Draw

 静かに。
 息を殺して、その僅かな距離に細心の注意を払い、脚を進める。
 少しでも床との摩擦で音が響いてしまわぬように、身に纏う布地が擦れ合って乾いた音を立てぬように。
 口腔に溜まる唾を呑み込む音さえも妨げになってしまわぬように、ただ一度きり舌の上に残る空気を喉の奥へ押し込む以外には喉仏も動かさず。
 ただ、ひたすらに静かに。
 距離を詰める。
 姿を消してしまう事は容易いけれど、それ以上に自分自身の存在を掻き消す事は難しく。どうせ見破られるのであれば最初から彼の眼にきちんと見えるままで居たいからと、そんな言い訳をして。
 近付く。
 ひっそりと、静まりかえったリビング。壁際のチェストの上で、演奏を終えてなお空回りを続けているレコード盤が虚しく針を踊らせている。僅かに開かれた窓から差し込む風は穏やかで、カーテンの裾をゆらゆらと揺らめかせているだけに過ぎない。
 気配を断ち、息を潜め、けれどお得意の雲隠れだけは絶対にしないと心に誓ったまま。
 ひとり掛けにしては幅広なソファに座る彼の許へ、一歩ずつ歩み寄っていく。
 ふわりと鼻先を掠めたのは、彼が愛用している香水だろう。強い匂いを嫌う彼に、いつだったかこれくらいなら平気ではないかと選び、自分が贈った品だ。それはもう随分と昔の記憶で、だから自分が買い与えた最初の瓶の中身が今も残っているとは考えづらいから、きっと彼が自分で買い足して使ってくれているのだろう。
 自分が彼に相応しいと思い選んだものを、彼が気に入ってくれているのだと思うと少しだけ、心が軽くなる。
 そのままそっと、息を止めて彼の顔を覗き込んでみた。
 薄い瞼を閉ざし、特徴的な美しいルビーの双眸を見つめることは叶わない。整った鼻筋と、形の良い唇が時折くすぐったそうに動くのは、きっと浅い夢の中での世界を楽しんでいるからだろう。ゆっくりと利き腕を持ち上げ、気取られぬように心配りながら彼の額に流れる銀色の髪を脇に流してやった。
 毛先が触れた肌がむず痒かったのか、その瞬間にだけ彼は眉根を顰めたけれど目覚める様子は感じられない。
「ユーリ……」
 寝ているの?
 口の中でその名前を刻んで、問いかけは一度吐きだした息と一緒にまた呑み込む。
 黒い革張りのソファでゆったりとくつろぎ、腰深く座って肘置きに両手を垂らしている。楽な姿勢を求めた結果なのか、若干右側に傾いだ首が肩口に凭れ掛かるようにして沈んでいて、その分左から零れる艶やかな銀糸は彼の瞼まで覆い被さろうとしていた。
 あまりにも無防備な姿に、息が詰まる。
 不用意に触れれば壊れてしまいそうな繊細さを漂わせながらも、触れる事さえ許さない傲慢なまでの神々しさを併せ持って、彼は其処に居る。
 警戒するもののない世界で、偉そうにふんぞり返りながら高みからあらゆるものを見下ろして。
 見下して。
 ユーリ、と。
 名を囁く事さえ酷く恐ろしく思えて、息を呑み声を押し殺す。吐いた息が彼に掛かる事さえ懼れ、近づけていたその身を静かに引き戻した。
 彼はまだ眠っている。安らかに、或いは永久の眠りとも言い換えられそうなくらいに静かに、穏やかに眠りの世界を楽しんでいる。
 疲れているのだろうか。そういえばアルバムに収める予定の曲の完成が遅れ気味だと、アッシュがごねていた事を思い出す。アレンジは全部ユーリに任せてしまっていたから、その責任も相まって彼から眠りを奪っているのかもしれない。
 光さす世界で生きる事は本来の彼という種の道筋から外れる事であり、故に色々な弊害も当然ながら生じてくる。眠りを妨げられれば、彼は不機嫌になり能率も効率も著しく低下する。眠りの感覚が短くなり、時間は反比例で長くなる。
 そこを無理を通して活動しようとするから、益々彼の不機嫌度は増して行く。悪循環だ。
 いっそ辞めてしまえと言いたい時もあるのに、口に出してはいけない台詞の筆頭格に置かれていることばは呑み込むしかない。ユーリの行き方は彼だけのものだから、彼がやりたいようにさせてやるのが、自分の役目なのだ。
 彼が動きやすいように、やりやすいように手を回し時には後ろから支え、雑草だらけの道を切り開くのが自分で決めた、自分の役目。
 そうやってユーリの側にいると決めた。
 決めた、けれど。
 けれど……
 ソファが見える位置。テーブルの角にゆっくりと腰を落とす。滑らかなテーブルの表面に背を滑らせて膝を折り、柔らかなクッションの絨毯に身を半分沈めてみた。
 ゆるゆると時間は流れていく。窓から出入りを繰り返す風に煽られたカーテンが凹み、また膨らんで裾を軽い調子で乱している。
 折り曲げた膝を両手で抱きかかえ、その間に顎を押し込んでみる。固く肘を掴みあった両手に額を預け、暫く俯いてから顔を持ち上げて。
 目の前に眠るユーリが見える。ソファの上で、頬杖を付く格好から少し崩れたポーズで眠っている。
 穏やかに、幸せそうに。
 ねえ、ユーリ。聞いても良いかな。
 返事が無いことを知っているから、心の中でだけで問いかける。見つめる彼の表情は楽しそうで、幸せな夢を見ているのだろうと感じられた。
 ふっと微笑む。例え目覚めている時、彼からそんな表情を向けられる事は一度として無いとしても、見つめていられるので在れば幸せだった。
 自分は、それでも良かった。
 でも、君は?
 ユーリ、君はぼくと居る事をどう思っている?
 邪魔? 鬱陶しい? 
 楽しい? 嬉しい? 
「ユーリ」
 答えが返ってくる事はないと分かっているからこそ、問える事もある。彼が聞いていないからこそ、尋ねられる事もある。
 ねえ、ユーリ。教えて。
 ぼくは、このまま君の側に居ても良いのかな?
 ぼくは君の役に立てている? 君の為になにか出来ている? 君の側に居る為の資格を手に入れられている?
 君はこのまま、ぼくが君の隣に居続ける事を許してくれる?
 君が哀しいと思っているとき、ぼくは君の背中をそっと撫でて、大丈夫だからとしか言えなかった。
 君が辛いと感じているとき、ぼくは君の後ろに立って静かに言葉無く見守っている事しか出来なかった。
 君が涙を流すとき、ぼくは戯けた調子で泣きたい気持ちを殺しながら君を笑わせる、ただそれだけの為に嘘を演じ続けた。
 それでも。
 ぼくに出来ることは、君の側に居続けることだけだったから。
 ねえ、ユーリ。教えて。
 ぼくは君の側に居たい。
 ここに居ても良いですか。
 ぼくの声は聞こえますか、貴方に届きますか。
 貴方のために出来ることを、ぼくはちゃんと出来ていますか。
 教えて、ユーリ。
 ぼくは……

 呼ばれたような気が、した。
 薄く瞼を開く。夢を見ていたはずなのに、その感覚はあるのについ今し方まで見ていた夢の中身を思い出せないまま、身動いで頭を振った。
 ぼんやりと朧気な視界が徐々に明るさを取り戻し、輪郭をはっきりと浮き立たせ始める。視界を巡らせ、時計を探しながら自分の中で残っている一番新しい、時刻を確かめた記憶を呼び起こした。
 朝食後、気分転換をしようとソファに腰掛けてレコードを聴きく事にした。風通しを良くしようと窓を開けたのも記憶にある。ただ途中から、その出来事はぷっつりと糸を途切れさせて見失ってしまっていた。時計を見たのはその直前、確か仕掛け時計の郭公がしつこく十度も鳴いてから、それっきり。
 世界は暗転して、十一度も郭公が鳴こうとしている時間が今、目の前に転がっている。
 ユーリは自分が寝入ってしまっていただろう時間を大まかに計算し、まだどこかぼんやりとしている頭に片手を添えた。こめかみを人差し指で軽く押す。半分近くソファに沈んでしまっていた背中を起こして座り直して、漸く、足許向こうに蹲っている塊に気付く。
 なにをしている、とは問わなかった。
 鮮やかな血の色に似た丹朱の隻眼がじっと、瞬きをすることさえ忘れて自分を見つめている。
 ああ、確か目覚める直前に彼の声を聞いた気がする。
 随分と真摯で、そのくせ哀しそうな声だった。
「……呼んだか」
 もとより浅い眠りだった。声をかけられれば簡単に目覚められる深さしか潜っていなかったはずだ。だからてっきり、ユーリは彼が自分を呼んで起こさせたものと錯覚した。
 だのに彼は、静かに首を振った。距離を取ったまま床に敷かれたカーペットに腰を沈め、口を閉ざして貝のように。
 黙っている。
「呼んだだろう?」
 声が聞こえた。頑なに否定を続ける彼に再度問いかける。
「呼んでない」
 やっと口を開いたかと思うと、態度で示していた否定を更に言い直しただけの事しか言わない。可愛くない、と思った矢先で彼は言葉を続けた。
「だって、呼んだらユーリは起きる」
 起こしたくなかったから、折角眠っている君を起こすことなんかしたくなかったから、呼んでいない。声に出して呼んだりしていないと。
 繰り返す彼にユーリはもう一度背中をソファに預け直し、溜息を零した。
「それで?」
 だからお前は、そんな場所に蹲って私が目覚めるまでじっと待っていたというのか。一時間近くも、貝のように押し黙って気配まで殺し、自分自身を消してしまいかねない程に小さくなって。
 詰問するような声に彼は黙って頷く。ユーリからまた溜息が落ちた。
「馬鹿者が」
「うん」
「本当に呼んでいないのか?」
「うん」
「聞こえていたぞ」
「……うん」
「呼んでいたな」
「うん」
 ずっと。
 心の中で。
 声にならない声で叫び続けている。
「馬鹿者が」
「うん」
 郭公時計が十一回のうちの一度目の鳴き声を放つ。
「聞かないのか?」
「うん」
 どんな声が聞こえたのか、どんな風に聞こえたのか。そして、その問いかけに対するユーリの答えを。
「そうか」
「うん」
 答えは、本当は分かっている。
 だから分からないままで構わない。このままで居られるのなら、答えなんて要らない。
 ねえ、ユーリ。聞かせて。
 ねえ、ユーリ。言わないで。
「馬鹿者が」
「そ……だね」
 薄く微笑む。
 ねえ、ユーリ。
 ぼくは君のために、生きるから。
 その為だけに生きるから。

 それがぼくの、唯一の。

 君のために、できること。

Chirr

 りぃぃん、と。
 鈴の音色にしては若干異なる、けれど最も表現するのなら鈴が一番近いだろう音が聞こえた。
 ユーリはコーヒーカップに伸ばしていた手を止め、真っ白い陶器のカップから沸き上がる湯気の向こう側を見つめた。瞳だけを左右に揺らし、音の発生源を探す。
 けれど見渡せる限りの範囲内にはそれらしきものを見出せず、仕方なく中途半端に持ったままだったカップを口に寄せ、まだ熱いコーヒーをひとくち含んだ。
 夏も終わって、徐々に涼しくなろうとしている。季節外れだからと、軒下に吊されて真夏の間ずっと風に揺られていた風鈴は取り外されてしまった。僅か三ヶ月と満たない期間だけ其処にあっただけなのに、見慣れてしまった風鈴が見当たらないとどこか寂しさに似た感情を覚えてしまう。
 あれはちょうど、今ユーリが持っているカップの形を模した造形をしていた。底の抜けたコーヒーカップがちりんちりん、と乾いた甲高い音を立てる様はどうも滑稽だったのだが、音色自体は悪くなかったのでユーリは気に入っていた。
 どこに片付けられてしまったかは知らないが、来年もあの場所にまた吊されるのだろうか。専用に取り付けられた金具が錆びてしまう前に、次の夏は巡ってくるのだろうか。
 思いを飛ばしながらふたくち目のコーヒーを口に運ぶ。舌先に乗るほろ苦さが熱さに混じり、独特の風味が鼻腔に抜けていった。
 ほぅ、と息を吐き両手でカップを持つ。
 鈴のような音色がまた、響いた。
 左から聞こえてくるようで、左に目を向ければ今度は右から聞こえてくるような気がする。まったく発生源を掴めないその音に、眉根を寄せて立ち上がろうかと一瞬考えてしまったユーリの背後で、アッシュがおや、という顔をして足を止めた。
 彼の手にはユーリ用に、と用意した彼の新作ケーキが乗った盆が。フルーツをふんだんに使ったそれは見た目カラフルで、表面にスプレーされた赤いチョコレートが色鮮やかに天井のライトを浴びて輝いている。
 甘そうだ、と見た瞬間に今度こそ顔を顰めさせたユーリに構わず、アッシュは気を取り直してからリビングのテーブルにケーキの皿を置いた。焦げ茶色の丸盆を胸に抱き、どうぞと言わんばかりに彼の前に立つ。
 レースのように波打った縁取りの小皿に載せられたケーキは、小さいがボリュームが在りそうだった。
 添えられた銀色のスプーンを握ったものの、どこから手を着けて良いものか悩み、ユーリはやや丸みがかった山なりのケーキにトッピングされた切り身のグレープフルーツを小突いた。
「今回のは自信あるっスよ!」
 胸を張って言ったアッシュが、早く食べてみてくれと期待に満ちた目を輝かせてユーリを見つめる。この城で甘いものを食べられるのがアッシュ以外ではユーリしか居ないから、味見役を任されるのは仕方がない事かもしれなかったのだが。
 ユーリだって、甘いものが得意というわけではないのだ。食べられない事はない、その程度。
 溜息を吐く。目の前のケーキは確かに旨そうではある、が、ここ数日甘いケーキばかりをデザートに出されてはいい加減飽きる。
 アッシュの新作が真っ先に楽しめるのは喜ばしいことなのだろうけれど、どうも実験動物にされている感がしてならなかった。芸術品並みの完成度で彩られた表面のチョコレートを突き崩すと、中はグレープフルーツのムースがぷるぷると震えながら現れた。
 鈴の音色が聞こえる。ユーリが苦々しい思いでやや酸味の利いたムースを口に運んで居る間に、アッシュが何かに気付いたらしく背後を気にして振り返った。
「…………」
 ああ、だがこの味はしつこくなくて悪くないかも知れない。そんな感想をユーリが思い浮かべながら、口からスプーンを引き抜く。
 アッシュがユーリの向こう側を見て、あ、と呟いた。
「アッシュ君!」
 彼が何かを言う前に、広いリビングにスマイルの声が響く。
 ふたくち目に取りかかろうかとしていたユーリの手が止まった。いい加減冷め加減のコーヒーカップからは、もう湯気も立たない。
 りぃぃん、という音色がした。今度ははっきりと、ユーリの後方から。
「どうしたんスか?」
「キュウリ、ある?」
「は?」
 透明なプラスチックケースに、薄緑色の蓋をした籠を持ったスマイルがぱたぱたと小走りにふたりへ駆け寄って、そう問う。けれど話の脈絡がさっぱり分からないでいるアッシュの間の抜けた声に、生温いコーヒーを喉に押し込んだユーリが漸く背後を向いた。
 後生大事にスマイルが抱きかかえているケースの三分の一ほどは、土が敷き詰められているようだった。それ以外にも古木の切れ端らしきものが横たわっているのが見える。だけれど、それが一体何であるのか、ユーリにもアッシュにもまだ分からない。
 鈴の声がまた響く、さっきよりもずっと近い場所から。
 アッシュはスマイルが抱きしめているケースを改めて見つめ直した。えへへ、と言う風に彼が笑う。
「キュウリ……茄子でも良いんだけど。あと竹串かな」
「スマイル、それは?」
 さっきからりぃん、りぃぃん、というか細く高い声を奏でているものは、どうやらスマイルが抱きしめるそれから響いているらしいとアッシュが結論付ける。指をさして問い返すと、彼はああ、と頷いて籠の蓋についている取っ手を握り顔の前にかかげた。
 ぴたりとそれまで響いていた音色が止まる。中を覗き込んだアッシュは、そこに来てやっと納得顔で一度頷いた。
「キュウリで良いッスか?」
「充分」
 冷蔵庫の野菜室に残っている食材を順番に思い浮かべながら、アッシュは改めて聞き返してから踵を返した。ふたりの会話に混じれなくて、ユーリは面白く無さそうな顔をしてケーキに飾られていたフランボワーズをスプーンの背で押しつぶす。
 ふてくされた背中が丸まっている事を笑い、スマイルがユーリの、テーブルを挟んで向かい側のソファに腰を下ろした。ケーキの皿からは距離を置いて、抱えてきたケースを天板に載せる。
 いかにも安物だと分かる大量生産品のケースに入れられているものは、話の感じからして生き物なのだろう。すっぽりとスマイルが抱き込めるサイズからして、それは昆虫の類か。
 りぃぃん……
 ケースから微かに、またあの鈴に似た音色が響く。
「食べないの?」
 手が止まったままでいるユーリを見つめ、スマイルが小首を傾げた。
「貴様が変わりに食べるか?」
 ムースをスプーンで掬い上げて彼の方へ差し出すと、途端スマイルは苦々しい笑顔を作って激しく首を横に振った。分かり切っていたその反応に冷たい視線を返し、ユーリはムスッとした顔のままスプーンを口に突き立てる。
 程なくしてアッシュが、三センチ程の幅で輪切りにしたキュウリを持ってきた。ご丁寧に、一本ずつ串刺しにしたものを、合計でみっつ。
「これで良いッスか?」
「ありがと」
 機嫌良さそうにアッシュから串に刺さったキュウリを受け取り、彼はそれを一旦テーブルに横たえさせてからケースの蓋を外しに掛かった。
 またユーリの手が止まる。噛み潰した野いちごの酸味が舌いっぱいに広がり、ほろ苦い顔をして唇をへの字に曲げた。
 スマイルは慎重に蓋を取ると中の柔らかい土に串を刺していった。
「でもどうしたんスか、それ」
 彼の手付きを見守っていたアッシュが、腰を屈めてケースの中を覗き込みながら問う。残り僅かになったケーキをつまみながら、相変わらず会話に混じれないユーリがそれを不機嫌な顔で聞いている。
 スマイルが笑った。
「ん~……貰った。買い物したら、おまけだってさ」
 雄と雌、一匹ずつ。そう言って薄緑色をした蓋を小突いたスマイルの動きに反応したのか、震えるような音色が小さく響く。
「でも、もうそんな季節なんスね」
「まだ暑い日も多いからね~、仕方ないよ」
 けれど暦はもう秋で、これから少しずつ空気も温み凛と張るようになっていくのだろう。水は冷たくなり、風も乾いていく。
 ユーリを置き去りにふたりだけでどんどん会話を進めていくふたりを睨みながら、荒々しい態度で彼は最後のケーキを口に入れた。乱暴に奥歯で噛み潰し、ロクに味を楽しむこともせずに呑み込んでしまう。ガシャン、とスプーンを空になった皿に戻したところで、音に気付いたスマイルにやっと視線を向けてもらえた。
「ユーリ?」
 何を怒っているのだろう、と不思議そうに彼はユーリを見つめ返す。けれどユーリは答えず、黙ったまま落ち着きなく中身のないコーヒーカップを弄りながら彼を睨み続けた。
 そうすること、約二十秒。もっと短かったかも知れないが、もう少し長かったかも知れない。時間の感覚が微妙になっている事に苦笑し、スマイルが先に根負けして肩を竦めた。
「鈴虫」
 これ、と透明のプラスチックケースを指さして。
 りぃん、りぃぃん……
 まるで応えるかのように黒い小さな虫が鳴いた。二匹のはずなのに、鳴き声は片方だけ。
 アッシュがケーキ皿とコーヒーカップを片付け始める。ユーリは殆ど構うことなく、自分の前から消えていく食器に一瞥を加えただけで口出しはしなかった。だが、台所へ戻ろうとするアッシュにひとこと、コーヒー、と告げる事は忘れない。
 ぼくも、と便乗してスマイルも手を上げた。アッシュがはいはい、と苦笑って小さく頷いた。その間もずっと、鈴虫は音色を奏で続けている。
 良く聞けば人の手が作り出した風鈴とは、まるで音が違う。
「珍しい?」
 興味深そうにケースの中を覗いているユーリに、スマイルが尋ねる。
「一匹しか鳴いていないぞ?」
「ああ、うん。それは仕方ないよ」
 無料で配られているものだから、不良品を掴まされたのではないかと言うユーリに、スマイルは些か困ったような顔をして頬を掻いた。どうやら自分の説明が足りなくて、誤解を招いてしまったらしい。そうじゃなくて、と前置きし彼は先程土に刺した串のキュウリにいつの間にか乗っていた一匹を指さした。
「鳴くのは雄だけなんだよ」
 鈴虫が鳴くのは、求愛行動だ。雌へ居場所を知らせようと、他の雄よりもより大きな音を響かせようとするから、秋の夜長によく言う鈴虫の合唱が起こる。
 これは一応、卵で来年にも遺せるようにとつがいで配られていたのだと説明している傍から、雄の鈴虫がまた鳴き始めた。鳴いては休み、休んではまた鳴くの繰り返しだが、雌はキュウリに夢中のようでなかなか振り向いてもらえないでいる。
 その素っ気ない態度に何を思い浮かべたのか、スマイルが口端を歪めさせながら鼻の頭を引っ掻く。見ていたユーリが怪訝な顔をするが、敢えて口には出さずに置いた。
「振り返ってやれよ~?」
 こつん、と衝撃が行かぬ程度に優しくケースをつついてスマイルが呟く。雌は相変わらず、雄の求愛行動には無関心を貫いているようだった。
「素っ気ないな、卵は期待するだけ無駄じゃないのか?」
 そもそも、来年まで卵を無事に残しておけるかどうかさえ随分と怪しいものだ。視線を向けると、困ったようにスマイルは笑い、そのうち庭に放すよ、とだけ答える。
「私の城を虫の巣にするつもりか」
「まさか。害虫じゃないんだし、良いじゃない」
「喧しいだろう」
 大量に発生してくれて、その分音が大きくなったら。それに鈴虫が本領発揮で鳴くのは夜になってからだ。
「つれないねぇ……」
 秋の夜長の情緒じゃないか、と口を尖らせて言うスマイルに、ユーリが睨みを利かせる。相変わらず、鈴虫の雌も雄に振り向きもしない。
 りぃん、りぃん、りぃぃ……
 雄はそれでも、懸命に羽根同士を擦り合わせて甲高い音を生み出している。まるでそれが義務であるかのように、そうする事で導かれる結末が、自信の運命だと位置づけているかのように。
 それは、鳴き続ける。じりじりと後退するように動き、雌へと近付いて。
 やがて雌は、雄の求愛行動に応じて卵を地面に産みつけるだろう。無数の、白く細長い小さな卵を。
 だが今は、振り向いてもらえない相手へ懸命にアプローチを繰り返す哀れな雄の鳴き声を楽しんでおこう。風鈴の季節は去ったけれど、涼しげな音色を奏でるものは新たに訪れたのだから。
「玄関に置いておくね」
 いつまでもここに置いてもおけないから、と虫かごのケースを抱え直しスマイルはソファを立ち上がった。追いすがるように視線を上げたユーリに、置いてくるだけだから、と彼は台所から新しいコーヒーを注いだカップを盆に乗せて戻ってくるアッシュを顎で示す。
 くるりと踵を返し、スマイルは玄関へと向かって歩き出した。背中に、視線を感じる。
 求めれば、拒絶して無視を貫く。追い掛ければ逃げる、でも自分から逃げ出したら物言いた気な視線だけを投げつけて、泣きそうな顔をする。
 我が侭で、横暴で、自分勝手で。
 玄関の静かで暗い一画にケースを置き、彼はそっと蓋を撫でた。空気穴が細かく開けられたケージで、漸く落ち着けたらしい鈴虫がまた細く鳴き始める。
 この求愛行動はいつか報われるのだろうか。その結末を知っていても、彼は雌を求め続けるのだろうか。
 皮肉を笑って、スマイルは肘をつき床にしゃがみ込んだまま今暫く、鈴虫の音色に聴き入る事に決めた。
 秋、それが終わる手前。
 力尽きた鈴虫の雄は産卵前の栄養補充として、雌に食われる。
 相手を食らい尽くしたい程に好かれるのであれば、それもまた本望だろうか。
 不意にそんな事を考えて、コーヒーが冷めるという声に呼ばれるまで彼はずっと、鈴虫の前を動けなかった。

StarDust

 昼に出かけていたスマイルが、帰宅していた事を知ったのはもう太陽が大分西に傾き、地平線の寝床に帰ろうとしている時間帯だった。
 昼間の暑さはまだ地表に多く留まり、立ち止まっているだけでもじっとりとした汗が肌を伝い落ちていく。そんな中彼は、陽射しも途切れていない夕暮れ空の下、庭の中でおおよそこの古めかしくおどろおどろしい外装をしている城には似つかわしくないものと向き合っていた。
 一体何処から手に入れてきたのか、それさえも甚だ疑問で怪しい、緑色も濃い笹。
 熱中に置かれているせいか、少々枝振りの先端に元気が感じられないがなかなかに立派で、大きい。根本で作業している彼の身長よりも随分と高い位置にある頂が、彼の動きに付随してわさわさと揺れている。
 何をしているのか、その場所からは見えなくてユーリは興味惹かれるままに窓辺へと近付いた。半開きになって風を入れている窓を更に開け、一段低い高さになる庭を見下ろす。
 緑の笹に、色とりどりの装飾品が吊り下げられていた。
「スマイル?」
「ん~?」
 名を呼ぶと、動かしていた手をそのままの格好で止め首の上からだけを振り返らせた彼が不思議そうな顔をして首を傾げる。
「なにをしているのだ?」
 窓辺に佇んだまま問いかけるユーリに、スマイルは持ち上げたままだった手を下ろし、ついでに膝を折って足許の紙袋に詰め込まれているもののひとつを摘み上げた。だらん、と彼の指先からぶら下がり落ちたのは、紙に交互の切れ目を入れた簡単な飾り物だった。
 彼はユーリの問いかけには答えず、先に摘んだ飾りを笹に吊すことにしたらしい。振り返らせていた首から上を元の位置に戻し、目線よりも若干高い位置に結びつける。笹の葉が、重みで僅かに沈んだ。
「見て分かんない?」
 ユーリへ背を向けたまま、彼が言葉を紡ぐ。その間も彼は休み無く動いていて、どこか邪険に扱われているような感覚を覚えたユーリは少しムッとした表情を作った。無意識に胸の前で腕を組み、芝に両足首までを埋めている彼を見つめ返す。
 見た限り、それ以外のものとは思えない。紛れもなくそれは七夕でよく各家庭が庭先に飾ったり、商店街などが大きめのものを企画で用意したりする、あの笹の葉飾りだ。
 しかしユーリが覚えている限りでは、その年中行事は先月に終わったはずだった。確認で背後を振り返り、壁に吊り下げられたカレンダーを確認するけれど、今日は間違いようもなく八月だ。人間たちの言う暦、での。
「その行事は、もう終わったのではないのか」
 何故一ヶ月も前の行事を今やろうとしているのだろう、この男は。熱さの所為で頭が沸いたのだろうか。
 ある意味相手にとても失礼な事を頭の中で考えつつ、ユーリは結んでいた腕を解き窓枠に片手を置いた。スマイルは構わず、飾り付けを続けている。
 くす玉のような赤色を中心とした派手な珠飾りを上の方からぶら下げ、ようやく人心地ついたらしい彼は両手を腰に宛てると満足げに笹を見上げた。片方だけの視界で全体像を眺め、一度深く頷く。
「スマイル」
 答えを得られないまま放置されたユーリが、やや苛立った声を上げた。くるりと振り返ったスマイルが、何を怒っているのかと首を傾げる。
「今日も七夕だよ?」
 年に一度、だけれども。その年に一度の7月7日は旧暦での七夕なのだ。そして暦が太陰暦から太陽暦に移行されるときも、七夕の日付だけが何故か旧暦のまま移動せず、太陽暦でもその日付が採用されてしまった。
 だから本来、七夕は旧暦の7月7日に行われるべきなのである。その季節、この狭い島国は梅雨時で雨雲が空一面を覆っている事が多い。そんな季節に、暦通りの7月7日で七夕を祝っても星が見えない事の方が多いから、今でも月遅れで祝う場所もある。
 広い意味で、新暦・旧暦のどちらでも七夕なのだ。
「……ありがたみが薄れる話だな」
 ひととおりの説明を受けたあとの、ユーリの感想は至極簡単で、淡泊だった。熱心に蘊蓄を語ったスマイルが苦笑を漏らし、ゆっくりと沈んでいく太陽に視線を流す。
 昼間、暑いばかりの光を放っていた太陽が朱色に染まった空の海に沈んでいく。
「そうかもしれないケドね」
 肩を竦めたスマイルが、視線をユーリへ戻してから生温い風に煽られる笹飾りへとそのまま目線を流した。
「でも、さ」
 雲ばかりの夜空を見上げているよりは、満天の星空を見上げながら七夕を祝う方が楽しくない?
 隻眼を細めて最後に再びユーリを見上げた彼が笑い、つられるようにしてユーリも険のあった表情を崩した。確かに彼の言うことにも一利あるし、退屈な蒸し暑い夜を過ごすよりは多少なりとも、なにかイベント事があった方が楽しい。
 城主の了解が得られた事が嬉しいらしい。倒れてしまわないように手頃な木の幹に寄りそうように縛り付けられた笹を見上げ、急に飾り付けが足りないような気がしてきた。
 みんなで祝えるので在れば、もっと派手にしても構わないだろう。自分ひとり、星空を見上げながら晩酌するだけならばこれでも問題ないが、他のメンバーを巻き込むとなると、もっと立派にしてみたくなってくる。
 幸い、人手はそこに出来たし。
 企み事をしています、と一目で分かる笑顔で振り返ったスマイルに見つめられ、ユーリは緩めていた表情をひくっ、と引きつらせた。なにやら嫌な予感がする、そう感じて引き返そうかと足を後方にずらそうとしたが、何故か動かない。
「スマイル!」
 何故だ、と己の足許を見ればいつのまにか、全身包帯男の一部と思われる真っ白な包帯が右足首に幾重にも巻き付けられていた。逃がさないという笑顔に睨み付けるが、効果は到底期待できない。
「ユーリ♪」
 語尾が跳ね上がったスマイルの呼び声に、頬が更に引きつった。
「どうせだし、一緒に飾ろ?」
 なにが『どうせ』なのだろう、とユーリは思った。
 日が沈んでいく、台所では今現在進行形でアッシュが夕食の準備をしている事だろう。今夜のメニューはなんだろうか、と微かに流れてくる鼻腔をくすぐる良い匂いに思考は飛びそうになる。
 だが現実逃避はそう長くは続かず、距離を詰めて窓の下まで来たスマイルに手を取られ、引っ張られた。
 靴を履いたままの足が、乾ききった芝の中に沈む。カサカサと表面を擦り合わせる感触が直に伝わってきて、昼間の暑さを偲ばせた。
「私に、何をしろと言うのだ」
 ぐいぐいと一方的に手を引き、笹の元へ連れて行くだけのスマイルに問いかける。たった十歩に満たない距離で辿り着いてしまった笹を結びつけた木の根もとで、彼は腰を屈め紙袋に両手を突っ込んだ。
 足首に巻かれた包帯は、痛みが現れない程度の緩さで未だに結ばれたままでいる。逃亡防止の意味を込めているのだろうか、素肌に触れる布の感触はあまり心地よいものではない。
「これを外せ」
「はい、これ」
 お互いを繋いでいる包帯の先を指さして言うユーリの声に、スマイルはマイペースを崩さないまま紙袋から取りだした色紙を差し出した。繋がらない会話に苛立ちを覚えそうになったユーリだったけれど、差し出されてしまったものは反射的に受け取ってしまう。
 色とりどりの色紙と、ハサミ。笹に結ぶ為の紐。銀紙や金紙も随分と多い、どこで買い込んで来たのか、非常に疑問になってくる。そもそもこの巨大笹はどこから引き抜いてきたのか。
 スマイルだったら山に出向いて自ら切り出して来る事もやりかねないか、と渡されたものを手にユーリは嘆息した。あんなものを持って帰ってくるのも大変だっただろうに。
 そこまでして七夕に拘る理由がどこにあるのだろう。ちらりと横を窺うと、既に飾り造りを開始したスマイルが器用にハサミを動かし、色紙を切り抜いて模様を作り出しているところだった。
 こんなものに拘るところが、子供なのだ。二度目の嘆息をそれと分からぬように零し、日陰に居場所を定めると芝の上に腰を下ろしてユーリもまた、スマイルに倣い色紙を折り畳んで飾りを作り始めた。
 しかし。
「……ユーリさん、それ、ナニ?」
 笑いを必死で堪えているスマイルの問いかけに、ユーリは手にした色紙、だったものをぶらんと垂らしながら唇をわずかに尖らせた。
 確かにスマイルと同じようにやっていたはずなのに、広げて出てきたものは端が切れ、長さが最初の半分になってしまった形もさっぱり不明な紙屑だった。対してスマイルの手には、見事なまでに波の形がいくつも刻まれた、最初の長さから倍近く縦長になった笹飾り。
 その差は歴然としていて、完成品のあまりの違いにユーリは最初の失敗作をくしゃくしゃと丸めて投げ捨てた。そして二枚目を素早く手に取り、折り畳んでハサミを入れていく。
「…………」
 見守るスマイルの視線が更に彼を煽って、躍起になってハサミを動かしているユーリのおぼつかない手付きを見守りながら、スマイルはそれと分からぬように肩を竦めた。
 夕焼けが薄くなる。
 天頂に薄く星が瞬き始めていた。
 間もなく夜が来る。

 夕食後、いつの間にか庭に向かって窓辺に用意されていた縁側には、ブタの格好をした蚊取り線香が薄い煙を漂わせていた。コーヒーカップを模した風鈴が、風に煽られながら涼しげな音を奏でている。
 そのあまりの手際良さにはユーリもアッシュも呆れる程で、更にその上全員分の浴衣までしっかり用意されていたとあっては開いた口も塞がらない。
 着方が分からないと言うと、着付けてあげようかと提案されるがどうも不穏な空気を感じ取り、ユーリは有り難迷惑に却下した。アッシュも見よう見まねながら自分でやってみると言い放ち、スマイルひとりが不満そうな顔で唇を尖らせていた。
 ともあれ、月見ならぬ星見、である。
「ん~……満天、とまでは行かないみたいだねぇ」
 若干の雲が出て月も朧になってしまっているものの、星は数多く見受けられる。普段あまり夜空を見上げる機会がないと、尚更思いがけない空の明るさに驚かされる。
 その名前はミルキーウェイ、とも言われている。七夕で知られる織り姫と彦星のふたつの星を分かっている天の川は、銀河系を横から見たものであり、星の集合体だ。
 縁台の端に腰を下ろし、団扇を片手にまだ生ぬるさを残している風を扇ぐスマイルが、随分と時間がかかって浴衣の着付けを終えたユーリとアッシュを振り返り、そして笑った。
 一応参考として本も渡してみたのだが、ユーリは帯が団子結びだった。さらにアッシュに至っては、
「……アッシュ君ってさ、その格好だとまるで、着流しのやくざみたい」
 前を大きくはだけさせ、腰帯も形が崩れない程度に結んでいる。さっきまで何かをやらかしたらしく、どたばたと走り回っていたからその所為で着崩れてしまったのだろうが、これではビジュアルバンドのドラムではなく、やくざ映画にでも出てきそうな雰囲気のごろつきである。
 言われた当人はいたくショックを受けたようで、そそくさと直しに室内へ戻って行ってしまったが。
 ユーリは、帯の結び方を指摘されたものの着ていられればそれで良いだろう、と構おうとしなかった。それどそのままだと皺になるだけだから、とスマイルにその場で直されてしまった。ぶんご結びに。
 濃緑に近い藍色で染め上げられた生地は薄く、肌触りも風通しも良くて涼しい。黄色い帯が鮮やかに藍色の表面に映え、コントラストもいい具合だった。アクセント程度に添えられている紋様も、同系色で抑えられているので目立たないが、その分味が出ていると言えるだろう。対してアッシュは紺と緑を取り合わせた絞りの浴衣に、淡い目と濃い目の青が交互になった縞模様の帯を合わせている。スマイルは、黒色と紺色とが幾何学模様に重なり合った紋様の浴衣だ。帯は白と薄くしたグレーとが縞になっている。
 ひとりユーリの浴衣帯だけ、結び方が違っているのが気になったがアッシュは言わないで置いた。ユーリも、分かっていないらしい。
「しかし、この時間でも暑いな」
 スマイルから渡された団扇で自分を扇ぎながら、ユーリは室内から漏れる照明で照らし出された笹を見つめる。生温い風が首もとに流れ込んできて、しっとりと浮かんだ汗を払っていった。
 夕食前までかかった飾り付けは、最終的にユーリの方がムキになっていた。どうしてもスマイルのような笹飾りが作り出せず、彼の足許には山のような失敗作が積み上げられる事となった。風に揺れる、不格好な飾りはすべてユーリの作品であるが、ああやって全体と混じり合わせてから眺めると、多少は形の悪さも緩和されるようだった。
「どれが織姫星だ?」
「え~と、確か……」
 問われ、スマイルが琴座のベガを捜し視線を空に傾ける。けれど先に、視力の良いアッシュが牽牛星を発見し、その位置から織姫星を推測し指で指し示した。
 夜空を照らす天の川の中でも、一際明るい星がその西側に輝いている。星の明るさを顕す等星で、最も明るいとされる一等星よりも更に明るく輝く星は、今日という日を待ち望んでいたかのように常よりももっと、輝いているように見えた。
「織姫と彦星、無事に会えたっスかねー」
 空を見上げながら呟いたアッシュに、ユーリとスマイルは団扇で扇ぐのを止めてお互いの顔を見合わせた。次の瞬間、小さく噴き出す。
「アッシュ君てば、ロマンチスト~」
 からかうような声でカラカラと笑ったスマイルのひとことに、はっと我に返ったアッシュが顔を真っ赤にしてふたりと睨んだ。けれどユーリまでもが愉快そうに口元を団扇で隠し肩を揺らしているのを見て、握った拳のやり場もなくがっくりと下ろしてしまう。
 暫くふたりの笑い声が夜闇に響いたのち、不意にスマイルが顔を上げた。
「あ」
 短く呟きを零し、腰を下ろしていた縁側から立ち上がる。日暮れの時に撒いた水がまだ地表に残っており、湿り気を湛えた芝が下駄を履いた彼の足に触れた。
 サワサワと笹が揺れる。
「星が」
 スマイルの背中に促されるように空を見上げたユーリが、団扇を膝の上に置き、彼の言葉を補った。アッシュも、空を仰ぐ。
 天の川を横切るように、幾つかの星が空を駆けた。
「流れ星っス」
 最後に気付いたアッシュが、流れ終えた星の行方を思いながら言葉を紡ぐ。首を下ろし視線を仲間に戻したスマイルが、交互にふたりを見つめてにこりと微笑んだ。
「ね?」
 小首を傾げながらの声に、今度はユーリとアッシュが顔を見合わせた。
 一体なにが、なのかはさっぱり分からない。しかし、なんとなくだけれど分かった。
 今日ここで、夜、みんな揃った状態で星を見上げて、たまたま流れ星が空から零れ落ちてきて。
 一緒に、それを見上げた。
 その事を嬉しいと感じているのだろう。
「なにかお願いする?」
 流れ星に祈れば願いは叶うという。そして今日は、暦の上ではひと月遅れかも知れないが、七夕。織り姫と彦星が一年で一度の逢瀬を果たし、人々の願いも叶えられると言われている日だ。
 ならば、今の流れ星に祈れば願いが叶う確率は乗算になる、という考えは甘いだろうか。
「そうっスねー」
 考え込むようにアッシュは空を再度仰ぎながら顎に手をやった。長い前髪に茜色をした瞳が隠れる。
 スマイルはユーリを見た。彼はなにも答えず、穏やかな笑みを浮かべたまま団扇で風を扇いでいた。
「このまま、みんなで一緒に居られますように、っていうのは?」
「ずっと?」
 縁側に戻ってきたスマイルが下駄を脱ぎ、乗り上げる。ユーリと並んだところで、アッシュの声を聞き反射的に聞き返していた。
 アッシュが緑沈の髪を上下させ、頷く。スマイルの後方でユーリが笑った。
「貴様が寿命を尽きらせねば、願いは簡単に叶うぞ?」
 この中で一番、寿命が短いのは狼人間のアッシュ。ユーリは永遠だし、スマイルだって似たようなものだ。
 意地悪な返答に、アッシュの口がへの字に曲がる。再び彼を笑ったふたりだったが、明日からもう食事を用意してやらない、と拗ねられて慌てて謝った。その調子の良さに、今度は拗ねていたはずのアッシュが笑い出す。
 ユーリが先にぷっと噴き出し、呆れた感じで肩を竦めていたスマイルもそのうち引きずられて笑い出した。
 蚊取り線香の煙が棚引く。風鈴が控えめな音を奏でた。
「そう……だな。贅沢な願いかもしれないが」
 将来、なにがどうなるのかなど誰にも分からない。
 だけれど、願えば叶わない事などないはずだから、今はその願いに縋り、期待しよう。
 未来は確約されないからこそ、未来なのだろうが。
 それでも。
 次第に笑い声は闇に溶け、沈黙という風がその場に流れた。誰とも無しに全員がそれぞれ空を仰ぎ、闇を切り裂く星の群衆を見つめた。
 宇宙を漂う星くずが燃え尽きる前の、微かな輝き。そこに詰め込まれた願いは、果たして如何ほどのものだったのか。それは誰にも分からないのだろう、きっと。
 けれど燃え尽きて消え去る瞬間でさえ、輝けるのであるなら。燃え尽きない星はもっと輝ける。
 蚊取り線香の仄かな炎も、大きくなった灰の塊と一緒に崩れ落ちた。
「居られたら、イイネ」
 瞳を伏せ、スマイルが呟く。
 返事はなく、ただ空の星が二度、瞬いた。

Ocean

 潮風が頬を撫でる。生臭さを伴った幾分生温い風を感じながら、彼は視線を彼方へと流した。
 昼間で在れば海の青も、空の蒼も、砂浜や空に浮かぶ雲の白さが目立っただろう。けれど今はそれらの色一切が隠されてしまう時間帯。地上を照らす明かりは月と星という弱々しくも儚い輝きばかりで、騒がしい都会の照明もここまでは届かない。
 あるのは、黒々と渦を巻いたように不気味な様相を呈する、真夜中の海。
 漣の音が響いている。押し寄せ、還る波は昼間となんら変わることはないはずなのに、目の前に横たわる無辺の海原はどこまでも、薄気味悪い。
 背筋を這い上がってきた寒気に似た感覚に、無意識に両腕を抱く。
 夜の海は、あまり楽しいものではない。まるでタールで表面をコーティングしてしまったかのような黒さを晒す水面は、闇の触手を伸ばしここに在るものすべてを攫って行ってしまいそうで。
 彼ごと、なにもかもを。
 ユーリ、と彼は夜の波打ち際に佇むひとの名前を唇の動きに乗せた。けれど昼間よりも騒がしい波の音に掻き消され、呼び声は彼に届くことがなかった。
 さく、と幾ばくかの昼を思い起こさせる熱を残した細かな砂を踏みしめる。僅か五歩にも満たないはずの距離が酷くもどかしく、彼は埋まらないお互いの距離を詰めたくて腕を伸ばした。
 けれど、手はするりとすり抜けて空を掻く。
 打ち寄せて砕ける波に惹かれるままに、ユーリは彼を躱して水面へと進み出たのだ。
「ユーリ」
 夏場、夜の海。
 誰も居ない、遠くで暴走族らしきバイクの排気音が低く響きそして消えた。
 長い長い砂浜は、昼間でこそ海水浴客で賑わい喧噪に包まれるものの、夜半を過ぎてしまえばそれは人間達の眠る時間帯であり、物好きに波に攫われかねない海辺を訪れる者は減る。
 御陰で随分と静かだ。都心部からかなり離れている事もあり、無粋な深夜トラックが駆けめぐる事もない。もともと地元の人間ばかりが集まる場所である事も幸いして、ふたりの耳に届くのは途絶えることのない波の音色ばかりだ。
 先日のポップンパーティーで偶然再会した友、とも言えるはずの知り合いが今年の夏は海外で過ごすから使わないんだ、と別荘の鍵を貸してくれた。誰にも使ってもらえないよりは、使ってくれた方が実は傷まないのだと言っていたから、言外に掃除と手入れをしてくれと頼まれたにも等しい。
 けれど人気の少ない山に近い海辺の町に建つ別荘は、避暑と言う名の休息にもってこいであった事もあり、メンバー三人、なんとか都合をつけあって短い夏場の休暇をここで過ごすことにした。
 もっとも、日の光を厭うユーリが、太陽を遮るものがなにひとつとしてない昼間の砂浜に出たがるはずは当然なく。
 だから必然的に、日が昇っている間の外出はアッシュが買い出しに出るくらいだった。ユーリの日課は朝から晩までの昼寝であり、夕方少し涼む頃に起き出した彼は二食分の食事を摂ってのんびりと過ごし、人出が完全に消えた海辺に降り立つ事になっていた。
 今日で二日目、残る休暇はあと一日と半分。短すぎる。
 けれど愚痴ろうとも、この日数でさえ妥協の末になんとか勝ち取ったものであり、本当はもっと短かった事を思うと出かけた文句も喉の奥に引っ込んでしまう。何をするわけでもなく、のんびりと窓辺で過ぎていく時間を見つめる事はそれなりに楽しかった。
 佐々波立つ音が耳を打つ。
「ユーリ」
 再度、その名前を口ずさんだ。波打ち際で膝を折り、右手を黒々とした水に差し出していた彼がゆっくりと首から上で振り返る。
「どうした?」
「ん、いや……なんとなく」
 けれど実際、用件と問われればそんなものは無かったことを思い出すしかなく、返答に窮して誤魔化そうとすると、ユーリは変な奴だ、と薄く笑って視線を見えない水平線へと流した。
 長く、広い海。深く、透明で、碧く、そして黒い。
 水は元々透明で、海が青いのは空の色を反射しているからそう見えるだけだ。だから今、天頂を彩るのは夜という闇であり、闇を写す鏡である海原は漆黒に溶けている。空と海の境界線は曖昧で、どこからが空で何処までが海か、見えやしない。
 手を伸ばせば掴めそうな距離に見えるのに、その位置は遙か彼方であり決して、届く場所にはないのだ。
 油断すればそこに居るユーリの姿でさえも見失ってしまいそうな闇の中で佇み、彼はビーチサンダルの足を蹴り上げた。
 白いはずの砂が数百粒と舞い上がり、一部が彼の無体を非難して指の合間に潜り込んできた。表面のざらつく感触に、嫌そうな顔を作る。
 それとて、闇に紛れて見えない。
 爪先が細いけれど固いものにぶつかり、なんだろうと腰を屈めて手を伸ばし引っ張り出してみる。半ば以上が砂に埋もれ、満潮の時には海水に沈んでいたらしい湿り気を持っているそれは、薄明かりの中でなんとか判別するに、どうやら廃棄された花火らしい。
 今ではコンビニでも売っているような、手持ちの花火だ。
 十二時もとっくに通り過ぎた丑三つ時とも言われているこの時間帯では、さすがに花火をしようなどという強者は居ないが、日付が変わる前ならばまだ何人か、観光客らしき若い集団が騒いでいるのが遠く、別荘の窓から確かに見えた。これはどうやら、彼らの置きみやげらしい。
 地元の人々は海を大事にするから、花火をその場所に捨てていく事はしない。こういう心ない行為をする人間が多いから、海が汚れていくのだと嘆く老人の背中を思い出した。
 普段別荘の管理を任せられていると言っていたあの老人は、生まれてからずっとこの町で育ったらしい。だから子供の頃に泳いだ、澄み渡る青い海を覚えているし、今のようにゴミだらけの砂浜も知っている。
 彼は拾ってしまったゴミになってしまった花火を手に、どうしようかと考えながら指先でくるくると回した。まとわりついていた砂が飛び跳ね、彼の顔に数粒散る。眉間に皺を刻んで手で払った彼は、視線を巡らせて闇の中、かろうじて見出したゴミ箱に向かって歩き出した。
 波打ち際ではユーリが、相変わらずしゃがみ込んで寄っては離れていく波に手の平を浸している。そうやって彼は、昨日の夜も小一時間ばかり座り続けていたのだ。
 別荘へ帰る間際の彼の手は水気を擦って湿り、表面がふやけてしまっていた。一体何がしたかったのか、と問うとユーリは何も、と答えそれっきり黙ってしまった。
 彼が何を考えていたのか、何を思って海を眺め続けていたのかという回答は結局得られなかった。ユーリは何も言わなかったし、スマイルも何も聞かなかった。
 ゴミ箱に行く途中でも躓きそうになって、砂浜から引っ張り出し見つけたゴミを一緒に編み籠の中に放り込んだスマイルが戻ってくる。その足取りは腹立たしさを覚えているものそのもので、荒々しく砂を踏みつける様がどこか滑稽だった。
 浅く残る足跡が線を作る。
「ポイ捨て禁止!」
 煙草等でキャッチフレーズに良く耳にすることばを鼻息荒く吐き捨てたスマイルを仰ぎ見て、ユーリは微笑んだ。波に浸していた手を引き抜き、軽く左右に振って水気を飛ばす。
「なら、今から海岸線大掃除大会でもするか?」
 恐らくは今頃、ベッドですやすやと夢の中に在るはずのもうひとりを叩き起こして。冗談だと直ぐに分かる調子で笑いながら言ったユーリに、スマイルはお断りだと首を振った。
 夜目に慣れていなければ、その仕草さえ視界に収めることは難しかっただろう。
 ルビー色をした瞳をスッと細めたユーリが、闇を背に浮き上がるようにして見えるスマイルの表情に更に笑う。今此処で、闇に溶けてしまいそうな世界に不安を抱いているのはスマイルだけなのだ。
 隻眼であり、夜の種族であるもののそればかりに馴染んでいるわけでもなく。片方だけに強いてしまっている視力では矢張り、すべてを写し取る事は困難で。
 閉じ、開いたときに右目の先にユーリが居ないことを想像して、背筋が震える。
 ユーリ、と名前を呼んで。
「どうした?」
 さっきからそればかりの彼を、不思議そうにユーリが振り返るのを見つけて、安堵の息を零す。
「ナンデモナイ」
 ごまかしの笑みを浮かべて首を振ると、変な奴だ、とまた言ってユーリは肩を竦めた。
 ぱしゃん、と彼の足に波が跳ねる。
 素肌にサンダルと、夜でもまだ残る気怠い暑さを少しでも緩和させたくて普段とは違う身軽な格好を選らんだユーリの足首までが、海水に浸った。
 思いの外冷たい、その温度は先程まで彼が右手に感じ取っていた熱と同じだ。
「昼間あれだけ、熱に晒されているはずなのに、海は冷たいままなのだな」
 妙な感心を覚えたらしいユーリの呟きに、スマイルは首を捻って彼を見返した。波が強くなっているのか、ユーリよりも砂浜の内側に居るスマイルの爪先にまでも、波は訪れていた。
 慌てて足を引き、半歩分後退する。
「苦手か?」
 あまり波打ち際に近付きたがらないスマイルを見返し、今度はユーリが首を傾げる。やや気まずげに、スマイルは視線を逸らした。
「いや、ね……あぁ、まぁ、うん」
 酷く遠回しに、相槌ばかりを繰り返した末彼はやっと頷いた。胸の前で左右の指を交互に絡め合わせて弄り、目線だけが遠くの海岸線を見つめている。
 引きずられる格好でユーリもそちらに目をやった。月闇に浮かび上がるのは、切り立った岩に貼り付くように根を絡み合わせている古木で、しかし長い歳月を風雨に晒されてきたからなのか、やや傾きかかっている。それでも決して崩れ落ちるものかと食いしばっているのか、木の根は岩の割れ目にまで入り込みその所為で、余計に岩は古木ごと傾いてしまっているようだった。
 逸話かなにかがあったはずで、昨日の昼間に別荘に初めて訪れたとき、管理人の老人から聞いたはずなのに思い出せなかった。ただ恐ろしい程に哀しい話だったとだけ、記憶している。
 この周辺でも数少ない観光スポットなのだが、足場が悪くいつ崩れるかも分からないので立ち入りは禁止されているのだと、老人は最後に付け足した。
「どんな話、だったっけ……」
 かろうじて輪郭だけが見える岩場を見つめたまま、スマイルが独り呟く。
「確か、海神に攫われそうになった我が子を抱え、連れて行かれるものかと岩に貼り付いてそのまま岩になった母、ではなかったか?」
 独り言にユーリが答え、そうだったような気がするとスマイルも頷いた。
 大昔、まだ海に神が宿り年に一度、豊漁と波が穏やかで在ることを願って人柱を立てていた時代の事らしい。今となっては信じがたいナンセンスな話なのだろうが、当時の人々にとっては迷信こそが真実であり、疑えば天罰が下ると本気で信じられていたのだ。
 だけれど、それ以上に子を守ろうとする母の力が勝ったのか。
 本当かどうかは知らない。ただあの岩に根を張った岩にはそんな逸話が伝えられている。
「海に攫われる……」
 もし、今此処で。
 君が。
 夜の闇に、攫われようとしたら。
 最後まで子供を離さなかった母親のように、彼を守り抜けるだろうか。
「スマイル」
 意識がどこかへ飛んでしまっていたらしい。名を間近で呼ばれ、ハッと我に返ればそこにユーリが居た。
 利き腕を掴まれ、握られる。波に浸っていた分の体温が奪われたまま戻らず、常より低いユーリの体温が更にその部分だけ下がってしまっている気がした。
「何を考えているのかは、知らんが」
 ユーリは視線を伏せた。右手でスマイルを掴んだまま、左手を伸ばし右足を持ち上げて履いているサンダルを脱いだ。右足分も同じく。そして紐を重ねて持ち上げ、素足で水辺に立った。
 直に波を感じる。スラックスの裾が濡れたが、構わなかった。
「私は、海が……夜の海は、好きだ」
 握る右手に力を込めて、彼は海原を仰いだ。夜の弱い月明かりでかろうじて表面だけが浮き上がる水面が、ゆらゆらと不規則に揺れている。
 絶え間なく波の音は耳に届き、潮風は生温く肌をすり抜けていく。黒々とした表面は禍々しさを内包していて、過去の人々が夜の海に恐れを抱いた事も無理ない話だと納得できてしまう。
 けれどユーリは、そんな夜の海を好きと言う。
「海は、総てのあらゆる生命を生み出した存在なのだろう?」
 単純な体内構成をした単細胞生命体から、複雑な体内構成を持った現在多種多様に生きるありとあらゆる生命。そのどれもが、もとを正せば確かにユーリの言うとおり、海から生まれ出たもの。
 だけれどそれがどう繋がってくるのか、分からないと言う顔をするスマイルを一度だけ見上げて、ユーリは足首までを沈める海を眺め下ろした。左足を引き上げ、そして落とす。海水が撥ねた。
「私は、生まれ出た時の事などなにひとつ、記憶していない」
 だが、とユーリは言葉を一旦途切れさせた。遠く彼方の水平線と空が混じり合う曖昧な境界線を見据え、そっと瞼を下ろす。
「こうしていると、この世界こそが私を生み出した場所なのだと、そう思えてくる」
 ここから生まれ、いずれここに還る。今は中間地点に立ち、細胞が覚えている記憶に意識を委ねさせて、遠い過去と遠い未来を夢見ている。
 海は恐くない。
 夜もまた、恐くない。
 それは自分たちを生み出した、紛う事なき母の姿だ。
「……ワカンナイ」
 ぽつり、とスマイルは呟いた。ユーリが顔を上げる、視線が重なった。
「デモ」
 ぎゅっ、と。
 握りしめた手に昼間の太陽とは違う熱が宿る。
 驚いた顔をして結び合った手を見つめ、それから再度顔を上げてスマイルを見たユーリが、呆れたように頬を緩めて微笑んだ。
 苦々しげに表情を歪めてから、無理に笑おうとして出来なかったスマイルがユーリの肩に凭れ掛かって、顔を埋める。
「ユーリがそう言うなら、信じる」
 攫われそうになっているのは、ユーリではなく。
 自分自身だと、分かっているから。
 結んだこの手を、どうか離さないで。
 ドコニモイカナイデ。
 夜の潮風が静かに通り過ぎていく。夜明けまでの数時間、彼らは暫くそこに佇み、反響する波の音だけを聴いていた。

 あの古木を貼り付けた岩は、今もその海岸線で静かに海原を見つめている。

Leisurely

 轟々と風が吹き荒れている。
 飛ばされてしまいそうな、とまでは表現も届かないもののそれでも、まとまりを欠く髪がざんばらに乱れ、風の進行方向に流されながら漂うのを視界に収めることが出来る程度には、強い風が吹いている。
 その中で、彼がひとり。
「ん~?」
 飛んでいきそうになる荷物を両腕で胸に抱え直し、薄曇りの空を恨めしげに見上げたスマイルはけれど、通り過ぎようとした一瞬の視界で佇む彼を見つけ、頭が認識したときには二歩進んでしまっていた身体を一歩半、戻した。左右で三十センチ少々間隔が開いている足をそのままに、腰から上だけを後ろに反らして首だけを左に振る。
 相変わらず両耳からは風の呻り声が低く聞こえてくる。
 ほんの少し顎を上向けて、斜め上方を見つめる。こちらの存在には気付いた様子もなく、何処を見ているのか定かではない視線を抱いた彼が、そこに居た。
 城からはみ出た出っ張りのようなテラスの手摺りに、さほど幅も広くないそこに腰を下ろして、流れる風に身を奪われぬようにだけ留意しながらもやはりどことなく虚ろげな表情をして。
「ふぅん」
 なんだろう、と思いつつ顎を引くついでに小さく頷く。考えが彼の許へ風と一緒に流されそうになって、つい緩めてしまった腕から抱きかかえた紙束の一枚がするりと抜け落ちた。
 地上でもかなり強い勢いを持っている風に攫われそうになったのを、慌てて片腕を伸ばし端の端を掴んで彼方へ行ってしまうのを寸前で防ぐ。ほっと安堵の息を零し、手元に戻して再度抱き直してから視線を上向ける。
 やはりユーリは、銀色の髪を風に自由にさせながらテラスに腰掛けていた。動いた様子はない、動きそうな様子もない。
 なにを、しているのだろう。或いはなにを、見ているのだろう。
 彼の視界に収まっているだろう世界を見ようと、ユーリの顔が向いている方角に視線を流してみた。けれど地上からとそれよりも高い位置からでは見える範囲も、見え方も大幅に異なってくる。到底彼と同じ視界を得ているとは言い難く、スマイルの視界に広がるのは城を包み込む不気味な程に静かな雑木林とその手前に伸びる、かろうじて家人の手が加えられた花壇の一画程度だ。
 ではユーリは、一体なにを見ているのだろう。興味を惹かれ、再度彼を見上げる。
 テラスの手摺りに座り、両手でしっかりと身体を支えてテラスに釘付けにしておきながら両足は自由で、時折風に倣ってぶらりぶらり、と不安定に揺れている。遠目では判別がつきにくい表情も、笑っているとは言い難く空虚な様に似ていた。
「ユーリ」
 この場から名前を呼びかけてみても、恐らく吹き荒れている風に阻まれて届かないだろう。先程から煽られてちらちらと視界を横切る、己の濃紺色をした前髪を邪魔だと片手で押さえ込み、スマイルは吐息を零す。
 今は先に、この邪魔になるだけの荷物を片付けてしまうのが先だろうか。出先ではさほど風も強くなかったから、油断してしまった。それだったら先方の好意に甘えて、紙袋にでもまとめて入れて貰えば良かったと今更に後悔しても遅い。
 姿勢を正して止めていた歩を進める。城内に入ってしまえばこの鬱陶しいばかりの風からはひとまず、身を守れるし書類が飛ばされてしまう事もなくなる。
 重厚な構えをしている正面玄関に向かい、観音開きの扉を片方だけノッカーで叩く。返事はなく、けれどギギギ…という低く重そうな音を微かに響かせてノッカーのある方の戸が自然に外側へ開かれた。勿論誰かが押し開けてくれたわけではなく、無人の玄関に自分ひとりがかろうじて通れるだけの幅から滑り込む。するとまた、扉は黙って勝手に閉じられた。
 何度やっても薄気味悪いものだが、いい加減慣れて驚かなくなった。旧式の自動ドアだとでも思っていれば良いか、と開き直っている面も強い。ともかく、これでやたらと耳の側でうるさく唸っていた風からは解放された。
 すっかり崩れてしまった髪型を手で簡単に直し、皺が出来上がっている抱えていた書類も軽く伸ばしてやってから更に先へ進む。迂回経路も使わず、玄関ホールにある半螺旋階段を登って自分が使っている部屋に向かった。そしてドアを開け、机の上に持って帰ってきた書類一式を放り出し、上に着ていたジャケットも脱いでベッドに放り投げる。
 くるりと踵を返して入ってきたばかりの扉へ向かう、開け放していたから廊下側の光が室内に長く伸びて影になっていた。
 まだ跳ね上がっていた髪を手の表面全体を使って押しつぶす感覚で直してから、後ろ手に扉を閉めて左に続く廊下の先にある階段を見る。ひゅっ、と息を吐いて口元で笑みを作った瞬間、スマイルの姿がそこから掻き消えた。
 霞が溶けるような、見事な瞬間技。
 そのままの姿で彼は階段を下り、廊下を若干進んでとある扉に手を掛けた。この瞬間にだけは息を殺して気配を断ち、細心の注意を払いながら慎重に行動を起こす。
 テラスでは地上で感じたよりも僅かだが、風が強く冷たい感じられた。
「ユーリさん?」
 吸い込んだ息を吐きだしながら、彼の背中に呼びかける。けれど吹き荒れる風がそれを邪魔して、声は届かない。
 スマイルは見えない身体のまま肩を竦めた。
 警戒心の塊のような面もあるユーリが無防備に背中を晒している。ちょっと押せば、地上に落下しかねない場所に鎮座坐しているに関わらず、だ。もっとも彼は一応飛べるから、無惨にも地面に激突、という事はないだろうけれど。
 いや、無警戒であればそれもあり得るか。
 考えがそこに及ぶと、試してみたいという気持ちが急にむくむくとわき起こり始める。そんなことをして、一生彼と口を利いてもらえなくなっても構わないのか、と問う理性と好奇心が鬩ぎ合っている間に、また一際強い風が吹いた。
 バランスも危うい心許ない場所に座しているユーリの躰が、一瞬大きく傾いだ。
「あっ!」
 つい、矢のような声を上げて前に飛び出してしまった。
 ぐらりと揺らいだユーリの躰を支えるところまでは届かなかったけれど、波打った彼の左腕を掴む事には成功して、自分の側へ、つまりはテラスの内側へと引っ張る。ユーリは見えないものの力に驚いたような顔をしたけれど、直ぐに何事かを察したらしく表情を緩め、流れる力の方向に体重を預けてきた。
 ユーリの両足が揃って手摺りを乗り越え、爪先が天を仰いだ直後に床へ沈んだ。その数瞬前には、彼の右腕が真っ先に彼方へ伸びて上半身がスマイルの胸に落ち、受け止め損ねたスマイルの全身がテラスの床に転がっていたが。
 どすん、と。
 ふたり分の体重を一気に喰らったテラスが小さな悲鳴を上げた。けれどもっと沈痛な、潰された蛙の如きうめきを上げたのは腹部にユーリを直撃されたスマイルだろう。ぐえ、と内臓が口からはみ出そうな感じがする声を出した後、透明だった身体を戻すと同タイミングで両手足の先を痙攣させ、しばらくの間まともに動けなかった。
 事もなくスマイルをクッションにして衝撃を免れたユーリが、のそのそと彼の上から退く。上から青い顔をしているスマイルを覗き込み、大丈夫かと問う。
「う~~」
 大丈夫とは思えない声を低く呻かせて、スマイルは恨めしげにユーリを見た。けれどその時にはもう、彼はスマイルから注意を逸らして遠い場所を見つめていた。
 一体何処を見ているのか、視線の先を探ろうとスマイルはまだじくじくと痛む腹を片手で押さえ、片手で身体を支えながら上半身を起こした。
 テラスの床に直接腰を落とし、変わらず吹き荒んでいる風に纏っている服の端々や髪を自由に弄ばれながら、ユーリはどこでもないどこか、を見つめていた。その紅玉の双眸に映るのは、確かに目の前に広がる景色に他ならないだろうけれど、彼は恐らく、そんなものを見ては居ないだろう。
 輝きが曇った瞳を間近に見つめ、スマイルは苦笑を零す。
「ナニしてんの?」
 ずっと聞きたかった事を口に出して問いかける。五秒ほど反応を遅れさせ、ユーリが振り返った。
 固く冷たい床の上に直に座り直した彼の双眸が、興味津々と分かる隻眼を睨むように見つめている。片方だけの瞳に映る自分自身に笑ったのか、直後表情を緩めた彼が皮肉を言いたがっている顔をした。
「何をしているように見えた?」
 からかおうとしているスマイルの心理を逆手に取ったユーリの、意地悪い問い返しにスマイルが引き寄せた膝を横向きに倒して中途半端な胡座を造り首を振った。
「ボーっとしてるように見えた」
 実際、なにもしていなかったように思う。感じたままの事を告げたスマイルに、ユーリはまったくだ、と同調の言葉を零して頷いた。
 おや、珍しい。素直な反応を返すユーリに驚いて目を見張ると、表情で心情を悟ったユーリに小突かれてしまう。つい笑みが溢れて、笑っているとまた横から張り手が飛んできたがそれは避けた。
「で、結局」
 あんなトコに登って、座って、なにを見ていたの。顎を酌ってテラスの手摺り部分を示したスマイルに、ユーリはああ、と相槌を打っただけで言葉を途切れさせた。
「なにも」
 ただ、そうだな、と。
 今になって理由を考えているような横顔をしながら、彼は今では手摺り越しになってしまっている光景を眺めている。それはほんの少しだけ、さっきまでの彼が前にしていた世界とは異なっているのだろう。眉根をそっと寄せ、短い息を吐きだして二度ほど首を振った。
「風が」
 ぽつりと零れ落ちた彼の紡いだ単語に導かれるように、スマイルは天を仰いだ。
 花曇りの空、薄い灰色の雲が視界一面を覆い尽くしている世界。その下を駆る風は自由だが、少々乱暴者だ。未だ吹き止むことを知らず、我が物顔で地上を荒らし回り、そこに身を沈めている彼らを包み込んでは嬲って去っていく。
 ふくれ上がった前髪を押さえ込み、最早手櫛程度では直らなくなってしまった髪型を思ってスマイルは舌打ちした。ユーリもかなり毛先があちこちに向いて跳ね上がり、角が立っているみたいに普段は反対側に倒れている毛が逆方向に立ち上がってしまっていた。
 改めて眼にするとおかしくて、ぷっと吹き出してしまうとユーリはむっとなって頭に回した手で手探りに乱れを直そうと試みた。けれど鏡の無いこの場所ではなかなか上手くいかず、悪戦苦闘している間に自分で尚更変な風にしてしまって、スマイルの失笑を買う羽目に陥っていた。
 最終的には、ふてくされた顔をしてユーリは髪型を直すことを放棄してしまった。見かねたスマイルが手を出そうとしたけれど、直前で弾き返されてしまって結局そのままだ。
 両足を揃え、ふてくされた顔を立てた膝の上に置き、三角形になっているユーリがしっかりと膝裏で手を結びあわせている様はまるで、叱られて部屋の隅の方で拗ねている子供のようだ。
「風が、どうしたノ?」
 ひとしきり笑い終え、表情を戻したスマイルが気を取り直し咳払いをひとつ、わざとらしくしてから問い直す。ユーリが途中で途切れさせた言葉を掘り返して来た彼に、ユーリはじろりと不機嫌な眼を投げつけた。
 だが、それもすぐに終わる。彼は結び合わせた両手に若干の力を込めて胸の方に抱いた腿ごと引き寄せ、床に貼り付いていた足裏を浮き上がらせた。揺りかごヨロシク前後に揺らぐ彼の身体が、吹き抜けていく風にリズムを合わせているのだとすぐに知れた。
 珍しいものを見る目つきで己を眺めるスマイルに、やはり不機嫌さを隠さないユーリが一度だけ軽く睨んだ。
「答えが必要か?」
 しつこく、一旦は途絶えた会話をぶり返さねばならないほどにその話題がお互いにとって、重要なものだとは到底言い難い。必要性のない会話を繰り返す事を嫌うユーリらしい言い分に、スマイルは黙って首を横に振った。
 半分だけ胡座、残り半分は膝を立てて腕で抱き込むような姿勢をとっていた彼が歯を見せて笑う。
「うぅん。でも、聞けるのなら聞きたいカナ」
 あんな場所に座って、風が強くて吹き飛ばされてもおかしくないのに、ぼんやりと空ばかりを眺めていた君が、その綺麗なルビーになにを見ていたのか、が。
 気にならないわけがない。なんとなくだが想像できたものの、彼の口から直接答えを聞けるものなら、聞いてみたいと思うのが道理ではないだろうか。
 確かに会話を続けなければならない必要性はどこにも存在しないかもしれないが、ここで途絶えさせなくてはならない必要性もまた、存在していない。屁理屈だと笑われるかもしれないが、つまりは、そういう事。
 スマイルの笑顔に、ユーリが諦め調子で小さく肩を竦める。ぺたりと足裏を床に貼り付け直し、両手を解いて右腕だけを空へ突き立てた。
 広げられた指先から風が逃げていく。自由を性分とするそれらは、形あるものが掴めるものではない。
 そうだな、とやはり今頃になってから考え込んで、ユーリは眉間の皺を深くした。
「風が、吹いていたから……か?」
「ぼくに聞かれても」
 自問するユーリの問いかけにスマイルが苦笑を返す。
「風が吹いてたから、手摺りに座ってたわけ?」
 ではそこに座って、何をしていたのか。
「なにもしていない」
 続けざまの問いかけには即答で断言し、ユーリはきょとんとした眼でスマイルを見つめた。その質問は既になされ、質問者自らが答えを導き出していたはずではなかったかと言いたげな視線に、それはそうだが、とスマイルは言葉を濁した。
 ふっ、とユーリの表情が緩む。
「敢えて言うなら、そうだな。……なにもしない事を、していた、と、なるか?」
「はぁ」
 分かったような分からなかったような、曖昧な顔をして相槌を返したスマイルの間抜けな表情にユーリがカラカラと笑った。
 なにもせず、なにかをしようとも思わず、目の前に広がる世界も見つめず。虚ろに、ただ無為に過ぎる時間の中で意識を漂わせていただけの、時間を過ごしていたのだと言い直したユーリの言葉がスマイルの頭を通り過ぎていく。
「退屈してたの?」
「そうとも言うな」
 暇を持て余していたとも言い換えられるだろうが、別段暇だからする事が無くて困っていたわけでもないのだと、ユーリは言い直す。
 暇だった事は確かだが、だからと言って急いで何かをやろうと思ったわけでは断じてない。何もしない時間を過ごしていた、それだけなのだ。
「ふぅん」
 短い相槌を打って、スマイルはとりあえず頷いてみる。
「今更じゃない?」
「そうかもしれないな」
 暇を――有り余る時間を持て余しているのは、何も今に始まった事ではない。そしてそれは、ユーリだけが該当している事でもない。むしろ二百年という時を眠って過ごしたユーリとは違い、その期間もずっと目覚めたまま過ごしてきたスマイルの方が余程、何もしない時を過ごしてきている。
 すべては今更。
 何もしていない、空虚な時間を有り余らせているからこそ何かをしたいと、そう思って動いているのではなかったか。言外に様々な事を含ませて告げたスマイルのひとことに、ユーリは俯き一度だけ頷いた。
「あー、でもマァ……分かる、よ」
 偶に。
 せせこましく在る事に疲れた時、ふと自分の中の時を止めてしまいたくなる事が、全くないとも言い切れない。
「デモ、次からは止めてよね、ああ言うの。心臓に悪いカラ」
 テラスから落下するビジュアルバンドのボーカリストなんて、格好悪いこと極まりない。茶化したように言ったスマイルに、ユーリはそんな事をするはずがないだろう、とやはり拗ねた顔で手を出してくる。
 スマイルは難なく躱してくれたが。
「次は、ちゃんと呼んでよネ」
 ぱしん、と飛んできたユーリの手をキャッチして、自分の側へ引き寄せたスマイルが彼の耳元で囁く。
 耳殻に吹き込んだ、趣の異なる風にユーリは顔を顰め、パッと奪われていた手を取り戻すと後ろに下がって距離を作った。警戒心がオーラとなって全身から噴き出したユーリに、傷つくなぁ、と笑ってスマイルが頬を掻く。
「ユーリさん?」
「もういい、何も言うな近付くな。貴様が言いたい事は大方、分かった」
 しっしっ、と犬を払う時のように手を振ってユーリが早口に捲し立てる。遠くで、雲が途切れその上で輝いているはずの太陽が切れ目から光を零し始めていた。
 空が明るくなる、強かった風が徐々に弱まりだしていた。もう耳を覆うあの低い呻り声も聞こえない。顔を上げたスマイルに、ユーリがそっと息を吐く。立ち上がり、埃を払って軽く腰を回して伸びをした。
 見上げる格好になったスマイルを一瞥し、何もない空間で右手を開き、そして握る。
 風が握れなかった。けれど、違うものは残ったはずだ。
「そうだな、ひとりで居るのも退屈極まりない」
 幸か不幸か、この城には騒がしいばかりが取り柄の存在がふたりも揃っている。一歩城から外に出れば、更に騒々しい面々と顔を合わせる機会も増える。
 ひとりで暇を持て余し、退屈な時間を空虚に潰しているのはなんと勿体ない事だろう。
「でショ?」
 してやったり顔のスマイルが床の上で胡座を組み直し、隻眼を細めて笑う。
 雲が裂け、陽射しが舞い降りてくる。それはこのテラスや城を囲む暗い森の頭上にも等しく訪れ、夕暮れ前の一時を明るく染めようとしていた。
「まったく、貴様に諭されるとはな」
 情けない、とやや沈み顔で呟いて視線を伏せたユーリだったが。
「そういう殊勝な台詞は、逆立ってるその髪の毛どーにかしてからにしないとカッコ悪いヨ?」
 未だ直せずに放置されていた髪型の事を指摘され、ユーリのこめかみに血管が浮いた。
 直後、台所でのんびり夕食の下ごしらえをしていたアッシュの耳にも聞こえるような、凄まじい轟音が響き渡った事は、言うまでもない。

赤心

 ガチャガチャと五月蝿く音を立てる鍵が、行く手を阻んでいる。
「ああ、もう!」
 沢田綱吉は、どう頑張っても強情に開こうとしない保健室の扉を前にして、右足を高く持ち上げて踵を床にたたきつけた。
 柔らかな靴裏のお陰で多少ダメージは軽減されたものの、軽い痺れが骨を伝って太腿辺りにまで登って来る。苛立たしさに、知らず右手親指の爪を噛んでいた。
 もう一度、腹立ちの勢いのままに爪先で目の前の閉ざされたドアを蹴る。合板の厚い板が揺れただけで、鍵が壊れたり外れたりする偶然は生まれてこなかった。
 どこかの女生徒にちょっかいを出しに行ったのか、放課後のグラウンドで汗を流している部活動を眺めに行ったのか。男子生徒にはとことん冷たいあの変態は、職場である保健室の鍵を閉めてどこぞに遊びに出ているらしい。誰かが――もっと大怪我をした生徒が駆け込んできたらどうするつもりなのだろう。
「いてて……」
 叫んだからか、奥歯がズキンと痛んだ。綱吉は他の肌と比べても明らかに赤黒くなっている左の頬を押さえ、溜息をつく。
 先ほどの勢いは何処へやら、すっかりしぼんでしまった気持ちは行き場も無く足元をさ迷う。
 さて、どうしよう。
「このまま帰ったら、母さんに心配かけるよなあ」
 更に溜息を零し、ついでにひとりごちる。だが言葉とは裏腹に真っ先に思い浮かんだのは、綱吉の家庭教師だと自負する赤ん坊、リボーンの顔。彼に今の醜態を見られでもしたら、なんと言われ何をされるか分からない。
 言い訳は、考えておいた方がいいだろう。本当の事を言っても別段構わないのだが、馬鹿だろう、情けないだの色々と責め立てられるのは明らかだ。
 出来るだけ目立たなく、地味に、地味に生きてきたつもりなのに、昨今の彼の周囲は本人が望む、望まないに関わらず騒々しく、すっかり賑やかなものに変わってしまった。友人が増えたのは心強く、憧れの女性と言葉を交わす機会も出来て万々歳ではあるが、反面、厄介なトラブルも後を絶たず、その為に生傷も絶えない。
 気がつけば綱吉の名前を知らない生徒は所属する中学の中にはいないほどで、裏を返せば出来る限り名前を知っていて欲しくない、お付き合いもお断りしたい面々にも顔が知れ渡ってしまっているという事。彼らは、この学校を実質的に仕切っている風紀委員の長でさえ、綱吉を買っているのが気に食わないらしい。
 いつもは綱吉の隣には誰かしら、特に彼を十代目と呼んで憚らない獄寺が付きまとっているのだが、不運な事に彼は今日、外せない用事があると行って先に帰宅してしまっていた。もうひとり、クラスメイトで特に仲の良い山本も、本日は部活動。ツナは居残りを命じられ、教室にひとり残って課題のプリントを提出させられていた。
 それが漸く終わって、階下の職員室へ提出しようと階段を下りていた最中、上級生で、俗に不良と呼ばれる素行に問題ありの生徒とすれ違った。二人組み、着崩した制服で、構内では禁止されているガムを噛み下から嫌な目つきで彼らは綱吉を見上げたかと思うと、避けようと左に寄った綱吉の前までわざわざ移動してきたのだ。
 仕方なく右に寄ろうとすると、もうひとりがすかさず進路を塞ぐ。左に戻ろうとすれば、もうひとりが身体を使って綱吉の視界をどうあっても遮ろうとする。
 いったい何がしたいのか、何が楽しいのか綱吉にはさっぱり分からないのだが、両者ともニヤニヤと笑いながら綱吉を嘗め回すように見ている。正直気分が悪いし、何よりも気持ちが悪い。
 彼らに絡まれたのはこれが初めてではないが、大抵獄寺などがどこからか駆けつけてくるので今まで特別目立ったトラブルは起きていない。
 だが今日は、その獄寺はいないのだ。
「あの、通してくれませんか」
 覚悟を決めて、一段下に立っていても綱吉より上背がある上級生を見上げる。それでも泳ぎ気味に視線のまま、頼むと、目の前の二人組みは互いに顔を見合わせてニヤリと笑うだけ。ガムを噛む音が耳に張り付いて気持ち悪い。
「すみません、時間がないんです。通してください」
 笑うばかりで一向に道を譲る気配の無い彼らに内心舌打ちしつつ、教室を出る時に見上げた時計の針の位置を思い出す。早く帰らなければ、子供達がきっとまた騒ぎ出す。幼子は好き勝手にさせる傾向にある母親に任せておいたら、自分の部屋は帰る頃には魑魅魍魎の巣と化しているに違いない。遊んでもらえなかった時の子供達の、持て余されたエネルギーは、綱吉の想像を遥かに越えて恐ろしい以外の何物でもない。
 職員室はもうすぐそこだというのに、このままでは担任まで先に帰ってしまいかけない。その場で足踏みをしながら、どうにか彼らを抜く方法を考えるのだけれど、向こう側も綱吉が焦っているのが分かっているようで、しつこく進路を塞いでは悔しげに顔をゆがめる綱吉を笑っている。
 本当に、何が楽しいのだろう。
 別の階段を使えば済むだけの話だが、自分は何も悪い事をしていないのに迂回させられるのも釈然としない。
「通してください」
 語気を強めて尚も訴えかけるが、聞き入れられる様子は皆無。いっそ間を強引に抜けて行ってしまおうか。
 丸めて持っていた解答用紙が、いつの間にか皺だらけになっている。力を入れて拳を握りすぎたらしい、無意識の自分の行動に更に舌打ちしながら、綱吉は隙を窺う。
 そうして、左右に身体を揺らしてタイミングを計る間に、次はどちらへ動くか推し量っていた目の前の男達の間が少しだけ開いた。
 人一人がギリギリ通れるかどうかの幅でしかないが、元から小柄の綱吉ならば大丈夫。迷っている暇があったら走れ、と頭の中で叫ぶ声に促されるまま、綱吉は身体をやや斜め向きにして男達の間に割り込んだ。そのまま、一気に抜け出してしまおうともがく。
 だが、それもどうやら相手の思惑通りだったらしい。
 トン、と肩口に何かが当たる。腕ではない、恐らくどちらかの上級生の肩だ。
 それはさして力を込められたものではなかったように思う。だが無理に身体を隙間にねじ込ませていた綱吉はこの時既に危うい体勢になっていて、そこに外部から余分な力が追加されたのだ。
 後ろから、前に向かって。
 上から、下に向かって。
 あ、と思った時にはもう既に綱吉の身体は宙にあった。
 上級生が薄ら笑いを浮かべながら見下ろしている。中空をもがいた手から、握りつぶされた答案用紙がすり抜けていった。灰色の天井が真上に見える。右肩に衝撃。
「うっ、あ!」
 腹の底から溢れた息は悲鳴にもならず、雄叫びに近い状態で空気をかき乱す。右肩の次は腰、重力が狂ったように身体をかき回して綱吉を翻弄する。臀部が階段の角に直撃し、反転して左肩が地を滑った。左の頬に連続した衝撃が続き、目の前が真っ赤になった後真っ暗になる。あちこちが軋むように痛み、衝撃が止んだと気づくのに随分と時間がかかった。
 一瞬だけ意識を失っていたらしい。左側を下にして倒れた綱吉の真横を、げらげらと声を立てて上級生が通り過ぎていく。上に行くんじゃなかったのかと、遠ざかっていく踵を踏み潰された上履きを眺めながら思った。掌に、宙を舞っていた答案用紙が落ちてくる。
 薄暗さが増すばかりの廊下で通りかかる生徒も教員もおらず、開け放たれたままの窓から時折部活中の生徒の掛け声が聞こえてくる以外はとても静か。夕日が差し込んで西日が眩しく、綱吉の目の前に濃い影を作っている。 
 彼は長い時間をかけ、ゆっくりと身体を起こした。
 手抜きの掃除しか成されていないようで、廊下は砂埃だらけだ。全身についてしまったそれらを軽く払い落とし、まだぼんやりとしている頭を振って意識の覚醒を促す。同時に頬が痛み、更に肩がずきずきとして腕が上手く上がらない。
 先ほどの上級生を追いかける気力はもう無い。さっさと諦めて迂回してしまえばよかったと、心の底から悔やんでいる。何故あんな強気な態度に出たのだろうと振り返れば、周囲にいつも自分を守ってくれる誰かが居たからだというところに至った。
 ならば、自分はひとりきりではとても、とても無力だ。
 ぐずっと鼻を鳴らし、目頭が熱くなりそうなのをギリギリで堪えて立ち上がる。膝が笑って手すりにすがらなければならなかったが、深呼吸を繰り返すうちに少し落ち着いてくれた。
 落とした答案用紙を広い、皺を伸ばす。綱吉はその後、あちこち痛む身体を懸命に動かして職員室へたどり着き、課題を提出すると同時に、案の定その顔はどうしたのかと質問を受けた。だから階段から落ちたのだと素直に答えると、帰る前に保健室に寄っていくように勧められた。
 あの上級生に関しては、言わなかった。言ったところでどうにかなるわけでもなく、彼らもきっと、肩をぶつけてきた綱吉が勝手に落ちたのだと主張するだろう。目に見えて負ける喧嘩に、手は出したくない。
 提出を終え、一礼して職員室を辞する。本当はそのまま教室に戻りたかったのだが、頬の痛みは一向に引く様子がなくて、仕方なく保健室へと向かった。
 そして、保健室の鍵が閉まっている現実に絶望している。
「どうしよう、もう……」
 今からシャマルを探すのか、どこにいるかも分からないのに(想像はつくが)。
 頬の痛みがまだ続いている、どこか切れているようで血の味がうっすらと舌に乗っかってくる感じだ。
 鏡を見ていないから今自分がどんな顔になっているのかも分からないけれど、担任の反応を見る限りそれなりに腫れてしまっているようだ。自分で触れても、なんとなくそれが分かる。
 歩けるから、骨に異常はなさそうだ。肩を交互に回す、多少痛みが残っているけれどこちらも動く、大丈夫。咄嗟に受身を取ったらしく、その辺だけはあの恐ろしい家庭教師の教育の賜物だろうかと自分で納得した。
 しかし今日の出来事と、仕事を放棄しているシャマルには納得出来ない。
 もう一度右足で保健室のドアを蹴り飛ばす。大きな音が静まり返る廊下に響き渡った。
「器物損壊」
 余韻さえも残さない静寂の中に、不意に、静かなテノールが綱吉を直撃する。
「公共物器物損壊」
 淡々とした話口調、聞き覚えのある声。綱吉に否応がなしに緊張が走り、身体が硬直してしまった。
 いったいいつの間に、と思う。存在を気取らされないように接近し、標的を一撃で粉砕する彼の特性を忘れていたわけではないが、予想だにしなかった存在に綱吉の背筋に冷たい汗が流れた。
 泣く子も黙る風紀委員長、雲雀恭弥。
 錆びたブリキ人形のようにぎこちない動きで、首から上だけを後ろに向かせる。綱吉の目に逆光を受けてシルエットだけ浮かび上がらせた存在が映った。間違いない。
 間違えようが無い。
 昔は遠巻きに見るしかなかった。黙って立たせておけば女生徒が放っておかない整った顔立ち、しかし口を開けば毒舌が飛び出し、自分の意に沿わない相手に対しては絶対的な暴力によって屈服させる。彼に逆らってこの中学で無事卒業を迎えられた奴は居ないとまで言われ、しかし教員達からの信頼は厚い(単に腫れ物に触りたくないだけかもしれないが)。
 綱吉にしてみれば、彼が何にこだわっているのかもさっぱり分からない。
 だがある事件で彼と思いがけず接近する機会を得て、その後なんだかんだで、馴れ合いとはまた違う緊張感のある関係を築いている。
 但しそれは、殆ど学外での話しだ。学内では単純に、綱吉は一生徒であり、彼は風紀委員。綱吉のような生徒を取り締まる立場にある。運が悪いことに、保健室のドアを蹴り飛ばしていた瞬間はしっかり見られている。
「君」
 見下ろされて、目が合った。西日の明るさにも慣れて輪郭以外の部位もちゃんと見えるようになる頃には、雲雀の顔が不満げに歪んでいるのが見て取れた。
 手が伸びてくる、反応する前に左頬に触れられた。
「いたっ」
 まともに傷に指を押し当てられ、悲鳴が漏れる。向こうとしては撫でたつもりだったかもしれないが、他者から与えられる感触は自分で自分に触るよりもずっと鋭敏に受け止めてしまう。実際はそれほど痛みを感じて居なくても、だ。
 短くあげられた声に、雲雀は更に眉目を顰める。綺麗な顔なのに勿体無い、とどうでも良い事を見返しながら考えていたら、手が離れていった。
 なんとなくではあるが、薄れていく他者の体温が寂しい。
「閉まってるんだ」
 綱吉の横に並ぶようにして立ち、彼はドアの取っ手に指を引っ掛けた。開こうとするが、鍵は掛かったままなので当然適わない。綱吉が響かせていたよりもずっと大きくドアを揺するけれどやはり反応は芳しくなく、二度三度確かめて彼は肩を竦めて扉から離れた。左右に首を振り、廊下の端から端まで見回すけれど、鍵の持ち主の姿は欠片も見当たらない。
 もしや風紀委員特権として保健室の鍵を持ってはいないだろうか、と淡い期待を抱いてしまった綱吉であるが、今の雲雀の態度からしてそれはなさそうだ、と落胆する。それはそれで、風紀委員に対しての、強いては雲雀恭弥に対しての偏見でしかないのだが、溜息交じりに肩を落とした綱吉を見て、彼はなんと思ったのだろう。
「それ」
 二人分の爪先を見下ろしていた綱吉の頭に、声が降る。
「どうしたの」
 相変わらず感情を読みにくい、淡々とした口調。顔を上げた綱吉の視線と、保健室のドアを睨む雲雀の視線は絡まない。
「えっと、階段から……落ちました」
「そう」
 答える瞬間に雲雀は綱吉の方を向いたが、今度は綱吉が先に視線を脇に逸らしていた。西日を受けて廊下の床に、窓の影がいくつも無機質に並んでいる。雲雀の返事もまた、素っ気無い。
 本当の事ではあるが、事情は省略しておいた。事細かに彼に語る道理はないし、喋ったら喋ったで、その後どんな展開になるか予測がつかなくて恐ろしい。
 雲雀は仕返しにでも行くだろうか。だが自分達はそこまで親しい間柄でもなく、雲雀にだってそんな無駄でしかない行動に出る義理もないだろう。
 だから結局、黙っているのが一番良いに決まっている。
 綱吉はそっと息を吐いた。奥歯の辺りが痛む、歯が抜けたというわけでもないが、変なぶつけ方をしたかもしれない。
 そっと掌全体で頬を包むように押さえ込む。と、黙っていた雲雀が唐突に歩き出した。置いていかれる、直感的にそう思って、その考え方は可笑しいと一秒後に気づく。
 だって自分が彼と一緒にいる必要性だって、本当はないじゃないか。
 だのに置いていかれると感じたのは何故か。胸の奥がざわざわして、落ち着かない。触れられた頬から指が離れ、体温が遠ざかっていた時に去来した寂しさが蘇る。
 空っぽの右手を握り締める。自分は、帰らなければならないのだ、こんな場所で時間を潰している暇はないのだ。雲雀がドアを蹴っていたのを見逃してくれるなら、それはそれで十分ではないか。
 無理矢理に自分を納得させ、彼とは反対側へ歩き出そうとする。教室へは少し遠回りになってしまうけれど。
「綱吉」
 それなのに、折角気持ちを片付けて背中を向けようとしていたのに、雲雀は。
 彼は、呆気なく、綱吉の決心を打ち砕く。
「おいで。その顔で帰る気?」
 足を止め、彼は綱吉を見ていた。左手を差し出し、手招いている。
 表情は逆光に霞んで殆ど見えない。笑っているのか、怒っているのか、抑揚のない声だけでは綱吉には分からない。
 しかし。
「あっ、はい!」
 ほぼ脊髄反射で綱吉は頷いていた。先ほどまでの決心は一瞬で霞となって掻き消え、跡形も残らない。
 思わず走り出そうとしていた彼は、自分の身体が平時とは違って負傷しているのを忘れて危うく転びそうになり、雲雀に寸でのところで抱きとめられて本日二度目の、床との抱擁を免れた。
「う……」
 どうしよう、とてつもなく恥ずかしい。
 瞬間湯沸かし器のように顔が真っ赤になり、頬が熱くなっているのが見なくても、触れなくても分かる。きっと耳の先まで赤くなっているに違いない、そう思うと情けないやら格好悪いやらで、顔を上げることさえ出来ない。
 綱吉は雲雀の、胸元を支えている腕にしがみつき、顎が喉にくっつくくらい顔を伏せた。呆れたような吐息が、襟足を通り過ぎていく。
「これ以上怪我増やすつもり?」
 案の定冷たい口調で言われ、身体を引き起こされる。二本足で立たされ、まだ笑っている膝を思わず叩いた。そうしている間に雲雀は離れていって、勝手に歩き出す。今度は立ち止まって振り返ってもくれない、どんどんと距離は広がっていく。
 綱吉は慌てた。まず、追いかけるべきか、否かで。
 そして追いかける選択肢を選び取った後、次に浮かんだ疑問が、どこへ行くかだった。
 保健室はここだ、鍵は閉まっているが。シャマルを探しに行くのだろうか、だけれどそれだったら、綱吉はここで待っていても別段問題ないはず。
「あの、雲雀さん。どこへ」
 行くんですか、と。
 追いかけながら背中に問いかけるが返事は無い。すたすたと綺麗な姿勢で廊下を真っ直ぐに突き進んでいく。わが道を行く、彼の性格をそのまま現したかのように。
 綱吉は遅れないように、転ばないように注意しながら彼を追いかける。そうしてふと、この道順でたどり着く先がどこなのかを思い出した。階段は登らず、保健室のある一角から少し離れた地点でようやく、雲雀の足が止まった。
 頭上のプレートには、応接室と書き記されている。と言っても現在この部屋は来客が使用する部屋ではなくなってしまっているので、表札だけが残されているのはある意味滑稽だった。
 綱吉は扉の前で佇む雲雀から一歩半の距離をとり、同じく立ち止まる。困惑の表情のまま見守っていると、鍵をポケットから取り出した雲雀は迷いもせず錠を外し、引き戸を開いた。中の照明は消されており、西日が斜めに差し込んで半分だけが明るい。
 雲雀はやはり何も言わず、綱吉を促しもせず自分だけがそこにいるかのように、部屋に入って行った。慌てて開け放たれたドアの前まで移動するが、入っていいものかどうか分からず綱吉は更に混乱してしまった。
 おいで、と言われたからついてきたのだが、果たして彼のテリトリーに自分が足を踏み入れていいものか、どうか。何かの罠じゃないかと勘繰りさえもして、しかし入室を無言で許可されているのかもしれないと考えると心臓が張り裂けそうな程拍動が速くなる。
 綱吉はぎゅっ、と胸の前に当てた手を握り締めた。拳で口元を覆い、中に入って出てこない雲雀を薄暗い中から探し出そうとする。
「なにしてるの」
 やや不機嫌に彩られた声が室内から飛んで来て、反射的に肩が強張った。びくっ、と大げさに震えてしまい、反応が遅れる。
「おいで」
 声だけしか聞こえない。姿が見たくて、足を一歩前に出した。だけれどまだ見えなくて、更にもう一歩、前へ。
 上履きの底がレールを跨ぎ、乗り越える。廊下とはまた違った薄暗さの室内に動く影、雲雀の姿を見つけた時綱吉は何故かほっとした。
 彼は部屋の中央に置かれた分厚いテーブルに、何かを並べているところだった。西日の照り返しで何とか輪郭だけが見える。乳白色の小瓶と、白い布のようだった。
「電気」
 綱吉の後方を指差し、雲雀が呟く。指摘されてハッとなった彼は、慌てて振り返って扉近くの壁に設置されたスイッチを押した。
 急激に部屋の中が明るくなり、眩しさに目を細める。振り向いたついでにもう恐らくは誰も通らないだろう扉を閉めて身体の向きを戻すと、準備が終わったらしい雲雀にまた手招きされた。指の動きだけで座るように指示される。
 生徒が座るべきものではないだろう、重厚な革張りのソファ。座ってみるとふかふかで、身体が沈みそうになるのを、肘置きに捕まって防ぐ。
 雲雀は膝の裏で重そうな丈の低いテーブルを押しやり、綱吉が座ったソファとの間に空間を即席で作った。小瓶の蓋を開けて小さく切ったガーゼを口に押し当て、斜めに倒す。
「沁みるよ」
 小瓶の向きを戻してテーブルに置いて、彼は低い声で言った。
 まるでこの部屋は学校の中にあって、学校という空間から切り離された場所のようだ。窓は締め切られていて、太陽の光に暖められた空気が充満しており、座っているだけでも汗ばんでくる。グラウンドで部活動中の生徒の声は遠く、時々硬球を打ち返す甲高い打撃音が聞こえてくる。
 ああ、山本もこの無数の声の中に混じっているのだなと、ぼんやりしていたら、不意打ちが左頬を襲った。
「っ!」
 沁みる、どころではない。傷口を焼かれたような痛みに綱吉は悲鳴さえあげられず、肘置きに乗っていた指先が左右十本揃って跳ね上がった。
 生理的な涙まで浮かんできて、綱吉はいつの間にか目の前に立っていた雲雀を恨めしげに見上げる。頬に押し当てられたガーゼから、小瓶に保存されていたと思しき消毒液の臭いが漂ってくる。じんじんと、一時期忘れかけていた頬の痛みが此処に来て倍増した。
 心構えが出来ていなかっただけに、余計に痛く感じる。
「沁みる、って言ったよね」
 けれど雲雀はちっとも悪びれた様子もなく、擦らないように力加減を調整しながら、綱吉の左頬にガーゼを走らせた。
「こんな、の」
 そのあまりの優しい手つきと、不遜な態度とのギャップに困惑を隠せないまま、つい綱吉は、
「舐めてれば、治ります」
「どうやって?」
 強がりを言って顔を逸らし、ついでに頬からガーゼを遠ざける。だが冷ややかな問いかけを直後に返され、ぐうの音も出ず押し黙るしかなかった。
 自分の頬を自分で舐めるなんて、不可能だ。よっぽど舌の長い人でもない限り、は。
 己の失言に恥ずかしくて顔を再び真っ赤にし、綱吉は今度こそ大人しく消毒を受け入れた。ある程度の覚悟をしておけば、痛みもさほど感じずに済む。奥歯を噛み締めてガーゼの動きを感覚で追いかけ、最終的に彼は目を閉じた。
 消毒が終わると、雲雀はまた別の小瓶を新しいガーゼに押し当てて液を染み込ませる。薄目を開けて確認した綱吉だったが、準備を終えて雲雀が向き直ると、咄嗟に目を閉じて背筋を伸ばし、居住まいを正して待ち構えてしまった。殆ど反射的に出た行動であり、斜め上から笑っている気配が漂ってきて、余計に恥ずかしくなった。
 本当は俯きたかったのだが怪我をしている箇所が箇所なのでそうもいかず、顎を引いて耐える。
 雲雀はガーゼを軽く、何度かに分けて擦り切れた頬の上に押し当ててきた。押される時に痛みはあまり無いのだが、同時に肌に浸透してくる液体が痛い。左の奥歯ばかりに力が入って、何度も拳が膝を叩いた。
「暴れない」
 厳しい声で諭され、その度に動きは止まるのだけれど数秒もすればまた勝手に、脳が命じていないのに動いてしまう。最後は苦笑されるばかりで、もう何も言われなかった。
 薬剤を塗布された後は、傷口が覆いかぶさるくらいに新しいガーゼを切って、何枚か重ねたものを頬に載せられた。半透明の細いテープで、落ちないように固定して終了。手馴れた作業に綱吉は感心しつつ、手は無意識に左頬に触れようとする。
「触らない。他に怪我は?」
 だが寸前で怒られてしまい、慌ててまた膝に手を下ろした。
「えっと……肩の後ろとかが、少し」
 肩を竦めた際に僅かに感じた痛みを正直に告げる。着ているシャツが変に動いて肌を擦ると痛いらしく、じっと椅子に座っている分にはなんら問題ない。
 言われた雲雀は眉根を寄せ、薄汚れている綱吉のシャツを見下ろす。それから先は何も起こらない。
 ただじっと見下ろされるだけで言葉をかけられるわけでも、シャツを剥ぎ取られるわけでもなく、綱吉は居心地の悪さだけを感じて雲雀の前で小さくなるしかなかった。
「で?」
 ようやく声が聞けたかと思えばそんな愛想の欠片もないひとことだけで、どうして欲しいとか何かをしろとかも言わずにいる。借りてきた猫のように大人しくしている綱吉は、蒸し暑い室内にいる為ではない汗を額に浮かべ、それからふと、気づいた。
 自分からどうして欲しいのかを、主張すればいいだけの話なのではないか。
 顔を上げると目の前の青年は不機嫌さが増しているオーラを放っている。紛れも無くこれは自分が行動に出ない為のものだろう。雲雀を今以上に苛々させて、不用意に怒らせたくはない。
「えっと、だから、あの、すみません。背中も……御願いします」
 上ずった声で慌てて首を振り、シャツのボタンを外していく。彼の前で素肌を晒したくはないのだが、そうも言っていられない。
 布が傷口に当たらないように慎重を期してシャツを脱ぐ。袖から腕を抜くと、それまで蒸し暑いと感じていた空気が急に冷たく感じられた。
「見せて」
 鳥肌を立ててフルっと身体を震わせると、雲雀が膝を僅かに曲げて顔を近づけてきた。間近で見つめ返せなくて、不自然な目の逸らし方をした綱吉は彼に背中を向ける。自分では分からなかったが、かなり赤黒く腫れた皮膚は痛々しく、擦り切れた部分は血が滲んでシャツの内側にこびりついていた。
 雲雀の整った眉目が歪む。例に素手で触れてみると、
「いたっ」
 綱吉が瞬間的に叫んで身体を強張らせた。涙目で恐々と雲雀を振り返り、少しだけ唇を尖らせる。
 雲雀は肩を竦めるしかなかった。
「誰にやられたの」
「……階段から落ちました」
 消毒薬の臭いが応接室に充満する。
 保健室前で聞かれた質問を繰り返され、綱吉も同じ回答を口にする。多めに液を染み込ませられたガーゼの、肩口に投げるように押し当てられて冷たさと痛さに、綱吉は息を詰まらせ悲鳴を飲み込んだ。
 背中を向けているので表情は分からないが、雲雀がまた機嫌を悪くしたのが肌にひしひしと伝わってくる。
「僕は、誰にやられたの、と聞いたんだけど」
 淡々と、語尾を上げることなく、問い直される。
 ゆっくりと動かされる右手はガーゼを肩に置かれた時とは違い、頬を消毒してくれた時のように優しい。傷口に沁みて痛いのは変わらないが、首の付け根辺りの傷が無い辺りに置かれた左手のぬくもりも、なんと言い表しようが無い程暖かく、心地良かった。
「言わないと、ダメですか」
「そうだね、噛み殺されたくなければ」
 左手の爪を襟足に突き立てられる。さして力を加えられたわけでもないのに、ゾッと悪寒が背中を駆け抜けた。
「どうする?」
 爪が皮膚に食い込んでくる。彼なら本気で肉に突き刺してきそうだ。肉食獣を前に無抵抗を強いられている草食動物の気持ちが分かる、己を捕らえた罠はきっと死ぬまで自分を放さないだろう。
 喉が渇く、唾を飲み込む音が嫌に大きく耳に響いた。
「な、名前は……知りません」
 だが上級生、恐らくは最上学年だ。顔と体型と、制服の着崩し方を覚えている限り、時折呂律が回らなくなりながら告げると、漸く納得したようで雲雀の左手は綱吉の首根を開放した。更に新しくなったガーゼが左肩に落ちてくる。
「あの、その人たちって」
 少なからず同情を覚えそうになった自分に綱吉は驚きつつ、恐々雲雀を見上げる。端正な顔立ちが思いもかけず間近にあって、勝手に頬が赤くなった。
 雲雀の鋭く切れながら目が、笑っている。薄い唇を舌で舐め取る姿に、綱吉は背徳的な何かを感じてしまって慌てて視線を逸らした。
「校内の風紀を乱す輩は、きちんと教育しないとね」
 貴方の言う教育とは懲罰の事ですか。喉元まで言いかけて、堪えた。
 自分に下手なちょっかいをかけてきた為に、風紀委員長の目に留まってしまうとはなんたる皮肉か。顔を覆いたくなって手を持ち上げようとしたが、消毒が終わった傷口に薬剤の塗布を開始されて肩が跳ね上がった後、脇に落ちていった。
 彼らから恨みを買わなければいいが。これで復讐などを狙われたらたまったものではない、自分は被害者なのに。
 最近は本当に、望んでいないのに周囲がまず騒がしく、自分は巻き込まれて結局最後は騒ぎの中心にいたりする。平穏だった日常が遠い過去のようで、あの頃に戻りたいのだけれど、戻ってしまうときっと、寂しく感じるのだろう。
 トントンと叩くように薬剤を傷に塗られる。かなり広い範囲だ。どんな落ち方をしたのか自分でも思い出せないが、頭を打たずに済んでよかったと心底思う。
 薬が塗られた瞬間はヒヤッと肌が冷えるが、離れていくと周囲からじんわりと熱が広がっていく。痒い。
 何度かガーゼを交換して薬を塗られる。会話はない、淡々と時間だけが過ぎていく。
 今頃子供達は何をしているだろう、帰らない自分を心配しているだろうか。部屋は無事だろうか、今夜寝る場所が確保できると良いのだが。
 ぼんやりと考える。窓の外はさっきよりも大分陽も落ちて、部活中の掛け声ももう殆ど聞こえなくなっていた。この部屋に時計はないのか、気になって首をぐるりと回す。
 と、作業が終わったのか唐突に雲雀の手が離れた。後ろから支えられていたのが無くなり、バランスを崩して椅子から倒れそうになる。
「っと」
 咄嗟に何かに捕まって傾いた身体を支えたが、掴んだものは柔らかく暖かい。右の頬を押し当てるようにしていた体勢で気づくのが遅れたが、綱吉は、雲雀の腰に両手を回してしがみついていた。頬に触れるのは雲雀のシャツ、丁度胸の辺り。
「え……っと」
 恐る恐る顔を上げて自分を見下ろす雲雀の視線に、綱吉は慌てて両手を広げてソファに戻った。背もたれに折角薬を塗ってもらった傷口が擦れて、痛みに声が漏れる。切れていた口の中で、また傷口が開いたらしく血の味が舌に広がった。
 雲雀は不機嫌になるかと思いきや、笑ったようだった。
「怪我、治す気無いの?」
 鉄の味がする唾を飲み、苦虫を噛み潰した顔で俯く綱吉に雲雀は軽い調子で言い、その癖っ毛な頭に手を置く。
「ああ、そういえば」
 彼は膝を曲げた、座っている綱吉と目線の高さが揃うように。
 整った顔立ちが目の前に現れて、綱吉の視線が僅かに泳ぐ。何かを企んでいるのが知れる瞳の色に、何をされるか分からない恐怖心が綱吉を包んだ。逃げようにも、彼の手はまだ綱吉の頭の上、ゆっくり滑って左の耳に触れ首元に添えられる。親指は喉仏の上、そこに力を込められればどうなるか、喧嘩など殆どしない綱吉にだって分かる。
 ごくりと唾を飲み込むと、一緒になって雲雀の指も上下に動いた。
 しかし綱吉の緊張を知ってか知らずか、雲雀は彼の喉仏を数回指の腹で撫でるだけに留まる。重なった視線、綱吉の表情に戸惑いの色が浮かんだ頃、雲雀は口角を歪めて笑った。
「君は、舐めておけば傷は治るんだっけ」
 すっかり忘れていた先ほどのやり取りを、掘り返される。一瞬何を言われたのか分からなかった綱吉だが、視線の先で雲雀の首から上がすっと滑ったのに気づき、直後眼を見張る。
 肩口に顔を伏せた雲雀が、消毒を終えた綱吉の肩の傷に舌を這わせたのだ。
「……っ」
 生温い柔らかい感触が肌に伝う。ねっとりとした室内の空気も手伝って、全身から汗が噴出した。
 直後に感じた僅かな痛みは、多分歯を立てられたのだろう。
「ひばりっ、さん!」
 金縛りになったように身体が動かない。辛うじて回る舌で懸命に名前を呼び、混乱する頭で必死に現在の状況がどのようなものなのか、把握しようと考える。
 生暖かい柔らかいものが、傷がある肩口から離れて首筋をツ……と伝った。顎の手前まで辿って、遠ざかる。
 綱吉の潤んだ瞳に舌先だけを覗かせた雲雀の唇が映し出される。それが辿ったとおぼしき箇所は暖かさに触れた後空気によって冷やされて、感じたくないのに、その場所だけが他と違うと、綱吉に教えている。
 はぁ、と綱吉は息を吐いた。赤くなった顔が示す通り、その息も普段よりずっと熱を帯びている。上半身に何一つ羽織っていないのに寒さを感じないのは、部屋が元から暖かかったからなのか、それとももっと違う理由があるのか。
 綱吉は下唇を浅く噛んだ。何故か根拠もなく、「狡い」と思った。
「怪我、治るんじゃないの?」
 雲雀は悔しくなるくらいに涼しい顔で、綱吉の赤い顔を面白そうに見下ろす。出していた舌で上唇を舐めて、ククっと喉を鳴らして笑いを堪えて綱吉の斜め下を向いている頭を何度か撫でた。
「他はもう無さそうだね」
 手が離れていく。逃げる体温に、寂しさを隠せなくて綱吉は唇を尖らせた。
 雲雀は使った薬品を片付けに入っている。山になっていたガーゼをゴミ箱にまとめて放り込み、消毒薬の瓶の蓋を閉めて。綱吉の表情にも気づかない。
 舌の上にザラっとした感覚。そういえば口の中も切れていた。
「あ、えっと」
 まだ、傷は残っている。言おうかどうか迷って言葉が浮かばない。綱吉の半端な声に雲雀は片づけの手を止めて振り返る。目が合って、首を傾げられ、綱吉は余計に困った。
 どうしよう、言おうか。でも、言ってどうする。
 だって、これは、この感情は、おかしい。
 おかしいのに……
 赤い頬を隠せない。綱吉は俯いて、頬に宛てられたガーゼの冷たさに少しだけ救われながら、胸の前で結んだ手を開いては閉じる。
「なに」
 雲雀の、変わらない声。あと十秒もしたらきっと不機嫌に彩られてしまうだろう、気まぐれな彼。
 正直言って、彼がどんな人なのか未だによく分からない。だけれど、多分、きっと、嫌いではないのだ。
 むしろ、気になる。
「えっと、あの、まだ、あります」
 キッと眼を見開いて、顔を上げる。雲雀の顔が逆光のお陰で輪郭ばかりが浮き上がり、まともに目を合わせずに済んだのが綱吉にとって救いだった。
 真正面から見つめ合っていたら、多分、こんな事言えない。
「口の中、まだ……切れて、て、……その、血が、出てます」
 もごもごと最後は口籠もりながら小声で告げる。自分でもどうしてこんな事を言ったのかよく分からない。けれど、幾度と無く感じた雲雀の、冷たそうな外見に似合わない暖かな感覚を、手放したくなかった。
 耳の先どころか指の先、足の先まで真っ赤になっているだろう綱吉は、ぎゅっと膝の上で拳を握りしめ、硬く目を閉じる。
 きっとバカにされる、冷たく突き放されるに決まっている。言った傍から後悔しきりの綱吉の眼には映らないところで、雲雀は言われた内容に僅かな驚きを覚え、目を見開き、それから思案するかのように己の顎を細い指で撫でた。切れ長の目は細められる。
「ふぅん」
 相槌を打つ、雲雀の抑揚の感じられない声。綱吉は殴られる事も覚悟して、奥歯を噛みしめた。その硬い顎を、冷たい指が撫でる。
 え、と思い綱吉は目を開けた。至極近い場所に、雲雀の顔がある。
「どこに、あるって?」
 細められた目で、問いかけられる。
 綱吉は足先から自分の身体が硬直していく気がした。メデューサの視線で石にされた人間の気分で、乾いた唇がぱくぱくと息を吸おうと無駄に動く。
「え……」
「見せて」
 雲雀の手が綱吉の顎を掴み、顔を上向かせる。逆らえなくて喉元を晒した綱吉は、続いて問われた内容に、再び目を閉じる事を余儀なくされた。
「で? その傷、どうして欲しい?」
 薬を塗れない位置だとは、雲雀だって分かっているだろうに、わざわざ言葉にして問いかけて。彼は笑いながら、親指の腹で綱吉の下唇を撫でた。
 ぞわりと背筋が泡立つ。
「う……」
「まぁ、いいけどね」
 くすっと雲雀が笑った。
 太陽が間もなく西の地平線に沈もうとしている。窓から差し込む明かりは低い位置から、彼らを照らしていた。
 長い影が室内に伸びる。薄暗い中、ふたつの影が重なり、やがて消えた。

Radiant

 昨夜は雷鳴が轟く嵐だった。
 窓の外は豪雨で、ほんの少し頼りない窓枠は風が吹き付けるたびにガタガタと音を立てて揺れた。湿った空気は室内に満ち、肌寒さを覚えて身体を抱きしめた背後で光が瞬く。
 数秒後、遅れてやって来た轟音が周囲からすべての音を掻き消した。
 一瞬だけ天井から室内を照らすライトが消え、直後チカチカと明滅してからパッともとの明るさを取り戻す。消された音が耳に戻って、忘れていた呼吸を思い出し長く重い息を吐きだした。
 彼女はカーテンをそっと開き、そこから覗く景色をしばらくじっと見つめた。
 昼間であれば、そこからはとても明るく綺麗な空が見えただろう。けれど今窓の外にあるのは、雷雨を地上にもたらす分厚い雲であり、透明なガラスに映るのは室内の明かりを背後に背負った彼女自身の姿だけだった。
 時折、遠くで雷の光が奔る。その度に肩を竦ませて身を縮めれば、まるでタイミングを計ったかのように轟音がそれに続いた。
 床が揺れたかと思うほどに大気を震わせる雷は、天の怒りを象徴しているようでもあった。
 握りしめたカーテンを見つめ、手元に刻まれた布の皺の数を数えながら彼女はそっと吐息を漏らす。
 こんな夜は早く眠ってしまうに限る。ひとりぼっちで雨を見つめ続けるのは気が滅入るばかりで、雷は綺麗だけれどこの大地を揺るがす音は嫌いだった。
 薄いカーテンから手を放し、窓に映る自分の姿を掻き消す。背を向けようとした先で空っぽの鳥籠を見つけ、視線が止まった。
 緩やかな曲線を描く木製のフックに吊り下げられた鳥籠には、そこにおさめられるべき鳥が居ない。鍵の掛からない鳥籠で羽を休める鳥はない。
 彼女はフックに近付き、両手を持ち上げて静かに鳥籠を外した。胸に収め、そっと抱きしめる。
 金属製の籠は冷たく、彼女の肌をさらりと撫でた。
 こんな夜は、鳥たちもきっと眠れぬ時を過ごすのだろう。小さな巣の中で、まだ自由に空を舞うことの出来ない子供達を必死に翼を広げて守りながら。
 何事もなく嵐が通り過ぎていく事をただひたすらに願いながら、息を潜め落雷の鳴動をやり過ごしているのだろう。
 外では相変わらずの雨、そして断続的に鳴り響く雷。窓の外から飛び込んでくる眩しいばかりの光に、尚更強く空っぽの鳥籠を抱きしめて彼女は瞳を伏した。
 白い素肌に鳥籠の外枠が浅く食い込み、痕を残す。けれど彼女は構うことなく、なにかを鳥籠に重ねたかのように抱きしめ続けた。膝を折りその場で祈るような姿勢を作って、ただひたすらに。
 せめて、この腕が雨風に晒される鳥たちを守る壁となれば良いのにと願って。
 夜が更けていく。
 雷は深夜遅くまで、雨は早朝まで降り続き、嵐は東の空へ流れていった。

 
 嵐が過ぎ去った朝は、静かだった。
 あらゆる空を覆い尽くしていたものは、昨夜の嵐ですべて押し流され、あるいは攫われていったのかと思いたくなるほどに、一面の青空がそこに広がっていた。
 空気も心持ち澄んでいる、地上に無数に出来上がった水たまりに反射する太陽の光も眩しい限りだった。
 けれど嵐があった証拠はあちこちに残され、一晩ですっかり景色が変わってしまった場所もあった。
 落雷を直撃して幹の半ばまでまっぷたつに裂けた上、殆どの枝と葉を焼け焦げさせた大樹。そこまで酷くはなくとも、大きな枝を根元で折られてぶらんと垂れ提げさせている木々。昨日までは新緑も鮮やかだったのに、枝ごと奪われて裸に近い状態にされてしまった並木の数々。
 地上に這うように育っていた草木も被害を受け、花は散り下草も根元近くで折れ曲がって立ち上がれなくなってしまっていた。緑の葉の先端からは、朝露ではない水滴が重そうに滴っている。
 風に飛ばされてきたらしい、おおよそその場にはそぐわない物体も幾つか転がっていた。
 壊れた傘、泥にまみれた洗濯物だったのであろうシャツらしきもの、プラスチックのゴミ箱の蓋、等々。数えていけばキリがない残骸を見下ろしながら、彼女は隙間を縫うように歩いていた。
 胸に抱いた鳥籠が、水たまりから跳ねた飛沫に汚されぬようしっかり抱え込んで。自分を映す鏡になった無数の水溜まりをジャンプで飛び越えつつ、先へ先へと進んでいく。
 やがて景色がまた彩りを変え、水気を大量に含んだ緑の平原が見えた頃。
 彼女は、あるものに気付いて足を止めた。
 そこには等間隔で植樹され、成長した常緑樹が並んでいる。うち手前から三番目の一番枝振りが立派な木に、少し前一組のつがいが巣を作っていた。薄茶色をした翼を持った小さな鳥は、片方が餌を探して巣の周りを飛び回り、もう片方はじっと巣の中で静かにどっしりと腰を据えていた。
 卵があるのだと、彼女でも分かった。
 だからあの場所へ向かうとき、巣が出来たと知った日から必ず足を止めてつがいの鳥を見守っていたのだけれど。
 いつもの、首を少し持ち上げた先に僅かに見えるはずの巣が、今日はそこに見当たらなかった。
「…………」
 黙し、彼女は視線を己の足許に向けた。緑で一面が覆われ、木の根元にだけ土が露出している周辺を注意深く見つめる。
 探していたものは、簡単に見付かった。
 鳥の巣は、木の根もとに粉々に飛び散って無惨な姿を晒していた。親鳥の姿はどこにも見当たらず、視線を持ち上げて常緑樹を必死に見回すけれど、あのつがいの鳥はいくら探しても居なかった。
 もしかしたら、嵐をやり過ごすために一時的に非難しているだけかもしれない。もしかしたら、嵐が過ぎ去ったのだからまたここに戻ってくるかもしれない。
 彼女は微かな希望を胸に抱いて、巣があった木に近付いた。
 水に濡れた木の香りが広がる。膝を折り、壊れて地面に落ちた巣にそっと触れた。
 膝の上で抱いた鳥籠が歪な音を立てる。彼女の目の前で、水分を多量に含んだ鳥の巣は呆気なく崩れ落ちた。
 もとより、それと分かる程度に形が残っていた事さえ奇跡に近いのだ。
 指先に、湿り気だけが残る。ちょっと触れただけで壊れてしまった鳥の巣の感触さえ、彼女には与えられなかった。
 まるで触れられることを拒絶して、自ら壊れる事を選んだかのように思える呆気なさに、彼女は膝の上に置いた鳥籠をきつく抱いた。視線を伏せ、唇を固く結ぶ。
 砕け散った鳥の巣の残骸に隠された土の上に、白と灰色が混じり合ったまだらの物体が見えたのだ。
 それは、あのつがいが大事に抱きしめていた卵のはずで。
 けれど嵐が過ぎ去った今、それはもう命の火を灯しておらず砕かれた希望となって哀しい躯をそこに残すだけ。
 あのつがいの鳥は、きっともうここには戻ってこないだろう。遠く、彼女の見知らぬ世界へと飛び立ってしまった。
 彼女を置いて、飛んでいってしまった。
 昨夜の嵐を思い出す。何も出来ず、小さくなって震えていた幼い自分を思い出す。
 きっともう、二度と雷の光を綺麗だとは思わない。
「どうして……」
 空っぽの鳥籠を抱き、立ち上がる。降り仰いだ空はどこまでも澄み渡って、哀しいくらいに綺麗だった。
 この空は、鳥たちが自由に世界を巡るフィールドだ。あの空を想いのままに飛び回る事が、鳥たちの願いのはずだ。
 そして空は、鳥たちの願いを受けていっぱいの風を集めてくれるはずだ。
 なのに。
 嵐は、一晩でなにもかもを無茶苦茶に壊してしまった。鳥たちを優しく包むはずの空が、鳥たちの願いを踏みにじった。
 恋い焦がれ、愛おしんだ空に裏切られた鳥たちの願いは何処へ行くのだろう。それさえも、空が受け止めるのだろうか。
 彼女は止めていた足を進めた。壊れてしまった鳥の巣へは、視線を向けようとせずに。
 あの場所へ行こう。なだらかな丘の上、一本だけぽつりと立ち尽くす木の側へ。
 きっと、きっと、あの木だけは嵐の中でも動じずに在り続けるはずだから。
 少しずつ彼女の足が速くなる。最後には駆け足になって、緩い傾斜を登りきり背の低い丘の頂上にたどり着いた彼女の瞳に。
 映ったのは。
 緑に包まれ、太陽の光を葉に乱反射させて輝かせている、背の低い、一本の木と。
 そこに佇む、彼。
 なにも変わっていない、昨日よりも一層緑が鮮やかに映えた木とそれを取り囲む草原は、まるでそこだけが切り取られて嵐の直撃を受けなかったように、当たり前のようにそこに在って。
 彼女は息を弾ませて、鳥籠を抱いたまま残りの距離を走り抜けた。
「おはよう」
 彼が、彼女を見て笑う。
 珍しく肩で息をして興奮しているらしい彼女の様子を見下ろし、優しい眼を細めながら少し乱れていた彼女の髪をそっと撫でて直してやる。
「おはよう!」
 やや上擦った声が彼女の唇から溢れ出る。
 彼が、また笑った。
「晴れたね」
 昨日の雨は凄かったけれど、濡れたりしなかった?
 彼が問う。彼女は「ううん」と首を振り、雨が降り出す前にちゃんと家に帰った事を告げた。
 彼は「それは良かった」とひとつ頷いて、今度は目的もなく彼女の黒髪に触れ、撫でた。
 その何気ない彼の仕草が嬉しくて、彼女は微笑み照れくさそうにはにかんだ。両腕で抱きしめた鳥籠が、歪な音を立てる。強く抱きすぎていたのだと思い出して、彼女は慌てて取っ手を左手で握り直した。
 鍵のない鳥籠の扉が一度開き、そして騒々しい音を立てて閉じられる。
「今日は随分と急ぎ足だったようだけれど、なにかあった?」
 丘の上からなら、かなり下の方から駈けてくる彼女の姿が見えたのだろう。にっと歯を見せながら笑う彼に、彼女は微笑みを湛えたまま静かに首を振った。
 その時、遠くの青空にふたつの点が見えた。
 それは徐々に大きくなり、近付いてくるに従って一対の鳥である事が彼女の目でも認める事が出来るようになって。
 ふたりが立つ丘の頂に、ぽつんと聳える木の真上で旋回した。
 薄茶色の翼を持った、片方が少しだけ大きい、つがいの鳥。
「あ……」
 鳥籠を握る左手から力が抜け、するりとそれは湿り気を残す大地に沈んだ。傾き、倒れる。
 空になった両手が、無意識のままに少女の口元を覆い隠す。
 気付いた彼が、少女の見つめる先を見上げてほんの少し眉根を寄せ、木から離れた。
 つがいの鳥は地上のふたりにまるで目もくれず、気にした様子もなく豊かに枝を伸ばす木の周りを飛び回り、やがて落ちつく場所を定めたようでバランスを取りながら一本の枝に二羽並んで停まった。
 広げた羽を折り畳み、寄り添いあって翼を休める。
 彼女は何も言わなかった。彼も何も言わず、彼女が落とした鳥籠を拾って泥と草を手で払いまだ頭上を見上げている少女の横で、持て余したように鍵のない扉を開けて閉めて、を繰り返す。 
「良かった……」
 少女が呟く。
 風が吹いた。
 西から吹き付ける風はもう、雨の匂いを宿しておらず晴れ渡る空のように澄んでいた。
 明日明後日には、新しくこの木につがいの鳥が新しい巣を作るだろう。そしていつか、つがいの鳥の子供が力強く空へ羽ばたくだろう。
 彼はすっかり居心地よさそうに居場所を定めてしまったつがいの鳥を、少し忌々しそうに見つめていたけれど、やがて諦めたように肩を竦めてため息を零した。
「……とり」
 顔を顰めている彼を見上げ、彼女は言った。
「きらい?」
「うん」
 彼は即答した。少女が寂しげに表情を曇らせる。
「嫌いだよ。そうだね、でも」
 勿体ぶった言い回しをして、鳥籠を彼女に返した彼はコホン、とひとつ咳払いをした。
 彼女が見つめる前で、立てた人差し指をくるくると空に向かって回す。鳥のさえずりが聞こえた。
「ぼくに攻撃して来なければ、もう良いよ」
「なぁに、それ?」
「ぼくは鳥が嫌いです、ってコト」
 包帯に隠された左目を人差し指で二度ほど小突いて、彼はカラカラと笑った。つられるようにして、彼女もクスクスと笑い出す。
 それに、つがいの鳥の囀り声も重なった。
 きっと、これからも何度と無く嵐の夜がやってくるだろう。強い風と、鳴り響く雷と、地面を抉るような雨が襲い来る夜は無くならないだろう。
 けれど、もう大丈夫。
 ひとりじゃないから。

甘雨

 普段テレビを見ない生活が仇になった。
 獄寺隼人は、薄暗い空とそこから絶え間なく零れ落ちてくる雨を恨めしげに見上げ、思った。
 校則違反どころか、この国の一般的道徳からも逸脱しているくせに、最早誰も注意しなくなった煙草も、口に咥えられるだけで先端に火はついていない。それどころかこの湿気の為に、恐らくは余程頑張らなければ火はつかないだろう。
 忌々しげに舌打ちしつつ、獄寺は靴の裏でコンクリートの地面を数回蹴り飛ばした。
 彼の両脇を、授業を終えた生徒が続々流れて行く。彼、彼女らは機嫌を悪そうにしている獄寺を僅かに迂回しつつ、各々手にした傘を広げては、雨にぬかるんだ校庭に飛び出していく。
「よー、獄寺。どうした?」
 恨めしげに、雨に踊る傘を眺めていると、背後から聞きなれた、その上であまり聞きたくも無い男の声が響く。
 ゲッとなりつつも肩越しに振り返ると、案の定そこには自分よりも背の高い男が立っていた。平たい鞄を小脇に抱え、黒い折り畳み傘を広げようとしている最中の、山本武だ。
 同じ学年、同じクラス、そして何よりも獄寺が最も敬愛し大事に思っている相手の、親友という立場に甘んじている男。
 常に柔和な笑顔を浮かべ、男女ともに人気があり、クラスでも中心的立場にある彼を、獄寺が敬愛する相手もまた信頼し、大切な存在だと思っている。
 それが獄寺には気に食わなくて、常日頃から喧嘩を売るような態度を取ってしまう。だが元から天然が入っている性格の彼には全く通用していないようで、いつも獄寺が空振りさせられている。
 ある意味、わざとかと思ってしまうほどに、毎回。
「なんだ、傘持って来てないのか?」
 二つ折りにされている傘の骨を真っ直ぐに固定して、その上で折り畳み傘のカバーを鞄に押し込んだ山本に、獄寺は無言のまま顔を逸らした。
「天気予報見てなかったのか。今日は午後の降水確率八十パーセント越えてただろ」
 小ばかにするわけでもなく、いつもの穏やかでのんびりとした口調で告げる山本に、獄寺は悪かったな、と口の中で呟いた。
 山本はそんな獄寺に構いもせず、マイペースで一歩前に出て彼の横に並ぶと、滅多に当たらない天気予報だけれど、たまには当たるもんだな、と誰に言うとでもなしに口にした。
 獄寺の横を、クラスメイトがバイバイ、と手を振って通り過ぎていく。そんな彼らもまた一様に傘を広げ雨空の下を歩き去る。
 この学校で、傘を忘れて来ていたのはまるで獄寺ひとりだけのような空間だ。
「お前、あんまホームルームサボるなよ。じゃな」
 ポン、と軽く獄寺の肩を叩いて山本もまた折り畳み傘を広げ正面玄関前のポーチから出ていった。背の高い後姿がやがて傘に埋もれ、見えなくなる。
 さすがにあの傘に入れてもらおうとは思わない、そんな屈辱を受けるくらいなら濡れて帰る方が格段にマシだ。
 もう見えない山本に悪態をつき、しかしそこそこの勢いを保ちつつ一向に降り止む気配の無い雨に獄寺は頭を掻き毟った。
 確かに午前中、学校に出向く頃から空模様は怪しかった。しかし今日に限って何故か目覚ましが止まっており、制服のシャツもアイロンをかけてないものばかりで、髪の毛も寝癖で変な方向に曲がっていたりして時間が兎に角足りなくて、大急ぎで家を飛び出した時には傘を持っていく、なんていう空模様を危惧する展開に頭を持っていけなかったのだ。
 道行く人も大半が傘を持って歩いていて、これはまずいだろうかと思うには思ったが、家に取りに戻る時間も惜しく、結局そのまま登校。昼を回った辺りから雨が降り始め、行く末が今の獄寺だ。
 各チャンネルの天気予報のどこでも、今日の午後から夜にかけて雨だと言っていたらしい。しかしごちゃごちゃと色々あった昨日は疲れていて、夕食・風呂を済ませたらそのままベッドにダイブして気づけば朝。その上普段からテレビのスイッチを入れる生活をしていないので、天気予報で言ってたよと指摘を受けても「はぁ?」という感じだ。
 そう素っ頓狂な顔をしたら、ならせめてラジオくらい聞けと先の山本につっこみを受けたわけだが。
 間に挟まれて困った顔をしながら小さくなっていた人の顔が、つい浮かぶ。彼もちゃんと、傘を持って来ているのだろうか。湿気てしまった煙草を口から外し、根元を持ってくるくると回す。持て余したように愛しい人を思い出しながら溜息をつこうとした時。
「あれ? 獄寺君」
 どっきーん! と。
 心臓がはじけ飛ぶのではないかと思うくらい、獄寺は予想していなかった不意打ちに、倒れかけた。指に抓んでいた煙草を落としそうになって、慌てて両手を使って空中でキャッチを試みる。
 周囲からすれば、何をドジョウ掬いをしているのだろうと思える滑稽さだったに違いない。
 どうにか地面に落ちる寸前ギリギリで手の平に収めるのに成功し、しゃがみこんだ体勢でへへ、と斜め上を向いて笑う。
「?」
 なんとか手の中のものは彼に見えなかったらしい。沢田綱吉は大きな眼を不思議そうに細め、小首を傾げた。左手に、紺色の無地の傘を握っている。
「ホームルームいなかったから、もう帰っちゃったかと思ってた」
 獄寺が表情を取り繕いながら立ち上がる横で、もう大分人通りの少なくなった正面玄関を進みながら綱吉が言った。降り止まない雨を暫くじっと眺めた後、傘を閉じているバンドを解いて軽く左右に振る。
「あ、はい。帰ろうと思ってたんスけど」
 何とはなしに気まずさを覚えながら、獄寺は視線を泳がせた。正面玄関のガラス戸は生徒の手が届かない為か長い間清掃されていないようで、埃をかぶって薄汚れているのが目立つ。
 綱吉はまだ不思議そうな顔をして獄寺を見上げていて、気の利いた台詞のひとつも吐けたらいいのに何も思い浮かばない獄寺は、手の中の煙草を握りつぶしているのにも気づかず、心の中でひたすら唸っていた。
 このまま何も言わず会話が繋がらなければ、綱吉は自分に呆れるてさっさと帰ってしまうだろう。彼に見限られるのだけは絶対に回避したいのに、そうするだけの技量を持ち合わせていない不器用な自分を、獄寺は呪いたくなった。
「あれ?」
 綱吉がふと、何かに気づいて声を出す。反対側に小首を傾げ直し、獄寺の名前を呼んだ。
 呼ばれた以上顔を向けないわけにもいかず、パブロフの犬の如く綱吉に視線を戻す。彼は左手に持った傘を僅かに持ち上げて獄寺の前に示した。
「もしかして、傘持って来てないとか?」
 まさしくその通り。
 だがすばり指摘されても「はい、その通りです」と頷いて認めてしまうのは、妙に高い気位が許さなくて、あははと笑いながら誤魔化すしかない。後頭部に回した手で頭を掻こうとしたら、握り潰した煙草の破片が散らばって落ちた。髪の毛に絡まったり、襟足からシャツの中に入ったりして、気色悪いことこの上無いが綱吉の前で醜態を晒したくない一心でなんとか我慢する。後ろにやった手は、結局そのまま絡みついたフィルターや煙草の葉を払い落とす役目を担わされた。
 そんな獄寺を見て何を思ったのだろう、綱吉は自分の手元に視線を落としたかと思うと、急に顔を上げて獄寺を突き飛ばした。
 否、手にしていた傘と、鞄を、獄寺に押し付けてきた。
「え?」
 眼を丸くして呆気に取られる獄寺だったが、綱吉が手を離したので反射的に胸に押し付けられたものをふたつとも受け止める。
「そこで待ってて」
 呆けたままの獄寺に手を振り、綱吉は踵を返して校舎内に戻っていった。呼び止める暇もない程の素早さに、獄寺は傘を持った手を中空に浮かせたまま暫く硬直を余儀なくされる。
 いったいどうしたのだろう、綱吉の突飛な行動が理解できず、獄寺は渡された鞄を大事に胸に抱き直す。
 背後では止まない雨が校庭を容赦なく殴りつけ、くぼんだ場所から無数の水溜りが出来上がっている。
 明日の体育は確かサッカーが予定されていはいなかったが。一晩でこの水溜りが消え去るとは到底思えず、泥だらけになるのは勘弁して欲しいと足元に転がっていた小石を無造作に蹴り飛ばした。伸ばしたままの腕も一度胸元に戻す。
「十代目……」
 彼はどこへ行ったのだろう。
 下校時刻のピークはもう過ぎて、正門を潜り抜けていく人の姿もまばらだ。試験期間前の部活動停止時期の為に、普段は学校に居残る生徒も今日は帰るのが早い。
 さっきまでの騒がしさはどこへやら、すっかり静まり返った校舎内を見える範囲で眺め、獄寺はふと思い立ち、雨を受けないギリギリの立ち位置をすらしてガラス張りの扉から校舎に戻った。
 ひんやりとした空気が若干薄まり、長い間外に居たせいですっかり体が冷えてしまっていたのに今更気づく。
 息を吐いて両手を暖める。血流が悪かった指先に僅かなかゆみを覚え、綱吉の鞄を大事に抱えながら両方の腕を擦る。
 時折教員が通りかかったり、居残りをしていた生徒が通る以外に人影も疎らだ。
 と、電気も消されて薄暗い廊下で、誰かが走っているのだろう。白い床を駆ける足音が窓も閉められた密閉空間に反響して、獄寺の耳にまで届いた。
 壁に凭れてしゃがみこみかけていた獄寺は、音がする方角に眼を向けた。とはいえ目の前は横に細長く伸びる廊下であり、走っている人物の姿は全く見えない。誰だろうかと考えているうちに、その「廊下は走らない」ルールを簡単に破ってしまった生徒が彼の前に飛び出してきた。
「十代目!」
 教員に見つかったら間違いなく説教を食らいそうな速度で飛び出した綱吉が、靴の踵を床に押し付けながら減速してようやく止まる。滑りの良い廊下は逆に靴裏の吸い付きもよくて、勢い余って前のめりに倒れそうになったのを堪え、綱吉は荒い呼吸のまま方向転換。獄寺の方へと歩み寄る。
 肩を数回激しく上下させて息を整え、最後に長く大きく息を吐く。獄寺はつい手を伸ばし、彼の前髪を脇に払いのけてやった。薄っすらと浮いた汗が、薄茶色の髪の毛を額に貼り付かせていた。
「どうしたんですか、そんなに急いで」
「良かった、待ちくたびれて帰っちゃったかと思って」
 久しぶりに触れた綱吉の肌から離れがたくて、無意味にも彼の頬を指の背で撫でてから獄寺が問う。しかし返された言葉は彼の質問とはまったく的外れな回答で、意味を取りあぐねた獄寺は眉根を寄せた。
「十代目を置いて帰ったりしません」
 自分の質問はこの際置いておいて、綱吉の呼吸の合間に途切れ途切れになる台詞に反論を試みる。ホームルームをサボって帰ろうとしていたのは、この際忘れることにした。
 獄寺の返事に、綱吉は丸めていた背中を伸ばしながら僅かに、はにかんだような笑みを浮かべた。
「そっか。そうだよね」
 笑いながら綱吉は、もう一度肩で息をして右手に握っていたものを先ほど同様獄寺の胸元に押し付けてきた。
 綱吉の鞄の上から受け止めた獄寺は、その黒く細長い物体が何であるかすぐに分からず、綱吉の顔をまじまじと見つめ返してしまった。
 やや俯き加減だった彼は、いつまでも獄寺が受け取らないのは、彼の両手が綱吉の荷物でいっぱいだからだと勘違いしたらしい。「ごめん」と小声で謝りながら、一旦身体を引いて今度は両手を胸の前で広げる。手首を前後に揺らすのは、渡してくれという合図だろう。
 獄寺はいぶかしみつつも、綱吉に荷物を渡す。すっかり重みに慣れてしまっていた両腕は、中身が空っぽになると却って不自然さを獄寺の内側に残す。
 傘を鞄を受け取った綱吉は、今度こそ握っていた、どこからか持ってきたものを獄寺に渡そうとする。反応の鈍い彼に若干いらつきを覚えているようで、何度も肋骨の上を狙うかのように押し付けてくる。
「十代目」
「傘! あったから」
 いったい何がしたいのですか。そう聞こうとした獄寺に、綱吉がついに痺れを切らして怒鳴るように言った。
 だが語尾が若干勢いを弱めて、声が小さくなっているのがなんとも彼らしい。
「傘……ですか?」
「置き傘。随分前に持ってきて置いてたんだけど、どこに片付けてあったか忘れちゃってて、探すのに時間かかっちゃった」
 なるほど、言われてみれば確かに獄寺の胸元にあるものは折り畳み傘と思しきもの。若干埃を被って薄汚れているが、黒いカバーと茶色い持ち手はいかにもそれっぽい。綱吉が置き傘に学校の、恐らくは教室のどこかにしまっておいたのだろうが、存在自体をすっかり忘れてしまっていたのだろう。
 それを、獄寺が雨が止むのを待ちぼうけているのを見て思い出し、わざわざ取りに行って走って戻って来てくれた、という事か。
「十代目……」
「だから。俺、ほら。こっちあるし。使ってよ」
 言いながら綱吉は手にした傘を持ち上げる。
 獄寺は何と返せばよいのか分からず、受け取ってしまった傘を暫く呆然とした面持ちで見つめた後、綱吉がさっさと正面玄関を潜り抜けて校庭に出ようとしている姿に驚き、急ぎ体の向きを反転させた。
 ちょうど廊下では、まだ若い体育教師が見回りをしている最中で、獄寺の背中に向かって「早く帰れよ」と言って来る。
「はーい」
 綱吉が振り返って元気良く返事をし、満足げに頷いた男性教員が去っていく間に、獄寺は彼の隣に並んで折り畳み傘のカバーを外した。
 几帳面に折り畳まれた襞が行儀良く並んでいる。豆ボタンを外して上下に振ると、支えを失った二つ折りの骨ごと黒色の傘部分が広がる。
「すみません、十代目」
「ん?」
「有難う御座います」
「あー、いいよ。獄寺君にはいつも助けてもらってるし」
 なんでもないことのように言いながら綱吉も傘を広げて雨にぬかるんだグランドに一歩足を踏み出した。肩から提げた彼の鞄が、傘の範囲から外れて雨粒を受け止めている。
「十代目、鞄持ちます」
「えー? いいよ。それに、獄寺君の方が傘小さいんだから」
 からからと笑って、綱吉は自分を追いかける獄寺の傘を指差す。確かに携帯性に優れるよう設計されている折り畳み傘は、通常の傘に比べて寸法も小ぶりだ。獄寺の鞄も、綱吉のそれより大きくはみ出して雨を浴びている。
「ね?」
 年齢よりも幼さを感じさせる口調で首を傾けながら目を細める綱吉を、一瞬、抱きしめたいという強い感情を懸命に押さえ込み、獄寺は「そうですね」と曖昧に笑って頷き返す。綱吉は彼の心情に気づく様子もなく、前に向き直って水溜りを器用に避けながらグラウンドを横断していく。半歩遅れて、傘がぶつからない程度の距離を保ち、獄寺が続く。
 雨はペースを変えずに振り続け、路面で踊り、跳ね、並んで歩く彼らの足元を濡らす。時折避け切れなかった水溜りに爪先を突っ込み、ズボンの裾を汚しながら、けれど彼らはさして気にする様子も無く、むしろ直後は互いの顔を見合わせて、綱吉は舌を出し獄寺が微笑む。
 こんな時間がいつまでも続けば良い。平和で、穏やかで、なんでもない日常が。
 けれどそれは恐らく彼らが置かれている状況からしても到底不可能な相談であり、だからこそ獄寺は、こういう時間こそ大事にしたいと考える。
 綱吉を見る、目が合った彼は照れくさそうに笑う。
 彼がいつも、こうやって自分に笑いかけてくれるなら、なんだって出来る。そう思う。
「十代目」
「うん?」
 すっかりその呼ばれ方にも慣れてしまった綱吉が、不思議そうに獄寺を見上げた。
「一生、お守りしますから」
「なにそれー」
 冗談だと受け取ったのだろう、綱吉は更に声を立てて可笑しそうに笑った。獄寺もつられたように笑みを零し、綱吉を柔らかな視線で見つめる。
「Ti voglio bene」
「え? なに?」
 雨の中囁かれた耳慣れない言葉に、即座に綱吉は反応して獄寺に大きな目を向けたが、
「なんでもありませんよ」
 獄寺は笑顔で誤魔化し、綱吉から視線を逸らした。そして前を見据えたまま、先ほどの言葉を日本語で、心の中でだけ呟く。
 そのことばは……

Traumerei

 日曜、たまたま予定が空いてしまった正午前。
 お暇デスか? そう誘った外出準備中の彼の言葉に頷いたのは、ただの気紛れだった。
 一緒来る? 袖を通したジャケットの前を整えながら続けた彼がにっこりと微笑む。退屈しのぎにはなるよ、と重ねられたことばに、何処へ行くのか興味を惹かれたのは額面通り退屈だったからだ。
 有り余りすぎる時間を持て余して、けれど一度目覚めてしまった以上また眠りに戻るのも億劫。
 じゃあ、おいでよ。待ってるから。
 壁時計を見上げて、まだ時間の余裕はあるよと笑った彼に促され、ソファから立ち上がりコートを取りに自室へと向かう。玄関ホールで待ってるから、と手を振った彼は本当にそこで待つらしく大時計前で立ち止まって座り込んでしまった。
 半螺旋の階段を登りながら、視線で彼を射抜く。こちらの視界に収まっている事に気付いているのか居ないのか、膝の上で肘をつき眠そうに欠伸をしている彼を見やってから残りの階段を登りきった。
 どこへ連れて行くつもりなのかは知らないけれど、なによりも退屈嫌いの彼が自分を誘う程だ。多少は楽しませてくれる場所なのだろう。
 適当に軽い素材のコートを選び、袖を通しながら部屋を出る。階段を下りる自分の姿を見つけた彼が立ち上がり、歩調を合わせて玄関へと向かう。
 階段から直接扉へ向かった自分と、ぴったりタイミングを重ねて到達を果たし横に並んだ彼が笑う。呆れた顔を向けて、玄関脇に立てかけてあるポールからマフラーと手袋を取った。
 城主の意図を汲み、城の正面を守る扉が厳かに自分から道を開いた。外気が流れ込み、温められた空気に埋もれていた一角に冷たい風が吹き込んできた。思わず首を引っ込めて身体を縮めてしまった自分へ、先に外へ出た彼が手を差し出して誘う。
「行こう」
 たまたま時間が出来て、暇を持て余していた冬の朝。
 陽射しは強くも弱くもなく、丁度いい具合に太陽を雲が隠してくれているようなそんな微妙な天気の日。
「どこまで?」
「そこまで」
 差し出された手を払い、自分の足で前へ進み出ると後方で扉が、やはり誰の手も借りずにひとりでに閉じられた。閂が嵌められる音が響き、振り返るともうそこに巨大すぎるあの城は見当たらなくて。
 自分たちは「人」の住む世界の道に、取り残されたように立ち尽くしている。
「行こう」
 彼が歩き出す、この超常現象に構うことなく。
 その後をついて、遅れないように自分も歩き出す。どうせ気にしたところで分かるはずがないのだ、この世界と自分たちが本来暮らす世界とがどうやって接しているのか、など。
 分からなくても問題ないのだ、誰も気にしないから。
 そう、気にしなければ良いだけのこと。
 当たり前のこととして、そこに空気があるのと同じように受け止めてしまえば良い。共存などという調子の良いだけの甘い考えではないが、棲み分けは出来ているのだ。
 彼らが受け入れるのなら、自分たちも受け入れるしかない。世界は違えど、お互い「生きて」いる事に大差ないのだから。
 時間の流れ方は根本的なところから違ってしまっているが。
 人混みを分けて道を進む。恐らくそこに居た人々には、唐突に現れた存在として自分たちは映っただろう。
 けれど誰も気にしない。深く考えない、関わらない。
 其処にいるのに、空気と同じように見えないものとして受け止める、空虚な関わり方を選んだ人間達。吐き出す白い息に濁った空の向こう、やはり濁った色をしている蒼だっただろう空間を見つめて頭を振った。
 自分が知っていたこの世界は、こんな風じゃなかったはずなのに。
 遠くに置き去りにしてきた記憶を掘り出して、比較対象にするのは好きではなかったけれど考えてしまう。少なくとも眠りに籠もる以前のあの時代では、人々はもっと自由だった。
 更なる自由を得たはずの人間は、今、もっと違うなにかに束縛されて不自由だ。
「ユーリ」
 歩みが緩くなっていた自分を呼び、数歩先で立ち止まっていた彼が振り返っている。ジャケットに放り込んでいたはずの左手を出して、自分の方へ差し出して。
 促されて前へ進み、やはり手は拒否を示して振り払って横に並んで歩く。何を考えていたのか、彼は聞かない。干渉しない。
 何故と問えば、野暮でショ、と彼は笑う。言いたいことがあるのなら、君は自分から言うでショ?
 黙り込んで、君が胸の中にしまい込んでしまっているものは、ぼくがおいそれと触れて良いものじゃない。君を考え込ませて苦しめて、刺さった刺のように君を傷つける事であったのならその限りじゃないけど、でも、君が言いたくないと思っている事には出来るだけ、ぼくは触れない。
 ユーリだって、ぼくの中にある棘にはあんまり触れないでショ?
「貴様にそんな殊勝なものがあるとはな……」
「永く生きてるからネ」
 色々ありますよ、と茶化して呟き彼は行き場のなくなった両手を頭上に持ち上げて頭に乗せた。濃紺の夜空を思い出させる髪が、腕の重みで一部沈み込む。変装のつもりなのか普段から全身を包んでいる包帯を解き、左目には黒の眼帯。跳ね上がってばかりいる髪も後ろに流して、それだけなのに随分と印象は違って見える。
 透明人間という分かり難いキャラクターを持っている彼は、ある意味誰にでもなれて、誰にもなれない。今目の前にいる彼が、本当の彼というキャラクターではない可能性だってあるのだ。
 見えないからこそ、本質を見抜くのが難しい。
「ユーリ、行きすぎ」
 並んで歩きながら、また考え事に没頭してしまっていたらしい。呼び止める声が今度は後ろから響いて、慌てて振り返ると彼は普段だと市民公園として解放されている大きな広場を持つ場所の、入り口に立っていた。その傍らに、墨で力強いけれど達筆ではない文字で看板が。
 骨董市。
 聞けば年に二回、この広場を使って催されているという。毎月一度フリーマーケットも開催されている広場は、昼という時間帯もあってか随分と人が多かった。
 素人が家にあったものを持ち込んで雑多に並べている店舗があれば、違う一角では骨董を専門に扱う商人が出張市の如く商品を並べているところもある。素人ばかりが集まる場所はさながらフリーマーケットの延長であったが、専門店が並ぶコーナーでは本格的に壺や額が並び、真剣な顔をした客が商店主の説明を熱心に聞いている光景が見て取れた。
 物珍しさに、視線が浮く。
「ここか?」
「うん。暇つぶしにはなるでショ」
 こういうトコに来ると、なかなか見付からないギャンブラーZのフィギュアだったりが見付かったりするんだよね、と彼は楽しげに笑って言った。恐らく今回もそれが一番の目的だったのだろう。
 だが、成る程。広い公園の一帯を埋め尽くすように並んだ店舗(うち半分が、素人出展者の店らしい)を端から端まで見ていくだけでも、時間を潰すことは出来そうだ。
 人が多いのが少し難であるが、街中を彷徨うよりも少ないようなので贅沢も言っていられない。
「どうする? 一緒に回る?」
 再びズボンのポケットに手を入れた彼に尋ね掛けられ、暫く考え込んだ。一緒に回っても問題ないのだけれど、どうせ彼はフィギュアを探す事中心で巡るのだろう。自分はそちらにはまるで興味がないので、付いて回るメリットは何もない。
 だけれどこれだけの人出で、初めて来た骨董市のどこをどう見て回れば良いのかも分からないままひとり放り出されても、正直困る。彼は好きなように巡ってくれば良いだけだと言うものの、どう巡るのが良いのかさえ分からない。
 返答に窮していると、彼は溜息をついて肩を竦めた。
「じゃ、行こう。適当にぶらぶらしてみるのも、結構楽しいよ」
 そう言って彼は左手だけをポケットから抜き取った。三度目に差し出された手を、今度は拒まずに握り返す。人出の多いところでこういう事をするのには抵抗が残ったけれど、この場所にひとり置き去りにされることを思えば妥協も仕方なかった。
 彼は時々、茣蓙いっぱいに拡げられた玩具やら、何の役に立つのかさっぱり不明なものを売っている場所で立ち止まってにわか店主とのやりとりを繰り返した。値段の交渉が専らだったけれど、偶に、これは何処で買ったのかとか聞いていてもさっぱり分からない専門的な会話を繰り広げたりもして、彼はそれを愉しんでいる。
 店主たちは最初こそ彼の風貌に驚き、顔を強張らせる。けれど話し込んでいくうちにすっかりうち解けて、外見からの偏見紛いは別れる頃には完全に消し去ってしまっていた。
 誰とでも親しくなれるのが、彼の凄さなのだろう。時折すれ違う人にも挨拶されたりするのは、彼がこういう催事に頻繁に出入りしている事の証明に思えた。
 ただ、それでも。
 彼の親しさには一線退いたものがあると、感じる。相手が人間であれば顕著に、自分たちを前にしても時々、感じる事。
 彼はいったい、どこに「本当」を持っているのか、と。
 時間が過ぎていく。かなりの店を回っただろうか、少し歩き疲れを覚え始めていた矢先、ふと、視界に収まった小さなものに目を奪われた。
「ユーリ?」
 同じ調子で歩いていた彼が、思わず立ち止まっていた自分に気付き名前を呼ぶ。周囲を気にしての遠慮がちな呼びかけに、気付いてはいたけれど返事をせず半畳もない空間にちょこん、と並んでいるものたちを見下ろす。
 気付けば、その場でしゃがみ込んでいた。
 品揃えが多いとは言えない、統一感があるとも思えないがらくたばかりが並んだシートの上。周囲に埋もれるように売れ残っていた、木組みの箱を取り上げた。
「なに、ソレ」
「さぁ」
 飾り気も殆ど無い、シンプルな作りの箱。表面に浅く彫り物が成されており、蝶番で閉じられた蓋を開くと、中身はジュエリーケースのようだった。
 ただ外見の大きさに比べ、中は随分と狭い。
 これは何か、店主に聞こうと顔を上げる。外見からしてどう見ても怪しいふたり組を警戒している事が見てすぐに分かる顔をした、まだ若い青年が訝しげに視線を返してきた。
「コレは?」
 彼が自分の手の中にある箱を指さし、青年に尋ねる。売れ行きが芳しくないのか、退屈を持て余していた感じの青年は小さな欠伸をし、警戒は解かず座っていた椅子から身を乗り出した。
 両手の平に収まっている箱を見て、ああ、と頷く。
「オルゴールだよ」
 面倒臭そうにことばを返した青年に、言われて逆に箱を返してみた。成る程、確かに銀色の螺旋が申し訳程度に填め込まれている。だが回してみても手応えは返ってこず、当然音もならなかった。
 怪訝に思って視線を青年に向けると、彼は億劫そうに頷いた。
「壊れてるから、百円で良いよ」
 かなり年代が入っているようで、シンプルだけれど上品な趣があるオルゴールはどう見ても、街中で騒いでいる若者代表という格好をしている青年と似使わないものがあった。恐らく小遣い稼ぎのつもりで、家からこっそり持ち出してきたものを並べているのだろう。
 本来の持ち主の許可を得て販売しているのか気に掛かったが、手の中に収まっている、壊れたオルゴールはやけにずっしりと重く感じられて、手放されることを拒んでいるように思われた。
 ちらりと傍らで立ったままの彼を見る。視線を受ける前に、彼は財布を取りだしていた。
「本当に百円?」
「ああ。それ以上出してくれるってんなら、喜んで受け取るけど?」
 財布を広げながら尋ねた彼の言葉に、にやりと笑って青年は言い返す。苦笑った彼が銀色の硬貨を一枚取りだして青年の手に押しつけた。
「まいど」
 硬貨を握りしめた青年が、その腕を軽く掲げて早く何処かに行け、とばかりにつっけんどんな態度を取った。財布をポケットに戻した彼は肩を竦め、行こうと座ったままでいる自分に声を掛ける。
 オルゴールを持ち直し、促されるままに立ち上がった。オルゴールが軽くなる。
 箱の中が狭く感じられたのは、底にオルゴールの機械が組み込まれているからなのだろう。
 人混みを抜け、空いた空間に出てベンチに腰を下ろした彼の横に並んで座る。
「そういえば」
 箱の底を眺め、中を開ける場所が無いかどうか確かめていると不意に、横で彼が呟いた。
「曲名、聞きそびれた」
「鳴ると思うか?」
 壊れているオルゴールを彼の目の前に突きだし、尋ねる。すると彼は驚いたような、呆れたような表情を浮かべて向けられた小さな木箱を受け取った。蓋を開き、中を確かめる。何の手応えも示さない螺旋を回してみて、側面を軽く叩いた。
 会話は、その間も途絶えずに続く。
「鳴ると思ったから、買ったんじゃないの?」
「買ったのは貴様だろう」
「お金を出したのはぼくだけどネ。欲しがったのはユーリじゃない」
「欲しい、と言った覚えはない」
「でも」
 欲しかったんでショ?
 問われれば頷いて返すしかない。
 何故これが欲しくなったのか、まったく分からないのだけれど。壊れているオルゴールを買う酔狂者と思われただろうか、何の役にも立たないものを好んで買うなど。
 意味もない事なのに。
 自嘲気味に笑ってみる。けれど彼は、首を振った。
「ユーリに買って貰いたかったのかもしれないよ、この子が」
 古いものには命が宿る、という。いきなり動き出して喋る、なんてことが起こるわけではないけれど、なにか不思議な力が宿る事は否定しがたい。そして自分たちは、そういった感覚が鋭敏だったりする。
 骨董市という特性もあって、古いものが一箇所に集まっているこの場で、ユーリの波長に合ったのがこのオルゴールであったとしたら両者が惹かれあうのも、別段不思議ではない。そしてこれは、君の手元に行くことを望んだのだろう、と。
 一息でそう告げて、息を吸って吐いてから、彼はベンチの背もたれに沈めていた身体を立てた。座り直し、向き直る。
 コツン、とオルゴールの壁面を指先で叩いた。
「あと、それから。直るよコレ、多分」
 中を開いてみないとまだ分からないけれど、こういうものは作りが単純な分部品さえ揃っていれば案外簡単に直せるのだと、言う。テレビや冷蔵庫のような、部品があっても自分で修理出来ないものとは違う。多少複雑な部分もあるものの、こういった手巻きオルゴールが鳴らないのは、バネと発条のどちらかが壊れてしまっているのが原因になっていることが殆どだろう。
 だから箱を壊さずに中を開くことが出来ればなんとかなるかもしれない、と彼は言った。
「そう……」
「どうする?」
 まだ昼過ぎで、どこかで昼食を取って残りの時間をゆっくり過ごしてもそれはそれで構わないけれど。
 どうしても気になるようなら、今すぐに城に戻って修理に取りかかっても良いよ、と彼が笑いながら告げて。
 本当なら彼はまだ此処に残って残りの店も見て回り、欲しいものを探して歩き回りたいはずだ。誘われてついてきたのは自分で、だから主体として動く中心に居なければならないのは彼なのに。
 いつの間にか彼は自分を中心にして動き回ってくれている。
 自分を、二の次に回してまで。
 そこに、意味があるのだろうか。彼にそこまでしてもらえるだけの何かが、自分にあるとは思えないのに。
「お前は……」
 だから巧く言葉が継げなくて、横から覗き込むような視線を向けて静止してしまって、また伏し目がちに視線を泳がせた自分は、結局彼の方にちゃんと向けないまま遠くを見つめるしかなかった。
「お前は、まだ、何も買っていない……だろう?」
 自分に構わなくて良いのだと含ませて、告げる。
 けれど途端、彼は吹き出して、失礼ではないかと怒りにまかせて振り返ろうとした瞬間に眼前に、嬉しそうに微笑む彼を見た。
 言いたかった、怒鳴りつけてやろうと今頭の中で用意した台詞がスッと抜けていく。開きかけた口を閉じることも出来ず、中途半端に開いたまま惚けていると、余計に笑った彼がぽんぽん、と頭を叩いて来た。 
 そして蓋を閉じたオルゴールを、強引に手に押し込んだ。
「良いんだよ、ユーリ」
 もう帰ろうか、とベンチから立ち上がって彼は遠くを見た。
 吐き出す息が白い。他の誰よりも、彼の存在がこの空間で際立って異彩を放っている。
 これだけ大勢の人が居る中で、彼だけを強く意識した。背中しか見えないのに、彼が今、どういう風に視線を伏して微笑みを浮かべているのかが分かる。
 彼が、次に何を言うだろうかという事までも。
 彼は言うだろう。きっと。
『君が』

「君がしたいように」
『したいように、ぼくが』

「ぼくがしたいんだ」
『したいんだ』

 瞳を閉じた。頭の中で浮かべた彼の声と、耳から流れ込んでくる彼のことばが重なり合って響く。

「だから」
『だから、ね。ユーリ』

「ね、ユーリ。帰ろうか、今日はもう」
『帰ろうか、今日はもう』

 両手の中のオルゴールを握りしめる。
「ユーリ」
 顔を上げた。そこには変わらない笑顔を浮かべる彼が立っている、いつものように左手を差し出して。
「帰ろう?」
 問いかけに、頷いた。左手に自分の右手を重ねると、強く握りしめられる。
 彼が何故、こんな風に自分に接してくれるのかは知らない。信じていないわけではないけれど、「本当」の彼が今目の前に立つ彼であるという自信も、無い。
 ただ、それでも。
 この手を握っている強さと暖かさが、偽りでない事だけは……信じたい。

 その日の夜のうちに、折れ曲がっていた発条を取り替えられ、シリンダーも綺麗にさびを落とされたオルゴールは買ったときとはまるで別物のように輝いて見えた。
 螺旋を回し、テーブルに置く。
 流れ出したメロディは、耳に慣れた懐かしい音色。甲高いものの、柔らかさを含んで心地よい曲は、シューマン作曲の、トロイメライ。
 彼は言っていた、オルゴールが自分を呼んだのだと。
 波長が重なって、惹かれあったのだろう、と。
 もし、そうだとしたら壊れていたオルゴールは、こうして自分の手元へやって来た事を幸せに思ってくれているのだろうか。再び元の音色をこうやって奏でることが出来るようになった事を、喜んでくれただろうか。
 もし……もし、本当にそうだったら、嬉しい。
 きっとこれからオルゴールの蓋を開き、トロイメライを聴くたびに今日の事を思い出すのだろう。
 冬の凛として冷えた空気に、静かに響き渡っていくメロディ。
 顔を伏せ、オルゴールの乗るテーブルに額を押しつける。やがて音色はゆっくりと緩み、静かに消えていった。けれど耳に残る、優しいトロイメライ。
「スマイル……」
 その名を呟き、目を閉じた。思い浮かぶのは冬の空を背負った彼の横顔。静かに流れるトロイメライ。
 聞きたくて、けれど聞くのが恐くて訊けなかったのは。
 このオルゴールのように、自分の側に居る貴方は。