指をまとめて撫でさすって、最後にぎゅっと握りしめた。
「ええと、あの」
 枕元に蹲って、赤く染まった顔を背ける。
 言い渋って、間を多く取り、深呼吸を数回繰り返して。
 重なり合った掌を通じ、熱を伝えて。
「弱ってる、ときは。手を繋いでもらうと、安心するって、その。……聞いたので」
 しどろもどろの説明を経て、小夜左文字は俯き、黙り込んだ。
 寝転がっているせいで、彼の表情がよく見えない。辛うじて鼻の頭と耳朶が視界に入ったが、そのどちらもが、信じられないくらい真っ赤だった。
 誰の入れ知恵かは知らないが、感謝しなくてはいけない。
「ありがとう、お小夜」
 喉の痛みは辛いが、それに勝る褒美をもらった。
 嬉しさを噛み締めて、歌仙兼定は余っていた手を小さな手に重ねた。

2018/3/3 脱稿

ひきかへてうれしかるらん心にも 憂かりしことは忘ざらなん
山家集 雑 1263

わが元結に 霜は置くと

 ふわっと、なにかに包まれるような感覚があった。
 透明で、薄く、それでいて柔らかなものが背中を覆った。凹凸の多い輪郭を埋めて、隙間なくぴったりと貼りついた。
 それがすうっと、身体の中に吸い込まれて行った。まるで日差しを受けた雪が溶け、大地に染み込んでいくようだった。
「ん……」
 浮遊していた意識がそこで途切れ、足元に固く冷たいものを感じた。
 胎児のように丸くなっていた四肢をゆっくり伸ばして、前田藤四郎はぼうっとする頭を上向かせた。
 仰向けになって寝転がり、瞬きを数回繰り返す。
「あれ」
 惚けたまま数秒間停止して、短刀の付喪神は眉を顰めた。
 瞼を開けているはずなのに、目の前が真っ暗だった。濃い墨一色で塗り潰されており、そこが狭いのか、広いのかも咄嗟に把握出来なかった。
「どこ、でしょう」
 腑抜けた声を漏らし、右手で目元を擦った。最後にぺちん、と額を叩いて意識の覚醒を促して、鈍い動きで起き上がった。
 左腕をつっかえ棒にして、冷えた床に座った。敷き布団代わりになっていた丈の短い外套を軽く引っ張り、身なりに異常がないのを確かめた。
 平らな場所で横になっていた影響か、節々が痛いが、出血はどこにも確認出来なかった。腰を捻ればボキッと嫌な音がしたものの、手足は問題なく動いた。
 敵に捕らわれて、牢に閉じ込められているわけではない。
 真っ先にそれを疑った自分を恥じて、彼は照れ臭さに顔を赤くした。
「寝てしまったようです」
 涎の跡が薄く残る口元を擦って、反省して膝を抱いて丸くなる。
 引き寄せた踵が乾いたものを踏みつけて、ガサガサと音を響かせた。
「いけない」
 複数枚重なり合った紙が一斉にずれ動く音だ。
 変なところで折り目がついてしまうのを恐れ、急ぎ足の下から引き抜く。表装に使われている和紙の肌触りに安堵の息を吐いて、前田藤四郎は改めて辺りを見回した。
 ホー、ホー、と梟の声がした。
「夜、ですよね」
 耳を澄ませ、怪訝に眉を顰めた。
 真っ暗闇の空間で、短刀の声は微かに反響していた。
 独り言だから、音量はそこまで大きくない。しかし辺りが静かすぎて、壁に当たって跳ね返っているのがはっきり感じられた。
 明かりを探し、高い位置を仰ぐ。
 書庫の天井付近に設けられた窓は小さく、室内を照らすにはあまりにも貧相だった。
 灯りを用意していたのだが、眠っている間に消えてしまっていた。長時間居座る予定がなかったので、そこまで大量の油を準備しなかったのが災いした。
 まさかこんなことになると、誰が予想出来ただろう。
「参りました」
 文字を追いかけているうちに睡魔に襲われ、抗えなかった。
 情けなさにがっくり項垂れて、前田藤四郎は足元から救出した本を脇に退けた。
 目覚めた直後はなにも見えなかったが、少しずつ闇に慣れて来た。刀剣男士として、人間ではおよそ活動不可能な環境下でも自在に動き回れるのが、こんなところで功を奏した格好だ。
 とはいえ本来は、こんな状況で役立てる能力ではない。
 片付けは、明日だ。今は暗闇から出るのを優先すべく、彼は恐る恐る立ち上がった。
 膝に貼りついていた埃を払い、長く曲げていた所為で固まっていた膝関節を伸ばした。引っ張られた筋が抗議の声を上げたが無視して、左右に設置された木製の棚に片手を預けた。
 棚に並ぶのは、桐製の箱だ。いずれも頑強な造りで、中身が詰まるとひと振りでは抱えられない重さになった。
 収められているのは、書物。本丸建設当初から現在に至るまでの、膨大な戦闘記録を著したものだ。
 ほかにも屋敷の地図や、畑で栽培している植物の記録なども収められていた。近侍の日誌に、馬の体調管理を事細かに記したものも含まれている。
 それらがあまりにも無秩序に、まとめて桐箱に放り込まれていた。だからいざ必要になった時に、探している資料が見付けられない事態が起きた。
 以後、箱ひとつひとつに対して、目録が作られるようになった。
 どこになにがあるか整理して、まとめる仕事が、屋敷に住まう刀剣男士の仕事に追加された。
 前田藤四郎は今回、晴れてその役目を任された。
 張り切って取り組んで、つい熱が入った。
 そして最終的に気が緩み、陽が暮れたとも気付かずに寝こけてしまった。
「お腹、空きましたね」
 このことが知れたら、大勢いる兄弟刀は絶対に笑うに違いない。
 夕食の席に遅くなった理由を説明するのが、今の時点からすでに億劫だ。
 ほぼ確実な未来に陰鬱な顔をして、彼は慎重に足を進め、書庫の出入り口に手を伸ばした。
「……あれ?」
 観音開きの戸を開けるべく、体重をかけた。ぐっと押して、通れるだけの隙間を作ろうとした。
 だが、果たせなかった。
「え?」
 手前に引くのだったかと、記憶違いを疑った。しかし防火対策から木製の板に鉄板を重ね、鋲打ちしてある扉に、掴める場所はなかった。
 やはり押すのが正解と、思い直して再び両手を広げた。肘を伸ばし、肩を突っ張らせて踏ん張ったが、結果は変わらなかった。
 どれだけ押しても、ビクともしない。
「あれえ?」
 ガタガタ揺れることはあっても、扉全体に伝わる振動はごく僅かだ。
 繰り返し挑戦する間に身体が火照って来て、前田藤四郎は唖然としながら顔を扇いだ。
 身体はじわじわ熱を持つのに、内臓の奥の方は異様に冷えていた。
 闇の中で幾度も瞬きを繰り返して、小柄な少年は嫌な予感に背筋を寒くした。
「まさか」
 ゾワッと悪寒が走り、鳥肌が立った。咄嗟に自分で自分を抱きしめて、押し寄せて来た恐怖に奥歯を噛み鳴らした。
 鼻の孔を膨らませ、思い切り息を吸い込んだ。続けて出ようとした悲鳴をすんでのところで封じ込めて、内股になり、左右の膝を擦り合わせた。
 書庫は本丸でも奥の方の、用が無ければ誰も寄りつかない場所にあった。壁には漆喰が塗られ、出入り口はこの扉ひとつきりだった。
 ここにあるのは、この本丸の全ての記録だった。各男士や、敵である時間遡行軍らに関する詳細な記述も、多数保管されていた。
 この蔵が暴かれるということは、本丸が丸裸にされる、ということだ。
 だから万が一を警戒し、鼠一匹潜り込めないようになっていた。
 明かり取りの窓はひとつきりで、とても小さい。更に獣が出入りしないよう、目の細かい金網が取り付けられていた。
 扉を塞ぐ閂は大きく、重い。黒光りする巨大な南京錠も併用されていた。
 押しても、引いても動かないのは、外側から閂が通されているからだ。
「いったい、誰が」
 中に前田藤四郎がいるのに、施錠されてしまった。
 気付いてもらえなかった。短刀自身も、閂が通される音に気付かなかった。
 持ち込んだ行燈の火も、すでに消えていたのだろう。
 奥で動くものの気配がないのに、中を念入りに確認するわけがない。受け入れ難いけれど、施錠をしに来た誰かを責められなかった。
「どうしましょう」
 書庫の扉の鍵は、前田藤四郎の手元にあった。だが南京錠は、鍵無しでも施錠可能だ。
 そうと知らない刀剣男士が、日没前の見回りで、開けっ放しになっている書庫に気が付き、親切心から鍵を閉めた。
 実際の詳細は不明だが、恐らくこういった流れだったに違いない。想像して、軽く絶望して、前田藤四郎は倒れそうになった身体を支えた。
 くらっと来た頭を押さえ、踏み止まった。一瞬遠ざかった意識をしっかり繋ぎ止めて、冷静になるべく深呼吸を繰り返した。
「すう……はあ……」
 左胸に手を当てて、鼓動を数えた。
 今も背中がゾワゾワしていたが、気にしないよう心掛け、沈黙する扉を睨みつけた。
 かといって、それで臆した扉が道を譲ってくれるわけがない。
 眉を寄せ、厳しい顔になって、彼は身体を百八十度回転させた。
 明かり取りの窓に望みを託すが、垂直にそそり立つ壁にも、手掛かりとなる突起はない。
「簡単では、ありませんね」
 書庫を埋める棚によじ登り、そこから飛び移る手も考えた。けれど金網を取り外すための道具がないまま、闇雲に突っ込むのは危険だった。
 下手をすれば転落し、怪我をするだけでは済まなくなる。
 じりじりと焦げ付くような感覚に舌打ちして、彼は両手を握りしめた。
 そのうち兄弟が、前田藤四郎の不在に気付くだろう。いくらなんでも遅すぎると訝しみ、探しに来てくれるに違いなかった。
 ただそれがいつになるかは、見当がつかなかった。
「寒い」
 彼が書庫に引き籠もり、目録作成のための文書整理に取り組んでいると知っているのは、誰と誰だ。
 思い出そうとするが、足元から登って来た冷気が邪魔をした。堪らず爪先立ちで跳ねて、身体のあちこちを撫で擦った。
 摩擦で少しでも温めようと足掻いて、暴れすぎて肩から棚にぶつかった。
「いたっ」
 いくら短刀が闇に強いからといって、日中と全く同じ動きが出来るとは限らない。
 遠近感が僅かに狂い、距離を測り損ねた。じんじんする痛みに臍を噛んで、彼はその場に蹲った。
 膝を抱いて身体の各部位を密着させ、背負った外套を限界まで引っ張った。一部を尻に敷き、座り心地が決して良くない板張りの床から身を守った。
 打った場所の痛みは徐々に引いていくけれど、入れ替わりに不安と、恐怖が押し寄せて来た。
 静かだった。
 梟の声は止んでいた。
 小さな窓から差し込む光は弱く、殆ど無いと言っても良かった。
 昼間でも、照明がなければ足元が覚束ない場所だ。だから書庫に用がある刀は、大抵は必要な文献を見つけると、その場で広げるのではなく、自室に持ち帰っていた。
 ここで作業できるのは、短刀や脇差、頑張って打刀くらいだった。
「はー……」
 蹲ったまま両肩を抱いて、前田藤四郎は窄めた口から息を吐いた。
 外部と触れあった箇所から、体温がどんどん抜け落ちていく。それを遅らせるべく、膝小僧に向かって呼気を吹きかけた。
 少しでも暖を取ろうと試みて、あらゆる場所を撫でた。時に痛みが出るまで荒っぽく擦って、ほかの感覚で寒さを忘れようとした。
「このまま出られなかったら、どうなるんでしょう」
 けれど、悪い方向に頭が向かうのを止められなかった。
 押し迫る不安をうっかり口に出した途端、それが起こり得る未来として彼の心を貫いた。
 物理的な攻撃を受けたわけではないのに、内側を抉られるような衝撃が走った。
「うう」
 たまらず呻き、胸を押さえる。歯を食い縛り、いやな妄想を振り払うべく首を振った。
 そんなことにはならない。絶対に、ならない。
 強く念じて、奮い立たせた。挫けそうになる弱い心を叱咤して、負けてなるかと呼吸を荒くした。
 もう一度立ち上がり、閉ざされた扉に向かった。
 閂がなんだ。鉄製の頑丈な鍵がどうした。
 そんなもの、本気になった刀剣男士の前では紙切れにも等しかった。
「お覚悟!」
 両手の平を合わせ、指を互い違いに絡めた。ぐっと力を込めて握り締め、意を決して振り下ろした。
 勇ましく吠え、自らの力で脱出しようと激しく扉を殴った。
「――ぐあっ」
 相応に鍛えた筋肉と、中核をなす骨の両方に、激しい衝撃が襲い掛かった。
 与えた分の力を、そっくりそのまま跳ね返された。たたらを踏み、仰け反って、前田藤四郎はそのまま尻餅をついた。
 鉄板で補強された扉は、一寸たりとも動いていなかった。
「いっ、た……くう」
 対する短刀の拳は、無傷とはいかなかった。
 棚で肩を打った時とは比べ物にならない痛みが、患部どころか頭の中にもガンガンと響いていた。
 頑強な扉と骨の間に挟まれた皮膚が裂け、鮮血が滲んでいた。捲れた皮がだらん、と垂れ下がる。それが揺れる度に、辛うじて繋がっている箇所に激痛が走った。
 指先はじんじん痺れ、動かそうとしても動かなかった。痛み以外の感覚が遠退いて、自分の身体ではないようだった。
 どこかの骨が折れたかもしれない。
 しかし暗がりの中、それを確かめるのは難しかった。
「いた、い。いたい……いた、あ……ああ、あああっ!」
 閉じ込められた恐怖から、後先考えずに無謀な真似をした。普段の彼なら実行する前に立ち止まって考え直すのに、箍が外れてしまった。
 愚行の報いを受けて、傷ついた両手を床に落として涙を流す。
 助けを求めて泣きじゃくるが、分厚い壁に阻まれ、声は外に届かなかった。
 今頃兄弟刀たちは美味しい料理に舌鼓を打ち、眠るまでの僅かな時間を楽しんでいるのだろうか。
 仲良く風呂に入って、仲良く枕を並べて。
 そこに前田藤四郎の姿がないことに、なんの疑問も抱かずに。
「いち兄! 平野。信濃兄さん、みんな……」
 微かな希望を抱くが、呼びかけに応じる声は聞こえなかった。
 座り続けるのも億劫になり、ごろんと横になる。陸に打ち上げられた海驢になって、作業途中で放置された桐箱を何気なく見た。
 強すぎる痛みのお陰か、寒さはどこかへ消し飛んでいた。
 不規則な呼吸を繰り返し、時折喉を詰まらせながら、彼はずりずりと這いずるようにそちらに向かった。
 箱から取り出した書物は、床の上に積み上げられていた。低い塔が五つか、六つほどある。それを体当たりで崩して、手当たり次第身体の下に敷いていった。
 皺になろうが、折れ曲がろうが関係ない。
 重さで潰されない程度に足や胴にも被せて、次第に体温に馴染んでいく紙に安堵した。
 即席の布団は、あまり暖かくなかった。
 何もしないよりは良い、という程度だった。
「大典太さん」
 遅くとも明日の朝になれば、誰か訪ねて来てくれる。そう願い、祈って、彼はそっと目を閉じた。
 痛めた両手の痛みは引かず、眠るには心が波立ちすぎていた。しかし動くものがなにもない中、目を開け続けるのは億劫だった。
 刀剣男士が餓死する、という話は聞いたことがないので、それは心配不要だろう。凍死、というのも聞いたことがなかった。
 あるのは唯一、破壊のみ。
 折れて、砕かれ、現身との繋がりが途切れることが、彼らにとっての『死』を意味した。
 もっとも、本当は他にもあるのかもしれない。ただ前例がなく、知られていないだけで。
「第一号は、……嫌ですね」
 記念すべき最初の餓死者には、なりたくなかった。一度覚えてしまうとなかなか消えない空腹感を誤魔化して、咥内の唾を数回に分けて飲み干した。
 唇を舐め、四肢の力を抜いた。
 ぐったり床に横たわって、再び聞こえ始めた梟の声を数えた。
 仲間を呼んでいるのか、それとも縄張りを主張しているのか。
 付喪神とはいえ、獣の言葉を介する能力はない。ホー、ホー、と鳴く梟が何を訴えているのか、見当もつかなかった。
 分かるのは、今の前田藤四郎にとって、この獣だけが唯一の話し相手だということだ。
「あなたも、ひとりなのですか?」
 虚空に向かって訊ねた。
 直後にホホーウ、と少し違う鳴き声がして、まるで言葉が通じ合っているかのようだった。
 そんな訳がないのに嬉しくなって、ほんの少し心が和らいだ。
 裂けてしまった拳の、傷がない箇所をそうっとなぞって、恐々顔の前へと持って行く。
 血の臭いがした。
 吐息が皮膚を掠めて、その一帯にチリッと来る熱が生じた。
 もぞもぞ身動ぎして、楽な姿勢を探した。凸凹だらけの不安定な寝床では、どんな体勢を取っても居心地は良くない。それでも僅かな可能性に賭けて、求めずにはいられなかった。
 どこかにあるはずの墨をひっくり返さないように注意して、寝返りを打った。普段ならなんの支障もない動きひとつに深く安堵して、投げ出していた足を集めた。
「みんなは今頃は、お風呂でしょうか」
 時計などあるはずもなく、時間の感覚はまるで掴めない。目覚めてから数刻が経過しているようにも思えたし、まだ四半刻も経っていない気にもなった。
 頭は冴えている。だのに肉体は疲弊しきっていた。
 さほど動いたつもりはないが、自力で対処出来ない状況に身を置くというのは、精神的に来るものがあった。ただでさえ少ない体力をこれ以上浪費するのも、得策とは言えなかった。
 朝まで待てば、きっと助けは来る。
 祈るように頭を垂れて、前田藤四郎は暗く沈もうとする意識を懸命に奮い立たせた。
 迂闊だった自分を恥じ、呪い、恨みそうになった。
 探しに来てくれない兄弟刀や、仲間を憎みたくなった。
 どろっとした嫌な感情が、胸の奥底で渦巻いている。足を掬われればたちまち奈落の底に落ち、二度と抜け出せなくなりそうだった。
 笑っていたかった。
 助け出された時、「遅い」と言って皆を許したかった。
 出来るだろうか。叶うだろうか。
「さむい」
 辺りを埋め尽くす暗闇に押し潰される恐怖に抗い、喉の奥で呻いた。
「いたい」
 忘れかけた時に蘇る両手の痛みを噛み締めて、背後から忍び寄る不可視の気配に背筋を寒くした。
 書庫には彼しかおらず、それ以外の存在は皆無。だというのに書棚の影からなにかが覗いているような錯覚を抱き、心が休まらなかった。
 居ないのに、居るのではないかと、疑心暗鬼が消えない。
 恐怖から来る緊張に、きりきりと胃が痛んだ。冷や汗が止まらず、早く外に出たくてたまらなかった。
「大典太さん、も。ずっと」
 彼の身近には、長年蔵で過ごした太刀が在った。
 強すぎる霊力を敬われつつ、恐れられた刀だ。外に出るのは病人が出た時だけであり、前田藤四郎も容易く対面出来る相手ではなかった。
 大勢から必要とされてきたのに、顕現した大典太光世の性格は卑屈だった。自分に自信がなく、事あるごとに蔵に引き籠もりたがる男だった。
 外の方が面白いことや、楽しいことが沢山あるのに、背を向けて、見ようとしない。
 お節介を焼き、度々理由を作ってあちこちに連れ出してきた短刀は、じくじく痛む指先をじっと見つめた。
「こんな感じ、だったんでしょうか」
 出たいのに、出られない。
 訴えても、声は届かない。
 願いは届かず、見向きすらされない。
 最初に表れた感情は、怒りだった。
 あまりの不条理さに苛立ち、暴れた。横暴に対抗すべく力を振り翳して、悉く跳ね返された。
 そうして次にやって来たのが、哀しみだ。
 何故こんな目に遭わなければならないのかと憂い、不幸な境遇に涙した。恐怖に怯えて、過失はないと懸命に自己を慰めた。
 いつか自由になれる日を夢見た。ところが待ったところで状況は改善せず、むしろどんどん悪化した。
 やがて彼は、諦めを覚えた。
 足掻いたところで無駄と学び、黴臭い蔵に閉じこもることこそが幸いと信じた。そうすることで安心する人間がいるのなら、それに従うべきと考えを改めた。
 心の平穏を保つために、彼は多くを切り捨てた。
 この時の気持ちが今も枷となり、半ば呪いのように身に染みついているから、大典太光世は蔵から出たがらない。
 ずっと疑問に思っていた答えが、こんなところに落ちていた。常に猫背な太刀の気持ちを少しだけ理解して、前田藤四郎は切なさに唇を噛んだ。
 声を上げて泣きたいのを我慢して、息を止めた。
「ぷはっ、あ、は……は……すう……」
 苦しくなるのを待って口を開いて、肺がいっぱいになるまで息を吸い込んだ。
 無味無臭のはずの空気が、不思議と美味しく感じられた。
 こんな些末なことにさえ、幸福を覚えた。
 耐えがたい孤独と恐怖に苛まれ、時折叫び出したい衝動に駆られた。世界に自分だけ置き去りにされた気分で、頭がおかしくなりそうだった。
 無意味に数字を数え、夜明けを告げる鶏の声を待った。早く時間が過ぎるようにひたすら祈って、固く目を閉じた。
 空腹は限界が過ぎたようで、もう感じなかった。
 寂しさを紛らわせようと、数多い兄弟刀の顔を順に思い浮かべた。
「さむ、い」
 屋敷の布団は綿が薄く、さほど暖かくないけれど、書物で作った仮の布団よりはずっと良い。
 随分と贅沢な不満を抱いていたと自嘲して、彼は床を伝う振動に眉を顰めた。
 微かに――本当に微かだけれど、揺れていた。
 じっと息を殺していなければ、確実に見過ごしていた。徐々に近づいているのか、揺れ幅は次第に大きくなった。
「あっ」
 心の奥底に、ぽっと希望の灯が点った。
 冷え切っていた身体がにわかに活気づき、期待と興奮で鼓動が一気に加速した。
 被っていた複数の書物を振り払い、前田藤四郎は身を起こした。支えにすべく床に置いた手が痛んだが、些末なことと意に介さなかった。
「前田、どこー。まえだー?」
「居るなら返事をしろ」
 数振り分の呼び声が、一斉に響いた。ようやく短刀がひと振り姿をくらましたと気付いたらしく、総出で探してくれているのが分かった。
 加州清光に、へし切長谷部だ。ほかにも遠く、小さく、色々な男士の声がした。
 明かり取り用の窓からも、屋敷を囲む雑木林を探しているらしい声があった。
「はっ、あ……は、い。ここ、に」
 きょろきょろと首を巡らせ、暗闇を凝視した。急く心を奮い立たせ、痛む手を胸に押し当てた。
 早く返事をしなければ。
 ここにいると、皆に伝えなければ。
 だのに肝心の、声が出なかった。喉に息が引っかかり、巧く発音出来なかった。
 助かると分かった途端、要らぬところに力が入った。嬉しさに胸の高鳴りが収まらず、その所為で言葉が出て来なかった。
 どくん、どくんと鼓動が五月蠅い。出来ないと余計に焦りが生じて、眩暈がして、倒れそうだった。
「こっちは違うんじゃない?」
「もう一度確認するが、本当に、一期一振たちと遠征に出ているのではないのだな?」
「それ何回目? そうだよ。主にも聞いてきたから、間違いないって」
 そうしている間に、ふた振りが書庫のすぐ手前までやって来た。重い扉越しに会話が聞こえて、前田藤四郎は騒然となった。
 書庫の戸は閉まっている。閂がされ、南京錠が取り付けられた状態は、内部になんら異常がないと語っているようなものだ。
 ここで彼らを呼び止めないと、この先ずっと、見つけてもらえなくなる。
 頼みの綱だった兄刀は、遠征で本丸を留守にしていた。へし切長谷部の口ぶりからして、平野藤四郎が同行している可能性は高かった。
 ようやく掴んだか細い糸を懸命に手繰って、前田藤四郎は床を這った。傷ついたままの手を容赦なく使って、新たな出血や痛みにも怯まなかった。
 辿り着いた扉の、冷たい鉄板に縋りつき、残る力を振り絞った。
「ここ、……です!」
 掠れる小声で訴えて、ひ弱な拳を叩きつけた。
 蚊の鳴くような声と、爆音には程遠い音だった。この程度で気付いてもらえるわけがないと、生じた結果に絶望したくなった。
 卑屈な笑みが漏れた。
「……ひっ、く」
 悲痛な思いが膨らんで、哀しくて仕方がなかった。
 血に染まった手を広げて、顔を覆った。鉄錆びた嫌な臭いがして、切なさが倍増した。
「おお、で、……った、さん」
 一期一振には頼れない。平野藤四郎も屋敷にいない。
「たす、け、て」
 大典太光世のように強く在れなかった。百年を越える孤独に耐え、狂うこともなく凛としている男にはなれなかった。
 鼻を愚図らせて、嗚咽を飲んだ。弱々しく頭を振って、扉の前でへたり込んだ。
 もう一歩も動けない。一刻も早くここから出たいのに、それが叶わない現実を見たくなかった。
「大典太さん」
 会いたかった。
 冷たく凍えたこの身体を、強く、強く、抱きしめて欲しかった。
「僕は、ここです」
 頬をはらりと、涙が伝った。
「え? ちょ、なに。ちょっ、ちょお、あわわわ」
「うわっ、なんだ。なんだ。どうした」
「落ち着け、兄弟。落ち着けって!」
 その直後、急に場が騒がしくなった。
 それまで聞こえなかった声が轟き、荒っぽい足音の後、ドオンッ、と凄まじい圧が書庫の扉を襲った。
 巨大なものが体当たりしたのか、木戸を覆う鉄板がビリビリと細かく振動した。もれなく押し出された空気が波を打ち、すぐ傍に座り込んでいた少年を巻きこんだ。
 衝撃波が鼓膜を貫き、圧倒されて唖然となった。
 さすがに頑強な造りの戸はびくともしなかったが、壁を塗り固める漆喰が一部剥げた。埃を巻き込んでぽろぽろと零れ落ちて、霰が降っているようだった。
「……は?」
 外でなにが起きているのか、前田藤四郎にはさっぱり分からない。
 けれど直前に、ソハヤノツルキの絶叫が聞こえた。彼が『兄弟』と呼ぶ相手はひと振りしかおらず、暴挙に出たのが誰であるか、答えは自ずと導き出された。
「え」
 目を剥いて、遅れてやって来た感慨にぶるっと身震いする。
 惚けたまま凍り付いていたら、扉越しに荒々しい息遣いを感じた。
「居るのか、前田。そこに。そこに!」
 やや上擦り気味の、緊張を伴った声だった。
 耳に深く馴染んだ低音を目の当たりにして、彼はハッと息を呑んだ。
「なんなのさ、ちょっと。どうしたの、急に。ええ?」
「前田が今日、目録整理の仕事するって平野と喋ってたの、信濃の奴が聞いてたらしいんだよ。んで、調べたら、書庫の鍵は戻ってなかった」
「そうなのか?」
 外では加州清光が訝しみ、ソハヤノツルキが大典太光世の行動を早口に説明した。
 初耳の情報にへし切長谷部が声を荒らげ、直後に全員が押し黙った。
 皆が何かを待っている。扉越しに感じる複数の視線に鳥肌を立てて、前田藤四郎は歯を食い縛った。
「……大、典太、さん」
「前田」
「大典太さん!」
 思いの外優しい呼びかけに、長く奥底に溜め込んでいたものが、堰を切ったかのように溢れた。
 後は止め処なかった。見苦しく、情けないと分かっていても、どうしようもなかった。
「います。僕はここです。ここにいます」
 よろよろと腕を伸ばし、扉に抱きついた。大きくしゃくりあげ、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして訴えた。
 痛む手で戸を叩き、早く出してと懇願した。やっと手に入れた好機を逃したくなくて、とにかく必死だった。
「誰だ。中に前田がいるのに、鍵を閉めた奴は」
「そういうのは、後でいいから。近侍部屋に鍵、なかったんだよね。どうするのさ。予備の分って、どこかにあったっけ」
 一方のへし切長谷部たちも、どうすれば前田藤四郎を外に出せるか、懸命に頭を捻っていた。
 ここで犯人捜しをしたところで、なんの意味もない。それよりも南京錠を外す鍵を手に入れるのが先決だった。
 そして肝心の鍵は、閉じ込められた短刀が持っている。
「たしか、主がお持ちだったはず」
「俺、行って、借りてくる」
 予備の鍵の在り処にへし切長谷部が唸り、ソハヤノツルキが言うが早いか駆け出した。慌ただしいやり取りが続いて、前田藤四郎はひくりと頬を引き攣らせた。
 一時は明るくなった目の前が、急に暗くなった。
 今すぐにでも出たいのに、それが叶わないと分かった。
 まだ待たなければならないのかと考えると、気が滅入り、落ち込んだ。
「……いやだ。寒い。寒いです」
 暗闇から得体の知れないものが覗いていた。明らかに人とは異なる形をした黒い影が、俯く短刀を指差して笑っていた。
 聞こえないはずの声が耳元でこだまして、押し寄せる恐怖を抑えられなかった。このまま闇に取り込まれ、飲みこまれたらどうしようと、居る筈のない存在に怯え、震えが止まらなかった。
 弱々しく呟いて、頭を振った。
 それが大典太光世の耳に届いたかどうかは、分からない。
「それでは、遅い」
 朗々と響いた低音に、息が止まった。
 蹲り、俯いていた前田藤四郎は背筋を伸ばし、食い入るように扉を見た。
「おい、大典太。何をする気だ」
「うわああ、あっぶな」
 へし切長谷部の焦った声に続き、加州清光が悲鳴を上げた。そこに被さる格好で、重いものが落ちる音がした。
 一抱えもある閂を外し、放り投げたらしい。「床が、床が」とへし切長谷部が繰り返しているところからして、衝撃で凹んだか、穴が開いたようだった。
 容赦なく屋敷を破壊した大典太光世が、何を目論んでいるのか。
 想像は容易で、しかし実現は困難と思われた。
 太刀の全力の体当たりにも、書庫の扉は耐えきってみせた。何度も回繰り返せば或いは破壊可能かもしれないが、それより先に太刀の身体が壊れる危険があった。
「前田、待っていろ。今助ける」
「大典太さん」
 危ないことはして欲しくない。
 けれど一秒でも早く、ここから連れ出して欲しい。
 不安と期待が入り混じった眼差しで、少しだけ隙間が出来た戸の向こうを覗きこんだ。
「うげ、まじで……?」
 近くで加州清光が信じられないと言った通り、大典太光世は驚くべき行動に出ていた。
 固く塞がれた南京錠を、力技で引き千切ろうとしていた。
「待て、大典太。大人しくソハヤの到着を待て」
「うるさいぞ!」
 いくらなんでも無理があると、へし切長谷部が止めに入った。だがそれを跳ね除けて、天下五剣に連なる太刀は声を荒らげた。
 戦場以外では大人しく、物静かな彼には珍しいことだった。
 怒鳴られた打刀は堪らず怯み、後ろへ数歩よろめいた。無粋な手を跳ね除けた太刀は細い隙間から様子を窺う短刀に気付くと、安心させようとしてか、ふっ、と控えめに微笑んだ。
「大典太さん……」
 たったそれだけのことに、胸が締め付けられた。
 うっかり涙が溢れて、前田藤四郎はぎこちない笑顔を返した。
 かくして無事、とは言い難い状況ではあったが、書庫の扉は開かれた。
「馬鹿力め」
 怒りを通り越してあきれ果て、へし切長谷部が捨て去られた南京錠に手を伸ばす。
 接合部分を強引にねじ切ったのだから、大典太光世の指も、無傷とはいかなかった。
 有り得ない方向に曲がった利き手の人差し指と中指を無視して、血が滴っているにも関わらず、太刀は潰れるくらいに短刀を抱きしめて離さない。
「遅くなってすまない、前田」
「いえ。いいえ。いいえ……!」
 感極まっているふた振りの熱い抱擁に苦笑して、加州清光は肩を竦めた。
「手入れ部屋、空いてるよ」
 再び狭い場所に閉じ込められることになるが、構わないか。
 そんな意味合いで問いかけた彼に、前田藤四郎は一瞬きょとんとした後、大典太光世と見詰め合い、そして。
「大典太さんと一緒なら、大丈夫です」
 満面の笑みで頷いた。

2018/02/25脱稿

君来ずは閨へも入らじ濃紫 わが元結に霜は置くとも
古今和歌集 恋四 693

もの思ふ罪も つきざらめやは

 夢は見ていなかった。
 突然ドガッ、と横から衝撃が来て、それで目が覚めた。真っ暗闇の中で目を瞬いて、小夜左文字は騒然となった。
 はっ、と短く息を吐き、何が起きたのかと四肢を戦慄かせる。固い板張りの床を背中に感じながら、右手は咄嗟に腰に向かった。
 手探りで刀を引き寄せ、身体に巻きつけていた袈裟を払い除けた。噴き出た汗が生温く、耳元で鼓動が爆音を奏でていた。
 背筋が粟立ち、息苦しさに声ひとつ上げられない。
 敵襲を警戒して慌ただしく瞳を泳がせた彼の、その傍らで。
「ふがっ、ん~……すう」
 随分と起伏が激しい寝息が、無遠慮に響いた。
 それと同時に、ぐいぐいと脇腹を蹴られた。
 ここから出ていけ、と言わんばかりの無遠慮さにぽかんとして、短刀の付喪神は暗がりに目を凝らした。
 破れた天井から、星明かりが差し込んでいた。実に儚い、微かな光を頼りに焦点を合わせ、寝言の主を確かめた。
「太鼓鐘、貞宗」
 心の中で留めておくつもりが、うっかり声に出た。
 いつの間にか薄れた息苦しさに安堵して、小夜左文字は短刀仲間の無防備な寝顔に肩を竦めた。
 眠りを妨げてくれた犯人が分かって、ホッとした。敵が襲ってきたのではなかったと目を細め、ぐいぐい来る太鼓鐘貞宗の足を追い払った。
 土踏まずの辺りを擽ってやれば、素足だった少年はパッと逃げた。目覚めるところまではいかないけれど、不快感から姿勢を変えた。
 これで当分、邪魔されることはない。遠ざかった細い脚から視線を外して、小夜左文字は仰向けに姿勢を変えた。
 耳を澄ませば梟らしき声がした。狼の遠吠えは聞こえない。多くの獣や、虫さえもが、息を潜めて眠っていた。
 一部が崩れた屋根から、曇りがちな星空が見える。壁も所々で穴が開いており、仕切りひとつないあばら屋は崩壊寸前だった。
 嵐に二度、三度と遭遇したら、呆気なく壊れるに違いない。
 だが今のところ、天候は安定している。雨に濡れる心配は、当面はなさそうだ。
 薄雲が流れ、星々を隠した。気まぐれに変化を重ねる景色を眺めて、彼は戻ってこない睡魔にそっと溜め息を吐いた。
「ふへあ、……んが」
 鼻が詰まっているのか、先ほどから太鼓鐘貞宗が五月蠅い。
 鼾が気になって横を向けば、伊達男を気取る少年はぼりぼりと剥き出しの腹を掻いていた。
 暗くて見え辛いが、間違いない。
「冷えても、知りません」
 ごろごろと寝返りを打ち、姿勢を変えるうちに捲れあがったようだ。着ているものが揃って上にずれ、臍が丸見えだった。
 丈の短い股袴は、逆にずり下がってしまっている。どうやればそんな風になるのか、かなり不思議だった。
「ひゃっひゃっひゃ」
 今度は笑い声が響いて、少しも落ち着かない。
 いったいどんな夢を見ているのか、想像すら出来なかった。
 寝ていても表情豊かな短刀に首を振り、反対側に視線を投げた。ボロボロの壁を背景にして、鯰尾藤四郎が眠っていた。
 その隣には鳴狐がいて、更にその横で骨喰藤四郎が舟を漕いでいた。お供の狐は主の膝で丸くなり、懐炉代わりを引き受けていた。
 脇差ふた振りはいずれも打刀の肩に寄り掛かり、座ったまま眠っていた。間に挟まれる格好の打刀は、こんな状況でも面頬を外さなかった。
 いずれも俯き加減で、瞼は閉ざされている。太鼓鐘貞宗の鼾は、彼らの耳に届いていなかった。
 余程眠りが深いらしく、ピクリとも動かない。時折供の狐が寝返りを打つ以外、変化は見られなかった。
 小夜左文字自身が壁の役目を果たしており、太鼓鐘貞宗の攻撃はあちらまで届かない。
「うっ」
 折角退かせた足がまた戻ってきて、藍色の髪の少年は低く呻いた。
 踵で肘を踏まれた。わざとやっているのか、と言いたくなる関節への攻撃に辟易して、彼はのっそり身を起こした。
 布団代わりに被っていた袈裟を足元に落とし、短刀を帯に挿し直した。軽く頭を振って血を巡らせて、飛んできた蹴りを避けた。
 固い床の上で、太鼓鐘貞宗は器用に回転していた。眠る前は身体に被せていたはずの短い外套は、短刀の下敷きになっていた。
 壊れかけのあばら屋だから、床だって真っ平らではない。棘が出ていたり、腐って穴が開いたりしている場所もあるというのに、お構いなしだった。
 朝になったら、擦り傷だらけになっているのではなかろうか。
 それでも目覚めない彼の図太さに呆れながら、小夜左文字は微かに聞こえる梟の声に耳を澄ませた。
 袈裟で膝を覆い、背筋を伸ばす。
「……歌仙?」
 出陣は基本的に、六振りで隊を組む。
 しかし残るひと振りの姿が見当たらないと、今頃になって気が付いた。
 歴史の改変を目論む者がいる。
 過去に介入し、思う通りの未来を手に入れようと暗躍する者たちがいる。
 由々しき事態であり、見逃すことは出来ない。故に時の政府は審神者なる者に命じて、刀剣男士を産み出した。
 小夜左文字たちは、審神者によって顕現させられた刀剣の付喪神。時間を越え、過去に跳び、歴史修正主義者の目論見を阻止すべく、時間遡行軍の討伐を命じられていた。
 ここは安全な本丸ではない。
 どこに敵が潜むかも分からない、危険と隣り合わせの場所だった。
「ひとりで、どこへ」
 歴史的な戦に割って入り、のちの世に伝えられている戦況をひっくり返そうという計画が、密かに実行されていた。
 これを阻止しなければ、歴史が大幅に入れ替わってしまう。なんとしてでも時間遡行軍を見つけ、滅ぼさなければならなかった。
 だが肝心の敵が、なかなか見つからない。
 数日後、この近くの平原で向かい合う両軍は、予定通り拠点とする領地を出発していた。
 どこで歴史修正主義者が割って入り、戦況を混乱させるかは分からない。いざ戦闘が始まってからでは遅く、極力未然に防ぐ術を模索していた。
 そうしているうちに、日が暮れてしまった。
 両陣営の動向に目を光らせつつ、滅するべき敵の所在にも注意を欠かさない。
 単独行動は禁じられていた。基本ふだ振り以上で行動するよう、審神者からはきつく命じられていた。
 だのに歌仙兼定の姿がだけが、あばら屋に見当たらない。
 明日も終日、動きっ放しだ。ゆっくり食事するのさえ難しく、休めるうちに休んでおくのが定石だった。
「歌仙」
 仲間を起こさないよう呼びかけても、闇は動かなかった。
 代わりにゴッ、と拳で脛を叩かれて、小夜左文字は迷惑そうに太鼓鐘貞宗を押し返した。
「あなたはいつ、歌仙になったんですか」
 まるで違う方向から、返事のようなものをもらった。
 当たった場所が悪く、先ほどよりずっと痛かったと不満を漏らして、彼は渋々立ち上がった。
 仕返しで蹴る真似だけして、浮かせた足で一歩を踏み出した。白蟻に食われて朽ちかけている床を避け、遠回りをして草履を回収した。
 武器の在り処を確認し、深呼吸して、完全には閉まらなくなっていた木戸の隙間を潜る。
「冷えるな」
 こんな薄く、みすぼらしい穴だらけの壁であっても、ある程度風を防いでくれていた。
 打ち捨てられた小屋の外は、予想していたより寒い。袈裟を置いて来たのを軽く後悔して、小夜左文字は脇を締めた。
 両腕を撫でさすって熱を招き、目を凝らす。元は木こりが炭焼きに使っていたのであろう小屋は、主を失って十年以上が経過しているのか、原形を失っていた。
 炭焼き用の窯は、跡形もなかった。建物の中には生活道具らしきものはなにも残っておらず、心無い者が盗んで行ったと想像出来た。
 ここら一帯が戦になるから、逃げたのか。
 それとも戦に連れ出されるのが嫌で、逃げたのか。
 ここを使っていたのがどういう人物なのかも、なにひとつ、手掛かりはなかった。
 もっとも知ったところで、刀剣男士に出来ることはない。せいぜい一夜の宿を提供してくれたのを感謝し、頭を下げることくらいだ。
「歌仙、どこですか」
 闇に向かって呼びかけ、首を捻る。
 吐く息が白く濁ったのは一瞬で、あっという間に霧散した。
 梟の声が止んでいた。風が木立を揺らす音がざわざわと重なって、暗がりに浮かび上がる樹影が不気味だった。
 彼自身が、時間という一方通行の理を捻じ曲げているのだ。不可視の存在に怯えるなど、愚の骨頂と言えた。
 ただ、壮大過ぎる自然に畏怖の念を抱くことはある。多くの人が肌で感じ取る、有り得ないけれどもあり得る気配に、彼もまた鳥肌を立てた。
 産毛が逆立ち、風が吹く度に全身がビリビリと痺れた。弱い電流を浴びせられている気分になって、蠢いているようにも映る闇を凝視した。
 コッ、コッ、と一定の間隔で固いものがぶつかり合う音がした。
「!」
 咄嗟に身構え、首を竦めた少年は、仰々しく振り返った先で唖然と目を見開いた。
「お小夜?」
 同じ音がもう何度か繰り返され、不意に止んだ。
 きょとんとしながら見下ろされて、彼は星明かりに照らされた存在を前に、へなへなと崩れ落ちた。
 どうやら自覚していた以上に、緊張していたらしい。
 脱力して、腰が抜けた。しばらく自力で立てそうになくて、短刀の付喪神はゆるゆる首を振った。
「どこに行ったのかと」
 不思議そうに首を捻る男は、記憶にある姿となんら相違なかった。胸元の花は散らず、鼻の頭に傷を作ってもいなかった。
 自慢の刀を腰に差し、右手に握っているのはその辺に落ちていた棒だ。真ん中辺りで歪んでいるけれど、概ね真っ直ぐで、手元より先端の方が太かった。
 彼はそれで、地面を叩いていた。杖として使っていたのではなく、手持ち無沙汰に振り回していた、という方が表現的には正しい。
 幽霊の正体見たり濡れ柳、とはまさにこのことだ。
 何もわからないうちは、不気味な響きだった。少しずつ近付いてきていたのも、敵の接近を予感させ、恐怖と警戒心を激増させた。
 蓋を取ってみれば、なんてことはない。
 騙された。力なく項垂れて、小夜左文字は肩を竦めた。
 歌仙兼定は棒をその辺に捨てて、身一つで戻ってきた。座り込んでいる少年の手前で足を止めて、おもむろに跪いた。
「どうしたんだい、こんな時間に」
 視線の高さを揃え、至近距離から覗き込んできた。
 圧迫感を覚えて咄嗟に首を引いて、短刀は困った風に苦笑した。
 夜明けはまだ遠く、空に月は見当たらない。天頂を埋める星の輝きも、雲に邪魔されて見える面積は限られていた。
 この時間に活動しているのは、藁人形と五寸釘を手にした姫くらいではなかろうか。
「復讐を、しに」
 丑の刻参りを例に出して囁けば、歌仙兼定の顔がみるみる険しくなった。
「呪詛で復讐とは、お小夜らしくないな」
「そうでしょうか」
「ああ。お小夜なら、自分で刺し殺しに行くだろう?」
「歌仙はそっちの方が、好みなんですか」
「……なんの話をしているんだい?」
 冗談と知りつつ真顔で返事されて、少しからかってやりたくなった。
 案の定男は渋面を強め、本題に添っているようで、大幅にずれた話題を引き戻した。
 思った通りの反応に、小夜左文字はくく、と喉の奥で笑った。細い肩を小刻みに揺らして、気まずそうに目を泳がせる打刀の袖を摘み、引っ張った。
「座ってください」
「ここに?」
「どこでも」
 上目遣いに強請り、可愛らしく小首を傾がせる。
 自分でもあざといと思える仕草に、歌仙兼定は顎を引き、頬を引き攣らせた。
 仰け反り気味に背筋を伸ばした男は、咄嗟に口にした質問に対する返答を受け、視線を巡らせた。
 地面に直接腰かけるのは汚れるし、冷たいので極力避けたい。だが椅子にするのに丁度良い切り株や、台に出来そうなものはひとつも見当たらなかった。
 背後には、破れが目立つ粗末な家屋。
 袈裟を着けず、少し寒そうな短刀を視界の中心に据え直して、彼は深々と溜め息を吐いた。
「中の様子は?」
「みんな、寝てます」
 瞳だけを脇に流し、静まり返っている内部を窺う。
 少し前の記憶を掘り返して、小夜左文字は剥き出しの膝を擦った。
 下半身に、少しずつ力が戻ってきた。今ならなんとか立てそうだったが、敢えて隠した。
「眠れなかったのかい?」
 打刀は問いかけの最中、立ち上がった。袴の裾を叩いて土汚れを払い、座り込んだまま動かない少年にゆっくり手を伸ばした。
 脇から腕を差し込んで、背中で交差させた。小さな身体を大事に抱えて、慎重に持ち上げた。
 もれなく、小夜左文字の足が宙に浮いた。草履が落ちないよう、足指にそっと力を込める。打刀はそれに気付かず、片腕を背から尻へ移動させ、軽い体躯を支えた。
 慣れた調子で抱き上げられた。短刀も勝手が分かっているので、特に逆らわなかった。
 紫紺色の衿を掴み、指に巻きつけて鎖とした。間違って男の腕から力が抜けた際も、一気に落ちることがないよう、枷の代わりにした。
 胸元でもぞもぞ動く少年を軽く揺すり、歌仙兼定が首を前に倒した。
 耳朶から頬骨に辺りに顎を擦りつけられて、小夜左文字はくすぐったさに目を閉じた。
「太鼓鐘貞宗の寝相が、酷かったので」
「へえ?」
「蹴られました」
「それは災難だったね」
 あばら屋の中に居る仲間を刺激しないよう、声を潜めた。ひそひそと互いに聞こえる音量で囁けば、現場を見ていない男はクツリ、と喉を鳴らして笑った。
 小夜左文字は真実を語っているのに、あまり信じた様子がない。大袈裟に言っているだけと思われたらしく、それが悔しかった。
「痛かったです」
「復讐は?」
「……今度にします」
 不満たらたらに口を尖らせれば、決め台詞的なものを奪われた。
 訊かれた途端に思い出して、小夜左文字は一瞬目を丸くした後、余所余所しく目を逸らした。
 寝ているところを叩き起こされた件での復讐なら、同じことをやり返すのが丁度いい。だがあの場には、粟田口の三振りもいた。太鼓鐘貞宗が騒げば、彼らまで起きてしまいかねなかった。
 そうなったら、今度は小夜左文字が復讐される側になる。
 揚げ足を取られ、面白くなかった。仏頂面で吐き捨てた少年に、歌仙兼定は呵々と笑った。
 弾みで大きく揺さぶられて、咄嗟に衿を持つ手に力を込めた。離れて行きそうになった上半身を引き留めて、わざと男の胸に倒れ込んだ。
 ドスン、と衝撃を受け、気付いた打刀が息を整えた。静止して短刀を抱え直し、斜めに傾いでいる板戸の横に移動した。
 出入り口に近く、見晴らしの良い場所に、覚悟を決めて腰を落とす。
 黒の外套を尻に敷いた彼は、胡坐を掻いて座る直前、小夜左文字の身体を半回転させた。
 くる、と回されて、視界が一変した。
 細い肩が打刀の胸板に当たって、左右から両腕で包まれた。
 外套の両端を引っ張り、被せられた。全体を覆うのには足らないので、余った部分は男の袖で補われた。
 冷え切った肌に、温もりが降りて来た。
 夜気を遮断されるだけでも随分と違って感じられて、小夜左文字はほう、と安堵の息を吐いた。
「少し眠るかい?」
「歌仙は、いいんですか」
「誰かが見張りに出ていないと、ね」
 四肢を丸めて小さくなった彼に、打刀が肩越しに問いかける。
 反射的に訊き返した少年は、続けられたひと言に緩慢に頷いた。
 ここは、言ってしまえば敵陣のど真ん中だ。幸運にも発見されていないだけで、いつ斥候に遭遇するか分かったものではなかった。
 眠っている間は、誰もが無防備だ。太鼓鐘貞宗のように大の字になるのは、的にしてくれ、と言っているようなものだった。
 全員がぐっすり寝入るのは、愚策でしかない。
「歌仙は、いつ休むんですか」
「少し前に、鳴狐と交代したばかりだから、大丈夫だよ」
 ただここを見つけた時は、そういう話にならなかった。方々を駆けずり回った後だったので、皆疲れていた。本丸から支給された携帯食での食事もそこそこに、さっさと床に横になった。
 歌仙兼定のこれは、自発的な行動だ。恐らく鳴狐と交代したというのも、嘘だ。
 鯰尾藤四郎と骨喰藤四郎の間に挟まれていた彼が、どうやってそこに潜り込んだのか。脇差らが起きて、待っていたとは考えにくかった。
 明らかに無理をしている。これでは明日、体力が持つまい。
「僕が代わりますから、歌仙は休んで」
 懸念を表明し、交代を進言する。
 だが歌仙兼定はゆるゆる首を振り、短刀を包む腕を左右に揺らした。
「大事ない。これくらい」
「でも」
「なら、一緒に見張るかい?」
 彼の中で、朝まで眠る、という選択肢は存在しないらしい。
 逆に誘われて、小夜左文字はひっそり嘆息した。
 男の膝の上で身動ぎ、それを返事の代わりにした。思いの外温かい環境に睡魔が呼び寄せられたが、気付かなかったことにして、出そうになった欠伸を噛み殺した。
 鼻から大きく息を吸い、膨らんだ咥内を即座に凹ませる。
 唇を引き結んだまま堪えた彼を知ってか、知らずか、歌仙兼定は華奢な背中に胸を押し当てた。
 熱だけでなく、鼓動まで伝わってくるようだ。
 耳の奥で響く拍動を数えて、小夜左文字は後ろに向かいたがる瞳を前方に固定した。
「さっきは、なにをしていたんですか」
 闇の中からカツカツと響く音は、殊の外不気味だった。
 敵に囲まれているのでは、と想像して肝を冷やした。現実は大きく異なっており、その落差に力が抜けた。
 腰を抜かした件を根に持っての発言に、歌仙兼定は首を左右に揺らし、それから嗚呼、と声に出した。
「動いていないと、眠ってしまいそうになるからね」
 なんのことかと思案して、数秒してから答えた。照れ臭そうに苦笑して、棒を放り出した辺りに顔を向けた。
 小夜左文字は彼に背中を預けているので、細かな表情は望めなかった。だが衣擦れの音や、吐息の調子から、ある程度推測は可能だった。
 こんな顔をしているに違いないと、瞼を半分閉ざし、想像に胸を躍らせる。
 答え合わせが出来ないのをもどかしく思いつつ、それなりに楽しんで、彼はゆらゆらと上機嫌に頭を揺らした。
「素振りでもしてたんですか」
「お小夜はなんでもお見通しだねえ」
 振り回すのに丁度良い枝は、杖としても使えるし、木刀代わりにも手頃な長さだった。
 この場を遠く離れることなく、咄嗟に武器に転用できるものを手にしていたのだから、やることは限られている。
 こんなことで正解と褒められても、さほど嬉しくなかった。
「上達しましたか?」
 それとなく嫌味を投げかけて、首を後ろに倒す。
 打刀の顎を真上に眺めていたら、立派な喉仏が二度、立て続けに動いた。
「生憎と、良い師範に巡り合えなくて」             
 どのように切り返すかで、迷いがあったようだ。若干躊躇と照れが混じった返答に、小夜左文字は噴き出すのを堪えた。
 クッ、と出そうになった息を押し留め、奥歯を噛み締めた。ただでさえ小さい身体を益々小さくして、誰にも見えないところで口角を持ち上げた。
「稽古、つけてあげましようか?」
「それは光栄だ。けど、明日に差し支えるから、止めておこう」
 冗談に付き合い、提案する。
 歌仙兼定は肩を竦め、前のめりから振り返った短刀に目を細めた。
 小夜左文字は短刀の中でも飛び抜けて練度が高かった。かつての主と邂逅を遂げ、自らの有様を見極めた少年は、桁外れに強い。
 一方の打刀も、負けてはいない。力任せの攻撃は減り、着実に敵の首を刎ねる、その一点に特化した戦い方を身に着ていた。
 彼らが本気でやり合えば、大変なことになる。
 勝負がつかず、時間だけが過ぎて行き、朝になる頃には疲れ果てていることだろう。
 大騒ぎして、敵に見付かっても事だ。
 この時代の人々に目撃されるのも、あまり得策とは言えない。怪しい奴、と囚われて、それが歴史に記されることになったら、自分たちが修正主義者になってしまう。
 本気でぶつかり合うのは楽しいが、弊害もそれなりに。
 乗って来ず、冷静に却下した打刀に拗ねて、小夜左文字は口を尖らせた。
 彼の意見が正しいのだが、正論で説き伏せられて、面白くない。
 短刀だって本気でぶつかり合おうなどと考えていない。ちょっとした冗談だったのに、真面目に返されて、笑いたくても笑えなかった。
 むすっとして、後頭部で打刀の胸を何度も叩く。
 ふわふわ動き回る髪の毛を嫌って首を振り、歌仙兼定は右手を滑らせた。
「っ」
 臍の前にあった手が、下に動いた。
 急角度で曲がっている膝を越え、脹ら脛一帯を撫でさする。巻き付けられた包帯の縁を辿り、結び目を擽られて、小夜左文字は咄嗟に息を止めた。
 仰々しく肩を跳ね上げ、もぞもぞ動き回る紫紺の袖と、白い指に顔を強張らせた。
 黒の外套はとっくに脇に滑り落ちていた。覆うものがなくなった小枝のような細い脚は、微かな星明かりの下で白く浮き上がって見えた。
 その上を、男の指先がつい、と走る。
「かせん」
 くるりと回転し、円を描いたかと思えば、ジグザグに進んで産毛すらない肌を捏ねた。細長い画板の隅々まで筆を走らせ、隆起を辿り、気まぐれに包帯を弄り倒した。
 最初はくすぐったかったものが、繰り返されると違う感覚に取って代わられた。ぞわ、と悪寒が駆け抜けて、短刀は萎縮して踵を跳ね上げた。
 逃げようと足掻くけれど、座った状態で出来ることは限られている。せいぜい爪先を残して足裏を草履から剥がす程度で、効果があったとは言い難かった。
「ん?」
 男の左手は脇腹から臍の一帯を押さえ、指先は揃えられていた。それで他よりは弾力がある腹部を軽く押して、弱めて、盛り上がった肉を帯の上から擽った。
 弾力を楽しみ、遊ばれていた。
 二方向から別々の刺激を与えられ、素足を覆うものはもう残っていないのに、寒さをまるで感じなかった。却って暑いくらいで、内側から湧き起こる熱を止められなかった。
 鏡を見たわけではないけれど、耳朶がじわじわ赤く染まっていくのが自分で分かる。
 内股になり、膝同士をぶつけ合わせて、小夜左文字は無関心を装う男に臍を噛んだ。
「手、が」
 彼の右手は脛から太腿の裏側へと移り、そこから上に向かおうとしていた。
 それを、足を閉じることで阻止した。左右の腿をぴったり貼り合わせることで、隙間を塞ぎ、先に進めないようにした。
 気を張って、意識して全身に力を込めた。今にも崩れ落ちてしまいそうな上半身を必死に堰き止めて、奥歯を噛み鳴らし、鼻声で訴えた。
 邪魔されて打刀の指は引き返したが、諦めたわけではなかった。他にもやりようはある、と言わんばかりに動き回って、短刀の下腹部を覆っている股袴に狙いを定めた。
「ひゃ、あ」
「手が、なんだい?」
 裾の隙間を小突き、広げて、手始めに中指を潜ませる。
 勢い余ってずぼ、と突き刺さったそれに驚いて、小夜左文字は慌てて口を塞いだ。
 漏れてしまった高い声が、自分でも恥ずかしい。かあっ、と顔の赤みが加速して、熱で湯気が出そうだった。
 耳元では男が、わざとやっているのか、低い声で囁いた。窄めた口から息を吐いて、紅を強める耳朶を呼気で擽った。
 微風に撫でられた場所がゾクッと来て、皮膚の一枚内側を電流が駆け抜けた。全く関係ないはずの爪先がピクリと反応して、ずっと堪えていた大腿部がついに音を上げた。
 力が抜けて、筋肉が緩んだ。ぴったり合わさっていたものが離れ、同時に股袴の裾も余裕を取り戻した。
 布突っ張りが失われ、隙間が広がった。調子に乗って指を三本にまで増やして、歌仙兼定はその柔肉をふにふにと揉みしだいた。
「んっ」
 足の付け根をぐるりとなぞり、弛緩した腿の感触を存分に楽しんでいた。
 入り口となっている裾周辺にいつまでも陣取り、奥に進む気配はない。期待したのに来てくれなくて、小夜左文字は身をくねらせ、左肩を男の胸に擦りつけた。
 甘えるように頬を寄せて、身体を捻り、自分から押し付ける。
「おやおや」
 大胆な行動をとった少年を笑って、歌仙兼定はサッと手を引いた。
 撫でられていた場所からスッと熱が逃げていく。そうやって一部だけ冷え込むのが不満で、短刀は分かり易く頬を膨らませた。
 真下からねめつけられて、打刀は両手を肩の高さで躍らせた。
「明日に障るよ?」
 先ほどと同じ台詞で、目を眇める。
 暗がりでもはっきり見える空色の瞳に下唇を突き出して、小夜左文字はもう一度、男の胸に頬を埋めた。
 無言で訴え、左膝を横に倒した。右膝で天を突き、股関節を限界まで広げた。
 小夜左文字の直綴は、前身頃の長さが左右で異なる。その重なり合った部分を丁度真ん中に集めて、足首は男の脛に絡ませた。
 斜めにずり下がっていく体躯を、打刀の着物を噛むことで遅らせようと足掻いた。
 陽の光の下では見るのも叶わない姿を披露されて、歌仙兼定は黒色の布を片方、捲った。
「でも、このままでも、明日に障りそうだね」
「見ないで、……ください」
 隠し切れない隆起をそこに見出して、男がクツリと喉の奥で笑う。
 嘲笑を過分に含んだ囁きに。小夜左文字は言葉だけで抵抗した。
 自ら股を広げ、見せつけておきながら、なにを言っているのだろう。我が事ながら分からなくなって、短刀は祈るように目を閉じた。
 荒い息を吐き、目の前にある紫紺の布に牙を立てた。舌を伸ばし、繊維に唾液を染み込ませた。
「お小夜?」
「障らない、ように」
 くい、と引っ張られ、男の視線が短刀に移った。
 見つめられた少年は息を潜め、羞恥に抗い、弱々しく鳴いた。
 最後まで言い切らず、後は勝手に推測するよう告げて、ぷいっと顔を伏す。
 打刀は一瞬惚けた後、おおよそ雅とは言い難い調子で噴き出した。
「ははっ」
 こみあげる笑いを、押しとどめきれなかった。
 前歯をちらりと覗かせて、肩を震わせ、短刀の首の後ろに突っ伏した。
「歌仙」
 そんなに面白いことを言ったつもりはない。至って真面目に、真剣に、助けを求めたはずだ。
 それをこんな風に笑われると、気持ちが萎えて、縮んでしまう。
 抗議して、嫌がらせのつもりで肘を捻った。腕を背中に回して、小夜左文字は手探りで布を手繰り寄せた。
「こら」
「……歌仙だって、こんなじゃないですか」
 何枚も重なっている着物を払い除け、袴の上から探り当てる。
 軽く握られた男は途端に真顔に戻り、決して可愛くない悪戯を叱った。
 肩をべし、と叩かれて、小夜左文字は顰め面を強めた。不公平だと小鼻を膨らませて、苦々しい形相の男を睨みつけた。
 目が合って、火花が散った。
 気圧された男は一瞬怯んだ後、諦めたのか肩を落とし、深々と息を吐いた。
「明日に障らない程度に、だよ」
「はい」
「敵に攻め込まれても、知らないよ」
「大丈夫です」
「見苦しい死に様だけは、御免蒙りたいものだが」
「その時は僕も一緒です」
 念押しして、歌仙兼定は前髪を掻き上げた。
 一度だけ背後を窺い、屋内になんら変化がないのを確かめた。太鼓鐘貞宗の上機嫌な鼾を聞いて、安堵の息を吐き、身体を反転させた短刀の額に額を押し当てた。
 向き合う形で座り直した小夜左文字は、慎重に呼吸を合わせ、顎を引いた。目を瞑って、伸ばした首を少し右に傾がせた。
 なにかを待っている少年に相好を崩し、打刀が緋色の舌を伸ばす。
 先に顎を舐め、短刀が揺らいだ隙に唇を奪った。最初はちゅ、と一瞬重ねるだけに留めて、三度、四度と繰り返すうちに、次第に合わさりを深めていった。
 手探りで相手の肩に、胸に、腕に、腹に触れ、熱を確かめ、その覆いを取り払う。
「油断も隙もあったものじゃないな」
「なんのことですか?」
「さっさと終わらせて、本丸に帰ろう」
 手慣れた調子で進めていく短刀に呆れ、打刀が呟く。
 とぼけてみせた少年は、再び降りて来た唇を受け入れて、そのまま深く頷いた。

2018/02/25 脱稿

頼もしな宵暁の鐘の音に もの思ふ罪もつきざらめやは
山家集 711

遅れ先立つ ためしありけり

 あまりの緊張ぶりに、座敷の柱時計の音さえ聞こえてくるようだった。
 静まり返った空間に、ピンと張りつめた空気が満ちている。ちょっとした動作でさえ許されないような、そんな雰囲気が一面に立ちこめていた。
 たとえ障子に阻まれ、中が見えなくとも分かる。堪らずごくりと息を呑んで、小夜左文字は神経を研ぎ澄ませた。
 左隣には彼と似たような顔をして、太鼓鐘貞宗が息を潜めていた。
 青い羽飾りさえも、微動だにしない。瞬きを忘れて薄い障子紙の向こう側を探り、凄まじい集中力だった。
 室内の話し声は、一切聞こえてこない。
 喧々囂々とした議論が中断して、もうどれくらい経つだろう。
「……どうだ?」
「駄目だな。進展なし」
 右側からひそひそ声が聞こえて来たが、視線は向けなかった。先ほどから数回繰り返されているやり取りは、問いかけも、返答も、ずっと同じだった。
 白衣を着た薬研藤四郎が、難しい顔をして厚藤四郎の肩を叩いた。引き続き偵察を頼む、との合図だが、彼自身もさほど距離を置かない場所に控えているので、あまり意味があるとは思えなかった。
 廊下には他にも、愛染国俊や不動国光らの姿があった。少し離れた場所には粟田口の短刀や脇差が集い、同じく固唾を飲んで状況を見守っていた。
「ふう」
 かれこれ一刻以上、こうしている。
 流石に些か疲れてきたが、それは座敷にいる太刀や打刀らも同じはずだ。
 あまりにも静かすぎて、皆して眠っているのでは、と危惧したくなる。だが直後に、誰かが咳をする声がしたので、心配は杞憂に終わった。
 ホッとしつつ、油断ならない状況に改めて気持ちを引き締めた。
 隣の太鼓鐘貞宗に目配せして、小さく頷く。
 もう少し頑張ろう。心の中で声援を送った彼の意図を汲み、伊達家所縁の刀剣男士は口角を持ち上げた。
 勿論、と言われた気がした。言葉を介さずとも通じ合えたのが嬉しくて、頬が緩みそうになった。
 それを防ぎ、急ぎ引き締めた直後だ。
「あ」
「やばい。隠れろ」
 障子に薄く浮き上がる影が動いた。衣擦れの音が微かに耳朶を打ち、動きを察した厚藤四郎が小声で周囲に警告した。
 小夜左文字も頭を低くしたまま、慌てて身体を反転させた。狭い廊下で器用にくるりと回って、心臓に直に響く足音に背中を向けた。
「やばいやばいやばい」
「逃げろーっ」
 庭先や物陰にいた短刀たちも、一斉に座敷から離れた。身を隠す場所を探して右往左往して、頭隠してなんとやら、という状況になっている少年までいた。
 縁側から素早く飛び降り、小夜左文字は太鼓鐘貞宗と共に軒下へと退避した。
「こら!」
 その瞬間、長く閉じられていた障子が開かれ、一期一振の怒号が辺りにこだました。
 腹の底から響かせた声に、ビリビリと鼓膜が震える。
 咄嗟に耳を塞いでやり過ごした彼は、頭上から来る複数の足音に背筋を震わせた。
「うわあああ、許して。ごめんなさい。いち兄、ごめんって」
「お前たち、いい加減にしなさい」
 どうやら厚藤四郎が逃げ遅れ、捕まったようだ。ジタバタと響いてくる軽い音は、彼が床を蹴るものだった。
 他にも数振り分、比較的重い足音が四方に散らばった。それに連動するかのように、逃げまどう複数の短刀たちの悲鳴が聞こえてきた。
 会議の盗み聞きを咎め、一期一振の説教が続いている。
 軒下に隠れた自分たちは見つからずに済んだ、と安堵していた矢先。
「見つけたよ、貞ちゃん」
「ぎゃあ。みっちゃん」
 暗がりを覗き込んで、燭台切光忠がにこりと微笑んだ。
 縁側から身を乗り出し、黒髪を逆さまにした男の笑顔は爽やかだった。隻眼を細めて笑窪を作り、いかにも伊達男らしい表情だった。
 ただそれが、却って恐ろしい。
 油断したところを発見され、太鼓鐘貞宗は一瞬で青くなった。もっと奥の、暗く湿った方へ逃げようとして、伸びて来た長い腕に足首を掴まれた。
 無駄な足掻きと鼻で笑って、燭台切光忠が短刀をあっという間に引きずり出した。
「ぎゃー、やめて~。伽羅~、助けて~」
「ははは。貞ちゃんの一本釣り、てやつだね」
 右足を上にし、頭を下にした状態でぶらぶら揺らされて、太鼓鐘貞宗がひっくり返った着衣の裾を懸命に押さえる。最中に昔馴染みの打刀に助けを求めるが、色黒の青年は返事すらしなかった。
 小柄な少年を腕一本で吊り下げて、料理上手なだけではない男が呵々と笑った。
 阿鼻叫喚の状況に騒然となって、小夜左文字は急ぎこの場を離れるべく、狭くかび臭い場所に這い蹲った。
 慎重に周囲を探り、匍匐前進で暗がりを目指す。
「お小夜」
「うっ」
 けれど、無理だった。
 一尺と進まないうちに、背筋の凍るような淡々とした呼び声が耳元で風を起こした。
 奥歯を噛み鳴らし、恐々視線を脇へ流す。
「江雪、兄様」
「どこへ、……行くのです」
 左文字の長兄に当たる太刀が、軒先で屈んでいた。長い髪が地面に擦れるのも構わず、黴臭い場所にいる弟刀を涼やかな目で見つめていた。
 首を大きく傾かせ、身体が倒れないよう左手で縁側を掴んでいた。右手は膝に置いて、問いかけの後は無言だった。
 視線で縛りつけ、これ以上逃げるのを許さない。
 凄まじい圧を感じ、抵抗出来なかった。
 どっと溢れた汗で全身を湿らせて、小夜左文字は降参だと白旗を振った。
 止む無く軒下から出れば、逃亡の甲斐なく捕まった仲間が一堂に集められていた。
 脇差では鯰尾藤四郎に、骨喰藤四郎、浦島虎徹。短刀では真っ先に捕獲された厚藤四郎から、乱藤四郎といった粟田口の面々に、蛍丸の姿もあった。
 どこに潜んでいたのか、縁側には居なかったはずの日向正宗まで、不貞腐れた顔で立っていた。
 帽子を取った頭に蜘蛛の巣が絡まっているので、天井裏にいたのだろうか。そんなことを考えて、小夜左文字は降ってきた長兄の拳に首を竦めた。
「行儀が、なっていませんよ。お小夜」
 あまり力が入っていなかったので、そこまで痛くはない。
 だが江雪左文字が暴力で屈服させようとするのは、珍しいことだ。それだけ腹を立てていると察して、彼は殊勝に頭を垂れた。
「ごめんなさい」
 兄刀に謝って、縁側に並ぶ会議の参加者らにも頭を下げる。
 ずらっと一列になっているのは、大太刀の太郎太刀、薙刀の岩融をはじめとした、この本丸でも特に練度の高い面々だった。
 そのほかには太刀が多く、打刀も幾振り混じっている。
 議論を盗み聞きしていた少年らを見下ろす彼らの表情は、一様に渋い。
「どうして怒られているか、理由は分かりますね」
「はあ~い」
「鯰尾」
「はい!」
 中央に立った一期一振の質問に、鯰尾藤四郎が代表して答える。
 態度の悪さを叱られた彼は直後にびしっと背筋を伸ばし、三秒と経たずに猫背に戻った。
「蜂須賀兄ちゃん。俺たちだって、充分戦えるって」
 その横で畏まっていた浦島虎徹が、左右を見回した後、意を決して声を上げた。
「そうだぜ、いち兄」
「なんで僕たちをのけ者にするのさ」
「どんな奴らが出てこようが、全部ぶちのめしてやるよ」
 彼に呼応する形で、庭に集められた短刀たちが、次々に反論を口にした。太刀や打刀ばかりで決めるなと異議を唱え、自分たちも会議に参加させてくれるよう、頼み込んだ。
 言葉こそ発しなかったものの、小夜左文字も一抹の期待を胸に、隣に佇む兄刀を見た。
 けれど江雪左文字は静かに首を振り、血気盛んな少年の頭を撫でた。
「これは、私たちの、仕事です」
「でも」
 どんなに抗議されようとも、譲れない。
 そういう強い意志を秘めた眼差しに、小夜左文字は言いかけた言葉を飲みこんだ。
 今朝早くやって来た、時の政府の遣いがもたらしたのは、急を要する事案だった。
 出来れば今夜中に、出来るなら今すぐにでも部隊を編成し、出撃するようにとの通達だった。
 歴史修正主義者が突如、特定の時代に介入を開始した。それが不味い事に、政府の方針により、調査対象から外されていた時代なのだ。
 事前の情報がなにも掴めていない状況で、不用意に突入しても返り討ちに遭うだけ。
 けれど悩んでいる猶予はあまりない。せめて索敵部隊だけでも先に出撃させてはどうか、というところで、議論は中断していた。
 誰に行かせるか。
 どの刀種が最適なのか。
 探索中に敵主戦力と衝突する可能性は否定出来ず、かといって空振りに終わるかもしれない中、主力部隊をいきなり投入するのはいかがなものか。
 結論は出ず、堂々巡り。時間だけが過ぎて行き、会議が終わる気配は見られなかった。
 それが小夜左文字たちにはじれったく思えて、不満でならなかった。
 外から漏れ聞こえる会話を聞き拾っていて分かったのは、彼らが短刀や脇差を編成に組み込みたくない、ということだ。
 その短刀や脇差の多くは、修行の旅を終え、本丸に帰って来て久しい。
 いずれもが自らの在り方を見極め、時間遡行軍と戦う道を選択した刀剣男士だ。
 審神者によって顕現させられ、命じられるままに戦っていた頃とは違う。自身の意志で、確固たる信念を有して、戦うと決めたのだ。
 ところが彼らの兄弟刀は、短刀や脇差の出陣にあまり良い顔をしない。いつも不安そうに見送って、帰ってくると諸手を挙げて喜んだ。
 太刀らと比べて膂力が劣るのは事実であり、認めざるを得ない。しかしそれ以外で勝っている部分もあり、外見的な問題で戦場から遠ざけられる謂われはなかった。
 戦える。
 戦いたい。
 自分達は十二分に、役に立つ。
 どうかこの思いが、彼らに伝わってくれますように。
 一縷の望みをかけて、小夜左文字は改めて江雪左文字を見た。
 目は合わなかった。
 彼はすいっと流れるように弟刀から離れ、草履を脱ぎ、縁側に上がって座敷に入って行った。
 一度も振り返らなかった。聞く気はないと、態度で示された。
 江雪左文字に続き、燭台切光忠が敷居を跨いだ。良い子にしているよう弟刀に言い聞かせ、蜂須賀虎徹と長曽根虎徹が続いて鴨居を潜った。
 鶴丸国永が困った顔で頬を掻き、三日月宗近が彼を促す。大典太光世は申し訳なさそうに背中を丸め、太郎太刀が代表して皆に深く頭を下げた。
 会話はなかった。
 谷底よりも深い亀裂が、軒を挟んで広がっていた。
 文句を言いたげな弟たちに一期一振が睨みを利かせ、障子を閉めた。
「ちぇ。なんだよ。つまんねえ」
 ピシャッ、と戸が閉まるのを待ち、我慢出来なかったのだろう、後藤藤四郎が悪態をついた。
 靴底でがりがりと地面を削り、溜め込んでいた不平や不満をぶちまける。
「俺らって、そんなに頼りなく見えるのか? なあ。戦力として数えてもらえてねえのか?」
「やめろよ。いち兄だって、考えあってのことなんだから」
 段々言葉が乱暴になる弟を制し、鯰尾藤四郎が落ち着くように諭す。
 とはいえ彼自身も、この結末に納得がいっていない。口ではそう言ったものの、兄刀の考えが理解出来なくて、後は黙るしかなかった。
 困った顔で口を噤んだ脇差に、厚藤四郎が苛々しながら空を殴った。地団太を踏み、ひとり暴れて行き場のない感情を発奮させ、最後に深く肩を落とした。
「なんだか疲れた。寝てくる」
 会議はまだ終わりそうにない。こっそり部屋に近付いても、盗み聞きは許されないとよく分かった。
 もう一度挑戦したところで、同じことの繰り返しだ。そうやって無駄な時間だけが、どんどん積み上がっていく。
 出撃要請は出続けており、時の政府は審神者に決断を強いている。これ以上邪魔をして、審神者への圧力が強まるのは、この本丸を居とする刀剣男士としては避けねばならない事態だった。
 かといって他の事をやろうにも、会議の展開が気になって、集中出来るとは思えない。
 何もやる気が起きない。だったらもう、早い時間ではあるが、眠ってしまった方が得策だった。
 もし出陣の命が下ったら、いつでも出られるように準備だけはして。
 目覚めた頃には、結果が出ていると信じたい。
「俺も、そうしよっかなあ」
 半ば投げやり気味に言った不動行光に同調し、太鼓鐘貞宗が頭の後ろで手を組んだ。逆さまに釣り上げられた影響で髪型が若干崩れており、手櫛で雑に整えながら、大股で一歩を踏み出した。
 途中で振り返った彼に、お前はどうする、と目で問いかけられた。
「僕は、まだ……」
「また怒られっぞ」
「部屋にいても、落ち着かないですし」
 移動を渋っていたら、愛染国俊に呆れられた。蛍丸と並んで屋敷に戻ると決めた彼は、煮え切らない小夜左文字の返答に、ひらひらと手を振って返した。
 応援されたようであり、馬鹿にされたようであり。
 どうせなら良い方に解釈したい。
 遠ざかる背中から視線を剥がして、小夜左文字は右足を左脛に擦りつけた。
 縁側から飛び降りた際、草履を履く余裕などなかった。地面は冷えており、立っているだけでも体温を吸い取られた。
「冷えるね」
 凍えるほどではないけれど、長時間このままだと霜焼けになりそうだ。
 どうしようか迷って視線を上空に流し、彼は兄刀に叩かれた場所を何気なく撫でた。
 江雪左文字が小夜左文字を戦場から遠ざけたい理由は、知っている。彼はそもそも、戦いが嫌いだ。時間遡行軍と争わなくて済む道があるのなら、迷うことなくそちらを選び取るだろう。
 そういう男だから、周囲の刀剣男士が戦場に行くこと自体も嫌がる。繋がりが強い刀が相手だと、特にその傾向が顕著だった。
 大切に思われているのは伝わってくる。
 けれど大事に扱われるのと、武器である刀から戦う場を奪うのは、同じではない。
 小夜左文字のことを想うのなら、戦場に出るのを許して欲しい。彼はそのために戦う力を身につけ、経験を積んできたのだから。
 敵の出方が分からない以上、隠密行動に優れた刀を優先させるべきだ。それが分からないような江雪左文字や、一期一振ではないだろうに。
「なにが駄目なんだろう」
 彼らの考えが、分かるようで分からない。
 何度賽子を振っても振り出しに戻ってしまう迷路に臍を噛み、小夜左文字は乾いた地面を爪先で撫でた。
 嫌がらせに江雪左文字の草履を拝借し、座敷が見える範囲をうろうろした。体格に合っていない履き物はすぐにすっぽ抜けそうになり、実際何度も足が空振りした。
 後ろに残された片足分を下に見て、幾度舌打ちしたか分からない。
 気が付けば厩の方まで来ており、屋敷はかなり小さくなっていた。
 黒い澱みに反応したのか、複数の嘶きが聞こえた。
「誰かいるの」
「んー?」
 それ以外にも気配を感じて厩舎を覗きこめば、奥の方から合いの手が返ってきた。
 馬場に馬を出し、空になった内部を掃除していたのだろう。何事かと身を乗り出しだのはソハヤノツルキで、遅れて物吉貞宗がひょっこり顔を出した。
「小夜君」
「どうした。随分と湿気た顔してんな」
 ふた振りとも、身体のあちこちに藁屑が貼りついていた。首に手拭いを巻いて、袖を肘の手前まで捲り上げていた。
 小夜左文字は水に濡れた藁を避け、踏み固められた土の上を渡った。兄刀の草履を汚さないよう注意して進めば、動向を見守っていた太刀が呵々と笑った。
「やれやれ。足だけでっかくなったもんだな」
 いつ脱げ落ちても可笑しくない履物に四苦八苦しているのが、面白かったらしい。近くまで来た短刀の肩を乱暴に叩いて、ソハヤノツルキは持っていた箒を壁に立てかけた。
「あなたは、出なくて良かったんですか」
「ん? ああ、構いやしねえよ。小難しい話は、性に合わねえっていうか」
 本丸に暮らす刀剣男士のうち、太刀の大半は大座敷に集まっている。
 こんなところで馬当番を引き受けている刀がいるとは、予想だにしなかった。
 驚いていたら、ソハヤノツルキは顔の横で手を振った。冗談ではない、と言いたげな態度を見せていたら、飼い葉を運んでいた物吉貞宗がぷっ、と噴き出した。
 今の言葉のどこに、笑う要素があったのだろう。
 分からなくて首を捻ったが、脇差から細かい説明はなかった。
「んで、終わったのか?」
「まだです」
 重そうな桶を抱えた少年を見ていたら、ソハヤノツルキに訊かれた。
 視線を戻し、即答すれば、金髪の太刀は背筋を伸ばして肩を竦めた。
「そんなに揉めることかねえ」
「僕たちには、出陣させたくないみたいです」
「ああ。それで拗ねてんのか」
「拗ねてなんかいません」
「そうやってむきになって否定すんのが、拗ねてる証拠だろ。なあ?」
「そうですね。ソハヤさんもよく、そうやって拗ねてますから」
「ほらな~……――って、俺のことはどうでもいいだろ!」
 話の途中で物吉貞宗に同意を求め、思わぬ言葉にソハヤノツルキが顔を赤くした。
 羞恥を誤魔化して声を張り上げ、微熱を帯びた頬を乱暴に擦る。こうしている間もせっせと働く脇差はクスクス笑っており、とても楽しそうだった。
 仲睦まじい彼らを交互に見やり、小夜左文字は頬の肉を軽く抓った。
 引っ張り、すぐに開放して、他より赤みを強めた箇所を撫でた。
 あまり自覚がなかったが、どうやら自分は拗ねていたらしい。
 泥が跳ねて少々汚れた草履を一瞥し、妙に納得して深く息を吐く。
 戦えるのに、戦いたいのに、戦わせてもらえない状況が気に食わなくて、怒りを覚えた。感情を持て余して、ぶつける先を探していたのだと教えられて、腑に落ちた気分だった。
 特に何かがあったわけではないけれど、胸がスッとした。
 もやもやしたものが薄くなったのを実感して、身体全体が軽くなった。
「別に気にすることねえよ。お前らの実力は、みんな認めてる。あいつらは、意地張ってるだけだって」
「意地?」
 そこに追加で、ソハヤノツルキが嘯いた。腰に手を当て、苦笑を漏らし、きょとんとなった短刀の頭を雑に掻き回した。
 その手は綺麗なのかと言いたくなったが、直前で飲みこんだ。多少汚れたところで、小夜左文字はもとより血に汚れた短刀だった。
 今更馬の糞がこびり付こうが、大差ない。そう自嘲して口角を歪めていたら、飼い葉を取り替えていた脇差が、後ろから声を張り上げた。
「駄目ですよー、ソハヤさん。ちゃんと手を洗ってからでないと」
「おっと。そうだった、すまん」
「いえ」
 物吉貞宗は見ていないようで、案外状況を見ている。
 注意された太刀はそれでハッとなり、首を竦めて手を合わせた。
 気にしていないと言って、恐縮する男を改めて仰ぐ。視線を受けたソハヤノツルキは数回瞬きして、物言いたげな少年の前で膝を折った。
 尻は着けず、蹲踞の姿勢で、腿の上に右肘を突き立てた。頬杖を突き、興味深そうに笑って、短刀に向かって顎をしゃくった。
「どうしたよ」
 聞きたいことがあるなら言えと、仕草で促す。
 完全に掃除を中断させた彼だが、物吉貞宗はなにも言わなかった。
 忙しくしている少年を一度だけ盗み見て、小夜左文字はソハヤノツルキに視線を戻した。あまり話したことがない相手だが、不思議と親近感が沸いて、緊張せずに済んだ。
「意地って、……なんですか」
「ああ」
 明るく、笑い声が絶えない男だから、そう思えたのかもしれない。
 髪の色のように眩しい、太陽のような男だ。戦い方は荒々しく、力押しで敵を薙ぎ払う大典太光世に似ているが、性格は正反対だった。
 天下五剣のひと振りの方は、未だに苦手だ。用があって話しかけようとしても、いつもビクッと身構えられて、なにもしていないのに悪いことをした気分にさせられるのが、釈然としなかった。
 座敷に入っていく大きな背中を思い出し、小声で訊ねる。
 ソハヤノツルキは瞬時に反応し、頬杖を解いて手首を膝で交差させた。
「なんだと思う?」
「……」
 そうして、したり顔で聞き返された。
 分からないから、教えて欲しくて質問したのだ。それを質問で返されるのは、礼儀に反しているのではなかろうか。
 思わずムッとして、口を尖らせた。
「ソハヤさん」
「はは」
 物吉貞宗からも批判の声があがって、男は白い歯を見せて笑った。
 二方向からねめつけられて、太刀はあっさり降参した。西方に睨みを利かせ、鎮護の要となるよう祀られた刀とはいえ、修行を終えて己の在り様を見極めた刀ふた振りを相手となると、流石に分が悪すぎだった。
 胸を反らして豪快に笑い、ひと息分の間を置いて、背筋を伸ばした。
 真正面から短刀と向き合い、ソハヤノツルキは緋色の瞳をスッと眇めた。
「男の、……ってよりは、兄貴のだな。意地ってやつだよ」
 語り始めた早々に内容を微修正して、右の口角を持ち上げる。
 不遜な表情にぽかんとして、小夜左文字は小さく頷いた。
「あに」
「そう。ま、俺らんところはどっちが兄貴だ、弟だってのは、あんまり関係ねえんだけどよ」
「嘘ですよ。兄だと色々面倒だから、弟が良いって自分で言ってたじゃないですか」
「もーのーよーし!」
 相槌を打った短刀に合わせ、肩を竦めた太刀を脇差がすかさず茶化す。
 真面目な話の腰を折りに来た少年に怒鳴り返して、真っ赤になった男は飛び出た唾を手の甲で拭った。
 一瞬で荒くなった息を整え、肩を数回上下させた。ぜいぜい言いながらしつこく顎の周辺を擦って、後方を警戒して渋い表情を作った。
 物吉貞宗は淡々と厩の片付けを続け、手を休めない。ソハヤノツルキに眼光鋭く睨まれても意に介さず、目の前の仕事に精を出していた。
「……あの」
 せっせと働く少年をちらりと見て、小夜左文字は太刀に焦点を戻した。恐る恐る続きを急かせば、よそ見していた男は頭の後ろを掻き、若干面倒臭そうに吐き捨てた。
「だから、まあ。つまり、俺んとこは良いんだよ。俺んところは。要はお前らの兄貴の話だろ」
「はあ」
 人差し指を突き付けられて、刺さりそうだったので慌てて逃げた。
 首を後ろに傾がせて距離を稼げば、再び首の後ろに爪を立てた男が、草臥れたのか、膝を伸ばして立ちあがった。
 大きな欠伸をひとつ零し、釈然としないでいる短刀を見下ろす。
「お前らんところは、兄貴だけ、でかいだろ」
「え、……と。ああ」
 彼の呟きの意味が、一瞬理解出来なかった。
 江雪左文字より宗三左文字の方が僅かに背が高い、と言いかけて、止めた。そういう意味ではないと直前になって気が付いて、喉元まで出かかっていた言葉を飲みこんだ。
 その代わりになるほど、と頷く。
 粟田口も、左文字も、長兄と呼ばれるものはいずれも太刀だった。
 来派の蛍丸は大太刀だけれど、背丈だけなら短刀並みだ。あそこで保護者を名乗っているのは、太刀の明石国行だった。
「けど、実力だけで言やあ、今となってはお前らのが強い」
 審神者なるものが刀剣男士を集め、歴史修正主義者に対抗し始めたばかりの頃は、短刀より太刀の方が遥かに強かった。
 体力があり、持久戦にも強い。夜戦や屋内戦に不利とはいえ、同時に多数を相手にしなければならない時などは、やはり打刀以上の刀が圧倒的に有利だった。
 腕力で劣り、耐久力に乏しい短刀は、いつも置いて行かれる側だった。
 だから、旅に出た。己の在り様を見極めたくて、許しを得て過去に向かい、そして戻ってきた。
 修行を終えた短刀たちは、目に見えて強くなった。瞬発力の高さを利用して敵の動きを封じ、自分たちが不利になる長期戦を回避する能力を得た。
 これでやっと、戦力になる。太刀らと肩を並べて戦場に立てると、彼らは無邪気に喜んだ。
 けれどそれが、それまで主力となって本丸を支えていた刀剣男士らに暗雲をもたらした。
「そういうのを、受け入れられない連中も、いる」
 ソハヤノツルキは太刀だけれど、本丸に来たのは江雪左文字たちよりずっと後だ。大典太光世と時を前後してやって来たので、兄弟刀を待ち焦がれる、という経験もなかった。
 彼らが顕現する少し前に、短刀が修行に旅立って、戦力分布はがらっと入れ替わった。太刀や大太刀が主力を担っていた頃の本丸は、ソハヤノツルキたちにとって、酒の席で聞く昔話だった。
 しかし中には、自分たちが最も輝いていた時代に固執する刀があった。
 現実を認めたがらず、いつまでも弟たちを守り、庇い続ける存在であろうと振る舞う刀があった。
「兄様が、そうだと」
「連中も、分かってんだよ。それでも格好つけなきゃなんねえ時、ってのがある。意地張って、見栄張って、お前らより上なんだって、主導権握っておきてえのさ」
「兄様は、どんなことになっても、兄様なのに」
「そうだな。だから面倒臭いんだよ、兄貴ってのは」
 納得がいかなくて膨れ面を作った小夜左文字に、ソハヤノツルキはため息混じりに言った。物吉貞宗に叱られたのも忘れ、大きな手で小さな頭をわしわし撫でて、藍色の髪の毛をくしゃくしゃに乱した。
 その手が汚いとは、もう思わなかった。
 上からの圧力をじっと耐えて、華奢な短刀は聞こえてきた誰かの歓声に顔を上げた。
「終わったみたいだな」
 太刀も気付き、ぼそりと言った。若干馬臭い手で小夜左文字の肩を、背中を順番に叩いて、行って来いとばかりに軽く押した。
「あっ、と、と」
 その力が思いの外強くて、転びそうになった。
 大きすぎる草履の鼻緒を足指でしっかり捕まえて、彼は前にふらつく身体を懸命に引き留めた。
 両手で空を掻き回し、口から飛び出そうになった心臓を飲みこんだ。ドッと噴き出た汗で腋を濡らして、呼吸を乱し、折れそうになった膝を叱咤した。
 どきどき五月蠅い胸を押さえ、振り返る。
 物憂げに佇む物吉貞宗の姿が気になった。じっと見ていたら気取られて、少し困った風に微笑みかけられた。
「貴方も、なんですか」
 ソハヤノツルキとの問答は、短刀を弟に持つ刀の話だった。
 彼もまたそのひと振りだと思い出した小夜左文字に、色白の脇差は緩く首を振った。
「太鼓鐘に背中を示すのは、伊達のみなさんにお任せしています。僕はあの子が、怪我をして帰って来た時、ゆっくり休める場所を用意するだけです」
 空になった飼い葉桶を胸に抱き、照れ臭そうに呟く。
 そういう考え方もあるのかと首肯して、短刀はふた振りに向けて頭を下げた。
「ありがとうございました」
「どうなったか、後で教えてくれや」
「分かりました」
 礼を言い、約束をして、踵を返した。慣れない大きな草履に四苦八苦しながら、これが兄刀としての苦労なのかと、そんなことを考えた。
 厩舎を出れば、日差しが心地よかった。
 思わず深呼吸して、屋敷の方を見る。
 会議が終わったらしく、座敷の障子は開いていた。参加していた刀剣男士が三々五々に散らばって、話を聞こうとして、小さな刀がこれを追いかけていた。
 一期一振の傍では厚藤四郎が嬉しそうにして、後藤藤四郎は腕組みをして唸っていた。愛染国俊と蛍丸が明石国行によじ登り、太鼓鐘貞宗は鶴丸国永に肩車されていた。
 表情はそれぞれだ。喜んだり、悔しがったり、複雑そうだったり、色々だった。
「兄としての、意地」
 ソハヤノツルキとの会話を経て、最初は分からなかったものが、今なら少しだけ理解出来る気がした。
 兄刀として顕現しておきながら、弟刀にどんどん追い抜かれて、仕方がないと思いつつも、立つ瀬がない。だから簡単には出陣させず、不要な時間を用いることで、辛うじて尊厳を保っている。
「確かに、面倒臭いね」
 この無駄でしかないやり取りは、言うなれば彼らの最後の砦だ。
 兄としての面目を保ち、誇示するためには、こうするしか術がなかったのだろう。決定権は自分たちにある風に装って、居丈高に構えることで、彼らは自身の矜持を守り抜いたのだ。
 結果的に、短刀たちも出陣すると決まったようだ。細かい話は分からないけれど、一気に和んだ空気から状況が伝わって来た。
 頬を緩め、目を細める。身体を左右に揺らめかせ、彼は続々と縁側を行く男たちを見送った。
 江雪左文字はなかなか姿を見せなかった。最後ではないか、という頃に現れて、真っ先に縁側から軒下を見下ろし、そこに草履がないと知って、不思議そうに首を傾げた。
 おっとりとした仕草がいかにも彼らしく、可笑しくて、噴き出しそうになった。
 弟刀には無縁の、兄刀だからこその苦労が垣間見えた。
 たまには労ってやることにして、小夜左文字は似合わない草履を脱ぎ、右手に持って駆け出した。

2018/02/10 脱稿

散ると見ればまた咲く花のにほひにも 遅れ先立つためしありけり
山家集 772

積りにけりな 越の白雪

 ぽたり、ぽたりと雫が落ちていた。
 朝方は立派に尖っていた氷柱も、昼を回る頃には幾分小さくなっていた。
 このまま成長し、長く伸びるようなら危ない。折ってしまった方がいいか悩んでいたけれど、手を加えることなく済みそうだった。
 肉体労働がひとつ減って、ホッとした。
「お疲れ様です」
 雪の中に出来た獣道の真ん中で立ち止まって、小夜左文字は持って来た盆を高く掲げた。
 彼の前方には、竹で作った梯子があった。斜めに立てかけられ、屋根まで続いている。
「おっ、やったぜ」
「うわあ、助かるうう」
 それを登り切った先に、和泉守兼定の姿があった。すぐ後ろには大和守安定の顔が見えて、小夜左文字の登場に、険しかった表情が一気に和らいだ。
 嬉しそうに手を叩き合わせ、つるりと滑って落ちそうになった。
「あぶね!」
 地面に向かって一直線、となるところだった大和守安定の腕を掴んで、和泉守兼定は危機一髪と冷や汗を拭った。
 下で見ていた短刀も、あと少しで大惨事、という事態に竦み上がった。高く結った髪をぶわっと膨らませて、悲劇が寸前で回避されたのにホッと胸を撫で下ろした。
「いやあ、ごめん。ありがとう」
「なになに、どったの」
 助けられたのに礼を述べ、大和守安定が申し訳なさそうに首を竦める。
 呆れ顔の和泉守兼定はなにも言わなかったが、代わりに違う声が飛んできた。
 小夜左文字の位置からでは見えないけれど、加州清光だ。ほかにも数振り分、がやがやと賑やかな声が聞こえて来た。
 だが実際のところ、屋根に上っているのがどれくらいいるのか、さっぱり見当がつかなかった。
 おおよそこれくらい、と見計らって用意して来たが、足りないかもしれない。
 梯子の手前で数回足踏みして、彼は湯気を立てる甘酒に視線を移した。
 丸い盆の上に、湯飲みが全部で六つ、並んでいた。いずれもたっぷりと甘酒が注がれており、寒い中での活力となるはずだった。
 飲み物を持ってやって来た短刀の意図を汲み、屋根の上で和泉守兼定が声を張り上げ、雪下ろしの作業中だった仲間に呼びかけた。
「小夜坊が、差し入れだってよ」
「やったー!」
 地上でやきもきしている少年の気持ちなど露知らず、頭上から複数の歓声が一斉に沸き起こった。
 一昨日の夜から降り始めた雪は、今日の朝になってようやく止んだ。寒さに震えながら外に出て見れば一面の銀世界で、それはそれは大層美しかったが、ただ美しいだけではないのが雪の厄介さだった。
 地上だけでなく、屋根の上にもみっしりと、隙間がないくらいに雪が積もっていた。
 少量なら放っておけば溶けるが、これだけ大量となるとうかうかしていられない。
 雪の重みで屋根が潰れたら、ここでの生活がままならなくなる。時間遡行軍と戦って歴史を守る云々と、偉そうに言っている場合ではなかった。
 こんな時でも出陣となった一部を除いて、身体の大きい刀は午前中から雪下ろしに忙しい。
 畑や厩、時空転移の門に通じる道なども掘り出さねばならず、彼らはずっと、休みなしだった。
 そろそろ根負けして、嫌になっている頃と思われた。
 ずっと屋外にいるわけだから、身体もさぞかし冷えていることだろう。ならば休憩も兼ねて、温かな飲み物のひとつでも差し入れてやろう。
 そう思って、用意した。
 今日の料理当番である燭台切光忠や、大般若長光も賛同し、手伝ってくれた。
 台所に行けばまだ残りが沢山あるけれど、取りに行くにはまず、今ここにある分を置いていかなければならない。
 だが周辺に、物を置ける場所がなかった。
 足元は濡れて、土と雪が混ざってぐちゃぐちゃだ。足を動かすたびに泥が跳ねて、とても飲み物を放置出来る環境ではなかった。
「すみません。あの」
 かといって通り道の両側を埋める、雪の壁に預けていくわけにもいかない。重みで沈んでしまうし、折角熱々で用意したものが冷めるのは残念過ぎた。
 せめて誰かひと振りで良い、梯子を下りて来てくれないかと願うが、和泉守兼定はちっとも気付いてくれなかった。
 彼は遠くで作業中の仲間に繰り返し呼びかけ、集まるよう促していた。
 その打刀が梯子への道を塞いでいる状態なので、大和守安定たちも身動きが取れなかった。
 先ほど滑り落ちかけたこともあり、慎重になっている。
 前に出ようか、出まいかで躊躇しているのが窺えて、小夜左文字はそっと溜め息を吐いた。
「降りてきてもらっても、いいですか」
 こちらから言わない限り、伝わりそうにない。
 諦めて、声を上げた。首を思い切り後ろに倒しての叫びに、遠くに向かって手を振っていた打刀はハッとなった。
「おっと。すまねえ」
 我に返ると同時にきょろきょろして、加州清光や大和守安定から睨まれていると気付き、冷や汗を流す。
 苦笑して頬を掻いた彼は気まずそうに首を竦め、身体を反転させて梯子に足を掛けた。
 若干不安定な足場も意に介さず、ひょいひょい、と身軽に移動して、ストン、と足を揃えて着地した。
「うわ、っと。ちょ。揺らさないでってば」
「おおっと。悪い、悪い」
 その衝撃が上部に伝わり、続けて降りようとしていた大和守安定が悲鳴を上げる。
 和泉守兼定はさして悪いと思っている素振りもなく言って、ギシギシ言って止まない梯子を裏側から支えた。
「小夜ちゃん、ありがとう。もらうね」
「安定、俺の分もらっといて~」
「りょうかーい」
 後退して様子を見守っていた小夜左文字に駆け寄り、大和守安定が笑顔で頭を下げた。三番手で降りようとしている加州清光に返事して、短刀が支える盆から湯飲みをふたつ、掴み取った。
 梯子を掴んで踏ん張っている和泉守兼定はなにか言いたげな顔をしていたが、沖田総司の愛刀はこれを無視した。上機嫌に踵を返して相棒を待ち、加州清光が着地すると同時に右手を差し出した。
 暖かな湯気を放つ甘酒に、ふた振りの顔がどんどん綻んでいく。
「あと、どれくらい要りますか」
 四番手は、膝丸だった。屋根の上には髭切の姿もある。しかし先ほど聞こえた声は、もっと他にもいると短刀に教えてくれた。
 この場を一旦離れ、取りに戻った方が良さそうだ。
 ただ正確な数が分からないと、二度手間になりかねない。また足りなかったら困るから、と確認したがった少年に、加州清光と大和守安定は無言で顔を見合わせた。
「えーっと。あと誰が居たっけ」
 本丸の屋敷は、広い。近侍が詰める座敷の他に、食堂を兼ねる大座敷や、納戸、台所に風呂場、そして手入れ部屋など、施設は多岐に亘った。
 ここに刀剣男士らが暮らす居住区を含めると、丸一日かかっても全ての雪を取り除くのは難しかった。
 人海戦術に頼らざるを得ない状況であり、協力者は多い方がいいに決まっている。
 もっと沢山、あらかじめ持ってくるべきだった。
 盆に乗り切る分だけ用意したのは失敗だったと悔いて、小夜左文字は手元に残る湯飲みに肩を落とした。
「確か、どっかに村正の奴がいたな」
「亀甲さんもいたよ」
「兄者、気を付けて降りてくるんだぞ」
「分かってるよ。ええと……弟の、彦丸だっけ?」
「あとはー……ちょっと待って」
「兄者、俺の名前は膝丸だ」
 時間をかけて梯子を下りる源氏の重宝に焦れて、梯子を持って動けない和泉守兼定の声が大きくなった。
 口々に言い合う打刀の会話に、太刀らのやり取りが紛れ込んでややこしい。
 必要な分だけ言葉を選び取って、小夜左文字は心の中で指を折った。
 両手は盆を持つのに使っており、自由が利かない。ここにいる仲間を含め、名前が挙がった刀だけでもう七振りを数えており、手持ちの分だけで足りないのは確実となった。
 しかもまだ、屋根の上にいるらしい。
 ここを起点にして、四方に散らばっているのだろう。和泉守兼定の呼びかけが届いていない刀もありそうだった。
「嬉しいねえ。ありがとう」
「あ、そうだ。歌仙さんだ」
 弟刀の名前を平然と呼び違えた髭切がようやく地面に降り立ち、礼を言って湯飲みをひとつ取る。
 その後ろで大和守安定が急に言って、小夜左文字は思わずビクッとなった。
「どうした?」
 続けて甘酒を取ろうとした膝丸が、いきなり揺れた短刀に目を丸くする。
 ぎょっとしながら見つめられた少年は瞬時に大人しくなり、誤魔化すように首を振った。
 大袈裟に反応してしまったのは、その名前がこの場で出てくるなど、想像だにしていなかったからだ。
 文系を気取る打刀が、まさか雪下ろしに参戦しているなど、どうして気付けるだろう。
 そういうのは筋肉自慢の連中の仕事と言って、頼まれても滅多に参加しようとしないくせに。
 いかなる風の吹き回しか。純粋に驚いて、本当なのかと大和守安定を見た。
 目で訴えられた少年は緩慢に頷き、湯飲みを両手で抱きしめた。
 冷えて悴んだ指を温め、視線は軒へと流す。隣に並んだ加州清光も同意して、東の方を指差した。
「いたよ、歌仙。今夜も大雪じゃないかって、話してたとこ。ね?」
 彼らもまた、歌仙兼定が手伝いに来たのに驚いていた。甚だ失礼な感想を述べて、髭切に同意を求めた。
「大雪になられたら、困るねえ」
 だがのんびり屋の太刀は、てんで見当違いな返答を口にした。のほほんと笑って言って、青空が覗く上空に目を向けた。
 梯子を伝って降りてくる刀がなくなり、和泉守兼定もこちらに来た。ふたつ残っていた湯飲みの、縁が欠けている方をそうと知らずに取り、まだまだ熱いそれに口を付けた。
 これで残る甘酒は、あとひとつ。
「歌仙、いつからですか?」
「えー? どうだったかなあ。気が付いたら混じってた」
「之定なら、台所の方やってたはずだぜ。全然終わってないって、なんでか俺が怒られたんだけどよ」
「あははは」
 けれど屋根には、他にも数振りの刀が残っている。
 その数を調べたかったのに、頭から消し飛んだ。身を乗り出した小夜左文字に教えてくれたのは和泉守兼定で、その際のやり取りを思い出したのか、表情は不満げだった。
 自身を指差しながらの発言に、聞いていた加州清光が腹を抱えて笑い出す。
 情景は小夜左文字の脳裏にも鮮明に浮かび上がって、有り得る話と頷いた。
「すみません」
 短刀はなにも悪くないのだけれど、自然と謝罪の言葉が出た。
 恐縮して小さくなって、彼は最後の湯飲みを盆ごと差し出した。
「みんなの分も、取ってきます」
「すまねえな、走らせて」
「いえ」
 意を汲んだ和泉守兼定が、左手一本でそれを受け取った。両手を空にした小夜左文字は心持ち早口に言って、申し訳なさそうにする男に首を振った。
 雪下ろしの苦労に比べれば、これくらい大したことではない。むしろ手伝わせて欲しいくらいだが、短刀や脇差は、屋根に上がるのを禁じられていた。
 足場が悪いし、なによりも力が必要な仕事だ。短刀も決してひ弱ではないけれど、体格が小柄な分、一度に運べる雪の量が少ないのだ。
 時間との勝負でもあるので、身体は大きい方がいい。
 そういった事情で、小夜左文字は雪下ろしに混じれない。だから代わりに、こうやってあれこれ気を遣い、仲間を助ける努力を欠かさなかった。
「多めに、持ってきます。お代わり、出来るように」
「ありがとう。助かるよ」
 たった一杯の甘酒で、どこまで救えるかは分からない。
 しかし、ないよりはずっと良いはずだ。そう自分に言い聞かせて、彼は感謝を述べた髭切に頭を下げた。
 くるりと反転し、ぬかるんでべちゃべちゃの庭を駆けた。大勢が踏み荒らした結果、焦げ茶色に染まっている雪の上を飛び越えて、冷たい空気を吸い込んだ。
 見えない棘が肺に刺さって、痛い。
 白い息を吐き出して、小夜左文字は垂れ下がりかけた鼻水を啜った。
 勝手口から入ろうと決めて、玄関は素通りした。まだ綺麗に残っている雪に新しい道を作り、小さな足跡を幾つも刻み付けた。
「歌仙?」
 その途中で、ドサッ、と雪の塊が上から降って来るのが見えた。
 反射的に足を止めて、屋根を見た。しかし立ち位置が悪いのか、そこにいるはずの男は目に映らなかった。
 歌仙兼定ではないかもしれない。けれどほかに心当たりはない。
 違うかもしれないが、可能性は限りなく低い。
 十中八九間違いないと確信を得て、小夜左文字は寒さを堪え、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
「歌仙。あ、あの。甘酒を、用意、したので。休憩、してください」
 そうして一旦肺に留めた空気を、大声と共に吐き出した。
 握り拳を作り、踏ん張って吼えた。戦場であげる雄叫びにも負けないくらい――本丸では滅多に上げない大声で、屋根の上の男士に情報を伝えた。
 万が一相手が歌仙兼定でなくとも、休息を取るのは大事だ。身体を温めてくれる飲み物は、雪下ろしに励んでいる刀たちにとって、嬉しいご褒美であるのは確かだった。
 頬を紅潮させ、言い終えてからしばらく待った。
 脇を締めて拳を胸に押し当てた短刀の耳に、応ずる声は響かなかった。
 聞こえなかったのかもしれない。ただ雪の塊は落ちて来なくなった。
 とすればちゃんと届いたと思って良さそうだが、食い入るように見つめる先に、藤色の髪の打刀は現れなかった。
「……降りに行ったのかな」
 見えないから、上がどうなっているのか、想像するしかない。
 良い方向に期待して、小夜左文字は背後を振り返った。
 和泉守兼定たちの姿も、もう見えなかった。彼らと合流し、甘酒の到着を待っていると予想して、短刀の付喪神は力み過ぎて白くなっていた手を解いた。
「急ごう」
 あまり長く待たせるのは、まずい。
 目前に迫る勝手口の戸を開けて、彼は長船派の刀たちが集まる台所に飛び込んだ。
「――――……ああ、分かったよ」
「すまんなあ。ちょっと減っちまってるが。まあ、なんとかなるだろ」
 事情を説明すれば、燭台切光忠は早速甘酒を温め直してくれた。大般若長光は空になった自前の湯飲みを置いて、戸棚から新しい湯飲みをいくつか取り出した。
 小夜左文字は先ほどより大きな盆を用意して、たっぷり注がれた甘酒入りの茶碗を並べていった。
「重いけど、大丈夫?」
「はい。ありがとうございます」
 手早く支度を済ませ、再び屋外へと戻る。
 一度目の倍近くを載せた盆はずっしり重く、気を抜くとすぐ片側に傾いた。湯呑み同士が密着しており、互いにぶつかり合って生じる波が静まることはなかった。
 燭台切光忠には平気だと言ったけれど、足場の悪い中でこれを運ぶのはかなり大変だ。
 足取りも自然とゆっくりになって、復路は往路の倍近い時間が必要だった。
 急がなければ折角の甘酒が冷めるが、急いだ所為で転んだ結果、すべてが台無しになってもいけない。
 難しい舵取りを迫られ、自然と息が上がった。全身の筋肉を酷使し、神経をすり減らして、目的地に到達する頃には疲労感でいっぱいだった。
 あともう少し距離が長かったら、力尽きて倒れていた。それくらいに疲弊して現れた短刀を、待ち構えていた男たちは諸手を挙げて歓迎した。
 事あるごとに脱ぎたがる千子村正も、この寒空の中では流石に服を身に纏っていた。飲み物を得て凛々しい顔を綻ばせて、心底嬉しそうに湯飲みを抱きかかえた。
「huhuhu、これは温まりマス」
 特徴的な口調を崩さず、早速一口すすって満足げだ。
「嬉しいねえ。いただくよ」
 亀甲貞宗も地上に降りて来ており、赤く染まった指で大事に湯飲みを受け取った。
 加州清光と大和守安定が二杯目を求め、入れ替わりに飲み干した分を小夜左文字に託す。
 和泉守兼定と膝丸は作業に戻ったのか、姿は見当たらなかった。
「あの、歌仙は」
 そして台所の屋根に登っていたはずの男も、休憩所と化した梯子の傍になかった。
 右から左へ三度確認して、恐る恐る訊ねた。心地良い熱に相好を崩していた男たちは、首を竦めておっかなびっくりな少年に嗚呼、と小さく頷いた。
「ねえ、和泉守。歌仙さん、いるー?」
 代表して大和守安定が声を張り上げ、屋根上にいるだろう男を呼ぶ。
「いやー? どこ行っちまったんだ、之定の奴」
 返事は即座にあった。悪態をつくのが聞こえて来て、事情が分からない短刀は怪訝に仲間を見回した。
 真っ先に目が合った亀甲貞宗は肩を竦め、千子村正は我関せずの構えだ。髭切はにこにこ笑うばかりで、話が通じているか甚だ疑問だった。
 仕方なく、といった風情で、加州清光が溜め息を吐いた。爪を彩る紅が禿げてしまったのを気にしつつ、一瞬だけ頭上を窺って、困惑する少年に苦笑を浮かべた。
「いたはずなんだけど。気が付いたら、居なくなっててさ」
「そうなんですか」
 癇癪持ちの打刀が、荒々しい動きで雪かきをしているのは、複数の刀が目撃していた。
 ところが和泉守兼定が休憩を勧め、呼びに行った時にはもう、歌仙兼定はどこにも居なかった。彼が働いていた痕跡は残るものの、姿は忽然と消えていた。
「雪が積もっている場所を選べば、飛び降りられない事はないしねえ」
 屋根から落とした雪は、地上で分厚い壁を作る。それを緩衝材にすれば、危ない事に変わりはないが、梯子を使わずとも移動は可能だった。
 身軽な短刀や脇差は、いつもそうやって屋根から降りている。
 自身の過去を振り返って、小夜左文字は亀甲貞宗の弁に頷いた。
 彼が勝手口から台所に入る直前、屋根の上には確かに誰か居た。短刀が甘酒を配達してくれると知らなければ、直接台所に向かったとしても、不思議ではなかった。
 梯子がある屋敷の端を経由するより、その場から飛び降りた方が数倍早い。
 遠回りする時間を惜しみ、道を急いだ。その結果、行き違ったようだ。
 頑張って用意したのに、空振りだった。ただ幸いなことに、甘酒はまだ少量であるが、台所に残っていた。
 今頃打刀はゆっくり腰を据えて、疲れた身体を癒やしているに違いない。
 まったり寛ぐ歌仙兼定を思い浮かべ、気もそぞろに足踏みした。
「これは、僕が預かっておくよ。台所、行っておいで」
「すみません。ありがとうございます」
 それを見た大和守安定が、短刀の心を見透かして手を伸ばした。
 いてもたってもいられなくて、後のことは彼に任せた。いつもなら遠慮するところだが、今日ばかりは許してもらうことにして、来たばかりの道を取って返した。
「うあ、っとと」
 勢い余って滑りそうになったのを堪え、両手を振り回した。なんとか転倒だけは回避して、薄日が差す空の下を急いだ。
 思い返してみれば今日はまだ、歌仙兼定とひと言も口を利いていなかった。
 食事時などには顔を合わせたけれど、距離があったので会話には発展しなかった。挨拶代わりの会釈だけで済ませて、それだけだった。
 屋敷の中にいても、案外すれ違うことはない。姿は見かけるけれど、数日間声を聞いていない刀剣男士だっていた。
 それくらい本丸は広く、共に暮らす仲間は数多い。
「冷たい」
 考え事をしながら走っていたら、泥水の中に足を突っ込んだ。
 飛沫が跳ねて、顔にまで飛んできた。反射的に仰け反ったが時すでに遅く、ひんやりした感触が頬から顎へと流れていった。
 手の甲で擦って落とすが、まだ貼りついている気がしてならない。とっくに乾いているのに何度も触れて、そうしているうちに勝手口が見えてきた。
 軒から垂れ下がる氷柱が太陽の光を反射し、きらきらと輝いていた。
 雪の塊は、落ちて来ない。注意深く探ってみたが、気配は感じられなかった。
「歌仙。いるかな」
 特に話したいことがあるわけではない。だが、声が聞きたかった。正面から向き合って、元気な姿を確かめたかった。
 それ以外は望まない。頑張っている彼を労って、応援できれば、それでよかった。
 だというのに。
「……出て行った?」
 外より幾分暖かな室内に顔を出した彼は、燭台切光忠から告げられた情報に愕然となった。
「うん。ゆっくりしていくようには言ったんだけど」
 歌仙兼定はやはり、梯子を経由せずに直接地面に降りたらしい。経路は分からないけれど、勝手口ではなく廊下側から台所に姿を現した。そして料理当番から事情を聞いて、すぐさま引き返していったという。
 状況的に、小夜左文字を追いかけていったと思って良いだろう。だが生憎と、その短刀は打刀が去ったばかりの台所に戻っていた。
 またしてもすれ違いだ。少しくらいじっとしていれば良いものを、どうしてこう、気忙しいのだろう。
 自分のことは棚に上げて、小柄な短刀はジタバタと地団太を踏んだ。もどかしさに唇を噛んで、遣る瀬無さに肩を落とした。
「見掛けたら、伝えておこうか?」
「……いえ。多分、まだその辺にいると思いますので」
 さすがに休みなしで三往復するのは、辛い。大般若長光の提案に頷きそうになって、小夜左文字は直前で思い止まった。
 歌仙兼定だって疲れているだろうに、あちこち探し回ってくれている。顔くらいは見ておきたい気持ちは、簡単には拭いきれなかった。
 きっと彼は屋根から降りた後、玄関に向かい、そこから屋敷に入ったのだ。
 同じ場所を目指しておきながら、別経路を選択したために、こんなことになった。
 だが幸いにも、打刀が次に向かう場所は見当がついている。
 今度こそ掴まえられる。確信を持って頷いて、小柄な少年は挫けそうな心を奮い立たせた。
「色々、ありがとうございます」
 深々と頭を下げて礼を言い、踵を返した。三度目の正直と勝手口から外に出て、吹いて来た突風にぶるっと身を竦ませた。
 ざああ、と積もった雪の表面が削られ、白い煙が西から東へと流れていく。
 そんな一瞬の雪煙にじっと耐えて、彼は静かすぎる空間に見入った。
 動くものはなかった。鳥の囀りさえ聞こえない。いつも我が城のように庭先を闊歩している鶏も、今日ばかりは飼育小屋に閉じこもって丸くなっていた。
「かせん」
 少し前まであまり意識しなかったのに、今日はひと言も言葉を交わしていないと気付いた途端、急に恋しくなった。
 飽きるくらい、顔を合わせているのに。
 積もる話がなくなるくらい、夜通し語り合ったことだってあるのに。
 たった一日で、こんなにも胸が締め付けられるように痛い。
「歌仙」
 二往復した成果で、勝手口から続く道は立派なものになっていた。
 その中を大股に、少し急ぎ気味に歩く。膝ほどの高さがある雪に無数の足跡を刻み付けて、純白の景色を次々に汚していく。
 出来上がった黒い道は、彼の辿って来た境遇そのものだ。
 ふと振り返り、小夜左文字は蛇行する轍に目を眇めた。
「歌仙は、綺麗だから。僕が汚してはいけないって、分かってるけど」
 血腥い逸話を有しながら、歌仙兼定は美しい。たとえるなら大輪の花であり、穢れを知らない白銀の雪原そのものだ。
 どうしてこれを、黒く穢してしまえよう。
 近付いてはいけない。だが魅せられた。彼と語らい、共に在ることで、暗く沈んだ小夜左文字の景色は色鮮やかなものへと生まれ変わった。
「僕は、……歌仙」
 ずっと素通りして来た玄関が、目前に迫っていた。戸は閉まっており、誰かが出入りした形跡は窺えなかった。
 意気込んで台所を出たのに、ここに来て躊躇した。
 顔を見たかったはずなのに、気後れして、腰が引けた。作業の邪魔をしては悪いと、変な遠慮が生じて、どんどん大きく膨らんだ。
 会いたいのに、会ってはいけないという想いに縛られた。復讐に固執する、呪われた短刀が傍に居ては、本丸最古参として皆を率いている歌仙兼定の障害になると、そんな考えに囚われた。
 疲労もあって、足が止まった。全身が凍てつき、氷の柱と化した気分だった。
 このまま立ち尽くしていたら、いずれは雪に埋もれて、真っ白になれるのではないか。
 馬鹿な妄想が湧き起こり、賭けてみたくなった。
「お小夜」
「……はい」
 けれど、雪は降らなかった。
 代わりに降ってきた声におずおず顔を上げて、小夜左文字は泥混じりの雪を踏む男に頭を垂れた。
 玄関を開けっ放しにして、歌仙兼定がこちらにやってくる。後で怒られるのは確実なのに、まるで気にする様子がなかった。
 小走りに駆け寄って、まるで雪にはしゃぐ子犬だ。爛々と目を輝かせて、頬ば緩みっぱなしだった。
 短い距離をあっという間に詰めて、肩を数回上下させた。上気する頬を擦り、真っ白い息を大量に吐き出して、弾む鼓動を静めているのか、左胸に手を添えた。
「良かった。会えたね」
「はい」
 満面の笑みを浮かべ、心からの感想を述べる。
 そこに嘘偽りがないのを肌で感じ取って、小夜左文字は自然と頬を緩めた。
 直前まであった逡巡が、ぱらぱらと砕けて消えていくのが分かる。核の部分は残っているものの、居心地が悪くなったのか、奥深い場所に逃げて行った。
 彼を穢したくはない。だが、彼が望んでくれるのなら、傍にいても許されるのではないか。
 図々しい考えがむくりと首を擡げた。打刀の優しさに甘えているという自覚はあるけれど、誰かに必要とされる、という状況を捨てきれなかった。
「雪下ろし、お疲れ様、です」
 わだかまっていた様々な感情を捻じ伏せて、囁く。
 小声を拾った男は嬉しそうに頷いて、得意になって胸を張った。
「まあね。僕にかかれば、これくらい、どうということはないさ」
 偉そうに言って背筋を伸ばし、間を置いてちらりと短刀を窺い見た。
 いかにも褒めて欲しそうな態度を嗅ぎ取って、小夜左文字は相変わらずの男に肩を竦めた。
「はい。とても、……立派です」
「だろう。だろう?」
 畑仕事も馬当番も嫌がるくせに、今日は珍しくやる気を出した。自発的な行動を賞賛してやれば、歌仙兼定は調子に乗り、誇らしげに胸を叩いた。
 身に着けた防寒具の裾は汚れ、袖口も濡れて、色が変わっていた。動いている最中に解けるのが嫌だったのか、首に巻いた襟巻きは背中側で結ばれていた。
 長い指は先端だけが赤く、他は白い。氷のように冷えているのは、傍目からもすぐに分かった。
「歌仙、すみません。甘酒は、置いて来てしまいました」
 早く彼にも、温かな飲み物を供してやりたかった。しかし肝心の甘酒は大和守安定に託し、手元になかった。
 沢山用意して持って行ったので、まだ残っていると信じたい。それとも台所に戻って、僅かに残っている分を飲み干してしまうのも悪くなかった。
 距離的には、どちらを選んでもそう変わらない。
 胸の前で指を擦り合わせた短刀の言葉に、歌仙兼定は目を眇め、考え込むかのように顎を撫でた。
 人差し指の背で輪郭をなぞり、視線を一旦宙に投げた。
「そうだねえ」
 相槌を打ちはしたものの、ぼんやりしており、心此処に在らずの雰囲気だ。
 よそ見されて、視線が交錯しない。一時は落ち着いていた不安がまたむくむく膨らんで、足元から短刀を飲みこもうと蠢いた。
「いや、いいさ」
 それを薙ぎ払い、打刀が軽やかに言った。狙っていたわけではなかろうが、小夜左文字を覆う暗雲を忽ち消し去って、春の木洩れ日を思わせる笑顔を浮かべた。
 そして汚れるのも構わず、その場で膝を折った。軽く屈み、目線の高さを短刀に合わせると、スッと伸ばした右手で小振りの顎を掬い取った。
 全ての動作が繋がって、滑らかだった。悩んでみせたのも演技では、と思わせる澱みのない仕草で、呆気に取られる少年の眼差しを奪った。
 至近距離からじっと見つめて、逸らすのを許さなかった。
「か……――んっ」
 瞬きさえさせてもらえないまま凍り付いていた短刀は、直後。
 唇を襲った微熱に竦み上がり、五右衛門風呂にでも放り込まれたかのように真っ赤になった。
 一瞬で茹で上がり、頭の先から煙を噴いた。
「ふふ」
「な、あ……ああ!」
 その過剰なまでの反応を笑い、歌仙兼定がしてやったりと微笑む。
 余裕綽々の態度に愕然として、小夜左文字は握り拳を唇に押し当てた。
 擦りたいのに、動けない。
「これで、充分温まったからね」
 絶句している短刀を見下ろし、打刀が姿勢を正した。悠然と微笑み、小首を傾げ、悪戯っぽく言って目を細めた。
 この場合、温まったのは小夜左文字の方ではなかろうか。
 不意打ちに等しい口吸いに、良いように踊らされた。
 時間が経っても赤みが消えない頬を唇の代わりに強く擦って、短刀は恨めし気に歌仙兼定を睨みつけた。

2018/02/10 脱稿

たゆみつつ橇の早尾も付けなくに 積りにけりな越の白雪
山家集 529