天路

 柔らかな日差しが頭上から降り注いでいる。野外で昼寝をするにも、お気に入りのペットと散歩するにも最高な午後だ。適度に暖かく、肌寒さを覚えない程度に控えめな風が吹き、とても過ごし易い。
 痛い程の日差しが照りつけることの多い季節にしては珍しく、程よく雲が散って陽光を遮り威力を弱めてくれているお陰だろう。いつもは目を開けているのもつらい地表の照り返しも、今日はさほど酷くない。
「んー、良い天気」
 両腕を頭上に真っ直ぐ伸ばし、背筋を伸ばして深呼吸を二度ほど繰り返す。吸い込む空気はどこか埃っぽく、彼が過去暮らした故郷とは違って乾燥している。上唇を舌で舐め、僅かに故郷を懐かしみながら彼は石畳の坂道をゆっくりと下っていった。
 向かう先はこの地区の中心部、近づくにつれて交通量も多く、人通りも増していく。行き交う人はいずれも肌が白か黒で、背が高い。一目見て明らかに東洋系と分かる顔立ちの小柄な青年は、人ごみに押し流されないよう器用に身体を捻らせながら道を進んでいく。時折きょろきょろと周囲を見回し、物珍しさからか何度も溜息をついている様子は、パックバッカーのようでもある。
 最近なんとかマスターしつつあるイタリア語の歌が流れるカフェの前を通り抜け、観光客で賑わうブランド店の前を素通りし、交差点で信号待ちをする間に小休止。
 額に浮いた汗を手首で拭い、ついでに左手に巻いた腕時計を見る。時針は午後二時過ぎをさしており、まだまだ暑い盛りだ。その手を団扇代わりにして首筋に風を送り、信号が変わったと同時に歩き出す。
 爪先がやや汚れたスニーカーに、薄いグリーンの迷彩柄パンツ、白い半袖のシャツから覗く腕は細く実に頼りない感じだ。背負ったリュックは旅行者にしては少し小さめで、身軽さを前面に押し出している。彼は信号を渡り終えると、日差しの強さに辟易したのかリュックから鍔つき帽子を取り出して被った。これもまた、迷彩柄だ。
「やっぱり、こっちに出てくると暑いな」
 他の人々が交わす言葉とは異なる言語を使い、彼はひとりごちる。
 帽子を被ってみても体温の上昇率は変化を見出せず、日陰を探して彼は視線を巡らせる。手持ちは心細いので出来るならカフェには足を向けたくない。舌に残るエスプレッソの味も、彼は少し苦手だった。
 大通りに面したオープンカフェのひとつでは、派手な色合いのパラソルの下で昼間からビールの杯を傾けている男もいる。彼の故郷であれば大っぴらには出来そうにない事も、この国では当たり前のように受け入れられており、ここが外国なのだと否応がなしに彼に現実をつきつけてくる。
 軽い吐息が零れた。
「あーあぁ」
 空を仰ぎ見る。雲間から覗く太陽の光は眩しく、容赦も遠慮もない。手を差し伸べて庇にし、ぼんやりと日陰と日向の境界線で立ち尽くす。
 そんな彼を絶好のカモと見て近づいてくる、少々ガラの悪い男の存在など目にも留めない。
「沢田殿!」
 そこを、矢を射るように鋭い声が飛んだ。呆けたように立っている彼と、程なく彼に接近し、肩をぶつけて財布を掠め取ろうと狙っていた男の間に、やはり小柄な影が割り込む。声同様に鋭い視線が男を射抜き、顎を仰け反らせて一瞬怯んだ男は、忌々しげに舌打ちをして何もしないまま踵を返して離れて行った。
 何事かと僅かに周囲がざわついたのを受け、割り込んできた青年もまた小さく舌打ちをして、帽子の青年の腕を掴む。沢田、と呼ばれた東洋系の青年は、己の腕を取り引っ張ろうと力を込めた青年の顔を、やはり呆けた印象を与える表情のまま見つめ返した。
「やあ、バジル」
「やあ、じゃあありません。沢田殿、兎に角こちらへ」
 そのまま、散歩中に既知の存在に出会った時のような挨拶をされて、バジルは益々苛立ちを募らせながら沢田の腕を引く。見た目によらずなかなかの怪力に、彼はさしたる抵抗もみせずに大人しくついていった。
 最初から見つかるのが分かっていたかのようでもある。
 人ごみを避けて裏通りへと入り、バジルは漸く足を止める。引きずられるように歩いていた沢田も習って足を止め、少しだけ目線が高い位置にあるバジルを見返した。
「案外、早かったね」
 クスクスと目尻を下げて笑う彼に、バジルは深々と溜息をついて肩を落とした。細く綺麗な彼の髪の毛がさらさらと頬を撫でる。それはそのまま、沢田と呼ばれた青年の頬に伝った。
 首が絞まるくらいに強く腕を回されて、肩口に暖かな吐息を感じとる。心底安心したせいで脱力してしまったバジルに寄りかかられ、沢田は苦笑したまま彼の背中を数回撫でた。
「大丈夫だってば。バジルは心配しすぎ」
 ぽんぽん、と子供をあやすように更に軽く叩いてやると、沢田の肩口に顔をうずめているバジルは首を振ったようだ。柔らかい髪の毛が沢田の頬と首筋をくすぐる。
「私の心臓が、大丈夫じゃありません」
 本気で言っているのかと聞き返したくなる台詞を吐き捨てるように言い、バジルは更に沢田に回した腕の力を強めた。
 大げさだなと笑いたかった沢田だけれど、それを言うと真剣にバジルは怒るのも知っているから敢えて黙って聞き流す。代わりに、微かな音量で「ごめんね」と呟くと、バジルはやっと苦しいくらいに締め付ける腕を緩めてくれた。
 離れていく時、彼は微かに触れるか触れないかの感覚で沢田の頬に唇を落としてから顔を離す。
 照れくさそうに触れられた箇所を指で撫でた沢田は、歯を見せて悪戯っぽく笑いながら、「よく見つけられたね」と彼に聞く。
 置手紙には町の名前こそ記しはしたが、詳しい行き先までは残さなかった。それほど人口が多くない町とはいえ、範囲はそれなりに広く探すとしてもどこか一点に絞り込まないと、街中に迷い込んだ東洋人の青年ひとりを探し出すのは困難を極めるはずだ。
「この町で、東洋系の人間はそう多くありませんから」
 予想よりも呆気なく発見されてしまったプチ家出の読みの甘さを指摘し、バジルは綱吉の帽子の鍔を取って持ち上げた。実際の年齢よりもずっと幼く見える大きな目と薄茶色の瞳。この町で、東洋人は逆に目立つ。行き交う人に聞けば、彼の足が向く先は大体の見当がついた。
「ここは日本じゃありません。先ほども、危なかったのですよ」
 沢田の目を覗き込み、バジルが注意を促す。そうみたいだねと曖昧に笑って沢田は誤魔化し、彼から帽子を奪い返した。それに、とバジルが続ける。
「貴方の命は、貴方ひとりのものではありません」
「……そうだね」
 意味深なバジルの言葉に、沢田は視線を落として帽子を被りなおした。彼の迷うように地表を走った視線は、帽子の鍔に隠されてバジルには分からない。
 狭い裏路地に日が差し込む。
「でもね、バジル」
 頭上を走った影に、沢田は目を細めた。先を行こうとした彼が、上半身だけを捻って振り返る。
 目が合った、沢田は笑っていた。
「大丈夫、だよ」
 

 だって。
 自分の命は、自分ひとりのものではないかもしれないけれど。
 自分という存在も、自分ひとりきりではないのだから。

Snowman

 天気予報が、明日はこの冬一番の冷え込みを記録するだろう云々と告げていた。
 カーテンを閉め、外界と繋ぐ門のひとつを遮断すれば残るのは室内に灯るランプの、控えめな仄暗い明かりだけとなる。薄暗い中で沈黙する空気を唯一揺らしている黒い古めかしいデザインのラジオを止め、吐きだしたのは溜息。
 寒い。確かにこのまま朝が来たら、日が照っていてもかなりの寒さになるだろう。閉める直前にガラス窓越しに除いた夜の空は明るく、雲ひとつない澄み渡った色をしていた。月と星明かりはきらきらと、余すことなく自身の輝きを放っていた。
 こんな夜は気ままに散歩のひとつでもしてみたくなる。だが、室内でここまで肌寒さを感じるくらいである、窓の向こう側がどれだけ冷気に満ちあふれているか想像に難くない。
 天気も良いのに、勿体ない。冬の空は空気も澄んでいて凛として張り詰め、心の奥から震えを感じるなにかを抱いているというのに。
 寒さに負けてしまう自分に軽く歯を見せて笑って、油の焦げる匂いを漂わせるランプの小さな炎を吹き消す。一瞬で闇は一層濃くなり、カーテンをしつこく通り抜けてくる夜明かりだけがただひとつ、足許を確かなものに見せる色となる。
 雪でも降るだろうか。寒さを考えてみて、けれど雲ひとつない月明かりの外を思い出して首を振る。ガタガタと不協和音を奏でた窓枠に視線をやって、風が出てきたのだろうかと瞳を細めた。
 カーテンを閉めてしまったから、外の様子はもう分からない。気にしても詮無いことと、視線を闇濃い室内へ戻して歩を進めた。
 天蓋の下に整えられた寝台に、ばたりと力尽きたかのように倒れ込む。肌触り柔らかく心地よいクッションは、しかし長い間ぬくもりを忘れていた所為でやや冷たい。滑らかな表面に指を添わせ、抱き込むように上掛けを捲る。芋虫のような動きで僅かな隙間からベッドの中に潜り込んで、ヒヤッとした感触を真っ先に与えてくる布地の中四肢を縮めこませた。
 自分の身体を抱き込む、母体の中で眠る胎児の格好で丸くなり、頭の先まで蒲団の中に潜ませて息を殺した。
 こんな寒いだけの冬の夜は、独りぼっちな自分をより強く感じる。音もなく、静かすぎて自分の呼吸する音さえ聞こえなかった頃を思い出す。時折窓を叩く風が通りすぎるのさえ、自分を殺しに来た闇よりも深い場所から来たものたちのノックに思えた時期が確かにあったのだ。
 眠ってしまえばいい、誰も踏み込めない場所に自分から逃げ込んで鍵を閉めて、自分のぬくもりだけを頼りにして。目を閉じれば、何も見なくて済む。
 だから。
「……寒い」
 風の音はいよいよ強さを増しているようだった。ガタガタと喧しく窓が音を立てるが、耳を塞ぐように分厚い蒲団一式に包み込まれている御陰で殆ど聞こえなかった。瞼を開けてもそこは一面の闇で、夜明けが来ても気付かないかもしれないと思った。
 口の中の唾も飲み込み、乾いた舌先で刻む声も無く、奥歯を噛みしめて堪える。何に、かは分からない。
 ただこうしていないと叫びだしてしまいそうな瞬間が、時々ふっと胸の奥から手を伸ばして心の内側を掠めていく。
 早く朝が来ればいい、そして夜が巡って時間が過ぎていけばいい。
 何も感じないまま、時が終わればいい。ひとりきりを思わせる瞬間など、もう欲しくないのに。
 丸め込ませた膝を抱き、額を半月板に押しつけて胸の息苦しさも構わずどんどんと自分を小さくさせる。このまま小さく小さくなって、やがて消えてしまえたら良いのに。そんな事を最初に考えたのは、もう思い出せもしない遠い昔。
 風の音は止まない。目を閉ざす、闇に世界を染める。
 誰も入ってこられない場所に逃げ込んで、過ごす夜。聞こえない心音を探して、握り締めた拳に筋が浮く。
 いつしか外は静まり、彼の眠りを妨げようとする外的要因は去った。朝の訪れは彼にとっては早く、遠い。
 沈黙に委ねられた夜は深々として、酷く切ないまでに穏やかなのに。彼から浅い短い眠りを奪ったのは、地上より空高い位置にあるはずの彼の部屋にまで、ガラス窓を越えて飛び込んできたけたたましい笑い声だった。
 もぞりと頭を持ち上げ、不自然な体勢で眠っていた為に痛む節々を叱咤して被っている毛布を押しのける。その重さに右腕の骨が軋んだように音を立てた。眉尻を顰めさせ、けれど構わず一気に分厚いそれらをはね除けると、それまで身体を包み込んでいた暖められた空気が逃げ、ひんやりとしたものが肌にまとわりついてきた。
 身を捩り、寒さに震えて身体を抱く。折角退かしたばかりの毛布を手繰り寄せて肩から全身を包み込むよう、マントを羽織る具合で纏わせてベッドから降りる。
 ヒヤッとした床板の冷たさに短な悲鳴をあげそうになったのを噛み殺し、吐く息が白く濁っているのにも気付かず窓に近付く。先程聞こえた笑い声は止んでいた。
 眠りに入る前、自分で閉ざしたカーテンの端を、裾を引きずっている毛布から出した右手で掴み視界が開ける程度に捲り上げてみる。けれど何も見えなかった。
 室内と外気温の差で出来上がった粒の細かい露が窓一面に貼り付き、視界を遮っている。触れると冷たい事はそれだけで容易に知れて、カーテンを掴み直すと手に触れないように握り布でガラスを擦ってみた。
 筋の浮いた窓はお世辞にも綺麗に磨けたとは言えなかったものの、辛うじて向こう側の世界は覗ける程度にはなった。自分が吐く息が益々窓を濁らせる事に気付いて、深く吸い込んだ息をそのまま吐かずに胸に留めると、前髪が貼り付きそうな距離にまで顔を寄せた。
 白い。
「……?」
 窓は磨いて、多少の濁りは残るものの透明に近い状態になっているはずだ。間違っても息を吹きかけた所為でもない。では、何故。
 窓の外が白色以外、何も見えないのか。
 一旦止んでいた笑い声が、また聞こえた。今度は笑い声に含め、犬のきゃんきゃん吼える声までもが。
「アッシュ?」
 犬など飼った覚えはないし、野良が近付けるような場所でもない。故にあの鳴き声はアッシュのものであろうと思考は直結し、そこから笑い声の主はスマイルだろうという結論に至る。一度繋がった思考はそのまま保たれ、寝ぼけ気味だった頭も醒めて来た。
「なにを……」
 彼らはいったい、何をしているのだろう。
 時計を見上げると、午後に入るまでまだかなりある、朝早いとは言えそうもない曖昧な時間だった。
 カーテンから手を放し、またしても毛布をずるずると引きずってベッドへ戻ると再度、力を抜いて倒れ込む。冷え切った身体は同時に心まで冷ましてしまうらしい。何もする気になれず、ただ時折聞こえてくる喧噪が耳に五月蠅く感じられるだけで、それ以外思うものはなにもなかった。
 ただ、寒い、と。
 伸ばしていた足を曲げ、蒲団の中に潜り込ませる。冷え切った指先を数回握って開き、折り曲げた膝に額を押しつけて息を吐く。この場所でならそれは濁らない。身を包む殻が守ってくれている限り、なにものも自分を汚す事は出来ないのだから。
 そうやって、自分を守ってきた。
 だのに。
「ユーリ、ユーリねぇ、ユーリ!」
 どたばたと騒々しい足音を響かせて、それは無許可なまま彼の神域を犯す。強く握った毛布を彼から奪い取って引き剥がし、ベッドに沈んでいたユーリを反転させた。うつ伏せからコロン、と仰向けにさせられ、顔を真上から覗き込まれる。
 興奮しているのか、それともさっきまで居た外が寒かったからなのか。頬を軽く上気させて赤く染めている。吐く息は荒く、走ってきたからか途絶えがちで。
 剣呑な目つきで睨んでやっても、彼はまるで気にした様子もなくユーリを挟み込むようにして逆向きに両手をベッドにつき、益々顔を近づけて来る。鼻先を熱い息が掠めた。
「ユーリってば」
「聞こえている」
 返事が無いことを訝んだのか、少しだけ顔を歪めさせた彼の大きな声に眉根を寄せ、ことばを返す。途端、彼はちゃんと聞こえていた事に安堵したらしく破顔して、歯を見せて笑った。
「ね、ユーリ。凄いんだよ外、寝てるなんて勿体ないくらいなんだから」
 腕を取られ、無理矢理引っ張り起こされた。上半身をベッドに起こして座っていると、一度手を離した彼は断りなく人のクローゼットを漁り適当に服を見繕って、放り投げて来た。頭の上に落ちてきたそれらは、どうやら着替えろということらしい。
 だらんと垂れ下がった袖を引っ張って頭の上から落とし、丸め込んで抱きしめてまた横向きに倒れると、呆れきった声が近くから投げられる。
「ユーリってば! もう、いい加減起きる!」
 やや苛立ちを覚えている声で言われても、従う気は起こらない。むずがって上掛けに潜り込もうとするのをまた蒲団を奪われて阻止され、今度は着替えさせる事も諦めたらしい。スマイルは、薄い夜着を纏っているだけのユーリにロングコートを羽織らせると、その上に更にベッドから剥いだシーツを巻き付けて肩に抱え上げたのだ。
 突然の視界の変化に、ユーリが驚いて暴れる。しかしほぼ簀巻き状態にされてしまっていて、ミミズのようにじたばたと上下運動をするだけに終わる。暴れた分だけ位置がずれて、最終的にはスマイルの肩から横抱き状態に落ちた。
 人の意見も意志もお構いなしの横暴過ぎる彼に、ムスッと表情を歪めさせユーリは不機嫌な顔をしたまま目を閉じた。言ったところでどうせ聞くはずがないのは、自分も彼も同じだ。お互い、気ままに時が過ぎるのを待つだけの存在であり、すべては自分が中心なのだから。
 抱えられたまま部屋を出て、階段を下りる。流石にこの時ばかりは落ちる事を想像して冷や汗を掻いた。
「自分で歩く」
 ユーリの危惧を悟ったらしいスマイルが意味ありげに笑ったので、彼は疲れた声で言いコートの上からシーツにくるまる、という風体のまま彼から離れた。城内全体に暖房を効かせる、などという非効率的な事は出来ないので、廊下も充分寒かった。
 吐く息の白さに驚いて、彼を見る。既に歩き出していた背中を追い掛け、広いリビングに辿り着く。スマイルは隙間風が差し込む大きな窓から、庭へ降り立っていった。
 自分が素足である事を今更思い出し、最後まで彼についていけない事に足が止まる。一瞬だけ、置いて行かれる感覚が胸を過ぎった。
「ユーリ」
 彼は構わず、窓の外から名前を呼んで手を振る。傍にアッシュの姿が見えた。 
 そして、彼らに挟まれる場所に。
 彼らの身長に並びそうなくらいに大きな、白い球体がふたつ積み重ねられたものが。
 庭は一面が白色に染まっていて、それらが雪である事を理解するのにも、少しだけ時間が必要だった。
 吐きだした息の白さに視界が濁る。
「雪……」
 降るはずがないと思っていたものが、庭を、城の周囲を埋め尽くしている。
「ほら、凄いでしょう?」
 自信満々に胸を反らせたスマイルが、巨大雪だるまを軽く叩いて言った。よくイラストなどで見られる、バケツを帽子代わりに被った巨大雪だるまには、アッシュの赤いマフラーが巻き付けられている。
 まだ部屋に居たときに聞こえてきた笑い声は、恐らくふたりでこれを作っていた時のものだろう。白い雪のあちこちには、雪だるまを転がした溝の跡や、犬の足跡が散っている。
「……それが、どうした」
 雪が降り積もったくらいではしゃぎ回るなど、子供のする事だろう。こんな事で叩き起こされた自分にまで腹が立ちそうで、ユーリは身体に巻いたシーツを強く抱いた。
 いや、違うかも知れない。
 多分自分は、もっと早くに巻き込まれたかったのだ。出来上がったものを見せられるだけではなくて、それよりも早い段階から、彼らと。
 一緒に、居たかったのだ。
 巡り終えた思考の先に辿り着いた場所は、自分勝手なエゴの塊で泣きたくなる。自分から彼らの招きを全身で拒み続けていたくせに。
 彼らはいつだって、自分に対し手を広げてくれているのに。
「ユーリ」
 雪だるまを作った労力の殆どはアッシュだったらしく、彼もまた誇らしげに自分と同じだけの背丈をしている雪だるまを見つめていた。そして、カメラを取ってくると慌ただしく城内に駆け戻っていった。
 走り抜ける彼によって巻き起こされた風に浮いた髪を押さえ、庭に残るスマイルの呼び声に顔を上げる。おいで、と手招きしている彼に、けれど近づけなくて後込みしてしまうユーリは小さく首を振った。
 スマイルが困った風に目尻を垂らす。踏みしめた雪の音を近づけさせて、窓辺に佇むユーリの前に戻ってきた。
 差し出された両手が、握り返せないユーリの脇をすり抜けて背に回される。引き寄せられて、抱きしめられた。
「おいで、怖くない」
 にこりと、無邪気なまでに微笑まれて耳元に囁きかけられる。
「誰も恐がってなど……」
「そうだね。ユーリが怖いのは、この雪が溶けてしまう事だろうから」
 雪は溶けて水になる。固く結びついた結晶が解け、形のないものに変わり分かたれて、消えていく。
「大丈夫だから」
 背に回った彼の腕が腰を掴む。そのまま、抱き上げられた。爪先がシーツの裾に絡められて隠れる。
「この大きいのが、アッシュなんだって」
 言われてみれば、巨大雪だるまにはアッシュの特徴であるやや尖った耳が柊の葉で表現されていた。瞳は南天の赤い実で。
 白いシーツは思った以上に風を遮断してくれて暖かい。なにより、彼が庇うようにして胸に抱き込んでくれている御陰か。
 その彼が、ユーリを落とさぬように気を配りながら膝を折る。曲げられた足の上に腰を置かれて、下を向くように促された。
 巨大雪だるまの傍らに、ひっそりと小さな雪だるまがふたつ、並んでいた。
「こっちを作ってたらさ、綺麗なままの雪がもの凄く減っちゃって。こんなサイズしか出来なかったんだ」
 ゴメンね、と囁く彼が言うとおり、白一色とは言え庭のあちこちは雪だるまを作ったときの名残でか、踏み荒らされていた。同じサイズのスノーマンを作るのは、この状態では不可能だろう。
 だから出来上がったのは、掌にも乗りそうなミニサイズ。折れた枝が手になって、南天の赤い目が露に濡れている。
「これが?」
「うん。ぼくと、ユーリの分」
 にっこりと。
 スマイルが微笑みながら言う。
 不意に泣きたくなった。
「ユーリ?」
「……なんでもない」
 彼の胸に顔を埋め、視界を隠す。彼からも表情を隠す。
「今度は、もっと大きい奴をふたりで作ろうか」
 ポンポンと宥めるように背中をさすられて、呟かれる。彼の服を掴んで額を押しつけたまま、ユーリは首を振った。横に。
「これで良い」
 これが良い。
「……そう」
 スマイルはそれ以上なにも言わず、しがみつくユーリの背を何度も何度も、飽きるくらい撫でていた。
 やがてカメラを構えたアッシュが帰ってきて、スマイルに壊さないでねと言われた瞬間に強く押しすぎたシャッターが元に戻らなくなった。呆れかえったスマイルの肩を竦める仕草に顔を上げたユーリも、いったいどうやったらそうなるのか、どこの部品かも分からないバネをカメラからはみ出させているアッシュを見つけて、苦笑う。
「機械音痴」
 盛大に溜息をつくスマイルに代わって言ってやり、ばつが悪そうにするアッシュが誤魔化すように空を見た。
 鈍色の空から、白いものが再び舞い降りてくる。
「雪っス」
 差し述べた掌に落ちた雪は熱ですぐに溶けて水になった。
「明日はかまくらくらい、作れるっスかね」
 喉を逸らせて天を仰ぎ見るアッシュが感慨深そうに呟き、スマイルも頷いた。ユーリは黙って舞い降りる雪のカーテンを見つめ、それから足許の小さな雪だるまを眺める。
 再び降り始めた雪に、心なしか彼らも嬉しそうに見えた。
「ユーリ」
 どこかから、遠くで、鐘の鳴り響く静かな唄が聞こえてくる。スマイルの囁く声が、それに乗って重なり合った。
「Merry Christmas, Yili」
 ユーリにだけ聞こえる音色で、彼の声が唄う。ふっと、ユーリは微笑んだ。
「ああ、そうだな」
 そうだったな、ともう一度自分で納得してから呟いて。
 壊れたカメラに悪戦苦闘しているアッシュに気付かれぬよう、握った手に力を込めてスマイルに頬を寄せる。重なり合った肌から、お互いの熱が伝わって来た。
「Merry Christmas, Smile」
 そっと囁く。近すぎて見えなかったスマイルの顔が、嬉しそうに笑った気がした。
「来年も、一緒に居るから」
 雪が溶けて水になって、それがまた蒸発して天に昇り、雪になって戻ってくるまで。いや、戻ってきてまた巡るその先も、ずっとずっと。
「怖くない、よ」
 強く抱きしめる。降りしきる雪の重みで傾いた片方の小さな雪だるまが、枯れ枝の細い腕をもう片方に擦り寄せた。凭れ掛かるように、添い寄って。
 ことば無くユーリは頷き、なおも強くスマイルにしがみついて暫く離れようとしなかった。

 それから。
 季節が巡って冬が終わってからも。
 夏が終わる頃まで、ユーリの城にある巨大な冷蔵庫では双子のような小さな雪だるまが、他の食材を押しのけて冷凍庫の一角を占拠し続けた。

Transparent

 顔を上げて、視線を巡らせる。万年筆を持った右手の甲で軽く目尻を擦ると同時にクチを開けば、出てきたのは欠伸だった。
 窓のカーテンから光が射し込んでいる。薄くもない布地を透かして、窓枠が筋となって浮かんで見えた。
 気付かないうちに夜が明けていたらしい。道理で眠いはずだと、更に視線を巡らせて、けれど届かずに椅子を僅かに退くと上半身を捻らせて壁の時計を見上げてみた。まだ完全な夜明けには少々遠いようだが、既に太陽は半分ほど頭を出しているに違いない。
 薄明かりに導かれるように席を立つと、思い切って窓のカーテンを両手で掴み左右に開いてみた。
「……っ」
 眩しさに反射的に目を閉ざすがカーテンは開いたままで堪え、瞼越しにでも感じる光を思いつつ徐々に慣らしていく。深々と息を吐くと同時に肩からも力を抜いて、強く握り締めていたカーテンから手を離した。
 白く曇った窓硝子が目に入る。手で触れると、霧のように細かな結露は互いに結びつきあって大きな粒をいくつも作り、重みに絶えきれず垂直な壁を滑り落ちていく。
 結んでいた口許を綻ばせ、観音開きの窓を閉じている鍵を外した。軽く押すだけで、それは左右に均等に開いていく。
「寒っ」
 流れ込んできた冷気に思わず呟き、両手で身体を抱きしめてしまった。
 まだ空の一部は暗闇の名残を残したままだったが、それもじきに光に掻き消されてしまうだろう。揺れるカーテンの裾を指先で払って、身体を抱いたまま今一歩、窓に近付く。
 朝の冷気が頬を撫でて室内に流れ込んでいく事も構わなかった。一気に冷え込んだ室温に軽く笑って、上唇に絡んできた銀糸の髪を払う。
 震え上がりそうなくらいの寒さなのに、不思議と身体の内側は暖かい気がした。朝の陽射しを浴びているからだろうか、これは昼間の突き刺すような熱光線とはまた違った趣がある。
 夏とは違うからかもしれない。初冬の、未だ寒さに順応しきれない季節の変わり目の早朝は、思った以上に朝の空気は澄んでいて心地よかった。
 身体の中が冷え切りそうな冷たい空気を、思い切って腹の中に吸い込み、ゆっくりと吐き出す。さっきまであった眠気は一瞬でどこかへ吹き飛んでいった。残ったのは、凛とした大気に溶け込むかのような、霞みにも似た自身の存在。
 はぁ、と改めて息を吐く。
「寒いな」
 ずっと室内に籠もっていたのだ、ある程度は暖房も効かせていたからやや厚手のシャツを一枚羽織っているだけ。この状態で寒くない方が異常だろうと、自分の呟きに自分で笑って明けていく空を見つめ続ける。
 吐く息は僅かに白く濁っていた。
 普段は透明で見えないものが、朝の冷え込みの中、今だけこうやって色を持ち視界に収まる光景が不思議な気がして、何度も強めに息を吐きだしてみる。しかしやがて、色は薄れていつもと同じように、吐く息は見えなくなった。
 そこに確かにあるのに、掴まえられずまた見ることも特別な時、特別な方法を介してでしか出来ないもの。
 窓枠に凭れ掛かって腰を軽く退いて落とす。暫くそのまま朝の風を浴びて、忘れた頃に戻ってきた眠気を欠伸で噛み殺す。
「…………?」
 けれど、ふと。
 独特の香りが漂ってきて、眉根を寄せた。身体を起こし背後を振り返るが、匂いの源流は此処ではない。
 眉目を顰め、横を向いた瞬間に吹き込んできた風で煽られた前髪を抑え込む。目に入りそうになった細い糸を追い払って、時計を一瞬だけ睨んだ。それから再度、窓から身を乗り出して外を向く。
 死角に入っているのだろう、存在は確かめられない。だが、彼であることを疑いもしなかった。
 窓枠に置いた手に力を込め、爪先で立つ。更に背に神経を集約させると、縮んでいた異形の証のひとつである黒色の翼がむくりと身を起こした。広げる、かろうじて窓の幅を通り過ぎるまでに。
 そうしてユーリは、たんっ、と右の足で床を蹴る。空気の渦が一瞬だけその場に出来上がり、一瞬で消えた。空気抵抗を生み出した翼がばさりと音を立てる。重力を遮断して浮き上がった身体は、巻き上げられた空気の中心にあって優雅に佇んでいた。
 もう一度、ばさり、と翼が空気を叩いた。
 左足で、もう一度床を蹴る。前へ、勢いをつける目的で。
 するりと彼の身体は開かれた窓をすり抜け、未だ明け切らない冬の始めの空へ放たれた。
 窓枠に指を引っかけ、空中で身体を反転させる。窓を越えた瞬間は下を向いていた頭が正常な位置に戻され、同タイミングを狙い狭めていた翼を今度こそ広げきった。
 両手を真横に伸ばしたその幅よりもずっと長い漆黒の蝙蝠羽が、鋭い牙を天に剥けてピンと張られる。それはこの冬の冷え切った空気にも臆することなく、悠然と風を受けて彼を支え続けた。
 ユーリは階下を見た。正確には、自室より下にある城の外側と、広大な庭、その両方を包み込む巨大な黒い森林帯。漸く完全に全景を覗かせた太陽に照らされた、すべての大地を。
 クン、と鼻を鳴らす。吸い込んだ空気の冷たさに麻痺しかかった感覚を叱咤して、城の外壁をまた軽く蹴り飛ばした。張り詰めている空気を切り裂くように翼を操り、空を滑る。
 耳元で、風が唸った。
「わっ」
 そうして、ユーリの細い肢体が地上に激突しようかという距離にまで迫った時。
 通り過ぎていった風の欠片が、驚きに飛び出たらしい声を拾って来た。瞬間的にユーリはそちらを向き、同時に翼を繰って自身の落下を停める。器用に空中で支えもなく身体を回転させて視界を正常に戻し、声が聞こえた場所を探す。
 とっくに通り過ぎた城から飛び出ているバルコニーの底面が、見上げた先にあった。ユーリの部屋からも、完全にとはいかないがほぼ真下に位置している。雨よけの庇の下に入ってしまえば、部屋の窓からだと死角になる場所もある。
 口許を歪め、ユーリはバルコニーを睨んだ。空中で身体を静止させる為、常に動かし続けている翼に指令を送り数メートル先にあるそこまで自分を運ばせる。
 非常にゆっくりとした動きで、バルコニーの手摺り越しに足許から舐めるように視界は持ちあがって行く。
「……やあ」
 そこに居たのは、既に逃げ切れないと悟ったのかやや引きつり気味の笑みを浮かべている、彼。
「スマイル」
 怒りを裏側に隠している事がありありと伝わってくる、棘のある声でユーリは誤魔化しに入ろうとしている彼の名をわざとらしく呼んだ。
「おはよう」
 返ってきた朝の挨拶には答えず、ユーリはバルコニーの手摺りを越えるとその段階で翼を折り畳んだ。力を抜くと、見る間にそれは萎みもとのサイズに戻っていく。相変わらずの鮮やかな仕草に、スマイルは目を細めていた。
 が。
「スマイル?」
 にっこりと、これもまた非常に態とらしい笑顔を浮かべユーリは目の前に立つ男に右手を差し出す。
「ナニ?」
 こちらもわざとらしさで応酬し、笑顔で差し出された手をスマイルは握り返す。直後に思いっきり力を込めて振り払われてしまったが。更に反対の手でボディーにアッパーが。
 流石にさほど力を込められていなかった事もあり、スマイルは蹲る程のダメージを受ける事はなかったが、それでも多少は痛かったらしい。いつものコートに身を包んだ上から、殴られた箇所をしきりにさする。
「出せ」
「鐚一文、払えません」
「貴様は私を、そこまでして怒らせたいのか?」
 しらばっくれようと惚け続けるスマイルに、握った拳を叩き込んでからユーリは、今度こそ膝を折った彼を見下ろして言った。
「……とっくに怒ってるじゃないか~」
 殴られた頭を撫で、唇を尖らせながらスマイルはなんとか立ち上がる。そして左手で、コートのポケットを漁った。
 取り出されたのは真っ赤なパッケージが目を引く、煙草。半分近く減っている為か、表面が若干凹んでいた。
 受け取ったユーリは、蓋を開けて中身を確認し不機嫌そうな顔を作る。
「没収だ」
「……やっぱり?」
「あれ程言って、何故分からない」
「ん~、でも一本くらいなら、ね?」
「ダメだ」
「徹夜明けなんだよ。お願いだから、見逃して!」
 両手を顔の前で合わせて頭を下げるスマイルを物珍しそうに眺めるユーリだが、頑として首を縦に振ろうとはしない。
 煙草は禁止、城内は当然だが禁煙。アッシュもユーリも吸わないので、必然的に多数決で愛煙家は排斥される運命にあった。
「私とて、昨夜は眠っておらぬぞ?」
 ニューアルバム用の曲の締め切りは迫っている。追い込みも甚だしいところであり、睡眠時間が削られるのは誰もが同じだった。
「でもさ~~」
 愛煙家と嫌煙家とでは感覚が違うんだよ、とスマイルは言い張ってみるもののユーリに通じるはずがない。もとより、両者は考え方が根本から違っているので煙草の利害を互いの立場から主張しあっても、平行線から進む事はないのだ。
 かくしてスマイルの煙草はユーリの手によって握りつぶされた。ジッポまで回収されなかっただけまだ良いか、と明るく染まった空を見上げスマイルは深々と溜息をつく。緩く首を振って、揺れたコートの裾に視線を落とし、それからユーリを見る。
 城のバルコニーとはいえ、朝の冷え込み対策からコートを羽織っているスマイルに対し、ユーリは部屋を飛び出した時の格好のまま。即ち、やや厚手とはいえ上に羽織るはシャツ一枚。
「寒くない?」
 彼が吐く息は、かろうじて白かった。
 問われ、ユーリは改めて自分の格好を見つめ直す。言われなければ恐らく忘れたままだったのだろうが、思い出した途端寒気が背筋を這い上がってきた。
「そうだな」
 身体を浅く抱き、白さを取り戻している自分の吐く息を見て軽く笑う。
「だが、悪い気分はしない」
 凛としているからだろうか、朝だから余計に空気が澄んでいて心地よく感じられる。寒いという部分を除きさえすれば、文句のない朝だ。もうひとつ、仕事の締め切りに追われての徹夜明け、という点がなかったなら満点を記録していただろう。
 更に言えば、スマイルの喫煙を発見しなければ。
 口に出して言ってやると、彼はばつが悪そうに頬を掻いた。視線を浮かせ、悩んだようにあちこちを漂い結局はユーリに帰ってくる。
「寒い?」
 先程の問いかけとはまた微妙にニュアンスが違う問いかけをしてきて、ユーリは笑った。身体を抱いた手で腕をさする。熱は起こらない。
「そうだな」
 俯いて視線を落とし、ユーリは呟いた。
 ぱさり、と。
 降ってきたやや重いけれど柔らかなものに、驚いてユーリが目を見張る。
 薄色のシャツを着ただけのスマイルが、そこに立っていた。
 肩からずり落ちそうになった、さっきまで彼が着ていたはずの彼の体温を残しているコートを胸で交差させた手で掴み、ものを言いたげな目でユーリは彼を見た。
「寒いんでショ?」
「だが、これではお前が」
 納得がいかないと、羽織っているだけのコートを突き返そうとしたユーリの動きを先に制して、スマイルは笑う。平気だと言って。
「だって、ほら」
 しっかりと彼にコートを纏わせて、スマイルは軽く肩を竦めた。空気に溶けるように、彼の身体が透き通った。
 彼の身体越しに向こう側――城の壁が見える。辛うじて残った輪郭だけが、彼の存在を希薄ながらユーリの目に見える世界に遺していた。けれど、それ以外はまるで透明な板にマジックでなぞっただけのようなものに等しくて。
 目に見えなくて、特別な条件が揃わない限り在ると思い出せなくなるもの。
 ユーリの目の前で、彼が吐いた息が白く濁る。
 輪郭だけのスマイルが、更に色を薄くする。
 呟く。
「こうすれば、風もぼくの存在に気付かなくて通り過ぎていく」
 だから寒くないと、彼は自嘲気味に自分を笑って、言う。
 自分を傷つけることばを、平気で吐き捨てる。それを、平気だと嘘をつく。
「スマイル」
「ナニ?」
 もう目を凝らしても見えない彼の、笑い声を頼りに距離を詰める。近付く、手を伸ばす。
 片手で彼のコートを握り締めて、もう片手はみっともないまでに明るい朝の光の下、手探りで存在を求める。
 掴んだのは、シャツの裾だろうか、袖だろうか。
「寒いのだろう?」
「ユーリ……」
「寒いに決まっているだろう!」
 平気だ、とそれでも言おうとしている彼の声を大声で遮り、掴んでいるコートを思い切り引っ張る。見えないけれど在るものを包み込んで、透明なスマイルの頭目掛けて放り投げる。
「わっ」
 驚いて、反応が遅れたスマイルの姿は見えなかったけれど、頭上に落ちてきたコートによって隠された輪郭がはっきりと滲み出る。その頭の高さから大体を想像して、ユーリは手探りで掴んだそれを引き寄せた。
 がちっと互いがぶつかり合う音が鈍く響いても、構わなかった。
「痩せ我慢なら、するな!」
 唇に触れたはずの、柔らかな熱に向かって怒鳴りつけ、ユーリはコートだけが浮いている異様な光景を突き放した。尻餅をついたらしいスマイルが、じんわりと世界に色を戻していく。身体を支えている左手とは逆の指が、赤くなった唇の滑りを掬い上げていた。
 ユーリはユーリで、舌先で下唇についた生暖かな液体を舐め取っている。
「煙草は、嫌いだ」
 苦い。
 吐き捨てるように言って、彼は踵を返した。茫然としているスマイルをバルコニーに残し、扉を潜って城内にさっさと戻っていく。
「……痩せ我慢、ね」
 完全に現れた己の左手を見つめ、スマイルは頭から被ったままでいる自分のコートを引きずり下ろした。けれど袖を通す気分にはなれず、膝にかけたまま暫く反省の意味も込め、緩みそうにない朝の冷気に自己を晒してみた。
 吐く息は絶えず白い。
「そう……見えるのかな」
 自分にとっては当たり前の事、けれど他人から見ればまったく別のもの。
「ユーリ」
 居なくなった人の背中を探して、バルコニーを見渡す。だけれど去っていった背中はどこにも見出せない。掲げていた手は力無く沈んだ。
「ぼくは、“可哀想”じゃないよ?」
 微かに笑って、囁く。
 吐く息はもう、見えなかった。

Ginkgo

 空はどこまでも穏やかなのに、時折耳を劈く唸りをあげて風が吹き抜けていく。
 昨日、テレビの天気予報で木枯らし一号が吹いたと女性アナウンサーが説明していた。もう冬も間近で、コートを羽織り襟を立てて寒そうにしながら人々も足早になっている。
 前を歩いていた足が、不意に止まった。ビルの隙間を走る風の唸りに気を取られていて、あと三十センチ弱の距離で危うく衝突を回避する。ただ爪先だけが、停止していた彼の踵に擦ってしまった。
 気付いていないのか、彼は振り返りもしない。いったいどうしたのだろうと、背後から怪訝に思いつつ距離を戻して、彼が見上げている先に自分も視線を向ける。
「ドシタノ?」
 黒い皮の手袋で色の濃いサングラスを持ち上げ、さっきよりも幾らか良くなった視界に映るのは街中では珍しくもない街路樹の群生。道路に等間隔で植樹されているそれらは、そこそこに長生きしているようで枝振りも貧弱とは程遠かった。
 ただやはり環境は宜しくないせいか、枝の先は黒ずんで細くなってしまっている。数週間前までは緑の葉をいっぱいに茂らせていたであろうそれらも、昨今の急激な冷え込みにより力を失い気味らしい。
 緑は薄れ、街を行く人々と同様に色を模様替えといったところか。ただまだ疎らな部分も多く、完全な紅葉にはもう少々時間が必要のようだ。
 短時間でそれだけの観察を終え、再度目の前の背中に視線を戻すが彼は一向に振り向きもせず、また歩き出そうともしない。
 踵でコンクリートの歩道を軽く蹴り飛ばす。数歩で彼の前へ回り込み、腰を屈め気味にして下から彼を覗き込んでみた。
 今度は流石に、彼も気付く。顎を上げて視線を上向けていた姿勢そのままに、今度は目玉だけを下向かせてじろりと睨んできた。
 ついつい笑ってしまって、其処からもう一度さっきまで見上げていたものを仰いでみるけれど、やはり見えるものは変わらない。緑と黄色が半々に混じり合った、銀杏並木。
「これはなんだ?」
 不機嫌を隠しもせず、彼は靴の爪先で歩道に落ちて踏まれたらしい物体を軽く蹴った。白っぽく、けれど濁っている。
「臭い」
 端的に感想だけを告げて、彼はようやく不機嫌なまま歩き出した。
 彼が蹴ったものと、それがもとの形で成っていたであろうものを交互に見やってやっと合点がいく。
「銀杏か」
 淡い黄色をした植物の実、種。確かにこの一帯に植えられている並木はイチョウばかりで、地上に落ちた葉も黄色一色だ。合間に実りきる前に落ちてしまった銀杏の実も見当たる。
 言われてみれば、確かに独特の癖のある匂いが立ちこめていた。
「ユーリ」
 彼にとっては好みではなかったのだろう。広がってしまった距離をまた詰めて、ぶつからない程度の歩幅を間に置いて、歩く。並ぶと嫌がるから、少しだけ斜めに逸れて、後ろを。
 突風が吹き付ける。ビルの谷間を抜けていく風は獣の低い唸りをあげながら地上に貼り付く生き物を蹂躙して、あっという間に姿を消した。残された人々は、跳ね上がった髪をそれぞれ手櫛で直したりコートにまとわりついた埃を払って、また忙しなく歩き始める。
 ユーリもそれは同じで、寒そうに身体を縮め込ませていたのを解き去っていった風の方角を仰ぎ見て緩やかに首を振った。
 視線がぶつかり合う。笑いかけてみたが、彼は応えてくれなかった。
 どうしようかと悩む。目の前にひらひらと影を背負ったものが落ちてきた。
 人がまだ悩んでいる間に、それは自分たちの間を滑り落ちていく。手を差し出したのは彼で、左右に頼りなく揺れながら地面に惹かれて行こうとしていたそれはさらり、と彼の指の隙間に挟まって止まった。
 黄色い、綺麗な扇状の形をしたイチョウの葉だ。枝から別れを告げてきたばかりの事もあって、色も鮮やかで形も崩れていない。あのまま歩道に沈んでいたら、きっと行き交う人混みに踏みつけられてあっという間にもとの姿を見失ってしまっていただろう。
 彼は細く短い枝を摘むと、くるくると回転させた。行為そのものに意味はないようで、そんな仕草をしている間も彼はまだ憮然とした態度をやめようとせず、反対の手で髪の乱れを手早く直すと、踵を返してまた歩き出す。
 追い掛けて、影が平行に並ぶ。
「銀杏、嫌い?」
 イチョウの葉で遊んでいる癖に、その樹木が次の世代に向けた種を落とす行為は嫌いらしい。いや、ただ単にこの場に漂う臭さがお気に召さなかっただけか。
 間もなく銀杏並木を抜ける。歩みが心持ち、早くなる。
 追いすがる、並ぶ。追い抜いた。
 彼の足が止まる。顰められた表情を見下ろして笑み、まだ辛うじて円形を保っていた足許の木の実を爪先で蹴ってみた。
 食べられるのに、と呟く。勿体ない、と。
 彼が顔を上げた。それからまた、歩道に転がる木の実に目をやる。
 茶色には色が薄く、黄色には濃い。双子のサクランボのように枝の先で繋がりあったそれは、片方の実が半分潰れてしまっていた。
「食べるのか?」
 疑問型をぶつけられ、苦笑いを浮かべて首を横に振る。
「これはもう、ダメだね。痛んじゃってる」
 コツン、と爪先でもう一度銀杏の実を転がす。新たな発見を見たらしい彼は、さっきまでとは違った目で実を見下ろしていた。
「正しくは、実の中にある種を食べるんだ。殻は固くて、腐らせるなりしてから実を取り出す」
 古くは土の中に埋めて、外側が腐るのを待ったのだと言う。其処までして食べたいものなのかどうかはさておき。
 種を食べるという点では、栗だってそうだし、意外性で言えば松の実も食べられる。この大通り沿いの銀杏並木では毎年、銀杏拾いの人々が現れるくらいだから好きな人もそれなりにいると言うことだろう。
 独特の臭みさえなければ、もう少し愛好者も増えただろうが。
「お前は?」
「ぼく?」
 疑問の内容を鞍替えされて問いかけられ、自分を指さして尋ね返すと彼はゆっくり頷いた。眉間の皺は、まだ臭う銀杏故のものだろう。
 行こうか、と先に誘うと彼は促されるままに歩き出した。今度は横に並んで、歩く。彼はなにも言ってこなかった。
 摘んだままのイチョウの葉だけが、彼の手の中でくるくると踊っている。
「お酒のツマミには良いらしいけど、調理が面倒臭いからネ。食べられるまでにするのに時間がかかる」
 ひとつひとつの殻を割っていくのも、また一苦労だ。アッシュに頼めば、どうにかしてくれるだろうか。
 もっとも、自分だってそこまでして貰って食卓に並んでも、両手を挙げて喜ぶ程好きというわけではなのだが。
「嫌いなのか?」
「そーでも無いケド、お腹一杯になるまで食べ続けたいとは思わない」
 嗜む程度で構わない。それだけを皿に山盛りで出されても、見ただけでげっぷが出てそれで終わりだ。この臭みは、そう簡単に抜け落ちたりもしない。
「ふぅん……」
 生返事で前を見つめた彼の横顔を眺める。
「なに、食べてみたい?」
「いや、遠慮しておく」
 私はこれだけで構わんよ、と。そう言って彼はまだ棄てていなかった黄色い小さな扇をみせてくれた。
「そ? 滋養強壮に効果があるとは聞くケド」
 囓った程度にしか知らないが、そういう効果が銀杏にある。覚えている限りの知識を拾うしている間も、ユーリの手の中でイチョウの葉は回り続けていた。彼はそれを、城まで持って帰るつもりなのだろうか。
「イチョウ……か」
 公孫樹とも書く。種を蒔いても実がなるまでに孫の時代まで掛かるから。実がなるくらいだから当然雄雌の株に別れているし、実がなるのも雌株だけ。
 人の寿命よりもずっと永い時間をかけて成人になる樹。
「花言葉は、長寿」
 それから。
 突風ではない秋を語る穏やかな風が街中を滑っていく。クラクションがけたたましく喚き散らされるクロスロードの手前、赤に切り替わってしまった信号で並んで立ち止まった。
 声が聞き取りづらくなる。顔を顰めさせた。
 彼を見つめる。静かで、柔らかな笑みに宿る紅玉の双眸が微かに揺らいでいた。
 何故、と問いかけようとした。
 彼の手からイチョウの葉が風に攫われ、遠くへ流されていく。やがてそれは地面に落ち、人混みに紛れ、踏みつけられた他の葉と変わらないものになってしまった。
 赤信号が青に切り替わる。通りを行く人の肩に押されて、流れに逆らいきる事も出来ぬままふたり、鈍い足取りで縞模様の橋を渡り始めるしかなかった。
 振り返る。もう彼が踊らせていた葉は何処に行ってしまったのかも分からない。その他大勢に紛れ、彼の葉は消えてしまった。
「あの葉は、枝を離れた時点で死んでいたのだよ、スマイル」
 名残惜しそうに何度も振り返るのを、冷ややかな声で彼は笑った。
「屍は、屍の海に沈めてやれ。大勢の仲間の眠る地へとな」
 腕を引かれる。ゼブラゾーンを抜けきって、足の裏にタイル張りの歩道が現れた。
 後方で車の排気音やエンジン音が不協和音を奏でて耳障りに感じる。黙っていると、さっきまでとは立場が逆だな、と言われた。
 銀杏並木は遠くへ去り、あの匂いもしなくなっていた。身体にまとわりついている分も、あと数分街中を放浪すれば綺麗に消えてなくなるだろう。
 最後にと、車の群れに霞む並木を振り返る。数歩先で待つユーリが、そんなぼくの背中を見て瞳を爪先に落とした。
 それから、顔を上げる。
「私の屍も、棄てて行く」
 いつか、その時が来るのなら。二度と目覚めの来ない眠りに入るとき、ぽきりと折れた枝の先から落ちたその時は。
 振り返る。聞き取りにくかった声に耳を傾け直して首を傾げても、ユーリは同じことばを繰り返してはくれなかった。
 ただ、寂しげだけれど満足そうな笑顔をされた。肩を竦めて、寒いから早く行こうと促される。
 手を伸ばされ、伸ばし返し、掴まれた瞬間に囁かれた。
「お前の傍に、な」
 聞こえたのはそのひとことだけで、恐らく聞きそびれた台詞の続きなのだろうと察しはしたけれど、会話は繋がらなかった。
「ユーリ?」
「行くぞ、スマイル。遅れるな」
 自己完結で済まされてしまったユーリの話に、腑に落ちない点を抱えながらも引きずられまいと自分も足を速めて横並ぶ。
 秋は深まり、間もなく冬が訪れる。
 眠りは安らかに、常に君の隣で。

 公孫樹の花言葉。
 長寿、そして。
 鎮魂――――

Go Home

 風が潮の香りを運んでくる。
 伏していた瞳を上げ、背後から吹き付ける風に誘われるままに視線を流せば、その先に広がる無辺の水面が世界の半分を埋め尽くしていた。
 テトラポットの群生が、コンクリートで固められた岸辺から触手を伸ばしている。鈍い灰色のそれらは、寄せては返す波に煽られても微動だにせず其処で顔だけを出し、異質な光景を形作っていた。
 いや、今となってしまってはもうその光景の方がずっと当然なのかもしれない。
 波浪による陸地への侵蝕を防ぐために作り出された、無機質な物言わぬものたち。ギリシアの四つ足の獣は、今や沈黙し打ち寄せる波に肌を撫でられている。
 あと何年すれば、それらは無に帰すのだろう。そんな事を思って波打ち際を眺めていると、不意に富士の峰よりも高い岩山の肌を撫でる天女の話を思い出した。
 一年に一度、空から舞い降りた天女が岩山をそっと優しく撫でる。その繰り返しで、やがて岩山が摩擦ですり減り消えて亡くなるまでの時間がひとつの単位となっている。劫……それは果てしなく長い、永遠にも等しい時間の区切り。
 夕暮れだった。
 今自分が立つ、アスファルトで塗り固められた黒色の車道よりも一段高くなったコンクリートの岸壁も、昼間の熱さを失って冷えきっていた。
 風が止まない。眼前に広がる水平線は徐々に橙色を強くした色彩に染まっていく。波の高さが影となり、陰影を浮き立たせて水面はどこまでも、静かだ。
 微風が誘う汐の香は鼻腔をくすぐり、または塩気を含んだ空気に触れすぎた髪が本意ではないままに固められてしまっている。
 身にまとうコートの裾が、頻りに風を受けて前後左右に揺らめいていた。強すぎず、弱すぎない微かな風に煽られ、黒に近い濃紺の布は頼りなくその場所で彷徨う。
 見下ろし、行き場もなく垂らしていただけの両腕をポケットに押し込んだ。それで少しはコートも押さえつけられ、思い出したように時折テトラポットに海水をぶちまける強い波と一緒に現れる風圧にも負ける事も減るだろう。
 踵でコンクリートを軽く蹴ってみた。音もなく、その場所が落ち窪む事もない。ただ革靴の底を伝って、脛の辺りにまで衝撃と振動が伝ってきただけだ。痛くもない。
 沈黙を保ったまま舌打ちだけを口の中で済ませ、下ろした踵を軸に身体を反転させた。
 目の前に改めて、広大無辺の海原がそびえ立つ。
 夕焼けは色濃さを増し、太陽はゆらゆらと雲と波に色を映して揺らいでみえた。水平線を一直線に目指して沈んでいく巨大な熱の塊は、真昼に見上げるそれよりもずっと大きく感じられる。
 地表に伸びる影は長い。1メートル程度路面より身の丈を延ばしている岸壁も、黒いアスファルトに細く長い影を落としていた。
 背後を車が行き過ぎる。田舎と言っても充分憚られる事は無さそうな、寂れた漁村の一画を走っていく乗用車も数は圧倒的に少なかった。
 運転手は気付いただろうか、岸壁にひとり背を向けて立つ青年の存在に。
 或いは気付かなかったかも知れない。交錯は一瞬だったし、車も他に走る影が見当たらないのを良いことに規定速度を軽く超える速度までアクセルを踏み込んでいたから。
 それに、今は黄昏時。逢魔が時。夕暮れが迫り、闇がひたりひたりと忍び寄る時間帯。
 物の怪に遭うような時だ、そしてその事実に気付かぬまま会釈をして通り過ぎる。薄暗く、もうそろそろランプに灯りを点けても良い頃である。そんな明るさの中で、注意を向けもしない岸壁に在るものになど誰が気付こうか。
 排気を撒き散らして呻り声を上げ、一瞬で通り過ぎて行ってしまった車の背中が小さくなっていくのをぼんやりと見送る。吹き返しのように戻ってきた突風に掬われた前髪を抑え込んで、指先に絡んだ塩気に苦笑いした。
 この季節、日が暮れるのは思いの外速い。さっきまで底部を水面に押しつけただけだったはずの太陽が、もう半ば近くまで身を沈めている。
 天頂の空は薄暗く、東から徐々に紫紺の闇が広がりつつあった。浮かぶ雲は西に残る光を反射して幾分明るかったが、それも日が沈みきれば無くなるだろう。
 そうして訪れるのは、夜。
 仕事の帰り道、その途中。たまたま予定していた帰宅コースが事故車両の撤去と実況検分で通行止めになって、大回りに海沿いを走ってみた。その道沿いに広がる光景は存外に素朴で、味わい深くありゆっくり走ろうかと語り合っていた最中に起きたガス欠。
 生憎と、素朴で質素で、閑散とした、寂れた漁村にはガソリンスタンドといった気の利いたものはまるで似合わず。目立つ派手な看板はひとつも見つけられなくて、困り果てた運転手は後部座席でふんぞり返っていた車の名義主に思いっきり蹴り飛ばされていた。
 その彼はきゃんきゃん吼えながら、この辺りの住人を掴まえてガソリンを分けてもらえないかの交渉を繰り返しているはず。だが見付かるのは、軒先でのんびりしている腰の曲がったお婆ちゃんばかり。
 まさかわざとではないだろうな、と掛かりすぎる時間に肩を竦めるしかない。若者に圧倒的な支持を受ける彼は、どうやら妙齢の女性にも充分通用する魅力を持っているらしい。
 本人がまんざらでも無さそうなところが、またおかしい。
 そんな彼を蹴り飛ばした張本人は、車が動き出すまで眠る事にしたらしい。シートを倒し、予め積み込まれていた薄手のケットを肩から被って横になっている。空調は止まってしまっているから、窓は全開で。
 今が真夏の盛りではなくて良かったと、彼を含める全員が思った。でなければ、もうとっくに、今は夢の中に在るはずの人物がぶち切れていただろう。
 ゆっくりと、しかし確実に沈んでいく太陽を眩しそうに隻眼で見つめ、吐息を零した。一体どこまで行ったのか、一向に戻ってこない運転手の狼男の存在を気配で探るが残念ながら、届く範囲内では感じ取ることが出来なかった。
 本当に何処まで行ってしまったのだろう。彼の事だ、平気で隣町まで行っていそうだ。そうなると帰宅は深夜に及ぶかも知れない、そうなったらまた欠食吸血鬼が拗ねる。
 一難去ってまた一難を予想し、大仰に肩を竦める。風は涼しく、穏やかだった。
 日が沈む、闇が迫る。
 長く伸びた影が路面を埋める。彼は直立させていた足をそっと、半歩分ずつ前に進めた。
 車道との高低差は1メートルしかなくても、岸壁上からテトラポットが埋め尽くす岸辺までの高低差は彼の身長の倍を軽く越えている。落ちでもしたら怪我だけではまず済むまい、それが人であれば尚更に。
 少し行けば幅の狭い階段がある、そこから桟橋が伸びて良い釣り場にもなっているようだ。遠目に釣りを楽しむ人の姿が見えた。
 どう見てもこの辺りの住人では無さそうなその釣り人は、きっと岸壁の反対側歩道に寄せて停まっている車の持ち主だろう。残念なことに、アッシュはあの釣り人の存在に気付いていなかった。
 教えてやれば良かっただろうかと今更ながら思うが、アッシュがユーリに蹴られて飛び出していった時にはまだ自分だって、ここに釣りを楽しみに来ている人が居る事など知らなかった。
 だから仕方がなかったのだと、釣り竿を大きく振り上げたらしい釣り人の影を水面に身ながら考える。
 アッシュはまだ帰ってこない。
 日が沈む、ユーリが起き出してくる様子もない。
 ただ静かに、今日と言う日が終わりに近付いていく。長く伸びた影は徐々に薄れていくのだろう、そして存在も忘れ去られて誰も気付かない。
 だから、か。
 足許を見る事を忘れた存在は、己の存在を示す影に見向きもしなくなった。確かに自分はそこに在るのだと教えてくれる、物言わぬもうひとりの自分を忘れて。
「………………」
 打ち寄せる波が断続的な音を刻む。夕焼けの色に染まった水面がキラキラと輝き、眩しかった。
 飽きもせず見つめ続ける。瞼の裏側に、記憶の1ページに焼き付ける。
 彼は踵を鳴らした、衝撃だけが膝の裏側を伝って登ってくる。
 これはただの革靴で、東の悪い魔女が履いていた魔法の靴じゃない。踵を鳴らして願っても、懐かしい我が家へ帰る事は出来ない。
 懐かしい、暖かな温もりに満ちあふれている家には帰れない。そんなものは、とうの昔に無くした、どこにも無い。壊して、見失って、組み立て直す事さえ早々に諦めた。
 もう戻らない、手に入らない。だから欲しがらない、必要無いものだと割り切った。そうすることで、自分を守った。
 助けを求める声は、誰にも届かない。だから訴えない、求めない。
 必要、ないから。
 帰りたいと思える場所なんて何処にも無かった。
 帰る場所など無いと諦めたから、今此処にいる。
 日が沈んだ。
 闇が押し迫る、背後から空を呑み込んで。
 意識せぬまま、ポケットの中の手を握り締めていた。ぶるっと一度身を震う、背筋から首筋へ寒気が逃げていった。
 早く帰ろう、そう思う。此処に居続ける理由は何処にもないし、居なくてはならない理由もない。
 でも、何処へ?
 降って沸いたように落ちてきた疑問が、頭の上でスコンと跳ね返り足許を転がって岸壁から海に落ちていった。
 水飛沫も上げず、重量のない疑問は水底に消える。二度とこの手に戻らない。
 何処へ帰ろう。
 何処へ、還ろう。
 足が動かなかった、疑問に攫われていった答えだったはずの想いは水底に沈んだままだ、拾いに行くことも出来やしない。
 それに、拾ったところでどうなる。その先に待つ、もううんざりな絶望に身を浸すのか。
 夕焼けの名残も完全に西の空から消え失せる。水面は闇色に塗り重ねられ、鉛のように重いタールの渦が広がっている。
 小一時間しか経過していないはずなのに、海は一瞬で様相を変える。まるで人の心のようだと嘲笑って、握り締めた拳を解いた。
 瞳を伏せて、緩く首を振る。いつの間にかあの釣り人は姿を消していた。視線を返し、自分たちが乗ってきた車を探すけれど暗闇が邪魔をして見つけられない。
 置いて行かれただろうか、そんな風に思考が巡る。
 だって自分たちは確かに仲間だったけれど、首をすげ替える事なんて造作もないそんな急造仕立ての組み合わせだった。寄せ集めの噛み合わないピースを無理矢理に押し込んだ、不格好なメンバーだったから。
 いつ見捨てられるか、それとも自分が見捨てるのか。
 嫌われているとは思わなかったけれど、好かれている自信もなかった。傍に在る事の暖かさや、心地よさに自分を構成してきていたあらゆるものが崩れていくのが怖かった。
 北の魔女グリンダはドロシーに言った。何かを学べばいつでも懐かし家に帰ることは出来るのだと。
 彼女の出した答えは、思うだけじゃダメだという事。
 身近な、心の底から求めるのならとても身近な場所から探すのだと。
 スマイルは踵を鳴らした。少女がカンザスの故郷に帰る魔法の呪文は――
「スマイル」
 暗闇を裂く、透き通った声が頬を撫でる。
 振り返った。
 丹朱色をした隻眼にふたつの影が映し出された。
「何やってるっスか、帰るっスよ?」
 背の高い、耳の尖った青年が人なつっこい笑みを浮かべて手招きをする。
「早く来い、置いて行かれたいのか?」
 闇の中にあっても艶を失わないしなやかな銀糸の髪を持つ青年が、やや不機嫌そうに腰に手を当てて呼ぶ。
 後から聞いた話ガソリンは幸か不幸か、その場を通りかかったあの釣り人がユーリに脅されて置いていったらしい。状況を後から聞いて、どうしようもなく笑ってしまった。
 不本意だったらしいユーリは拗ねた様子で聞き流していたが、アッシュの「見せてあげたかったっス」発言には我慢も収まらなかったらしい。ちゃんと残量を考えておかなかったお前がすべて悪いんだろう、と容赦ない拳が飛んで行くのだった。
「帰るぞ」
 先頭を切り、ユーリが踵を返す。広い間隔で照明灯にか細い光が宿り、波音だけが耳に微かながら響いてくる。もう海は一面の闇で、水平線は空と混じり境界線は消え失せた。
「何処へ?」
 ぽつりと、呟く。
 アッシュは足を止め、ユーリは訝みながら振り返った。
 未だ岸壁の上から動こうとしない彼を見上げ、苛々を隠そうともせず、そして不遜に、ユーリは口元を歪めさせた。
「決まっているだろう」
 それとも本当に置いて行かれたいのか?
 鮮やかなルビー色の双眸を細めたユーリが笑む。アッシュは苦笑し、肩を竦めると止めた足を進めて先に車に向かって行ってしまった。エンジンを暖めるのだろう、キーが差し込まれた大型バンの車内に明かりが入り、そこだけがぼうっと浮き上がったかのようだった。
 スマイルが隻眼を伏せる。彼の足許には、影が無かった。
 今だけじゃない、昼の間も、あの夕暮れ時の最中も。彼の足許には、彼の存在を確固たらしめるだけの要素が欠けていた。
「帰るぞ?」
 語尾を上げ気味に、ユーリはスマイルを見つめ上げる。
「何処へ?」
 先程とまるで同じ質問が繰り返された。小さく、早くしろと言わんばかりにアッシュがクラクションを数回鳴らすのがそれに続く。
 ユーリが、ゆっくりと右手を彼へ差し出した。手を広げ、真っ直ぐに見つめ続ける。
「お前の、帰りたい場所へ」
 にっこりと、ユーリが笑った。
 その手を、スマイルの右手が掴んだ。
 段差を一息に飛び降りる。白いライトの明かりがふたりを包み込んだ。
 影が、走る。
「出発するっスよー!」
 窓から身を乗り出したアッシュが叫び、今度はスマイルが、手を握ったユーリを引っ張って車へ駆けて行った。
 彼の足許には細く長い影が、ふたつ。
 バタンとドアが閉じられる。駆け込んだ座席に二人して折り重なるように倒れ込んで、ケラケラとスマイルは笑った。
 アッシュがアクセルを踏み込む。ギアを入れ替え、すっかり遅くなってしまった時間を気にしながら彼は猛烈なスピードで海岸沿いの道に車を走らせた。
 スマイルはまだ笑い止まない。彼に抱き留められたまま、身動きできずスマイルにのし掛かっているユーリが怪訝な面持ちをする中で、唄うように、彼は呟いた。
「There’s no place like Home.」
「?」
 早口の台詞にユーリは首を傾げる。真下から見つめ上げるスマイルが、首を伸ばしてそんな彼に触れるだけのキスをした。
 驚きに閉口するユーリを前に、彼は片方だけの目でウィンクなんてしながら笑って言う。
「おうちが一番、って事さ」
 魔法の靴なんてないけれど。
 一度手に入れた想いは、きっと消えない。

逸遊

 頭の上を、真っ白な雲が左から右にゆっくりと流れて行く。青と白のコントラストはとても綺麗で、ぼんやり見上げているとその広い視界の真ん中を何かが大きく弧を描いて通り過ぎていった。
「おーい。ツナー?」
 あれ、と思って視線を戻すと、即座に飛んでくる柔らかめのテノール。
 沢田綱吉の前方五メートルほどの距離を置いた先で、山本武が両手を頭の上で振り回しながら彼を呼んでいた。
「どうしたー?」
 ぼんやりしていたことを言っているのだろう。彼は腕を下ろし片手を口元に立てて沿え、離れている分声が届きやすいようにと拡声器の役割を担わせた。そして反対側の空いている手で、綱吉の後方を指差す。
 午後に入ってまだ三十分も経過していない時間、昼休み。いつものメンバーで昼食を済ませ、腹ごなしをしようと誘って来たのは山本だった。
「十代目、はい、ボール」
 獄寺が綱吉の肩を叩き、丸いものを綱吉の前に差し出す。それは先ほど、彼が空を見上げていた時に視界を流れていったものに他ならない。
 銀色の、けれど今は砂埃をまとっていてねずみ色に濁ってしまっている、直径十センチにも満たないゴムボールだ。山本が持ち込んだもので、これでキャッチボールをしようと彼が提案してきた。
 最初は渋った獄寺だったけれど、綱吉が山本に承諾の意思を見せると彼も引き下がるわけに行かず、無意味な敵愾心を燃やしている。だが山本はいつもの調子で軽く獄寺をあしらうばかりで、間に立たされる綱吉はハラハラさせられっ放しだ。
 そうして食後の運動という事でグラウンドに出て、サッカーをしている生徒達の邪魔にならない端の方で、ゴムボールでのキャッチボールを始めたわけである。
 しかし野球部の山本ならばいざ知らず、元から運動はそう得意でなかった綱吉はなかなか、大きめで柔らかいボールであっても上手く扱えず、さっきから後ろに逸らし続けている。その度に獄寺が、忠犬が如く拾いに走る。
 山本は最初こそ本気モードで剛速球を投げて来たけれど、綱吉がその度に受け取るのではなく避けに走るので、次第にボールも山なりでゆっくりな送球になっていた。彼なりに気を使ってくれるのが嬉しかったのだが、山本は綱吉にばかりボールを投げるので、獄寺が今度は暇になる。
 横で明らかに拗ねた顔で不機嫌オーラを放たれるので、綱吉は苦笑しながら彼にボールを渡すのだが、そうしたら今度は獄寺も綱吉にばかりボールを投げてくる。
 綱吉だけがひとり、忙しい。
 だが身体を動かすのは楽しくて、適度に汗をかきながら綱吉は慣れない筋肉をぎこちなく使いつつ、ボールを放り投げる。
 山本のように真っ直ぐにスピードを乗せた送球は出来ないが、回数を重ねるうちに少しだけ感覚もつかめて、ほぼ狙った位置に届けられるようになるのも嬉しかった。とはいえ少しでも油断すれば明後日の方角へボールが飛んでいってしまうので、気を緩めるわけにもいかない。
「ありがとう、獄寺君」
 渡されたボールを受け取り、礼を言うと彼はへへっと照れくさそうに笑って頭を掻いた。向こうでは山本が、早く投げろと腕を回して待ち構えている。
「いくよー」
 軽く腕を揺らして、不恰好な体勢からボールを投げ放つ。穏やかな陽光を浴びて銀色のボールが、ゆっくりと回転しながら山本の両手の平にすっぽりと収まった。
「やりっ!」
 狙った位置に投げられたのが嬉しくて、ついガッツポーズをしてしまう。斜め後ろでは獄寺が拍手をして、「さすが十代目です」と頻りに褒めちぎっている。山本もまた、綱吉にボールを投げ返しながら「巧くなってきたな」と褒めてくれた。
 それが照れくさくて、二人に「大げさだよ」と謙遜しながら声を返し、山本が受け取りやすいように力を緩めて投げてくれたボールを胸元で受け止める。そして板についてきた投球フォームで山本に投げ返そうとした時。
「おーい、やまもと~」
 校庭ではなく校舎の、正面玄関の辺りで片手を振りながらクラスメイトが山本を大声で呼び始めた。
「ん?」
 無論山本も、綱吉が投げようとしているボールではなく名前を呼んだクラスメイトに注意が向く。しかし綱吉は即座に投球をやめられる程器用ではない。しかも彼までもがクラスメイトに目を向けてしまい、握りの甘かったボールはあらぬ方向へすっ飛んでいってしまった。
「あ」
 綱吉が気づいた時にはもうボールは彼の指から離れており、校庭の端にある花壇と小さな垣根の方へと飛び込んでいく最中。手前で失速して地面に落ちるものの、元から中身は空洞で柔らかなゴムボール。数回跳ねあがった後勢いを弱めながらも、垣根の下を潜り抜けてすっかり見えなくなってしまった。
 その頃クラスメイトは動かない山本に痺れを切らしたようで、尚更大きな声で彼を呼び続ける。その切羽詰った様子に、眉間に皺を寄せた彼は綱吉に向かって悪い、と手を合わせる。
「いいよ、行って来て」
 山本はクラスの人気者であり、中心的存在。もうじき体育祭でその担当も任されている彼はそうは見えなくても、実は何かと多忙な様子。
 綱吉が笑いながら手を振り、早く行ってやれと校舎を指差すと、彼はもう一度「悪い」と謝って小走りに校舎へ戻っていった。傍らに立つ獄寺が、やれやれと肩を竦める。
「忙しいんだから仕方ないって」
 獄寺にしてみれば、綱吉よりもクラスメイトを優先させる山本が信じられないのだろう。しかしむしろ彼のような考え方をする方が特殊だというのを、綱吉は自覚して欲しいと時々思う。
 しかし理解出来ていない獄寺は、「そうですか?」と全く取り合う様子もなく素っ頓狂な声を出して反論を試みる。綱吉は苦笑したまま、自分が投げたボールの行方を捜した。
「探して来ます」
「いいよ、行ってくる。もうじきチャイムも鳴るし、獄寺君は先に教室戻ってて」
「ですが……」
「いーいーかーら!」
 綱吉の視線の動きを察して動こうとした獄寺を制し、渋る彼の背中を押して教室に強引へ戻らせて、綱吉はまだ心配そうにしている彼の前からさっさと花壇の方へ進みだした。
 大体獄寺は過保護すぎで、普段はそう気にならないのだが度を過ぎると鬱陶しく思えてしまう。大切な友人なのだからそういう感情は抱きたくないのだが、限度を知らない獄寺には珠に辟易してしまいそうだった。
 その点適度な距離感を持って接してくれる山本の隣は、やや心地が良い。けれど彼のそういう優しさに甘えてしまうのも気が引けて、自分までもが距離を取ってしまう。今のように。
「ボール、ボール……」
 綱吉は生垣で囲われた花壇の一角に足を踏み入れ、足元に視線を流しながら、転がっていったはずのゴムボールを捜す。
 この辺りは部員がいるのかも分からない園芸部の領地で、滅多に人が訪れる場所では無い。入学以来そういえば初めて立ち入ったかもしれないと、見慣れない植物の名前が記されたプレートを眺めつつ、思う。
 綺麗に整地された花壇にも、植えられている花の名前が几帳面な字でプレートに書かれている。園芸や、そもそも花に詳しくもない綱吉にしてもれば、そこは未知の領域で、つい、目的を忘れて咲き誇る花に見惚れてしまった。
 誰かがきちんと毎日水をやり、手入れをしているのだろう。虫食いもなく等間隔で並んでいる花はどれも綺麗で、愛情込めて育てられているのだと綱吉でも理解出来た。怠け癖のある自分にはきっと、園芸部は無理だろうなと肩を竦めて、垣根で区切られた次の区画へ移動する。
 が、伸びた影に気づいて、綱吉は声を上げる前にまず足を止めた。
 無意識に息を殺して気配を断とうとする。嫌な習慣がついてしまったもので、見えないけれど気配だけ感じる相手に警戒心を抱いてしまう。
 影は少しずつ綱吉の側へ伸びて来ており、じりじりと反比例に綱吉の身体は後退を試みる。けれどあちらが姿を現すのが先で、綱吉は咄嗟に身構えてしまった。
「……そんなに警戒しなくても」
 やや前かがみになって後ろにも前にも飛び出せるように構えている綱吉を横目で見やり、雲雀恭弥は口角を歪めて薄く笑う。
「それとも、ご期待に応えてあげようか?」
 不遜な態度で綱吉の前方に現れた上級生、そしてこの中学で最強の位置にある風紀委員長。隠し持っているトンファーで地に伏せられた存在は数知れず、彼を怒らせてこの中学を無事に卒業できる所為とは居ないとまで言われ、教職員からも恐れられ一目置かれている存在。
 黒髪に涼やかな切れ長の目、しかし見た目に騙されると痛い目を見るのは間違いなく。女子供であっても容赦しない冷酷非道ぶりは、綱吉も過去何度と無く目撃している。彼の前で油断するのは、蛇の前で無防備に寝転がる蛙に等しい。
「結構です」
 雲雀が冗談を言う性格でないのも重々承知している。本気で襲って来られては死ぬ気の炎が無い自分に勝ち目も無く、綱吉は、僅かに警戒心は残しつつ強気に言い返し、構えを解いた。
 力を抜かれた両腕が沸きに垂れ下がる。雲雀はその様子を上から下まで眺め下ろして、最後に綱吉の顔に視線を戻した。斜め上から見下ろしてくる彼と、目が合う。
 吸い込まれそうな漆黒の瞳に、先に視線を逸らしてしまった綱吉はふと、彼の手に握られているものに気づく。
 灰色に近い色になってしまっている、本来は銀色の、ゴムボール。雲雀の右手に綺麗に収まっているそれは、紛れも無く綱吉が探していた、山本のボールだ。
「それ!」
 反射的に、雲雀に向かって立てた人差し指を向けてしまう。正しくは雲雀の右手に向かって、なのだが、真正面から堂々と指差されて気分が良い筈も無く、雲雀は眉間に皺を寄せた。
 彼の整った顔立ちが不機嫌に彩られる様を目の当たりにし、綱吉は漸く自分の右手人差し指がどんな動きをとっていたのかに気づいた。慌てて引っ込めて背中に回して隠すけれど、もう遅い。
「えっと、あの、これはだからその……」
 無意味に視線を泳がせて挙動不審になりつつ、綱吉はなんとか上手い言い訳をしようと言葉を捜す。けれど焦っている分余計に冷静な判断は難しく、綱吉は全身から冷たい汗が噴出すのを感じながらじりじりと後退した。踵が、グラウンドと花壇とを区切っている円形のレンガに乗り上げる。
「うぁっ」
 前ばかり見ていて後ろへの注意が疎かになっていた。そこに段差があるとは思ってもみなくて、綱吉は上手く体重移動が出来ず間抜けな声を上げてバランスを崩し真後ろに倒れかけた。そのまま尻餅でもつこうものなら、折角綺麗に咲いている花が押しつぶされてしまう。それは回避したいのだが、掴むものなどない空中で両手は虚しく空を掴むばかり。
 なんとか踵だけでバランスを取り戻そうと懸命に頑張るが、その甲斐虚しく綱吉の体が後方斜め七十五度まで倒れこむ。伸びきった彼の両腕が最後の足掻きとばかりに宙を舞った時、唐突にその手首を捕まえられた。
 左手だけ、手首の辺りを痛い程握られる。しかしそれが痛いと頭が理解するよりも前に、捕まれた場所を軸にして肩が抜けそうなくらいの勢いで左斜め前方に引き寄せられた。
 何がどうなっているのか、さっぱり分からない。余計に混乱する頭を抱えた綱吉は、一瞬にして上半身が前後に揺さぶられた反動で目がくらみ、酔った時に近い感覚に陥る。もう地球が鉄棒で逆上がりしていても驚かない、と全く意味不明な事が脳裏に浮かんで、消えた頃にその頭が勢い良く柔らかいけれど硬くしっかりとしたものにぶつかって止まった。
 鼻が押しつぶされ、息が一瞬止まる。吸い込んだ空気は空と土の匂いがした。
「君って、さ」
 不意に振ってきた雲雀の声が、思いのほか近い場所から。綱吉がとめていた呼吸を復活させるのと、思わず閉じてしまった目を開くのはほぼ同時で、傾いて凭れかかっていたものから慌てて身を引くと、左手だけが取り残された。掴まれたままの左手が、今更ながら鈍い痛みを訴えかけている。
「あ、れ……」
「敏感なのか、鈍いのかどっちかはっきりして欲しいんだけど」
 顔の上に影が落ちてきて、急な明度の変化に目を細めて上を向くとそこには雲雀の顔があった。逆光の為細かな表情までは読み取れない。ただ声の感じからきっと呆れているのだろう、眉間の皺は相変わらずで、綱吉は居た堪れない気持ちで俯いた。
 後ろには花壇、どうやら花の上に倒れずに済んだ。その代わりもっと違うものに倒れ掛かってしまったのだが。
 いっそ花を押しつぶして、園芸部員に謝りに行く方が、気が楽だ。逃げ出そうにも左手はまだ囚われたままで、その力を振り払って逃げるだけの気力は残されていない。情けないやらみっともないやら、恥ずかしいやらで、まともに雲雀の顔を見返すことも出来ず、自分の足元ばかりが視界を埋めている。
「……すみません」
 搾り出すような声で漸く言えたのはそれくらいで、腕がそろそろ痺れて指先の感覚もなくなろうとしている。雲雀は力を緩めようともせず、綱吉をじっと見下ろすだけ。
 正直、黙っていないで何か言って欲しい。いっそ大した理由でなくても良いから、殴るなり突き放すなり、アクションを取ってくれる方がこちらとしても次への反応がとりやすくなるのに。
 それとも、綱吉がそうなるのを待っていると知って、わざと無反応を決め込んでいるのか。
 一度勘繰ってしまうとそちらにばかり思考が巡って、彼の性格ならば十分ありえそうだと思えるから不思議だ。確かめようと恐る恐る顔を上げて雲雀を見上げると、無表情の仏頂面が先ほどと変わらない位置に、そのまま。
 間近で見つめると、男であっても見惚れてしまいそうな整った顔立ちは、何の変哲も無い自分の顔に若干のコンプレックスを持っている綱吉にとって羨ましい限りだ。
 だがそんな綺麗な顔をした人物が、少しでも機嫌を損ねると凶悪なまでの暴挙に出て、実際その例を上げるにも暇が無いというのも、知っている。
 きっと彼の顔を、こんなにも至近距離から長時間眺められる人はそう多くない。ぼんやりと考えながら綱吉は、ぼんやりとした顔で雲雀の顔を穴が開くほど見つめ続けていた。
 ハッと気づいたのは、午後からの授業がもうじき始まると知らせる予鈴が、普段よりもずっと大きく聞こえる音で鳴り響いた頃だった。
 雲雀もまた、チャイムを合図にして綱吉の左手を解放する。握られ続けていた場所はうっ血して赤くなり、見るからに痛々しい。
 綱吉は自由になった左腕の、最早痛みさえ薄らいで分からなくなってしまっている手首を見下ろして右手で軽くさする。指の形さえ分かりそうな痕は、時間を置けば薄れて消えるだろうに、何故かそれが惜しく思えてならない。
「あの、雲雀さん」
 彼は何かを自分に言いたかったように感じる。けれど彼は何も語ろうとせず、無言で細められた瞳に射抜かれた綱吉もまた、続ける言葉を見失って喉に息を詰まらせる。
 くるりと現れた時同様音も無く体の向きを替え、雲雀は綱吉がいるのとは反対側へ歩き出そうとした。引きとめようと伸ばしかけた左手は、綱吉の視界に赤い痕が見えた瞬間に動きを止める。
「十代目~」
 獄寺の呼ぶ声が聞こえた、綱吉の背中が一瞬大きく震える
 予鈴が鳴ったのに戻ってこないから探しに来たのだろう。彼はボールの飛んでいった方角を知っているから、じきに此処に至るはず。山本だけでなく、雲雀に対しても微弱なライバル意識を燃やしている獄寺に、今の雲雀を会わせたくなかった。かと言って返事をしないでいると、変な勘繰りを入れられて余計に状況がややこしくなってしまいかねない。
「……」
 どうするのが最良なのか、即座の判断を求められて綱吉は右手人差し指の第二関節付近を浅く噛む。
「呼んでるよ」
 言ったのは、雲雀だ。
 綱吉に背中を向け、上半身だけを捻って振り返っている。しつこく綱吉を呼ぶ獄寺の声は止まなくて、音がする方向を顎で示し、彼は冷たい目を向ける。
「えっと、でも」
「授業始まるよ」
 淡々とした口調で、あっさりと綱吉が続けようとする会話を断ち切る。きっともう、今の彼に何を言っても不機嫌にさせて、会話が続くどころか返事すら届かないだろう。綱吉は唇で挟むだけだった指に歯を立てた。
「じゅうだいめ~、どこですかー?」
 獄寺の声が段々と近くなる。果たしてどちらを優先させれば良いのか分からず、綱吉は前と後ろとを交互に見比べながら、足は雲雀の後を追おうと前に出る。けれど次の一歩が出るよりも早く、垣根の切れ目から獄寺が顔を覗かせた。
「いた!」
 目が合うと同時に叫ばれる。咄嗟に声が出せず、挙動不審に背後を窺ったり横を向いたり腕を胸に抱き込んだりと落ち着かない綱吉にも構わず、彼は綱吉が見つかった事への喜びを全身で表現しながら、行きましょうと手を伸ばす。
 掴まれた左手、綱吉は瞬間的に目を見開き、獄寺の手を払いのけていた。
「……十代目?」
 これにはさすがに、獄寺も目を丸くして不審げに綱吉を見返す。
「どうかなされましたか」
 獄寺の声のトーンが下がり、彼の周囲の空気が一気に冷え込むのを肌で感じた。綱吉は視線を浮かせ、ちらちらと背後を気にしながらどうにか獄寺に気づかれぬよう、話題を逸らそうか考える。
 雲雀の背中はもう垣根の向こう側に消えて、獄寺には見えていなかったようだ。それに、安堵する。
「大した事じゃないよ、んと、ボールが見つからなくってさ」
 へへ、と笑って誤魔化し、左手首に右手を巻きつけて痣を隠す。これを見られて、原因を追及されても困る。
 獄寺はいぶかしんだ表情で納得のいかない様子だったが、本鈴が鳴り始めたのを受けて綱吉が彼の背中を押し、無理矢理に小さな庭園から押し出そうとするのを受けてようやく、表情を崩した。
「そんなに押さないで下さいよ、十代目」
「だったら自分でさっさと歩いて」
 綱吉が構ってくれるのが嬉しいのか、両足を真っ直ぐに揃えて伸ばし、綱吉の力に対抗する獄寺が声を立てて笑う。綱吉は必死で、唇を尖らせて文句を返し最後は彼の背中から身を引いた。支えを失い、獄寺は倒れかけるが天性の運動神経のよさを生かし、彼は綱吉のように転ばずに踏みとどまる。
「危ないじゃないですか」
「しーらない」
 自分が悪いんだから、と綱吉は取り合おうとせずさっさと校舎に戻ろうと足を動かす。獄寺も置いて行かれてはたまらないと、大股に進んで綱吉に並んだ。歩幅が違う為に、油断するとすぐに追い抜いてしまう。
 チャイムは僅かな余韻を耳に残して終わりを迎える。教員よりも先に教室に入って居ないと遅刻扱いにされてしまうし、何より次の授業は苦手な数学だ。嫌な課題を出されてはたまらないと、綱吉の歩調もいつもよりずっと早足。
「ボール、山本に謝らないと」
「俺がもっと良い奴を十代目に買ってさしあげますよ」
「それ、何かが間違ってると思うんだけど」
 にこやかな笑顔で的外れな事を言う獄寺に苦笑する。そして自分の目の前に伸びる自分の影、その頭の上を飛ぶ小さなものに、気づいた。
 一秒後。
「あいてっ」
 実際はさして痛くも無かったのだが、頭の上に突然落ちてきたものに、綱吉は短い悲鳴を上げて肩を竦める。
 彼の頭上で跳ねた物体は、軽い調子でもう一度空高く駆け上り、楕円を描いて地面に落ちた。綱吉の爪先辺りで再び跳ね、その後は勢いを失ってグラウンドに転がってやがて止まる。
 埃で薄汚れた銀色の、ゴムボール。
 綱吉の視線も、獄寺の視線も足元に落ちたボールに注がれる。もっとも、明らかに不自然に落ちてきたボールを投げた人物に心当たりがあるのは綱吉だけ。
 まず先に彼が振り返り、一秒遅れて獄寺も背後に向き直って身構えるものの、そこに人の姿は見当たらず、また、人が存在した気配も残されていない。安堵のような残念に思うような感情が入り混じり、複雑な顔をして綱吉は足元のボールを拾い上げた。
 これはさっきまで、雲雀の手の中にあったもの。
 だけれど表面に砂の粒を乗せたそれには彼の体温は残っておらず、あの時感じた陽だまりの匂いもない。
「それ、山本のボールですよね」
「みたいだね」
 手の上でボールをくるくると回転させ、綱吉は獄寺の質問に心此処にあらずという感で答える。彼はなおも周囲を警戒しながらボールを投げた人物を探し出そうとしているようだったが、割って入るかのように校舎の、教室の窓から半身を乗り出した山本が、早く戻って来いと大声で彼らを急かしたので探偵ごっこはここで中断となった。
 正面玄関から校舎内に入る手前で、綱吉は再度後方を振り返ったものの、見につけている制服が皆と違うのもあって非常に目立つ浮いた存在は見つけられず、知れず溜息が零れた。
 廊下を教材抱えて歩く教諭に見つからぬよう、教室までの道のりを大回りして走り、どうにか授業にはギリギリセーフだったけれど、綱吉の心は最後まで晴れない。虚ろな意識で聞く授業は、教諭の説明も右から左に流れ過ぎて留まらない。
 机の下、膝の上でばれないように山本のボールを弄ってみる。
 すぐに授業が始まってしまって、持ち主に返し損ねたボール。
 雲雀が投げて、綱吉が気づけずに受け止め損ねたボール。
 綱吉は、これを、雲雀に投げ返せなかった。
 手の上でボールを遊ばせながらぼんやり窓の外を見ていた綱吉は、そこまで考えて、ふと、気づく。
 このもやもやとして、どうにもすっきりしない理由が何なのか、分かった気がした。
 

 授業が終わった休憩時間。俄かに騒がしくなる教室で、綱吉は山本に、暫くこのボールを貸してもらえるように頼み快諾を得た。
 何に使うのか聞かれたけれど適当に笑って誤魔化し、放課後を待って彼はひとり先に、教室を飛び出す。
 彼に投げ渡されるボールを、今度こそ、きちんと受け止める為に――

the Time

 ユーリの城には大きな時計がある。いつ、誰がそこに置いたのかは分からない。気が付けば既にそこにあり、毎日同じ時刻に太く低い鐘の音を響かせていた。
 玄関ホールの奥まった場所に置かれているそれは、壁の色と同系統のくすんだ色を外装にしていたので一瞬見ただけでは、それが時計だと気づけない事もしばしばだった。背丈はアッシュよりも上背がある上、横幅も相応にある。古いものなので中身の部品が多く、その所為で大きさもこんなになってしまったのだろう、と言うのがスマイルの弁だ。
 毎日変わることなく時を刻み続けた古時計。まるで感情でもあるかのように、誰かの気分が沈んでいるときは低めの優しい音で、皆の気持ちが明るいときはほんの少し高めの音で鐘を響かせる。当たり前のように普遍の音色を奏でていた時計も、一度だけ止まった事があった。
 ユーリの記憶の限り、時計が止まったのはただの一度、それっきり。何故止まったのかは分からないが、気が付けば直っていた。
 スマイルが直したのだと知ったのは、それからずいぶんしてからだった。歯車の歯がひとつ欠けてしまっていたんだよ、と何でもないことのように彼は言った。
 精密で緻密に計算されて組み上げられたものほど、とても小さなひとつの欠陥で丸ごと動かなくなる事がある。自嘲気味に言って、笑って、彼は遠めがねを短くしたようなレンズをかろうじて機能している右目から外した。
 キズミという名前の拡大鏡を机に置いて顔を上げ、そうすることで漸く彼は傍らに立つユーリの顔を見ることが出来た。瞼に填め込む格好で装備し、両手を自由にさせるレンズを使っている間は、彼はキズミが見せる小さな世界以外のものを目にすることが出来ないから。
 レンズの傍には細いピンセットと、針金の先端を鈍角に曲げただけのようなもの。とても小さな発条や、歯車。見たことのない形をした金属片も見受けられる。そしてそれらに取り囲まれて、蓋付きの懐中時計がひとつ。
 かなり古そうで、蓋に刻まれていただろう浮き彫りの紋様も大半が削げ落ちてしまっている。金属が摩耗して凹凸が平らになるくらいだから、余程長い間使われていたものだろうと楽に想像がついて、けれどそれが普段時計を持ち歩かない主義のスマイルの持ち物だとはなかなか思考が直結しなかった。
 ソファ越しにテーブルを覗き込んでいるユーリに苦笑って、上げっぱなしで疲れた首を戻しスマイルは鈍色の輝きを放つ鎖を取った。端にある金具を指で抓んで隙間を広げ、時計の竜頭を庇う格好の吊り手に引っ掛ける。
「完了、っと」
 鎖ごと持ち上げた懐中時計を目の前まで掲げ、自然の成り行きで円を描くように揺れるそれを見つめる。その瞳はいつになく優しく、儚げで柔らかい。
 ソファの背もたれに腕を預けて完全に凭れ掛かり、スマイルの肩越しに表面に刻まれていた模様さえ最早判別不能な時計を物珍しく眺めたユーリが問う。
 それはお前のものなのか、と。
 質問の意味を一瞬だけ計りかね、隻眼を見開いたスマイルだったけれどユーリが難しそうに口元を歪めるのを見返して、やっと彼が言いたがっている中身を八割方理解した。
「ああ、うん。そう、ぼくの」
 これはユーリと出会うよりもずっとずっと以前から、自分が胸に大事にしまって持っていたものだ。そう呟いた彼は左手を床と水平に広げ、時計を受け止めて右手に握った鎖を弛ませた。チャラ……と乾いた金属の擦れ合う音が甲高く、小さくその場に響く。
 黙ったままその音を聴き、ユーリはスマイルの次のことばを待つ。壁に吊した郭公時計が刻む秒針の音が、嫌に大きく耳についた。
 スマイルは少しの間、続けるべきことばに迷ったようだった。微かに息を呑んで、短く吐き出す。過ぎた時間は僅かだったけれど、彼らには倍以上の時間に感じられただろう。
「ずっと、壊れてたんだけどね」
 いつ壊れたのか、どうして壊れたのか。ただ気付いた時にはもう時計は止まってしまっていて、その瞬間の時間を刻んだまま動かない。今となっては時計が止まったのがいつであったのかさえ記憶も曖昧で、ただずっと昔だったような気しかしない。
 時計など在って無いに等しい、緩慢で曖昧な時間の流れを過ごしてきただけの彼にとっては、一分一秒の時間さえ拘束してしまう時計というものは本来、必要なかった。
 朝が来て、昼になって夜が来て、一日が終わり明日が巡る。その繰り返しである日々に、区切りを持たせるための時間は彼にとって無意味。彼を拘束する時間を有する存在は、ずっと彼には無かったから。
 けれど、今は少し具合が違ってしまっていて。
 この時間に何処で何をして、次はこの時間までに彼処へ移動してこれをして、といった風にタイムスケジュールが定められた日々は彼にとって、初めての経験であり戸惑いも多かった。拘束を嫌い、自由を好み、だからこそ敵前逃亡ならぬ仕事放棄を実行した事も過去に置いては、しばしば。
 その度に探し回られて、見付かって連れ戻されて、怒られて、もう絶対にしないと誓わされて。
 初めての事だった、から。
 ついつい構ってもらえることが嬉しくて、そのうち怒られる事が目的になって逃げ出した事もあった。掴まえて、見つけて欲しかったから隠れた事もあった。
 そんな時間がそう前の事でないはずなのに、懐かしい。
 動いている時計を持ち歩き、無意味に流れる時間を痛感させられていた時代とは違う。
 動かない時計に見切りをつけ、有意義に流れる時間を堪能している。
 だのに、今、急に時計を修理しようと思ったのは何故。
 人の心の内側にさえ遠慮なく踏み込んでくる、かの傲慢な吸血鬼の問いかける視線を受け止めて自分勝手で気紛れな透明人間は軽く笑った。隻眼を細め、左の瞳に包帯という拘束の上から指で触れる。
 握り直した時計の鎖を手繰り寄せ、利き腕で持ち直し吊り手近くで握って右目に近づける。最近のデザインとはかけ離れ、アンティーク色が濃いのは製作年代の所為もあるだろう。近来作られているものよりも遙に大振りで、ズボンのポケットに入れてはごわごわして異物感が邪魔になりそうなサイズをしている。だからそれは、本当に上着の内ポケットに入れる為だけに作られたものだと想像できる。
 恐らくは、彼が生まれた時代に重なって造られていたもののはず。
 彼――スマイルと同じ時代を彼と共に過ごして来た時計。懐かしむように握り締めた時計の感触を楽しんで、彼は愛おしむ笑みのまま時計の表面へそっと、キスをする。
 斜め後方から一部始終を見つめていたユーリでさえ、ぞくりとした衝撃のような感覚を背中に感じて寒気を覚えてしまうくらいに、自然であり彫像のような、彼。
 スマイルが動くたびに時計の鎖がチャリチャリと音を立てて耳障りな音を立てる。
「それで……直ったのか」
「うん。ちょっと時間掛かったけどね」
 なにせ古いものだ、壊れていて交換が必要な部品がまず見付からない。アンティークショックに足繁く通い詰め、同型か後継種の時計を幾つか見つけだし必要な部品だけを分解して取り出すしかなかった程だ。
 その課程で得た部品が、玄関ホールの大時計を直すのに役立ったのは思いも寄らなかったけどね、と空笑って彼は肩を揺らした。
 あれもかなり古い時代のもので、スマイルの手にしている時計よりも古い時代に造られたものに間違いなく、壊れたら修理出来ないと覚悟していたのだけれど、と前置きし。意外にパーツは事足りて、仕組みも時計の基本構造そのままだったから考えた以上に修理は楽だった、と笑いながら言う。なんて事ないみたいに。
 だが実際は彼が言っている程易しい作業ではなかったはずだ。時計に詳しくないユーリであっても、それくらい分かる。
「お前が直していたのか」
 大時計が古ぼけた音色を奏でなかったただ一日の事は、漫然とだがユーリは覚えている。奇妙に、聞き慣れ過ぎて存在も忘れかけていた時計の音が聞こえないだけで。何かが足りない気持ちになった。自分の身体の一部が欠け落ちてしまったような錯覚にさえ陥り、不安で落ち着かなかった。
 だから翌日、何事もなかったかのように定刻に鳴り響いた鐘の音に深い安堵を覚えた事もしっかりと記憶している。
「あの時計は、この城と同じ時間を過ごして刻んで、見つめているからね」
 きっと君の幼かった頃の事も覚えているんじゃないのかな、と扉の向こうに鎮座しているはずの古時計を想像し、スマイルは微笑んだ。
「そうだとしたら、それなら」
 お前の、と、ユーリはやや膨れ面でスマイルが握ったままでいる懐中時計を指さした。腕を伸ばして彼の胸元に滑り込ませ、人差し指の爪先で時計の蓋を小突く。金属の固く、冷たいが、長い年月を経て優しくなった感触が伝ってきた。
「これは」
 スマイルが、自分で気付いたときにはもう持っていたという時計。いつ、誰から譲り受けたのかそれとも自分で手に入れたのか、それすらも記憶にない程の昔から彼が手にしていたという時計。
 壊れ、動かなくなっても手放せない程の長いつきあいの、それ。
「そ……だね」
 ことばを途切れさせたユーリの横顔を窺い、眺めて、スマイルはほうっと息を吐く。
「この時計は、ぼくが覚えていないような古い日々まで覚えているのかもしれない。ぼく自身でさえ持ちきれなかった、沢山の過去がこの時計には詰まってる」
 そっと両手で包むように時計を持ち、彼は目を閉じた。
 ユーリは黙る。言いたかったことは言われてしまったし、言われたくない事までこのまま行けば問うてしまいそうだったから。
 いや、既に問うたか。
 何故、今なのか、と。
 壊れた時計、もう動かない。彼が孤独だった頃の時間はもう止まっている、今更だ。わざわざ動かしてやる事もなかろう、だってもう彼は一人きりで彷徨っていた頃の彼ではないのだから。
 ひとりになる必要など、もうどこにもないのに。
 何故、今になって。
 薄く瞼を開いたスマイルが、黙りこくってしまったユーリを振り返り微笑む。癖のない明るい楽しそうな笑みは、彼のトレードマークでもある。
 だがユーリは知っている、その笑みの裏側に隠された深い感情を。
 表面上の笑顔は幾らだって作れる。ひとりきりの時間が長すぎた所為で、彼の笑顔は貼り付いた仮面のようなものになってしまっていた。
 心の底からの笑顔は、だからとても希で。
 そしてその笑顔が在るときは大抵、彼は決して誰にも口外しようとしない、他者へ踏み込ませない領域に気持ちを置いている時だ。
 鎖が揺れる。チャリチャリと耳障りな音が響く。
 郭公時計が分針を進める、一歩ずつ前へ。
 古時計の鐘はまだ鳴らない。
 不意に。
 ユーリの目の前で大きめの懐中時計が左右に揺らぎながら現れた。
 まったく油断しきっていた彼は驚き、目を丸くして思わず仰け反ってソファから半歩後退してしまった程だ。スマイルが鎖の上の方を持ってユーリの前に落としたのが原因で、スマイルにしてみればここまで彼が驚くとは思ってもみず、こちらもきょとんとしながら不思議そうに彼を見ている。
 なんだか気まずくなって、ユーリはわざとらしい咳払いを繰り返すと気を取り直し元の位置へ戻った。懐中時計は相変わらずユーリへ向け差し出されたまま、所在なげに揺れている。
 立ったまま、座っているスマイルを見下ろし怪訝なままに眉根を寄せる。
「ユーリにあげる」
 至極あっさりと、言い切って。
「要らないなら、捨てて?」
 今修理を終えて、久方ぶりに動き出した古めかしい時計を手に、彼はあっさりと未練の欠片も感じさせない声と口調と表情で笑った。
 ユーリの方が困惑を隠せない。だってこれは、彼の記憶そのものと言い換えられるようなものなのに。壊れてからも捨てずに手元に残し続ける程に、大切なものではなかったのか。
 それなのに今、呆気ないまでに簡単に人へ譲ろうとする彼の心理が読めない。
 いや、本当は分かっている。ただ認めたくないだけだ。
 スマイルはユーリの返答を待ち、時計を宙ぶらりんにぶら下げたまま腕を伸ばしている。腰から上だけを捻った体勢で彼を見上げ、にこにこと底の見えない笑みを浮かべている。
 一瞬だけの、儚い寂しげな笑みは嘘のようにもう見当たらない。在るのは、裏側を隠したままの笑顔を装った仮面ばかりか。
「受け取ってよ、ユーリ」
「なにを勝手な」
「要らないのなら、棄ててくれて構わないから」
「狡い事ばかり言う」
「そう?」
「ああ」
 軽い受け答えの末、ユーリは手を出して彼が差し出す時計を掌に収めた。見た目よりも重い金属の塊が鈍い輝きで、ずっしりと彼の肩にのし掛かってくる。無意識に溜息が零れた。
「これは……預かっておく」
「いいよ、あげる」
「いや、受け取れない。だから預かる」
 棄てる事は論外で、けれど貰い受ける事も憚られる。だから預かる。預かって、それから。
 いつか。
 ユーリは肩の力を抜き、ソファに深く腰掛けるスマイルの襟足に額を押しつけた。回り続ける歯車の、握り締めた掌に伝わる時計の鼓動を彼の拍動と重ね合わせて、瞼を閉ざす。
 いつか、彼の過去ごと全部受け止められる覚悟が出来た、その時は。
「もし……またそれが止まるような事があれば、その時も棄ててくれて構わないから」
 言い訳をするように視線を彷徨わせ、スマイルが囁くように言う。
 ユーリは苦笑した。
「それは、承諾しかねる」
 棄てない、絶対に。それだけは確信として言い切れる。
「だからお前は、もしあの古時計が止まったらまた、ちゃんと動くように直すのだぞ?」
 大きな古時計の音色が無ければ、この城はユーリの住み慣れた城ではなくなってしまう。あの音色でユーリは目覚め、眠りに就くのだから。
 あれが無ければ、ユーリの生活自体がすべて狂う。
「それはまた……責任重大な」
「仕方がなかろう、あれを修理出来るのはお前だけなのだから」
 ふふん、と鼻を鳴らしてユーリがしてやったり顔で微笑む。困った顔を作るスマイルも、どことなく楽しそうだ。
「そういう事?」
「そういう事だ」
 頬杖をついたスマイルの問いに頷き、ユーリは握ったままだった時計の蓋を開けてみた。
 裏側に、摩耗しきってもう読めない文字が小さく刻まれている。そっと指先を這わせ、表面をなぞり、一瞬だけ目を閉じる。
「スマイル」
「ん?」
「呼んでみただけだ」
「……そ?」
 名前を呼ばれて即座に反応を返した彼に笑って、首を傾げている彼に気にするな、とことばを重ねる。
 古めかしいフォルムの時計を閉じて、両手でそっと抱きしめた。
 もう読めない程に掠れてしまった文字が語る名前などよりも、今目の前に居る彼こそが真実。
 自分の知っている彼こそが、すべて。
 時間は過ぎていく。だがそれは今までを語るためじゃない。
 これからを、紡いでいくために。
 時は、在る。

火輪

 頭の上で星が回っている気がする。目を開けているのも辛くて、時折吹く風が体温を浚っていってくれるのだけが救いだった。
 凭れ掛かっている校庭の木は枝ぶりも見事で、いっぱいに茂った葉の隙間から落ちてくる日差しは少しだけ柔らかい。薄目を開けると、目を閉じていた時の薄暗さと相反する眩しさに眩暈が再び襲ってきて、恐々と息を吸い自分を落ちつけさせる必要があった。
「沢田、どんな具合だ?」
 僅かに残っている力を左腕に集め、それを柱にして身体を起こす。未だ立ち上がるのは難しそうだったが、思ったよりも平衡感覚は戻っており、全身を覆う気だるさは相変わらずだけれどなんとか、座りなおす事は出来た。
 その様子を見て、ゆっくりと体育教師が近づいてくる。
 半袖のシャツから伸びる腕は筋骨隆々と言い表すには若干貧弱であるが、大人への階段を登り始めたばかりの綱吉からしてみれば十分立派な体格の男性教員に声を掛けられ、綱吉は薄目を開けてそちらを見る。
 まだ授業中の為に、教員の向こう側には動きを止めてこちらを見守っている生徒が何人かいる。皆揃いの体操服を着て、綱吉に興味が無い生徒はサッカーボールを追いかけて走り回っていた。綱吉を心配そうに見ている獄寺や、山本の姿も見える。
「……すみません、なんとか」
 大丈夫です、とまでは言えなかった。立ち上がろうとしたものの足がふらつき、危うく前転するところだった綱吉の頭を片手で止めた教師を上目遣いに見上げ、綱吉は自分の体調がまだ不完全だと思い知る。
 心休まる日が少なかったのもあるし、無理に身体を動かして使い慣れない筋肉を行使した影響もあるだろう。日々確実に体調は本来のものに戻りつつあるけれど、完全とまではいかず、ついに今日は体育の授業中に倒れてしまった。情けないと、思う。
 もうちょっと体力に自信があったならば良かったのにと、か細く頼りない己の腕を見つめて綱吉は溜息をつく。
 こんな腕のどこに、あんな力が宿っていたのだろうかと、今でも不思議に思う。彼を殴り飛ばした瞬間の拳の痛みは今も綱吉の胸に残っていて、燻り続けているのもまた事実だ。
 もっと他に、道があったかもしれない、と。
「無理はするなよ。辛かったら保健室で休んで来い」
 俯いて黙ってしまった綱吉をどう思ったのだろう、教師は肩を軽く二度ほど叩き、授業に戻っていった。首から提げた笛を咥えて大きく音を響かせ、てんでバラバラに動いている生徒を集める。
 まだはっきりとしない意識で、繰り広げられているサッカーの紅白戦を眺めると、時々獄寺がこちらを気にしているのが分かった。あまりにこちらを見すぎて、山本がパスにと蹴ったボールを顔面に受けて怒鳴っている。終始和やかで、穏やかな空気がその場に流れ、これが現実なのだと綱吉に教える。
 平穏な時間が戻ってきたのだ。
 出来ればあんな風に誰かが傷つくのを見るのも、傷つけようとする輩を相手にするのも、あれが最後にしたい。けれどそれを許さない環境が綱吉の周囲にはあって、教師に怒られている獄寺をクラスの男子が一斉に笑っている輪にも、混じれない。
 深く関われば彼らを傷つけてしまうだろう。目の前で仲の良い友や大切な人が傷つくのだとしたら、血の涙を流すのは自分だけで良い。
 などと格好つけたところで、自分だって怖いものは怖いし、極力危険は回避したいのが本音。
 額に手をかざし、頭上から燦々と降り注ぐ陽光を遮る。白っぽい土に覆われたグラウンドは埃っぽくもあり、日差しを反射して眩しかった。
 山本の蹴り上げたボールがゴールポストに当たって跳ね返り、そこへ飛び込んだ獄寺が頭で合わせてゴールを決める。普段は喧嘩(主に獄寺が一方的に絡んでいるだけだが)が多いふたりであるけれど、こういう状況だと息はぴったりで、羨ましい。
 綱吉だとどうしても、天性の不器用さが先立ってミスを連発し、却ってチームに迷惑をかけてしまうだろう。ダメツナと呼ばれる所以でもある。
 今日だってサッカーの授業中に、貧血と熱射病とがあわさった格好で倒れてしまった。獄寺は大騒ぎだし、山本までも狼狽して救急車を呼べ、だの叫んで一時騒然となったけれど、ただの貧血で学校に救急車は恥ずかしすぎる。辛うじて意識はあったから、それだけはやめてくれと懇願して、校庭の隅にある木の根元、今現在の居場所である日陰へ避難となった。
 休んでいれば気持ちも楽で、最初はぐったり、という表現がお似合いだった綱吉も、今はどうにか身体を起こしていられる。
 ちらちらとこちらを盗み見ている獄寺に肩を竦め、自分がここにいると彼も授業に集中できないだろうかと思い直す。次の授業もこの調子だと、ちゃんと受けられるか怪しいもので、ここはやはり大人しく保健室に行くべきだろう。
 問題は、シャマルはベッドを貸してくれるだろうかで。
 件の人物はそれで良いのかと思うくらいの女好きで、女生徒ならば無条件だろうけれど、男には非常に厳しい。男が貧血で倒れてるんじゃない、などと不条理なコメントを残して保健室から蹴り出される覚悟も必要か。
 ともあれ、行ってみなければ始まらない。
 綱吉は立ち上がると頼りない足取りで、白線の引かれた校庭の一角に立つ教諭の傍まで進む。獄寺の視線も同時に動いたので、彼に気づいた体育教師が振り返り、近づいてくる綱吉に向き直った。
「大丈夫か?」
 他人から見ても危なっかしく思えたのだろう。やや腰を曲げて視線の高さを落とした教諭の顔は心配げで、綱吉は曖昧な笑顔で頷き、それから小さく首を横に振った。
「保健室に、行ってきます」
「そうだな、そうした方が良い」
「十代目、俺もいきます!」
 うんうんと腕組みをしたまま頷く教諭の背後から、勢い良く手を挙げて獄寺が叫ぶ。無駄に元気なのはいつも通りで、彼のその有り余る体力が綱吉には羨ましかった。
 他の生徒も一様に動きを止め、綱吉を見守っている。一斉に注目を受けて、綱吉は乾いた笑みを浮かべるしかない。
「どうする、獄寺についていってもらうか?」
「いえ、大丈夫です。ひとりで行けます」
 ここは普通保険委員がついていくものだろう、と冷ややかに心の中で思いつつも口には出さず、綱吉はやんわりと断って授業を幾度も中断させてしまったことを詫びた。それから次の授業も、恐らくは受けられないだろうからと学級委員に告げて、その場を離れる。
 断ってもついてきそうな獄寺も、静かにひとりでいたいという綱吉の心情を察した山本がどうにか押し留めてくれており、胸をなでおろして綱吉は校舎に向かって歩き出した。
 日差しの下を行くのは厳しいので日陰を選んで進むものだから、校庭を横断する直線コースより少し大回りになり、大分時間がかかってしまう。授業が終わる前にたどり着ければ良いやと、背後からしつこく付きまとう視線を振り切って彼はコンクリートの校舎に入った。
 日中でも影になっている空間は涼しく、綱吉の全身に纏わり着いた汗を適度に奪い去っていってくれる。ホッと息を吐いた綱吉は、額に張り付いていた前髪を梳き上げ、保健室へ通じる廊下をゆっくりとした調子で更に進んだ。
 どこも授業中なので、校舎内は至って静か。まだ日も高く明るいのに、夕方放課後の校舎を歩いている気分になる。
 いつもは誰かと一緒で注意して見るのも稀だった中庭の光景を窓越しに眺めつつ、角を曲がる。開け放たれた窓から、元気いっぱいに輝く太陽の光が綱吉の顔に落ちてきた。
 平時ならば顔を顰め、目を細めるだけでやり過ごせただろう。だが今は体力も弱まり、気分も優れない。角膜を焼く勢いで飛び込んできた光の強さに耐え切れず、膝の力が抜けてその場に崩れてしまう。
 倒れるのだけは、壁に左手を縋らせてどうにか防いだ。しかし膝どころか身体全体に力が入らず、意識も朦朧として今自分がどんな体勢をとっているのかさえ把握できない。吐けたら良いのに胃の内容物を外に押し出す力もなくて、胸の高い位置で気持ちが悪い感覚が絶えず上下している。目の前が暗転しているのに、瞳の奥は光が不機嫌なまでにチカチカと明滅して何も見えない。目は開いているのか、閉じているのか。そこにあるものが見えていても視覚で認識できず、広がる無限の闇に綱吉は息を呑んだ。
 壁に這わせた手の平から伝わる冷たさに、辛うじて自分がまだ現実世界に引き止められているのだと理解する。どこかのクラスで誰かが騒いでいる喧騒が、地平の彼方の出来事のようだ。
 荒く肩を揺さぶって、息を吐き、吸い込む。埃っぽく湿った空気に僅かに咳き込んで、もう一度呼吸を繰り返す。飲み込んだ唾だけでは急激に発生した喉の乾きに対応できず、しかし乾いてしまった咥内で新たな水分を補給するのは至難の業。喘ぐように空気を吸い込んでいると、不意に、最初から暗かった視界が、もう一段階暗くなった。
「……?」
 気配だけを感じ、顔を上げる。しかし暗転したままの視界には人影がぼんやりと浮かび上がるだけで、それが誰であるのかどうかが分からない。
 きっと綱吉は今にも死にそうな顔をしていたのだろう、彼の傍らに現れた人物は膝を折って綱吉の汗ばんだ額に手を添えた。長い指で髪を払いのける。その冷たさが、心地良い。
 思わずほぅ、と息が漏れる。広げられた手の平が左の頬全体を包み込むようにして添えられて、思わずそちらへ首を傾け、甘えるように目を閉じた。
 その冷たい手の持ち主が、猫のような綱吉の様にクスッと笑む。調子に乗った手が悪戯に綱吉の顎を撫で、喉仏の辺りに親指を置く。最初はひんやりとした指の感覚が気持ちよかった綱吉も、急所の一部を無防備に晒すことには強く反応した。
 目を見開く。光と闇が入り混じった視界に、うっすらと浮かぶシルエット。最初は誰かといぶかしんだ綱吉でも、目が馴染むと見覚えのある輪郭にハッと生唾を飲んだ。
「雲雀……さん」
「今日は珍しく大人しいと思っていたけれど、気づいてなかったんだ?」
 どこか人を小馬鹿にしたような口調で、雲雀が再度笑う。彼の左手は依然綱吉の顎と喉元に添えられたままで、もう片手は脇に垂れている。その右腕が持ち上げられてもし両側から綱吉を拘束したならば、抵抗する余力もない今の彼はひとたまりもないだろう。
 否、綱吉がたとえ健康な状態であっても、きっと雲雀に抵抗出来ない。
「体育をずる休みとはね。どこに行くつもりだったの?」
 雲雀の手が動き、首筋を撫でる。綱吉の高めの体温を受けて温まった指の動きに、ぞわりと背中に悪寒が走った。
「離して、くれませんか」
「君こそ逃げたらどうだい?」
 綱吉が脱力してしまっていて、動けないのに気づいているのだろう。完全に廊下にへたり込んでいる彼を前に膝を折っている雲雀は余裕綽々といった風情で、綱吉の睨みもまったく意に介する様子が無い。どこまでも不遜で、尊大で、人を見下して。
 それでも目が離せず、這い蹲れば距離くらいなら置けるし首を振れば手を払いのけられるだろうに、そうしない。それが綱吉には出来ない。
 何故だろう、といつも思ってしまう。この目の前にいる人は、いつだって綱吉の心臓を鷲掴みにしていく。
「逃げないの?」
 彼はそれが分かっているのだろうか。底意地の悪い笑みを浮かべ、重ねて問いかける。綱吉は心の中で舌打ちして、力の入らない膝に己の手を重ねた。
「出来るものなら、そうしてます」
 つまり自分は動けないのだと、言外に雲雀に告げて顔を背けた。雲雀の手は離れていって、微かに残る冷たさが徐々に消えて薄れていくのが、とても寂しく感じられる。
 顔を壁に向けたまま瞳だけを動かして雲雀を窺うと、彼は相変わらず薄い笑みを口元に浮かべて綱吉の次の一手を待っていた。目が合って、慌てて逸らすと今度は声を押し殺して笑われる。
 構わないでいてくれていいのに、そもそも何故彼は此処にいるのか。
 今は授業中の筈で、綱吉は保健室へ向かう途中で、と道筋を立てて考えていると、ふと目に留まった反対側の壁に架けられているプレートの文字。とてもとても雲雀がここにいる理由が理解できて、綱吉は穴があったら入りたい気分にさせられた。
 この位置は、雲雀のテリトリーである応接室の斜め前だ。常から授業を受けているところを見たこともなければ、想像も出来ない雲雀が、今綱吉の目の前にいるのも無理ない。恐らく綱吉が倒れこむ際に、窓を打った音に気づいたのだろう。
 保健室に行く手前に応接室があるのを、完全に失念していた。ずーん、という効果音が似合いそうな背景を背負い、綱吉は頭を垂れて酷く落ち込む。壁に押し付けたままの左手だけが、異質なもののように彼の頭上に取り残されていた。
「で?」
 ひとりで勝手に赤くなったり、青くなったりしている綱吉を楽しげに見守る雲雀だったが、そろそろ飽きてきたらしい。声の節々にそう感じさせる気配を漂わせ、綱吉に先を促した。促されたところで、綱吉は何と答えればよいのか分からないのだけれど。
 時折こうやって雲雀は綱吉を試すものだから、いつだって雲雀との会話は緊張感に満ちている。
 いい加減左肩から先も血流が悪くなってだるくなってきた為膝に降ろし、綱吉はまだクラクラしている頭を軽く揺らして目頭を押さえた。少しだけ落ち着いた頭に、身体はまだ完全にリンクしていないものの、立ち上がろうと思えば立てそうな気がする。授業が終わるまでに保健室に行って、ベッドに倒れこんでしまいたい。そうでないと獄寺に捕まって、静かに療養するどころではなくなってしまうだろうから。
「保健室に……」
 綱吉が体調不良なのは見て分かるだろうから省略し、目的地を告げて綱吉は顔をあげる。真っ直ぐに見つめ返してくる雲雀の瞳は漆黒で、吸い込まれそうな闇に綱吉は僅かな安堵を胸に抱く。
「まだ戻らない?」
 不意に問われた内容の真意をつかめず、綱吉は数回瞬きをして首を傾がせる。雲雀の手がまた伸びてきて、今度は彼に警戒を抱かせないよう注意深く、優しい動きで綱吉の頬を撫でた。
 冷えた彼の指先に、綱吉の体温が溶けて行く。
 心地良さに目を閉じてしまいたくなるのを限界で押し留め、綱吉は雲雀を真正面から見返す。何か言うべきか迷って、唇が開閉したものの音を発する前に再び閉じられた。
 雲雀の指先が綱吉のこめかみ近くをさ迷う。少しだけ新しい肉が盛り上がった箇所に爪先が掠めると、彼は少しだけ大きい動きで指を止め、避けて通り過ぎ去らせる。
 ああ、とここに至ってようやく綱吉は得心した。雲雀が聞いているのは、あの日の出来事だ。あの日の、あの事件で負った傷と消耗した体力、精神力、そういったものが完全に戻ってきていないのかを、聞いているのだ。
「だいぶ……戻りました」
 緩やかに首を振り、答える。今度は雲雀の手は逃げていかなかった。
「そう?」
「雲雀さんこそ」
 まだ全く大丈夫とは言えないと揶揄した声に、綱吉の声が重なる。
「怪我、酷かったのに」
「僕は平気」
 さらりと綱吉の心配を受け流した雲雀の手が、綱吉の右瞼に触れる。促されるままに目を閉じると、空いていた方の手が綱吉の頭をそっと撫でた。
「だけど……」
「あれは僕が、僕に売られた喧嘩」
 だから綱吉は関係なくて、綱吉が雲雀の怪我や身体を心配するのは筋違いだと、そうとでも言いたげに、雲雀の手は優しく綱吉を撫でる。
 しかし綱吉が巻き込んだのは紛れもない事実であり、気にするなと言われてもそうはいかない。結果的に勝てたから良かったものの、もしあそこで雲雀が立ち上がらなかったらどんな結末が待っていたのか、今となっては分からないままだけれど。
 綱吉も、雲雀も、きっと今みたいにこうしては居られない。
「そうかもしれませんけど」
 口ごもり、まだ言い足りない綱吉を悟って雲雀の手が彼の顎を掴む。僅かな力を加えられて斜め上に向けられ、掠め取るように触れて去っていったのは指の腹か。
 一瞬では理解出来なかった綱吉は、雲雀の横柄な態度に頬を膨らませると同時に、僅かに朱を走らせた。目を開けてもろくに彼を見返す事が出来ず、俯いて黙り込む。
 こうしてまんまと綱吉を黙らせるのに成功した雲雀は、少し気分が良くなったようで、綱吉の頭をぽんぽんと二度叩き、白い項に指を遊ばせて手を離した。
「ひゃっ」
 あまりの冷たさに、綱吉が声を上げて身を竦ませる。カラカラと今度こそ声を立て、雲雀は上機嫌に笑った。
「親父臭い保健室に行くくらいなら、こっちへおいで」
 病人には優しいんだと、心の底から思っていないだろう事をさらりと口にし、雲雀は綱吉へ手を差し出した。広げられた手のひらには、注意深く見れば無数の傷跡があると解る。
 そのうちのどれくらいが、綱吉と出会ってから彼の負った傷なのだろう。
 綱吉は彼の手を取った。見た目以上にがっしりとした力強い手に握られ、軽い仕草で持ち上げられる。抵抗する暇も無く雲雀に抱えられた綱吉は、照れくさそうに周囲を伺い、誰も見ていないのを確認してホッと息を吐いた。
 恐らくもうじき授業が終わる。この一角は教室もないので人通りは元から少ないけれど、いつ誰が通るかも解らない。誤解を受けるような状態だというのは自覚している、だから人に見られると困ってしまうわけで。
「特別に冷たい麦茶を出してあげるよ」
 そんな綱吉の心配を知ってか知らずか、雲雀は至ってマイペースを崩す事無く軽々と片腕で綱吉を抱え、くるりと踵を軸にして身体を反転させた。
 まあ、いいか。たまに、本当に偶にでしかないけれど、こうやって甘やかしてくれるうちは、甘えておくのが良さそうだ。彼の機嫌も今日は随分と良いようで、だからむしろ、逆らって彼の機嫌を損ねる方が恐い。まだ少しくらくらした頭で考えて、大人しく彼の腕に身を預けた。
 それに、少しだけ嬉しいと思っている綱吉が、雲雀の胸に顔を半分埋めながら、笑う。
 頭上遠く、天井に設置されたスピーカーから授業終了のチャイムが甲高く鳴り響く。がやがやという生徒達がまき散らす騒音が大きくなり、校舎全体がざわめきに包まれて、誰かが全速力で廊下を走る音も聞こえた。
 そんな騒々しさを外に、応接室のドアがぴしゃりと閉じられる。
 貧血は、まだ当分、治まりそうにない。

Holiday 3

 赤と青と、と。
 握って筋立った拳を、甲を上にして両方差し出されて問われ、何事かと面食らった。
 だが彼はまるで気にした様子もなく、重ねて答えられずに居た問いかけを繰り返す。赤か、青か。
 しかし彼が何を指してその二色を口に出しているのかがさっぱり分からず、だが左右の腕を自分に向けて差し出して、あまつさえ手を握っているものだから恐らく、両の拳にひとつずつ、その彼が言う「赤」と「青」いものが握られているのだろうと想像する。
 だったら、いっそ右か左かを選択させれば良いものを、と心内で愚痴にしかならない溜息を零した。
 買ったばかりの荷物を入れて貰った紙袋を持ち直す。両の手で紙の取っ手を握ると、中のものが袋の内側に擦れてかさかさという音がした。
「右」
 答えないままではいつまで経っても先に進めそうになく、諦め調子に呆れつつ彼の利き腕とは違う方を顎でしゃくる。すると彼はやや残念そうにし、けれどちゃんと答えてくれた事を嬉しそうに笑い、ずっと握っていた手袋の嵌められた右の手を開いた。
 指を解くと同時に甲を裏返して掌を上向かせる。そうでないと握っていたものが落ちてしまうから、という至極当然名理由で。
 解きほぐされた五指の隙間から見えたのは、そして間を置かずに白日に晒されたものは。
 赤色の、キャンディー。透明な包装紙に包まれ、楕円に近い球体がひとつだけ彼の手の中に転がっていた。続けて彼はもう片手も同じように広げ、両手の小指同士をくっつけあった。
 ひとつの手に、ひとつずつ。左手に乗っていたのは同じ形状をした、だがやや緑がかった青色をしているキャンディー。市販されている、大袋に個別包装で放り込まれた飴玉だろうと容易に想像出来た。
 しかし分からないのは、彼が何故こんなものを持っているのか、と言うこと。
 確かに今自分たちが居るのは町のど真ん中であり、ちょっと外れればコンビニエンスストアも多数見受けられる。ファッション街の一画だから直ぐ目に入り距離内でこんなものを扱っている店は探し出せなかったが、自分が買い物に執心している間彼の姿は殆ど見かけなかった。その時間はさして長くはなかっただろうが、コンビニを探して飴玉を買って帰ってくるだけの余裕はあったかもしれない。
 怪訝な面持ちのまま彼の手にある飴玉を見つめ、色々と一瞬で考えを浮かべては消していく。その百面相のような表情は、大きめの色濃いサングラスと前髪も若干長めになっているショートボブのウィッグで隠されて見えないはずだ。本来の髪の色を誤魔化す小道具として被っている帽子の鍔も一役買っている。
「イチゴ味、ね」
 結局は彼の問いかけに赤と答えたと同じ事になるのだろう。右手に握られていたキャンディーを持ち直し、彼はそれを自分へ差し出してくる。
 拒む理由もなくて、素直に受け取った。だがまじまじと透明な袋に大事にしまわれている赤色のキャンディーを、すぐに口に入れる気にはなれなかった。
 そもそも、彼はこういった甘いものは大の苦手のはずだ。自分もそれほど好きというわけでもない。わざわざ自分に食べさせるためだけに買ってくるとは、少々考えにくかった。
 引っかかりを覚えている自分に既に気付いているはずの彼を窺い見ると、漆黒のサングラスで色違いの双眸を隠した彼は苦笑しながら肩を竦める。
 全身黒尽くめのロングコートを着た大男が、飴玉をふたつ。その図式は多分、通り過ぎるたびにひそひそとした歓声を上げながら、或いはぎょっとしてそそくさと足早に去っていく周囲の人間には奇異に映っている事だろう。
 唯一手元に残った、恐らくはメロン味の飴玉を利き手で弄びながら、しかし袋を破いて口に入れようとはせず、彼は自分がイチゴ味を食べるのを待っているようだ。
「どうしたのだ?」
 これは、と袋のギザギザになっている端を抓んで持ち、尋ねる。
「貰った」
 即答で返され、出足を挫かれた格好になりそこで一度会話が途切れる。誰に、とでも問うべきなのだろうが一旦詰まってしまった言葉はなかなか戻ってこない。数回喘ぐように唇を動かして息を吸い、漸く二の句が続いた。
「……どこで」
 まさかその辺で配っていたわけでもあるまい。なんの宣伝文句も書かれていない透明の包み紙を改めて見つめ直して、呟く。今度こそ笑って、彼は自分から紙袋を奪った。長い腕を伸ばし、スッとあくまで自然に、自分の腕に引っ掛けられていた取っ手を取ると簡単に腕から抜き取って自分の方に引き寄せる。
 慣れた仕草であり、そして彼に荷物を引き渡す自分の動きにも慣れたものがあった。彼は受け取りやすいようにと、腕を曲げて彼の方に指先を向けて角度を若干上げ気味にして。
 ひゅぅ、と囃すような口笛を聞いた気がしたが無視を通す。
「良いのあった?」
 だが口笛があった方向にどうしても目が向いてしまって、結果彼から視線を外す事になった。側頭部に受けた質問に、慌てて目線を戻して彼を見上げながら頷く。
 行こうかと促され、人の出入りが多いビルの入り口脇から離れる。後方にあったビルは地上三階、地下一階という広さでありながら履き物だけを専門に扱う店がひとつ入っているだけ。此処に来ればサンダルからブーツまで揃うという謳い文句であり、丁度シーズン前の最新モデルが入荷されたと聞いて立ち寄ったのだ。予め雑誌で調べていた事もあり、目当てのものは直ぐに見付かったが別の、ノーチェックだったブーツにも心惹かれてしまい、結局数十分悩まなければならなかったのだ。
 それで自分がひとり悩んでいる間、彼は退屈だからとフロアを出ていってしまい、その結果入り口で数分だけ彼を捜し、待つ事となった。そうやって戻ってきた彼の、開口一番があの二者択一である。
 ビルを離れ、出来るだけ人通りが少ない方を探して歩く。だが休日の繁華街でなかなかそんな都合のいい場所が見付かるはずもない。少し歩いてから、適当に休めそうなベンチを見つけたが、生憎とひとり分しかスペースは残っていなかった。
 すれ違いざまにぶつかった人の足に紙袋が引っ掛かり、攫われそうになって彼が取っ手を引っ張る。カサカサと乾いた音を立てる袋は、そこそこに重いはずだ。
 ひとつに選べなくて、結局両方とも買ってしまったのだから。
「それで? 誰に貰ったんだ」
 この飴玉は、とベンチに腰を落ち着けた自分がベンチ傍らに立った彼に改めて問う。なんだかんだとはぐらかされてしまった回答を求めて視線を持ち上げると、ポケットから取りだしたらしい青色の飴玉も自分の方へ押しつけてきた。
 彼はこういうものを食べないから、仕方がないと受け取ってやる。二つに増えた飴玉は、だがあまり重さも変化を起こさない。
「お婆ちゃん、だったよ」
 彼が言うには。
 自分がブーツ選びにあまりにも夢中になっているので退屈だったから、どこかで暇を潰そうと店をまず出た。するとそこで、前から歩いてきた老婆とぶつかってしまった。
 視力の殆どない左目の死角から歩いてきたようで、更に色濃いサングラスもあったからかなり近くに来るまで気づけなかったようだ。ぶつかった衝撃で老婆は尻餅を付き、今のは自分が悪いからと彼も素直に謝って彼女が起きあがる手伝いをした。
 彼女は彼が差し出した手に捕まって起きあがった。そして徐に、彼を細い瞳で見つめてから首を捻った。
 すまんが、●○線の改札口はどっちだろうかね、と。
 駅員で道を尋ねるように彼にいきなり、そう言ったそうだ、この老婆は。一瞬何のことか分からずにきょとんとしてしまった彼に、もう一度同じ事を告げる。
 要するに、その人は道に迷っていたのだ。駅をでて乗り換えようとしたは良いものの、人の流れに押しやられて目的地とは逆方向に流されてしまったらしい。彼が聞いた線名は、最寄り駅とはてんで反対方向だ。
「……そうなのか?」
 地名や地理に疎いままに問い返すと、そうなの、と彼は苦笑って鼻を掻いた。知らない場所での反応など、皆似たり寄ったりで彼が同じ風に説明した時、老婆も今の自分とまるで同じ台詞を口にしたと言う。
 地上からの行き方を説明したのだが、そんなもの覚えきれないと老婆が駄々を捏ねた。仕方なく、彼は駅舎が見えるくらい近くまで彼女を連れて行き、ホームの行き方まで丁寧に教えて帰ってきたらしい。
 その返礼が、あの飴玉ふたつだ。
 有難うと何度も礼を述べ、最後に老婆は彼の手を両手で握り頭を下げた。そうして彼の手には、赤と青の二色が残された。
「安い報酬だな」
 袋の両サイドを閉じている三角形の切れ目に指を沿わせて、透明フィルムを破く。簡単に手元に転がりでた赤色は、見るからに合成品を使っているのが分かる、少々毒々しい感じがしないでもない色だ。口の中に入れると、多少の粉っぽさがまず先だって、それから人工甘味料らしい味が舌の上に広がる。
 自分を店の前で待たせる事までしておいて、得られたものが安っぽい量販品の飴玉ふたつっきりだとは。割に合わないのではないかと言外に告げると、彼はそういう事は言わないの、と人の頭を帽子の上から撫でてきた。
 嫌がって払いのけようと手を持ち上げると、指先を躱しながら彼の手が一足早く逃げていく。カラカラという笑い声がそれに続いた。
 表面だけが溶かされた飴玉が右の、歯の外側に零れ落ちてまるでぷぅ、と頬を膨らませているような形になる。舌先で掬い上げて口腔内に戻し、奥歯で軽く噛むと表面が少しだけ剥げ落ちた。
「人助け、だよ」
 だから報酬云々の話になるのは、おかしい。親切心でやっていることに金銭が絡めば、それはもう親切心だけの問題ではなくなる。損得、ではないのだから。
 だからこの飴玉は、彼の親切心に対する老婆の親切心の返礼でしかない。「ありがとう」という言葉のおまけでしかないのだ。ただ彼女は、彼が甘いものを一切受け付けない厄介な体質所持者だという事を知らなかった。
「ぼくが勝手にやったことだ。頼まれはしたけれど、無視する事だって出来たんだよ」
 それを、丁度退屈しのぎにもなるだろうという理由で引き受けて、わざわざ駅の傍まで連れて行って、更に彼女がその先も困らないように丁寧な説明までして。結果的に戻ってくるのに少し時間がかかり、ユーリを待たせる事になってしまったけれど、と。
 どうやら気にしていたらしく、言い訳のようにぽりぽりと頬を引っ掻きながら彼は言った。若干視線が泳ぎ気味。
 笑ってしまった。口の中で、甘ったるいイチゴ味が溶けていく。
「なら、もし今此処で別の老人が道を尋ねてきたら、お前は安請け合いの親切心で目的地まで連れて行ってやるのか?」
「まさか」
 意趣返しの質問のつもりだった。だのに彼は、即答で否定した。
「何故?」
 問いかけはすんなりと喉をついて出る。本気で驚いてしまっている自分に気付いて、立ったままで居る彼を座ったまま見上げた。
 サングラスが外される。一人掛け用のベンチの、両側手摺りに手を置いて彼はその異端なる双眸が周囲に漏れないよう、顔を寄せてきた。
 キスを、想像した。まさかこんな人前で、街中で。
 だからつい肩が強張って、ぎゅっと瞼を閉じて小さくなってしまった。爪先に力が入り、アスファルトの地面を擦る。
 笑う気配だけが傍にあった。
「だって、ユーリが此処に居るのに」
 ぼくが君を置いて行くと、本気で思ってる?
 囁く声が間近で聞こえる。吐き出される息が鼻先を掠め、熱が伝う。
 彼がもう一度楽しげに笑った。
「ユーリがぼくの目の前に居る間は、ね。ぼくの中の優先順位は、何を捨て置いても」
 君、なんだよ?
 目を見開く。その時にはもう彼は顔を離し、ベンチに手を置いて前屈みにしていた姿勢も戻し、季節外れ気味な黒のロングコートのポケットに両手を突っ込んでいた。赤と金という取り合わせの色違いな瞳をサングラスで隠し、普段から何を考えているのか分かりづらい表情がより一層、悟られ辛くなっている。
 あの時、あの言葉を彼が囁く瞬間。
 彼がどんな顔をし、どんな風に瞳を揺らしていたのか、今となっては闇の彼方だ。どうして目を閉じたりなどしたのだろう、と後悔しても遅い。
 ベンチは横に幾つか並んでいて、他のベンチには見知らぬ人が座っている。もしや聞かれやし無かっただろうかと不安げに両側を窺ってみるが、余程声を潜めて自分にだけ聞こえる音量で囁いたのだろう。傍に居た人たちは誰も気付いた様子無く、変わらないまま自分の世界に浸っている。
 ホッと安堵の息をもらすと、彼は何かを誤解したらしい。
「それに、方向音痴のユーリを置いてけぼりにするなんて度胸、ぼくにはないよ?」
 がんっ、と。
 聞いた瞬間地面に置いていた踵が、自分の直ぐ前に立つ男の爪先にめり込んでいた。分厚い皮のブーツが凹んだまま暫く元に戻らなかったところからして、かなりの力で踏まれたのだろうと言うことが傍目にも分かる。
 さすがにこれには周囲の人も気付いたようだが、関わり合いになってとばっちりを食うのはゴメンだと判断したのだろう。誰もが見なかったフリを貫き、大丈夫かという声をかけてくるものもない。
「お前など知るか!」
 もう何処にでも行ってしまえ、と声高に叫んで周囲の目も気にせず、立ち上がる。足許に置いていた、買ったばかりのブーツが入った紙袋を取り、さっさと去ろうと立ち上がって。
 けれど。
「持つって」
 勢い良く腕を振り袋を後ろに飛ばしそうな勢いだったところを、彼が手を伸ばしてきて取っ手を握る自分の手に重ねてくる。
「当たり前だ!」
 振り返って怒鳴り返し、手の握りを緩める。取っては自分の指先を抜け、彼の中に。
 周囲の人がぽかんとして、自分たちを見ている。だが人目などもとから気にしない性質なので、今更視界に収めるような事もしない。
「行くぞ!」
 今の今、「お前など知らない」と叫んだばかりなのに、まだその台詞から一分と経過していないのに。
 ついてこい、と傲慢なくらいに勝手な事を言って足早に歩き出す。その後ろを、一件強面な黒ずくめの男がやれやれ仕方ないな、と肩を竦めてからお騒がせしました、と言わんばかりにその場に偶然居合わせた人たちに軽く会釈をし、追い掛けて歩いていく。
 痴話喧嘩にもなっていない喧嘩は、だがしかし直ぐにその場の人々にも忘れ去られるだろう。なにせ当人達も、既に覚えていないのだから。
「ドコ行く?」
「そうだな……」
 あと買いたいものに何があっただろうか。追いついて横に並んで、声をかけるとユーリはもう普段の機嫌に戻っていてスマイルを苦笑させた。
「ついてくるか?」
「うん」
 だってユーリ、此処にいるし。
 媚びへつらいも、照れもおくびに出さず当たり前の事として告げる。
 ユーリが笑った。
「なら、案内しろ」
 買いたいものを口答で列挙し、立ち並ぶ繁華街のビルを見上げた。壁のようにそそり立つそれらの配置を思い出しながら、スマイルが了解、と小さく呟く。
「どこまでも、ついていくよ」
 君の行く場所へなら、どこにだって。
 聞こえないフリをして、ユーリはまた歩き出した。